谷斎

尾崎紅葉の父・谷斎についての記述を拾った。


  目次

明治十二年
①『東京名工鑑』
明治十九年
②河竹黙阿弥『盲長屋梅加賀鳶』(明治十九年初演)
明治二十三年
③千穐庵撰『八称人』(番付。明治二十三年)
明治二十七年
④『東京朝日新聞』(訃報)
大正六年
⑤島田筑波「赤羽織谷斎」(『風俗』第二巻第六号。大正六年八月)
大正十一年
⑥三村竹清日記
大正十四年
⑦永井荷風『断腸亭日乗』大正十四年十二月二十日
大正十五年
⑧三村竹清日記
昭和四年
⑨江見水蔭「赤裸々の紅葉」(昭和四年講演。『江見水蔭講演全集』第二巻〈昭和九年〉所収)
昭和六年
⑩宮武外骨『公私月報』第十一号
昭和十一年
⑪後藤宙外『明治文壇回顧録』「紅葉山人逸話」
昭和十二年
⑫永井荷風『断腸亭日乗』昭和十二年三月廿四日
昭和十六年
⑬山中古洞『挿絵節用』(芸艸堂。昭和十六年十二月二十日)
昭和二十七年
⑭村松定孝「谷斎・紅葉血脈考」(『文学研究』第九号。昭和二十七年九月)
昭和二十七年
⑮柳田泉「紅葉山人の父谷斎の武田姓」(『明治大正文学研究』第九号。昭和二十七年十二月)
昭和二十八年
⑯鶯亭金升『明治のおもかげ』「赤羽織谷斎」
昭和三十四年
⑰鏑木清方「横寺町の先生」(『鏑木清方文集』二〈昭和五十四年〉所収)
昭和三十六年
⑱『芝を語る』所載、渋井徳兵衛「紅葉の父、尾崎谷斎」
昭和四十三年
⑲岡保生『尾崎紅葉の生涯と文学』
昭和四十四年
⑳森銑三『明治東京逸聞史』明治三十七年の項
昭和五十一年
㉑吉村武夫『大江戸趣味風流名物くらべ』「根付け 谷斎」
昭和五十一年
㉒古谷綱治『通いみち新橋』「断絶の父子」
昭和六十年
㉓西脇隆英「町の年輪 SHINBASHI-EXTRA」(『季刊江戸っ子』第四十七号)
昭和六十二年
㉔松廼家露八「身の上ばなし」(『季刊江戸っ子』第五十八号)
平成二年
㉕大林清『明治っ子雑記帳』(平成二年二月。青蛙房)
平成七年
㉖岩波書店『紅葉全集』第十二巻所収年譜(岡保生)
令和元年
㉗嶌谷洋一『角彫名人 赤羽織の谷斎』(令和元年十月。里文出版)
ウィキペディア ㉘ウィキペディアの記述





明治十二年
①『東京名工鑑』(明治十二年二月)
牙角彫工
愛宕下町四丁目壱番地
尾崎惣蔵
業名谷斎
四十五歳
流  派  支那風左刃彫
所  長  龍 唐草高彫
製造種類  煎茶道具 煙管筒 根付 印材
嘱 品 家  南伝馬町菱屋伊兵衛、左内町武蔵屋勝蔵、人形町菱屋利助
助工人員  弟子二人
博覧会出品 内国博覧会へ象牙印材三個ヲ出品シテ花紋賞牌ヲ受タリ
開業及沿革 初メ十四歳ノ頃ヨリ芝中門前二丁目藤沢平蔵ニ就テ六年間古代煎茶道具類ノ目利ヲ学ヒシカ二十一歳ニ及ンテ浅草福井町玉陽斎光雛ニ就テ刻法ヲ学フコト四年二十七歳ニシテ始メテ業ヲ当所ニ開キ以来大ヒニ人意ニ適シ求需尤モ多ク維新後ニ及ンテ益其売高ヲ加フルニ至レリ然レトモ現時ノ製品ハ尤モ賤価ノ器物多シ


明治十九年
②河竹黙阿弥『盲長屋梅加賀鳶』(明治十九年初演)序幕(『黙阿弥名作選』第四巻〈昭和二十八年。創元社〉所収)に、
たま  あの二人のおしやべりは、芝の谷斎さんも宜しくでござんす。
という科白がある。谷斎のおしゃべりが周知の事実であったことが知られる。


明治二十三年
③千穐庵撰『八称人』(番付。明治二十三年)
「幇間八媚」の項に、
戯談 桜川善孝
見識 都 吟中
取廻 桜川正孝
多弁 谷  斎
滑稽 松の家露八
枯業 菅野序橋
三弦 桜川三孝
珎談 菅野光八
とある。


明治二十七年
④『東京朝日新聞』明治二十七年二月二十三日三面
●赤羽織谷斎死す 象牙彫の名人と称され太鼓持の変り者と呼れし赤羽織の谷斎は竹頭と共に綳魚(しほさい)を食ひ竹頭は其の毒に中りて仆れしより甚く神経を悩め爾来以前の元気もなく打萎れてゐたるが哀れや夫が病ひの本となり終に一昨夜竹頭の跡を追ふて黄泉(あのよ)へ赴きたりといふ東都の一名物を失ひしは惜むべきかな


大正六年
⑤島田筑波「赤羽織谷斎」(『風俗』第二巻第六号。大正六年八月)

  一
 丁度去年の夏でした、私が庭に蹲を作らうと思つて居ると、長命寺の音と云ふ下男が恁那ものを見付けましたが如何ですかと、何処から探し出したのか、妙な石燈籠に似たものを持つて来た、見ると上は円形の水盤になつて、下は四角の花崗岩に妙な人物を彫付けてある、其の図をよく見ると坊主頭へ向鉢巻をした男が、裸で手に鈴を振つてゐる所を現はしてあつて、『芝の谷斎』と云ふ名が大きく右の横に記され、左の方には『明治廿三年芝公園やしき』とある、裏には万年茸の図が彫つてあつた、私は新しいものだが一寸面白いので、それを蹲に使ふ事に極めて了つた、然しこの谷斎と云ふのが甚那人物であるかは、薩張り見当が付かなかつた、するとソコへ斎藤扇松君来られて、ウンコリヤア赤羽織の谷斎だと教へて呉れて、私は赤羽織の谷斎とはどんな人物かとたづねた、君はアヽ此人かコリヤア君、尾崎紅葉さんの親父さんで象牙彫をして居た人だが彫師と云は二の次で其実は幇間八分で世間を渡て居た男でサアと話された。私は偶然此石を獲て蹲ひに作つたものゝ、そう分つて見れば谷斎の事をば少しく調べて書いて置かうと思つて、同人を知つて居た人々をたづねて、面白い逸話や奇行を話して貰つた、その中から二三の話を書いて見る事にした。

  二
 なんでも紅葉さんが飯田河岸に住居はれて居た時代だそうです、(明治二十一二年頃)或時其家へ氏の友人集まつて雑談中、尤も紅葉氏とは親しい仲の某氏は、何かの話しの序に、恰で谷斎坊主のやうだよと云つて変な身振りをして見せたので、並居る人は笑ひ興じたが、独り紅葉氏に至つては厭な顔をしてニツコリともしなかつたのを、之も同座して居た某氏が見て不審に思つて後で山田美妙氏に訊くと、それは其筈だあの坊主は紅葉君の親父だものと云はれたので其人も吃驚したと云ふ事です、美妙氏は紅葉氏とは幼友達でよく芝の谷斎の家へも遊びに行つたりしたので知つて居たのであると文壇の老大家は話された。

  三
 谷斎は芝の浜松町に住み後ち芝片門前に移つたそうだ、丁度其頃二葉町に花山堂と云ふ貸本屋があつて、それが矢張幇間半分の男、谷斎には兄貴分で甚だ怪からん踊で評判をとつた、谷斎は小肥りに肥つた男で別にこれと云ふ芸はなかつたが、落語家三遊亭円遊が、此谷斎とは至つて別懇の間柄であつたので、取巻きの話にはいつも此谷斎をつかまへて高座で提灯を持つた、私は円遊の為めに谷斎が釜と鍬の図を彫つた緒〆を見た事があつたが一寸面白い作であった、こんな関係から言つても円遊とは余程親しかつたものらしい、扇松君はまた次の如き話をされた、円遊が谷斎を使つたものには、彼れが十八番の『隅田の夕立』の始めに用いて居る、円遊は野太鼓の人物には此谷斎とこれも有名だつた平助を話の内に入れて居た、又円遊に贈つたと云ふ緒〆は恐らく立川談志の間違ひではあるまいかと云はれた、それは其図に依ての事で、明治十二三年辺からやりだした円遊のステヽコが評判が宜いので、談志も負けない気になつてやつたのが、例の「郭巨の釜堀テケレツッのパー」である、緒〆の図は釜と鍬と云ふ処からこれは談志に送つたものと私は思ふと話された、彼は氏神の祭礼は勿論芝区内の祭礼には必ず例の赤羽織を着て、若い者の先に立つて世話をやいた、亦祭りに出て居る屋台見世の杏の砂糖漬を惣仕舞にして子供達に振舞つたり、風船玉を買占めて、それを飛ばして悦んで居たそうです、谷斎は恁ふ云つた淡い気分に活て居た人物らしく思はれます。

  四
谷斎は何処の芝居でもきつと赤羽織で見物に行つたものだから、赤羽織赤羽織で通つて居たそうです、弁天山の岡田を開いた老婆さんなぞも、緋縮緬の羽織を新調て送つたと云ふ事を話されました、デ此谷斎は或る一部からは嫌はれて居たと云つて次の様な話しをした、先づ芝居茶屋へ行くと客の喰ひ残しの弁当なぞを集め、其中からいろいろに取分けて、それを下方の者に振舞つて義理立てしたりなぞするので、その心ざしは感心でも、行ひが穢ないと云つて鼻つまみにされて居ましたと、又岩本梓石さんはつくばひに彫つた彼れの像について説明された、あの男は相撲が初まると必ず場所中詰めかけて居たものです、夫れが彼れの書入れですから、デ客が其贔屓相撲が勝つた時は、谷斎をして土俵へ例の赤羽織で飛び出さしたものです、其鈴を振つて居る所は多分それを彫つたものでせう、自分が見に行つた時は裸で飛出したので、巡査に説諭をされて居ましたと。

  五
 谷斎と云ふ男は恁ふ云つた人物で、これと云つて取り立てゝ話すべき程の仕事をして居る男ではない、唯私が面白く思ふのはかう云ふ人物の胤に、尾崎紅葉と云ふ文豪が生れた事に興味を持つて、其話を書き止めたに過ぎないので、是れ以上の事実を穿鑿しやうと云ふ気になれない、たゞ記して置きたいのは、谷斎の死が如何にも花やかであつた事です、ソレは松屋町の鳶頭と共に両国の大橋(飲食店)で鰒を食べて、明治二十七年二月二十一日鯛もあるのに無分別の最後を遂げた後は、其名も段々忘れられ、辛くも彼れの面影のみは苔蒸れつゝ、墨堤芭蕉堂の庭に保存されて居る。


大正十一年
⑥三村竹清日記
大正十一年四月十三日 午後 理髪 岡本昆石翁へよる 翁 芝に居たる頃ハ 橋市已に死して其妻なるものハ居たり 八十銭ニて下駄をかひたる処 其頃八十銭といへは 上等之下駄也 新銭座といふは 貧しき人の多く住へる地なれは 長屋之かゝ共評判かしまし 橋市之妻 長屋之かゝにほしきやと問ふ ほしけれと私等には買へませんやネと答ふ さらハとて与へしとか 谷斎といふ男は 角ぼりにて紋尽しのやうなるいやミのものをほりたるが それが此男之得意之よし 路次之入口の上へ木ぼりの狐其他妙なものを沢山のせて置きたり云々
《注=これは竹清が昆石から聞いた話を記したものである》


大正十四年
⑦永井荷風『断腸亭日乗』大正十四年十二月二十日
日暮楽天居忘年句会に赴く。〈中略〉晩餐の卓上一座の談話たまたま紅葉山人のことに及びし時、小波先生の曰く、紅葉山人の実父は赤羽織と綽名せられし柳橋の幇間にて、彫刻を善くせし谷斎といふ者なるは、既に世人の知る所なれど、其実母はいかなるものなるや詳ならず。思ふに芸者なるべし。山人は生るゝと共に祖父母の許に引取られ、実父谷斎に引逢はされしは成人の後なり。祖父は寒暖計の管に水銀を流し込むことを内職となしゐたる程なれば、山人の学費は某所税関の役人なりし其叔父の仕送りしものなり。山人は幇間谷斎の私生児なることを深く愧ぢ、劇場相撲場等に行くことを好まざりしと云ふ。人生の一悲惨事といふべし。予窃に思ふに、若山人にして自らその出生のことにつき、憚る所なく憂悶の情を筆にしたらむには、恐らくは其小説に劣らざる不朽の文字を世に伝へしなるべし。


大正十五年
⑧三村竹清日記
大正十五年七月二十一日 曇て涼しけれは守尾へ紙かひにゆく 途中電車より見れは 村忠見世にゐる故 虎の門にて下車してよる 洒落本廻し枕及近藤清春画入たての吉原細見もとむ 谷斎の根付あり 平爺これを天金に見せしニ気に入らす 平爺も此頃くるしく 半値にて投てゆきし由 谷斎は村忠使にゆきてよくしりたり 一向にあしき材料をつかひて これをいかすんだなとゝ 塩屋をいひたりとそ 長尾へより 守尾へゆく〈下略〉
《注=村忠は村上忠吉。芝巴町の骨董商(『蔵書名印譜・第三輯』による)。「平爺」は、片岡平爺か。大正八年の住所は、東京市神田区栄町四》


昭和四年
⑨江見水蔭「赤裸々の紅葉」(昭和四年講演。『江見水蔭講演全集』第二巻〈昭和九年〉所収)
 先づ紅葉を説く前に紅葉の父を説かなければならぬ。それは御承知でもありませうが、谷斎と云ふ人なんです。是は尾崎紅葉の実の父なんです。此人は立派な美術家で、今日ならば相当の地位を得べき人であつたのでありまするが、其ころの時世相から申しますると云ふと、此人をさう高くは買はなかつた。常に赤羽織を着て人寄せ場へよく行く。芝居とか、寄席とか、相撲場へ行く。所謂名物男、其為に谷斎は幇間であると云ふやうな噂が盛んに立つて居つた。
 之を紅葉は非常に気にした。谷斎の子と言はれるのが非常につらかつた。今日であつて見れば、何でもないことです。けれども其時代、明治初年に於ては彫刻家と云ふものが十分に認められて居らない。其為に谷斎の子と云ふことを匿して居つた。と言ふと唯々徒らに、私が、谷斎が美術家でない、幇間であると云ふやうにお思ひになるかも知れませぬが、今日骨董をお集めになり、古物をお玩りになるお方ならば、直ぐお分りになる。谷斎物と云つて、象牙彫りをワザと嫌つて、カヅノ彫り、即ち鹿の角への彫刻は、今日は普通のものよりはズツと値が高い。其細工物を見ますと、実にどうも結構なもので、所謂江戸式の何とも言へない、イキな彫刻であります。技術が巧いのみならず、其思ひ付、何と申しますか、其意匠が何とも言へない江戸向きの彫刻がしてある。
 斯う云ふ偉い人であるが、其方は兎角怠け勝ちで、芸人と面白く交際つて遊んだ。所謂享楽主義の人とでも申しますか、まア私は明治畸人伝中の一人に編入しても宜からうと思ふ程の人であります。谷斎の趣味として可成り面白い逸事があつたらしい。其一部分を一寸御紹介致しますると、是は武内桂舟画伯から聞きましたのでありますが、芝愛宕下の、仙台屋敷の、自分の家の入口には、仏様の前で叩く木魚、あの木魚を飾つて、それに意匠を施して、蛸の形にして、それを入口にぶら下げて居つた。斯う云ふ変つたことをして居つた。
 或は庭先などには色々な珍らしい石だとか、石仏などを置いたり、石で拵へた野猪等を庭に飾つて置く。斯う云ふ様な変つた人なんであります。更に最も面白いのは、是は悟道軒円玉老から直接に聞いた話でありまするが、此円玉老は御承知の通り松林伯円の高弟であります。伯円と谷斎とは大変仲が好かつた。伯円が寄席に掛つて居ると、よく折詰などを提げて楽屋へ遊びに来た。さうして色々な話などをして、話が面白いと云ふと夢中になつて、いつまでも話し込んで、途中でハツと気がついて、あゝさうさう、今日は或るお座敷へ招ばれてゐたのだけれども、忘れてしまつた。ヱヽ構はぬ、廃しちまへと云ふやうな訳で、興に乗じると沢山御祝儀の貰へるお客でも打棄つて置く。さう云ふやうな人であります。
 尚ほもう一つ面白い話は、其時分俳優の長と云はれた九代目市川団十郎。此団十郎が煙草入の筒を註文した。所が幾ら催促しても出来て来ない。それで谷斎は金が無いのだらう、金をやつたら早く彫るだらうと云ふので、三十円ばかりの金を使に持たせてやつた。その頃の三十円ですから、可成りの大金、金を渡して置いて、扨て此間註文した煙草入の筒を、どうか早く仕上げて呉れと云ふことを、使の者から催促しました。すると江戸ツ子の谷斎グツと癪に障つた。宜しい、と云ふのでそれを持たせて置いて、其三十円の金で直ぐ金の延べ板を買ひにやつた。三十円のことですから大して分は厚くはなかつたでせうが、兎に角金の延べ板を買つて来て、それに、――金三十円也、右正に受取申候也。市川団十郎殿。谷斎――と彫つた。三十円貰つて、三十円の受取を出して気を吐いたと云ふやうな、洵に気骨のある人であつたのであります。
 其人の子が尾崎徳太郎の紅葉山人でありますが、どう云ふ関係でありましたか、お祖父さんお祖母さんの方へ尾崎は引取られまして、直接には谷斎の方へは行かなかつた。行かないのみならず、何等か事情があつたものと見えまして、尾崎の学資を出しますのに、其学資を直接其当時徳太郎へは渡さずして、谷斎が、芝の神明町に江沢屋と云ふ唐物商の大きな店があります(別に芸妓屋も出してゐました)其処のお婆さんに頼んで、其お婆さんの手から徳太郎に渡す、斯う云ふ順序を履んで居た。此江沢屋と云ふのは御承知の江戸ツ子の、演芸通の文学者江沢春霞君のお祖母さん。この江沢春霞君は、恐らく我々仲間の中で一番尾崎紅葉の若い時分からの友達で、同じ町内であつた為に、年は少し下でありまするけれども、一緒に椎の実を拾ひに芝の山内へ行つたやうなこともある位の人で、其人から直接に私は聞きましたのでありますけれども、先程も申上げました通り、其時代は、時代が許さなかつた為に、紅葉の方では常に谷斎の子であると云ふことを、秘密も秘密、絶対秘密。兄弟同様にして居りまする我々に向つても匿して居りました。
 何かの時に、あれは谷斎の子であるから、あゝ云ふ風に人格が下劣である。斯う言はれるのが何よりもつらい為に、絶えず己れを持すること篤く且つ高かつたのでございませう。此点に就きまして、実に私は涙だと思ふ。が、息子の方では此通り秘密にして置きましたけれども、段々紅葉山人の名前が出て来ると、谷斎先生黙つて居ない。『うちの徳は大変なもので、大学へ行つてゐるし、是々斯う云ふ小説を書いて居るよ』なんて、方々へ行つて触れて居る。是では何にもなりませぬ。(笑声起る)


昭和六年
⑩宮武外骨『公私月報』第十一号
尾崎紅葉の父谷斎
赤羽織の幇間として有名であつた谷斎は文芸家紅葉山人の実父である、明治十五年一月の『いろは新聞』に谷斎が柳橋の亀清楼に於ける新年宴会の席上で猫舞を踊つた事が出て居るなど、当時の小新聞には、例の谷斎坊主として度々載せられて居るが、同月の『鳳鳴新誌』第四十八号には、槎盆子の柳橋生稲楼に於ける新年宴会の記事があり、其一節に次の如く書いてある
其頭ハ西瓜ニ類シ、一見人ヲシテ蕩楽和尚ノ成レノ果カト疑ハシムル者ヲ谷斎トナス(原漢文)
此体質遺伝か紅葉山人も頭が大きかつた様である、谷斎の事は大正六年の雑誌『風俗』の第二巻六号に出て居る、明治二十七年二月二十一日、両国の大橋といふ飲食屋でたべた鰒の中毒で死んださうである、谷斎の本業は人形や根付類の彫刻で「谷斎ぼり」の名を得た程であつたが、蕩楽好きの本性で幇間に成つたのであると云ふ、此幇間の息子に紅葉山人の如き文芸家が生れたのは稀有の事とされてゐたが、当の紅葉山人はそれをイヤがつて、親類にも父のことを語らなかつたさうである


昭和十一年
⑪後藤宙外『明治文壇回顧録』「紅葉山人逸話」
紅葉氏の厳君は、彫刻の名人、谷斎であることは広く知られてゐる。しかし、其の苗字も通称も一般には知られて居らぬ。この件につき最近、『私の見た明治文壇』及び『かな反古』の著者野崎左文翁に書面で教へを乞うた。翁は病気にも拘はらず、懇篤な示教をたまはり、私の推測通り、武田谷斎は即ち紅葉氏の厳君であるとの回答を送られたのであつた。が、翁も其の通称は御承知ないとのことである。その書簡の要点を左に掲載する。
(前略)さて御下問の谷斎の事は、老生はわずか両三度宴席にて出逢ひ候のみ、亡師魯文翁とは懇意の間柄なりしゆゑ、同翁在世中に聞合せ置たらば、いくらも伝ふべき逸話はありしならんにと、今更ながら、残念に存じ候、御尋ねの通り、姓は武田氏なるも、谷斎とのみにて、老生も本名を知らず、本職は彫刻にて名人の聞えあり、今尚谷斎の号ある根付や角の煙草筒を見ることを有之候、かゝる長技を持ちながら、身を新橋幇間の群に投じ常に緋縮緬の羽織を着して、花柳界をさまよひ居候為め、人皆赤羽織赤羽織と称し居候、明治十二年頃に、新富座にて高橋阿伝の狂言を出せし時、裁判所の控所の場に、うしろ向にて、腰を掛け居る坊主あり、書記が声高に、武田谷斎と呼ぶにつれハイと答へて、こちら向きしは即ち此谷斎にて、見物をワツと笑せし事有之候、(是は老生の実見)此外の事は何も存じ不申、(魯文翁著の高橋阿伝夜叉譚に角堀酷斎と書て居るのも、此谷斎の名を借りたるもの)折角の御尋ねながら、右の次第にて満足を与へ兼候間、よろしく御諒承被下度候
〈中略〉     七十六翁左文拝
〈下略〉


昭和十二年
⑫永井荷風『断腸亭日乗』昭和十二年三月廿四日
燈下仮名垣魯文の手沢本四冊をよむ。林若樹旧蔵のものと云ふ。
一南陀迦紙乱 明治廿四年狂歌日記の類
一蚯蚓遺跡  明治廿四及廿五年おぼえ書
一出納薄記
一耄録    明治廿五六年おぼえ書
南陀迦紙乱の中に紅葉山人と其父とに関する記事あり。左の如し。
角彫工武田谷斎翁は現時小説家に名ある紅葉山人尾崎徳太郎(二十四)の実父なり。谷斎翁その男に学ひの道明らか成らしめんとするに、獣角に彫物せる手間賃にては学費足るへくもあらずと、中頃本職を廃て、赤羽織を服にまとひ専ら幇間者流に加はり、此処彼処の宴席に侍り、富者の纏頭に過分の金を得て、その子徳太郎氏に卒業の名誉を得さしむ。されと徳太郎氏正学を外にして新聞雑誌の小説を記述し、一時世に行はるゝも、老父の本来面目にはあらしかし。紅葉山人父母の家を去りて牛込横寺町四十七番地神楽坂裏手に住ふ。魯子これを知り狂歌一首を戯吟す。  妙々道人
  紅ひの葉織着流すいとなみに我子宝の仕立栄せり
荷風曰。余幼少のころ回向院相撲揚にて見物の際赤羽織の谷斎を屢見たることあり。又谷斎の角彫の根付も一時秘蔵せしが今はなし。


昭和十六年
⑬山中古洞『挿絵節用』(芸艸堂。昭和十六年十二月二十日)

 二十一年十一月やまと新聞の呼び物円朝噺が休載して居た、大将話しの種詮議に避暑以来続いての長旅である。留守師団の強者円生得意の『木乃伊とり』『佃祭り』続いて円遊の『擬宝珠』以下数づが進行して『隅田の夕立』が紙面を賑はして居た。その第三席芳年の挿絵に赤羽織谷斎が描かれて居た、羽織の裾には数枚の千社札やうのものが描いてある。これは知れる多くの芸妓達が贈主の名を書き入れて共同寄贈のものであるから、この新聞は寄贈直後で円遊も芳年も若干の御年貢を捧げたに相違あるまい。さうでないならやまと新聞社名の御奉納があつたと見るべきである。当時の事情が殆どある社会で「谷斎には何歟と世話になるから」と云ふ用語もあつたであらう。それ程頭脳が俊れて御役所向きか其筋向きか、得体の知れぬ軽い怪腕の持主であつた事は事実である。住居は芝の仙台屋敷本業は彫刻家だと云ふ、谷斎彫と云て名人扱ひを受けて居たが、宗珉一蝶を学んで通人客の間を縦横して明治式才幹を発揮した。北に松の家露八、南に赤羽織谷斎と謳はれ幇間中の二頭目であつた。落語『隅田の夕立』は右の事情から切つて嵌めた如きものである、噺の内容は御贔屓客の邸へ伺候した形であつた。
「赤い羽織を着て表てからヅカヅカ這入て来た日にやア私しだつて無調法は知てますが、洋犬に喰ひ附れても貴方にお目に掛つて参拾円位の商法に仕様と思つて来たんだすが、旦那貴方は角海老の瀬川さんに現つを抜かして居ますネ、知れないと思つてもいけやせんモウちやんと種ねが挙つてるんです」
 此に谷斎の声態模写が行はれたかどうかは断定出来ないが、文豪尾崎紅葉が吾実父たる事を隠蔽した生涯に看て過渡期ではあり、渠の地盤タイプの表現には落語家の巧拙は問はず親炙効果を疑ふ事は出来ない。此頃の一人が若し何等歟の事情で有力な劇場に二三を同日に往き来したなら、奇怪にも渾べてに同一人の谷斎に出遇ふと云つた程、渠は勤勉にもかべすの持運びから愛顧蒙る御連中様御用に倦む処なき忠勤ぶりを示して居た。渠は土間であり高土間桟敷であつても、足まめで目敏い驚くべき能動を発揮するのだ。自由党の名士で派手好みの何某の一家、夫人中心平土間グループの一人が紙入を掏児にしてやられた。夫人は急ぎ谷斎を探して軽く耳打をする、「心得た」と許り直ちに要所の手配りを終る、それは瞬く間である。暫くして恙なく其品物は持主へ戻される。劇場には臨検巡査と大概別の刑事も警戒として来て居る、渠はそれに交渉の手を用ひる、木戸口で賊は刑事に会釈した時鋭い平ら掌が横鬢へ飛んで行つた「出しツちまへ」と一と睨み、事は簡単である。こんな時心付けの御包みが袂へ這入る、改めて出し押戴いてから懐ろへ納めるのだ。記す処は新富座の出来事だが頂きものを懐ろへ入れる叮嚀な辞義が済む、後数秒渠れは俥上の人だ、忽ち千歳座の幕合ひに人立ちに混じながら目星しき敵を視出す、御挨拶御用拝承、天窓を安価に下げる、御祝儀頂戴業々敷く之を押戴くのだ。私の看たのは牡丹色に近かつたが、初期は純朱だと聞いた。


昭和二十七年
⑭村松定孝「谷斎・紅葉血脈考」(『文学研究』第九号。昭和二十七年九月)
以下の文献の名を挙げている。
江見水蔭『硯友社と紅葉』
勝本清一郎「我楽多文庫と紅葉」(昭和二十七年三月近代日本文学会例会発表)
東京朝日新聞明治二十七年二月二十三日記事(『明治新聞集成』第九巻・三二頁)


昭和二十七年
⑮柳田泉「紅葉山人の父谷斎の武田姓」(『明治大正文学研究』第九号。昭和二十七年十二月)

  一
 明治大正文学研究の第七号に、本年三月、勝本清一郎君が近代日本文学会でなした講演の筆記が「尾崎紅葉・家系その他」として掲載されてゐるが、その中で、わたしが紅葉の父谷斎の姓を武田と書いたことがあつたのに対して、やゝ遠廻しにこれを否定して、谷斎の姓は尾崎、名は惣蔵であつたとのべてゐる。そのことについて一言したいので、病中だがこの筆をとつた。
 谷斎の本姓名が尾崎惣蔵であつたことはわたしもあとで別な道すぢから知ることが出来たので、勝本君の説くところは一応も二応もその通りなのであるが、それにかゝわらず、谷斎が何ういふわけだか一時武田姓であつたこと、少くとも世間でさうとして通り、自らも武田姓で通してゐたことは、事実であつたと信じられる、当時としては、別に面倒なととではなく、一人で二つも三つも姓名をもつてゐても不思議でない明治以前に近いころのことであつたから、谷斎こと尾崎惣蔵が何かの都合上もう一つ武田といふ姓をつかつてゐたといふまでのことだが、一切が判然としなくなつた六十年・七十年後の今日になつてみると、彼が武田と名乗つたか名乗らぬかなどといふことのために、こんなやゝこしいことを書くことも必要となつて来たわけである。
 わたしが紅葉の父を武田谷斎だと書いたのは、明治文化の誌上で、たしかもう二十年近くにもならうか。或はもつとになるかも知れない。これはもちろんわたしの想像でも創造でも何でもなく、あの頃のかういふ方面の知識がすべてさうであつたやうに、明治文化研究会の席上で、当時生き残りの故老達から聞いたところを筆にしたものであつた。さういう故老の第一人者は、明治戯作者の遺老であり仮名垣魯文の愛弟子であつた野崎左文氏で、この谷斎の武田姓も、わたしどもは第一に野崎氏から聞かされたものである。
 野崎氏と谷斎との関係はといへば、野崎氏の談によると、さう個人的にひどく親しいといふのではなかつたが、谷斎は何しろ野崎氏の師匠である仮名垣魯文の親交のあつた一人であつたから、野崎氏と谷斎とも一と通りの交際があり、数回は宴会などで同坐したこともあつたといふ。魯文は谷斎のことを面と向つて多く谷斎さんとよんでゐたが、かげでは谷斎とか武田とかよんでゐたもので、それで野崎氏も、谷斎のことを、谷斎さんとか武田さんとかよび、それがその人の姓名だと思つて少しもあやしまなかつたといふことであつた。魯文の書いたものにもさう出てをり、現に魯文珍報などにも武田谷斎で出てゐたとともあり、一度などは、次のやうなこともあつたといふ。それは、魯文の有名な高橋阿伝夜叉譚が芝居になつたときに、谷斎が証人として法廷に出る場があるが、そのとき役人になつた俳優が「武田谷斎」と大きくよんだのに、今までうしろ向きでゐた谷斎が、ハイッと返事するとともに正面を向いて、見物をあつといはした。それをもちろん野崎氏は見もし、聞きもしたのであつた。、さういふわけで、まだ子の尾崎紅葉が有名にならぬときでもあり、谷斎の姓は尾崎が本当ではないかなどとあやしむ人もなく、いづれも武田谷斎として通つてゐたものであつた。
 以上は野崎左文氏の談の大要であるが、明治文化会の他の故老も、これを裏書きした。篠田胡蝶庵氏も、谷斎とは面識があつた人といふが、これも谷斎の姓はときかれると「アレは武田でした」ときつぱりと返事したし、石井研堂氏なども、さう聞いてゐるといふことであつた。故老先輩がすでにさうはつきりしてゐたので、わたしどもも、そのころは当然武田谷斎と信じて疑はなかつたのである。

  二
 そこで野崎氏のいふ魯文関係の文献に何か武田谷斎と出たものはないかと探してみると、只今わたしは病中なのでいはゆる博捜は出来ないが、一つはつきりしたものがある。それは魯文珍報で、これに成るぼど武田谷斎と明らかに出てゐるのである。丁度明治十一年七月二十一日のこと、魯文は同好の友人を中心に両国中村楼で珍猫百覧会といふ催しをして、満都の好事家をうならせたことがある。魯文のこの思ひつきは、その前年、明治十年の秋ごろのことであり、この年三月には、その催しの案が発表されてゐた。魯文に最も近い一人である谷斎なども、この催しに双手をあげて賛成したものらしく、この発表間もなく「青磁鮑貝」、「猫脚の盆」、「猫の押絵」の三点を出品するよしが、その五月五日の「かなよみ」新聞にみえてゐるといふ。さて問題の魯文珍報では、今日なら臨時増刊ともいふべきものを出して吹聴これつとめた。ところでその珍報第二十一号(明治十一年七月三十日刊)に、これも魯文門に出入した狂言作者久保田彦作(例の「鳥追阿松海上新話」の作者とされてゐる人物)の筆で右の百覧会場の景況が報道されてゐるが、その記事にかうある。
 本会の周旋補助は新聞各社を初め萩原乙彦、大蘇芳年、立斎広重、武田谷斎、松林伯円、三遊亭円朝、武蔵屋猫七の諸氏云々
魯文は随分交友関係のひろい人物であつたといふが、いかに交友がひろくとも、当時彼の身近かに谷斎と名づくる道楽仲間が二人とゐるわけはなかつた筈だから、本文中の武田谷斎がすなはち紅葉の父、俗に牙彫の名人といはれる角彫の名人谷斎であつたことは、まちがひがない。この牙彫云々はよくいはれてゐることだが、これは実は角彫といふのが正しく古くは魯文新しくは江沢春霞氏もさう書いてゐたし、わたし自身も紅葉未亡人喜久子刀自から聞いたことがある。牙彫は貴族趣味、角彫は庶民趣味といふ差があるのだといふが、その辺のことは、わたしには十分のべ立てる資格がないけれども、谷斎の性格を知る一つのかぎといへばいへやう。(といつて谷斎の牙彫がまるきりなかつたといふのではない、それは彫物師である以上、象牙であらうと、黄楊であらうと、いろいろの材料に技倆を示したことがあつたことだと思ふ)。
 さういふ次第で、尾崎紅葉の父谷斎が当時武田姓を用ひてゐたことは、明白であるらしい。単に野崎左文氏の記憶といふことをはなれても、多少でも文献的に徴証される以上、たとひ一時的にせよ、尾崎惣蔵なる人物が、何かの都合か理由から、武田姓を冒し、世間的には武田谷斎と名乗つてゐたことは、わたしにはまちがひのないことのやうに思へるのである。
 たゞ残念なのは、本来尾崎姓であるべき谷斎が何で武田姓を冒してゐたか、その武田姓といふものが、尾崎家乃至谷斎個人とどういふ関係にあるものであつたか、その辺が一向はつきりしないことであるが、それは、只今のわたしには何とも手の打ちやうのない問題で、只今のわたしとしては、本来尾崎姓であるべき谷斎が明治十年代には武田姓で通つてをり、そのため多くの人々が武田が本姓と思ひ込んでゐたのは当然のことで、その知識を伝へたわたしどもも一時武田谷斎とのみ信じてゐたのも、無理ではなかつたといふに満足したい。
 なほ右の野崎氏の談話を間接に裏書きするやうな材料はいろいろあるが、一つ二つならべてみやうか。例へば江見水蔭氏の「硯友社と紅葉」の中で(「紅葉の身の上話」といふ項)紅葉の竹馬の友久我亀石の談といふのを引用してゐるが、そのうちに―
 尾崎には家庭に複雑な事情があつたと見えて、少年時代から一家の事に関しては成るべく語るのを避けてゐた。苗字も荒木と尾崎と、それから谷斎の方の苗字と、いろいろ有るので、それに就て問うたけれど、彼はハッキリと答へなかつた云々、
とある。谷斎の姓は荒木でも尾崎でもないとしたのは、久我氏の想像であつたとしても、当時谷斎が尾崎を名のつてゐなかつたことは考へられることである。さうして久我氏が谷斎の苗字といつてゐるのは、この武田といふのではなかつたかとも思はれて来ないこともない。それから、わたしが武内桂舟氏から聞いた談話がある。わたしが武内氏と会つたのは、氏がなくなるしばらく前、恐らく一二年ほど前であつたやうに記憶するが、これは、わたしが谷斎が尾崎某といつてゐたと知つてから後のことで、もちろん谷斎のことで会つたのではない、別の用であつた。だがそのとき、談がいろいろにわたつたあと、紅葉や谷斎のことに及んだときに、わたしがこの武田姓、尾崎姓のことにふれたら、武内氏は、谷斎の家の表には四つも五つも表札があり、何でもその中に武田といふのもあつたやうに記憶すると語つた。これは、わたしから水を向けたかたちで、武内氏の記憶といふものも絶対的にあてになるといふのでもないから、こゝで、証拠呼ばはりしてもち出すのも何うかと思ふが、とにかくさういふこともあつたといふことを書いてをく。

  三
 今からいへば、紅葉が尾崎姓である限り、その父も一応尾崎姓と推定されるのが当然であり、もしさうでなくて、その父が他姓(例へばこの場合の武田姓のやうに)であつたとしたなら、大きな問題となるべきである。然しこれは一切、紅葉の偉さといふことを眼中においてのことで、紅葉の偉さといふことが頭の中になければ、谷斎が尾崎姓であらうと、武田姓であらうと、格別大した問題ではない。明治十年代といへば、紅葉が偉くなるかならぬか一向わからぬ時代で、谷斎とつきあつた連中は誰一人彼の姓について好奇心をもつなどといふことのなかつた時代であつた。従つて、谷斎が自ら武田と名乗つてゐたのをそのまゝ通用さして、少しも疑ひもせず、武田谷斎と信じてゐたのは、むしろ極めて自然であつたといへやう。紅葉が明治文学史上の大立物となつたからのち、始めてその父の尾崎姓か武田姓かが大問題とされることになつたわけである。
 だから、今になつてわたしどもに谷斎を武田姓と信じ込ませたといふので明治文化会の故老連をせめるのも、まちがつてゐやう。わたしも、もちろんさういふつもりはさらさらない。
 只一つ、迂かつ千万と思はれるのは、紅葉の父は武田谷斎だとのみ書いた当時のわたしどもの暢気さであるが、紅葉の父なら尾崎姓ではないかと一応疑はなかつたのは、明治文化会の故老の頭が武田姓に一致してゐたほかに、わたし自身の研究事情があつたので、わたしは、そのころ明治初期の戯作及び戯作文学の調査に日もこれ足らぬころであつたから、とても紅葉のことまで手がまはらなかつた。これはそのころの明治文学の研究の開拓時代の空気を知らない人々には、語つてもほんたうとは思へないやうなことが多いだらうが、戯作者の遺作の探索、遺族の有無、墓地さがし、何から何まで時間と奔走を必要とする仕事で、人まかせや金まかせでらちのあくことではなかつた。その辺のことをこゝでくはしくのべるのは、本意でないから、それはしないが、ともかく戯作者調べの傍ら紅葉のことまでは十分調べかねた。それやこれやで、谷斎のことも、可成り長く武田谷斎とだけ書いたまゝになつてゐたのである。

  四
 そこで、以上でわたしが紅葉の父を武田谷斎といつたわけがわかつてもらへたとし、また谷斎が事実一時は武田姓を名乗つたこともわかつてもらへたとして、事の順序だから、わたしが谷斎の本姓名が尾崎惣蔵であつたと知つた道すぢを語つて置かう。
 わたしが谷斎の本姓を尾崎ではないかと気づいたのは、いづれにしても武田谷斎とかいた後であらうと思ふが、それが昭和何年ごろであつたかはつきりしない。さういふ意味での尾崎といふ姓について、今記憶してゐることは、昭和何年であつたか(これは調べればわかるが今はさうする気力がない)日本橋の三越本店で紅葉関係の展覧会があつたことで、こゝでわたしがのぞいた書きつけが谷斎に相当する人物の尾崎姓をわたしの頭にうゑつけたやうに思ふ。その書きつけは、紅葉が仙台屋敷の岡千仭の漢学塾に入るときに出した願書乃至入門書めいたもので、それも多くの人の頭や肩の上からざつとのぞいたので、はつきり手にとつて見たといふのではなかつたから、その印象が十分なものであつたわけはない。然し、それでも尾崎某長男とか何とかいふ文句はちらりとよんだので、その尾崎云々が谷斎なのかなと思つた。然し、そのころはまだ武田姓を信じてゐたものだから、さうと思つても、その尾崎姓を問題にせず、谷斎の姓を武田と書いたと同じ文章で、わたしはこの書きつけのことに言及して、谷斎の尾崎姓を打ち消したやうに思ふ。このとき「尾崎惣五郎」と書いたので、あとで、これ又勝本君から叱られたが、これは実は叱る方が無理で、その書きつけをはつきり手にとつて見たわけではなかつたから、明白に尾崎何某とかけるわけがなかつたのである。然し、さういふ事情を知らない勝本君からすれば、事実尾崎惣五郎といふ人物がゐないのだから、叱るのも無理はないのでこれは純然たるわたしの推想といつてもよい姓名だから、武田説以上に叱る価値があるわけであつたらう。が、それはともかくとして、そのときは、わたしは固く武田姓を信じてゐたので、この尾崎惣五郎は谷斎ではなからうと書いて置いた。書いては置いたものゝ、この谷斎らしい「惣五郎」といふ人物の尾崎姓が、わたしの頭の中で、だんだん気になつて来た。さうなると子が尾崎なのに、なぜ父が武田なのかといふことも、漸く不思議に思へて来た(初め尾崎といふのは母方の姓だらうと片づけられてゐたものだが)。その度にわたしは、三越の展覧会でみた書きつけをもう一度みたいものと思つてゐたが、ふと同じ明治文化会の故老の一人の石井研堂氏がこ岡千仭塾で学んだ人であることに気がついて、石井氏にたのんで、例の入門書の写しをとつてもらふことにした。石井氏は岡千仭の後嗣百世氏と親しかつたので、これを快諾した、さうしてしばらくして、明治文化会例会の席上でわたしの懇望した書きつけの写しを手渡してくれた。これで、谷斎の本姓名尾崎惣蔵が、知識的にはつきりした次第であつた。
 だが、それもわたしはやはり従来武田説を信じてゐたせゐで、可成りの間、すなほにこの惣藏が即ち谷斎であることを信じきることが出来なかつたやうに思ふ、それが明白に信じられたのは、大分あとで紅葉未亡人にあつて、いろいろな話をきいてからのことであつたにちがひない。それは、中央公論社で全集をやる前後のことではなかつたらうか。今から考へると実に簡単なことに長くまごまごしたわけで、可笑しいやうにも思へるが、前にいつたやうに、こればかり調べてゐたのではなく、むしろ他に専心やつてゐたことがあつたのだから、長くまごまごしたのも、無理のないことであつたといつてよい。然し、まごまごしてゐたおかげで、谷斎が本姓名のほかに、一時(乃至は後半生)に、武田姓を名乗つてゐたといふ知識も得たのだから、そこはまづまごまごしてゐたゞけのものがあつたかと自らなぐさめてゐる。
 だが、実は、谷斎が尾崎惣蔵だと明白にわかつてみると、わたしは、この武田説に新たな興味をもつやうになつた。この武田説は、以上にのべて来たやうにわたしの創造でも空想でも何でもなく、明治文化会の故老の説で、この故老は生きた谷斎を知つてゐたのだから、これも事実であつたに相違がない。さうすると、尾崎惣蔵が谷斎となつても、何で武田姓を用ひてゐたのかといふ疑問が、依然のこることになる。紅葉未亡人にもそれとなくきいたことであるが、これは未亡人も知らないやうであつた。想像するに、是非さうする必要があつて名乗つた武田姓ではなしに、何か当時の谷斎の道楽生活に関する都合よさからさうしたものであつたらしい。前にいつたやうにわたしには、只今のところこの疑問をとく材料がないので、とかうとする興味はあつても、残念ながらこのまゝにしておく。
 谷斎については、まだ書けば書けるし、またもう少し書いた方が面白いと思ふが、この稿の目的は、彼が一時武田姓を名乗つたことの事実を明らかにするにあつたのだから、それを一通り明らかにし得たととろで、一トまづ打ち切りとしてあとは他日のことにしたい。
(附言、紅葉の母の再婚云々についても、わたしとしての推説があるわけだが、さうつゞけてはあまり長くなるから、これもまた併せて他日にゆづるとしやう。)


昭和二十八年
⑯鶯亭金升『明治のおもかげ』「赤羽織谷斎」
 近年書画骨董の売立ての会に折々谷斎作の象牙彫りのかんざしや緒〆が現われ、知らぬ人は明治の谷斎を真面目な美術家と思っているが、当時の谷斎は赤羽織で評判を取った野幇間であった。「あの男にこんな腕があるのかい」と驚く客もあった位、谷斎と言うのは芸名だと思っている人が多かった。
 彼は真面目に仕事をしていれば大したものだったが、道楽から身を持ち崩し平助という同気求むるノンキ男と一所に盛り場を賑わした。江戸生粋の消防組頭の贔屓になり、初出の時など平助はサシコで木遣り音頭勇しく繰出したものだが、谷斎坊主は相変らず赤い羽織であった。また芝居や角力場の惣見になくてはならぬ人と言われた。往来を歩くにも黙ってはいない。遊ぶ子供たちの機嫌を取ったり、曲り角へ来ると今の交通巡査のように世話をやいて車を通す、それがこの男の巧な宣伝であった。なるべく人の目につくようにと赤羽織を着たに違いない。酒の席へ出ても別に変った芸をやるでもなく唯陽気に斡旋しているだけだが、さすがに馴れた呼吸があって加賀町の頭には取りわけ贔屓になった。
 或時頭の供をして両国へ出かけ河豚鍋で一杯やった。すると翌日から頭が中毒を起し療養の甲斐なく死んだので、物に頓着せぬ和尚もすっかりショゲてしまい「お供をして河豚をおすすめしたのが飛んだ事になっちまった、どうも済まない」と言い続けて果は気分が悪くなり、ドッと床についてしまった。家内の者は驚いて名医を選び治療に手を尽したけれど、神経から病を発したものとてその甲斐なく、終に頭の後を追って河豚に一命を進上してしまったが、この和尚の子が文豪紅葉山人とは誰も知らずにいた処、或狂言作者が、谷斎が本名を尾崎惣蔵というのと紅葉山人の徳太郎が出入りするのに気が付いて尋ねると、
「あれは私の伜ですがこんな親父があると肩身が狭いでしょうから内分にして下さい」
と言ったのがかえって諸方へ噂を広める因になったが、谷斎が道楽をして取った金を息子の学費にしたと言うのを聞いた人は感心な男だとみんな誉めていた。平助は平気の平助と言われて何の芸もない男だが、いつも谷斎とツルンで歩いた。この男も息子は真面目に教育したので後は立派に立っていたらしい。
 とにかく芸に趣味のある客の多かった時分には芸妓も真の芸妓が多く、これを取巻く幇間も道楽半分のノンキ者が多かったのだから何処の酒席も面白かった。


昭和三十四年
⑰鏑木清方「横寺町の先生」(『鏑木清方文集』二〈昭和五十四年〉所収)
紅葉山人の父が、牙彫師の谷斎であつたことは、横寺町に出入する者の常識としてタブーになつてゐた。私は別にその間の事情を知らうとも思はなかつたので、今でもよくは解らぬが、先生は祖父祖母に育てられて人と成つたので、この老人たちと最後まで一緒に住まはれたが、父君との交渉はとんとなかつたやうである。
谷斎の本職は、象牙や、鹿角を刻むので、それも展覧会で見るやうなのではなく、装身具、袋物などに用ひられて名工と呼ばれ、近頃物故された石井柏亭氏の一族三浦乾也の焼物、簪の玉を乾也玉と云はれたのを愛するやうな好者に珍重された。私の母なども、乾也玉や、谷斎の帯止を身に附けてゐたのを知つてゐる。
幇間また太鼓持と云つて、遊客の取持をする職業も、今ではごく限られた形で、俤をとどめてゐるらしいが、江戸時分には太夫衆と云はれて花街には相当有力な存在であつた。廓は元より各所の花柳界に居附のものは、それぞれ格があるが、特定の縄張のない、随所に出没するのを野だいこと云つて卑しめてゐた。谷斎は職を持ち、いゝ腕を持つてゐながら、自ら好んでこのフリーの幇間になつたのである。芝居、相撲場、さういふ盛り場で、かなり大柄な坊主頭の、色の浅黒い、あまり愛想つ気のない五十過ぎの中老人が、燃えるやうな緋縮緬の長羽織を着て小褄を絡げ、紺のパツチ、白足袋で、人中を泳ぐやうにして、劇場の平土間にある細い間狭を亙り歩く様子が目に泛ぶ。雨が降らうが雪が降らうが、盛り場にこの人を見かけない日はなかつた。サンタクロースは知らなくても、谷斎を知らぬものはないと云つても誇張ではない。同じ時に平助と云ふ、これは別に特色のない走りあるきの小用を足す男がゐた。この平助を種にしたのが落語にも残つてゐる。
八官町に、も組の竹頭と云つて、顔の利く鳶職がゐた。新橋、銀座近辺切つての名うての頭で、谷斎とは親しい付合のなかであつたが、ある時谷斎が誘つて、河豚を肴に酒食を共にした。近頃はこの魚の中毒も殆ど聞かなくなつたが、昔はおほかた中るもののやうに、多くの人が怖れてゐた。誘つた谷斎に障りはなかつたが、竹頭だけがそのために急死した。人望のある頭だつたので、到るところで谷斎に白い眼が向けられる。居溜たまらない自責の念が、日夜彼を責めて歇まなかつたのであらう。怏々とした日を空しく送つてゐた彼は「竹頭にすまねヱ、俺も河豚で死んで詫びをする」と会ふ人毎に言つてゐたと聞くが、程なく彼は望み通りに口約を果し、竹頭のあとを追つたのである。それは三十七年〈注=三十七年は「二十七年」の誤り〉二月二十一日である。紅葉山人との間にどのやうな経緯があつたか知らないが、先生〈注=紅葉の死は明治三十六年十月三十日〉の死が父の谷斎に何の衝撃をも与へなかつたとは思はれない。それから四ケ月に充たないうちの出來ごとであることではあり、血筋は争へず、よく似た顔立を回想して、谷斎の心境に思ひを馳せるのを禁め難い。
幇間は、散々遊んで浮世の塩を嘗めつくした者がなるものだとかねがね聞いてゐるが、谷斎はたゞそれだけではなく、職人としての優れた技を持ちながら、世間で人外のやうに卑しまれても逡巡がず、社会に知られた息子を持ちながら、敢てかうした生活から脱けようとしなかつた彼はやはり徒者ではなかつたのである。(昭和三十四年十月)


昭和三十六年
⑱『芝を語る』所載、渋井徳兵衛「紅葉の父、尾崎谷斎」

 明治二十七八年頃、芝愛宕下町四丁目西一番地は(現在区立桜川小学校の北入口の前側)即ち今日の港区芝新橋六丁目六十二番地で、この辺を通称「仙台屋敷」といつて、明治四、五年頃までは、奥州仙台の藩主伊達家の下屋敷のあつた跡で、武家長屋が幾棟も並んで、道路に面して白く窓が続き、窓下は下水溝があつて、入口は後ろの小路にあつて各戸に格子戸の家もあれば、ささやかな開きっ〈菊池注:この「っ」は不可解。本文では促音は大文字表記〉の家もあつた。この中程に、赤塗の小さな門のある家が尾崎谷斎の住居であつた。この谷斎が明治文壇の文豪かの小説金色夜叉の創作者尾崎紅葉山人の父親である。
 その頃谷斎は六十余歳の坊主頭で、肥満体の好々爺で、服装は唐棧の着物に角帯を締め、股引をはいて、尻端折りに雪駄履で二六時中、緋縮緬の紋付羽織を着流し、長い杖をついて町中を歩いているので、現今と違つて交通の車は、人力車がたまに通る位だから、谷斎が歩いて居るのは三四町先から良く見えた。
 谷斎の本業は牙彫りといつて、鹿の角等で煙草入れの煙管筒或は根付緒や、簪などを造つて、贔屓のお客に買つて貰つていたが、一ケ月に一個か二個の作品では到底生活の費には足らず、其の為め素人幇間を業として、花柳界を渉り歩いて、歌舞伎座、新富座、明治座等に出入し、相撲が始まれば、両国の回向院の角力に出かけるが、何処の興業物でも彼れを福の神といつて、木戸銭は免除して呉れる無銭観覧者、良くいへば木戸御免である。而して場内を物色して顔なじみの客を見付ければ、早速其の枡へ(その頃は芝居でも角力でも座席で四人か五人宛の仕切枡になつていた。)入り込んで御機嫌取りのご挨拶をして、お酒の対手をし、御祝儀を頂けば、また次のお客様を探して御祝儀に有り付くという訳である。またその着て居る緋縮緬の紋付の羽織も、馴染のお店等へ行つて、冬近く成ると、「旦那様、お正月が近くなりましたが、羽織が汚なく成りましたから、春着を一枚拵えますから」といえば、贔屓の客は何程かの寄進をして呉れる。これを幾軒か歩いて貰つた金で紋付の赤羽織を造る。これが又変つて居て、五ツとも紋が違つて居て、丸に違い鷹の羽もあれば、剣かたばみもあれば、五三の桐もあるという作りかたで、一夜明けて正月になれば、この新調の羽織を着込んで、手拭の一筋も持つて、寄進を受けた贔屓の御店へ年賀を兼ねて御礼に参上して、其家の家紋を御覧に入れる。その家のが桐の紋で、その紋が背中にあれば、後ろ向きになつて紋を見せる。袖にあれば、左右いづれかその家の紋を見せて、平身低頭すれば、御祝儀が出ることは予算に仕組まれて居るのだ。
 尚は〈ママ〉書くことが前後したが谷斎の家の赤門の鴨居の上に、小さな蒲団の上に赤い木魚が乗せてあつて、これがある時は、谷斎は在宅して居る。外出の時は、この木魚を家へ片付けて出かけるから、友人知人が来ても、不在を知つて踵を返して帰つてしまう。また表を歩いて居ると、子供等に取囲まれて、谷斎に菓子買え、とせがまれると、通りかかりの御贔屓の御店へ行つて「子供に少し菓子を買つてやりますから、御鳥目を少し戴きとうご座います」といつて、何程か戴くと、子供を大勢連れて、菓子屋へ行つて戴いた金子を全部買つて、袋から菓子をつかみ出して、子供等に与えて愛嬌をいつて、とぼとぼと杖を突いて行つてしまう。斯様に子供をあやなすので、近所の子を持つ親達は谷斎に好漢を持つていた。
 以上のような生活をして居たので芸人等に友人が多く、或時、銀座の鳶職五番組の組頭三橋某と落語家三遊亭円遊と谷斎と三人で、新銭座の船宿から投網師と船頭をつれて、品川の台場沖へ漁に出かけた処、その日は河豚が獲れたので、船頭に料理させて三人の酒の肴に食べて、夕方舟に別れて帰宅した。その夜中に組頭の三橋が中毒して先ず仆れ、その報らせを受けて、谷斎も円遊も一夜の中に、三人とも死去したことは、当時有名な話であつた。
 その頃は新銭座には釣舟屋、網舟屋等は数軒あつて、繁昌していたものだ。三人の中の三遊亭円遊は「鼻の円遊」といつて人並はづれた大きな鼻の持主で、寄席の高座でステテコ踊りという円遊独特の踊りを踊り、その社〈ママ〉も、毛脛が出てお客様に不愉快な気持を持たせまいと考えて作つたものが、現今でもデパートで売つて居る「ステテコ履き」という太くて短い股引がそれである。そのステテコ踊りの歌を一つご紹介して筆をおく。
 此方でのろけて、彼方で惚れない、テケレツツのパー。
《この時、渋井は76歳》《円遊の没年と齟齬があるようです》


昭和四十三年
⑲岡保生『尾崎紅葉の生涯と文学』
谷斎にふれた文献としては、大正六年八月『風俗』第二巻第六号所載の島田筑波「赤羽織谷斎」を中心に、昭和六年七月『公私月報』第十一号の宮武外骨「尾崎紅葉の父谷斎」、昭和十六年十二月刊の山中古洞著『挿絵節用』などの記述をもととした、昭和二十四年四月の『文芸評論』第二輯所載、勝本清一郎氏の「紅葉の血統」がもっともよく整理されている。勝本氏の論文以後では、昭和二十八年十一月刊の鶯亭金升著『明治のおもかげ』、昭和三十六年六月刊藤田和彦編『芝を語る』所収の渋井徳兵衛氏「紅葉の父、尾崎谷斎」などがある。
これらを総合すると、谷斎の生活はある程度知られるのである。
谷斎、本名は尾崎惣蔵。芝の伊勢屋という商家の出である。その住居は、島田筑波が「赤羽織谷斎」で〈芝の浜松町に住み後ち芝片門前に移つたそうだ〉と述べているように、あるいは芝の地内を転々していたのかもしれない。が、大体は芝愛宕下のいわゆる仙台屋敷の中に住んでいたようである。前記渋井氏の「紅葉の父、尾崎谷斎」が、このことを明らかにしている。すなわち、この仙台屋敷はもと、奥州仙台の藩主伊達家の下屋敷のあった跡で、武家屋敷が幾棟も立ち並んでいたが、その中程にあった赤塗の小さな門のある家が谷斎の住居であったといわれる。当時の芝愛宕下町四丁目西一番地、今日の港区芝新橋六丁目六十二番地にあたる由である。
谷斎の本業は牙彫りで、鹿の角などを材料として、たばこ入れのきせる筒や根付けとかかんざしなどを作り、それをひいきの客に買ってもらうことによって生計を立てていた。通説の象牙彫りは誤りで、むしろ角彫りというのが至当であることは、前記勝本氏の論文および柳田泉氏の「紅葉山人の父谷斎の武田姓」(昭和二七・一二『明治大正文学研究』第九号)等で明らかである。谷斎の製作品は、水蔭も述べているように芸術的な雅致に富んでいた。また彼自身が、自分の作品に矜恃を抱いていたことは、市川団十郎との応酬を語った逸話をとおしてもうかがうことができる(水蔭『水蔭講演全集』第二巻)。
が、その製作品がいかに名作であったにせよ、月に一、二個の作品だけではとうてい生活できないので、彼はしろうとの幇間となったのである。むろん、そうなったのは、経済事情のほかに、道楽から身を持ちくずしたことが根本原因ではあるが。しかし、谷斎は、幇間としては、これという芸も持ち合わせていなかったと、島田筑波も書いているが、鶯亭金升も『明治のおもかげ』で、〈酒の席へ出ても別に変った芸をやるでもなく唯陽気に斡旋して居るだけだ〉と述べている。
そういうしろうと幇間でありながら、谷斎の評判が高かったのは、もっぱらその風采なり服装なりによったのではないか、と考えられる(後述のように谷斎の人がらにもよったのだとは思うが)。つまり、いわゆる「赤羽織の谷斎」のその赤羽織、すなわち緋縮緬の紋付羽織をいつも着ている彼のすがたが人目をひいたのにちがいあるまい。渋井氏によれば、谷斎の風采は次のようである。
その頃、谷斎は六十余歳の坊主頭で、肥満体の好々爺で、服装は唐棧の着物に角帯を締め、股引をはいて、尻端折りに雪駄履で二六時中、緋縮緬の紋付羽織を着流し、長い杖をついて町中を歩いているので、現今と違って交通の車は、人力車がたまに通る位だから、谷斎が歩いて居るのは三四町先から良く見えた。
谷斎はこうして、花柳界や劇場、また両国回向院の相撲などに出かけ、ひいき客の庇護により生活していたのである。金升によれば、彼は芝居や角力場の惣見に無くてはならぬ人となっていたし、どこの興業場でも木戸御免であったという。島田筑波は、谷斎の人となりについて、〈或る一部からは嫌はれて居た〉とことわって、谷斎が芝居茶屋へ行って客の喰い残しの弁当などを集め、それをいろいろ取り分けて、下方の者などに振舞い、やりかたが汚ないと鼻つまみにされていた、という話を伝えているが、いっぽう、子どもたちに菓子や風船などを分けてやって悦ばれもし、当人も楽しんでいた、という一面も伝えている。渋井氏の文にも、〈近所の子を持つ親達は谷斎に好感を持っていた。〉とある。毀誉さまざまではあるが、概していえば彼の陽気な世話好きの人がらは、少なくとも地元の人々には愛されていた、と見てよいであろう。
谷斎は、芸人仲間では落語家の三遊亭円遊と特に親交があり、両者の交遊についていくつかの話柄がのこっている。円遊は、自分の落語の中にも、野幇間のモデルに谷斎を用いていたといわれている(筑波文による)。
谷斎の没したのは明治二十七年二月二十一日である。鳶頭の供をして両国へ出かけ、ふぐを食べたところ、中毒してついに一命を落としてしまったのだといわれている。筑波がいうように、その死は〈如何にも花やか〉であったかもしれないが、われわれにはあまりにもあっけないように受けとられる。とまれ、たしかに「赤羽織の谷斎」にふさわしい最後ではあったのだ。


昭和四十四年
⑳森銑三『明治東京逸聞史』明治三十七年の項
赤羽織の谷斎〈『文庫』三七・七〉
尾崎紅葉の父親が、赤羽織の谷斎で、紅葉がそのことを極力秘密にしようとしていたのは事実だが、知っている人は誰れも知っていたらしい。明治二十六年十一月に、浅草公園五色亭で催した川柳忌に、皆真という人が「赤ツ羽織に紅葉の子も血筋」という句を作っている。そんなことが「六号活字」欄に見えている。「谷斎坊主は、彫刻の方が太鼓持より上手で、今日も谷斎の銘のある煙管筒など、なかなか高価である」ともしている。


昭和五十一年
㉑吉村武夫『大江戸趣味風流名物くらべ』「根付け 谷斎」
港区新橋の電車通り、茶商の渋江徳兵衛さんに「谷斎」のことを聞くことが出来たのは幸運だった。谷斎とはどんな人か全然判らなかったが、北区の江戸地図の研究家礒部鎮雄氏に渋江氏のことを聞き、早速訪れたのは昭和四六年の春だった。
渋江氏は八七歳だといわれるが、小柄な人で、驚くほど記憶のよい人だった。芝で生れ芝で育ち、十歳の頃に同町内に住んでいた谷斎のことをよく知っておられ「可愛がられたものですよ」という。
谷斎は姓を尾崎、名を惣蔵といい、若い頃王陽斎光雛に根付彫りを学び、角彫りに巧みで谷斎と号した。明治文壇の巨匠尾崎紅葉の父で、谷斎が明治五年に妻を失った後は母方の漢方医荒木舜庵に紅葉を預けた。彼自身は愛宕下町四丁目(港区新橋六丁目)の、元の仙台屋敷のお長屋に一人で住み、根付けや莨入れの筒の彫刻を業として暮していた。
袋物(紙入・莨入)は裂地に金唐草、印伝、黒サントメ、古金欄などを使用し、根付けに古渡珊瑚、瑪瑙、金、銀、象牙、鹿角を使い、雅風のある彫りをした。谷斎の彫物は当時の渋好みの名士の間に愛好された。しかし谷斎は名人肌の人によくあるように、気が向けば仕事場に入り、何日も食事をしないで仕事をするが、気が向かなければ仕事場に埃が積った。紅葉の友人で小説家の江見水蔭はこんな話をしていた。
「団十郎が谷斎に、煙管の筒の彫刻を依頼したことがあった。いくら待っても出来てこないので、『先にお金がほしいのだろう』と早合点して、使いの者に三〇円を持たして催促にやった。この頃の三〇円といえば大金で、明治十年頃でそばの価が一銭だった。この催促の仕方に職人肌の谷斎はグッと癪にさわった。相手が天下の団十郎ならば、こちらも天下の谷斎だと使いを待たせて置いて、三〇円で金の延板を買って来て、それに、金三〇円也 右正に受取申候 市川団十郎殿 谷斎 と彫って、さあこれが受取りだ持って行きねえ、といって使いを帰した」
このように気骨のあった谷斎であるが、いくら上手で名人でも当時はあくまで職人である。江戸時代でも歌麿や広重の作品は国宝視されているが、その作者は版元の一職人に過ぎず、一生不遇な生活を送った人が多い。
谷斎も気が向かなければ仕事はせず、一人暮の気安さからいつも留守勝ちだった。谷斎のいる時は玄関の長押の上に木魚を置いていたが、留守の時は木魚は下駄箱の上に置いてあり、知人はこの木魚の位置で黙って帰って行った。
名人谷斎は奇行の人だった。なぜか外出の時は赤い羽織と赤い頭巾を身につけていた。着物は当時流行の唐棧織で、円太郎馬車にも乗らず、尻はしょりで杖をつき、明治座や新富座などの芝居小屋や、回向院の角力小屋に出かけて行った。なぜ谷斎がこのような処へ行ったのか判らないが、小屋はどこでも木戸御免で、小屋の方は「福の神が来た」と喜んで招じ入れた。
谷斎は桝の間を往ったり来たりして、知合いや馴染の客を見つけ、酒の相手をしたり芝居の軽い批評や取組の話などしてはご気嫌を取り結び、小使銭をせしめた。このように幇間のようなまねをする谷斎を、「谷斎坊主」と蔑視する人もあった。しかし人づき合いもよく、小さなことに気もつき、詩や歌も解し、書画、茶の湯も一応おつきあい程度は出来たので贔屓筋からは可愛がられた。瓢瓢とした人柄が愛され「谷斎がいないと淋しい」と座敷や旅行に連れて行かれたこともあった。
幇間じみた素行と職人肌の二つの性行が、仕事の時と外出の時とで使い分けられたものか、とにかく変人であった。この赤い羽織と頭巾は、正月が近くなると町内の主だった店に立ち寄り「今年も羽織が汚れましたので」と、羽織などの新調の費用を無心した。これは毎年のことで、町の人気者で変人で通っている谷斎に、皆笑いながら寄進した。しかし多く寄付されても決して不当に余計には受取らなかった。
この金で新しい羽織や頭巾を作り、正月が来ると挨拶用の手拭を持って、新調の羽織を着て頭巾をかぶり、町内の寄進主や店に挨拶にでかけた。この時の羽織の紋は、全部違えて染めてあり、一番多く寄進してくれた店の紋は背中に染め、寄付額順に袖から胸に染められ、谷斎の義理固さを示していた。
「紋をいつ調べたものですかね」と渋江さんはいっておられた。
赤い羽織を着た谷斎は、渋江氏の前の東海道(巾八間)を歩いて来てもすぐ判った。
谷斎はまた子供好きで、彼の廻りにはいつも子供が群らがっていた。お金を持っている時は駄菓子を買って与えた。金のない時は近所の店に立寄り「子供に菓子を買ってやるので……」といっていくらかの金を貰い、子供に煎餅などを買ってやったものである。渋江氏の店にもよく来たもので、先代が十銭位渡すと、菓子を全部買って子供に与えていたという。そして子供に取巻かれ、子供といっしょに遊んで喜んでいた。
小説家は自分の身の廻りの人をいろいろに種として書くものであるが、紅葉はこの変人の父のことは一度も書いたことがない。谷斎の幇間的な行動を不快に思っていたのであろう、この父のことは語らなかった。
奇人であり、根付けを作らせたら当代一の谷斎は、彼らしい死に方をした。明治三〇年頃、銀座のも組の組頭三橋竹松と、初代のステテコ踊りの三遊亭円遊と仲が良く、誰が言い始めたのか、品川沖に網打ちに出かけた。気の合った者同志の舟遊びは楽しかった。捕った魚を船頭に料理してもらい、舟の上で食べたが、その中に河豚があった。
その夜、三橋竹松が死んだ。三橋の家内は、他の二人はどうかと若い衆を谷斎の所にやった。その時谷斎は手足が痺れ、舌がもつれて七転八倒している最中で、かけつけた医師も近所の人もうろたえているところだった。谷斎も、その次の日に死亡した。
渋江氏はこう語りながら、谷斎の銘のある茄子の根付けを奥から持って来て見せて下さった。「谷斎坊主」といわれ、赤い羽織を着て幇間じみた振舞いをして一部の人を顰蹙させた谷斎であるが、その作品の渋味、型、風雅さはやはり名人の手になるものであった。恐らくは奇行を演じながらも有名人の持物や粋人、通人の好みをしっかりとみていたものか。


昭和五十一年
㉒古谷綱治『通いみち新橋』「断絶の父子」
谷斎
港区立桜川小学校(新橋六-一九)の近くに、昔、松平陸奥守の大きな屋敷があって、その辺りを俗に「仙台屋敷」と呼んでいた。
明治になって、諸大名の屋敷や旗本屋敷はおいおい取り壊されたが、それでもところどころに外廓の残骸があったりして、昔の江戸の面影を多分に残していた。路地には格子戸の家や、ささやかな開き門の家もあった。そうした家並みの中に赤塗りの小さい門構えの家「服部谷斎」の表札があった。桜川小学校の北入口の前側で、明治二十七、八年ごろのことである。
彼の本業は牙彫りといって、鹿の角などで煙草入れの煙管筒や根付緒、簪などを彫って商っていたが、一ヵ月に一個か二個の作品ではとても生活していけるものではない。そこで、素人幇間に身をやつして、花柳界を渉り歩いていた。
仕事が仕事だけに外出が多いので、門の鴨居に小さい蒲団を置き、その上に赤い木魚を載せ、置いてあるときは在宅、無いときは不在、という面白い表示法を考えたご仁であった。
六十前後の小づくりな好々爺で、いつも緋ちりめんの羽織をまとい、濃みどりの太打ちの丸紐を胸高に結び、扇子をひらつかせて街中を蝶々のように駆け回っていた。
とくに歌舞伎座、新富座、明治座などへ出入りし、年に二回の大相撲が始まると両国の回向院へ出掛けるが、どこでも彼を"福の神"といって木戸銭を免除する無銭観覧者、いわば木戸御免で通っていた。そして場内に馴染みの客がいればご機嫌とりのご挨拶をし、酒の相手をしてご祝儀をいただく。そこが済めばまた次の客を探してははべる名物男で通っていた。
いたって器用な男で、米糠で汚れた古桝に猫の皮をはり、釣瓶の古竹を通してサオとし、それに三筋の糸を通して三味線とし、街中を流していた。
また、こんなこともよくあった。
道を歩いていて子供たちに取り囲まれると、近くのご贔屓筋へ立寄り、何程かのご祝儀を戴き、菓子屋へ行って、戴いたカネは残らず子供たちに与え、愛嬌をいってさっさと行ってしまう。
そんなふうにして子供をもてなすので、子を持つ親たちからしごく好感をもたれていた。この異風な老人こそ、じつは『金色夜叉』の作者、明治の文豪・尾崎紅葉山人の父親であった。
紅葉は、谷斎を父として持つことを心ひそかに恥とし、ひた隠しにかくしていた。江見水蔭のような親友でさえ、よほど後になるまで知らずにいた。
恐らく、谷斎は本業の牙彫りに親しむより、芝居と相撲の空気の中で飄々としてくらすのが性に合っていたのだろう。時として牙彫りの刀をとっても、出来上がった作品は金にしようともせず、好きな人には只でやっていたらしい。貰った芸者はその頭かざりを自慢にしたほど、立派な品であった。たしかに腕は名人級で、紅葉の三女・三千代さんが縁づいた市川市の横尾家には、いまなお遺品が大切に保存されている。なかでも、竹竿に蝸牛のとまっている髪のうしろざしなど確かに名作といえよう。指先にもとまらぬほどの蝸牛の殻いっぱいに「谷」の字の毛彫りを散らしてあるなど、非凡の技術が察せられる。
明治三十七年ごろ故人となった。


昭和六十年
㉓西脇隆英「町の年輪 SHINBASHI-EXTRA」(『季刊江戸っ子』第四十七号)
「武藏野に露月とはいい名なり」の露月町は、仙台屋敷の東北に接した町で、露月町の電車の停留場があった。この停留場の前に渋井徳兵衛を名乗る老舗の葉茶屋があった。すぐ近くに「出崎ラク」さんという産婆さんもいたが、子供心にも姓と名の組合せを面白く感じた。渋井徳兵衛さんは、いつも渋い和服をきちんとつけて、帳場に端座して渋い顔付きで戸外を見据えていたが、遡る子供の頃は仙台屋敷に住む当時「根付彫り」の名人といわれた尾崎谷斎に大変可愛がられた。谷斎は明治初期の文人尾崎紅葉の実父である。妻をなくしたので、一子徳太郎(紅葉)を母方の医者に預け、一人住いの気楽さで、気が向かなければ仕事はせず、出歩いた。赤い羽織に赤い頭巾、尻ばしょりで杖をつき、明治座、新富座などに出かけたが、どこも木戸御免で「福の神が来た」といって喜ばれた。
まことに谷斎は名人肌の畸人で、あるとき團十郎が煙管の筒の彫刻を依頼したが、いつまでたっても出来てこないので使いの者に三十円持たして催促にやった。谷斎はその催促の仕方がグツと癪にさわって、むこうが天下の團十郎ならこっちも天下の谷斎だと使いの者を待たしておいて、三十円で金の延棒を買ってきて、それに「金三十円右正に受取申候」と彫って、これを持たせて帰したということである。これは記憶力抜群の徳兵衛さんが八十四歳の時に語り遺していることだが、その徳兵衛さんの店も(五、六年前まではあったが)いまはもうない。すでに故人になっていることだろう。


昭和六十二年
㉔松廼家露八「身の上ばなし」(『季刊江戸っ子』第五十八号)
次に谷斎坊といふ人は誠に鹿の角に彫刻をするのが名人で、天下に及ぶ者がないといふ位ゐのものでございました。当時流行芸者で、此の人の彫つた簪笄などを持たない者は人に野暮といはれた位ゐでございますが、先生に幾ら迫つても中々急に彫つては呉れない。其の内にどうも斯うやつて小刀ばかり握つて居ても詰らない、長い浮世に短かい命、一番野太鼓と出掛けやうと赤い羽織を着て押廻して歩きましたが、其の代り座敷などへは滅多に聘ばれた事がない。また自分も出た事もない。芝居角力其の外の熱閙場、或は大家の葬式などへ出ては赤い羽織で働らいて、其の日の立前を何程かづつ貰ひ、適々宴会などへ参ると、お客様の残つた物を残さず折詰にして、ビールの飲みかけでも何でも持つて帰り、夫を持つて帰つても自分の家へ持つて行くのではない、住居が芝の仙台屋敷で、長屋に貧者も沢山居るので、其の貧しい人達に、サア誰も来い来いと云つて是を宛行い、自分の家へは持つて参りません。殊に此の人は夜分人に機嫌気褄を取る事が嫌いで、朝起きれば芝居なり角力なりへ出て参り、座敷へ出ても日の暮れない内に家へ帰つて来て、其の日を安楽に送つて居りましたが、兼て其の当時新聞にも出て御承知の通り、お客様と一緒に河豚鍋を食べて、其のお客様が河豚の中毒で死んで終つたので、自分も神経で危険だと甚く案じて居る内に間もなく自分も死んで終いました。此の人本名を竹田安五郎といひ、一名木魚堂上人と申しました。


平成二年
㉕大林清『明治っ子雑記帳』(平成二年二月。青蛙房)
小学校の低学年の頃、仙台屋敷というところへよく遊びに行った。そこに後に神明町へ引越した伯父一家が住んでいたからである。
屋敷といっても街の一画で、塀の囲いも何もなく、ただその一画だけ中央の空地が広く、周囲を小住宅が取巻いている感じだった。もとここは仙台伊達藩の下屋敷で、住宅は家臣のお長屋と称するものであった。大正のその頃はもはや士族も平民もごた混ぜになって、庶民が普通の住宅として住んでいた。道路に直接玄関のある粗末な家が多かった。
子供というものは変なものを欲しがるもので、棒の先に廻転する金属の車のついた、あれはたぶん裁縫用の滑車式ヘラだったのだろうが、伯父の家にあったそれが欲しくてたまらず、或る日こっそり懐中して帰った。考えてみると、いや考えてみなくてもこれは盗みだった。しばらくのあいだ子供ながら呵責に苦しめられたが、その盗品もいつの間にかどこかへなくなってしまった。五、六歳の頃ではなかったろうか。仙台屋敷は新銭座のわが家から子供の足で十分とはかからない桜川小学校の前あたりだった。
そこに尾崎紅葉の父尾崎谷斎が独りで住んでいたのは、私の子供時代より少くとも十年以上前のことで、この家には赤く塗った小さな門があったという。
尾崎谷斎は現代ならまちがいなく芸術院会員か人間国宝ぐらいにはなっていた、牙彫りの名人であった。「谷斎の彫り橋市の塗り」などと世間では私の曽祖父と並び称されていた。今なら立派な芸術家だが、その頃は職人だった。職人という言葉の持つ意味の中には、いま考えるのとはちがう誇りがあったにちがいないが、社会的地位は低かった。
牙彫りというのは鹿の角などを彫刻したものらしいが、月に何個も出来る訳ではないから生活は苦しい。人目につきやすいように緋縮緬の紋付羽織を唐桟の着物の上か何かに着て、長い杖を手にした異様な風体で外出し、赤羽織の谷斎の名があった。
本業は牙彫りの名人だが、副業は一種の幇間だった。芝居も相撲場も出入り自由で、物好きな旦那衆をつかまえては、御気嫌をうかがって何がしかの祝儀にありつくのである。
尾崎紅葉はこの父のアルバイトをひどく嫌い、終生誰にも父であることを秘して語らなかったというが、ひそかには仙台屋敷の家ものぞいていたらしい。
谷斎の赤い門の上には木魚が置かれていて、客はそれを叩いて来訪を告げ、それの引込めてある時は不在と知るのだった。
私が仙台屋敷へ遊びに行っていた頃は、もう赤い門の家など見当らなかった。
紅葉は母が死んだ六歳の頃から、母方の祖父に当る芝神明町の漢法医・荒木舜庵の許で育った。
私は風邪をひいて熱を出したりすると、神明町の横丁を入ったところにある樺島という医院へ行ったものだが、紅葉はその樺島家から妻を迎えている。年代から考えて、私を診てくれたチョビ髭の樺島医師は、紅葉夫人の甥ぐらいに当っていたのではないか。典医というから、どこかの大名に仕える代々の医家であったのだろう。
〈下略〉


平成七年
㉖岩波書店『紅葉全集』第十二巻所収年譜(岡保生)
慶応三(一八六七)年
一二月一六日(太陽暦では一八六八年一月一〇日)、江戸芝中門前町二丁目に生まれた。本名は徳太郎。父は尾崎惣蔵、母は庸(荒木氏)。一説に一二月二七日誕生とする。尾崎家は伊勢屋という屋号の商家であったが、天保五(一八三四)年生まれの父惣蔵は、若いころから家業をやめて、好きな角彫りに打ち込み、やがて名人谷斎とうたわれ、その制作品は庶民に珍重されていた。その一方、惣蔵は緋縮緬の羽織を着用し、花街や角力場に出入する幇間として生活していたので、皆から「赤羽織の谷斎」と呼ばれ、人気者でもあった。


令和元年
㉗嶌谷洋一『角彫名人 赤羽織の谷斎』(令和元年十月。里文出版)
巻末に「参考資料」として、百三点の文献が挙げられている。


ウィキペディアの記述
㉘尾崎 谷斎(おざき こくさい、1835年(天保6年) - 1894年(明治27年)2月21日)は、日本の伝統工芸品のひとつである根付師である。武田谷斎とも名乗った。本名尾崎惣蔵。
初め茶道具の目利きを習い、その後21歳で玉陽斎光雛に根付を師事。1859年まで4年間修行する。弟子二人。象牙よりも鹿角を好んで使用。仏具・蝙蝠・霊芝(茸)の作品が多い。その独特な作風(「谷斎彫り」といわれる)で時代の人気を得、当代人気番付にも頻繁に登場、谷斎ものを持たない芸者は本物ではないとまで言われた。具材の安い鹿角に芸術的価値を持たせることが谷斎の本領であり、作品自体の特異性に加え、作者名の刻印に特徴がある。根付師としての活動は1870年前後が中心であった。
9代目市川團十郎が、注文してからなかなか届かないことに痺れを切らして、金に困っているのだろうと、金十両を送りつけると、谷斎は、馬鹿にするなと怒ってその小判に「金十両確かに受領せり」と彫って送り返したという逸話がある。
別名「赤羽織の谷斎」として柳橋や新橋界隈では有名な幇間であった。幇間仲間には、「武田安五郎」で通っていたと旗本出身の幇間松廼屋露八(本名・土肥庄次郎)は回想している。芝で米問屋(呉服屋説も)「伊勢屋」を営んでいたとされるが、米騒動の頃閉めたものと推定される。谷斎には旗本出身説もある。谷斎の門柱には4つ以上の表札がかかっていたと言われているが、その使い分けは不明である。
荒木舜庵の娘庸と結婚し、二児を儲けるも、庸が若くして亡くなると、後に平井定吉の娘とくと再婚。 長男が作家の尾崎紅葉であるが、紅葉は幇間としての父の存在を公にしたくなかったようで、父についての言及はほとんどなかった。尚、紅葉は実母の死後祖父舜庵祖母せい(せん)に育てられた。紅葉は継母との関係は良かったようで、墓碑には尾崎紅葉母とくとあった。
尾崎家の墓は赤坂円通寺にあったが、第二次世界大戦後無縁塚に移転された。時代を経た家紋付の立派な墓であったという巖谷大四の記録もあり、商家(又は旗本)としてはそこそこの家柄であったものと推定される。 戒名は法寿院麗徳日融信士。死因はふぐ中毒死である。遊び仲間の講談師ら3人で品川に漁に行きその場で船頭に料理させて食べ、当日晩に亡くなった。尚、紅葉の墓は青山墓地にある。
近年、日本での研究が進み再評価され、海外でも高い評価を得ている。その独特のユーモアと日本的なセンスは群を抜いており外国人の熱心なコレクターも多い。 2010年、尾崎紅葉の墓の隣に谷斎の曾孫の尾崎伊策氏によって供養塔が建てられた。谷斎が得意とした煙管筒の形を模している。