『中学世界』第十一巻第十五号(明治41年11月20日)に、
「文壇諸名家雅号の由来」
がある。これは文士自らが己の筆名について、由来を説明したものである。
以下、引用。
文壇諸名家
雅号の由来
嵯峨の家おむろ君
私の雅号は寧ろ戯号と申す方が適当であります。私は小説を以て真面目の業と考へず、矢張、三馬、馬琴の流を汲む戯作者主義の男故、其の暖簾の表白する如く、戯号を用ひ申しました。其の由来も亦甚だ簡単です。即ち、常盤津に所謂、『嵯峨やお室の花盛り、浮気な蝶も色かせぐ……ツンテンシヤン』と申す三味線の音締めも締めの悪い朝敵、平親王将門の文句から取つたのであります。而して、此の戯号は、又同時に坪内博士の雅号、『春の家朧』の弟分たることを表白したものであります。坪内博士のは、『てりもせずくもりもはてぬ、春の夜の朧月夜にしくものぞなき』の和歌から出たので、何処迄も優美ですが、私のは、前の如く俗歌から出たので、何処までも下等です。兄貴は貴族、弟は平民、其社会に於ける結果も号の示す如く大懸隔を生しました。(君、姓矢崎氏)
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内藤鳴雪君
人の境遇は、結局自己の力の如何とも為し難き所、唯だナリユキに任さんとて、アテ字に認めて鳴(なり)雪(ユキ)と仕置候也。
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真山青果君
他につけて貰つた雅号です。恐らく字面が好い位のところで、意味も何もないのだらうと思ひます、佐藤紅緑氏の宅に居た頃です。旧友に矢口親平氏と云つて、今前橋の中学の教師をして居る人がある。この人が泊りがけに、薬王寺前の紅緑氏宅へ遊びに来て居て、偶然つけてくれたのでした。
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大町桂月君
小生の号の桂月は、郷里の俗謡より取り申候。即ち、
御畳瀬(みませ:地名)見せましよ浦戸(地名)を明けて月の名所は桂浜(地名)
小生の生国土佐の高知市と申す処は、三里の入海を控へ居り候。其入口の処に、桂浜あり、次に浦戸あり、その次に御畳瀬あり、桂浜は外洋に面し、観月の名所として、土佐中に鳴りひゞき居り候。桂月は、即ち桂浜の月といふ意味に候。単に地名のみを取りてもよろしく候へども、月の名所として鳴りひびき、殊に右の俗謡は、郷里にて、人口に膾炙致し居り候間、浜を取り去りて、月を加へ申候。それを長く引きのばして、桂浜月下漁郎とも申候。ついでに一つ申上候。小生は十二歳の時、国を出でゝ未だ一度も帰国いたし申さず、桂月と号するものゝ、桂浜の月は未だ一度も見し事も無之候。それでは、号に対して申訳なし。近き将来に於て、帰国して、桂浜の月を見るつもりに候。
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島崎藤村君
蕉翁が藤の花の句から思ひついたので、今から十五六年ばかり前に附けたのを、其儘用ひて居ります。
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山田美妙君
小生の号は、別に深い意味のあるのでもなく、只『美を得、妙に至る』といふ事を望んだと云ふ丈に過ぎぬのです。
『啖美喫妙』と云ふ印章をも拵へましたが、霞を啖ひ、露を飲むと云ふ神域に至り得ぬ俗骨、蝦蟇仙人でなくてナマ仙人に堕落した訳です。
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水野葉舟君
小生の雅号については、別にこれと申上げる程の記憶も持つては居りません。葉舟といふのに定めたのは、たしかに中学の三年か四年かの頃のことであつたと覚えて居ります。同窓の人に文学好きの人が二三人あつて、その人だちに感化されて、文章を書くまねをしはじめた時に、何かの拍子で葉舟とつけて見たのです。ゆはれも、抱負も、一種の感じも、そんな事はまるでなしで、言はゞ、口拍子に出たから、それに決めた位でした。極く微かに覚えて居るのですが、その時に、自分でつけた名が何となく危つかしい様に思はれました。それから、歌を作り出して蝶郎と云ふのにした事があります。今思ひ出してもぞつとする程嫌な名です。
その外にも二つ三つ便宜のためにつけたのもありましたが、長つゞきしたのは一つもありませんでした。それで、矢張初めのに逆戻りしてしまつたので、ついそれなりになつた訳です。
実は、小生は、雅号と云ふ事には、あまり面白味を感ぜぬ方の一人であります。如何考へても、本名の方がよいと思はれます。まあ習慣でつけて来たから、その儘になつて居る様なものゝ、無い方がさつぱりとして、いゝ様に思つて居ます。
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高安月郊君
小生処女作には秋風吟客と署し、次て『人形の家』の訳には、荼毘散士と致し候ひしが、文学を畢生の業と定めた上は仮号を用ふるの要無しと、重盛以後には実名を誌しゝに、其内また必要起り、『金字塔』に月下郊上散人と署し、爾来月郊の二字を用ゐ候。意味は文字の通りに御座候。別に出処は無く候。
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小栗風葉君
先師紅葉先生の許に入門の際、何か葉の字の付いた雅号をと小生より願ひし処、さらばとて、風葉の二字を選び下されしなり。風葉は秋の葉の意味にて、漢詩などに用ゐらるゝ熟字なるよし。多少小栗の栗に因める点もありしなるべし。折々楓葉と他に書き誤まらるゝ事あり。
次手ながら、小生の今の姓は、小栗にあらずして加藤なれど、旧姓を其まゝ雅号の中に加へたるつもりにして、相変らず小栗風葉を署名して居れり。小栗庵風葉居士、加藤磯夫。
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国府犀東君
小生の号は別に意味あるわけにも無之候。たゞ故郷の家、もと犀川の東にありし所から、仮りにかくは命じたるに、友人も皆小生を呼ぶに此号を以てすることゝなりしより、呼ばるゝに任せて、これを雅号に用ゐることゝしたるまでに御座候。犀川の東に生れたる人にして、学名文名一世に高き人も多きが中に、小生のみひとり斯る雅号を用ゆるは、僣越に似て赤面の至りに不堪。されど、犀川は、信濃のそれにはあらで、金沢の城下を流るゝ二水の一に御座候。
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浩々歌客君
来示の雅号由来記は興あることゝ存候。小生も角田勧一郎の通称は一なれど、雅号は沢山に用ひ候。その二三を記して貴意を得べし。
浩々歌客 初めて国民之友批評欄に執筆の節、同欄先輩、宮崎湖処子が「八面楼」と署したるに対し、小生は長々しいのが好からうとて「浩々歌閣主人」と署し、数回用ひたる時、友人松浦伐柯(現時満州在任陸軍通訳官)が見て「君何ぞ門を入りて更に家に上らざる」といふ。即ち閣の門を徹し、家のウ冠に替へて客となし、浩々歌客の四字に定めたるが由来なり。出処は馬子才の『浩々歌』に取りし次第にて、小生が平生愛誦の詩なればなり。
浩々歌天地万物如吾何、用之解帯食大倉、不用払枕帰山阿、君不見渭川漁父一竿竹、莘野耕叟数畝禾、喜来起作商家霖、怒後便把周王戈、(中略)浩々歌天地万物如吾何、屈原枉死汨羅水、夷斉空餓西山坡、丈夫犖々不可羈、有身何用自滅磨、吾観聖賢心、自楽豈有他。(中略)浩々歌天地万物如吾何、(中略)低頭欲耕地雖少、仰面長嘯天何多。(下略)
此詩は今も愛誦致居候。序ながら、小生の号は「浩浩歌客」にして「浩々」には無之候。また雅号を署する場合には、通称の姓などは、必しも必要なしと思ひ居ることに候。
不二行者 維摩経に不二法門などある如く、仏教哲学穿鑿し来れば多味多趣、小生の懐抱も此四字より多方面にわたる次第なれど、それは別として、差当りの由来は、小生は駿河富士郡大宮町の平民百姓にして富士山下に生れたることゝて、浩々歌客以前より「不二行者」と称したる次第なり。
剣南 これも別号に用ふ。年少時代陸剣南(放翁)の詩を好みたると、富士山の最高峰剣峰に取りたるもの、昨今社中に漢口特派員として支那通として知らるゝ小山田剣南子あり。これは放翁の本家なる剣南の地あたりをも跋渉せし人なれば、同子に会したる時、剣南譲与の相談出で、一笑致したることなりとて、桜顚と称し、にぎりめしといふことに禅味を感じて、飯頼山人などゝもいひたることもあり。最近毎日新聞紙上にては、迂鈍居士とも申候。これは別義にあらず、小生よく饂飩を好みて(大阪にては蕎麦よりも饂飩の方がよろしきやうなり)食ひ候と、資性の迂鈍なるとが湊合してさては迂鈍の別号最も適切かと考へられたるものなり。
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山路愛山君
愛山と申すは、十七八歳より如山と申したるに始まり候。自ら軽躁を誡めて、山の如く静かになれとの儀に候ひき。さりながら、如山は余り理屈ぽき名故、後に愛山と改め申候、二十才頃より以後、常に之を用ひ候也。
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小杉天外君
天外と云ふ号は、十五六年前に初めて小説をかいた時、新聞へ出すに臨んで、面白い号がない。その原稿は故斎藤緑雨氏の手で発表するのだつた。気六ケ敷やの氏のことであるから、夫もいけぬ、これもいけぬと、取かへ引かへした跡で、新聞へ出たのを見ると 天外とあつた。奇想天外より落下すと思ふは僕の自惚で、弱虫で、始終びくびくして居るから魂が天外に飛んで居るとの意味で、つけてくれたのであらう。この外にも、草秀、如是庵などの号もある。
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小山内薫君
小生には雅号無之候。以前は『なでしこ』などゝ云ふ女らしき雅号を用ひたる事もあれど、現今は全く用ひず候。又、以前は匿名に隠れて、批評の筆を執り候事も御座候なれど、現今は如何なるものにも本姓本名を記さゞるもの無之候。
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上司小剣君
五六年前、『読売新聞』にに初めて論説を書いた時、主筆が社説と区別する為めに、何んとか署名して呉れと云はれましたから、取り敢へず『小星』(小生のつもりで)と書いて出しましたが、或る日、小生の論説が組み上つて、工場へ廻らうとする時、編輯局内の漢学先生が、小星とは妾の異名だと教へて呉れましたので、急に厭やになつて、咄嗟の考へで、星の字を剣の字に代へて『小剣』としたのが、私の雅号の始です。
私は、元来雅号と云ふものは好みませんが、父の命けた本名が、余りに貴族的な文字を用ゐてありますから、仕方なしに雅号を用ゐることゝし、今日では、政府の帳簿は兎に角、自身には所謂雅号を本名として、使用して居ります。
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徳田秋江君
小生が雅号の由来と申しては、別段面白き仔細もある訳にては無之候へども、秋江と申す文字が表はし候如く、小生には、秋が一年中にて最も心身に好適せる時候にて、秋の沈静にして物寂びたる光景は何物によらず快く感じ候。さうして、秋の河流、沼沢の景は、小生に絵の如き心を動かさしめ申候。秋江と申す名称は、密かに自分に過ぎたる雅号とまで存じ居り候。小生は自分の拙き文章に恥づると共に、雅号の表はす自然には得意に御座候。御笑ひ下され度候。
唯、時々文壇の先輩たる徳田秋声氏に迷惑を掛けるが気の毒に候。それでも、小生は秋江の号を棄てかね候。止むなくんば、姓を改めても宜しとまで存じ候。草々。
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小川煙村君
御問合せの小生雅号は、〔出所〕大智禅師偈頌(第二十四枚目)「一声寒角発煙村」
之れは五更鼓角を聞いて、豁然大悟すといふ話のあるものです。
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与謝野寛君
小生は、曾て少年の際、漢詩を作り候。当時梅の花を愛し候より、鉄幹の号を用ゐ、爾来、それを襲用致居候ひしが、三四年前、この堅くるしき雅号がふと厭に相成り、只今は専ら実名を用ゐ申候。猶ほ時によりて、匿名を用ゐ候事も有之候へども、その時々に思ひつき候ものを用ひて、是と云ふ一定したる匿名とては無之候。
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遅塚麗水君
迂生雅号の由来といふお尋ね、何の仔細も候はず、少年時代、回覧雑誌などに署名の折、実名の金太郎では面白くなしとて、『千字文』中の「金生麗水玉出崑崗」より採り麗水生といたしてるまでに候。やがて、生の一字を省きて、今は麗水とのみ……。
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内田魯庵君
小生は曾て不知庵と号したるが、不知庵の名を以てしたるものは燬いて了う心持で、恥かしい記憶を忘れる為めに魯庵と改めたれども、此魯庵もイヤになつたから、又更めやうと思ふ。二つの号につき、由来なきに非らざれども、かぶり古るして、屑屋にでも売つて了はうといふ、古帽子に等しき号のいはれを云つたところで、下らぬ事と存じて申上げず候。
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福本日南君
明治廿二年の夏、乱暴を企てゝ、フイリツピンに赴き、呂宋の首府マニラに客留した事があつた。天の成せる寝坊は、何処までも着き纒ふ。一日、十時頃に寝台の上から鎌首を擡げ、温帯に位する本国の格にて、今頃天道はどの辺に居るかと、南の空を打仰げば是は不思議、日輪が居らぬ。畜生、何処にまごつくかと、回頭すれば、キヨロリとして北々東の分度に居る。其処で、始めて気がついて、能々考へれば、此辺黄道を南に去ること八度であつた。成程、己も途方もない処までさまよひ来たものよと感嘆して、左の如く出鱈まかした。
きのふまで南に見つる天つ日を北のみ空にけふ仰ぐ哉
日の横の関路を越えて天つ日の南の人となりにける哉
神の置く暑さ寒さの関越えて南の人となりにける哉
と遣つた。それからこのかた、御自分は赤日緯南之人と書いて見た。が、余り長いから、之人を切落して、赤日緯南と称へて見たが、まだ長い。とうとう縮めて日南と書いてみれば、日蓮、日朝、日朝、日蔭などの流れを酌んで、七里法華の端くれに似た観がある。是は罪障消滅の為にも妙ならん乎と存じ奉り、日南なんて、何時と無く書く事にした。又思へば、日南、国語にヒナタと読む。ヒナタボツコ、ヒナタブクロなど、自然其裏には、薄野呂の意味もある。旁々本人にふさはしい。
日南の由来斯くの如し。但し、是だけの事は、往復はがきの片つぺら一銭五厘幅員には入り切らぬ。乃ち美濃罫紙二枚と三銭切手一枚とをはづんで、御答に及び候也。此位御詫を並べれば、少しは広告になるだらう。
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木村小舟君
私の雅号は別に大した理由も御座いません。何でも私の小供の頃から一ばん愛読して居た小波先生のお伽噺、即ち黄金丸以来、これ程豪い人は他にないと云ふ念が、絶ず私の頭にあつたのですが、丁度明治三十一年の秋のこと、多年敬慕して居た小波先生の知を得て、自分もお伽噺風のものを作つて見たいと思ひ立ちました。さて夫れには何か号がなくてはおかしいと思ひ立ちました。さて夫れには何か号がなくてはおかしいと思つて、小波先生の小の字と之れもお伽噺に縁の浅からぬ桂舟画伯の舟の字を合せて、今の号を作つたのです。其頃小波先生のお手紙に貴号頗る妙と存じ候と云ふことがあつたのを覚えて居ます。夫れから東京へ出て、少年世界の編輯をすることになり、方々訪問して歩きますと、何処でも、「貴方は画の方もおやりになりますか」と質問されましたが、大方これは桂舟先生の門下に舟の字の付く人が多いので、間違へられたので御座いませう。
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沼田笠峰君
『君は奈良かね?』と言つて、僕の郷里を尋ねる人がある。蓋しこれ三笠山を意味するのであらう。ならのやうな昔ゆかしき地に産れたかツたと僕は屢々おもふことがある。けれども僕の産地は播磨の山中だ。播磨には、播磨富士と称せられる笠形山がある。それを取つて号にしたので、極めて月並のやり方だ。で、どうもこの号が気に入らなくて仕方がない、今更改める訳にも行かないから、これをくづして『かさみね』と仮名で書いたこともあるが、友人故河井咀華の強硬なる反対に恐れて、やはり元のまゝにして居る。『りツぽう』と読んでもよし、『りうほう』と読んでも構はない。併し、『峯』といふ字は、どうも虫が好かぬ、願くは『峰』と書いてもらひたい。
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薄田泣菫君
御尋ねの趣、左の詩句により御解き下され度候。
To the mild shape
Hidden by Love's fears,
Found us first i' the sward when she
Fer hunger stooped in tears,
"Wheresoe'er her lips she sets"
Jove said,"Be breathe Called Violet."
-Leigh Hunt
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三津木春影君
私の号は、格別意味がありません。どうせ符牒につけるんならば、坪内先生の御説ではないが、幾分でも苗字にふさはしい、字面も音もよかりさうなのを、と云ふので、つけたのです。もつとも、これは白楽天の詩集か何かに熟語になつて居たと思ひますが、今は忘れました。それから、曾て某君が使つたことがあると覚えて居ます。
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樋口龍峡君
小生の郷里は、長野県下伊那郡、旧長姫城下なり。姫城の東南二里、天龍峡の景勝あり、天龍の長江鵝湖の源流より、落ちて流れて十八里、赤石山系の峻峰と、三十六峰三千渓の称ある駒ヶ嶽との間を過ぎて、西岸断崖幾十丈の峡中に入るの地点たり。蓋し、天下の絶景たり。乃ち、取つて以て雅号とす。他の由来あるに非ざる也。
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尾上柴舟君
小生のには、何の意味もこれなく、たゞ、高等学校在学の時、一寸本名では都合のあしきことも出来いたし候故、かりに用ゐしが、そのまゝになりしにて候。従つて、音にても調にても読む人の好みにまかせ申し候ひき。しかし、今は音の方、よきやうに思はれ候につき、自分にも、左様となへをり候。御一笑。
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中村星湖君
私の雅号には、別に深い由来はありません。湖はふる郷です。星はその頃の星菫党のお仲間入をした記号、と云へばそれまでゞすが、私には一寸忘れられぬ一事があります。それは私の母ですが、これが親ながら小面の悪い程勝気の人でした、「おきの伯母さんは何をボンヤリして居がすね?」とて、隣の神さんに憎まれる程、毎晩のやうに薄暗い川端に立つては、北の空を見て居たさうです。それは私が村を去つて、甲府へ出た初めての年の冬だつたと、後から聞きました。「まかがね、」と母は答へたさうです。私は、子供の時分は、まあ(将)と呼ばれて居ました。「今頃は寝つらか、まだ起きて本を読んでるらか……と思つてサ。大きく光るお星様の下あたりが甲府づらナ。」子を思ふ毋は、寒い晩に外へ出ては、星を見て居たのです。つまらない事ですけれど。
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永井荷風君
尋常中学の二三年級の頃、下谷の第二病院に入院した時、一人の看護婦を見染めた。自分が女性に対して特別の感情を経験したのは、此れがそもそもの始めである。退院した後、小説をかいた。(これも余の小説の処女作である)小説には、是非雅号を署名せねばならぬと思つて、其の時いろいろ考へた。看護婦の名が「お蓮」と云ふので、其れに近いものをと考へた末に、荷風小史と云ふ字を得た。
其頃、自分は漢詩の方が熱心であつて、小石川に生れたから、石南酔士と云つて居たが、やがて柳浪先生の門に入つて、始めて自分の作を「文芸倶楽部」に出す時に、柳浪の仄仄韻に対して、荷風は平平韻になるから、此れは妙だと、漢詩趣味で、石南を廃止して、其後は習慣的に、荷風で今日までつゞいて居る。
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徳田秋声君
秋声と云ふのは、能くは覚えぬが、多分発句でも作るとき、偶然につけたのが、つい小説にも用ゐるやうになつたのであらうと思ふ。其前には、色々の号もあつたやうだが、到頭秋声になつたのに深い意味はない。厭な号だと思ひながら、久しく使つて来た。
号のみならず、僕の姓が已に厭な文字面だ。然し近頃は秋江君と云ふお連があるので、いくらか心強くなつて来た。
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馬場孤蝶君
小生の雅号――出典は荘子の斉物論、胡を孤に改めたるは、孤の方寂ありて良からんとの島崎藤村氏の注意に由れるなり。但、孤は一の意にして、片番ひの義にてはあらず候。
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坪谷水哉君
小生の雅号ですか――岩間の清水末つひに、流れて止まねば海に出る。ヨシや其間には、木の葉の下もくゞり、巌に砕け、石に激し、懸つて飛泉となり、走つて急湍となり、潭となり、瀾となつて、変化万千するとも、何処までも道を求めて進む所が嬉しい。水なる哉、水なる哉と支那の先生が感心せられたり。仁者の山に対して智者が水を楽しむと云ふやうなことは、我れ其の器にあらざるも、逝て帰らぬ間は、倦まず撓まず進歩を求むる谷川の流れは、青年の為めに好き模範であると信じて、唯だ何となく水哉と名けた。
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坪内逍遙君
はじめて逍遙遊といふ字面を見た時、それが只の Rambler といふ意味にも取れるのが気に入つたので付けた。それゆゑ、最初は逍遙遊人と四字にして居た。
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秋田雨雀君
小生は文士に雅号のある内は、日本の文壇もまだまだ駄目だと思ひます。雅号は遊戯です、道楽です。浪花節の親方が手拭をくばるのと同じだと思ひます。然しあるものは致方がないから、申上げます。
雅号――雨雀。自分は雨がきらひだ。雀も雨をきらふやうだ。自分は身長僅かに四尺九寸九分。雀も亦小さい鳥だ。自分の世にあるのは、雀の雨に震へて居るのと等しいと、自分を卑下したつもり。然し、其れは昔で、私は鷲のやうに羽を伸ばしたいものだと思つて居る。
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竹貫佳水君
僕の佳水と云ふ号の意味は知らない、石橋先生につけて貰つたのだ。故紅葉先生が撰らんだとか、後から聞いた。僕の兄弟子に小田原の人で鶴見佳山と云ふ人が居た。其次に僕が行つたので佳水としたのだとも聞いた。兎に角僕は知らない、竹貫直人の方なら自分が撰んだのだから訳がある。他でも無いが竹取りの直人ありけると竹取物語にある其洒落だ。
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田山花袋君
十八九の頃、何か好い号が無いかといろいろの本をさがすと、ある俳諧の本に花袋といふ字があつた。花袋とは何の意味だかしらぬが字面が面白い、花を入れた袋だらう位に思つて、つかつて居ると、ある日友人が来て、君の号は可笑しい、花袋とは一体何だと思つてるといふ。で、花袋はわかい女の匂ひ袋であるといふことが解つた。成程匂ひ袋は余り感心しない、何か別に取換へやうと思つて居たが、姓と号とがしつくり合つて字面も好いし、書きよくもある。それに其時もう都の花に小説を書いて其号で出して置いたので、変へるのが何だか惜しいやうな気がした。それから花袋は熟字を成さん、花嚢に改めたら好からうと云つて呉れた老人もあつた。けれど嚢の字がくずすに難かしいので、全然今の号で通して来た。成程名詮自称!それで少女小説、アクガレ小説、ニキビ小説を書いたんにだなどとの冷評は御免を蒙る。
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片上天弦君
御書面の趣承りました。別に然るべき出処も、面白い由来もありません。地水平線といふつもりです。蒼穹の孤形といふところから、地水平線を弦と見たのです。八年程前から用ひて居ます。絃の字をつかつた事もありましたが、今は多く弦の字を用ひます。
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田口掬汀君
自分の郷里に鰍瀬河と云ふがある。自分は十八九から二十一二の頃まで、春の夏の好天気の日に、其川岸の稲荷の祠に出かけて、書を読んだり、文章を学んだりしたものだ。飽きが来ると、流水で顔を洗ひ。口中の熱を洗ひ去つて、又勉強に取りかゝる。行末何になる身かわからぬけれど、汀に掬んで勉強したと云ふ回想が、一生忘なれぬ紀念だと思つて、掬汀と号した次第である。
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小川未明君
此の号は、坪内先生が付けて下されたのです。読方は、ミメイよりか、ビメイが本当なのです。この twilight と云ふ語はゲーテが beauty は twilight にありといつた例もあり、沈鬱を悦び、朦朧を好む私には此の語がよからう、しかし、同じ twilight でも黄昏だとか、薄明だとかは、もはや沈まんとする日の光。之に反して、未明―― Down は、是から夜が明け放れるといふ希望の満ちたうす明りだから、此の方が縁起がよからうといはれたので、未明と付けたのです。
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佐藤紅緑君
紅緑といふ号は、何の理由あるにあらず。これは故子規先生に就て、初めて俳句を学びし時、先生が僕の本名洽六と語呂同じければ、紅緑がよかるべしと、号を給はりしなり。花紅柳緑などゝ、決して浮いた考へには無之候。但し、先生は常にコウリヨクと言ひ居れり。僕も其のつもりなりしも、近頃はコウロクと呼ぶ人多し。不本意の事なり。
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佐々醒雪君
醒雪とは、清節の地口にこれあり候。往年、村夫子が、小生の姓佐々が笹の音ありと地口つて、竹の清節といふ号を与へくれ候。甚だ野暮と存じ、折ふし、友人水野幸吉氏自ら水幸と号し、さらに酔香の字を用ゐ候為めに、小生はその対句とも存じて、かかる新熟語を創造致し候外、毛頭仔細これなく候。
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菊地幽芳君
小生の雅号は、別にさしたる由来無之、高等小学校時代に、自分の姓に因みて、幼稚なる頭より勝手に択びたるものを、そのまゝ今日まで襲用し来れる次第に候。
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平木白星君
十二三年前の事である。僕が二十歳前後の血気に任せて、『赤十字』と題する脚本の処女作を書きなぐつた。それを尾崎紅葉先生に見せたところ、先生は僕に「自然盧主人」といふ雅号をつけて呉れて、脚本の草稿にさう書かれた(今もその筆蹟が残してある)言ふ心は、当今の演劇があまりに非自然である、型に嵌り過ぎてゐるから、これを自然に帰さなければならぬ。君等のやうな若い人たちがこれから大に勉強して、少くとも自然に近寄らしめなければ芸術の堕落だといふ話だつた。御説は眷々服膺して今も忘れないが、「自然盧主人」の号は何だかおどけてるので使ふのをやめてゐた。脚本も到頭公けにしず仕舞だ。
翌々年頃、新体詩を作り初めて雅号が欲しくなつた。あれでも無いこれでも無いと、一廉苦労したものだ。僕は其時分、漢甘公石申といふ男の著した『星経』を読で、星といふものに趣味を感じてゐた。星といふ字は僕の通称の照雄の「照」と名宣の重明の「明」とも縁がある。雅号には星の字を入れたいと思つて、三月二日に生れたのだから、二日生の三字に約めて「二星」といふのを撰んだ事だ。
其後屋学者から一等恒星の光は白色だといふ事を聞きかぢつて、自分も一等星となり詩壇の耀魂たらんなど、愚にもつかぬ青年の妄想から「白星」と改号するに至つた。
元来 Nom de plume. の由来は、誰のでも聞て見ればたわい無い付会が多い。僕のなぞ最もその甚しいもので、誠に以てお恥かしい次第である。今考へて見れば、紅葉先生がつけてくれた自然盧主人の方が余程真面目だつたのだ。
★
夏目漱石君
小生の号は、少時蒙求を読んだ時に故事を覚えて早速つけたもので、今から考へると、陳腐で、俗気のあるものです。然し、今更改名するのも臆劫だから、其儘用ひて居ります。慣れて見ると、好も嫌ひもありません。夏目と云ふ苗字と同じ様に見えます。
★
久保天随君
十四五歳の頃、荘子を読みて、在宥篇の、
故君子苟能無解其五蔵、無擢其聡明、尸居而龍見、淵黙而雷声、神動而天随、従容無為而万物炊累焉、吾又何暇治天下哉、
と云ふに至り、はじめて天随の二字を見付け、その儘に採つて号と致し候。後に晩唐の詩人陸亀蒙が天随子と号せしことを知りたれども、遂に改めず。い
つぞや自嘲の短古一篇を作り、その結に於て、左の如く、聊か弁明の意を寓し置き候。
……怱想笠沢煙波瀾。斜陽雨霽甫里祠。蘆花欲雪楓翻岸。漁笛晩向秋風吹。好載詩筒釣具去。扁舟江湖任所之。須識夙因同名字。我是三生随天随。
★
米光関月君
小生雅号につき御訊ねに候へども、別段由来記も無し、唯長州下の関の産故『霜の関人』と致したるが、霜夜より月を思ひ、『霜の関月』と相成、それが変じて、今日の『関月』に相成候迄。
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高浜虚子君
故正岡子規に、雅号をつけて呉れと申候処、実名の『清』の音を其まゝに、『虚子』ではどうかと申したる以来、相用ゐ居り候。
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西村酔夢君
僕の雅号は、阿爺が僕の子供の時にくれたので、何故爾うつけたのか、僕には分らない。お尋ねがあつたので聞合せて見たら、『世の中は夢ぢや、人はそれに酔つて、居るのぢや』と云ふ答があつた。近世的の、ロマンチツクな意味も何もないのである。酔茗君の弟分だなと云ふのは、邪説信ずるに足らずである。
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正宗白鳥君
白鳥といふ雅号は、深い因縁があつたのでもなく、只英語のスワンから思ひついただけに候。此頃は、号と云ふ者はなくてよろしと存じ候が、文壇の常套に従ひ、不相変用ひ居候。ハクチヨウと云ふ音が、嚔の「ハツクシヨ」と似かようて、何でこんな馬鹿な号をつけた事かと後悔致し候。
ついでに申上候が、此頃毎日曜に龍土軒より送りくるる献立表には、何時も白馬殿と宛名を書いて居候が、何れにしても、酒に縁あること不思議に候。しかも、小生は大の下戸なり。
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柴田流星君
私の本名『勇』は説文流に申すと、『甬』の字と『力』の字を合したものなのですが、ドウいふものか、これは片仮名の『マ』の字と『男』といふ字の合したもののやうに『マヲトコ』間男と仇名して、小学時代から友人間に揶揄はれたものです。夫れから、中学時代だつたと覚えて居ます。或時、私が脳を病んで、水で冷やす必要から、頭髪を剃つて、坊主頭にして居ますと、又た誰いふとなく、間男が夜這坊主になつたと椰揄ひ出しました。で、私はこれが嫌で嫌でなりませんでしたから、其頃謡曲の本を見ますと『弱法師』といふのがありましたので、之れは『ヨロハフシ』とよむのですが、私丈は『ヨワイハフシ』とよむで、遂に号に用ひました。其後、和名類聚抄や合類節用などで、夜這星の所を引いて見まし記ら、恰度適当な『流星』といふ訳字がありましたので、夫れ以来、雅号を流星に改め、軈ては天涯漂泊の身たるにも合しますので、今に恁く号して居りますのです。
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岩野泡鳴君
僕の雅号には、別に意味はない。拾数年前、日清戦争の当時、――その頃は脚本を専門に書くつもりで、雑誌『歌舞伎新報』を編輯して居た。――一種の新式悲劇を草し、之を出版したが、匿名で出したのだから、近松門左衛門をもぢつて、阿波寺鳴門左衛門として置いた。僕が淡路の国で生れ、阿波の鳴門の名を、その風景に於ても、また浄瑠璃に於ても、知つて居たからである。それが余り長い号であるから、略して阿波を泡に代へ、鳴門の鳴を取つて、泡鳴と云つて居たのが、そのまゝになつたのだ。
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前田林外君
私は幼少の時より林からは少なからず趣味を与へられてゐるのですが、稍長じてはです、忘れたくても生涯忘るゝことのでけない感動を与へられてゐるのです。八九歳のころ時疫に罹つて健康を害したので、気候の好い海辺の遠縁者の処に、さやう二ヶ年程養生かたがた其処の小学校に学んだことがあります。そのドームは晒屋でした。木綿を白く晒らしまして、それを大阪へ送るのですが、その辺の海は遠浅でしたから、船は小船ばかりしかありません。それで、高砂の港まで、小積みにして送つて、そこから大船に移し大阪へ送るのです。私はをぢさんが往かない時は、監督代理といふやうな資格で、よく往つたのですが、此の監督なかなかアテにならないのでした。といふは瀬戸内海でも其の辺は最も佳い景色に富んだ処で、粟生の松林、恋の浜、飾磨津、八家、尾上、曾根、印南野抔は皆その沿岸です。そして海上には家島が薄墨で描いた絵のやうに見えるのですね。ですから気に入つた松林が見えて来るとぢき『オイ彼処へ上げてくれ』です。そして私は校長さんの宅で教へてもらつた謡曲「竹生島」を歌ひながら歩くのです。そこは明るい林で、松露の匂も好かつたのですが、凉い冷な林の韻は又格別でした。で、私はその林の趣味や、その面白味は今でも忘れませんですね。
その後故郷に帰へり、小学を卒へて、姫路へ出でて勉学しましたのですが、宅に帰つてゐる時は、冬と雨のふる日とを除いては、必らず宅の所有でした林の中へ入つて読書したものです。その林はなかなか大木の多い林で、種々の草花も沢山ありましたが、就中蘭が非常なものでした。とこしへ蔭に咲いて、とこしへ蔭に散る幽なる芳蘭の姿は今も懐しいですね。十五の歳は恋しいその林を棄てゝ上京したですが、故あつて学業を終へずして帰国しました。処が私の「読書の林」は悉く切株になつてゐたので、私は思はず熱い涙を濺いで泣きました。一体私の生地は元は天領で、卜ン卜学問は修めない。それといふは比較的ゆたかに暮らされたので懶惰たのだといふことですが、明治になつても、その陋風が去らない。此の時私は決心したです。之れより誓つて親から一切学資を仰がない。若しも此の上田畑にまで傷がつくやうなことが有つたら、それこそますます学問の為に嘲罵を受くることならん。かう決心しまして、歳を経てから大阪へ出でゝ、泰西学館で英学を修めてゐた時抔は艱苦偏に嘗めました。同じく是れ艱苦なら東京でするに如かじと考へまして、夏の七月二十日そこの八軒屋から三十石に乗つて淀へ上り、其れより東海道を徒歩です。勿論無銭です。此の行、林から又一種の情趣を与へられましたですね。今から考へると可笑くもありますが、なかなかその時は涙ですね。「山科の木幡の里に汽車はあれど銭が無ければ徒歩よりぞゆく』此の辺は酸桃や艶杏の樹の多い処でした。その酸桃を食つたせいか、水を飲んだせいか、下腹がしくしく痛んで一足も歩けないので『汝、耐ゆべきか、耐ゆべからさるか』と自ら詰問してみたが、返事がない。それでとうとう、暗い暗い林のほとりへ這い寄つて、青草の茂つた中に横つたですね。私の疲労を憐れんだのか、困憊を慰めんとてか、珍しいことには、鶯が夏の真盛に美しい声で頻に鳴くのです。又折りには閑古鳥も鳴いたです。で、私は少なからず寂い旅情を慰め、林の情趣もますます感じたですね。大石良雄の邸跡から近い処でしたから、そのころ欽慕してゐた山鹿素行先生のこと抔思ひ乍ら、そこで夜を明しました。それから鈴鹿の関の峠林でも忘れ得られないことがあつたです。その長い長い峠林を越えます時は徹夜歩いたのですが、その夜は折り悪しく月もなく星も凡て見えない。大木の茂つた昼さへ薄暗い処ですから、路は真暗であつた、が進むに従つて、幸に蛍が多く飛んでゐたので、非常に私を慰めてくれましたです。蛍を沢山提りまして手拭に包んで提げて、嶮い渓を照して、その峠林を歩いたですね。私にはそんな、こんなで林の匂や響きや情趣が深く魂に沁み込んでゐるのですね……今朝も松陰神社のある世田ケ谷村の杉の若林を一周して来たのです。林外といふ号はこんな由来からつけたのです。
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幸田露伴君
露を美しく、好ましくおもひしより。
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江見水蔭君
最初には水蔭亭主人と名乗つて居ました。後、紅葉君の勧告で、単に水蔭となりました。十八九歳の頃に付けたのですから、頗る幼稚な考へで撰みました。『一河の流、一樹の蔭』といふのも含んで居るし、『山陽道出身なので、其の対に水蔭』と故事つけた点もあり、叔父の水原といふのに一方ならぬ世話を受けたので、『水原のお蔭』といふ意味も有るんです。何しろ水の蔭といふのは、語を成さぬ様です。変だけれど仕方が無い。
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村山鳥逕君
小生の別号鳥逕は、明治二十八九年の頃、故尾崎先生より命名せられたものにて、出所等何も存じ不申。唯、鳥の飛ぶ所、即ち天空の意味に候由。逕徑孰れを正しとすべきか、其さへ存じ不申、甚だ迂闊お羞かしき次第に御座候。
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前田木城君
まだ国にゐた頃、村の医師の川崎煙村と仰有る方について、漢詩を作り習つたことがありました。その時雅号にとて附けて下すつたのが『梅城』といふのです。で、東京へ来てからも、それをそのまゝ使つてゐましたが、どうも少し古い匂が有り過ぎる……
そのことを、もう三四年前にもなりませうか、何でもまだ坪内先生のお宅が改築される前のことです。ある日、お二階の狭いお書斎で、先生からいろいろお教へを蒙つてゐた時に、話の序に申上げると、先生も暫く小首を傾けて打ち案じて居られました。『さうさね、少し堅過ぎるやうだ。漢詩人の号としても古い。』と仰有つて『いつそ旁を捨てたらどうだらう。扁だけにして木城と……』と膝の上に指で大きく『木城』とお書きなされた。
それを見ながら、私も『木城』と口真似して見ましたが、音がぎこちなくて、どうも落ち付き兼ぬるやうに感じましたから、さう申上げると。
『さうでもなからう。それに木の城といふのは船のことで、希臘の神話にも有る。丁度前田といふ苗字との釣合もよい。』
――といふやうなことが、先づ私の雅号の由来です。
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巌谷小波君
小波と書いて『さゞなみ』と読ませる。ちと無理ではあるが、それでも読んでくれるから有難い。これと云ふのも、以前つけて居た漣山人が存外世間へ通つて居るからでもあらう。
さてその漣は何所から出た? 云ふまでも無く志賀の都の古歌から出たので、僕の郷里が江州である故であるに過ぎないが、ある時、或る麁忽な紳士にシヅク山人と読まれてから、もうウンザリしてしまつて後は専ら小波にした。これは僕の家の姓だ、大江姓である以上は、大江小波とした方が、字面も好くなるからである。
尤も俳号としては、此号と音読して、セウハと呼ぶ様にして居るが、これをコナミと呼ばれると又ウンザリしてしまふ。
イヤ、漣と小波では、面白い事があつた、それは伯林での事で。当時留学中の某軍人は、巌谷漣山人と、大江小波とは別人だと云ふのに、其地の日本通なる某教授は、それは全く同人だと云ふ。揚句が賭になつたところ、後に本人に聞いて、遂に団扇は独逸人に揚つてしまつた。尤のこの軍人は、古い硯友社時代の小説のみを知り、またこの独逸人は、専らお伽噺の方ばかり知つて居たのだ。
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渡辺霞亭君
御尋ねの事、左のみ趣味もおはさず、木玄盧が霞の賦に「雲錦散文於沙汭」註に「朝霞也」とあるを採りて、朝霞と号せしが、後に、霞亭と改めたるにて候。又、別号碧瑠璃園は朝顔の培養に熱注せる頃、園の扁額に題せるにて、深き意味も何もなく候。
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塚原渋柿君
私が四谷坂町の自宅に大きな渋柿の樹がありました。毎年鈴なりにうつくしく実るが、人も目がけず、鳥さへ愛想をつかされて、心静かに晩秋の小園を彩どつて居る。其の暢気さ加減、私も其の渋柿ほどにまだ世を悟り切れぬが、それでも、其の以来無病壮健で、今年は還暦だが、元気は以前と変りませぬ。
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小島烏水君
上州烏川の水
信州烏川の水
項王敗戦の烏江の水
孰れにても可なり。取り分け信州烏川の水は、純潔なる花崗岩地を流るゝことゝて、清徹尤も愛すべく候へば、人に問はれてかく答へたることも有之候へ共、正直のところ、以上の三つはアトからクツヽケたものにて、実は商人の文学いぢり、『鵜の真似をする烏、水に溺る』から、始まつたものに候。
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金子筑水君
小生の雅号は別に深い意味あるにあらず、唯、生国が筑摩川のほとりなるを其のまゝに、筑水と名のりたるまでに候。
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饗庭篁村君
小生、生母に早く別れ、竹村氏の乳によりて養はれた、其の恩義を忘れぬ為め、篁村と号し、竹の屋とゝなへ申候。
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相馬御風君
御下問の件、別にこれと申す面白き由来話も無之候。たゞ、十七八の頃、蘇東坡の赤壁の賦が非常に好きであつた処から、その中に「馮虚御風如羽化登仙」から据りよく、音のよき二字を選びしだけに候。たしか、中学の四年末か、五年の始め頃のことかと存じ候。
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石橋思案君
先年「新小説」よりも同じ問合せありしが、其節も答へ置きし如く、小生の別号は由来の何のと勿体を付け候次第のものに無之、只読んで字の如しと申上ぐる外は無御座候。
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戸川秋骨君
蘆の湖畔に夏を過した時、「文学界に出すべきものを書いたが、適当な署名が出て来ない。その時、丁度一処に居た藤村君が、折から持ち合はして居た杜子美の詩集のなかゝら、適当なのをさがし出してくれた。それが即ち秋骨である。時はまだ夏の末であつたが、山の上で、秋の趣があつたので、その時の心持を示したつもりです。
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昇曙夢君
別に由来と申す程には無之候得共、去る三十年頃出版の、内村鑑三氏纂訳の『愛吟』の巻頭に引かれある、アルフオンソー、ラマーテインの句に『詩は英雄の朝の夢なり』と有之候ひしを非常に面白く感じ候まゝ、其頃より只今の号を使用致し居る次第に御座候。
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草野柴二君
僕の高等学校に何某といふ友人が、ノートブツクに若杉三本を描いて、僕の本性を地口つた。そして、其絵には、一面に草を画いてあつたが、それは柴草のつもりらしい。僕は、当時詰らぬ著書を書いて居て、所謂雅号を何としたものかと、内々考へて居たので、其画を見て、草野柴二としやうと直覚したのだ。僕の面付同様、百姓らしいこの草野柴二がフサハシイやうに、不図思つたのだ。由来といつては実の所是れで、古事古典を調べて斯う名告けたんぢやない。(君、姓若杉数字、名は三郎)
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窪田空穂君
何と云ふ程の事も候はず、人真似に、雑誌に和歌の原稿を出し始めし頃、本名を書くも変に思ひて、かりそめに附けしものに候。唯、字が気に入つたと申すばかり、実は意味もよく存せず、後になりて、辞書を引きなど致し候。其儘にて、唯今まで参り候。
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中島孤島君
小生の号に就ては、別に趣味ある由来などはなく、曾て専門学校在学中、級の雑誌か何か書いた折、符牒代りにつけたものを、其のまゝ今日も用ひ居るまでに候。
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千葉江東君
……小生如きもの御答申すも如何なれど、折角の貴命に背くも奈何。末席を汚し申すべく候。
少時、『史記』の項羽伝を愛誦し、藉が百戦皆な敗れ、東烏江を渡らんとして得ず、江東の子弟三千人、今ま一人あるなし。何の顔あつて郷党に見えんやとて、自ら刎ねしを限り無く悲痛に感じたるが一つ。更には性来河が好きにて、郷里に鳴瀬川と申す河があるとを入れ交ぜて、只今の江東が出た訳に御座候。
★
吉江孤雁君
小生の号は、今から十年も前、まだ松本中学に居た頃、中沢臨川君と最一人の友人とで、何とか号を定めやうぢやないかと云ふので、三人で三つ号を作つて、三人でくじ引きにしたので、孤雁と云ふのは其時私にあたつたのでした。中沢君は、其頃から今にかわらず、僕には文芸上、学問上、実行上、常に教導し警告し、保護して呉れる兄と思ひ、師と思つて使ふる人です。字としては、まづいかも知れないが、僕には、紀念多い号だから、由来のお話しするのです。負ふ所ばかり多くて、報いる所の小ないのは悲しいが、自分の名を見る度に、中沢君の恩を思ふのです。
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福田琴月君
李白の詩『古琴帯月音声正』よりとり申候。
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児玉花外君
野生、少年の時、先哲叢誌を読み、確か頼山陽の記事の中に、花外の文字あるに、不図心に感じたる儘、以て今日に及ぶ次第に御座候。
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広津柳浪君
私の号は、自分が撰んで附けたのでありませんから、何か出所があるのか、またどんな意味があるのか知りません。私から四五代前の藍渓と申した儒者の二男で、長崎の医師の馬田家を継いだ人がありましたが、此人は蜀山人等と親しく交つて居て朝顔日記と云ふ小説を書いた事などがあつて、其号を柳浪と云つたのでした。私が初めて小説を書いて、初めて新聞紙に載る事になつた時に、急に号をつけなければならなかつたのですが、これと云ふ、気に入つた号を考へ得なかつたので、取敢へず柳浪の号を襲つたのが、つい其儘になつて、今日に到つたのです。
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生田長江君
小生雅号に就ては、格別趣味ある由来もありません。自分では、どうも思はしいのが思ひ浮ばず、上田敏氏に附けて戴きました。是でも、永久に伝へやうとする名だと思へば妙な心持になります。
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宮崎湖処子君
湖処子は、郷里の「古処山」とスコツトの「湖上之処女」とを組み合せたる雅号に御座候。
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泉鏡花君
おん問ひあはせの号の儀は、紅葉先生につけて頂き候を謹で用ゐをり候ものにこれあり候。
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蒲原有明君
小生の雅号に就ては、別段面白き由来も無し、唯郷国の地名に基きたるものに御座候。さりながら、最早今日にては、かゝる雅号に厭き厭きいたし居候。
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沼波瓊音君
古事記の「瓊響瑲々」より取り候。あそこの文、大好き。素尊は我が産土神、わが産れた町が玉屋町。それやこれやで、高等学校に居た頃つけた号に候。画が多くて、我ながらいやな号かな
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河井酔茗君
私の雅号は、少年の時、好んで葉茶をなまのまゝバリバリと食べた頃につけたのです。今は意味も、字義も無くなりまして、只声だけが残つて居るのです。
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吉野臥城君
只今故郷に帰臥罷在候。故郷は即ち磐城国角田町南町に有之候。小生の生れたるは、臥牛城南の茅屋に候へば、臥牛城南の四字を分ちて、二つの号を作り、詩人としては臥城、俳人としては牛南の号を用ゐたる次第なるが、今日は俳句をやめ候に付、臥城専用の事と相成候。
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高須梅渓君
小生は性来梅の花を愛し、殊に拙堂の『月瀬紀勝』を読みて、月ヶ瀬渓畔の紅白梅に憧憬がれ、雨に、雪に、月に、其の辺を俳徊して、去るに忍びざりし事有之候儘、之を紀念するために、自ら梅渓と名乗り申し候。何れは十数年前の無分別に付けたる雅号に候へば、御一笑下被度候。
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斎藤吊花君
小生の号は、十六歳の時、春日遅々、寡れんとして暮れやらず、山家の住居何となく心寂しき折、心に浮びしまゝに用ひそめたるものに候。其外何等の意味なく候。後、徳富氏に会せし時、吊花などは女性的で、而かも縁起よろしからねば、改号してはと申されし事あり、今は亡き国木田君なども、高花としては如何。予は高花一村明の句を愛誦す、何となく気高からずや抔評されしが、別に改むる程の野心も熱心もなく、其儘用ひ来り候。但し、小生は、何となくこの雅号が自己を代表し居らぬ様覚えて、改めたき考へは無きにあらず、此野性を代表する好字句を発見せざるにて候。素より通常文人生涯に多くの希望なき村長志願の小生にあつては、七兵衛でも八兵衛でも、亦深く考ふる程の事でもなかるべきか。御一笑下さるべく候。
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後藤宙外君
宙外の号の出所を大略申上候。
小生、郷里秋田に於いて、明治二十一年の暮頃、秋田県庁の書記を勤め居候。その際、議員中の有力者等の言動、甚だ不公明至極なのを見聞致候。慷慨の極、激論につぐに熱涙を以てせしことも屢々に候。その為、発言権なき書記の小生が、突然発言等して譴責を食ひし事も有之候。その慷慨苦悶の苦しさに堪へず、字宙以外に立つ心持で居たいといふところから、当時この号を選み候。始めは、語をなさん、熟字にないなどゝ友人に云はれ、色々漢籍などさがし候所、仕合にも立派に熟字があるので、其儘用ひゐる次第に候。
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長谷川天渓君
荘子の逍遙遊に『南冥者天池也』といふ句がある。これから作つたものであるが、当時、文界に有名であつた人が、「天知」といふ雅号を付けて居られた、それと言が似て居るから、池を勝手に渓と改めたのである。
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金子薫園君
由来と云ふ程の事もないが、兎に角、自分に号を命けて呉れたのは、先師落合直文氏の令弟、鮎貝槐園兄(新派和歌の先覚者であつた。今朝鮮で、ある大きな事業をして居られる)である。兄が明治二十七年の秋ごろ、谷中の某寺の一室に寄寓して居られたが、自分は何かの動機に、ふと号が欲しくなつて、同兄へ相談に出掛けた。スルと、丁度菊の盛りで、窓際の際だつて白いのが清香を送つて居たので、何うだ『薫園』としたらとの話に、母の法号の妙薫大姉といふのにも聯関して懐かしかつたので、非常に満足して、それから今日まで、づうと用ひ続けて来たのである。月並的であるといふ事と、文字に書いても、活字に摺つても、姓に比して画が多すぎて、不調和だといふ事が気にならないでもないが、槐園兄――母の法号――と云ふやうに懐かしみに勝てないので棄てかねて居るのだ。
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湖山人君
顧れば、今より十四年の昔、自らは畔骨と号し、「可憐児」なる一短篇を草して之を小波先生の机下に致し、加朱若しものになりたらんにはと、「少年世界」に登載を請ひしに、畔骨とは如何なる所縁にかあらん、余りに難かしくて、妙ならず、仮に湖山人と署名して、雑誌に載せたり。悪しからば、又改めてんとあり。琵琶湖の近く生れし身の、清澄は我性の願ふ処、湖山人とは、是れより予が号とはなれるなり。(君、姓黒田氏)
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島村抱月君
小生の号は、少時漢学に耽り居り候頃、東坡の赤壁賦中より取り候ものにて、「抱明月長終」と申す句が之に御座候。
★
海賀変哲君
夫れ雅号は女房の如し、と云つても別に六ケしい理屈のあるのではない。只好い雅号をつけて置けば、風采から何から、好い方にのみ想像されるが、悪い雅号となつたら正に六十年の不作だ。碌々見合もせず、性質もたしかめずに貰つた妻の為に、えらい難儀をするのは往々ある事だ。僕の雅号が恰度それで、別に動機のあつたでも何でもなく、言はゞ串談半分につけたのが、今日までに至つたので、之が為には近所合壁に対して、本人面皮をかく事が少くない。尤も区役所まで届けたのでも何でもないのだから、敢て三行半を要ゐるにも及ばぬ、都合によつて改号致候だけで、話し合はつくのだが。いゝ年を仕つて今更離縁話でもあるまいと、夫なりけりに成つては居るが、思へば厄介な腐れ縁である。
「雅号の由来」を編輯して
以上数十家に対して、先づ厚く感謝致します。不図した編者の思付きが、諸賢の同情を買ひ、斯様に賑やかな、華々しい欄を設けることが出来たのは、非常に嬉しい訳だと思ひます。
勿論圏点は、こちらで縦に附けたのもあります。若し、これが為めに、文章を傷け、調子を乱すやうなことがあつたならば、それは余く編者自身の貴任です。
排列は、信書到着順の式をとりました。
本欄に収められた諸家の外に、わが文壇は尚ほ多くの作家其他を以て飾られて居るでせう。けれど、いろいろの故障の下に、それ等の方のすべてに対し、同じ要請をする機会を失したのは遺憾に感じます。
四十一年十-月 西村渚山
(『中学世界』第十一巻第十五号。明治41年11月20日)
以下、ついでに宮武外骨の説明。
『スコブル』第16号(大正7年2月1日)第17号(大正7年3月8日)に、
「〔明治大正〕名士雅号の出所」
として、由来が説かれている。
『売らん哉』我待賈号(昭和3年2月8日)には、
外山正一は旧名捨八
として、神田孝平・福沢諭吉・総生寛・外山正一の号・名について由来の説明がある。
以下、引用。
●〔明治大正〕名士雅号の出所(一)
▲榎本武揚の「梁川」は、梁川藩主立花家の西門前(下谷御徒町)で生れたのに由る
▲正岡「子規」は其本名の常規と、肺病で血を吐いたので杜鵑に因んだのである
▲大久保利通が「甲東」と号したのは、薩州甲月川の東で生れたからである
▲尾崎徳太郎の「紅葉」は、紅葉山の紅葉が流れた京橋八丁堀で生れたのに由る
▲長谷川辰之助の「二葉亭四迷」は、親爺に「クタバツテシマヘ」と言はれたのに由る
▲山県有朋の「含雪」は、窓含西嶺千秋雪といふ杜甫の詩の句に由つたのである
▲饗庭与三郎が「篁村」と号するのは、呉竹の根岸の里に住んで居たからである
▲犬養毅が「木堂」と号するのは、論語の剛毅木訥近仁から取つたのである
▲三宅雄二郎の「雪嶺」は、四時雪を頂く郷里加賀の白山の高嶺に因んだのである
▲戸川安宅の「残花」は、花は桜木人は武士、徳川幕臣の生残り者といふ意である
▲井上円了が「甫水」を号して居るのは、郷里越後の浦村の浦の字を分けたのである
▲遅塚「麗水」は其本名の金太郎に因み、千字文の金生麗水の語を取つたのである
▲下村「為水」純孝は幼名為吉とか為三とか云つたので、タメサンと呼ばれたのに由る
▲内藤虎次郎の「湖南」は、郷里羽前八郎潟の南に生れたのに由る
▲西園寺公望の「陶庵」は、詩経の君子陶々の語から出たのであるさうな
▲巌谷季雄は其父が江州水口藩士であつたので、滋賀の枕詞を取つて「小波」とつけた
▲内藤素行が「鳴雪」と号するのは、世はナリユキに任すといふ意であるさうな
▲佐々木安五郎の「照山」は、郷里長州阿川の前に高照山があり後に日和山があるに由る
▲井上哲次郎の「巽軒」は、易経に巽乎水而上水井、井養而不窮也とあるのに由る
▲寒川「鼠骨」陽光は、自己の性の粗忽なるを戒めんが為めにつけたのである
(以上、『スコブル』第16号八頁。大正7年2月1日)
▲古い雅号
支那の孔子は頭の形が尼丘山に似て居たので、
名は丘、字は仲尼といつたのであると聞くが、
此時代にはマダ別号は無かつたらしい、日本で
雅号を附けたのは誰が最初であるか知らないが
遠藤盛遠の文覚、平清盛の浄海などは別号でな
く改名である、雅号として古く名高いのは足利
義満が喜山と号し。上杉輝虎が謙信と号し又不
識庵と号した事である
▲野心潜越の号
山県有朋が含雪と号するのは、太田道灌が江戸
城の静勝軒に窓含西嶺千秋雪、門泊東呉万里船
といふ杜甫の聯句を題してあつたのに拠つた
ので、大御所気取りの野心は其号にも表はれて
居る
▲本名に拠る雅号
伊藤俊輔(博文)………春畝
松根豊次郎…………東洋城
高浜清…………虚子
河東秉五郎…………碧梧桐
小林一三………逸山
佐藤洽六…………紅緑
林市蔵…………一象
▲幸田成行の露伴
一行には書き切れないから茲に記す、露伴の号
は其旧著『縁外縁』に「里遠しいざ露と寝ん草枕」
とは、ある年陸奥の独り旅、夜更けて野末に疲
れたる時の吟、それより自ら露伴と号しとある
(以上、『スコブル』第16号八頁鼇頭。大正7年2月1日)
●〔明治大正〕名士雅号の出所(二)
▲勝安房の「海舟」は軍艦奉行の職を命ぜられた時に附けたのであると云ふ
▲高田早苗の「半峰」はノツポーであるので半鐘泥棒と呼ばれたのをモヂツたのだと云ふ
▲坪内雄蔵の「逍遙」は『荘子』の壺中逍遙の語に由つたのであると云ふ
▲夏目金之助の「漱石」は枕石漱流を漱石枕流と言ひ違へた『蒙求』の故事に由るのである
▲徳富猪一郎の[蘇峰]は郷里阿蘇山から採つたのである、宮川経輝の「蘇溪」も亦同じ
▲久津見息忠の「蕨村」は先祖代々の領地が武州蕨宿であつたのに由るのである
▲大町芳衛の「桂月」は郷里士佐の桂浜に由り桂浜月下漁郎と号しそれを略して桂月
▲白河次郎の「鯉洋」は郷里の豊後灘が三十六里あるので鯉の三十六鱗に擬したのである
▲江見忠功の「水蔭」は幼時向ふミズのかげ弁慶と云はれたのに由ると云ふ
▲落合直文の「萩の屋」は郷里宮城野の名物萩に由つたのである
▲与謝野寛の「鉄幹」は我好は妹の丸髷白梅の花、其好な梅の鉄幹嵯峨たるに由る
▲中村鈼太郎の「不折」は新聞配達をしたなどの苦学を記念せんとて附けたのだと云ふ
▲湯原元一の「易水」は荊軻の詩に拠るのと湯の字を二分し其二字は元一の湯に帰すの意
▲福本誠の「日南」はフイリツピンに行き太陽を北に仰ぎ「赤日緯南之人」それを略して
▲大浦兼武の「金竹」は兼武を金竹と書いたまでの号で何の意味もない 以上五項苔水居士寄
▲宮武外骨の「半狂堂」は世間には賢いマジメのお方ばかり我(わたい)は半痴半狂だすとの意
マダ書けば幾百でもあるが、大概は生れ郷里の地名か古人の名句によつた勿体ない様なもの、それを並べても興味が無いからこれで終局とする
(以上、『スコブル』第17号一〇頁。大正7年3月8日)
▲長い説明を要する雅号
長くて一行に書き入れられないオモシロイのを左に録する
○幸徳秋水 幸徳伝次耶は少壮の時、其師中江兆民に雅号の選定を乞ふと、先生は『春靄』と附けて、人間は春靄の如く朦朧として居れば成功疑ひなしと云ふのであつたが、幸徳はそんな号はイヤですと云つて、其反対の明朗透徹といふ意で秋水と号したのであると聞く
○生田葵山 生田盈五郎は京都の葵橋で生れたので葵山人と号したのであるが、世間の皮肉家にナマイキダ(生田)キザサン人と云はれるので、山人を除つて葵の一字にすると、今度はキ印と呼ばれて居るさうである
○木戸松菊 木戸孝允が松菊と号したのは、帰去来の辞の三逕就荒松菊猶存より出づるのであると云ひ、又彼が京都に於ける狎妓幾松と菊勇の各一字を採つたのだとも云ふ
▲前回中の正誤
前号に出した中の内藤鳴雪は本名の素行をナリユキと読んでの換字であると、増永阪本の両氏からの通告、又内藤湖南は羽後八郎潟の南に生れたのではない、陸中十和田湖の南だと例の犬塚信乃氏から悪口交りで通告された
(以上、『スコブル』第17号一〇頁鼇頭。大正7年3月8日)
●外山正一は旧名捨八
神田孝平が「唐通居士」と号したのは、俗謡の「惚れて居りやこそ神田から(唐)通ふ」を採つたもの、福沢諭吉が「卅一谷人」と号したのは、「世俗」の二字を分割したもの、総生寛が、「七杉子」と号したのは、身過世過(三杉四杉)のために筆を執るとの義であると云ふなど、別号の意味を穿鑿すれば面白いのが多いであらう、又別号でなく本名に就ても「外骨」の由来などの如く、根拠のある奇異なのも少くない、近頃偶ま東京大学文学部長であつた外山正一の伝記を読み、幼名を「捨八」と称したとあるのを見て、ハヽアと肯き得た、九は数の極である、其九より八を捨てれば正に一が残る、正一は即ち捨八から出た名、外山先生は四十二の二つ子など云ふ迷信的の実名を嫌つての改名であらう、これも例の独断的推考ではあるが、確に的中らしい気がする
(『売らん哉』我待賈号二頁。昭和3年2月8日)