落語にあらはれたる柳

                        

菊池眞一

『柳屋』第五十号六、七頁(昭和9年4月20日)に、正岡蓉の
落語にあらはれたる柳
という文章がある。
単行本に収録されているかどうか、確認していない。
以下、引用。



落語にあらはれたる柳
              正岡蓉

 柳といふ字は、柳派の名をもて、仄かに寄席行燈を、古来幾百年と照らし乍ら、さて、かんじんの噺のなかへでてくる「柳」となると、至つて少い。
 大ていの芝居へ、一どづゝ柳の立木がなつかしくも顔をだす、我が綺堂先生のやうな作者がそのかみの、落語の作者にはなかつたのであらう。

     ×

 「柳の馬場」
 強情な按摩がゐる。
 武術十八般、何でも心得てゐると、ある大名の前へいつて、大法螺をふく。
 「剣術は?」
 「新蔭流で」
 「槍は?」
 「宝蔵院流」
といつたやうに、だ。
 その内、
 「馬は?」
とたづねると、これが又大へんな自慢で、
 「あたしがのつたら、どんなカンの立つてる馬でも一ぺんにおとなしくなる」
といふ。
 そこで大名は、おかしさをこらへて、
 「おゝ、それはよいことを承つた。みども、数日前、つれ来つた馬、仲々の逸物ぢやが、誰が御しても、荒れて困る。一つ、では、その方、のりこなしてみてはくれまいか」
とたのむ。
 よもや――と高をくゝつてたのがこう、切りだされて、按摩は、すつかりドギマギする。
 そして、八方弁解するが殿はどうしてもきゝいれない。
 トヾ、御声荒々しく、いやがる按摩を、むりやり、荒馬に追ひあげて、
 「エイ、ヤツ、ピシリーツ、
と馬の尻を打つ。
 元より甲の立つてゐる馬、あほりをくつてビユーツと柳の馬場へ駈出す。
 按摩は生きたこゝちもない。
 折から、五月のことで、ふくいくと芽生んだ柳の葉が馬上の按摩の顔をなでる。
 でこれへさへつかまつたらよかろうと、その枝へつるさがるので、按摩は馬をはなれて宙ブラリンになる。
 そこへ、殿さまがやつてきて。
 「貴様は、崖の中途にブラ下つてゐるのだ、助けてやりたいが、とても駄目だ。これにこりていゝ加減な嘘はつくな。もう、あきらめて手を放せ。そして、谷間へ堕つこちて了へ」
と因果をふくめる。
 で観念をした按摩がサツと手を放したら、足の下が三寸だつた‥‥といふ。
 これらが「柳」を効果的につかつた落語の最上であらう。
 また、事実、「柳」がいゝ、重要な役をつとめてゐる。
 荒れ狂ふ馬が、馬場へ入る。
 「折から五月のことで雨に煙つた馬場には、青い柳がふいて居ります」
云々といふ、あすこで描写を用ゐるが、じつにいゝ風景だと、きくたんび、いつも、自分はおもふ。

     ×

 「みかへり柳」といふのがある。
 娘が梅川。
 親が忠兵衛。
 この親子が、偶々、江戸の吉原で、久々の対面をする。
 「娘であつたか」
 「父さまか」
 「あひたかつた」
 「なつかしかつた」
と、二人は、手をとりあつて、よもすがら、よろこび嘆く。
 この隣りに、所が、ふられてる客がゐて、ひとりとろとろ呟くのに、
 「俺の、ふられやうに引代へて、隣りの部屋は何でえ。朝から、とつついたり、ひつついたり、泣いたり、笑つたり‥‥えゝい、畜生めーツ」
云々。
 いゝハナシである。
 サゲもからいが、自然で、にくい。
 いまでは林家正蔵が唯一のうりものに、これをしてゐる。
 「吉原」をきかして「見返り柳」とつけたのであらう。
 が全ぺんの構想に、柳といふものはでて来ない。

     ×

 「岸柳島」といふのがある。
 「巌流島」と、もしかいたら、それつきりで一ぺんに「柳」に縁がなくなつちまふのだから心細い。
 おうまやの渡し舟で、武士が大事にしてゐるキセルの雁首を河へ落す。
 それが発端で、卜ヾ、侍は、腹立紛れに、そのキセルの胴の方をうつてくれと申出た屑やを無礼だから手討にするといふ。
 そして、仲裁に入つた老武士にまで、こんどは、
 「尊公が相手だから立合さつしやい」
と猛り立つ。
 老武士、少しも騒がず、
 「では、向ふの岸へ舟をつけろ」
と船頭にめいじて、若い方の侍が先づ陸へあがつたのを幸に、ドンドン、舟を、反対の方へ漕ぎだして了ふ。
 乗合一同、この妙案にドツと手を拍つてよろこぶと、若侍は、而しみるみる、裸になつて、ザンブと川の中へ飛込む。
 そして、忽ち、舟のところまで迫つてくるので、かの老武士、きつと河中を睨んで、
 「こりや、貴様は、余に、たばかられしを無念に想ひ、舟の底でもえぐりにきたか」といふと、
 「いゝや、さつきのキセルをひろひにきたんだ」
――‥‥。

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 桂文治の芝居噺に「柳影月朧夜」といふのがある。
 これに、みだし丈けに、柳があるので、内容は、かの、八百蔵吉五郎だ。

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 いまの文楽の「明がらす」で堅い若旦那をはじめて、吉原へだましてつれてゆく。
 途中で、それと気付いた若旦那が、
 「いやです。あたしはお女郎買はしません。あすこの柳の木の下で待つてます」
 「幽霊だネ」
 云々といふクスグリがある。
 この「柳の木」てえセリフは、バカに、あの場合、活きてゐる。
 「柳」といふと、いつも、この落語を忘れない。

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 「星野屋」と「品川心中」を一しよにしたやうな、「恋の踏台」といふハナシがある。
 向島へゆき、柳の木で首をつつて、心中しやうと二人がゆくがじつは、女に死ぬ気がなく、踏台を、その木の下に用意しといて、死んだやう、みせかける。
 所が、男は男で、女の気をためすための狂言だから、此も同じく踏台を使用する。
 死んだ圓右さんがよくやつてたが、両方が何本めの柳の下へ踏台をおいたのだが‥‥と闇中摸索をしあふあたり、このハナシでは、柳が大立ものである。「天災」では紅羅坊名丸さんが「気にいらぬ風もあらうに柳かな」「むつとしてかへれば門の柳かな」と、大いにデンガクの立場から柳をおほけなく礼讃する。

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 柳のハナシは、じつに、少い。
 柳と名のつくもの。柳が、なかで、主題になるもの。
 どつちも、じつにじつに少い。

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 人情噺や、怪談や、講釈には、殺し場や心中場にきつとでてくる柳!
 やなぎ!
 その、あゝ、柳!が、なぜに、落語に少いのであらう。
 それを想つて、いつも、あたしは、うなづき得ないフシギをかんずる。 ―(終)―
(『柳屋』第五十号。昭和9年4月20日)






2016年3月17日公開

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