『源平盛衰記』(国民文庫)(読み仮名つき)
源平盛衰記 凡例
底本
『源平盛衰記』(国民文庫)古谷知新 国民文庫刊行会 1910 底本:内閣文庫蔵慶長古活字本 古本系の古活字版
参考
源平盛衰記上・下2巻 通俗日本全史 底本: 早大出版部 1911 芸林社 1975(全1冊) 片仮名整版本
有朋堂文庫『源平盛衰記』(明治45〜大正元年初版刊行)上下2冊 流布本系
『源平盛衰記一〜六』古典研究会。汲古書院 1973〜74。底本:蓬左文庫蔵写本。
新定源平盛衰記第一〜六巻 水原一 新人物往来社 1988.8〜1991.10
底本:史籍集覧『参考源平盛衰記』。
伝本
古本系と流布本系の二つに大別できます。
両者の大きな違いは、古本系には、
1.章段名は、巻頭目録のみで本文中には有りません。 →処理6
2.注解文を二行割書として本文と区別しています。 →処理11
3.異説・従属説話等の記入文を、一字下げで記して本文と区別しています。 →処理12
古本系は、さらに古活字本系と写本系の二種に分けることができます。
古活字本系には、古活字版(国民文庫の底本)の他に、平仮名を主としました近衛本等があります。
現存写本には静嘉堂蔵本と蓬左文庫本とがありますが、前者は現存十冊のみ。後者には影印本もあります。
処理
1.仮名遣いを一部改め、濁点も適宜補いました。例: ゆへ→ゆゑ
2.漢字は底本通りを原則としますが、一部新字体・通行字体に直したものがあります。
3.JISにない漢字は他の漢字に置き換えるか又は■に振り仮名付きで表記します。正規(通常)の表記を【* 】に入れました。
4.漢文の返り点は(レ)(一)(二)(下)(中)(上)などに置き換えました。
5.章段名、歌の前で改行しました。
6.章段名は、巻頭目録のみで本文中にはありませんが(古本系の特徴)、参考のため片仮名整版本、流布本の物をS+巻数2桁+番号2桁で表記しました。 例: S0101 平家繁昌並特長寿院導師事
7.歌に国歌大観の番号をK+番号3桁を後に付けました。
8.国民文庫のページ数を付けました。P+4桁。前後で改行しました。
9.参考のため流布本の有朋堂文庫のページ数を(有朋上P001)(有朋下P001)で表記しました。改行無し。
10.他本で補った場合は、〔 〕に入れました。
11.二行割注の箇所(古本系の特徴)は〈 〉に入れました。*(巻九以降。巻八以前は改訂版の時に付けます。)
12.一字下げ低記になっている箇所(古本系の特徴)は、空白一字の後、< >にいれました。*(巻九以降。巻八以前は改訂版の時に付けます。)
P0001(有朋上P001)
源平盛衰記
以巻 第一
S0101 平家繁昌並特長寿院導師事
祇園精舎の鐘声、諸行無常の響あり、沙羅双樹の花色、盛者必衰の理を顕す。奢れる者も久からず、春の夜の夢の如し。猛心も終には亡ぬ、風前の塵に同じ。遠く訪(二)異朝(一)夏寒■(かんさく)、秦趙高、漢王莽、梁周伊、唐禄山、皆これ旧主先皇の政にも不(レ)随、民間の愁、世の乱をも不(レ)知しかば、久からずして滅にき。近尋(二)我朝(一)、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、侈れる心も武き事も、とりどりに有けれ共、まぢかく入道太政大臣平清盛と申ける人の有様、伝聞こそ心も詞も及ばれね。桓武天皇第五の王子、一品式部卿葛原親王九代の後胤、讃岐守正盛孫、刑部卿忠盛嫡男也。彼親王御子高見(有朋上P002)王は、無官無位にして失給にけり。其御子高望王の時、寛平元年五月十二日に、始て平姓を賜て、上総介に成給しより以来、忽に王氏を出でて人臣に連る。其子鎮守府将軍良望、後には常陸大丞国香と改、国香より貞盛、経衡、正度、正衡、正盛に至まで六代は、諸国の受領たりといへ共、
P0002
未殿上の仙籍をばゆりず。忠盛朝臣備前守たりし時、鳥羽院御願得長寿院とて、鳳城の左鴨河の東に、三十三間の御堂を造進し、一千一体の観音を奉(レ)居。勧賞には闕国を賜べき由被(二)仰下(一)但馬国賜ふ。其外結縁経営の人、手足奉公の者までも、程々に随て蒙(二)勧賞(一)、真実の御善根と覚えたり。崇徳院御宇長承元年壬子二月十六日に勅願の御供養有べしと、公卿僉議有て、同二十一日の午の一点と被(レ)定たりけるに、其時刻に及て、大雨大風共に夥かりければ延引す。同廿五日に又有(二)僉議(一)、廿九日は天老日也、勅願の御供養宜しかるべしとて可(レ)被(レ)遂けるに、氷の雨大降、牛馬人畜打損ずる計なりければ、上下不(レ)及(二)出行(一)又延引す。禅定法皇大に被(二)歎思召(一)けり。昔近江国に有(二)仏事(一)けり。風雨煩たびたびに及ければ、甚雨を陰谷に流刑して、堂舎を供養すといへり、されば雨風の鎮有べきかと云議あり、尤可(レ)然とて諸寺の高僧に仰て御祈あり。度々延引の後、重て有(二)僉議(一)。同年三月十三日、曜宿相応の良辰なり(有朋上P003)とて、其日供養に被(レ)定。御導師には、天台座主東陽房忠尋僧正と聞ゆ。臨(二)期日(一)、一人三公卿相雲客洛中辺土貴賤上下、参集聴聞結縁しけり。当座主僧正は、顕蜜兼学の法燈、智弁無窮の秀才也。説法舌和にして、弁智詞滑也。末世の富留那弁士の舎利弗と覚たり。聴聞集会万人は随喜の涙を流し、結縁群参の道俗は歓喜の袖を絞る。無始罪障雲消るかと思、本有の月輪の光照すかと疑。説法は三時計なりけるを、聴衆は刹那の程と思へり。誠に像法転ずる時、医王善逝の化現歟、又転法輪堂、釈迦如来の説法かとあやまたる。座主は高座より下給ひ、正面の左の柱の本に
P0003
座し給へり。法皇御感の余に、玉御簾■(かかげ)て、汝は坐道場之徳用を備たり、朕は解脱分之善根を植たり、汝毎(レ)聴(二)説法(一)随喜思ひ骨に徹し、信心身の毛堅て、落涙まことに難(レ)押と有(二)勅定(一)、当座の叡嘆山門の眉目也。御布施には千石千貫沙金千両、其外被物裏物、庭上岡をなせるが如し。実御善根の志は、施物に色顕れたり。及(二)夜陰(一)導師退出す。為(レ)餝(二)仏庭(一)為(レ)照(二)聴衆(一)、万燈を炬されたり。偖も彼寺の異名をば平愈寺と申す也。導師祈願の句に、衆病悉除身心安楽と、高に唱へ給たりけるが、其声洛中白川に響けり。斎宮の女御、折節怪き瘡をいたはらせ給けるが、御限と奉(レ)見けるに、衆病悉除、風に聞召て、則御平愈、其外一時の(有朋上P004)内に、辺土洛陽に、上下男女、二万三千人の病愈たりけるに依て也。
異説〔には〕、二宮地主権現の非人と現じて、日光月光、十二神将を相具して、説法と云事あり、僻事〔にてありける〕歟。
S0102 五節夜闇打附五節始並周成王臣下事
〔加様に〕忠盛、仏智に叶程の寺を造進したりければ、禅定法皇叡感に堪させ給はず、被(レ)下(二)遷任(一)之上、当座に刑部卿になさる、内の被(レ)免(二)昇殿(一)。昇殿は是象外の選なれば、俗骨望事なし。就(レ)中先祖高見王より、其跡久く絶たりし、忠盛三十六にして被(レ)免けり。院の殿上すら難(レ)上、況や内の昇殿に於てをや。当時の面目、子孫の繁昌と覚たり。法皇常の仰には、忠盛なからましかば、誰か朕をば仏に成べきとて、或時は御剣御衣、或時は紗金錦絹を、得長寿院へ可(レ)奉(二)廻向(一)とて下賜ひけり。其上闕国のあれかし、庄園のあけかし、重々もたばんと思召しければ、雲の上人嘲憤て、同年十一月の五節、二十三日
P004
の豊明節会の夜、闇打にせんと支度あり。忠盛此事風聞て、我右筆の身に非、武勇の家に生て、今此恥にあはん事、為(レ)身為(レ)家、心うかるべし、又此事を聞ながら、出仕(有朋上P005)を留めんも云甲斐なし、所詮身を全して君に仕るは、忠臣の法と云事ありと云て、内々有(二)用意(一)。爰に忠盛朝臣の郎等に、進三郎大夫季房子、左兵衛尉平家貞と云者あり。本は忠盛の父正盛の一門たりしが、正盛の時始て郎等職と成りたりし、木工右馬允平貞光が孫也。備前守の許に参て申けるは、今夜五節の御出仕には、僻事いでくべき由承候、但祖父貞光は、乍(レ)恐御一門の末にて侍りけるが、故入道殿の御時に、始て郎等に罷成候けりと承、貞光には孫也、季房には子也、親祖父に勝るべきならねば、其振舞を仕る、殿中の人々、我も\と思輩は、かず多くこそ侍らめども、加様の実の詮にあひ奉らん者は、類少こそ候らめ、御伴には家貞参べし、無(二)御憚(一)可(レ)有(二)御出仕(一)と申ければ、忠盛然べしとて召具す。家貞は布衣下に、萌黄の腹巻衛府の太刀佩、烏帽子引入袖纈て、殿上の小庭にあり。子息平六家長は歳十七、長高骨太して剛者、度々はがねを顕して逞き者、これも布衣下に、紫威の腹巻著て、赤銅造の太刀佩て、無官なれば徐々として、左右の手を土につきて、犬居に居て、雲透に殿上の方を伺見て、親の家貞あゝといはば、子息の家長も、つと可(二)打入(一)支度也。殿上の人々怪をなしければ、頭左中弁師俊朝臣、蔵人判官平時信を召て、宇津保柱より内に、布衣の者候ぬるは何者ぞ、事の体狼籍也、罷出(有朋上P006)挿絵(有朋上P007)挿絵(有朋上P008)よといはせたりければ、家貞は、主君備前守今夜闇打にせらるべき由承ればなり、果給はん様、奉(レ)見べけれ
P0005
ばとて畏つて候ければ、事の様、実に主ことにあはば、堂上までも可(二)切上(一)頬魂なりける上に、忠盛朝臣黒鞘巻を装束の上に横たへ、指して支度計なき体にて、腰の程を差くつろげたる様にして、柄を人にぞ見せける。人々事がら尤しとや被(二)思合(一)けん、其夜の闇打はなかりけり。
昔漢高祖沛公たりし時、項羽と雍丘と云所にて、秦の軍と合戦す。沛公の兵、諸侯に先立て覇上に至る。秦の王子嬰皇帝璽符を捧て降人に参る。諸将これを殺さんと云。沛公降人を殺事不祥なりとて、吏に預らるる。咸陽宮に入て、暫休とし給けるを、樊■(はんくわい)張良諌申ければ、秦の宝物たる庫共を封じて、覇上に帰給けり。秦の父老の苛法の政に苦めるを召集て宣けるは、吾諸侯と約束して、先に関に入ん者を王とせんと云き、我既に先に入、王たるべしとて、父老と三章の法を約し給けり。人を殺せらん者をば死せしめん、人を破り及盗せらん者をば罪にいたさん、此外は秦の法を除て捨よと宣ける。十一月に、項羽諸侯の兵を引、関に入らんとす。守(レ)関兵ありて入事を得ず。又沛公咸陽宮を破て、其威を施すと聞て、項羽大に怒て関を撃、遂に戯と云所に至りぬ。沛公が臣、曹無傷と云者、項羽に中言して、沛公(有朋上P009)王たらんとすと言たりければ、項羽弥憤て、沛公をうたんとす。爰に項羽一家に項伯と云者、沛公に志ありければ、失なき由を述て、殺事不義也と諌ければ、其事暫思止にけり。さて沛公鴻門に行て項羽に対面して、浄心なき由慇懃に謝しければ、項羽云、是は沛公が左司馬曹無傷が告たる也、さらでは争か知べき、宜とヾまり給へ、酒すゝめんとて留置けり。
P0006
彼座の為体、項伯は東に対て居り、亜父は南に向てあり。亜父とは項羽が憑たる兵也。沛公は北に向ひ、張良は西に向てぞ居たりける。亜父玉■(ぎよくくわい)をもたげて項羽に目くばせす、是沛公を討との心也。加様に三度まですれども、大方不(二)心得(一)不(二)思寄(一)。亜父座を起て、項荘を招て云、項羽人の謀に随ず、汝沛公をもてなす様にて、剣を抜て舞近付て頸を切ん、然らずんば我等還て彼が攻を可(レ)蒙と云ければ、項荘替り入て亜父が教のまゝに、左の手に剣を提て、舞ては沛公に近づきけり。項伯沛公が空く伐事哀みて、剣を抜て共に舞、項荘が近づく時、必沛公を立隠しけり。張良此事を浅猿見て、坐を立て樊■(はんくわい)に語る。樊■(はんくわい)大に驚きて門を入に、守門の兵禦(レ)之ければ、楯を先立て破入ぬ。幕を■(かかげ)て西に向て立り。大に嗔て項羽を見に、頭の髪筋立上、眼広くさけたり。項羽恐て剣を取て跪き、何者ぞと問ければ、張良が云、沛公が臣樊■(はんくわい)(有朋上P010)也と答けり。さらば酒勧よとて、一斗を入る盃にて与たれば、樊■(はんくわい)悦気色にて事ともせず呑てけり。■(い)の肩を肴に出たりけるをば、楯の上にて太刀を抜て切て食す。猶も飲てんやと項羽云ければ、命を失ふ共争か辞し申べき、況一斗の酒物の数に待らずとて、眸長裂て瞋立る頬魂いぶせく思はれけるにや、沛公事ゆゑなく遁れにけり。忠盛朝臣も、此郎等ゆゑに其夜の恥辱を遁けり。縫殿陣、黒戸の御所の辺にて、怪人こそ遇たりけれ。忠盛見咎て物をばいはず、一尺三寸の鞘巻を抜、手の内に耀様なるを、鬢の髪にすはりすはりと掻撫て、良ありて哀是を以て、狼籍結構する悪き者に、
P0007
一当当ばやなと云ければ、あやしばみたる人則倒伏にけり。勘解由小路中納言経房卿、其時は頭弁にて、折節通合給へり。花やかに装束したる者、うつぶしに伏たりける間、誰人ぞとて引起給たれば、わなゝくわなゝく弱々しき声にて、忠盛が刀を抜て我をきらんとしつるが、身には負たる疵はなけれ共、臆病の自火に攻られて絶入たりけるにやと宣へば、経房卿は、あな物弱や、実に闇討の張本とも不(レ)覚とて見給たれば、中宮亮秀成にてぞ御座ける。理や此人元来臆病の人の末成けり。父秀俊卿は中納言にて、歳四十二と申しし時、夢想に侵れて死給へる人の子なればにや、係る目にあひ給ふこそをかしけれ。抑五節と申は、昔清見原(有朋上P011)帝御宇に、唐土の御門より崑崙山の玉を五つ進給へり。其玉暗を照事、一玉の光遠五十両の車に至る、是を豊明と名付たり。御秘蔵の玉にて、人是を見事なし。天武天皇芳野河に御幸して、御心を澄し、琴を弾じ給しに、神女空より降下り、清美原の庭にて、廻雪の袖を翻けれども、天暗して見えざりければ、彼玉を出され、仙女の形を御覧じき。玉の光に輝て、
乙女ごが乙女さびすもから玉を乙女さびすも其から玉を K001
と五声歌給ひつゝ、五たび袖を翻す。五人の仙女舞事各異節也、さてこそ五節と名付たれ。彼舞の手を模つゝ、雲の上人舞とかや、其時拍子には、白薄様厚染紫の紙、巻上の糸、鞆絵書たる筆の軸やと、はやす也。仙女の衣の薄透通りて、厳き有様が、薄様と厚染紫の紙に相似たり。舞の袖を翻、簪より上方に、巻上たる貌、糸を以て巻たるが如く鞆絵を書たる筆の軸を、差上たる様なれば、昔より五節宴酔の肩脱には、必かくはやす
P0008
を、御前の召に依て忠盛の舞ける時に、さはなくて、俄に拍子を替て、伊勢平氏は眇なりけりとはやしたりけり。目のすがみたりければ、取成はやされける、最興ありてぞ聞えし。忠盛身のかたわを謂れて、安からず思へ共、無(二)為方(一)著座の始より、(有朋上P012)殊に大なる黒鞘巻を隠たる気もなく、指ほこらかしたりけるが、乱舞の時も猶さしたりけり。未御遊も終らざるに、退出の次に、火のほの暗き影にて、おほ刀を抜出し、鬢にすはりと\と引当ければ、火の光に輝合てきらめきければ、殿上の人々皆見(レ)之。忠盛如(レ)此して出様に、紫宸殿の後にて主殿司を招寄、腰刀を鞘ながら抜、後に必尋あるべし、慥に預けんとて出にけり。家貞主を待受て、如何にと申ければ、有の儘に語らば僻事すべき者なれば、別の事なしとぞ答ける。五節以後公卿殿上人一同に訴申されけるは、忠盛さこそ重代の弓矢取ならんからに、加様の雲上の交に、殿上人たる者、腰刀を差顕す条、傍若無人の振舞也、雄剣を帯して公庭に座列し、兵杖を賜て宮中を出入する事は、格式の礼を定たり、而を忠盛或相伝の郎等と号して、布衣の兵を殿上の小庭に召置、或其身腰の刀を横たへ差て、節会の座に列す、希代の狼藉也、早御札を削て可(レ)被(二)解官停任(一)由被(レ)申たり。上皇は群臣の列訴に驚思召て、忠盛を召て有(二)御尋(一)。陳じ申けるは、郎従小庭に伺候の事不(二)存知仕(一)、但近日人々子細を被(二)相構(一)、依(レ)有(二)其聞(一)、年来の家人為(レ)助(二)其難(一)忠盛に知せずして推参する、罪科可(レ)有(二)聖断(一)、次に刀の事、主殿司に預置候、被(二)召出(一)依(二)実否(一)咎の御左右あるべき歟と奏しければ、誠に有(二)其謂(一)とて、件の刀を召(有朋上P013)出して、及(二)叡覧(一)。上
P0009
は黒漆の鞘巻、中は木刀に銀薄を押たり。為(レ)遁(二)当座之恥(一)横たへ差たれ共、恐(二)後日之訴(一)木刀を構たり、用意之体神妙也、郎従小庭の推参、武士の郎等の習歟、無(二)存知(一)之由申上は、忠盛が咎にあらずと、還て預(二)叡感(一)けり。
周成王の忠臣に、きりうと云兵あり。依(二)勧賞(一)位至(二)丞相(一)早鬼大臣と云。代を治て人を憐事、頗君王の如なりければ、御気色超(レ)世、恩賞傍輩に過たり。羣臣妬(レ)之。亡さんと思へ共、猛人にて折を得ず。臣下内議して、皇居に古文と云御遊を始て、其中にして闇打にせんと支度す。彼大臣の武具を制せんがために、衛府の太刀を禁断す。早鬼先立て存知しければ、我身並に相従輩に、木剣を持しめ殿上に交る。大臣の気色あたりを払て、嗔れる有様なりければ、存知しにけりとて、其夜の乱を止めけり。雲客後日に参内して、当座一同の不(レ)与(二)僉議(一)、綸言非(二)違背(一)哉、殿上に用ぬ雄剣を帯して、大家の党に交条、例を乱る処也。尤罪科重し、早く罪せらるべきをやと訴申ければ、公驚思食て、早鬼大臣に御尋あり。大臣陳の言に申さく、雲客腰に太刀を付、忠臣手に雄剣を提るは、是国を鎮奉(レ)守(レ)公処也。何ぞ清君の祈に、文の節会を立ながら、剣を可(レ)被(レ)誡哉、然而与(二)一同之僉議(一)実の刀を止といへ共、忠臣は大内を助んと、謀を廻して木の剣を構たりとて、(有朋上P014)件の剣を召寄て及(二)叡覧(一)けり。公大に御感ありて、実に帝を助る忠臣なりとて、不(レ)及(二)罪科沙汰(一)、斯りければ天下悉重し、雲客皆靡て、偏執の思おだしくし、賢臣の誉を仰けるとかや。異国本朝上古末代異なれ共、事がら実
P0010
に相同じ。忠盛此事を摸して、加様に思寄けるにやと嘆ぬ人こそなかりけれ。
S0103 兼家李仲基高家継忠雅等拍子附忠盛卒事
忠盛は、桓武天皇の御苗裔、葛原親王の後胤とは申ながら、中比は無下に打下て官途も浅く、近来より都の住居も疎々敷、常は伊賀伊勢にのみ居住せし人なれば、此一門をば伊勢平氏と申けるに依て、彼国の器に准て、忠盛右の目の眇たりければ、伊勢平氏はすがめ成けりとは、はやしけるにこそ。或人の申けるは、忠盛心憂くもはやされつる者哉、如何計口惜かりけん、其答をば如何にせざりけるやらん、痛く心おくれせぬ男とこそ、世に知たるにと申ければ、又或人の語けるは、昔も係るためしなきに非、村上帝の御宇、左中将兼家と云人あり、北方を三人持たれば、異名には三妻錐と申けり、或時此三人の北方、一所に寄合て、妬色の顕れて、打合取合髪かなぐり、衣引破りなんどし(有朋上P015)て見苦かりければ、中将は穴六借とて、宿所を捨て出給ぬ、取さふる者もなくて、二三日まで組合て息つき居たり、二人の打合は常の事也、まして三人なれば、誰を敵共なく、向ふを敵と打合けるこそ■(をか)しけれ、是も五節に拍子をかへて取障る人なき宿には、三妻錐こそ揉合なれ、穴広々ひろき穴かな、とはやしけり。
太宰権師李仲卿は余に色の黒かりければ、人黒師とぞ申ける。蔵人頭なりける時、それも穴黒々黒き頭哉、如何なる人の漆塗らんと拍したりければ、李仲卿に並て御座ける、基高卿の舞れけるに、此人余に色の白かりければ、李仲卿の方人と覚しくて、穴白々白き頭哉、如何なる人薄押けんと、拍し返し
P0011
ける殿上人もおはしけり。
右中将家継と云人、祖父の代までは時めきたりけるが、父が時より氏たえて、有か無かにておはしけるが、下臈徳人の聟に成て、舅の徳に右の中将に成給たりけり、此も五節に、絶ぬる父云に及ばず、祖父の代までは家継ぞかし、左曲の右中将とぞ拍したる、貧き者たのしき妻をまうくるは、左ゆがみと云事なれば、かくはやしける也。
花山院入道、太政大臣忠雅の、十歳にて父中納言忠宗卿に後れ給ひ、孤子にておはせしを、中御門中納言家成卿の、播磨守の時聟に取て、花やかにもてなされければ、是も五節に、播磨米は、木賊か、椋の葉か、人の■(きら)を(有朋上P016)付るはとぞ拍したりける、上代は角こそ有しか共異なる事なし、末代は如何あるべきと人の心覚束なし。
忠盛朝臣子息あまた有き。嫡子清盛、二男経盛、三男教盛、四男家盛、五男頼盛、六男忠重、七男忠度、以上七人皆諸衛佐を経て、殿上の交り、人更に嫌に及ばず。日本国には男子七人あるをば長者と申事なれば、人多く羨みけり。是も得長寿院の御利生と覚たり。但命は限ある事なれば、近衛院御宇仁平三年癸酉正月十五日、行年五十八にて卒しけり。猶も盛とこそ見えしに、春立霞にたぐひ、雲井の煙と消上り、指たる病もなし。いつも正月十五日、精進潔斎しけるが、今年も又心身を清め沐浴して、本尊の御前に香を焼花を供じて念仏申、西に向て睡が如して引入にけり。今生には一千一体
P0012
の観音の利益を蒙、四海に栄花を開、終焉には上品中品の、弥陀の来迎に預つて、九品の蓮台に生、見人聞人も不(レ)敬と云事なし。女子五人、男子七人有き。清盛嫡男なれば、其跡を継。諸国庄園を譲るのみに非、家中の重宝同相伝して、他家に移事なし。中にも唐皮と云鎧、小烏と云太刀、清盛に被(レ)授。又抜丸も此家に止まるべかりけるを、頼盛当腹の嫡子にて伝(レ)之。その事に依て、兄弟中悪かりけるとぞ聞えし。(有朋上P017)
S0104 清盛行(二)大威徳法(一)附行(二)陀天(一)並清水寺詣事
仰清盛打続繁昌し給ける事、幼少の昔中御門家成卿の許に、局ずみして有けるに、彼卿の祈の師に、大納言阿闍梨祐真とて、貴き真言師あり。家成卿の持仏堂にて、護身加持しておはしければ、清盛も常に有(二)対面(一)問給ける事は、真言乗上乗の秘法の中に、何なる法が加様の在家の者の奉(レ)行、*掲焉の預(二)利生(一)事候と被(レ)申たりければ、阿闍梨答云、信心至て修行すれば、何れの法も可(二)成就(一)、但振(二)威於一天(一)、抽(二)徳於万人(一)者、五大明王の其一、大威徳の法こそ成就あれば、必天子の位に昇とは申たれと云ければ、則阿闍梨を師匠と憑て件の法を伝受して、七箇年の間一向清浄に斎戒し、可会が滋味をも断じ、玄石が美き酒をも禁じて勇猛精進し、信心勤行し給けり。七箇年に満たる夜、道場の上に声ありて云、
つとめんと思ふこゝろのきよもりは花はさきつゝ朶もさかえん K002
と、清盛後憑もしくおもひて、いよ\致(二)精誠(一)祈念しけれ共、余の貧者なりければ、倩案じて思ひけるは、我諸国荘園の主也、縦ひ何
P0013
となけれ共、生得の報とて、身一つ助る分(有朋上P018)は有ぞかし、況清盛が身に於てをや、希代の果報哉と怪処に、或時連台野にして、大なる狐を追出し、弓手に相付て、既に射んとしけるに、狐忽に黄女に変じて、莞爾と笑ひ立向て、やゝ我命を助給はば、汝が所望を叶へんと云ければ、清盛矢をはづし、如何なる人にておはすぞと問ふ。女答て云、我は七十四道中の王にて有ぞと聞ゆ。さては貴狐天王にて御座にやとて、馬より下て敬屈すれば、女又本の狐と成て、コウ\鳴て失ぬ。清盛案じけるは、我財宝にうゑたる事は、荒神の所為にぞ、荒神を鎮て財宝を得には、弁才妙音には不(レ)如、今の貴狐天王は、妙音の其一也、さては我陀天の法を成就すべき者にこそとて、彼法を行ける程に、又返して案じけるは、実や外法成就の者は、子孫に不(レ)伝と云者を、いかゞ有べきと被(レ)思けるが、よし\当時のごとく、貧者にてながらへんよりは、一時に富て名を揚にはとて被(レ)行けれ共、遉が後いぶせく思て、兼て清水寺の観音を奉(レ)憑蒙(二)御利生(一)と千日詣を被(レ)始たり。雨の降にも風の吹にも日を闕ず、千日既に満じける夜は通夜したり。夜半計に両眼抜て、中に廻て失ぬと夢を見る。覚て後浅猿と思て、実や仏神は来らざる果報を願へば、還て災を与へ給といへり、あはれ是は分ならぬ幸を願に依て、観音の罰に、我魂を抜給か見えぬるやらんと現心もなし。去に(有朋上P019)ても人に尋んとて、我眼の抜て中に廻て去ぬると、夢に見たるは善歟悪歟と札に書て、清水寺の大門に立て、人を付て令(レ)聞(レ)之。参り下向の人多く札を見て、不(二)心得(一)と而巳云て、誰も善悪をばいはず。両三日を経て後に、或人見(レ)之
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打うなづきて、実に目出き夢也、吉事をば目出しと云、目出しとは目出ると書り、眼の抜は目の出る也、此夢主は日来心苦く侘しき事をのみ見けるが、此観音に依(レ)奉(二)帰依(一)、難の眼を脱棄給て、吉事を見んずる新き眼を、可(二)入替給(一)御利生にや、あつぱれ夢や\と両三度嘆て去ぬ。使帰て角と申ければ、清盛大に悦て、さては好相成けりとて、彼礼を深く納て、仰(レ)天果報を俟つ。
S0105 清盛捕(二)化鳥(一)並一族官位昇進附禿童並王莽事
〔去程に〕夢見て、七日と申夜は、内裏に伺候したりけり。夜半計に及て、南殿に鵺の音して、一鳥ひめき渡たり。藤侍従秀方、折節番にておはしけるが、殿上より高声に、人や候\と被(レ)召けり。左衛門佐にて間近候ければ、清盛と答。南殿に朝敵あり、罷出て搦よと仰す。清盛こはいかに、目に見る者也とも、飛行自在にて天を翔けらん者をば、(有朋上P020)争か取べき、況暗さはくらし体も見えず、音計あらん者を、角とれと仰出さるゝ事の浅猿さよ、如何がはせんと思けるが、急度思直て、実や綸言と号せばや、様ある事也、天竺には号(二)勅定(一)、獅子を取大臣もあり、漢家には宣旨の使と名乗て、荒たる虎をとる者も有けり、我朝には任(二)叡慮(一)雲に響雷を取臣下も有けり、延喜御宇には、池の汀の鷺を取たる蔵人もあり、末代といへ共、日月地に墜給はず、争例を追ざるべき、取て進せばやと思ければ、畏てとて、音に付て踊懸る処に、、此鳥騒て左衛門佐の左の袖の内に飛入、則取て進せたり。叡覧あれば実に小き鳥也、何鳥と云事を不(二)知食(一)、癖物なりとて有(二)御評定(一)。よく\見れば毛じゆう也。毛じゆうとは、鼠の唐名也。加様の者までも皇居に懸念をなしけるにや、博士召せとて召れたり。占申けるは、此事漢家本朝に希也、但
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垂仁天皇三年二月二日、毛じゆう皇居に其変をなす、武者所蒙(レ)仰とらんとしけるに、不(二)取得(一)して門外に飛出ぬ、此故に七年の大疫癘、七年の大飢饉、七年の大兵乱なりければ、廿一年の間、上下万人其愁絶ず、而るを清盛綸言の下に、朝威を重じて怪鳥を取事を得たり、尤吉事に候、天下十六箇年の間、風雨時に随ひ、寒暑おりを不(レ)可(レ)■(あやまるべからず)と奏し申ければ、偖は希代の吉相にやとて、南台の竹を召、中に篭て、清水寺の岡に埋れ(有朋上P021)たり。御悩の時に勅使立て、被(レ)含(二)宣命(一)時、毛じゆう一竹が塚と云は是也。公卿有(二)僉議(一)、天下安穏に、万民愁を休めんには、恠異を鎮て進するには不(レ)如、これ非(二)朝敵鎮(一)や、勧賞あるべしとて、安芸守になさる。是清水寺の夢想の験也。鼠は大黒天神の仕者也。此人の栄花の先表たり、威勢は大威徳天、福分は弁才妙音陀天の御利生也。されば清盛安芸守と申しし時、保元元年に、左大臣謀叛の時、ことなる賞ありて、同年七月十一日、安芸守より播磨守に移り、同八月十日、任(二)太宰大弐(一)。平治元年信頼卿謀叛之時、勲功ありて、同年十二月廿七日に、経盛伊賀守、頼盛尾張守、宗盛遠江守、重盛伊予守、教盛越中守、基盛任(二)左衛門佐(一)。永暦元年に正三位して拝(二)参議(一)。同二年、右衛門督、検非違使(けんびゐしの)別当、権中納言に任ず。長寛三年に、権大納言に至り、仁安元年、任(二)内大臣兼(一)。宣旨並饗禄なかりけれ共、忠義公の例とぞ聞えし。同二年に太政大臣に上る。左右を経ずして此位に至る事、九条大相国信長公の外惣じて先蹤なし。大将にあらね共、兵杖を賜て、随身を召具して、執政の人の如し。輦車に乗て宮中を出入す、偏に女御入内の儀式也。太政大臣は、訓導
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之礼重く儀刑之寄深ければ、地勢大といへ共、賢慮不(レ)足者、無(レ)当(二)其仁(一)、雖(二)天才高(一)、政理不(レ)明者猶非(二)其器(一)、非(二)其人(一)黷べき官にあらざれど(有朋上P022)も、一天の安危由(レ)身、万機の理乱在(レ)掌ければ、不(レ)及(二)子細(一)。親子兄弟、大国を賜り、兼官重職に任じける上、三品の階級に至るまで、九代の先蹤を超、角栄けるをゆゝしき事と思し程に、清盛仁安三年十一月十一日、歳五十一にて重病に侵され、為(二)存命(一)忽に出家入道す、法名は浄海なり。其験にや宿病立どころに愈て、天命を全す。人の従ひ付事は、吹風の草木を靡すが如く、世の普く仰ぐ事、ふる雨の国土を潤に異ならず。されば六波羅殿の御一家の公達と云てければ、花族も英才も、面を向へ肩を並る人なかりけり。太政入道の小舅に、平大納言時忠卿の常の言に、此一門にあらぬ者は、男も女も尼法師も、人非人とぞ被(レ)申ける。斯りければ、如何なる人も、相構て其一門其ゆかりにむすぼほれんとぞしける。
〔昔〕呉王好(二)剣客(一)、百姓多(二)瘢瘡(一)、楚王好(二)細腰(一)、宮中多(二)餓死(一)、城中好(二)広眉(一)、四方且半額、城中好(二)大袖(一)、四方用(二)疋帛(一)、と云事あり。されば烏帽子のためやう、衣紋のかゝりより始て、何事も六波羅様と云てければ、天下の人皆学(レ)之随(レ)之けり。如何なる賢王聖主の御政をも、摂政関白の成敗なれども、何となく世にあまされたる徒者なんどの、謗り傾け申事は常の習ぞかし。されども此入道の世の間は、聊も忽緒に申者なかりけり。其故は入道の計ひにて、十四五若は十六七計なる、童部の髪(有朋上P023)を頸の廻に切つゝ、三百人被(二)召仕(一)けり。童にもあらず、法師にもあらず、こは何者の貌やらん、一色に長絹
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の直垂を著る時は、褐の布袴をきせ、一色に繍物の直垂を著時は、赤袴をきせ、梅の■(ずはえ)の三尺計なるを、手もと白く汰て右に持、鳥を一羽づつ鈴付の羽に赤符を付て、左の手にすゑさせて、面々にもたせて明ても暮ても遊行せしむ。是は霊烏頭のみさき者とて、大会宴の珠童を学れたり。又、耳聞也。もし浄海があたりに意趣あらば、忽緒に云者あるべし、其者をば聞出して申も上よ、相尋んとの給ければ、京中の条里小路、門々戸々耳を峙、思も思はぬも其あたりの事を云をば、聞出し申ければ、咎なきあたりをも多損じけり。最冷くぞ在ける、不祥とも愚也。入道殿の禿と云ければ、京中には又もなき高家の者也。九重白川の在家人多く大事をして、子孫を禿に入ければ、三百人洛中に充満たり。世を■(わし)る馬牛車、宜輿車も道をよきてぞ通りける。適路次に逢輩は、御幸行幸に参会たる様にて、手をつき腰をかゞめ、走のきてぞ過行ける。禿が申事をば、善悪を糺さず、入道許容し給ければ、上下万人是に追従して、善も悪も平家の事をば云ず。又禿に悪しと思はれたる者は、入道殿に讒せられて、咎なくして多く損する者も有けり。おち\も内々は此禿の体こそ心得ね、縱京中の耳聞の為成(有朋上P024)挿絵(有朋上P025)挿絵(有朋上P026)とも、只普通の童にてあれかし、必しも汰へらるゝ事よ、又一人も闕れば、入立てて三百人をきはめらるゝも不審也。梅の■(ずはえ)鳥のもち様、何様にも存ずる子細おはすらん、昔も是風情の例や有らんとぞ私語ける。或人の申けるは、本朝に例なし、漢家に八葉大臣と云ける人、天下無双の賢臣にて、忠を賞し罪を憐事、堯舜の政化にも不(レ)異、依(レ)之今の如く禿童を多そろへて、金帰鳥と云鳥を持せて、
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国々巷々(さとざと)に放立て仰含て云、国広民多して、万人の愁歎難(レ)及(二)天聴(一)歟、聞出すに随て奏せよ、直に召行はんと有ければ、愁を残す者もなく、恨を含者もなし。国豊民悦、政徳海内に及ぼしけり、されば是をば善者の童と名付といへり、今の禿童は事に触て歎き、物の煩ありければ、悪者の童と云つべし、漢家本朝、上古末代、善悪には替れ共、権威は実に不(レ)劣ぞ有ける、入道福原に御座ける時は、賀茂大明神禿に現じて、三百人に打まぎれて御近習に有けり、何れ今の童やらん、本の禿やらん、恐しかりける事也。又九条殿の御物語とて人の語けるは、異国にもさる例ありけり、漢の孝平帝の代に王莽と云ふ大臣あり、位を貪らん為に、計を廻す事は、海人に誂へて幾千万ともいはず亀を捕集めて、甲の上に勝と云文字を書て、浦々に放ち、銅にて馬と人とを造て、近国の竹のよを透して多入(レ)之、其後姙て(有朋上P027)七月になる女を三百人召集めて、朱砂を煎じて、謾薬と云薬を合てこれを呑しむ、月満て生たる子皆色赤して、偏に鬼の如し、彼赤き童を人に知せずして、深山に籠て是をそだつ、成長する間に、歌を作教て云、亀の甲の上に勝と云文字あり、竹のよの中に銅の人馬あり、王莽帝位を継で可(レ)治(二)天下(一)験也と歌て、十四五計の時、髪を肩の廻りにそぎまはして、都へ出して三百人拍子を打て同音に歌けり。此景気に驚て、帝に奏聞す、則彼童べを南庭に召れたり、うたふ事如(レ)前、孝平帝恠て、有(二)公卿僉議(一)、歌の実否をたゞさんが為に、浦々の海人に仰せて亀を取見、竹林に入て人馬を取出す、聊も歌に不(レ)違とて、帝位を王莽に授給けり、天下を治て僅に三箇年、終には亡にき。
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されば入道も此事を表して、三百人を召仕、位を心に懸て、角や有とぞ語ける。何様にも名聞の至り歟、天狗之所為にやとぞ私語ける。昔唐に弘農の楊玄■(やうげんえん)が女に、楊貴妃と云美人ありき。玄宗皇帝に召て、寵愛類なかりけるあまり、叔父昆弟皆清貫につらなり、姉妹国夫人に封じて、富王室にひとしく、車服大長公主に同じかりければ、禁門を出入する時に、名姓を不(レ)問、京師の長吏是が為に目をそばめたりと云事あり。彼れ久しからずして亡にき。是直事にあらずとぞ覚たる。清盛我身の栄花をきはむるのみに非、子孫の(有朋上P028)繁昌は龍の雲に昇るよりも速也。男は各誇(二)官職(一)、女子は取々に幸しけり。長男重盛内大臣の左大将、二男宗盛中納言の右大将、三男知盛三位の中将、嫡孫維盛四位少将、家門の繁昌子孫の栄花、類もなく例もなし。凡一門の卿相雲客、諸国の受領衛府諸司、惣じて六十余人なり、百官既に半に過たり、世には又人なしと見たり。日本は是神国也、伊弉諾伊弉冊尊の御子孫国の政を助給ふ。昔天照大神、邪神を悪み給ひて天岩戸に籠らせ給たりしかば、天下禿く闇にして、人民悲み歎しに、御弟の天児屋根尊八万四千の神達を相語ひ、岩戸の御前にして様々祈申させ給たりければ、日神再び天下を照し、人民大に悦けるに、天照大神、児屋根尊に仰合せて云く、我子孫は此国の主として万人を憐れまん、汝が子孫は臣下として国の政を助よと依(レ)有(二)御約束(一)、御裳濯河の御流、海内を治め御座し、春日明神の御子孫、朝の政を輔給へり。されば摂政関白の御末の外は、輙く官職を諍べきにあらず。就(レ)中天平十二年正月、始て以(二)参議兵部卿藤原豊成
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卿(一)中衛大将を置る。宝亀四年、大納言中務卿藤原魚丸、初て兼(二)近衛大将(一)、大同二年四月、改(二)近衛府(一)左近府とし、中衛府を以て右近府とせしより以来、兄弟左右に相並例、僅に四箇度也。文徳天皇御宇、斎衡元年に、左に忠仁公良房、冬嗣公二男西三条右大臣良相(有朋上P029)公、同五男朱雀院御宇、天慶八年に、左に清慎公実頼、貞信公一男右九条右大臣師輔公、同二男後朱雀院御宇、寛徳二年、左に大二条関白教通公、御堂の二男右に堀河右大臣頼宗公、同三男二条院御宇、応保元年、左に中山関白基房公、法性寺関白二男右に後法性寺関白兼実公、同三男相並給へりき、是皆節禄の臣の公達なり。凡人にとりて無(二)先例(一)、偏に官位を重んじ、賢才を選し故なり、況昔は殿上の交りをだに嫌れし人の子孫ぞかし。今は禁色雑袍をゆり、顕職温官を経て父子丞相の位に至り、兄弟将相栄を並たり。末代といへ共、不思議なりし事共なり。政道忽に乱れ、官途こゝに廃るゝ歟、是は偏に大威徳明王の御利生にやと覚たり。世には不敵の者も有けり。入道の宿所六波羅の門前に、札を書て立たりけるは、
伊予讃岐左右の大将かきこめて欲の方には一の人哉 K003 (有朋上P030)
『源平盛衰記』(国民文庫)
呂巻 第二
S0201 清盛息女事
御娘八人御座けるも、皆取々に幸し給へり。一は本は桜町中納言成範卿の相具し給し程に、彼卿下野や室の八島へ被(レ)流後、花山院左大臣兼雅の御台盤所に成り給へり。実は成範卿と、左大臣家とは、兄弟の契りにて無(二)内外(一)中なりけり。左大臣の北方もおはせで、二三年男上人にて、常は心を澄し、よろづ倦気なる有様なりければ、直事に非、如何にも子細御座にこそ人皆恠を成す。大臣或時御乳人の三位局を召て、御物語あり、去々年の春成範の女房を、雲上にて風見たりしより、心苦思あり、男の習は后をも奉(レ)盗、国の騒とも成ぞかし、況是は左も右も謀り出して、思をはるべけれ共、中納言の為に後闇き事は有まじ、兄弟の契ながら、相思の情浅からず、縱ひ我思の女なりとも、所望せば慰べし、只余所ながら無(レ)由見そめけん事こそつらかりけりと思へば、色に出て汝にさへ心苦き思を付る事こそ不便なれなんど、徒の忍の御物語あり。三位局宿所に(有朋上P032)帰て、大臣は由々しき大事の病はつき給にけりと歎けり。此局の妹の侍従を呼て、此事を語。侍従申様、其事にや、一日中納言の仰に、大臣殿の御景気は、如何にも人を恋給と見えたり、いかなる人に思を残し給ふやらん、哀成範が妻なんどならば奉りなん、隔なく申眤び奉る詮には、是こそ実の志なれと被(レ)仰、かばかり
P0022
思ひ奉るとはよも思ひ給はじと、御心苦気に候しぞや、参て申てみんとて、立帰りつゝ中納言に私語申たれば、打咲給て、去ばこそ能見たりけり、嬉く聞せ給ひたりとて、三位局を召見参して宣ひけるは、無(レ)隔角聞え侍る事、返々神妙にこそ、是へ可(レ)奉(レ)入か、其へ可(レ)進か、御心に相叶はん事を計ひ給へと。三位申けるは、理なき御志の色に顕御座す御事、申も中々愚に覚てこそ候へ、是へ入進せんも、あれへ入らせ御座さんも、旁其憚あれば、御心安も思召ばかり、只離別し給ふと御披露候へかしと。中納言宣ひけるは、避と申したらば、我志にはあらじ、如何にも奉公の為にこそ、悲き別をせんずるにと聞えければ、三位其は二三日も過侍りてこそ此由をば委申入侍らめ、兼て申たらば、定て御心元なく思召べしと計ひ申ければ、さらば其義にこそとて、中納言北方に此由被(レ)申けり。女房は、事に触て我を捨てんとおぼすにこそ懸る様や有るべきと、無(レ)限涙に咽給ひければ、中納言(有朋上P033)も袖を絞て、此世には隔なく、志の色を顕し、後世には懸念無量劫とかやの罪をも遁給へかしと、為(レ)我為(レ)人かく思侍るにや、愚の御事には非ずと、様々誓言を申給へば、其上は不(レ)及(レ)力とて、心ならぬ別をし給けるこそ糸惜けれ。此由角と披露有ければ、三位局の計にて、迎取給ひけり。大臣はうつゝならずとぞ思はれける。中納言はさすが飽ぬ別の道なれば、忍の涙を流給ひけり。彼朱明が妻を避し志、管寧が金を断し情も、角やと覚て最やさし。其後三位局,大臣に角やと申ければ、大に驚給て、かくぞ送給ける。
P0023
たぐふべき方も渚のうつせ貝くだけて君を思ふとをしれ K004
と、中納言此歌を見てこそ、さては御心に相叶給けるよと、歎の中にも悦給ひけれ。例なき情也と人申けり。成範中納言の北方、花山院御台盤所に成給たりと、世に披露有ければ、何者の読たりけるやらん、四足の柱に、
花の山高き梢と聞きしかど蜑の子かとよふるめひろふは K005
と、此御台所は、御美も厳しく情も深く御座ける上、天下に類なき絵書にてぞ御座ける。紫宸殿の御障子に、伊勢物語を絵に書せ給ふ御事あり。昔貞員親王の生れ給へる御うぶやにて、人々歌読侍りける中に、御伯父方翁の、(有朋上P034)
我門に千尋ある竹を植つれば夏冬誰か隠ざるべき K006
と読たりけり。御うぶやとは親王の御産所なり。其うぶやの前に鳳凰の千尋の竹に居たるを、かゝせ給たりけるが、余に目出度魂を書こめさせ給たりけるにや、其後紫宸殿に、時々笙の笛を調ぶる声あり。人々此を恠て、忍て御覧じければ、千尋の竹に書給へる、鳳凰の鳴音にぞ侍ける、難(レ)有御事也。
昔忠平中将の扇に書たりける郭公こそ、扇をひらく度ごとに、郭公とは啼けるなれ。
宇治関白殿の中門に、円心法師が書たりける鶏は、寒夜暁鳴事度々ありけり。
金峯山蔵王権現に造進したりける、定朝が獅子狛犬は、社殿の上に啖合て、大床より落たりき。
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定朝七代の孫、院賢法橋が、栢の木を以て造進したりし、芹谷の地蔵堂の小鬼は、夜々失事事有りて、暁は必ず露にそぼぬれて本座にあり。近隣の里に女常に鬼子を生、寺僧怪て金鎖を以て件の鬼を繋たれば、其後鬼露にもぬれず、女鬼を生事なし。絵に書、木に造りたる非情なれ共、物の妙を極る、事の精を尽せる、上古も今の代も不思議なりける事也。
仰此成範卿とは、故小納言入道信西三男也。桜町中納言と申事は、優に情深き人にて、吉野山を思出して、桜を愛し給ひけり。室八島より帰上後、町の四方に吉野の桜を移植、其中に屋を立て住給ひければ、(有朋上P035)見人此町をば、樋口町桜町と申けり。又は此中納言桜の名残を惜て、立行春を悲み,又こん春を待わび給しかば、異名に桜町中納言ともいへり。殊に執し思はれける桜あり、七日に咲散事を歎て、春ごとに花の命を惜て、泰山府君を祭られける上、天照太神に祈申させ給ければ、三七日の齢を延たりけり。されば角ぞ思つゞけ給ひける。
千早振現人神のかみたれば花も齢はのびにけるかな K007
と、人の祈実ありければ、神の霊験あらたにして、七日中に咲散花なれ共、三七日まで遺あり。君も御感有て、花の本には此人をぞすべきとて、勅書に桜町の中納言とぞ仰ける。二には徳子后に立給ふ。皇子御誕生有ければ、後には建礼門院と申き。天下の国母に御座し上、とかく申に及ず、三には六条摂政基実公の北政所也。是は世に勝れ給へる琵琶の上手に御座き。経信大納言より四代の門葉、治部尼上の流れを伝て、流泉、啄木まで極給へり。高倉上皇御即位の時、御母代にて、三后に准る宣旨を賜て、
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世には重き人にて御座き、白川殿とぞ申ける。
四には冷泉大納言隆房北方にて、御子数多御座き。是又情ある女房にて、琴の上手とぞ聞え給ひし。昔唐の白居易は、琴詩酒の三を友として、常は琴を引て心を養ひ給けり。管絃の道はなをざりなれ共、此を調るに、自つれ/゛\(有朋上P036)を慰む事たりぬと書置給けり。彼楽天の筆に自在を得給て、聊も作給へる詩篇を、よく人に被(レ)知給へり。其中に、随分管絃還自足、等閑篇詠被(レ)知(レ)人と書給へる詩を、北方常に詠じて心澄まし琴を弾じ給へりけり。太政入道は琴を愛して、女房達を集めて、常に聞給ける中に、秋風、鈴虫、唐琴渋と云、代の宝物四張あり。西園寺の名主、閑院少将、当摩寺紅葉、堀川侍従とて、四天王に算へられたる琴の上手を招寄て、常にひかせて聞給へども、異なる瑞相はなかりしに、此北方、村雲と云琴を調べ給へる時、色々の村雲忽に聳て、軒端の上に引覆、万人目を驚し、入道感涙を流し給ふ。狭衣の大将光源氏の君、管絃を奏し給しに、天人影向し給しも、角やと被(二)思知(一)たり。五には近衛殿下基通公北政所、形厳くして、水精の玉を薄衣に裹みたる様に、御衣も透通て見えければ、父相国も異名には、衣通姫とぞよばはれける。殿下も角と仰ければ、北政所も我御名と心得て、答まし/\ては互に■(わら)ひ給けり。歌の道に達して、並なき御事也。中にも内より御使あり、何事ぞと御尋あれば、当座の御会あり、日夕以前と披露申けり。殿下不(二)取敢(一)御装束召れけるが、北政所に仰の有けるは、当座の御会争か其題を可(レ)知なれ共、頭弁心有ものにて、密に五の題を告申たり、装束
P0026
し侍らん其間に、歌読儲て給はら(有朋上P037)んとて、題をさし置せ給たりければ、北政所これを御覧じて、打うなづき給つゝ、やがて墨すり筆染て、案ずるまでの御事に及ず、古歌を書がごとく、
春日山神祇 春日山かすめる空にちはやぶる神の光はのどけかりけり K009
鷲山釈教 わしの山おろす嵐のいかなれば雲ものこらずてらす月かげ K010
是心仏玉文 まどひつゝ仏の道をもとむればわが心にぞたづね入ぬる K011
旅立空秋無常 草村におく白露に身をよせてふく秋風をきくぞ悲しき K012
恋(レ)昔旧跡 あるじなき宿の軒ばに匂ふむめいとゞ昔のはなぞこひしき K013
己上五首、御装束己前にあそばし儲させ給ひたりけるに、文字一も引直させ給はず、日比の歌を書よりも猶安くぞ有ける。殿下是を御覧じては、実に由々しくも遊したりとぞ申させ給ける。
六には、七条修理大夫信隆卿に相具し給へり。翠黛紅顔の粧ひ、花よりも猶かうばしく、玉の簪照月の姿、あたりも耀ばかりなり。歌よみ連歌し、絵書花結、あくまで御心に情御座す人也。され共五障の女身を悲て、常は持仏堂に入、仏に花香奉り、法華経そらに読覚え給て、毎日御転読あり、龍女が速成を貴み、如説の往生をしたひて、菩提の道をぞ祈らせ給ける。人間有為の栄耀は、兎ても角ても有ぬべし、悟の道(有朋上P038)の知べこそ、思へば実に貴けれ。
七には、安芸の厳島の内侍が腹の娘也。指たる才芸はなかりけれ共、美貌は人に勝給へり。嬋娟たる両鬢
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は、秋の蝉の翼、宛転たる双蛾は、遠山の色とぞ見え給ふ、秋夜月を待、はつかに山を出る清光を見が如し、夏日蓮を思ふ、初て、氷を穿つ紅艶を見よりも潔し。此御娘十八の年、後白河院へ参給へり、更衣の后にてぞ御座ける。入道さしもなき事せられたりと申合けり。其上程なく失給にけり。母の内侍は、越中前司盛俊が賜て具したりけるが、盛俊一谷にて討れて後は、土肥次郎実平が具したりけるとぞ聞えし。
八には、九条院雑子、常葉が腹の娘成けるを、花山院左大臣の御台盤所に親く御座せばとて、上搶蘭[にて御座けり。三条殿とも申けり。又は廊の御方とも申けり。大臣殿も密に通給ければ、姫君一人出来給へり。此女房和琴の上手にてまし/\ける上、類なき手書にて御座ければ、手本賜はらんとて、人々色々の料紙を奉り置たれば、書も敢給ず、色々の料紙共、傍に取置せ給たりければ、朝夕は錦を曝す砌とぞ見えける。
異本に云、八は大納言有房卿の北方也。絵書、花結、諸道に達し給へり。心に哀み深して人に情を重くせり、女房なれ共、聯句作文も並なく、手跡さへ厳して、昼図の障子に百詠の心を絵に書せ給て、やがて一筆に色紙形の銘をも書せ給たり(有朋上P039)ければ、院も希代の女房なりとぞ仰ける。
抑日本秋津島は僅に六十六箇国、平家知行の国三十余箇国、既半国に及べり。其上庄園五百箇所、田畠はいくらと云ふ数を不(レ)知、綺羅充満して堂上花の如く、軒騎群集して門前成(レ)市、楊州之金、荊岫之
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玉、呉郡之綾、蜀江之錦、七珍万宝、一として闕事なし、歌堂舞閣之基ゐ、魚龍雀馬之翫物、恐くは帝闕も仙洞も、是には争か揩驍ラき。勢既に君朝にならび、富又皇室に過たりと、目出度こそ被(レ)見けれ。昔より源平両氏、朝家に被(二)召仕(一)てより以来、皇化に不(レ)随朝憲を軽ずる者をば、互に誡を加しかば、世の乱はなかりき。保元に為義きられ、平治に義朝討れし後は、末々の源氏、此彼に有しか共、或は流され或は討たれて、今は平家の一類のみ、独武威を奪て、自政を恣にせしかば、頭さし出者なし、五代十代の末の世までも誰かは諍者有べきとぞみえし。
S0202 日向太郎通良懸(レ)頸事
平治元年の比、肥前国住人、日向太郎通良、野心を挟みて朝威を傾けんとする聞えありしかば、可(二)追討(一)之由、清盛朝臣に被(二)仰下(一)。勅命を蒙て、筑後守家貞を召て申含。家貞(有朋上P040)西府に下向して、通良が城に押寄て、度々の合戦に及ぶ。城も究竟の城也、主も勇者成ければ、輙く落ざりけれ共、月を隔日を重ては、官兵は雲如に集りければ、賊徒は霧の如に散けり。永暦元年四月に、通良以下の党類、三百三十五人討取之由、家貞が許より交名を注して申上たれば、清盛朝臣事の由を奏聞す。同五月十五日、鳥羽殿に御幸有、通良並子息通秀親良以下の首七、御桟敷の前を渡されて被(二)御覧(一)。清盛朝臣御前に候せり。御随身を以て名字を御尋あり、家貞馬上にて名謁す、事の体ゆゝしくぞ見へける。家貞甲を著して、郎等二百余騎を相具して渡る。容貌美麗にして進退見つべかりければ、今日の見物只家貞に有りとぞ上下称しあへりける。七条川原にて検非違使(けんびゐし)、通良等が首を請取て、大路を渡し
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て獄門の木に懸られけり。同六月三日、先小除目おこなはる。平頼盛朝臣、従四位上に叙す。舎兄清盛朝臣、鎮西の住人通良を、追討の賞とぞ聞えし。同廿日太宰大弐、清盛朝臣正三位に叙す。勲功の賞に依て、忽に越階す。
S0203 基盛打(二)殿下御随身(一)附主上上皇除目相違事
去五月廿二日に、殿下参内し給けるに、清盛卿の二男遠江守基盛が車を、門外に立たり(有朋上P041)けるを、御随身やりのけよと責けれ共、牛飼童不(二)承引(一)して悪口しければ、御随身等、弓を以て打たりける程に、基盛が郎等太刀を抜、御随身等を取籠めて散々に打伏ければ、陣の内外騒動しけり。是ぞ平家の乱行の初とは聞えし。去ぬる保元元年に、鳥羽院晏駕の後は、兵革打続、死罪、流刑、解官、停任、常に被(レ)行て、海内も不(レ)静、世間も不(レ)安、就(レ)中永暦応保の比より、禁裏の近習をば仙洞より被(二)召禁(一)、仙洞の近習をば禁裏より被(レ)加(レ)刑。主上上皇御父子の御間なれば、何事の御不審かは有べきなれ共、思の外の事共有けるとぞ聞えし。是世及(二)澆■(ぎようり)之俗(一)人、挟(二)梟悪之心(一)故なり。
永暦元年二月廿一日に、上皇内裏に臨幸有て、清盛朝臣に仰て、権大納言経宗、別当惟方卿を被(二)召捕(一)けり。経宗卿は外戚也、惟方卿は叔父也、縱八虐の犯ありて、五刑の法を被(レ)行とも、罪名に及ばずして忽ちに繋索せられんやと、世傾け申し、人々疑をなせり。同三月十一日に、経宗卿は阿波、惟方卿は長門へぞ被(レ)流ける。六月十五日に、又前出雲守光保朝臣の息男、備後守光宗、薩摩国へ配流せらる。是は上皇を危ぶめ奉らんと謀由聞えければ、其咎を被(レ)行けり。光宗は配流の由宣下の後、自害
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して失にけり。
応保元年九月十五日には、左馬権頭平頼盛、右少弁時忠被(二)解官(一)けり。是は高倉院の宮にて御座けるを、太子に(有朋上P042)立て奉らんと謀ける故也。又上皇政務を不(レ)可(二)聞召(一)之由清盛卿申行ひけり。君の威忽ちに廃れ、臣の驕速にいちじるし。同日の除目に以(二)信範(一)被(レ)任(二)右少弁(一)、以(二)時忠(一)可(レ)被(レ)補(二)五位蔵人(一)之由、院より執申させ給けるに、彼両人をば被(レ)解官(一)て、以(二)長方(一)被(レ)任(二)右少弁(一)、以(二)重方(一)被(レ)補(二)五位蔵人(一)けり。天子には無(二)父母(一)、上皇の仰なればとて、政務に私不(レ)可(レ)存と仰けるとぞ聞えし。誠に求(二)其人(一)、被(レ)置(二)其官(一)とも、上皇御素意には忽に相違せり。延喜の聖主の天子に無(二)父母(一)とて、寛平法皇の仰を背せ給けるをば、御誤りとこそ申伝たるに、思召出させ給はざりけるにや、諫諍の臣も諂けるにや、政道には叶給へれ共孝道には大に背けりとぞ。同二年六月二日、修理大夫資賢、少将通家、上総介雅賢等、見任を被(二)解却(一)。是は去る比、賀茂社に参篭する男有、事の体恠しかりければ、社司彼男を搦捕て、内裏に奉たりければ、子細を被(レ)召問(一)けり。天子を奉(二)咒阻(一)之由、白状したりけり、若此人々の造意なり〔に〕けるにや。係りければ、高きも賎きも安き心なし。只深淵に臨、薄氷を踏が如し。主人とは二条院、上皇とは後白河法皇、此法皇の御譲りにて、主上は御位に即給ふ。父子の御中なれば、百行の中に孝行尤第一也。上皇の叡慮に叶御座べきに、さもなくて角思ひの外の事共あり。其中に人耳目を驚し、世に傾申事ありき。(有朋上P043)
S0204 二代后附則天皇后事
故近衛院の后に、太皇太后宮と申は、徳大寺の左大臣公能の御娘也。
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中宮より太皇太后に上らせ給たりけるが、先帝に後れさせ給て後は、九重の中をば住憂思召て、近衛川原の御所にぞ移り住せ給ける。先朝の后の宮にて、ふるめかしく幽なる御有様なりけるが、永暦応保の比は、御年廿七八の程にもや成せ給けん。天下第一の美人にて御座由聞えさせ給ければ、主人御色にそむる御心有て、密に高力士に詔して、外宮に引求させ給て忍つゝ、彼太皇太后宮へ御書有けれ共、后うつゝならず思召れければ、更に聞召入させ給はず。主人は忍の御書も度重りけれ共、空き御書なりければ、今はひたすら穂に顕まし/\て、后入内有べき由、父の左大臣家に宣旨を被(レ)下けり、此事珍き御事也。先帝の后宮二代の后に奉(レ)祝事、いかゞ有べきとて、公卿僉議有けれ共、各難(二)意得(一)之由、被(レ)申けり。但し先例を可(二)相尋(一)之旨、議定あり。
遠く異朝の先蹤を考るに、則天皇后と申は、唐太宗の后、高宗皇帝には継母也。太宗崩御し給しかば、御飾をおろし比丘尼と成りて、感業寺に篭らせ給て、先帝の御菩提を弔給けり。高宗位を継給たりけるが、我宮室に入り(有朋上P044)て政を助給へと、天使五度勅を宣ひけれ共、敢てなびき給はず。高宗自感業寺に臨幸有て云、朕私の志を以て還幸を勧め奉るにはあらず、唯天下の政の為なりと仰けれ共、皇后先帝の崩御を訪ひ奉らんが為に、適釈門に入、争か二度世俗の塵裏に帰て、王業の政務を営まんとて、確然として動給はず。扈従の群臣守(二)勅命(一)、横に取奉る如して都に返し入れ奉れり。后泣々長髪し御座て、重て皇后と成給へり。高宗、則天相共に、政を治給しかば、御在位三十四年、国富民楽みけり。さてこそ彼御時を二和の御宇とは申けれ。高宗崩御の後、皇后女帝として廿一年有りて、位を中宗帝に授給けり。年号を神龍元年と云。我朝の文武天皇、慶雲二年乙巳歳に相当れり。
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唐則天皇后は、大宗高宗両帝の后に立給ふ、異朝の例はあれ共、本朝の先規を勘るに、神武天皇より已来、人王七十余代、未二代の后に立給る其例を聞ずと、諸卿僉議一同なりければ、法皇も此事不(レ)可(レ)然と、度々申させ給けれ共、主上の仰には、天子に無(二)父母(一)万乗の宝位を忝せん上は、此程の事叡慮に任べしとて、既御入内の日時を被(二)宣下(一)ける上は、不(レ)及(二)子細(一)、后は此御事被(二)聞召(一)けるより、引かづき御座しつゝ御歎の色深くぞ見えさせ給ける。先帝に後れ進らせし久寿の秋の始に、同草葉の露とも消、家を出〔て〕世を遁たりせば、懸る例なき事は(有朋上P045)きかざらましとぞ思召れける。父の大臣彼宮に参て、世に随ふを以て人倫とし、世に背くを以狂人とすと云事侍り、既に詔命を被(レ)下之上は、子細を不(レ)及(レ)申、たゞとく進せ御座すべき也、是偏に愚老を助させ給べき、孝養の御計ひたるべし、知ず又此末に皇子御誕生なんども有て、後には、君も国母と祝れ、愚老も又帝祖といはるべき、家門繁昌の栄花にしてもや侍らんと、様々こしらへ申させ給ひけれども、皇后は御返事なかりけり。只御涙のみぞすゝませ給ける。何となき御手習の次に、かくぞ書すさませ御座ける。
浮節に沈みもはてで川竹の世にためしなき名をばながしつ K014
と、世には如何にして漏けるやらん、哀に情しき様しにぞ申ける。既に後入内の日時にも成しかば,父の大臣は供奉の上達部、出車の儀式、心も詞も及ず。小夜も漸深けければ、后は御車に被(二)扶載(一)御座けり。色深き御衣をば不(レ)被(レ)召、殊に白き御衣十計をぞ召れける。内へ参せ給にしかば、やがて恩を
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蒙り麗景殿にぞ渡らせ給ける。ひたすら朝政をすゝめ申させ給ふ御有様也。
彼紫宸殿の皇居には賢聖の障子を被(レ)立たり。西に十六人、東に十六人、三十二人の賢聖あり。是は後漢功臣二十八将に、王常、李通、宝融、卓茂の四将を具して也。其外、伊尹、第五倫、虞世南、太公望、角里先生、李勣司馬も(有朋上P046)あるとかや。手長、足長、馬形の障子、鬼間、李将軍が姿の写せる障子も有、金岡が書ける荒海の障子の北なる御障子には、遠山の有明の月をぞ書れたる。故近衛院、未幼帝にて御座ける当時、何となき御手すさみに、書曇かさせ給たりけるが、有しながらに少も替ざりけるを御覧じけるにも、先朝の昔や恋しく思食けん、御心内所せくまで思召つづけさせ給けるこそ御いたはしけれ。
思きや憂身ながらに廻きておなじ雲井の月をみんとは K015
と、さても此間の御なからひ、昔をしたふ御哀、今を専にする御情、旁わりなき御事共なりし程に、永万元年の春の比より、主上御不予の御事有と聞えしかば、其年の夏の始に成しかば,事の外に重らせ給ければ、大蔵大輔紀兼盛が娘の腹に、二歳にならせ給ふ皇子の御座けるを、皇太子に立て奉る可き由聞えし程に、六月二十五日、俄に親王の宣旨を被(レ)下て、やがて其夜位を譲り奉せ給ひき。何となく上下周章たり。我朝の童帝の例を尋れば、清和帝九歳にして、天安二年八月に、文徳天皇の御譲を受させ給しより始れり。周公旦の成王にかはりつゝ、南面にして一日万機の政を行しに准て、
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外祖忠仁公、幼主を扶持し奉り給へり。摂政又是より始れり。鳥羽院五歳、近衛院三歳にて御即位(有朋上P047)有りしをこそとしと人々思申しに、是は僅に二歳、いまだ先例なし、物騒しくぞ覚えし。
S0205 新帝御即位同崩御附郭公並雨禁獄事
永万元年六月二十七日に、大極殿にして新帝御即位の事ありしに、同七月廿三日に、春寛法印御験者に参り祈申けるに、御邪気始て顕て、讃岐院の御霊とぞ聞えし。同二十八日に、新院隠れさせ給にけり。御歳二十二、位をさらせ給て、僅に三十余日也。天下憂喜相交て、不(二)取敢(一)事也。
同二十九日、修理大夫頼盛朝臣、参川守光雅、主典代置能等、陰陽師宣憲を相具して御葬の地を点ず。宣憲次第の事共勘申けるに、日時は母后の御衰日を選び、方角は公家の御方忌を用る、是偏に宣憲が失錯のみに非ず、己天下の怪異たり、浅増かりし事共也。同八月七日御葬送あり。■従(こじう)の公卿衣冠に纓を巻て、各歩行せり。右大臣経宗、中宮大夫実長、別当公保、新中納言実国、大宮宰相隆李、左大弁資長、右大弁雅頼、平宰相親教卿也。押小路を西へ、烏丸を北へ、衣笠岡に至り、暁天の程に荼毘し奉けり。左中将頼定朝臣御骨を奉(レ)懸、香隆寺に渡し入奉る、実に哀な(有朋上P048)りし事共也。后宮より奉(レ)始、御身近召仕れし女房、恩禄あつく賜へりし。卿相雲客御遺を慕ひ、後れ奉らじと歎悲み給けれども、死に随ふ習なければ、只御一所送捨進せて、泣々還合せ給。比は秋の最中の事なれば、雲井を照す月影、尾上にかよふ風の音、萩の上風身にしみ、萩が下露置ませば、山分衣しほれつゝ、ぬれぬ所ぞなかりける。叢にすだく虫の音々も、我を訪ふ心地して、いとゞ哀ぞ増ける。さても宮に還れ
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ども、無御跡の習にて、高きも賤きも、涙の露にぞ袖ぬらす。近衛大宮は、先規なき二代の后に立せ給たりけれ共、さまで御幸も御座さず、いつしか此君にも後れさせ給ひしかば、やがて御髪おろさせ給て、北山の麓に引篭らせ給けるこそ哀なれ。
今年の夏、敦公京中にみち/\て、頻に群り啼けり。此鳥は初音ゆかしき鳥也とて、すき人は深山の奥へも尋入例多き事なるに、今はけしからぬ事也とて、人耳を峙る程也けるに、二羽の敦公空にて食ひ合ひ、殿上に飛落たりけり。野鳥入(レ)室、主人将(レ)去と云本文あり、此恠異也とて、二羽の敦公を捕て、獄舎に被(レ)禁にけり。白川院御時、金泥の一切経を被(二)書写(一)、法勝寺にて御供養と被(レ)定。其日時に及て、甚雨有りければ延引す。又日時を被(レ)定たりければ、甚雨に依て延引す。又日時を被(レ)定たりければ、甚雨に依〔て〕延引〔す〕。既に三箇度まで延引あり。(有朋上P049)第四箇度に適御供養有ける日、空掻曇り雨降て、俗も僧もしほ/\として、法会の儀式最興醒たりければ、天気逆鱗有て、雨を器に受入て、獄舎に被(レ)入たりしをこそ珍しき事に申して、敦公の禁獄先例なし。
位を去せ給ふ事、今に不(レ)始事なれ共、六月に御座をすべらせ給て、何しか七月に崩御、怪鳥殿上に入ける故にや、本文もおもひしられ哀なり。
S0206 額打論附山僧焼(二)清水寺(一)並会稽山事
新院御葬送の夜、延暦興福両寺の大衆、額打論じて狼藉に及べり。その故は、主上御葬送の作法は、諸寺諸山の僧徒等、悉く供養して我寺々の額を立、次第を守て御供を仕る。南都には、一番には東大寺の行を立て額を打、二番には興福寺の行を立て額を打、其外末寺々々打並ぶ。北京には、一番に延暦寺の行を立て額を打、山々寺々次第を守て立並るは先例也。爰に山門の衆徒、今度の御葬送にいかゞ
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思ひけん、東大寺の行の次に、延暦寺の額を打たりければ、興福寺の大衆の中に、東門院の観音房、勢至房と云ふ悪僧あり、三枚皮威の大荒目の鎧、草摺長にさゞめかし、三尺五寸の太刀前低にはき、興福寺(有朋上P050)の額を大長刀に取具して、高く指上て延暦寺の額の上に、我寺の額を立副て、皆紅の月出したる扇披、山門の衆徒に向て申けるは、先規に任て額をさげられて、衆徒安堵せられよやとて、高声に申けれ共、山門の衆徒良久申旨なし。観音房、勢至房、長刀にて延暦寺の額を二刀切て、衆徒の所存其心をえず、我と思はん大衆は、落合や/\と■(ののしつ)て馳廻けれ共、落合者共なし。二人の者共は、うれしや水鳴は滝水と歌て、おれこだれおれこだれ、一時計舞たりける。延暦寺の大衆先例を背き狼藉を出す程ならば、其庭にして手向へすべきに、臆病の至り歟、所存のあるか、一言もいはざりけり。一天の君、万乗の主、世を早せさせ給ぬれば、心なき草木までも猶愁の色有べし、況人倫僧徒の法に於をや、而をかゝる浅猿き事し出して、式作法散々と有ければ、高も卑もをめき叫び、東西に迷けるこそ不便なれ。
同八月九日、山門の大衆下洛すと云披露あり。巷説一に非ず、或は清水寺へ押寄せて可(二)焼払(一)とも云、或上皇大衆に仰て、事を南都の会憤によせて、平相国清盛を可(レ)被(レ)誅由聞えけり。兵庫頭頼政、大夫尉信兼、左衛門尉源重貞、同尉為経、康綱等を切堤へ差遣て被(二)守護(一)。内蔵頭教盛朝臣は、立烏帽子に冑を著す、若狭守経盛朝臣は、折烏帽子に冑を著す。大夫尉貞能已下、甲冑を著して皇居の四面
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を守護(有朋上P051)す。陣の口には、雑役の車を以逆茂木に引、随兵東西に馳迷て、偏に迷惑の体也。検非違使(けんびゐし)李光を切堤へ遣して形勢を見せらる。帰参して申けるは、衆徒数百人、山路より菩提樹院を透りて霊山に群集す、山路に於ては相防に無(レ)力由をぞ申入ける。清盛の事と聞えければ、右兵衛督重盛卿、修理大夫頼盛朝臣、左馬頭宗盛朝臣已下、一族の人々、六波羅に馳集る。衆徒を防ぐ心なくして、堅く城内を守る。去程に大衆の下向は、平家の事には非、去七日の額立論に、会稽の恥を雪んが為に、興福寺末寺なれば、清水寺を焼払はんとて下ると云ければ、清水法師老少をいはず騒あへり。俄事にてはあり、物具の有も無もいはず、二手に分て相待けり。一手は清水清閑両寺の境ひ堀切りて逆茂木引て、滝の尾の不動堂より木戸口まで、五百余騎にて固めたり。一手は山井の谷の懸橋引落して、西の大門に垣楯かき、食堂廻廊木戸口まで、一千余騎には過ざりけり。京童部が申けるは、蟷螂挙(レ)手招(二)毒蛇(一)、蜘蛛張(レ)網襲(二)飛鳥(一)と云喩は此事にや、山門の大勢に敵対して、危々とぞ■(わらひ)ける。山門大衆追手搦手二手につくる。搦手は大関小関四宮川原も打過ぎて、九集滅道や清閑寺、歌中山まで責寄たり。追手は西坂本、下松、新道超を打過て、清水坂、晴尾の観音寺まで責付たり。清水法師も思切、楯の面に進出て、散々に戦けれど(有朋上P052)も、大勢雲霞の如くなりける上に、時刻を経ず、やがて坊舎に火を懸けたり。折節西の風烈く吹て、黒煙東に覆ひければ、寺僧今は防戦ふに無(レ)力、本尊を負、坊舎を捨て、延年寺、赤築地二の閑道へぞ落行ける。さてこそ山門は、会稽の恥をば雪ぬと思けれ。
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会稽の恥を雪とは、異朝に稽山の洞と云所あり、蚕山とも名、会稽山とも申也。呉越の境に在(レ)之とか。両国境を論じて代々に軍絶えず。此山には桑多生じて、蚕繭をつくり、糸を出し綿を成故也。越国の允常王と呉国の闔閭王と、此山を論じて合戦絶えざりける程に、呉王軍に誅れて、越国知(レ)之。越王の子に勾践(こうせん)と云ふ王あり、呉王の子に夫差と云ふ王あり、互に親の敵也ければ、勾践(こうせん)思けるは、夫差が父をば我父誅(レ)之、されば我をば敵と思て、定てうたんと思ふ心有らんとて、軍を起て戦ふ程に、あやまちて勾践(こうせん)被(レ)虜たり。呉国に止誡られて本国に帰事をえず。勾践(こうせん)木をこり草をからぬ計に奉公しければ、死刑を被(レ)宥召仕はれけり。夫差病する事有き、療術力なきに似たり。医師の云、尿を令(レ)飲味を以て存否をしらんと云けれ共、彼を飲んと云臣妾なし。囚勾践(こうせん)が云、我無益の謀反を起して誤ちて虜れぬ、其咎死刑にありと云へども、君の恵に依つて命を助けられたり、洪恩生々に難(レ)報須恩を謝せんと云て飲(レ)之。夫差其志の深事を感じて、本国に反遣(有朋上P053)しつ。勾践(こうせん)後に大軍を起て、終に呉王を亡しけり。会稽山を論じて、軍に負尿を飲は恥也、本国に還て敵を誅て、彼山を知は恥を雪る也、故に会稽の恥を雪といへり。去七日は、山門額を切れて恥に及、今九日には清水煙と昇て、面を洗ぐ、実に恥を雪と云べきにや。京童部が云けるは、山僧は田楽法師に似たり、打敵をば打返反さで、傍なる者を打様に、興福寺の衆徒に額をきられて、清水法師が頭をはりたりとぞ笑ひける。
昔嵯峨天皇の后に、春子女御と申は、二条右大臣、坂上田村丸の御娘也。御懐姙の時、御産平安ならば、我氏寺に三重の塔をくまんと御願を被(レ)立たり。其験にや平に王子御誕生あり。第三の王子に、門居親王とは此御事也。御宿願を遂げられんが為に官府を申承和四年に建立せられたりし三重の塔婆、空輪高く輝きて、宝鈴雲に響しも焼にけり。猛火爰に、止て、本堂一宇は残たり。大衆既に帰り上ら
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んとしけるに、東塔南谷教光坊大和阿闍梨仙性とて、学匠の而も大悪僧也けるが、進出て僉議して云、罪業本より所有なし、妄想顛倒より起る、心性源深ければ、衆生即仏なり、罪として更に不(レ)恐、本堂に火を差や/\と申ければ、衆徒尤々と一同して、手々に火をともしつゝ、堂の四方に付たれば、黒煙はるかに立上り、赤日のひかりも見えざりけり。(有朋上P054)
S0207 清水寺縁起並上皇臨(二)幸六波羅(一)事
〔此〕清水寺と申は、昔大和国子嶋寺に沙門あり、其名を賢心と云。淀河を渡給けるに、水の中に金色〔の〕一筋の流れあり、是直事に非ずとて、流に随て源を尋ぬ。山城国愛宕郡〔に〕、八坂郷、東山の辺り、清水の滝の下に至れり。恠しげなる草庵あり、中に白衣の居士あり。年齢既に老々として、白髪さらに皓々たり。賢心問て云、汝は是誰人ぞ、こゝに住して幾年をか経たると。居士答云、我をば行叡と云、此地に住事数百歳、心に観音の威神力を念じ、口に千手の真言を誦す、我に東国修行の志あり、汝慥に聞、此草庵の跡は伽藍を立べき勝地也、前なる株は観音の■[*米+斤]木也、必汝宿望を果すべしと云て、東〔を〕指て去にけり。賢心此に住して、六時三昧怠ず、練行坐禅年経ける程に、坂上田村丸、東山遊猟の次に、種々の瑞異に驚て、賢心と師檀の契を結びつゝ、宝亀十一年に始て伽藍を草創して、金色八尺の千手観音を造立す。延暦大同に仏殿を造闊て、清水寺と号せしより以来、星霜己に四百余歳に及けり。
嵯峨天皇御宸筆の勅書には、以(二)清水寺(一)宜(レ)為(二)鎮護国家之道場(一)と被(二)宣下(一)たり。誠古仙経行之聖跡、大悲利物之霊崛也。天子万乗の聖主(有朋上P055)も、薩■[*土+垂](さつた)之弘誓を仰ぎ、土民七道の男女も、闡提の悲願を憑けり。懸る目出き大伽藍精舎は、煙と、上つゝ、仏像灰と変じけん。千手の廿八部衆照見、誠に難(レ)知。衆徒かく焼払て帰登にけり。平相国清盛徒に数千の軍兵を集置といへ共、更に咫尺の災難を救ふ事なし。
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衆徒悪行を致せども、武勇防制せず、王威の衰微、仏法の破滅、此時にあり。清水寺焼失の後、切堤川原の武士等陣頭に参ず。子細を為(レ)被(二)召問(一)、頼政を陣の中にめさる。頼政は白き見紋紗の水干、小袴に藍摺の帷著て、立烏帽子に太刀帯て、胡■[*竹冠+録](やなぐひ)を不(レ)負ば、浅沓をはけり。渡辺の源三競と云郎等一人相具せり。誠に花やかに由ありて見えたり。子息伊豆守仲綱已下の随兵等は、門外に候ひけり。源氏の作法優にして異(レ)他也と、見物の上下感申けり。兼の巷説に、清盛卿の事と聞えければ、六波羅には武士雲霞の如く馳集る。大内を守護する者も、平将の亭に馳行ければ、左衛門督重盛卿は、当家追討の披露一定僻事にこそ、参て御気色伺はんとて、院参し給ける程に、上皇は又閭巷の説を為(レ)被(二)謝仰(一)六波羅へ御幸あり。左衛門督公光卿、治部光隆卿供奉せられたり。重盛卿道にて参会給ひ、御供申て奉(レ)入。平中納言清盛は、用心の為にや所労と称して見参に入らざりければ、空く還御有けり。河陽之蒐春秋猶忌(レ)之といへり、忽に君臣の道(有朋上P056)を忘て、今上下の礼を背けれ共、君として其罪を責るにあたはず、臣として其咎を恐るる事なし。朝家の恥武将の驕、只此事にあり。是又平家の狼藉の第二度也。重盛卿御送に参りて六波羅へ帰り、父に向て、さても一院の御幸こそおそれ覚ゆれと宣ひければ、清盛は、思召寄仰す旨の聊もあればこそ。平家追討と云事も洩聞ゆらめなれば、御幸有とても不(レ)可(レ)被(二)打解(一)憤られければ、重盛は、此事ゆめ/\色にも詞にも出させ給べからず、保元平治より、逆臣を討罰して勲功端し多し、今に至るまで、君の御為不忠を存ぜられず、何に依てか一門
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追討の御企有べき、加様の事にこそ人の心つきて、実なき事に悪事をも思出す事に候、向後も叡慮に背き給はず、人の為に恵を施さんと思めさば、神明三宝の御加護有べし、去ば御身の恐有るべからずとて被(レ)立ければ、清盛は、此の重盛はゆゝしく大様の者かなとぞいはれける。
一院は六波羅より還御の後、疎らぬ近臣按察使入道資賢を始て、人々御前に候はれけるに、仰の有けるは、平家追討とは何者か云ひ出しけるやらん、加様の事は浮説なれ共、世の大事に及ぶ也と被(レ)仰ければ、諸人口を閉て物申事なし。西光法師折節御前近く候けるが、天に口なし人代ていへり、驕て無礼なるは是天罰の徴なり、清盛以外に過分也、亡びん瑞相にやと申ければ、人々聞(レ)之、壁に耳(有朋上P057)ありとて、抜足して退出する族も有けり。
清水寺囘禄の後朝、焼大門の前にかくぞ書て立たりける。観音よ/\火坑変成池は、いかにと誓ける事ぞと。翌日返札と覚しくて、歴劫不思議の事なれば、不(レ)及(レ)陳とぞ書たりける。又いかなる跡なし者の態にか有けん、札に書て立副たり。補陀落山に有し間なれば、火不能焼の験はなしとぞ書たりける、哀に浅猿き中にも、をかしかりける事共也。
同十日祇園所司奉状を進る。興福寺衆徒、当社を焼払はんとす、官兵を賜て可(レ)被(二)守護(一)、不(レ)然ば神礼を奉(レ)負可(二)登山(一)とぞ申入ける。又山階寺の大衆、参洛を企て、延暦寺末寺末社を可(二)焼払(一)之由言上しければ、蔵人木工頭重方、勅定を蒙て彼寺別当に仰けるは、任(二)意趣(一)可(二)上奏(一)、不(レ)押(二)参洛(一)者別当
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已下、可(レ)有(二)違勅罪(一)とぞ被(二)宣下(一) ける。同[* 「用」と有るのを他本により訂正]十二日、法務僧正恵信、官を被(レ)辞、又源義基、伊予国に配流。是は先日彼僧正卒(二)義基等(一)発(二)向南都(一)、是山階寺の大衆、今度蜂起之間、僧正可(二)与力(一)者可(レ)免衆勘(レ)之由、衆議を成ければ、僧正承諾して発向す。仍被(レ)行(二)其罪(一)けり。先帝崩御之後、今日相(二)当二七日(一)けり。被(レ)行(二)刑罰(一)けるこそ、最甚しく覚えけれ。(有朋上P058)P0043(有朋上P059)
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三
波巻 第三
S0301 諒闇(りやうあんの)事(こと)
永万(えいまん)元年(ぐわんねん)七月二十八日に、新院隠れさせ給しかば、天下諒闇(りやうあん)にて御禊(ごけい)大嘗会(だいじやうゑ)も行れず雲の上人花の袖窄にければ、人皆愁たる色なり。諒闇(りやうあん)は神武天皇(てんわう)崩じ給ければ、綏靖天皇(てんわう)よりぞ始られける。天子の親みに奉(レ)別ぬれば、四海の内一天下皆禁忌なれば、諒闇(りやうあん)と云也。
S0302 高倉院春宮立御即位事
同十二月二十五日、故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)位未浅して、東の御方と申ける時の御腹の皇子、五歳に成せ給けるにぞ、親王の宣旨を下されける。年来は被(二)打籠(一)御座て幽也けるが、今は万機の政一院聞召せば、無(レ)憚被(二)宣下(一)けり。同二年八月に改元ありて仁安と云ふ。
仁安元年(ぐわんねん)十月七日、高倉院六歳、東三条にて春宮立の御事あり。同二年二月十九日、御年(おんとし)七歳(有朋上P060)にて御即位あり。春宮とは帝御子を申、亦太子とも申、御弟をば大弟と申。其に此主上は御甥にて三歳、東宮は御叔父にて六歳也、昭穆不(二)相叶(一)物騒といへり。但一条院は七歳にて、寛和二年七月二十二日、御即位あり。二条院は十一歳にて、同三年七月十六日に春宮に立給、非(レ)無(二)先例(一)と申す人もあり。六条院二歳にて禅を受させ給たりしか共、僅二三年にて、同年二月十九日、春宮践祚有しかば、御位を退せ給ひて新院とぞ申ける。御年(おんとし)五歳に成せ給へば、未御元服も無童なる帝にて、太上
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天皇(てんわう)尊号、漢家本朝これぞ始なるらんと珍き事也。終に安元二年七月二十八日、御歳十三にて隠させ給き、哀なる御事也。
仁安三年三月廿日、大極殿にして新帝有(二)御即位(一)、此君位につかせ御座ぬれば、弥平家の栄とぞ見し。国母建春門院(けんしゆんもんゐん)と申は、平家一門にて渡らせ給ふ上、取分て入道の北方二位殿、又女院の御姉にて御座しければ、相国の公達二位殿腹は、当今には御外戚に結ぼおれ進て、いみじかりける事也。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿は、女院御せうにと御坐ける上、主上の御外戚にて、内外に付たり。執権の臣とぞ振舞ける。叙位除目偏に此卿の沙汰也ければ、世の人は平関白(くわんばく)とぞ申ける。(有朋上P061)
S0303 一院御出家事
高倉院践祚之後は無(二)諍方(一)、一院万機之政を聞召しかば、院中に近く召仕る。公卿殿上人以下、北面の輩に至(いた)るまで、程々に随うて官位棒禄身にあまるほど蒙(二)朝恩(一)たれ共、人の心の習なれば、猶あきたらず覚て、平家の一類のみ国をも官をも多塞たる事を目醒く思て、此人の亡びたらば其はあきなん、彼者が死たらば此官はあきなめと心の中に思けり。不(レ)疎輩は寄合寄合私語折々も有けり。一院も被(二)思召(一)けるは、昔より朝敵を誅戮する者数多けれども、角やはありし、貞盛、秀卿、将門を討せしも、勧賞には秀郷従四位下、貞盛従五位上に被(レ)叙、康平に頼義が宗任を誅しも、勧賞には頼義伊予守に任じ、息男義家叙(二)従五位下(一)、上古已如(レ)此、末代不(レ)可(レ)過(レ)之、逆臣の亡ぶるは王法の威也、勇士の力と思べからず、清盛かく心の儘に振舞こそ然べからね、是も末代に及で、王法の尽ぬるにや、
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迚も由なし〔と〕、思食立せ給て、一筋に後世の御勤思召たつと聞えし程に、仁安四年四月八日、改元ありて嘉応と云。嘉応元年(ぐわんねん)己丑六月十七日、上皇法住寺殿(ほふぢゆうじどの)にして御出家あり、御歳四十三。御戒師は、園城寺の前大僧正覚忠、唄法印公舜憲覚、御剃手、法印(有朋上P062)尊覚権大僧都公顕也。今度皆智証の門徒を用らる。御布施をば大相国已下ぞ被(二)執行(一)ける。今日より始て五十箇日の御逆修あり。八月八日結願せらる。故に二条院は御嫡子也しか共、先立せ給ぬ。新院は嫡孫、当今は又御子にて御座せば、向後までも憑しき事なれども、平家朝威蔑ろにするも目醒く思食ければ、穢土の習人の有様も、いとはしく思食ければ、十善の鬢髪を落、九品の蓮台を志給ふも最貴し。平家の振舞中々御善知識とぞ思食す。御出家の事兼て有(二)披露(一)ければ、雲上人御前に候て、目出度御事と色代申ては、御齢も盛に御座せば、今暫なんど申合れけれ共、入道清盛は善悪物申さず、さこそと思けるにや。
帝王御出家の事、孝謙女帝御飾を落させたまひて、法名を法基と申しよりはじまれり。のちには還殿上して、称徳天皇(てんわう)と申き。それよりこのかた、平城、仁明、清和、陽成、宇多、朱雀、円融、花山、一条、三条、後三条、白河、鳥羽、讃岐、当院。「以上十六代法皇の尊号あり。」
S0304 有安読(二)厳王品(一)事(こと)
一院出家の後、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)にて御徒々に思召けるに、飛騨守有安を召て、読経仕れと仰け(有朋上P063)れば、懐より笛を取出て、ちと吹鳴し、厳王品の王出家已後、常勤精進、於八万四千歳修行妙法花経と打上て、一枚ばかり読たりけり。経には王出家已とこそ有に、已後の文字は、めづらしき心の巧に、読付
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たりとぞ人々感じ笑ける。
S0305 法皇熊野山那智山御参詣事
法皇は御出家の思出に熊野御参詣あり、三山順礼の後、滝本に卒堵婆を立られたり。智証門人阿闍梨滝雲坊の行真とぞ銘文には書かれたる。さまでなき人の門流を汲だに嬉きに、昔は一天の聖主、今は三山の行人、御宸筆の卒堵婆の銘、三井の流れの修験の人、さこそ嬉しく思けめ。書伝たる水茎の跡は、今まで通らじ、昔は平城法皇の有(二)御幸(一)ける由、那智山日記にとゞまり、近は花山法皇御参詣、滝本に三年千日の行を始置せ給へり。今の世まで六十人の山篭とて、都鄙の修行者集りて、難行苦行するとかや。彼花山法皇の御行の其間に、様々の験徳を顕させ給ける其中に、竜神(りゆうじん)あまくだりて如意宝珠一顆水精の念珠一連、九穴の蚫貝一つを奉る。法皇此供養をめされて、末代行者の為にとて、宝珠をば岩屋の中に納られ、念珠をば千手堂のへやに納られて、今の世までも先達預(レ)之(有朋上P064)渡す。蚫をば一の滝壺に被(二)放置(一)たりと云。白河院御幸時、彼蚫を為(レ)被(レ)見海人を召て滝壺に入られたりければ、貝の大さは傘ばかりとぞ奏申ける。参詣上下の輩、万の願の満事は、如意宝珠の験也、飛滝の水を身にふるれば、命の長事は彼蚫の故とぞ申伝たる。花山法皇の御籠の時、天狗様々奉(レ)妨ければ、陰陽博士安部清明を召て被(二)仰含(一)ければ、清明狩籠の岩屋と云所に、多の魔類を祭り置。那智の行者不法解怠のある時は、此天狗共嗔をなして恐しとぞ語伝たる。
S0306 熊野山御幸事
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平城法皇、花山法皇、白河法皇、三山五箇度。堀河院、三山一度。鳥羽法皇、三山八度。後白河法皇、本宮三十四度、新宮那智十五度。
S0307 資盛乗会狼藉事
平家の事様御目醒く被(二)思召(一)、院は有(二)御出家(一)けれ共、彼一門は猶思知ざりけるにや、心の儘にぞ振舞ける。其中然べき運の傾くべき符にや、同二年七月三日、法勝寺へ御幸あり(有朋上P065)ければ、当時の摂禄基房公 号松殿 参給けり。還御の後殿下三条京極を過給けるに、三条面に女房の車あり、夕陽の影に車の中透て、曇なく見透、烏帽子著たる者乗たりけり。居飼御厩舎人等、車より下べき由責けるに、聞入ずしてやり過んとしけるを、狼藉也とて、前の簾並に下すだれを切落たりけるに、葛の袴を著たる男あり、車を馳て逃げけるを、追懸て散々(さんざん)に打けり。車六角京極の小家にやり入にれり。件の男は太政(だいじやう)入道(にふだう)の孫、越前守資盛也けり。彼人笛を習はんとて、式部大輔雅盛が家に行たりけるが、帰ける間参会にけり。資盛帰父小松殿(こまつどの)にしか申ければ、御出に参会て車より下ざりけるこそ尾籠なれ、栴檀樹は二葉より芳くして四十里の伊蘭林を翻し、頻伽鳥は卵の中にてあれども、其声諸鳥に勝たりといへり、幼稚と云は五六歳の時也、汝十歳に余れり、争礼儀を存ざらん、人に上下の品あり、官に浅深の法あり、政は横なきを基とし、礼は敬のみを以本とせり、傍輩猶以敬べし、況於(二)摂政(せつしやう)家(一)をや。加様の事にこそ世の大事も引出せ、供したる侍共が、物に心得ねばこそ係る狼藉をも現じ、無礼の目にも合とて、大にしかり被(二)教訓(一)けり。殿下の御供の者も、平将の孫とも知ず、資盛が供
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の者も、殿下の御車とも不(レ)知けるにや、係事出来れり。殿下此事を聞給て、居飼御厩舎人等、平(へい)大納言(だいなごん)(有朋上P066)重盛(しげもり)の許へ被(二)召渡(一)けり。其上蔵人右少弁兼光を御使として、事の由を被(二)謝仰(一)ければ、大納言(だいなごん)大に畏申されて、居飼舎人等をば則返進たりけれども、なほ居飼御舎人各三人、検非違使(けんびゐし)基広に預給。御随身四人、御厩に下されける。内に府生秦兼清、政所に下さる。彼兼清は制止を加たりけるに依て、被(レ)行(二)軽罪(一)けり。前駈七人追却られけるに、入道孫に子細を問ければ、資盛有の儘に申。入道安ず思、大に嗔て宣けるは、縦摂政(せつしやう)関白(くわんばく)におはす共、浄海が孫いとはん者には、などか一度の可(レ)無(二)芳心(一)、家貞必資盛が恥を雪げとぞいはれける。
S0308 小松大臣教(二)訓入道(一)事(こと)
小松殿(こまつどの)此事を聞給て、いそぎ入道の許へ参じ申されけるは、御報答の仰努々有まじき事に候、重盛(しげもり)が子共、平殿上人にて、殿下の御出に参会て、致(二)無礼(一)こそ尾籠に侍れ、縦越前守こそ若者にて、骨法不(レ)知とも、相具たる侍共が、不思議に覚候、彼等をこそいかにも可(レ)有(二)御勘当(一)事(こと)と覚ゆれ。資盛全恥にて侍るまじ、誠に武士なんどに合て、懸目に合たらば、御鬱深かるべし、上下品定れり、不(レ)及(二)敵論(一)、摂禄の臣と申は、忝も春日(有朋上P067)大明神入替せ給て、君と共に国を治、民育まします、尤も可(レ)奉(レ)仰御事也、今御権威にほこりて、其恥を報はん事不(レ)可(レ)然、是は一門衰微にも成侍ぬと覚候、されば以(レ)徳勝(レ)人者は昌、以(レ)力勝(レ)人者は亡と云事あり、加様の事よりこそ天下の大事も出来り、家煩とも成事なれ、老子経に、天下難事は必作(二)於易(一)、天下の大事は必作(二)於細(一)といへり、能々可(レ)有(二)御慎(一)事(こと)にや、人上は百日こそ申なれ、
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只披露せぬには過じなど被(二)宥申(一)ければ、聞人ゆゝしき賢臣哉とぞ思ける。偖侍共を召て少き者相具して、加様の事仕出しける条、以外の狼藉也と仰ければ、供したりける者共も、皆恐入てぞ有ける。角て小松殿(こまつどの)は帰給ぬ。され共入道は猶腹をすへかねて、田舎侍の気折に、こは/゛\しかりけるが、上臈も下臈(げらふ)もわきまへず、主より外には恐しき事なしと思て、前後を不(レ)知ける難波妹尾に下知し給けるは、重盛(しげもり)はゆゝしく大様の者にて、子の恥をも親の嗔をも不(レ)知、様々制止つれ共、他家の人の思はん事こそ愧しけれ、傍輩の為に越前守が恥すゝげ、伴にあらん者共がもとゞりきれとぞ宣ける。難波妹尾は興ある事に思て、内々有(二)其用意(一)。
S0309 殿下事会事(有朋上P068)
関白殿(くわんばくどの)これをば争可(二)知召(一)なれば、大内の御直廬へと思食て、常の御出仕よりも花やかに、前駈御随身殊に引繕せ給て、中御門、東洞院の御宿所より、大炊御門を西へ御出なる。堀河猪熊の辺にて、兵具したる者三十騎計走出て、前駈等を搦捕けり。安芸権守高範(たかのり)ばかりぞ御車に副て離ざりける。式部大輔長家、刑部大輔俊成、左府生師峯等も、本どりをきらる。結句車の物見打破、太刀長刀を進ければ、只夢の御心地ぞし給ける。高範(たかのり)御車を廻てあやつり禦けるを、難波太刀を振て御車に向けり。高範(たかのり)心うさの余に走より、狼藉の奴原也、何者ぞとて組たをしてころびけるが、高範(たかのり)すくやか者にて、難波を押へて拳を握り、■(つら)を打。郎等主を助んとて、高範(たかのり)が本どりを取引上たり。経遠力を得て、駻返て主従二人して、手取足取せゝり倒して、髻を切とて、是は汝をするには非とぞ■(ののしり)ける、浅増と云も疎也。左近将監盛佐は、馬を馳て逃けるを、
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打落て是をも搦てけり。御随身忠友馬より下て、御車の前に進で可(レ)有(二)還御(一)かと申ければ、轅を廻されける間に、武士以(二)鏑矢(一)忠友を射。忠友地に平て傾たりければ、其矢頭の上を通る。危きとぞ見えける。御伴の者四方へ逃隠にければ、只御車副二人、松の出納一人ぞ残たりける。懸様先代も無(二)其例(一)、後代も難(レ)有。難波妹尾かく振舞て帰ぬ。高範(たかのり)もとゞりきられ(有朋上P069)ながら近く参て、我君いかに/\と申ければ、直衣の袖を御かほに押あて、泣々有(二)還御(一)。御出の花声なりつる御有様に、浅猿き下部計にて環入せ給けるこそ悲けれ。摂禄臣の係る憂目を御覧ずるも、直事にあらず、子細あらんか。内裏には左大臣経宗、右大臣兼実、内大臣雅道、大宮大納言(だいなごん)隆李、左大将(さだいしやう)師長、源(げん)中納言(ぢゆうなごん)雅頼、五条中納言(ちゆうなごん)邦綱、藤(とう)中納言(ぢゆうなごん)資長、平宰相親範、修理大夫成頼、左大弁実綱卿ぞ、殿上に候せられて、殿下の御参を奉(レ)侍られける程に、前大相国より内舎人安遠を御使として、殿下の御事を被(レ)申たりければ、光雅今夜の定延引之由(二)触申(一)各被(二)退出(一)けり。此事忽に天意に逆つて深く背(二)冥慮(一)ければにや、去比大織冠の御影破れ裂たりけり。かゝるべきしるしとおそろし。
秘本〔に〕云、入道(にふだう)相国(しやうこく)は、福原にて逆修おこなはれけるあひだ〔に〕なり、平(へい)大納言(だいなごん)重盛(しげもり)の所為也ときこえきと、普通に大にかはれり。
平(へい)大納言(だいなごん)重盛(しげもり)聞(レ)之、涙ぐみ給ひ大息つきて、噫呼家門の栄花既に尽なんと、あながちに被(レ)歎けれども、入道はさて物こりし給へとぞ悦ける。殿下御伴なりける、多田源三蔵人と云者は、もとゞりきられたりけるが、終(レ)夜髪結続、絹紋紗の狩衣著て、殊に引繕院御所に参て申けるは、実や殿下の御伴申たる
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人々、皆もとゞり被(レ)斬たりと云聞えあり、浅間敷事共にこそ侍れ、哀某弓矢の芸に携て、(有朋上P070)雁俣を逆にはくと申共、本取を切るゝ程にては、人をするまでこそなくとも、命生て人に面を合せてんや、所詮不肖の身を以て出仕をすればこそ、左様に憂名をも流し候へとて、御暇を申して、出家して引篭けるこそ賢き様にておかしかりけれ。
廿二日の朝、六波羅の門の前に、おかしき事を造物にして置り。土器に蔓菜を高杯にもりて、折敷にすへ、五尺計なる法師の、はぎ高にかゝげたるが、左右の肩を脱てきる物を腰に巻集、箸を取てにたる蕪の汁を差貫て、かわらけの汁をにらまへて立たるを造て置けり。上下万人之を見れども、何心と云事を不(レ)知。小松殿(こまつどの)へ人参て、係る癖物こそ候と申ければ、あゝ心憂事也、はや京中の咲(わら)はれ草に成て、作られけり/\、其造物こそむし物にあひて、腰がらみと云事よ。弓矢取身は軍に合てこそ剛をも顕し威をも振べき事なるに、思もよらず摂禄の臣に奉向、かゝるおこがましき事仕出たれば、造物にもせられけりとぞ口惜被(レ)仰ける。
摂政殿(せつしやうどの)角事に合給ければ、廿五日に院の殿上にて、御元服の定あり。さて有べきならねば、摂政殿(せつしやうどの)は十二月九日、兼宣旨を蒙らせ給て、十四日に太政(だいじやう)大臣(だいじん)にならせ給ふ。十七日には御悦申あり。此は明年御元服の加冠の料也。平家の一類以外に苦咲(にがわらひ)てぞ見えける。(有朋上P071)
S0310 朝覲行幸事
嘉応三年正月三日、主上御元服有、十三日に朝覲の行幸と聞えき。法皇も女院も、旁御珍く花やかに待申させ給けり。初冠の御姿最厳く、翠の山に月に出が如く、籬の内に梅の綻たるに似させ給へり。改の年の始の御事なれば、人々
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も殊御祝の事共申て悦申給へり。
朝覲の行幸とは、漢高祖位につきて後、五日に一度父の太公が家に朝覲して、深く父子の礼をなす。太公が家司賢き者あり。太公問云、天に二の日なく、地に二の主なし、高祖は子なれ共、人主なり、太公は父なれ共、人臣也、何ぞ人主として人臣を可(レ)拝哉、角のみならば中々悪かりなんと云、其後高祖朝覲するに、太公門に下向へり。高祖大に驚て、何事にかと問。太公答云、家司申旨如(レ)此、其言誠にもと覚ゆ、争か賤か身にて、天下法を乱らんと云道理也と云ければ、高祖太公を拝(はい)する事を止たりけれ共、さりとて重恩の父を拝せざるべきにあらねば、太公を貴して太上皇とせり。さて又朝覲あり。高祖家司が言を感じて、五百斤の金を給。我朝にも帝王の父を、太上天皇(てんわう)として、朝覲する事は此故也。今年四月廿一日改元ありて承安元年(ぐわんねん)と云。
三月には、太政(だいじやう)入道(にふだう)の(有朋上P072)第二の御女、ことし十五歳に成せ給ふ。法皇の御猶子の儀にて御入内あり、中宮徳子とぞ申。七月には相撲の節なんど聞えき。小松大将折節花やかに最目度ぞ御座ける。可(レ)然宿報にて官位こそ思さま也とも、みめ貌は心に叶べきにはあらね共、何事も闕たる事なし。争角は御坐やらんと、人々ほめ被(レ)申けり。子息の少将より始て、弟の公達に至(いた)るまで、形人に勝給へり。大将情深き人にて、詩歌管絃神楽の歌、笛なんどをも勧め教給たりければ、公達までも難(レ)有様しに申合り。
S0311 成親望(二)大将(一)事(こと)
妙音院入道師長、其時は内大臣左大将(さだいしやう)にておはしけるが、太政(だいじやう)大臣(だいじん)を申させ給はんがために、大将を辞し
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申されけり。今度は後徳大寺実定卿、御理運の大将也。若又殿の三位中将師家なんどや成給はんずらんと申ける程に、新(しん)大納言(だいなごん)成親卿、ひらに被(二)望申(一)けり。院の御気色もよかりければ、内外に付て奏申ける上に、諸寺諸社に様々の大願を立て祈申。大納言(だいなごん)自春日の社に、七箇日篭て祈誓し給けれ共、指て験なければ、貴僧を八幡宮に篭て、真読大般若を始給へり。真読半分計に成て、高良大明神の御前なる橘(有朋上P073)の木に山鳩二羽出来て食合落て死にけり。大菩薩の第一の仕者也。此直事にあらずとて、時の別当聖清此由を奏聞す。即神祇官にて御占あり。天子大臣の非(二)御慎(一)臣下怪異とぞ申ける。成親卿はこれにも更に恐ず、猶又賀茂上社に、仁和寺の俊堯法印を篭て、孔雀経の法を行。下の若宮には、三室戸の法印某篭て、荼吉尼の法を修す。七箇日に満日、晴たる空俄に曇、雷電雲に響き、風吹雨降なんどして、天地震動する事二時ばかり有て、彼宝殿の後の杉に雷落係つて燃けり。雷火他に不(レ)移とこそ云伝たれども、若宮に移て社は焼にけり。神は不(レ)禀(二)非礼(一)と云事なれば、非分の事を祈申されければ、係るふしぎも出来にけり。大納言(だいなごん)は、僧も法も軽て信心がなければこそ神も不法の祈誓をとがめて、加様の懈怠もあれとて、七日精進して、下社に七箇日篭て、所願成就と被(レ)申けり。七日に満ずる誰がれ時ばかりに、夢現とも覚えず、赤衣の官人二人来て、大納言(だいなごん)の左右の手を引張社頭の白砂に引落す。こはいかにとおぼす処に、大明神御殿の戸を推ひらかせ給ひて、かく、
桜花賀茂の河風恨なよ散をばわれもえこそとゞめね K016
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と高らかに大納言(だいなごん)の耳に聞えければ、身にしみおそろしくて、大将の所望はやみにけ(有朋上P074)り。
遠他国を訪へば、班足王の臣下に、かむえむかしうは大臣を天道に祈て、雷に被(レ)裂て失にき。近吾朝を尋ぬれば、星御門の臣下に、日唯李通は、三公に昇らんと山王に祈申しかば、神に被(レ)罰亡にきといへり。(両説可(レ)尋)横の義をば神祇不(レ)用云事なれば、かく示し給ふにこそ。
S0312 左右大将事
係し程に、一二の大納言(だいなごん)にて御座ける徳大寺の実定卿も、花山院の兼雅卿も、様々ぞ被(二)祈申(一)ける。成親卿も成給はで、平家の嫡子、小松大納言(だいなごん)重盛(しげもり)の、右大将(うだいしやう)にて御座けるが左に遷、弟の宗盛卿の、中納言(ちゆうなごん)にて御座けるが右になり、兄弟左右に相並給へり。大納言(だいなごん)の上臈八人、中納言(ちゆうなごん)の上臈二人、十人の位階を越て成給けるこそ優々しけれ、其中に後徳大寺の実定は、一の大納言(だいなごん)にて才覚優長にまし/\ける上は、家の重代也、今度の大将は理運左右に及せ給はざりけるが、宗盛に越られ給てこそ、極なき御恨にて有けれ、定て御出家もやと申沙汰しける程〔に〕、大納言(だいなごん)を辞し申て引篭らせ給けり。成親卿は指も恐ろしき夢に思止たりけるが、猶本病発て、徳大寺花山院に越れんは理運也、(有朋上P075)殿三位中将殿に被(レ)越奉らんは、上臈なればいかゞはすべき、宗盛に越られぬるこそ口惜けれと思はれければ、如何にもして平家を亡して、本望を遂んと思ふ心の付ける事こそ不思議なれ。平治逆乱の時事にあひ越後中将にて、既に死罪に被(レ)定しを、重盛(しげもり)其時は、左衛門佐にて、兎角申て頸を続たる人に非や、信頼卿の有様を目渡見し人ぞかし。父家成卿は中納言(ちゆうなごん)までこそ至(いた)りしに、其末の子にて位は正
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二位、官は大納言(だいなごん)に至(いた)り、歳僅に四十二、大国あまた賜て家中たのしく、子息所従に至(いたる)まで、飽まで朝恩に誇たる人の、何の不足ありてか、懸る事思立給けん、天魔彼身に入替、家の滅んとするにやと浅猿。徳大寺の実定は、大将の宗盛に被(レ)越て、大納言(だいなごん)を辞申されて、山家の栖に有(二)篭居(一)けり。嵐烈き朝、前中納言(ちゆうなごん)顕長卿に遣はしける、
夜半にふく嵐につけて思ふかな都もかくやあきはさびしき K017
顕長返事、
世の中にあきはてぬれば都にも今はあらしの音のみぞする K018
実定は既に山深篭居して、可(レ)有(二)出家(一)由披露ありければ、禁中にも仙洞にも驚思食けれ共、入道の計なれば末代こそ心憂けれとて、別に仰出す事なし。実定卿は、御身(有朋上P076)近召仕給ける侍に、佐藤兵衛尉近宗と云者あり。事に触てさて/\しき者也ければ、何事も阻なく打解被(二)仰合(一)けり。彼近宗を召て宣けるは、平家は桓武帝の後胤とは名乗ども、無下に振舞くだして、僅に下国受領をこそ拝任しに、忠盛始て家を興、昇殿をゆるされし子孫也、当家は閑院の始祖太政(だいじやう)大臣(だいじん)仁義公より己来、君に奉(レ)仕代々既に大臣の大将をへたり、今宗盛に被(レ)越て、世に諂ん事、為(レ)身為(レ)家人の嘲を可(レ)招、されば出家をせばやと思召、いかゞ有べきと仰けるに、近宗申けるは、御出家までは有べからず、異国にも係ためしは多かりける、太公望は渭浜波に釣を垂、晋七賢は竹林寺に嘯き、庄公は夢沢〔に〕形を隠けれ
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共、様をば替ずして賢王の世を俟き、是皆濁れる代を遁て徳をかくし、賢世に出て位を高せり、就(レ)中(なかんづく)今度の大将、朝家を可(レ)奉(レ)恨御事にあらず、偏に太政(だいじやう)入道(にふだう)の我意の所行也。かゝる憂世に生合給へる御事、口惜けれ共、賢は愚にかへると云事も候へば、今はいかにもして、入道の心を取せ給て、一日也共大将に御名を係させ給べき御計〔ごと〕こそ大切なれ。それに取て、安芸厳島へ御参詣ありて、穂に出て此事を祈申させ給べし、彼明神をば平家深奉(レ)崇て、其社に内侍と云者を居られたり。彼内侍共毎年一度は上洛して、入道の見参に入と承れば、懸御事こそ有しかなん(有朋上P077)ど語申さば、明神の御計もあり、又入道もいちじるしき人にて、思直さるゝ事も有なんと申ければ、近宗が計可(レ)然とて、やがて有(二)御精進(一)厳島へぞ参給ふ。比は三月の中の三日の事なれば、明行空曙、四方の山々霞こめ、漕行船の波間より、雲井遥に立隔、遠ざかり行悲さに、懸らましかば中々にと、思食けん理也。蒼波路遠雲千里と詠じつゝ、須磨浦をぞ過給ふ。行平中納言(ちゆうなごん)の、
旅人のたもとすゞしくなりぬらん闕吹こゆる須磨浦波 K019
と詠じけん折しも被(二)思出(一)けり。抑源氏中将此浦に遷給し時、源氏琴を引良清に歌うたはせ、惟光に笛吹せて遊給しに、心とゞめて哀なる手など弾給ける。折しも五節君とて、源氏の御妾あり、父の大弐に相具して筑紫へ下だり〔たり〕けるが、上とて彼浦風琴の音をさそひけるを聞て、
琴の音に引とめらるゝ綱手なはたゆたふ心君しるらめや K020
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と聞えたりしかば、御返に源氏、
心有てひくての網のたゆたはば打すてましやすまの浦風 K021
と有けんも、今更被(二)思出(一)けり。明石の浦を過給にも、かれならん源氏の大将須磨の浦(有朋上P078)に沈給し比、依(二)夢の告(一)播磨入道の女明石の上を奉(レ)迎けん、須磨より明石の浦伝にも、路の程遥に有けんと思召し残す方ぞなき。角て日数ふる程に、春も既に暮れつゝ夏の木立に成にけり。四月二日は厳島にも著給、神前に参て社頭の景気を拝し給へば、皎潔たる波月は和光の影を諍、蒼茫たる水雲は利物の風を帯びたり。雲の■(まくさか)霞の軒、幾廻かは年へけん、玉の簾錦の帳、憑を懸て日を送れり。係る遠国にも眺望やさしき名所とて、神明地を点じ、垂(レ)迹、人を利し給こそ貴けれ。肩をさし袖を連る内侍も、結縁羨しく御覧ずれば、信を至(いた)し歩を運ぶ願望も、末憑しくぞ思召。御参篭は七箇日也。其間内侍共も常に参て、今様朗詠し、琴琵琶弾なんどして、旅の御つれ/゛\様々〔の〕情ある体に奉(レ)慰。実定卿も御目を懸られたり。内侍の中に、有子と云者あり。十六七にもや成らん、年少し幼稚て、常も参らず時々見来けるが、希代の琵琶の上手也。あてやかなる事から、物糸惜き顔立、古郷も忘ぬべしと実定常に被(レ)仰けり。或時有子とく参て、唯一人御前に候けるを、我身は此国の者かと有(二)御尋(一)けれ共、顔打あかめて御返事も申さず、愧げなる有様いとゞ由ありて御覧じければ、実定思食入たる御気色にて、畳紙に御手ずさみ有て、有子が前へ投させ給へり。(有朋上P079)
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山の端に契て出(いで)ん夜半の月廻逢べき折を知ねど K022
有子内侍は此手ずさみを給て、堪ず思しめたる気色にて、御前をば立ぬ。実定は只尋常の情に思食けるを、内侍は難(レ)忍ぞ思沈ける。さても七日過ぬれば、都へ帰上給ふ。内侍共も御送にぞ参ける。有子はさらぬだに悲、上給なん後は、徐そにても争か見奉らんとて、衣引かつぎて臥にけり。内侍共一夜の泊まで御伴申て、其夜は殊に名残を惜奉、明ぬれば暇申けるを、実定宣けるは、余波は尋常也と云ながら、此は理にも過たり、何かは苦かるべき、都まで送付給へかし、又もと思ふ見参もいつかはと覚て、あかぬ思の心元なきぞと仰られければ、内侍共さらぬだに難(レ)忍なごりに、角こま/゛\と宣ければ、都までとて奉(レ)送けり。舟の泊やさしきは、明石、高砂、須磨浦、雀の松原、小屋の松、淀の泊のこも枕、漕こし船の習にて、鳥羽の渚に舟をつく。是より人々上つゝ、徳大寺へ相具し給て、両三日労りて、様々翫引出物賜たりける。さても内侍暇給て下けるが、入道の見参に入んとて、西八条にぞ参たる。入道出会ていかにと問給へば、内侍申けるは、徳大寺大納言殿(だいなごんどの)、今度大将に漏させ給へりとて、為(二)御祈誓(一)遥々と厳島へ語参篭七箇日、尋常の人の社参にも似させ給はず、思食入たる御有様も貴く(有朋上P080)見させ給へる上、事に触て御情深。内侍殊に不便にあたり奉給つれば、旁御遺惜て、又もの御参も難(レ)有ければ、都まで送付たれば、様々相労れ奉て、色々の御引出物賜て下侍るに、争角と可(レ)不(二)申入(一)とて、参てこそと申は、入道本よりいちじるき人にて、涙をはら/\と流給へ
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り。やゝ有て宣けるは、近衛大将は家の前途也。歎給も理也。夫に都の内に霊仏霊社其数多く御座、此仏神を閣て、西海はるかに漕下、浄海が深奉(二)崇憑(一)厳島まで被(二)参詣(一)けるこそ糸惜けれ、明神の御照覧難(レ)測、其上今度は理運也しを、入道が計にて宗盛を挙し申たるにこそ、可(二)計申(一)とてけしからず泣給へり。内侍共翫引出物なんど給て被(レ)下けり。其後やがて重盛(しげもり)の左に御座けるを辞し申て、右にうつし、実定卿を挙申て奉(レ)成。左大将(さだいしやう)いつしか、同五月八日御悦申あり。今日佐藤兵衛近宗を、左衛門尉に成れける上、但馬国きの崎と云大庄を賜はる。神明忽に御納受、貴きに付ても、近宗が計神妙とぞ思召ける。
S0313 有子入(レ)水事
偖も有子の内侍は、徳大寺の何となき言の葉を得て、思日々にぞ増りける。千早振(ちはやふる)神に祈(有朋上P081)をかくれ共、其事叶ふべきにあらねば、浮世につれなくあればこそ係(かかる)忍難事もあれ、千尋の底に沈みなばやと思つゝ、■(こ)舟に便船して、有し人の恋さに都近所にて兎も角もならんとて、波の上にぞ漂ける、責ての事と哀也。船の中の慰には、琵琶の曲をぞ弾ける。調弾数曲を尽せば、声松の風にや通らん、四絃緩急に掻乱せば、響波の音にも紛けり。彼白楽天、潯陽江の口に流されて、舟の中に琵琶を弾ずる音を聞は、錚々然として京都の声あり。故郷の恋さに其人を尋れば、我是長安の唱家の女也。十三にして琵琶を学得て、名は教坊第一部に有しか共、顔色朝暮に衰て、老大にして商人の婦となれり。夫は利を重くして他に行ば、我は独空き船を守て、波の上に浮と云ながら、琵琶を抱て面を指かくし
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けん、古を被(二)思出(一)哀也。有子終に摂津国住吉の澪の沖にて、舷に立出(いで)つゝ、海上はるかに見渡て、
はかなしや浪の下にも入ぬべし月の都の人やみるとて K023
と打詠て、忍やかに念仏申して海中へぞ入にける。船の中の者共、あれや/\と騒けれ共、又も見えざりければ力なし。彼潯陽の老女は、色衰て商人に随て舟を守、此厳島の有子は、年若して実定を恋て水にぞ沈ける。いつしか彼歌都に有(二)披露(一)ければ、(有朋上P082)皆人哀と思けり。見なれし内侍が事なれば、徳大事の左大将(さだいしやう)、さこそ不便におぼしけめ。
S0314 成親謀叛事
新(しん)大納言(だいなごん)成親卿は、実定の大将に成給ぬるに付て、是も平家の計也と思はれければ、平家を亡さんと謀叛を発、疎人も入ぬ所にて、兵具を調へ軍兵を集られ、さるべき者共相語らひ、此営の外他事無りける中に、多田行綱を招て、様々酒を勧て、金造太刀一振、引出物に賜、酒宴取ひそめて、大納言(だいなごん)行綱が膝近居よりて、耳に口を差寄て、私語事は、成親不(二)思寄(一)院宣を下賜れり、其故は平家朝恩の下に居ながら、朝家を蔑ろにし、一門国務を執行、国主を蔑如す、悪行年を重、狼籍日に競り、依(レ)之彼一類を可(二)追討(一)之由、仰を承といへ共、且は存知様に、成親させる武芸の器にあらず、尤猶予すべきを、君も大に鬱思召ばこそ、如(レ)此は被(二)仰下(一)らめ、非(レ)可(レ)奉(レ)返(二)院宣(一)。されば一方の大将には、奉(二)深憑(一)、御辺又源氏の藻事也、争か執心もなからん、平家亡ぬる者なら
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ば、日本の大将軍共成給へかし、其条奏申さんに子細やは有るべきと語けれ(有朋上P083)ば、行綱争いなと云べきなれば、酔のまぎれに深く憑給へ、承侍ぬと領掌して立にけり。東山鹿谷と云所は、法勝寺の執行俊寛僧都が領也。後は三井寺に続て、如意山深、前は洛陽遥見渡して而も在家を隔たり。爰ぞ究竟の所也とて、城郭(じやうくわく)を構兵杖を用意す。摂津国源氏に多田蔵人行綱は、成親兼憑ける上、法勝寺の執行に師檀の契深して、互に憑憑れたりければ、俊寛も語(レ)之。平判官康頼、近江中将入道連海、其外北面の下臈共(げらふども)、あまた同意しけり。彼俊寛僧都は、村上の帝第七王子、二品中務親王具平六代の後胤、仁和寺の法印寛雅が子、京極の源大納言(だいなごん)雅俊卿孫也。此大納言(だいなごん)はさせる弓矢取家にはあらね共、ゆゝしく腹悪心猛き人にて、常は歯を食しばだたいて御座ければ、京極の家の前をば、たやすく人も不(レ)通けり。かゝる人の孫にて此俊寛も、僧ながら驕つゝ、案も無こそ被(レ)与(二)此事(一)けれ。
成親卿の許に、松の前鶴の前とて、花やかなる上童二人あり。松前は容顔はすぐれたれども心の色すくなし。鶴前はみめ貌はすこしおくれたれども、心の色今一きはふかかりけり。謀叛の事によつて彼が心をとり語はんために、中御門高倉の宿所へ、執行僧都を請じて酒を出し、彼上童二人を以て様々にしひたりけり。かかりし程に僧都常にかよひて、はじめは松前にこころざしを顕しけるが、後には鶴前におもひうつして、女子一人(有朋上P084)儲たりけるとかや。大納言(だいなごん)此事うちとけかたらひ給ければ、無(二)左右(一)領状もなかりけれども、鶴前に心を移して隙なくかよひければ、終にはかく同意しけり。
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S0315 一院女院厳島御幸事
承安四年三月に、法皇並建春門院(けんしゆんもんゐん)、安芸国厳島明神へ可(レ)有(二)御幸(一)由聞えし程に、十六日癸卯、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)を御門出ありて、十九日に室泊まで御船に奉る。同二十六日癸丑、社頭に参著せ給へり。即今日一院の御奉幣有て、御正体御経供養あり。御導師は東大寺の別当法印顕慧をぞ被(二)召具(一)たる。差も遥の御参詣に、御願文(ごぐわんもん)のなかりけるこそ怪しけれ。同二十七日には、女院の御奉幣、御正体、御経供養あり。御願文(ごぐわんもん)は、右大弁藤俊経ぞ書たりける。
側聞、登(二)中岳(一)而延(レ)齢焉、漢武建(二)白茅之封(一)、祀(二)高■(こうばいを)(一)而獲(レ)子矣、簡狄感(二)玄鳥之至(いたる)(一)、神霊福助前鑒既明者歟、伏惟四徳雖(レ)疎、六行雖(レ)闕、初侍(二)姑山(一)而承(レ)恩、早編(二)栄名於九々之列(一)、後居(二)后房(一)而正(レ)位、更守(二)謙退於疑々之心(一)、忝為(二)聖皇之母儀(一)、遂賜(二)仙院之尊号(一)、造次所(レ)慕者、天祚之無(レ)窮也、寤寐所(レ)思者、帝業之繁昌也、于(レ)朝于(レ)暮、祈(レ)仏祈(レ)神、於(レ)是(有朋上P085)伊都岐島社者、極聖和光之砌大権垂跡之地、青松蒼柏之託(レ)根多、送(二)五百廻之歳月(一)、貴賤高下之運心、不(レ)遠(二)千万里之風煙海中之仙島(一)也、省(下)鼇波之浮(二)蓬壺(二)沙浜之霊祠(上)也、知(二)竜宮之近笞■(たいしゅを)(一)可(三)以採(二)不死之薬(一)、可(三)以得(二)如意之珠(一)、勝絶之趣讃不(レ)可(レ)尽、、因(レ)茲現当之善利、殊抽(二)予参之精誠(一)蓋従(二)法皇之虚舟(一)遂(二)弟子之懇符(一)也、旅泊夜深幽月照(二)懐郷之夢(一)、羈中春暮、残花為(二)行路之資(一)、遂就(二)紛楡之社壇(一)、敬設(二)清浄之法会(一)、廼奉(レ)鋳(二)顕大明神本地正体御鏡三面(一)、奉(レ)書金字紺紙妙法蓮華経一部八巻、無量義経一巻、観普賢経一巻、般若心経三十三巻、大日経一部十巻、理趣経一巻、大日真言〔宗〕百遍、十一面真言百返、毘沙門真言百返、此中於(二)
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大日経(一)者、所(レ)奉(レ)納(二)銀笞(一)也、其外師子馬鞍刀剣弓箭、各冶(二)金銅(一)、殊尽(二)彫鏤(一)、復有(二)色馬(一)、復有(二)八女(一)、共施(二)丹青(一)、限(二)以三十三(一)、専捧(二)幣帛(一)、更副(二)鈿■(てんを)(一)、其勤非(レ)一其誠無(レ)弐、以(二)此財施法施之功(一)、能仰(二)彼権化実化之納受(一)、于(レ)時岸風之払(二)斉席香煙(一)、添(二)栴檀之薫(一)、天水之及(二)瑞籬(一)、朝声助(二)梵唄之曲(一)、所(レ)生(二)勝因(一)、併資(二)法薬(一)、先捧(二)白業(一)、奉(レ)祝(二)紫宮(一)、斉数久遠、屡献(二)注文(一)、麻姑之■(さん)継(二)嗣恢弘(一)、旁耀(二)瓊萼金枝光(一)、弟子生涯尚遥、退(二)病源於他土、寿域新兆移(二)南山於前庭(一)。若夫現在生之運命、有(レ)限(二)百二十之春秋(一)、遂過之夕不(レ)誤、順次之往生、速詣(二)安養之世界(一)、夫当社者、尋(二)内証(一)(有朋上P086)挿絵(有朋上P087)挿絵(有朋上P088)者、則大日也、有(レ)便(三)于祈(二)日域之皇胤思(一)、外現者亦貴女也、無(レ)疑(三)于答(二)女人之丹心(一)、我既為(二)本朝之国母(一)、旁足(レ)蒙(二)当社之神恩(一)、抑至心繋念之輩、朝祈暮賽之人、自(レ)古迄(レ)今、皇蘿雲布、或雖(レ)有(二)槐■(くわいきよく)之尊貴(一)、敢不(レ)及(二)院宮之往詣(一)、而弟子一者被(レ)扶(二)当時之信力(一)、一者被(レ)引(二)多却之宿縁(一)、忽詣(二)此場(一)、始蹈(二)其跡(一)、若於(二)今日(一)而無(二)掲焉之験(一)、恐令(下)後人而生(中)疑惑之心(上)、伏乞玄応成就、素望円満、然則往還之間、無(二)風波之難(一)、先知(下)冥助之潜通(中)心意之裏(上)、満(二)大小之願(一)、新顕(二)利益之現証(一)、年々歳々、弥致(二)欽仰(一)、子々孫々永可(二)帰依(一)、神而有(レ)可(レ)知(三)必垂(二)答■(たうきやうを)(一)重請禅定大相国、今世払(二)友気於三観之窓(一)、来世証(二)妙果於一仏之土(一)、弟子所(三)以憑(二)彼懇篤之至(いたり)(一)、亦任(二)知見(一)敬白、
承安四年三月とぞ書たりける。
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当社は是当国第一の鎮守に御座。太政(だいじやう)入道(にふだう)の世に出られし事、為(二)安芸守(一)時也。被(レ)誓ける事の有けるにや、殊に彼明神を信られて、加様に御幸をすゝめ申給へり。法皇も女院も、入道の心に随はせ給はんとての御為にや、遥々と有(二)御参詣(一)けるこそ貴けれ。尋常の人の習と云ながら、太政(だいじやう)入道(にふだう)は極たる大偏執の人にて、奉(二)我信(一)仏神へ人の詣れば、殊に嬉事に思はれて、徳大寺の実定をも大将になされ、法皇女院(有朋上P089)の御幸をも畏入給へり。又我一門にあらぬ者の、僧も俗も高名したりと見聞給ては、強に嫉傾申給へり。
S0316 澄憲祈(レ)雨事
其中に今年春の比より天下旱魃して夏の半に至(いた)り、江河流止りければ、土民耕作の煩を歎、国土農業の勤を廃す。井水絶にければ、泉を掘てぞ人は集ける。清涼殿にして恒例の最勝講被(二)始行(一)。五月二十四日は開白也、二十五日は第二日也、朝座の導師は、興福寺権少僧都覚長、夕座は山門の権少僧都澄憲、澄憲天下の旱魃を歎、勧農の廃退を憂て、敬白に言を尽し、竜神(りゆうじん)に理を責て、雨を祈乞給けり。其詞に云、
夫御願(ごぐわん)者、起(レ)自(二)寛弘之聖朝(一)、至(いたる)(二)于承安之宝暦(一)、法会雖(二)旧道儀(一)、弥新、時代雖(レ)重、興隆更珍、九禁之裏専盛(二)人事美麗(一)、三宗之間、殊撰(二)才弁之英傑(一)、故生(二)肇融叡之倫(一)演(二)説連珠(一)防(二)尚光基之類(一)、問難争(レ)鋒、五日開(レ)講、法性淵底、悉顕(二)十問挙疑(一)、玄宗秘頤無(レ)残、聖皇自捧(二)香炉煙(一)、昇(二)三十三天之雲(一)、群臣各列(二)法莚(一)、瞼合(二)金字金光之輝(一)、天人光龍神影、降上昇下、陽台雲、頴川星、内凝外聚、寔是鎮護国家第一之善事(有朋上P090)攘(レ)災招(レ)福、無双之
P0065
御願(ごぐわん)也。抑当(二)厳重御願(ごぐわん)之莚(一)、天衆影向之場、聊有(下)可(二)訴申(一)之事(上)、伏見(二)我聖朝御願(ごぐわん)金光最勝両会(一)、迎(二)春夏(一)無(レ)怠、帰(レ)仏信(レ)法、御願(ごぐわん)送(二)歳月(一)弥盛、而項年七八箇年、毎歳有(二)旱魃之憂(一)、不(レ)知(二)如何(一)、就(レ)中(なかんづく)今年当(下)日曜在(二)井宿(一)之月(上)、天晴払(レ)雲、迎(レ)霖月可(二)降(レ)雨之候(一)、地乾揚(レ)塵、農夫拱(レ)手西作(レ)勤已廃、唯非(二)尚羊之亡(一)(レ)舞、恐有(二)竜神(りゆうじん)之為(一)(レ)嗔歟、夫君以(レ)民為(レ)力、民以(レ)食為(レ)天、百穀忝枯尽、兆民併失、計(レ)責帰(二)一人(一)、恨(二)残諸天(一)、夫当(二)天然之紀運(一)、至(いたる)(二)災■(さいげつ)之萌起(一)者、聖代在(レ)之、治世非(レ)無(二)所謂(いはゆる)漢朝堯九年洪水、湯七年炎旱(一)也、本朝貞観旱、求(二)祚風(一)、承平煙塵正暦疾疫朝有(二)善政(一)、代多(二)賢臣(一)、天然之災気、実不(レ)能(レ)遁、而至(いたる)(二)近年小旱(一)者、非(二)普天満遍之災(一)、非(二)紀運令然之友(一)、恐竜神(りゆうじん)聊相嫉、天衆少不(レ)祐事有歟、凡代及(二)澆李(一)、時属(二)末法(一)、一人御政争無(レ)背(二)天心(一)、万民所為定有(レ)犯(レ)過、実可(レ)恐深可(レ)謝、但倩重案(二)事情(一)、我大日本国、本是神国也 天照大神(てんせうだいじんの)子孫、永為(二)我国主(一)、天児屋根尊子孫、今佐(二)我朝政(一)、以(二)神事(一)為(二)国務(一)、以(二)祭祀(一)為(二)朝政(一)、善神尤可(レ)守之国也、竜天輙不(レ)可(レ)棄(レ)之境也、何況欽明天皇(てんわう)代、仏法初渡(二)本朝(一)、推古天皇(てんわう)以来、此教盛行降、及(二)聖武御宇(一)、弥盛尊(下)重其堂宇之崇(中)仏殿之大(上)、敢非(二)人力之所為(一)、如(二)鬼神之製(一)、又令(下)(二)七道諸国(一)、立(中)国分尼寺(上)、凡上自(二)(有朋上P091)群公卿士(一)、下至(いたつて)(二)諸国黎民(一)、競捨(二)田園(一)、皆施(二)仏地(二)、争傾(二)財産(一)、悉献(二)三宝(一)、不(レ)修(二)仏事(一)者、不(レ)為(二)生類(一)、不(レ)立(二)堂塔(一)者、不(レ)列(二)人数(一)、国風俗習、久積深馴、近自(二)畿内(一)、遠
P0066
及(二)七道(一)、摂州上宮太子、立(二)四天王寺(一)、過者悉知(二)極楽東門(一)、泉州行基菩薩託(二)生大鳥郡(一)、立(二)寺於四十九所(一)、南都七大諸寺比(レ)甍、田園皆為(二)三宝之地、東京数代御願(ごぐわん)接(レ)軒立(レ)錐、無(レ)非(二)精舎之地(一)、弘法大師、卜(二)紀州高野山(一)、溢(二)三密流於四海(一)、伝教大師、点(二)江州比叡嶺(一)、扇(二)十乗風於一天(一)、此外七道諸国、九州卒土山無(二)大小(一)、皆松坊比(レ)檐、寺不(レ)弁(二)公私(一)、悉国郡卜(二)領一国田地(一)帝皇進止実少、皆為(二)三宝之領(一)、九州正税、国家用途不(レ)幾、併宛(二)仏界之供(一)、然則釈梵四天廻(レ)眸(まなじりをめぐらして)照(レ)之、竜神(りゆうじん)八部以(レ)目視(レ)之、十六大国加、加留(レ)国、有(二)五百中国加(一)、加留(レ)境有(二)法弘(一)、還有(二)滅時(一)、道盛必有(レ)衰(レ)国、国有(二)善王(一)、又有(二)悪王(一)、君信(二)正法(一)、臣又信(二)邪法(一)、彼■(けい)賓国秋池■湲(せんえんとして)流、而漸溢(二)国界(一)、耆闍崛春苔聖跡、埋而只有(二)猛獣(一)、昆舎利国尋(二)仏跡(一)、大林精舎空聞(レ)名、給狐独園訪(二)伽藍(一)、祇園精舎唯有(レ)礎阿育大王、帰(二)正法(一)後為(二)弗沙密多(一)被(レ)滅、梁武帝崇(二)正法(一)後値(二)唐武宗(一)滅(レ)之、豈(あに)如哉、我国家一帰(レ)仏永無(レ)改、一弘(レ)法遂不(レ)墜、自(二)欽明(一)至(いたつて)(二)当今(一)五十二代、未(レ)聞(下)背(二)仏法之君(一)、推古天皇(てんわう)以来、五百七十余年、未(レ)見(下)棄(二)仏法(一)之代(上)、然則天人不(レ)護(二)我国(一)(有朋上P092)者、即不(レ)護(二)常住三宝(一)、竜神(りゆうじん)若悪(二)我国(一)者、即奉(レ)悪(二)三宝福田(一)、不(レ)降(レ)雨失(二)地利(一)者、仏界皆施(二)供養(一)、不(レ)止(レ)災損(二)人民(一)者、出家定滅(二)徒衆(一)歟、護国四王、発(二)誓願於仏前(一)、竜神(りゆうじん)八部、奉(二)仏勅於在世(一)、忘(レ)護(二)法誓於心中(一)歟、誤(二)我国風於眼前(一)歟、天人竜神(りゆうじん)、過勿(レ)憚(レ)改、速降(二)甘露雨(一)、勿除(二)災旱憂(一)、伝聞中天舎衛大国、毎年一度設(二)法会(一)、難陀跋難守(二)其国(一)、風雨順(レ)時、今見(二)南閻浮
P0067
大(なんゑんぶだい)日本国(一)、春夏二度修(二)大会(一)、難陀跋難何衛(二)此朝(一)雨沢不(レ)階(レ)時徒雨八十億、諸大龍王、雨惜何不(レ)降(二)我国(一)、無(レ)罪六十余州人民、勿失(二)口中食(一)、此言必達(二)上天之聞(一)、此時速除(二)下土之憂(一)、玉体安穏宝祚延長之唱、譲(二)座之啓白(一)、今只代民述(二)一国之大訴(一)、代(レ)君陳(二)一心之深誠(一)、万機政今未(レ)出(二)叡情彼蒼之責(一)、何故一国賞罰未(レ)任(二)神襟(一)、上怨之咎無(レ)由、驚(二)三界諸天(一)、聴(二)此詞(一)、聚(二)四海竜神(りゆうじん)(一)怨(二)此事(一)、冀不(レ)廻(二)時日之程(一)、勿降(二)甘露之霑(一)、然則春稼秋熟国保(二)九年之蓄(一)、月俸(二)有(レ)余民(一)、誇(二)五袴之慶(一)、抑付経有(レ)多(二)文段(一)、初文如何とぞ、被(二)啓白(一)たりける。竜神(りゆうじん)道理にせめられ、天地感応して、陰雲忽に引覆大雨頻に下けり。上一人より、下百官に至(いたる)まで、当座の効験事の不思議、信仰涙に顕たり。時の摂政(せつしやう)松殿被(二)奏申(一)けるは、説道の抜群、当座の降雨、古今誠に類なし、可(レ)有(二)御勧賞(一)(有朋上P093)歟と奏聞し給ければ、同廿八日は、結願の日にて有けるに、頭左中弁長方朝臣、公卿座の前を経て、殿下の御前にすゝみて仰曰、権少僧都澄憲が説法之効験■(いちじるき)焉也、仍権大僧都に上給。長方又蒙(二)殿下之御目(一)、左大臣の方に向て、同此趣を仰。左府澄憲を座前に召て、勅定之趣を仰す。澄憲本座に帰著せんとしければ、威儀師(ゐぎし)覚俊起座して、南の弘庇に出て、澄憲権大僧都の従僧侍やと召けれ共、心得ずして見えざりければ、覚俊重て召て草座を取て覚長が上に置。覚長忽に居下る。澄憲又居上る。当座の面目説道の高名、今日にきはまれり。
覚長が門弟等、恥辱を歎出仕を制し申。覚長存る旨ありとて、猶出仕す。威儀師(ゐぎし)覚俊、昨日は覚長
P0068
が草座を澄憲の上にしき、今日は澄憲が草座を覚長が上にしく、無(二)面目(一)みえけるに、覚長奏けるは、今日〔の〕出仕身に取て雖(レ)似(二)恥辱(一)、普天之降雨は、一道の名望也、争か忘(二)天感(一)可(レ)存(二)我執(一)哉、為(レ)勧(二)後昆(一)、恥を押へて参内と申たりければ、諸卿各被(二)感申(一)けり。後朝に俊恵法師と云者、いひ送たりけるには、
雲上に響を聞ば君が名の雨と降ぬる音にぞ有りける K024
澄憲返事には、(有朋上P094)
天照す光の下にうれしくも雨と我名のふりにける哉 K025
打続三日三夜降ければ、畿内遠国に至(いたる)まで、民九年の蓄を悦、人五袴の楽に誇けり。蔵人左衛門権佐光雅を以仰下されて云、説法依(二)殊勝(一)感応いちじるき也、尤感じ思召処也。猶叡感之余、啓白之詞を尋召れけるに、御請文に云、
最勝講啓白之詞謹以令(二)注進(一)候、一驚(二)叡聴(一)忽蒙(二)異賞(一)再及(二)叡覧(一)永留(二)後代(一)実是一道之光栄、万代之美談者歟、骨縱埋(二)竜門之土(一)、名可(レ)留(二)鳳闕之雲(一)、喜懼之至(いたり)啓而有(レ)余而己、澄憲恐惴頓首謹啓とぞ、被(二)申上(一)たる。加様に上一人より、下万民に至(いたる)まで、難(レ)有事にこそ感嘆しけるに、太政(だいじやう)入道(にふだう)はあざ咲て、人の病の休比に、医師は験あり、是を医師の高名と云様に、春の比より旱して、五月雨の降比に説法仕合て、澄憲が高名と人の沙汰すらん事、いとをかしき事也とて興なく
P0069
ぞ被(レ)申ける。是偏に澄憲偏執の詞也。其意趣いかんとなれば、
澄憲当初法住寺殿(ほふぢゆうじどの)にて、御講の導師勧めける次に、目出き説法仕たりけり。院母屋の簾内にて、窃に大蔵卿泰経に仰けるは、此僧の若さに口のきゝたる様よ、世は末に成と云へ共、遉尽ざりけるもの哉、実や尼の生たる子と聞食とて咲はせ給ける(有朋上P095)時、泰経御返事に、故通憲入道は、和漢の才幹至(いた)れる上、心かしこき者といはれ候き、相伴ける尼もさる尼にて儲たる子なれば角侍るにこそ。過にしころ、比叡山に候ける児の、夜の間に失せて見えざりければ、師匠朝に児の部屋に入て、障子を見るに、歌を書て候けり、
住儘になつかしからぬ宿なれど出ぞやられぬ晨明の月 と、有りけるを見て、はや失にけりとて、方々尋ける程に、唐崎の海に人の身投たりと聞て、師僧罷て見ければ、浜の砂に裏なしを脱置たる処へ、二三度ばかり往還たる跡ありて、終に沈たりけるを、一山の衆徒是を憐て、造仏写経して追善仕けるに、凡僧なれ共此澄憲を唱導に請じたる、施主段に童子の年は十八歳、髪は長御座けれ共、命は短かりけり。今は神〔の〕力及ず、仏助給へと申たりければ、衆徒感涙を流、僧綱に准じて、手輿にのせて侍りけりとぞ承る。されば今日の説法も目出くこそ候へと申ければ、院打うなづかせ給て、誠に神妙に仕たりけり、此僧が高座より下りん時、各はやせ、何なる風情才覚をか申振舞と仰あり。院の依(二)御気色(一)、若き殿上人四五人、心を合て拍子を打て、あまくだり/\と拍。是は尼の生たる子と云心をはやす也。澄憲更にそゝがずして、二かひな、三かひな舞翔て、(有朋上P096)院より始進せて、上下皆何事をか申さんと、兼て咲せさせ給けり。澄憲三百人々々々と云音を出す。殿上人猶あまくだり/\と拍。澄憲三百人の其内に、女御百人、裨販公卿百人、伊勢平氏験者百人、皆乱行三百人々々々と云て、扇をひろげて、殿上をさゝと〔扇〕散し
P0070
て、皆人は母が腹より生るゝに、澄憲のみぞあまくだりけるとて申て、走入にけり。公卿殿上人、上には咲けれ共、底にが/\しき景気也。小松(こまつの)内大臣(ないだいじん)、其時は新(しん)大納言(だいなごん)にて、当座に候はけれり。始よりべし口してえも咲ず、事はてて澄憲以下、人々罷出ぬ。新(しん)大納言(だいなごん)は、最のどやかに畏て、御前を立れぬ。北面に蹲居して、あまたおはする殿原に向て被(レ)申けるは、一天の君の召仕はせ給、三百人の数に、重盛(しげもり)が入て侍は面目也。但世に隠なし。朝恩によりて、国務を奉行する事、先祖に多侍。伊勢平氏とは、いづれの卿上の事ぞと、尋申べかりつれ共、勅願の導師也、便宜なしと存じて、無(二)申子細(一)、思よらぬには非ず、父の禅門加様の事にたまらぬが、親ながらも悪癖と存ず。さても奉公に忠勤を致せば官禄に洪恩あり、而を代々軍功依(レ)無(レ)私、子孫蒙(二)朝恩(一)、加様に世に立廻者を、僧も俗も悪猜れ侍事、まことに不(レ)及(レ)力こそ存候へ。罷帰入道諌申さんとて出られにけり。其跡に残留たる人々申けるは、新(しん)大納言(だいなごん)の被(レ)申事こそ、理を(有朋上P097)極て身にしみ候て覚れ。忽而は君の所詮なき御心ばえにて、澄憲を愛し咲はせ給はんとて、係述懐はせられさせ給也。さればとて一座の御導師を、いかにとせさせ給べきぞ、今日より後は、かる/゛\しき事、上にも下にも止らるべき也とぞ申合れける。平(へい)大納言(だいなごん)重盛(しげもり)は、入道此事聞給なば、さる腹悪人なれば、如何なる心か付給はんずらんとて、六波羅の宿所に参られたり。入道は左の手に蓮の実の念珠を持、右の手に蒲団扇を仕給て、大納言(だいなごん)に目も係ず、憤ある気色也。重盛(しげもり)は、此事はや人の云たりけりと意得て、大に畏給へり。良久有て、哀此入道が、神にも仏にも成たらん後、和殿原の君の御後見して、一日世に立廻給なんや、故通憲入道が誤にて、信頼に頸切られたりし時、憂目みたりし澄憲が、向さまに悪口するを聞も咎めずして、さて立ける事の口惜さよ、何様にも沙汰有べしとて、弾指はた/\とし給けり。大納言(だいなごん)は、此条重盛(しげもり)一人が事にあらず、百人の裨販の女御、百人の乱行の験者達の、とがめられぬ事なるを、其を閣て非(レ)可(二)咎申(一)。
P0071
惣而は加様の事をば、たゞ聞ぬ様にて御渡候べしと覚ゆ。猿楽と申は、をかしき事を云つづけて人を咲はかし侍るぞかし。君のをかしき事をいはせんとて、尼が子/\と、はやさせ/\給へば、澄憲猿楽ことを申にて侍(はべる)べし、其故に中々何と御腹をば立られ候べき。(有朋上P098)但今より後、猿楽事にも加様の事申ならば、如何にも重盛(しげもり)相計候べしと被(レ)申たり。其時入道かほの色少し直りて、穴軽々しの君の御代や、販女の女御とはされば誰ぞ、若丹後の局の事歟、そも桶櫃を戴て物をばよもうらじ、乱行の験者とは、先房覚僧都が事にや、其僧こそ至(いたる)処ごとに不覚をのみせらるなれば、京童部が房覚不覚と云略頌をば云なれとて、から/\と咲て、入道〔内〕へ入られけり。重盛卿(しげもりのきやう)今は入道別の事をばせじと覚して、心安思はれ被(レ)出けり。其事猶も本意なく思はれければ、澄憲の雨の高名も、天下には謳歌しけれども、入道は不(レ)被(レ)興けり。
近衛大将可(レ)有(二)其闕(一)と聞えければ、人々望申されける中に、平(へい)大納言(だいなごん)重盛卿(しげもりのきやう)の被(レ)申けるは、大臣の息大将に任は、古今の例也、就(レ)中(なかんづく)其身苟武将也、其職已武官也、官職所(レ)掌、文武道異也、偏被(レ)抽(二)花族(一)、只被(レ)撰(二)重代(一)、是近年の訛跡也、非(二)聖代之流例(一)被(レ)奏ければ、同七月八日、除目被(レ)任(二)右近大将(一)けり。同廿一日に拝賀を被(レ)申けり。小松亭よりぞ出立れける。先法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に被(レ)参ければ、御前に召れ、法皇は寝殿の西の戸内に御座。大将は透渡殿にぞ被(レ)候ける。兼円座被(レ)敷たり。内蔵頭(くらのかみ)親信ぞ申次をば勤ける。御馬を引れければ、地に下て取(レ)縄、二拝(レ)之後、左中将知盛朝臣ぞ請取ける。次建春門院(けんしゆんもんゐん)御方に申されて、其後(有朋上P099)参内せられけり。殿上の前駈廿七人、地下前駈十人とぞ聞えし。番長には下毛野武安、扈従(こしょう)の公卿には、五条大納言(だいなごん)邦綱、治部卿光隆、別当成親、右衛門督宗盛、
P0072
花山院中納言(ちゆうなごん)兼雅、中宮権大夫時忠、右兵衛督頼盛、平宰相教盛、六角の宰相家通、修理大夫信隆、二条三位経盛、藤三位基家也。申次をば頭中将実定朝臣ぞつとめられける。扈従(こしょう)の月卿雲客、或は時にあへる権勢、或又花族の人々也ければ、何も執々にはえ/゛\しくぞ被(レ)見ける。
同廿七日に、大内にて相撲召合あり、頭左中弁長方朝臣ぞ奉行しける。諸卿杖座に参著せられけり。午刻に宸儀南殿に出御なりければ、内侍剣璽に候しけり。左大将(さだいしやう)師長、右大将(うだいしやう)重盛(しげもり)、左右奏を取(とつ)て、相かはりて簀子を経て御簾を■(かかげ)て被(レ)奏。重盛卿(しげもりのきやう)奏覧の後、被(二)退出(一)ければ、容儀可(レ)見進退有(レ)度とぞ上下称美しあへりける。両大将本座に被(レ)復ければ、左大臣経宗、右大臣兼実、源大納言(だいなごん)定房、大宮大夫公保、中宮大夫隆季、三条大納言(だいなごん)実房、新(しん)大納言(だいなごん)実国、五条大納言(だいなごん)邦綱、中御門中納言(ちゆうなごん)宗家、別当成親、左兵衛督成範、殿に昇て著座あり。相撲長左右各二人、左番長秦兼宗、下毛野武安、右番長秦兼景、下毛野種友なり。籌判府生、左右各一人、左貞弘、右諸武、随(二)勝負(一)立合て籌判す。一番相撲、左加賀国住人(ぢゆうにん)藤井守安、右因幡国住人(ぢゆうにん)尾張長経召合ら(有朋上P100)れけるに、長経膝を突て、さはりを申けり。是は内取の日負にければ、涯分をしりて勝負をせざりけるとぞ聞えし。(有朋上P101)
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第四
P0073(有朋上P101)
爾巻 第四
S0401 鹿谷酒宴静憲止(二)御幸(一)事
新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)は、日比内々相語輩偸に催集て、鹿谷に衆会し、一日酒宴して軍の評定あり。法皇も忍て御幸有べかりけるが、故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)の子息、静憲法印を召て、此事を被(二)仰含(一)けり。法印は、努々不(レ)可(二)思食(おぼしめし)寄(一)御事也、伏羲神農の聖人たる、猶瓊樹根を別にし、軒轅虞舜の明王たる、又玉体種を分つ、夏殷周晋春の花、芬馥気種々に含、梁陳隋唐の秋の月、清光区に朗也。夫天下を治事如(レ)此。況や君は忝も地神五代の御苗裔を受させ御座して、人皇億歳の宝祚を踏給へり。逆臣背き奉らば、忽に天罰を蒙て、兵略を廻らかさずと云共、自滅亡せん事疑あらじ、日月為(二)一物(一)不(レ)暗(二)其明(一)、明王為(二)一人(一)不(レ)曲(二)其法(一)と云事侍り、成親卿(なりちかのきやう)一人が勤によつて、万人悩乱の災を致さん事、豈(あに)天地の心に叶はんや、全政道有徳の基に非ず、こは浅増き御企也と、大に諌申ければ、法皇の御幸は無りけり。鹿谷には軍の評定の為に、人々多集て一日(有朋上P102)挿絵(有朋上P103)挿絵(有朋上P104)酒盛しけり。多田蔵人が前に杯の有けるに、新(しん)大納言(だいなごん)青侍を招て私語給へり。青侍まかり立て、程なく長櫃一合、縁の上に舁居たり。尋常なる臼布五十端取出して、蔵人が前に積置せて大納言日けるは、日比談義申侍つる事、大将軍には一向に奉(レ)憑、其弓袋の料に進ずる也、今一度候ばやとぞ強たりける。蔵人居直り
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畏て、三度呑て、布に手打係て押除たれば、郎等よつて取(レ)之。其後押まはし/\、得たり指たりする程に、既晩に及ぶ。庭には用意に持たりける傘をあまた張立たり。山下の風に笠共吹れて倒ければ、引立々々置たる馬共驚て、散々(さんざん)に駻踊、食合踏合しければ、舎人雑色馬をしづめんと、庭上々を下へ返て狼藉也。酒宴の人々も少々座を立けるに、瓶子を直垂の袖に懸て頸をぞ打折てける。大納言見(レ)之、戯呼事の始に平氏倒侍りぬと被(レ)申たり。面々咲壺会也。康頼突立て、大方近代あまりに平氏多して持酔たるに既に倒亡ぬ、倒たる平氏頸をば取に不(レ)如とて、是を差上て一時舞たり。さて取たる首をば可(レ)懸也とて、大路を渡すと云て、広縁を三度廻し、獄門の樗木に係と名て、大床の柱に烏帽子(えぼし)懸につらぬきて結付けたり。土の穴を堀て云事だに漏と云、まして左程の座席にて加様にや有べきと後おそろし。石に口すゝぎ流に枕すと云事有と思者は、偸に座を起つ人もあ(有朋上P105)りけるとかや。北面は白川院御宇より被(二)始置(一)、衛府共あまた在けり。為俊守重童部より、千寿丸今犬丸とて切者にて侍けり。鳥羽院御時は、季範季頼父子共に、近奉(レ)被(二)召仕(一)伝奏する折も有けり。去ども皆身の程を計てこそ振舞けるに、此御時の北面の下臈腹共(げらふども)は、事の外に過分にて、公卿殿上人をも物共せず、無(二)礼義(一)。理や下北面より上北面に移り、上北面より殿上をゆるさるゝ者も有ければ、驕れる心も有ける也。其内故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)のもとに、師光成景と云者あり。成景は京の者小舎人童太郎丸と云けり。師光は阿波国の者、種根田舎人也けり。童部より常に召具しけるが、院(ゐんの)御所(ごしよ)にて信西御前に候
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けるに、天台の不思議共御尋有けるに、折節廃亡して演得ざりければ、如何して御前を立べきと、身体苦く思煩たる心地色に、顕て在ければ、童是を遥見危て、沓脱、近居寄て高かに、御内より御召有て、御使三箇度参り如何と云たり。信西得たる折節とて罷出ぬ。如何にと尋ぬれば、童答て云、御座を起ばやと思召(おぼしめす)御気色の見させ給へば、自が虚誕也と申。信西打頷許て、神妙々々と感ず。喩へば紅山に入て道を失へりしに、牛童に教へられて都に入、所望を遂と、銀心大臣が書る筆も、今被(二)思合(一)と感じて、烏帽子(えぼし)をたび、恪勧者なんどに仕けるが、両人勒負尉になさる。事にふれて賢々しかり(有朋上P106)ければ、院の御目にも懸進せて被(二)召仕(一)けり。師光は左衛門尉、成景は右衛門尉とぞ申ける。信西平治の乱に討れし時、二人共に出家して、左衛門入道は西光、右衛門入道は西景とぞ申ける。二人ながら御蔵の預にて、猶被(二)召仕(一)けり。其西光が子息に、近藤左衛門尉師高(もろたか)きり者也ければ、検非違使(けんびゐし)五位丞まで成て、安元元年十一月廿九日に、追儺の除目に加賀守になる。国務を取行間、様々の非法非礼張行之余、神社仏寺の御領、権門勢家の庄園を倒し、散々(さんざん)の事共にてぞ有ける。縦召公が跡を伝と云とも、穏便の政を行べきに、心の儘に振舞し程に、
S0402 涌泉寺(やうせんじ)喧嘩事
目代(もくだい)師経(もろつね)在国の間、白山中宮の末寺に、涌泉寺(やうせんじ)と云寺あり。国司の庁より程近き所也。彼山寺の湯屋にて、目代(もくだい)が舎人、馬の湯洗しけり。僧徒等制止して、当山創草より以来、いまだ此所にて牛馬の湯洗無(二)先例(一)と云けれども、国は国司の御進止なり、誰人か可(レ)奉(レ)背(二)御目代(おんもくだい)(一)とて、在俗不当の輩、散々(さんざん)の悪口に及んで更に承引せざりければ、
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狼藉也とて涌泉寺(やうせんじ)の衆徒蜂起して、目代(もくだい)が馬の尾を切、足打折、舎人がそくびを突、寺内(有朋上P107)の外へ追出す。此由角と馳告ければ、目代(もくだい)師経(もろつね)大に憤て、在庁国人等を駈催して、数百人の勢を引率して、彼寺に押寄て不日に坊舎を焼払。懸ければ北の四箇寺に、隆明寺、涌泉寺(やうせんじ)、長寛寺、善興寺、南四箇寺に昌隆寺、護国寺、松谷寺、連花寺、八院の衆徒等会合して、使者を中宮へ立たりけり。別宮佐羅中宮、三社の衆徒、急下て一になる。岩本、金剣、下白山三宮、奈谷寺、栄谷寺、宇谷寺三寺四社の大衆も馳集りて同意しけり。時刻を廻すべからず、目代(もくだい)師経(もろつね)を誅罰すべしとて、七月一日数百人の大衆喚て庁へぞ押寄ける。師経(もろつね)は涌泉寺(やうせんじ)焼失の後、僻事しつと思つゝ、忍て京へ逃上たりければ、庁には人こそなかりけれ。八院三社の衆徒の張本に、智積、覚明、法台、金台、学円、仏光寺の宗人の大衆三十余人、三寺四社の衆徒等相具して、其勢二千余騎、国分寺に衆会して、評定あり。目代(もくだい)逃上ぬる上には、国にして左右すべきに非ず、本山に訴へて、師高(もろたか)師経(もろつね)を可(二)断罪(一)也とて、子細を録して寺宮六人を差上て、山門に訴詔(そしよう)しけり。大衆此事を聞、本社白山の事ならば左も有なん、彼社の末寺也、許容に及ずとて其沙汰なし。寺官等力なくして、十一月の比国に下る。衆徒会合して云、理訴を極ずして下向の条謂なし。山門にてこそ、火にも水にも成べけれとて、重て又追上す。寺官山上に越年して、(有朋上P108)谷々坊々に訴れども不(二)事行(一)、此由かくと申下たりければ、又八院三社の大衆、三寺四社の衆徒、不日に衆会して僉議(せんぎ)して云、謹で白山妙理権現の垂跡(すいしやく)を尋奉れば、日本根子高瑞浄足姫御宇、
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養老年中に鎮護国家の大徳神、融禅師行出し給て、星霜既に五百歳に及で、効験于(レ)今新なり。日本無双の霊峯として、朝家唯一の神明也。而を目代(もくだい)師経(もろつね)程の者に、末寺一院を被(二)焼亡(一)て、非(レ)可(二)黙止(一)、此条もし無沙汰ならば、向後の嘲不(レ)可(二)断絶(一)、
S0403 白山神輿登山事
糾断遅々の上は、神輿を本山延暦寺に奉(二)振上(一)、訴申さんに、大衆定贔負せられば、訴訟(そしよう)争か不(レ)達、若目代(もくだい)師経(もろつね)に被(レ)狂て、理訴非に被(レ)処者、我寺々に跡をとゞむべからずと議定して、各白山権現の御前にして、一味の起請を書灰に焼て、神水に浮て呑(レ)之、身の毛竪てぞ覚ける。さらば何をか期すべき、奉(レ)出とて、白山七所の其中に、佐羅の早松の御輿を奉(レ)飾、本地は不動明王(ふどうみやうわう)、悪魔降伏忿怒形、賞罰厳重の大明神(だいみやうじん)也。安元三年正月三十日辛未日、吉日也とて、御門出あり。同二月五日丙子を吉日として、早松の社より願成寺へつかせ給ふ。御共の大衆一千余人、皆甲冑を帯して是を晴とぞ出立たる。六日は仏(有朋上P109)が原、金剣宮へ奉(レ)入。此明神と申は、嵯峨天皇御宇、弘仁十四年に、此所に奉(レ)祝て三百五十余年也。本地は倶梨伽羅不動明王(ふどうみやうわう)也、魔王と威勢を諍て、邪見の剣を呑給ふ。当社に両三日の逗留あり。衆徒も神人も念珠を揉、手を叩て、帰命頂礼(きみやうちやうらい)、早松金剣両所権現、本地垂跡(すいしやく)力合せ、思を一にして、速に師高(もろたか)、師経(もろつね)を召捕給へと、口々に咒咀しけるこそ恐しけれ。同九日留守所より牒状あり。使には橘次大夫則次、田次大夫忠俊也。彼状云、留守所牒、白山中宮衆徒之衙まらうとい
欲(三)早被(レ)停(二)止衆徒之参洛(一)事
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牒衆徒載(二)神輿(一)、企(二)参洛(一)、擬(レ)致(二)訴訟(そしよう)(一)之条、非(レ)無(二)不審(一)、依(レ)之差(二)遣在庁忠俊(一)、尋(二)申子細(一)之処、就(二)石井法橋之訴詔(そしよう)(一)、令(二)参洛(一)之由返答之趣、理豈可(レ)然、争依(二)小事(一)可(レ)奉(レ)動(二)大神(一)哉、若為(二)国司之御沙汰(一)、可(レ)被(二)裁許(一)者、速賜(二)解状(一)、可(二)申上(一)也、仍察(レ)状以牒。
安元三年二月九日 散位財朝臣
散位大江朝臣
散位源朝臣各在判
とぞ書たりける。衆徒の返牒状云、(有朋上P110)
白山中宮大衆政所返牒 留守所衙
来牒一紙被(二)載送(一)、神輿御上洛事
牒、今月九日牒状同日到来、依(レ)状案(二)事情(一)、人成(レ)恨神起(レ)嗔、神明与(二)衆徒(一)鬱憤和合、而既点(二)定吉日(一)、早進(二)発旅宿(一)、人力不(レ)可(二)成敗(一)、冥慮輙不(レ)可(レ)測矣、仍返牒之状如(レ)件。
安元三年二月九日 中宮大衆等と
書すてて、同十日金剣宮を出し奉てあはづへ著せ給ふ。十一日には須河社、十二日には越前国細呂宜山の麓、福龍寺森の御堂へ入せ給ふ。今日神人宮仕此彼より参集て、御伴の人数九千余人、在々所々に充満たり。是に留主所(るすしよ)より神輿を留め奉らんために、在庁の中に糾の二郎大夫為俊、安二郎大夫
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忠俊二人、所従眷属五十余人相具して追ける程に、野代山にて馳附たりけるが、坂中にて馬を倒て、足を折、目くれ腰直などしければ、これ直事ならずとて、八丈二尺御幣衣に進て、跋行留主所(るすしよ)へ帰にけり。見(レ)之大衆も神人も、冥慮憑く思ければ、各勇て進上、十三日には木田河の耳、十四日には小林の宮、十五日にはかへるの堂、十六日には水津の浦、十七日には敦賀の津、北の端、金が崎の観音堂へ奉(レ)入。路次の煩衆徒の憤、山上洛中不(レ)斜。当時の貫首明雲僧正と申すは、(有朋上P111)久我太政(だいじやう)大臣(だいじん)雅実の御嫡子、六条源大納言顕通の御子也。白山の神輿登山の事、可(レ)奉(二)禦留(一)之由、院宣を被(レ)下之間、貫首の御沙汰として、門跡の大衆二十人に被(二)下知(一)之間、衆徒、院宣並寺牒を帯して、本寺の専当千仁金力等を先として、同十九日敦賀津に下て、寺牒を披露し、奉(レ)留(二)神輿(一)。其状云、
延暦寺政所下、 加賀馬場先達神人等
可(下)早止(二)上洛儀(一)待(中)御裁下(上)事
右近日住僧神官等、捧(二)神輿(一)企(二)上道(一)之旨、在(二)其聞(一)、甚以不(レ)可(レ)然、相(二)当仙洞熊野参詣之折節(一)、訴訟(そしよう)奏聞無(レ)便、就(レ)中(なかんづく)件訴、貫首度々雖(レ)有(二)沙汰(一)、其後成敗自然遅引、重可(レ)有(二)御沙汰(一)也、而此間無(二)左右(一)企(二)上洛(一)者、雖(レ)有(二)狼戻勘発(一)、更無(二)訴訟(そしよう)裁判(一)歟、忽任(二)自由(一)者、定及(二)後悔(一)歟、云先達云、神人閑廻(二)随分之思案(一)、可(レ)存(二)向後之安堵(一)宜(二)承知(一)、止(二)参洛(一)之状以下。
安元三年二月日 小寺主法師琳海
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都維那大法師
寺主大法師(有朋上P112)
上座大法師
修理別当法眼和尚位
とぞ書たりける。中宮の衆徒僉議(せんぎ)して云、且は本山の大衆、上下三百余人下向あり、且は制止の寺牒到来せり、先捧(二)返牒(一)、且く可(レ)待(二)裁許(一)とて注状云、
請謹延暦寺御寺牒まらうといやまと
被(二)載下(一)可(レ)止(二)白山神輿上洛(一)事
右当山権現者、掛忝天神元初之、国常立尊之、為(レ)守(二)実祚(一)、垂(二)迹于我朝(一)、為(レ)弘(二)仏法(一)、濫(二)觴于此砌(一)也、依(レ)之代々聖主、帰(二)妙理大菩薩之効験(一)、世々臣公仰(二)神融小禅師之徳行(一)、爰為(二)目代(もくだい)師経(もろつね)(一)、焼(二)払涌泉一寺(一)、没(二)倒寺社料所(一)之間、以去年十月之比、欲(レ)企(二)推参(一)蒙(二)裁許(一)之処、被(レ)下(二)宣命並御下文(一)云、冥侍(二)聖断(一)仰(二)上載於鬱訴(一)、相賂者可(レ)言(二)上子細(一)云々、仍以同十一月、雖(三)差専使(レ)致(二)訴詔(一)、于(レ)今無(二)御裁報(一)、而空送(二)年月(一)畢、倩案(二)事情(一)、白山妙理権現者、雖(レ)有(二)敷地(一)、併山門三千之聖供也、雖(レ)有(二)兎田(一)、又当(レ)任(二)没倒(一)、非(二)神物(一)、故只有(レ)名更無(レ)実、是以恒例之神事仏事、此時既断絶、以往之八講、三十講、今正及(二)闕退(一)、随而近来無(レ)有(二)参詣(一)、再拝之輩、不(レ)見(二)帰敬奉幣之頴(一)、大悲
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和光(わくわう)之素意難(有朋上P113)(レ)測、三所垂迹之玄応失(レ)憲歟、云(二)寺僧(一)云(二)氏人(一)、歎(二)冥威之陵怠(一)、非(二)権迹之衰微(一)、而奉(レ)戴(二)神輿(一)、所(レ)企(二)推参(一)也、痛哉神明閉(レ)扉、不(レ)見(二)星宿之光(一)、哀哉往侶迷(レ)道、永忘(二)後栄之思(一)、五尺之洪鐘、徒侍(二)響於松栢之風(一)、六時之行法、空任(二)声於紫蘭之嵐(一)矣、但慮(二)神明之冥覧(一)、定不(レ)可(レ)失(レ)徳、人倫之迷情争可(レ)知(二)霊応(れいおう)(一)、早示(二)現将来之吉凶(一)、託(二)宣当時之眉目(一)給江登社僧、一心合(レ)掌、神女三業、低(レ)頭而致(二)祈誓(一)之処、人恨融(二)于神(一)、神嗔通(二)于人(一)、依(レ)有(二)夢想之告託宣之聞(一)、憑(二)神託(一)驚(二)示現(一)、暫不(レ)顧(二)本寺之厳制(一)、既奉(レ)動(二)末社之神輿(一)畢、雖(レ)然任(二)御寺牒之趣(一)、奉(レ)相(二)待裁報之左右(一)所、抑留(二)神明之上洛(一)也、仍返牒言上如(レ)件、
安元三年二月廿日 中宮衆徒等請文
とぞ書上たる。此上は山門の衆徒登山しぬ、其後神明の旅宿、訴詔(そしよう)の遅怠、心元なしとて、中宮の大衆の中に、智積、覚明、仏光等の骨張の輩六人、同二十八日に坂本につき、同二十九日に登山して、西塔院谷、千光院の助公貞寛がもとを宿房として、子細を訴申間、貞寛満山三塔に披露しければ、大衆度々蜂起して衆議する処に、三月九日被(レ)下(二)院宣(一)云。(有朋上P114)
加賀国温河焼失事
右非(二)白山々門之末寺(一)之由、在庁雖(レ)令(レ)申、大衆強訴申由、依(二)令(レ)申給(一)、目代(もくだい)師経(もろつね)可(レ)被(レ)行(二)罪科(一)。抑依(二)大衆之語(一)号(二)末寺(一)、致(二)無道濫訴(一)、恣動(二)神輿(一)、欲(レ)企(二)参洛(一)、悪僧張本二人、南陽房明恵聖道房坐蓮 慥令(レ)召
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進(一)、可(レ)被(レ)尋(二)問子細(一)者也、依(二)御気色(一)上啓如(レ)件。
三月九日 右京大夫泰経
謹上、山座主僧正御房とぞ有ける。寺官依(二)貫首の御下知(一)、一山三院に披露しけれ共、是を用ず、則其夜大講堂の庭に三塔会合して僉議(せんぎ)して云、上之為(レ)上依(二)下之崇敬、下之為(レ)下守(二)上之威応(一)、千里駒非(二)毎不(一)(レ)行、揚(二)宝雀(一)離(レ)母不(レ)飛云事あり。然者(しかれば)末寺の訴詔(そしよう)不(レ)可(レ)疎、末寺の僧侶不(レ)可(レ)苟、末寺として既に本山を憑、本山争末寺を棄ん。就(レ)中(なかんづく)神輿旅宿に御座、空本社に還御あらば、白山面目を失、神慮尤難(レ)測、早本末力を一にして、神輿を迎え奉り、仏神威を垂給はば、豈無(二)裁許(一)哉と云ければ、尤々(もつとももつとも)と同じけり。仏光以下の輩悦て、十一日に山を立て、十二日に敦賀津に著。僉議(せんぎ)の趣披露しければ、白山の衆徒等勇悦で、十三日に神輿を奉(レ)出、荒智の中山立越て、海津の浦に著給ふ。是より御舟に召て海上に浮給へり。或は浜路を歩大衆もあり、或は波路を分る神人もあり。比
(有朋上P115)叡辻の神主が夢に見たりけるは、戸津比叡辻の浦に、いみじく飾尋常なる船七艘有、日中なるに篝を燃す。舟ごとに狩衣に玉襷あげたる者の、北へ向て舟を漕。いかなる人の御物詣ぞと問ば、白山権現の神輿の御上洛之間、御迎にとて山王の出させ給御舟也と申。角云者の姿をみれば、身は人、面は猿にてぞ有ける。打驚たれば汗身にあまれり。不思議やと思立出て、四方を見渡せば、此山より黒雲一叢引渡、雷電ひゞきて氷の雨ふり、能美の山の峰つゞき、塩津、海津、伊吹の山、比良の裾野、和爾、片田、比叡山、
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唐崎、志賀、三井寺に至(いたる)まで、皆白平に雪ぞ降。十四日の子時には、客人の宮の拝殿へ奉(レ)入。客人の神明は、金の扉を押開、早松の明神は、錦の帳を巻揚て、御訴詔(ごそしよう)の有様(ありさま)御物語(おんものがたり)もや有らんと身の毛竪てぞ覚ける。三千の衆徒踵を継、礼拝袖をぞ列ける。係ければ、山門大衆奏状を捧て、国司師高(もろたか)を被(二)流罪(一)。目代(もくだい)師経(もろつね)を可(レ)被(二)禁獄(一)之由度々奏聞に及けれ共、更に御裁許なかりけり、太政(だいじやう)大臣(だいじん)已下さも可(レ)然公卿殿上人、哀とく御裁許有べき物を、山門の訴詔(そしよう)は昔より也に異也、大蔵卿為房、太宰師李仲卿は、朝家の重臣也しか共、大衆の訴詔(そしよう)に依、被(二)流罪(一)き。況師高(もろたか)、師経等(もろつねら)が事は、物の数にや有べき。子細に及ぬ事也と、内々は私語申けれ共、言に顕て奏聞の人なし。理や大臣重(レ)禄不(レ)諌、小臣(有朋上P116)畏(レ)罪不(レ)言、下の情不(レ)通(レ)上、此患之大也と云事あり。去ば各口をぞ閉たりける。後朱雀院御宇、長暦年中に、宇治関白(くわんばく)頼通公の吹挙に依、三井の明尊僧正、天台座主に被(レ)補之時、山門の衆徒関白殿(くわんばくどの)に訴申刻、衆徒と軍兵と忽に動乱及けり。此事の張本と号して、頼寿、良円両僧都(そうづ)罪名を被(レ)勘ける程に、主上御悩の事あり。様々御祈有けるに、山王託宣して云、吾は是悪霊に非、死霊に非、根本(こんぼん)叡山の主也、内一乗の教法を味て寿とし、外に三千の僧侶を養て子とする神也。去し春、山僧等不慮の殃にあへり、此事訴申さん為に、玉体に奉(二)近付(一)也とありければ、即頼寿良円が罪名を被(レ)宥つゝ、様々の御をこたり申させ給けり。白川院は賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞ朕心に随ぬ者と、常は仰の有けるとぞ申伝たる。
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鳥羽院御時、平泉寺を以、園城寺へ被(レ)付由、其聞え有しに、山門の衆徒騒動して、奏状を捧て訴申、非拠之乱訴也けれ共、院宣には帰依不(レ)浅、遂に以(レ)非為(レ)理所(レ)被(二)裁許(一)也とぞ被(二)仰下(一)ける。堀川院御宇、寛治四年に大蔵卿為房を哀みさゝへさせ給けるに、江中納言匡房被(レ)申けるは、三千の衆徒、七社の神輿を陣頭に奉(レ)振訴申さん時、君はいかゞ可(レ)有(二)御計(一)と奏申ければ、実に難(二)黙止(一)事也とぞ仰ける。同帝御宇、嘉保二年に伊予入道源頼義が子に、美濃守義綱朝臣、当国の新立の庄(有朋上P117)を倒しける故に、事出来て山門の久往者円応被(二)殺害(一)けり。此事訴申さん為に、同十月廿四日、山門衆徒社司寺官等を以捧(二)解状(一)、卅余人下洛之由風聞あり。武士を川原へ被(二)差向(一)て禦けれ共、押破て陣頭へ参。中宮大夫師忠が申状に依、時の関白(くわんばく)師道後二条殿、中務丞頼治と云侍を召て、只法に任て可(レ)禦也と仰含られければ、頼治承て興有事に思散々(さんざん)に禦。疵を蒙る神民六人、死する者二人、禰宜友実が背に矢立ける上は、社司も寺官も四方に逃失にけり。神慮誠難(レ)測ぞ覚ける。猶子細を為(二)奏聞(一)とて、一山僧綱等(そうがうら)下洛しけれ共、武士を西坂本へ差遣被(レ)禦しかば、空く帰登。同廿五日に大衆大講堂の庭に会合僉議(せんぎ)して云、我山は是日本無双の霊地、国家守護の道場也、而子細奏聞の使をば被(レ)追返(一)、寺官社司は被(二)射殺(一)ぬ、此上は当山に跡を止て何にかせん、中堂(ちゆうだう)講堂已下諸堂、大宮二宮以下の諸社灰燼と成て、各有縁の方へ赴べしとて、三千の枢を閉修学の窓を塞離山しけるが、最後の名残(なごり)を
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惜み、三山の参詣を遂、伽藍の御前に跪きては、叡慮の恨しき事を申、横川の御■(ごべう)に参ては、離山袖をぞ絞ける。角て三千の衆徒東坂本に下七社の宝前にして、真読の大般若あり。社々にて申上有ける内、八王子(はちわうじ)の御前にて、仲胤法印いまだ供奉にて御座けるが、啓白の導師として高座に上り説法して、教化の詞に云、菜種(有朋上P118)の竹馬の昔より、生立たる友実と知ながら、蒸物に合て腰絡し給殿に鏑矢一放給へ、大八王子権現(だいはちわうじごんげん)とぞ申ける。其上禰宜友実を八王子(はちわうじ)の拝殿に舁入て、社官神女等手を拍声を挙て、関白殿(くわんばくどの)を呪咀しけるこそ、聞も身の毛竪けれ。山王慥聞食入させ給けるにや八王子(はちわうじ)の御神殿より、鏑箭鳴出て、王城を指て鳴行とぞ、諸人の耳に聞えける。係りければ大衆は神明も力を合給にこそとて、離山を止て七社の神輿を荘奉て、根本中堂(こんぼんちゆうだう)振上奉り、関白殿(くわんばくどの)を咒咀しけるこそ恐ろしけれ。神輿の御動座是ぞ始也ける。権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)匡房は、和漢の才幹世にゆるされ、廉直の政理に私なき人也。此事大に歎申給へり。師忠悪様執申さずは、関白(くわんばく)御憤(おんいきどほり)あらんや、関白(くわんばく)頼治に下知し給はずば、神明御恥に及給ふべしや、讒臣(ざんしん)乱(レ)国といへり。為(レ)世為(レ)人に哀亡国の基かなとぞ宣ける。去程に関白殿(くわんばくどの)御夢御覧じけるこそ恐ろしけれ。比叡大岳頽割て、御身に係ると覚え、打驚給て浅増と思召(おぼしめす)処に、又うつゝに東坂本の方より鏑矢の鳴り来つて、御殿の上に慥に立とぞ被(二)聞召(一)ける。即青侍を以て、被(レ)見ければ、寝殿の狐戸に、しでの付たる青榊一本、立たりけるこそ不思議なれ。関白殿(くわんばくどの)は夢も現も山王の御祟、恐ろしく被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける程に、御髪際に悪瘡出来させ給へりと披露あり。牛馬巷に馳違、輿車門前に多し。(有朋上P119)
S0404 殿下御母立願事
父の大殿、御母儀(おぼぎ)、北政所(きたのまんどころ)の御歎不(レ)斜、かた/゛\御祈始らる。一■(いつちやく)手半(しゆはん)の薬師(やくし)
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如来(によらいの)像、延命菩薩像各一体、又等身薬師(やくし)一体、造立供養あり。日吉社にして、千僧供養あり。又同社壇にて、十箇日の千座千僧の仁王講被(レ)行、又一切経並金泥の法華経書写供養あり。澄禅法印を以て被(二)啓白(一)。又根本中堂(こんぼんちゆうだう)にして、薬師経(やくしきやう)転読あり。其外諸寺諸社にして、貴僧高僧に仰て様々御祈有ける上に、■(くわう)■(りう)■(りよく)■(し)の類、金銀幣帛の賁り、神社仏寺に被(二)送進(一)けれ共、御心地いよ/\重くならせ給ければ、又丈六の薬師(やくし)七■(く)、阿弥陀如来(あみだによらい)一体造立あり。除病延命の御祈は、御志を尽し御座けれ共、更に御験なし。父京極の大殿、憑なき御有様(おんありさま)を御覧じて、二紙の願書をあそばして、日吉社にて可(レ)被(二)啓白(一)之由仰て、天台座主へ被(二)送進(一)。其願書に云、日吉社にて臨時の祭を居、百番の御子の渡物、百番の一物、百番の流鏑馬、百番の競馬、百番の相撲、廊の御神楽、三千人の衆徒に、毎年の冬衣食の二事十箇年連いて可(レ)送と也。され共いよ/\重らせ給ければ、御母儀(おぼぎ)北政所(きたのまんどころ)忍て御参社有て、七箇日御参篭あり、三の御願(ごぐわん)を立給へり。是をば人知ざり(有朋上P120)けり。出羽の羽黒より上たる身吉と云童御子の篭たりけるが、十禅師(じふぜんじ)の御前にて、俄に狂出て舞乙でけるが、暫有て死入けり。何者ぞ門外へ舁出せと云けるに、事の様を見よとて、大庭に舁居て守(レ)之。やゝ在て走出で舞乙、人奇特の思を成処に、汗押拭申けるは、衆生等慥にきけ、我には十禅師権現(じふぜんじごんげん)乗居させ給へり。我御前には摂禄の御母儀(おぼぎ)、大殿の北政所(きたのまんどころ)、七箇日御参篭有て、心中に三の御願(ごぐわん)あり、摂禄山王の御とがめとて、親に先立て世を早し給はんとす。今度の命を助させ給候はば、一には八王子(はちわうじ)の御前より二宮楼門まで、渡廊
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造連て可(レ)進。大衆参社之時、雨露之難を除かんため也。二には五人の姫君に御前にて、芝田楽躍せて、可(レ)奉(レ)見と也。此事こそ哀に思食(おぼしめ)せ、女御后にもといつきかしつき、玉簾錦茵に労奉て、あたにも出入給はぬ姫君達を、一人の子の悲さは、角思召(おぼしめす)こそ糸惜けれ。三には自都の住居を捨て、御輿の下殿に候ふ。宮篭に相交て、唐崎より白砂を千日運て進せんと也。太政(だいじやう)大臣(だいじん)家の北政所(きたのまんどころ)として、此態已に命を捨給程の御事也。此三の御願(ごぐわん)は、七社権現の外に人不(レ)知(レ)之、真に争知べき。親子の眤恩愛の情こそ神慮も悲思食とて、左右の袖を顔に当て、はら/\とこそ泣たりけれ。暫有て、母の子を思ふ志、助ばやと思召(おぼしめせ)ども、世に安かりし訴詔(そしよう)を大事に成、所司(有朋上P121)社司射殺され、山上山下叫声、我身の上の歎也。禰宜友実が頼治に被(レ)射たりし疵は、我身に立たる也、血出して見せんとて、肩を脱たりければ、背の中に疵あり。疵の中より血の出事夥し。此上はいかに祈申させ給共、助奉らんとはえ申さじとて、如(レ)元舞乙づ。参詣の道俗男女御子宮司、身の毛竪てぞ覚ける。北政所(きたのまんどころ)も忍て御身をやつし、宮篭の中に御坐けるが、つく/゛\聞(二)食之(一)悶絶して、地に倒もだえ■(こがれ)給けり。何習はせ給たる御事にあらね共、責の御子の悲さに、徒跣にて御足の欠損ずるをも顧させ給はず、御参有けるに、角聞召けん御心中、被(二)推量(一)哀也。心地観経に、悲母恩深如大海と説給へるも、今こそ被(二)思知(一)けれ。北政所(きたのまんどころ)は泣々又御心中に、一の願を立させ給けり。良久有て彼童神子申けるは、既に上らせ給はんとしつるに、北政所(きたのまんどころ)重て御心の底に、一の願を発給へり。長命までこそ叶はず共、半年一年也共、今度
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の命を助給へ、八王子(はちわうじ)の御前にて毎日法花講行て、法楽に備へんと也。此間様々の御願(ごぐわん)有といへ共、一乗の法味は飽思召(おぼしめす)事なし、聞ども/\弥めづら也。何の願よりも目出ければ、三年の命を奉る、其後は我を恨と思召(おぼしめす)な、必死決定とて権現上せ給にけり。北政所(きたのまんどころ)御所に帰入せ給て、此御物語(おんものがたり)有ければ、上下万人身の毛立てぞ覚ける。御託宣聊もたがはせ給はず、御腫物(有朋上P122)いへさせ給て、御心地本復せさせ給ければ、紀伊国田中庄は、殿下渡庄也けれ共、八王子(はちわうじ)に御寄附あり。依(レ)之問答講とて今に退転なし。其後中二年有て、承徳二年六月廿一日に、関白殿(くわんばくどの)本の御髪際に又悪瘡出きさせ給へり。兼て御託宣有しかば、今は一筋に後世の御営有けるが、同廿八日に、大殿に先立給て薨じ給ふ、御年三十八、未盛の御事也。京極の前大相国師実公の長男、御母は右大臣師房御娘也。才幹抜粋にして、容貌端正に御座し上、時の関白(くわんばく)に御座しかば、百官袂を絞り、万庶悲を含り。まして父の大殿、北政所(きたのまんどころ)の御心中、たゞ推量べし。此御病は御髪際に出て、悪瘡にて大に腫させ給へり。御看病に伺候したる輩、立烏帽子(たてえぼし)を著て前後に侍けるが、互に見ぬ程に大に高腫させ給たれば、入棺可(レ)奉(二)葬送(一)御有様(おんありさま)にも非。父の大殿是を守御覧じて、御涙に咽ばせ給ながら、御行水召れて、春日大明神(かすがだいみやうじん)を伏拝せ給て、子息師通山王の御咎とて世を早し候ぬ。いかに春日明神(かすがみやうじん)は、思食(おぼしめし)捨させ給けるやらん。但定業限あらん命、今は力及侍らず、かゝる浅間敷有様(ありさま)にて、恥隠べき様なし、此後の氏人々々たるべきならば、此姿を本の形に成給へ、最後の孝養仕んと、泣々(なくなく)口説給けるこそ哀なれ。御納受有けるにや、忽に御腫の
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しへさせ給て、入棺事畢にけり。関白殿(くわんばくどの)のさこそ御心も猛、理つ(有朋上P123)よくゆゝしき人にて御座しか共、事の急に成けるには、御命を惜給けり、誠に惜べき御齢也。未四十にだにも成せ給はず、何事も先世の事と申ながら、親に先立せ給ふ御怨も哀也し御事也。されば昔も今も山門の訴詔(そしよう)は恐しき事也、大衆憤をなし、山王の衆徒を育御坐事難(レ)黙止と申伝たり。中宮大夫師忠、奸邪の詞を出さずは、かゝる大事にや及べき。江中納言匡房卿の大に被(二)歎申(一)けるも、思知るゝとぞ申あへりける。
関白殿(くわんばくどの)薨去の後、八王子(はちわうじ)と三宮との神殿の間、磐石あり。彼石の下に、雨の降夜は、常に人の愁吟する声聞えけり。参詣の貴賎あやしみ思けり。余多人の夢に見けるは、束帯したる気高上臈の仰には、我はこれ前関白(くわんばく)従一位(じゆいちゐ)内大臣(ないだいじん)師通也。八王子権現(はちわうじごんげん)我魂を此岩の下に籠置せ給へり。さらぬだに悲、雨の降夜は石をとりて責押に依て、其苦み難(レ)堪也とて、石の中に御座とぞ示給たりける。星霜やう/\経程に、今は愁吟の音絶にけり。人の夢に、我久磐石の下に被(二)籠置(一)たりつれ共、長日の法華講経の功力に依、相助り、都卒天宮に生たりと告られけり。さてこそ磐石の重き苦の御音もなかりけれ。悪様に申勧まいらせたりける中宮大夫師忠も、幾程なくして失にけり。禰宜友実を射たりける中務丞頼治自害して、一類も皆亡けり。神明罰(二)愚人(一)とは此事にや、申すも中々疎也。(有朋上P124)
今年改元有て治承元年といふ。
S0405 山門御輿振事
治承元年四月十三日辰刻に、山門大衆日吉七社の神輿を奉(レ)荘、根本中堂(こんぼんちゆうだう)へ振上奉、先八王子(はちわうじ)、客人権現、
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十禅師(じふぜんじ)、三社の神輿下洛有。白山、早松の神輿、同振下奉、大岳水呑不動堂、西坂本、下松、伐堤、梅忠、法城寺に成ければ、祗園三社、北野京極寺末社なれば、賀茂川原待受て、力合て振たりけり。東北院の辺より神人宮仕多来副て、手を扣音調て、をめき叫、貴賎上下走集て之拝し奉る。法施の声々響(レ)天、財施の散米地を埋たり。一条を西へぞ入せ給ける。まだ朝の事なれば、神宝日に輝て、日月地に落給へるかと覚たり。源平の軍兵依(二)勅命(一)四方の陣を警固す。神輿堀川猪熊を過させ給て、北の陣より達智門を志てぞふり寄たてまつる。
源兵庫頭頼政は、赤地錦直垂に、品皮威の鎧著て、五枚甲に滋藤の弓、廿四指たる大中黒の箭負て、宿赭白毛馬に白伏輪の鞍置て乗、三十余騎にて固たり。神輿既に門前近入せ給ければ、頼政急下馬す。甲を脱弓を平め、左右の臂(ひぢ)を地に突。頭を傾け奉(レ)拝。大将軍(有朋上P125)角しける上は、家子も郎等も各下馬して拝けり。大衆見(レ)之子細有らんとして、暫神輿をゆらへたり。頼政は丁七唱と云者を招で、子細を含て大衆の中へ使者に立。唱は小桜を黄に返たる鎧に、甲を脇に挟み弓を平め、神輿近参寄、敬屈して云、是は渡部党、箕田源氏綱が末葉に、丁七唱と申者にて侍。大衆の御中へ可(レ)申とて、源兵庫頭殿の御使に参て侍。加賀守師高(もろたか)狼藉の事に依、聖断遅々之間、山王神輿陣頭に入せ給べき由、其聞有て公家殊に騒驚き思召(おぼしめし)、門々を可(二)守護(一)之旨、勅定を蒙て、源平の官兵四方の陣を固る内、達智門を警固仕、昔は源平勝劣なかりき。今は源氏においては無(レ)力如し。頼政纔に其末に残て、
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たま/\綸言を蒙、勅命背き難ければ此門を固むる計也。然共年来医王山に首を傾奉て、子孫の神恩を奉(レ)仰、今更神輿に向奉て、弓を引可(レ)放(レ)矢ならねば、門を開て下馬仕引退て神輿を可(レ)奉(レ)入、其上纔の小勢也、衆徒を禦奉るに及ず、此上は大衆の御計たるべし。但三千の衆徒神輿を先立奉り、頼政■弱(わうじやく)の勢にて固て候門を、推破奉(レ)入ては、衆徒御高名候まじ、京童部が弱目の水とか笑申さん事をば、争か可(レ)無(二)御憚(一)。東面の北脇陽明門をば、小松(こまつの)内大臣(ないだいじん)重盛公(しげもりこう)、三万余騎にて固らる。其より入せ御座べくや候らん。さらば神威の程も顕れ、御訴詔(ごそしよう)も成就し、衆徒後代の御高名(有朋上P126)にても候はんずれ。角申を押て入せ給はば、頼政今日より弓箭を捨て、命をば君に奉、骸を山王の御前にて曝べしと申せと候とて、太刀のつか砕よと握らへて立たり。大衆聞(レ)之、若衆徒は何条是非にや及べき、唯押破て陣頭へ奉(レ)入と云けるを、物に心得たる大衆老僧は、さればこそ子細有らんと思つるにとて、奉(レ)抑(二)神輿(一)暫僉議(せんぎ)しけり。
S0406 豪雲僉議(せんぎの)事
其中に西塔の法師に、摂津竪者豪雲と云者あり、悪僧にして学匠也。詩歌に達して口利也けるが、大音挙て僉議(せんぎ)しけるは、大内の四方門々端多し、強に北陣より非(レ)可(レ)奉(レ)入。就(レ)中(なかんづく)彼頼政は、六孫王より以来、弓箭の芸に携て、代々不覚の名をとらず、是は其家なれば、いかゞせん、和漢の才人風月の達者、かた/゛\優の仁にて有なる者を、
S0407 頼雅歌事
実や一とせ近衛院御位の時、当座の御会に、深山見(レ)花と云ふ題給りて、
深山木の其梢共みえざりし桜は花にあらはれにけり K026(有朋上P127)
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と秀歌仕たりけるやさ男、さる情深き名仁ぞや。首を山王に傾て、年久掌を衆徒に合て降を乞、嗷々無(レ)情門々端多し、頼政が申状に随はるべき歟哉と■(ののしり)ければ、大衆尤々(もつとももつとも)と同じて三社の神輿を舁返し、東面の北の端、陽明門をぞ破ける。此門をば重盛(しげもり)の軍兵ぞ固たりける。警固の武士は神輿入たてまつらじと支たり。大衆神人は陣頭を押破らんとしける程に、以外に狼藉出来て、官兵矢を放。其矢十禅師(じふぜんじ)の御輿に立。神人一人宮仕一人射殺さる。蒙(レ)疵者も多かりけり。神輿に矢立神民殺害の上は、衆徒音を揚てをめき叫事夥し。見聞の貴賎も身毛立ばかり也。大衆は神輿を陣頭に奉(二)振捨(一)、なくなく本山に帰のぼりぬ。
抑豪雲と云は、二品中務親王具平七代の孫、民部大輔憲政が子也けり。訴詔(そしよう)の事有て、後白川法皇の御所に参す。折節法皇南殿に出御有て、御座いかなる僧ぞと御尋あり。山僧摂津竪者豪雲と申者にて侍と奏したり。法皇被(二)仰下(一)けるは、実や和僧は山門僉議者(せんぎしや)と聞召、己が山門の講堂の庭にて僉議(せんぎ)するならん様に只今申せ、訴詔(そしよう)あらば直に可(レ)被(二)裁許(一)と、豪雲蒙(二)勅定(一)、頭を地に傾畏て奏しけるは、山門の僉議(せんぎ)と申事は、異なる様に侍、歌詠ずる音にもあらず、経論を説音にも非、又指向言談する体をもはなれたり、(有朋上P128)先王の舞を舞なるには、面摸の下にて鼻をにかむる事に侍る也。三塔の僉議(せんぎ)と申事は、大講堂の庭に三千人の衆徒会合して、破たる袈裟にて頭を裹、入堂杖とて三尺許なる杖を面々に突、道芝の露打払、小石一づつ持、其石に尻懸居並るに、弟子にも同宿にも、聞しられぬ様にもてなし、鼻を押へ声を替て、満山の大衆立廻られよやと申て、訴詔(そしよう)の趣を僉議(せんぎ)仕に、可(レ)然をば尤々(もつとももつとも)と同ず、不(レ)可(レ)然をば此条無(レ)謂と申、仮令勅定なればとて、ひた頭直面にては争か僉議(せんぎ)仕べきと申上れば、法皇先与に入せ給、早々罷帰て山門
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にて僉議(せんぎ)するらん様に出立て、急参て僉議(せんぎ)仕れと被(二)仰下(一)。豪雲宿坊に帰て、同宿共には袈裟にて裹(レ)頭、童部には直垂の袖にて頭裹せて、三十余人引具して、御前の雨打の石に尻係て並居たり。豪雲己が鼻を押へて、大衆立廻られよやと云て、我訴訟(そしよう)の趣を、事の始より終まで一時が程こそ申たれ。同宿共兼て存知の事なれば、尤々(もつとももつとも)と訴詔(そしよう)其謂あり、道理顕然也、早可(レ)被(レ)経(二)奏聞(一)、聖代明時之政化、争か無(二)御裁許(一)哉と申たりければ、法皇御興有て、則被(二)仰付(一)たりけるとかや。係者也ければ、さしもの乱の折節に、僉議(せんぎ)して頼政難を遁たり。
蔵人左少弁(させうべん)兼光仰を承て、先例を大外記師尚に被(レ)尋ける上、院の殿上にて、公卿僉議(くぎやうせんぎ)あり。保安の例とて、神輿を祗園社へ可(レ)奉(レ)渡之由、諸(有朋上P129)卿各被(レ)申ければ、未刻に及で、彼社の別当権大僧都(ごんのだいそうづ)澄憲を召て、神輿を可(レ)奉(二)迎入(一)由仰含けり。澄憲畏つて奏申、我山は是日本無双之霊地、鎮護国家之道場也、我神は又和光垂跡(わくわうすいしやく)之根元、効験掲焉之明神也、日吉の神威、異(二)于他(一)、山門の効験勝(二)于世(一)、恵亮脳を摧て、清和位に即給、尊意剣を振て、将門終に亡にき、神は又あくまで一乗の法味をなめて、感応風雲よりも速に、独百神の化導に秀、賞罰日月よりも明なり。
住吉明神託宣云、天慶年中に凶賊を誅する陣には、我大将軍にして、山王副将軍たり。康平年中の官軍には、山王大将軍として、我副将軍たりきと、依(レ)之代々の聖主、一山験徳を憑、世々の臣公七社の冥鑒を仰。神の神たるは、人の礼に依て也。人の人たるは神の加護に任たり。而を今度朝儀遅々の間、神輿入洛に及、尤恐思召(おぼしめす)べき事也、伝聞延喜帝の御宇に、飢饉疫癘起て、天下に餓死する者
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多し。帝民の亡るを歎思食(おぼしめし)て、我山に仰付て可(二)祈止(一)之由勅定あり、三塔会合して、僉議(せんぎ)区也。雨を祈雨を降し、日を祈て日を輝す事、非(レ)無(二)先例(一)。而に普天の飢饉四海の疫癘、いかゞ有べきと云大衆あり。或云辞申せば勅命を背に似たり、領掌すれば先蹤なしといへ共、皇王を守護し、夷狄を降伏し、天災を除地夭を転ずる事、我山万山に勝たり。況閻浮提人病之良薬、若人有病得聞是経、(有朋上P130)病即消滅不老不死と説り。一乗法花を転読して、七社権現に祈誓せば、何どか勝利なからんやと云大衆あり。或云、七難を滅して七福を生じ、不祥を退、夭蘖を払はんが為に、仏護国の法を説給へり。然者(しかれば)仁王経を転読講尺此時に当れりと云ければ、此義最然べしとて、三千衆徒一七箇日、山上三塔の諸堂にして、一万部の仁王般若を転読して、供養を山王の宝前にて遂けり、飢饉に責られ疫癘に浸れて、親に後る子、恩徳の高き涙を流し、子を先立る親、哀愍(あいみん)の深き袖を絞る。兄弟夫婦互に別亡ければ、京中も田舎も、皆触穢にて社参の者なし。折節四月上旬にて、導師説法の終に、卯月は神の月なれども、再拝と云人もなく、八日は薬師(やくし)の日なれども、南無と唱る声もせず、緋の玉垣地に倒、青葉の榊も不(レ)差けりとしたりければ、三千の衆徒一同に墨染の袖をぞ絞ける。神明御納受有ければ、則夜に帝の御夢想に、比叡山より天童二人下て、左手に瑠璃の壺を持、右の手に榊の枝を持て、榊を壺の水に指入て、京中辺土の病者に灑ければ、家々より青鬼赤鬼いくらと云数を知ず出て、さると叡覧あり。打驚御座て、朕が歎衆徒の祈、仏神に感応して、無為の代に成ぬるにこそと御感有て、説法の草案を被(レ)召、
P0095
御衣の袖をぞ絞らせ給ける。いつしか民の煙もにぎはひ、烟絶せぬ御代に改たりければ、古歌を思食(おぼしめし)(有朋上P131)出て、
高きやに上てみれば煙たつ民のかまどはにぎはひにけり K027
と、かゝる目出き我山也。係目出き垂跡(すいしやく)也。下洛実不(レ)輙、衆徒の憤冥慮に通する時、神輿必入洛あり、急可(レ)有(二)裁許(一)哉。
S0408 山王垂跡(すいしやくの)事
凡山王権現と申は、磯城島金■宮、即位元年、大和国城上郡大三輪神と天降給しが、大津宮即位元年に、俗形老翁の体にて、大比叡大明神(だいみやうじん)と顕給へり。大乗院の座主慶命、山王の本地を被(二)祈申(一)けるに、御託宣に云、此にして無量歳仏果を期し、是にして無量歳群生を利すと仰ければ、座主提婆品の我見釈迦如来(しやかによらい)於無量劫、難行苦行積功累徳、求菩薩道未曾止息、観三千大千世界、乃至無有如芥子許非是菩提捨身命処と云文に思合て、大宮権現ははや釈尊の示現也けり。されば我滅度後於末法中、現大明神(だいみやうじん)広度衆生とも仰られ、汝勿帝泣於閻浮提、或復還生現大明神(だいみやうじん)とも慰給けるは、日本叡岳の麓に、日吉の大明神(だいみやうじん)と垂跡(すいしやく)し給べき事を説給けるにこそと、感涙をぞ流されける。地主権現と(有朋上P132)申は、豹留尊仏の時、天竺の南海に、一切衆生、悉有仏性と唱る波立て、東北方へ引けるに、彼波に乗て留らん所に落付んと思食(おぼしめし)けるに、遥(はるか)に百千万里の波路を凌て、小比叡の杉下に留らせ給けり、其後天照大神(てんせうだいじん)天の岩戸を開、天御鋒を以て海中を捜せ給しに、鋒に当人あり。誰人ぞと尋給ければ、我は是日本国の地主也とぞ答給ける、昔天地開闢の初の、国常立の尊の天降給へる也。此神日吉に顕給けるには、三津川の水五色の浪を流しけり。されば我朝は、大比叡小比叡とて大宮二宮の御国也。迹を叡山の麓に垂て、威を一朝の間に振、円宗守護之霊神、王城鎮護之霊社也。依(レ)之代々の
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帰敬是深、世々の崇信不(レ)浅、四海之甲乙掌を合、諸国之男女歩を運べり。
係目出き神輿を塵灰に蹴立て、白昼に雑人共に交奉り入奉らん事、其恐侍るべしと奏申たりければ、上一人より奉(レ)始、当参の卿相(けいしやう)雲客(うんかく)、随喜の涙を流して、偈仰の袖を絞けり。仍及(二)晩陰(一)祇園社へ奉(レ)入、神輿に立所の矢をば、神人を以て抜せられけり。
山門の大衆訴詔(そしよう)を致す時、聖断遅々の間、神輿を下し奉事、度々に及べり。
鳥羽院御宇嘉承三年三月三十日、尊勝寺灌頂(くわんぢやう)の事に依、二社八王子(はちわうじ)客人神輿、下松まで下給へり。可(レ)有(二)(レ)裁許(一)之由、即時に被(二)仰下(一)ければ、其夜御帰座、四月一日彼寺灌頂(くわんぢやう)(有朋上P133)被(レ)付(二)天台(一)両門之旨、被(二)仰下(一)畢。
崇徳院御宇、保安四年七月十八日、忠盛朝臣、神人殺害事に依、三聖並、三宮奉(レ)下(二)神輿(一)。官軍川原に馳向禦間、神人等神輿を奉(レ)捨分散す。大衆数百人感神院に引篭て官軍と合戦に及。
同御宇保延四年四月廿九日、賀茂社領住人、日吉馬上対捍の事に依、八王子(はちわうじ)、客人、十禅師(じふぜんじ)三社の神輿を仙洞へ、鳥羽院奉(レ)振。即時に裁許有ければ、大衆帰山の次で、鴨禰宜住宅を破却しけり。
近衛院御宇、久安三年六月廿八日、清盛朝臣郎従依(二)神人殺害事(一)、三社の御輿を陣頭に奉(レ)振。同日に忠盛可(レ)被(二)配流(一)之由、被(二)仰下(一)畢。
二条院御宇、永暦元年十一月十二日、菅貞衡朝臣息男資成、依(二)有智山僧坊焼失事(一)、三社の御輿を仙洞へ
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後白川院 奉(レ)振当日貞衡解官資成流罪、安楽寺住僧六人禁獄之由、右大弁雅頼を以て、大衆の中被(二)仰下(一)。大衆不日の勅裁を悦予して、倶舎頌を誦して帰山畢、やさしかりける事也。
高倉院御宇、嘉応元年十二月廿二日、尾張国目代(もくだい)政友、依(二)平野の神人陵礫の事(一)、三社の神輿を奉(レ)振(二)大内(一)、裁報遅々の間、御輿を南殿に向奉(二)振居(一)。同廿四日成親卿(なりちかのきやう)解官配流、備中国政友、禁獄之由被(二)宣下(一)畢。
神輿下洛の御事、代々及(二)六箇度(一)、毎度に武士を召て被(レ)禦けれ共、御輿に矢を進る事はなかりき。今度の御輿に矢の立事、乱国基歟、浅間しと云も疎也。(有朋上P134)人恨神怒れば災害必成といへり、天下の大事に及なんと、心ある者は上下皆歎恐けり。
四月十四日に、大衆なを可(二)下洛(一)之由聞えければ、夜中に主上腰与に召て、院(ゐんの)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ行幸、内大臣(ないだいじん)重盛(しげもり)以下の人々、直衣に矢負て供奉せらる。軍兵御輿の前後に打囲て雲霞の如く也。中宮は御車にて行啓、禁中何と無く周章騒、男女東西に走迷へり。関白(くわんばく)以下大臣公卿殿上の侍臣皆馳参りけり。聖断遅々の間、衆徒多矢にあたり、神人殺害に及上は、神輿の残四社を奉(二)振下(一)、七社の神殿、三塔の仏閣一宇も不(レ)残焼払、山野に交るべし、悲哉西光一人が姦邪に依て、忽に園融十乗の教法を亡さん事をと、三千の衆徒僉議(せんぎ)すと聞えければ、当山の上綱を召て、可(レ)有(二)御成敗(一)之旨依(レ)被(二)仰下(一)、十五日勅定を披露の為に、僧綱等(そうがうら)登山しけるを、衆徒嗔を成て、水飲に下向て追臨す。僧綱(そうがう)色を失て逃下。
S0409 師高(もろたか)流罪宣事
廿日
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加賀守師高(もろたか)解官、尾張国流罪由被(二)宣下(一)。上卿は権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)忠親卿(ただちかのきやう)也。此宣旨を以、急登山して、山門騒動を可(レ)鎮之由仰けれ共、衆徒の蜂起に恐、登山せんと云人なし。平(へい)大納言(だいなごん)(有朋上P135)時忠卿(ときただのきやう)、其時は中納言にて御座けるが、本より心猛勇る人にて、乱の中の面目とや被(レ)思けん、侍十人花を折て装束し、雑色共人に至(いたる)まで当色きせて出立給へり。山上には、時忠登山あらば、速にもとゞりを切、湖水にはめよなんど僉議(せんぎ)すと聞り。時忠卿(ときただのきやう)既に有(二)登山(一)。実に衆徒の嗔れる気色面を向べき様に非、只今可(レ)会(レ)事体也ければ、供に有つる侍も雑色も、大床の下御堂の陰に忍居たり。時忠卿(ときただのきやう)は少も騒給はず、大講堂の庭に進出て、懐中より矢立墨筆取出して、所司を招硯に水入、畳紙に一筆書てぞ給たりける。所司状を捧て大衆の前ことに披露す。其詞に云、衆徒致(二)濫悪(一)者、魔縁之所行、明王加(二)制止(一)者、善逝之加護也とぞ書たりける。大衆各見(レ)之、理なれば不(レ)及(二)引張(一)、還優に書れたる一筆かなと、称美賛嘆に及落涙する衆徒も多かりけり。其後師高(もろたか)解官配流の宣旨を取出て披露あり。
今月十三日叡山衆徒、舁(二)日吉社、感神院等之神輿(一)、不(レ)憚(二)勅制(一)乱(二)入陣中(一)。爰警固之輩、相(二)禦凶党之間(一)、其矢誤中(二)神輿(一)事、雖(レ)不(レ)図、何不(レ)行(二)其科(一)、宣(下)仰(二)検非違使(けんびゐし)(一)、召(二)平利家、同家兼、藤原通久、同成直、同光景、田使俊行等(一)、給(中)獄所(上)者也。従五位上加賀守藤原朝臣師高(もろたか)解官流罪尾張国、目代(もくだい)師経(もろつね)流罪備後国、奉(レ)射(二)神輿(一)官兵七人、禁獄事者、(有朋上P136)今日宣下訖。以(二)此旨(一)、可(下)令(レ)披(二)露山上(一)給(上)之由所(レ)候也、恐々謹言。
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四月二十日 権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)藤原光能
執当法眼御房へとぞ有ける。
追書に云、禁獄官兵等之交名、山上定令(二)不審(一)候歟、仍内々委相尋尻付交名一通、所(レ)被(二)相副(一)候也、平利家字平次、是は薩摩入道家季孫、中務丞家資子、同家兼字平五、故筑後入道家貞孫、平田太郎家継子、藤原通久字加藤太、同成直字十郎、是は右馬允成高子、同光景字新次郎、是は前左衛門尉忠清子、成田兵衛尉為成、田使俊行、難波吾郎と注したり。
衆徒取廻々々見(レ)之事柄よかりければ、逃隠たりつる侍も雑色も、此彼より出たりけり。時忠卿(ときただのきやう)則下洛して、参内事の次第一々に被(二)奏聞(一)けり、ゆゝしくぞ聞えける。後に大衆口々に申けるは、哀能はいみじき者かな、此時忠が五言四句の筆のすさみを以て、三千一山の憤を平げつゝ、難(レ)逃虎口を遁て、見るべき身の恥を逃ぬるこそ有難けれと感じけり。
昔大国に魏文帝と云御門御座けり。其弟に陳思王と云ふ人あり。同母の兄弟にて、蘭菊の契深かるべかりけるに、何事の隔有けるやらん、兄の文帝、陳思王を悪で(有朋上P137)殺さんと思つゝ、弟を前に呼居て云けるは、汝七歩が間に詩を造、不(レ)然者(しかれば)速に汝を可(レ)殺と聞えければ、陳思死を逃んが為に、文帝の前を立ちて七歩しける間に、煮(レ)豆燃(二)豆■(一)豆在(二)釜中(一)泣、本是同根生、相煎何太急と云たりけれ。文帝感(レ)之弟を許し、厚断金兄弟の昵を成けり。是を七歩の才といへり。陳思王は七歩の詩を造て一生の命を助け、時忠卿(ときただのきやう)は両句の筆に依、三千の恥を遁たり。誠に時の災をまぬかるゝ事、芸能に過たるはなかりけり。
S0410 京中焼失事
四月廿八日亥刻に、樋口、富小路より焼亡あり。是は神輿を奉(レ)禦とて狼藉に及武士七人、禁獄之
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内、十禅師(じふぜんじ)の御輿に、矢を射立進らせける。成田兵衛為成と云者は、小松殿(こまつどの)の乳人子也。ことに重科の者也。衆徒の手に給て、唐崎に八付にせん罧にせんなど訴申ければ、小松殿(こまつどの)よりとかく山門を被(レ)宥て、禁獄をも乞免し、伊賀国へ流せとて所領へ下遺けるが、今日の晩程に、遺惜まんとて、同僚共が樋口富小路なる所に寄合て酒盛しけり。酒は飲ば酔習なれ共、各物狂しき心地出来て、成田が前に杯の有ける時、或(有朋上P138)者が申けるは、兵衛殿田舎へ御下向に、御肴に進べき物なし、便宜能是こそ候へとて、もとゞり切て抛出たり。又或者が、穴面白や、あれに劣べきかとて、耳を切て抛出す。又或仁思中には、大事の財惜からず、大事の財には命に過ぎたる者有まじ、是を希にして、腹掻切て臥ぬ。成田兵衛が、穴ゆゝしの肴共や、帰上て又酒飲事も難(レ)有、為成も肴出さんとて、自害して臥。家主の男思けるは、此者共かゝらんには、我身残たり共、六波羅へ被(二)召出(一)安穏なるまじとて、家に火さして炎の中に飛入て焼にけり。折節巽の風はげしく吹て、乾を指て燃ひろごる。融大臣塩釜や川原院より焼そめて、名所卅余箇所公卿家十七箇所焼にけり。染殿と申すは忠仁公の家也。正親町京極 小一条殿と申は、貞仁公の家とかや。近衛東洞院 染殿の南には、C和院、小二条、款冬殿と申は、二条東洞院也 三条宮の御子、左の小蔵宮とぞ申ける。照宣公の堀河殿、大炊御門、冷泉院、中御門の高陽院、寛平法皇の亭子院、永頼三位の山井殿、鷹司殿、大炊殿、押小路町の鴨井殿、六条院、小松殿(こまつどの)、公任大納言の四条殿、良相公の西三条、高明御子の西宮、三条朱雀に、朱雀院、神泉苑、勧学院、奨学院、穀倉院、東三条
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近衛院、滋野井本院、小野宮、冬嗣大臣の閑院殿、北野天神紅梅殿、梅苑、桃苑、高松殿、中務の宮の千種殿、(有朋上P139)枇杷殿、一院京極殿、天の橋立に至(いたる)まで、一字も残らず焼にけり。まして其外家々は数を知ず、はては大内に吹付たりければ、朱雀門、応天門、会昌門、陽明、待賢、郁芳門、清涼、紫宸、大極殿、豊楽院、天透垣、竜の小路、殿上の小庭、延喜の荒海、見参の立板、動の橋、諸司八省までも、皆焼亡ぬ。浅揩ニ云も疎也。
S0411 盲ト事
大炊御門堀川に、盲の占する入道あり。占云言時日を違ず、人皆さすのみこと思へり。焼亡と■(ののし)りければ、此の盲目何く候ぞと問。火本は樋口富小路とこそ聞と云。盲しばし打案じて、戯呼一定此火は是様へ可(レ)来焼亡也、ゆゝしき大焼亡かな、在地の人々も、家々壊儲物共したゝめ置べきぞと云。聞者皆をかしう思て、樋口は遥の下、富の小路は東の端、さしもやは有べき、いかにと意得てかくは云ぞと問ければ、占は推条口占とて、火口といへば、燃広がらん、富小路といへば、鳶は天狗の乗物也、少路は歩道也、天狗は愛宕山に住ば、天狗のしわざにて、巽の樋口より乾の愛宕を指て、筋違さまに焼ぬと覚ゆとて、妻子引具し資財取運て逃にけり。人嗚呼がましく思けれ共、焼て(有朋上P140)後にぞ思合ける。
S0412 大極殿焼失事
樋口富少路よりすぢかへに乾を差て、車の輪程也ける炎、内裡の方へぞ飛行ける。これ直事非、比叡山より猿共が、松に火を付持下つゝ、京中を焼払ふとぞ、人の夢には見たりける。神輿に矢立、神人宮司、被(二)射殺(一)たりければ、山王嗔を成給、角亡し給けるにこそ。人恨神嗔、必災害成といへり。誠哉此事、大極殿〔は〕清和帝の御時、貞観十八年四月九日焼たりけるを、同十九年正月三日、陽成院の御即位
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は豊楽院にてぞ有ける。元慶元年四月九日事始有て、同三年十月八日ぞ被(二)造出(一)たりける。後冷泉院御宇、天喜五年二月廿一日に又焼にけり。治暦四年八月二日事始有て、同年十月十日棟上有けれ共不(レ)被(二)造出(一)、後冷泉院は隠れさせ給にけり。後三条院の御時、延久四年十月五日、被(二)造出(一)行幸有て宴会被(レ)行、文人詩を奉、伶人楽をぞ奏しける。今は世末に成、国の力衰て、又造出さるゝ事難もやあらんと、皆人嘆合給けり。嵯峨帝の御時、空海僧都(そうづ)勅を奉て、大極殿の額を被(レ)書たり。小野道風見(レ)之大極殿には非、火極殿とぞ見えたる、(有朋上P141)火極とは火極と読り、未来いかゞ有べかるらん、筆勢過たりとぞ笑ける。去ばにや、今かく亡ぬるこそ浅増けれ。
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第五
P0103(有朋上P143)
保巻 第五
S0501 座主流罪事
安元(あんげん)三年五月五日、明雲(めいうん)僧正(そうじやう)被(レ)止(二)公請(一)之上、蔵人を遣て、被(レ)召(二)返御本尊(一)。其上使庁の使を以て、今度奉(レ)振(二)下神輿(一)、大衆の張本を被(レ)召けり。加賀国には座主の御房領あり。師高(もろたか)国務之刻、是を停廃の間、其宿意に依て、門徒の大衆を語らひ訴訟(そしよう)を致。既(すで)に朝家の及(二)御大事(一)之由、西光(さいくわう)法師(ほふし)父子讒奏之間、法皇大に逆鱗有て、殊に重科を行べき由被(二)思召(一)(おぼしめされ)けり。
同六日検非違使(けんびゐし)師房、使庁の下部二十余人(よにん)を相具して、白河高畠の座主の御坊内に乱入て、狼藉古今に絶たり。軈当日に印鎰を御経蔵へ奉(レ)渡。山門京都耳目を驚せり。衆徒谷々坊々に寄合々々私語けり。十一日七条の七宮覚快 天台座主(てんだいざす)に成せ給。是は鳥羽院(とばのゐん)の第七の皇子、故青蓮院大僧正(だいそうじやう)行玄の御弟子なり。同日に明法へ被(二)尋下(一)、宣旨状云、
延暦寺前座主僧正(そうじやう)明雲(めいうん)条々所犯事(有朋上P144)
一故大僧正(だいそうじやう)快秀、為(二)当山座主(一)間、相(二)語悪僧等(一)、令(レ)追(二)払山門(一)事。
一去嘉応元年、就(二)美濃国比良野庄民等(一)、結(二)構訴訟(そしよう)(一)、発(二)当山之悪徒(一)、令(レ)乱(二)入宮城(一)狼藉事。
一近日大衆蜂起事、次第超過、彼嘉応狼藉、先一旦意趣、催(二)三塔凶徒(一)、外構(二)制止之詞(一)、内成(二)騒動企(一)、
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蔑(二)爾朝章(一)、欲(レ)滅(二)仏法(一)、或以(二)凶徒(一)、乱(二)入陣中(一)、数箇所放火、或対(二)警固之輩(一)合戦、或帯(二)兵具(一)、可(レ)下(レ)洛之由、令(二)執奏(一)、誠是朝家之怨敵、偏叡山(えいさん)之魔滅者歟、仰(二)下明法博士(一)、就(二)彼条々所(一)(レ)犯、可(レ)勘(二)申明雲(めいうん)所(レ)当罪名(一)。
安元(あんげん)三年五月十一日 蔵人頭右近衛中将藤原朝臣光能奉とぞ有ける。十二日に前座主所職を被(レ)止之上、大衆の張本を出すべき由、検非違使(けんびゐし)二人を被(二)差遣(一)、水火の責に及けり。此事に依て衆徒憤申て、猶参洛すべしと聞ければ、内裏並に法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に軍兵を被(二)召置(一)、大臣以下殿上の侍臣皆馳集りければ、京中の上下騒あへり。
S0502 山門奏状事(有朋上P145)
同十五日に前座主明雲(めいうん)僧正(そうじやう)減(二)死罪一等(一)、可(レ)被(二)遠流(一)之由法家勘申之旨風聞有ければ、衆徒捧(二)奏状(一)云、
延暦寺三千大衆法師等誠惶誠恐謹言。
請特蒙(二)天恩(一)、早被(レ)停(二)止前座主明雲(めいうん)配流並私領没官子細(一)事
右座主、是挑(二)法燈(一)之職、和尚又伝(二)戒光(一)之仁也、若処(二)重科(一)、被(二)配流(一)者、豈非(二)天台円宗(一)、忽滅(二)菩薩大戒(一)、永矢哉、因(レ)茲我山開闢之後、貫首草創以来、百王理乱、雖(二)是異(一)、一山安危、雖(レ)随(レ)時、只有(二)帰敬之礼(一)、都無(二)流罪之例(一)、就(レ)中(なかんづく)明雲(めいうん)是顕密之棟梁、智行之賢徳也、一山九院之陵遅、此時復(二)旧跡(一)、四教三密之紹隆其儀不(レ)恥、上代、今忽赴(二)遠方(一)、永別(二)我山(一)、衆徒悲歎何事如(レ)之、何況前座主、於(二)天朝(一)者、是一乗経之師範也、須(レ)尽(二)千歳之供給於仙院(一)者、又菩薩戒之和尚也、盍(レ)運(二)三時
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之礼敬(一)、今没官所(レ)知、更被(レ)蒙(二)重科(一)、寧非(二)大逆罪(一)哉、謹尋(三)異域訪(二)旧例(一)、未(レ)聞(二)一朝国師無(一)(レ)故、蒙(二)逆害(一)矣、抑配流科怠何事乎、如(二)閭巷説(一)者、或人讒言度々、山門訴訟(そしよう)、或追(二)却快秀僧正(そうじやう)(一)、或訴(二)申成親卿(なりちかのきやう)(一)、又当時師高(もろたか)之事等、偏是明雲(めいうん)之結構者也、因(レ)此讒達忽蒙(二)勅勘(一)、云々、若如(二)風聞(一)者、何用(二)浮言(一)、須(下)対(二)決彼此(一)被(レ)糾(中)真偽(上)也、至(二)件等事(一)者、大衆鬱憤致(二)訴訟(そしよう)(一)之刻、於(二)前座主(一)(有朋上P146)者、毎度禁(二)制之(一)、蓋山門動揺、為(二)貫主痛(一)故也、対決処無(二)其隠(一)歟、設有(二)不慮越度(一)、何及(二)重科(一)耶、衆徒等、謹驚(二)天聴(一)欲(レ)救(二)末寺愚僧(一)之処、被(レ)召(二)其張本(一)、為(レ)歎之間、終失(二)本山之高僧(一)之条、不慮愁無(二)物取(一)(レ)喩、夫不(レ)蒙(二)聖勅(一)、勿(レ)散(二)怨望(一)、是常例也、今雖(レ)仰(二)天裁(一)、還蒙(二)厳罰(一)、未(レ)得(レ)意矣、抑我君太上法皇、偏仰(二)医王山王之冥徳(一)、久帰(二)台岳三宝(一)、専愍(二)山修山学之襌侶(一)、忝抽(二)興隆之叡慮(一)、而今仁恩忽変、誅戮俄来、数百歳之仏日云、迷(二)心神之所行(一)、三千人(さんぜんにん)之胸火熾燃、不(レ)知(二)愚身之所(一)(レ)措、若明雲(めいうん)被(二)配流(一)者、衆徒誰留(レ)跡、鎮護国家道場、眼前欲(二)魔滅(一)、早宥(二)明雲(めいうん)配流(一)、被(レ)停(二)止私領没官(一)者、十二願王新護(二)持玉体(一)、三千衆徒弥奉(レ)祈(二)宝算(一)矣、誠惶誠恐謹言。
安元(あんげん)三年五月日
とぞ書たりける。但此奏状、誰人を以つてか伝奏すべきと僉議(せんぎ)ありけるに、禅門平相国は、既(すで)に一朝之固、万人之眼也。天下の乱山上の愁、争か其成敗なかるべき。就(レ)中(なかんづく)前座主は是れ大相国(たいしやうこく)の為に菩薩戒の和尚也。此事に於ては尤可(レ)被(レ)鳴(二)諫鼓(一)。若此憤を散ぜずして、大戒の和尚を令(二)還俗(一)、なほ被(二)流罪(一)
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者、則吾山の仏法破滅時至るなるべし、一字を習伝、一戒を受持たらん者は、師資の門葉也、誰人か背(レ)之、相国禅門受戒の弟子(有朋上P147)たり、仙洞を宥申されんに、なびき給はずば、三千の学侶、誰か身命を惜べきとて、各大講堂の前にして、満山の仏神伽藍の護法を驚奉て、泣々(なくなく)起請して云、衆徒の鬱憤不(レ)散して、固被(二)流罪(一)者、大衆皆従(レ)彼同蒙(二)配流之罪(一)、満山学侶一人も不(レ)可(レ)留。我山存亡只在(二)此成敗(一)、宣(下)察(二)此趣(一)被(中)執申(上)とて、同十七日に、所司等を以、福原の禅門大相国(たいしやうこく)へぞ送遣ける。二十日前座主の罪科の事、可(レ)有(二)僉議(せんぎ)(一)とて、太政(だいじやう)大臣(だいじん)以下の公卿十三人参内あり。陣の座に著て其定有けれ共、冥には七社権現の照覧も難(レ)測、顕には三千衆徒の鬱憤も恐しくやおぼしけん、諸卿各口を閉て申す旨もなかりけり。其中に八条中納言長方卿、其時は左大弁宰相にて御座けるが被(レ)申けるは、法華の勘文に任て、死罪一等を減じて、雖(レ)可(レ)被(二)遠流(一)、前座主僧正(そうじやう)は、顕密兼学、浄行持律の上、公家には一乗園宗御師範也。法皇には円頓受戒の和尚たり、御経の師、御戒の師にや、被(レ)行(二)重科(一)事、冥の照覧難(レ)測、還俗遠流を可(レ)被(レ)宥かと、無(レ)所(レ)憚被(レ)申ければ、当座の公卿、各長方卿の被(二)定申(一)之義に同ずと被(レ)申けれ共、法皇の御憤(おんいきどほり)深かりければ、終に流罪に定りけり。太政(だいじやう)入道(にふだう)も此事角と承ければ、申止進らせんとて被(レ)参たれ共、御風の気とて御前へも召れず、御憤(おんいきどほ)りの深きよと心得て出給にけり。二十一日に前座主明雲(めいうん)僧正(そうじやう)をば、大納言大夫(有朋上P148)藤原松枝と名を改て、伊豆国へ流罪と定る。係りければ、山門なほ騒動して、又神輿を振奉べしと聞えければ、御輿を下奉らんとて、西坂本の坂口、此彼
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松木を切持て行て、逆木にこそ引たりけれ。最をかしく見えし。いかなる者の読たるやらん、門の柱に御改名を添て、
松枝は皆さかもぎに切はてて山にはざすにする者もなし K028
寺法師の所行とぞ申ける。座主の流罪の事、人々諌申けれ共、西光(さいくわう)法師(ほふし)が無実の讒奏に依て、かく被(レ)行けり。今夜都を出奉らんとて、宣旨■(きび)しかりければ、追立の検非違使(けんびゐし)、白河高畠の御坊に参て責申しけり。座主は白河の御所を出給(たまひ)て、粟田口の辺、一切経の別所へ出させ給けり。大衆聞(レ)之、西光(さいくわう)法師(ほふし)父子が名を書て、根本中堂(こんぼんちゆうだう)に御座す。金毘羅大将の御足の下に蹈奉て、十二神将、七千夜叉、東西満山護法聖衆、山王七社、両所三聖、時刻を廻さず召捕り給へと呪咀しけるこそ懼しけれ。又大講堂の庭に、三塔会合して僉議(せんぎ)しけり。伝教、慈覚、智証大師の御事は不(レ)及(レ)申、義真和尚より以来五十五代、いまだ天台座主(てんだいざす)流罪の例を聞かず、末代と云とも、争か吾山に疵をば可(レ)付、心憂事也、天下を闇に成べしなんど喚叫ぶと聞えけり。同二十三日に、座主一切経の別所を出て配所へ(有朋上P149)赴給ふ。慈覚大師の自造り給へる如意輪の御像ばかりを、泣々(なくなく)御頸に被(レ)懸ける。朝夕に見馴給へる御弟子一人も不(レ)奉(レ)付、門徒の大衆も不(レ)参、御覧じも知ぬ武士に伴て出給ける御有様(おんありさま)、よその袂も絞けり。被(レ)召たる馬は浅猿き野馬に、けしかる鞍具足也。彼粟田口、両葉山、四宮河原を打過て、影も涼しき会坂の、関の清水を過越て、粟津の浦にぞ出給。漫々たる海上に、山田、矢橋の渡舟、漕わかれける形勢も、渺々たる浦路の、志賀
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坂本に立煙、空に消ゆく景気まで、我身の上とぞ思召(おぼしめす)。無動寺の御本坊、根本中堂(こんぼんちゆうだう)の杉の本、遥(はるか)に顧給(たまひ)て、御名残(おんなごり)こそ惜かりけめ。汀に遊鴎鳥、群居て思やなかるらん、唐崎の一松、友なき事をや歎らん。此れを見彼れを見給(たまひ)ても、唯香染の御衣をぞ被(レ)絞ける。角て暫く粟津の国分寺の毘沙門洞に立入給へり。
S0503 澄憲賜(二)血脈(一)事
故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)の子息に、安居院の法印澄憲、いまだ権大僧都(ごんのだいそうづ)にて御座けるが、座主の遺を慕ひつゝ、国分寺まで奉(レ)送。座主は君に捨られ奉て、配所の道に出ぬるを、是までの芳志こそ憂身の旅の思出なれ、かゝる勅勘の者なれば、再び花洛に帰上らんまで、命なが(有朋上P150)らふべし共覚えず、弘通を遐代に及し、利益を有縁に施給へ、諸仏己心の所証也、天台秘密の法門也とて、一心三観の相承血脈を授らる。抑此法不(レ)輙、如来(によらい)四十余年懐に在て説給はず、此法難(レ)聞ければ、衆生無量億劫耳の外にして未(レ)聞、適釈尊出世の昔一乗弘宣の時、本迹二門に権智実智の一心三観を被(レ)演。灰沙の二乗は無生の悟を開、塵数の菩薩は増進の益に預き。竜女が速成を現じ、達多が授記を蒙し此法力也。天台大師は、大蘇山法花三昧の道場にして、行道誦経せし時に、霊山の一会現じつゝ、多宝塔中の釈迦より此法を伝給き。伝教大師は渡唐の時、台州臨海県の竜興寺極楽浄土院にして、道邃和尚に奉(レ)値、此法を伝受し給しより以来、相承聊爾ならず、血脈法機を守る、就(レ)中(なかんづく)国は粟散辺土也、時は濁世末代也、誠に非(レ)可(レ)輙、今日の情けに堪へずして、澄憲付属を得たりけり。僧都(そうづ)は血脈を給ひて、法衣の袖に裹みつゝ、泣々(なくなく)御前を立ちたまふ。
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去る程(ほど)に満山の大衆残留もなく、東坂本に下つゝ、十禅師(じふぜんじ)御前にて、各涙を流し僉議(せんぎ)しけるは、当山五十五代、いまだ天台座主(てんだいざす)流罪の例を聞ず、此時始て顕密の主を失ひ、修学の窓を閉事、唯当時の失(二)面目(一)のみに非、末代までも口惜かるべし、然者(しかれば)三千の衆徒等、違勅の咎を顧ず、貫首に代奉て粟津へ向、座主を可(レ)奉(二)取留(一)、但追立の官人両送使等有(有朋上P151)なれば、取得奉らん事難(レ)有からんか、此事冥慮に相叶、我山可(レ)為(二)我山(一)者、山王権現力を合せ給へ、衆徒の愁歎神明哀と思召(おぼしめさ)ば、只今験を見せ給へと、肝胆を砕て祈申ける程(ほど)に、十禅師(じふぜんじ)の宮の造合より、白髪たる老女一人現じて、心身を苦ましめ、五体に汗を流て、我に十禅師権現(じふぜんじごんげん)乗居させ給へり、誠に衆徒の歎難(二)黙止(一)、我此所に跡を垂事、円宗の仏法を守、三千の学侶を為(レ)育也。而今様なき例を我山に留、三千の貫首を被(二)流罪(一)事、我一人が歎なれば、冥慮誠に難(レ)休、速に可(レ)奉(レ)迎、深力を合べし、あな心うやとて左右の袖を顔に当、さめ/゛\とぞ泣ける。大衆恠(レ)之、誠に十禅師権現(じふぜんじごんげん)の御託宣ならば、我等験を奉らん、本の主々に返給とて、各念珠を大庭へ抛たりけり。物付是を取集て、左の手にくり懸て、立廻々々若干の念珠少も違へず、本の主々へ賦渡す。不思議なりし事共也。山王権現の霊験の新なる忝さに、衆徒涙を流つゝ、さらば迎へ奉れやとて、袈裟衣をば甲冑に脱替て、或は渺々たる志賀唐崎の浦路に、歩引唱衆徒もあり、或は漫々たる山田矢橋の湖上に、舟に竿さす大衆もあり。角て国分寺の毘沙門堂へ参りければ、稠げなりつる追立の官人も見えず、両送使も失にけり。座主は此有様(ありさま)を御覧じて、大に恐給被(レ)仰けるは、勅勘の者は月日の
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光にだにも不(レ)当とこそ申せ、況や不(レ)廻(二)時刻(一)、可(レ)被(二)(有朋上P152)追下(一)之由、被(二)宣下(一)上は、暫もやすらふべきに非、衆徒はとく/\帰上給へとて、端近出給宣(のたまひ)けるは、三台槐門の家を出て、四明幽渓の窓に入しより以来、広円宗の教法を学して、只我山の興隆をのみ思ひ、奉(レ)祈(二)国家(一)事も不(レ)疎、衆徒を育志も深りき。然而身に誤なうして、無実の讒奏により、遠流の重科を蒙る事、両所三聖定めて知見照覧し給らん、倩事の情を案ずるに、大唐には慈恩大師達磨和尚、配所の草に名を埋み、我朝には役優婆塞遠流の露に袖を絞給へりき。我身一人に非ず、是皆先世の宿業にこそと思へば、代をも人をも神をも仏をも奉(レ)恨心なし、是まで訪来り給へる衆徒の芳志こそ難(二)申尽(一)とて、香染の袖をぞ絞らせ給ける。奉(レ)見(レ)之衆徒、争か袖を絞ざるべき、皆鎧の袖をぞぬらしける。軈て御輿を舁寄て被(レ)召候へと勧申けれ共、昔こそ三千人(さんぜんにん)の貫首たりしか、今は係身に成て、再我山に還登事だに難(レ)有、いかゞ無(二)止事(一)修学者、智慧深大徳達に被(二)舁捧(一)上べき。■(わらんづ)なんど云物をはきて、同じ様に歩連てこそと宣へば、西塔法師に戒浄坊相模阿闇梨(あじやり)祐慶は、三塔無双の悪僧也。此僧は本園城寺の衆徒にて、よき学匠也けり。倶舎、成実の性相より、法相、天台の深義を極め、顕密両宗に亘つて三院三井の法燈也けるが、大慢偏執の者にて我執強僧也。我寺山徒の為にあざむかるゝ事、生々(有朋上P153)世々の遺恨に思けるが、妄念晴れ難く覚て、よしよし此寺にあればこそ此の思もあれ、不(レ)如山門に移住せんにはと変改して、住馴し三井の流を打捨て、西塔院へぞ渡にける。本より心立たる者なれば、三枚甲を居頸に著なし、黒皮威(くろかはをどし)の大荒目の冑に、
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三尺の大長刀の茅の葉の如なる杖に突て、衆徒の中に進入て申けるは、倩事の心を案ずるに、当山建立以後数百歳の星霜を送、貫首代々相続て、忝顕密の教法を弘通し給へり。四明の法燈一天之戒珠に御座す、而も姦臣の讒訴に依て実否糾されず、重科に被(レ)行給はん事、末代と云ながら心憂次第に非や。且は朝家の師範、且は山門の官長に御座、誰人か歎訪ひ奉らざらん、今度流罪に沈給はんに於ては、衆徒何の面目有りてか当山に可(レ)止(レ)跡、いづくまでも御供をこそ被(レ)申めとて、衆徒の中を指越々々座主の御前に参て、大長刀杖に突て、座主をはたと奉(レ)睨申けるは、加様に御心弱渡らせ給へばこそ、係る憂目をも御覧じ、山門に様なき疵をも付させ給へ、急御登山あらましかば、衆徒これ程の骨をばよも折侍らじ、其に貫首は三千衆徒に代て、流罪の宣旨を蒙らせ給ふ上は、衆徒貫首に代り奉て、命を失はん事、全くうれへに非ず、唯とく/\御輿に召されよやとて、御手をむずと取奉、引立御輿に奉(二)舁乗(一)。座主は戦々乗給けり。祐慶やがて先輿を仕る、東塔南谷、妙光坊の大和(有朋上P154)阿闍梨(あじやり)仙性と云ふ者、後陣を舁、国分の毘沙門堂より、鳥の飛が如風の吹様に、粟津原打出の浜、大津三井寺志賀の里、先陣後陣劣らずこそ見えけれ共、仙性が後陣には、時々大衆代りけり。祐慶が先陣は初より物具脱事もなく、高紐に甲を懸、輿を轅に長刀の柄折よ摧よと把具し、坂本早尾舁越して、さしも嶮しき東坂、一度も代らず、講堂の庭に舁付たり。爰に行歩に不(レ)叶老僧、若は花族の修学者、此事いかゞ有べき、日来は一山の貫首たりといへ共、今は流罪の宣旨を蒙給へり。横に取のぼせ奉事、違勅の咎難(レ)遁かと、様々僉議(せんぎ)あり。
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実と云衆徒も多かりけり。去ども祐慶は少もへらず、鎧の胸板きらめかし、扇披遣て申けるは、我山は是日本無双之霊地、鎮護国家之道場也。一乗之教風扇(二)四海七社之威光(一)耀(二)卒土(一)、仏法王法午角にして、山上山下安泰なり。当山超(二)万山之威験(一)、此宗勝(二)諸宗之教法(一)、依(レ)之聖代明時合(二)掌於一実之円宗(一)、皇門后宮傾(二)頭於一山之効験(一)。然ば大衆の意趣も人にまさり、賎き法師原までも世以て軽しめず、何況や前座主明雲(めいうん)僧正(そうじやう)は、智慧高貴にして一山の為(二)和尚(一)。徳行無双にして三千の貫長たり。当代に無(レ)罪被(二)遠流(一)給はん事、是山上洛中の歎のみに非ず、併興福園城の嘲也。悲哉止観上乗之窓前に、廃(二)蛍雪之勤(一)、怨哉瑜伽(ゆが)三密之壇上に、絶(二)護摩之煙(一)。就(レ)中(なかんづく)於(二)大唐震旦(一)、天台山(有朋上P155)長安城之艮也。於(二)我朝日本(一)、延暦寺平安城之鬼門也。伝教大師の御記文には、此山滅亡せば、国家も必ず滅亡せんといへり。而に末寺末社の訴訟(そしよう)に依て、衆徒子細を奏するは先例也。聖断遅々する時神輿の下洛ある事は是冥慮也。大衆争か可(レ)不(レ)被(二)合力(一)哉、異見の僉議(せんぎ)に付て例を此時に残されば、生々世々可(二)口惜(一)事なれば、所詮祐慶今度三塔の張本に召れて、被(レ)行(二)禁獄流罪(一)、たとひ雖(レ)被(レ)刎(レ)首、今生の面目、冥途の思出なるべし、全く怨に非ず、衆徒争か我山の疵を可(レ)不(レ)思と高声に■(ののし)り、双眼より涙をはら/\と流しければ、満山の大衆を聞、皆袖絞りつゝ尤々(もつとももつとも)と同じければ、軈座主を奉(レ)舁東塔南谷妙光坊へ奉(レ)入。其よりしてぞ祐慶をば、いかめ房とは申しける。
S0504 一行流罪事
時の横災は、権化の人も、猶遁れ給はざりけるにや、大唐の一行阿闍梨(あじやり)は、無実の讒訴に依つて火羅国へ流され給(たま)ひけり。たとへば
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一行は玄宗皇帝の御加持の僧にて御座しが、而も天下第一の相人に御座ける。皇帝と楊貴妃と、連理の御情深くして、万機の政務も廃給程也けり。一行帝后二人の御中を相するに、后には御臍の下に黒子あり、野辺にし(有朋上P156)て死し給相也。帝には御うしろに紫の黒子あり、思に死する御相也と申けり。皇帝此の事を聞し召て、大方の相は正しく見る共、争か膚をば知るべき、通道のあればこそ臍の下の黒子をば知らめとて、可(二)流罪(一)之由被(二)仰下(一)ける程(ほど)に、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)有つて、一行は朝家の国師、仏法の先達也、就(レ)中(なかんづく)相に於ては天下第一也、音を聞て五体を知り、面を見て心中を相するに敢て違ふ事なし、いかゞ可(レ)被(二)流罪(一)と申ければ、且くさし置給たりけるに、一行の弟子に賢鑁阿闍梨(あじやり)と云者あり、仏教博学にして智徳高く長ぜり。忽に師資の儀を忘て、独天下に秀でん事を思ければ、偸に一行の亡失ん事を思ける折節、流罪の沙汰の有ければ、次をえて后の御事種々に讒申ければ、帝逆鱗有りて火羅国へぞ被(レ)流ける。彼の国へ行には、三の道あるとかや、一には林池道とて古き都也ければ、御幸の外にはおぼろげにては人通はず。一には幽池道とて、雑人の通路也。一には闇穴道とて、罪ある者を流す道也。されば一行も此道よりぞ遣しける。件の道は、七日七夜が間空を見ずして行なれば、闇穴道とぞ名けたる。七十里の大河あり、碧潭深流れて、白浪高揚也、冥々として独行、閑々として人もなし。前途の末も知ざれば、さこそは悲く覚しけめ。天道無実の咎を哀て、九曜形を現つゝ闇穴道をぞ照されける。一行右の指を食切(有朋上P157)て、其の血を以て右の袖に写し留め給(たま)ひけり。九曜曼陀羅は其よりして弘まれり。彼一行阿闍梨(あじやり)と申は、本は天台の一行三昧の禅師也けるが、後に真言に移て悪行高顕て国家の重宝たり、慈悲普覆て、人臣の所(レ)帰也。被(二)讒申(一)けるこそ懼しけれ。一行無実之由、皇帝披聞召、則被(二)召返(一)、賢鑁造逆也、不善之咎難(レ)遁とて、被(二)流罪(一)ける程(ほど)に、竪牢地神の罰蒙て、大地忽に裂て、乍(レ)生大地獄にぞ落にける。在家を出て仏家に入、師恩を受て法恩を聞、たとひ報謝の心こそなから
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め、争か阿党を成べき。在世の調達滅後の賢鑁とりどりにこそ無慙なれ。さても一行の相し申さるゝ如く、楊貴妃は案禄山が為にすかし出されて、馬嵬の野辺に露と伴て消給ふ。皇帝は后の遺を悲て方士を以て蓬莱宮を尋らる、玉の簪し金鋏刀を被(二)返送(一)、いとゞ歎に臥給(たま)ひ、思死にぞ失給ふ。去ば顕密兼学、浄行持律の天台の座主讒し申す西光も、いかゞと覚ておぼつかなし。
S0505 山門落書事
山門大衆等流罪の座主を奉(二)取留(一)之由法皇聞食て、不(レ)安思召(おぼしめ)しける上に、西光(さいくわう)法師(ほふし)内々申けるは、山法師の昔より猥き沙汰仕る事は、今に始ぬ事なれ共、今度の狼藉は先代(有朋上P158)未聞の事に侍り、下として猥きを、上として緩に御沙汰あらば、世は世にても侍るまじ、能々可(レ)有(二)御誡(一)とぞ奏しける。只今我身の亡をも不(レ)知、山王権現の神慮にも不(レ)憚、加様に申ていとゞ宸襟を悩し奉る。讒臣(ざんしん)乱(レ)国、妬婦破(レ)家とも云、叢蘭欲(レ)茂秋風破(レ)之、王者欲(レ)明讒臣(ざんしん)隠(レ)之ともいへり、誠哉此事、抑今度大衆之狼藉仍可(レ)被(レ)責(二)山門(一)之由、被(レ)仰(二)武家(一)けれ共、進ざりければ、新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)已下近習の輩武士を集て、大衆を可(レ)傾之由其沙汰あり、物にも覚えぬ若者共、北面の下臈等(げらふら)は、興ある事に思て勇みけり。少も物の心弁たる人々は、こはいかゞせん、只今天下の大事出来なんとぞ歎ける。内々又大衆をも誘、仰の有けるは、院宣の下も忝し、王土にはさまれて、さのみ詔命を対捍せんも恐有とて、思返靡き奉る衆徒もあり。大衆二心出来ぬと聞食ければ、座主は責の御事有し時、兎(と)も角(かく)も成たりせば、今は思切なまし、中々衆徒に被(二)取登(一)又いかに成べき身やらんと、御心細く思召(おぼしめし)けるに、大講堂の庭に会合僉議(せんぎ)しけるは、前座主を中途にして奉(二)取留(一)事、依(レ)軽(二)朝威(一)公家殊に御
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憤(おんいきどほり)深由、其の聞えあり、此事いかゞ有るべき、今は唯可(レ)奉(レ)宥(二)逆鱗(一)歟と云ける。砌に、落書あり、其状に云、
告(二)申大衆御中(一)可(レ)被(レ)遣(二)入道大相国(たいしやうこく)許(一)事(有朋上P159)
夫前座主明雲(めいうん)僧正(そうじやう)者、挑(二)法燈於三院之学■(がくようにかかげ)(一)、灑(二)戒水於四海之受者(一)顕密之大将、大戒之和尚也、三観之隙必専(二)金輪之九転(一)、六時之次先祈(二)玉体之長生(一)、誠是仏法之命也、王法之守也、爰興隆思深而悛(二)九院之朽梁(一)、護国志厚而却(二)六蛮之凶徒(一)、依(レ)之法侶励(二)修学之労(一)、悪党隠(二)弓箭之具(一)、制(二)修羅之巧(一)、而飾(二)護国之道場(一)、豈非(レ)為(二)山門之奇異(一)哉、亦停(二)兵俗之器(一)、而残(二)法僧之道具(一)、寧非(レ)専(二)朝家之祈願(一)哉、為(二)天朝(一)為(二)国家(一)治者也、明人也、而有(三)一類謗家所(レ)悪成(二)瘡瘠(一)矣、其不(レ)被(レ)糺(二)是非(一)、不(レ)被(レ)尋(二)真偽(一)、預(二)重科(一)蒙(二)流罪(一)之条、是非(二)君有(一)(レ)偏、亦非(レ)臣無(一)(レ)忠、讒奏之酷、偽言之巧故也、讒口、煖(二)於黄金(一)、毀言銷(二)白骨(一)此謂歟、夫末寺末社之訴者、非(レ)始(二)于当代(一)、皆是往代例也、或断(二)根本(こんぼん)之仏事(一)、或闕(二)恒規之祭礼(一)之時、受(二)末所之愁訴(一)、而及(二)本山之悲歎(一)、列(二)大師門徒之族習(一)、皆成(二)教綱(一)之者、何可(レ)悦(二)三聖之威光消(一)、誰不(レ)悲(二)一山之仏法滅(一)乎、然者(しかれば)衆徒三千之蜂起、豈被(レ)引(二)座主一人之結構(一)哉、何況於(二)先座主(一)者、大畏(二)勅制(一)、而頻雖(レ)制(二)大衆蜂起(一)、依(二)残愁訴(一)尚(二)以烏合(一)者也、抑考(二)山門之故実(一)、懐(二)理訴(一)無(二)裁許(一)之時、衆徒等戴(二)三社之宝輿(一)、而、参(二)九重之金闕(一)、曩時之例中古之法也、厥皇化者、専(二)天下之太平(一)、貫首者慕(二)山上之安穏(一)、
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臣家可(レ)思(レ)奏者可(レ)案、豈勧(二)騒動於衆徒(一)、招(二)朝勘於一身(一)乎、凡大衆不(レ)叶(二)貫首之進止(一)、欲(有朋上P160)(レ)遂(二)訴訟之本意(一)、先皇之代在(レ)之、明哲之時非(レ)無(レ)依(レ)之、驚(二)先座主之罪名(一)、雖(レ)捧(二)衆徒之愁訴(一)、近臣依(二)怨家之語(一)、而全不(レ)達(二)上聞(一)、弁官随(一)姦人之謀(一)、更不(二)奏聞(一)、然間不(レ)被(レ)決(二)理非(一)、忽蒙(二)使庁之責(一)、不(レ)被(レ)糺(二)実否(一)、俄定(二)配流之国(一)、以(二)好言(一)而全(レ)人、以(二)悪口(一)損(レ)人者也、政忘(二)先例(一)、讒達(レ)巧故也、亦君非(レ)奇(二)叡山(えいさん)之仏法(一)、怨人之不(レ)知(二)食所疵(一)乎、誠魔界競(二)我山(一)、而法滅之期、得(二)此時(一)歟、波旬怯(二)洛城(一)、而無実之咎達(二)叡庁(一)歟、爰衆徒等、悲(二)仏法之命根断(一)、歎(二)大戒之血脈失(一)之処、如(二)風聞(一)者、師高(もろたか)往向(二)二村之辺(一)、可(レ)夭害先座主、云々、弥失(二)前後正亡思慮(一)、且芳(二)先賢之明徳(一)、且為(二)最後之面拝(一)、欲(レ)陣(二)申子細(一)、尚(二)配流路頭(一)之計也、夫根朽枝葉必枯矣、一宗長者衰、三千倶可(レ)衰、非(レ)痛(二)貫首之流罪(一)、只痛(二)師資相承之断(一)、非(レ)惜(二)一人嘉名(一)、偏惜(二)顕密両教之廃(一)、況先座主、鎮祠(二)候於鳳城(一)、而竪護(二)持於龍顔(一)、縦雖(レ)有(二)重罪之甚(一)、何不(レ)被(レ)免(二)於積労(一)、縦雖(レ)有(二)過去之業(一)、何不(レ)被(レ)置(二)礼儀於戒師(一)、若夫有(二)証拠(一)者、尤可(レ)賜(二)正文(一)也、非(レ)返(二)勅定(一)、陣(二)子細(一)計也、以(二)此旨(一)可(レ)被(二)執啓(一)、夫国土理乱任(二)臣忠否(一)、若不(レ)被(レ)糺(二)邪正之道(一)者、寧天子之守在(二)海外(一)乎。
安元(あんげん)三年五月 日 とぞ書たりける。
此落書に依て、山門の大衆の座主を奉(二)取留(一)事は、公家御沙汰に不(レ)及(有朋上P161)けり。是偏医王山王の御利生也とぞ、人貴み申ける。
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S0506 行綱中言事
新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)は、山門の騒動に依て、私の宿意をば暫被(レ)押けり。其内議支度は様々也けれ共、儀勢計にて其事可(レ)叶共見えざりければ、さしも契深く憑れたりける多田蔵人行綱は、弓袋の料の白布を、直垂小袴に裁縫せて、家子郎等に著つゝ、目打しばだたきてつく/゛\案じつゝ、此事無益也と思ふ二心付にけり。倩平家の繁昌を見に、当時輒く難(レ)傾、大納言の語ひ給軍兵は、僅(わづか)にこそあれ、可(レ)立(レ)用之輩希也、無(レ)由事に与して、若聞えぬる者ならば、被(レ)誅事疑なし、無(二)甲斐(一)身にも命こそ大切なれ、他人の口より洩ぬ先にとて、五月廿日西八条へ推参して見ば、馬車数も知ず集たり、蔵人何事やらんと思て尋問ければ、案内者とおぼしくて答けるは、是は入道殿(にふだうどの)福原御下向の御留守に、君達会合して貝覆の御勝負也と云ければ、同廿七日に蔵人鞭を上て福原へ下向す。入道の宿所に行向て、可(二)申入(一)事侍りて行綱下向と申ければ、常にも不(レ)参者也、何事ぞ其聞とて、主馬(しゆめの)判官(はんぐわん)盛国(もりくに)を被(レ)出たり。人伝に非(二)可(レ)申事(一)、直に見参に可(二)申入(一)と云たりければ、入道(有朋上P162)宣(のたまひ)けるは、行綱は源氏の最中也、隙もあらば平家を亡して、世を知らんと思心も有らんなれば、非(レ)可(二)打解(一)とて、子息重衡を相具し、銀にて蛭巻したる小長刀、盛国(もりくに)に持せて中門の廊に出合れたり。行綱申ければ、院中の人々兵具を調へ軍兵を集らるゝ事は、知召れ候やらんと申す。入道、其事にや、西光(さいくわう)法師(ほふし)が依(二)讒奏(一)、山門の大衆を可(レ)被(レ)責と聞ゆ。さまでの御企有べし共覚ずと、いと事もなげに宣ふ。行綱居寄て私語けるは、其義には侍らずとよ、御一門の事に候、仮令ば新(しん)大納言殿(だいなごんどの)、使を以て可(レ)申事あり、可(二)立寄(一)と承し間、
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如(二)御諚(一)山門の事と存候て、中御門の宿所へ罷向之処に、行綱見え来らば鹿の谷へ可(レ)参とぞ仰也と申間、則打越て見廻し侍れば、馬車其数立並たり、分入みれば酒宴の座席也、人々目に懸て其へ其へと申に付て著座す、やがて酒をすゝむ、当座には新(しん)大納言(だいなごん)家(け)父子、近江中将入道殿(にふだうどの)、法勝寺執行法印、平判官康頼、西光(さいくわう)法師(ほふし)ぞ候き、行綱酒三度たべて後、大納言宣しは、平家は悪行法に過て、動すれば奉(レ)嘲(二)朝家(一)之間、可(二)追討(一)之由、被(レ)下(二)院宣(一)たり。但源平両氏は、昔より朝家前後之将軍として、逆臣を誅戮して所(レ)蒙(二)異賞(一)也、されば今度の合戦には御辺を憑、可(レ)有(二)其意(一)と被(レ)仰間、こは浅間敷(あさましき)事かな、いかゞ返答申べきと存ぜしかども、左程の座席にて而も院宣と仰られんに、争か(有朋上P163)叶じとは可(レ)申なれば、左も右も勅定にこそと申侍し程(ほど)に、折節一村雨して、山下風の風烈く吹侍しに、庭に張立置たる傘共のふかるゝに、馬共驚駻躍、蹈合食合なんどするを見て、末座の人共の立騒、直垂の袖に瓶子を係て引倒し、其頸を打折て侍しを、座席静つて後、大納言殿(だいなごんどの)、あゝ事の始に平氏倒たりと宣しかば、満座咲壺の会にて侍き、是こそ浅間敷(あさましき)事云たりと存ぜしに、申も口恐しく侍れども、西光(さいくわう)法師(ほふし)倒れたる瓶子の頸をば取て、大路を可(レ)渡と申を、康頼つと立て、当職の検非違使(けんびゐし)に侍とて、烏帽子(えぼし)懸を以て、瓶子の頸を貫捧て、一時舞て広縁を三度持廻して、獄門の木に懸と申て、縁の柱に結付て侍し事、身の毛竪て浅間敷(あさましく)こそ侍しか、何の弓矢取と云事なく、当時一旦の君の御糸惜みに誇て、西光が我一人と事行して申振舞し事、下刻上之至也と不思議に存じ、侍き、法皇の御幸
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も成べきにて候けるを、静憲法印の、様々こは浅間敷(あさましき)御事也、天下の大事只今出来なん、いかに人勧申とても、国土の主として争でか一天の煩を引出し御座べきなんど、諌申けるに依て、御幸は止らせ給ぬとぞ私語申候し、やがて鹿谷究竟の城郭也とて、其にて兵具を可(レ)調と承き、加様の事人伝に被(二)聞召(一)なば、誤なき行綱までも、御勘当後恐しく候へば、内々告知せ進する也とて、人の能言云たりしをば、我申たるになし、我(有朋上P164)悪口吐たりしをば、人の云たるになし、殆有し事よりも過ては云たりけれ共、五十端の白布をば一端も語らざりけり。入道大に驚騒手を打、君の御為に命を捨る事度々也、いかに人申とも、争入道をば子々孫々(ししそんぞん)までも捨させ給べきとて、座を起ち障子をはたと立て入給ぬ。行綱はある事なき事散々(さんざん)に中言して出でけるが、入道の気色を見つるより心騒がし、慥の証人にや立られんずらんと恐しく覚えければ、取袴して足早にこそ還にけれ。
S0507 成親已下被(二)召捕(一)事
同廿九日、入道上洛して西八条の宿所に著きて、肥後守(ひごのかみ)、飛騨守を召て、貞能(さだよし)、景家、慥に承れ、謀叛之輩多し。与力同心の上下の北面等、一人も漏さず可(二)搦進(一)之由、行綱が口状に付て下知し給。又一門の人々侍共に可(二)相触(一)とて、使を方々へ遣ければ、右大将宗盛、三位中将知盛、左馬頭(さまのかみ)重衡已下の一門の人々甲冑を著し、弓箭を帯して馳せ集る。其外軍兵聞伝て馳参ければ、其夜の中に、四五千騎こそ集つたれ。又貞能(さだよし)景家は、二百騎、三百騎の勢にて、此彼に押寄押寄搦捕、京中の騒ぎ不(レ)斜(なのめならず)。
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六月一日未明、太政(だいじやう)入道(にふだう)、(有朋上P165)検非違使(けんびゐし)安部資成と云者を召して、院(ゐんの)御所(ごしよ)に参て、信業をして申さん様は、近く被(二)召仕(一)之輩、恣に朝恩に誇、剰謀叛を巧世を乱べきよし承間、尋沙汰仕るべきと申せとて進す。資成法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に参、大膳大夫信業を尋ね出し此由を申す。信業色を失て御前に参て奏聞しけれども、分明の御返事なし。只此事こそ御意得なけれ、こは何事ぞと計仰ければ、資成帰参じて此様を申す。入道去社よも御返事あらじ、行綱は実を云けり、法皇も知召たるにこそとて、此輩を召誡けり。其内に西光(さいくわう)法師(ほふし)を召取て、大庭に引居たり。相国は素絹の衣を著、尻切はき、長念珠後手に取て、聖柄の刀さし、中門の縁に立ちて、西光(さいくわう)法師(ほふし)を一時睨で嗔声にて、無(二)云甲斐(一)下臈(げらふ)の過分に成上、朝恩に誇る余、無(レ)誤天台座主(てんだいざす)奉(二)流罪(一)、剰入道を亡さんと申行ける条はいかに、あら希怪や希怪や、凶也凶也、すははや山王之冥罰は蒙ぬるはと宣(のたまひ)けり。西光は天性死生不(レ)知の不当仁にて、入道をはたと睨返して、西光全く謀叛の企を不(レ)存、此恥にあふ事運の窮にあり。但耳に留事あり、侍程の者が、靫負尉にもなり、受領検非違使(けんびゐし)に至らん事、何か過分なるべき、始たる事に非ず、去てかく宣和入道は、いかに王孫とこそ名乗給へども、昔の事は見ねば知ず、御辺の父忠盛は、正しく殿上の交を嫌れし人ぞかし、其嫡子におはせしかば、十四五ま(有朋上P166)では叙爵をだにも不(レ)賜、しかも継母には値たり、難(レ)過かりければこそ、中御門藤(とう)中納言(ぢゆうなごん)家成卿の播磨守にておはせし時、受領の鞭を取り、朝夕に■(かき)の直垂に縄絃の足駄はきて通給しかば、京童部は高平太と云ひて咲しぞかし、其を恥しとや
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思給けん、扇にて顔を隠し骨の中より鼻を出して、閑道を通給しかば、又童部が先を切て、高平太殿が扇にて鼻を挟みたるぞやとて、後には鼻平太々々々とこそいはれ給しか、去ども故(こ)刑部卿殿(ぎやうぶきやうどの)近江国水海船木の奥にて、海賊廿人を被(二)搦進(一)たりし勲功の賞に依つて、保延の比かとよ、御辺十八歟九歟にて、四位の兵衛佐に成給(たま)ひたりしをこそ人々としと申しが、其が今太政(だいじやう)大臣(だいじん)に成たるをこそ下臈(げらふ)の過分とは申すべき。此条は争か諍給ふべきと、高声に門外まで聞えよと云たりければ、入道余に腹を立て、為方なかりければ、縁の上にて三踊四躍々給ふ。猶腹を居兼て、大庭に飛下り、西光が頬を蹴たり蹈たりし給けれ共、西光は口は少も減ず、去て其は左は無りし事か、彼は有し事ぞかし、哀足手だにも安穏ならば、報答申してんと云ければ、入道如何様にも謀叛の次第委く相尋て後、しや口割て誡よと宣(のたま)ひければ、松浦太郎高俊、拷木に懸て打せため、事の興を尋けり。始は大に不(レ)知と云けれ共、悪口は吐ぬ、不(レ)落とても非(レ)可(レ)宥、人が云ひたればこそ入道殿(にふだうどの)も是程は知給た(有朋上P167)るらめ、去ばいはんと思つゝ、休よ語らんと云ければ、拷木より下して、硯紙取寄て聞(レ)之、西光有の儘にぞ云ける。執事別当新(しん)大納言(だいなごん)殿(どの)、院宣とて催れしかば、院中に被(二)召使(一)身として不(レ)叶と申すべきにあらねば、平家一門打失て、西光も世にあらんと思て与して侍き。院宣の趣き誰か可(レ)奉(レ)背とて、始より終まで白状四五枚に記して、判形せさせて後、高俊、西光(さいくわう)法師(ほふし)が頭を蹈て口を割、重て誡置てげり。新(しん)大納言(だいなごん)の許へは、大切に可(レ)奉(二)申合(一)事侍、時の程立より給へとて使者を遣れたり。大納言は我身の上
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とは露知給はず、例の山の大衆の事を、院へ被(レ)申ずるにこそ、此事はゆゝしく御憤(おんいきどほり)深き御事也、可(レ)叶とは覚ねども、何様にも参りてこそ申さめとて急ぎ被(レ)出けり。安元(あんげん)二年七月に、建春門女院隠させ給(たまひ)て、其御一周を果ざれば、諒闇(りやうあん)の直衣ことに内浄たわやかにして、諸大夫一人、侍二三人花やかに装束せさせて、入道の宿所、西八条へおはしけり。近く成儘に其辺を見給へば、軍兵四五町に充満たり。穴恐し、こは何事ぞやと、■(むね)打騒給へり。門の前近く遣寄、車より下て門の内へ入給ければ、内にも兵所もなく並居たり。只今事の出来たる体也。中門の外に恐しげなる者二人立向て、大納言の左右の手を取、天にも揚ず、地にもつけず、引持てゆき、もとゞりを取て打臥ける儘に、是は可(レ)奉(レ)誡や(有朋上P168)らんと申ければ、入道は大床に立れたりけるが、さすが[* 「すさが」と有るのを他本により訂正]昨日迄も面を向へ肩を並し卿相(けいしやう)也、眼前に縄付事は、かはゆくや被(レ)思けん、去ず共有なんといはれければ、中門の廊へ入られて、縄をば不(レ)奉(レ)付けり。只一間なる所に、大なる木を以て、蜘蛛手を結、其中にぞ奉(二)押篭(一)ける、糸惜なんどは云計なし。蕭樊囚(二)執、韓彭(一)■(そ)醢、晁錯受(レ)戮、周魏見(レ)辜、其余佐(レ)命立(レ)功之士、賈誼亜夫之徒、皆信命世之才、抱(二)将相之具(一)、而受(二)小人之讒、並受(二)禍敗之辱(一)と云事あり、蕭何、樊会、韓信、彭越と云ひしは、皆漢の高祖の功臣たりしか共、かくのみこそ有けれ、異国にも不(レ)限、我朝にも保元平治の比より打続き浅間敷(あさましき)事のみ有しに、又此大納言の係る目に合給ふ事、いかゞはせんとぞ悲み合給ける。大納言の共に有りける、諸大夫も侍も被(二)起隔(一)、雑色牛飼までも忙騒、身々の恐さに牛車を捨
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て、散々(さんざん)に逃失ぬ。大納言はかばかりなく熱く難(レ)堪比、一間なる所に被(二)禁籠(一)、汗も涙も諍つゝ、肝心も消はてて、こはいかにしつる事ぞや、日比のあらまし事の聞えけるにこそ、何者の漏しぬるやらん、北面の者の中にぞ有らんとぞ被(レ)思ける。小松の内府は見え給はぬやらん、去とも思捨給ふ事はあらじ者をと被(レ)思けれ共、誰して云べき便も無れば、唯悲の涙にのみぞ咽給ける。小松殿(こまつどの)へは人参て、謀叛の者とて人々被(二)召禁(一)侍、大納言殿(だいなごんどの)も(有朋上P169)被(二)召籠(一)おはしつるが、此晩に可(レ)奉(レ)失なんど聞え候と申ければ、内大臣(ないだいじん)は良久有て、子息の中将車の尻に乗せて、衛府四五人、随身二三人被(二)食具(一)たり。各布衣にて、物具したる者は一人も不(二)具給(一)、最のどやかにて西八条へ被(レ)入けり。入道を奉(レ)始、一門の人々思はず思ひ給へり。弟の殿原何に係る大事の出来て侍にと口々に宣へば、内府は只今何条事か有べき、物騒き者かなと被(レ)静ければ、兵杖を帯給へる人々も、そゞろきてぞ見えける。入道は帽子甲に、萌黄の腹巻の袖付たるを著て、小長刀計にて立給たりけるが、大臣の挙動を遥(はるか)に見て、急ぎ内に入、素絹の衣に脱替て、さらぬ体にて御座けり。内府は、さても大納言はいかに成給ぬるやらん、唯今の程(ほど)には失ふまでの事はよもあらじとて見廻り給ふに、一間の障子を大なる木を打違て、蜘蛛手を結たる所あり。爰にこそと哀に悲くおぼして、立寄急ぎ音なひ給へば、大納言蜘蛛手の間より、幽に大臣を見付給、地獄にて罪人の地蔵菩薩を奉(レ)見らんも、是には争か可(レ)過と嬉さ不(レ)斜(なのめならず)、泣々(なくなく)宣(のたまひ)けるは、成親身に誤ありと不(レ)存、今かゝる憂目に逢て侍り、さて御渡あれば、去ともと憑思奉とて、
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はら/\と涙を流し給ふも無慙也。大臣の返事には、人の讒言にぞ侍らん、御命計はいかにも申請ばやとこそ存ずれ共、入道腹悪き人にておはすれば、そもいかゞ(有朋上P170)侍らんずらんと憑気なく宣へば、いとゞ心細くおぼして、成親平治の乱に切らるべかりしを、御恩にて命を生られ奉りて、正二位の大納言に至り、歳四十に余りぬ、生々世々に難(二)報謝(一)、同は今度の命を助給へ、出家入道して高野粉河にも籠り、一筋に後世の勤仕らんと宣へば、重盛(しげもり)かくて侍れば、去共と思召(おぼしめさ)るべし、御命にも替奉らんとこそ存ずれとて被(レ)起ければ、又奉(レ)見事もやと、遥(はるか)に見送給(たまひ)ては、かひなき袖をぞ絞給ふ。少将も被(二)召捕(一)ぬるやらん、少者共の跡に残留るもいかゞ成ぬらんと■(おぼつか)なし。身の悲さ、跡のいぶせさ思つゞけ給へば、熱さに難(レ)堪うへ胸塞て、晩を待ずして可(二)消入(一)こそおぼしけれ。内大臣(ないだいじん)の訪れつる程は、聊慰みて取延る心地也けるが、立帰給(たまひ)て後は今少心細く、悲被(レ)思ける。理と覚て哀也。
S0508 小松殿(こまつどの)教訓事
小松内府、入道の許に参じ申給けるは、大納言を被(レ)失事は、能々可(レ)有(二)御思案(一)事也、六条修理大府顕季卿、白川院に召仕てより以来家久く成りて、位正二位、官大納言まで経上、君の御糸惜も不(レ)浅仁を、忽に被(レ)刎(レ)首事、いかゞ侍るべき、唯都の外へ出さ(有朋上P171)れん事足ぬべし。角は聞食ども、若僻事ならば弥不便の事に侍べし。北野天神は、時平大臣の依(二)讒奏(一)、西海の浪に流され、西の宮の大臣は、多田新発が依(二)姦訴(一)、山陽の霧に埋る、各無実なれ共被(二)流罪(一)給けり。皆是延喜の聖主安和の御門の御僻事とこそ申伝侍れ、上古猶如(レ)此、況末代をや。賢王猶御誤あり、況凡夫をや。委御尋もあり、能々御
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案も侍べし、物騒き事は必後悔あり、既かく被(二)召置(一)ぬる上は、急不(レ)被(レ)失とも、何の苦か有べき。罪之重をば軽し、功之浅をば重くせよと云本文あり。何様にも今夜卒爾の死罪不(レ)可(レ)然と被(レ)申けれ共、入道いかにも心不(レ)行気に宣(のたまひ)ければ、申請旨御承引なくば、侍一人に仰付て、先重盛(しげもり)が可(レ)被(レ)刎(レ)首、かかる乱たる世にながらへて、命生ても何の詮かは有べき。又重盛(しげもり)彼大納言の妹に相具し、維盛又聟也、傍親く成て候へば、角申とや思召(おぼしめさ)るらん、一切其儀は侍ず、為(レ)世為(レ)家の事を思て歎申計也。我朝には嵯峨帝の御宇、左衛門尉仲成を被(レ)誅後、死罪を被(レ)止より以来廿五代に及しを、少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)が執権の時に相当て、絶て久き例を背き、保元の乱の時、多の源氏平氏の頸を切、宇治の左府の墓を掘、死骸を実検(じつけん)せし其酬にや、中二年こそ有しが、平治に事出来て、田原の奥に被(レ)埋たりし、信西が被(二)堀起(一)、頸を渡獄門の木に被(レ)懸き。是はさせる朝敵にあらね共、併(有朋上P172)挿絵(有朋上P173)挿絵(有朋上P174)保元の罪の報と覚て、恐しくこそ侍しか。是又させる朝敵に非ず、旁以可(レ)有(レ)恐、御身は御栄花残所なければ、思食(おぼしめし)置事なくとも、子々孫々(ししそんぞん)までも繁昌こそあらまほしく侍れ。積善之家必有(二)余慶(一)、不善之家必有(二)余殃(一)とこそ承れ、去ば文王は太公望に命じて、四知己を恐れ、唐太祖は張蘊古を切つて後、五奏を被(レ)用、又行(レ)善則休徴報(レ)之、行(レ)悪則咎徴随(レ)之とも申す、父祖の善悪は必及(二)子孫(一)ともいへりなど、様々に被(二)誘申(一)ければ、入道余に口解立られて、実とや思給けん、今夜切事は止給にけり。内大臣(ないだいじん)は中門に出給、さも可(レ)然侍共を召集被(二)仰含(一)けるは、入道殿(にふだうどの)の仰なればとて、大納言を不(レ)可(レ)有(二)失
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事(一)、腹の立給ふ儘に物劇事あらば、後に必悔み給べし、不(レ)拘(二)制止(一)ひが事して重盛(しげもり)恨な、経遠(つねとほ)兼康(かねやす)が大納言に情なく当たりける事、返々も希恠也。重盛(しげもり)が還聞所をば、争か可(レ)不(レ)憚、哀景家忠清なんどならば、いかに仰を承りたりとも角はよもあらじ、かた田舎の者は懸るぞとよ、と仰られければ、大納言引張たりける備前国住人難波(なんばの)次郎(じらう)経遠(つねとほ)、備中国住人、妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)、恐入りてぞ候ひける。其外の侍共は、舌を振てぞ、威合ける。大納言の供に有ける者、中御門高倉の宿所に走帰、上には西八条殿に召籠られさせ給ぬ。今夕可(レ)奉(レ)失とて、晩を待つとこそ承つれとて、有つる事共泣々(なくなく)細々と申ければ、(有朋上P175)北方より始て、男女上下声を揚てぞ叫びける。是は何故ぞや■(おぼつかな)し、夢かや夢かともだえ焦給けれ共、眠の中の歎ならねば猶うつゝ也、さこそ悲かりけめと被(二)推量(一)無慙也、何に角ては御座しますぞや、少将殿をも君達をも、一々に召とり進せんとこそ承りつれ、去ば叶はぬまでも、暫く立忍ばせ給へかしと申ければ、か程の事に成て隠れ忍びたらば、いかばかりの事ぞ、雉のかくれとかやの風情か、大納言殿(だいなごんどの)の左様に成給ふ程(ほど)にては、此身々ばかり安穏也共、甲斐あるまじ。只同じ草葉の露と消ん事こそ本意なれ。今朝を限の別ぞと思はざりける悲さよとて、北方臥倒て泣給ふ。げにもと覚て哀なり。兵既(すで)に来なんと人申ければ、遉角て憂目を見る事も、恥がましければ、一間戸も立忍ばんとて、尻頭どもなき小き人共、車に取のせ奉り、いづくを指て行ともなく遣出して、大宮を上りに、北山雲林院の辺まではおはしにけり。其辺なる僧坊に
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下居奉て、送の者共も身々の難(レ)捨おそろしさに、皆散々(ちりぢり)に帰りぬ。今は無(二)云甲斐(一)小き人々ばかり留居て、又事問ふ人も無くて御座けん、北方の御心中推測べし。日影の暮行を見給に付ても、大納言の露の命今日を限と聞つれば、はや空き事にもやと思やり給(たま)ひては、絶入絶入し給ふも、いと悲し。取敢ぬ事也ければ、女房侍共もかちはだしにて恥をもしらず迷出ければ、見苦き物共を(有朋上P176)不(レ)及(二)取認(一)、門をだに押立る人もなし。只我先にと周章(あわて)出けるも理也。馬屋には馬共鼻を並て立たりけれども、草飼舎人もなし。夜明れば馬車門に立并賓客座に列居て、遊戯れ舞踊、世は世とも思はれず、近き渡りの人々、物をだにも高もいはず、門前を過る者もおぢ恐れてこそ昨日迄も有つるに、夜のまに替る形勢、天上之五衰は人間にも有けりと哀也。此北方と申は、山城守敏賢の女也、建春門院(けんしゆんもんゐん)の御乳母師人とて、御身近人、取り立て進られたりけるを、法皇浅からず思召(おぼしめし)て、十四歳より十六迄御糸惜みふかゝりしを、二条院御位の時御覧じて、忍々に御書を被(レ)遣、常には唯是へ参と云仰繁かりければ、師人も女院の思召(おぼしめす)所も憚覚れば、旁々内へ参られんは、然べしなどゆるされければ、法皇の御所をばまぎれ出て、十六の歳内裏へ参給(たまひ)て、互の御志深かりしが、中二年有て十九の歳、二条の先帝崩御の後は、雲井の月の昔語を忘かね、大炊御門高倉の雨織戸の内に、掻き籠て、渡らせ給しを、大納言の宿所、中御門の移徙の夜、師人に語寄押て取られ給しより、鸞鳳の鏡に影を并、鴛鴦の衾に枕を寄てこそ御座ましけるに、大納言被(二)召捕(一)給しより、楽み尽て悲み来り、北山雲林院の菩提講おこなふ処に、忍びておはしけり。
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此大納言は余に誇て、戯れ事にも無(レ)由言すごす事も有けり。後白川院の近習者に、坊門中納言親信と(有朋上P177)云人、御座けり、右京大夫信輔朝臣の子也。彼信輔武蔵守たりし時、当国に下りて儲たりけるが、元服して叙爵し給たりければ、異名に坂東大夫と申けるが、兵衛佐に成たりけるにも、猶坂東兵衛など申けるを、新(しん)大納言(だいなごん)、法皇の御前にて、戯て、やゝいかに親信、坂東には何事共かあると被(レ)申たりけるに、兵衛佐取敢ず、縄目の色革こそ多候へと答たりければ、大納言顔のけしき少替て、又物も宣ざりけり。此大納言は平治の乱逆の時、信頼卿に同心とて、六波羅へ被(レ)召しに、島摺の直垂著て、高手小手に縛られて、恥をさらしたりける事を思出て、縄目にそへて申たりけるにこそ。御前に人々あまた候はれける中に、按察使大納言資賢の後に常に宣(のたま)ひけるは、兵衛佐はゆゝしく返答したりしものかな、成親卿(なりちかのきやう)は事の外に苦りたりし事様也とぞ被(レ)申ける。されば人は聊の戯言にも、人の疵をば云まじき事也けり。(有朋上P178)
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第六
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辺巻 第六
S0601 丹波(たんばの)少将(せうしやう)被(二)召捕(一)附謀叛人被(二)召捕(一)事
新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)の嫡子に、丹波(たんばの)少将(せうしやう)成経(なりつね)とて、今年廿一に成給ふ。折節院(ゐんの)御所(ごしよ)に上臥して、未(二)罷出(一)程なりけるに、大納言の供に有ける侍一人走来て、上には西八条殿に被(二)召籠(一)させ給ぬ。今夜可(レ)奉(レ)失と承りき。君達も一々に召し給べしと申あへりと聞えければ、こはいかにとてあきれ給(たま)ひ、物も覚給はず。左程の事に、如何に宰相の許よりは告給はざるらんと、舅を恨み給けるに、門脇殿(かどわきどの)よりとて使あり。聞給へば、八条殿より少将相具して来れと被(二)申遣(一)たり。急ぎ先是へ入給へ、いかなる事にか浅猿と云も疎也と被(レ)申たれば、肝魂も消はて、うつゝ心なし、兵衛佐と云女房を尋出して、泣々(なくなく)被(レ)語けるは、夜部より世間の物騒き様に聞ゆれば、例の山大衆の下るやらんと、徐がましく思侍れば、かゝる身の上の事に聞なせり。御前に参て今一度君をも見進せたく侍れ共、憚ある身なれば、思ながら空くて罷出候ぬと、御披露あれと、云もはてず袖を絞けり。(有朋上P180)日比年比は馴戯たりける女房達も出合つゝ、何事にか浅増や、さて出給なば、後いかが聞なし奉らんとて、涙を流し各別を悲けり。少将宣(のたまひ)けるは、八歳にて見参に入、十二より立も去事なく、夜も昼も御所に伺候して、自労なんどの外は、一日も不(レ)参事はなかりき。朝夕に竜顔に近づき進て、奉公忝く、君の御糸惜み深くして朝恩に飽満明し晩しつるに、
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いかなる目をみるべきやらん、父大納言も此の暮に被(レ)失べしときけば、同罪にてこそあらんずらめ。父左様に成給はんには、其子として命生ても何かはすべきと云もはて給はず、狩衣の袖を顔に押あてて泣給へば、近候ける人々も、袂を絞ぬはなし。兵衛佐御前に参て、此由角と申ければ、法皇大に驚かせ御座て、今朝の相国が使も不(レ)得(二)御意(一)つるに、此等が内々計し事の漏にけるよと、浅間敷(あさましく)被(二)思召(一)(おぼしめされ)て、去にても是へと御気色有ければ、世はつゝましかりけれ共、今一度君をも見進せんと思つゝ、志計にて、御前へは参たれ共、涙に咽て物も不(レ)被(レ)申。法皇も御涙を押へ御座して、御詞も出させ給はず、少将はいとゞ涙の流ければ、袖を顔にあてて罷出給ぬ。御所中に候合給たりける人々、門外まで遥(はるか)に見送て、各袖をぞ被(レ)絞ける。法皇は又も不(二)御覧(一)事もやと思食(おぼしめし)けるにや、御簾近御幸ありて、御涙を拭はせ給けるぞ忝き。末代こそ心憂けれ、角(有朋上P181)しもや有べき、王法の尽ぬるかと、御口惜ぞ思召(おぼしめさ)れける。近奉(レ)被(二)召仕(一)人々も、此は人の上と不(レ)可(レ)思、又いかなる事か聞みんずらんと安き心もなし。少将は宰相の許へ被(レ)出たりけれ共、此事の聞えけるより、北方はあきれ迷て、物も覚ぬ様にてぞ御座ける。近産し給べき人にて、何となく日比も悩給けるが、此を聞給(たまひ)て後は、いとゞ臥沈てぞ御座ける。少将は今朝より流涙尽せざりける上に、北方の形勢(ありさま)を見給(たま)ひけるにこそ無(二)為方(一)けれ。責ては此人の身々と成たらんを見て、何にも成ばやとおぼされけるぞ糸惜き。六条とて乳母の女房の有ける臥倒て喚叫けり。血の中に御座を此年比生し立奉りて、糸惜悲しと思そめ奉りしより、明ても暮れても此御事より外に又いとなむ
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事もなし、我身の年の積をば顧ず、早く成人し給はん事をのみ思て、廿一まで奉(レ)生、院内へ参らせ給(たまひ)ても、遅く出させ御座せば、心本なく恋しくのみ奉(レ)思つるに、こは何へ御座ぞや、棄られ進て、一日片時堪て有べし共覚えずと口説立て泣ければ、げにもさこそは思らめとて、少将も涙を押て、痛く歎思給べからず、角宣へば、いとゞ打副無(二)為方(一)覚るに、乍(レ)去我身に誤なし、又宰相殿角て御座せば、縦いかなる咎に当べくとも、一度が定はなどか申請られざるべきと、去共とこそ思へなど誘へ給へども、人目も知ず泣もだ(有朋上P182)えけり。八条殿より使度々に及で、遅々と申ければ、何様にも罷向ひてこそは兎(と)も角(かく)も申さめとて、宰相出給ければ、少将も車に乗具して出給。今を限と思ければ、無人を取出す様に見送つゝ、男も女も声を調て泣きあひけり。八条近遣寄て見れば、其辺四五町には武士充満て、いくらと云事を知ず、いとゞ恐しなんども云ばかりなし。少将は此を見給に付ても、大納言の事いかゞ成給ぬらんと思給けるぞ悲き。宰相車を門外に止て、案内被(レ)申たれば、少将をば内へは不(レ)可(レ)被(レ)入とて、侍の許に下し置、武士余多来て守(二)護之(一)。宰相内へ入、源大夫判官季貞を以て、参給へるよし申入給へり。入道は聟の少将が事を申さん料にぞ在らん、此程風気有て不(レ)入(二)見参(一)と云へ、曳とて出合れず。此由御返事申せば、宰相又季貞に被(レ)仰けるは、無(レ)由者に親く成て候、返々悔思へども、兼て不(レ)存事なれば今は云に甲斐なし、相具せる者の痛歎焦を思はじと思へども、恩愛の道とて、余に不便に覚ゆるを〔以〕いかゞ仕るべきと存る上、近産すべき者にて侍なるが、月比日比も悩なるに、此歎打副て、身々とならぬ
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前に命も絶えぬべく見ゆれば、相助ばやと存て乍(レ)恐角申入也。成経ばかりは、罪科治定の程は申預候ばや、教盛角て候へば、僻事努々有べからず、■(おぼつかな)く思召(おぼしめさ)るべからずと泣々(なくなく)口説被(レ)申けり。季貞又此由入道殿(にふだうどの)(有朋上P183)に申せば、打聞てへし口して、去ばこそとて能々心得ぬ事に思、急と返事なし。宰相殿は中門にていかゞ返事し給はんずらんと、今や/\と待給へり。入道良久有て宣(のたまひ)けるは、成親卿(なりちかのきやう)此一門を亡して国家を乱らんとする企て有けり。去ども家門の運尽ざる間、事既(すで)に顕れぬ、成経と云は彼卿の嫡子也、親く成給たりとても宥申がたし、且は遼迹(おもんばかり)も有べし、其企本意とげば、御辺とても安穏にやおはすべき、御身の上をばいかに、よそほかの様には思給ふ、聟も娘も身に勝るべきかはと云へとて、少もゆるぎなかりければ、季貞出て此様を申す。宰相大に本意なき事に思て、重て被(レ)申けるは、仰の上に又申入る事その恐なれども、心中に所存を残さん事も妄念也。流罪にも死罪にも被(二)定行(一)を、免ぜられんと申さばこそ竪からめ。それとても縁に付日ば、寛宥せらるゝ事尋常也。さまでこそなからめ、罪科治定の程、暫被(二)預置(一)事、何の苦か有べき。保元平治両度の合戦には、御命に替奉り、身を捨て振舞侍き。向後とても荒風をば先禦ぎ奉らんと深存ず、教盛こそ老耄也共、子息等あまた侍れば、御大事の時は、一方の御固とは憑思召(おぼしめす)べし。成経を預置給はずは、二心有者と思食(おぼしめす)にこそ、後闇者ぞと被(二)思穢(一)たてまつりて、世に立廻ては何の面目か有べき。大中納言の望も、富貴栄輝(えよう)の欲(ほし)さも、子を思故也、(有朋上P184)我身一人が事ならば、いかでも在なん。御一門の端と成て、是程(ほど)に歎申事の不(レ)叶には、
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世に諂て何の詮か有べき。今は身の暇を給(たま)ひて出家入道し、片山陰に篭居して、後の世をこそ助め。世に随へば望あり、望叶はねば怨あり、恨も望も思へば共に輪廻の妄念也。よし/\憂世を厭ひて実の道に入らん事、可(レ)然善知識にこそ侍らめ。参つるまでは無(レ)由、子ゆゑと存じつるに、聞入給はねば思切なん、人の御心つよきは、我菩提の指南なるべしとまでこそ口説かれたれ。宰相のかく被(レ)申も理也。子息に通盛教経業盛とて、一人当千の人々御座しければ、荒風をばまづ可(レ)防と述懐し給(たま)ひけるなり。季貞世に苦々敷思て、立帰入道殿(にふだうどの)に委申ければ、物にも心えぬ人かな、吐己其程(ほど)に聟の悲く思覧よとて、打傾て又返事なし。李貞は暫候て、門脇殿(かどわきどの)は思召(おぼしめし)切たる御気色に見えさせ給也、能様に御計ひ有べくもやと申ければ、入道宣(のたまひ)けるは、成経が事たゞ家門の煩なき様を計ひ申処に、出家入道とまで被(レ)仰之上は、少将をば暫御宿所に置給へかしと渋々に宣ふ。李貞此旨申ければ宰相大に悦て、急少将の御座る所へ立入給、被(二)預置(一)こと叶まじと、再三に及びつれども、出家遉世とまで恨くどきたれば、暫宿所に具し還れと宣き、事の様後いかゞと■(おぼつかな)しと語給へば、少将は一日の命とても疎なるべきかとて被(レ)泣(有朋上P185)けるを見給(たまひ)て、宰相は、人の身に女子は持まじき物ぞと云は理也と、始て思知れけり。我子につかずはなにとて角歎べきぞ、徐外にこそ見聞べきにとおぼされけり。平家は保元平治より已来楽み栄は在つれども、愁歎はなかりしに、門脇殿(かどわきの)宰相(さいしやう)ばかりこそ、由なかりける聟ゆゑに係る歎はし給(たま)ひけれ。少将は我身の少し甘ぐに付ても、父いかゞ成給ぬらむ、かばかり暑き折節に、装束もくつろげ給はず、狭き
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所にこそ奉(二)押籠(一)たるらめと心苦さに、大納言の事はいかゞ聞召つると問給へば、宰相は一筋の御事をのみ申つれば、亜相の御事までは心も不(レ)及と答給ふ。少将理とは思ながら、我身の命の惜も、父の行末を知ばやと也。大納言の世に御座ぬ事ならんには、其子としては只同じ道にこそとて泣給ふ。宰相は車に乗給へども、少将は倒臥て立も上給はず。宰相哀に覚して其心を慰給はん為に、誠や自は奉(レ)問事は無りつるを、李貞が物語しつるは、亜相の事をば内大臣(ないだいじん)の様々に被(レ)申て、食事をも奉(レ)進、又休まゐらするなんど承りつれば、命のおはせぬ程の事はよもと覚ゆと宣へば、少将手を合悦て、泣々(なくなく)車に乗給へり。宰相は帰給ふ道すがら、子は有も歎き無も歎と云ながら、無はほしと楽思ばかり也、有ては旁煩多し。心地観経には、世人為子造諸罪堕在三途長受苦とも説、無量寿経には、不如無子(有朋上P186)とも宣べ給へり、子を思妄念に依て、今生にも心苦く、後生も悪趣に堕と見えたり。教盛子故にかく心を尽す事よと被(レ)思けるが、少将の我身の歎に打そへて、父の事をあながちに心苦く悲む事の哀さよ、子ならでは誰かは此程(ほど)に思べき。恩愛の道こそ糸惜けれ、子は持べかりけりと、兎にも角にも只涙をぞ流し給ふ。宰相の宿所には、少将の出けるより、北方を奉(レ)始て、母上乳母の六条諸共に臥沈て、いかゞ聞なさんと、肝心も消失て起もあがり給はざりけるに、宰相入給ふと云ければ、穴心憂、少将をば打捨ておはするにこそ、憑しき人には捨てられぬ、いかに心細かるらんと被(レ)歎ける処に、少将殿も同く帰入せ給と申ければ、人々泣々(なくなく)起上、車寄に出向て、真歟真歟と声々に問給ふ程(ほど)に、少将も宰相も同車して入給ふ。
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後は知ず、さて帰入給たれば、無人の蘇生たる様に悦泣の涙は、先よりも猶色深こそ見えられけれ。内に入て宰相宣(のたまひ)けるは、入道の憤こと不(レ)斜(なのめならず)、対面もなし、ゆゝしく悪気なりき。宣事も理也つれども、李貞を以て推返推返、出家遁世して山林に籠らん、暇を給へとまで恨口説たれば、渋々に暫くとは宣つれども、始終よかるべしとも不(レ)覚と云れければ、人々始終の事はいかがはせん、今朝を限とこそ思ひ侍つるに、二度奉(レ)見事のうれしさよとぞ悦給ふ。此平宰相(へいざいしやう)と申は入道の弟也。兄弟多く(有朋上P187)おはしける中に、ことに此人をば糸惜おぼして、一日も見ねば恋くおぼつかなければとて、六波羅の惣門の脇に家を造て居置給(たま)ひたれば、異名に門脇殿(かどわきの)宰相(さいしやう)と申ける也。係中なれば、しひても歎き暫免しも預け給けり。入道当時八条に御座けり。世もつゝましとて少将の方には、蔀の上計を上てぞ居たりける。大納言父子は今夕可(レ)被(レ)刎(レ)首と披露有けれ共、其夜殊なる事無りければ、是は小松殿(こまつどの)と門脇殿(かどわきどの)との歎教訓し給験にやと、当家も他家も、女房も男も悦申けり。新(しん)大納言(だいなごん)父子にも不(レ)限被(二)召誡(一)輩は、新判官資行をば、源大夫判官季貞に仰せて、佐渡国へ流す。山城守基兼をば、進の二郎宗政に仰て、淀の宿所に召置、平判官康頼、法勝寺執行俊寛をば、妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)承つて福原に被(二)召置(一)。丹波(たんばの)少将(せうしやう)成経(なりつね)をば、舅の平宰相(へいざいしやう)教盛申預り給ぬ。近江中将入道蓮浄をば、土肥次郎に仰て、常陸国へ遣す。
S0602 西光父子亡事
西光(さいくわう)法師(ほふし)は、入道の三男に三位中将知盛の乳人に、紀伊次郎兵衛為範と云者が舅也けるに依て、為範が主の三位中将に歎申、中将又様々に預り候はんと被(レ)申けれ
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共、入道不(二)(有朋上P188)用給(一)、責ては手に懸んより、聟にて侍べれば為範に預給候へと、低臥被(レ)申けれ共、種々の悪口申たりけるに依て、入道終に聞入給ず、口を割れて被(二)禁置(一)たりけるを、松浦太郎高俊承つて朱雀大路に引出し、なぶり切にぞ切てげる。郎等三人同被(レ)切。見聞の者中に、哀西光(さいくわう)法師(ほふし)は詮なき悪口して口を割るゝのみに非ず、終に被(レ)切ぬる無慙さよ、倩事の心を案ずるに、雖(二)冠古(一)猶居(レ)頭、雖履新(一)尚蹈(レ)地、嗔れる拳不(レ)当(二)笑顔(一)、故不(レ)如(レ)順、下に居て嘲(レ)上、愚にして賢を蔑にして、かく被(レ)死ぬるこそ不便なれ、同罪にてこそ有らめども、余の輩は角はなし。或は流され、或は被(レ)禁てこそ有にと申ければ、不敵の者ねも有けり、終に切らるゝ者故に、よくこそ云たれ、無事ならばこそと云者も在けり。聞(レ)之耳こそばゆく思者は、立退人も多かりけり。西光(さいくわう)法師(ほふし)が子息に加賀守師高(もろたか)、左衛門尉師平、右衛門尉、師親兄弟三人をば、依(二)山門之訴訟(一)被(レ)流(二)尾張国(一)たりけるが、当国井戸田と云所に在けるを、為(二)追討(一)武士を被(二)差下(一)、師高(もろたか)が母聞(レ)之、急ぎ人を下して角と告げたり。師高(もろたか)折節河狩して遊けり。国中の者共多集て、水辺に仮屋を造並べ、遊君其数喚集て、今様うたひ琴琵琶弾、面白かりける酒宴の座へぞ告げたりける。師高(もろたか)周章(あわて)迷て彼配所を逃出て、同国蚊野と云所に忍居たりけるを、討手の使下向し(有朋上P189)て、小熊郡司惟長、川室の判官代範朝等を相具して押寄、散々(さんざん)に戦ふ。師高(もろたか)、師平、師親、兄弟三人思切て振舞けれ共終に叶ず、惟長が為に被(レ)誅けり。郎等三人同被(レ)誅、又主従六人が頸河の耳に切係たり。身は河原に倒臥、沙に交りて在けるを、師高(もろたか)が思ける萱津宿の遊君、僧を
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語ひ孝養して、骨を拾ひて堂塔に納つゝ、尼に成て後世弔けるこそ哀なれ。西光師高(もろたか)父子共に、法皇の切者にて世をば世とも思はず、人をも人共せざりし余りに、白山妙理権現(はくさんめうりごんげん)の神田講田没倒し、涌泉寺(やうせんじ)の坊舎聖教焼払、末社の神与登山、日吉御輿及(二)入洛(一)、其上顕密之法燈智行先達に御座し、天台座主(てんだいざす)種々に奉(二)讒奏(一)しかば也。人の歎神の恨、三千の咒咀も不(レ)空、十二神将の冥罰も掲焉にして一門終に亡ぬるこそ無慙なれ。左見つる事よと云者は多けれ共、ほむる人こそ無りけれ。大方は女と下臈(げらふ)とは賢き様なれ共、思慮浅き者也、西光も本は田舎の夫童なれば、無下の下臈(げらふ)ぞかし、去共一旦賢々敷心様也ければ、一天の君に奉(レ)被(二)召仕(一)、忝く竜顔に近づき進せしかば、果報や尽けん其心大に奢つゝ、其官職にあらねども、天下の事共執行、よしなき謀叛に与しつゝ、我身も加様に失にけり、不(レ)在(二)其位(一)謀(二)其政(一)と云事あり、相構て人は身の程の分を相計て可(二)振舞(一)とぞ申合ける。(有朋上P190)
S0603 西光卒都婆事
或人の云けるは、今生の災害は、過去の宿習に報ふべし、貴賤不(レ)免(二)其難(一)、僧俗同く以て在(レ)之、西光も先世の業に依てこそ角は有りつらめども、後生は去とも憑しき方あり、当初難(レ)有願を発せり、七道の辻ごとに六体の地蔵菩薩を造奉り、卒都婆の上に道場を構て、大悲の尊像を居奉り、廻り地蔵と名て七箇所に安置して云、我在俗不信の身として、朝暮世務の罪を重ぬ、一期命終の刻に臨ん時は、八大奈落の底に入らんか、生前の一善なければ、没後の出要にまどへり。所(レ)仰者今世後世の誓約なり、助(レ)今助(レ)後給へ、所(レ)憑大慈大悲の本願也、与(レ)慈与(レ)悲給へとなり。加様に発願して造立安置す、四宮河原、木幡の里、造道、西七条、蓮台野、みぞろ池、西坂本、是也。たとひ今生にこそ剣のさきに懸共、後生は定て薩■[*土+垂](さつた)の済渡に預らんと、いと憑しとぞ申ける。
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S0604 大納言音立事
新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)をば、速に死罪に行はばやと、入道はおぼされけれ共、小松大臣の様々(有朋上P191)被(二)宥申(一)ければ、遉が子ながらも恥かしき人にておはすれば、其教訓も難(レ)背して、死罪までの事はなけれども、西光(さいくわう)法師(ほふし)が白状に安からず被(レ)思つゝ、大納言のおはする後の障子をあらゝかにあけて出で給へり。生の衣の裳短きに、白き大口を著給たり。聖柄の腰の刀をさし、大に嗔たる体也。大納言に向て、一長押上たる所に尻打係て、はたと睨給へば、大納言はあは只今被(レ)失歟、又いかなる事のあらんずるやらんと思より、いとゞ胸打騒ぎ伏目にて打うつぶき給たりければ、入道、やゝ大納言殿(だいなごんどの)々々(だいなごんどの)と呼仰て、あら悪の殿の顔やな、御辺は平治の乱逆の時失給ふべかりし人ぞかし、其に小松の内府が頻に歎申に依て、心弱く宥置奉て、頸を継、大国庄園数多給り、官位と云俸禄と云、身に余る程(ほど)に成給へる人の、何の飽足ずさに其恩を忘て、忽に此一門を滅さんと結構し給けるぞ、入道が咎何事に侍るぞや、一門の運依(レ)不(レ)尽、今其企顕れたり、同意の北面の奴原、一々に食禁て候、御辺又加様に奉(レ)迎候へば、今は別事あらじと存ずれ共、入道に深宿意の有けん子細、謀叛悪行の企語給へ、承らんと宣へば、大納言は、人の讒言にてぞ候覧、御一門に向進せて、何事の怨有りてか左様の事思立侍るべき、努々無事也と被(レ)申たり。入道立直て大の音を以て、侍に人や在/\と呼給ひければ、貞能(さだよし)候とてつと参。やをれ、此(有朋上P192)に物論ずる人の有ぞ、西光が白状進よと宣へば、貞能(さだよし)巻物一巻持て参る、四五枚も在らんと見ゆ。入道自さと披て、慥に聞給へとて高声に二返読聞せ奉て、此上争か論じ給べき、穴悪の人の物論じたる顔の
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誠し気さよ、穴悪やとて白状を取直して、大納言の顔をすぢかへに打つて、障子を立て入給ぬ。入道角しても猶腹居かねて、難波妹尾を召て、大納言をめかせよと宣ふ。二人の武仰奉て、一間より引出し奉て壺の内に召居、数の■(しもと)を支度したり。入道は壁を隔て立聞給けり。難波妹尾、大納言に無(レ)情当たりとて、小松殿(こまつどの)深く禁給(たま)ひける事を大に恐思ければ、忍やかに大納言の耳に申けるは、上の仰なれば奉(レ)誡由なるべし、真に争か其義有べき、入道殿(にふだうどの)壁を隔て立聞給へり、叫給へと申て、大納言の居給へる傍をしたゝかに打ちければ、あゝ難(レ)堪、助給へや、休給へや、物申さんとのたまひければ、入道、何事ぞ暫休て、物云せよ、きかんと有ければ、経遠(つねとほ)兼康(かねやす)杖を納む。大納言は、我平治の乱に既(すで)に可(レ)奉(レ)被(レ)刎(レ)首かりし者が、小松殿(こまつどの)に奉(レ)被(レ)助(レ)継(レ)命、位正二位、官大納言に経上つゝ、大国数多給(たまひ)て、官禄共に身に余たる我身の今なる果こそ悲けれ。平家御恩を蒙たる身也、争奉(レ)忘(二)其恩(一)、謀叛の企候べきとぞ口説給ふ。入道はさこそ思べき事よ、但虚言ぞ、今一度をめかせよと宣へば、又傍をぞ強(有朋上P193)打たりける。大納言は、あら難(レ)堪助給へ、妹尾殿、休給へ難波殿とぞ叫び給ふ。物に能々喩れば、罪深き衆生の、所造の業に随ひて、刑罰を蒙り、獄卒阿旁羅刹にさいなまるらん、冥途の旅の有様(ありさま)、角やと覚えて哀也。入道聞(レ)之給(たまひ)て、少し腹居て、さばかり候へとて、又本の所へ推籠奉る。
S0605 入道院参(ゐんざん)企事
入道は加様に人々禁置て後も、猶不(レ)安おぼされければ、生衣の帷の脇掻たるに、赤地錦鎧直垂に、白金物打たる黒糸威の腹巻に、打刀前垂に指、当初安芸守と申時、厳島社の神拝の次に、蒙(二)霊夢(一)賜ると見たりけるが、うつゝにも実に有
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ける銀の蛭巻したる手鋒の、秘蔵して常枕を不(レ)放被(レ)立たる、鞘はづし左の脇に挟て、中門の廊に被(レ)出たり。其気色大方あたりを払てゆゆしくぞ見えける。貞能(さだよし)貞能(さだよし)と召ければ、筑前守木蘭地の直垂に火威の鎧著て、跪て候ひけり。入道嗔声にて宣(のたまひ)けるは、やをれ貞能(さだよし)慥に承れ、入道が過分とては、官途の涯分計也。坂上田村丸は、刈田丸が子也しかども、東夷の辺土を平げし忠に依て、左近大将を兼たり。朝敵を誅して高位に登事、異域本朝其跡相伝(有朋上P194)れり、浄海一人に非ず、君強に御憤(おんいきどほり)有べき事ならず、其奉公を案ずるに一度一旦の勲功に非ず、一年保元逆乱の時、平馬助を始として、親者共も半に過て、新院の御方に参き。一宮重仁親王の御事は、故(こ)刑部卿殿(ぎやうぶきやうどの)の養君にて御座しかば、旁思放進せがたかりしかども、故院の御遺誡に任て、御方にて前を蒐、凶徒を討平たりき。是一の勲功也。次平治元年に右衛門督信頼卿、下野守義朝(よしとも)等が振舞、入道命を惜ては叶ふまじかりしを、命を重じ身を軽じて凶党を退き、経宗惟方を召し禁しに至るまで、度々天下を鎮海内を平げて、君の御代になし進たる入道也。たとひ人いかに讒申とも、争か子々孫々(ししそんぞん)迄も捨思召(おぼしめす)べき。成親卿(なりちかのきやう)が讒奏につかせ御座て、一門追討せらるべき由の院中の御結構(ごけつこう)こそ返々遺恨の次第なれ。此事行綱不(レ)告知(一)不(レ)可(レ)顕、不(レ)顕は入道安穏に有るべしや、猶も北面の下臈共(げらふども)の中に申事なんど有ば、御軽々の君にて、一定当家追討の院宣被(レ)下ぬと覚ゆ。朝敵と成なん後は悔に甲斐有まじ。世を鎮程、仙洞を鳥羽の北の御所へ移しまゐらする歟、去ずば御幸を是へなし進せばやと思也。其儀ならば北面の者共の中に、矢をも一つ射出す者も有ぬと覚ゆる
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ぞ、侍共に可(レ)有(二)用意(一)と触べし、大方は入道院中の宮仕思切ぬ、きせなが取出せ、馬に鞍置せよとぞ宣(のたまひ)ける。又然べしとは云まじけれ共、(有朋上P195)是程の大事争か内府に可(レ)不(二)申合(一)とて、急ぎ立寄給へ、申べき事等侍りと、使者を立られたりけれ共、強にさわがぬ人におはしければ、けしからず只今何事か有べきとて、急ぎ出給ふ事なし。其間に侍共は入道の下知に随て、弓よ矢よ、馬鞍などひしめけり。一門の人々も色々に出立て、つと出給はんずる体也。入道は小具足取付腹巻著て、中門の廊に打立給へり。主馬(しゆめの)判官(はんぐわん)盛国(もりくに)此形勢(ありさま)を見て、穴浅猿と思ひければ、小松殿(こまつどの)に馳参、世は既(すで)にかうと見え侍り、入道殿(にふだうどの)御きせながを被(レ)召たり、公達も侍も悉く被(二)打立(一)たり、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ御参有て、法皇を鳥羽の御所に移し進すべしと披露候へども、実は西国の方へ御幸有べきとこそ内々承つれ、いかに此御所へ御使は不(レ)被(レ)進やらんと申ければ、大臣大に騒給(たまひ)て、使者は有りつれ共何事かは有べきと思食(おぼしめし)つるに、今朝の入道の気色、さる物狂しき事も有覧とて、急ぎ西八条へ被(二)馳参(一)けり。其時も猶今朝の姿にて、烏帽子(えぼし)直衣にて、物具したる者をば一人も具し給はず、差入て見給へば、入道既(すで)に腹巻を著給ける上は、一門の卿上(けいしやう)雲客(うんかく)数十人、各思々の鎧直垂に色々の鎧著て、中門の廊に二行に著座せられたり。諸国の受領なんどは、縁に居覆て庭にもひしと並居たり。馬の腹帯強しめて、手綱打係打係、旗竿共引そばめ、熊手薙鎌、手々にさゝげ、甲を前に置て、主人(有朋上P196)あと云ば、郎等さと出べき体也けり。小松大臣は引替、烏帽子(えぼし)直衣に奴袴の稜取さやめき被(レ)入ければ、人々事の外にぞ奉(レ)見。右大将宗盛出向て、内府の直衣
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の袖を引へて、是程の大事出来て、入道殿(にふだうどの)既(すで)に甲冑を被(レ)帯候の上は、御装束何様にか候べきと宣(のたまひ)ければ、何事かは有べき、朝家の重事をこそ大事とは申せ、此は私事也、入道の物狂の至る所歟、武具を帯する事輒らず、重盛(しげもり)憖に其職に居ながら甲冑を著せん事、太不(レ)可(レ)然、就(レ)中(なかんづく)近衛大将は世の重ずる官、他に異なる職也。兵共も数千騎候之上は、云がひなく重盛(しげもり)一人物具したらば、何程の事かは候べき、礼儀を知ぬに似たり。夷賊朝家を乱り、凶徒勝に乗て御方敗れんとせん時は、たとひ丞相の位に至るとも、自禦戦べし、而を敵方も無其仁も不(レ)知、何に向てか合戦すべき、沙汰之趣尤以つて不審也とて、よに悪気にて尻目に懸て通られければ、宗盛卿(むねもりのきやう)苦々敷思給(たま)ひ、帰入給ぬ。実に理也ければ、聞人々皆苦りあへり。内府内へ入り給へば、入道見(レ)之給(たまひ)て、臥目にこそ成給へ、例の此内府が世を表する様に振舞とて不(二)意得(一)気には御座しけれども、子ながらも遉あの貌に物具して相向はん事、面早くや被(レ)思けん、物具脱置隙もなかりければ、障子を少し引立て、腹巻の上に薄墨染の素絹の衣を引懸て出給たりけるが、胸板(むないた)の金物のはづれて見え(有朋上P197)けるをかくさんと、頻に衣の頸を引違引違し給(たま)ひければ、引綻ばかして、いとゞきらめきて見えにけり。入道はへらぬ体にて、抑此間の事、西光(さいくわう)法師(ほふし)に委く相尋ぬれば、成親卿(なりちかのきやう)の謀叛は事の枝葉也、実は叡慮より思食(おぼしめし)立と承れば、世の鎮らん程(ほど)、暫く法皇を奉(レ)迎、片辺に御幸なし進せんと存ず、大方近来いとしもなき者共が近習者し、下尅上して折を待時を伺て、種々の事を勧申なる間に、御軽々の君にては御座、係乱国の基をも思召(おぼしめし)立けり、向後とても非(レ)可(レ)奉(二)打解(一)、一
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天之煩当家の大事、一定出来ぬと覚ゆ。されば奉(二)申合(一)ばやと存じて使者を進たれば、いかなる遅参候ぞやと宣(のたまひ)けり。小松殿(こまつどの)は弟の右大将宗盛より上座し給たりけるが、檜扇半ばかり披仕給けるが、入道の言を聞給(たま)ひ、双眼より涙をはら/\と流し、暫物も宣はず、先興醒て御座ければ、入道又物もいはれず、一門の殿原なりを鎮て音もせず、庭上の軍兵等皆畏て候けり。
S0606 小松殿(こまつどの)教(二)訓父(一)事
内府やゝ暫く在て、直衣の袖より畳紙を取出し、落る涙を推拭被(レ)申けるは、左右の子細は暫閣、此御貌見進するこそ現とも存じ候はね。我朝さすがは辺鄙粟散の境と申ながら、(有朋上P198)天照太神(てんせうだいじん)の御子孫国の主として、天児屋根尊(あまのこやねのみこと)の御末、朝政を掌給しより以来、太政(だいじやう)大臣(だいじん)の官に昇れる人、甲冑を著する事輙かるべしとも覚えず、就(レ)中(なかんづく)出家の御身也。夫三世の諸仏の解脱■相(とうさう)の法衣を脱捨て、忽に弓箭を帯し御座さん事、内には既(すで)に破戒無慚の罪を招き給、外には又仁義礼智信の法にも背御座覧と覚ゆ。旁恐ある申事にて候へ共、暫く御心を閑め御座て、重盛(しげもり)が申状を具に可(二)聞召(一)哉覧、且は最後の申状と存れば心底に旨趣を不(レ)可(レ)残、先世に四恩と云事あり、諸経の説相不(レ)同に、内外の存知各別也と云ども、且く心地観経を見候に、一には天地恩、二には国土恩、三には父母恩、四には衆生恩是也。以(レ)知(レ)之人倫とし、不(レ)知を以て鬼畜とす。其中に尤重きは朝恩也。普天之下、莫(レ)非(二)王土(一)、卒土之浜莫(レ)非(二)王臣(一)、されば彼頴川の水に耳を洗き、首陽山に蕨を折ける賢臣も、勅命の難(レ)背礼儀をば存とこそ承れ。何況倩上古を思ふに、御先祖平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)は、相馬(さうまの)小次郎(こじらう)将門(まさかど)を被(レ)誅たりけるも、勧賞被(レ)行事受領には過ぎざりき。伊予入道頼義(らいぎ)が貞任
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宗任を滅したりけるも、いつか丞相の位に昇り不次の朝恩に預し。就(レ)中(なかんづく)此一門は、忝く桓武天皇の御苗裔、葛原親王の後胤とは申ながら、中比よりは無下に官途も打下て、下国の受領をだにも宥されずこそ有りけるに、故(こ)刑部卿殿(ぎやうぶきやうどの)備前守の(有朋上P199)御時、鳥羽院(とばのゐん)の御願(ごぐわん)、徳長寿院造進の勧賞に依て、家に久く絶えたりし内の昇殿をゆるされける時は、万人唇を反し侍けるとこそ伝承候へ。去ども御身は既(すで)に先祖にも未拝任の例をきかざりし太政(だいじやう)大臣(だいじん)を極めさせ御座上、又大臣の大将に至れり、所謂(いはゆる)重盛(しげもり)など暗愚無才之身を以、蓮府槐門の位に至る、加之国郡半は一門の所領となり、田園悉く一家の進止たり。是希代の朝恩に候はずや。今此等の莫大の御恩を忘て、濫く君を奉(レ)傾らんと思食(おぼしめし)立こと、天照大神(てんせうだいじん)、正八幡宮(しやうはちまんぐう)の神慮にも定めて背き給ふべし、背(二)朝恩(一)者は、近は百日、遠は三年をすごさずとこそ申伝て侍れ。昨日までは人の上にこそ承つるに、今日は我身に係なんとす。其上日本はこれ神国也。神は非礼を受給はず。而に君の思召(おぼしめし)立処、道理尤も至極せり。此一門代々朝敵を平げて、四海の逆浪を鎮る事は、無双の勲功に似たれ共、面々の恩賞に於ては、傍若無人と申べし。聖徳太子(しやうとくたいし)十七箇条憲法には、人皆有(レ)心、心各有(レ)執、彼是則我非、我是則彼非、我必非(レ)聖、彼必非(レ)愚、共に是凡夫耳、是非之理、誰か能可(レ)定、相共に賢愚にして、如(二)環無(一)(レ)端、是以(レ)彼人雖も(レ)嗔還恐(二)我失(一)とこそ承れ。依(レ)之君事の次を以て奇恠也と思召(おぼしめせ)ば、尤御理にてこそ候へ、然而御運の尽ざるによりて此事既(すで)に顕ぬ、被(二)仰含(一)大納言、又被(二)召置(一)ぬる上は、縦君(有朋上P200)如何なる事思食(おぼしめし)立と云とも、何の恐か御座べき。大納言已下の輩に、所当
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の罪科を被(レ)行候はん上は、退て事の由を陳じ申させ給(たまひ)て、君の御為には弥奉公の忠勤を尽し、人の為にはます/\撫育の哀憐を致させ給はば、仏陀の加護に預り、神明の冥慮に背べからず、神明仏陀の感応あらば、君もなどか思召(おぼしめし)直す御事もなかるべき、濫く法皇を傾進せんとの御計、方々不(レ)可(レ)然、重盛(しげもり)に於ては御供仕べしとも存侍らず。不(下)以(二)父命(一)辞(中)王命(上)、以(二)王命(一)辞(二)父命(一)、不(下)以(二)家事(一)辞(中)王事(上)、以(二)王事(一)辞(二)家事(一)と云本文有り。又君と臣とを並、親疎を分事なく、君に付き奉るは、忠臣の法也。道理と僻事とを並べんに、争か道理に付ざらん。是は専君の御理にて御座候へば、神明擁護を垂給らん。さらば逆臣忽に滅亡し、凶徒即退散して、八■(はつえん)風和ぎ、四海浪静らん事、掌を返すよりも猶速なるべし。去ば重盛(しげもり)院中を守護し進せ侍ばやとこそ存候へ。重盛(しげもり)始は六位に叙し、今三公に列るまで、朝恩を蒙る事家に其例なし、身に於て過分也。其重き事を思へば、千顆万顆の珠にもこえ、其深色を論ずれば、一入再入の紅にも定て過たるらん、然者(しかれば)院中に参り籠り侍なん。其儀ならば重盛(しげもり)が命に替身に替らんと契を結べる侍、二百余人(よにん)は相随へて持て候らん、此者共は去共重盛(しげもり)をば捨思はじとこそ存候へ、是以て先例を思に、一年保元の(有朋上P201)逆乱の時、六条(ろくでうの)判官(はんぐわん)為義(ためよし)は、新院の御方に参り、子息下野守義朝(よしとも)は、内裏に参りて父子致(二)合戦(一)、新院の御方軍破て、大炊殿戦場の煙の底に成しかば、院は讃州〔へ〕御下向、左府は流矢にあたりて失給ぬ。大将軍為義(ためよし)法師をば、子息義朝(よしとも)承つて、朱雀大路に引出し、首を刎たりしをこそ、同く勅定の忝なさと云ながら、悪逆無道(あくぎやくぶたう)の至、口惜事哉と存候しか、正御覧ぜられし事ぞかし、其
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に人の上の様に浅増と悲かりし事の、今日は又重盛(しげもり)が身の上に罷成ぬる事よと存こそ、心憂覚え候へ。悲哉、君の御為に奉公の忠を致さんとすれば、迷廬八万の頂より猶高き父の御恩忽ちに忘なんとす。痛哉、不孝の罪を遁とすれば、又朝恩重畳の底極がたし。君の御為に既(すで)に不忠の逆臣となりぬべし。雖(二)君(一)不(レ)為(レ)君(一)、不(レ)可(二)臣以不(レ)為(レ)臣(一)、雖(二)父不(レ)為(レ)父(一)、不(レ)可(二)子以不(レ)為(レ)子(一)といへり。云(レ)彼云(レ)此、進退こゝにきはまれり、思ふに無益の次第也。只末代に生を受て、係る憂目を見る重盛(しげもり)が、果報の程こそ口惜けれ。されば申請くる処、御承引なくして、猶御院参(ごゐんざん)有べくば、只今重盛(しげもり)が頸を召るべく候。所詮院中をも守護仕べからず、悪逆(あくぎやく)の咎難(レ)遁、又御供をも仕るべからず、忠臣の儀忽に背候、申し請る詮たゞ頸を召るべきにあり。唯今思食(おぼしめし)合せ御座すべし。御運は既(すで)に末に望ぬと覚候。人の運命の尽んとする時、加様の事は思立事にて侍り。老子(有朋上P202)の詞こそ思ひしられ候へ。功名称遂不(二)退(レ)身避(一)(レ)位則、遇(二)於害(一)と申せり。彼漢蕭何は勲功を極に依つて、官大相国(たいしやうこく)に至り、剣を帯し冠を著ながら殿上に昇る事を被(レ)免しか共、叡慮に背く事有しかば、高祖重く禁て、廷尉に下して、深く罪せられき、加様の先蹤を思侍るにも、御身富貴と云ひ、栄花と云、朝恩と云ひ重職と云、極させ御座しぬれば、御運の尽事も難かるべきに非ず。富貴之家禄位重畳、猶再実之木、其根必傷とも申す、心細くこそ覚候へ。噫呼邦無(レ)道富貴恥と云本文あり。去ば重盛(しげもり)何迄か命生て、乱ん世をも見べき。唯速に頸を食れ候べし。人一人に被(二)仰付(一)て、御つぼに引出されて、重盛(しげもり)が首を刎られん事、安事にこそ候へ。人々是をばいかゞ聞給やとて、又直衣
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の袖を絞つゝ、泣々(なくなく)被(二)諌申(一)けり。是を見給ける一門の人々も、涙を流し袖を絞らぬはなかりけり。入道は口説立られて、おろ涙色には御座けれども、猶へらぬ体にて、さらば今は世にもいろひ侍まじ、院参(ゐんざん)も思止候ぬ、其上は召誡る者共をも、死罪にも流罪にもせでこそあらめ。但入道かく計申す事も、全く身の為ならず、浄海年闌て余命幾なし、唯子々孫々(ししそんぞん)末の代までも安穏にやと存する計也。其事人望に背愚案の企にあらば、何様にも御計ひなるべしと宣て内へ被(レ)入けり。小松殿(こまつどの)は弟の殿原に向ひて、いかに加様のひけうは結構せ(有朋上P203)られ候ぞや、縦入道殿(にふだうどの)こそ老耄し給(たまひ)て、あらぬ振舞あり共、今は各こそ家門をも治め、悪事をも可(レ)被(二)宥申(一)に、相副たる御事共(おんことども)候哉と被(レ)仰ければ、宗盛已下の人々苦々敷そぞろぎてぞ見え給ける。
内大臣(ないだいじん)は中門廊に立出給(たま)ひ、さも然べき侍共の並居たりける所にて仰けるは、重盛(しげもり)が申つる事共慥に承りつるにや、去ば院参(ゐんざん)の御供に出ば、重盛(しげもり)が頸の切られんを見て、後に仕べしと覚るはいかに、今朝より是に候て、加様の事共叶はざらんまでも申ばやと存つれども、此等が体の、あまりに直騒ぎに見えつる時に帰りつるなり。今は憚処有べからず、猶も御院参(ごゐんざん)有べきならば、一定重盛(しげもり)が頸をぞ召れんずらん、各其旨をこそ存ぜめ、但さも未仰られぬは、何様成べきやらん、去ば人々参れやとて、又小松殿(こまつどの)へぞ被(レ)帰ける。
S0607 内大臣(ないだいじん)召(レ)兵事
内大臣(ないだいじん)は、入道猶も腹悪き人なれば、院参(ゐんざん)の事もやあらんずらんと思召(おぼしめし)ければ、其悪行を塞がん為と覚しくて、主馬(しゆめの)判官(はんぐわん)盛国(もりくに)を使にて、重盛(しげもり)こそ別して天下の大事を聞き出したれ、我
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を吾と思はん者共は急ぎ参れと被(レ)催たり。是を承る者共、おぼろげにては騒給は(有朋上P204)ぬ人の、係る仰の下るは実に別の子細の有にこそとて、難波(なんばの)次郎(じらう)経遠(つねとほ)、妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)筑後守(ちくごのかみ)家貞(いへさだ)、肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)等を始として、如法夜中の事なれども、我先にとぞ馳参りける。係ければ老も若も留る者はなし。小松殿(こまつどの)へとて周章(あわて)て参けり。入道は、何事ぞ世間の物騒ぎは、是に候や/\と宣(のたまひ)けれ共、そら聞ずして馳出ければ、西八条には青女房老尼、若は筆執ばかり残たる。少も弓馬に携る程の者は、一人もなかりけり。是のみらず、夜も明ければ、次第次第に聞伝て、洛中白川の外、北山、西山、嵯峨、広隆、梅津、桂、淀、羽束、醍醐、小栗栖、日野、勧修寺、宇治、岡屋、大原、閑原、賀茂、鞍馬、大津、粟津、勢多、石山迄も聞伝て、馬に乗ものらざるも、弓を取も取らざるも、出家遁世の古入道に至迄馳参ければ、洛中辺土の騒斜(なのめ)ならず、保元平治の逆乱に物懲して、貴賤上下肝をけす。入道宣(のたま)ひけるは、内府は何と思て、此等をば呼取ぬるやらんと、よく心得ずげにて、腹巻脱て素絹の衣に、長念珠後手にくりて、縁行道して、あゝ内府に中違たらんもよき大事やと宣て、いと心も発ぬ哀念仏をぞ被(レ)申ける。又小松殿(こまつどの)には、盛国(もりくに)承て侍の著倒しけり。宗徒の侍三千余人(よにん)、郎等乗替打具て、二万余騎(よき)とぞ注したる。内大臣(ないだいじん)は著倒披見の後、家貞(いへさだ)貞能(さだよし)を召して子細を下知し給(たまひ)て、西八条へ遣れけり。二人の者共入道殿(にふだうどの)(有朋上P205)に参て、弓脇に挟申を脱高紐に懸て、庭上に候けり。入道殿(にふだうどの)は人々に捨られて、徒然の余に猶縁行道して御座けるが、此等を見給(たまひ)てへらぬ体に宣(のたまひ)けるは、如何に家貞(いへさだ)貞能(さだよし)よ、小松殿(こまつどの)には軍兵を誘引して、是
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には人一人もなし、所存何事ぞ、其意を得ずと宣へば、家貞(いへさだ)畏て、可(レ)有(二)御院参(ごゐんざん)(一)之由仙洞依(レ)被(二)聞召(一)、法皇大に驚御座て、勅定に為(レ)治(二)天下(一)被(レ)下(二)軍将之宣旨(一)之後、経(二)多年(一)之間、云(二)官位(一)云(二)福禄(一)、秀(二)于先例(一)、深可(レ)存(二)朝恩(一)之処、還而欲(レ)乱(二)国家(一)之条、既為(二)朝敵(一)之上者、速に可(二)追討(一)之旨、所(レ)被(レ)下(二)院宣(一)也。昨日申入しが如、奉(レ)向(レ)父弓矢を引事は有べからずといへ共、重盛(しげもり)今官に居し、禄を貪る上は、勅定又難(レ)奉(レ)背。此事聞食されなば、御自害もやあらんずらん、先守護し進せよ、重盛(しげもり)角て侍れば、御命をば奉公に申替侍らんと被(二)仰下(一)と申たれば、入道殿(にふだうどの)まづ興醒て、俄に道心も失果つゝ、実か虚言かと宣へば、一定に候と申す。よもさらじ、入道を矯見とてこそといはれければ、家貞(いへさだ)は、今始て小松殿(こまつどの)左様の軽々敷御事有べしと不(レ)存、院宣とて軍兵の中に御披露有りしは、一定の事にこそと申時、入道大に歎給(たまひ)ていはれけるは、家貞(いへさだ)貞能(さだよし)慥に承れ、昨日申しし様に、出家入道の身也、余年日数少し、内府に奉(レ)譲(レ)世ぬる上は、向後は物にいろひ申す事あるべからず、院宣の御返事もよき様に可(レ)被(二)奏聞(一)、兎も(有朋上P206)角も相計はれんにこそ奉(レ)随らめと、曳去ばとく還り行て、此由を申べしと宣へば、二人の者共は、守護に候べしとの仰也、別の御使を以て可(レ)被(レ)仰や候らんと申す。入道の仰には、只急帰れ、我一人いづくへか落行くべき、是に不(レ)働して居べしなんど、様々怠状被(レ)申けり。二人帰て細に角と申せば、内府は打頷許涙ぐみ給(たまひ)て、やをれ家貞(いへさだ)貞能(さだよし)よ、まことには勅定なりとても、争か父に向ひ奉て、無道の逆罪を犯すべき、只入道殿(にふだうどの)違勅の振舞をしづめ奉り、天下の煩を止との方便なりと
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云へども、重盛(しげもり)かゝる悪人の子と生れて、五逆罪の一を犯する事こそ悲けれ、いかにといへば、子の身としては我こそ何度も父の命には随奉べきに、今父に向ひ奉りて御心を傷り奉り、御怠状をせさせ奉る事の心憂さよとて、はら/\と泣き給へば、二人の者共も鎧の袖をぞぬらしける。其後大臣は軍兵等に仰られけるは、日比の契約たがへず、下知に随て馳参り、聞伝て参上の条、返々神妙。聞召す事ありて被(レ)仰たりつれども、其事聞なほしつ、僻事にありけり、とく/\罷帰べし、但今度別の事なければとて、後々の催促に悠々を存ずべからず、たとひ事無しと云とも、何度も可(レ)随(二)下知(一)也、終には御用に叶ふべし。(有朋上P207)
S0608 幽王褒■[女+似](ほうじ)烽火事
去(さる)程(ほど)に異国の幽王にありき、度々の御召に事なければとて、官兵後日の催に参らざりければ、つひに国をほろぼしけり、其こゝろあるべしとぞ仰ける。
昔異国に周の幽王と云しは、宣王の子也。位に付給(たまひ)て二年と云ふ春、山川大に震動せり。于時伯陽甫と云人申けるは、周すでに亡なんとす。昔伊洛竭て夏亡、河竭て商亡たりき。国は必ず山川による。山崩河竭は亡之徴也。河竭ときは山必崩。周の亡ん事十年にすぎじと被(レ)歎けるに、次の年幽王美人を得たり、其名を褒■[女+似](ほうじ)と云ふ。いつしか懐姙して皇子誕生あり、伯服とぞ云ける。幽王の本の后は申候と云ふ人の女めなりけれども、彼を捨てて褒■[女+似](ほうじ)を后とし、伯服を太子に立給(たま)ひければ、世は既(すで)に亡ぬとぞ群臣歎申ける。此后三千の寵愛にすぐれ、万女の綺羅に越たれども、笑事さらに御座さず。王心元なく思食(おぼしめし)て、宮中に心をとゞめ給はぬにや、いかゞして笑顔を見んと思食(おぼしめし)けるに、大国の習朝敵を禦ぎ亡さんとて、官兵を召時は、必烽火を揚る事あり。烽火とは我朝の高燈篭の如く、大なる続松に火を付て、高き峯にさゝげともせば、烽火の司人是を見継て、四方の岳々峯々にともしつゞけ(有朋上P208)て、国々の兵を召例
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あり。されば一月に行べき道なれども一日の内に知せけるなり、是を飛火と名たり。燧帝の猛火といへるは是也。我朝にも奈良帝の御時、東より軍おこらんとせしかば、春日野に飛火を立始て、其火を守人を被(レ)置たりき。春日野を飛火野と申は是也。異賊幽王を可(レ)奉(レ)傾之由聞えければ、飛火をあけて兵をめす。官兵馳集て旗をなびかし、戈をさゝげて、■を並べ時を作りけるに、后始て笑給へり。さらぬだに見目形たぐひなく、うつくしかりける上、咲ひ給(たま)ひたりければ、いとゞ百の媚をぞ増給ふ。帝嬉しき事に思召(おぼしめし)、常に飛火を揚られて兵を集給ふ。或は千里の山川を分来、或は八重の波路を凌上る。そも軍ならねば、兵本国に帰下る。国の費人の歎云ふばかりなし。かゝりし程(ほど)に、幽王を亡ぼさんとて、凶賊襲来ければ、又烽火を被(レ)上たり。諸国の軍兵是を見て、例の后の烽火と思ければ、官軍進み参事なくして、幽王忽に滅にけり。さてこそ后を褒■[女+似](ほうじ)僻愛とは申けれ、又は傾城とも名たり。都を傾と云ふ読あれば、当初は誡けれども、近来は人ごとに傾城とぞ呼ける。彼后幽王亡給(たまひ)て後、尾三つある狐と成て、こう/\鳴して古き塚に入りにけり。狐人を蕩とては、化して婦人と成りて顔色好。頭は雲の鬢と変じ、面は厳き粧と成て、翠眉不(レ)挙、華の顔低たり。忽然に一たび笑ば、(有朋上P209)千万の態有。見人十人が八九は迷ぬとぞかゝれたる。
或説云、褒■[女+似](ほうじ)は亀の子也。周■王の時、南庭に二の白龍出来て蟠居れり。帝いぶせく思召(おぼしめし)ければ、可(レ)殺よし宣下せられけるを、大臣公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)ありて云、竜は命長して必如意宝珠を持と云へり。朝家安穏の為に出現するにもやあるらんと、巫に依て死生を可(レ)定歟と奏しければ、然べしとて御占あり。不(レ)可(レ)殺と云占也ければ、早汝が命を助く。速に可(二)罷去(一)と被(二)宣下(一)、二龍恩を報ずとや思けん、暫庭上に泡を吐て去ぬ。彼吐所の泡を見れば、さま/゛\厳しき玉也けり。希代の重宝也。末代までも朝家の宝とすべし、輙く不(レ)可(レ)開とて、是を檜の唐櫃に納入て、勅封を付おかれけり。其後■王宣王幽王三代は、国治り民豊なりしを、幽王始て是
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を開き給へり。日記の如くには非ず、忽然として青亀也。王是を愛し給(たま)ひけり。宮中に七歳の姫宮御座、即幽王の后に祝奉べき仁なりけるが、此亀を愛して、常に唐櫃の辺に遊給ける程(ほど)に、何としたりけんいまだ歯かゝざる程の御齢也けるに、亀と嫁て懐姙し給へり。折節天下に童部歌を歌ふ事あり。山桑の弓生柄の矢を以て、此国を可(レ)滅とぞ歌ひける。不(レ)久して男一人出来、山桑の弓生柄の矢をぞ売たりける。是をきゝ、聞ゆる事にこそとて、件の男を搦捕て、土の籠に誡入、七歳の懐姙の姫宮をも追捨てられたりけるが、(有朋上P210)少き御心にさまよひありき給ける程(ほど)に、彼籠舎の砌に迷行。獄人是を見るに、みめ形よのつねならずありければ、汝をば我子にすべしとて、官食を分てこれを養ふ。懐姙の期満て生産す、即女子也。無双みめよし、長大するに随ひて美人の誉れ国中に極れり。幽王是を召て后とす。此忠に依て籠舎の者も被(レ)出けり。此后生てより笑事なしと、云々。如(レ)先、山桑の弓、なまえの矢うりける者と云は、他国の王幽王を亡さん為に、陀天の法を祭り付て是を売らせり、陀天は狐也。山桑なまえは、陀天の三摩耶形也(なり)ければ、かくはかり事にしたりけりと、云々。此事大に不審、周の代には仏法未(レ)渡真言なし、僻事にや、可(二)相尋(一)也。
内大臣(ないだいじん)も此意を得給けるにや、今度事無とて後日の催しに、悠々を不(レ)存とは仰せけるにこそ。実に君の為には忠勤あり、父の為には孝道を存す、臣以不(レ)為(レ)臣不(レ)可(レ)有、子以不(レ)為(レ)子不(レ)可(レ)有と宣へる、文宣王の言に不(二)相違(一)ぞありける。法皇聞召て、今に不(レ)始事と云ながら、怨をば恩を以て被(レ)報ぬ、返々も重盛(しげもり)が心の中こそはづかしけれ。勁松彰(二)於歳寒(一)、貞臣見(二)於国危(一)と云へり。恥かしくも憑しくも思食(おぼしめす)臣也。南無天照太神(てんせうだいじん)、正八幡宮(しやうはちまんぐう)、春日、日吉の神明、願は小松内府より先立て、朕が命を召給へとて、竜眼より御涙を流させ給(たま)ひけるぞ忝なき。東方朔が詞に、水至清無(レ)魚、人至
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察無(レ)友(有朋上P211)と云へり。嘉応の相撲の節会に、大将にて右の片屋に事行し給(たま)ひけるに、見物の中に立たりける人の申けるは、果報冥加こそ目出くて、近衛大将に至り給ふとも、容儀心操さへ、人に勝れ給(たま)ひける難(レ)有さよ、但此国は小国なり、内大臣(ないだいじん)は大果報の人也、末代に相応せずしてとく失給ふべきにやと申たりけるが、露たがはざりけるこそ不思議なれ。(有朋上P212)
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第七
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登巻 第七
S0701 成親卿(なりちかのきやう)流罪事
六月二日、新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)をば、公卿の座に出し奉りて、物進らせたれ共、胸(むね)せき喉ふさがりて、聊もめされず。追立の官人来て、車さしよせてとく/\と申せども、すゝまぬ旅の道なれば、座を立ちて急乗給はざりけるを、御手を取あらゝかに引立奉、うしろざまに投のせて、車の簾を逆に懸て、門前に遣り出す。大路にて先火丁よりて車より引き落し奉て、誡めの■(しもと)とて三杖あてたれば、次に看督長殺害の刀とて、二刀突まねをして、其後山城判官秀助宣命を含させて、又車に押乗奉りて、前後には障子をぞ立たりける。人の上をだにも見給はぬ事なれば、増て我身の上の悲さは、推量れて哀なり。軍兵前後に打囲て、我方ざまの者は一人もみえず、なにと成りいづくへ行やらんも知らする人もなし。内大臣(ないだいじん)に今一度会申さばやと宣へども、それも叶はず、憂身に添る者とては、尽せぬ涙ばかりなり。唐の呂房と云人、旅の空に行しかども、故宮の月に慰みけり。此大納言(有朋上P214)は車の物見を打塞、前後に障子を立たれば、月日の光も見給はず、西も東も不(レ)知けり。加様の歎の深さには、晩を待べしとも覚えざりければ、難波(なんばの)次郎(じらう)経遠(つねとほ)を以て、成親縦いかなる浦島にはなたるとも、責ては月日の光をだにも免れて侍らば、いさゝかなぐさむ方も候なん、さしも罪深き者と思食(おぼしめす)とも、かばかりの御誡までや候べきなんど、
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内府へ被(レ)申たりければ、大臣聞給(たまひ)て、こは不便の事也とて、月日の光はゆり給ふ。八条を西へ朱雀を南へ遣行けば、大内山を遥(はるか)に顧給ふにも、思出事のみ多かりけり。造路四塚をも過給へば、今を限の御名残(おんなごり)、心は都に留れども、車に任せて遣り行。鳥羽殿を過給へば、年来召仕給ける舎人牛飼共並居つゝ、涙を流し袖を絞ること理也とぞ哀なる。よそほかの者までも、悲を含み哀を催して、涙にむせばぬ者はなし。まして都に残留る者共の歎悲らんこと思ひつゞけ給ふにも、只袖をぞ被(レ)絞ける。我世にありし時付て仕し者の、一二千人(いちにせんにん)はありけれども、人一人も身にそはで、今日を限に都を出る悲しさよ、重き罪を蒙て遠き国へ行者も、人の一人身にそはぬ事やあるなんど種々独言をの給(たまひ)て、声もをしまず泣給へば、車の前後に候ける武士共も、さすが岩木をむすばねば、各袖をぞぬらしける。此御所へ御幸のありしには、一度も御供に闕る事なかりきと、せめて昔のゆ(有朋上P215)かしさに、今日の憂身を悲しめり。我宿所の前を見入て過給ふに付ても、いとゞ涙を流されけり。南門を過河の耳に御舟の装束とく/\とひそめけば、こはいづくへやらん、終に可(レ)被(レ)失ならば、同くは只都近此辺にても失へかしと、おぼしけるぞせめての事と哀なる。近候ける武士を召て、是は誰人ぞと問給へば、難波(なんばの)次郎(じらう)経遠(つねとほ)と名乗る。此辺に若我ゆかりの者や在と尋ねてえさせよ、舟にのらぬさきに云ひ置べき事ありと宣(のたまひ)ければ、経遠(つねとほ)其辺近あたりを打廻て相尋けれ共、有と答る者なし。可(レ)然(しかるべき)者候はずと申せば、大納言は、などか我ゆかりの者なかるべき、世に恐てぞ出ざるらん、命に替身に替らんと云契し者共は、この程(ほど)にも一二百人
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はありけん者を、よそにて此形勢(ありさま)を見んと思はざるらん口惜さよ、鳥羽の御所に被(レ)候し時には、非番当番して、目にかゝらん詞にかゝらんとこそ振舞しか、世あらたまり勢(いきほ)ひかはればにや、うらめしくも云ひ置べき事を、きかじとまで思ふ覧よと、口説給へば、武き夷なれ共、流石(さすが)心の有ければ、すぞろに涙をすゝめけり。大納言は既(すで)に船に乗波に流れて漕行けども、心は妻子につながれて、思ひは都にとゞまりけり。鳥羽殿を顧給(たまひ)て、泣々(なくなく)武士に宣(のたまひ)けるは、去じ永万(えいまん)元年の春、鳥羽の御所に御幸ありて、終日御遊(ぎよいう)ありしに、四条太政(だいじやう)大臣(だいじん)師長は琵琶の役、花山院中納言忠雅、按察大納言(有朋上P216)資賢は笛の役、葉室中納言俊賢は篳篥の役、楊梅の三位顕親は笙笛の役、盛定行家は打物を仕き。調子盤渉調、万寿楽の秘曲を奏せられしに、五六調に成て宮中澄渡り、諸人感涙を流しに、天井に琵琶の音しき。著座の公卿は怪を成して色変ぜしかども、君は少も御騒なし。何人ぞと尋可(レ)申之由、勅定を蒙りし間、成親畏て、左右の袖を掻合天井に仰向つゝ、何なる人に御座すぞ、御名乗し給へ、勅定也と申ししに、我は是摂津国(つのくに)住吉(すみよし)の辺に、居住せる小樵なり。君子の御遊(ぎよいう)、群臣管絃の目出さに、望み参れりと答て、其後は琵琶の音もせざりき。住吉(すみよし)大明神(だいみやうじん)の、御影向にやと、諸人身の毛竪ちし程(ほど)に、又池汀に赤き鬼の青き褓をかきて、扇を三本結立たり。誠に御遊(ぎよいう)の妓楽に目出給(たま)ひ、明神のかけらせ給けるにこそとて、其よりして州浜殿をば、住吉殿とは申けれ。、係し時も、多くの人の中に、成親こそ宣旨の御使を勤て、奉(レ)向(二)霊神(一)て、問答をば申て侍しが、非(二)朝敵(一)、今赴(二)配所(一)事、先世の宿報とは思へ
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共、憂かりける身の果かなとて、音も惜まず泣き給ふ。盛者必衰の理、実也とぞ哀なる。大納言の世におはせし昔、熊野詣などには、二瓦の三棟に造りたる舟に、次の船二三十艘漕列けてこそ下りしに、今はけしかる舁居屋形の舟の浅猿(あさまし)かりけるに大幕引廻して、見も馴ぬ武士に乗具して、いづくを指て行とも知らず、下給(有朋上P217)けん心の中、さこそ悲く覚しけんと、押計られて無慙也。淀の泊の黎明に白雲係八幡山、木津殿、■殿(うどの)、渚院、江口、神崎漕過て、今夜大物が浦に著給ふ。
大納言は死罪を宥られて、流罪に定りぬと聞えければ、相見事は竪かりけれ共、是れは小松内府のよく/\入道に申給たるにこそ。国有(二)諌臣(一)其国必安、家有(二)諌子(一)其家必直といへり。誠なるかな此言とぞ、人々悦び給ける。此大納言の中納言にて御座し時、尾張国守にて、去嘉応元年冬の比、目代(もくだい)にて、衛門尉政友を当国へ被(レ)下けるが、美濃国杭瀬河にて宿を取、山門領平野庄の神人、■(くす)を売て出来れり。政友是を買はんとて、直の高下を論じて、様々になぶる程(ほど)に、■(くす)に墨をぞ付たりける。懸ければ神人等憤起て、山門に攀登つて、致(二)訴訟(一)間、衆徒及(二)奏聞(一)、聖断遅々に依て、同年十二月廿四日に、大衆等日吉の神輿を頂戴して下洛す。武士に仰て被(レ)防しか共、神輿を建礼門の前に奉(二)振居(一)、国司成親卿(なりちかのきやう)を流罪なり、目代(もくだい)政友を可(レ)被(二)禁獄(一)之由訴申ければ、成親卿(なりちかのきやう)は備中国へ流罪、政友をば禁獄之由被(二)仰下(一)。即西の朱雀まで被(レ)出たりしか共、同廿八日に被(二)召返(一)、同丗日本位に復し、中納言に成返て、嘉応二年正月五日右衛門督を兼して、検非違使(けんびゐし)の別当に成給ふ。其後目出くときめき栄給(たまひ)て、去承安二年
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七月廿一日に従二位(じゆにゐ)し給し時も、資賢兼雅を越給き。資賢は古人(有朋上P218)の宿老にて御座き。兼雅は清花英才の人にや、越られ給も不便也とぞ人々申ける。是は三条殿造進の賞とぞ聞えし。御徙移の日也。同三年四月十三日に、又正二位し給けるには、中御門中納言宗家卿越られ給けり。去々年安元(あんげん)元年十一月二十八日に、第二の中納言左衛門督、検非違使(けんびゐし)の別当権大納言に成上給ふ。加様に栄給ければ、越られ給ふ方様の人々は、目醒しく思嘲て、山門の大衆に咒咀せらるべかりける者をと云けるぞ恐しき。神明の罰も人の咒咀も、疾もあり遅もあり、遂には必報けりとぞ申ける。林に闌たる木は必ず風に摧、衆に秀たる者は正に怨に沈。たとひ高位に昇るとも、身を約しくもてなし、縦ひ栄花に誇るとも、心に驕事なかれ。此大納言は、官職先祖に越、朝恩傍輩に過たれば、奢る思も多かりけん、人の恨も積つゝ、角成給(たま)ひけるこそ不便なれ。
同三日のまだ暁、京より御使有とてひしめきけり。既(すで)に失へとにやと聞ば、備前国へと云て、船を出すべき由■(ののし)る。内大臣(ないだいじん)より御文あり、大納言泣々(なくなく)披見給へば、都近片山里にも置奉んと様々誘申しつれ共、死罪を宥申だにあるに、其事努々叶まじと、入道竪宣へば力及ばず、世に有甲斐なく覚侍り、但御命計は申請ぬ、いづくの浦に御座共、御心安可(二)思召(おぼしめす)(一)、さても替行憂世の有様(ありさま)、よく/\思ひつゞけて念仏申永悟を開かんと思召(おぼしめす)べし、うきも(有朋上P219)つらきも夢の世の中、兎にも角にも現ならず、由なき妻子に心を留て、晴ぬ闇路に迷給ふな、我世にあらん程は、人々の事をば可(二)育申(一)なんど遊して、旅の粧様々に
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調へてぞ奉つれる。難波(なんばの)次郎(じらう)が許へも、よく/\仕へ申べし、愚にあたり奉るなとぞ被(二)仰下(一)ける。さばかり忝く思食(おぼしめし)ける君にも別れ進せ、尻頭ともなき小君達の、糸惜く悲しきをも振捨て、知らぬ国、習はぬ旅にさすらひつゝ、都をば雲井の外に立隔、かへるさ知らぬ配所なれば、二度妻子を見事も有難しと、思残す事もなし。一年山門の大衆の訴により、日吉の神輿下洛して、朝家の御大事に及しも、西三条に五箇日こそ在しか、其なほ御免し有き。是はさせる君の御誡にも非ず、又山門の訴にもなし、こは何なる事ぞやと我身の悪事をば忘つゝ、天に仰地に臥て、喚叫び給けり。夜も既(すで)に明ければ、大納言は大物が浦より舟に乗、塩路遥(はるか)に漕出し、浪にぞ浮み給ける。難波の里に飛蛍、蘆屋の沖の舟呼ひ、武庫山下風、福原の京、渚河、和田の御崎、逆手河行来の人のしげければ、小馬の林に隙ぞなき。彼は須磨関屋にや、行平中納言藻塩たれつと侘にけん、此浦の事ならん。昔源氏の大将の流されて、月日を送り給つゝ
秋の夜の月げのこまよわがこふる雲井にかけれときのまもみん K029 (有朋上P220)と詠じけんも我身の上と哀也。淡路の絵島を見給ふにも、昔廃太子の遷れて、波に朽せぬ絵島をば、誰筆染て写けんと、昔語もいと悲し。月名にしおふ明石の浦えい崎林崎、小松原高砂や尾上の松も過ければ、室の泊に就給ふ。藻懸の瀬戸蓬が崎やよりの浜を漕渡、備前国阿江の浦より、内海を通て皃島と云所に著き給ふ。都を出給にし後、日数ふれば、遠成行古里のみ恋くて、道すがら只涙のみにぞ
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咽び給ふ。はか/゛\しく湯水をだにも聞入給はざりければ、ながらふべしとも覚さゞりけれ共、さすが露の命の消やらで、此まで下り著給にけり。民の家の恠げなるに奉(二)居置(一)。彼所は後は山、前は磯、岸うつ浪は瀝々として音幽に、松吹風は蕭々として物さびし。去ぬだに旅のうきねは悲きに、汗に諍涙の色、耳おどろかす波の音、いとゞ哀ぞ増りける。しばしは皃島にまし/\けるを、こゝは猶津宿近して人繁し、悪かりなんとて、後には難波と云所へ奉(二)移居(一)けり。
S0702 丹波(たんばの)少将(せうしやう)召下事
廿日太政(だいじやう)入道(にふだう)福原より平宰相(へいざいしやう)の許へ被(レ)申けるは、丹波(たんばの)少将(せうしやう)をば是へ渡し給へ、都におきてはいかにも悪かりぬと覚侍り、相計て何所へも遣すべしとぞ宣たる。宰相聞給(たまひ)てあ(有朋上P221)きれつゝ、こはいかなる事ぞ、日数へぬれば今は異なる事あらじとこそ思つるに、又加様に宣ふ事こそ悲けれ。中々在し時に、左も右も成たりせば、忘るゝ事も有なましと、責の事には覚されけり。今は惜とても甲斐あるまじ、終にすまじき別に非、疾々出立給へと宣へば、少将は、今日までもかく延たる事こそ有難けれとて急給ふ。少将も北方も乳母の六条も、今更絶焦給ければ、猶も入道殿(にふだうどの)へ仰候へかしと人々申しけれ共、宰相は存ずる処は前に委く申き。其上に角宣はん事力及ばず。世を捨より外は何と申べき。乍(レ)去御命のなき程の事はよもとこそ存侍れ。何の浦島に御座とも、教盛が命のあらん限は何にも可(レ)奉(二)音信訪(一)憑しく思召(おぼしめす)べしとぞ宣(のたまひ)ける。少将は少き人呼出し、髪掻撫て、七歳にならば元服せさせて、御所へ進せんとこそ思しに、今は日比の有増事も云に甲斐なし、成人たらば相搆て法師になり、我後の世弔へよ
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と涙もかき敢ず、成人に物を云様に打口説給ければ、四歳に成給御心なれば、何とは弁給はざりけめども、父の顔を見上給(たまひ)て、うなづき給けるにも、いとゞ為方なくぞ被(レ)思ける。北方も六条も、此形勢(ありさま)を見聞きては、臥倒、音を調てをめき給ふ、理なれば哀也。少将は今夕鳥羽までとて急出けれども、宰相は世のうらめしければとて、今度は相具し給はず、行くも留も互に心ぼそくぞ被(レ)思け(有朋上P222)る。
廿二日に少将は福原に下著給へり。妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)預て、宿所に奉(レ)居、是も我方様の者は一人も付ざりけり。妹尾は宰相の返り聞給はん事を恐けるにや、様々志ある体に労り振舞けれ共、少将は慰む方もおはせず、都の人の恋おぼされければ、責の事には哀声にて唯仏の御名を唱て、夜も昼も泣より外の事なかりけり。少将は備中国へ配流の由聞給ければ、相見奉事は有まじけれども、責ての恋しさの余に、大納言の御座国は幾ら程近やらん、いづくとだにも聞まほしく思て、妹尾を召被(レ)仰けるは、いかに兼康(かねやす)、汝が候妹尾より、大納言殿(だいなごんどの)のおはすらん所へは、いか程かあると問ひ給へば、大納言の御座する有木の別所高麗寺と申は、備前に取ても備中の境、妹尾と云は備中に取りても備前の境也。両国の間に御部川とて、川を一つ阻たり。其間は纔に三十余町有けるを、しらせ奉りては悪かりなんとや思けん、大納言殿(だいなごんどの)の御渡候所へは、行程十三日とぞ申ける。
S0703 日本国広狭事
少将被(レ)思けり、日本は是本三十三箇国也けるを、六十六に被(レ)分たり。越前、加賀、能登、越中、越後五箇国は、本一国也。中比三箇国に分たりしを、越前加賀両国の間に、(有朋上P223)四の大河あり。庁参の時、洪水
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の為に人多く損じければ、是は庁の遠き故也とて、嵯峨天皇御宇、弘仁十四年に上奏を経て、加賀郡を四郡に分ちて、加賀国と定め、能登郡広しとして、四郡に分て能登国と定む。さてこそ五箇国をば、越路とて道は一なれ。又陸奥、出羽両国、是も一也けるを二箇国に被(レ)分たり。一条院御宇、大納言行成の末殿上人(てんじやうびと)にて御座ける時、参内の折節、実方中将も参会して、小台盤所に著座したりけるが、日比の意趣をば知ず、実方笏を取直て、云事もなく、行成の冠を打落、小庭に抛捨たりければ、もとゞりあらはになしてけり。殿上階下目を驚して、なにと云報あらんと思けるに、行成騒がず閑々と主殿司を召て、冠を取寄せかうがい抽出して、髪掻なほし冠打きて、殊に袖掻合、実方を敬して云けるは、いかなる事にか侍らん、忽にかほどの乱罰に預るべき意趣覚えず、且は大内の出仕也、且は傍若無人也。その故を承て報答後の事にや侍るべからんと、事うるさくいはれたりければ、実方しらけて立にけり。主上折節櫺子の隙より叡覧有つて、行成は勇々しき穏便の者也とて、即蔵人頭になされ、次第の昇進とどこほりなし。実方は中将を召て、歌枕注して進よとて、東の奥へぞ流されける。実方三年の間名所名所を注しけるに、阿古野の松ぞなかりける。正く陸奥国にこそ有と聞し(有朋上P224)かとて、此彼男女に尋問けれ共、教る人もなく知たる者もなかりけり。尋侘てやすらひ行ける程(ほど)に、道に一人の老翁あへり。実方を見て云けるは、御辺は思する人にこそ御座れ、何事をか歎給と問。あこやの松を尋兼たりと答ければ、老翁聞て最情ぞ侍る、是やこの
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みちのくのあこやの松の木高に出べき月の出やらぬ哉 K030
と云事侍り。此事を思出つゝ都より遥々(はるばる)〔と〕尋下り給へるにやといへば、実方さにこそと云。翁日、陸奥出羽一国にて候し時こそ、陸奥国とは申たれ共、両国に分れて後は出羽に侍也、彼国に御座して尋給へと申ければ、即出羽に越て阿古野の松をも見たりけり。彼老翁と云けるは、塩■(しほがまの)大明神(だいみやうじん)とぞ聞えし。加様に名所をば注して進せたれ共、勅免はなかりける。
S0704 笠島道祖神事
終に奥州名取郡、笠島の道祖神に被(二)蹴殺(一)にけり。実方馬に乗ながら、彼道祖神の前を通らんとしけるに、人諌て云けるは、此神は効験無双の霊神、賞罰分明也。下馬して再拝(有朋上P225)して過給へと云。実方問て云、何なる神ぞと。答けるは、これは都の賀茂の河原の西、一条の北の辺におはする、出雲路の道祖神の女也けるを、いつきかしづきて、よき夫に合せんとしけるを、商人に嫁て、親に勘当せられて、此国へ被(二)追下(一)給へりけるを、国人是を崇敬ひて、神事再拝す、上下男女所願ある時は、隠相を造て神前に懸荘り奉りて、是を祈申すに叶はずと云事なし。我が御身も都の人なれば、さこそ上り度ましますらめ、敬神再拝し祈申て、故郷に還上給へかしと云ければ、実方、さては此神下品の女神にや、我下馬に及ばずとて、馬を打て通けるに、神明怒を成て、馬をも主をも罰し殺し給けり。其墓彼社の傍に今に是有といへり。人臣に列て人に礼を不(レ)致ば被(二)流罪(一)、神道を欺て神に拝を不(レ)成れば横死にあへり。実に奢る人也けり。去共都を恋と思ひければ、雀と云小鳥になりて、常に殿上の台盤に居、台飯を食けるこそ最哀なれ。
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又備前、備中、備後、本は一国也けり。豊前、豊後も如(レ)此、筑前、筑後も同事、肥前、肥後もしかの如し。日本国は東西へ去事二千七百五十里、南北は五百三十七里也。筑紫より■(はらか)の使の上るこそ行程十五日とは聞えしか。是より奥鎮西なんどへ下らんこそ、仮令十二三日にも行んずれ。備前備中さしもの大国とは聞ざりしものを、父の御座所をしらせじとて、角は(有朋上P226)云よと被(レ)思ければ、其後は又問事もなかりけり。
S0705 大納言出家事
二十三日に大納言は、少しくつろぐ事もやと覚しける程(ほど)に、少将も福原へ召下など聞えければ、いとゞ重のみ成ゆけば、姿を不(レ)替してつれなく月日を過さんも憚あり、何事を待つにか、猶も世にあらんと思ふやらんと、人の云思はんも恥しければとて、出家の志有よし、小松殿(こまつどの)へ被(レ)申たりければ、終には其こそ本意なれば、左在べきにこそと免されて、備中国安養寺に、調御房と云僧を請じて、備中国朝原寺にて出家受戒し給けり。御布施には、六帖抄と云歌双紙をぞ被(レ)渡ける。彼抄と申は、村上帝の第八御子、具平親王家の御集なり。此親王をば六条宮とも申、後中書王共申、中務親王とも申けり。内に道念御座して、外に仁義をたゞしくし、管絃の妙曲を極、詩歌賦の才芸に長じ給へり。歌道殊に巧に御座けるが、後の世の御形見とて集させ給(たま)ひたりける草子也。此大納言も彼抄をば無(レ)類おぼされければ、配流の時身に付る物はなけれ共、此抄計をば是迄も被(二)随身(一)たりけり。旅の空布施になるべき物なかりければ、泣々(なくなく)被(レ)出けるにこそ、最哀也。(有朋上P227)
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S0706 信俊下向事
大納言の北方、北山の栖ひ只推量るべし。住馴ぬ山里は、さらぬだにも物うかるべきに、柴引結庵の内、まだしも馴ぬ草枕、過行月日も暮しかね、明し煩有様(ありさま)也。女房侍共の其数多かりしも、流石(さすが)身々の捨難ければ、世に恐れ人目をつゝむ程(ほど)に、最後を訪ひ奉る者もなかりけり。其中に大納言の年比身近く召仕給ける源左衛門尉信俊と云侍あり。情ある男にて、時々奉(二)事問(一)けるが、或暮つかたとぶらひに参たりける次に、北方御簾近く召よせて宣(のたまひ)けるは、やゝ信俊承れ、大納言殿(だいなごんどの)は備前国児島とかや云所へ流され給ぬとは聞しか共、此渡より尋参人一人もなし、未生て御座するやらん、又堪ぬ思に忍煩て、昔語にもや成給ぬらん、其行末をも不(レ)奉(レ)知、未生ても御座さば、流石(さすが)此渡の事いかばかりか聞まほしく覚すらん、又少き人どもの住馴ぬ山里の栖ひ、中々申も愚也、只推量給べし。懸憂身の有様(ありさま)思出て、無昔も猶忍がたかるべきに、朝夕の事叶はねば、少き者共がうき事をも不(レ)知、おそし/\と進るを聞に付ても、先立物とては只涙ばかりなり。今は甲斐なき身なれ共、露の命の消も失なで、明し暮すなり、聞給(たま)ひなばいとゞ心苦こ(有朋上P228)そ覚さんずれども、責の事には、加様のうき事をも恋き事をも、申ばやと思に、汝いかなる有様(ありさま)をもして尋参なんや、御文をも進返事をも待見ならば、限なき心の中をも慰事もやと思はいかゞすべきと宣(のたまひ)ければ、信俊涙を流して申けるは、誠年比近く召仕れ進せし身にて候へば、今は限の御共をも申べくこそ候しか共、御下の御有様(おんありさま)、人一人も付進する事有まじと承しかば、思ながら罷留候き。明暮は君の御事より外は思出事侍ず、召れ進せし御声も耳に留、御諌の御詞
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も肝に銘じて忘まゐらせず、年比日比身を助、妻子を育し事、君の御恵に非と云事候はず、上下品替といへども、まのあたりの御有様(おんありさま)共と申、西国御下向の御恋さと申、袖に余たる涙絞煩たる折節、かく承候へば、身は何様に成候共、いかゞは仕候べき、御文を給、急尋参んと申ば、北方無(レ)限悦て、細に文遊して賜にけり。信俊給(レ)之、泣々(なくなく)小島へ下けり。既(すで)に彼に行著て、預の武士に申けるは、是は大納言殿(だいなごんどの)の年比の侍に、源左衛門尉信俊と云者に侍り、君当国へ御下向の時も、御伴申度候しを、御方様の者をば一人も付られずと承しかば、思ながら今は限の御伴をも申さず、差も御糸惜深く食仕れまゐらせしかば、奉(レ)別後は、明暮唯此御事のみ悲く恋く思出まゐらすれば、若今一度奉(レ)見事もやと存るうへ、さこそ都の事をも君達北方の御事(有朋上P229)どもをも、聞まほしく被(二)思召(一)(おぼしめされ)候らめ、音信便も絶ぬ、伝申人もなくて、空御事にも成給なば、如何計の御妄念にかと罪深思進すれば、其御渡の事をも語申て、聊御妄念もはるゝ御心もやと存じて、遥々(はるばる)と罷下れり。然べくは蒙(二)御免(一)て、今一度最後の見参にいり進ばやと申けるを、始は緊く恠嗔て叶まじと云けれ共、泣々(なくなく)掻口説云ければ、武士共涙を流し、最哀に思つゝ、何かは苦かるべきとて、終には是を免けり。信俊不(レ)斜(なのめならず)悦て、大納言の御座する所へ参て奉(レ)見に、浅猿(あさまし)く悲かりける事がら也。奇気なる小屋に、垣には土を壁に塗廻、戸には藁のこもを懸垂たり。内に差入て見廻せば、藁の束と云物を敷て、痩衰たる法師あり。よく/\見れば大納言入道殿(にふだうどの)にてぞおはしける。下には垢付たる布の服、上には袖やつれたる墨染の衣也。傍には竹の杖を立て、前
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には縄緒の足駄を置り。是やこの賤が伏戸の赤土の小屋、民の住居の草の戸ざしなるらんと、心憂こそ思けれ。中御門高倉の御宿所より始て、所々の御山庄屋敷を尽棟を並べ、■(とぼそ)を研柱を彩、屏風障子を立交、雲繝高麗を敷満つゝ、殿には風月の双紙を取乱、琴瑟の具足を立並、庭には四季の草木枝を通合、浦の沙玉を蒔て、或は仙院仙洞の御幸も有、或は卿上(けいしやう)雲客(うんかく)の遊宴も有しかば、絃歌の妙なる声絶る事なく、海陸の珍味尽ざりき。車を馳る(有朋上P230)賓客は、門前事騒しく踵を継。男女は庭上狼藉也。角こそ栄給たりしに、今成給へる有様(ありさま)の悲さに、目もくれ心も消て、前に臥倒て喚叫外は何事も申されず。大納言入道も信俊を見給(たまひ)ては、墨染の袖を顔に当給(たまひ)て、唯さめ/゛\とぞ泣給ふ。入道良在て宣(のたまひ)けるは、多の者共の中に、いかにとして是迄尋下けるぞや、余に都の恋さに、夢なんどに見るやらん、更に現とは覚えずとて、こぼるゝ涙せき敢ず、悲の色ぞ深かりける。信俊泣々(なくなく)申けるは、去し六月一日より、北御方君達相具し進せて、北山の雲林院の僧坊、菩提講行ひ候所に忍つゝ、幽なる御住居、若君姫君の恋かなしみ奉る御事、今度罷下べき由、懇に仰を蒙候し事共細に申て、懐より文を取出して進たり。入道は世にも有難なつかしげにおぼして、披見給はんとし給へども、落涙は降雨の如くにして、文の上にかゝりければ、筆の跡も見分給はず見えければ、信俊もいとゞ袂を絞けり。兎角して涙の隙よりほの是を御覧ずるに、若君姫君の限なく恋悲み奉痛しさに、我身も又月日を過べき心地もなけれ共、如何にと結べる露の命やらん、強面消も失なで、焦て物を思ふ事、朝夕の煙たえて、心細く幽なる住居、思出る昔の
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恋しき事、若君姫君行末いかにと心苦き事、心に任する旅の御住居ならば、共に下て見、見え奉たき事、愚なる心にも、今一度上り給はぬ事(有朋上P231)やは有べきと奉(二)待思(一)事、丹波(たんばの)少将(せうしやう)さへ福原へ被(二)召下(一)給へり。悲き事共、細々と書つゞけ給へるを見給(たまひ)ては、日比覚束なかりしよりも、今少し悲しく思給(たまひ)て、暫し絶入てぞ御座ける。信俊やゝ労り奉ければ、人心地出来給(たまひ)て、生て物を思も悲ければ、よき次に消果べかりける物をと宣(のたまひ)けるこそ、責の事と哀なれ。信俊二三日候て、泣々(なくなく)申けるは、角ても付添進て、限の御有様(おんありさま)をも見進せて、後の御孝養をも仕べく候へども、都にも見継進る便もなし、立隔ぬる御旅の空、又もと思召(おぼしめす)御眤言も絶や果なんなれば、今一度御返事をなり共御覧ぜばやと、罪深思召(おぼしめさ)れて被(二)下遣(一)たるに、日数積らば跡もなく験もなきやらんと、いか計かは御心苦く思召(おぼしめさ)れんなれば、今度は御返事を賜て、急罷上て見参に入進て、又こそ罷下候て奉公をも申、終の御事をもと申せば、入道よに名残(なごり)惜は被(レ)思けれ共、誠にさるべし、疾々還上、都にて待らん事も痛しし、北方少者共に能々宮仕申べし、係憂身と成ぬる上は、左にも右にも云計なし、人々の事こそ心苦く覚ゆれ、但汝が又こんたびを待付べき心地もせず、いかにも成ぬと聞ば、後世をこそ弔めとて返事細に遊ばして、剃髪の有けるを引裹て、是を形見と御覧ぜよ、ながらへて世に聞はてられ奉べしとも、今生にこそ相見事の空とも、後の世には必など、心細げに書連てたびて(有朋上P232)けり。信俊給(レ)之て出けるが、行もやらず、又大納言入道も、差て宣べき事は皆尽にけれ共、慕さの余には、度々是を呼び返す。還行べき旅だにも、程ふれば、故郷は恋きに、今
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を別の心の中、被(二)推量(一)て哀也。さても有べきならねば、信俊都へ上にけり。北山へ参て北方に御返事進たりければ、穴珍々々や、御命の今まで存へておはしけるなとて、文を披て見給ふに、髪の黒々として有けるを一目見て、此人は様替られにけるよとばかり宣て、又物も不(レ)宣、やがて引潛てぞ伏給ふ。其後良起居給(たまひ)ても、此髪を懐に入て、胸に当ては取出、顔に当てはもだえ給へり。移香も未昔に替ざりければ、差向たる様に被(レ)思けれ共、主は遠国を隔たれば、只面影ばかりなり。若君姫君もいづら父の御ぐしとて、面々に取渡泣あひ給へり。形見こそ今は還て悔しけれ、是なかりせばかくばかり覚えざらましと歎かれけるぞ糸惜き。
新(しん)大納言(だいなごん)と俊寛僧都(そうづ)とは宗人の事、丹波(たんばの)少将(せうしやう)は成親卿(なりちかのきやう)の嫡子なれば、罪科実に難(レ)遁、首を切れ給はぬ事は、小松大臣の御助也。康頼が無類になる事は、何の罪なるらんと無慙也。北面の輩あまたこそは被(二)召誡(一)けるに、他人は指もやは有し、此事は同意の輩、鹿谷の評定の時、瓶子の倒て頸を打折たりけるを、平氏既(すで)に倒たり、頸を取には過ずとて、様々振舞たりければ、満座の人此秀句を感じける(有朋上P233)に、西光(さいくわう)法師(ほふし)折たる瓶子を取合て、猶平氏の首取たり/\と云けるを、入道聞給(たまひ)て、かく深き罪には被(レ)行けり。契浅からぬ輩こそ、其座には有りけめ。何として漏けるやらん、後にこそ行綱が讒言とも聞えしか、天可(レ)度地可(レ)度、只不(レ)可(レ)度人心と云り。よく/\其を知ずして、左右なく人には人の打とけまじき者と覚えたり。
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丹波(たんばの)少将(せうしやう)成経(なりつね)をば、福原へ召下し、妹尾(せのをの)太郎(たらう)に預置、備中国へ遣したりけるを、俊覚僧都(そうづ)、平判官康頼に相具して、薩摩方鬼界が島へぞ被(レ)放ける。康頼は都を出て配所へ赴けるが、小馬林を通るとて、
津国やこまの林をきてみれば古はいまだ変らざりけり K031
と思連、やがて爰にて僧を請じ、出家入道して、法名性照とぞ云ひける。髪をおろし袈裟を戴とて、
終にかく背はてける世中をとく捨ざりし事ぞくやしき K032
剃たる髪を紙に裹、此歌に取添へて、故郷に遣したりければ、其妻一目見つゝ、何とだにも云ずして、絶入けるこそ無慙なれ。(有朋上P234)
S0707 俊寛成経等移(二)鬼界島(一)事
薩摩方とは惣名也、鬼界は十二の島なれや、五島七島と名付たり。端五島は、日本に従へり。康頼法師をば五島の内ちとの島に捨て、俊寛をば白石の島に捨けり。彼島には白鷺多して石白し、故に白石の島と云。丹波(たんばの)少将(せうしやう)をば、奥七島が内、三の迫の北、硫黄島にぞ捨たりける。尋常の流罪だに悲かるべきに、道すがら習はぬ旅にさすらひて、そぞろに哀を催けり。前途に眼を先立れば、早行事を歎、旧里に心を通はせば、終に還らん事難し。或は雲路遠山の遥なる粧を見ては、哀涙袖を絞り、或は海岸孤島の幽なる砌に臨では、愁烟肝を焦しけり。さらぬだに、旅の憂寝は悲しきに、深夜の月朗に木綿付鳥も音信り。遊子残月に行けん、函谷の有様(ありさま)思ひこそ出でけれ。日数ふれば、薩摩国に著にけり。遥々(はるばる)と海上を漕渡て、島々にこそ被(レ)捨けれ。此島々へは、おぼろげならでは、人の通事もなし。島にも人
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稀也。自有者も此土の人には不(レ)似、身には毛長生、色黒して如(レ)牛、云事の言も聞知ず、男は烏帽子(えぼし)もきず、女は髪もけづらず、木の皮を剥てさねかづらにしたり。ひとへに鬼の如し。眼に遮る物は、燃上火の色、耳に満る物は、鳴下(有朋上P235)雷の音、肝心も消計なれば、一日片時堪て有べき心地せず。賤が山田も打ざれば、米穀の類も更になく、園の桑葉も取ざれば、絹布服も稀也。昔は鬼の住ければ、鬼界の島とも名付たり。今も硫黄の多ければ、硫黄の島とぞ申ける。少将は中々被(レ)刎(レ)首たらんはいかゞせん、生ながら係悲き島に放れて、憂目をみん事の罪深さよと思はれける中にも故郷に残留て、此島の有様(ありさま)伝聞て歎らんこそ無慙なれと、覚しけるこそ哀なれ。此人々始には三の島に被(レ)捨、所々に歎けり。彼海漫々として風皓々たり。雲の浪煙の波に咽らん。蓬莱、方丈、瀛州の、三の神仙の島ならば、不死の薬も取なまし。此島々の中には、慰事こそなかりけれ。責ては三人一所にだにあらば、悲事も憂事も互に語て心をもやりなん、島をかへ海を隔て、所々に歎けるこそ無慙なれ。少将には門脇殿(かどわきの)宰相(さいしやう)より訪給けれ共、二人をば助る者もなし。僧都(そうづ)も入道も、身も悲しく人も恋しかりければ、後には網舟釣舟に手をすり腰をかゞめつゝ、俊寛も康頼も、硫黄が島へぞ寄会ける。少将と判官入道とは、痛く思沈たる事はなし。浦々島々見巡て、都の方をも詠けり。僧都(そうづ)は強歎痩て、岩の迫に苔の下に倒伏て、浦吹風に身を冷る事もなく、岸打浪に思をも消ざりけり。判官入道は、泣悲ても由なし、只仏の御名をも唱神にも祈申てこそ、二度都(有朋上P236)へ帰上らん事をも願、後世菩提をも助めとて、己が能也ければ、歌を
P0172
うたひ舞をまうて、島の明神に手向けり。端島の者共、時々来て見けるが、興に入て舞などしけるぞ、歎の中にもをかしかりける。
S0708 康頼造(二)卒都婆(一)事
判官入道は都の恋さも猿事にて、殊に七十有余の母の、紫野と云所に在けるを思出侍けるに、いとゞ為方なくぞ思ける。流されし時かくと知せまほかしけれ共、聞給なば悶焦給はん事の痛はしくかなしさに、角とも云ずして下たれば、ながらへて今迄もおはせば、此形勢(ありさま)を伝聞ていかばかりかは歎給はんと、云つゞけては、唯泣より外の事なし。悲さのあまりには、角ぞ思つづけゝる。
薩摩潟沖の小島に我ありと親には告よ八重の塩風 K033
思やれ暫しと思ふ旅だにもなほ故郷は恋しき物を K034
千本の卒都婆を造り、頭には阿字の梵字を書、面には二首の歌をかき、下に康頼法師と書て、文字をば彫つゝ誓ける事は、帰命頂礼(きみやうちやうらい)熊野三所権現、若一王子、分ては、日吉山王(有朋上P237)々子眷属、惣而は上梵天帝釈、下竪牢地神、殊には内海外海竜神(りゆうじん)八部憐を垂給、我書流す言葉、必風の便波に伝に、日本の地につけ給、故郷におはする我母に見せしめ給へと祈つゝ、西の風の吹時は、八重の波にぞ浮べける。行に百行あり、国土を治謀、善に万善あり、生死を出る勤なり。卒都婆は万然の随一、諸仏是を勧喜し、孝養は百行の最長、竜天必ず哀愍す。漫々たる海上、塩路遥の波の末、必左とは思はねど、責ても母の悲さに、角してこそは祈けれ。思ふ思も風と成、願ふ願もこたへつゝ、竜神(りゆうじん)納受を垂給(たま)ひ、新宮の湊
P0173
に卒都婆一本寄たりけるを、浦人是を見咎て、熊野別当に奉りたれ共、世を恐たりけるにや、披露はなし。安芸の厳島にも一本付たりけり。折節判官入道のゆかり也ける僧、康頼西海の浪に被(レ)流ぬと聞ければ、何となく都をあくがれ出て、西国の方へ修行し行けるが、便風あらば彼島へも、渡らばやと思ひけれ共、おぼろけにては船も人も通はず、自商人などの渡るも、僅(わづか)に日よりを待得てこそ行など申ければ、いかにも尋行べき心地もせずは有けれども、安芸国までは下にけり。厳島明神に参詣して、両三日ぞ有ける。当社の景気を拝すれば、後は翠嶺山高して、吹風効験の高事を示し、前には巨海水深して、立浪弘誓の深事を表す。さす塩社壇を浸す時は、紺瑠璃を瑞籬に敷かと疑は(有朋上P238)挿絵(有朋上P239)挿絵(有朋上P240)る。引塩神前を去時は、合浦の玉を庭上に蒔歟とうたがはる。和光(わくわう)同塵(どうぢん)の利益は、何もとり/゛\なりといへ共、海畔の鱗に、契を結給らん、因縁誠に知難し。参詣合掌の我までも、八相成道の結縁は、憑しくこそ思けれ。此神明をば、平家の大相国(たいしやうこく)深く崇敬し給事ぞかしと思出るも恐し。繖取敢ぬ事なれば、只法施をぞ手向奉ける。心中に祈念申けるは、帰命頂礼(きみやうちやうらい)、和光(わくわう)垂迹当社権現、硫黄島流人康頼が生死知せしめ給へ、猶も存命あらば、夜の守昼の守と成給(たまひ)て、浪の便の言伝をも聞しめ、再故郷の雲に返し入しめ給へと、祈けるこそ哀なれ。終日念誦したりける晩程(ほど)に、社司神女御前の渚に遊覧す。月の出塩満けるに、そこはかともなく浪に流るゝもづくの中に、卒都婆一本見え来る。あやしや何なる事にかとて取上見(レ)之ば、二首の歌を書、下に康頼法師と書付たり。各手々に是を取渡し、歌を詠じて哀なる事也。作者何者やらん
P0174
と云ける中に、社僧の有けるが云けるは、糸惜事かな、是は一年都より薩摩方硫黄島へ、三人の流人有りき。法勝寺の執行俊寛、丹波(たんばの)少将(せうしやう)成経(なりつね)、平判官康頼也。此康頼法師が故郷も恋く、恩愛の親も悲くて、角書流せるにこそ、懸様昔も有とこそ聞、是をば如何情なく捨ては置べき、都の妻子もさこそ恋し悲しと思て、ゆくへ聞まほしかるらめ、如何して是を故郷の親き者の許へ、(有朋上P241)急ぎ慥に付べきとぞ申ける。ゆかりの僧も見聞けり、心も消涙もこぼれて嬉く悲かりける、中にも是は明神の御計にやと、忝貴ぞ思ける。社僧此僧を語ひ申けるは、やゝ修行者の御坊、もし都へ上給はば、此卒都婆を事伝申さん、慥に平判官康頼が妻子の許へ伝給なんやといへば、僧答て曰、此事承るに、よにも有難く哀なる事にこそ、修行者の習、宿定らぬ事なれども、本都の者にて侍りしが、折節都へ還上侍、康頼がゆかりほの知て候へば、たしかに伝送べし、且は明神も御照覧候べしとて、件の卒都婆を請取て、笈の肩に挟み、泣々(なくなく)都へ上にけり。母の尼公妻子親類招集て見せたりければ、もだえこがれ泣悲みける心の中たゞ推量るべし。康頼は卒都婆に歌を書、名を注し、文字をば彫刻、其に墨を入たれば、塩にも浪にも消ずして、鮮にこそ見えたりけれ。此事京中に披露有ければ、既(すで)に及(二)叡聞(一)、彼卒都婆を被(レ)召つゝ、叡覧有りて竜眼より御涙を流させ給(たま)ひ、康頼法師未ながらへて、彼島に有らん事こそ不便なれ、水茎の跡なかりせば知らざらましとて、御むつかり有ければ、御前に候ひける人々も各袖を絞けり。小松内府の被(レ)参たりけるに、康頼法師が歌哀にこそとて賜下されたりければ、大臣も打見給つゝ涙ぐみて御前
P0175
を立て、父の入道に奉たれば、相国禅門もさすが哀にこれ覚しけめ。係ければ判官(有朋上P242)入道未都へ帰上らざりけれ共、此歌は上下哀に翫けるとかや。
S0709 和歌徳事
凡和歌は、国を治人を化する源、心を和思を遣基也。故に古の明王、月の夜雪の朝、良辰美景ごとに、侍臣を召集めて、夢の歌を奉らしめて、人の賢愚を知召といへり。奈良御門の往躅より始て、延喜天暦の以来、夜の雨塊を穿たず、秋の風枝を鳴さぬ御代には、必ず勅撰ある事今に絶ず、只住吉(すみよし)玉津島の此道の崇神たるのみに非ず、伊勢、石清水、賀茂、春日より始奉て、託宣の詞は夢想の告、何も歌に非ざるは少し。霊神の御歌に名を連、明王の御製に肩を並事、此道の外は又何事かは有るべき。能因が歌には三島の明神納受し、小式武が歌には冥途の使を退くと見えたり。唯治世の基、神道の妙に叶のみに非、又仏法の正理にも通ずる故にや、清水の観音は、しめぢが原のさしも草と詠給、善光寺の如来(によらい)は、厩戸の王子に贈答し給へり。凡三十一字は、無間頂を除いて三十二相にかたどり、五句六義の趣は、五輪六丈の瑜伽(ゆが)を顕す。此故にや行基菩薩、婆羅門僧正(そうじやう)、伝教大師、慈覚より以来、或は釈門の棟梁、法家の竜象、或は名を玄地に遁れ、跡を白雲(有朋上P243)に暗くする人、此道に携ざるは稀なり。玄賓僧都(そうづ)は、山田を守りて、秋果ぬればと恨み、空也上人は、市の中にも墨染の袖と詠じ給ふ。されば西行法師が夢にも、時澆季に及、世末代に臨て、万事零落すれども、歌道計は猶古におとらずといへり。判官入道も、難波津の言の葉、卒都婆の面に書集、海へぞ入たりける。薩摩方より、新羅、高麗、震旦、
P0176
天竺、島々国々にも寄つらん。異国なればよもしらじ、縦一丈二丈の木也共、漫々たる海上茫々たる繁浪に、争か当国に来べき。況や一尺二尺にはよも過じ。祈る祷も叶つゝ、竜神(りゆうじん)恵を顕して、当社の砌に付寄けり。
S0710 近江石塔寺事
大江定基三河守に任じて、赤坂の遊君力寿に別て、道心出家して其後、大唐国に渡、清涼山に参たりければ、寺僧毎朝に池を廻る事あり。寂照故を尋れば、僧答て曰、昔仏生国の阿育王、八万四千基の塔を造、十方へ抛給たりしが、日本国江州石塔寺に一基留り給へり、朝日扶桑国に出れば、石塔はるかに影を此池に移し給ふ。故に彼塔を拝せんが為に此池を廻る也とぞ申ける。寂照上人聞給(たまひ)て、信心骨に入、随喜肝に銘じて、墨を研(有朋上P244)筆を染、其子細を注しつゝ、震旦にして大海に入たりけるが、播磨国僧位寺へ流寄たりけるも、角やと思ひ知られたり。
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第八
P0177 (有朋上P245)
智巻 第八
S0801 漢朝蘇武事
昔漢武帝の時、故国の凶奴朝家に不(レ)随ければ、李陵を大将軍とし蘇武を副将軍として、胡国の王単于を被(レ)責けり。漢朝より彼国へは五万里の道なれば、九年に一度行還程也。胡国の狄、城を百重に構たり。李陵勅を重じ命を軽じて、先陣に進て攻戦。狄不(レ)堪して引退。勝に乗て攻入つゝ、九十九の城を靡しけり。李陵今一の城に打入て見に、凶賊退散して只胡国の美人のみ有。官軍乱入ければ、美人歎て云、天命を背たてまつるに依て、妾が輩ども、或は身命を亡し或は行方を知ず、生ても別、死ても別れぬ。願は漢の使、我等を助よと悲泣。李陵敵の謀とは不(レ)知して、胡国の女に心を移て遊ける処に、凶奴四方を打囲み、李陵を生捕にしけり。副将軍に引へたる、蘇武生年十六歳、心うしと思て死生不(レ)知に戦けれ共、大陣破ぬれば残党不(レ)全習にて、蘇武も同く虜る。胡王議して云、大将二人は定是漢朝の功臣ならん、徒に命を断事不(レ)可(レ)然、罪を宥て我国の臣下とすべし(有朋上P246)とて、自余の兵は皆片足を切て追放つ。死する者は多、助る者は希也。李陵此形勢(ありさま)を見て終に胡王に従へり。蘇武未随ざりければ、胡王語て云、汝命を助けんと思はば我に従へ、将相として召仕んと。蘇武答て曰く、我忝漢王の勅を蒙て、汝等従へん為に此国に来れり。何ぞ死を遁れんが為に、還て狄の類に■(くつ)せんといへ
P0178
ば、胡王大に嗔て、武を悩事二年、後には囚に籠て食を絶。蘇武羊の毛に雪を裹て食しつゝ、不(レ)死ければ、胡王いよ/\其賢なる事を知て、囚より出して誘て云、我に公王と云秘蔵の娘あり、形世に勝たり、汝に与て将相とせんといへ共不(レ)従。胡王問て云、命は人の宝也、官は人の品也、汝何ぞ将相には不(レ)成、空く身を亡さんとすると。蘇武答云、授(レ)妻為(レ)相、汝当(二)不仁(一)、任(レ)身受(レ)死、我為(二)忠臣(一)といへば、胡王不(レ)及(レ)力、北海の辺に放捨て、羊をぞ飼ける。漢王此事を伝聞給(たまひ)て、蘇武は実に功臣也、李陵は二心有とて、父が死骸を堀起し、老母兄弟罪せらる。蘇武は甲斐なき命は生たれ共、形を宿す奇の臥戸もなく、飢を支る朝夕の食物もなし。韋■(いこう)毳幕以(レ)之禦(二)風雨(一)、羶肉酪の漿かれを以て飢渇を休、年月を送ければ、故郷の恋さ不(レ)斜(なのめならず)。角て海辺野沢田中などに迷ひ行ける程(ほど)に、後には禽獣鳥類も見馴て驚事なし。繋ぬ月日明暮て、十九年をぞ経たりける。秋の鴈の連を乱らず飛けるに、蘇武天に仰て、歎云、(有朋上P247)春は北来の翅、秋は南往の鳥なり、我旧里をも飛過らん、心あらば言伝せんと云ければ、天道哀とや覚しけん、二羽のかりがね飛下、蘇武が前にぞ居たりける。武悦て指を食切て血を出し、一紙の文を書つゝ鴈の翅に結付たりければ、南を指て飛行ぬ。漢昭帝上林苑に御幸して、木々の紅葉叡覧有ける折節、秋のたのむの鴈、雲居遥(はるか)に飛けるが、一紙の書を落したり。帝怪思召(おぼしめし)、取上是を御覧ずれば、蘇武が状にぞ有ける。其状に云、
昔籠(二)巌穴之洞(一)、徒送(二)三春之愁歎(一)、今放(二)稽田之畝(一)、空同(二)胡敵之一足(一)、設身留 永朽(二)於胡国(一)、
P0179
必神還再仕(二)于漢君(一)、とぞ書たりける。
昔為(二)帝闕之近臣(一)、今同(二)一足之諸鳥(一)、悲涙空成(二)野外之露(一)、争帰(二)故郷(一)再仕(二)漢王(一)、
是を叡覧有て、さては蘇武は未胡国にあり、争か空く他国の民となすべきとて、昭帝胡王単于に眤をなし給(たま)ひ、金銀の宝を遣して、蘇武を贖給ければ、単于蘇武を許して漢宮へぞ返しける。李陵見(レ)之、いかなれば大将軍に被(レ)選て、一人は召返し、一人は沈らん、心憂や我年来君に仕奉て二心なし、命を重じ忠を尽すといへ共、官軍敗て誤つて虜れぬ。不(レ)如素懐を遂んと存じて、一旦凶奴に仕て終に胡狄を亡し、必漢宮にかへらんと、而も(有朋上P248)父が死骸を堀起し、老母兄弟罪せられけんこそ悲けれとて、一巻の書を注してぞ進じける。其中に、
双■(さうふ)倶北飛 一■(ふ)独南翔 余自留(二)新館(一) 子今帰(二)故郷(一) K035
とぞ書たりける。蘇武は十六にして胡国に行、十九年を経て後、三十五にて旧里に帰る。盛なりし年なれども、胡国のもの思に、鬢鬚白く成て、漢王の御前に参て、単于に被(レ)虜て、十九年悲みを含みし事、官兵悉片足を切れし事語申て、其後に李陵が一巻の書を進。漢王叡覧有て御涙を流、大に後悔し給へ共無(レ)力。去共蘇武は旧里に帰て再妻子を見のみに非、後には典属国と云官を賜て君に仕へ奉。孝宣皇帝の御宇、神爵二年に、八十余にして薨じけり。甘露三年に帝功臣四十二人を麒麟閣に昼し
P0180
給けるに、蘇武其中にあり、一紙の鴈の書なからましかば、争か加様の幸有べき。去ば是よりして、文をば鴈書とも雁札とも云、使をば雁使とも名付たり。(有朋上P249)
S0802 善友悪友両太子事
鳥の翅に書を付事、天竺にも有けり。波羅奈国、月蓋王に二人の太子御座す。善友、悪友と云。兄の善友太子、弟の悪友太子に眼を被(レ)損たりければ、今は位を継べきに非とて、諸国に流行し給けるに、母后太子の行末を悲て、御書をあそばし、善友太子の年比飼給(たま)ひける鷹の頸に被(レ)懸たりければ、其鳥高飛去て、是を太子に奉たりとぞ、報恩経には説れたり。
蘇武は漢家の勅使也。一紙の筆の跡、鴈金雲井を通、康頼は本朝の流人也、二首の歌の詞は、卒都婆浪路を伝へたり。彼は十九の春秋を送迎、是は三年の月日を明し暮しけり。上代末代時替り、漢家本朝所異なれども、ためしは同じかりけり。理や彼は天道哀みを垂給(たま)ひ、是は神明恵を施し給へばなり。
S0803 康基読(二)信解品(一)事
平判官康頼が嫡子平左衛門尉康基は、摂津国(つのくに)小馬林まで父が供して見送たりけるが、康頼出家してければ、康基其より還上、精進潔斎して、日数を百日に限て、清水寺へ参詣し、信解品を読誦(どくじゆ)す。隔夜する折も有、夙夜する時もあり。願は大慈大悲千手千眼憑をかけ志を運べば、朽たる木草も花さきみのると御誓ある也。如来(によらい)の金言誤なく、薩■[*土+垂](さつた)の誓約(有朋上P250)誠あらば、今生に再父を相見せしめ給へと、三千三百三十三度の礼拝をぞ奉る。既(すで)に八十余日も積けるに、硫黄が島にて判官入道の夢に、海上遥(はるか)に詠れば、白き帆懸たる船一艘走来り、近付を見れば嫡子康基此舟にあり。舟の帆には妙法蓮華経信解品と銘を書り。急舟を付て、左衛門尉が下来れかし、余に都も恋きに物語(ものがたり)せんと思ひ、能々見れば舟には
P0181
あらで、白馬に乗たりと見て打驚ぬ。何なる妄想やらんと汗押拭て、人にも不(レ)語、都へ還上て、子息康基に語たりければ、康基此を聞て、貴にも涙、うれしきにも涙也。泣々(なくなく)語けるは、我信解品を転読して百日清水寺の観音に祈誓し奉き、観音は白馬に現じ給ふなれば、掲焉御夢想(ごむさう)也とて、父子感涙を流しけり。さても康基、観音の御前にては、観音品をこそ可(レ)奉(レ)読に、信解品を読ける事は、此品に賢き長者、愚なる子を失て、跡を同居の塵にとゞめて、二度親子互に見事を得たり。以(レ)之一実の慈悲、求(レ)子不(レ)得、中止(二)一城(一)、伺(二)窮子之機(一)、父子相見後、初脱(二)瓔珞之衣(一)といへり。されば父子再会の金言を憑て、此品を読ける也。彼は三千塵点、子を失て父かなしみ、此は三年の春秋、父を被(レ)流て子哀む、愛敬之道は、中心より出たれば、父子の情ぞ哀れなる。(有朋上P251)
S0804 大納言入道薨去事
大納言入道殿(にふだうどの)は、少将も硫黄島へ流され、北方の君達も、此彼に逃隠れて安堵せずなど聞給(たまひ)ては、いとゞ心憂思食(おぼしめし)、日に随而弱給けり。七月十日比よりは、起臥も輙らず、かく痛苦給へども、跡枕に侍て湯水を進る者もなし。何事に付ても唯故郷の人々のみ恋く、今一度相見事のなくて露の命の消なん事をぞ歎給ふ。適見ゆる物とてはあらけなき武士也。大納言入道をば急ぎ可(レ)失と六波羅より難波が許へ被(二)下知(一)たりければ、直に足手をきり奉(レ)刎(レ)首こと、流石(さすが)かはゆくや思けん、不(レ)知して奉(レ)失とて、深き■(がけ)の底に■(ひし)を植て、突落してぞ殺しける。只一度に刎(レ)首たらば、尋常の習にて有べきに、心うくも計たりけりと、無(レ)情こそ云けれ。其より取挙て、備前備中の境なる、有木の別所
P0182
と云所に送捨、形の如穴を掘、石を畳て奉(レ)納。難波が後見に、智明と云法師あり。加様のかまへ、此法師ぞ奉行したりける。其故にや女子三人持たりけるが、俄に物狂しき心地出来て、一人は深き筒井に落入て死ぬ。二人は竹の林に走入て、竹の利杙に貫かりて失にけり。大納言入道の死霊の故にやと、人皆舌を振て怖合けり。智明恐をなし、社を造て怨霊を祝ひ奉る。(有朋上P252)智明が若宮とて今に有り。
S0805 大納言北方出家事
大納言の北方伝聞給(たまひ)て、相見事はなけれども、露の命の未消給はずと聞つる程は、心苦しながら頼しくて、ながらへば、もし奉(レ)見事もやとて、つれなく髪をも落さゞりつるに、隠給けるにこそ、今は甲斐なしとて、自ら御髪をはさみ下し、雲林院の菩提講に忍参り、出家して戒を持ち、如(レ)形追善をも其にてぞ営給(たま)ひける。若君閼伽をむすぶ日は姫君花を摘、姫君燈を挑ける折は、若君香を焼、明ても暮ても、両共に、父の菩提を弔給ふも哀也。昔皇門鳳城に仕へて、恣に槐門の春の花を詠ぜしに、今は民烟蝸屋を遷て、望郷の暁の露に埋れけり。楽尽て悲来るなる、天人の五衰も角やと覚えて無慙也。
S0806 讃岐院事
新院讃州配流の後は讃岐院と申けるを、廿九日に御追号有て、崇徳院とぞ申ける。去る保元元年七月に当国に遷され御座て、始は直島に渡らせ給けるが、後には在庁一の庁官野(有朋上P253)大夫高遠が堂に入せ給けるを、鼓岡に御所を立て奉(レ)居、御歎の積にや、御悩の事有ければ、関白殿(くわんばくどの)へ能様に申させ給へと仰有けれ共、世を恐させ給(たま)ひつゝ御披露も無りければ、思召(おぼしめし)切らせ給(たまひ)て、三年の間に五部大乗経をあそばし集て、貝鐘の音もせぬ遠国に捨置進せん事、心憂く覚え侍るに、御経ばかり、都近き、八幡鳥羽辺迄、
P0183
入まゐらせばやと、御室へ申させ給けり。其御書云、昔は槐門崇■(そうべう)の窓にして玉体遊宴の心をやすめ、今は離宮外土の西海の波にくだかれて、江南浮沈の哀声を加ふ。嵐松を払て独筵に月を見。争か再、旧郷に還て、自玉聖の気を成ん。月西山に傾けば、都城仙宮の暁の詠を思出。日晨岳に出れば、竜楼竹園の甚しき興を忘ず、早く民煙蓬屋の悲涙を止て、必三仏菩提の妙位に昇らんとあそばして、奥に一首の御製あり。
浜千鳥跡は都へ通へ共身は松山に音をのみぞ啼 K036
御室より此御書を以、関白殿(くわんばくどの)へ被(レ)仰けり。関白殿(くわんばくどの)又内へ被(レ)申たりければ、少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)を召て仰含らる。信西さる事争か候べきと、大に諌申ければ、御免もなかりけり。讃岐院此由聞召れては、御心憂事也。天竺、震旦、新羅、高麗にも、兄弟国を論じ、叔父甥位を諍て、致(二)合戦(一)事、尋常の習なれども、依(二)果報(一)、兄も負甥も勝、されども手を合膝を折(有朋上P254)て降人に成ぬれば、辛罪に行るゝ事やはある。我今悪行の心を以、係苦みを見れば、今生の事を思捨て、後生菩提の為にとて書奉る、五部の大乗経の置所をだにも宥されねば、今生の怨のみに非ず、後生までの敵にこそと仰られて、御舌のさきを食切給(たま)ひ、其血を以て御経の軸の本ごとに、御誓状をぞあそばしける。書写し奉る処の五部の大乗経を以て、三悪道に抛籠畢。此大功徳の力に依、日本国の大魔と成て、天下を乱り国家を悩さん、大乗甚深の回向、何の願か不(二)成就(じやうじゆ)(一)哉、諸仏証知証誠し給へ、顕仁敬白とあそばし、誓はせ給(たまひ)て其後は、御爪も
P0184
切せ給はず、御ぐしも剃せ給はず、生ながら天狗の貌に顕れ、御座けるこそ恐しけれ。小河侍従入道蓮如とて、世捨上人あり。昔陪従にて公事勤ける時、御神楽などの次に、自幽に見参に入進せける計なれば、さしも歎き思進すべきにしも無れども、大方情深き人にて、只一人自負かけて都を迷出、はるかに讃岐国へ下りにけり。御所の渡に余所ながら立回て見けるに、目も当られぬ御有様(おんありさま)也。いかにもして内に入り、角と申入ばやと、志深く伺けれ共、奉(レ)守ける武士はげしくとがめければ、空く日も暮にけり。折節月隈なかりければ、蓮如心を澄して笛を吹て、通夜御所を廻、暁方に黒ばみたる水干袴きたる人内より出たり。便を悦て相共に内に入、事の体を見に、草深しては朝(有朋上P255)の露袖を湿し、松高しては夜の風膚を融す。人跡絶たる庭上に、奇げなる柴の御所、まことにいぶせき御住居也。伝聞しよりも猶心憂く悲しかりければ、中々無(レ)由下にけりとぞ思ける。哀哉姑射山の上にしては、曇らぬ月を詠め、蓬莱洞の内にしては、四海の波を澄し御座しに、庭の千草は枝かはし、往還人も絶果て、賤か宿戸の庵より猶うたてき様なれば、蓮如涙に咽けり。さても有つる人して角と申入たりければ、院はさしも恋しき都の人なる上、昔御覧ぜし者なれば、御前へも被(レ)召度は思召(おぼしめし)けれ共、問につらさも思し出ぬべし。又係浅増(あさまし)き御貌を見えん事も憚あれば、中々無(レ)由とて、只御涙をのみぞ流させ給ける。御気色角と申ければ、蓮如誠にもとて、一首を詠じ、見参に入よとて、
朝倉や木の丸殿に入ながら君にしられで帰る悲しさ K037
P0185
御返事あり。
朝倉やたゞ徒に帰すにも釣する海士の音をのみぞ啼 K038
蓮如いと悲く覚て、是を笈に入つゝ、泣々(なくなく)都へ帰上る、哀にやさしく聞えし。其後長寛二年の秋八月廿四日、御年四十六にて、支度と云所にて終に隠れさせ給にけり。讃岐御下向之後、九年にぞ成給ける。白峯と云山寺に送奉り、焼上奉りけるが、折節北風けはしく吹(有朋上P256)けれ共、余に都を恋悲み御座けるにや、煙は都へ靡きけるとぞ。御骨をば必高野へ送れとの御遺言有けるとかや。鳥羽院(とばのゐん)の北面に佐藤兵衛尉義清と云し者、道心を発し、出家入道して西行法師と云けるが、大法房円意と改名して、去仁安二年の冬の比、諸国修行しけるが、中比のすき者にて、東は壺の石、歩夷が島、西は金の御崎、松浦の沖、名処旧跡の歌枕を歩み、見ぬ所はなかりけり。不破の関屋に留ては、月には雲のふはと云、武蔵野を過とては、柏木の葉守の神を恨けり。実方中将の墓にては、一村薄を悲み、白川の関にかゝりては、関屋の柱に筆を止む。四国の方の修行を思立けるときは、江口の妙に宿をかり、仮の宿と読しかば、心とむなと返しつゝ、一夜の宿をぞ借にける。讃岐国へ入て、松山の津と云所に行きぬ。こゝは新院流されてわたらせ給(たま)ひける所ぞかしと思出し、昔恋しく尋まゐらせけれ共、其御あともなかりければ、竜顔奉公の古より、鵝王帰依の今までも、御事忝く哀に覚えければ、
松山の浪に流れてこし舟のやがてむなしく成にける哉 K039
P0186
と打詠て、支度と云山寺に遷らせ給(たまひ)ても年久成にければ、御跡なきも理に覚て、御墓はいづくぞと問ければ、白峯と云山寺と聞て尋参りたりけるに、あやしの下臈(げらふ)の墓よりも(有朋上P257)猶草繁し。いかなる前世の御宿業にかといと悲し。昔は清涼紫宸の玉台に、四海の主とかしづかれ御座しに、今は民村白屋の外土に、八重の葎に埋れ給へる事、御心うき事なれ共、翠帳紅閨の中に、三千の君と仰がれ、竜楼鳳闕の上に、二八の臣とあがめられて、弁才世にかまびすしく、威勢朝に振し人々も、名ばかり留る世の習、咸陽宮も徒に、片々たる煙と昇、姑蘇台も空■々(ぢやうぢやう)たる露繁し。宮も藁屋もはてしなし、兎ても角ても世の中は、只かげろふの仮の宿、すみはつまじき所也とて、西行古詞を思出て、
松樹千年終是朽、槿花一日自成栄 K040
と詠じつゝ、暫くこゝに候ひけれども、法華三昧つとむる、住持の僧もなく、焼香散華を奉る、参詣の者も無りけり。最物さびしかりければ、
よしや君むかしの玉の床とても係らんのちは何にかはせん K041
と読けるは、彼延喜の聖主の、
いふならく奈落の底に入ぬれば刹利も首陀も異らざりけり K042
と申御歌に思合て哀なり。さても七箇日逗留して、花を手向香を焼読経念仏して、聖霊決定往生極楽と回向し奉て立けるが、御廟の傍に松の有ける本を削り、無らん時の形見(有朋上P258)にもとて二首の歌をぞ
P0187
書付ける。
久に経て我後の世を問へよ松跡忍ぶべき人もなき身ぞ K043
爰を又我住うくてうかれなば松は独にならんとやする K044
書注てぞ出にける。是にや怨霊も慰給けんと■(おぼつか)なし。さても西行発心のおこりを尋れば、源は恋故とぞ承る。申も恐ある上臈女房を思懸進たりけるを、あこぎの浦ぞと云仰を蒙て思切、官位は春の夜見はてぬ夢と思成、楽栄は秋の夜の月、西へと准へて、有為世の契を遁つゝ、無為の道にぞ入にける。あこぎは歌の心なり。
伊勢の海あこぎが浦に引網も度重なれば人もこそしれ K045
と云心は、彼阿漕の浦には神の誓にて、年に一度の外は■(あみ)を引ずとかや。此仰を承て、西行が読ける、
思きや富士の高根に一夜ねて雲の上なる月をみんとは K046
此歌の心を思には、一よの御契は有けるにや、重て聞食(きこしめす)事の有ければこそ阿漕とは仰けめ、情かりける事共也。彼貫之が御前の簀子の辺に候て、まどろむ程も夜をやぬるらんと云ふ、一首の御製を給(たまひ)て、夢にやみるとまどろむぞ君と、申たりけん事までも、想やるこ(有朋上P259)そゆかしけれ。
S0807 宇治左府贈官事
八月朔日は、宇治左府の贈官贈位の御事有て、少納言惟基は、彼御墓所に参て、宣命を捧て、太政(だいじやう)大臣(だいじん)
P0188
正一位を被(レ)送之由読かけ奉る。件の御墓は、大和国(やまとのくに)添上郡、河上の村、般若野の五三昧也。昔堀起し奉り、捨られにし後は、死骸道の辺の土と成て、年々に春の草のみ繁れり。今勅使尋入て、宣命を伝けん、亡魂如何思召(おぼしめし)けんおぼつかなし。思の外の事共有て、世の乱るゝは直事に非、偏に怨霊の致す処也。冷泉院の御物狂御座し、花山法皇の御位をさらせ給(たま)ひ、三条院の御目のくらかりしも、元方の民部卿の霊とこそ承れ。怨霊は昔も今も恐しき事なれば、早良廃太子をば崇道天皇と号し、井上の内親王は皇后の職位に復す、皆是怨霊を被(レ)宥し謀也。されば今度も可(レ)然にこそと、人々計ひ被(レ)申ければ、贈号贈官有て、院をば崇徳院と申し、臣をば正一位と宥行はれけれ共、後いかがあらんと覚束なし。(有朋上P260)
S0808 彗星出現事
同十二月廿四日、彗星東方に出で、廿八日に光を増。蚩尤旗とも申し、赤気ともいへり。何事の有べきにかと上下恐をなす。天文勘して申く、五行の気五星と変ずる内に、彗星は是大乱大兵之瑞相なりと奏す。何様にもおだしかるまじとぞ歎あひける。
五行者、木火土金水、五星者、彗星、■惑星、鎮星、太白星、辰星なり。
治承二年正月一日、院(ゐんの)御所(ごしよ)には礼拝被(レ)行、四日朝覲行幸有て、例に替たる事はなけれども、去年成親卿(なりちかのきやう)已下近習の人々、多く被(レ)失にし事、法皇不(レ)安思召(おぼしめさ)れて、御憤(おんいきどほり)未やすませ給はず、世の御政も倦く思召(おぼしめさ)れて、御心よからぬ事にてぞ有ける。入道も多田蔵人行綱が告知せ奉てより後は、君をも後暗御事に思奉て、世の中打解たる事もなし。上には事なき様にもてなせども、下には用心して只苦咲ひ
P0189
てぞ有ける。
S0809 法皇三井灌頂(くわんぢやうの)事
法皇は三井寺(みゐでら)の公顕僧正(そうじやう)を御師範として、真言の秘法伝受せさせ給けるが、今年の春三部(有朋上P261)の秘経を受させ給(たま)ひ、二月十九日、三井寺(みゐでら)にて御灌頂(ごくわんぢやう)有べき由思召(おぼしめし)立と聞えし程(ほど)に、山門大衆憤申けるは、昔よりして今に至るまで、御灌頂(ごくわんぢやう)御受戒、みな我山にして遂させ給へり、山王の化導専受戒灌頂(くわんぢやう)の為也。就(レ)中(なかんづく)園城寺(をんじやうじ)者、昔天智天皇の御子、大友王子、国家を乱らんとて軍を起給(たま)ひし謀叛悪逆(あくぎやく)の境也。始て今御入寺有て御灌頂(ごくわんぢやう)あらん事、旁以不(レ)可(レ)然と申ければ、様々誘へ仰けれ共、例の山大衆更に院宣を用ず。三井寺(みゐでら)にして御灌頂(ごくわんぢやう)有ば、彼寺を可(二)焼払(やきはらふ)(一)之由、僉議(せんぎ)すと聞えければ、権大納言隆季卿の、奉書にて、院宣を被(レ)下云く、御入壇、偏に可(レ)為(二)秘密結縁(一)之処、還及(二)騒動(一)の条、不慮の次第歟、因(レ)茲園城寺(をんじやうじ)御幸所(二)延引(一)也。是延暦園城(をんじやう)安全の謀也と有けれ共、大衆猶憤申けるは、延引の院宣全く山門の眉を開かず、永く三井の御幸を不(レ)被(二)停止(一)、彼寺に発向して、仏閣僧坊一宇も残さず、可(二)焼払(やきはらふ)(一)之由、騒動すと聞えければ、重て院宣を被(レ)下て云、御幸の事被(二)停止(一)之由、一日被(二)仰下(一)畢。山門衆徒等、明日二日猶発(二)向彼寺(一)之由風聞、可(レ)令(二)制止(一)云云と有ければ、御幸停止之院宣に依て、山門既(すで)に静ぬ。法皇は即御加行結願して、思召(おぼしめし)止らせ給にけり。去ども猶御宿願を遂させ給はんが為に、年序をへて文治二年の春の比、三井寺(みゐでら)にして御灌頂(ごくわんぢやう)有るべきよし聞えければ、山門大衆又騒動して云、園城寺(をんじやうじ)(有朋上P262)の御幸の事、治承年中に其沙汰有て被(二)停止(一)畢、而を彼寺にして御灌頂(ごくわんぢやう)あらば、三井寺(みゐでら)を可(二)焼払(やきはらふ)(一)なんど
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聞食(きこしめ)されければ、当時の座主全玄僧正(そうじやう)を、法住寺(ほふぢゆうじ)の御所に召れて、行隆を以被(二)仰下(一)云、求法の御志有に依て、公顕僧正(そうじやう)を以て智証流之灌頂(くわんぢやう)を可(レ)受の由思食(おぼしめす)処に、公顕の申さく、智証大師一行禅師の釈に依て、一流の灌頂(くわんぢやう)に於ては、不(レ)可(レ)出(二)寺中(一)之由、殊所(レ)誡也。然ば早く当寺に御幸有て、可(レ)有(二)御伝法(一)と、所(レ)申既(すで)に道理也。仍三井寺(みゐでら)に御幸有べし。爰(ここ)に山僧此事を訴申之条甚其謂なし。凡一天之下皆王土也。何の所なりと云共、臨幸可(レ)任(二)叡慮(一)、依(レ)之(これによつて)或は本尊を拝せんが為、或は神道を仰ぐ故に、熊野金峰清水広隆に臨幸あり、昔より不(レ)及(二)違乱(一)、何ぞ三井の一寺に限て訴訟に及べきや、不日登山して可(レ)加(二)制止(一)也と。座主の御返事には、勅定は石よりも重し、争か子細を申べき。不日罷上て可(レ)加(二)制止(一)候。但先師大僧正治山の時、北国白山を山門に可(レ)賜之由致(二)訴訟(一)刻、甚深の以(二)道理(一)被(二)仰下(一)に付て、三箇年の間加(二)制止(一)と云へども、山徒の訴弥以て熾盛なるに依て、終に以て蒙(二)裁許(一)畢ぬ。全玄が治山、先師の威徳に及べからず、然而勅定の趣き、不日披露仕べく候。又山門の訴訟は、叡慮に背に似たれども、其本意を論ずれば、忠節の至也。長寛に三井に幸有て後、天下不吉也、万人所(レ)知(有朋上P263)也。彼寺三代叛逆の地たるに依て、此災を成。適安楽に属する処に、又臨幸あらば天下の滅亡歟。鎮国の御祈祷(ごきたう)を致山僧等、諫諍の制止を加へ奉るをや、抑公顕申状不審甚多し。不(レ)可(レ)出(二)寺中(一)之由、智証大師の遺誡ならば、何ぞ智証大師帰朝の後、叡山(えいさん)にして度々灌頂(くわんぢやう)を修べき、又智証の門流静観僧正(そうじやう)、争我山惣持院にして、灌頂(くわんぢやう)を寛平法皇に奉(レ)授べき。智証の遺誡頗不(レ)足(二)信用(一)。就(レ)中(なかんづく)一行大日経の義釈には、三所の道場あり、
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王城と深谷と寺中と也。寺中とは、是僧伽藍の中也。大唐の人師豈独三井寺(みゐでら)を支んや。三所の道場は猶是浅略也。本経の説の如は、三種の灌頂(くわんぢやう)あり、所謂(いはゆる)結縁灌頂(くわんぢやう)、伝法灌頂(くわんぢやう)、自証灌頂(くわんぢやう)也。法界宮の大日法界を以て道場とすと説り。不(レ)限(二)三所(一)と見えたり。公顕申状不(レ)及(二)偏信(一)哉と被(レ)申たりければ、叡感の気ありて、三井寺(みゐでら)の御幸は被(レ)止けり。
抑三部経と申は、大日経、金剛頂経、蘇悉地経是也。今此経の大意を尋れば、若有人此経、受持読誦(どくじゆ)者、即身成仏故、放大光明円と説、又若有人受持読誦(どくじゆ)、此経典者、父母所生身、忽に成大日如来(によらい)、放胸間大光明、照六道三有黒闇とも説る秘典也。後白川の法皇、忝も観行五品の位に御心を係御座て、法花修行の道場に五種法師の燈を挑て、七万八千余部転読、上古にも未(二)承及(一)、況や於(二)末代(一)乎。十善玉体の御膚、三密護摩の烟に蒼て、即身菩提(有朋上P264)の聖帝とぞ見させ給けり。彼公顕僧正(そうじやう)と申は、法皇の御外戚、顕密両門の師徳也。止観玄文の窓の前には、一乗(いちじよう)円融の玉を磨き、三密瑜伽(ゆが)の宝瓶には、東寺山門の花開け給へり。内に付外に付て、御帰依の御志深によりて、此妙典をも公顕僧正(そうじやう)に受、御灌頂(ごくわんぢやう)をも三井寺(みゐでら)にてと思食(おぼしめし)たりけるに、山門騒動して打止め奉ければ、御心うしと被(二)思召(一)(おぼしめされ)けり。法皇、我朝は是、辺土粟散国也。何事も争か大国に等かるべきなれども、中にも雲泥不(レ)及けるは、律の法文僧の振舞にてぞ有らん。僧衆の法は、帰僧息諍論、同入和合海といへり。縦和合海にこそ入ざらめ、諍論を専にして、させる咎もなき三井寺(みゐでら)を、焼失せんとする条、無道心の者共かな、破和合僧は五逆罪
P0192
の随一に非や、形ばかりは出家にして、心はなほ在俗よりも不当也。愚痴のやみ深して、驕慢の幢高し。比丘の形と成ながら、難(レ)値如来(によらい)の教法をも修行せず、大日覚王の智水の流に身をも不(レ)洗、朕が適入壇灌頂(くわんぢやう)せんとするを、障碍する事の無慙さよ、縦朕が理を枉て非法を宣旨し、若は山門の所領を、別院に寄とも、王威王威たらば誰か背申べき、何況受戒灌頂(くわんぢやう)と云は、上求菩提、下化衆生の秘要也。智徳明匠讃嘆し、貴賤男女も随喜せり。たとひ随喜讃嘆褒美するまでこそなからめ、無上福田の衣の上に、邪見放逸の冑を著、定恵一手の掌の内に、仏法破滅の(有朋上P265)続松を捧て、三井寺(みゐでら)を焼亡さんと計ふらん条、少しもたがはず。提婆達多が類にこそ、さこそ末代といはんからに、此程(ほど)に王威を軽すべき様やは有べき、口惜事哉とて、宸襟しづかならず、逆鱗しば/\忝し。抑王威は仏法を崇め、仏法は王威を守るこそ、相互に助て効験も目出く明徳もいみじけれ、若王威を王威とせずば、何の仏法か我朝に興隆すべきや、今度山僧等、園城寺(をんじやうじ)を焼失はんに於ては、天台座主(てんだいざす)を流罪し、山門大衆を禁獄せんと思召(おぼしめし)けるが、又返つて山門の衆徒、内心こそ愚痴の闇深して、邪雲仏日の影を犯とも、形は已比丘に似たり。一々に禁籠せん事、罪業又消滅すべからず、且は五帖の法衣身にまとへり。帰依の志全竪誓師子におとるべからず、且は大師聖霊の御計をも奉(レ)待べし、且は医王山王も争か捨果させ給べきやとて、御涙にぞ咽ばせ給ける。法皇は百王七十七代の帝、鳥羽院(とばのゐん)第三の御子雅仁親王とぞ申しし。治天僅(わづか)に三年也。忽に御位をすべらせまし/\ける。御志は無官無智の僧に近付て、甚深の仏法をも聴聞し、壇処行法
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の花香をも、手ら自らいとなまんと思召(おぼしめさ)るゝ故なり。抑百王と申は、天神七代地神五代の後、神武天皇より奉(レ)始て、御裳濯川の流涼く、竜楼鳳闕の月陰なかりしか共、第廿九代帝、宣化天皇の御時迄は、仏法未我朝に伝らざりしかば、名字をすら聞事なかりき。(有朋上P266)されば其時までは、罪業を恐る人もなく、善根を修行する人も無りき。親に孝養する事をも知ず、心に善悪の業をも不(レ)弁、持律斎戒の作法もなく、念仏読経のわざも無りき。而るに第三十代の帝、欽明天皇の御宇十三年壬申歳十月十日、百済国の聖明王より、金銅の釈迦如来(しやかによらい)、並に経論、■幡宝蓋(どうばんほうがい)、宝瓶等の仏具なんど被(レ)送たりしかども、仏の功能を知、聖教の談議する僧法もなかりしかば、三宝を供養し仏教を随喜せず、唯闇の夜の錦にてぞ侍ける。第三十二代の帝、用命天皇と申は、御諱豊日天皇とも申き。此御時より三宝普く流布して、大小乗の法文の光天下に耀しより以来、仏法修行の貴賤、其数多といへ共、此法皇程の薫修練行の御門を不(レ)承、子に臥寅に起させ給ふ、御行法なれば、打解て更に御寝もならず、金烏東に耀ては六部転読の法水、三身仏性の玉を磨き、夕日西に傾ば、九品上生の蓮台に、三尊来迎の御心を運給へり。常の御座の御障子の色紙に書せ給たりける名句に云、身は暫雖(レ)居(二)東土八苦蕀之下(一)、心常令(レ)遊(二)西方九品蓮之上(一)とぞあそばしたる。又常の御詠吟に、智者は秋の鹿鳴て入(レ)山、愚人は夏の虫飛んで火に焼とぞながめさせ給ける。此は止観行者、四種三昧の大意を釈しける絶句とかや。昔より常に此事を詠させ給ける御事なれども、今度山門の大衆に御灌頂(ごくわんぢやう)御入寺を打さまされ給し(有朋上P267)時より、何なる
P0194
深き山にも閉籠、苔むす洞にも隠れ居ばやとや思召(おぼしめし)けん、御心を澄して、智者は秋の鹿とのみ御詠有ければ、后宮■女(さいじよ)も浅猿(あさまし)く思召(おぼしめし)、雲客(うんかく)月卿(げつけい)も肝神を失ひ給き。既青陽暮春の比にも成にければ、三月桃花の宴とて、桃花も盛に開たり。西王母が園の桃とて、唐土の桃を南庭の桜に植交て、色々様々にぞ御覧じける。桜が先に開時もあり、桃が先に開時も在、桃と桜と一度に開て匂を交る折もあり。今年は桜は遅つぼみて、桃花はさきに開たりけれ共、智者は秋の鹿とのみ詠ぜさせ給(たまひ)て、花を御覧ずる事も無き。依(レ)之(これによつて)、雲上人、更に一人も花を詠める人は、御座ざりけるに、三月三日たりしに、
春来遍是桃花水、 不(レ)弁(二)仙源(一)何処尋、 K047
と高声に詠ずる人あり。法皇誰ぞやと被(二)聞食(一)(きこしめされし)程(ほど)に、やがて清涼殿に参て、笛を吹鳴して、時の調子黄鐘調に音取すましたり。さるかとすれば、又御厨子の上なる、千金と云琵琶を懐下し奉りて、赤白桃李花と申楽を、三返計ぞ引たりける。直人とは覚えず、希代の不思議哉とぞ、法皇は被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。赤白桃李花を三返弾て後は、琵琶を引ず、詩歌をも不(レ)詠、笛をも不(レ)吹、良久音もせざりければ、此者は帰ぬるやらんと思召(おぼしめし)て、やゝ赤白桃李花をば何者が弾つるぞと仰在ければ、御宿直の番衆とぞ答奏しける。番衆とは誰ぞやと(有朋上P268)御尋あれば、開発源大夫住吉(すみよし)とぞ名乗給たりける。さては住吉(すみよし)大明神(だいみやうじん)にこそと思食(おぼしめし)て、急御対面あり。夢にも非覚とも思召(おぼしめ)さず、希代の不思議かなとぞ被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。さて種々の御物語(おんものがたり)有ける中に、大明神(だいみやうじん)被(レ)仰けるは、今夜は当番衆、松尾大明神(だいみやうじん)にて候へ共、急ぎ申
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べき事候て引替て参て候。昨日の暁山王七社(しちしや)と伝教(でんげう)大師(だいし)と、翁が宿所に来臨し給(たまひ)て、日本国の吉凶を評定候しに、今度山門の大衆等邪風殊に甚く、宸襟を悩し奉る条、存の外の次第にて候。但むつ心にては候はざりつる也。日本国の天魔集て、山の大衆に入替て、君の御灌頂(ごくわんぢやう)を打止めまゐらせ候処也。されば衆徒の咎には非ず、併天魔の所為にこそと。其時法皇の仰に、抑天魔と申は、人類歟、畜類歟、修羅道の族歟、何なる業因の者なれば、加様に仏法を障碍し侍らん、と御尋有りければ、大明神(だいみやうじん)答て宣く、聊通力をえたる畜類也。此に付て三品あり。一には天魔、諸の智者学匠(がくしやう)の、無道心にして、驕慢の甚き也。其無道心の智者の死すれば、必天魔と申鬼に成候也。其形頭は天狗、身は人にて、左右の羽生たり、前後百歳の事を悟て通力あり、虚空を飛事如(レ)隼。仏法者なるが故に、地獄には不(レ)堕、無道心なる故に、往生もせず、驕慢と申は人に増らんと思ふ心也。無道心と申は、愚痴の闇に迷へる者、智者の燈をも授けばやとも思はず、剰念仏申て後世欣者を妨(有朋上P269)て、嘲笑などする者、必死ぬれば天狗道(てんぐだう)に堕すといへり。されば末世の僧皆道心にして驕慢あるがゆゑに、十が八九は必天魔にて、仏法を破滅すと見えたり。八宗の智者は、皆天魔となるが故に、是をば天狗と申也。浄土門の学者も、名利の為にほだされて、虚仮の法門を囀り、無道心にして、念珠をくり、慢心にして数反すれば、天魔の来迎に預り、鬼魔天と云所に年久といへり。当(レ)知魔王は、一切衆生の第六の意識かへりて魔王となるが故に魔王形も又一切衆生の形に似り。されば尼法師の驕慢は、天狗に成たる形も尼天狗法師天狗
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にて侍也。頬は天狗に似たれども、頭は尼法師也。左右の手に羽は生たれ共、身には衣に似たる物を著て、肩には袈裟に似たる物を懸たり。男驕慢は、天狗と成ぬれば、頬こそ天狗に似たれ共、頭には烏帽子(えぼし)冠を著たり。二の手には羽生たれ共、身には水干、袴、直垂、狩衣なんどに似たる物を著たり。女の驕慢は、天狗と成ぬれば、頭にかつら懸て、紅粉白物の様なるものを頬に付たり。大眉作てかね黒なる者もあり、紅の袴に薄衣かづきて大虚(おほそら)を飛もあり。二には、波旬、天狗の業已に尽果て後、人身を受んとする時、若は深山の峯、若は深谷の洞、人跡絶果て、千里有所に入定したる時を、波旬と名く、一万歳の後人身を受といへり。三には魔縁、驕慢無道(ぶだう)道心の者必天狗となれりといへ共、未其人(有朋上P270)不(レ)知時に、人に増ばやと思ふ心の有を縁として、諸の天狗集るが故に、此を名付て魔縁と申。されば驕慢なき人の仏事には、魔縁なき故に、天魔来て障を成事なし。天魔は世間に多しといへ共、障碍を成べき縁なき人の許へは、翔り集る事更になし。されば法皇の御驕慢の御心、忽に魔王の来べき縁と成せ給(たまひ)て、六十余州の天狗共(てんぐども)、山門の大衆に入替て、さしも目出(めでた)き御加行をも打醒進て候也。御驕慢の発らせ給ふ実に御理也。両界の曼陀羅、一夜二時に懈怠なく行はせ給事、四十代の帝の中にも御座ざりき。僧中にも希にこそあらめと思召(おぼしめす)、御心則魔縁となれり。二十五壇の別尊の法、諸寺諸山の僧衆も、朕には争かと思召(おぼしめす)も魔縁なり。三密瑜伽(ゆが)の行法、護摩八千の薫修、上古の御門にましまさず、まして末代にはよもあらじ、仏法修行の智者達にもまさらばやと思召(おぼしめす)も是魔縁也。光明真言、尊勝陀羅尼、慈救
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真言、宝篋印、火界真言、千手経、護身結界十八道、仁王、般若、五壇法、朕に過たる真言師も、希にこそあるらめと思食(おぼしめし)たるも魔縁也。況や入壇灌頂(くわんぢやう)して、金剛(こんがう)不壊の光を放て、大日遍照の位にのぼらん事、明徳の中にも希なるべし。天子帝王の中にも、我はすぐれたらんと、大驕慢をなさせ給が故に、大天狗共(てんぐども)多集て、御灌頂(ごくわんぢやう)は空く成たる事こそ浅増(あさまし)く覚候へとぞ申させ給ける。又法皇の仰に、日本国中に、天狗に成(有朋上P271)たる智者幾か侍やと。明神宣く、よき法師は皆天狗に成り候間、其数を知ず。大智の僧は大天狗、小智の僧は小天狗、一向無智の僧中にも随分の慢心有。其等は悉(ことごと)く畜生道に堕て朝夕に責つかはれ、行歩に打はらるゝ諸の馬牛共は是なり。中比我朝に柿本の紀僧正(きそうじやう)と聞えしは、弘法大師の入室灑瓶の弟子、瑜伽(ゆが)灌頂(くわんぢやう)の補処、智徳秀一にして験徳無双聖たりき。大法慢を起して、日本第一の大天狗と成て候き。此を愛宕山の太郎坊と申也。惣じて驕慢の人多が故に、随分の天狗と成て、六十余州の山峯に、或は二三十人、或は五十百二百人(にひやくにん)集らざる処候はずと。其時法皇、誠に如(レ)仰、朕が行法は王位の中に、仏法者の中にも、最希にこそあらめと思て侍りつる也。先両界を空に覚て、毎夜の二時に、供養法し給ふ、御門、上古には未(レ)聞と思侍りき。別尊法鈴杵を廿五壇に建たる帝王も未(レ)聞と思侍て、子に臥し寅に起る行法、帝王の中には未(レ)聞と思侍りき。毎日法華経(ほけきやう)六部を信読し奉る。国王も、我朝には未(レ)聞と思侍き。況や三部秘経の持者、上乗灌頂(くわんぢやう)の聖と成て、本寺本山の智者達にも勝れたりと、被(レ)嘆と思ふ慢心を起こと度々也き。而今如(レ)是聞召るゝにこそ、罪業の雲既(すで)に晴て覚え候。全く山門の
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大衆の狼藉にては侍らず、我身の慢心則天魔の縁と成て、六十余州の天狗ども、数日精進の加行を打破けるにこそ(有朋上P272)道理にては侍りけれ。今に於ては慙愧懺悔の風冷に、魔縁境界争かはれざらん。さては忍やかに宿願を果し候ばやと存ず、御計候へと仰有ければ、大明神(だいみやうじん)宣く、伝教大師の申せと候つるは、延暦寺と申は愚老が建立(こんりふ)、園城寺(をんじやうじ)と申は、又智証大師の草創也。効験何も軽して御帰依の分にあたはず、我朝の霊地には、四天王寺勝れたり。聖徳太子(しやうとくたいし)の御建立(ごこんりふ)、仏法最初の砌也。彼聖徳太子(しやうとくたいし)は求世観音の応現、大悲闡提の菩薩也。信心空に催さば、勝利何ぞ少からんや。折節彼寺に入唐の聖、帰朝して、恵果法全の流水、五智五瓶に潔なり。灌頂(くわんぢやう)の大阿闍梨(あじやり)其器に可(レ)足、密に御幸ならせ御座して、御入壇候へと被(レ)仰て、明神忽に失給ぬ。其時法皇御落涙有て、良思食(おぼしめし)けるは、慢心いかに発さじと思へども、事により折に随て起べき者にて有けり。さしも大明神(だいみやうじん)の教給(たま)ひつる慢心の、今更起たるぞや。其故は、大唐国に一百余家の、大師先徳御座ける中に、毘沙門天王の御子に、韋駄天と申将軍に対面して、仏法の物語(ものがたり)し給ける明徳は、律宗の祖師終南山の道宣大師ばかりと見えたり。日本に七十余代の御門座ししかども、親住吉(すみよし)大明神(だいみやうじん)に対面して、種々に物語(ものがたり)したる帝王は、朕ばかりこそ在らめと、慢心の起たるぞやとて、阿弥陀仏/\助させ御座(おはしま)せと、御祈念ぞ在ける。さても法皇は公顕僧正(そうじやう)を被(二)召具(一)て天王寺へ御幸あり。彼寺の西門にして、(有朋上P273)御手を合つゝ、御心中に住吉(すみよし)明神(みやうじん)を拝せ給(たま)ひつゝ、
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住吉(すみよし)の松吹く風に雲晴て亀井の水にやどる月影 K048
とあそばして、五智光院にして亀井の水を結び上、五瓶の智水として、仏法最初の霊地にてぞ、伝法灌頂(くわんぢやう)をば遂させ給(たま)ひける。法皇今年六十一、智証大師より十五代の御付法也。無上菩提の御願(ごぐわん)、忽に成就(じやうじゆ)して、有待不定の玉体、速に金剛(こんがう)仏子に列御座、六大無碍の春の花は、出(レ)自(二)胎蔵界理門(一)、三密瑜伽(ゆが)の鏡の面は、浮(二)五智円満聖体(一)、八葉肉壇の胸(むね)の間には、耀(二)三十七尊光円(一)、五輪成身の宝冠には、厳(二)八十種好金花(一)、遍照遮那の悟開て、密厳花蔵之土に遊給ふも、あな目出た。(有朋上P274)
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第九
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理巻 第九
S0901 堂衆軍事
山門の騒動を静られんがために、三井の御幸を被(二)停止(一)たりけれ共、学匠(がくしやう)と堂衆と中悪して、山上又不(レ)静、山門に事出来ぬれば、世も必ず乱といへり。理や鬼門の方の災害なり、是不祥の瑞相なるべし、又何なる事の有るべきにやと恐ろし。此事は今年の春の比、義竟四郎叡俊と云者、越中国へ下向して、釈迦堂衆に来乗房義慶と云者が、所の立置、神人を、押取て知行しける間に、義慶憤を成て、敦賀中山に下合て、義竟四郎を打散し、物具(もののぐ)剥取などして恥に及。叡俊山に逃入て、希有にして命を生、夜にまぎれ匍登山して衆徒に訴ければ、大衆大に憤て、三塔不(レ)静、来乗又堂衆等を相語ければ、同心して義慶を助けんとする間、山上坂本騒ぎ合り。八月六日学匠(がくしやう)義竟四郎を大将として、堂聚が坊舎十三宇を截払、若干の資財雑物を追捕して、即学匠等(がくしやうら)西塔東谷大納言の岡に楯籠て、城郭(じやうくわく)を構ふ。堂衆弥我執を起して、同八日数百人(すひやくにん)の勢を率して登山して、西塔北谷東陽房(有朋上P276)に向城を構て勝負を決せんとす。露吹結ぶ秋風は、鎧の袖を翻し、雲井に響雷電は、甲の星を耀す。堂衆八人(はちにん)しころを傾て、大納言の岡へ打上り、城戸口近く攻付たり。城内より義竟四郎先陣に進で六人打て出、互に進退一時戦けり。堂衆八人(はちにん)請太刀に成て引けるを、〔義〕竟打嗔て長追す。堂衆難(レ)遁して返合て乱会て、散々(さんざん)に戦
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ける程(ほど)に、義竟四郎長刀の柄を打折て、腰刀を抜て刎て係るかと見程(ほど)に、頸打落されて失にけり。大将軍の義竟被(レ)討ければ、学匠(がくしやう)即引退く。十日堂衆等、東陽房より坂本に下り、近江国三箇庄へ下向して、国中(こくぢゆう)の悪党を相語、学匠(がくしやう)を亡さんと結構(けつこう)す。所(レ)語者と云は、古盗人古強盗、山賊海賊共也。年比日比蓄へもつ処の、米穀絹布の類を施し与へければ、当国にも不(レ)限、他国よりも聞伝て、縁を尋便に付て、雲霞の如く集と聞えし程(ほど)に、九月二十日堂衆数千の勢を相具して、坂本に越、早尾坂に城郭(じやうくわく)を構て楯籠る。学匠(がくしやう)兼て用意有ければ、不日に押寄たりけれ共、散々(さんざん)に打散されて、云甲斐なし。去共去共と又寄又寄しけれ共、毎度に不(レ)叶ければ、今は学匠(がくしやう)力尽て及(二)奏聞(一)。堂衆等師主の命を背て、悪行を致す間、誡を加る処に、諸国の凶賊等を相語て、衆徒を亡さんとす、衆徒対治をなすといへど、学侶多く討れて、仏法僧法忽に滅とす。官兵を以て可(レ)被(二)追討(一)と申ければ、院宣を被(レ)下太政(だいじやう)入道(にふだう)(有朋上P277)に仰す。入道勅定を蒙て、紀伊国住人、湯浅権守宗重を大将として、畿内近国の武士、三千余騎(よき)を相副て、東坂本へ差遣す。十月四日学匠(がくしやう)官軍と相共に、早尾坂の城(じやう)へよす。此山は後は峯高くして下がたく、前は谷嶮して上難き上に、道には大木を切て逆木に引、岡には大石を並て石弓をはる、面を向べき処に非ず。去共武家の軍兵三千余騎(よき)、衆徒の軍兵二千余騎(よき)、今度は去共と見えけるに、衆徒は官兵を進、官兵は衆徒を先立んと思程(ほど)に、心々にてはか/゛\しく攻寄戦輩なし。堂衆等は執心深く思ひて面を振ざりける上、所(レ)語の悪党ども、賄賂属託に耽て死生不(レ)知戦ければ、適進戦輩、射伏
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られ切伏られける中にも、多は石弓に打れてぞ亡ける。官兵も学匠(がくしやう)も散々(さんざん)に打落されて、手負は数を知らず、死者二千余人(よにん)とぞ聞えし。今度被(レ)討ける官兵の中に、武蔵国住人、甘糟太郎某、三条川原を東へ向て打けるが、倩案じ思様、我戦場に向ひなば、生て帰らん事有がたし、敵の為に害せられば、悪趣におちん事疑なし、法然上人の折節(をりふし)大谷に御座(おはしまし)ければ、出離悪道一句聴聞せんと思出て、彼庵室に推参して、馬より下、小具足付ながら縁のきはに立て、是は武蔵国住人甘糟太郎某と申者にて侍が、堂衆追討の為に、官軍に催されて、戦場に罷向侍、後生菩提の事御言承ばやとて参たる由申入たりければ、上人出合(有朋上P278)給へり。甘糟は我軍の庭に出で〔て〕、修羅闘諍の剣に当りなば、悪趣の苦患其恐不(レ)少、されば進んとすれば生死遁がたし、退んとすれば不覚の名憚あり、敵に向ひなば命を生て不(レ)可(レ)帰、これ弓矢の家を思故、子孫の末を存ずる故也。縦係身にて侍とも、生死を離べき一句を奉ばやと申。上人哀に思召(おぼしめし)て、御物語(おんものがたり)をしづ/\と始給へり。源空は本美作(みまさかの)国(くに)の者也。父母子なくして、観音に祈申て、我を儲たりき。我九歳の時、父は明石の源内と云者が為に、夜討にせられて孤子と成しを、親者が山へ登たりしかば、少き心に父が後世をも弔、我身も生死を離れんと思て、法相、三論、花厳、天台、真言、仏心、乃至小乗律蔵に至まで渡見に、末代罪悪の衆生の為には、唯念仏の一行を得たりと語給へば、到(二)信心(一)、西に向合掌して十念を受。上人十念を唱て後、縦合戦闘乱の中なり共、弓箭身を亡す時也とも、十念成就(じやうじゆ)せば往生不(レ)可(レ)疑と教訓し給へば、甘糟悦で坂本に越にけり。翌日
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上人大谷庵室に縁行道し給けるが、折節(をりふし)候ける摩訶部の敬仏、かくはりの浄門弥陀仏を呼出して、あれ見給へ、紫雲西山に聳て、比叡山(ひえいさん)に係れり、是は一定昨日来りたりし甘糟が、敵に討れて、念仏申て往生する瑞相と覚たり、浄阿弥陀仏御房は力強足早し、急坂本に越て、甘糟死にたらば、骸をも隠し首をも取て来給へと被(レ)仰ければ、かくはりの浄阿(有朋上P279)坂本に走越て、八王子(はちわうじ)山のすそ早尾坂の辺を見廻に、死人の多き事算を散せるが如し。木の本草の末皆紅に変けり、無慙と云も疎也。此彼見程(ほど)に、一人の童死人を抱て泣居たる処あり。近付寄て是を問へば、我は武蔵国甘糟殿の下人也、敵に打合給しが、長刀にて両膝を切おとされ、西に向ひ合掌して、念仏三百返ばかり申て死給。旅の空なれば何にすべしとも不(レ)覚して、かくて侍也とて泣けり。浄阿弥は泣々(なくなく)頸を掻落し、童が直垂に裹せて檜笠の下に引かくし、童相具して、大谷の庵室に来れり。上人見(レ)之給へば、昨日鮮に肝々しげなりし有様(ありさま)に、今日は魂もなき生首、憂世(うきよ)の習と云ひながら、夢の心地し給へば、墨染の袖をぞ絞られける。さて念仏申て終ぬる事細々と語申ければ、上人神妙(しんべう)神妙(しんべう)とて、やがて上の山にて首を焼、骨をば拾て童にたび、七日念仏申されて武蔵国へぞ被(レ)下ける。平野先生頼方と云者あり。官兵にさゝれて堂衆を攻けるが、強弓(つよゆみ)の手だれなり。打物取ても足早、唯電なんどの如し。我一人と戦ければ、堂衆多くは是が為に討れたり。敵も安からず思ければ、いかにもして頼方を討ばやと目に係たり。頼方は子息小冠者相具して、散々(さんざん)に戦ける程(ほど)に、敵多打て懸り、あますなとて手繁く戦ければ、引退処にいかがしたりけん、我身は遁て子息の小冠を被(レ)虜ぬ。頼方心細
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悲く思て、今は命生ても(有朋上P280)何にかせんと思ければ、命も不(レ)惜振舞けり。堂衆は此小冠が頸を切べきにて有けるを、父の頼方を招んが為に、子息を城戸口に出して、我命を助んと思はば城の中に入とよばはらせければ、頼方子が頸を続ん為に、甲を脱矢をはづして城の内へぞ入にける。大国の陵母は子を思て剣に伏し、我朝の頼方は、子を悲て城に入、恩愛親子の情こそ、とりどりには覚えけれ。同五日学匠等(がくしやうら)一人も残らず離山して、此彼に息つぎ居たり。義竟四郎神人の一庄を押取て知行すとも、何計の所得か有べきに、敦賀の中山にて恥を見、剰取かへもなき命を失、山門の滅亡、朝家の御大事に及ぬるこそ浅猿(あさまし)けれ。人は能々思慮有べき者也。貪欲は必身を食といへり。此事可(レ)慎。
十一月五日、学匠等(がくしやうら)又上座寛賢并(ならびに)斉明を大将軍として、堂衆が城郭(じやうくわく)へ推寄て攻戦けり。夜に入て学匠(がくしやう)又被(レ)打落(一)て四方に散失ぬ。討るゝ者百余人(よにん)、今はいかにも力なくして、学匠等(がくしやうら)散々(さんざん)にこそ成にけれ。其後は山門弥荒果て、西塔院の禅衆の外、止住の僧侶無りけり。末代の作法にや、悪者は強善人は弱なりて、行ひ人は強して、智者の謀も不(レ)及して、有縁の方に行別て、人なき山に成にけり。中堂衆など云者も失ぬ、当山草創より以来如(レ)事なし。只仏法の滅亡のみに非、祭礼も又廃にけり。社頭は死骸にけがされて、神供備る人もなく、在家は親子に別れば、幣帛(有朋上P281)捧る者もなし。緋の玉垣みだれつつ、引立たる標縄も絶々なり。
S0902 山門堂塔事
抑当山は是伝教(でんげう)大師(だいし)草創の砌(みぎり)、桓武天皇(てんわう)の御願(ごぐわん)也。天長地久の長講は、止観院に置れたり。本尊と申
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は、大師自斧を取、薬師(やくし)の像を造つゝ、未来の衆生を利益し給へと誂申給しに、半作の仏像のうなづき給(たま)ひしも、憑しくこそ覚れ。梵釈四天の像は、又忠仁公の造立也。十二神将(じふにじんじやう)の像は寛仁の入道大相国(たいしやうこく)の所造也。日光月光の二菩薩は宇治の関白(くわんばく)の所造なり。効験何もとり/゛\に、利生実に厳重也。法花三昧堂は、又伝教(でんげう)大師(だいし)の草創也。一乗(いちじよう)転読の髑髏は、此砌(みぎり)にぞ住ける。半行半座の三昧、此道場に修すとかや。常行三昧院は慈覚大師の建立(こんりふ)、法道和尚の引声此道場に遷さる。戒壇院と申も、同大師の建立(こんりふ)、円頓無作の大乗戒、此霊場に行る。惣持院と申は、文徳天皇(てんわう)の御願(ごぐわん)、真言上乗の秘法は、此伽藍に修せらる。如来(によらい)遺身の御舎利、多宝塔に納、鎮護国家の道場、名称実に憑しや。
深草天皇(てんわう)の定心院、朱雀天皇(てんわう)の延命院、花山法皇の静慮院、承雲和尚の五仏院、後冷泉院の実相院、弘宗王の大講堂、文徳天皇(てんわう)の四王院、皆是国家鎮守の道場也。西塔院の(有朋上P282)釈迦堂は延秀菩薩の造立也。寂光大師施主として、護命僧正(そうじやう)導師たり。弘法大師は咒願し、別当慈覚両大師、梵音を誦じ、安恵恵亮の和尚達、錫杖をぞ勤ける。本尊と申は、伝教(でんげう)大師(だいし)の御作也。中堂(ちゆうだう)の薬師(やくし)と印相更違ず、医王善逝かと思しに、天人香呂の岡に天降給(たま)ひて、閼伽の御盞を備つゝ、敬礼天人大覚尊の、四句の文を誦しけり。九旬安居の供花も、此伽藍より始れり。
横川の中堂(ちゆうだう)と申は、慈覚大師帰朝の時、悪風に放たれて、羅刹国に至しに、観音海上に現じ給(たま)ひ、不動毘沙門艫舳に現じ給へり。赤山明神は蓑笠を著給(たま)ひ、弓箭を手に杷て、大師を守護し奉る。彼の三体
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を移て、本尊とし給(たま)ひ、赤山明神を西坂本に崇けり。如法堂と申も、慈覚大師の御建立(ごこんりふ)、六根懺悔の行義は、此道場より始れり。三十番神の守護こそ貴くは覚ゆれ。相応和尚の不動尊、南山の洞に坐し給(たま)ひ、大楽大師の大威徳、西塔院に御座、或は秘密瑜伽(ゆが)の精舎もあり、或は法華読誦(どくじゆ)の道場もあり、念仏三昧の砌(みぎり)あり、円頓教の窓あり、目出かりし峯なれども、谷々の講演も皆断絶し、堂々の行法も、悉(ことごと)く退転す。修学の枢を閉塞、座禅の床に塵積る。三百余歳の法燈は挑る人もなく、六時不断の香の烟、絶やしぬらんおぼつかな。堂舎高顕て三重の構を青漢の中に挟み、棟梁遥(はるか)に秀でて、四面の垂木を白霧の間に瑩しかども、今は供仏を峯の嵐に任せ、(有朋上P283)金容を空瀝に潤。夜月燈を挑て、軒の隙より漏、暁の露玉を垂て、蓮座の粧を添。夫末代の俗に至ては、三国の仏法も次第に衰微せるとかや。遠く天竺に仏跡を訪へば、貞観三年の秋仏法興隆の為に、玄弉三蔵、流沙葱嶺を凌て、仏生国へ渡り、春秋寒暑一十七年経廻けるに、耳目見聞三百六十箇国。彼国の中に大乗の弘れる、十五箇国には過ざりけり。仏の教説し給(たま)ひける、祇園精舎も、竹林精舎も孤狼の棲となり、鷲峯山も、孤独園も、只柱礎のみ残れり。白鷲池には水絶て、草のみ深く茂り、退凡下乗の卒都婆も霧に朽て傾ぬ。六年苦行の壇特山、成等正覚の金剛座、大林精舎、鹿野園、凡て悉達誕生の、伽毘羅城より始て、如来(によらい)入滅の沙羅林中に至るまで、一化早く極て、八音響絶にしかば、衆生利益の聖跡も荒にけるこそ悲けれ。震旦の仏法も同く滅にき。天台山、五台山、双林寺、玉泉寺も、近頃は住侶なき様になり果て、大小乗の法文
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は箱の底にぞ朽にける。我朝の仏法も又同。南都には七大寺も荒果て、八宗九宗跡絶ぬ。瑜伽(ゆが)唯識の両宗の外は残る法文もなし。東大興福両寺の外は、残堂舎もなし。北京には愛宕、高雄の山も、昔は堂塔軒を碾、行学功を積けれ共、一夜の中に荒しかば、今は天狗の栖と成にけり。去ば止事なき天台の仏法計こそ有つるに、治承の今に至て滅果ぬるにやと、心あるきはの人(有朋上P284)不(レ)悲と云事なし。離山しける僧の坊の柱に、書付たりけるは、
祈りこし我たつ杣の引かへて人なき嶺となりや果なん K049
と、伝教(でんげう)大師(だいし)当山草創の昔、阿耨多羅(あのくたら)三藐三菩提(さんみやくさんぼだい)の仏達、我立杣に冥加あらせ給へ K050 と、祈申させ給ける事を、思出て読たりけるにや、最哀に情深くぞ聞えし。大衆離山して、今は人なき峯に成はてて、鎮護国家の道場には、青嵐独咽、住持仏法の窓前には、白雪(はくせつ)空に積る由聞召ければ、慈鎮和尚の未慈円阿闍梨(あじやり)にて御座(おはしまし)ける時、いと悲く思食(おぼしめし)つゞけさせ給ければ、白雪(はくせつ)の朝、尊円阿闍梨(あじやり)の許へ送らせ給けり。
いとゞしく昔の跡は絶なんと今朝降雪ぞ悲しかりける K051
御返事(おんへんじ)に、
君が名ぞ猶あらはれん降雪に昔の跡は絶えはてぬとも K052
抑堂衆と申は、本学匠(がくしやう)召仕ける、童部の法師に成たるや、若は中間法師などにて有けるが、金剛寿院の座主覚尋僧正(そうじやう)御治山の時より、三塔に結番して、夏衆と号して、仏に花奉し輩也。近来行人とて、
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山門の威に募、切物奇物責はたり、出挙借上入ちらして、徳付公名付なんどして、以外に過分に成、大衆をも事共せず、師主の命を背、加様に度々(有朋上P285)の合戦に打勝て、いとゞ我慢の鋒をぞ研ける。古人々の申けるは、山門に事出来ぬれば、必世の乱あり、一年天下の騒も山門より乱初たりと聞ゆ。今年又何事の有るべきやらん、鬼門の方の災夭也。帝都尤可(レ)鎮とぞ歎申ける。
S0903 善光寺炎上(えんしやうの)事
今年三月廿四日、信濃国善光寺炎上(えんしやう)あり、是又浅猿(あさまし)き事也。彼如来(によらい)と申は、昔天竺の毘舎離国に、五種の悪病発て、人民多亡き。毘舎離城の、月蓋長者と云者あり。最愛の女子、如是と云者、病の床に臥て、憑なく見えければ、恩愛の慈悲に催れ、釈尊説法の砌(みぎり)に参て歎申けるは、如来(によらい)は大悲を法界に覆て、衆生を一子と孚給へり。而を毘舎離城の人民多滅亡、最愛の女子亡せんとす、願は慈悲を垂て、悪病を済給へと。釈尊勅して云、我力を以て、彼鬼病を助がたし。是より西方十万億土を過て仏御座、其名を阿弥陀仏と云。至心に祈誓し奉らば自其病を助るべしと教給ふ。長者蒙(二)仏勅(一)、家に帰て遥(はるか)に西に向ひ、香花を備へ、十念を唱祈申しかば、弥陀如来(みだによらい)、観音、勢至、西方の虚空より飛来、一光三尊(さんぞん)の御体一■(ちやく)手半の御長にて、長者の門閾に現じ給たりけるを、閻浮檀金を以て奉(二)鋳移(一)、閻浮提(有朋上P286)第一の仏像也。如来(によらい)滅度の後、天竺に留給ふ事五百歳(ごひやくさい)、仏法東漸の理にて、百済国に渡御座(おはしまし)て、一千年の其後、欽明天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)に、浪に浮本朝に来給(たま)ひたりしを、推古天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)に、信濃国水内郡住人、本田善光と云者、遥(はるか)に負下奉て、我家を堂とし、我名を寺号に付つゝ安置し奉りてより、
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以降、日本最初の仏像、本師如来(によらい)と仰て、貴賤頭を低、道俗掌を合つゝ、既(すで)に六百歳に及べり。炎上(えんしやう)の例雖(レ)及(二)度々(一)、王法亡んとては、必仏法先に亡といへり。去ばにや加様にさしも止事なき霊寺霊場の多亡失給は、王法の末に臨、天下の穏しかるまじき瑞相にやとぞ、尊も卑も歎ける。
S0904 中宮御懐妊事
建礼門院も、其時は中宮にて御座(おはしまし)しか、春の暮より御悩とて、貢御もつや/\進らず、打解御寝も成らずと聞えしかば、人々怪をなす、何なる御事やらん、御物気などにやと疑申時の后宮にて御座かば、天の下の歎なる上、平家の一門は殊に騒合へり。太政(だいじやう)入道(にふだう)二位殿共に、理に過て肝心を迷し給程(ほど)に、ただならぬ御事なりとて、引替悦あへり。主上今年十八、いまだ皇子もおはしまさず、若皇子にて渡せ給はゞ、如何に目出からんとて、平家(有朋上P287)の人々は、只今皇子御誕生などのある様に、あらまし事共申て悦給へり。平家の角栄給へば、一定皇子にてぞ御座んと、徐人も色代申けり。
S0905 宰相申(二)預丹波(たんばの)少将(せうしやう)(一)事
中宮五月にて御帯賜御座(おはしまし)て、六月二十八日(にじふはちにち)吉日とて御著帯あり。御懐姙事定らせ給ければ、御産平安王子御誕生の御祈(おんいのり)、内外に付て頻也。平宰相(へいざいしやう)折節(をりふし)を得て、小松殿(こまつどの)に被(二)参申(一)けるは、中宮御産の御祈(おんいのり)に、定て様々の攘災行れずらん、成経が事今度申宥れなんや、何事にも勝たる御祈(おんいのり)たるべし、さらば御産も平に、皇子も御誕生疑あらじと泣口説給。大臣は、誰も子は悲き物なれば、誠にさぞ覚すらん、心の及ん程は申見べしとて、入道殿(にふだうどの)に被(レ)申けるは、成経が事を宰相の痛く歎申るゝこそ不便に侍れ、御産の御祈(おんいのり)に非常の大赦行はれて、丹波(たんばの)少将(せうしやう)其中に入らるべくや候らん、宰相の申さるゝ如く無双の御祈(おんいのり)
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たるべし、人の思歎を休、物の所望を叶させ給なば、皇子御誕生有りて、家門の栄花もいよ/\開ぬと相存ず、誠に人の親として子のうれへ歎を見聞ん程(ほど)に、身にしみ肝を焦す事、何かは是にまさるべき。為(レ)善者には天報ずるに福を以し、為(レ)非者には天報るに殃を以す(有朋上P288)と承る。縦異性他人なり共、かゝる折に当ては、広大の慈悲を可(レ)施、況や御一門の端に結て、か程(ほど)に歎申さんに、争か御憐なかるべき。然べきの様に御計あらば、上なき御祈(おんいのり)と成て必御悦びも報なんと、様々に宥被(レ)申たれば、入道今度は事の外に和て、去は俊寛康頼は如何と宣(のたまひ)けり。其も同罪とて同配所なれば、倶に御免あらぬと申れけり。何も詳なる事はなけれ共、日来には似ず思の外になだらかに返事し給へば、大臣うれしとおぼして被(レ)出けり。宰相待受ていかゞと問給ふ。今度はもて離たる事はなし、相計るゝ旨もありなんと宣へば、宰相手を合て悦の涙を流し給けるぞ糸惜き。教盛御一家の片端に侍れば、高山とも深海とも奉(レ)憑上は、是程の事などかは御免を蒙らでも有べき。女子にて侍れば、親に向声振立て、それ/\と申までこそなけれ共、教盛を見度にうらめしげに思て、常は涙ぐみて見え侍れば、思はじと思へ共、恩愛の道には力なく、無慙に覚えてかく歎申、相構て助る様に、御口入御座と宣(のたまひ)ければ、大臣は上下品替といへ共、子を思道は等閑ならねば、誠にさこそ思召(おぼしめす)らめ、猶もよく/\申侍るべしとて立給(たま)ひぬ。
中宮は月日の重る儘に、いとゞ御身を苦ぞ思召(おぼしめし)ける。係折をえて御物気煩しくぞ御座など申ければ、御験者隙なく召れて護身頻なり。少し面痩させ給(たまひ)て、御目だゆげに見えさせ給け(有朋上P289)る御有様(おんありさま)は、
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漢李夫人の照陽殿の病の床に臥たりけんも、角やとぞ人申ける。新(しん)大納言(だいなごん)父子、并(ならびに)俊寛康頼等が霊共とて、御物付に移て様々に申事共有けり。生霊死霊軽からず、おどろ/\しくぞ聞えける。係ければ丹波(たんばの)少将(せうしやう)可(レ)被(二)召返(一)由定にけり。宰相聞給(たまひ)ては、心の中の嬉さ、たゞ可(二)推量(一)。北方は猶も誠とも思給はざりけるにや、臥沈給けるぞ糸惜き。七月上旬に丹波(たんばの)少将(せうしやう)召返とて、六波羅より使あり、入道の侍に、丹左衛門尉基安と云者也。宰相の許よりも、私の使を相添られたり。漫々たる万里の波、浦々島々漕過つゝ、心は強に急げども、満来塩に沂吹立浪も荒して、海上に日数を経、八月下旬に薩摩の地に着く。九月上旬にぞ硫黄島には渡ける。さても此人々、日比露の命の消ざれば、さすが憂身の有程は、朝な夕なの渡居を、さばくる者もなければ、何習たるにはあらね共、手自営けるぞ無慙なる。少将山に入て爪木を拾、朝には康頼沢に出て根芹をつみ、俊寛谷に下て水を結、夕には少将浦に行て藻をかきけり。僧俗の品もなく、上下の礼も乱つゝ、賄けるぞ糸惜。角て春過夏闌ても、思を故郷に馳、年を送り月を迎ても悲を旧里に残す。月日の数も積ければ、島の者共のいふ言も、各聞知給けり。彼等も此人々の言をも自聞知奉る物語(ものがたり)の次に島の者共が申けるは、此御棲より五十余町を去て一の離山あり、峯高し(有朋上P290)て谷深し、其名を鸞岳と云。彼岳には夷三郎殿と申神を奉(レ)祝、岩殿と名付たり、此島に猛火俄(にはか)に燃出て、殊に熱たへ難時は、様々の供物を捧て祈祭れば、火静風のどかに吹て、自安堵すとぞ語りける。少将これを聞て、係る猛火の山、鬼の住所にも、神と云事の侍にこそと
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宣ば、康頼答けるは、申にや及侍る、炎魔王界と申は、地の下五百由旬にあり、鬼類の栖として、猛火の中に侍、其にだにも十王とも申、十神共名付て、十体の神床を並て住給へり。況や此島は扶桑神国の内の島なれば、夷三郎殿もなどか住給はざらん。抑性照三十三度、熊野参詣の宿願有りて、十八度までは参て、今十五度を残せり。当来得道の為に、岩殿の御前にて果さばやと存、露の命もながらへば、都還をも祈らんと思なり。大神も小神も屈請の砌(みぎり)に影向し、権者も実者も渇仰の前に顕現じ給ふ事なれば、権現も定て御納受(ごなふじゆ)有べし、同心あらば然べし、各いかゞ思食(おぼしめす)と云ければ、少将成経はやがて入道を先達として可(レ)詣とぞ悦給ける。俊寛の云けるは、日本は神国也、天開け地竪り、国興り人定て後、光を高間原に和げ、跡をあらかねの地に垂給ふ、大小の神祇三千七百(さんぜんしちひやく)余所也、多は九成正覚の如来(によらい)大悲闡提菩薩也、又吉備大臣神明の数を注たりけるには、上には一万三千、下は粟三石が員といへり。其名帳の中に、硫黄島の岩殿と云神よもあらじ、就(レ)中(なかんづく)(有朋上P291)後生菩提の為ならば、乃至十念若不生者不取正覚と誓給へり、弥陀念仏をも唱べし。都還の祈ならば、現世安穏後生善処とも説、病即消滅不老不死とも演給へり。遠流の罪に行れて、日積歎に悲も、是又病に非や、されば法華経(ほけきやう)もよみ給べし、凡神明には権実の二御座。権者の神と申は、法性真如の都より出て、分段同居の塵に交り、愚痴の衆生に縁を結給。実者の神と申は、悪霊死霊等の顕出て、衆生に崇をなす者也。彼を礼し敬は、永劫悪趣に沈故に、或文に云、一瞻一礼諸神祇、正受蛇身五百度、現世福
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報更不来、後生必堕三悪道と見えたり。されば漢朝に霊験無双の社あり、人崇(レ)之牛羊の肉を以て祭けり、其神体を尋れば、古釜にて有りけるとかや。一人の禅師来て、釜を扣て云、神何の処より来れるぞ、霊何の処にか有と云て、さながら打砕て捨けり。禅師角して帰時、青衣の俗人現て、冠を傾け僧を礼云、我こゝにして多苦患を受き、而に禅師今無生の法をとき給ふ、吾聴聞して忽に業苦を離れて、天に生ずる事を得たり、其恩報じ難しと云て、忽然として失にけり。されば我等(われら)が身には、今生の事更に不(レ)可(レ)思、偏に後世の苦をまぬかるゝ方便をこそ、あらまほしく侍れ。神明と申は、権者の神も、仏菩薩の化現として、仮に下給へる垂跡(すいしやく)也、直に本地の風光を尋て、出離の道に入給べし。其に念仏を憑て、往生を期し(有朋上P292)給はば、行往坐臥念々歩々、口に名号を唱へ、心に極楽を念て、臨終の来迎を待給べし。聖道の修行ならば、凡聖元より二なし。自身の外に仏を不(レ)可(レ)求、邪正自一如也、自土の外に浄土(じやうど)なし。三界一心と知ぬれば、地獄天宮外になし。心仏衆生一体と悟ぬれば、始覚本覚身を離れず、自性の本仏、もとより己身に備と観ずれば、無窮の聖応、響の声に応ずるが如し。生死断絶の観門、出過語言の要路也。達磨西来の、直指見性成仏(じやうぶつ)の秘術、皆自身の宝蔵を開にあり、神明外になし、只我等(われら)が一念也、垂跡(すいしやく)也に非、専自己の本宮にありなんと、たふ/\と云散す処に、此島の習なれば、暴風俄(にはか)に吹て地震忽に起、山岳傾崩て、石巌海に入、其時古詞を詠じけり。
岸崩殺(レ)魚其岸未(レ)受(レ)苦、 風起供(レ)花其風豈成(レ)仏。
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崩れつる岸も我身もなき物ぞ有と思ふは夢に夢みる K053
詠じて、只仏法を修行して、今度生死を出給べし、但我立杣の地主権現、日吉詣ならば、伴なん、熊野の神は中悪とて不(レ)与けり。康頼申けるは、教訓の趣は、誠に貴く侍り、尤甘心し奉る。但仏教の中に、神の御事希也と申せども、以離るべきに非。其故は、末世の我等(われら)が為には、後の世を欣はん事も必神明に奉(レ)祈べしと見えたり。釈尊入滅の後二千(有朋上P293)余年、天竺を去事数万里也、僅(わづか)に聖教渡るといへ共、正像既過ぬれば、行する人も難く其験も希也。是以て諸仏菩薩の慈悲の余に、我等(われら)悪世無仏の境に生て、浮期無らん事を哀て、新道と垂跡(すいしやく)して、悪魔を随仏教を守、賞罰を顕し信心を起し給ふ、是則利生方便の懇なるより始れり、是を和尚同塵(どうぢん)の利益と名たり。我国の有様(ありさま)を見に、神明の御助なくば、争人民を安し、国土も穏からん。小国辺土の境なれば、国の力も弱く、末世独悪の此比なれば、人の心も愚也、隠ては天魔の為になやまされ、顕ては、大国の王にあなづらる、縦仏法渡給とも、魔障強は独世の今ひろまり難し、天竺は南州の最中にて、仏出世し給し国なれども、像法の末より、諸天の擁護漸衰へて、仏法亡給しが如。然を我国は、伊弉諾、伊弉冊尊より、百王の今に至まで、始終神国として、加護他に異也、剰神功皇后(じんぐうくわうごう)の古へは、新羅、高麗、支那、百済なんど申て、勢(いきほ)ひ大なる国をも随て、五独乱漫の今までも、大乗広まり給へり。若国に逆臣あれば、月日を不(レ)廻亡(レ)之、若天魔仏法を妨れば、鬼王と成て対治し給。依(レ)之(これによつて)仏法も王法も不(レ)衰、土民も国土も穏也。公の御為には高き
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大神と顕れ、民の為には賤き小神と示す、智者の前には本地を明にし、邪見の家には垂迹を現す、後世を不(レ)知輩も、猶祈て歩を運ぶ、因果に暗き人も又罰を恐て奉(レ)仰、神明顕給は(有朋上P294)ずは、何に依てか露計も、仏法に縁を結奉らん、化度利生の構は彼榊幣より始かたくる、きねが鼓の音までも、開示悟入の善巧は、哀に忝(かたじけな)き御事也。故に為度衆生故、示現大明神(だいみやうじん)とも説、和光(わくわう)同塵(どうぢん)は結縁の始とも釈せり。現世の望をこそ仮の方便とかろしめ給ども、生死を祈らん為には、争済度の本懐を顕し給はざらん。民なくは君ひとり公たらんや、神なくは法独法たらんや。是を以て薬師(やくし)の十二神将(じふにじんじやう)、千手の廿八部衆、般若の十六善神、法花の十羅刹女、皆是神法を守り、法神に持たれたり。
S0906 康頼熊野詣附祝言事
誘給へ少将殿とて、精進潔斎して、熊野詣と准て岩殿へこそ参けれ。俊寛は詞計は云散たりけれども、法華を読己身を観ずる事もなく、日吉詣もせざりけり。唯歎臥たる計にて、聊も所作はなかりけり。少将と入道とは、岩殿に参拝して、熊野権現と思なぞらへて、証誠殿と申は本地は弥陀如来(みだによらい)、悲願至て深ければ、十悪五逆も捨給はず、垂迹権現は利生方便の霊神也、遠近尊卑にも恵を施し給へば、両人御前に跪き、南無日本第一、大霊験三所権現、和光(わくわう)の利益本誓に違ず、我等(われら)が至心の誠を照覧し給(たまひ)て、清盛(きよもり)入道の悪心(有朋上P295)を和げ、必都へ還し入給へと、祈誓しけるぞ哀なる。結願の日に成りけるに、康頼入道、社壇の御前にて、歌をうたひて、法楽に備けり。
白露は月の光にて、黄土うるほす化あり、権現舟に棹さして、向の岸によする波 K054
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と、未謡も果ざるに、三所権現となぞらへ祝ひ奉る、何も常葉の榊の葉に、冷風吹来動揺する事良久。入道是を拝しつゝ、感涙を押へて、一首の歌をぞ読ける。
神風や祈る心の清ければ思ひの雲を吹やはらはん K055
少将も泣々(なくなく)十五度の願満ぬとて、
流よる硫黄が島のもしほ草いつか熊野に廻出べき K056
さて少将立あがりて入道を七度まで拝給ふ。性照驚、是は何事にかと申ければ、入道殿(にふだうどの)のすゝめに依て、先達に奉(レ)憑、十五度の参詣已畢候ぬ、神明の御影向も厳重に御座(おはしま)せば、再都へ帰らん事疑なし、さらば併御恩なるべし、生々世々争か忘れ奉べきとて、声も不(レ)惜泣れけり。性照も己と我を拝み神として、効験を現し給へば、絞る計の袖也けり。其後康頼入道は小竹を切てくしとし、浦のはまゆふを御幣に挟み、蒐草と云草を四手に垂、清き砂を散供として、名句祭文を読上て、一時祝を申けり。(有朋上P296)
謹請再拝再拝、維当歳次、治承二年戊戌、月の並十二月、日数三百五十四箇日、八月廿八日、神已来、吉日良辰撰、掛忝日本第一大霊験熊野三所権現、并(ならびに)飛滝大薩■[*土+垂](だいさつた)、交量うつの弘前、信心大施主、羽林藤原成経、沙弥性照、致(二)清浄之誠(一)、抽(二)懇念之志(一)、謹以敬白、夫証誠大菩薩(だいぼさつ)者、済度苦海之教主、三身円満之覚王也、両所権現者、又或南方補堕落能化之主、入重玄門之大士、或東方
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浄瑠璃医王之尊、衆病悉除之如来(によらい)也、若一王子者、娑婆世界之本主(ほんしゆ)、施無畏者之大士、現(二)頂上之仏面(一)、満(二)衆生之所願(一)給へり。云(レ)彼云(レ)此、同出(二)法性真如之都(一)、従(レ)入(二)和尚同塵(どうぢん)之道(一)以来、神通自在而、誘(二)難化之衆生(一)、善巧方便而、成(二)無辺之利益(一)、依(レ)之(これによつて)自(二)上一人(一)、至(二)下万民(一)、朝結(二)浄水(一)係(レ)肩、洗(二)煩悩之垢(一)、夕向(二)深山(一)、運(二)歩近常楽之地(一)、峨々峯高、准(二)是於信徳之高(一)、分(レ)雲登、嶮々谷深、准(二)是於弘誓之深(一)、凌(レ)露下、爰不(レ)憑(二)利益之地(一)者、誰運(二)歩於嶮難之道(一)、不(レ)仰(二)権現之徳(一)者、何尽(二)志於遼遠之境(一)、然則証誠大権現、飛滝大薩■[*土+垂](さつた)、慈悲御眼並、牡鹿之御耳振立、知(二)見無二之丹精(一)、納(二)受専一之懇志(一)、現止(二)成経性照遠流之苦(一)、早返(二)付旧城之故郷(一)、当改(二)人間有為妄執之迷(一)、速令(レ)証(二)新成之妙理(一)而已、抑又十二所権現者、随類応現之願、本迹済度之誓、為(レ)導(二)有縁之衆生(一)救(二)無怙之群情(上)、捨(二)七宝荘厳之栖(一)、卜(二)居於三山十二之(有朋上P297)籬(一)、和(二)八万四千(はちまんしせん)之光(一)、同(二)形於六道三有之塵(一)、故現定業能転衆病悉除之誓約有(レ)憑、当来迎引接必得往生之本願無(レ)疑、是以貴賤列(二)礼拝之袖(一)、男女運(二)帰敬之歩(一)、漫々深海、洗(二)罪障之垢(一)、重々高峯、仰(二)懺悔之風(一)、調(二)戒律乗急之心(一)、重(二)柔和忍辱之衣(一)、捧(二)覚道之花(一)、動(二)神殿之床(一)、澄(二)信心之水(一)、湛(二)利生之池(一)、神明垂(二)納受(なふじゆ)(一)、我等(われら)成(二)所願(一)乎、仰願十二所権現、伏乞三所垂跡(すいしやく)、早並(二)利生之翅(一)、凌(二)左遷海中之波(一)、速施(二)和光(わくわう)之恵(一)、照(二)帰洛故郷之窓(一)、弟子不(レ)堪(二)愁歎(一)、神明知見証明、敬白再拝再拝と読上て、互に浄衣の袖をぞ絞ける。さらぬだに尾上の風は烈きに、暮行秋の山下風、痛身にしむ心地
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して、叢に鳴虫の音も、古里人を恋るかと、最物哀也けるに、峯吹嵐に誘れて、木葉乱て落散けり。其中に最怪き葉二飛来て、一は成経の前、一は性照が前にあり。康頼入道の前に落たる葉には、帰雁と云二文字を、虫食にせり。少将前の葉には、二と云ふ文字を虫食へり。二の木葉を取合て読連れば、帰雁二と有。二人取かはし/\、読ては、打うなづき/\して、奇や何なれば、帰雁二と有やらん、三人同流されて、誰一人漏べきやらん■(おぼつか)な、但信心参詣の志、権現争か御納受(ごなふじゆ)なからんなれば、神明の御計にて、我等(われら)二人は被(二)召返(一)て、執行など残し置るべきやらん、又何れもるべきぞやと、共に安心(有朋上P298)なし。係程(ほど)に又楢葉の広かりける、何くよりとも知ず飛来て、康頼入道の膝の上にぞ留りたる。取てみれば歌なり。
■振(ちはやふる)神に祈のしげければなどか都に帰らざるべき K057
是を見給けるにこそ、二の帰雁と有けるは、成経性照二人とは思定て嬉けれ。二人互に目を見合て、責の事には、これを若夢にやあらんと語けるこそ哀なれ。今日を限の参詣也とて、少将も康頼も、御名残(おんなごり)を奉(レ)惜て、去夜は是に留て、通夜法施を奉(二)手向(一)。暁方に康頼歌をうたひ、其終りに足柄を歌て、礼奠にそなへ奉る。さてちと、まどろみたりける夢の中に、海上を見渡せば、沖の方より白帆係たる小船一艘浪に引れて渚による。中の紅の袴著たる女房三人舟より上りて、鼓を脇に挟みつゝ、拍子を打て、足柄に歌を合歌たり。
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諸の仏の願よりも、千手の誓は頼もしや、枯たる木草も忽に、花咲実なるとこそ聞 K058
と、三人声を一にして二返までこそ歌ひけれ。渚白女房達、舟にのらんとて汀(みぎは)の方に下けり。少将も康頼も名残(なごり)惜覚つゝ、遥(はるか)に是を見送れば、女房立帰つゝ、人々の都帰も近ければ名残(なごり)を慕て来れりとて、掻消様に水の中へぞ入にける。夢覚て後是を思へば、三所権現の御影向歟、西御前と申は、千手の垂跡(すいしやく)に御座(おはしま)せば、■振(ちはやふる)玉の簾を巻揚て、足柄(有朋上P299)の歌を感ぜさせ給けるにこそ、さらずは又廿八部衆の内に、竜神(りゆうじん)の守護して海中より来給へる歟、夢も現も憑しくて、二人は終に帰上にけり。俊寛此事を後悔して、独歎悲めども、甲斐ぞなき。さても二人の人々は、新く用べき浄衣もこり払もなければ、都より著ならしたる古き衣を濯て、新しがほに翫しつゝ、藁履はゞきもなかりければ、ひたすら跣にてさゝれけり。人も通はぬ海の耳、鳥だに音せぬ山のそはを、泣々(なくなく)打列御座(おはしまし)けん、心の内こそ糸惜けれ。手にたらひ身にこたへたる態とては、入江の塩にかくこり、沢辺の水にすゝぐ口、立ても居ても朝夕は、南無懺悔、至心懺悔、六根罪障と、宿罪を悔、寝ても覚ても心に心を誡て、三帰五戒(ごかい)を守つゝ、半日に不(レ)足道なれども、同所を往還々々、日数を経こそ哀なれ。峨々たる山をさす時は、高峯岩角蹈迷、塩風寒浪間の水何度足を濡らん、霞籠たるそばの道、柴折を注に過られけり。浦路浜路に赴てさびしき処をさす時は、和歌、吹上、玉津島、千里の浜と思なし、山陰(やまかげ)木影に懸つゝ、嶮所を過には、鹿瀬、蕪坂、重点、高原、滝尻と志し、石巌四面に高して、青苔上に厚くむし、万木
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枝を交つゝ、旧草道を閉塞ぐ。谷河渡る時もあり、高峯を伝折もあり。岩田川によそへては、煩悩の垢を洗、発心門に准ては、菩提の岸にや至るらん。近津井、湯河、音無の滝、飛滝権現(有朋上P300)に至まで、和光(わくわう)の誓を憑つゝ、いはのはざま苔の筵、杉の村立、常葉の松、神の恵の青榊、八千代を契る浜椿、心にかゝり目に及、さもと覚る処をば、窪津王子より、八十余所に御座王子々々と拝つゝ、榊幣挟れたる心の内こそ哀れなれ。奉幣御神楽なんどこそ、力無れば不(レ)叶と、王子々々の御前にて、馴子舞計をばつかまつらる。康頼は洛中無双の舞也けり。魍魎鬼神もとらけ、善神護法もめで給計なりければ、昔今の事思ひ出で、
さまも心も替かな、落る涙は滝の水、妙法蓮華の池と成、弘誓舟に竿指て、沈む我等(われら)をのせたまへ K059
と、舞澄して泣ければ、少将も諸共に、涙をぞ流しける。日数漸重て、参詣己に満ければ、殊に今日は神御名残(おんなごり)も惜、何もあらまほしくぞ思はれける。一心を凝し、抽(二)丹誠(一)、彼岩殿の前に、常木三本折立て、三所権現の御影向と礼拝重尊し奉る。其御前にて性照申けるは、三十三度の参詣已に結願しぬ、今日は暇給(たまひ)て黒目に下向し侍べければ、身の能施て、法楽に奉らん、我身の能には、今様こそ、第一と思侍れとて、神祇巻に二の内、
仏の方便也ければ、神祇の威光たのもしや、扣ば必響あり、仰ば定て花ぞさく K060(有朋上P301)
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と、三返是を歌ひつゝ、先は証誠殿に手向奉り、二度三度は結早玉に奉るとて、心を澄して歌ければ、権現も岩殿もさこそ哀におぼしけめ、神明遠に非、只志の内にあり、熊野の山は、一千五百の遠峯、硫黄島は西海はるかの浪の末、信心浄くすみければ、和光(わくわう)の月も移けり。帰雁二とあれば赦免一定なるべし。秋此島に遷れて、春都へ帰べきにこそと、憑しく覚る、中にも三人の女房の、都還の名残(なごり)こそ思合て嬉けれ。
< 陸奥国に有りける者、毎年参詣の願を発て、年久く参たりけるが、山川遠く隔て、日数を経国に下り著て、穴苦し、ゆゝしき大事也けりとて、休み臥たりけるに、権現夢の中に御託宣(ごたくせん)あり。
道遠し程も遥(はるか)にへだたれり、思ひおこせよ我も忘れじ K061 と、深志権現争か御納受(ごなふじゆ)なからんと覚えたり。>
彼寛平法皇の御修業、花山院の那智籠、捨身の行とは申しながら、労しかりし御事也。況我等(われら)が身として、歎くにたらぬ物なれ共(ども)、理忘るゝ涙なれば、袖のしがらみ解けやらず、係るうき島の習にも、自慰便もやとて、少将は蜑の女に契を結び給(たまひ)て、御子一人出来給(たま)ひけり。後はいかゞ成りにけん、そも不(レ)知。夫婦の中の契は、うかりし宿世と云ながら、最哀なりし事共也。
二人の人々は、岩殿の御前を立ち、悦の道に成、切目の王子の水■(なぎの)葉を、(有朋上P302)稲荷の社の杉の枝に賜、重て黒目につくと思て、険山路を下りつゝ、遥(はるか)の浦路に出にけり。折節(をりふし)日陰のどかにして、海上遠く晴渡り、五体に汗流て、信心肝に銘ければ、権現金剛童子の御影向ある心地せり。遥(はるか)に塩せの方を見渡ば、
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漫々たる浪の上に、怪物ぞゆられける。少将見(レ)之、やゝ入道殿(にふだうどの)、一年我等(われら)が漕来侍りし、舟路の浪間に、ゆられ来るは何やらんと問れければ、あれは澪の浮州の浪にたゞよひ侍るにこそと申。次第に近付をめかれもせず見給へば、舟也けり。端島の者共が、硫黄取に越るかと思程(ほど)に、近く漕よせ、舟の中に云音をきけば、さしも恋き都の人の声なり。穴無慙、何なる者の罪せられて、又此島にはなたるらん、思歎は身にも限らざりけりと思ながら、疾おりよかし、都の事をも尋聞んと思けるに、実に近付ば、今更やつれたる有様(ありさま)を見えん事の恥しさに、二人は磯を立退、木陰に忍て見給けり。舟こぎよせ急ぎおり、人々の忍方へぞ進ける。僧都(そうづ)は余りにくたびれて、只夜も昼も悲の涙に沈み、神仏にも祈らず、熊野詣にも伴はず、岩のはざま苔の上に倒れ臥して居たりけるが、都の人の声を聞起あがれり。草木の葉を結集て著たりければ、■(おどろ)を戴ける蓑虫に似たり。頭は白髪長く生のびて、銀の針を研立たる様也。見もうたてく恐し。二人の居たりける処へ進来れり。六波羅の使近付寄て、是は丹(有朋上P303)左衛門尉基安と申者に侍、六波羅殿(ろくはらどの)より赦免の御教書候、丹波少将殿(たんばのせうしやうどの)に進上せんと云。人々余(あまり)の嬉さに、只夢の心地ぞせられける。成経是に侍りとて出合れたり。基安立文二通取出て進る。一通は平宰相(へいざいしやう)の私の消息(せうそく)也。少将ばかり見(レ)之。一通は太政(だいじやう)入道(にふだう)の免状也。判官入道披(レ)之読に云、
依(二)中宮御産御祈祷(ごきたう)(一)、被(レ)行(二)非常大赦(一)之内、薩摩方硫黄島流人丹波(たんばの)少将(せうしやう)成経(なりつね)、并(ならびに)平判官康頼法師可(二)帰洛(一)之由、御気色(おんきしよく)所(レ)候也、仍執達如(レ)件
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七月三日とはありけれども、俊寛僧都(そうづ)といふ四の文字こそなかりけれ。執行は御教書とりあげて、ひろげつ巻つ、巻つ披つ、千度百度しけれども、かゝねばなじかは有るべきなれば、やがて伏倒、絶入けるこそ無慙なれ。良有起あがりては、血の涙をぞ流しける。血の涙と申は、涙くだりて声なき血と云といへり。言は出さざりけれ共、落る涙は泉の如し。理や争かなからざらん。三人同罪にて、同島へ流されたるに、死なば一所に死に、還らば同く帰べきに、二人は召かへされて僧都(そうづ)一人留るべしとは思やはよりける、誠に悲くぞ思けん、遥(はるか)に久有て宣(のたまひ)けるは、年比日比は、三人互に相伴、昔今の物語(ものがたり)をもして慰つるすら、猶(有朋上P304)忍かねたりき。今人々に打捨られ奉なば、一日片時いかにして堪過すべき。但三人同罪とて、同島に遷されたる者が、二人は免されて俊寛一人留めらるゝ、誠共覚えず、さらでは又別の咎もなき物をや、是は一定執筆の誤と覚たり。若又平家の思召(おぼしめし)忘給へるかや、執申者の無りけるかや、余も苦しからじ、唯各相具して登給へ、若御免されもなき物を具足し上たりとて御とがめあらば、又も此島へ被(二)流返(一)よかし、其は怨にもあらじ、今一度古郷に帰上、恋き物共をも見ならば、積る妄念をも晴ぞかしと口説けり。少将も判官入道も被(レ)申けるは、さこそ思給らめなれども、御教書に漏たる人を具足せんも恐あり、同罪とて同所に被(レ)流ぬれば、咎の軽重あらじかし、中宮の御産に取紛れて、執筆の誤にてもあるらん、又平家の思忘たる事にも有らん、今は我等(われら)道広き身と成ぬ、僧都(そうづ)の赦免に漏て
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歎悲み給し事不便也、被(二)召返(一)たらば、目出(めでた)き、御祈祷(ごきたう)たるべき由、内外に付て申さば、などか御計なからん、其までの命をこそ神にも仏にも祈り申されめ、更に不(レ)可(レ)有(二)疎略(一)なんど様々に誘慰けり。僧都(そうづ)は、日来の歎は思へば物の数ならず、古郷の恋しき事も、此島の悲き事も、三人語て泣つ笑つすればこそ、慰便とも成りつれ、其猶忍かねては憂音をのみこそ泣つるに、打捨て上給なん跡のつれづれ、兼て思にいかゞせ(有朋上P305)ん、さて三年の契絶はてて、独留て帰上り給はんずるにや、穴名残(なごり)惜や/\とて、二人が袂(たもと)をひかへつゝ、声も惜ずをめきけり。理や旅行一匹の雨に、一樹の下に休み、往還上下の人、一河の流を渡れども、過別るれば名残(なごり)惜く、風月詩歌の一旦の友、管絃遊宴の片時の語ひ、立去折は忍難くこそ覚ゆれ、況やうき島の有様(ありさま)とは云ながら、さすが三年の名残(なごり)なれば、今を限の別也、いかに悲く思らんと、打量りては無慙なれども、縦恋路の迷人も、我身に増るものやあると云けんためしなれば、執行をば打捨て、少将も判官入道も急ぎけるこそ悲けれ。判官入道は本尊持経を形見に留む。少将は夜の衾を残し置、風よく侍とて水手等とく/\と進ければ、僧都(そうづ)に暇乞船にのり、纜を解て漕出けり。責の事に、僧都(そうづ)は、漕行舟の舷に取付て、一町余出たれども、満塩口に入ければ、さすがに命や惜かりけん、渚に帰て倒れ臥、足ずりをしてをめきけり。稚子の母に慕て泣かなしむが如也。彼喚叫音の、遥々(はるばる)と波間を分て聞えければ、誠にさこそ思らめと、少将も康頼も、涙にくれて、漕行空も、見えざりけり。僧都(そうづ)は千尋の底に沈まばやとは思けれ共、此人々の都に帰上て、不便の様をも
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申て、などか御免も無るべきと、宥云ける憑なきことのはを憑て、それまでの命ぞ惜かりける。漕行船の癖なれば、浪に隠れて跡形はなけれ(有朋上P306)挿絵(有朋上P307)挿絵(有朋上P308)共、責の別の悲さに、遥々(はるばる)沖を見送て、跡なき舟を慕けり。昔大伴の狭手彦が遣唐使にさゝれて、肥前国松浦方より舟にのり、漕出たりけるに、夫の別を慕つゝ、松浦さよ姫が、領巾麾の嶺に上りて、唐舟を招つゝ、悶焦けんも、又角やと覚て哀也。日も既暮けれ共、僧都(そうづ)はあやしの伏戸へも帰ず、天に仰ぎ地に臥、首を扣き胸を打、喚叫ければ、五体より血の汗流て、身は紅にぞ成にける。只磯にひれふし、浪にうたれ露にしをれて、虫と共に泣明しけり。昔天竺に、早利即利と云し者、継母に悪れて、海岸山に捨られつゝ、遥(はるか)の島に二人居て、泣悲けん有様(ありさま)も、角やとぞ覚ゆる。彼は兄弟二人也、猶慰事も有けん、是は俊覚一人也、さこそは悲く思けめ。さても庵に帰りたれ共、友なき宿を守て、事問者も無れば、昨日までは三人同く歎きしに、今日は一人留りて、いとゞ思の深なれば、角ぞ思つゞけける。
見せばやな我を思はん友もがな磯のとまやの柴の庵を K062
少将は九月中旬に島を出て、心は強に急けれども、海路の習也ければ、波風荒くして日数を過、同廿日余にぞ九国の地へは著給ふ。肥前国鹿瀬庄は、私には味木庄とも云ひけり。件の所は舅平宰相(へいざいしやう)の知行也。爰(ここ)に暫く逗留して、日来のつかれをもいたはり給へ(有朋上P309)り。湯沐髪すゝぎなどせられければ、冬も深く成て、年も既(すで)に暮、治承も三年に成りにけり。(有朋上P310)
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十
P0226 (有朋上P311)
奴巻 第十
S1001 中宮御産事
治承二年十一月十二日寅時より、中宮御産の気御座と■(ののしり)けり。去月廿七日より、時々其御気御座(おはしまし)けれ共、取立たる御事はなかりつるに、今は隙なく取頻らせ給へども、御産ならず。二位殿(にゐどの)心苦く思給(たまひ)て、一条堀川(ほりかは)戻橋にて、橋より東の爪に車を立させ給(たまひ)て、橋占をぞ問給ふ。十四五計の禿なる童部(わらんべ)の十二人、西より東へ向て走けるが、手を扣同音に、榻は何榻国王榻、八重の塩路の波の寄榻と、四五返うたひて橋を渡、東を差て飛が如して失にけり。二位殿(にゐどの)帰給(たまひ)て、せうと平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)に角と被(レ)仰ければ、波のよせ榻こそ心に候はねども、国王榻と侍れば、王子にて御座(おはしまし)候べし。目出(めでた)き御占にこそ候へとぞ合たる。八歳にて壇浦の海に沈み給(たまひ)てこそ、八重の塩路の波の寄榻も思ひしられ給(たま)ひけれ。
< 一条戻橋と云は、昔安部晴明が天文の淵源を極て、十二神将(じふにじんじやう)を仕にけるが、其妻職神の貌に畏ければ、彼十二神を橋の下に咒し置て、用事の時は召仕けり。是にて吉凶の橋占を尋問ば、必ず職神(有朋上P312)人の口に移りて善悪を示すと申す。されば十二人の童部(わらんべ)とは、十二神将(じふにじんじやう)の化現なるべし。>
御産未(レ)成とて、平家の一門は不(レ)及(レ)申、関白(くわんばく)以下公卿殿上人(てんじやうびと)馳参給けり。法皇も西面の北の門より御幸あり。御験者には、房覚昌雲、両僧正(そうじやう)、俊堯法印、豪禅、実全両僧都(そうづ)なり。其上法皇も内々は御祈(おんいのり)有けり。
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内大臣(ないだいじん)は例の吉事にも悪事にも強に騒給事御座ざりければ、少し日闌て公達引具し参給へり。最のどろかにぞ見え給ける。権亮少将維盛、左中将清経、越前侍従資盛など、遣列給へり。御馬十二匹に四手付て被(二)引立(一)たり。神馬の料と見えたり。砂金千両、南鐐百、御剣七振、広蓋に入て、御衣二十領、相具せられたり。誠にきら/\しくぞ見えける。大治二年九月十一日、待賢門院御産の時、重科の者、五十三人被(二)寛宥(一)、其例とて、今度七十三人宥されけり。内裏より御使隙なし。右中将通親、左中将泰通、右少将隆房、通資等の朝臣、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)経仲、蔵人所々衆、滝口等、各二三返づつ馳違馳違参けり。承暦三年に皇子御誕生(ごたんじやう)の時には、殿上人(てんじやうびと)寮の御馬に召けり。今度は車にてぞ被(レ)参ける。八幡、平野、日吉社へ可(レ)有(二)行啓(一)之由、御願(ごぐわん)あり。全玄法印是を啓白す。凡神社に被(レ)立(二)御願(ごぐわん)(一)事は、石清水、賀茂社より始て、新西宮(にしのみや)、東光寺に至るまで四十一箇所、仏寺には、東大寺(とうだいじ)、興福寺(こうぶくじ)より、常光院、円明院まで、七十四箇処の御誦経(有朋上P313)あり。御神馬を引るゝ事、大神宮、石清水より、厳島までに八社と聞ゆ。小松(こまつの)内大臣(ないだいじん)御馬を進せらる。父子の儀なれば、可(レ)然、寛弘に上東門院御産の時、御堂関白(みだうくわんばく)の御馬を進られし、其例に相叶へり。五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱卿(くにつなのきやう)の馬二匹進られたりし、志の至りとは云ながら、徳の余りか、不(レ)可(レ)然とぞ人々傾申ける。又仁和寺(にんわじ)守覚(しゆうかく)法親王(ほふしんわう)、孔雀経の御修法、天台座主(てんだいざす)寛快法親王(ほふしんわう)、七仏薬師(しちぶつやくし)の法、寺長吏円恵(ゑんけい)法親王(ほふしんわう)、金剛童子法、此外諸寺諸山の、名徳知法の仁に仰て、大法秘法数を尽されけり。五大虚空蔵、六観音、一字金輪、五壇法、六字訶梨帝、八字文殊普賢
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延命大熾盛光等に至るまで残所なし。仏師法印召れて、等身の七仏薬師(しちぶつやくし)、并(ならびに)五大尊の像造立せらる。御誦経物には御剣御衣、諸寺諸社へ被(レ)進。御使は宮の侍の中に有官の輩勤(レ)之。平文の狩衣に帯剣したる者共の、御剣御衣を始として、色々の御誦経物を捧て、東の対より南庭を渡て、中門を持つれたる有様(ありさま)は、ゆゝしき見物にてぞ有ける。二位殿(にゐどの)と入道殿(にふだうどの)とは、つや/\物も覚ずげにて、人の物申しけれ共、あきれ給(たまひ)て、只兎(と)も角(かく)も能様にとのみ宣。さり共鎧打著て馬にのり、敵の陣に押寄て、軍のおきてし給はんには、角はよも臆し給はじとぞ、上下思申ける。新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)、法性寺執行俊寛、西光(さいくわう)法師(ほふし)等(ら)が霊共、御物付に移て、様々に申事ども有て、御産も不(レ)成と申(有朋上P314)ければ、入道二位殿(にゐどの)共に弥魂を消、心を砕給へり。係ければ、様々御願(ごぐわん)を立られけれ共、其験なくして、遥(はるか)に時刻押移ければ、御験者面々に増伽の句共あげて、我(わが)寺々の三宝年来所持の本尊責伏奉ければ、振鈴(しんれい)の声大内に満、護摩の煙虚空にあがる。いかなる悪霊邪神も、争か障碍を成べきとぞ見えし。諸僧の心中推量られて貴かりけるに、猶其効見えざりけり。法皇御几帳近く居寄らせ御座(おはしま)して、千手経をぞあそばしける。余(あまり)の忝(かたじけな)さに、身毛竪涙を流す人も有けり。躍り狂ふ御よりましの縛共も、少し打しめりたり。勅定には、何なる御物気也とも、老法師かくて侍らんには争か可(レ)奉(二)近付(一)、我聞阿遮一睨の窓の前には、鬼神手を束て降を乞、多齢三啜の床上には、魔軍頭を振て恐を成と、況観音無畏の利益をや、千手神咒の効験をや。而今顕るゝ処の怨霊と云は、成親俊寛西光等也、皆朕が依(二)朝恩(一)官位俸禄に預し
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輩に非や。縦報謝の心こそ存ぜざらめ、豈障碍を成に及ばんや。其事不(レ)可(レ)然、速に罷退き侍れと被(レ)仰、女人臨難生産時邪魔遮障苦難忍至心称誦大悲咒鬼神退散安楽生と貴くあそばして、御念珠さらさらと押揉せ御座(おはしまし)ければ、御産安々と成せ給にけり。頭(とうの)中将(ちゆうじやう)重衡朝臣、其時は中宮亮にて御座(おはしまし)けるが、簾中より出給(たまひ)て、御産平安皇子御誕生(ごたんじやう)と高らかに申されたりければ、入道殿(にふだうどの)二位殿(にゐどの)は、余(あまり)の(有朋上P315)嬉さに声を上てぞ泣れける。忌々しくぞ聞えし。関白殿(くわんばくどの)以下、太政大臣(だいじやうだいじん)已下堂上堂下の人々、一同にあと宣合れける声のどよみにて有ければ、門外まで聞えてけしからずぞ覚えし。小松大臣は蒔絵の細太刀鴎尻に佩給、金銭九十九文御枕の上に置て、天を以て父とし地を以て母とすと奉(レ)祈けり。即御臍の緒を奉(レ)切て囲碁手に銭被(レ)出たり。弁靱負佐是をうつ、是又例ある事にや。故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)の御妹、あの御方懐あげ奉る。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)の、北方師典侍殿、御乳付に参給へり。此女房は中山中納言顕房卿の女なり。法皇は新熊野へ御参詣有べきにて、兼て御車を門外に立させ給(たま)ひ、急ぎ御出有けり。即新熊野にて移花進せさせ給けり。入道殿(にふだうどの)より御文有とて捧(レ)之、披て叡覧あり、沙金千両、富士の綿千両の送文なり。御布施と覚たり。最便なくぞ有ける。法皇は彼送文を後さまへ投捨て、鳴呼験者しても、身一はすぐべかりけりと仰有けり。何者(なにもの)か立たりけん、新熊野にて法皇の御庵室の前に、札に書て、御験者の請用振は何日にて侍べきぞ、化行せしとぞ立たりける。最をかしかりけり。
代々の女御后の御産有しかども、太政法皇の御験者昔より未無(二)其例(一)、末代にも有難。当代の后宮に御座(おはしま)せ
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ば、父子の御心も浅からざりける上、太政(だいじやう)入道(にふだう)を重思召(おぼしめし)ける故也。故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)の女院渡せ御座(おはしま)さんには、角はよもあらじと人々(有朋上P316)申合れけり。御軽々敷御事をば免し進せられざりけるにや、陰陽頭助以下多参会して思々に占申けり。亥子の時と申者もあり、丑寅と占者もあり、又姫宮と勘申者も有けるに、陰陽頭安部泰親ばかりぞ御産唯今の時、皇子にて渡せ給ふべしと申ける。其詞の未(レ)終けるに、皇子御誕生(ごたんじやう)、指神子と申も理也。御悦申に被(レ)参ける人々には、
当時関白(くわんばく)松殿基房 太政大臣(だいじやうだいじん)師長 大炊御門左大臣経宗 九条右大臣兼実 小松(こまつの)内大臣(ないだいじん)重盛(しげもり) 徳大寺(とくだいじの)左大将実定 同弟左宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)実家 源大納言(だいなごん)定房 三条大納言(だいなごん)実房 五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱(くにつな) 藤大納言(だいなごん)実国 中御門中納言宗家 按察使資賢 花山院中納言兼雅 左衛門督時忠 藤(とう)中納言(ぢゆうなごん)資長 別当春宮(とうぐうの)大夫忠親(ただちか) 左兵衛督成範 右兵衛督(うひやうゑのかみ)頼盛(よりもり) 源(げん)中納言(ぢゆうなごん)雅頼 権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)実綱 皇太后宮(くわうたいごうぐうの)大夫朝方 門脇(かどわきの)平宰相(へいざいしやう)教盛 六角宰相家通 左宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)実宗 堀河宰相頼定 新(しん)宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)定範 左京大夫脩範 太宰大弐親信 左三位中将知盛 新三位中将実清 左大弁(さだいべん)俊綱(としつな) 右大弁長方
已上三十三人也。右大弁の外は直衣にて参給へり。不参の人々は、花山院前太政大臣(だいじやうだいじん)忠雅、前大納言(だいなごん)実長、両人は近年出仕なかりければ、唯布衣を著して太政(だいじやう)入道(にふだう)の宿所へ向はる。大宮大納言(だいなごん)隆季の第一の娘は、法性寺殿御子左三位中将兼房の室にて御座(おはしま)しけるが、去(有朋上P317)七日難産せられたりければ、隆季出仕し給はず、三位中将も出仕なし、不吉と存ぜられけるにや。又前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛は、去七月に室家
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逝去に依て無(二)出仕(一)。彼所労の時、大納言(だいなごん)并(ならびに)大将両官をば辞申されたりけり。前治部卿光隆、近衛殿(このゑどの)御子息(ごしそく)右二位中将基通、宮内卿永範、七条修理(しゆりの)大夫(だいぶ)信隆、所労、藤三位基家、大宮権大納言(ごんだいなごん)経盛所労、新三位隆輔、松殿御子息(ごしそく)、三位中将隆忠不参とぞ聞えし。
御修法結願して勧賞被(レ)行。仁和寺(にんわじ)の宮には、東寺を可(レ)被(二)修造(一)。法印覚成を以て権大僧都(ごんのだいそうづ)に被(レ)任。後七日の御修法、大元の法灌頂(くわんぢやう)等(ら)、可(レ)被(二)興行(一)と、座主宮には、以(二)法眼円良(一)、被(レ)叙(二)法印(一)。此両事、蔵人頭(くらんどのとう)皇太后宮(くわうたいごうぐう)権大夫光明朝臣奉て、被(二)仰下(一)けり。座主宮は、二品并(ならびに)牛車を申させ給けれ共無(二)御免(一)。仁和寺(にんわじ)宮聞召(きこしめし)て、御憤(おんいきどほり)深勧賞蒙しと申させ給けるとかや。
右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)の北方御帯進せ給たりしかば、御乳人と成給ふべかりしか共、七月に失給にければ、左衛門督時忠卿(ときただのきやう)の北方、御乳人に成給にけり。本は建春門院(けんしゆんもんゐん)に候はれけるが、皇子受禅の後、内侍典侍に成給(たまひ)て、師典侍殿とぞ申ける。抑此御産の時、様々の事共有けり。目出かりし事は、太上法皇の御加持、浅猿(あさまし)かりし事は太政(だいじやう)入道(にふだう)のあきれ様、忌々しかりし事は、入道と二位殿(にゐどの)と泣給へる事、優也し事は、小松大臣の有様(ありさま)、本意なかりし事は、右大将(うだいしやう)の篭居、あやしかり(有朋上P318)し事は、甑を北の御壺に落て、取上て、又南へ落直たりし事、皇子御誕生(ごたんじやう)には、南へこそ落すに、聞誤たりけるにや、希代の勝事とぞ私語(ささやき)ける。をかしかりし事は、陰陽頭安部時晴が、千度の御祓勤て大繖持て参けるが、左の履を蹈ぬかれて、其をとらん/\とする程(ほど)に、冠をさへ突落されたりけれ共、余(あまり)の怱々に周章(あわて)つゝ其をも知ら
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ず、花やかに装束したる者が、もとゞりはなちて、さばかりの御前へ、圧口に気色して出たりける事、さしもの御大事(おんだいじ)の中に、堂上堂下女方男方、腸を断けり。不(レ)堪者は閑処に逃入人もあり。建礼門院内へ参せ給(たまひ)て后に立せ給にければ、あはれ皇子御誕生(ごたんじやう)あれかし、位に即進せて、外祖父とて、弥世を手に杷らんと思心御座(おはしまし)ければ、二位殿(にゐどの)日吉社に立願を百日祈申されけれ共、其験なかりければ、入道は浄海が祈申さんに、などか不(レ)賜とて、本より奉(レ)憑事なれば、厳島へ月詣を始て、詣給けるに、いつしか二箇月に御懐妊の気御座(おはしまし)て、皇子御誕生(ごたんじやう)あり、掲焉也し効験也。
S1002 頼豪(らいがう)祈(二)出王子(一)事
白川院【*白河院】(しらかはのゐん)御位の時、后腹皇子渡せ給はざりければ、主上御心元なく思召(おぼしめし)、貴僧と聞召けれ(有朋上P319)ば、三井寺(みゐでら)の実相房の頼豪(らいがう)阿闍梨(あじやり)を召れて、汝皇子祈出してんや、効験あらば勧賞は乞に依べしと被(二)仰含(一)。頼豪(らいがう)畏て申す、年来深望侍、勅定無(二)相違(一)は、皇子の御誕生(ごたんじやう)勿論の御事也と奏す。主上大に悦思召(おぼしめし)て、勧賞乞に依べしと、重て勅約あり。頼豪(らいがう)悦で本寺に帰、年来所持の本尊の御前にして、肝胆を砕て祈申ける程(ほど)に、中宮たゞならぬ御事と承て、弥皇子御誕生(ごたんじやう)と、黒煙を立て祈申。月満御座(おはしま)して、承保元年十二月十六日(じふろくにち)、最安らかに皇子御誕生(ごたんじやう)あり。主上斜(なのめ)ならず御感有て、頼豪(らいがう)を召て、効験神妙(しんべう)神妙(しんべう)、勧賞何事をか可(二)申請(一)と御気色(おんきしよく)あり。頼豪(らいがう)は園城寺(をんじやうじ)に戒壇を立、寺門年来の遂(二)本意(一)とぞ奏しける。其時主上、こは思食(おぼしめし)よらぬ御事也、只一度に僧都(そうづ)僧正(そうじやう)にも成、寺領坊領をも申さんずるにやとこそおぼし召れつれ、戒壇の事は、努々御存知なかりきと、勅定有ければ、頼豪(らいがう)重て凡卑の愚僧、名聞
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の高位も所望なく、此事を申うけん為に、微力を励、肝胆を砕て祈出進せり。綸言をば汗に喩、出て再帰事なし、勧賞は乞に依べきよし、勅約今更改べからず候也。寺門の宿訴と云、頼豪(らいがう)が本意と云、所望たゞ此事に有と奏申。主上の仰には、凡皇子誕生(たんじやう)有て、祚を令(レ)継事も、海内無為の御志也。今汝が所望を達せば、山門憤を成て、世上静ならじ。両門の合戦出来せば、天台の仏法(ぶつぽふ)忽(たちまち)に亡ぬべし、何ぞ戒壇の一事を(有朋上P320)以て、三院の牢籠を顧ざらん。其上三井の戒壇においては、上代既達せず、後代争か成せんと仰下されければ、頼豪(らいがう)は、百千万却の古より、欣求(ごんぐ)浄土(じやうど)の望を達せずとて、二千(にせん)余年の今、厭離穢土の思を可(レ)断、争前仏の教化に依(レ)不(レ)預、即可(レ)漏は、後仏の引導に、現在未来の、一切衆生出離生死の期を失ふべし。此条専背(二)聖教(一)、其理豈叶(二)仏意(一)哉。就(レ)中(なかんづく)我門徒(もんと)の為(レ)体、乍(レ)耀(二)能依之戒光於胸中(一)、不(レ)被(レ)許(二)所依之戒壇砌下(一)、悲哉毎(レ)迎(二)登壇受戒之期(一)、必臨(二)異門他宗之境(一)、恨哉乍(レ)為(二)大乗円頓之器(一)、受(二)小乗偏漸之戒(一)、愁吟之至切也。門人而誰不(二)傷嗟(一)、悠々たる生死之長夜に、挑(二)戒光(一)而照(二)闇冥(一)、茫々たる苦海之嶮浪に、乗(二)木刃(一)而至(二)彼岸(一)。只為(レ)遁(二)三界濁穢苦域所住(一)、欲(レ)生(二)九品浄土(じやうど)常楽の安養(一)也。此条若存(二)矯飾(一)者、吾国は神国也、神明神道宣(レ)糾(レ)非、吾法は仏法(ぶつぽふ)也、仏界仏陀須(レ)与(レ)罰、現世には即不(レ)過(二)三七日(一)、速に災難災殃を招、当来には必可(下)限(二)万却千却(一)永沈(中)八寒(はちかん)八熱(はちねつ)(上)、是仏法(ぶつぽふ)興隆の為なり、是衆生利益の故也など、種々に申し上けれ共、遂に御許なかりければ、頼豪(らいがう)大悪心を起し、眼の色替、今は思死とて、双眼より涙をはら/\とこぼし、御前を立様に、頼豪(らいがう)
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思死に死失なば、皇子は我進たる物なれば、即可(レ)奉(二)取返(一)とて、三井寺(みゐでら)へ罷帰る。即飲食を止めて、道場に入、行死に死て、皇子を取死し奉らんとぞ聞えける。此事(有朋上P321)主上聞召(きこしめし)て、宸襟不(レ)安、朝政も御倦までの御歎也ければ、江中納言匡房卿の、其時は美作(みまさかの)守(かみ)にて御座(おはしまし)けるを召て、皇子誕生(たんじやう)の勧賞、頼豪(らいがう)三井寺(みゐでら)に戒壇建立(こんりふ)の所望有つるを、御免なしとて、悪心を起し、我身干死にして、皇子をも可(レ)奉(二)取返(一)由聞召、汝は、師壇の契深し、罷向て誘宥よと仰ければ、匡房卿装束を改ず、束帯を正して、内裏よりやがて三井寺(みゐでら)へ馳行て、彼坊に罷向て見ば、蔀遣戸も立下、纔(わづか)に持仏堂計に人ありがほ也。明障子も護摩の煙に薫て、何となく貴く身毛竪てぞ覚えける。美作(みまさかの)守(かみ)持仏堂の大床にたゝずみて、匡房参侍る由申けれ共、暫は音もせず。頼豪(らいがう)良久有て、荒らかに障子をあけて出給へり。目はくぼくぼと落入、白髪は永々と生延て、銀の針を琢立たる如し。手足の爪も切らず、身の垢も積りて、顔の正体もなし。天狗とかやも角やと覚て、物おそろし。頼豪(らいがう)申けるは、やゝ御辺(ごへん)は、宣旨の御使にこれへは入給へるな、奉(二)出合(一)事は不(二)思寄(一)存つれ共、年来師壇の契不(レ)浅、最後の見参と存て、只今(ただいま)奉(レ)見也。有難志と思給べし。さて天子は不(二)虚言(一)、綸言如(レ)汗、出再不(レ)帰とこそ承、皇子祈出して進よ、勧賞は可(レ)依(レ)乞と、度度蒙(二)勅定(一)し間、過去今生の所修の功徳を回向して、肝胆を砕て精誠を尽祈生進ぬ。其に戒壇建立(こんりふ)を不(レ)被(レ)免条、生々世々(しやうじやうせせ)の遺恨、単に此事にあり。所詮皇子に於ては奉(二)(有朋上P322)取返(一)侍べし。今生の見参これ最後也とて、持仏堂に帰入て、障子を丁と立て、其後は音もせず、匡房卿
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不(レ)及(レ)力、帰参してしか/゛\と奏聞す。主上ゆゝしく歎思召(おぼしめ)しければ、当時の関白(くわんばく)太政大臣(だいじやうだいじん)師実卿、御痛敷思ひ進て、暫く頼豪(らいがう)が怨を被(レ)宥程、戒壇を可(レ)被(レ)許歟と被(レ)申ければ、叡慮も思食(おぼしめし)煩せ給けるに、御夢想(ごむさう)あり。賢聖の障子のあなたに、赤衣の装束したる老翁あり。左の脇に弓を挟て、大なる鏑矢をさらり/\と爪よると聞召ければ、驚思召(おぼしめし)て誰人ぞと御尋(おんたづね)有けるに、我は是比叡山(ひえいさん)の西の麓に侍る老翁也。世には赤山とぞ申侍る。三井寺(みゐでら)に戒壇を可(レ)立由、執奏の臣あり。蒙(二)御免(一)て年来もてる鏑矢を放んと存て、矢を爪よる也と答と思召(おぼしめし)て、御夢覚させ給たりけれ共、猶爪よる声は聞えさせ給ければ、無(二)御免(一)けり。
S1003 赤山大明神(だいみやうじん)事
< 赤山大明神(だいみやうじん)と申は、慈覚大師渡唐時、清涼山の引声の念仏を伝給しに、此念仏を為(二)守護(一)とて、大師に成(二)芳契(一)給(たま)ひ、忽異朝の雲を出て、正に叡山(えいさん)の月に住給ふ。されば大師帰朝の時、悪風に逢て其舟あやふかりければ、本山の三宝を念給けるに、不動毘沙門は(有朋上P323)艫舳に現給へり。此明神は又赤衣に白羽の矢負つゝ、舟の上に現じ給つゝ、大師を被(二)守護(一)けり。山王は東の麓を守給へ、我は西の麓に侍らん、閑なる所を好む也とぞ被(レ)仰ける。赤山とは、震旦の山の名也、彼の山に住神なれば、赤山明神(みやうじん)と申にや、本地地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)なり、太山府君とぞ申す。>
頼豪(らいがう)は戒壇勅許なければ、終に持仏堂にして干死に失にけり。さしもはやと思召(おぼしめし)けるに、王子常にわづらはせ給ければ、頼豪(らいがう)が怨霊を宥んとて、近江国、野州、栗太、両郡に、六十町の田代を実相坊領に寄附せらる。智証の門徒(もんと)一乗寺(いちじようじ)、三室戸など云ふ貴僧に仰て、御祈(おんいのり)隙なかりけれ共、遂に承暦元年八月
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六日御歳四歳にて隠れさせ給にけり。敦文親王とは此皇子の御事也。皇子隠れ給ぬれば、主上の御歎不(レ)斜(なのめならず)。
S1004 良真祈(二)出王子(一)事
さて可(二)黙止(一)にあらざれば、西京座主大僧正(だいそうじやう)良真、其時は円融坊の大僧都(だいそうづ)にて、山門には無(二)止事(一)貴人にて御座(おはしまし)けるを被(レ)召、山門の叡信不(レ)浅、衆徒の憤兼て依(二)思召(おぼしめすに)(一)而、寺門の戒壇を免されぬ故、頼豪(らいがう)成(レ)怨、奉(レ)失(二)皇子(一)、早山門に継体の君を祈出し奉なんやと被(二)仰下(一)けり。僧都(そうづ)被(レ)申けるは、九条右丞相慈恵僧正(そうじやう)に依(レ)被(二)契申(一)こそ、冷泉院の御(有朋上P324)誕生(ごたんじやう)は有しか。代の末に臨と云とも、山門効験凌遅すべからず、なじかは御願(ごぐわん)成就(じやうじゆ)し御座ざるべきとて、本山に還上て、山王三聖王子眷属、満山三宝護法聖衆に被(二)祈申(一)しかば、中宮賢子、承暦二年の冬の比より、たゞならぬ御事也けるが、同三年七月九日、皇子御誕生(ごたんじやう)あり。応徳三年十一月二十六日(にじふろくにち)に御年八歳にて東宮(とうぐう)立の御事有て、同(おなじき)十二月十九日御即位、寛治三年正月五日御年十一歳にて御元服(ごげんぶく)、御在位二十二年と申、嘉承二年七月十九日に、御年二十九にて隠れさせ給ぬ、堀河院と申は是也。御母は京極の大殿の御女(おんむすめ)と申、誠には六条右大臣源顕房の御女(おんむすめ)とかや。山門の霊験も掲焉也し事也。
S1005 頼豪(らいがう)成(レ)鼠事
頼豪(らいがう)はからき骨を砕て、皇子をば祈出し進せたれども、戒壇は御免なし、大悪心を起して、旱死しけるぞ無慙なる。去(さる)程(ほど)に山門又皇子を奉(二)祈出(一)、御位に即せ給たりければ、頼豪(らいがう)が死霊もいとゞ成(二)怨霊(一)、山門と云ふ処があればこそ、我(わが)寺(てら)に戒壇をば免されね、されば山門の仏法(ぶつぽふ)を亡さんと思て、大鼠と成、谷々坊々充満て、聖教をぞかぶり食ける。是は頼豪(らいがう)が怨霊也とて、上下是彼にて打殺踏殺けれ共、弥鼠
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多出来て、夥なんどは云計なし。此(有朋上P325)事只事に非ず、可(レ)宥(二)怨霊(一)とて、鼠の宝倉を造て神と奉(レ)祝、さてこそ鼠も鎮けれ。円宗の教を学して、可(二)成仏(じやうぶつ)(一)頼豪(らいがう)が、由なき戒壇だてゆゑに、鼠となるこそをかしけれ。
S1006 守屋成(二)啄木鳥(一)事
< 昔聖徳太子(しやうとくたいし)の御時、守屋は仏法(ぶつぽふ)を背、太子は興(レ)之給。互に軍を起しかども、守屋遂被(レ)討けり。太子仏法(ぶつぽふ)最初の天王寺を建立(こんりふ)し給たりけるに、守屋が怨霊彼伽藍(がらん)を滅さんが為に、数千万羽の啄木鳥と成て、堂舎をつゝき亡さんとしけるに、太子は鷹と変じて、かれを降伏し給けり。されば今の世までも、天王寺には啄木鳥の来る事なしといへり。昔も今も怨霊はおそろしき事也。頼豪(らいがう)鼠とならば、猫と成て降伏する人もなかりけるやらん、神と祝も覚束(おぼつか)なし。>
S1007 三井寺(みゐでら)戒壇不(レ)許事
抑伝教智証は、師弟の契、延暦(えんりやく)園城(をんじやう)は一味の仏法(ぶつぽふ)也。両寺(りやうじ)戒壇何の妨か有るべきなれ共、冥慮より起に依て、三井の訴訟雖(レ)及(二)度々(一)、代々聖主更に無(二)勅許(一)。御朱雀院御宇(ぎよう)、長暦三年(有朋上P326)に、園城寺(をんじやうじ)の衆徒等(しゆとら)、頻(しきり)に訴申ければ、主上もかた/゛\思召(おぼしめし)煩せ給(たま)ひて、御宸筆(ごしんぴつ)の祭文を遊して、当時の貫首教円座主に登山を進め、七箇日有(二)御祈誓(一)云、敬白、叡山(えいさん)三宝根本中堂(こんぼんちゆうだう)護法山王四所八王子(はちわうじ)、昔延暦(えんりやく)聖代、始祖大師、建(二)立我山(一)以来、年記遥矣、霊験炳然、智証門徒(もんと)累(二)月白(一)、別建(二)戒壇於三井之道場(一)、請(二)得度於一門之師跡(一)、便是郡国之重事、法宇之要害也、窃見(二)旧典(一)、前聖猶難(レ)遂(レ)思、新義末代豈易乎、仍以座主大僧都(だいそうづ)法眼和尚(くわしやう)位教円、自(二)今日(一)七箇日、令(レ)啓(二)白満山三宝護法山王(一)、戒壇分而可(レ)無(二)国家之危(一)者、悟(二)其指帰(一)、戒壇立而可(レ)有(二)王者之懼(一)者、施(二)其示現(一)、詫(二)自身(一)詫(二)他人(一)、不(レ)過(二)一七祈祷之日限(一)、必彰(二)
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遠近掲焉之証験(一)、敬白、〈 取(レ)要 〉書(レ)之。
長暦三年八月日 皇帝 諱卜
教円座主祈誓七箇日の間、太上天皇(てんわう)御霊夢三箇度(さんがど)御覧有りけるに依て、御免なかりけり。
後冷泉院御宇(ぎよう)、天喜元年冬、又三井の衆徒、戒壇建立(こんりふ)を可(レ)被(レ)免由、雖(レ)捧(二)奏状(一)、御免なし。
白川院【*白河院】(しらかはのゐんの)御宇(ぎよう)、承保元年に、皇子御誕生(ごたんじやう)の勧賞、頼豪(らいがう)加様に奏申けれ共、赤山の御詫宣に恐て無(二)御免(一)。冥の照覧実に子細あるらんと覚たり。
同(おなじき)十五日、法皇中宮の御産所、六波羅の池殿へ御幸なる。十二月二日は、宗盛卿(むねもりのきやう)、大納言(だいなごん)并(ならびに)大将辞状を返し給はる。去十月両官(有朋上P327)を辞申されたりしか共、君も御憚有て臣下にも授給はず、臣も成(レ)恐望申事なし。三条大納言(だいなごん)実房、花山院中納言兼雅などは、哀とは思食(おぼしめし)けれ共、色にも詞にも出し給はず、宗盛両官に成返給たりければ、人々さればこそとぞ思はれける。
十二月八日、皇子親王の宣旨を被(レ)下、十五日皇太子に立せ給ふ。
S1008 丹波(たんばの)少将(せうしやう)上洛事
治承三年正月十日比(とをかごろ)に、丹波(たんばの)少将(せうしやう)は、鹿瀬庄を出て上洛、都に待つらん人も心元なかるらんとて、急給けれども、余寒猶烈くて海上も痛荒ければ、浦伝、島伝して日数を経つゝ、二月十日比に、備前児島と云処に漕著給ふ。其辺の者に、故大納言(だいなごん)入道殿(にふだうどの)の御座(おはしまし)けん所は何所ぞと尋給へば、始は是に御渡候しが、是は猶悪とて、当国の中ひだの、如意尻と申所に、難波太郎俊定と申者が、古屋に移らせ給(たまひ)て侍し
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を、早昔語に成せ給にきと申す。少将は始御座(おはしまし)ける父の御跡と聞て、児島の宿所を見給へば、柴の庵の奇に、草の編戸を引立たり。浅猿気なる山辺なれば、細谷川の水、岩間をくゞる音幽に、尾上を吹嵐の梢を伝ふも身にしみて、いかばかり悲く御座(おはしまし)けんと、袖もしぼりあへ給はず、其より又如意尻へ尋入(有朋上P328)て見給へば、是又うたてげなる賤が屋なり。係処にしばしも御座(おはしまし)けんよと、後までも労しくぞ思はれける。内に入て見巡給ければ、古障子に手習し給へる跡あり。父の書給へるよと涙浮て目も見え給はざりければ、少将袖を顔にあてて立除、やゝ判官入道殿(にふだうどの)、何と書給へるぞ、其御覧ぜよと宣(のたまひ)ければ、入道指寄て見れば、前海水■々(じようじようとして)月浮(二)真如之光(一)、後巌松禁々風奏(二)常楽之響(一)、聖衆来迎之義有(レ)便、九品往生之望可(レ)足と、又荊鞭(けいべん)蒲朽蛍空去、諫鼓苔深鳥不(レ)驚 K063 とも書れたり。又常に居給たりける、後の障子と思しきに、六月二十七日に、源左衛門尉(げんざゑもんのじよう)信俊下向共書れたり。其昔都にて殊に不便に思召(おぼしめし)て、御身近く召仕はるゝ者が下向したりけるを、余に嬉く思召(おぼしめし)て其(その)日(ひ)並を書き付られたりけるにこそ、故(こ)入道の御手跡と奉(レ)見、寄て御覧ぜよと、判官入道勧め申ければ、少将寄て涙の隙より是を見に、実に父の在生の筆の跡也ければ、其子としてこれを見給けん、御心の中、さこそ悲く思けめ、水茎の跡は千世も有なんとは是やらんと思給(たま)ひけるにもいとゞ涙のこぼれける。御墓は何所やらんと問給へば、有木別所と云山寺也と申。是やこの備中と備前との境なる、吉備の中山打過ぎて、細谷川を分登給へば、秋の空にはあらねども、草葉に袖もぬれしをれ、落る涙に諍けり。彼別所にて何所の程ぞと尋れば、あれ
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に侍一村松の程(有朋上P329)と申ければ、少将は萌出若草を分入て見給へども、其験もなければ、卒都婆一本も見えず、実に誰かは立べきなれば、只一村の松本に、八重の葎引塞、苔深く繁て、土の少高かりける所をぞ其験とも思はれける。少将は其前に居給(たまひ)て、目にあまる涙をのみぞ流給ふ。康頼入道も、諸共に、墨染の袖を絞けり。少将良有て宣(のたまひ)けるは、備中国へ可(レ)被(レ)流と聞えしかば、可(レ)奉(二)相見(一)とは思はざりしか共、御渡の国近しと承、よにも嬉しく侍りしに引替、鬼界島へ流されて後、幾程もなくて空く成せ給(たま)ひぬと、夙承りしかば、世にも悲く覚て、生てかひなきとまで思つゞけ侍き。彼島の有様(ありさま)一日片時堪て有べしとも覚ざりき。されども遠き守とやならせ給たりけん、露の命三年の秋を送迎て、都に還上、二度妻子を見ん事うれしく存ずれども、ながらへて御質を見進らせたらばこそ、不(レ)消命の験にても候はめ。是までは急がれつる道の、今より後は行空も覚え難しと、生たる人に物を云様に、墓の前にて通夜細々と口説宣(のたまひ)けれ共、春風にそよぐ松の響、岩間に落る水音ばかりにて、答る声もせざりけり。年去年来ども難(レ)忘ものは撫育の昔の恩、如(レ)夢如(レ)幻、易(レ)漏者恋慕の今の涙也。悲かな形を苔の底に埋て再其貌を見ず、怨哉名を松の下に残ども、終に其音を聞ざる事を。成経が参たると聞召さんには、何なる処に御座とも、な(有朋上P330)どかは一言の御返事(おんへんじ)なかるべき。冥途の境異に、生死の道の隔る習こそ心うけれとて、泣々(なくなく)旧苔を打払つゝ墓を築、釘貫し廻て、道すがら造られたりけり。卒都婆墓の中に立給。又参らん事も有難とて、墓の前に蓬葺の道場しつらひて、僧を請じて少将と判官入道と相共に、七日七夜(なぬかななよ)の不断念仏
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申、卒都婆経一部書き、過去聖霊成等正覚とぞ祈給ふ。草葉の陰にても亡魂いかに嬉と思すらん哀也。名残(なごり)はさこそ惜かりけれども、さても有べきならねば、泣々(なくなく)其を出けるに、判官入道哀に思入て、成親を有木の別所に送りたりけるにそへて、釘貫の柱に、
朽果ぬ其名計は有木にて身は墓なくも成親の卿 K064
角て備前国をも漕出給ければ、都近くなるに付ても、様々哀ぞ多かりける。
治承三年二月二十二日、宗盛卿(むねもりのきやう)、大納言(だいなごん)并(ならびに)大将を上表あり、今年三十三(さんじふさん)に成給ければ、重厄の慎とぞ聞えし。
同三月十六日(じふろくにち)の暮は、丹波(たんばの)少将(せうしやう)鳥羽の州浜殿に著給へり。軈も六波羅の宿所へ落つかばやと被(レ)思けれ共、此三年の間疲たる身の有様(ありさま)を、人々に見えん事も、さすが愧くや覚しけん、迎に下たりける者に、是までこそたどり著て侍れ。ふくる程(ほど)に牛車給り候へと宰相の許へ被(レ)申けり。宰相は又少将も今は上給らんに、今まで遅は何と御座(おはしま)す(有朋上P331)るやらん、無(二)心元(一)とて、中間雑色数多(あまた)、江口、神崎(かんざき)、室、兵庫(ひやうご)辺まで下遣たりけれども、遊君遊女に戯つゝ疎略にや侍たりけん、違て少将は登給へり。使六波羅の宿所に来て角と云ければ、奉(レ)始(二)宰相(一)、貴きも賤きも悦相り。北方も乳母(めのと)の六条も、御文見給(たまひ)て、穴珍穴珍、昼はいかなるぞや、必しも更て入せ給べきかや、人は御心のつよきぞやとて泣給けり。少将の父故大納言(だいなごん)入道殿(にふだうどの)は、京中にも限ず、所々に山庄多持給へり。其中に鳥羽の田中殿の山庄をば、殊に
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執思給(たまひ)て、私に州浜殿とぞ申ける。少将は日をも暮さんため、父の遺跡もなつかしくて見巡給ければ、屋敷は昔に替らねども、蔀格子もなかりけり。築地崩て覆朽、門傾て、扉倒、庭には千種生茂、人跡絶て道塞、蘿門乱て地に交り、唐垣破て絡石はへり。檐には垣衣苅萱生かはし、月漏とて葺ねども、板間まばらに成にけり。少将〔の〕あの屋この屋に伝つゝ、大納言(だいなごん)はこゝにこそ御座(おはしまし)しか、彼にこそ立給しかなど、思つゞけ給(たまひ)ても、哀のみこそ増けれ。何事に付ても皆昔に替たれども、比は三月の中の六日の事なれば、秋山の梢の花、所々に散残、楊梅桃李の匂も、折知顔に色衰、百囀の鶯も、時しあれば声已に老たり。少将悲のあまりに、木の本に立より、古き詞を詠じ給(たま)ひけり。(有朋上P332)
桃李不(レ)言春幾暮、煙霞無(レ)跡昔誰栖、 K065
と又思ひつゞけ給ふ。
人はいさ心もしらず故郷は花ぞむかしの香ににほひける K066
いつしか田舎には引替て、入相の野寺の鐘の音、今日も暮ぬと打響く。彼遺愛寺の辺の草庵に似たりけり。王昭君が胡国の夷に囚れて後、其跡角や有けんと、思ひやられて哀也。姑射山仙洞の池の汀(みぎは)を望ば、春風波に諍て、紫鴛白鴎逍遥せり。興ぜし人の恋さに、いとゞ涙ぞこぼれける。南楼の木本には、嵐のみ音信(おとづれ)て、夢を覚す友となり、木間を漏る月影の、涙の袖に宿れるも、名残(なごり)を慕かと覚ゆるに、夜差更て宰相の本より迎に人来たり。少将と判官入道と同車(どうしや)して遣出す。造路四塚東寺の門をも打過けり。
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うれしさの心中、只推量べし。二人は道すがら、硫黄島の心うかりし事共語り連ても、俊寛僧都(そうづ)をぞ悲みける。只一人島の巣守と成果てて、思に堪ずはかなくや成ぬらん、又猶も生て有ならば、いかばかり〔か〕歎き悲むらん、糸惜や三人有しにだにも、僧都(そうづ)は殊に思入たりしに、増て友なき身と成ては、さこそ有らめと、互に袖を絞けり。さても三人同罪とて被(レ)流、一人は留二人帰上事、是偏(ひとへ)に熊野権現の御利生にこそと、貴にも又涙也。判官入道は三年の(有朋上P333)名残(なごり)を惜つゝ云けるは、昔召仕し者、東山双林寺の辺にありき、相尋べし。今は係る身に成ぬる上は、世を諂に及ばず、他事を忘て後世の営をはげむべきに侍り。若真如堂雲居寺詣など思召(おぼしめし)立事あらば、御尋(おんたづね)も有べし。又性照も道広成なば、六波羅の貴殿へも参ずべし。三年の依(二)御恩(一)、消やすき命のながらへて、再都に帰上ぬる事、生々世々(しやうじやうせせ)に難(レ)忘こそ奉(レ)思とて、或は悦或は契て、墨染の袖を顔にあてて、六波羅にて車より下り、暇申て分れにけり。少将は宿所に落著給たりければ、宰相を奉(レ)始、皆悦の涙に咽て、急度もの云人もなかりけり、理には過たり。少将は昔住馴給し方へ御座(おはしまし)て、見廻給(たまひ)て、内に入給へり。懸連たりし■廉(せいれん)も、さながら有、立並たりし屏風も障子も動らかず、只昔に替たる物とては、乳母(めのと)の六条が、三年のもの思に、黒かりし髪の皆白妙に成たると、少人のおとなしく生立給へると計也。北方も疲衰給へり。是も三年のもの思と覚たり。昔足柄明神の異国へ渡り給しに、さり難妻の御神を留置て、恋悲給んずらんと覚しけれ共、振捨て三年をへて後に還給たりけるに、殊に白くうつくしく肥ふとり給たりければ、明神の仰には、滝
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の水も冷恋せば疲もしぬべし。我を恋悲み給はざりけるにこそとて、終に別れ給にけり。是は疲衰給(たま)ひたりければ、誠に恋しと思給けりとて、いとゞ情ぞ増ける。少将被(レ)流(有朋上P334)給し時、四になり給ける若者は、髪生のびて結程なり。見忘給はざりけるにや、父の御膝近くなつかしげにて寄給へり。又北方の御傍に、三ばかりなる稚人の御座(おはしまし)けるを、あれはたそと問給ければ、北方是こそはと計にて、又物も宣はず泣給けるにこそ、流されし時、近産すべきにと心苦く見置しが、生にけるよとは心え給たりける。是を見彼を見に付ても、尽せぬ物は只涙也。少将は急御所に参て、君をも見進せばやと被(レ)思けれ共、そも召もなかりければ、憚進て不(レ)参。法皇も御覧ぜまほしく思食(おぼしめし)けれ共、人の口を御憚有て、急召事もなし。同(おなじき)十八日(じふはちにち)に入道より宰相の許へ使者あり。少将相具して来給へと也。又いかなる事の有べきにやとて、各歎思はれけり。さて黙止べきにあらねば、宰相と少将と同車(どうしや)して、西八条(にしはつでう)へ参られたり。入道中門の廊に出合給(たまひ)て、鬼界島の事あら/\問給へば、少将は細々とぞ答へける。戯呼哀なる所にこそ、実にさこそ思給(たま)ひけめ、早々出仕し給(たまひ)て、田舎忘あるべしと宣(のたまひ)ければ、さてこそ御所に参て君をも見進せけれ。其後本位に復し、夕郎の貫首を経て、父の跡を遂、大納言(だいなごん)にも至りけれ。
S1009 康頼入道著(二)双林寺(一)事(有朋上P335)
判官入道は、東山双林寺に、昔の山庄の有けるに、落著て見けれ共、留主(るす)に置たりし下人もなし、庭には千草生かはし、軒にはしのぶも茂たり。荒たる宿の習にて、事問人もなく、板間の苔むして、月の光も漏ざりければ、いとゞ心のすみつゝ思ひつゞけけり。
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故郷の軒の板間に苔むして思ひしよりももらぬ月哉 K067
と。我世に有し時は、宿所もあまた有き。山庄も所々に有しか共、鬼界へ越し後は、其行末を不(レ)知、僅(わづか)に残る栖とては、此屋ばかりと哀也。さても入道は紫野に有ける、七十有余(いうよ)の母の許へ、急ぎ角と申たかりけれ共、身にそへる下人もなし、昨日は夜ふけて都へ入りぬ。程は遠、明を遅しと待けるが、同(おなじき)十七日(じふしちにち)に、人を語ひて、母がもとへぞ遣ける。下侍し時角と申度侍しかども、老衰て後歎おぼさんを、まのあたり見聞奉らんも、中々痛しく思給しかば、心づよく告申事もなくて罷下侍しに、かひなき命の不(レ)消して、再都に帰上、見見え奉ん事こそ嬉く侍れ、急参らん程先人を進する也とぞ云遣たりける。入道の又母は、七十に余て、悲き子を流れて、係る憂目を見事よと歎けるが、可(レ)被(二)召返(一)と聞ければ、流されし時は、由なき命の長生哉と思しに、今は我子を再見ん事の嬉さよ、去年の冬島をば出たりと聞に、何に見えぬやらん、海路遥(はるか)に日を経たり、風の烈き折節(をりふし)なれば、(有朋上P336)波の底にも沈たるやらんとぞ歎けるが、其思や積けん、はかなく聞えて、今日は五日に成にけり。使帰て角と申ければ、入道は墨染の袖を顔にあてて、
薩摩方沖の小島に我ありと親には告げよ八重の塩風 K068
とは、誰がために云ける言葉ぞとて、絶入絶入咽けり。其後は双林寺の庵室に閉籠、なからん跡の形見とて、涙の隙々に宝物集を造て、世にこそ披露したりけれ。
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S1010 有王渡(二)硫黄島(一)事
法勝寺(ほつしようじ)執行俊寛は、此人々に捨られつゝ、島の栖守と成はてて、事問人もなかりけるに、僧都(そうづ)の当初世に有し時、幼少より召仕ける童の、三人粟田口辺に有けるが、兄は法師に成て、法勝寺(ほつしようじ)の一の預也。二郎は亀王、三郎は有王とて、二人は大童子也。彼亀王は僧都(そうづ)の被(レ)流て、淀に御座処へ尋行て、最後の御供是こそ限なれば、何所までも参侍るべしと、泣々(なくなく)申けるを、僧都(そうづ)は誠に主従の好み、昔も今も不(レ)浅と云ながら、多の者共有つれ共、世中に恐て問来者もなし、其恨にあらず、あまたの中に尋来て、角申こそ返々も志の程うれしけれ。但我に限らず、少将も判官も人一人も不(レ)随とこそ聞け、御免あらば幾人(有朋上P337)も具したうこそあれ、され共其義なければ不(レ)及(レ)力、誠や薩摩国硫黄島とかやへ可(レ)被(レ)流ときけば、命ながらふべしとも覚ず、路の程(ほど)にてはかなくもやならんずらん、我身の事は今はさて置、都の残留女房少者共の心苦きに、彼人々に付て朝夕の事をも見継べし、我に随はんに露劣るまじ、とく帰上れなど泣々(なくなく)宣通はす処に、宣旨御使又六波羅の使、何事申童ぞと怪み尋ける恐しさに、亀王名残(なごり)は惜けれども、泣々(なくなく)都へ帰上けり。其弟に有王と云けるは、僧都(そうづ)に別て後、仕はんと云人在けれ共、宮仕もせず、大原(おほはら)、閑原、嵯峨(さが)、法輪貴所々に迷行て、峯の花をつみ、谷の水を結て、山々寺々手向奉、我主に今一度合せ給へと、夜昼心をいたして祈けるこそ不便なれ。角て三年を経て、少将と判官入道と、都へ還上ぬと披露有ければ、有王我主の事何に成給ぬるやらんと覚束(おぼつか)なく思て、此人々の迎に行たりける人に合て尋聞ば、上りしまでは御座(おはしまし)き。二人に捨られて、歎悲み給し事、二人舟に乗給しに、舷
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に取付て、遥(はるか)に出給たりし事、陸に帰上て、浜の沙に倒ふし給事、委く語答ければ、有王涙を流て、さては未此世に御座るにこそ、誰育誰憐奉らんと悲くて、有王は只一人都をあくがれ出、未(レ)知薩摩方、硫黄島へ、遥々(はるばる)とこそ思立て、先奈良に行、僧都(そうづ)の姫の御座(おはしまし)けるに、角と申て御文を賜りけり。姫宣(のたまひ)けるは、我身果報な(有朋上P338)き者と生て、父には生て別れぬ、母と妹には死して後れぬ、多の人の中に角思立ける志の嬉さよ、余りに父の恋く思侍れば、男子の身ならば走連ても、行まほしく侍れ共、女とて叶はぬ事の悲さよ、御文慥に進せて、相構て疾して御上あれと申べしとて、やがて倒れ臥、声も不(レ)惜泣ければ、童も倶に袖を絞る。唐船の纜は、四月五日に解習にて、有王は夏衣たつを遅しと待兼て、卯月の末に便船を得、海人が浮木に倒つゝ、波の上に浮時は、波風心に任せねば、心細事多かりけり。歩を陸地にはこびて、山川を凌ぐ折は、身疲足泥、絶入事も度々也。去共主を志にて行程(ほど)に、日数も漸積ければ、鬼界島にも渡にけり。此島の挙動、都にて伝聞しよりも、まのあたり見は堪て有べき様なし。峯には燃上ほむら行客の魂を消、谷には鳴下る雷、旅人の夢を破る。山路に日暮ぬれども、樵歌牧笛の音もなく、海上に夜を明せば、松風白浪心をいたましむ。童何事に付ても、慰思なければ、いかにすべし共不(レ)覚けれ共、主の行末の悲さに、谷に下て尋れば、岩もる水に袖しをれ、峯に上て求ば、松吹く嵐ぞ身にしみける。兎にも角にも叶はねば、只涙を流して立たりけり。去(さる)程(ほど)に島の住人と覚しくて、木の皮をはねかづらとして額に巻、赤裸にてむつきをかき、身には毛太く長く生て、長は六七尺(しちしやく)計なる
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者ぞ遇たりける。有王嬉て云(有朋上P339)けるは、此島に法勝寺(ほつしようじ)の執行僧都(そうづ)の御房御座(おはしま)し候なるは、何所にて候やらんと問ければ、打見たる計にて物も云はざりけり。法勝寺(ほつしようじ)共執行共、争か可(レ)知なれば、不(レ)答も理也。自言事も有けれ共、つや/\不(二)聞知(一)ければ、いとゞ力なく覚けり。責ては死給たりとも、其骸骨は御座らん、彼をなりとも尋得て、形見ともするならば、いか計限なく、志のかひも有べきに、御行へをだにも知ずして、空く都へ帰上らん事の悲さよと思て、猶深く山辺に尋入たれども、我主に似たる人もなし。立帰遥々(はるばる)浦路に迷出たれば、磯の方より働来者あり。只一所に動立様也。其形を見に、童かとすれば年老て、其貌に非、法師かと思へば又髪は空様に生あがりて、白髪多し、銀の針を立たるが如し。万の塵や藻くづの付たれ共不(二)打払(一)、頸細して腹大脹、色黒して足手細し、人にして人に似ず、左右の手には、小き生魚を二三づつ把り、腰のまはりには荒和布の取纏付けて、さけびきて、凡力もなげ也。童思けるは、哀我主の角成給たるにもや在らん、いかにといへば、若干の法勝寺(ほつしようじ)領を知行し給ながら、修理造営をばし給はず、恣に三宝の信施を受、あくまで伽藍(がらん)の寺用を貪給し罪の報に、生ながら餓鬼道に落給たるやらん、餓鬼城の果報こそ、頸は細く腹は大に、色黒して首蓬の如く有とは聞など、様々に思に、いとゞ悲て、近付き能々みれば、手も足(有朋上P340)もさすが人には違ず、都にも老衰たる者あり、片輪なる人もあり、去ば此島にも係者も有にこそと思て問ければ、やゝ一年此島へ三人流され給たりし人の二人は免て上給ぬ、今僧の一人御座なる、いづくにぞと云ければ、僧都(そうづ)は貌こそ衰たりけれども、
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目と心とは昔に替ず、童をば慥我召仕し、有王とぞ被(レ)思ける。童は主の余に衰損じたれば、僧都(そうづ)とは知ざりけれ共、さすが又何とやらん覚てつく/゛\と守立たり。僧都(そうづ)は顔の色をとかく変じて様々にぞ思ける。我こそ俊寛よと名乗んとすれば、果報こそ拙て、かゝる身とならんからに、心さへ替けるよと思はん事も愧し、恥を見んよりは死をせよとこそ云に、さこそあらんからに、僧形として生魚を手に把たる心うさよ、只知ざる様にて過さばやと、千度百度案じけるが、又思けるは、此島にては、疎く不(レ)知者也とも、都がかりの人に遇たらんはうれしく珍らしかるべし、況年比の主を悲て遥々(はるばる)と尋来たらん者を、其志を失、空く返し上せん事、最不便也、我も又問聞たき事も多しと、思返して、手に把たる魚をば後へ廻し、去げなき様に抛て、あれは有王か、何にして是までは尋来れるぞや、我こそ俊寛よ、穴珍や/\、己一人を見たれば、捨別し妻子も住なれし古郷も、皆見つる心地のするぞや、いかに/\とて、手すり足すり喚叫けり。其時こそ有王も、慥の主とは思(有朋上P341)けれ。係様も有けるにや、昔軽大臣の遣唐使に渡されて、形を他州にやつされ、燈台鬼となされつゝ、帰事を不(レ)得けり。子息弼宰相、其向後の覚束(おぼつか)なさに、大唐国に渡て尋れ共/\、目の前に有ながら、明す者こそなかりけれ。父は子を見知つゝ、角と云まほしけれ共、物いはぬ薬をのませ、唖になされたりければ、そも叶はず、額に燈械を打れつゝ、宰相に向て、只泣より外の事なし。宰相はやつれたる父なれば、面を並て不(レ)知けり。燈台鬼涙を流つゝ、指端を食切て、其血を以て宰相が前に角ぞ書連ける。
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我是日本花京客、汝則同姓一宅人、為(レ)父為(レ)子前世契、隔(レ)山隔(レ)海恋情苦、経(レ)年流涙宿蓬蒿、逐(レ)日馳(レ)思親蘭菊、形破(二)他州(一)成(二)燭鬼(一)、争帰(二)旧里(一)寄(二)斯身(一) K069、
と書きあらはしたりけるにこそ、宰相は我父の軽大臣共知けれ。執行も三年の思に衰痩、あらぬ形に成たれば、知ざりけるも理也。我こそ俊寛よと名乗けるより、有王は流す涙せきあへず、僧都(そうづ)の前に倒伏、良久物も云ず、さても老たる母をみすて、親者にも知れずして、都を出て、遥(はるか)の海路を漕下、危浪間を分凌ぎ参しには、縦疲損じ給たり共、斜(なのめ)なる御事にこそと存ぜしに、三年を過し程はさすが幾ならぬ日数にこそ侍るに、見忘るゝ程(ほど)に窄させ給ける口惜さよ、日比(ひごろ)都にて思やり進けるは、事の数にても侍らざりけり、ま(有朋上P342)のあたり見進する御有様(おんありさま)、うつゝ共覚候はず、されば何なる罪の報にて、角渡らせ給覧とて、僧都(そうづ)の顔をつく/゛\と守つゝ、雨々とぞ泣臥たる。童良在て起あがりければ、僧都(そうづ)も又起なほりて、泣々(なくなく)宣(のたまひ)けるは、此島は遥なる海中、遠き雲の徐なれば、おぼろげにても人の通事なし。己が兄の亀王が、淀まで訪下たりしをこそ、有難く嬉き事と思ひしに、有王が是まで思立見来事、実に現とも覚ねば、もし夢にてや有らん、やをれ有王、さらば中々如何に悲しからん、そも恋しき者を見つれば、嬉などは云も疎也、さても少将と判官入道との有し程は、憂事悲事云連ては泣つ、思出有し昔物語(ものがたり)をしては笑つ、互に慰しに、被(二)打捨(一)し後は、一日片時堪て有べし共覚ざりしに、甲斐なき命のながらへて、互に相見つる事の嬉さよ、加程の有様(ありさま)なれば、何事を思べきにあらね共、都の残留し者共の、
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忘るゝ間なく恋く聞まほしけれども、心に任せぬ旅なれば其も叶ず、是ほどの志の有けるに、などや此三年までは問ざりけるぞ、少将の迎の時は、何に文一は伝ざりけるぞと宣。童申けるは、事も愚におぼしめしけるか、君西八条殿(にしはつでうどの)へ被(二)召籠(一)させ給し後は、御あたりの人をば、上下を云ず搦捕て、獄舎に入られ家財を壊取しかば、成(レ)恐近習の人々も、思々に落失ぬ。北方も鞍馬の奥、大悲山に忍ばせ給しが、明ても暮ても御歎浅から(有朋上P343)ず、見えさせ給し程(ほど)に、其積にや日比(ひごろ)悩せ給しが、去年の冬遂に隠れ御座ぬと申も果ぬに、僧都(そうづ)は穴哀や、さては女房は早はかなく成給けるにこそ、慰む便もなく知れる人もなき、我だにも、係る島の有様(ありさま)に、三年の今までも在るぞかし。さすが人は少き者共もあまた有き、我を見とも、思成てこそ有べきに、若や姫をば誰孚めとて隠れ給(たま)ひけるぞや、其に就ても、難面かりける我命かなとて、又臥倒給けるに、有王泣々(なくなく)重て申けるは、若君は父の渡らせ給なる所は何所やらん、尋参れと仰候しかども、故北方の、穴賢そなたの方と知すな、少き心に走出て、行へも知ず失る事もこそと承しかば、知せ進する人も候はざりし程(ほど)に、人の煩ひ合て侍し、疱瘡と申御労に、去五月に又失させ給にきと云ければ、僧都(そうづ)又臥倒て、やをれ有王、今は係る憂事をば、な語りそとよ、三人が中に法師一人捨置れぬれば、都に還上り、再妻子を相見る事はよもあらじなれども、さても有らんと思やれば、慰事も有にや、いつを限に惜べき身ならねども、此を聞彼を聞に、絶入ぬべき心地なり、よし/\今はな語そと云けるこそ、責ての事と哀れなれ。(有朋上P344)
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十一
P0252 (有朋上P345)
留巻 第十一
S1101 有王俊寛問答事
有王申けるは、姫御前は、奈良の姨御前の御許に御渡と承て、参て、此島へ思立候、御言伝やと申入て候しかば、端近出させ給(たま)ひ、不(レ)斜(なのめならず)御悦有て、哀女の身程無(二)甲斐(一)事はあらじ、我身も父の恋しさは、己にや劣るべき、可(レ)類方なし、可(二)思立(一)道ならねば力なし、さても多人の中に一人思立らん嬉さよ、平らかに参著たらば進せよとて御文あり。御詞には、替ぬる世の恨に筆の立所も覚侍らず、泣々(なくなく)申候へば、文字もさだかならず、御覧じ悪こそ渡らせ給はんずらめ、御返事(おんへんじ)をも待見進せば、いか計かはと申せとこそ仰候しか。昔ならば角直に承べしやと、哀に思進て、落涙を押つゝ、奈良を出て罷下し程(ほど)に、門司赤間の関より始て、硫黄島へ渡ると申者をば怪、文などや持たると求捜と承しかば、御文をば本結の中に結び籠て、難(レ)有して持て参たりとて、取出して奉(レ)之。僧都(そうづ)は悲さの中にも、嬉く珍く思て、涙を押拭押拭披見給へば、其後便なき孤子と成果て、御向後を(有朋上P346)も承便もなし、身の有様(ありさま)をも知られ進せず、いぶせさのみ積れども、世中かきくらして晴心地なく侍り。さても三人同咎とて、一つ島に移されけるに、二人は被(レ)免に、などや御身一人残留給らんと、人しれぬ歎唯思召(おぼしめし)やらせ給へ。人々島へ被(レ)流給(たまひ)て後、其ゆかりの者をば尋求て、手足を損じて責問べしなど聞え侍しかば、召仕し者共
P0253
も、遠国々へ落失て、旧里に一人も留らざれば、都には草のゆかりも枯はてて、立紛べき方もなく、哀糸惜と事問人もなし。君達も可(レ)被(二)召捕(一)など聞えしかば、母御前弟我身三人引具して、幽なる便に付て、鞍馬の奥とかやへ迷入、日影も見えぬ山里に、住も習はぬ柴の庵に、忍居て候し程に、朝夕は御事をのみ歎給しに、打副稚身々の向後いかにせんと、隙なき御物思の積にや、病と成せ給たりしかば、弟と二人、とかく労り慰進せしか共、不(レ)叶して空見成進せぬ。生ての別死の別れ為方なければ、二人歎暮し泣明し侍し程に、又弟も疱瘡とかや申労をして、今年の五月に身罷侍り。同道にと歎しか共、はかなき露の命と云ながら、消もやらで、強面今までは草の庵に残留て侍れば、憂事も悲事も可(二)思召(おぼしめし)知(一)、拙果報の程こそ、宿世の身のつとめ辱く思侍れ。故母御前御労の時、我死なば誰をか便と憑御座(おはします)べき、奈良の里に姨母と云人御座(おはしま)す、尋行き打歎かば、去共憐給はんずらん(有朋上P347)と仰候しを承置て、当時は奈良の姨母御前の御許に侍り。疎なるべき事にはあらねど〔も〕、幽なる住居推量給へ。さても此三年迄、いかに御心強く有とも無とも承ざるらん。母御前にも弟にも後れて憑方なし、誰に預何にせよと思召(おぼしめす)にか、疾して御上候へ。恋し共恋し床し共床し。三年の思歎水茎に難(レ)尽侍れば留候ぬ。穴賢穴賢と裏書端書滋く薄く、みだし書にぞしたりける。僧都(そうづ)は此文を見て、巻つ披つ泣悲て云けるは、俊寛が此の島へ流されし年は、姫は十に成しかば、今年は十二と覚ゆ。文は詞もおとなしく、筆の立所も尋常也。去共切継たるやうに、とくして上れ自ら申さんと書たるこそ流石(さすが)稚けれ。心に任たる道ならば、なじかは暫もやすらふべき、
P0254
墓なき物の書様やとて、声も惜まずをめき給ふ。やをれ有王、此島の形勢(ありさま)にて、今まで俊寛が命の有けるは、姫が文をも待見、又汝が志の切也けるに、今一度見せんとて、神明の御助にて有けるにこそ、己一人を見たれば、都の人々を皆見たる心地こそすれ、係る貌なれ共、見えぬれば三年の思ひも晴ぬ、今は疾々帰上、僧都(そうづ)には人も不(レ)付しに、京より下て訪など聞えん事も恐ありと宣へば、有王申けるは、穴うたての御心や、是程の御有様(おんありさま)にて世も恐しく命も惜思召(おぼしめし)候か、御身のゆるき、御詞のいづれは人とや思召(おぼしめし)、唯なましき骸骨の動かせ給(たま)ひ候とこそ見進候へ(有朋上P348)と申ければ、僧都(そうづ)我身は云に及ず、志深き己さへ、我故に此島にて、朽ん事の悲にこそと宣へば、有王涙を流し、老たる母をも捨て、兄弟にも角とも不(レ)申、はる/゛\と参侍し事は、命を君に奉り、身を海底に沈めんと思定て候き。一度都にて捨て侍命を、二度此島にて可(レ)惜かと申ければ、僧都(そうづ)打うなづきて、嬉しげにて、いざさらば我夜の臥所へとて具して行く。住給ふ所を見れば、巌二が迫に、竹そ木の枝を取渡し、寄来藻くづを取係たり。雨露のたまるべき様もなし。僧都(そうづ)一人入給ぬれば、腰より下は外にありて、内には又所もなし。有王はあらはにぞ居たりける。穴心憂の御住居(おんすまひ)や、今は申て甲斐なき事なれども、京極の御宿所、白川の御坊中、鹿谷御山庄まで、塵もつけじとこそ瑩立させ給しに、何と習はせる人の身なれば、懸る住居にも御座(おはしまし)ける事よ、京童部(きやうわらんべ)が築地の腹などに造りたる、犬の家には猶劣れる物ぞやとて口説泣。京より菓子少々用意して持たりけるを、取出て奉(レ)勧。僧都(そうづ)被(レ)思けるは、此等を食たり共、ながらふべきに命に非ず、
P0255
中々由なけれ共、都より我為にとて、遥々(はるばる)持下たる志を失て、打捨ん事も無念也と覚して、食やうにして宣(のたまひ)けるは、此等は指も味もよかりし上、世に珍けれども、余に疲衰たる故にや、喉乾口損じて、気味も皆忘にけりとて、指置給けるぞ糸惜き。有王申しけるは、(有朋上P349)是程の御有様(おんありさま)にては、日比(ひごろ)は何として、今迄もながらへさせ給けるぞと問ければ、僧都(そうづ)は其事也、三人被(レ)流たりしに、丹波(たんばの)少将(せうしやう)の相節とて、舅門脇(かどわきの)宰相(さいしやう)の許より、一年に二度舟を渡しし也。春は秋冬の料を渡し、秋は春夏の料にとて渡しを、少将心様よき人にて、同島に流され、同所に有ながら、我一人生て、まのあたり各を無人と見ん事も口惜かるべし。三人あればこそ互に便ともなり、又なぐさめとて、一人が食物を三人に省、一人の衣裳の新きをば我身に著、古をば二人に著せつゝ、兎角育し程は、人の体にて有しか共、去年此人々還り上て其後は事問者もなく、情を懸る人もなければ、遉が甲斐なき命の惜ければ、此人々の都にて申くつろげんなんど云しを憑みて、力の有し程は島の者のするを見習て、此山の峯に登て、硫黄を取て、商人の舟の著たるにとらせて、如(レ)形代を得て日を送り、命を継しか共、力弱り身衰て後は、山に登事も不(レ)足(レ)叶、硫黄を取事も力尽ぬ。さてもあられで、沢辺の根芹をつみ、野辺の蕨を折て、さびしさを慰しも、叶はぬ様に成果て、今はする方もなければ、浪たゝぬ日は磯に出て、岩の苔をむしりて、潮に洗て食物とし、汀(みぎは)に寄たる海松和布を取、和なる所をかみて、明し暮す、何を期する事はなけれ共、責ての命のをしさに、網引者に向ては、手を合て魚を乞ひ、釣する海人に歎ては膝を(有朋上P350)
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折て肉を貪る、得たる時は慰む、くれざる日は空く臥ぬ。角しつゝ一日二日とする程に、早四箇年にも成にれり。さて生たる甲斐有て、己を見つる嬉さよ、若此事夢ならば、覚て後はいかゞせんと、■噎(しやくり)もし敢ず泣語給けり。有王つら/\と聞(レ)之、涙の乾間ぞなかりける。僧都(そうづ)又宣(のたまひ)けるは、俊寛は懸罪深者なれば、業にせめられて、今幾ほどか存ぜんずらん、己さへ此島にて、歎事も不便也、疾々帰上と云れければ、有王尋参侍程にては、十年五年と申とも、其期を見終進侍るべし、努々御痛有べからず、但御有様(おんありさま)久かるべし共不(レ)覚、最後を見終奉らん程は、是にして兎(と)も角(かく)も労進すべしとて、僧都(そうづ)に被(レ)教、峯に登ては硫黄を堀て商人に売り、浦に出ては魚を乞て執行を養ふ。係けれども、日来の疲も等閑ならず、月日の重るに随て、いとゞ憑なく見えけるが、明年の正月十日比(とをかごろ)より打臥給(たま)ひぬ。有王は今は最後と思て立離ず看病して、兼て賢くも善知識して申けるは、再都へ帰上給はざる事、努々御妄念に思召(おぼしめす)べからず、北方も若君も、空き露と消させ給ぬ、姫君は奈良に御座(おはしま)せば、御心安(おんこころやす)かるべし、唯娑婆の定なき有様(ありさま)を思知給ふべし。仮令妻子を跡枕に居置奉、古き都にして終給とも、住馴し境界は御名残(おんなごり)惜思召(おぼしめす)べし、依(レ)之(これによつて)衆生無始より生死にめぐりて三界を不(レ)出とこそ承り候へ、富貴(ふつき)栄花も終には衰、御身に宛て(有朋上P351)可(レ)知、長命と云共必死す、昔より形を残す者なし、されば今は一筋に、今生を穢土の終と思召(おぼしめし)切て、当来には必浄土(じやうど)へ参らんと、心強願御座(おはします)べし、無益の妄念を残して、心憂き境に廻給べからず、四五箇年の流罪猶以難(レ)忍、無量億却の悪趣、出期を不(レ)知といへり。今度厭給はずは、いつをか
P0257
期給べきなど、種々教訓申ければ、僧都(そうづ)息の下に、二人は被(二)召還(一)、俊寛一人留し上は、思切てこそ有しか共、凡夫の習なれば、折々には去共と憑む心も在き、其云甲斐なし。己角理を以て云教れば思切ぬ。昔は召仕し所従、今は可(レ)然善知識也。権化の善巧歟大聖の方便歟、誠に此世の中の習、強に都へ帰ても何にかはせん、玉の簾、錦の帳も、万歳の粧にあらず、尤可(レ)厭、金台銀階、千秋の粧にあらざれば無(レ)由、其上不(レ)待(二)入息出息(一)、身なれば、朝露の日に向ふよりも危し。生死不定の命なれば、蜉蝣の夕べを待よりも短し。殊に此二三年は、歎を以て月日を運、齢傾勢衰て、悲を以て星霜を送つ、危寿に病付ぬ、浮雲の仮宿とは知ながら、墓無く我身を起て、帰洛を待き、草露の英なる命と思ながら、愚に常見を成て怨念を含、終には是山川の土なれども、捨難は血肉の身也、思へば又野外の土なれども、欲(レ)惜分段の膚也、碧緑の紺青の髪筋も、遂には塚際の芝に纏、荘厳端直柔和の姿も、亦路辺の骸骨也、尤可(レ)厭、争(有朋上P352)か悲ざらん。蘭香の家も未無常の悲を免れず、桜梅の宿も猶生死の別には迷へり、況や俊寛が有様(ありさま)、今日とも明日とも不(レ)知身なれば、過去の修因今生の現果、拙かりける我かなと、所従なれ共恥し。されば肝心を砕ても骨肉を捨ても、求べきは菩提薩■[*土+垂](さつた)の行、血髄を屠身体を抛ても、望べきは安養浄土(じやうど)の境也。徒に身を野外に捨んよりは、同は覚悟の仏道に捨べし。空く心を苦海に沈めんよりは、須迷津の船筏を儲べし。而を身命を雪山に投じ、半偈の文眼に宛たれども如(レ)不(レ)見、給仕を千歳に運し一乗(いちじよう)の説、掌に把とも似(レ)不(レ)取、悲哉無上の仏種をはらみながら、無始無終の凡夫
P0258
たる事を、痛哉、二空の満月を備ながら、生死長夜の迷情たる事を、凡此島に放るゝ初には、思に沈て岩の迫に倒臥て、今生の祈も後生の勤もなかりしか共、丹波(たんばの)少将(せうしやう)も、康頼入道も、帰洛の後は、毎日に法華経(ほけきやう)一部を暗誦し、よもすがら弥陀念仏を唱て、一筋に後世の為と廻向して今に不(レ)怠、夫来迎の金蓮には、貴も賤きも倶に乗(二)弘誓の船筏(一)には、富るも貧をも渡し給と聞ば憑あり。又妙法の二字には、諸法実相の理を兼、蓮華の両字には、権実本迹の義を含り、誠に貴御法也。昼誦夜唱る功徳、去ども後世は覚ゆれば、唯汝も念仏を勧よ、我も名号を唱んとて、明れば仏の来迎を待て、暮れば最後の近を悦で、日数をふる程に、次第(有朋上P353)に弱て云事も聞えず、息止眼閉にけり。寂々たる臥戸に、泪泉に咽べども、巴峡秋深ければ、嶺猿のみ叫けり。閑々(しづしづ)たる渓谷に思歎に沈ども、青嵐峯にそよいで、皓月のみぞ冷じき。白雲山を帯て、人煙を隔たれば、訪来人もなし。蒼苔露深して、洞門に滋れども、憐思者もなし。童只一人営つゝ、燃藻の煙たぐへてけり。荼毘事終てければ、骨を拾て頸に掛、涙に咽て遥々(はるばる)と都へ帰上にけり。奈良の姫君に奉(レ)見ければ、悶焦て泣悲事不(レ)斜(なのめならず)、さこそ有けめと想像れて無慙也。童申けるは、御文を御覧じてこそ御歎の色もまさる様に見えさせ給(たま)ひしか、硯も紙もなかりしかば御返事(おんへんじ)は候はず、思召(おぼしめさ)れし御心中、さながら空く止にきとて、恨事の次第細々と申ければ、姫君涙に咽て物も不(レ)被(レ)仰。出家の志有と仰ければ、有王丸兎角して、高野の麓天野の別所と云山寺へ奉(レ)具、其にて出家し給にけり。真言の行者と成て、父母の菩提を弔給(たま)ひけるこそ糸惜けれ。
P0259
有王も其より高野山に登、奥院に主の骨を納卒都婆を立、即出家入道して、同後世を弔ひけり。方士は貴妃を蓬莱宮に尋、金言は厳父を狄が城に尋けり。彼は恩愛の情に催され、王命の背難によて也。主を硫黄島に尋ねける、有王が志こそ哀なれ。(有朋上P354)
S1102 小松殿(こまつどの)夢同熊野詣事
治承三年三月の比、小松内府夢見給けるは、伊豆国(いづのくに)三島大明神(だいみやうじん)へ詣給たりけるに、橋を渡て門の内へ入給ふに、門よりは外右の脇に、法師の頭を切かけて、金の鎖を以て大なる木を掘立て、三つ〔の〕鼻綱につなぎ付たり。大臣思給けるは、都にて聞しには、二所三島と申て、さしも物忌し給(たまひ)て、死人に近付たる者をだにも、日数を隔て参るとこそ聞しに、不思議也と覚て、御宝殿の御前に参て見給へば、人多居並たり。其中に宿老(しゆくらう)と覚しき人に問給やうは、門前に係りたるは、いかなる者の首にて侍ぞ、又此明神は死人をば忌給はずやと宣へば、僧答て云、あれは当時の将軍、平家太政(だいじやう)入道(にふだう)と云者の頸也。当国の流人、源兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)、此社に参て、千夜通夜して祈申旨ありき。其御納受(ごなふじゆ)に依て、備前国吉備津宮に仰て、入道を討してかけたる首也と見て夢さめ給ぬ。恐し浅猿(あさまし)と思召(おぼしめし)、胸騒心迷して、身体に汗流て、此一門の滅びんずるにやと、心細く思給ける処に、妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)、折節(をりふし)六波羅に臥たりけるが、夜半計に小松殿(こまつどの)に参て案内を申入、大臣奇と覚しけり。夜中の参上不審也、若我見つる夢などを見て、驚語らんとて来たるにやと、御前に被(レ)召(有朋上P355)何事ぞと尋給へば、兼康(かねやす)畏て夢物語(ゆめものがたり)申、大臣の見給へる夢に少しも不(レ)違、さればこそと涙ぐみ給(たまひ)て、よし/\妄想にこそ、加様の事披露に不(レ)及誡宣(のたまひ)けり。
P0260
懸ければ一門の後栄憑なし、今生の諸事思ひ捨て、偏(ひとへ)に後生の事を祈申さんとぞ思立給ける。
同年五月に、小松大臣宿願也とて、公達引具し奉り熊野参詣あり。精進日数を重つゝ、本宮に著給(たま)ひて、証誠殿の御前に再拝し啓白せられけるは、帰命頂礼(きみやうちやうらい)大慈大悲証誠権現、白衣(はくえ)弟子平重盛(しげもり)驚奉、申入心中の旨趣を聞召入(きこしめしいれ)しめ給へ、父相国禅門(しやうこくぜんもん)の体、悪逆無道(あくぎやくぶだう)にして動すれば君を悩し奉る、重盛(しげもり)其長子として頻(しきり)に諌を致と云共、身不肖にして不(二)敢服膺(一)、其振舞を見に、一期の栄花猶危、枝葉連続して親を顕し名を揚ん事難し、此時に当て重盛(しげもり)苟も思へり、憖に諂て世に浮沈せん事、敢良臣孝子の法に非ず、不(レ)如名を遁れ身を退て、今生の名望を抛て、来世の菩提を求んにはと、但凡夫の薄地、是非に迷が故に、猶未志を不(レ)恣、願は権現金剛童子、子孫の繁栄絶ずして、仕て朝庭に交るべくは、入道の悪心を和て、天下安全を得せしめ給へ、若栄耀一期を限、後毘恥に及べくは、重盛(しげもり)が運命を縮て、来世の苦輪を助給へ、両箇の愚願偏(ひとへ)に冥助を仰ぐと、肝胆を砕て祈念再拝し給ふにも、西行法師が道心を発しつゝ、諸国修行に出るとて、賀茂明神(かものみやうじん)に参つゝ、通夜(有朋上P356)して後世の事を申けるにも、流石(さすが)名残(なごり)惜くて、
かしこまる四手に涙ぞ係りける又いつかもと思ふみなれば K070
と読て、涙ぐみたりけん事、急度思出給(たま)ひつゝ、袖をぞ湿し給ける。彼は諸国流浪の上人也、命あらば廻り会世も有ぬべし。是は最後の暇を申給へば、今を限の参詣也、さこそ哀れに覚しめしけめ。筑後守(ちくごのかみ)貞能(さだよし)
P0261
御供に候ひけるが、奉(レ)見けるこそ奇けれ。大臣の御後より、燈炉の火の如くに、赤光たる物の俄(にはか)に立耀ては、ばつと消え、ばと燃上りなどしけり。悪き事やらん吉事やらんと胸打騒思けれども、人にも語らず、左右なく大臣にも不(レ)申、御悦の道になり給。音無の王子に詣給たりけるに、清浄寂寞の御身の上に、盤石空より崩係るとぞ、大臣うつゝに見給ける。岩田川に著給(たまひ)て、夏の事也ければ、河の端に涼み給ふ。権亮少将已下、公達二三人河の水に浴戯れて上給へり。薄あほの帷を下に著給へるが、浄衣に透通て、諒闇(りやうあん)の色の如くに見えければ、貞能(さだよし)是を見咎て、公達の召れたる御帷浄衣に移て、などや忌敷覚候、可(レ)被(二)召替(一)と申ける。次を以て証誠殿の御前にて、念珠の時、御後に照光し事、有の儘に申ければ、大臣打涙ぐみ給(たまひ)て、重盛(しげもり)権現に申入旨有き。御納受(ごなふじゆ)あるにこそ其浄衣不(レ)可(二)脱改(一)とて、是より又悦の奉幣あり。人々奇とは思ひ(有朋上P357)けれども、其御心をば知ず、下向の後幾程なくて、後に悪き瘡の出給たれども、つや/\療治(りやうぢ)も祈誓もなかりけり。
S1103 旋風事
六月十四日、旋風夥吹て、人屋多く顛倒す。風は中御門、京極の辺より起て、坤の方へ吹以て行。平門棟門などを吹払て、四五町十町持ち行て抛などしける。上は桁梁垂木こまひなどは、虚空に散在して、此彼に落けるに、人馬六畜多く被(二)打殺(一)けり。屋舎の破損はいかゞせん、命を失ふ人是多し。其外資財雑具、七珍万宝の散失すること数を知ず、これ徒事に非とて御占あり。百日の中の大葬白衣(はくえ)の怪異、又天子の御慎(おんつつしみ)、殊に重禄大臣の慎、別しては天下大に乱逆し、仏法(ぶつぽふ)王法共に傾、兵革打続、飢饉
P0262
疫癘の兆也と、神祇官(じんぎくわん)、並陰陽寮共に占申けり。係ければ、去にては我国今はかうにこそと上下歎あへり。
S1104 大臣所労事(有朋上P358)
小松殿(こまつどの)の労、日に随て憑なき由聞ければ、入道殿(にふだうどの)より盛次を使にて、被(レ)仰けるは、御所労日にそへて大事になる由承る、心苦こそ存侍れ、何事にても御意得ある人の、いかに今まで療治(りやうぢ)はなきやらん、親に先立は不孝とこそ申侍、今日明日とも知ず老たる父母を残留めて、歎思はん事罪深かるべし、此間唐より目出(めでた)き医師の渡て、今津に著て候ふなる、折節(をりふし)然べき御運と覚え、即彼使者に具足し進すべけれども、先案内を申也と云はれたり。内府は病の床に臥て、世に侘しげに御座(おはしまし)けるが、入道殿(にふだうどの)に最後の対面の由思はれけるにや、人に扶起されて、烏帽子(えぼし)直垂にて、盛次に出合、返事被(レ)申たり。療治(りやうぢ)の事畏承候畢ぬ。尤御命に可(レ)随、但今度の労旁存ずる旨あるに依て、殊に不(レ)加(二)医療(一)、其故は重盛(しげもり)去五月に、熊野参詣して、権現に申請る旨侍き、厳重の瑞相等ありし上、今此労を受、御納受(ごなふじゆ)の故と存ず、神慮の御計凡夫の是非に不(レ)及歟、老少不定の世の習、老たる残置奉る、実に痛敷存といへ共、親に先立ためし重盛(しげもり)一人に不(レ)限、前後相違の国、本より存処なれば、強に歎思召(おぼしめす)べきに非、其上命は天の与る事なれば、必しも治術に依べからざるか。重盛(しげもり)保元平治の合戦には、命を捨て矢前(やさき)に立て振舞しかども、矢にも中らず、剣にも伐れずして、今に命を持てり。然而今年が一期の限、生涯の終りにこそ侍らめなれば、惜とも(有朋上P359)すまふとも難(レ)叶事に侍。昔漢高祖は三尺の剣を以て、諸侯を制し天下を治め
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けれども、淮南黥布を討し時、中(二)流矢(一)蒙(レ)疵、命を亡さんとせし時、高祖后呂太后、医師を迎て是を見す。医の云、五百斤の金を賜て御疵を癒さんと申しに、高祖宣く、我項羽と合戦する事八箇年の間、七十五度、去ども命を全して諍勝天下を治き。而に今天の命に背に依て被(二)此疵(一)、命は即天の与にあり、天の心を知ずして、療治(りやうぢ)を加と云とも、扁鵲何の益かあらん。但かくいへば、金を惜に似たりとて、五百斤の金をば医師に給りけれども、療治(りやうぢ)をばせずして終に失にけり。先言耳にあり、今以て甘心す。重盛(しげもり)苟も九卿に列し、三台に昇る、其運命を計るに、以て天の心にあり、争か天の心を不(レ)察して、愚に医療を致ん、況又所労若定業たらば、加(二)療治(りやうぢ)(一)とも可(レ)無(レ)益、もし又非業たらば自然に癒る事をうべし。彼耆婆が医術及ずして、釈尊涅槃に入給き。是則定業の病、癒ざる事を示さんがためなり。治するは仏体也、療するは耆婆也。定業猶医術にかゝはるべくは、豈釈尊入滅あらんや、定業治するに不(レ)足旨明けし。然れば重盛(しげもり)が身非(二)仏体(一)、名医亦不(レ)可(レ)及(二)耆婆(一)、仮令四部の書を鑑て、百療に長ずと云とも、争か有待の依身を救療せん、仮令五経の説を詳して、衆病を癒すと云とも、豈先世の業病を治せんや。若又彼治術に依て存命候はば、本朝の医道(有朋上P360)なきに似たり、若又彼医術効験なくは、面謁其詮なし。就(レ)中(なかんづく)重盛(しげもり)不肖の身ながら、天恩忝に依て、三公の一分をけがし、丞相の位に昇、本朝鼎臣の外相を以、異国浮遊の来客に見えん事、且は国の恥也、且は家の疵也、縦ひ我命を亡すと云とも、争か此国の恥を顧ざらん、彼につけ是につけ、其事有べからざる由を申べしとて、年来の侍に向給(たまひ)て、
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殊に礼儀し給ければ、盛次泣々(なくなく)罷出ぬ。入道殿(にふだうどの)に此由こま/゛\と申ければ、力及給はず。其後大臣は出家し給(たまひ)て、後世菩提の御勤より、外他事なかりける程に、終に八月一日に薨給にけり。生年四十三。五十にだにも満給はず、惜かるべき御命也。入道の老の歎申も愚也。実にさこそは思給けめ、人の親の子を思習、愚なるだにも悲し。況や当家の棟梁、朝廷の賢臣にて御座(おはしまし)しかば、恩愛の別と云家の衰微と云、争か歎悲給はざるべき。されば入道は内府が失ぬるは、併運命の末に成にこそと、万あぢきなし、いかでも有なんとぞ宣(のたまひ)ける。凡此大臣文章うるはしくして、心に忠を存、才芸正しくて詞に徳を兼ねたりければ、世には良臣を失へる事を憂ふる、家には武略の廃する事を歎く。心あらん人誰か実に嗟歎せざらん。(有朋上P361)
S1105 燈炉大臣事
此大臣、二世の悉地をなさん為に、霊神霊社に志を運、仏法僧(ぶつぽふそう)宝に首を傾け給けり。さればにや先祖に拝任の例なかりける、大臣の大将を極て、丞相の位に登給へり。親に先立御歎ばかりや御心に懸給けん、今生の栄花一として闕給はず、又後生の苦を悲みて、来世の営み他事なかりける。其中に難(レ)有事と世に聞えけるは、大臣の常に住給ける所をば、東へ十二間、南へ十二間、西へ十二間、北に十二間の屋を立て、四方に四十八の間を点じ、一方の十二間に、十二光仏を一体づつ奉(レ)立たれければ、四方に四十八体の、十二光仏御座(おはしまし)けり。其御前ごとに常燈を燃されければ、四十八の燈炉あり。晴夜の星の隈もなく、沢辺の蛍に似たりけり。上は二十歳下は十六歳、色深く身〔に〕盛に、姿人に勝形類なき美女を四十八人(しじふはちにん)選て、常燈に一人づつ付給、油を添燈を挑てぞ置れける。齢二十にも余ければ、取
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替取替居られけり。日没の時に成ければ、四十八人(しじふはちにん)の女房達(にようばうたち)、衣装花を折、蘭麝の芳を新にして、日没静に礼讃し、念仏貴く唱つゝ、四十八間をぞ廻られける。念仏礼讃終りぬれば、彼女房達(にようばうたち)六人づつ、番を結て、鼓銅■子(くどうばつし)をはやしつゝ、今様謡て、又彼四十八(有朋上P362)間をぞ廻りける。
心の闇の深きをば、燈篭の火こそ照なれ、弥陀の誓を憑身は、照さぬ所はなかりけり K071
と、別の詞を交へず、是ばかりを折返々々謡はせて、我身は中台に座し給(たま)ひ、是をぞ被(二)聴聞(一)ける。是や此極楽世界の菩薩聖衆の、弥陀覚王に奉仕して、或は説法化行し、或妓楽歌詠して、仏の化儀を助らんも、角やと思知れたり。余所迄も哀に貴く覚つゝ、身の毛も竪ばかりなり。係し故に此大臣をば、異名に燈篭の大臣とぞ申しける。
S1106 育王山送(レ)金事
我朝の三宝に、財宝を抛ち給のみに非、異国の仏陀にも志をぞ運給ける。奥州(あうしう)知行の時、気仙郡より金〔千〕三百両の金を進たりけるを、妙典と云唐人の、筑紫に有けるを召て、百両の金を賜て仰けるは、千二百両の金を大唐へ渡べし、其内二百両をば育王山の衆徒に与へ、千両をば帝に献て、当山に小堂を建立(こんりふ)して、供米所を寄進せられ、重盛(しげもり)が菩提を吊て給るべしと可(レ)申とて、檜木材木一艘漕渡べき由を下知し給ければ、妙典承て、材木砂金取具して、事故なく渡唐して、二百両を僧衆に施て、千両を帝に献じて事の子細を奏けれ(有朋上P363)ば、御門其深き志を随喜して、一塵(いちぢん)の送物猶以て黙止がたし、況千金の重宝をやとて、即檜木の材木を以て宝形作の御堂を立て、五百町の供米田を彼育王山へぞ寄られける。依(レ)之(これによつて)
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当山の禅侶、其志の真実なる事を感じて、始には息災の祈誓しけるが、薨給ぬと聞て後は、大日本国武州太守、平重盛(しげもり)神座と過去帳に被(レ)入て、読上奉吊なるこそ哀なれ。此大臣の失給ぬるは、平家の運尽ぬるのみに非ず、為(レ)世為(レ)人にも悪かるべし、入道の横紙を破給をも、直し被(レ)宥しかばこそ穏くても有つるに、こは浅増(あさまし)き事かなとぞ、上下歎ける。加様に事に触て、思慮深く、君父に仕るに私なし、賢き計をのみし給けるに、小松殿(こまつどの)常に被(レ)仰けるは、重盛(しげもり)一期の間、さしたる不覚なし、但経俊を失たりし事こそ、思慮の短至り永不覚と覚しか。
S1107 経俊入(二)布引滝(一)事
譬へば小松殿(こまつどの)、布引滝為(二)遊覧(一)御参あり、景気実に面白し。山より落岩波は、糸を乱せるかと疑れ、岸にたゝへたる淵水は、藍を染かとあやまたる。泉の妙美井揚ざれど、影涼くぞ思召(おぼしめし)ける。小松殿(こまつどの)被(レ)仰けるは、滝壺覚束(おぼつか)なし、底の深さを知ばや、此中に誰か剛者(有朋上P364)挿絵(有朋上P365)挿絵(有朋上P366)のしかも水練あると尋給ければ、備前国住人難波六郎経俊進出て、甲臆はしらず候、滝壺に入て見て参らんと申。然るべしとて免されたり。経俊は紺の■(したおび)かき、備前造の二尺八寸の太刀随分秘蔵したりけるを脇に挟で、髪を乱してつと入、四五丈もや入ぬらんと思程に、底にいみじき御殿の棟木の上に落立たりけるが、腰より上は水にあり、下には水もなし、穴不思議と思ながら、さら/\と軒へ走下たれば、水は遥(はるか)に上にあり、こは何とある事やらんと、胸打騒ぎけれ共、心をしづめてよく見んと思て、軒より庭に飛下、東西南北見廻ば、四季の景気ぞ面白き。東は春の心地也、四方の山辺も長閑にて、霞の衣立渡り、谷より出る鶯も、軒端の梅に囀、池のつらゝも打解て、岸の青柳糸乱、松に懸れる藤花、春の名残(なごり)も惜顔なり。南
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は夏の心地也、立石遣水底浄、汀(みぎは)に生る杜若、階の本の薔薇も、折知がほに開けたり。垣根に咲る卯花、雲井に名乗杜鵑、沼の石垣水籠て、菖蒲(あやめ)みだるゝ五月雨に、昔の跡を忍べとや、花橘の香ぞ匂、潭辺に乱飛蛍、何とて身をば焦すらん、梢に高く鳴蝉も、熱さに堪ぬ思かは。西は秋の心地也、萩女郎花花薄、枝指かはす籬の内、朝は露に乱つゝ、夕は風にやそよぐらん、梢につたふ■(むささび)、庭の白菊色そへて、窓の紅葉々濃薄し、妻喚鹿の声すごく、虫の怨も絶々也。北は冬の心地(有朋上P367)なり、木々の梢も禿にて、焼野の薄霜枯ぬ、降積雪の深ければ、言問道も埋れぬ、池の汀(みぎは)に住し鳥、去てはいづくに行ぬらん、峯吹嵐烈しくて、檐の筧もつらゝせり。庭には金銀の沙を蒔、池には瑠璃のそり橋、溝には琥珀の一橋を渡し、馬脳の石立、珊瑚の礎、真珠の立砂、四面を荘れり。経俊立廻て、穴目出、是やこの費長房が入ける、壺公が壺の内、浦島が子が遊けん、名越の仙室なるらんと、最面白思つゝ、暫たちたりけれ共、如何にととがむる者もなし。良立聞ば、ほのかに機織音のしければ、太刀取直して、声を知るべに内へ入見れば、年三十計なるが、長八尺も有らんと覚ゆる女也。経俊には目も懸ず、機を操て居たりけり。難波六郎問けるは、是はいづくにて侍るぞ、いかなる人の栖ぞと云ば、女答云、是は布引の滝壺の底、竜宮城也、あやしくも来者哉と云て、又も云はざりけり。経俊浅間しと思て御所の上に飛上り、棟木の上に立たれば、腰より上は水也けり。力を入て躍たれば、水の中に入、暫有て滝壺へ浮出たり。小松殿(こまつどの)待得給(たまひ)て、いかにや/\と問給へば、経俊有の儘にぞ語りける。詞未
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をはらざりけるに、滝の面に黒雲引覆、雷鳴あがりて大雨降、いなびかりして目も開きがたし。経俊は腹巻に太刀をぬき、小松殿(こまつどの)に申けるは、我は必ず雷の為に失なはれぬと覚侍り、程近く御渡あらば御あやまちもこそあらん(有朋上P368)か、少し立さらせ給(たま)ひて、事の様を御覧候へと申せば、実にさるべしとて、二町計を隔て見給へば、黒雲経俊を引廻し、雷はたと鳴かとすれば、又雷の音にはあらで、はたと鳴おとしけり。やがて空は晴にけり。其後小松殿(こまつどの)人々相具し給(たまひ)て、近く寄て見給ければ、経俊は散々(さんざん)にさけきれて、うつぶしに臥て死にけり。太刀には血付て、前の猫の足の如なる物を切落したり。係ければ、小松殿(こまつどの)常に物語(ものがたり)し給けるは、是程の大剛の者にて有けるを、思慮なく其身を亡したる事、我一期の不覚也とぞ仰ける。智者の千慮有(二)一失(一)と云は、加様の事にや。小松殿(こまつどの)薨じ給(たまひ)て後は、前(さきの)右大将(うだいしやう)の方様の者は、世は此御所へ進りなんとて悦けり。穏かなるまじき事とも知らず、加様にのゝしりけるこそおろかなれ。
S1108 将軍塚(しやうぐんづか)鳴動事
七月七日申刻に、南風俄(にはか)に吹て、碧天忽(たちまち)に曇り、道を行者夜歩に似たりければ、人皆くやみをなす処に、将軍塚(しやうぐんづか)鳴動する事一時が内に三度也。五畿七道(ごきしちだう)悉(ことごと)く肝をつぶし、耳を驚す。後に聞えけるは、初度の鳴動には洛中九万余家(よか)に皆聞え、第二度の鳴動には、大和、山城、近江、丹波、和泉(いづみ)、河内、摂津難波浦まで聞えけり。第三度の鳴動は、六十六箇国(有朋上P369)に漏なく聞えけり。昔よりたびたびの鳴動有しかども、一度に三度是ぞ始也ける。東は奥州(あうしう)の末、西は九箇国のはてまでも、聞えけるこそ不思議
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なれ。
同日の戌刻に、たつみの方より地震して、乾を指てふり持行。是も始には事なのめ也けるが、次第につよく振ければ、山傾て谷を埋、岸くづれては水をたゝへ、堂塔坊舎も顛倒し、築地たて板も破れ落て、山野の獣上下の男女、皆大地を打返さんずるにやと心うし。谷より落る滝津瀬に、棹さし渡し煩ふ筏師の、乗定めぬ心地して、良久しくぞゆられける。
S1109 大地震事
同年十一月七日戌刻に又大地震あり、夥しとも云計なし。時移る迄振ければ、唯今地を打返すべしなど申て、貴賤肝心を迷す。明る八日、陰陽寮安部泰親院参(ゐんざん)して奏聞しけるは、其夜の大地震、占文の指所不(レ)斜(なのめならず)重く見え侍り、世は唯今失なんず、こはいかゞ仕るべき、以外に火急に侍とて、軈はら/\と泣けり。伝奏の人も法皇も大に驚て思召(おぼしめし)けれ共、さすが君も臣も差もやはと覚しける。若殿上人(てんじやうびと)などは、穴けしからずの泰親が泣様や、何事の有べきぞとて笑人も多かりけり。法皇の仰には、天変地夭は常の事也、今度(有朋上P370)の地震強に騒申事、異なる勘文ありやと御気色(おんきしよく)あり。泰親勅問の御返事(おんへんじ)には、三貴経の其一、金貴経の説に云、去夜戌時の地震年を得ては年を不(レ)出、月をえては月を不(レ)出、日を得ては日を不(レ)出、不(レ)得ば時ばかりと見えたり。其中に此は日をえては、日を不(レ)出と候へば、遠は七日、近は五月三日に、御大事(おんだいじ)に及べし、法皇も遠旅に立せ御座(おはしま)し、臣下も都の外に出給べし、此事もし一言違ふ事候はば、御前に於て相伝の書籍を焼失ひ、泰親禁獄流罪、勅定に随べしと、憚処もなく、
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泣々(なくなく)奏聞しければ、旁御祈(おんいのり)始られけり。去共七日の地震、十三日までは、七箇日にあたる、其間異なる事なし。斯りければ、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)有て、泰親御前にして、荒言を吐き、叡慮を奉(二)申驚(一)条奇怪也、遠は七箇日の御大事(おんだいじ)たる由、占文其効なき上は、速に土佐の畑へ可(レ)被(二)流罪(一)と定られて、既(すで)に追立の官人に仰付らるべしとぞ定りける。去(さる)程(ほど)に同(おなじき)十四日、太政(だいじやう)入道(にふだう)福原より数千騎(すせんぎ)の軍兵を相具して上洛、何と聞分たる事はなかり侍けれ共、京中貴賤上下東西に走り迷て物騒し。或は朝家を可(レ)奉(レ)怨とも聞えけり。或は公卿殿上人(てんじやうびと)を流し失べしとも私語(ささやき)けり。其口さま/゛\也。当時の関白(くわんばく)松殿ひそかに院参(ゐんざん)して奏申されけるは、清盛(きよもり)入道が上洛は、基房事に逢べき由、内々告知する事侍り、其故は、去嘉応に、小松の資盛が乗会の事に、入道憤て無なる(有朋上P371)べきにて侍りけるを、父を内府が様々に教訓し申けるに依て、事故なく罷過候けり、悪き事を制し諌侍りし内府は薨じ侍りぬ、今は憚る処なく其遺恨をむくはんとにて候也、いかが仕り侍るべき、朝夕に拝し進する君にも奉(レ)別、住馴し都を出されて、知ざる旅にさすらはん事こそ、心うく思侍れ、御前に参ぜん事も是を最後と存ずればとて、はら/\と泣給(たま)ひ、袖を顔にあて給へば、法皇も叡慮ものうげにて、臣下何の咎有てか、さほどの罪に行なはるべき、去ば朕とても安穏なるべしとも不(レ)覚とて、又竜眼より御涙(おんなみだ)を落させ給ふ。関白殿(くわんばくどの)此御有様(おんありさま)を見進らせ、不(レ)堪思召(おぼしめし)ければ出給ぬ
S1110 静憲法印勅使事
去(さる)程(ほど)に十五日朝、故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)が子静憲法印を御使にて西八条(にしはつでう)へ遣さる。勅定には入道(にふだう)相国(しやうこく)に
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云べき様は、凡近年朝廷も不(レ)静、人の心も不調にして、世間も落居せぬ様に成行事、総別に付て歎思召(おぼしめ)せども、入道さて御座(おはしま)すれば、万事は憑思召(おぼしめし)てこそ有に、天下を鎮迄こそなからめ、事に触て嗷々の体御意を得ざる処に、剰朕を恨むなど聞召はいかゞ、こは何事ぞ人の中言歟、入道上洛の後、武士家々に充満て、京中の貴賤安堵せざ(有朋上P372)るの由、其聞あり、軍兵を引率の条、其故を知召す、異なる子細なくば、家人の騒動を可(レ)被(レ)鎮歟、若又存知の旨あらば、何事も可(レ)及(二)奏聞(一)、如(二)風聞(一)、太不(レ)可(レ)然と仰遣す。法印西八条(にしはつでう)に行向て、源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)季貞を以て此由披露したりけれ共、敢以て御返事(おんへんじ)なし。更闌日傾て、已に晩頭に及ぶ間、季貞を尋出して、御使今は罷出なんと云はせたれ共、猶以て出給はず、良久有て、子息左衛門督知盛を以て、院宣畏承候畢。抑浄海老衰て、諸事不覚なれば、院中の出仕無(レ)益、さては別に子細候はずと申たり。
S1111 浄憲与(二)入道(一)問答事
法印は、さればこそ人の云に合て、穴おそろしやと思て、震々出給けるが、立様に取敢(とりあへ)ず、高らかに、賢相明徳跼(レ)天と申、本文はいかにとて出給(たま)ひぬ。入道此句にや驚給けん、急ぎ中門に出て、遥(はるか)に帰たりける法印を呼返す。法印は我も四十二人の罪過の内に入たるよし、内々聞に、新(しん)大納言(だいなごん)の様に引張などせんずるにやと心迷しければ、足振て縁の上へ昇り煩給へり。震々中門の廊に御座(おはしまし)けれ共、うつゝ心なし。入道大に嗔れる体にて、爰(ここ)にて対面せられたり。宣(のたまひ)けるは、やゝ法印御房、御辺(ごへん)は物に心得(こころえ)給(たまひ)て、成親卿(なりちかのきやう)が謀叛の時、(有朋上P373)鹿谷の御幸をも申止られたりしと承れば、呼返奉て申候ぞ、臣下の身として争か背(二)明王(みやうわう)勅(一)侍るべき、而を自今以後は院中の奉公思止る由を申候事は、浄海
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君を恨進事一方ならず、入道君の御為に何事か御後めたなき事候、保元平治の合戦に、身を捨て、先をかけ、御命に替り進せて、逆臣をふせぎ、君の御世に成参せたる事、人の皆知たる事なれども、度々の奉公を思召(おぼしめし)忘て、入道が事とだに申せば、何事も六借事と思召(おぼしめさ)れたり。依(レ)之(これによつて)又云甲斐なき近習の者共の、勧申事に著せ給(たまひ)て、成親已下の輩に仰付て、入道を傾けんとの御気色(おんきしよく)あり。然而家門の運尽ざるによりて、今に御本意をとげさせ給はず、入道希有にして世に立廻るといへども、有てなきが如し。第一の遺恨と存ずる間、君を恨進する事僻事にて侍か、漢家本朝明王(みやうわう)の臣下を憐給事ためしおほし。吾朝には、冷泉院御宇(ぎよう)に、東夷朝家を背しかば、伊予守源(みなもとの)頼義(らいぎ)勅を奉て、貞任を攻しに、頼義(らいぎ)が末子に頼俊と云ける者、よき敵其数余多(あまた)討て、毎日に退かず進戦ける程に、流矢に中て亡にけり。頼義(らいぎの)朝臣(あつそん)いさめる心を惜み、永き別を悲て、天に仰で歎由聞召ければ、帝御自筆に金泥を以て、屍骸成仏(じやうぶつ)の真言をあそばして、此を亡骨に具して墓に埋ば、其亡骨必成仏(じやうぶつ)すべし、天子の御志幽霊が成仏(じやうぶつ)、頼義(らいぎ)争か悦ざらんと、勅書を遊して奥州(あうしう)へ送下させ給たりけれ(有朋上P374)ば、父頼義(らいぎ)忽(たちまち)に別離の歎を止て、勅命の忝に、歓喜の涙を流しけり。
後三条院(ごさんでうのゐんの)御宇(ぎよう)に、江中納言親信卿の母儀、長病に臥て三年、死たるにも非、生たるにも非、子孫眷属日夜に愁歎し、朝暮に涙を流すよし聞食(きこしめし)ければ、帝大に悲みまし/\て、彼母儀病悩の間は、雲の上に物の音を鳴らすべからずと御諚有ければ、一千日に及まで、管絃を奏する人なかりき。
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白川院【*白河院】(しらかはのゐんの)御宇(ぎよう)には、承暦元年の春、藍婆鬼と云鬼、京中に充満て、十歳以前の小者、十が八九は取失はれければ、上下男女家々の歎親々の悲、帝聞食(きこしめし)、其春は子日の御会なかりけり。
堀川院(ほりかはのゐんの)御宇(ぎよう)には、御随身清房が、三黒と云小馬を賜て、庭乗仕りける程に、沛艾の馬に悪様に乗つゝ、落て則死ければ、帝耄したる老父が盛年の子を先立て、左こそ歎思らめ、且は清房が没後をも弔ひ、且は老父が心をも慰とて、河内国に所領一所を給りたる事も候けり。
鳥羽院(とばのゐんの)御宇(ぎよう)には、顕頼民部卿、指たる忠臣迄は御座ざりけれ共、昇霞の煙哀也とて、御立願の八幡詣、御代官を以てはたさせ御座(おはしまし)けり。
同御宇(ぎよう)に、忠貞宰相闕国有しかば、宰相大に歎つゝ、都を出て片辺に引籠たりければ、帝遠山の篭居、最不便也とて、御衣を脱で送給たりければ、忠貞卿老眼に紅の涙を流して、持仏堂に有ながら、発願持経より先に、先王宮に向て、三度まで君を拝しけるとなり。又唐太宗文(有朋上375)皇帝は、剪(レ)鬚焼(レ)薬、功臣李勣賜、含(レ)血吮(レ)瘡、戦士思摩で助けり。又魏徴大臣と云臣下に後れ給(たまひ)て、御歎の余りに、
昔殷宗夢中得(二)良弼(一)、今朕夢〔の〕後失(二)賢臣(一)
と云碑文を、自書て、魏徴が廟に立て悲給けり。凡明王(みやうわう)の臣下の歎を慰訪給例、不(レ)知(二)其数(一)。以(レ)是父よりも眤、子よりもなつかしきは、君と臣との道とこそ承候へ、口惜こそ候しか、重盛(しげもり)が中陰未四十九日も過ざるに、八幡の御幸有て御遊(ぎよいう)候けり、法住寺(ほふぢゆうじ)の御会も候けり、哀不便の仰こそなから
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め、人目の恥かしさ、入道が伝承らん事、などか御かへりみもなかるべき。御房も御存知候らん、小松内府は其器こそ愚に候しかども、勅定には忠を抽で、志を運き。されば保元平治の合戦にも、命をば為(レ)君軽じ、屍をば戦場に捨んとこそ挙動侍しか、及(二)天聴(一)人口にもほめられき。其後大小度々の騒動も、毎度に選れ進せて、院宣と申勅命と申、旁御感に不(レ)預と云事なし。されば越前国を重盛(しげもり)が給し時は、子々孫々(ししそんぞん)までとこそ被(二)仰下(一)しか、それに重盛(しげもり)逝去の後、即被(二)召上(一)之条、死骸何の過怠か候。其外中納言の闕の侍し時、二位中将殿(ちゆうじやうどのの)御望候の間、入道再三執申しに空くして、関白殿(くわんばくどの)の御子息(ごしそく)、三位中将殿(ちゆうじやうどの)、非分になられたりし事、縦入道何なる非拠を執申と(有朋上P376)も、一度はなどか御許容なかるべき。況家の嫡々と云位階の次第と云、旁御理運にて御座を、被(二)引違(一)し事、老後の所望面目を失侍き。二位中将殿(ちゆうじやうどの)も申かなへんずらんと思給へばこそ、入道をば被(二)憑仰(一)けめ、入道も又さり共(とも)とこそ存じて奏申しに、不(レ)叶しかば、口惜こそ存しか。但し是は君の御計のみに非、執申人余多(あまた)侍りけると承及き。次に近習の人々、此一門を亡さんと相はからはれける、是又私の計にあらず、叡慮の趣を守る故也。いまめかしき申事には侍れども、縦入道何たる過誤り有共、七代迄は争か思召(おぼしめし)捨らるべき。其に入道既(すで)に七旬に及で余命幾ならず、一期の間にも、動すれば可(レ)被(レ)失御計に及申さんや。子孫相続して、一日片時召仕るべき事難し。凡は老て子を失は、朽木の枝なきに喩たり。内府におくるゝを似て、運命の末に望める事を且知れ候ぬ。去ばこそ天気の趣も、現申事も軽く、人望にも背き侍らめ。何なる奉公
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を致とも、叡慮に応ぜん事よもあらじ。此上は幾ならぬ身心をつひやしても、何にせんなれば、兎ても角ても侍なん。悪事不孝の子すら別は悲事ぞかし。何に況重盛(しげもり)は奉公と申才芸と申、至孝と云心操と云、礼儀よく治て、人是を軽ぜず、永き別の習なれば、再相見べきにあらず、恩愛の慈悲骨髄に徹て悲こそ存ぜしに、老父が歎き思召(おぼしめし)よりて、などか一度の御憐なかるべき。(有朋上P377)されば院中の奉公無(レ)益に侍と、憚処なく被(レ)申ても、入道はら/\とぞ泣給ける。静憲法印も流石(さすが)哀にも覚え、又恐しくも有ければ、汗水になられにけり。此時には一言の返事にも及難かりける事ぞかし。其上我身も僧ながら近習の者也。成親卿(なりちかのきやう)已下の事も正く見し事なれば、我も其人数に思けがされて、唯今もいかなる目にかあはんずらんと、兎角案じ思けるに、竜の鬚を撫、虎の尾を蹈心地せられけれ共、法印もさる人にて、騒ぬ体にもてなして、答られけるは、誠に度々の御奉公不(レ)浅、一旦恨み申させ給ふ旨、御理と覚え侍り。其中に殊に親子恩愛の道は、老牛舐(レ)犢、牝虎含(レ)子志、水畜(二)淵魚(一)野獣山禽に至まで、情深しと申す。況朝家の寵臣、明徳賢才の御子を先立御座(おはしま)する、老相の御歎、余所の袂(たもと)も皆絞り煩てこそ候しかとて、法印も良久泣給へり。去て法印涙を押のごひ、袖かき合て申されけるは、不肖の身を以て、御返報に及条、其恐不(レ)少といへども、且は仙洞に御過なきを、人の悪様に申入ける事を、陳開て、御鬱念をも謝し申べし。貞観政要の裏書に、思合る事あり。仙源雖(レ)澄、烏浴(二)濁流(一)とて、仙宮より流出る河は、仙人集て仙薬を洗すゝぐ故に、下流を汲者までも必長命也。而を其河
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の中間に、陰山の烏其流をあぶる時、水還て毒と変ずといへり。其様に法皇の政徳は、仙宮の水の如く、万庶を哀で其源を澄し御座(有朋上P378)せども、執申人下流を濁して、入道殿(にふだうどの)に悪様に申入たりと覚侍り。努々御恨あるまじき御事なり。但何様にも院中の御奉公を、思召(おぼしめし)止らん事、能々御思慮有べき也。世の為御為に、つら/\愚案を廻すに、明王(みやうわう)為(二)一人(一)不(レ)枉(二)其法(一)、日月為(二)一物(一)不(レ)暗(二)其明(一)と云文あり。通三の主明一の君、争御徳政に私を存御座(おはします)べきなれども、智者千慮有(二)一失(一)、愚者千慮有(二)一徳(一)と申事も侍ば、たとひ叡慮御あやまり有て、千万に一つ人望に背、法に相違する事侍ば、臣下の御身としては、何度も我御あやまりなき旨を陳じ可(レ)被(レ)申、是忠臣の法也。君雖(レ)不(レ)為(レ)君、臣以不(レ)可(レ)為(レ)臣といへり。其に小賢き申状恐なる事にては候へども、法皇は君なり、入道殿(にふだうどの)は臣也。下として上を奉(レ)恨、臣下として悩(レ)君給はん事、只仁義を忘れ給のみにあらず、恐くは天地の御とがめ不(レ)可(二)遁給(一)。世を不(レ)遁家を不(レ)捨して、居(レ)位貪(レ)禄ながら、御出仕を停止し給はん事、天地の御意計難。尚も能々御計ひあらば、且神明も納受(なふじゆ)をたれ、御家門繁昌の基にて侍るべし。抑承処の条々の御恨の事、先八幡宮の御幸は、哀なる御事にてこそ侍りしか。其故は、あへなくも、重盛(しげもり)に後れぬる事、朕一人が歎のみに非ず、臣下卿相(けいしやう)普天卒土、誰か愁へざらんや、金烏西に転じて一天暗く、邪風頻(しきり)に戦四海不(レ)静と、御定有て、日々夜々(よなよな)の御歎、今に未不(レ)浅、勅定に臨終いかゞ(有朋上P379)有けんと、御尋(おんたづね)候しかば、或雲客(うんかく)、其病患は悪瘡にて候ける間、瘡の習臨終乱れず、正念に住して、二羽合掌の花鮮に、十念称名の声絶
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ず、三尊(さんぞん)来迎の雲聳て、九品蓮台の往生とこそ見えて候しかと申せば、竜顔に御涙(おんなみだ)を流させ給のみに非ず、宮中皆袖を絞られて、当時までも折に随事に触ては、御歎の色ところせくこそ見えさせ給候へ。さて法皇の仰には、生死は定れる習、惜とも力なし、何事よりも心肝に銘じて浦山しき事は、往生極楽の一事也。入道も歎の中に嬉くこそ存らめ。熊野参詣の時申請る旨有とて、療治(りやうぢ)をもせざりけるも、はや此一大事に有けり。朕も熊野山に参て祈申たけれ共、道の程も遥也、人の煩とも成べし。つら/\案ずるに、同じ西方の弥陀にて御座(おはしま)せば、八幡宮へ参詣して、往生を祈申さばやと思召(おぼしめす)也。且は内府の為に、毎日に祈念する、念仏読経して、廻向も清浄の霊地にしてこそ、金をも鳴さめとて、七日の御参篭候ひき。是則内府幽儀の得脱、又大相国(たいしやうこく)の御面目、何事か過(レ)之侍べき。されば御中陰(ごちゆういん)終給なば、急ぎ御院参(ごゐんざん)有て、畏をこそ申させ給はざらめ、還て御恨にや及べき。仙源の水清けれども、山烏流を穢すと云たとへ、少も違はずと被(レ)申ければ、立腹なる人の習、心浅くして、入道袖かき合て、声を上てさめ/゛\とこそ泣給(たま)ひけれ。
次八幡宮の御遊(ぎよいう)とは、臨時の祭の事を悪様に申たるに(有朋上P380)こそ、是又竜楼鳳闕の御祈祷(ごきたう)に侍りき。其故は、去此八幡宮に怪異頻(しきり)に示しけるを、別当恐て護法を下し進せたりけるに、御託宣(ごたくせん)の御歌に、
春風に花の都は散ぬべし榊の枝のかざしならでは K072
と詠じて、畿内近国闇と成て、九民百黎山野に迷ぬべしと仰候けるを、法皇大に驚き思召(おぼしめし)て、臣下卿相(けいしやう)
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息災延命、洛中上中五畿七道(ごきしちだう)、安穏泰平の為に、三日三夜の御神楽の候し事、明王(みやうわう)明君の御徳政にこそ。洛中上下の為なれば、御家門の御祈(おんいのり)にも非や、故内府は大国までも聞え御座(おはしまし)し賢臣にて、常に国土安穏人民快楽と祈らせ給し事なれば、彼御神楽をば、小松殿(こまつどの)は草の陰にても、さこそ悦御座(おはしまし)けめと覚候。此上、なほ御不審相残らば、八幡の別当に御尋(おんたづね)あるべく候哉。次に越前国を被(二)召返(一)けん事は未(二)承及(一)、君思召(おぼしめし)忘させたるにや、便宜を以て急ぎ奏聞仕て、若子細あらば遂て可(二)申入(一)候。
次に二位中将殿(ちゆうじやうどの)御所望の事は、必しも入道殿(にふだうどの)の御子孫にても渡らせ給はず、強御憤(おんいきどほり)深かるべき御事ならず。去ば故小松殿(こまつどの)、並前(さきの)右大将殿(うだいしやうどの)などの御昇進の時は、理運数輩の人々を超越せられしか共、臣下も恐をなして申旨もなく、君も子細に不(レ)及御事とこそ承しか。其上叙位除目、関白殿(くわんばくどの)の御計なれば、誰か難(レ)申侍べき。縦又一度は君の御あやまりに渡らせ給とも、臣(有朋上P381)以不(レ)可(レ)不(レ)為(レ)臣と申、本文も候ぞかし。所詮御家門に於て、君のとかくなんと被(二)聞召(一)(きこしめさるる)事は、偏(ひとへ)に謀臣の凶害と覚候。信(レ)耳疑(レ)目俗弊なり。少人の浮言を信じて、まのあたり朝恩の他に異なるを蒙て、君を背奉らん事、冥顕に付て其憚不(レ)少。凡天心蒼々として、叡慮量り難し、定て其故ぞ候らん、下として上に逆る事、豈人臣の礼たらんや、能々可(レ)有(二)御思慮(一)、又仰の趣伺(二)便宜(一)て可(二)奏申(一)、さらば暇申てとて、法印座を立給ければ、入道高らかに、院宣の御使也、各礼儀申べしと宣ければ、侍諸大夫等、八十余人(よにん)有けるが、一同に皆庭上に下て門送す。法印最騒ぬ体にて、弓杖三杖ばかり歩出て、立帰て深く敬屈して立帰られて
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御座(おはしま)しければ、さのみは恐候とて、八十余人(よにん)皆縁の際に立帰る時、法印も歩給にけり。美々敷ぞ見えたりける。法印は穴いちじるしき人の心や、今朝の対面の遅さ無興さの有様(ありさま)に、唯今の泣様送礼の体、説法しすましたりと咲くぞ思はれける。法印出給ければ、入道も内に入給ぬ。さて人々申けるは、聞つるに合て、あはれ、さか/\しき人かな、是程に入道の泣口説給はんには、我等(われら)ならば院中の有事無事吐ちらして、追従してこそ出べきに、還て様々奉(二)教訓(一)、一々の返答文々句々、面白申されつる者かな、入道殿(にふだうどの)の日比(ひごろ)の御憤(おんいきどほり)事の外に蕩てこそ見え給(たま)ひつれ、三分が二は今の案にてこそ御座らめど(有朋上P382)も、時に臨で然べくも申つゞけ給たれば、邪雲も少晴給ぬらんと覚るにぞ目出けれと、悦人多かりけり。肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)が、道理也、去ば社中に僧俗多き中に選れて、御使にも立られめとて褒たりける。
或本文云、君王治(レ)国、忠臣扶(レ)君、船能載(レ)棹、棹能遣(レ)船と也。此言思合られて哀也。静憲法印忠臣として、よく君を奉(レ)扶事こそ神妙(しんべう)なれと、口々にこそ感じけれ。時は十一月十五日夜の事也。法印は西八条(にしはつでう)の南門より出給へば、明月は東山緑の松の木の間よりこそ出たりけれ。法印の胸に籠れる心月は、三寸の舌の端に顕て、入道の心の闇を照し、中冬十五日の夜半の月は、蒼天の空に円にして、法印の帰る車を耀せり。牛飼既(すで)に車を遣んとしければ、法印宣様、車暫押へよ、夜陰の行は路次狼藉也、迎の者共を待べしとて、下簾を■(かかげ)て、今夜の月の隈なきに、旧詩を思出て、
誰人(たれのひとか)隴外久征戎、何処庭前新別離、
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不(レ)酔(二)黔中(一)争去得、磨囲山月正蒼々、 K073
と詠じ終給はざる処に、迎の者ども出来れり。誰々参たるぞと尋給へば、金剛左衛門俊行、力士兵衛俊宗と、侍二人、烏黒なる馬に、白覆輪の鞍置て、漁綾の直垂の下に、火威の腹巻月の光に耀て、合浦の玉を瑩けるが如なり。市夜叉、滝夜叉とて、大の童のみめよきを二人、(有朋上P383)滋目結の直垂に、菊閉して、下腹巻に矢負たり。上下の弭に角入たる、滋藤の弓をぞ持たりける。下僧には、金力、上一、上万、金幢地、円覚、一夜叉、門能印、已上七人、此等も皆黒革威の腹巻に、手鋒長刀持ちたりけり。此静憲法印は、父信西入道の跡を遂、内典外典の学匠(がくしやう)、僧家俗家の才人にて、院内御気色(おんきしよく)も目出、上下万人誉を成、綺羅誠に神妙(しんべう)にして、言語殊に鮮也。召仕給ける従類は、能も賢く力も人に勝れたりけり。
S1112 金剛力士兄弟事
< 金剛左衛門、力士兵衛と云侍は、兄弟也。熊野生立の者、十八歳にして五十人が力持たりける、剛の者也。熊野に有りける時、或人南庭に池を堀けるに、大石を堀出せり。五十人して此石を引すてんとしけれ共、さらに動く事なし。大勢にて明日引べしとて人皆帰ぬ。其傍に僧坊あり。皆石とて十八〔歳〕になる児の有けるが思けるは、五十人して引ども動かぬは、人の弱か石の重歟覚束(おぼつか)なしとて、うらなしと云物をはきて庭に下、夜中に人にしられぬ様にて此石を引見れば、安々と動けり。去ばこそ石は軽かりけり。人の弱と思ければ、件の石を二段計引て行、或僧坊の門に引塞て置。明朝に坊主起て門を見れ(有朋上P384)ば、大石道を塞て可(二)出入(一)様なし。天狗の所為にやと身毛竪てこれを披露すれば、上下集て不思議の思をなす。金剛力士の所為歟、四天大王の態歟、又鬼神の集て引たるかとて見程に、庭のうらなしの跡あり。跡をとめて行て見れば、皆石と云児の坊へ尋ね至れり。縁の上にうらなしあり。妻戸を開て児を見れば、
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兄弟二人の児あり。兄は皆石十八、弟は皆鶴十五になる。皆鶴は未臥たり、皆石は唯今起たる体にて、寝乱髪ゆり懸て琴を調て居たり。文机には、史記、文選、歌双紙など並置たり。美目貌厳して、西施が顔色にも過てあてやかなり。帰鴈のつらをなせる柱の上に、白く細やかなる手付、衣通姫の容貌潔し。去ば彼やさしき姿にも、五十人が力に勝て、一人して二段計大石を引ける事よと不思議也。千字文と云文に、器欲(レ)難(レ)量といへり。実に稚けれども力つよき者も有けり。鉄は小〔に〕して強き万物に勝、竜子は小なれ共雲を起す事も大竜に同じ。伽那久羅虫はすはう螺の下にかくれて大木を砕く風を起す。栴檀は二葉なれども四十里の伊蘭を消し、天の甘露は少しきなれ共諸病を愈す。火は芥子計なれども一切の物を亡し、仏は■蒭の勢に御座共、一切衆生の導師たり。皆石十八歳の齢にて五十(ごじふ)余人(よにん)が力を持たりけり。器欲(レ)難(レ)量と云も理也など云沙汰しける折節(をりふし)、静憲法印熊野参詣の次に、此児の(有朋上P385)事を聞給(たまひ)て、皆石皆鶴、兄弟二人を請出て見参し給たり。此児の師匠に、祐蓮坊阿闍梨(あじやり)祐金に対面して、此児童兄弟はいかなる人ぞと尋ね給へば、祐金答申て云、母にて侍し者は、夕霧の板とて山上無双の御子、一生不犯の女にて候し程に、不(レ)知者夜々(よなよな)通事有て儲たる子どもとぞ申侍し。其御子離山して、今は行方を不(レ)知と申す。法皇宣(のたま)ひけるは、美目よき同宿を尋る身にて侍、兄弟両人ながら静憲に賜候へかし。院内の見参にも入、所領官爵をも申て、人目よき様に扶持せんと所望し給へば、祐金阿闍梨(あじやり)老眼より涙をはら/\と流して、赤子の時より養育して、成人の今まで立離るゝ事候はず、十余年の芳契名残(なごり)実に惜く侍れども、彼等世にあらん事をこそ、神にも仏にも祈り申事なれば、然べき事にこそと悦て、二人の児を奉る。阿闍梨(あじやり)も又もと思ふ、見参も難(レ)叶ければとて、京まで二人を送けり。祐金暇申て帰り下るとて、児を左右の袂(たもと)にかゝへて申けるは、定めなき浮世の習は、風にちる花のためし、雲にかくるゝ月の理り、老少互に前後を知ざれ共、若きはさすが憑あり、祐金齢已に八旬に及、残月幾なし、是最後の別なり。後生菩提は助弔給へ
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とて衣の袖を濡しけり。二人の児は、住馴れしふる里も、山川遥(はるか)に立隔ぬ。父とも母とも深く憑て、十余年芳恩を蒙りし、師範の名残(なごり)も惜ければ、袖をし(有朋上P386)ぼりけり。さて祐金は熊野へ帰下、又児童は京都に留て、法印をぞ憑ける。後には元服(げんぶく)して、皆石は金剛左衛門、皆鶴は力士兵衛とぞ改名したる。兄弟共に大力也ければなり。金剛左衛門は、下針をも射る上手也ければ、異名には、養由左衛門共云。力士兵衛は射的の上手にて、百手の矢を以、的を州浜形に射成ければ、異名には州浜兵衛とも云けり。法印は弟子ながらも、子の如くに最惜して、一日も身を離たれず、殊に出仕交衆の時は、影の如くに身に随へて、此等二人を具せられぬれば、数十人の郎従を引率したる心地して、最憑しくぞ思れける。市夜叉、滝夜叉と云童も、二人ながら二十人が力あり。小法師原(ほふしばら)も一人当千(いちにんたうぜん)の奴原也ければ、法印何事か御座らんとて、迎に参たりけるなり。余所の人目までも、きら/\しくぞ見え給ふ。牛飼車を遣出して、御所へ仕候べきか、清水の御坊へかと申せば、法印は夜已に深更也、御所は定て御寝ぞ御座(ござ)あるらん、早旦に可(レ)参と仰ければ、小路きりに東山へぞ遣て行。雲井に照す月影は、寒行霜に隈もなく、鴨の河原に鳴千鳥、瀬々の波にぞまがひける。五更(ごかう)の空も黎明に、清水の坊に入給ふ。>
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十二
P0283(有朋上P387)
遠巻 第十二
S1201 大臣以下流罪事
治承三年十一月十五日、入道奉(レ)恨(二)朝家(一)由聞えしか共、静憲法印院宣の御使にて、様々会釈申ければ、事の外にくつろぎ給たり。上下大に悦で、今はさしもやはと人々思被(レ)申けるに、四十二人の官職を止て、被(二)追籠(一)。その内参議皇太后宮(くわうたいごうぐう)権大夫兼右兵衛督(うひやうゑのかみ)藤原光能卿(みつよしのきやう)、大蔵卿(おほくらのきやう)右京大夫兼伊予守高階泰経朝臣、蔵人右少弁(うせうべん)兼中宮権大進藤原基親朝臣、以上三官被(レ)止。按察使大納言(だいなごん)資賢卿、中納言師家卿、右近衛権少将兼讃岐権守資時朝臣、大皇太后宮権少進兼備中守藤原光憲朝臣、已上被(レ)止(二)二官(一)。上卿は藤大納言(だいなごん)実国、職事左少弁(させうべん)行隆、別当平(へい)大納言(だいなごん)時忠とぞ聞えし。
当時関白(くわんばく)太政大臣(だいじやうだいじん)基房公〈 松殿と申 〉をば、太宰権師に奉(レ)移、筑紫へ奉(レ)流。住馴し都を別れ、悲き妻子を振捨、遠旅に出させ給ければ、係る浮世にながらへて何にかはせんと覚召、つや/\物も進ず、御命も危く聞えさせ給けるが、思召(おぼしめし)切せ給(たま)ひ、大原(おほはら)の本覚坊の上人を召して、淀に古川と云所にて、御出家(ごしゆつけ)(有朋上P388)受戒あり、御年三十五。世中御昌りにて礼儀よくしろしめし、曇なき鏡にて御座(おはしまし)つる御事をと、上下奉(レ)惜。入道は、出家の人をば、本の約束の国へは遣ぬ事にてある也とて、筑紫へはさもなくて、備前国湯迫と云所へぞ奉(レ)流ける。大臣流罪の事、左大臣蘇我赤兄、右大臣豊成公、左大臣魚名公、右大臣菅原、
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右大臣高明公、内大臣(ないだいじん)藤原伊周公等に至るまで六人也。されども清和(せいわの)帝御宇(ぎよう)、摂政(せつしやう)にて太政大臣(だいじやうだいじん)良房〈 忠仁公 〉白川殿〈 又染殿 〉小松帝御宇(ぎよう)、関白(くわんばく)にて太政大臣(だいじやうだいじん)基経、〈 昭宣公 〉堀川(ほりかは)殿と申より以来、帝皇廿四代、摂録十八代、摂政(せつしやう)関白(くわんばく)流罪の事是を始とぞ申ける。按察使大納言(だいなごん)資賢子息左少将通家孫、右少将雅賢三人京中を可(二)追出(一)由、博士判官中原章貞に被(二)下知(一)ければ、追立検非違使(けんびゐし)来て、遅々と責追けるこそいと悲けれ。恐しさの余に北の方に物をだにもはか/゛\しく不(二)宣置(一)、子孫引具して出給ふ。仮初のありきにだにも、馬よ牛よ輿ぞ車ぞとて、あたりを払、綺羅を研てこそ出入給しに、浅間敷(あさましき)賤がはきものわらぐつなど云物をはき給(たまひ)て出給へば、北方より始て女房侍に至る迄、無人を送出す様に喚叫事不(レ)斜(なのめならず)。三人夜中に出給ける上に、落る涙にかきくれて、行先も見え給はず。心うや配所を何所とだに定ぬ事よと悲くて、九重の内を紛れ出て、八重立雲の外へ、足に任て這々、彼大江山、生野の道を越過て、丹波(有朋上P389)国村雲と云所にぞ暫さすらひ給ける。後には召返されて信濃国(しなののくに)奥郡へ流され給けり。此資賢卿は今様朗詠の上手にて、院の近習者当時の寵臣にて御座(おはしま)しければ、法皇諸事内外なく被(二)仰合(一)けるに依て、入道殊にあたまれけるとかや。
同七日に妙音院太政大臣(だいじやうだいじん)師長は、参河国へとは披露有けれども、実には尾張国井戸田へ流罪とて、都を出され給けり。此大臣は去保元元年に、中納言中将と申て、御歳二十にて御座(おはしまし)ける時、父宇治悪左府(あくさふ)の世を乱り給し事に依て、兄弟四人土佐国へ流され給たりけるが、御兄の右大将(うだいしやう)兼長卿も、御弟の左中将
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隆長朝臣も、範長禅師も、配所にて失給にき。此は九年をへて、長寛二年六月廿七日に被(二)召返(一)、其年の閏十月十三日に本位にかへし、次年八月十七日(じふしちにち)に正二位(しやうにゐ)し給(たまひ)て、仁安元年十一月五日、前中納言より権大納言(ごんだいなごん)に移り給ふ。大納言(だいなごん)のあかざりければ、員の外に加給けり。大納言(だいなごん)六人になる事、是より始れり。又前中納言より、大納言(だいなごん)に移る事も、先蹤希也とぞ承る。阿波守藤原真作の子後山階大臣三守公、源大納言(だいなごん)俊賢の子、宇治大納言(だいなごん)隆国卿の外、其例希也。此大臣は管絃の道に達し、才芸人に勝れ給(たまひ)て、君も臣も奉(レ)重しかば、次第の昇進不(レ)滞、程なく太政大臣(だいじやうだいじん)に上らせ給へりしに、いかなる事にて又係御目に合せ給らんと、人々歎申けり。十六日(じふろくにち)の晩に、山階まで出奉りて、同(おなじき)十七日(じふしちにち)の(有朋上P390)暁深く出給へば、会坂山に積る雪、四方の梢も白して、遊子残月に行ける、函谷の関を思出て、是や此延喜第四の御子、会坂の蝉丸、琵琶を弾じ和歌を詠じて嵐の風を凌つつ、住給けん藁屋の跡と心ぼそく打過て、打出浜、粟津原、未夜なれば見分ず。抑昔天智天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、大和国(やまとのくに)飛鳥の岡本の宮より、当国志賀郡に移て、大津宮を造たりと聞にも、此程は皇居の跡ぞかしと思出て、あけぼのの空にも成行ば、勢多唐橋渡る程、湖海遥(はるか)に顕て、彼満誓沙弥が比良山に居て、漕行舟の跡の白波と詠じけんも哀也。野路宿にも懸ぬれば、枯野の草に置る露、日影に解て旅衣、乾間もなく絞りつゝ、篠原の東西を見渡せば、遥(はるか)に長堤あり。北には郷人棲をしめ、南には池水遠く清めり。遥(はるか)の向の岸の汀(みぎは)には、翠り深き十八公、白波の色に移りつゝ、南山の影を浸ねども、青して滉瀁たり。州崎にさわぐ鴛鴦鴎
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の、葦手を書ける心地して、鏡宿にも著ぬれば、むかし扇の絵合に、老やしぬらんと詠じけんも、此山の事也。去(さる)程(ほど)に師長は武佐寺に著給ふ。峰の嵐夜ふくる程に身に入て、都には引替て、枕に近き鐘の声、暁の空に音信(おとづれ)て、彼遺愛寺の草庵の、ねざめも角やと思知れつゝ、蒲生原をも過給へば、老曽森の杉村に、梢に白く懸る雪、朝立袖に払ひ敢ず、音に聞えし醒井の、暗き岩根に出水、柏原をも過ぬれば、美濃国関山(有朋上P391)にも懸りつゝ、谷川雪の底に声咽嵐、松の梢に時雨つゝ、日影も見えぬ木の下路、心ぼそくぞ越え給ふ。不破の関屋の板廂、年へにけりと見置つゝ、妹瀬川にも留給ふ。此は霜月廿日に及ぶ事なれば、皆白妙の晴の空、清き河瀬にうつりつゝ、照月波もすみわたり、二千里外古人心、想像旅の哀さ最深し。去(さる)程(ほど)に尾張の井戸田の里に著給。保元の昔は西海土佐の畑に被(レ)遷て、愛別離苦の怨を含、治承の今は、東関尾張国へ被(レ)流、怨僧会苦の悲を含給。但し心ある人は皆罪なくして、配所の月を見んと願事なれば、大臣彼唐太子賓客白楽天の、元和十五年の秋、九江郡の司馬に被(二)左遷(一)、潯陽江側に遊覧し給ける古きことに思慰て、鳴海潟塩路遥(はるか)に遠見して、常は朗月を望、浦吹風にうそぶきつゝ、琵琶を弾じ和歌を詠じて、等閑に日を送り給けり。或夜当国第三宮、熱田の社に詣し給へり。年へたる森の木間より、漏り来月のさし入て、緋玉垣色をそへ、和光(わくわう)利物の榊葉に、引立標縄の兎に角に、風に乱るゝ有様(ありさま)、何事に付ても神さびたる気色也。此宮と申は、素盞烏尊(そさのをのみこと)是也。始は出雲国の宮造りして、八重立雲と云三十一字の言葉は此御時より始れり。景行天皇(けいかうてんわうの)御宇(ぎよう)に此
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砌(みぎり)に跡をたれ給へり。(有朋上P392)
S1202 師長熱田社琵琶事
師長公終夜(よもすがら)為(二)神明納受(なふじゆ)(一)、初には法施を手向奉り、後には琵琶をぞ弾じ給ける。調弾数曲を尽し、夜漏及(二)深更(一)で、流泉、啄木、揚真藻の三曲を弾給処に、本より無智の俗なれば、情を知人希也。邑老村女魚人野叟参り集り、頭を低欹(レ)耳といへども、更に清濁を分ち、呂律を知事はなけれ共、瓠巴琴を弾ぜしかば魚鱗踊躍き。虞公謌を発せしかば、梁塵動揺けり。物の妙を極る時は、自然の感を催す理にて、満座涙を押へ、諸人袂(たもと)を絞けり。増て神慮の御納受(ごなふじゆ)さこそは嬉く覚すらめ。暁係て吹風は、岸打波にや通らん、五更(ごかう)の空の鳥の音も、旅寝の夢を驚す。夜もやう/\あけぼのに成行ば、月も西山に傾く。大臣御心をすまして、初には、
普合(二)調中(一)花含(二)粉馥気(一)、流泉曲間月挙(二)清明光(一)、
と云朗詠して、重て、
願以(二)今生世俗文字業狂言綺語之誤(一)、翻為(二)当来世々讃仏乗之因転法輪之縁(一)、
〔と〕被(レ)詠て、御祈念と覚しくて、暫物も仰られず。良ありて御琵琶を掻寄て、上玄石像と云(有朋上P393)秘曲を弾澄給へり。其声凄々切々として又浄々たり。■々(さうさう)窃々(せつせつ)として錯雑弾、大絃小絃の金柱の操、大珠小珠の玉盤に落るに相似たり。御祈誓の験にや、御納受(ごなふじゆ)の至か、神明の感応と覚くて、宝殿大に動揺し、■振(ちはやふる)玉の簾のさゞめきけり。霊験に恐て大臣暫琵琶を閣給けり。神明白貍に乗給示して云、我天上にしては文曲星と顕て、一切衆生の本命元辰として是を化益し、此国に天降ては、赤青童子と示し
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て、一切衆生に珍宝を与、今此社壇に垂跡(すいしやく)して年久。而を汝が秘曲に不(レ)堪、我今影向せり。君配所に下り給はずは、争此秘曲を聞べき、帰京の所願(しよぐわん)疑なし、必復本位給べしと御託宣(ごたくせん)有て、明神上らせ給たりしかば、諸人身毛竪て奇異の信心を発す。大臣も平家係る悪業を致さずは、今此瑞相を可(レ)奉(レ)拝や、災は幸と云事は、加様の事にやと感涙を流し給(たまひ)ても、又末憑しくぞ覚しける。抑此曲と申は、仁明天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、承和二年に、掃部頭貞敏、遣唐使として牒状を賜り、観密府に参じ、上覧に達して、琵琶の博士を望申れしに、開成二年の秋の比、廉承武を被(レ)送て、秘曲を被(レ)授、我朝に伝しは、流泉、啄木、楊真操の三曲也。其後村上帝御宇(ぎよう)、朗月明々として澄渡り、秋風さつ/\として物哀なる夜、御心をすまし、昼御座の上にして、玄象と云琵琶を、水牛の角の撥にて弾じすまさせ給(たま)ひ、小夜深人定るまで(有朋上P394)唯一人御座(ござ)有けるに、一叢の雲南殿の廂に引覆、影の如なる者空より飛参て、琵琶の音に合て舞侍ければ、何者(なにもの)ぞと問せ給ふ。我は是大唐の琵琶の博士、劉次郎廉承武也。琵琶を極て仙を得たり。御琵琶の撥音のいみじさに参たり。去承和の比、遣唐使貞敏に三曲を授て今二曲を残せり。君の玄象の御調べの目出(めでた)きに、貞敏に惜て秘蔵したりし曲也、授奉んと申せば、聖主叡感の気まし/\て、御琵琶を差遣たりければ、掻直して、此は廉承武が琵琶也、貞敏に二賜ひたりし内也と申て、終夜(よもすがら)御談話有て、上玄、石象の二曲を奉(レ)授、仙人即飛去ぬ。帝御名残(おんなごり)惜く思召(おぼしめし)、雲井遥(はるか)に叡覧ありて、感涙を流させ給し曲也。三曲と云時は、流泉、啄木、楊真操是也。五曲と云時は、上玄、石象を具すとか
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や。係る目出(めでた)き曲なれば、廉承武も貞敏には惜て伝ざりし曲也。玄象と云も、又彼仙人の琵琶也。希代の重宝なりければ、清暑堂の御厨子に、ふかく被(レ)納たり。
< 異本に云、此曲と申は、かたじけなく、霊仙玉廂軒にして操学、神楽につたへし妙調、堯採館の月の下に、承武が攘■に立翔り、天子にさづけし秘曲也。>
此師長公、保元の昔西国(さいこく)へ流され給しに、年十二三計と見えて、優なる童一人御舟に参て、朝夕に仕へけり。彼国近く成て、童暇を申て罷さらんとしければ、大臣怪(レ)之、汝は何の国のいかなる者ぞと問給へば、京都に侍る者也、(有朋上P395)君の流罪の由を承て、路の程の御徒然に参りたりと申す。都にても御覧たりとも覚えず、京は何所ぞと尋給ければ、大内裏に常に出入侍也と申。我内裏に奉公して年久し、去共懸る童在とも不(レ)覚者をやとて、能々尋給ければ、清涼殿の御節の箱に、玄上と申琵琶也とて、掻消様に失にけり。されば師長流罪の後は、玄上の甲はなれ絃切て、天下の騒にぞ有ける。理や西国(さいこく)までまし/\たりければ也。此大臣配所の徒然を慰まんとて、宮路山へ分入給つゝ、木々の紅葉を遊覧あり。此は十月二十日余(あまり)の事なれば、梢まばらにして、落葉道を埋、白霧山を阻て、鳥声幽也。山又山の奥なれば、旅寝の里も見えざりけり。後は松山峨々として、白石滝水流れ出、苔石面に生て、嵐尾上の冷、誠に石上珍泉の便を得たる勝地あり。御心の澄ければ、上玄の曲を調つべくぞ覚しける。岩の上に虎皮の御敷皮を打しき、紫藤の甲の御琵琶一面を掻すゑて、撥をとり絃を打鳴し給へり。四絃弾
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の中には、宮商弾を宗(むね)とし、五絃弾の中には、玉しやう弾を先とす、軽■(おし)慢撚て撥復挑、初為(二)霓裳(一)、後には六幺す。大絃は■々(さうさうとして)如(二)急雨(一)、小絃窃々(せつせつとして)如(二)私語(ささやく)(一)、第一第二絃の声は索々たり。春の鶯関々として、花本に滑也。第三第四絃の声は窃々(せつせつ)たり。閑泉幽咽して氷の下眤、鳳凰鴛鴦の和鳴の声を添へずといへ共、事の体山祇感をたれ給らんと(有朋上P396)覚えたり。さびしき梢なれ共、萩花啄木は空に玲瓏の響を送る。其時水の底より青黒色の鬼神出現して、膝拍子を打て、和に厳き音を以て、御琵琶に付て唱歌せり。何者(なにもの)の仕業なる覧と覚束(おぼつか)なし。曲終り撥を納給時、我は是此水の底に多の年月を経しかども、未是ほどの面白く、目出(めでた)き御事をば承及ばず、此御悦には今十日の内に帰洛せさせ奉らんと、申も終らず掻消様にぞ失にける、水神の所行といちじるし。此等の事を思召(おぼしめし)合するにも、悪縁は即善縁の始なりけりと、今さら思ひ知給ふ。されば明神の御託宣(ごたくせん)水神の悦申の験にや、第五箇日と申に、帰洛の奉書を被(レ)下たり。管絃の音曲を極て、当代までも妙音院の大相国(たいしやうこく)と申は、此大臣の御事なり。
< 治承三年に流され給(たまひ)て、同四年に召返ありと。>
此大臣帰洛の後有(二)御参内(ごさんだい)(一)。御前にて琵琶を調べ給ければ、月卿(げつけい)雲客(うんかく)頭をうなだれ、廉中堂上目をあやにして、何なる秘曲をか弾じ給はんずらんと被(レ)思けるに、珍しからぬ還城楽(げんじやうらく)をぞ弾じ給ふ、皆人思はずに思へりけり。去共大臣御心には深き所存御座(おはしまし)けり。還城楽(げんじやうらく)とは、都に帰て楽と云読のあれ
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ば、昨日は東関の外に被(レ)遷、草庵に懶住居也しか共、今日は北闕の内に仕て、槐門に楽み栄えて御座(おはしまし)ければ、此曲を奏し給ふも理也と、後にぞ思合られける。(有朋上P397)
S1203 高博稲荷社琵琶事
高博と云し人の母、重病を受て存命不定なりしが、逝て不(レ)還ば、盛年、別て会がたきは悲の親也。いかゞせんとて、様々労けれ共、終に療治(りやうぢ)の効なかりければ、稲荷社に七箇日参篭して、母の病を祈申けり。第七日の夜及(二)深更(一)、心を澄て琵琶を抱て、上玄石象の曲を弾ぜしに、折節(をりふし)御前の燈炉の火消なんとしけるを、御宝殿の内より金の扉を押開き、玉簾を巻上て、丱童一人出現し、燈をぞ挑ける。高博奉(レ)拝(レ)之、神慮の御納受(ごなふじゆ)憑しく覚て、即下向したりければ、母の重病たちどころに平愈して、更に恙ぞなかりける。懸る目出(めでた)き秘曲也、争か輙聞給べきに、適大臣の依(二)配流(一)此曲を弾ぜしかば、熱田大明神(だいみやうじん)も御納受(ごなふじゆ)ありけり。左衛門佐業房は伊豆国(いづのくに)へ流し遣さる。備中守光憲は罪科せられぬ前に、無(レ)由とて本どり切て引籠りぬ。源判官遠業は、四十二人の罪科之内と聞て、さては難(レ)遁身にこそ、伊豆国(いづのくに)の流人、前兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)こそ、思へば末たのもしき人なれ、打憑み下りたらば、自然に遁るゝ事も有なんとて、子息相具して、瓦坂の家を打出、稲荷山に籠て醍醐の山を伝ひ、田上通に野路の原より関東へ下んと思立たりけるが、抑兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)と云も、世に有人(有朋上P398)にてもおはせず、左右なく請取給事も不定也、又平家の人々在々所々に充満たり、中々路頭にて云甲斐なく被(二)討捕(一)、恥を見ん事心うしと思返、瓦坂の家に打帰て、屋に火を懸て父子二人手を取組て、炎中に飛入て焼死にけり。鳴呼がましき
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様には云けれども、時に取てもゆゝしき剛者、哀也と云者も多かりけり。此外の人々も、只今(ただいま)いかなる事をかきかんずると周章(あわて)騒ぎて、安堵の思なかりけり。
近衛入道(にふだう)殿下(てんが)をば、其時は中殿とぞ申ける。其御子に、二位の中将とて御座(おはしまし)けるを、太政(だいじやう)入道(にふだう)聟に奉(レ)取て、一度に内大臣(ないだいじん)より関白(くわんばく)になし奉る。大納言(だいなごん)をへずして、二位中将より大臣関白(くわんばく)になる事其例なし、是ぞ始なる。節会も行はれ、大臣召の有事もあり、先例ある事にや。上卿も宰相も、大外記大夫の史までも、皆あきれ迷て肝心も身に副ぬ体也けり。去ば是何故ぞと■(おぼつか)なし。昔堀川(ほりかはの)関白(くわんばく)忠義公 兼通、従三位権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)にておはしけるが、一条摂政殿(せつしやうどの)失給たりしに、天禄三年十一月廿七日に、俄(にはか)に大納言(だいなごん)をへ給はず、中納言より内大臣(ないだいじん)に成給(たまひ)て、内覧の宣旨を被(レ)下たりしこそ、珍しき事と人思へりしに、是は非(二)参議(一)して、大臣摂禄、ためしなき事也。
去々年の夏、成親卿(なりちかのきやう)父子、法勝寺(ほつしようじ)執行俊寛、北面の下搴、が、事にあひしをこそ、君も臣も浅猿(あさまし)と被(二)思召(一)(おぼしめされ)しに、是は今一きはの事也、今関白(くわんばく)に成給へる、二位中将殿(ちゆうじやうどの)の、中納言に成(有朋上399)給べきにて有を、太政(だいじやう)入道(にふだう)三度まで執申されしを、御免なくして、前関白殿(くわんばくどの)の御子、三位中将師家の、八歳になり給へるが、傍より押違へて成給へる故也。されば静憲法印にも被(二)怨申(一)ける其一也と人申ければ、さらば関白殿(くわんばくどの)計こそ事にもあひ給ふべきに、四十余人(よにん)まで罪なるべしや、何様にも直事には非ず、是は偏(ひとへ)に入道に、天魔の入替たるにやとぞ申ける。
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S1204 教盛夢忠正為義(ためよし)事
去保元年中に、新院讃岐に遷され御座(おはしま)し、左府(さふ)流矢にあたり給(たま)ひ、般若野に奉(レ)送たりけるを、信西が計ひとして左府(さふ)の御首(おんくび)を掘起して被(二)実検(一)(じつけんせられ)、首を山野に奉(レ)捨、新院讃岐国にて、五部大乗経を御書写ありて、是を都近き所に納奉らせんと仰けるを、是も信西が計ひとして、入れ進せざりければ、新院口惜事也、我身にこそ角憂目を御覧ずとも、大乗経何の咎御座(おはしまし)てか都の内に入せ給はざるべき、今生の怨のみに非ず、後生まで敵にこそとて、思死に隠させ給しかば、旁の怨霊の故にや、打続世の中静ならず。依(レ)之(これによつて)去年七月に讃岐院を神と奉(レ)祝、崇徳院と御追号あり。宇治左府(さふ)には贈位とて、正一位を宣下あり(有朋上P400)けれ共、怨霊猶しづまり給はざりけるにや、平中納言教盛の夢に見給(たま)ひたりけるは、保元に討れし、平馬助忠正、六条(ろくでうの)判官(はんぐわん)入道為義(ためよし)、大将軍と覚しくて、数百騎(すひやくき)の勢共有ける中に、或柿衣に不動袈裟係たり、或鴟甲に鎧著たり、或首丁頭巾に腹巻きたりなんどして、讃岐院を張輿にのせ奉て、木幡山の峠に舁すゑ奉て、可(レ)奉(レ)入(レ)都由評定しけり。新院の御貌を奉(レ)見ば、足手の御爪長々と生、御髪は空様に生て、銀の針を立たるが如し。御眼は鵄の目に似させ給へり。是も柿の衣をぞ召たりける。為義(ためよし)申けるは、西国(さいこく)より遥々(はるばる)と是まで上著ぬ。抑君をば何所へ可(二)入進(一)やらんと申せば、忠正子細にや及べき、法皇の御所法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へと云。為義(ためよし)其は叶候はじ、院(ゐんの)御所(ごしよ)は当時天台座主(てんだいざす)御修法にて、不動大威徳門々を守護し給へり、輙入れ奉り難しと申せば、さてはいかゞ有べきと、種々に評定しけるに、新院仰の有けるは、御所に成べき便宜の所なくば、只太政(だいじやう)入道(にふだう)の宿所へ入進せよと仰けれ
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ば、さらば舁進せよやとて、忠正は前輿為義(ためよし)は後輿を仕て、数百騎(すひやくき)の者共手々に奉(レ)捧て、入道の宿所西八条(にしはつでう)へ入進するとぞ見えたりける。教盛卿(のりもりのきやう)は夢覚給たりけれ共、猶現とは思はれず、此由角と内々申給けれ共、入道はさる片顔なしの人にて、更に用給はざりける上、げにも怨霊のよく入替給たりけるにや、現心もなく物狂しくして、天下(有朋上P401)を乱り臣下を悩す。入道猶腹をすゑ兼たりと聞えければ、残る人々も今いかなる事を聞んずらんと、肝魂を消す。馬も車も騒しく通れば、あは何事やらんと浅増(あさまし)く、大路門に人の物を云ば、我身の上かと心噪くして、貴も賤も安堵の思ひぞなかりける。
S1205 行隆被(二)召出(一)事
前左少弁(させうべん)行隆と申人御座(おはしまし)けり。故中納言顕時卿の長男にて御座(おはしまし)しが、二条院の御代に近召仕れ奉て、弁に成給へりし時も、右少弁(うせうべん)長方を越て、左に加り給へり。五位正上し給へりし中にも、顕要の人八人(はちにん)を越などして、優々しかりしが、二条院に奉(レ)後て時を失へり。仁安元年四月六日より、官を止られて篭居し給しより、永く前途を失て、十五年の春秋を送つゝ、夏冬の更衣も力なく、朝暮の食事も心に叶はで、悲の涙を流し、明し暮させ給けり。十六日(じふろくにち)の狭夜更程に、太政(だいじやう)入道(にふだう)より使とて、急ぎ立寄給へ、可(二)申合(一)事ありと、事々敷云ければ、行隆何事やらんと、うつゝ心なく騒給へり。此十五年の間何事も相綺事なし、身に取て覚る事はなけれ共、上下事にあふ折節(をりふし)なれば、若謀叛などに与する由、人の讒言に依て、成親卿(なりちかのきやう)の被(二)引張(一)し様にやと振わなゝき、思はぬ事もなく思はれけれ(有朋上P402)共、何様にも行向てこそ、兎にも角にも機嫌に随はめと思ひて、憖に参ずべき由、返事はし給たりけれ共、装束
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牛車もなかりければ、弟の前左衛門権佐時光の本へ、係る事と歎遣したりければ、牛車雑色装束ども、急ぎ遣したり。軈(やが)て取乗て出給ふ。北方より子息家人に至るまで、何事にかと肝心を迷て泣悲、左右なく出給べからず、よく/\世間をもきき、太政(だいじやう)入道(にふだう)の気色をも伺ひ給(たまひ)てこそと、口々に申けり。理也、上揄コ搓゚科せられて、東国西国(さいこく)へ被(二)流遣(一)折節(をりふし)なれば、留め申さるも道理也。行隆は不参は中々様がまししとて、西八条(にしはつでう)へ御座(おはしま)しつゝ、車より下、わなゝく/\、中門の廊に居給へり。入道やがて出合て見参して宣(のたまひ)けるは、故中納言殿(ちゆうなごんどの)も親く御座上、殊に奉(レ)憑大小事申合せ進候き。其御名残(おんなごり)とてましましせば、疎にも不(レ)奉(レ)思、御篭居久く成をも歎存侍しかども、法皇の御計なれば力及ばず過ぬ。今は疾々御出仕有べしと宣(のたまひ)ければ、左も右も御計に随ひ奉べしとて、ほくそ咲て出られぬ。宿所は還て入道のかくいはれつると語給へば、北方より始て、出給(たま)ひつる心苦さに、今は皆泣笑して喜合給へり。後朝に源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)季貞を使として、小八葉の車に、入道殿(にふだうどの)の秘蔵の牛係て、牛飼の装束相具し、百石の米、百匹の絹、被(二)送遣(一)ける上に、今日軈弁に奉(二)成返(一)と有ければ、大形嬉などは云計なし。手の舞足の踏所を(有朋上P403)忘たり。被(レ)免(二)出仕(一)だにも有難に、さしも貧しかりつる家中に、百石百匹牛車を見廻し給(たま)ひけん心中、唯推量るべし。一門の人々も馳集、家中の者ども寄合て酒宴歓楽しても、抑是は夢かや/\とぞ云ける。十七日(じふしちにち)に右中弁(うちゆうべん)親宗朝臣の被(二)追籠(一)たりける、其所に行隆成かへり、同(おなじき)十八日(じふはちにち)に五位蔵人に成り給けり。今年五十一、今更若やぎ給ふも哀也。
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S1206 一院鳥羽篭居事
同(おなじき)二十〔一〕日、院(ゐんの)御所(ごしよ)七条殿に軍兵如(二)雲霞(一)馳集て四面を打囲、二三万騎もや有らんとぞ見えける。御所中(ごしよぢゆう)に候合たる公卿殿上人(てんじやうびと)、上下の北面女房達(にようばうたち)、こは何事ぞとあきれ迷けり。昔悪右衛門督(あくうゑもんのかみ)信頼卿(のぶよりのきやう)、三条殿を仕たりし様に、御所に火を懸て、人をも皆可(二)焼殺(一)なんど云者も有ければ、局々の女房女童部(をんなわらんべ)までをめき叫、かちはだしにて、物をだにも打かづかず迷ひ出て、倒れふためきて騒合り。理也。法皇は日比(ひごろ)の有様(ありさま)、事の体御心得(おんこころえ)ぬ事なれ共、流石(さすが)忽(たちまち)に懸べしとは思召(おぼしめし)よらざりけるに、まのあたり心憂事を叡覧ありければ、只あきれてぞ渡らせ給ける。御車寄には前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)参給へり。法皇の仰には、こは何事(有朋上P404)ぞ、遠国へも遷し人なき島にも放つべきにや、左程の罪有とこそ思めさね、主上さて御座(おはしま)せば世務に口入する事計にてこそあれ、其事不(レ)可(レ)然、向後は天下の事にいろはでこそあらめ、汝さてあれば、思放つ事はよもあらじとこそ思召(おぼしめ)せ、其にいかにかく心憂目をば見するぞと仰られもあへず、竜眼より御涙(おんなみだ)をはら/\と流させ給けり。大将も見進せては涙を流被(レ)申けるは、指もの御事は争有べき、世間鎮らんまで、暫く鳥羽殿(とばどの)へ移し進せんとぞ、入道は申侍つると被(レ)申ければ、左も右も計にこそと仰もはてさせ給はぬに、御車を指よせて大将軈(やが)て御車寄に候はれけり。御経箱計ぞ御車には入させ給ける。御供をも仕れかしと御気色(おんきしよく)の見えければ、宗盛卿(むねもりのきやう)心苦く思進て、御供候て見置進たくは思給(たま)ひけれども、入道いかゞ宣はんずらんと恐さに、涙を押へて留り給ふ。公卿殿上人(てんじやうびと)の供奉する一人もなし、北面の下搏三人ぞ候ける。御力者(おんりきしや)に金行法師は、君はいづくへ御幸有て、何と
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ならせ給やらんとて、御車の後に、下揩ネればかきまぎれて泣々(なくなく)ぞ参ける。其外の人々は、七条殿よりちり/゛\に皆帰にけり。御車の前後左右には、軍兵いくらと云数を不(レ)知、打囲て、七条殿を西へ朱雀を下に渡らせ給ければ、上下貴賤の男女迄も、法皇の流され御座と■(ののし)り見進ければ、御供の兵までも涙をぞ流しける。鳥羽の北殿(有朋上P405)へ入進せけり。平家の侍に肥前守泰綱奉て奉(二)守護(一)。御所には然べき者一人も候はず、右衛門佐と申ける女房の、尼に成て、尼御前をば略して、尼ぜと申ける計ぞ免されて候ける。唯夢の心地してぞ御座(おはしまし)ける。供御進たりけれ共、御覧じ入るゝ御事なし、不(レ)尽けるは、唯御涙(おんなみだ)計也。門の内外には武士充満して所もなし、国々より駈上せたる夷共なれば、争か御覧じ知せ給べき。つへたましげなる顔気色、うとましげなる事様也。大膳大大業忠、其時は兵衛尉とて十六に成けるを召れて、朕は今夜失はれぬと覚る也、最後の御所作の料に、御湯召されたきは叶はじや、水などは冷じく思召(おぼしめす)にと仰ければ、業忠今朝よりは肝魂も身に添はず、只音魂計にて有けるに、此仰を奉て、いとゞ絶入心地して、物も覚えず悲かりけれ共、狩衣の玉襷上て、水を汲たれども薪もなし。縁の束柱を放集てたき物として、御湯構出して進たりければ、御湯懸召て泣々(なくなく)御行始りて後は、終夜(よもすがら)法華経(ほけきやう)をぞ遊しける。最後の御勤と思召(おぼしめし)ければにや、例よりも殊に物悲くて、鈴の響も耳に透り、読経の御音も肝に銘ず。二聖二天、十羅刹女も、十三大会(たいゑ)、菩薩聖衆も、いかに哀と覚しけん、今夜別の御事なくて明にけり。去七日の大地震、係る浅増(あさまし)き事の有べくて、十六洛叉の底迄も答つゝ、竪牢地祇、竜神(りゆうじん)
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八部も驚騒給けるにこそと覚たれ。陰陽頭泰親(有朋上P406)が馳参て泣々(なくなく)奏聞しけるも、今こそ被(二)思知(一)けれ。彼泰親は、清明六代の跡を伝て、天文の淵源を尽し、占文の秘枢を極めたり。推条は掌をさすが如く、卜巫は眼に見に似たり。一事も違事なければ、異名には指神子とぞ云ける。されば雷落懸たりけれども、少も恙なかりけり。十二神将(じふにじんじやう)をも進退し、三十六禽をも相従けり。いか様にも、正身の神歟仏歟、非(二)直人(一)とぞ申ける。
S1207 静憲鳥羽殿(とばどの)参事
静憲法印入道の許へ行向て被(レ)申けるは、法皇を鳥羽の御所に移し入おはすなるは、如何なる御咎の御座(おはしまし)候やらん、一日承し御憤(おんいきどほり)の未はれさせ給はぬにや、人一人も不(二)付進(一)と承ば、想像進て心苦く覚侍るに、蒙(二)御免(一)参て、御徒然をも慰め進ばやと被(レ)申たり。此法印はうるはしき人、濁れる世をも澄し、事あやまるまじき者なれば、何か苦からんと被(レ)免けり。法印悦で宿坊へも帰らず、軈(やが)て鳥羽殿(とばどの)へ参給へり。法皇は御経高らかに遊して、御前には人も候はず、法印急ぎ音なひて参たりけるを叡覧有て、強にうれしげに覚しつゝ、あれはいかにと仰もはてず、はら/\とこぼるゝ御涙(おんなみだ)は御経の上にぞ懸ける。(有朋上P407)法印も御有様(おんありさま)を見進て、御心中さこそはと忝(かたじけな)く覚ければ、やがて裘の袖を顔にあてて、音も惜ず泣給。尼ぜも臥沈たりけるが、法印被(レ)参たりけるに、力付て起あがり、泣々(なくなく)申けるは、昨日の朝七条殿にて貢御進たりし外は、夕も今朝も御熟米をだにも御覧じ入させ給はず、永き夜すがら御寝もならず、御歎のみ御心苦げに渡らせ御座(おはしま)せば、ながらへさせ給はん事もいかゞと覚るとて、又さめ/゛\となかりけり。法印心を定めて申されける、此事更に歎思召(おぼしめす)べから
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ず。平家は凡人と申ながら、家を興し世を取て、天下を我儘にして、二十余年の栄耀にほこるといへ共、何事も限あり、彼等は臣下也、君は国主に御座、忝(かたじけなく)も御裳濯川の御末、百王億載の御ゆづりを受させ給へり。草木風に靡きて、枝全く、万物地に依て生長す、非情の心なき猶以如(レ)此、況人臣として、朝家を嘲、在(レ)下上を蔑にせん事、いざ/\例多といへども、素懐をとげたる者なし、遠は三年を過ず、只今(ただいま)天の責を蒙なんず、是は偏(ひとへ)に天魔入道に入替て、其家の正に亡んずる也、御歎に及ばず、只今(ただいま)こそ角渡らせ給とも、伊勢太神宮、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、殊には君の憑み思召(おぼしめ)さるゝ、山王七社(しちしや)、両所三聖、よも捨果進せ給はじ、災妖不(レ)勝(二)善政(一)、夢怪不(レ)勝(二)善行(一)と申事侍ば、只先非を悔させ給(たま)ひ、人民に恵を施し、政務に私あらじと思召(おぼしめさ)ば、天下は忽(たちまち)に君の御代に立返、(有朋上P408)悪徒(あくと)は必水の泡と消失ん事疑なし、御心づよく思召(おぼしめす)べしとて、貢御勧め被(レ)申ければ、いさゝか慰む御心地(おんここち)とて、御湯づけ少聞召入(きこしめしいれ)られけり。尼ぜも力付て覚えけり。此尼ぜと申は、法皇の御母儀(おぼぎ)侍賢門院の御妹、上西門院にも候はれけるが、品いみじき人にては無りけれども、心様さか/\しき上、一生不犯の女房にておはしければ、清き者也とて、法皇も幼稚の御時より近く召仕はせまし/\ければ、臣下も君の御気色(おんきしよく)に依て、尼御前とはかしづきよばはれけるを、法皇はたゞ尼ぜとぞ仰ける。鳥羽殿(とばどの)の唯一人付進せて候けり。君舟臣水、々治(レ)浪舟能浮(レ)水、湛(レ)波舟又覆と云ふ事あり。太政(だいじやう)入道(にふだう)保元平治両度の合戦には、御方にて凶徒(きようと)を退て君を助奉りき。水波を治めよく舟を浮たり。治承の今は勲功の威に誇て君を褊し奉る、水
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波を湛て舟を覆す憂あり。貞観政要の文、実也とぞ覚たる。
S1208 主上鳥羽御篭居御歎事
主上は臣下のかく成るをだにも、不便の事に歎き思食(おぼしめし)けるに、法皇の御事聞召(きこしめし)ては、不(レ)斜(なのめならず)御歎き有て、何事もおぼし召入ぬ御有様(おんありさま)にて日を経つゝ、はか/゛\しく貢御も進ず、打(有朋上P409)解御寝もならず、御心地(おんここち)悩しとて、常は夜のおとゞに入せ御座(おはしまし)ければ、后宮を始進せて、近く候はれける女房達(にようばうたち)も、心苦く見進ける。内より鳥羽殿(とばどの)へ御書あり。世もかくなり君も左様に御座ん上は、位に候ても何にかは仕べき、花山法皇の御座(おはしまし)けん様に、国を捨家を出て、山々寺々をも修行せんと思食(おぼしめす)とまで、申させ給たりければ、法皇、我御身は君のさて御座をこそ憑にて候へ、さやうに思召(おぼしめし)立なん後は、何の憑かは侍べき、左も右も此身のならん様を御覧じ終させ給へと、様々の御返事(おんへんじ)有ければ、いとゞ御歎の色深して、御書を竜顔にあてさせ御座(おはしま)して、御涙(おんなみだ)に咽せ給けるぞ悲き。太政(だいじやう)入道(にふだう)は天下の大小事一筋に、内の御計に有べしとて、福原へ下向あり。宗盛此由を被(二)奏聞(一)。思召(おぼしめさ)れけるは、主上聟也、天下を我儘にせんとや、法皇の御譲をえたる御世にも非ず、縦さりとても、法皇鳥羽殿(とばどの)に御心憂御形勢(おんありさま)に御座(おはしま)す、何のいさみ有てか、世事を可(二)聞召入(きこしめしいる)(一)、我御心に任する世ならば、法皇をぞ打籠進せざらんと被(二)思召(一)(おぼしめされ)けるにや、いかにも宗盛可(二)相計(一)、又関白(くわんばく)に申せとぞ仰は有ける。只明ても暮ても法皇の御事をのみ歎思食(なげきおぼしめし)て、世事はつゆ御計ひなかりけり。去二十日法皇鳥羽殿(とばどの)へ移らせ給と聞食(きこしめ)し後は、御神事とて、夜のおとゞへ入せ給(たま)ひ、毎(レ)夜に石灰の壇にて、太神宮をぞ拝し奉らせ給ける。法皇の御事を祈申させ給ける(有朋上P410)にこそ、
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同父子の御間なれども、殊に御志深かりけるこそ哀なれ。見進せける余所の袂(たもと)も乾く間ぞなかりける。百行の中には孝行を先とし、万行の間には、孝養勝たり、如来(によらい)万徳の尊孝を以て正覚を成、明王(みやうわう)一天の主、孝を以て国土を治といへり。去ば唐堯は衰老の母を貴、虞舜は頑なる父を敬へり。延喜の聖主は我朝の賢帝に御座(おはしまし)けれども、北野天神の御事に依て、寛平法皇の背(レ)仰給(たまひ)て、悪道に入せ給けり。二条院も賢王(けんわう)にて御座(おはしまし)けれ共、天子に父母なしとて、常に法皇の背(レ)仰申させ給ける故にや、継体の君までも御座(おはしま)さず、先立せ給、御ゆづりを受させ給たりし六条院も、御在位僅(わづか)に三箇年、五歳にて御位を退せ給(たま)ひ、太上天皇(てんわう)の尊号ありしか共、未御元服(ごげんぶく)もなかりしに、御年十三にて、安元(あんげん)二年七月二十七日(にじふしちにち)に隠させ給にき、哀也し御事也。
鳥羽殿(とばどの)には月日の重に付ても、御歎は浅からず、折々の御遊(ぎよいう)、所々の御幸、御賀の儀式の目出かりし、今様朗詠の興ありし事、扇合絵合までも、忘るゝ御隙なく、只今(ただいま)の様にぞ被(二)思召出(一)(おぼしめしいだされ)ける。自参よる人もなし。理也、法皇も恐思食(おぼしめし)て召れず、大相国(たいしやうこく)も免し給はざりければなり。唯秋山の嵐烈く、軒ばをつたふ友となり、古宮の月さやけくして、涙の露に影を宿す、夜深しては枕に通砧の声、御寝の夢を覚し、暁かけては氷を碾車の音、老牛心を傷しむ。御眼に遮る物(有朋上P411)とては、昇せ煩ふ策(いさり)の火、叡慮にかゝる事とては、いつまで旅の襟ひ、白雪(はくせつ)庭を埋ども、道を払人もなく、結氷も池を閉て、群居鳥だに見えざりけり。大宮大相国(たいしやうこく)伊通、三条内大臣(ないだいじん)公教、葉室大納言(だいなごん)光頼、中山中納言顕時など申し人々
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も被(レ)失にき。古人とては民部卿親範、宰相成頼、左大弁(さだいべん)宰相俊経なんどの御座(おはしま)せしも、此代の成行有様(ありさま)を見給(たまひ)て、左も右も有なん、大中納言(だいちゆうなごん)に成たりとも、只夢なるべしとて、未四十にだにも成給はざりける人々の、忽(たちまち)に世を遁れ家を出て、親範は大原(おほはら)の霞に跡を隠し、成頼は高野の雲に身を交へ、俊経は仁和寺(にんわじ)の閑居をしつらひて、偏(ひとへ)に後世菩提をこそ被(レ)祈けれ。漢四皓は商山の洞に住、晉七賢は竹林の庵に隠、首陽山に蕨を採、頴川の水に耳を洗し人も有ける也。まして此世には、心あらん者、一日も跡を留むべきにあらざりけり。中にも宰相入道成頼、此事共を伝へ聞給(たまひ)ては、哀うれしくも心とく世を遁たるもの哉、角て聞も同事なれども、世に立交てまのあたり見ましかば、いかばかりか心憂からまし、保元平治の乱をこそ浅猿(あさまし)と思ひしに、世の末になればにや、弥増々々に成行たり。此後又如何あらんずらん。雲を分ても上、地を堀ても入ぬべくこそ覚ゆれとぞ宣(のたまひ)ける。賢も思切給へる人々也と、叶ぬ身にも申けり。
治承四年正月元三の間も、鳥羽殿(とばどの)には参寄人もなし。藤(とう)中納言(ぢゆうなごん)成範、(有朋上P412)左京大夫修範是二人ぞ被(レ)免候ける。年去年来れ共、くつろがせ給御事もなし。筧のつらゝの心地して、閉籠られさせ給たるぞ哀しき。二十日春宮(とうぐう)の御袴著、御まな始可(二)聞召(一)とて、花やかなる御事共(おんことども)世間には■(ののし)りひそめきけれ共、法皇は御耳のよそにぞ被(二)聞召(一)(きこしめされ)ける。
S1209 安徳(あんとく)天皇(てんわう)御位事
二月十九日、春宮(とうぐう)位に即せ給。安徳(あんとく)天皇(てんわう)と申、僅(わづか)に三歳にぞ成せ給、いつしかなり。先帝も異なる御事
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もましまさね共、我御孫子を付奉んためにおろし奉る。是も太政(だいじやう)入道(にふだう)の、万事思様なる故也と、人々私語(ささやき)傾申けり。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)聞(レ)之被(レ)申けるは、なじかはいつしか也と申べき、異国には周の成王(せいわう)三歳、晋穆帝二歳、皆襁褓の中に裹れて、衣帯を正くせざりしか共、或は摂政(せつしやう)負て位につき、或は母后懐て朝に望といへり。後漢孝殤皇帝は、生て百余日にて践祚ありき、我朝には近衛院三歳、六条院二歳、これ皆天子の位を践給ふ、非(レ)無(二)前蹤(一)、なじかは人の傾申べきと嗔り宣(のたまひ)ければ、是の才人達、穴おそろし/\物云はじ、去ば其は吉例にやは有とぞつぶやきける。春宮(とうぐう)位に即せ給けれ(有朋上P413)ば、外祖父、外祖母とて、太政(だいじやう)入道(にふだう)夫婦ともに、三后に准る宣旨を蒙て、年官年爵を賜て、上日の者を被(二)召仕(一)ければ、絵書花付たる侍ども出入て、院宮の如にてぞ有ける。出家入道の後も、なほ栄輝名聞は尽ざりけりとぞ見えし。出家の人の准三后の宣旨を蒙事は、法興院の大入道殿(にふだうどの)の御例とぞ承る。大入道殿(にふだうどの)とは、九条右丞相師輔の第三男、東三条(とうさんでう)太政大臣(だいじやうだいじん)兼家の御事也。かくはなやかに目出(めでた)き事は有けれども、世中は不(レ)穏。
S1210 新院厳島鳥羽御幸事
三月十七日(じふしちにち)には、新院安芸国一宮厳島の社へ可(レ)成(二)御幸(一)由披露有ける程に、諸寺諸山騒動して、京中の貴賤何となく騒合ける上、山門の衆徒僉議(せんぎ)しけるは、帝王位を退せ給(たまひ)ては、必ず先八幡賀茂両社の御幸有て、其後何れの社へも思召(おぼしめし)立御事也。但白川院【*白河院】(しらかはのゐん)は、先熊野御参詣、後白川院【*後白河院】(ごしらかはのゐん)は先日吉の御幸有き。去ば任(二)先例(一)、此神々へこそ先可(レ)有(二)御幸(一)に、不(二)思寄(一)厳島御参詣也、速に可(レ)被(二)停止(一)。此上猶御幸
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あらば、京中に打入て、可(レ)及(二)狼藉(一)之由蜂起すと聞召ければ、俄(にはか)に又思食(おぼしめし)止らせ給ぬと聞えけり。新院猶御宿願(ごしゆくぐわん)を果さんと思召(おぼしめし)けるに依て、内々は其御用意にて、供奉の人々も忍て被(二)仰合(一)けれども、山門(有朋上P414)の訴訟も煩はしとて、よそ聞には鳥羽殿(とばどの)へ御幸と御披露有て、十八日(じふはちにち)の夜、太政(だいじやう)入道(にふだう)の宿所、西八条(にしはつでう)へ入せ給(たまひ)て、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛を召て、明日鳥羽殿(とばどの)へ参ばやと思召(おぼしめす)御事あり、入道に不(二)相触(一)しては叶はじやと、仰も終ぬに、竜眼に御涙(おんなみだ)を浮めさせ給ければ、大将も哀に覚て、宗盛角て候へば、何かは苦かるべきと被(レ)申けり。不(レ)斜(なのめならず)御悦有て、去ば鳥羽殿(とばどの)へ御気色(おんきしよく)申せと仰ければ、大将急其夜の中に被(レ)申たり。法皇は覚御心もなく悦び御座(おはしま)して、余に恋しく思召(おぼしめす)御事とて、夢に見つるやらんとまで仰けるこそ哀なれ。
十九日には鳥羽殿(とばどの)へ御幸とて、西八条(にしはつでう)を夜中に出させ給けり。比は三月半余(あまり)の事なれば、雲井の月は朧にて四方の山辺も霞こめ、越路を差て帰鴈、音絶々にぞ聞召。御供の公卿には藤(とう)中納言(ぢゆうなごん)家成卿の子息に、師(そつの)大納言(だいなごん)隆季、前(さきの)右馬助(うまのすけ)盛国(もりくに)の子息に、五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱(くにつな)、三条内大臣(ないだいじん)公教の子息に、藤大納言(だいなごん)実国、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛、久我内大臣(ないだいじん)雅通の子息に土御門宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)通親、殿上人(てんじやうびと)には、隆季の子息に、右中将隆房朝臣、中納言資長子息に、右中弁(うちゆうべん)兼光朝臣、三位範家子息に、宮内少輔棟範、公卿五人、殿上人(てんじやうびと)三人、北面四人、十二人ぞ候ける。新院、鳥羽殿(とばどの)にては門前にして御車より下させ給(たま)ひて入せ給けり。暮行春の景なれば、梢の花色衰、宮の鶯音老たり。庭上草深して、宮中に人希也。指入せ給より、
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御涙(おんなみだ)ぞすゝませ給け(有朋上P415)る。去年正月六日朝観の御為に、七条殿の行幸思召(おぼしめし)出させ給(たまひ)ても、只夢の御心地(おんここち)にぞまし/\ける。彼行幸には、諸衛陣を引、諸卿列に立、楽屋に乱声を奏し、院司公卿参向て、幔門を開き、掃部寮の筵道をしき、正しかりし御事也しかども、是は儀式一事もなし。成範中納言参給(たまひ)て、御気色(おんきしよく)被(レ)申ければ、入せ御座(おはしまし)けり。法皇も新院も、御目を御覧じ合せまし/\て、互に一言の仰はなくして、唯御涙(おんなみだ)に咽ばせ給けり。少し指退きて尼ぜの候けるが、御二所の御有様(おんありさま)を見進て、うつぶしに臥て泣けり。良久有て、法皇御涙(おんなみだ)を推のごはせ給(たまひ)て、何なる御宿願(ごしゆくぐわん)にて、遥々(はるばる)と厳島まで思召(おぼしめし)立せ給にやと、申させ給(たま)ひければ、新院は深く祈申旨候と計にて、又御涙(おんなみだ)を流させ給。法皇は此身の角打籠られたる事を、痛く歎かせ給ふなるに合て、祈誓せさせ給はん為にこそと、御心得(おんこころえ)有けるに、いとゞ哀に思召(おぼしめさ)れて、共に御涙(おんなみだ)に咽ばせ給ふ。御浄衣の袖も御衣の袂(たもと)も、絞る計にぞ見えける。昔今の御物語(おんものがたり)ども仰かはさせ御座(おはしま)すに、日暮夜を明させ給ふ共、尽しがたき御事なれば、御名残(おんなごり)は惜く思召(おぼしめし)けれども、泣々(なくなく)出させ給(たま)ひけり。法皇は今日の御見参をぞ返々悦申させ給ける。新院今年二十に満せ給けるが、御冠際、御鬢茎より始て、気高く愛々しくて、此世の人とも見えさせ給はず。御母儀(おぼぎ)故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)に似させおはしければ、いとゞ哀にぞ思召(おぼしめし)御覧じ(有朋上P416)ける。月比日比(ひごろ)の御歎にや、事外に面痩て見えさせ給に付ても、らふたくうつくしくぞ渡らせ給ける。新院は出させ給とて、今一度見進せずして、何事もやと御心憂侍つるにとて、立せ給ふ。法皇は御名残(おんなごり)惜くて、今暫くとも被(二)思召(一)(おぼしめされ)けるが、
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日影も高く成上、いつも名残(なごり)はと思召(おぼしめし)けるに、去気なくもてなさせ給けれ共、なほ御涙(おんなみだ)はつきざりけり。叡慮推はかり進ては、供奉の人々も袂(たもと)を返して涙をぞのごひける。南門より御舟には移らせ給けり。御おくりの人々は、是より帰上る。厳島までの供奉の公卿殿上人(てんじやうびと)は、内々用意ありければ、浄衣にて被(二)参詣(一)たり。前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛、数百騎(すひやくき)の随兵を召具し給へり。けしからず見えけり。二十六日(にじふろくにち)に厳島に御参著、神主佐伯景弘、当国国司有経、当社座主尊叡勧賞を蒙。
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十三
P0307(有朋上P417)
和巻 第十三
S1301 新院自(二)厳島(一)還御事
治承四年四月七日、新院自(二)厳島(一)還御、以(二)其次(一)太政(だいじやう)入道(にふだう)の御座(おはしまし)ける福原へ御幸有て、八日被(二)勧賞行(一)。左少将資盛四位(しゐの)従上、丹波守清邦、五位上下也。今日福原を出させ御座(おはしまし)て、寺江と云所に御留あり。九日は御京入、新帝始めて大内へ依(レ)有(二)遷幸(一)、公卿殿上人(てんじやうびと)其へ参給ければ、新院御迎には、左大臣公能の子息に、右宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)実守一人に、殿上の侍臣五人、鳥羽草津へ参向ふ。厳島まで御伴に参たる人々は、舟津に留て、さがりて京へは入給へり。新院都を立離、八重の塩路を遥々(はるばる)と思召(おぼしめし)立御志、神明も争御納受(ごなふじゆ)なかるべき。御願(ごぐわん)成就(じやうじゆ)疑あらじとぞ覚し。法皇かく被(二)打籠(一)まし/\て、幽なる御有様(おんありさま)、御心苦く思召(おぼしめし)て、此大明神(だいみやうじん)に祈申たらば、神明の御計として、入道(にふだう)の謀叛の心も和ぎ、法皇も御心安(おんこころやすき)事もやとて、御参ありと申す人もあり。又入道の崇給へば、御同心なる御色をあらはし御座(おはしま)すにこそと申す人も有けれども、世間には御夢想(ごむさう)のつげ故とぞ披露しける。(有朋上P418)
S1302 入道信(二)厳島(一)並垂迹事
抑入道の厳島を崇給ける事は、鳥羽院(とばのゐんの)御宇(ぎよう)、清盛(きよもり)安芸守たりし時、以(二)彼国(一)高野の大塔造営すべき由院宣を賜て、渡辺党に、遠藤六頼賢に仰て、六箇年に被(二)組立(一)たりけり。清盛(きよもり)則高野に参て、大塔奉(二)拝休(一)給たりける夜の夢に、七十有余(いうよ)の老僧の、八字の霜を眉に垂、滄海の波面に畳て、かせ杖の二俣
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なるさきに、鉄入たるを突て、入道に申けるは、此大塔造営こそ、返々目出覚し、又所望申度事(こと)侍。安芸厳島と、越前気比とは、西海北陸境異なれども、金剛(こんがう)胎蔵の両界として、目出(めでた)き所にて侍也。気比の社は繁昌せり。厳島は荒廃して候。此事大に歎思ふ、相構て崇修理し給へ。さらば我身の栄花をも開、子孫の繁昌疑なしと云かけて出給ふ。是は何なる人にて御座るやらん、あれ見て参とて、貞能(さだよし)を付て遣しけるに、三町(さんちやう)計御座(おはしまし)て、彼老僧御堂の中へ入給ぬと語申と見て、夢覚畢。清盛(きよもり)此事は、弘法大師の御託宣(ごたくせん)にやとぞ、被(レ)思ける。又此夢に驚、娑婆世界の思出にとて、高野の金堂に曼陀羅(まんだら)を書給(たま)ひけるが、西の曼陀羅(まんだら)をば正妙とて、院にも召れ、入道も仕給ける絵師を以て被(レ)書。東の曼陀羅(まんだら)をば、清盛(きよもり)の自筆に書給。九尊(有朋上P419)の中尊の宝冠をば、脳より血を出して被(レ)書たり。誠の志とぞ人感じ申ける。清盛(きよもり)高野下向の後に、院参(ゐんざん)して右の夢想(むさう)を奏聞す。任を延て厳島を可(二)修理(一)由被(二)仰下(一)。依(レ)之(これによつて)清盛(きよもり)社々を造替し、古にし鳥居を立改、廻廊百廿間造り瑩き、内侍神女に至までも、もてなしかしづき給けり。修理の功終て、清盛(きよもり)彼社に参詣あり。大明神(だいみやうじん)内侍に移て有(二)御託宣(ごたくせん)(一)。やや安芸守殿、高野にて夢に告知せ奉しは、此大明神(だいみやうじん)也。夢の告不(レ)空、角懇に奉(二)崇敬(一)事、返々神妙(しんべう)、神約なれば、子孫までも可(レ)守とて、明神あがらせ給にけり。掲焉也し事共也。懸ければ入道俗体の昔より、出家の今に至まで、信仰帰依怠らず。されば子息兄弟、太政大臣(だいじやうだいじん)大将に至り、国郡庄園朝恩に飽満給へり。されば神明の御計にて、入道の心も和らぎ、法皇もくつろがせ給ふ御事を御祈誓の為に、
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賀茂八幡両社の御幸より前に、新院厳島の御幸は有けるにこそと人申けり。
抑厳島明神と申は、推古天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、〈 癸丑 〉端正五年十一月十二日、内舎人佐伯鞍職と云者、為(二)網鉤恩賀(一)、島の辺に経回しけるに、西方より紅の帆挙たる船見え来る。船中に瓶あり。瓶の内に鋒を立て、赤幣を付たり。瓶内に三人の貴女あり。其形端厳にして人類に不(レ)同。託宣して云、吾為(二)百王守護(一)離(二)本所(一)近(二)王城(一)、御宝殿并(ならびに)廻廊百八十間造立して、我を厳島大明神(だいみやうじん)と崇べしと宣へば、(有朋上P420)鞍職言く、何なる験有てか可(レ)経(二)官奏(一)と。明神答云、王城の艮の天に、客星異光有て出現せん、公家殊に驚て可(レ)成(レ)怪時に、烏鳥多集て、共に榊の枝を食へんと宣(のたまひ)けり。即摂津国(つのくに)難波の王城に、俄(にはか)に千万の烏、榊の枝を食へて禁裏に鳴集る。鞍職奏して申、是は大明神(だいみやうじん)の現瑞也と。天皇(てんわう)叡信の余、御俸田百八十町、御修理、杣山八千町、御寄進の宣旨を被(レ)下の上、同年十二月廿八日に、重て被(二)宣下(一)云、自今位後、拝任当国之吏、毎(レ)任可(レ)捧(二)上分田(一)、不(レ)可(レ)軽(二)神威(一)、及(二)末代(一)社頭破壊顛倒之時は、当任の国司、経(二)官奏(一)、点(二)国中(こくぢゆう)之杣(一)可(二)修理(一)、其間材木檜皮等不(レ)可(レ)運(二)上京都(一)云云。御垂跡(すいしやく)者、天照太神(てんせうだいじん)之孫、娑竭羅竜王(りゆうわう)之娘也、本地を申せば、大宮(おほみや)は是大日、弥陀、普賢、弥勒、中宮は、十一面観音、客人宮、仏法(ぶつぽふ)護持多門天。眷属神等、釈迦、薬師(やくし)、不動、地蔵也。惣八幡別宮とぞ申ける。御託宣(ごたくせん)文云、法身恒寂静、清浄無二相、為度衆生故、示現大明神(だいみやうじん)、御祓の時には、必此文を誦すと申。法性不二の色身は、寂光浄土(じやうど)に居すれども、和光(わくわう)同塵(どうぢん)の垂跡(すいしやく)は、巨海の流類に交れり。
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治承四年四月廿二日、新帝御即位あり。此御事大極殿(だいこくでん)にて被(レ)行事なれども、去し治承元年に焼にしかば、後三条院(ごさんでうのゐん)延久の例に任て、官庁にて有べかりしを、右の大臣兼実計申させ給けるは、官庁は凡人に取ば、公文所也。大極殿(だいこくでん)(有朋上P421)なからん上は、紫宸殿にて可(レ)被(レ)行と被(レ)仰けるに依、即其にてぞ有ける。康保四年十一月十一日、冷泉院御即位は、紫宸殿にて被(レ)行けり。其例いかが有べき。唯後三条院(ごさんでうのゐん)の御例に任て、太政官の庁にて、有べき物をと、人々被(レ)申けれども、右の大臣の恩計也ければ、子細に不(レ)及けり。中宮は弘徽殿より仁寿殿へ移らせ給(たまひ)て、高御倉へ参らせ給(たま)ひける有様(ありさま)目出ぞ在ける。され共ひそか事には、様々の御さとしども有けるとかや。
平家の人々、宗盛三十三(さんじふさん)の重厄の慎とて、去年より大納言(だいなごん)并(ならびに)大将を辞給(たまひ)て出仕なし。小松(こまつの)内大臣(ないだいじん)薨じ給しかば、維盛、資盛、清経など色にて籠給へり。本意なかりし事也。左兵衛督知盛、蔵人頭(くらんどのとう)重衡朝臣計ぞ出仕有ける。後朝蔵人左衛門権佐定長、太政(だいじやう)入道(にふだう)の宿所に参じて、昨日の御即位に御失礼もなく目出く難(レ)有由、細々と四五枚に書注して、二位殿(にゐどの)の御方へ進たりければ、入道殿(にふだうどの)も二位殿(にゐどの)も、咲まけてぞ御座(おはしまし)ける。
S1303 高倉宮(たかくらのみや)廻宣附源氏汰事
一院第二の御子、以仁王と申は、御母は春宮(とうぐうの)大夫公実息男、加賀大納言(だいなごん)季成卿御娘とかや。三条高倉に御座(おはしまし)ければ、高倉宮(たかくらのみや)とぞ申ける。去永万(えいまん)元年十二月十六日(じふろくにち)に、御歳十五(有朋上P422)と申しに、大宮御所にて忍て御元服(ごげんぶく)有しが、既(すで)に三十に成せ給ぬれども、親王の宣旨をだにも不(レ)被(レ)下して、沈てぞ御座(おはしまし)ける。
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御手跡も厳く、御才覚も優に御座(おはしまし)けり。御位に即せ給たらば、末代の賢王(けんわう)とも申つべしなど、人々申しけれども、女院には御継子にて渡らせ給ければ、被(二)打籠(一)つゝ、春は花下にてかたむく日影を歎暮し、秋は月前にて明行空を怨み明し、詩歌管絃に御心を慰め、等閑に年月を過させ給けり。治承四年卯月九日夜深人定て後、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)頼政(よりまさ)、潜に彼宮の御所に参て申けるは、君は天照太神(てんせうだいじん)四十八代の御苗裔、太上法皇第二御子にて渡らせ給へば、太子にも立帝位にも即せ給べきに、親王の宣旨をだにも御免無くて、既御年三十に成せ給ぬ。御心憂と思召(おぼしめし)候はずや。平家は栄花身に余り、悪行年久成て、運命末に望めり。子孫相続して、朝に仕へん事難く見え侍り。当時いかなる御計もなくば、いつをか期せさせ給べき。慎み過させ給とも、終には安穏に果させ給はん事も有がたし。物盛して衰へ、月盈侍虧。此天道非(二)人事(一)、爰に清盛(きよもり)人道、偏(ひとへ)に振(二)武勇之威(一)、忽(たちまち)に忘(二)君臣之礼(一)、不(レ)恐(二)万乗尊高之君(一)、不(レ)憚(二)三台重任之臣(一)、只任(二)愛憎心(一)猥取(二)断割之刑(一)、所(レ)悪滅(二)三族(一)、所(レ)好先(二)五宗逞(一)思(二)於一身之心腑(一)、懸(二)毀於万人之脣吻(一)、天譴(レ)己到(二)人望(一)、早背(二)量時(一)立(二)制文(一)之道也、乗(レ)間討(レ)敵兵之術也、頼政(よりまさ)依(有朋上P423)(レ)非(二)其器(一)、雖(レ)迷(二)其術(一)、武略禀(レ)家、兵法伝(レ)身、倩顧(一)六戦之義(一)、今案(二)必勝之勝之法加(二)於己(一)、不(レ)得(レ)止、謂(二)之応兵(一)、争恨(レ)小故、不(レ)勝(二)憤怒(一)、謂(二)之忿兵(一)、利(二)土地(一)求(二)貨宝(一)、謂(二)之貪兵(一)、恃(二)国家之大(一)、矜(二)民人之衆(一)、謂(二)之驕兵(一)、此類皆背(レ)義背(レ)礼、必敗必亡、求(レ)乱誅(レ)暴、謂(二)之義兵(一)、此類己叶(レ)道叶(レ)法、百戦百勝、上応(二)天意(一)下得(二)地利(一)、挙(二)義兵(一)、討(二)逆臣(一)、奉(レ)慰(二)法皇之叡慮(一)、被(レ)釈(二)群臣(ぐんしん)之怨望(一)、専在(二)此
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時(一)、不(レ)可(レ)経(レ)日、急被(レ)下(二)令旨(一)、早可(レ)被(レ)召(二)源氏等(げんじら)(一)、入道七十有余(いうよ)、年闌侍れども、子息家人余多(あまた)候へば、一方の御固と可(レ)被(二)憑思召(一)(おぼしめさるべし)、悦を成し馳参らんずる源氏等(げんじら)、国々に多候とて、申連けるは、京都には、出羽判官光信男、伊賀守光基、出羽蔵人光重、出羽冠者光義、熊野には、六条(ろくでうの)判官(はんぐわん)入道為義(ためよし)が子に、新宮十郎義盛、平治の乱より彼に隠れ居たりしが、折節(をりふし)上洛して此にあり。摂津国(つのくに)には、多田(ただの)蔵人行綱、同次郎知実、同三郎高頼、大和国(やまとのくに)には、宇野七郎親治が子に宇野太郎有治、同次郎清治、同三郎義治、同四郎業治、近江国には、山木冠者義清、柏木判官代(はんぐわんだい)義康、錦織冠者義広、美濃尾張には、山田次郎重弘、河辺太郎重直、同三郎重房、泉太郎重満、浦野四郎重遠、葦敷次郎重頼、其子太郎重助、同三郎重隆、木田三郎重長、関田判官代(はんぐわんだい)重国、八島先生斉助、同次郎時清、甲斐国には、逸見冠者(有朋上P424)義清、同太郎清光、武田太郎信義、同弟に、加々美次郎遠光、安田三郎義定、一条次郎忠頼、同弟板垣三郎兼信、武田兵衛有義、同弟伊沢五郎信光、小笠原次郎長清、信濃国(しなののくに)には、岡田冠者親義、同太郎重義、平賀冠者盛義、同太郎義信、帯刀先生義賢が子に木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)、伊豆国(いづのくに)には、左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)が三男に前兵衛権佐(ひやうゑのごんのすけ)頼朝(よりとも)、常盤国には、為義(ためよし)が子、義朝(よしとも)が養子に、信太三郎先生義憲、佐竹冠者昌義、子息太郎忠義、次郎義宗、四郎義高、五郎義季、陸奥国には、義朝(よしとも)が末子に、九郎冠者義経とて候。此等は皆六孫王の苗裔、多田(ただの)新発(しんぼち)満仲(まんぢゆう)が後胤、頼義(らいぎ)義家(よしいへ)が遺孫也。家子郎等駈具せば、日本国に誰かは相従集らざるべき、其に昔は大衆をも防、凶徒(きようと)をも退け、預(二)朝賞(一)宿望をも遂し事
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は、源平何も勝劣なかりき。而当時は雲泥の交を隔て、主従の礼よりも猶異也。僅(わづか)に甲斐なき命ばかり生たれ共、国々の民百姓と成て、所々に隠居て侍るが、国には目代(もくだい)に随ひ、庄には預所に仕て、公事雑役に駈立られ、夜も昼も安事なし。いか計かは心憂思らん。君思召(おぼしめし)立て、令旨をだにも下させ給はば、且は奉公の忠を存じ、且は宿望を遂んが為に悦をなし、夜を日に続てむらがり上り、平家を亡さん事、時日をばよも廻し候はじ。法皇の鳥羽殿(とばどの)に御年を経て、打籠られさせ給(たまひ)て、幽なる御住居(おんすまひ)、御心うき御事(有朋上P425)をも休め進させ給たらば、御至考にてこそ侍らめ。伊勢太神宮も正八幡宮(しやうはちまんぐう)も、必御恵を垂させ給ふべし。天神地祇も争か思召(おぼしめし)可(レ)捨、急思召(おぼしめし)立て、平家を亡し、御位にも即せ給なば、源氏等(げんじら)遠き御守護と成進せ候べしと、細々と申上けり。宮はつらつらと聞召(きこしめし)て、此事如何が有べかるらん、主上は清盛(きよもり)入道外孫、平家尤後見たり。御代は高倉院(たかくらのゐん)聞召、兄弟国をあらそはん事、恐なきに非、保元の先蹤憚あり。抑源氏御命に相従つて急ぎ馳上り、平家を打亡さん事も難(レ)知。此事身の上の至極、天下の珍事也。偏(ひとへ)に浮言を信ぜんは、思慮なきに相似たり。然而今一々宣説処、已に兵法をえて、能弁(二)人理(一)、文武事異なれども、通達旨同、欺て益なし。昔微子去(レ)殷而入(レ)周、項伯叛(レ)楚而帰(レ)漢、周勃迎(二)代王(一)黜(二)少帝(一)、霍光尊(二)孝宣(一)、廃(二)昌邑(一)、是皆覩(二)存亡(一)之符、見(二)廃興(一)事成(二)功於一時(一)、垂(二)業於万代(一)、時至ぬれば運の速なる事可(レ)無(レ)言、抑少納言惟長とて、相人あり。是は左大臣俊家の息男、阿古丸大納言(だいなごん)宗通の孫、備後前司季通の子息なり。此の人の相したる事は一事も不(レ)違ければ、
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時の人相少納言(さうせうなごん)と申。其人此宮をば位に即せ給べき相御座、天下の事思召(おぼしめし)捨させ給べからずと申し事思召(おぼしめし)出て、帝位を践べき時の至にもや、頼政(よりまさ)入道もかくは申らめ、又天照太神(てんせうだいじん)の御計にてもや有らんとて、不敵に思召(おぼしめし)立て、国々の宗徒(有朋上P426)の源氏等(げんじら)に、廻宣の令旨をぞ被(レ)下ける。其状に云、
下 東山東海北陸三道、諸国軍兵等所
早可(レ)追(二)討清盛(きよもり)法師并(ならびに)従類叛逆輩(一)事
右前伊豆守(いづのかみ)上五位下行源朝臣仲綱(なかつな)宣、奉(二)最勝親王勅(一)、併清盛(きよもり)法師并(ならびに)宗盛等(むねもりら)、職(二)威勢(一)蔑(二)帝王(一)、起(二)凶徒(きようと)(一)、亡(二)国家(一)、悩(二)乱百官万民(一)、掠(二)領五畿七道(ごきしちだう)(一)、閉(二)籠皇院(一)、流(二)罪臣公(一)、断(レ)命流(レ)身、沈(レ)淵入(レ)楼、盗(レ)財領(レ)国、奪(レ)官授(レ)職、無(レ)功恣許(レ)賞、非(レ)罪猥配(レ)過、依(レ)之(これによつて)巫女不(レ)留(二)宮室(一)、忠臣不(レ)仕(二)仙洞(一)、或召(二)誡於諸寺之高僧(一)禁(二)獄修学之浄侶(一)、或賜(二)下於叡岳之絹米(一)、相(二)具謀叛之粮食(一)、断(二)百王之跡(一)、抑一人之頂違(二)逆帝皇(一)破(二)滅仏法(ぶつぽふ)(一)、見(二)其振舞(一)、誠絶(二)古代(一)者也、于(レ)時天地悉悲、臣民皆愁矣、仍一院第二皇子、尋(二)天武皇帝之旧儀追討(一)、王位推取之輩訪(二)上宮太子之古跡(一)、打亡、仏法(ぶつぽふ)破滅之類也、唯非(レ)憑(二)人力之構(一)、偏所(レ)仰(二)天照之理(一)矣、因(レ)之(これによつて)如(レ)有(二)三宝仏神之威(一)、何無(二)四岳合力之忠(一)哉、然則源家家人、藤氏氏人、兼(二)三道諸国之内(一)、堪(二)勇士(一)者、同令(二)与力(一)、可(レ)追(二)討清盛(きよもり)法師并(ならびに)従類(一)、若於(レ)不(二)同心(一)者、可(レ)行(二)配流追禁之罪過(一)、若於(レ)有(二)勝功(一)者、先預(二)諸国之使(一)、兼御即位之後必随(レ)乞可(レ)賜(二)勧賞(一)也、諸国宣(二)承知(一)、依(レ)宣行(レ)之。(有朋上P427)
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治承四年四月九日 伊豆守(いづのかみ)正五位下源朝臣とぞ在ける。伊豆国(いづのくに)流人、前の兵衛佐(ひやうゑのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)は源家の嫡々なればとて、別令旨を被(レ)下。其状云、
下 東国源氏并(ならびに)官兵等所
応(下)早且任(二)廻宣状(一)、且以前(いぜん)右兵衛佐(うひやうゑのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)為(二)大将軍(一)令(中)参洛(上)事
右 宣旨意趣者、我為(二)百王孫(一)、雖(レ)期(二)宝祚(一)、猶依(二)聖運遅々(一)、未(レ)至(二)即位(一)、而清盛(きよもり)入道、以(二)一旦冥怪(一)、令(レ)治(二)天下(一)、誇(二)非分権威(一)、欲(レ)絶(二)皇法(一)之処、依有(二)仏神之守護(一)、不(レ)遂(二)梟敵之姦望(一)、未(レ)及(二)王法失亡(一)之条明矣。謹仰厳旨可(レ)責(二)清盛(きよもり)(一)也、速致(二)同心(一)、励(二)微力(一)、果(二)其意趣(一)必進(二)帝位(一)者、朝恩争可(レ)空哉、然者(しかれば)依(二)清盛(きよもり)武勢(一)、下知既致(二)都洛空役(一)、我与(二)皇恩(一)、以(二)東北武勢(一)、何不(レ)治(二)天下(一)哉、旁各可(レ)仰(二)景迹(一)也、若於(レ)背(二)宣命(一)者、早可(レ)致(二)伐責(一)之状如(レ)件以宣。
治承四年四月九日 前(さきの)右少史小槻宿禰とぞ、被(レ)下ける。(有朋上P428)挿絵(有朋上P429)挿絵(有朋上P430)
S1304
抑令旨の御使、誰か可(レ)勤と仰ければ、三位(さんみ)入道(にふだう)申けるは、外人は憚有べし、新宮十郎義盛、折節(をりふし)在京に侍れば、被(レ)召て使節を可(レ)被(二)仰含(一)かと。可(レ)然とて義盛を召。事の次第委被(二)下知(一)ければ、十郎畏て、平治年中より新宮に隠籠て、夜昼安き心なし、いかゞして素懐をとげて、再家門の恥をきよめんと存る処に、今蒙(二)厳命(一)条、併身の幸に侍、一門誰か子細を申べき。速に東国に罷下て、同姓の源氏、年来の家人を催上候べしとて、御前を立処に、三位(さんみ)入道(にふだう)申けるは、令旨の御使を勤候はんには、無官(むくわん)にては其恐有べしと申せ
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ば、然るべしとて当座に蔵人になされけり。十郎蔵人は、義盛を改名して行家と名乗。九日令旨を給(たまひ)て、十日の夜半に藤笈を肩にかけ、柿の衣に装束して、熊野にて見習たれば、山伏の学をして、海道に係つて下けり。先近江国には、山本、柏木、錦織に角と知せて、令旨の案を書与へて、美濃尾張へこゆ。山田、河辺、泉、浦野、葦敷、関田、八島に触廻り、又案書を与へて、信濃へ越ゆ。岡田、平賀、木曾次郎に相ふれ、又案書与へて、甲斐へこし、武田、小笠原、逸見、一条、板垣、安田、伊沢に相ふれて、(有朋上P431)案書与て伊豆国(いづのくに)北条に打越えて、右兵衛佐殿(うひやうゑのすけどの)に角と云。佐殿は廻宣披見の後宣(のたまひ)けるは、平家追討の令旨を被(レ)下事、当家の面目に侍り。尤一門同心して、家人を相催し、上洛仕るべし。但頼朝(よりとも)別心を不(レ)存といへども、当時勅勘の者に侍、身に当て令旨を給らずば、軍兵引率其憚ありと宣へば、行家は其事兼て御沙汰(ごさた)ありき、別したる令旨とて、笈の中より取出てこれをわたす。佐殿は手洗口〔に〕漱て、是を請取て、頷許〔に〕入てぞ御座(おはしまし)ける。行家は伊豆より常陸へ越て、兄なれば信太に知せ、佐竹に告て、案書を与へて、甥なれば告んとて、奥州(あうしう)へこそ下にけれ。
S1305 頼朝(よりとも)施行事
〔去(さる)程(ほど)に〕兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、別して令旨を給ける間、国々の源氏等(げんじら)に被(二)施行(一)。其状云、
被(二)最勝親王勅命(一)、併召(下)具東山東海北陸道堪(二)武勇(一)之輩(上)、可(レ)追(二)討清盛(きよもり)入道并(ならびに)従類叛逆輩(一)之由、廻宣二通如(レ)此、早守(二)令旨(一)、可(レ)有(二)用意(一)、美濃尾張両国源氏等(げんじら)者、勧(二)催東山東海便宜之軍兵(一)可(二)相待(一)、北陸道勇士者、参(二)向勢多辺(一)、相(二)待上洛(一)、可(レ)被(レ)供(二)奉洛陽(一)也、御即位無(二)相違(一)者、
P0317
誰不(レ)執(二)行国務(一)哉、依(二)廻宣之状(一)、執達如(レ)件。(有朋上P432)
治承四年五月日 前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源朝臣
とぞ被(レ)書たる。係ければ国々の源氏、背者一人もなし。
S1306 鳥羽殿(とばどの)鼬沙汰事
一院は年を経て、月を重ぬるに付ても、新(しん)大納言(だいなごん)成親父子が如く、遠国遥(はるか)の島にも放遷さんずるやらんと思召(おぼしめし)けるに、城南離宮にして、春もすぎ、夏にも成りぬれば、さていかなるべきやらんと御心ぼそく思召(おぼしめし)て、御転読の御経も、弥心肝に銘じて、被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。五月十二日の午刻に、赤く大なる鼬の、何くより来り参りたり共、御覧ぜざりけるに、御前に参り、二三返走り廻り、大にぎゝめきて、法皇に向ひ参て、踊上々々、目影なんどして失にけり。大に浅間しく思召(おぼしめし)て、禽獣鳥類の恠をなす事、先蹤多しといへ共、此獣は殊に様有べしと覚たり。去ば爰(ここ)に籠置たるも猶飽足らず思うて、入道が、朕を死罪などに行ふべき計などの有にやと思召(おぼしめす)に付ては、南無(なむ)一乗(いちじよう)守護、普賢大士、十羅刹女、助させ給へと、御祈念有りけるぞ悲き。源蔵人仲兼と申者あり。後には近江守とぞ申ける。法皇の鳥羽殿(とばどの)に遷され御座(おはしまし)て、参り寄人もなき事を歎けるが、思に堪ず如何なる咎に合と(有朋上P433)てもいかゞはせんと思て、忍つゝ参たり。法皇御覧じて、哀あれはいかにして参たるぞとて、軈御涙(おんなみだ)をのごはせ給ふ。さても只今(ただいま)然々恠異あり、急ぎ聞召たく思召(おぼしめす)に、折節(をりふし)参りあへる事、神妙(しんべう)神妙(しんべう)とて、御占形を賜つて、泰親がもとへと勅定あり。仲兼急京へ馳上り、陰陽頭泰親が、樋口京極の宿所に行向て、以(二)御占形(一)勅定をのぶ。泰親相伝の文書よく/\披て見、今月
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今日午時の御さとし、今三日が中の還御の御悦、後大なる御歎也と勘申たり。仲兼先嬉くて、件の勘文を以つて、鳥羽の御所に帰参して、此由を奏す。法皇はいさ/\何故にか、左程の御悦はと被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける程(ほど)に、
S1307 法皇自(二)鳥羽殿(とばどの)(一)還御事
法皇の御事、大将強に被(二)歎申(一)けるによつて、入道さま/゛\の悪事思直て、同(おなじき)十四日に鳥羽殿(とばどの)より八条烏丸御所へ還入進す。是にも軍兵御車の前後に打囲てぞ候ける。十二日の先表、同(おなじき)十四日の還御、三箇日の中の御悦と占申たりける事、つゆ違はず。後の大なる御歎とは、又いかなる事の有べきやらんと御心苦く思召(おぼしめし)ける。法皇は去年の十一月より御意ならず、鳥羽殿(とばどの)に籠らせ給(たま)ひて、今年五月十四日に御出ありしかば、幽なり(有朋上P434)し御住居(おんすまひ)引替て、御心広く思召(おぼしめし)ける程に、還御の日しも、第二御子高倉宮(たかくらのみや)の御謀叛(ごむほん)の御企ありとて、京中の貴賤静ならず。去四月九日潜に令旨をば被(レ)下たれども、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)父子、十郎蔵人の外には知人もなし。蔵人は関東へ下向しぬ。いかにして洩にけるやらん、浅間しとも云計なし。
S1308 熊野新宮軍事
此事のあらはれける事は、十郎蔵人東国下向の時、内々新宮へ申下ける事は、平家は悪行年積て、法皇を鳥羽の御所に押籠奉て、忽(たちまち)に逆臣となるに依て、彼輩追討すべきよし宮の令旨を給(たま)ひて、同姓の源氏年来の家人を催促の為に、関東へ下向す、早く家人等(けにんら)に相ふれて、内々用意有て、行家が上洛を相待べしと云下たりければ、那智新宮の者共、寄合寄合かくす/\と私語(ささやき)けれども、国内通計の事なれば、平家の祈の師に、本宮の大江法眼これをきき、新宮十郎義盛こそ、高倉宮(たかくらのみや)令旨を給はり東国に下り、白旗白弓袋になりかへり、平家を亡さんとするなる
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が、那智新宮大衆等(だいしゆら)、源氏の方人せんとて用意有けれ、いざや推寄滅さんとて、大江法眼大将軍として、三千(さんぜん)余騎(よき)舟に乗て、新宮の渚(なぎさ)へお(有朋上P435)しよせけり。新宮那智の大衆此事を聞て、那智の執行正寺司権寺司、羅■(らご)羅法橋、高坊の法眼等、同心して大衆二千(にせん)余人(よにん)、新宮の渚(なぎさ)に陣をとる。大江法眼押寄て、互に時を作る事三箇度(さんがど)也。三目のかぶらやなりやむ事なく、太刀長刀のひらめく影電の如し。源氏の方には角こそ切れ、平家の方には角こそ射とて、軍よばひ六種震動の如し。互に半時も退かず、一日一夜火の出る程こそ戦たれ。され共大江法眼軍に負、相語ふ輩遁るる者は少く、討るゝ者は多かりけり。那智新宮大衆、軍に勝て、貝鐘を鳴し、平家運傾て、源氏繁昌し給べき軍始に、神軍さして勝たりと、悦の時三度までこそ造けれ。和泉国住人(ぢゆうにん)に、佐野法橋と云者、大江法眼には甥也けるが、軍には負ぬ、山に逃籠て息つき居たり。内の消息(せうそく)を書て福原へ奉りけるは、君未知召れず候や、新宮十郎義盛、高倉宮(たかくらのみや)の令旨を給り、東国に下向して源氏等(げんじら)を催促して、平家を亡し奉らんとて、白旗白弓袋に成返れる間、那智新宮の義盛に同意の由承て、大江法眼御方として、新宮の渚(なぎさ)におしよせて、一日一夜戦ひ侍しかども、軍敗ぬ、御用心有べくや候らんと告たりけり。平家これをきゝ給(たまひ)て、面目なしとぞ笑れける。太政(だいじやう)入道(にふだう)は不(レ)安おぼして、数万騎の軍兵をそろへて、福原より上洛す。六波羅には公卿殿上人(てんじやうびと)ひしと並居給(たま)ひたりけるに、入道宣(のたまひ)けるは、(有朋上P436)大方発まじきは弓取の青道心にて有けり。永暦元年に切べかりし頼朝(よりとも)を宥おき、今係大事を被(二)仰下(一)こそ安からね。所詮東国の勢の馳上らぬ
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前に、宮を取奉て、土佐の畑へ流し奉るべしとぞ被(レ)定ける。上卿には三条大納言(だいなごん)実房、職事には蔵人左少弁(くらんどのさせうべん)行隆、別当平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)仰を蒙て、検非違使(けんびゐし)源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)兼綱、出羽判官光長、博士判官兼成等を召て、以仁王を土佐の畑へ移奉べきよし仰含。官人の中に兼綱と云は、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)の子息也。親父の入道が勧と云事をば、平家未(レ)知けり。急告んと思て、入道の本へ角と云。浅ましと云も理に過たり。即宮へ此由を申入けり。宮は五月の空の五月雨の、雲間の月を詠つゝ、御心を澄しうそぶいて、何の行末も思召(おぼしめし)知らぬ折節(をりふし)に、入道の状ありとて、長兵衛尉信連取次て、佐大夫宗信に奉る。披見れば、御謀叛(ごむほん)の披露有て、官人兼綱、光長、兼成等御所に参り候、急ぎ御所を出させ給(たまひ)て、如意越に三井寺(みゐでら)へ入せ給へ、入道も軈馳参候べしと申入たりければ、宗信こはいかゞせんと思て、御所に参り、わなゝく/\忍音に読上たり。宮聞召あへず、御心も心ならずあきれ迷せ給(たま)ひ、こはいかゞ有べき、よき様に相計へ宗信と仰けれども、只振わなゝきたる計にて、申遣したる事なし。信連を御前に召て、然々の御事あり、計へとぞ仰ける。此信連と云は、年来の侍にも非ず、此御所(有朋上P437)に候ける事は、本妻は日吉社の神子也けり。宮御所に候ける青女房に思付て、二心なく通ける折節(をりふし)候会たりける也。年来の者也とても、打解させ給ふべきに非ず、況かりそめの信連なれば、御慎(おんつつし)み有べきにてこそ在けれども、俄事也ける上、信連心際さか/\しかりければ、かく仰けるにこそ。信連は蒙(レ)仰、痛く御騒あるべからず、別の御事候はじとて、局町に走入、女房の薄衣一面、笠取出して、宮を女房の形
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に仕立進せて、佐大夫宗信にけしかける直衣小袴きせ奉、黒丸と云御中間に、表差したる袋持せて、御所を出し進する。俄忍の御事に、ゆゝしく計申たりけり。去ば余所目には、青侍体の者が、女を迎て行ぞと見えける。三井寺(みゐでら)へと志、東山を差てぞ落させ給ける。佐大夫宗信と云は、六条宰相宗保卿の孫、左衛門佐家保子息也。五月の空のくせなれば、雲井の月もおぼろにて、行さきも又幽也。三条高倉を上に出過させ給けるに、ひろらかなる溝あり。宮安々と超させ給たり。大路通る人立留てあやしげにて、はしたなく越たる女房かなとぞ、つぶやきける。佐大夫これを聞て、弥膝振心迷て歩れず、取敢ざりし事なれば、御所中(ごしよぢゆう)などは取したゝむるに及ばず。希代の宝物共も打捨させ御座、御厨子に被(レ)残ける、御反古ども、なからん跡までもいかゞと被(二)思召(一)(おぼしめさる)、御笛御琵琶御遊(ぎよいう)の具足、源氏、狭衣、古今、(有朋上P438)万葉、歌双紙等、何も/\御心に懸らずしもはなけれ共、其中に小枝と聞えし、漢竹の御笛の、殊御秘蔵ありけるをば、何の浦へも御身にそへんとこそ、兼ては被(二)思召(一)(おぼしめされ)けるに、余りの御心迷に、常の御所の御枕に残し留められけるこそ御心にかけて、立帰ても取まほしく思召(おぼしめし)て、延もやらせ給はず、御伴に候ける信連を召て、加程に成御有様(おんありさま)にては、何事か御心に懸べきなれども、小枝をしも忘ぬる事の口惜さよ、いかゞせんと仰有ければ、信連さる男にて、最安き御事にて侍とて走帰、御所中(ごしよぢゆう)大概取したゝめて、此笛を取、二条高倉にて追付進て献(レ)之、宮御涙(おんなみだ)を流させ給(たま)ひ、よにも御嬉しげに被(二)思召(一)(おぼしめされ)たり。信連二条川原にて申けるは、日来は何の所〔の〕浦までも御伴と存じ
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候しかども、只今(ただいま)官人等が御所に参向はんずるに、物一言申者もなからざらん事、無下に口惜く覚侍。信連はいかになかりける歟、又臆病して逃けるかなど、平家の申沙汰せんも遺恨なるべし。弓箭取者の習、仮にも名こそ惜候へとて、暇を申ければ、宮は誠に申処さることなれども、汝に離れては痛く便なかるべし。野の末山の奥までも参らん事こそ本意なれと被(二)仰下(一)けれども、信連はいづくに〔て〕も、命は君に進せ侍るべし。なからん跡までも君の御為我ため、よき名をこそ残したく候へと、強て申しければ、力不(レ)及重て仰ける(有朋上P439)は、我とてもいつまでと思召(おぼしめせ)ば、再び御覧ぜん事有難し、来世にこそ行会してと被(レ)仰もあへず、御涙(おんなみだ)を流させ給ければ、信連も消入様には覚けれども、角心弱ては叶ふまじと思切、涙を推て帰にけり。御所中(ごしよぢゆう)走廻て、見苦き物ども取したゝめて後、青狩衣の下に萌黄の糸威の腹巻著て、烏帽子(えぼし)の尻、盆の窪に押入て、狩衣の小袂(こたもと)より手を出し、衛府の太刀の身をば心得(こころえ)て造りたりけるを佩て、くらきこともなき剛者也ければ、唯一人中門の内にたゝずみてぞ、今か今かと待たりける。
S1309 高倉宮(たかくらのみや)信連戦事
五月十四日の夜の曙に、官人三人向たり。源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)兼綱は、存る旨ありと覚て、遥(はるか)の門外にひかへたり。光長兼成両人は、馬に乗ながら門内に打ち入て申けるは、君代を乱させ給べき謀叛の聞あるに依て、可(レ)奉(二)迎取(一)由、蒙(二)別当の宣(一)罷向へり。光長、兼成、兼綱、是に侍り、速に御出有るべきと高声に申ければ、信連立出て、当時の忍の御所に入せ給(たまひ)て、此御所は御留守也、此子細を伝奏
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仕べきと申ければ、博士判官こはいかに、此御所ならでは、何所に渡らせ給べきぞ、虚言ぞ、足がるども乱入りてさがし奉れと(有朋上P440)下知す。下知に随ひて、下郎等乱入つて、狼藉不(レ)斜(なのめならず)。信連腹を立て、奇怪なる田舎検非違使共(けんびゐしども)が申様哉、我君今こそ勅勘ならんからに、一院第二王子にて御座、馬に乗ながら門内に打入るをだに、不思議と見処に、さがせと下知する事こそ狼藉なれ、にくき官人共が振舞哉とて、薄青の単へ狩衣の紐引切抛て、音にも聞、目にも見よ、宮の侍に長兵衛尉長谷部信連とは我事也とて、太刀をぬき刎て蒐。兼成が下部に金武と云放免あり。究竟の大力、大腹巻に左右の小手指、打刀を抜て向会けり。其をば打捨て、御所中(ごしよぢゆう)へみだれのぼる兵、五十(ごじふ)余人(よにん)が中に打入りて、竪横に禦ければ、木葉を風の吹が如し。庭へさとぞ追散す。信連御所の案内は能知たり、彼に追つめて丁と切、是に追つめてはたと切、唯電などの如くなれば、面を向る者なし。程なく十余人(よにん)は被(レ)討にけり。信連が太刀は心得(こころえ)てうたせたりければ、石金を破とも、左右なく折返るべしとは思はざりけれ共、余に強く打程に、度々曲けるを、押なほし/\戦程に、結句つば本より折にけり。今は自害せんと思て、腰をさがせども、刀も落てなかりけり。力不(レ)及大床に立て、宮の侍に長兵衛尉信連こゝに有、太刀も刀も折失て、勝負の道に力なし、我と思はん者寄合て、信連討捕勲功の賞に預やと、高声に云けれ共、手なみは先に見つ、太刀刀のなしと云は、敵(有朋上P441)をたばかるにこそ、虚言ぞ、左右なく寄て過すなとて、たゞ遠矢に射、主は誰ともしらず、信連左の股を射させたり。其矢を抜て捨たれば、
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尻を止て猶もゝにあり。打かゞめて柱に当てねぢぬきて思けるは、角て犬死をせんより、敵に組食付ても死なんと思て、なへぐ/\小門の脇へ走出て、信連是に有と云ければ、寄手の者ども、声に恐れてさつと引。金武は加様の剛の者、打刀にては叶はずとて、鞘にさし、小長刀を、茎短に取なして寄合さゝんとしけるを、信連持たる物はなし、手をはたけて飛て係、長刀にのりはづめ、又右の股をさゝれつゝ、是にして被(レ)虜。其後官人御所中(ごしよぢゆう)に乱入て、天井を破板じきを放て、さがせども/\宮も御渡なし。人一人もなかりければ、唯信連計を居廻して、縄を付て六波羅へ参らんと云。信連は云甲斐なき者共かな、まてとよ、侍程の者に、なは懸事やある、況や靭負尉(ゆぎへのじよう)に於てをや、無下なる田舎検非違使共(けんびゐしども)かな、争か実に知べき、己等に物教へんとて云ける。我朝に三種の神器の内に、内侍所と申御事有り。昔天照太神(てんせうだいじん)の御時、百王の末の帝までも、我御形を見まゐらせんとて移し留め御座御鏡也。さて絃袋と云は、又後の内侍所の御貌を形どれり。其故に百官悉(ことごと)く朝に雖(レ)奉(二)召仕(一)、衛府の官は浅位なれば、地下にして致(二)奉公(一)直人に紛べきに依て、内侍所の御貌を学て、絃袋を賜て、左右(有朋上P442)の兵衛尉 赤皮、左右の衛門尉 藍皮 是を以て、侍の品を知、国王の御宝なれば、可(レ)遁(二)非分難(一)笠注しなれ。さればこそ官をも一けがすは有難き朝恩にてあれ、縄を付ずとても、信連誤なければ、参て申べしと云ければ、さてはとて唯追立て、六波羅の大庭に引居たり。前(さきの)右大将(うだいしやう)は御簾を半ば巻上て、大口計に白衣(はくえ)にて、長押に尻懸、大床に足差出して、謀叛の次第并狼藉の様、拷木に懸けて、可(二)
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召問(一)と宣へば、信連余御前の怱々なるに、雑人を被(レ)退候へ、不(レ)預(二)拷問(一)とも、御尋(おんたづね)に付て、所存をば申べし、いかに預(二)推問(一)、骨身をば微塵に被(レ)砕と云共、無事申さじと存ざらん事は申まじ。但今夜の狼藉の事身に誤なし、先所存にて侍れば申候、侍品の者が、朝に奉(二)召仕(一)時、奉公私なければ諸大夫にあがり、其より殿上を免され奉ること其例是多し。就(レ)中(なかんづく)信連不肖の身也と申せども、私に主を憑て、諸亭にうでくびをにぎらず、久く宮の御所に召仕て、奉公年積れり、普通の侍に思召(おぼしめし)准ふべからず、御座席こそ無骨に覚え侍れと申。是は大将白衣(はくえ)にて、長押に尻係たる事を咎申なるべし、大将も苦々しく覚されけり。次に夜の事誠の御使と存侍れば、争忝(かたじけなく)も宣旨を忽緒し奉べき。此間宮は忍たる御出とて、三条殿をば出させ給ぬ。御留守の間にて侍を、夜々(よなよな)強盗等が伺と承間、五月闇にてはあり、信連毎夜に用心(有朋上P443)して、不覚せじと御所中(ごしよぢゆう)を見巡つる程に、未暁かけて物具足したる者が、数は不(レ)知御所中(ごしよぢゆう)へ乱入、何者(なにもの)ぞ狼藉也と咎め申つれば、是は宣旨の御使と造声して名乗。宮は御出也、此御所当時御留守也と申せども、さないはせそ、唯打入とて、乱入間、只今(ただいま)何故に宣旨の御使とて、係る貌にて此御所へは参るべし、夜々(よなよな)伺と聞に合て、是は強盗めらが、言を替てたばかり入にこそ。誠や盗人は君の渡せ給ふなど申て、人の心をたぶらかすなんど承候へば、是もさにやと存る処に、只入に打入し間、散々(さんざん)に切殺し追出し侍き。今こそ実とも承はり存れ、大方は宣旨の御使に参ける、検非違使(けんびゐし)、思慮なかりけり。加程の御事に侍ける上は、巨細をのべ、宣旨の御使某
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と名乗申さんには、争狼藉をも仕り侍るべき。又唯一人候ける信連に被(二)追立(一)、度々逃出逃出しけるも云甲斐なし、衛府の官をけがす侍に、縄付けむなど申し行ひつる事、無下に骨法を不(レ)知けり。侍けがしに御恩塞に、一人也とも故実の者こそ召仕れめと、憚る処なくこそ申たれ。大将弥腹立して、兎角の陳答に及ばず、疾々川原に引出して、首を刎よと宣(のたまひ)けり。信連重て申けるは、是は命を惜咎を申ひらかんとには非ず、仮令此御所へ、思懸ぬ夜中に、物具(もののぐ)したる者が、宣旨の御使とて乱入らんをば、宣旨の言に恐、侍共が防戦追出たらんをば、不覚とや仰すべき、(有朋上P444)唯有の儘の事に侍ると云ければ、平家の侍共がこれを聞きて、げにも道理なり、誠に我主の御所へ、物具(もののぐ)して、怪気なる者が夜陰に打入たらんをば、縦ひ宣旨共いへ、院宣ともいへ、後は知ず、弓矢取の習なれば、一旦は防戦んずるぞかし、其を見ながら逃失んをば、ほむる主はよもあらじ、我等(われら)もさこそ振舞はんずれ、此信連は心きは恥しき者にて、而も大剛の者、度々はがねを顕して、一度も不覚せずとこそ聞、中にも本所に候ける時、末座の衆事を仕出して、狼藉不(レ)斜(なのめならず)、一搏揩熕ァし兼て、座を立騒けるに、信連是をしづめけれ共、猶散々(さんざん)の事也ければ、寄合て末座の主従二人、左右の脇に挟み、一しめ/\て罷出、其座の狼藉をしづめたりければ、時に取て高名第一と云れき。又大炊御門京極なる、常葉殿御所へ、大和強盗が打入て、家内の資財をぬすみとり、多の人を切殺して出けるを、家主声を立て、盗よ/\と叫けれども、音を合する者なし。大番衆も追ざりけるに、信連左右の小手に腹巻著て太刀を抜、京極大路
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に出合つゝ、散々(さんざん)に戦ひけるが、強盗四人切留、一人には寄合て組で搦めんとせし程に、頬をつき貫かれながら搦留たりけり。其時の刀の跡ぞかし、当時までも頬にある疵は、されば度々名を顕したる、剛者を、忽(たちまち)に被(レ)切事不便也、信連体の者をこそ御所中(ごしよぢゆう)にも召仕はせ給ふべけれなど、人々申合(有朋上P445)ければ、大将げにもとや覚しけん、死罪をば宥て、且く左の獄に被(レ)入けり。平家滅亡の後、京都に安堵せずして、伯耆国へ落下り、金持の辺に経廻しけるを、鎌倉殿(かまくらどの)聞給(たまひ)て、当国の守護に仰て、去文治二年の頃、関東へ召下されて、剛者のたね継せんとて、由利小藤太が後家に合て被(二)召仕(一)けり。御恩の始に鎌倉殿(かまくらどの)御自筆に、仮名の御下文にて、能登国大屋の庄をば、鈴の庄と号す、彼所を賜たりけるとかや。治承の昔は平家に命を被(レ)助、文治の今は源氏に恩を蒙れり、武勇の名望有難とぞ申ける。高倉宮(たかくらのみや)をば取逃し進たりと披露あり、六波羅京中騒動せり。何者(なにもの)か云たりけるやらん。宮は山門に籠らせ給(たまひ)て、深衆徒を憑ませ給間、大衆是を警固し進せて、平家追討の為に、山門の衆徒、既西坂本、切堤、賀茂の川原、二条三条辺まで下たりと聞えければ、平家の一門右大将(うだいしやう)已下、軍兵東西に馳さわぐ事不(レ)斜(なのめならず)、去共僻事也ければ静りにけり。よく天狗の荒たりとぞ見えし。此宮と申は、法皇の第二の御子にて御座(おはしま)せば、よその御事に非ず。法皇鳥羽殿(とばどの)より還御の日しも、係御事聞召ば、又いかなる目にかあはんずらん、朕は思召(おぼしめし)よらぬ事なれ共、入道此事に依て、よもたゞあらじ、中々鳥羽殿(とばどの)にて御心閑に御座(おはします)べかりける事を、由なき都へ還出にけるとぞ被(二)思召(一)(おぼしめされ)けるぞ、責ての御事と哀
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也。三日の内の御悦、後には大な(有朋上P446)る御歎とは此事にや。清明五代の苗裔、当世無双の重巫也、指の神子といはれたる、泰親なれば、なじかは勘へ損ずべき。
太政(だいじやう)入道殿(にふだうどの)は、嫡子小松内府重盛(しげもり)、去年八月に失給しかば、分方なき次男にて、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛に世を譲給たりける。一番手合に、宮取にがし進せたり、不覚し給たり、云甲斐なしと沙汰すと聞えければ、誠口惜き事にぞ被(レ)思ける。
S1310 高倉宮(たかくらのみや)籠(二)三井寺(みゐでら)(一)事
同(おなじき)十五日に、高倉宮(たかくらのみや)は三井寺(みゐでら)に、逃籠らせ給ふよし聞えけり。通べき道ならねば、御馬にだにものせ奉らず、僅(わづか)に人一両人ぞ御伴には候ける。峨々として高き山、鬱々としてしげき峯、道もなき御木の本を、夜しも渡らせ給ければ、白くいつくしき御足は、むばらの為に紅を絞り、黒く翠なる御髪は、さゝがにの糸にぞまとはりける。角て通夜這々寺に入せ給けん、さこそは悲く覚しけめ。昔浄見原(きよみはら)の天皇(てんわう)、大伴の王子に被(レ)責て、芳野山へ逃入せ給たりけん有様(ありさま)、角やとぞ哀なる。三井寺(みゐでら)にかゝぐり著せ給(たまひ)て、甲斐なき命の惜さに、打憑来れり。衆徒助よとぞ泣々(なくなく)仰ありける。大衆は哀に忝(かたじけな)く思進せて、蜂起(有朋上P447)僉議(せんぎ)して法輪院に御所しつらひ、懐き入進せて、乗円坊阿闍梨(あじやり)慶秀、修定坊阿闍梨(あじやり)定海なんど云、古悪僧等、門徒(もんと)の大衆引率して、御前に候て、様々労り守護し進けり。(有朋上P448)
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十四
P0329(有朋上P449)
佳巻 第十四
S1401 木下馬事
抑三位(さんみ)入道(にふだう)頼政(よりまさ)の、係る悪事を宮に申勧め奉る事は馬故なり。嫡子伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)が家人、東国に有けるが、八箇国第一の馬とて伊豆守(いづのかみ)に進たり。鹿毛なる馬の太逞が、曲進退にして逸物也。所々に星有ければ、星鹿毛と云けり。仲綱(なかつな)是を秘蔵して立飼けり。実に難(レ)有馬也ければ、武士の宝には能馬に過たる物、なにかは有べきとて、あだにも引出事なければ、木の下と云名を付て、自愛して飼ける程に、或人右大将(うだいしやう)に申けるは、伊豆守(いづのかみ)許にこそ、東国より究竟の逸物の馬出来て侍るなれ、被(レ)召て御覧候へかしと申。大将軈(やが)て人を遣て、誠や面白馬の出来て侍るなる、少し見度候と云れたり。仲綱(なかつな)これを聞て、暫しは物もいはず、良久有て、御目に懸るべき馬には侍ざりしかども、けしかる馬の遠国より上て、爪をかきて見苦げに候し間、相労はらんとて田舎へ下して候ふと返事しけり。人申けるは、一昨日は湯洗、昨日は庭乗、今朝も坪の内に引出て有つる也と申。右大将(うだいしやう)(有朋上P450)さては惜にこそとて、重て使を遣す。彼御馬は一定是に侍る由承る、さる名馬にて侍るなれば、一見の志計也と謂れけり。伊豆守(いづのかみ)は我だにも猶見飽ず、不得心なりと思て、猶もなしと答ければ、大将は負じと一日に二度三度使を遣し、六七度遣日も有けれ共、悪惜て終にやらず、一首かくこそ読たりけれ。
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恋敷はきてもみよかし身に副るかげをばいかゞ放遣べき K074
木下鹿毛の馬也。我身の影に添けるにや、最やさしく聞えけれ共、一門亡て後にこそ、放つまじき影を放て、角亡にけり、歌に読負たりとぞ申ける。三位(さんみ)入道(にふだう)仲綱(なかつな)を呼て、いかに其馬をば遣さぬぞ、あの人の乞かけたらんには、金銀の馬也とても進べし、縦乞給ずとても、世に随習なれば、追従にも進べきにこそ、増て左程に乞給はんをば、惜むべきに非ず、況馬と云ぱのらん為也、家内に隠置ては何の詮か有るべき、とく/\其馬進すべしと宣(のたま)ひければ、仲綱(なかつな)力及ばず、父の命に随て、木下を、右大将(うだいしやう)の許へ遣けり。聞に合て実に能馬也ければ、舎人あまた付て、内厩に秘蔵して立飼けり。日数経て後、伊豆守(いづのかみ)以(二)使者(一)、召置れ候し木下丸返給べき由申たり。右大将(うだいしやう)此馬をば惜て、其代りと覚しくて、南鐐と云馬を賜たりけり。極て白馬也ければ、南鐐とは呼けり。是も誠に太逞(有朋上P451)してよき馬也けれども、木下には及付べき馬に非。係し程に当家他家の公卿殿上人(てんじやうびと)、右大将(うだいしやう)の亭に会合の事あり。或人実や仲綱(なかつな)が秘蔵の木下と申馬の、此御所に参て侍けるは、逸物と聞えけり、見侍ばやと申たり。大将さる馬侍りとて、伊豆守(いづのかみ)がさしも惜つる心を悪で、木下と云名をばよばずして、馬主の実名を呼で、其伊豆に轡はげて引出し、庭乗して見参に入よと宣ふ。仰に依て引出し、庭乗様々しけり。右大将(うだいしやう)は仲綱(なかつな)こはくば打はれ、さて仲綱(なかつな)引入てしたゝかにつなぎ付よと下知し給ふ。左程の砌(みぎり)也ければ、なじかは隠あるべき、程なく伊豆守(いづのかみ)も聞てげり。口惜と思て、父三位(さんみ)入道(にふだう)の許に行て、仲綱(なかつな)こそ京都
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の咲ぐさに成て候へ。平家は桓武帝の苗裔とは申せども、時代久く下て十三代、中比は下国の受領をだにも不(レ)免けるが、近く家を興せり。当家は清和(せいわの)帝の御末、多田(ただの)満仲(まんぢゆう)の後胤として、入道殿(にふだうどの)まで九代間近御事也。但源平両氏朝家前後の将軍なれば、必しも申乙有まじき事なれ共、一旦の果報に依て、当時暫く官途に浅深あるにこそ。其に宗盛が詞のにくかりしかば、木下をば惜遂んと存ぜしを、御命に背きがたさに馬をば遣し候ぬ。縦宗盛心の底に不(レ)思とも、礼義なれば悦申べきに、さはさくて、剰当家他家の酒宴の席にて、仲綱(なかつな)に轡はげよ、仲綱(なかつな)こはくば打はれ、仲綱(なかつな)庭乗せよ、仲綱(なかつな)引入よ、仲綱(なかつな)(有朋上P452)つなぎ付よなどと、宗盛の申けん事、今生の恥辱弓取の遺恨、何事かこれにすぎ侍るべき。今は世に立廻りても云甲斐なし、されば宗盛が宿所に行向て、骸を曝か、さらでは髻を切て、山林に隠籠か、此外は他事あらじとて、はら/\と泣けり。三位(さんみ)入道(にふだう)これを聞ては、さこそ遺恨に思けめ。さてこそ此悪事を、宮にも申勧め奉りけるとは、後には披露有けれ。さればあやしくいさめる乗物をば、不(レ)可(レ)用けるにや。
S1402 周朝八匹馬事
昔周穆王と申帝御座(おはしまし)き。或人駿馬八匹を献。彼馬一日に行事万里なれば、鳥の飛よりも猶速也。穆王独愛して乗(レ)之給、四荒八極に至りつゝ、都に還御なかりければ、七廟の祭も怠り、万機の政も絶にけり。去間には民愁国荒て、穆王終に亡にけり。されば白楽天は、戒(二)奇物(一)とて、奇しき乗物を不(レ)用とぞ書れたりける。漢文帝の御時、一日に千里を行馬を奉たりけるには、帝の仰に御幸の時には、必千官万乗相従、我独千里の馬に乗て、先立て行くべきに非ずとて、遂に用給事なかりけり。依(レ)之(これによつて)民富国治れり。
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木下丸もいなゝきいさむにして、天下無双の奇物也けるをや、係不思議も出来にけり。昔周帝は、(有朋上P453)八匹の蹄を愛して、穆王遂に亡けり。今の仲綱(なかつな)は一匹の馬故に、一門悉絶ぬる事こそ哀なれ。
S1403 小松大臣情事
懸る一匹の馬故に、世の乱と成けるに付ても、小松殿(こまつどの)の事をぞ上下忍申ける。小松大臣中宮の御方へ、被(レ)申べき事有て被(レ)参たりけるが、仁寿殿に候はれて、師典侍殿と申女房と暫し対面有けるに、良ありて師典侍殿の左の袴のすそより、大なる蛇はひ出て、重盛(しげもり)の右の膝の下へはひ入けり。大臣これを見給、我さわいで立ならば、中宮も御騒有べき、師典侍殿も驚給べし、此事旁悪かりなんと推しづめ給(たまひ)て、左の手にて蛇の頭をおさへ、右の手にて尾を押へて、六位参と召ければ、伊豆守(いづのかみ)其時は、未蔵人所に候けるが、指出たりけるに、是は何と被(レ)仰たれば、見候とてつとより、布衣の袖を打覆て、罷出て御倉町の前に出て、人や候参と呼ければ、小舎人参たり。これ賜ていづくにも捨よとて、差出したれば、一目見て赤面して逃帰りぬ。郎等省に賜たれば、不(レ)恐蛇の頭を取て、大路に出て打振て捨たれば、蛇即死けり。翌日に小松殿(こまつどの)自筆にて御文あり。昨日の御振舞(おんふるまひ)(有朋上P454)還城楽(げんじやうらく)と奉(レ)見候き。雖(二)異体候(一)、一匹一振令(二)送進(一)候とぞ有ける。黒き馬の七寸(しちすん)に余て、太逞に白覆輪の鞍置て、厚房の鞦を懸たり。太刀は長伏輪也けるを、錦の袋に入られたり。優にやさしく見えける。仲綱(なかつな)御返事(おんへんじ)には、御剣御馬謹拝領、御芳志之至、殊畏入候。抑去夜誠還城楽(げんじやうらく)の心地仕候き。仲綱(なかつな)頓首謹言と書たりけり。還城楽(げんじやうらく)とは、蛇を取舞なれば、角問答有けるこそ。小松殿(こまつどの)は加様にそ御座(おはしまし)しに、其弟にて、いかに
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宗盛はかゝる情なく御座らんと申けり。
或説云、木下丸とは今の逸物の馬也と云事あり。
S1404 三位(さんみ)入道(にふだう)入寺事
高倉宮(たかくらのみや)は十四日に都を落させ給(たまひ)て、終夜(よもすがら)三井寺(みゐでら)に入給たりけれ共、ゆゝしく申し頼政(よりまさ)法師も不(二)見来(一)、況国々の源氏一人も馳参らざりければ、こはいかに有べき事やらんと思召(おぼしめさ)れける程に、廿日源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)嫡子伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)、次男源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)兼綱〈 甥を養子にす 〉三男判官代(はんぐわんだい)頼兼木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)が兄に、六条蔵人仲家、其子に蔵人太郎、六条蔵人とは、帯刀先生義賢子也。義賢討れて後孤子也けるを、是をも三位(さんみ)入道(にふだう)の養ひたりける也。此等の一類郎等(有朋上P455)に渡辺党を引具して、三位(さんみ)入道(にふだう)の近衛河原(このゑかはら)の家に火係て焼払(やきはら)ひ、三井寺(みゐでら)へこそ参けれ。渡辺党に箕田源氏綱が末葉、昇の滝口子息に、競滝口と云者あり。弓矢取ては並敵もなく、心も剛に謀もいみじかりけるが、而も王城第一の美男也。宿所は平家の右大将(うだいしやう)の、六波羅の宿所の裏築地也。入道三井寺(みゐでら)へ落給けるに、傍輩ども此事を競に告知せんと申。入道さらで有なん、彼家は平家の近隣也、周章(あわて)たる使にて、角と云物ならば、妻子所従泣悲て、物運ぞ逃隠などせば、中々悪かりなん、只打棄て音なせそ、競は深く入道を憑たり、又謀賢者なれば、いづくにも落付く所をだにも聞ならば、時を指て来らんずる者也と宣へば、打捨て告ざりけり。去(さる)程(ほど)に三位(さんみ)入道(にふだう)は、高倉宮(たかくらのみや)を尋進て、三井寺(みゐでら)へと披露あり。右大将(うだいしやう)人を遣して、競も供して行けるかと被(レ)見。使帰て、競は未是に候と申。まこととも不(レ)覚、存の外也。入道の内には競こそ一二の者よ、いかに供をばせぬぞ、僻事にこそとて、楢の
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太郎友真、讃岐四郎大夫広綱二人を遣て、慥に見て参と宣ふ。此等も帰参て、さりげもなくて宿所に候と申。さらば召とて召ければ、競は使と共に参たり。大将出合宣(のたまひ)けるは、いかに、主の入道は寺へと聞に、汝は伴もせざりけるぞと宣へば、競は角とも告給はねば、争か知侍るべきと申。さもあらずとよ、入道の内には汝(有朋上P456)等(なんぢら)こそ身に替り、命をも捨べき一二の者と、世に沙汰するに、告げざる事は大に覚束(おぼつか)なしと宣へば、競其も様こそ侍らめ、但此間は怨申子細候に付て、心を置るゝ事共も侍り、仮令(たとへば)入道殿(にふだうどの)こそ告給はずとも、親者多候に、角とも申さぬは、よく主人の勘当の深ければこそ、加様の大事には人一人も大切にこそ侍べきに、さすが競などを打すて給事は、おぼろげの所存にはあらじ、其上は又追て参ずるに及ばず、慕も様によるべき事なれば、当時はさてこそ候へと申。大将打うなづきて、年来ほし/\と思て、入道にも度々乞しかども叶はざりつるに、然べき折節(をりふし)也、よき侍一人儲たりと悦で、向後は宗盛を憑かし、三位(さんみ)入道(にふだう)の恩程の事は、などか思宛ざらんと宣へば、競はあらはかなの宣事や、縦(たとひ)命は失とも、宮仕はすまじき者を、但只今(ただいま)いなと云べき折に非ず、相従はんと思て申けるは、競させる身にあやまる事候はず、身にも命にも替奉り候はんとこそ存ずれども、入道殿(にふだうどの)此間心を置給へば、奉(レ)恨奉公も不(レ)仕、内々は申入ばやと存候つるが、主に中違ていつしかと人の御景迹も恥し、自然の次をと存処に、此仰身の幸也と申。大将不(レ)斜(なのめならず)嬉げにて、見参の始なればとて、随分秘蔵し給たりける小糟毛と云馬に貝鞍置、遠山と云馬引具し、黒糸威(くろいとをどし)の鎧甲(よろひかぶと)
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皆具給(たまひ)てけり。競は畏り給(たまひ)て、ほくそ咲て罷帰ぬ。大将宣(のたま)ひけ(有朋上P457)るは、能侍儲たり、王城一の美男也、心剛に弓箭取てよし、渡辺党の最中也。此裏築地を朝夕に出入を見るにも、目醒しくほしかりつるに、期も有けりと悦給へり。競家に帰ても、さすが覚束(おぼつか)なくて早晩人を遣して、競は有か候と、又人を遣て、競は有か候と隙なくこそ問ひ給けれ。競思けるは、是程の大事を思立給ながら、告給はぬ事は真実に遺恨也、大将の角打たへ語ひ給ふもいなみ難し、時の花をかざしの花にせよと云事あり、さてもあらばやと思けるが、又案じけるは、告給はぬも様あるらん、六波羅近き家なれば無骨也、中々にとも被(レ)思つらん、忠臣不(レ)仕(二)二君(一)、貞女不(レ)嫁(二)二夫(一)と云事あり。蘇武は胡敵に足を切れしか共、猶夷には不(レ)随、紀信は帝位いつはりて、高祖の命にも替りけり。我争か相伝の主を捨奉て、今更平家にうでくびをにぎらん、末代までも名こそ惜けれと思て、大将より給ぬる鎧著て、小糟毛に乗、遠山に乗替の童乗て、郎等三騎家子二騎、都合七騎にて三井寺(みゐでら)へとて打出けり。大将の惣門の前を通るとて、手綱かいくり鐙蹈張立上り、門の内へのぞき入、高声に申けるは、競こそ只今(ただいま)御前を罷り通り侍れ、昨日の御馬鎧悦存れば、尤も御宮仕申べく侍れ共、年来の主君入道殿(にふだうどの)恋く思奉候へば、寺へこそ罷越候よと、よばはりて打過けり。競は滝口の名残(なごり)を惜けるにや、白羽の矢をぞ負(有朋上P458)挿絵(有朋上P459)挿絵(有朋上P460)たりける。大将の侍共これを聞て、競こそ小糟毛に乗、遠山に童乗て、しか/゛\と喚て、門前を下馬もせで通侍、奇怪に覚れば、追係て討留なんと申。大将はぬけ/\としなされ、尾籠の男にこそ、但止る事はいかゞ有べき、
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小糟毛は早走也、一町共延なば追付難し、競は弓の上手也、小勢にてあやまちすなよ/\、さる白痴にはゆきあはぬにはしかじ、音なせそとぞ制し給ふ、云甲斐なくぞ聞えし。競寺に馳著て、親き者共に、いかに口惜も殿原は、此程の御大事(おんだいじ)角とも告げ給はで、捨ておはするぞと恨申せば、さればこそ告んと申つるを、入道殿(にふだうどの)の仰に、競が宿所は大将の向なれば、つげては中々無骨也。何所にも落著ぬと聞なば、深く我を憑たる者也、定て時を指て来べき者ぞと仰の有つれば、さてこそと答ければ、競さては嬉くこそ、何事に御隔あらんと心元なく侍りつるに、つげずとも聞ては参べき者ぞと、憑れ進せける競こそ、我身ながらも糸惜けれとて、咲まげてぞ有ける。宮の御所には三位(さんみ)入道(にふだう)父子三院の大衆、軍の評定して並居たり。競進出て申けるは、右大将家(うだいしやうけ)へ被(レ)招間、事の体をも伺見んとて行たれば、いかに入道と共に入寺はなきぞ、我に宮仕せよとて、甲冑馬鞍引出物に得たり。宿所に帰たれば、隙なくあるか/\と問給ける事、一々に申て、馬も鎧も盗て取たらばや、不当とも云はれめ、(有朋上P461)賢人も折によるべし、係る時は物具(もののぐ)も乗物も大切也と存て、乗て参つるに、大将の門前にて名乗て通つる事語畢て、さても競を宗盛年来の主を捨て他人の門踏んずる者と思ひけん事のあぶなさよと申たりければ、宮を始進て、僧も俗も咲つぼの会にてぞ有ける。伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)は、木下丸を大将に乞れて、仲綱(なかつな)打はれと云れたるを、安からず思ひければ、競が引出物に得たる小糟毛を取寄て、髪をかり法師に切て、平宗盛入道と金焼して、京へ向てぞ追放つ。未(レ)暁大将の六波羅の大庭に放れ馬あり、よく/\見給へば小糟毛
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也。是はいかにと引廻し/\見給へば、平宗盛入道と金焼したり。大将は木下が報答せられたりとぞ宣(のたまひ)ける。昔斉桓公の孤竹国を伐けるに、春往て冬還、深雪道を埋て帰事をえざりけり。管仲計ひ申けるは、老馬の智を用べしとて、老たる馬を雪の中に放つゝ、馬に随行ければ、斉国にも還にけり。今の宗盛の小糟毛も、六波羅三井寺(みゐでら)遠けれども、道芝の草を分朝露にしをれつゝ、関山関屋も歩過、本の主の家なれば、大将の亭にぞ帰りける。
S1405 南都山門牒状等事(有朋上P462)
法輪院には、警固の大衆守護の武士、様々軍の談議評定しける中に、三位(さんみ)入道(にふだう)申けるは、合戦の習、勢には依らず、謀をむねとすと申伝たれ共、南都山門へ牒状を遣て、大衆を召るべきかと宣ふ。衆徒の僉議(せんぎ)には、近来の作法を見、平家の振舞を案ずるに、仏法(ぶつぽふ)の衰微、王法の牢籠時至れり。依(レ)之(これによつて)人臣専憂(レ)之、僧徒大に歎(レ)之。雖(レ)然、且く浄海入道の威に恐て、在家出家閉(レ)口処に、二宮御入寺偏(ひとへ)に是正八幡宮(しやうはちまんぐう)の衛護、新羅明神の冥助也。我(わが)寺(てら)の興隆此時に相当れり。速に平相国(へいしやうこく)が暴悪を炳誡せん事、衆徒の力によるべし。誰やの人かを憑べき。何の時をか期べき。天神も地祇も、必納受(なふじゆ)をたれ、仏力も神力も速に降伏をくはへ御座(おはしま)さん事、疑有べからず。抑北嶺は円宗一味の学地、南都は出家得度の戒場也。為(二)仏法(ぶつぽふ)(一)為(二)王法(一)被(二)牒送(一)処に、争か与力なからんやと云ければ、尤々(もつとももつとも)と一同して、両寺(りやうじ)へ牒状あり。先南都へ牒送の状に云、
園城寺(をんじやうじ)牒(てふす)、興福寺(こうぶくじの)衙(が)〈 まらうとゐかまと 〉
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請殊蒙(二)合力(一)、被(レ)助(二)当寺仏法(ぶつぽふ)破滅(一)状
右仏法(ぶつぽふ)之殊勝、為(レ)護(二)王法(一)也、王法之長久、則依(二)仏法(ぶつぽふ)(一)也、而自(二)項年(一)以来、入道前太政大臣(だいじやうだいじん)平清盛(きよもり)、恣窃(二)国威(一)、濫(二)乱明政(一)、付(レ)内付(レ)外、成(レ)恨成(レ)歎之間、今月十四日夜、(有朋上P463)一院第二皇子、忽為(レ)免(二)不慮之難(一)、俄所(下)令(二)入寺(一)給(上)也、而重号(二)院宣(一)、有(レ)可(レ)奉(レ)出(レ)之、責(二)衆徒(一)不(レ)能(レ)欲(レ)罷、而奉(レ)惜之処、彼禅門欲(レ)入(二)武士於当寺(一)云々、然者(しかれば)云(二)王法(一)云(二)仏法(ぶつぽふ)(一)、一時将(二)破滅(一)、諸衆盍(二)愁歎(一)乎、昔唐会昌天子、以(二)軍兵(一)令(レ)破(二)滅仏法(ぶつぽふ)(一)之時、清涼山衆徒、合戦禦(レ)之、王憲猶如(レ)此、何況於(二)謀叛(一)、八虐之輩、誰人可(二)諛順(一)乎、就(レ)中(なかんづく)南京者、被(レ)配(二)流無罪之長者(一)、意念動(二)胸中(一)、非(二)今度(一)者、何日遂(二)会稽願(一)、衆徒内助(二)仏法(ぶつぽふ)之破滅(一)、外退(二)悪逆(あくぎやく)之伴類(一)、同心之至本懐可(レ)足、衆徒僉議(せんぎ)如此、仍牒送如(レ)件。
治承四年五月廿日 小寺主法師成賀
都維那大法師定算
勾当法師忍慶
上座法橋大法師忠成
とぞ書たりける。興福寺(こうぶくじ)大衆会合僉議(せんぎ)して、尤同心して、仏法(ぶつぽふ)の助専命(二)王法(一)愁吟を休め奉べしとて、進士蔵人入道信救に仰て、返牒あるべしと議定畢。又山門へも牒状を送けり。其状に云、(有朋上P464)
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園城寺(をんじやうじ)牒(てふす) 延暦寺(えんりやくじの)衙(が)〈 まらうとゐかまと 〉
欲(下)殊致(二)合力(一)、被(レ)助(中)当時仏法(ぶつぽふ)破滅(上)状
右入道浄海、恣失(二)皇法(一)、又滅(二)仏法(ぶつぽふ)(一)、愁歎無(レ)極之間、去十四日夜、一院第二皇子、不慮之外、所(下)令(二)入寺(一)給(上)也、爰号(二)院宣(一)、雖(レ)有(二)可(レ)奉(レ)出(レ)之責(一)、皇子須(レ)令(二)固辞(一)、衆徒専奉(二)守護(一)之処、可(三)放(二)遣官軍(一)之旨、有(二)其聞(一)、当寺破滅将(レ)当(二)此時(一)歟、而延暦(えんりやく)園城(をんじやう)両寺(りやうじ)者、門跡雖(レ)分慈覚智証之遺訓、所(レ)学是同円実頓悟之教文、喩如(二)鳥之翅不(一)(レ)闕、又似(二)車之輪相備(一)、於(二)一方闕(一)者、争無(二)其歎(一)哉、特致(二)合力(一)被(レ)助(二)仏法(ぶつぽふ)破滅(一)者、早忘(二)年来之遺恨(一)、必復(二)住山之往昔(一)、衆徒之僉議(せんぎ)如(レ)斯、仍牒送如(レ)件。
治承四年五月廿一日 小寺主法師成賀
都維那大法師定算
寺主大法師忍慶
上座法橋上人位忠成
とぞ書たりける。山門の衆徒、不(レ)及(二)返牒(一)けれ共、先同心参加の由憑しく申たり。
S1406 自(二)興福寺(こうぶくじ)(一)有(二)同心返牒(一)。
其状云、(有朋上P465)
興福寺(こうぶくじ)牒(てふす)園城寺(をんじやうじの)衙(が)
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被(レ)載(一)(レ)可(レ)相(下)禦為(二)清盛(きよもり)入道(一)欲(レ)破(中)滅貴寺仏法(ぶつぽふ)(上)由(中)事、
来牒一紙
牒、今月二十日牒状、今日到来、披閲之処、悲喜相交、如何者(いかんとなれば)、玉泉玉花、雖(レ)立(二)両箇之宗儀(一)、金章金句同出(二)一代之教文(一)、南京北京、倶以為(二)如来(によらい)之弟子(一)、貴寺他寺互可(レ)防(二)調達之魔障(一)、就(レ)中(なかんづく)貴寺者、我等(われら)本師弥勒慈尊常往之精舎也、何況或公家、或姑山、或諸宮、或相門講席之時、令(二)戦智諍儀(一)事、是則天台、法相、三論、花厳等而己、若一宗相闕豈不(レ)恨乎、然者(しかれば)天台学徒、被(二)魔滅(一)者、法相独留如何為哉、凡緇林之詮(二)乙甲(一)者、則是兄弟之諍也、白衣(はくえ)之蔑(二)仏法(ぶつぽふ)(一)者、寧非(二)魔軍之企(一)哉、所(レ)及(二)贔屓(一)最可(二)相救(一)也、抑異或本朝弓馬之道、労(レ)力苦(レ)身、雖(レ)平(二)王敵(一)、抽(レ)賞以不(レ)過(二)千金万戸(一)、官位未(三)必及(二)子孫兄弟(一)、其中我朝自(レ)古賞(レ)武之道、無(レ)授(二)高位(一)、既異(二)唐家(一)、天平御宇(ぎよう)、大野東人雖(レ)斬(二)魁首(一)、僅預(二)八座(はちざの)次(一)、弘仁御宇(ぎよう)、坂上将軍、遠攘(二)奥州(あうしう)之狡獪(一)、近鎮(二)平城之煙塵(一)、雖(レ)加(二)九卿(一)、無(レ)昇(二)三公(一)、爰清盛(きよもり)入道者、平氏之糟糠、武家之塵芥也、祖父正盛仕(二)蔵人五位之家(一)、把(二)諸国受領之鞭(一)、大蔵卿(おほくらのきやう)為房(ためふさ)、為(二)賀州刺史(一)之古、補(二)検非違所(一)、修理(しゆりの)大夫(だいぶ)(有朋上P466)顕季、為(二)播磨太守(一)之昔、任(二)馬厩別当職(一)、曁(二)于親父忠盛(一)、被(レ)聴(二)昇殿(一)之時、都鄙老少皆惜(二)蓬壺之瑕瑾(一)、内外英豪各依(二)馬台之験文(一)、忠盛雖(レ)刷(二)青雲之翅(一)、世人猶軽(二)白屋之種(一)、惜(レ)名青侍、無(レ)臨(二)其家(一)、然間去平治元年、右金吾信頼(のぶより)謀叛之時、太上天皇(てんわう)感(二)一戦之功(一)、被(レ)行(二)不次之賞(一)以降、高昇(二)相国(一)、兼賜(二)兵仗男子(一)、或忝(二)
P0341
台階(一)、或列(二)羽林女子(一)、或備(二)中宮職(一)、或蒙(二)准后宣(一)、兄弟庶子皆歩(二)棘路(一)、其孫彼甥悉割(二)竹符(一)、加(レ)之統(二)領九州(一)、不(レ)辞(二)封家(一)、細官進退百司、皆為(二)奴婢僕従(一)、一毛違(レ)心、縦雖(二)皇候(一)禽(レ)之、一言背(レ)命不(レ)嫌(二)公卿(一)醢(レ)之、是以為(レ)延(二)一旦之身命(一)、為(レ)遁(二)片時之陵辱(一)、万乗聖主尚成(二)面展之媚(一)、重代之家、君還致(二)膝行之礼(一)、雖(レ)奪(二)代々相伝之家領(一)、上裁恐(レ)命巻(レ)舌、雖(レ)押(二)宮々相承之庄園(一)、天子憚(レ)威無(レ)言、乗勝之余、其驕倍増、去年十一月追(二)捕太上天皇(てんわう)之棲抄(一)、掠(二)種々之財貨(一)、押(二)流博陸輔佐之身(一)、奪(二)取国々之庄園(一)、叛逆之甚誠絶(二)古今(一)、其時我等(われら)須(下)行(二)向賊徒(一)以問(中)其罪(上)也、然而或相(二)量神慮(一)、或依(レ)称(二)皇憲(一)、抑鬱胸送(二)光陰(一)之間、清盛(きよもり)入道重発(二)軍兵(一)、打(二)囲一院第二親王宮(一)之処、八幡三所、春日大明神(かすがだいみやうじん)、窃垂(二)影向(一)、奉(レ)■(ささげ)(二)銭弼(一)、送(二)附貴寺(一)、奉(レ)預(二)新羅権現(一)之間、押(二)開金枢(一)、奉(レ)守(二)玉体(一)、王法不(レ)可(レ)尽之旨明矣、随又貴寺捨(レ)命奉(二)守護(一)之条、含識之類、誰不(二)随喜(一)哉、(有朋上P467)我等(われら)在(二)遠域(一)感(二)其情(一)之処、清盛(きよもり)入道猶起(二)凶器(一)、欲(レ)打(二)入貴寺(一)之由側以承及、兼致(二)用意(一)、為(レ)成(二)合力(一)、二十二日晨旦発(二)大衆(一)、二十三日牒送諸寺、下(二)知末寺(一)、調得軍士之後、欲(レ)達(二)案内(一)之刻、青鳥飛来、投(二)一芳紙(一)、数日之鬱念一時解散、彼唐家清涼、一山之■蒭(ひつすう)、尚返(二)武宗之官兵(一)、況和国南北両門之衆徒、盍(レ)擺(二)謀臣之群類(一)、能固(二)梁園左右之陣(一)、宣(レ)待(二)我等(われら)進発之告(一)者、勒(二)衆議(一)牒送如(レ)件、察(レ)状勿(レ)疑殆故牒。
治承四年五月廿三日 権都維那法師善勝
P0342
都維那大法師有実
権寺主大法師俊範
権寺主大法師兼清
権上座大法師禅慶
上座法橋上人位俊慶
と書て、三井寺(みゐでら)へ送。又興福寺(こうぶくじ)より、諸寺に牒送する状云、
興福寺(こうぶくじ)大衆牒東大寺(とうだいじの)衙(が)
欲(下)早駈(二)末寺庄園(一)被(中)供奉(上)今明中発(二)向洛陽(一)可(レ)助(二)園城寺(をんじやうじ)仏法(ぶつぽふ)破滅(一)状(有朋上P468)
牒、諸宗雖(レ)異、皆十二代聖教、諸寺雖(レ)区、同安(二)三世之仏像(一)、就(レ)中(なかんづく)園城寺(をんじやうじ)者、弥勒如来(によらい)常住霊崛也、我等(われら)受(二)阿僧之流(一)、憤(二)慈氏之教(一)、又貴寺八宗教法、相並学(レ)之、豈不(レ)憶(二)彼寺之破滅(一)乎、而花洛之間有(二)一臣猜(一)、平治元年以来、押(二)領於四海八■(はつていを)(一)、如(二)奴婢(一)、進(二)退於百司六宮(一)、任(二)我意(一)、一毛違(レ)心則、雖(レ)云(二)王侯(一)禽(レ)之、片言乖(レ)思、又雖(レ)為(二)公卿(一)醢(レ)之、是以累代相伝之家、君還成(二)膝行之礼(一)、万乗尊重之国主、殆致(二)面展之矯(一)、遂廻(二)趙高指(レ)鹿之謀(一)、滅(二)王室(一)、剰追(二)弗沙飛(レ)象跡(一)、失(二)仏家(一)、即今明之間、欲(レ)残(二)害園城寺(をんじやうじ)(一)、以未(レ)発以前、不(二)相救(一)者、我等(われら)独全有(二)何益(えき)(一)乎、然則不日調(レ)兵、欲(レ)向(二)京洛(一)、仏法(ぶつぽふ)興廃只有(二)此縡(一)、且祈(二)誓仏神(一)、可(レ)降(二)伏魔軍(一)、且駈(二)催末寺庄園(一)被(二)供奉
P0343
(一)者、冥叶(二)天地之神慮(一)、願保(二)南北之仏法(ぶつぽふ)(一)而己、仍粗勒(二)由緒(一)、牒送如(レ)件、密状勿(レ)令(二)遅引(一)、故牒。
治承四年五月二十三日 興福寺(こうぶくじ)大衆等(だいしゆら)と、加様に書て十五大寺送遣けり。
S1407 山門変改事(有朋上P469)
山門南都同心の由聞えければ、宮の軍兵等の衆徒、大に勇悦けり。六波羅には大勢馳集て、合戦の評定様々也ける中に、上総介忠清(ただきよ)計ひ申けるは、山門南都同心せば、合戦ゆゝしき大事也、三井寺(みゐでら)には、大関小関を伐塞、山には東西の坂に弩はり、海道北陸二の道を催て、防戦程に、南都の大衆、芳野十津川の悪党等を相語て、宇治路(うぢぢ)淀路より挟で寄ならば、前後に敵を拘へん事、ゆゝしき大事也。官兵数を尽し、日数程を経るならば、国々の源氏も馳上て、軍に勝ん事難し。されば先貫首に仰て、山門を制し、内々三千衆徒を可(二)詐宥(一)也。いかなる者も、財に耽らぬ事やはある。殊に山法師は、詐安ものぞと申ければ、可(レ)然計ひ申たりとて、先院宣被(レ)下、状云、
園城寺(をんじやうじ)者、元是謀叛之地也。誠乎箇事、非寺之訴、非法之鬱、同意八虐之輩、忽失(二)皇法(一)、欲(レ)滅(二)仏法(ぶつぽふ)(一)、早今日中企(二)登山(一)、勅定之趣、具可(レ)被(レ)仰(二)衆徒(一)、内祈(二)善神(一)、外降(二)悪党(一)耳、抑深懸(二)叡念於叡山(えいさん)(一)、蓋誡(二)一寺於一門(一)、其上凶徒等(きようとら)、忽被(レ)責(二)兵甲(一)者、定遁(二)隠山上(一)歟、兼得(二)此意(一)、慥可(レ)令(二)守護(一)者、宣(レ)守(二)院宣之趣(一)之状如(レ)件、仍言上如(レ)件。
治承四年五月廿四日 左少弁(させうべん)行隆奉
P0344
謹上 天台座主(てんだいざす)御房(有朋上P470)とぞ有ける。猶重たる院宣云、園城寺(をんじやうじ)衆徒等(しゆとら)、尚背(二)勅命(一)、於(レ)今者可(レ)被(レ)遣(二)追討使(一)也、一寺滅亡雖(二)歎思召(おぼしめす)(一)、万民之煩不(レ)可(二)黙止(一)歟、誠是魔縁之結構(けつこう)、盍仰(二)仏界之冥助(一)哉、満山衆徒、異口同音、可(レ)令(二)祈申(一)、又大威徳供可(レ)被(二)始行(一)之由、依(二)院宣(一)言上如(レ)件。
五月廿四日 左少弁(させうべん)行隆奉
と有ければ、座主登山有て、衆徒を宥制し給(たま)ひける上に、事を往来に寄て、近江米一万石、美濃絹三千匹を上て、谷々坊々に積て引(レ)之けり。取者は一人して五匹十匹をも取けり。空(レ)手て不(レ)取衆徒も有けれ共、一山大に悦で、忽(たちまち)に三井の発向を変改す。米とり絹取たる大衆等(だいしゆら)、大講堂(だいかうだう)に会合して僉議(せんぎ)あり。倩園城寺(をんじやうじ)の牒状を見に、延暦(えんりやく)園城(をんじやう)の両寺(りやうじ)は、鳥の左右の翅の如く、車の二の輪に似りといへり。此条奇怪の申状也。山門は本山也、園城(をんじやう)は末寺也、本末混合の牒状、豈同心すべきや。此時若合力あらば、向後定て同輩せんか、不(レ)可(レ)然と申たりければ、衆徒一同して不(二)与力(一)、一門賄賂に耽て、忽(たちまち)に変改と聞えければ、三井の衆徒角ぞつゞけける。
山法師織のべ衣うすくして恥をばえこそ隠さゞりけれ K075(有朋上P471)
絹にあたらざりける山法師読たりけるとかや。
織のべを一切もえぬ我(われ)らさへ薄恥をかくことぞ悲しき K076
与せんと申て変改有ければ、三位(さんみ)入道(にふだう)角ぞ送遣しける。
P0345
薪こる賤がねりその短きかいふ言のはの末のあはねば K077
山門の衆徒底恥しくこそ思けめ。高倉宮(たかくらのみや)の御謀叛(ごむほん)によりて、山門園城(をんじやう)騒動すと聞えければ、主上俄(にはか)に入道の宿所西八条(にしはつでう)に行幸あり。新院日比(ひごろ)是に御座(おはしまし)けり。日次かた/゛\悪かりけれ共、かゝる急々の折節(をりふし)なれば、是非の沙汰にも及ばず、又御輿の前後に、軍兵数千騎(すせんぎ)打囲たり。事の外に騒しくぞ見えける。
堀川院(ほりかはのゐんの)御宇(ぎよう)、承保元年十二月には、八幡、賀茂両社の行幸の日、園城寺(をんじやうじ)の悪徒等(あくとら)、参洛すと聞えしかば、前下野守義家(よしいへ)弓箭を帯し、軍兵三千(さんぜん)余騎(よき)にて御輿の後、右衛門の陣に候ひしをこそ、希代の勝事也とて、人驚(二)耳目(一)。近来の御幸行幸には、ともすれば軍兵前後に仕るぞ浅猿(あさまし)き。
S1408 三井寺(みゐでら)僉議(せんぎ)附浄見原(きよみはらの)天皇(てんわうの)事
〔去(さる)程(ほど)に〕三位(さんみ)入道(にふだう)被(レ)申けるは、山門は変改、南都は未(レ)参、小勢にて合戦ゆゝしき大事也。(有朋上P472)平家を夜討にせんは、よかりなん。さらば老僧児共、童部(わらんべ)法師原(ほふしばら)一二千人(いちにせんにん)、如意峯に指遣て、続松手々に用意して、足軽二三百人(にさんびやくにん)、法勝寺(ほつしようじ)の北さまより、三条河原祇園の辺まで、するりと遣て、在家に火を放ちなば、六波羅の早雄の武者共、軍兵に招れて馳来ば、引退引退あひしらひ、矢少々射させて岩坂桜本に引籠て戦はん。其隙に指違て、能者四五百人(しごひやくにん)六波羅へ打入つて、風上に火を係て、太政(だいじやう)入道(にふだう)右大将(うだいしやう)を焼出して、などかは討ざるべきと宣へば、大衆夜討の義尤然べし、軍は不(レ)如(レ)乗(レ)勝とて、三院の大衆、貝鐘鳴し、金堂の前に会合して、已に夜討の手分する処に、一如坊阿闍梨(あじやり)真海と云者あり。太政(だいじやう)入道(にふだう)の祈の師也。同宿済々と引具し
P0346
て、僉議(せんぎ)して云、抑仏法(ぶつぽふ)王法は助(レ)君守(レ)法、文官武官は、治(レ)国鎮(レ)乱、其中に源平両氏の将軍は、朝家前後の守護として、国土を治奉(レ)守(二)君主(一)、互に牛角たりき。然倩近来を見に、源家は運衰て、諸国に零落し、平家は威盛にして、一天を管領せり。依(レ)之(これによつて)五畿七道(ごきしちだう)、不(レ)背(二)其命(一)、百官万庶相(二)従其威(一)。衆流の海に入が如く、万木の似(レ)靡(レ)風。一寺の衆徒の力を以て、一族多勢の兵を傾事たやすからじ。但蟷螂(たうらう)車を還と云こと侍ば、其にはよるまじき上、親王の御入寺は、寺門の繁昌衆徒の面目也、当(二)此時(一)、誰か等閑を存じ、勇心なからん。然者(しかれば)卒爾の夜討を止て、能々謀を横縦に廻し、(有朋上P473)勢を東西に催して軍せんは可(レ)宣か、角申せばとて、全く平家の方人には非、いかにも寺門の安堵衆徒の高名こそ末代までも存ずる事なれと、言と心と引替て、夜を明さんと、閑々(しづしづ)長々とぞ僉議(せんぎ)したる。此に乗円坊阿闍梨(あじやり)慶秀は、下腹巻に衣装束、長絹袈裟にて頭を裹、打刀前垂指、進出て云けるは、軍に勝こと勢には依らず、証拠外になし。我(わが)寺(てら)の本願主、浄見原(きよみはら)の宮と申は、事新けれども天智天皇(てんわうの)御弟、大海人王子是也。天皇(てんわう)我御子達(みこたち)には譲(レ)位給はで、浄見原(きよみはらの)宮に譲給へりしかば、天智崩御(ほうぎよ)の後、皇子大友位に洩給(たま)ひぬる事を恨て、謀叛をおこし、浄見原(きよみはらの)宮を襲ひ給しかば、宮都を出て吉野山に入給ふ。天神憐を垂給けるにや、天女あま降り、天の羽衣にて廻雪の袖をかなでしかば、後憑しくぞ思召(おぼしめし)けるに、猶芳野山を責べき聞えありければ、彼山を出給、伊賀国へ越、伊勢と近江の境なる、鈴鹿山に入り給。深山(しんざん)陰(かげ)幽にして人跡絶、更闌夜暗して、月不(レ)照ければ、東西に迷給、為方を失へり。前後左右
P0347
を見廻給へば、山中に幽に火の光あり、彼にたどり至て御覧ずれば、奇き柴庵に、夫婦とおぼしくて老翁老嫗あり。御宿を借り給へば、不(レ)惜奉(二)請入(一)。宮問云、在所多(レ)之、何心在てか此深山(しんざん)に栖と。翁答曰、此地は霊地にして、凡境に非ず、此に栖者王に肩を並る地形あり、故に爰を栖とし侍と。浄見原(きよみはら)の宮、奇異(有朋上P474)の思を成給ふ。王に肩を並るとは、朕が事を示にやと、憑しく思召(おぼしめ)し、重て汝に子ありやと、御尋(おんたづ)ねありければ、我に一人の女子あり、后相を具せる故に、凡人に隠して、此山の上に御所を造て、居置侍ると。宮の仰に云、我は是浄見原(きよみはら)の宮也、天智の譲をえたれ共、大友の王子に襲れて、爰(ここ)に迷来れり、汝が女朕が后に可(レ)祝とて、即其夜中に、彼御所に入給。又宮翁に仰て云、大友(おほともの)王子(わうじ)に、見目、聞耳、かぐ鼻とて、三人の不思議の者を召仕ふ。一旦此に隠忍たりとも、遂には顕なん、いかゞすべきと語給へば、翁畏て申、君の御先祖と申は、天照太神(てんせうだいじん)也。程近伊勢国(いせのくに)渡会郡、五十鈴の河上に崇られ給(たまひ)て、御子孫を守護し奉らんと御誓あり。御参あり祈念あらば、御恙あらじと申ければ、即老翁を召具して、御参詣あり。折節(をりふし)降雨車軸を下して、鈴鹿川に洪水漲下りて、渡り難かりけるに、二頭鹿参て、両人を背に乗、河を奉(レ)渡、其より彼河を鈴鹿川と改名せり。敵兵攻来ると聞えしかば、翁太神宮の御後に、大なる岩屋あり、君を奉(レ)入、銀の盤の上に金の鉢に水を入て、御足を指入させ奉て、敵来侍ん時は、御足にて水をかは/\と鳴させ給へと申て忍隠ぬ。敵程なく責来たれども、岩屋の口にて失(二)行方(一)、あきれ立たり。宮御足にて水を、かは/\と鳴し給ふ。大友(おほともの)
P0348
王子(わうじ)、見目に仰て、いづくにかおはすると宣へ(有朋上P475)ば、三千界の内には見え給はずと、次に聞鼻承て、三千界の内に其香なしと、次に聞耳承て、暫く聞て、此君は此界には御座(おはしま)せず、其故は此世界の構様は、風輪の上に水輪あり、上に金輪あり、上に地輪あり、而を浄見原(きよみはら)の宮、只今(ただいま)金輪の上の水輪を渡給ふ、足音かは/\と鳴侍るとて、是より皆々都へ帰上ぬ。其後翁来て岩屋の戸を開て奉(レ)出。君太神宮の御宝前にて御神楽あり。神明顕現じ給(たま)ひて御託宣(ごたくせん)あり、君は国津神を集、東夷を催して禦(レ)敵給へ。大友は都西の戎を以て、責来るべし。近江と美濃との境に、城構して相待給へ。我擁護を加て勝事をえしめ、必可(レ)有(二)即位(一)と、宮悦思召(おぼしめし)て、近江国の山伝して、百済寺山を通て、美濃国に入り給(たま)ひ、是彼忍隠給けり、大友(おほともの)王子(わうじ)聞給(たまひ)て勢を催て、美濃国へ向けり。何の所にか有けん、宮を奉(二)見付(みつけ)(一)て追懸たり。危かりける時、野中に大なる榎木一本あり。二に破て中開たり。宮其中に入給へば、木又いえ合ぬ。敵打廻見けれども、見え給はざりければ、陣に帰ぬ。其後榎木又破れて中より出給ぬ。大童に成て御身を窄し、其辺に廻て、宮仕せんと宣へば、関の辺に一人の長者あり。招入て仕試るに、万に賢かりければ、只人共不(レ)覚して、かしづき仕けるに、夜々(よなよな)夢に日月を仕と見る。不審によりて、抑誰人ぞ、若大友(おほともの)王子(わうじ)に忍給ふなる、浄見原(きよみはら)の宮にて御座か、(有朋上P476)左にはあらずと仰あらば、王子の軍兵に見せ奉んと申せば、宮名乗て憑まんとおぼして、丸は浄見原(きよみはら)の宮也、深く汝を憑と宣へば、長者畏て聟に取奉て、隠し置奉る。年月を経て、王子二三人出き給へり。其後長者東夷を催て、白鳳元年壬午
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始て不破関を置て、美濃国にて軍構し給へり。王子此由聞給(たまひ)て、西戎を集て向給ふ。両軍山中宿にて合戦す。山中の東なる河を阻て戦けり。両陣互に白刃を合せければ、其川黒き血に流けり。さてこそ彼川をば、黒血川とは名付たれ、宮の勢は東国より走集て如(二)雲霞(一)。王子の軍は敗て、終に亡にけり。宮都に上給(たま)ひ、即(レ)位給にけり。天武天皇(てんわう)とは是也。浄見原(きよみはらの)天皇(てんわう)共申。天皇(てんわう)崩御(ほうぎよ)の後、関の長者の恩を思召(おぼしめし)けるにや、神と被(レ)祝給へり。関明神と申は是也。関所の殿原と云は、彼長者の女に儲給へる末葉也。去ば天皇(てんわう)大和国(やまとのくに)宇多郡を通給けるには上下十七騎、遂には軍に勝て位に即給へり。昔を以て今を思ふに、不(レ)可(レ)依(二)無勢(一)。十七騎猶軍に勝、況三院の衆徒をや、況源氏の与力をや。就(レ)中(なかんづく)窮鳥入(レ)懐、人倫憐と云事あり。況宮の御入寺をや。異計を廻さんとて、徒に時日を隔ならば、敵に上手を討れて、後悔無(レ)益也。自余は不(レ)知慶秀が弟子共は、急ぎ先陣仕て、慥に太政(だいじやう)入道(にふだう)の首を取て、親王の御代に成進せよとて、ひしめきけり。実にゆゝしくぞ見えける。円満院(ゑんまんゐん)の大輔(有朋上P477)進出て、唯一口に、衆徒の僉議(せんぎ)端多し、五月の短夜明なんとす、急寄られよと云ければ、尤々(もつとももつとも)とて如意峯より、師法印乗智が弟子共に、義法禅永等五十(ごじふ)余人(よにん)、乗円坊の慶秀が同宿等に、加賀刑部光乗一来を始として、六十余人(よにん)、律浄坊の日胤が同宿に、伊賀越前上総坊を始めとし五十(ごじふ)余人(よにん)、其外児共童部(わらんべ)、大津の在家駈具して、千余人(よにん)、手々に続松支度して向けり。六波羅の討手には、伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)を大将軍として、侍には渡辺党満馬允、子息省の播磨次郎、其子授薩摩兵衛、刈源太、与馬允、競滝口、唱丁七
P0350
清、濯等也。僧には法輪院荒土佐、円満院(ゑんまんゐんの)大輔(たいふ)、平等院(びやうどういん)因幡竪者、荒大夫松井肥後、角六郎坊、島阿闍梨(あじやり)北院の金光院六天狗に、大輔、式部、能登、加賀、佐渡、肥後等也。常喜院には、鬼土佐、筒井法師に、卿阿闍梨(あじやり)悪少納言、我耶筑前、南勝院に、肥後房、日尾定雲四郎坊、後中院に但馬坊、大矢修定、此等は皆弓矢を取ても打物以ても一人当千(いちにんたうぜん)の兵也。堂衆には、筒井浄妙、明秀、小蔵には、尊月、尊永、慈慶、楽住、金拳、賢永等こそ伴けれ。僧俗勢都合七百(しちひやく)余騎(よき)、皆長刀を持たりけり。如意峯の手は、物具(もののぐ)を帯して、嶮山を上ける上に、五月二十日余(あまり)の事なれば、雲井の月もおぼろにて、木の下も、又暗ければ、進もやらざりけり。六波羅の手は、宮御入寺の後は、用心の為に、大関小関(有朋上P478)堀塞、逆木垣楯構たりければ、彼等を取払、堀に橋渡などする程に、五月の短夜推移、関路の鶏鳴あへり。伊豆守(いづのかみ)は夜討こそよかりつれ、鶏鳴頻也、夜既明なんとす、今は叶はじとて引へたり。円満院(ゑんまんゐんの)大輔(たいふ)は、褐の直垂に、黒皮威(くろかはをどし)の大荒目の鎧の、一枚まぜなる草摺長にさゞめかし、白星の甲に、大の長刀杖につきて申けるは、昔漢朝に孟嘗君(まうしやうくん)と云人あり。本は斉の国の人也けり。狐白の裘と云て、千の狐の脇の皮を取集て、しつらひ作たる秘蔵の物を持たりけり。秦昭王に心ならず乞取れて不(レ)安思けり。彼孟嘗君(まうしやうくん)は、様々の能者を、三千人(さんぜんにん)従仕ひけり。其中にりうていと云者は、勝たる犬の学の上手にて、而も盗人也けるを以て、犬の学して蔵を破、白狐裘を盗出して逃けるに、昭王兵を遣して、孟嘗君(まうしやうくん)を討んとす。孟嘗君(まうしやうくん)三千人(さんぜんにん)の客を引卒して、函谷関にぞ係ける。彼関は鶏不(レ)鳴さきには戸を開かぬ習
P0351
なれば、夜深して通り難し。敵は既襲来る、遁るべき様もなかりけるに、三千人(さんぜんにん)の客の中に、馮■(ふくわん)と云者あり、鶏の音をまねぶ上手也ければ、関の戸近き木に昇て、鶏の真音をぞ啼たりける。関路の鶏聞伝て、一羽も不(レ)残鳴ければ、いまだ夜半の事なれども、関守戸をぞ開てげる。孟嘗君(まうしやうくん)希有にして遁にけり。其よりしてぞ馮■(ふくわん)をば、鶏鳴とも申ける。されば是も敵の謀にや有らん、只寄給へと云けれども、今(有朋上P479)はいかにも叶はじとて、山階よりこそ引返せ。懸しかば如意が手をも呼返し、其夜も空く明ぞ行。此事真海阿闍梨(あじやり)が長僉議(ながせんぎ)の故也とて、一如坊へ押寄て、切坊に及ければ、禦戦けれども、同宿あまた討れて、真海希有にしてまぬかれ出、はふ/\六波羅へ行向、此由角と訴申けれども、六波羅には兼て大勢用意ありければ、更に騒事なし。いざ/゛\、真海も寺法師也、敵の計ごとにもや有らん、打解がたしとて無興なりければ、真海兎に角に、面目なくて還にけり。(有朋上P480)
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十五
P0352(有朋上P481)
世巻 第十五
S1501 高倉宮(たかくらのみや)出寺事
高倉宮(たかくらのみや)は、暫く此にも御渡あらばやと、思召(おぼしめし)けれ共、山門の大衆は変改、国々の源氏は未(レ)参、寺ばかりにては叶はじとて、廿五日に園城寺(をんじやうじ)を出させ給(たまひ)て、南都を憑て落させ給けるが、先金堂に御入堂ありて、蝉折と云御秘蔵の御笛を以て、万秋楽の秘曲をあそばして御廻向あり。南無(なむ)大慈大悲当来導師弥勒慈尊、戒善の余薫拙くして、今生こそ空くとも、竜笛の結縁を以て、後生助給へとて、泣々(なくなく)仏前に差置せ給けるこそ哀なれ。警固の大衆も、御伴の兵も、皆袖をぞ絞りける。
S1502 万秋楽曲事
< 抑万秋楽と云曲は、本は都卒天上の楽也。是即弥勒の内院の秘密灌頂(くわんぢやう)の陀羅尼なり。釈迦如来(しやかによらい)■利(たうり)の雲上にして、弥勒に袈裟を付属し給(たま)ひし時、彼天の万秋楽と云木下にて、(有朋上P482)天衆菩薩此楽を奏して、如来(によらい)を供養し奉しかば、万秋楽と名たり。昔朱雀院御子に日蔵上人とて貴人にて、金峯山に行澄して御座(おはしまし)けるを、蔵王権現の御方便にて、秘密瑜伽(ゆが)の独古を把て六道(ろくだう)を見廻給けるに、都卒の内院に参給へり。折節(をりふし)弥勒慈尊は、大厦高堂に黙然として座し給たりけるに、菩薩聖衆秘密陀羅尼を妓楽に移し、此曲を奏して慈尊を奉(二)供養(一)。日蔵上人絃の道に長じ給たりければ、唱歌を以て伝へつゝ、我朝の管絃に被(レ)移たり。此に都卒天の楽と云。序三帖、破六帖合て九品に是をあつ。舞の終に必膝をついて居事は、弥勒を敬由也。手に合掌の曲あり、見仏聞法の楽とも云。迦毘相経第六に説て云、此万秋楽伝受人天、決定住生都卒天上〈 文 〉、誠大陀羅尼の功徳也、不(レ)輙妙曲也。
P0353
或説云、日蔵上人大唐より此曲を伝と云云。>
S1503 蝉折笛事
< 蝉折と云御笛は、鳥羽院(とばのゐんの)御時、唐土の国王より御堂造営の為にとて、檜木の材木を所望ありけるに、砂金千両に檜木の材木を被(二)進送(一)たりければ、唐土の国王其御志を感じて、種々の重宝を被(二)報進(一)ける中に、漢竹一両節間被(レ)制たり。竹の節生たり。蝉につゆたがは(有朋上P483)ざりければ、希代の宝物と思召(おぼしめし)て、三井寺(みゐでら)の法輪院覚祐僧正(そうじやう)に仰て、護摩の壇上に立て、七箇日加持して後、彫たりける御笛也ければ、おぼろげの御遊(ぎよいう)には取りも出されざりけり。鳥羽殿(とばどの)にて御賀の舞のありけるに、閑院の一門に、高松中納言実平、此御笛を給(たまひ)て吹けるが、すき声のしけるをあたゝめんとて、普通様に思ひつゝ、膝の下に推かいて、又取上吹んとしてけるに、笛咎めや思けん、取はづして落して蝉を打折けり。其よりして此笛を、蝉折とぞ名ける。高倉宮(たかくらのみや)管絃に長じまし/\ける上、ことに御笛の上手にて渡らせ給(たま)ひければ、御孫子とて、鳥羽院(とばのゐん)此宮には御譲ありける也。宮も故院の御形見と被(二)思召(一)(おぼしめされ)ければ、聊も御身を放たせ給はざりけれ共、深く竜華の値遇と思召(おぼしめし)ければ、彼天の楽を奏して、此寺の本尊に進給(たま)ひけるこそ哀なれ。>
S1504 宇治合戦附頼政(よりまさ)最後事
宮は御馬に召て、既(すで)に寺を出させ給けり。児共大衆行歩叶はぬ老僧までも、此程の御なごりを奉(レ)惜て、墨染袖を絞りけり。中にも乗円坊阿闍梨(あじやり)慶秀は、七十有余(いうよ)の老僧也。腰二重にて鳩杖に係り、御前に進て奏けるは、慶秀齢己に八旬に及て行歩に力なし、御志(有朋上P484)はいかにもと存ずれ共、御伴に不(レ)叶、弟子にて侍る、刑部房俊秀は、相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)、山内須藤刑部丞俊通と申し者が子息に侍、彼俊通は、去し平治の合戦に義朝(よしとも)が伴して、六条川原の軍に討死して、孤子にて侍しを、慶秀跡懐より生し立てて、心の中も身の力もよく/\知て候、不敵の僧にて心際悪からぬ者にて侍り、慶秀御伴仕と思召(おぼしめ)して、
P0354
御前近く召仕はせ給べしとて、涙を流し墨染の袖を絞ければ、宮も聞し召し御覧じて、仮そめのなじみに、加程に思覧事よと思召(おぼしめし)ければ、御涙(おんなみだ)ぞ進みける。宮は御浄衣にて御馬に召、三位(さんみ)入道(にふだう)の一類、并(ならびに)寺法師、都合三百(さんびやく)余騎(よき)御伴に候けり。新羅社の御前にては御心計に再拝して、大関通に御出なる。東を望めば湖水茫々として波清く、西を顧ば嶺松鬱々として風冷じ。関寺関山打つゞき、住人(ぢゆうにん)来人会坂や、一叢杉木下より、筧の妙美井絶々也。くゞ井坂、神無の森、醍醐路に懸て、木幡の里を伝つゝ、宇治へぞ入せ給ける。宇治と寺との間、行程纔(わづか)に三里計也、六箇度まで御落馬あり。御馬に合期せさせ給はぬ故にや、又此程打解御寝ならぬ故にや、是も然べき御運の際とは申ながら、加程の御大事(おんだいじ)の中に、睡落させ給ける御事云かひなし。加様に度々御落馬在ければ、暫く休め進せんとて、宇治の平等院(びやうどういん)に入進て御寝あり。其間に宇治橋三間引て、衆徒も武士も宮をぞ奉(二)守護(一)。平家は(有朋上P485)宮南都へ入せ給由聞て、追討使を被(二)差遣(一)に、左兵衛督知盛卿、蔵人頭(くらんどのとう)重衡朝臣、中宮亮通盛朝臣、薩摩守忠度朝臣、左馬頭(さまのかみ)行盛朝臣、淡路守清房朝臣、侍には上総忠清(ただきよ)、上総大夫判官(たいふはんぐわん)忠綱(ただつな)、摂津判官盛澄、高橋判官長綱、河内判官季国、飛騨守景家(かげいへ)、飛騨判官景高、都合二万(にまん)余騎(よき)、宇治路(うぢぢ)より南都を差て追て懸。平等院(びやうどういん)に敵ありと見ければ、平家の兵共(つはものども)雲霞の如くに馳集て、河の東の端に引へて、時を造る事三箇度(さんがど)、夥しとも不(レ)斜(なのめならず)。宮の兵共(つはものども)も時の音を合て、橋爪に打立て禦矢射けり。其中に寺法師に、大矢の秀定、渡辺清、究竟の手だり也けるが、矢面に進んで、差詰/\射けるにぞ、楯も鎧も不(レ)叶し
P0355
て多の者も討れける。平家の先陣も、始は橋を隔て射合けるが、後には橋上に進上て散々(さんざん)に射。其中に信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)、吉田安藤馬允、笠原平五、常葉江三郎を始として、二百余騎(よき)進出て戦けるに、常葉江三郎内甲射させて引退く。宮の兵は橋の西爪にて、差詰々々射ければ、面を向がたし。平家の軍兵は、東の爪に轡を並て如(二)雲霞(一)。橋は狭し人は多、我劣らじ/\と上が上に籠入けり。未暁の事なるに、上川霧立て暗さは闇し、橋をさへ引たりければ、先陣に進者、橋を引たるぞ/\と、口々によばはりけれ共、指もどゞめく中なれば、唯我先にと馳こみける程に、先陣二百余騎(よき)をば川の中へぞ推落す。夜もほの/゛\と明け(有朋上P486)れば、寺法師は筒井の浄妙明春と云者あり、自門他門に被(レ)免たる悪僧也、橋の手にぞ向ける。明春今日は事を好てぞ装束したる、しかまの褐の冑直垂に、紺の頭巾に黒糸威(くろいとをどし)の大荒目の冑の一枚交なるを、草摺長にゆり下し、三枚甲の緒を強くしめて、黒ぬりの太刀の、三尺五寸あるに、練つば入て熊皮の尻鞘をさす。同毛色のつらぬきをぞ帯たりける。黒塗の箙に、塗篦に黒つ羽を以てはぎたる矢を、廿四差たるを、頭だかに負なしつつ、七もちりなるまゆみのしめ塗にぬりたるに、塗づる懸て真中を取、烏黒の馬の七寸(しちすん)にはづみたる黒鞍置て、熊皮泥障指てぞ乗たりける。同宿廿人、同毛色に真黒にぞ出立たる。三尺五寸の長刀童に持せて具足せり。明春云けるは、殿原暫軍止め給へ、其故は敵の楯に我箭を射立て、我楯に敵の箭をのみ射立られて、勝負有べきとも不(レ)見、橋の上の軍は、明春命を捨てぞ事行べき、続かんと思人は連やと云儘に、馬より飛下てつらぬき抜捨、橋桁の上に
P0356
挙りて申けるは、者その者にあらざれば、音にはよも聞給はじ、園城寺(をんじやうじ)には隠れなし、筒井浄妙明春とて一人当千(いちにんたうぜん)の兵なり、手なみ見給へとて、散々(さんざん)に射ければ、敵十二騎射殺して十一人(じふいちにん)に手負て、一は残して箙にあり。箭種尽ければ、弓をばかしこに投捨ぬ。彼はいかにと見処に、箙も解て打すて、童に持せたる長刀取、左の(有朋上P487)脇にかい挟みて、射向の袖をゆり合せ、しころを傾、橋桁の上を走渡る。橋桁は僅(わづか)に七八寸の広さ也。川深して底見えざれば、普通の者は渡べきにあらざれ共、走渡りける有様(ありさま)、浄妙が心には、一条二条の大路とこそ振舞けれ。廿人の堂衆等も続ざりける。其中に十七になる一来法師計こそ少しも劣らず連けれ。明春元より好所也ければ、今日を限と四方四角振舞て飛廻りければ、面を向る者なかりけり、電光の如にひらめきけり。立に敵九騎討捕て、十人と申けるに、甲の鉢にしたゝかに打当て、長刀こらへずして折ければ、河へからと投入て、太刀抜て戦けり。太刀にて七騎討捕て、六騎に手負て休居たり。平家の方より、悪き法師の振舞哉、さのみ一人に多者討れたるこそ安からねとて、しころを傾けて、ながえを指出たる兵あり。明春是を見て、面白し、東門五色の熟瓜ぞやとて、甲の鉢を打破て、喉笛まで打さかんと打たりけるに、太刀もこらへずして、目貫穴のもとより折にけり。太刀は折たれ共、甲も頭も打破れて、真逆に川中へぞ落にける。憑処は腰刀計也、腰刀を抜持てはねて係りて戦けり。死狂とぞ見えたりける。見(レ)之浄妙討すな者共とて、後中院但馬、金剛院六天狗、鬼土佐、佐渡、備中、備後、能登、加賀、小蔵尊月、尊養、慈行、楽住、金拳玄永
P0357
等命を不(レ)惜戦たり。橋桁はせばし、(有朋上P488)そばより通にも非ず、明春に並たりける一来、今は暫く休給へ浄妙房、一来進て合戦せんと云ければ、尤然べしとて、行桁の上に、ちと平みたる処を、無礼に候とて、一来法師兎ばねにぞ越たりける。敵も御方も是を見て、はねたり/\あつはねたり、越たり越たりよつ越たりと、美ぬ者こそなかりけれ。此一来法師は、普通の人より長ひきく、勢ちひさし、肝神の太き事、万人に勝れたり。さればこそ甲冑をよろひ、弓矢兵仗を帯しながら、身の惜事をも顧みず、あれ程狭き行桁を走渡、大の法師をかけずはね越たりけめ、太刀のかげ天にも在地にもあり、雷などのひらめくが如し。切落し切伏らるゝ者、其数を不(レ)知、上下万人目を澄てぞ侍りける。明春、一来師、弟子二人に討るゝもの、八十三人也。誠に一人当千(いちにんたうぜん)の兵也、あたら者共討すな、荒手の軍兵入替よや/\と、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)下知しければ、渡辺党に、省、連、至、覚、授、与、競、唱、列、配、早、清、進、なんどを始として、各一文字声々名乗て、三十(さんじふ)余騎(よき)馬より飛下飛下、橋桁渡て戦けり。明春は此等を後陣に従へて弥力付て、忠清(ただきよ)が三百(さんびやく)余騎(よき)の勢に向て、死生不(レ)知にぞ戦ける。三百(さんびやく)余騎(よき)と見しかども、明春一来が手に懸り、渡辺党に討れて、百騎計に成て引退く。平家の大将是を見て、橋の手こそしらみて見れ、返合よ/\と下知しければ、我も(有朋上P489)/\と橋の上にぞ走重。橋は二間引れたり、後より御方に推れて、心ならず七十余騎(よき)川へ落て流けり。三位(さんみ)入道(にふだう)見(レ)之て、世を宇治川(うぢがは)の橋下さへ、落入ぬれば難(レ)堪、況冥途の三途川こそ思やらるれとて、
P0358
思やれくらき暗路のみつせ川瀬々の白浪払あへじを K078
筒井浄妙俄(にはか)に弥陀願力の舟に心を係て、
宇治川(うぢがは)にしづむを見れば弥陀仏誓の舟ぞいとゞ恋しき K079
明春心は猛く思へども、手負ければ引退て、平等院(びやうどういん)の門外、芝の上にて物具(もののぐ)ぬぎ置、冑甲に立所の矢六十三、大事の手は五所也、閑所に立寄て、彼是炙治し、頭はからげ弓打切杖につき、平足駄著て独言して云けるは、法師等が外は軍心に入たる者はみえず、いかにも始終墓々しからじとて、阿弥陀仏(あみだぶつ)〔と〕申て奈良の方へぞ落行ける。
円満院(ゑんまんゐんの)大輔(たいふ)慶秀、矢切但馬明禅と云ふ者あり。是又、武勇の道人にゆるされたる兵也。慶秀は白帷の脇かきたるに、黄大口著て、萌黄の腹巻に袖付たり。明禅は脇かきたりける褐の帷に、白大口に、洗革の腹巻に、射向の袖をぞ付たりける。各長刀脇に挟て、しころを傾て、又行桁を渡けるを、平家の軍兵矢衾を作て射ければ、射すくめられて渡えざりけるに、長刀を振上て、(有朋上P490)水車を廻ければ、雨の降如くに射けれども、長刀にたゝかれて、箭四方にちる、春の野に蜻蜒の飛散が如くなり。敵も御方も皆興に入て、ほめぬ者こそなかりけれ。中にも後中院の但馬房を矢切と申けるは、左の脇に長刀を挟、右の手には三尺二寸(にすん)の太刀抜持て、敵の射箭を切落す。下る矢をば踊越え、上矢をばついくゞり、向矢をば伐落す。懸ければ、身に立矢こそなかりけれ。其間に敵八人(はちにん)討捕て引退。さてこそ矢切の但馬
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とも申けれ。橋を引てければ、敵数千騎(すせんぎ)ありといへ共渡えず、明春等に被(レ)禦て、合戦時をぞ移しける。矢切但馬、浄妙、一来、此等三人橋桁を渡ける。敵共残り少く被(二)切落(一)ければ、後には渡る兵なし。平等院(びやうどういん)の前西岸の上、橋の爪に打立たる宮の御方の軍兵共、我も/\と扇を揚て、渡せや渡せやと召て■(ののしり)けるは、其程臆病なる軍将やはある、太政(だいじやう)入道(にふだう)心おとりせり、懸不覚の者共を合戦の庭に差遣す条、非(二)一門恥辱(一)やと云て、舞かなづる者もあり、踊はぬる者もあり、されども進兵なかりけり。寺法師、法輪院荒土佐鏡■(きやうしゆん)をば、雷房とぞ申ける。雷は卅六町を響かす音あり、此土佐も三十六町の外にある者を呼驚す大音声なれば、さだかにはよも聞えじとて、岸の上の松木に上て、一期の大音声今日を限とぞ呼ける。一切衆生法界円満輪皆是身命為第一宝とて、生ある者は皆命を惜(有朋上P491)習なれ共、致(二)奉公忠勤(一)輩、更に以て身命を惜事あるべからず、況合戦の庭に敵を目に懸けながら、轡を押へて馬に鞭打さる条、致(二)大臆病(一)処也、平家の軍将心おとりせり、源家の一門ならましかば、今は此河を渡なまし、栄花を一天に開く、臆病を宇治川(うぢがは)の橋の畔に現す、禁物好物自在にして、四百四病はなけれ共、一人当千(いちにんたうぜんの)兵に会ぬれば、臆病計は身に余りけり。良平家の公達聞給へ、此には源(げん)三位(ざんみ)入道殿(にふだうどの)の矢筈を取て待給ぞ、源平両門の中に選れて、■(ぬえ)射給たりし大将軍ぞや、臆する処尤道理也、爰(ここ)に一来法師太刀を振ば、二万(にまん)余騎(よき)こそ引へたれ、尾籠也見苦見苦、思切て渡や/\とぞ呼ける。左兵衛督知盛聞(レ)之、不(レ)安事かな、加様に笑れぬるこそ後代の恥と覚ゆれ、橋桁を渡せばこそ無勢
P0360
にて多兵をば射落さるれ、大勢を川に打ひたして渡とぞ宣(のたまひ)ける。平家方より伊勢(いせの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)古市の白児党とて、さゞめきて押寄たり。宮御方より渡辺者共、省、授、与、列、競、唱、清、濯と名乗合て、散々(さんざん)に射。白児党に先陣に進戦ける内に、三人共に赤威の鎧に、赤注付たりける武者、馬を射させて川中へはね入られて、浮ぬ沈ぬ流て宇治の網代による。秋の紅葉の竜田川の浪に浮に異ならず。網代に懸て、弓筈を岩のはざまにゆり立て、希有にしてこそあがりけれ。源氏これを見て、(有朋上P492)
白児党皆火威の鎧きて宇治の網代に懸りけるかな K080
と、平家の侍に、上総守(かづさのかみ)忠清(ただきよ)、此有様(ありさま)を見て申けるは、橋は引たれば難(レ)渡、河は水早して底不(レ)見、人種は尽とも渡すべしとも不(レ)覚、追手の勢少々を此に置て敵にあひしらひ、搦手を淀路河内路へ廻て、敵の前を塞て戦はんと云ければ、下野国住人(ぢゆうにん)、足利(あしかがの)又太郎(またたらう)忠綱(ただつな)進出でて、淀路河内路も我等(われら)が大事、全く余(よ)の武者の向べきに非ず、橋を引れ河を阻たればとて、目にかけたる敵を見捨て、時刻をへるならば、芳野法師奈良法師参集てゆゝしき大事、此川は近江湖水の末なれば、旱事更にあるべからず、武蔵と上野との境に、利根川(とねがは)と云大河あり、其にはよも過じ物を、昔秩父と足利と、中悪て、度々合戦しけるに、寄時には瀬を蹈舟に乗て渡りけれども、軍に負て落けるには、舟にも乗らず淵瀬を嫌事なし、され共馬も殺さず人も死なず、又足利より秩父へ寄けるに、上野の新田入道を語て、搦手に憑、大手は古野杉の渡をしけり。搦手は長井(ながゐ)の渡と定たりける程に、秩父に舟を破れて、新田入道河の端に引へ
P0361
たり。入道申けるは、人に憑れて搦手に向ひながら、船なしとて暫も此にやすらふならば、大手軍に負なんず、去ば永く弓矢の道に別べし、縦骸を底のみくづと成とも、名を此川に流せやとて、長井(ながゐ)の渡を越けり。同は我等(われら)も(有朋上P493)水溺れては死とも、争か敵を余所に見るべき、況や此河は浪早しといへ共、底深からず、岩高しといへ共、渡瀬多し、河を渡し岸を落す事は、鐙の蹈様手綱のあやつりにあり、馬の足をかぞへて浪間を分よ者共とて進みければ、然べきとて伴者ども、一門には小野寺の禅師太郎、戸屋子七郎太郎、佐貫四郎大夫弘綱、応護、高屋、ふかず、山上、那波太郎、郎等には金子の舟次郎、大岡の安五郎、戸根四郎、田中藤太、小衾二郎、鎮西八切宇の六郎、産小野次郎を始として、三百(さんびやく)余騎(よき)を伴ける。足利(あしかがの)又太郎(またたらう)、真先係て下知しけり。此川は流荒して底深し、大事の川ぞ過すな、肩を並て手を取り組、さがらん者をば弓筈に取付せよ、強馬をば上手に立よ、弱馬をば下手に並よ、馬の足のとづかん程は、手綱をすくうて歩ませよ、馬の足はづまば、手綱をくれておよがせよ、前輪には多くかゝれ、水越ば馬の草頭に乗さがれ、水には多く力を入よ、馬には軽く身をかくべし、手綱に実をあらせよ、去ばとて引かづくな、敵に目をかけよ、余りに仰のき内甲射さすな、余りにうつぶきててへん射すな、鎧の袖を真額にあてよ、水の上にて身繕すな、我馬弱とて、人の馬にかゝりて、二人ながら推流るな、我等(われら)渡すと見るならば、敵は矢衾つくりて射ずらん、敵は射とも各返し矢いんとて、河の中にて弓引て推流されて笑はるな、(有朋上P494)弓の本はず童すがりに打かけよ、あまたが心を一になし、曳声
P0362
出して渡すべし、金に渡て過すな、水に従て流渡に渡べしとて、橋より上へ三段計打あげて、三百(さんびやく)余騎(よき)さと打入、曳々とをめき叫て渡たり。橋の下へ一段さがらず、三百(さんびやく)余騎(よき)一騎(いつき)も流さず皆具して向の岸へざと上る。見(レ)之て千騎(せんぎ)二千騎(にせんぎ)、打入打入渡たり。二万(にまん)余騎(よき)、馬と人とに防がれて、漏る水こそ見えざりけれ。自ら前後の勢に連かずして、十騎(じつき)廿騎(にじつき)渡しける者は、一人もたまらず押流さる。大勢河を渡しければ、宮の兵共(つはものども)暫平等院(びやうどういん)に引退。足利(あしかがの)又太郎(またたらう)は、西の岸に打上て、鐙蹈ばり弓杖突、物具(もののぐ)の水はしらかし、鎧突す。鎧は緋威(ひをどし)に金物を打、未己の時とぞ見えし。白星の甲居頸に著なし、大中黒の廿四差たる矢、頭高に負、滋籐の弓の真中取、紅のほろ懸て、連銭葦毛(れんせんあしげ)の馬の太逞に、金覆輪の鞍置てぞ乗つたりける。平等院(びやうどういん)の惣門の前(まへ)に打寄て、皆紅の扇ひらき仕ひ、鐙蹈張弓杖つきて申けるは、只今(ただいま)宇治川(うぢがは)の先陣渡せるは、昔朱雀院御宇(ぎよう)、承平に将門(まさかど)を討、勧賞に預し下野国住人(ぢゆうにん)俵藤太秀郷が五代の苗裔、足利(あしかがの)太郎(たらう)俊綱(としつな)が子に、又太郎(またたらう)忠綱(ただつな)、生年十七歳、童名王法師、小事は不(レ)知、大事の軍は三箇度(さんがど)、未(二)不覚仕(一)、係無官(むくわん)無位(むゐ)の遠国の夷の身として、忝(かたじけなく)も宮に向進て、弓を引矢を放侍ん事、天の恐候へ共、是も私の宿意に非ず、平家の下知にて(有朋上P495)侍れば、果報冥加は太政(だいじやう)入道殿(にふだうどの)の御身に侍べしと。名を得たらん兵、忠綱(ただつな)打捕やと云て懸ければ、大夫判官(たいふはんぐわん)兼綱申けるは、秀郷朝臣は含(二)綸旨(一)朝敵を誅しき、彼朝臣が後胤として、今宗盛卿(むねもりのきやう)が郎徒と名乗、何の面目有てか先賢を顕して其恥をしめす、甚拙なしとぞ咲ける。忠綱(ただつな)不(二)取敢(一)(とりあへず)申けるは、秀郷朝臣が将門(まさかど)を誅せし時も、征夷
P0363
の大将軍は参議右衛門督(うゑもんのかみ)藤原の忠文朝臣也き。宗盛卿(むねもりのきやう)今征夷将軍也、依(二)勅定(一)随(二)将軍(一)、是兵の法也。汝は摂津守(つのかみ)頼光(らいくわう)朝臣非(二)遺孫(一)や、将軍次将の作法を不(レ)存歟、尤不便也と云係て、兼綱に組んとて懸ければ、飛騨兵衛尉景康、上総次郎友綱を始として、三百(さんびやく)余騎(よき)轡を並て兼綱にかゝる。大夫判官(たいふはんぐわん)郎等小源太嗣、内藤太守助、小藤太重助、源次加を始として五十(ごじふ)余騎(よき)、折塞て戦けり。或は組で落もあり、或は互に被(二)射落(一)もあり、何れ隙有共不(レ)見、此にて源平両氏の名を得たる郎等被(二)多討(一)けり。
源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)は、薄墨染の長絹直垂に、品革威の鎧を著、今日を限とや思けん、態甲は不(レ)著けり。紫革威とは、藍皮に文にしたをぞ付たりける。嫡子伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)は、赤地の錦直垂に、黒糸威(くろいとをどし)の鎧著たり、是も甲は不(レ)著けり。矢束を長く引んと也。同舎弟(しやてい)源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)兼綱は、萌黄の生絹直垂に、緋威(ひをどし)の鎧著て、白星の甲に、芦毛の馬にぞ乗たりける。父子兄弟矢先を揃て散々(さんざん)に射。其間(有朋上P496)に宮は南を指て延させ給へば、三位(さんみ)入道(にふだう)も続て落行けり。上総太郎判官忠綱(ただつな)、七百(しちひやく)余騎(よき)を引率して、勝に乗てぞ追懸ける。源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)兼綱は、父の入道を延さんと、只一人引返引返散々(さんざん)に戦ける程に、痛手を負、今は叶はじと思て、鞭を揚て落行けり。太郎判官忠綱(ただつな)申けるは、兼綱と見は僻事か、逃ばいづくまで延べきぞ、弓矢取身は我も人も、死の後の名こそ惜けれ、うたてくも後を見する物哉、返せや/\とて責懸たり。兼綱は宮の御伴に参也とて馳けれども、無下に間近く追係たれば、思切、馬の鼻を引返
P0364
て宮を延し進せんと、七百(しちひやく)余騎(よき)が中に蒐入つゝ、蛛手十文字に狂ければ、寄て組者はなかりけり。唯中を開てぞ通しける。上総太郎判官、弓を引儲て、箭所のしづまるを待処に、忠綱(ただつな)に組んと志て馳て懸けるを、能引放つ箭に、源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)が内甲を射たりければ、箭尻はうなじへつと通り、血は眼にぞ流入。判官今は世間掻暗て、弓を引太刀を抜事不(レ)叶けるを、太郎判官が童に、二郎丸とて大力有けり。兼綱が頸をとらんとて打て懸けるを、播磨二郎省と云者、主の首を取れじと立塞て戦けるが、兼綱いかにも難(レ)遁見えければ、省主の首を掻落し、泣々(なくなく)暫しは持たりけれ共、三位(さんみ)入道(にふだう)も伊豆守(いづのかみ)も、皆自害し給(たま)ひぬと聞ける後は、石を本どりに結付て、河の中へ投入つゝ、我も御伴申さんとて、(有朋上P497)
君故に身をば省とせしかども名は宇治川(うぢがは)に流しぬる哉 K081
と思つゞけて、腹かい切て、同く河にぞ入にける。三位(さんみ)入道(にふだう)は右の膝を射させたりけれ共、宮の御伴に落行けるが、子息の判官が討るゝを見て申けるは、兼綱こそ入道を延さんとて討死仕ぬれば、若き子が討るるを見て、老たる入道がいつまで命を生とて、いづくまでか落行べし、禦矢を仕べし、急南都へ入せ給(たまひ)て、深く衆徒を御憑有べし、今こそ今生の最後に侍れ、さらば暇給べしとて引返ければ、宮も御遺惜く思召(おぼしめし)、御涙(おんなみだ)に咽ばせ給ふ。入道は養由(やういう)をも欺ける程の弓の上手也ければ、年闌たれども引とり/\、散々(さんざん)に射ければあだ矢は一もなし。平家の大勢射しらまされて、度々河耳へ引退。右の膝も痛手也、矢種も既(すで)に尽ければ、郎等の肩に懸、平等院(びやうどういん)の釣殿におり居て、唱法師源八副を招いて宣(のたまひ)
P0365
けるは、身仕(二)六代之賢君(一)、齢及(二)八旬之衰老(一)、官位己越(二)列祖(一)武略不(レ)慙(二)等倫(一)、為(レ)道為(レ)家有(レ)慶無(レ)恨、偏為(二)天下(一)今挙(二)義兵(一)、雖(レ)亡(二)命於此時(一)、留(二)名於後世(一)、是勇士所(レ)庶、武将非(レ)幸哉、各防矢射て、閑に自害を進めよと申ければ、源蔵人仲家、足利判官代(はんぐわんだい)義清、源次加を始として三十(さんじふ)余人(よにん)、皆甲を脱、矢先を調て射ければ、飛騨守景家(かげいへ)、上総介忠清(ただきよ)、飛騨判官景高を始として、三百(さんびやく)余騎(よき)前を諍て懸けり。伊勢(いせの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)、堀六郎貞保、同七郎貞俊、(有朋上P498)緋威(ひをどしの)冑に白き幌係て、楼門のきはまで攻寄たりけるを、唱法師勝たる弓の上手也ければ、一の矢に貞保が内甲をいて落してけり。貞俊是を見て太刀を抜、唱を討とらんと懸けるを、二の矢に貞俊頸骨を被(レ)射て、馬の弓手に落にけり。伊賀国住人(ぢゆうにん)森小兵太利宗と名乗て懸けるが、源次加につるばしりの板を筋違様に射ぬかれて、馬の前に落にけり。此外或はあきまを被(二)射落(一)者もあり、或は馬の腹をいさせてはね落さるゝ者もあり、敵をいとるたびには、声を調て嘲り咲けり。敵もおくしぬべくぞ聞えける。三位(さんみ)入道(にふだう)此有様(ありさま)を見て申ける、軍敗をけやけくたゝかふ事は敵による事なり、此奴原は近国の者共にこそ有ぬれ、さのみ罪な作そ、今は弓を収て各自害をすべしとて、我身も鎧脱捨、下総国住人(ぢゆうにん)下河部藤三清恒と云郎等を招き宣(のたまひ)けるは、敵の中にて討死をもすべかりつれ共、老衰たる首をとられて、是ぞ三位(さんみ)入道(にふだう)が頸とて、敵の中にて取渡されん事、心憂思つれば、心閑にと存て是へ来れり、我首敵にうたすな、人手にかくな、急ぎ伐ていづくにも隠し棄よと宣ふ。清恒目もくれ心も迷ければ是を辞申。因幡国住人(ぢゆうにん)弥太郎盛兼
P0366
に被(レ)仰けれ共、同是を辞す。渡辺の丁七唱を召て、今は限と覚る也、敵に知せで急頸を討と宣へば、唱も年来の主君を伐奉らん事の哀しさに、御自害(ごじがい)候へかし、御頸をば給(有朋上P499)候はんとて、太刀を差やりたりければ、入道池の水にて手口をすゝぎ西に向て念仏三百返計申て、最後の言ぞ哀なる。
埋木は花咲事もなかりしに身のなるはてぞ哀なりける K082
と云も果ぬに、太刀の先を腹に取当て倒懸り、貫てぞ死にける。此時歌など読べしとは覚ねども、若より心に懸好みければ、最後にも思出けるにこそ、哀にやさしき事也。入道の首をば下河部藤三郎取て、平等院(びやうどういん)の後戸の板敷の壁をつき破て隠し入る。同子息伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)も散々(さんざん)に戦ひて後、入道の跡を尋て、平等院(びやうどういん)の御堂に立入て、物具(もののぐ)脱捨腹掻切て死にけり。弥太郎盛兼其頸を掻落して、入道の首と一所に隠し置、人不(レ)知(レ)之。後日に竹格子の下より、血の流出たりけるを恠て、御堂を開て見ければ、頸もなき死人あり、誰と云事を不(レ)知、後にこそ伊豆守(いづのかみ)とも披露しけれ。其よりしてこそ、其名をば自害の間とも申也。弥太郎盛兼走廻て、入道殿(にふだうどの)も伊豆守殿(いづのかみどの)も御自害(ごじがい)也と申したりければ、さてはかうにこそとて、入道の養子にしたりける木曾が兄に六条蔵人仲家、其子の蔵人太郎父子二人、太刀を抜き、腹と腹とにさし違てぞ死にける。宮の兵共(つはものども)かように宗徒の者討死しければ、恥を思輩は同死ぬ。渡辺党の宗徒の者三十(さんじふ)余有けるも、入道父子亡にけ(有朋上P500)れば、此彼に馳合馳合討死するもあり、蒙(レ)疵自害するも有りければ、遁は少く死は多し。其中に競が事をば、右大将(うだいしやう)不(レ)安被(レ)思ければ、兵共(つはものども)に
P0367
相構て虜て進せよ、鋸にて頸きらんと下知し給ければ、官兵其意を得て、競と名乗ば弓を引かず、太刀をぬかず、辺に廻て伺ける間に、滝口は先に心得(こころえ)て射廻り切廻りければ、人は討れ手負けれ共、競は身に恙なし。侍ども今は只討とれ、人一人生どらんとて多兵を失べきに非ずとて、中に取籠散々(さんざん)に戦ければ、競も終に打死して失にけり。伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)の郎等に、公藤四郎、同五郎兄弟は、御室戸より伊勢路(いせぢ)に向て落にけり。円満院(ゑんまんゐんの)大輔(たいふ)は、赤威の鎧に、そり返りたる長刀持て、平等院(びやうどういん)の門外に進出て、高倉宮(たかくらのみや)未これに御座(ござ)あり、参て見参に入者共とて、持て開て走出ければ、馬の足薙れじとて、百騎計馬より下、太刀を抜てぞ懸ける。大輔は長刀打振て、しころを傾て向ふ。敵に刎て懸ければ、左右へさと引退き、中を開て通しけり。大輔は河を下に落て、行足はやくして飛が如し。馬も人も追付かざりければ、唯遠矢にのみぞ射ける。大輔は川の耳に物具(もののぐ)ぬぎ捨て、しづ/\と川を渡り、向の岸におよぎ付、いかに殿原渡し給へ/\と申て、我(わが)寺(てら)へこそ帰にけれ。(有朋上P501)
S1505 宮中(二)流矢(一)事
宮は平等院(びやうどういん)を落させ給つゝ、男山八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)を伏拝御座(おはしま)して、新野の池も過させ給(たま)ひて、井出の渡と云所まで延させ給(たま)ひけり。御寝もならず喉も乾せまし/\て、水進度思召(おぼしめし)ければ、小河の流たりけるを汲て進けり。此所をばいづこと云ぞ、又此河をば何と云ぞと御尋(おんたづね)あり。此辺をば、山城国井出の渡と申、河をば水なしと申候と答申ければ、打頷許せ給(たまひ)て、思召(おぼしめし)つゞけけるは、
山城の井出の渡に時雨して水なし川に浪や立らん K083
P0368
と御口ずさみ有りて、光明山へかゝらせ給に、軍兵後より追係進せけるが、何者(なにもの)が射たりける矢やらん、鳥居の前にて流矢来つて、宮の御かた腹に立たりければ、即御馬より真逆に落させ給ふ。やがて消入せ給(たまひ)て御目も御覧じあけず。園城寺(をんじやうじ)法師に、讃岐阿闍梨(あじやり)覚尊と云者、長絹の衣に違袖して、下に腹巻著て、御伴に候けるが、馬より飛で下り奉(レ)拘。御伴の人々は未追付進せず、黒丸と申舎人計ぞ候ひける。覚尊と二人して、相構へて御馬に掻のせ進せんとする処に、飛騨判官景高奉(レ)見(レ)之、鞭を揚てあれ/\と云(有朋上P502)挿絵(有朋上P503)挿絵(有朋上P504)ければ、郎等落合て、宮の御頸をば取てげり、悲と云も疎也。寺法師律浄坊の日印の弟子に伊賀坊、乗円坊の慶秀が弟子に刑部房、残り留て、命も惜まず戦けり。白刃を拭に隙なし。爰(ここ)にして飛騨判官が郎等多打れにけり。律浄坊日印も、打死して失にけり。心は猛く思へども、小勢は力及ばずして、伊賀房、刑部房、奈良の方へ落にける。彼律浄坊と申は、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)の流人に〔し〕て伊豆に御座(おはしま)せし時、忍で諸寺諸山の僧徒に祈を付給(たま)ひけるに、寺には此律浄坊を以て師匠に憑給へり。日印八幡宮に参篭する事、千日、無言大般若を読けるに、七百日に当る夜、御宝殿より金の鎧を給と示現を蒙りたりければ、悦をなし、夜を以日に継伊豆国(いづのくに)へ馳下、此由兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に語申。聞給(たまひ)て、いか様にも末憑もしき事にこそと夢合し給(たまひ)て、世に候はば思知べしと宣たりけるが、平家滅亡の後に、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)三井寺(みゐでら)へ尋給けるに、治承の比高倉宮(たかくらのみや)の御伴申て、光明山の鳥居の辺にて打死也と申たりければ、不便の事にこそ、且は祈の師也、又夢の勧賞も宛給はんと思しに、死ける事の無慙さ
P0369
よ、但其人なければとて、兼て存ぜし事争か空かるべきとて、伊賀国山田郷を三井寺(みゐでら)へ寄られて、律浄坊が孝養報恩無(二)退転(一)とぞ聞ゆる。(有朋上P505)
S1506 季札剣事
< 昔異国に季札と云し兵あり。呉王の使として、魯国へ行けるに、徐君と云ふ知人の有けるに、一夜の宿を借たりけり。家主徐君、季札が帯たる剣に目を係て、口には乞事なかりけれ共、是もがなと思へる気色見えたりけり。季札心に思様、吾呉王の使として、他国へ行、ほしがる貌たて如何せん、先与ん事難(レ)叶、魯国より帰らん時は、必与んと思て去にけり。季札不(レ)久して呉国へ帰けるに、又徐君が家に行て角と云ければ、世を早して今はなしと答。季札泣悲て、墓はいづくぞと問ば、家僕相具して行。塚に松うゑたり。是徐君の墓と云ければ、心にゆるしたりし剣なり、死たりとて争か其心を違へんと思て、剣を解、松の枝に懸て、徐君が霊を祭て去、其ためしにぞ似たりける。彼は剣を解て松に懸て旧友を祭、是は庄を寄て奉(レ)仏師匠を弔ふ、心の中の約束を違ざるこそ哀なれ。>
S1507 南都騒動始事
南都の大衆三万(さんまん)余人(よにん)御迎に参けるが、先陣は既(すで)に木津川に著、後陣は猶興福寺(こうぶくじ)の南大門(有朋上P506)にと聞えければ、御憑しく思召(おぼしめし)けるに、今五十(ごじふ)余町(よちやう)御座(おはしまし)つかで、討れさせ給(たま)ひにけり。法皇第二御子なれば、帝位に即て天下の政ましまさん事も難かるべきにあらず、其までこそ御座ざらめ、目の渡り懸御事にあはせ給事、先世の御宿業にこそとは思へども、哀也ける事ども也。
左大夫宗信は、御身を離れず御伴に候て、三井寺(みゐでら)宇治までも参たり。宮の落させ給ければ、三位(さんみ)入道(にふだう)の油鹿毛と云馬に乗て、後進せじと打けれ共、馬弱くて進みえず、敵は後より責懸る。無(二)為方(一)
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馬を捨て、新野池の水の中にはひ入て、草に顔を隠して蛙などの様に泣居たり。宮は今は奈良坂にも、かゝらせ給ぬらんと思ける処に、軍兵のけ甲に成て雲霞の如くに帰ける。中に、浄衣著たる死人の首もなきが、あふだに舁れて、通を見れば、腰に笛をさせり。穴心うや、宮の御むくろにこそ、早討たれさせ給にけりと思て、走出ていだきつき進せんとまで覚けれ共、さすが武士共恐ろしければ其も不(レ)叶。御笛と云は御秘蔵の小枝也。此御笛をば、我死たらん時は必棺に入よと仰けるとぞ、佐大夫後に語たりける。大夫は夜に入て、池の中よりはひ出て、はふ/\京へ上にけり。甲斐なき命ばかり生て、五十までは官もなかりけるが、正治元年に改名して近江守になり、邦輔とぞ云ける。宮の御頸、并(ならびに)討所の頸共五十(ごじふ)余捧て、平家の軍兵都へ帰入。後は(有朋上P507)不(レ)知ゆゝしくぞ見えし。高倉宮(たかくらのみや)宇治を過て、南都へ越させ給由聞えければ、蔵人頭(くらんどのとう)重衡、左少将維盛朝臣、五百(ごひやく)余騎(よき)の軍兵を卒して、宇治に馳向ける程に、此人々に先立て、忠清(ただきよ)、景家等(かげいへら)勝負を決してければ、上は源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)已下の首を取て入洛しけり。未刻に維盛朝臣は重服也ければ、つるばみの袍に衣冠にて東門より参入、重衡朝臣は、冑を著て西門より参上す、両人の装束不同也。とりどりにぞ人称美しける。合戦の次第御尋(おんたづね)あり、両人の申詞事多といへ共、頼政(よりまさ)党類、於(二)平等院(びやうどういん)(一)追討の趣は一同也。晩頭に及で、景家(かげいへ)は頼政(よりまさ)入道、仲家、嗣、守、助、重等が首を捧げて、八条高倉前(さきの)右大将(うだいしやう)の亭に帰参す。忠清(ただきよ)又兼綱、義清、唱法師、配が首をさゝげて、同参しけり。左衛門尉(さゑもんのじよう)重清、又加が首を捕て参入しけり。各事柄(ことがら)いづれもゆゆしく
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ぞ見えける。
上総守(かづさのかみ)忠清(ただきよ)、相国禅門(しやうこくぜんもん)に申けるは、今度合戦の高名、足利(あしかがの)太郎(たらう)忠綱(ただつな)が宇治川(うぢがは)の先陣の故也。向後の為に、速に勧賞候べしと、細々申ければ、入道大に感じて忠綱(ただつな)をめし、宇治川(うぢがは)の先陣返々神妙(しんべう)、勧賞乞に依べしと宣ふ。忠綱(ただつな)畏て、靭負尉(ゆぎへのじよう)、検非違使(けんびゐし)、受領をも申べく候へ共、父足利(あしかがの)太郎(たらう)俊綱(としつな)が、上野十六郡の大介と、新田庄を屋敷所に申候しが、其事空く候き。御恩には、同は父が本意をもとげ、身の面目にもそなへん為に、彼両条をゆるし給り候はんと申。入道(有朋上P508)当座に被(二)下知(一)たり。忠綱(ただつな)大に悦〔の〕眉を開て宿所に帰る。足利が一門此事を聞て、十六人連署して訴訟す。宇治河(うぢがは)を渡す事、忠綱(ただつな)一人が高名に非ず、一門不(レ)与ば忠綱(ただつな)争か渡すべき。されば勧賞は十六人に配分候べし、忠綱(ただつな)が大介を不(二)召返(一)ば、向後の御大事(おんだいじ)には忠綱(ただつな)一人を召れ候べしと、一事に三度まで申たりければ、入道力及給はで、巳時に給たりける御教書を、未刻に被(二)召返(一)けり。午時許ぞ有ければ、京童部(きやうわらんべ)が、足利(あしかがの)又太郎(またたらう)が上野の大介は、午介とぞ笑ける。高倉宮(たかくらのみや)には常に人の参寄事もなかりければ、見知進たる者もなし。先年御悩(ごなう)の時、御療治(ごりやうぢ)に参たりしかばとて、典薬頭(てんやくのかみ)定成朝臣を召けり。定成大に痛申ければ、さては如何すべきとて、或女房を尋出して、見進すべき由申されけり。彼御頸を只一目打見進て、後は兎(と)も角(かく)も被(レ)仰旨はなかりけり。只袖を顔に当て臥倒てぞ泣給ふ。去こそ一定の御頸とも知にけれ。彼女房も御身近く召れ、御子あまた御座(おはしませ)ば、不(レ)疎思召(おぼしめさ)れし御遺の惜さに、替れる御姿也共、今一度
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見進ばやと、尽せぬ志に引れては参たれ共、見進て後は、中々由なかりける事にやとぞ歎給ける。此宮は先年御顔に悪き瘡の出きて、御大事(おんだいじ)に及べかりけるを、典薬頭(てんやくのかみ)定成参て、目出療治(りやうぢ)し進たりける。其御療のあと御座(おはしまし)ければ、まがふべくぞなかりける。廿五日に摂政殿(せつしやうどの)より、南都の騒動(有朋上P509)を為(レ)被(レ)静、有官別当忠成を差遣さる。衆徒成(レ)憤散々(さんざん)に陵礫し、衣装を剥取て追出す。其上勧学院の雑色二人が本どりを切てげり。此事狼藉也、子細あらば訴訟に及べしとて、重て左衛門権佐親雅を御使として下遣す処に、大衆蜂起して、木津川の辺に来向、御使を打はらんなんど云ければ、親雅色を失て逃上けり。衆徒狼藉真に法に過たり、直事に非とぞ聞えし。
同(おなじき)廿七日(にじふしちにち)院(ゐんの)御所(ごしよ)にて、高倉宮(たかくらのみや)の御事議定あり。左大臣経宗、右大臣兼実、師(そつの)大納言(だいなごん)隆季、三条大納言(だいなごん)実房、中御門大納言(だいなごん)宗家、堀川(ほりかはの)中納言忠親(ただちか)、前源(げん)中納言(ぢゆうなごん)雅頼〈 聴本座 〉皇太后宮(くわうたいごうぐう)大夫朝方、右兵衛督(うひやうゑのかみ)家通、右宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)実守、新(しん)宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)通親、堀河宰相頼定卿なんどぞ被(レ)参ける。蔵人左少弁(くらんどのさせうべん)行隆仰を奉て、南の簀子に跪て、右大臣に仰て曰、源朝臣以光(もちみつ)、背(二)勅命(一)園城寺(をんじやうじ)をのがれ、南都に赴く、而彼衆徒同意して、謀(レ)危(二)国家(一)、仍被(レ)差(二)遣官兵(一)之間、南都に向処に、官兵と宇治にして合戦す。興福寺(こうぶくじ)の衆徒、又同意〈 云々 〉、依(レ)之(これによつて)摂政(せつしやう)度々被(レ)加(二)制止(一)之処に、氏院の有官の別当を打擲し、雑色が本どりを切て、長者の命に不(レ)可(レ)随之由成(二)群議(一)、両寺(りやうじ)の罪科何様に可(レ)被(レ)行哉、可(レ)被(二)定申(一)とぞ仰ける。猶子細を尽して後、張本を召れて可(レ)被(レ)処(二)罪科(一)之趣、大略一同也。此に新(しん)宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)は、
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背(二)勅命(一)危(二)国家(一)、早被(レ)遣(二)官兵(一)、可(レ)被(二)追討(一)被(二)定申(一)けるを、(有朋上P510)師(そつの)大納言(だいなごん)聞(レ)之、色を変じて泣れけり。思処ありけるにや、議奏の趣一揆せざりければ、行隆為(二)奏聞(一)とて、其座を立て退けり。
三十日調伏法承て行ける僧共勧賞蒙、権少僧都(ごんのせうそうづ)良弘大僧都(だいそうづ)に伝し、法眼実海小僧都(せうそうづ)にあがり、勝遍阿闍梨(あじやり)律師に成されけり。又右大将(うだいしやう)宗盛子息侍従清宗は、三位して三位侍従と云、今年十二に成給ふ。二階賞預給ける間、叔父の蔵人頭(くらんどのとう)にて御座(おはしま)する重衡より始て、多の人を超給けり。宗盛卿(むねもりのきやう)は此年の程までは、兵衛佐(ひやうゑのすけ)にてこそ御座(おはしまし)しに、是は上達部に至り給へり。世をとる人の子と云ながら、一はやくぞ覚えし。一人の嫡子などこそ加様の昇進はし給へと、時の人傾申けり。聞書には、父前(さきの)右大将(うだいしやう)の源(みなもとの)以光(もちみつ)、并(ならびに)頼政(よりまさ)法師已下、追討の賞とぞ有ける。源(みなもとの)以光(もちみつ)とは、高倉宮(たかくらのみや)の御事也。法皇の王子にて御座(おはしま)さずと云成して、源の姓を奉り、凡人にさへ奉(レ)成事、浅間しとも云計なし。
S1508 相形事
抑相者洽浩五天之雲洪、携(二)九州之風(一)、五行結(レ)気成(レ)膚成(レ)形、四相禀(レ)運保(レ)寿保(レ)神、依(レ)之(これによつて)月氏映光、教主釈尊屡応(二)其言(一)、日或伝景太子上宮、剰顕(二)其証(一)、(有朋上P511)一行襌師者、漢家三密之大祖、円輪満月床傍、審(二)一百廿之篇章(一)、延昌僧正(そうじやう)者、我朝一宗之先賢、界如三千之窓内、省(二)七十余家(よか)之施設(一)内外共氏i二)此術(一)、凡聖同弘(二)斯業(一)、なじかは違べき。されば昔登乗と申相人ありき。帥内大臣(ないだいじん)伊周をば、流罪相御座と相たりけるが、彼伊周公の類なく通給ける女房の許へ、寛平法皇の忍で御幸成けるを、驚し進せんとて、蟇目を似て射奉りたりければ、被(二)流罪(一)給へり。
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又太政大臣(だいじやうだいじん)頼道〈 宇治殿 〉、太政大臣(だいじやうだいじん)教道〈 大二条殿 〉二所ながら、御命八十、共に三代の関白(くわんばく)と相し奉たりけるも、少も不(レ)違けり。又聖徳太子(しやうとくたいし)は、御叔父崇峻天皇(てんわう)を横死に合給べき御相御座と仰けるに、馬子の大臣に被(レ)殺給けり。又太政大臣(だいじやうだいじん)兼家〈 東三条殿(とうさんでうどの) 〉四男に、粟田関白(くわんばく)道兼の、不例の事おはしけるに、小野宮の太政大臣(だいじやうだいじん)実頼、御訪に御座たりければ、御簾越に見参し給(たまひ)て、久世を治給べき由被(レ)仰けるに、風の御簾を吹揚たりける間より奉(レ)見給(たまひ)て、只今(ただいま)失給べき人と被(レ)仰たりけるも不(レ)違けり。又御堂馬頭顕信を、民部卿斉信の聟にとり給へと人申ければ、此人近く出家の相あり、為(レ)我為(レ)人いかゞはと被(レ)申たりけるが、終に十九の御年出家ありて、比叡山(ひえいさん)に篭らせ給にけり。又六条右大臣は、白川院【*白河院】(しらかはのゐん)を見進て、御命は長く渡らせ給べきが、頓死御相御座と申たりけるも違はざりけり。さも然べき人々は、必(有朋上P512)相人としもなけれ共、皆かく眼かしこくぞ御座(おはしまし)ける、況や此少納言惟長も、目出(めでた)き相人にて、露見損ずる事なし。されば異名に、相少納言(さうせうなごん)とこそいはれけるに、高倉宮(たかくらのみや)をば何と見進たりけるやらん、位に即給べしと申たりけるが、今角ならせ給ぬるこそ然べき事と申ながら、相少納言(さうせうなごん)誤にけりと申けり。
S1509 宮御子達(みこたち)事
高倉宮(たかくらのみや)には、腹々に御子あまたまし/\けり。宮討れさせ給ぬと披露ありければ、世を恐まし/\て、散々(ちりぢり)に忍隠させ給、墨染の袖にやつれさせ給けり。其中に伊予守盛章の娘の、八条院に候はれける三位殿(さんみどの)と申けるを、忍つゝ通はせ給けるに、若宮姫宮御座(おはしまし)けり。彼三位局をば、女院殊に隔なき御事
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に思召(おぼしめさ)れければ、此宮達をも御衣の下より生立進せ給(たまひ)て、御いとほしき御事にぞ思召(おぼしめし)ける。宮御謀叛(ごむほん)起して失させ給ぬと聞召しより、御子達(みこたち)も御心迷して、つや/\貢御も進らず、唯御涙(おんなみだ)に咽ばせ給けり。御母の三位殿(さんみどの)も、何なる御事にか聞成奉らんと、肝心も御座(おはし)まさず、あきれて御座(おはしまし)ける程に、池(いけの)中納言(ちゆうなごん)頼盛(よりもり)は、女院の御方に疎からぬ人也けるを、御使にて前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛、女院へ被(レ)申けるは、高倉宮(たかくらのみや)(有朋上P513)の若君の御座(おはしまし)候なる、渡奉べしと有ければ、女院も三位殿(さんみどの)も、兼て思召(おぼしめし)儲たる御事なれ共、今更いかに被(レ)仰べきとも思召(おぼしめし)分ず、只あきれてぞおはしける。日比(ひごろ)は朝夕仕る中納言なれども、かく参て申ければ、あらぬ人の様に恐しくぞ思召(おぼしめさ)れける。いかなる御大事(おんだいじ)に及とも、出奉べしとも思召(おぼしめさ)れねば、宮をば御寝所の内に隠し置進せて、係る世の騒の聞えし暁より、比御所には御座(おはしま)さず、御乳人などの心をさなく奉(レ)具失にけるにこそ、何処とも行末しろしめさずと仰られけれども、入道憤深事なれば、大将もなほざりならず被(レ)申けり。中納言も情をかけ奉り難て、兵共(つはものども)多く門々にすゑ置て、はしたなき事様也ければ、御所中(ごしよぢゆう)の上下色を失ひつゝ、いとゞ騒ぎあへり。世が世にてもあらばや、法皇へも申させ給べき。去年の冬より被(二)打籠(一)まし/\て、御心憂御挙動なれば、如何にすべしとも思召(おぼしめ)さゞりけり。若公も少き御心に、事の様難(レ)遁や思召(おぼしめさ)れけん、是程の御大事(おんだいじ)に及ばん上は、只出させ給へ、我ゆゑ御所中(ごしよぢゆう)の御煩(おんわづらひ)痛しと申させ給ければ、女院を始進て、御母の三位の局、女房達(にようばうたち)老も若も、音を調て泣悲けり。心なかるべき女童部(をんなわらんべ)までも、皆袖をぞ絞りける。若宮今年は八にならせ給けり。
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おとなしくも被(レ)仰けるこそ哀なれ。中納言もさすが岩木ならねば、打しめりて候はれけるに、大将の御許より、(有朋上P514)如何に/\と使頻(しきり)に申ければ、頼盛(よりもり)も打そへ被(レ)申けり。女院は少しさもやと聞食(きこしめす)御事有て、同じ御年程なる少者を尋させ給けれ共、大方なかりければ、力及ばせ給はで、若宮を奉(レ)渡けり。宮をば女院の御前へ請出進せて、御母三位殿(さんみどの)御気荘進せ、御髪掻靡御ひたたれ奉らせなどして、出立進せ給(たまひ)ても唯夢の様に思召(おぼしめす)。如何にならせ給はんずるやらんと御心元なければ、尽ぬ御涙(おんなみだ)計を流させ給ける。中納言も、由なき御使也と、いとかなしくぞ被(レ)思けるに、若宮既出させ給へり。見進すればらふたく厳く御座(おはしま)しけり。少き御心にも思召(おぼしめし)入たる御有様(おんありさま)悲く思給へば、いとゞ狩衣の袖を絞つゝ、御車の尻に参て六波羅へ奉(レ)渡、宮出させ給にければ、女院も三位殿(さんみどの)も、同枕に臥沈て、湯水をだにも御喉へ入させ給はず。これに付ても女院は、由なかりける人を、此七八年手ならし奉りて物を思と、責ての事には悔しくぞ被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。七八などはさすが何事も思召(おぼしめし)分べき事ならね共、我ゆゑ大事の出来事をかたはら痛く思召(おぼしめし)て、出させ給ぬる御事の悲さよとて、御涙(おんなみだ)せき敢させ給はず。宮六波羅に入せ給たりければ、大将出合見進て、哀なる御事に奉(レ)思涙を拭ひ給ければ、宮も御涙(おんなみだ)をぞ流させ給ける。池(いけの)中納言(ちゆうなごん)頼盛(よりもり)申されけるは、女院御ふところの中より生立進させ給たりとて、不(レ)斜(なのめならず)御歎御痛く、心苦思進せ候、ことなる御(有朋上P515)事なき様に、御計もあれかしと宣へば、大将又此趣を入道に口説被(レ)申ければ、仁和寺(にんわじ)の守覚(しゆうかく)法親王(ほふしんわう)へ奉(レ)渡て、御出家(ごしゆつけ)あり、御名を道尊とぞ申ける。
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彼法親王(ほふしんわう)は、則後白河院(ごしらかはのゐん)の御子なれば、此若宮は御甥也、御年十八にして隠させ給にけり。又殷富門女院の御所に、治部卿局と申女房の腹に、若君姫君まし/\けり。若宮御出家(ごしゆつけ)の後には、安院宮僧正(そうじやう)とぞ申ける。東寺の一長者也、姫君は野依宮と申けり。南都にも宮の御渡あり。盛興寺の宮をば、書写の宮とぞ申ける。又御子一人おはしけるをば、高倉宮(たかくらのみや)の御乳人讃岐前司重秀が、北国へ具し下し進たりけるを、木曾もてなし奉て、越中国(ゑつちゆうのくに)宮崎と云処に、御所を造てすゑ進せ、御元服(ごげんぶく)ありければ、木曾が宮とも申、又還俗の宮とも申けり。嵯峨(さが)の今屋殿と申けるは、此宮の御事也。(有朋上P516)
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十六
P0378(有朋上P517)
陀巻 第十六
S1601 帝位非(二)人力(一)事
抑昔延喜帝の第十六の御子兼明親王と、村上帝の第八(だいはち)の御子具平親王とは叔父甥にて、前中書王、後中書王と申奉る。賢王(けんわう)聖主の御子、才智才学目出く御座(おはしま)しき。されば前中書王は、後兄の第四の御子、無実に依て城の外に移され給(たま)ひたりけるが、宮も藁屋もとながめ給(たま)ひけるを、理りに思食(おぼしめして)、王位も詮なしとて、只一筋に仏道をのみ求給(たまひ)て、小椋山の麓に庵を結給(たま)ひ、詩を造り琵琶を弾、御心をなぐさめ給しに、或(ある)時(とき)晴たる空に雲上り、良暫く有りて雲のたゝずまひ物恐しき中より、青き鬼来て、庇に畏り居たりけり。親王御心をしづめ、能々御覧ありけるに、彼鬼恐れたる気色にて、申す言も無りければ、親王何人の何事にかと問給へば、鬼答て申様、吾は是宋朝の作文の博士、好色の遊客也、名を長文成元真と申き、色に耽ては詩を作り、女を恋ては歌を成せり。彼好念の積りつゝ、かく青鬼と成侍、而に病の床に臥、最後に及し時、九月尽の露菊を見て、一句(有朋上P518)の詩を造れり。
不(二)是花中偏愛(一)(レ)菊(これははなのなかにひとへにきくをあいするにあらず) 此花開後更無(レ)花 K084
此花ひらけつきてとこそ作たりしを、当世の人開て後と読侍り、我が所存には非ず、君作文詩歌に長じ御座(おはしま)せば、本意を申入んとて参上する所也とて、雲井遥(はるか)に去にけり。村上の帝、上玄石上の琵琶
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の秘曲を、廉承武に伝へ給しには、猶まさりてぞ覚ゆる。加様に目出(めでた)き御事に御座(おはしまし)しかども、帝位につかせ給ふ御運は、可(レ)然御宿報なれば、さてこそやませ給(たま)ひしか、謀叛をば起させ給はず。後三条院(ごさんでうのゐん)の第三王子輔仁(すけひとの)親王(しんわう)は、白河院(しらかはのゐん)には御弟也。目出(めでた)き人にて御座を、春宮(とうぐう)御位の後には、必此御子を太子に可(レ)奉(レ)立と後三条院(ごさんでうのゐん)返々白河院(しらかはのゐん)に御遺言(ごゆゐごん)ありければ、院も慥に御言請あり。親王の宮も必御譲を受させ給ふべき由思食(おぼしめし)けるに、東宮(とうぐう)実仁、永保元年八月十五日に、御年十一にて御元服(ごげんぶく)ありしが、応徳二年二月八日、十五にて隠れさせ給しかば、後三条院(ごさんでうのゐん)の任(二)御遺言(ごゆゐごん)(一)、三宮輔仁(すけひと)太子に立せ給べかりしを、無(二)其御沙汰(ごさた)(一)。承保元年十二月十六日(じふろくにち)に、白川院【*白河院】(しらかはのゐん)の一宮敦文親王御誕生(ごたんじやう)、今上后腹の、一御子にて御座(おはしまし)しかば、太子に立せ給べかりしか共、承暦元年八月六日、御とし四歳にて失給けり。同三年七月七日、堀川院(ほりかはのゐん)御誕生(ごたんじやう)あり。同年十一月(有朋上P519)三日、親王の宣旨を下されにければ左に右に三宮被(二)引違(一)給へり。堀川院(ほりかはのゐん)も八歳まで太子にも立せ給はず、親王にて、応徳三年十一月二十六日(にじふろくにち)に、受(二)御譲(一)させ給(たまひ)て、軈其(その)日(ひ)春宮(とうぐう)に立せ給。寛治三年正月五日、御年十一にて御元服(ごげんぶく)有けり。三宮は御位こそ不(レ)叶共、太子にもと思召(おぼしめし)けるに、寛治元年六月二日、三宮陽明門院にて御元服(ごげんぶく)有しに、太子の御沙汰(ごさた)にも及ばざりしかば、輔仁(すけひとの)親王(しんわう)御位空して、仁和寺(にんわじ)の花園と云所に住せ給けり。白川【*白河】(しらかはの)法皇(ほふわう)より、何にいつとなく、さ程に引籠らせ給にか、時々は御出仕なんども候べしとて、国庄あまた被(レ)進ける御返事(おんへんじ)に、
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有(レ)花(はなあり)有(レ)獣山中友、無(レ)愁無(レ)歎世上情 K085
と申させ給たり。すべて詩歌管絃に長じ御座(おはしまし)しかば、世にもなく官もなき人々は、院内の御事よりも、中々珍しく奉(レ)思て、参通人多かりければ、時人三宮の百大夫とぞ申ける。御位相違有しか共、世の乱はなかりし者を、三宮の御子花園左大臣有仁を、白川院【*白河院】(しらかはのゐん)の御前にて元服(げんぶく)せさせ進せ、源氏の姓を奉らせ給(たまひ)て、無位(むゐ)より一度に三位して、やがて中将になし奉けり。是は三宮輔仁(すけひとの)親王(しんわう)の御怨を休奉り、又後三条院(ごさんでうのゐん)の御遺言(ごゆゐごん)をも恐させ給けるにこそ。一世の源氏無位(むゐ)より三位し給事は、嵯峨(さがの)天皇(てんわう)の御子陽成院大納言(だいなごん)定卿(有朋上P520)の外無(二)其例(一)。
S1602 満仲(まんぢゆう)讒(二)西宮殿(にしのみやどの)(一)事
冷泉院御位の時、覚御心もなく、御物狂はしくのみ御座(おはしまし)ければ、ながらへて天下を知召さん事もいかゞと思食(おぼしめし)けるに、御弟の染殿式部卿宮(しきぶきやうのみや)は、西宮(にしのみや)の左大臣の御聟にておはしけるを、能人にて渡らせ給と申ければ、中務丞橘敏延、僧連茂、多田(ただ)の満仲(まんぢゆう)、千晴など寄合て、式部卿宮(しきぶきやうのみや)を取奉て東国へ赴、軍兵を起即(レ)位進せんと、右近の馬場にて夜々(よなよな)談議しける程に、満仲(まんぢゆう)心替して此由を奏聞しけるに依て、西宮殿(にしのみやどの)は被(二)流罪(一)給にけり。敏延は播磨国を賜らん、連茂は一度に僧正(そうじやう)にならんとて、係る事を思立けり。満仲(まんぢゆう)返り忠しける事は、西宮殿(にしのみやどの)にて敏延と満仲(まんぢゆう)と、相撲を取りけるに、満仲(まんぢゆう)力劣にて、格子に被(二)抛付(一)顔を打欠たり。満仲(まんぢゆう)不(レ)安思て腰刀を抜て敏延を突んとしける。敏延高欄の■木(ほうだて)を引放て、近付ばしや頭を打破らんとて、立袴て有ければ、満仲(まんぢゆう)不(レ)及(レ)力さて止ぬ。時の人あゝ源氏の名折たりと云ければ、敏延を失はんとて返忠したりといへり。西の宮殿(みやどの)は聊も不(二)知召(一)けるを、敏延
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失ん為に、讒訴の次に式部卿宮(しきぶきやうのみや)の御舅なればとて讒申けるを、(有朋上P521)一条左大臣師尹、殊に申沙汰して、西宮(にしのみやの)左大臣を流して、其所に成替給たりけるが、幾程もなく声の失る病をし、一月余り悩て失給にけり。僧連茂をば検非違使(けんびゐし)召捕て、拷器に寄て謀叛の意趣を責問けり。余(あまり)の難(レ)堪さに、連茂音を上て、南無(なむ)帰命頂礼(きみやうちやうらい)、金剛(こんがう)瑜伽(ゆが)秘密教主、胎金両部、諸会聖衆、伝燈阿闍梨(あじやり)耶、竜猛竜智助給へ/\と唱へければ、上乗密宗の力にて、拷器も笞杖も折砕てこそ失にけれ。
S1603 仁寛流罪事
白川院【*白河院】(しらかはのゐん)の御子、全子内親王(ないしんわう)をば、二条皇太后宮(くわうたいごうぐう)とぞ申しける。鳥羽院(とばのゐん)は康和五年正月十六日(じふろくにち)に御誕生(ごたんじやう)、同八月十七日(じふしちにち)に東宮(とうぐう)に立せ給(たまひ)て、嘉承二年七月十九日、御年五歳にて位に即せ給ければ、御母代とて内裏に渡らせ給けるに、其御方に、永久元年十月の比、落書あり。折節(をりふし)怪童の有けるを、搦て問ければ、醍醐の勝覚僧都(そうづ)の童、千手丸也。人の語に依て、侵(レ)君進せんとて、常に内裏にたゝずむなりとぞ申ける。法皇大に驚思食(おぼしめし)、検非違使(けんびゐし)盛重(もりしげ)に仰て千手丸を被(二)推問(一)。醍醐寺の仁寛阿闍梨(あじやり)が語也と申す。彼仁寛は三宮の御持僧也。御位の恩宿願を遂させ給はんが為に、或青童の貌、或内侍の形にて、日夜に奉(有朋上P522)(レ)伺(二)便宜(一)き。不(レ)叶して今かく成侍ぬとぞ落たりける。やがて仰(二)盛重(もりしげ)(一)仁寛を召捕て、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)あり。罪斬刑に当るといへ共、死罪一等を減じて、遠流に定、仁寛をば伊豆国(いづのくに)、千手丸をば佐渡国へぞ被(レ)流ける。さしも重科の者なれ共、かく被(レ)寛ける事、皇化と覚て止事なし。其上縁者の沙汰ありけるを、大蔵卿(おほくらのきやう)為房(ためふさ)参議にて僉議(せんぎ)の座におはしけるが、加程の悪逆(あくぎやく)必しも父母兄弟の結構(けつこう)にあらじ、然者(しかれば)不(レ)可(レ)及(二)罪科(一)歟と
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被(レ)申たりければ、当座の諸卿皆為房卿(ためふさのきやう)の議に同ずとて、縁者の沙汰はなかりけり。為(レ)君に忠あり、為(レ)人に仁あり、為房卿(ためふさのきやう)子孫繁昌し給ふも、理也とぞ人申ける。昔も浅増(あさまし)き様ありけれ共、及(二)子孫(一)事はなかりき。高倉宮(たかくらのみや)討れさせ給ぬれば、今は何条事かは有べきなれども、小宮々も角成せ給けるこそ糸惜けれ。六条殿と申す女房の御腹に、法皇の御子おはしけり。故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)の御子にし進て、七歳にて、安元(あんげん)元年七月五日天台座主(てんだいざす)快修僧正(そうじやう)の御房へ入進て、釈子に定まし/\けれ共、未御出家(ごしゆつけ)はなかりけり。高倉宮(たかくらのみや)も角成給ぬ。其御子達(みこたち)も捜取れさせ給と聞えければ、穴恐とて日次の御沙汰(ごさた)にも不(レ)及、周章(あわて)騒て剃落し進けり。今年は十二歳にぞ成せ給。係る乱の世也ければ、無(二)御受戒(一)、只沙弥にてぞ御座(おはしま)しける。(有朋上P523)
S1604 円満院(ゑんまんゐんの)大輔(たいふ)登山事
円満院(ゑんまんゐん)の大輔は、宇治の軍を脱出て、本寺に帰て息つぎ居たりけるが、三位(さんみ)入道(にふだう)父子眷属を始て、衆徒も多く討れ、又宮も中(二)流矢(一)うせ御座(おはしま)し、其宮々も一々に被(二)尋出(一)給ぬと聞て、つく/゛\物を案ずれば、山僧(さんそう)の心替より角成ぬと不(レ)安思へり。如何となれば、伝教師資の流を汲み、円頓実教の法を学しながら、勅使といひ戒壇と云、御灌頂(ごくわんぢやう)と云、赤袈裟と云、事に於て山僧等(さんそうら)が為に被(レ)妨て無(二)安心(一)処に、今又同心の由承伏して忽(たちまち)に変改、御運の尽ると云ひながら、口惜事也。本より異儀を存ぜば、急南都へ奉(レ)遷、などか遂(二)本意(一)ざるべき。今寺門の失(二)面目(一)事、生々世々(しやうじやうせせ)の怨敵也、速に登山して、堂舎仏閣悉(ことごと)く磨滅の煙となさばやと大悪心を発、燧付茸硫黄など用意して、燧袋にしつらひ入、形を修行者
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法師に造成して、山門へこそ忍登れ。先根本中堂(こんぼんちゆうだう)に参て、内外東西見廻つゝ、此にや火をさすべき、彼にや炬火を投べきと思廻し、暫く正面に虚念誦して居たりけるが、不断の燈明光を並べ、三部の長講音澄めり。最貴覚て案じけるは、抑此伽藍(がらん)と申は、我等(われら)が祖師伝教(でんげう)大師(だいし)建立(こんりふ)の寺院、生身の医王常住の精舎也、智証大師の御作、(有朋上P524)七仏薬師(しちぶつやくし)の霊像も此堂に安置せり、忠仁公の梵釈四天、准三公の十二神将(じふにじんじやう)も御座、縦末学雖(レ)存(二)意趣(一)、争か祖師の本尊を奉(レ)失べきなれば、此伽藍(がらん)は叶はじと思返して、中堂(ちゆうだう)を出て大講堂(だいかうだう)に臨で伺見ば、大厦の棟梁天に挟、四面の采椽雲に懸たり。何に火を差べし共覚ざる上、本尊を拝すれば、胎蔵の大毘廬遮那坐し給へば、左右に弥勒観音の脇士立給へり。紫金膚を研て、白豪光円也。仏法(ぶつぽふ)擁護の四天あり。大聖文殊の聖僧あり。嗚呼(ああ)此伽藍(がらん)を忽(たちまち)に灰となさん事の悲さよと思ければ、又此を出て惣持院に入るに、塔もあり堂もあり。堂は是秘密真言の霊場、胎金両部熾盛光等の大曼陀羅(まんだら)を安置せり。塔は又多宝全身の霊廟(れいべう)、胎蔵の五仏座を並べ、法華の千部を奉納せり。遠くは大唐の青竜寺に准へ、近くは本朝鎮国の道場を開けり。人こそ悪からめ、争か国家守護の霊室を失べきと思て、此を出でて彼に渡、彼を去て此に来見廻ば、法華常行は両堂軒を並べ、戒壇四王は両院甍を交たり。文殊楼、延命院、五仏院、実相院、或は大師大徳の御作、一人三公の建立(こんりふ)、或は三密瑜伽(ゆが)の道場、一乗(いちじよう)読誦(どくじゆ)の精舎也。功能何もとりどりに、御願(ごぐわん)誠に品々也。杉吹渡る風の音、実相の理をや調ぶらん、草葉に置る露の色、無■(むげ)価の玉をぞ研たる。谷に並る松坊は、稽古
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修学の窓なれや、尾を隔たる草庵は、円頓観解の砌(みぎり)也。大輔(有朋上P525)は是を見彼を拝つゝ、穴貴の所やと信心忽(たちまち)に発て、帰敬の思萌ければ、大講堂(だいかうだう)の軒の下に立帰、我にはよく天魔の付にけるなり、何ぞ一旦の以(二)我執(一)、十乗の峰を亡、永劫の苦因を殖て、無間の底に入らん、縦興隆の心こそなからめ、豈及(二)破滅企(一)と、心に心を恥しめて、懺悔の涙を流けり。既本寺に帰けるが、余執又起て、是迄思立ぬる事を、空く人にも知られざらんは無念也、三塔に披露せんと思て、大講堂(だいかうだう)の柱に続松を結付て、札を制してぞ立たりける。其詞に曰、日比(ひごろ)山門園城(をんじやう)の我執を存し、当時牒送変改の遺恨に依て、三塔を焼払(やきはら)はんが為に数日登山の処に、倩案らく、一乗(いちじよう)一味の法門は、三塔三井の所学也、山門寺門の伽藍(がらん)は、祖師大師の建立(こんりふ)也、何ぞ磨滅の煙を立て、空く荒廃の塵を遺んと、仍無益偏執を閣て、速に有心に放火を止ぬ、円満院(ゑんまんゐんの)大輔(たいふ)源海と書て、大講堂(だいかうだう)の大鐘鳴して下にけり。満山の大衆鐘に驚、谷々坊々騒動して講堂(かうだう)の庭に会合し、大輔が所為を見て、志の之ところ所存誠に不敵也、邪を翻て正に帰る情ありとぞ感じける。
S1605 三位(さんみ)入道(にふだう)歌等附昇殿事
源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)は、ゆゝしく計ひ申たりけれ共、遠国の者までは不(レ)及(レ)云、近国の源氏だにも(有朋上P526)急ぎ打上る者一人もなし、山門の大衆は心替しつ、不(レ)遂(二)其先途(一)、風吹ば木不(レ)安と、世の煩人の歎、為(レ)身為(レ)家、無(レ)由事申勧まゐらせて亡ぬる者かなと、貴賤口々に申けり。彼入道と申は、清和(せいわの)帝の第六皇子貞純親王の二代の苗裔、多田(ただの)新発意(しんぼち)満仲(まんぢゆう)が子、摂津守(つのかみ)頼光(らいくわう)が三代の後胤、参河守頼綱が孫、兵庫頭(ひやうごのかみ)仲正
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が子也、保元の合戦の時、御方にて一方の先陣を賜り、凶徒(きようと)を退たりけれども、指る勲功の賞にも不(レ)預、怨を含ながら、大内の守護して年久く成、地下にのみして殿上をゆりされざりければ、
人しれぬ大内山の山もりは木がくれてのみ月を見るかな K086
と読て進たりければ、不便なりとて、四位(しゐ)して昇殿を免る。始て殿上を通りけるに、ある女房の、
つき/゛\しくもあゆぶものかな
と云たりければ、頼政(よりまさ)とりあへず、
いつしかに雲の上をば蹈なれて K087
と申たりければ、優に甲斐々々しと感じけり。又四位(しゐ)の殿上人(てんじやうびと)にて、久く世に仕へ奉けるに、述懐仕て、(有朋上P527)
上るべきたよりなければ木の本に椎を拾ひて世を渡るかな K088
と申たりけるに依て、七十五にて三位を被(レ)免て後、先途既(すで)に遂ぬとて、出家して源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)ともいはれけり。大方此頼政(よりまさ)は、歌に於ては手広者にぞ被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。鳥羽院(とばのゐんの)御時に、宇治河(うぢがは)、藤鞭、桐火桶、頼政(よりまさ)と、四題を下させ給。一首に隠して進よと勅定ありけるに、
宇治川(うぢがは)のせゞの淵々落たぎりひをけさいかに寄まさるらんK089
と申たりければ、時の人、我々は一題をだにも、一首に隠はゆゝしき大事なるに、あまたの題を程なく
P0386
仕たる事、実に難(レ)有と感じ申けり。君もいみじく仕りたりと、叡感有けり。
S1606 菖蒲前(あやめのまへの)事
殊に名をあげ施(二)面目(一)ける事は、鳥羽院(とばのゐんの)御中に、菖蒲前(あやめのまへ)とて世に勝たる美人あり。心の色深して、形人に越たりければ、君の御糸惜も類なかりけり。雲客(うんかく)卿相(けいしやう)、始は艶書は遣し情を係事隙なかりけれ共、心に任せぬ我身なれば、一筆の返事、何方へもせで過しけ(有朋上P528)る程に、或(ある)時(とき)頼政(よりまさ)菖蒲(あやめ)を一目見て後は、いつも其時の心地して忘るる事なかりければ常に文を遣しけれども、一筆一詞の返事もせず。頼政(よりまさ)こりずまゝに、又遣し/\なんどする程に、年も三年に成にけり。何にして漏たりけん、此由を聞食(きこしめし)に依て、君菖蒲(あやめ)を御前に召、実や頼政(よりまさ)が申言の積なると綸言ありければ、菖蒲(あやめ)顔打あかめて御返事(おんへんじ)詳ならず、頼政(よりまさ)を召て御尋(おんたづね)あらばやとて、御使有て召れけり。比は五月の五日の片夕暮許也。頼政(よりまさ)は木賊色の狩衣に、声華に引繕て参上、縫殿の正見の板に畏て候ず。院は良遥許して御出ありけるが、じつはふの者には物仰にくければとて、殊に咲を含ませ御座(おはします)。何事を被(二)仰出(一)ずるやらんと思ふ処に、誠か頼政(よりまさ)菖蒲(あやめ)を忍申なるはと御諚あり。頼政(よりまさ)は大に失(レ)色恐畏て候けり。院は憚思ふにこそ、勅諚の御返事(おんへんじ)は遅かるらめ、但菖蒲(あやめ)をば誰彼時の盧目歟、又立舞袖の追風を、徐ながらこそ慕ふらめ、何かは近付き其験をも弁べき。一目見たりし頼政(よりまさ)が、眼精を見ばやとぞ思食(おぼしめし)ける。菖蒲(あやめ)が歳長色貌少も替ぬ女二人に、菖蒲(あやめ)を具して、三人同じ装束同重になり、見すまさせて被(レ)出たり。三人頼政(よりまさ)が前に列居たり。梁の鸞の並べるが如く、窓の梅の綻たるに似たり。頼政(よりまさ)よ其中に忍申す菖蒲(あやめ)侍る也、朕占思召(おぼしめす)女也、有(二)御免(一)ぞ、相具して罷出よ
P0387
と有(二)綸言(一)ければ、頼政(よりまさ)いとゞ(有朋上P529)失(レ)色、額を大地に付て実に畏入たり。思けるは、十善の君はかりなく被(二)思食(一)(おぼしめさるる)女を、凡人争か申よりべかりける。其上縦雲の上に時々なると云とも、愚なる眼精及なんや、増てよそながらほの見たりし貌也、何を験何ぞなるらん共不(レ)覚、蒙(二)綸言(一)不(レ)賜も尾籠也、見紛つゝよその袂(たもと)を引きたらんもをかしかるべし、当座の恥のみに非、累代の名を下し果ん事、心憂かるべきにこそと、歎入たる景色顕也ければ、重て勅諚に、菖蒲(あやめ)は実に侍るなり、疾給(たまひ)て出よとぞ被(二)仰下(一)ける。御諚終らざりける前に、掻繕ひて頼政(よりまさ)かく仕る。
五月雨に沼の石垣水こえて何かあやめ引ぞわづらふ K090
と申たりけるにこそ、御感の余に竜眼より御涙(おんなみだ)を流させ給ながら、御座を立たせ給(たまひ)て、女の手を御手に取て、引立おはしまし、是こそ菖蒲(あやめ)よ、疾く汝に給也とて、頼政(よりまさ)に授させ給けり。是を賜て相具して、仙洞を罷出ければ、上下男女歌の道を嗜ん者、尤かくこそ徳をば顕すべけれと、各感涙を流けり。実に頼政(よりまさ)と菖蒲(あやめ)とが志、水魚の如にして無二の心中也けり。三年の程心ながく思し情の積にやと、やさしかりし事共也ければ、京童部(きやうわらんべ)申けるは、二人の志わりなかりけるこそ理なれ、媒が痛見苦もなければとぞ咲ひける。伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)は、即彼菖蒲(あやめ)が腹の子也。(有朋上P530)
S1607 三位(さんみ)入道(にふだう)芸等事
又打物に取て名を揚る事ありき。悪右衛門督(あくうゑもんのかみ)信頼(のぶより)が天下に秀たりし時、殿上の刻み階に、夫男一人立たり。信頼(のぶより)彼は何に狼藉也と申ければ、掻消様に失ぬ。某に一の剣あり。信頼(のぶより)くせ事也と思て、宝物
P0388
の御剣にも候らん、焼鐔の剣ならば、山をも岩をも可(二)破崩(一)とて、此剣を抜御坪の石を切るに、剣七重八重にゆがむ。曲なき者也とて、温明殿(うんめいでん)の縁に棄置れぬ。折節(をりふし)頼政(よりまさ)参会たり。信頼(のぶより)欺(レ)之、いかに剣は見知給へるかと申。頼政(よりまさ)弓矢取身にて侍る、如(レ)形知たる候と云。其時少輔内侍と云ふ以(二)女房(一)、大床に棄置所の剣を被(二)召寄(一)けるに、曲たる剣忽(たちまち)に直て、鞘に納る。不思議也とて頼政(よりまさ)にみせらる。頼政(よりまさ)打見て仰て、まめやかの御剣也、朝家の御守たるべし、其故は太神宮に五の剣あり、当時内裏に御座(おはしま)す、宝剣は第二の剣、是は第三の剣也、但頼政(よりまさ)いかゞして神剣を知侍るべきなれ共、作人に依て剣体を知、其上今夜の夜半におよびて、天の告示給事あり、国を守らん為に皇居に一の剣を奉る、即宝剣是也、亡国の時は、此剣又宝剣たるべし、為(二)用意(一)奉(二)権剣(一)と見て候。折節(をりふし)今日御剣出現之条、併国の御守と覚ゆと申。其時信頼卿(のぶよりのきやう)ふしぎ也と思ひ、さらば(有朋上P531)剣の徳を施給へと云。頼政(よりまさ)霊剣自由の恐ありといへ共、仰にて侍ば、何事をか仕べきと申。御前の坪の石をと聞ゆ。畏てとて頼政(よりまさ)彼石を切かけず散々(さんざん)に切破て、見参に入奉る。禁中さゝめき上下驚(レ)目。信頼(のぶより)始は欺て云たりけれ共、今は恐くぞ思ける。さて剣の咒返を満て、鞘にさして温明殿(うんめいでん)に移し置る。加様に勘申けれども、不肖に被(二)思召(一)(おぼしめされ)ければ、頼政(よりまさ)が言を不(レ)被(レ)信。元暦二年三月廿四日に、宝剣浪の底に沈ませ給(たまひ)て後、彼剣宝剣と成し時こそ頼政(よりまさ)実に非(二)直者(一)と被(二)思召(一)(おぼしめされ)けれ。世下つて後も頼政(よりまさ)程の者なかりけり。諸道を不(レ)疎、立る能ごとに不(レ)顕(レ)威と云事なし。花鳥風月弓箭兵仗、都てこのみと好む事、名を揚げ人に勝れたり。就(レ)中(なかんづく)
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弓矢に験を顕はしき。
後白河院(ごしらかはのゐん)第一御子をば二条院とぞ申ける。去久寿二年九月廿三日、御歳十三にて、春宮(とうぐう)に立せ御座(おはしま)し、保元三年八月十一日、御年十六にて御即位ありけるが、平治二年の夏の始より御不予(ごふよ)の御事まし/\けり。五月上旬の比は、御悩(ごなう)殊外に取頻らせ給(たまひ)て、夜深人定る程には、俄(にはか)に必おびえたまぎらせ給けり。
< 異説云、仁安元年の春の比、可(レ)有(二)春宮(とうぐう)御即位(一)由有(二)其沙汰(一)、此東宮(とうぐう)と申は高倉院(たかくらのゐん)の御事也。五条(ごでう)高倉に栖せ給ければ、高倉宮(たかくらのみや)とぞ申ける、同年四月中旬より、宮御悩(ごなう)ありと云云。>(有朋上P532)
一院不(レ)斜(なのめならず)歎思食(なげきおぼしめし)て、諸寺諸山にして、御祈(おんいのり)を始め、医師に仰て、御薬を勧め参せけれ共、更に其験ましまさず見えければ、東三条(とうさんでう)の森より、黒雲一叢立来、南殿の上に引覆、■(ぬえ)と云鳥の音を鳴時に、必振ひたまぎらせ給(たま)ひけり。天下の大なる歎也ければ、日夜に諸卿参内ありて、各僉議(せんぎ)あり。有験の験者にて可(レ)奉(レ)祈歟、以(二)博士(一)可(レ)送歟なんど取々に被(レ)申けるに、徳大寺(とくだいじの)左大臣公能の被(レ)申けるは、目に不(レ)見物ならば可(二)祈祭(一)、是は目の当也、弓の上手を以て射さすべき歟。其故は去寛治年中に、堀川院(ほりかはのゐん)御悩(ごなう)の事御座(おはしまし)き、療治(りやうぢ)も祈祷も叶はざりけるに、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)ありて、此御悩(ごなう)非(二)直事(一)、以(二)武士(一)大内を可(二)警固(一)とて、八幡太郎(はちまんたらう)義家(よしいへ)に仰す、義家(よしいへ)蒙(レ)勅て、甲冑を著し弓箭を帯して、南庭に立跨殿上を睨で高声に、清和(せいわ)の帝には四代の孫、多田(ただの)新発意(しんぼち)満仲(まんぢゆう)が三代の後胤、伊予守頼義(らいぎ)入道が嫡男、前陸奥守
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源(みなもとの)義家(よしいへ)、大内を守護し奉、いかなる悪霊鬼神なり共、争望をなすべき、罷退けと名乗懸て、弓の絃を三度鳴したりければ、殿人も階下も身毛竪て覚けるに、御悩(ごなう)忽(たちまち)に癒させ給けり。去ば是は怪鳥か変化か、目に顕たる者也、以(二)武士(一)射さすべき也とぞ被(二)勘申(一)ける。大臣公卿此義最可(レ)然とて、弓の上手を勝られけり。源平の中に何なるべきぞと義定有けるに、石廉将軍が末葉に、大和国(やまとのくにの)住人(ぢゆうにん)石川次郎秀廉を召されけ(有朋上P533)り。秀廉庭上に参て蒙(二)綸言(一)云、天下に媚物あり、殊なる朝敵也、深夜に及で明見仕れと被(二)仰下(一)。秀廉畏て勅諚謹承候畢。此身旧宅に住して、名字既(すで)に故人に通、蒙(二)勅命(一)事、生前の面目に侍、但弓箭年旧て、其手未練也、先祖を尋送らるといへ共、末代尤難(レ)叶。勅命を承て、不(レ)鎮(二)朝敵(一)ば、弓矢の名絶なん事、当時一身の歎のみに非、先祖の将軍が威を失はん事、大なる恥也。然ば蒙(二)御免(一)侍ばやと嘆申ければ、関白殿(くわんばくどの)汝が痛申処、実に不便也。但綸言と号して、鬼神を鎮め夷賊を平る例是多し。当今の御代に至て、仏法(ぶつぽふ)王法互に相対せり、などか以(二)朝威(一)不(レ)仕、自由の辞状尤罪科也。天下の勝事に身を惜は、在(二)王土(一)無(二)其詮(一)、速に配所へとぞ被(二)仰下(一)ける。石河次郎秀廉、失(二)面目(一)罷出ぬ。其後誰をかと有(二)僉議(せんぎ)(一)。関白殿(くわんばくどの)の仰に、頼光(らいくわう)が末葉、頼政(よりまさ)器量の仁に当れりとて、源兵庫頭(ひやうごのかみ)を召れけり。頼政(よりまさ)は例の歌道の御会にやとて、木賊色の狩衣になり、見澄して参たり。深夜に臨で媚物あり、玉体を奉(レ)侵、及(二)其期(一)明見仕と仰ければ、頼政(よりまさ)畏承候ぬとて、御前を罷立て、近衛川原(このゑかはら)の宿所に帰る。本の装束脱替て、朝敵を鎮る形にぞ出立ける。生衣の捻重に黄なる大口、
P0391
葉早黄色の直垂をぞ著たりける。彼直垂には、左の肩には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)と縫、右の肩には山鳩をぞ縫たりける。産衣と云鎧を著て、男山三度奉(二)伏拝(一)、其後(有朋上P534)鎧をば脱置て、直垂小袴計也。郎等に丁七唱、遠江国住人(ぢゆうにん)早太と云者二人を相具したり。唱は小桜を黄にかへしたる腹巻を著せ、十六指たる大中黒の矢の、おもてに水破兵破といふ鏑矢二つ差、雷上動といふ弓を持せたり。水破といふ矢は、黒鷲の羽を以てはぎ、兵破といふ矢をば、山鳥の羽にてはぎたりけり。早太には骨食といふ太刀を、ふところにささせたり。
< 水破兵破雷上動と云弓箭は、是大国の養由(やういう)が所持也。彼の養由(やういう)とは、楚国の者、秦王の時の人也。大聖文殊の化身也。或(ある)時(とき)文殊養由(やういう)に有(二)対面(一)いはく、汝は我化身也、吾汝に一徳ををしへんとて、文殊双眼の精を取て二の鏑に作れり。五台山の麓に、両頭の蛇一つあり。信敬慙愧の衣の糸を、八尺五寸の絃により係て、一張の弓をなし、多羅葉をとりあつめて、直垂と云物に作りきる。今の葉早黄色と云ふは是也。柳葉を的として、射術を教給故に、天下無双の弓の上手にて、養由(やういう)弓をとれば雁列を乱り、飛鳥たちまちに地に落つるいきほひありき。而養由(やういう)七百歳を経て、天下を見案ずるに、雲州に我弓矢をつたふべき仁なし、娘の桝花女と云ふ女に、是を伝置て、其身むなしく去りにき。桝花女命尽なんとする時に、弓の弟子を尋ぬるに、本朝にあり。今の摂津守(つのかみ)頼光(らいくわう)是也。或(ある)時(とき)頼光(らいくわう)昼寝したりけるに、天より影の如なる者下て、我が養由(やういう)より所(レ)伝の弓箭を帯せり、汝にさづけんとて巨細を語りて(有朋上P535)去りぬ。夢醒て傍を見れば、件の弓矢直垂あり。頼光(らいくわう)是を傅得て弓の徳を施すに、更に我が養由(やういう)が芸に劣らず、頼光(らいくわう)より頼国〈 美濃守 〉頼綱〈 参河守蔵人 〉仲政〈 兵庫頭(ひやうごのかみ)下総守 〉頼政(よりまさ)〈 三位 〉まで、子孫相傅して五代也、先祖の重宝也。身に取
P0392
て一朝の大事不(レ)如(レ)之とて、加様に用意して参る。>
目にも見えぬ媚物を、而も五月の暗夜に射よとの勅命、弓取の運の極と覚たり。天の下に住乍蒙(二)朝恩(一)、器量の仁と被(レ)撰、非(レ)可(二)辞申(一)とて、主従三人出けるが、頼政(よりまさ)向(二)早太(一)、我所存汝得たりやと問ければ、先立存知仕て侍、今度殿下より蒙(レ)仰給(たま)ひ、媚物を殿上にて一矢に射損じたらば、二の矢に可(レ)奉(レ)射、殿下、去ば軈(やが)て似(二)骨食(一)、我御頸を給(たまひ)て出よとこそ被(二)思召(一)(おぼしめされ)候らめ、振舞侍べしと申ければ、汝が言は是大菩薩(だいぼさつ)の御託宣(ごたくせん)とこそ覚ゆれ。憑むぞよとて宿所を出て、陣頭に参じ、河竹呉竹の北南にて、明見仕る景気、誠に優にして頬魂ひ武勇の大将と見たり。頼政(よりまさ)宣旨を蒙て、媚物射んずる見よとて、公卿殿上人(てんじやうびと)参集、堂上堂下内外男女、市をなせり。今や/\と通夜是を待、子の刻も過ぬ、丑の刻の半に及で、如(レ)例東三条(とうさんでう)の森より、黒雲一叢立渡、御殿の上に引覆としければ、主上はほと/\と振ひ出させ給(たま)ひけり。頼政(よりまさ)は黒雲とは見たれ共、天は実に暗し、いづくを射るべしと矢所さだかならず、心中に帰命頂礼(きみやうちやうらい)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、国家鎮守(ちんじゆ)の明神、祖族帰敬(有朋上P536)の冥応に御座(おはします)〔と〕、頼政(よりまさ)頭を傾けて年久、今蒙(二)勅命(一)怪異を鎮めんとす、射はづしなば、速に命を捨べし、氏人々々たるべくは、深守となり御座(おはしま)せと、男山三度伏拝み心を静めて能見れば、黒雲大に聳て、御殿の上にうづまきたり。頼政(よりまさ)水破と云ふ矢を取て番て、雲の真中を志て、能引て兵と放つ、ひいと鳴て、かゝる処に、黒雲頻(しきり)に騒いで、御殿の上を立、■(ぬえ)の声してひゝなきて立所を見負て、二の矢に兵破と云鏑を取て番ひ、兵と射る。ひいふつと手答し
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て覚ゆるに、御殿の上をころ/\ところびて、庭上に動と落。其時に兵庫頭(ひやうごのかみ)源(みなもとの)頼政(よりまさ)変化の者仕たりや/\と叫ければ、唱つと寄て得たりや/\とて懐たり。貴賤上下女房男房、上を下に返し、堂上も堂下も紙燭を出し炬火をとぼして見(レ)之。早太寄て縄を付、庭上に引すゑたり。有(二)叡覧(一)に癖物也。頭は猿背は虎尾は狐足は狸、音は■(ぬえ)也。実に希代の癖物也。苟禽獣も加様の徳を以て奉(レ)悩(レ)君事の有ける事よ、不思議也とぞ仰ける。見聞の男女は口々に、頼政(よりまさ)あ射たり/\とぞ嘆たりける。彼変化の者をば、清水寺の岡に被(レ)埋にけり。主上の御悩(ごなう)忽(たちまち)に宜成らせ給にければ、鳥羽院(とばのゐん)より有(二)御伝(一)ける、師子王と申御剣に御衣一重脱そへて、関白(くわんばく)太政大臣(だいじやうだいじん)基実公(もとざねこう)を御使にて頼政(よりまさ)に被(レ)下けり。頼政(よりまさ)は階の三階に右の膝を突、左の袂(たもと)を擁て、畏て是を拝領す。五月廿日余(あまり)の事なるに、折知がほ(有朋上P537)に敦公(ほととぎす)の一声二声(ふたこゑ)、雲井に名乗て通けるを、関白殿(くわんばくどの)聞召(きこしめし)て、
敦公(ほととぎす)名をば雲井にあぐるかな と、仰せければ、
弓はり月のいるにまかせて K091 と、頼政(よりまさ)申たり。
< 五月やみ雲井に名をもあぐるかなたそがれ時も過ぬと思ふに K092 と、異本也。>
実に弓矢を取ても並なし、歌の道にも類有じと覚たり。大国の養由(やういう)は、雲上の雁を落し、我朝の頼政(よりまさ)は深夜の■(ぬえ)を射る、弓矢の全事取々にぞ覚たる。加様に上下万人に被(レ)嘆、七十に余三位して、今年七十七、何なる楽に栄ありとても、今幾程か有べき。子息仲綱(なかつな)受領して、伊豆国(いづのくに)知行し、丹波には五箇庄
P0394
給(たまひ)て、家中も楽く人目も羨れてこそ有つるに、無(レ)由事勧申て子孫までも亡ぬるこそ不便なれ。馬ゆゑとは申ながら、非(二)直事(一)、偏(ひとへ)に怨霊の致す処也とぞ歎ける。
S1608 三井僧綱(そうがう)被(レ)召附三井寺(みゐでら)焼失事
三井寺(みゐでら)にも、南都にも、猶尻引あて、悪徒(あくと)の張本召るべき由其沙汰あり。昔より山門の大衆こそ、横紙をやり、非分の訴を致に、今度は不(レ)違(二)宣旨(一)随(二)平家(一)、南都園城(をんじやう)には或は宮を入進、(有朋上P538)或は御迎に参つゝ、狼藉斜(なのめ)ならざりければ、太政(だいじやう)入道(にふだう)大に安からぬ事に思ひ宣(のたまひ)けり。殊に南都にも深く鬱て、殿下の御使を散々(さんざん)に陵礫せり、是又たゞ事にあらずと覚たり。廿一日園城寺(をんじやうじ)円恵(ゑんけい)法親王(ほふしんわう)〈 後白河院(ごしらかはのゐんの)御子 〉天王寺の別当被(レ)止。其上彼寺の僧綱(そうがう)、公請を被(二)停止(一)、以(二)使庁使(一)、張本を被(レ)召けり。被(レ)下(二)院宣(一)云、園城寺(をんじやうじ)悪僧等、違(二)背朝家(一)、忽企(二)謀叛(一)、依(レ)之(これによつて)門徒(もんと)僧綱(そうがう)已下、皆悉停(二)止公請(一)、解(二)却見任并(ならびに)綱徳兼亦末寺庄園及彼寺僧等私領(一)、仰(二)諸国之宰史(一)、早可(レ)令(二)収公(一)、但於(二)有(レ)限寺用(一)者、為(二)国司之沙汰(一)付(二)彼寺(一)、所司任(二)其用途(一)、莫(レ)令(レ)退(二)転恒例仏事(一)、無品円恵(ゑんけい)法親王(ほふしんわう)、宜(レ)令(レ)停(二)止所帯天王寺検校職(けんげうしき)(一)とぞ有ける。僧綱(そうがう)には、一乗院僧正(そうじやう)房覚をば、飛騨判官景高承て召(レ)之。常陸法印実慶をば、上総判官忠綱(ただつな)承、中納言法印行乗をば、博士判官章貞承る。真如院法印能慶をば、和泉(いづみの)判官仲頼承。亮法印真円をば、源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)季貞承。美濃僧正(そうじやう)覚智をば、摂津判官盛澄承。蔵人法橋勝慶をば、祇園博士大夫判官(たいふはんぐわん)基康承。宰相僧正(そうじやう)公顕をば、出羽判官光長承、僧正(そうじやう)覚讃をば、斎藤判官友実承、明王院僧都(そうづ)乗智をば、新志明基承、右大臣法眼実印をば、仁府生経広承、中納言法眼勘忠、大蔵卿(おほくらのきやう)法印
P0395
行暁両人をば紀府生兼康(かねやす)承、各水火(有朋上P539)の責にぞ及ける。二会講師には、円全、性猷、澄兼、公胤〈 已上四人 〉被(レ)停(二)止公請(一)、学生十八人(じふはちにん)、被(レ)載(二)罪名(一)。高倉宮(たかくらのみや)三井寺(みゐでら)に籠らせ給に依て、衆徒も多く被(レ)誅、宮も亡びさせ給(たま)ひぬ。僧綱(そうがう)さへ公請を止られければ、哀入道の失滅よかし、耳にも聞じ目にも見じなど、園城(をんじやう)も南都も大衆蜂起騒動すと聞えければ、東国の乱逆を前に抱て、園城寺(をんじやうじ)を攻べしと聞ゆ。頼朝(よりとも)の謀叛には、尤南都北嶺に仰て、天下安穏の祈をこそ可(二)仰付(一)、入道の憤深ければ、其事既(すで)に治定すと有(二)披露(一)。三院の大衆会合僉議(せんぎ)して、大関小関堀塞で、垣楯をかき逆茂木引て、構(二)城郭(じやうくわく)(一)たり。
十一月十二日、頭(とうの)中将(ちゆうじやう)重衡大将軍として、一千(いつせん)余騎(よき)の軍兵を率して、三井寺(みゐでら)へ発向す。大衆も思儲たる事なれば、大関小関二手に造て防戦けれ共、大勢に打落されて、大衆法師原(ほふしばら)に至るまで、死ぬる者八百(はつぴやく)余人(よにん)、重衡勝に乗て、寺中に乱入、坊舎に火を係たれば、南中北の三院、金堂、講堂(かうだう)、神社、仏閣、一宇も不(レ)残焼にけり。本覚院、鶏足院、常喜院、真如院、桂園院、尊星王堂、普賢堂、青竜院、大宝院、新熊野、同拝殿護法善神の社壇、教待(けうだい)和尚(くわしやう)の本坊、同御身像七宇の鐘楼、二階(にかい)大門八間四面の大講堂(だいかうだう)、三重一基宝塔、阿弥陀堂、唐院宝蔵山王宝殿、四足一宇四面廻廊、五輪院、十二間大坊、三院各別灌頂院(くわんぢやうゐん)、惣〔じて〕坊舎塔廟六百三十七宇(ろつぴやくさんじふしちう)、大津の在家(有朋上P540)二千八百五十三宇(にせんはつぴやくごじふさんう)、速に■煙(たいえん)となるこそ悲けれ。仏像二千(にせん)余体、経巻幾千万ぞ数を不(レ)知。文徳天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)仁寿三年に、智証大師自入唐して、渡し給へる唐本の一切経、七千(しちせん)余巻(よくわん)も焼にけり。顕密須臾に亡て、大小の書籍も失にけり。三密瑜伽(ゆが)
P0396
の道場もなければ、振鈴(しんれい)声を断て、一夏安居の仏前もなければ、供花の薫も絶にけり。宿老(しゆくらう)碩徳の明師は怠(二)行学(一)、受法相承の弟子は、経巻に別れぬ。或は漫々たる浮(レ)海、船と共にこがるゝ大衆もあり、或は峨々たる峯に上て、嵐と同咽僧侶もあり、仏宝僧宝忽(たちまち)に亡つゝ、在家出家歎悲けり。抑三井寺(みゐでら)者是、近江国志賀郡、擬大領大友夜須良麿が私の寺たりしを、天武天皇(てんわう)の御願(ごぐわん)に奉(二)寄附(一)、本仏も彼時の御本尊、生身の弥勒と申しを、教待(けうだい)和尚(くわしやう)百六十年行ひ給(たまひ)て、其後智証大師の草創也。係目出三井の法水も忽(たちまち)に亡ぬるこそ悲けれ。天智天武持統三代の帝の御産湯の水をくみたりける故に三井寺(みゐでら)と名たり。大師此所を伝法灌頂(くわんぢやう)の霊地として、井花の水を汲事、慈尊の朝、三会の暁を待ゆゑに、三井寺(みゐでら)とも申とかや。角止事なき聖跡に、兵俗乱入つゝ、塵灰となす事、有(レ)心人皆歎けり。況寺門老少の心の中、推量りても哀なり。(有朋上P541)
S1609 遷都附将軍塚(しやうぐんづか)附司天台事
治承四年五月廿九日には、都遷あるべき由有(二)其沙汰(一)。来月三日福原へ行幸と被(二)定仰下(一)けり。日頃(ひごろ)も猿荒増事ありと私語(ささやき)けれ共、指もはやと思ける程に、既(すで)に被(二)仰下(一)ければ、京中貴賤迷(二)是非(一)ひ、周章(あわて)騒つゝ、更にうつゝとは覚えず。兼ては六月三日と有(二)披露(一)しに、俄(にはか)に二日に被(二)引上(一)ける間、供奉の人々上下周章(あわて)騒て、取物も不(二)取敢(一)(とりあへず)、東関の雲の夕、西海の波の暁、仮寝の床の草枕、一夜の名残(なごり)も惜ければ、跡に心は留りて、思を残す事ぞかし。久此京に住馴て、始て旅だたん事倦ければ、外人には世に恐ていはざりけれ共、親き族は寄合て、額を合て泣悲、何なるべし共覚ねば、各袖を
P0397
ぞ絞ける。二日既行幸あり、入道の年来執通給(たま)ひける所なるに依て也。中宮、一院、新院、摂政殿(せつしやうどの)を奉(レ)始、公卿殿上人(てんじやうびと)被(二)供奉(一)、三日と有(二)披露(一)だにも、忙かりしに、今一日引上られける間、御伴の上下いとゞ周章(あわて)騒、取物も不(二)取敢(一)(とりあへず)、帝王の稚御座には、后こそ同輿には召に、是は御乳母(おんめのと)の平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)の北方、師の内侍と申ぞ被(レ)参ける。先例なき事也と、人欺申けり。係儘には法皇道すがら御心細、御涙(おんなみだ)せきあへさせ給はず、ゆゝしく木影の繁き森を御覧じ(有朋上P542)て、此は何所ぞと御尋(おんたづね)あり。近く候ける人、広田大明神(だいみやうじん)の社也と奏ければ、こは猿事にこそと思召(おぼしめし)て、今度無(二)別御事(一)、都へ有(二)還御(一)、政務如(レ)元ならば、御所近奉(レ)祝と有(二)御祈念(一)けるこそ哀なれ。御心中計の御事なれば人は此事をば不(レ)知けり。三月池(いけの)大納言(だいなごん)頼盛(よりもり)の家を皇居と定て、主上渡らせ給ふ。同四日頼盛(よりもり)家の賞を蒙て、正二位(しやうにゐ)し給へり。九条左大臣兼実の御子、右大将(うだいしやう)良通越られ給へり。法皇をば福原に三間なる板屋を造て、四面に波多板し廻して、南に向て口一つ開たるにぞ居進ける。筑紫武士、石戸の諸卿種直が子に、佐原の大夫種益奉(二)守護(一)けり。一日に二度如(レ)形供御を進せけり。懸ければ此御所をば、童部(わらんべ)は楼御所とぞ申ける守護の武士厳かりければ、輙人も不(レ)参、鳥羽殿(とばどの)を出させ給しかば、くつろぐやらんと思召(おぼしめし)けるに、高倉宮(たかくらのみや)の御謀叛(ごむほん)の事出来て、又角のみ渡らせ給へば、こは如何しつるぞや、心憂とぞ思召(おぼしめし)ける。今は世の事もしろしめし度もなし、花山法皇の御座(おはしまし)けん様に、山々寺々をも修行して、任(二)御心(一)御座(おはしまさ)ばやとぞ被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。鳥羽殿(とばどの)にてはさすが広かりしかば、慰む御事も有し物
P0398
を、由なく出にける者哉と思食(おぼしめし)けるも、責の御事と哀なり。
抑神武天皇(じんむてんわう)は天神七代を過、地神五代御末、葺不(レ)合尊の御譲を受させ給つゝ、人代百王の始の帝にまし/\しが、辛酉歳日向国宮崎郡にて、皇王(有朋上P543)の宝祚を継給へり。五十九年と申し、己未年十月に東征して、豊葦原中津国に留り御座、近来大和国(やまとのくに)と云は是也。高市郡、畝傍山を点じて、帝都を立、橿原の地を伐払て、宮室を作り給き。即橿原の宮といへり。自(レ)爾以降、代々の帝王、都を移さるゝ事、三十度に余り、四十度に及べり。
神武天皇(じんむてんわう)より景行天皇(けいかうてんわう)まで十二代は、大和国(やまとのくに)所々に宮造して遷御座(おはしまし)き。景行天皇(けいかうてんわうの)御宇(ぎよう)に、大和国(やまとのくに)纏向日代宮より、近江国志賀郡に被(レ)遷、穴穂宮を造り給。仲哀天皇(てんわう)二年の九月に、穴穂宮より長門国に移されて、豊浦宮に御座(おはしま)す。神功皇后(じんぐうくわうごうの)御宇(ぎよう)に、大和国(やまとのくに)十市郡に被(レ)移て、稚桜宮に御座(おはします)。仁徳天皇(てんわう)元年に、同国軽島豊明宮より、摂津国(つのくに)難波に移されて、高津宮に住給。履中天皇(てんわう)二年に、大和国(やまとのくに)十市郡へ帰御座(おはします)。反正天皇(てんわう)元年に河内国へうつされて、柴垣の宮に御座(おはしま)す。允恭天皇(てんわう)四十二年に、又大和国(やまとのくに)へ帰て遠明日香宮に御座(おはします)。安康天皇(てんわう)三年、同国泊瀬朝倉宮に御座(おはします)。其後六代は同国所々に住給ふ。
継体天皇(てんわう)五年に、山城国、筒城に移されて十二年、其後乙訓住給ふ。宣化天皇(てんわう)元年に猶大和国(やまとのくに)へ帰て、檜隈廬入野宮に御座(おはします)。欽明天皇(てんわう)より皇極天皇(てんわう)まで七代は、大和国(やまとのくに)郡々に宮居して、他国へは
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不(二)還給(一)。孝徳天皇(てんわう)大化元年に、摂津国(つのくに)長柄にうつされて、豊崎宮に御座(おはします)。斉明天皇(てんわう)二年に又大和国(やまとのくに)へ帰つて、飛鳥岡本の宮に御座(おはします)。天智天皇(てんわう)(有朋上P544)六年、近江国に被(レ)移て、志賀郡大津宮に住給ふ。天武天皇(てんわう)元年に、大和国(やまとのくに)に帰て、岡本宮に御座、是を飛鳥の浄見原(きよみはらの)宮と申。持統天皇(てんわう)より光仁天皇(てんわう)まで、九代は猶大和国(やまとのくに)奈良の都に住給ふ。桓武天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、延暦(えんりやく)三年十月に、山城国に遷されて、長岡宮に十年御座(おはしま)しけるが、此京狭とて、同(おなじき)十二年正月に、大納言(だいなごん)藤原小黒丸、参議左大弁(さだいべん)紀古作美、大僧都(だいそうづ)賢■等(けんけいら)を遣して、当国の中、葛野郡宇太村を見せらる。三人共に奏して申、此地は左青竜、右百虎、前朱雀、後玄武、一も闕ず、四神(ししん)相応の霊地也と、依(レ)之(これによつて)愛宕郡に御座、賀茂大明神(かものだいみやうじん)に被(二)告申(一)、同(おなじき)十三年に、長岡京より此平安城へ遷給(たまひ)て以来、都を他所へ不(レ)被(レ)遷、帝王三十二代、星霜四百(しひやく)余歳(よさい)也。昔より多の都ありけれ共、此京程に地景目出く、王業久かるべき所なしとて被(レ)遷たり。末代までも此京を他所へ遷されぬ事や在るべきとて、大臣公卿、賢者才人、諸道の博士等を被(二)召集(一)て、有(二)僉議(せんぎ)(一)。長久なるべき様とて、土にて八尺の人形を造、鉄の甲冑を著せ弓矢を持せて、帝自土の向(二)人形(一)祝申させ給けるは、必此京の守護神となり給へ、若未来に此都を他所へ移す事あらば、竪く王城を守其人を罰せよと被(レ)含(二)宣命(一)て後、東山の峯に深一丈余(あまり)の穴を堀て、西向に立て被(レ)埋けり。将軍塚(しやうぐんづか)とて今にあり。去ば天下に事出来、兵革興んとては、兼て告知しむる習あり。(有朋上P545)嵯峨(さがの)天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、大同五年に他国へ遷されんとし給しかば、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)有て、奉(レ)諌し上、貴賤騒歎しかば、さてこそ止給けれ。一天
P0400
の君万乗の主、猶御心に任給はず、凡人の身として輙も思企給けるこそ浅猿(あさまし)けれ。柏原天皇(てんわう)と申は、平家の先祖に御座(おはします)。先祖〔の〕帝のさしも執し思召(おぼしめし)〔給〕ける都を、他国へ移給しも■(おぼつか)なし。此京をば平安城とて、文字には平ら安き城と書り。旁以難(レ)捨。就(レ)中(なかんづく)主上上皇共に平家の外孫にて御座、君も争か捨させ給べき。是は国々の夷共責上て、平家都に跡をとゞめず、山野に交べき瑞相にやとぞ私語(ささやき)ける。将軍塚(しやうぐんづか)の守護神、争か可(レ)不(レ)成(レ)怒、只今(ただいま)世は失なんず、心憂事也。平家専もてはやすべき都をや。入道天下を手に把り、心の儘に振舞給ける余り、当帝を奉(レ)下、我孫を位に付進、法皇の第二の王子高倉宮(たかくらのみや)を奉(レ)誅御首(おんくび)を切、太政大臣(だいじやうだいじん)の官を止て奉(レ)流(二)関白殿(くわんばくどの)(一)、我聟近衛殿(このゑどの)を奉(レ)成(二)摂政(せつしやう)(一)、惣て卿相(けいしやう)雲客(うんかく)、北面の下揩ノ至まで、或は流し或は死し、自由の悪行数を尽して、今又及(二)遷都(一)けるこそ不思議なれ。守護の仏神豈禀(二)非礼(一)給はんや、四海の黎民其歎幾許ぞ。犯人者有(二)乱亡之患(一)、犯(レ)神者有(二)疾夭之禍(一)と云本文あり、恐々といへり。就(レ)中(なかんづく)福原と云は平安城の西也、今年大将軍在(レ)酉、方角既に塞れり、いかゞ有べきと申人ありければ、陰陽博士安倍季弘に仰て、勘文を被(レ)召ける。勘状に云、(有朋上P546)
本条云、大将軍王相不(レ)論(二)遠近(一)、同可(レ)忌(二)避諸事(一)、然而至(二)于遷都(一)者、先例不(レ)避(レ)之歟、桓武天皇(てんわう)、延暦(えんりやく)十三年十月廿一日に、自(二)長岡京(一)、遷(二)都於葛野京(一)、今年大将軍為(二)北之分(一)、当(二)王相方(一)、然者(しかれば)就(二)延暦(えんりやく)之佳例(一)案(レ)之、雖(レ)為(二)大将軍之方(一)、何可(レ)有(二)其憚(一)哉とぞ申たる。聞(レ)之人々舌を振て申
P0401
けるは、延暦(えんりやく)の遷都に御方違ありき。但永此城を捨られんには、強に方角の禁忌の不(レ)可(レ)及(二)沙汰(一)。勘文を召るゝならば、何様にも可(レ)有(二)御方違(一)者ぞ。季弘が勘状矯飾の申状歟。倩案(二)事情(一)、昔唐に司天台とて高二十丈の台を造、天文博士を置れたり。太史天変を見て、吉凶を奏する官也。漢元帝、成帝、父子二代之間、政無道(ぶだう)にして天変頻也。北辰光少く、五星煌々として、赤事如(レ)火、芒を耀し、角を動して、三台を射る上、台半ば滅て、中台折たり。是必世乱国亡べき天変也。司天の大史是を見るといへ共、無道(ぶだう)の君に恐て、毎(レ)望(二)明光殿(一)、只慶雲寿星とて、御悦来、御寿永かるべき天変とのみ奏せしかば、政を正事なくして、終に国乱帝亡給にけり。去ば季弘も入道の無道(ぶだう)の政に恐つゝ、方角の禁忌をも不(レ)申けるにやとぞ、人唇を返ける。新都行幸の供奉に参ける人の、旧都の柱に書つけたりけるは、
百年をよかへり迄に過こしに愛宕の里は荒や果なん K093 (有朋上P547)
行幸既(すで)にならせ給ければ、諸卿已下衛府諸司(しよし)供奉せり。何者(なにもの)の態なりけるにや、東寺の門の道ばたに、札を立たり。
咲出づる花の都をふり捨て風ふく原の末ぞあやふき K094
行幸の御門出に、いま/\しくぞ見えし。(有朋上P548)
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十七
P0402(有朋上P549)
礼巻 第十七
S1701 福原京事
治承四年六月九日福原の新都の事始あり。上卿は後徳大寺(ごとくだいじ)の左大将実定、宰相には土御門の右中将通親、奉行には頭右中弁(うちゆうべん)経房、蔵人左少弁(くらんどのさせうべん)行隆也。河内守光行、丈尺を取て輪田の松原西の野に、宮城の地を定めけるに、一条より五条(ごでう)まで有て、五条(ごでう)已下は其所なし、如何が有べきと評定ありけるに、通親勘て、三条大路をひろげて十二の通門を立。大国にも角こそしけれ、吾朝に五条(ごでう)まで有ば、何の不足か有べきと被(レ)申けれ共、不(二)事行(一)して行事の人々還にけり。去ば昆陽野にて可(レ)在歟、印南野にて可(レ)有歟と、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)有けれ共、未定也。先里内裏可(レ)被(二)造進(一)とて、五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱卿(くにつなのきやう)、周防国を給(たまひ)て、六月二十三日に事始して、八月十日棟上と被(二)定申(一)けり。彼大納言(だいなごん)は大福長者にて御座(おはしまし)ければ、造出さん事左右に及ねども、そも争か民の煩、人の歎なかるべき。殊に指当りたる大賞会を閣て、かかる乱に遷幸遷都、内裏造営、山海の財力の尽ぬるのみに非ず、人民の(有朋上P550)侘際いくそばくぞ。楚起(二)気花之室(一)而黎民散、秦興(二)阿房之殿(一)而天下乱といへり。いさ/\危とぞ申ける。堯王天下を治め給けるには、茅茨不(レ)剪、採椽不(レ)■(けづらず)、舟車不(レ)飾(かざらず)、衣服無(レ)文といへり。昔唐驪山と云ふ所あり。山の上に宮室あり。朱楼の構紫殿のあやつり、様々最珍しくして、遅々たる春の日は、玉甃暖にして、温水溢て、嫋々
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たる秋の風には、山の蝉啼て宮樹紅なり。かゝる目出(めでた)き砌(みぎり)にて、代々の聖主、折々の臨幸も不(レ)絶けり。憲宗皇帝位に即御座(おはしまし)て、五年まで終に行幸なし。去儘には垣にはつたしげり、瓦に松生にけり。一人行幸あれば、六宮相従ひ百官供奉する習なれば、人の煩たやすからず、君一日の臨幸の費をかぞふるに、民千万の家の財にも過たりとて、終に御幸も無りけり。是皆国の費を思召(おぼしめし)、民の歎を休めんとの御恵なり、入道いかなれば世を治思を忘れ、人を助る心なかるらんとぞ申ける。新都は繁昌して人屋軒を並けれ共、旧城は只荒にあれ行て、適残れる家々も、門前草深して、庭上露しげし。空き跡のみ多ければ、稚兎の栖と成替り、紫蘭の野辺とぞまがひける。太政(だいじやう)入道(にふだう)は善事にも悪事にも思立ぬれば、前後をも顧ず、人の諌をも用給ふ事なし。時々は物くるはしき心地もありけるにや、懸る遷都までも思立給(たま)ひけり。(有朋上P551)
S1702 祇王祇女仏前事
世に白拍子と云者あり。漢家には虞氏、楊貴妃、王昭君など云しは、是皆白拍子也。吾朝には鳥羽院(とばのゐんの)御宇(ぎよう)に、島の千歳、若の前とて、二人の遊女舞始けり。始には直垂に、立烏帽子(たてえぼし)、腰の刀を指て舞ければ、男舞と申けり。後には事がら荒しとて、烏帽子(えぼし)腰刀を止て、水干に袴ばかりを著て舞。其比京中第一の白拍子あり、姉をば祇王、妹をば祇女と云。天下無双の舞姫と披露しければ、入道彼等を召す。劣ぬ弟子ども二三人同車(どうしや)して、祇王祇女参れり。五人の女侍所に并居たり。入道先景気を見れば、紅顔色鮮にして、白粉媚を造れり。容貌品こまやかにして蘭麝の匂なつかし。舞歌へと宣(のたま)ひけれ
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ば、
蓬莱山には千歳経る、万歳千秋重れり、松の枝には鶴巣食、巌の上には亀遊 K095
と、同音に歌ひ澄したりければ、入道興に入給へり。頻鳥の音和かに、仙女の袖妙なりければ、見れども聞ども飽べしと不(レ)覚とて、姉の祇王を殿中に召置て最愛せり。妹の祇女も、姉の光によりて、洛中に耀り。寵愛の余、親はいかなる者ぞと問れければ、童も母も元は遊者にて閉と申けるが、年闌齢傾て、六条堀川(ほりかは)なる所に、しづかなる有様(ありさま)にて(有朋上P552)挿絵(有朋上P553)挿絵(有朋上P554)侍ると申。さては糸惜き事やとて、筑後守(ちくごのかみ)家貞(いへさだ)に仰て、衣裳絹布の類を送遣はすのみに非ず、毎月に時料雑事を運入。かゝりければ、家中大に栄て、従類眷属来集る。色立る者の争か加程の幸有べきとて、かたへの遊人申けるは、実や祇と云文字をばかみとよむ也。神は人に翫、うやまはるゝ上、神には人恐る事なれば、吾(われ)らもあへものにせんとて、祇一、祇二、祇三、祇福、祇徳など名を付けるこそ笑しけれ。角て家富人恐れたり。三人の心の中、置処なく、目出(めでた)き事に思程に、天下無双の能者出来れり。仏御前と云者の歌を聞舞を見る者、目を迷し耳を峙つ。祇王祇女には、雲泥を論じて勝りとぞ云ける。或(ある)時(とき)太政(だいじやう)入道(にふだう)の亭へ推参して、家貞(いへさだ)して申入る。折節(をりふし)一門群集して、酒宴の場也。入道宣(のたまひ)けるは、左様の遊者なんど云者は、可(レ)随(レ)召事也、罷出よと宣へば、仰の上は罷出侍るべけれ共、世人の、仏こそ此御所より追出され参せて、恥に及ぶと申侍らん事の道狭く覚侍、又憂身の事はさのみあれ、などや御情(おんなさけ)をば忘させ給ふべきと申たれ共、いや/\祇王此中にあり、舞も
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歌も争かまさるべき。縦仏ともいへ神ともいへ、名にはめづまじ、急出よと宣ふ。此上は仏罷出けり。祇王入道に申けるは、我身も経候し道也、いかに本意なく侍らん、童殿中に有事をば仏も知りて侍、上にはさもと思召(おぼしめし)つらめども、祇王が(有朋上P555)妬心にて、申留たるにこそと思侍らんも恥し。道を立る者折を伺ひて推参尋常の事也、君に召おかれ進せざりし時は、童も推参をのみこそし候しか、何となく御目にかゝりて見参に入たりしうれしさ、空く罷出しはづかしさ、只今(ただいま)の仏御前が心の中、被(二)推量(一)て、糸惜く侍り、何か苦かるべき、見参して舞一番御覧じ侍れかしと、わりなく口説申ければ、左も右も祇王が計とて、安部資成を以て、遥(はるか)に帰りたる仏を被(二)召返(一)て宣(のたまひ)けるは、罷出よと云つるを、祇王が吾経し道也、召返せと様々云つれば仏に見参するぞ、折節(をりふし)吾前に杯あり、何にても一申せと聞ければ、
君を始て見時は、千代も経ぬべし姫小松、御前の池なる亀が岡に、鶴こそ群居て遊なれ K096
と、折返折返三度歌ひたりければ、入道祝すまされて興に入給へり。あゝ思には似ず、目出仕たり。祇王にも劣らず、歌の音のよさよ、いしゝ/\と嘆られたり。さらば舞一番と宣へば、仏は水干に白き袴著て、髪結あげ調子取負せて、
徳是北辰 椿葉影再改(レ) 樽猶南面 松花色十返
と朗詠しけり。広廂に筵しかせて、器量の侍に鼓うたせて、仏祝の白拍子かずへて舞澄したり。其事がらは髪ながくして色白く、形こまやかにして媚多し。楊貴妃が花の眼、李(有朋上P556)夫人が蓮の睫、夏野の萩
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の風に靡く有様(ありさま)、翠の山に月の出るよそほひなり。■袖(りんしう)とはなのそで翻りて、彩雲の翠嶺を廻が如し。絢袂(じゆんべい)とぬひもののたもとひらめきて、碧浪の蒼浜にたゝめるに似たり。入道は始より横目もせず、打頷許々々よだれとろ/\垂して見入給へり。天性入道は善事にも悪事にも前後をば顧ず、逸早き人にて、心の中に舞の終を遅々とぞ待給ける。責ての歌に、
よしさらば心の儘につらかれよさなきは人の忘がたきに K097
謡て舞ければ、戯呼入道が上をこそ舞れぬれとて、手を揚て是へ/\とぞ請じ給ふ。仏は是を聞ぬ由にて猶責けるを、入道座を立手を取て引居たり。遠ては中々思はぬ心もありつるに、近く置て見給へば、情を柳髪の色に染れば、春の思乱やすく、心を蘭質の手に移せば、秋の露屡脆し。緑の黛花の形、絵に書とも筆も及がたかりければ、入道自横懐に抱て、帳台の内へ入給ふ。仏と名をば付たれど、三明(さんみやう)六通悟らねば、忙れ迷たる様也けり。さても申けるは、是はうつゝならぬ御事かな、祇王御前の御言の伝にこそ御目にもかゝる事にて候へ、いかゞさる事侍べき、忘ぬ御事ならば、後にこそ召に随進めと、深痛て候けれ共、賞(レ)新棄(レ)旧世のさが人癖なれば、入道更にゆるし給は(有朋上P557)ず、左も右も吾云にこそ随はめ、祇王に憚るにこそとて、源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)を使にて、日来(ひごろ)はさこそ申侍りしかども、移れば替る習なれば、今は力不(レ)及、御内を出べしとぞ宣(のたまひ)ける。祇王は夢うつゝ弁煩たり。泣々(なくなく)申けるは、去ば人の為には能ても有なん、悪ても有べし。抑只今(ただいま)罷出侍ば、片辺の遊者共が、門前市を成
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て、さ見つる事よと申さんも心憂侍るべし、晩を待侍らばやと申。入道去けしからぬ人にて、いや/\疾罷出よ、吾出家入道の身也、今より後は一筋に、仏を崇憑むべし、仏を崇る程にては、片時も祇王無(レ)詮、急々と使頻(しきり)に立ければ、入道の常に見給(たま)ひける障子に思つゞけて、
萌出るも枯も同じ野べの草いづれか秋にあはで有るべき K098
と、書捨てこそ出にけれ。其後は夜かれ日かれもし給はず、仏が寵愛はしかまに染る褐の色、竜田山の紅葉よりも猶色深くぞ成給ふ。さても日来(ひごろ)経て仏申けるは、祇王が吾ゆゑ御内を出され進せて、いかに怨と思候らん、此御所に参て御目にかゝり進する事も、かのことの葉の末に依候けるに、情は怨に引替て、さこそ本意なく思らめ、時々被(レ)召て心をも慰め、歎をもやすめさせ給へと申しければ、左もありとて彼宿所へ使を遣して、急参れといはせければ、祇王心憂事に思ひて、返事も不(レ)申。使角と申せば、入道大に嗔(有朋上P558)て、祇王不思議也、いかに我使をやりたらんに、いなせの返事せざるべき、此内を出たるを限とや、色を立る女、一日なり共入道に目をかけられたるは、難(レ)有面目にこそあれ、千年万年の契とや思べき。仏が此にあればとて、返事を申さぬか、急参れ、仰に不(レ)随ば、可(二)相計(一)とて、あらゝかに使を遣はしたり。祇王は情こそかはらめ、加程にや宣ふべきと思ければ、理に過て泣居たり。母の閉泣々(なくなく)教訓しけるは、西八条殿(にしはつでうどの)は世にも腹悪人にて、思立給事は横紙をやぶらるゝぞかし、一天四海上揩煢コ揩熬Nか其命を背、況や加様の身々として、一夜の契とてもおろかなるべきか。年来有難世を過し
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つるまかなひも、偏(ひとへ)に入道殿(にふだうどの)の御恩也。されば日来(ひごろ)の情を思にも参るべし。後の難も恐しければ参るべし。さらでは老たる親に憂目見せ給ふな。入道殿(にふだうどの)の御心としては、女なればとてよも所をば置給はじ、早出立給へとて、使には急参るべしと母ぞ返事は申ける。祇王はよにも心うく辱しき事なれば、淵瀬に身をも入ばやと思けれ共、母の事を思ひてこそ、今まで消もうせなであれ、再入道殿(にふだうどの)へ参べしとは思はざりけれ共、誠にも我ゆゑ母の肝心を迷はさんも不孝なりとて、妹の祇女と同車(どうしや)して、六波羅へ参りたり。入道は仏をそばに居て、人々と酒宴して御座(おはしまし)けり。祇王祇女をば一長押落たる広廂にすゑられたり。仏は打うつぶきて目(有朋上P559)も見上ず。祇王は寵愛こそきはまらめ、居所をさへさげらるゝ心うさに、打しめりてぞ候ける。入道宣(のたまひ)けるは、如何に遅は参たるぞ、仏をすゑ置たればとて、怨思か、宿世の道は今に始ざる事ぞ、努々思べからず、折節(をりふし)仏が前に杯あり、一申て強よと宣ふ。祇王承りて、
仏も昔は凡夫なり、我等(われら)も終には仏なり、三身仏性具しながら、隔つる心のうたてさよ K099
と折返折返三返までこそ歌ひたれ。是には入道めでずもや有けん、満座哀を催して、袂(たもと)を絞る者もあり。入道打うなづき給(たまひ)て、景気の今様をば、いしくも歌うたる者哉、此歌は雑芸集と云文に書れたるはさはなし。三四の句はよけれ共、一二の句を引替て、仏も昔は凡夫也、我等(われら)も終には仏とうたふは、二人が阻られたる所を云にや、猶も聞あかず、今一度と宣ふ。何度も仰にはとて、
君があけこし手枕の、絶て久く成にけり、何しに隙なくむつれけん、ながらへもせぬもの故に K100
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と、是を二返ぞ歌ひたる。入道又打頷許、此歌は侍従大納言(だいなごん)、師中納言の娘に相具して、契あさからざりしに、何程もなくして別つゝ、歎の余に作り出してうたひし今様也。そ(有朋上P560)れには我等(われら)があけこし手枕のとこそ有に、一の句を引替て、君があけこし手枕と歌ふ事は、入道が所を思なぞらへてうたふにや、それをば祇王は如何にとして知たりけるぞ、加様の事は時に取て上手ならでは叶ふまじ、あはれ祇王は今様は上手かな、上代にも聞及ばず、末代にも有難とぞほめ給ふ。さて此後は不(レ)召とも常に参て、舞舞歌うたうて仏慰よ、よし/\罪深く仏な怨そと宣ふ。祇王祇女宿所に帰て、母に云けるは、角て浮世にあればこそかゝる憂目をも見候へ、墓なき此世と知ながら、何を憑てすまふらん、蜻蛉の有か無かの身を持て、朝露のおけば消えける命也、女は心やなかるべき、姿を替んと思也とて、僧を請じ翠の髪を剃落し、墨の衣に袖替て、廿一と申に実の道にぞ入にける。妹の祇女も是を見て、十九と申しし年、同尼にぞ成にける。母の閉は、此を見彼を見廻して、涙を流、若人だにも思ひ切、角成給ふ、老て何をか期すべきとて、共に尼に成つゝ、西山嵯峨(さが)の奥、往生院と云所に、柴の庵を結つゝ、草葉の露の身を宿〔と〕して、三人菩提を欣つゝ、九品の行業不退也。日西山に没時は、遥(はるか)に十万億刹の土を思、風嶺松を吹折は、近く常楽我浄の観を凝す。六時の礼讃声澄て、朝暮の念仏いと貴し。都には祇王祇女は世を恨、尼に成て行方不(レ)知と披露あり。仏是を聞、心憂や、さしも盛の人々(有朋上P561)の、花の袂(たもと)を脱替て、墨染の袖にやつれけん事の悲さよ、吾故角成ぬれば、思ひ歎は吾身にこそは積るらめ、移れば替
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世の習、吾身とても憑なし、縦偕老の幸なりとても、あだに墓なき世の中は、兎ても角ても有ぬべし。哀此人々の住居たらん所を聞出て、同道にも入ばやとぞ思ける。月日の重なる儘に、さすが都近き程なれば、嵯峨(さが)の往生院にとぞ聞ける。仏は入道の宿所をば忍て紛出て、自髪をはさみ落て、衣うちかづき、遥々(はるばる)と路柴の露かき分て、嵯峨(さが)の奥へぞ尋入る。夜深人定て、柴の編戸を扣けり。内より人立出て、誰人ぞ、いぶせき夜のそら、あやしの草の戸に、尋来べき人なし、恐ろしや天狗ばけ物などにやと云ければ、我身は太政(だいじやう)入道殿(にふだうどの)に候ひし遊者の仏と申女也。我故御身々を捨て、憂名を流しはて、角住居給へりと聞つれば、誰故ならんと被(レ)歎て、人しれず同道にと思取、是迄参たりと云。門を開て庵室に入、纏(レ)頭たる衣を脱たれば、遠山の黛は、かきながら乱ねども、翠の黒髪は鋏刀落して尼なりけり。祇王祇女泣々(なくなく)申けるは、浮世を厭ひ実の道に入ても、猶迷の心の悲さは、思歎は絶ずして、仏だになかりせば、かゝる憂目は見ざらましと、つらき我身を顧ず、只人の御事のみうらめしかりつるに、角思立給ける有難さよ、是も然べき善知識にこそ、今は妄念晴ぬとて、四人頭をさしつどへ、通夜こ(有朋上P562)そ泣明しき。さても一所に籠居て、他事なく勤行ひけり。入道是をも知らず、仏を失たりとて、是は如何せんとぞ被(レ)歎ける。洛中辺土旁へ人を遣しつゝ、仏をぞ尋給ふ。仏も尼に成て、往生院にと聞給ければ、糸惜かりし仏なれば、尼とても何かは苦きと宣(のたま)ひけれ共、其事無沙汰にてやみにけり。此尼上達四人、往生の志深して、行業功重りければ、遅速こそ有けれ共、本意に任せ終り不(レ)乱念仏して、
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西に聳雲に乗、池に開る蓮にぞ生ける。
後白川【*後白河】(ごしらかは)の法皇此由聞召、哀に貴事なりとて、六条長講堂の過去帳に被(レ)入て、比丘尼祇王二十一、祇女十九、閉四十七、仏十七と、今の世までも読上、訪ひ御座(おはしま)す事こそ憑しけれ。大安寺の過去帳にも入と云々。加様に何事にも掲焉人にて、思立給ぬれば、人の制止にも不(レ)拘、後悪からんずる事をも顧ず、適被(二)諌申(一)し小松殿(こまつどの)は失給ぬ。心に任て振舞給(たま)ひければ、遷都も思立給けるにこそ。
S1703 新都有様(ありさま)事
〔去(さる)程(ほど)に〕治承四年六月二日、都を福原へうつされて、既(すで)に八月にも成にけり。平安の故郷は日に随て荒行、公卿殿上人(てんじやうびと)上下の北面に至るまで、人々の家々、或筏に組、或は舟(有朋上P563)に積て漕下る。所々に家居しけれ共、福原の新都も未ならず、有とある人は皆浮雲の思をなせり。本より此所に住ける者は、田畠を失ひ、屋舎を壊て愁、今移居たる人は、土木の煩旅宿を悲て歎く。路の辺を見れば、車に乗べきは馬に乗、衣冠を著すべきは直垂を著たり。都の振舞忽(たちまち)に廃れて、ひたすら武士に不(レ)異、旧都には皇太后宮(くわうたいごうぐう)の大宮(おほみや)、八条中納言長方卿ばかりぞ残留給へる。長方卿は世を恨る事御座(おはしまし)て、供奉し給はず、只一人留給たりければ、京童部(きやうわらんべ)は留守の中納言とぞ申ける。其外は浅増(あさまし)き下揩フ力もなき計ぞ在ける。去儘に目出かりし都なれ共、小路には堀々切て逆木を引、車などの通べき様もなし。適過る人も、小車に乗道をへてぞありきける。夏闌秋にも成ぬ、月日過行とも、世は猶しづかならず。理也、上荒下困勢不(レ)久、宗社之危如(二)綴旒(一)〔と〕云文あり。宗社とは、先祖宗廟の祭也。綴旒とは、旗の足と云事也。
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宗廟の祭あやふければ、国の治らざる事、旗の足の風に吹るゝが如に、安堵せずと云にや、平家の振舞いかゞ有べかるらんと覚束(おぼつか)なし。
S1704 隋堤柳事 (有朋上P564)
< 昔隋煬帝、片河の岸に柳を植事、一千三百里、河水に竜舟を浮べ、船の中に伎女を乗て、永く万機の政を忘て、偏(ひとへ)に佚遊を恣にし給へり。紫髯の郎将は錦の纜をまふり、青蛾の御女(おんむすめ)は紅楼にあそびけり。海内の財力尽、百姓大に泣悲、万国忽(たちまち)に乱て、諸侯権を諍ければ、大唐の李淵軍を起して、煬天子を亡しゝかば、隋の代永絶にけり。去ば上政を忘れば、下必苦む、上下道調らざれば、国の勢久しからじ。故に宗社之危事如(二)綴旒(一)とは云なるべし。>
福原の遷都の事、天下の煩海内の歎也。当家他家の公卿殿上人(てんじやうびと)より、上下の北面に至まて、人並々には下りたれども、一人も安堵の思はなし、常は心騒てぞ有りける。
S1705 人々見(二)名所々々月(一)事
八月十日余に成て、新帝の供奉の人々つれ/゛\を慰煩、名所の月を見んとて、思々に行別る。或は住江、住吉(すみよし)、難波潟、葦屋の里にうそぶき行人もあり。或源氏大将の跡を追、須磨より明石に浦伝ふ人もあり。和歌、吹上、玉津島、月落かゝる淡路島、松風はげしき高砂の、波間をわたる人もあり、浦路を通ふ人もあり。(有朋上P565)
S1706 実定上洛事
其中に後徳大寺(ごとくだいじ)の左大将実定は、旧都の月を恋わびて、入道に暇乞、都へ上給けり。元より心数奇給へる人にて、浮世の旅の思出に、名所名所を問見てぞ上られける。千代に替らぬ翠は、雀の松原、みかげの松、雲井にさらす布引は、我朝第二の滝とかや。業平中将の彼滝に、星か河辺の蛍かと、浦路遥詠けん、何所なるらん覚束(おぼつか)な、求塚と云へるは、恋故命を失ひし、二人の
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夫の墓とかや。いなの湊のあけぼのに、霧立こむる毘陽の松、必春にはあらねども、山本かすむ水無瀬川、男山にすむ月は、石清水にや宿るらん。秋の山の紅葉の色、稲葉を渡る風の音、御身にしみてぞ覚しける。さても都に入給、彼方此方を見給へば、空き跡のみ多して、たま/\残る門の内、行通人も無れば、浅茅が原、蓬が杣と荒果て、鳥の臥戸と成にけり。八月半ばの事なれば、まだ宵ながらいづる月、主なき宿に独住、折知がほに鳴雁の、音さへつらくぞ聞召。大将はいとゞ哀に堪ずして、大宮(おほみや)の御所に参、待宵の小侍従と云女房を尋給ふ。元より浅からざる中也、侍従出合請入奉て、良久御物語(おんものがたり)申けり。さても宮の御方へ角と被(レ)申よと仰ければ、侍従参て御(有朋上P566)挿絵(有朋上P567)挿絵(有朋上P568)気色を伺進せけり。宮斜ず御悦ありて、こなたへと仰けり。大将南庭をまはりて、彼方此方を見給ふに付ても、昔は二代の后に立給(たま)ひ、百しきの大宮人にかしづかれて、明し晩し給しに、今は幽なる御所の御有様(おんありさま)、軒に垣衣繁り、庭に千草生かはす、事問人もなき宿に、荻吹風もさわがしく、昔を恋る涙とや、露ぞ袂(たもと)をぬらしける。時しあればと覚しくて、虫の怨もたえ/゛\に、草の戸指も枯にけり。大将哀に心の澄ければ、庭上に立ながら古詩を詠じ給ふ。
霜草(さうさう)欲(レ)枯虫思苦、 風枝未(レ)定鳥栖難 K101
と宣て、其より御前に参給けり。八月十八日(じふはちにち)の事也。宮は居待の月を待侘て、御簾半巻上て、御琵琶をあそばして渡らせ給けるが、山立出る月かげを、猶や遅とおぼしけん、御琵琶を閣せ給つゝ、御心を
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澄させ給けり。源氏の宇治巻に、優婆塞宮の御女(おんむすめ)、秋の名残(なごり)をしたひかね、明日を待出でて、琵琶を調べて、通夜心をすまさせ給しに、雲かくれたる月影の、やがて程なく出けるを、猶堪ずや覚しけん、撥にてまねかせ給けん、其夜の月の面影も、今こそ被(二)思知(一)けれ。大将参て大床に候はれけり。大宮(おほみや)は琵琶を引さして、撥にて其へと仰けり。其御有様(おんありさま)あたりを払て見え給。互に昔今の御物語(おんものがたり)あり。大将は福原(有朋上P569)の都の住うき事語申て被(レ)泣ければ、宮は平京の荒行事仰出して、共に御涙(おんなみだ)に咽ばせ給けり。角て夜もいたく深ければ、后宮は御琵琶を掻寄させ給(たまひ)て、秋風楽をひかせ給ふ。侍従は琴を弾けり。大将は腰より笛を取出、平調に音取つゝ、遥かに是を吹給。其後故郷の荒行悲さを、今様に造りて歌給ふ。
古き都を来て見れば、浅茅が原とぞ成にける、月の光はくまなくて、秋風のみぞ身には入 K102
と、三返歌ひ給ければ、宮を始進せて、御所中(ごしよぢゆう)に候給ける女房達(にようばうたち)、折から哀に覚て、皆袖をぞ絞ける。
S1707 待宵侍従附優蔵人事
抑待宵小侍従といふは、元は阿波の局とて、高倉院(たかくらのゐん)の御位の時、御宮仕ひして候ひけり。世にも貧き女房にて、夏冬の衣更も便を失ふ貧人なり。さすが内の御宮仕なれば、余幽なる事の悲さに、広隆寺の薬師(やくし)に参りて七箇日参篭して、祈申けれども、指たる験なし。先の世の報をば知らず、今の吾身を恨つゝ、世を捨て尼にもならばやと思て、仏の御名残(おんなごり)(有朋上P570)を惜み、今一夜通夜しつゝ、一首の歌をぞ読たりける。
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南無薬師(なむやくし)憐給へ世中に有わづらふも病ならずや K103
と詠じつゝ、打まどろみたりけるに、御帳の中より、白き衣を賜ふと夢に見て、末憑しく思つゝ、又内へ参て世にほのめきける程に、八幡の別当幸清法印に被(レ)思て、引替はなやかにありければ、君の御気色(おんきしよく)も人に勝たりけるに、高倉帝御悩(ごなう)まし/\けるが、慰御事の無りける徒然に、阿波の歌だに読たらば、貢御は進せなんと御あやにくあり。時もかはさず、
君が代に二万(にま)の里人数そひて今も備る貢物かな K104
と読たりけり。二万(にま)の里人とは、昔皇極天皇(てんわう)の御宇(ぎよう)、新羅の西戎、吾国を叛て、日本打取んと云聞えあり。天皇(てんわう)女帝の御身として、自新羅へ向給けるに、備中の国下津井郡に付、兵を被(レ)召けるに、一郷より二万騎の軍兵参たり。其よりして彼郷をば、二万郷と名付たり。されば彼二万(にま)の郷の人数に准て、君の御命の久かるべき事を読たりければ、目出く申たりとて、何しか貢物も進、御悩(ごなう)もなほらせ給たりければ、勧賞に侍従に被(レ)成たり。君の御糸惜も人に越、情深く、形厳かりければ、卿上(けいしやう)雲客(うんかく)心を通さぬは無りけり。(有朋上P571)其中に徳大寺(とくだいじの)実定は、殊に類なき事におぼされて、折々の御志世に有難ぞ聞ける。是も広隆寺の薬師(やくし)如来(によらい)の御利生と深憑をかけけるが、仏恵君の御糸惜、然べき事と云ながら、二首の歌にぞ報ける。
< 或説に曰く、八幡の検校竹中法印光清の女也。母は建春門院(けんしゆんもんゐん)の小大進の局が腹に儲けたりと云云。>
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大将は良久、宮の御前に候て、こし方行末の御物語(おんものがたり)し給(たまひ)て、夜ふくる儘に侍従が局に立入給(たまひ)て、住憂新都の旅の空にあくがれて、心ならずかれ/゛\に成草の便を悲給へば、侍従は、又故郷に残留たれ共、言問人も絶果ぬ。友なき宿に独居て、明しくらす悲さは、上陽宮の徒然、角やと互に語つゝ、共に涙を流しけり。希に会夜の嬉しさに、秋の夜なれど長からず、寝ぬに明ぬと云置し、夏にもかはらぬ心地して、まだ眤言もつきなくに、明ぬと告る鳥の音、恨兼てやおはしけん。
< 待宵の侍従と申ける事は、此徳大寺(とくだいじの)左大将忍て通給けり。衣々に成暁、又来ん夜をぞ契給ける。侍従は大将のこんとたのめし兼言を、其夜ははる/゛\待居たり。さらぬだに深行空の独寝は、まどろむ事もなき物を、たのめし人を待わびて、深行鐘の音を聞、いとど心の尽ければ、
待宵の深行くかねの声聞ばあかぬ別の鳥は物かは K105 (有朋上P572)
と読たりければ、誠に堪ずもよみたりとて、待宵とは被(レ)呼けり。大将は通夜御物語(おんものがたり)ありて、あかぬ別の衣々を引分帰給ける。明方の空、何となく物哀なりけるに、侍従も共に起居つゝ、殊更今朝の御名残(おんなごり)、慕かねたる気色にて、遥(はるか)に見送り奉り、泣しをれて見えければ、大将も帰る朝の習とて、振捨難き名残(なごり)の面影身にそふ心地して、為方なくぞおぼされける。御伴なりける蔵人を召て、侍従が今朝の名残(なごり)何よりも忘難く覚るに、立帰て何とも云て参と宣(のたまひ)ければ、蔵人優々敷大事かなと思へ共、時を移すべきならねば、軈走帰て見ければ、侍従なほ元の所に立やすらひて、又寝の床にも入ざりけり。蔵人取敢ぬ事なれば、何と云べしとも覚ざりけるに、明行空の鳥の音も、折から身に入て聞えければ、其前に跪袖掻合て、
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物かはと君が云けん鳥のねのけさしもいかに恋しかるらん K106
と仰せなりとて還りければ、侍従は、
またばこそ更行く鐘もつらからめ別を告ぐる鳥のねぞうき K107
と、蔵人帰参て角と申入ければ、大将いみじく感じて、さればこそ汝をば遣はしぬれと宣て、所領などあまた給たりけり。此蔵人は内裏の六位など経て、事に触て歌よみ優なり(有朋上P573)ければ、時の人異名に、やさ蔵人と云けるを、此歌世に披露の後は、物かはの蔵人とぞよばれける。>
S1708 源(げん)中納言(ぢゆうなごん)侍夢事
平家は都遷とて、福原へ下り給たれども、皇化の善政を打とゞめ奉り、神明の擁護にも背けるにや、月日は過行けども、世間は弥しづまらず、胸に手を置たる様に、心さわぎしてぞありける。一門の人々は、二位殿(にゐどの)を始奉、さとしも打続、夢見も様々悪かりけり。依(レ)之(これによつて)神社仏寺に祈頻也。源(げん)中納言(ぢゆうなごん)雅頼卿の侍夢に見ける事は、いづことは慥に其所をば知らず、大内の神祇官(じんぎくわん)かと覚しき所に、衣冠たゞしき人のゆゝしく気高きがあまた並居たりける。座上の人の赤衣の官人を召て仰けるは、下野守源(みなもとの)義朝(よしとも)に被(二)預置(一)御剣、いささか朝家に背く心ありしかば、召返して清盛(きよもり)法師に被(二)預給(一)たれ共、朝廷を忽緒し、天命を悩乱す、滅亡の期既至れり、子孫相続事難、彼御剣を召返なり、汝行て剣を取て、故義朝(よしとも)が子息前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)頼朝(よりとも)に預置べしと有ければ、官人仰に随て、赤衣に矢負て、滋籐弓脇に挟み、御前を罷立けるが、無(レ)程錦の袋に裹たる太刀を持参て、座上へ進上する(有朋上P574)処に、中座の程に
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有ける上揩フ、頼朝(よりとも)一期の後は、吾子孫にたび候へと被(レ)申けるに、紅の袴著たる女房の、世にも厳くおはしけるが、縁の際三尺ばかり虚空に立て被(レ)申けるは、清盛(きよもり)入道深く吾を憑て、毎日不退の大般若経を転読し侍に、御剣暫入道に預置せ給へと申。座上の次二番目に居給たる上掾Aゆゝしくしかり音にて、入道いかに汝を憑とても、朝威を背に依て、議定既(すで)に畢、謀臣の方人所望希恠也、そ頸突と仰ければ、赤衣の官人つと寄て、彼女房を情もなく門外に突出す。穴おそろしと思ながら、夢の中にそばなる人に問て云、座上の人は誰人ぞ。あれこれ天津国の御主伊勢天照太神(てんせうだいじん)よ。さて吾子孫にたべと仰らるゝは誰ぞ。天津児屋根尊春日大明神(かすがだいみやうじん)よ。大二番目のそ頸突と仰られつるは誰。鬼門の峯の守護神、日吉山王よ。赤衣官人は誰。西坂本の赤山大明神(だいみやうじん)よ。紅袴の女房は誰そ。安芸国の厳島の明神よと答と見て覚ぬ。遍身(へんしん)汗水に流れて、さめたれ共、猶夢の心地也。恐ろしなどは云ばかりなし。明旦に急主の源(げん)中納言(ぢゆうなごん)雅頼の許に行て、此事を語申ければ、中納言我外に又人にや語たると問給へば、汗水に成て驚て侍つれば、妻にて候女が、何事ぞ、物におそはれたるかと申つる間、其計には語て候。中納言、さるにては此事一定披露すべし、さらば汝事に合なん、妻子相具して且く忍べと宣(のたまひ)ければ、(有朋上P575)資財取納て深隠忍にけり。隠々とせしか共、ばつと世間に披露有。入道此事聞大に■り、大方入道が事といへば、上も下も目に立口を調へて、加様の事云沙汰する条こそ奇怪なれとて、蔵人左少弁(くらんどのさせうべん)行隆に仰て、其男搦進よ、雅頼卿に相尋よと嗔給へり。行隆行向て件の男を相尋ぬるに、逐電して人なし。
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家内追捕して主の雅頼に相尋ければ、其事努々承及ず、彼夢見て侍らん奴に付て、御尋(おんたづね)有べきとぞ被(レ)申ける。朝敵誅罰の大将軍には、節刀と云御剣を給習也。太政(だいじやう)入道(にふだう)日比(ひごろ)は四夷を退けし大将軍なりしか共、今は勅宣(ちよくせん)を背に依て、神明節刀を被(二)召返(一)けり。
高野の宰相入道成頼此夢の事聞給(たまひ)て、座上の人を天照太神(てんせうだいじん)と申けるは左も有けれ、紅袴著たる女房を、厳島大明神(だいみやうじん)と申も左も有べし。彼明神は沙竭羅竜王(りゆうわう)の娘を勧請して崇奉、春日大明神(かすがだいみやうじん)とて我子孫に預給へと被(レ)仰けるは不審也。そも又末の代に源平共に絶果て、一の人の御中に、将軍の宣旨を蒙つて天下を治給べきにもや有らんと宣(のたま)ひけるが、げにも源氏三代将軍の後、知足院の入道殿(にふだうどの)の御子に、太政大臣(だいじやうだいじん)忠通公、三代の孫、道家公をば光明峯寺殿と申、其末の御子に、寅の歳寅の日寅の時に生給(たま)ひたりければ、三寅御前と申、歳九にて関東へ下て世を治め給けり。入道将軍とは是事也。雅頼卿の侍の夢も、成頼入道の物語(ものがたり)も違はざりけり。成頼は花洛を(有朋上576)捨て、深山(しんざん)に籠し後は、偏(ひとへ)に往生極楽の営の外は、世の事に汚べきには無れども、元より心潔人にて、善政を聞ては悦、悪事を聞ては歎給ければ、世の成行んずる有様(ありさま)を、兼て宣(のたま)ひけるにこそ。
< 或本云、厳島大明神(だいみやうじん)は、門客人を御使にて、白浄衣を著て参り給(たまひ)て、御剣暫入道に預給へと被(レ)申と、云云。>
S1709 大場早馬事
治承四年九月二日、相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)、大場三郎景親、東国より早馬をたつ。福原新都に著きて上下ひしめきけり。何事ぞと聞ば、伊豆国(いづのくに)の流人、前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)、一院の院宣、高倉宮(たかくらのみや)の令旨在と称し
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て、同国目代(もくだい)平家の侍和泉(いづみの)判官平兼隆が、八牧の館に押寄て、兼隆並家人等(けにんら)夜討にして、館に火を懸て焼払(やきはら)ふ。同廿日北条四郎時政が一類を引率して相模の土肥へ打越えて、土肥、土屋、岡崎を招、三百(さんびやく)余騎(よき)の兵を相具して、石橋と云所に引籠。景親武蔵相模に平家に志ある輩を催集めて、三千(さんぜん)余騎(よき)にて同廿三日に石橋城に押寄、源氏禦戦といへ共、大勢に打落されて、兵衛佐(ひやうゑのすけ)杉山に逃籠て、不(レ)知(二)行方(一)、同廿四日相模国(さがみのくに)由井小坪にて、平家の御方に、武蔵国住人(ぢゆうにん)、畠山庄司重能が子息、次郎(有朋上P577)重忠五百(ごひやく)余騎(よき)にて、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の方人、相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)、三浦大介義明が子共、三百(さんびやく)余騎(よき)、責戦といへども、重忠三浦に戦負て、武蔵国へ引退。同廿六日に、武蔵国住人(ぢゆうにん)、江戸太郎重長、河越小太郎重頼を大将として、党には金子、村山、山口、篠党、児玉、横山野与党、綴喜等〔を〕始として二千(にせん)余騎(よき)、相模の三浦城を責。三浦の一族絹笠の城(じやう)に籠て、一日一夜戦て、矢種尽て船に乗、安房国へ渡畢。又国々の兵共(つはものども)、内々は源氏に心を通すと承る、御用心あるべしとぞ申たる。平家の一門此事を聞、こはいかにと騒あへり。若者どもは興ある事に思て、あはれ討手に向られよかしなど云けるぞ哀なる。畠山庄司重能、小山田別当有重兄弟二人は、折節(をりふし)平家奉公して候けるが、申けるは、北条四郎時政は親く成て侍ば、実に尻前にも立候らん。其外は国々の兵共(つはものども)、誰か流人の方人して、朝敵とならんと思侍べき。只今(ただいま)聞召直させ給べしとぞ申ける。実にもと云人もあり、又いさ/\大事に及ぬと云人もあり、是彼に寄合寄合、恐し/\と私語(ささやき)けり。太政(だいじやう)入道(にふだう)安からず被(レ)思て宣(のたまひ)けるは、東国の奴原と云は、六条(ろくでうの)
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判官(はんぐわん)入道為義(ためよし)が一門、頼朝(よりとも)に不(二)相離(一)侍共と云も、皆彼が随へ仕し家人也き。昔の好争か可(レ)忘。其に頼朝(よりとも)を東国へ流し遣しけるは、はや八箇国の家人に、頼朝(よりとも)を守護して入道が一門を亡せと云にありけり。喩ば盗に鑰を(有朋上P578)預、千里の野に虎を放ちたるが如し。いかゞすべき、入道大に失錯してけりとて、座にもたまらず躍上踊上し給けれ共、後悔今は叶はず、良案じて宣(のたまひ)ける。但頼朝(よりとも)は入道が恩をば争か忘るべき。縦故池の尼公いかに宥給ふとても、入道ゆるさゞらんには、頸をば継べきや、其に重恩を顧ず、浄海が子孫に向ひ弓を引矢を放ん事、仏神よも御免あらじ、仏神免し給はずば、天の責忽(たちまち)に蒙るべし。奇しの鳥獣までも、恩をば報とこそ聞。其に還て入道が一門を亡さんとの企、不思議也。我子孫七代までは、争か怨心を挟べきと、しかり音にてくりかへしくりかへしぞ宣(のたま)ひける。
S1710 謀叛不(レ)遂(二)素懐(一)事
入道の気色に入んとて、時の才人ども申けるは、仰少も違べからず。朝憲を嘲王命を背く者、昔より今に至まで、素懐を遂る者なし。日本盤余彦尊御宇(ぎよう)、四年己未歳の春、紀伊国名草郡、高野林に土蜘蛛ありき。身短の手足長くして力人に勝たり。皇化に随はざりければ、官軍を差遣して、是を責けれ共、誅する事能はず。住吉(すみよし)大明神(だいみやうじん)、葛の網を結て、遂に覆殺し給へり。其より以来野心を挟みて、朝家を背し者是多し。孝徳天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)には、(有朋上P579)蘇我入鹿、山田石川、右大臣豊成、天智天皇(てんわう)のいまだ皇子にて御座(おはしま)しし時討ち給ふ。左大臣長屋王は、聖武天皇(てんわう)に被(レ)討給ふ。恵美大臣押勝は高野の天皇(てんわう)に被(レ)討、伊与親王は平城帝に被(レ)討、平城天皇(てんわう)は嵯峨(さがの)帝に軍に負て、御子真如親王、春宮(とうぐう)
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の位を下て、天竺へ渡とて、道にて失給にけり。承平には武蔵権守将門(まさかど)平貞盛(さだもり)に被(レ)討、康和には対馬守義親、平忠盛に被(レ)討、陸奥国住人(ぢゆうにん)安大夫安部頼良子息、厨河次郎大夫貞任、同舎弟(しやてい)富海三郎宗任は伊与入道源(みなもとの)頼義(らいぎ)に被(レ)討、同国北山の住人(ぢゆうにん)将軍三郎清原武衡は、八幡太郎(はちまんたらう)源(みなもとの)義家(よしいへ)に被(レ)討。伊予掾藤原純友は、海路往反を求し、周防伊予両国の軍に被(レ)討。是のみならず、大山王子、大石山丸、守屋大臣、大友真鳥、太宰少弐広嗣、井上皇后、氷上川継、早良太子、藤原仲成、橘逸勢、文屋宮田、悪左府(あくさふ)、悪右衛門督(あくうゑもんのかみ)に至まで、総じて二十余人(よにん)也。是皆恩を忘徳を報ぜず、朝威を背き野心を挟し輩也。去ども一人として素懐を遂ず、悉(ことごと)く首を獄門に懸られ骸を山野にさらす。東夷、南蛮、西戎、北狄、新羅、百済、高麗、契丹に至まで、我朝を背者なし。今の世にこそ王威も無下に軽く御座(おはしま)せ共、流石(さすが)日月地に落給ふ事はなし。上代には宣旨と云ければ、枯たる草木も忽(たちまち)に花さき実の成けり。又天に翔鳥、雲に響雷も、王命をばそむかず。(有朋上P580)
S1711 栖軽取(レ)雷事
< 第廿二代の帝雄略天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)に、小子部栖軽と云重臣あり。泊瀬朝倉宮に参内して、大安殿に参たり。天皇(てんわう)と后と婚家し給へる時也。折節(をりふし)電雷空に鳴。帝恥思召(おぼしめし)て、栖軽を帰されん為に、汝鳴雷を請じ奉れと仰す。臣勅を承て大内を罷出て、馬に乗て阿部の山田の道より豊浦寺に至まで、天に仰て叫て云、天鳴の雷神、天皇(てんわう)の詔勅也、落降り給へと、然も猶響て去。栖軽又馬を馳て云、縦雖(レ)為(二)雷神(一)、既(すで)に鳴(二)我朝之虚空(一)、争か可(レ)背(二)帝王之詔請(一)哉と云時に、竜王(りゆうわう)響還て、豊浦寺と飯岡の間に落たり。栖軽即神人を召て、竜神(りゆうじん)を挙げ載て大内に参じて是を奏する時、雷鱗をいからかし、目を見はりて内裏を守る、光明(くわうみやう)宮中を照す。帝是を叡覧
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有て、恐て種々の弊帛を奉て、速に落たる処に返送奉。雷岡とて今にあり。>
S1712 蔵人取(レ)鷺事
< 延喜帝の御宇(ぎよう)、神泉苑に行幸あり。池の汀(みぎは)に鷺の居たりけるを叡覧有て、蔵人を召てあ(有朋上P581)の鷺取て参せよと仰ければ、蔵人取らんとて近付寄ければ、鷺羽つくろひして既(すで)に立んとしけるを、宣旨ぞ鷺まかりたつなと申ければ、飛去事なくして被(レ)取て、御前へ参けり。叡覧ありて仰けるは、勅に随飛去ずして参る条神妙(しんべう)也とて、御宸筆(ごしんぴつ)にて鷺羽の上に、汝鳥類の王たるべしと遊ばして、札を付て放たれければ、宣旨蒙たる鳥也とて、人手をかくる事なし。其鳥備中国に飛至て死にけり。鷺森とて今にあり。彼は婚嫁を恥て、雷神を留め、是は王威を知召さん為に鷺を召れけり。左程の事こそ有ずとも、末代とても、天孫豈逆党に犯れんや。されば頼朝(よりとも)争か本意を遂べき、帝徳私なし、神明御計あるべし、強にさわぎ思召(おぼしめす)べからずと申ければ、入道少色なほりて、さぞかしさぞかしとて、聊か心安(こころやす)くぞ御座(おはしま)しける。>
S1713 始皇(しくわう)燕丹并(ならびに)咸陽宮事
恩を忘て仇を存る者、我朝にも不(レ)限、必ず亡べり。唐国に燕太子丹と云人、秦始皇(しくわう)を傾んとて、軍を起したりけるが、燕丹は軍に負、始皇帝(しくわうてい)に捕はれて深く誡おかれ、六箇年を経にけり。燕丹は我身の事はいかゞせん、故郷に老たる親のありけるを、今一度いかゞ(有朋上P582)して見奉らんとぞ悲みける。丹始皇(しくわう)に歎申けるは、今は本国に免遣はし給へ、六箇年を過て禁獄例なし、又本国に老たる父母あり、いかばかりかは歎き悲み給らん、今一度見え奉らばやと云ければ、始皇(しくわう)欺て、烏の頭の白く成んを見て、免すべしと宣(のたまひ)けり。燕丹心憂ぞ思ける。さては恋き父母を見ずして、是にして空く亡ん事こそ悲しけれと、夜は天に仰ぎて祈明し、昼は地に伏て歎晩す、実祈誓の験の有けるにや、頭白き烏飛来つて、始皇帝(しくわうてい)
P0424
に見えたり。燕丹斜ず悦て、山烏頭白し、吾本国へ帰らんと云、始皇(しくわう)かさねて曰、馬に角生たらん時、帰すべしとて猶免ず。燕丹今は日来(ひごろ)の憑も尽はてて、為方なく思けれ共、猶理をぞ思ける。妙音菩薩は、霊山浄土(じやうど)に詣して不孝の輩を誡、孔子老子は、震旦辺州に顕れて、孝道の章を立、上梵釈四王より、下堅牢地祇に至るまで、孝養の者を憐給ふ也。願天地の神明、今一度故郷に帰て、再び父母を見せしめ給へとて、明ても暮ても涙に咽て祈けり。王祥が母、生しき魚を願しかば、氷上に魚を得、孟宗が親紫笋を求しかば、雲の中に笋を抜けり。孝は百行の源、孝は一代の勤也ければ、祈の甲斐ありて、角馬庭上にいなゝきけり。始皇(しくわう)是を見給(たまひ)て、燕丹は天道の加護深き者也けり。白烏角馬の瑞恐ありとて、免して本国へ返遣けれ共、遺恨猶のこりて、燕国へ帰道に、(有朋上P583)せんか河と云河に、楚橋と云橋を渡せり。先に人を遣して、彼橋板を亭に操て、燕丹を河中に落入んとぞ支度したりける。燕丹をば夜ぞ此橋を渡しける。兼て不(レ)知ける事なれば、燕丹即ちふかき河に落ちにけり。既(すで)に沈むかと思ふほどに、亀多く集つて、甲をならべて助け渡す、〈 一説に、二竜来て橋のすのこの如く載て渡すと云云 〉。天道の御計と云ながら、不思議なりける事也。彼亀と云は、人の殺さんとしけるを、丹が父買て放ちたりける水畜也、父が放生の恩を忘ず、子の燕丹に報けり。太子本国に返ぬ。父母親類来悦て白烏角馬の瑞を聞、母悦頭の白烏に報んと思へ共、行方を知ざりければ、責ての事にや、黒烏を集て養ければ、白烏自ら出来たりけり。燕丹はのがれ難き罪科をのがれ、本国に被(レ)還て、再父母を見ければ、深
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始皇(しくわう)の恩を報ぜんとこそ思べきに、其情を忘て、秦国を亡さんと巧む心切にして、荊軻大臣召て被(二)仰含(一)ければ、大臣申て云、太子の被(レ)免給へる事全く始皇(しくわう)の恩に非ず、孝養報恩の御志深ければ、天神地祇の御助也。天地の守護を案ずるに、君は末たのもしき御事也。謀を廻して早く始皇帝(しくわうてい)を亡し給へと云ければ、然べきとて是非を忘、重恩を背て異計をぞ廻しける。燕丹本国に被(レ)返たる悦とて、燕国差図、国々の券契相具して、始皇(しくわう)に寄附の解文を注して、差図の箱に入て、一尺(有朋上P584)八寸の仙必の剣と云者を隠入たり。又金を以■嶺(そうれい)の形を鋳移して、是を持しめたり。荊軻大臣使節にて、秦国に向。田光先生と云者あり。古き兵にて謀賢き者と聞えければ、燕丹彼を請じて相語ふ。先生申けるは、武勇の名に依て、命を蒙むること、実に道の秀たる身を悦といへ共、年老齢傾きて、今は旗を靡かし戈を突に力なし。喩ば麒麟と云馬は、千里を一馳に飛ども、老衰ぬれば駑馬にも猶劣るが如。我若く盛なりし時は、誠に陣を破て敵を落す事世に並なかりしか共、老衰習こそ憑む甲斐なき事なれと申せば、燕丹さらば穴賢、本意を不(レ)遂さきに、披露すなと宣へば、先生是程の大事人に被(レ)憑て、争か口外すべき、我世にながらへて、若人の口より披露あらば、先生口脆して、漏らしたりと疑れん事、老後の恥なるべし、又老衰也と対捍を申せば、命を惜むに似たり、不(レ)如太子の御前にて命を捨んにはとて、生年七十一にして、庭上の李の木に頭を当て打砕てぞ失にける。又樊於期と云者あり。元は秦国の者也けるが、老たる父母を始皇帝(しくわうてい)に被(レ)亡たり。其故は、我国に老人をば置べからず、年老力衰へては、国の用
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に立べからず、徒に国の財を費す事無益也とて、老人を失ひける内に、樊於期が父母をも殺したりければ、口惜く思て始皇(しくわう)を亡さんとの志ありければ、其色外に顕れて、親類兄弟悉(ことごと)く失はれける間(有朋上P585)に、一人漏出て燕国に逃籠たりけるが、猶も謀叛の思深かりけれ共、可(二)相従(一)兵もなし。徒に歎を積て、明し暗しける程に、始皇(しくわう)も宿意深き敵也とて、四海に宣旨を下して、樊於期が首取て進たらん者には、五百斤の金を可(レ)与とぞ披露しける。斯ければ荊軻大臣、樊於期に語らひより、汝が頸は五百斤の金に報したる頸也。汝が頸を我に借与給へ。始皇帝(しくわうてい)に進て、則始皇(しくわう)を亡さんと云、樊於期大に悦で、肱を挑躍上て申けるは、我父母兄弟悉(ことごと)く被(レ)亡て、昼夜に是を歎事、骨髄に通て難(レ)忍、始皇(しくわう)を亡さんに於ては、我首塵芥よりも猶軽し、始皇(しくわう)又吾首を得に於ては、謀討ん事いと安かるべしとて、自ら頭を掻下して大臣に与へてけり。又越呂と云者あり。管絃を愛して笛を好み吹けるが、上手にてぞ在ける。是も心武き兵也。同語ひ具して、秦国へ越けるに、昆明池と云池の辺に、一夜宿したりけるが、心を澄して通夜笛を吹て、旅のつれ/゛\を慰みけるに、調子の平調にのみなりければ、こは不思議の事かな、さのみ調子の平調になるあやしさよ、宮商角徴羽の五音を以て、木火土金水の五行に宛るに、平調は金の声也、始皇(しくわう)は又金性也、時節秋の最中也、秋は又金也、吾身木性也、金尅木とて、木は金に被(レ)損事なれば、今度始皇(しくわう)を亡さん事難(レ)叶、いざ還らんと云けるに、荊軻大臣宣ふ様、始皇帝(しくわうてい)の朝敵、樊於期(有朋上P586)が首あり、是を後日までたばひ置に由なし、今度亡さでは、何をか期すべき
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とて、越呂が言を不(レ)用ければ、越呂が云、相従て行たり共、不(レ)亡して還て亡されん事は詮なし、行じといへば、命を惜むに似たり、後に思合せよとて、昆明池に身を投て失にけり。荊軻秦舞陽是を聞見れども、進心は甚しうして、退思はなし。秦舞陽に樊於期が借処の首を持せて、荊軻は秦国へ行けり。此秦舞陽も秦国の者也けり。生年十三にして父の敵を討て、燕国に逃たりければ、皇帝常にねめけれ共、燕国に仕て右大臣までに成たりけり。始皇(しくわう)を亡さん事を悦て、同相伴ひけり。年経ぬれば、始皇(しくわう)も争か秦舞陽をば見知給ふべきなれば同意す。宿意深き敵の首を進せんに、なじかは始皇(しくわう)も打とけ給はざらん、打とけ近付者ならば、などか滅さゞらんとて、既(すで)に秦国へぞ行向ける。燕太子命を始皇(しくわうに)被(レ)助て、其悦に樊於期が頸を伺ひ取て、秦国に参と聞えければ、貴賤上下巷々に来集つて是を見。官兵馳参て四方の陣を固たり。抑咸陽宮と申は、秦始皇(しくわう)の大内也。城の廻一万八千三百八十四里(いちまんぱつせんさんびやくはちじふより)、北には広さ三百里、めぐり九千里の鉄の築地を高つきたれば、雁の来り帰る事も叶ざりければ、築地の中に雁門とて穴を開たり。彼咸陽宮の中に、阿房殿を被(レ)建てぞ住給ける。始皇(しくわう)は雷に怖給ければ、雷より上に栖んとて、阿房の殿をば被(レ)造たり。東(有朋上P587)西へ九町、南北へ五町、高さ三十六丈也。大床の下には、五丈の幢を立並べたり。庭には金の砂瑠璃の砂、各十万石を蒔、真珠の沙百石を彩しけり。金を以て日を造、銀を以て月をかたどれり、始皇(しくわう)かゝる目出内裏を造てぞ住給ける。燕国の使荊軻大臣先に進参、秦舞陽は樊於期が首を鋒に貫いて、つゞきて参。咸陽宮の阿房殿の玉の階を昇りけるが、秦舞陽
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違勅の心進つゝ、悪事や色に顕けん、膝振て、昇り煩へり。内裏警固の兵等、是を見とがめて、暫押へて不審を問。いかゞ答んと思煩へる処に、荊軻大臣立還、翫(二)其磧礫(一)不(レ)窺(二)玉淵(一)者、未(レ)知(二)驪竜之所(一)(レ)蟠也、習(二)其弊邑(一)不(レ)視(二)上邦(一)者、未(レ)知(二)英雄之所(一)(レ)躔也と云事あり。心に壌を翫び、玉になれざる者は、竜神(りゆうじん)の蟠り臥たる海の底をば知ざるが如に、賎き草の庵に住て、花都を不(レ)見者は、万乗の主の宿れる処をば不(レ)知也。理や秦舞陽、垣葺の小屋に住なれて、始て都に昇りつゝ、影を浮る銀の壁、眼かゞやく金の鐺蹈も、習ぬ玉の階、心迷のするかに、足の振も道理也とぞ陣じたる。官兵誠に謂ありとて是を許す。二人の臣下遥(はるか)に阿房殿に進上て、樊於期が首を進覧と奏す、臣下仰を承て、上覧の由申ければ、荊軻重て奏して云、燕国辺土と申せ共、我等(われら)彼国の臣下たり、就(レ)中(なかんづく)宣旨を四海に下して、五百斤の金に報ずる、朝敵の首をば、軽伝に不(レ)可(有朋上P588)(レ)進、直に進覧せん、何の恐れか有べきと申たりければ、誠に日来(ひごろ)へたる朝敵也、申処其謂有とて、始皇(しくわう)自出給(たま)ひ、玉体荊軻に近付けり。樊於期が首を燕の太子に借奉て、始皇(しくわう)を亡し宿意を遂んと計けるも、少も違はざりけり。始皇(しくわう)件の頭を見給(たまひ)て、大に感じ給けり。荊軻燕国の差図、并券契入たる箱を開て叡覧に達せんとする処に、箱の中に秋の霜冬の氷の如くなる剣あり。始皇(しくわう)大に驚給(たまひ)て、座を立んとし給けるに、荊軻大臣左の手にて御衣の袖をひかへ、右の手にて剣を執、始皇(しくわう)の胸に差当て云、燕太子六箇年まで禁置れて、適本国に帰といへ共、是皇帝の情に非ず、併がら天道の御助也、其鬱を散ぜんが為に臣等(しんら)参ぜりとて、既(すで)に
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剣を振んとしけるに、始皇(しくわう)涙を流して宣(のたまひ)けるは、吾諸侯を随へ、四夷を靡して、武王が中の大武王也。然而天命限ありて、今遁難き身也。但此世に思置好み残れり。九重の中に千人(せんにん)の后あり、其中に最愛第一の皇后あり、玉拝殿の楊仁后と云、琴をいみじく弾、今一度彼琴の曲を聞ばやと宣へども、荊軻是を免し奉らず、始皇(しくわう)重て仰けるは、一寸の頸剣の下にあり、天命極て遁がたし、汝既(すで)に御衣の袖をひかへたり、我更に遁べき方を知ず、最後の所望也、何ぞ憐をかけざらんと宣へば、荊軻思けるは、吾小国の臣下として、玉体に近付奉、直に始皇帝(しくわうてい)の宣旨を蒙る、角取籠奉上は、(有朋上P589)誠に何事かは有べき、且は最後の情也と心弱ぞ相待ける。始皇(しくわう)大に悦て、南殿に七尺(しちせき)の屏風を立后を請じ奉。楊仁后御幸して七尺(しちしやく)の屏風を中に隔て、琴をぞ弾給ける。琴の曲には桓武楽とて、武き者を和ぐる曲也けり。此曲を弾給ふ時は、空を飛鳥も落、地を走る獣も留る程に、爪音やさしき上手にて御座(おはしまし)ける上に、今を限の別ぞと心を澄して弾給へば、さこそは哀に面白かりけめ。但荊軻が性は火性也、始皇帝(しくわうてい)は金性也、火尅金の理にて、火に金が被(レ)尅て、いかにも危く見え給ふ。され共后は水性也、調子を盤渉調に立。此調子は五大の中の水大なれば、水にかたどれり、金生水とて、金は水に生ずる者なれば、后と調子と二の水に、始皇(しくわう)の金が被(レ)助て、荊軻暫ゆらへたり、水尅火とて、火は水に被(レ)尅る事なれば、荊軻が火后の水消ける上に、武きを和ぐる曲を弾給へば、荊軻秦舞陽、猛心ありけれ共、管絃の道には外くして、琴の曲をも不(二)聞知(一)、只面白しとのみ聞居たり。后終に一曲をぞ奏し給ふ。七尺(しちしやく)の屏風は躍ば
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越ぬべし、一重の羅穀は引ば截つべしと、くりかえし/\引給けるに、荊軻后に被(二)相尅(一)て、琴の音に聞とれて、惘然と成て眠けり。始皇(しくわう)は琴の音を聞知給たりければ、女人だにも、折に随へば、猛心も有ぞかし、我武王が中の大武王、居ながら諸侯を従へたり。小国の小臣にあひて、忽(たちまち)に亡びん(有朋上P590)事こそ安からねと、強盛の心を起し給けるに、敵の眠るを折を得て、七尺(しちしやく)の屏風を後様にぞ越給ふ。荊軻がはと立て、仙必の剣を以て追ざまに投懸奉。皇帝剣に恐て、銅の柱の陰に立隠給へり。彼柱は口五尺なりけるを、剣柱の半切入たり。番の医師夏附旦と云者、不(二)取敢(一)(とりあへず)、鉄を消薬の袋を剣の上に打懸たりければ、柱なから計は切たれ共、用力失て、始皇(しくわう)は疵も負給はず。始皇(しくわう)立帰て、自剣を抜出て、荊軻秦舞陽を八割にこそしたりけれ。恩も忘て還て怨害の心を発しかば、天道免給はずして、白虹日を貫て不(レ)通ける天変あり。通たらば始皇(しくわう)の命も危かるべかりけるに、貫ながら通らざりければ、天変災に非ずといへり。荊軻始皇(しくわう)を不(二)討得(一)して被(レ)殺けるに、燕丹遥(はるか)に白虹の変を見て、不祥也とぞ歎ける。始皇(しくわう)すなわち李信と云兵に仰て、数千の軍を副て、燕の太子丹を責けるに、太子衍水と云所にて、空く討れにけり。〈 後漢書に見えたり。 〉始皇帝(しくわうてい)常に宣(のたま)ひけるは、燕国は秦国の未申に在、秦国は燕国丑寅に当れり、牛に羊を合するに、羊争か牛に勝べき。猿に虎を並べんに、虎豈猿に負んや。されば燕丹争か我を亡すべきと宣(のたまひ)けるが、燕太子終に始皇帝(しくわうてい)に被(レ)討ぬるこそ不便なれ。荊軻大臣秦国に向けるに、高漸離(かうぜんり)と云人有て、易水の辺に行合たり。年比浅からず申眤ぶる友達也。暫留て互に名残(なごり)
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を惜けり。荊軻が云け(有朋上P591)るは、敵に向ふ身なれば生て帰ん事難し。是や最後の見参なると語ければ、高漸離(かうぜんり)は再会の不定なる事を哀みて、筑を打てぞ慰ける。漸離(ぜんり)は天下無双の筑の上手也。筑とは琴の様なる楽器也。漸離(ぜんり)撥にて是を打しかば、聞人心を澄し目を驚す上手にて、荊軻が名残(なごり)を慕ければ、拍子に合て荊軻歌をぞうたひける。其詞に、
風(かぜ)蕭々兮(しようしようとして)易水寒、 壮士一去不(二)復還(一) K108
とぞ云ける。荊軻亡ぬと聞えしかば、昔の友達也と云事を憚て、高漸離(かうぜんり)は貌を窶し、姓名を替て世に住居けれ共、昔より習伝たる態なれば、筑を打つて遊ける。上手の披露有ければ、始皇(しくわう)是を召て、筑を打せて、常に聞給けるに、或人云けるは、是は高漸離(かうぜんり)とて荊軻が旧友也と申たれば、始皇(しくわう)驚て、能のいみじさに命をば助て、眼に毒薬を入て、目を潰して筑を打せけり。漸離(ぜんり)安からず思て、始皇(しくわう)の御座る所を撥にて打せたりければ、膝瓦にぞ打当たる。始皇(しくわう)大に嗔つゝ、則漸離(ぜんり)を殺てけり。角はし給たりけれ共、始皇(しくわう)はうたれ給へる撥の跡瘡と成て、遂に其にて失給にけり。燕丹昔の恩を忘て、還て始皇(しくわう)を傾んと計しかば、己が身空く亡ぬ。然ば頼朝(よりとも)も平家に命を被(レ)助し者に非や、縦報謝の心こそなからめ、争か平家を背奉べき、いかに謀叛を起とも、仏天豈赦し給べしや、其上指当(有朋上P592)て、誰かは流人に同意すべき、無勢にしては又素懐遂がたし、強に驚思召(おぼしめす)べからずなんど色代申ければ、入道も左こそ存ずれとぞ宣(のたまひ)ける。
S1714 匂践夫差事
又内々私語(ささやき)けるは、恩を忘無勢なるにはよらず、只天運のしからしむるに依べき事也。其謂は、昔唐
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に越王匂践、呉王夫差とて、二人の国王御座(おはしま)しけり。互に中悪して共に傾けんとて、会稽山と云山の麓にして、度々戦ける程に、呉王は元より勢多、威すぐれたりければ、越国の軍敗れて匂践生捕れぬ。今は力なくして、降を請て歎ければ、呉王憐をたれて匂践が命を助く。臣下諌て云、敵を宥て必後に悔あり、忽(たちまち)に越王の命を断んにはしかじと申けれ共、匂賤は木を樵水を汲まではなけれ共、二心なく仕ければ、臣下の諌をも聞ざりけり。呉王病しける時、医師を請て是を見す。医師云、尿を人に呑せて、其味を以て、命の存亡を知んと申せども、宮中の男女共に、呉王の尿を呑んと云者なし。匂践、進出て云、吾君の為に命を被(レ)助て、其恩尤深し、尿を呑で報奉らんと申て、即是を呑。味たがはざりければ、呉王の病愈にけり。呉王後に越王の志を悦て、本国に返し遣す、匂践(有朋上P593)角仕へける事は、再旧里に帰て、呉王を亡して本意を遂んとの計也。匂践赦されて、本国に帰ける路に、蛙の水より出て躍ければ、馬より下て是を敬ふ。奢れる者を賞ずる心なるべし。其後数万の軍を起して、終に呉王夫差を亡しけり。さてこそ会稽の恥をば雪けれ。其よりしてぞ、恥みるをば会稽とも申ける。
S1715 光武天武即位事
後漢光武皇帝は、漢王莽に被(レ)責て、曲陽に落しには、僅(わづか)に二十八騎なりしか共、後に世を取て天下を治給けり。我朝には天武天皇(てんわう)、大友皇子におそはれて、吉野の奥に落させ給けるには纔(わづか)に十七騎、是も位に即給。去ば運の然らしむるに有るべき事也と云ければ、平家の一門は、いかゞはすべき。天下の煩人民の歎、ほのめきけり、毒虫の種子をば、忽(たちまち)に失べきにて有けるをと、上下怖あへりけり。(有朋上P594)
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十八
P0433(有朋上P595)
曾巻 第十八
S1801 文学頼朝(よりとも)勧(二)進謀叛(一)事
前(さきの)右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)は、去永暦元年依(二)義朝(よしとも)縁坐(一)、伊豆国(いづのくに)へ被(二)流罪(一)たりけるが、武蔵相模伊豆駿河の武士共、多は父祖重恩の輩也。其好忽忘べきならねば、当時平家の恩顧の者の外は、頼朝(よりとも)に心を通はして、軍を発さば命を捨べき由、示者其数ありけり。頼朝(よりとも)又心に深思萌事也ければ、世の有様(ありさま)をうかゞひて、年月を送りけるこそ怖しけれ。伊豆国(いづのくにの)住人(ぢゆうにん)伊東入道祐親法師は、重代家人也けれ共、平家重恩の者にて、当国には其(その)勢(いきほひ)人に勝たり。娘四人あり、一人は相模(さがみ)の住人(ぢゆうにん)、三浦介義明が男義連に相具したり。一人は同国の住人(ぢゆうにん)、土肥次郎真平男遠平に相具したり。第三の女未男も無りければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)忍て通ける程に、男子一人出来にけり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)殊悦て寵愛す。字をば千鶴とぞ申ける。三歳と申ける年の春、少き者共あまた引具して、乳母(めのと)に被(レ)懐て、前栽の花を折て遊けるを、祐親法師大番はてて国に下たりける折節(をりふし)見付(みつけ)て、此稚き者は誰人ぞと尋けれ共、乳母(めのと)答る(有朋上P596)事なくして逃去にけり。入道内に入て妻女に問ければ、あれこそ京上し給(たま)ひたりし隙に、いつき娘のやむごとなき殿して設たる少人よと云ければ、入道嗔て誰人ぞと責問。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)とぞ答ける。祐親申けるは、商人修行者などを男にしたらんは、中々さても有なん、源氏の流人聟に取て、平家の御咎めあらん折は、いかゞは申べきとて、
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雑色三人、郎等二人に仰付けて、彼少子を呼出して、伊豆のまつかはの奥、白滝の底にふしづけにせよと云ければ、三つになる少心にも、事がら懶や覚しけん、泣悶て逃去としけるを、取留て郎等に与けるこそうたてけれ。みめ事がら清らかに、流石(さすが)物に紛ふべくも見えざりければ、雑色郎等共(らうどうども)、何にとして殺べしとも覚えず、悲しかりけれ共、強いなまば思ふ処有かとて、頸を切れん事疑なければとて、泣々(なくなく)懐取て彼所に具し行て、ふしづけにしてけるこそ悲けれ。娘をば呼取て、当国住人(ぢゆうにん)江間小次郎(こじらう)をぞ聟に取てける。兵衛佐(ひやうゑのすけ)此事ども聞給、嗔る心も猛く、歎く心も深して、祐親法師を討んと思心、千度百度進けれ共、大事を心に懸て、其事を不(レ)成して、今私のあだを報いんとて、亡(レ)身失(レ)命事愚也、大きなる志有者は、忘(二)小怨(一)思宥てぞ過されける。入道が子息、伊東九郎祐兼窃に兵衛佐(ひやうゑのすけ)に申けるは、父入道老狂の余り、便なき事をのみ振舞し上、猶も悪行を企んと仕、心の及(有朋上P597)処制止仕れども、若思の外の事もこそ出き侍れ、立忍ばせ給へと申ければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)は嬉くも申たり、是年来の芳心也、入道に被(二)思懸(一)ては、いづくへか可(レ)遁、身に誤なければ、自害をすべきにも非、只命に任てこそはあらめとぞ答ける。野三刑部盛綱、藤九郎盛長なんどに仰含けるは、頼朝(よりとも)一人遁出んと思也、是にて祐親法師に故なく命を失はれん事、云甲斐なし、汝等(なんぢら)角てあらば、頼朝(よりとも)なしと人知べからずとて、大鹿毛と云馬に乗り、鬼武と云舎人計を具して、夜半にぞ遁出ける。道すがらも南無(なむ)帰命頂礼(きみやうちやうらい)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、義家(よしいへの)朝臣が由緒を忽(たちまち)に捨給はずば、征夷将軍に至つて、朝家を守可
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(レ)奉(レ)崇(二)神祇(一)、夫猶不(レ)可(レ)叶は、伊豆一国が主として、祐親法師を召捕て、其怨を報侍べし。何れも宿運拙して不(レ)可(レ)預(二)神恩(一)は、本地は弥陀如来(みだによらい)に御座、速に命を召て、後世を助給へとぞ祈誓し申ける。盛綱盛長は兵衛佐(ひやうゑのすけ)遁出て後は、一筋に敵の打入んずるを相待て、名を留る程の戦此時に在と思ける程に、夜も漸明にければ各出去にけり。其後北条四郎時政を相憑て過給ける程に、又彼が娘に偸に嫁てけり。北条四郎京より下ける道にて、此事を聞きて、大に驚、同道して下りける、前検非違使(けんびゐし)兼隆をぞ聟に取るべき由契約してける。国に下り著ければ、不(レ)知体にもてなして、彼娘を取て兼隆が許へぞ遣ける。去共件の娘、兵衛佐(ひやうゑのすけ)(有朋上P598)に志殊に深かりければ、白地に立出る様にて、足に任ていづくを指ともなく、兼隆が宿所を逃出にけり。良程ふれども見ざりければ、怪みをなして尋求ども、向後も知らず成にけり。彼女は終夜(よもすがら)伊豆山へ尋行て、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の許に籠りにけり。時政兼隆此由を聞てければ、各憤を成けれ共、彼山は大衆多き所にて、武威にも不(レ)恐ければ、左右なく押入て奪取にも不(レ)能してぞ過行ける。懐島の平権頭景義此事を聞て、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の許に馳行て、給仕用心しけり。或夜の夢に藤九郎盛長見けるは、兵衛佐(ひやうゑのすけ)足柄の矢倉岳に尻を懸て、左の足には外の浜を蹈、右の足にては鬼界島を踏、左右の脇より日月出て光をならぶ。伊法法師金の瓶子を懐きて進出、盛綱銀の折敷に、金の盃をすゑて進寄、盛長銚子を取て酒をうけ進れば、兵衛佐(ひやうゑのすけ)三度飲と見て、夢は覚にけり。盛長此事兵衛佐(ひやうゑのすけ)に語る。景義申けるは、夢最上の吉夢也。征夷将軍として天下を治め給べし。日は主上、
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月は上皇とこそ伝奉れ。今左右の御脇より光を比給は、是国王猶将軍の勢につゝまれ、東は外浜、西は鬼界島まで帰伏し奉べし。酒は是一旦成(レ)酔を、終にさめ本心になる。近くは三月、遠くは三年に酔の御心醒て、此夢の告一として相違事は有べからずとぞ申ける。北条四郎時政は、上には世間に恐て、兼隆を聟に取といへ共、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の心の勢を見てければ、(有朋上P599)後には深憑みてけり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)も又、賢人にて有(レ)謀者と見てければ、大事をなさんずる事、時政ならでは其人なしと思ければ、上には恨る様にもてなして、相背く心はなかりけり。さても廿一年の春秋を送て、年比日比(ひごろ)もさてこそ過けるに、今年懸る謀叛を発しける事、後に聞えけるは、高雄の文覚が勧にぞ有ける。彼文覚は渡辺党に、遠藤左近将監盛光が一男、上西門院の北面の下摶轣B其母未子なし、夫妻共に家の絶なん事を歎て、長谷寺の観音に詣て、七箇日祈申ければ、左の袖に鳶の羽を給ると夢に見て、懐妊して儲たる子也。父は六十一母は四十三にて生たる一男也。母は難産して死ぬ。父赤子を抱て歎きける程に、事の縁ありける上、便宜の方人にもと思て、丹波国保津庄の下司、春木の二郎入道道善と云者養(レ)之けるが、三歳の時父盛光も死にけり。竪固の孤子也けれ共、血の中より手馴たれば、さすが難(レ)捨して、道善育けり。面張牛皮の童にて、心しぶとく声高にして、親の教訓をも聞ず、人の制止事をも用ず、庄内の童を催従へて、野山を走田畠を損じ、馬牛を打張、目に余たる不用仁也ければ、上下いかゞせんと持酔たり。十三に成ける年、一門に遠藤三郎、滝口遠光と云者呼寄て、元服(げんぶく)せさせて烏帽子子(えぼしご)とす。
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父盛光が盛を取、烏帽子親(えぼしおや)遠光が遠を取て、盛遠と名を付、父が跡を追て、上西門院の(有朋上P600)北面に参。遠藤武者盛遠とぞ云ける。少より時々物狂しきの気ありけり。容顔は勝ざりけれ共、大の男の力強く心甲也。武芸の道人に勝て、道心もさすが在けるとかや。常には母が難産して死にける事を云て泣、父が事を恋て悲む。生年十八歳にて、糸惜き女に後れて髪を切て遁世(とんせい)しき。金剛(こんがう)八葉の峯より始て、熊野金峯、大嶺葛城、天王寺、愛宕山、高雄、嵯峨(さが)法輪、止観院、楞厳院、比良高峯、都て日本(につぽん)一州至らぬ霊地もなく、七日二七日三七日百日籠行けり。十八歳にて出家して、一十三年の間は、或(ある)時(とき)は断食し、或(ある)時(とき)は持斎せり。春は霞に迷へども、峯に登て樒を採、夏は叢滋れども、柴の枢に香を焼、秋は紅葉に身を寄て、野分の風に袖を翻、冬は蕭索たる寒谷に、月を宿せる水を結びなんどして、山臥修行者の勤苦也。彼首陽の翁にはあらね共、蕨を折て命をのべ、原憲が枢に同して、草を綴て膚を隠せり。座禅縄床の室の内には、本尊持経の外は物なし。角て斗籔修行の後、再高雄の辺に居住して、明し暮しける程に、そばに古き寺あり、神護寺と名づく。此寺は此和気の松名が草創の伽藍(がらん)、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の彫刻の薬師(やくし)也。
S1802 孝謙帝愛(二)道鏡(一)附松名宇佐勅使事(有朋上P601)
昔孝謙天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)に、弓削道鏡と云僧あり。如意輪法を行ける利生にや、女帝に近づき奉事を得たり、天皇(てんわう)御自愛の余に、位を道鏡に譲らんと思召(おぼしめし)けれども、臣下不(レ)奉(レ)免(レ)之。天皇(てんわう)松名を召て被(二)仰含(一)けるは、位を道鏡に譲ぞと思召(おぼしめせ)ども、臣等(しんら)不(レ)免(レ)之、汝宇佐宮に詣して、正に叡慮を八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)に申入べし、但定て御免し有べからす、然も帰京の時は必奏すべし、位を道鏡
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に譲る事叡慮に任すべしと八幡御返事(おんへんじ)ありと披露すべき、神明御免あらば、叡念誰か背(レ)之とて、勅使を被(レ)立けり。松名宇佐宮に参著して、謹霊神に申入処に、大菩薩(だいぼさつ)の御返事(おんへんじ)に曰、豊葦原は是神国也、天孫宜(二)国政行(一)也、道鏡即位更に有べからざる事也と被(二)仰含(一)ける。松名帰洛して案じけるは、兼の勅約は有りしか共、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の仰争か背奏すべき。専神慮に奉(レ)任と思て、御位を道鏡に譲らるゝ事、努々在べからずと神勅ありと奏したりければ、天皇(てんわう)勅約背(二)叡慮(一)事を大に御憤(おんいきどほ)り有て、武者に仰て松名を高雄の深山(しんざん)に将行て、左右の■(はぎ)を被(レ)切けるに、松名大に叫ける。声に付て奇雲聳来つて、松名が上に懸る。雲の中に衣冠の俗ありて云、神は不(レ)禀(二)非礼(一)、必守(二)正直者(一)、我は是宇佐八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)也、非文の不(レ)依(レ)勅して深神命を重ず、故に我来つて汝を守と仰ければ、被(レ)切たる■(はぎ)即■(いえ)にけり。大菩薩(だいぼさつ)こゝにして、御自薬師(やくし)の霊像(有朋上P602)を刻て、松名に与給ふ。松名こゝに精舎を建立(こんりふ)して彼本尊を安す。八幡の神松名を護給し処なれば、神護寺と名たり。故に此寺は和気の氏寺也。宇佐宮は其時までは物仰せけれ共、係る御事も有ければ、今は何事も口入に及ずとて、現の御託宜は止けり。此寺星霜年積つて四百(しひやく)余歳(よさい)、草創日を重て、幾千万廻ぞ、仏閣破壊之体を見に、庭上に草繁て、狐狼の栖と荒、四面垣傾て、僧侶跡絶たり。扉は風に倒て、落葉の下に朽、瓦は雨に被(レ)侵て、仏壇更に顕也。暁の月軒の下より漏て、自眉間の光かと誤たれ、夜の嵐板間に徹して、烏瑟の髪を梳と覚たり。悲き哉仏法僧(ぶつぽふそう)と云鳥だにも不(レ)音、樵夫草女の袂(たもと)までも、露
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やおくらんと哀也。
S1803 文覚高雄勧進附仙洞管絃事
此に文覚思ひけるは、宿因多幸にして出家入道の身をえ、破壊の堂舎を修補し、無縁の道場を相訪て、二親の菩提を助、平等の済度をたれんこと、剃髪染衣の思出たるべし。但自力造営の事は、争可(レ)叶なれば、知識奉加の勧進にて、自他の利益を遍せんと思ひつゝ、十方上下の助成を申行ひきける程に、或(ある)時(とき)院(ゐんの)御所(ごしよ)法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に参て、御奉加之由言上(有朋上P603)す。御遊(ぎよいう)の折節(をりふし)なるに依、奏者此由を申入れず。文覚終日相待けれ共、如何にと云事もなかりければ、御前無骨也とは、争知べきなれば、聞召入(きこしめしい)れざるにこそと心得(こころえ)て、天姓不当の物狂也ければ、是非の案内にも及ず、常の御所の御坪の方へ進参て珍からぬ管絃哉、機嫌もなき御遊(ぎよいう)哉、我貧道無縁の身たりといへ共、高雄山の神護寺を修造建立(こんりふ)して、仏法(ぶつぽふ)を住持し、王法を祈誓し、衆生を利益せんと云大願あり。況や大慈大悲の君、十善万乗の主として、などか輙く御奉加聞召入(きこしめしいれ)られず、口惜き御事にこそ、大願之意趣、御聴聞有べきとて、勧進帳をさつとひろげ、調子も知ず、大音声を放上て読(レ)之。
勧進僧文覚敬白、
請(下)殊蒙(二)貴賤道俗助成(一)、高雄山霊地建(二)立一院(一)、令(レ)勧(中)修二世安楽大利(上)勧進状
夫以真如広大、雖(レ)断(二)生仏之仮名(一)、法性随妄之雲厚覆、自聳(二)十二因縁之峯(一)以降、本有心蓮之月光幽而、未(レ)顕(二)三毒四慢之大虚(だいきよに)(一)、悲哉仏日早没、生死流転之衢冥々兮、唯耽(レ)色耽(レ)酒、未(レ)謝(二)狂象跳猿之迷(一)、徒謗(レ)人謗(レ)法、豈免(二)■羅(えんら)獄卒之責(一)哉、爰文覚適払(二)俗塵(一)、雖
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(レ)飾(二)法衣(一)、悪業猶意逞而、造(二)于日夜(一)、善苗又逆(レ)耳而、廃(二)于朝暮(一)、痛哉再帰(二)三途之火坑(一)、重永廻(二)四生之苦輪(一)、所以牟尼之憲法千万軸、(有朋上P604)軸々明(二)仏種之因(一)、随縁至誠之法、一無(レ)不(レ)届(二)菩提之彼岸(一)、故文覚、無常観門落(レ)涙、催(二)上下親族之結縁(一)、上品蓮台運(レ)心、建(二)等妙覚王之霊場(一)也、抑高雄者、山堆而顕(二)鷲峯山之梢(一)、洞禅而鋪(二)商山洞之苔(一)、岩泉咽而曳(レ)布、嶺猿叫而遊(レ)枝、人里境遠而無(二)囂塵(一)、師蹠棲好而有(二)信心(一)、地形勝、尤可(レ)崇(二)仏法(ぶつぽふ)(一)、奉加微兮、誰不(二)助成(一)乎、夙聞聚砂為仏塔之功徳、忽感(二)仏因(一)、何況於(二)一紙半銭之宝財(一)乎、願建立(こんりふ)成就(じやうじゆ)、而禁闕鳳暦御願(ごぐわん)円満、乃至都鄙遠近親疎黎民、緇素歌(二)堯舜無為之化(一)、披(二)椿葉再改之咲(一)、況聖霊幽儀前後大小、速至(二)一仏菩提之台(一)、必翫(二)三身満徳之月(一)、仍勧進修行之趣、蓋以如(レ)件。
治承三年三月日 文覚敬白とぞ読たりける。
御前の管絃の座には、妙音院太政大臣(だいじやうだいじん)師長公琵琶役、此大臣は琵琶の上手にて、神慮にも相応し、無双の勝事多かりけり。欲界の天人も度々天降給へり。されば一年蒼天雲を払ひ赤日旬を渉て、天下旱魃あり。神泉苑にて請雨経の秘法を行れ、其外山々寺々の有験智徳に仰て、御祈祷(ごきたう)有けるに、無(二)其験(一)、畿内遠国忽損じ、人民百姓歎悲けるに、此師長公宣旨を蒙、日吉社大宮(おほみや)の神前にて琵琶を調べ、さま/゛\秘曲を弾じ(有朋上P605)給(たま)ひけるにこそ陰雲速に起て甚雨頻(しきり)に降けれ。図知ぬ霊神曲を感と云事を、さてこそ異名には、雨の大臣とは申けれ。按察使大納言(だいなごん)資賢は笛の役也。彼笛は紅葉と云名物なり。
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名を紅葉と云事は、資賢の先祖〔に〕、一条左大臣雅信と云人は、宇多天皇(てんわう)には御孫、敦実親王には長男也。雅信公参内の時、内裏にて奇笛を被(レ)求たり。事様世に難(レ)有笛也ければ、妙にも是を取出さず、秘蔵せられて重宝也。或夜夢想(むさう)之告あり。白髪たる老翁来て語て云、汝不(レ)知や、我は是住吉(すみよし)明神(みやうじん)也。昔紅葉の比大井川にて諸の神々と遊しに、嵐の山に風吹ば、川瀬に紅葉散下る、最面白見し程に紅葉に相交、空より霊笛の雨しをとらせ給(たまひ)て、其後御身を離さずして、名を紅葉と付て、秘蔵したりしを、内裏守護の時、結番過て還しに落したりしを、汝求(二)得之(一)たり、忽(たちまち)に我に返進せよと仰ければ、雅信申様、此笛を求得て後は家財数に非ず、是のみ重宝と存じて、子孫に相伝すべき由、深く存ずれば返進にあたはず、縦命をば被(レ)召とも、笛をば惜侍るべきと申ければ、明神重て仰けるは、さらば汝が身に一の宝あり。唐本の法華経(ほけきやう)是也、我年来所望也、笛の代に経を与へよと仰ければ、雅信卿夢の内に打案じて、笛は今生一旦の翫物、経は当来得脱の資縁也、恐くは皆成仏道の法を以て、争か逍遥戯論の財に替んなれば、笛をこそ被(レ)召候はめと(有朋上P606)被(レ)申たりければ、明神哀と思召(おぼしめし)、涙を流して、さらば汝に預と被(レ)仰と見て、夢覚にけり。後朝に左大臣述懐して云く、
予(われ)捨(二)身命(一)(しんみやうをすて)惜(二)妙法(一)、神投(二)霊竹(一)垂(二)感涙(一) K109 とて、大臣も涙を流して悦給ける笛也。さてこそ此笛をば紅葉とは申けれ。夢想(むさう)の後は、弥宝物と思て持給たりける程に、村上帝の御宇(ぎよう)、天徳四年に内裡焼亡の時、いかゞし給たりけん、落して失ひ給にけり。是直事にあらず、住吉(すみよし)明神(みやうじん)の被(二)召返(一)ける
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にや、其道儲給たりける笛の、有し紅葉に少しも不(レ)違ければ、是をも角ぞ名たる。其子孫にて資賢の伝ける笛は、後の紅葉にぞ有し。資賢孫源少将雅賢は笙の笛の役也。笙笛をば鳳管と云。昔令公と云し鳳凰の啼音を聞て、此笛を作れり。千字文には、鳴鳳在(レ)樹白駒啄(レ)場とて、明王(みやうわう)の代には、必鳳凰来て庭前の木に栖と云事なれば、此雅資も常には参て、鳳鳴を吟じて、竜顔に奉(レ)仕、殊鳳管の上手にて、今日も被(レ)召て早参ぜり。水精の管に黄金の覆輪を置たる笛にて、黄鍾調の調子をとる。黄鍾調と申は、心の臓より出る息の響也。此臓の音は、逆に乙の音より高甲の音に上る間、脾臓の上の音に同す。順に甲の音より乙の音に下る時は、肺臓の金の音に同す、故に土の色を黄と名け、金の色を(有朋上P607)鍾と名く。当(レ)知土与(レ)金は陰陽の義にて、男女相応の儀式也。故に法皇と女院との御前なれば、円満相応の御祈(おんいのり)とて、黄鍾に調べたり。又此調子は呂の音也。名(レ)之喜悦の音とす。又五行の中には火土也、五方の中には南方也。生住異滅四相の中には、住の位也。住居とは、人の齢にあつる時は、三十以後、四十以前の比也。されば源少将も、其時は盛過て三十一也。法皇の御齢は紅葉の比に、移らせ給たりけれ共、奉(レ)祝猶夏の景気に調べたり。四位(しゐの)少納言盛定は、楼王が跡を伝て、蕭を吹給けり。閑院中将公隆は、時々和琴を掻鳴して、風俗催馬楽を歌ひ澄せり。右馬頭資時は、今様朗詠して銘(二)心腑(一)、凡面々重宝の楽器を調べて、当時秀逸の人々も心を澄して奏しければ、聖衆翻(レ)袂(たもと)、天人雲にのり給らんと面白かりければ、上下感涙を押
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て、玉の簾錦帳霊々たり。法皇も御感の余、時々は唱歌せさせ御座(おはしまし)ける。御座席也ける半計に、こき墨染の奇に、思もよらぬ大法師、調子乱るゝ大音にて、片言がちなる勧進帳を読たれば、只天魔の所為と浅増(あさまし)くて、上下万人興を醒せり。こは何事ぞ、北面の者共はなきか、急ぎそくび穿と仰なり。さなきだにも、事がな笛ふかんと思ける北面の下搴、、我も/\と走向ける中に、平判官資行、左右なく走懸りけるを、文覚勧進帳を取直して、拳も軸も一になれと把竪めて、(有朋上P608)資行が烏帽子(えぼし)打落、や胸つきて、真仰に突倒す。資行余に強く突れて度を失ひ、烏帽子(えぼし)もとらず、本どりはなちにて、阿容阿容とはひ起て、大床の上に逃上る。階下庭上、あれはいかに/\、狼藉也と、どよみにてぞ有りける。恥辱などとは云計なし。大床に立ながら暫く心を鎮て、あゝ去る夜の夢見悪かりける事は此事也とて、閑所の方へ行ぬ。昔も今も昇殿を免るゝ事は、高名にこそよる事なるに、資行は不覚を現じて、大床に上。さまでなき振舞也とぞ人咲ける。北面の者共狼藉を為(レ)鎮十人計はしりかゝる処に、文覚勧進帳をば左の手に取渡し、右の手には懐より刀を抜出。管には馬の尾を組みて巻き、一尺余なる力の、日に輝て如(レ)氷。長七尺(しちしやく)計なる法師の、而も大力にて、衣の袖に玉だすき上、眉の毛を逆になし、血眼に見て、庭上を狂廻ければ、思懸ぬ俄事ではあり、こはいかゞせんと上下騒けり。此法師の体、殿上までも狂参り気也ければ、法皇も御座を立せまし/\、公卿殿上人(てんじやうびと)も閑所に立忍給けり。宮内判官公朝が、其時は兵衛尉にて北面に候けるが、近づき寄て誘けるは、やゝ上人御房、可(二)搦捕(一)之由御気色(おんきしよく)也、
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恥見給ぬ先に被(二)罷出(一)よと云ければ、文覚罷出まじ、院中の御助成を憑進せてこそ、此大願をも思立てあれ、只空くていでん事は、大願の空くなるにて有べし、大願空成ならば、命生て無要(有朋上P609)也、同死する命ならば、大願の代に死すべし、死骸を朝廷にさらして、面目を閻魔の庁にて施す事身の幸也。造営の有無、唯法皇の御計たるべし。五畿七箇道所ひろし、などか荒郷一所給(たまひ)て、貧道破壊の伽藍(がらん)を助給はざらん。詩歌管絃は、今上一旦の遊、卿相(けいしやう)雲客(うんかく)も現世片時の臣也、いつまでか伴ひ、いつまでか翫給べき。無常の風は朝にも吹、夕べにも吹、期(二)明日(一)御座(おはします)べしや、暫長夜の御眠醒奉らん為、聊妙法の音をあげて勧進帳を読侍る、全く僻事に非、浅猿(あさまし)き田父野人だにも、程々に随て、後生をば恐侍ぞかし、況万乗の国主として、聖衆の来迎を期し給はざらんや。文覚が所(レ)持刀は、人を切んとにはあらず、放逸邪見の鬼神を切、慳貧無道(ぶだう)の魔縁を払はんとなるべし、是又文覚が刀に非、大聖文殊の智恵の剣也、不動明王(ふどうみやうわう)の降伏の剣也、文覚更に悪事なし、上求菩提下化衆生の方便也、とく/\一分の慈悲をたれ給へとて、護法の付たる者の様に、躍上踊上て出ざりけり。其時信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)、安藤右馬大夫右宗、武者所にて候けるが、走向て太刀のみねにて、左の肩を頸懸けて、したゝかに打たりけるに、少ひるみけるを、太刀を捨て得たりおうと懐く。文覚は右宗が小がひなを突貫、右宗乍(レ)突不(レ)放、成(レ)上成(レ)下、あちへころびこちへころびて勝負見えず。其後集寄て、かく/\栲して門より外へ引出し、(有朋上P610)平判官資行が下部に給。資行は烏帽子(えぼし)被(二)打落(一)て、面目なし。右宗は預(二)御感(一)、右馬大夫に被(レ)成けり。
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文覚は悲き目をば見たれ共、少も口はへらず、門外に引張られながら、御所の方を睨へて、天子の親とも覚ず、死生不(レ)知の事せさせ給ぬる者哉。袈裟かけ衣著たる僧の、発心修行して、造営済度せんとするを、打張そ頸突とは宣ふべしともおぼえず、斯かる悪王の代に、生合ける文覚が身の程こそ、不当の奴にては侍べれ。御座席に御座師長公は、読書し給たる賢臣とこそ承に、孝経を以て、親の頬打風情かな。貞観政要の中に、大人は赤子の心をも失はずとこそ申たれ。臣愚痴君被(レ)罰といへり。古文少も違はじものを、況文覚と云は、発菩提心の後、浄行持律の聖也、興隆仏法(ぶつぽふ)の勧進也、返々も口惜き事せさせ給へる君哉。賢王(けんわう)明徳の道は、弊民を育を以て先とす、況や剃髪染衣の僧をや。それに打擲刃傷に及条、希代の不思議也、世は已末世になり極れり、穴無慙の人共や、夢幻の栄花をのみ面白き事に思て、三途常没の猛火に■(こがれ)ん事を不(レ)知、只今(ただいま)文覚が加様にせらるゝ事は、全く身の恥に非、臣下卿相(けいしやう)を始として、己等が恥と思給べし、但後生までは遥也、遠は三年近くは三月が中に、思知せ申さんずるぞ、さり共後悔こそし給はんずらめと、御所中(ごしよぢゆう)響けと叫けり。不思議の法師の悪口かなとて、以(二)手綱(一)縛て資行が下部(有朋上P611)に預たれば、主の烏帽子(えぼし)打落し突倒たる遺恨さに、首をも斬、足手をも、もがばやと思へども、御許しなければ、事にふれて辛目をぞ見せける。左こそいはんながらに、無慙や仏法者(ぶつぽふしや)にてあるものを、袈裟衣著たる者は、清浄の上人にて有ものを、蒸物にあひて腰搦みの風情哉と哀む人も有けり。主の資行は少物に心得(こころえ)たる者にて、仇をば恩を以て報ずと云事也、さのみつらく
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当べからず、何事も前世の事ぞ、且は資行が発心の因縁、善知識と存ず、自今以後は仏道に入りて、後生を欣べしとて、髪をばそらざりけれ共、妻子を放れて閑亭の翁とぞ成にける。身は朝廷に仕へながら、心は仏道を望、烏帽子(えぼし)被(二)打落(一)往生を遂べき宿習にこそ。禍は福と云事は、加様の事にや、順縁逆縁とり/゛\也。さて文覚は右の獄に入られたりけれ共、悪口は止ず、日月地に墜給はず、三宝争か捨給べき、去共神護寺の鎮守(ちんじゆ)護法、とり/゛\に利生を現じ給へと、手を合念珠を捻ければ、獄中の者共も、身の毛竪てぞ覚ける。さればにや上西門の女院、指たる御悩(ごなう)もましまさずして、御寝なる様にて隠れさせ給にけり。上下騒て一天晩たるが如し。天子千行の涙は、春の雨よりも滋く、階下九廻の炎は劫火よりも苦。非常の大赦被(レ)行けり。文覚先獄を出。悔(二)先非(一)後慮りあり〔て〕、暫は引籠ても在べきに、尚もしひず勧進する事如(レ)元。法皇の(有朋上P612)御助成のなき事を、安からず思て、京中白川大路、門人の集りたる所にては、浅増(あさまし)くいまはしき事をのみぞ云ける。黒衣の裳短きに、黒袴脛高に著、同色の袈裟懸て、太刀を腰に横へ、指縄緒の平■(ひらあしだ)はきて、勧進帳を手ににぎり、世にも恐れず、口もへらず、知も知ぬも人に会て云けるは、こゝの闕たるは院の所為よ、頭の腫たるは法皇の所行ぞかし、蒸物に合て腰がらみとて、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の御所の前を、東西南北にらみ廻りて、
S1804 文覚流罪事
官位を高砂の松によそへて祝とも、春降雪と水泡消ん事こそ程なけれ。輪王位高けれど、七宝終に身にそはず、況下界小国の王位程こそ危ふけれ。十善帝位に誇つゝ、百官前後に随へど、冥途の旅に
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出ぬれば、造れる罪ぞ身を責る。南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)/\、いつまで/\春夏は旱、秋冬は洪水、五穀には実ならず、五畿七道(ごきしちだう)は兵乱、家門には哀声、臣下卿相(けいしやう)煩て、君憂目を見給べし。世中は唯今に打返さんずる者を、安き程の奉加をな、阿弥陀仏(あみだぶつ)/\(あみだぶつ)と高念仏申て、因果は糺縄の如、人に辛目みせ給る代は、去共/\とて上下に通ければ、及(二)天聴(一)公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)ありて、此僧を京中に置ては悪かりなんとて、伊豆国(いづのくに)(有朋上613)へ流罪の由にて、当時の国務也ければ、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)の子息、仲綱(なかつな)に被(二)仰付(一)ぬ。仲綱(なかつな)これを召渡して、薩摩兵衛省に仰て、下遣すべき支度あり。院より庁の下部二人付られたり。折節(をりふし)伊豆国住人(ぢゆうにん)、近藤四郎国澄と云ふ者、年貢運送の為に、南海道より舟に乗りて上たりけるが、下りける戻舟に乗て、慥に国に付よと言伝らる。庁の下部放免二人も下向すべきにて有けるが、文覚に語けるは、庁の下部の習、懸事に付てこそ、自酒をも一度飲事にて候へ、去ばこそ又折々に、芳心をも申事なれ、上人御房程ならぬ人だにも、人には訪をも乞事に候。申さんや御房は、貴とき人にて御座上、京白川に知人多くぞおはすらん、触廻らして国の土産道の粮物にも所望し給へかし。只官食ばかりにては慰も有まじ、且は身の計をも存、又人の心をも兼給へかしと様々教訓しけり。文覚思ひけるは、法師は上下男女勧進の僧也、左様の仏物すかしとらんとて、云にこそと思ければ、返事には、縁者知音も身が身にてある時こそ自ら芳心もあれ、入道出家の後は、諂心なければ得意取事もなし、親類骨肉にも近づく事なければ、問被(レ)問ずして十余年にも成ぬ、然べき者あるらん共覚えず、縦ありとも有
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甲斐あらじ、大方は我人に物を与ふるにこそ、得意知る人は多けれ。法師は人を勧進して人に物を乞へば、うとむ者はあれども親む者はなし。(有朋上P614)
S1805 文覚清水状天神金事
〔去(さる)程(ほど)に〕但東山にこそ後生までもと契りて、常に行眤ぶ事はなけれ共、朝夕に難(レ)忘思被(レ)思たる人はあれ、縦無間の底までも身に代ぬ人也、よに憑む甲斐在て、実の詮には叶ぬべき人ぞ、さらば実に道の土産にも大切也、殿原にも志をも申、吉酒をもめさせん、硯紙まうけ給へと云。下部悦て硯借よせ紙買儲たり。文覚紙を取向て見れば、如法雑紙也。見まゝに、奇怪なる奴原が紙の様かな、人の品をば消息(せうそく)にて知事也、吉紙を尋て進よ、これ人のために非ず、只今(ただいま)物儲て取せんずるぞとて投返す。放免ども悪き僧の詞かな、奴原とは何事ぞ、いざ咎めんと云けるを、其中に制して、暫一天の君をだにも悪口申物狂也、天狗の様なる者なれば、何ともいへ、人々敷者にいはれてこそ恥にも及べ、其上唯今物乞てえさせんと云人に、躍合て要事なしとて、上品の紙の神妙(しんべう)なるを尋出して進る。文覚申けるは、法師はよに腹悪者にて、悪口申て候けり、中直りし奉、抑我は天性筆をとらぬ者也、能書ん人を請じ給へ、件の人は目も心も辱しき人也、文様尋常なるべしと云ければ、穴煩しの御房やとは思へども、若興ある事や有と思て、其辺に走廻りて能書(有朋上P615)の人を尋ね出して来れり。文覚は手書を近呼寄て、良物語(ものがたり)りして、其後放免共に、やゝ殿原聞給へ、木に付虫は本を嚼、萱に付く虫は萱を啄と云事あり、能者を請じて能を顕すには、必酒を進、引出物をするは習ひ也、然も土産所望の文也、乞食だにも門出とて祝事ぞかし、虚口にては福楽無、先
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手書を能々翫奉べし、去ずば書給べからずと云。其時下部共定もなき事ゆゑに、をこがましとは思へども、支へては云人を請じて、さすが片腹痛さにいなとは云ず、直垂質におきて、酒肴買よせてよく/\進せ、腰刀一引出物にたぶ。手書の僧酒飲引出物懐中して後、墨磨筆染て、御文は何様にと申。文覚が申さん様に、少も違へず書給へとて、為(二)高雄神護寺修造勧進(一)、於(二)法住寺(ほふぢゆうじ)御所(一)、奏聞之処、聊蒙(二)勅勘(一)下(二)向伊豆国(いづのくに)(一)候、抑浮雲之身、雖(レ)非(レ)可(レ)惜(二)朝露之命(一)、猶以難(レ)捨候哉、為(二)旅粮(一)所(レ)奉(レ)預(二)之鵝眼百貫(ひやくくわん)■牙(しやうげ)百石(一)、付(二)使者(一)可(二)申請(一)候、恐々謹言。
月 日
文覚、と書せて、立文たり。表書をば誰と可(レ)書候ぞと問ば、文覚打笑て、清水寺観音御房と書給へとぞ云ける。よに可(レ)笑事なれども、放免共は腹を立すべて不(レ)咲。文覚一人のみぞ手を扣て笑ける。下部共不(レ)安思て、和僧のさのみ庁の御使を可(レ)欺事やはある、奴原とてだにも不思議に思ふに、紙ぞ手書ぞ、酒よ引出物よとて、係る嗚呼(をこ)の事申条後悔し給な、思知べ(有朋上P616)しと、口々に■(ののしり)けれ共、文覚は猶奇異にをかしき事に思て、座にもたまらず笑飽て申けるは、殿原や中直りして物申て聞せん、されば観音に利生を申人は嗚呼(をこ)の事にてある歟、月詣日参、夜も昼も踵を継て参る、上下男女道俗貴賤は、皆嗚呼(をこ)の事かは。文覚をば悪口すると宣へども、己等こそ増て悪口の者よ、法師は法皇を悪口とて、伊豆国(いづのくに)へ被(レ)流、己等は観音を悪口すれば、地獄釜へ流さるべき也。抑観音の利生をば、いか程の事とか
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思。法華経(ほけきやう)八巻に、若有人受持六十二億恒河砂、菩薩名字復尽形供養、飲食衣服臥具医薬、四種功徳と、只一時也とも、観音の名号を念じて礼拝せん、功徳と正等にして、異事無と説れたり。されば大悲無窮の菩薩也。広大円満の利生也、其に己等が貪欲に住して、物ももたぬ法師に物を乞へば、物持たる観音に物乞奉りて、己等に給はれとて、消息(せうそく)やるを嗚呼(をこ)也と云は、さらばさて有かし、嗚呼(をこ)の者共とて、又念誦うちして、睨へたり。力及ぬ法師哉とて、鳥羽の南門より船を出す。事に触て情なくこそ当りけれ。其夜は渡辺に著ぬ。水手梶取も、同一所に宿けり。文覚は内にあり、梶取は縁に臥たり。遣戸一を隔たり。夜さし更て梶取が云けるは、哀此上人は勧進の用途は多く持給たるらん、勅勘の人なれば、いつか帰上給はんずらん、何とかなして枉惑し、とらんなど様々に私語(ささやき)て、其(有朋上P617)後は音もせず。文覚は悪き奴原哉と思て、暁方に念珠押揉、忍声にて南無(なむ)帰命頂礼(きみやうちやうらい)、高雄山の護法、天童、為(二)神護寺造営(一)勧進用途にて、金百両を買、五条(ごでうの)天神の鳥居を左の柱の根、三尺が底に埋て候。文覚上洛の程、夜の守昼の守と、令(二)守護(一)給へと祈誓しけり。梶取ども目を醒して、互に頭を振合て悦けり。明るや遅し、四五人京へ上り、夜に入りて五条(ごでうの)天神の鳥居の左の柱根を、三尺ほりたれ共、金もなし、五尺計堀たれ共なかりければ、一人が云けるは、夜の耳にてはあり、而も忍音に云つれば、右の柱を左と聞てもや有らんとて、右の柱を四五尺掘りたれども、鳥居は倒て金はなし。浅猿(あさまし)とて逃下ぬ。明日は五条(ごでう)渡、西洞院(にしのとうゐん)在地人集て、是は不思議の物恠ぞ、我は夢に見たりつる事、我は烏の此辺に集りたる事など申て、
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何様にも天神を宥奉べしとて臨時の祭し、鳥居を造り替、優々敷経営にぞ有ける。伊豆守(いづのかみ)仲綱(なかつな)が依(二)下知(一)、国澄暫渡辺に逗留す。又文覚大事の召人也、よく/\守護すべきと云下たりければ、渡辺党番に結で是を守、夜は通夜寝ず、内へ外へ出入て、昼は終日に立ぬ居ぬ、湯よ水よと云て、人をも安く置ず、聊も命に背けば散々(さんざん)に悪口して、親者ももてあつかへり。云ける事は、穴無慙や、少くより不調也と見し者は、終に果して憂目を見ぞとよ、故郷には錦の袴を著て、帰とこそ云に、さまでこそな(有朋上P618)からめ、所生の所に来て親類骨肉に被(二)守護(一)、恥と思心もなく、猶不当の悪口振舞して、我等(われら)をさへ心憂目見する事口惜さよと云処に、有し梶取が進出て、惣不当の大虚言の御房也、金百両五条(ごでうの)天神の鳥居の下に埋たりと宣し時に、人にも知せず親き者ばかり、少々相連て、終夜(よもすがら)堀共々々終になし、結句は鳥居の柱掘り倒して、浅猿(あさまし)さに逃下たりと云。文覚親き者に謗られて、大に腹立しける中に、梶取めらをすかし負せたりと嬉しくて、やをれ舟流共よ、此大地の底は金輪際とて金を敷満ちたり、など其までは掘らざりけるぞ。但法師が埋たる金は北野天神の鳥居の事也、五条(ごでうの)天神には非、今一度上て掘り直せとて、ふしころびてぞ咲ける。其後一門の者共に向て、目を見はり嗔声にて云けるは、法師は若より千手経の持者にて二十八部衆番を結んで守護し給へば、友ほしと不(レ)思、己れ等に守られずば法師侘べきか、いかに守共、逃失んと思はば可(レ)安、一門の中に、斯かる貴き上人が出来て、院(ゐんの)御所(ごしよ)迄もさる者有と、被(二)知召(一)たるは、親き奴原が非(二)面目(一)乎、是こそ錦の袴著て故郷に帰たるにはあれ、其に不当也など聊も
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思申条奇恠也と云て、又散々(さんざん)に悪口しけり。角て文覚は渡辺に四五日ぞ有ける。是より舟に乗、国澄に相具して、住吉(すみよし)、住江、和歌吹上、玉津島明神を伏拝、日前黒懸をよそに見て、由良湊、田部の沖、新宮浦(有朋上P619)に船を著、熊野山を伏拝、南海道より漕廻て、遠江国名田沖にぞ浮だる。折節(をりふし)黒風俄(にはか)に吹起、波蓬莱を上ければ、こはいかゞせんと上下周章(あわて)騒けり。思々に仏を念じ、口々に祈事して泣悲みければ、水手梶取帆を引、沈石を下し、荷を刎船を直けれ共、いとゞ波風烈しくして、為方なければ、声を揚てぞ喚叫ける。去ども、文覚は舟耳を枕として、高息引かきて臥たり。梶取等文覚が傍に寄、良上人御房、いかに加程の大風に、打とけ眠り給ぞ、起て祈し給へと、起せ共/\不(レ)動。余に強く起されて、頭ばかりを持挙て、久物は不(レ)食、身は疲たり、所作すべき力なし、但痛くな騒そ、法師らがあらん限はよも苦からじ、波風の止程は、唯たれ/\も共にねよとて、又引かづきて臥。浅増(あさまし)き中にも悪まぬ人はなし。風は弥吹しぼり、船耳に浪越ければ、今は櫓を取楫を直に及ばず、舟底に倒伏て、音を揚て喚きけれ共、文覚は泣もせず、起もあがらず、ふせりながら、穴面白と声欹してぞ有ける。口々に申けるは、穴不当の僧の事様や、無慙也々々々、出家染衣の形と成なば、叶はぬまでも経をよみ念珠を捻りて、慈悲を起し祈誓すべき事ぞかし、其に我身をさへ思はずして、只今(ただいま)波の下に沈んずる者が、いかなる心なれば、起も上らず、剰穴面白など云事、不思議さよ。誠や無智も無行も、僧は国の盗と、仏の仰にて有けるぞ。あの不当(有朋上P620)の心にて、蒙(二)勅勘(一)、遠国へも下るぞかしなど申あへり。文覚
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聞て良在て這起、口説言はさて歟、あゝ云も道理也、命共が惜ければ、臥も理と思へ、悶るも理物がくさければ起ず、但余に歎くが不便なるに、波風やめて見せんとて、舟舳頭に立跨て、沖の方を睨へて、竜王(りゆうわう)や候/\、いかに海竜王共(かいりゆうわうども)はなきか、曳々とぞ呼だりける。舟中の者ども、こは如何なる事ぞや、浅猿(あさまし)や斯かる折節(をりふし)には、竜王(りゆうわう)御前どもこそかしづき申すべき、悪口申ていとゞ竜神(りゆうじん)の御腹立進なんず、中々詮なく起にけりと、悲しき中にも今少怖しさぞまさりける。去ば角な宣そと制しけれども、文覚は念珠押捻、大の声のしはがれたるを以て申けるは、海竜王神(かいりゆうわうじん)も慥に聞、此船中には、大願発たる、文覚が乗つたる也、我昔より千手経の持者として、深く観音の悲願を憑、竜神(りゆうじん)八部正しく如来(によらい)説教の砌(みぎり)にして、千手の持者を守護せんと云誓を発すに非ずや、されば文覚を守らずば、誰をか可(レ)守、吾船をば手に捧、頭に載ても行べき所へは送べし、さまでこそなからめ、浪風を発条あら奇怪や/\、忽(たちまち)に風を和げ波を静よ、と云事を聞ずば、第八(だいはち)外海の小竜めら、四大海水の八大竜王(りゆうわう)に仰付てなく成べしとて嗔りける。是を聞者どもが、いや/\此僧は、敢て物狂にて有けり、聞く共聞じ、加様の者が乗たれば、懸悪風にも合にこそとつぶやきけり。(有朋上P621)去ども文覚が云事、竜神(りゆうじん)の心にや叶ひけん、沖吹風も和て岸打浪も静也。其時にこそ舟中の者共は安堵しつゝ、穴貴々々、是程に竜王(りゆうわう)を随へ給程の上人を、忝(かたじけなく)も舌の和なる儘に、口に任て誹り申ける事の浅猿(あさまし)さよ、いかに加様の貴人をば、奉(レ)流やらんとてこそ悦びけれ。是又観音利生悲願の目出たき故也。故に法華経(ほけきやう)には、縦巨海に漂流すと云とも、観音を念ぜ
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ば、波浪に没する事なからんと云へり。文覚大悲の本誓を仰、千手の神咒を持故に、内徳外に顕て、風波の難をぞ遁れける。角て文覚云けるは、如何に殿原自今以後は知べし、勤行精進の在俗よりは、無智無行の比丘は勝たりとて、懶惰懈怠なれども、僧をば敬ふ習ぞ、法師此舟に乗ずば、誰か一人も助るべきとて、気色して、千手陀羅尼を誦しければ、其後は楫取已下の輩、手水を捧履を取、主従の礼よりも猶深して、事外にぞ敬屈しける。領送使国澄も、今こそ始て貴き人とも思知けれ。常に対面して物語(ものがたり)しける中に、国澄問云、抑当時世間に鳴渡雷をこそ、竜王(りゆうわう)と知りて侍るに、其外に又大竜王(りゆうわう)の御座様に仰候つるは、いかなる事にて侍るやらんといへば、文覚答て云、此等に鳴雷は、竜神(りゆうじん)とは云ながら■弱(わうじやく)の奴原也。あれは大竜王(りゆうわう)の辺にも寄つかず、履を取までもなき小竜めらなり、八大竜王(りゆうわう)とて、法華経(ほけきやう)の同聞衆に有(二)八竜王(りゆうわう)(一)、難陀竜王(りゆうわう)、跋難陀竜王(りゆうわう)、(有朋上P622)娑伽羅竜王(りゆうわう)、和脩吉竜王(りゆうわう)、徳叉迦竜王(りゆうわう)、阿那婆達多竜王(りゆうわう)、摩那斬竜王(りゆうわう)、優鉢羅竜王等(りゆうわうとう)、各与若干百千眷属倶と説けり。此竜王達(りゆうわうたち)は面々二百千万億の眷属を具して、蒼溟三千の波の底に、金銀七宝の宝を以、八万四千(はちまんしせん)の宮造して、億千の竜女にかしづかれて居住せり。此空に鳴行く奴原は、八大竜王(りゆうわう)の眷属の、又従者の/\、百重ばかりにも及び難き小竜也。去共夏天の暑に雲を起し雨を降して、五穀を養ふ事は目出事ぞや。たとへば諸国の人民百姓が計に、職士定使とて■弱(わうじやく)の奴原が、家園に鳴廻ば、怖恐て相構て僻事をせじ、理を失はじとて、所を治家を治むれども、実の十善の君の玉の台、日の御座に御渡あるをば、下揩ヘ知り進せぬ定也。其にさしも
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気高き八大竜王(りゆうわう)は、文覚を守護せんと云誓あり、況や小竜共が不(レ)知(二)案内(一)、危くも煩をなす時に、只今(ただいま)名乗たれば、すは海上は静りぬるはと云。国澄又問て云、左程に気高う御座(おはしまし)ける八大竜王(りゆうわう)は、いかなる志にて、文覚御坊をば守護し進んとは誓給たるやらんと。文覚答て云、いみじくも問給たり。
S1806 竜神(りゆうじん)守(二)三種心(一)事
昔釈迦如来(しやかによらい)、在世説法の時、八大竜王(りゆうわう)参りて仏に向つて申様は、仏徳尊高にして、万徳自在(有朋上P623)也、三世の知恵を極て十方世界に明也、然れども猶御心に叶はぬ御事やおはしますと申。時に仏答て云、我能万徳円満して、自在の身を得れども、心に叶ぬ事二種あり。一には娑婆に久住して、常に説法して、衆生を利益せんと思へ共、分段無常の境は、百年の内に涅槃の雲に隠なんとす、是心に任ぬ愁也。二には我涅槃の後、若善根の衆生ありと云とも、為(二)魔王(一)被(二)障碍(一)て、所願(しよぐわん)成就(じやうじゆ)の者あるべからず、其善根の衆生を誰に誂置べき共覚ず、是又大なる歎也と宣き。于(レ)時八大竜王(りゆうわう)座を起、仏を三匝(さんさう)して威儀を調、尊顔を奉(レ)守て、三種の大願を発て云、一我願入(二)涅槃(一)後、孝養報恩の者を守護すべき、二我願仏入(二)涅槃(一)後、閑林出家の者を可(二)守護(一)、三我願仏入(二)涅槃(一)後、可(レ)守(二)護仏法(ぶつぽふ)興隆者(一)、此三の願を心に案ずれば、併がら文覚が身の上にあり。法師は加様に心急々にして、時々物狂の様なれども、母は吾を生んとて難産して死ぬ、父には三歳の時別ぬ、憑む方なき孤子なれば、幼なき子を思おきけん、父母の心の中、いかばかりの事案じけんと思へば、親を思ふ志今に不(レ)浅、妻に後れて出家入道すれども、本意は只至孝報恩の道念より起れり。八大竜王(りゆうわう)の第一の願に答て、被(二)守護(一)べき身也。閑林出家と誓
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たれば、十八歳にして、入道して、再在家に帰らず、更に人に諂事なし。猶山林流浪の行人也。第二の願に(有朋上P624)答、可(レ)被(二)守護(一)身也。況仏法(ぶつぽふ)興隆と誓たれば、文覚こそ神護寺を修理して仏法(ぶつぽふ)を興隆し、不断の行法を居て、平等の得脱を祈らんと云志深ければ、第三の願に答らんと覚。其に和殿原までも奉(レ)被(レ)悪ども、八大竜王(りゆうわう)は如何計かは憐守給らん。斯かる聖教の道理を覚たれば、小竜などは物の数共存ぜず、去ば竜王(りゆうわう)め/\とも申侍る也。さ申和殿原とても、孝養の志も深、煩しくして、而も住はつまじき世を厭ひて、入道出家し給、閑林に閉籠、仏法(ぶつぽふ)をも興隆し給はば、八大竜王(りゆうわう)に被(二)守護(一)給はん事は疑なし、必しも文覚一人を守らんと誓たるには非、相構々々殿原も親に孝養の志深うして、仏法(ぶつぽふ)に志を運給へ、今生後生の大なる幸なるべし、夢幻の世中有かとすれば更になし、徒に身を苦めて、悲く悪趣に歎ん事、心憂かるべし、さても/\法皇の邪見こそ糸惜けれ、さこそ辺土小国の主と申さんからに、僅(わづか)の助成を恨、興隆仏法(ぶつぽふ)の法師等をなくなし給らめ、糸惜さよ、八大竜王(りゆうわう)いかばかり本意なく思給らん、守護の天童も定て嗔りをこそ成給らめ、いざ/\殿原後に思合給へよ、災害は只今(ただいま)有ぬと覚ゆる者をや、大国の王は破戒なれども比丘をば敬、無実なれども勧進をば奉加す、況文覚全く妻子を養はん為に非、誑惑不善の勧に非ず、和殿原さへ相そへて、仏法(ぶつぽふ)粗略の人共にて、道理を責て申とも、文覚が口状を(有朋上P625)ば信用し給はず、能々思慮すべき事也、内徳を顕さざれば、外相に信を取らせんとて、忍て小竜等を招、風波の難を現じて見せつる也、されば如(レ)案に今は信伏して、切て継たる
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礼儀をかしく、哀に覚候、小竜一旦の騒だにも不(レ)斜(なのめならず)、まして無常決定の荒き風も吹、阿坊獄卒の稠き責の来ん時は、文覚猶以叶がたし、況各に於てをや、無上世尊も入滅し給へば、高位と貴み奉国王も遁給はず、唯造れる善根ばかりぞ身をば助べき、天竺震旦をば暫置く、我朝には皇極天皇(てんわう)閻魔の庁に跪き、延喜聖主鉄崛苦所に墜給き、彼は正法を以て国を治、慈悲を施し民を憐給しか共、たやすき咎に報い給けり。増て渡世不善法の和殿原、叶べしとも覚えず、今度文覚が悪事して伊豆国(いづのくに)へ罷るは、仏の方便を知べし、今より後は一向に文覚が依(二)教訓(一)仏道に心をかけ給へ、一樹の陰に宿けるも、前世の契と見えたり、況数日同船の眤びをや、可(レ)然善知識と思べし。仏道に心を懸と申は、内心慈悲ありて、物を憐、常に墓なき世を疎んで、仏を念じ悟りを開と思へば、仏臨終に決定して来迎し給ふ、所以に観音勢至阿弥陀如来(あみだによらい)、無数の聖主諸共に弘誓の船に棹して、生死の苦海を渡り、宝蓮台の上に、往生して菩提の彼岸に遊ばん事、誰か是を望まんやと、賢き父の愚なる子を教ふる様に、泣口説教訓したりければ、金とらんとて五条(ごでうの)天神の鳥居(有朋上P626)掘り倒したりける放免の中に、刑部丞県の明澄と云ける男は、生年三十三歳に成けるが、さしもの邪見を改て、菩提心を発、本どり切て文覚が弟子となる。即剃(レ)髪授(レ)戒、名をば文覚の文をとり明澄の明を取て、文明とぞ付たりける。其外の者共も、出家入道迄こそなけれ共、一旦仏道に帰しけり。此文覚は天狗の法成就(じやうじゆ)の人にて、法師をば男になし、男をば法師になしなどして、うつゝ心は無けれ共、ゆゝしき荒行者にて、度々鍔金顕したる者
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也。されば渡辺にて舟に乗けるよりして、大願を発しけるは、我願成就(じやうじゆ)して神護寺を修造すべくば、縦湯水を飲ず共、国につかんまで、命を全うすべし、其願空くなるべくば、今日より後七箇日の中に、天神地祇命を召とて、飲食を断。預の武士様々に誘けれ共、終に飲くはず、ほしくば己らくへ、法師は己れ等が手に懸つて、干死にして無なさんと嗔りける間、力及ず、三十一日と申に、伊豆国(いづのくに)へ下著ぬ。其間五穀を食せず、湯水を不(レ)飲けれ共、形も損せず色も衰る事なし。行法うちして歎愁たる気なし。常は笑き物語(ものがたり)して、己も咲人をも笑はしてつれ/゛\はなかりけり。又道心の始、熊野金峯行ひありきける時、那智の滝に七箇日の間打れんと云ふ、不敵の大願を発けり。比は十二月中旬の事なれば、谷のつらゝも竪閉、松吹風も膚にしむ。去ぬだに寒きに、褌計に裸也。三重(有朋上P627)白尺の滝水、糸を乱して落たぎる滝壺にはひ入て、身に任てぞ打れける。一日二日打るゝ程に、身は紅色と成て、紅蓮地獄の衆生の如し。髪鬚には垂氷さがりて、鈴を懸たるが如に、から/\と鳴けるが、流石(さすが)生しき身なれば、三日と云ける日は、息絶身すくみて、死人の如し。かたへの行者達も、由なき文覚が荒行立て、墓なく成りぬる事よとて、或憐或猜けり。已に滝の底に流入けるを、誰とは不(レ)知下もやらず、ひたと捕へて、左右の手を以て、文覚が頂より足手の爪先まで、あたゝか/\と撫て、把すると思ければ、さしも石木の如くに凍りすくみたりける身も、皆解あたゝまりて、人心地していきかへる。文覚不思議に覚て、抑法師とり助給(たま)ひつる人は誰と問。詞に付て、汝知ずや、我は是大聖不動明王(ふどうみやうわう)の御使、矜伽羅、勢多迦と
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云者也。汝不敵の願を不(レ)果して、命の終つるを、此滝けがすな文覚助よと蒙(レ)仰来れる也と答。穴貴の事や、如何なる姿ぞ、世の末の物語(ものがたり)にせんと思、立帰て見れば、十四五計なる童子の左右に丱結たるが、遥雲井を蹈上り、滝の上にぞ入給ふ。文覚思けるは、誠に明王(みやうわう)の御計ならば、今はいかに打共よも死なじ、さらば前後三七日打れんと思て、滝の水に入たりけれ共、落来水も身にしまず、滝壺も又湯の如し、更に寒事なければ、終には願を果しけり。加様に心しぶとく、身も健にして、立ぬ願(有朋上P628)もなく、せぬ業もなし。懸りければ、発心地物気など云て請用隙なし。向と向ひぬるに、空き事はなし。余に暇なき折は、念珠袈裟を遣して、病者の目にも見せ、手にも取せぬれば、忽(たちまち)に験を顕す。係りしかば、元来天狗根性なる上に、慢心強く高声多言にして、人をも人とせざりける余、院(ゐんの)御所(ごしよ)にて悪口を吐、預(二)勅勘(一)被(二)流罪(一)けり。伊豆国(いづのくに)奈古野が奥と云所に、観音の霊堂あり。則なこや寺と名く。彼傍に奇庵を結て、閉籠て年月を送つゝ、深大悲の誓願を憑て、不退の行法薫修せり。昼は先手経を読、夜は三時に行法せり。人是を貴て、折々衣裳を送けれども、返すは多く、請取は稀也。何とてとき料なども在けるやらん、同宿もあまた侍けるとかや。遠近舟の旅人は、炉壇の煙に心すみ、釣する海人の楫枕、燈炉の光に目を醒す。渚(なぎさ)に遊水鳥は、振鈴(しんれい)の声に驚、藻に住磯の鱗は、閼伽の水にや浮ぶらん、最貴くぞ覚えける。されば当国の目代(もくだい)より始て、上下の男女帰依の思を成けれども、惣じて諂心なし。真実の道心者也とぞ見たりける。
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十九
P0460(有朋上P629)
津巻 第十九
S1901 文覚発心附東帰節女事
文覚道心の起を尋れば、女故也けり。文覚がために、内戚の姨母一人あり。其昔事の縁に付て、奥州(あうしう)衣川に有けるが、帰上て故郷に住。一家の者ども衣川殿と云。若く盛んなりし時は、みめ形人に勝、心ばへなども優にやさしかりけるが、今は盛過て世中も衰へ、寡にて物さびしき住居也。娘一人あり、名をばあとまとぞ云ける。去共衣川の子なればとて、異名には袈裟と呼。親に似たる子とて、青黛の眉渡たんくわの口付愛々敷、桃李の粧芙蓉の眸、最気高して、緑の簪雪の膚、楊貴妃、李夫人は見ねば不(レ)知、愛敬百の媚一つも闕ず、さしも厳女房の、心さへ情深して、物を憐咎を恐事不(レ)斜(なのめならず)。毛■(もうしやう)西施が再誕歟、観音勢至の垂跡(すいしやく)歟、深窓の内に扶られて、既(すで)に成(レ)人也。軒端の梅の匂いと芳、庭上の花実に細にして、十四の春を迎たり。栄花名聞人々我も/\と心を通す。其中に並の里に、源左衛門尉(げんざゑもんのじよう)渡とて、一門也けるが、内外に付て申ければ、恥しからぬ事也とて、(有朋上P630)これを遣す。互の心不(レ)浅して、はや三年に成ぬ。女今年は十六也。盛遠は十七に成けるが、其歳の三月中旬に、渡辺の橋供養あり。盛遠紺村濃の直垂に、黒糸威(くろいとをどし)の腹巻に、袖付て、折烏帽子(をりえぼし)係にかけ、銀の蛭巻二筋通して巻たる長刀、左の脇にはさみ、其(その)日(ひ)の奉行しければ、辻々固めたる兵士共下知し廻して、橋の上に立渡、ゆゝしくぞ有ける。
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供養既(すで)に終て、方々へ下向しける中に、北の橋爪より東へ三間隔て有ける桟敷の内より、女房達(にようばうたち)あまた出て下向しける中に、十六七にもや有らんと見ゆる女房、輿に乗らんとて簾を打挙けるを見れば、世に有難き女也。盛遠目くれ心消して、何くの者やらん、何なる人の妻子なるらんと、行末見たく思ければ、輿に付て行程に、並の里に渡と云者が家に見入たり。是は聞えし衣川の女房の女や、過失なき美人なりけり、如何すべきと、春の末より秋の半まで、臥ぬ起きぬぞ案じける。思澄して、九月十三日のまだ朝、母の衣川が許に伺行、則刀をぬき、無(二)是非(一)母が立頸を取て、腹に刀を指当て害せんとす。女うつつ心なし。能々見れば甥の遠藤武者盛遠也。女泣々(なくなく)申けるは、抑和殿は我には甥、我は和殿に姨母、此中には殊なる怨くねなし、就(レ)中(なかんづく)御辺(ごへん)の母死して後は、孤子なれば、孫子を思様に糸惜し奉る、父とも母とも憑み給ふべし、何人か如何と讒言したたれば角うき振舞(有朋上P631)をばし給ふぞ、身に誤ありと覚ず、暫く命を助て、怨の通を宣へ、晴申さんと手を摺て泣。盛遠は慈悲なし、目を大に見はりて、伯母也とても、我を殺さんとし給ふ敵なれば、遁すまじ。渡辺党の習として、一目なれども敵を目に懸て置ず、すは/\只今(ただいま)指殺んとて、腹に刀をひや/\と差当たり。姨母は肝魂もなし、わなゝく/\、誰人の申ぞ、我寡にして夫なし、和殿に於て意趣なし、思ひよらぬ事をも宣ふ物哉、是は何なる事ぞやと申。盛遠は、人の申に非ず、袈裟御前を女房にせんと、内々申侍りしを聞給はず、渡が許へ遣たれば、此三箇年人しれず恋に迷て、身は蝉のぬけがらの如くに成ぬ、命は草葉の露の様に消なんとす、恋には人の死ぬ
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ものかは、是こそ姨母の甥を殺し給なれ、生て物を思ふも苦しければ、敵と一所に死なんと思ふ也と云。衣川は責ての命の惜さに申けるは、旁申し中に角とは聞しか共、さまでの事とも思はず、身貧なれば何方共思分ざりしを、渡奪が如して取しかば力なし、加程に思給はば安事也、刀を納よ、今夕呼て見せんと云。盛遠は等閑に口を竪めては悪かりなんと思て、虚言せし渡が方へ返忠せじなど、能々竪めて刀をさし、今夕参らんとて帰にけり。衣川は涙を流し如何はせんとぞ悲みける。此盛遠が有様(ありさま)、云事を聞ずば一定事にあひぬべし、さて又呼て逢せなば、渡が怨いかゞ(有朋上P632)せんと思けるが、案廻して娘の許へ文をやる。此程風の心地候。打臥までの事はなければ、披露までは事々しく候。忍ておはしませ、可(二)申合(一)事侍。寡なる身には墓なき事のみ侍り。返々忍て只一人おはしませと書たり。娘消息(せうそく)を取上見て、心細き御文の様哉とて胸(むね)打騒、女の童一人具して、仮初に出づる様にて、母のもとに来れり。母つく/゛\と娘の顔を見て、はら/\と泣て、良久有て手箱より小刀を取出して云けるは、此を以て我を殺し給へとて与ければ、娘大に騒て、是は何事にか、御物狂はしく成給へるかとて、顔打あかめて居たり。母が云、今朝盛遠が来て、様々振舞つる事共、有の儘に云ひつゞけて、此事いかにも/\盛遠が思の晴ざらんには、我終に安穏なるべし共覚えず、去ばとて渡が心を破らんとにも非ず、由なき和御前故に、武者の手に係て亡びんよりは、憂目を見ぬ前に、和御前我を殺し給へとて、さめ/゛\と泣。娘これを聞て、実に様なき事也、心憂事哉と不(レ)斜(なのめならず)歎けるが、つく/゛\是を案じて、親の為には去ぬ孝養をもする習也、
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御命に代り奉らん、結の神も哀と思召(おぼしめせ)とて、口には甲斐々々しく云けれ共、渡が事を思ひ出つゝ、目には涙をこぼしけり。日も既(すで)に暮ぬ。盛遠は独咲して鬢をかき髭をなで、色めきてはや来て、女と共に臥居たり。狭夜も漸々更行て、暁方に成ければ、鶏既(すで)に啼(有朋上P633)渡、女暇を乞。盛遠申けるは、会ずば逢ぬにて有べし、弓矢取身と生て、あかぬ女に暇をとらせて恋する習なし、会で思し思は数ならず、何なる目に合とても、暇奉らんとは申まじ、今より後は長き契、是だにあらば何事か有べきとて、太刀を抜て傍に立たり。嗚呼(ああ)今は世の乱ぞ、思儲し事なれば、会ぬる後は命くらべ、和御前のためには命も惜からず、和御前の不祥、盛遠が不祥、渡が不祥、三つの不祥が一度に可(レ)来宿習にてこそ有りつらめとて、惣て思切たる気色也。女良案じて云けるは、暇を奉(レ)乞は女の習、志の程を知らんとなり、角申も打付心の中〔は〕末憑れぬ様なれば、憚あれ共何事も此世の事に非ずと聞侍れば、実も前世の契にこそ侍らめ、去ば我思心を知せ奉らん、渡に相馴て、今年三年に成侍けれ共、折々に付て心ならぬ事のみ侍ば、思はずに覚て何へも走失なばやと思事度々也。去共母の仰の難(レ)背さに、今迄候計也、誠浅からず思召(おぼしめす)事ならば、只思切て左衛門尉(さゑもんのじよう)を殺し給へ、互に心安(こころやす)からん、去ば謀を構んと云。盛遠悦ぶ色限なし。謀はいかにと問へば、女が云、我家に帰て、左衛門尉(さゑもんのじよう)が髪を洗はせ、酒に酔せて内に入れ、高殿に伏たらんに、ぬれたる髪を捜て殺し給へと云。盛遠悦て夜討の支度しけり。女暇を得て家に帰、酒を儲渡を請じて申けるは、母の労とて忍て呼給し程に、昨日罷て(有朋上P634)侍しに、此暁よりよく成せ給ぬ、悦遊びせ
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んとて、我身も呑夫をも強たりけり。元来思中の酒盛なれば、左衛門尉(さゑもんのじよう)前後不覚にぞ飲酔たる。夫をば帳台の奥にかき臥て、我身は髪を濡し、たぶさに取て烏帽子(えぼし)を枕に置、帳台の端に臥て、今や/\と待処に、盛遠夜半計に忍やかにねらひ寄、ぬれたる髪をさぐり合て、唯一刀に首を斬、袖に裹て家に帰、そらふしして思けり。嗚呼(ああ)終の禍事由なく、肝もつぶさず鎮ぬるこそ嬉けれ。年来日来諸々の神々廻行祈る祷の甲斐ありて、本意をとげぬる嬉しさよ、昔も今も神の御利生厳重也、春日八幡賀茂下上、松尾平野稲荷祇園に参つゝ、賽せんとぞ悦ける。爰郎等一人馳来て申様、不思議の事こそ候へ、何者(なにもの)の所為やらん、今夜渡左衛門殿(さゑもんどの)の女房の御首(おんくび)を切進て侍る程に、左衛門殿(さゑもんどの)は口惜事也とて、門戸を閉て臥沈給へりと披露あり、吊には御渡候まじきやらんと云ければ、穴無慙や、此女房が夫の命に代りけるにこそと思て、首を取出して見れば、女房の首也。一目見より倒伏、音も不(レ)惜叫けり。三年の恋も夢なれや、一夜の眤も何ならず、落る涙にかきくれて、身の置所(おきどころ)もなかりけり。其(その)日(ひ)も暮ぬ。盛遠起居て、つく/゛\と諸法の無常を観けり。生ある者は必ず死すればこそ、三世の仏も炎の煙を示し給ふらめ、会事有りて別るればこそ、上界の天人も退没の雲には悲む(有朋上P635)らめ、況下界をや、凡夫をや、夫婦の契前後の怨み世の習也、人の癖也、されば是は然べき善知識也、非(レ)可(レ)歎、あかぬ別の妻故にこそ、道心を発すためしは多かりけれ、神明三宝の御利生也と思切、明ければ例よりも尋常に出立ちて、郎等あまた相具して渡が家へ行たれば、門戸を閉て音もせず。門を扣て盛遠参たりといはすれば、戸をとぢながら
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内より答けるは、御渡悦存候、但面目なき事なる間、向後は人々に見参せじと云願を発せり、御帰あるべしと云。盛遠重て云けるは、女房の御首(おんくび)切て候奴を聞出して、かしこへ打向ひつゝ、搦捕て参つる程に、遅参仕候、急ぎ門を開給へと云ければ、歎中にも嬉て、門を開て入れたり。左衛門尉(さゑもんのじよう)は、頭もなき女房の傍に臥沈たり。盛遠は走寄、御敵具して参たり、先御首(おんくび)御覧ぜよとて、懐より女房の首を取出して其の身に指合て、腰刀を抜て左衛門尉(さゑもんのじよう)に与て、盛遠が所為也、和殿の頸を掻と思たれば、係事を仕出したり、余に心憂ければ自害せんと思へ共、同は御辺(ごへん)の手に懸りて死なん、さこそ本意なく思給らめ、疾々切給へとて、頸を延てぞ居たりける。渡は、刀は我も持たれば人の刀に依べからず、但加程に思はん人の頭を切に及ばず、又自害し給(たまひ)ても其詮なし、是も然べき善知識にこそ有けめ、唯御辺(ごへん)も我も、無人の後世を弔、一仏土の往生こそあらまほし(有朋上P636)挿絵(有朋上P637)挿絵(有朋上P638)けれ、今生我執を起して、来世苦難を招ん事、自他互に由なし。倩是を案ずるに、此女房は観音優婆夷の身を現じて、我等(われら)が道心を催し給ふと観ずべしとて、渡自刀を抜て先髻を切てげり。盛遠是を見て、渡を七度礼拝して、是も髪をぞ切てげる。此形勢(ありさま)を見ける者、男女の間に三十(さんじふ)余人(よにん)ぞ出家しける。衣川の女房も尼に成て、真の道に入けれども、恩愛前後の悲は、いつ晴べし共覚えず。彼女房消息(せうそく)細々と書て、手箱に入て形見に留む。是をひらき見れば、去ぬだにも女は罪深しと承り侍るに、憂身〔の〕故にあまたの人の失ぬべければ、我身を失候ぬ、独残留御座(おはしまし)て、歎思召(おぼしめさ)ん事こそ痛しく侍れ。何事も然べき事と申ながら、先立進ぬる
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悲さよ、相構て後の世よく弔て給らん。仏になり侍なば、母御前をも渡をも、必迎奉るべし。よろづ細に申度侍れども、落涙に水茎の跡見え分ずとて、
露深き浅茅が原に迷ふ身のいとゞ暗路に入るぞ悲しき K110
と、母これを披見に付ても、目もくれ心も消て、悶え焦ける有様(ありさま)は、実に無(二)為方(一)ぞ見えける。深淵の底猛き炎の中なりとも、共に入なんとこそ思ひしに、こは何としつる事やらん、老て甲斐なき露の身を、葎の宿に留め置、いかにせよとて残らん、昨日を限と知(有朋上P639)たりせば、などか飽まで見ざるべき、同道にと口説けども、帰らぬ旅の癖なれば、更に答事なし。せめての事に母泣々(なくなく)、
闇路にも共に迷はで蓬生に独り露けき身をいかにせん K111
と、娘の文に書そへてぞ詠じける。其後母は尼になり、天王寺に参篭して、唯疾命を召し、浄土(じやうど)に導給へ、救世観音、太子聖霊悟を開て、無人の生所を求め、一仏蓮台の上にして、再び行合はんと祈念しければ、次の年十月八日、生年四十五にて目出(めでた)き往生を遂にけり。左衛門尉(さゑもんのじよう)渡は、僧を請じ剃(レ)髪、三聚浄海を受持て、俗名に付たりし渡と云文字にて、渡阿弥陀仏(とあみだぶつ)とぞ申ける。生死の苦海を渡て、菩提の彼岸に届かん事を志、渡阿弥陀仏(とあみだぶつ)とも云けるにや。遠藤武者も入道して、在俗の時の盛遠の盛(じやう)をとり、盛阿弥陀仏(じやうあみだぶつ)と云けり。失にし女の骨を拾後園に墓を築、第三年の間は、行道念仏して、不(レ)斜(なのめならず)弔けるとぞ承る。去ばにや、夢に墓所の上に蓮花開て、袈裟聖霊其上に坐せりと見て、さめて後
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歓喜の涙を流しけり。其後盛阿弥陀仏(じやうあみだぶつ)、日本国(につぽんごく)を修行して、求法の志最苦也。斯かりしかば智者になり、盛阿弥陀仏(じやうあみだぶつ)を改て文覚と云、利根聡明にして有験世に勝れたり。さる知法効験の時までも、昔の女の事思出て、常は衣の袖を絞けり。若や慰とて彼女の(有朋上P640)影を移て、本尊と共に頸に懸て、恋しきにも是を見、悲にも是を弔ひけるこそ責ての事と哀なれ。
< 懸かるためしは異国にも有けり。昔唐に東帰の節女と云けるは、長安の大昌里人と云者が妻也けり。其夫に敵あり、常に伺けれ共、殺す事叶ず。かたき節女が父を縛て、女を呼びて云、汝が夫は我が大なる敵也、其夫を我に与へずば、汝が父を殺さんと云ひければ、女答曰、妾夫を助ん為に、争生育の父を殺させん、速に汝が為に、妾が夫を殺さしめん、妾常に楼上に寝ぬる、夫は東首に臥、妾は西を枕とす、須来て東首を切れと教て、家に帰つて思はく、父に恩愛の慈悲深し、夫に偕老の情の浅からず、夫の命を助けんとすれば父の命危し、父が身を育まんとすれば、夫の身亡びなんとす、不(レ)如父を助けんが為に、夫を敵に与へつ、我又夫が命に替らんとて、自東首に伏して、夫を西に枕せり。敵伺入つて、忽(たちまち)に東首を切て家に帰りて、朝に是を見れば非(二)夫首(一)して、妻が頭也。敵大に悲て、此の女父の為に孝あり、夫が為に忠あり、我いかゞせんと云、終に節女が夫を招て、長く骨肉の眤をなしけり。夫婦が語ひとり/゛\なり。彼は今生の契を結び、是は菩提の道に入にけり。>(有朋上P641)
S1902 文覚頼朝(よりとも)対面附白首附曹公尋(二)父骸(一)事
抑文覚配流の後、篭居したる所をば奈古屋寺と云。本尊は観音大悲の霊像也。効験無双の薩■[*土+垂](さつた)也ければ、国中(こくぢゆう)の貴賤参詣隙なし。其上文覚、我目出(めでた)き相人也と披露しければ、事を御堂詣によせて、男女多く入集て相せらる。向後は知ず過こし方は露違はず、有難相人也と云。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、胡馬北風に
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嘶え、越鳥南枝に巣くふ習にて、都の人の床しさに、行て物語(ものがたり)し、身の相をも聞ばやと思召(おぼしめし)けれ共、人目もいぶせく機嫌も知らざりければ、思ひながらさてのみ過る程に、文覚が庵室と、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の館とは、無下に近き程也ければ、藤九郎盛長を以て、先文覚が弟子に相照と云僧を被(レ)招けり。則参たれば、佐殿遥(はるか)に花の都を出されて、角草深住居なれば、都の方も恋しかりつるに、何事共か侍と宣。相照京白川の有様(ありさま)より、藤氏平家前官当職、公家仙洞事に至るまで、はる/゛\と申けり。さて佐殿、上人に見参せばやと相存、いかゞ有べきと宣へば、相照、いと安事にこそ、庵室へ入給べきか、又被(レ)召べきか、但物狂の人にて、悪様にや御目に懸候はんずらん、其条こそ恐入たれと申。物狂とはいかにと御座やらんと問給へば、相照、師匠の事にて候へ共、(有朋上P642)うつゝ心なくして、或(ある)時(とき)は高声多言にして、傍若無人也、或(ある)時(とき)は柔和神妙(しんべう)にして禅定に入が如く也、時雨の空の晴陰る様に、紅葉の秋の濃薄が如く、取定めぬ心にて、三尺計なる榊の枝をあまた用意して、是非なく人を打侍る間、弟子共四五十人もや出入侍ぬらん、余に打程に、堪ずして皆逃失て今は一人も侍らず、此間こそ三十計なる僧の同宿せんとて見え候を、さのみ打侍る程に、彼僧腹立して、親は子を育、師は弟子を憐習也、同宿なればとて、咎なき者を角しもや打つべきとて杖を奪取、上人が頭血の流るゝほど打返す、上人頭押さすりて、此法師は神秘ある者也、法師程の者を打返は直者に非じ、文覚を打返たれば、和法師をば文覚といはんとて、同宿したる者計こそ候へ、大方うつゝ心なき人にて侍ると申す。佐殿打笑て、其意を得てこそ見参せめと
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宣へば、相照庵室に帰りて、此由文覚に語ければ、来給へかしと云。相照又立帰て、佐殿に申せば、盛長を召具して、上人が庵室へ渡り給ふ。文覚目も懸ず、詞も出さず、佐殿の御座(おは)する処を、黒脛かゝげ、うわげけはきて、前へ後へ通、行事四五返して後に、障子の内に入て、頭ばかりを指出して、両目にては睨、片目にては睨、立上ては睨、さしうつぶきては睨。佐殿は今や打/\、いかに打共こらへなん、実に堪へ難は逃んと被(レ)思て、面も損ぜず身もは(有朋上P643)たらかさず、掻刷て良久御座(おはし)ける。文覚は遥(はるか)に加様にため見て、障子をさとあけて佐殿の前に出合て、戯呼御辺(ごへん)は、故下野殿の三男とこそ見奉れ、歳のかさなるとて、以外にくまれ給(たま)ひけり、糸惜糸惜とて、やがてはら/\と泣て、切て継たる様に強に畏て礼儀しけり。佐殿は聞つる如く、げにも尋常ならず思はれけり。文覚良有て云けるは、法師日本国(につぽんごく)修行して、在々所々に六孫王の末葉とて、見参するを見るに、大将と成て一天四海を奉行すべき人なし。或は心勇て、人思付べからず、或は性穏して人に無(二)威応(一)、穏して威なきも身の難也、勇みて猛きも人の怨也、されば威応ありて穏しからんは、国の主と成べし。殿を見奉るに、心操穏して、威応の相御座、是は者の思付相也、項羽は心奢て帝位に不(レ)昇、高祖は性おだしくして諸侯を相従へり。御辺(ごへん)は後憑しき人や、目出し/\と嘆たり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)是を聞、壁に耳、石に口、人や聞らん、恐し/\と被(レ)思ければ、其(その)日(ひ)は館に帰給(たま)ひぬ。其後は佐殿も忍て時々通給ふ。文覚も又折々は参じけり。日来よく/\相馴て、文覚重て申けるは、良佐殿、源平両家は相互に、一天の守護、四海の将軍たり
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き。而に太政(だいじやう)入道(にふだう)、一旦の果報に引れて、天下を管領すれども、悪逆無道(あくぎやくぶだう)にして、宿運既(すで)に尽たり、家を続べかりし小松内府、日本(につぽん)に相応せず、一門に過分して薨給ぬ、其(有朋上P644)弟共あまた有といへ共、世を治べき仁なし、今は何事か侍べき。御辺(ごへん)は大果報の後憑しき人也。文覚相し損じ奉るまじ、法師が目凡夫の眼に非ず、左は大聖不動、右は孔雀明王(みやうわう)の御目也。人の果報をしり、日本国(につぽんごく)を照し見事掌の中也。疾々謀叛を発し、平家を打亡して、父の恥をも雪、又国の主共成給へ、〈 漢書 〉天与不(レ)取反受(二)其咎(一)、時至不(レ)行反受(二)其殃(一)と云事あり、運の開給べき時至給へり、沈過し給ふべからず、急給へ/\と細々と申。兵衛佐(ひやうゑのすけ)聞給(たまひ)ては、此上人は心際怖しき者にて、角語はん程に、左右なく心とけて、謀叛をも起さんといはば、頼朝(よりとも)が首を取て平家にとらせ、己が罪を遁れんと謀にもやあるらんと思はれければ、我身は勅勘を蒙りたれば、日月の光に当るだにも憚あり、池殿尼御前に身を助けられ奉りて、たもち難かりし命の、今までながらへるも、併彼御恩也、されば争か弓矢を取りて平家に向侍べき、又世の末に左様の腹黒などあらせし料に、国に下付なば、狩漁すべからず、人の為に慈悲有べし、不用の名立べからず、事に於て穏便にして、経をよみ仏を唱へて、父の菩提をも弔、我後生をも助るべしなど、差も仰を蒙侍き。実に栄花栄耀にほこる共、一期の作法程なし。意執我執を存ぜん事、三途の苦悩難(レ)遁、然べき善知識の仰と思とり侍しかば、毎日に法華経(ほけきやう)二部転読して、父母親属、殊(有朋上P645)には池尼御前の菩提を弔奉るより外は、営む事候はず、悪事など思寄ざる事也と宣へば、文覚懐より白き布袋
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の少し旧たるに、裹みたる物を取出して、やゝ佐殿、是ぞ故下野殿の御首(おんくび)よ、法師獄定せられたりし時、世に立廻らば奉らんとて盗みたりき。赦免の後は、是彼に隠したりしを、伊豆国(いづのくに)へ被(レ)流べきと聞しかば、定て見参し奉らんずらん、さては進せんとて頸に懸て下たりき。日比(ひごろ)は次で悪く侍つれば、庵室に置奉て候き。国こそ多所こそ広きに、当国へしも被(レ)流けるは、然べき佐殿の父の骸に見参し給ふべき事にやと、哀にこそ候へ、其進ぜんとて、はら/\と泣きけり。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)是を見給(たま)ひて、一定とは不(レ)知ども、父の首と聞より、いつしかなつかしく思ひつゝ、泣々(なくなく)是を請取て、袋の中より取出して見給へば、白曝たる頭也。膝の上にかき居奉て、良久ぞ泣給ふ。此下野守には、子息あまた御座(おはしま)せし中に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)を鬼武者とて、十ばかりまでも、膝の上に居ゑて、愛し給し志の報にや、今は其骸を請取て、ひざの上に置奉りて、眤じく覚え、其後ぞ深合体し給ける。志合則胡越為(二)昆弟(一)、由余子臧是、不(レ)合則、骨肉為(二)讐敵(一)、朱象管蔡是、只志を明とせり、必ずしも親を明とせずとぞ、文覚常には申しける。
< 昔大国に、曹公と云し者の父、秦泉河と云川を渡けるに、流烈波高して、舟覆水に溺て失にけり。曹公(有朋上P656)歎悲て、彼秦泉河の底に入て、父が骸を尋けるに、水神憐(レ)之、曹公を相具して其骸の流寄たる所に行、十五里を下て、柳原の下に被(二)推上(一)たりけるを与たりければ、曹公泣々(なくなく)父の骸を懐て臥てかくぞ云ける。
昔惜(二)身命(一)、為(レ)報(二)高恩(一)、 今双(二)遺骨(一)為(レ)休(二)恋慕(一)
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とて、亡父の骸を懐臥ながら、曹公七日に死けり。遠近人も是を見て、皆涙をぞ流しける。昔の曹公は骸を懐て臥、今の頼朝(よりとも)はひざに安して泣、彼は十五里を去て、水神与(レ)之、是は廿余年を経て、文覚持来れり。恩愛骨肉の情、とりどりに哀也。>
S1903 文覚入定京上事
文覚佐殿に申けるは、我神護寺造営の志ありて、院(ゐんの)御所(ごしよ)を勧進し奉りしに、辛目をみるのみに非ず、流罪の宣旨を蒙る時、心中に発願の占形をする事は、我必神護寺を造営成就(じやうじゆ)すべき願望をとげんならば、配所へ下著まで断食せんに、死すべからず、其事難(レ)叶ならば、途中に骸をさらすべしと誓たりしが、仏神加護して建立(こんりふ)成就(じやうじゆ)すべきにや、三十一日に此所に下著したり、疾々平家を打亡して後、且は父の菩提のため、且は文覚が(有朋上P647)本意の如大願を果し給へといへば、佐殿は、頼朝(よりとも)勅勘を免されずしては、何事も其恐有べしと宣ふ。文覚誠に思立給はば、京に上り院宣を申べしと云ひければ、佐殿は御免の院宣を給り、平家追討の勅命を蒙らば、争思立ざるべし、但御辺(ごへん)も勅勘の身也、いかがはと宣ふ。文覚は忍て上洛すべきとて、国中(こくぢゆう)に披露する様、七箇日入定とて、方丈の庵室を造り、三方をば壁にぬり、一方に口一つ開て、中に縄床を居ゑ、入定の後には戸を立て外より鎖をさせと約束せり。斯りければ、奈古屋の上人の入定とて、国中(こくぢゆう)の貴賤市の如くに集て是を拝む。文覚は縄床に上、結伽趺坐して、大日の印相を結で、睡れるが如なり。誠貴ぞ見えける。終日拝れて後は、弟子の僧約束に任て、扉を閉外より鎖をさす、入定の後も毎日に人多く来拝む。文覚は夜に入て方丈の板敷の下より、我仮屋の庵室へ、地の底を掘て、通道を構たり。彼穴より這出て夜に紛て上洛す。新都福原の楼御所に参て、院
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の近習者に前兵衛督光能(みつよし)と云人は、文覚には外戚に付てゆかり也、其人の許に行向て申けるは、伊豆国(いづのくに)の流人兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)こそ、朝家の御歎、天下の牢籠を承て、院宣を下給るならば、東八箇国の家人催集て、都に上平家を亡し、仙洞の被(二)打籠(一)御座、逆鱗をも休め奉り、国土をも鎮侍なんと申。言に合て事の様伺見に、よそ目には勅勘の者とて憚様(有朋上P648)なれ共、内心は皆通用せり、況院宣など被(レ)下なば、大名小名誰か一人も背侍るべき、いつとなく御心苦き御目を御覧ぜんより、院宣を被(二)免下(一)よかしと奏し給へと語。光能(みつよし)宣(のたまひ)けるは、実に君も被(二)打籠(一)御座(おはしま)して、世の御事不(二)知召(一)、さこそ御心憂思召(おぼしめす)らめ、我も宰相、右兵衛督(うひやうゑのかみ)、皇太后宮(くわうたいごうぐう)の権大夫、此三官を止られて歎居たり。頼朝(よりとも)左様に申らん事、帝運の再堯舜の代に改らん事こそ嬉けれとて、密に御気色(おんきしよく)を伺ひけり。然べき御事にやとて御免有ければ、即光能(みつよし)奉て、院宣を書て給にけり。文覚是を給(たまひ)て、上下向八箇日に、伊豆に著、今日は出定の日也とて、又国中(こくぢゆう)の男女雲霞の如くに集て拝んとす。弟子の僧、鎖をはづして戸を開たり。威儀不(レ)乱、定印不(レ)違、髪生のびて痩黒たり。弟子銅の鈴を以て、入定の前にて二つ是を鳴す。文覚鈴に驚て出定せり。見人いよ/\仏の如くに貴みけり。角て兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)の許に行向て申けるは、院宣はよく/\申さば賜気也、今は安堵し給へ、勢を語ひ給へと云。佐殿は縦院宣を手に把たり共、斯かる有様(ありさま)には左右なく人同心すまじ、況未(レ)給さきに叶ふべからず、そも不定なる由なき上人の云事に付て、此事顕れなば、再憂目をや見るべかるらんと宣へば、文覚は申固めて下たり。肝を
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つぶし給(たま)ひそ、法皇の仰には、頼朝(よりとも)左様に憑しく申なれば、子細にやと被(二)仰出(一)けり。又京(有朋上P649)上こそ煩しけれ共、佐殿の本意の叶ふ、かなはぬをば、唯文覚が計ひ也、其に取て我此国へ被(二)流罪(一)事も、高雄の神護寺造立の故也、又院宣を給らん事も、御辺(ごへん)の力にて、彼寺をや造んと云所存也、されば院宣を急ぎ給らんと思給はば、高雄へ庄園を寄進有べしと云ければ、佐殿は我身だにも安堵せずして、いかにとして奉べしと宣ふ。文覚が計に随て、はや寄給へと云。佐殿は我軍に勝て、日本国(につぽんごく)を手に把ば、一国二国をも乞によるべしと宣へば、文覚は手にとり得つれば、必惜き事也、なき物は惜からず、国も広博也、唯所知を十余所寄進し給へとて、紙硯取向、丹波国には、新庄、本庄、雀部、宇津、縄野、播磨国には、五箇庄、土佐国には、高賀茂郷を始として、十三箇所を選出し、それ/\と云ければ、佐殿鼻うそやきて被(レ)思けれ共、寄進状を書判形を加て、文覚に給ふ。文覚ほくそ咲て、あゝ御辺(ごへん)は以外に心広き人哉、我物顔にいみじく寄給へり、其荒涼にては、一定天下の主と成給なん、されば院宣進つらんとて、懐より文袋を取出し、中なる院宣を進る。佐殿は手洗嗽、浄衣に紐さしなどして、是を披見し給(たま)ひけり。
S1904
其状に云、
早可(レ)追(二)討清盛(きよもり)法師并一類(一)事
右君子不(レ)直人者、令(二)民成(一)(レ)愁、姦臣在(二)于朝(一)者、賢者不(レ)進、彼一類者、啻非(レ)忽(二)緒朝(有朋上P650)家(一)、失(三)神威与(二)仏法(ぶつぽふ)(一)、既為(二)仏神之怨敵(一)、亦為(二)王法之朝敵(一)、仍仰(二)前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりともの)朝臣(あそん)(一)、宣(下)令(三)追(二)討
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彼輩(一)、早退(二)怨敵(一)、奉(レ)安(中)宸襟(上)矣、依(二)院宣(一)執達如(レ)件。
治承四年七月五日 散位光能(みつよし)奉
謹上、前(さきの)右兵衛権佐殿(うひやうゑのごんのすけどの)とぞ被(レ)書たる。
S1905 義朝(よしとも)首出(レ)獄事
抑昔武蔵権守平将門(まさかど)已下の朝敵の頭共は、両獄門に納らる。文覚争義朝(よしとも)の首をば可(二)盗取(一)、是は兵衛佐(ひやうゑのすけ)に謀叛を勧んが為に、奈古屋が沖に曝たる頭の有けるを以て、仮初に偽申たりける也。実には父義朝(よしとも)の首獄門に有よし聞給ければ、世静て後、文覚上人を使として、奏聞して申し賜給けり。彼首は東の獄門の前の、樗木に係たりけるを、紺五郎と云紺掻の有けるが、下野守在生の時は、折々に参りて、深く憑み申ければ、不便の者に被(レ)思けるが、其情を忘れず博士判官兼成に付て、年来哀不便と思召(おぼしめ)す人也。久獄門に被(レ)梟て、曝(レ)恥給事目もあてられず悲侍、今は被(二)納置(一)候へかし、孝養仕らんと申たりければ、兼成大理に申御免有て、紺五郎申給(たまひ)て、左の獄門の乾の角に墓を築て埋た(有朋上P651)りけるを、今度掘り起して見ければ、額には義朝(よしとも)と云銅の銘を打たり。正清が首も同く在けり。左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)には贈官あり、補(二)太政大臣(だいじやうだいじん)(一)、首をば蒔絵の手箱に入て、錦袋に裹、文覚上人頸に懸たり。正清が頭をば檜木の桶に入て、布袋に裹、弟子の僧が懸(レ)頸、公家より御使には、宮内判官公朝を副られたり。文覚下ると聞えければ、御迎にとて、御迎片瀬川まで参たり。既鎌倉に下著有ければ、佐殿は庭上に下り向給(たまひ)て、上人の馬の口を取給ふ。只今(ただいま)父下野守殿の入給と思ひ給けるにや、涙を流して左の
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袖をひらきてぞ、義朝(よしとも)の首をば請取給(たま)ひける。正清が首をば娘ぞ是を請取ける。哀は何もとりどり也。大名小名皆庭上に下り居つゝ、各袖を絞けり。誠会稽の恥を雪めたりとぞ見えたりける。後にこそ角は有けれ共、初には父の首と語ければ、哀に嬉覚て、上人に心を打解て、此院宣をば給けり。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は院宣拝奉て、先都の方に向、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)を伏拝奉りけり。
S1906 聞性検(二)八員(一)事
伊豆山に、聞性坊阿闍梨(あじやり)某と云僧は、兵衛佐(ひやうゑのすけ)年比の祈の師也ければ、急使を遣て招請あり。阿闍梨(あじやり)何事哉覧と胸打騒て馳来れり。宣(のたまひ)けるは、頼朝(よりとも)勅勘に預て年久し、今平家(有朋上P652)を追討すべき由、院宣を蒙れり、是御坊の祈誓に酬と存ず。就(レ)之故親父下野守の為に、法華経(ほけきやう)千部転読の願を発して、既(すで)に八百部の功を訖て、今二百部を残せり。部数を満とすれば、二百部の転読月日を重ぬべし、平家の漏聞て、討手を下さばゆゝしき大事也。宿願を果さずして合戦の企あらば、源平の乱逆に懈有て、報恩の志空や成侍らん、此事進退きはまれり、よく計ひ給へと有ければ、阿闍梨(あじやり)暫案じて云く、八は悉地の成ずる数也、二百部の未(レ)読更に事闕侍るべからず、八百部の己読、最嘉例と云つべし。何にとなれば、釈迦如来(しやかによらい)は、八正慈悲の門より出て、八相成道の窓に入、八十の寿命を持て、八万の法蔵を説給へり。衆生本覚の心蓮は、八葉の貌也、一乗(いちじよう)妙法の首題も、八葉の蓮也、八角の幢は極楽の瑠璃治、八徳の水は宝国の金砂池に湛たり、宗に八宗、戒に八戒あり、天に八天、竜に八竜あり、八福田あり、八解脱あり、伏犠氏の時には亀八卦の文を負て来る、人の吉凶を占へり、高陽高辛の代には、八元(はちげん)八凱(はちがい)の臣を以て、天下を治むと見えたり。
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穆王は八匹の天馬に乗て、四荒八極に至り、老子は八十年胎内にはらまれて、明王(みやうわう)の代を待けり。内外に住す処是多し。就(レ)中(なかんづく)諸経の説時不同にして、巻軸区に分れたれ共、法華は八箇年に説て、八軸に調巻せり。薬王菩薩は、八万の塔婆を立て、臂(ひぢ)を(有朋上P653)妙法に焼、妙音大士は、八万の菩薩と来て、耳を一乗(いちじよう)に欹てり。況又御先祖貞純親王の御子、六孫王の御時、武勇の名を取つて、始て源氏の姓を給しより以来、経基、満仲(まんぢゆう)、頼信、頼義(らいぎ)、義家(よしいへ)、為義(ためよし)、義朝(よしとも)、佐殿まで八代也。又故伊予守頼義(らいぎ)三人の男を三社の神に奉る。太郎義家(よしいへ)石清水、次郎義綱賀茂社、三郎義光新羅の社、其中に佐殿正縁として八幡殿の後胤也。八幡宮の氏人也。日本国(につぽんごく)広し、東八箇国の中に被(レ)流給も子細あり、文覚上下往復の間、八箇日に院宣を披見給ふも不思議也、されば八百部の功既終給(たま)へらば、本意をとげ給べき員数也。急思立給へ、時日を廻し給な。去ば軍のうらかたには、先当国の目代(もくだい)、八牧の判官を被(レ)討べし。今二百部は追の転読と申ければ、佐殿よに嬉しげにて、師僧の教訓は神明の託宣にやとて、当国には伊豆箱根に立願の状を捧て、即聞性坊阿闍梨(あじやり)を以て啓白し、其外様々の立願、社々におこされけり。八百部の転読かつ/\供養有べしとて、飲食に能米八石、衣服に美絹八匹、臥具に筵枕に八、医薬に様々の薬八裹あり。已上四種の供養の上に、又四種を被(レ)副たり。砂金八両、壇紙八束、白布八端、綿八箇、都合八種の布施也。八は悉地の成ずる由申つゞくるに依也。如(レ)此調て、且は先考の菩提に廻向し、且は後代の繁栄を祈誓有べしとて、伊豆山の聞性坊へ被(二)送遣(一)(有朋上P654)けり。誠に銘々敷見え
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けり。
S1907 兵衛佐(ひやうゑのすけ)催(二)家人(一)事
さて北条を召て、平家追討の院宣を給りたれ共、折節(をりふし)無勢也、いかがすべきと宣へば、時政悦申けるは、東八箇国には、党も高家も、大名小名君の御家人ならぬ者は候はず、去共平家世を取に依て、暫身命を続んとて、一旦平家に相従計也、思召(おぼしめし)立給はば、誰か参ざらん。就(レ)中(なかんづく)今便を得たりと覚ゆる事は、伊藤右衛門尉忠清(ただきよ)被(二)配流(一)、上総国の時、介八郎広常志を尽し、思を運て賞翫し、愛養する事甚し。而に忠清(ただきよ)厚免を蒙て、上洛後、忽(たちまち)に芳恩を忘て、還て阿党をなし、広常を平家に讒て、所職を奪とする間、子息能常参洛して、子細を申といへ共、猶広常を召間、含(レ)憤恨をなす折節(をりふし)也。甘言を以て召れんに、是能隙なり。千葉介経胤、三浦介義明は、其性有(レ)義不(レ)戻、其心有(レ)信不(レ)頑、為(二)一族之長(一)、已為(二)衆兵之頭(一)、何奉(レ)背(二)真旧之主(一)、豈可(レ)与(二)違勅之賊(一)乎、早被(レ)遣(二)専使(一)、院宣之趣を可(レ)被(二)仰合(一)、土肥、土屋、岡崎の輩は、元来給仕し奉る上は、広経、経胤、義明三人御方に参なば、八箇国之輩、縦あやぶむ心ある者多と云ども、皆身の勢なければ、(有朋上P655)一人抜出て背奉らんと仕者有べからず、八箇国帰伏し奉らば、北国西国(さいこく)の輩、手を降参ぜん事疑なし。此に相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)大場三郎景親は、既(すで)に三代相伝の御家人なれ共(ども)、当時平家重恩のものにて、其(その)勢(せい)国に蔓れり。又武蔵国住人(ぢゆうにん)畠山庄司重能、小山田別当有重、平家の大番勤て侍なれば、重能が男重忠、有重が男重成、固可(レ)奉(レ)背、其(その)勢(せい)景親に劣るべからず、今事を企て勝負を決せん事、彼輩に有とぞ申ける。其言実ありて、其詞弁有ければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)も深く信じ給(たま)ひけり。時政若知(二)天之時(一)歟、将又得(二)兵之法(一)歟、其詞一事も違事
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なかりけり。昔晋文信勃■(ぼつてい)之言以、旧威愕、斉桓用(二)管仲之計(一)、以天下を匡せりき。今頼朝(よりとも)と時政と、合体同心して、廻(二)籌於氈帳之中(一)、烏合群謀之賊束(二)手於軍門(一)、決(二)勝於島夷之外(一)、狼戻返逆之徒伝、首於(二)京都(一)、天下遂平定、海内永一統せり。誠哉得(二)其人(一)則其国以興、失(二)其人(一)則、其国以亡といへる事は。治承四年八月三日、佐殿北条に被(レ)仰けるは、軍立ならば国々怱々にして、在々所々の八幡の御放生会、及(二)違乱(一)事冥の恐あり、十五日以後其沙汰有べしと被(二)下知(一)けり。斯りければ重代の家人等(けにんら)、内々此事聞者は、忍て夜々(よなよな)に参集る。(有朋上P656)
S1908 佐々木取(レ)馬下向事
其中に故(こ)左馬頭(さまのかみ)の猶子に、近江国の住人(ぢゆうにん)、佐々木源三秀義が子共、平治の乱の後は、此彼にかゞまり居たり。太郎定綱は、下野宇都宮にあり、次郎経高は、相模の波多野にあり、三郎盛綱は、同国渋野にあり、四郎高綱は都にあり、五郎義清は大場三郎が妹聟にて相模にあり。其中に高綱は心も剛に身も健也。姨母に付て都の東、吉田辺に有ければ、世に随習也。平家に奉公もすべかりけれ共、思けるは、父秀義は故(こ)六条(ろくでうの)判官(はんぐわん)為義(ためよし)に父子の儀をなされて、代々一門の好をなす。淵は瀬となる世の中也。あるやうあらんずらんとて、姨母に養れて居たりけるが、佐殿謀叛を起給と聞て、嬉事に思つゝ、姨母ばかりに暇を乞、偸に田舎へ下けり。世になき身なれば、馬もなき次第、脛巾に編笠を著、腰の刀に太刀かづきて、京をば未明に出たれ共、不(レ)習歩道なれば、なへぐ/\其(その)日(ひ)は守山の宿に著、知たる者に馬をも乞、乗ばやとは思へども、都近程也、世中つゝましく思ければ、さもなくて暁は守山を立、野州の河原に出ぬ、如法暁の事なれば、旅人も
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未(レ)見けるに、草鞍置たる馬追て男一人見え来る。高綱、和殿はいづくの人ぞ、何へ渡るぞ(有朋上P657)と問へば、是は栗太の者にて候が、蒲生郡小脇の八日市へ行く者也と答。名をば誰と云ぞと問へば、男怪気に思て、左右なく明さず。兎角誘へ問ければ、紀介とぞ名乗たる。高綱は、やゝ紀介殿、此河渡ん程、御辺(ごへん)の馬借給へかし。紀介叶候はじ、遥(はるか)の市より重荷を負せて帰らんずれば、我も労て不(レ)乗馬也、又今朝の水のつめたき事もなし、唯渡り給へと云。紀介殿たゞ借給へかし、悦は思当らんと云ければ、紀介思様、此人の馬のかりやう心得(こころえ)ず、歩徒跣にて誰共知ず、我身だにも合期せぬ人の、何事の悦を賀し給べき、去共借さずして悪き事もやと思ければ借てげり。高綱馬に打乗、此馬こそ早我物よと思つゝ、空悦して野州川原を渡つゝ、鞭を打てぞ歩せたる。紀介は馬に後じと走けり。はや下給へ/\、河ばかりとこそ宣つるにと云へ共、此にて下彼にて下とて、篠原堤まで乗て行。商人馬の癖なれば、肢爪竪してなづまざりけり。哀是だにも有ならば、下著なんと思けるに、紀介は馬を乞侘て、下給はぬ物ならば、馬盗人と叫ばんと云。高綱、此事穏便ならず、左様にも謂れなば、恥がましき事有りなん、さらば下なんとて馬より下けるが、馬なくては難(レ)叶、いかゞすべきと案じて、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)世に御座(おはしま)さば、近江国は我物也、紀介が後生をこそ弔はめ、指殺て馬を取んと思て、やゝ紀介殿、馬奉んとて近く呼(有朋上P658)よせたり。八月上旬の事也。秋の習の癖なれば、朝露籠てよそ見えず、上下の旅人も無りけり。高綱腰の刀を抜持て、紀介を取て引寄つゝ、太腹に刀指通し、傍なる溝に打入て、荷鞍に乗て鞭を打、武佐宿にて知たる
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者二鞍を乞、夜を日に継て下けり。馬も究竟の逸物也、更に泥事なくて、伊豆国(いづのくに)へぞ下にける。さてこそ今の世までも紀介が後生をば吊ふなれ。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に見参に入奉たれば、祖父故(こ)六条(ろくでうの)判官(はんぐわん)、各の親父佐々木殿と、父子の儀を奉(レ)成上は、万事阻なく憑存ずれ共、世になき身なれば思出侍らず、聞あへ給はず下向〔の条〕、返々神妙(しんべう)なり、平家を亡て世に立給はん事は、併人々の力を憑む也、さてさて兄弟の殿原〔達を〕尋給へと被(レ)仰ければ、高綱旁人をぞ遣ける。太郎定綱は下野国宇都宮より馳上、次郎盛経は相模国(さがみのくに)、波多野より馳参、三郎盛綱同国渋谷より馳来る、兄弟四人佐殿を守護し奉る。誠に一人当千(いちにんたうぜん)の武者、あたりを払て見えたりけり。五郎義清はいかにと尋給へば、大場三郎が妹に相具して候へば、人の心難(レ)知侍り、志思進せば、参らんずらん、左右なく知せじと存也とて不(レ)呼けり。
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十
P0482(有朋上P659)
禰巻 第二十
S2001 八牧夜討事
治承四年八月九日、佐々木源三秀義と、大場三郎景親と見参しける次に、景親佐々木に語て云けるは、駿河国長田入道、上総守忠清(ただきよ)について、太政(だいじやう)入道殿(にふだうどの)に訴申けるは、北条四郎時政は、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)を取立て、謀叛を発すべきの由承及、結構(けつこう)の所存、急御沙汰(ごさた)有べきかと申ければ、入道殿(にふだうどの)の仰には、近日源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)三条宮を奉(レ)勧て、南都に発向して国家を乱し、当家を亡さんと云企あるに依て、宇治にして被(レ)討畢。今又此事を聞上は、惣じて源氏の種を諸国に置べからずと云御気色(おんきしよく)也。されば佐殿の御事も、定て御沙汰(ごさた)有べし、其意を得らるべきなり此間の在京に委承たりと語る。秀義浅猿(あさまし)と思て急ぎ帰て、定綱を以て、密に此事を佐殿に語申たれば、返事には、年来契申しし本意既(すで)に顕れぬ、悦で被(二)告仰(一)たり、相計て左右を可(レ)被(レ)仰也と。
同八月十五日国々八幡の放生会も過ぬ。十六日(じふろくにち)に北条を招て、和泉(いづみの)判官兼隆と云は、平家の傍親和泉守信兼が嫡男也。(有朋上P660)八牧の館にあれば、八牧判官と云。院宣を給る上は、先兼隆を夜討にすべし、急ぎ相計と宣(のたまひ)けり。北条尤然べく候、但今夜は三島社御神事にて、国中(こくぢゆう)には弓矢をとる事候はず、明日十七日(じふしちにち)の夜討也、内々人々可(レ)被(二)仰含(一)とて出にけり。十七日(じふしちにち)の午刻に佐々木太郎定綱を召て、額
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を合て被(レ)仰けるは、頼朝(よりとも)謀叛を起すべきよしを、京都既(すで)に披露有なれば、定て兼隆景親等に仰て、其沙汰有ぬと覚ゆ。されば先試に兼隆を可(レ)誅、我天下を取べくは可(二)討得(一)、運命限あらば、討得事難かるべし、吉凶唯此の事にあらん、今夜則夜討を入べし、舎弟等(しやていら)を相催給へ、事成就(じやうじゆ)あらば、旁の世なるべし、深憑思ふ也と有ければ、定綱は忝被(二)仰合(一)之条、身の面目を極る上は、更に命を惜べからずと申て、舎弟(しやてい)経高、盛綱、高綱等を召集て、日の暮るをぞ相待ける、ゆゝしく見えたり。十七日(じふしちにち)の夜は、忍々に兵共(つはものども)集けり。時政は夜討の大将給(たまひ)て、嫡子宗時に先係させ、弟の小四郎義時、佐々木太郎兄弟四人、土肥、土屋、岡崎、佐奈田与一、懐島平権頭等を始として、家子も郎等も濯汰たる者の手に立べき兵、八十五騎にて、八牧が館へぞ寄ける。佐殿時政を呼返して宣(のたまひ)けるは、抑軍の勝負をば争か知べしと問給へば、時政申て曰、御方勝軍ならば城に火を放つべし、負軍に成て人々討るゝならば、急使者を可(レ)進、静に(有朋上P661)御自害(ごじがい)と申捨てぞ出にける。八十五騎を二手に造る。佐々木兄弟四人は搦手に廻る、北条、土肥、岡崎等、追手也。両方より時を造て、寄たれば、城の内にも時を合す。八牧には折節(をりふし)勢こそ無りけれ。よき者共の有りけるは、伊豆国(いづのくに)、島田宿にて遊ばんとて、十余人(よにん)出ぬ。残者共十人計には過ざりけり。そも俄事にて物具(もののぐ)著にも及ばず、大肩脱にて櫓より落し矢に散々(さんざん)に射る、其中に河内国住人(ぢゆうにん)関屋八郎と名乗て、射ける矢ぞ物にも強くあたり、あだ矢も無りける。寄手も多く被(二)射殺(一)、手負ければ、五六度迄引返引返踉■(やすらひ)居たり。佐々木搦手に廻たりけるが、次郎経高
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後の木戸口(きどぐち)まで攻入て、散々(さんざん)に戦ひける程に、痛手負たりけれ共、尚独城の内に打入て、兼隆が後見に権頭と云ける者が首を取てぞ出たりける。定綱兄弟命を捨て責詰責詰戦けれ共、館は究竟の城(じやう)也、追入追出し戦ければ、午角の軍にて勝負なし。此に当国住人(ぢゆうにん)に加藤太光胤、加藤次景廉とて、兄弟二人あり。是は、
都をば霞と共に出でしかど秋風ぞ吹く白川のせき K112
と云秀歌読たりし、能因入道には、四代の孫子也。彼能因が子息に、月並の蔵人と云ける者、伊勢国(いせのくに)に下て、柳の馬入道が聟に成て、儲たりし子を、加藤五景貞と云き。後には使宣を蒙て、加藤判官とぞ云ける。其子共也ければ、加藤太、加藤次と云。本伊勢国(いせのくに)に住ける(有朋上P662)が、父景貞に敵あり、平家の侍に伊藤と云者也。彼敵を殺して、本国には不(二)安堵(一)、東国に落下て、武蔵国秩父を憑けれども、平家に恐て辞(二)退之(一)、千葉を憑といへども同恐て不(レ)置けり。伊豆国(いづのくに)の公藤介を憑ければ、甲斐甲斐敷請(二)取之(一)、妹に合て為(二)用心(一)憑置。其故は公藤介三戸次郎と云者と中悪して、常に軍しければ、剛の者は一人も大切也、加藤兄弟心際不敵也と見て、軍の方人にせんと思ければ、平家にも不(レ)憚、親く成たりけるが、常に佐殿へ参てたのみ申ければ、阻なく被(二)思召(一)(おぼしめされ)けり。兄弟共に兵也けれども、景廉は殊さらきりもなき剛の者、そばひらみずの猪武者也。折節(をりふし)佐殿には御不審之事有ければ、催には漏たりけれ共、世間も怱々なる心地しける上、頻(しきり)に胸騒のしければ、何事の有やらんと■(おぼつかなく)て、宿直申さ
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んと思ひて、紫威の腹巻に、太刀計を帯、乳母子(めのとご)の州前三郎を相具して、鞭を揚て馳参る。門外にして馬より下、佐殿館の内へつと入。佐殿は小具足付て縁の上に小長刀突立給へり。子細は有けりと覚る処に、佐殿仰には、此間不審の事有て催事なけれ共、見来給ふ条神妙(しんべう)也、高倉宮(たかくらのみや)より平家追討の令旨を給りしかども、宮既(すで)に亡ぬれば、さて過る処に、一院院宣を給(たまひ)て、平家を可(レ)誅也、先兼隆を討とて、北条と佐々木等を遣しぬ、打勝たらば館に火をかくべしと云つるが、いまだ煙も見えず、討(有朋上P663)損じぬるやらん■(おぼつかな)し。折節(をりふし)人のなきに、景廉は是に候へと宣へば、加藤次不(二)聞敢(一)穴心憂、不(レ)参は知せ給まじかりける歟、世間も何となく怱々也つれば、馳参れり、加藤の御大事(おんだいじ)を思召(おぼしめし)立けるに、など景廉には被(二)仰含(一)ざりけるやらん、殿中に人多候へば、我も我もとこそ存ずらめ共、加様の夜討にはさすが、景廉こそ侍べらめ、君に命を奉る、兼隆をば速に討て可(レ)進とて、傍若無人に申散して出る処に、佐殿景廉を呼返して、火威の鎧に白星の甲取具して、其上に夜討には太刀より柄長物よかるべし、是にて敵の首を取て進よとて、小長刀を給ふ。是は故(こ)左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)の秘蔵の物也けるを、流罪の時父が形見にも見んとて、池尼御前に申請て下給(たま)ひたりける也。銀の小蛭巻に目貫には法螺を透して、義朝(よしとも)身を不(レ)放持れたりし宝物なれ共、且は軍を進んが為、且は事の始を祝はんとおぼして給にけり。景廉是を給(たまひ)て、佐殿の雑色一人州前三郎下人二人、已上五騎(ごき)にて八牧城に推寄す。見れば時政南表に引退て扣へたり。景廉を見て、いかに御辺(ごへん)は、当時御勘当にて御座(おは)するにと問へば、俄(にはか)に召て八牧が首貫て
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進よとて、御長刀を給れり、是を見給へとて指出。抑北条殿宵より寄給たれば、城の案内知給たるらん、有の儘に語給へ、私の軍に非ず、君の御大事(おんだいじ)也と云。時政城の内の構様をば知ず、門より外に櫓あり、(有朋上P664)兵共(つはものども)櫓より下し矢に射る、櫓の前は大堀也、橋を引たれば入事叶はず、互に堀を隔て遠矢に射れば、宵より今まで勝負なし、佐々木の人々は搦手に廻ぬ、時政は家子郎等散々(さんざん)に射られて、五六度まで引退て控へたりと云。加藤次申けるは、殿原は宵より軍に疲たるらん、休給へ、景廉荒手也、一当当て見べし、健ならん楯突を一人たび候へ、其外楯二三枚橋に渡さんとて取聚て、弓の替弦を以て筏に組堀に打入て、北条が雑色に源藤次と云男に楯つかせて歩立に成り、州崎相具し、長刀をば下人に持せ、寄手の弓征矢乞取て、堀を渡り城内に進入、櫓の下にたゝずみたり。櫓に有ける者共も、宵より軍に疲ぬ、矢種も尽にければ、或落或内に入てなかりけり。門の戸を押開て攻入けるに、箭面に立たりける者三人大庭に射倒し、加藤次佐殿の雑色に下知しけるは、心苦思召(おぼしめし)つるに、先櫓と門とに火をさせと云ければ、雑色下知に依て火を差てげり。爰(ここ)に武者一人進出て名乗けるは、河内国住人(ぢゆうにん)、石川郡の、関屋八郎とは我事也、櫓の上にて射残せる、中差一筋こゝにあり、今夜夜討の大将軍は、北条、佐々木歟、土肥、土屋歟、加藤が党か、名乗て我矢請取て名聞にせよと呼て、内に入ぬ。加藤次、門外に引退て、乳子を招て云けるは、関屋が詞聞つらん、彼が箭にあたらん者、命生る者有まじ、我其矢にあたらん(有朋上P665)事安事也、但我討れなば此軍鈍かるべし、佐殿を世に立奉らん
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と思に、汝景廉と名乗て敵の矢に中て、えさせんや、さもあらば思事を云置け、更に違事有まじと云。州崎是を聞て、我少きより殿に育れ奉て、難(レ)忘(二)其恩(一)、軍に出るよりして、命生べしと存ぜず、奉(レ)代べし、思事とては老たる母が事計、其は迚も乳の恩忘給はじなれば、よく育給へとて門の内に進入、伊勢(いせの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)に、加藤判官の次男景廉是に在、関屋八郎と聞つるは、云つる言には似ず、落ぬるかと云ひて、楯を前にさしかざして居たりけり。関屋然べきと悦て、三人張に大の中差取て番ひ、十五束よく引竪て、放たれば、楯を通し、冑の胸板(むないた)後のあげ巻へ射出たり。州崎西枕に倒伏。死人を舁出して、様々口説言して、今一度もの云へきかんと云けれ共、事切ぬれば、藤次も涙を流して、汝が母をば疎にすべからず、草の陰にてもかがみよ、敵をば討てとらすべし、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)とて州崎を閑所に抛置て、進入て云けるは、昔は、加藤次は一人、今は源氏繁昌の御代と成て、加藤次と云者二人あり、関屋が音のしつるは落ぬるか、返合て組や/\とぞ呼びける。関屋是を聞て、敵のたばかるを不(レ)知して、矢を放ける本意なさよ、人に詞を懸られて、さて有るべきに非ずとて、甲の緒を強くしめ、三尺五寸の太刀を抜、いづくへか落べき、関屋爰(ここ)に在とて、にこと笑て出合たり。(有朋上P666)互に打物の上手にて、切たり請たり大庭を二度三度ぞ廻たる。加藤次は、角ては勝負急度あらじと思ひて、態と請け、其隙を伺て吾太刀をば投捨てつと寄り、鎧草摺引寄て、得たりやおうとぞ組だりける。上に成下になりころびける程に、雨打際のくぼかりける所にて、関屋下に成、加藤次上に乗係て、押へて首を掻てけり。首を太刀のさきに貫て、
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鬼神の様に云つる関屋が頸、景廉分捕にしたりやと云て、抛出す。下部是を取て持たりけるを、北条乞取つて、鞍のしほでにぞ付たりける。去(さる)程(ほど)に景廉は太刀をば投捨て、下人に持せたる長刀を取、甲をしめしころを傾て、縁の上へつと上り侍を見入たれば、高燈台に火白掻立たり。さしも人有とも見えず。景廉進入処に、狩衣の上に腹巻著たる男の、大の長刀の鞘はづして立向たりけるを、景廉走違様にして、弓手の脇より妻手脇へ差貫て投臥たり。京家の者と覚えたり。軈(やが)て内へ攻入りて、寝殿をさしのぞいて見れば額突あり。燈白く掻立て、障子を細目に開て、太刀の帯取五寸計引残せり。見れば兼隆紺の小袖に上腹巻著て、太刀を額に当て、膝付居て、敵つと入らば、はたと切らんと覚しくて待懸たり。加藤次過せじとて、左右なくは不(レ)入、甲を脱いで長刀のさきに懸て、内へつと指入たり。待儲たる兼隆なれば、敵の入るぞと心得(こころえ)て、太刀を入て、はたと切る。余に強打程(有朋上P667)に、甲の星二並三並切削、鴨居に鋒打立て、ぬかん/\とする処に、傍の障子を蹈倒し、長刀の柄を取直して、腹巻かけに胸より背へ差貫、軈(やが)てとらへて頸を掻く。こゝに八牧を憑て筆執して有ける、古山法師に某の注記と云けるが、萌黄糸威の腹巻に、三尺二寸(にすん)の太刀を抜て飛で係ければ、景廉走違て長刀をしたゝかに打懸たり。左の肩より右の乳の間へ打さかれて、其儘軈(やが)て死にける。即兼隆が頸片手に提、障子に火吹付て、暫、待て躍出。北条に向て仕たりとて、敵の首を捧たり。佐殿は遥(はるか)に焼亡を見給(たま)ひて、景廉はや兼隆をば打てけり、門出能と独言して悦び給ける処に、北条使を立て、八牧の判官は景廉に討れ候ひ
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ぬ、高名ゆゝしくこそと申たれば、神妙(しんべう)神妙(しんべう)と感じ給へり。北条兼隆が頸を見て、
法華経(ほけきやう)の序品をだにもしらぬみに八牧が末を見るぞ嬉しき K113
と、景廉は宵よりの仰也ければ、頸をば給たりける長刀に指貫、高らかに指上て参たり。ゆゝしくこそ見えけれ。佐殿大に悦びて、八牧が首を谷川の水にすゝがせて、長櫃のふたに置れて、一時是をぞ見給ける。謀叛の門出に、さこそ嬉しく御座(おはしまし)けめ。(有朋上P668)
S2002 小児読(二)諷誦(一)事
兼隆被(レ)討後日に追善あり。修行者を招請して唱導を勤けるに、色々の捧物に、思々に志を載たり。其中に一紙の諷誦あり。法華経(ほけきやう)開八巻心成仏身と計書たる諷誦あり。導師是を読煩たりけるに、聴衆の中に五歳の小児あり。此諷誦をよまんと云けるを、乳母(めのと)いかにとしてかと制しけれ共、膝の上より頽下、高座の下に歩寄て、
法の花終にひらくる八牧には心仏の身とぞ成ぬる K114
と、不思議なりける事也。
S2003 佐殿大場勢汰事
兵衛佐(ひやうゑのすけ)謀叛起し、兼隆判官討れぬと聞えければ、伊豆国(いづのくに)には、公藤介茂光、子息狩野五郎親光、宇佐美平太、弟の平六、平三資茂、藤九郎盛長、藤内遠景、弟の六郎、新田四郎忠経、義藤房成尋、堀藤次親家、七郎武者宣親、中四郎惟重、中八惟平、橘次頼時、鮫島四郎宗房、近藤七国平、大江平次家秀、新藤次俊長、小中太光家、沢六郎宗家、城平太等馳(有朋上P669)参、相模国(さがみのくに)には土肥次郎真平、子息太郎遠平、岡崎四郎義真、
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子息与一義貞、土屋三郎宗遠、同(おなじく)二郎義清、中林太郎、同次郎、築井次郎義行、同八郎義安、新開荒太郎実重、平左近太郎為重、多毛三郎義国、安田三郎明益等馳集る。
廿日は兵衛佐(ひやうゑのすけ)彼輩を相具して、相模の土肥へ越え給(たま)ひ、此にて軍の談義あり。真平申けるは、軍は謀と申ながら、いかにも勢により侍べし、先廻文の御教書を以て、御家人を召るべしと奉(レ)進ければ、然るべきとて、藤九郎盛長を使にて、院宣の案に佐殿の施行書を副へて、方々へ触遣はす。盛長是を給(たまひ)て、先相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)波多野馬允に触るるに、良案じて是非の御返事(おんへんじ)不(レ)申、源平共に兼て勝負を知ざれば、後悔を存ずる故也。同国懐島の平権頭景義に相触たり。此景義と申は、保元の合戦に、八郎為朝に膝の節射られたる大場平太が事也。弟の三郎景親が許へ行て、かゝる院宣の案と御教書を給たり。和殿はいかゞ思と問ふに、景親申けるは、源氏は重代の主にて御座(おはしませ)ば、尤可(レ)参なれ共、一年囚に成て既(すで)にきらるべかりしを、平家に奉(レ)被(レ)宥、其恩如(レ)山、又東国の御後見し、妻子を養事も争か可(レ)奉(レ)忘なれば、平家へこそと云。和殿は誠に平家の恩にて世にある人なれば、さもし給へ、景義は源氏へ参らんと存ず、但軍の勝負兼て難(レ)知、平家猶も栄え給はば和殿を憑べし、若又源氏世(有朋上P670)に出給はば我をも憑給へとて、弟の豊田次郎景俊を相具して、佐殿へ参じ加りける也。大場は俣野五郎と二人平家に付ぬ。同国山内須藤刑部丞俊通が孫滝口俊綱(としつな)が子に、滝口三郎利氏、同四郎利宗兄弟二人に相触たり。折節(をりふし)一所に双六打て居たり。烏帽子子(えぼしご)に手綱うたせて筒手に把、御使にも不(レ)憚、弟の四郎
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に向て云けるは、是聞給へ、人の至て貧に成ぬれば、あらぬ心もつき給けり、佐殿の当時の寸法を以て、平家の世をとらんとし給はん事は、いざ/\富士の峯と長け並べ、猫の額の物を鼠の伺ふ喩へにや、身もなき人に同意せんと得申さじ、恐し/\、南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)/\とぞ嘲ける。利宗不(レ)知(二)逆順之分(一)、不(レ)弁(二)利害之用(一)、只恐(二)強大之敵(一)、忽背(二)真旧之主(一)、口吐(二)妄言(一)、心無(二)誠信(一)、頗非(二)勇士之法(一)、偏似(二)狂人之体(一)けり。三浦介義明が許へ相触たり。折節(をりふし)風気ありて平臥したりけるが、佐殿の御使と聞て、悦起て、白き浄衣に立烏帽子(たてえぼし)著て、出合たり。廻文の御教書とて被(レ)出たりければ、手洗嗽なんどして、御文披、老眼より涙をはら/\と流して申けるは、故(こ)左馬頭殿(さまのかみどの)の御末は、果て給(たま)ひぬるやらんと心憂く思ひつるに、此殿ばかり生残御座(おはしまし)て、七十有余(いうよ)の義明が世に、源氏の家を起し給はん事の嬉しさよ、唯是一身の悦也、子孫催し聚て、御教書拝み奉るべしとて、三浦別当義澄、太田三郎義成、佐原(有朋上P671)十郎義連、和田太郎義盛、同次郎義茂、同三郎宗真、多々良三郎義春、同四郎明季、佐野平太等を始として、郎等雑色に至まで催集て、是を拝しむ。各聞給へ、義明今年七十九、老病身を侵して、余命旦暮を待、今此仰を蒙事、老後の悦也、我家の繁昌也、倩事の心を案ずるに、廿一年を一昔とす、それ過ぬれば、淵は瀬と成、瀬は淵となる、而を平家日本(につぽん)一州を押領して既(すで)に廿余年、非分の官位任(レ)心、過分の俸禄思の如なり、梟悪年を積、狼藉日を重たり、其運末に臨で、滅亡期極れり、源氏繁昌の折節(をりふし)、何疑か有べし、一味同心して兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)へ参べし、御冥加なくして、
P0492
討死し給はば、各首を並べ奉りて、冥途の御伴仕れ、山賊海賊して死にたらば瑕瑾恥辱なるべし、相伝の主の逆臣追討の院宣を給(たまひ)て、軍し給はん御伴申て、身を亡さん事、為(レ)家為(レ)君、永代の面目也、佐殿又御冥加ありて世に立給ならば、子も孫も被(二)打残(一)たらん輩は誇(二)恩賞(一)、などか繁昌せざるべきと申ければ、口々に子細にや/\とて皆憑もしげにぞ申ける。いか様にも悦の御使なれば、可(レ)奉(レ)祝とて、酒肴尋常にして、馬一匹に太刀一振相副て引き、可(二)参上仕(一)とて、内々其用意あり。義明教訓之趣、有(レ)義無(レ)私、有(レ)勇無(レ)戻ければ、聞者感(レ)之けり。昔晏嬰発(二)勇於崔杼(一)、程嬰顕(二)義於趙武(一)、今義明為(二)頼朝(よりとも)(一)忽報(二)旧恩(一)、遂立(二)新(有朋上P672)功(一)、彰(二)誉於四方(一)、奮(二)名於百代(一)けり。藤九郎盛長其より下総に越て、千葉介に相触たり。院宣の案御教書披見て、此事上総介に申合て、是より御返事(おんへんじ)申べしとて盛長を返す。千葉介が嫡子小太郎は生年十七に成けるが、折節(をりふし)鷹狩に出て帰けるが、道にて盛長に行合たり。互に馬を引へて対面して、如何にと問。盛長しか/゛\と答たり。小太郎不(二)心得(こころえ)(一)思て、盛長を相具して館に帰り、向(レ)父云けるは、恐ある事に候へ共、院宣の上御教書成侍ぬ。先度の御催促に参上の由御返事(おんへんじ)申されぬ、其上上総介に随たる非(二)御身(一)、彼が参らばまゐらん、不(レ)参は参らじと仰候べき歟、全不(レ)可(レ)依(二)其下知(一)、只急度可(レ)参由御返事(おんへんじ)申させ給ふべしと云ければ、賢々しく計者哉と思て、実に可(レ)然とて、可(レ)参と御返事(おんへんじ)申けり。其より上総介に相触ければ、生て此事を奉る身の幸にあらずや、忠を表し名を留ん事、此時にありとぞ申ける。昔魯連弁言以退
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(レ)燕色■(しう)単辞以存(レ)楚。盛長已全(二)使節於戦術(一)動(二)三寸之舌(一)、深蕩(二)二人之心(一)、経胤等振(レ)威勢於興(二)衆窟(一)、八箇国之兵遂治(二)四夷之乱(一)けり。夫弁士は国之良薬、智者は朝之明鏡也といへり。此事誠哉、各馳向はんとしけれ共、廻れば渡あまたあり、直には海を隔たり、八月下旬の比なれば、浪荒風烈して、心の外にぞ遅参しける。(有朋上P673)
S2004 石橋合戦事
八月廿二日には、兵衛佐(ひやうゑのすけ)北条佐々木を先として、伊豆相模二箇国の住人(ぢゆうにん)同意の輩、三百(さんびやく)余騎(よき)を引具して、早川尻に陣を取。早川党進出て、爰(ここ)は軍場には悪く侍り、湯本の方より敵山を越て、後を打囲、中に取籠られなば、ゆゝしき大事なり。更に一人も難(レ)遁と申ければ、其より米噛石橋と云所に移て陣を取、上の山の腰に垣楯をかき、下の大道を切塞で引籠る。此事角と聞えければ、大場三郎景親は、武蔵相模の勢を招相従輩、舎弟(しやてい)俣野五郎景尚、長尾新五、同新六、八木下五郎、漢揚五郎以下、鎌倉党は一人も不(レ)漏、海老名源八権頭季定、子息の荻野五郎季重、同彦太郎、同小太郎、河村三郎能秀、曽我太郎祐信、佐々木五郎義清、渋谷庄司重国、山内、滝口三郎経俊、同四郎、稲毛三郎重成、久下の権頭直光、子息次郎実光、熊谷次郎直実、岡部六弥太忠澄、浅間三郎、広瀬太郎、笠間三郎等を始として、宗徒の者共三百(さんびやく)余騎(よき)、家子郎等相具して三千(さんぜん)余騎(よき)也。同廿三日の辰時には、大場三郎景親大将軍として、三千(さんぜん)余騎(よき)を相具して、石橋の城(じやう)に押寄、谷を前に隔て、海を後に当て陣を取、落日西山に傾て、其(その)日(ひ)も既(すで)に暮なんとす。稲毛三郎(有朋上P674)重成進出て、日既(すで)に晩ぬ、夜軍は敵御方不(二)見分(一)、去ば明日を期す
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べきやらんと申ければ、大場申けるは、明日を相待ならば、敵に大勢付重て、輙く難(二)攻落(一)、後には三浦の者共馳来也、両方を禦ん事、ゆゝしき大事也、道狭して足立悪き城なれば、小勢におはする時、佐殿を追落して、明日は一向三浦に向て勝負すべきと申す。此儀然べきとて、三千(さんぜん)余騎(よき)声を調て、時を造る。佐殿も同時を合て鳴矢を射通しければ、山神答て、敵も味方も大勢とこそ聞えけれ。大場進出て、弓杖を突、鐙蹈張立上て、抑平家は桓武帝の御苗裔、葛原親王御後胤として、代々蒙(二)将軍宣(一)、遥(はるか)に朝家の御守たり。天下の逆乱を和げ、海内の賊徒を随へ、武勇の名勝(二)他家(一)、弓矢の誉伝(二)当家(一)、就(レ)中(なかんづく)太政(だいじやう)入道殿(にふだうどの)、保元平治の凶賊を鎮治しより以来、公家の重臣として、其身太政大臣(だいじやうだいじん)に昇、子孫兼官兼職に御座(おはしま)す、一天重(レ)之、万民誰か軽しめん、依(レ)之(これによつて)南海西海の鱗に至まで、随(二)其威応(一)、東国北国の民何ぞ可(レ)奉(二)忽緒(一)。爰(ここ)に今たやすくも奉(レ)傾(二)平家御代(一)との合戦の企誰人ぞ、恐くは蟷螂(たうらう)の手を挙て向(二)竜車(一)喩かは、名乗名乗とぞ攻たりける。北条四郎歩せ出して、汝不(レ)知哉、我君は是清和(せいわ)天皇(てんわう)第六皇子、貞純親王の御子、六孫王より七代の後胤、八幡殿の四代の御孫、前(さきの)右兵衛権佐殿(うひやうゑのごんのすけどの)ぞかし、傍若無人の景親が申状頗尾籠也、平家は悪行身に余て、朝威を(有朋上P675)蔑にす、依(レ)之(これによつて)早彼一門を追討して、可(レ)奉(レ)休(二)逆鱗(一)由、太政法皇の院宣を被(レ)下たり。錦の袋に納て御旗の頭に挟み給へり。且は可(レ)奉(レ)拝、されば佐殿こそ日本(につぽん)の大将軍よ、平家こそ今は朝家の賊徒よ、綸言之上は、戮誅不(レ)可(レ)廻(二)時刻(一)処に、彼家人と号する輩依(レ)有(レ)之、先其党類を追討して後、花洛に上り、逆臣を可(レ)被(レ)誅也。景親
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慥に承れ、故八幡殿奥州(あうしう)の貞任宗任を被(レ)攻より以来、東国之輩代々相続て、誰人か君の御家人にあらざる、随て景親も父祖相伝の者也、馬に乗ながら子細を申条奇怪也、後勘兼て可(レ)不(レ)顧歟、下て可(レ)申也、御伴には時政父子一人も不(レ)漏、佐々木太郎定綱兄弟四人、加藤太光胤兄弟と、沢六郎、近藤七、新田七郎父子、城平太、小中太、公藤介父子、土肥次郎父子、新開荒太郎、土屋三郎、岡崎四郎と其子与一、懐島豊田次郎等、侍らふ也。其外の人々、国々より任(二)院宣(一)御教書に付て、夜を日に継で馳参。王事無(レ)脆、八虎の凶徒に諂て後悔すな、速に甲を脱手を合て可(レ)参也といへば、大場重て申けるは、昔八幡殿後三年の軍の御伴して、出羽国仙北の金沢城被(レ)責時、十六歳にて先陣を蒐け、右の目を射させて、答の矢を射、其敵を討捕て、甲を其場に施し、名を後代に留し鎌倉権五郎景政が末葉、大場三郎景親大将軍として、兄弟親類已下三千(さんぜん)余騎(よき)也。是程の大事を思立給ながら、勢の(有朋上P676)かさこそ少なけれ、実に誰かは随ひ奉るべき、只(ただ)心にくき体にて落給へかし、命ばかり生け申さんと云。北条又申しけるは、景親は先祖は具に知たりけり、いかに口は口、心は心と、三代相伝の君に敵し申ぞ、忠臣は二君に不(レ)仕と云事あり、其上奉(レ)向(二)十善帝王(一)、院宣を係(レ)蹄、弓矢を放たん事、冥加の程■(おぼつかな)し、背(二)勅命(一)者は、剣を歩が如と云にや、旁以無益の事也、唯急参れと云。大場重て申、先祖は誠に主君、但昔は昔今は今、恩こそ主よ、源氏は朝敵と成給(たまひ)て後は、我身一人の置所(おきどころ)なし、家人の恩までは沙汰の外也、景親は平家の御恩を蒙事如(二)海山(一)高深、不(レ)知(レ)恩は木石也、何ぞ世になき主を顧み
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て今の可(レ)忘(レ)恩、勇士は如(レ)諂と云事あり、只今(ただいま)追落たてまつるべき也とて、三千(さんぜん)余騎(よき)我も/\と勇けり。北条又申けるは、欲は身を失といへり、まさなき大場が詞哉、一旦の恩に耽て、重代の主を捨んとや、弓矢取身は言ば一も不(レ)輙、生ても死ても名こそ惜けれ、景親よ、権五郎景政が末葉と名乗ながら、先祖の首に血をあやす、欲心の程こそ不当なれと云ければ、敵も味方も道理なれば、一度にどつとぞ笑ける。
兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)仰に、武蔵相模に聞ゆる者共は皆在と覚ゆ、中にも大場俣野兄弟先陣と見えたり。此等に誰をか与すべきと宣へば、岡崎四郎義真申けるは、弓箭を取て戦場に出る程の者、敵一人にく(有朋上P677)まぬ者やは侍るべき、親の身にて申事、人の嘲を顧ざるに似たれ共、存る処を申さざらんも、還つて又私あるに似たるべし、義貞は此間大事の所労仕て、未力つかずや侍らめ共、心しぶとき奴にて、弓箭取ては等倫に劣るべからず、其器に侍り、被(二)仰含(一)べきかと申ければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)宣(のたまひ)けるは、趙武挙以(二)私讐(一)、所奚薦以(二)己子(一)せり、忠有て私無には、或は敵を挙し、或は子を薦事、皆合(レ)義合(レ)法、義貞を召てけり。与一其(その)日(ひ)の装束には、青地錦直垂に、赤威肩白冑のすそ金物打たるを著て、妻黒の箭負、長覆輪の剣を帯けり。折烏帽子(をりえぼし)を引立て、弓を平め跪きて、将軍の前に平伏せり。白葦毛なる馬をぞ引せたる、其体あたりを払てぞ見えける。今日の撰にあへる、誠にゆゝしく見えし。兵衛佐(ひやうゑのすけ)、佐奈田に宣(のたまひ)けるは、大場俣野は名ある奴原也、今日の軍の先陣仕て、彼等二人が間にくめ、源氏の軍の
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手合也、高名せよとぞ宣(のたま)ひける。与一蒙(レ)仰畏て御前を立、郎等に文三家安と云者を招寄て、義貞が母又子共が母にも語べしとて云けるは、一昨日打出しを最後と思給ふべし。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)今度の軍の先陣勤よと直に仰たびたれば、多の人の中に択ばれたる事、弓矢取身の面目也。されば命を限に戦んずれば、生て再び帰る事よもあらじ。兼て角と知侍らば、何事も申置べかりけり。其事今は力なし。我討れ(有朋上P678)ぬと聞給(たま)ひなば、母御前女房の御歎こそ思残奉れ、縦我死たり共、世のしづまらん程は、二人の稚者をば、いかならん野の末山の奥にも隠置て、佐殿世に立給たらん時、先祖なれば岡崎と佐奈田とをば申給(たま)ひて、兄弟に知せてたび候へ、さては女房も子供が後見して御座(おはしま)せ、仏に花香進て、後の世弔給へ。父岡崎殿も佐殿の御伴なれば、軍の習ひ生死を知らず、女姓は何事か有べきなれば、角申置也と慥に云伝べし、又汝も少き者共不便に生立て、世にあらば憑め、世になくば憐て、義貞が形見とも思へなど云ければ、文三申けるは、殿の二歳の時より、家安親代と成て、夜は胸にかゝへ奉りて夜通労、昼は肩にのせ終日に奉(レ)育、早く成人し給(たまひ)て、人に勝れ給はん事を願き、五六歳に成給しかば、竹の小弓に小竹矯の矢、的、草鹿、兎こそ射れ角こそ射れ、馬に乗てはとこそ馳れ角こそ馳れと教へ奉生立。殿は今年は廿五、家安五十七に罷成る。若き人だに主命とて先陣を蒐て死なんと宣ふ、殿を見捨て家安が生残りては何にかせん、又人のいはん事こそ恥しけれ、佐奈田与一の最後には、恥ある郎等身にそはず、文三家安が幾程命を生んとてか、最後の軍に主を捨てて逃たりけりと申さん事
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も口惜し、死なば一所の討死也、左様の事をば誰にも仰られよかしとて、三郎丸と云童を招寄て、申含て遣けり。与一既(すで)に(有朋上P679)打出ければ、佐殿は義貞が装束毛早に見ゆ、著替よかしと宣へば、与一は弓矢取身の晴振舞、軍場に過たる事候まじ、尤欣処に侍とて、十五騎の勢を相具して進出て申けるは、源氏世を取給ふべき軍の先陣給(たまひ)て、蒐出たるを誰とか思ふ、音にも聞らん目にも見よ、三浦介義明の弟に、本は三浦悪四郎、今は岡崎四郎義真、其嫡子に佐奈田与一義貞、生年廿五、我と思はん人々は、組や/\とて叫でかく。弓手は海、妻手は山、暗さはくらし、雨はいにいで降、道は狭し、馬に任てぞかけ行ける。平家方より、与一は能敵ぞ、あますなとて進者共には、大場三郎景親、俣野五郎景尚、長尾新五、新六、八木下五郎、漢揚五郎、萩野五郎、曽我太郎、原宗四郎、渋谷庄司、滝口三郎、稲毛三郎、久下権頭、浅間三郎、広瀬太郎、岡部六弥太、同弥次郎、熊谷次郎等を先として、究竟の兵七十三騎、佐奈田一人に組んとて、我先我先にとはやれ共、闇さはくらし道は狭し、馬次第にぞ打つたりける。
廿三日の誰彼時の事なれば、敵も味方も見え分ず、与一は文三を呼て、家安慥に聞、我は相構て大場俣野が間に組んと思也、くむ程ならば急落合て敵の頸をとれ、此間の労に無(レ)力覚れば、兼て云ぞと云。文三誰もさこそ存候へ、殿の大場にくみ給はば、家安は俣野、我大場に組候はば、殿は俣野にくみ給へとて進処に、岡部(有朋上P680)弥次郎、与一に組んと志て、鹿毛なる馬に乗て馳来る。与一は岡部とは思よらず、大場
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歟、俣野かと思馳よりて、甲のてへんに手を打入て、鞍の前つ輪に引付て、頸を掻取上、雲透に見れば、思敵にはあらずして岡部弥次郎也。穴無慙や鹿待処の狸とは此事にや、なにしに来て義貞に討るらんとて、首をば谷へぞ抛入ける。与一が乗たる馬は、白葦毛太逞が、七寸(しちすん)に余て鼻のさき瓠の花の如く白かりければ、名をば夕貌と云ひ、東国一の強馬也。もと三浦介が許に有けるが、余に強て輙乗者もなかりけるを、岡崎所望して乗けるが、それも進退し煩たりけるに、与一計ぞ乗随たりける。去共岡崎持和て、三浦へ返たれば、本の栖へ帰たりとて都返りと名付たり。佐奈田折節(をりふし)馬なくて又乞返たれば、古巣へ帰たりとて鶯共呼けり。元来つよき馬也けれ共、己が力を憑つゝ、出雲轡の大なるに、手綱二筋より合てぞ乗たりける。岡部弥次郎が頸切ける時、鎧武者の身の落るに驚て、つと出て走行。猿物ぞと心得(こころえ)て、引留ん引留んとしけれ共。此馬の癖として、口をば主に打くれて、胸にて走馬也けり。猶留んと引程に、手綱三に切れければ、左右の水付とらへたり。左右の水付引もぎて、心の儘に引て行。大場三郎は弟の俣野五郎に、構て与一に組給へ、景親も目に懸らばくまんずるぞと云。俣野は余に暗て敵も味方(有朋上P681)も見えわかず、与一も何哉らんといへば、与一が鎧はすそ金物の、殊にきらめきて馬の毛も白かりき。白き幌を懸たりつれば、験かりつる也と教。俣野歩せ出す、与一馬に引れて近付たり。俣野敵のよすると思ければ、佐奈田与一義貞と名乗つるは落ぬるかと叫けり。無下に近かりければ、義貞こゝにあり問は誰。俣野五郎景尚と名乗や遅、押並て馬の間へ落重なる。上に成下になり、駻返持返、山のそはを
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下りに、大道まで四段計ぞころびたる。今一返もころびなば、互に海へは入なまし。俣野は大力と聞に、いかゞしたりけん下に被(二)推付(一)てうつぶしに臥、頭は下に足は上に、起ん/\としけれ共、俣野力なかりける。与一は上にひたと乗得て、義貞敵に組たり、落重れ/\と叫けれ共、家安を始として郎等共(らうどうども)、押隔てられてつゞく者なし。俣野今は叶はじと思て、景尚佐奈田に組たり、つゞけや/\と叫びけるに、長尾新五声に付て落合て、上や敵下や敵と問。与一は上に乗ながら、角宣ふは長尾殿歟、上ぞ景尚、下ぞ与一、謬し給なと云。俣野下にて、上ぞ与一下ぞ景尚、過すなと云。頭は一所にあり、くらさはくらし、音は息突て分明に不(二)聞分(一)上よ下よと論じければ、思侘てぞ立たりける。俣野穴不覚の殿や、音にても聞知なん、鎧の毛をも捜給へかしと云。長尾誠にと思て、鎧の毛をぞ捜りける。与一あ(有朋上P682)らはれぬと思て、右の足を揚げて長尾をむずと蹈、ふまれて下りに弓長三杖ばかり、とゞ走て倒にけり。其間に与一刀を抜て、俣野が首をかく。掻共掻共不(レ)切、指共指共透らず。与一刀を持揚げて雲透に見れば、さや巻のくりかたかけて、鞘ながら抜たりけり。鞘尻くはへてぬかん/\としけれ共、運の極の悲さは、岡部弥次郎が首切りたりける刀を不(レ)拭さやに差たれば、血詰して抜ざりけり。長尾新五が弟に新六落合て、与一が胡■[*竹冠+録](やなぐひ)の間にひたと乗得て、甲のてへんを引仰て頸をかく、無慙と云も疎也。俣野を引起して、いかに手や負たると問へば、くびこそ重覚ゆると云。頸をさぐればぬれぬれとあり。手負たるにこそとて、与一が刀を見れば、鞘尻一寸ばかり砕たり。つよく指たりと覚たり。
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其後俣野は軍はせず、佐奈田与一は、俣野五郎止めたりと叫ければ、源氏方には惜みけり。平家方には是を悦けり。文三家安は、大勢に被(二)推隔(一)、主の与一が討れたるをば不(レ)知けり。一所にていかにも成んと主を尋て走廻けれども、敵は山に満々たり、尾は一隔たり、死生のゆくへ不(レ)知。高声に云けるは、東八箇国の殿原は、誰か源氏重代の非(二)御家人(一)、平家追討の院宣を下さるゝ上は、今は兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)の御代ぞかし、源氏の御繁昌今にあり、明日は殿原悔給べし、矢をも一筋放ぬさきに、参候へかしとぞ■(ののしり)ける。相模国(さがみのくに)(有朋上P683)の住人(ぢゆうにん)渋谷庄司重国、角云は誰そと問。佐奈田殿の郎等に、文三家安と答。重国申けるは、あゝあたら詞を主にいはせで、人がましきと云。家安は悪き殿の詞哉、げに人の郎等は人ならず、去共家安主は二人とらず、他人の門へ足蹈入ず、うでくび取て不(レ)追従(一)、殿こそ実の人よ、桓武帝苗裔、高望王の後胤、秩父の末葉と名乗ながら、一方の大将軍をだにもし給はで、不(二)思寄(一)大場三郎が尻舞して、迷行給ふをぞ人とはいはぬ、家安人ならず共、押並て組給へかし、手の程みせ奉らんと云たりければ、敵も味方もどつと笑ふ。重国由なき詞つかひて、苦返てぞ聞えける。家安は秩父の一門に、稲毛三郎が手に合て戦けり。重成申けるは、やをれ文三よ、己が主の与一は討れぬ、今は誰をか可(レ)育、にげよ助けんと云。文三申けるは、やゝ稲毛殿、家安は幼少より軍には蒐組と云事は習たれ共、逃隠と云事は未(レ)知、主の死ればとて逃んは、御辺(ごへん)の郎等をば何にかはし給べき、まさなき殿の詞哉、与一殿討れ給ぬと聞て後は、誰ゆゑ身をばたばふべき、逃よと宣はんよりは、押並て組給へかしと進
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ければ、稲毛三郎が郎等、押阻押阻戦けり。家安分捕八人(はちにん)して、討死してこそ失にけれ、誉ぬ者こそなかりけれ。岡崎四郎、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に、与一冠者こそ討れ候けれと申せば、佐殿は、穴無慙や、よき若者を、頼朝(よりとも)もし世に(有朋上P684)あらば、与一が後世をば弔べしと被(レ)仰ければ、岡崎は縦五人十人の子をば失侍るとも、君だに御世に立給はば、其こそ本意に候へと心強くは云けれ共、流石(さすが)恩愛の道なれば、鎧の袖をぞぬらしける。与一家安討れて後は、源平互に入替入替終夜(よもすがら)戦けるが、軍兵もはや疲ぬ、敵は大勢也、今はいかにも難(レ)叶とて、暁方に佐殿の勢は土肥を差てぞ落行ける。兵衛佐(ひやうゑのすけ)も縦引共、矢一射て落んとて後陣にさがり、返合せよ/\と下知し給。是を聞て三浦の太田次郎義久、加藤次景廉、三崎の堀口と云所に下り塞、散々(さんざん)に戦ふ。敵は数千ありけれども、道狭ければ二騎三騎づつ寄けるを、引つめ/\射、是にぞ多く被(レ)射ける。矢種尽ければ、義久景廉引退。
S2005 公藤介自害事
八月廿四日辰刻には、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)、上の杉山へ引給ふ。荻野五郎季重兄弟子息五騎(ごき)にて奉(二)追係(一)申けるは、此先に落給は、大将軍とこそ見え給へ、まさなくも後をば見せ給者哉、無益の謀叛発して、源氏の名折給ぬ、返し給へ/\とて馳来。佐殿不(レ)安思給ければ、唯一人留て、一の矢番て射給へば、荻野が弓手の草摺縫様に射こまれたり。二の矢に鞍の(有朋上P685)前輪を馬の背係て射渡し給へり。馬頻(しきり)に駻ければ、荻野馬より落。三の矢に彦太郎が馬の胸帯尽射させて、是も馬はねければ、足を越てぞ立たりける。伊豆国(いづのくにの)住人(ぢゆうにん)宇佐比三郎助茂馳参て、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)の前に指塞りて、昔より大将軍の戦なき事に侍り、疾疾
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引給へと申。防箭射者の無ればこそと宣ふ時、相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)飯田三郎家能馳来て、よき箭三射ける程に杉山へこそ懸給へ、軍兵皆山峨々として登がたかりければ、鎧に太刀ばかり帯て、此彼より落上けり。伊豆国(いづのくにの)住人(ぢゆうにん)沢六郎宗家是にして討れぬ。同国住人(ぢゆうにん)公藤介茂光は、如(レ)法肥太たる男也。悪所に懸て身苦く、気絶て登りやらず、伴したりける子息の狩野五郎親光に云けるは、此山は烈くして落延がたし、一定敵に討れぬと覚ゆ、人手に懸ずして我が頸を切れ、佐殿は末憑しき人ぞ、構て二心なく奉公して奉(レ)助と云。親光恩愛の名残(なごり)を憐て、肩に引懸上けれ共、我身だにも行き兼たるに、父をさへ角しければ更に延びえず、公藤介は、やをれ親光よ、我育んとて父子共に人手に懸て、兎角いはれん事、無き跡までも心憂かるべし、敵は既(すで)に近付きたり、只急ぎ我頸を切て孝養せよ、全く逆罪に成まじ、急げ/\と云けれ共、さこそ父が命也とも、争か逆罪を造るべきとや思ひけん、左右なく太刀をば不(レ)抜けり。父が頸を害するは孝子也、母が橋をわたすは不孝也(有朋上P686)と云本文あり。
S2006 楚効荊保事
昔大国に楚効と云ふ者あり、若して父に後て母と共に在けるが、園内に庵を造て、寡なる母を居置て養ふ程に、母つれ/゛\を慰まんとて、忍て男に通ひつゝ年月を送り、園内に深き塹あり、往還の通路也。楚効母が志を知ゆゑに、心安(こころやすく)往来せん事を思て、彼塹に橋を亘す。母が為には孝子とこそ云べきに、子が知事を恥、窃に家を出て自死したりけるをば、子不孝といへり。又荊保と云者ありき。家貧して父を養ひけるが、飢饉の歳にあひて、父が命を難(レ)助かりければ、父と共に隣国(りんごく)に行て、他の財を却して盗て帰ける
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を、家主人を集て是を追。父子二人逃走る事、鼠の猫に合が如し。子は盛にして先立て逃る、父は衰て走事遅。父垣の中をくゞり逃るに、首をば出して足をば捕られたり。荊保立かへりて、父が恥みん事を悲て、剣を抜て其頸を切て、持て家に帰たりけるをば、時の人称して孝養の子と云ひける也。公藤介も、甲斐なき敵に首を取られて恥をみんよりは、疾く切れ疾く切れと云ひけれ共、父が命を蒙上は、孝養の子にこそ有べけれ共、恩愛(有朋上P687)の命を絶ん事悲さに、暫く案じける間に、茂光は腹掻切て臥にけり。田代冠者信綱は、茂光には孫子也けるが、心剛に身健也けり。祖父が自害を見て、つと寄頸掻落して、其孝養し給へとて、伯父狩野五郎に与へけり。親光冑の袖に引隠して、泣々(なくなく)山に登けり。北条次郎宗時、新田次郎忠俊、馬の鼻を返して戦ける程に、甲斐国住人(ぢゆうにん)平井冠者義直と、伊豆国(いづのくにの)住人(ぢゆうにん)新田次郎忠俊と馳並て、組で落差違て死にけり。北条次郎宗時は、波打ぎはを歩せ落けるを、伊豆(いづの)五郎助久、係並て取組んで落にけり。両虎相戦て、互に亡(レ)命、留(レ)名けり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)は尚も延やり給はざりけるを、大場三郎景親、佐々木五郎義清等、大勢にて先陣に進て追懸たり。佐々木五郎義清は、大場三郎が妹聟に也ければ、景親が勢にぞ打具したる。赭白馬に赤皮威の鎧著て、いちじるくこそ見え渡れ。兄の四郎高綱申ける、義清慥に承れ、父の秀義は、故(こ)六条(ろくでうの)判官殿(はんぐわんどの)に父子の儀をなされ奉りて、御子孫の今までも憑みたのまれ奉る、依(レ)之(これによつて)兄弟四人御方にあり、汝一人一門を引分て、思係ぬ大場が尻舞いと珍し、勲功の賞には他人の手に懸べからずと云けれ共、存ずる旨の有けるにや、是非の返事
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はせざりけり。大場三郎も佐々木五郎も鞭を打てぞ責懸ける。大場が童〈 某 〉葦毛馬に乗る間、近程に責付たり。(有朋上P688)
S2007 高綱賜(二)姓名(一)附紀信仮(二)高祖名(一)事
兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)、又射残し給たりける箭を取て番ひ、既(すで)に引かんとし給けるに、佐々木四郎高綱矢面に塞りて、大将軍たる人の、左右なく弓を引矢を放事侍らず、御伴の者共一人もあらん程は、軽々敷事有べからず、郎等乗替其詮也、とく/\延給へ、定綱高綱兄弟御身近侍り、可(二)禦矢仕(一)、但姓名給らんと云ければ、佐殿子細にや、暫高綱に預給ふと宣へば、佐々木姓名を給(たまひ)て、弓矢取て番ひ、坂を下に向て、大音揚て名乗。清和(せいわの)帝(みかど)の第六皇子貞純親王の苗裔、多田(ただの)新発意(しんぼち)満仲(まんぢゆう)の後胤、八幡太郎(はちまんたらう)義家(よしいへ)に三代の孫子、左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)の三男、前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)爰(ここ)にあり、東国の奴原は、先祖重代の家人等(けにんら)也、馬に乗ながら御前近参条狼藉也、奇怪也、罷退と云かけて、暫し竪て態と馬をぞ射たりける。先陣に進ける大場が童、馬の太腹を射通たれば、如(レ)返(二)屏風(一)馬は山の細道に横ざまに倒臥、童は馬に敷れたり。道狭ければ乗越進て上者なし。馬を取除童を起んとする程に、佐殿遥(はるか)に延給ぬ。其後大場遁すな者共とて打て上けるを、定綱高綱兄弟返合て散々(さんざん)に防戦。矢種も尽ければ、四郎高綱兄弟、太刀を抜坂を下に返合返合、七箇度ま(有朋上P689)で切下ければ、大場が大勢坂を下り被(二)追返(一)、此間に深杉山にこそ籠給へ、高綱跡目に付て奉(二)尋逢(一)たりければ、佐殿の仰には、汝が依(二)忠節(一)難(レ)遁命を全せり。世を打取んに於ては、必半分を分給べしとぞ仰ける。古人いへる事あり。疲たる兵の再び戦ふをば一人当千(いちにんたうぜん)といへり、何況乎佐々木疲れて七箇度の戦をや。されば世静て後、七箇度の
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忠を感じて、備前、安芸、周防、因幡、伯耆、日向、出雲七箇国を給たりけれ共、高綱は杉山に入給(たま)ひし時は、日本(につぽん)半国とこそ約束は有しに、七箇国数ならずとて、代を恨て髻切て、高野山にぞ籠にける。善にも悪にも、猛かりける心なり。
< 昔楚国の項羽と、漢朝の高祖と諍(レ)位戦ひけるに、項羽は多勢也、高祖は小勢なり。去共合戦牛角にして無(二)勝負(一)。項羽を討せんが為に、高祖楚国へ入と聞えければ、楚国の大勢悦て高祖を待。高祖は革車に乗て官兵を従たり。項羽が兵の被(レ)囲(二)多勢(一)、高祖難(レ)遁かりけるに、紀信と云者、高祖の車に乗替つて帝を奉(レ)逃、我は是高祖也と名乗ければ、敵誠と思ひつゝ、革車を囲て是を搦見れば、高祖には非ず、紀信と云者なり。項羽是を捕て、随(レ)我降人にならば赦さんと云ければ、忠臣は不(レ)仕(二)二主(一)、男士不(レ)得(二)諂言(一)云て従はざりければ、兵革車に火を付て、紀信をぞ焼殺しける。佐々木四郎高綱も、此事を思ひけるにや、姓名を給(たまひ)て敵(有朋上P690)を返し、佐殿を奉(レ)延。彼は死して名を遺、是は生て預(レ)恩、異国本朝かはれ共、ためしは実に一なりけり。>
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十一
P0507(有朋上P691)
那巻 第二十一
S2101 兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)隠(二)臥木(一)附梶原助(二)佐殿(一)事
兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、土肥杉山を守て、掻分々々落給ふ。伴には、土肥次郎実平、北条四郎時政、岡崎四郎義真、土肥弥太郎遠平、懐島平権守景能、藤九郎盛長已下の輩、相随て落給(たま)ひけるを、大場、曽我案内者として、三千(さんぜん)余騎(よき)にて追懸たり。杉山は分内狭き所にて、忍び隠るべき様なし。田代冠者信綱は大将を延さんとて、高木の上に昇て、引取々々散々(さんざん)に射る。敵三千(さんぜん)余騎(よき)、田代に被(レ)防て左右なく山にも入らざりけり。其隙に佐殿は、鵐の岩屋と云谷におり下り見廻せば、七八人(しちはちにん)が程入ぬべき大なる伏木あり。暫く此に休て息をぞ続給(たま)ひける。去(さる)程(ほど)に御方の者共多く跡目に付いて来り集る。爰(ここ)に佐殿仰けるは、敵は大勢也、而も大場、曽我案内者にて、山蹈して相尋ぬべし、されば大勢悪かりなん、散々(ちりぢり)に忍び給へ、世にあらば互に尋ねたづぬべしと宣へば、兵者我等(われら)既(すで)に日本国(につぽんごく)を敵に受たり、遁べき身に非ず、兎にも角にも一所にこそと各返事申しければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)重て宣(のたま)ひけ(有朋上P692)るは、軍の習、或は敵を落し或は敵に落さるゝ是定れる事也。一度軍を敵に被(レ)敗、永く命を失ふ道やはあるべき、爰(ここ)に集り居て、敵にあなづられて命を失はん事、愚なるに非や。昔范蠡不(レ)q(二)会稽之恥(一)、畢復(二)勾践(こうせん)之讎(あだ)(一)、曹沫不(レ)死(二)三敗之辱(一)、已報(二)魯国之羞(一)、此を遁れ出て、大事を成立てたらんこそ兵法には叶ふべけれ。いかにも多勢
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にては不(レ)可(二)遁得(一)、各心に任て落べし、頼朝(よりとも)山を出て、安房上総へ越ぬと聞えば、其時急尋来給ふべしと、言を尽て宣へば、道理遁れ難して、各思々にぞ落行ける。北条四郎は、甲斐国へぞ越にける。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に相従て山に籠ける者は、土肥次郎実平、同男遠平、新開次郎忠氏、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義実、藤九郎盛長也。兵衛佐(ひやうゑのすけ)は、軍兵ちり/゛\に成て、臥木の天河に隠れ入にけり。其(その)日(ひ)の装束には、赤地の錦の直垂に、赤威の鎧著て、伏木の端近く居給へり。すそ金物には、銀の蝶の丸をきびしく打たりければ、殊にかゞやきてぞ見えける。其中に藤九郎盛長申けるは、盛長承り伝へ侍り。昔後朱雀院御宇(ぎよう)天喜年中に、御先祖伊予守殿、貞任宗任を被(レ)責けるに、官兵多く討れて落給(たま)ひけるに、僅(わづか)に七騎にて山に籠給(たま)ひけり、王事靡(レ)塩終に逆賊を亡して四海を靡し給(たま)ひけりと、今日の御有様(おんありさま)、昔に相違なし、吉例也と申ければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)憑もしく覚して、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)をぞ心の内には念じ(有朋上P693)給(たま)ひけり。田代冠者は、矢種既(すで)につきぬ。佐殿今は遥(はるか)に落延給(たま)ひぬらんと思ひければ、木より飛下て、跡目に付て落給(たま)ひ、同臥木の天河にぞ入りにける。田代佐殿に頬を合せて、いかゞすべきと歎処に、大場曽我俣野梶原三千(さんぜん)余騎(よき)山蹈して、木の本萱の中に乱散て尋けれ共不(レ)見けり。大場伏木の上に登て、弓杖をつき蹈またがりて、正く佐殿は此までおはしつる物を、伏木不審なり、空に入りて捜せ者共と下知しけるに、大場がいとこに平三景時進出て、弓脇にはさみ、太刀に手かけて、伏木の中につと入、佐殿と景時と真向に居向て、互に眼を見合たり。佐殿は今は限り、景時が手に懸ぬと覚しければ、急ぎ
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案じて降をや乞、自害をやすると覚しけるが、いかゞ景時程の者に降をば乞べき、自害と思ひ定めて腰の刀に手をかけ給ふ。景時哀に見奉りて、暫く相待給へ、助け奉るべし、軍に勝給(たま)ひたらば公忘れ給な、若又敵の手に懸給(たま)ひたらば、草の陰までも景時が弓矢の冥加と守給へと申も果ねば、蜘蛛の糸さと天河に引たりけり。景時不思議と思ひければ、彼蜘蛛の糸を、弓の筈甲の鉢に引懸て、暇申て伏木の口へ出にけり。佐殿然るべき事と覚しながら、掌をあはせ、景時が後貌を三度拝して、我世にあらば其恩を忘れじ、縦ひ亡たり共、七代までは守らんとぞ心中に誓はれける。後に思へば、景時が為には忝とぞ覚えたる。平三伏木(有朋上P694)挿絵(有朋上P695)挿絵(有朋上P696)の口に立塞りて、弓杖を突申しけるは、此内には蟻螻蛄もなし、蝙蝠は多く騒飛侍り、土肥の真鶴を見遣ば、武者七八騎見えたり、一定佐殿にこそと覚ゆ、あれを追へとぞ下知しける。大場見遣て、彼も佐殿にてはおはせず、いかにも伏木の底不審也、斧鉞を取寄て、切破て見べしと云ひけるが、其も時刻を移すべし、よし/\景親入て捜てみんとて、伏木より飛下て、弓脇ばさみ太刀に手かけて、天河の中に入んとしけるを、平三立塞り、太刀に手懸て云けるは、やゝ大場殿、当時平家の御代也、源氏軍に負て落ちぬ、誰人か源氏の大将軍の頸取て、平家の見参に入て、世にあらんと思はぬ者有べきか、御辺(ごへん)に劣て此伏木を捜すべきか、景時に不審をなしてさがさんと宣はば、我々二心ある者とや、兼て人の隠たらんに、かく甲の鉢弓のはずに、蜘蛛の糸懸べしや、此を猶も不審して思けがされんには、生ても面目なし、誰人にもさがさすまじ、此上に推てさがす人あらば、思切なん景時は
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と云ければ、大場もさすが不(レ)入けるが、猶も心にかゝりて、弓を差入て打振つゝ、からり/\と二三度さぐり廻ければ、佐殿の鎧の袖にぞ当ける。深く八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)を祈念し給ける験にや、伏木の中より山鳩二羽飛出て、はた/\と羽打して出たりけるにこそ、佐殿内におはせんには、鳩有まじとは思けれ共、いかにも不審也ければ、(有朋上P697)斧鉞を取寄て切て見んと云けるに、さしも晴たる大空、俄(にはか)に黒雲引覆雷おびたゞしく鳴廻て、大雨頻(しきり)に降ければ、雨やみて後破て見べしとて、杉山を引返けるが、大なる石の有けるを、七八人(しちはちにん)して倒寄、伏木の口に立塞てぞ帰にける。
S2102 聖徳太子(しやうとくたいし)椋木附天武天皇(てんわう)榎木事
< 昔聖徳太子(しやうとくたいし)の仏法(ぶつぽふ)を興さんとて、守屋と合戦し給しに、逆軍は大勢也、太子は無勢也ければ、いかにも難(レ)叶、大返と云所にて、只一人引へ給けるに、守屋の臣と勝溝連と行会て難(レ)遁御座(おはしまし)けるに、道に大なる椋木あり、二つにわれて太子と馬とを木の空に隠し奉り、其木すなはち愈合ひて太子を助け奉、終に守屋を亡して仏法(ぶつぽふ)を興し給(たま)ひけり。
天武天皇(てんわう)は大伴王子に被(レ)襲て、吉野の奥より山伝して、伊賀伊勢を通り、美濃国に御座(おはしま)しけるに、王子西戎を引率して、不破関まで責給けり。天武危くて見え給けるに、傍に大なる榎木あり、二にわれて、天武を天河に奉(レ)隠て、後に王子を亡して天武位につき給へり。>
是も然るべき兵衛佐(ひやうゑのすけ)の世に立べき瑞相にて、懸る伏木の空にも隠れけるにやと末憑もし。佐殿は三千(さんぜん)余騎(よき)が引退たる其隙に、内より石をころばしのけ、伏木を出て小道(有朋上P698)越と云岩石を上り、土肥の真鶴へ向て落行けり。雨やみければ、大場馬を引へて、いかにも伏木おぼつかなし、捜て見んとて
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押寄見れば、口を塞げる大石をころばしのけて落たる跡あり。さればこそ空の中におはしけり、是は梶原平三が計にて落しけり。さり共時の間に遠くはよも延給はじ、つゞきて攻よとて、跡目に付て追懸たり。
S2103 小道地蔵堂附韋提希夫人事
〔去(さる)程(ほど)に〕主従八人(はちにん)の殿は小道の峠向に登て、後を顧れば、敵まぢかく追上る、いかがはすべき、此上は自害すべきかと宣へば、土肥申けるは、物さわがし、事の様見んとて、高所に上て見廻せば、傍に御堂あり、小道の地蔵堂と云寺也。八人(はちにん)堂に入て見れば、上人法師一人あり、仏前に念珠して居たり。土肥上人に云様は、是は源氏大将軍に、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)と申人ぞ、石橋の軍破て、敵の為に被(二)追懸(一)、忍べき所やある、可(二)助申(一)、仏壇の中にも隠しおけと申ければ、上人思様、ありがたき事哉、げに聞奉る源氏の大将軍なり、軍に負給はずば、今争かかやうの法師に助けよと手を合せ給ふべき、忝事也、助奉て世に御座(おはせ)ば、奉公にこそと思て申けるは、此堂は人里遠して山深ければ、身の用心の為に、仏壇の(有朋上P699)下に穴を構て、人七八人(しちはちにん)入ぬべき程に用意せり、暫く忍入て御覧ぜよとて、八人(はちにん)の殿原を押入つゝ、上に蓋して其上に雑具取ひろげて、我身は仏前に座禅の由にて眠居たり。大場大勢引具して、御堂の前まで追懸て、此寺に人やある、只今(ただいま)落人の通つるは不(レ)知や否と、再三問へども答る者なし。大場打寄仏前を見れば法師あり。いかに人の物を問にいらへはなきぞ、不思議也と責ければ、僧の云、是は三箇年の間四時に坐禅する者也、入定の折節(をりふし)にて不(レ)承と申す。重て問ふ、落人の此軒を通つるをば聞ずや、不(レ)知やといへば、加様に座禅して侍れば、外声耳に入ず、内心思慮なければ不
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(レ)聞不(レ)知と云。景親大に嗔て、争かしらざるべき、拷問せよとて軍兵堂内に打入つて、上人を捕て大庭に引出し、拷木にかけて、巳午の時より申の時ばかりまで、上つ下つ推問すれば、絶入ぬる事度度也。只云事とては、全く不(二)知聞(一)、落人とは何者(なにもの)ぞ、骨肉の親類にも非ず、又一室(いつしつ)の同朋にも非ず、其分にもあらぬ人を隠さんとて、仏法(ぶつぽふ)修行の身をや可(レ)痛、只御■迹(ぎやうじやく)と云けれ共、死れば水をふき、生かへれば拷木に上て責る程に、四五度の時は、終に上人を責殺す。猶も面に水をそゝぎ、喉に漿を入ければ、又蘇たりけり。思ひけるは、人を助んとて、かく憂目を見るこそ悲けれ、何事も我身にまさる事なし、さらばおち(有朋上P700)んと心弱く思けるが、良案じて、生ある者は必死す、我身一つをいきんとて、争か七八人(しちはちにん)を亡すべき、昔釈尊の菩薩の行を立て給けるには、薩■[*土+垂](さつた)王子としては、飢たる虎に身を任せ、尸毘大王としては、鳩に代て命をも捨給けり。縦ひ身は徒に亡とも、此人々を助たらば、此堂をも建立(こんりふ)し、我後生をも訪なんと思返て、問へ共落ざりければ、申の時には、上人終に攻殺さる。大場は、不便々々上人は誠に不(レ)知けり、非業の死にこそ無慙なれ、此間に敵は遥(はるか)に延ぬらん、急々とて上人をば打捨てて、まな鶴へむけてぞ責行ける。其(その)日(ひ)も既(すで)に晩ければ、遠近の入逢の、野寺の螺鐘打ひゞけ共、小道の堂には音もなし。佐殿は、実平が袖をひかへて宣(のたま)ひけるは、寺々の螺鐘は聞ゆれ共、此寺の鐘音もせず、上人法師何なる目に相たるやらん、覚束(おぼつか)なし、出て見よと有ければ、壇の下より■(はひ)出て、堂の内外を見廻れば、被(二)責殺(一)て庭に有。角と申ければ、佐殿も人々も壇より出て庭に下給(たまひ)て、是を見
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て、頼朝(よりとも)が命に替たるこそ不便なれ、如何せんと歎給(たま)ひ、膝の上に掻載つゝ、涙ぐみ給ふも哀れなり。七人の者共も、面々に袖を絞けり。佐殿理過て泣給(たま)ひける涙の上人の口に入りければ、喉潤て又よみがへる。御堂の内に舁入て夜のふくるまで労り、物語(ものがたり)し給へり。上人申けるは、今までは御命に替り奉りぬ、大場心深き人也、(有朋上P701)又帰来て御堂の内外捜尋侍らば、御心憂目をも御覧じぬと覚ゆ、夜中なれば何事か侍べき、忍給へと申。佐殿は上人が志云に余あり、頼朝(よりとも)世を取ならば、此堂の修理と云ひ、今の恩の報答と云ひ、心にかけて不(レ)可(レ)忘、さらば暇申さんとて佐殿立給へば、七人の人々も足をはやめて落行けり。大場は三千(さんぜん)余騎(よき)にて杉山を打囲、数日の間さがしける。兵衛佐(ひやうゑのすけ)も此程は、此山にぞ隠れ居給へるが、嵐みねの松を吹声をきいては、敵の責下かと太刀の柄を把り、水谷川に流るゝ音に驚きては、軍の競上るかと腰の刀を抜儲て、網代の氷魚の亡安き命、籠の内の鳥の出難き身、今こそ思知れけれ。土肥次郎が女房は、心さか/\しき者にて、僧を一人相語ひ、杉山に御座(おはしまし)ける程は、■■(あじか)に御料をかまへ入、上に樒を覆、閼伽の桶に水を入て、上人法師の花摘由にもてなして、忍々に送りけり。地蔵堂の上人も、夜々(よなよな)にさま/゛\訪申けり。さてこそ深山(しんざん)寂寞の中にして、五六日をば経たりけれ。
< 昔天竺に、摩訶陀国の大王、頻婆娑羅王の太子、阿闍世に禁ぜられ給しに、国大夫人韋提希の、夫婦の情を忘れずして、身に砂蜜を塗付、御衣の下に隠しつゝ、楼珞の中に漿をもり入給(たまひ)て、密に王に奉り、三七日まで有けるも、角やと思ひしられたり。彼は
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一人を操り、是は七人を養けり。異説に云、兵衛佐(ひやうゑのすけ)伏木に隠んとし給ける時は、土肥(有朋上P702)次郎実平子息遠平、新開荒太郎実重、土屋三郎宗遠、岡崎四郎義実、土肥が小舎人に七郎丸と云冠者、佐殿共に七人也。跡目に付て尋来たりけれ共、大勢にては難(レ)忍、何方へも各隠れ籠て後にはと宣(のたまひ)ければ、北条時政と子息義時とは、山伝して甲斐国へ落ぬ。田代冠者信綱と加藤次景廉二人は、三島の社に隠れたりけるが、隙を伺ひ社を出でて落行く程に、加藤太に行合て、是も甲斐へぞ越にけるとあり。>
S2104 大沼遇(二)三浦(一)事
八月二十三日には、石橋の合戦と兼て被(レ)触たれば、三浦は可(レ)参よし申たれば、其(その)日(ひ)衣笠が城より門出し、船に乗て三百騎沖懸りに漕せけるに、浪風荒くして叶はず。二十四日に陸より可(レ)参にて出立けるが、丸子川の洪水に、馬も人も難(レ)叶と聞て、其(その)日(ひ)も延引す。二十五日に和田小太郎義盛三百(さんびやく)余騎(よき)にて、軍は日定あり、さのみ延引心元なし、打や/\とて鎌倉通に、腰越、稲村、八松原、大磯、小磯打過て、二日路を一日に、酒勾の宿に著。丸子河の洪水いまだへらざれば、渡す事不(レ)叶して、宿の西のはづれ、八木下と云所に陣を取。洪水のへるを待、暁渡さんとて引へたり。和田小太郎は、源遠して流深し、(有朋上P703)いつを限と待べきぞ、日数遥(はるか)に延ぬ、事の様見て渡さんとて、高所に打上り、雲透に水の面を見渡ば、河の西の耳に馬を引へて武者一人在て、東を守てたゝずみたり。漲り下る洪水の習にて、流はげしくして水音高し。小太郎大音揚て、西の川の耳におはするは誰人ぞと問ふ。音に付て、三浦党に、大沼三郎也、佐殿の御方に参たりき、軍は既(すで)に散じぬ、参りて申さん、河の淵瀬を不(レ)知、健ならん馬を給はらん、三浦の人々と奉(レ)見は僻事歟と喚。三浦はあな心苦し、急ぎ馬をやれとて、高く強き
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馬を渡たり。大沼是に乗て河を渡り、陣に下りて云ひけるは、軍は二十三日の酉の時より始めてゆゝしき合戦なりき、され共敵は大勢三千(さんぜん)余騎(よき)、御方は僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)、終に御方の軍敗れて、遁べき様なし、三浦与一は、俣野五郎に組で討れぬ、佐殿も遁方なく、手をおろして戦給しか共討れ給ぬ、大将軍亡給ぬる上は、ちり/゛\に落失ぬ、我身も希有にして遁たりしかば、此様人々に披露せんとて落たりしか共、敵山々に充満、余党の人を尋捜間、兎角隠忍て紛来れりと、一つは実一つは虚言を語けり。此大沼は与一が討るゝまでこそ軍場には有りけれ、大勢に恐て急ぎ落たりしかば、争か兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)の実否をば知べきに、角語たれば、三浦の輩是を聞、さてはいかゞすべき、大将軍の慥に御座(おはしまさ)ばこそ百騎が一騎(いつき)(有朋上P704)に成るまでも軍はせめ、今は日本国(につぽんごく)を敵にうけたり、是より帰ても叶まじ、前には伊藤梶原大場俣野等引へたりと聞ゆ、後には畠山五百(ごひやく)余騎(よき)にて金江河の耳に陣を取て待つときく、前後の勢に取籠られなば由々しき大事、縦ひ一方を打破て通りたり共、敵朝と成なん後は、安穏なるべきに非ず、されば人手に懸りて犬死にせんよりは、爰(ここ)にて自害せんとぞ申ける。三浦別当義澄大沼に問けるは、佐殿の討れ給たりけるをば、正く目とみ給たりやといへば、自奉(レ)見たる事はなし、伝に聞つる計也。さては推量なり、只人が角と云ひたればとて実と思べきに非ず、平家の方人共が敵をたばからん為めに、討れ給ぬと云にもや有らん、又御方の者也共、負軍に成ぬれば、敵に心を通して、角もや云けん不審也、天をも地をもはかれ共、人の心は難(レ)測、其上佐殿は、御身すくやかに心賢き人
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なれば、左右なく討れ給はじ、縦自害なんどし給共、敵に物をば思はすべし。就(レ)中(なかんづく)石橋と云所は、浦近して海漫々たり、船に乗て安房上総へもや伝給けん、峯つゞきて山深ければ、岩の迫谷の底にもや隠れ忍び給らん、そも知難し、慥に目と不(レ)奉(レ)見ほどは、自害もの騒し、如何様(いかさま)にも御身近き田代殿を始めて、佐々木北条土肥土屋此者共に尋逢て、慥の説を聞べき也、一定討れ給たらば、主の敵なれば、大場にも畠山にも打向て、(有朋上P705)命を限に軍すべし、佐殿の死生聞定ざらん間は、相構て身をたばへとて、其夜の中に三浦へとて帰けり。抑畠山五百(ごひやく)余騎(よき)にて、金江川に陣を取て待と聞、いかゞ有べきと云ければ、和田小太郎は、佐殿の左右をきかん程は、命を全して君の御大事(おんだいじ)に叶ふべし、去ば小磯が原を過て、波打際を忍とほらんと云けるを、佐原十郎は、何条さる事か有べき、畠山は若武者也、而も五百(ごひやく)余騎(よき)、思へば安平也、我等(われら)が三百(さんびやく)余騎(よき)にて蒐散して、馬共とりて乗てゆかんと云けるを、三浦別当は詮なき殿原のはかり様や、畠山は今日一日馬飼足休めて身をしたゝめたり、我等(われら)は此両三日、あなたこなた馳つる程に、馬もよわり主も疲たり、人の強き馬とらんとて、我弱き馬とられて其詮なし、馬の足音は波に紛れてよも聞えじ、轡鳴すなとてみづつき結ひ、鎧腹巻の草摺巻上なんどして打けるに、和田小太郎は本よりつよき魂の男にて、いつの習の閑道ぞ、畠山は平家の方人也、我等(われら)は源氏の方人なり、源氏勝給はば、畠山旗を上て参べし、平家勝給はば、三浦旗を上て参べし、爰を問はずは後に被(レ)笑事疑なし、人は浪打際をも打給へ、義盛は名乗て通らん、同心し給へ佐原殿とて、鎧の表帯
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しづ/゛\と結かため、甲の緒をしめ弓取直して、鐙に幕付けさせて、大音あげて、是は畠山の先陣歟、角云は三浦党に和田小太郎義盛と云者(有朋上P706)也、石橋の軍に、佐殿の御方へ参つるが、軍既(すで)に散じぬと聞けば、酒勾宿より帰也、平家の方人して留んと思はば留よと、高く呼てぞ打過る。敵追来らば返合て戦はん、さらずは三浦へ通らんとて、馬を早めて行程に、八松が原、稲村崎、腰越が浦、由井の浜をも打過て、小坪坂を上らんとし〔たり〕ける時に、
S2105 小坪合戦事
〔斯かる処に〕畠山は本田、半沢に云けるは、三浦の輩にさせる意趣なし、去共加様に詞を懸らるゝ上に、父の庄司伯父の別当平家に奉公して在京なり、矢一射ずは平家の聞えも恐あり、和田が言も咎めたし、打立者共と下知しければ、成清は仰の旨透間なし、急げ殿原とて、五百(ごひやく)余騎(よき)、物の具かため馬にのり、打や早めとて追ければ、同小坪の坂口にて追付たり。畠山進出て、重忠爰(ここ)に馳来れり、いかに三浦の殿原は口には似ず、敵に後をばみせ給ぞ、返合せよと■(ののし)り懸て歩せ出づ。三浦三百(さんびやく)余騎(よき)、畠山に懸られて、小坪の峠に打上り、轡を並て引へたり。小太郎伯父の別当に云けるは、其には東地に懸りて、あふすりに垣楯かきて待給へ、かしこは究竟の小城なり、敵左右なく寄がたし、義盛は平に下て(有朋上P707)戦はんに、敵よわらば両方より差はさみ中に取籠て、畠山をうたんにいと安し、若又御方弱らば、義盛もあふすりに引籠て、一所にて軍せんと云。別当然べきとて百騎を引分て、後のあふすりに陣を取て左右を見る。畠山次郎は五百(ごひやく)余騎(よき)にて、由井浜、稲瀬河の耳に陣を取て、赤旗天に耀けり。和田小太郎は、白旗さゝせて二百(にひやく)余騎(よき)、小坪の峠より打下り、
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進め者共とて渚(なぎさ)へ向て歩せ出づ。爰(ここ)に畠山、横山党に弥太郎と云者を使にて、和田小太郎が許へ云けるは、日比(ひごろ)三浦の人々に意趣なき上は、是まで馳来べきにあらず、但父の庄司伯父の別当、平家に当参して六波羅に伺候す、而を各源氏の謀叛に与して軍を興し、陣に音信(おとづれ)て通給ふ、重忠無音ならば、後勘其恐あり、又伯父親が返りきかんも憚あれば、馳向ひ奉るばかり也、御渡を可(レ)奉(レ)待歟、又可(二)参申(一)かと、牒使を立たりけり。和田小太郎は、藤平実国を使に副て返事しけるは、御使の申条委く承りぬ、畠山殿は三浦大介には正き聟、和田殿は大介には孫にて御座(おはしま)す、但不(レ)成中と申さんからに、母方の祖父に向て、弓引給はん事如何か侍るべき、又謀叛人に与する由事、いまだ存知給はずや、平家の一門を追討して、天下の乱逆を鎮べき由、院宣を兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に被(レ)下間、三浦の一門勅定の趣と云ひ、主君の催と云ひ、命に随ふ処なり、若敵対し給はば、後悔(有朋上P708)如何が有べき、能々思慮を廻さるべきをやと云たりければ、畠山が乳母子(めのとご)に半沢六郎成清、和田小太郎が前に下塞て云ひけるは、三浦と秩父と申せば、一体の事也、両方源平の奉公は世に随ふ一旦の法也、佐殿いまだ討れ給はずと承、世に立ち給はば、畠山殿も本田半沢召具して、定て源氏へ被(レ)参べき、平氏世に立給はば、三浦殿も必御参あるべし、是非の落居を知ずして、私軍其詮なし、両陣引退かせ給はば、公平たるべき歟と云ければ、半沢が角云は、畠山が云にこそ、人の穏便を存ぜんに、勝に乗に及ばずとて、和田小太郎は小坪の峠に引返す。軍既(すで)に和平して各帰りちらんとする処に、和田小太郎義茂が許へ、兄の小太郎人を馳
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て、小坪に軍始れり、急ぎ馳よと和平以前に云遣たりければ、小次郎(こじらう)はいさゝか少用ありて、鎌倉に立寄たりけるが、是を聞驚騒ぎて馬に打乗り、犬懸坂を馳越て、名越にて浦を見れば、四五百騎(しごひやくき)が程打囲て見えけり。小次郎(こじらう)片手矢はげて鞭をうつ。小太郎は小坪坂の上にて軍和平したれば、畠山に不(レ)可(レ)向と云ふ心にて、手々に招けれ共、角とは争か知べきなれば、急と云ぞと心得(こころえ)て、をめきてかく。畠山は軍和平しぬる上はとて馬より下、稲瀬川に馬の足涼して休居たりけるに、小次郎(こじらう)が馳を見て、和平は搦手の廻るを待けるを知ずして、たばかられにけり、安からずとて馬(有朋上P709)に打乗、小次郎(こじらう)に向て散々(さんざん)に蒐。小次郎(こじらう)は主従八騎にて、寄つ返つ/\火出程こそ戦けれ。敵六騎切落し、五騎(ごき)に手負せて暫休けるを、小太郎は、小次郎(こじらう)うたすな、始に手をひらきて招けば知ざるにこそ、大なる物にて招けとて、四五十人手々に唐笠にて招けるを、弥深入して戦へと云にこそと心得(こころえ)て、暫気をやすめ、又馳入てぞ戦ける。今は叶はじ、小次郎(こじらう)うたすなつゞけ者共とて、和田小太郎二百(にひやく)余騎(よき)にて小坪坂を打下り、河を隔て引へたり。小太郎藤平に問けるは、義盛は楯突の軍には度々あひたれ共、馬の上は未(レ)知、いかゞ有べきといへば、実光今年五十八、軍に逢事十九度也、軍は尤故実に依べし、馬も人も弓手に合事なり、打とけ弓を不(レ)可(レ)引、開間を守てためらふべし、我内甲をば惜べし、矢をはげたり共、あだやを射じと資べし、敵一の矢を放て、二の矢いんとて打上たらん、まつかふ内甲頸のまはり、鎧の引合、すきまを守て射給ふべし、矢一放ては、急ぎ二の矢を番て、人のあきまを守給へ、
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敵も角こそ思ふらめなれば、透間を資て常に冑突し給ふべし。昔は馬を射事候はず、近年は敵の透間なければ、まづ馬の太腹を射て主を駻落して、立あがらんとする処を、御物射にもする候、敵一人をあまたして射事有べからず、箭だうなに相引して誤すな、敵手繁くよするならば、様あるまじ、(有朋上P710)押並て組で落、腰刀にて勝負をし給へとぞ教たる。去ければ、敵は引詰々々散々(さんざん)に射けれ共、或は上り或は下る、自あたる矢も、透間をいねば大事なし。三浦は実光が云ふに任て、敵の二の箭いんとて打上るすきまを守りて、差つめ/\射ければ、あだや一も無りけり。去(さる)程(ほど)にあふすりの城(じやう)固めたる三浦の別当義澄、爰(ここ)にて待つも心苦し、小坪の戦きびしげなり、つゞけ者共とて、道は狭し、二騎三騎づつ打下けるが、遥(はるか)に続て見えければ、畠山是を見て、三浦の勢計にはなかりけり、一定安房上総下総の勢が、一に成と覚えたり、大勢に被(二)取籠(一)なば、ゆゝしき大事、いざや落ちなんとて五騎(ごき)十騎(じつき)引つれ/\落行けり。三浦勝に乗て散々(さんざん)に是を射。爰(ここ)に武蔵国の住人(ぢゆうにん)綴党の大将に、太郎、五郎とて兄弟二人あり。共に大力也けるが、太郎は八十人が力あり、東国無双の相撲の上手、四十八の取手に暗からずと聞ゆ。大将軍畠山に向ひて云けるは、和田に蒐られて御方負色に見ゆ、思切郎等のなければこそ軍は緩なれ、和田小次郎(こじらう)討捕つて見参に入れんと云捨て、肌には白き帷に脇楯、白き合の小袖一重、木蘭地の直垂に、赤皮威の鎧に、白星の甲を著、二十四差たる黒つ羽の箙、四尺六寸の太刀に熊の皮の尻鞘入てぞ帯たりける。滋籐の弓の真中とり、烏黒なる大馬に、金覆輪の鞍にぞ乗たりける。
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和田小次郎(こじらう)(有朋上P711)は、陣に打勝つて弓杖つき、浪打際に引へたり。綴太郎近く歩せよす。小次郎(こじらう)是を見て、和君は誰そと問。武蔵国住人(ぢゆうにん)綴太郎と云者也、畠山殿の一の郎等と名乗る。小次郎(こじらう)は、和君が主人畠山とこそくまんずれ、思ひもよらず義茂にはあはぬ敵ぞ、引退と云へば、綴云ひけるは、まさなき殿の詞かな、源平世にはじまりて、公私に付て勢を合する時、郎等大将に組む事なくば何事にか軍あるべき、さらば受て見給へとて、大の中差取て番ひ、近づき寄ければ、射られぬべく覚て、綴をたばかりて云やう、詞の程こそ尋常なれ、恥ある敵を遠矢に射る事なし、寄て組み、腰の刀にて勝負せよとぞ云ひける。綴然るべきとて、弓箭をば抛棄て、歩せよせ、推並て引組で、馬より下へどうど落。綴は大力なれば、落たれ共ゆらりと立、小次郎(こじらう)も藤のまとへるが如く、寄り付てこそ立直れ。綴の太郎は大力なる上、太く高き男にて、和田小次郎(こじらう)が勢の小き、かさに係りて押付てうたんとしけり。和田は細く早かりければ、下をくゞりて綴を打倒して討たんと思へり。勢の大小は有けれ共、力はいづれも劣らず、相撲は共に上手也。綴は和田が冑の表帯引寄て、内搦に懸つめて、甲のしころを傾て、十四五計ぞはねたりける。和田綴に骨ををらせて、其後勝負と思ければ、腰に付てぞ廻ける。綴内搦をさしはづし、大渡に渡して駻(有朋上P712)けれ共、小次郎(こじらう)はたらかず、大渡を曳直、外搦に懸、渚(なぎさ)にむけて十四五度、曳々と推ども/\、まろばざりけり。今は敵骨は折ぬらんと思ければ、和田は綴が表帯取て引よせ、内搦にかけ詰て、甲のしころを地に付て、渚(なぎさ)へむけて曳音出してはねたりけり。綴骨は折
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ぬ、強はかけてはねたれば、岩の高にはね懸られて、かはと倒る。刎返さん/\としけれ共、弓手のかひなを踏付て、甲のてへんに手を入、乱髪を引仰て頸を掻落す。首をば岩上に置、綴が身に尻打懸て、沖より寄来る波に足をひやし、息を休めて居たりけるが、敵定て落逢んずらんと思ければ、綴が首をしほでの根に結付て、馬に打乗弓杖つき、敵落合とぞ呼ける。綴五郎兄を討れて、をめきて蒐。小次郎(こじらう)云けるは、和君は綴が弟の五郎にや、兄が敵とて義茂にくまんと思て懸るが、汝が兄の太郎は東国第一の力人、それに組て被(二)取損(一)たれば今は力なし、疾々寄て義茂が頸をとれとぞ云ひける。五郎まのあたり見つる事なれば、実と思ひ押並べてひたと組、馬より下へ落。如何がはしたりけん、五郎下になり、是も頸をぞ捕にける。角て岩に尻懸浪に足うたせて休処に、綴小太郎父と伯父を被(レ)討て、三段計に歩せ寄せ、大の中差取て番ひ、さしあて兵と射、冑の胸板(むないた)に中て躍り返る。小次郎(こじらう)は射向の袖を振合せ、しころを傾、苦しげなる音して云ける(有朋上P713)は、やゝ綴小太郎よ、親の敵をば手取にこそすれ、而に親の敵也、人手にかくな落合かし、近くよらぬは恐しきか、和君が弓勢として、而も遠矢にては、義茂が冑をばよもとほさじ物を、但義茂は、昨日一昨日より隙なく馳せあるき、兵粮もつかはず、大事の敵にはあまた合ひぬ、既(すで)に疲に臨んで覚ゆれば力なし、父が敵なればさこそ汝も思らめ、人にとられんよりは、寄て首を切、延て斬せんと云ければ、小太郎まこと貌に悦びつつ馬より飛下、太刀を抜て走懸り、小次郎(こじらう)が甲の鉢を丁と打、一打うたせてつと立あがり、取て引よせ
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懐きふせ、てへんに手を入れて頸を切る。三の首を二をば取付につけ、一をば太刀のさきに貫いて馬に乗、指挙つゝ名乗けるは、只今(ただいま)畠山が陣の前にて、敵三騎討捕て帰る剛の者をば誰とか思ふ、音にも聞らん目にも見よ、桓武天皇(てんわう)の苗裔高望王より十一代、王氏を出て遠からず、三浦大介義明が孫和田小次郎(こじらう)義茂、生年十七歳、我と思はん者は、大将も郎等も寄て組とぞ呼ける。畠山は小坪の軍に、綴太郎五郎、同小太郎、河口次郎太夫、秋岡四郎等を始として、三十(さんじふ)余人(よにん)討れぬ、手負は五十(ごじふ)余人(よにん)也。三浦には多々良太郎、同次郎、郎等二人、纔(わづか)に四人ぞ討れける。畠山は郎等多く討れて、敵にくまんと招かれて安からず思ければ、畠山は重忠くまんとて打出けり。紺地の錦の直垂(有朋上P714)に火威の冑に、蝶のすそ金物をぞ打たりける。白星の甲に、二十四差たる鵠羽のやなぐひ筈上に取てつけ、紅の母衣懸、薄緑と云太刀の三尺五寸なるに、虎皮の尻鞘入てぞ帯たりける。泥葦毛の馬に、中は金覆輪、耳は白覆輪の鞍を置、燃立つばかりの厚総の鞦かけ、武蔵鐙に重籘の真中取て歩せ出づ。本田半沢左右にすゝむ。名乗けるは、同流の高望王の後胤、秩父十郎重弘が三代の孫、畠山庄司次郎重忠、童名氏王、同年十七歳、軍は今日ぞ始、高名したりと■(ののし)る和田小次郎(こじらう)に、見参せんとて進出。本田次郎中に隔りてくつばみ押へ云けるは、命を捨るも由による、宿世親子の敵に非ず、只平家に聞えん計、一問にこそ侍れ、就(レ)中(なかんづく)三浦は上下皆一門也、秀を大将としなし、後を郎等乗替に仕ふ、されば一人当千(いちにんたうぜん)の兵にて、親死子死とも是を顧ず、乗越々々面を振ず、後を見せじと名を惜む、御方の勢と申は、党の駈武者
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一人死すれば、其親しき者共よき事に付とて、引つれ/\落れば、如何なる大事あり共、君の御命に替る者候はじ、成清近恒ぞ矢さきにも塞るべけれ共、是は公軍なり、只引返し給へと云けれ共、小次郎(こじらう)に組で死なんとて打寄ければ、和田は度々の軍に身をためしたる武者にて、畠山矢ごろにならば、唯一矢にと志、中差取て番ひ相待。ほど近くなりければ、能引て放つ。畠山が乗たる馬の、(有朋上P715) 当胸尽より鞦の組違へ、矢さき白く射出す。馬は屏風を返すが如臥ければ、主は則下立けり。成清馬より飛下て、主を懐き上て我馬に乗す。弓取はよき郎等を持べかりけり。半沢無りせば、あぶなかりける畠山なり。成清歩武者に成て間に隔たる。小次郎(こじらう)太刀を額にあてて進寄。畠山同太刀を額に当てて小次郎(こじらう)を待処に、三浦介の手より、小次郎(こじらう)は骨を折ぬと覚ゆ、討すな者共とて、兄の小太郎義盛、佐原十郎義連、大党三郎、舞岡兵衛を始として、十三騎太刀をぬき打て向ければ、畠山も討るべかりけるを、本田、半沢中に阻り、以前に如(レ)申、大形も御一門、近は三浦大介殿は祖父、畠山殿は孫に御座(おはしま)す、離れぬ御中なり、指たる意趣なし我執なし、私の合戦其詮なく覚ゆ。本田、半沢に芳心ありて、御馬を返し給へと云ければ、和田是を聞、郎等の降を乞は、主人の云にこそ、今は引けとて、和田は三浦へ帰ければ、畠山は武蔵へ返りけり。さてこそ右大将家(うだいしやうけ)の侍に座を定られけるには、左座の一揩ヘ畠山、右座の一揩ヘ三浦、中座の一揩ヘ梶原と定りける時は、畠山は、三浦の和田に向て降乞たりし者也、左座無(レ)謂と云けるを、重忠全く不(二)存知(一)、弓矢取る身の命を惜み、敵に降乞事や有べき、若郎等共(らうどうども)が中に云ふ事の有けるか、返々奇怪也とぞ陳じける。(有朋上P716)
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十二
P0525(有朋上P717)
羅巻 第二十二
S2201 衣笠合戦事
義澄義盛小坪軍に打勝て三浦に帰、軍の次第こま/゛\と語ければ、大介義明よく/\きき、莞爾と笑ひ頷許入て、無(二)左右左右(一)若殿原、弓矢の運は弥増々々に繁昌せり、中にも小次郎(こじらう)が振舞神妙(しんべう)々々(しんべう)とて感涙を流し、孫引出物とて太刀一振をぞ給(たま)ひたりける。さても大介云けるは、敵は一定明日寄べし、佐殿よも討れ給はじ、急ぎ衣笠に引籠て軍せよ、敵こはくとも散々(さんざん)に蒐破て、今一度佐殿尋奉べし、難(レ)遁は討死をせよといへば、義盛申けるは、衣笠は馬の足立よき所なれば、寄手の為には便あり、忽(たちまち)に追落されなん、奴田の城(じやう)は、三方は石山高して馬も人も通ひ難き悪所也、一方は海口に道を一つ開たれば、よき者一二百人(いちにひやくにん)あらば、縦敵何万騎寄たり共輙く責落すべからずと申。大介重て申、奴田と云は僅(わづか)の小所、人是を不(レ)知、衣笠こそ聞えたる城よ、三浦の者共は小坪の軍に打勝て、軈衣笠に引籠て、散々(さんざん)に戦て討死しけりといはば、嗚呼(ああ)さる名誉の城(じやう)あり、其は(有朋上P718)よき所也など人も沙汰すべし、奴田城にて討死といはば、奴田とはどこぞ、未(レ)知といはれん事面目なし、只衣笠に籠れ、急げ/\と云。義盛が云けるは、奴田も三浦も皆御領内也、就(レ)中(なかんづく)軍と申は身を全して敵に物を思はせ、日数をへて戦ふこそ面白けれ、衣笠に籠たり共、やがて追落されなば無下に云甲斐なし、能々
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御計候べしといへば、大介腹を立て、やをれ義盛よ、今は日本国(につぽんごく)を敵に受たり、身を全せんと思とも何日何月か有べき、縦命生べく共、人のいはんずる事は、三浦こそ一旦命を延んとて、さしもの名所を閣て、奴田城に籠たりけれと沙汰せん事も口惜し、若又百人(ひやくにん)が中に一人なりとも生残て、佐殿世に立給(たま)ひたらん時、父や祖父が骸所とて知行せんにも、衣笠こそ知たけれ、軍と云は所にはよらず、手がら謀に依べし、荒野の中にて戦とも、能くあひしらはば不(レ)可(レ)負、石の櫃に籠たり共、悪く戦ならば難(レ)叶、命惜くば軍なせそ、などや己は物には覚ぬ、且は父の命也、老者の云言は験あり、義明は只一人也とも衣笠にて討死せん、敵よせずば干死にも彼にてこそ死なめと、大に嗔り云ければ力及ばず、孫引連て衣笠城に籠にけり。上総介弘経が弟に金田大夫と云者は、義明が聟なりければ、七十余騎(よき)を引率して同城に籠にけり。都合勢僅(わづか)に四百五十三騎ぞ有ける、大介は敵寄るならば暇ある(有朋上P719)まじ、先静なる時よく/\兵糧つかふべしとて、酒肴椀飯舁居て是を勧む。さて下知しけることは、弓したゝかに射者は、家の子も侍も舎人草刈に至まで汰置、弓は一人して二張三張、矢は四腰五腰も用意せよ、弓え射ざらん者は、七八人(しちはちにん)も十人も又四五人も徒党して、好々の杖共を支度せよ、木戸を三重にこしらふべし、敵は軍の法なれば、定て追手搦手二手にわけて寄べし。追手の方には道を造れ、広さ七八尺に不(レ)可(レ)過、道広ければ大勢くつばみを並て押寄れば、城の中に隙なくして防えず、馬二匹ばかり通る程に造れ、道の片方は沼なれば兎角するに及ばず、片方には
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大堀をほれ、道をば三重に掘切て、一の堀には橋を広くわたせ、中堀には細橋を渡せ、二の堀には逆茂木を引、堀ごとに掻楯を構へ櫓をかけ、弓よく射者共は甲を著ざれ、腹巻腹当筒丸などを著て、矢倉に上て敵の冑の胸板(むないた)を差詰て射よ、又歩走の者共は角きはりをこしらへ置、杖打の奴原は、西の方の小竹の中に籠り居よ、小竹の中より造道へ向て細道を造れ、敵一の橋を打渡て二の橋まで寄るならば、角きはりを以て馬の太腹を射よ、射られて駻るならば、冑武者左右の堀と沼とへはね落されて、おきん/\とせん処を、小竹の中より杖打の奴原つと出て、杖の前そろへておこしも立ず能者をば打殺せ、駈武者共をば死ぬる程に打成して、(有朋上P720)生殺にして■(はひ)行せよ、其こそ軍の目醒なれ、各不覚すなとぞ下知したる。廿七日の小坪軍の後、中一日ありて廿九日の早朝、河越又太郎(またたらう)、江戸太郎、畠山庄司次郎等大将軍として、金子、村山、山口党、児玉、横山、丹党、をし、綴党を始として三千(さんぜん)余騎(よき)、衣笠の城(じやう)へ発向す。追手は河越、搦手は畠山、二手に分て推寄つゝ、時の音三箇度(さんがど)合てためらふ処に、綴の一党、当家の軍将三人まで小坪の軍に討れて不(レ)安思ければ、二百(にひやく)余騎(よき)先陣に進て、木戸口(きどぐち)近く攻寄たり。城の内には本より支度の事也、掻楯の上精兵共、一騎(いつき)々々(いつき)を主付て差詰々々射ける矢に、馬共いさせてはね落されて深田に落入、あがらん/\としける処を、小竹の中より杖打の冠者原、鼻を並て細道よりつと出て、打殺差殺て、乗替郎等多く討れて、生る者は少く死る者は多かりければ、綴党も不(レ)叶して引退く。金子十郎家忠と名乗て、一門引具し
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三百(さんびやく)余騎(よき)、入替々々戦ける中に、人は退ども家忠は不(レ)退、敵は替ども十郎は替らず、一の木戸口(きどぐち)打破り、二の木戸口(きどぐち)打破て、死生不(レ)知にして攻たりける。城中(じやうちゆう)よりも散々(さんざん)に是を射る。甲冑に矢の立事廿一、折懸々々責入つゝ更に退事なかりけり。城の中より提子に酒を入て、杯もたせて出しけり。城の中より大介、家忠が許へ申送けるは、今日の合戦に、武蔵相模の人々多く見え給へ共、貴辺(有朋上P721)の振舞ことに目を驚し侍り、老後の見物今日にあり、今は定てつかれ給ぬらん、此酒飲給(たまひ)て、今ひときは興ある様に軍し給へ、と云遣したりければ、家忠甲振仰弓杖つき、杯取三度飲て、此酒のみ侍て力付ぬ、城をば只今(ただいま)責落奉べし、其意を得給へとて使をば返してけり。軍陣に酒を送は法也、戦場に酒を請は礼也、義明之所為と云、家忠之作法と云、興あり感ありとぞ皆人申ける。家忠唯非(二)勇心之甚(一)、専存(二)兵法之礼(一)けり。金子十郎、わざと人をば具せざりけり、命をすてんとの心也。ふし縄目鎧に三枚甲の緒をしめ、甲の上に萌黄の腹巻打かづき、櫓の本まで責付たり。大介云けるは、哀金子は大剛者かな、一人当千(いちにんたうぜん)の兵とは是なるべし、軍は角こそ有べけれ、あれ射つべき者はなきか、惜き者なれ共日比(ひごろ)の敵也、あれを射留よとぞ下知しける。三浦の別当申けるは、和田小太郎は、弓勢も矢管もはしたなく尻全く候、彼を召て仰たべとぞ申。大介小太郎を招て、あの家忠射留よと云。仰承ぬとて立にけり。三人張に十三束三伏をぞ射ける。荒木の弓のいまだ削治ざるを押張て、すびきしたりければ、ちと強きやらんと思けるに、かね能
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征矢二つ把具し、櫓に上て見れば、十郎二段ばかり隔て水車を廻し、次第々々に責寄て櫓の内へはね入らんとする処を、和田小太郎義盛、十三束三伏しばし固て落矢に(有朋上P722)兵と放つ。金子が甲に懸たりける腹巻の一の板、甲の鉢かけてがらと射貫き、額の方により頷の下をつと通り、冑の胸板(むないた)のはた覆輪にぞ射付たる。痛手なれば少しもたまらずどうど倒る。三浦の藤平落合て頸をとらんとする処に、金子与一つとより肩に引懸、木戸口(きどぐち)の外へ出けるを、三浦与一追て懸る。あますまじきぞ/\とて、余に手しげく追ければ、金子与一、十郎をば打棄て太刀を抜て返合て打懸る。与一と与一と立合て、太刀打にこそ戦けれ。三浦与一受太刀に成ければ、不(レ)叶と思てかいふつて逃けるを、金子与一追付て三浦与一を懐き留、虜にして首を切。敵の頸を手に提げ、十郎を肩に係て陣の内にぞ入にける。家忠が疵は痛手なれ共、ふえ切ざれば不(レ)死けり。今日の高名、金子党にぞ極たる。武蔵国の者共、入替々々戦けり。三浦の別当下知しけるは、城の内を不(レ)離して、よせん敵を引詰々々射よ、与一も長追して、城を離てこそ討れぬれ、身をたばひて敵に物を思はせよと云ければ、大介是を聞て、若者共が軍の様こそをかしけれ、何の料とて命をたばふべきぞ、京童部(きやうわらんべ)の向つぶて、河原印地の様也。坂東武者の習として、父死れ共子顧ず、子討れども、親退ず、乗越々々敵に組で、勝負するこそ軍の法よ。されば二十騎(にじつき)も三十騎(さんじつき)も馬の鼻を並べて蒐出つゝ、案内もしらぬ者共を悪所へ追詰々々笑(有朋上P723)たるこそ目覚して面白けれと云けれ共、別当は、幾程もなき勢を以て
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かけ出ん事あしかりなんとて不(レ)出けり。大介云けるは、我老々として所労の折節(をりふし)再発せり、義明十三已来(このかた)弓矢を取て今年七十九、今此軍に会事老後の面目也、殿原こそ出給はずとも、いで/\義明かけ出て、最後の軍して見せ奉らんとて、白き直垂の袖せばきに、萎烏帽子(もみえぼし)を引立て、雑色二人に馬の口引せ、中間六人に左右の膝をさせ、太刀計を腰に付けて、右の手に鞭を貫入、左の手に手綱かいくり、既(すで)に打出んとしけり。子息の別当是を見て、馬の口に取付て、如何に角はおはするぞ、其御歳にて打出給たらば、何の詮にか立給ふべき、老衰て物に狂給ふかと云ければ、大介は、やをれ義澄よ、武者の家に生て軍するは法也。敵の陣に向て命を惜むは人ならず、義明をば老て物に狂と笑へども、己等は若き物狂ぞと覚たり、軍と云は、かけ出/\追つ返つ進み退き、組んづ組れつ討つ討れつ、敵も御方も隙のなきこそ面白けれ。いつを限りと云事なく、草鹿的を射様に、一所にて敵を射事やは有べき、そこのけ奴原とて鞭を以て打けれ共、甲を打はいたからず、別当馬の鼻を取て城の内へぞ引もて行。是は大介が、実に軍場に出べきにはなけれ共、兵をすゝめん計事と覚たり、ゆゝしき大将とぞ見えたりける。日も漸く暮ければ、各軍に疲つゝ、(有朋上P724)事外に弱々しく見えければ、大介子孫郎等呼居ゑて、老眼より涙を流し云けるは、軍はすべき程は仕つ、人の笑れぐさにはよもならじ。又義明も可(レ)見程は見つ、各疲給へり、殿原左右なく自害し給ふべからず、佐殿御心賢き人にて御座(おはしませ)ばよも討れ給はじ、いかにも安房上総の方にぞ御座らん、相構て尋参りて、義明が有様(ありさま)
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をも語申べし。君に力を付奉て、一味同心に平家を亡し、佐殿を日本(につぽん)の大将軍になし進せて、親祖父が墓所也とて、骸所をも知行して我孝養に得させよ。東国の人共、誰か君の重代の御家人にあらざる。去共今一旦の恩を蒙るに依て、平家の方人に似たれども、争か昔の好みを忘奉べきなれば、終には皆参べし、老たる馬は道を忘れず、古人は言誤りなし、必思合すべし、穴賢自害すべからず、穴賢二心なかれ、但義明をば爰(ここ)に捨よ、只身々を助て急ぎ落よ、我既(すで)に老耄せり、行歩にも不(レ)叶、馬にも乗得がたし、汝等(なんぢら)は今は落人也、道狭き者ぞ、我労り具せんとせば倶に悪かるべし、延得ずして打捨なば無益の恥を見るべし、明日は人の笑べし、大介は幾程命をいきんとて終に死ける物ゆゑに、衣笠にては死せずして、骸を径にさらす無慙さよと、又三浦の者共が父を具して落けるが、責ての命の惜さに、老たる親を道に捨て、人手に懸し甲斐なさよと、彼と云ひ此と云ひ、我ため人のため、糸口惜事(有朋上P725)なるべし、さればとく/\落てゆけ、我をば此に留置、老は悲しき物也けり、哀糸惜き子孫と相共に、佐殿の世に立給(たまひ)て日本国(につぽんごく)を知行し給はんを見て死たらば、いかに嬉しからん、只今(ただいま)死なんずる義明が、是程君を思進するとは不(二)知召(一)もや有らんとて、直垂の袖を絞りければ、家子も郎等も、最後の教訓を憐て、音を挙てぞ叫ける。さても大介は、捨よ/\と云けれ共、子孫名残(なごり)を惜みつゝ、輿を寄て具し申さんと云けれ共、大介終に不(レ)乗。義澄以下の子孫は父をば捨て、泣々(なくなく)主君を尋奉て、夜中に栗浜の御崎に出て、船に乗て安房の方へ漕行けり。其外は三騎五騎(ごき)ぬけ/\に
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落失ける中に、年比の郎等共(らうどうども)の有けるが、主の名残(なごり)ををしみ、手輿にのせて舁て出づ。大介云けるは、我は子孫に暇乞て此にて死する者也、如何に角はするぞ、只捨て行とて、扇を以輿舁共を打けれ共、一里計ぞ舁もて行く。敵既近付ければ輿を捨て逃けるを、いかにや/\、下搨口惜ものは無りけり。さしも城中(じやうちゆう)にすてよと云つる物を、此輿舁助よ、さらずば己等が手に懸て恥を隠せと云けれ共、敵は無下に近付ければ、皆散々(さんざん)にぞ失にける。敵の下部共来て輿の中より引出して、衣裳を剥取ければ、己等に逢て名乗べきに非ず、知らぬばかく振舞か、恥ある者に恥を見すべからず、我は三浦大介と云者ぞ、角なせそ/\と云け(有朋上P726)れ共、赤裸にぞはぎなしける。大介は、哀同は畠山に見合てきらればや、継子孫也、其ゆかりむつましと思ひけれども、願の畠山には非ずして、■(すずろ)なる江戸太郎に被(レ)斬にけり、如何にも老者の云言末のあふ事也。大介が兼て云ける様に城中(じやうちゆう)に棄てたりせば、さまでの恥はあらじものとぞ申ける。
S2202 土肥焼亡舞同女房消息(せうそく)附大太郎烏帽子(えぼし)事
去(さる)程(ほど)に大場伊藤は、此間山を廻して捜尋けれ共、佐殿見え給はねば、今は力なしとて我が館々へ帰にけり。敵散ずと聞えければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)杉山を出て土肥の真鶴へ落んとし給ふ。真平は、残党も猶不審し、我館も如何が有らんと思て、高峯に上り、眼影をさして見渡せば、山内には人ありとも覚えず、我が所領へは、伊藤入道三百(さんびやく)余騎(よき)にて押寄て、土肥の在家一一に追捕し、此彼に火を放て一宇も残さず焼払(やきはらふ)。七人同く是を見る。真平佐殿の御前にて、一時乱舞ぞしたりける。土肥に三の光あり、第一は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)我君を守給ふ和光(わくわう)の光と覚え
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たり。第二は我君平家を打亡し、一天四海を照し給ふ光なり。第三は真平より始て、君に志ある人々の、御恩によりて子孫繁昌の光也。嬉しや水々鳴は(有朋上P727)滝の水、悦開て照したる土肥の光の貴さよ、我屋は何度も焼ばやけ、君だに世に立たまはば、土肥の杉山広ければ、緑の梢よも尽じ、伐替々々造らんに、更に歎にあらじかし、君を始て万歳楽、我等(われら)も共に万歳楽とぞ舞たりける。人々あらまほしき祝事にゑみまげて勇けるに、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、土肥が舞は今に始ぬ事なれ共、只今(ただいま)は殊に目出く面白と感じ給ふ処に、土肥女房が許より消息(せうそく)あり。真平披(レ)之見れば、三浦の人々は、廿三日に船にて石橋へ参らんと支度したれば、浪風荒くして不(レ)叶、廿五日に酒勾宿まで参たれ共、軍敗ぬと聞て帰る程に、廿七日に小坪にて畠山に行合て、さま/゛\戦けるが、畠山軍に負て、三浦衣笠に籠て相待侍けるに、江戸河越畠山等、三十(さんじふ)余騎(よき)にて衣笠城を責落し、大介討れ候けり。其外の人々は君を尋進せて、安房国へ漕給けると聞え侍り。無勢にて御山隠の御すまひ、心苦くこそ侍れ。急三浦の人々を尋て安房上総へ越給べしと云文也。土肥此状を以て佐殿に角と申ければ、神妙(しんべう)々々(しんべう)と大に悦給ふ。さらばとく/\とて、夜の凌晨(しののめ)に真鶴へこそ落給へ。軍将宣(のたま)ひけるは、敵に攻られて甲をば捨つ、大童にては落人といはれなん、如何がして烏帽子(えぼし)を著べきと被(レ)仰ければ、折節(をりふし)甲斐国住人(ぢゆうにん)大太郎と云烏帽子(えぼし)商人、箱を肩に懸て道にて逢。然るべき事也とおぼして、何国の者ぞ(有朋上P728)と問ひ給へば、甲斐国住人(ぢゆうにん)大太郎と申す烏帽子(えぼし)商人也と答。土肥申けるは、あの男
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は、真平が家人商人の為に、所領に家造して通ひ侍り、やゝ太郎、人は七八人(しちはちにん)あり、皆大童なれば、民百姓までも落人とや見らん、其憚あり、烏帽子(えぼし)折て進せなんやといへば、安き程の事也とて、宿所に請じ入奉て白瓶子に口裹、さま/゛\の肴にてもてなし奉る。酒宴半に烏帽子(えぼし)箱を取出し、中座に候ひて折(レ)之て人々に奉(レ)賦、不(二)取敢(一)折節(をりふし)なれば、急あわてて折程に、七頭は右に、一頭は左折なるを、而も佐殿に奉る。佐殿あやしとおぼして、七人が烏帽子(えぼし)を見廻し給へば、皆右に折てよの常なり、我身一人左也ければ、不思議也、源氏の先祖八幡殿は、左烏帽子(えぼし)を著給(たま)ひしより、当家代々の大将軍左折の烏帽子(えぼし)なるに、今流人落人の身ながら、是を著るこそ難(レ)有けれ。
< 昔天竺に摩訶陀国とて大国あり。阿闍世王より三代の孫に、頻頭沙羅王、国を治め給(たま)ひけり。王にあまた太子御座。嫡子をば須子摩と云。心操柔和にして形容端厳也しかば、位を此太子に譲らんと覚しき。次郎をば阿育と云、貌醜悪にして心根不調に御座(おはしまし)ければ、位の事は思ひ寄給はざりけるに、天の帝釈降(レ)天給(たまひ)て、十善の宝冠を阿育に著せ給ければ、終に天下の国王たりき。されば八頭の烏帽子(えぼし)の中、左折一つ、其れも頼朝(よりとも)に当けるも不思議也。然べき八幡(有朋上P729)大菩薩(だいぼさつ)の商人太郎に入替り給(たま)ひて、著せ給けるにこそ、末憑しく覚しければ、心の中に再拝して、土肥次郎に当座とらせて著給ければ、七人も面々に烏帽子(えぼし)著て出立給けり。藤九郎盛長を使者にて、家主が内へ悦宣(のたまひ)けるは、頼朝(よりとも)世に立つならば、此悦には名田百町在家三宇計給べしと、此旨盛長申含畢。商人太郎畏承り候ぬと返事申て、妻に私語(ささやき)けるは、今日此比身一つ安堵し給はずして、■弱(わうじやく)の商人に、烏帽子(えぼし)乞程の人の、荒量にも給つる百町かなとつぶやきければ、妻是を聞て、人は一生さても過ぬ事なれば、上揩フ果報、我等(われら)が運にて去事もや有べかる
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らん、さらば哀此殿の世に立給へかしとぞ云ける。去ば平家亡て後、甲斐国石和と云所に、百町三家給りて、今の世までも知行せり。>
S2203 宗遠値(二)小次郎(こじらう)(一)事
土屋三郎宗遠は甲斐国へぞ越られける。足柄の山に関居りたりと聞て、宗遠夜に紛れて通りけるが、見れば峠に仮屋打て、前に篝を焼者共四五十人が程ぞ臥したりける。如法夜半の事なれば、関守睡て不(レ)驚、よき隙と思ひ、ぬき足して下ける。関をば角て過たれ共、行末にも人や有らんといぶせくて、木の下萱の中、さしのぞき/\下る程に、雲透(有朋上P730)に見れば、者こそ一人出来れ、搦手の廻りけるにやと思て、太刀抜懸けて立煩てためらひたり。間二段計を隔てて峠へ上る男も、太刀に手懸て立たりけり。互に物をば云はずして良久有ける。さて有べき事ならねば、宗遠詞をかく、源氏謀叛を興に依て、関守すゑて是を守る、只今(ただいま)爰を通り給ふは誰人ぞといへば、名乗はいはで、還て問は誰そと云。互に聞知たる声也けり。小次郎殿(こじらうどの)か、義清、土屋殿歟、宗遠と共に答て名乗けり。宗遠は子のなかりければ、兄が子を養て小次郎(こじらう)と云けるが、平家に奉公して都にあり。佐殿の謀叛に与して、父も同心の由聞えければ、偸に京を出て下る。是も足柄山に関守ありと聞て、夜に紛れて通る程に、時日こそ多きに、只今(ただいま)爰(ここ)にて行逢たり、契のほども哀也。土屋いかに/\小次郎(こじらう)といへば、佐殿謀叛と披露の間、平家は一旦の主、源氏は重代の君、其上土屋殿も御伴と承る、旁急ぎ下らんと存じ、京をば三騎にて出たりしか共、路にて聞え侍りしは、佐殿も岡崎殿も与一殿も、石橋の軍に討れ給ぬと申し間、よろづ
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あぢきなくて、二騎の者には暇をたび、我身一人国に下り、百姓共に慥の事をも承らんと、夜に紛れて通りつるに、参り会ふ事の嬉さよとて、涙をはら/\と流けり。土屋三郎思けるは、云言実に哀也、但当世は親も子もなき作法也、而も実子には非ず、弱々しく語る(有朋上P731)ならば、指殺して平家の覚え、まさらんともや思ふらん、そも不(レ)知強々と語らんと思うて、聞あへず下向の条、悦入候。但佐殿討れ給たりとは誰人か申けるぞ、あらいま/\し、石橋の軍は、千葉三浦が遅参に依て無勢にて始たりし程に、御方負色に成し間、佐殿は甲斐国へ越給ぬ、岡崎殿御供にあり、御辺(ごへん)の兄の与一殿は被(レ)討たり。さては北条佐々木を始て、誰かは死たる者ある。甲斐国より御催のあれば、宗遠も参也。但し関守が居たれば、夜中に忍て、一人はまかるなり。いざ和殿も佐殿の見参に入給へとて、其れより打つれて甲斐国へぞ越て行く。宗遠は道にても心ゆるしせず、太刀抜き懸て、近代は親も子もなき代也、誤り給ふな小次郎殿(こじらうどの)、存する旨あり小次郎殿(こじらうどの)とて、当国の源氏、逸見、武田、小笠原、河西、板垣、告めぐり、一条殿の侍にてこそ、打解け有の儘には語りけれ。
S2204 佐殿漕(二)会三浦(一)事
土肥次郎は、出富の小検校(こけんげう)と云海人が小船を借て、真鶴岩が崎と云所より、急ぎ船を出さんとしけるに、子息の弥太郎申けるは、万寿冠者参るべき由承る、相待て召具せば(有朋上P732)やと云。此弥太郎と云は、伊藤入道には聟也。万寿冠者とは、弥太郎に子なくして、妹が子を養子にしたれば、土肥にも伊藤にも孫也けるを、母方の祖父なれば、伊藤の入道に預置き、娘にも聟にも養子なれば、入道不便にして育みけり。
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弥太郎が、万寿冠者をまたんと云ひけるを、父土肥次郎が聞とがめて大に不審なり。此間杉山に隠れ忍て、七騎の外は人是を不(レ)知、万寿と云は真平にも孫なれ共、敵仁伊藤が許にあり、争か存知すべき、御伴仕らんと申ける条存外也。哀弥太郎は事を万寿冠者に寄せて、一定舅の入道待付て、重代の主君を失ひ奉り、大恩の親を亡さんとたばかるにこそ、奇怪の奴也、其頸打切給へ、岡崎殿と云ひければ、岡崎はいかなる舅なり共、主や父に思替る事有まじ、知べき様こそ有つらめ、但加様の身々として、片時も逗留其詮なし、はや/\急ぎ舟を出せとて、四五町ばかり漕出して浦の方を顧れば、万寿冠者を始として、伊藤入道五十(ごじふ)余騎(よき)の勢にて馳来、あれ/\とぞ呼りける。後には大場三郎千余騎(よき)計にて連たり。今すこし遅かりせば、あやふかりける人々也。漕や急げとて、安房国州の崎を志して落行ける程に、沖中にして俄(にはか)に風起り浪立て、いづこ共不(レ)知くらき闇に、渚(なぎさ)に船をぞ吹付たる。人々船にゆられて酔けり。佐殿爰(ここ)はいづくやらんと問給へば、土肥見侍らんとて、舷に(有朋上P733)立弓杖つき見廻せば、相模国(さがみのくに)早川尻に侍り、而も大場、杉山の帰り足に、三千(さんぜん)余騎(よき)汀(みぎは)に幕引て七箇所に篝たき、酒盛しける敵の陣に吹付らる、敵は見もしぬらん、如何あるべきと思申、佐殿は杉山にて亡べき者が、大菩薩(だいぼさつ)の御加護によりて遁れぬ、而を今又敵陣に臨めり、終に見捨給ふべきにやと祈念被(レ)申けり。真平は此辺は家人ならぬ者なし、酒肴尋進せんとて船より飛下、片手矢はげて走廻、我君此浦に著給へり、真平に志あらん者は酒肴進すべしと■(ののし)り云ひければ、或は瓶子口裹み、或は
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桶に入て、我も/\と船に酒肴を運たり。船の中暗といへ共、敵の大場が篝の火の光にて、佐殿酒をのみ給へり。実に八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の御計ひと覚たり。飢を休めて其後、風やみ波静にて、船を出して安房国州の崎へこそ漕渡り給(たま)ひけれ。三浦の輩は軍将を奉(レ)尋とて、船を海上に浮べて安房上総あやしき浦々漕廻りけるに、佐殿の船も三浦が船も、互にあやしく思て、沖中にて間近く漕合ける。若又敵にもやと思ひければ、彼も此も矢たばね解、弓の弦しめして用心せり。佐殿をば船底に隠し、上に柴を積て、岡崎ばかり差あらはれて乗たり。三浦船を漕近付て岡崎と見てければ、いかにやいかに、いづら佐殿はと問へば、誰も君を奉(レ)尋、三浦にもやと思ひ奉りつるに、さては何国に御座らんといへば、三浦涙を流しつゝ、穴(有朋上P734)心うや、君の御向後の覚束(おぼつか)なくてこそ、老たる父をも振捨て、敵に後を見せて尋進するに、甲斐なき事悲さよ、兼て角とだに知たらば、衣笠の城(じやう)に引籠り、大介と一所にて打死すべかりける者をとて、各袖をぞ絞けり。佐殿は船底にて此事を聞給(たま)ひ、糸惜や世になき我をあれ程に思ふらん事の嬉しさよ、心づくしに遅く出でて恨られじと思召(おぼしめし)ければ、船底より這出て、頼朝(よりとも)爰(ここ)にありと仰ければ、大将軍是に御渡有けりや、大介宣(のたま)ひつる事露違ずとて、三浦手を合て悦けり。さても岡崎は、石橋の合戦に与一が討れし事を語て泣。三浦は小坪衣笠の軍の事、大介が申し事、老たる父を捨置事ども語て泣。一人は若きを先立て袖をぬらし、一人は老たるを見捨て袂(たもと)を絞る、恩愛慈悲の情とりどりなり。和田小太郎申けるは、殿原今は泣歎て其詮なし、親も子も死る
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道は限あり、就(レ)中(なかんづく)軍にあはん者は、必死すべしと兼て存る処也、始て歎に及ばず、語ればいよ/\哀を増す、君かくて御座(おはしま)せば、今は真に一入に思ひ入て、平家を亡し本意を遂て、君の御代になし参せ、庄園を給り国を知行せん事を評定し給ふべし、食を願はば器と云下説の喩あり、君もとく/\国々庄々を分け給り候べし、中にも義盛には、日本国(につぽんごく)の侍の別当を給り候へ、上総守(かづさのかみ)忠清(ただきよ)が、平家より八箇国の侍の奉行を給(たまひ)て、翫しかしづかれて気色せし(有朋上P735)が、余に羨しかりしかば兼て申入也、他人の競望あるべからずとぞ申ける。佐殿は、世にあらば左右にや及ぶべき、去共早とて笑給けり。其より当国すの明神に参り給(たまひ)て、千返の礼拝奉、終夜(よもすがら)念誦し給(たまひ)て、一首の歌をぞ読給ふ。
源はおなじ流れぞ石清水せきあげてたべ雲の上まで K115
と、彼明神と申は、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)を祝奉たりければ、角思ひつゞけ給(たま)ひけり。暁かけて御宝殿より御返事(おんへんじ)あり。
千尋まで深く憑て石清水たゞせきあげよ雲の上まで K116
其外様々の夢想(むさう)ありければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)本意とげぬと悦給けり。
S2205 大場早馬立事
九月一日、大場三郎景親使者を六波羅へ立たり。平家一門馳集て注進の状を披に云、伊豆国(いづのくにの)流人、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)、称(レ)有(二)院宣(一)、忽興(二)謀叛(一)、去八月十七日(じふしちにち)之夜、卒三十(さんじふ)余騎(よき)之勢押(二)寄八牧之館(一)、誅(二)戮和泉(いづみの)判官兼隆(一)、放火焼失畢、此旨定自(二)国衙(こくが)(一)被(二)注進(一)歟、同(おなじき)二十二日、構(二)城郭(じやうくわく)於当国石橋山(一)引(二)率三百(さんびやく)余騎(よき)之凶賊(一)、楯(二)籠于彼城(一)之間、景親
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相(二)催三千(さんぜん)余騎(よき)(有朋上P736)之軍兵(一)、同(おなじき)二十三日、自(二)午時(一)及(レ)入(レ)夜、責戦之処、頼朝(よりとも)不(レ)堪而、二十四日焼天落(二)退彼城(一)、不(レ)知(二)行方(一)、但或説云、堀(レ)穴被(レ)埋たりと。或説云、懐(レ)石入(レ)水、巷説多(レ)端、慥雖(レ)不(レ)見(二)其頸(一)、滅亡之条勿論歟と申たり。太政(だいじやう)入道(にふだう)より始て、一門の人々大に悦て、景親等に懸賞の沙汰あり。
S2206 千葉足利催促事
兵衛佐(ひやうゑのすけ)は石橋山を出て後、三百(さんびやく)余騎(よき)にて上総国府に著給ふ。千葉介、上総介等が許へ使者を遣すに云、平家追討事、依(レ)蒙(二)院宣(一)可(レ)有(二)同心(一)之旨、先度被(二)相触(一)畢、可(二)参加(一)之由、承伏之間、遂(二)合戦於石橋之城郭(じやうくわく)(一)畢、遅参之条、頗不(レ)得(二)其意(一)、縦雖(レ)為(二)私之宿意(一)、可(レ)被(レ)存(二)合力之儀(一)、況一院御定綸言明白也、旁以難(レ)被(二)黙止(一)歟、所詮以(二)弘経(一)為(レ)父、以(二)胤経(一)憑(レ)母、頼朝(よりとも)知(二)行天下(一)否、併在(二)両人之計(一)と被(レ)仰たり。本より領掌の上也。千葉介胤経、三千(さんぜん)余騎(よき)にて急ぎ杉浦と云所に行向て、やがて兵衛佐(ひやうゑのすけ)を相具し、下総国府に入奉て由々敷翫し奉る。胤経申けるは、爰(ここ)に大幕百帖ばかり引散し、白旗六七十流(ながれ)打立候べし、是を見聞ん輩は、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に大勢参けりとて、江戸葛西の者共皆参るべしと(有朋上P737)計ひ申ければ、然べきとて、則胤経に仰て其定に構へたり。案にも違はず我も/\と馳参る。上総介弘経は此事を聞、遅参に恐て、当国に井の北、井の南、庁の北、庁の南、まう西、まう東より始て国中(こくぢゆう)の輩、背をば打、随ふをば相具して、一万(いちまん)余騎(よき)にて下総国府に来り申入たりければ、佐殿は土肥次郎を以、度々被(二)催促(一)の処、領掌乍(レ)申、遅参御不審あり、然而沙汰の次第、
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最も神妙(しんべう)也、暫後陣にありて、可(レ)随(二)催促(一)の由、被(二)仰下(一)、此勢共を相具して一万六千(いちまんろくせん)余騎(よき)也。弘経屋形に帰て云ひけるは、此佐殿は一定日本(につぽん)の大将に成り給ふべし。当時無勢の人におはしぬれば、此大勢にて参たらば、悦出て、耳に口を差合て、追従言など宣はんずらんと存じたれば、思ひの外に真平を以大気なく、遅参其意を得ず、後陣に在て可(レ)随(レ)召と問答の条、恐し恐し、誰人にもよも荒量には討れ給はじ、必本意遂給(たま)ひなん、末憑もしき人也。さるためしあり。
S2207 俵藤太将門(まさかど)中違事
昔将門(まさかど)が東八箇国を打塞て凶賊を集め、王城へ攻入るべしと聞ゆ。平将軍(へいしやうぐん)貞盛(さだもり)勅宣(ちよくせん)を蒙て下向す。下野国住人(ぢゆうにん)俵藤太秀郷は、名高き兵にて多勢の者也けるが、将門(まさかど)と同意(有朋上P738)して、朝家を奉(レ)傾、日本国(につぽんごく)を同心にしらんと思て、行向て角と云、将門(まさかど)折節(をりふし)髪を乱てけづりけるが、余りに悦て取も不(レ)敢大童にて、而も白衣(はくえ)にて周章(あわて)出合て、種々の饗応事云ひければ、秀郷目かしこく見咎て、此人の体軽骨也、墓々敷日本(につぽん)の主とならじとて、初対面に心替しける上に、俵藤太をもてなさんが為に、酒肴椀飯舁居て、是をすゝむ。将門(まさかど)が食ける御料、袴の上に落散けるを、自是を払ひのごひたりけり。是は民の振舞にや、云甲斐なしと心の底にうとみつゝ、後には貞盛(さだもり)に同意して、秀郷が謀を以て、将門(まさかど)既(すで)に亡けり。其れまでこそなからめ、御前までは被(レ)召べき者を、遅参不審と宣(のたま)ひ出し給(たま)ひつる心の中、恐し/\、憑べき人なりと、舌を振てぞほめたりける。平家重恩の者、もしは縁者境界、さすが東国にも多かりければ、飛脚櫛の歯を継て六波羅へ申上けるは、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)、石橋にして被(レ)討
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之由、雖(レ)有(二)披露(一)、其条無実也、遁(二)出杉山(一)渡(二)安房国(一)、相(二)具北条、佐々木、三浦党類(一)、越(二)于上総下総(一)、召(二)従弘経胤経已下之大名小名(一)、既及(二)三万八千(さんまんはつせん)余騎(よき)(一)、其外伊豆、駿河、甲斐、信濃、同心之間、其(その)勢(せい)如(二)雲霞(一)、適有(二)背輩(一)、忽(たちまち)に依(レ)加(二)誅罰(一)、上下甲乙皆以帰伏、但源平未(レ)定之前、勇士猶予之刻、急差(二)下討手(一)、可(レ)被(レ)鎮(二)凶徒(一)歟と申たり。依(レ)之(これによつて)京中六波羅の騒動斜(なのめ)ならず、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)は、平治以来本望也ける上(有朋上P739)に、文覚がすゝめに、依(二)一院(一)院宣を蒙し後は、此営の外は他事なし。平家は加様に日比(ひごろ)源氏の内議支度のあるをも不(レ)知、如何様(いかさま)にも頼朝(よりとも)に勢の付ぬさきに、追討使を下すべしと評定あり。
S2208 入道申(二)官符(一)事
九月四日戌時に、太政(だいじやう)入道(にふだう)手輿に乗、新院の御所に参て申けるは、源(みなもとの)為義(ためよし)、義朝(よしとも)父子は、法皇の御敵にて候しを、入道が謀にて、彼等二人を始て数の伴類皆手に懸て亡し候き。保元平治の日記と申物に見えて侍り。彼義朝(よしとも)が三男に右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)と申奴は、近江国伊吹が麓より尋出して、将てまうできて侍しを、入道が継母に池尼と申候しが、頼朝(よりとも)を見て一旦の慈悲を発し、彼冠者あづけ給へ、敵をば生て見よと云たとへありと、低伏申侍しかば、誠にも、源氏の種をさのみ断つべきにも非ず、入道が私の敵にてもなし、只君の仰を重ずる故にこそあれと思ひ存じて、流罪に申宥て伊豆国(いづのくに)へ下し候ぬ、其時十三と承き。かね付たる小男の、生絹の直垂に小袴著て侍しを、入道が前に呼居て、事様を尋問候ひしかば、如何ありけん、事の起りしらずと申候き。げにも幼稚なればよも
P0543
しらじ(有朋上P740)なんど、青道心をなして候へば、今は哀は胸をやくと申たとへに合て侍り、定て聞し召れ候らん。彼頼朝(よりとも)伊豆国(いづのくに)にて、計なき悪事共を此八月に仕ける由承る、されば追討の宣旨を下さるべき由相存と奏す。新院の仰には、左様の事申人もなし、始てこそ聞し召せ、但何事かは有べき、法皇にこそは申されめと。其時入道重て申様は、主上をさなく御座(おはしま)す、君はたゞしき御親にて御座(おはしま)す、差越奉りて何とか法皇に申進せ候べき。源氏を引思召(おぼしめし)て、平家をにくませ給ふと覚候とくねり申。新院すこしわらはせ給(たま)ひて、事新く誰を憑みたるにか、宣下の条やすし、速に大将軍を注し申べし、誰に仰付べきぞと仰けり。入道の計ひ申に依て、即官符を下さる。其状に云く、
左弁官下 東海東山道諸国
可(三)早追(二)討伊豆国(いづのくにの)流人右兵衛佐(うひやうゑのすけ)源朝臣頼朝(よりとも)并与力輩(一)事
右大納言(だいなごん)藤原実定、宣奉(レ)勅、伊豆国(いづのくにの)流人前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)(一)、忽相(二)語凶悪徒党(一)、欲(レ)虜(二)掠当国隣国(りんごく)叛逆之甚(一)、既絶(二)常篇(一)、宣(レ)令(下)(二)右近衛権少将平維盛朝臣、薩摩守同忠度朝臣、参河守同知盛朝臣等(一)追(中)討彼頼朝(よりとも)及与力輩(上)、兼又東海東山道堪(二)武勇(一)者、同可(レ)令(レ)備(二)追討(一)、其中有(下)抜(二)殊功(一)輩(上)、可(レ)加(二)不次賞(一)、依宣行(レ)之。(有朋上P741)
治承四年九月六日 蔵人左中弁藤原(ふぢはらの)朝臣(あそん)経房奉とぞ被(二)書下(一)たる。入道給(レ)之大に悦、同九月は吉日なりとて、頼朝(よりとも)征伐の官兵等、門出あり。(有朋上P742)
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十三
P0544(有朋上P743)
牟巻 第二十三
S2301 新院厳島御幸附入道奉(レ)勧(二)起請(一)事
治承四年九月廿一日、新院又厳島の御幸あり。御伴には、入道大相国(たいしやうこく)、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛、大納言(だいなごん)邦綱(くにつな)、藤大納言(だいなごん)実国、源宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)通親、頭左中将重衡、宮内少輔棟範、安芸守在経已下八人(はちにん)也。此御幸と申は、当院御位の時、太政(だいじやう)入道(にふだう)物狂はしくて、事に於て邪になりけるを、いかゞして宥め直さんと思召(おぼしめし)ける程に、入道(にふだう)相国(しやうこく)、此明神の事を強に、忝申ければ、然べき事にこそあるらめ、彼社に参て祈申ばやと思召(おぼしめし)つゞける処に、去二月の比静なりける夜、入道御前に参て世上の事教訓申ける次に、帝王下居の後は、御幸始とて御物詣ある事に侍り、神社仏寺の間に、いづくへも思召(おぼしめし)立御座(おはしま)し候へかしと奏する時、よき次と思召(おぼしめし)て然べく被(レ)申たり。厳島へと思召(おぼしめす)由仰ければ、入道不(レ)斜(なのめならず)悦て出立進て、三月には御参詣ありき。御祈誓は法皇の鳥羽殿(とばどの)に被(二)打籠(一)させ給へる御事にぞ有らんと人人思(おもひ)申けるに合て、鳥羽殿(とばどの)より事故なく都へ還御ありき。随て入道も被(二)思(有朋上P744)直(一)と聞えしかば、彼明神の験にやとぞ覚ける。去ば其御賽の為なるべし。さしも深き御志也。明神も争か御納受(ごなふじゆ)なかるべき。御願文(ごぐわんもん)御自あそばして、摂政(せつしやう)清書せられけり。熊野御参詣の事に思召(おぼしめし)けれ共、仰出す御事もなかりけるに、頼朝(よりとも)追討の宣下の後、入道又夜に入て参たりけるに、新院の仰には、東国の兵乱の事、頼朝(よりとも)
P0545
は一人也、討手の使は三人也、別の事あらじ、心安(こころやすく)こそ思召(おぼしめせ)、早く其祈可(レ)被(レ)申、先厳島へ被(レ)参よかし、さらば是も思たゝんと仰下さる。入道余(あまり)の嬉さに手を合悦泣して、関東へは若者共を差下て候へば、実に何事かは侍べき、鳥風ならばこそ此等を差越ては頼朝(よりとも)に勢付べき、皆々禦留なん憑しく候、勅定のごとく厳島へ御伴仕て、天下安穏の事を祈申べしとて俄(にはか)に出し立進て御幸あり。彼島に著せ給(たまひ)て、御参社以前に、入道と宗盛と父子二人、院の御前に参よりて、自余(じよ)の人々をば被(レ)除て、入道被(レ)申けるは、東国の乱逆に依て頼朝(よりとも)を可(二)追討(一)之由、御宣下の上は、不審候はねども、源氏に一つ御心あらじと御起請あそばして、入道に給御座(おはしまし)候へ、心安(こころやすく)存じいよ/\御宮仕申候べし、此言聞召入(きこしめしいれ)られずば、君をば此島に捨置進て帰上候なんと申ければ、新院少しもさわがせ給はず、良御計有て、今めかし、年来何事をか入道のそれ申事背たる、今明始て二心ある身と思ふらん(有朋上P745)こそ本意なければ、彼起請いとやすし、いかにもいはんに随ふべしと仰有ければ、前(さきの)右大将(うだいしやう)硯紙執進せり。入道近参て耳語申ければ、其儘にあそばしてたびぬ。入道披(レ)之拝て、今こそ憑しく候へとてほくそ笑て、大将に見せらる。宗盛此上は左右の事有べからずと申。相国取て懐に入て立給けるが、よにも心地よげにて、各御前へ参らせ給へと申ける時、邦綱卿(くにつなのきやう)被(レ)参たり。あやしと思はれけれ共、人々口を閉て申事もなかりけるに、重衡朝臣いかにぞやと阿翁にさゝやきければ、打うなづきて心得(こころえ)たる体也けれ共、御伴の人々は其心を得ず、国庄を給り給へる歟、いかばかりの悦
P0546
し給へるぞと、いと■(おぼつかな)く思はれたり。其後御社参ありて、神馬神宝進て御啓白あり。
新院御宸筆(ごしんぴつ)御願文(ごぐわんもん)云、〈 高倉院(たかくらのゐんの)御事也 〉
蓋聞法性山静、十四十五之月高晴、権化地深、一陰一陽之風旁扇、方便力用不(レ)可(二)測量(一)者歟、夫厳島者、名称普聞之場、効験無双之砌(みぎり)也、遥嶺之廻(二)社壇(一)也、自顕(二)大悲之高峙(一)、巨海之及(二)祠宇(一)也、暗表(二)弘誓之深湛(一)、仰(レ)之明徳在(レ)頂、現当之望必満帰(レ)之、答■(たふきやう)(二)随心鏡谷之応惟新(一)也、凡卒土之浜靡然向(レ)風、伏惟、初以(二)庸昧之身(一)、忝蹈(二)皇王之位(一)、握(二)乾符(一)兮、顧(二)微分(一)鎮迷(二)南面之理(一)、政望(二)四海(一)兮、恥(三)薄徳更無(二)万民之威(一)、仁仍守(二)(有朋上P746)謙遜於■郷(れいきやう)之訓(一)、楽(二)閑放於射山之属(一)、而後偸抽(二)一心之精誠(一)、先詣(二)孤島之幽(一)、遂(二)機感純熟(一)、欽仰弥切者也、是宿善之所(レ)致也、豈非(二)深信令(一)(レ)然乎、況瑞籬之下、仰(二)冥恩(一)凝(二)懇念(一)而、流(二)汗宝宮之裏(一)、垂(二)霊詫(一)有(二)其告(レ)之銘(一)(レ)肝、就(レ)中(なかんづく)殊指(二)怖畏謹慎之期(一)、専当(二)季夏初秋之候(一)、而間病痾忽侵、弥思(二)神威之不(一)(レ)空、萍桂頻転、猶(レ)無(二)医術施(一)(レ)験、雖(レ)求(二)祈祷(一)、難(レ)散(二)霧霞(一)、不(レ)如(下)抽(二)心府之志(一)、重欲(レ)企(中)斗籔之行(上)、因(レ)茲白蔵已闌之律、玄英漸近(レ)之、天殊専(二)斉蕭(一)遂以予参、漠々寒嵐之底、臥(二)旅泊(一)而破(レ)夢、凄々微陽之前、望(二)遠路(一)而極(レ)眼、遂就(二)枌楡之砌(みぎり)(一)、敬展(二)清浄之筵(一)、奉(レ)書(二)写色紙墨字妙法蓮華経一部八巻(一)、開結般若心阿弥陀(あみだ)等経各一巻、手自奉(レ)書(二)写金泥提婆品一巻(一)、文々之尽(二)懇精(一)、正施(二)紫摩於瑠璃之上(一)字々之隔(二)妙跡(一)未(レ)畳(二)漂波於張池之中(一)、沖襟之至、世垂(二)哀愍(一)、于(レ)時蒼松蒼栢之陰、共添(二)善利之種(一)、潮去潮来之
P0547
響、暗和(二)梵唄之声(一)、法会得処、随喜双催、抑弟子辞(二)北闕之雲(一)、八箇日矣、雖(レ)無(二)涼燠之多(一)、廻(二)凌西海之浪(一)二箇度焉、誠知(二)機縁之不(レ)浅帰依之思(一)此故増(二)進渇仰之志因(レ)茲竪固、加(レ)之、今度忝至(二)苔庭(一)奉(レ)添(二)松府神(一)、而有(レ)知(レ)莫(レ)棄(二)我願(一)、殊以(二)白業(一)奉(レ)祈(二)紫宮(一)、一日万機之化、広被(二)竜図鳳展之運(一)、惟久、弟子病患忽散、伝(二)淮南道士之方、寿算無疆論、山中射若之命(一)、抑当社者、混(二)俗塵(一)而済(二)生、利人界(一)、(有朋上P747)而振(レ)徳、或三公九卿之臣、或芻蕘台齢之輩、朝祈之客匪(レ)一、暮賽之者且千、但尊貴之帰敬雖(レ)多、院宮之往来未(レ)有(レ)之、禅定法皇初貽(二)其儀(一)、弟子■身(べうしん)徐運(二)其志(一)、彼崇高山之月前、漢武未(レ)拝(二)和光(わくわう)之影(一)、蓬莱洞之雲底、天仙空隔(二)垂跡(すいしやく)之塵(一)、如(二)当社(一)者、曾無(二)此類(一)、仰願大明神(だいみやうじん)、伏乞一乗経、新照(二)丹祈(一)、忽彰(二)玄応(一)、敬白。
治承四年九月二十一日 太上天皇(てんわう)〈 御諱 〉敬白
とぞ有ける。御伴人々参社の神女までも随喜の思を成て、いよ/\明神の効験をぞ貴みける。
S2302 朝敵追討例附駅路鈴事
同廿二日に追討使官符を帯して福原の新都を立。大将軍三人の内、権亮少将維盛朝臣は、平将軍(へいしやうぐん)より九代、正盛より五代、大相国(たいしやうこく)の嫡孫重盛(しげもり)の一男なれば、平家嫡々の正統也。今凶徒の逆乱を成に依て、大将軍に被(レ)撰たり。薩摩守忠度は入道の舎弟(しやてい)也、熊野より生立て心猛者と聞ゆ。古郡より可(二)相具(一)と沙汰あり。参河守知度は入道の乙子也。侍には上総介忠清(ただきよ)を始として、伊藤有官無官(むくわん)、惣而五万余騎(よき)とぞ聞えける。長井(ながゐの)斎藤別当(有朋上P748)真盛は、東国の案内者とて先陣をたぶ。抑朝敵追討のため
P0548
に、外土へ向ふ先例を尋に、大将軍先参代して節刀を給るに、宸儀は南殿に出御し、近衛司は階下に陣を引、内弁外弁の公卿参列して中儀の節会を被(レ)行。大将軍副将軍、各礼儀を正しくして是を給る。されども承平天慶之前蹤、年久して難(レ)准とて、今度は堀川院(ほりかはのゐんの)御宇(ぎよう)嘉承二年十二月に、因幡守平正盛が、前対馬守源(みなもとの)義親を追討の為に出雲国へ発向せし例とぞ聞えし。鈴ばかりを給(たまひ)て、革袋に入て、人の頸に懸たりけるとかや。朱雀院の御宇(ぎよう)承平年中に、武蔵権守平将門(まさかど)が、下総国相馬郡に居住して八箇国を押領し、自平親王と称して都へ責上、帝位を傾奉らんと云謀叛を思立聞有ければ、花洛の騒不(レ)斜(なのめならず)。依(レ)之(これによつて)天台山当時の貫首、法性坊大僧都(だいそうづ)尊意蒙(二)勅命(一)、延暦寺(えんりやくじ)の講堂(かうだう)にして、承平二年二月に、将門(まさかど)調伏の為に不動安鎮の法を修す。加(レ)之諸寺の諸僧に仰て、降伏の祈誓怠らず、又追討使を被(レ)下けり。今の維盛先祖平貞盛(さだもり)無官(むくわん)にして上平太と云けるが、兵の聞え有けるに依て被(二)仰下(一)けり。貞盛(さだもり)宣旨を蒙て、例ある事なれば節刀を給り鈴を給り、大将軍の礼義振舞て、弓場殿の南の小戸より罷出、ゆゝしくぞ見えし。大将軍は貞盛(さだもり)、副将軍は宇治民部卿忠文、刑部大輔藤原忠舒、右京亮藤原国■(くにもと)、大監物平清基、散位源就国、散位源経(有朋上P749)基等相従て東国へ発向す。貞盛(さだもり)已下の勇士東路に打向ひはる/゛\と下けり。道すがら様々やさしき事も猛事も哀なる事も有ける中に、駿河国富士の麓野、浮島原を前に当て、清見関に宿けり。此関の有様(ありさま)、右を望ば海水広く湛て、眼雲の浪に迷、左を顧れば長山聳連て、耳松風に冷じ。身をそばめて行、足を峙て
P0549
歩む、釣する海人の、通夜浪に消ざる篝火、世渡人の習とて、浮ぬ沈ぬ漕けるを、軍監清原の滋藤と云者、副将軍民部卿忠文に伴て下けるが、此形勢(ありさま)を見て、
漁舟火影冷焼(レ)波、駅路鈴声夜過(レ)山 K117
と云唐歌を詠じければ、折から優に聞えつゝ、皆人涙を流けり。
< 漁舟とは、すなどりする船なり。火の影は、彼舟には篝の火をたけば、諸の魚の集りてとらるゝ也。冷焼(レ)波とは、水にうつろふ篝の火の、波をやく様に見ゆる也。駅路とは旅の宿なり。鈴の声とは、大国には馬に鈴を付て仕へば、よもすがら旅の馬山を過けるを、かく云ける也。貞盛(さだもり)朝敵追討の蒙(二)宣旨(一)、凶徒降伏の鈴を給り、此関に宿たる折節(をりふし)、釣する海人が篝を焼て魚をとる有様(ありさま)思知られければ、かく詠じけるにこそ。>(有朋上P750)
S2303 貞盛(さだもり)将門(まさかど)合戦附勧賞事
下野国住人(ぢゆうにん)俵藤太秀郷は、将門(まさかど)追討の使、下べき由聞えければ、平親王にくみせんとて行向たりけるに、大将軍の相なしと見うとみて、憑み憑まんと偽て、本国に帰、貞盛(さだもり)を待受て相従てぞ下ける。
承平三年二月十三日、貞盛(さだもり)已下の官兵将門(まさかど)が館へ発向す。将門(まさかど)は下総国辛島郡北山と云所に陣を取、其(その)勢(せい)纔(わづか)に四千(しせん)余騎(よき)。同(おなじき)十四日未時に矢合して散々(さんざん)に戦。官兵凶徒に撃変されて、死する者八十余人(よにん)、疵を蒙る者数をしらず。貞盛(さだもり)秀郷等引退刻に、二千九百人の官軍落失ぬ。将門(まさかど)勝に乗て責戦時、貞盛(さだもり)秀郷等精兵二百(にひやく)余人(よにん)をそろへて、身命を棄て返合て戦けり。爰(ここ)に将門(まさかど)自甲冑を
P0550
著、駿馬を疾て先陣に進みて戦処に、王事靡(レ)塩、天罰正顕て、馬は風飛歩を忘、人は李老之術を失へり。其上法性坊調伏の祈誓にこたへつゝ、神鏑頂に中て将門(まさかど)終に亡けり。同四月二十五日、将門(まさかど)が首都へ上る。大路を渡て左の獄門の木に懸らる。哀哉昨日は東夷の親王とかしづかれて威を振、今日は北闕に逆賊と成て恥をさらす事を。貪(レ)徳背(レ)公、宛如(二)憑(レ)威践(レ)鉾之虎(一)と云本文あり、最慎べき事也けり。貞盛(さだもり)又希有にして遁上れり。譬へば馬前の(有朋上P751)秣は野原に遺り、爼上の魚の江海に帰が如し。帝運の然らしむると云ながら、武芸のよく秀たる事を感じけり。将門(まさかど)が舎弟(しやてい)将頼、并(ならびに)常陸介藤原玄茂は、相模国(さがみのくに)にて討れけり。武蔵権守興世は上総国にして被(レ)誅。坂上近高、藤原玄明、常陸国にて切れたり。伴ふ類与党多かりけれ共、妻子を捨て入道出家して山林に迷けり。将門(まさかど)追討の勧賞被(レ)行けり。左大臣実頼〈 小野宮殿 〉、右大臣師輔〈 九条殿 〉已下、公卿殿上人(てんじやうびと)陣の座に列し給へり。大将軍貞盛(さだもり)は上平太なりけるが、正五位に叙して平将軍(へいしやうぐん)の宣旨を蒙る。藤原秀郷は従四位下(じゆしゐのげ)に叙して、武蔵下野両国の押領使を給り、右馬助(うまのすけ)源経基は従五位下に叙して、太宰の少弐に任けり。次副将軍忠文卿の勧賞の事沙汰有けるに、小野宮殿の御義に云、今度の合戦偏へに大将軍の忠にあり、副将軍は功なきが如し、恩賞不(レ)可(レ)輙と申させ給けるに、重て九条殿の仰に、兵を選て賊徒を誅する事、大将軍も副将軍も、共に詔命に依りて敵陣に向ふ。大将軍の先陣に勇事は、後陣の副将軍の勢を憑むゆゑ也。副将軍の後陣に踉■(やすらふ)ことは、大将軍の進退を守、共に以て午角也、争か朝恩なからん。但大将軍
P0551
の賞ほどこそなく共、■様(おほやう)なる勲功候べきをやと度々被(レ)奏けるに、小野宮殿さのみ勧賞無念に候、忠による禄なるべしと、固く諌申させ給(たま)ひければ、民部卿終に漏にけり。(有朋上P752)
S2304 忠文祝(レ)神附追(二)使門出(一)事
爰(ここ)に忠文大悪心を起して、面目なく内裏を罷出けるが、天も響き地も崩るゝ計の大音声を放云けるは、口惜事也、同勅命を蒙て同朝敵を平ぐ、一人は賞に預り一人は恩に漏る、小野宮殿の御計、生々世々(しやうじやうせせ)不(レ)可(レ)忘、されば家門衰弊し給(たまひ)て、其末葉たらん人は、ながく九条殿の御子孫の奴婢と成給ふべしとて、高く■(ののし)り手をはたと打て拳を把りたりければ、左右の八の爪、手の甲に通り、血流れ出ければ紅を絞りたるが如し。やがて宿所に帰り飲食を断、思死に失にけり。悪霊と成て様々おそろしき事共有ければ、怨霊を宥申べしとて、忠文を神と祝奉、宇治に離宮明神と申は是也。誠に其恨の通りけるにや、小野宮殿の御子孫は絶給へるが如し。たま/\まします人も、必皆九条殿の奴婢とぞ成給へる。九条殿は一言の情に依て、摂政(せつしやう)関白(くわんばく)今に絶させ給はず、朝敵を平げたる形勢(ありさま)、上代はかくこそ有けるに、新都の大裏、討手の大将、礼儀忘れたるが如く、儀式前蹤を守らず、いさ/\維盛の追討使、事行がたし、只物の為歟とぞ内々は傾申ける。二十二日に福原の京を立たりけるが、其(その)日(ひ)は昆陽野に宿す。二十三日に故京に著、二十四五六日は逗留(有朋上P753)す。各鎧甲(よろひかぶと)より始て、弓箭馬鞍、かゞやくばかり出立たりければ、見人目を驚す。維盛は赤地錦直垂に、大頸端袖は紺地の錦にてぞたゝれたる。萌黄匂の糸威の鎧に金覆輪を懸たり。連銭葦毛(れんせんあしげ)の馬の太逞きに、鋳懸地の黄覆輪の鞍置たり。年二十二、
P0552
美め形勝たり。絵にかく共、筆も難(レ)及とぞ見えたりける。薩摩守忠度の許へ、志深き女房の小袖を一重贈りたりけるに、いひおこせたりけるは、
東路の草葉を分る袖よりもたゝぬ袂(たもと)は露ぞこぼるゝ K118
忠度の返事には、
別路を何歎くらん越て行く関をむかしの跡と思へば K119
と、此返事は先祖の貞盛(さだもり)、将門(まさかど)追討の為に大将軍に選れて、東国へ下りし事を思出してよめるにや。女房の歌は、大方の余波にてさる事なれ共、忠度の歌は、軍の門出にいま/\しき事哉とぞ申ける。各既(すで)に出立ぬ。二十七日(にじふしちにち)には近江の国野路の宿につく。二十八日(にじふはちにち)同国蒲生野に著。廿九日に同国小野宿に著。晦日美濃国府に著。十月一日同国墨俣につく。二日尾張国萱津宿に著、三日同国鳴海に著。四日三川国矢矧につく。五日同国豊川に著。六日遠江国橋本につき、七日同国池田宿につく。八日同国懸川の宿に著。九日(有朋上P754)同国波津蔵につき、十日駿河国府につく。其より清見関まで攻下たれども、国々の兵随付勢なし。適ある者も山野にぞ逃隠ける。道すがら人のたくはへ持るもの共、打入打入奪取ければ、世の乱人の歎不(レ)斜(なのめならず)。
S2305 源氏隅田河原取(レ)陣事
兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)は、平家の軍兵東国へ下向の由聞給(たまひ)て、武蔵と下総との境なる隅田川原に陣を取て、国々の兵を被(レ)召けり。爰(ここ)に武蔵国住人(ぢゆうにん)、江戸太郎、葛西三郎、一類眷属引率して参たり。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)宣(のたまひ)けるは、
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彼輩は衣笠にして御方を討者共也、参上の体尤不審あり、大場畠山に同意して後矢射べき謀にやと宣(のたまひ)ければ、様々陣申に依て被(レ)宥けり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)上総介八郎を召て、今一両日此に逗留して、上野下野の勢を催立て、渡瀬を廻て打上らん事如何あるべきと宣へば、弘経畏て、其事悪く候なん、其故は、小松少将維盛大将軍として、侍には上総守(かづさのかみ)忠清(ただきよ)等、数万騎の勢を引率して下向と聞え候。斎藤別当真盛、東国の案内者にて一陣と承。日数を経るならば、武蔵相模の勇士等、大場畠山が下知に随て平家の方へ参べし。されば急ぎ此川を渡して足柄を後にあて、富士川を前に請(有朋上P755)て陣を取ならば、武蔵相模の者共は必御方へ参候べし。此両国の兵共(つはものども)随参なば、日本国(につぽんごく)は我御儘と被(二)思召(一)(おぼしめさる)べし。上野下野の輩は、とても追継追継に馳参べしと計申ければ、然べしとて、江戸葛西に仰て浮橋渡すべしと下知せらる。江戸葛西は、石橋にして佐殿を奉(レ)射し事恐思けるに、此仰を蒙て悦をなして、在家をこぼちて浮橋尋常に渡たり。軍兵是より打渡して、武蔵国豊島の上、滝野河松橋と云所に陣を取。其(その)勢(せい)既十万余騎(よき)、懸りければ八箇国の大名、小名、別当、庄司、検校(けんげう)、允、介なんど云までも、二十騎(にじつき)三十騎(さんじつき)五十騎(ごじつき)百騎、白旗白じるし付つゝ、此彼より参集。佐殿はいとゞ力付給(たまひ)て、先当国六所大明神(だいみやうじん)に御参詣ありて、神馬を引上矢を奉られたり。
S2306 畠山推参附大場降人事
〔斯る処に〕畠山庄司次郎は、半沢六郎を呼て云けるは、此世の中いかゞ有べき、倩兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)の繁昌し給ふを見るに直事に非ず、八箇国の大名小名皆帰伏の上は、参るべきにこそあるか、指たる意趣はなけれ共、父の庄司、伯父の別当、平家に当参の間、
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憖(なまじひ)に小坪坂にて三浦と合戦す、されば参らんも恐あり、参らでもいかゞ有べき、相計と云けれ(有朋上P756)ば、成清申けるは、たゞ平に御参候へ、小坪の軍は三浦の殿原存知あるらん、弓矢取身は父子両方に別れ、兄弟左右にあつて合戦する事尋常也、保元の先蹤近例也、且は又平家は当時一旦の恩、佐殿は相伝四代の君也、御参候はんに其恐有べからず、若御遅参あらば一定討手を被(二)差遣(一)候べし、其条ゆゝしき御大事(おんだいじ)也、急御参ありて、何事も陳じ申させ給ふべしと云ければ、五百(ごひやく)余騎(よき)を相具して、白旗白弓袋を指上て参たり。生年十七歳、容儀事様実に一方の大将軍と見えたり。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)宣(のたま)ひけるは、父重能伯父有重、平家に奉公して当時在京也、不(レ)知東国の案内者して、今度の討手にもや下るらん、されば一門を引別て、父子敵対せんと思ふべきに非ず、就(レ)中(なかんづく)小坪坂にして御方を射き、其上所(レ)差(二)白旗(一)、全く頼朝(よりとも)が旗に相違なし、兵衛佐(ひやうゑのすけ)だにもさす旗也、重忠不(レ)可(レ)劣と思にや、参上之条旁以不審也と仰ければ、重忠畏て陳じ申けるは、小坪の合戦の事、三浦に於て私の宿意なく、君の御為に不忠候はぬ由、再三問答の処に、不慮の合戦に及候き、三浦の人々に御尋(おんたづね)あらば其隠候まじ、旗の事是私の結構(けつこう)にあらず、君の御先祖八幡殿、宣旨を蒙らせ給(たまひ)て武平、家平を追討の時、重忠が、四代祖父秩父の十郎武綱、初参して侍りければ、此白旗を給(たまはつ)て先陣を勤め、武平以下の凶徒を誅し候畢ぬ。近は御舎兄悪源太殿、上野国(有朋上P757)大蔵の館にて、多古の先生殿を攻られける時、父の庄司重能、又此旗を差て即攻落し奉り候ぬ。されば源氏の御為には御祝の旗也とて、吉例と名を付て、代々相伝
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仕る。されば君御代を知召べき御軍なれば、先祖代々の吉例を指て参たりと申せば、佐殿は土肥、千葉を召て、此事いかゞ有べきと仰合す。御返事(おんへんじ)には、当時畠山を御勘当努々有べからず、就(レ)中(なかんづく)陳じ申処一々に其請候、極実法の者に候へば、向後も御憑あらんに、一方の大将軍をば承るべき者にて侍り、其に御勘当あらば、武蔵相模の者共、此は人の上にあらず、畠山だにもかく罪せられ、増て我等(われら)はとて更に参候まじ、誰々も此等をぞ守り候らんと計申ければ、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、所(二)陳申(一)被(二)聞召(一)(きこしめされ)ぬ、頼朝(よりとも)日本国(につぽんごく)を鎮むほどは、汝先陣を勤べし、但汝が旗の、余にとりかへもなく似たるに、是を押とて藍皮一文を賜下し給へり。其より畠山が旗の注には、小紋の藍皮を押ける也。畠山既(すで)に参て先陣を給と披露有ければ、武蔵相模の住人(ぢゆうにん)等我も/\と参けり。大場三郎景親は、今は叶はじと思て、三千(さんぜん)余騎(よき)にて平家の御迎として上洛しけるが、足柄山を起てあひ沢宿に著、前には甲斐源氏、二万(にまん)余騎(よき)にて駿河国に越て東国の勢を待。後には兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)、雲霞の如く責上と聞えければ、中間に被(二)取籠(一)ていかゞせんと色を失ひて仰天しければ、家人郎等憑(有朋上P758)なくて思々落失ぬ。景親心弱成て、鎧の一の草摺切落して二所権現に奉り、足柄より北星山と云所に逃籠て息つき居たり。其外石橋の軍に佐殿を射し輩、皆頸を延て参集る。重科の者は忽(たちまち)に切らるべきにて有けれ共、宗徒の大場をすかし出さん為に宣(のたまひ)けるは、罪科雖(レ)難(レ)遁、降人として参る上は咎を行ふに及ばず、但各軍に忠を尽すべし、忠により還て賞あるべしなど御沙汰(ごさた)在て、馬鞍などたびて宥め具し給(たま)ひければ、命ばかりは生べきにこそとて、各先陣
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に進みて忠を抽でんと思ひけり。斯しかば大場も終に首を延て参けり。源氏は加様に大勢招集て、足柄山を打越て、伊豆(いづの)国府に著て三島大明神(だいみやうじん)を伏拝み、木瀬川宿、車返、富士の麓野原中宿、多胡宿、富士川のはた、木の下草の中にみち/\たり。其(その)勢(せい)二十万六千(にじふまんろくせん)余騎(よき)とぞ注したる。
S2307 平氏清見関下事
平家は東路に日数を経つゝ、路次の兵召具して、五万余騎(よき)にて駿河国清見が関まで責下れり。旅の空の習は、哀を催事多けれ共、此関ことに面白し、実に伝聞しよりも猶興を催す。南と西とを見渡せば、天と海と一にて、高低眼を迷はせり。東と北とに行向(有朋上P759)ば、磯と山と境て、嶮難足をつまだてたり。岩根に寄る白浪は、時さだめなき花なれや、尾上に渡る青嵐も、折しりがほにいと冷。汀(みぎは)に遊鴎鳥、群居て水に戯れ、叢に住虫の音、とり/゛\心を痛しむ。其より沖津、国崎、湯井、蒲原、富士川の西のはた迄責寄たり。此河の有様(ありさま)、水上は信濃より流とかや、此より南へ落たり。渚(なぎさ)は大海へ二里ばかり有と云。河の広さ、或一町ばかり或は二町ばかり、水濁て浪高し。流の早事立板に水を懸に似たり。まして雨降水出たらん時は向べきに非ず。東西の河原も遠広に、西の耳には平家赤旗を捧て固め、東の河原には源氏白旗を捧たり。源氏の方よりは、安田冠者義貞先陣に有けるが、時々使者を立て、其へ参べきか、是へ御渡有べき歟、見参何時ぞや、名対面共して、何方よりも忽(たちまち)に寄べき様もなし。かく空く日数をふる、大なる鬱なりとする間に、屋形共を指上て、閑に幔幕引て居たりなどする程に、東国広ければにや、源氏の勢いや/\に付て、勢もの恐しく見ゆ。白旗の風に吹るゝ事は、さゞ浪なんどの
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様にぞ有ける。権亮少将維盛は斎藤別当を召て、抑頼朝(よりとも)が勢の中に、己程の弓勢の者いくら程かある、東国の者なれば案内は知たるらんと問給へば、真盛などをよき者と思召(おぼしめし)候か、弓は三人張五人張、矢束は弓に似たる事なれば、十四束十五束、あきまを(有朋上P760)挿絵(有朋上P761)挿絵(有朋上P762)かぞへて矢継早し、一矢にて二三人をも射落されば、鎧は二領(にりやう)三領をも射貫候、惣じて英矢射者なし、加様の者、大名一人が中に廿人卅人は候らん、無下の荒郷一所が主にも二人三人は侍るらん、馬は牧の内より心に任て撰取り立飼たれば、早走の曲進退の逸物を、一人して五匹十匹ひかせたり、彼馬乗負せて、朝夕鹿狩狐狩して、山林を家と思て馳習たれば、乗とは知れども落事なし、坂東武者の習にて、父が死ばとて子も引ず、子が討ればとて親も退ず、死ぬるが上を乗越乗越、死生不(レ)知に戦ふ、真盛なんどを其に並候へば、物の数にも非ず、御方の兵と申は畿内近国の駈武者なれば、親手負ば、其に事付て一門引つれて子は退、主討れば、郎等はよき次とて兄弟相具して落失ぬ、馬と云は博労馬の、兎角つくろひ飼たれば、京出ばかりこそ首をも少持挙侍りしか、はや乗損じて物の用に難(レ)叶、東国の荒手の馬に一当あてられなば、更に立あがるべからず、されば馬と云人と云、西国(さいこく)の者共二十騎(にじつき)三十騎(さんじつき)ぞ東国の一騎(いつき)に当り候はんずる。其に御方の勢は五万余騎(よき)、源氏は聞体廿万騎、縦同勢也共、敵対に及ばじ、況四分が一也、大勢に蒐立られなば、彼等は国々の案内者、野山を跼て知らぬ所なし、御方は西国(さいこく)さまの者也、始て来旅なれば、道ばかりこそ覚え候らめ、されば東国の者共が前をきり後に塞りて、中(有朋上P763)に取籠戦候は
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んには、やは一人も遁出べき、ゆゝしき大事に侍り、是に付ても哀とく御下向在て、武蔵相模の勢を靡かして攻下らせ給へと、再三申候し物を、後悔先に立ぬ事なれ共、口惜候者哉、今度の軍、いかにも叶べきとも存ぜず。
S2308 真盛京上附平家逃上事
真盛は大臣殿の御恩山よりも高く、海よりも深く蒙て候、今度いかなる事もあらんには見奉らん事かたし、御暇を給(たまひ)て罷上り、大臣殿見進せ、又こそ帰り参らめとて、一千(いつせん)余騎(よき)を引分て京へ上にけり。権亮少将維盛は、むねと東国の案内者に憑み給ける真盛は叶じとて上りぬ。心弱は思はれけれ共、軍兵に力をそへんとて、よし/\真盛がなき所には軍はせぬかとて留り給へり。上総介忠清(ただきよ)を先陣に差向給へ共、ためらひて進み戦ふ事なし。維盛は忠清(ただきよ)が計に随て進給はず。斯ければ猛思ふ者も少々有けれども、一人かけ出べきならねば、支て待ほどに、南海道西海道の勢は、下るらんなんど申合けるに、月の比も過て闇に成ぬ、互に人のかよふ事なければ、目にのみ見に、御方には付副勢なし。源氏は日にそへ時を遂て雲霞の如くに集る。さはあれ共、此川を何方よりも渡すべき(有朋上P764)様なければ、平家の方には宿々より傾城どもを迎て、帯ときひろげて、歌よみ酒盛して居たり。源氏の方には、明日廿四日に矢合有べしとて内談あり、終(レ)夜(よもすがら)篝の火をぞ焼たりける。宿々浦々に充満て、沢辺の蛍の飛集たるに似たり。平家の方にも如(レ)形篝火を焼、夜も漸深ければ、各寝入て有けるに、夜半ばかりに、富士の沼に群居たりける水鳥の、いくら共なく有けるが、源氏の兵共(つはものども)の、物具(もののぐ)
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のざゝめく音、馬の啼声などに驚て立ける羽音のおびたゞしかりけるに驚て、源氏の近付て時を造るぞと心得(こころえ)て、すはや敵の寄たるはと云程こそ有けれ、平家は大将軍を始として、取物も取敢(とりあへ)ず、甲冑を忘れ弓箙をおとし、長持皮籠馬鞍共に至まで捨て迷上。親は子をも不(レ)知、従者は主をも顧ず、只我先我先にとぞ落たりける。此日比(ひごろ)呼集て遊つる遊君ども、或は踏殺或手足踏折られて、跋々泣逃去けり。見逃と云事は昔より申伝たり。其だにも心憂かるべし。是は聞逃也。源氏は角とも不(レ)知して、二十四日暁にくつばみをそろへて瀬踏して、時を造て寄たれども、平家の陣には人もなし。其跡を廻て見に忘たる物ども多し。大に恠をなす。若京都にて、源氏の方人の悪事を始たるに依て、馳上たるやらんと云合程に、頭を踏わられて病臥る女一人あり。こはいかにと問へば、此日比(ひごろ)是にて遊つるが、過ぬる宵(有朋上P765)まではさりげもなかりつ、寝入て後夜半計に、此殿原騒ぎ周章(あわて)振迷て立つる時、馬に踏れてかく侍り、其時は水鳥の羽音のおびたゞしく有つると云。源氏の兵申けるは、げにも今夜の鳥の羽音は、常よりも夥(おびたた)しかりつる也、哀聞ならはで、其に驚て敵の時を造るかとて、京家の者共なれば、寝ほれて逃たるよなと笑けり。矢合の討手の使の矢一つだにも不(レ)射(いず)して逃上たるいまいましさよ、行末も正にはか/゛\しき事あらじと、京中の上下、安き口にはさゝやきけり。物しれる人の云けるは、勇士臥(レ)野帰鴈乱(レ)連と云本文あり。されば水鳥の雲に飛散は、敵沼近くあると心得(こころう)べし、縦其を聞損じて時の音と思とも、矢合してこそ逃め、音は合するにも及ばずして落ぬる事心憂し、
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又小児共の読む百詠と云小文に、鴨集て動ずれば成(レ)雷と云事あり、去共其文を読たる人も有けんに、不(二)思出(一)ける口惜さよとて瓜弾をぞしける。又いかなる者か申出したりけん、鳩は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の使者ぞかし、源氏守護の為に、彼水鳥の中には鳩のあまた交て有りけるとかや。天には口なし人を以ていはせよと云、此事さもやと覚えたり。
S2309 新院自(二)厳島(一)還御附新院恐(二)御起請(一)附落書事(有朋上P766)
十月六日、新院厳島より還御あり。遥々(はるばる)の海路を御舟にて、事故なく還上らせ給ぞ御目出し。源中将通親卿、御前に参て被(レ)申けるは、哀面影に立給ふ西海の浪路かな、和光(わくわう)の恵とり/゛\にこそ侍れ、或は深山(しんざん)岩窟に瑞籬をしめて、野獣を導く神明もあり、或は海岸水辺に社壇を並て、淵魚を助る霊応もあり。実に厳島の景気奉(レ)拝候ひし思出にこそ侍れ。去にても彼島にては、なに文をあそばし、大相国(たいしやうこく)には給り候しにやと申せば、新院軈(やが)てはら/\と御涙(おんなみだ)を流して、去事有き、彼文かゝずは、朕を捨て上らんと云しかば、源氏に一つ心ならじと、入道が云の儘に、起請を書てたびたりし也。ながらへば見るらめずらん、我は入道にせため殺れんずるぞ、いさ/\為義(ためよし)、義朝(よしとも)が悪事とかやも、みねば不(二)知召(一)、其もやは苟も一天の主に、直に祭文かけとは申行ひけん、是を目ざましと思は、我身の起請にうてて世に有まじきゆゑ也と、泣々(なくなく)さゝやかせ給けり。通親卿も涙ぐみ畏て、其事御歎に及べからず、人の持る物を心の外にすかし取、人をおどして思様の文をかゝせんと仕るをば、乞素圧状と申て政道にも不(レ)用、神も仏も捨させ給ふ事にて候ぞ、さやうに申行ふこそ還て其身の咎にて侍れば、
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空恐しく候、何かは御苦み候べきと、忍やかに急度被(二)慰申(一)けり。十一日に、夢野と云所に新しき御所を造て御渡有べき由、入道(にふだう)相国(しやうこく)(有朋上P767)被(レ)申ければ、法皇御輿に召て御幸あり。左京大夫脩範一人ぞ御伴には候ひける。名もいまいましき楼の御所を出させ給(たまひ)て、尋常の御所に移り入せ御座(おはしま)して御心安(おんこころやすく)も、厳島の御幸の験にやとぞ被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。彼明神と申は安芸国第一の鎮守(ちんじゆ)也。国務の人はまづ此神拝を専にす。入道(にふだう)相国(しやうこく)の世に聞え公に仕つりし時は当国守たりき。明神の加護にて加様の事を施す。されば入道の心をば明神ぞ宥給はんと思召(おぼしめし)取て、新院は二度まで御幸あり、世の末の物語(ものがたり)也。知ず我御子孫を、末の世の百王迄も朝家の御主として、御父の法皇に世を政奉り給はば、我御命をめせなど、祈申させ給けるにやと、後には思合せけり。十一月十一日には、五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱卿(くにつなのきやう)、郷内裏造出て主上行幸あり。彼大納言(だいなごん)は大福長者にて、世の人大事にしけり。懸ければ程なく造進せられたりけれ共、遷幸の儀式は世の常ならずと申けり。十五日東国下向の討手の使、空く帰上て古京に著、軍に向ては、命を失ふとこそ聞に、一人もかけず上られたるこそいみじけれ。逃るをば剛者と云事有とて人皆笑あへり。太政(だいじやう)入道殿(にふだうどの)の門に落書あり、奈良法師の読たりけるとかや。
富士川のせゞの岩越水よりも早くも落るいせ平氏哉 K120
平家と書てはひらやとよむ、家のまろび倒れんずるには、助と云ひて柱の代に大なる木(有朋上P768)を以てさゝへ
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直事あり。平家の大将軍に下給へる権亮少将落ければ、右大将(うだいしやう)宗盛の騒歎給ふらんと云にそへて、
ひらやなる宗盛いかにさわぐらん柱とたのむ助を落して K121
又源氏推寄たれ共敵もなし。富士川のはたを見れば、物具(もののぐ)多捨たる中に、忠清(ただきよ)と銘書たる鎧唐櫃一合あり。武者の具をば既(すで)に捨ぬ、今は遁世(とんせい)して墨染の衣をきよとも読たり。
富士川に鎧は捨てつ墨染の衣たゞきよのちの世のため K122
と、又上総守(かづさのかみ)といへば、其国の器によそへても読たり。
忠清(ただきよ)はにげの馬にや乗つらん懸ぬに落るかづさしりがい K123
入道は是を見彼を聞くに付ても安からず思はれければ、権亮少将をば鬼界が島へ流し失へ、忠清(ただきよ)をば首を刎よとぞ嗔り給(たま)ひける。
S2310 義経軍陣来事
平家はかく逃上けれ共、源氏は猶浮島原に陣を取て御座(おはしま)しける。爰齢二十余、色白く勢小男の、顔魂眼居指過て見えけるに、郎等廿余騎(よき)を相具して、陣前に出来て名乗ける(有朋上P769)は、是は故(こ)左馬頭殿(さまのかみどの)の子息、九条曹子常盤が腹に牛若と申侍りしが、後には遮那王とて、京の北山鞍馬寺に有しか共、世中住侘て、奥州(あうしう)に落下て男になり、九郎冠者義経と申者にて侍るが、佐殿一院の御諚を蒙らせ給(たま)ひて、平家追討の披露あるに依て、一門の我執を存じ、御力をつけ奉らん為に夜を日に継て馳参つて候、申入
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させ給へと宣(のたまひ)ければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)不(二)聞敢(一)涙を流し請じ入給(たまひ)て、いかにや/\去事候らん、頼朝(よりとも)勅勘を蒙りし身なれば、音信(いんしん)難(レ)叶候き。平家追討の院宣を下給(たまひ)て後は、他事なく其営の間、急と思ひよらざりつるに、聞敢ず御渡り、嬉しとは事も疎に侍り、昔八幡殿の後三年の合戦の時、弟に兵衛尉義綱は、折節(をりふし)帝王に事候けるが、兄の向後の覚束(おぼつか)なさに、御暇を給(たまひ)て罷下べき由奏聞しけれ共、御免なかりければ、陣家に絃袋を懸て逃下て、金沢の館へ参向したりければ、八幡殿殊に悦給(たまひ)て、故頼義(らいぎの)朝臣(あつそん)の御座(おはしまし)たるとこそ覚ゆれとて、涙を流し給けり。唯今御辺(ごへん)の御渡、ためし少も違はず、故(こ)左馬頭殿(さまのかみどの)とこそ奉(レ)見候へとて、互に袖を絞り給へば、大名も小名も皆鎧の袖をぬらしけり。兄弟内に鬩外に禦敵とは此言にや。
S2311 頼朝(よりとも)鎌倉入勧賞附平家方人罪科事(有朋上P770)
兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、其より鎌倉へ帰入て様々事行し給けり。先勧賞有べしとて、遠江をば安田三郎に給ふ。駿河をば一条次郎に給。上総をば介八郎に給ふ。下総をば千葉介に給。其外奉公の忠により、人望の品に随て、国々庄々を分給けり。次に罪科の輩其沙汰あるべしとて、大場三郎景親をば、介八郎預つて誡置たりけるを、縄付引張り御前の大庭へ将参たり。舎兄に懐島平権頭、人手に懸んよりとて申給(たまひ)て切てけり。其子の太郎をば足利(あしかがの)又太郎(またたらう)承て切、俣野五郎は難(レ)遁身也とて、忍て京へ逃上にけり。海老党に荻野五郎末重は、石橋軍の時源氏の名折に、何に敵に後をば見せ給ぞ、返給返給へと申たり
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し者也、裸になし引張て将参れり。佐殿は、いかに末重、石橋の合戦の時の詞は忘ずやとて、門外にて切られけり。舎弟(しやてい)二人子息一人同切られぬ。加様に首を被(レ)刎者六十余とぞ聞えし。
山内滝口三郎同四郎は、廻文の時富士の山とたけくらべ、猫の額の物を鼠の伺定やなんど悪口したりし者也。大庭に被(二)召出(一)たり。佐殿宣(のたまひ)けるは、汝が父俊綱(としつな)并に祖父俊通は、共に平治の乱の時、故殿の御伴に候て討死したりし者也。其子孫とて残留れり。我世を知らば、いかにも糸惜して世にあらせ、祖父親が後世をも弔はせんとこそ深く思ひしに、盛長に逢て種々の悪口を吐、剰景親に同意して頼朝(よりとも)を射し条は、い(有朋上P771)かに、富士の山と長並べと云しか共、世を取事も有けりとて、土肥次郎に仰て、速に首を刎よと下知し給ふ。実平仰に依て引張て出ぬ。暫屋形に置て還参て申けるは、滝口三郎兄弟が事、悪口と申合戦と申、忽(たちまち)に首をはねべけれ共、彼等が親祖父は、御諚の如故殿の御命に替し輩也、愚なる心に思慮なく申たる者にてこそ侍れ、只所帯を召て、命ばかりを生られて彼恩分に報はせ給はば、俊通俊綱(としつな)が魂魄も悦、故殿の御菩提の御追善ともならせ給なん、追放ち候ばや、命生て侍るとも、謀叛など起べき仁にも候はずと、細々に申ければ、誠左様にも相計ふべしと宣(のたまひ)ければ、実平宿所に帰て、事の仔細申含て両人が髻切、出家せさせて追放ちければ、手を合悦て出にけり。
長尾五郎は佐奈田与一が敵也、召出して、与一が父なれば岡崎四郎に給ふ。義実召誡て明日首を刎べきにて有けるが、最後の所作と思入て、終(レ)夜(よもすがら)法華経(ほけきやう)を読けり。岡崎人を喚で、経の音するは何者(なにもの)が読ぞ
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と問。囚の長尾五郎也と云。転読功積りたりけるにや、今夜を限と思ひける哀さに、信心を致してよみければ、岡崎肝に銘じて貴く聴聞しける。後朝に佐殿に参て申けるは、長尾五郎今日切べきにて候が、終夜(よもすがら)法華経(ほけきやう)を奉(二)転読(一)、世に貴く覚候き。在俗の身として空によみ覚、あれ程に功を入進せて候ける事、難(レ)有覚候、忽(たちまち)に頸をきらん(有朋上P772)事冥衆の照覧其恐あり、縦斬たり共与一再び生かへるべからず、いとゞ罪業の基と成て悪趣に沈候なん、然べくは与一が孝養に追放候侍ばやと相存候、其事難(レ)叶候はば、他人に仰て罪せらるべく候と申。佐殿やゝ案じて、与一が敵なれば汝にたびぬ、又其上は何様にも義実が計なるべし、左様に咎を法華経(ほけきやう)に免し奉らん事誠に神妙(しんべう)なり、汝が痛申さん事を、我亦罪すべからずと仰ければ、岡崎悦て、罷帰て長尾五郎を呼居、御辺(ごへん)は大方に付ても罪科軽からず、義実に於ては与一が敵也、時刻廻らすべからず、可(レ)被(レ)斬なれども、終夜(よもすがら)法華経(ほけきやう)を読給つれば、佐殿に参て死罪をば申宥候ぬ、御辺(ごへん)に組し与一を殺され、御辺(ごへん)互に然べき善知識にこそ有つらめ、今は出家し給(たまひ)て片山里に閉籠、静に経よみ念仏して、与一が後世を弔てたべとて、即僧を請じ入道せさせて、袈裟衣裁ち著せ、僧の具足ども調たびて免出しけり、岡崎四郎情在とぞ申ける。滝口三郎は父祖の忠に酬て命をいき、長尾五郎は転読の功に依て死を免れたり。刀杖不加毒不能害、今こそ思知られけれ。凡有(レ)忠者をば賞し、有(レ)罪者をば誅し給ふ。八箇国の大名小名眼前に打随て、四角八方に並居つゝ、非番当番して被(二)守護(一)、其(その)勢(せい)四十万余騎(よき)とぞ注しける。呉王の姑蘇台に
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在しが如く、始皇(しくわう)が咸陽宮を治しに似たり。靡かぬ草木もなかりけり。今は東国には其(有朋上P773)恐なしとて、十郎蔵人行家、木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)を始として、一性の源氏、一条、安田、逸見、武田、小笠原等を以て、平家追討の談義様々なり。
S2312 祝(二)若宮八幡宮(一)事
兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、頼朝(よりとも)運を東海に開き、且々天下を手に把る事、所々の霊夢折々の瑞相、併八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の御利生也。都へ上る事は不(レ)輙、大菩薩(だいぼさつ)を勧賞し奉べしとて、鎌倉の鶴岡と云所を打開きて、若宮を造営して霊神を祝奉る。社殿金を鏤て、馬場に砂を綺たり。緋の玉垣照光、翠の松風影冷し。祭礼四季に懈らず、神女日夜に再拝せり。其外堂塔僧坊繁昌し、供仏施僧不断なり。入道(にふだう)相国(しやうこく)是を聞給(たま)ひては、いとゞ不(レ)安ぞ思はれける。(有朋上P774)
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十四
P0567(有朋上P775)
宇巻 第二十四
S2401 大嘗会(だいじやうゑ)儀式附新嘗会事
今年は大嘗会(だいじやうゑ)可(レ)被(二)遂行(一)歟と云議定ありけれ共、大嘗会(だいじやうゑ)は、十月の末に東河に御幸して御禊(ごけい)あり。大内の北野に斎場所を造て神服神供を調へ、竜尾の壇の上に廻立殿を立て御湯を召。同壇に大嘗宮を造て神膳を備。清暑堂にして神楽あり、御遊(ぎよいう)あり。去共新都の有様(ありさま)、大極殿(だいこくでん)もなければ大礼(たいれい)行べき所もなし。豊楽院もなければ、宴会も難(レ)行と、諸卿定め申されければ延にけり。新嘗会にて只五節計ぞ如(レ)形有ける。抑五節と申は、昔浄見原(きよみはらの)天皇(てんわう)の其かみ、吉野の河に御幸して御心を澄し、琴を弾給(たま)ひしに、神女二人天降りて、
をとめこが乙女さびすも唐玉ををとめさびすも其唐玉を K124
と、五声歌給つゝ五度袖を翻す、是ぞ五節の始なる。遷都の事、太政(だいじやう)入道(にふだう)宣(のたまひ)けるは、旧都は山門と云南都と云程近して、聊の事もあれば、大衆日吉の神輿を先として下り、神人(有朋上P776)春日の御榊を捧て上る。加様の事もうるさし。新都は山重り江を隔、道遠く境遥なれば、彼態たやすかるべからずとて、身の安からん為に計出たりといはれけり。懸けれ共、諸寺諸山を始て貴賎上下の歎也。
S2402 山門都返奏状事
殊には山門三千衆徒僉議(せんぎ)して、都帰り有べき由、三箇度(さんがど)まで奏状を捧て、天聴を驚し奉る。其状に云、
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延暦寺(えんりやくじ)衆徒等(しゆとら)誠惶誠恐謹言、
請被(下)特蒙(二)天恩(一)停(中)止遷都子細(上)状
右釈尊以(二)遣教(一)、付(二)属国王(一)者、仏法(ぶつぽふ)皇法之徳、互護持故也、就(レ)中(なかんづく)延暦(えんりやく)年中、桓武天皇(てんわう)、伝教(でんげう)大師(だいし)、深結(レ)契(二)約聖主(一)則興(二)此都(一)、親崇(二)一乗(いちじよう)円宗(一)、大師亦開(二)当山(一)、忽備(二)百王御願(ごぐわん)(一)、其後歳及(二)四百廻(一)、仏日久耀(二)四明之峯(一)、世過(二)三十八代(一)、天朝各保(二)十善之徳(一)、上代宮城、無(二)如(レ)此者(一)歟、蓋山洛占(レ)隣、彼是相助故也、而今朝議忽変俄有(二)遷幸(一)、是惣四海之愁別、一山之歎也、先山僧等(さんそうら)、峯嵐雖(レ)閑、恃(二)花洛(一)以送(レ)日、谷雪雖(レ)烈瞻(二)王城(一)以継(レ)夜、(有朋上P777)若洛陽隔(二)遠路(一)、往還不(二)容易(一)者、豈不(レ)辞(三)姑山之月交(二)辺鄙之雲(一)哉、〈 是一 〉、門徒(もんと)上綱等各従(レ)公請遠抛(二)旧居之後(一)、徳音難(レ)通、恩凶易(レ)絶之時、一門小学等寧留(二)山門(一)哉、〈 是二 〉、住山者之為(レ)体也、遥去(二)故郷之輩(一)出(二)帝京(一)、而蒙(二)撫育(一)、家在(二)王都(一)之類、以(二)近隣(一)而為(二)便宜(一)麓若変(二)荒野(一)者、峰豈留(二)人跡(一)乎、悲哉数百歳之法燈、今時忽消、歎哉千万輩之禅林、此時将(レ)滅、〈 是三 〉、但当寺是、鎮護国家之道場、特為(二)一天之固(一)、霊験殊勝之伽藍(がらん)、独秀(二)万山之中(一)所之魔滅、何無(二)衆徒之愁歎(一)矣、法之淪亡、豈非(二)朝家之怖畏(一)哉、〈 是四 〉、況七社(しちしや)権現之宝前、是万人拝覲之霊場也、若王宮遠隔(二)神社(一)、不(レ)近者、瑞籬之月前、鳳輦勿(レ)臨(二)叢祠之露下(一)、鳩集永絶、若参詣疎、礼奠違(レ)例者、啻非(レ)無(二)冥応(一)、恐又残(二)神恨(一)乎、〈 是五 〉、凡当都者是輙不(レ)可(レ)捨之勝地也、昔聖徳太子(しやうとくたいし)、相(二)此地(一)云、所(レ)有(二)王
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気(一)、必建(二)都城(一)云々、大聖遠鑑、誰忽(二)緒之(一)、況青竜、白虎、悉備、朱雀、玄武、勿(レ)闕、天然吉処、不(レ)可(レ)不(レ)執、〈 是六 〉、彼月氏霊山、則攀(二)王城東北(一)、大聖之明崛也、日或叡岳、又峙(二)帝都丑寅(一)、護国之霊地也、忝同(二)天竺之勝境(一)、久払(二)鬼門之凶害(一)、地形奇特、誰不(レ)惜乎、〈 是七 〉、況賀茂、八幡、比叡、春日、平野、大原(おほはら)、松尾、稲荷、祇園、北野、鞍馬、清水、広隆、仁和寺(にんわじ)、如(レ)此神社仏寺等者、或大聖鑑(二)機縁垂跡(一)、或権者相(二)勝地(一)占(レ)砌(みぎり)則、是護国護山之崇廟也、将(有朋上P778)又勝敵勝軍之霊像也、遶(二)王城之八方(一)、利(二)洛中万人貴賎(一)、参詣帰依成(レ)市、仏神利生感応如(レ)在、何避(二)霊応之砌(みぎり)(一)、忽趣(二)無仏之境(一)哉、設新建(二)精舎(一)、縦奉(レ)請(二)神明(一)、世及(二)濁乱(一)、人非(二)大権大聖(一)、感降不(二)必有(一)(レ)之、〈 是八 〉、況此等神社仏寺之中、或有(二)諸家(しよけ)氏寺(一)、修(二)不退勤行(一)、子胤相続、自興(二)仏法(ぶつぽふ)(一)之所也、如(レ)此之倫、憖(なまじひに)従(二)公務(一)、強別(二)私宅(一)者、豈非(二)抑(レ)人之善心(一)、是天下愁歎、不(レ)可(レ)不(レ)痛、〈 是九 〉、南都北山之僧徒、忝従(レ)公請(レ)之時、朝出(二)蓬壺(一)、暮帰(二)練若(一)、宮城遠隔(二)往還(一)云(レ)何、若捨(二)本尊(一)者多(レ)痛、若背(二)王命(一)者有(レ)怖、進退惟谷、東西既暗、〈 是十 〉、憶昔国豊民厚、興(レ)都無(レ)傷、今国乏民窮、遷幸有(レ)煩、是以或有(下)忽別(二)親属(一)、企(二)旅宿(一)者(上)、或有(下)纔(わづかに)破(二)私宅(一)、不(レ)堪(二)運載(一)者(上)、愁歎之声已動(二)天地(一)、仁恩之至、豈不(レ)顧(レ)之、七道諸国之調貢、万物運上之便宜、西河東津、有(二)便無(一)(レ)煩、若移(二)余処(一)、定有(二)後悔(一)歟、又大将軍至(二)酉方(一)、角已塞、何背(二)陰陽(一)、忽遠(二)東西(一)、山門禅徒、専思(二)玉体安穏(一)、愚意之所(レ)及、争不(レ)鳴(二)
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諌鼓(一)、但俄有(二)遷都(一)、是依(二)何事(一)乎、若由(二)凶徒乱逆(一)者、兵革既静、朝廷何勤、若由(二)鬼物怪異(一)者、可(下)帰(二)三宝(一)以謝(中)夭災(上)、可(下)撫(二)万民(一)以資(中)皇徳(上)、何動(二)本宮(一)、故奇、仏神囲遶之砌(みぎり)、剰企(二)遠行態(一)、犯(二)人民悩乱之咎(一)、抑退(二)国之怨敵(一)、払(二)朝之夭危(一)、従(レ)昔以来、偏山門営也、或本師祖師、誓護(二)百王(一)、或医王山王、擁(二)護一天(一)、(有朋上P779)所謂(いはゆる)恵亮摧(レ)脳、尊意振(レ)剣、凡捨(レ)身事(レ)君、無如(二)我山(一)、古今勝験、載在(二)人口(一)、今何有(二)遷都(一)欲(レ)滅(二)此所(一)哉、況堯雲舜星之耀(二)一朝、天枝(一)、帝葉之伝(二)万代(一)則是九条右丞相願力也、豈非(二)慈恵大僧正(だいそうじやう)之加持(一)哉、聖朝詔云、朕是右丞相之末葉也、何背(二)慈覚大師之門跡(一)、今云何忘(二)前蹤(一)、不(レ)顧(二)本山滅亡(一)哉、山僧(さんそう)之訴訟、雖(レ)不(二)必当(一)(レ)理、且以(二)所功労(一)、久蒙(二)裁許(一)来矣、況於(二)此鬱望(一)者、非(二)独衆徒之愁(一)、且奉(レ)為(二)聖朝(一)、兼又為(二)兆民(一)哉加(レ)之於(二)今度事(一)、殊抽(二)愚忠(一)、一門園城(をんじやう)雖(二)相招(一)仰(二)勅宣(ちよくせん)(一)、万人誹謗、難(レ)宛閭巷伏祈(一)、御願(ごぐわん)何固(二)勤労(一)、還欲(レ)滅(二)一処(一)、運(レ)功蒙(レ)罰、豈可(レ)然哉、縦雖(レ)無(レ)別天感、欲(レ)蒙(二)此裁許(一)、当山之存亡、只在(二)此左右(一)故也、望請、天恩再廻(二)叡慮(一)被(レ)止(二)件遷都(一)者、三千人(さんぜんにん)胸火忽滅、百万衆徳水不(レ)乏、衆徒等(しゆとら)不(レ)耐(二)悲歎之至(一)、誠惶誠恐謹言。
治承四年十一月日とぞ書たりける。
S2403 都返僉議(せんぎの)事
十一月廿日、太政(だいじやう)入道(にふだう)、雲客(うんかく)卿相(けいしやう)を被(レ)催て、山門の奏状に付て僉議(せんぎ)有べきとて披露之(有朋上P780)次に問給ければ、抑遷都事、山門度々奏聞に及、縦衆徒いかに申共、地形の勝劣諸卿の人望に依べし、旧都と
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新都と得失甲乙、各無(二)矯飾(一)評定有べしと宣ふ。当座の公卿良久口を閉て有けるが、入道の気色に入らんとにや各被(レ)申けるは、福原新都地形無双に侍り、北には神明垂跡(すいしやく)、生田、広田、西宮(にしのみや)、各甍を並たり。尽せぬ御代の験とて、雀松原、みかげの松、千世に替ぬ緑也。雲井に曝布引の滝、白玉岩間に連れり。後を顧れば、翠嶺の雲を挟あり、暁の嵐の漠々たるを吐。前に望ば蒼海の天をひたせるあり、夕陽の沈々たるを呑り。湖水漫々としては、遠帆雲の浪に漕紛、巨海茫々としては、眺望煙波に眼遮れり。月の名を得る須磨明石、淡路島山面白や、蛍火みづから燃なる、葦屋の里の夏の暮、何もとり/゛\に心澄たる所也と、口々僉議(せんぎ)しければ、入道ほくそ咲てぞ御座(おはしまし)ける。此言皆矯飾也。たとへば大国に秦の趙高大臣と云し者、己が威勢を知謀叛を起さん為に、始皇帝(しくわうてい)の子二世王の御もとに、鹿を将参つゝ、此馬御覧ぜよと申ければ、王は是馬に非鹿にこそと宣(のたまひ)けるを、諸臣は趙高が威に恐て、皆馬也とぞ申ける。去ば末座の公卿のおはしけるが、新都をほめけるを聞て、秦趙高が事を思出て、
鹿を指て馬と云人も有ければ鴨をもをしと思ふなるべし K125 (有朋上P781)
と。勧修寺宰相宗房卿は、公卿の末座におはしけるが、都還の御事は、山門の奏状に道理至極せり、爰か不(レ)被(レ)垂(二)叡信(一)、目出かりし都ぞかし、王城鎮守(ちんじゆ)の社々は、四方に光を和げ、霊験殊勝の寺々は、上下に居を占給へり、延暦(えんりやく)園城(をんじやう)の法水は、本の都に波清、東大興福の恵燈も、旧にし京に光を
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益、四神(ししん)相応の帝都也、数代自愛の花洛也、五畿七道(ごきしちだう)に便あり、百姓万民も煩なし、勝劣雲泥を隔て、旧新水火を論ず、早速に都還有べきにやと申たりければ、新都を嘆たりける諸卿、苦々しく思はれける上に、入道座を立障子をはたと立て内に入給にけり。さしも執し思給(たま)ひつる都を、無代に申つる者哉、入道の腹立あらは也、宗房卿いかなる目にかあはんずらんと、各舌を巻いて怖恐ける程に、十一月廿一日の朝、俄(にはか)に都遷有べしとて廻文あり。公卿も殿上人(てんじやうびと)も、上下の北面賤の女賤の男に至るまで、手をすり額をつきて悦合へり。山門の訴訟は、昔も今も大事も小事も不(レ)空、いかなる非法非例なれ共、聖代明時必ず御理あり。況此程の道理、入道いかに横紙を破給ふとても、争か靡き給はざるべきなれば、山門の奏状により宗房の言に付て、其事既(すで)に一定也、古郷に残留て、さびしさを歎ける輩も、是を聞てはあな目出の山門の御事やとて、首を傾掌を合つゝ、叡山(えいさん)に向てぞ拝み悦などしける。(有朋上P782)
S2404 両院主上還御事
廿一日の朝廻文有て、軈(やが)て主上、一院、新院、女院、みな福原を立せ御座(おはしま)す。さしも新都をほめ給ける公卿殿上人(てんじやうびと)も、都還に成ければ、言と心と引替て、我先にとぞ急ける。二十三日に摂津国(つのくに)源氏、豊島郡住人(ぢゆうにん)豊島冠者、俄(にはか)に東国へ落下る由聞えけり。頼朝(よりとも)同意の為也。入道の謂けるは、哀兼て聞たりせばとゞめてまし、妬き者哉とくやしめども無(レ)力。同日入道前関白(くわんばく)〈 基房 〉松殿と申、備前国湯迫の配所より帰上給へり。都の有様(ありさま)も未(二)落定(一)ありければ、嵯峨(さが)の辺にぞ立入せ給(たま)ひける。
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廿五日に両院木津に著せ御座(おはします)。御所もなかりければ、御舟に奉りて見苦き御有様(おんありさま)也。廿六日(にじふろくにち)に、主上は五条(ごでう)内裏へ行幸、一院は法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に御幸、新院は六波羅の池殿に入せ給(たま)ひて、あすこも爰も草滋り、浅猿(あさまし)げにぞ籬も荒たるなる。山門の童部(わらんべ)小法師原(こぼふしばら)までも、哀天狗の■(ののしり)笑と聞えければ、太政(だいじやう)入道(にふだう)鼻うそあきてぞ思はれける。平家の一門皆上ければ、まして他家の人々は留まる者なし。怪の女童、甲斐もなき下揩ワでも嬉く思て、劣じ/\と走つゞきて上形勢(ありさま)、哀に面白き見物也。世にもあり人共かずへらるゝ輩皆移りたりしかば、其ゆかりの女房(有朋上P783)侍共、雑色、中間、小舎人まで下り、殿々家々悉運下して、此五六箇月の間に造立て、資財雑物共、今日迄も歩より舟より漕寄持寄つるに、又物狂敷いつしか角有ければ、家をこぼち返さんまでは思ひもよらず、何もかも打捨て上けり。又何者(なにもの)か云出したりけるやらん、残り留らん者をば、鬼共が来てとり食はんずると云ひのゝしりければ、懸る濁れる世には、さる事も有なんとて、劣らじ負じと逃上けり。又いかなる跡なし者の立たりけるやらん、太政(だいじやう)入道(にふだう)の福原の門前に札に書て、
人くらふ鬼とてよそになき物を生なぶりする醜女入道 K126
と、故京に上る嬉さは去事に侍れど、こはいかに、落付ていかにすべき共覚えず、帰旅にて、纔(わづか)にゆかり/\を尋ねてぞ暫立宿りける。さても都還の後、宗房卿の一門会合の次に、抑入道のさしも執し思ひ給へる福原の都也、諸人皆新都をほめしに、宰相殿は何心おはしてか、只一人謗給けるぞ
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と問ければ、宗房卿宣(のたまひ)けるは、君も臣も諸事に於て思立時は、心をゆるして人に不(レ)問、思煩ふ事には、必人に問合す。されば入道の心のはやる儘に、都遷とて下給たれ共、人の歎も多て、さすが故郷には及ばず、栖侘給たる折節(をりふし)、山門の訴訟あり、人のいへかし都帰せんと思ふ心の内あらは也と推量て、角は申たり(有朋上P784)とぞいはれける。ゆゝしくかしこくぞ思申給たりける。
S2405 頼朝(よりとも)廻文附近江源氏追討使事
源氏追討の為に東国へ下りし討手の使、空く帰上りて後は、東国北国の源氏等(げんじら)、いとゞ勝にのる間、国国の兵日に随て多なびき付ければ、間近き近江国山本柏木など云ふ源氏さへ、平家を背いて人をもとほさずと聞えけり。斯りける程に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)の廻文とて披露しける。案文に云、
被(二)最勝親王勅命(一)、併召(下)具東山東海北陸道、堪(二)武勇(一)之輩(上)、可(レ)追(二)討清盛(きよもり)入道並従類叛逆輩(一)云云、早守(二)令旨(一)、可(レ)有(二)用意(一)、美濃尾張両国源氏等(げんじら)者、催(二)勤東山東海之軍兵(一)可(二)相侍(一)、北陸道勇士者、参(二)向勢田之辺(一)、相(二)待御上洛(一)、可(レ)供(二)奉洛陽(一)也、御即位無(二)相違(一)者、誰不(レ)執(二)行国務(一)哉、依(二)親王御気色(おんきしよく)(一)、執達如(レ)件。
治承四年十一月日、 前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源朝臣在判とあり。平家是を見て、こはいかに、親王とは何れの事ぞとて騒ぎ合ひけり。
十一月十一日に、先近江源氏追討の為に発向の大将軍には、左兵衛督知盛、少将資盛、越前守通盛、(有朋上P785)左馬頭(さまのかみ)行盛、薩摩守忠度、左少将清経、侍には、筑後守(ちくごのかみ)貞能(さだよし)を始て、古京の軍兵七千(しちせん)余騎(よき)、路次
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の者共駈具して、一万(いちまん)余騎(よき)に及べり。同(おなじき)十三日山本冠者、柏木判官代(はんぐわんだい)等を攻落して、軈(やが)て美濃尾張へ打越て、先近国を打靡けて、関東へ向べき由聞えければ、太政(だいじやう)入道(にふだう)少し色なほりて見え給(たま)ひけり。
S2406 坂東落書事
治承四年の冬、何者(なにもの)かしたりけん、坂東に落書あり。其状に云、
早為(二)一天泰平万人安穏(一)可(レ)追(二)討平家一族(一)事
右倩案、治承四年〈 歳次庚子 〉者、相(下)当蔭子平将門(まさかど)被(二)追討(一)之時代(上)、何当(二)此時(一)而、令(二)黙止(一)哉、謹見(二)此浄海法師之乱悪(一)、殆過(二)彼将軍将門(まさかど)之謀叛、百千万億(一)也、昔将門(まさかど)者、於(二)都城之外(一)而企(二)濫行(一)、今浄海者、於(二)洛陽之内(一)発(二)謀叛(一)、所謂(いはゆる)捕(二)納言宰相(一)、而繋(二)縛其身(一)、搦(二)関白(くわんばく)大臣(一)、而配(二)流遠域(一)、加(レ)之或追(二)籠当今聖主(一)、奪(レ)位而譲(二)于子孫(一)、或責(二)出新本天皇(てんわう)(一)、入(レ)楼而留(二)於理政(一)矣、此叛逆絶(二)古今(一)、前代未聞(ぜんだいみもん)之処、若称(二)院宣(一)、若号(二)令旨(一)、恣下(二)行之(一)、何王之治天、何院之宣旨哉、皆是自由之漏宣也、抑自(二)平治元年(一)以降、数(二)平氏(有朋上P786)持(一)(レ)世既廿一年也、是則改(二)一昔之代(一)、而相(二)当源氏(一)、可(二)持(レ)世之時(一)乎、而今思(二)事情(一)、平氏捧(二)赤色(一)持(レ)世、是火之性也、今既果報之薪尽而、敢無(二)可(レ)令(レ)放(レ)光之予(一)、又平氏謂(下)以(二)平治之年号(一)而持(上)(レ)世、治承者上下之文字具(レ)水、以(二)黒色之水(一)、可(レ)滅(二)赤色之火(一)表也、昔承平今治承、以(二)三水之字(一)作(二)年号品(一)、本末以(レ)水失(レ)火事、不(レ)可(レ)有(二)相違(一)者也、兼又今年支干、金与(レ)水也、取(レ)色白与(レ)黒也、爰尋(二)其先蹤(一)者、八幡殿之家捧(二)白色(一)、白則金性也、刑部殿之家捧(二)黒色(一)、黒則水性也、水与(レ)金和合、持(二)長生(一)之相也、兼又浄海
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者生年〈 戊戌 〉六十三、支干共是土也、土冬季死、水冬季王、然者(しかれば)当(二)冬季(一)、而平氏可(二)滅亡(一)之時節也、被(レ)討(二)平氏(一)之条、更不(レ)可(レ)有(二)其疑(一)者哉、就(レ)中(なかんづく)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、百王守護八十一代也、今其誓不(レ)可(二)誤給(一)、此時不(二)思立(一)、何日散(二)愁忿(一)乎、嗚呼(ああ)当(二)冬季(一)而水為(二)王相(一)、滅(レ)火有(二)其徳(一)、敢不(レ)可(レ)尽(二)思慮(一)、更不(レ)可(レ)延(二)時日(一)、七道諸国之人、神社仏閣之族、挙唱(二)源氏勝軍(一)、機感相応、入洛時至、早進(二)発于王宮(一)、静(二)天下(一)、奉(レ)改(二)於国主(一)、全(二)世上(一)也、凡如(二)風聞(一)者、平氏与(二)財産(一)而相(二)語山僧(さんそう)(一)、抛(二)賄賂(一)而招(二)集国賊(一)、可(下)成(二)与力(一)責(中)東国(上)之旨有(二)議定(一)云云、是則王城発向及(二)遅々(一)故也、今年若不(レ)被(レ)遂(二)其志(一)者、敵軍振(二)珍宝(一)、而成(二)多勢(一)、諸人耽(二)貪欲(一)、而有(二)変改(一)者、後悔屡出来歟、仍為(レ)仏為(レ)神為(レ)朝為(レ)民、可(レ)被(有朋上P787)(レ)討(二)平家一族之謀臣(一)矣、以送(二)此状(一)而己。
治承四年十一月日とぞ書たりける。
斯りければ、源氏いとゞ憑しく覚えて、平家追討の計り事の外は他事なかりけり。
S2407 南都合戦同焼失附胡徳楽河南浦楽事
南都の大衆蜂起騒動して不(レ)静ければ、公家より御使を遣して、何事を計申て角騒動するぞ、子細あらば奏聞を経べしと、被(二)仰下(一)たれば、別の風情なし、只清盛(きよもり)法師に不会候、乃至名字をも不(レ)聞候と申。太政(だいじやう)入道(にふだう)不(レ)安思て、大衆をおどさんとて、備中国住人(ぢゆうにん)妹尾(せのをの)太郎(たらう)兼康(かねやす)を、大和国(やまとのくに)の検非違所(けんびゐしよ)に成して、数百騎(すひやくき)の兵を相副て下遣たれ共、大衆其にも恐れず、蜂起して押寄、散々打落し、
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兼康(かねやす)が家子郎等の頸廿六斬て、猿沢の池の端に懸たり。兼康(かねやす)■々(はうはう)都へ逃上る、面目なくぞ見えし。是のみならず南都には清盛(きよもり)入道は平氏の中の糟糖也。武家に取ては塵芥也。いかにといへば、祖父正盛は、正しく大蔵卿(おほくらのきやう)為房(ためふさ)の、加賀国知行の時、検非違所(けんびゐしよ)に被(二)召仕(一)き。又修理(しゆりの)大夫(だいぶ)顕季卿の、播磨守にて(有朋上P788)国務の時は、厩の別当に被(二)召仕(一)き。されば父忠盛が昇殿をゆるされしをば、白川院【*白河院】(しらかはのゐん)御越度とこそ万人唇をば返しか。遠からず法皇の御前にて、山僧(さんそう)澄憲には伊勢平氏と笑れたりしか共、諍ひ所なければ口を閉て不(レ)開き。人は身の程をこそ振舞に、成出者が事行ひ、過分也とぞ申ける。又其上に法師の首を造て、毬打の玉を打が如く、杖を以てあち打こち打、蹴たり踏たり様々にしけり。大衆児共、態と此玉なに物ぞと問ば、是は当時世に聞え給ふ太政(だいじやう)入道(にふだう)の首なりと答。いかに其をば便なく角はするぞといへば、いらふまじき政道の奉行に、仏神に首をはなたれたりとぞ申ける。抑此入道大相国(たいしやうこく)と申は、忝(かたじけなく)も当今の御外祖父也、位高威勢も大にして、天下重(レ)之国土偏靡けり、輙も傾申べきに非ず。言易(レ)洩者、招(レ)禍之媒、事の不(レ)慎者、取(レ)敗之道と云本文あり、よく/\可(レ)慎者を、さまでの振舞空恐し、いかゞ有べかるらん、如何様(いかさま)にも南都の大衆に、天狗のよく付たるにこそ、只今(ただいま)災害を招なんど、上下私語(ささやき)ける程に、入道此事聞給(たま)ひ、あまりに腹を立て、躍あがり/\宣(のたま)ひけるは、さもあらずとよ、日本国中(につぽんごくぢゆう)に、此一門を左程に咒咀すべき者やはある、いか様にも南都には謀叛人の籠りたると覚ゆ、追討使を遣て可(レ)攻とぞ披露せられける。南都
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の大衆此事を聞て、落籠たる謀叛人は誰がしぞ、一天(有朋上P789)の君を始奉り、卿相(けいしやう)雲客(うんかく)奉(二)流失(一)、天下を乱て、今はのこる処なく振舞て、無実を構へ仏法(ぶつぽふ)を亡さんとや、目醒しき事也。恐くは木を離たる猿の迎や、儲せよとて、木津川に広さ一町計の浮橋渡して、左右に高欄を立てたりけり。南都大衆いかなればかく太政(だいじやう)入道(にふだう)をば悪むらんと云ければ、或人の申けるは、理也、摂禄の臣より始て、南家、北家、花山、閑院、日野、勧修寺、前官当職の公卿殿上人(てんじやうびと)、十之八九は藤氏として、春日大明神(かすがだいみやうじん)の氏人也。代々の国母、仙院、多は此家より出給へり。皇王と云、臣公と云我朝を政事専此氏に在、而平家世を取て、万乗の世務を妨奉り、諸卿の理政を無代にすれば、為(レ)国為(レ)人、春日大明神(かすがだいみやうじん)衆徒に替入せ給(たまひ)て、角騒動するにや有らん、いか様にも南都の失る歟、平家の滅るか、子細あらんといふ程に、廿六日(にじふろくにち)に、蔵人頭(くらんどのとう)重衡朝臣大将軍として、五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱卿(くにつなのきやう)の山庄、東山若松の亭にして勢汰へあり、著到あり、其(その)勢(せい)三万(さんまん)余騎(よき)、南都を可(レ)攻と披露あり。大衆是を聞て東大寺(とうだいじ)の大鐘ならし、蜂起騒動して、大和、山城の悪党、吉野十津川の者共を招集て、奈良坂、般若路、二の道を伐塞ぎ、爰かしこに落しを堀、管植、在々所々に城郭(じやうくわく)を構て逆木を引、掻楯をかき、老少行学、甲冑を著し弓箭を帯して相待けり。
廿八日に、重衡三万(さんまん)余騎(よき)を二手につくり、奈良坂、般若路(有朋上P790)より推寄せて時を造る。衆徒用意の事なれば、時を合て散々(さんざん)に防戦けり。大衆も軍兵も、互に命を惜ず戦ひけるが、平家の大勢責重り
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ければ、衆徒禦ぎ兼て引退。軍兵勝に乗て、二の道を打破て寺中に乱入て、爰彼こに充満たり。播磨国住人(ぢゆうにん)、福井庄下司次郎大夫俊方と云ふ者、重衡朝臣の下知に依て、楯を破て続松として、酒野在家より火を懸たり。師走廿日あまりの事なれば、折節(をりふし)乾の風烈して、黒煙寺内に吹覆。大衆猛火に責られ、炎に咽ければ、不(レ)堪して蜘の子を散が如く落行けり。坂四郎永覚と云ける悪僧は、長七尺(しちしやく)計なる法師の骨太に逞が、心も剛に身も軽し、打物取ては鬼神にも劣らじと云けり。強弓(つよゆみ)の矢継早く開間かずへの手だり也。十五大寺、七大寺には、並者なき恐しき者也けるが、褐直垂に萌黄の腹巻に袖付て、三尺の長刀の氷の如くなる持て、同宿十二人左右の脇に立て、手階の門より打出て、引詰々々射ける矢に、多く寄武者討れけり。矢種尽ければ、長刀十文字に持てひらいて、敵の中に打入つて散々(さんざん)に戦ひければ、兵も多く討れ、同宿もあまた討捕れて、我身も痛手少々負ければ、今は不(レ)堪や思ひけん、春日の奥へぞ引退。猛火寺中に吹覆ければ、東大寺(とうだいじ)、興福両寺(りやうじ)の仏閣諸堂諸院一宇も残らず、瑜伽(ゆが)、唯識両部の法門、因明内明一巻も不(レ)免、三論、花厳の(有朋上P791)経釈、大乗小乗の聖教悉(ことごと)く焼にけり。我身を助けんとせし程に、大師先徳の秘仏も、年来住持の本尊も、亡ぬるこそ悲けれ。月比日比(ひごろ)兵乱有べしと聞えければ、若や助かるとて、山階寺の中大仏殿の上に橋を構て、児共童部(わらんべ)老僧尼公、いくらと云事もなく上り隠たりける程に、猛火御堂に懸ければ、不(レ)劣々々と下るゝ程に、階踏折て下に成者は押殺、上成者も高より落重りければ、暫しは息つき居たれ共、終には皆死にけり。残留る
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輩、なにを搦へ、なにを歩てか降り下るべきぞ。あやしの小屋ならばこそ手を捧ても助、足を取ても落すべきに、日本(につぽん)第一の伽藍(がらん)也、閻浮無双の大堂なれば、梁だにも十丈に余れり。今更俄(にはか)に助べき支度なし。余(あまり)の悲さに思ひ切り飛落る者も有けれ共、砕けて塵とぞ成りにける。一人もなじかは可(レ)残。火の燃ちか付に随て、喚叫音、山も響き天もひゞくらんと覚えたり。叫喚大叫喚の罪人も、角やと覚えて哀也。警固の大衆は兵杖に当て身を滅し、修学の碩徳は火災に咽て命を失ふ。貴賎の死骸、七仏の煙に交り、男女の遺骨、諸堂の灰に埋れり。無慙と云も疎也。興福寺(こうぶくじ)は是淡海公の御願(ごぐわん)、藤氏累代の氏寺也。此寺は元、天智天皇(てんわう)即位八年、嫡室鏡の女王、大織冠の御為に、山城国宇治郡山階郷に被(レ)建(二)山階寺(一)て名付しを、天武天皇(てんわう)即位元年に、大和国(やまとのくに)高市郡に移され、元明天皇(てんわう)即位(有朋上P792)二年に、同国添上郡春日の勝地に被(レ)移て、寺号を改て興福寺(こうぶくじ)と名。法相大乗の教を弘通せり。代々の王臣国母の御願(ごぐわん)あり。
中金堂と申は、入鹿大臣朝家をあやぶめ奉らんとせし時、皇極天皇(てんわう)発願して、被(レ)造(二)立丈六釈迦三尊(さんぞん)(一)也。眉間の水精は唐国より被(レ)渡たり。此玉左見にも右見にも、釈迦三尊(さんぞん)の影うるはしく移りし玉也。此像の御頭の中には、大織冠の御髻の中に、年来戴き給(たま)ひける銀の三寸の釈迦像を被(レ)籠たり。
東金堂と申は、神亀三年〈 丙寅 〉秋七月に、聖武皇帝の伯母、日本根子高瑞浄足姫御悩(ごなう)の時、玉体安穏の為
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にとて造られたりし薬師(やくしの)像を安置せり。又敏達天皇(てんわう)即位八年〈 己亥 〉冬十月、新羅国より渡給へる金銅の釈迦、観音、虚空蔵の三尊(さんぞん)も、此御堂に御座(おはしま)す。
西金堂と申は、聖武天皇(てんわう)の后、光明皇后の御母橘大夫人の御為に、天平六年〈 甲戌 〉正月に造、供養し給へる丈六の釈迦の像を被(レ)居たり。天竺の乾陀羅国大王、生身の観音を拝んと云願あり。夢中に告を得たり。是より東海に小島あり、日本国(につぽんごく)と名く。彼国の皇后光明女を可(レ)拝と、夢さめて後、西天、日域雲を隔て、大小諸国の境遠行拝せん事難(レ)叶、生身を移さん為にとて仏師を差遣せり。工匠子細を奏聞しければ、后仰て云、我母の為に阿弥陀如来(あみだによらい)造立の志あり、然而いまだ工を得ざる処に、幸に今天竺の仏師を得たり、願は仏像を造(有朋上P793)て妾が素願をはたせと、工匠奏し申さく、仏々平等にして利益無(レ)差ども、釈迦は穢土を教主として慈悲の一子に覆護せり。靡耶の生所を知んとて、大菩提心を発しつゝ、二六の難行行畢て、無上正覚成就(じやうじゆ)せり。十月胎内の報恩の為に、九旬■利(たうり)の安居せり。されば母に孝養の志深きは釈尊に過ずと奏しければ、可(レ)然とて被(レ)造たる仏也。皇后此仏を拝し給しに、いまだ眉間の玉も不(レ)入、仏像額より光を放ち給しかば、此仏には眉間の玉はなし。自然涌出の観世音も、此御堂にぞ安置せる。伝法院の修円僧都(そうづ)と云人、寿広、已講を相具して尾張国より上りしに、賀茂坂の辺、すがたの池の辺を通けるに、已講々々と呼声しけり。音に付て行見れば、田中に十一面観音像御座(おはします)。貴忝(かたじけな)く思ひつつ、懐き上げ負奉て、南都に帰
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上りつゝ、先南大門に奉(レ)居、何の御堂にか入奉べしと大衆僉議(せんぎ)して、金堂より始て、扉を開て入奉らんとて、千万人集て是を舁奉れども更に動給はず。西金堂と申時軽々と挙て、如(レ)飛してこそ此寺には入給へ。一度歩を運人、二世の願をぞ成就(じやうじゆ)しける。
南円堂と申は、八角宝形の伽藍(がらん)也。丈六不空羂索観音を安置せり。此観音と申は、長岡右大臣内麿の藤氏の変徴を歎て、弘法大師に誂て造給へる霊像也。仏をば造て堂をば立給はで薨給(たま)ひたりけるを、先考の志願を遂んとて、閑院大臣冬嗣(有朋上P794)公の、弘仁四年〈 丁酉 〉御堂の壇を築れしに、春日大明神(かすがだいみやうじん)老翁と現じて匹夫の中に相交り、土を運び給(たま)ひつゝ一首の御詠あり。
補陀落の南の岸に堂たてて北の藤なみ今ぞ栄ゆる K127
と。補陀落山と申は、観音の浄土(じやうど)にて八角山也。彼山には藤並ときはに有しとか。件の山を表して八角には造けり。北の藤並と申は、淡海公の御子に、南家、北家、式家、京家とて四人の公達御座(おはしまし)けり。何れも藤氏なれ共、二男にて北家、房前の御末の繁昌し給ふべきの歌也。弘法大師は来て鎮壇の法を被(レ)行。此堂供養の日、他性の人六人まで失しかば、代々の御幸にも源氏は不(レ)向砌(みぎり)也。奈良の都の八重桜、東金堂に栄えたり。浄名大士は、講堂(かうだう)に奄羅園を変じけり。維摩大会(たいゑ)は五百(ごひやく)余歳(よさい)も過にけり。声大唐に聞え、会は興福に留る。国之為(レ)国者此会の力也、朝之為(レ)朝者此会故也と、北野天神の記し置給へるも憑しや。されば此大会(たいゑ)の講、近は帝釈宮の礼に付、常楽会の内梵都卒天より
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伝れり。此戒壇と申は行基菩薩の建立(こんりふ)、済度利生の真影あり。清涼院と申は、清水の学窓大聖文殊の霊応あり。一乗院は、又定照僧都(そうづ)の聖跡、顕密兼学の道場也。貞松房の松室、応和の風香、興静僧都(そうづ)の喜多院、本院の礎不(レ)傾。斯る目出(めでた)き所々より始て、瑠璃を並し(有朋上P795)四面の廊、朱丹を彩二階(にかい)の楼、空輪雲に輝し五重(ごぢゆう)の塔婆、稽古窓閑なる三面の僧坊、大乗院、松陽院、東北院、発志院、五大院、伝法院、真言院、円成院、一言主、弁才天、竜蔵惣宮、住吉(すみよし)、鐘楼、経蔵、宝蔵、大湯屋に至迄、忽(たちまち)に煙と成こそ哀なれ。
鳥羽院(とばのゐんの)御宇(ぎよう)、春日の御幸の次に興福寺(こうぶくじ)に御入堂あり。伶人舞楽を奏しけるに、胡徳楽と云楽に、河南浦の庖丁を舞澄したりけり。胡徳楽とは酒を飲楽也。河南浦とは鯉を切舞也。叡感の余りに、是を鳥羽の御所に移して叡覧あらばやと被(二)思召(一)(おぼしめされ)ければ、還御の後彼儀式を鳥羽殿(とばどの)に被(レ)移て、伶人是を奏しけれ共、南都にて叡覧有しには無下に劣て、無興ぞ思召(おぼしめさ)れける。理や彼寺は、淡海公竜宮城の上に被(レ)立たる寺なれば、底より匂通つゝ、吹笛も打楽も澄渡りてぞ聞えける。斯る目出たき伽藍(がらん)の亡びぬるこそ悲しけれ。
東大寺(とうだいじ)と申すは、一閻浮提無二無三の梵閣、鳳甍高く聳て半天の空より抽で、八宗の教法、広敷広学の僧庵、鸞台遥(はるか)に構て一片霞を隔たり。濫觴を尋れば、月氏より日域に及で、大権の芳契多世を経たり。知識を訪へば、聖主より凡庶に至まで、真乗の結縁万方に普し。就(レ)中(なかんづく)本願皇帝発起の
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叡念は、大悲普現の観自在弘誓の海是深く、良弁僧正(そうじやう)懇篤の祈誓は、等覚補処の慈氏尊、因円の月満なんとす。三世の覚母は行基菩薩として東垂に現じて、衆生をして(有朋上P796)普く一分の善縁を結ばしめ、菩提僧正(そうじやう)は西域より来て、金容を拝して正く五眼の功徳を開けり。誠に此四隅四行の薩■[*土+垂](さつた)、因円合成して、中央中台の遮那の果満顕現じ給ふ。大日本国(だいにつぽんごく)開闢の主、天照太神(てんせうだいじん)の御本地、今の大仏尊是也。天児屋根尊(あまのこやねのみこと)は左面の観世音也。太玉尊は右脇の虚空蔵菩薩也。又金光最勝時会の式、王法正論鎮護の儀也。凡伽藍(がらん)の建立(こんりふ)也に異にして冥顕にかたどり、尊像の安置併国家の標相なり。是を以て本願聖武皇帝の御起文には、代々の国王を以て我(わが)寺(てら)の壇越とせん、我(わが)寺(てら)興復せば天下も興復し、我(わが)寺(てら)衰弊せば天下も衰弊すべし。若敬て勤行せば、世々に福を累て終に子孫を隆やかし、共に宮城を出て早く覚岸に登らんと云々。万機の理乱四海の安危、此寺の興衰により、今生の禍福未来の昇沈、其人の信否にむくゆ、是則我朝の惣国分寺として、金光明四天王護国之寺と号す、誠にゆゑある哉。当大伽藍(だいがらん)御建立(ごこんりふ)以前に、聖武天皇(てんわう)行基菩薩を勅使として、潜に伊勢太神官に祈誓申されしかば、御託宣(ごたくせん)に、実相真如の日輪は照(二)生死長夜之闇(一)、本有常住の月輪は、掃(二)無明煩悩之雲(一)、我遇(二)難遇之大願(一)、建(二)立聖皇大仏殿(一)故と〈 取(レ)詮 〉ありき。菩薩歓喜の涙に咽つゝ、此由奏し給(たま)ひしかば、叡信いよ/\深く、竭仰ます/\切にして、又宇佐宮へ勅使を被(レ)立て、同叡願の趣を被(レ)申しかば、八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の(有朋上P797)御体正く現じ給、御音を出させ給(たま)ひて、吾国家を護り王位を守る、
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志楯戈の如し、早く国内の神祇を卒して、共に吾君の知識たらんと、新にみことのり有ければ、歓喜の懇情深くして、則行基菩薩に勅して知識の宣を一天四海に被(レ)下しかば、玉簾の内より柴枢の下に至るまで、上下男女其縁を結ばずと云事なし。されば天平十七年に土木の造縁を始られしに、或は力士変化の牛来て料材を運、或は久米の仙人通力を起て大木を飛し、或は雷神磐石を砕て船筏を下き。三明(さんみやう)六通の羅漢は五百の工匠と成て大小の諸材を削、四海八方の冥衆は数万の夫役を勤て遠近の公事に従へり。鎮守(ちんじゆ)権現と申は則八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)是也。神託に任て、勧賞の為に、勅使百官を宇佐宮に立られたりければ、天平勝宝元年十一月〈 己酉 〉日、御影向あり。則尊神と天皇(てんわう)ともろ共に、大仏殿に御参の有りて、一万僧会(いちまんぞうゑ)を被(レ)行しに、大内に天下泰平と云文字現じけるに依て、又天平宝字と改元あり。神明の霊感、種々顕て、影向の軌則巍々たり。其より已来(このかた)当寺に跡を垂御座(おはしまし)て、昼夜に大仏を拝し、八宗の教法を護給へり。其後大仏供養の御沙汰(ごさた)あり、導師行基菩薩と被(レ)定たりけるを、菩薩奏して宣く、御願(ごぐわん)は大仏の事也、我身は小国の比丘也、大会(たいゑ)の唱導更に相応せず、昔霊山浄土(じやうど)の同聞衆に大羅漢御座、其名を婆羅門尊者と云。南天竺にあり、来て(有朋上P798)供養をのぶべしと有しかば、帝勅して云、天竺日本(につぽん)境異也、いかゞ招請せんと被(二)仰下(一)ければ、菩薩其期に臨で難波浦に行向、閼伽の折敷に花を盛、香を焼海上に浮たり。西を指て流行。暫ありて閼伽の備も乱ずして難波浦に著。小舟一艘相副り。舟中に梵僧一人あり。浜に上りたりければ、行基待
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受て手を取くみ、微咲して歌を唱て云、
霊山の釈迦の御前にちぎりてし真如朽せず相みつる哉 K128
梵僧返事して、
迦毘羅衛に共に契しかひありて文殊のみ顔相みつる哉 K129
と返事ありき。則天平宝字四年四月八日御供養有けるに、皇帝忝(かたじけなく)も御自諸師請定の勅書を被(レ)出き。開眼師菩提僧正(そうじやう)、講師隆尊律師、咒願師大唐の道■(だうちん)律師、都合一万廿六人(いちまんにじふろくにん)なり。菩提僧正(そうじやう)仏前にすゝみ、筆を取て開眼し給に、其筆に縄を付て諸人同く取付。是皆開眼の縁をむすばしめんと也。此時僧正(そうじやう)白き衣服を著し、六牙の白象に乗じて、大会(たいゑ)の庭に来給へりと見人多かりけり。普賢大士の化現と云事は疑なし。凡供養の日、奇特の事共多くありける内に、王城に童子あり、生産より成人に至るまで終に物云事なし。父母唖子うみたりと歎けるに、彼唖童は法会の庭にのぞみ、天皇(てんわうの)御前に跪、南謨阿梨耶婆(有朋上P799)盧枳帝、檪鉢羅耶、菩提薩■(さた)婆耶と唱拝し奉て、かき消やうに失にけり。又南大門の木像の獅子すゞろに吠■(ほえののしり)けり。是只事に非ず、併御願(ごぐわん)の忝(かたじけな)き事を感じけるにや、誠に不思議也し事共也。其より以来、年序四百(しひやく)余歳(よさい)、星霜遥(はるか)に重て帰敬弥新也。金銅十六丈の盧遮那仏(るしやなぶつ)は、実報寂光常在不滅の生身になぞらへ、玉殿十一間の宝楼閣は、花蔵界会、奇麗無元尽の荘厳に模せり。烏瑟高顕て半天の雲に細に、白毫露て瑩て、満月の
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粧明か也し尊像也。五十六億七千万歳の遥(はるか)の後、人寿八万、竜華三会の時までも全身の如来(によらい)とこそ奉(レ)拝しに、御頭は落て大地にあり、御身は涌て湯の如し。悲哉烏瑟忽(たちまち)に花王の本土に帰し、堂閣空蒼海の波涛に泝ことを。八万四千(はちまんしせん)の相好は、秋の月四重の雲に隠れ、四十一地の珱珞は、夜の星十悪の風に漂はす。遥(はるか)に伝へ聞すら、猶悲みの涙せきあへず、況親奉(レ)見けん人々の心中、推量れていと悲し。
大講堂(だいかうだう)と申は、天平勝宝年中に御建立(ごこんりふ)、本尊は五丈の千手の霊像也。一万僧会(いちまんぞうゑ)にて供養を遂られし時、天人天降りつつ花を仏前に散し奉る。其香発越として法会の庭に匂、九重の中に薫じけり。聖武皇帝叡感の余りに、楽人に仰て、始たる楽を奏すべしと勅定有ければ、伶人等俄(にはか)に十天楽を作始て是を奏しき、類少き不思議也。醍醐天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)延喜十七年十一月、当堂并に三面の(有朋上P800)僧坊焼失せし時、黒煙一天に覆て日の光不(レ)見けり。東大寺(とうだいじ)の炎上(えんしやう)にあらずば角は有べからずとて、御門大に驚き騒がせ給(たま)ひて、寮の御馬に召れて俄(にはか)に行幸ありけり。是ぞ騎馬の行幸の始なる。其後承平五年に造畢供養せられけり。
戒壇院と申は、本願皇帝、栄叡普照寺に勅して大唐に遣されしかば、則楊州の竜興寺の鑑真和尚(くわしやう)に謁して申さく、昔我大日本国(だいにつぽんごく)に上宮太子と申人御座(おはしまし)き。吾薨去の後二百年を過て、必当国に律儀広まるべしと示し給(たま)ひき。今其時代にあたれり、願は日域に東流し給へと請ぜしに、和尚(くわしやう)承諾し
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て渡海せんと宣に、門徒(もんと)の僧諫制して云、海上漫々として風波茫々たり、生身を全して法を此にして弘め給へと申ければ、和尚(くわしやう)弟子に語て云、身命を軽して仏法(ぶつぽふ)を重くするは如来(によらい)遺弟の法也、日本(につぽん)は仏法(ぶつぽふ)有縁の国なれば、行て戒律を弘むべしと有けるを、門弟等留め兼て、袈裟にて頭を裹み、顔を隠して和尚(くわしやう)の渡海を留けり。裹頭の大衆と云は是より又始れり。然共和尚(くわしやうの)志猶たゆみ給はず。され共天皇(てんわう)深く御歎あり。欽明天皇(てんわう)十三年に、釈迦の遺法此国に伝るといへ共、いまだ出家具戒の義そなはらず。盧遮那仏(るしやなぶつ)の造立の志は戒法興行の為なり。十地の階級によりて、報身能化の形異なれ共、ことさら戒波羅密の教主を選て、千葉台上の尊像を顕し奉る事は、戒師を異朝に尋て、仏法(ぶつぽふ)を此国に弘め(有朋上P801)んが為也とて、重て遣唐使を渡さる。懇に勅請有しかば、法進思詫等の門弟四十余人(よにん)を具足し、仏舎利三千粒、白檀の千手の像、天台止観等の法門、戒壇円経、并中天竺那蘭陀寺の戒壇の土、此外仏像経論等を持して、大唐の天宝十三年に唐朝を辞し、本朝の天平勝宝六年二月に来朝し、始て大仏殿に参詣して、礼拝讃歎し給(たまひ)て、又和尚(くわしやう)遥(はるか)に蒼海を凌て来朝せり。皇帝大に叡感ありて、授戒伝律、偏(ひとへ)に大徳に任る由、勅し給しかば、天平勝宝六年四月に、始て盧遮那仏殿(るしやなぶつでん)の御前にして、和尚(くわしやう)伝来の戒壇の土にして壇を築て、天皇(てんわう)皇后登壇受戒あり。其後霊福澄修等五百(ごひやく)余人(よにん)登壇受戒しき。さて那蘭陀寺の戒壇の土にひとしき地味を本朝に被(レ)尋しに、今の戒壇院地味同きに依て、高房中納言を勅使として、天平勝宝七年九月に戒壇院を造畢し、同き十月十三日に、大和尚(だいくわしやう)
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を導師として御供養ありき。同き廿日受戒会を行ひ始られてより已来(このかた)、恒例の大法会たりき。真言院と申は、養老年中に中天竺の善無畏三蔵来朝の当初、八十日が間遊士修練し給し芳躅なり。其間に良弁義淵等、大虚空蔵等の秘法を受て密教稍伝持せり。然共根機普熟せざりけるにや、三蔵所持の毘盧舎那経をば、大和国(やまとのくに)高市郡久米寺の東塔の柱の底に納て、無畏三蔵は帰唐し給にけり。其後弘法大師出世し給(たまひ)て、内外平満の教こと/゛\く通達し(有朋上P802)給(たまひ)て後、諸仏内証の不二法門あるべしとて、当伽藍(がらん)盧遮那仏(るしやなぶつ)の前にして祈請申されしかば、夢想(むさう)の告有て、彼久米寺の大経を感得し、勅定を蒙て、渡海入唐し、青竜寺の大和尚(だいくわしやう)に謁して、三密五智の瓶水を受。真乗秘密の奥蔵を伝て、大同年中に帰朝し給(たまひ)て、法水を四海に流し、甘雨を一天にそゝぎしかば、東大寺(とうだいじ)の別当に被(レ)補き。勅命に依て此寺に移り居て、三蔵修練の芳跡を慕、大唐青竜の風範を写して、灌頂(くわんぢやう)壇を立て増息の法を修し給へり。密経相応也に異なる聖跡也。凡大仏殿、同き四面の廻廊より始て、講堂(かうだう)三面の僧坊、鐘楼、経蔵、食堂、大湯屋、東西七重の大塔、八幡宮、気比の社、気多の宮、五百(ごひやく)余所、八大菩薩(はちだいぼさつ)、戒壇院、真言院、尊師僧正(そうじやう)、東南院、南都七寺の本院家、三論の本所也。五師子の如意もなつかしく、光智僧都(そうづ)の尊勝院、花厳円宗の本所也。村上帝の御願(ごぐわん)とか。堪照僧都(そうづ)の吉祥院、五重(ごぢゆう)唯識窓深、珍海已講の禅那院、八不の堪水底澄めり。知足院と申は法相一宗の本所也。鑑真建立(こんりふ)の唐禅院、律宗天台の本所とか、神社仏閣悉(ことごと)く焼にけり。梵釈四王、竜神(りゆうじん)八部、冥官冥衆に至るまで、定て驚
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騒給らんとぞ覚えし。三笠山の松の風、遮遺の煙に音咽、春日野草の露、魔滅の灰に色替れり。昔釈尊の非滅々々を唱へしに、双林風痛で其色忽(たちまち)に変じ、抜提河水咽で其流れ又濁りけんも限あれば、菩薩(有朋上P803)聖衆、人天大会(たいゑ)の悲み角やと思知れたり。日本(につぽん)我朝は申に及ばず、天竺震旦にも加程の法滅は類稀にぞ覚えける。若く盛にして身の力ある輩は山林に逃籠、吉野十津河の方へ落失にけれ共、行歩にも叶はぬ老僧身もたへず、事宜き修学者達は、其数を知ず切殺され打殺されにけり。尼公の首をも多切たりけるとかや。大仏殿にて焼死る者千七百(せんしちひやく)余人(よにん)、山階寺にて五百(ごひやく)余人(よにん)、在々所々、坊舎堂塔にて二百(にひやく)余人(よにん)、戦場にして被(レ)討大衆七百(しちひやく)余人(よにん)、都合一万二千(いちまんにせん)余人(よにん)とぞ聞えし。其内に四百(しひやく)余人(よにん)が首、法華寺の鳥居の前に切懸たり。十二月廿九日に、重衡朝臣、南都の大衆の頸三百(さんびやく)余を相具して帰上る。首共さのみ多しとて少々は道に捨けり。重衡上洛して首渡すべき由奏申けれ共、東大寺(とうだいじ)興福寺(こうぶくじ)回禄の浅猿(あさまし)さに、其沙汰に及ざりければ、穀蔵院南の堀をば、南都の大衆の頸にて埋けり。一院新院摂政(せつしやう)殿下、一天四海貴賎男女歎悲みけれ共、入道(にふだう)相国(しやうこく)ばかりは、南都の衆徒等(しゆとら)さてこそよとぞ宣(のたま)ひける。後世いかならんと聞も身毛竪けり。
S2408 仏法(ぶつぽふ)破滅事
仏法(ぶつぽふ)破滅の人を尋るに、天竺には提婆達多、仏を妬て血を出し、仏法(ぶつぽふ)修行の和合僧を破(有朋上P804)し、証果の尼を殺して三逆を犯し、阿育大王の太子弗沙密多、寺塔を破壊し聖教を亡す。震旦には秦始皇(しくわう)、僧尼を埋み書籍を焼、唐武宗、会昌太子、三宝を滅き。これは異国の事也、只伝聞ばかり也。我朝
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には、如来(によらい)滅後一千五百一年(いつせんごひやくいちねん)を経て、第三十代帝欽明天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)十三年、〈 壬申 〉十月十三日に、百済国の聖明王より、始て金銅の釈迦像並経論等を渡し給ける。同日に阿弥陀(あみだ)の三尊(さんぞん)浪に浮びて、摂津国(つのくに)難波浦に著給(たま)ひたりしを、用明天皇(てんわう)の御子聖徳太子(しやうとくたいし)、仏法(ぶつぽふ)を興ぜんとし給しに、守屋大臣我国の神明を敬はんが為に、教法の貴事を不(レ)知して、是を破滅せんとせしか共、終に太子の御為に誅せられけり。其外は帝王五十二代、年序六百廿九年、いまだ三宝を背き堂塔を滅す王臣を聞かず。仏法(ぶつぽふ)独弘まらず、王臣の帰依によるべし。国土自ら安からず、仏陀の冥助に持たれけり。されば人の世にある、誰か仏法(ぶつぽふ)を無代にし逆罪を相招く。縦僧こそ悪からめ、仏法(ぶつぽふ)何の咎か御座(おはしま)すべき。神社仏寺数を尽し、三論法相残なく煙と成るこそ悲しけれ。されば弘憲僧正(そうじやう)は、落る涙に墨染の湿たる袖に筆を染めて、法滅の記をぞ書給へる。
謹考、天竺震旦大仏雖(レ)多、皆是木石なり。未(レ)聞(二)金銅十六丈之盧遮那(一)とぞ被(レ)注たる。誠に閻浮無双の仏像也。日域第一の奇特なり。一時が程に回禄、かなしと云も疎なり。
興福寺(こうぶくじ)焼失の時、(有朋上P805)不思議の事ありき。寺院の内の坤の角に、一言主の明神とて、葛城の神を祝奉たる社あり。其神の前に大なる木■子(もくげんじ)の木あり、彼焼亡の火、此木の空に移て煙立けり。軍しづまりて後、大衆の沙汰にて水を汲て、木の空に入る事隙なかりけれ共、其煙いつとなく絶ず。今はいかゞせんとて、水を入る時もあり入ざる時もあり。遥(はるか)に七十余日を経て、太政(だいじやう)の入道(にふだう)病付たりと云ひける日より、
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煙おびたゞしく立けるが、入道七日と云に死給(たま)ひたりける日よりして、彼けぶり立ず、火かき消すやうに失にけり。さしも久しく燃たりけれ共、枝葉もとの如く栄たり。誠に世の不思議とぞ覚ゆる。(有朋上P806)
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十五
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井巻 第二十五
S2501 大仏造営奉行勧進事
東大寺(とうだいじ)炎上(えんしやう)の後、大仏殿造営の御沙汰(ごさた)あり、左少弁(させうべん)行隆朝臣、可(二)奉行(一)由えらばれけり。彼行隆先年八幡宮に参て通夜し給たりけるに、示現を蒙りけるは、東大寺(とうだいじ)造営の奉行の時は是を持べしとて、笏を給と霊夢を感ず。打驚て傍を見に、誠にうつゝにも是あり、不思議に覚て、其笏を取て下向し給(たま)ひたりけれ共、何事にか当世東大寺(とうだいじ)造替あるべき、何なる夢想(むさう)やらんと心計に思ひ煩ひて、件の笏を深納て、年月を送り給ける程に、此焼失の後、弁官の中に被(レ)撰て、行隆可(二)奉行(一)由仰せ下されけるにこそ思ひ合せて感涙をば流しけれ。されば宣(のたま)ひけるに、我勅勘を蒙ぶらずして昇進あらましかば、今は弁官を過なまし、勅勘に依て多年を送り、老後に再び弁官に成帰つて、奉行の仁に相当れり。前世の宿縁、今生の面目、来世の値遇までも、悦ぶに猶余りありとて、大菩薩(だいぼさつ)の示現に給りし笏を取出して、造営の事始めの日より持給(たま)ひたりけるとかや。
又東大寺(とうだいじ)の大(有朋上P808)勧進の仁、誰にか仰せ付べきと議定あり。当世には黒谷の源空は、戒徳天に覆ひ慈悲普して、人挙て仏の思ひをなす。彼法然房に被(二)仰含(一)べきかと、諸卿推挙し申ければ、法皇即行隆朝臣を以て、大勧進を可(レ)謹之由仰下さる。法然房院宣の御返事(おんへんじ)被(レ)申けるは、源空山門の交衆を止て、林泉
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の幽居を占る事、偏(ひとへ)に念仏修行の為也。若大勧進の職に候はば、定て劇務万端にして自行不(二)成就(じやうじゆ)(一)と、竪く辞申されけり。重たる院宣には、門徒(もんと)の僧中に器量の仁ありや、挙し申べしと仰下す。法然房暫く案じて、上の醍醐におはしける俊乗房重源を招寄せて、院宣の趣申含給ければ、左右なく領状し給へり。則是を挙し申されければ、俊乗房院宣を給(たまはつ)て大勧進の上人に定にけり。俊乗房院宣を帯して、法然房へ参して角と申たりければ、宣(のたまひ)けるは、相構て御房大銅に食て、一大事の往生忘るべからず、若勧進成就(じやうじゆ)あらば、御房は一定の権者也と被(レ)申けるが、事故なく遂給にけり。されば勧進俊乗房、奉行行隆、共に直人にはあらじと人首を傾けり。
笠置の解脱上人貞慶、大仏の俊乗和尚(くわしやう)重源両人は、道念内に催し慈悲外に普し、人皆仏の思ひを成しけるに、重源和尚(くわしやう)は深く観音を信じ給へり。菩薩の慈悲とり/゛\也といへ共、普門示現の利生悲願は観音大士に過たるはあらじ。されば生身の観音を奉(レ)拝らん(有朋上P809)と年来祈念し給けり。解脱上人は釈迦を信じ給けり。三世の如来(によらい)まち/\也といへ共、濁世成仏(じやうぶつ)の導師也、聞法得脱偏(ひとへ)に如来(によらい)の恩徳に非ずと云事なし。然れば生身の釈迦を奉(レ)拝ばやと祈誓し給(たま)ひける程に、同夜に夢を見給けるは、俊乗房は、解脱上人は則観音也と見、解脱房は、俊乗和尚(くわしやう)は即釈迦也と見給(たま)ひけり。懸りければ解脱上人は、笠置寺を出て東大寺(とうだいじ)へ行給ふ。俊乗和尚(くわしやう)は東大寺(とうだいじ)を出で笠置寺へ渡り給ふ。両上人平野の三間、卒都婆と云所にて行合て、共に夢の告をかたり、互に涙を流しつゝ、貞慶は俊乗和尚(くわしやう)を三礼し、重源は解脱上人
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を三礼して、契て云、先立て臨終せん者は自他生所を示すべしと。而を建久元年六月五日の夜、解脱上人の夢に、重源こそ娑婆の化縁既(すで)に尽て、只今(ただいま)霊山へ帰り侍と示給へり。夢に驚て急ぎ人を遣て尋問ひ給へば、此暁既(すで)に和尚(くわしやう)東大寺(とうだいじ)の浄土堂にて入滅の由答けり。誠に法界唯心の、花厳の教主を再造鋳のために、大聖釈迦如来(しやかによらい)の化現し給(たま)ひけるこそ貴けれ。
S2502 ■(はらかの)奏吉野国栖事
治承五年正月一日、改の年立返たれ共、内裏には東国の兵革南都の火炎に依て朝拝なし、(有朋上P810)節会ばかり被(レ)行けれ共、主上出御もなし。関白(くわんばく)已下藤氏の公卿一人も参らず、氏寺焼失に依て也。只平家の人々少々参て被(二)執行(一)けれ共、そも物の音も不(二)吹鳴(一)、舞楽も奏せず、吉野の国栖も不(レ)参、■(はらか)の奏もなかりけり。たま/\被(レ)行ける事も、皆々如(レ)形にぞ在ける。
< ■(はらかの)奏とは魚也。天智天皇(てんわう)のいまだ位に即給はざりける時、君は乞食の相御座(おはしま)すと申ければ、我帝位につきて乞食すべきにあらず、備へる相又難(レ)遁歟、御位以前に其相を果さんとて、西国(さいこく)の御修行あり。筑後国、江崎、小佐島と云所を通らせ給けるに、疲に臨み給(たま)ひたれ共、貢御進する者もなかりけり。網を引海人に魚をめされて、御疲を休めさせ給(たま)ひ、我位につきなば、必貢御にめされんと被(二)思召(一)(おぼしめされ)、其名を御尋(おんたづね)ありければ、■(はらか)と奏し申けり。帝位につかせ給(たまひ)て思召(おぼしめし)出つゝ、被(レ)召て貢御に備けり。其よりして此魚は、祝のためしに備ふと申。
吉野国栖とは舞人也。国栖は人の姓也。浄見原(きよみはら)の天皇(てんわう)、大伴王子に恐れて吉野の奥に籠り、岩屋の中に忍び御座(おはしまし)けるに、国栖の翁、粟の御料にうぐひと云魚を具して、貢御に備へ奉る。朕帝位に上らば、翁と貢御とを召んと被(二)思召(一)(おぼしめされ)けるによりて、大伴の
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王子を誅し、位に即て召れしより以来、元日の御祝には国栖の翁参て、梧竹に鳳凰の装束を給(たまひ)て舞ふとかや。豊の明の五節にも此翁参て、粟の御料にうぐ(有朋上P811)ひの魚を持参して、御祝に進る。殿上より国栖と召るゝの時は、声にて御答を申さず、笛を吹て参るなり。此翁の参らぬには五節始る事なし。斯る目出(めでた)き様ども、兵革火災に奉らず。>
S2503 春日垂迹事
二日天慶の例とて殿上の宴酔なし。男女打偸て、禁中の有様(ありさま)物さびしくぞ見えける。礼儀もことごとに廃ぬ。仏法(ぶつぽふ)皇法共に尽ぬる事こそ悲しけれ。四日南都の僧綱(そうがう)解官して公請をとゞめ所領を没収せらる。東大寺(とうだいじ)興福寺(こうぶくじ)、堂舎仏閣も塵灰となり、若も老も衆徒多滅して、たま/\残る輩は山林に身を隠し、便を求て跡を消して止住の人もなかりけるに、上綱さへ角なれば、南都は併亡畢ぬるにこそ、法相擁護の春日大明神(かすがだいみやうじん)、いかなる事思召(おぼしめす)らんと、神慮誠に知がたし。
< 此明神と申は、昔称徳天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、神護慶雲二年戊申に、白き鹿に鞍を置き、鞍の上に榊をのせ、榊の上に五色の雲聳き、雲の上に五所の神鏡と顕て、常陸国鹿島郡より、此大和国(やまとのくに)三笠山の本宮に垂迹し給し時は、御手に法相唯識卅誦を捧給(たまひ)て、跡をしめ御座(おはします)。今かく人法共に亡ぬれば、冥慮争か安からん(有朋上P812)と、覚たり。>
S2504 行(二)御斉会(一)并(ならびに)新院崩御(ほうぎよ)附教円入滅事
但し形様にても御斉会は被(レ)行べきとて、僧侶の沙汰有けるに、南都の僧は公請を止る由宣下せられぬ。されば一向天台の学侶ばかり請定歟、又御斉会を被(レ)止べきか、又延引有べきかの由、官外記の注文を召。彼申状に付て諸卿に被(レ)尋処に、南都北嶺は国家鎮護の道場、天台法相は天下泰平の秘要也、速に南都を棄置れん事いかゞ有べき、外記注進先例なきに似たりと各被(レ)申けるに依て、三論宗
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の僧に成実已講と云ふ者の、勧修寺に有けるを只一人召て、如(レ)形被(レ)行けり。法皇は世の角成行に付ても思召(おぼしめし)連けるは、我十善の余薫に依て万乗の宝位を忝(かたじけなう)す、四代の帝を思へば子也孫也、いかなれば清盛(きよもり)法師に万機の朝政を被(レ)止て年月を送るらんと、御心憂思召(おぼしめす)処に、剰へ東大興福の両寺(りやうじ)、仏法(ぶつぽふ)人法もろともに亡ぬれば、只竜顔より御涙(おんなみだ)をのみぞ流させ給(たま)ひける。懸る程に打副へ、新院(しんゐん)御所(ごしよ)には日比(ひごろ)世の乱を歎思召(おぼしめし)ける上、南都園城(をんじやう)の回禄に、いとゞ御悩(ごなう)重くならせ御座(おはしまし)ければ、何事の沙汰にも及ばずあやふき御事など聞えしかば、法皇不(レ)斜(なのめならず)御歎あり(有朋上P813)し程に、同(おなじき)十四日に、六波羅の池殿にて終に墓なく成せ給ふ、御歳僅(わづか)に二十一。内には十戒(じつかい)を持て慈悲を先とし、外には五常を守て礼儀を正くせさせ給(たま)ひければ、末代の賢王(けんわう)にて、万人是を惜み奉る事、一子を失へるが如し。まして法皇の御歎、理にも過たり。恩愛の道いづれも不(レ)疎ども、此御事は、故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)の御腹にて、一つ御所に朝夕なじみ奉らせ給(たま)ひき。御位に即給しまでは、副進らせ給しかば、其御志殊に深き御事也。去々年の冬、法皇鳥羽殿(とばどの)に籠らせ給(たま)ひし御事、不(レ)斜(なのめならず)歎思召(おぼしめす)より御病(おんやまひ)付せ給たりしが、南都の両寺(りやうじ)焼ぬと聞召(きこしめし)て其歎に不(レ)堪、つひに隠させ給けり。今夜やがて東山の麓、清閑寺と云山寺へ送り奉て、春の霞に類ひ、夕の煙と立のぼらせ給(たま)ひにけり。安居院法印澄憲、墨染の袖を絞りつゝ角思ひつゞけけり。
常に見し君がみゆきをけふとへば帰らぬ旅ときくぞ悲しき K130
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天下諒闇(りやうあん)に成て、雲の上人花の袂(たもと)を引替て、藤の衣に窄けり、哀也し御事也。興福寺(こうぶくじ)の別当権僧正(ごんのそうじやう)教円も、南都炎上(えんしやう)の煙の末を見て病付たりけるが、新院隠れさせ給ぬと聞て、病増りて失給(たま)ひにけり。心あらん人、誠に堪て住べき世とも見えざりけり。(有朋上P814)
S2505 此君賢聖并(ならびに)紅葉山葵宿禰附鄭仁基女事
凡此君幼稚の御時より賢聖の名を揚、仁徳の行を施す。御情(おんなさけ)深き御事共(おんことども)多かりける中に、去嘉応承安の比、御在位の始なりしかば、御年十歳ばかりにや、紅葉を愛せさせ給けるが、紅葉は秋の物也、秋は西より来るとて、西門の南脇に小山を築かせ、紅葉を立植て愛せさせ給(たま)ひけるに、仁和寺(にんわじ)の守覚(しゆうかく)法親王(ほふしんわう)より、櫨と鶏冠のもみぢの色うつくしきを二本進覧あり。新院何とか思召(おぼしめさ)れけん、是をば紅葉の山にはうゑられず、大膳大夫信成を召、この紅葉汝に預る也、明ては持参せよ、叡覧あらんとぞ仰ける。信成仰を蒙て宿所に帰り、乾泉水を造て紅葉を植、明ては御所へ持参し、晩れば宿所に持帰る、不(レ)損不(レ)折と心苦し給けるは、ゆゝしき大事にぞ有ける。或(ある)時(とき)信成物詣でとて出たりける跡に、田舎より仕丁の二三人上たりけるが、寒を禦ん為に酒を尋出し、あたためて飲んとしけるに、焼物のなかりければ、御所の内を走廻て尋る程に、坪の内の乾泉水の紅葉を尋得て、散々(さんざん)に折焼て酒をあたゝめて飲てけり。実に片田舎の者なれば、争か紅葉のやさしき事をも可(レ)知なれば、角振舞たりける也。信成下向し給(たまひ)て、先さし入紅葉を見給ふ(有朋上P815)に跡形もなし。よくよく尋問給(たま)ひければしか/゛\と申。信成手をはたと打て、こはいかにしつる事ぞ、如何なる御勘気にかあらんとて、彼仕丁を尋出し、縫殿の陣に誡置。御所より信成は下向歟、此両三日紅葉を御覧ぜ
P0599
ねば御恋に思召(おぼしめし)、急ぎ持参せよ叡覧せんと御使あり。信成周章(あわて)参りて此由を奏聞せらる。新院やゝ御返事(おんへんじ)なし。去ばこそ大なる御不審蒙なんず、如何様(いかさま)にも廷尉に被(レ)下、馬部吉祥に仰て、禁獄流罪にもやと、恐れをののき居給たりけり。良有て御返事(おんへんじ)あり。信成よ歎思ふべきにあらず、唐の大原(たいげん)に白楽天と云人は、琴詩酒の三を友として、中にもことに酒を愛して諸を慰みけるに、秋紅葉の比仙遊寺に遊ぶとて、紅葉を焼て酒をあたゝめ、緑苔を払て詩を作けり。即其心を、
林間煖(レ)酒焼(二)紅葉(一)石上題(レ)詩払(二)緑苔(一) K131
と書遺し給へり。かほどの事をば浅増(あさまし)き下揩ノ誰教へけん、最やさしくこそ仕たりけれと、叡感に預りける上は子細に及ばず。あやしの賤男賤女までも、角御情(おんなさけ)を懸させ給(たま)ひければ、此君千秋万歳とぞ祈申ける。去共憂世(うきよ)の習こそ悲しけれ。又建礼門院(けんれいもんゐん)御入内の比、安元(あんげん)の始の年、中宮の御方に候ける女房の、召仕ける女童二人あり。一人をば葵、一人をば宿禰とて、葵は美形世に勝れたりけれ共、心の色少し劣れり。宿禰はみめ形は(有朋上816)挿絵(有朋上P817)挿絵(有朋上P818)ちと劣りたりけれ共、心の色は深かりけり。主上不慮に、始は葵を召れけるが、後には心の色に御耽ありて、宿禰に思召(おぼしめし)つかせ給つゝ、類ひなき御事也ければ、彼女房竜顔に近付進らせて立さる事もなし。白地の御事にもあらで、夜々(よなよな)是を被(レ)召て御志深く見えさせ給ければ、主の女房も召仕ことなく、還て主の如くにいつきかしづき給(たま)ひけり。此事天下に漏聞えければ、時の人古き謡詠に云事有とて、
P0600
文を引て云、生(レ)女勿(二)悲酸(一)、生(レ)男勿(二)喜歓(一)、男不(レ)封(レ)候、女は作(レ)妃と、只今(ただいま)此女房、女御后にも立、国母仙院とも祝れ給なん、ゆゝしかりける幸哉と披露すと聞召(きこしめし)て後は、敢て召るゝ事なし。御志の尽させ給ふには非ず、世の謗を思召(おぼしめし)ける故也。されば常は御ながめがちにて、夜のおとゞにぞ入らせ給ける。此事大殿聞召(きこしめし)て、心苦き御事にこそとて参内あり。奏し申させ給けるは、叡慮に懸らせ御座(おはしま)さん御事、歎思召(おぼしめ)さん事いと忝(かたじけな)く侍り、何条御事か候べき、只件の女房を召るべきにこそ、俗姓尋るに及ぶべからず、忠通猶子にし奉べしと仰ければ、いざとよ、位すべらせ給(たまひ)て後はさることあり共聞召、正く在位の時袙など云ず、そもなき怪振舞する程の者の、身に近付く事を不(二)聞召(一)、朕が世に始伝へん事、後代の誹なるべしと勅定ありければ、大殿御涙(おんなみだ)を押拭はせ給(たまひ)て、ゆゝしき賢皇哉と思召(おぼしめし)御退出あり。其後主上(有朋上819)なにとなき御手習の次に、古き歌を書すさませ給(たま)ひける中に、緑の薄様のことに匂深きに、
忍れど色に出にけり御恋はものや思ふと人の問ふまで K132
と遊ばしたりけるを、御心知の四位(しゐの)侍従守貞と云者、此歌を取て宿禰にたびたりければ、是を給(たまひ)て懐に引入て、心地例ならず覚て、里に出て引被臥にけり。煩事三十(さんじふ)余日ありて、彼歌を■(むね)にあてて、終に墓なく身まかりにけり。主上被(二)聞召(一)(きこしめされ)て御涙(おんなみだ)にむせばせ給けり。為(二)君一日之思(一)、誤(二)妾百年之身(一)、寄(二)言痴(一)少人家女、慎勿(二)将(レ)身軽許(一)(レ)人と誡たり。女の為も不便也、朕が為も世の誹也とて、深く歎思召(おぼしめし)ても、御恋しさにや御涙(おんなみだ)を流させ給ぞ忝(かたじけな)き。
P0601
< 唐大宗は、鄭仁基と云人の娘、美人の聞えありければ、召て元花殿に入らんとし給(たま)ひしを、魏徴大臣の、彼女既(すで)に他夫に約せりと諌申ければ、殿にいるゝ事を留められけるには、猶まさらせ給たる御心なりとぞ申ける。>
S2506 時光茂光御方違盗人事
又殊に哀なる御事ありき。去し安元(あんげん)二年の七月に、御母儀(おぼぎ)建春門院(けんしゆんもんゐん)隠させ給(たま)ひけり。(有朋上P820)主上今年は十五にぞならせ給(たま)ひける。不(レ)斜(なのめならず)御歎ありて、御寝膳も御倦き程なりけり。帝王御暇の間は定れる習にて、廃朝とて、十二月の程万機の政を留めらるゝ事あり。但孝行の礼はさる事なれ共、朝政を止る事、天下の歎なる故に、一日を以て一月に宛て、十二日を以て十二月に准て御色の服をめす。十二日過ぬれば御除服とて、御色を召替る事なれば、此君も御母儀(おぼぎ)隠れさせ給(たまひ)て後、十二日を過させ給(たま)ひければ、公卿殿上人(てんじやうびと)参会して御除服ありけるに、不(レ)斜(なのめならず)御歎なれば、参給へる人々も、問ふにつらさの風情もやとて、御母儀(おぼぎ)の御事申出す人もなし。君も何となき様にもてなさせ給けるが、猶も御気色(おんきしよく)処せきの御ためし也。高倉中将泰通朝臣参りて御衣を進せ替、御帯を当進らせけれ共、結びもやらせ給はざりければ、御後より結び進らせけるに、母后の御名残(おんなごり)の色の御衣、今を限と召替ると思召(おぼしめし)けるにや、御涙(おんなみだ)の温々と落けるが、泰通の手に懸ければ、不(レ)堪して同く涙を流しけり。是を見進らせける卿上(けいしやう)雲客(うんかく)、皆直垂の袖を絞る。君も竜顔に御衣の袂(たもと)を当させ給(たまひ)て、やがて夜の御宿殿へ入せ給(たま)ひ、御涙(おんなみだ)にむせばせ給けるぞ悲しき。
又金田府生時光と云笙吹と、市允茂光と云篳篥吹あり。常に寄合て囲碁を打て、果頭楽の唱歌をし
P0602
て心を澄しぬれば、世間の事公私につけて、何事も心に入ざる折節(をりふし)、内裏(有朋上P821)よりとみの御事ありて、時光を被(レ)召けり。いつもの癖なれば、時光耳にも聞入ず。勅使こは如何にといへども不(レ)驚。家中の妻子所従までも大騒て、如何にいかにと勧めけれ共、終聞ざりければ、御使力及ばず、内裏に参て此由を奏聞す。何計の勅勘にてかあらんと思ける処に、主上仰の有けるは、勅命を不(レ)顧、万事を忘て心を澄し、面白かるらんやさしさよ、王位は口惜き者哉、さやうの者共に行て伴はざるらん事よとて、御涙(おんなみだ)を流し御感有ければ、事なる子細なし。
又去安元(あんげん)元年十二月に、御方違の行幸の夜、鶏人暁唱ふ声明王(みやうわう)の眼を驚す程に成りにけり。主上はいつも御ねざめがちにて、王業の艱難を思召(おぼしめし)つゞけ御座(おはしま)しけり。折しもさゆる霜夜なり。天気殊に烈しかりければ、いとゞ打解御寝もならず、彼延喜聖主、四海の民いかに寒かるらんとて、御衣をぬぎ給けん事思召(おぼしめし)出て、帝徳の不(レ)至事を歎思召(おぼしめし)、御心を澄して渡らせ給(たま)ひけるに、遥なる程とおぼしくて女の泣音しけり。供奉の人々は聞とがむる事もなし。主上聞召咎めさせ給(たまひ)て、上伏したる殿上人(てんじやうびと)を召て、上日の者や候、只今(ただいま)遠所に叫音のするは何者(なにもの)ぞ、急ぎ見て参れと御気色(おんきしよく)あり。殿上人(てんじやうびと)承て、本所の衆に仰す。所の衆、急ぎ行て見れば、怪げなる女童の、長持の蓋を提てさめ/゛\と泣。事の次第を尋るに、女答て云く、童が主の朔日の出仕に奉ら(有朋上P822)んとて、只一つ持せ給へる御里を沽て、仕立させ給へる御装束を持て御局へ参つるを、男の二三人詣できて奪取りてまかりぬるぞや、取替の御装束があら
P0603
ばこそ御所にも渡らせ給ふべき、御里があらばこそ立も入せ給はめ、責ては日数も候はばや、又も仕立させ給はめ、親き人渡らせ給はねば、如何にと訪進らする事も侍るまじ、此事思連るに、余に悲く候へば、只今(ただいま)消も失なましきとまで思侍れ共、そも叶はずと申して又足摺して喚叫。所の衆帰参て此由角と奏し申ければ、君聞召(きこしめし)て、如何なる者のしわざにか有らん、誠に悲かるべき事にこそ。昔夏の禹王犯せる者を罪すとて、涙を流し給ければ、臣下諌て云、罪犯者不(レ)足(レ)憐と申ければ、禹王答て云、堯代之民、以(二)堯心(一)為(レ)心、故人皆直、今代之民、以(二)朕心(一)為(レ)心、故姦犯(レ)罪、何不(レ)悲哉と歎給(たま)ひけり。されば朕が意の直しからぬ故に、朝に姦者のあて法を犯す、これ偏(ひとへ)に朕が恥なりとて、御涙(おんなみだ)を流させ給(たま)ひつゝ、彼女童を被(レ)召て、とられにける装束は何色ぞと問はせ御座(おはしまし)ければ、しか/゛\と申けり。中宮の御方に、左様の御衣や候と召されければ、とられつる衣よりも猶清らかに厳を被(レ)参たりければ、件の女童にたびてけり。はや明方の事也けれ共、又もぞさるめにも値とて、上日の者の送りつゝ、主の女房の許へぞ被(レ)遣ける。有難き御情(おんなさけ)(有朋上P823)なり。
S2507 西京座主祈祷事
< 堀川院(ほりかはのゐんの)御宇(ぎよう)、きはめて貧き所衆あり。衆のまじらひすべきにて有けれ共、いかにも思立べき事なし。此事いとなまでは、衆にまじはらん事叶ふまじ。縦世に立廻る共人ならず、懸る身は、あるに甲斐なき事なれば、出家入道して行方知ず失なんとぞ思成りにける。されば日来の前途後栄も空くなり、年比の妻子所従も遺惜く、朝夕に参つる御垣の内を振捨て、山林に流浪せん事も悲く、前世の戒徳の薄さも被(二)思知(一)て、唯泣より外の事なし。主上は兼て近習の女房侍臣などに、内々仰の有けるは、卒土の浜皆王民、
P0604
遠民何踈、近民何親、普恵を施ばやと思召(おぼしめせ)共、一人の耳四海の事を聞ず、是大なる歎き也。帝徳全く偏頗を存るに非ず。されば黄帝は四聴四目の臣に任せ、舜帝は八元(はちげん)八ト臣に委すともいへり。然共遠事は奏する者もなければ、本意ならぬ事も多くあるらん、聞及事あらば、必奏し知しめよと仰置せ給たりければ、或女房、此所衆が泣歎きける有様(ありさま)をこま/゛\に申上たりければ、無慙の事にこそと計にて、又何と云仰もなし。申入たる女房も、思は(有朋上P824)ずに覚えて候ける程に、西京の座主良真僧正(そうじやう)を召て、被(二)宣下(一)けるは、臨時の御祈祷(ごきたう)あるべし、日時并何の法と云事は、思召(おぼしめし)定て逐て被(二)仰下(一)べし。先兵衛尉の功を一人召仕て、今度の除目に申成べしと仰含らる。僧正(そうじやう)勅命に依て、成功の人を召付けて貫首に申ければ、除目に会て即成にけり。其比の兵衛尉の功は、五万匹なりければ、是を座主の坊に納置て、日時の宣下を相待進らせけれども、日数を経ける間に、僧正(そうじやう)参内して、成功五万匹納置て候、臨時の御修法日時の宣下、思召(おぼしめし)忘たるにやと驚し奏せられたり。主上の仰には、遠近親踈をいはず、民の愁人の歎を休ばやと思召(おぼしめせ)ども、下の情上に不(レ)通ば、叡慮に及ばざる事のみ多かるらん。御耳に触る事あらば、其恵を施さんと思召(おぼしめす)処に、某と云本所の衆あり。家貧に依つて衆の交り叶ひ難くして、既(すで)に逐電すべしと聞召、さこそ都も捨がたく、妻子の遺も悲く思ふらめなれば、件の兵衛尉の成功を彼に給(たまひ)て、其身を相助ばやと思召(おぼしめし)、一人が為に其法を枉るにもやあるらん、聖主は以(レ)賢為(レ)実、不(レ)以(二)珠玉(一)と云事あれば、憚り思召(おぼしめせ)ども、明王(みやうわう)は有(レ)私、人以(二)金石珠玉(一)、無(二)私人(一)以(二)官職(一)事(レ)業と云事も又あれば、何かは苦しかるべき、世に披露は御憚あり、良真が私に賜体にもてなすべし、御祈(おんいのり)は長日の御修法に過べからずと仰ければ、僧正(そうじやう)衣の袖を顔にあて(有朋上P825)て泣給へり。さすが御年もいまだ老すごさせ給はぬ御心に、かばかり民をはぐくむ御恵、忝(かたじけなく)ぞ思ひ進らせ給ふ。やゝ暫くありて御返事(おんへんじ)被(レ)申けるは、何の大法秘法と申候とも、是に過たる御祈祷(ごきたう)侍まじ、縦良真微力を励して勧め奉らん御祈(おんいのり)、なほ
P0605
百分が一つに及べからずと申て、泣々(なくなく)御前を退出して、やがて彼所の衆を西京の御坊に召て、勅命を仰含て五万匹を給たりければ、只泣より外の事ぞなかりける。彼ためしに露たがはせ給はずとぞ申ける。>
S2508 小督局事
小松殿(こまつどの)薨給(たまひ)て後は、人の心さま/゛\に替り、不思議の事のみ多し。今又此君の隠させ給ぬるも、国の衰弊也、人の歎也。御病(おんやまひ)の付せ給ふ事も入道の悪行の至り、恋の御病(おんやまひ)とこそ聞えし。桜町中納言重範卿の女に、小督殿とて世に類なき美人、琴の上手にて御座(おはしまし)けるが、令泉大納言(だいなごん)隆房卿の未少将にて、見初給し女房也。少将彼形勢(ありさま)を伝聞て、忍の玉章を被(レ)遣けれ共、女房なびく心もおはせざりけるを、度々文を送られける程に、年月も隔り三年にも成ぬ。玉章の数も積りければ、小督殿さすが情に弱る心にや、終には靡き(有朋上P826)給けり。少将見初給(たまひ)て幾程もなかりしに、美人の聞えありて内へぞ被(レ)召進らする。少将はつきぬ志しなれ共、勅命力及ばず、飽ぬ別の涙には、袖しほたれてほしあへず、責ては小督殿をよそながらも一目見奉る事もやとて、其事となけれ共日毎(ひごと)に参内せられけり。此女房のおはしける御簾のあたりを、彼方此方へたゝずみありき給へ共、小督殿自君に被(レ)召進らせなん上は、いかに思ふ共、言をもかはし文をも見べきに非ずとて、伝の情をだに懸られず。少将もしやとて一首の歌を読けり。
思ひかね心のおくは陸奥のちかの塩がまちかきかひなし K133
と書て、引結、御簾の内へぞ入給ける。小督殿さしも志深かりし中なれば、取上返事をもせばやと
P0606
は思召(おぼしめせ)共、君の御為御後めたしとて、手にだに取て見給はず、急ぎ上童にたびて、坪の内へぞ被(レ)出ける。少将情なく恨しく思はれけれ共、人もこそ見れとて、取て懐に入て出られけるが、又立帰給ふ。
玉章を今は手にだにとらじとやさこそ心に思ひ捨つとも K134
とくちすさみ宿所に帰り、今は憂世(うきよ)にながらへて、互の姿をあひみん事も有難し、生て物を思はんより、只死ばやとぞ泣給(たま)ひける。中宮と申は御女(おんむすめ)、少将は聟也。二人の聟を小督(有朋上P827)殿にとられ給(たま)ひ、太政(だいじやう)入道(にふだう)安からず腹を立給(たま)ひ、いや/\此事、小督があらん限は此世中よかるべし共覚えず、急ぎ召出して可(レ)失とて■(ののし)り給(たま)ひける。小督殿此由伝聞給(たま)ひ、我つれなくながらへて、君の御為御心苦し、いづくの所にても、身独りこそ如何にもならめとて、ある夕暮に内裏を潜に忍出て、かき消すやうに失給(たま)ひぬ。君は聞召、御悩(ごなう)とて夜のおとゞに入せ給(たま)ひ、夜は南殿に出御ありて、月の光を叡覧ありてぞ慰ませ給ける。太政(だいじやう)入道(にふだう)此事聞給(たま)ひ、君は小督殿故に思召(おぼしめし)入せ給けり、其義ならば御介錯の女房達(にようばうたち)、一人も付進らすなとて、中宮をば六波羅へ行啓なし進らせ、参内せられける臣下達をも妬申されければ、入道の権威に恐て参り寄人もなし。禁中さびしくならせ給(たま)ひ、いとゞ御思深かりけり。比は八月十日余(あまり)の事なれば、さしも陰なき月なれども、御涙(おんなみだ)にくもりつゝ、朧に照す空なれや、小夜更人静りて、主上、人やある参れ、人やあると被(レ)召けれども、御いらへ申者もなし。折節(をりふし)弾正少弼仲国参たりけるが、隔たる所にて是を承り、仲国と御いらへ申。近く参れ可(二)仰下(一)御事ありと勅定
P0607
ありければ御前に参る。目近く召して、如何に汝は小督がゆくへ知たりやと仰ければ、争か知進らせ候べきと奏す。重ての仰に、誠とやらん、小督は嵯峨(さが)の辺に片折戸したる所にありとばかりは聞召ししか共、其あるじ(有朋上P828)の名をば不(レ)知、かゝらましかば兼て委く聞召べかりけるぞとよ。汝主が名をば不(レ)知とも、尋て進らせてんやと仰けるに、嵯峨(さが)広き所にて、名を不(レ)知しては争か尋進らせ候べきと申せば、君誠にもとてやがて御涙(おんなみだ)に咽せ給けり。仲国見進らせて忝(かたじけな)く悲く思ひ、実や小督殿の琴弾給しには、仲国被(レ)召て必御笛の役に参き。其琴の音はいづくにても慥に聞知らんずる者を、今夜は名にしおふ八月十五日の月の夜也、折節(をりふし)空も陰なし、君の御事思召(おぼしめし)出て、琴引給はぬ事よもあらじ、嵯峨(さが)の在家広しといへ共、思ふに幾程か有べき、王事無(二)脆事(一)、打過て琴の爪音を指南として、などか尋逢進らせざるべき、縦今夜叶はずば、五日も十日も伺聞なん、博雅の三位は三年まで、会坂の藁屋の軒に通つゝ、流泉、啄木の二曲を聞てもこそ有けれと思ひければ、不(レ)叶までも尋進らせん、若尋会進らせて候とも、御書なくてうはの空にや思召(おぼしめさ)れ候はんずらんと申ければ、君実にもとて、よにも御嬉しげに思召(おぼしめし)、御書遊ばして仲国に給ふ。程も遥也、寮の馬に乗てと仰す。仲国明月に鞭をあげて、西を指て浮岩行。八月半ばの事なれば、路芝におく露の色、月に玉をや瑩くらん。我ならぬ在原業平が、男鹿啼その山里と詠じけん嵯峨(さが)のあたりの秋の比、さこそは哀に覚えけめ。片折戸したる所を見付(みつけ)ては、此内にもや御座らんと、ひかへ(有朋上P829)/\聞けれ共、琴弾所もなかりけり。打廻
P0608
打廻、二三返まで聞けれ共、我のみ疲て甲斐ぞなき。内裏をばよにも憑しげに申て出ぬ、さて空く帰り参りたらば、中々不(レ)参よりも悪かるべし、是より何方へも落行ばやと思へ共、いづくか王土にあらざる、身を隠べき宿もなし、さて又君の御歎き、誰人か慰め進らせんと思ひければ、只狩衣の袖を絞て良久ぞたちやすらふ。是より法輪は程近ければ、そも参給へる事もやとて、そなたへ向てあゆませ行。亀山(かめやま)のあたり近、松の一叢ある方に、幽に琴こそ聞えけれ。峯の嵐か松風か、尋ぬる君の琴の音かと覚束(おぼつか)なく思ひ、駒をはやめて行程に、片折戸の内に琴をぞ引澄したる。手綱をゆらへて聞ければ、少しも可(レ)違もなき小督殿の爪音なり。楽はなにぞと聞ければ、夫を想て恋と読、想夫恋と云楽也。仲国急ぎ馬より飛び下り、やうぢようぬき出し、ちと合て立寄り、門をほと/\と扣けば、琴をば弾やみ給(たま)ひけり、内裏より仲国御使に参り侍り、開かさせ給へ、御気色(おんきしよく)申さんといへ共、答る人もなし。良ありて鎖をはづし門をほそめにあけて、いたいけしたる小女房顔ばかり指出だし、人違歟所違歟、あやしき賤が庵也、さやうに内裡より御使給べき所に侍らずと云ければ、仲国中々とかく返事せば門たてて鎖さして、悪かりなんと思ひければ、押開てぞ入にける。妻戸(有朋上P830)の縁により居て申けるは、いかに加様の御住居(おんすまひ)にて御座(おはしまし)候やらん、君は御故に思召(おぼしめし)入せ給(たま)ひ、つや/\貢御も聞召さず、打解御寝もならせ給はねば、御命も危く見えさせ給ふ者をや、加様に申侍ば、うはの空にや思召(おぼしめさ)るらん、御書の候とて取出て是を奉る。有つる女房取次て小督殿に進らする。急ぎ披き見給へ
P0609
ば、げにも君の御書也けり。哀に忝(かたじけな)くおぼしければ、御書を顔にあて給(たま)ひ、いかにせんとぞ泣給ふ。さらぬだに馴にしよはの眤言は、思出つゝ悲きに、雲井の空の月影に、涙の露ぞ置まさる。仲国が待らんも心苦く思ふらんと思召(おぼしめし)、御返事(おんへんじ)あそばし引結、女房の装束一重取副、簾のそとへ推出さる。御形見かと覚えて哀なり。仲国給(たまひ)て左の肩に打懸て申けるは、余(よ)の御使にて候はば、角御返事(おんへんじ)の上は、兎角可(二)申入(一)身に候はね共、内裏にて御琴あそばされし御笛の役には仲国こそ被(レ)召しか、其奉公をばよも御忘あらじ、いまだ御忘候はずば、御返事(おんへんじ)を直に承て奏聞申さばやと聞えければ、女房誠にもやと思召(おぼしめし)けん、近居出て宣(のたま)ひけるは、さればこそ其にも聞給へる様に、入道の世にも怖き事共申すと聞侍りしかば、難面存へて我も憂目を見ば、君の御為も御心苦し、いづくのいかならん所にても、我身一人こそ消も失なんと思ひ、内裏をば潜に忍出ぬ。いかならん淵河にも入、如何にも成べかりしか共、(有朋上P831)住馴し人々の行へをも聞、今一度君の御言伝をもや承と思ひ、所縁ありて是に此程侍りつれ共、伝を承事もなし。思へば中々身も苦し、明日よりして大原(おほはら)の別所に思立事候て、今夜を限の名残(なごり)を惜み、主の女房に勧められ、手馴し琴が忘られで、今夜しも引てこそ安は聞知れぬれやとて泣かれければ、仲国も表衣の袖絞るばかりに成にけり。良有て申けるは、大原(おほはら)の別所と承は、御様(おんさま)をかへんとにや、君の御免されなくては、争か御姿をも替させ給ふべき、如何様(いかさま)にも重て御使は参候はんずらん、縦出んと仰すとも、左右なく出し進らさせ給ふなと、彼家の主の女房に申置、召具したる
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馬部吉祥を二三人留置、彼家を守護せさせ、我身は内裏へ馳参る。内裡をば亥刻計に出たれ共、通(レ)夜(よもすがら)嵯峨野の原に迷つゝ、秋夜長といへ共、内裏へ帰り参りたれば、夜はほの/゛\と明にけり。君は定て御寝こそ成たるらめ、誰してか可(二)奏入(一)と思、装束をば駻馬の障子に打懸、寮の御馬をつながせて南殿の方にさし廻て見進らすれば、未入御もならざりけり。夜部の御座にまし/\、待兼させ給へりと覚たり。仲国が参を御覧じて、詩一つ詠させ給(たま)ひけり。
南翔北 嚮 難(レ)附(二)寒温於秋雁(一) 東出西流 只寄(二)瞻望於暁月(一)
と御詠ありけるに、仲国尋会進らせて候とて、御返事(おんへんじ)をぞ指上たる。急ぎ披て叡覧あれ(有朋上P832)ば、げにも小督局が手也けり。穴無慙や未憂世に有けるや、何としてか尋会たりけるぞと御気色(おんきしよく)ありければ、御琴の音にと申。如何なる楽をか弾つると有ければ、想夫恋をこそあそばされ候つれと奏すれば、朕が事忘れず思出けるにやとて、又御涙(おんなみだ)をはら/\と流させ給ぞ哀なる。誰してか被(レ)召べきなれば、汝帰りて具して参れとぞ仰ける。仲国承り御前を立けるが、恐し太政(だいじやう)入道(にふだう)に聞付られ、如何なる目にかあはんずらんと思けれ共、綸言なれば争か奉(レ)背べき、縦被(二)召出(一)被(レ)刎(レ)首とも、いかゞはせんと思ひ、宿所に帰牛車支度して嵯峨(さが)に参り、御気色(おんきしよく)のよし申ければ、小督殿、我再憂目にあはんより、此次にこそいかにもならめと宣(のたま)ひけるに、主の女房共に様々誘申ければ、泣々(なくなく)内裏へ帰給ふ。君不(レ)斜(なのめならず)御悦ありて、或局に召置せ給(たま)ひけり。其御腹に姫宮一人出来させ給(たま)ひけり。後に坊門に女院と申し
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は、彼姫宮の御事也。平家の方様をば深くつゝしませ給(たま)ひけるに、入道何としてか聞付給(たま)ひたりけん、源(げん)大夫判官(だいふはんぐわん)を召て、やゝ季定、小督失たりとは君の御虚言にて有けるぞ、未内裏に候なり、急ぎ召出して可(レ)失とぞ宣(のたまひ)ける。季定承、所縁を以て小督殿をすかし出し奉り、入道に角と申しければ、流石(さすが)女などを失なはん事は世の聞えも不(二)穏便(一)、たゞ姿を替て追放て、さてぞ君は思召(おぼしめし)捨させ給はんずると宣(のたま)ひければ、(有朋上P833)季定承り、目もあてられず思ひけれ共、東山の麓、清閑寺と云所に具足し奉り、姿を替させ奉る。ひすゐのたをやかなるを剃下し、花色衣の御袖を、うき世を徐の墨染に替けるこそ悲しけれ。此を見奉りける人、上下袂(たもと)を絞りけり。今は疾々御心に任せとて、在所も不(レ)定追放つ。此女房と申は、大織冠の御孫、淡海公には一男、武智麿より十二代、故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)の孫也。かく竜顔に近付進らする上は、国母后に祝れ給はん事も難かるべきにあらず。平家は下国の守をだにもきらはれて、只今(ただいま)家を起したる人ぞかし、さまでの振舞情なしとぞ人唇を返しける。桜町中納言は最愛の女子を加様にせられ給ふ、如何にすべし共思ひ給はねば、しば/\篭居とぞ聞えける。冷泉少将此由聞給(たま)ひ、あな無慙や、さては終にさまたげられにけり、尋行訪ばやと思はれけれ共、入道のかへりきかん事を恐て、思ひながらさてやみ給ふ。新尼御前は、出家は本より思ひ儲し事なれ共、敢無く人に姿をかへられて、如何なる事をか被(レ)思けん、さして行べき方も覚えねば、泣々嵯峨(さが)へ帰給ふ。暫く爰(ここ)に御座(おはしまし)けるが、後には大原(おほはら)の別所に閉篭り、行澄し給けり。御歳廿三歳、しかるべき形なり。主上は聞召、朕天子の
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位にて、これ程の事を叡慮に任せぬ事こそ安からねと被(二)思召(一)(おぼしめされ)けれ共、世に披露はなかりけり。深く思召(おぼしめし)出たる時は、只(有朋上P834)御悩(ごなう)とて夜のおとゞへ入せ給けり。小督の局の心ならず尼になされたる所なれば、御なつかしく思召(おぼしめし)けるにや、朕をば必清閑寺へ送り納めよと御遺言(ごゆいごん)の有けるこそ御愛執の罪と云ながら哀なれ。入道は斯る悪行し給(たまひ)て、流石(さすが)おもはゆくや被(レ)思けん、福原へ下給(たま)ひにけり。
S2509 前後相違無常事
小督局かく事にあひぬと聞召し後は、御恋も御うらめしくも思召(おぼしめ)して、つや/\供御も参らず、只夜のおとゞに入せ給(たま)ひて、長き冬の終夜(よもすがら)、御ながめがちにて明し暮させ給(たま)ひけるに、打続き南都炎上(えんしやう)の事聞召(きこしめし)て、いとゞ御悩(ごなう)重らせ給(たまひ)て、終に隠させ給(たま)ひにけり。凡此君仁風卒土に覆ひ、高徳配天に顕る。有道の政無偏の恵、誠に堯、舜、禹、湯、周文、武、漢文帝と聞えしも角やとぞ覚えし。されば後白河法皇の仰には、代を此君につがせ奉りたらましかば、恐くは延喜天暦の昔にも立帰なんとこそ思召(おぼしめし)つるに、先立せ給(たま)ひぬれば、我身の御運の尽るのみにあらず、国の衰弊なり、民の果報の拙が故也とぞ嘆かせ給(たま)ひける。近衛院隠れさせ給たりしに、故院の御歎ありし事、挙賢、義孝兄弟二人、(有朋上P835)先少将後少将とてはなやかにうつくしきが、二十計にて一日の中に失給(たま)ひたりしを、父一条の摂政(せつしやう)〈 伊尹 〉謙徳公同北方の被(レ)歎事、後江相公朝綱の子息澄明に後て仏事修しける願文に、悲之亦悲、莫(レ)悲(二)於老後(一)(レ)子、恨而更恨、莫(レ)恨(二)於少先(一)(レ)親、雖(レ)知(二)老少之不定(一)、猶迷(二)前後之相違(一)と自書て泣けんも、御身に被(レ)知御涙(おんなみだ)せきあへさせ給はず。永万(えいまん)
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元年七月廿八日に、二条院も御歳廿三にて失させ給ぬ。安元(あんげん)二年七月十九日に、六条院も御歳十三にて隠れさせ給(たま)ひぬ。治承四年五月廿四日に、高倉宮(たかくらのみや)も討れさせ給ぬ。安元(あんげん)二年七月七日、比翼の鳥、連理の枝と、天に仰ぎ星を指て御契深かりし建春門女院も、秋の霧におかされて、朝の露と消させ給にき。会事稀なる織女も、七月七日を限として、天河逢瀬を渡る習あり。偕老同穴の玉の台を並しに、今日しもいかなれば永別に咽らんと、年月は隔れ共、昨日今日の御憐の様に被(二)思召(一)(おぼしめされ)て、御涙(おんなみだ)も未かわかせ給はぬに、現世後生深く憑み思召(おぼしめし)つる新院も、先立せ御座ぬれば、何事に付ても、今は御心弱くならせ御座(おはしま)して、いかゞなるべし共思召(おぼしめし)わかず。老少不定は人間の定れる習なれ共、前後の相違は生前の御恨なほ深し、人の親の子を思ふ道、おろかに頑なるすら猶悲し、況万乗の聖主、末代賢王(けんわう)に於てをや。近く召仕給(たま)ひし輩眤思召(おぼしめす)人々、或は流され(有朋上P836)或は討れにしかば、御心やすまらせ給ふ御事もなかりつるに、打副又此御歎あり。是につけても一乗(いちじよう)読誦(どくじゆ)の御勤も怠らず、三密行法の御薫修も積れり。今生の御事は露思召(おぼしめし)捨させ給(たまひ)て、只来世得脱の御祈(おんいのり)のみありける。中にも我十善の余薫に酬て、万乗宝位を忝(かたじけな)くす、四代の帝王を思へば子也孫也。いかなれば万機の政務を被(レ)止て年月を送らんと、日来の御歎も浅からず思食(おぼしめし)ける上、新院の御事に、雲の上人花の袂(たもと)を引替て、皆藤の衣に改るに付ても、御心憂しと思召(おぼしめし)連けり。
S2510 入道進(二)乙女(一)事
太政(だいじやう)入道(にふだう)は、此程痛く情なく振舞し事、悪かりけりと思ひ給(たま)ひけるにや、正月廿七日に、安芸の国厳島の内侍が腹に儲けたりける第七
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の乙娘の今年十八に成り給(たまひ)けるを、法皇の御所に進せられけり。上搶蘭[数多選ばれ給(たま)ひける中に、鳥飼中納言伊実卿の御娘も御座(おはしまし)けり、大宮殿(おほみやどの)とぞ申ける。高倉院(たかくらのゐん)隠れさせ給(たま)ひて、今日は二七日にこそ成けれ、御歎の最中也。いつしか懸べし共覚えず、公卿殿上人(てんじやうびと)供奉して、偏(ひとへ)に女御入内の様也。是に付ても法皇は、こは何事ぞと御冷く思召(おぼしめさ)れければ、後には中々伊実卿の御娘、大宮殿(おほみやどの)(有朋上P837)ぞ御気色(おんきしよく)はよかりける。又一条大納言(だいなごん)の御娘に近衛殿(このゑどの)と申女房も御座(おはしまし)けるが、是も御気色(おんきしよく)よかりければ、御■[*女+夫]の実保伊輔二人、一度に少将に成れなどして、ゆゝしく聞えける程に、相模守業房が後家、忍て被(レ)召けるに、姫宮出来させ給(たま)ひにけり。大宮殿(おほみやどの)、近衛殿(このゑどの)、二人の上搶蘭[、本意なき事に思ひけれ共力なく、後には大宮殿(おほみやどの)は、平中納言親宗卿、時々通ひ給(たま)ひけり。近衛殿(このゑどの)には、九郎判官義経一腹の弟に、侍従義成と云人、通ひ給(たま)ひけり。義成は判官の世に在し程は、武芸立ゆゝしく見えしか共、判官兵衛佐(ひやうゑのすけ)に中違て、西国(さいこく)へ落し時は、義成は紫の取染の唐綾の直垂に、萌黄匂の鎧著て、白葦毛の馬に乗けるに、判官の後にうちたりけるが、大物が浜にてちり/゛\に成りけるに、義成和泉国へ落隠れたりけれ共、虜れて鎌倉へ被(二)召下(一)、上総国へ被(レ)流て、三年ありけるとかや。(有朋上P838)
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十六
P0615(有朋下P001)
濃巻 第二十六
S2601木曾謀叛事
信濃国(しなののくに)安曇郡に、木曾と云山里あり。彼所の住人(ぢゆうにん)に、木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)と云は、故(こ)六条(ろくでうの)判官(はんぐわん)為義(ためよし)が孫、帯刀先生義賢には二男也。義仲(よしなか)爰(ここ)に居住しける事は、父義賢は、武蔵国多胡郡の住人(ぢゆうにん)、秩父二郎大夫重澄が養子也。義賢武蔵国比企郡へ通りけるを、去久寿二年二月に、左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)が嫡男悪源太義平、相模国(さがみのくに)大倉の口にて討てけり。義賢は義平には叔父なれば、木曾と悪源太とは従父兄弟也。父が討れける時は、木曾は二歳、名をば駒王丸と云。悪源太は義賢を討て京上しけるが、畠山庄司重能に云置けるは、駒王をも尋出して必害すべし、生残りては、後悪るべしと。重能慥に承ぬとは云たりけれ共、いかゞ二(有朋下P002)歳の子に刀をば振べき、不便也と思ひて、折節(をりふし)斎藤別当真盛が、武蔵へ下たりけるを悦て、駒王丸を母にいだかせて、是養給へと云やりたりければ、真盛請取て、七箇日おきて、案じけるは、東国と云は皆源氏の家人也、憖(なまじひ)に養置て、討れたらんも無(二)憑甲斐(一)、討せじとせんも身の煩たるべし、兎(と)も角(かく)も難(レ)叶と思て、木曾は山深き所也、中三権頭は世にある者也、隠し養て、人と成たらば、主とも憑めかしとて、母に懐かせて、信濃国(しなののくに)へ送遣す。斎藤別当情あり。母懐に抱へて、泣々(なくなく)信濃へ逃越て、木曾中三権頭に見参して、懐出して云様は、我女の身也、甲斐甲斐敷養立とも覚えず、深く
P0616
和殿を憑也、養立て神あらば子にもし、百に一も世にある事もあらば、かこちぐさにもし候へ、悪くば従者にも仕ひ候へと云。兼遠哀と思ひける上、此人は正く八幡殿には四代の御孫也、世中の淵は瀬となる喩あり、今こそ孤子にて御座とも、不(レ)知世の末には、日本国(につぽんごく)の武家の主とも成やし給はん、如何様(いかさま)にも養立て、北陸道の大将軍になし奉て、世にあらんと思ふ心有ければ、憑もしく請取て、木曾の山下と云所に隠し置て、二十余年が間育み養けり。然べき事にや、弓矢を取て人に勝れ、心甲に馬に乗て、能、保元平治に源氏悉(ことごと)く亡ぬと聞えしかば、木曾七八歳のをさな心に不(レ)安思て、哀平家を討失て、世を取ばやと思ふ心あり。(有朋下P003)馬を馳弓を射も、是は平家を責べき手習とぞ、あてがひける。長大の後、兼遠に云けるは、我は孤也けるを、和殿の育に依て、成人せり、懸るたよりなき身に、思立べき事ならね共、八幡殿の後胤として、一門の宿敵を、徐に見るべきに非ず、平家を誅して、世に立ばやと存ず、いかゞ有べきと問。兼遠ほくそ咲て、殿を今まで奉(レ)育本意、偏(ひとへ)に其事にあり、憚候事なかれと云ければ、其後は木曾、種々の謀を思ひ廻して、京都へも度々忍上て伺けり。片山陰(かたやまかげ)に隠れ居て、人にもはか/゛\しく不(二)見知(一)ければ、常は六波羅辺(ろくはらへん)にたゝずみ伺けれ共、平家の運不(レ)尽ける程は、本意を不(レ)遂けるに、高倉宮(たかくらのみや)の令旨を給りけるより、今は憚るに及ばず、色に顕て謀叛を発し、国中(こくぢゆう)の兵を駈従へて、既(すで)に千余騎(よき)に及べりと聞ゆ。木曾と云所は、究竟の城郭(じやうくわく)也。長山遥(はるか)に連て、禽獣猶希に、大河漲下て、人跡又幽也。谷深く梯危くしては、足を■(そばだ)て歩み、峰高く巌稠しては、
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眼を載て行く。尾を越え尾に向て心を摧、谷を出で谷に入て思ひを費。東は信濃、上野、武蔵、相模に通て奥広く、南は美濃国に境、道一にして口狭し。行程三日の深山(しんざん)也。縦数千万騎を以ても責落すべき様なし、況桟梯引落して、楯籠らば、馬も人も通ふべき所に非。義仲(よしなか)爰(ここ)に居住して謀叛を起し、責上て、平家を亡すべしと聞えければ、木曾は信濃にとりても(有朋下P004)南の端、都も無下に近ければ、こはいかゞせんと上下騒けり。
S2602 兼遠起請事
平家大に驚き、中三権頭を召上て、如何に兼遠は木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)を扶持し置き、謀叛を起し、朝家を乱らんとは企つなるぞ、速に義仲(よしなか)を搦進すべし、命を背かば汝が首を刎らるべしと、被(二)下知(一)ければ、兼遠陳じ申て云、此条且被(二)聞召(一)(きこしめされ)候けん、義仲(よしなか)が父、帯刀先生義賢は、去久寿の比、相模国(さがみのくに)大倉の口にて、甥の悪源太義平に被(レ)討侍き、義仲(よしなか)其時は二歳になりけるを、恩愛の道の哀さは、母悪源太に恐て、懐に入ていかゞせんと歎申しかば、一旦哀に覚えて、請取て、今まで孚置て侍れ共、謀叛の事努々虚事也、人の讒言などに候か、但御諚の上は、身の暇を給(たまはつ)て国に下、子息共に心を入て可(二)搦進(一)と申。右大将家(うだいしやうけ)重て仰には、身の暇を給はんと思はば、義仲(よしなか)を可(二)搦進(一)之由、起請文を書進べし、不(レ)然者、子息家人等(けにんら)に仰て、義仲(よしなか)を搦進せん時、本国に可(二)返下(一)也と有ければ、兼遠思ひけるは、起請をかゝでは難(レ)遁、書ては年来の本意空かるべし、いかゞすべきと案じけるが、縦命は亡とも、義仲(よしなか)が世を知んこそ大切なれ、其上心より起て書起請ならず、(有朋下P005)神明よも悪しとおぼしめさじ、加様の事をこそ乞索圧状とて、神も仏も免され候なれと思成て、熊野の午王の裏に、起請文を
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書進す。其状に云。
謹請再拝再拝
早依(レ)有(二)謀叛企(一)、可(レ)搦(二)進木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)(一)由、起請文事
右上奉(レ)始(二)梵天帝釈、四大天王、日月三光、七耀九星、二十八宿(一)、下内海、外海、竜神(りゆうじん)八部、竪牢地祇、冥官冥衆、日本国中(につぽんごくぢゆう)、七道諸国、大小諸神、鎮守(ちんじゆ)王城、諸大明神(だいみやうじん)、驚申而白、木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)者、為(二)六孫王之苗裔(一)、継(二)八幡殿後胤弓馬之家(一)也、武芸之器也、依(レ)之(これによつて)被(レ)引(二)源家之執心(一)、為(レ)謝(二)宿祖之怨念(一)、相(二)語北陸諸国之凶党(一)、擬(レ)滅(二)平家一族之忠臣(一)之由、有(二)其聞(一)、甚以濫吹也、早仰(二)養父中三権頭兼遠(一)而可(レ)搦(二)進彼義仲(よしなか)(一)云云、謹蒙(二)厳命(一)畢、任(下)被(二)仰下(一)之旨(上)、速可(レ)搦(二)進義仲(よしなか)(一)、若偽申者、上件之神祇冥衆之罰於、兼遠之八万四千(はちまんしせん)之毛孔仁蒙天、現世当来、永神明仏陀之利益仁可(レ)奉(レ)漏之起請状如(レ)件。
治承五年正月 日 中原兼遠
とぞ書たりける。依(レ)之(これによつて)平家憑もしく思はれければ、中三権頭を被(二)返下(一)。兼遠国に下て思ひ(有朋下P006)けるは、起請文は書つ、冥の照覧恐あり、又起請に恐れば日比(ひごろ)の本意無代なるべし、いかゞせんと案じけるが、責も義仲(よしなか)を世に立んと思ふ心の深かりければ、本望をも遂、起請にも背かぬ様に、当国の住人(ぢゆうにん)に根井滋野行親と云者を招寄せて云ひけるは、此木曾殿(きそどの)をば、幼少二歳の時より懐育み奉て、世に立候はん事を
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のみ深く存侍き、成人の今に、高倉宮(たかくらのみや)の令旨を給(たまひ)て、平家を亡さんとする処に、兼遠を召上て、乞索圧状の起請文を被(レ)召畢ぬ、此事黙止せん条本意に非ず、されば木曾殿(きそどの)を和殿に奉らん、子息共は定て参侍べし、心を一にして平家を討亡て、世におはせよとてとらせける志こそ恐しけれ。行親木曾を請取て、異計を当国隣国(りんごく)に回し、軍兵を木曾の山下に集けり。懸りければ、故帯刀先生義賢の好にて、上野国の勇士、足利の一族已下、皆木曾に相従、平家を亡さんとひしめきけり。平家此事を聞て沙汰有りけるは、越後国住人(ぢゆうにん)城太郎資永は、当家大恩の身として多勢の者也、縦木曾信濃国(しなののくに)の兵を相語と云共、資永が勢に並べんに、十分之一に及べからず、只今(ただいま)討て進らせなん、あながちに驚騒べからずとは云けれ共、東国の背だにも浅増(あさまし)きに、北国さへ懸ければ、直事に非ずと申あへり。(有朋下P007)
S2603 尾張国目代(もくだい)早馬事
二十四日亥刻に、尾張国目代(もくだい)、早馬を立たりとて六波羅ひしめく。平家の一門馳集て是を聞に、熊野の新宮の十郎蔵人行家、東国の源氏等(げんじら)を催して、数千騎(すせんぎ)の軍兵を引率して、既(すで)に当国に打入間、国中(こくぢゆう)の土民不(二)安堵(一)、是より美濃近江を相従て、都へ可(二)責上(一)由披露あり、急ぎ討手を被(レ)下べし、又御用心あるべしとぞ申たる。六波羅には此事聞て、こはいかゞせんと、只今(ただいま)敵の都へ打入たる様に、資財雑物東西に運隠し、鎧腹巻太刀刀馬よ鞍よとひしめきければ、京中の貴賎途を失て為方なし。去(さる)程(ほど)に、武士の人の家々に走入て、目に見ゆる物を奪取ければ、易き人更になし。
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廿五日、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)、近江国の惣官に被(レ)補、天平三年の例とぞ聞えし。
S2604 平家東国発向附大臣家尊勝陀羅尼事
二月一日、征東大将軍左兵衛督知盛卿、中宮亮通盛朝臣、左少将清経、薩摩守忠度、侍には、尾張守実康、伊勢守景綱、以上三千(さんぜん)余騎(よき)にて東国へ発向す。今日東塞、時日(有朋下P008)こそ多きに、いかゞ有べきと申者も有けれ共、今一日も源氏に勢の付増ぬさきにとて角急ぎ給けり。粟田口、山階、関山、関寺、粟津原、勢多長橋打渡、今日は野路にぞ著給ふ。二日は野州の河瀬を打渡し、篠原、堤鳴橋、鏡宿にぞ著にける。爰(ここ)に両三日逗留して、近江国の源氏等(げんじら)、山本、柏木、錦織、佐々木の一族打従へて美濃国赤坂に著。当国の凶徒等打従て、五千(ごせん)余騎(よき)にて尾張国墨俣川に著と聞えけり。十郎蔵人行家は、美濃国板倉と云所に楯籠たりけるを、平家推寄て、後の山より火を懸て責ければ、行家爰を被(レ)落て、同国中原と云所に陣を取、其(その)勢(せい)千余騎(よき)には不(レ)過けり。同七日大臣已下の家々にて、尊勝陀羅尼不動明王(ふどうみやうわう)を可(二)奉(レ)書供養(一)之由被(二)仰下(一)、兵乱の御祈(おんいのり)とぞ聞えし。此外諸寺の御読経、諸社の奉弊、大法秘法数を尽て被(レ)行けれ共、源氏は唯責に攻上ると聞えて、平家の祈祷其験有とも不(レ)見。理や万乗の聖主を奉(レ)悩、諸寺の仏法(ぶつぽふ)を亡しぬれば、冥の罰、天の責、争か遁べき、兎にも角にも、唯人苦きより外の事なしとぞ申ける。
S2605 義基法師首渡事
同九日、武蔵権頭源氏義基法師が首、同子息石川判官代(はんぐわんだい)義兼生捕、検非違使(けんびゐし)実俊判官、七条川原(有朋下P009)にて武士の手より請取て、東洞院(ひがしのとうゐん)の大路を渡して、頭をば獄門の左の樗木に懸、虜をば被(二)禁獄(一)。馬車街衢に
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充満て、見人幾千万と云事を知ず。此義基法師と云は、故陸奥守義家(よしいへ)が孫、五郎兵衛尉義光子、河内国石川郡の住人(ぢゆうにん)也。兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)に同意の聞え有て、骸を獄門に被(レ)掛けり。今高倉院(たかくらのゐん)崩御(ほうぎよ)、諒闇(りやうあん)の年に首を被(レ)渡事、如何が有べきと沙汰有けれ共、諒闇(りやうあん)の年賊衆の首を被(レ)渡事、去嘉承二年七月十九日、堀川(ほりかは)天皇(てんわう)隠れさせ給(たま)ひしに、同三年正月廿九日に、対馬守源(みなもとの)義親〈 義家(よしいへ)一男 〉頸を被(レ)渡例とぞ聞えし。
S2606 知盛所労上洛事
同(おなじき)十二日に、征東将軍左兵衛督知盛卿、所労重て墨俣より上洛す。是は近江国小野宿を立、醒井に著給(たま)ひける時、比良高根の残雪、余寒烈き折節(をりふし)に、伊吹岳の山おろし、身に入かと覚えけるより、心地例ならずとて、道すがら労て、是までは下給たれ共、如何にも難(レ)叶して被(レ)上ければ、副将軍の左少将清経朝臣も、同被(二)入洛(一)けり。其外の人々は猶美濃国に留る。討手の使は度々被(レ)下けれ共、はかばかしき事もなくて、角のみ帰上ければ、東国にも北国にも、日に随て大勢付増と披露しければ、浅猿(あさまし)き事也とて、右大将(うだいしやう)(有朋下P010)宗盛、今度は我下らんと宣(のたまひ)ければ、君の御下向あらば、東国も北国も誰かは可(二)違背(一)、ゆゝしく候なんと上下色代して、我も/\と出立ける上、或は武官に備、或弓馬に携らん輩、宗盛の下知に随て、東夷北狄を追討すべきの由、被(二)宣下(一)ければ、面々其用意あり。
S2607 宇佐公通脚力附伊予国飛脚事
同(おなじき)十三日、宇佐大郡司公通が脚力とて六波羅に著状を披に云、九国住人(ぢゆうにん)菊地次郎高直、原田大夫種直、緒方三郎惟義、臼杵、部槻、松浦党を始として、併謀叛を発し、東国の頼朝(よりとも)に与力して、西府
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の下知に不(レ)随と申たり。平家の人々手を打て、こはいかなるべきぞ、東国の乱をこそ歎て、西国(さいこく)は手武者なれば、催上て官兵に差遣さんと思ひつるに、承平に将門(まさかど)天慶に純友、東西に鼻を並て乱逆せしに、少も不(レ)違事かなとて騒ぎ迷ひ給へば、肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)、是は僻事にてぞ候らん、加様の時は虚言多き事也、東国北国の輩は、誠に義仲(よしなか)頼朝(よりとも)に相従ふ事も侍るらん、西海の奴原は平家大御恩者共也、争か君をば背進すべき、貞能(さだよし)罷下て、誡鎮侍るべしと、憑もしげにぞ申ける。
同(おなじき)十六日(じふろくにち)に、近江(有朋下P011)美濃両国の凶賊等が首、七条川原にて武士の手より検非違使(けんびゐし)請取て大路を渡し、東西の獄門に被(レ)懸ければ、近国の勇士等、皆平家に随と聞えけり。
同(おなじき)十七日(じふしちにち)、伊予国より飛脚ありて六波羅に著。披(レ)状云、当国の住人(ぢゆうにん)河野介通清、去年の冬の比より謀叛を発て道前道後の境、高縄の城(じやう)に引籠る、備後国住人(ぢゆうにん)額入道西寂、鞆の浦より数千艘の兵船を調て、高縄城に推寄、通清をば討取て侍しか共、四国猶不(レ)静、西寂又伊予、讃岐、阿波、土佐、四箇国を鎮が為に、正二月は猶伊予に逗留す。爰(ここ)に通清が子息に四郎通信、高縄城を遁出て安芸国へ渡て、奴田郷より三十艘の兵船を調へ、猟船の体にもてなし、忍て伊予国へ押渡、偸に西寂を伺けるをも不(レ)知、今月一日、室高砂の遊君集て船遊する処に、推寄て西寂を虜りて、高縄城に将行て八付にして、父通清が亡魂に祭たり共申。又鋸にてなぶり切に頸を切たり共申。異説雖(二)口多(一)、死亡決定也、依(レ)之(これによつて)当国には、新井武智が一族、皆河野に相従。惣じて四国住人(ぢゆうにん)、悉(ことごと)く東国に与力して、平家を奉
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(レ)背と申たり。又聞えけるは、熊野別当、田部法印堪増已下、那智新宮の衆徒、吉野十津川の輩に至まで、併背(二)花洛(一)東夷に属する由披露あり。東国北国のみに非ず、南海西海も騒動せり、仏法(ぶつぽふ)忽(たちまち)に亡ぬ、王法なきが如し、四夷蜂の如くに起けり、逆乱の瑞相頻(有朋下P012)也、我朝只今(ただいま)失なんとす、こは心憂事かなと、平家一門ならぬ貴賎までも、各歎申けり。
同(おなじき)十七日(じふしちにち)、太政(だいじやう)入道(にふだう)、子息前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛を以て被(レ)奏ける、天下の御事、如(レ)本可(レ)被(二)聞召(一)(きこしめさるべき)之由、法住寺(ほふぢゆうじ)の御所に申入候けれ共、法皇は政務に口入すればこそ心憂事も辛目をも見聞すれ、よしなしとて聞召入(きこしめしいれ)させ給はざりければ、底いぶせくぞ思ひ給(たま)ひける。
同(おなじき)十九日、東国北国の賊衆、頼朝(よりとも)義仲(よしなか)与力同心の凶徒等可(二)征伐(一)之由、宣旨を以て、越後国住人(ぢゆうにん)余五将軍が末葉、城太郎平資永と、陸奥国住人(ぢゆうにん)藤原秀衡と、此両人が本へ被(二)下遣(一)けり。
S2608 入道得病附平家可(レ)亡夢事
同(おなじき)二十七日(にじふしちにち)に、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛、数万騎の勢を引率して、頼朝(よりとも)以下の凶徒を追討の為に、関東へ下給ふべきにて出立給(たま)ひける程(ほど)に、太政(だいじやう)入道(にふだう)不(レ)例心地出来給へりとて留り給(たま)ひぬ。二十八日(にじふはちにち)に、入道重病を受給たりとて、六波羅京中物騒し。馬車馳違、僧も俗も往還、種々の祈祷を被(レ)始、家々の医師薬を勧めけれ共、病付給ける日よりして、湯水をだにも喉へも入給はず、身の中の燃焦ける事は、火に入が如し。臥給へる二三間へは人近付(有朋下P013)よる事なし。余にあつく難(レ)堪かりければ也。叫び給(たま)ひける言とては、只あた/\と計也。此声門外まで響ておびたゞし。直事とも不(レ)覚、貴も賤も、あはしつるぞ
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や、さ見つる事よ/\とぞ申ける。今度もし存命あらば、如何に本意なかりなんと云者も、内々は有けるとかや。又人の私語(ささやき)けるは、哀同は今度存命して、東国北国の源氏に被(二)責殺(一)給はんを見ばやなんどと云ける也。よく人には悪まれ給たりけるにこそ、され共偕老の眤、骨肉の情なれば、二位殿(にゐどの)を奉(レ)始て、公達兄弟に至るまで、大に歎給(たま)ひけれ共、如何にすべき様もなければ、唯あきれてぞ御座(おはしまし)ける。牛馬の類金銀の宝、七珍六畜引出し取運び、神社仏寺に抛けれ共、重くは成て少も験なし、誠に難(レ)遁定業とぞ見えける。
養和元年〈 改元七月十四日也 〉、閏二月二日、熱く難(レ)堪おぼしけれ共、二位殿(にゐどの)枕の本に居寄給(たまひ)て、泣々宣(のたまひ)けるは、御労日々に随て、憑み少なく見え給ふ。神に祈仏に申事も不(レ)斜(なのめならず)、立ぬ願もなけれ共、いかにも可(レ)叶とも覚えず。今は偏(ひとへ)に万の事を思ひ捨給(たま)ひて、後の世の事を助からんと思召(おぼしめ)せ、又御心に懸る事あらば、被(二)仰置(一)候へと宣へば、入道よに苦気にて大息つき、我平治元年より以来、天下を手に把て万事心の儘也、諍者もなく、憚処もなし、適背輩あれば、時日を不(レ)回亡し失しかば、草木も我に靡かずと云事なし、(有朋下P014)挿絵(有朋下P015)挿絵(有朋下P016)角て既(すで)に二十三年、就(レ)中(なかんづく)官位太政大臣(だいじやうだいじん)に上りて、十善万乗の帝祖たり、子孫兄弟栄花を開て、同当今の御外戚也、官職福禄何事かは心に不(レ)叶事ありし、生ある者は必死する習なれば、入道一人始て驚べき事ならず、但遺恨の事とては、頼朝(よりとも)が首を不(レ)見して死る計こそ口惜けれ、冥途の旅も安く過ぬとも覚えず、我いかにも成なば、堂塔をも不(レ)可(レ)造、仏経をも供養せず、唯頼朝(よりとも)が頸を切て、
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墓の上に掛よ、其のみぞ孝養の報恩ともなり、草の陰にても嬉しとは思はんずる、されば我を我と思はん者共は、子孫も侍も聞伝て、心を一つにして努々懈る事なかれとぞ遺言(ゆいごん)し給(たま)ひける。二位殿(にゐどの)も公達も、いとゞ罪深く聞給ふ。四日、入道弥病に責伏られ給へり。燃焦て難(レ)堪と宣(のたまひ)ければ、百人(ひやくにん)の夫を立て、追続々々、比叡山(ひえいさん)の千手院より水を結び下して、石の船に湛て、入道其中に入て冷給けるに、水は涌返りて湯になれ共、更に苦痛は止ざりけり。後には板に水を任せて、伏まろびて冷給へ共、猶助かる心地し給はず、療治(りやうぢ)も術道も験を失、仏神の祈誓も空が如し。終に七箇日と申に、悶絶僻地して、周章(あわて)死に失給き。馬車馳違貴賎■(ののしり)騒て、京中六波羅塵灰を立たり。一天の君の御事也共、隠しもや有べき。夥(おびたた)しなど云も不(レ)斜(なのめならず)。
入道今年は六十四に成給ふ。老死と云べきには非ず、七八十までも生人有ぞかし。され共宿運(有朋下P017)忽(たちまち)に尽、天の責難(レ)遁して、立る願も空く祈る験もなし。身に代り命に代らんと契ける数万騎の兵も、冥途無常の責をば難(レ)防。閻王奪魂の使には戦者もなし。父母、兄弟、及妻子、朋友、僮僕、並珍宝死、去無(二)二来(一)、相親唯有(二)黒業(一)、常随逐と説れたり。冥々たる旅の道、峨々たる剣の山、妻子眷属振捨、只一人こそ迷らめ。金銅十六丈の盧遮那仏(るしやなぶつ)を奉(レ)始て、南北二京の大伽藍、顕密大小の諸聖教、焼失し其故に、角亡給(たま)ひけり。後の世の苦患も、思ひやられて無慙なり。
入道明日病つき給はんとての夜、其内の女房の夢に見けるは、立ふぢ打たる八葉の車に、炎夥(おびたたし)く燃
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上中に、無と云字只一つ書たる鉄の札あり。青鬼と赤鬼と先に立て、彼車を福原の入道の宿所の東の門へ引入たり。女房の夢の心地に、あれはいくとこより、何事に来れる者ぞと問へば、鬼答て云、我等(われら)は閻魔大王の御使に獄卒と云者也。聖武皇帝御願(ごぐわん)、日本(につぽん)第一の大伽藍、金銅十六丈の盧遮那仏(るしやなぶつ)焼亡し給へる咎に、太政(だいじやう)入道(にふだう)迎取べき火車也と申。女房恐し浅増(あさまし)と思ひながら、さてあの鉄の札に、無と云文字書たるは何事ぞと問へば、鬼答て云、入道仏像経巻を焼失て、既五逆罪を犯せり、永く阿鼻大地獄に墜て無間の重苦を受べき、無間の無の験の札也と申と見て覚にけり。さめて後も猶夢の心地せり。偏身に熱き汗流れてうつゝ(有朋下P018)心なし、恐しなどは疎也。かたへの女房一両人にぞ語ける。其後彼女房、心地例ならずとて、日比(ひごろ)悩て二七日と云ふに死にけり。
又奈良坂に火懸たりし播磨国福井庄の下司俊方は、南都の軍果て都に上り、三箇日が中に、炎身を責と叫て死にけり。入道の病に少も不(レ)替けり。
正月には、高倉院(たかくらのゐん)隠れさせ給(たまひ)て、一天の愁九重の歎いまだ晴ず。悪事は去事なれ共、僅(わづか)に中一月を阻て入道薨給へり。生者必滅の理り、打連き哀也。
同七日六波羅にて焼上奉る。骨をば円実法橋頸に掛て福原へ下て納けり。さしも執し思はれし所なれば、亡魂も悦給へかしとて、角計ひけるにこそ。
S2609 御所侍酒盛事
七日入道焼上奉りける夜、六波羅の南にありて舞躍る者あり。嬉しや水鳴滝の水と云拍子を出し
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て、二三十人が音して拍子をとり喚叫、はと笑、どと笑などしけり。高倉院(たかくらのゐん)隠させ給(たま)ひて天下諒闇(りやうあん)也。御中陰(ごちゆういん)も未はれさせ給はぬに、又太政(だいじやう)入道(にふだう)失給ぬ。而も今夜已(すで)に六波羅にて火葬の最中に、懸る音のしければ、人倫の態とは覚えず、天狗などの所行にやと思ひける程(ほど)に、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の御所侍、東の釣殿に人を集めて酒飲けるが、酔狂て(有朋下P019)角舞踊りける也。主馬入道盛国(もりくに)が子に、越中前司盛俊行向て、御所預基宗に相尋ければ、御所侍が結構(けつこう)也と申間、盛俊御所侍二人を搦捕て、前(さきの)右大将(うだいしやう)の許へ将て参て、子細を被(二)召問(一)。答けるは、相知て候者あまた出来て、世中の墓なき事、今に始めぬ事なれ共、天下の重しにて御座(おはしま)しつる入道殿(にふだうどの)の隠れさせ給ぬる哀さよと、互に歎き訪進せつる間、聊酒を儲て、忍やかにすゝめ侍つる程(ほど)に、酒の習、後には物狂しき心出来てしか/゛\と申ければ、入道の弔、当座の会釈と覚えたり。如(レ)是輩中々兎角云に及ばずとて被(二)追放(一)けり。縦酔たり共、此折節(をりふし)には角やは有べき、天狗の所為にこそ不思議也。抑人の死する跡には、浅増(あさまし)き賤男賤女までも、程々に随香花燈明を備へ、例時懺法行て、亡魂の菩提を弔ふは尋常の事ぞかし。是は仏経供養の作法もなく、供仏施僧の営なし。さこそ遺言(ゆいごん)ならんからに、うたてかりし事也。
S2610 蓬壺焼失事
六日八条殿も焼ぬ。此所をば八条殿の蓬壺とぞ申ける。蓬壺とはよもぎがつぼと書けり。入道蓬を愛して、坪の内を一しつらひて蓬を植、朝夕是を見給へ共、猶不(二)飽足(一)ぞおぼし(有朋下P020)ける。されば不(レ)斜(なのめならず)造り瑩れて、殊に執し思ひ給ければ、常は此蓬壺にぞ御座(おはしまし)ける。人の家焼は習なれ共、折節(をりふし)こそあれ、如何なる者の付たりけるやらん、放火
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とぞ聞えける。八条の亭には、謀叛輩打入て火を懸たりと云ければ、京中地を返し、上下心を迷す事夥(おびたた)し。実ならばいかゞせん、何者(なにもの)が云出したりけるやらん、虚言にぞ在ける。よし天狗もあれ、悪霊も強して、平家の運の尽なんずるにこそと覚えたれ。
S2611 馬尾鼠巣例并(ならびに)福原怪異事
此入道の世の末に成て、家に様々のさとし有き。坪の内に秘蔵して立飼れける馬の尾に鼠の巣を食て、子を生たりけるぞ不思議なる。舎人数多付て、朝夕に撫仏ける馬の、一夜の中に巣を食、子を生けるも難(レ)有。入道(にふだう)相国(しやうこく)大に驚給ふに、陰陽頭安部泰親被(二)尋問(一)ければ、占文のさす処、重き慎とばかり申て、其故をば不(レ)申けり。内々人に語けるは、平家滅亡の瑞相既(すで)に顕たり、近くは入道の薨去、遠は平家都に安堵すべからず、如何にと云に、子は北の方也、馬は南の方也、鼠上るまじき上に昇る、馬侵るまじき鼠に巣を作らせ、子を生せたり、既(すで)に下尅上せり、されば子の北の方より夷競上りて、馬の南の(有朋下P021)方におはする平家の卿上(けいしやう)を、都の外に追落すべき瑞相とこそ申けれ。され共入道の威に恐て只重き御慎(おんつつしみ)と計申たりければ、まづ陰陽師七人まで様々祓せられけり。又諸寺諸山にして御祈共始行あり。件馬は、相模国(さがみのくにの)住人(ぢゆうにん)大場三郎景親が、東八箇国第一の馬とて進たり。黒き馬の太逞が、額月の大さ白かりければ、名をば望月とぞ申ける。秘蔵せられたりけれ共、重き慎と云恐しさに、此馬をば泰親にぞ給びける。
< 昔天智天皇(てんわう)元年壬戌四月に、寮の御馬の尾に、鼠巣を造子を生けり。御占あり、重き慎と申けり。さればにや世の騒も不(レ)斜(なのめならず)、御門も程なく隠させ給(たま)ひにけり。日本記に見えたり。
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異国には前漢の成帝の御宇(ぎよう)、建始三年九月に、長安城の南に木あり、鼠彼木に登て巣をくひ子を生き。さればにや、成帝程なく亡給にけり。思寄ざる処に、鼠の巣くひ子生事は、其家の可(レ)亡怪異也。>
又入道福原に御座(おはしまし)ける時、常の御所と名付たる坪の内を、まだ朝に見出して御座(おはしま)しければ、人の首の、いくらと云数もしらず充満、上になり下に成、ころび合ころびのきしけるを怪と思ひて見給(たま)ひければ、後にはあまたの首が唯一つに固て、坪にはゞかる程の大頸にて、長三尺計なる眼の四五十有て、而も逆なるを以て、入道をはたと睨たり。入道も亦面を振ず、二の眼を以て一時がほど、目たゝきもせず、睨給(たま)ひけれ(有朋下P022)ば、余に守られて、其首次第々々に少成て、霜雪の消失が如く成ぬれば、又一丈計の長に、少首に成て細目にて睨時も有けり。去共終には入道に睨失はれけり。推するに、保元平治の逆乱に討れし死霊の所為とぞ覚えたる。
又五葉の松を坪の内に植生立、朝夕愛し給けるが、片時の間に枯れにけるこそ不思議の中の不思議なれ。又入道の禿とて、髪を眉まはりより切たる童を、三百人(さんびやくにん)まで召仕給(たま)ひける中に、天狗交りて常に大木を倒す音しければ、夜六人昼六人の兵士を居て、蟇目の番とて射させらるゝ。天狗のある方へ射遣たる時は音もせず、なき方を射たるには、時を造る様にとゞめき叫び笑ひけり。恐しと云も疎也。常には苔むして、ぬれ/\とある大なる飛礫を以て、若は庭上若は簾中などへ抛入けり。懸るさとし共も多して、入道最後の有様(ありさま)も尋常ならず、うたてくぞ終り給(たま)ひける。去共直人におはせざりけるや
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らん、神祇を敬ひ仏法(ぶつぽふ)を崇給し事も、人には勝れ給へり。
S2612 入道非(二)直人(一)附慈心坊得(二)閻魔請(一)事
一年日吉社へ被(レ)参けるにも、上達部殿上人(てんじやうびと)、数多遣連などして、一の人の賀茂春日など(有朋下P023)へ御参詣あらんも、加程の事はあらじとぞ覚えし。社頭にして、千人(せんにん)の持経者を請じて供養あり。社々に神馬を引れ、色々の神宝を奉らる。七社(しちしや)権現納受(なふじゆ)して、緋玉墻色を添、一乗(いちじよう)読誦(どくじゆ)の音澄て、和光(わくわう)の影も長閑也。ゆゝしく目出かりし事共也。
又福原の経島築れたりし事、直人のわざとは覚えず。彼島をば、阿波民部大輔成良が承て、承安二年〈 癸巳 〉歳築初たりしを、次年南風忽(たちまち)に起て白浪頻(しきり)に扣かば、打破られたりけるを、入道倩此事を案じて、人力及難し、海竜王(かいりゆうわう)を可(レ)奉(レ)宥とて、白馬に白鞍を置、童を一人乗て、人柱をぞ被(レ)入ける。其上又法施を手向可(レ)奉とて、石面に一切経を書写して、其石を以て築たりけり。誠に竜神(りゆうじん)納受(なふじゆ)有けるにや、其後は恙なし。さてこそ此島をば経島とは名付たれ。上下往来の船の恐なく、国家の御宝、末代の規模也。唐国の帝王まで聞え給つゝ、日本(につぽん)輪田の平親王と呼て、諸の珍宝を被(レ)送。帝皇へだにも不(レ)参に、難(レ)有面目なりき。
又福原にて、千僧供養あり。京中辺土、畿内近国を云ず、聞及挙し申に随て、貴き持経者千人(せんにん)を請じて、一千部の法華経(ほけきやう)を転読して、大法会を行給けり。僧供の営み施物の煩、忠を尽し美を調へたり。其上聴聞集来の人、乞丐非人の族までも、大施行をぞ被(レ)引ける。信心の至りと申ながら、
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実の大功徳と覚えたり。殆権化の所為と云つべし。
摂津(有朋下P024)国清澄寺に、慈心坊とて貴き法華の持経者有き。去承安二年十二月廿二日に、閻魔王宮より浄衣装束の雑色を使にて、請書を送らるゝ状に云、
屈請 十万人持経者内
摂津国(つのくに)清澄寺住僧尊恵慈心坊
右来廿六日(にじふろくにち)早旦、閻魔羅城大極殿(だいこくでん)、可(レ)被(二)来集(一)、依(二)宣旨(一)、屈請如(レ)件。
承安二年〈 壬辰 〉十二月廿二日、〈 丙辰丑時 〉閻魔庁と被(レ)書たり。尊恵閻書披見の後、領状の返事して、偏(ひとへ)に死去の思ひをなし、口に弥陀の名号を唱へ、心に引摂の悲願を念ず。既(すで)に廿六日(にじふろくにち)に至て、睡眠に被(レ)催て住房に臥す。前の雑色出来て早参せよとすゝむ。時に二人の童子、二人の従僧、十人の下僧、七宝の大車化現して、尊恵自然の法衣身に纏へり。即車にのれば、従僧等西北方に向て、空を飛で閻魔羅城に至る。外廊眇々として其内広々也。其中央に七宝所成の大極殿(だいこくでん)あり。大極殿(だいこくでん)の四面、中門の廊に、各十人の冥官有て、十万人の持経者を配分して、各一面に著座せしむ。講師読師高座に上り、余僧法用して十万人大行道す。行道已後、開白説法して十万僧読経す。其声冥界に充満て、其益罪垢を洗ぬべし。大王玉座に坐し、冥衆階下に(有朋下P025)列して聴聞あり。獄囚は湯鑵を出て、罪人伽鎖をゆるされたり。転読既(すで)に終て十万僧供養をのぶ。供養又終て諸僧本国に帰る。
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慈心坊千部の法華を冥衆に勧進の為に、暫残留て閻魔王と問答の次に申しけるは、日本(につぽん)の将軍、太政入臣入道清盛(きよもり)、摂津国(つのくに)和田御崎にして、千僧の持経者を請じて丁寧の読経説法侍りき。殆今日の十万僧会(じふまんぞうゑ)の如くなりきと奏したりければ、閻魔王随喜感悦して言く、我彼千僧読経の時は、影向衆として聴聞しき。清盛(きよもり)入道は直人に非ず、慈恵僧正(そうじやう)の化身也。故に我毎日に三度文を誦して礼を作云、
敬礼慈恵大僧正(だいそうじやう) 天台仏法(ぶつぽふ)擁護者 示現最勝将軍身 悪業衆生同利益 K135
汝此文を以て、彼相国入道に可(レ)進とぞ宣(のたまひ)ける。今案ずるに、慈恵僧正(そうじやう)は観音の垂跡(すいしやく)也。されば大権の化現方便を廻し、実業の衆生を利益せん為に、造罪招苦の旨を示し、盛者必衰の理を顕し給にやと覚えたり。
S2613 祇園女御事
古人の申けるは、清盛(きよもり)は忠盛が子には非、白川院【*白河院】(しらかはのゐん)の御子也。其故は、彼帝感神院を信じ御座(おはしまし)て、常に御幸ぞ有ける。或(ある)時(とき)祇園の西大門の大路に、小家の女の怪が、水汲桶を戴(有朋下P026)て、麻の狭衣のつまを挙つゝ、幹に桶を居置て御幸を奉(レ)拝。帝御目に懸る御事有ければ、還御の後、彼女を宮中に被(レ)召て、常に玉体に近づき進せけり。祇園社の巽に当て、御所を造て被(レ)居たり。公卿殿上人(てんじやうびと)、重き人に奉(レ)思て、祇園女御とぞ申ける。角て年比を経る程(ほど)に、小夜深人定て御つれ/゛\に思召(おぼしめし)出させ給(たまひ)て、祇園の女御へ御幸あり。忍の御幸の習にて、供奉の人々も数少し。忠盛北面にて御供あり。比は五月
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廿日余(あまり)の事なれば、大方の空もいぶせきに、五月雨時々かきくらし、暁懸たる月影も、未雲井に不(レ)出けり。最御心細き折節(をりふし)に、祇園林の南門、鳥居の芝草の西に当て、光物こそ見えたりけれ。或(ある)時(とき)はざとひかり、光ては消、消ては又ざと光、光に付て其姿を叡覧あれば、頭は、銀の針の如くにきらめきたる髪生下生上れり。右の手には鎚の様なる物を持、左の手には光物を持て、とばかり有てはざと光、暫く有ては、ばと光、院も御心を迷し、供奉の人々も魂を消て、是は疑もなき鬼にこそ、手に持たる物は聞ゆる打出の小鎚なめり、髪の生様穴恐し/\とて、御車を大路に止て忠盛を召る。忠盛御前に参たり。あの光物を取て進せよと勅定あり。忠盛は、弓矢取身の運の尽とは加様の事にや、よそに見るだに肝魂を消鬼を手取にせん事難(レ)叶、身近く寄て取はづしなば、只今(ただいま)鬼に嚼食ん事疑(有朋下P027)なし。遠矢にまれ射殺さんと思て、矢をはげ弓を引けるが、指はづして案じけるは、縦鬼神にもあれ、勅定限あり、王事無(レ)脆、宣旨の下に資くべきに非ず、況よも実の鬼にはあらじ、祇園林の古狐などが、夜更て人を誑にこそ在らめ、無念にいかゞ射殺べき、近づき寄て伺はんと思返して、青狩衣に上くゝり、下に萌黄の腹巻に、細身造の太刀帯て、葦毛の馬にぞ乗たりける。駒をはやめて歩より、太刀を脱て額に当て、次第々々に伺寄る処に、足本近く馬の前にぞざと光。忠盛馬より飛下、太刀をば捨て得たりやおうとぞ懐たる。手捕にとられて、御誤候なと云音を聞ば人也。己は何者(なにもの)ぞと問へば、是は当社の承仕法師にて侍が、御幸ならせ給の由承候間、社頭に御燈進せんとて
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参也と答。続松を出して見れば実に七十計の法師也。雨降ければ、頭には小麦の藁を戴、右の手に小瓶を持て、左の手〔に〕土器に■(もえぐひ)を入て持て、■(もえぐひ)をけさじと吹時はざと光、光時は小麦の藁が耀合て、銀の針の如くに見えける也。事の様一々に顕て、さしも懼恐れつる心に、いつの間にか替けん、今は皆咲つぼの会也けり。是を若切も殺射も殺たらば不便の事ならまし。弓矢取身は流石(さすが)思慮ありとて、忠盛御感に預る。今蓮華院と申は、彼祇園女御の御所の跡也けり。(有朋下P028)
S2614 忠盛婦人事
又忠盛、殿上の御番勤けるに、小夜深て高燈台の火の夙暗程(ほど)に、一人の女房忍て殿上口を通りけり。忠盛暫く袖を引へたり。女咎めずして一首をよむ。
おぼつかな誰杣山の人ぞとよこのくれにひく主をしらずや K136
忠盛こは如何にと思ひて返事、
雲間より忠盛きぬる月なればおぼろげにてはいはじとぞ思ふ K137
と申て、其後女の袖をはづす。此女房と申は、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の局とて、美形厳く心の情深かりければ、白川院【*白河院】(しらかはのゐん)の類なく被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける上搶蘭[也。御前の召によりて参ける折節(をりふし)、忠盛争か知べきなれば袖を引へたりけり。女房御前に参て角と被(レ)申たり。さては忠盛にこそとて明旦被(レ)召たり。召に依て御前に参ず。勅定に、今夜朕が許へ参る女の袖を引へたりけるなん御尋(おんたづね)あり。忠盛こは浅増(あさまし)と色を失て、面を地に傾けて、禁獄流罪にもやとて、汗水に成て御返事(おんへんじ)に及ばず、畏入て候。重ての
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仰に、女歌を読たりければ、汝歌を以て返事申たりけるとなん、一日なり共竜顔に近づき参らん女を引へん事、其罪浅から(有朋下P029)ず、況此女は朕しめ思召(おぼしめし)て御志深し、御計ひも有べき事なれ共、優に歌を以て返事申たれば、感じ思召(おぼしめす)とて、即兵衛佐(ひやうゑのすけ)局を御前に召出され、一樹の陰一河の流と云事もあり、被(レ)引ける局も、引ける忠盛も、然べき契にこそとて、女を汝に給ふ、但懐妊して五月に成と被(二)聞召(一)(きこしめさる)、男子ならば汝が子として弓馬の家を継せよ、女子ならば朕に返進せよとて被(レ)下けり。忠盛大に畏り、女の袖を引て罷出ぬ。歌をば人の読習べき事也けり。只当座の罪を遁るゝのみに非ず、剰希代の面目を施す、君の明徳、歌道の情、簾中階下感涙を流しけり。是も誠に二世の契にや、愛念類なくして月日を重し程(ほど)に、其期も満にければ、産平にして男子を生、悦こと不(レ)斜(なのめならず)。此子生より夜泣する事不(レ)懈。忠盛大に歎けり。我実子ならば里へも放度思ひけれども、勅定を蒙りし上は疎ならず、如何せんと案じて、熊野山に参て祈申けり。証誠殿の御殿の戸を推開き、御託宣(ごたくせん)とおぼしくて一首の歌あり。
夜泣すと忠盛たてよみどり子は清くさかふる事もこそあれ K138
と、悦の道に成て、黒目に付たりければ、夜泣ははや止にけり。権現の御利生にや、末憑もしく覚えて生立はごくまんとす。此子三歳の時、保安元年の秋、白川院【*白河院】(しらかはのゐん)熊野御参詣あり、忠盛北面にて供奉せり。糸鹿山を越給(たま)ひけるに、道の傍に蕷薯絃枝に懸り、零余(有朋下P030)子玉を連て生下、いと面白く叡覧あり
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ければ、忠盛を召てあの枝折て進せよと仰す。忠盛零余子の枝を折進するとて、仰下し給(たま)ひし女房、平産して男子也、をのこごならば汝が子とせよと勅定を蒙りき。年を経ぬれば、若思召(おぼしめし)忘給ふ御事もや、次を以て驚奏せんと思ひて、一句の連歌を仕る。
這程(ほど)にいもがぬか子もなりにけり
是を捧たり。白川院【*白河院】(しらかはのゐん)打うなづかせ御座(おはしま)して、
忠盛とりてやしなひにせよ K139
と付させ御座(おはしまし)けり。思召(おぼしめし)忘させ給はぬにこそと悦思ひける処に、還御の後、三歳と申冬、冠給(たまひ)て、熊野権現の御託宣(ごたくせん)なればとて清盛(きよもり)と名く。忠盛顕ては云はざりけれ共、内々は重くもてなす。白川院【*白河院】(しらかはのゐん)も猿事と思召(おぼしめし)はなたせ給はず、十二の歳左衛門尉(さゑもんのじよう)になされ、十八にて四位(しゐ)の兵衛佐(ひやうゑのすけ)にあがる。花族の人などこそ角はと、人々傾申けるを、鳥羽院(とばのゐん)聞召(きこしめし)て、清盛(きよもり)も花族は人におとらずもやと仰けり。君も被(二)知召(一)たりけるにこそ。白川院【*白河院】(しらかはのゐんの)御子と申せば、清盛(きよもり)は鳥羽院(とばのゐん)には恐らくは御叔父なるべし。忠盛備前守にて、国より都へ上たりけるに、院より御使ありて、摂津国(つのくに)や難波潟、明石の浦の月はいかにか(有朋下P031)有と御尋(おんたづね)有ければ、御返事(おんへんじ)に、
有明の月も明石の浦風に波計こそよると見えしか K140
と申たり。御感有て金葉集に被(レ)入けり。懸る人にて、歌をよみ懐妊の女房を給(たまひ)て、皇子を我子としける
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也。さてこそ太政(だいじやう)入道(にふだう)も、少し去事と知給(たま)ひければ、弥悪行をばし給(たま)ひけり。誠にも然べき事にや、一天四海を掌に握り、君をもなみし奉り、臣をも誡つつ、始終こそなけれ共、都遷迄もし給けめ。
S2615 天智懐妊女賜(二)大織冠(一)事
昔天智天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)、懐妊し給へる女院を、大織冠に給(たま)ひつゝ、此女御の生たらん子、女子ならば朕が子とせん、男子ならば臣が子とすべしと仰けるに、皇子にて御座(おはしまし)ければ我子とす、即定恵是也。此ためしに不(レ)違と申けり。
< 或説に云、忠盛若きより、祇園女御に候ける中搶蘭[に忍合けり。或(ある)時(とき)彼女房の局に、月出したる扇を忘て出たるを、かたへの女房達(にようばうたち)、是はいづくより指出たる月影ぞや、出所覚束(おぼつか)なしと笑けるに、女房おもはゆげにもてなして、(有朋下P032)
雲間より忠盛きぬる月なれば朧げにてはいはじとぞ思ふ K141
と読みたりければ、笑ける女房達(にようばうたち)興醒てこそ思ひけれ。似るを友の風情に、忠盛もすいたりば此女房も優なりと申しけり。>
閏二月六日、宗盛卿(むねもりのきやう)院の御所へ被(レ)奏けるは、入道(にふだう)相国(しやうこく)既(すで)に薨去し候ぬ。御政務(ごせいむ)御計ひたるべきの由依(レ)被(レ)申、院殿上に兵乱の事議定あり。
八日院庁の御下文を以て、東海、南海、西海道へ被(二)下遣(一)。頼朝(よりとも)追討のためには、本三位中将重衡を大将軍に定仰らる。西国(さいこく)をしづめん為には、肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)を被(二)差下(一)ける上に、院の庁官を被(レ)副けり。河野四郎通信を追討の為には、召次を以て伊予国へ被(レ)下けり。
S2616 平家東国発向并(ならびに)邦綱卿(くにつなのきやう)薨去同思慮賢事
同(おなじき)十五日、頭(とうの)中将(ちゆうじやう)重衡、権亮少将維盛、数万騎の軍兵を相催して、東国へ発向す。前後の追討使、
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美濃国に集会して、既(すで)に二万(にまん)余騎(よき)に及べり。太政(だいじやう)入道(にふだう)失給(たまひ)て今日は十二日、さこそ遺言(ゆいごん)ならんからに、孝養追善の報恩もなく、仏経供養の営を忘て、戦場に赴給ふ事不思議也。
同廿三日に重衡の舅、五条(ごでうの)大納言(だいなごん)邦綱卿(くにつなのきやう)失給(たま)ひにけり。太政(だいじやう)入道(にふだう)と契深く(有朋下P033)志浅からざりし人也。彼大納言(だいなごん)と申は、兼輔中納言より八代の末、式部大輔盛綱が孫前(さきの)右馬助(うまのすけ)盛国(もりくに)が子也。二三代は蔵人にだにもならざりけるに、此邦綱(くにつな)進士の雑色の時、近衛院の御時、去久安四年正月七日、家を興して蔵人になり、次第に昇進して、中宮の宮司までは、法性寺殿の御推挙にて、太政(だいじやう)入道(にふだう)に取入、大小事宮仕つゝ、毎日に何者(なにもの)か必一種を進せければ、現世の得意此人に過たる者あるまじとて、子息一人、入道の子にして元服(げんぶく)せさせ、清邦と名付て侍従に被(レ)成けり。又三位中将重衡を聟に成てければ、後には中将、内の御乳人(おんめのと)に成給にしかば、北方をば御乳母(おんめのと)とて、大納言佐(だいなごんのすけ)とぞ申ける。邦綱(くにつな)は蔵人頭(くらんどのとう)宰相、中納言、春宮(とうぐうの)大夫、兼官兼職を経て、終に正二位(しやうにゐの)大納言(だいなごん)に至り給(たま)ひけり。此邦綱卿(くにつなのきやう)は心広き人にて、貴賎を云ず親疎をわかず、人の大事を訪ひ、歎申事を叶給(たま)ひければ、人望も勝てぞ御座(おはしまし)ける。何事も一処の御家領の事、被(二)計申(一)ける、目出(めでた)き事也ける。此人の母は、賀茂大明神(かものだいみやうじん)に志ぞ運奉て、我子の邦綱(くにつな)に、一日成共蔵人を経させ給はんと祈申けるに、夢に賀茂社の神人、檳榔毛の車を将て来て、我家の車宿に立と見たりけるを、不(レ)得(レ)心思ひて、物知たりける人に語ければ、公卿の北方にこそ成給はんずらめと合せたり。母思ひけるは、我身年闌たり、今更夫すべきに非、さては妄想にやとて(有朋下P034)過し
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ける程(ほど)に、子息の邦綱(くにつな)、蔵人は事も疎也、夕郎貫首を経て正二位(しやうにゐの)大納言(だいなごん)に至り給へり。是偏(ひとへ)に母、賀茂大明神(かものだいみやうじん)に志運給(たま)ひける故也。又入道の角去難く被(レ)思けるも、神明の御利生とぞ申ける。
近衛院御宇(ぎよう)仁平元年六月七日、四条内裏に焼亡あり、関白(くわんばく)の亭に行幸なるべきにて、主上南殿に出御在けれ共、折節(をりふし)近衛司一人も不(レ)参、御輿の沙汰仕人もなければ、いかなるべし共思召(おぼしめし)分ず、あきれて渡らせ御座(おはしまし)けるに、此邦綱(くにつな)蔵人処の雑色にておはしけるが、急参て、加様の俄の事には腰輿にこそ被(レ)召候へと奏して、舁出して進たりければ、主上召れて出御なる。角申は何者(なにもの)ぞと御尋(おんたづ)ね有ければ、蔵人処雑色藤原邦綱(くにつな)とぞ申ける。下揩ネれ共、賢々敷者哉と思召(おぼしめし)て、法性寺殿御参内(ごさんだい)の次でに、御感の御物語(おんものがたり)ありければ、法性寺殿もことさら不便に召仕て、御領数多給などして、家中たのしくてぞ御座(おはしまし)ける。同帝御宇(ぎよう)八月十七日(じふしちにち)、八幡行幸有て、臨時の御神楽有べかりけるに、人長付生が淀河に落入て、ぬれ鼠の如くにして、片方に隠居て御神楽に参らず。理也、只一具持たりつる装束は水に落してぬらしぬ。可(二)取替(一)具足はなし、既(すで)に神事の違乱に及けり。此邦綱(くにつな)は殿下の御伴に候はれけるが、人長の装束を取出して進せたり。人長是を著て被(レ)行にけり。時に取てゆゝしき高名也。心賢き人々也ければ、如何なる(有朋下P035)事もあらん時にはとて、御神事の具足を悉(ことごと)く調て随身有けりとぞ後には聞えし。さればこそ彼人長が装束をも被(二)取出(一)けめ。惣じて奉公には忠を存民を撫、憐深く御座れば、殿下も私に召仕ては位を盗む咎ありとて、後白川院【*後白河院】(ごしらかはのゐん)に被(二)挙申(一)て、中宮亮まで被(レ)成たりけるが、法性寺殿隠
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させ給(たま)ひて後は、入道(にふだう)相国(しやうこく)を打憑み、其吹挙にて蔵人頭(くらんどのとう)にも被(レ)成き。次第の昇進滞らず、官位福禄相兼給へり。治承四年十一月に、福原にて殿上の五節の宴酔の夜、雲客(うんかく)后宮の御方へ推参ありける公卿、竹斑湘浦と云朗詠を被(レ)出たりけり。邦綱卿(くにつなのきやう)聞給(たま)ひて取敢(とりあへ)ず、穴浅猿(あさまし)、是は禁忌とこそ承れ、斯る事を聞とも聞かじとて抜足して被(レ)逃けり。此朗詠の心は、昔大国に堯王と申賢き帝御座(おはしまし)き。二人御娘あり。姉をば娥皇と云、妹をば女英と名く。金屋に育て玉台に成(レ)人給へる、時に賎き盲目の子に舜と云者あり。孝養報恩の志深して、父が盲を開しかば、堯王叡感有て、舜を以て二人の姫宮に聟取し給(たま)ひて、即位を譲給へり、舜王と申は是也けり。舜王隠れ給(たま)ひて、湘浦と云南に、蒼梧と云野に奉(レ)納たりければ、二人の后歎悲み給(たま)ひけるあまり、自湘浦の岸に幸して泣給(たま)ひける血の涙竹に懸りて其色斑に染にけり。されば後に生出竹までも皆斑にぞ在ける。今の世に斑竹とて斑なる竹は、彼の湘浦の竹ひろまれる也。二人の后(有朋下P036)隠れ給(たま)ひにければ、爰(ここ)にて舜帝を歎き悲み給しかばとて、湘浦の岸にぞ奉(レ)納ける。されば后の御前にてはすまじき朗詠也ければ、邦綱卿(くにつなのきやう)も聞咎めて立給(たま)ひけり。指る文芸に携事はおはせざりけれども、耳心口賢くして、高名も度々し給、事に於て忠ありければ、君も臣も憑もしき人に思召(おぼしめし)けるに、太政(だいじやう)入道(にふだう)と後生までの契や深く御座(おはしまし)けん、同日に病付、同月に失給ぬるこそ哀なれ。抑此大納言(だいなごん)の、人長が装束を取出して高名し給たりしが如く、思懸ざる事は昔も有けり。
S2617 如無僧都(そうづ)烏帽子(えぼし)同母放(レ)亀附毛宝放(レ)亀事
寛平法皇の御時、昌泰元年十月二十日、大井河紅葉叡覧の為に御幸あり。和泉(いづみの)大納言(だいなごん)定国卿被(二)供奉(一)
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〔た〕り。嵐山の山下風烈しかりけるに、定国、烏帽子(えぼし)を河へ吹入られてすべき様なかりければ、袖にて本どりをかゝへておはしける処に、如無僧都(そうづ)と申人、御幸に被(二)召具(一)たりけるが、香炉箱より烏帽子(えぼし)を取出して奉りたりけるこそ人々目を驚したる高名にては有けれ。彼如無僧都(そうづ)と申は、即此邦綱卿(くにつなのきやう)の先祖に山陰中納言と申人御座(おはしまし)けり。太宰大弐にて下給けるが、二歳になる子息をも相具して下給ふ。河尻より船に乗て海に(有朋下P037)浮て漕下り給けるに、乳母(めのと)いかゞはしたりけん、取弛て海中へ落し入る。中納言を始て周章(あわて)騒給(たま)ひけれ共、茫々たる水底、如何にすべき様もなかりけるに、二歳の子遥(はるか)の沖の波に浮て不(レ)流ければ、船を漕寄て是を見るに、大なる亀の甲にぞ乗たりける。船中に取上たれば、亀は船に向て涙を流す。中納言不思議におぼして亀に向て、汝も云べきにあらね共、此難(レ)有志言に余りありと宣(のたまひ)ければ、亀は海に入にけり。其夜夢に亀来て申けるは、此若公の御母御前、当初御宿願(ごしゆくぐわん)ありて天王寺詣の時、渡辺の橋の辺にて鵜飼亀を取つゝ、既(すで)に殺さんとせし時、哀を発て御小袖を以て買取給(たま)ひ、己れ畜生なれ共此志を思知、遠き守となれとて河中に放入させ給ひにき。其亀と申は即我也。生々世々に忘難思ひ奉り、折々に守奉りしか共、生死の習の悲さは、此若公を儲御座(おはしま)して去年隠させ給(たま)ひしかば、今は此少人を守進せて、夜も昼も御身近侍りつる程(ほど)に、筑紫へ御下向なれば、其までもと思ひて御船に添て下候つる程(ほど)に、継母、乳人(めのと)の女房に心を入て海に沈め奉る間、甲の上に負助奉て、昔の母御前の御恩を報じ奉也と申て、夢は覚にけり。彼二歳の少人と云は此如無僧都(そうづ)の
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事也。無きが如くして生たれば、如無僧都(そうづ)とぞ名づけたる。浄行持律にして智恵才覚身に余りたりければ、帝も重く敬て御身を放れず、大井河(有朋下P038)の逍遥迄も被(二)召具(一)たり。
昔斉国に毛宝と云者在き。江の辺を通けり。漁父亀を捕て殺さんとす。甲の長さ四尺。毛宝是を憐で、買取て江に放つ。後に石虎将軍と云者と戦けるが、江の耳まで被(二)責付(一)て、毛宝難(レ)遁敵にとられて恥を見んよりは、不(レ)如江の中に入水にしづんで死なんにはと思ひて即入にけり。水の底に是を戴て我を助る者あり。向の岸に至て江の中を顧れば、大なる亀也。亀水の上に浮て腹を顕にせり。是を見れば、毛宝が放せし亀也と云銘文ありて、其後水に入にけり。毛宝亀に被(レ)助て石虎将軍が難を免れたり。漢家本朝境異なれ共、放生の酬とり/゛\也。
S2618 行尊琴絃附静信箸事
又小一条院御孫に、宇治僧正(そうじやう)行尊は鳥羽法皇の御持僧也。鳥羽殿(とばどの)にして御遊(ぎよいう)の有けるに、殿上人(てんじやうびと)の弾ける琴の絃の切れたりければ、僧正(そうじやう)畳紙の中より、琴の絃を取出し給たりけるも、有がたき事なり。
又京極源大納言(だいなごん)雅俊卿、亭にて講行給けるに、導師は妙覚院の静信法印にぞおはしける。諸僧座に著して僧供行はんとしけれ共、導師あまりに遅かりければ、待侘て終に僧膳行ける。中間に法印来り給ふ。遅参を悪て僧中(有朋下P039)に導師の箸を取隠す。法印著座して高坏を見れば箸なし、暫く打案じて、法印懐より箸を取出して、物を拾ひ食けり。何の料に持給ける箸ぞと上下悪まぬ者なし。誠
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に優なる用意にはあらねども、遠慮賢くして角用意有けるか、又智慧深して時に臨で化現し給ふか。此人々の事はさも有なん。邦綱(くにつな)の人長が装束はためしなき用意なるべし。
S2619 法住寺殿(ほふぢゆうじどの)御幸附新日吉新熊野事
二十五日には、法皇法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ御幸なる。公卿殿上人(てんじやうびと)多く供奉し、警蹕など事々敷してうるはしき儀式也。治承三年に鳥羽殿(とばどの)へ御幸の時は軍兵御車を囲、福原の都の時は、名も恐しき楼の御所、思召(おぼしめし)出て、只今(ただいま)の御形勢(おんありさま)定て御珍しくこそと申合へり。三年の御旅に御所共少々破壊して候、修理して入進せんと、前(さきの)右大将(うだいしやう)被(レ)申けれ共、只疾々とて御幸成ぬ。此御所は去応保元年四月十三日御移徙有て、山水木立かた/゛\思召(おぼしめす)様也ければ、新日吉、新熊野、近く祝奉らせ給へり。此二三年は、なにとなく世の乱に旅だたせ給(たま)ひて、御心も浮立たる様に被(二)思召(一)(おぼしめされ)ければ、今一日もとくと急がせ御座(おはしまし)けり。いつしか荒にける所々の有様(ありさま)、御覧じ廻るに哀を不(レ)催と云事なし。中にも、故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)の御あたり叡覧(有朋下P040)有けるに、峰の榊汀(みぎは)の松、事外に木高く成にけるに付ても、南宮より西月移り給けん昔の跡を思召(おぼしめし)出すに、唯御哀をのみぞ催て、御涙(おんなみだ)を流させ給(たま)ひける。
三月一日東大寺(とうだいじ)興福寺(こうぶくじ)の僧綱(そうがう)、本宮に復し、両箇の寺領本の如く可(二)知行(一)之由、被(二)宣下(一)けり。
『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第二十七
P0644(有朋下P041)
於巻 第二十七
S2701 墨俣川合戦附矢矯川軍(やはぎがはいくさの)事
養和元年三月十日、頼朝(よりとも)追討の為に東国へ下りし頭(とうの)中将(ちゆうじやう)重衡、権亮少将維盛已下七千(しちせん)余騎(よき)は、尾張国墨俣の西の川原に陣を取て、東国源氏を禦がんとす。新宮の十郎蔵人行家は、千余騎(よき)の勢にて、東の河原に陣を取て、西国(さいこく)の平氏を下さじとす、両方を隔て引へたり。故下野守義朝(よしとも)の子息、常葉が腹の子に、卿公義円と云僧あり。是は九郎義経の一腹の兄也。十郎蔵人に力を合よとて、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)千余騎(よき)の勢を被(レ)付たりけるが、是も墨俣河原に馳付て、十郎蔵人の陣二町を隔て陣を取、平家は西の河原に七千(しちせん)余騎(よき)、源氏は東河原に二千(にせん)余騎(よき)、明る十一日の卯刻には源平の矢合と聞ゆ。是に行家と義円と互に先を心に懸たり。卿公義円は、十郎蔵人に先を被(レ)懸ては、兵衛佐(ひやうゑのすけ)に面を合すべきかと思て、人一人も召具する事なし。唯一人馬に乗て、陣より上二町計歩せ上て、河を西へ渡す。敵の陣の前、岸の下に引へたり。行家夜の曙に、時を造て河をさと渡さん時、爰よ(有朋下P042)り義円、今日の大将軍と名乗て先陣を懸んと思て、東や白む夜や明ると待居たり。平家の方には、源氏世討にもこそよすれとて、夜廻を始て、十騎(じつき)二十騎(にじつき)計、手々に続松捧て川の耳を見廻けるに、岸の下に馬を引立て、其傍に人一人立たり。夜めぐり是を見咎めて何者(なにもの)と問に、義円少も騒ず、是は御方の者にて候が、馬の足冷候と答。御方ならば甲を脱
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で名乗れと云ければ、馬にひたと乗て陸へ打上り、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)の弟に、卿公義円と云者也と名乗て、夜廻の中へ打入て、竪様横様に散々(さんざん)に戦。三騎討捕て二人に手負せて、義円是にて討れにけり。十郎蔵人是をば不(レ)知、卿公や先に進む覧と思て、使を遣して見せけるに、大将軍見え給はずと云ければ、去ばこそとて十郎蔵人打立けり。千騎(せんぎ)の勢を、八百騎をば陣に留め、今二百騎を相具して、河をさと渡し、平家の陣へ懸入たり。夜の明方の事なりければ、未世間も暗かりけり。平家は、敵多勢にて夜討に寄ると心得(こころえ)て、火を出して見れば僅(わづか)に二百(にひやく)余騎(よき)と見て、少勢にて有けりやと云ひて、七千(しちせん)余騎(よき)入替入替戦けり。行家も少も引ず、大勢の中に懸入て戦程(ほど)に、主従二騎に打なされて、河を東へ引退く。行家は赤地の錦直垂に、小桜を黄に返したる冑著て、鹿毛なる馬に、黄覆輪の鞍置て乗たりけり。大将軍とは見えけれ共、平家は続ても不(レ)追けり。行家が子息(有朋下P043)に悪禅師と云者あり。尾張源氏泉太郎重光等同心して、七百(しちひやく)余人(よにん)筏にのり、夜半計に渡より上を潜に越て、夜討にせんとて向けるを、平氏の軍兵兼て此由さとりにければ、渡らんと志所をば引退て、思様に西の岸の上におびき出して、中に取籠戦ふ。宵の程は雨烈く降けるが、夜半計には雨降ざりけれ共、雲の膚天に覆て、闇き事目の前なる物をもつゆ見分べくもなかりけるに、只時の声をしるべにて、両軍乱合て相戦ふ。甲の鉢を打太刀の打ちかへる時、火の出る事いなびかりの如くなりければ、自明便と成て、敵を取輩あり。多は共討にぞ亡ける。弓を引箭を放つ事は、何を敵とも見分ざりければ、太刀をぬき刀を抜て、取組指違てのみぞ死ける。源氏の兵三百(さんびやく)
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余人(よにん)討れにければ、残る輩河のはたへ引退く。筏に乗らんとしけるを、平氏の軍兵追懸て、筏の上にて戦けり。はては筏を切破ければ、空く川に入て命を失者其数を不(レ)知。蔵人頭(くらんどのとう)重衡朝臣の手に、二百十三人討捕てけり。虜には悪禅師、泉太郎重光、同弟高田四郎重久を始として、八人(はちにん)とぞ聞えける。維盛朝臣の手には七十四人、通盛の手には六十七人、忠度の手には二十一人(にじふいちにん)、知度の手には八人(はちにん)、讃岐守維時の手に七人、已上三百九十人、首河のはたに切懸たり。即頸の交名を注して京へ奉たりければ、平家の一門寄合て悦事限なし。(有朋下P044)十郎蔵人行家は、墨俣川軍に打負ければ、引退て、墨俣川東、小熊と云所に陣を取。平家は七千(しちせん)余騎(よき)を五手にわけ、一番飛騨守景家(かげいへ)、大将軍にて千余騎(よき)、川をさと渡して小熊の陣に推寄たり。一時戦て射白まされて引退く。二番に上総守(かづさのかみ)忠清(ただきよ)、千騎(せんぎ)をめいて蒐。源氏矢衾を造て射ければ不(レ)堪して引退。三番に越中前司盛俊千余騎(よき)、轡を並て押寄たり。源氏鏃を揃へて射ければ、暫し戦て引退く。四番に高橋判官長綱千騎(せんぎ)、しころを傾て音挙て推寄たり。源氏指詰引詰散々(さんざん)に射ければ、是も叶ずして引退く。五番に頭(とうの)中将(ちゆうじやう)重衡、権亮少将維盛、二千(にせん)余騎(よき)にて入替たり。進み退き追つ返つ、一味同心に揉に揉でぞ攻たりける。十郎蔵人行家も、命も不(レ)惜面も振ず、平家の大将ぞ、漏すな余すなとて、是を最後と戦たり。矢叫の音馬馳違ふ音隙有とも不(レ)聞、源平旗を差並て、勝負牛角に見えたりけり。一陣景家(かげいへ)、二陣忠清(ただきよ)、三陣盛俊、四陣長綱、四千(しせん)余騎(よき)、重衡維盛二千(にせん)余騎(よき)に押合て、七千(しちせん)余騎(よき)が一手に成て、入替々々責けるに、行家武く心は思へども、無勢にて防ぎかね、小熊の
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陣を落されて、尾張国折戸の宿に陣をとる。平家は隙なあらせそとて、勝に乗て責下ければ、折戸をも被(二)追落(一)て熱田宮へ引退き、在家を壊垣楯を掻、爰(ここ)にて暫く禦けれ共、熱田をも被(二)追落(一)て、参河国矢作河(やはぎがは)の東の岸に、城構して陣を取。平家(有朋下P045)続て攻下、川より西に引へたり。当国額田郡の兵共(つはものども)も馳来て、源氏に力を合支たり。十郎蔵人謀を構るに、年老たる雑色三人召寄、次第行纏に蓑笠具し、粮料■(うまぶね)負せて京上の夫に作り立て、心を入て平家の陣の前をぞ通したる。平家夫男を召留て問けるは、源氏軍に負て東国へ落下る、是何程延ぬらん、其(その)勢(せい)いか程か有つると云。夫男申けるは、箭作川(やはぎがは)の東の陣の内の勢は争か知侍べき、落下給(たま)ひつる勢は僅(わづか)に四五百騎(しごひやくき)、大将軍とこそ見え給(たま)ひつれ、爰より幾程延給はじと。平家又問けり。さて東国より上る勢は無やと。夫男、勢は雲霞の如く上り侍、先陣は菊河、後陣は橋本の宿、見付(みつけ)国府に著、程近き高志二村は、軍兵野にも山にも、隙あり共不(レ)見と云て過にけり。平家此事を聞て如何有るべき。東国の大勢に被(二)取籠(一)なばゆゝしき大事、一人も難(レ)遁とて、取物も取敢(とりあへ)ず思々に逃上る。大将軍行家は、平家を謀叛して人を方々へ馳遣す。落上る平家を一矢も不(レ)射(いざる)者は、源氏の敵ぞと披露有ければ、美濃尾張の兵共(つはものども)、後勘を恐て追懸々々散々(さんざん)に射る。平家も返合返合戦けれ共、落武者の習なれば、只身を助んと計の防矢にて、西を差てぞ落行ける。(有朋下P046)
S2702 太神宮祭文東国討手帰洛附天下餓死事
十郎蔵人は所々の軍に負けて、参河の国府に息つぎ居て、是より伊勢太神宮へ祭文を進る。其状に云、
再拝々々
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伊勢乃渡会野、五十鈴能川上乃、下津磐根仁、大宮柱於広敷立天、高天原爾千木高知天、祝申定奉留、天照皇太神能、広前仁恐恐申給江登申須。
右正六位上、源朝臣行家、去治承四年之比、蒙(二)最勝親王勅(一)云、入道大相国(たいしやうこく)清盛(きよもり)、自(二)平治元年(一)以降、誇(二)無理之威勢(一)、昇(二)不当之高位(一)、相(二)従一天於一門之雅意(一)、不(レ)任(二)百官於百王之理政之間(一)、去治承元年、終雖(レ)非(二)勅定(一)、正二位(しやうにゐの)権大納言(ごんだいなごん)藤原成親、同子息成経等、称(レ)有(二)謀叛之結構(けつこう)(一)、宛(二)行遠流之重科(一)、其外院中近習上下諸人、或蒙(二)死刑(一)或趣(二)配流(一)、如(レ)之智臣前大相国(たいしやうこく)已下四十余人(よにん)、停(二)止官職(一)奪(二)取庄園(一)、或退(二)今上国主之御位(一)、譲(二)謀臣不忠之孫(一)、或■(うかがひ)(二)太上法皇之御座(一)、止(二)治天有道之政(一)、然則早誅(二)罰清盛(きよもり)入道(一)、且奉(レ)休(二)法皇之叡慮(一)、而備(二)孝徳之礼(一)、且黙(二)止万人之愁吟(一)、而致(二)撫育之恵(一)所(二)思召(おぼしめす)(一)(有朋下P047)也云云、而行家、依(二)親王之勅命(一)、催(二)勇士之合力(一)刻、平家議云、一院第二皇子、是為(二)我国万機之器(一)、早可(レ)奉(レ)出(二)花洛(一)也、仍同五月十四日夜、俄可(レ)配(二)流土佐国(一)之由、依(レ)令(二)風聞(一)、為(レ)遁(二)一旦之難(一)、暫令(レ)退(二)入園城寺(をんじやうじ)(一)之処、以(二)左少弁(させうべん)行隆(一)、恣構(二)漏宣(一)、或制(二)与力於北嶺四明之一山(一)、或滅(二)法命於南都三井之両寺(りやうじ)(一)、速絶(二)王法(一)失(二)仏法(ぶつぽふ)(一)矣、謹尋(二)天武天皇(てんわう)之旧議(一)、討(二)王位押取輩(一)、倩訪(二)上宮太子之古跡(一)、亡(二)仏法(ぶつぽふ)破滅之類(一)、是以国政如(レ)元奉(レ)任(二)一院(一)、而諸寺之仏法(ぶつぽふ)令(二)繁昌(一)、諸社之神事無(二)相違(一)、以(二)正法(一)治(二)国土(一)、撫(二)万民(一)与(二)天恩(一)也、爰行家、先跡者、昔天国押開給天後、清和(せいわ)天皇(てんわうの)王子、貞純親王七代孫、自(二)六孫王(一)下津方、
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併励(二)武弓(一)専護(二)朝家(一)、高祖父頼信朝臣者、搦(二)忠常(一)蒙(二)不次之賞(一)、曽祖父頼義(らいぎの)朝臣(あつそん)者、康平六年鎮(二)奥州(あうしう)之逆党(一)、後代為(二)規模(一)、祖父義家(よしいへの)朝臣(あそん)者、寛平年中、雖(レ)不(レ)経(二)上奏(一)、為(二)国家(一)討(二)不忠武士平家衡等(一)、振(二)威於東夷(一)、上(二)名於西洛(一)、親父為義(ためよし)者、禦(二)還南都大衆之発向(一)、奉(レ)休(二)北闕聖主之逆鱗(一)、鎮(二)護王法宝位(一)無(レ)驚、照(二)四海於掌内(一)、懸(二)百司於心中皇威(一)、及(二)夷域(一)仁恩普(二)一天(一)、而自(二)去平治元年(一)、源家被(レ)止(二)出仕(一)之後、入道偏誇(二)于威勢(一)、黷(二)於高位都城之内(一)、蔑(二)官事洛陽之外(一)、放(二)謀宣(一)、然則行家加先祖於訪江波、天照野太神野、初天日本国(につぽんごく)能磐戸於押開天、(有朋下P048)新仁豊葦原野水穂爾濫觴志給那里、彼能天降給宇聖体波、忝那久行家加三十九代野祖宗那里、御垂跡与里以降、鎮護国家野誓厳重仁志天、冥威隙無幾処仁、入道神慮仁毛恐連須、叡情爾毛憚羅須、遥昇(二)高位(一)、是雖(レ)似(二)朝恩(一)、濫企(二)逆乱(一)、併所(レ)致(二)愚意(一)也、又行家親父朝臣者、如(三)大相国(たいしやうこく)誇(二)私威(一)、非(レ)起(二)謀叛(一)、依(二)上皇之仰(一)、参(二)白川御所(一)計也、而称(二)謀叛之仇(一)、依(レ)不(レ)仕(二)朝廷(一)相伝之所従、塞(二)於耳目(一)不(レ)随(二)順、譜代之所領(一)、被(レ)止(二)知行(一)無(二)衣類(一)、独身不屑之行家、彼入道万之一爾毛所(レ)不(レ)及、而入道忽依(レ)起(二)謀叛(一)、行家為(レ)防(二)朝敵(一)、東国爾下向志天、頼朝(よりともの)朝臣(あそん)登相共爾、且源家能子孫於誘江、且相伝能所従於催志天、上洛於企留所呂也、案能如具意爾任勢天、東海東山能諸国、已爾同心志畢里奴、是朝威能貴幾加致須所呂也、又神明能守里然良令牟留也、風聞能如幾波、太神宮与里神鏑於放知給布、入道其身爾中天亡勢里登、彼〔遠〕見是遠聞爾、上下万人宮中民烟、何人加霊威於畏礼佐羅牟、誰人加源家於仰加佐羅牟哉、抑東海
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諸国之太神宮御領事、依(二)先例(一)分(二)神役(一)、可(レ)備(二)進御年貢(一)之由、雖(レ)加(二)下知(一)、或恐(二)平家(一)不(レ)下(二)使者(一)、或有(二)済納(一)、依(二)路次之狼藉(一)、不(レ)能(二)運送(一)歟、源家者縦雖(レ)為(二)神領(一)、僅宛(二)催兵粮米(一)計也、然而早可(レ)停(二)止之(一)、又始自(二)院宮諸家(しよけ)臣下之領等(一)、国々庄々年貢闕如事、全不(レ)■(あやまらず)、或云(二)源氏(一)、(有朋下P049)或云(二)大名(一)、数多之軍兵参会之間不慮之外難(レ)済歟、就(レ)中(なかんづく)国郡村閭住人(ぢゆうにん)百姓等之愁歎、誠以難(レ)抑、但行家雖(レ)切(二)撫(レ)民之志(一)、未(レ)遂(二)退(レ)敵之節(一)、而徒送(二)日数(一)、尤所(二)哀歎(一)也、然者(しかれば)早行家者、帰(二)参王城近隣(一)、奉(レ)護(二)北闕之玉尊(一)、頼朝(よりとも)者居(二)留東州之辺境(一)、奉(レ)耀(二)西洛之朝威(一)也、神明必垂(二)哀愍(一)、天下忽鎮(二)叛逆(一)矣、縦云(二)平家之兄弟骨肉(一)、於(下)護(二)国家(一)之輩(上)者、速絶(二)神恩(一)、又云(二)源家之子孫累葉(一)、於(下)有(二)二意(一)之輩(上)者、必加(二)冥罰(一)、羨天照皇太神此状於平計安良計聞召天無為無事爾上洛於遂計令女天、速仁鎮護国家能衛宮於成志給江、天皇(てんわう)朝廷乃宝位動具古登無具、源家能大小従類恙無志天、夜乃守里日乃守爾護里幸給江登、恐々礼申志給江登申須。
治承五年五月十九日 正六位上源朝臣行家
とぞ書たりける。此祭文に、神馬三匹銀剣一振、上矢二筋相具して、太神宮へ奉進す。
去三月十一日、源平尾張国墨俣川より始て、度々戦けるが、源氏負色に成て引退々々、参河国矢矯川(やはぎがは)にて戦ければ、平家も多く討れける上に、東国源氏雲霞と責上る由の謀に聞臆して、同廿五日に、重衡維盛以下の討手の使帰り上る。
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治承三年の秋八月に、小松内府被(レ)薨ぬ。今年閏二月に、又入道(にふだう)相国(しやうこく)失給(たま)ひしかば、平家の運の尽事顕(有朋下P050)也。さればにや年来恩顧の輩の外に、随ひ付者更になし。兵衛佐(ひやうゑのすけ)には日に随て勢の付ければ、東国には諍者なし。自背者あれば、推寄々々誅戮し給ければ、関より東は草木も靡くとぞ京都には聞えける。去(さる)程(ほど)に去年諸国七道の合戦、諸寺諸山の破滅も猿事にて、天神地祇恨を含給(たま)ひけるにや、春夏は炎旱夥(おほし)、秋冬は大風洪水不(レ)斜(なのめならず)、懇に東作の勤を致ながら、空西収の営絶にけり。三月雨風起、麦苗不(レ)秀、多黄死。九月霜降秋早寒。禾穂未(レ)熱、皆青乾と云本文あり。加様によからぬ事のみ在しかば、天下大に飢饉して、人民多餓死に及べり。僅(わづか)に生者も、或は地をすて境を出、此彼に行、或は妻子を忘て山野に住、浪人巷に伶■(れいへいし)、憂の音耳に満り。角て年も暮にき。明年はさりとも立直る事もやと思ひし程(ほど)に、今年は又疫癘さへ打副て、飢ても死ぬ病ても死ぬ、ひたすら思ひ侘て、事宜き様したる人も、形を窄し様を隠して諂行く。去かとすれば軈(やが)て倒臥て死ぬ。路頭に死人のおほき事、算を乱せるが如し。されば馬車も死人の上を通る。臭香京中に充満て、道行人も輙らず。懸ければ、余に餓死に責られて、人の家を片はしより壊て市に持出つゝ、薪の料に売けり。其中に薄く朱などの付たるも有りけり。是は為方なき貧人が、古き仏像卒都婆などを破て、一旦の命を過んとて角売けるにこそ。誠に濁世乱漫(有朋下P051)の折と云ながら、心うかりける事共也。仏説に云、我法滅尽、水旱不(レ)調五穀不(レ)熟、疫気流行、死亡者多と、仏法(ぶつぽふ)王法亡つゝ、人民百姓うれへけり。
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一天の乱逆、五穀の不(レ)熟、金言さらに不(レ)違けり。
S2703 頼朝(よりとも)追討庁宣附秀衡系図事
四月廿八日、又頼朝(よりとも)を可(二)追討(一)由、院庁の御下文を成して、陸奥国住人(ぢゆうにん)藤原秀衡が許へ被(二)下遣(一)けり。其状に云、
左弁官下 奥州(あうしうの)住人(ぢゆうにん)等、
応(三)早令(レ)追(二)討流人前(さきの)右兵衛権佐(うひやうゑのごんのすけ)源(みなもとの)頼朝(よりとも)(一)事
右奉(レ)仰、併件頼朝(よりとも)、去永暦元年坐■(ざざい)配(二)流伊豆国(いづのくに)(一)、須(レ)悔(二)身過(一)、宜(レ)従(二)朝憲(一)、而猶懐(二)梟悪之心(一)、旁企(二)狼戻之謀(一)、或冤(二)凌国宰之使(一)或侵(二)奪土民之財(一)、東山東海道国々、除(二)伊賀、伊勢、飛騨、出羽、陸奥之外(一)、皆趣(二)其勧誘之詞(一)、忝随(二)彼布略之語(一)、因(レ)茲差(二)遣官軍(一)、殊可(レ)令(二)防禦(一)之処、近江、美濃、両国之反者、即敗(二)続尾張、参河(一)、以(二)東之賊衆(一)、尚固守、抑源氏等(げんじら)、皆忝可(レ)被(二)誅戮(一)之由、依(レ)有(二)風聞(一)、一姓之輩、共発(二)悪心(一)(有朋下P052)云云、此事尤虚誕也、於(二)頼政(よりまさ)法師(一)者、依(レ)為(二)顕然之罪科(一)、忽所(レ)被(レ)加(二)刑罰(一)也、其外源氏無(二)指過怠(一)、何故被(レ)誅、各守(二)帝猷(一)、抽(二)臣忠(一)、自今以後莫(レ)信(二)浮讒、兼存(一)此子細、早可(レ)帰(二)皇化(一)者、奉(レ)仰下知如(レ)件、諸国宜(二)承知(一)、依宣(二)行之(一)、敢不(レ)可(二)違失(一)之故下。
治承五年四月二十八日 左大史小槻宿禰奉
とぞ被(レ)書たる。秀衡と云は、下野国住人(ぢゆうにん)俵藤太秀郷が末葉、日理権大夫経清が曾孫、権太郎御館
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清衡が孫也。彼秀衡此御下文を給りたれども、兵衛佐(ひやうゑのすけ)には草木も靡て、たやすく難(レ)傾かりければ、無(レ)由とてさて止ぬ。
S2704 信濃横田川原軍事
越後国住人(ぢゆうにん)に、城太郎平資職と云者あり、後には資永と改名す。是は与五将軍維茂が四代の後胤、奥山太郎永家が孫、城鬼九郎資国が子也。国中(こくぢゆう)の者共相従へて多勢也ければ、木曾冠者(きそのくわんじや)義仲(よしなか)を追討のために、同庁下文あり。同六月二十五日、資永御下文の旨に任せて、越後、出羽、両国の兵を招と披露しければ、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)なれ共、源氏を背く輩は、越後(有朋下P053)へ越て資永に付、其(その)勢(せい)六万余騎(よき)也。同国住人(ぢゆうにん)、小沢左衛門尉(さゑもんのじよう)景俊を先として信濃へ越けるが、六万余騎(よき)を三手(みて)に分つ。筑摩越には、浜小平太、橋田の太郎大将軍にて、一万(いちまん)余騎(よき)を差遣す。上田越には、津波田庄司大夫宗親大将軍にて、一万(いちまん)余騎(よき)を差遣す。資永は四万(しまん)余騎(よき)を相具して、今日は越後国府に著、明日は当国と信濃との境なる関の山を越さんとす。先陣を諍者共、勝湛房が子息に、藤新大夫、奥山権守、其子の横新大夫伴藤、別当家子には、立川承賀将軍三郎、信濃武者には、笠原平五、其甥に平四郎、星名権八等を始として、五百(ごひやく)余騎(よき)こそ進けれ。信濃国(しなののくに)へ打越て、筑摩河の耳、横田川原に陣をとる。城太郎資永、前後の勢を見渡して奢心出来つゝ、急ぎ寄合せて聞ゆる木曾を目に見ばやとぞ■(ののしり)ける。木曾は、落合五郎兼行、塩田八郎高光、望月太郎、同次郎、八島四郎行忠、今井四郎兼平、樋口次郎兼光、楯六郎親忠、高梨根井大室小室を先として、信濃、上野、両国の勢催集め、二千(にせん)余騎(よき)を相具して、白鳥川原に陣をとる。楯六郎親忠馬より下り甲を脱弓脇挟み、木曾が前に畏て申けるは、親忠先づ
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横田川原に打向て、敵の勢を見て参らんと申。然るべきとて被(レ)免たり。親忠乗替ばかり打具して、白鳥川原を打出て塩尻さまへ歩せ行て見渡せば、横田篠野井石川さまに火を懸て焼払(やきはら)ひ、軍場の料に城四郎(有朋下P054)が結構(けつこう)と見えたり。親忠大法堂の前にして馬より下り、甲を脱で八幡社を伏拝み、南無(なむ)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、我君先祖崇霊神也、願は木曾殿(きそどの)、今度の軍に勝事をえせしめ給へ、御悦には、六十六箇国(ろくじふろくかこく)に六十六箇所(ろくじふろくかしよ)の八幡社領を立て、大宮(おほみや)に御神楽、若宮に仁王講、蜂児の御前に左右に八人(はちにん)宛の神楽女、同神楽男退転なく、神事勤て進んとぞ祈念しける。乗替を使にて木曾殿(きそどの)へ申けるは、城太郎所々に火を放て、横田篠野井石川辺を焼払(やきはら)ふ。角あらば八幡の御宝殿も如何と危く覚候、急寄給へとぞ申たる。木曾取敢(とりあへ)ず、通夜大法堂に馳付て、甲を脱ぎ腰を屈て八幡社を伏拝み、様々願を被(レ)立けり。明ぬれば朝日隈なく差出て、鎧の袖をぞ照ける。義仲(よしなか)遥(はるか)に伏拝み、弥勒竜華の朝まで、義仲(よしなか)が日本国(につぽんごく)を知行せんずる軍の縁日と成給へ、今日は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の、結て給たる吉日也とぞ勇みける。養和元年六月十四日の辰の一点也。源氏方より進む輩、上野国には、那和太郎、物井五郎、小角六郎、西七郎、信濃国(しなののくに)には、根井小弥太、其子楯六郎親忠、八島四郎行忠、落合五郎兼行、根津泰平が子息、根津次郎貞行、同三郎信貞、海野弥平四郎行弘、小室太郎、望月次郎、同三郎、志賀七郎、同八郎、桜井太郎、同次郎石突次郎、平原次郎景能、諏訪上宮には、諏方次郎、千野太郎、下宮には、手塚別当、同太郎、木曾党には、中三権頭(有朋下P055)兼遠が子息、樋口次郎兼光、今井四郎兼平、与次与三、木曾中太、弥中太、検非違所(けんびゐしよ)
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八郎、東十郎進士禅師、金剛禅師を始として、郎等乗替しらず、棟人の兵百騎轡を並て、一騎(いつき)も先に立ず一騎(いつき)もさがらず、筑摩河をさと渡して、西の河原に北へ向てぞ懸たりける。城太郎が四万(しまん)余騎(よき)、入替々々戦けれども、百騎の勢に被(二)懸立(一)て、二三度までこそ引退り。百騎の者共は、馬をも人をも休めんとて、河を渡して本陣に帰にけり。城太郎安からず思て、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)笠原平五頼直と云ふ者を招て云けるは、僅(わづか)の勢に大勢が、三箇度(さんがど)まで被(二)懸散(一)たる事面目なし、当国には御辺(ごへん)をこそ深く憑み奉れ、河を渡し、敵の陣を蒐散して雪(レ)恥給へかし、平家の見参に入奉らんと申ければ、笠原鐙蹈張弓杖突て、越後信濃は境近国なれば伝にも聞給けん、頼直今年五十三、合戦する事二十六度、未不覚の名を取らず。但年闌盛過ぬれば、力と心と不(二)相叶(一)、今此仰を蒙る事面目也、今日の先蒐て見参に入んとて、我勢三百(さんびやく)余騎(よき)が中に、事に合べき兵八十五騎すぐり出して、太く高く、曲進退の逸物共に撰び乗て、筑摩河をざと渡して名乗けり。当国の人々は、或は縁者或は親類、知らぬはよも御座(おはしま)せじ、上野国の殿原は見参するは少けれ共、さすが音にも聞給らん、昔は信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)、今は牢人笠原平五頼直と云者也、信濃上野に我と思は(有朋下P056)ん人々は、押並て組や/\と云懸て、敵の陣をぞ睨たる。上野国住人(ぢゆうにん)高山党三百(さんびやく)余騎(よき)にてをめきてかく。笠原は八十余騎(よき)にて三百(さんびやく)余騎(よき)をかけ散さんと、中に破入て面を振らず散々(さんざん)に戦ふ。高山は大勢にて小勢を取籠、一人も不(レ)漏討留んと、辺に廻て透間もあらせず戦たり。蒐てはひき引てはかけ、寄ては返、返しては寄せ、入組入替戦ける
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有様(ありさま)は、胡人が虎狩、縛多王が鬼狩とぞ覚えたる。又飆の木葉を廻すに似たりけり。程なしと見程(ほど)に、高山党が三百(さんびやく)余騎(よき)、九十三騎に討なさる。笠原が八十五騎、四十二騎にぞ成にける。両方本陣に引退。源平互に不(レ)感者はなかりけり。中にも笠原、城太郎が前に進て、軍の先陣如何が見給ぬると云ければ、資永は兼ての自称、今の振舞、実に一人当千(いちにんたうぜん)とぞ嘆たりける。
上野国住人(ぢゆうにん)西七郎広助は、火威の鎧に白星の甲著て、白葦毛の馬の太逞に、白伏輪の鞍置て乗たりけり。同国高山の者共が、笠原平五に多討れたる事を安からず思て、五十騎(ごじつき)の勢にて河を渡して引へたり。敵の陣より十三騎にて進出づ。大将軍は赤地の錦の鎧直垂(よろひひたたれ)に、黒糸威(くろいとをどし)の鎧に、鍬形打たる甲著て、連銭葦毛(れんせんあしげ)の馬に金覆輪の鞍置て乗たりけり。主は不(レ)知、よき敵と思ければ、西七郎二段計に歩せより、和君は誰そ、信濃国(しなののくにの)住人(ぢゆうにん)富部三郎家俊。問は誰そ。上野国住人(ぢゆうにん)七郎広助、音にも聞くらん目にも見よ、(有朋下P057)昔朱雀院御宇(ぎよう)、承平に将門(まさかど)を討平て勧賞を蒙りたりし俵藤太秀郷が八代の末葉、高山党に西七郎広助とは我事也、家俊ならば引退け、合ぬ敵と嫌たり。富部三郎申けるは、和君は軍のあれかし、氏文読まんと思ひけるか、家俊が祖父下総左衛門大夫正弘は、鳥羽院(とばのゐん)の北面也、子息左衛門大夫家弘は、保元の乱に讃岐院に被(レ)召て仙洞を守護し奉き、但御方の軍破て、父正弘は陸奥国へ被(レ)流、子