油虫をかつぶしのかたまり

                        

菊池眞一

『明治文化研究』第三輯(昭和9年10月11日)に、篠田鉱造の
「日鉄時代の人力車」
という文章がある。これは、昭和7年春、上野駅付近で人力車夫をしていた柏という67歳の人物の話を聞き書きしたものである。
この中に
△油虫をかつぶしのかたまり
という一節がある。これほど機転のきく大胆な店員・ウェイトレスは恐らくいないのではなかろうか。
そもそも今は機械で削った花鰹を買うのが普通で、鰹節を買って削り器で削る人など、ほとんどいないだろう。私は子供の頃、鰹節削りをやらされた。残り少なくなると、「食べていいよ」とお駄賃がわりにもらえたが、まさにゴキブリの大きいの、という感じだった。

話の都合上、その前の
△桜香横丁青石横丁消失せる
の節から引用する。


   △桜香横丁青石横丁消失せる
 私の眼に映つた、コノ上野界隈が、変れば変つたもので、第一今ぢやア横ツ町といふものが、カラツキシ広い道路へ――十八間だ、二十間だといふ中へ、容れつこになつてしまつて、何処かへ紛失してしまつたのが多いんです、上野駅を坂本の方へ行くところに、皆さん東北の旅客は、お国土産に『桜香油』を買つた店があつて『桜香(さくらか)横丁』といつたのが、どつかへ滅くなつてしまひましたし、仲徒町の『青石横丁』が、下谷名代の料理店伊予紋のとこにあつたのに、ソノ伊予紋すら、松坂屋の物置場に抱き込れてしまつて、亡くなつちやつた位ですから、青石横町の見当がつかず、徒町から昭和大通りへ出る、呉服店越後屋のあつたところなんかも、薩張り訳が分らない、肝腎の越後屋さんの横のとこに、此間までタシカに在つた青石が、何処へ誰が持ち込んだか、影も形もないんですが……(筆者、高村光雲翁の話に、徒町の道具屋に此青石があるとのこと)
 桜香横丁の桜香油のつゞきが、これも有名な榊原健吉の撃剣の道場で、ヤツトウの声で、御一新前後は高名なもの、明治になつて、私の覚えてゐますんでは『大和杖』といふ仕込杖を、健吉さんが売つてゐましたつけが、興行物に榊原健吉の旗が立つやうになつて、大和杖もオヂヤンでした。
 今もある山城屋、駅前の旅館も、階下が大食堂となつて、其うしろ並びに、井筒屋なんて旅籠屋が亡くなる、表通りで、果物屋の高林はありますが、角に牛肉屋のいぶき、折曲つて天ぷら屋の大滝、宿屋のヱビス屋が、どれもこれも消えて亡くなりました、牛肉屋は一時多かつたものです、江戸時代から、明治を跨いで、現今に及んでゐる、古舗(ふるい)のでは、上野公園前の、蒲鉾屋駿河屋、茶舗(おちやや)の内田園です。
 広小路のうしろへ廻ると、名前は新しいが、カルヽス湯なんか古いんです、上野館、群玉舍、若葉屋、福仙、ミンな明治ですが、ソノ明治も今ぢやア古いといふことになつちやつたんです、アスコに『玉川館』といふのがござんせう(筆者老車夫に案内して貰つた)、以前はどびろくや(濁酒屋)の一膳めしやでしたが、飯が一杯五厘、味噌汁が一銭で、破れ返るやうな大繁昌を極めてゐましたが、ソノ玉川にトテもよく働く娘がゐで、今はマアどぅなつたか、お婆ちやんになつてゐませうが、怜悧(かしこ)かつたことつたら、今に忘れられないことかあるんです。

   △油虫をかつぶしのかたまり
 ソノ玉川の繁昌することつたら、大繁昌この上なしなんですが、油虫のゐることつたら、これも大評判だつたので、よく私共『油虫をどうかしろよツ』と、女中へ言つてやつたもんです、スルト或晩、私の味噌汁の中へ、ソノ油虫が入つてゐるぢやアありませんか、女中に向つて『かう女中(ねえ)や、言はねヱこつちやねヱ、これを見や、気をつけろい、替りを持つて来な』と憤(をこ)つてゐるところへ、賢い娘がヒヨイと来て『済みません、早く替えて来ておあげ』といひながら、ソノ油虫をつまみ『かつぶしのかたまりよ』といふが逸(はや)いか、ムシヤムシヤ喰べてしまつたんですが、これには驚いた、周囲(あたり)の人々も、油虫と聞いて皆な味噌汁を、忌な顔をして眺めてゐた途端なんですから、娘が『かつぶしのかたまりよ』といつて、喰べてしまつたんで、今度は私が言懸りでもいふやうに感じたらしいんで、私は全く面喰つちやつたんですが、常日頃感心してゐる娘なんですから、ソノ機転に感心してしまつて、成程商売はかうありたいものだ、コノ娘のやうに心懸けたら、どんな商売でも繁昌すると、油虫を鰹節の塊にして、ムシやムシヤ、平気で喰べちまつた娘の、我店思ひの心持に、自分の凹まされたことなんか忘れて、思はず涙が出るほど考へ、理に落込んで黙つちまひましたが、アノ娘はサゾ出世したらうなんかんと、よく『玉川館』の前を通るたんびに思ひ出しますんで……。



2016年3月4日公開

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