『襍攷江戸時代』創刊号(大正十五年十月五日)に、菅竹浦の「江戸時代の狂歌師と其本業」という文章がある。以下、引用。
江戸時代の狂歌師と其本業
菅竹浦
一
立派な本職を持ちながら、本職の方では一向に名が挙らず、片手仕事、若くは道楽半分にやつてゐる余業の方で、史上に名を留め、或はその名を喧伝された例は、時の古今、洋の東西を論せず、数限りなくある。
一ノ二
如何なる種類の職業でも、糊口の資とせる本職といふものは十人が十人まで、無趣昧だといふに一致してゐる。中には、その本業に趣味を見出し、日々の仕事に興味を持つて、如何にも愉快らしく、傍観者の眼にも面白さうに見えるといつた例外も、無いでは莫い。本文の筆者は然うした質の人を見ると羨やましくて堪らない。
一ノ三
併し、総じて本職といふものは、乾燥無味なものだ。画工が絵を描くのも、また碁客が盤面に対するのも、はたから観れば如何にも面白さうに打ちみらるるが、之をその当事者に尋ぬるまでもなく、傍観者が欽羨するほど、愉快なものでないに相違ない。
一ノ四
何人も最初、その職業を撰ぶに方りては、全然、自分の趣味、或は嗜好が一致しないものを撰ぶはづが莫いと思ふのに、事実は之に反する場合が少なくないのは何故であらう。原因はいろいろあらうが要は生活問題に根基がある。ドウモ虫が好かぬ、性に合はぬが糊口のためなら致方がないといつた打算的な考量に本づいてゐるのが、十中の八九を占めてゐると思ふ。
一ノ五
商売となればどうしても生存上の競争を伴ふのが、普通である。血の出るやうな苦しい思ひをするところに趣味があり、言ふに言はれぬ興味があるなどいふのは、恐らく、言ふ者の負け惜みか、でなければ、他に弱点を見られまいとする一種の宣伝であらう。
一ノ六
自分の趣味から出発して其門に入り、更に其堂奥に上った芸術家―画家でも、彫刻家でも、自分の趣味を満足させる程度のものであつたならば、決して糊口の資とはならぬにきまつてゐる。
一世を驚例《ママ》せしめる大作は、決して感情ばかりでは出来上らぬ。必ず不断の努力、意志の力が加はらなければ、大ものは完成されない。煎じつめると、生存競争である。
競争となれば、も早や、趣味の域を脱してゐる、故に其本業、本職なるものは勢ひ、乾燥無味とならざるを得ぬ。
二
江戸時代の狂歌師なるものの本業、本職を調べて見ると、実に飛び離れた家業を持つものが、少なくない。何故、斯く懸け隔つた職業の持主が、揃ひも揃ひ、遊戯文学の一とも見るべきものに趨いたか。
当時の社会状態から考へて、之を、止むを得ざる帰趨と見るは、全然、誤つた観察では莫いやうに思ふ。批判は後にして、先づ其実例を見よ。
人名 本職
朱楽菅公 幕府の先手与力
浅草市人 質屋業
内山賀邸 幕府の士にして儒者
烏亭焉馬 大工の棟梁
大田南畝 幕府の士
大屋裏住 白河侯藩士
大根太木 辻番請負
加保茶元成 新吉原大文字楼の主人
木室卯雲 幕府の士
奇々羅金維 医師
紀定丸 幕府勘定組頭
紀真顔 汁粉屋
小島橘州 田安家の士
酒上熟寝 牛込左内坂の名主
酒上不埒 浮世絵師 画名を恋川春町といふ
森羅亭(一世)蘭学者桂川甫粲の狂名
同 (二世)菓子屋 初め竹杖為軽といひたる人
芍薬亭 本阿弥光悦七世の孫、本業不詳
白河関根 染物屋
千秋庵三陀羅 左官職の養子
千里同風 旅籠屋の主人
全亭正直 戯作者にして薬屋
頭光 江戸亀井町の町代
手柄岡持 佐竹侯の留守居役
浜辺黒人 書肆(芝)
花道つらね 俳優、五世市川三升の狂名
便々館湖鯉鮒 幕府の士
平秩東作 煙草業
元杢網 湯屋業
宿屋飯盛 旅館の主人。逆旅主人の別号がある。国学者としての石川雅望の名も有名である。
八島定園 浮世絵師
余旦坊酩酊 狩野派の画家
連理枝成 書肆(両国)
(女流)
智恵内子 元杢網の妻
節松嫁々 朱楽菅江の妻
伊曾和歌女 千里同風の妻
三条台女 絵馬屋額輔の妻
紫ちちぶ 二世画賛人額翁の後妻
二ノ二
女流に独立した狂歌師と見るべき者がない。多くはその主人が狂歌作者で、その感化を受けて詠んだといふ位の程度に過ぎぬ。たゞ茲に異例とも目すべきは、遊女にして狂歌を能くしたものが多かつた事だ、一二の例を挙げて置く。
箙 新吉原京町海老屋内遊女
滝川 同 江戸町扇屋内遊女
しな女 深川新石場亀屋内の妓
三
以上挙げて来つた例は何れも天明以後の江戸に、それぞれ頭角を現はした謂ゆる一方の盟主(点者判者)として名高かつた一流どころの本職を調べたのであるが、その他、大小雑多の作者が、それこそ掃きすてる程ゐたのは著名な事実。而も彼等は何れも狂歌を以て本業とせず、皆同じ様に俗業を営み、上手にパンたねを造つてゐたのである。
三ノ二
狂歌師といへば専門的に独立していける職業のやうに見える、が彼等はその全部が、それ専業にやつてゐたので莫かつた事は、上記の表を一見すれば判る。或はたまに、純専門的にやつてゐる者があつたにしても、夫れは至つて僅有で寧ろ例外とも見るべき者であつたらう。
民衆の経済生活が安楽に見えてゐて其実、安楽でなかつた事は殖産工業の萎靡として振はなかつた江戸の環境に徴して、議論の余地はないのである。
三ノ三
抑も江戸時代の世相を通観するに、各時代によつて多少の隆替はあつたにせよ、英邁な将軍家光が唐様で書く三代目といふやつを逆に、お家万代の基礎を築きあげて以来、世の中は泰平無事で吹く風も枝を鳴さぬ静謐さ、先づ表面には上下おしなべて生活の安定が生(で)き、太平を鼓腹してゐたかに見えた。殊に元禄以後、いろいろの軟文学が発達した中に、狂歌や、川柳や、前句附、冠附、笠附、三笠附など、凡て滑稽趣味の雑文芸が派生し、各其領分を守り、我こそは点者宗匠なりと自分天狗をきめこんでゐた一種遊民級の多かつた、謂ゆる爛熟した世相を見ると、この位呑気な世界はなかつたやうに思はれる。
三ノ四
喧嘩の仲裁に狂歌をよんで笑はせたといふ話や。火葬の棺桶からドドンと一発花火が鳴つて、会衆にアツと言はせた話や。葬式の列と、婚礼の列が行違つたのを見て当意即妙をやつた話や。或は、撒水の飛沫がかかつたとて女中に喰つてかかり、無礼者呼ばりをして今にも刀を抜かうとしてゐる侍に一句即興を示して、その怒りを和げたといふ話やは、いかにも暢んびりした、ドコの隅にも生活難といふものの無い世の中と見られるのであるが、それは単に表面だけの事実で、一皮むけば、今も昔も変りはない。
四
本文の筆者は前に、狂歌師たちの本職を見て、何故斯くかけ離れた職業の持主が、揃ひも揃つて遊戯文芸を弄ぶに至つたかといつた。而も当時の社会状態から考へて、之を、止むを得ざる帰趨と見るは強ち、誤つた観察ではなからうとも言つたが、其昔、浪華方面に発生した狂歌が江戸に移り、爛熟した江戸の影響をうけて、ソコに別様の色調を帯び来つた迹から見ると、自ら時代相の閃きが認めらるる。
見よ、抑え難き生活苦の惨み出たのがあり、皮肉な諧謔の奥底には、苛政を呪ふ嗚咽があつたのを。又見よ、道化の裡にも愁訴があり、笑ひの反面には、血があり涙がこもつてゐた。柳翁狂歌訓に、狂歌のわけを一向知らざる人は、落首悪口を読みたるを狂歌と思ひしなり、大なるひかことなりといひ、若しこれを守らずして、他をそしる落首をよみ候はゞ和歌三神の御罰を蒙るに至らんとまで誡めたけれど、爛熟期の狂歌には、たしかに談笑を以て諷諫したもの、優孟、優旃、巧みに韜晦して、常に強圧された笑ひを洩らしてゐるといつたものが少くなかつたではないか。
四ノ二
蓋し、言論の自由を認められなかつた専制的な治下に於て、斯の如き諷刺文学の顕はれ、発達していくのは当然の帰結であると共に、それを取扱ふ人々にも道楽半分、或はヨタ気分、ぢみちな本職に隠れて皮肉を飛ば《ママ》といつたたちの作家が、多数にゐたことも認めずには居られない。
四ノ三
要するに、狂歌師では飯が喰へなかった。一流どころの点者宗匠になつて見ても、其方からの収入は至つて微々たるもので、ドウしても他に職業を求めねばならなかつた。たまに家集や、合撰の刷物を出して見たところで、結局、本屋の喰ひものになるのが落ちで、その方からも、好い収入はなかつたらしい。
蜀山人(南畝)のやうに、等身に近い著書を次ぎから次ぎ梓行した人でも、他に本職をもつてゐた。気分から云へば、自分の趣味から懸け離れた面倒臭い仕事を俗吏輩に伍して行るといふ事は、実に厭やな事であつたに相遑ない。それをジツと辛棒して、後生大事に年老ゆるまで勤めてゐたのは、要するに生活の為めであったと観察し得る。
四ノ四
また一方から考へると、他に本業を有することは、慕府に対する安全弁で、韜晦する上に好都合であつたかも知れない。果して然りとすれば、狂歌師が飛び離れた本職を持つてゐた事は、一挙両得であつたとも考へらるるのである。(完)
(『襍攷江戸時代』創刊号。大正十五年十月五日)
トップに戻る