稲妻のすばやく今日は東かな

                                           菊池眞一


『福島民報』明治30年8月10日二面の「紅葉山人招待会」には、尾崎紅葉の俳句7句が紹介されている。
これらの句は、岩波書店『紅葉全集』に載っていない。
また、下記ブログでも紹介されていない。

風の人:シンの独り言(大人の総合学習的な生活の試み)
http://kazenoshin.exblog.jp/11527470/

『愛書趣味』第三年第四号(第十六号)昭和3年6月10日
の、野崎左文、
飯坂温泉に於ける紅葉山人の逸話
にも、紹介されていない。


以下、『福島民報』明治30年8月10日二面の記事を引用する。


『福島民報』明治30年8月10日(二面)

   紅葉山人招待会
                 菊のや


降りみ降らずみの聯日の鬱陶しさは、遠き都の彼方より、遥々かゝる片田舎に遊びに来ませし、彩想湧くが如き当代詞壇の大家をも、慰するにものなき無聊場裡に殺了して、急なること矢の如き帰心を起さしめ、吟笻の永く紀念の痕を遺すべき暇もなく、友垣の打ち集ひてしみじみ教を受くべき節もあらずして、忽ち復た東西他郷の人となりけるこそ、儘ならぬが浮世の常套といへ、処の為めにも、身の為めにも、憎きは此来の空模様なれ。
過る日、紅葉山人尾崎徳太郎氏のわが福島に来遊せらるゝや、予は旧知の故を以て、同好志士は名士を待つの上よりして、盛んなる歓迎会を催すべく、それぞれ計画する所ありたりしに、折りあしく霖雨蕭々として逆旅を圧し、氏が吟脚の強健を以てするも、憂鬱、無聊、迭に来襲して、その霊想を山水に寄托するの快心を得ず、陰雨を冒して纔に飯坂、穴原の一小奇景を探り得たるのみ、旅程いただ《ママ》予期の半にも達せすして、已に帰心の抜くべからざるものあり、匆々の際、予等忙職にありて又た当初の計画を貫くの閑を得ず、則ち三四の同輩相会して、宴を北浦の万辰朱亭に設け、茲にせめてもの敬意を表する事となしぬ。
時これ八月八日の夜、来り会するもの菅野芳雪、石川春窓、高木鏡堂、江戸花葉、吉田菊堂の五名にして、先づ紅葉氏を宴の正面に挟さみ、酒盃献酬の間、趣味津々たる俳談詩話に時を移し、やがて紅葉氏と芳雪氏の間に、題を設けて唱和の什、四句を成せり。
   ▲ひやゝか
冷や竹からもるゝ朝の月    芳雪
冷に臥猪の床を撫て見つ    紅葉
   ▲虫
月落る門や虫聞く足揃ひ    芳雪
籠の虫の啼殻送る娘かな    紅葉
   ▲稲葉
安に風をあしらふ稲葉哉    芳雪
風戦く稲葉の間や三家村    紅葉
   ▲西瓜
択取の西瓜の味を誇りけり   芳雪
燭を秉て西瓜を照す裸哉    紅葉
唱和の作を了れば、紅葉氏重ねて筆を執て、席上の即事一句を成す。
   ▲万辰朱亭席上
宵の灯や何かにつけて秋のたつ 紅葉
紅葉氏更に一句を題し、福島来遊の紀念として、同人に似すものあり。
   ▲福島
夕晴れや福島を環るみな山なり 紅葉
酒三行に入りて、興趣ますます濃ならんとするの頃、何者の悪戯ぞ、妓の富寿と菊寿を延いて、相馬節を謡はしむるものあり、芳雪満酔、放歌してこれに和すること数次、一座為めに愕然たり、紅葉氏首を垂れて傾聴すること良久しく、ヅイラホノキユツキユ頗る妙なりとて、所望して尚ほ数曲を謡はしむ、芳雪愈々得意にして一座再たび愕然たり、而して座興は茲に一転して、各々艶体に陥いり、終に隠し芸の棚曝しとなりて、紅葉氏も亦た剣舞数番を演じ、興の趣くところ殆んど際涯なきに至れり。
闌更夜半、宴まさに散ぜんとするに臨み、鏡堂は紅葉氏の手を握りて、その松島に講習したる仏教の因縁を語り、人生真に測り難し、再会復た期すべからず、乞ふ明一日をこの地に滞在して、予輩をして委に情懐の眷々を尽さしめよと、紅葉氏其厚意を多として半ば之を肯ひしも、終に左の一紙を遺して翌九日の第一列車に投じ、千山万水、自の故園に踵を返しぬ、洵に遺り惜しきかな。
今夜の愉快、飯坂の無聊を一洗して雨後の天日を望む想にこれあり候、明朝御目にかゝらば必定又一日の滞留と存じ、帰心のうながすまゝに五時発にて出立いたし候、食言の罪浅からずといへども、天涯孤客の情懐御察し被下度、委細は帰宅の上更に可申述、高木君のいはゆる人生計り難しと雖も、諸君の健在、再会の期あるべきを祈り申し候、我はこれより吾妻をさして独りヅイラホノキユツキユ
  稲妻のすばやく今日は東かな
     九日午前一時   紅葉
   春窓君 芳雪君 鏡堂君
   花葉君 菊堂君




菊池眞一
2016年6月4日公開

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