仮名垣魯文雅号の由来

                        

菊池眞一

仮名垣魯文は、その雅号について、二様の説明をしている。


【甲説】
『魯文珍報』第十八号(明治11年6月22日)で、魯文が
○名称偶中の熟字
として、己の雅号の由来を説いている。

今を去る卅余年前東条魯介(琴台耕の舎兄花笠文京と号す)の門に遊び始めて戯号を魯文とす則ち魯介の魯と文京の文の字なるを素読の師奥川楽水翁(増上寺の抱へ博士後に剞劂師となり尾張町に卜居し転て芝三島町に移る)余が戯号の出処五雑爼の故事を取ツて熟字せしを感称す余年歯十八年未五雑爼を読ずその偶中なるを告るに翁大笑して余談に及り今年横浜の知己某の許より洋鉄鋳形を以て制作し欧州婦人の右手一箇を贈るに彼 五雑爼の故事を鈔し記て其手に添ふ曰

むかし建保年中何某の女生れながら掌に犬の字ありしかば来朝の唐人陳和卿を迎へて占卜を問ふに曰是はその配偶を得給へり大ひなる吉事なり我偶日本の事に暗ければ暫く我唐土の故事をいはむに周の世宋国の女仲子生れてその手に魯の字あり古文に魯の古篆※(篆字省略)斯の如し是に依て此女後に魯国恵公の夫人となれり


【乙説】
『滑稽風雅新誌』第六十七号(明治12年6月18日)では、魯文が
○雅中の俗調
の中で、雅号について、次のように説明している。

熱湯其極に至れば氷となり粋が嵩じて野暮となるは過て及ばざるものか僕(やつが)れ素より筆鋒の豆蔵にして常に走らする狂文は樗蒲暮の如く阿房陀羅経に似て仮名垣の名は固(もと)和文天仁遠波(てにをは)等の義に非ず唯国字(いろは)で魯(おろか)なたはれ文(ぶみ)を綴るといふの趣意なるを遠き県(あがた)の風流雄(みやびを)は其虚名を誤り伝へあツたら(奇麗な)白紙を汚させて後悔お臍で茶を沸すの人尠からず嗚呼文壇の端に列り紙に耕し筆に鋤く名に背いたる屁茶無苦連の雅離々々曚者《後略》


【甲】が主で【乙】が従、【甲】が本来で【乙】はそれに付随したもの、【甲】が形式で【乙】が内容、といったところか。




2016年3月4日公開

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