アイスクリーム漫筆

柴田宵曲


―――アイスクリームと日本文学―――


東京アイスクリーム協会」(表紙)


筆者は俳人、又随筆家として「蕉門の人々」
「古句を観る」「古酒新酒」その他の著書があ
る。今回アイスクリームに関する随筆を当協
会に寄与されたが、興味津々たるものがあり、
茲に印刷して御参考の資に供す。」(見返し)


アイスクリーム漫筆
     ――アイスクリームと日本文学――

                   柴田宵曲

   一

 日本人がアイスクリームを口にした最初の記録は、石井研堂氏が「明治事物起原」に挙げてゐる「柳川日記」であらう。万延元年閏三月二十四日といふから、今より百年以上前である。渡米中の幕府の使節がワシントン政府の迎へを受けた、その船の中でこの珍菓を味つたので、次のやうに記してある。

又珍しき物あり。氷を色々に染め、物の形を作り、是を出す。味は至つて甘く、口中に入るゝに忽ち解けて、誠に美味なり。之れをアイスクリンといふ。是を製するには、氷を湯にてやはらかくなし、其の後、物の形に入れ、又氷の間へ入れて置く時は、氷の如くなると言。尤も右の氷をとかしたる時、なま玉子を入れざれば再び氷らずといふ。

 この製法の如きは、おぼつかない通訳によつて聴取した知識であらうから、真を伝へて居らぬのは已むを得ない。研堂氏も言つてゐるやうに、アイスクリンといふ発音が、後々まで停車場その他に於て、邦人の呼売に名残をとゞめてゐるのは一奇とすべきである。(明治四十年前後の世界を書いた小山内薫氏の小説「落葉」の中では、幇間の忰がスクリンの役者になるといふ話のところで、「へん、アイスクリンが聞いて呆れまさあ」といふ洒落にまでなつてゐる)。このアイスクリームは船中の御馳走だから、使節一行悉く口にしたに相違ないが、その一人である玉虫誼の「航米日録」などには何も書いてない。併しその時迎へに来たフイラデルヒヤ船の大略を記した中に、「飲食は皆彼より饗応にて、酒五品許、下物多くして其数を知らず、大抵鳥獣の類にして、砂糖或は氷等を用ひ、数種の形容を拵へ出す、其の盛なる事人目を驚かすに至る」といふことがある。砂糖或は氷等を用ゐて、数種の形容を拵へ出すといふ中には、当然アイスクリームも含まれてゐることと思はれる。
 成島柳北の「航西日乗」(明治五年九月廿二日の条)に、香港出帆の際「晩餐氷羹を喫す、太だ美なり」とあるのは、多分アイスクリームだらうといふことである。万延元年より十二年後に、又外地でアイスクリームを口にしてゐるのであるが、柳北に取つては恐らく最初の経験であつたらう。維新前後に海外に渡航した者は、固より一二にとゞまらぬ。従つてアイスクリームを口にする機会はいくらもあつたらうと思ふけれど、記録の之を伝へてゐるものが甚だ少いのである。
 外地のアイスクリームはそれとして、国内のアイスクリームは何時頃から行はれたか。「明治事物起原」は内田魯庵氏の話として、明治三年頃に横浜で来客にアイスクリームを出したところ、これは結構だと言つてお代りを望まれた、その時一人前の値段は金二分だつたので、このお代りには閉口したといふことを載せてゐる。明治三年では魯庵氏も三歳だから、親しく目賭したわけではない。後に父親から聞いたといふのである。当時の二分の金は今のどの位に当るか、ちよつと想像がつかぬが、とにかく横浜は港だけに、アイスクリームなども早く行はれたのであらう。「横浜沿革誌」によると、明治二年五月、馬車道通の常盤町五丁目に、はじめて氷水店が出来たが、その頃は外国人が稀に立寄つてアイスクリームを飲む位のもので、日本人はただ見物に来るに過ぎなかつたから、大いにあてが外れて損を招いた。然るに翌三年四月、伊勢皇太神宮の大祭に際し、再び開業したところ、今度は頗る繁昌して、前年の失敗を取返し得たといふことである。横浜の人士がどうして一年の間に、それほど氷水店のお得意になつたものか、その理由は何も書いてないが、魯庵氏によつて伝へられた二分のアイスクリームなるものは、いづれこの再興以後の話に相違ない。
 なほ「明治事物起原」の記すところによれば、明治六年七月十七日、開拓使第一官園に主上の行幸があつた際、温室産の果物とアイスクリーム氷を上る旨が当時の新聞に見えてゐるさうである。温室産の果物も珍味たるを失はなかつたであらう。それよりもアイスクリーム氷といふ不思議な言葉の裡に、この新な食物に対する、明治初年らしい或物を感ぜざるを得ぬ。
 大森貝塚の発見者として知られてゐるモース博士が、はじめて日本に渡来したのは明治十年であつた。その見聞を詳記した「日本その日その日」は、博士の日本に於ける生活を記念する好個の著作であると共に、当時の日本風俗を忠実に描いてゐる点で、吾々には甚だなつかしい書物であるが、「大学の仕事」と題する章の中に、十年の九月十一日、先任文部大輔が上野の教育博物館に大学の外人教授達を招待した時の記事がある。この接待宴のお客様は、教員数名の夫人達を勘定に入れて、全部で百名位あつたが、最後に大きな部屋に導かれると、「そこにはピラミッド形のアイスクリーム、菓子、サンドウイツチ、果実その他の食品の御馳走があり、芽が出てから枯れる迄を通じて如何に植物を取扱ふかを知つてゐる、世界唯一の国民の手で飾られた花が沢山置いてあつた」とある。博士はこの設備を評して「これは実に、我国一流の宴会請負人がやつたとしても、賞讃に価するもの」と言ひ、この整頓した教育博物館で、手のこんだ昼飯その他の支度を見た時、吾々は面喰つて立すくみ、「これが日本か?」と自ら問ふのであつた、とも述べている。
 その頃のアイスクリームに就てもう一つ挙げなければならぬのは、明治十二年七月、グラント将軍来朝の際の事である。モース博士の「日本その日その日」の中には次のやうな記載がある。

私は一人の日本人に、彼等をグラント将軍が他の人々と一緒に立つて引見してゐる場所へ連れて行かせた。其後私は誰も彼等に氷菓や菓子を渡さぬのに気がつき、一人の日本人に手つだつて貰つて彼等にそれ等をはこんでやつた。彼等はすべて壁に添うて畳の上に一列に坐つてゐたが、彼等にとつては、氷菓と菓子のお皿を手に持つことが六づかしく、自然お菓子の屑が床に落ちた。また溶けて行く氷菓の一滴が美しい縮緬の衣服に落ちたりすると、彼等は笑つて、注意深く、持つてゐる紙でそれを取り除く。この紙はまるめてポケツトに似た袂に仕舞ひ込み、最後に立ち去る時には、注意深く畳を調べ、菓子の屑を一つ残らず拾ひ、あとで棄てるやうに紙に包むのであつた。貴族の子女がかゝる行儀作法を教へ込まれてゐるといふことは、私には一種の啓示であつた。

 これは工科大学に於けるグラント将軍招待会の席上の模様で、「彼等」とあるのは華族学校の女生徒を指す。この人々の品位ある挙措は、今日から明治初年を顧る者に、美しいイリユージヨンを起させる。縮緬の衣服に落ちたアイスクリームの一滴を、注意深く紙で取除く一条の如きは、あらゆる日本人の著作に閑却された情景といふべきであらう。
 グラント将軍に対する東京府民有志の歓迎会が新富座に開かれた時は、座主守田勘弥が当路の大官の意を承けて、いろいろな設備に最善の努力を払つた。その中にも亦アイスクリームが出て来る。木村錦花氏の「守田勘弥」によると、歓迎会のあつた七月十六日の夜は暑さが烈しかつたので、勘弥は横浜からアイスクリームを取寄せて来客一般に饗し、運動場には支那人連昌のサイホンラムネ、函館屋の氷水などを随意に飲めるやうな設備をした。当日の費用は実に一万円以上に上り、アイスクリームと西洋菓子の支払だけでも三百円を超えたといふことである。こゝで特に横浜から取寄せたとあるのを見れば、アイスクリームはまだ東京よりも横浜のものだつたのかも知れない。勘弥は別に洋行したわけでもないのに、西洋かぶれの甚しかつた一人で、鮪の刺身を焼塩をつけて食べたといふ話が伝はつてゐる位だから、外賓歓迎の為にアイスクリームや西洋菓子を準備するのは、蓋し会心の事柄であつたらう。のみならず彼は前年六月の新富座開場式に当り、来賓にアイスクリームをすゝめたといふ新しい経験を持合せてゐる。少くともアイスクリームに関する限り、その経験に基いて容易に事を運び得たのではないかといふ気がする。
 以上のやうな事実から考へて、アイスクリームが洋食と共に比較的早く日本に渡来し、洋式の食卓に屢々その姿を見せたことは明である。有名な鹿鳴館の舞踏会(明治十九年十一月)にもアイスクリームの用意してあつたことは、ピエル・ロチの「日本の秋」に書いてあるし、欧米人を接待するやうな場合、特にその必要が多かつたのは言ふまでもあるまい。この未だ曾て食べたことのない食物に就て、「柳川日記」は「味は至つて甘く、口中に入るゝに忽ち解けて、誠に美味なり」と言ひ、「航西日乗」に至つては最も簡単明瞭に「太だ美なり」と言ふに過ぎぬ。生れてはじめてアイスクリームを口にした人としては、単に美味といふ以外に、何か驚異の感がありさうなものと思ふが、遺憾ながらそんな事は書いてない。たゞ一つ先輩から聞いた話にかういふのがある。はつきりした時代はつひ聞き漏したが、とにかく内地に行はれて猶未だ普及せぬ時分の事であらう。中野其明といふ画家にアイスクリームをふるまつたら、一匙口に入れて、「あゝ痛え菓子だ」と言つたといふのである。日本人のアイスクリームに関する驚異の実例として、この話をこゝに挙げて置きたい。

   二

 アイスクリームを訳して氷菓子と言つたところから、高利貸をアイスといふやうになつた。この事は「明治事物起原」にも出てゐるが、明治らしい一の通言である。爾来高利貸の方はあらゆる時世の変化に随順し、弥栄えに栄えてゐるに拘らず、氷菓子の訳語はアイスクリームの原語に圧倒されて、殆ど用ゐられなくなつてしまつたから、この洒落もだんだん通じなくなるかも知れない。現に森鷗外博士の如きは、「金色夜叉上中下篇合評」の中で、「想ふに、これから幾千万年の後に、ICE-CREAM で高利貸といふ洒落なども分からなくなつてから、開明史家は此小説を研究して、これをたよつて今の人物、今の思想を推知するだらう」と言つて、大分遠い将来の事を心配してゐる位である。
 従つて斎藤緑雨が「あられ酒」の中に使つた

  やりくりにてとも角も送れる人の妻の、アイスクリームといふは、たゞ高利貸の異名とのみおぼえ居りぬ。知合のもとに行きたる折、夏は馳走もなし、アイスクリームなりともと言はれたるにハタと憤りて、あなた、嘲弄なすつてはいけません。

といふ滑稽なども、明治時代の者が感じたほどにはをかしく感ぜられなくなつて来る。どうして高利貸がアイスだなどと反問されるやうになつては、この種の話の妙味は半減すると言はなければならぬ。鷗外博士も後に「雁」の中で高利貸を書いてゐるが、アイスといふ流行語は使つてなかつたやうに記憶する。
 アイスクリームを氷菓子と訳したのは誰か知らぬが、高利貸に通ずる通じないは別問題として、あまりいゝ言葉ではない。アイスキヤンデーといふものが生れた今日では、愈々紛らはしい観がある。ビールは麦酒と書いてもビールで通用してゐるが、アイスクリームに氷菓子の漢字を用ゐることは、殆ど跡を絶つてしまつた。清国時代からか、民国になつてからか分らぬけれども、支那では氷琪琳の字を用ゐるさうである。ピンチーリンと発音するのださうで、さすがに文字の国だけあつて用ゐる字が違ふと、或支那通が話してゐた。さう言へば支那の街頭風景を画いた油絵に、氷琪琳の看板があつたのを、いつか帝展で見たことがあつた。琪は玉の属、琳は一種の美玉と辞書にある。氷琪琳の字面は漢字に疎い吾々が見ても甚だ美しい。発音の上で高利貸と紛れたりしないだけでも、アイスクリームに取つては満足であらう。中央亭のメニユーにあつたといふ「乳酪冷菓」などは重苦しくて、アイスクリームにそぐはぬこと夥しい。これは一般には行はれなかつたやうである。

   三

 特別な食卓に現れる以外、アイスクリームが広く皆の口に上るやうになつたのは何時頃からであらうか。寺田寅彦博士の「銀座アルプス」といふ文章を読むと「五丁目あたりの東側の水菓子屋で食はせるアイスクリームが当時の自分には異常に珍しく又うまいものであつた。ヴアニラの香味が何とも知れず、見た事も聞いた事もない世界の果の異国への憧憬をそゝるのであつた。それを、リキユールの杯位な小さな硝子器に頭を円く盛上げたのが、中学生にとつては中々高価であつて、さう無闇には食はれなかつた」と書いてある。これは明治廿八年の話であるが、当時のアイスクリームの様子は、この地方から上京した中学生の経験を通じて、よく窺はれるやうに思ふ。
 銀座のアイスクリームは函館屋と資生堂が早いさうである。函館屋のはじめは知らぬが、資生堂がアメリカ風を学んでソーダ水やアイスクリームをはじめたのは明治卅三年であるといふ。さう古い事ではない。ソーダ水が一般に行はれるやうになつたのは、吾々の漠然たる記憶に従へば、アイスクリームよりも更におくれてゐるやうである。
 中学生に取つて中々高価だつたといふ当時のアイスクリームはどの位であつたらう。風月堂のが一杯十五銭であつたことは後に出て来る。横浜に於ける二分のアイスクリームは少し古過ぎるが、浅井黙語氏が渡欧の途中、コロンボの茶店で食べたのは二十五銭であつた。これはその記事の後に「此地人民偽り多く、傷物を売り、偽言をはき、勘定には余計なものを附け、其上一ルツツピー何ペンスとて、余等には少しも算用分らず、不快極まりなし」と余憤を洩してゐるから、その頃として法外な相場なのであらう。風月堂の十五銭を常識的なところと見ても、中学生に高過ぎるのは言を俟たぬ。
 芥川龍之介氏の「点鬼簿」といふ小説の中にこんな事が書いてある。

  僕の父は牛乳屋であり、小さい成功者の一人らしかつた。僕に当時新らしかつた果物や飲料を教へたのは悉く僕の父である。バナナ、アイスクリーム、パインアツプル、ラム酒、――まだその外にもあつたかも知れない。

 こゝに父とある芥川氏の実父新原敏三といふ人は、乳業界では今でも多少記憶されてゐるらしい。その人がアイスクリームを教へたところで、特に引用するほどのことは無いわけであるが、芥川氏は進んでかうも書いてゐる。

  僕の父は幼い僕にかう言ふ珍らしいものを勧め、養家から僕を取り戻さうとした。僕は一夜大森の魚栄でアイスクリームを勧められながら、露骨に実家へ逃げて来いと口説かれたことを覚えてゐる。

 かういふ父子の間にアイスクリームが存在してゐることも、見やうによつては興味ある事実かも知れない。但こゝに「点鬼簿」の一節を引いたのは、それほど面倒な問題ではなく、「幼い僕」とあるのが略々何歳位を意味するかといふ点に於てである。芥川氏は明治廿五年三月一日に生れてゐる。もしこの幼いといふことを以て、仮に小学校以前と解すれば、卅一年より前にならなければならぬ。寺田博士と芥川氏は同じく漱石門下で、その年齢には十五年の開きがあるに拘らず、アイスクリームを口にした年代から言へば大差ない勘定になる。これには東京と地方との相違もあり、芥川氏の実父が乳業界の人であつたことなども、無論考慮に入れなければなるまいが、アイスクリームに関する一資料として挙げて置く価値はありさうである。横浜や銀座でなしに、大森といふ地名が飛出すのも、吾々には何だか面白い。
 明治卅二年の八月廿三日、子規居士は病軀を人力車に載せて神田に高浜虚子氏をたづねた。その顚末を記した「ゐざり車」の中に、

  妻なる人、氷はいかに、といふ。そはわろし、と虚子いふ。アイスクリームは、といふ。虚子、それも、といはんとするを打消して、喰ひたし、と吾は無遠慮に言ひぬ。誠は日頃此物得たしと思ひしかど根岸にては能はざりしなり。二杯を喫す。此味五年ぶりとも六年ぶりとも知らず。

といふ一節がある。当時の根岸のやうな土地で、アイスクリームを口にすることが出来ぬといふのは、今日から考へて、成程さうであつたらうと思はれる。たまたま神田まで出て、アイスクリームを味ふ機会が到来したのに、空しく之を見途るが如きは、居士の堪ふるところではない。このよろこびは常人の想像の外であらう。「此味五年ぶりとも六年ぶりとも知らず」の一語にも歓喜の情が溢れてゐる。卅二年から五六年前とすれば、居士が自由に外出してゐた時分の話になるが、廿八年の六月、神戸病院入院中にアイスクリームを喫することが、当時の病牀日誌にある。或はそれ以来の出來事かもわからない。
「ゐざり車」の神田行の後であらう。虚子氏は居士の為に西洋料理をあつらへて、わざわざ根岸まで届けさせた。その礼状は月日を欠いてゐるが、これにも亦アイスクリームの事がある。

  今日は西洋料理難有候
  生憎昼飯を早くくひしために晩飯に頂戴致候処二皿より上はたべられ不申候、若し昼飯二度にたべ候はゞ四皿たべ可申か、昨年に比しても衰弱思ひ知られ候、アイスクリームは近日の好味早速貧り申候。
   一匕のアイスクリムや蘇る
   持ち来るアイスクリムや簞

 この二句は卅二年の「俳句稿」に記されてゐない。アイスクリームの句として早いものであり、珍重すべきものたるを失はぬであらう。アイスクリームは明治に生れた新季題の一に相違ないが、片仮名で七字に亙る名称だけに、十七字詩に入れるには長過ぎる為か、あまり作例を見ない。子規居士も中七字に収める都合上、「アイスクリム」と一字詰めてゐる。併しこの点は、その後に現れた

   銀の匙アイスクリームを創りけり    喜舟
   千疋屋のアイスクリームの西瓜かな   同
   いと静かにアイスクリームのコツプかな 仙臥

といふやうな句を見ても、ちやんとをさまつて居り、一字位の字余りは、さのみ意とするに足らぬかと思ふ。
 洋語のまゝアイスクリームと言はずに、漢字を用ゐた句もないではない。

   乳白く底に残りし氷菓かな   瓊音
   一匙や祖母もたうぶる氷菓子  芝青

「氷菓子」といふのが言葉として面白くないことは前に述べた。俳句の下五字として見る場合、愈々その感を深うする。
「氷菓」と音読する方が言葉としても引緊つて居り、楽に一句中に収まるわけであるが、この用語に依つた人も少いやうである。アイスクリームの句で吾々の念頭にとゞまるものが少いのは、畢竟世上にその作例が乏しい為に外ならぬ。アイスクリームの需要は今後益々加はるに相違ないけれども、これを題材とした佳句は容易に得られぬかも知れない。

   四

 漱石氏の小説「それから」は明治四十二年の作である。あの小説の主人公の甥に誠太郎といふ少年があり、全篇を通じて別に重要な役割はつとめてゐないが、アイスクリームの方から往くと、看過しがたいものを持つてゐる。

  彼は妙な希望を持つた子供である。毎年の夏の初めに、多くの焼芋屋が俄然として、氷水屋に変化するとき、第一番に馳けつけて、汗も出ないのに、アイスクリーム(氷菓)を食ふものは誠太郎である。氷菓がないときは、氷水で我慢する。さうして得意になつて帰つて来る。

 多くの焼芋屋が俄然として氷水屋に変化するといふことも、今日ではいさゝか説明を必要とするであらう。明治年間――少くとも大正の或る年代までは、夏の初めになると袷から単衣に移るやうに、市中到る処、かういふ現象が見られたのであつた。但焼芋屋が変化する程度の氷水屋に、どこでもアイスクリームがあつたかどうかは疑問であるが、とにかく、かういふ少年が小説の中に出て来るのを見れば、アイスクリームが普及すると同時に平凡化したことも思ひやられる。
 焼芋屋が氷水屋に変るのは、原則的な季節の推移と見るべきものだから、一定の期日があるわけでもなく、それ以前にはアイスクリームが絶対に存在せぬこともない。「それから」より二年前に成つた「虞美人草」の中には次のやうな会話がある。

 「博覧会へ行つたか」
 「いゝや、まだ行かない」
 「行つて見い、面白いぜ。昨日行つての、アイスクリームを食うて来た」
 「アイスクリーム? 昨日は大分暑かつたからね」

この会話の行はれたのは「柳暗花明の好時節」だから、アイスクリームを口にするのはまだ早い。こゝで昨日食うて来たと称する浅井君なる者も、誠太郎のやうな単純なアイスクリーム愛好者ではない。「今度は露西亜料理を食ひに行く積りだ」と予告してゐる位だから、季節に先じてアイスクリームを口にしたといふよりも、半ば博覧会の雰囲気に浮された結果と見てよからう。あゝいふ人の集る場所へ行けば、夏の到るを待たず、アイスクリームを売つてゐても不思議はない。誠太郎のは一般的現象、浅井君の方は特殊な背景の下に立つてゐる。
「彼岸過迄」の中にも「一度は煙草盆の火を入れ更へて、僕の足の下に置いて行つた。二遍目には近所から取寄せた氷菓子を盆に載せて持つて来た」といふことがある。これは小間使の動作を叙したもので、アイスクリームの立場から言へば、最も単純な例であるが、かういふ風に屢々アイスクリームが出て来るのは、作者の趣味なり嗜好なりと関係がないわけではあるまい。漱石氏は下戸であつた。だからその作品には酒が出て来ないといふ議論は成立たないけれども、アイスクリームに結び付く因縁は慥にそこに在る。これは酒を好む他の作家の書いたものと比較して見れば、明に立誰し得る筈である。
 かういふ意味からその後の作品を点検して見ると、「こゝろ」では先生と呼ばれる人の家で、晩餐の御馳走になるところに出て来る。

  奥さんは下女を呼んで食卓を片附けさせた後へ、改めてアイスクリームと水菓子を運ばせた。
  「是は宅で拵へたのよ」
  用のない奥さんには、手製のアイスクリームを客に振舞ふだけの余裕があると見えた。私はそれを二杯更へて貰つた。

 この一条には格別註すべきものもないが、「行人」のアイスクリームに至つては、少しく注意しなければならぬものがある。

  三沢は看護婦に命じてアイスクリームを取らせた。自分が其一杯に手を著けてゐるうちに、彼は残る一杯を食ふといひ出した。自分は薬と定食以外にそんなものを口にするのは好くなからうと思つて留めに掛かつた。すると三沢は怒つた。「君は一杯の氷菓子を消化するのに、何の位強壮な胃が必要だと思ふのか」と真面目な顔をして議論を仕掛けた。自分は実の所何も知らないのである。看護婦は可からうけれども念の為だからと言つて、わざわざ医局へ聞きに行つた。さうして少量なら差支へないといふ許可を得て来た。

これは大阪の病院の場面である。小説では自分といふ主人公が三沢といふ友人を、その病院にたづねることになつてゐるけれども、漱石氏は明治四十四年の八月、講演旅行中に病気になつて、大阪で入院したことがある。即ち三沢と同じ立場に在つたわけだから、このアイスクリーム問答も、漱石氏と見舞客か何かとの間に、実際これに似た応酬が行はれたのかもわからない。念の為に四十四年の日記を調べて見たが、入院の前後から全く記事を欠いてゐるので、アイスクリームの有無を慥めることが出来なかつた。併し漱石氏は一たびこゝに用ゐたアイスクリームを、今度は主人公が近所の洋食屋へ行つて食事をして来る段になつて、「あの家は此間君と喧嘩した氷菓子を持つて来る家だ」と病人に説明させ、また退院後の三沢に氷菓子を食へとすゝめるところで、「三沢は幸ひにして自分が氷菓子を食はせまいとした彼の日の出来事を忘れてゐた」と三たび使つてゐる。一杯のアイスクリームもなかなか馬鹿にならぬが、かういふ病間の瑣事を巧に活用してゐるのは、漱石氏が胃病患者として這裏の消息に通じてゐる為であらう。
 大阪で入院するより一年前、即ち明治四十三年の八月に、漱石氏は胃潰瘍の為に修善寺で危篤に陥つた。その時の模様を「思ひ出す事など」で見ると、「忘るべからざる二十四日」に於て、一合ばかりの牛乳を飲んだ後、「半分は口直しの積りであとからアイスクリームを一杯取つて貰つた。所が何時もの爽やかさに引き更へて、咽喉を越すとき一旦溶けたものが、胃の中で固まつた様に妙に落ち附きが悪かつた」と書いてある。八百グラムの吐血を控へた前の状態としては、固より当然の現象と思はれる。
 漱石氏は修善寺へ転地するに先立つて、胃腸病院に在つた頃にも「アイスクリームを食ふ」と日記に記したところが一二ある。修善寺へ行つてからもやはりアイスクリームを食べてゐるが、この八月二十四日の一杯ほど忘るべからざるアイスクリームは、漱石氏の一生を通じて前後に例のないものであつたらう。吐血後の修善寺の日記を見ると、九月九日の条に「アイスクリームは冷たくていやになる」と書いてあつた。これは季節の関係もありさうである。「アイスクリームの器械は鈴木送る」ともあるので、病牀に自家製のアイスクリームを摂つてゐたことがわかる。
 病気の場合ではないが、ケーベル博士なども日本へ来た当時は毎晩のやうにアイスクリームを食べた、その後飽きて食べなくなつたといふ話がある。アイスクリームは旨いけれども、毎晩のやうに食べたら飽きるかも知れぬ。季節の関係でもなし、日本のアイスクリームの品質によるわけでもない。アイスクリームの味そのものが自ら然らしむるのである。

   五

 小説の題材としてのアイスクリームは、それほど重要な役割をつとめさうにも思はれぬ。「行人」の大阪の病院のやうに、作者の体験と結び付く場合も恐らく稀であらう。鷗外博士夫人の「あだ花」にちよつと出て来るが、これも園遊会の食堂で、「富子の肉食の出来ないのを知つてゐるをぢさんは、水菓子だのアイスクリームだの富子の食べる物ばかり運んで来てくれた」といふのだから、極めて消極的である。アイスクリームの為に気を吐くに足るものではない。
 松本泰氏の小説にはアイスクリームが散見する。「樹蔭」といふのは少年の世界を書いたもので、明治らしい事柄がいろいろ出て来る中に、「神明の角の氷店でアイスクリームを飲んで店を出ると富田に出遇ひました」といふ一行が介在するに過ぎない。神明とあるので、芝であることがわかる。
 松本氏には滞欧中の同想を記した作品がいくつもあるが、「喜望岬を廻るべく」の一篇にはアイスクリームが二度登場する。その一はマルセーユで、市街を一通り見物し、ホテルで食事をとつた後、防波堤の近くを散歩する。そこに「カフエをのむ、アイスクリームを食べる、歌を唄ふ」と書いてあるきりである。もう一つはポートセードで、「暑い砂塵の一本みちを歩いて、俺達三人はとあるカフエに憩ふて、アイスクリーム、ソーダをとつてゐると、遠くの辻を娘達の一行が一列になつてトボトボ歩いてゆくのを見出した」とある。この娘達は船中からの馴染で、カイロからアレキサンドリヤの方へ買はれて行く寄席芸人であつた。マルセーユでアイスクリームを食べた時も、この娘達と一緒だつたのだが、船が予定通りポートセードへ著くと、白リンネルの服を著た、口髭のいかめしい男が艀舟に乗つて来て、六人の娘達を連れて行つてしまふ。然る後アイスクリーム、ソーダを飲みながら、遠い辻を行く娘達の姿を見ることになるので、「俺は立上つて彼等の最後のひとりが町角を曲つて全く眼界から消えて仕舞ふ迄見送つた」といふあたりへ来れば、この小読は已に終りに近くなつてゐる。アイスクリームの影は依然稀薄であるにせよ、この異国情調は棄て難い。
 恒川陽一郎氏の「旧道」は、この作品を成さしむるに至つた経緯によつて、当時の人には広く知られた小説である。その本筋に関係のないところに「資生堂のアイスクリームの看板も、もう寒さうにも思はれず、日ざかりのある時は気の早い人たちが店先で夫れを飲んでるのを見かけるやうになつた時分」といふことが書いてあつた。銀座とアイスクリームとの因縁もかなり久しいものではあるが、それが一般的なものになりかけたのは、明治の末年頃ではなかつたらうか。北原白秋氏なども「感覚の小函」といふ小品の中で、「私はまた久し振りに、あの銀座の青い柳のかげの白い瀟洒な喫茶店の椅子に寂しい孤独の身をなげかけて、せめては冷たい一杯のアイスクリームにさらに悲しい哀傷の新しさも味つて見ようかしら」と若々しい感想を洩してゐる。
 小説に用ゐられたアイスクリームが、どれも目立たぬ存在である中に、ただ一つ怪しい光を放つてゐるのは谷崎潤一郎氏の「柳湯の事件」である。或夏の夜の九時半頃、上野の山下にある弁護士S博士の事務所で、常盤花壇の燈に臨む窓際に肘をかけて、御馳走に出されたアイスクリームをすゝりながら、新聞の三面記事を賑はせた殺人事件の話をしてゐるところへ、突如として見知らぬ青年がおとづれて来る。これが「柳湯の事件」の圭人公なので、この青年が博士に語る奇怪な事件の成行は、最後に瘋癲病院に収容されたといふことによつて、或程度解決されるのであるが、そこまではアイスクリームの関与する領域ではない。こゝに挙げようとするのは、その見知らぬ青年が未だ一語も発せぬ間の描写である。

  彼は博士の顔を見ないで、少しく首をうなだれながら、ぢいつとデスクの上に稍長い間視線を向けて居た。デスクの上には、今しがた私が手にして居たアイスクリームの飲みかけのコツプと、卓上電話とが置いてあるばかりなのである。で、彼はそのアイスクリームのコツプの方を、いかにも珍らしさうな眼つきで、いつ迄もいつ迄も眺めて居た。彼はきつと息を切らせて喉が渇いてゐるのであらう。それで此のアイスクリームを飲ませて貰ひたいのだらう。――私がさう考へたのはとつさの間である。さうして次ぎの瞬間には、私の此の推察は非常な誤まりであつた事が明かになつた。なぜかと言ふのに、アイスクリームを見詰めて居る青年の眼つきは、「珍しさう」と言ふよりも、寧ろ「疑ひ深さう」な色を帯びて来て、見る見るうちに彼の顔には名状し難い恐怖の情が、ありありとび漫したのであつた。たとへて言へば、彼は恰も化け物の正体をでも見究めるやうな臆病な眼つきで、さもさも不審さうに、どろどろしたアイスクリームの塊を睨んで居たのである。それから彼は更に一歩前へ進んで、一層入念にアイスクリームのコツプの中をと見かう見した後、始めて安心したやうにほつとかすかな溜め息をついた。

 少くとも吾々の目に触れた範囲では、これがアイスクリームに関する叙述の最も長いものである。青年が先づ疑ひ深さうな眼でアイスクリームを見詰め、次いでその顔に名状し難い恐怖の情が溢れたといふことは、湯船の底に女の死骸があつて、彼の足の裏を舐めるといふ奇怪な幻想と当然関連を持つてゐる。青年の心は已に狂つてゐたのだから、その幻想が如何に奇怪であつても、常人の尺度を以て律するわけには往かぬ。「柳湯の事件」のアイスクリームが怪しい光を放つのも、全くそこから来てゐるのである。

   六

 小説以外の文学にどんなアイスクリームがあるか、遺憾ながらこゝに羅列するほどの材料を持合せてゐない。白秋氏の「東京景物詩」は後に「雪と花火」と改題されたが、その「花火」の詩にこんなところがある。

   花火があがる、
   銀と緑の孔雀玉……パツとかなしくちりかかる。
   紺青の夜に、大河に、
   夏の帽子にちりかかる。
   アイスクリームひえびえとふくむ手つきにちりかかる。
   わかいこころの孔雀玉、
   ええなんとせう、消えかかる。

 川開の頃は東京の暑気の最も烈しい時節だから、花火見物の人も、風のない夜空を仰いで、しきりに涼を求める。五彩の花火の次々と開く下に、アイスクリームの銀の匙を含む情趣は、明治以前の人の味ひ得ぬものであつたらう。併し日本の詩には、夏の景物として歌ふ以外に、アイスクリームそのものを描いた作品は見当らぬ。木下杢太郎の訳した「ヱロナだより」(Jean-Louis Vaudoyer)の一節の如きは、その意味に於て珍重すべきものかと思はれるので、特にこゝに掲げて置きたい。

   失敬、ちよつとペンを擱くよ。僕のアイスクリームが
   溶けかけたんだ。おやおや。だんだら三色の
   カフエエの層はうすいろの牛乳の層と、
   桃とワニイルの層と乱れ相闘ふ。
   錫の盆に載せた大きなコツプの
   凝冷の水日に照りきらめく。
   小さい虹その上に揺らめく。時に隣客
   あなや、つと立上つた、日とコツプとの間に。
   その陰忽ち薔薇の光彩を打ち壊した。

もしアイスクリームに就て、光彩陸離といふやうな形容詞を用ゐるとしたら、この詩などが好個の一例であらう。
 寺田博士の随筆は、前に挙げた「銀座アルプス」の外に、引用すべきものがいくつかあつた。博士には「珈琲哲学序説」などといふ文章があり、その書いたものの随所に珈琲の香が漂つてゐるが、アイスクリームもそのワキ或はツレといつた恰好で、時々登場して来るのである。
「小さな出来事」の中の「幼ない Ennui」といふ一篇には、アイスクリームが直接顔を出さないけれども、夏の夜の涼み話に、去年銀座へ行つてアイスクリームを食べた時の事が出る。小さな子供さん達が今年も銀座へ連れて行つてくれと言ひ出したので、翌日の夕方から奥さんに子供さん達を連れさせて銀座へ遊びにやる。博士はしんとした家の中で、母堂と話をしたり、本を読んだりしてると、十時頃になつて皆がどやどや帰つて来た。

  銀座を歩いて夜店をひやかして居る内に冬子が「どうして早く銀座へ行かないの」と何辺も聞いたさうである。此処が銀座だと説明しても分らなかつた。どうも銀座といふのはアイスクリームのある家と思つて居たらしいといふ事である。宅の門迄は元気よく帰つて来たのが、どうしてだか門をはひると泣き出したさうである。

 冬子といふのは一番小さいお嬢さんで、門を入ると急に泣出したといふのが所謂「幼ない Ennui」の発現なのである。このアイスクリームは殆ど影を見せるに過ぎないが、銀座とはアイスクリームのある家だといふ考へは、子供らしくてなかなか面白い。博士が留守番しながら、銀座の夜の繁華を想ひやり、そこにアイスクリームを口にしつつある家族の姿を念頭に浮べることなども、文字の外に滲み出てゐるやうな気がする。
「さまよへるユダヤ人の手記より」の中に出て来る「杏仁水」は、「或る夏の夜、神田の喫茶店へはひつて一杯のアイスクリームを食つた。其のアイスクリームの香味は普通のヴアニラの外に一種の香味の混じて居るのに気がついた。さうしてそれが杏仁水であることを思出すと同時に妙な記憶が喚び起されて来た」といふ話である。或香を嗅ぐと或過去の時代を思出し、歴々と眼前に浮んで来るといふことは、漱石氏もロンドン滞在中の手記に書いてゐるが、こゝでは先づアイスクリームに混じてゐる香味が杏仁水であることに気付き、それによつて杏仁水に関する過去の記憶を思ひ浮べるといふ順序になつてゐる。

  近来杏仁水の匂のする水薬を飲まされた記憶がさつぱりない。久しく嗅がなかつた匂であつた為に、今此のアイスクリームの匂の刺戟によつて飛び出した追想の矢が一と飛びに三十年前へ飛び越したのかも知れない。
  不思議な事に、此の一杯のアイスクリームの香味は其時の自分には何かしら清新にして予言的なもののやうな気がしたのである。

 もしこの時のアイスクリームが普通のヴアニラの匂だけであつたら、博士に何の連想をも起さしめず、「杏仁水」の一篇はついに生れなかつたかも知れないのである。
 もう一つ「三斜晶系」の中にあるのは、寺田博士自身の場合でなしに、傍観したアイスクリームであるが、これには今までのと全く違つた事柄が取扱はれてゐる。

  ずつと前の事であるが、或夏の日、銀座の某喫茶店に行つてゐたら、隣席に貧しげな西洋人の老翁が居て、アイスクリームを食つてゐた。それが通りかかつたボーイを呼止めて何か興奮したやうな大声で「カントクサン、呼んで下さいカントクサン、呼んで下さい」と繰返してゐる。やがてやつて来たボーイの頭をつかまへて「このアイスクリーム、チトモツメタクナイ。ワタクシもう三つ食べました。チトモツメタクナイ。――ツメタイノ持つて来て下さい。ツメタイアイスクリーム持つて来て下さい」といふのである。
  結局シヤーベツトか何か持つて来たのでそれでやつとどうやら満足したらしく、傍観者の自分もそれでやつと安堵の想をしたことであつた。

 老人がその環境への不満から腹を立て、周囲の人がそれを極めて軽く取扱ふ。寺田博士は子供の時分から、さうした光景を見ると「妙に一種の悲哀に似た或ものを感じる癖があつたやうな気がする」と言つてゐる。成程アイスクリームに関係はないが、食堂に於ける似たやうな老人の事を、二つほど博士の随筆で読んだおぼえがある。今では博士自身も老人になりかけて、かうした事に「悲しみと憤りを覚えることの可能な年齢に近づきつゝあるのかも知れない」といふのであるが、「三斜晶系」が雑誌に発表されたのは、実にその館を捐てる一二箇月前であつた。
 傍観者として述べた老人のアイスクリームは暫く別問題とする。寺田博士が珈琲のみならず、アイスクリームにも相当親しみを持つてゐたことは、以上の随筆から十分に看取し得るであらう。それを頭に置いて博士の書簡を読んで見ると、アイスクリームとの交渉がぽつぽつ目に入つて来る。ベルリンからの通信の中に「こゝの葡萄酒はうまい。アイスクリームもうまい」とか、「苺と梨と蜜柑とのはひつたアイスクリームを食ひ候」とかあるのや、大道のアイスクリーム売の絵端書を郷里へ送つたりしてゐるのは、海外に於ける新な見聞ないし経験の報告とも解せられるが、内地の日常生活の間にもアイスクリームはしばしば登場するのである。咽喉がかわいて仕様がないので、白木屋へ上つてアイスクリームを食べ、更に冷たい紅茶にアイスクリームを入れて飲んだといふ報告もある。松根東洋城氏と十二社の旗亭で連句を試み、その残りを新宿駅楼上の精養軒へ持つて来て、定食を食べながら継続、あまり永居してきまりが悪くなると、アイスクリームでも注文して体面を維持するといふやうな話もある。殊に微笑を禁じ得ないのは、避暑先のお嬢さん達に与へた手紙(昭和三年八月一日)の一節であつた。

  私は夜中庭の籐椅子で星をながめるといふ年中行事の一つを毎夜繰返して居ます。そして時々神田へ行つてアイスクリーム、アイスカフエーを享楽します……ズルーイー!! 千倉の寺田屋のアイスクリームは少しけんのんな感じがする。

「小さな出来事」の時代からは十年近い歳月が経過してゐるので、当年の幼い人達もかなり大きくなつた筈である。銀座をアイスクリームのある家と解した Ennui の持主も、その頃の事は忘れてしまつたかも知れぬ。併し平生アイスクリームに親しみのある父子の間でなければ、かういふ手紙は決して書かれるものではない。吾々は「小さな出来事」を対照して見て、この手紙に言ふべからざる興味を感ずる。

   七

 アイスクリームに関する材料は、気長に捜せばいくらも出て来るであらう。併し世間的に平凡なものになつてしまつた以後の話をやたらにかき集めたところで仕方がないから、最後に変り種を少し挙げて見ようかと思ふ。
 アイスクリームは俳句の季題通り夏のものであるが、專門家は四月からをそのシーズンにかぞへてゐるやうである。「それから」にあつた「焼芋屋が俄然として氷水屋に変化するとき」よりいさゝか早いらしい。この季節の早いアイスクリームに就て、森田たま氏は「もめん随筆」の中に次のやうに書いてゐる。

  二十年まへの三月、尾張町のかどのライオンでひき茶と苺を盛りわけにしたアイスクリームを食べて、これこそ春のアイスクリームだと感激した事があつたが、いまはもうアイスクリームも魅力を失つてしまつた。

 こゝに二十年前とあるのは何時頃を指すのであらうか。「もめん随筆」が出版された昭和十一年から逆算しても大正五年に当る。或はそれより更に遡るのかも知れないが、単に苺のアイスクリームだけならば、もう少し早いところにもある。小山内薫氏が明治四十二年に書いた「瓦町にて」といふ日記に「八州亭に上がる。腹の試験なり。麺包とコロツケとロオルキヤベツを食ひ、ストロベリイのアイスクリームを平らぐ。もう大丈夫だと思ふ」と見えてゐる。但しこれは春のアイスクリームではない。七月一日だから季節としては至極平凡である。小山内氏は前日来の腹痛が癒えず、朝も午も葛湯で済した挙句、夜になつてから外出して、この食事を摂つたことを「腹の試験」と称するので、品目だけ見れば多少不安な感じがせぬでもないが、かつて或人から聞いた話に、旅先で腹をこはしてどうにもならなかつた時、思ひきつてアイスクリームをたべたら、それきりよくなつたといふやうな例もある。一概に論ずることは出来ない。
 一年を季節の順に列べれば、春が最初で冬が最後のわけであるが、一年の終は季節の終と一致しないから、冬はどうしても翌年の初めに持越す勘定になる。従つて一年を単位にして見る場合、春のアイスクリームが夏より早いことは慥であつても、冬のアイスクリームの方は俄に断言しにくい。その月によつて非常な季節おくれにもなり、春を一つ飛越したハシリといふことにもなるからである。森田たま氏はその冬のアイスクリームに就て、「随筆歳時記」の中でかういつてゐる。

  冬の最中にアイスクリームをたべさせるところと言つては、精養軒、東洋軒などの本店については何も知らない。ただ私の知るかぎりでは、帝劇の二階のバルコニーで、凍る夜空にまたたく星のきらめきを仰ぎながら、……たべた。たべさせてくれる店があつたのである。

 いきなりこれだけ抽出したのでは、何のことかよくわからぬかも知れないが、この随筆には自ら冬のアイスクリームの出て来る順序がある。北海道生れで非常にアイスクリームの好きな人があつて、西洋料理店でアイスクリームをやるやうになると、いの一番にそれを食べに行くといふから、先づ「それから」の誠太郎の如きものであらう。誠太郎は最初の満足だけであつたが、この人は毎日毎日、日課の一つとして食べ、九月中旬に至つて、アイスクリームを食べさせてくれる家が一軒もなくなつた時、夏の已に終り、冬のやがて来ることを歎ずるのだといふ。北海道だけあつて大分念入に出来てゐる。この人が東京のアイスクリームに大なる期待をかけて上京したところ、高いばかり、甘いばかりで失望した。そこで森田氏が、東京のアイスクリームは冬に限ると言つたといふのである。
 何しろ時代が時代なので、北海道からの上京者には冬のアイスクリームが呑込めない。一体冬の最中に何処で売つてゐるかと来たから、前に引いたやうな説明になるのであるが、森田氏はこの冬のアイスクリームの連想として帝劇の女優劇の事を記し、明治四十五年二月といふはつきりした年月をも挙げてゐる。春に先だつ早い冬――ことによると僅に春に足を踏入れた位の頃かも知れぬが、とにかく寒い最中のアイスクリームであることは疑を容れぬ。
 冬のアイスクリームに就ては、北原白秋氏も「ほのかなるもの」の中に「夏はリキユール、日曜の朝、麦藁つけて吸ふがよし。熱き紅茶は春のくれ。雪のふる日はアイスクリーム。秋ふけて立つる日本茶、利休ならねどなほさら寂し」と書いてゐた。アイスクリームは夏のものといふ杓子定規派から言へば、強いて異を立てるやうに見えるかも知れないが、アイスクリームに新な趣を見出したとすれば、それもよからう。
 事のついでだから、北海道のアイスクリームの話を「随筆歳時記」によつて書添へると、札幌といふ町は西洋くさいところで、アイスクリームなども早くからあつたが、その値段は非常に安く、蜜豆のコツプ位に盛上げて五銭だつたさうである。さういふ土地から出て来た人に取つて、東京のアイスクリームが高かつたことは、今日からでも想像に難くない。

   八

 海外のアイスクリームの消息に至つては、到底吾々の手に合はぬ。寺田博士がもつと長生されて、「珈琲哲学序説」に次ぐ「アイスクリーム哲学序説」の筆を執らぬまでも、アイスクリームを主題した随筆を草する機会があつたならば、ベルリンの大道のアイスクリーム売をはじめ、いろいろの見聞が取入れられたことと思ふが、博士の随筆に於けるアイスクリームは、遂に我国を一歩も踏出さずにしまつた。洋行者のすべてがアイスクリームを口にするわけではあるまいけれど、前に引いた松本泰氏程度の材料なら、吾々の読んだ範囲でも若干拾ひ出すことが出来る。
 三宅克己氏がはじめて洋行の途に上つたのは明治四十三年の一月であつた。二月に入つて香港を出発すると、船室は日増しに暑くなる。そこでテーブルに出る氷水や日曜日毎のアイスクリームが何よりの御馳走になつて来た。「日本ならば今は厳冬、寒風吹いて、ストーブでもたいてふるへて居るべき時、汗を流してアイスクリームを喰ふなどとは、実に案外であると騒ぎ立つて嬉しがる」と書いてある。これなども冬のアイスクリームのわけであるが、船は已に熱帯に近付いてゐるのだから、暦日の如何をとはず、番外としなければなるまい。
 日本人の外遊紀行の中で、アイスクリームの記事の多いものと言へば、戸川秋骨氏の「欧米記遊二万三千哩」を推すべきであらう。秋骨氏の洋行は寺田博士より二三年前――明治三十九年から四十年へかけてであるが、第一に出て来るのは、大西洋航行のカイゼリン・アウグステ・ヴイクトリアといふ長い名前の船の中で出たアイスクリームである。

  此の時ヒヨツクリ後から給仕がアイスクリームを差し出した。其形が丁度棒砂糖のそれのやうで、円錐形をなしてゐるから、ナイフを執つて其端の方を中軸に併行さしてスカリと切り落すと、其切片は所謂円錐形の切断面となつて倒れる。円錐曲線法を教はつたのは、今や十数年前の事であるから能くは覚えて居らぬが、今余の切り倒したアイスクリームの一片はたしかハイパアボラを為して居るであらう。ハイパアボラであれば其の広がつた両側の外線は、如何に延長されても再び合する事は出来ないのであるが、末広も斯様なつては困るであらう。なほ其切断面を見ると、赤青其他の色が友禅などで見る墨流しのやうに曲線をなし渦をし交叉して居て、頗る奇麗である。恰も打物を見るやうな感がある。皿に取つて一寸眺めながら、又こんな事を考へると口に入れるのが惜しいやうにもあるが、そんな風流な考よりも食ひ意地の方が張つて居るので、忽ちこれを切つて口の中に投ずると、味は又格別で、かつて風月堂でやつた一杯十五銭のドロドロしたのよりも――アイスクリームと言ふ以上ドロドロした方が真実なのかも知れぬが――帝国ホテルで御馳走に与つた固いのよりも遥かにうまく味はれた。

 少し長いけれど、アイスクリームに就てこれだけ細叙してある文章は滅多にないから、その条を全部引用した。前に言つた風月堂のアイスクリームの値段といふのは、こゝに出て来るのである。
 第二はヨーロッパからアメリカへ帰る船中で出たので、「余等の卓に廻されて来たアイスクリームも兵士の形態につくられたので、第一に廻された人が其頭部を切る。第二が其手を切ると言ふので此れが又座興であつた」と書いてある。めいめいが切ることは前と同じであるが、兵士の形をしてゐて、その頭を切ったりするといふのが座興であるらしい。併し吾々の感情から言ふと、何も殊更に人間の形にしないでもよささうなものだと思ふ。昔の日本には寺の小僧がどうしても魚の形をした菓子を食はなかつたといふ話が伝へられてゐる。
 第三はシカゴの話で、八歳位の下宿屋の小娘にアイスクリームを買ひにやる。時は十二月卅日である。「寒中のアイスクリームは、屢々ある御馳走とは聞いて居たし、又実際始終試みて居たが、斯く一寸煎餅を買ひに遣る位普通に喰る物とは意はなかつた」と秋骨氏は言つてゐる。暫くして小娘が帰つて来たのを見れば、菓子をボール函に容れ、アイスクリームは紙に包んで持つて居つた。「アイスクリームを紙に包むは、ちよつと変つて居るが、一杯二十銭のどろどろしたので無いのを味つた人は、其紙包の怪むに足らぬ事を承知されてゐるであらう。併し菓子屋から宅まで紙に包んで来るに至つては、当然の事とは知つて居乍ら日本流のどろどろが先づ連想されて、些と妙に感ぜざるを得ぬ」といふのである。シカゴのアイスクリームは別に冬に限らぬと見えて、その味は特筆されて居らぬが、この秋骨氏の言つてゐるところは、慥に隔世の感がある。当時に於ける彼我の生活の相違は、正にこのアイスクリームによつて察知し得る如きものだつたのであらう。
 秋骨氏は頻りにどろどろを繰返してゐる。それも一杯十五銭と二十銭とあるやうだから、高いと言はれた東京のアイスクリームも、一定値段ではなかつたに相違ない。大庭柯公氏の随筆「其日の話」は「一杯のアイスクリームが一片のアイスクリームとまで進化した今日、十銭銀貨一個を奮発して、籐椅子へ身を寄せて居れば、アイスクリームの一皿は容易に我前に運ばれて来る」と書き出されてゐるが、この一杯から一片の進化は、どろどろから然らざるものへの推移と解すべきであらう。然もその間に値段の方は稍々低下の傾向を示してゐるらしい。
 尤もアメリカだからと言つて、あらゆるアイスクリームが同一範疇に置かれるわけではあるまい。水上滝太郎氏の「祭の日」などを読むと、「岡の芝生には屋台店が並んで、菓子、果物、冷氷菓、曹達水などを売つてゐた」とあるから、日本の縁日で見かけるやうなのも無論存在するのである。吾々の子供の時分に、最も多く逢著した大道のそれは、名はアイスクリンであつても、実際は今日の小豆アイスが大部分を占めてゐた。紅葉山人の日記(明治卅四年七月卅日)に「街頭にアイスクリイムと氷小豆を吃す」とあるのを読んで、ちよつと不思議に思つたが、再案するにこの「街頭」は大道商人でなしに、普通の氷店を指すのであらう。さうでなければアイスクリームと氷小豆とを同時に摂ることはむつかしいからである。
 万延元年に渡米使節の一行が、はじめて米国船中で口にして以来、昭和の今日に至るアイスクリームの歴史は、直に国運の消長や文化の発達を語るものとは言ひ得ぬにせよ、又それと何等かの繋りを持たぬこともあるまいと思ふ。過去に於けるアイスクリームが現在の日本にどういふ関係を持つか、そんなことを論ずるのは吾々の任ではない。アメリカのアイスクリームから書出したところ、いつの間にか一巡して、最後にまたアメリカの話になつたのは全くの偶然であつた。
 この辺で筆を擱くことにする。

《以下、奥付》

昭和三九年五月一日印刷
昭和三九年五月八日発行

発行所 東京アイスクリーム協会
    東京都千代田区神田司町二の一
    電話 神田(二五一)八三四三
発行人 中村一彦



『柴田宵曲文集』第五巻は、『氷菓漫筆』のタイトルで掲載するが、編集後記で次のように解説している。

「氷菓漫筆」は、東京都アイスクリーム協会から出されたA六判の孔版で、本文三五頁(八ポ相当三八字×一三行)、発行年次は不明であるが、同書は昭和三十九年五月八日、加筆の上「アイスクリーム漫筆」の書名でも刊行された。「アイスクリーム漫筆」は、A六判、本文二四頁(八ポ活字五四字×一九行)である。本巻収録にあたつては活字版を底本とし、まま孔版をも参考にした。


どれだけ「加筆」されたものなのか、確認していないが、活字版を底本としたのならば、「氷菓漫筆」ではなく「アイスクリーム漫筆」とすべきであろう。