平家物語 高野本 凡例

【許諾済】
本テキストの公開については、東京大学文学部国語研究室の許諾を得ています。底本使用・テキスト公開を許可された同研究室に厚く御礼申し上げます。
【注意】
本テキストの利用は個人の研究の範囲内に限られます。本テキストの全体あるいは一部の複写物・複写加工物を、インターネット上で、あるいは出版物(CD−ROM等を含む)として公表する場合には、事前に東京大学文学部国語研究室に翻刻掲載許可願いを申請する必要があります。同研究室の許可を得ない本テキストの公表は禁じられています。翻刻掲載許可願い申請送付先:〒113-0033
東京都文京区本郷7−3−1 東京大学文学部国語研究室
【底本】
本テキストの底本は、東京大学文学部国語研究室蔵高野辰之旧蔵『平家物語』(通称・高野本、覚一別本)です。直接には、笠間書院発行の影印本(市古貞次氏編集。1973)に拠りました。


章段名は、前に空白2文字分をあけ、『 』にくくり、その後に、S+巻(上2桁)+章段(下2桁)で表記しました。例:
  『祇園精舎(ぎをんしやうじや)』S0101
それぞれの巻頭に目録を掲げていますが、(本文中のものと表記が異なるものが有ります)各巻の1,2ページに掲げ(1ページのみの場合有り)、本文は3ページからです。底本は、1行に二つずつですが、1行に一つずつ掲げました。
行ごとに改行し、ページ数を表示しました。
底本は、章段の始めで改行せず、冒頭に○を付し、そのまま続けていますが、その通りにしました。例:
  殿上(てんじやうの)闇討(やみうち)S0102
をばいまだゆるされず。 ○しかるを忠盛(ただもり)(タダモリ)備

仮名に漢字を充てた場合や現代の表記は、【 】に入れました。
【*  】は、小学館の全集や、岩波の大系本で訂正してある表記(本来の正式の表記)です。
[*  ]は、注釈です。

振り仮名は、漢字の後に( )に入れました。
私が付したものは、歴史的仮名遣いを主としてひらがなで表記しました。
底本の振り仮名が、歴史的仮名遣いと同じ場合は、( )が一つで、ひらがなで表示してあります。*一部、カタカナでも表示してあります。
   本文漢字(歴史的仮名遣い振り仮名)
例: 境節(をりふし)(ヲリフシ) → 境節(をりふし)
底本の振り仮名が、歴史的仮名遣いと異なる場合は、( )が二つ並び、始めの()には、歴史的仮名遣いを主としてひらがなで表記し、あとの( )には、底本の振り仮名をカタカナで残し、他は、ひらがなで表示しました。
   本文漢字(歴史的仮名遣い振り仮名)(底本振り仮名を含む)
例: 大二条殿(おほにでうどの)(ヲホにでうどの)
本文の仮名が、歴史的仮名遣いと異なる場合は、その後に( )に歴史的仮名遣いを表示しました。
   本文仮名(歴史的仮名遣い)【振り漢字】
例: まゑん(まえん)【魔縁】にてはなかりけり。 

句読点は、(主に)底本にある朱点を元に付けました。
会話や心中思惟の部分には、「 」を付けました。
反復記号、重ね字は、一字の漢字の「々」のみ使用し、他は全て、文字に置き換えました。
底本に表記されていない促音「つ」、発音「ん」等は、(ッ)(ン)と補入しました。
濁点は、適宜施しました。

ミセケチ(見せ消ち)は、[M ]または[M 「」とあり「」をミセケチ「」と傍書]と記しました。
傍書は、[B  ]または[B 「」とあり「」に「」と傍書]と記しました。

覚一本には、和歌が100首有りますので、最初から番号を振り和歌の後に W○○○ と表記しました。
今様の後に I と表記しました。


文責:荒山慶一・菊池真一


平家物語 高野本 巻一(振り仮名省略版)

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【底本】
本テキストの底本は、東京大学文学部国語研究室蔵高野辰之旧蔵『平家物語』です。直接には、笠間書院発行の影印本に拠りました。
文責:荒山慶一・菊池真一


平家一(表紙)

P01001
平家一之巻 目録
一 祇園精舍
二 殿上闇討

禿髪
吾身栄花
祗王
二代の后
額打論
清水寺炎上 付東宮立
殿下ののりあひ
ししの谷 俊寛僧都沙汰
鵜川いくさ
願立
御こしぶり
内裏炎上
P01002

P01003
平家物語巻第一
  祇園精舍S0101
 ○祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響
あり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の
ことはりをあらはす。おごれる人も久しからず。
唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂に
はほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の
王莽、梁の周伊、唐の禄山、是等は皆、旧主
先皇の政にもしたがはず、楽みをきはめ、
P01004
諫をもおもひいれず、天下のみだれむ事を
さとらずして、民間の愁る所をしらざし
かば、久しからずして、亡じにし者ども也。
近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶
の純友、康和の義親、平治の信頼、此等は
おごれる心もたけき事も、皆とりどりに
こそありしかども、まぢかくは六波羅の入道
前太政大臣平朝臣清盛公と申し人の
ありさま、伝うけ給るこそ、心も詞も及
P01005
ばれね。其先祖を尋ぬれば、桓武天皇第
五の皇子、一品式部卿葛原親王、九代の
後胤、讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛朝臣の
嫡男なり。彼親王の御子、高視の王、無官
無位にしてうせ給ぬ。其御子、高望の王
の時、始て平の姓を給て、上総介になり
給しより、忽に王氏を出て人臣につら
なる。其子鎮守府将軍義茂、後には国香
とあらたむ。国香より正盛にいたる迄、六代は、
P01006
諸国の受領たりしかども、殿上の仙藉
  殿上闇討S0102
をばいまだゆるされず。 ○しかるを忠盛備
前守たりし時、鳥羽院の御願、得長寿院
を造進して、三十三間の御堂をたて、一千
一体の御仏をすへ奉る。供養は天承元
年三月十三日なり。勧賞には闕国を給
ふべき由仰下されける。境節但馬国の
あきたりけるを給にけり。上皇御感の
あまりに内の昇殿をゆるさる。忠盛三十
P01007
六にて始て昇殿す。雲の上人是を猜み、
同き年の十二月廿三日、五節豊明の
節会の夜、忠盛を闇打にせむとぞ擬せ
られける。忠盛是を伝聞て、「われ右筆の
身にあらず、武勇の家に生れて、今不慮
の恥にあはむ事、家の為身の為こころ
うかるべし。せむずるところ、身を全して
君に仕といふ本文あり」とて、兼て用意
をいたす。参内のはじめより、大なる鞘巻を
P01008
用意して、束帯のしたにしどけなげに
さし、火のほのぐらき方にむかて、やはら
此刀をぬき出し、鬢にひきあてられけるが、
氷などの様にぞみえける。諸人目をすまし
けり。其上忠盛の郎等、もとは一門たりし、
木工助平貞光が孫、しんの三郎大夫家房が
子、左兵衛尉家貞といふ者ありけり。薄
青のかりぎぬのしたに萠黄威の腹巻
をき、弦袋つけたる太刀脇ばさむで、
P01009
殿上の小庭に畏てぞ候ける。貫首以下
あやしみをなし、「うつほ柱よりうち、鈴の
綱のへんに、布衣の者の候はなにものぞ。
狼籍なり。罷出よ」と六位をもていはせ
ければ、家貞申けるは、「相伝の主、備前守
殿、今夜闇打にせられ給べき由承候あひだ、
其ならむ様を見むとて、かくて候。えこそ
罷出まじけれ」とて、畏て候ければ、是等を
よしなしとやおもはれけん、其夜の闇うち
P01010
なかりけり。忠盛御前のめしにまはれければ、
人々拍子をかへて、「伊勢平氏はすがめ
なりけり」とぞはやされける。此人々はかけ
まくもかたじけなく、柏原天皇の御末
とは申ながら、中比は都のすまゐもうと
うとしく、地下にのみ振舞なて、伊勢国
に住国ふかかりしかば、其国のうつは物に
事よせて、伊勢平氏とぞ申ける。其うへ
忠盛目のすがまれたりければ、加様には
P01011
はやされけり。いかにすべき様もなくして、
御遊もいまだをはらざるに、偸に罷出
らるるとて、よこだへさされたりける刀をば、
紫震殿の御後にして、かたえの殿上人
のみられけるところにて、主殿司をめし
てあづけ置てぞ出られける。家貞待
うけたてまて、「さていかが候つる」と申
ければ、かくともいはまほしう思はれけれ
ども、いひつるものならば、殿上までも頓而
P01012
きりのぼらんずる者にてある間、別の
事なし」とぞ答られける。五節には、
「白薄様、こぜむじの紙、巻上の筆、鞆
絵かいたる筆の軸」なんど、さまざま面
白事事をのみこそうたひまはるるに、中比
太宰権帥季仲卿といふ人ありけり。
あまりに色のくろかりければ、みる人
黒帥とぞ申ける。其人いまだ蔵人頭
なりし時、五節にまはれければ、それも
P01013
拍子をかへて、「あなくろぐろ、くろき
頭かな。いかなる人のうるしぬりけむ」
とぞはやされける。又花山院前太政大臣
忠雅公、いまだ十歳と申し時、父中納言
忠宗卿にをくれたてまて、みなし子にて
おはしけるを、故中御門藤中納言家成
卿、いまだ播磨守たりし時、聟に取て
声花にもてなされければ、それも
五節に、「播磨よねはとくさか、むくの
P01014
葉か、人のきらをみがくは」とぞはやされ
ける。「上古にはか様にありしかども事
いでこず、末代いかがあらんずらむ。おぼ
つかなし」とぞ人申ける。案のごとく、五
節はてにしかば、殿上人一同に申され
けるは、「夫雄剣を帯して公宴に列し、
兵杖を給て宮中を出入するは、みな
格式の礼をまもる。綸命よしある先
規なり。しかるを忠盛朝臣、或は相伝の
P01015
郎従と号して、布衣の兵を殿上
の小庭にめしをき、或は腰の刀を横へ
さいて、節会の座につらなる。両条希
代いまだきかざる狼籍也。事既に重
疊せり、罪科尤のがれがたし。早く
御札をけづて、闕官停任せらるべき」由、
おのおの訴へ申されければ、上皇大に驚
おぼしめし、忠盛をめして御尋あり。
陳じ申けるは、「まづ郎従小庭に祗候
P01016
の由、全く覚悟仕ず。但近日人々あひ
たくまるる旨子細ある歟の間、年来
の家人事をつたへきくかによて、其恥
をたすけむが為に、忠盛にしられずして
偸に参候の条、ちから及ばざる次第
なり。若なを其咎あるべくは、彼身を
めし進ずべき歟。次に刀の事、主殿司
にあづけをきをはぬ。是をめし出され、
刀の実否について咎の左右有べき歟」
P01017
と申。しかるべしとて、其刀をめし出して
叡覧あれば、うへは鞘巻のくろく
ぬりたりけるが、中は木刀に銀薄をぞ
おしたりける。「当座の恥辱をのがれんが
為に、刀を帯する由あらはすといへども
後日の訴訟を存知して、木刀を帯し
ける用意のほどこそ神妙なれ。弓箭
に携らむ者のはかりことは、尤かうこそ
あらまほしけれ。兼又郎従小庭に祇候
P01018
の条、且は武士の郎等のならひなり。忠盛が
咎にあらず」とて、還而叡感にあづかし
うへは、敢て罪科の沙汰もなかりけり。
  鱸S0103
 ○其子どもは、諸衛の佐になる。昇殿せし
に、殿上のまじはりを人きらふに及ばず。
其比忠盛、備前国より都へのぼりたり
けるに、鳥羽院「明石浦はいかに」と、尋
ありければ、
有明の月も明石のうら風に
P01019
浪ばかりこそよるとみえしか W001
と申たりければ、御感ありけり。此歌は
金葉集にぞ入られける。忠盛又仙洞に
最愛の女房をもてかよはれけるが、ある
時其女房のつぼねに、妻に月出したる
扇をわすれて出られたりければ、かたえの
女房たち、「是はいづくよりの月影ぞや。
出どころおぼつかなし」などわらひあはれ
ければ、彼女房、
P01020
雲井よりただもりきたる月なれば
おぼろけにてはいはじとぞ思ふ W002
とよみたりければ、いとどあさからずぞ
おもはれける。薩摩守忠教の母是なり。
にるを友とかやの風情に、忠盛もすいたり
ければ、彼女房もゆうなりけり。かくて
忠盛刑部卿になて、仁平三年正月十
五日、歳五十八にてうせにき。清盛嫡男
たるによて、其跡をつぐ。保元元年七月
P01021
に宇治の左府代をみだり給し時、安芸
のかみとて御方にて勳功ありしかば、播
磨守にうつて、同三年太宰大弐になる。
次に平治元年十二月、信頼卿が謀叛の時、
御方にて賊徒をうちたいらげ、勳功一に
あらず、恩賞是おもかるべしとて、次の年
正三位に叙せられ、うちつづき宰相、衛府督、
検非違使別当、中納言、大納言に経あがて、
剩へ烝相の位にいたり、さ右を経ずして
P01022
内大臣より太政大臣従一位にあがる。大将
にあらねども、兵杖を給て隨身をめし
具す。牛車輦車の宣旨を蒙て、のり
ながら宮中を出入す。偏に執政の臣の
ごとし。「太政大臣は一人に師範として、四海に
儀けいせり。国をおさめ道を論じ、陰陽
をやはらげおさむ。其人にあらずは則かけよ」
といへり。されば即闕の官とも名付たり。
其人ならではけがすべき官ならねども、一天
P01023
四海を掌の内ににぎられしうへは、子細
に及ばず。平家かやうに繁昌せられける
も、熊野権現の御利生とぞきこえし。
其故は、古へ清盛公いまだ安芸守たりし
時、伊勢の海より船にて熊野へまいられ
けるに、おほきなる鱸の船におどり入
たりけるを、先達申けるは、「是は権現の
御利生なり。いそぎまいるべし」と申ければ、
清盛の給ひけるは、「昔、周の武王の船にこそ
P01024
白魚は躍入たりけるなれ。是吉事なり」
とて、さばかり十戒をたもち、精進潔斎
の道なれども、調味して家子侍共にくはせ
られけり。其故にや、吉事のみうちつづいて、
太政大臣まできはめ給へり。子孫の官途
も竜の雲に昇るよりは猶すみやか也。
  禿髪S0104
九代の先蹤をこえ給ふこそ目出けれ。 ○角
て清盛公、仁安三年十一月十一日、年五十一
にてやまひにをかされ、存命の為に忽に
P01025
出家入道す。法名は浄海とこそなのられけれ。
其しるしにや、宿病たちどころにいへて、
天命を全す。人のしたがひつく事、吹風
の草木をなびかすがごとし。世のあまねく
仰げる事、ふる雨の国土をうるほすに
同じ。六波羅殿の御一家の君達といひてン
しかば、花族も栄耀も面をむかへ肩を
ならぶる人なし。されば入道相国のこじうと、
平大納言時忠卿ののたまひけるは、「此一門に
P01026
あらざらむ人は皆人非人なるべし」とぞのた
まひける。かかりしかば、いかなる人も相構て
其ゆかりにむすぼほれむとぞしける。衣文
のかきやう、鳥帽子のためやうよりはじめ
て、何事も六波羅様といひてげれば、一天
四海の人皆是をまなぶ。又いかなる賢王
賢主の御政も、摂政関白の御成敗も、世に
あまされたるいたづら者などの、人のきか
ぬ所にて、なにとなうそしり傾け申事は
P01027
つねの習なれども、此禅門世ざかりのほどは、
聊いるかせにも申者なし。其故は、入道相国
のはかりことに、十四五六の童部を三百人
そろへて、髪をかぶろにきりまはし、あかき
直垂をきせて、めしつかはれけるが、京中
にみちみちて往反しけり。をのづから平家
の事あしざまに申者あれば、一人きき出さ
ぬほどこそありけれ、余党に触廻して、
其家に乱入し、資財雑具を追捕し、
P01028
其奴を搦とて、六波羅へゐてまいる。されば
目に見、心にしるといへど、詞にあらはれて
申者なし。六波羅殿の禿といひてしかば、
道をすぐる馬車もよぎてぞとをり
ける。禁門を出入すといへども姓名を
尋らるるに及ばず京師の長吏これが
  吾身栄花S0105
為に目を側とみえたり。 ○吾身の栄花
を極るのみならず、一門共に繁昌して、
嫡子重盛、内大臣の左大将、次男宗盛、中納言
P01029
の右大将、三男具盛、三位中将、嫡孫維盛、四位
少将、すべて一門の公卿十六人、殿上人卅余
人、諸国の受領、衛府、諸司、都合六十余人
なり。世には又人なくぞ見えられける。
昔奈良の御門の御時、神亀五年、朝家に
中衛の大将をはじめをかれ、大同四年に、
中衛を近衛と改られしよりこのかた、兄弟
左右に相並事纔に三四箇度なり。文
徳天皇の御時は、左に良房、右大臣の左大将、
P01030
右に良相、大納言の右大将、是は閑院の左
大臣冬嗣の御子なり。朱雀院の御宇
には、左に実頼、小野宮殿、右に師資、九条
殿、貞仁公の御子なり。後冷泉院の御時は、
左に教通、大二条殿、右に頼宗、堀河殿、
御堂の関白の御子なり。二条院の御宇
には、左に基房、松殿、右に兼実、月輪殿、
法性寺殿の御子なり。是皆摂禄の臣の
御子息、凡人にとりては其例なし。殿上の
P01031
交をだにきらはれし人の子孫にて、禁色
雑袍をゆり、綾羅錦繍を身にまとひ、
大臣の大将になて兄弟左右に相並事、
末代とはいひながら不思議なりし事ども
なり。其外御娘八人おはしき。皆とりどりに、
幸給へり。一人は桜町の中納言重教卿の
北の方にておはすべかりしが、八歳の時約
束計にて、平治のみだれ以後ひきちがへられ、
花山院の左大臣殿の御台盤所にならせ給て、
P01032
君達あまたましましけり。抑此重教卿を、
桜町の中納言と申ける事は、すぐれて心
数奇給へる人にて、つねは吉野山を
こひ、町に桜をうへならべ、其内に屋を立
てすみ給ひしかば、来る年の春ごとに
みる人桜町とぞ申ける。桜はさいて七箇
日にちるを、余波を惜み、あまてる御神
に祈申されければ、三七日まで余波あり
けり。君も賢王にてましませば、神も神
P01033
徳を耀かし、花も心ありければ、廿日の齢
をたもちけり。一人は后にたたせたまふ。
王子御誕生ありて皇太子にたち、位に
つかせ給しかば、院号かうぶらせ給ひて、
建礼門院とぞ申ける。入道相国の御娘なる
うへ、天下の国母にてましましければ、とかう
申に及ばず。一人は六条の摂政殿の北政所
にならせ給ふ。高倉院御在位の時、御母代
とて准三后の宣旨をかうぶり、白河殿とて
P01034
おもき人にてましましけり。一人は普賢寺
殿の北の政所にならせ給ふ。一人は冷泉大
納言隆房卿の北方、一人は七条修理大夫信
隆卿に相具し給へり。又安芸国厳島の
内侍が腹に一人おはせしは、後白河の法皇へ
まいらせ給ひて、女御のやうにてぞましまし
ける。其外九条院の雑仕常葉が腹に
一人、是は花山院殿に上臈女房にて、廊の
御方とぞ申ける。日本秋津島は纔に六十
P01035
六箇国、平家知行の国卅余箇国、既に半国
にこえたり。其外庄園田畠いくらといふ数
をしらず。綺羅充満して、堂上花の如し。
軒騎群集して、門前市をなす。楊州
の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦、七
珍万宝一として闕たる事なし。歌堂舞
閣の基、魚竜爵馬の翫もの、恐くは帝闕
も仙洞も是にはすぎじとぞみえし。
  祇王S0106
 ○入道相国、一天四海をたなごころのうちににぎり
P01036
給ひしあひだ、世のそしりをもはばからず、人
の嘲をもかへり見ず、不思議の事をのみ
し給へり。たとへば、其比都に聞えたる白
拍子の上手、祇王祇女とておとといあり。とぢ
といふ白拍子がむすめなり。あねの祇王を入
道相国さいあひせられければ、是によつていもう
との祇女をも、よの人もてなす事なのめなら
ず。母とぢにもよき屋つくつてとらせ、毎月
に百石百貫ををくられければ、けないふつき
P01037
してたのしい事なのめならず。抑我朝に、
しら拍子のはじまりける事は、むかし鳥羽院
の御宇に、しまのせんざい、わかのまひとて、これら
二人がまひいだしたりけるなり。はじめは
すいかんに、たて烏帽子、白ざやまきをさいて
まひければ、おとこまひとぞ申ける。しかる
を、中比より烏帽子刀をのけられて、すいかん
ばかりをもちいたり。扨こそ白拍子とは名付
けれ。京中の白拍子ども、祇王がさいはゐの
P01038
めでたいやうをきいて、うらやむものもあり、そね
む者もありけり。うらやむ者共は、「あなめでたの
祇王御前の幸や。おなじあそび女とならば、
誰もみな、あのやうでこそありたけれ。いかさま
是は祇といふ文字を名について、かくはめで
たきやらむ。いざ我等もついて見む」とて、或は
祇一とつき、ぎにとつき、或はぎふく・ぎとく
などいふものもありけり。そねむものどもは、
「なんでう名により文字にはよるべき。さいはゐは
P01039
ただ前世の生れつきでこそあんなれ」とて、
つかぬものもおほかりけり。かくて三年と
申に、又都にきこえたるしら拍子の上手、
一人出来たり。加賀国のものなり。名をば
仏とぞ申ける。年十六とぞきこえし。「昔
よりおほくの白拍子ありしが、かかるはまひは
いまだ見ず」とて、京中の上下もてなす事
なのめならず。仏御前申けるは、「我天下に聞え
たれ共、当時さしもめでたうさかへさせ給ふ
P01040
平家太政の入道どのへ、めされぬ事こそほ
いなけれ。あそびもののならひ、なにかくるしかる
べき。推参して見む」とて、ある時西八条へぞ
まいりたる。人まいつて、「当時都にきこえ候仏
御前こそまいつて候へ」と申ければ、入道「なん
でう、さやうのあそびものは人のめしにしたがふ
てこそ参れ、さうなふすいさんするやうやある。
祇王があらん所へは、神ともいへ、ほとけとも
いへ、かなふまじきぞ。とふとふ罷出よ」とぞの給ひ
P01041
ける。ほとけ御ぜんはすげなふいはれたてまつ
つて、既にいでんとしけるを、祇王入道殿に
申けるは、「あそびもののすいさんはつねのならひ
でこそさぶらへ。其上年もいまだをさなふさぶ
らふなるが、適々思たつてまいりてさぶらふを、
すげなふ仰られてかへさせ給はん事こそ不便
なれ。いかばかりはづかしう、かたはらいたくもさぶら
ふらむ。わがたてしみちなれば、人の上ともおぼ
えず。たとひ舞を御覧じ、歌をきこし
P01042
めさずとも、御対面ばかりさぶらふてかへさせ
給ひたらば、ありがたき御情でこそさぶらはん
ずれ。唯理をまげて、めしかへして御対面さぶ
らへ」と申ければ、入道「いでいでわごぜがあまりに
いふ事なれば、見参してかへさむ」とて、つかひを
たててめされけり。ほとけごぜんはすげなふいはれ
たてまつつて、車にのつて既にいでんとしけるが、
めされて帰まいりたり。入道出あひたいめん
して、「けふの見参はあるまじかりつるを、
P01043
祇王がなにと思ふやらん、余に申すすむる
間、加様にげんざんしつ。見参するほどにては、
いかでか声をもきかであるべき。いまやう一つ
うたへかし」との給へば、仏御前「承さぶらふ」とて、
今やうひとつぞうたふたる。君をはじめて
みるおりは千代も経ぬべしひめこ松、
おまへの池なるかめをかに鶴こそむれゐ
てあそぶめれ Iと、おし返しおし返し三返うたひす
ましたりければ、けんもんの人々みな耳目
P01044
ををどろかす。入道もおもしろげにおもひ
給ひて、「わごぜは今やうは上手でありける
よ。このぢやうでは舞もさだめてよかるらむ。
一番見ばや。つづみうちめせ」とてめされけり。
うたせて一ばんまふたりけり。仏御前は、かみ
すがたよりはじめて、みめかたちうつくしく、
声よく節も上手でありければ、なじかは
まひもそんずべき。心もをよばずまひすま
したりければ、入道相国まひにめで給ひて、
P01045
仏に心をうつされけり。仏御前「こはされば
なに事さぶらふぞや。もとよりわらははすい
さんのものにて、いだされまいらせさぶらひしを、
祇王御前の申しやうによつてこそ、めしかへさ
れてもさぶらふに、はやはやいとまをたふでいだ
させおはしませ」と申ければ、入道「すべてその儀
あるまじ。但祇王があるをはばかるか。その儀
ならばぎわうをこそいださめ」とぞの給ひ
ける。仏御前「それ又いかでかさる御事さぶらふ
P01046
べき。諸共にめしをかれんだにも、心うふさぶらふ
べきに、まして祇王ごぜんを出させ給ひて、
わらはを一人めしをかれなば、ぎわうごぜんの
心のうち、はづかしうさぶらふべし。をのづから
後迄わすれぬ御事ならば、めされて又は
まいるとも、けふは暇をたまはらむ」とぞ申ける。
入道「なんでう其儀あるまじ。祇王とうとう
罷出よ」と、お使かさねて三どまでこそたて
られけれ。祇王もとよりおもひまふけたる
P01047
道なれども、さすがに昨日けふとは思よらず。
いそぎ出べき由、しきりにのたまふあひだ、
はきのごひちりひろはせ、見ぐるしき物共
とりしたためて、出べきにこそさだまりけれ。
一樹のかげにやどりあひ、おなじながれをむすぶ
だに、別はかなしきならひぞかし。まして此三
とせが間住なれし所なれば、名残もおしう
かなしくて、かひなきなみだぞこぼれける。扨
もあるべき事ならねば、祇王すでに、いまは
P01048
かうとて出けるが、なからん跡のわすれがたみに
もとやおもひけむ、しやうじになくなく一首
の歌をぞかきつけける。もえ出るもかるる
もおなじ野辺の草いづれか秋にあはで
はつべき、 W003 さて車に乗て宿所に帰り、障子
のうちにたをれふし、唯なくより外の事ぞ
なき。母やいもうと是をみて、「いかにやいかに」と
とひけれ共、とかうの返事にも及ばず。倶し
たる女に尋てぞ、去事ありともしりてん
P01049
げれ。さるほどに、毎月にをくられたりける、
百石百貫をも、いまはとどめられて、仏御前が
所縁の者共ぞ、始而楽み栄ける。京中の
上下、「祇王こそ入道殿よりいとま給はつて出
たんなれ。誘見参してあそばむ」とて、或は
文をつかはす人もあり、或は使をたつる者
もあり。祇王さればとて、今更人に対面して
あそびたはぶるべきにもあらねば、文をとり
いるる事もなく、まして使にあひしらふ迄も
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なかりけり。これにつけてもかなしくて、
いとど涙にのみぞしづみにける。かくてこと
しもくれぬ。あくる春の比、入道相国、祇王が
もとへししやをたてて、「いかに其後何事かある。
仏御前が余につれづれげに見ゆるに、まいつて
今やうをもうたひ、まひなどをもまふて仏なぐ
さめよ」とぞの給ひける。祇王とかふの御返事
にも及ばず。入道「など祇王は返事はせぬぞ。
まいるまじひか。参るまじくはそのやうをまふせ。
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浄海もはからふむねあり」とぞの給ひける。
母とぢ是をきくにかなしくて、いかなるべし
ともおぼえず。なくなくけうくんしけるは、
「いかに祇王御前、ともかうも御返事を申せ
かし。左様にしかられまいらせんよりは」といへば、
祇王「まいらんとおもふ道ならばこそ、軈而参る
とも申さめ、まいらざらむ物故に、何と御返事
を申べしともおぼえず。此度めさんにまいら
ずは、はからふむねありと仰らるるは、都の外へ
P01052
出さるるか、さらずは命をめさるるか、是二には
よも過じ。縦都をいださるるとも、歎べき道
にあらず。たとひ命をめさるるとも、おしか
るべき又我身かは。一度うき物におもはれ
まいらせて、二たびおもてをむかふべきにもあら
ず」とて、なを御返事をも申さざりけるを、
母とぢ重而けうくんしけるは、「天が下にす
まん程は、ともかうも入道殿の仰をば背
まじき事にてあるぞとよ。男女のえん
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しゆくせ、今にはじめぬ事ぞかし。千年
万年とちぎれども、やがてはなるる中もあり。
白地とは思へども、存生果る事もあり。世に
定なきものは、おとこ女のならひなり。それに
わごぜは、此みとせまでおもはれまいらせたれ
ば、ありがたき御情でこそあれ、めさんに
まいらねばとて、命をうしなはるるまでは
よもあらじ。唯都の外へぞ出されんずらん。縦
都を出さるとも、わごぜたちは年若ければ、
P01054
いかならん岩木のはざまにてもすごさん事
やすかるべし。年老をとろへたる母、都の外
へぞ出されんずらむ。ならはぬひなのすまゐ
こそ、かねておもふもかなしけれ。唯われを都
のうちにて住果させよ。それぞ今生後生
のけうやうと思はむずる」といへば、祇王、うし
とおもひし道なれども、おやのめいをそむかじと、
なくなく又出立ける心のうちこそむざんなれ。
独参らむは余に物うしとて、いもうとの祇女
P01055
をもあひぐしけり。其外白拍子二人、そうじて
四人、ひとつ車にとりのつて、西八条へぞ参り
たる。さきざきめされける所へはいれられず、
遥にさがりたる所にざしきしつらふてをかれ
たり。祇王「こはさればなに事さぶらふぞや。わが
身にあやまつ事はなけれ共、すてられたてまつる
だにあるに、座敷をさへさげらるることの心う
さよ。いかにせむ」とおもふに、しらせじとおさふる
袖のひまよりも、あまりて涙ぞこぼれける。
P01056
仏御前是をみて、あまりにあはれにおもひ
ければ、「あれはいかに、日比めされぬところ
でもさぶらはばこそ、是へめされさぶらへかし。さら
ずはわらはにいとまをたべ。出て見参せん」
と申ければ、入道「すべて其儀あるまじ」と
のたまふ間、ちからをよばで出ざりけり。其
後入道、ぎわうが心のうちをばしり給はず、
「いかに、其後何事かある。さては仏御前があまりに
つれづれげに見ゆるに、いまやうひとつうたへかし」と
P01057
の給へば、祇王、まいる程では、ともかうも
入道殿の仰をば背まじとおもひければ、
おつるなみだをおさへて、今やうひとつぞ
うたふたる。仏もむかしはぼんぶなり我等も
終には仏なり、いづれも仏性具せる身を、
へだつるのみこそかなしけれ I と、なくなく二
返うたふたりければ、其座にいくらもなみ
ゐたまへる平家一門の公卿・殿上人・諸大夫・
侍に至るまで、皆感涙をぞながされける。
P01058
入道もおもしろげにおもひ給ひて、「時にとつ
ては神妙に申たり。さては舞も見たけれども、
けふはまぎるる事いできたり。此後はめさ
ずともつねにまいつて、今やうをもうたひ、まひ
などをもまふて、仏なぐさめよ」とぞの給ひ
ける。祇王とかうの御返事にも及ばず、涙
をおさへて出にけり。「親のめいをそむかじと、
つらきみちにおもむひて、二たびうきめを見
つることの心うさよ。かくて此世にあるならば、
P01059
又うきめをも見むずらん。いまはただ身をな
げんとおもふなり」といへば、いもうとの祇女も、
「あね身をなげば、われもともに身をなげん」と
いふ。母とぢ是をきくにかなしくて、いかなるべし
ともおぼえず。なくなく又けうくんしけるは、
「まことにわごぜのうらむるもことはりなり。さやう
の事あるべしともしらずして、けうくんして
まいらせつる事の心うさよ。但わごぜ身を
なげば、いもうともともに身をなげんといふ。
P01060
二人のむすめ共にをくれなん後、年老をと
ろへたる母、命いきてもなににかはせむなれば、
我もともに身をなげむとおもふなり。いまだ
死期も来らぬおやに身をなげさせん事、
五逆罪にやあらんずらむ。此世はかりのやどり
なり。はぢてもはぢでも何ならず。唯ながき
世のやみこそ心うけれ。今生でこそあらめ、
後生でだにあくだうへおもむかんずる事の
かなしさよ」と、さめざめとかきくどきければ、
P01061
祇王なみだをおさへて、「げにもさやうにさぶら
はば、五逆罪うたがひなし。さらば自害は
おもひとどまりさぶらひぬ。かくて宮古に
あるならば、又うきめをもみむずらん。いまは
ただ都の外へ出ん」とて、祇王廿一にて尼に
なり、嵯峨の奧なる山里に、柴の庵を
ひきむすび、念仏してこそゐたりけれ。いもうと
のぎによも、「あね身をなげば、我もともに
身をなげんとこそ契しか。まして世をいと
P01062
はむに誰かはをとるべき」とて、十九にてさまを
かへ、あねと一所に籠居て、後世をねがふぞ
あはれなる。母とぢ是を見て、「わかきむすめ
どもだにさまをかふる世中に、年老をとろへ
たる母、しらがをつけてもなににかはせむ」とて、
四十五にてかみをそり、二人のむすめ諸共に、
いつかうせんじゆに念仏して、ひとへに後世を
ぞねがひける。かくて春すぎ夏闌ぬ。秋
の初風吹ぬれば、星合の空をながめつつ、
P01063
あまのとわたるかぢの葉に、おもふ事かく
比なれや。夕日のかげの西の山のはにかくるる
を見ても、日の入給ふ所は西方浄土にてあん
なり、いつかわれらもかしこに生れて、物をおも
はですぐさむずらんと、かかるにつけても過
にしかたのうき事共おもひつづけて、唯つき
せぬ物は涙なり。たそかれ時も過ぬれば、竹
のあみ戸をとぢふさぎ、灯かすかにかきたてて、
親子三人念仏してゐたる処に、竹のあみ戸を
P01064
ほとほととうちたたくもの出来たり。其時尼
どもきもをけし、「あはれ、是はいふかひなき
我等が、念仏して居たるを妨んとて、まゑん
の来たるにてぞあるらむ。昼だにも人もとひ
こぬ山里の、柴の庵の内なれば、夜ふけて
誰かは尋ぬべき。わづかの竹のあみ戸なれば、
あけずともおしやぶらん事やすかるべし。中
々ただあけていれんとおもふなり。それに
情をかけずして、命をうしなふものならば、
P01065
年比頼たてまつる弥陀の本願をつよく
信じて、隙なく名号をとなへ奉るべし。
声を尋てむかへ給ふなる聖主の来迎
にてましませば、などかいんぜうなかるべき。相
かまへて念仏おこたり給ふな」と、たがひに
心をいましめて、竹のあみ戸をあけたれば、
まゑんにてはなかりけり。仏御前ぞ出来る。祇王
「あれはいかに、仏御前と見たてまつるは。夢かや
うつつか」といひければ、仏御前涙をおさへて、「か様
P01066
の事申せば、事あたらしうさぶらへ共、申
さずは又おもひしらぬ身ともなりぬべければ、
はじめよりして申なり。もとよりわらはは
推参のものにて、出されまいらせさぶらひしを、
祇王御前の申やうによつてこそめしかへされ
てもさぶらふに、女のはかなきこと、わが身を心
にまかせずして、おしとどめられまいらせし事、
心ううこそさぶらひしか。いつぞや又めされまい
らせて、いまやううたひ給ひしにも、思しられて
P01067
こそさぶらへ。いつかわが身のうへならんと思
ひしかば、嬉しとはさらに思はず。障子に又
「いづれか秋にあはではつべき」と書置給ひし
筆の跡、げにもとおもひさぶらひしぞや。其
後はざいしよを焉ともしりまいらせざりつる
に、かやうにさまをかへて、ひと所にとうけ給はつ
てのちは、あまりに浦山しくて、つねは暇を
申しかども、入道殿さらに御もちいましまさず。
つくづく物を案ずるに、娑婆の栄花は夢の
P01068
ゆめ、楽みさかえて何かせむ。人身は請がたく、
仏教にはあひがたし。比度ないりにしづみ
なば、たしやうくはうごうをばへだつとも、うかび
あがらん事かたし。年のわかきをたのむべき
にあらず、老少不定のさかいなり。出るいきの
いるをもまつべからず、かげろふいなづまより
なをはかなし。一旦の楽みにほこつて、後生を
しらざらん事のかなしさに、けさまぎれ出て、かく
なつてこそまいりたれ」とて、かづきたるきぬを
P01069
うちのけたるをみれば、あまになつてぞ出
来る。「かやうに様をかへてまいりたれば、日比の
科をばゆるし給へ。ゆるさんと仰せられば、諸共
に念仏して、ひとつはちすの身とならん。それに
なを心ゆかずは、是よりいづちへもまよひゆき、
いかならん苔のむしろ、松がねにもたほれふし、
命のあらんかぎり念仏して、往生のそくはい
をとげんとおもふなり」と小雨小雨とかきくどき
ければ、祇王なみだをおさへて、「誠にわごぜの
P01070
是ほどに思給けるとは夢にだにしらず。うき
世中のさがなれば、身のうきとこそおもふ
べきに、ともすればわごぜの事のみうらめし
くて、往生のそくはいをとげん事かなふべし
ともおぼえず。今生も後生も、なまじゐに
しそんじたる心ちにてありつるに、かやうに
さまをかへておはしたれば、日比のとがは露ちり
ほどものこらず。いまは往生うたがひなし。比度
そくはいをとげんこそ、何よりも又うれしけれ。
P01071
我等が尼になりしをこそ、世にためしなき
事のやうに人もいひ、我身にも又思しか、
さまをかふるもことはりなり。いまわごぜの
出家にくらぶれば、事のかずにもあらざりけり。
わごぜはうらみもなし、なげきもなし。ことしは
纔に十七にこそなる人の、かやうにゑどをいと
ひ浄土をねがはんと、ふかくおもひいれ給ふこそ、
まことの大だうしんとはおぼえたれ。うれしかり
けるぜんぢしきかな。いざもろともにねがはん」とて、
P01072
四人一所にこもりゐて、あさゆふ仏前に花香
をそなへ、よねんなくねがひければ、ちそくこそ
ありけれ、四人のあまども皆往生のそくはいを
とげけるとぞ聞えし。されば後白河の法皇
のちやうがうだうのくはこちやうにも、祇王・祇女・
ほとけ・とぢらが尊霊と、四人一所に入られ
けり。あはれなりし事どもなり。
  二代后S0107
 ○昔より今に至るまで、源平両氏朝家に
召つかはれて、王化にしたがはず、をのづから朝
P01073
権をかろむずる者には、互にいましめを
くはへしかば、代の乱れもなかりしに、保元
に為義きられ、平治に義朝誅せられて後は、
すゑずゑの源氏ども或は流され、或はうしなはれ、
今は平家の一類のみ繁昌して、かしらを
さし出すものなし。いかならん末の代までも
何事かあらむとぞみえし。されども、鳥羽院
御晏駕の後は、兵革うちつづき、死罪・流
刑・闕官・停任つねにおこなはれて、海内も
P01074
しづかならず、世間もいまだ落居せず。就中に
永暦応保の比よりして、院の近習者をば
内より御いましめあり、内の近習者をば院より
いましめらるる間、上下おそれをののいてやすい
心もなし。ただ深淵にのぞむで薄氷をふむ
に同じ。主上上皇、父子の御あひだには、なに
事の御へだてかあるべきなれども、思の外
の事どもありけり。是も世澆季に及で、
人梟悪をさきとする故也。主上、院の仰を
P01075
つねに申かへさせおはしましける中にも、人
耳目を驚かし、世もて大にかたぶけ申事
ありけり。故近衛院の后、太皇太后宮と申し
は、大炊御門の右大臣公能公の御娘也。先帝
にをくれたてまつらせ給ひて後は、九重の
外、近衛河原の御所にぞうつりすませ給
ける。さきのきさいの宮にて、幽なる御あり
さまにてわたらせ給しが、永暦のころほひは、
御年廿二三にもやならせ給けむ、御さかりも
P01076
すこし過させおはしますほどなり。しかれ
ども、天下第一の美人のきこえましまし
ければ、主上色にのみそめる御心にて、偸
に行力使に詔じて、外宮にひき求めし
むるに及で、比大宮へ御艶書あり。大宮敢
てきこしめしもいれず。さればひたすら早
ほにあらはれて、后御入内あるべき由、右大臣
家に宣旨を下さる。此事天下にをいて
ことなる勝事なれば、公卿僉議あり。各
P01077
意見をいふ。「先異朝の先蹤をとぶらふに、
震旦の則天皇后は唐の太宗のきさき、高
宗皇帝の継母なり。太宗崩御の後、高宗
の后にたち給へる事あり。是は異朝の先
規たるうへ、別段の事なり。しかれども吾朝
には、神武天皇より以降人皇七十余代に及
まで、いまだ二代の后にたたせ給へる例を
きかず」と、諸卿一同に申されけり。上皇も
しかるべからざる由、こしらへ申させ給へば、主上
P01078
仰なりけるは、「天子に父母なし。吾十善の
戒功によて、万乗の宝位をたもつ。是
程の事、などか叡慮に任せざるべき」とて、
やがて御入内の日、宣下せられけるうへは、力及
ばせ給はず。大宮かくときこしめされける
より、御涙にしづませおはします。先帝
にをくれまいらせにし久寿の秋のはじめ、
おなじ野原の露ともきえ、家をもいで
世をものがれたりせば、今かかるうき耳をばきか
P01079
ざらましとぞ、御歎ありける。父のおとどこし
らへ申させ給けるは、「「世にしたがはざるを
もて狂人とす」とみえたり。既に詔命を下
さる。子細を申にところなし。ただすみやかに
まいらせ給べきなり。もし王子御誕生あり
て、君も国母といはれ、愚老も外祖とあふ
がるべき瑞相にてもや候らむ。是偏に愚老
をたすけさせおはします御孝行の御いたり
なるべし」と申させ給へども、御返事もなかり
P01080
けり。大宮其比なにとなき御手習の次に、
うきふしにしづみもやらでかは竹の
世にためしなき名をやながさん W004
世にはいかにしてもれけるやらむ、哀にやさ
しきためしにぞ、人々申あへりける。既に
御入内の日になりしかば、父のおとど、供奉
のかんだちめ、出車の儀式などこころことに
だしたてまいらせ給けり。大宮物うき御
いでたちなれば、とみにもたてまつらず。はるかに
P01081
夜もふけ、さ夜もなかばになて後、御車に
たすけのせられ給けり。御入内の後は麗景
殿にぞましましける。ひたすらあさまつりごと
をすすめ申させ給ふ御ありさま也。彼紫
震殿の皇居には、賢聖の障子をたてられ
たり。伊尹・鄭伍倫・虞世南、太公望・角里先
生・李勣・司馬、手なが足なが・馬形の障子、鬼
の間、季将軍がすがたをさながらうつせる障子
もあり。尾張守小野道風が、七廻賢聖の障子
P01082
とかけるもことはりとぞみえし。彼清凉
殿の画図の御障子には、むかし金岡がかき
たりし遠山の在明の月もありとかや。
故院のいまだ幼主ましましけるそのかみ、なに
となき御手まさぐりの次に、かきくもらか
させ給しが、ありしながらにすこしもたが
はぬを御覧じて、先帝のむかしもや御恋
しくおぼしめされけむ、
おもひきやうき身ながらにめぐりきて
P01083
おなじ雲井の月を見むとは W005
其間の御なからへ、いひしらず哀にやさし
かりし御事なり。
  額打論S0108
 ○さる程に、永万元年の春の比より、主上
御不豫の御事と聞えさせ給しが、夏の
はじめになりしかば、事の外におもらせ
給ふ。是によて、大蔵大輔伊吉兼盛が娘の
腹に、今上一宮の二歳にならせ給ふがましまし
けるを、太子にたてまいらせ給ふべしと聞えし
P01084
ほどに、同六月廿五日、俄に親王の宣旨下
されて、やがて其夜受禅ありしかば、天
下なにとなうあはてたるさま也。其時の有
職の人々申あはれけるは、本朝に童体の
例を尋れば、清和天皇九歳にして文徳
天皇の御禅をうけさせ給ふ。是は彼周公
旦の成王にかはり、南面にして一日万機の
政をおさめ給しに准へて、外祖忠仁公幼主
を扶持し給へり。是ぞ摂政のはじめなる。
P01085
鳥羽院五歳、近衛院三歳にて践祚あり。
かれをこそいつしかなりと申しに、是は二歳
にならせ給ふ。先例なし。物さはがしともおろか
なり。さる程に、同七月廿七日、上皇つゐに
崩御なりぬ。御歳廿三、つぼめる花の
ちれるがごとし。玉の簾、錦の帳のうち、皆
御涙にむせばせ給ふ。やがて其夜、香隆寺
のうしとら、蓮台野の奧、船岡山におさめ
奉る。御葬送の時、延暦・興福両寺の大衆、額
P01086
うち論と云事しいだして、互に狼籍に
及ぶ。一天の君崩御なて後、御墓所へわたし
奉る時の作法は、南北二京の大衆ことごと
く供奉して、御墓所のめぐりにわが寺々
の額をうつ事あり。まづ聖武天皇の御
願、あらそふべき寺なければ、東大寺の額
をうつ。次に淡海公の御願とて、興福寺の
額をうつ。北京には、興福寺にむかへて延
暦寺の額をうつ。次に天武天皇の御願、教
P01087
大和尚・智証大師の草創とて、園城寺の
額をうつ。しかるを、山門の大衆いかがおもひけん、
先例を背て、東大寺の次、興福寺のうへに、
延暦寺の額をうつあひだ、南都の大衆、とや
せまし、かうやせましと僉議するところに、
興福寺の西金堂衆、観音房・勢至房とて
きこえたる大悪僧二人ありけり。観音房
は黒糸威の腹巻に、しら柄の長刀くきみじ
かにとり、勢至房は萠黄威の腹巻に、黒漆
P01088
の大太刀もて、二人つと走出、延暦寺の額
をきておとし、散々にうちわり、「うれしや
水、なるは滝の水、日はてるともたえずと
うたへ」とはやしつつ、南都の衆徒の中へぞ
入にける。
  清水寺炎上S0109
 ○山門の大衆、狼籍をいたさば手むかへすべき処に、
心ふかうねらう方もやありけん、ひと詞も
いださず。御門かくれさせ給ては、心なき草
木までも愁たる色にてこそあるべきに、
P01089
此騷動のあさましさに、高も賎も、肝魂
をうしなて、四方へ皆退散す。同廿九日の
午剋ばかり、山門の大衆緩う下洛すと
聞えしかば、武士検非違使、西坂下に、馳向
て防けれ共、事ともせず、おしやぶて乱
入す。何者の申出したりけるやらむ、「一院
山門の大衆に仰て、平家を追討せらるべ
し」ときこえしほどに、軍兵内裏に参じ
て、四方の陣頭を警固す。平氏の一類、
P01090
皆六波羅へ馳集る。一院もいそぎ六波羅
へ御幸なる。清盛公其比いまだ大納言にて
おはしけるが、大に恐れさはがれけり。小松殿
「なにによてか唯今さる事あるべき」としづ
められけれども、上下ののしりさはぐ事
緩し。山門の大衆、六波羅へはよせずして、すぞ
ろなる清水寺におしよせて、仏閣僧坊
一宇ものこさず焼はらふ。是はさんぬる御葬
送の夜の会稽の恥を雪めんが為とぞ聞えし。
P01091
清水寺は興福寺の末寺なるによてなり。
清水寺やけたりける朝、「や、観音火坑変
成池はいかに」と札に書て、大門の前にたて
たりければ、次日又、「歴劫不思議力及ばず」と、
かへしの札をぞうたりける。衆徒かへりのぼり
にければ、一院六波羅より還御なる。重盛卿
計ぞ御ともにはまいられける。父の卿は
まいられず。猶用心の為歟とぞ聞えし。重盛
の卿御送りよりかへられたりければ、父の
P01092
大納言の給ひけるは、「一院の御幸こそ大に
恐れおぼゆれ。かねても思食より仰らるる
旨のあればこそ、かうはきこゆらめ。それにも
うちとけ給まじ」とのたまへば、重盛卿申され
ける、「此事ゆめゆめ御けしきにも、御詞にも
出させ給べからず。人に心つけがほに、中々
あしき御事也。それにつけても、叡慮に
背給はで、人の為に御情をほどこさせまし
まさば、神明三宝加護あるべし。さらむに
P01093
とては、御身の恐れ候まじ」とてたたれければ、
「重盛卿はゆゆしく大様なるものかな」とぞ、
父の卿ものたまひける。一院還御の後、御前
にうとからぬ近習者達あまた候はれけるに、
「さても不思議の事を申出したるものかな。
露もおぼしめしよらぬものを」と仰ければ、
院中のきりものに西光法師といふもの
あり。境節御前ちかう候けるが、「天に口なし、
にんをもていはせよと申。平家以外に過分
P01094
に候あひだ、天の御ぱからひにや」とぞ申ける。
人々「此事よしなし。壁に耳あり。おそろし
  東宮立S0110
おそろし」とぞ、申あはれける。 ○さる程に、其年は
諒闇なりければ、御禊大嘗会もおこな
はれず。同十二月廿四日、建春門院、其比はいまだ
東の御方と申ける、御腹に一院の宮まし
ましけるが、親王の宣旨下され給ふ。あくれば
改元あて仁安と号す。同年の十月八日、
去年親王の宣旨蒙らせ給し皇子、東
P01095
三条にて春宮にたたせ給ふ。春宮は御
伯父六歳、主上は御甥三歳、詔目にあひ
かなはず。但寛和二年に一条院七歳にて
御即位、三条院十一歳にて春宮にたたせ
給ふ。先例なきにあらず。主上は二歳にて
御禅をうけさせ給ひ、纔に五歳と、申二
月十九日、東宮践祚ありしかば、位をすべらせ
給て、新院とぞ申ける。いまだ御元服も
なくして、太上天皇の尊号あり。漢家本朝
P01096
是やはじめならむ。仁安三年三月廿日、新帝
大極殿にして御即位あり。此君の位につか
せ給ぬるは、いよいよ平家の栄花とぞ
みえし。御母儀建春門院と申は、平家の一
門にてましますうへ、とりわき入道相国
の北方、二位殿の御妹也。又平大納言時忠卿と
申も女院の御せうとなれば、内の御外戚なり。
内外につけたる執権の臣とぞみえし。叙
位除目と申も偏に此時忠卿のまま也。楊貴妃が
P01097
幸し時、楊国忠がさかへしが如し。世のおぼえ、
時のきら、めでたかりき。入道相国天下の大
小事をのたまひあはせられければ、時の人、
  殿下乗合S0111
平関白とぞ申ける。 ○さる程に、嘉応元年
七月十六日、一院御出家あり。御出家の後も
万機の政をきこしめされしあひだ、院内わく
方なし。院中にちかくめしつかはるる公卿
殿上人、上下の北面にいたるまで、官位捧禄
皆身にあまる計なり。されども人のこころの
P01098
ならひなれば、猶あきだらで、「あッぱれ、其人の
ほろびたらば其国はあきなむ。其人うせ
たらば其官にはなりなん」など、うとからぬ
どちはよりあひよりあひささやきあへり。法皇
も内々仰なりけるは、「昔より代々の朝敵
をたいらぐる者おほしといへども、いまだ
加様の事なし。貞盛・秀里が将門をうち、
頼義が貞任・宗任をほろぼし、義家が武平・
家平をせめたりしも、勧賞おこなはれし
P01099
事、受領にはすぎざりき。清盛がかく心の
ままにふるまふこそしかるべからね。是も世
末になて王法のつきぬる故なり」と仰
なりけれども、つゐでなければ御いましめも
なし。平家も又別して、朝家を恨奉る事
もなかりしほどに、世のみだれそめける根本は、
去じ嘉応二年十月十六日、小松殿の次男新
三位中将資盛卿、其時はいまだ越前守とて
十三になられけるが、雪ははだれにふたりけり、
P01100
枯野のけしき誠に面白かりければ、わかき
侍ども卅騎ばかりめし具して、蓮台野や、
紫野、右近馬場にうち出て、鷹どもあまたすへ
させ、うづら雲雀をおたておたて、終日にかり
暮し、薄暮に及で六波羅へこそ帰られけれ。
其時の御摂禄は松殿にてましましけるが、中御
門東洞院の御所より御参内ありけり。郁芳
門より入御あるべきにて、東洞院を南へ、大炊
御門を西へ御出なる。資盛朝臣、大炊御門
P01101
猪熊にて、殿下の御出にはなづきにまいり
あふ。御ともの人々「なに者ぞ、狼籍なり。御出
のなるに、のりものよりおり候へおり候へ」といらて
けれ共、余にほこりいさみ、世を世ともせざり
けるうへ、めし具したる侍ども、皆廿より内の
わか者どもなり。礼儀骨法弁へたる者一人
もなし。殿下の御出ともいはず、一切下馬の
礼儀にも及ばず、かけやぶてとをらむと
するあひだ、くらさは闇し、つやつや入道の孫とも
P01102
しらず、又少々は知たれ共そらしらずして、
資盛朝臣をはじめとして、侍ども皆馬より
とて引おとし、頗る恥辱に及けり。資盛朝
臣はうはう六波羅へおはして、おほぢの相国
禅門に此由うたへ申されければ、入道大に
いかて、「たとひ殿下なりとも、浄海があたり
をばはばかり給ふべきに、おさなきものに左右
なく恥辱をあたへられけるこそ遺恨の
次第なれ。かかる事よりして、人にはあざむか
P01103
るるぞ。此事おもひしらせたてまつらでは、
えこそあるまじけれ。殿下を恨奉らばや」
との給へば、重盛卿申されけるは、「是は少も
くるしう候まじ。頼政・光基など申源氏共に
あざむかれて候はんには、誠に一門の恥辱でも
候べし。重盛が子どもとて候はんずる者の、
殿の御出にまいりあひて、のりものよりおり
候はぬこそ尾籠に候へ」とて、其時事にあふ
たる侍どもめしよせ、「自今以後も、汝等能々
P01104
心うべし。あやまて殿下へ無礼の由を申
さばやとこそおもへ」とて帰られけり。其後
入道相国、小松殿には仰られもあはせず、片
田舍の侍どもの、こはらかにて入道殿の仰より
外は、又おそろしき事なしと思ふ者ども、
難波・瀬尾をはじめとして、都合六十余人
召よせ、「来廿一日、主上御元服の御さだめの為
に、殿下御出あるべかむなり。いづくにても
待うけ奉り、前駆御隨身どもがもとどり
P01105
きて、資盛が恥すすげ」とぞのたまひける。殿下
是をば夢にもしろしめさず、主上明年
御元服、御加冠拝官の御さだめの為に、御
直盧に暫く御座あるべきにて、常の御出
よりもひきつくろはせ給ひ、今度は待賢
門より入御あるべきにて、中御門を西へ御出
なる。猪熊堀河の返に、六波羅の兵ども、ひた
甲三百余騎待うけ奉り、殿下を中にとり
籠まいらせて、前後より一度に、時をどとぞ
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つくりける。前駆御隨身どもが、けふをはれと
しやうぞいたるを、あそこに追かけ爰に追つめ、
馬よりとて引おとし、散々に陵礫して、一々
にもとどりをきる。隨身十人がうち、右の府生
武基がもとどりもきられにけり。其中に、
藤蔵人大夫隆教がもとどりをきるとて、「是は
汝がもとどりとおもふべからず。主のもとどり
とおもふべし」といひふくめてきてげり。其後
は、御車の内へも弓のはずつきいれなどして、
P01107
すだれかなぐりおとし、御牛の鞦・胸懸きり
はなち、かく散々にしちらして、悦の時を
つくり、六波羅へこそまいりけれ。入道「神妙
なり」とぞのたまひける。御車ぞひには、
因幡のさい使、鳥羽の国久丸と云おのこ、下
臈なれどもなさけある者にて、泣々御車
つかまて、中御門の御所へ還御なし奉る。束
帯の御袖にて御涙をおさへつつ、還御の
儀式あさましさ、申も中々おろかなり。大織
P01108
冠・淡海公の御事はあげて申にをよばず、
忠仁公・昭宣公より以降、摂政関白のかかる御
目にあはせ給ふ事、いまだ承及ばず。これ
こそ平家の悪行のはじめなれ。小松殿
大にさはいで其時ゆきむかひたる侍ども皆
勘当せらる。「たとひ入道いかなる不思議を
下地し給ふとも、など重盛に夢をばみせ
ざりけるぞ。凡は資盛奇怪なり。栴檀は
二葉よりかうばしとこそ見えたれ。既に十二三
P01109
にならむずる者が、今は礼儀を存知して
こそふるまうべきに、加様に尾籠を現じ
て、入道の悪名をたつ。不孝のいたり、汝独
にあり」とて、暫く伊勢国にをひ下さる。
されば此大将をば、君も臣も御感あり
  鹿谷S0112
けるとぞきこえし。 ○是によて、主上御元
服の御さだめ、其日はのびさせ給ぬ。同
廿五日、院の殿上にてぞ御元服のさだめは
ありける。摂政殿さてもわたらせ給べき
P01110
ならねば、同十二月九日、兼宣旨をかうぶり、
十四日太政大臣にあがらせ給ふ。やがて同
十七日、慶申ありしかども、世中は猶にがにが
しうぞみえし。さるほどにことしも暮ぬ。
あくれば嘉応三年正月五日、主上御元服
あッて、同十三日、朝覲の行幸ありけり。法
皇・女院待うけまいらつさせ給て、叙爵の
御粧いかばかりらうたくおぼしめされけん。
入道相国の御娘、女御にまいらせ給ひけり。
P01111
御年十五歳、法皇御猶子の儀なり。其比、妙
音院の太政のおほいどの、其時は未内大臣の左
大将にてましましけるが、大将を辞し申させ
給ふことありけり。時に徳大寺の大納言実
定卿、其仁にあたり給ふ由きこゆ。又花山院
の中納言兼雅卿も所望あり。其外、故中
御門の藤中納言家成卿の三男、新大納言成親
卿もひらに申されけり。院の御気色よかり
ければ、さまざまの祈をぞはじめられける。
P01112
八幡に百人の僧をこめて、信読の大般
若を七日よませられける最中に、甲良の
大明神の御まへなる橘の木に、男山の方
より山鳩三飛来て、くいあひてぞ死にける。
鳩は八幡大菩薩の第一の仕者なり。宮寺に
かかる不思議なしとて、時の検校、匡清法印、
奏聞す。神祇官にして御占あり。天下の
さはきとうらなひ申。但、君の御つつしみに
あらず、臣下の御つつしみとぞ申ける。新大納言
P01113
是におそれをもいたさず、昼は人目のしげ
ければ、夜なよな歩行にて、中御門烏丸の
宿所より賀茂のかみの社へ、なな夜つづけ
てまいられけり。七夜に満ずる夜、宿所に
下向して、くるしさにうちふし、ちとまどろみ
給へる夢に、賀茂の上の社へまいりたると
おぼしくて、御宝殿の御戸おしひらき、ゆゆ
しくけだかげなる御声にて、
さくら花かもの河風うらむなよ
P01114
ちるをばえこそとどめざりけれ W006
新大納言猶おそれをもいたさず、賀茂の上の
社に、ある聖をこめて、御宝殿の御うしろ
なる杉の洞に壇をたてて、拏吉尼の法を、
百日おこなはせられけるほどに、彼大椙に雷
おちかかり、雷火緩うもえあがて、宮中既に
あやうくみえけるを、宮人どもおほく走あつ
まて、是をうちけつ。さて彼外法おこなひ
ける聖を追出せむとしければ、「われ当社に
P01115
百日参籠の大願あり。けふは七十五日になる。
またくいづまじ」とてはたらかず。此由を社
家より内裏へ奏聞しければ、「唯法にまかせ
て追出せよ」と宣旨を下さる。其時神人
しら杖をもて、彼聖がうなじをしらげ、一条の
大路より南へをひたしてげり。神は非礼を
享給はずと申に、此大納言非分の大将を祈
申されければにや、かかる不思議もいできに
けり。其比の叙位除目と申は、院内の御ぱからひ
P01116
にもあらず、摂政関白の御成敗にも及ばず。
唯一向平家のままにてありしかば、徳大寺・
花山院もなり給はず。入道相国の嫡男小
松殿、大納言の右大将にておはしけるが、左にうつ
りて、次男宗盛中納言にておはせしが、数
輩の上臈を超越して、右にくははられける
こそ、申計もなかりしか。中にも徳大寺殿は一の
大納言にて、花族栄耀、才学雄長、家嫡にて
ましましけるが、こえられ給けるこそ遺恨なれ。
P01117
「さだめて御出家などやあらむずらむ」と、人々
内々は申あへりしかども、暫世のならむ様を
も見むとて、大納言を辞し申て、籠居とぞ
きこえし。新大納言成親卿のたまひけるは、
「徳大寺・花山院に超られたらむはいかがせむ。平
家の次男に超らるるこそやすからね。是も
万おもふさまなるがいたす所也。いかにもして
平家をほろぼし、本望をとげむ」との給
けるこそおそろしけれ。父の卿は中納言迄
P01118
こそいたられしか、其末子にて位正二位、官大納
言にあがり、大国あまた給はて、子息所従朝恩
にほこれり。何の不足にかかる心つかれけん。
是偏に天魔の所為とぞみえし。平治に
も越後中将とて、信頼卿に同心のあひだ、既
誅せらるべかりしを、小松殿やうやうに申て頸を
つぎ給へり。しかるに其恩を忘れて、外人も
なき所に兵具をととのへ、軍兵をかたらひ
をき、其営みの外は他事なし。東山の麓
P01119
鹿の谷と云所は、うしろは三井寺につづいて、
ゆゆしき城郭にてぞありける。俊寛僧都
の山庄あり。かれにつねはよりあひよりあひ、平家
ほろぼさむずるはかりことをぞ廻らしける。
或時法皇も御幸なる。故少納言入道信西が
子息、浄憲法印御供仕る。其夜の酒宴に、
此由を浄憲法印に仰あはせられければ、「あな
あさまし。人あまた承候ぬ。唯今もれきこえて、
天下の大事に及候なんず」と、大にさはき
P01120
申ければ、新大納言けしきかはりて、さとたた
れけるが、御前に候ける瓶子を狩衣の袖
にかけて引たうされたりけるを、法皇「あれ
はいかに」と仰ければ、大納言立帰て、「平氏
たはれ候ぬ」とぞ申されける。法皇ゑつぼに
いらせおはしまして、「者どもまいて猿楽つか
まつれ」と仰ければ、平判官康頼まいりて、
「あら、あまりに平氏のおほう候に、もて醉て
候」と申。俊寛僧都「さてそれをばいかが仕らむ
P01121
ずる」と申されければ、西光法師「頸をとる
にしかじ」とて、瓶子のくびをとてぞ入にける。
浄憲法印あまりのあさましさに、つや
つや物を申されず。返々もおそろしかりし
事どもなり。与力の輩誰々ぞ。近江中将
入道蓮浄俗名成正、法勝寺執行俊寛僧都、
山城守基兼、式部大輔雅綱、平判官康頼、宗判
官信房、新平判官資行、摂津国源氏多田蔵人
行綱を始として、北面の輩おほく与力したり
P01122
  俊寛沙汰
  鵜川軍S0113
けり。 ○此法勝寺の執行と申は、京極の源大納言
雅俊の卿の孫、木寺の法印寛雅には子なり
けり。祖父大納言させる弓箭をとる家には
あらねども、余に腹あしき人にて、三条坊門
京極の宿所のまへをば、人をもやすくとを
さず、つねは中門にたたずみ、齒をくひし
ばり、いかてぞおはしける。かかる人の孫なれ
ばにや、此俊寛も僧なれども、心もたけく、
おごれる人にて、よしなき謀叛にもくみ
P01123
しけるにこそ。新大納言成親卿は、多田蔵人
行綱をよふで、「御へんをば一方の大将に
憑なり。此事しおほせつるものならば、
国をも庄をも所望によるべし。先弓袋
の料に」とて、白布五十端送られたり。安元
三年三月五日、妙音院殿、太政大臣に転じ
給へるかはりに、大納言定房卿をこえて、
小松殿、内大臣になり給ふ。大臣の大将めでた
かりき。やがて大饗おこなはる。尊者には、
P01124
大炊御門右大臣経宗公とぞきこえし。
一のかみこそ先途なれども、父宇治の悪左
府の御例其軽あり。北面は上古にはなかり
けり。白河院の御時はじめをかれてより
以降、衛府どもあまた候けり。為俊・盛重
童より千手丸・今犬丸とて、是等は左右なき
きり物にてぞありける。鳥羽院の御時も、
季教・季頼父子ともに朝家にめしつか
はれ、伝奏するおりもありなどきこえし
P01125
かども、皆身のほどをばふるまふてこそ
ありしに、此御時の北面の輩は、以外に過分
にて、公卿殿上人をも者ともせず、礼儀
礼節もなし。下北面より上北面にあがり、
上北面より殿上のまじはりをゆるさるる者
もあり。かくのみおこなはるるあひだ、おごれる
心どもも出きて、よしなき謀叛にもくみ
しけるにこそ。中にも故少納言信西がもとに
めしつかひける師光・成景といふ者あり。師
P01126
光は阿波国の在庁、成景は京のもの、熟根
いやしき下臈なり。こんでい童もしは
格勤者などにて召つかはれけるが、さかざか
しかりしによて、師光は左衛門尉、成景は右衛門
尉とて、二人一度に靭負尉になりぬ。信西
事にあひし時、二人ともに出家して、左衛門
入道西光・右衛門入道西敬とて、是等は出家の
後も院の御倉あづかりにてぞありける。彼
西光が子に師高と云者あり。是もきり者
P01127
にて、検非違使五位尉に経あがて、安元元年
十二月二十九日、追儺の除目に加賀守にぞな
されける。国務をおこなふ間、非法非例を
張行し、神社仏寺、権門勢家の庄領を没
倒し、散々の事どもにてぞありける。縦
せう公があとをへだつといふとも、穏便の政
をおこなふべかりしが、かく心のままにふる
まひしほどに、同二年夏の比、国司師高が
弟、近藤判官師経、加賀の目代に補せらる。
P01128
目代下着のはじめ、国府のへんに鵜河と云
山寺あり。寺僧どもが境節湯をわかひて
あびけるを、乱入してをひあげ、わが身あび、
雑人どもおろし、馬あらはせなどしけり。
寺僧いかりをなして、「昔より、此所は国方の
者入部する事なし。すみやかに先例に
任て、入部の押妨をとどめよ」とぞ申ける。
「先々の目代は不覚でこそいやしまれ
たれ。当目代は、其儀あるまじ。唯法に任
P01129
よ」と云程こそありけれ、寺僧どもは国がたの
者を追出せむとす、国方の者どもは次を
もて乱入せんとす、うちあひはりあひし
けるほどに、目代師経が秘蔵しける馬の足
をぞうちおりける。其後は互に弓箭兵杖
を帯して、射あひきりあひ数剋たたかふ。
目代かなはじとやおもひけむ、夜に入て引退く。
其後当国の在庁ども催しあつめ、其勢
一千余騎、鵜川におしよせて、坊舍一宇も
P01130
残さず焼はらふ。鵜河と云は白山の末寺
なり。此事うたへんとてすすむ老僧誰々ぞ。
智釈・学明・宝台坊、正智・学音・土佐阿闍梨
ぞすすみける。白山三社八院の大衆ことごとく
起りあひ、都合其勢二千余人、同七月九日
の暮方に、目代師経が館ちかうこそおし
よせたれ。けふは日暮ぬ、あすのいくさと
さだめて、其日はよせでゆらへたり。露ふき
むすぶ秋風は、ゐむけの袖を翻し、雲ゐを
P01131
てらすいなづまは、甲の星をかかやかす。目代かな
はじとや思けん、夜にげにして京へのぼる。
あくる卯剋におしよせて、時をどとつくる。
城のうちにはをともせず。人をいれてみせければ、
「皆落て候」と申。大衆力及ばで引退く。さら
ば山門へうたへんとて、白山中宮の神輿を
賁り奉り、比叡山へふりあげ奉る。同八月
十二日の午刻計、白山の神輿既に比叡山
東坂本につかせ給ふと云程こそありけれ、
P01132
北国の方より雷緩く鳴て、都をさして
なりのぼる。白雪くだりて地をうづみ、山
上洛中おしなべて、常葉の山の梢まで
皆白妙になりにけり。
  願立S0114
 ○神輿をば客人の宮へいれたてまつる。客人
と申は白山妙利権現にておはします。
申せば父子の御中なり。先沙汰の成否は
しらず、生前の御悦、只此事にあり。浦島が子
の七世の孫にあへりしにもすぎ、胎内の者の
P01133
霊山の父を見しにもこえたり。三千の衆徒
踵を継ぎ、七社の神人袖をつらね、時々剋々
の法施祈念、言語道断の事ども也。山門
の大衆、国司加賀守師高を流罪に処せられ、
目代近藤判官師経を禁獄せらるべき由
奏聞す、御裁断なかりければ、さも然る
べき公卿殿上人は、「あはれとく御裁許ある
べきものを。昔より山門の訴訟は他に異也。
大蔵卿為房・太宰権帥季仲は、さしも朝家の
P01134
重臣なりしかども、山門の訴訟によて流
罪せられにき。况や師高などは事の数
にやはあるべきに、子細にや及べき」と申あ
はれけれ共、「大臣は禄を重じて諫めず、小臣は
罪に恐れて申さず」と云事なれば、をのをの
口をとぢ給へり。「賀茂河の水、双六の賽、
山法師、是ぞわが心にかなはぬもの」と、白河
院も仰なりけるとかや。鳥羽院ノ御時、越前
の平泉寺を山門へつけられけるには、当山
P01135
を御帰依あさからざるによつて、「非をもて
理とす」とこそ宣下せられて、院宣をば
下されけれ。江帥匡房卿の申されし様に、
「神輿を陣頭へふり奉てうたへ申さん
には、君はいかが御ぱからひ候べき」と申され
ければ、「げにも山門の訴訟はもだしがたし」
とぞ仰ける。去じ嘉保二年三月二日、美
濃守源義綱朝臣、当国新立の庄をたをす
あひだ、山の久住者円応を殺害す。是によて
P01136
日吉の社司、延暦寺の寺官、都合卅余人、申
文をささげて陣頭へ参じけるを、後二条
関白殿、大和源氏中務権少輔頼春に仰て
ふせかせらる。頼春が郎等箭をはなつ。
やにはにゐころさるる者八人、疵を蒙る者
十余人、社司諸司四方へちりぬ。山門の上綱等、
子細を奏聞の為に下洛すときこえし
かば、武士検非違使、西坂本に馳向て、皆を
かへす。山門には御裁断遅々のあひだ、七社の
P01137
神輿を根本中堂にふりあげ奉り、其御
前にて信読の大般若を七日よふで、関白殿
を呪咀し奉る。結願の導師には仲胤法印、
其比はいまだ仲胤供奉と申しが、高座に
のぼりかねうちならし、表白の詞にいはく、
「我等なたねの二葉よりおほしたて給ふ神たち、
後二条の関白殿に鏑箭一はなちあて給へ。
大八王子権現」と、たからかにぞ祈誓したり
ける。やがて其夜不思議の事あり。八王子の
P01138
御殿より鏑箭の声いでて、王城をさして、
なてゆくとぞ、人の夢にはみたりける。其
朝、関白殿の御所の御格子をあけけるに、唯
今山よりとてきたるやうに、露にぬれたる
樒一枝、たたりけるこそおそろしけれ。やがて
山王の御とがめとて、後二条の関白殿、をもき
御病をうけさせ給しかば、母うへ、大殿の北
の政所、大になげかせ給つつ、御さまをやつし、
いやしき下臈のまねをして、日吉社に御
P01139
参籠あて、七日七夜が間祈申させ給けり。
あらはれての御祈には、百番の芝田楽、百番
のひとつ物、競馬・流鏑馬・相撲をのをの百番、
百座の仁王講、百座の薬師講、一■手半の
薬師百体、等身の薬師一体、並に釈迦阿
弥陀の像、をのをの造立供養せられけり。又
御心中に三の御立願あり。御心のうちの事
なれば、人いかでかしり奉るべき。それに不思
議なりし事は、七日に満ずる夜、八王子の御社に
P01140
いくらもありけるまいりうど共の中に、陸奧
よりはるばるとのぼりたりける童神子、
夜半計にはかにたえ入にけり。はるかにかき
出して祈ければ、程なくいきいでて、やがて立
てまひかなづ。人奇特のおもひをなして是
をみる。半時ばかり舞て後、山王おりさせ
給て、やうやうの御詫宣こそおそろしけれ。
「衆生等慥にうけ給はれ。大殿の北の政所、けふ
七日わが御前に籠らせ給たり。御立願三
P01141
あり。一には、今度殿下の寿命をたすけて
たべ。さも候はば、したどのに候もろもろのかたは人
にまじはて、一千日が間朝夕みやづかひ申さん
となり。大殿の北の政所にて、世を世とも
おぼしめさですごさせ給ふ御心に、子を
思ふ道にまよひぬれば、いぶせき事もわす
られて、あさましげなるかたはうどにまじ
はて、一千日が間、朝夕みやづかひ申さむと仰
らるるこそ、誠に哀におぼしめせ。二には、
P01142
大宮の波止土濃より八王子の御社まで、
廻廊つくてまいらせむとなり。三千人
の大衆、ふるにもてるにも、社参の時いたは
しうおぼゆるに、廻廊つくられたらば、いかに
めでたからむ。三には、今度殿下の寿命をた
すけさせ給はば、八王子の御社にて、法花問
答講毎日退転なくおこなはすべしとなり。
いづれもおろかならねども、かみ二はさなくとも
ありなむ。毎日法花問答講は、誠にあらまほ
P01143
しうこそおぼしめせ。但、今度の訴訟は無下
にやすかりぬべき事にてありつるを、
御裁許なくして、神人・宮仕射ころされ、疵
を蒙り、泣々まいて訴申事の余に心うく
て、いかならむ世までも忘るべしともおぼえず。
其上かれらにあたる所の箭は、しかしながら和
光垂跡の御膚にたたるなり。まことそらごとは
是をみよ」とて、肩ぬいだるをみれば、左の脇の
した、大なるかはらけの口ばかりうげのいてぞ
P01144
みえたりける。「是が余に心うければ、いかに申
とも始終の事はかなふまじ。法花問答講一
定あるべくは、三とせが命をのべてたて
まつらむ。それを不足におぼしめさば力及
ばず」とて、山王あがらせ給けり。母うへは御立願
の事人にもかたらせ給はねば、誰もらし
つらむと、すこしもうたがふ方もましまさず。
御心の内の事共をありのままに御詫宣有
ければ、心肝にそうて、ことにたとくおぼしめし、
P01145
泣々申させ給けるは、「縦ひと日かた時にて
さぶらふとも、ありがたふこそさぶらふべきに、
まして三とせが命をのべて給らむ事、し
かるべうさぶらふ」とて、泣々御下向あり。いそぎ
都へいらせ給て、殿下の御領紀伊国に田中
庄と云所を、八王子の御社へ寄進せらる。それ
よりして法花問答講、今の世にいたるまで、
毎日退転なしとぞ承る。かかりし程に、後二
条関白殿御病かろませ給て、もとのごとくに
P01146
ならせ給ふ。上下悦あはれしほどに、三とせの
すぐるは夢なれや、永長二年になりにけり。
六月廿一日、又後二条関白殿、御ぐしのきはに悪
御瘡いでさせ給て、うちふさせ給ひしが、
同廿七日、御年卅八にて遂にかくれさせ給ぬ。
御心のたけさ、理のつよさ、さしもゆゆしき
人にてましましけれ共、まめやかに事のきうに
なりしかば、御命を惜ませ給ける也。誠に
惜かるべし。四十にだにもみたせ給はで、大殿に
P01147
先立まいらせ給ふこそ悲しけれ。必しも
父を先立べしと云事はなけれ共、生死の
をきてにしたがふならひ、万徳円満の世尊、
十地究竟の大士たちも、力及び給はぬ事
どもなり。慈悲具足の山王、利物の方便にて
ましませば、御とがめなかるべしとも覚ず。
  御輿振S0115
 ○さる程に、山門の大衆、国司加賀守師高を流
罪に処せられ、目代近藤判官師経を禁獄
せらるべき由、奏聞度々に及といへども、御
P01148
裁許なかりければ、日吉の祭礼をうちとどめて、
安元三年四月十三日辰の一点に、十禅師・客
人・八王子三社の神輿賁り奉て、陣頭へ
振奉る。さがり松・きれ堤・賀茂の河原、糺・梅
ただ・柳原・東福院の辺に、しら大衆・神人・
宮仕・專当みちみちて、いくらと云数をしらず。
神輿は一条を西へいらせ給ふ。御神宝天に
かかやいて、日月地に落給ふかとおどろかる。是
によて、源平両家の大将軍、四方の陣頭を
P01149
かためて、大衆ふせくべき由仰下さる。平家
には、小松の内大臣の左大将重盛公、其勢三千
余騎にて大宮面の陽明・待賢・郁芳三の
門をかため給ふ。弟宗盛・具盛・重衡、伯父頼盛・教盛・
経盛などは、にし南の陣をかためられけり。
源氏には、大内守護の源三位頼政卿、渡辺の
はぶく・さづくをむねとして、其勢纔に三
百余騎、北の門、縫殿の陣をかため給ふ。所はひろし
勢は少し、まばらにこそみえたりけれ。大衆
P01150
無勢たるによて、北の門、縫殿の陣より神
輿をいれ奉らむとす。頼政卿さる人にて、
馬よりおり、甲をぬいで、神輿を拝し
奉る。兵ども皆かくのごとし。衆徒の中へ、
使者をたてて、申送る旨あり。其使は渡辺
の長七唱と云者なり。唱、其日はきちんの直
垂に、小桜を黄にかへいたる鎧きて、赤銅
づくりの太刀をはき、廿四さいたる白羽の箭
おひ、しげどうの弓脇にはさみ、甲をばぬぎ、
P01151
たかひもにかけ、神輿の御前に畏て申けるは、
「衆徒の御中へ源三位殿の申せと候。今度
山門の御訴訟、理運の条勿論に候。御成敗
遅々こそ、よそにても遺恨に覚候へ。さては
神輿入奉らむ事、子細に及候はず。但頼政
無勢に候。其上あけて入奉る陣よりいらせ
給て候はば、山門の大衆は目だりがほしけり
など、京童部が申候はむ事、後日の難にや
候はんずらむ。神輿を入奉らば、宣旨を背
P01152
に似たり。又ふせき奉らば、年来医王山王に
首をかたぶけ奉て候身が、けふより後、
ながく弓箭の道にわかれ候なむず。かれと
いひ是といひ、かたがた難治の様に候。東の
陣は小松殿大勢でかためられて候。其陣
よりいらせ給べうもや候らむ」といひ送りたり
ければ、唱がかく申にふせかれて、神人・宮仕
しばらくゆらへたり。若大衆どもは、「何条
其儀あるべき。ただ此門より神輿を入奉れ」と
P01153
云族おほかりけれども、老僧のなかに三
塔一の僉議者ときこえし摂津竪者
豪運、すすみ出て申けるは、「尤もさいはれ
たり。神輿をさきだてまいらせて訴訟を
致さば、大勢の中をうち破てこそ後代の
きこえもあらむずれ。就中に此頼政卿は、
六孫王より以降、源氏嫡々の正棟、弓箭を
とていまだ其不覚をきかず。凡武芸にも
かぎらず、歌道にもすぐれたり。近衛院御
P01154
在位の時、当座の御会ありしに、「深山花」と
いふ題を出されたりけるを、人々よみわづ
らひたりしに、此頼政卿、
深山木のその梢とも見えざりし
さくらは花にあらはれにけり W007
と云名歌仕て御感にあづかるほどの
やさ男に、時に臨で、いかがなさけなう恥
辱をばあたふべき。此神輿かきかへし奉や」
と僉議しければ、数千人の大衆先陣より
P01155
後陣まで、皆尤々とぞ同じける。さて神
輿を先立まいらせて、東の陣頭、待賢門
より入奉らむとしければ、狼籍忽に出来
て、武士ども散々に射奉る。十禅師の御
輿にも箭どもあまた射たてたり。神人・宮
仕射ころされ、衆徒おほく疵を蒙る。おめき
さけぶ声梵天までもきこえ、堅牢地
神も驚らむとぞおぼえける。大衆神輿を
ば陣頭にふりすて奉り、泣々本山へ
P01156
かへりのぼる。
内裏炎上S0116
○蔵人左少弁兼光に仰て、殿上にて俄に
公卿僉議あり。保安四年七月に神輿入洛
の時は、座主に仰て赤山の社へいれ奉る。
又保延四年四月に神輿入洛の時は、祇園
別当に仰て祇園社へいれ奉る。今度は保
延の例たるべしとて、祇園の別当権大僧
都澄兼に仰て、秉燭に及で祇園の社へ
入奉る。神輿にたつところの箭をば、神
P01157
人して是をぬかせらる。山門の大衆、日吉の
神輿を陣頭へ振奉る事、永久より以降、
治承までは六箇度なり。毎度に武士を召
てこそふせかるれども、神輿射奉る事是
はじめとぞうけ給。「霊神怒をなせば、災
害岐にみつといへり。おそろしおそろし」とぞ人
々申あはれける。同十四日ノ夜半計、山門の
大衆又下洛すときこえしかば、夜中に
主上要輿にめして、院御所法住寺殿へ行幸
P01158
なる。中宮は御車にたてまつて行啓あり。
小松のおとど、直衣に箭おうて供奉せらる。
嫡子権亮少将維盛、束帯にひらやなぐひ
おふてまいられけり。関白殿をはじめ奉て、
太政大臣以下の公卿殿上人、我もわれもとはせ
まいる。凡京中の貴賎、禁中の上下、さはき
ののしる事緩し。山門には、神輿に箭たち、
神人宮仕射ころされ、衆徒おほく疵を
かうぶりしかば、大宮二宮以下、講堂中堂
P01159
すべて諸堂一宇ものこさず焼払て、
山野にまじはるべき由、三千一同に僉議
しけり。是によて大衆の申所、御ぱからひ
あるべしときこえしかば、山門の上綱等、子細
を衆徒にふれむとて登山しけるを、大
衆おこて西坂本より皆おかへす。平大納言
時忠卿、其時はいまだ左衛門督にておはし
けるが、上卿にたつ。大講堂の庭に三塔
会合して、上卿をとてひつぱり、「しや
P01160
冠うちおとせ。其身を搦て湖にしづめ
よ」などぞ僉議しける。既にかうとみえられ
けるに、時忠卿「暫しづまられ候へ。衆徒の御
中へ申べき事あり」とて、懷より小硯たた
うがみをとり出し、一筆かいて大衆の中へ
つかはす。是をひらいてみれば、「衆徒の
濫悪を致すは魔縁の所行也。明王の制
止を加るは善政の加護也」とこそかかれたれ。
是をみてひぱるに及ばず。大衆皆尤々と
P01161
同じて、谷々へおり、坊々へぞ入にける。一紙
一句をもて三塔三千の憤をやすめ、公私
の恥をのがれ給へる時忠卿こそゆゆし
けれ。人々も、山門の衆徒は發向のかまびすし
き計かと思たれば、ことはりも存知し
たりけりとぞ、感ぜられける。同廿日、花山
院権中納言忠親卿を上卿にて、国司加賀守
師高遂に闕官せられて、尾張の井戸田へ
ながされけり。目代近藤判官師経禁獄
P01162
せらる。又去る十三日、神輿射奉し武士
六人獄定せらる。左衛門尉藤原正純、右衛
門尉正季、左衛門尉大江家兼、右衛門尉同家国、
左兵衛尉清原康家、右兵衛尉同康友、是等
は皆小松殿の侍なり。同四月廿八日亥剋
ばかり、樋口富小路より火出来て、辰巳の風
はげしう吹ければ、京中おほく焼にけり。
大なる車輪の如くなるほむらが、三町五
町へだてて戌亥のかたへすぢかへに、とび
P01163
こえとびこえやけゆけば、おそろしなどもおろか
なり。或は具平親王の千種殿、或は北野の
天神の紅梅殿、橘逸成のはひ松殿、鬼殿・高
松殿・鴨居殿・東三条、冬嗣のおとどの閑院殿、
昭宣公の堀河殿、是を始て、昔今の名所卅
余箇所、公卿の家だにも十六箇所まで
焼にけり。其外、殿上人諸大夫の家々は
しるすに及ばず。はては大内にふきつけ
て、朱雀門より始て、応田門・会昌門、大極殿・
P01164
豊楽院、諸司八省・朝所、一時がうちに炭
燼の地とぞなりにける。家々の日記、代々
の文書、七珍万宝さながら麈炭となり
ぬ。其間の費へいか計ぞ。人のやけしぬる
事数百人、牛馬のたぐひは数をしらず。
是ただことにあらず、山王の御とがめとて、
比叡山より大なる猿どもが二三千おり
くだり、手々に松火をともひて京中を
やくとぞ、人の夢には見えたりける。大極
P01165
殿は清和天皇の御宇、貞観十八年に始而
やけたりければ、同十九年正月三日、陽成院
の御即位は豊楽院にてぞありける。元
慶元年四月九日、事始あて、同二年十月
八日にぞつくり出されたりける。後冷泉院の
御宇、天喜五年二月廿六日、又やけにけり。治
暦四年八月十四日、事始ありしかども、造り
出されずして、後冷泉院崩御なりぬ。後三
条院の御宇、延久四年四月十五日作り出して、
P01166
文人詩を奉り、伶人楽を奏して遷幸
なし奉る。今は世末になて、国の力も衰へ
たれば、其後は遂につくられず。
P01167
平家物語巻第一

平家物語 高野本 巻第二

平家 二(表紙)
P02001
平家二之巻 目録
座主流     一行阿闍梨之沙汰
西光被斬    小教訓
少将乞請    教訓状
烽火之沙汰   新大納言流罪
阿古屋の松   成親死去
徳大寺厳島詣  山門滅亡
善光寺炎上   康頼祝
卒都婆流    蘇武
P02002

P02003
平家物語巻第二
  『座主流』S0201
○治承元年五月五日[B ノヒ]、天台座主明雲大僧正、
公請を停止せらるるうへ、蔵人を御使にて、
如意輪の御本尊をめし【召し】かへひ【返い】て、御持僧を
改易せらる。則使庁の使をつけて、今度神
輿内裏へ振たてまつる【奉る】衆徒の張本をめさ
れける。加賀国に座主の御坊領あり【有り】。国司
師高是を停廃の間、その宿意によて大衆
をかたらひ、訴詔【*訴訟】をいたさる。すでに朝家の御
P02004
大事に及よし、西光法師父子が讒奏によて、法
皇大に逆鱗あり【有り】けり。ことに重科におこなは
るべしときこゆ。明雲は法皇の御気色あしかり【悪しかり】
ければ、印鑰をかへしたてま【奉つ】て、座主を辞し
申さる。同十一日、鳥羽院の七の宮、覚快法親
王天台座主にならせ給ふ。これは青連院の
大僧正行玄の御弟子也。おなじき【同じき】十二日、先座主所
職をとどめ【留め】らるるうへ、検非違使二人をつけて、
井に蓋をし、火に水をかけ、水火のせめに
P02005
およぶ【及ぶ】。これによて、大衆なを【猶】参洛すべきよし【由】聞え
しかば、京中又さはぎ【騒ぎ】あへり。同十八日、太政大臣以
下の公卿十三人参内して、陣の座につき、先の
座主罪科の事儀定あり【有り】。八条中納言長方卿、
其時はいまだ左大弁宰相にて、末座に候はれ
けるが、申されけるは、「法家の勘状にまかせて、死
罪一等を減じて遠流せらるべしとみえ【見え】て候へ
共、前座主明雲大僧正は顕密兼学して、浄
行持律のうへ、大乗妙経を公家にさづけたて
P02006
まつり【奉り】、菩薩浄戒を法皇にたもた【保た】せ奉る。御経の
師、御戒の師、重科におこなはれん事、冥の照覧
はかりがたし。還俗遠流をなだめ【宥め】らるべきか」と、はば
かるところ【所】もなう申されければ、当座の公卿みな
長方の義に同ずと申あはれけれ共、法皇の
御いきどをり【憤り】ふかかり【深かり】しかば、猶遠流に定らる。太政
入道も此事申さんとて、院参せられたりけれ共、
法皇御風の気とて御前へもめされ給はねば、
ほいなげにて退出せらる。僧を罪する習とて、土
P02007
円をめし【召し】返し、還俗せさせたてまつり【奉り】、大納言大
輔藤井の松枝と俗名をぞつけられける。此明
雲と申は、村上天皇第七の皇子、具平親王より
六代の御すゑ【末】、久我大納言顕通卿の御子也。まこ
と【誠】に無双の磧徳、天下第一の高僧にておはし
ければ、君も臣もたとみ給ひて、天王寺・六勝寺
の別当をもかけ給へり。されども陰陽頭安陪【*安倍】
泰親が申けるは、「さばかりの智者の明雲となのり【名乗り】
たまふこそ心えね。うへに日月の光をならべて、した【下】に
P02008
雲あり【有り】」とぞ難じける。仁安元年弐月廿日、天台座
主にならせ給ふ。同三月十五日、御拝堂あり【有り】。中堂の
宝蔵をひらかれけるに、種々の重宝共の中に、ほ
う【方】一尺の箱あり【有り】。しろひ【白い】布でつつまれたり。一生
不犯の座主、彼箱をあけて見給ふに、黄紙にか
けるふみ一巻あり【有り】。伝教大師未来の座主の
名字を兼てしるしをか【置か】れたり。我名のある所ま
でみて、それより奥をば、見ず、もとのごとくにまき
返してをか【置か】るる習也。されば此僧正もさこそおは
P02009
しけめ。かかるたとき人なれ共、先世の宿業を
ばまぬかれ給はず。哀なりし事ども【共】也。同廿一日、
配所伊豆国と定らる。人々様々に申あはれけれ
共、西光法師父子が讒奏によて、かやうにおこな
はれけり。やがてけふ都のうち【内】をおひ【追ひ】出さるべし
とて、追立の官人白河の御房【*御坊】にむか【向つ】て、おひ【追ひ】
奉る。僧正なくなく【泣く泣く】御坊を出て、粟田口のほとり、
一切経の別所へいらせ給ふ。山門には、せんずる処
我等が敵は西光父子に過たる者なしとて、彼等親
P02010
子が名字をかひ【書い】て、根本中堂におはします十二神
将のうち、金毘羅大将の左の御足のした【下】にふま
せ奉り、「十二神将・七千夜叉、時刻をめぐらさず西光
父子が命をめし【召し】とり給へや」と、おめき【喚き】さけん【叫ん】で呪
咀しけるこそ聞もおそろしけれ【恐ろしけれ】。同廿三日、一切経の
別所より配所へおもむき【赴き】給ひけり。さばかんの法
務の大僧正程の人を、追立の鬱使がさき【先】に
けたて【蹴立て】させ、けふ【今日】をかぎりに都を出て、関の
東へおもむか【赴か】れけん心のうち、おしはから【推し量ら】れて哀
P02011
也。大津の打出の浜にもなりしかば、文殊楼の軒端
のしろじろとして見えけるを、ふため【二目】とも見給はず、
袖をかほにおし【押し】あてて、涙にむせび給ひけり。山門
に、宿老磧徳をほし【多し】といへども、澄憲法印、其時は
いまだ僧都にておはしけるが、余に名残をおしみ【惜しみ】奉り、
粟津まで送りまいらせ【参らせ】、さてもあるべきならねば、
それよりいとま申てかへられけるに、僧正心ざしの
切なる事を感じて、年来狐心中[M 「御」を非とし「狐」と傍書]に秘せられた
りし一心三観の血脈相承をさづけらる。此法は釈
P02012
尊の附属、波羅奈国の馬鳴比丘、南天竺の竜
樹菩薩より次第に相伝しきたれるを、けふの
なさけにさづけらる。さすが我朝は粟散辺
地の境、濁世末代といひながら、澄憲これを附属
して、法衣の袂をしぼりつつ、宮こ【都】へ帰のぼられける
心のうちこそたとけれ。山門には大衆おこ[B ッ]て僉議
す。「[B 抑]義真和尚よりこのかた、天台座主はじめ【*はじま】て五
十五代に至るまで、いまだ流罪の例をきかず。倩
事の心を案ずるに、延暦の比ほひ、皇帝は帝都
P02013
をたて、大師は当山によぢのぼ【上つ】て四明の教法を
此所にひろめ給ひしよりこのかた、五障の女人跡
たえ【絶え】て、三千の浄侶居[M を]しめたり。峰には一乗
読誦年ふりて、麓には七社の霊験日新なり。
彼月氏の霊山は王城の東北、大聖の幽崛也。この
日域の叡岳も帝都の鬼門に峙て、護国の霊地
也。代々の賢王智臣、此所に壇場をしむ。末代なら
んがらに、いかんが当山に瑕をばつくべき。心うし」とて、
おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】といふ程こそあり【有り】けれ、満山の大衆
P02014
  『一行阿闍梨之沙汰』S0202
みな東坂本へおり下る。 ○[B 十禅師権現の御前にて、大衆又僉議す。]「抑我等粟津に行むか【向つ】て、
貫首をうばひとどめ【留め】奉るべし。但追立の鬱使・両
送使【*令送使】あんなれば、事ゆへ【故】なくとりえ【取得】たてまつら【奉ら】ん
事ありがたし。山王大師の御力の外はたのむ【頼む】方
なし。誠に別の子細なく取え【得】奉るべくは、ここ【爰】にて
まづ瑞相をみせ【見せ】しめ給へ」と、老僧共肝胆をくだ
いて祈念しけり。ここに無動寺法師乗円律師
が童、鶴丸とて、生年十八歳になるが、身心をくるしめ【苦しめ】
五体に汗をながひ【流い】て、俄にくるひ出たり。「われ十禅
P02015
師権現のりゐさせ給へり。末代といふ共、争か我山の
貫首をば、他国へはうつさるべき。生々世々に心うし。
さらむにとては、われこのふもと【麓】に跡をとどめ【留め】て
もなににかはせん」とて、左右の袖をかほにおし【押し】
あてて、涙をはらはらとながす。大衆これをあやしみ
て、「誠に十禅じ【十禅師】権現の御詫宣にて在さば、我等しる
しをまいらせ【参らせ】ん。すこし【少し】もたがへ【違へ】ずもとのぬしに返した
べ」とて、老僧共四五百人、手々にも【持つ】たる数珠共を、十
禅師の大床のうへへぞなげ【投げ】あげたる。此物ぐるひはし
P02016
り【走り】まはてひろひ【拾ひ】あつめ【集め】、すこし【少し】もたがへ【違へ】ず一々にもと
のぬしにぞくばりける。大衆神明の霊験あら
たなる事のたとさに、みなたな心をあはせ【合はせ】て随
喜の感涙をぞもよほし[M 「もよをし」とあり「を」をミセケチ「ほ」と傍書]ける。「其儀ならば、ゆきむ
か【向つ】てうばひとどめ【留め】たてまつれ【奉れ】」といふ程こそあり【有り】
けれ、雲霞の如くに発向す。或は志賀辛崎の
浜路にあゆみ【歩み】つづける大衆もあり【有り】、或山田矢ばせの
湖上に舟おしいだす衆徒もあり【有り】。是をみ【見】て、さしもき
びしげなりつる追立の鬱使・両送使【*令送使】、四方へ皆逃
P02017
さりぬ。大衆国分寺へまいり【参り】むかふ【向ふ】。前座主大におどろ
ひて、「勅勘の者は月日の光にだにもあたらずとこ
そ申せ。何况や、いそぎ都のうちを追出さるべしと、
院宣・宣旨のなりたるに、しばしもやすらふべから
ず。衆徒とうとう【疾う疾う】かへり【帰り】のぼり給へ」とて、はしちかうゐ出て
の給ひけるは、「三台槐門の家をいで【出で】て、四明幽渓の窓
に入しよりこのかた、ひろく円宗の教法を学して、顕
密両宗をまなびき。ただ吾山の興隆をのみおも
へ【思へ】り。又国家を祈奉る事おろそかならず。衆徒をは
P02018
ぐくむ心ざし【志】もふかかり【深かり】き。両所山王[B 「王」に「上イ」と傍書]定て照覧し給
ふらん。身にあやまつ事なし。無実の罪によて遠流
の重科をかうぶれば、世をも人をも神をも仏をも
恨み奉ること【事】なし。これまでとぶらひ【訪ひ】来給ふ衆徒の
芳志こそ報つくしがたけれ」とて、香染の御衣の
袖しぼりもあへ給はねば、大衆もみな涙をぞながし
ける。御輿さしよせて、「とうとうめさるべう候」と申ければ、
「昔こそ三千の衆徒の貫首たりしか、いまはかかる流人
の身になて、いかんがやごとなき修学者、智恵ふか
P02019
き大衆達には、かきささげられてのぼるべき。縦の
ぼるべき[M 「縦のぼるべき縦のぼるべき」とあり、後の「縦のぼるべき」をミセケチ]なり共、わらんづなどいふ物し
ばりはき、おなじ様にあゆみ【歩み】つづい【続い】てこそのぼらめ」と
てのり給はず。ここに西塔の住侶、戒浄坊の阿闍
梨祐慶といふ悪僧あり【有り】。たけ七尺ばかりあり【有り】ける
が、黒革威の鎧の大荒目にかね【鉄】まぜたるを、草摺
なが【草摺長】にきなして、甲をばぬぎ、法師原にもたせつつ、
しら柄【白柄】の大長刀杖につき、「あけ【開け】られ候へ」とて、大衆
の中をおし分おし分、先座主のおはしける所へつとまいり【参り】
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たり。だい【大】の眼を見いからかし、しばしにらまへ奉り、「その御心
でこそかかる御目にもあはせ給へ。とうとうめさるべう候」
と申ければ、おそろしさ【恐ろしさ】にいそぎのり給。大衆とり
え【取得】奉るうれしさに、いやしき法師原にはあらで、やごと
なき修学者どもかきささげ奉り、おめき【喚き】さけ【叫ん】での
ぼりけるに、人はかはれ共祐慶はかはらず、さきごし【前輿】かひ【舁い】
て、長刀の柄もこし【輿】の轅もくだけよととる【執る】ままに、
さしもさがしき東坂、平地を行が如く也。大講堂の
庭に輿かきすへ【据ゑ】て、僉議しけるは、「抑我等粟津に
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行向て、貫首をばうばい【奪ひ】とどめ【留め】奉りぬ。既に勅勘を
蒙て流罪せられ給ふ人を、とりとどめ【留め】奉て貫首
にもちひ【用ひ】申さん事、いかが有べからん」と僉議す。戒
浄房ノ阿闍梨、又先のごとくにすすみ出て僉議
しけるは、「夫当山は日本無双の霊地、鎮護国家
の道場、山王の御威光盛にして、仏法王法牛角也。
されば衆徒の意趣に至るまでならびなく、いや
しき法師原までも世もてかろしめず。况や智恵高
貴にして三千の貫首たり。今は徳行おもう【重う】して一山
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の和尚たり。罪なくしてつみをかうぶる、是山上洛中の
いきどほり【憤り】、興福・園城のあざけり【嘲】にあらずや。此時顕
密のあるじをうしな【失つ】て、数輩の学侶、蛍雪のつとめ
おこたらむこと【事】心うかるべし。せんずる【詮ずる】所、祐慶張本に
称ぜられて、禁獄[B 流]罪もせられ、か[B う]べをはね【刎ね】られ
ん事、今生の面目、冥途の思出なるべし」とて、双
眼より涙をはらはらとながす。大衆尤も尤もとぞ同
じける。それよりしてこそ、祐慶はいかめ房とはいは
れけれ。其弟子に恵慶【*慧恵】律師[M 「法師」とあり、「法」を非とし「律」と傍書]をば、時の人こいかめ
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房とぞ申ける。大衆、先座主をば東塔の南谷妙
光坊へ入奉る。時の横災は権化の人ものがれ給はざ
るやらん。昔大唐の一行阿闍梨は、玄宗皇帝の
御持僧【護持僧】にておはしけるが、玄宗の后楊貴妃に名
をたち【立ち】給へり。昔もいまも、大国も小国も、人の口の
さがなさは、跡かたなき事なりしか共、其疑によて
果羅国へながされ給ふ。件の国へは三の道あり【有り】。
輪池道とて御幸道、幽地道とて雑人のかよふ
道、暗穴道とて重科の者をつかはす【遣す】道也。されば
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彼一行阿闍梨は大犯の人なればとて、暗穴道へぞ
つかはし【遣し】ける。七日七夜が間、月日の光をみ【見】ずして行道
也。冥々として人もなく、行歩に前途まよひ、深々と
して山ふかし。只澗谷に鳥の一声ばかりにて、苔の
ぬれ衣ほしあへず。無実の罪によて遠流の重
科をかうむる[M 「かゝむる」とあり「ゝ」をミセケチ「う」と傍書]事を、天道あはれみ給ひて、九耀
のかたちを現じつつ、一行阿闍梨をまぼり【守り】給ふ。
時に一行右の指をくひきて、左のたもと【袂】に九耀
のかたちをうつさ【写さ】れけり。和漢両朝に真言の本
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  『西光被斬』S0203
尊たる九耀の曼陀羅是也。 ○[B 去程に山門の]大衆、先座主をとり【取り】とど
むるよし【由】、法皇きこしめし【聞し召し】て、いとどやすからずぞおぼし
めされける。西光法師申けるは、「山門の大衆みだり
がはしきうたへ【訴へ】仕事、今にはじめずと申ながら、今度
は以外に覚候。これ程の狼籍【*狼藉】いまだ承り及候はず。
よくよく御いましめ候へ」とぞ申ける。身のただいま【只今】ほろ
び【亡び】んずるをもかへりみず、山王大師の神慮にもはば
からず、か様【斯様】に申て神禁をなやまし奉る。讒臣は
国をみだるといへり。実哉。叢蘭茂か覧とすれども、
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秋風これをやぶり、王者明かな覧とすれば、讒臣こ
れをくらう【暗う】す共、かやうの事をや申べき。此事、新
大納言成親卿以下近習の人々に仰あはせ【合はせ】られ
て、山せめ【攻め】らるべしと聞えしかば、山門の大衆、「さのみ
王地にはらまれて、詔命をそむくべきにあらず」と
て、内々院宣に随ひ奉る衆徒もあり【有り】など聞えし
かば、前座主明雲大僧正は妙光房におはしける
が、大衆ふた心あり【有り】ときい【聞い】て、「つゐに【遂に】いかなる目にか
あはむず覧」と、心ぼそげにぞの給ひける。され
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共流罪の沙汰はなかりけり。新大納言成親卿は、山門
の騒動によて、私の宿意をばしばらくおさへられ
けり。そも内義したく【支度】はさまざまなりしか共、義勢ばかり
では此謀反かなふ【適ふ】べうも見えざりしかば、さしもたのま【頼ま】
れたりける多田蔵人行綱、此事無益なりとお
もふ【思ふ】心つきにけり。弓袋のれう【料】におくら【送ら】れたりけ
る布共をば、直垂かたびらに裁ぬはせて、家子郎
等どもにきせつつ、目うちしばだたいてゐたりけるが、倩
平家の繁昌する有様をみる【見る】に、当時たやすく
P02028
かたぶけ【傾け】がたし。よし【由】なき事にくみしてげり。若此事
もれ【漏れ】ぬる物ならば、行綱まづうしなは【失は】れなんず。他人
の口よりもれ【漏れ】ぬ先にかへり忠【返り忠】して、命いか【生か】うどおもふ【思ふ】
心ぞつきにける。同五月廿九日のさ夜ふけがたに、多
田蔵人行綱、入道相国の西八条の亭に参て、「行
綱こそ申べき事候間、まい【参つ】て候へ」といはせければ、入
道「つねにもまいら【参ら】ぬ者が参じたるは何事ぞ。あれき
け」とて、主馬判官盛国をいださ【出ださ】れたり。「人伝には
申まじき事なり」といふ間、さらばとて、入道みづから
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中門の廊へ出られたり。「夜ははるかにふけぬらむ。ただ
今【只今】いかに、何事ぞや」との給へ【宣へ】ば、「昼は人目のしげう候
間、夜にまぎれてまい【参つ】て候。此程院中の人々の兵
具をととのへ、軍兵をめされ候をば、何とかきこし
めさ【聞し召さ】れ候」。「それは山攻らるべしとこそきけ」と、いと事
もなげにぞの給ひける。行綱ちかう【近う】より、小声に
なて申けるは、「其儀では候はず。一向御一家の御上とこそ
承候へ」。「さてそれをば法皇もしろしめさ【知ろし召さ】れたるか」。「子細
にやおよび【及び】候。成親卿の軍兵めされ候も、院宣と
P02030
てこそめさ【召さ】れ候へ。俊寛がとふるまう【振舞】て、康頼がかう申
て、西光がと申て」などいふ事共、はじめ【始め】よりあり【有り】
のままにはさし過ていひ散し、「いとま申て」とて出に
けり。入道大に驚き、大声をもて侍共よびのの
しり給ふ[B 事]、聞もおびたたし【夥し】。行綱なまじひなる事
申出して、証人にやひかれんず覧とおそろしさ【恐ろしさ】
に、大野に火をはなたる心ち【心地】して、人もおは【追は】ぬに
とり袴して、いそぎ門外へぞにげ【逃げ】出ける。入道、ま
づ【先】貞能をめし【召し】て、「当家かたぶけ【傾け】うどする謀反
P02031
のともがら【輩】、京中にみちみちたん也。一門の人々にもふ
れ申せ。侍共もよをせ」との給へば、馳まはてもよをす。
右大将宗盛卿、三位中将知盛[M 「具盛」とあり「具」をミセケチ「知」と傍書]、頭中将重衡、左馬
頭行盛以下の人々、甲胃をよろひ、弓箭を帯し
馳集る。其外軍兵雲霞の如くに馳つどふ【集ふ】。其
夜のうちに西八条には、兵共六七千騎もあるら
むとこそ見えたりけれ。あくれば六月一日[B ノ]也。いま
だくらかり【暗かり】けるに、入道、検非違使安陪資成を
めし【召し】て、「きと院の御所へまいれ【参れ】。信成【*信業】をまねひ【招い】
P02032
て申さ[B ン]ずるやうはよな、「近習の人々、此一門をほろぼ
して天下をみだらんとするくわたて【企て】あり【有り】。一々にめし【召し】
とて尋ね沙汰仕るべし。それをば君もしろしめさ【知ろし召さ】る
まじう候」と申せ」とこその給ひけれ。資成いそぎ
御所へはせまいり【参り】、大膳大夫信成【*信業】よびいだひ【出だい】て此
由申に、色をうしなふ【失ふ】。御前へまい【参つ】て此由奏聞
しければ、法皇「あは、これらが内々はかりし事の
もれ【漏れ】にけるよ」とおぼしめす【思し召す】にあさまし。さる
にても、「こは何事ぞ」とばかり仰られて、分明の御
P02033
返事もなかりけり。資成いそぎ馳帰て、入道相国に
此由申せば、「さればこそ。行綱はまことをいひけり。こ
の事行綱しらせずは、浄海安穏にある【有る】べしや」とて、
飛弾【*飛騨】守景家・筑後守貞能に仰て、謀反の輩
からめとるべき由下知せらる。仍二百余余騎、三百余き、
あそこここにおし【押し】よせおし【押し】よせからめとる。太政入道まづ雑
色をもて、中御門烏丸の新大納言成親卿の許
へ、「申あはす【合はす】べき事あり【有り】。きと立より給へ」との給ひ
つかはさ【遣さ】れたりければ、大納言我身のうへ【上】とは露
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しら【知ら】ず、「あはれ、是は法皇の山攻らるべきよし御結構あ
るを、申とどめられんずるにこそ。御いきどをり【憤り】ふか
げなり。いかにもかなう【叶ふ】まじき物を」とて、ないきよげ【萎清気】
なる布衣たをやかにきなし、あざやかなる車に
のり、侍三四人めし【召し】具して、雑色牛飼に至るまで、つ
ねよりもひき【引き】つくろは【繕は】れたり。そも最後とは後
にこそおもひ【思ひ】しられけれ。西八条ちかうなてみ【見】給
へば、四五町に軍兵みちみちたり。「あなおびたたし【夥し】。
何事やらん」と、むねうちさはぎ【騒ぎ】、車よりおり、門の
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うち【内】にさし入て見給へば、うち【内】にも兵共ひま【隙】はざま
もなうぞみちみちたる。中門の口におそろしげ【恐ろし気】なる
武士共あまた待うけて、大納言の左右の手をと
てひ【引つ】ぱり、「いましむべう候哉覧」と申。入道相国簾
中より見出して、「ある【有る】べうもなし」との給へば、武士共
十四五人、前後左右に立かこみ、ゑん【縁】のうへ【上】にひき
のぼせ【上せ】て、ひとまなる所におし【押し】こめてげり。大納言
夢の心地して、つやつや物もおぼえ【覚え】給はず。供なり
つる侍共おし【押し】へだてられて、ちりぢりになりぬ。雑色・
P02036
牛飼いろ【色】をうしなひ【失ひ】、牛・車をすてて逃さりぬ。さる
程に、近江中将入道蓮浄、法勝寺執行俊寛僧
都、山城守基兼、式部大輔正綱、平判官康頼、
宗判官信房、新平判官資行もとらはれて
出来たり。西光法師此事きい【聞い】て、我身のうゑ【上】とや
思けん、鞭をあげ、院の御所法住寺殿へ馳ま
いる【参る】。平家の侍共道にて馳むかひ【向ひ】、「西八条へめさ
るるぞ。きとまいれ【参れ】」といひければ、「奏すべき事が
あて法住寺殿へまいる【参る】。やがてこそまいら【参ら】め」といひけ
P02037
れ共、「にくひ入道かな、何事をか奏すべかんなる。さな
いはせそ」とて、馬よりとてひきおとし【落し】、ちう【宙】にくく【括つ】て西
八条へさげてまいる【参る】。日のはじめより根元よりき【与力】の
者なりければ、殊につよう【強う】いましめて、坪の内にぞ
ひすへ【引つ据ゑ】たる。入道相国大床にたて、「入道かたぶけ【傾け】う
どするやつがなれるすがたよ。しやつここへひき【引き】よせ
よ」とて、ゑん【縁】のきはにひき【引き】よせさせ、物はき【履】なが
らしやつらをむずむずとぞふまれける。「本よりを[B の]
れら【己等】がやうなる下臈のはてを、君のめし【召し】つかは【使は】せ
P02038
給ひて、なさるまじき官職をなしたび、父子共に過分
のふるまひすると見しにあはせて、あやまたぬ天
台の座主流罪に申おこなひ、天下の大事ひき【引き】出い
て、剰此一門ほろぼす【亡ぼす】べき謀反にくみしてげるや
つなり。あり【有り】のままに申せ」とこその給ひけれ。西光
もとよりすぐれたる大剛の者なりければ、ちとも
色も変ぜず、わろびれたる気いき[B 「い」に「シ」と傍書]【景色】もなし。ゐ【居】なを
り【直り】あざわら【笑つ】て[* 「あざわれて」と有るのを他本により訂正]申けるは、「さもさうず。入道殿こそ
過分の事をばの給へ。他人の前はしら【知ら】ず、西光が
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きかんところ【所】にさやうの事をば、えこその給ふまじけれ。
院中にめしつかは【使は】るる身なれば、執事の別当成親
卿の院宣とてもよをさ【催さ】れし事に、くみせずとは
申べき様なし。それはくみしたり。但、耳にとどまる事
をもの給ふ物かな。御辺は故刑部卿忠盛の子で
おはせしかども、十四五までは出仕もし給はず。故中
御門藤中納言家成卿の辺にたち【立ち】入給しをば、京
童部は高平太とこそいひしか。保延の比、大将軍
承り、海賊の張本卅余人からめ進ぜられし[B 勧]賞
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に、四品して四位の兵衛佐と申ししをだに、過分と
こそ時の人々は申あはれしか。殿上のまじはりをだ
にきらわれし人の子で、太政大臣までなりあが【上がつ】た
るや過分なるらむ。侍品の者の受領検非違使
になる事、先例傍例なきにあらず。なじかは過分
なるべき」と、はばかる所もなう申ければ、入道あま
りにいかて物も[B の]給はず。しばしあて「しやつが頸さ
う【左右】なうきるな。よくよくいましめよ」とぞの給ひける。
松浦太郎重俊承て、足手をはさみ【鋏み】、さまざまに
P02041
いためとふ。もとよりあらがひ申さぬうゑ【上】、糾問はき
びしかりけり、残なうこそ申けれ。白状四五牧に記
せられ、やがて、「しやつが口をさけ」とて口をさかれ、五
条西朱雀にしてきられにけり。嫡子前加賀守
師高、尾張の井戸田へながされたりけるを、同国
の住人小胡麻郡司維季に仰てうた【討た】れぬ。次
男近藤判官師経禁獄せられたりけるを、獄
より引いださ【出ださ】れ、六条河原にて誅せらる。其弟左
衛門尉師平、郎等三人、同く首をはねられけり。
P02042
これら【是等】はいふかい【甲斐】なき物の秀て、いろう【綺ふ】まじき事に
いろひ【綺ひ】、あやまたぬ天台座主流罪に申おこなひ、
果報やつきにけん、山王大師の神罰冥罰を
  『小教訓』S0204
立どころにかうぶて、かかる目にあへりけり。○新大納
言は、ひと間【一間】なる所におし【押し】こめられ、あせ水になり
つつ、「あはれ、是は日比のあらまし事のもれ【漏れ】聞え
けるにこそ。誰もらし【洩らし】つらん。定て北面の者共
が中にこそある【有る】らむ」など、おもは【思は】じ事なうあんじ【案じ】
つづけておはしけるに、うしろのかたより足をと【音】
P02043
のたからかにしければ、すはただ今【只今】わがいのち【命】をうし
なは【失は】んとて、物のふ【武士】共がまいる【参る】にこそと待給ふに、入
道みづからいたじき【板敷】たからか【高らか】にふみならし、大納言の
おはしけるうしろの障子をさとあけられたり。そ
けん【素絹】の衣のみじからかなるに、しろき【白き】大口ふみくくみ、
ひじりづかの刀おし【押し】くつろげてさすままに、以外に
いかれるけしき【気色】にて、大納言をしばしにらまへ、「抑御
辺は平治にもすでに誅せらるべかりしを、内府が
身にかへて申なだめ【宥め】、頸をつぎたてま【奉つ】しはいかに。何の
P02044
遺恨をもて、此一門ほろぼすべき由[B の][M 御]結構は候
けるやらん。恩をしるを人とはいふぞ。恩をしらぬ
をば畜生とこそいへ。しかれ共当家の運命つき
ぬによて、むかへ【向へ】たてま【奉つ】たり。日比のあらまし[M 「御結構」をミセケチ、左に「あらまし」と傍書]の次第、
直にうけ給ら【承ら】ん」とぞの給ひける。大納言「またくさ
る事候はず。人の讒言にてぞ候らむ。よくよく御
尋候へ」と申されければ、入道いはせもはてず、「人
やある、人やある」とめされければ、貞能まいり【参り】たり。「西光めが
白状まいらせよ【参らせよ】」と仰られければ、も【持つ】てまいり【参り】たり。是を
P02045
とて二三遍おし【押し】返しおし【押し】返し読きかせ、「あなにくや。此うへ【上】
をば何と陳ずべき」とて、大納言のかほにさとなげ【投げ】
かけ、障子をちやうどたててぞ出られける。入道、なを【猶】
腹をすゑ【据ゑ】かねて、「経遠・兼康」とめせば、瀬尾太郎・難
波次郎、まいり【参り】たり。「あの男とて庭へ引おとせ【落せ】」と
の給へば、これらはさう【左右】なくもしたてまつら【奉ら】ず。[M 畏て]、「小
松殿の御気色いかが候はんず覧」と申ければ、入道
相国大にいかて、「よしよし、を[B の]れら【己等】は内府が命をばおもう【重う】
して、入道が仰をばかろう【軽う】しけるごさんなれ。其上は
P02046
ちから【力】をよば【及ば】ず」との給へば、此事あしかり【悪しかり】なんとや思ひ
けん、二人の者共たち【立ち】あが【上がつ】て、大納言を庭へひき【引き】
おとし【落し】奉る。其時入道心地よげにて、「とてふせておめ
か【喚か】せよ」とぞの給ひける。二人の者共、大納言の左右
の耳に口をあてて、「いかさまにも御声のいづべう
候」とささやいてひきふせ奉れば、二声三声ぞ
おめか【喚か】れける。其体冥途にて、娑婆世界の罪人
を、或業のはかりにかけ、或浄頗梨の鏡にひき
むけて、罪の軽重に任せつつ、阿防羅刹が呵嘖
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すらんも、これには過じとぞ見えし。蕭樊とらは
れとらはれて、韓彭にらぎすされたり。兆錯[B 「兆措」とあり「措」に「錯」と傍書、「ソ」「サク」両様の振り仮名あり]【*■錯】戮をうけて、
周儀【*周魏】つみせらる。喩ば、蕭何・樊噌・韓信・彭越、是
等は高祖の忠臣なりしか共、小人の讒によて過
敗の恥をうく共、か様【斯様】の事をや申べき。新大納言は
我身のかくなるにつけても、子息丹波の少将成経
以下、おさなき【幼き】人々、いかなる目にかあふらむと、おもひ【思ひ】や
るにもおぼつかなし。さばかりあつき六月に、装束だに
もくつろげず、あつさ【暑さ】もたへ【堪へ】がたければ、むね【胸】せき
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あぐる心地して、汗も涙もあらそひてぞながれ【流れ】ける。「さ
り共小松殿は思食はなたじ物を」と思はれけれども、誰
して申べし共おぼえ【覚え】給はず。小松のおとどは、其後遥
に程へて、嫡子権亮少将[B 維盛を]車のしりにのせ【乗せ】つつ、衛
府四五人、随身二三人めし【召し】ぐし【具し】て、兵一人もめし【召し】ぐせ【具せ】
られず、殊に大様げでおはしたり。入道をはじめ奉て、
人々皆おもは【思は】ずげにぞ見給ひける。車よりおり
給ふ処に、貞能つと参て、「など是程の御大事に、
軍兵共をばめし【召し】ぐせ【具せ】られ候はぬぞ」と申せば、「大事とは
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天下の大事をこそいへ。かやうの私事を大事と云
様やある」との給へば、兵杖を帯したる者共も、皆そ
ぞろいてぞ見えける。「そも大納言をばいづくにを
か【置か】れたるやらん」とて、ここかしこの障子引あけ引あけ見
給へば、ある障子のうへに、蛛手ゆう【結う】たる所あり【有り】。ここや
らんとてあけられたれば、大納言おはしけり。涙に
むせびうつぶして、目も見あはせ給はず。「いかにや」との
給へば、其時みつけ【見付け】奉り、うれしげにおもは【思は】れたるけし
き、地獄にて罪人共が地蔵菩薩を見奉るらんも、
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かくやとおぼえて哀也。「何事にて候やらん、かかる目に
あひ候。さてわたらせ給へば、さり共とこそたのみま
いらせ【参らせ】て候へ。平治にも既誅せらるべかりしを[M 「べきで候しが」とあり「きで候しが」をミセケチ「かりしを」と傍書]、御恩
をもて頸をつがれまいらせ【参らせ】、正二位の大納言にあがつ[M 「あり」とあり「り」をミセケチ「がつ」と傍書]【上がつ】
て、歳既四十にあまり候。御恩こそ生々世々にも報じ
つくしがたう候へ。今度も同はかひなき命をたす
け【助け】させおはしませ。命だにいき【生き】て候はば、出家入道
して高野粉河に閉籠り、一向後世菩提の
つとめをいとなみ候はん」と申されければ、[M さは候共、]
P02051
[B 大臣、「誠にさこそはおぼしめさ【思し召さ】れ候らめ。さ候へばとて、」御命うしなひ【失ひ】奉るまではよも候はじ。縦さは候共、重盛
かうて候へば、御命にもかはり奉るべし]とて出られけり。
父の禅門の御まへにおはして、「あの成親卿うしなは【失は】れん
事、よくよく御ぱからひ候べし。先祖修理大夫顕季、
白河院にめし【召し】つかは【使は】れてよりこのかた、家に其例なき
正二位の大納言にあが【上がつ】て、当時君無双の御いとをし
みなり。やがて首をはねられん事、いかが候べからん。
都の外へ出されたらんに事たり候なん。北野[B ノ]天神
は時平のおとどの讒奏にてうき名を西海の浪に
P02052
ながし、西宮の大臣は多田の満仲が讒言にて恨を
山陽の雲によす。おのおの【各々】無実なりしか共、流罪せ
られ給ひにき。これ皆延喜の聖代、安和の御門
の御ひが事【僻事】とぞ申伝たる。上古猶かくのごとし、況
哉末代にをいてをや。賢王猶御あやまりあり【有り】、況や
凡人にをいてをや。既めし【召し】をか【置か】れぬる上は、いそぎう
しなは【失は】れず共、なんのくるしみか候べき。「刑の疑はし
きをばかろんぜよ。功の疑はしきをばおもんぜよ【重んぜよ】」と
こそみえ【見え】て候へ。事あたらしく候へども、重盛彼大納言
P02053
が妹に相ぐして候。維盛又聟なり。か様【斯様】にしたしくな【成つ】
て候へば申とや、おぼしめさ【思し召さ】れ候らん。其儀では候はず。世
のため、君のため、家のための事をもて申候。一と
せ、故少納言入道信西が執権の時にあひ【相】あたて、
我朝には嵯峨皇帝の御時、右兵衛督藤原仲
成を誅せられてよりこのかた、保元までは君廿五代
の間行れざりし死罪をはじめてとり行ひ、宇治
の悪左府の死骸をほりおこいて実験【*実検】せられし
事などは、あまりなる御政とこそおぼえ【覚え】候しか。されば
P02054
いにしへの人々も、「死罪をおこなへば海内に謀反の輩
たえ【絶え】ず」とこそ申伝て候へ。此詞について、中二年あて、
平治に又信西がうづま【埋ま】れたりしをほり出し、首をは
ね【刎ね】て大路をわたされ候にき。保元に申行ひし事、
幾程もなく身の上にむかはり【向はり】にきとおもへ【思へ】ば、おそ
ろしう【恐ろしう】こそ候しか。是はさせる朝敵にもあらず。かたがた
おそれ【恐れ】ある【有る】べし。御栄花残る所なければ、おぼしめす【思し召す】
事ある【有る】まじけれ共、子々孫々までも繁昌こそあら
まほしう候へ。父祖の善悪は必子孫に及と見えて候。
P02055
積善の家に余慶あり【有り】、積悪の門に余殃とどまる
とこそ承はれ。いかさまにも今夜首をはね【刎ね】られんこ
と【事】、しかる【然る】べうも候はず」と申されければ、入道相国げに
もとやおもは【思は】れけん、死罪はおもひ【思ひ】とどまり給ひぬ。其
後おとど中門に出て、侍共にの給ひけるは、「仰なれ
ばとて、大納言左右なう失ふ事ある【有る】べからず。入道
腹のたちのままに、もの【物】さはがしき【騒がしき】事し給ひては、
後に必くやしみ給ふべし。僻事してわれうらむ【恨む】
な」との給へば、兵共皆舌をふておそれ【恐れ】おののく。「さて
P02056
も経遠・兼康がけさ大納言に情なうあたりける
事、返々も奇怪也。重盛がかへり聞ん所をば、などかははば
からざるべき。片田舎の者共はかかるぞとよ」との給へ
ば、難波も瀬尾もともにおそれ【恐れ】入たりけり。おとどはか
様【斯様】にの給ひて、小松殿へぞ帰られける。さる程に、大
納言のとも【供】なりつる侍共、中御門烏丸の宿所へはし
り【走り】帰て、此由申せば、北方以下の女房達、声もおし
ま【惜しま】ずなき【泣き】さけぶ【叫ぶ】。「既武士のむかひ【向ひ】候。少将殿をはじ
め【始め】まいらせ【参らせ】て、君達も皆とられさせ給ふべしと
P02057
こそ聞え候へ。いそぎ【急ぎ】いづ方へもしのば【忍ば】せ給へ」と申けれ
ば、「今は是程の身にな【成つ】て、残りとどまる身とても、安
穏にて何にかはせん。ただ【只】同じ一夜の露ともきえん
事こそ本意なれ。さても今朝をかぎりとしら【知ら】ざ
りけるかなしさよ」とて、ふしまろびてぞなか【泣か】れけ
る。既武士共のちかづく【近付く】よし【由】聞えしかば、かくて又はぢ【恥】
がましく、うたてき目を見んもさすがなればとて、
十になり【成り】給ふ女子、八歳[B ノ]男子、車にとり【取り】のせ【乗せ】、いづ
くをさすともなくやり【遣り】出す。さてもある【有る】べきならねば、
P02058
大宮をのぼりに、北山の辺雲林院へぞおはしける。
其辺なる僧坊におろしをき奉て、をくり【送り】の者ど
も【共】も、身々の捨がたさにいとま申て帰けり。今はいと
けなきおさなき【幼き】人々ばかりのこり【残り】ゐて、又こと【事】とふ
人もなくしておはしけむ北方の心のうち、おしは
から【推し量ら】れて哀也。暮行陰[B 「陰」に「景」と傍書]を見給ふにつけては、大
納言の露の命、此夕をかぎりなりとおもひ【思ひ】やるに
も、きえぬべし。[B 宿所には]女房侍おほかり【多かり】けれ共、物をだにと
りしたためず、門をだにおし【押し】も立ず。馬どもは厩に
P02059
なみ【並み】たちたれ共、草かふ【飼ふ】者一人もなし。夜明れば、馬・車
門にたちなみ、賓客座につらなて、あそびたはぶれ、
舞おどり【踊り】、世を世とも思ひ給はず、ちかき【近き】あたりの
人は物をだにたかく【高く】いはず、おぢおそれ【恐れ】てこそ昨日
までもあり【有り】しに、夜の間にかはるありさま、盛者必
衰の理は目の前にこそ顕けれ。楽つきて悲来
るとかかれたる江相公の筆の跡、今こそ思しら
  『少将乞請』S0205
れけれ。○丹波少将成経は、其夜しも院の御所法
住寺殿にうへぶし【上臥し】して、いまだ出られざりけるに、
P02060
大納言の侍共、いそぎ御所へ馳まい【参つ】て、少将殿[B を]よび
出し奉り、此由申に、「などや宰相の許より、今まで
しらせざるらん」との給ひも[B 「の給ひし」とあり「し」に「も」と傍書]はてねば、宰相殿より
とて使あり【有り】。此宰相と申は、入道相国の弟也。宿
所は六波羅の惣門の内なれば、門脇の宰相とぞ
申ける。丹波少将にはしうと【舅】也。「何事にて候やらん、
入道相国のきと西八条へ具し奉れと候」といは
せられたりければ、少将此事心得て、近習の女房
達よび出し奉り、「夜部何となう世の物さはがしう【騒がしう】
P02061
候しを、例の山法師の下るかなど、よそにおもひ【思ひ】て候へ
ば、はや成経が身の上にて候けり。大納言よさりき
らるべう候なれば、成経も同罪にてこそ候はんずら
め。今一度御前へまい【参つ】て、君をも見まいらせ【参らせ】たう候へ
共、既かかる身に罷な【成つ】て候へば、憚存候」とぞ申され
ける。女房達御前ヘまい【参つ】て、此由奏せられけれ
ば、法皇大におどろかせ給て、「さればこそ。けさの
入道相国が使にはや御心得あり【有り】。あは、これらが内々
はかりし事のもれ【漏れ】にけるよ」とおぼしめす【思し召す】にあさ
P02062
まし。「さるにてもこれへ」と御気色あり【有り】ければ、まいら【参ら】
れたり。法皇も御涙をながさせ給ひて、仰下さる
る旨もなし。少将も涙に咽で、申あぐる旨もなし。
良有て、さてもある【有る】べきならねば、少将袖をかほに
おし【押し】あてて、泣なく罷出られけり。法皇はうしろを
遥に御覧じをくら【送ら】せ給ひて、「末代こそ心うけれ。
これかぎりで又御覧ぜぬ事もやあらんずらん」
とて、御涙をながさせ給ふぞ忝き。院中の
人々、少将の袖をひかへ、袂にすがて名残ををし
P02063
み【惜しみ】、涙をながさぬはなかりけり。しうとの宰相の許
へ出られたれば、北方はちかう産すべき人にておは
しけるが、今朝より此歎をうちそへては、既命も
たえ【絶え】入心地ぞせられける。少将御所を罷出づるより、
ながるる涙つきせぬに、北方のあり様【有様】を見給ひ
ては、いとどせんかたなげにぞ見えられける。少将〔の〕
めのとに、六条と云女房あり。「御ち【乳】にまいり【参り】はじめ
さぶらひて、君をち【血】のなかよりいだきあげま
いらせ【参らせ】、月日の重にしたがひ【従ひ】て、我身の年のゆく
P02064
事をば歎ずして、君のおとなしうならせ給ふ事
をのみうれしうおもひ【思ひ】奉り、あからさまとはおもへ【思へ】共、
既廿一年はなれ【離れ】まいらせ【参らせ】ず。院内へまいら【参ら】せ給ひ
て、遅う出させ給ふだにも、おぼつかなう思ひまい
らする【参らする】に、いかなる御目にかあはせ給はんずらん」と
なく【泣く】。少将「いたうななげい【歎い】そ。宰相さておはす
れば、命ばかりはさり共こひ【乞ひ】うけ【請け】給はんずらん」と
なぐさめ給へども【共】、人目もしら【知ら】ずなきもだへ【悶え】けり。
西八条より使しきなみにあり【有り】ければ、宰相
P02065
「ゆきむかう【向う】てこそ、ともかうもならめ」とて出給へば、
少将も宰相の車のしりにのてぞ出られける。
保元平治よりこのかた、平家の人々楽み栄
へのみあて、愁へ歎はなかりしに、此宰相ばかりこ
そ、よしなき聟ゆへ【故】にかかる歎をばせられけれ。
西八条ちかうなて車をとどめ【留め】、まづ案内を申
入られければ、太政入道「丹波少将をば、此内へ
はいれ【入れ】らるべからず」との給ふ間、其辺ちかき【近き】侍の
家におろしをきつつ、宰相ばかりぞ門のうち【内】へは
P02066
入給ふ。少将をば、いつしか兵共うち【打ち】かこん【囲ん】で、守護
し奉る。たのま【頼ま】れたりつる宰相殿にははなれ【離れ】給
ひぬ。少将の心のうち、さこそは便なかりけめ。宰相
中門に居給ひたれば、入道対面もし給はず、源
大夫判官季貞をもて申入られけるは、「[B 教盛こそ、]よし【由】な
き者にしたしうな【成つ】て、返々くやしう候へども、かひも
候はず。あひ【相】ぐし【具し】させて候ものが、此程なやむ事の候
なるが、けさよりこの【此の】歎をうちそへては、既命もた
え【絶え】なんず。何かはくるしう【苦しう】候べき。少将をばしばら
P02067
く教盛に預させおはしませ。教盛かうて候へば、なじか
はひが事せさせ候べき」と申されければ、季貞
まい【参つ】て此由申。[B 入道、]「あはれ、例の宰相が、物に心えぬ」と
て、とみに返事もし給はず。ややあ【有つ】て、入道の
給ひけるは、「新大納言成親、此一門をほろぼして、
天下を乱らむとする企あり【有り】。この【此の】少将は既彼
大納言が嫡子也。うとうもあれしたしうもあれ、ゑ
こそ申宥むまじけれ。若此謀反とげましかば、
御へん【御辺】とてもおだしう【穏しう】やおはすべきと申せ」とこ
P02068
その給ひけれ。季貞かへりまい【参つ】て、此由宰相に申
ければ、誠ほい【本意】な【無】げ[B に]て、重て申されけるは、「保元
平治よりこのかた、度々の合戦にも、御命にかは
りまいらせ【参らせ】んとこそ存候へ。此後も荒き風をば
まづふせき【防き】まいら【参ら】せ候はんずるに、たとひ教盛こ
そ年老て候共、わかき子共あまた候へば、一方の御
固にはなどかなら【成ら】で候べき。それに成経しばらくあづ
からうど申を御ゆるされ【許され】なきは、教盛を一向ふた
心【二心】ある者とおぼしめす【思し召す】にこそ。是程うしろめ
P02069
たうおもは【思は】れまいらせ【参らせ】ては、世にあても何にかはし候べ
き。今はただ身のいとまを給て、出家入道し、片
山里にこもり居て、一すぢに後世菩提のつと
めを営み候はん。よし【由】なき浮世のまじはり也。世にあ
ればこそ望もあれ、望のかなは【叶は】ねばこそ恨もあれ。
しかじ、うき世をいとひ、実のみち【道】に入なんには」と
ぞの給ひける。季貞まい【参つ】て、「宰相殿ははやおぼ
しめし【思し召し】きて候。ともかうもよき様に御ぱからひ
候へ」と申ければ、其時入道大におどろゐ【驚い】て、「されば
P02070
とて出家入道まではあまりにけしからず。其儀
ならば、少将をばしばらく御辺に預奉ると云べし」
とこその給ひけれ。季貞帰まい【参つ】て、宰相[B 殿イ]に此
よし【由】申せば、「あはれ、人の子をば持まじかりける
もの【物】かな。我子の縁にむすぼほれざらむには、
是程心をばくだかじ物を」とて出られけり。少
将まち【待ち】うけ奉て、「さていかが候つる」と申されければ、
「入道あまりに腹をたてて、教盛には終に対面も
し給はず。かなふ【叶ふ】まじき由頻にの給ひつれ共、出
P02071
家入道まで申たればにやらん、しばらく宿所に
をき奉れとの給ひつれ共、始終よかるべしと
もおぼえず」。少将「さ候へばこそ、成経は御恩をもて
しばしの命ものび候はんずるにこそ。其につき候ては、
大納言が事をばいかがきこしめさ【聞し召さ】れ候」。「それまではお
もひ【思ひ】もよらず」との給へば、其時涙をはらはらとなが
い【流い】て、「誠に御恩をもてしばしの命もいき【生き】候はんず
る事は、しかる【然る】べう候へ共、命のおしう【惜しう】候も、ちち【父】を今
一度見ばやとおもふ【思ふ】ため【為】也。大納言がきられ候はん
P02072
にをいては、成経とてもかひなき命をいきて何に
かはし候べき。ただ一所でいかにもなる様に申てた
ばせ給ふべうや候らん」と申されければ、宰相よに
も心くるしげ【苦し気】にて、「いさとよ。御辺の事をこそと
かう申つれ。それまではおもひ【思ひ】もよらねども【共】、大
納言殿の御事をば、今朝内のおとどのやうやう
に申されければ、それもしばしは心安いやうにこ
そ承はれ」との給へば、少将泣々手を合てぞ
悦ばれける。子ならざらむ者は、誰かただ今【只今】我
P02073
身の上をさしをひ【置い】て、是ほどまでは悦べき。まこ
と【誠】の契はおや子【親子】のなか【中】にぞあり【有り】ける。子をば
人のもつべかりける物哉とぞ、やがて思ひ返され
ける。さて今朝のごとくに同車[* 「同」に清点、「車」に濁点あり。]して帰られけり。
宿所には女房達、しん【死ん】だる人のいきかへりたる
心して、さしつどひ【集ひ】て皆悦なき【悦泣】共せられけり。
  『教訓状』S0206
○太政入道は、か様【斯様】に人々あまた警をいても、なを【猶】
心ゆかずやおもは【思は】れけん、既赤地の錦の直垂
に、黒糸威の腹巻の白かな物うたるむな板せめ
P02074
て、先年安芸守たりし時、神拝の次に、霊夢
を蒙て、厳島の大明神よりうつつ【現】に給はられ
たりし銀のひるまき【蛭巻】したる小長刀、常の枕を
はなたず立られたりしを脇ばさみ【鋏み】、中門の廊
へぞ出られける。そのきそく【気色】大方ゆゆしうぞみ
え【見え】し。貞能をめす。筑後守貞能、木蘭地の直
垂にひおどしの鎧きて、御まへ【前】に畏て[B ぞ]候[B ける]。ややあて
入道の給ひけるは、「貞能、此事いかが思ふ。保元
に平〔右〕馬助をはじめとして、一門半過て新院
P02075
のみかた【御方】へ[B 「へ」に「に」と傍書]まいり【参り】にき。一宮の御事は、故刑部卿
殿の養君にてましまいしかば、かたがたみ【見】はなち【放ち】
まいらせ【参らせ】がたかしか共、故院の御遺誡に任て、み
かた【御方】にて先をかけ【駆け】たりき。是一の奉公也。次平
治元年十二月、信頼・義朝が院内をとり奉り、
大内にたてごもり、天下くらやみとな【成つ】たりしに、入
道身を捨て凶徒を追落し、経宗・惟方をめし【召し】
警しに至るまで、既君の御ため【為】に命をうしな
は【失は】んとする事、度々に及ぶ。縦人なんと申共、七代
P02076
までは此一門をば争か捨させ給ふべき。それに、成親
と云無用のいたづら者、西光と云下賎の不当人め
が申事につかせ給ひて、この【此の】一門亡すべき由、法皇
の御結構こそ遺恨の次第なれ。此後も讒奏
する者あらば、当家追討の院宣下されつと覚
るぞ。朝敵とな【成つ】てはいかにくゆとも【共】益ある【有る】まじ。世
をしづめん程、法皇を鳥羽の北殿へうつし奉る
か、しから【然ら】ずは、是へまれ御幸をなしまいらせ【参らせ】んと思ふ
はいかに。其儀ならば、北面の輩、矢をも一い【射】てず[B ら]ん。
P02077
侍共に其用意せよと触べし。大方は入道、院がたの
奉公おもひ【思ひ】きたり。馬に鞍をか【置か】せよ。きせなが【着背長】とり【取り】
出せ」とぞの給ひける。主馬判官盛国、いそぎ小松
殿へ馳まい【参つ】て、「世は既かう候」と申ければ、おとど聞
もあへず、「あははや、成親卿が首をはね【刎ね】られたる
な」との給へば、「さは候はね共、入道殿きせながめさ【召さ】れ
候。侍共皆う【打つ】た【立つ】て、只今法住寺殿へよせんと出たち
候。法皇をば鳥羽殿へおし【押し】こめまいらせ【参らせ】うど候が、内々は
鎮西のかた【方】へながしまいらせ【参らせ】うど擬せられ候」と申
P02078
ければ、おとど争かさる事ある【有る】べきとおもへ【思へ】共、今朝の
禅門のきそく【気色】、さる物ぐるはしき事もある【有る】らむ
とて、車をとばして西八条へぞおはしたる。門前にて
車よりおり、門の内へさし入て見給へば、入道腹
巻をき給ふ上は、一門の卿相雲客数十人、お
のおの【各々】色々の直垂に思ひ思ひの鎧きて、中門の
廊に二行に着座せられたり。其外諸国の受
領・衛府・諸司などは、縁に居こぼれ、庭にもひしと
なみ居たり。旗ざほ共ひきそばめひきそばめ、馬の腹帯
P02079
をかため、甲の緒をしめ、只今皆う【打つ】たた【立た】んずるけし
きども【気色共】なるに、小松殿烏帽子直衣に、大文の指
貫そばとて、ざやめき入給へば、事の外にぞみえ【見え】
られける。入道ふし目【伏目】になて、あはれ、例の内府が
世をへうする様にふるまう【振舞ふ】、大に諫ばやとこそおも
は【思は】れけめども、さすが子ながらも、内には五戒をたもて
慈悲を先とし、外には五常をみだらず、礼義をただ
しうし給ふ人なれば、あのすがたに腹巻をきて向
はむ事、おもばゆう【面映う】はづかしうやおもは【思は】れけむ、障子
P02080
をすこし【少し】引たてて、素絹の衣を腹巻の上にあは
てぎ【慌着】にき【着】給ひたりけるが、むないたの金物のす
こし【少し】はづれて見えけるを、かくさ【隠さ】うど、頻に衣の
むねを引ちがへ引ちがへぞし給ひける。おとどは舎弟
宗盛卿の座上につき給ふ。入道もの給ひいだす【出だす】
旨もなし。おとども申いださ【出ださ】るる事もなし。良あて入
道の給ひけるは、「成親卿が謀反は事の数にもあら
ず。一向法皇の御結構にてあり【有り】けるぞや。世をし
づめん程、法皇を鳥羽の北殿へうつし奉るか、しから【然ら】
P02081
ずは是へまれ御幸をなしまいらせ【参らせ】んと思ふはいかに」と
の給へ【宣へ】ば、おとどきき【聞き】もあへずはらはらとぞなかれ
ける。入道「いかにいかに」とあきれ給ふ。おとど涙をおさへ【抑へ】
て申されけるは、「此仰承候に、御運ははや末になり【成り】ぬ
と覚候。人の運命の傾かんとては、必悪事をお
もひ【思ひ】たち【立ち】候也。又御ありさま、更うつつ共おぼえ【覚え】候は
ず。さすが我朝は辺地[B 「地」に「里イ」と傍書]粟散の境と申ながら、天
照大神の御子孫、国のあるじとして、天の児屋根
の尊の御すゑ【末】、朝の政をつかさどり給ひしより
P02082
このかた【以来】、太政大臣の官に至る人の甲冑をよろ
ふ事、礼義を背にあらずや。就中御出家の御
身なり。夫三世の諸仏、解脱幢相の法衣をぬ
ぎ捨て、忽に甲冑をよろひ、弓箭を帯し
ましまさむ事、内には既破戒無慙の罪をまね
くのみならず、外には又仁義礼智信の法にもそ
むき候なんず。かたがた【旁々】恐ある申事にて候へ共、心
の底に旨趣を残すべきにあらず。まづ世に四
恩候。天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩
P02083
是也。其なか【中】に尤重きは朝恩也。普天のした【下】、王地
にあらずと云事なし。されば彼潁川の水に耳を
洗ひ、首陽山に薇をお【折つ】し賢人も、勅命そむき
がたき礼義をば存知すとこそ承はれ。何况哉先
祖にもいまだきか【聞か】ざし太政大臣をきはめさせ給ふ。
いはゆる重盛が無才愚闇の身をもて、蓮府槐
門の位にいたる【至る】。しかのみならず、国郡半は過て一門の
所領となり、田園悉一家の進止たり。これ希代[M 「き代」とあり「き」をミセケチ「希」と傍書]の
朝恩にあらずや。今これらの莫太の御恩を[B 思召]忘て、
P02084
みだりがはしく法皇を傾け奉らせ給はん事、天照
大神・正八幡宮の神慮にも背候なんず。日本は是
神国なり。神は非礼を享給はず。しかれば君のおぼ
しめし【思し召し】立ところ【所】、道理なかばなきにあらず。なか【中】に
も此一門は、[B 代々ノ]朝敵を平げて四海の逆浪をし
づむる事は無双の忠なれども、其賞に誇る
事は傍若無人共申つべし。聖徳太子十七ケ条
の御憲法に、「人皆心あり【有り】。心おのおの【各々】執あり【有り】。彼を是
し我を非し、我を是し彼を非す、是非の理誰
P02085
かよくさだむ【定む】べき。相共に賢愚也。環のごとく【如く】して端
なし。ここをもて設人いかる【怒る】と云共、かへて【却つて】我とがを
おそれよ【恐れよ】」とこそみえ【見え】て候へ。しかれ共、御運つきぬ
によて、[B 御]謀反既あらはれ【現はれ】ぬ。其上仰合らるる成親
卿めし【召し】をか【置か】れぬる上は、設君いかなる不思議をおぼ
しめし【思し召し】たたせ給ふ共、なんのおそれ【恐れ】か候べき。所当
の罪科おこなはれん上は、退いて事の由を陳じ
申させ給ひて、君の御ためには弥奉公の忠勤
をつくし、民のためにはますます撫育の哀憐
P02086
をいたさせ給はば、神明の加護にあづかり【預り】、仏陀の
冥慮にそむくべからず。神明仏陀感応あらば、君も
おぼしめしなをす事、などか候はざるべき。君と臣
とならぶるに親疎わく【分く】かたなし。道理と僻事をな
  『烽火之沙汰』S0207
らべんに、争か道理につかざるべき」。○「是は君の御こと
はり【理】にて候へば、かなは【叶は】ざらむまでも、院の御所法住
寺殿を守護しまいらせ【参らせ】候べし。其故は、重盛叙爵
より今大臣の大将にいたるまで、併君の御恩なら
ずと[B 云]事なし。其恩の重き事をおもへ【思へ】ば、千顆万顆
P02087
の玉にもこえ、其恩の深き事[M 「事」をミセケチ「色イ」と傍書]を案ずれば、一
入再入の紅にも[B 猶]過たらん。しかれば、院中にま
いり【参り】こもり候べし。其儀にて候はば、重盛が身にか
はり、命にかはらんと契たる侍共少々候らん。こ
れらをめし【召し】ぐし【具し】て、院御所法住寺殿を守護
しまいらせ【参らせ】候はば、さすが以外の御大事でこそ候はん
ずらめ。悲哉、君の御ために奉公の忠をいたさん
とすれば、迷慮【*迷盧】八万の頂より猶たかき父の
恩、忽にわすれんとす。痛哉、不孝の罪をの
P02088
がれ【逃れ】んとおもへ【思へ】ば、君の御ために既不忠の逆臣と
なりぬべし。進退惟谷れり、是非いかにも弁
がたし。申うくるところ〔の〕詮は、ただ重盛が頸をめされ
候へ。[B さ候はば、]院中をも守護しまいらす【参らす】べからず、院参の
御供をも仕るべからず。かの蕭何は大功かたへにこ
えたるによて、官大相国に至り、剣を帯し沓を
はきながら殿上[* 「殿」に清点、「上」に濁点あり。]にのぼる事をゆるさ【許さ】れしか共、
叡慮にそむく事あれば、高祖おもう【重う】警てふ
かう【深う】罪せられにき。か様【斯様】の先蹤をおもふにも、富
P02089
貴といひ栄花といひ、朝恩といひ重職といひ、
旁きはめさせ給ひぬれば、御運のつきんこ
ともかたかるべきにあらず。富貴の家には
禄位重畳せり、ふたたび実なる木は其根必い
たむとみえ【見え】て候。心ぼそうこそおぼえ候へ。いつま
でか命いきて、みだれむ世をも見候べき。只末代
に生をうけて、かかるうき目にあひ候重盛が果
報の程こそ拙う候へ。ただ今侍一人に仰付て、御坪
のうちに引出されて、重盛が首のはねられん事
P02090
は、安い程の事でこそ候へ。是をおのおの聞給へ」とて、直
衣の袖もしぼる[B 「しぼり」とあり「り」に「る」と傍書]ばかりに涙をながしかきくどかれけ
れば、一門の人々、心あるも心なきも、皆[B よろひ【鎧】の]袖をぞぬ
らされける。太政入道も、たのみ【頼み】きたる内府はかや
うにの給ふ、力もなげにて、「いやいや、これまでは思も
よりさうず。悪党共が申事につかせ給ひて、
僻事などやいでこむずらんと思ふばかりでこそ
候へ」との給へ【宣へ】ば、[B 大臣、]「縦いかなるひが事【僻事】出き候とも、君をば
何とかしまいらせ【参らせ】給ふべき」とて、ついたて中門に
P02091
出て、侍共に仰られけるは、「只今重盛が申つる事共を
ば、汝等承はらずや。今朝よりこれに候うて、かやうの
事共申しづめむと存じつれ共、あまりにひたさ
はぎ【騒ぎ】に見えつる間、帰りたりつるなり。院参の
御供にをいては、重盛が頸のめさ【召さ】れむを見て仕
れ。さらば人まいれ【参れ】」とて、小松殿へぞ帰られける。主
馬判官盛国をめし【召し】て、「重盛こそ天下の大事
を別して聞出したれ。「我を我とおもは【思は】ん者共
は、皆物ぐ【具】して馳まいれ【参れ】」と披露せよ」との給へ【宣へ】ば、
P02092
此由ひろう【披露】す。おぼろけにてはさはが【騒が】せ給はぬ人の、
かかる披露のあるは別の子細のあるにこそとて、
皆物具して我も我もと馳まいる【参る】。淀・はづかし[B 「はづかし」に「羽束瀬」と傍書]【羽束師】・宇治・
岡の屋、日野・勧条寺【*勧修寺】・醍醐・小黒栖、梅津・桂・大
原・しづ原、せれう【芹生】の里に、あぶれゐたる兵共、或
よろい【鎧】きていまだ甲をきぬもあり【有り】、或は矢お
うていまだ弓をもたぬもあり【有り】。片鐙ふむやふ
まずにて、あはて【慌て】さはい【騒い】で馳まいる【参る】。小松殿に
さはぐ【騒ぐ】事あり【有り】と聞えしかば、西八条に数千騎あり【有り】
P02093
ける兵共、入道にかうとも申も入ず、ざざめき[M 「ざざめてき」とあり「て」をミセケチ]つ
れて、皆小松殿へぞ馳たりける。すこし【少し】も弓箭
に携る程の者、一人も残らず。其時入道大に
驚き、貞能をめし【召し】て、「内府は何とおもひ【思ひ】て、これ
らをばよび【呼び】とるやらん。是でいひつる様に、入道が
許へ討手などやむかへ【向へ】んずらん」との給へ【宣へ】ば、貞能
涙をはらはらとながい【流い】て、「人も人にこそよらせ給ひ
候へ。争かさる御事候べき。[B 今朝是にて]申させ給ひつる事
共も、みな御後悔ぞ候らん」と申ければ、入道内府
P02094
に中たがふ【違う】てはあしかり【悪しかり】なんとやおもは【思は】れけん、法
皇むかへ【向へ】まいらせ【参らせ】んずる事も、はや思とどまり、腹
巻ぬぎをき、素絹の衣にけさ【袈裟】うちかけて、い
と心にもおこらぬ念珠してこそおはしけれ。小松
殿には、盛国承て着到つけけり。馳参たる勢ど
も、一万余騎とぞしるいたる。着到披見の後、
おとど中門に出て、侍共にの給ひけるは、「日来の
契約をたがへ【違へ】ず、まいり【参り】たるこそ神妙なれ。異
国にさるためし【例】あり【有り】。周幽王、褒■[女+以]と云最愛の
P02095
后をもち給へり。天下第一の美人也。されども幽
王の心にかなは【叶は】ざりける事は、褒■[女+以]咲をふくまず
とて、すべて此后わらう【笑ふ】事をし給はず。異国の習に
は、天下に兵革おこる時、所々に火をあげ、大鼓をう
て兵をめすはかり事あり【有り】。是を烽火と名づけ
たり。或時天下に兵乱おこて、烽火をあげたり
ければ、后これを見給ひて、「あなふしぎ【不思議】、火もあれ
程おほかり【多かり】けるな」とて、其時初てわらひ【笑ひ】給へり。
この后一たびゑめば百の媚あり【有り】けり。幽王うれし
P02096
き事にして、其事となうつねに烽火をあげ
給ふ。諸こう【侯】来るにあた【仇】なし。あた【仇】なければ則さん【去ん】
ぬ。かやうにする事度々に及べば、まいる【参る】者もなかり
けり。或時隣国より凶賊おこて、幽王の都をせ
め【攻め】けるに、烽火をあぐれども、例の后の火になら
て兵もまいら【参ら】ず。其時都かたむいて、幽王終に亡
にき。さてこの后は野干となてはしり【走り】うせける
ぞおそろしき【恐ろしき】。か様【斯様】の事がある時わ、自今以後も
これよりめさんには、かくのごとくまいる【参る】べし。重盛
P02097
不思議の事を聞出してめし【召し】つるなり。されども
其事聞なをし【直し】つ。僻事にてあり【有り】けり。とうとう帰
れ」とて皆帰されけり。実にはさせる事をも聞
出されざりけれども、父をいさめ申されつる詞
にしたがひ【従ひ】、我身に勢のつくかつかぬかの程をも
しり、又父子軍[M 「戦」をミセケチ「軍」と傍書]をせんとにはあらね共、かうして入道
相国の謀反の心をもや、やはらげ給ふとの策也。
君君たらずと云とも、臣もて臣たらずばある【有る】べからず。
父父たらずと云共、子もて子たらずば有べからず。君
P02098
のためには忠あて、父のためには孝あり【有り】[B と]、文宣王の
の給ひけるにたがは【違は】ず。君も此よしきこしめし【聞し召し】て、
「今にはじめぬ事なれ共、内府が心のうちこそは
づかしけれ。怨をば恩をもて報ぜられたり」とぞ
仰ける。「果報こそめでたうて、大臣の大将にいた
ら【至ら】め、容儀体はい人に勝れ、才智才学さへ世に
こえたるべしやは」とぞ、時の人々感じあはれける。
「国に諫る臣あれば其国必やすく、家に諫る
子あれば其家必ただし」といへり。上古にも末代
P02099
  『大納言流罪』S0208
にもありがたかりし大臣也。○同六月二日[B ノヒ]、新大納言
成親卿をば公卿の座へ出し奉り、御物まいらせ【参らせ】たり
けれども、むねせきふさがて御はしをだにもたて
られず。御車をよせて、とうとうと申せば、心なら
ずのり給ふ。軍兵共前後左右にうちかこみた
り。我方の者は一人もなし。「今一度小松殿に見
え奉らばや」との給へ【宣へ】ども【共】、それもかなは【叶は】ず。「縦重
科を蒙て遠国へゆく者も、人一人身にそへぬ
者やある」と、車のうちにてかきくどか【口説か】れければ、
P02100
守護の武士共も皆鎧の袖をぞぬらしける。西
の朱雀を南へゆけば、大内山も今はよそにぞ
見給ける。としごろ【年比】見なれ奉[B り]し雑色牛飼
に至るまで、涙をながし袖をしぼらぬはなかりけ
り。まして都に残とどまり給ふ北方、おさな
き【幼き】人々の心のうち、おしはから【推し量ら】れて哀也。鳥
羽殿をすぎ給ふにも、此御所へ御幸なりし
には、一度も御供にははづれざりし物をとて
わが山庄すはま【州浜】殿とてあり【有り】しをも、よそに
P02101
みてこそとおら【通ら】れけれ。[B 肩に「鳥羽のイ」と傍書]南の門に出て、舟をそ
し【遅し】とぞいそがせける。「こはいづちへやらん。おな
じううしなは【失は】るべくは、都ちかき【近き】此辺にてもあれ
かし」との給ひけるぞせめての事なる。ちかう
そひたる武士を「た【誰】そ」ととひ給へば、「難波次
郎経遠」と申。「若此辺に我方さまのものや
ある。舟にのらぬ先にいひをく【置く】べき事あり【有り】。
尋てまいらせよ【参らせよ】」との給ひければ、其辺をはしり【走り】
まはて尋けれども【共】、我こそ大納言殿の方と云
P02102
者一人もなし。「我世なりし時は、したがひ【従ひ】ついたりし
者ども【共】、一二千人もあり【有り】つらん。いまはよそにて
だにも、此有さまを見をくる【送る】者のなかりける
かなしさよ」とてなか【泣か】れければ、たけき【猛き】もののふ
共もみな袖をぞぬらしける。身にそふ物とては、
ただつきせぬ涙ばかり也。熊野まうで、天王寺
詣などには、ふたつがはら【二龍骨】の、三棟につくたる舟に
のり、次の舟二三十艘漕つづけてこそあり【有り】し
に、今はけしかる[B 「けしかり」とあり「り」に「る」と傍書]かきすゑ【舁き据え】屋形舟に大幕ひ
P02103
かせ、見もなれぬ兵共にぐせ【具せ】られて、けふをかぎ
りに都を出て、浪路はるかにおもむか【赴か】れけん
心のうち、おしはから【推し量ら】れて哀也。其日は摂津国
大もつ【大物】の浦に着給ふ。新大納言、既死罪
に行はるべかりし人の、流罪に宥られけるこ
とは、小松殿のやうやうに申されけるによて也。
此人いまだ中納言にておはしける時、美濃国
を知行し給ひしに、嘉応元年の冬、目代
右衛門尉正友がもとへ、山門の領、平野庄
P02104
の神人が葛を売てきたりけるに、目代酒に
飲酔て、くずに墨をぞ付たりける。神人悪
口に及ぶ間、さないは【言は】せそとてさむざむ【散々】にれう
りやく【陵轢、陵礫】す。さる程に神人共数百人、目代が許
へ乱入す。目代法にまかせ【任せ】て防ければ、神人等
十余人うちころさ【殺さ】る[M 「うちころされ」とあり「れ」をミセケチ「る」と傍書]。是によて同年の十一
月三日、山門の大衆飫しう蜂起して、国司成
親卿を流罪に処せられ、目代右衛門尉正友
を禁獄せらるべき由奏聞す。既成親卿
P02105
備中国へながさるべきにて、西の七条までいださ
れたりしを、君いかがおぼしめさ【思し召さ】れけん、中五日
あてめし【召し】かへさ【返さ】る。山門の大衆飫しう呪咀すと
聞えしか共、同二年正月五日、右衛門督を兼じ
て、検非違使の別当になり給ふ。其時資方【*資賢】・
兼雅卿こえられ給へり。資方【*資賢】卿はふるい【古い】人、おとな
にておはしき。兼雅卿は栄花の人也。家嫡にて
こえられ給ひけるこそ遺恨なれ。是は三条殿
造進の賞也。同三年四月十三日、正二位に叙せ
P02106
らる。其時は中御門[B ノ]中納言宗家卿こえられ給
へり。安元元年十月廿七日、前中納言より権大
納言にあがり【上がり】給ふ。人あざけ[B ッ]て、「山門の大衆に
は、のろはるべかりける物を」とぞ申ける。され
ども今はそのゆへ【故】にや、かかるうき目にあひ給
へり。凡は神明の罰も人の呪咀も、とき【疾き】も
あり【有り】遅もあり【有り】、不同なる事共也。同三日、大もつ【大物】
の浦へ京より御使あり【有り】とてひしめきけり。新
大納言「是にて失へとにや」と聞給へば、さはな
P02107
くして、備前の児島へながすべしとの御使なり。
小松殿より御ふみ【文】あり【有り】。「いかにもして、都ちかき【近き】
片山里にをき奉らばやと、さしも申つれど
もかなは【叶は】ぬ事こそ、世にあるかひも候はね。さ
りながらも、御命ばかりは申うけて候」とて、難波
がもとへも「かまへてよくよく宮仕へ御心にたが
う【違ふ】な」と仰られつかはし【遣し】、旅のよそほい【粧】こまごま
と沙汰しをくら【送ら】れたり。新大納言はさしも
忝うおぼしめさ【思し召さ】れける君にもはなれま
P02108
いらせ【参らせ】、つかのまもさりがたうおもは【思は】れける北方
おさなき【幼き】人々にも別はてて、「こはいづちへとて行
やらん。二度こきやう【故郷】に帰て、さいし[M 「さひし」とあり「さひ」をミセケチ「さい」と傍書]【妻子】を相みん事
も有がたし。一とせ山門の訴詔【*訴訟】によてながさ
れしを、君おしま【惜しま】せ給ひて、西の七条よりめし【召し】
帰されぬ。これはされば君の御警にもあらず。
こはいかにしつる事ぞや」と、天にあふぎ地に
ふして、泣かなしめ共かひぞなき。明ぬれば既
舟おしいだいて下り給ふに、みちすがらもただ
P02109
涙に咽で、ながらふ【永らふ】べしとはおぼえねど、さすが
露の命はきえやらず、跡のしら浪【白浪】へだつれ
ば、都は次第に遠ざかり、日数やうやう重れば、
遠国は既近付けり。備前の児島に漕よせて、
民の家のあさましげなる柴の庵にをき
奉る。島のならひ【習ひ】、うしろは山、前はうみ、磯の
  『阿古屋之松』S0209
松風浪の音、いづれも哀はつきせず。○大納言
一人にもかぎらず、警を蒙る輩おほかり【多かり】けり。
近江中将入道蓮浄佐渡国、山城守基兼伯
P02110
耆国、式部大輔正綱播磨国、宗判官信房、阿
波国、新平判官資行は美作国とぞ聞えし。其
比入道相国、福原の別業におはしけるが、同廿日[B ノヒ]、摂
津左衛門盛澄を使者で、門脇の宰相の許へ、「存
る旨あり【有り】。丹波少将いそぎ是へたべ」との給ひつ
かはさ【遣さ】れたりければ、宰相「さらば、只あり【有り】し時、とも
かくもなりたりせばいかがせむ。今更物をお
もは【思は】せんこそかなしけれ」とて、福原へ下り給ふ
べきよし【由】の給へ【宣へ】ば、少将なくなく【泣く泣く】出[B 立]給ひけり。
P02111
女房達は、「かなは【叶は】ぬ物ゆへ【故】、なを【猶】もただ宰相の申
されよかし」とぞ歎れける。宰相「存る程の
事は申つ。世を捨るより外は、今は何事をか
申べき。され共、縦いづくの浦におはす共、我命
のあらんかぎりはとぶらひ【訪ひ】奉るべし」とぞの
給ひける。少将は今年三になり給ふおさな
き【幼き】人を持給へり。日ごろはわかき人にて、君達
などの事も、さしもこまやかにもおはせざりし
か共、今はの時になりしかば、さすが心にやかか
P02112
られけん、「此おさなき【幼き】者を今一度見ばや」と
こその給ひけれ。めのと【乳母】いだい【抱い】てまいり【参り】たり。少
将ひざのうへにをき、かみかきなで、涙をはら
はらとながい【流い】て、「あはれ、汝七歳にならば男にな
して、君へまいらせ【参らせ】んとこそおもひ【思ひ】つれ。され
共、今は云かひなし。若命いきておひたちた
らば、法師になり、我後の世とぶらへよ」との給
へ【宣へ】ば、いまだいとけなき心に何事をか聞わ
き給ふべきなれ共、うちうなづき給へば、少
P02113
将をはじめ奉て、母うへ【母上】めのとの女房、其座に
なみゐたる人々、心あるも心なきも、皆袖をぞ
ぬらしける。福原の御使、やがて今夜鳥羽まで出
させ給ふべきよし申ければ、「幾程ものびざら
む物ゆへ【故】に、こよひばかりは都のうちにてあかさ
ばや」との給へ【宣へ】共、頻に申せば、其夜鳥羽へ出ら
れける。宰相あまりにうらめしさ【恨めしさ】に、今度はのり
も具し給はず。おなじき廿二日、福原へ下りつ
き給ひたりければ、太政入道、瀬尾太郎兼
P02114
康に仰て、備中国へぞ下されける。兼康は宰
相のかへり聞給はん所をおそれ【恐れ】て、道すがらも
やうやうにいたはりなぐさめ奉る。され共少将なぐ
さみ給ふ事もなし。よる昼【夜昼】ただ仏の御名を
のみ唱て、父の事をぞ歎れける。新大納言
は備前の児島におはしけるを、あづかり【預り】の武士
難波次郎経遠「これは猶舟津近うてあしかり【悪しかり】
なん」とて地へわたし奉り、備前・備中両国の
堺、にはせ[B 「は」に「ワ」と傍書]【庭瀬】の郷有木の別所と云山寺にをき
P02115
奉る。備中の瀬尾と備前の有木の別所の
間は、纔五十町にたらぬ所なれば、丹波少将、そなた
の風もさすがなつかしう【懐しう】やおもは【思は】れけむ。或時
兼康をめし【召し】て、「是より大納言殿の御渡あんな
る備前の有木の別所へは、いか程の道ぞ」とと
ひ給へば、すぐにしらせ奉てはあしかり【悪しかり】なんとや
おもひ【思ひ】けむ、「かたみち十二三日で候」と申。其時少
将涙をはらはらとながい【流い】て、「日本は昔三十三ケ
国にてあり【有り】けるを、中比六十六ケ国に分られ
P02116
たんなり。さ云備前・備中・備後も、もとは一国に
てあり【有り】ける也。又あづまに聞ゆる出羽・陸奥両
国も、昔は六十六郡が一国にてあり【有り】けるを、其時
十二郡をさきわかて、出羽国とはたてられたり。
されば実方中将、奥州へながされたりける時、
此国の名所にあこ屋【阿古屋】の松と云所を見ばやとて、
国のうちを尋ありき【歩き】けるが、尋かねて帰りける
道に、老翁の一人逢たりければ、「やや、御辺は
ふるい【古い】人とこそ見奉れ。当国の名所にあこ
P02117
や【阿古屋】の松と云所やしりたる」ととふに、「またく当国
のうちには候はず。出羽国にや候らん」。「さては
御辺しらざりけり。世はすゑになて、名所をも
はやよびうしなひ【失ひ】たるにこそ」とて、むなしく
過んとしければ、老翁、中将の袖をひかへ
て、「あはれ君はみちのくのあこ屋【阿古屋】の松に木
がくれていづべき月のいでもやらぬか W008といふ
歌の心をもて、当国の名所あこや【阿古屋】の松とは
仰られ候か、それは両国が一国なりし時読侍る
P02118
歌也。十二郡をさきわかて後は、出羽国にや候らん」
と申ければ、さらばとて、実方中将も出羽国に
こえてこそ、あこ屋【阿古屋】の松をば見たりけれ。筑
紫の太宰府より都へ■[魚+宣]の使ののぼるこ
そ、かた路十五日とはさだめたれ。既十二三日と云は、
これより殆鎮西へ下向ごさむなれ。遠しと云
とも、備前・備中の間、両三日にはよも過じ。近きを
とをう【遠う】申すは、大納言殿の御渡あんなる所を、成
経にしらせじとてこそ申らめ」とて、其後は恋
P02119
  『大納言死去』S0210
しけれ共とひ給はず。○さる程に、法勝寺の執
行俊寛僧都、平判官康頼、この少将相ぐし
て、三人薩摩潟鬼界が島へぞながされける。
彼島は、都を出てはるばると浪路をしのいで行
所也。おぼろけにては舟もかよはず。島にも人
まれなり。をのづから人はあれども、此土の人に
も似ず。色黒うして牛の如し。身には頻に毛
おひつつ、云詞も聞しら【知ら】ず。男は鳥帽子もせず、
女は髪もさげざりけり。衣裳なければ人にも
P02120
似ず。食する物もなければ、只殺生をのみ先と
す。しづが山田を返さねば、米穀のるいもなく、
園の桑をとらざれば、絹帛のたぐひもなかり
けり。島のなかにはたかき山あり【有り】。鎮に火もゆ。
硫黄[B 「ユ」に「イ」と傍書]と云物みちみてり。かるがゆへに硫黄が
島とも名付たり。いかづちつねになりあがり【上がり】、なり
くだり、麓には雨しげし。一日片時、人の命たえ【堪へ】
てあるべき様もなし。さる程に、新大納言はすこ
し【少し】くつろぐ【寛ぐ】事もやとおもは【思は】れけるに、子息
P02121
丹波少将成経も、はや鬼界が島へながされ給
ひぬときい【聞い】て、今はさのみつれなく何事をか
期すべきとて、出家の志の候よし、便に付て
小松殿へ申されければ、此由法皇へ伺申て
御免あり【有り】けり。やがて出家し給ひぬ。栄花
の袂を引かへて、浮世をよそに[M 「よその」とあり「の」をミセケチ「に」と傍書]すみぞめ
の袖にぞやつれ給ふ。大納言の北方は、都の
北山雲林院の辺にしのび【忍び】てぞおはしける。
さらぬだに住なれぬ所は物うきに、いとどしの
P02122
ば【忍ば】れければ、過行月日もあかしかね、くらしわづ
らふさまなりけり。女房侍おほかり【多かり】けれども、
或世をおそれ【恐れ】、或人目をつつむほど【程】に、とひと
ぶらふ者一人もなし。され共其中に、源左衛
門尉信俊と云侍一人、情ことにふかかり【深かり】ければ、
つねはとぶらひ【訪ひ】奉る。或時北方、信俊をめ
し【召し】て、「まことや、これには備前のこじまにと聞
えしが、此程きけば有木の別所とかやにおは
す也。いかにもして今一度、はかなき筆のあと【跡】
P02123
をも奉り、御をとづれをもきかばや」とこその
給ひけれ。信俊涙をおさへ【抑へ】申けるは、「幼少より
御憐を蒙て、かた時もはなれまいらせ【参らせ】候はず。
御下りの時も、何共して御供仕うど申候しか
共、六波羅よりゆるさ【許さ】れねば力及候はず。めされ
候[*「候」は「か」とも読める 「候」と傍書]し御声も耳にとどまり、諫られまいらせ【参らせ】し御
詞も肝に銘じて、かた時も忘まいらせ【参らせ】候はず。縦
此身はいかなる目にもあひ候へ、とうとう御ふみ【文】給
はてまいり【参り】候はん」とぞ申ける。北方なのめなら
P02124
ず悦で、やがてかい【書い】てぞたうだりける。おさなき【幼き】
人々も面々に御ふみ【文】あり【有り】。信俊これを給はて、
はるばると備前国有木の別所へ尋下る。[B 先]あ
づかり【預り】の武士難波次郎経遠に案内をいひけ
れば、心ざしの程を感じて、やがて見参にいれ【入れ】
たりけり。大納言入道殿は、只今も都の事
をの給ひ[B い]だし【出し】、歎きしづんでおはしける処に、
「京より信俊がまい【参つ】て候」と申入たりければ、「ゆ
めかや」とて、ききもあへずおきなをり、「是へ
P02125
是へ」とめされければ、信俊まい【参つ】て見奉るに、
まづ御すまひ【住ひ】の心うさもさる事にて、墨染
の御袂を見奉るにぞ、信俊目もくれ心もき
えて覚ける。北方の仰かうむ【蒙つ】し次第、こまごま
と申て、御ふみ【文】とりいだいて奉る。是をあけて
見給へば、水ぐきの跡は涙にかきくれて、そ
こはかとはみえ【見え】ねども、「おさなき【幼き】人々のあまり
に恋かなしみ給ふありさま、我身もつき
せぬもの思にたへ【堪へ】しのぶ【忍ぶ】べうもなし」などかか
P02126
れたれば、日来の恋しさは事の数ならずと
ぞかなしみ給ふ。かくて四五日過ければ、信俊
「これに候て、[B 御]最後の御有さま【有様】見まいらせ【参らせ】ん」と
申ければ、あづかり【預り】の武士難波次郎経遠、か
なう【叶ふ】まじきよし【由】頻に申せば、力及ばで、「さらば
上れ」とこその給ひけれ。「我は近ううしなは【失は】れん
ずらむ。此世になき者ときかば、相構て我後世
とぶらへ」とぞの給ひける。御返事かいてたう
だりければ、信俊これを給て、「又こそ参り候
P02127
はめ」とて、いとま申て出ければ、[B 大納言、]「汝が又こ【来】んたびを
待つくべしともおぼえぬぞ。あまりにしたはし
くおぼゆる【覚ゆる】に、しばししばし」との給ひて、たびたび
よびぞかへさ【返さ】れける。さてもあるべきならねば、
信俊涙をおさへ【抑へ】つつ、都へ帰のぼり【上り】けり。北
方に御ふみ【文】まいらせ【参らせ】たりければ、是をあけて
御覧ずるに、はや出家し給ひたるとおぼしく
て、御ぐし【髪】の一ふさ、ふみのおくにあり【有り】けるを、
ふた目とも見給はず。かたみこそ中々今は
P02128
あたなれとて、ふしまろびてぞなか【泣か】れける。お
さなき【幼き】人々も、声々になきかなしみ給ひけり。
さる程に、大納言入道殿をば、同八月十九日、
備前・備中両国の堺、にはせ[B 「は」に「ワ」と傍書]【庭瀬】の郷吉備の
中山と云所にて、つゐに【遂に】うしなひ【失ひ】奉る。其さひ
ご【最後】の有様、やうやうに聞えけり。酒に毒を入て
すすめたりけれ共、かなは【叶は】ざりければ、岸の二
丈ばかりあり【有り】ける下にひしをうへ【植ゑ】て、うへより
つきおとし【落し】奉れば、ひしにつらぬ【貫ぬ】かてうせ給ひ
P02129
ぬ。無下にうたてき事共也。ためし【例】すくなうぞおぼ
えける。大納言[B の]北方は、此世になき人と聞たま
ひて、「いかにもして今一度、かはらぬすがたを見も
し、見えんとてこそ、けふまでさまをもかへざり
つれ。今は何にかはせん」とて、菩提院と云寺に
おはし、さまをかへ、かたのごとく[B の]仏事をいとなみ、
後世をぞとぶらひ【弔ひ】給ひける。此北方と申は、
山城守敦方の娘なり。勝たる美人にて、後白河
法皇の御最愛ならびなき御おもひ【思ひ】人にてお
P02130
はしけるを、成親卿ありがたき寵愛の人にて、給
はられたりけるとぞ聞えし。おさなき【幼き】人々も
花を手折、閼伽の水を結んで、父の後世を
とぶらひ【弔ひ】給ふぞ哀なる。さる程に[B 「さる程」に「かくて」と傍書]時うつり
事さて、世のかはりゆくありさまは、ただ天人の五
  『徳大寺之沙汰』S0211
衰にことならず。○ここに徳大寺の大納言実
定卿は、平家の次男宗盛卿に大将をこえられ
て、しばらく寵居し給へり。出家せんとの給へ【宣へ】ば、
諸大夫侍共[M 「諸大夫侍共」をミセケチ、左に「御内の上下」と傍書]、いかがせんと歎あへり。其中に藤蔵
P02131
人[B 大夫]重兼と云諸大夫あり【有り】。諸事に心えたる者[M 「人」をミセケチ「者」と傍書]にて[B 有けるが]、
ある月の夜、実定卿南面の御格子あげさせ、
只ひとり月に嘯ておはしける処に、なぐさめ
まいらせ【参らせ】んとやおもひ【思ひ】けん、藤蔵人まいり【参り】
たり。「たそ」[B とのたまへ【宣へ】ば、]「重兼候」。「いかに何事ぞ」との給へ【宣へ】ば、
「今夜は殊に月さえ【冴え】て、よろづ心のすみ候まま
にまい【参つ】て候」とぞ申ける。大納言「神妙にま
い【参つ】たり。余に何とやらん心ぼそうて徒然なる
に」とぞ仰られける。其後何となひ【無い】事共申て
P02132
なぐさめ奉る。大納言の給ひけるは、「倩此世の
中のありさまを見るに、平家の世はいよいよ
さかん【盛】なり。入道相国の嫡子次男、左右の大将
にてあり【有り】。やがて三男知盛、嫡孫維盛もある【有る】ぞ
かし。かれも是も次第にならば、他家の人々、大将
に[M 「を」をミセケチ「に」と傍書]いつあたりつくべし共おぼえ【覚え】ず。さればつゐ
の事也。出家せん」とぞの給ひける。重兼涙
をはらはらとながひ【流い】て申けるは、「君の御出家候
なば、御内の上下皆まどひ者になり[B 候ひ]なんず。
P02133
重兼めづらしい事をこそ案じ出して候へ。喩ば安
芸の厳島をば、平家なのめならずあがめ敬れ
候に、何かはくるしう【苦しう】候べき、彼社へ御まいり【参り】あて、御
祈誓候へかし。七日ばかり御参籠候はば、彼社には
内侍とて、ゆう【優】なる舞姫共おほく【多く】[B 「く」に「う」と傍書]候。めづら
しう思ひまいらせ【参らせ】て、もてなしまいらせ【参らせ】候はん
ずらん。何事の御祈誓に御参籠候やらんと申
候はば、あり【有り】のままに仰候へ。さて御のぼりの時、御
名残おしみ【惜しみ】まいらせ【参らせ】候はんずらん。むねとの内侍共
P02134
をめし【召し】具して、都まで御のぼり候へ。都へのぼり候
なば、西八条へぞ参候はんずらん。徳大寺殿は
何事の御祈誓に厳島へはまいら【参ら】せ給ひたり
けるやらんと尋られ候はば、内侍共あり【有り】のままに
ぞ申候はむずらん。入道相国はことに物めで
し給ふ人にて、わが崇給ふ御神へまい【参つ】て、
祈申されけるこそうれしけれとて、よきやう
なるはからひもあんぬと覚候」と申ければ、
徳大寺殿「これこそおもひ【思ひ】もよらざりつれ。
P02135
ありがたき策かな。やがてまいら【参ら】む」とて、俄に精
進はじめつつ、厳島へぞまいら【参ら】れける。誠に彼
社には内侍とてゆう【優】なる女どもおほかり【多かり】けり。
七日参籠せられけるに、よるひる【夜昼】つきそひ奉
り、もてなす事かぎりなし。七日七夜の間に、舞
楽も三度まであり【有り】けり。琵琶琴ひき、神楽
うたひ【歌ひ】など遊ければ、実定卿も面白事におぼ
しめし【思し召し】、神明法楽のために、いまやう【今様】朗詠うたひ【歌ひ】、
風俗催馬楽など、ありがたき郢曲どもあり【有り】けり。
P02136
内侍共「当社へは平家の公達こそ御まいり【参り】さぶら
ふに、この御まいり【参り】こそめづらしうさぶらへ【候へ】。何事の
御祈誓に御参籠さぶらふ【候ふ】やらん」と申ければ、
「大将を人にこえられたる間、その祈のため也」と
ぞ仰られける。さて七日参籠おはて、大明神に
暇申て都へのぼらせ給ふに、名残ををしみ奉
り、むねとのわかき内侍十余人、舟をしたて【仕立て】て一
日路ををくり【送り】奉る。いとま申けれ共、さりとては
あまりに名ごりのおしき【惜しき】に、今一日路、今二日
P02137
路と仰られて、都までこそ具せられけれ。徳大
寺殿の亭へいれ【入れ】させ給ひて、やうやうにもてなし、
さまざまの御引出物共たうでかへさ【返さ】れけり。内侍
共「これまでのぼる程では、我等がしう【主】の太政入道
殿へ、いかでまいら【参ら】である【有る】べき」とて、西八条へぞ参じ
たる。入道相国いそぎ出あひ給ひて、「いかに内侍共は
何事の列参ぞ」。「徳大寺殿の御まいり【参り】さぶらふて、七
日こもらせ給ひて御のぼりさぶらふ【候ふ】を、一日路をく
り【送り】まいらせ【参らせ】てさぶらへ【候へ】ば、さりとてはあまりに名残の
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おしき【惜しき】に、今一日路二日路と仰られて、是までめし【召し】
ぐせ【具せ】られてさぶらふ【候ふ】」。「徳大寺は何事の祈誓
に厳島まではまいら【参ら】れたりけるやらん」との給
へば、「大将の御祈のためとこそ仰られさぶらひ
しか」。其時入道うちうなづいて、「あないとをし。王
城にさしもたとき霊仏霊社のいくらもまし
ますをさしをいて、我崇奉る御神へまい【参つ】て、
祈申されけるこそ有がたけれ。是ほど心ざし切
ならむ上は」とて、嫡子小松殿内大臣の左大将にて
P02139
ましましけるを辞せさせ奉り、次男宗盛大納
言の右大将にておはしけるをこえさせて、徳大寺
を左大将にぞなされける。あはれ、めでたかりけ
るはかりこと【策】かな。新大納言も、か様【斯様】に賢きはから
ひをばし給はで、よしなき謀反おこいて、我身も
亡、子息所従[*「従」は「徒」とも読める]に至るまで、かかるうき目をみせ【見せ】
  『山門滅亡堂衆合戦』S0212
給ふこそうたてけれ。○さる程に、法皇は三井
寺の公顕僧正を御師範として、真言の秘
法を伝受せさせましましけるが、大日経・金剛
P02140
頂経・蘇悉地経、此三部の秘法[B 「法」に「経」と傍書]をうけさせ給
ひて、九月四日[B ノヒ]三井寺にて御灌頂あるべしと
ぞ聞えける。山門の大衆憤申、「昔より御灌頂
御受戒、みな当山にしてとげさせまします
事先規也。就中に山王の化導は受戒灌
頂のためなり。しかる【然る】を今三井寺にてとげ
させましまさば、寺を一向焼払ふべしとぞ」
申ける。[B 法皇、]「是無益なり」とて、御加行を結願して、
おぼしめし【思し召し】とどまら【留まら】せ給ひぬ。さりながらも猶
P02141
御本意なればとて、三井寺の公顕僧正をめ
し【召し】具して、天王寺へ御幸なて、五智光院を
たて、亀井の水を五瓶の智水として、仏
法最初の霊地にてぞ、伝法灌頂はとげさせ
ましましける。山門の騒動をしづめられんが
ために、三井寺にて御灌頂はなかりしか共、山
上には、堂衆学生不快の事いできて、かつ
せん【合戦】度々に及。毎度に学侶うちおとされて、
山門の滅亡、朝家の御大事とぞ見えし。堂衆
P02142
と申は、学生の所従也ける童部が法師にな
たるや、若は中間法師原にてあり【有り】けるが、[B 一とせ]金剛
寿院の座主覚尋権僧正治山の時より、三
塔に結番して、夏衆と号して、仏に花ま
いらせ【参らせ】し者共也。近年行人とて、大衆をも事
共せざりしが、かく度々の軍[M 「戦」をミセケチ「軍」と傍書]にうちかちぬ。堂衆
等師主の命をそむいて合戦を企。すみやか
に誅罰せらるべきよし、大衆公家に奏聞
し、武家に触うたう【訴ふ】。これによて太政入道院
P02143
宣を承り、紀伊国の住人湯浅権守宗重以
下、畿内の兵二千余騎、大衆にさしそへて堂
衆を攻らる。堂衆日ごろは東陽坊にあり【有り】しが、
近江国三ケ【三箇】の庄に下向して、数多の勢を率
し、又登山して、さう井坂【早尾坂】に城[B 槨]を構[M 「し」をミセケチ「構」と傍書]てたて
ごもる[M 「たてごもり」とあり「り」を非とし「る」と傍書]。同九月廿日[B ノヒ]辰の一点に、大衆三千人、官
軍二千余騎、都合其勢五千余人、さう井坂【早尾坂】
におしよせたり。今度はさり共とおもひ【思ひ】けるに、
大衆は官軍をさきだてんとし、官軍は又大
P02144
衆をさきだて【先立て】んとあらそふ程に、心々にて
はかばかしうもたたかはず。城の内より石弓
はづし【外し】かけたりければ、大衆官軍かずをつく
いてうた【討た】れにけり。堂衆に語らふ悪党と云は、
諸国の窃盜・強盜・山賊・海賊等也。欲心熾盛
にして、死生不知の奴原なれば、我一人と思きて
たたかふ【戦ふ】程に、今度も又学生いくさ【軍】にまけにけ
  『山門滅亡』S0213
り。○其後は山門いよいよ荒はてて、十二禅衆の
ほかは、止住の僧侶も希也。谷々の講演磨滅
P02145
して、堂々の行法も退転す。修学の窓を閉、
坐禅の床をむなしう【空しう】せり。四教五時の春[B ノ]花
もにほはず、三諦即是の秋の月もくもれり。
三百余歳の法燈を挑る人もなく、六時不断の
香の煙もたえ【絶え】やしぬらん。堂舎高くそびへ【聳え】て、
三重の構を青漢の内に挿み、棟梁遥に
秀て、四面の椽を白霧の間にかけたりき。
され共、今は供仏を嶺の嵐にまかせ【任せ】、金容を
紅瀝にうるほす。夜の月灯をかかげて、簷
P02146
のひまよりもり、暁の露珠を垂て、蓮座
の粧をそふとかや。夫末代の俗に至ては、三国の
仏法も次第に衰微せり。遠く天竺に仏跡を
とぶらへば、昔仏の法を説給ひし竹林精舎・給
孤独園も、此比は狐狼野干の栖となて、礎のみ
や残らん。白鷺池には水たえ【絶え】て、草のみふかく
しげれり。退梵下乗の卒都婆も苔のみ
むして傾ぬ。震旦にも天台山・五台山【御台山】・白馬寺・
玉泉寺も、今は住侶なきさまに荒はてて、大小
P02147
乗の法門も箱の底にや朽ぬらん。我朝にも[M 「には」とあり「は」をミセケチ「も」と傍書]、
南都の七大寺荒はてて、八宗九宗も跡たえ【絶え】、
愛宕護・高雄も、昔は堂塔軒をならべたり
しか共、一夜のうちに荒にしかば、天狗の棲と
なりはてぬ。さればにや、さしもやごとなかりつる
天台の仏法も、治承の今に及で、亡はてぬる
にや。心ある人嘆かなしまずと云事なし。離山
しける僧の坊の柱に、歌をぞ一首かい【書い】たりける。
いのりこし我たつ杣のひき【引き】かへて
P02148
人なきみねとなりやはてなむ W009
これは、伝教大師当山草創の昔、阿耨多羅
三藐三菩提[*「藐」は底本は「」]の仏たちにいのり申されける
事をおもひ【思ひ】出て、読たりけるにや。いとやさしう
ぞ聞えし。八日は薬師の日なれ共、南無と唱るこゑ【声】
もせず、卯月は垂跡の月なれ共、幣帛を捧る
人もなし。あけの玉墻かみさびて、しめなは【注連縄】のみや
  『善光寺炎上』S0214
残らん。○其比善光寺炎上の由其聞あり【有り】。彼如
来と申は、昔中天竺舎衛国に五種の悪病
P02149
おこて人庶おほく【多く】亡しに、月蓋長者が致請によ
て、竜宮城より閻浮檀金をえて、釈尊、目蓮
長者、心をひとつ【一つ】にして鋳あらはし給へる一ちや
く手半の弥陀の三尊、閻浮提第一の霊像也。
仏滅度の後、天竺にとどまら【留まら】せ給事五百余歳、
仏法東漸の理にて、百済国にうつらせ給ひて、
一千歳の後、百済の御門斉明王【*聖明王】、吾朝の御門
欽明天皇の御宇に及で、彼国よりこの【此の】国へうつ
らせ給ひて、摂津国難波の浦にして星霜を
P02150
をくら【送ら】せ給ひけり。つねは金色の光をはなたせ
ましましければ、これによて年号を金光と号す。
同三年三月上旬に、信濃国の住人おうみ【麻績】の本
太善光と云者、都へのぼりたりけるが、彼如来に
逢奉りたりけるに、やがていざなひまいらせ【参らせ】て、ひ
るは善光、如来ををい【負ひ】奉り、夜は善光、如来
におはれたてま【奉つ】て、信濃国へ下り、みのち【水内】の郡[* 「都」と有るのを他本により訂正]
に安置したてま【奉つ】しよりこのかた、星霜既に
五百八十余歳、炎上の例はこれはじめとぞ承
P02151
る。「王法つきんとては仏法まづ亡ず」といへり。さ
ればにや、「さしもやごとなかりつる霊寺霊山の
おほく【多く】ほろびうせぬるは、平家[M 「平家」をミセケチ「王法」と傍書]の末になり
  『康頼祝言』S0215
ぬる先表やらん」とぞ申ける。○さるほど【程】に、
鬼界が島の流人共、露の命草葉のす
ゑにかかて、おしむ【惜しむ】べきとにはあらね共、丹波
少将のしうと平宰相の領、肥前国鹿瀬庄
より、衣食を常にをくら【送ら】れければ、それにて
ぞ俊寛僧都も康頼も、命をいきて過しける。
P02152
康頼はながされける時、周防室づみ【室積】にて出家
してげれば、法名は性照とこそついたりけれ。
出家はもとよりの望なりければ、
つゐに【遂に】かくそむきはてける世間を
とく捨ざりしことぞくやしき W010
丹波少将・康頼入道は、もとより熊野信じの
人々なれば、「いかにもして此島のうちに」熊野の
三所権現を勧請し奉て、帰洛の事を祈
申さばやと云に、俊寛僧都は天姓【*天性】不信第一
P02153
の人にて、是をもちい【用】ず。二人はおなじ心に、もし熊
野に似たる所やあると、島のうちを尋まはる
に、或林塘の妙なるあり【有り】、紅錦繍の粧しな
じなに、或雲嶺のあやしきあり【有り】、碧羅綾の色一
にあらず。山のけしき【景色】、木のこだちに至るまで、外
よりもなを【猶】勝たり。南を望めば、海漫々として、
雲の波煙の浪ふかく、北をかへり見れば、又山岳
の峨々たるより、百尺の滝水[M 「レウスイ」とあり「レ」をミセケチ「リ」と傍書]漲落たり。滝の
音ことにすさまじく、松風神さびたるすまひ【住ひ】、
P02154
飛滝権現のおはします那智のお山にさに【似】た
りけり。さてこそやがてそこをば、那智のお山と
は名づけけれ。此峯は本宮、かれは新宮、是は
そんぢやう其王子、彼王子など、王子王子の名を
申て、康頼入道先達にて、丹波少将相ぐしつ
つ、日ごとに熊野まうでのまねをして、帰洛の
事をぞ祈ける。「南無権現金剛童子、ねが
は【願は】くは憐みをたれさせおはしまして、古郷へ
かへし入させ給ひて[M 「給へ」とあり「へ」をミセケチ「ひて」と傍書]妻子[M 共]をも今一度みせ【見せ】給
P02155
へ」とぞ祈ける。日数つもり【積り】てたちかふ【裁替】べき浄
衣もなければ、麻の衣を身にまとひ、沢
辺の水をこりにかいては、岩田河のきよき
流とおもひ【思ひ】やり、高き所にのぼ【上つ】[B 「のほ」に「上」と傍書]ては、発心
門とぞ観じける。まいる【参る】たびごとには、康頼
入道のと【祝言】を申に、御幣紙もなかれ【*なけれ】ば、花を
手折てささげつつ、
維あたれる歳次、治承元年丁酉、月のなら
び十月二月、日の数三百五十余ケ日、吉日良
P02156
辰を択で、かけまくも忝く、日本第一大領験、熊
野三所権現、飛滝大薩■の教りやう【教令】、宇
豆の広前にして、信心の大施主、羽林藤原
成経、并に沙弥性照、一心清浄の誠を致し、三
業相応の志を抽て、謹でもて敬白。夫証誠
大菩薩は、済度苦海の教主、三身円満の覚
王也。或東方浄瑠璃医王の主、衆病悉除
の如来也。或南方補堕落能化の主、入重玄
門の大士。若王子は娑婆世界の本主、施無
P02157
畏者の大士、頂上の仏面を現じて、衆生の所願を
みて給へり。是によて、かみ【上】一人よりしも【下】万民
に至るまで、或現世安穏のため、或後生善
処のために、朝には浄水を結で煩悩のあか【垢】を
すすぎ、夕には深山に向て宝号を唱るに、感応
おこたる事なし。峨々たる嶺のたかきをば、神徳
のたかきに喩へ、嶮々たる谷のふかきをば、弘
誓のふかきに准へて、雲を分てのぼり、露をし
のいで下る。爰に利益の地をたのま【頼ま】ずむば、
P02158
いかんが歩を嶮難の路にはこばん。権現の徳をあ
ふがずんば、何必しも幽遠の境にましまさむ。仍
証誠大権現、飛滝大薩■、青蓮慈悲の眸を
相ならべ、さをしか【小牡鹿】の御耳をふりたてて、我等が無二の
丹城を知見して、一々の懇志を納受し給へ。然
則、むすぶ【結】・はや玉【早玉】の両所権現、おのおの機に随
て、有縁の衆生をみちびき、無縁の群類を
すくはんがために、七宝荘厳のすみか【栖】をすてて、
八万四千の光を和げ、六道三有の塵に同じ
P02159
給へり。故に定業亦能転、求長寿得長寿の
礼拝、袖をつらね、幣帛礼奠を捧る事ひ
まなし。忍辱の衣を重、覚道の花を捧て、神
殿の床を動し、信心の水をすまして、利生の池を
湛たり。神明納受し給はば、所願なんぞ成就せざ
らん。仰願は、十二所権現、利生の翅を並て、遥
に苦海の空にかけり、左遷の愁をやすめて、帰
洛の本懐をとげしめ給へ。再拝。とぞ、康頼の
  『卒都婆流』S0216
と【祝詞】をば申ける。○丹波少将・康頼入道、つねは三所
P02160
権現の御前にまい【参つ】て、通夜するおり【折】もありけり。
或時二人通夜して、夜もすがらいまやう【今様】をぞ
うたひ【歌ひ】ける。暁がたに、康頼入道ちとまどろみ
たる夢に、おきより白い帆かけたる小船を一
艘こぎよせて、舟のうちより紅の袴きたる
女房達二三十人あがり【上がり】、皷をうち、こゑ【声】を調て、
よろづの仏の願よりも千手の誓ぞたのも
しき【頼もしき】枯たる草木【くさき】も忽に花さき実なるとこ
そきけ K013 I と、三べんうたひ【歌ひ】すまし【澄まし】て、かきけつ【消つ】
P02161
やうにぞうせにける。夢さめて後、奇異の思
をなし、康頼入道申けるは、「是は竜神の化現
とおぼえたり。三所権現のうちに、西の御前
と申は、本地千手観音にておはします。竜
神は則千手の廿八部衆の其一なれば、もて
御納受こそたのもしけれ【頼もしけれ】」。又或夜二人通夜
して、おなじうまどろみたりける夢に、おき
より吹くる風の、二人が袂に木の葉をふたつ【二つ】
ふきかけたりけるを、何となうと【取つ】て見ければ、
P02162
御熊野の南木の葉にてぞ有ける。彼二の南
木の葉に、一首の歌を虫くひにこそしたりけれ。
千はやふる神にいのりのしるけれ[M 「しげけれ」とあり「げけ」をミセケチ「るけ」と傍書]ば
などか都へ帰らざるべき W011
康頼入道、古郷の恋しきままに、せめてのはかりこと【策】
に、千本の卒都婆を作り、■字の梵字・年
号・月日、仮名実名、二首の歌をぞかいたりけり【*ける】。
さつまがたおきのこじまに我あり【有り】と
おやにはつげよやへ【八重】のしほかぜ W012
P02163
おもひ【思ひ】やれしばしとおもふ【思ふ】旅だにも
なを【猶】ふるさとはこひしきものを W013
是を浦にも[B ッ]て出て、「南無帰命頂礼、梵天帝
尺、四大天王、けんらふ【堅牢】地神、[B 王城ノ]鎮守諸大明神、殊
には熊野権現、厳島大明神、せめては一本成共
都へ伝てたべ」とて、奥津しら浪【白浪】のよせてはかへ
るたびごとに、卒都婆を海にぞ浮べける。卒
都婆を作り出すに随て、海に入ければ、日数つ
もれば卒都婆のかずもつもり【積り】、そのおもふ【思ふ】心や
P02164
便の風ともなりたりけむ、又神明仏陀もやを
くら【送ら】せ給ひけむ、千本の卒都婆のなかに一本、
安芸国厳島の大明神の御まへの渚にうち
あげたり。康頼がゆかりあり【有り】ける僧、しかる【然る】べ
き便もあらば、いかにもして彼島へわたて、[M 其]
其 行ゑ【行方】をきかむとて、西国修行に出たりけるが
[M が]、先厳島へぞまいり【参り】たりける。爰に宮人と
おぼしくて、狩衣装束なる俗一人いで【出で】きたり。
此僧何となき物語しけるに、「夫、和光同塵の
P02165
利生さまざまなりと申せども、いかなりける因縁
をもて、此御神は海漫の鱗に縁をむすばせ給
ふらん」ととひ奉る。宮人答けるは、「是はよな、娑
竭羅竜王の第三の姫宮、胎蔵界の垂跡
也」。此島に御影向あり【有り】し初より、済度利生の
今に至るまで、甚深奇特の事共をぞかたり
ける。さればにや、八社の御殿甍をならべ、社はわ
だづみのほとりなれば、塩のみちひに月[M こ]
ぞ[M 「こそ」の「こ」をミセケチ]すむ。しほみちくれば、大鳥居あけ【朱】の玉
P02166
墻瑠璃の如し。塩引ぬれば、夏の夜なれど、御
まへのしら州に霜ぞをく【置く】。いよいよたとく【尊く】おぼえ【覚え】
て、法施まいらせ【参らせ】て居たりけるに、やうやう日く
れ、月さし出て、塩のみちけるが、そこはかと
なき藻くづ共のゆられよりけるなかに、卒
都婆のかたのみえ【見え】けるを、何となうとて見ければ、
奥のこじまに我あり【有り】と、かきながせることのは也。
文字をばゑり入きざみ付たりければ、浪に
もあらは【洗は】れず、あざあざとしてぞみえ【見え】たりける。「あ
P02167
なふしぎ【不思議】」とて、これを取て笈のかた【肩】にさし、都への
ぼり、康頼が老母の尼公妻子共が、一条の北、紫
野と云所に忍つつすみけるに、見せたり
ければ、「さらば、此卒都婆がもろこしのかたへもゆ
られゆかで、なにしにこれまでつたひ来て、今
更物をおもは【思は】すらん」とぞかなしみける。遥の
叡聞に及で、法皇これを御覧じて、「あなむざん
や。さればいままで此者共は、命のいきてあるに
こそ」とて、御涙をながさせ給ふぞ忝き。小松の
P02168
おとどのもとへをくら【送ら】せ給ひたりければ、是
を父の入道相国に見せ奉り給ふ。柿本人
丸は島がくれゆく【島隠れ行く】船をおもひ【思ひ】、山辺の赤人は
あしべのたづをながめ給ふ。住吉の明神はかた
そぎの思をなし、三輪の明神は杉たてる門
をさす。昔素盞烏尊、三十一字のやまと
うたをはじめをき給ひしよりこのかた、もろもろ
の神明仏陀も、彼詠吟をもて百千万端の
思ひをのべ給ふ。入道も石木ならねば、さすが
P02169
  『蘇武』S0217
哀げにぞの給ひける。○入道相国のあはれみた
まふうへは、京中の上下、老たるもわかきも、鬼界
が[M 「かの」とあり「の」をミセケチ]島の流人の歌とて、口ずさまぬはなかり
けり。さても千本まで作りたりける卒都
婆なれば、さこそはちいさう【小さう】もあり【有り】けめ、薩摩潟
よりはるばると都までつたはりけるこそふし
ぎ【不思議】なれ。あまりにおもふ【思ふ】事はかくしるし【徴】あるにや。
いにしへ漢王胡国を攻られけるに、はじめは李少
卿を大将軍にて、三十万騎むけられたりけるが、
P02170
漢王のいくさ【軍】よはく【弱く】、胡国のたたかひ【戦ひ】こはくして、
官軍みなうちほろぼさる。剰大将軍李少卿、
胡王のためにいけどら【生捕ら】る。次に蘇武を大将軍に
て、五十万騎をむけらる。猶漢のいくさ【軍】よはく【弱く】、
えびすのたたかひ【戦ひ】こはくして、官軍皆亡にけり。
兵六千余人[M 「六十」の「十」を非とし「千」と傍書]いけどら【生捕ら】る。その【其の】なか【中】に、大将軍蘇
武をはじめとして、宗との兵六百三十余人すぐり
出して、一々にかた足をきてお【追つ】ぱなつ【放つ】。則死する
者もあり【有り】、程へて死ぬる者もあり【有り】。其なかにされ共
P02171
蘇武はしなざりけり。かた足なき身となて、山に
のぼ【上つ】ては木の実をひろひ、春は沢の根芹を
摘、秋は田づら【田面】のおち穂【落ち穂】ひろひ【拾ひ】などしてぞ、露
の命を過しける。田にいくらもあり【有り】ける鴈ども、
蘇武に見なれ【馴れ】ておそれ【恐れ】ざりければ、これはみな
我古郷へかよふものぞかしとなつかしさ【懐しさ】に、おもふ【思ふ】
事を一筆かいて、「相かまへて是漢王に奉れ」と
云ふくめ、鴈の翅にむすび付てぞはなち【放ち】け
る。かひがひしくもたのむ【田面】の鴈、秋は必こし地【越路】より
P02172
都へ来るものなれば、漢昭帝上林苑に御遊
あり【有り】しに、夕ざれの空薄ぐもり、何となう物
哀なりけるおりふし【折節】、一行の鴈とびわたる。その
中に鴈一とびさがて、をの【己】が翅に結付たる玉
章をくひきてぞおとし【落し】ける。官人是をとて、御
門に奉る。披て叡覧あれば、「昔は巌崛の洞に
こめられて、三春の愁歎ををくり【送り】、今は曠田の
畝に捨られて、胡敵の一足となれり。設かばね
は胡の地にちらす[B 「地ら」の左に「散」と傍書]と云共、魂は二たび【二度】君辺
P02173
につかへん」とぞかいたりける。それよりしてぞ、
ふみをば鴈書ともいひ、鴈札とも名付たる。
「あなむざんや、蘇武がほまれの跡なりけり。いま
だ胡国にあるにこそ」とて、今度は李広と云
将軍に仰て、百万騎をさしつかはす【遣す】。今度は
漢の戦こはく[B 「はく」に「強」と傍書]して、胡国のいくさ【軍】破にけり。
御方たたかひ【戦ひ】かちぬと聞えしかば、蘇武は曠野の
なかよりはい【這ひ】出て、「是こそいにしへの蘇武よ」
とぞなのる【名乗る】。十九年の星霜を送て、かた足は
P02174
きられながら、輿にかかれて古郷へぞ帰りける。
蘇武は十六の歳、胡国へむけられけるに、御門
より給りたりける旗を、何としてかかくした
りけん、身をはなたずも【持つ】たりけり。今取出
して御門のげむざん【見参】にいれ【入れ】たりければ、き
みも臣も感嘆なのめならず。君のため大
功ならびなかりしかば、大国あまた給はり、其
上天俗国[B 「天俗」に「典属」と傍書]と云司を下されけるとぞ聞え
し。李少卿は胡国にとどま【留まつ】て終に帰らず。い
P02175
かにもして、漢朝へ帰らんとのみなげけども、胡
王ゆるさねばかなは【叶は】ず。漢王これをしり給
はず。君のため不忠のものなりとて、はか
なく【果敢く】なれる二親が死骸をほりおこい【起い】てうた【打た】
せらる。其外六親をみなつみせらる。李少卿
是を伝きい【聞い】て、恨ふかう【深う】ぞなりにける。さり
ながらも猶古郷を恋つつ、君に不忠なき様
を一巻の書に作てまいらせ【参らせ】たりければ、「さ
ては不便の事ごさんなれ」とて、父母がかばね
P02176
を堀【*掘】いだいてうたせられたる事をぞ、くやし
み給ひける。漢家の蘇武は書を鴈の
翅につけ【付け】て旧里へ送り、本朝の康頼は浪の
たよりに歌を故郷に伝ふ。かれは一筆のすさみ、
これは二首の歌、かれは上代、これは末代、胡国
鬼界が島、さかひをへだて、世々はかはれ共、風
情はおなじふぜい、ありがたかりし事ども也。

平家物語巻第二
P02177

平家物語 高野本 巻第三

【許諾済】
本テキストの公開については、東京大学文学部国語研究室の許諾を得ています。底本使用・テキスト公開を許可された同研究室に厚く御礼申し上げます。
【注意】
本テキストの利用は個人の研究の範囲内に限られます。本テキストの全体あるいは一部の複写物・複写加工物を、インターネット上で、あるいは出版物(CD−ROM等を含む)として公表する場合には、事前に東京大学文学部国語研究室に翻刻掲載許可願いを申請する必要があります。同研究室の許可を得ない本テキストの公表は禁じられています。翻刻掲載許可願い申請送付先:〒113-0033 東京都文京区本郷7−3−1 東京大学文学部国語研究室
【底本】
本テキストの底本は、東京大学文学部国語研究室蔵高野辰之旧蔵『平家物語』(通称・高野本、覚一別本)です。直接には、笠間書院発行の影印本に拠りました。
文責:荒山慶一・菊池真一


平家 三
P03001
平家三之巻 目録
赦文     足摺
御産     公卿揃
大塔建立   頼豪
少将都帰   有王 僧都死去
辻風     医師問答
無文     燈炉之沙汰
金渡     法印問答
大臣流罪   行隆沙汰
P03002
法皇被流   城南離宮
P03003
平家物語巻第三
『赦文』S0301
○治承二年正月一日[B ノヒ]、院御所には拝礼おこなは【行なは】
れて、四日[B ノヒ]朝覲の行幸有けり。O[BH 何事も]例にかはりたる
事はなけれ共、去年の夏新大納言成親卿以下、
近習の人々多くうしなは【失は】れし事、法皇御憤
いまだやまず、世の政も物うくおぼしめさ【思し召さ】れて、御
心よからぬことにてぞ有ける。太政入道も、多田蔵
人行綱が告しらせて後は、君をも御うしろめたき
事に思ひ奉て、うへには事なき様なれ共、下には
P03004
用心して、にがわらひ【苦笑ひ】てのみぞあり【有り】ける。同正月七日[B ノヒ]、
彗星東方にいづ。蚩尤気とも申。又赤気共
申。十八日光をます。去程に、入道相国の御むす
め建礼門院、其比は未中宮と聞えさせ給しが、
御悩とて、雲のうへ【上】天が下の歎きにてぞ有け
る。諸寺に御読経始まり、諸社へ官幣使を立らる。
医家薬をつくし、陰陽術をきはめ、大法秘
法一[B ツ]として残る処なう修せられけり。されども【共】、
御悩ただにもわたら【渡ら】せ給はず、御懐妊とぞ聞えし。
P03005
主上今年十八、中宮は廿二にならせ給ふ。しかれ共、
いまだ皇子も姫宮も出きさせ給はず。もし皇
子にてわたらせ給はばいかに目出たからんとて、平家
の人々はただ今皇子御誕生のある様に、いさみ悦
びあはれけり。他家の人々も、「平氏の繁昌おり【折】
をえたり。皇子御誕生疑なし」とぞ申あはれける。
御懐妊さだまら【定まら】せ給しかば、有験の高僧貴僧
に仰せて、大法秘法を修し、星宿仏菩薩につけ
て、皇子御誕生と祈誓せらる。六月一日[B ノヒ]、中宮
P03006
御着帯あり【有り】けり。仁和寺の御室守覚法親王、
御参内あて、孔雀経の法をもて御加持あり【有り】。天
台座主覚快法親王、おなじうまいら【参ら】せ給て、変
成男子の法を修せらる。かかりし程に、中宮は
月のかさなるに随て、御身をくるしう【苦しう】せさせ給ふ。
一たびゑめば百の媚あり【有り】けん漢の李夫人の、承
陽殿【*昭陽殿】の病のゆか【床】もかくやとおぼえ、唐の楊貴妃、
李花一枝春の雨ををび【帯び】、芙蓉の風にしほれ【萎れ】、女
郎花の露おもげなるよりも、猶いたはしき御さま
P03007
なり。かかる御悩の折節にあはせ【合はせ】て、こはき御物気共、
取いり奉る。よりまし明王の縛にかけて、霊あら
はれ【現はれ】たり。殊には讃岐院の御霊、宇治悪左府の
憶念、新大納言成親卿の死霊、西光法師が悪霊、
鬼界が島の流人共が生霊などぞ申ける。是に
よ[B ッ]て、太政入道生霊も死霊もなだめ【宥め】らるべしと
て、其比やがて讃岐院御追号あて、崇徳天皇と
号す。宇治悪左府、贈官贈位おこなは【行なは】れて、太政大
臣正一位ををくら【送ら】る。勅使は少内記維基とぞ
P03008
聞えし。件の墓所は大和国そうのかん[* 「そう」に「添」、「かん」に「上」と振り漢字]の郡、川上の
村、般若野の五三昧也。保元の秋ほり【掘り】おこし【起こし】て捨
られし後は、死骸路の辺の土となて、年々にただ
春の草のみ茂れり。今勅使尋来て宣命を
読けるに、亡魂いかにうれしとおぼしけん。怨霊は
昔もかくおそろしき【恐ろしき】こと也。されば早良廃太子
をば崇道天皇と号し、井上の内親王をば皇后
の職位にふくす。是みな怨霊を寛【*宥】められしはかり
こと也。冷泉院の御物ぐるはしうましまし、花山の
P03009
法皇の十禅万乗の帝位をすべらせ給しは、基方
民部卿が霊なり[M 「とかや」をミセケチ「なり」と傍書]。三条院の御目も御覧ぜざりしは、
観算供奉が霊とかや[M 「也」をミセケチ「とかや」と傍書]。門脇宰相か様【斯様】の事共伝へ
きい【聞い】て、小松殿に申されけるは、「中宮御産の御祈さま
ざまに候也。なにと申候共、非常の赦に過たる
事あるべしともおぼえ候はず。中にも、鬼界が島
の流人共めし【召し】かへさ【返さ】れたらんほどの功徳善根、争か
候べき」と申されければ、小松殿父の禅門の御まへに
おはして、「あの丹波少将が事を、宰相のあながちに
P03010
歎申候が不便に候。中宮御悩の御こと、承及ごとくんば、殊更
成親卿が死霊など聞え候。大納言が死霊をなだ
め【宥め】んとおぼしめさ【思し召さ】んにつけても、生て候少将をこそ
めし【召し】かへさ【返さ】れ候はめ。人のおもひ【思ひ】をやめさせ給はば、おぼ
しめす【思し召す】事もかなひ【叶ひ】、人の願ひをかなへ【適へ】させ給はば、
御願もすなはち成就して、中宮やがて皇子御
誕生あ[B ッ]て、家門の栄花弥さかん【盛】に候べし」など
申されければ、入道相国、日ごろ【日比】にもに【似】ず事の外
にやはらひ【和らい】で、「さてさて、俊寛と康頼法師が事は
P03011
いかに」。「それもおなじうめし【召し】こそかへさ【返さ】れ候はめ。若一
人も留められんは、中々罪業たるべう候」と申さ
れければ、「康頼法師が事はさる事なれ共、俊
寛は随分入道が口入をも[B ッ]て人となたる物ぞかし。そ
れに所しもこそ多けれ、わが山庄鹿の谷に城
郭をかまへて、事にふれて奇怪のふるまひ【振舞】共が
有けんなれば、俊寛をば思ひもよらず」とぞの給
ける。小松殿かへ[B ッ]【帰つ】て、叔父の宰相殿よび奉り、「少将は
すでに赦免候はんずるぞ。御心やすうおぼしめさ【思し召さ】れ
P03012
候へ」とのたまへば、宰相手をあはせ【合はせ】てぞ悦れける。
「下りし時も、などか申うけ【請け】ざらんと思ひたりげにて、
教盛を見候度ごとには涙をながし候しが不便に候」
と申されければ、小松殿「まこと【誠】にさこそおぼしめさ【思し召さ】れ
候らめ。子は誰とてもかなしければ、能々申候はん」
とて入給ぬ。去程に、鬼界が島の流人共めし【召し】かへさ【返さ】る
べき事さだめ【定め】られて、入道相国ゆるし文【赦文】下されけ
り。御使すでに都をたつ。宰相あまりのうれし
さに、御使に私の使をそへてぞ下されける。よるを
P03013
昼にしていそぎ下れとありしか共、心にまかせぬ海
路なれば、浪風をしのいで行程に、都をば七月下旬に
出たれ共、長月廿日比にぞ、鬼界が島には着にける。
『足摺』S0302
○御使は丹左衛門尉基康といふ者也。舟よりあが【上がつ】て、
「是に都よりながされ給ひし丹波少将殿、[M 法勝
寺執行御房、]平判官入道殿やおはする」と、声々
にぞ尋ける。二人の人々は、例の熊野まうでして
なかりけり。俊寛僧都一人のこ【残つ】たりけるが、是を聞、
「あまりに思へば夢やらん。又天魔波旬の我心をた
P03014
ぶらかさんとていふやらん。うつつ共覚ぬ物かな」と
て、あはて【慌て】ふためき、はしる【走る】ともなく、たをるる【倒るる】共な
く、いそぎ御使のまへに走むかひ【向ひ】、「何事ぞ。是こそ
京よりながされたる俊寛よ」と名乗給へば、雑色が
頸にかけ【懸け】させたる文袋より、入道相国のゆるし文【赦文】
取出いて奉る。ひらいてみれ【見れ】ば、「重科は遠流に
めんず【免ず】。はやく帰洛の思ひをなすべし。中宮御
産の御祈によ[B ッ]て、非常の赦おこなは【行なは】る。然間鬼
界が島の流人、少将成経、康頼法師赦免」とばかり
P03015
かか【書か】れて、俊寛と云文字はなし。らいし【礼紙】にぞあるらん
とて、礼紙をみる【見る】にも見えず。奥よりはし【端】へよみ、
端より奥へ読けれ共、二人とばかりかか【書か】れて、三人
とはかかれず。さる程に、少将や判官入道も出きたり。
少将のと【取つ】てよむにも、康頼入道が読けるにも、二人
とばかりかか【書か】れて三人とはかかれざりけり。夢にこそ
かかる事はあれ、夢かと思ひなさんとすればうつつ
也。うつつかと思へば又夢のごとし【如し】。其うへ二人の人々
のもとへは、都よりことづけ文【言付文】共いくらもあり【有り】けれ
P03016
共、俊寛僧都のもとへは、事とふ文一もなし。されば
わがゆかりの物どもは、宮このうちにあとをとど
めず成にけりと、おもひやるにもしのびがたし。「抑
われら【我等】三人は罪もおなじ罪、配所も一所也。いかなれ
ば赦免の時、二人はめし【召し】かへさ【返さ】れて、一人ここに残るべ
き。平家の思ひわすれかや、執筆のあやまりか。
こはいかにしつる事共ぞや」と、天にあふぎ地に臥
て、泣かなしめ共かひぞなき。少将の袂にすがて、
「俊寛がかく成といふも、御へんの父、故大納言殿
P03017
よしなき謀反ゆへ【故】也。さればよその事とおぼすべ
からず。ゆるされ【許され】なければ、都までこそかなは【叶は】ず[M と云]
共、此舟にのせ【乗せ】て、九国の地へつけO[BH て]給べ。をのをの【各々】の是
におはしつる程こそ、春はつばくらめ、秋は田のも[M 「田のむ」とあり「む」をミセケチ「も」と傍書]【田面】の
鴈の音づるる様に、をのづから古郷の事をも
伝へきい【聞い】つれ。今より後、何としてかは聞べき」と
て、もだえ【悶え】こがれ給ひけり。少将「まこと【誠】にさこそは
おぼしめさ【思し召さ】れ候らめ。我等がめし【召し】かへさ【返さ】るるうれし
さは、さる事なれ共、御有様を見をき奉るに、
P03018
[B さらに]行べき空も覚ず。うちのせ【乗せ】たてま[B ッ]【奉つ】ても上り
たう候が、都の御使もかなふ【叶ふ】まじき由申うへ【上】、ゆる
されもないに、三人ながら島を出たりなど聞えば、
中々あしう【悪しう】候なん。成経まづ罷のぼ[B ッ]【上つ】て、人々にも
申あはせ【合はせ】、入道相国の気色をもうかがう【伺う】て、むかへに
人を奉らん。其間は、此日ごろ【日比】おはしつる様に
おもひ【思ひ】なして待給へ。何としても命は大切の事
なれば、今度こそもれ【漏れ】させ給ふ共、つゐに【遂に】はなどか
赦免なうて候べき」となぐさめたまへ共、人目もし
P03019
ら【知ら】ず泣もだえ【悶え】けり。既に船出すべしとてひしめき
あへば、僧都の[B ッ]【乗つ】てはおりつ、おり【降り】てはの【乗つ】つ、あらまし
事をぞし給ひける。少将の形見にはよるの衾、
康頼入道が形見には一部の法花経をぞとどめ【留め】
ける。ともづなとい【解い】てをし出せば、僧都綱に取つき、
腰になり、脇になり、たけの立まではひか【引か】れて
出、たけも及ばず成ければ、舟に取つき、「さていか
にをのをの【各々】、俊寛をば遂に捨はて給ふか。是程とこそ
おもはざりつれ。日比の情も今は何ならず。ただ理を
P03020
まげてのせ【乗せ】給へ。せめては九国の地まで」とくど
か【口説か】れけれ共、都の御使「いかにもかなひ【叶ひ】候まじ」とて、
取つき給へる手を引のけて、船をばつゐに【遂に】漕
出す。僧都せん方なさに、渚にあがりたふれ【倒れ】ふし、
おさなき【幼き】者のめのとや母などをしたふやうに、足
ずりをして、「是のせ【乗せ】てゆけ、具してゆけ」と、おめき【喚き】
さけべ【叫べ】共、漕行舟の習にて、跡はしら浪【白浪】ばかり也。
いまだ遠からぬ舟なれ共、涙に暮て見えざりけ
れば、僧都たかき【高き】所に走あがり【上がり】、澳の方をぞま
P03021
ねきける。彼松浦さよ姫【松浦佐用姫】がもろこし舟をしたひ
つつ、ひれ【領布】ふりけんも、是には過じとぞみえ【見え】し。舟も
漕かくれ、日も暮れ共、あやしのふしど【臥処】へも帰らず。
浪に足うちあらはせて、露にしほれ【萎れ】て、其夜は
そこにぞあかされける。さり共少将はなさけ【情】ふかき
人なれば、よき様に申す事もあらんずらん
と憑をかけ、その瀬に身をもなげざりける心の
程こそはかなけれ。昔壮里【*早離】・息里【*速離】が海岳山[B 「岳」に「巌」と傍書]へはな
『御産』S0303
たれけんかなしみも、今こそ思ひしられけれ。○去
P03022
程に、此人々は鬼界が島を出て、平宰相の領、肥
前国鹿瀬庄に着給ふ。宰相、京より人を下して、
「年の内は浪風はげしう、道の間もおぼつかなう
候に、それにて能々身いたは[B ッ]て、春にな[B ッ]て上り給へ」
とあり【有り】ければ、少将鹿瀬庄にて、年を暮す。さる
程に、同年の十一月十二日[B ノ]寅剋より、中宮御産
の気ましますとて、京中六波羅ひしめきあへ
り。御産所は六波羅池殿にて有けるに、法皇も
御幸なる。関白殿を始め奉て、太政大臣以下の
P03023
公卿殿上人、すべて世に人とかぞへられ、官加階に
のぞみをかけ、所帯・所職を帯する程の人の、一
人ももるる【洩るる】はなかりけり。先例O[BH も]女御后御産の時に
のぞんで、大赦おこなは【行なは】るる事あり【有り】。大治二年九
月十一日、待賢門院御産の時、大赦あり【有り】き。其例
とて、今度も重科の輩おほく【多く】ゆるさ【許さ】れける中
に、俊寛僧都一人、赦免なかりけるこそうたてけれ。
御産平安、王子御誕生ましまさば[M 「平安にあるならば」とあり「にあるならば」をミセケチ「王子御誕生ましまさば」と傍書]、八幡・平野・大原野などへ
行啓なるべしと、御立願有けり。仙源【*全玄】法印是を
P03024
敬白す。神社は太神宮を始奉て廿余ケ所、仏寺は
東大寺・興福寺以下十六ケ所に御誦経あり【有り】。御
誦経の御使は、宮の侍の中に有官の[M 侍]輩是を
つとむ。ひやうもん【平文】の狩衣に帯剣したる者共が、色
色の御誦経物、御剣御衣を持つづいて、東の台よ
り南庭をわた[B ッ]【渡つ】て、西の中門にいづ。目出たかりし
見物也。小松のおとど【大臣】は、例の善悪にさはが【騒が】ぬ人にて
おはしければ、其後遥に程へて、嫡子権亮少将
以下公達の車共みなやり【遣り】つづけさせ、色々の御衣
P03025
四十領、銀剣七[B ツ]、広ぶたにをか【置か】せ、御馬十二疋ひか【牽か】せ
てまいり【参り】給ふ。O[BH 是は]寛弘に上東門院御産の時、御堂殿
御馬をまいらせ【参らせ】られし其例とぞ聞えし。このお
とど【大臣】は、中宮の御せうと【兄】にておはしけるうへ【上】、父子の
御契なれば、御馬まいらせ【参らせ】給ふもことはり【理】也。五条
大納言国綱【*邦綱】卿、御馬二疋進ぜらる。「心ざしのいたりか、
徳のあまりか」とぞ人申ける。なを【猶】伊勢より始
て、安芸の厳島にいたるまで、七十余ケ所へ神馬を、
立らる。内裏[M 「大内」をミセケチ「内裏」と傍書]にも、竜【*寮】の御馬に四手つけて、数十疋
P03026
ひ【引つ】たて【立て】たり。仁和寺[B ノ]御室は孔雀経の法、天台座
主覚快法親王は七仏薬師の法、寺の長吏円
慶【*円恵】法親王は金剛童子の法、其外五大虚空蔵・
六観音、一字金輪・O[BH 五壇の法、六字加輪・]八字文殊、普賢延命にいたる
まで、残る処なう修せられけり。護摩の煙御所
中にみち、鈴の音雲をひびかし、修法の声身
の毛よだて、いかなる御物の気なり共、面をむかふ【向ふ】
べしとも見えざりけり。猶仏所の法印に仰て、
御身等身の七仏薬師、并に五大尊の像を
P03027
つくり始めらる。かかりしか共、中宮はひまなく
しきらせ給ふばかりにて、御産もとみに成やら
ず。入道相国・二位殿、胸に手ををい【置い】て、「こはいかにせん、
いかにせん」とぞあきれ給ふ。人の物申けれ共、ただ「とも
かうも能様に、能様に」とぞの給ける。「さり共いくさ【軍】の陣
ならば、是程浄海は臆せじ物を」とぞ、後には仰られ[B 「仰られ」に「のたまひ」と傍書]
ける。御験者は、房覚・性雲【*昌雲】両僧正、春尭【*俊堯】法印、豪禅・
実専【*実全】両僧都、をのをの【各々】僧加【*僧伽】の句共あげ、本寺本山の
三宝、年来所持の本尊達、責ふせ【伏せ】責ふせ【伏せ】もま【揉ま】れ
P03028
けり。誠にさこそはと覚えてたとかりける中に、
法皇は折しも、新熊野へ御幸なるべきにて、御
精進の次でなりける間、錦帳ちかく【近く】御座あて、
千手経をうちあげ【上げ】うちあげ【上げ】あそばさ【遊ばさ】れけるにこそ、今
一きは事かは【変つ】て、さしも踊りくるふ御よりまし共
が縛も、しばらくうちしづめ【鎮め】けれ。法皇仰なりけるは、
「いかなる御物気なり共、この老法師がかくて候はん
には、争かちかづき【近付き】奉るべき。就中[M に]今あらはるる
処の怨霊共は、みなわが朝恩によ[B ]て人とな[B ]し物共
P03029
ぞかし。たとひ報謝の心をこそ存ぜず共、豈障碍[*底本 石ヘン無し]を
なすべきや。速にまかり【罷り】退き候へ」とて「女人生産し
がたからん時にのぞんで、邪魔遮生し、苦忍がた
からんにも、心をいたして大悲呪を称誦せば、鬼神
退散して、安楽に生ぜん」とあそばい【遊ばい】て、皆水精【水晶】の
御数珠をし【押し】もませ給へば、御産平安のみならず、
皇子にてこそましましけれ。頭中将重衡、其時は
いまだ中宮亮にておはしけるが、御簾の内よりつと
出て、「御産平安、皇子御誕生候ぞや」と、たからかに
P03030
申されければ、法皇を始まいらせ【参らせ】て、関白殿以下の
大臣、公卿殿上人、をのをの【各々】の助修、数輩の御験者、陰
陽頭・典薬頭、すべて堂上堂下一同にあ[B ッ]と悦あへる
声、門外までどよみて、しばし【暫し】はしづまり【静まり】やらざりけり。
入道相国あまりのうれしさに、声をあげてぞなか【泣か】れ
ける。悦なき【悦び泣き】とは是をいふべきにや。小松殿、中宮
の御方にまいらせ【参らせ】給ひて、金銭九十九文、皇子の
御枕にをき、「天をもてO[BH は]父とし、地をもて[B は]母とさだ
め給へ。御命は方士東方朔が齢をたもち【保ち】、御心には
P03031
天照大神入かはらせ給へ」とて、桑の弓・蓬の矢にて、
『公卿揃』S0304
天地四方を射させらる。○御乳には、前右大将宗盛卿の
北方と定られたりしが、去七月に難産をしてうせ
給しかば、[M 御めのと]平大納言時忠[B ノ]卿の北方、O[BH 帥佐殿]御乳に
まいら【参ら】せ給ひけり。後には帥の典侍とぞ申ける。法
皇やがて還御[B ノ]御車を門前に立られたり。入道相国
うれしさのあまりに、砂金一千両、富士の綿二千
両、法皇へ進上せらる。しかる【然る】べからずとぞ人々[M 内々]ささ
やきあはれける。今度の御産に勝事あまたあり【有り】。
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まづ法皇の御験者。次に后御産の時、御殿の棟より
甑をまろばかす事あり【有り】。皇子御誕生には南へお
とし【落し】、皇女誕生には北[B 「南」に「北」と傍書]へおとす【落す】を、是は北へ落したり
ければ、「こはいかに」とさはが【騒が】れて、取あげて落しなをし【直し】
たりけれ共、あしき御事に人々申あへり。おかしかり
しは入道相国のあきれざま、目出たかりしは小松の
おとど【大臣】のふるまひ【振舞】。ほい【本意】なかりしはO[BH 前ノ]右大将宗盛卿の最
愛の北方にをくれ【遅れ】給[M 「奉」をミセケチ「給」と傍書]て、大納言[B ノ]大将両職を辞して
籠居せられたりし事。兄弟共に出仕あらば、いかに
P03033
目出たからん。次には、七人の陰陽師をめさ【召さ】れて、千度の
御祓仕るに、其中に掃部頭時晴といふ老者あり【有り】。
所従なども乏少なりけり。余に人まいり【参り】つどひ【集ひ】て、た
かんなをこみ、稲麻竹葦の如し。「役人ぞ。あけ【明け】られよ」とて、
をし【押し】分をし【押し】分まいる【参る】程に、右の沓をふみ【踏み】ぬか【抜か】れて、[M 「ぬ」をミセケチ「て」と傍書]そこに
てちと立やすらふが、冠をさへつきおとさ【落さ】れぬ。さばかり
の砌に、束帯ただしき老者が、もとどり【髻】はなてねり
出たりければ、わかき公卿殿上人こらへずして、一同に
ど[B ッ]とわらひ【笑ひ】あへり。陰陽師などいふは、反陪とて
P03034
足をもあだにふまずとこそ承れ。それにかかる不
思儀の有けるO[BH を]、其時はなにとも覚えざりしか共、
後にこそ思ひあはする事共も多かりけれ。御
産によて六波羅へまいら【参ら】せ給ふ人々、関白松殿、太
政大臣妙音院、左大臣大炊御門、右大臣月輪殿、内
大臣小松殿、左大将実定、源大納言定房、三条大納言
実房、五条大納言国綱【*邦綱】、藤大納言[M 「中納言」とあり「中」をミセケチ「大」と傍書]実国、按察使資
方【*資賢】、中[B ノ]御門[B ノ]中納言宗家、花山院中納言兼雅、源中
納言雅頼、権中納言実綱、藤中納言資長、池[B ノ]中納言
P03035
頼盛、左衛門[B ノ]督時忠、別当忠親、左の宰相中将実家、右
の宰相中将実宗。新宰相中将通親、平宰相教盛、
六角宰相家通、堀河宰相頼定、左大弁宰相長方、右
大弁三位俊経、左兵衛督重教【*成範】、右兵衛督光能、皇太
后宮大夫朝方、左京[B ノ]大夫長教【*脩範】、太宰大弐親宣【*親信】、新三
位実清、已上三十三人、右大弁の外は直衣也。不参の人
人には、花山院[B ノ]前[B ノ]太政大臣忠雅公、大宮[B ノ]大納言隆季卿
以下十余人、後日に布衣着して、入道相国の西八条[B ノ]
『大塔建立』S0305
亭へむかは【向は】れけるとぞ聞えし。○御修法の結願に勧賞
P03036
共おこなは【行なは】る。仁和寺[B ノ]御室は東寺[B ノ]修造せらるべし、并に
後七日の御修法、大眼[B 「眼」の左に「元」と傍書]【*大元】の法、灌頂興行せらるべき由
仰下さる。御弟子覚誓[B 「誓」の左に「成」と傍書]【*覚成】僧都、法印に挙せらる。座
主宮は、二品并に牛車の宣旨を申させ給ふ。仁和寺[B ノ]
御室ささへ【支へ】申させ給ふによ[B ッ]て、法眼円良、法印にな
さる。其外の勧賞共毛挙にいとまあらずとぞ
きこえ【聞え】し。中宮は日数へ【経】にければ、六波羅より内裏へ
まいら【参ら】せ給ひけり。此御むすめ后にたた【立た】せ給しかば、
入道相国夫婦共に、「あはれ、いかにもして皇子御誕
P03037
生あれかし。位につけ奉り、外祖父、外祖母とあふが
れん」とぞねがは【願は】れける。わがあがめ奉る安芸の厳島
に申さんとて、月まうでを始て、祈り申されけれ
ば、中宮やがて御懐妊あて、思ひのごとく皇子
にてましましけるこそ目出たけれ。抑平家[M の]安芸
の厳島を信じ始られける事はいかにといふに、鳥羽
院の御宇に、清盛公いまだ安芸守たりし時、安芸
国をもて、高野の大塔を修理せよとて、渡辺の遠
藤六郎頼方を雑掌に付られ、六年に修理をは[B ン]【終ん】
P03038
ぬ。修理をは[B ッ]て後、清盛高野へのぼり、大塔おがみ【拝み】、奥
院へまいら【参ら】れたりければ、いづくより来る共なき老
僧の、眉には霜をたれ、額に浪をたたみ、かせ杖【鹿杖】の
ふたまたなるにすが[B ッ]ていでき【出来】給へり。良久しう
御物語せさせ給ふ。「昔よりいまにいたるまで、此山
は密宗をひかへて退転なし。天下に又も候はず。
大塔すでに修理おはり候たり。さては安芸の厳島、
越前の気比の宮は、両界の垂跡で候が、気比の
宮はさかへ【栄へ】たれ共、厳島はなきが如に荒はて【果て】て候。此
P03039
次に奏聞して修理せさせ給へ。さだにも候はば、官加
階は肩をならぶる人もあるまじきぞ」とて立
れけり。此老僧の居給へる所、異香すなはち
薫じたり。人を付てみせ【見せ】給へば、三町ばかりはみ
え【見え】給[B ヒ]て、其後はかきけつ【消つ】やうに失給[B ヒ]ぬ。ただ人[*「人」に濁点 ]
にあらず、大師にてましましけりと、弥た[B ッ]とくおぼ
えて[M 「おぼしめし」とあり「しめし」をミセケチ「えて」と傍書]、娑婆世界の思出にとて、高野の金堂
に曼陀羅をかか【書か】れけるが、西曼陀羅をば常明法
印といふ絵師に書せらる。東曼陀羅をば清盛
P03040
かかんとて、自筆にかか【書か】れけるが、何とかおもは【思は】れけん、
八葉の中尊の宝冠をばわが首の血をいだい【出い】て
かかれけるとぞ聞えし。さて都へのぼり、院参して
此由奏聞せられければ、君もなのめならず御感
あ[B ッ]て、猶任をのべ【延べ】られ、厳島を修理せらる。鳥居を
立かへ、社々を作りかへ、百八十間の廻廊をぞ造ら
れける。修理をは[B ッ]て、清盛厳島へまいり【参り】、通夜せられ
たりける夢に、御宝殿の内より鬟ゆふ【結う】たる天
童の出て、「これは大明神の御使也。汝この剣をもて
P03041
一天四海をしづめ、朝家の御まもりたるべし」とて、
銀のひるまき【蛭巻】したる小長刀を給はるといふ夢を
みて、覚て後見給へば、うつつに枕がみ【枕上】にぞた【立つ】たりける。
大明神御詫宣あて、「汝しれ【知れ】りや、忘れりや、ある
聖をもていはせし事は。但悪行あらば、子孫までは
かなふ【叶ふ】まじきぞ」とて、大明神あがら【上がら】せ給ぬ。目出た
『頼豪』S0306
かりし[M 御]事[B 共]也。○白河[B ノ]院御在位の御時、京極大殿
の御むすめ后にたたせ給て、兼子【*賢子】の中宮とて、御
最愛有けり。主上此御腹に皇子御誕生あら
P03042
まほしうおぼしめし【思し召し】、其比有験の僧と聞えし三
井寺の頼豪阿闍梨をめし【召し】て、「汝此后の腹に、皇
子御誕生祈申せ。御願成就せば、勧賞はこふ【乞ふ】に
よるべし」とぞ仰ける。「やすう候」とて三井寺にかへり、
百日肝胆を摧て祈申ければ、中宮やがて百日の
うちに御懐妊あて、承保元年十二月十六日、御
産平安、皇子御誕生有けり。君なのめならず
御感あて、三井寺の頼豪阿闍梨をめし【召し】て、「汝が所
望の事はいかに」と仰下されければ、三井寺に戒壇
P03043
建立の事を奏す。主上「これこそ存の外の所望
なれ。一階僧正などをも申べきかとこそおぼしめし【思し召し】
つれ。凡は皇子御誕生あて、祚をつが【継が】しめん事も、
海内無為を思ふため也。今汝が所望達せば、山門
いきどほ【憤つ】て世上しづかなるべからず。両門合戦して、
天台の仏法ほろびなんず」とて、御ゆるされ【許され】もな
かりけり。頼豪口おしい【惜しい】事也とて、三井寺にか
へ【帰つ】て、ひ死【干死】にせんとす。主上大におどろかせ給て、
江帥匡房卿、其比は未美作守と聞えしを召て、
P03044
「汝は頼豪と師檀の契あんなり。ゆい【行い】てこしらへ
て見よ」と仰ければ、美作守綸言を蒙て頼豪が
宿坊に行むかひ【向ひ】、勅定の趣を仰含めんとする
に、以[B ノ]外にふすぼたる持仏堂にたてごもて、おそろ
しげ【恐ろし気】なるこゑ【声】して、「天子には戯の詞なし、綸言汗
のごとし【如し】とこそ承れ。是程の所望かなは【叶は】ざらんに
をいては、わが祈りだし【出し】たる皇子なれば、取奉て
魔道へこそゆかんずらめ」とて、遂に対面もせざり
けり。美作守帰りまい【参つ】て、此由を奏聞す。頼豪は
P03045
やがてひ死【干死】に死にけり。君いかがせんずると、叡慮を
おどろかさせおはします。皇子やがて御悩つかせ給
て、さまざまの御祈共有しか共、かなふ【叶ふ】べしともみえ【見え】
させ給はず。白髪なりける老僧の、錫杖も【持つ】て皇
子の御枕にたたずむと[M 「たたずみ」とあり「み」をミセケチ「むと」と傍書]、人々の夢にも見え、まぼろし
にも立けり。おそろし【恐ろし】などもをろか【愚】なり。去程に、
承暦元年八月六日[B ノヒ]、皇子御年四歳にて遂に
かくれさせ給ぬ。敦文の親王是也。主上なのめな
らず御歎あり【有り】けり。山門に又西京の座主、良信【*良真】大
P03046
僧正、其比は円融房の僧都とて、有験の僧と
聞えしを、内裏へめし【召し】て、「こはいかがせんずる」と仰け
れば、「いつも我山の力にてこそか様【斯様】の御願は成就
する事で候へ。九条[B ノ]右丞相O[BH 師輔公も イ]、慈恵大僧正に契申
させ給しによてこそ、冷泉院の皇子御誕生は
候しか。やすい程の御事候」とて、比叡山にかへりの
ぼり、山王大師に百日肝胆を摧て祈申ければ、
中宮やがて百日の内に御懐妊あて、承暦三年
七月九日、御産平安、皇子御誕生有けり。堀河
P03047
天皇是也。怨霊は昔もおそろしき【恐ろしき】事也。今度
さしも目出たき御産に、O[BH 非常の イ]大赦はおこなは【行なは】れたりといへ
共、俊寛僧都一人、赦免なかりけるこそうたてけれ。
同十二月八日、皇子東宮にたたせ給ふ。傅には、小松内
『少将都帰』S0307
大臣、大夫には池の中納言頼盛卿とぞ聞えし。○明
れば治承三年正月下旬に、丹羽少将成経、O[BH 平判官康頼、]肥前
国鹿瀬庄をた【発つ】て、都へといそがれけれ共、余寒猶
はげしく、海上もいたく荒ければ、浦づたひ【浦伝ひ】O[BH 島づたひ【島伝ひ】]して、
きさらぎ【二月】十日比にぞ備前児島に着給ふ。それ
P03048
より父大納言殿のすみ【住み】給ける所を尋いり【入り】て見
給ふに、竹の柱、ふりたる障子なんどにかき【書き】をか【置か】れ
たる筆のすさみを見給て、「人の形見には手跡に
過たる物ぞなき。書をき給はずは、いかでかこれを
みる【見る】べき」とて、康頼入道と二人、よう【読う】ではなき【泣き】、ないて
はよむ。「安元三年七月廿日[B ノヒ]出家、同廿六日信俊下
向」とかか【書か】れたり。さてこそ源左衛門尉信俊がまいり【参り】
たりけるも知れけれ。そばなる壁には、「三尊来迎便
あり。九品往生無疑」ともかか【書か】れたり。此形見を見給
P03049
てこそ、さすが欣求浄土ののぞみもおはしけりと、限
なき歎の中にも、いささかたのもしげ【頼もし気】にはの給ひけれ。
其墓を尋て見給へば、松の一むらある中に、
かひがひしう壇をついたる事もなし。土のすこし【少し】高
き所に少将袖かきあはせ【合はせ】、いき【生き】たる人に物を申やう
に、泣々申されけるは、「遠き御まもり【守り】とならせおはし
まして候事をば、島にてかすか【幽】に伝へ承りしか
共、心にまかせ【任せ】ぬうき身なれば、いそぎまいる【参る】事も
候はず。成経彼島へながされてO[BH のちの便なさ、一日片時の有がたふこそ候ひしか。さすが]露の命消やらず
P03050
して、二とせ【年】ををく【送つ】てめし【召し】かへさるるうれしさは、さる
事にて候へ共、この世にわたらせ給ふをも見まいらせ【参らせ】
て候ばこそ、命のながき【長き】かひもあらめ。是まではいそ
がれつれ共、いまより後はいそぐべし共おぼえず」
と、かきくどゐてぞなか【泣か】れける。誠に存生の時なら
ば、大納言入道殿こそ、いかに共の給ふべきに、生を
へだてたる習ひ程うらめしかり【恨めしかり】ける物はなし。苔
の下には誰かこたふべき。ただ嵐にさはぐ【騒ぐ】松の響ば
かりなり。其夜はよ【夜】もすがら、康頼入道と二人、墓
P03051
のまはりを行道して念仏申、明ぬればあたらしう
壇つき、くぎぬき【釘貫】せさせ、まへに仮屋つくり、七日七夜
念仏申経書て、結願には大なる卒兜婆をたて、
「過去聖霊、出離生死、証大菩提」とかいて、年号月日
の下には、「孝子[* 孝の左にの振り仮名]成経」とかか【書か】れたれば、しづ山がつの心なき
も、子に過たる宝なしとて、泪をながし袖をしぼら
ぬはなかりけり。年去年来れ共、忘がたきは撫育
の昔の恩、夢のごとく【如く】幻のごとし。尽がたきは恋慕
のいまの涙也。三世十方の仏陀の聖衆もあはれみ
P03052
給ひ、亡魂尊霊もいかにうれしとおぼしけん。「今しばらく念仏の功をもつむ【積む】べう候へ共、都に待
人共も心もとなう候らん。又こそまいり【参り】候はめ」とて、
亡者にいとま申つつ、泣々そこをぞ立れける。草
の陰にても余波おしう【惜しう】やおもは【思は】れけん。O[BH 同]三月十
六日、少将鳥羽へあかう【明かう】ぞ付給ふ。故大納言の山
庄、すはま【州浜】殿とて[M 「にて」とあり「に」をミセケチ「ト」と傍書]鳥羽にあり【有り】。住あらして年
へ【経】にければ、築地はあれどもおほい【覆ひ】もなく、門はあ
れ共扉もなし。庭に立入見給へば、人跡たえ【絶え】て
P03053
苔ふかし。池の辺を見まはせば、秋の山の春風に白波し
きりにおり【織り】かけて、紫鴛白鴎逍遥す。興ぜし人の
恋しさに、尽せぬ物は涙也。家はあれ共、らんもん【羅文】
破て、蔀やり戸もたえ【絶え】てなし。「爰には大納言O[BH 殿]のと
こそおはせしか、此妻戸をばかうこそ出入給しか。あの
木をば、みづからこそうへ【植ゑ】給しか」などいひて、ことの
葉につけて、ちち【父】の事を恋しげにこその給ひけ
れ。弥生なかの六日なれば、花はいまだ名残あり【有り】。楊
梅桃李の梢こそ、折しりがほ【折知顔】に色々なれ。昔の
P03054
あるじはなけれ共、春を忘れぬ花なれや。少将花
のもとに立よ【寄つ】て、桃李不言春幾暮煙霞無跡
昔誰栖 K017ふるさとの花の物いふ世なりせばいかにむ
かし【昔】のことをとは【問は】まし W014この古き詩歌を口ずさみ
給へば、康頼入道も折節あはれ【哀】に覚えて、墨染の
袖をぞぬらしける。暮る程とは待れけれ共、あまり
に名残おしく【惜しく】て、夜ふくるまでこそおはしけれ。深
行ままには、荒たる宿のならひ【習ひ】とて、ふるき軒の板
間より、もる月影ぞくまもなき。鶏籠の山明なん
P03055
とすれ共、家路はさらにいそがれず。さても有べき
ならねば、むかへ【向へ】に乗物共つかはし【遣し】て待らんも心なし
とて、泣々すはま【州浜】殿を出つつ、都へかへり入[B レ]けん心の
中共、さこそはあはれ【哀】にもうれしう【嬉しう】も有けめ。康頼入
道がむかへ【向へ】にも乗物あり【有り】けれ共、それにはのら【乗ら】で、「今
さら名残の惜きに」とて、少将の車の尻にの【乗つ】て、七
条河原まではゆく【行く】。其より行別けるに、猶行もやら
ざりけり。花の下の半日の客、月[B ノ]前の一夜の友、旅
人が一村雨の過行に、一樹の陰に立よ【寄つ】て、わかるる
P03056
余波もおしき【惜しき】ぞかし。况や是はうかり【憂かり】し島のす
まひ【住ひ】、船のうち、浪のうへ【上】、一業所感の身なれば、先
世の芳縁も浅からずや思ひしられけん。少将は
しうと【舅】平宰相の宿所へ立入給ふ。少将の母うへは
霊山におはしけるが、昨日より宰相の宿所におはし
てまた【待た】れけり。少将の立入給ふ姿を一目みて、「命あ
れば」とばかり[M ぞ]の給て、引かづいてぞ臥給ふ。宰相の
内の女房、侍共さしつどひ【集ひ】て、みな悦なき【悦び泣き】共しけり。
まして少将の北方、めのとの六条が心のうち、さこそは
P03057
うれしかりけめ。六条は尽せぬ物おもひ【思ひ】に、黒かりし髪
もみなしろく【白く】なり、北方さしも花やかにうつくしう
おはせしか共、いつしかやせ【痩せ】おとろへて、其人共みえ【見え】給は
ず。ながされ給し時、三歳にて別しおさなき【幼き】[B 「おさな」に「若君 イ」と傍書]人、お
となしうなて、髪ゆふ【結ふ】程也。又其[M 御]そばに、三ばかり
なるおさなき【幼き】人のおはしけるを、少将「あれはいかに」と
の給へ【宣へ】ば、六条「是こそ」とばかり申て、袖をかほ【顔】にをし【押し】
あてて涙をながしけるにこそ、さては下りし時、心く
るしげなる有さまを見をき【置き】しが、事ゆへ【故】なくそ
P03058
立【育ち】けるよと、思ひ出てもかなしかり【悲しかり】けり。少将はも
とのごとく院にめし【召し】つかは【使は】れて、宰相中将にあがり
給ふ。康頼入道は、東山双林寺にわが山庄のあり【有り】
ければ、それに落つい【着い】て、先おもひ【思ひ】つづけけり。
ふる里の軒のいたま【板間】に苔むして
おもひ【思ひ】しほどはもら【漏ら】ぬ月かな W015
やがてそこに籠居して、うかり【憂かり】し昔を思ひつづ
『有王』S0308
け、宝物集といふ物語を書けるとぞ聞えし。○去
程に、鬼界が島へ三人ながさ【流さ】れたりし流人、二人は
P03059
めし【召し】かへさ【返さ】れて都へのぼりぬ。俊寛僧都一人、うかり【憂かり】
しO[BH 島の] 島守に成にけるこそうたてけれ。僧都のおさなう【幼う】
より不便にして、めし【召し】つかは【使は】れける童あり【有り】。名をば
有王とぞ申ける。鬼界が島の流人、今日すでに
都へ入と聞えしかば、鳥羽まで行むかふ【向う】て見けれ
共、わがしう【主】は見え給はず。いかにと問ば、「それは猶つみ【罪】
ふかしとて、島にのこされ給ぬ」ときい【聞い】て、心うし
などもをろか【愚】也。常は六波羅辺にたたずみありい【歩い】て
聞けれ共、O[BH いつ]赦免あるべし共聞いださ【出さ】ず。僧都の御
P03060
むすめのしのび【忍び】ておはしける所へまい【参つ】て、「このせ【瀬】にも
もれ【漏れ】させ給て、御のぼりも候はず。いかにもして
彼島へわた【渡つ】て、御行衛【行方】を尋まいらせ【参らせ】んとこそ思ひ
なて候へ。御ふみ【文】給はらん」と申ければ、泣々かいてたう【給う】
だりけり。いとまをこふ【乞ふ】共、よもゆるさ【許さ】じとて、父にも
母にもしらせず、もろこし船のともづなは、卯月さ月【五月】
にとく【解く】なれば、夏衣たつ【裁つ】を遅くや思けん、やよひ【弥生】
の末に都を出て、多くの浪路を凌ぎつつ、薩摩潟
へぞ下りける。薩摩より彼島へわたる船津にて、
P03061
人あやしみ、き【着】たる物をはぎ【剥ぎ】とりなどしけれ共、すこ
し【少し】も後悔せず。姫御前の御文ばかりぞ人に見せじ
とて、もとゆひ【元結】の中に隠したりける。さて商人船に
の【乗つ】て、件の島へわた【渡つ】てみる【見る】に、都にてかすか【幽】につたへ
聞しは事のかずにもあらず。田もなし、畠もなし。村
もなし、里もなし。をのづから人はあれ共、いふ詞も聞
しら【知ら】ず。有王島の者にゆきむかて[M 「もしか様【斯様】の者共の中に、わがしう【主】の行え【行方】や
しり【知り】たるものやあらんと」をミセケチ「有王島の者にゆきむかて」と傍書]、「物まうさう」どいへば、「何事」と
こたふ。「是に都よりながされ給し、法勝寺執行御房
P03062
と申人の御行ゑ【行方】やしり【知り】たる」と問に、法勝寺共、執
行共し【知つ】たらばこそ返事もせめ。頭をふて知ずといふ。
其中にある者が心得て、「いさとよ、さ様の人は三人
是に有しが、二人はめし【召し】かへさ【返さ】れて都へのぼりぬ。今一
人はのこされて、あそこ爰にまどひありけ【歩け】共、行ゑ【行方】
もしら【知ら】ず」とぞいひける。山のかたのおぼつかなさに、はる
かに分入、峯によぢ、谷に下れ共、白雲跡を埋で、ゆき
来の道もさだかならず。青嵐夢を破て、その面影も
見えざりけり。山にては遂に尋もあはず。海の辺に
P03063
ついて尋るに、沙頭に印を刻む鴎、澳のしら州【白州】に
すだく浜千鳥の外は、跡とふ物もなかりけり。ある
朝[B タ]、いその方よりかげろふ【蜻蛉】[* 「かげろふ」に「蜻蛉」と振り漢字]などのやうにやせ【痩せ】おとろへ
たる者一人よろぼひ出きたり。もとは法師にて有
けりと覚えて、髪は空さま【空様】へおひ【生ひ】あがり、よろづの
藻くづとりつい【付い】て、おどろ【棘】をいただいたるがごとし【如し】。つぎ
目【継ぎ目】[B 「つき」に「節」と傍書]あらはれ【現はれ】て皮ゆたひ、身にき【着】たる物は絹布のわ
き【別】も見えず。片手にはあらめを[M ひろい【拾ひ】]もち、片手
には[M 網うど【人】に]魚を[M もらふて]もち、歩むやうにはしけ
P03064
れ共、はかもゆかず、よろよろとして出きたり。「都に
て多くの乞丐人み【見】しか共、かかる者をばいまだみ
ず。「諸阿修羅等居在大海辺」とて、修羅の三悪四趣
は深山大海のほとりにありと、仏の解をき給ひた
れば、しら【知ら】ず、われ餓鬼道に迷[B 「尋」の左に「迷」と傍書]来るか」と思ふ程に、
かれも是も次第にあゆみ【歩み】ちかづく【近付く】。もしか様【斯様】のもの
も、わがしう【主】の御ゆくゑ【行方】知たる事やあらんと、「物まう
さう」どいへば、「何ごと」とこたふ。是に都よりながされ給
し、法勝寺執行御房と申人の、御行ゑ【行方】や知たる」と
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問に、童は見忘れたれ共、僧都は争[M 「何とてか」をミセケチ「争」と傍書]忘べきなれば、
「是こそそよ」といひもあへず、手にもて【持て】る物をなげ
捨て、いさご[M 「すなご」とあり「すな」をミセケチ「いさ」と傍書]【砂子】の上にたふれ【倒れ】ふす。さてこそわがしう【主】の
O[BH 御]行ゑ【行方】は[M 「も」をミセケチ「は」と傍書]しり【知り】てげれ。O[BH 僧都]やがてきえ入給ふを、ひざの上
にかきのせ【掻き乗せ】奉り、「有王がまい【参つ】て候。多くの浪路を
しのいで、是まで尋まいり【参り】たるかひもなく、いかに
やがてうき目をば見せさせ給ふぞ」と泣々申けれ
ば、ややあて、すこし【少し】人心ち出き、たすけ【助け】おこされて、
「誠に汝が是まで尋来たる心ざしの程こそ神妙なれ。
P03066
明ても暮ても、都の事のみ思ひゐ【居】たれば、恋しき
者共が面影は、夢にみる【見る】おり【折】もあり【有り】、まぼろしに
たつ時もあり【有り】。身もいたくつかれ【疲れ】よは【弱つ】て後は、夢も
うつつもおもひ【思ひ】わかず。されば汝が来れるも、ただ夢と
のみこそおぼゆれ。もし此事の夢ならば、さめての後
はいかがせん」。有王「うつつにて候也。此御ありさまにて、
今まで御命ののび【延び】させ給て候こそ、不思儀には
覚え候へ」と申せば、「さればこそ。去年少将や判官入道
に捨られて後のたよりなさ、心の中をばただをし
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はかる【推し量る】べし。そのせ【瀬】に身をもなげんとせしを、よしなき
少将の「今一度都の音づれをもまて【待て】かし」など、なぐ
さめをき【置き】しを、をろか【愚】にもし【若し】やとたのみ【頼み】つつ、ながらへ【永らへ】ん
とはせしか共、此島には人のくい物【食ひ物】たへ【絶え】てなき所な
れば、身に力の有し程は、山にのぼ【上つ】て湯黄[B 「湯」に「硫」と傍書]と云物を
とり、九国よりかよふ商人にあひ、くい物【食ひ物】にかへなど
せしか共、日にそへてよはり【弱り】ゆけば、今はその態もせず。
かやうに日ののどかなる時は、磯に出て網人・釣人に、
手をすりひざをかがめて、魚をもらい、塩干の時は
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貝をひろひ【拾ひ】、あらめをとり、磯の苔に露の命を
かけてこそ、けふ【今日】までもながらへ【永らへ】たれ。さらでは浮世を
渡るよすがをば、いかにしつらんとか思ふらん。爰
にて何事もいはばやとはおもへ【思へ】共、いざわが家へ」との
給へ【宣へ】ば、此御ありさまにても家をもち給へるふし
ぎさ【不思議さ】よと思て行程に、松の一村ある中により竹【寄竹】
を柱にして、葦をゆひ、けた【桁】はり【梁】にわたし、上にもした【下】
にも、松の葉をひしと取かけたり。雨風たまるべう
もなし。昔は、法勝寺の寺務職にて、八十余ケ所の
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庄務をつかさどられしかば、棟門平門の内に、四五百
人の所従眷属に囲饒せられてこそおはせしが、ま【目】
のあたりかかるうき目を見給ひけるこそふしぎ【不思議】なれ。
業にさまざまあり【有り】。順現・順生・順後業といへり。僧都
一期の間、身にもちゐる処、大伽藍の寺物仏物に
あらずと云事なし。さればかの信施無慙の罪によて、
『僧都死去』S0309
今生にはや感ぜられけりとぞ見えたりける。○僧都
うつつ【現】にてあり【有り】とおもひ【思ひ】定て、「抑去年少将や判
官入道がむかへ【向へ】にも、是等が文と云事もなし。今汝がた
P03070
よりにも音づれのなきは、かう共いはざりけるか」。有王
涙にむせびうつぶして、しばしはものも申さず。やや
あ【有つ】ておきあがり、泪ををさへ【抑へ】て申けるは、「君の西八条
へ出させ給しかば、やがて追捕官人まい【参つ】て、御内の人々
搦取、御謀反の次第を尋て、うしなひ【失ひ】はて候ぬ。北
方はおさなき【幼き】人を隠しかねまいら【参ら】させ給ひて、鞍馬
の奥にしのば【忍ば】せ給て候しに、此童ばかりこそ時々まい【参つ】
て宮仕つかまつり候しか。いづれも御歎のをろか【愚】なる事
は候はざO[BH り]しか共、おさなき【幼き】人はあまりに恋まいら【参ら】させ
P03071
給て、まいり【参り】候たび毎に、「有王よ、鬼界が島とかやへわれ
ぐし【具し】てまいれ【参れ】」とむつからせ給候しが、過候し二月に、
もがさ[* 「もがさ」に「痘」と振り漢字]と申事に失させ給候ぬ。北方は其御歎と
申、是の御事と申、一かたならぬ御思にしづませ
給ひ、日にそへてよはら【弱ら】せ給候しが、同三月二日の
ひ、つゐに【遂に】はかなく【果敢く】ならせ給ぬ。いま姫御前ばかり、
奈良の姑御前の御もとに御わたり候。是に御文
給はてまい【参つ】て候」とて、取いだいて奉る。あけて見給へ
ば、有王が申にたがは【違は】ず書れたり。奥には、「などや、
P03072
三人ながされたる人の、二人はめし【召し】かへさ【返さ】れてさぶらふ【候ふ】に、
今まで御のぼりさぶらはぬぞ。あはれ、高もいやしき
も、女の身ばかり心うかり【憂かり】ける物はなし。おのこ【男】[M 「おのこゝ【男子】」とあり「ゝ」をミセケチ]の身にて
さぶらはば、わたらせ給ふ島へも、などかまいら【参ら】でさぶ
らふ【候ふ】べき。この有王御供にて、いそぎのぼらせ給へ」と
ぞかか【書か】れたる。O[BH 僧都此文をかほにをし【押し】あてて、しばしは物ものたまは【宣は】ず。良あつて、]「是見よ有王、この子が文の書やうのは
かなさよ。をのれ【己】を供にて、いそぎのぼれと書たる事
こそうらめしけれ【恨めしけれ】。心にまかせ【任せ】たる俊寛が身ならば、
何とてかO[BH 此島にて]三とせ【三年】の春秋をば送るべき。今年は十二
P03073
になるとこそ思ふに、是程はかなく【果敢く】ては、人にも見え、
宮仕をもして、身をもたすく【助く】べきか」とてなか【泣か】れける
にぞ、人の親の心は闇にあらね共、子を思ふ道にま
よふ程もしら【知ら】れける。「此島へながされて後は、暦もな
ければ、月日のかはり行をもしら【知ら】ず。ただをのづから【自】花
のちり【散り】葉の落るを見て春秋をわきまへ、蝉の
声麦秋を送れば夏とおもひ【思ひ】、雪のつもるを冬と
しる。白月黒月のかはり行をみて、卅日をわきまへ、
指をお【折つ】てかぞふれば、今年は六になるとおもひ【思ひ】つるお
P03074
さなき【幼き】者も、はや先立けるごさんなれ。西八条へ出
し時、この子が、「我もゆかう」どしたひ【慕ひ】しを、やがて帰らふ
ずるぞとこしらへをき【置き】しが、今の様におぼゆる【覚ゆる】ぞや。
其を限りと思はましかば、今しばしもなどか見ざら
ん。親となり、子となり、夫婦の縁をむすぶも、みな
此世ひとつ【一つ】にかぎらぬ契ぞかし。などさらば、それらが
さ様に先立けるを、今まで夢まぼろしにもしら【知ら】
ざりけるぞ。人目も恥ず、いかにもして命いか【生か】うど思し
も、これらを今一度見ばやと思ふためなり。姫が事計[M 「こ姫が事」をミセケチ「計」と傍書]
P03075
こそ心ぐるしけれ共、それは[M 「も」をミセケチ「は」と傍書]いき身【生き身】なれば、
歎きながらもすごさ【過さ】んずらん。さのみながらへ【永らへ】て、を
のれ【己】にうき目を見せんも、我身ながらつれなかるべし」
とて、をのづからの食事を[M も]とどめ【留め】、偏に弥陀の名
号をとなへて、臨終正念をぞいのら【祈ら】れける。有王わ
た【渡つ】て廿三日と云に、其庵りのうちにて遂におはり
給ぬ。年卅七とぞ聞えし。有王むなしき【空しき】姿に取
つき、天に仰ぎ地に伏て、泣かなしめ共かひぞなき。
心の行程泣あき【飽き】て、「やがて後世の御供仕べう候へ共、
P03076
此世には姫御前ばかりこそ御渡候へ、後世訪ひまいら
す【参らす】べき人も候はず。しばしながらへ【永らへ】て御菩提[M 「後世」をミセケチ「御菩提」と傍書]訪ひまいら
せ【参らせ】候はん」とて、ふしどをあらため【改め】ず、庵をきり【切り】かけ、
松のかれ枝【枯れ枝】、蘆の枯葉を取おほひ【覆ひ】、藻塩のけぶりと
なし奉り、荼■[田+比]事をへ[* 「を」に「終」と振り漢字]【終へ】にければ、白骨をひろひ【拾ひ】、
頸にかけ、又商人船のたよりに九国の地へぞ着にけ
る。O[BH それよりいそぎ都へのぼり、]僧都の御むすめのおはしける所にまい【参つ】て、有し様、
始よりこまごまと申。「中々御文を御覧じてこそ、
いとど御思ひはまさらせ給て候しか。O[BH 件の島には]硯も紙も候はね
P03077
ば、御返事にも及ばず。おぼしめさ【思し召さ】れ候し御心の内、
さながらむなしうてやみ候にき。今は生々世々を送、
他生曠劫をへだつ共、いかでか御声をもきき、御姿を
も見まいら【参ら】させ給ふべき」と申ければ、ふしまろび、こゑ
も惜ずなか【泣か】れけり。やがて十二の年尼になり、奈良
の法華寺に勤[* 左にの振り仮名]すまし【澄まし】て、父母の後世を訪ひ給ふぞ
哀なる。有王は俊寛僧都の遺骨を頸にかけ、高
野へのぼり、奥院に納めつつ、蓮花谷にて法師になり、
諸国七道修行して、しう【主】の後世をぞ訪ける。か様【斯様】に
P03078
人の思歎きのつもり【積り】ぬる平家の末こそおそろし
『飆』S0310
けれ【恐ろしけれ】。○同五月十二日午剋ばかり、京中には辻風おびたた
しう【夥しう】吹[* 「明」と有るのを他本により訂正]て、人屋おほく【多く】顛到す。風は中御門京極より
おこ【起こつ】て、末申の方へ吹[* 「明」と有るのを他本により訂正]て行に、棟門平門を吹ぬ
い[M 「ぬき」とあり「き」をミセケチ「い」と傍書]て、四五町十町吹もてゆき、けた【桁】・なげし【長押】・柱などは
虚空に散在す。桧皮ふき板【葺板】のたぐひ、冬の木葉の
風にみだるるが如し。おびたたしう【夥しう】なり【鳴り】どよむ音[M 「事」をミセケチ「音」と傍書]、
彼地獄の業風なり共、これには過じとぞみえ【見え】し。ただ
舎屋の破損するのみならず、命を失なふ人も多
P03079
し。牛馬のたぐひ数を尽して打ころさ【殺さ】る。是ただ
事にあらず、御占あるべしとて、神祇官にして
御占あり【有り】。「今百日のうちに、禄ををもんずる【重んずる】大臣の
慎み別しては天下の大事、並に仏法王法共に傾
て、兵革相続すべし」とぞ、神祇官陰陽寮共に
『医師問答』S0311
うらなひ申ける。○小松のおとど、か様【斯様】の事共を聞給
て、よろづ心ぼそうやおもは【思は】れけん、其比熊野参
詣の事有けり。本宮証誠殿の御前にて、夜も
すがら敬白せられけるは、「親父入道相国の体をみる【見る】に、
P03080
悪逆無道にして、ややもすれば君をなやまし奉る。
重盛長子として、頻に諫をいたすといへ共、身
不肖の間、かれもて服膺せず。そのふるまひ【振舞】をみる【見る】
に、一期の栄花猶あやうし。枝葉連続して、親を
顕し名を揚げん事かたし。此時に当て、重盛い
やしうも思へり。なまじいに列して世に浮沈せん
事、敢て良臣孝子の法にあらず。しかじ、名を逃れ
身を退て、今生の名望を抛て、来世の菩提を求
めんには。但凡夫薄地、是非にまどへるが故に、猶心ざし
P03081
を恣にせず。南無権現金剛童子、願くは子孫繁栄
たえ【絶え】ずして、仕て朝廷にまじはるべくは、入道の悪心
を和げて、天下の安全を得しめ給へ。栄耀又一期
をかぎ[B ッ]【限つ】て、後混恥に及べくは、重盛が運命をつづめて、
来世の苦輪を助け給へ。両ケの求願、ひとへに冥助
を仰ぐ」と肝胆を摧て祈念せられけるに、燈籠
の火のやうなる物の、おとどの御身より出て、ばと消
るがごとく【如く】して失にけり。人あまた見奉りけれ共、
恐れて是を申さず。又下向の時、岩田川を渡られ
P03082
けるに、嫡子権亮少将維盛以下の公達、浄衣のした【下】
に薄色のきぬを着て、夏の事なれば、なにとな
う河の水に戯給ふ程に、浄衣のぬれて、きぬ【衣】に
うつ【移つ】たるが、偏に色のごとくに見えければ、筑後守貞
能これを見とがめて、「何と候やらん、あの御浄衣の
よにいまはしき【忌はしき】やうに見えさせおはしまし候。めし【召し】
かへらるべうや候らん」と申ければ、おとど、「わが所願既に
成就しにけり。其浄衣敢てあらたむべからず」とて、
別して岩田川より、熊野へ悦の奉幣をぞ
P03083
立られける。人あやしと思ひけれ共、其心をえず。
しかる【然る】に此公達、程なくまこと【誠】の色をき【着】給けるこそ
ふしぎ【不思議】なれ。下向の後、いくばくの日数を経ずして、
病付給ふ。権現すでに御納受あるにこそとて、療
治もし給はず、祈祷をもいたされず。其比宋朝より
すぐれたる名医わた[B ッ]【渡つ】て、本朝にやすらふことあり【有り】。境
節入道相国、福原の別業におはしけるが、越中守[B 「守」に「前司」と傍書]盛
俊を使者で、小松殿へ仰られけるは、「所労弥大事
なる由其聞えあり【有り】。兼又宋朝より勝たる名医
P03084
わたれり。折節悦とす。是をめし【召し】請じて医療
をくはへ【加へ】しめ給へ」と、の給ひつかはさ【遣さ】れたりければ、小
松殿たすけ【助け】おこされ、盛俊を御前へめし【召し】て、「まづ
「医療の事、畏て承候ぬ」と申べし。但汝も承
れ。延喜御門はさばかの賢王にてましましけれ
共、異国の相人を都のうちへ入させ給たりけるをば、
末代までも賢王の御誤、本朝の恥とこそみえ【見え】けれ。
况や重盛ほどの凡人が、異国の医師を王城へ
いれ【入れ】ん事、国の辱にあらずや。漢高祖は三尺の剣
P03085
を提て天下を治しかども、淮南[* の右にの振り仮名]の黥布を討し時、
流矢にあたて疵を蒙る。后呂太后、良医をむかへ【向へ】て
見せしむるに、医のいはく、「此疵治しつべし。但五十
斤[* 「十」に圏濁点]の金をあたへば治せん」といふ。高祖の給はく、「われ
まもり【守り】のつよか[B ッ]【強かつ】し程は、多くのたたかひ【戦ひ】にあひ[* 「あひ」に「逢」と振り漢字]て疵
を蒙りしか共、そのいたみなし。運すでに尽ぬ。命
はすなはち天にあり【有り】。縦偏鵲といふ共、なんの益か
あらん。しかれ[M 「しから」とあり「ら」をミセケチ「れ」と傍書]ば又かねを惜むに似たり」とて、五十こむ【斤】
の金を医師にあたへながら、つゐに【遂に】治せざりき。先
P03086
言耳にあり【有り】、今もて甘心す。重盛いやしくも九卿に
列して三台にのぼる。其運命をはかるに、もて天心に
あり【有り】。なんぞ天心を察ずして、をろか【愚】に医療をいた
はしうせむや。所労もし定業たらば、いれう【医療】をくはう【加ふ】
共ゑき【益】なからんか。又非業たらば、療治をくはへ【加へ】ず共たすかる事をうべし。彼耆婆が医術及ばずして、
大覚世尊、滅度を抜提河の辺に唱ふ。是則、定業
の病いやさ【癒さ】ざる事をしめさ【示さ】んが為也。定業猶医療
にかかはる【拘はる】べう候ば、豈尺尊【*釈尊】入滅あらんや。定業又[M 治]
P03087
治するに堪ざる旨あきらけし。治するは仏体也、療
するは耆婆也。しかれば重盛が身仏体にあらず、
名医又耆婆に及べからず。たとひ四部の書をかが
みて、百療に長ずといふ共、いかでか有待の穢身を救
療せん。たとひ五経の説を詳にして、衆病をいや
すと云共、豈先世の業病を治せんや。もしかの医術
によて存命せば、本朝の医道なきに似たり。医術
効験なくんば、面謁所詮なし。就中本朝鼎臣の外
相をも[B ッ]て、異朝富有の来客にまみえ【見え】ん事、
P03088
且は国の恥、且は道の陵遅也。たとひ重盛命は
亡ずといふ共、いかでか国の恥をおもふ【思ふ】心を存ぜざらん。
此由を申せ」とこその給ひけれ。盛俊福原に帰り
まい【参つ】て、此由泣々申ければ、入道相国「是程国の恥
を思ふ大臣、上古にもいまだきかず。まして末代に
あるべし共覚えず。日本に相応せぬ大臣なれば、
いかさまにも今度うせ【失せ】なんず」とて、なくなく【泣く泣く】急ぎ都
へ上られけり。同七月廿八日、小松殿出家し給ぬ。法名は
浄蓮とこそつき【付き】給へ。やがて八月一日[B ノヒ]、臨終正念に住
P03089
して遂に失給ぬ。御年四十三、世はさかりとみえ【見え】つるに、
哀なりし事共也。「入道相国のさしもよこ紙をやら【破ら】れ
つるも、此人のなをし【直し】なだめ【宥め】られつればこそ、世もお
だしかり【隠しかり】つれ。此後天下にいかなる事か出こ【来】んず
らむ」とて、京中の上下歎きあへり。前右大将宗盛
卿のかた様の人は、「世は只今大将殿へまいり【参り】なん
ず」とぞ悦ける。人の親の子を思ふならひはをろ
か【愚】なるが、先立だにもかなしき【悲しき】ぞかし。いはんや是は
当家の棟梁、当世の賢人にておはしければ、恩愛
P03090
の別、家の衰微、悲でも猶余あり【有り】。されば世には
良臣をうしなへ【失へ】る事を歎き、家には武略のすた
れ【廃れ】ぬる事をかなしむ。凡は此おとど【大臣】文章うるはし
うして、心に忠を存じ、才芸すぐれて、詞に徳を兼
『無文』S0312
給へり。○天性このおとど【大臣】は不思議の人にて、未来の
事をもかねて【予て】さとり給けるにや。去四月七日の夢
に、見給けるこそふしぎ【不思議】なれ。たとへば、いづく共しらぬ
浜路を遥々とあゆみ【歩み】行給ふ程に、道の傍に大なる
鳥居の有けるを、「あれはいかなる鳥居やらん」と、問
P03091
給へば、「春日大明神の御鳥井也」と申。人多く群集
したり。其中に法師の頸を一さしあげ【差し上げ】たり。「さてあの
くびはいかに」と問給へば、「是は平家太政入道殿[M の御
頸を]、悪行超過し給へるによて、当社大明神のめし【召し】
とらせ給て候」と申と覚えて、夢うちさめ、当家は
保元平治よりこのかた、度々の朝敵をたひらげて、
勧賞身にあまり、かたじけなく一天の君の御外
戚として、一族の昇進六十余人。廿余年のこのかた
は、たのしみさかへ【栄え】、申はかりもなかりつるに、入道の悪行
P03092
超過せるによて、一門の運命すでにつき【尽き】んずる
にこそと、こし方行末の事共、おぼしめし【思し召し】つづけ
て、御涙にむせばせ給ふ。折節妻戸をほとほとと打
たたく。「た【誰】そ。あれきけ【聞け】」との給へ【宣へ】ば、「瀬尾太郎兼
康がまい【参つ】て候」と申。「いかに、何事ぞ」との給へ【宣へ】ば、「只
今不思議の事候て、夜の明候はんがをそう【遅う】覚え
候間、申さんが為にまい【参つ】て候。御まへの人をのけ【除け】ら
れ候へ」と申ければ、おとど【大臣】人を遥にのけて御対面
あり【有り】。さて兼康見たりける夢のやうを、始より終〔まで〕
P03093
くはしう【詳しう】語り申けるが、おとど【大臣】の御覧じたりける御
夢にすこし【少し】もたがは【違は】ず。さてこそ、瀬尾太郎兼
康をば、「神にも通じたる物にて有けり」と、おとど【大臣】
も感じ給ひけれ。其朝嫡子権亮少将維盛、院[B ノ]
御所へまいら【参ら】んとて出させ給たりけるを、おとど【大臣】よ
び奉て、「人の親の身としてか様【斯様】の事を申せば、
きはめておこがましけれ共、御辺は人の子共の中
には勝てみえ【見え】給ふ也。但此世の中の有様、いかがあ
らむずらんと、心ぼそうこそ覚れ。貞能はないか。
P03094
少将に酒すすめよ」との給へば、貞能御酌にまいり【参り】
たり。「この盃をば、先少将にこそとら【取ら】せたけれ共、
親より先にはよものみ【飲み】給はじなれば、重盛まづ取あ
げて、少将にささん」とて、三度うけ【受け】て、少将にぞさされ
ける。少将又三度うけ給ふ時、「いかに貞能、引出物せ
よ」との給へ【宣へ】ば、畏て承り、錦の袋にいれ【入れ】たる御太刀
を取出す。「あはれ、是は家に伝はれる小烏といふ太刀
やらん」など、よにうれしげに思ひて見給ふ処に、
さはなくして、大臣葬の時もちゐる無文の太刀に
P03095
てぞ有ける。其時少将けしき【気色】[M はと]かはて、よにいま
はしげ【忌はし気】にみ【見】給ければ、おとど【大臣】涙をはらはらとながい【流い】て、
「いかに少将、それは貞能がとが【咎】にもあらず。其故は
如何にといふに、此太刀は大臣葬の時もちゐる無文
の太刀也。入道いかにもおはせん時、重盛がはい【佩い】て供せん
とて持たりつれ共、今は重盛、入道殿に先立奉らん
ずれば、御辺に奉るなり」とぞの給ひける。少将是
を聞給て、とかうの返事にも及ばず。涙にむせびう
つぶして、其日は出仕もし給はず、引かづきてぞふし
P03096
給ふ。其後おとど【大臣】熊野へまいり【参り】、下向して病つき、幾
程もなくして遂に失給ひけるにこそ、げにもと思ひ
『燈炉之沙汰』S0313
しられけれ。○すべて此大臣は、滅罪生善の御心ざしふ
かう【深う】おはしければ、当来の浮沈をなげいて、東山の麓
に、六八弘誓の願になぞらへて、四十八間の精舎をたて、
一間にひとつ【一つ】づつ、四十八間に四十八の燈籠をかけ【懸け】られ
たりければ、九品の台、目の前にかかやき【輝き】、光耀鸞
鏡をみがいて、浄土の砌にのぞめるがごとし。毎月十
四O[BH 日十]五O[BH 日]を点じて、当家他家の人々の御方より、みめ【眉目】
P03097
ようわかう【若う】さかむ【壮】なる女房達を多く請じ集め、
一間に六人づつ、四十八間に二百八十八人、時衆にさだ
め、彼両日が間は一心O[BH 果報の]称名声絶ず。誠に来迎引摂
のO[BH 悲]願もこの所に影向をたれ、摂取不捨の光も此大臣
を照し給ふらんとぞみえ【見え】し。十五日の日中を結願と
して大念仏有しに、大臣みづから彼行道の中に
まじは[B ッ]て、西方にむかひ【向ひ】、「南無安養教主弥陀善逝、三
界六道の衆生を普く済度し給へ」と、廻向発願
せられければ、みる【見る】人慈悲をおこし、きく物感涙を
P03098
もよほしけり。かかりしかば、此大臣をば燈籠大臣と
『金渡』S0314
ぞ人申ける。○又おとど【大臣】、「我朝にはいかなる大善根をしを
い【置い】たり共、子孫あひついでとぶらはむ[M 「う」をミセケチ「む」と傍書]事有がたし。他
国にいかなる善根をもして、後世を訪はればや」とて、
安元の此ほひ、鎮西より妙典といふ船頭をめし【召し】の
ぼせ【上せ】、人を遥にのけ【除け】て御対面あり【有り】。金を三千五
百両めし【召し】よせて、「汝は大正直の者であんなれば、五百
両をば汝にたぶ。三千両を宋朝へ渡し、育王山へまい
らせ【参らせ】て、千両を僧にひき、二千両をば御門へまいら
P03099
せ【参らせ】、田代を育王山へ申よせて、我後世とぶらはせよ」
とぞの給ける。妙典是を給はて、万里の煙浪を凌
ぎつつ、大宋国へぞ渡りける。育王山の方丈仏照
禅師徳光にあひ奉り、此由申たりければ、随喜
感嘆して、千両を僧にひき、二千両をば御門へ
まいらせ【参らせ】、おとど【大臣】の申されける旨を具に奏聞せられ
たりければ、御門大に感じおぼしめし【思し召し】て、五百町
の田代を育王山へぞよせ【寄せ】られける。されば日本の大
臣平[B ノ]朝O[BH 臣]重盛公の後生善処と祈る事、いまに絶ず
P03100
『法印問答』S0315
とぞ承る。○入道相国、小松殿にをくれ【遅れ】給て、よろづ心
ぼそうや思はれけん、福原へ馳下り、閉門してこそ
おはしけれ。同十一月七日の夜戌剋ばかり、大地おびたた
しう動てやや久し。陰陽頭安陪【*安倍】泰親、いそぎ内裏
へ馳まい【参つ】て、「今度の地震、占文のさす所、其慎みかろ
から【軽から】ず。当道三経の中に、根器経の説を見候に、
「年をえ【得】ては年を出ず、月をえ【得】ては月を出ず、日を
え【得】ては日を出ず」とみえ【見え】て候。以外に火急候」とて、はら
はらとぞ泣ける。伝奏の人も色をうしなひ【失ひ】、君も
P03101
叡慮をおどろかさせおはします。わかき公卿殿上人は、
「けしからぬ泰親が今の泣やうや。何事の有べき」
とて、わらひ【笑ひ】あはれけり。され共、この【此の】泰親は晴明五代の
苗裔をうけて、天文は淵源をきはめ、推条掌をさす
が如し。一事もたがは【違は】ざりければ、さす【指】の神子とぞ
申ける。いかづち【雷】の落かかりたりしか共、雷火の為に
狩衣の袖は焼ながら、其身はつつが【恙】もなかりけり。上代
にも末代にも、有がたかりし泰親也。同十四日、相国
禅門、此日ごろ福原におはしけるが、何とかおもひ【思ひ】なられ
P03102
たりけむ、数千騎の軍兵をたなびいて、都へ入
給ふ由聞えしかば、京中何と聞わきたる事は
なけれ共、上下恐れおののく。何ものの申出したり
けるやらん、「入道相国、朝家を恨み奉るべし」と披
露をなす。関白殿内々きこしめさ【聞し召さ】るる旨や有けん、
急ぎ御参内あて、「今度相国禅門入洛の事は、
ひとへに基房亡すべき結構にて候也。いかなる目に逢
べきにて候やらん」と奏せさせ給へば、主上大におどろ
かせ給て、「そこにいかなる目にもあはむは、ひとへにただ
P03103
わがあふにてこそあらんずらめ」とて、御涙をながさ
せ給ふぞ忝き。誠に天下の御政は、主上摂録の
御ぱからひにてこそあるに、こはいかにしつる事共ぞや。
天照大神・春日大明神の神慮の程も計がたし。同
十五日、入道相国朝家を恨み奉るべき事必定と
聞えしかば、法皇大におどろかせ給て、故少納言入道信
西の子息、静憲法印を御使にて、入道相国のもとへ
つかはさ【遣さ】る。「近年、朝廷しづかならずして、人の心も
ととのほら【整のほら】ず。世間もO[BH 未]落居せぬさまに成行事、
P03104
惣別につけて歎きおぼしめせ【思し召せ】共、さてそこにあれば、
万事はたのみ【頼み】おぼしめし【思し召し】てこそあるに、天下をしづむ
るまでこそなからめ、嗷々なる体にて、あま[B ッ]さへ【剰へ】朝家
を恨むべしなどきこしめす【聞し召す】は、何事ぞ」と仰つかはさ【遣さ】
る。静憲法印、御使に西八条の亭へむかふ【向ふ】。朝より夕
に及ぶまで待れけれ共、無音也ければ、さればこそ
と無益に覚えて、源大夫判官季貞をもて、勅定
の趣きいひ入させ、「いとま申て」とて出られければ、其時
入道「法印よべ」とて出られたり。喚かへい【返い】て、「やや法印御
P03105
房、浄海が申処は僻事か。まづ内府が身まかり【罷り】候
ぬる事、当家の運命をはかるにも、入道随分悲
涙ををさへ【抑へ】てこそ罷過候へ。御辺の心にも推察し
給へ。保元以後は、乱逆打つづいて、君やすい御心もわた
らせ給はざりしに、入道はただ大方を取おこなふ【行ふ】ばかりで
こそ候へ、内府こそ手をおろし、身を摧て、度々の逆
鱗をばやすめ【休め】まいらせ【参らせ】て候へ。其外臨時の御大事、
朝夕の政務、内府程の功臣有がたうこそ候らめ。爰
をもて古を思ふに、唐の太宗は魏徴にをくれ【遅れ】て、
P03106
かなしみのあまりに、「昔の殷宗は夢のうちに良
弼をえ、今の朕はさめ〔て〕の後賢臣を失ふ」といふ
碑の文をみづから書て、廟に立てだにこそかなし
み給ひけるなれ。我朝にも、ま近く見候し事ぞ
かし。顕頼民部卿が逝去したりしをば、故院殊に
御歎あ[B ッ]て、八幡行幸延引し、御遊なかりき。惣[* 左にの振り仮名]て臣下
の卒するをば、代々〔の〕御門みな御歎ある事でこそ
候へ。さればこそ、親よりもなつかしう【懐しう】、子よりもむつまし
きは、君と臣との中とは申事にて候らめ。され共、内
P03107
府が中陰に八幡の御幸あて御遊あり【有り】き。御歎の
色、一事も是をみず。たとひ入道がかなしみを御
あはれみなく共、などか内府が忠をおぼしめし【思し召し】忘れ
させ給ふべき。たとひ内府が忠をおぼしめし【思し召し】忘
れさせ給共、いかでか入道が歎を御あはれみなから
む。父子共に叡慮に背候ぬる事、今にをいて面
目を失ふ、是一。次に、越前[B ノ]国をば子々孫々まで御
変改あるまじき由、御約束あ[B ッ]てO[BH 下]給は[B ッ]て候しを、
内府にをくれ【遅れ】て後、やがてめO[BH しかへ]され候事は、なむ【何】の
P03108
過怠にて候やらむ、是一[B ツ]。次に、中納言闕の候し
時、二位[B ノ]中将の所望候しを、入道随分執申し
か共、遂に御承引なくして、関白の息をなさるる
事はいかに。たとひ入道非拠を申おこなふ【行ふ】共、一度
はなどかきこしめし【聞し召し】入ざるべき。申候はんや、家嫡
といひ、位階といひ、理運左右に及ばぬ事を引ち
がへさせ給ふは、ほい【本意】なき御ぱからひとこそ存候へ、是
一[B ツ]。次に、新大納言成親卿以下、鹿谷により【寄り】あひ
て、謀反の企候し事、ま[B ッ]たく私の計略にあらず。
P03109
併君御許容あるによて也。事新き[M 「いまめかしき」をミセケチ「事新き」と傍書]申事にて候へ共、七代までは此一門をば、いかでか捨させ給ふべき。それに入道七旬に及て、余命いくばくならぬ一期の内にだにも、ややもすれば、亡すべき由御ぱからひあり【有り】。申候はんや、子孫あひついで朝家にめしつかは【使は】れん事有がたし。凡老て子を失は、枯木の枝なきにことならず。今は程なき浮世に、心を費しても何かはせんなれば、いかでも有なんとこそ思ひなて候へ」とて、且は腹立し、且は落涙し
P03110
給へば、法印おそろしう【恐ろしう】も又哀にも覚えて、汗水
になり給ぬ。此時はいかなる人も、一言の返事に及
がたき事ぞかし。其上我身も近習の仁也、鹿谷に
より【寄り】あひたりし事は、まさしう見きか【聞か】れしかば、其
人数とて、只今もめし【召し】や籠られむずらんと思ふ
に、竜の鬚をなで、虎の尾をふむ心ち【心地】はせられけ
れ共、法印もさるおそろしい【恐ろしい】人で、ちともさはが【騒が】ず。
申されけるは、「誠に度々の御奉公浅からず。一旦
恨み申させまします旨、其謂候。但、官位といひ
P03111
俸禄といひ、御身にとては悉く満足す。しかれば
功の莫大なるを、君御感あるでこそ候へ。しかる【然る】を
近臣事をみだり、君御許容あり【有り】といふ事は、
謀臣の凶害にてぞ候らん。耳を信じて目を疑ふ
は、俗の常のへい【弊】也。少人の浮言を重うして、朝
恩の他にことなるに、君を背きまいら【参ら】させ給はん
事、冥顕につけて其恐すくなからず候。凡天心は
蒼々としてはかりがたし。叡慮さだめて其儀
でぞ候らん。下として上にさかふる【逆ふる】事、豈人臣
P03112
の礼たらんや。能々御思惟候べし。詮ずるところ【所】、
此趣をこそ披露仕候はめ」とて出られければ、いく
らもなみゐ【居】たる人々、「あなおそろし【恐ろし】。入道のあれ程
いかり給へるに、ちとも恐れず、返事うちしてたた【立た】
るる事よ」とて、法印をほめぬ人こそなかりけれ。
『大臣流罪』S0316
法印御所へまい【参つ】て、此由奏聞せられ[M 「し」○を非とし「せられ」と改める]ければ、法皇も道
理至極して、仰下さるる方[B 「方」に「旨」と傍書]もなし。同十六日、入道
相国此日ごろ【日比】思立給へる事なれば、関白殿を始
め奉て、太政大臣已下の公卿殿上人、四十三人が
P03113
官職をとどめ【留め】て、追籠らる。関白殿をば大宰帥に
うつして、鎮西へながし奉る。「かからん世には、とてもかく
ても有なん」とて、鳥羽の辺ふる河【古河】といふ所にて
御出家あり【有り】。御年卅五。「礼儀よくしろしめし【知ろし召し】、く
もり【曇り】なき鏡にてわたらせ給ひつる物を」とて、
世の惜み奉る事なのめならず。遠流の人の道
にて出家しつるをば、約束の国へはつかはさぬ事で
ある間、始は日向国へと定られたりしか共、御出
家の間、備前国O[BH 府ノ]辺、井ばさまといふ所に留め奉る。
P03114
大臣流罪の例は、左大臣曾我のあかえ【赤兄】、右大臣豊
成、左大臣魚名、右大臣菅原、かけまくも忝く北野
の天神の御事也。左大臣高明公、内大臣藤原[B ノ]伊周公
に至るまで、既に六人。され共摂政関白流罪の例は
是始めとぞ承る。故中殿御子二位中将基通は、入
道の聟にておはしければ、大臣関白になし奉る。去
円融院の御宇、天禄三年十一月一日、一条摂政謙徳公
うせ【失せ】給しかば、御弟堀河関白仲義【*忠義】、其時は未従二位[B ノ]
中納言にてましましけり。其御弟ほご院【法興院】の大入道殿、
P03115
其比は大納言の右大将にておはしける間、仲義【*忠義】公は
御弟に越られ給ひしか共、今又越かへし奉り、内
大臣正二位にあが【上がつ】て、内覧宣旨蒙らせ給ひたり
しをこそ、人耳目をおどろかしたる御昇進とは申
しに、是はそれには猶超過せり。非参儀二位[B ノ]中将
より大中納言を経ずして、大臣関白になり給ふ
事、いまだ承り及ばず。普賢寺殿の御事也。上卿
の宰相・大外記・大夫史にいたるまで、みなあきれたる
さまにぞみえ【見え】たりける。太政大臣師長は、つかさをとど
P03116
め【留め】て、あづまの方へながされ給ふ。去保元に父悪左[B ノ]
おほい【大臣】殿の縁座によて、兄弟四人流罪せられ給
しが、御兄[* 左にの振り仮名]右大将兼長、御弟左[M の]中将隆長、範長
禅師三人は帰洛[* 「帰路」と有るのを他本により訂正]を待ず、配所にてうせ【失せ】給ぬ。是は
土佐の畑にて九かへりの春秋を送りむかへ【向へ】、長寛二
年八月にめし【召し】かへさ【返さ】れて、本位に復す[M 「復し」とあり「し」をミセケチ「す」と傍書]。次の年正二位
して、仁安元年十月に前中納言より権大納言に
あがり給ふ。折節大納言あか【空か】ざりければ、員の外にぞ
くははら【加はら】れける。大納言六人になること是始也。又前
P03117
中納言より権大納言になる事も、後山階大臣躬守【*三守】
公、宇治[B ノ]大納言隆国卿[* 隆国の左にの振り仮名]の外は未承り及ばず。管絃の
道に達し、才芸勝れてましましければ、次第の昇進
とどこほらず、太政大臣まできはめさせ給て、又いか
なる罪の報にや、かさね【重ね】てながされ給ふらん。保元
の昔は南海土佐へうつされ、治承の今は東関[M 尾張]
尾張国とかや。もとよりつみ【罪】なくして配所の月を
みんといふ事は、心あるきはの人の願ふ事なれば、
おとど【大臣】あへて事共し給はず。彼唐太子[B ノ]賓客白楽
P03118
天、潯陽江の辺にやすらひ給けん其古を思遣、鳴
海潟、O[BH 塩]路遥に遠見して、常は朗月を望み、浦風に
嘯、琵琶を弾じ、和歌を詠じて、なをざり【等閑】がてらに
月日を送らせ給ひけり。ある時、当国第三の宮
熱田明神に参詣あり【有り】。その夜神明法楽のため
に、琵琶引、朗詠し給ふに、所もとより無智の境
なれば、情をしれ【知れ】るものなし。邑老・村女・漁人・野叟、
首をうなたれ、耳を峙といへども【共】、更に清濁をわか
ち、呂律をしる事なし。され共、胡巴琴【*瓠巴琴】を弾ぜしかば、
P03119
魚鱗踊ほどばしる[B 「る」に「り」と傍書]。虞公歌を発せしかば、梁麈う
ごきうごく。物の妙を究る時には、自然に感を催す理
なれば、諸人身の毛よだて、満座奇異の思をなす。
やうやう深更に及で、ふがうでう【風香調】の内には、花芬馥の
気を含み、流泉の曲の間には、月清明の光をあら
そふ。「願くは今生世俗文字の業、狂言綺語誤をも
て」といふ朗詠をして、秘曲を引給へば、神明感応
に堪へずして、宝殿大に震動す。「平家の悪行
なかりせば、今此瑞相をいかでか拝むべき」とて、
20
おとど【大臣】感涙をぞながされける。按察大納言資方【*資賢】
卿[B ノ]子息右近衛少将兼讃岐守源[B ノ]資時、両の官を
留めらる。参議皇太后宮O[BH 左に「権」]大夫兼右兵衛[B ノ]督藤原[B ノ]
光能、大蔵卿右京大夫兼伊予守高階康経【*泰経】、蔵
人左少弁兼中宮[B ノ]権大進藤原[B ノ]基親、三官共に
留らる。「按察大納言資方【*資賢】卿、子息右近衛[B ノ]少将、孫
の右少将雅方【*雅賢】、是三人をばやがて都の内を追出
さるべし」とて、上卿藤大納言実国、博士判官中原[B ノ]
範貞に仰て、やがて其日都のうちを追出さる。
P03121
大納言の給けるは、「三界広しといへ共、五尺の身をき
所【置き所】なし。一生程なしといへ共、一日暮しがたし」とて、
夜中に九重の内をまぎれ出て、八重たつ雲の
外へぞおもむか【赴か】れける。彼大江山や、いく野【生野】の道に
かかりつつ、丹波国村雲と云所にぞ、しばしはやすらひ
給ける。其より遂には尋出されて、信濃[B ノ]国とぞ
『行隆之沙汰』S0317
聞えし。○前[B ノ]関白松殿の侍に江[B ノ]大夫判官遠成といふ
ものあり【有り】。是も平家心よからざりければ、既に六波羅
より押寄て搦取らるべしと聞えし間、子息江
P03122
左衛門尉家成打具して、いづち共なく落行けるが、
稲荷山にうちあがり、馬より下て、親子いひ合せ
けるは、「東国の方へ落くだり、伊豆国の流人、前[B ノ]右兵
衛[B ノ]佐頼朝をたのま【頼ま】ばやとは思へ共、それも当時は
勅勘の人で、身ひとつ【一つ】だにもかなひ【叶ひ】がたうおはす
也。日本国に、平家の庄園ならぬ所やある。とても
のがれ【逃れ】ざらんもの【物】ゆへ【故】に、年来住なれたる所を人に
みせ【見せ】んも恥がましかるべし。ただ是よりかへて、六波
羅よりめし【召し】使あらば、腹かき切て死なんにはしかじ」
P03123
とて、川原坂の宿所へとて取て返す。あん【案】のごとく、
六波羅より源大夫判官季定【*季貞】、摂津判官盛澄、ひ
た甲三百余騎、河原坂の宿所へ押寄て、時をど
とぞつくりける。江大夫判官えん【縁】に立出て、「是御
覧ぜよ、をのをの【各々】。六波羅ではこの様申させ給へ」とて、
館に火かけ、父子共に腹かききり【切り】、ほのほ【炎】の中にて
焼死ぬ。抑か様【斯様】に上下多く亡損ずる事をいかにと
いふに、当時関白にならせ給へる二位[B ノ]中将殿と、前
の殿の御子三位[B ノ]中将殿と、中納言御相論の
P03124
故と申す。さらば関白殿御一所こそ、いかなる御目に
もあはせ【合はせ】給はめ、四十余人までの、人々の事に逢
べしやは。去年讃岐院の御追号、宇治の悪左
府の贈官贈位有しか共、世間は猶しづか【静か】ならず。
凡是にも限るまじかんなり。「入道相国の心に天
魔入かはて、腹をすへ【据ゑ】かね給へり」と聞えしかば、「又
天下いかなる事か出こ【来】んずらん」とて、京中上下
おそれ【恐れ】おののく。其比前[B ノ]左少弁行高【*行隆】と聞えしは、
故中山中納言顕時卿の長男也。二条院の御世には、
P03125
弁官にくははてゆゆしかりしか共、此十余年は
官を留められて、夏冬の衣がへ【衣更】にも及ばず、朝暮
の■も心にまかせ【任せ】ず。有かなきかの体にておはし
けるを、太政入道「申べき事あり【有り】。きと立より給へ」
との給つかはさ【遣さ】れたりければ、行高【*行隆】「此十余年は何
事にもまじはらざりつる物を。人の讒言したる
旨あるにこそ」とて、大におそれ【恐れ】さはが【騒が】れけり。北方公
達も「いかなる目にかあはんずらん」と泣かなしみ給ふ
に、西八条より使しきなみに有ければ、力及ばで、
P03126
人に車か【借つ】て西八条へ出られたり。思ふには似ず、入
道やがて出むかふ【向う】て対面あり【有り】。「御辺の父の卿は、
大小事申あはせ【合はせ】し人なれば、をろか【愚】に思ひ奉らず。
年来籠居の事も、いとおしうおもひ【思ひ】たてま【奉つ】し
か共、法皇御政務のうへ【上】は力及ばず。今は出仕し給へ。
官途の事も申沙汰仕るべし。さらばとう帰られ
よ」とて、入給ぬ。帰られたれば、宿所には女房達、しん【死ん】
だる人の生かへりたる心ち【心地】して、さしつどひ【集ひ】てみな
悦泣共せられけり。太政入道、源大夫判官季貞を
P03127
もて、知行し給べき庄園状共あまた遣はす。まづ
さこそ有らめとて、百疋百両に米をつむでぞ送
られける。出仕の料にとて、雑色・牛飼・牛・車まで
沙汰しつかはさ【遣さ】る。行高【*行隆】手の舞足の踏どころ【所】も
覚えず。「是はされば夢かや、夢か」とぞ驚かれける。
同十七日、五位の侍中に補せられて、左少弁になり
帰り給ふ。今年五十一、今更わかやぎ給ひけり。
『法皇被流』S0318
ただ片時の栄花とぞみえ【見え】し。○同廿日、院[B ノ]御所
法住寺殿には、軍兵四面を打かこむ。「平治に信頼が
P03128
したりし様に、火をかけて人をばみな焼殺さるべ
し」と聞えし間、上下の女房めのわらは、物をだに
うちかづかず、あはて【慌て】騒で走りいづ。法皇も大にお
どろかせおはします。前右大将宗盛卿御車を
よせて、「とうとうめさ【召さ】るべう候」と奏せられければ、法
皇「こはされば何事ぞや。御とがあるべし共おぼし
めさ【思し召さ】ず。成親・俊寛が様に、遠き国遥かの島へも
うつし【移し】やらんずるにこそ。主上さて渡せ給へば、政務
に口入する計也。それもさるべからずは、自今以後さらで
P03129
こそあらめ」と仰ければ、宗盛[B ノ]卿「其儀では候はず。
世をしづめん程、鳥羽殿へ御幸なしまいらせ【参らせ】んと、
父の入道申候」。「さらば宗盛やがて御供にまいれ【参れ】」と
仰けれ共、父の禅門の気色に恐れをなしてまいら【参ら】
れず。「あはれ、是につけても兄の内府には事[B ノ]外に
おとりたりける物かな。一年もかかる御目にあふべ
かりしを、内府が身にかへて制しとどめ【留め】てこそ、今
日までも心安かりつれ。いさむる者もなしとて、か
やうにするにこそ。行末とてもたのもしから【頼もしから】ず」と
P03130
て、御涙をながさせ給ふぞ忝なき。さて御車にめさ【召さ】
れけり。公卿殿上人、一人も供奉せられず。ただ北
面の下臈、さては金行といふ御力者ばかりぞまいり【参り】
ける。御車の尻には、あまぜ【尼前】一人まいら【参ら】れたり。この
尼ぜ【尼前】と申は、やがて法皇の御乳の人、紀伊[B ノ]二位の
事也。七条を西へ、朱雀を南へ御幸なる。あやしの
しづのを【賎男】賎女にいたるまで、「あはや法皇のながさ【流さ】れ
させましますぞや」とて、泪をながし、袖をしぼらぬは
なかりけり。「去七日の夜の大地震も、かかるべかりける
P03131
先表にて、十六洛叉の底までもこたへ、乾牢地神の[B 「の」に「も」と傍書]
驚きさはぎ【騒ぎ】給ひけんも理かな」とぞ、人申ける。さて
鳥羽殿へ入せ給たるに、大膳[B ノ]大夫信成【*信業】が、何として
まぎれ【紛れ】まいり【参り】たりけるやらむ、御前ちかう候けるを
めし【召し】て、「いかさまにも今夜うしなは【失なは】れなんずとおぼし
めす【思し召す】ぞ。O[BH 御行水をめさばやとおぼしめす【思し召す】は]いかがせんずる」と仰ければ、さらぬだに
信成【*信業】、けさより肝たましい【魂】も身にそはず、あきれ
たるさまにて有けるが、此仰承る忝なさに、狩衣
に玉だすきあげ、小柴墻壊、大床のつか柱わり
P03132
などして、水くみ【汲み】入、かたのごとく御湯しだい【仕出い】てまい
らせ【参らせ】たり。又静憲法印、入道相国の西八条の亭に
ゆいて、「法皇の鳥羽殿へ御幸なて候なるに、御前
に人一人も候はぬ由承るが、余にあさましう覚え
候。何かは苦しう候べき。静憲ばかりは御ゆるされ【許され】候
へかし。まいり【参り】候はん」と申されければ、「とうとう。御房は
事あやまつまじき人なれば」とてゆるさ【許さ】れけり。法
印鳥羽殿へまい【参つ】て、門前にて車よりおり、門の
内へさし入給へば、折しも法皇、御経をうちあげうちあげ
P03133
あそばさ【遊ばさ】れける。御声もことにすごう【凄う】〔ぞ〕聞えさせ給ける。
法印のつとまいら【参ら】れたれば、あそばさ【遊ばさ】れける御経に
御涙のはらはらとかからせ給ふを見まいらせ【参らせ】て、
法印あまりのかなしさに、旧苔【裘苔】の袖をかほ【顔】にをし【押し】
あてて、泣々御前へぞまいら【参ら】れける。御前にはあま
ぜ【尼前】ばかり候はれけり。「いかにや法印御房、君は昨日
のあした【旦】、法住寺にて供御きこしめさ【聞し召さ】れて後は、よべも今朝もきこしめし【聞し召し】も入ず。長夜すがら御
寝もならず。御命も既にあやうくこそ見え
P03134
させおはしませ」との給へ【宣へ】ば、法印涙ををさへ【抑へ】て申
されけるは、「何事も限りある事にて候へば、平
家たのしみさかへ【栄え】て廿余年、され共悪行法に
過て、既に亡び候なんず。天照大神・正八幡宮いかで
か捨まいら【参ら】させ給ふべき。中にも君の御憑あ
る日吉山王七社、一乗守護の御ちかひあらたま【改ま】
らずは、彼法華八軸に立かけてこそ、君をばま
もり【守り】まいら【参ら】させ給ふらめ。しかれば政務は君の
御代となり、凶徒は水の泡ときえ【消え】うせ候べし」
P03135
など申されければ、此詞にすこし【少し】なぐさま【慰さま】せおはし
ます。主上は関白のながされ給ひ、臣下の多く
亡ぬる事をこそ御歎あり【有り】けるに、剰法皇鳥羽
殿にをし【押し】籠られさせ給ふときこしめさ【聞し召さ】れて後は、
つやつや供御もきこしめさ【聞し召さ】れず。御悩とて常は
よるのおとどにのみぞいら【入ら】せ給ける。きさいの宮【后の宮】
をはじめまいらせ【参らせ】て、御前の女房たち、いかなるべし
共覚え給はず。法皇鳥羽殿へ押籠られさせ
給て後は、内裏には臨時の御神事とて、主上
P03136
夜ごとに清凉殿の石灰壇にて、伊勢太神宮を
ぞ御拝あり【有り】ける。是はただ一向法皇の御祈也。二
条[B ノ]院は賢王にて渡らせ給しか共、天子に父母
なしとて、常は法皇の仰をも申かへさ【返さ】せましまし
ける故にや、継体の君にてもましまさず。されば
御譲をうけさせ給ひたりし六条院も、安元二
年七月十四日、御年十三にて崩御なりぬ。あさ
『城南之離宮』S0319
ましかりし御事也。○「百行の中には孝行をもて
先とす。明王は孝をもて天下を治」といへり。されば
P03137
唐堯は老衰へたる母をた[B ッ]とび、虞舜はかたくなな
る父をうやまふとみえたり。彼賢王聖主の先
規を追はせましましけむ叡慮の程こそ目出け
れ。其比、内裏よりひそかに鳥羽殿へ御書あり【有り】。
「かからむ世には、雲井に跡をとどめ【留め】ても何かはし候べき。
寛平の昔をもとぶらひ【訪ひ】、花山の古をも尋て、
家を出、世をのがれ【逃れ】、山林流浪の行者共なりぬ
べうこそ候へ」とあそばさ【遊ばさ】れたりければ、法皇の御返事
には、「さなおぼしめさ【思し召さ】れ候そ。さて渡らせ給ふこそ、
P03138
ひとつ【一つ】のたのみ【頼み】にても候へ。跡なくおぼしめし【思し召し】なら
せ給ひなん後は、なんのたのみか候べき。ただ愚老
がともかうもなら【成ら】むやうをきこしめし【聞し召し】はて【果て】させ給
ふべし」とあそばさ【遊ばさ】れたりければ、主上此御返事
を竜顔にをし【押し】あてて、いとど御涙にしづませ給ふ。
君は舟、臣は水、水よく船をうかべ【浮べ】、水又船をくつがへ
す。臣よく君をたもち【保ち】、臣又君を覆す。保元平
治の比は、入道相国君をたもち【保ち】奉るといへ共、安
元治承のいまは又君をなみしたてまつる【奉る】。史
P03139
書の文にたがは【違は】ず。大宮[B ノ]大相国、三条[B ノ]内大臣、葉室
大納言、中山[B ノ]中納言も失られぬ。今はふるき人と
ては成頼・親範ばかり也。この人々も、「かからむ世には、
朝につかへ身をたて、大中納言を経ても何かはせ
ん」とて、いまださかむ【盛】なし人々の、家を出、よ【世】を
のがれ【逃れ】、民部卿入道親範は大原の霜にともな
ひ、宰相入道成頼は高野の霧にまじはり、一向
後世菩提のいとなみの外は他事なしとぞき
こえ【聞え】し。昔も商山の雲にかくれ、潁川の月に心を
P03140
すます【澄ます】人もあり【有り】ければ、これ豈博覧清潔に
して世を遁たるにあらずや。中にも高野にお
はしける宰相入道成頼、か様【斯様】の事共を伝へきい【聞い】
て、「あはれ、心どう【利う】も世をばのがれ【逃れ】たる物かな。かくて
聞も同事なれ共、まのあたり立まじはて見
ましかば、いかに心うからん。保元平治のみだれを
こそ浅ましと思しに、世すゑ【末】になればかかる事
も有けり。此後猶いか計の事か出こ【来】むずらむ。
雲を分てものぼり、山を隔ても入なばや」とぞの
P03141
給ける。げに心あらん程の人の、跡をとどむべき世
共みえ【見え】ず。同廿三日、天台座主覚快法親王、頻に御
辞退あるによて、前座主明雲大僧正還着せら
る。入道相国はかくさんざん【散々】にし散されたれ共、御女
中宮にてまします、関白殿と申も聟也。よろづ
心やすう【安う】や思はれけむ、「政務はただ一向主上の御
ぱからひたるべし」とて、福原へ下られけり。前[B ノ]右大
将宗盛卿、いそぎ参内して此由奏聞せられけ
れば、主上は「法皇のゆづりましましたる世ならば
P03142
こそ。ただとうとう執柄にいひ【言ひ】あはせ【合はせ】て、宗盛とも
かうもはからへ【計らへ】」とて、きこしめし【聞し召し】も入ざりけり。法皇
は城南の離宮にして、冬もなかばすごさ【過さ】せ給へ
ば、野山の嵐の音のみはげしく【烈しく】て、寒庭の月
のひかり【光り】ぞさやけき。庭には雪のみ降つもれ共、跡
ふみつくる人もなく、池にはつららとぢ【閉ぢ】かさね【重ね】て、
むれ【群れ】ゐし鳥もみえ【見え】ざりけり。おほ寺【大寺】の鐘の
声、遺愛寺のきき【聞き】を驚かし、西山の雪の色、
香炉峯[* 香の左にの振り仮名]の望をもよほす。よる【夜】霜に寒き砧の
P03143
ひびき、かすか【幽】に御枕につたひ、暁氷をきしる
車の跡、遥に門前によこ【横】たはれり。巷を過る
行人征馬のいそがはし【忙がはし】げなる気色、浮世を渡る有
様もおぼしめし【思し召し】しら【知ら】れて哀也。「宮門をまもる【守る】蛮
夷のよるひる警衛をつとむるも、先の世のいか
なる契にて今縁を結ぶらん」と仰なりけるぞ
忝なき。凡物にふれ事にしたがて、御心をいた
ま【痛ま】しめずといふ事なし。さるままにはかの折々
の御遊覧、ところどころ【所々】の御参詣、御賀のめで
P03144
たかりし事共、おぼしめし【思し召し】つづけて、懐旧の
御泪をさへ【抑へ】がたし。年さり年来て、治承も四年
になり【成り】にけり。

平家物語巻第三

平家物語 高野本 巻第四


【許諾済】
本テキストの公開については、東京大学文学部国語研究室の許諾を得ています。底本使用・テキスト公開を許可された同研究室に厚く御礼申し上げます。
【注意】
本テキストの利用は個人の研究の範囲内に限られます。本テキストの全体あるいは一部の複写物・複写加工物を、インターネット上で、あるいは出版物(CD−ROM等を含む)として公表する場合には、事前に東京大学文学部国語研究室に翻刻掲載許可願いを申請する必要があります。同研究室の許可を得ない本テキストの公表は禁じられています。翻刻掲載許可願い申請送付先:〒113-0033 東京都文京区本郷7−3−1 東京大学文学部国語研究室
【底本】
本テキストの底本は、東京大学文学部国語研究室蔵高野辰之旧蔵『平家物語』(通称・高野本、覚一別本)です。直接には、笠間書院発行の影印本に拠りました。
文責:荒山慶一・菊池真一


平家 四
P04001
平家四之巻目録
厳島御幸付還幸   源氏揃
熊野合戦      鼬之沙汰
信連        競
山門牒状      南都牒状〈 同返牒 付永僉議 〉
大衆揃       橋合戦
宮乃御最期     若宮出家
■[* 空+鳥]  三井寺炎上
P04002

P04003
平家物語巻第四
『厳島御幸』S0401
○治承四年正月一日のひ、鳥羽殿には相国もゆる
さ【許さ】ず、法皇もおそれ【恐れ】させ在ましければ、元日元三の
間、参入する人もなし。されども【共】故少納言入道信西
の子息、桜町の中納言重教【*成範】卿、其弟左京大夫
長教【*脩範】ばかりぞゆるさ【許さ】れてまいら【参ら】れける。同正月廿日
のひ、東宮御袴着ならびに御まなはじめ【真魚始め】とて、
めでたき事ども【共】あり【有り】しかども、法皇は鳥羽殿
にて御耳のよそにぞきこしめす【聞し召す】。二月廿一日、
P04004
主上ことなる御つつが【恙】もわたらせ給はぬを、をし【押し】
おろし【下し】たてまつり【奉り】、春宮践祚あり【有り】。これは入道
相国よろづおもふ【思ふ】さまなるが致すところ【所】なり。
時よくなりぬとてひしめきあへり。内侍所・神璽・
宝剣わたしたてまつる【奉る】。上達部陣にあつま【集まつ】て、
ふるき事ども【共】先例にまかせ【任せ】ておこなひし
に、弁内侍御剣とてあゆみ【歩み】いづ。清涼殿の西おも
て【西面】にて、泰通の中将うけ【受け】とる。備中の内侍しるし【璽】の
御箱とりいづ。隆房の少将うけ【受け】とる【取る】。内侍所しるし【璽】の
P04005
御箱、こよひばかりや手をもかけんとおもひ【思ひ】あへり
けむ内侍の心のうちども【共】、さこそはとおぼえて
あはれ【哀】おほかり【多かり】けるなかに、しるし【璽】の御箱をば
少納言の内侍とりいづべかりしを、こよひこれに
手をもかけては、ながくあたらしき内侍には
なるまじきよし、人の申けるをきい【聞い】て、其期に
辞し申てとりいで【出で】ざりけり。年すでにたけ
たり、二たび【二度】さかりを期すべきにもあらずとて、
人々にくみ【憎み】あへりしに、備中の内侍とて生年
P04006
十六歳、いまだいとけなき身ながら、その【其の】期にわざと
のぞみ申てとりいでける、やさしかりしためし【例】
なり。つたはれる御物ども【共】、しなじなつかさづかさうけ【受け】と【取つ】て、
新帝の皇居五条内裏へわたしたてまつる【奉る】。閑院殿
には、火の影もかすか【幽】に、鶏人の声もとどまり、
滝口の文爵もたえ【絶え】にければ、ふるき人々こころ【心】
ぼそくおぼえて、めでたきいわい【祝】のなかに涙を
ながし、心をいたま【痛ま】しむ。左大臣陣にいで【出で】て、御位ゆづり
の事ども仰せしをきい【聞い】て、心ある人々は涙を
P04007
ながし袖をうるほす。われと御位を儲の君にゆづり
たてまつり【奉り】、麻姑射の山のうちの閑になどおぼし
めす【思し召す】さきざきだにも、哀はおほき【多き】習ぞかし。況
やこれは、御心ならずをし【押し】おろさ【下さ】れさせ給ひけん
あはれ【哀】さ、申もなかなかおろかなり。新帝今年は
三歳、あはれ、いつしかなる譲位かなと、時の人々申
あはれけり。平大納言時忠卿は、内の御めのと【乳母】帥の
すけ【帥の典侍】の夫たるによて、「今度の譲位いつしかなりと、
誰かかたむけ申べき。異国には、周成王三歳、晋穆帝
P04008
二歳、我朝には、近衛院三歳、六条院二歳、これみな
襁褓のなかにつつま【包ま】れて、衣帯をただしう【正しう】せざし
かども【共】、或は摂政おふ【負う】て位につけ、或は母后いだい【抱い】
て朝にのぞむとみえ【見え】たり。後漢の高上【*孝殤】皇帝は、
むまれ【生れ】て百日といふに践祚あり【有り】。天子位をふむ先
蹤、和漢かくのごとし」と申されければ、其時の有識【*有職】の
人々、「あなおそろし【恐ろし】、物な申されそ。さればそれは
よき例どもかや」とぞつぶやきあはれける。春宮位に
つかせたまひ【給ひ】しかば、入道相国夫婦ともに外祖父外祖
P04009
母とて、准三后の宣旨をかうぶり、年元年爵を
たまは【賜つ】て、上日のものをめし【召し】つかふ【使ふ】。絵かき花つけたる
侍ども【共】いで入て、ひとへに院宮のごとくにてぞあり【有り】ける。
出家入道の後も栄雄はつきせずとぞみえ【見え】し。
出家の人の准三后の宣旨を蒙る事は、保護院【*法興院】
のおほ【大】入道殿兼家公の御例也。同三月上旬に、上皇
安芸国厳島へ御幸なるべしときこえ【聞え】けり。帝王
位をすべらせ給ひて、諸社の御幸のはじめには、八幡・
賀茂・春日などへこそならせ給ふに、安芸国までの
P04010
御幸はいかにと、人不審をなす。或人の申けるは、
「白河院は熊野へ御幸、後白河は日吉社へ御幸
なる。既に知ぬ、叡慮にあり【有り】といふ事を。御心中に
ふかき御立願あり【有り】。其上此厳島をば平家なのめ
ならずあがめうやまひ給ふあひだ【間】、うへ【上】には平家
に御同心、したには法皇のいつとなう鳥羽殿にをし【押し】
こめられてわたらせ給ふ、入道相国の謀反の心をも
やはらげ給へとの御祈念のため」とぞきこえ【聞え】し。
山門[B ノ]大衆いきどをり【憤り】申。「石清水・賀茂・春日へならずは、
P04011
我山の山王へこそ御幸はなるべけれ。安芸国への
御幸はいつのならひ【習ひ】ぞや。其儀ならば、神輿をふり
くだし奉て、御幸をとどめ【留め】たてまつれ【奉れ】」と僉議
しければ、これによてしばらく御延引あり【有り】けり。
太政入道やうやうになだめたまへ【給へ】ば、山門の大衆しづ
まりぬ。同十七日、厳島御幸の御門出とて、入道
相国の西八条の亭へいら【入ら】せ給ふ。其日の暮方に、
前右大将宗盛[B ノ]卿をめし【召し】て、「明日御幸の次に鳥羽殿
へまい【参つ】て、法皇の見参に入ばやとおぼしめす【思し召す】は
P04012
いかに。相国禅門にしら【知ら】せずしてはあしかりなんや」
と仰ければ、宗盛[B ノ]卿涙をはらはらとながひ【流い】て、
「何条事か候べき」と申されければ、「さらば宗盛、
其様をやがて今夜鳥羽殿へ申せかし」とぞ
仰ける。前右大将宗盛卿、いそぎ鳥羽殿へまい【参つ】
て、此よし奏聞せられければ、法皇はあまりに
おぼしめす【思し召す】御事にて、「夢やらん」とぞ仰ける。
同十九日、大宮[B ノ]大納言高季【*隆季】卿、いまだ夜ふかう【深う】まい【参つ】
て、御幸もよほされけり。此日ごろきこえ【聞え】させ
P04013
給ひつる厳島の御幸、西八条よりすでにとげ
させおはします。やよひ【弥生】もなかばすぎぬれど、
霞にくもる在明の月はなを【猶】おぼろなり。
こしぢ【越路】をさしてかへる鴈の、雲井におとづれ
ゆく【行く】も、折ふし【折節】あはれ【哀】にきこしめす。いまだ
夜のうちに鳥羽殿へ御幸なる。門前にて
御車よりおりさせたまひ【給ひ】、門のうちへさし
いらせ給ふに、人まれにして木ぐらく、物さび
しげなる御すまひ【住ひ】、まづあはれ【哀】にぞおぼし
P04014
めす【思し召す】。春すでにくれなんとす、夏木立にも
成にけり。梢の花色をとろえて、宮の鴬声
老たり。去年の正月六日のひ、朝覲のために
法住寺殿へ行幸あり【有り】しには、楽屋に乱声を
奏し、諸卿列に立て、諸衛陣をひき、院司の
公卿まいり【参り】むか【向つ】て、幔門をひらき、掃部寮縁
道をしき、ただしかり【正しかり】し儀式一事もなし。
けふはただ夢とのみぞおぼしめす【思し召す】。重教【*成範】の
中納言、御気色申されたりければ、法皇寝殿の
P04015
橋がくし【橋隠し】の間へ御幸なて、待まいら【参らつ】させたまひ【給ひ】
けり。上皇は今年O[BH 御年]廿、あけがたの月の光にはへ【映え】
させたまひ【給ひ】て、玉体もいとどうつくしうぞ
みえ【見え】させおはします。御母儀建春門院にいたく
に【似】まいら【参らつ】させたまひ【給ひ】たりければ、法皇まづ故
女院の御事おぼしめし【思し召し】いで【出で】て、御涙せきあへ
させ給はず。両院の御座ちかく【近く】しつらはれたり。
御問答は人うけ【受け】たまはる【賜る】に及ばず。御前には尼ぜ【尼前】ばか
りぞ候はれける。やや久しう御物語せさせ給ふ。
P04016
はるかに日たけて御暇申させ給ひ、鳥羽の
草津より御舟にめされけり。上皇は法皇の離
宮、故亭幽閑寂寞の御すまひ【住ひ】、御心ぐるしく
御覧じをか【置か】せたまへ【給へ】ば、法皇は又上皇の旅泊の
行宮の浪の上、舟の中の御ありさま、おぼつかな
くぞおぼしめす【思し召す】。まこと【誠】に宗廟・八わた【八幡】・賀茂など
をさしをいて、はるばると安芸国までの
御幸をば、神明もなどか御納受なかるべき。
『還御』S0402
御願成就うたがひなしとぞみえ【見え】たりける。○同廿六日、
P04017
厳島へ御参着、入道相国の最愛の内侍が宿所、
御所になる。なか二にち【二日】をん【御】逗留あて、経会舞
楽おこなはれけり。導師には三井寺の公兼【*公顕】僧正
とぞきこえ【聞え】し。高座にのぼり、鐘うちならし、表白の詞にいはく、「九え【九重】の宮こ【都】をいでて、八え【八重】の
塩路をわき【分き】もてまいら【参ら】せたまふ【給ふ】御心ざしの
かたじけなさ」と、たからかに申されたりければ、
君も臣も感涙をもよほさ【催さ】れけり。大宮・客人
をはじめまいらせ【参らせ】て、社々所々へみな御幸なる。
P04018
大宮より五町ばかり、山をまはて、滝の宮へまい
ら【参ら】せ給ふ。公兼【*公顕】僧正一首の歌よう【詠う】で、拝殿の柱に
書つけられたり。
雲井よりおち【落ち】くる滝のしらいと【白糸】に
ちぎり【契り】をむすぶことぞうれしき W016
神主佐伯の景広【*景弘】、加階従上の五位、国司藤原[B ノ]有綱【*菅原在経】、
しな【品】あげられて加階、従下の四品、院の殿上ゆるさ【許さ】る。
座主尊永、法印になさる。神慮もうごき、太政[B ノ]入道
の心もはたらき【働き】ぬらんとぞみえ【見え】し。同廿九日、
P04019
上皇御舟かざて還御なる。風はげしかりければ、
御舟こぎもどし、厳島のうち、ありの浦【蟻の浦】にとど
まら【留まら】せたまふ【給ふ】。上皇「大明神の御名残おしみ【惜しみ】に、
歌つかまつれ」と仰ければ、隆房の少将
たちかへるなごりもありの浦【蟻の浦】なれば
神もめぐみをかくるしら浪【白浪】 W017
夜半ばかりより浪もしづかに、風もしづまりければ、
御舟こぎいだし、其日は備後国しき名【敷名】の泊につかせ
たまふ【給ふ】。此ところ【所】はさんぬる応保のころほひ、一院
P04020
御幸の時、国司藤原の為成がつくたる御所のあり【有り】
けるを、入道相国、御まうけ【設け】にしつらはれたりしか
ども【共】、上皇それへはあがら【上がら】せたまは【給は】ず。「けふは卯月
一日、衣がへ【衣更】といふ事のあるぞかし」とて、おのおの
みやこ【都】の方をおもひ【思ひ】やりあそびたまふ【給ふ】に、岸
にいろ【色】ふかき藤の松にさき【咲き】かかりたりけるを、上皇
叡覧あて、隆季の大納言をめし【召し】て、「あの花おり【折り】
につかはせ【遣せ】」と仰ければ、左史生中原康定がはし
舟にの【乗つ】て、御前をこぎ【漕ぎ】とをり【通り】けるをめし【召し】て、
P04021
おり【折り】につかはす【遣す】。藤の花をたをり【手折り】、松の枝につけ
ながらもてまいり【参り】たり。「心ばせあり【有り】」など仰られて、
御感あり【有り】けり。「此花にて歌あるべし」と仰け
れば、隆季の大納言
千とせへん君がよはひに藤なみの
松のえだ【枝】にもかかりぬるかな W018
其後御前に人々あまた候はせたまひ【給ひ】て、御たは
ぶれごと【戯れ言】のあり【有り】しに、上皇しろき【白き】きぬ【衣】き【着】たる内侍が、
国綱【*邦綱】卿に心をかけたるな」とて、わらは【笑は】せおはしまし
P04022
ければ、大納言大にあらがい申さるるところ【所】に、ふみ【文】
も【持つ】たる便女がまい【参つ】て、「五条大納言どのへ」とて、
さしあげ【差し上げ】たり。「さればこそ」とて満座興ある事に
申あはれけり。大納言これをとてみ【見】たまへ【給へ】ば、
しらなみの衣の袖をしぼりつつ
きみ【君】ゆへ【故】にこそたち【立ち】もまはれね W019
上皇「やさしうこそおぼしめせ【思し召せ】。この返事はある
べきぞ」とて、やがて御硯をくださ【下さ】せ給ふ。大納言
返事には、
P04023
おもひ【思ひ】やれ君がおもかげ【面影】たつなみ【浪】の
よせくるたびにぬるるたもとを W020
それより備前国小島の泊につかせ給ふ。五日のひ、
天晴風しづかに、海上ものどけかりければ、御所
の御舟をはじめまいらせ【参らせ】て、人々の舟どもみな
いだし【出し】つつ、雲の浪煙の波をわけ【分け】すぎさせ給ひ
て、其日の酉剋に、播磨国やまとの浦につかせ
給ふ。それより御輿にめし【召し】て福原へいら【入ら】せおはし
ます。六日は供奉の人々、いま一日も宮こ【都】へとく【疾く】と
P04024
いそがれけれども【共】、新院御逗留あて、福原の
ところどころ【所々】歴覧あり【有り】けり。池の中納言頼盛卿
の山庄、あら田まで御らんぜらる。七日、福原を出
させ給ふに、隆季の大納言勅定をうけ給は【承つ】て、
入道相国の家の賞をこなは【行なは】る。入道の養子丹波
守清国【*清邦】、正下の五位、同入道の孫越前[B ノ]少将資盛、四位
の従上とぞきこえ【聞え】し。其日てら井【寺井】につかせ給ふ。
八日都へいらせ給ふに、御むかへ【向へ】の公卿殿上人、鳥羽の
草津へぞまいら【参ら】れける。還御の時は鳥羽殿へは
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御幸もならず、入道相国の西八条の亭へいらせ給ふ。
同四月廿二日、新帝の御即位あり【有り】。大極殿にて
あるべかりしかども【共】、一とせ炎上の後は、いまだつくり【造り】も
いだされず。太政官の庁にておこなはるべしと
さだめ【定め】られたりけるを、其時の九条殿申させ
給ひけるは、「太政官の庁は凡人家にとらば
公文所てい【体】のところ【所】なり也[* 「也」衍字]。大極殿なからん上は、
紫震殿【*紫宸殿】にてこそ御即位はあるべけれ」と申
させ給ひければ、紫震殿【*紫宸殿】にてぞ御即位は
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あり【有り】ける。「去じ康保四年十一月一日、冷泉院の御
即位紫震殿【*紫宸殿】にてあり【有り】しは、主上御邪気に
よて、大極殿へ行幸かなは【叶は】ざりし故也。其例
いかがあるべからん。ただ後三条の院の延久佳例に
まかせ【任せ】、太政官の庁にておこなはるべき物を」と、人々
申あはれけれども【共】、九条殿の御ぱからひのうへ【上】は、
左右に及ばず。中宮弘徽殿より仁寿殿へうつ
らせ給ひて、たかみくら【高御座】へまいら【参ら】せ給ひける御有
さま【有様】めでたかりけり。平家の人々みな出仕せられ
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けるなかに、小松殿の公達はこぞ【去年】おとど【大臣】うせ給ひ
『源氏揃』S0403
しあひだ、いろ【倚廬】にて籠居せられたり。○蔵人衛門[B ノ]
権佐定長、今度の御即位に違乱なくめで
たき様を厚紙十枚ばかりにこまごまとしるいて、
入道相国の北方八条の二位殿へまいらせ【参らせ】たりければ、
ゑみ【笑】をふくんでぞよろこば【喜ば】れける。かやうにはなやかに
めでたき事ども【共】あり【有り】しかども、世間は猶しづかなら
ず。其比一院第二の皇子茂仁【*以仁】の王と申しは、
御母加賀[B ノ]大納言季成卿の御娘なり。三条高倉に
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ましましければ、高倉の宮とぞ申ける。去じ永万
元年十二月十六日、御年O[BH 十五]にて、忍つつ近衛河原の
大宮の御所にて御元服あり【有り】けり。御手跡うつくしう
あそばし【遊ばし】、御才学すぐれて在ましければ、位にも
つかせ給ふべきに、故建春門院の御そねみ【嫉み】にて、おし
こめ【籠め】られさせたまひ【給ひ】つつ、花のもとの春の遊には、
紫毫をふるて手づから御作をかき、月の前の秋の
宴には、玉笛をふいてみづから雅音をあやつり給ふ。
かくしてあかしくらし給ふほど【程】に、治承四年には、
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御年卅にぞならせ在ましける。其比近衛河原に
候ける源三位入道頼政、或夜ひそかに此宮の御
所にまい【参つ】て、申けること【事】こそおそろしけれ【恐ろしけれ】。「君は
天照大神四十八世の御末、神武天皇より七十八代
にあたらせ給ふ。太子にもたち、位にもつか【即か】せ給ふ
べきに、卅まで宮にてわたらせ給ふ御事をば、
心うしとはおぼしめさ【思し召さ】ずや。当世のてい【体】をみ【見】候に、
うへ【上】にはしたがひ【従ひ】たる様なれども、内々は平家をそね
まぬ物や候。御謀反おこさせ給ひて、平家をほろ
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ぼし、法皇のいつとなく鳥羽殿におしこめられて
わたらせ給ふ御心をも、やすめ【休め】まいらせ【参らせ】、君も位につかせ
給ふべし。これ御孝行のいたりにてこそ候はん
ずれ。もしおぼしめし【思し召し】たたせ給ひて、令旨を下させ給ふ物ならば、悦をなしてまいら【参ら】むずる源氏
どもこそおほう【多う】候へ」とて、申つづく。「まづ京都には、
出羽[B ノ]前司光信が子共、伊賀守光基、出羽[B ノ]判官光長、
出羽[B ノ]蔵人光重、出羽[B ノ]冠者光能、熊野には、故六条[B ノ]判官
為義が末子十郎義盛とてかくれ【隠れ】て候。摂津国には
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多田蔵人行綱こそ候へども【共】、新大納言成親卿の
謀反の時、同心しながらかへりちゆう【返り忠】したる不当人で
候へば、申に及ばず。さりながら、其弟多田[B ノ]二郎朝実【*知実】、
手島の冠者高頼、太田太郎頼基、河内国には、武蔵[B ノ]
権[B ノ]守入道義基、子息石河[B ノ]判官代義兼、大和国には、
宇野七郎親治が子共、太郎有治・二郎清治、三郎
成治・四郎義治・近江国には、山本・柏木・錦古里、
美乃【*美濃】尾張には、山田[B ノ]次郎重広【*重弘】、河辺太郎重直、泉
太郎重光【*重満】、浦野四郎重遠、安食次郎重頼、其
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子[B ノ]太郎重資、木太三郎重長、開田判官代重国、
矢島先生重高、其子[B ノ]太郎重行、甲斐[B ノ]国には、
逸見冠者義清、其子太郎清光、武田太郎信義、
加賀見二郎遠光・同小次郎長清、一条[B ノ]次郎忠頼、
板垣三郎兼信、逸見[B ノ]兵衛有義、武田五郎信光、安田
三郎義定、信乃【*信濃】国には、大内太郎維義【*惟義】、岡田冠者親義、
平賀冠者盛義、其子[B ノ]四郎義信、故[M 「小」をミセケチ「故」と傍書]帯刀先生
義方【*義賢】が次男木曾冠者義仲、伊豆国には、流人前右兵衛
佐頼朝、常陸国には、信太三郎先生義教【*義憲】、佐竹冠者
P04033
正義【*昌義】、其子[B ノ]太郎忠義、同三郎義宗、四郎高義、
五郎義季、陸奥国には、故左馬頭義朝が末子九郎
冠者義経、これみな六孫王の苗裔、多田新発満仲
が後胤なり。朝敵をもたいらげ【平げ】、宿望をとげし
事は、源平いづれ勝劣なかりしかども【共】、今者雲
泥まじはりをへだてて、主従の礼にもなを【猶】おとれ
り。国には国司にしたがひ、庄には領所【*預所】につかは【使は】れ、公事
雑事にかりたてられて、やすひ【安い】思ひも候はず。
いかばかり心うく候らん。君もしおぼしめし【思し召し】たたせ給て、
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令旨をたう【給う】づるもの【物】ならば、夜を日についで
馳のぼり、平家をほろぼさん事、時日をめぐら
すべからず。入道も年こそよ【寄つ】て候とも、子共ひき具
してまいり【参り】候べし」とぞ申たる。宮は此事いかがある
べからんとて、しばし【暫】は御承引もなかりけるが、阿古
丸大納言宗通卿の孫、備後前司季通が子、少納言
維長【*伊長】と申し候〔は〕勝たる相人なりければ、時の人相少
納言とぞ申ける。其人が此宮をみ【見】まひらせ【参らせ】て、「位に
即せ給べき相在ます。天下の事思食はなた【放た】せ給ふ
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べからず」と申けるうへ、源三位入道もかやう【斯様】に申され
ければ、「さてはしかる【然る】べし。天照大神の御告やらん」
とて、ひしひしとおぼしめし【思し召し】たた【立た】せ給ひけり。熊野に
候十郎義盛をめし【召し】て、蔵人になさる。行家と改名
して、令旨の御使に東国へぞ下ける。同四月廿八日、
宮こ【都】をたて、近江国よりはじめて、美乃【*美濃】尾張の
源氏共に次第にふれてゆくほど【程】に、五月十日、伊豆の
北条にくだりつき、流人前[B ノ]兵衛[B ノ]佐殿に令旨たてまつ
り【奉り】、信太三郎先生義教【*義憲】は兄なればとら【取ら】せんとて、
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常陸国信太浮島へくだる。木曾冠者義仲は
甥なればたば【賜ば】んとて、O[BH 東]山道へぞおもむきける。
其比の熊野別当湛増は、平家に心ざしふかかり【深かり】けるが、
何としてかもれ【洩れ】きい【聞い】たりけん、「新宮十郎義盛こそ
高倉宮の令旨給はて、美乃【*美濃】尾張の源氏どもふれ
もよほし、既に謀反ををこす【起こす】なれ。那智新宮の
もの【者】共は、さだめて源氏の方うど【方人】をぞせんずらん。
湛増は平家の御恩を雨【*天】やま【山】とかうむ【蒙つ】たれば、
いかでか背たてまつる【奉る】べき。那智新宮の物共に
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矢一い【射】かけて、平家へ子細を申さん」とて、ひた甲
一千人、新宮の湊へ発向す。新宮には鳥井の法眼・
高坊の法眼、侍には宇ゐ【宇井】・すずき【鈴木】・水屋・かめのこう【亀の甲】、
那知【*那智】には執行法眼以下、都合其勢二千余人なり。
時つくり、矢合して、源氏の方にはとこそゐれ【射れ】、平家
の方にはかうこそいれ【射れ】とて、矢さけび【叫び】の声の退転
もなく、かぶら【鏑】のなり【鳴り】やむひまもなく、三日がほどこそ
たたかふ【戦う】たれ。熊野別当湛増、家子郎等おほく【多く】
うた【討た】せ、我身手おひ、からき命をいき【生き】つつ、
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『鼬之沙汰』S0404
本宮へこそにげのぼりけれ。○さるほど【程】に、法皇は、
「とをき【遠き】国へもながされ、はるかの島へもうつされん
ずるにや」と仰せけれども、城南の離宮にして、
ことしは二年にならせ給ふ。同五月十二日午剋ばか
り、御所中にはゐたち[B 「ゐ」に「い」と傍書]【鼬】おびたたしう【夥しう】はしり【走り】さはぐ【騒ぐ】。
法皇大に驚きおぼしめし【思し召し】、御占形をあそばひ【遊ばい】て、
近江[B ノ]守仲兼、其比はいまだ鶴蔵人とめされける
をめし【召し】て、「この占形も【持つ】て、泰親がもとへゆき、きと
勘がへさせて、勘状をとてまいれ【参れ】」とぞ仰ける。
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仲兼これを給はて、陰陽頭安陪【*安倍】泰親がもとへ
ゆく【行く】。おりふし【折節】宿所にはなかりけり。「白河なるところ【所】へ」と
いひければ、それへたづね【尋ね】ゆき、泰親にあふて
勅定のおもむき【赴き】仰すれば、やがて勘状を
まいらせ【参らせ】けり。仲兼鳥羽殿にかへりまい【参つ】て、門
よりまいら【参ら】うどすれば、守護の武士ども【共】ゆるさ【許さ】ず。
案内はし【知つ】たり、築地をこへ、大床のしたをはう【這う】て、
きり板【切板】より泰親が勘状をこそまいらせ【参らせ】たれ。
法皇これをあけて御らんずれば、「いま三日が
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うち御悦、ならびに御なげき」とぞ申たる。
法皇「御よろこびはしかる【然る】べし。これほどの御身に
なて、又いかなる御難のあらんずるやらん」とぞ
仰ける。さるほど【程】に、前[B ノ]右大将宗盛卿、法皇の御事
をたりふし【垂伏】申されければ、入道相国やうやうおもひ【思ひ】
なを【直つ】て、同十三日鳥羽殿をいだしたてまつり【奉り】、
八条烏丸の美福門院[B ノ]御所へ御幸なしたて
まつる【奉る】。いま三日がうちの御悦とは、泰親これをぞ
申ける。かかりけるところ【所】に、熊野[B ノ]別当湛増飛
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脚をもて、高倉宮の御謀反のよし宮こ【都】へ申たり
ければ、前右大将宗盛卿大にさはい【騒い】で、入道相国折
ふし【折節】福原におはしけるに、此よし申されたりければ、
ききもあへず、やがて宮こ【都】へはせ【馳せ】のぼり、「是非に
及べからず。高倉宮からめとて、土佐の畑へながせ」と
こそのたまひけれ。上卿は三条大納言実房、識事は
頭弁光雅とぞきこえ【聞え】し。源大夫判官兼綱、出羽[B ノ]
判官光長うけ給は【承つ】て、宮の御所へぞむかひ【向ひ】ける。
この源大夫判官と申は、三位入道の次男也。しかる【然る】を
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この人数にいれ【入れ】られけるは、高倉の宮の御謀反
を三位入道すすめ申たりと、平家いまだしら【知ら】ざり
『信連』S0405
けるによてなり。○宮はさ月【五月】十五夜の雲間の月
をながめさせ給ひ、なんのゆくゑ【行方】もおぼしめし【思し召し】よら
ざりけるに、源三位入道の使者とて、ふみ【文】も【持つ】ていそ
がしげO[BH に]ていでき【出来】たり。宮の御めのと子【乳母子】、六条のすけ【亮】
の大夫宗信、これをとて御前へまいり【参り】、ひらい【開い】て
みる【見る】に、「君の御謀反すでにあらはれ【現はれ】させ給ひて、
土左【*土佐】の畑へながしまいらす【参らす】べしとて、官人共御むかへ【向へ】に
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まいり【参り】候。いそぎ御所をいでさせ給て、三井寺へ
いら【入ら】せをはしませ。入道もやがてまいり【参り】候べし」とぞ
かい【書い】たりける。「こはいかがせん」とて、さはが【騒が】せおはします
ところ【所】に、宮の侍長兵衛尉信連といふ物あり【有り】。
「ただ別の様候まじ。女房装束にていで【出で】させ給へ」
と申ければ、「しかる【然る】べし」とて、御ぐし【髪】をみだし【乱し】、かさね【重ね】
たるぎよ衣【御衣】に一女がさ【市女笠】をぞめさ【召さ】れける。六条の助[B ノ]大夫
宗信、唐笠も【持つ】て御ともつかまつる。鶴丸といふ童、
袋にもの【物】いれ【入れ】ていただい【戴い】たり。譬へば青侍の女を
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むかへ【向へ】てゆくやうにいでたた【出立た】せ給ひて、高倉を北へ
おち【落ち】させ給ふに、大なる溝のあり【有り】けるを、いともの【物】
がるう【軽う】こえさせ給へば、みちゆき人たちとどま【留まつ】て、
「はしたなの女房の溝のこえ【越え】やうや」とて、あやし
げにみ【見】まいらせ【参らせ】ければ、いとどあしばや【足速】にすぎさせ
給ふ。長兵衛尉信連は、御所の留守にぞをか【置か】れたる。
女房達の少々おはしけるを、かしこここへたちしの
ば【忍ば】せて、み【見】ぐるしき物あらばとりした【取認】ためむとてみる【見る】
ほど【程】に、宮のさしも御秘蔵あり【有り】ける小枝ときこえ【聞え】し
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御笛を、只今しもつねの御所の御枕にとり
わすれ【忘れ】させたまひ【給ひ】たりけるぞ、立かへ【帰つ】てもとら【取ら】ま
ほしうおぼしめす【思し召す】、信連これをみ【見】つけて、「あなあさ
まし。君のさしも御秘蔵ある御笛を」と申て、
五町がうちにお【追つ】ついてまいらせ【参らせ】たり。宮なのめ
ならず御感あて、「われしな【死な】ば、此笛をば御棺に
いれよ【入れよ】」とぞ仰ける。「やがて御ともに候へ」と仰ければ、
信連申けるは、「唯今御所へ官人共が御むかへ【迎へ】にまい
り【参り】候なるに、御前に人一人も候はざらんが、無下に
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うたてしう候。信連が此御所に候とは、上下みな
しら【知ら】れたる事にて候に、今夜候はざらんは、それも
其夜はにげ【逃げ】たりけりなどいはれん事、弓矢
とる身は、かりにも名こそおしう【惜しう】候へ。官人ども【共】
しばらくあいしらい候て、打破て、やがてまいり【参り】候
はん」とて、はしり【走り】かへる。長兵衛が其日[B ノ]装束には、
うすあを【薄青】の狩衣のしたに、萠黄威の腹巻をきて、
衛府の太刀をぞはいたりける。三条面の惣門をも、
高倉面の小門をも、ともにひらい【開い】て待かけたり。
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源大夫[B ノ]判官兼綱、出羽判官光長、都合其勢三百
余騎、十五日の夜の子の剋に、宮の御所へぞ押
寄たる。源大夫判官は、存ずる旨あり【有り】とおぼえ
て、はるかの門前にひかへたり。出羽判官光長は、馬に
乗ながら門のうちに打入り、庭にひかへて大音
声をあげて申けるは、「御謀反のきこえ【聞こえ】候によて、
官人共別当宣を承はり[* 「年はり」と有るのを他本により訂正]、御むかへ【向へ】にまい【参つ】て候。いそ
ぎ御出候へ」と申ければ、長兵衛尉大床に立て、「是
は当時は御所でも候はず。御物まうでで候ぞ。何
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事ぞ、こと【事】の子細を申されよ」といひければ、「何条、
此御所ならではいづくへかわたらせ給べかんなる。さな
いは【言は】せそ。下部ども【共】まい【参つ】て、さがし【探し】たてまつれ」と
ぞ申ける。長兵衛尉これをきい【聞い】て、「物もおぼえぬ
官人ども【共】が申様かな。馬に乗ながら門のうちへまいる【参る】
だにも奇怪なるに、下部共まい【参つ】てさがしまいらせ
よ【参らせよ】とは、いかで申ぞ。左兵衛尉長谷部信連が候ぞ。
ちかう【近う】よ【寄つ】てあやまちすな」とぞ申ける。庁の下部
のなかに、金武といふ大ぢから【大力】のかう【剛】の物、長兵衛に
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目をかけて、大床のうゑゑとび【飛び】のぼる。これをみて、
どうれいども十四五人ぞつづい【続い】たる。長兵衛は狩衣の
帯紐ひ【引つ】きてすつる【捨つる】ままに、衛府の太刀なれども【共】、
身をば心えてつくら【造ら】せたるをぬき【抜き】あはせ【合はせ】て、さんざん【散々】
にこそき【斬つ】たりけれ。かたき【敵】は大太刀・大長刀でふる
まへども【共】、信連が衛府の太刀に切たてられて、嵐に
木のは【葉】のちるやうに、庭へさとぞおりたりける。
さ月【五月】十五夜の雲間の月のあらはれ【現はれ】いで【出で】て、あかか
り【明かかり】けるに、かたき【敵】は無案内なり、信連は案内者也。
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あそこの面らう[M 「面道」とあり「道」をミセケチ「らう」と傍書]にお【追つ】かけ【掛け】ては、はたときり【斬り】、ここの
つまりにお【追つ】つめては、ちやうどきる。「いかに宜旨の
御使をばかうはするぞ」といひければ、「宜旨とは
なんぞ」とて、太刀ゆがめばおどり【躍り】のき、おしなをし【直し】、
ふみ【踏み】なをし【直し】、たちどころによき物ども【共】十四五人こそ
きり【斬り】ふせたれ。太刀のさき三寸ばかりうちを【折つ】て、
腹をきらんと腰をさぐれ【探れ】ば、さやまき【鞘巻】おち【落ち】て
なかりけり。ちから【力】およば【及ば】ず、大手をひろげて、高倉
面の小門よりはしり【走り】いでんとするところ【所】に、大長刀
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も【持つ】たる男一人より【寄り】あひたり。信連長刀にのら【乗ら】んと
とんでかかるが、のりそんじ【損じ】てもも【股】をぬいさま【縫様】に
つらぬか【貫ぬか】れて、心はたけく【猛く】おもへ【思へ】ども、大勢の中
にとりこめ【籠め】られて、いけどり【生捕り】にこそせられけれ。
其後御所をさがせども、宮わたらせ給はず。信連
ばかりからめて、六波羅へい【率】てまいる【参る】。入道相国は簾
中にゐたまへ【給へ】り。前右大将宗盛卿大床にたて、信連
を大庭にひ【引つ】すゑ【据ゑ】させ、「まこと【誠】にわ男は、「宣旨とは
なん【何】ぞ」とてき【斬つ】たりけるか。おほく【多く】の庁の下部を
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刃傷殺害したん也。せむずるところ【所】、糾問してよく
よく事の子細をたづね【尋ね】とひ、其後河原にひき
いだいて、かうべ【首】をはね候へ」とぞのたまひける。
信連すこし【少し】もさはが【騒が】ず、あざわら【笑つ】て申けるは、「この
ほどよなよな【夜な夜な】あの御所を、物がうかがひ【伺ひ】候時に、なに
事のあるべきと存て、用心も仕候はぬところ【所】に、
よろう【鎧う】たる物共がうち入て候を、「なに物ぞ」ととひ
候へば、「宜旨の御使」となのり【名乗り】候。山賊・海賊・強盜など
申やつ原は、或は「公達のいら【入ら】せ給ふぞ」或は「宜旨の
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御使」などなのり【名乗り】候と、かねがねうけ給は【承つ】て候へば、
「宜旨とはなんぞ」とて、きたる候。凡は物の具
をもおもふ【思ふ】さまにつかまつり【仕り】、かね【鉄】よき太刀をも
も【持つ】て候ば、官人共をよも一人も安穏ではかへし【返し】
候はじ。又宮の御在所は、いづくにかわたらせ給ふ
らん、しり【知り】まいらせ【参らせ】候はず。たとひしり【知り】まいらせ【参らせ】て
候とも、さぶらひほん【侍品】の物の、申さじとおもひ【思ひ】きてん
事、糾問におよ【及ん】で申べしや」とて、其後は物も
申さず。いくらもなみ【並】ゐたりける平家のさぶらい
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ども【共】、「あぱれかう【剛】の物かな。あたらおのこ【男】をきられ
むずらんむざん【無慚】さよ」と申あへり。其なかにある人の
申けるは、「あれは先年ところ【所】にあり【有り】し時も、大番
衆がとどめ【留め】かねたりし強盜六人、只一人お【押つ】かか【懸つ】て、
四人きり【斬り】ふせ【伏せ】、二人いけどり【生捕り】にして、其時なされ
たる左兵衛尉ぞかし。これをこそ一人当千の
つは物【兵】ともいふべけれ」とて、口々におしみ【惜しみ】あへりければ、
入道相国いかがおもは【思は】れけん、伯耆のひ野【日野】へぞ
ながされける。源氏の世になて、東国へくだり、
P04055
梶原平三景時について、事の根元一々次第に
申ければ、鎌倉殿、神妙也と感じおぼしめし【思し召し】
て、能登国に御恩かうぶりけるとぞきこえ【聞え】し。
『競』S0406
○宮は高倉を北へ、近衛を東へ、賀茂河をわた
らせ給て、如意山へいらせおはします。昔清見原
の天皇のいまだ東宮の御時、賊徒におそは【襲は】れ
させ給ひて、吉野山へいらせ給ひけるにこそ、
をとめ【少女】のすがたをばからせ給ひけるなれ。いま此
君の御ありさまも、それにはたがは【違は】せ給はず。
P04056
しらぬ山路を夜もすがらわけ【分け】いら【入ら】せ給ふに、
いつならはし【習はし】の御事なれば、御あし【足】よりいづる【出づる】血は、
いさごをそめて紅の如し。夏草のしげみがなか
の露けさも、さこそはところせう【所狭う】おぼしめされ
けめ。かくして暁方に三井寺へいら【入ら】せおはし
ます。「かひなき命のおしさ【惜しさ】に、衆徒をたのん【頼ん】で
入御あり【有り】」と仰ければ、大衆畏悦で、法輪院に
御所をしつらひ、それにいれ【入れ】たてま【奉つ】て、かたの
ごとくの供御したて【仕立て】てまいらせ【参らせ】けり。あくれば十六
P04057
日、高倉の宮の御謀叛おこさせ給ひて、うせ【失せ】
させ給ぬと申ほどこそあり【有り】けれ、京中の騒動
なのめならず。法皇これをきこしめして、「鳥羽殿
を御いで【出で】あるは御悦なり。ならびに御歎と
泰親が勘状をまいらせ【参らせ】たるは、これを申けり」とぞ
仰ける。抑源三位入道、年ごろ日比もあれば
こそあり【有り】けめ、ことし【今年】いかなる心にて謀叛をば
おこし【起し】けるぞといふに、平家の次男前[B ノ]右大将宗盛卿、
すまじき事をしたまへ【給へ】り。されば、人の世にあれ
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ばとて、すぞろにすまじき事をもし、いふ
まじき事をもいふは、よくよく思慮あるべき物
也。たとへば、源三位入道の嫡子仲綱のもとに、
九重にきこえ【聞え】たる名馬あり【有り】。鹿毛なる馬のなら
びなき逸物、のり【乗り】はしり【走り】、心むき、又あるべしとも
覚えず。名をば木のした【下】とぞいはれける。前[B ノ]右大
将これをつたへきき、仲綱のもとへ使者たて、「き
こえ【聞え】候名馬をみ【見】候ばや」とのたまひつかはさ【遣さ】れたり
ければ、伊豆守の返事には、「さる馬はも【持つ】て候つれ
P04059
ども、此ほどあまりにのり損じて候つるあい
だ、しばらくいたはら【労ら】せ候はんとて、田舎へつかはし【遣し】
て候」。「さらんには、ちから【力】なし」とて、其後沙汰もなかり
しを、おほく【多く】なみ【並み】ゐ【居】たりける平家の侍共、「あぱれ、
其馬はおととひ【一昨日】までは候し物を。昨日も候ひ
し、けさも庭のりし候つる」など申ければ、
「さてはおしむ【惜しむ】ごさんなれ。にくし。こへ【乞へ】」とて、侍して
はせ【馳せ】させ、ふみ【文】などしても、一日がうちに五六度
七八度などこは【乞は】れければ、三位入道これをきき、
P04060
伊豆守よびよせ、「たとひこがね【黄金】をまろめたる
馬なりとも【共】、それほど【程】に人のこわ【乞は】う物をおし
む【惜しむ】べき様やある。すみやか【速やか】にその馬六波羅へつかは
せ【遣せ】」とこその給ひけれ。伊豆守力およば【及ば】で、一首の
歌をかき【書き】そへて六波羅へつかはす【遣す】。
こひしく【恋しく】はき【来】てもみよ【見よ】かし身にそへ【添へ】る
かげをばいかがはなち【放ち】やるべき W021
宗盛卿歌の返事をばし給はで、「あぱれ馬や。馬は
まこと【誠】によい馬でありけり。されどもあまりに
P04061
主がおしみ【惜しみ】つるがにくきに、やがて主が名のりを
かなやき【鉄焼】にせよ」とて、仲綱といふかなやきを
して、むまや【廐】にたて【立て】られけり。客人来て、「きこえ【聞え】
候名馬をみ候ばや」と申ければ、「その仲綱めに
鞍をい【置い】てひき【引き】だせ、仲綱めのれ、仲綱めうて【打て】、はれ」
などの給ひければ、伊豆守これをつたへ【伝へ】きき、「身に
かへ【代へ】ておもふ【思ふ】馬なれども、権威につゐ【付い】てとら【取ら】るる
だにもあるに、馬ゆへ【故】仲綱が天下のわらはれ
ぐさ【笑はれ草】とならんずるこそやすから【安から】ね」とて、大に
P04062
いきどをら【憤ら】れければ、三位入道これをきき、伊豆守
にむか【向つ】て、「何事のあるべきとおもひ【思ひ】あなづて、
平家の人ども【共】が、さやうのしれ事【痴事】をいふにこそあん
なれ。其儀ならば、いのち【命】いき【生き】てもなにかせん。
便宜をうかがふ【窺う】てこそあらめ」とて、わたくしには
おもひ【思ひ】もたたず、宮をすすめ【勧め】申たりけるとぞ、後には
きこえ【聞え】し。これにつけても、天下の人、小松のおとど【大臣】
の御事をぞしのび【忍び】申ける。或時、小松殿参内の
次に、中宮の御方へまいら【参ら】せ給ひたりけるに、八尺
P04063
ばかりあり【有り】けるくちなはが、おとど【大臣】のさしぬきの
左のりん【輪】をはひ【這ひ】まはりけるを、重盛さはが【騒が】ば、女
房達もさはぎ【騒ぎ】、中宮もおどろかせ給なんずと
おぼしめし【思し召し】、左の手でくちなはのを【尾】をおさへ【抑へ】、
右の手でかしら【頭】をとり、直衣の袖のうちにひき
いれ【引入れ】、ちともさはが【騒が】ず、つゐ立て、「六位や候六位や候」と
めされければ、伊豆守、其比はいまだ衛府蔵人
でおはしけるが、「仲綱」となの【名乗つ】てまいら【参ら】れたりけるに、
此くちなはをたぶ【賜ぶ】。給て弓場殿をへ【経】て、殿上の
P04064
小庭にいでつつ、御倉の小舎人をめし【召し】て、「これ給はれ」
といはれければ、大にかしら【頭】をふてにげさりぬ。
ちから【力】をよば【及ば】で、わが郎等競の滝口をめし【召し】て、これ
をたぶ【賜ぶ】。給はてすててげり。そのあした小松殿よい馬
に鞍をい【置い】て、伊豆守のもとへつかはす【遣す】とて、「さて
も昨日のふるまひ【振舞ひ】こそ、ゆう【優】に候しか。是はのり
一【乗り一】の馬で候。夜陰に及で、陣外より傾城のもとへ
かよは【通は】れむ時、もちゐ【用ゐ】らるべし」とてつかはさ【遣さ】る。
伊豆守、大臣の御返事なれば、「御馬かしこまて
P04065
給はり候ぬ。昨日のふるまひ【振舞ひ】は、還城楽にこそに【似】て
候ひしか」とぞ申されける。いかなれば、小松おとどは
かうこそゆゆしうおはせしに、宗盛卿はさこそ
なからめ、あまさへ【剰へ】人のおしむ【惜しむ】馬こひ【乞ひ】とて、天下の
大事に及ぬるこそうたてけれ。同十六日の夜に入て、
源三位入道頼政、嫡子伊豆[B ノ]守仲綱、次男源大夫[B ノ]
判官兼綱、六条[B ノ]蔵人仲家、其子[B ノ]蔵人太郎仲光
以下、都合其勢三百余騎館に火かけやき【焼き】あげ
て、三井寺へこそまいら【参ら】れけれ。三位入道の侍[B に]、渡辺
P04066
の源三滝口競といふ物あり【有り】。はせ【馳せ】をくれてとど
ま【留まつ】たりけるを、前右大将、競をめし【召し】て、「いかになんぢ
は三位入道のともをばせでとどまたるぞ」と
の給ければ、競畏て申けるは、「自然の事候
はば、まさきかけて命をたてまつら【奉ら】んとこそ、日
来は存て、候ひつれども、何とおもは【思は】れ候けるやら
む、かうともおほせ【仰せ】られ候はず」。「抑朝敵頼政法師
に同心せむとやおもふ【思ふ】。又これにも兼参の物ぞかし。
先途後栄を存じて、当家に奉公いたさんとや
P04067
思ふ。あり【有り】のままに申せ」とこそのたまひければ、
競涙をはらはらとながひ【流い】て、「相伝のよしみは
さる事にて候へども、いかが朝敵となれる人
に同心をばし候べき。殿中に奉公仕うずる候」と
申ければ、「さらば奉公せよ。頼政法師がしけん
恩には、ちともおとるまじきぞ」とて、入給ひぬ。
さぶらひに、「競はあるか」。「候」。「競はあるか」。「候」とて、あした
よりゆふべに及まで祗候す。やうやう日もくれけ
れば、大将いで【出で】られたり。競かしこまて申けるは、
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「三位入道殿三井寺にときこえ【聞え】候。さだめて
打手むけ【向け】られ候はんずらん。心にくうも候はず。三井
寺法師、さては渡辺のしたしい【親しい】やつ原こそ候
らめ[* 「候うめ」と有るのを他本により訂正]。ゑりうち【択討ち】などもし候べきに、の【乗つ】て事にあふ
べき馬の候つる〔を〕、したしい【親しい】やつめにぬすま【盜ま】れて候。
御馬一疋くだしあづかる【預る】べうや候らん」と申ければ、
大将「もともさるべし」とて、白葦毛なる馬の煖廷
とて秘蔵せられたりけるに、よい鞍をい【置い】てぞ
たう【賜う】だりける。競やかた【館】にかへ【帰つ】て、「はや【早】日のくれよかし。
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此馬に打乗て三井寺へはせまいり【参り】、三位入道殿の
まさき【真先】かけて打死せん」とぞ申ける。日もやうやう
くれければ、妻子ども【共】かしこここへ立しのば【忍ば】せて、三
井寺へ出立ける心の中こそむざん【無慚】なれ。ひやうもん【平文】
の狩衣の菊とぢ【菊綴】おほきらか【大きらか】にしたるに、重代のきせ
ながの、ひおどし【緋縅】のよろひに星じろ【星白】の甲の緒をしめ、
いか物づくりの大太刀はき、廿四さい【差い】たる大なかぐろ【中黒】の
矢おひ【負ひ】、滝口の骨法わすれ【忘れ】じとや、鷹の羽にて
はいだりける的矢一手ぞさしそへたる。しげどう【滋籐】の
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弓も【持つ】て、煖廷にうちのり、のりかへ一騎うちぐ
し【具し】、とねり男にもたて【楯】わき【脇】ばさませ、屋形に火かけ
やき【焼き】あげて、三井寺へこそ馳たりけれ。六波羅
には、競が宿所より火いで【出で】きたりとて、ひしめき
けり。大将いそぎいで【出で】て、「競はあるか」とたづね【尋ね】給ふに、
「候はず」と申す。「すは、きやつを手のべ【手延べ】にして、たばから
れぬるは。お【追つ】かけ【掛け】てうて」とのたまへ【宣へ】ども、競はもとより
すぐれたるつよ弓【強弓】せい兵【精兵】、矢つぎばやの手きき【手利】、大ぢから【大力】
の剛[B 「甲」の左に「剛」と傍書]の物、「廿四さいたる矢でまづ廿四人は射ころさ【殺さ】れ
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なんず。おと【音】なせそ」とて、むかふ【向ふ】物こそなかりけれ。
三井寺には折ふし【折節】競が沙汰あり【有り】けり。渡辺党[* 「渡鳥党」と有るのを他本により訂正]
「競をばめし【召し】ぐす【具す】べう候つる物を。六波羅にのこり【残り】
とどま【留まつ】て、いかなるうき目にかあひ候らん」と申ければ、
三位入道心をし【知つ】て、「よもそのもの【物】、無台にとらへ
からめ【搦め】られはせじ。入道に心ざしふかい物也。いまみよ【見よ】、
只今まいら【参ら】うずるぞ」とのたまひもはてねば、競つと
いできたり。「さればこそ」とぞのたまひける。競かしこ
まて申けるは、「伊豆守殿の木の下がかはりに、六波
P04072
羅の煖廷こそとてまい【参つ】て候へ。まいらせ【参らせ】候はん」とて、
伊豆守にたてまつる【奉る】。伊豆守なのめならず
悦て、やがて尾髪をきり、かなやき【鉄焼】して、次の夜
六波羅へつかはし【遣し】、夜半ばかり門のうちへぞおひいれ【追入れ】
たる。馬やに入て馬どもにくひ【食ひ】あひければ、とねり【舎人】
おどろきあひ、「煖廷がまい【参つ】て候」と申す。大将いそ
ぎいで【出で】てみ【見】たまへ【給へ】ば、「昔は煖廷、今は平の宗盛入道」と
いふかなやき【鉄焼】をぞしたりける。大将「やすからぬ競めを、
手のび【手延び】にしてたばかられぬる事こそ遺恨なれ。
P04073
今度三井寺へよせ【寄せ】たらんには、いかにもしてまづ
競めをいけどり【生捕り】にせよ。のこぎり【鋸】で頸きらん」
とて、おどり【躍り】あがりおどり【躍り】あがりいから【怒ら】れけれども、南丁が
『山門牒状』S0407
尾かみ【尾髪】もおい【生ひ】ず、かなやき【鉄焼】も又うせざりけり。○三井寺
には貝鐘ならい【鳴らい】て、大衆僉議す。「近日世上の体
を案ずるに、仏法の衰微、王法の牢籠、まさ
に此時にあたれり。今度清盛入道が暴悪[* 「慕悪」と有るのを他本により訂正]を
いまし〔め〕ずは、何日をか期すべき。宮ここに入御の御
事、正八幡宮の衛護、新羅大明神の冥助にあら
P04074
ずや。天衆地類も影向をたれ、仏力神力も
降伏をくはへまします事などかなかるべき。抑
北嶺は円宗一味の学地、南都は夏臈得度の
戒定也。牒奏のところ【所】に、などかくみ【与】せざるべき」と、
一味同心に僉議して、山へも奈良へも牒状を
こそを〔く〕り【送り】けれ。山門への状云、園城寺牒す、延暦寺
の衙殊に合力をいたして、当寺の破滅を助られ
むとおもふ【思ふ】状右入道浄海、ほしいままに王法をうし
なひ【失ひ】、仏法をほろぼさんとす。愁歎無極ところ【所】に、
P04075
去る十五日[B ノ]夜、一院第二の王子、ひそかに入寺
せしめ給ふ。爰院宣と号していだし【出し】たてまつる【奉る】
べきよし、せめ【責】あり【有り】といへども【共】、出したてまつるにあたはず。
仍て官軍をはなち【放ち】つかはす【遣す】べきむね、聞へあり【有り】。
当寺の破滅、まさに此時にあたれり。諸衆何ぞ
愁歎せざらんや。就中に延暦・園城両寺は、門跡
二に相分るといへども、学するところ【所】は是円頓一
味の教門におなじ。たとへば鳥の左右の翅のごとし【如し】。
又車の二O[BH の]輪に似たり。一方闕けんにおいては、いかでか
P04076
そのなげき【歎】なからんや。者ことに合力をいたして、
当寺の破滅を助られば、早く年来の遺恨
を忘て、住山の昔に復せん。衆徒の僉議かくの如し。
仍牒奏件の如し。治承四年五月十八日大衆等とぞ
『南都牒状』S0408
かい【書い】たりける。○山門の大衆此状を披見して、「こはいかに、
当山の末寺であり【有り】ながら、鳥の左右の翅の如し、又
車の二の輪に似たりと、おさへ【抑へ】て書でう【条】奇怪なり」
とて、返牒ををくら【送ら】ず。其上入道相国、天台座主明雲
大僧正に衆徒をしづめらるべきよしのたまひければ、
P04077
座主いそぎ登山して大衆をしづめ給ふ。かかりし
間、宮の御方へは不定のよしをぞ申ける。又入道相国、
近江米二万石、北国のおりのべぎぬ【織延絹】三千疋、往来に
よせ【寄せ】らる。これをたにだに【谷々】峰々にひかれけるに、俄の
事ではあり【有り】、一人してあまたをとる大衆もあり【有り】、
又手をむなしう【空しう】して一もとらぬ衆徒もあり【有り】。
なに物のしわざにや有けん、落書をぞしたりける。
山法師おりのべ衣【織延衣】うすくして
恥をばえこそかくさ【隠さ】ざりけれ W022
P04078
又きぬにもあたらぬ大衆のよみたりけるやらん、
おりのべ【織延】を一きれ【一切れ】もえぬわれら【我等】さへ
うすはぢ【薄恥】をかくかずに入かな W023
又南都への状に云、園城寺牒す、興福寺[B ノ]衙殊に
合力をいたして、当寺の破滅を助られんと乞状
右仏法の殊勝なる事は、王法をまぼらんがため、王法又長久なる事は、すなはち仏法による。爰に入道
前太政大臣平朝臣清盛公、法名浄海、ほしいままに
国威をひそかにし、朝政をみだり、内につけ外につけ、
P04079
恨をなし歎をなす間、今月十五日[B ノ]夜、一院第二の
王子、不慮の難をのがれ【逃れ】んがために、にはかに入寺せし
め給ふ。ここに院宣と号して出したてまつる【奉る】べきむね、
せめあり【有り】といへども、衆徒一向これをおしみ【惜しみ】奉る。仍彼
禅門、武士を当寺にいれ【入れ】んとす。仏法と云王法[B と]云、
一時にまさに破滅せんとす。昔唐の恵正【*会昌】天子、軍
兵をもて仏法をほろぼさしめし時、清涼山の衆、合
戦をいたしてこれをふせく【防く】。王権猶かくの如し。
何況や謀叛八逆の輩においてをや。就中に
P04080
南京は例なくて罪なき長者を配流せらる。今
度にあらずは、何日か会稽をとげん。ねがは【願は】くは、
衆徒、内には仏法の破滅をたすけ【助け】、外には悪逆の
伴類を退けば、同心のいたり本懐に足ぬべし。
衆徒の僉議かくの如し。仍牒奏如件。治承四年
五月十八日大衆等とぞかい【書い】たりける。南都の大衆、此
状を披見して、やがて返牒ををくる【送る】。其返牒に云、
興福寺牒す、園城寺の衙来牒一紙に載られたり。
右入道浄海が為に、貴寺の仏法をほろぼさんと
P04081
するよしの事。牒す、玉泉玉花、両家の宗義を
立といへども、金章金句おなじく一代教文より
出たり。南京北京ともにもて如来の弟子たり。
自寺他寺互に調達が魔障を伏すべし。抑
清盛入道は平氏の糟糠、武家の塵芥なり。祖父
正盛蔵人五位の家に仕へて、諸国受領の鞭を
とる。大蔵卿為房賀州刺史[* 「判史」と有るのを他本により訂正]のいにしへ、検非所に補し、
修理大夫顕季播磨[B ノ]大守たし昔、厩[B ノ]別当職に
任ず。しかる【然る】を親父忠盛昇殿をゆるさ【許さ】れし時、
P04082
都鄙の老少みな蓬戸瑕瑾をおしみ【惜しみ】、内外の
栄幸をのをの【各々】馬台の辰門に啼く。忠盛青雲
の翅を刷といへども、世の民なを【猶】白屋の種をかろん
ず。名ををしむ青侍、其家にのぞむ事なし。
しかるを去る平治元年十二月、太上天皇一戦の
功を感じて、不次の賞を授給ひしよりこの
かた、たかく相国にのぼり、兼て兵杖【*兵仗】を給はる。
男子或は台階をかたじけなうし、或は羽林に
つらなる。女子或は中宮職にそなはり、或は
P04083
准后の宣を蒙る。群弟庶子みな棘路に
あゆみ【歩み】、其孫彼甥ことごとく【悉く】竹符をさく。しかのみ
ならず、九州を統領し、百司を進退して、
奴婢みな僕従となす。一毛心にたがへ【違へ】ば、王侯と
いへどもこれをとらへ、片言耳にさかふれば、
公卿といへども【共】これをからむ。これによて或は一旦
の身命をのべんがため、或は片時の凌蹂をのが
れ【逃れ】んとおもて万乗の聖主猶緬転の媚を
なし、重代の家君かへて【却つて】膝行の礼をいたす。
P04084
代々相伝の家領を奪ふといへども、じやうさい【上宰】も
おそれ【恐れ】て舌をまき、みやみや【宮々】相承の庄園をとる
といへども【共】、権威にはばかて物いふ事なし。勝に
のるあまり、去年の冬十一月、太上皇のすみかを
追補し、博陸公の身ををし【推し】ながす【流す】。反逆の甚し
い事、誠に古今に絶たり。其時我等、すべからく
賊衆にゆき向て其罪を問べしといへども【共】、或は
神慮にあひはばかり、或は綸言と称するによて、
鬱陶をおさへ【抑へ】光陰を送るあひだ、かさね【重ね】て
P04085
軍兵ををこし【起こし】て、一院第二の親王宮をうちかこ
むところ【所】に、八幡三所・春日の大明神、ひそかに
影向をたれ、仙蹕をささげたてまつり【奉り】、貴寺に
をくり【送り】つけて、新羅のとぼそ【扉】にあづけたて
まつる【奉る】。王法つく【尽く】[* 「つき」と有るのを他本により訂正]べからざるむねあきらけし。随て
又貴寺身命をすてて守護し奉る条、含識
のたぐひ、誰か随喜せざらん。我等遠域にあて、
そのなさけを感ずるところ【所】に、清盛入道尚胸
気ををこし【起こし】て、貴寺に入らんとするよし、ほのかに
P04086
承及をもて、兼て用意をいたす。十八日辰一点
に大衆をおこし【起こし】、諸寺に牒奏し、末寺に下知し、
軍士をゑ【得】て後、案内を達せんとするところ【所】に、
青鳥飛来てはうかん【芳翰】をなげ【投げ】たり。数日の鬱念
一時に解散す。彼唐家清涼一山の■蒭、猶ぶそう【武宗】
の官兵を帰へす。況や和国南北両門の衆徒、
なんぞ謀臣の邪類をはらはざらんや。よくりやうゑん【梁園】
左右の陣をかためて、よろしく我等が進発の
つげを待べし。状を察して疑貽【*疑殆】をなす事
P04087
なかれ。もて牒す。治承四年五月廿一日大衆等と
『永僉議』S0409
ぞかい【書い】たりける。○三井寺には又大衆おこて僉議
す。「山門は心がはりしつ。南都はいまだまいら【参ら】ず。
此事のび【延び】てはあしかり【悪しかり】なん。いざや六波羅にをし【押し】
よせて、夜打にせん。其儀ならば、老少二手にわか
て老僧どもは如意が峰より搦手にむかふ【向ふ】べし。
足がる【足軽】ども【共】四五百人さきだて【先立て】、白河の在家に火を
かけてやき【焼き】あげば、在京人六波羅の武士、「あはや
事いできたり」とて、はせ【馳せ】むかは【向は】んずらん。其時
P04088
岩坂・桜本にひ【引つ】かけ[B 「け」に「へ」と傍書]ひ【引つ】かけ、しばしささへ【支へ】てたたかは【戦かは】んまに、
大手は伊豆守を大将軍にて、悪僧ども【共】六波羅に
をし【押し】よせ、風うへ【風上】に火かけ、一もみ【揉】もうでせO[BH め]【攻め】んに、などか
太政入道やき【焼き】だい【出い】てうた【討た】ざるべき」とぞ僉議しける。
其なかに、平家のいのり【祈り】しける一如房の阿闍梨
真海、弟子同宿数十人ひき具し、僉議の庭に
すすみ【進み】いで【出で】て申けるは、「かう申せば平家のかたうど【方人】
とやおぼしめさ【思し召さ】れ候らん。たとひさも候へ、いかが衆徒の
儀をもやぶり、我等の名をもおしま【惜しま】では候べき。
P04089
昔は源平左右にあらそひ【争そひ】て、朝家の御まぼり
たりしかども、ちかごろは源氏の運かたぶき、平家
世をとて廿余年、天下になびかぬ草木も候はず。
内々のたち【館】のありさまも、小勢にてはたやすう
せめ【攻め】おとし【落し】がたし。さればよくよく外にはかり事をめぐ
らして、勢をもよほし、後日によせ【寄せ】させ給ふべう
や候らん」と、程をのば【延ば】さんがために、ながながとぞ僉
議したる。ここに乗円房の阿闍梨慶秀といふ老
僧あり【有り】。衣のしたに腹巻をき【着】、大なるうちがたな【打刀】
P04090
まへだれ【前垂】にさし、ほうしがしら【法師頭】つつむで、白柄の大長刀
杖につき、僉議の庭にすすみいで【出で】て申けるは、「証拠を
外にひく【引く】べからず。我寺の本願天武天皇は、いまだ
東宮の御時、大友の皇子にはばからせ給ひて、よし野【吉野】
のおくをいで【出で】させ給ひ、大和国宇多郡をすぎ
させ給ひけるには、其勢はつかに十七騎、されども伊賀
伊勢にうちこへ【越え】、美乃【*美濃】尾張の勢をもて、大友の皇子
をほろぼして、つゐに【遂に】位につかせ給ひき。「窮鳥懐に
入、人倫これをあはれむ」といふ本文あり【有り】。自余は
P04091
しら【知ら】ず、慶秀が門徒においては、今夜六波羅に
おしよせて、打死せよや」とぞ僉議しける。円満院
大輔源覚、すすみいで【出で】て申けるは、「僉議はし【端】おほし【多し】。
『大衆揃』S0410
夜のふくるに、いそげやすすめ」とぞ申ける。○搦手に
むかふ【向ふ】老僧ども、大将軍には、源三位入道頼政、乗円
房[B ノ]阿闍梨慶秀、律成房[B ノ]阿闍梨日胤、帥法印
禅智、禅智が弟子義宝・禅房をはじめとして、
都合其勢一千人、手々にたい松も【持つ】て如意が峰へ
ぞむかひ【向ひ】ける。大手の大将軍には嫡子伊豆守
P04092
仲綱、次男源大夫判官兼綱、六条蔵人仲家、其子
蔵人太郎仲光、大衆には円満院の大輔源覚、成
喜院のあら土佐【荒土佐】、律成房[B ノ]伊賀[B ノ]公、法輪院の鬼佐渡、
これらはちから【力】のつよさ、うち物【打物】も【持つ】ては鬼にも神
にもあは【会は】ふどいふ、一人当千のつはもの【兵】也。平等院には
因幡堅者荒大夫、角[B ノ]六郎房、島の阿闍梨、つつ
井【筒井】法師に卿[B ノ]阿闍梨、悪少納言、北[B ノ]院には金光院の
六天狗、式部・大輔・能登・加賀・佐渡・備後等也。松井の
肥後、証南院の筑後、賀屋の筑前、大矢の俊長、五智
P04093
院の但馬、乗円房の阿闍梨慶秀が房人六十人の
内、加賀光乗、刑部春秀【俊秀】、法師原には一来法師に
しか【如か】ざりけり。堂衆にはつつ井【筒井】の浄妙明秀、小蔵[B ノ]尊
月、尊永・慈慶・楽住、かなこぶしの玄永、武士には
渡辺[B ノ]省、播磨[B ノ]次郎、授薩摩[B ノ]兵衛、長七唱、競[B ノ]
滝口、与[B ノ]右馬[B ノ]允、続源太、清・勧を先として、都合其
勢一千五百余人、三井寺をこそう【打つ】たち【立ち】けれ。宮いら【入ら】
せたまひ【給ひ】て後は、大関小関ほり【掘り】きて、堀ほり【掘り】さか
も木【逆茂木】ひい【引い】たれば、堀に橋わたし、さかも木【逆茂木】ひきのくる【引除くる】
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などしける程に、時剋をし【押し】うつ【移つ】て、関地のには鳥【鶏】
なき【鳴き】あへり。伊豆守の給ひけるは、「ここで鳥ない【鳴い】
ては、六波羅は白昼にこそよせ【寄せ】んずれ。いかがせん」と
のたまへ【宣へ】ば、円満院大輔源覚、又さき【先】のごとくすすみ【進み】
いで【出で】て僉議しけるは、「昔秦の昭王のとき、孟嘗君
めし【召し】いましめ【禁】られたりしに、きさきの御たすけ【助け】によて、
兵物三千人をひきぐし【具し】て、にげ【逃げ】まぬかれけるに、
凾谷関にいたれり。鶏なか【鳴か】ぬかぎりは関の戸をひらく
事なし。孟嘗君が三千の客のなかに、てんかつと
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いふ兵物あり【有り】。鶏のなくまねをありがたくしければ、
鶏鳴ともいはれけり。彼鶏鳴たかき【高き】所にはしり【走り】
あがり、にはとりのなく【鳴く】まねをしたりければ、関路
のにはとりきき【聞き】つたへてみななき【鳴き】ぬ。其時関もり【関守】
鳥のそらね【空音】にばかさ【化さ】れて、関の戸あけ【開け】てぞとを
し【通し】ける。これもかたきのはかり事にやなか【鳴か】すらん。
ただよせよ【寄せよ】」とぞ申ける。かかりしほど【程】に五月のみじか
夜、ほのぼのとこそあけ【明け】にけれ。伊豆守の給
ひけるは、「夜うち【夜討】にこそさりともとおもひ【思ひ】つれ共、
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ひるいくさ【昼軍】にはかなふ【叶ふ】まじ。あれよび【呼び】かへせや」とて、
搦手、如意が峰よりよびかへす【返す】。大手は松坂より
とてかへす【返す】。若大衆ども「これは一如房[B ノ]阿闍梨が
なが僉議にこそ夜はあけ【明け】たれ。をし【押し】よせて其坊
きれ【斬れ】」とて、坊をさんざん【散々】にきる。ふせく【防く】ところ【所】の弟子、
同宿数十人うた【討た】れぬ。一如坊阿闍梨、はうはう【這ふ這ふ】六波羅
にまい【参つ】て、老眼より涙をながい【流い】て此由うたへ【訴へ】申
けれ共、六波羅には軍兵数万騎馳あつま【集まつ】て、
さはぐ【騒ぐ】事もなかりけり。同廿三日の暁、宮は「此寺
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ばかりではかなう【適ふ】まじ。山門は心がはり【変り】しつ。南都は
いまだまいら【参ら】ず。後日になてはあしかり【悪しかり】なん」とて、
三井寺をいでさせ給ひて、南都へいら【入ら】せおはします。
此宮は蝉をれ【蝉折れ】・小枝ときこえ【聞え】し漢竹の笛を
ふたつ【二つ】もた【持た】せ給へり。かのせみをれ【蝉折れ】と申は、昔鳥羽
院の御時、こがねを千両宋朝の御門へをくら【送ら】せ
給ひたりければ、返報とおぼしくて、いき【生き】たる蝉
のごとくにふし【節】のついたる笛竹をひとよ【一節】をくら【送ら】せ
たまふ【給ふ】。「いかがこれ程の重宝をさう【左右】なうはゑら【彫ら】すべき」
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とて、三井寺の大進僧正覚宗に仰て、壇上にたて、
七日加持してゑら【彫ら】せ給へる御笛也。或時、高松の中納
言実平【*実衡】卿まい【参つ】て、この御笛をふか【吹か】れけるが、よのつ
ねの笛のやうにおもひ【思ひ】わすれ【忘れ】て、ひざ【膝】よりしも【下】に
おかれたりければ、笛やとがめ【咎め】けん、其時蝉おれ【折れ】に
けり。さてこそ蝉おれ【蝉折れ】とはつけられたれ。笛の
おん【御】器量たるによて、この【此の】宮御相伝あり【有り】けり。
されども、いま【今】をかぎりとやおぼしめさ【思し召さ】れけん、金堂の
弥勒にまいら【参ら】させおはします。竜花の暁、値遇の御
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ためかとおぼえて、あはれ【哀】なし事共也。老僧ども
にはみないとま【暇】たう【賜う】で、とどめ【留め】させおはします。しかる【然る】
べき若大衆悪僧共はまいり【参り】けり。源三位入道の
一類ひきぐし【具し】て、其勢一千人とぞきこえ【聞え】し。乗
円房[B ノ]阿闍梨慶秀、鳩の杖にすがて宮の御まへ
にまいり【参り】、老眼より涙をはらはらとながひ【流い】て申
けるは、「いづくまでも御とも仕べう候へども、齢
すでに八旬にたけて、行歩にかなひ【叶ひ】がたう候。
弟子で候刑部房俊秀をまいらせ【参らせ】候。これ【是】は一とせ
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平治の合戦の時、故左馬頭義朝が手に候ひて、
六条河原で打死に仕候し相模国住人、山内須藤
刑部[B ノ]丞俊通が子で候。いささかゆかり候あひだ、跡ふと
ころ【跡懐】でおうし【生し】たて【立て】て、心のそこまでよくよくし【知つ】て候。
いづくまでもめし【召し】ぐせ【具せ】られ候べし」とて、涙をおさへ【抑へ】て
とどまりぬ。宮もあはれ【哀】におぼしめし、「いつ[B 「つ」に「ツ」と傍書]のよしみ【好】に
『橋合戦』S0411
かうは申らん」とて、御涙せきあへさせ給はず。○宮は
宇治と寺とのあひだにて、六度までをん【御】
落馬あり【有り】けり。これはさんぬる夜、御寝のならざりし
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ゆへ【故】なりとて、宇治橋三間ひきはづし【外し】、平等院にいれ【入れ】
たてま【奉つ】て、しばらく御休息あり【有り】けり。六波羅には、「すはや、
宮こそ南都へおち【落ち】させ給ふなれ。お【追つ】かけ【掛け】てうち【討ち】たて
まつれ【奉れ】」とて、大将軍には、左兵衛[B ノ]督知盛、頭中将重衡、
左馬[B ノ]頭行盛、薩摩守忠教【*忠度】、さぶらひ【侍】大将には、上総守
忠清、其子上総[B ノ]太郎判官忠綱、飛騨守景家、其
子飛騨[B ノ]太郎判官景高、高橋判官長綱、河内[B ノ]判官
秀国、武蔵[B ノ]三郎左衛門有国、越中[B ノ]次郎兵衛尉盛継、
上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清を先として、
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都合其勢二万八千余騎、木幡山うちこえ【越え】て、宇治
橋のつめにぞおしよせ【寄せ】たる。かたき【敵】平等院にとみ【見】てん
げれば、時をつくる事三ケ度、宮の御方にも時の
声をぞあはせ【合はせ】たる。先陣が、「橋をひい【引い】たぞ、あやまち
すな。橋をひいたぞ、あやまちすな」と、どよみけれども【共】、
後陣はこれをきき【聞き】つけず、われ【我】さき【先】にとすすむ【進む】ほど【程】に、
先陣二百余騎をし【押し】おとさ【落さ】れ、水におぼれ【溺れ】てながれけり。
橋の両方のつめにう【打つ】た【立つ】て矢合す。宮御方には、大矢の
俊長、五智院の但馬、渡辺の省・授・続の源太がい【射】ける
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矢ぞ、鎧もかけず、楯もたまらずとをり【通り】ける。源三位
入道は、長絹のよろひ直垂にしながはおどし【科革縅】の鎧也。
其日を最後とやおもは【思は】れけん、わざと甲はき【着】給はず。
嫡子伊豆守仲綱は、赤地の錦の直垂に、黒糸威の
鎧也。弓をつよう【強う】ひか【引か】んとて、これも甲はき【着】ざりけり。
ここに五智院の但馬、大長刀のさや【鞘】をはづい【外い】て、只一騎
橋の上にぞすすん【進ん】だる。平家の方にはこれをみて、「あれ
い【射】とれや物共」とて、究竟の弓の上手どもが矢さき【矢先】を
そろへて、さしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さんざん【散々】にいる【射る】。但馬すこし【少し】も
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さはが【騒が】ず、あがる【上る】矢をばついくぐり【潛り】、さがる【下る】矢をばおどり【躍り】
こへ【越え】、むか【向つ】てくるをば長刀でき【斬つ】ておとす【落す】。かたき【敵】もみかた【御方】
も見物す。それよりしてこそ、矢ぎり【矢斬り】の但馬とは
いはれけれ。堂衆のなかに、つつ井【筒井】の浄妙明秀は、かち【褐】
の直垂に黒皮威の鎧きて、五牧甲の緒をしめ、
黒漆の太刀をはき、廿四さい【差い】たるくろぼろ【黒母衣】の矢をひ【負ひ】、
ぬりごめどう【塗籠籐】の弓に、このむ白柄の大長刀とりそへて、
橋のうへ【上】にぞすすん【進ん】だる。大音声をあげて名のり
けるは、「日ごろはおと【音】にもき〔き〕つらむ、いまは目にもみ給へ。
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三井寺にはそのかくれ【隠れ】なし。堂衆のなかにつつ井【筒井】の浄妙
明秀といふ一人当千の兵物ぞや。われとおもはむ
人々はより【寄り】あへや。げざん【見参】せむ」とて、廿四さいたる矢をさし
つめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さんざん【散々】にいる【射る】。やには【矢庭】に十二人い【射】ころし【殺し】て、
十一人に手おほせ【負せ】たれば、ゑびら【箙】に一ぞのこたる。弓をばから
となげ【投げ】すて、ゑびら【箙】もとひ【解い】てすててげり。つらぬき【貫き】ぬい【脱い】
ではだし【跣】になり、橋のゆきげた【行桁】をさらさらさらとはしり【走り】
り[* 「り」一字衍字]わたる。人はおそれ【恐れ】てわたら【渡ら】ねども、浄妙房が心地には、
一条二条の大路とこそふるまう【振舞う】たれ。長刀でむかふ【向ふ】
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かたき【敵】五人なぎ【薙ぎ】ふせ、六人にあたるかたき【敵】にあふ【逢う】て、
長刀なか【中】よりうちを【折つ】てすて【捨て】てげり。その後太刀を
ぬい【抜い】てたたかふ【戦ふ】に、かたき【敵】は大勢也、くもで【蜘蛛手】・かくなは【角縄】・十
文字、とばうがへり【蜻蛉返】・水車、八方すかさずき【斬つ】たりけり。
やには【矢庭】に八人きりふせ【伏せ】、九人にあたるかたき【敵】が甲の
鉢にあまりにつよう【強う】うち【打ち】あてて、めぬき【目貫】のもとより
ちやうどをれ【折れ】、くとぬけ【抜け】て、河へざぶと入にけり。たのむ【頼む】
ところ【所】は腰刀、ひとへに死なんとぞくるひ【狂ひ】ける。ここに
乗円房の阿闍梨慶秀がめし【召し】つかひ【使ひ】ける。一来法師と
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いふ大ぢから【大力】のはやわざ【早業】あり【有り】けり。つづいてうしろ【後】にたた
かふ【戦ふ】が、ゆきげた【行桁】はせばし【狭し】、そば【側】とをる【通る】べきやうはなし。
浄妙房が甲の手さき【先】に手ををい【置い】て、「[B あイ]しう【悪しう】候、浄妙
房」とて、肩をづんどおどり【躍り】こへ【越え】てぞたたかい【戦ひ】ける。
一来法師打死してんげり。浄妙房はうはう【這ふ這ふ】かへ【帰つ】て、
平等院の門のまへなる芝のうへ【上】に、物ぐ【具】ぬぎすて、
鎧にた【立つ】たる矢め【目】をかぞへたりければ六十三、うらかく
矢五所、されども大事の手ならねば、ところどころ【所々】に
灸治して、かしら【頭】からげ、浄衣き【着】て、弓うちきり【切り】杖に
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つき、ひらあしだ【平足駄】はき、阿弥陀仏申て、奈良の方へぞ
まかり【罷り】ける。浄妙房がわたるを手本にして、三井寺の
大衆・渡辺党、はしり【走り】つづきはしり【走り】つづき、われもわれもと
ゆきげた【行桁】をこそわたりけれ。或は分どり【分捕】して
かへる物もあり【有り】、或はいた手【痛手】おうて腹かききり【切り】、河へ
飛入物もあり【有り】。橋のうへ【上】のいくさ【軍】、火いづる【出づる】程ぞたたかい【戦ひ】
ける。これをみて平家の方の侍大将上総守忠清、
大将軍の御まへにまい【参つ】て、「あれ御らん候へ。橋のうへ【上】の
いくさ【軍】手いたう候。いまは河をわたす【渡す】べきで候が、
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おりふし【折節】五月雨のころで、水まさて候。わたさば
馬人おほく【多く】うせ【失せ】候なんず。淀・いもあらい【一口】へやむかひ【向ひ】候
べき。河内路へやまはり【廻り】候べき」と申ところ【所】に、下野国[B ノ]
住人足利[B ノ]又太郎忠綱、すすみ【進み】いでて申けるは、「淀・いも
あらひ【一口】・河内路をば、天竺、震旦の武士をめし【召し】てむけ【向け】ら
れ候はんずるか。それも我等こそむかひ【向ひ】候はんずれ。目に
かけたるかたき【敵】をうた【討た】ずして、南都へいれ【入れ】まいらせ【参らせ】候
なば、吉野・とつかは【十津川】の勢ども馳集て、いよいよ
御大事でこそ候はんずらめ。武蔵と上野のさかひ【境】に
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とね河【利根河】と申候大河候。秩父・足利なか【仲】をたがひ【違ひ】、つね
は合戦をし候しに、大手は長井〔の〕わたり、搦手は故
我・杉のわたりよりよせ候ひしに、上野国の住人新田[B ノ]
入道、足利にかたらはれて、杉の渡よりよせ【寄せ】んとて
まうけ【設け】たる舟ども【共】を、秩父が方よりみなわら【破ら】れて
申候しは、「ただいま【今】ここをわたさずは、ながき弓矢の
疵なるべし。水におぼれてしな【死な】ばしね。いざわたさん」と
て、馬筏をつくてわたせ【渡せ】ばこそわたしけめ。坂東武者の
習として、かたき【敵】を目にかけ、河をへだつるいくさ【軍】に、
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淵瀬きらふ様やある。此河のふかさ【深さ】はやさ【早さ】、とね河【利根河】に
いくほどのおとりまさりはよもあらじ。つづけや殿原」
とて、まさき【真先】にこそうち【打ち】入れたれ。つづく人共、大胡・大室・
深須・山上、那波[B ノ]太郎、佐貫[B ノ]広綱四郎大夫、小野寺[B ノ]禅師
太郎、辺屋こ【辺屋子】の四郎、郎等には、宇夫方次郎、切生の
六郎、田中の宗太をはじめとして、三百余騎ぞつづき
ける。足利大音声をあげて、「つよき馬をばうは手【上手】に
たて【立て】よ、よはき【弱き】馬をばした手【下手】になせ。馬の足のおよ
ば【及ば】うほどは、手綱をくれてあゆま【歩ま】せよ。はづまば
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かいく【繰つ】ておよが【泳が】せよ。さがら【下ら】う物をば、弓のはず【筈】にとり
つか【付か】せよ。手をとりくみ【組み】、肩をならべてわたすべし。
鞍つぼ【壷】によくのり【乗り】さだま【定まつ】て、あぶみ【鐙】をつよう【強う】ふめ。馬
のかしら【頭】しづま【沈ま】ばひきあげよ。いたうひい【引い】てひ【引つ】かづく【被く】
な。水しとまば、さんづ【三頭】のうへ【上】にのり【乗り】かかれ。馬にはよはう【弱う】、
水にはつよう【強う】あたるべし。河なか【中】で弓ひくな。かたき【敵】いる【射る】
ともあひびき【相引】すな。つねにしころ【錣】をかたぶけよ【傾けよ】。いたう
かたむけ【傾け】て手へんいさすな。かねにわたい【渡い】ておしをと
さ【落さ】るな。水にしなうてわたせ【渡せ】やわたせ【渡せ】」とおきて【掟て】て、
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三百余騎、一騎もながさず、むかへ【向へ】の岸へざとわた
『宮御最期』S0412
す。○足利O[BH 其日の装束にはイ]は朽葉の綾の直垂に、赤皮威の鎧
きて、たか角【高角】うたる甲のを【緒】しめ、こがねづくりの太刀
をはき、きりう【切斑】の矢おひ【負ひ】、しげどう【滋籐】〔の〕弓も【持つ】て、連銭葦
毛なる馬に、柏木に耳づく【木菟】うたる黄覆輪の鞍を
い【置い】てぞの【乗つ】たりける。あぶみふばりたち【立ち】あがり、大音声
あげてなのり【名乗り】けるは、「とをく【遠く】は音にもきき、ちかく【近く】は
目にもみ【見】給へ。昔朝敵将門をほろぼし、勧賞
かうぶし俵藤太秀里【*秀郷】に十代、足利[B ノ]太郎俊綱が子、
P04114
又太郎忠綱、生年十七歳、かやう【斯様】に無官無位なる物
の、宮にむかひ【向ひ】まいらせ【参らせ】て、弓をひき矢を放事、
天のおそれ【恐れ】すくなからず候へども【共】、弓も矢も冥
が【冥加】のほども、平家の御身のうへ【上】にこそ候らめ。三位
入道殿の御かたに、われとおもは【思は】ん人々はより【寄り】あへや、
げざん【見参】せん」とて、平等院の門のうちへ、せめ【攻め】入せめ【攻め】入
たたかひ【戦ひ】けり。これをみて、大将軍左兵衛[B ノ]督知盛、
「わたせ【渡せ】やわたせ【渡せ】」と下知せられければ、二万八千余騎、
みなうちいれ【打ち入れ】てわたしけり。馬や人にせかれて、さば
P04115
かり早き宇治河の水は、かみ【上】にぞたたへ【湛へ】たる。おの
づからもはづるる水には、なにもたまらずながれ【流れ】けり。
雑人どもは馬のした手【下手】にとりつき【取り付き】わたり【渡り】ければ、
ひざ【膝】よりかみ【上】をばぬらさぬ物もおほかり【多かり】けり。いかが【如何】
したりけん、伊賀・伊勢両国の官兵、馬いかだ【筏】をし【押し】
やぶら【破ら】れ、水におぼれて六百余騎ぞながれける。
萌黄・火威・赤威、いろいろの鎧のうきぬしづみ【沈み】ぬ
ゆられけるは、神なび山【神南備山】の紅葉ばの、嶺の嵐に
さそはれて、竜田河の秋のくれ【暮】、いせきにかかて
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ながれ【流れ】もやらぬにことならず。其中にひおどし【緋縅】の
鎧き【着】たる武者が三人、あじろにながれ【流れ】かかてゆられ
けるを、伊豆守み【見】たまひ【給ひ】て、
伊勢武者はみなひおどし【緋縅】のよろひきて
宇治のあじろ【網代】にかかりぬるかな W024
これらは三人ながら伊勢国の住人也。黒田[B ノ]後平
四郎、日野[B ノ]十郎、乙部[B ノ]弥七といふ物あり。其なかに
日野の十郎はふる物にてあり【有り】ければ、弓のはず【弭】を
岩のはざまにねぢたて【立て】てかきあがり、二人の物共をも
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ひき【引き】あげて、たすけ【助け】たりけるとぞきこえ【聞え】し。おほ
ぜい【大勢】みなわたし【渡し】て、平等院の門のうちへいれかへ【入れ換へ】いれかへ【入れ換へ】
たたかい【戦ひ】けり。この【此の】まぎれに、宮をば南都へさきだて【先立て】
まいらせ【参らせ】、源三位入道の一類のこて、ふせき【防き】矢い【射】給ふ。
三位入道七十にあまていくさ【軍】して、弓手のひざ口【膝口】を
い【射】させ、いたで【痛手】なれば、心しづかに自害せんとて、平等院
の門の内へひき退て、かたき【敵】おそい【襲ひ】かかりければ、
次男源大夫判官兼綱、紺地の錦の直垂に、唐綾
威の鎧きて、白葦毛なる馬にのり、父をのばさんと、
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かへし【返し】あはせ【合はせ】かへし【返し】あはせ【合はせ】ふせき【防き】たたかふ【戦ふ】。上総太郎判官がい【射】け
る矢に、兼綱うち甲【内甲】をい【射】させてひるむところ【所】に、上総
守が童次郎丸といふしたたか物、をし【押し】ならべてひ【引つ】
く【組ん】で、どうどおつ【落つ】。源大夫判官はうち甲【内甲】もいた手【痛手】
なれども【共】、きこゆる【聞ゆる】大ぢから【大力】なりければ、童をとておさへ【抑へ】
て頸をかき、立あがら【上ら】んとするところ【所】に、平家の兵物
ども十四五騎、ひしひしとおち【落ち】かさな【重なつ】て、ついに【遂に】兼綱を
ばう【討つ】てげり。伊豆守仲綱もいた手【痛手】あまたおひ、平等
院の釣殿にて自害す。その頸をば、しも河辺【下河辺】の
P04119
藤三郎清親と【取つ】て、大床のしたへぞなげ入ける。
六条[B ノ]蔵人仲家、其子蔵人太郎仲光も、さんざん【散々】に
たたかひ、分どり【分捕】あまたして、遂に打死してげり。
この仲家と申は、小【*故】帯刀[B ノ]の先生義方【*義賢】が嫡子也。みな
し子にてあり【有り】しを、三位入道養子にして不便にし給
ひしが、日来の契を変ぜず、一所にて死ににけるこそ
むざんなれ。三位入道は、渡辺[B ノ]長七唱をめし【召し】て、「わが頸
うて」とのたまひければ、主のいけくび【生首】うたん事の
かなしさに、涙をはらはらとながひ【流い】て、「仕ともおぼえ
P04120
候はず。御自害候て、其後こそ給はり候はめ」と申
ければ、「まこと【誠】にも」とて、西にむかひ【向ひ】、高声に十念
となへ、最後の詞ぞあはれ【哀】なる。
埋木のはな【花】さく事もなかりしに
身のなるはて【果】ぞかなしかり【悲しかり】ける W025
これを最後の詞にて、太刀のさきを腹につきたて、
うつぶさま【俯様】につらぬか【貫ぬかつ】てぞうせ【失せ】られける。其時に歌よむ
べうはなかりしかども、わかう【若う】よりあながちにすい【好い】たる
道なれば、最後の時もわすれ給はず。その頸をば
P04121
唱取て、なくなく【泣く泣く】石にくくり【括り】あはせ【合はせ】、かたき【敵】のなかを
まぎれいで【出で】て、宇治河のふかきところ【所】にしづめて
げり。競の滝口をば、平家の侍共、いかにもしていけ
どり【生捕り】にせんとうかがひ【伺ひ】けれども、競もさきに心え
て、さんざん【散々】にたたかひ【戦ひ】、大事の手おひ、腹かきき【切つ】て
ぞ死にける。円満院の大輔源覚、いまは宮もはる
かにのびさせ給ひぬらんとやおもひけん、大太刀
大長刀左右にも【持つ】て、敵のなかうちやぶり、宇治
河へとんでいり、物の具一もすてず、水の底をくぐて、
P04122
むかへ【向へ】の岸にわたりつき、たかきところ【所】にのぼり
あがり、大音声をあげて、「いかに平家の君達、これ
までは御大事かよう」とて、三井寺へこそかへ
り【帰り】けれ。飛騨守景家はふるO[BH 兵]物【古兵】にてあり【有り】ければ、
このまぎれに、宮は南都へやさきだたせ給ふらん
とて、いくさ【軍】をばせず、其勢五百余騎、鞭あぶみ
をあはせ【合はせ】てお【追つ】かけたてまつる【奉る】。案のごとく、宮は
卅騎ばかりで落させ給ひけるを、光明山の鳥
居のまへにてお【追つ】つきたてまつり【奉り】、雨のふるやう【様】に
P04123
い【射】まひらせ【参らせ】ければ、いづれが矢とはおぼえねど、宮
の左の御そば腹に矢一すぢたちければ、御馬より
落させ給て、御頸とられさせ給ひけり。これを
みて御共に候ける鬼佐渡・あら土佐【荒土佐】・あら大夫【荒大夫】、理智
城房の伊賀公、刑部俊秀・金光院の六天狗、いつの
ために命をばおしむ【惜しむ】べきとて、おめき【喚き】さけん【叫ん】で
打死す。そのなか【中】に宮の御めのと子【乳母子】、六条[B ノ]大夫宗
信、かたき【敵】はつづく、馬はよはし【弱し】、に井野の池へ飛で
いり、うき草【浮草】かほ【顔】にとりおほひ【覆ひ】、ふるひ【震ひ】ゐ【居】たれば、
P04124
かたき【敵】はまへ【前】をうちすぎ【過ぎ】ぬ。しばしあて兵物ども【共】
の四五百騎、ざざめいてうちかへり【帰り】けるなか【中】に、浄衣
き【着】たる死人の頸もないを、しとみ【蔀】のもとにかいて
いで【出で】きたりけるを、たれ【誰】やらんとみ【見】たてまつれ【奉れ】ば、
宮にてぞ在ましける。「われしな【死な】ば、この笛をば御
棺にいれよ【入れよ】」と仰ける、小枝ときこえ【聞え】し御笛も、
いまだ御腰にささ【挿さ】れたり。はしり【走り】いで【出で】てとり【取り】もつき【付き】ま
いらせ【参らせ】ばやとおもへ【思へ】ども、おそろしけれ【恐ろしけれ】ばそれもかな
は【叶は】ず、かたき【敵】みな【皆】かへ【帰つ】て後、池よりあがり、ぬれ【濡れ】たる
P04125
物どもしぼりき【着】て、なくなく【泣く泣く】京へのぼりたれば、
にくま【憎ま】ぬ物こそなかりけれ。さるほど【程】に、南都の
大衆ひた甲七千余人、宮の御むかへ【向へ】にまいる【参る】。先陣
は粉津【*木津】にすすみ、後陣はいまだ興福寺の南大
門にゆらへたり。宮ははや光明山の鳥居のまへに
てうた【討た】れさせ給ぬときこえ【聞え】しかば、大衆みな力
及ばず、涙ををさへてとどまりぬ。いま五十町
ばかりまち【待ち】つけ給はで、うた【討た】れさせ給けん宮の御
『若宮出家』S0413
運の程こそうたてけれ。○平家の人々は、宮并に
P04126
三位入道の一族、三井寺の衆徒、都合五百余人が
頸、太刀長刀のさきにつらぬき【貫き】、たかく【高く】さしあげ【差し上げ】、
夕に及て六波羅へかへり【帰り】いる。兵物共いさみののしる
事、おそろし【恐ろし】などもおろか也。其なかに源三位
入道の頸は、長七唱がと【取つ】て宇治河のふかきところ【所】に
しづめ【沈め】てげれば、それはみえ【見え】ざりけり。子共の頸
はあそこここよりみな尋いださ【出さ】れたり。なか【中】に宮
の御頸は、年来まいり【参り】よる人もなければ、み【見】しり
まいらせ【参らせ】たる人もなし。先年典薬頭定成こそ、
P04127
御療治のためにめさ【召さ】れたりしかば、それぞみ【見】し
り【知り】まいらせ【参らせ】たるらんとて、めさ【召さ】れけれども【共】、現所労
とてまいら【参ら】ず。宮のつねにめさ【召さ】れける女房とて、
六波羅へたづね【尋ね】いだされたり。さしもあさから【浅から】ず
おぼしめさ【思し召さ】れて、御子をうみまいらせ【参らせ】、最愛あり【有り】
しかば、いかでか[* 「いみてか」と有るのを他本により訂正]み【見】そんじ【損じ】たてまつる【奉る】べき。只一目み【見】ま
いらせ【参らせ】て、袖をかほ【顔】にをし【押し】あてて、涙をながされける
にこそ、宮の御頸とはしり【知り】てげれ。此宮ははうばう
に御子の宮たちあまたわたら【渡ら】せ給ひけり。
P04128
八条[B ノ]女院に、伊与【*伊予】守盛教がむすめ、三位[B ノ]局とて候
はれける女房の腹に、七歳の若宮、五歳の姫宮
在ましけり。入道相国、おとと【弟】、池の中納言頼盛卿を
もて、八条[B ノ]女院へ申されけるは、「高倉の宮の御子
の宮達のあまたわたらせ給候なる、姫宮の御事は
申に及ばず、若宮をばとうとういだし【出し】まいら【参ら】させ給へ」と
申されたりければ、女院御返事には、「かかるきこえ【聞え】
のあり【有り】し暁、御ちの人などが心おさなう【幼う】ぐし【具し】たて
ま【奉つ】てうせ【失せ】にけるにや、またく此御所にはわたらせ給P04129
はず」と仰ければ、頼盛卿力及ばで此よしを入道相
国に申されけり。「何条其御所ならでは、いづく【何処】へかわた
らせ給べかんなる。其儀ならば武士どもまい【参つ】てさがし
奉れ」とぞのたまひける。この中納言は、女院の御
めのと子【乳母子】宰相殿と申女房にあひ具して、つねに
まいり【参り】かよは【通は】れければ、日来はなつかしう【懐しう】こそお
ぼしめされけるに、此宮の御事申しにまいら【参ら】れたれ
ば、いまはあらぬ人のやう【様】にうとましう【疎ましう】〔ぞ〕おぼしめさ【思し召さ】れ
ける。若宮、女院に申させ給ひけるは、「これ程の御大事に
P04130
及候うへ【上】は、つゐに【遂に】のがれ【逃れ】候まじ。とうとういださ【出さ】せ
おはしませ」と申させ給ければ、女院御涙をはらはら
とながさ【流さ】せ給ひて、「人の七八は、何事をもいまだ
おもひ【思ひ】わか【分か】ぬ程ぞかし。それにわれゆへ【故】大事の
いできたる【出来る】事を、かたはらいたくおもひ【思ひ】て、かやうに
のたまふ【宣ふ】いとおしさよ。よしなかりける人を此六
七年手ならし【馴らし】て、かかるうき目をみる【見る】よ」とて、
御涙をせきあへさせ給はず。頼盛卿、宮いだし【出し】まひ
ら【参ら】させ給ふべきよし、かさね【重ね】て申されければ、
P04131
女院ちから【力】およば【及ば】せ給はで、つゐに【遂に】宮をいだし【出し】まひ
ら【参ら】させ給ひけり。御母三位の局、今をかぎりの別
なれば、さこそは御名残おしう【惜しう】おもは【思は】れけめ。
なくなく【泣く泣く】御衣きせ【着せ】奉り、御ぐし【髪】かきなで【撫で】、いだし【出し】まいら
せ【参らせ】給ふも、ただ夢とのみぞおもは【思は】れける。女院をはじ
め【始め】まいらせ【参らせ】て、局の女房、め【女】の童にいたるまで、涙を
ながし袖をしぼらぬはなかりけり。頼盛卿宮うけ【受け】
とりまひらせ【参らせ】、御車にのせ【乗せ】奉て、六波羅へわたし
奉る。前[B ノ]右大将宗盛卿、此宮をみ【見】まいらせ【参らせ】て、父の
P04132
相国禅門の御まへにおはして、「なにと候やらん、此宮
をみ【見】たてまつる【奉る】があまり【余り】にいとおしう思ひまひ
らせ【参らせ】候。り【理】をまげて此宮の御命をば宗盛にたび【賜び】
候へ」と申されければ、入道「さらばとうとう出家をせさ
せ奉れ」とぞのたまひける。宗盛卿此よしを八条[B ノ]
女院に申されければ、女院「なにのやう【様】もあるべから
ず。ただ【只】とうとう」とて、法師になし奉り、尺子【*釈氏】にさだ
まら【定まら】せ給ひて、仁和寺の御室の御弟子になしまいら【参ら】O[BH さ]せ
給ひけり。後には東寺の一の長者、安井の宮の僧
P04133
『通乗之沙汰』S0414
正道尊と申しは、此宮の御事也。○又奈良にも[B 御イ]一所
在ましけり。御めのと讃岐守重秀が御出家せさせ
奉り、ぐし【具し】まいらせ【参らせ】て北国へ落くだりたりしを、
木曾義仲上洛の時、主にしまひらせ【参らせ】んとてぐし【具し】
奉て宮こ【都】へのぼり、御元服せさせまいらせ【参らせ】たりしかば、
木曾の宮とも申けり。又還俗の宮とも申けり。
後には嵯峨のへん野依にわたらせ給しかば、
野依の宮とも申けり。昔通乗といふ相人あり【有り】。
宇治殿・二条殿をば、「君三代の関白、ともに御年
P04134
八十と申たりしもたがは【違は】ず。帥のうちのおとど【大臣】を
ば、「流罪の相まします」と申たりしもたがは【違は】ず。聖
徳太子の崇峻天皇[* 崇の左にの振り仮名]を「横死の相在ます」と申
させ給ひたりしが、馬子の大臣にころさ【殺さ】れ給ひ
にき。さもしかる【然る】べき人々は、必ず相人としもに
あらねども、かうこそめでたかりしか、これは相少納言
が不覚にはあらずや。中比兼明親王・具平親王
と申しは、前中書王・後中書王とて、ともに
賢王聖主の王子にてわたらせ給ひしかども、
P04135
位にもつか【即か】せ給はず。されどもいつしかは謀叛を
おこさ【起こさ】せ給ひし。又後三条院の第三の王子、資仁【*輔仁】の
親王も御才学すぐれてましましければ白河院
いまだ東宮にてましまいし時、「御位の後は、この
宮を位にはつけ【即け】まいら【参ら】させ給へ」と、後三条[B ノ]院御遺
詔あり【有り】しかども【共】、白河院いかがおぼしめさ【思し召さ】れけん、つゐに【遂に】
位にもつけまいら【参ら】させ給はず。せめての御事には、
資仁【*輔仁】親王の御子に源氏の姓をさづけ【授け】まいら【参らつ】させ
給ひて、無位より一度に三位に叙して、やがて
P04136
中将になしまいら【参ら】させ給ひけり。一世の源氏、無位
より三位する事、嵯峨の皇帝の御子、陽成
院の大納言定卿の外は、これはじめとぞうけ給はる【承る】。
花園左大臣有仁公の御事也。高倉の宮御謀叛
の間、調伏の法うけたまは【承つ】て修せられける高僧達
に、勧賞をこなはる。前右大将宗盛卿の子息侍従
清宗、三位して三位[B ノ]侍従とぞ申ける。今年纔に
十二歳。父の卿もこのよはひ【齢】では兵衛[B ノ]佐にてこそ
おはせしか。忽に上達め【上達部】にあがり給ふ事、一の人の
P04137
公達の外はいまに承及ばず。源[B ノ]茂仁【*以仁】・頼政法師
父子追討の賞とぞ除書にはあり【有り】ける。源[B ノ]茂仁【*以仁】
とは高倉宮を申けり。まさしゐ太政【*太上】法皇の王子
をうち【討ち】たてまつる【奉る】だにあるに、凡人にさへなしたて
『■[*空+鳥]』S0415
まつるぞあさましき。○抑源三位入道と申は、
摂津守頼光に五代、三川【*三河】守頼綱が孫、兵庫頭
仲正【*仲政】が子也。保元の合戦の時、御方にて先をかけ
たりしか共、させる賞にもあづから【与ら】ず。又平治の逆乱
にも、親類をすて【捨て】て参じたりしか共、恩賞これおろ
P04138
そか也。大内守護にて年ひさしう【久しう】あり【有り】しかども【共】、
昇殿をばゆるさ【許さ】れず。年たけよはひ【齢】傾て後、
述懐の和歌一首よう【詠う】でこそ、昇殿をばゆるさ【許さ】れけれ。
人しれず大内山のやまもり【山守】は
木がくれ【隠れ】てのみ月をみる【見る】かな W026
この歌によて昇殿ゆるさ【許さ】れ、正下[B ノ]四位にてしばらく
あり【有り】しが、三位を心にかけつつ、
のぼるべきたよりなき身は木のもとに
しゐをひろい【拾ひ】て世をわたるかな W027
P04139
さてこそ三位はしたりけれ。やがて出家して、
源三位入道とて、今年は七十五にぞなられける。
此人一期の高名とおぼえし事は、近衛院御
在位の時、仁平のころほひ、主上よなよな【夜な夜な】おびへ【怯え】
たまぎらせ給ふ事あり【有り】けり。有験の高僧貴
僧に仰て、大法秘法を修せられけれども、其しるし
なし。御悩は丑の剋ばかりであり【有り】けるに、東三条
の森の方より、黒雲一村たち【立ち】来て御殿の
上におほへ【覆へ】ば、かならず【必ず】おびへ【怯え】させ給ひけり。これに
P04140
よて公卿僉義あり【有り】。去る寛治の比ほひ、堀河天
皇御在位の時、しかのごとく主上よなよな【夜な夜な】おびへ【怯え】
させ給ふ事あり【有り】けり。其時の将軍義家朝臣、
南殿の大床に候はれけるが、御悩の剋限に及で、
鳴絃する事三度の後、高声に「前陸奥守
源[B ノ]義家」と名の【名乗つ】たりければ、人々皆身の毛よだ
て、御悩おこたらせ給ひけり。しかれ【然れ】ばすなはち
先例にまかせ【任せ】て、武士に仰せて警固あるべし
とて、源平両家の兵物共のなかを撰ぜられ
P04141
けるに、頼政をゑらび【選び】いだされたりけるとぞきこえ
し。其時はいまだ兵庫頭とぞ申ける。頼政申
けるは、「昔より朝家に武士ををか【置か】るる事は、
逆反の物をしりぞけ違勅の物をほろぼさんが
為也。目にもみえ【見え】ぬ変化のもの【物】つかまつれと仰
下さるる事、いまだ承及候はず」と申ながら、勅定
なればめし【召】に応じて参内す。頼政はたのみ【頼み】
きたる郎等遠江国[B ノ]住人井[B ノ]早太に、ほろのかざき
り【風切】はいだる矢おは【負は】せて、ただ一人ぞぐし【具し】たりける。
P04142
我身はふたへ【二重】の狩衣に、山鳥の尾をもてはいだる
とがり矢二すぢ【筋】、しげどう【滋籐】の弓にとりそへて、
南殿の大床に祗候[B す]。頼政矢をふたつ【二つ】たばさみ【手挟み】
ける事は、雅頼卿其時はいまだ左少弁にて
おはしけるが、「変化の物つかまつらんずる仁は頼政ぞ
候」とゑらび【選び】申されたるあひだ、一の矢に変化の物
をいそんずる【射損ずる】物ならば、二の矢には雅頼の弁の
しや頸の骨をい【射】んとなり。日ごろ人の申にたがは【違は】ず、
御悩の剋限に及で、東三条の森の方より、
P04143
黒雲一村たち【立ち】来て、御殿の上にたなびいたり。
頼政きとみあげ【見上げ】たれば、雲のなかにあやしき
物の姿あり【有り】。これをいそんずる【射損ずる】物ならば、世に
あるべしとはおもは【思は】ざりけり。さりながらも矢
と【取つ】てつがひ【番ひ】、南無八幡大菩薩と、心のうちに祈
念して、よぴい【引い】てひやうどいる【射る】。手ごたへして
はたとあたる。「ゑ【得】たりをう」と矢さけび【叫び】をこそ
したりけれ。井の早太つとより、おつる【落つる】ところ【所】を
と【取つ】ておさへ【抑へ】て、つづけさま【続け様】に九がたな【刀】ぞさい【刺い】たり
P04144
ける。其時上下手々に火をともい【点い】て、これを御
らんじみ【見】給ふに、かしら【頭】は猿、むくろは狸、尾はくち
なは、手足は虎の姿なり。なく声■[*空+鳥]にぞに【似】たり
ける。おそろし【恐ろし】などもをろか【愚】なり。主上御感のあま
りに、師子王といふ御剣をくださ【下さ】れけり。宇治の
左大臣殿是をたまはり【賜り】つい【継い】で、頼政にたばんとて、
御前〔の〕きざはし【階】をなから【半】ばかりおり【降り】させ給へるとこ
ろ【所】に、比は卯月十日あまりの事なれば、雲井
に郭公二声三こゑ音づれてぞとをり【通り】ける。
P04145
其時左大臣殿
ほととぎす名をも雲井にあぐる【上ぐる】かな
とおほせ【仰せ】られかけたりければ、頼政右の膝をつき、
左の袖をひろげ、月をすこしそばめ【側目】にかけつつ、
弓はり月【弓張り月】のいるにまかせ【任せ】て W028
と仕り、御剣を給てまかり【罷り】いづ【出づ】。「弓矢をとてならび【双び】
なきのみならず、歌道もすぐれたりけり」とぞ、
君も臣も御感あり【有り】ける。さてかの変化の物を
ば、うつほ舟【空舟】にいれ【入れ】てながさ【流さ】れけるとぞきこえ【聞え】し。
P04146
去る応保のころほひ、二条院御在位の時、■[*空+鳥]と
いふ化鳥禁中にない【鳴い】て、しばしば震襟【*宸襟】をなやます
事あり【有り】き。先例をもて頼政をめさ【召さ】れけり。比は
さ月【五月】廿日あまりの、まだよひ【宵】の事なるに、■[*空+鳥]ただ
一声をとづれて、二声ともなか【鳴か】ざりけり。目ざす
とも【共】しら【知ら】ぬやみではあり【有り】、すがた【姿】かたちもみえ【見え】
ざれば、矢つぼ【矢壷】をいづくともさだめがたし。頼政
はかりこと【策】に、まづおほかぶら【大鏑】をとてつがひ【番ひ】、■[*空+鳥]の
声しつる内裏のうへ【上】へぞいあげ【射上げ】たる。■[*空+鳥]かぶら【鏑】の
P04147
をと【音】におどろいて、虚空にしばしひらめい【*ひひめい】たり。
二の矢に小鏑とてつがひ、ひいふつとい【射】き【切つ】て、■[*空+鳥]と
かぶら【鏑】とならべ【並べ】て前にぞおとし【落し】たる。禁中ざざめき
あひ、御感なのめならず。御衣をかづけ【被け】させ給ひ
けるに、其時は大炊御門の右大臣公能公これを
給はりつゐで、頼政にかづけ給ふとて、「昔の養
由は雲の外の鴈をい【射】き。今の頼政は雨の中
に■[*空+鳥]をい【射】たり」とぞ感ぜられける。
五月やみ名をあらはせるこよひ【今宵】かな
P04148
と仰られかけたりければ、頼政
たそかれ時もすぎ【過ぎ】ぬとおもふ【思ふ】に W029
と仕り、御衣を肩にかけて退出す。其後伊豆
国給はり、子息仲綱受領になし、我身三位して、
丹波の五ケ[B ノ]庄、若狭のとう宮河知行して、さて
おはすべかりし人の、よしなき謀叛おこいて、宮
をもうしなひ【失ひ】まいらせ【参らせ】、我身もほろびぬるこそ
『三井寺炎上』S0416
うたてけれ。○日ごろは山門の大衆こそ、みだり【猥り】がはしき
うたへ【訴へ】つかまつる【仕まつる】に、今度は穏便を存じてをと【音】も
P04149
せず。「南都・三井寺、或は宮うけ【請け】とり奉り、或は宮
の御むかへ【迎へ】にまいる【参る】、これもて朝敵なり。されば三井
寺をも南都をもせめ【攻め】らるべし」とて、同五月廿七
日、大将軍には入道の四男頭中将重衡、副将
軍には薩摩守忠度、都合其勢一万余騎
で、園城寺へ発向す。寺にも堀ほり、かいだて【掻楯】
かき、さかも木【逆茂木】ひい【引い】て待かけたり。卯剋に矢合
して、一日たたかひ【戦ひ】くらす【暮す】。ふせく【防く】ところ【所】大衆以下
の法師原、三百余人までうた【討た】れにけり。夜いくさ【軍】
P04150
になて、くらさ【暗さ】はくらし、官軍寺にせめ【攻め】入て、火を
はなつ【放つ】。やくる【焼くる】ところ【所】、本覚院、成喜院【*常喜院】・真如院・
花園院、普賢堂・大宝院・清滝院【青龍院】、教大【*教待】和尚[B ノ]
本坊ならびに本尊等、八間四面の大講堂、鐘
楼・経蔵・灌頂堂、護法善神の社壇、新熊野の
御宝殿、惣て堂舎塔廟六百三十七宇、大津の
在家一千八百五十三宇、智証のわたし【渡し】給へる
一切経七千余巻、仏像二千余体、忽に煙となる
こそかなしけれ。諸天五妙のたのしみも此時ながく
P04151
つき【尽き】、竜神三熱のくるしみ【苦しみ】もいよいよさかん【盛】なるらん
とぞみえ【見え】し。それ三井寺は、近江の義大領が
私の寺たりしを、天武天皇によせ【寄せ】奉て、御願と
なす。本仏もかの御門の御本尊、しかる【然る】を生身
弥勒ときこえ【聞え】給し教大【*教待】和尚百六十年おこな
ふて、大師に附属し給へり。都士多天上摩尼
宝殿よりあまくだり、はるかに竜花下生の
暁をまた【待た】せ給ふとこそきき【聞き】つるに、こはいかにし
つる事ども【共】ぞや。大師此ところ【所】を伝法灌頂の
P04152
霊跡として、ゐけすい【井花水】の三をむすび給しゆへ【故】に
こそ、三井寺とは名づけたれ。かかるめでたき
聖跡なれども【共】、今はなに【何】ならず。顕密須臾に
ほろびて、伽藍さらに跡もなし。三密道場も
なければ、鈴の声もきこえ【聞え】ず。一夏の花もなけ
れば、阿伽のをと【音】もせざりけり。宿老磧徳の名
師は行学におこたり、受法相承の弟子は又
経教にわかれんだり。寺の長吏円慶【*円恵】法親王、
天王寺の別当をとどめ【留め】らる。其外僧綱十三人
P04153
闕官ぜられて、みな検非違使にあづけらる。
悪僧はつつ井【筒井】の浄妙明秀にいたるまで卅余
人ながされけり。「かかる天下のみだれ、国土のさは
ぎ【騒ぎ】、ただ事ともおぼえず。平家の世末になり
ぬる先表やらん」とぞ、人申ける。

平家物語巻第四
P04154

平家物語 高野本 巻第五


【許諾済】
本テキストの公開については、東京大学文学部国語研究室の許諾を得ています。底本使用・テキスト公開を許可された同研究室に厚く御礼申し上げます。
【注意】
本テキストの利用は個人の研究の範囲内に限られます。本テキストの全体あるいは一部の複写物・複写加工物を、インターネット上で、あるいは出版物(CD−ROM等を含む)として公表する場合には、事前に東京大学文学部国語研究室に翻刻掲載許可願いを申請する必要があります。同研究室の許可を得ない本テキストの公表は禁じられています。翻刻掲載許可願い申請送付先:〒113-0033 東京都文京区本郷7−3−1 東京大学文学部国語研究室
【底本】
本テキストの底本は、東京大学文学部国語研究室蔵高野辰之旧蔵『平家物語』(通称・高野本、覚一別本)です。直接には、笠間書院発行の影印本に拠りました。
文責:荒山慶一・菊池真一



平家 五(表紙)
P05001
平家五之巻 目録
都遷 付新都之沙汰   月見
物怪之沙汰       大庭早馬
朝敵揃         感陽宮
文学荒行        勧進帳
文学被流        福原院宣
富士川合戦       五節之沙汰
帰洛          奈良炎上
P05002

P05003
平家物語巻第五
『都遷』S0501
○治承四年六月三日[B ノヒ]、福原へ行幸ある【有る】べし
とて、京中ひしめきあへり。此日ごろ都うつり
あるべしときこえ【聞え】しかども、忽に今明の程とは
思はざりつるに、こはいかにとて上下さはぎ【騒ぎ】あへ
り。あまさへ【剰さへ】三日とさだめ【定め】られたりしが、いま一日
ひき【引き】あげて、二日になりにけり。二日の卯剋に、
すでに行幸の御輿をよせたりければ、主上
は今年三歳、いまだいとけなう【幼けなう】ましましければ、
P05004
なに心【何心】もなうめさ【召さ】れけり。主上おさなう【幼う】わたらせ
給時の御同輿には、母后こそまいら【参ら】せ給ふに、
是は其儀なし。御めのと【乳母】、平大納言時忠卿の
北の方帥のすけ【帥の典侍】殿ぞ、ひとつ【一つ】御輿にはまいら【参ら】れ
ける。中宮・一院上皇御幸なる。摂政殿をはじ
めたてま【奉つ】て、太政大臣以下の公卿殿上人、我も我も
と供奉せらる。三日福原へいら【入ら】せ給ふ。池の中納言
頼盛卿の宿所、皇居になる。同四日、頼盛家の
賞とて正二位し給ふ。九条殿の御子、右大将
P05005
能通【*良通】卿、こえられ給ひけり。摂禄の臣の御子息、
凡人の次男に加階こえられ給ふ事、これ【是】はじめ
とぞきこえ【聞え】し。さる程に、法皇を入道相国やう
やう思ひなを【直つ】て、鳥羽殿をいだし【出し】たてまつり、都
へいれ【入れ】まいらせ【参らせ】られたりしが、高倉宮御謀反に
よて、又大にいきどをり【憤り】、福原へ御幸なしたて
まつり【奉り】、四面にはた板【端板】して、口ひとつ【一つ】あけたるうち
に、三間の板屋をつくてをし【押し】こめ【込め】まいらせ【参らせ】、守護
の武士には、原田の大夫種直ばかりぞ候ける。た
P05006
やすう人のまいり【参り】かよふ事もなければ、童部は
籠の御所とぞ申ける。きく【聞く】もいまいましう【忌々しう】おそ
ろしかり【恐ろしかり】し事共也。法皇「今は世の政しろし
めさ【知し召さ】ばやとは、露もおぼしめし【思し召し】よらず。ただ山々
寺々修行して、御心のままになぐさま【慰さま】ばや」とぞおほせける。凡平家の悪行にをひては
悉くきはまりぬ。「去る安元よりこのかた、おほく【多く】
の卿相雲客、或はながし、或はうしなひ【失ひ】、関白
ながし奉り、わが聟を関白になし、法王を城南
P05007
の離宮にうつし奉り、第二の皇子高倉の宮を
うちたてまつり【奉り】、いまのこる【残る】ところ【所】の都うつり
なれば、かやう【斯様】にし給ふにや」とぞ人申ける。都
うつりは是先蹤なきにあらず。神武天皇と申
は地神五代の帝、彦波激武■■草不葺合
尊の第四の王子、御母は玉より姫【玉依姫】、海人のむすめ
なり。神の代十二代の跡をうけ、人代百王の帝
祖也。辛酉歳、日向国宮崎の郡にして皇王の
宝祚をつぎ、五十九年といし己未歳十月に
P05008
東征して、豊葦原中津国にとどまり、このごろ
大和国となづけ【名付け】たるうねび【畝傍】の山を点じて帝都を
たて、柏原【橿原】の地をきりはら【払つ】て宮室をつくり給へ
り。これをかし原【橿原】の宮と名づけ【名付け】たり。それより
このかた、代々の帝王、都を他国他所へうつさるる
事卅度にあまり、四十度に及べり。神武天皇
より景行天皇まで十二代は、大和国こほりごほり【郡々】
にみやこをたて、他国へはつゐに【遂に】うつされず。し
かる【然る】を、成務天皇元年に近江国にうつて、
P05009
志賀の郡に都をたつ。仲哀天皇二年に長門
国にうつて、豊良【*豊浦】郡に都をたつ。其国の彼みや
こにて、御門かくれさせ給しかば、きさき神宮【*神功】皇后
御世をうけ【受け】とら【取ら】せ給ひ、女体として、鬼界・高麗・
荊旦【*契丹】までせめ【攻め】したがへさせ給ひけり。異国のい
くさ【軍】をしづめさせ給ひて帰朝の後、筑前国三
笠[B ノ]郡にして皇子御誕生、其所をばうみの
宮【産の宮】とぞ申たる。かけまくもかたじけなく【忝く】やわた【八幡】
の御事これ也。位につかせ給ひては、応神天皇
P05010
とぞ申ける。其後、神宮[B 「宮」に「功イ」と傍書]皇后は大和国にうつ
て、岩根稚桜のみや【宮】におはします。応神天皇は
同国軽島明の宮にすませ給ふ。仁徳天皇元
年に津国難波にうつて、高津の宮におはします。
履中天皇二年に大和国にうつて、とうち【十市】の
郡にみやこをたつ。反正天皇元年に河内国
にうつて、柴垣の宮にすませ給ふ。允恭天皇四
十二年に又大和国にうつて、飛鳥のあすかの
宮【飛鳥の宮】におはします。雄略天皇廿一年に同国泊
P05011
瀬あさくら【朝倉】に宮ゐ【宮居】し給ふ。継体天皇五年
に山城国つづき【綴喜】にうつて十二年、其後乙訓に宮
ゐ【宮居】し給ふ。宣化天皇元年に又大和国にかへ【帰つ】て、
桧隈の入野の宮におはします。孝徳天皇大
化元年に摂津国長良【*長柄】にうつて、豊崎の宮に
すませ給ふ。斉明天皇二年、又大和国にかへ【帰つ】て、
岡本の宮におはします。天智天皇六年に近江
国にうつて、大津宮にすませ給ふ。天武天皇元
年に猶大和国にかへ【帰つ】て、岡本の南の宮にすま
P05012
せ給ふ。これを清見原の御門と申き。持統・文
武二代の聖朝は、同国藤原の宮におはします。
元明天皇より光仁天皇まで七代は、奈良
の都にすませ給ふ。しかる【然る】を桓武天皇延暦三
年十月二日、奈良の京春日の里より山城国長
岡にうつて、十年といし正月に、大納言藤原
小黒丸、参議左大弁紀のこさむみ【古佐美】、大僧都玄慶【*賢■王+景】
等をつかはし【遣し】て、当国賀殿【*葛野】郡宇多の村を見
せらるるに、両人共に奏して云、「此地の体をみる【見る】に、
P05013
左青竜、右白虎、前朱雀、後玄武、四神相応の
地也。尤帝都をさだむるにたれり」と申。仍乙城
都におはします賀茂大明神に告申させ給ひ
て、延暦十三年十二月廿一日、長岡の京より此京へ
うつされて後、帝王卅二代、星霜は三百八十余
歳の春秋ををくり【送り】むかふ【向ふ】。「昔より代々の帝
王、国々ところどころ【所々】に多の都をたてられしか
ども、かくのごとくの勝地はなし」とて、桓武天
皇ことに執しおぼしめし【思し召し】、大臣公卿諸道の
P05014
才人等に仰あはせ【合はせ】、長久なるべき様とて、土
にて八尺の人形をつくり、くろがね【鉄】の鎧甲をきせ【着せ】、お
なじうくろがね【鉄】の弓矢をもたせて、東山[B ノ]嶺に、
西むきにたててうづま【埋ま】れけり。「末代に此都を
他国へうつす事あらば、守護神となるべし」と
ぞ、御約束あり【有り】ける。されば天下に事いでこ【出で来】んと
ては、この塚必ず鳴動す。将軍が塚とて今に
あり【有り】。桓武天皇と申は、平家の曩祖にておはし
ます。なかにもこの【此の】京をば平安城と名づけて、
P05015
たいらか【平か】にやすきみやことかけり。尤平家のあ
がむべきみやこなり。先祖の御門のさしも執し
おぼしめさ【思し召さ】れたる都を、させるゆへ【故】なく、他国他
所へうつさるるこそあさましけれ。嵯峨の皇
帝の御時、平城の先帝、内侍のかみのすすめ【勧め】
によて、世をみだり給ひし時、すでにこの京を
他国へうつさんとせさせ給ひしを、大臣公卿、諸
国の人民そむき申しかば、うつされずしてや
みにき。一天の君、万乗のあるじ【主】だにもうつし【遷し】
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え【得】給はぬ都を、入道相国、人臣[* 「人身」と有るのを他本により訂正]の身としてうつ
されけるぞおそろしき【恐ろしき】。旧都はあはれめでた
かりつる都ぞかし。王城守護の鎮守は四方
に光をやはらげ、霊験殊勝の寺々は、上下に
甍をならべ給ひ、百姓万民わづらひ【煩ひ】なく、五畿
七道もたよりあり【有り】。されども、今は辻々をみな堀
きて、車などのたやすうゆき【行き】かふ事もなし。
たまさかにゆく人もこ【小】車にのり、路をへ【経】てこそ
とをり【通り】けれ。軒をあらそひし人のすまひ【住ひ】、
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日をへ【経】つつあれゆく。家々は賀茂河・桂河に
こぼちいれ【入れ】、筏にくみうかべ【浮べ】、資財雑具舟につみ、
福原へとてはこび下す。ただなりに花の都
ゐ中になるこそかなしけれ。なにもの【何者】のしわ
ざにやあり【有り】けん、ふるき都の内裏の柱に、二首の
歌をぞかい【書い】たりける。
ももとせを四かへり【返り】までにすぎき【過来】にし
乙城のさと【理】のあれ【荒れ】やはてなん W030
さき【咲き】いづる【出づる】花の都をふりすてて
P05018
風ふく原のすゑ【末】ぞあやうき【危ふき】 W031
同六月九日、新都の事はじめあるべしとて、上卿
には徳大寺[B ノ]左大将実定の卿、土御門の宰相中将
通信【*通親】の卿、奉行の弁には蔵人[B ノ]左少弁行隆、官
人共めし【召し】具して、和[B 田]の松原の西の野を点じて、
九城の地をわら【割ら】れけるに、一条よりしも【下】五条ま
では其所あて、五条よりしも【下】はなかりけり。行事
官かへりまい【参つ】てこのよしを奏聞す。さらば播磨のい
なみ野【印南野】か、なを【猶】摂津国の児屋野かなどいふ公卿僉
P05019
議あり【有り】しかども、事ゆくべしとも見えざりけり。
旧都をばすでにうかれぬ、新都はいまだ事
ゆかず。あり【有り】としある人は、身をうき雲【浮雲】のおもひ【思ひ】を
なす。もとこのところ【所】にすむ物は、地をうしな【失つ】てう
れへ、いまうつる人々は土木のわづらひ【煩ひ】をなげき
あへり。すべてただ夢のやうなりし事どもなり。
土御門宰相中将通信【*通親】卿申されけるは、異国には、
三条の広路をひらい【開い】て十二の洞門をたつと
見えたり。いはんや五条まであらん都に、などか
P05020
内裏をたてざるべき。かつがつさと内裏[* 「さう内裏」と有るのを他本により訂正]【里内裏】つくるべき
よし議定あて、五条大納言国綱【*邦綱】卿、臨時に周防
国を給て、造進せられるべきよし、入道相国はからひ
申されけり。この国綱【*邦綱】卿は大福長者にておはすれ
ば、つくりいだされん事、左右に及ばねども、いかが
国の費へ、民のわづらひ【煩ひ】なかるべき。まこと【誠】にさしあ
たたる大事、大嘗会などのおこなはるべきをさし【差し】
をい【置い】て、かかる世のみだれに遷都造内裏、すこし【少し】も
相応せず。「いにしへのかしこき御代には、すなはち内
P05021
裏に茨をふき、軒をだにもととのへず。煙のとも
しき【乏しき】を見給ふ時は、かぎりある御つぎ物をもゆ
るさ【免さ】れき。これすなはち民をめぐみ【恵み】、国をたすけ【助け】
給ふによてなり。楚帝花【*章華】の台をたてて、黎民あ
らけ【索げ】、秦阿房の殿をおこし【起こし】て、天下みだるといへり。
茅茨きらず、采椽けづらず、周車かざらず、衣
服あや【文】なかりける世もあり【有り】けん物を。されば唐
の大宗は、離山宮【*驪山宮】をつくて、民の費をやはばから
せ給けん、遂に臨幸なくして、瓦に松をひ【生ひ】、墻に
P05022
蔦しげて止にけるには相違かな」とぞ人申ける。
『月見』S0502
○六月九日、新都の事はじめ、八月十日上棟、十一
月十三日遷幸とさだめ【定め】らる。ふるき都はあれ【荒れ】ゆ
けば、いまの都は繁昌す。あさましかりける夏
もすぎ、秋にも已になりにけり。やうやう秋もなか
ばになりゆけば、福原の新都にまします人々、
名所の月をみんとて、或は源氏の大将の昔の
跡をしのび【忍び】つつ須ま【*須磨】より明石の浦づたひ【浦伝ひ】、淡路の
せとををし【押し】わたり、絵島が磯の月をみる【見る】。或は
P05023
しらら【白良】・吹上・和歌の浦、住吉・難波・高砂・尾上の月
のあけぼのをながめてかへる人もあり【有り】。旧都にの
こる人々は、伏見・広沢の月を見る。其なかにも
徳大寺の左大将実定の卿は、ふるき都の月を
恋て、八月十日あまりに、福原よりぞのぼり【上り】給ふ。
何事も皆かはりはてて、まれにのこる家は、門前
草ふかくして庭上露しげし。蓬が杣、浅茅が
原、鳥のふしど【臥所】とあれ【荒れ】はてて、虫の声々うらみ【恨み】つつ、
黄菊紫蘭の野辺とぞなりにける。故郷の
P05024
名残とては、近衛河原の大宮ばかりぞましまし
ける。大将その御所にまい【参つ】て、まづ随身に惣門を
たたかせらるるに、うちより女の声して、「た【誰】そや、
蓬生の露うちはらう人もなき所に」ととがむ
れば、「福原より大将殿の御まいり【参り】候」と申。「惣門は
じやう【錠】のさされてさぶらふぞ。東面の小門よりいら【入ら】
せ給へ」と申ければ、大将さらばとて、東の門より
まいら【参ら】れけり。大宮は御つれづれに、昔をやおぼし
めし【思召し】いで【出で】させ給ひけん。南面の御格子あげさせて、
P05025
御琵琶あそばさ【遊ばさ】れけるところに、大将まいら【参ら】れ
たりければ、「いかに、夢かやうつつ【現】か、これへこれへ」とぞ
仰ける。源氏の宇治の巻には、うばそくの宮
の御むすめ、秋のなごり【名残】をおしみ【惜しみ】、琵琶をしらべ【調べ】
て夜もすがら心をすまし【澄まし】給ひしに、在明の月
のいで【出で】けるを、猶たえ【堪へ】ずやおぼしけん、撥にてま
ねき給ひけんも、いまこそおもひ【思ひ】しられけれ。待
よひ【待宵】の小侍従といふ女房も、此御所にぞ候ける。
この女房を待よひと申ける事は、或時御所
P05026
にて「まつよひ、かへる【帰る】あした、いづれかあはれ【哀】はまさ
れる」と御尋あり【有り】ければ、
待よひのふけ【更け】ゆく鐘の声きけば
かへるあしたの鳥はものかは W032
とよみ【詠み】たりけるによてこそ待よひとはめさ【召さ】れけ
れ。大将かの女房よび【呼び】いだし、昔いまの物がたり【物語】
して、さ夜もやうやうふけ行ば、ふるきみやこの
あれ【荒れ】ゆくを、いまやう【今様】にこそうたはれけれ。ふる
き都をき【来】てみれ【見れ】ばあさぢ【浅茅】が原とぞあれ【荒れ】にける
P05027
月の光はくまなくて秋風のみぞ身にはしむ K037 Iと、三
反うたひ【歌ひ】すまされければ、大宮をはじめまいらせ【参らせ】て、
御所中の女房たち【達】、みな袖をぞぬらさ【濡らさ】れける。去
程に夜もあけ【明け】ければ、大将いとま申て、福原へこそ
かへら【帰ら】れけれ。御ともに候蔵人をめし【召し】て、「侍従
があまりなごりおしげ【惜し気】におもひ【思ひ】たるに、なんぢかへ【帰つ】
てなにともいひ【言ひ】てこよ」と仰せければ、蔵人
はしり【走り】かへ【帰つ】て、「「畏り申せ」と候」とて、
物かはと君がいひけん鳥のねの
P05028
けさ【今朝】しもなどかかなしかる【悲しかる】覧 W033
女房涙ををさへ【抑へ】て、
また【待た】ばこそふけゆく鐘も物ならめ
あかぬわかれの鳥の音ぞうき W034
蔵人かへりまい【参つ】てこのよし申たりければ、「され
ばこそなんぢをばつかはし【遣し】つれ」とて、大将大
に感ぜられけり。それよりしてこそ物かはの蔵
『物怪之沙汰』S0503
人とはいはれけれ。○福原へ都をうつされて後、
平家の人々夢見もあしう【悪しう】、つねは心さはぎ【騒ぎ】
P05029
のみして、変化の物どもおほかり【多かり】けり。ある【或】夜入
道のふし【臥し】給へるところ【所】に、ひとま【一間】にはばかる程
の物の面いできて、のぞきたてまつる【奉る】。入道相国
ちともさはが【騒が】ず、ちやうどにらまへ【睨まへ】ておはし【在し】ければ、
ただぎえ【唯消え】にきえうせぬ。岡の御所と申はあ
たらしうつくら【造ら】れたれば、しかる【然る】べき大木もな
かりけるに、ある【或】夜おほ木のたふるる【倒るる】音して、
人ならば二三十人が声して、どとわらふ【笑ふ】こと
あり【有り】けり。これはいかさまにも天狗の所為といふ
P05030
沙汰にて、ひきめ【蟇目】の当番となづけ【名付け】て、よる百人
ひる五十人の番衆をそろへて、ひきめをゐ【射】
させらるるに、天狗のあるかた【方】へむい【向い】てゐ【射】たる時は
音もせず。ない方へむい【向い】てゐ【射】たるとおぼしき時は、
どつとわらひ【笑ひ】などしけり。又あるあした【朝】、入道相
国帳台よりいで【出で】て、つま戸【妻戸】ををし【押し】ひらき、坪の
うちを見給へば、死人のしやれかうべ【骸骨】どもが、いく
らといふかず【数】もしら【知ら】ず庭にみちみちて、うへ【上】になり
した【下】になり、ころびあひころびのき、はし【端】なるは
P05031
なか【中】へまろびいり中なるははし【端】へいづ。おびたたしう【夥しう】
からめきあひければ、入道相国「人やある、人や
ある」とめさ【召さ】れけれども、おりふし【折節】人もまいら【参ら】ず。
かくしておほくのどくろ【髑髏】どもがひとつ【一つ】にかた
まりあひ、つぼ【坪】のうちにはばかるほど【程】になて、たか
さは十四五丈もあるらんとおぼゆる【覚ゆる】山のごとくに
なりにけり。かのひとつ【一つ】の大がしら【頭】に、いき【生き】たる人
のまなこの様に大のまなこどもが千万いで
きて、入道相国をちやうどにらまへ【睨まへ】て、まだた
P05032
き【瞬き】もせず。入道すこし【少し】もさはが【騒が】ず、はたとにら
まへ【睨まへ】てしばらくたた【立た】れたり。かの大がしら余に
つよくにらまれたてまつり霜露などの日に
あたてきゆる【消ゆる】やうに、跡かた【跡形】もなくなりにけり。
其外に、一の厩にたててとねり【舎人】あまたつけられ、
あさゆふ【朝夕】ひまなくなで【撫で】かは【飼は】れける馬の尾に、
一夜のうちにねずみ【鼠】巣をくひ、子をぞうん【産ん】だ
りける。「これただ事にあらず」とて、七人の陰陽
師にうらなは【占は】せられければ、「おもき【重き】御つつしみ」と
P05033
ぞ申ける。この御馬は、相模[B ノ]国の住人大庭三郎
景親が、東八ケ国一の馬とて、入道相国にまいら
せ【参らせ】たり。くろき馬の額しろかり【白かり】けり。名をば望
月とぞつけられたる。陰陽頭安陪【*安倍】の泰親給はり
けり。昔天智天皇の御時、竜【*寮】の御馬の尾に
一夜の中に鼠す【巣】をくひ、子をうん【産ん】だりけるには、
異国の凶賊蜂起したりけるとぞ、日本記には
みえ【見え】たる。又、源中納言雅頼卿のもとに候ける青
侍が見たりけるゆめ【夢】も、おそろしかり【恐ろしかり】けり。たとへば、
P05034
大内の神祇官とおぼしきところ【所】に、束帯ただ
しき上臈たちあまたおはして、儀定【*議定】の様なる
事のあり【有り】しに、末座なる人の、平家のかたう
ど【方人】するとおぼしきを、その中よりお【追つ】たて【立て】らる。
かの青侍夢の心に、「あれはいかなる上臈にて
ましますやらん」と、ある【或】老翁にとひ【問ひ】たてま
つれ【奉れ】ば、「厳島の大明神」とこたへ給ふ。其後座
上にけだかげなる宿老の在ましけるが、「この
日来平家のあづかり【預り】たりつる節斗をば、
P05035
今は伊豆国の流人頼朝にたば【賜ば】うずる也」と仰
られければ、其御そばに猶宿老の在ましける
が、「其後はわが孫にもたび【賜び】候へ」と仰らるるといふ
夢を見て、是を次第にとひたてまつる【奉る】。「節斗
を頼朝にたばうとおほせられつるは八幡大菩
薩、其後はわが孫にもたび候へと仰られつるは
春日大明神、かう申老翁は武内の大明神」と
仰らるるといふ夢を見て、これを人にかたる
程に、入道相国もれ【漏れ】きい【聞い】て、源大夫判官秀貞【*季貞】
P05036
をもて雅頼卿のもとへ、「夢O[BH 見]の青侍、いそぎ【急ぎ】是
へたべ」と、の給ひつかはさ【遣さ】れたりければ、かの夢見
たる青侍やがて逐電してんげり。雅頼卿い
そぎ入道相国のもとへゆき【行き】むかて、「またくさる
こと候はず」と陳じ申されければ、其後さた【沙汰】もな
かりけり。それにふしぎなりし事には、清盛公
いまだ安芸守たりし時、じんばい【神拝】のつゐでに、れい
む【霊夢】をかうぶて、厳島の大明神よりうつつに
たまはれたりし、銀のひるまきしたる小長刀、
P05037
つねの枕をはなたず、たてられたりしが、ある夜
俄にうせにけるこそふしぎなれ。平家日ごろ
は朝家の御かためにて、天下を守護せしかども、
今は勅命にそむけば、節斗をもめし【召し】かへ
さ【返さ】るるにや、心ぼそうぞきこえ【聞え】し。なかにも高
野におはしける宰相入道成頼、か様【斯様】の事共
をつたへきい【聞い】て、「すは平家の代はやうやう末に
なりぬるは。いつくしまの大明神の平家のかた
うど【方人】をし給ひけるといふは、そのいはれあり【有り】。但
P05038
それは沙羯羅竜王の第三の姫宮なれば、女神
とこそうけ給はれ【承れ】。八幡大菩薩の、せつと【節斗】を頼朝
にたば【賜ば】うど仰られけるはことはり【理】也。春日大明神
の、其後はわが孫にもたび候へと仰られけるこそ
心えね。それも平家ほろび、源氏の世つきなん
後、大織冠の御末、執柄家の君達の天下の将
軍になり給ふべき歟」などぞの給ひける。又或
僧のおりふし【折節】来たりけるが申けるは、「夫神明は
和光垂跡の方便まちまちにましませば、或時は
P05039
俗体とも現じ、或時は女神ともなり給ふ。誠に
厳島の大明神は、女神とは申ながら、三明六通
の霊神にてましませば、俗体に現じ給はんも
かたかるべきにあらず」とぞ申ける。うき世をいとひ
実の道に入ぬれば、ひとへに後世菩提の外は
世のいとなみあるまじき事なれども、善政を
きい【聞い】ては感じ、愁をきい【聞い】てはなげく【歎く】、これみな人
『早馬』S0504
間の習なり。○同九月二日、相模国の住人大庭三
郎景親、福原へ早馬をもて申けるは、「去八月
P05040
十七日、伊豆国流人右兵衛佐頼朝、しうと【舅】北条
四郎時政をつかはして、伊豆の目代、和泉[B ノ]判官
兼高【*兼隆】をやまき【山木】が館で夜うち【夜討】にうち候ぬ。其後
土肥・土屋・岡崎をはじめとして三百余騎、石
橋山に立籠て候ところ【所】に、景親御方に心ざし
を存ずるものども一千余騎を引率して、
をし【押し】よせ【寄せ】せめ【攻め】候程に、兵衛佐七八騎にうちなさ
れ、おほ童にたたかひ【戦ひ】なて、土肥の椙山へにげこ
もり【逃籠り】候ぬ。其後畠山五百余騎で御方を
P05041
つかまつる。三浦[B ノ]大介義明が子共、三百余騎で
源氏方をして、湯井【*由井】・小坪の浦でたたかふ【戦ふ】に、
畠山いくさ【軍】にまけて武蔵国へひき【引き】しりぞく。
その後畠山が一族、河越・稲毛・小山田・江戸・笠井【*葛西】、
惣じて其外七党の兵ども三千余騎をあひ
ぐし【具し】て、三浦衣笠の城にをし【押し】よせてせめ【攻め】たた
かふ。大介義明うた【討た】れ候ぬ。子共は、くり浜【久里浜】の浦より
舟にのり、安房・上総へわたり候ぬ」とこそ申たれ。
[BH 是ヨリ朝敵揃ト云本モアリ]
平家の人々都うつりもはやけう【興】さめぬ。わかき
P05042
公卿殿上人は、「あはれ、とく【疾く】事のいでこよ【出来よ】かし。
打手にむかは【向は】う」などいふぞはかなき。畠山の庄司
重能、小山田の別当有重、宇都宮左衛門朝
綱、大番役にて、おりふし【折節】在京したりけり。畠山
申けるは、「僻事にてぞ候らん。したしう【親しう】なて候
なれば、北条はしり【知り】候はず、自余の輩は、よも
朝敵が方人をば仕候はじ。いまきこしめし【聞し召し】なを
さんずる物を」と申ければ、げにもといふ人もあり【有り】。
「いやいや只今天下の大事に及なんず」とささや
P05043
く物もおほかり【多かり】けり。入道相国、いから【怒ら】れける様なのめ
ならず。「頼朝をばすでに死罪におこなはるべかり
しを、故池殿のあながちになげきの給ひしあひ
だ【間】、流罪に申なだめ【宥め】たり。しかる【然る】に其恩わすれ【忘れ】
て、当家にむか【向つ】て弓をひくにこそあんなれ。神
明三宝もいかでかゆるさ【許さ】せ給ふべき。只今天のせ
め【責】かうむら【蒙ら】んずる頼朝なり」とぞの給ひける。
『朝敵揃』S0505
○夫我朝に朝敵のはじめを尋れば、やまといは
れみこと[* 「ひこと」と有るのを他本により訂正]【日本磐余命】の御宇四年、紀州なぐさ【名草】の郡高
P05044
雄村に一の蜘蛛あり【有り】。身みじかく、足手ながくて、
ちから【力】人にすぐれたり。人民をおほく【多く】損害せしかば、
官軍発向して、宣旨をよみかけ、葛の網を
むすん【結ん】で、終にこれをおほひ【覆ひ】ころす。それよりこ
のかた、野心をさしはさんで朝威をほろぼさ【滅さ】ん
とする輩、大石山丸、大山王子、守屋の大臣、山田
石河、曾我[B ノ]いるか【入鹿】、大友のまとり【真鳥】、文屋宮田、橘逸
成、ひかみ【氷上】の河次、伊与の親王、大宰【*太宰】少弐藤原広
嗣、ゑみ【恵美】の押勝、佐あら【早良】の太子、井上の広公、藤
P05045
原[B ノ]仲成、平[B ノ]将門、藤原[B ノ]純友、安陪【*安部】貞任・宗任、対馬
守源義親、悪左府・悪衛門[B ノ]督にいたるまで、すべて
廿余人、されども一人として素懐をとぐる物なし。
かばねを山野にさらし、かうべを獄門にかけらる。
この【此の】世にこそ王位も無下にかるけれ【軽けれ】、昔は宣旨を
むか【向つ】てよみければ、枯たる草木も花さきみ【実】なり、
とぶ鳥もしたがひ【従ひ】けり。中比の事ぞかし。延喜
御門神泉苑に行幸あて、池のみぎはに鷺のゐたりけるを、六位をめし【召し】て、「あの鷺とてま
P05046
いらせよ【参らせよ】」と仰ければ、いかで【争】かとら【取ら】んとおもひ【思ひ】けれ
ども、綸言なればあゆみ【歩み】むかふ【向ふ】。鷺はねづくろ
ひ【羽繕ひ】してたた【立た】んとす。「宣旨ぞ」と仰すれば、ひらん【平ん】
で飛さらず。これをと【取つ】てまいり【参り】たり。「なんぢが
宣旨にしたがてまいり【参り】たるこそ神妙なれ。や
がて五位になせ」とて、鷺を五位にぞなされ
ける。「今日より後は鷺のなかの王たるべし」といふ
札をあそばひ【遊ばい】て、頸にかけてはなたせ給。またく
鷺の御れう【料】にはあらず、只王威の程をしろし
P05047
『感陽宮【*咸陽宮】』S0506
めさ【知ろし召さ】んがためなり。○又先蹤を異国に尋に、燕の太
子丹といふもの、秦始皇にとらはれて、いまし
めをかうぶる事十二年、太子丹涙をながひ【流い】て
申けるは、「われ本国に老母あり。いとまを給はて
かれを見ん」と申せば、始皇帝あざわら【笑つ】て、「なん
ぢにいとまをたば【賜ば】ん事は、馬に角おひ【生ひ】、烏の
頭の白くならん時をまつ【待つ】べし」。燕丹天に
あふぎ地に臥て、「願は、馬に角をひ【生ひ】、烏の頭しろ
く【白く】なしたべ。故郷にかへ【帰つ】て今一度母をみん」とぞ
P05048
祈ける。かの妙音菩薩は霊山浄土に詣して、
不孝の輩をいましめ、孔子・顔回はしな【支那】震旦に
出て忠孝の道をはじめ給ふ。冥顕の三宝
孝行の心ざしをあはれみ給ふ事なれば、馬に
角をひ【生ひ】て宮中に来り、烏の頭白くなて庭
前の木にすめ【栖め】りけり。始皇帝、烏頭馬[M の]角
の変におどろき、綸言かへらざる事を信じて、
太子丹をなだめ【宥め】つつ、本国へこそかへさ【返さ】れけれ。
始皇なを【猶】くやしみ【悔しみ】て、秦の国と燕の国のさ
P05049
かひ【境】に楚国といふ国あり【有り】。大なる河ながれたり。
かの河にわたせ【渡せ】る橋をば楚国の橋といへり。
始皇官軍をつかはし【遣し】て、燕丹がわたらん時、河
なかの橋をふまばおつる【落つる】様にしたためて、燕丹
をわたらせけるに、なじかはおちいら【陥ら】ざるべき。河
なかへおち【落ち】入ぬ。されどもちとも水にもおぼれず、
平地を行ごとくして、むかへの岸へつき【付き】にけり。こは
いかにとおもひ【思ひ】てうしろをかへり見ければ、亀ども
がいくらといふかずもしら【知ら】ず、水の上にうかれ【浮かれ】来て、
P05050
こう【甲】をならべてぞあゆま【歩ま】せたりける。これも孝行
のこころざしを冥顕あはれみ給ふによてなり。太
子丹うらみ【恨み】をふくん【含ん】で又始皇帝にしたがはず。
始皇官軍をつかはし【遣し】て燕丹をうた【討た】んとし給ふ
に、燕丹おそれ【恐れ】をののき、荊訶【*荊軻】といふ兵をかたらふて
大臣になす。荊訶【*荊軻】又田光先生といふ兵をか
たらふ。かの先生申けるは、「君はこの身がわかう【若う】
さかん【壮】なし事をしろしめさ【知ろし召さ】れてたのみ【頼み】仰らるる
か。騏■は千里を飛ども、老ぬれば奴馬にも
P05051
おとれり。いまはいかにもかなひ【適ひ】候まじ。兵をこそ
かたらふてまいらせ【参らせ】め」とて、かへら【帰ら】んとするところ【所】に、
荊訶【*荊軻】「この事あなかしこ、人にひろふ【披露】すな」といふ。
先生申けるは、「人にうたがは【疑は】れぬるにすぎ【過ぎ】たる恥
こそなけれ。此事もれ【漏れ】ぬる物ならば、われうた
がはれなんず」とて、門前なる李の木にかしら【頭】を
つき【突き】あて、うちくだいてぞ死にける。又范予期【*樊於期】
といふ兵あり【有り】。これは、秦の国のものなり。始皇の
ためにおや【父】・おぢ【伯叔】・兄弟をほろぼされて、燕の国に
P05052
にげ【逃げ】こもれり。秦皇四海に宣旨をくだい【下い】て、「范
予期【*樊於期】がかうべはね【刎ね】てまいらせ【参らせ】たらん物には、五百
斤の金をあたへん」とひろう【披露】せらる。荊訶【*荊軻】これを
きき、范予期【*樊於期】がもとにゆい【行い】て、「われきく【聞く】。なんぢ
がかうべ五百斤の金にほうぜ【報ぜ】らる。なんぢが首
われにかせ【貸せ】。取て始皇帝にたてまつらん。よろ
こで叡覧をへ【経】られん時、つるぎ【剣】をぬき、胸を
ささんにやすかり【安かり】なん」といひければ、范予期【*樊於期】お
どり【躍り】あがり、大いき【息】ついて申けるは、「われおや・おぢ・
P05053
兄弟を始皇のためにほろぼされて、よるひる
これ【是】をおもふ【思ふ】に、骨髄にとを【徹つ】て忍がたし。げにも
始皇帝をほろぼすべくは、首をあたへんこと、
塵あくたよりも尚やすし」とて、手づから首
を切てぞ死にける。又秦巫陽【*秦舞陽】といふ兵あり【有り】。こ
れも秦の国の物なり。十三の歳かたき【敵】をう【打つ】て、
燕の国ににげこもれり。ならびなき兵なり。かれが
嗔てむかふ【向ふ】時は、大の男も絶入す。又笑で向ふ
時は、みどり子もいだか【抱か】れけり。これを秦の都の
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案内者にかたらう【語らう】て、ぐし【具し】てゆく程に、ある片
山のほとりに宿したりける夜、其辺ちかき里
に管絃をするをきい【聞い】て、調子をもつて本意
の事をうらなふ【占ふ】に、かたき【敵】の方は水なり、我方は
火なり。さる程に天もあけ【明け】ぬ。白虹日をつらぬひ【貫い】
てとをら【通ら】ず。「我等が本意とげん事ありがたし」と
ぞ申ける。さりながら帰べきにもあらねば、始皇
の都咸陽宮にいたりぬ。燕の指図ならびに
范予期【*樊於期】が首も【持つ】てまいり【参り】たるよし奏しければ、
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臣下をもてうけ【受け】とら【取ら】んとし給ふ。「またく人しては
まいらせ【参らせ】じ。直にたてまつら【奉ら】ん」と奏する間、さらば
とて、節会の儀をととのへて、燕の使をめされ
けり。咸陽宮はみやこのめぐり一万八千三百八
十里につもれり。内裏をば地より三里たかく築
あげて、其上にたてたり。長生殿・不老門あり【有り】、
金をもて日をつくり、銀をもて月をつくれり。
真珠のいさご、瑠璃の砂、金の砂をしき【敷き】みてり。
四方にはたかさ四十丈の鉄の築地をつき、殿の
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上にも同く鉄の網をぞ張たりける。これは冥
途の使をいれ【入れ】じとなり。秋の田のも【面】の鴈、春は
こしぢ【越路】へ帰も、飛行自在のさはり【障】あれば、築地
には鴈門となづけ【名付け】て、鉄の門をあけてぞとをし【通し】
ける。そのなかにも阿房殿とて、始皇のつねは
行幸なて、政道おこなはせ給ふ殿あり【有り】。たかさは
卅六丈東西へ九町、南北へ五町、大床のしたは
五丈のはたほこをたてたるが、猶及ばぬ程也。上は
瑠璃の瓦をもてふき、したは金銀にてみがき
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けり。荊訶【*荊軻】は燕の指図をもち、秦巫陽【*秦舞陽】は范予
期【*樊於期】が首をも【持つ】て、珠のきざ橋【階】をのぼりあがる【上がる】。あま
りに内裏のおびたたしき【夥しき】を見て秦巫陽【*秦舞陽】わな
わなとふるひ【震ひ】ければ、臣下あやしみて、「巫陽【*舞陽】謀
反の心あり【有り】。刑人をば君のかたはら【側】にをか【置か】ず、君子
は刑人にちかづか【近付か】ず、刑人にちかづく【近付く】はすなはち死を
かろんずる道なり」といへり。荊訶【*荊軻】たち【立ち】帰て、「巫陽【*舞陽】
またく謀反の心なし。ただ田舎のいやしき【卑しき】にのみ
なら【習つ】て、皇居になれ【馴れ】ざるが故に心迷惑す」と申
P05058
ければ、臣下みなしづまりぬ。仍王にちかづき【近付き】たて
まつる【奉る】。燕の指図ならびに范予期【*樊於期】が首げざん【見参】に
いるる【入るる】ところ【所】に、指図の入たる櫃のそこ【底】に、氷の様なる
つるぎの見えければ、始皇帝これを見て、や
がてにげ【逃げ】んとしたまふ【給ふ】。荊訶【*荊軻】王の御袖をむずと
ひかへ【控へ】て、つるぎをむね【胸】にさしあてたり。いまは
かうとぞ見えたりける。数万の兵庭上に袖をつ
らぬ【連ぬ】といへども、すくは【救は】んとするに力なし。ただ君
逆臣におかさ【犯さ】れ給はん事をのみかなしみあへり。
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始皇の給はく、「われに暫時のいとまをえ【得】させよ。
わが最愛の后の琴のね【音】を今一度きかん」との
給へ【宣へ】ば、荊訶【*荊軻】しばしをかし【犯し】たてまつらず。始皇は
三千人のきさきをもち給へり。其中に花陽
夫人とて、すぐれたる琴の上手おはしけり。凡此
后の琴のね【音】をきい【聞い】ては、武きもののふ【武士】のいかれ【怒れ】る
もやはらぎ、飛鳥もおち【落ち】、草木もゆるぐ【揺ぐ】程なり。況
やいまをかぎりの叡聞にそなへ【供へ】んと、なくなく【泣く泣く】ひき
給ひけん、さこそはおもしろかりけめ。荊訶【*荊軻】も頭を
P05060
うなたれ、耳をそばだて、殆謀臣のおもひ【思ひ】もたゆみ【弛み】
にけり。きさき【后】はじめてさらに一曲を奏す。「七尺
屏風はたかく【高く】とも、おどら【躍ら】ばなどかこえ【越え】ざらん。一条
の羅こくはつよくとも、ひか【引か】ばなどかはたえ【絶え】ざらん」
とぞひき【弾き】給ふ。荊訶【*荊軻】はこれをきき【聞き】しら【知ら】ず、始皇
はきき【聞き】知て、御袖をひ【引つ】きり【切り】、七尺の屏風を飛こ
えて、あかがね【銅】の柱のかげににげ【逃げ】かくれ【隠れ】させ給ひぬ。荊
訶【*荊軻】いか【怒つ】て、つるぎ【剣】をなげ【投げ】かけたてまつる。おりふし【折節】
御前に番の医師の候けるが、薬の袋を荊訶【*荊軻】が
P05061
つるぎになげ【投げ】あはせ【合はせ】たり。つるぎ薬の袋をかけ【掛け】
られながら、口六尺の銅の柱をなから【半】までこそき【切つ】
たりけれ。荊訶【*荊軻】又剣ももたねばつづい【続い】てもなげ
ず。王たちかへ【立ち返つ】てわがつるぎ【剣】をめし【召し】よせて、荊訶【*荊軻】を
八ざき【八つ裂】にこそし給ひけれ。秦巫陽【*秦舞陽】もうた【討た】れにけり。
官軍をつかはし【遣はし】て、燕丹をほろぼさる。蒼天ゆ
るし給はねば、白虹日をつらぬいてとほら【通ら】ず。
秦の始皇はのがれ【逃れ】て、燕丹つゐに【遂に】ほろびにき。
「されば今の頼朝もさこそはあらんずらめ」と、色代
P05062
『文学【*文覚】荒行』S0507
する人々もあり【有り】けるとかや。○抑かの頼朝と申は、
去る平治元年十二月、ちち【父】左馬頭義朝が謀反
によて、年十四歳と申し永暦元年三月廿日、
伊豆国蛭島へながされて、廿余年の春秋ををくり【送り】
むかふ【向ふ】。年ごろもあればこそあり【有り】けめ、ことしいか
なる心にて謀反をばおこさ【起さ】れけるぞといふに、高
雄の文覚上人の申すすめ【勧め】られたりけるとかや。彼
文覚と申は、もとは渡辺の遠藤佐近将監茂
遠が子、遠藤武者盛遠とて、上西門院の衆也。
P05063
十九の歳道心をこし【起こし】出家して、修行にいで【出で】んとし
けるが、「修行といふはいかほど【程】の大事やらん、ためい【試い】て
み【見】ん」とて、六月の日の草もゆるが【揺が】ずて【照つ】たるに、片山
のやぶ【薮】のなかにはいり、あをのけ【仰ふのけ】にふし、あぶぞ、蚊ぞ、
蜂蟻などいふ毒虫どもが身にひしととり【取り】つい【付い】て、
さしくひ【刺食】などしけれども、ちとも身をもはたら
かさ【働かさ】ず。七日まではおき【起き】あがら【上がら】ず、八日といふにおき
あが【上がつ】て、「修行といふはこれ程の大事か」と人にとへ
ば、「それ程ならんには、いかでか命もいく【生く】べき」といふ
P05064
あひだ、「さてはあんべい【安平】ごさんなれ」とて、修行にぞ
いで【出で】にける。熊野へまいり【参り】、那智ごもり【籠り】せんとしける
が、行の心みに、きこゆる【聞ゆる】滝にしばらくうた【打た】れて
みんとて、滝もと【滝下】へぞまいり【参り】ける。比は十二月十日
あまりの事なれば、雪ふり【降り】つもり【積り】つららゐ【凍】て、
谷の小河も音もせず、嶺の嵐ふき【吹き】こほり【凍り】、滝の
しら糸【白糸】垂氷となり、みな白妙にをし【押し】なべて、よも
の梢も見えわかず。しかる【然る】に、文覚滝つぼ【滝壺】におり【下り】
ひたり、頸ぎはつかて、慈救の呪をみて【満て】けるが、二三
P05065
日こそあり【有り】けれ、四五日にもなりければ、こらへ【耐へ】ずし
て文覚うき【浮き】あがりにけり。数千丈みなぎり【漲ぎり】おつる
滝なれば、なじかはたまるべき。ざとをし【押し】おとさ【落さ】れ
て、かたな【刀】のは【刃】のごとくに、さしもきびしき【厳しき】岩かどの
なかを、うき【浮き】ぬしづみぬ五六町こそながれ【流れ】たれ。時
にうつくしげなる童子一人来て、文覚が左右の
手をとてひき【引き】あげ【上げ】給ふ。人奇特のおもひ【思ひ】をなし、
火をたき【焚き】あぶりなどしければ、定業ならぬ命
ではあり【有り】、ほどなくいき【生き】いで【出で】にけり。文覚すこし【少し】人
P05066
心ち【人心地】いでき【出で来】て、大のまなこを見いからかし【怒らかし】、「われ此
滝に三七日うた【打た】れて、慈救の三洛叉をみて【満て】うど
おもふ【思ふ】大願あり【有り】。けふはわづかに五日になる。七日だ
にもすぎ【過ぎ】ざるに、なに物【何者】かここへはと【取つ】てきたるぞ」
といひければ、見る人身のけ【毛】よだてものいはず。
又滝つぼ【滝壺】にかへり【帰り】たてうた【打た】れけり。第二日といふに、
八人の童子来て、ひき【引き】あげんとし給へども、さん
ざん【散々】につかみ【掴み】あふ【合う】てあがら【上がら】ず。三日といふに、文覚つ
ゐに【遂に】はかなく【果敢く】なりにけり。滝つぼ【滝壺】をけがさ【汚さ】じとや、
P05067
みづらゆう【結う】たる天童二人、滝のうへ【上】よりおり【下り】く
だり【下り】、文覚が頂上より手足のつまさき【爪先】・たなうら【手裏】に
いたるまで、よにあたたか【暖たか】にかうばしき【香ばしき】御手をもて、
なで【撫で】くだし給ふとおぼえければ、夢の心ち【心地】して
いき【生き】いで【出で】ぬ。「抑いかなる人にてましませば、かうは
あはれみ給ふらん」ととひ【問ひ】たてまつる【奉る】。「われはこれ【是】大
聖不動明王の御使に、こんがら【矜迦羅】・せいたか【制■迦】といふ二童子
なり。「文覚無上の願をおこし【起こし】て、勇猛の行をくは
たつ【企つ】。ゆい【行い】てちから【力】をあはすべし」と明王の勅によて
P05068
来れる也」とこたへ給ふ。文覚声をいからかし【怒らかし】て、
「さて明王はいづくに在ますぞ」。「都率天に」と
こたへて、雲井はるかにあがり【上がり】給ひぬ。たな心を
あはせ【合はせ】てこれを拝したてまつる【奉る】。「されば、わが行
をば大聖不動明王までもしろしめさ【知ろし召さ】れたるに
こそ」とたのもしう【頼もしう】おぼえて、猶滝つぼ【滝壺】にかへりた
てうた【打た】れけり。まこと【誠】にめでたき瑞相どもあり【有り】
ければ、吹くる風も身にしまず、落くる水も
湯のごとし。かくて三七日の大願つゐに【遂に】とげ【遂げ】にけれ
P05069
ば、那智に千日こもり、大峯三度、葛城二度、高
野・粉河・金峯山、白山・立山・富士の嵩、伊豆、箱
根、信乃【*信濃】戸隠、出羽[B ノ]羽黒、すべて日本国のこる【残る】所なく
おこなひまは【廻つ】て、さすが尚ふる里や恋しかりけん、
宮こ【都】へのぼりたりければ、凡とぶ鳥も祈おとす【落す】程
『勧進張』S0508
のやいば【刃】の験者とぞきこえ【聞え】し。○後には高雄と
いふ山の奥におこなひすまし【澄し】てぞゐたりける。彼
たかお【高雄】に神護寺といふ山寺あり【有り】。昔称徳天皇
の御時、和気の清丸がたてたりし伽藍也。久しく
P05070
修造なかりしかば、春は霞にたちこめられ、秋は
霧にまじはり、扉は風にたふれ【倒れ】て落葉の
した【下】にくち【朽ち】、薨は雨露にをかされて、仏壇
さらにあらはなり。住持の僧もなければ、まれに
さし【差し】入物とては、月日の光ばかりなり。文覚是を
いかにもして修造せんといふ大願をおこし、勧進
帳をささげて、十方檀那をすすめ【勧め】ありき【歩き】ける程
に、或時院御所法住寺殿へぞまいり【参り】たりける。御奉
加あるべき由奏聞しけれども、御遊のおりふし【折節】で
P05071
きこしめし【聞し召し】も入られず、文覚は天性不敵第一の
あらひじり【荒聖】なり、御前の骨ない様をばしら【知ら】ず、
ただ申入ぬぞと心えて、是非なく御坪のうちへ
やぶりいり【破り入り】、大音声をあげて申けるは、「大慈大
悲の君にておはします。などかきこしめし【聞し召し】入ざるべ
き」とて、勧進帳をひき【引き】ひろげ、たからか【高らか】にこそよ
う【読う】だりけれ。沙弥文覚敬白す。殊に貴賎道俗
助成を蒙て、高雄山の霊地に、一院を建立し、
二世安楽の大利を勤行せんと乞勧進状。夫以ば、
P05072
真如広大なり。生仏の仮名をたつといへども、
法性随妄の雲あつく覆て、十二因縁の峯に
たなびいしよりこのかた【以来】、本有心蓮の月の光かす
か【幽】にして、いまだ三毒四慢の大虚にあらはれ【現はれ】ず。悲
哉、仏日早く没して、生死流転の衢冥々たり。
只色に耽り、酒にふける、誰か狂象重淵【*跳猿】の迷を
謝せん。いたづらに人を謗じ法を謗ず、あに閻羅
獄卒の責をまぬかれ【免かれ】んや。〔爰に文覚たまたま俗塵をうちはら【払つ】て〕法衣をかざるといへ共、
悪行猶心にたくましうして日夜に造り、善苗
P05073
又耳に逆て朝暮にすたる。痛哉、再度三途の
火坑にかへ【帰つ】て、ながく四生苦輪にめぐらん事を。
此故に無二の顕章千万軸、軸々に仏種の因を
あかす。随縁至誠の法一として菩提の彼岸にいた
らずといふ事なし。かるがゆへに、文覚無常の観
門に涙をおとし【落し】、上下の親俗をすすめて上品蓮台
にあゆみ【歩み】をはこび、等妙覚王の霊場をたてんと也。
抑高雄は、山うづたかくして鷲峯山の梢を、
表し、谷閑にして商山洞の苔をしけ【敷け】り。巌泉
P05074
咽で布をひき【引き】、嶺猿叫で枝にあそぶ。人里と
をう【遠う】して囂塵[* 「器塵」と有るのを他本により訂正]なし。咫尺好う【事無う】して信心のみ有。
地形すぐれたり、尤も仏天をあがむべし。奉加すこ
しきなり、誰か助成せざらん。風聞、聚沙為仏
塔功徳、忽に仏因を感ず。況哉一紙半銭の
宝財にをひてをや。願は建立成就して、金闕
鳳暦御願円満、乃至都鄙遠近隣民親疎、尭
舜無為の化をうたひ【歌ひ】、椿業再会の咲をひらかん。
殊には、聖霊幽儀先後大小、すみやかに一仏真
P05075
門の台にいたり、必三身万徳の月をもてあそば【翫ば】ん。
仍勧進修行の趣、蓋以如斯治承三年三月日
『文学【*文覚】被流』S0509
文覚とこそよみ【読み】あげたれ。○おりふし【折節】、御前には太
政大臣妙音院、琵琶かき【掻き】ならし【鳴らし】朗詠めでたうせ
させ給ふ。按察大納言資方【*資賢】卿拍子とて、風俗催
馬楽うたはれけり。右馬頭資時・四位侍従盛定
和琴かき【掻き】ならし【鳴らし】、いま様【今様】とりどりにうたひ【歌ひ】、玉の簾、
錦の帳の中ざざめきあひ、まこと【誠】に面白かりけれ
ば、法皇もつけ歌【附け歌】せさせおはします。それに文覚
P05076
が大音声いでき【出で来】て、調子もたがひ【違ひ】、拍子もみな
みだれ【乱れ】にけり。「なに物【何者】ぞ。そくびつけ【突け】」と仰下さるる程
こそあり【有り】けれ、はやりを【逸男】の若物共、われもわれもと
すすみ【進み】けるなかに、資行判官といふものはしり【走り】
いで【出で】て、「何条事申ぞ。まかり【罷り】いでよ」といひければ、
「高雄の神護寺に庄一所よせ【寄せ】られざらん程は、
またく文覚いづ【出づ】まじ」とてはたらか【働か】ず。よてそ
くびをつか【突か】うどしければ、勧進帳をとりなをし【直し】、
資行判官が烏帽子をはたとう【打つ】てうちおとし【落し】、
P05077
こぶし【拳】をにぎてしやむね【胸】をつゐ【突い】て、のけ【仰】につきた
をす【倒す】。資行判官もとどり【髻】はな【放つ】て、おめおめと大
床のうへ【上】へにげ【逃げ】のぼる。其後文覚ふところ【懐】より
馬の尾でつか【柄】まい【巻い】たる刀の、こほり【氷】のやうなるを
ぬき【抜き】いだひ【出い】て、より【寄り】こん物をつか【突か】うどこそまち【待ち】
かけたれ。左の手には勧進帳、右の手には刀をぬいて
はしり【走り】まはるあひだ【間】、おもひ【思ひ】まうけぬにはか事【俄事】では
あり【有り】、左右の手に刀をも【持つ】たる様にぞ見えたり
ける。公卿殿上人も、「こはいかにこはいかに」とさはが【騒が】れければ、
P05078
御遊もはや荒にけり。院中のさうどう【騒動】なのめ
ならず。信乃【*信濃】国の住人安藤武者右宗、其比当職の
武者所で有けるが、「何事ぞ」とて、太刀をぬいてはし
り【走り】いでたり。文覚よろこ【喜こん】でかかる所を、き【斬つ】てはあし
かり【悪かり】なんとやおもひ【思ひ】けん、太刀のみね【峯】をとりなをし【直し】、
文覚がかたな【刀】も【持つ】たるかいな【腕】をしたたかにうつ。うた【打た】れ
てちとひるむところ【所】に、太刀をすてて、「え【得】たりをう」
とてくん【組ん】だりけり。くま【組ま】れながら文覚、安藤武
者が右のかいな【腕】をつく【突く】。つかれ【疲れ】ながらしめ【締め】たりけり。
P05079
互におとらぬ大ぢからなりければ、うへ【上】になりした【下】に
なり、ころび【転び】あふところ【所】に、かしこがほ【賢顔】に上下よ【寄つ】て、文
覚がはたらく【働く】ところ【所】のぢやうをがうし【拷し】てげり。され
どもこれを事ともせず、いよいよ悪口放言す。門外へ
ひき【引き】いだひ【出い】て、庁の下部にたぶ。給てひつぱる。ひ
ぱら【引つ張ら】れて、立ながら御所の方をにらまへ【睨まへ】、大音声を
あげて、「奉加をこそし給はざらめ、これ程文覚に
からい【辛い】目を見せ給ひつれば、おもひ【思ひ】しらせ申さんずる
物を。三界は皆火宅なり。王宮といふとも、其難を
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のがる【逃る】べからず。十善の帝位にほこつ【誇つ】たうとも、黄
泉の旅にいでなん後は、牛頭・馬頭のせめ【責】をば
まぬかれ【免かれ】給はじ物を」と、おどり【躍り】あがり【上がり】おどり【躍り】あがり【上がり】
ぞ申ける。「此法師奇怪なり」とて、やがて獄定せ
られけり。資行判官は、烏帽子打おとさ【落さ】れて恥
がましさに、しばし【暫し】は出仕もせず。安藤武者、文覚
くん【組ん】だる勧賞に、当座に一廊【*一臈】をへ【経】ずして、右馬允
にぞなされける。さるほど【程】に、其比美福門院かくれ【隠れ】
させ給ひて、大赦あり【有り】しかば、文覚程なくゆるさ【許さ】れ
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けり。しばらくはどこ【何処】にもおこなふ【行なふ】べかりしが、さはな
くして、又勧進帳をささげてすすめ【勧め】けるが、さらば
ただもなくして、「あつぱれ、この世の中は只今みだれ【乱れ】、
君も臣もみな【皆】ほろび【滅び】うせんずる物を」など、おそろ
しき【恐ろしき】事をのみ申ありくあひだ【間】、「この法師都に
をひ【置い】てかなう【叶ふ】まじ。遠流せよ」とて、伊豆国へぞなが
されける。源三位入道の嫡子仲綱の、其比伊豆守
にておはしければ、その沙汰として、東海道より
舟にてくだす【下す】べしとて、伊勢国へゐ【率】てまかり【罷り】
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けるに、法便[* 「法使」と有るのを他本により訂正]両三人ぞつけ【付け】られたる。これらが申ける
は、「庁の下部のならひ【習ひ】、かやうの事につゐ【突い】てこそ、を
のづから依怙も候へ。いかに聖の御房、これ程の事
に逢て遠国へながされ給ふに、しりうと【知人】はもち
給はぬか。土産粮料ごときの物をもこひ【乞ひ】給へかし」と
いひければ、文覚は「さ様の要事いふべきとくゐ【得意】
ももたず。東山の辺にぞとくゐ【得意】はある。いでさらば
ふみ【文】をやらう」どいひければ、けしかる【怪しかる】紙をたづね【尋ね】て
え【得】させたり。「かやうの紙で物かく【書く】やうなし」とて、なげ
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かへす【返す】。さらばとて、厚紙をたづね【尋ね】てえ【得】させたり。文
覚わら【笑つ】て、「法師は物をえかか【書か】ぬぞ。さらばおれら【己等】か
け【書け】」とて、かか【書か】するやう、「文覚こそ高雄の神護寺
造立供養のこころざしあて、すすめ【勧め】候つる程に、
かかる君の代にしも逢て、所願をこそ成就せざらめ、
禁獄せられて、あまさへ【剰へ】伊豆国へ流罪せられ候へ。遠
路の間で候。土産粮料ごときの物も大切に候。此使に
たぶ【賜ぶ】べしとかけ」といひければ、いふままにかいて、「さて
たれどの【誰殿】へとかき【書き】候はうぞ」。「清水の観音房へとかけ」。
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「これは庁の下部をあざむく【欺く】にこそ」と申せば、「さり
とては、文覚は観音をこそふかう【深う】たのみ【頼み】たてまつ【奉つ】
たれ。さらでは誰にかは用事をばいふべき」とぞ申
ける。伊勢国阿野【*阿濃】[B 「阿濃」と傍書]の津より舟にの【乗つ】てくだり【下り】けるが、
遠江の天竜難多【天竜灘】にて、俄に大風ふき、大なみ【浪】たて、
すでに此舟をうちかへさ【返さ】んとす。水手【*水主】梶取ども、いか
にもしてたすから【助から】んとしけれども、波風いよいよあれ【荒】
ければ、或は観音の名号をとなへ、或は最後の十
念にをよぶ【及ぶ】。されども文覚これを事ともせず、たか
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いびき【高鼾】かいてふし【臥し】たりけるが、なに【何】とかおもひ【思ひ】けん、いま【今】
はかうとおぼえける時、かぱとおき、舟のへ【舳】にたて奥の
方をにらまへ【睨まへ】、大音声をあげて、「竜王やある、竜王
やある」とぞよう【呼う】だりける。「いかにこれほどの大願おこ
い【起い】たる聖がの【乗つ】たる舟をば、あやまた【過た】うどはするぞ。
ただいま天の責かうむら【蒙ら】んずる竜神どもかな」と
ぞ申ける。そのゆへ【故】にや、浪風ほどなくしづま【鎮まつ】て、
伊豆国へつき【着き】にけり。文覚京をいで【出で】ける日より、祈
誓する事あり【有り】。「われ都にかへ【帰つ】て、高雄の神護寺
P05086
造立供養すべくは、死ぬべからず。其願むなし
かるべくは、道にて死ぬべし」とて、京より伊豆へ
つきけるまで、折節順風なかりければ、浦づたひ【浦伝ひ】
島づたひ【島伝ひ】して、卅一日があひだ【間】は一向断食にてぞ
あり【有り】ける。され共気力すこしもおとら【劣ら】ず、おこなひ【行ひ】う
ちしてゐたり。まこと【誠】にただ人ともおぼえぬ事ども
『福原院宣』S0510
おほかり【多かり】けり。○近藤四郎国高といふものにあづけ【預け】ら
れて、伊豆国奈古屋がおくにぞすみ【住み】ける。さる程に、
兵衛佐殿へつねはまい【参つ】て、昔今の物がたりども申て
P05087
なぐさむ程に、或時文覚申けるは、「平家には小松の
おほいとの【大臣殿】こそ、心もがう【剛】に、はかり事もすぐれてお
はせしか、平家の運命が末になるやらん、こぞ【去年】の
八月薨ぜられぬ。いまは源平のなかに、わとの程
将軍の相も【持つ】たる人はなし。はやはや謀反おこして、
日本国したがへ給へ」。兵衛佐「おもひ【思ひ】もよらぬ事の
給ふ聖御房かな。われは故池の尼御前にかひ【甲斐】なき
命をたすけ【助け】られたてま【奉つ】て候へば、その後世をとぶら
は【弔は】んために、毎日に法花経一部転読する外は他事
P05088
なし」とこその給ひけれ。文覚かさね【重ね】て申けるは、「天
のあたふるをとら【取ら】ざれば、かへて【却つて】其とが【咎】をうく。時い
たておこなはざれば、かへて【却つて】其殃をうくといふ本文
あり【有り】。かう申せば、御辺の心をみんとて申など思ひ
給か。御辺に心ざしのふかい【深い】色を見給へかし」とて、
ふところ【懐】よりしろい【白い】ぬの【布】につつんだる髑■をひ
とつ【一つ】とりいだす【出だす】。兵衛佐「あれはいかに」との給へ【宣へ】ば、「これ
こそわとのの父、故左馬頭殿のかうべ【頭】よ。平治の後、獄
舎のまへなる苔のしたにうづもれ【埋もれ】て、後世とぶらふ
P05089
人もなかりしを、文覚存ずる旨あて、獄もり【獄守】にこふ【乞う】
て、この十余年頸にかけ、山々寺々おがみ【拝み】まはり、とぶ
らひ【弔ひ】たてまつれ【奉れ】ば、いまは一劫もたすかり給ぬらん。
されば、文覚は故守殿の御ためにも奉公のもので
こそ候へ」と申ければ、兵衛佐殿、一定とはおぼえねども、
父のかうべときく【聞く】なつかしさに、まづ涙をぞながされ
ける。其後はうちとけて物がたりし給ふ。「抑頼朝
勅勘をゆり【許り】ずしては、争か謀反をばおこすべき」
との給へ【宣へ】ば、「それやすい【安い】事、やがてのぼ【上つ】て申ゆるい
P05090
てたてまつら【奉ら】ん」。「さもさうず、御房も勅勘の身で
人を申ゆるさ【許さ】うどの給ふあてがいやう【宛行様】こそ、おほ
き【大き】にまことしからね」。「わが身の勅勘をゆりうど申
さばこそひが事【僻言】ならめ。わとのの事申さうは、なにか
くるしかる【苦しかる】べき。いまの都福原の新都へのぼら【上ら】うに、三
日にすぐ【過ぐ】まじ。院宣うかがは【伺は】うに一日がとうりう【逗留】ぞ
あらんずる。都合七日八日にはすぐ【過ぐ】べからず」とて、つきい
で【出で】ぬ。奈古屋にかへ【帰つ】て、弟子ども【共】には、伊豆の御山【*雄山】に人
にしのん【忍ん】で七日参籠の心ざしあり【有り】とて、いでにけり。
P05091
げにも三日といふに、福原の新都へのぼりつつ前右
兵衛[B ノ]督光能卿のもとに、いささかゆかりあり【有り】ければ、
それにゆい【行い】て、「伊豆国流人、前兵衛佐頼朝こそ勅勘
をゆるさ【許さ】れて院宣をだにも給はらば、八ケ国の家
人ども催しあつめ【集め】て、平家をほろぼし、天下をし
づめ【鎮め】んと申候へ」。兵衛[B ノ]督「いさとよ、わが身も当時は
三官ともにとどめ【留め】られて、心ぐるしいおりふし【折節】なり。
法皇もをし【押し】こめられてわたらせ給へば、いかがあらん
ずらん。さりながらもうかがう【伺う】てこそ見め」とて、此由ひ
P05092
そかに奏せられければ、法皇やがて院宣をこそくだ
さ【下さ】れけれ。聖これをくびにかけ、又三日といふに、伊豆国
へくだり【下り】つく。兵衛[B ノ]佐「あつぱれ、この聖御房は、なまじゐ
によしなき事申いだし【出し】て、頼朝又いかなるうき【憂き】目
にかあはんずらん」と、おもは【思は】じ事なうあんじ【案じ】つづけ【続け】て
おはしけるところ【所】に、八日といふ午刻ばかりくだり【下り】つい
て、「すは院宣よ」とてたてまつる【奉る】。兵衛佐、院宣と
きくかたじけなさ【忝さ】に、手水うがひをして、あたらし
き烏帽子・浄衣きて、院宣を三度拝してひ
P05093
らかれたり。項年より以来、平氏王皇蔑如して、
政道にはばかる事なし。仏法を破滅して、朝威を
ほろぼさんとす。夫我朝は神国也。宗廟あひならん
で、神徳これ【是】あらたなり。故朝廷開基の後、数千余
歳のあひだ、帝猷をかたぶけ【傾け】、国家をあやぶめんと
する物、みなもて敗北せずといふ事なし。然則且は
神道の冥助にまかせ【任せ】、且は勅宣の旨趣をまも【守つ】て、
はやく平氏の一類を誅して、朝家の怨敵を
しりぞけよ。譜代弓箭の兵略を継、累祖奉公の
P05094
忠勤を抽て、身をたて、家をおこすべし。ていれば【者】、
院宣かくのごとし。仍執達如件。治承四年七月十
四日前右兵衛[B ノ]督光能が奉はり謹上前[B ノ]右兵衛佐
殿へとぞかか【書か】れたる。此院宣をば錦の袋にいれ【入れ】て、
石橋山の合戦の時も、兵衛佐殿頸にかけられたり
『富士川』S0511
けるとかや。○さる程に、福原には、勢のつかぬ先にいそぎ
打手をくだすべしと、公卿僉議あて、大将軍には小
松権亮少将維盛、副将軍には薩摩守忠教【*忠度】、都合
其勢三万余騎、九月十八日に都をたて、十九日には
P05095
旧都につき、やがて廿日、東国へこそう【討つ】たた【立た】れけれ。大
将軍権亮少将維盛は、生年廿三、容儀体拝絵に
かくとも筆も及がたし。重代の鎧唐皮といふきせ
なが【着背長】をば、唐櫃にいれ【入れ】てかか【舁か】せらる。路打うちには、赤地
の錦の直垂に、萠黄威のよろひ【鎧】きて、連銭葦
毛なる馬に、黄覆輪の鞍をい【置い】てのり給へり。副
将軍薩摩守忠教【*忠度】は、紺地の錦のひたたれに、
黒糸おどしの鎧きて、黒き馬のふとう【太う】たくましゐ【逞しい】
に、いかけ地【沃懸地】の鞍をい【置い】てのり給へり。馬・鞍・鎧・甲・弓矢・
P05096
太刀・刀にいたるまで、てり【照り】かかやく【輝く】程にいでたた【出で立た】れたり
しかば、めでたかりし見物なり。薩摩[B ノ]守忠教【*忠度】は、年
来ある宮腹の女房のもとへかよは【通は】れけるが、或時
おはしたりけるに、其女房のもとへ、やごとなき女房
まらうと【客人】にきたて、やや久しう物がたり【物語】し給ふ。さ
よ【小夜】もはるかにふけ【更け】ゆくまでに、まらうと【客人】かへり給は
ず。忠教【*忠度】軒ばにしばしやすらひて、扇をあらくつか
は【使は】れければ、宮腹の女房、「野もせ【野狭】にすだく虫のね【音】
よ」と、ゆふ【優】にやさしう口ずさみ給へば、薩摩守やがて
P05097
扇をつかひやみてかへら【帰ら】れけり。其後又おはしたり
けるに、宮腹の女房「さても一日、なに【何】とて扇をば
つかひ【使ひ】やみしぞや」ととは【問は】れければ、「いさ、かしかましなど
きこえ【聞え】候しかば、さてこそつかひ【使ひ】やみ候しか」とぞの
給ひける。かの女房のもとより忠教【*忠度】のもとへ、小袖を
一かさね【重ね】つかはす【遣はす】とて、ちさと【千里】のなごり【名残】のかなしさに、
一首の歌をぞをくら【送ら】れける。
あづまぢ【東路】の草葉をわけん袖よりも
たたぬたもとの露ぞこぼるる W035
P05098
薩摩守返事には
わかれ路をなにかなげかんこえてゆく【行く】
関もむかしの跡とおもへ【思へ】ば W036
「関も昔の跡」とよめる事は、平将軍貞盛、将門
追討のために、東国へ下向せし事をおもひ【思ひ】いで【出で】て
よみ【詠み】たりけるにや、いとやさしうぞきこえ【聞え】し。
昔は朝敵をたいらげ【平げ】に外土へむかふ【向ふ】将軍は、ま
づ参内して切刀を給はる。震儀【*宸儀】南殿に出御し、
近衛階下に陣をひき【引き】、内弁外弁の公卿参列
P05099
して、誅儀【*中儀】の節会おこなは【行なは】る。大将軍副将軍、お
のをの礼儀をただしうしてこれを給はる。承平天
慶の蹤跡も、年久しうなて准へがたしとて、今度
は讃岐守平の正盛が前対馬守源[B ノ]義親追討
のために出雲国へ下向せし例とて、鈴ばかり給て、
皮の袋にいれ【入れ】て、雑色が頸にかけさせてぞく
だら【下ら】れける。いにしへ、朝敵をほろぼさんとて都を
いづる【出づる】将軍は、三の存知あり【有り】。切刀を給はる日家
をわすれ、家をいづる【出づる】とて妻子をわすれ、戦場に
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して敵にたたかふ【戦ふ】時、身をわする【忘る】。されば、今の
平氏の大将維盛・忠教【*忠度】も、定てかやうの事をば
存知せられたりけん。あはれなりし事共也。同廿
二日新院又安芸国厳島へ御幸なる。去る三
月にも御幸あり【有り】き。そのゆへにや、なか一両月世
もめでたくおさま【治まつ】て、民のわづらひ【煩ひ】もなかりしが、
高倉宮の御謀反によて、又天下みだれて、世上
もしづかならず。これによて、且は〔天下静謐のため、且は〕聖代不予の御祈
念のためとぞきこえ【聞え】し。今度は福原よりの御幸
P05101
なれば、斗薮のわづらひ【煩ひ】もなかりけり。手づからみ
づから御願文をあそばい【遊ばい】て、清書をば摂政殿せ
させおはします。蓋聞。法性雲閑也、十四十五の
月高晴、権化智深し、一陰一陽の風旁扇ぐ。夫
厳島の社は称名あまねくきこゆる【聞ゆる】には、効験無
双の砌也。遥嶺の社壇をめぐる、をのづから大慈
の高く峙てるを彰し、巨海の詞宇【*祠宇】にをよぶ【及ぶ】、空
に弘誓の深広なる事を表す。夫以、初庸昧の身
をもて、忝皇王の位を践む。今賢猷を霊境の
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群に翫で、閑坊を射山の居にたのしむ。しかる【然る】に、
ひそかに一心の精誠を抽で、孤島の幽祠に詣、瑞
籬の下に明恩を仰ぎ、懇念を凝して汗をながし、
宝宮のうちに霊託を垂。そのつげの心に銘ずる
あり【有り】。就中にことに怖畏謹慎の期をさすに、も
はら季夏初秋の候にあたる。病痾忽に侵し、
猶医術の験を施す[* 「絶す」と有るのを他本により訂正]事なし。平計頻に転ず、
弥神感の空しからざることを知ぬ。祈祷を求と
いへども、霧露散じがたし。しかじ、心符の心ざし【志】を
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抽でて、かさね【重ね】て斗薮の行をくはたて【企て】んとおもふ【思ふ】。
漠々たる寒嵐の底、旅泊に臥て夢をやぶり、
せいせい【凄々】たる微陽のまへ、遠路に臨で眼をきはむ。
遂に枌楡の砌について、敬て、清浄の蓆を展、書
写したてまつる色紙墨字の妙法蓮華経一部、
開結二経、阿弥陀・般若心等の経各一巻。手づから
自から書写したてまつる【奉る】金泥の提婆品一巻。時
に蒼松蒼栢の陰、共に善理の種をそへ、潮去[* 「湖去」と有るのを他本により訂正]潮来[* 「湖来」と有るのを他本により訂正]
響、空に梵唄の声に和す。弟子北闕の雲を辞し
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て八実【*八日】、涼燠のおほく【多く】廻る事なしといへども、西海
の浪を凌事二たび【二度】、深く機縁のあさから【浅から】ざる事
を知ぬ。朝に祈る客一にあらず、夕に賽【賽申】する
もの且千也。但し、尊貴の帰仰おほし【多し】といへども、
院宮の往詣いまだきかず。禅定法皇初て其
儀をのこい【残い】給ふ。弟子眇身深運其志、彼嵩高
山の月の前には漢武いまだ和光のかげを拝せず。
蓬莱洞の雲の底にも、天仙むなしく垂跡の
塵をへだつ。仰願くは大明神、伏乞らくは一乗経、
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新に丹祈をてらして唯一の玄応を垂給へ。治承
四年九月廿八日太上天皇とぞあそばさ【遊ばさ】れたる。
さる程に、此人々は九重の都をたて、千里の東
海におもむか【赴か】れける。たいらか【平か】にかへり【帰り】のぼらん事も
まこと【誠】にあやうき【危ふき】有さまどもにて、或は野原の露
にやどをかり、或たかねの苔に旅ねをし、山をこえ
河をかさね【重ね】、日かず【数】ふれば、十月十六日には、するが【駿河】の
国清見が関にぞつき【着き】給ふ。都をば三万余騎で
いで【出で】しかど、路次の兵めし【召し】具して、七万余騎とぞ
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きこえ【聞え】し。先陣はかん原【蒲原】・富士河にすすみ、後陣は
いまだ手越・宇津のやにささへたり。大将軍権亮
少将維盛、侍大将上総守忠清をめし【召し】て、「ただ維
盛が存知には、足柄をうちこえて坂東にていくさ【軍】を
せん」とはやら【逸ら】れけるを、上総守申けるは、「福原をたた
せ給し時、入道殿の御定には、いくさ【軍】をば忠清に
まかせ【任せ】させ給へと仰候しぞかし。八ケ国の兵共みな
兵衛佐にしたがひ【従ひ】ついて候なれば、なん【何】十万騎か候
らん。御方の御勢は七万余騎とは申せども、国々の
P05107
かり武者共【駆武者共】なり。馬も人もせめふせて候。伊豆・駿河
のせい【勢】のまいる【参る】べきだにもいまだみえ【見え】候はず。ただ富士
河をまへにあてて、みかた【御方】の御勢をまた【待た】せ給ふべうや
候らん」と申ければ、力及ばでゆらへたり。さる程に、兵
衛佐は足柄の山を打こえて、駿河国きせ河【黄瀬河】にこそ
つき給へ。甲斐・信濃の源氏ども馳来てひとつ【一つ】に
なる。浮島が原にて勢ぞろへあり【有り】。廿万騎とぞしる
いたる。常陸源氏佐竹太郎が雑色、主の使にふみ【文】も【持つ】
て京へのぼるを、平家の先陣上総守忠清これを
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とどめ【留め】て、も【持つ】たる文をばひ【奪ひ】とり、あけてみれ【見れ】ば、女房
のもとへの文なり。くるしかる【苦しかる】まじとて、とらせ[B て]げり。
「抑兵衛佐殿の勢、いかほどあるぞ」ととへば、「凡八日九
日の道にはたとつづいて、野も山も海も河も武
者で候。下臈は四五百千までこそ物の数をば知て
候へども、それよりうへ【上】はしら【知ら】ぬ候。おほい【多い】やらう、すく
ない【少い】やらうをばしり【知り】候はず。昨日きせ川【黄瀬川】で人の申
候つるは、源氏の御勢廿万騎とこそ申候つれ」。上
総守これをきい【聞い】て、「あつぱれ、大将軍の御心ののび【延び】
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させ給たる程口おしい【惜しい】事候はず。いま一日も先に
打手をくださ【下さ】せ給たらば、足柄の山こえて、八ケ国へ
御出候ば、畠山が一族、大庭兄弟などかまいら【参ら】で候べ
き。これらだにもまいり【参り】なば、坂東にはなびかぬ草
木も候まじ」と、後悔すれどもかひ【甲斐】ぞなき。又大将
軍権亮少将維盛、東国の案内者とて、長井
の斎藤別当実盛をめし【召し】て、「やや実盛、なんぢ程の
つよ弓【強弓】勢兵、八ケ国にいかほど【程】あるぞ」ととひ【問ひ】給へば、
斎藤別当あざわら【笑つ】て申けるは、「さ候へば、君は実
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盛を大矢とおぼしめし【思し召し】候歟。わづかに十三束こそ仕
候へ。実盛程ゐ【射】候物は、八ケ国にいくらも候。大矢と
申ぢやう【定】の物の、十五束におとてひく【引く】は候はず。弓
のつよさもしたたかなる物五六人してはり【張り】候。
かかるせい兵【精兵】どもがゐ【射】候へば、鎧の二三両をもかさね
て、たやすうゐとをし【射通し】候也。大名一人と申は、せい【勢】の
すくない【少い】ぢやう【定】、五百騎におとるは候はず。馬にの【乗つ】つれ
ばおつる【落つる】道をしら【知ら】ず、悪所をはすれ【馳すれ】ども馬をた
をさ【倒さ】ず。いくさ【軍】は又おや【親】もうた【討た】れよ、子もうた【討た】れよ、
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死ぬればのり【乗り】こえ【越え】のり【乗り】こえ【越え】たたかふ【戦ふ】候。西国のいくさ【軍】と
申は、おや【親】うた【討た】れぬれば孝養し、いみ【忌】あけてよせ、
子うた【討た】れぬれば、そのおもひ【思ひ】なげき【歎き】によせ【寄せ】候はず。
兵粮米つきぬれば、春は田つくり、秋はかり【刈り】おさめ【収め】て
よせ、夏はあつし【暑し】といひ、冬はさむしときらひ【嫌ひ】候。
東国にはすべて其儀候はず。甲斐・信乃【*信濃】の源氏共、
案内はし【知つ】て候。富士のすそ【裾】より搦手にやまはり【廻り】
候らん。かう申せば君をおくせ【臆せ】させまいらせ【参らせ】んとて
申には候はず。いくさ【軍】はせい【勢】にはよらず、はかり事に
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よるとこそ申つたへて候へ。実盛今度のいくさ【軍】に、
命いき【生き】てふたたびみやこ【都】へまいる【参る】べしとも覚候は
ず」と申ければ、平家の兵共これをきい【聞い】て、みな
ふるい【震ひ】わななきあへり。さる程に、十月廿三日にも
なりぬ。あすは源平富士河にて矢合とさだめ【定め】
たりけるに、夜に入て、平家の方より源氏の陣を
見わたせ【渡せ】ば、伊豆・駿河〔の〕人民・百姓等がいくさ【軍】におそ
れ【恐れ】て、或は野にいり、山にかくれ、或は舟にとりの【乗つ】
て海河にうかび、いとなみの火の見えけるを、平
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家の兵ども、「あなおびたたしの源氏の陣のとを
火【遠火】のおほさよ。げにもまこと【誠】に野も山も海も河も
みなかたき【敵】であり【有り】けり。いかがせん」とぞあはて【慌て】ける。
其夜の夜半ばかり、富士の沼にいくらもむれ【群れ】
ゐたりける水鳥どもが、なに【何】にかおどろき【驚き】たりけん、
ただ一ど【度】にばと立ける羽音の、大風いかづち【雷】など
の様にきこえ【聞え】ければ、平家の兵ども【共】、「すはや源氏
の大ぜい【勢】のよする【寄する】は。斎藤別当が申つる様に、定て
搦手もまはるらん。とり【取り】こめ【込め】られてはかなふ【叶ふ】まじ。ここ
P05114
をばひい【引い】て尾張河州俣をふせけ【防け】や」とて、とる
物もとりあへず、我さきにとぞ落ゆきける。あまり
にあはてさはい【騒い】で、弓とる物は矢をしら【知ら】ず、矢とる
もの【者】は弓をしら【知ら】ず、人の馬にはわれのり【乗り】、わが馬をば
人にのら【乗ら】る。或はつないだる馬にの【乗つ】てはすれ【馳すれ】ば、く
ゐ【杭】をめぐる事かぎりなし。ちかき【近き】宿々よりむかへ【迎へ】
とてあそびける遊君遊女ども、或はかしら【頭】け【蹴】わ
られ、腰ふみ【踏み】おら【折ら】れて、おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】物おほかり【多かり】けり。
あくる廿四日卯刻に、源氏大勢廿万騎、ふじ河に
P05115
をし【押し】よせて、天もひびき、大地もゆるぐ程に、時をぞ
『五節之沙汰』S0512
三ケ度つくりける。○平家の方には音もせず、人を
つかはし【遣し】て見せければ、「みな【皆】落て候」と申。或は敵の
わすれたる鎧とてまいり【参り】たる物もあり【有り】、或はかた
き【敵】のすて【捨て】たる大幕とてまいり【参り】たるものもあり【有り】。
「敵の陣には蝿だにもかけり【翔けり】候はず」と申。兵衛佐、
馬よりおり、甲をぬぎ、手水うがいをして、王城の
方をふし【伏し】おがみ【拝み】、「これはまたく頼朝がわたくしの
高名にあらず。八幡大菩薩の御ぱからひなり」
P05116
とぞの給ひける。やがてうとる【打つ取る】所なればとて、
駿河国をば一条次郎忠頼、遠江をば安田三
郎義定にあづけらる。平家をばつづゐ【続い】てもせ
む【攻む】べけれども、うしろ【後ろ】もさすがおぼつかなしとて、浮
島が原よりひき【引き】しりぞき【退ぞき】、相模国へぞかへら【帰ら】れける。
海道宿々の遊君遊女ども「あないまいまし【忌々し】。打
手の大将軍の矢ひとつ【一つ】だにもゐ【射】ずして、にげ【逃げ】
のぼり給ふうたてしさよ。いくさ【軍】には見にげ【見逃げ】といふ
事をだに、心うき事にこそするに、これ【是】はききにげ【聞き逃げ】し
P05117
給ひたり」とわらひ【笑ひ】あへり。落書どもおほかり【多かり】けり。
都の大将軍をば宗盛といひ、討手の大将をば
権亮といふ間、平家をひら屋によみ【読み】なして、
ひらやなる宗盛いかにさはぐ【騒ぐ】らん
はしら【柱】とたのむ【頼む】すけをおとして W037
富士河のせぜ【瀬々】の岩こす水よりも
はやくもおつる伊勢平氏かな W038
上総守が富士河に鎧をすて【捨て】たりけるをよめり。
富士河によろひはすてつ墨染の
P05118
衣ただきよ【着よ】後の世のため W039
ただきよはにげの馬にぞのり【乗り】にける
上総しりがいかけてかひなし W040
同十一月八日、大将軍権亮少将維盛、福原の新都へ
のぼりつく。入道相国大にいかて、「大将軍権亮少将
維盛をば、鬼界が島へながすべし。侍大将上総守
忠清をば、死罪におこなへ」とぞの給ひける。同九日、
平家の侍ども老少参会して、忠清が死罪
の事いかがあらんと評定す。なかに主馬判官
P05119
守国【*盛国】すすみいで【出で】て申けるは、「忠清は昔よりふかく
人【不覚人】とはうけ給【承り】及候はず。あれが十八の歳と覚候。鳥
羽殿の宝蔵に五畿内一の悪党二人、にげ籠
て候しを、よ【寄つ】てからめうど申物も候はざりしに、
この忠清、白昼唯一人、築地をこえ【越え】はね入て、一
人をばうち【討ち】とり、一人をばいけど【生捕つ】て、後代に名を
あげたりし物にて候。今度の不覚はただこと【唯事】
ともおぼえ候はず。これにつけてもよくよく兵乱
の御つつしみ候べし」とぞ申ける。同十日、大将軍
P05120
権亮少将維盛、右近衛中将になり給ふ。打手の
大将ときこえ【聞え】しかども、させるしいだし【出し】たる事も
おはせず、「これは何事の勧賞ぞや」と、人々ささ
やきあへり。昔将門追討のために、平将軍貞
盛、田原藤太秀里【*秀郷】うけ給【承つ】て、坂東へ発向し
たりしかども、将門たやすうほろび【亡び】がたかりし
かば、かさね【重ね】て打手をくだすべしと公卿僉議あ
て、宇治の民部卿忠文、清原重藤【*滋藤】、軍監といふ
官を給はてくだられけり。駿河国清見が関に
P05121
宿したりける夜、かの重藤【*滋藤】漫々たる海上を遠
見して、「漁舟火影寒焼浪、駅路鈴声夜過山」
といふから歌をたからか【高らか】に口ずさみ給へば、忠文
ゆふ【優】におぼえて感涙をぞながさ【流さ】れける。さる程に
将門をば、貞盛・秀里【*秀郷】つゐに【遂に】打とてげり。その【其の】かう
べ【頭】をもたせてのぼる程に、清見が関にてゆき【行き】あふ
たり。其より先後の大将軍うちつれて上洛
す。貞盛・秀里【*秀郷】に勧賞おこなはれける時、忠文・
重藤【*滋藤】にも勧賞あるべきかと公卿僉議あり【有り】。九
P05122
条右丞相師資【*師輔】公の申させ給ひけるは、「坂東へ打
手はむかふ【向う】たりといへども、将門たやすうほろび【亡び】がた
きところ【所】に、この人共仰をかうむ【蒙つ】て関の東へおも
むく時、朝敵すでにほろびたり。さればなどか勧
賞なかるべき」と申させ給へども、其時の執柄小野[B ノ]
宮殿、「「うたがはしき【疑はしき】をばなす事なかれ」と礼記の文に
候へば」とて、つゐに【遂に】なさせ給はず。忠文これを口おしき
事にして「小野[B ノ]宮殿の御末をばやつ子【奴】にみなさん。
九条殿の御末にはいづれの世までも守護神とならん」
P05123
とちかひ【誓ひ】つつひ〔じ〕に【干死】にこそし給ひけれ。されば九条殿の
御末はめでたうさかへ【栄え】させ給へども、小野[B ノ]宮殿の御末
にはしかる【然る】べき人もましまさず、いまはたえ【絶え】はて給ひ
けるにこそ。さる程に、入道相国の四男頭中将重衡、左
近衛中将になり給ふ。同十一月十三日、福原には内裏つ
くり【造り】いだし【出し】て、主上御遷幸あり【有り】。大嘗会あるべかり
しかども、大嘗会は十月のすゑ、東河に御ゆき
して御禊あり【有り】。大内の北の野に税庁所【*斎場所】をつくて、
神服神具をととのふ。大極殿のまへ、竜尾道の壇[B ノ]
P05124
下に廻竜殿【*廻立殿】をたてて、御湯をめす。同壇のならびに
太政宮をつくて、神膳をそなふ。震宴【*神宴】あり【有り】、御遊
あり【有り】、大極殿にて大礼あり【有り】、清暑堂にて御神楽あり【有り】、
豊楽院にて宴会あり【有り】。しかる【然る】を、この福原の新都
には大極殿もなければ、大礼おこなふ【行ふ】べきところ【所】も
なし。清暑堂もなければ、御神楽奏すべき様も
なし。豊楽院もなければ、宴会もおこなはれず。今
年はただ新嘗会・五節ばかりあるべきよし公卿
僉議あて、なを【猶】新嘗のまつりをば、旧都の神
P05125
祇館【*神祇官】にしてとげられけり。五節はこれ清御原の
そのかみ、吉野の宮にして、月しろく【白く】嵐はげしかり
し夜、御心をすまし【澄まし】つつ、琴をひき給ひしに、神
女あまくだり【下り】、五たび袖をひるがへす。これぞ五節
『都帰』S0513
のはじめなる。○今度の都遷をば、君も臣も御
なげきあり【有り】。山・奈良をはじめて、諸寺諸社にいたる
まで、しかる【然る】べからざるよし【由】一同にうたへ【訴へ】申あひだ、
さしもよこ紙【横紙】をやら【破ら】るる太政入道も、「さらば都
がへりあるべし」とて、京中ひしめきあへり。同十
P05126
二月二日、にはかに都がへりあり【有り】けり。新都は北は
山にそひ【添ひ】てたかく、南は海ちかく【近く】してくだれり。
浪の音つねはかまびすしく、塩風はげしき所也。
されば、新院いつとなく御悩のみしげかり【滋かり】ければ、
いそぎ福原をいでさせ給ふ。摂政殿をはじめたて
ま【奉つ】て、太政大臣以下の公卿殿上人、われもわれもと
供奉せらる。入道相国をはじめとして、平家一門
の公卿殿上人、われさきにとぞのぼられける。誰か
心うかり【憂かり】つる新都に片とき【片時】ものこるべき。去六月
P05127
より屋ども【共】こぼちよせ、資材雑具はこび【運び】くだし、
形のごとくとりたて【取り立て】たりつるに、又物ぐるはしう
都がへりあり【有り】ければ、なんの沙汰にも及ばず、うち
すて【捨て】打すてのぼられけり。をのをのすみか【栖】もなくし
て、やわた【八幡】・賀茂・嵯峨・うづまさ【太秦】・西山・東山のかたほと
りにつゐ【着い】て、御堂の廻廊、社の拝殿などにたち【立ち】や
ど【宿つ】てぞ、しかる【然かる】べき人々もましましける。今度の都
うつり【遷り】の本意をいかにといふに、旧都は南都・北嶺
ちかく【近く】して、いささかの事にも春日の神木、日吉の
P05128
神輿などいひて、みだりがはし。福原は山へだたり【隔たり】
江かさな【重なつ】て、程もさすがとをけれ【遠けれ】ば、さ様のことたや
すからじとて、入道相国のはからひいだされたりける
とかや。同十二月廿三日、近江源氏のそむきしを
せめ【攻め】んとて、大将軍には左兵衛[B ノ]督知盛、薩摩守忠
教【*忠度】、都合其勢二万余騎で近江国へ発向して、
山本・柏木・錦古里などいふあぶれ源氏ども【共】、一々に
『奈良炎上』S0514
みなせめ【攻め】おとし【落し】、やがて美乃【*美濃】・尾張へこえ【越え】給ふ。○都には
又「高倉宮園城寺へ入御時、南都の大衆同心して、
P05129
あまさへ【剰へ】御むかへにまいる【参る】条、これもて朝敵なり。されば
南都をも三井寺をもせめ【攻め】らるべし」といふ程こそ
あり【有り】けれ、奈良の大衆おびたたしく【夥しく】蜂起す。摂政殿
より「存知の旨あらば、いくたびも奏聞にこそ及
ばめ」と仰下されけれども、一切もちゐ【用ゐ】たてまつら【奉ら】ず。
右官の別当忠成を御使にくださ【下さ】れたりければ、「しや
のり物【乗物】よりとてひき【引き】おとせ【落せ】。もとどり【髻】きれ」と騒動する
間、忠成色をうしな【失つ】てにげ【逃げ】のぼる。つぎに右衛門佐
親雅をくださ【下さ】る。これ【是】をも「もとどり【髻】きれ」と大衆
P05130
ひしめきければ、とる【取る】物もとりあへずにげのぼる。
其時は勧学院の雑色二人がもとどり【髻】きら【切ら】れに
けり。又南都には大なる球丁【*毬杖】の玉をつくて、これは
平相国のかうべ【頭】となづけ【名付け】て、「うて【打て】、ふめ【踏め】」などぞ申ける。
「詞のもらし【漏らし】やすきは、わざはひ【災】をまねく媒なり。詞
のつつしま【慎ま】ざるは、やぶれ【敗れ】をとる【取る】道なり」といへり。こ
の入道相国と申すは、かけまくもかたじけなく【忝く】当今
の外祖にておはします。それをかやうに申ける南
都の大衆、凡は天魔の所為とぞみえ【見え】たりける。入道
P05131
相国かやうの事どもつたへ【伝へ】きき給ひて、いかでかよ
しとおもは【思は】るべき。かつがつ南都の狼籍【*狼藉】をしづめん
とて、備中国住人瀬尾太郎兼康、大和国の検
非所に補せらる。兼康五百余騎で南都へ発向す。
「相構て、衆徒は狼籍【*狼藉】をいたすとも、汝等はいたすべ
からず。物の具なせそ。弓箭な帯しそ」とてむけ
られたりけるに、大衆かかる内儀をばしら【知ら】ず、兼康
がよせい【余勢】六十余人からめとて、一々にみな頸をきて、
猿沢の池のはたにぞかけ【懸け】ならべ【並べ】たる。入道相国大に
P05132
いかて、「さらば南都をせめ【攻め】よや」とて、大将軍には頭
中将重衡、副将軍には中宮[B ノ]亮通盛、都合其
勢四万余騎で、南都へ発向す。大衆も老少き
らはず、七千余人、甲の緒をしめ、奈良坂・般若寺
二ケ所[B ノ]、路をほり【掘り】きて、堀ほり、かいだて【掻楯】かき、さかも木【逆茂木】
ひいて待かけたり。平家は四万余騎を二手に
わかて、奈良坂・般若寺二ケ所の城郭にをし【押し】よせ
て、時をどとつくる。大衆はみなかち立うち物【打物】也。官
軍は馬にてかけ【駆け】まはしかけまはし、あそこここにお【追つ】かけ【掛け】
P05133
お【追つ】かけ【掛け】、さしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さんざん【散々】にゐ【射】ければ、ふせく【防く】
ところ【所】の大衆、かずをつくゐ【尽くい】てうた【討た】れにけり。卯刻
に矢合して、一日たたかひくらす【暮す】。夜に入て奈良坂・
般若寺二ケ所の城郭ともにやぶれぬ。おち【落ち】ゆく
衆徒のなかに、坂四郎永覚といふ悪僧あり【有り】。打
物も【持つ】ても、弓矢をとても、力のつよさも、七大寺・十
五大寺にすぐれたり。もえぎ威の腹巻のうへ【上】に、
黒糸威の鎧をかさね【重ね】てぞき【着】たりける。帽子甲
に五牧甲の緒をしめて、左右の手には、茅の葉
P05134
のやうにそ【反つ】たる白柄の大長刀、黒漆の大太刀もつ
ままに、同宿十余人、前後にたて【立て】、てがい【碾磑】の門より
う【打つ】ていでたり。これぞしばらく【暫く】ささへたる。おほく【多く】
の官兵、馬の足なが【薙が】れてうた【討た】れにけり。されども
官軍は大勢にて、いれかへ【入れ替へ】いれかへ【入れ替へ】せめ【攻め】ければ、永覚が
前後左右にふせく【防く】ところ【所】の同宿みなうた【討た】れぬ。
永覚ただひとりたけけれ【猛けれ】ど、うしろ【後】あらはになり
ければ、南をさいておち【落ち】ぞゆく。夜いくさ【軍】になて、
くらさ【暗さ】はくらし、大将軍頭中将、般若寺の門の前に
P05135
う【打つ】た【立つ】て、「火をいだせ」との給ふ程こそあり【有り】けれ、平
家の勢のなかに、幡磨国【*播磨国】住人福井庄下司、二
郎大夫友方といふもの、たて【楯】をわり【破り】たい松にして、
在家に火をぞかけたりける。十二月廿八日の夜なり
ければ、風ははげしし【烈しし】、ほもと【火元】はひとつ【一つ】なりけれども【共】、
吹まよふ風に、おほく【多く】の伽藍に吹かけたり。恥をも
おもひ【思ひ】、名をもおしむ【惜しむ】ほど【程】のものは、奈良坂にて
うちじに【討死】し、般若寺にしてうた【討た】れにけり。行歩にか
なへ【叶へ】る物は、吉野十津河の方へ落ゆく。あゆみ【歩み】も
P05136
えぬ老僧や、尋常なる修学者児ども【共】、をんな【女】
童部は、大仏殿の二階のうへ、やましな寺【山階寺】のうち
へ、われさきにとぞにげ【逃げ】ゆきける。大仏殿の二階
の上には千余人のぼりあがり【上がり】、かたき【敵】のつづく【続く】をの
ぼせ【上せ】じと、橋をばひい【引い】てげり。猛火はまさしうをし【押し】
かけ【掛け】たり。おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】声、焦熱・大焦熱・無間阿
毘のほのを【炎】の底の罪人も、これにはすぎじとぞ
見えし。興福寺は淡海公の御願、藤氏累代の寺也。
東金堂におはします仏法最初の釈迦の像、西金
P05137
堂におはします自然涌出の観世音、瑠璃をならべ
し四面の廊、朱丹をまじへし二階の楼、九輪
そらにかかやき【輝き】し二基の塔、たちまちに煙と成
こそかなしけれ。東大寺は、常在不滅、実報寂光
の生身の御仏とおぼしめし【思し召し】なずらへて、聖武皇
帝、手づからみづからみがき【磨き】たて給ひし金銅十
六丈の廬遮那仏、烏瑟たかくあらはれ【現はれ】て半天
の雲にかくれ、白毫新におがま【拝ま】れ給ひし満月の
尊容も、御くし【髪】はやけ【焼け】おち【落ち】て大地にあり【有り】、御身は
P05138
わきあひ【鎔き合ひ】て山のごとし【如し】。八万四千の相好は、秋の月
はやく五重の雲におぼれ、四十一地の瓔珞は、夜
の星むなしく十悪の風にただよふ。煙は中天に
みちみち、ほのを【炎】は虚空にひまもなし。まのあたりに
見たてまつる【奉る】物、さらにまなこ【眼】をあてず。はるかにつた
へきく人は、肝たましゐ【魂】をうしなへ【失へ】り。法相・三輪の
法門聖教、すべて一巻のこらず。我朝はいふに及ず、
天竺震旦にもこれ【是】程の法滅あるべしともおぼえ
ず。うでん大王【優填大王】の紫磨金をみがき、毘須羯磨が赤
P05139
栴檀をきざん【刻ん】じも、わづかに等身の御仏なり。況
哉これは南閻浮提のうちには唯一無双の御仏、
ながく朽損の期あるべしともおぼえざりしに、いま
毒縁の塵にまじはて、ひさしく【久しく】かなしみをのこし
給へり。梵尺四王、竜神八部、冥官冥衆も驚き
さはぎ【騒ぎ】給ふらんとぞ見えし。法相擁護の春日の
大明神、いかなる事をかおぼしけん。されば春日野の
露も色かはり、三笠山の嵐の音うらむる【恨むる】さまに
ぞきこえ【聞え】ける。ほのを【炎】の中にてやけ【焼け】しぬる人
P05140
数をしるひ【記い】たりければ、大仏殿の二階の上には
一千七百余人、山階寺には八百余人、或御堂には
五百余人、或御堂には三百余人、つぶさにしるい
たりければ、三千五百余人なり。戦場にしてう
たるる大衆千余人、少々は般若寺の門の前に
きりかけ、少々はもたせて都へのぼり給ふ。廿九日、
頭中将、南都ほろぼして北京へ帰りいら【入ら】る。入道相
国ばかりぞ、いきどをり【憤り】はれ【晴れ】てよろこば【喜ば】れけれ。中宮・
一院・上皇・摂政殿以下の人々は、「悪僧をこそほろ
P05141
ぼす【亡ぼす】とも、伽藍を破滅すべしや」とぞ御歎あり【有り】
ける。衆徒の頸ども【共】、もとは大路をわたして獄
門の木に懸らるべしときこえ【聞え】しかども、東大寺・
興福寺のほろびぬるあさましさに、沙汰にも及
ず。あそこここの溝や堀にぞすて【捨て】をきける。聖
武皇帝震筆【*宸筆】の御記文には、「我寺興福せば、
天下も興福し、吾寺衰微せば、天下も衰微
すべし」とあそばさ【遊ばさ】れたり。されば天下の衰微せん
事も疑なしとぞ見えたりける。あさましかり
P05142
つる年もくれ、治承も五年になり【成り】にけり。

平家物語巻第五

平家物語 高野本 巻第六


【許諾済】
本テキストの公開については、東京大学文学部国語研究室の許諾を得ています。底本使用・テキスト公開を許可された同研究室に厚く御礼申し上げます。
【注意】
本テキストの利用は個人の研究の範囲内に限られます。本テキストの全体あるいは一部の複写物・複写加工物を、インターネット上で、あるいは出版物(CD−ROM等を含む)として公表する場合には、事前に東京大学文学部国語研究室に翻刻掲載許可願いを申請する必要があります。同研究室の許可を得ない本テキストの公表は禁じられています。翻刻掲載許可願い申請送付先:〒113-0033 東京都文京区本郷7−3−1 東京大学文学部国語研究室
【底本】
本テキストの底本は、東京大学文学部国語研究室蔵高野辰之旧蔵『平家物語』(通称・高野本、覚一別本)です。直接には、笠間書院発行の影印本に拠りました。
文責:荒山慶一・菊池真一



平家 六
P06001
平家六之巻 目録
新院崩御   紅葉
葵前     小督
廻文     飛脚到来
入道死去〈 付西八条炎上 并築島 〉 慈心房
祗園女御   州俣合戦 此内国綱沙汰在之
嗄声     横田河原合戦
P06002

P06003
平家物語巻第六
『新院崩御』S0601
○治承五年正月一日のひ、内裏には、東国の兵革、
南都の火災に−よて朝拝とどめられ、主上出御も
なし。物の音もふきならさず、舞楽も、奏せず、
吉野のくず【国栖】もまいら【参ら】ず、藤氏の公卿一人も参ぜら
れず。氏寺焼失に−よてなり。二日のひ、殿上の宴酔も
なし。男女うちひそめて、禁中いまいましう【忌々しう】ぞ見え
ける。仏法王法ともにつきぬる事ぞあさましき。
一院仰-なりけるは、「われ十善の余薫によて
P06004
万乗の-宝位をたもつ【保つ】。四代の帝王をおもへ【思へ】ば
子也、孫也。いかなれば万機の政務をとどめ【留め】られて、
年月ををくる【送る】らむ」とぞ御歎あり【有り】ける。同五日のひ、
南都の僧綱等闕官ぜられ、公請を停止し、所
職を没収せらる。衆徒は老たるもわかきも、或は
い【射】ころさ【殺さ】れきり【斬り】ころさ【殺さ】れ、或は煙の内をいでず、
炎にむせん【咽ん】でおほく【多く】ほろび【亡び】にしかば、わづかにのこる【残る】
輩は山林にまじはり、跡をとどむるもの一人もなし。
興福寺別当花林院僧正永円【*永縁】は、仏像経巻の
P06005
けぶり【煙】とのぼりけるをみ【見】て、あなあさましと
むね【胸】うちさはぎ【騒ぎ】、心をくだかれけるより病-ついて、
いくほどもなくつゐに【遂に】うせ給ぬ。此僧正はゆふ【優】に
なさけ【情】-ふかき人なり。或時郭公のなくをきひ【聞い】て、
きく【聞く】たびにめづらしければほととぎす
いつもはつ音のここち【心地】こそすれ W041
と−いふ歌をようで、初音の僧正とぞいはれ給
ける。ただし、かた【型】の−やうにても御斎会はあるべき
にて、僧名の沙汰有しに、南都の僧綱は闕官-
P06006
ぜられぬ。北京の僧綱を−もておこなはるべき歟と、
公卿僉議あり【有り】。さればとて、南都をも捨はてさせ
給ふべきならねば、三論宗の学匠成法【*成宝】已講が、
勧修寺に忍つつかくれ-ゐたりけるを、めし【召し】いだされて、
御斎会かたのごとくおこなはる。上皇は、おととし
法皇の鳥羽殿におしこめられさせ給し御事、
去年高倉の宮のうた【討た】れさせ給ひし御あり様【有様】、
宮こ【都】うつり【遷り】とてあさましかりし天下のみだれ、
かやうの事ども御心ぐるしうおぼしめさ【思し召さ】れけるより、
P06007
御悩つかせ給ひて、つねはわづらはしう【煩はしう】きこ
え【聞え】させ給ひしが、東大寺・興福寺のほろびぬる
よしきこしめされて、御悩いよいよおもら【重ら】せ給ふ。
法皇なのめならず御歎有し程に、同正月十四
日、六波羅池殿にて、上皇遂に崩御なりぬ。
御宇十二年、徳政千万端詩書仁義の廃
たる道をおこし【起こし】、理世安楽の絶たる跡[B ヲ]継たまふ【給ふ】。
三明六通の羅漢もまぬかれ【免かれ】給はず、現術変
化の権者ものがれ【逃れ】ぬ道なれば、有為無常の
P06008
ならひ【習ひ】なれども、ことはり【理】過てぞおぼえける。
やがてその【其の】夜東山の麓、清閑寺へうつしたて
まつり【奉り】、ゆふべ【夕】のけぶり【煙】とたぐへ、春の霞とのぼら
せ給ひぬ。澄憲法印、御葬送にまいり【参り】あはんと、
いそぎ山よりくだられけるが、はやむなしき【空しき】けぶ
りとならせたまふ【給ふ】をみ【見】まいらせ【参らせ】て、
つねにみ【見】し君が御幸をけふ【今日】とへば
かへら【帰ら】ぬたび【旅】ときくぞかなしき【悲しき】 W042
又ある女房、君かくれさせ給ひぬと承はて、かうぞ
P06009
思ひ−つづけける。
雲の上に行末とをく【遠く】みし月の
ひかり【光】きえぬときくぞかなしき【悲しき】 W043
御年廿一、内には十戒をたもち【保ち】、外には五常
をみだらず、礼儀をただしう-せさせ給ひけり。
末代の賢王にて在ましければ、世のおしみ【惜しみ】たて
まつる【奉る】事、月日の光をうしなへ【失へ】るがごとし。
かやうに人のねがひもかなは【叶は】ず、民の果報も
『紅葉』S0602
つたなき人間のさかひこそかなしけれ。○ゆふ【優】にやさ
P06010
しう人のおもひつき【思ひ付き】まいらする【参らする】かたも、おそらくは
延喜・-天暦の-御門と申共、争か是にまさるべき
とぞ人申ける。大かたは賢王の名をあげ、仁徳の
孝をほどこさせ在ます事も、君御成人の後、
清濁をわかたせ給ひてのうへの事にてこそあるに、
此君は無下に幼主の時より性を柔和にうけ
させ給へり。去る承安の比ほひ、御在位のはじめ
つかた、御年十歳ばかりにもならせたまひ【給ひ】けん、
あまりに紅葉をあひせ【愛せ】させ給ひて、北の陣に
P06011
小山をつか【築か】せ、はじ・かへでのいろ【色】うつくしうもみぢ
たるをうへ【植ゑ】させて、紅葉の-山となづけ【名付け】て、終日に
叡覧あるに、なを【猶】あきだらせ給はず。しかる【然る】をある
夜、野分はしたなうふひ【吹い】て、紅葉みな吹−ちらし【散らし】、
落葉頗る狼籍【*狼藉】也。殿守のとものみやづこ【伴造】朝ぎ
よめすとて、是をことごとく【悉く】はき【掃き】すて【捨て】てげり。
のこれる枝、ちれる木葉をかき−あつめ【集め】て、風
すさまじかりけるあした【朝】なれば、縫殿の-陣
にて、酒あたためてたべ【食べ】ける薪にこそしてん
P06012
げれ。奉行の蔵人、行幸より先にといそぎ
ゆひてみる【見る】に、跡かた【跡形】−なし。いかにととへ【問へ】ばしかしかと
いふ。蔵人大におどろき、「あなあさまし。君のさし
も執し−おぼしめさ【思し召さ】れつる紅葉を、かやう【斯様】にしける
あさましさよ。しら【知ら】ず、なんぢ等只今禁獄流罪
にも及び、わが身もいかなる逆鱗にかあづから【関ら】ん
ずらん」となげく【歎く】ところ【所】に、主上いとどしくよるの
おとどを出させ給ひもあへず、かしこへ行幸なて
紅葉を叡覧なるに、なかりければ、「いかに」と御
P06013
たづね【尋ね】ある【有る】に、蔵人奏すべき方はなし。あり【有り】の
ままに奏聞す。天気ことに御心よげにうちゑま【笑ま】
せ給ひて、「「林間煖酒焼紅葉」と−いふ詩の心をば、
それらにはた【誰】がをしへ【教へ】けるぞや。やさしうも
仕ける物かな」とて、かへて【却つて】叡感[M 「御感」とあり「御」をミセケチ「叡」と傍書]に預し
うへ【上】は、あへて勅勘なかりけり。又安元のころ
ほひ、御方違の行幸あり【有り】しに、さらでだに
鶏人暁唱こゑ【声】、明王の眠をおどろかす程にも
なりしかば、いつも御ねざめがちにて、つやつや
P06014
御寝もならざりけり。況やさゆる【冴ゆる】霜夜の
はげしきに、延喜の聖代、国土の民ども
いかにさむかる【寒かる】らんとて、夜るのおとどにして
御衣をぬがせ給ける事などまでも、おぼし
めし【思し召し】−出して、わが帝徳のいたらぬ事をぞ
御歎有ける。やや深更に及で、程とをく【遠く】人の
さけぶ【叫ぶ】声しけり。供奉の人々はきき【聞き】−つけられ
ざりけれども、主上きこしめし【聞し召し】て、「今さけぶ【叫ぶ】
ものは何ものぞ。きとみ【見】てまいれ【参れ】」と仰ければ、
P06015
うへぶし【上臥し】−したる殿上人、上日のものに仰す。はしり【走り】−
ち【散つ】て尋ぬれば、ある辻にあやしのめのわらは【女童】の、
ながもちのふた【蓋】さげ【提げ】てなく【泣く】にてぞ有ける。
「いかに」ととへば、「しう【主】の女房の、院の御所にさぶら
は【候は】せ給ふが、此程やうやうにしてしたて【仕立て】られたる
御装束、も【持つ】てまいる【参る】ほど【程】に、只今男の二三人
まうで【詣で】-きて、うばひ【奪ひ】とてまかり【罷り】ぬるぞや。
今は御装束があらばこそ、御所にもさぶらはせ
給はめ。又はかばかしうたち【立ち】やどら【宿ら】せ給ふべき
P06016
したしい【親しい】御方もましまさず。此事おもひ【思ひ】−つづ
くるになく【泣く】也」とぞ申ける。さてかのめのわらは【女童】
をぐし【具し】てまいり【参り】、此よし奏聞しければ、主上
きこしめし【聞し召し】て、「あなむざん【無慚】。いかなるもののしわざ【仕業】
にてかあるらん。尭の代の民は、尭の心のすなほ
なるを−もて心とするがゆへ【故】に、みなすなほなり。
今の代の民は、朕が心を−もて心とするがゆへ【故】に、
かだましきもの朝にあて罪をおかす【犯す】。是わが
恥にあらずや」とぞ仰ける。「さてとら【取ら】れつらん
P06017
きぬは何いろ【色】ぞ」と御たづね【尋ね】あれば、しかしかの
いろと奏す。建礼門院のいまだ中宮にて在
ましける時なり。その【其の】御方へ、「さやうのいろ【色】したる
御衣や候」と仰ければ、さきのよりはるか【遥】にうつ
くしきがまいり【参り】たりけるを、くだんのめのわらは【女童】
にぞたまは【給は】せける。「いまだ夜ふかし。又さるめ【目】にもや
あふ」とて、上日のものをつけ【付け】て、しう【主】の女房の
つぼね【局】までをくら【送ら】せましましけるぞかたじけ
なき【忝き】。されば、あやしのしづのお【賎男】しづのめ【賎女】にいた
P06018
るまで、ただ此君千秋万歳の宝算をとぞ
『葵前』S0603
祈たてまつる【奉る】。○中にもあはれ【哀】なりし御事は、
中宮の御方に候はせ給ふ女房のめし【召し】−つかひ【使ひ】ける
上童、おもは【思は】ざる外、竜顔に咫尺する事あり【有り】
けり。ただよのつねのあからさまにてもなくして、
[M 主上つねはめさ【召さ】れけり。]まめやかに御心ざしふかか
り【深かり】ければ、しう【主】の女房もめし【召し】−つかは【使は】ず、かへて【却つて】主の如
くにぞいつき【傅き】−もてなしける。そのかみ、謡詠にいへる
事あり【有り】。「女をうん【産ん】でもひいさん【悲酸】する事なかれ。
P06019
男をうんでも喜歓-する事なかれ。男は功にだも
報ぜられず。女は妃たり」とて、后にたつといへり。
「この人、女御后とももてなされ、国母仙院とも
あふが【仰が】れなんず。めでたかりけるさひわゐ【幸】かな」
とて、其名をば葵のまへ【前】といひければ、内々は
葵女御などぞささやきける。主上是をきこし
めし【聞し召し】て、其後はめさ【召さ】[M れ]ざりけり。御心ざしのつき【尽き】ぬる
にはあらず。ただ世のそしり【謗】をはばから【憚から】せ給ふに−
よて也。されば御ながめ【眺】がちにて、よる【夜】のおとどに
P06020
のみぞいら【入ら】せ給ふ。其時の関白松殿、「御心ぐるし
き事にこそあむなれ。申なぐさめまいらせ【参らせ】ん」
とて、いそぎ御参内あて、「さやうに叡虜に
かからせましまさん事、何条事か候べき。件の
女房とくとくめさ【召さ】るべしと覚候。しなたづね【尋ね】らるる
に及ばず。基房やがて猶子に仕候はん」と奏せ
させ給へば、主上「いさとよ。そこに申事はさる−事
なれども、位を退て後はままさるためし【例】もあん
なり。まさしう在位の時、さやうの事は後代の
P06021
そしりなるべし」とて、きこしめし【聞し召し】もいれ【入れ】ざり
けり。関白殿ちから【力】およば【及ば】せたまは【給は】ず、御涙を
おさへて御退出あり【有り】。其後主上、緑の薄様の
ことに匂ふかかり【深かり】けるに、古き事なれ共おぼし
めし【思し召し】−いで【出で】て、あそばさ【遊ばさ】れける。
しのぶれ【忍ぶれ】どいろに出にけりわがこひ【恋】は
ものやおもふ【思ふ】と人のとふまで W044
此御手習を、冷泉少将隆房給はり-つゐ【継い】で、
件の葵のまへ【前】に給はせたれば、かほ【顔】うち−あかめ【赤め】、
P06022
「例ならぬ心ち【心地】いで【出で】-きたり」とて、里へ帰り、うち−
ふす【臥す】事五六日して、ついに【遂に】はかなく【果敢く】なりにけり。
「君が一日の恩のために、妾が百年の身をあやま
つ」ともかやうの事をや申べき。昔唐の太宗
の、貞仁機【*鄭仁基】が娘を元観殿にいれんとし給ひし
を、魏徴「かのむすめ已に陸士に約せり」といさめ申
しかば、殿にいるる【入るる】事をやめられけるには、すこし【少し】も
『小督』S0604
たがは【違は】せたまは【給は】ぬ御心ばせなり。○主上恋慕の
御おもひ【思ひ】にしづませをはします。申なぐさめ
P06023
まいらせ【参らせ】んとて、中宮の御かたより小督殿と
申女房をまいらせ【参らせ】らる。此女房は桜町の中納言
重範の卿の御むすめ、宮中一の美人、琴の上
手にてをはしける。冷泉大納言隆房卿、いまだ
少将なりし時、みそめたりし女房也。少将はじめは
歌をよみ、文をつくし【尽くし】、こひ【恋】-かなしみたまへ【給へ】ども【共】、
なびく気色もなかりしが、さすがなさけ【情】に
よはる【弱る】心にや、遂にはなびきたまひ【給ひ】けり。され共
今は君にめさ【召さ】れまいらせ【参らせ】て、せんかたもなく
P06024
かなしさ【悲しさ】に、あかぬ別の涙には、袖しほたれ【潮垂れ】て
ほし【乾し】-あへず。少将よそながらも小督殿み【見】たて
まつる【奉る】事もやと、つねは参内せられけり。おはし
ける局の辺、御簾のあたりを、あなたこなたへ
行-とをり【通り】、たたずみ−ありき【歩き】たまへ【給へ】ども、小督殿
「われ君にめさ【召さ】れんうへ【上】は、少将いかにいふとも【共】、詞
をもかはし、文をみる【見る】べきにもあらず」とて、つて
のなさけ【情】をだにもかけられず。少将もしやと
一首の歌をよう【詠う】で、小督殿のおはしける御簾の
P06025
内へなげ【投げ】いれ【入れ】たる。
おもひ【思ひ】−かねこころはそら【空】にみちのくの
ちか【千賀】のしほがま【塩釜】ちかき【近き】かひなし W045
小督殿やがて返事もせばやとおもは【思は】れけ
めども、君の御ため、御うしろ【後】めたうやおもは【思は】れ
けん、手にだにとてもみ【見】たまは【給は】ず。上童にとらせ
て、坪のうちへぞなげ【投げ】いだす【出す】。少将なさけ【情】なう
恨しけれども【共】、人も〔こそ〕みれ【見れ】とそら【空】-おそろしう【恐ろしう】
おもは【思は】れければ、いそぎ是をと【取つ】てふところ【懐】に
P06026
入てぞ出られける。なを【猶】たちかへ【立ち返つ】て、
たまづさ【玉章】を今は手にだにとら【取ら】じとや
さこそ心におもひ【思ひ】すつ【捨つ】とも W046
今は此世にてあひみ【見】ん事もかたければ、
いき【生き】てものをおもは【思は】んより、しな【死な】んとのみぞねが
は【願は】れける。入道相国これをきき、中宮と申も
御むすめ也、冷泉少将聟也。小督殿にふたりの
聟をとられて、「いやいや、小督があらんかぎりは
世中よかるまじ。めし【召し】−いだし【出し】てうしなは【失は】ん」とぞ
P06027
のたまひ【宣ひ】ける。小督殿もれ【漏れ】−きひ【聞い】て、「我身の事
はいかでもあり【有り】なん。君の御ため御心ぐるし」
とて、ある暮がたに内裏を出て、ゆくゑ【行方】も
しら【知ら】ずうせたまひ【給ひ】ぬ。主上御歎なのめならず。
ひる【昼】はよる【夜】のおとどにいら【入ら】せ給ひて、御涙にのみ
むせび、夜るは南殿に出御なて、月の光を
御覧じてぞなぐさま【慰さま】せ給ひける。入道相国
是をきき、「君は小督ゆへ【故】におぼしめし【思し召し】−しづま【沈ま】せ
たまひ【給ひ】たんなり。さらむにと【取つ】ては」とて、御かひ
P06028
しやく【介錯】の女房達をもまいらせ【参らせ】ず、参内し給ふ
臣下をもそねみ給へば、入道の権威にはば
かて、かよふ人もなし。禁中いまいましう【忌々しう】ぞみえ【見え】
ける。かくて八月十日あまりになりにけり。
さしもくま【隈】なき空なれど、主上は御涙に
くもり【曇り】つつ、月の光もおぼろにぞ御覧ぜられ
ける。やや深更に及で、「人やある、人やある」とめさ【召さ】れ
けれども【共】、御いらへ【答へ】申ものもなし。弾正少弼[B 「少」に「大歟」と傍書]仲
国、其夜しも御宿直にまい【参つ】て、はるかにとをう【遠う】
P06029
候が、「仲国」と御いらへ【答へ】申たれば、「ちかう【近う】まいれ【参れ】。仰
下さるべき事あり【有り】」。何事やらんとて、御前
ちかう参じたれば、「なんぢもし小督がゆくゑ【行方】や
しり【知り】たる」。仲国「いかでかしり【知り】まいらせ【参らせ】候べき。ゆめゆめ
しり【知り】まいらせ【参らせ】ず候」。「まことやらん、小督は嵯峨の
へんに、かた折戸【片折戸】とかやしたる内にあり【有り】と申もの
のあるぞとよ。あるじ【主】が名をばしら【知ら】ずとも、
尋てまいらせ【参らせ】なんや」と仰ければ、「あるじ【主】が名を
しり【知り】候はでは、争かたづね【尋ね】まいらせ【参らせ】候べき」と申
P06030
せば、「まこと【誠】にも」とて、竜顔より御涙をながさせ
たまふ【給ふ】。仲国つくづくと物をあんずる【案ずる】に、まこと
にや、小督殿は琴ひき【弾き】たまひ【給ひ】しぞかし。
此月のあかさに、君の御事おもひいで【思ひ出で】まいら
せ【参らせ】て、琴ひきたまは【給は】ぬ事はよもあらじ。
御所にてひき【弾き】たまひ【給ひ】しには、仲国笛の役に
めさ【召さ】れしかば、其こと【琴】の音はいづくなりとも
きき【聞き】−しら【知ら】んずるものを。又嵯峨の在家いく程か
あるべき。うちまは【廻つ】てたづね【尋ね】んに、などか聞出
P06031
さざるべきとおもひ【思ひ】ければ、「さ候はば、あるじが名は
しら【知ら】ずとも【共】、もし【若】やとたづね【尋ね】まいらせ【参らせ】てみ【見】候はん。
ただし尋あひまいらせ【参らせ】て候とも【共】、御書を給
はらで申さんには、うは【上】の空にやおぼしめさ【思し召さ】れ
候はんずらん。御書を給はてむかひ【向かひ】候はん」と
申ければ、「まこと【誠】にも」とて、御書をあそばひ【遊ばい】
てたう【賜う】だりけり。「竜【*寮】の御馬にの【乗つ】てゆけ」とぞ
仰ける。仲国竜【*寮】の御馬給はて、名月にむち【鞭】を
あげ、そこともしら【知ら】ずあこがれゆく【行く】。をしか【牡鹿】鳴
P06032
此山里と詠じけん、さが【嵯峨】のあたりの秋のころ【比】、
さこそはあはれ【哀】にもおぼえけめ。片折戸−
したる屋をみつけ【見付け】ては、「此内にやおはすらん」と、
ひかへ【控へ】ひかへ【控へ】きき【聞き】けれども【共】、琴ひく所もなかりけり。
御堂などへまいり【参り】たまへ【給へ】る事もやと、釈迦
堂をはじめて、堂々み【見】-まはれども【共】小督殿に
似たる女房だにみえ【見え】たまは【給は】ず。「むなしう【空しう】帰り−
まいり【参り】たらんは、中々まいら【参ら】ざらんよりあしかる【悪しかる】
べし。是よりもいづち【何方】へもまよひ【迷ひ】ゆかばや」と
P06033
おもへ【思へ】ども、いづくか王地ならぬ、身をかくす【隠す】べき
宿もなし。いかがせんとおもひ【思ひ】−わづらう。「まことや、
法輪は程ちかけれ【近けれ】ば、月の光にさそは【誘は】れて、
まいり【参り】たまへ【給へ】る事もや」と、そなたにむかひ【向ひ】て
ぞあゆ〔ま〕【歩ま】せける。亀山のあたりちかく【近く】、松の一むら
あるかた【方】に、かすか【幽】に琴ぞきこえ【聞こえ】ける。峯の
嵐か、松風か、たづぬる【尋ぬる】人のことの音か、おぼつかなく
はおもへ【思へ】ども、駒をはやめてゆく【行く】ほど【程】に、片折戸−
したる内に、琴をぞひき【弾き】−すまされたる。ひかへ【控へ】て
P06034
是をききければ、すこし【少し】〔も〕まがふ【紛ふ】べうもなき小督
殿の爪音也。楽はなん【何】ぞとききければ、夫をおも
ふ【思う】てこふとよむ想夫恋と−いふ楽也。さればこそ、
君の御事おもひ【思ひ】出まいらせ【参らせ】て、楽こそおほ
けれ【多けれ】、此楽をひき給けるやさしさよ。ありがたふ
おぼえて、腰よりやうでう【横笛】ぬきいだし【出だし】、ちとならひ【鳴らい】て、
門をほとほととたたけば、やがてひき【弾き】−やみ給ひ
ぬ。高声に、「是は内裏より仲国が御使にまい【参つ】て候。
あけ【開け】させたまへ【給へ】」とて、たたけども【共】たたけども【共】とがむる
P06035
人もなかりけり。ややあて、内より人のいづる【出づる】
音のしければ、うれしう【嬉しう】おもひ【思ひ】て待ところ【所】に、
じやう【錠】をはづし【外し】、門をほそめ【細目】にあけ、いたひけ【幼気】
したる小女房、かほ【顔】ばかりさし−いだひ【出い】て、「門たがへ【違へ】
でぞさぶらふ【候ふ】らん。是には内裏より御使など
たまはる【賜る】べき所にてもさぶらは【候は】ず」と申せば、
中々返事-して、門たて【閉て】られ、じやう【錠】さされては
あしかり【悪しかり】なんとおもひ【思ひ】て、をし【押し】-あけ【開け】てぞ入に
ける。妻戸のきはのゑん【縁】に居て、「いかに、かやうの
P06036
所には御わたり【渡り】候やらん。君は御ゆへ【故】におぼし
めし【思し召し】−しづませ給ひて、御命もすでにあやうく【危ふく】
こそみえ【見え】させおはしまし候へ。ただうは【上】の空に申
とやおぼしめさ【思し召さ】れ候はん。御書を給てまい【参つ】て
候」とて、とりいだひ【取り出だい】てたてまつる【奉る】。ありつる女房
とりついで、小督殿にまいらせ【参らせ】たり。あけてみ【見】
たまへ【給へ】ば、まことに君の御書也けり。やがて御返
事かき、ひき【引き】-むすび【結び】、女房の装束一かさね【重ね】そへ
て出されたり。仲国、女房の装束をば肩にうち
P06037
かけ、申けるは、「余の御使で候はば、御返事のうへ【上】は、と
かう申にはおよび【及び】候はねども、日ごろ内裏にて
御琴あそばし【遊ばし】し時、仲国笛の役にめされ候し
奉公をば、いかでか御わすれ【忘れ】候べき。ぢき【直】の御返事
を承はらで帰まいら【参ら】ん事こそ、よに口おしう【惜しう】
候へ」と申ければ、小督殿げにもとやおもは【思は】れけん、
みづから返事し給ひけり。「それにもきか【聞か】せ
給ひつらん、入道相国のあまりにおそろしき【恐ろしき】
事をのみ申とききしかば、あさましさに、内裏
P06038
をばにげ【逃げ】−出て、此程はかかるすまゐ【住ひ】なれば、
琴などひく【弾く】事もなかりつれども【共】、さてもある
べきならねば、あすより大原のおく【奥】におもひ【思ひ】−たつ【立つ】
事のさぶらへ【候へ】ば、あるじの女房の、こよひばかりの
名残をおしう【惜しう】で、「今は夜もふけぬ。たち【立ち】きく【聞く】
人もあらじ」などすすむれ【勧むれ】ば、さぞなむかし【昔】の名残も
さすがゆかしくて、手なれし琴をひく【弾く】ほど【程】に、
やすうもきき【聞き】−出されけりな」とて、涙もせきあへ
たまは【給は】ねば、仲国も袖をぞぬらし【濡し】ける。ややあて、
P06039
仲国涙をおさへ【抑へ】て申けるは、「あすより大原の奥
におぼしめし【思し召し】−たつ【立つ】事と候は、御さまなどをかへ【変へ】
させたまふ【給ふ】べきにこそ。ゆめゆめあるべうも候はず。
さて君の御歎をば、何とかしまいらせ【参らせ】給べき。
是ばしいだし【出だし】まいらす【参らす】な」とて、ともにめし【召し】−具し
たるめぶ【馬部】、きつじやう【吉上】などとどめ【留め】をき、其屋を守護-
せさせ、竜【*寮】の御馬にうち【打ち】-の【乗つ】て、内裏へかへり【帰り】−まい
り【参り】たれば、ほのぼのとあけ【明け】にけり。「今は入御も
なりぬらん、誰して申入べき」とて、竜【*寮】の御馬
P06040
つながせ、ありつる女房の装束をばはね馬【跳ね馬】の−
障子になげ【投げ】−かけ、南殿の方へまいれ【参れ】ば、主上は
いまだ夜部の御座にぞ在ましける。「南に翔
北に嚮、寒雲を秋の鴈に付難し。東に出西に
流、只瞻望を暁の月に寄す」と、うちながめ【詠め】
させ給ふ所に、仲国つとまいり【参り】たり。小督殿の
御返事をぞまいらせ【参らせ】たる。君なのめならず御
感なて、「なんぢ【汝】やがてよ【夜】さり具してまいれ【参れ】」と
仰ければ、入道相国のかへり【返り】きき給はんところ【所】は
P06041
おそろしけれ【恐ろしけれ】ども【共】、これ又倫言なれば、雑色・
牛飼・牛・車きよげ【清気】に沙汰-して、さが【嵯峨】へ行むかひ【向ひ】、
まいる【参る】まじきよしやうやう【様々】にのたまへ【宣へ】ども、さまざま
にこしらへて、車にとり−のせ【乗せ】たてまつり【奉り】、内裏
へまいり【参り】たりければ、幽なる所にしのば【忍ば】せて、
よなよな【夜な夜な】めさ【召さ】れける程に、姫宮一所出来させ
給ひけり。此姫宮と申は、坊門の女院の御事也。
入道相国、何としてかもれ【漏れ】−きき【聞き】たまひ【給ひ】けん、「小督
がうせ【失せ】たりと−いふ事、あとかた【跡形】−なき空事なり
P06042
けり」とて、小督殿をとらへ【捕へ】つつ、尼になして
ぞはな【放つ】たる。小督殿出家はもとよりののぞみ【望み】
なりけれども【共】、心ならず尼になされて、年廿三、
こき【濃き】墨染にやつれはてて、嵯峨のへん【辺】にぞすま【住ま】
れける。うたてかりし事ども【共】也。かやう【斯様】の事共に
御悩はつかせ給ひて、遂に御かくれあり【有り】ける
とぞきこえ【聞え】し。法皇はうちつづき御歎のみ
ぞしげかり【滋かり】ける。去る永万には、第一の御子二条院
崩御なりぬ。安元二年の七月には、御孫六条院
P06043
かくれさせ給ぬ。天にすま【住ま】ば比翼の鳥、地に
すまば連理の枝とならんと、漢河の星をさし
て、御契あさから【浅から】ざりし建春門院、秋の霧
におかさ【侵さ】れて、朝の露ときえさせ給ひぬ。年月
はかさなれ【重なれ】ども【共】、昨日今日の御別の−やうに
おぼしめし【思し召し】て、御涙もいまだつき【尽き】せぬに、治承
四年五月には第二の皇子高倉宮うた【討た】れさせ
給ひぬ。現世後生たのみ【頼み】−おぼしめさ【思し召さ】れつる新院さへ
さきだた【先立た】せ給ひぬれば、とにかくにかこつ方なき
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御涙のみぞすすみ【進み】ける。「悲の至て悲しきは、
老て後子にをくれ【後れ】たるよりも悲しきはなし。
恨の至て恨しきは、若して親に先立よりも
うらめしき【恨めしき】はなし」と、彼朝綱の相公の子息澄
明にをくれ【遅れ】て書たりけん筆のあと、今こそ
おぼしめし【思し召し】−知られけれ。さるままには、彼一乗妙
典の御読誦もおこたらせ給はず、三密行法
の御薫修もつもらせ給けり。天下諒闇に
成しかば、大宮人もおしなべて、花のたもとや
P06045
『廻文』S0605
やつれ【窶れ】けん。○入道相国かやうにいたくなさけ【情】なう
ふるまひ【振舞ひ】-をか【置か】れし事を、さすがおそろし【恐ろし】とや
おもは【思は】れけん、法皇なぐさめまいらせ【参らせ】んとて、安芸
の厳島の内侍が腹の御むすめ[M 「すすめ」とあり始めの「す」をミセケチ「む」と傍書]、生年十八に
成たまふ【給ふ】が、ゆう【優】に花やかにおはしけるを、法皇へ
まいらせ【参らせ】らる。上臈女房達あまたゑらば【選ば】れて
まいら【参ら】れけり。公卿殿上人おほく【多く】供奉-して、
ひとへに女御−まいり【参り】の如くにてぞあり【有り】ける。上皇
かくれ【隠れ】させ給ひて後、わづかに二七日だにも
P06046
へざるに、しかる【然る】べからずとぞ、人々内々はささやき
あはれける。さる程に、其比信濃国に、木曾冠
者義仲と−いふ源氏あり【有り】ときこえ【聞え】けり。故六条
判官為義が次男、故帯刀の先生義方【*義賢】が子也。
父義方【*義賢】は久寿二年八月十六日、鎌倉の悪源太
義平が為に誅せらる。其時義仲二歳なりし
を、母なくなく【泣く泣く】かかへて信乃【*信濃】へこえ、木曾中三兼遠
がもとにゆき、「是いかにも-してそだて【育て】て、人になし
てみせ【見せ】たまへ【給へ】」といひければ、兼遠うけ【受け】−と【取つ】て、かひ
P06047
がひしう廿余年養育す。やうやう長大するまま
に、ちから【力】も世にすぐれてつよく、心もならび
なく甲也けり。「ありがたきつよ弓【強弓】、勢兵、馬の上、
かちだち【徒立】、すべて上古の田村・利仁・与五【*余五】将軍、
知頼【*致頼】・保昌・先祖頼光、義家朝臣と−いふ共、争か
是にはまさるべき」とぞ、人申ける。或時めのとの
兼遠をめし【召し】てのたまひ【宣ひ】けるは、「兵衛佐頼朝
既に謀叛をおこし、東八ケ国をうちしたがへ【従へ】
て、東海道よりのぼり、平家をおひ【追ひ】-おとさ【落さ】んと
P06048
すなり。義仲も東山・北陸両道をしたがへて、
今一日も先に平家をせめ【攻め】おとし【落し】、たとへば、
日本国ふたり【二人】の将軍といは【言は】ればや」とほのめ
かしければ、中三兼遠大にかしこまり-悦で、
「其にこそ君をば今まで養育し奉れ。
かう仰らるるこそ、誠に八幡殿の御末ともおぼ
えさせ給へ」とて、やがて謀叛をくはたて【企て】けり。
兼遠にぐせ【具せ】られて、つねは都へのぼり、平家
の人々の振舞、ありさまをも見-うかがひ【窺ひ】けり。
P06049
十三で元服-しけるも、八幡へまいり【参り】八幡大菩薩の
御まへにて、「O[BH 我]四代の祖父義家朝臣は、此御神の
御子となて、名をば八幡太郎と号しき。
かつは其跡ををう【追ふ】べし」とて、八幡大菩薩の御宝前
にてもとどり【髻】とりあげ、木曾次郎義仲とこそ
つゐ【付い】たりけれ。兼遠「まづめぐらし文【廻らし文】候べし」とて、
信濃国には、禰の井【根井】の小野太、海野の行親を
かたらう【語らふ】に、そむく事なし。是をはじめて、信乃【*信濃】一
国の兵物ども【共】、なびかぬ草木もなかりけり。
P06050
上野国に故帯刀先生義方【*義賢】がよしみにて、
田子の郡の兵ども【共】、皆したがひ【従ひ】つきにけり。平家
末になる折をえ【得】て、源氏の年来の素懐を
『飛脚到来』S0606
とげんとす。○木曾と−いふ所は、信乃【*信濃】にとても南の
はし、美乃【*美濃】-ざかひなりければ、都も無下にほど【程】-
ちかし。平家の人々もれ【漏れ】−きひ【聞い】て、「東国のそむく【叛く】
だにあるに、北国さへこはいかに」とぞさはが【騒が】れける。
入道相国仰られけるは、「其もの心-にくからず。おも
へば信乃【*信濃】一国の兵共こそしたがひ【従ひ】−つくと−いふ共、越後
P06051
国には与五【*余五】将軍の末葉、城太郎助長、同四郎
助茂、これらは兄弟共に多勢のもの共なり。仰
くだしたらんずるに、やすう討てまいらせ【参らせ】てん
ず」とのたまひ【宣ひ】ければ、「いかがあらんずらむ」と、内々は
ささやくものもおほかり【多かり】けり。二月一日、越後国[B ノ]住
人城太郎助長、越後守に任ず。是は木曾追
討せられんずるはかり事とぞきこえ【聞え】し。同七日、
大臣以下、家々にて尊勝陀羅尼、不動明王かき【書】
供養-ぜらる。是は又兵乱-つつしみのため也。同九日、
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河内国石河郡に居住したりける武蔵[B ノ]権守入道
義基、子息石河[B ノ]判官代義兼、平家をそむひ
て兵衛佐頼朝に心をかよはかし【通はかし】、已東国へ落
行べきよしきこえ【聞こえ】しかば、入道相国やがて打手
をさし【差し】-つかはす【遣はす】。打手の大将には、源太夫判官季
定、摂津判官盛澄、都合其勢三千余騎で発
向す。城内には武蔵[B ノ]権[B ノ]守入道義基、子息判官
代義兼を先として、其勢百騎ばかりにはすぎ【過ぎ】
ざりけり。時つくり矢合-して、いれ−かへ【入れ替へ】いれ−かへ【入れ替へ】数剋
P06053
たたかふ【戦ふ】。城[B ノ]内の兵ども【共】、手のきは【際】たたかひ【戦ひ】打死
するものおほかり【多かり】けり。武蔵[B ノ]権[B ノ]守入道義基打死
す。子息石河判官代義兼はいた手負ていけ
どり【生捕り】にせらる。同十一日、義基法師が頸都へ入て、
大路をわたさ【渡さ】る。諒闇に賊首をわたさ【渡さ】るる事
は、堀河天皇崩御の時、前対馬守源[B ノ]義親が
首をわたされし例とぞきこえ【聞え】し。○同十二日、
鎮西より飛脚到来、宇佐大宮司公通が申
けるは、「九州のものども【共】、緒方三郎をはじめとして、
P06054
臼杵・戸次・松浦党にいたるまで、一向平家を
そむひて源氏に同心」のよし申たりければ、「東国
北国のそむくだにあるに、こはいかに」とて、手をう【打つ】て
あさみ-あへり。同十六日、伊与【*伊予】国より飛脚到来
す。去年冬比より、河野[B ノ]四郎道清【*通清】をはじ
めとして、四国のものども【者共】みな平家をそむひ
て、源氏に同心のあひだ、備後国住人、ぬか【額】の
入道西寂、平家に心ざしふかかり【深かり】ければ、伊与【*伊予】の
国へおし-わたり、道前・道後のさかひ、高直城に
P06055
て、河野[B ノ]四郎道清【*通清】をうち候ぬ。子息河野[B ノ]四郎
道信【*通信】は、父がうた【討た】れける時、安芸[B ノ]国住人奴田[B ノ]次郎
は母方の伯父なりければ、それ【其れ】へこえ【越え】てあり【有り】-
あはず。河野[B ノ]道信【*通信】ちちをうた【討た】せて、「やすから【安から】ぬ
ものなり。いかにしても西寂を打とらむ」とぞ
うかがひ【伺ひ】ける。額入道西寂、河野[B ノ]四郎道清【*通清】を
う【討つ】て後、四国の狼籍【*狼藉】をしづめ、今年正月十五日に
備後のとも【鞆】へおし-わたり、遊君遊女共めし【召し】−あつめ【集め】
て、あそび【遊び】−たはぶれ【戯れ】さかもり【酒盛】けるが、先後もしら【知ら】ず
P06056
酔−ふし【臥し】たる処に、河野[B ノ]四郎おもひ【思ひ】−き【切つ】たる
ものども【共】百余人あひ語て、ばとおし-よす【押寄す】。西寂
が方にも三百余人あり【有り】ける物共、にはかの事
なれば、おもひ【思ひ】もまうけ【設け】ずあはて【慌て】ふためき
けるを、たて【立て】−あふ【合ふ】ものをばい【射】ふせ【伏せ】、きり【斬り】ふせ【伏せ】、まづ
西寂を生どりにして、伊与【*伊予】国へおし-わたり【押渡り】、父が
うた【討た】れたる高直城へさげ【提げ】もてゆき、のこぎり【鋸】で
頸をき【斬つ】たりともきこえ【聞え】けり。又はつけ【磔】にしたり
『入道死去』S0607
ともきこえ【聞え】けり。○其後四国の兵共、みな河野[B ノ]四郎に
P06057
したがひ【従ひ】−つく。熊野[B ノ]別当湛増も、平家重恩の身
なりしが、それ【其れ】もそむひて、源氏に同心の由
聞えけり。凡東国北国ことごとく【悉く】そむきぬ。南
海西海かくのごとし。夷狄の蜂起耳を驚かし、
逆乱の先表頻に奏す。四夷忽に起れり。世は
只今うせなんずとて、必ず平家の一門ならね共、
心ある人々のなげき【歎き】かなしま【悲しま】ぬはなかりけり。
[B 入道死去イ]○同廿三日、公卿僉議あり【有り】。前[B ノ]右大将宗盛卿申されけるは、
坂東へ打手はむかう【向う】たりといへども【共】、させるしいだし【出し】
P06058
たる事も候はず。今度宗盛、大将軍を承はて
向べきよし申されければ、諸卿色代して、「ゆゆし
う候なん」と申されけり。公卿殿上人も武官に
備はり、弓箭に携らん人々は、宗盛[B ノ]卿を大将軍
にて、東国北国の凶徒等追討すべきよし仰下
さる。同廿七日、前[B ノ]右大将宗盛[B ノ]卿、源氏追討の為に、東
国へ既に門出ときこえ【聞え】しが、入道相国違例の
御心ちとてとどまり給ひぬ。明る廿八日より、重病
をうけ【受け】給へりとて、京中・六波羅「すは、しつる事を」
P06059
とぞささやきける。入道相国、やまひ【病ひ】つき給ひし日
よりして、水をだにのど【咽喉】へも入給はず。身の内の
あつき【熱き】事火をたくが如し。ふし【臥し】たまへ【給へ】る所四五間が
内へ入ものは、あつさ【熱さ】たへ【堪へ】がたし。ただのたまふ【宣ふ】事
とては、「あたあた」とばかり也。すこし【少し】もただ事とは
みえ【見え】ざりけり。比叡山より千手井の水をくみ
くだし、石の舟にたたへ【湛へ】て、それにおり【下り】てひへ【冷え】
たまへ【給へ】ば、水おびたたしく【夥しく】わき【沸き】−あが【上がつ】て、程なく
湯にぞなりにける。もしやたすかり【助かり】たまふ【給ふ】と、
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筧の水をまかせ【任せ】たれば、石やくろがね【鉄】などの
やけ【焼け】たるやうに、水ほどばし【迸ばしつ】てより【寄り】−つか【付か】ず。をのづか
らあたる水はほむらとなてもえ【燃え】ければ、くろ
けぶり殿中にみちみちて、炎うずまひて
あがり【上がり】けり。是や昔法蔵僧都といし人、閻王の
請におもむひ【赴むい】て、母の生所を尋しに、閻王あはれ
み給ひて、獄卒をあひ-そへ【添へ】て焦熱地獄へつか
はさ【遣さ】る。くろがね【鉄】の門の内へさし入ば、流星などの
如くに、ほのを【炎】空へたち【立ち】−あがり【上がり】、多百由旬に及けん
P06061
も、今こそおもひ【思ひ】−しら【知ら】れけれ。入道相国の北の
方、二位の夢にみ【見】給ひける事こそおそろし
けれ【恐ろしけれ】。猛火のおびたたしくもえ【燃え】たる車を、門の
内へやり入たり。前後に立たるものは、或は馬の
面の−やうなるものもあり【有り】、或は牛の面の−やう
なるものもあり【有り】。車のまへには、無と−いふ文字
ばかりぞみえ【見え】たる鉄の札をO[BH ぞ]立たりける。二位殿夢
の心に、「あれはいづくよりぞ」と御たづね【尋ね】あれば、
「閻魔の庁より、平家太政入道殿の御迎にまい【参つ】
P06062
て候」と申。「さて其札は何と−いふ札ぞ」ととは【問は】せ給
へば、「南閻浮提金銅十六丈の盧遮那仏、焼ほろぼ
したまへ【給へ】る罪に−よて、無間の底に堕給ふべきよし、
閻魔の庁に御さだめ【定め】候が、無間の無をばかか【書か】れ
て、間の字をばいまだかかれぬ也」とぞ申ける。
二位殿うちおどろき、あせ水【汗水】になり、是を人々に
かたり給へば、きく【聞く】人みな身の毛よ立けり。霊仏
霊社に金銀七宝をなげ、馬・鞍・鎧甲・弓矢・太刀、
刀にいたるまで、とり【取り】いで【出で】はこび出しいのら【祈ら】れ
P06063
けれども【共】、其しるしもなかりけり。男女の君達
あと枕【後枕】にさし−つどひ【集ひ】て、いかにせんとなげき【歎き】かな
しみたまへ【給へ】ども、かなう【叶ふ】べしともみえ【見え】ざりけり。
同閏二月二日、二位殿あつう【熱う】たへ【堪へ】がたけれども【共】、御枕の
上によ【寄つ】て、泣々のたまひ【宣ひ】けるは、「御ありさま
み【見】たてまつる【奉る】に、日にそへてたのみ【頼み】−ずくなうこそ
みえ【見え】させ給へ。此世におぼしめし【思し召し】−をく【置く】事あらば、
すこし【少し】もののおぼえ【覚え】させ給ふ時、仰をけ【置け】」とぞ
のたまひ【宣ひ】ける。入道相国、さしも日来はゆゆしげに
P06064
おはせしかども、まこと【誠】にくるしげ【苦し気】にて、いき【息】の
下にのたまひ【宣ひ】けるは、「われ保元・平治よりこの【此の】-かた、
度々の朝敵をたいらげ【平げ】、勧賞身にあまり、
かたじけなく【忝く】も帝祖太政大臣にいたり、栄花子
孫に及ぶ。今生の望一事ものこる【残る】処なし。
ただしおもひ【思ひ】をく【置く】事とては、伊豆国の流人、
前兵衛佐頼朝が頸を見ざりつるこそやすから【安から】ね。
われいか【如何】にもなりなん後は、堂塔をもたて、孝養
をもすべからず。やがて打手をつかはし【遣し】、頼朝が首
P06065
をはねて、わがはか【墓】のまへにかく【懸く】べし。それぞ
孝養にてあらんずる」とのたまひ【宣ひ】けるこそ罪
ふかけれ。同四日、やまひ【病ひ】にせめられ、せめての事に
板に水をゐ【沃】て、それにふしまろび【伏し転び】たまへ【給へ】ども【共】、
たすかる【助かる】心ち【心地】もしたまは【給は】ず、悶絶■地-して、
遂にあつち死にぞしたまひ【給ひ】ける。馬車のはせ【馳せ】−
ちがう【違ふ】音、天もひびき大地もゆるぐ程也。一天の
君、万乗のあるじの、いかなる御事在ますとも【共】、
是には過じとぞみえ【見え】し。今年は六十四にぞ
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なりたまふ【給ふ】。老じに【老死に】と−いふべきにはあらねども、
宿運忽につきたまへ【給へ】ば、大法秘法の効験もなく、
神明三宝の威光もきえ、諸天も、擁護し
たまは【給は】ず。況や凡慮におひて【於いて】をや。命にかはり
身にかはらんと忠を存ぜし数万の軍旅は、
堂上堂下に次居たれども【共】、是は目にもみえ【見え】ず、
力にもかかはらぬ無常の殺鬼をば、暫時も
たたかひ【戦ひ】−かへさ【返さ】ず。又かへり【帰り】−こぬ四手の山、みつ瀬河【三瀬河】、
黄泉中有の旅の-空に、ただ一所こそおもむき【赴き】
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給ひけめ。日ごろつくり【作り】-をか【置か】れし罪業ばかりや
獄率となてむかへ【迎へ】に来りけん、あはれ【哀】なりし
事共也。さてもあるべきならねば、同七日、をたぎ【愛宕】
にて煙になしたてまつり【奉り】、骨をば円実法眼
頸にかけ、摂津国へくだり、経の島にぞおさめ【納め】
ける。さしも日本一州に名をあげ、威をふるし
人なれども【共】、身はひとときの煙となて都の空
に立のぼり、かばね【屍】はしばしやすらひて、浜の
砂にたはぶれ【戯れ】つつ、むなしき【空しき】土とぞなりたまふ【給ふ】。
P06068
『築島』S0608
○やがて葬送の夜、ふしぎ【不思議】の事あまたあり【有り】。玉
をみがき金銀をちりばめて作られたりし
西八条殿、其夜にはかにやけ【焼け】ぬ。人の家のやくる【焼くる】は、
つね【常】のならひ【習ひ】なれども、あさましかりし事共
也。何もののしわざにや有けん、放火とぞ聞えし。
又其夜六波羅の南にあたて、人ならば二三十人
がこゑ【声】して、「うれしや水、なる【鳴る】は滝の水」と−いふ
拍子を出してまひ【舞ひ】おどり【踊り】、どとわらう【笑ふ】声しけり。
去る正月には上皇かくれ【隠れ】させ給ひて、天下諒闇
P06069
になりぬ。わづかに中一両月をへだてて、入道相国
薨ぜられぬ。あやしのしづのお【賎男】、しづのめ【賎女】にいたる
までも、いかがうれへ【愁へ】ざるべき。是はいかさまにも
天狗の所為と−いふさた【沙汰】にて、平家の侍のなかに、
はやりを【逸男】の若物【若者】ども【共】百余人、わらう【笑ふ】声について
たづね【尋ね】-ゆいてみれ【見れ】ば、院の御所法住寺殿に、この
二三年院もわたらせたまは【給は】ず、御所−あづかり【預り】
備前前司基宗と−いふものあり【有り】、彼基宗があひ
知たる物ども【共】二三十人、よ【夜】にまぎれて来り集り、
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酒をのみ【飲み】けるが、はじめはかかる折ふしにおと【音】な
せそとてのむ【飲む】程に、次第にのみ酔て、か様【斯様】に
舞-おどり【踊り】けるなり。ばとをし【押し】−よせ【寄せ】て、酒に酔
ども、一人ももらさ【漏らさ】ず卅人ばかりからめて、六波羅へ
い【率】てまいり【参り】、前右大将宗盛卿のをはしける坪の
内にぞひ【引つ】−すへ【据ゑ】たる。事の子細をよくよくたづね【尋ね】-きき
給ひて、「げにもそれほど【程】に酔たらんものをば、きる【斬る】
べきにもあらず」とて、みなゆるさ【赦さ】れけり。人のうせ【失せ】
ぬるあとには、あやしのものも朝夕にかね【鐘】うち
P06071
ならし【鳴らし】、例時懺法よむ事はつね【常】のならひ【習ひ】
なれども【共】、此禅門薨ぜられぬる後は、供仏施僧
のいとなみと−いふ事もなし。朝夕はただいくさ【軍】
合戦のはかり事より外は他事なし。凡は
さい後【最後】の所労のありさまこそうたてけれ共、まこと【誠】
にはただ【凡】人ともおぼえぬ事ども【共】おほかり【多かり】けり。
日吉社へまいり【参り】たまひ【給ひ】しにも、当家他家の公卿
おほく【多く】供奉-して、「摂禄の-臣の春日御参詣、宇
治-いり【入り】などいふとも、是には争かまさるべき」とぞ
P06072
人申ける。又何事よりも、福原の経の島つい【築い】て、
今の世にいたるまで、上下往来の船のわづらひ【煩ひ】
なきこそ目出けれ。彼島は去る応保元年二月
上旬に築はじめ【始め】られたりけるが、同年の八月に、
にはかに大風吹大なみ【浪】たて、みなゆり【淘り】-うしなひ【失なひ】てき。
又同三年三月下旬に、阿波民部重能を奉行
にてつか【築か】せられけるが、人柱たて【立て】らるべしなど、公卿
御僉議有しか共、それは罪業なりとて、石の面に一切
経をかひ【書い】てつか【築か】れたりけるゆへ【故】にこそ、経の島とは名づけ
P06073
『慈心房』S0609
たれ。○ふるひ【古い】人の申されけるは、清盛公は悪人と
こそおもへ【思へ】ども【共】、まことは慈恵僧正の再誕なり。
其故は、摂津国清澄寺と−いふ山寺あり【有り】。彼寺
の住僧慈心房尊恵と申けるは、本は叡山の
学侶多年法花の侍者【*持者】なり。しかる【然る】に、道心を
おこし【起こし】離山-して、此寺に年月ををくり【送り】ければ、
みな人是を帰依-しけり。去る承安二年十二月
廿二日の夜、脇息によりかかり、法花経よみ【読み】たて
まつり【奉り】けるに、丑剋ばかり、夢ともなくうつつ【現】とも【共】
P06074
なく、年五十ばかりなる男の、浄衣に立烏帽子
きて、わらづ【草鞋】はばき【脛巾】したるが、立文をも【持つ】て来れり。
尊恵「あれはいづくよりの人ぞ」ととひ【問ひ】ければ、
「閻魔王宮よりの御使也。宣旨候」とて、立文を
尊恵にわたす。尊恵是をひらい【披い】てみれ【見れ】ば、
■[*口+屈]請、閻浮提大日本国摂津国清澄寺の慈心
房尊恵、来廿六日閻魔羅城大極殿にして、
十万人の持経者を−もて、十万部の法花経を
転読せらるべき也。仍参懃【*参勤】せらるべし。閻王宣に−
P06075
よて、■[*口+屈]請如件[* この下に一、二字分の空白有り]。承安二年十二月廿二日閻魔
の庁とぞかか【書か】れたる。尊恵いなみ【辞み】申べき事なら
ねば、左右なう領状の請文をかひ【書い】てたてまつる【奉る】
とおぼえてさめ【覚め】にけり。ひとへに死去の思を
なして、院主の光影房に此事をかたる。みな【皆】
人寄特【*奇特】のおもひ【思ひ】をなす。尊恵口には弥陀の名
号をとなへ、心には引摂の悲願を念ず。やうやう
廿五日の夜陰に及で、常住の仏前にいたり、
例のごとく脇息によりかか【寄り掛つ】て念仏読経す。子[B ノ]
P06076
剋に及で眠切なるが故に、住房にかへ【帰つ】てうち−
ふす【臥す】。丑剋ばかりに、又先のごとくに浄衣装束
なる男二人来て、「はやはやまいら【参ら】るべし」とすすむる【勧むる】
あひだ、閻王宣を辞せんとすれば甚其恐あり【有り】、
参詣せんとすれば更に衣鉢なし。此おもひ【思ひ】を
なす時、法衣自然に身にまとて肩にかかり、
天より金の鉢くだる。二人の童子、二人の従僧、十人
の下僧、七宝の大車、寺坊の前に現ずる。尊恵
なのめならず悦て、即時に車にのる。従僧等
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西北の方にむか【向つ】て空をかけて、程なく閻魔王
宮にいたりぬ。王宮の体をみる【見る】に、外郭渺々
として、其内曠々たり。其内に七宝所成の
大極殿あり【有り】。高広金色にして、凡夫のほむる
ところ【所】にあらず。其日の法会をは【終つ】て後、請僧
みなかへる【帰る】時、尊恵南方の中門に立て、はるかに
大極殿を見わたせば、冥官冥衆みな閻魔法
王の御前にかしこまる。尊恵「ありがたき参詣也。
此次に後生の事尋申さん」とて、大極殿へ
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まいる【参る】。其間に二人の童子蓋をさし、二人の従
僧箱をもち、十人の下僧列をひいて、やうやう
あゆみ【歩み】ちかづく時、閻魔法王、冥官冥衆みなこと
ごとく【悉く】おり【降り】−むかふ【向ふ】。多聞・持国二人[B ノ]童子に現じ、薬王
菩薩・勇施菩薩二人の従僧に変ず。十羅刹女
十人の下僧に現じて、随逐[* 「随遂」と有るのを他本により訂正]給仕-し給へり。閻王問
てのたまは【宣は】-く、「余僧みな帰り-さん【去ん】ぬ。御房来事
いかん」。「後生の在所承はらん為也」。「ただし【但し】往生不往生は、
人の信不信にあり【有り】」と云々。閻王又冥官に勅て
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の給-く、「此御房の作善のふばこ【文箱】、南方の宝蔵に
あり【有り】。とり出して一生の行、化他の碑文みせ【見せ】奉れ」。
冥官承はて、南方の宝蔵にゆいて、一の文箱を
と【取つ】てまいり【参り】たり。良蓋をひらいて是をことごと
くよみ【読み】−きかす。尊恵悲歎啼泣−して、「ただ
願くは我を哀愍-して出離生死の方法を
をしへ【教へ】、証大菩提の直道をしめしたまへ【給へ】」。其時
閻王哀愍教化-して、種々の偈を誦す。冥
官筆を染て一々に是をかく。
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妻子王位財眷属 死去無一来相親
常随業鬼繋縛我 受苦叫喚無辺際 K052
閻王此偈を誦し-おはて、すなはち彼文を
尊恵に附属す。尊恵なのめならず悦て、「日本の
平大相国と申人、摂津国和多の御崎を点じて、
四面十余町に屋をつくり【作り】、けふの十万僧会の
ごとく、持経者をおほく【多く】■[*口+屈]請して、坊ごとに
一面に座につき説法読経丁寧に勤行を
いたされ候」と申ければ、閻王随喜感嘆-して、
P06081
「件の入道はただ人にあらず。慈恵僧正の化身
なり。天台の仏法護持のために日本に再誕す。
かるがゆへに、われ毎日に三度彼人を礼する
文あり【有り】。すなはち此文をも【持つ】て彼人にたて
まつる【奉る】べし」とて、
敬礼慈恵大僧正 天台仏法擁護者
示現最初将軍身 悪業衆生同利益 K053
尊恵是を給はて、大極殿の南方の中門を
いづる【出づる】時、官士等十人門外に立て車にのせ【乗せ】、
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前後にしたがふ。又空をかけて帰来る。夢の
心ち【心地】-していき【生き】出にけり。尊恵是をも【持つ】て西八
条へまいり【参り】、入道相国にまいらせ【参らせ】たりければ、なの
めならず悦てやうやう【様々】にもてなし、さまざまの
引出物共たう【賜う】で、その勧賞に律師になされ
けるとぞきこえ【聞え】し。さてこそ清盛公をば
『祇園女御』S0610
慈恵僧正の再誕也と、人しり【知り】てげれ。○又ある
人の申けるは、清盛は忠盛が子にはあらず、
まこと【誠】には白河院の皇子也。その【其の】故は、去る永久
P06083
の比ほひ、祇園女御と聞えしさいはひ人【幸人】
おはし【在し】ける。件の女房のすまひ所【住所】は、東山の麓、
祇園のほとりにてぞあり【有り】ける。白河院つねは
御幸なりけり。ある時殿上人一両人、北面少々
めし【召し】−具して、しのび【忍び】の御幸有しに、比はさ月【五月】
廿日-あまりのまだよひ【宵】の事なれば、目ざす
ともしらぬやみ【闇】ではあり【有り】、五月雨さへかきくらし、
まこと【誠】にいぶせかりけるに、件の女房の宿所
ちかく【近く】御堂あり【有り】。御堂のかたはら【傍】にひかりもの【光物】
P06084
いでき【出で来】たり。かしら【頭】はしろかね【銀】のはり【針】をみがき【磨き】
たてたる[* 「らる」と有るのを他本により訂正]やうにきらめき、左右の手とおぼし
きをさし-あげ【差し上げ】たるが、片手にはつち【槌】の−やうなる
ものをもち、片手にはひかる【光る】もの【物】をぞも【持つ】たり
ける。君も臣も「あなおそろし【恐ろし】。是はまこと【誠】の
鬼とおぼゆる【覚ゆる】。手にもて【持て】る物はきこゆる【聞ゆる】うちで【打出】
のこづち【小槌】なるべし。いかがせん」とさはが【騒が】せおはします
ところ【所】に、忠盛其比はいまだ北面の下臈で
供奉したりけるをめし【召し】て、「此中にはなんぢ【汝】ぞ
P06085
あるらん。あのものい【射】もころし【殺し】、きり【斬り】もとどめ【留め】なん
や」と仰ければ、忠盛かしこまり【畏まり】承はてゆき【行き】-
むかふ【向ふ】。内々おもひ【思ひ】けるは、「此もの、さしもたけき【猛き】
物とは見ず。きつね【狐】たぬき【狸】などにてぞある【有る】らん。
是をい【射】もころし【殺し】、きり【斬り】もころし【殺し】たらんは、無下に
念なかるべし。いけどり【生捕り】にせん」とおも【思つ】てあゆみ【歩み】
よる。とばかりあてはさとひかり【光り】、とばかりあては
さとひかり、二三度しけるを、忠盛はしり【走り】−よ【寄つ】て、
むずとくむ【組む】。くま【組ま】れて、「こはいかに」とさはぐ【騒ぐ】。変
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化の−もの【物】にてはなかりけり。はや人にてぞあり【有り】
ける。其時上下手々に火をともひ【点い】て、是を
御らん【覧】じ−見給に、六十ばかりの法師也。たとへば、
御堂の承仕法師であり【有り】けるが、御あかし【燈】まいら
せ【参らせ】んとて、手瓶と−いふ物に油を入てもち、片手
にはかはらけ【土器】に火を入てぞも【持つ】たりける。雨は
ゐ【沃】にい【沃】てふる。ぬれ【濡れ】じとて、かしら【頭】にはこむぎ【小麦】の
わら【藁】を笠の−やうにひき【引き】−むすふ【結う】でかづひ【被い】たり。かはら
けの火にこむぎ【小麦】のわらかかやい【輝い】て、銀の針の−
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やうには見えけるなり。事の−体一々にあら
はれ【露はれ】ぬ。「これをい【射】もころし【殺し】、きり【斬り】もころし【殺し】たらんは、
いかに念なからん。忠盛がふるまひ【振舞】-やうこそ思
慮ふかけれ。弓矢とる身はやさしかり」とて、
その勧賞にさしも御最愛ときこえ【聞え】し
祇園女御を、忠盛にこそたう【賜う】だりけれ。さてかの
女房、院の御子をはらみ【妊み】たてまつり【奉り】しかば、「うめ【産め】らん
子、女子ならば朕が子にせん、男子ならば忠盛が
子にして弓矢とる身にしたてよ【仕立てよ】」と仰けるに、
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すなはち男をうめり。此事奏聞せんとうかが
ひ【窺ひ】けれども【共】、しかる【然る】べき便宜もなかりけるに、
ある時白河院、熊野へ御幸なりけるが、紀伊
国いとが坂【糸鹿坂】と−いふ所に御輿かきすゑ【据ゑ】させ、しばらく
御休息有けり。やぶ【薮】にぬか子のいくらもあり【有り】
けるを、忠盛袖にもりいれ【入れ】て、御前へまいり【参り】、
いもが子ははう【這ふ】程にこそなりにけれ
と申たりければ、院やがて御心得あて、
ただもりとりてやしなひ【養ひ】にせよ W047
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とぞつけ【付け】させましましける。それよりしてこそ
我子とはもてなしけれ。此若君あまりに
夜なき【夜泣】をしたまひ【給ひ】ければ、院きこしめさ【聞し召さ】れて、
一首の御詠をあそばし【遊ばし】てくださ【下さ】れけり。
夜なき【夜泣】−すとただもりたてよ末の代に
きよく【清く】さかふる【盛ふる】こともこそあれ W048
さてこそ、清盛とはなのら【名乗ら】れけれ。十二の歳
兵衛[B ノ]佐になる。十八の歳四品-して四位の兵
衛佐と申しを、子細存知せぬ人は、「花族の人
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こそかふは」と申せば、鳥羽院しろしめさ【知ろし召さ】れて、
「清盛が花族は、人におとらじな」とぞ仰ける。昔も
天智天皇はらみたまへ【給へ】る女御を大織冠に
たまふとて、「此女御のうめ【産め】らん子、女子ならば
朕が子にせん、男子ならば臣が子にせよ」と仰
けるに、すなはち男をうみ給へり。多武峯の本願
定恵和尚是なり。上代にもかかるためし【例】あり【有り】
ければ、末代にも平大相国、まこと【誠】に白河院の御
子にておはしければにや、さばかりの天下の大事、
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都うつりなどいふたやすからぬ事-どもおもひ【思ひ】-
たた【立た】れけるにこそ。同閏[* 「潤」と有るのを他本により訂正]二月廿日、五条大納言国綱【*邦綱】
卿うせ【失せ】たまひ【給ひ】ぬ。平大相国とさしも契ふかう【深う】、心
ざしあさから【浅から】ざりし人なり。せめてのちぎり【契り】の
ふかさ【深さ】にや、同日に病-つい【付い】て、同月にぞうせ【失せ】られ
ける。此大納言と申は、兼資【*兼輔】の中納言より八代
の末葉、前[B ノ]右馬助守国【*盛国】が子也。蔵人にだになら【成ら】ず、
進士雑色とて候はれしが、近衛[B ノ]院御在位の
時、仁平の比ほひ、内裏に俄焼亡出きたり。
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主上南殿に出御有しかども【共】、近衛司一人も参ぜ
られず。あきれてたた【立た】せおはしましたるところ【所】に、
此国綱【*邦綱】腰輿をかか【舁か】せてまいり【参り】、「か様【斯様】の時は、かかる
御輿にこそめさ【召さ】れ候へ」と奏しければ、主上是に
めし【召し】て出御あり【有り】。「何ものぞ」と御尋有ければ、「進士の
雑色藤原国綱【*邦綱】」となのり【名乗り】申。「かかるさかざかしき
物こそあれ、めし【召し】−つかは【使は】るべし」と、其時の殿下、
法性寺殿へ仰合られければ、御領あまたたび【賜び】
などして、めし【召し】−つかは【使は】れける程に、おなじ御門の
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御代にやはた【八幡】へ行幸有しに、人丁が酒に酔
て水にたふれ【倒れ】−入、装束をぬらし、御神楽遅
々したりけるに、此国綱【*邦綱】「神妙にこそ候はねども【共】、
人丁が装束はもたせて候」とて、一くだりいだ
さ【出ださ】れたりければ、是をえ[B 「み」に「え」と傍書]て御神楽ととのへ【調へ】奏し
けり。程こそすこし【少し】おし【推し】-うつり【移り】たりけれども、
歌のこゑ【声】もすみのぼり【澄み上り】、舞の袖、拍子にあふ【合う】
ておもしろかりけり。物の身にしみて面白事は、
神も人もおなじ心也。むかし天の岩戸をおし【押し】-
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ひらか【開か】れけん神代のことわざまでも、今こそ
おぼしめし【思し召し】−しら【知ら】れけれ。やがて此国綱【*邦綱】の先祖に、
山陰中納言と−いふ人おはしき。其子に助務【*如無】僧
都とて、智恵才学身にあまり、浄行持律の
僧おはし【在し】けり。昌泰の比ほひ、寛平法皇大井河
へ御幸有しに、勧修寺の内大臣高藤公の御子、
泉の大将貞国、小蔵山【*小倉山】の嵐に烏帽子を河へ吹
入られ、袖にてもとどり【髻】をおさへ【抑へ】、せんかたなくて
た【立つ】たりけるに、此助務【*如無】僧都、三衣箱の中より
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烏帽子ひとつ【一つ】とり【取り】−出されたりけるとかや。かの僧
都は、父山陰[B ノ]中納言、太宰大弐になて鎮西へ
くだら【下ら】れ〔け〕る時、二歳なりしを、継母にくんで、あから
さまにいだく【抱く】やうにして海におとし【落し】入、ころさ【殺さ】んと
しけるを、しに【死に】にけるまこと【誠】の母、存生の時、かつら【桂】の
うかひ【鵜飼】が鵜の餌にせんとて、亀をと【取つ】てころ
さ【殺さ】んとしけるを、き【着】給へる小袖をぬぎ、亀にかへ【換へ】、
はなさ【放さ】れたりしが、其恩を報ぜんと、此きみ【君】おとし【落し】
入ける水のうへ【上】にうかれ【浮かれ】来て、甲にのせ【乗せ】てぞ
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たすけ【助け】たりける。それは上代の事なればいかが
有けん、末代に国綱【*邦綱】卿の高名ありがたかりし
事共也。法性寺殿の御世に中納言になる。法性寺
殿かくれさせ給ひて後、入道相国存ずる旨あり【有り】
とて、此人にかたらひ【語らひ】より給へり。大福長者にて
おはしければ、何にてもかならず【必ず】毎日に一種を、
入道相国のもとへをくら【送ら】れけり。「現世のとくひ【得意】、
この人に過べからず」とて、子息一人養子にして、
清国となのら【名乗ら】せ、又入道相国の四男頭中将重衡は、
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かの大納言の聟になり、治承四年の五節は
福原にておこなはれけるに、殿上人、中宮の
御方へ推参あ[B ッ]【有つ】しが、或雲客の「竹湘浦に斑なり」
と−いふ朗詠をせられたりければ、此大納言立
聞-して、「あなあさまし、是は禁忌也とこそ
承はれ。かかる事きく【聞く】ともきかじ」とて、ぬきあし【抜足】-
してにげ【逃げ】−出られぬ。たとへば、此朗詠の心は、むかし【昔】
尭の-御門に二人の姫宮ましましき。姉をば
娥黄といひ、妹をば女英と−いふ。ともに舜の-御
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門の后也。舜の-御門かくれ給ひて、彼蒼梧の野
辺へをくり【送り】たてまつり【奉り】、煙となし奉る時、二人
のきさき【后】名残をおしみ【惜しみ】奉り、湘浦と−いふ所
までしたひ【慕ひ】つつなき【泣き】かなしみ給ひしに、その
涙岸の竹にかか【掛つ】て、まだら【斑】にぞそみ【染み】たりける。
其後もつねは彼所におはし【在し】て、瑟をひいてなぐ
さみ【慰さみ】たまへ【給へ】り。今かの所をみる【見る】なれば、岸の竹は
斑にてたて【立て】り。琴を調べし跡には雲たなびいて、
物あはれ【哀】なる心を、橘相公の賦に作れる也。此大納言は、
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させる文才詩歌うるはしうはおはせざりしか共、
かかるさかざかしき人にて、かやうO[BH の]事までも
聞とがめられけるにこそ。此人大納言まではおもひ【思ひ】
もよらざりしを、母うへ賀茂大明神に歩をは
こび、「ねがは【願は】くは我子の国綱【*邦綱】一日でもさぶらへ【候へ】、
蔵人頭へ【経】させ給へ」と、百日肝胆をくだひて
祈申されけるが、ある夜の夢に、びりやう【檳榔】の−
車をゐて来て、我家の車よせ【車寄せ】にたつ【立つ】と−
いふ夢をみ【見】て、是人にかたり給へば、「それは
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公卿の北方にならせ給べきにこそ」とあはせ【合はせ】たり
ければ、「我年すでに闌たり。今更さやうの
ふるまひ【振舞】あるべしとも【共】おぼえず」とのたまひ【宣ひ】けるが、
御子の国綱【*邦綱】、蔵人[B ノ]頭は事もよろし、正二位大
納言にあがり【上がり】給ふこそ目出けれ。同廿二日、法皇は
院の御所法住寺殿へ御幸なる。かの御所は去る
応保三年四月十五日につくり出されて、新比叡・
新熊野などもまぢかう勧請-し奉り、山水
木立にいたるまでおぼしめす【思し召す】ままなりしが、
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此二三年は平家の悪行によて御幸も
ならず。御所の破壊したるを修理-して、御幸
なし奉べきよし、前右大将宗盛卿奏せられたりければ、
「なん【何】のやう【様】もあるべからず。ただとうとう」とて
御幸なる。まづ故建春門院の御方を御らん【覧】ずれば、
岸の松、汀の柳、年へ【経】にけりとおぼえて、
木だかく【高く】なれるにつけても、太腋の芙蓉、
未央の柳、これにむかふ【向ふ】にいかん【如何】がなんだ【涙】すすま【進ま】
ざらん。彼南内西宮のむかしの跡、今こそおぼし
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めし【思し召し】−しられけれ。三月一日、南都の僧綱等
本官に覆して、末寺庄園もとの如く知行
すべきよし仰下さる。同三日、大仏殿作りはじめ
らる。事始の奉行には、蔵人左少弁行■【*行隆】とぞ
きこえ【聞え】し。此行■【*行隆】、先年やはた【八幡】へまいり【参り】、通夜
せられたりける夢に、御宝殿の内よりびんづら【鬢】
ゆうたる天童のいで【出で】て、「是は大菩薩の使なり。
大仏殿奉行の時は、是をもつべし」とて、
笏を給はると−いふ夢をみ【見】て、さめて後み【見】たま
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へ【給へ】ば、うつつ【現】にあり【有り】けり。「あなふしぎ【不思議】、当時何事あて
か大仏殿奉行にまいる【参る】べき」とて、懐中-して宿
所へ帰り、ふかう【深う】おさめ【収め】てをか【置か】れたりけるが、平家
の悪行に−よて南都炎上の間、此行■【*行隆】、弁の
なかにゑらば【選ば】れて、事始の奉行にまいら【参ら】れける
宿縁の程こそ目出けれ。同三月十日、美乃【*美濃】目代、
都へ早馬を−もて申けるは、東国源氏ども【共】
すでに尾張国までせめ【攻め】−のぼり【上り】、道をふさぎ、
人をとをさ【通さ】ぬよし申たりければ、やがて打手
P06104
をさし−つかはす【遣す】。大将軍には、左兵衛[B ノ]督知盛、左[B ノ]中
将清経、小松[B ノ]少将有盛、都合其勢三万余騎
で発向す。入道相国うせ【失せ】給て後、わづかに五旬を
だにも過ざるに、さこそみだれたる世といひながら、
あさましかりし事どもなり。源氏の方には、大将軍
十郎蔵人行家、兵衛[B ノ]佐のおとと【弟】卿公義円、都合
其勢六千余騎、尾張川をなかにへだてて、源平
両方に陣をとる。同十六日の夜半ばかり、源氏の
勢六千余騎河をわたひ【渡い】て、平家三万余騎が
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中へおめひ【喚い】てかけ入、明れば十七日、寅の剋
より矢合-して、夜の明までたたかう【戦ふ】に、平家
のかた【方】にはちともさはが【騒が】ず。「敵は川をわたひ【渡い】
たれば、馬もののぐ【物具】もみなぬれ【濡れ】たるぞ。それを
しるし【標】でうてや」とて、大勢のなかにとり【取り】こめ【籠め】
て、「あます【余す】な、もらす【漏らす】な」とてせめ【攻め】たまへ【給へ】ば、源氏
の勢のこり【残り】−ずくなふ打-なされ、大将軍行家、
からき【辛き】命いき【生き】て、川よりひがし【東】へひき【引き】−しりぞく【退く】。
卿公義円はふか入【深入り】−してうた【討た】れにけり。平家やがて
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川をわたひ【渡い】て、源氏をお物射にい【射】てゆく。源氏
あそこここでかへし【返し】−あはせ【合はせ】かへし【返し】あはせ【合はせ】ふせき【防き】けれ共、
敵は大勢、みかた【御方】は無勢なり。かなふ【適ふ】べしとも
みえ【見え】ざりけり。「水駅をうしろにする事なかれ
とこそいふに、今度の源氏のはかりこと【策】おろか也」
とぞ人申ける。さる程に、大将軍十郎蔵人
行家、参河【*三河】国にうちこえ【越え】て、やはぎ河【矢作河】の橋
をひき【引き】、かいだて【掻楯】かひて待かけたり。平家やが
て押寄せめ【攻め】たまへ【給へ】ば、こらへ【耐へ】ずして、そこをも
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又せめ【攻め】おとさ【落さ】れぬ。平家やがてつづい【続い】てせめ【攻め】給はば、
三河・遠江の勢は随−つく【付く】べかりしに、大将軍左兵
衛督知盛いたはり【労はり】あて、参河【*三河】国より帰りのぼ
ら【上ら】る。今度もわづかに一陣を破るといへども【共】、
残党をせめ【攻め】ねば、しいだし【出し】たる事なきが如し。
平家は、去々年小松のおとど【大臣】薨ぜられぬ。今年又
入道相国うせ給ひぬ。運命の末になる事あら
はなりしかば、年来恩顧の輩の外は、随-つく
ものなかりけり。東国には草も木もみな源氏
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『嗄声』S0611
にぞなびき【靡き】ける。○さる程に、越後国の住人、城[B ノ]太郎
助長、越後守に任ずる朝恩のかたじけなさに、
木曾追討のために、都合[B 「都合」に「其勢イ」と傍書]三万余騎、同六月
十五日門出-して、あくる十六日の卯剋にすでに
う【打つ】−たた【立た】んとしけるに、夜半ばかり、俄に大風吹、大雨
くだり【下り】、雷おびたたしう【夥しう】なて、天霽て後、雲井に
大なる声のしはがれ【嗄れ】たるを−もて、「南閻浮提金銅
十六丈の盧遮那仏、やき【焼き】ほろぼし【亡ぼし】たてまつる【奉る】平家
のかたうど【方人】する物ここにあり【有り】。めし【召し】−とれ【捕れ】や」と、三声
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さけん【叫ん】でぞとをり【通り】ける。城太郎をはじめとして、
是をきくものみな身の毛よだちけり。郎等ども
「是程おそろしひ【恐ろしい】天の告の候に、ただ理をまげ
てとどまら【留まら】せ給へ」と申けれども【共】、「弓矢とる物の、
それによるべきやう【様】なし」とて、あくる十六日卯[B ノ]剋に
城をいで【出で】て、わづかに十余町ぞゆい【行い】たりける。黒雲
一むら【群】立来て、助長がうへ【上】におほふ【覆ふ】とこそみえ【見え】けれ、
俄に身すくみ【竦み】心ほれて落馬-してげり。輿に
かき−のせ【乗せ】、館へ帰り、うちふす事三時ばかりして
P06110
遂に死にけり。飛脚を−もて此由都へ申
たりければ、平家の人々大にさはが【騒が】れけり。
同七月十四日、改元あて養和と号す。其日
筑後守貞能、筑前・肥後両国を給はて、鎮西の
謀叛たいらげ【平げ】に西国へ発向す。其日又非常大
赦おこなはれて、去る治承三年にながされ給
ひし人々みなめし【召し】−かへさ【返さ】る。松殿[B ノ]入道殿下、備前国
より御上洛、太政大臣妙音院、尾張国よりのぼ
らせ給。按察大納言資方【*資賢】卿、信乃【*信濃】国より帰洛
P06111
とぞ聞えし。同廿八日、妙音院殿御院参。去る
長寛の帰洛には、御前の簀子にして、賀王〔恩〕・還
城楽をひか【弾か】せ給しに、養和の今の帰京には、
仙洞にして秋風楽をぞあそばし【遊ばし】ける。いづれも
いづれも風情おり【折】をおぼしめし【思し召し】よらせ給けん、御心の
程こそめでたけれ。按察大納言資方【*資賢】卿も其日
院参せらる。法王「いかにや、夢の−様にこそおぼし
めせ【思し召せ】。ならは【習は】ぬひな【鄙】のすまひ【住ひ】-して、詠曲なども
今はあとかた【跡形】あらじとおぼしめせ【思し召せ】ども【共】、今やう【今様】
P06112
一あらばや」と仰ければ、大納言拍子と【取つ】て、「信乃【*信濃】に
あん[* 「なん」と有るのを他本により訂正]なる木曾路川」と−いふ今やう【今様】を、是は見給ひ
たりしあひだ【間】、「信乃【*信濃】に有し木曾路川」とうたは【歌は】れ
『摸田河原合戦【*横田河原合戦】』S0612
けるぞ、時にと【取つ】ての高名なる。○八月七日、官の庁に
て大仁王会おこなはる。これは将門追討の例
とぞ聞えし。九月一日、純友追討の例とて、
くろがね【鉄】の鎧甲を伊勢大神宮へまいらせ【参らせ】らる。
勅使は祭主神祇の権大副大中臣定高【*定隆】、都を
たて近江国甲賀の駅よりやまひ【病ひ】つき、伊勢の-
P06113
離宮にして死にけり。謀反の輩調伏の為に、
五壇法承はておこなはれける降三世の大阿闍梨、
大行事の彼岸所にしてね死【寝死に】にし〔に〕【死に】ぬ。神明も
三宝も御納受なしと−いふ事いちしるし。又太
元【*大元帥】法承はて修せられける安祥寺の実玄阿闍
梨が御巻数を進たりけるを、披見せられければ、
平氏調伏のよし注進したりけるぞおそろしき【恐ろしき】。
「こはいかに」と仰ければ、「朝敵調伏せよと仰下さる。
当世の体をみ【見】候に、平家もぱら【専ら】朝敵とみえ【見え】
P06114
給へり。仍是を調伏す。何のとがや候べき」とぞ
申ける。「此法師奇怪也。死罪か流罪か」と有しが、
大小事の怱劇にうちまぎれて、其後沙汰
もなかりけり。源氏の代となて後、鎌倉殿「神妙
也」と感じおぼしめし【思し召し】て、その勧賞に大僧正に
なされけるとぞ聞えし。同十二月廿四日、中宮院
号かうぶら【蒙ら】せ給ひて、建礼門院とぞ申ける。
主上いまだ幼主の御時、母后の院号是−はじめ
とぞうけたまはる【承る】。さる程に、養和も二年に成に
P06115
けり。二月廿一日、太白昴星ををかす。天文要録に
云、「太白昴星を侵せば、四夷おこる」といへり。又「将軍
勅命を蒙て、国のさかひ【境】をいづ【出づ】」とも【共】みえ【見え】たり。
三月十日、除目おこなはれて、平家の人々大略
官加階したまふ【給ふ】。四月十五日、前[B ノ]権少僧都顕真、
日吉[B ノ]社にして如法に法花経一万部転読する
事有けり。御結縁の為に法皇も御幸なる。
何ものの申出したりけるやらん、一院山門の大衆に
仰て、平家を追討せらるべしときこえ【聞え】し程に、
P06116
軍兵内裏へ参て四方の陣頭を警固す。
平氏の一類みな六波羅へ馳集る。本三位中将
重衡卿、法皇の御むかへに、其勢三千余騎で、日
吉の社へ参向す。山門に又聞えけるは、平家山
せめ【攻め】んとて、数百騎の勢を率して登山すと
聞えしかば、大衆みな東坂本におり下て、「こは
いかに」と僉議す。山上洛中の騒動なのめならず。
供奉の公卿殿上人色をうしなひ【失ひ】、北面のもの【者】のなかに
はあまりにあはて【慌て】さはひで、黄水つくものおほ
P06117
かり【多かり】けり。本三位中将重衡卿、穴太の辺にて
法皇むかへ【迎へ】-とり【取り】まいらせ【参らせ】て、還御なし奉り、「かく
のみあらんには、御物まうで【詣で】なども、今は御心にまか
す【委す】まじき事やらん」とぞ仰ける。まこと【誠】には、山門
大衆平家を追討せんと−いふ事もなし。平家山
せめ【攻め】んと−いふ事もなし。是跡形なき事共也。
「天魔のよくあれ【荒れ】たるにこそ」とぞ人申ける。同四月
廿日、臨時に廿二社に官幣あり【有り】。是は飢饉疾疫
に−よて也。五月廿四日、改元あて寿永と号す。
P06118
其日又越後国住人城の四郎助茂、越後守に
任ず。兄助長逝去の間、不吉也とて頻に辞し
申けれども【共】、勅命なればちから【力】不及。助茂を
長茂と改名す。同九月二日、城[B ノ]四郎長茂、木曾
追討の為に、越後・出羽、相津四郡の兵共を引
率-して、都合其勢四万余騎、木曾追討の為
に信濃国へ発向す。同九日、当国横田河原に
陣[* 「陳」と有るのを他本により訂正]をとる。木曾は依田城に有けるが、是をきひ【聞い】
て依田城をいで【出で】て、三千余騎で馳向。信乃【*信濃】源氏、
P06119
井上[B ノ]九郎光盛がはかり事【謀】に、にはかに赤旗を
七ながれ【流】つくり【作り】、三千余騎を七手にわかち、あそこ
の峯、ここの洞より、あかはた【赤旗】ども手々にさし-あげ【差し上げ】
てよせ【寄せ】ければ、城の四郎是をみ【見】て、「あはや、此国
にも平家のかたうど【方人】する人あり【有り】けりと、ちから【力】つき【付き】
ぬ」とて、いさみ【勇み】-ののしるところ【所】に、次第にちかう【近う】
成ければ、あひ図【合図】をさだめ【定め】て、七手がひとつ【一つ】に
なり、一度に時をどとぞ作ける。用意したる
白旗ざとさし-あげ【差し上げ】たり。越後の勢共是をみ【見】て、
P06120
「敵なん【何】十万騎有らん。いかがせん」といろ【色】をうしなひ【失ひ】、
あはて【慌て】ふためき、或は川にお【追つ】ぱめられ、或は悪所に
おひ−おとさ【落さ】れ、たすかるものはすくなう【少なう】、うた【討た】るるものぞ
おほかり【多かり】ける。城[B ノ]四郎がたのみ【頼み】−きたる越後の山の
太郎、相津の乗丹房などいふきこゆる【聞ゆる】兵共、そこ
にてみなうた【討た】れぬ。我身手おひ、からき【辛き】命いきつつ、
川につたうて越後国へ引−しりぞく【退く】。同十六日、都には
平家是をば事共したまは【給は】ず、前[B ノ]右大将宗盛卿、大納言
に還着-して、十月三日内大臣になり給ふ。同七日悦申
P06121
あり【有り】。当家の公卿十二人扈従せらる。蔵人[B ノ]頭以下の殿上
人十六人前駆-す。東国北国の源氏共蜂のごとくに
起あひ、ただ今【只今】都へせめ【攻め】のぼら【上ら】んとするに、かやう【斯様】に
浪のたつ【立つ】やらん、風の吹やらんもしら【知ら】ぬ体にて、花
やかなりし事共、中々いふ-かひ-なうぞみえ【見え】たり
ける。さる程に、寿永二年に成にけり。節会以下
常のごとし。内弁をば平家の内大臣宗盛公つとめ
らる。正月六日、主上朝覲の為に、院御所法住寺
殿へ行幸なる。鳥羽院六歳にて、朝覲[B ノ]行幸、
P06122
其例とぞきこえ【聞え】し。二月廿二日、宗盛公従一位
し給ふ。やがて其日内大臣をば上表-せらる。兵乱-つつし
み【慎み】のゆへ【故】とぞきこえ【聞え】し。南都北嶺の大衆、熊野
金峯山の僧徒、伊勢大神宮の祭主神官に
いたるまで、一向平家をそむひて、源氏に心を
かよはし【通はし】ける。四方に宣旨をなしくだし、諸国に
院宣をつかはせ【遣せ】ども、院宣宣旨もみな平家の下
知とのみ心得て、したがひ【従ひ】つくものなかりけり。
P06123

平家物語巻第六

平家物語 高野本 巻第七

平家 七(表紙)
P07001
平家七之巻 目録
清水冠者  北国下向
竹生島詣  火打合戦
木曾願書  倶梨迦羅落
篠原合戦  真盛
玄房    木曾山門牒状
同返牒   平家山門連署
主上都落  維盛都落付聖主臨幸
忠度都落  経正都落付青山
P07002
一門都落  福原落
P07003
平家物語巻第七
『清水冠者』S0701
○寿永二年三月上旬に、兵衛佐と木曾冠者
義仲不快の事あり【有り】けり。兵衛佐木曾追
討の為に、其勢十万余騎で信濃国へ発
向す。木曾は依田の城にあり【有り】けるが、是をきい【聞い】
て依田の城を出て、信濃と越後の境、熊坂
山に陣をとる。兵衛佐は同き国善光寺に
着給ふ。木曾乳母子の今井四郎兼平を使
者で、兵衛佐の許へつかはす【遣す】。「いかなる子細のあれば、
P07004
義仲うた【討た】むとはの給ふなるぞ。御辺は
東八ケ国をうちしたがへて、東海道より攻
のぼり、平家を追おとさ【落さ】むとし給ふなり。義
仲も東山・北陸両道をしたがへて、今一日も
さきに、平家を攻おとさ【落さ】むとする事でこそ
あれ。なんのゆへ【故】に御辺と義仲と中をたがふ【違う】
て、平家にわらは【笑は】れんとはおもふ【思ふ】べき。但十郎
蔵人殿こそ御辺をうらむる【恨むる】事ありとて、
義仲が許へおはしたるを、義仲さへすげ
P07005
なうもてなし申さむ事、いかんぞや候へば、うち
つれ申たれ。またく義仲にをいては、御辺
に意趣おもひ【思ひ】奉らず」といひつかはす。兵衛佐
の返事には、「今こそさやうにはの給へ【宣へ】共、慥に
頼朝討べきよし、謀反のくはたて【企て】ありと
申者あり【有り】。それにはよるべからず」とて、土肥・梶原
をさきとして、既に討手をさしむけらるる
由聞えしかば、木曾真実意趣なき由を
あらはさむがために、嫡子清水冠者義重
P07006
とて、生年十一歳になる小冠者に、海野・
望月・諏方【*諏訪】・藤沢などいふ、聞ゆる兵共
をつけて、兵衛佐の許へつかはす【遣す】。兵衛佐
「此上はまこと【誠】に意趣なかりけり。頼朝いまだ
成人の子をもたず。よしよし、さらば子にし申
さむ」とて、清水冠者を相具して、鎌倉へこそ
『北国下向』S0702
帰られけれ。○さる程に、木曾、東山・北陸両道を
したがへて、五万余騎の勢にて、既に京へ
せめ【攻め】のぼるよし聞えしかば、平家はこぞ【去年】より
P07007
して、「明年は馬の草がひ【草飼】について、いくさ【軍】
あるべし」と披露せられたりければ、山陰・
山陽・南海・西海の兵共、雲霞のごとくに
馳まいる【参る】。東山道は近江・美濃・飛弾の兵共
はまいり【参り】たれ共、東海道は遠江より東は
まいら【参ら】ず、西は皆まいり【参り】たり。北陸道は若狭
より北の兵共一人もまいら【参ら】ず。まづ木曾冠
者義仲を追討して、其後兵衛佐を討ん
とて、北陸道へ討手をつかはす。大将軍には
P07008
小松三位中将維盛・越前三位通盛・但馬守経
正・薩摩守忠教【*忠度】・三河守知教【*知度】・淡路守清房、
侍大将には越中前司盛俊・上総大夫判官忠綱・
飛弾大夫判官景高・高橋判官長綱・河内判官
秀国・武蔵三郎左衛門有国・越中次郎兵衛盛嗣・
上総五郎兵衛忠光・悪七兵衛景清をさき【先】と
して、以上大将軍六人、しかる【然る】べき侍三百四十余
人、都合其勢十万余騎、寿永二年四月十七日
辰一点に都を立て、北国へこそおもむき【赴き】けれ。
P07009
かた道を給はてげれば、逢坂の関よりはじめ
て、路子にもてあふ権門勢家の正税、官物を
もおそれ【恐れ】ず、一々にみなうばひ【奪ひ】とり、志賀・辛崎・
三[B ツ]河尻[B 「九」に「尻」と傍書]・真野・高島・塩津・貝津の道のほとりを
次第に追補【*追捕】してとをり【通り】ければ、人民こらへ
『竹生島詣』S0703
ずして、山野にみな逃散す。○大将軍維盛・通
盛はすすみ給へ共、副将軍経正・忠度・知教【*知度】・清房
などは、いまだ近江国塩津・貝津にひかへたり。其
中にも、経正は詩歌管絃に長じ給へる人
P07010
なれば、かかるみだれの中にも心をすまし【澄まし】、湖の
はた【端】に打出て、遥に奥なる島を見わたし、供
に具せられたる藤兵衛有教をめし【召し】て、「あれ
をばいづくといふぞ」ととは【問は】れければ、「あれ
こそ聞え候竹生島にて候へ」と申。「げにさる
事あり【有り】。いざやまいら【参ら】ん」とて、藤兵衛有教、安
衛門守教以下、侍五六人めし【召し】具して、小舟に
のり、竹生島へぞわたられける。比は卯月
中の八日の事なれば、緑にみゆる梢には
P07011
春のなさけをのこすかとおぼえ、澗谷の鴬舌
声老て、初音ゆかしき郭公、おりしりがほ【折知顔】
につげわたる。松に藤なみさきかかつて
まことにおもしろかりければ、いそぎ舟よりおり、
岸にあが【上がつ】て、此島の景気を見給ふに、心も
詞もをよば【及ば】れず。彼秦皇、漢武、〔或〕童男丱女
をつかはし【遣し】、或方士をして不死の薬を尋ね
給ひしに、「蓬莱をみずは、いなや帰らじ」と
いて、徒に舟のうちにて老、天水茫々として
P07012
求事をえざりけん蓬莱洞の有様も、
かくやあり【有り】けむとぞみえ【見え】し。或経の中に、
「閻浮提のうちに湖あり、其中に金輪際より
おひ出たる水精輪の山あり【有り】。天女すむ所」と
いへり。則此島の事也。経正明神の御まへに
ついゐ給ひつつ、「夫大弁功徳天は往古の如
来、法身の大士也。弁才妙音二天の名は各別
なりといへ共、本地一体にして衆生を済度し
給ふ。一度参詣の輩は、所願成就円満すと
P07013
承はる。たのもしう【頼もしう】こそ候へ」とて、しばらく
法施まいらせ【参らせ】給ふに、やうやう日暮、ゐ待【居待】
の月さし出て、海上も照わたり、社壇も弥かか
やき【輝き】て、まこと【誠】に面白かりければ、常住の
僧共「きこゆる御事なり」とて、御琵琶を
まいらせ【参らせ】たりければ、経正是をひき【引き】給ふに、
上玄石上の秘曲には、宮のうちもすみわたり、
明神感応にたへ【堪へ】ずして、経正の袖のうへ【上】に
白竜現じてみえ【見え】給へり。忝くうれしさの
P07014
あまりに、なくなく【泣く泣く】かうぞ思ひつづけ給ふ。
千はやふる神にいのりのかなへ【適へ】ばや
しるくも色のあらはれ【現はれ】にける W049
されば怨敵を目前にたいらげ【平げ】、凶徒を只今
せめ【攻め】おとさ【落さ】む事の、疑なしと悦で、又舟に
『火打合戦』S0704
とりの【乗つ】て、竹生島をぞ出られける。○木曾
義仲身がらは信濃にありながら、越前国火
打が城をぞかまへける。彼城郭にこもる勢、
平泉寺長吏斎明威儀師・稲津新介・斎
P07015
藤太・林六郎光明・富樫入道仏誓・土田・武部・
宮崎・石黒・入善・佐美を初として、六千余騎
こそこもりけれ。もとより究竟の城郭也。
盤石峙ちめぐて四方に峰をつらねたり。
山をうしろにし、山をまへにあつ。城郭の
前には能美河・新道河とて流たり。二の川
の落あひにおほ木【大木】をきてさかもぎ【逆茂木】にひき【引き】、
しがらみををびたたしう【夥しう】かきあげたれば、東
西の山の根に水さしこうで、水海にむかへ【向へ】るが
P07016
如し。影南山を浸して青して晃漾たり。
浪西日をしづめて紅にして隠淪たり。
彼無熱池の底には金銀の砂をしき、混明
池【*昆明池】の渚にはとくせい【徳政】の舟を浮べたり。此火
打が城のつき池【築池】には、堤をつき、水をにごし【濁し】
て、人の心をたぶらかす。舟なくしては輙
うわたすべき様なかりければ、平家の大勢
むかへ【向へ】の山に宿して、徒に日数ををくる【送る】。城
の内にあり【有り】ける平泉寺の長吏斎明威儀
P07017
師、平家に志ふかかり【深かり】ければ、山の根をまは
て、消息をかき【書き】、ひき目【蟇目】のなかに入て、忍や
かに平家の陣へぞ射入たる。「彼水うみは
往古の淵にあらず。一旦山河をせきあげて候。
夜に入足がろ【足軽】共をつかはし【遣し】て、しがらみをきり
おとさ【落さ】せ給へ。水は程なくおつべし。馬の
足きき【利き】よい所で候へば、いそぎわたさせ給へ。うし
ろ矢は射てまいらせ【参らせ】む。是は平泉寺の長吏
斎明威儀師が申状」とぞかい【書い】たりける。大将軍
P07018
大に悦、やがて足がる【足軽】共をつかはし【遣し】て柵を
きりおとす【落す】。緩うみえ【見え】つれども、げにも
山川なれば水は程なく落にけり。平家の
大勢、しばしの遅々にも及ばず、ざとわたす。
城の内の兵共、しばしささへてふせき【防き】けれ共、
敵は大勢也、みかた【味方】は無勢也ければ、かなう【叶ふ】
べしともみえ【見え】ざりけり。平泉寺長吏
斎明威儀師、平家について忠をいたす。
稲津新介・斎藤太・林六郎光明・富樫入道
P07019
仏誓、ここをば落て、猶平家をそむき、加賀
の国へ引退き、白山河内にひ【引つ】こもる。平家
やがて加賀に打越て、林・富樫が城郭二
ケ所焼はらふ。なに面をむかふ【向ふ】べしとも見え
ざりけり。ちかき【近き】宿々より飛脚をたてて、
此由都へ申たりければ、大臣殿以下残とど
まり給ふ一門の人々いさみ悦事なのめなら
ず。同五月八日、加賀国しの原【篠原】にて勢ぞろへ
あり【有り】。軍兵十万余騎を二手にわかて、大手
P07020
搦手へむかは【向は】れけり。大手の大将軍は小松三
位中将維盛・越前三位通盛、侍大将には越中
前司盛俊をはじめとして、都合其勢七万
余騎、加賀と越中の境なる砥浪山へぞ
むかは【向は】れける。搦手の大将軍は薩摩守忠教【*忠度】・
参河【*三河】守知教【*知度】、侍大将には武蔵三郎左衛門
を先として、都合其勢三万余騎、能登越中
の境なるしほ【志保】の山へぞかかられける。木曾
は越後の国府にあり【有り】けるが、是をきいて
P07021
五万余騎で馳向ふ。わがいくさ【軍】の吉例なれば
とて七手に作る。まづ伯父の十郎蔵人
行家、一万騎でしほの手へぞ向ける。仁科・
高梨・山田次郎、七千余騎で北黒坂へ搦手
にさしつかはす【遣す】。樋口次郎兼光・落合五郎
兼行、七千余騎で南黒坂へつかはし【遣し】けり。一
万[B 余]騎をば砥浪山の口、黒坂のすそ、松長の
柳原、ぐみの木林にひきかくす【隠す】。今井四郎
兼平六千余騎で鷲の瀬を打わたし、ひの
P07022
宮林【日埜宮林】に陣をとる。木曾我身は一万余騎で
おやべ【小矢部】のわたりをして、砥浪山の北のはづ
『願書』S0705
れはにう【羽丹生】に陣をぞとたりける。○木曾の給ひ
けるは、「平家は定て大勢なれば、砥浪山
打越てひろみへ出て、かけあひ【駆け合ひ】のいくさ【軍】にて
ぞあらんずらむ。但かけあひ【駆け合ひ】のいくさ【軍】は勢の
多少による事也。大勢かさ【嵩】にかけてはあし
かり【悪しかり】なむ。まづ旗さし【旗差し】を先だてて白旗を
さしあげたらば、平家是をみ【見】て、「あはや
P07023
源氏の先陣はむかふ【向う】たるは。定て大勢
にてぞあるらん。左右なう広みへうち出
て、敵は案内者、我等は無案内也、とりこめ
られては叶まじ。此山は四方巖石であん
なれば、搦手O[BH へは]よもまはらじ。しばしおりゐて
馬やすめ【休め】ん」とて、山中にぞおりゐんず
らむ。其時義仲しばしあひしらふやうに
もてなして、日をまち【待ち】くらし、平家の大
勢をくりから【倶利伽羅】が谷へ追おとさ【落さ】ふど思ふなり」
P07024
とて、まづ白旗三十ながれ先だてて、黒
坂のうへ【上】にぞうたて【打つ立て】たる。案のごとく、
平家是をみて、「あはや、源氏の先陣は
むかふ【向う】たるは。定て大勢なるらん。左右なふ
広みへ打出なば、敵は案内者、我等は無
案内なり、とりこめられてはあしかり【悪しかり】なん。
此山は四方巖石であんなり。搦手O[BH へは]よも
まはらじ。馬の草がひ【草飼】水便共によげ
なり。しばしおりゐて馬やすめ【休め】ん」とて、砥浪
P07025
山の山中、猿の馬場といふ所にぞおり
ゐたる。木曾は羽丹生に陣とて、四方を
きと見まはせば、夏山の嶺のみどりの
木の間より、あけ【朱】の玉墻ほのみえ【見え】て、かた
そぎ【片削】作りの社あり【有り】。前に鳥居ぞたたり
ける。木曾殿国の案内者をめし【召し】て、「あれは
いづれの宮と申ぞ。いかなる神を崇奉
ぞ」。「八幡でましまし候。やがて此所は八幡の
御領で候」と申。木曾大に悦て、手書に
P07026
具せられたる大夫房覚明をめし【召し】て、「義
仲こそ幸に新やはた【新八幡】の御宝殿に近付
奉て、合戦をとげむとすれ。いかさまにも
今度のいくさ【軍】には相違なく勝ぬとおぼ
ゆる【覚ゆる】ぞ。さらんにとては、且は後代のため、且は
当時の祈祷にも、願書を一筆かいてま
いらせ【参らせ】ばやとおもふ【思ふ】はいかに」。覚明「尤然るべ
う候」とて、馬よりおりてかかんとす。覚明が
体たらく、かち【褐】の直垂に黒革威の鎧
P07027
きて、黒漆の太刀をはき、廿四さいたるくろ
ぼろ【黒母衣】の矢おひ【負ひ】、ぬりごめ藤【塗籠籐】の弓、脇には
さみ【鋏み】、甲をばぬぎ、たかひもにかけ、えびら
より小硯たたふ紙【畳紙】とり出し、木曾殿の
御前に畏て願書をかく。あぱれ文武二
道の達者かなとぞみえ【見え】たりける。此覚明
はもと儒家[* 「出家」と有るのを他本により訂正]の者也。蔵人道広とて、勧学
院にあり【有り】けるが、出家して最乗房信救と
ぞ名のりける。つねは南都へも通ひけり。
P07028
一とせ高倉宮の園城寺にいら【入ら】せ給ひし
時、牒状を山・奈良へつかはし【遣し】たりけるに、
南都の大衆返牒をば此信救にぞかかせ
たりける。「清盛は平氏の糟糠、武家の塵
芥」とかいたりしを、太政入道大にいかて、「何条
其信救法師め【奴】が、浄海を平氏のぬかかす、
武家のちりあくたとかくべき様はいかに。
其法師めからめとて死罪におこなへ」との
給ふ間、南都をば逃て、北国へ落くだり【下り】、木曾
P07029
殿の手書して、大夫房覚明とぞ名のりける。
其願書に云、帰命頂礼、八幡大菩薩は日域朝
廷の本主、累世明君の曩祖也。宝祚を守らん
がため、蒼生を利せむがために、三身の金容をあらはし、三所の権扉をおしひらき給へり。
爰に頃の年よりこのかた、平相国といふ者
あり【有り】。四海を管領して万民を悩乱せし
む。是既仏法の怨、王法の敵[* 左にの振り仮名]也。義仲いや
しくも弓馬の家に生れて、纔に箕裘の
P07030
塵をつぐ【継ぐ】。彼暴悪を案ずるに、思慮
を顧にあたはず。運を天道にまかせ【任せ】て、身を
国家になぐ。試に義兵をおこして、凶
器[* 「器」の左にの振り仮名]を退んとす。しかる【然る】を闘戦両家の陣を
あはすといへども、士卒いまだ一致の勇を
えざる間、区の心おそれ【恐れ】たる処に、今一陣旗
をあぐる戦場にして、忽に三所和光の
社壇を拝す。機感の純熟明かなり。凶徒
誅戮疑なし。歓喜[B ノ]涙こぼれて、渇仰
P07031
肝にそむ。就中に、曾祖父前陸奥守義
家[B ノ]朝臣、身を宗廟の氏族に帰附して、
名を八幡太郎と号せしよりこのかた、
其門葉たるもの【者】の、帰敬せずといふ事
なし。義仲其後胤として首を傾て
年久し。今此大功を発す事、たとへば
嬰児の貝をもて巨海を量り、蟷螂
が斧をいからかし【怒らかし】て隆車に向がごとし【如し】。
然ども国の為、君のためにしてこれを
P07032
発[* 「発」の左にの振り仮名]す。家のため、身のためにしてこれを
おこさ【起こさ】ず。心ざしの至、神感そらにあり【有り】。
憑哉、悦哉。伏願くは、冥顕威をくはへ、
霊神力をあはせ【合はせ】て、勝事を一時に決し、
怨を四方に退給へ。然則、丹祈冥慮に
かなひ【叶ひ】、見鑒【見鑑】加護をなすべくば、先一の
瑞相を見せしめ給へ。寿永二年五月
十一日源義仲敬白とかいて、我身を始
て十三人が、うは矢【上矢】[B ノ]かぶらをぬき、願書に
P07033
とりぐし【具し】て、大菩薩の御宝殿にぞ
おさめ【納め】ける。たのもしき【頼もしき】かな、大菩薩
真実の志ふたつ【二つ】なきをや遥に照覧
し給ひけん。雲のなかより山鳩三飛
来て、源氏の白旗の上に翩翻す。昔
神宮【*神功】皇后新羅を攻させ給ひしに、
御方のたたかひ【戦ひ】よはく【弱く】、異国のいくさ【軍】こ
はくして、既にかうとみえ【見え】し時、皇后
天に御祈誓ありしかば、霊鳩三飛
P07034
来て楯の面にあらはれ【現はれ】て、異国の
いくさ【軍】破にけり。又此人々の先祖、頼
義[* 左にの振り仮名]朝臣、貞任・宗任を攻給ひしにも、
御方のたたかひ【戦ひ】よはく【弱く】して、凶徒のいくさ【軍】
こはかりしかば、頼義朝臣敵の陣に
むか【向つ】て、「是はまたく私の火にはあらず、
神火なり」とて、火を放つ。風忽に
異賊の方へ吹おほひ【覆ひ】、貞任が館栗
屋川の城焼きぬ。其後いくさ【軍】破て、
P07035
貞任・宗任ほろびにき。木曾殿か様【斯様】の先蹤
を忘れ給はず、馬よりおり、甲をぬぎ、手水
うがいをして、いま霊鳩を拝し給ひけん
『倶利迦羅【*倶梨迦羅】落』S0706
心のうちこそたのもしけれ。○さるほど【程】に、源平
両方陣をあはす。陣のあはひわづかに三町
ばかりによせ【寄せ】あはせたり。源氏もすすまず、
平家もすすまず。勢兵十五騎、楯の面に
すすませて、十五騎がうは矢【上矢】の鏑を平
家の陣へぞ射入たる。平家又はかり事【謀】
P07036
とも【共】しら【知ら】ず、十五騎を出いて、十五の鏑を
射返す。源氏卅騎を出いて射さすれば、
平家卅騎を出いて卅の鏑を射かへす【返す】。五十
騎を出せば五十騎を出しあはせ【合はせ】、百騎を
出せば百騎を出しあはせ【合はせ】、両方百騎づつ
陣の面にすすんだり。互に勝負をせん
とはやり【逸り】けれ共、源氏の方よりせいし【制し】て
勝負をせさせず。源氏はか様【斯様】にして日
をくらし、平家の大勢をくりから【倶利伽羅】が谷へ
P07037
追おとさ【落さ】ふどたばかりけるを、すこしも
さとらずして、ともにあひしらひ日をくら
す【暮す】こそはかなけれ。次第にくらふ【暗う】なりければ、
北南よりまはつる搦手の勢一万余騎、
くりから【倶利伽羅】の堂の辺にまはりあひ、えびらの
ほうだて【方立て】打たたき、時をどとぞつくり
ける。平家うしろをかへり見ければ、白旗
雲のごとくさしあげ【差し上げ】たり。「此山は四方巖
石であんなれば、搦手よもまはらじと
P07038
思つるに、こはいかに」とてさはぎ【騒ぎ】あへり。去
程に、木曾殿大手より時の声をぞ
あはせ【合はせ】給ふ。松長の柳原、ぐみの木林に
一万余騎ひかへたりける勢も、今井四郎が
六千余騎でひの宮林【日埜宮林】にあり【有り】けるも、同
く時をぞつくりける。前後四万騎が
おめく【喚く】声、山も川もただ一度にくづるる
とこそ聞えけれ。案のごとく、平家、次第に
くらふ【暗う】はなる、前後より敵はせめ【攻め】来る、「きた
P07039
なしや、かへせかへせ」といふやからおほかり【多かり】
けれ共、大勢の傾たちぬるは、左右なふ
とてかへす【返す】事かたければ、倶梨迦羅が谷
へわれ先にとぞおとし【落し】ける。まさきにすす
む【進む】だる者がみえ【見え】ねば、「此谷の底に道のある
にこそ」とて、親おとせ【落せ】ば子もおとし【落し】、兄
おとせ【落せ】ば弟もつづく。主おとせ【落せ】ば家子郎
等おとし【落し】けり。馬には人、ひと【人】には馬、落かさ
なり落かさなり、さばかり深き谷一つを平家の
P07040
勢七万余騎でぞうめたりける。巖泉
血をながし、死骸岳をなせり。されば其
谷[B ノ]ほとりには、矢の穴刀の疵残て今に
ありとぞ承はる。平家の方にはむねと
たのま【頼ま】れたりける上総大夫判官忠綱・飛
弾大夫判官景高・河内判官秀国も此谷
にうづもれ【埋もれ】てうせにけり。備中国住人瀬尾
太郎兼康といふ聞ゆる大力も、そこにて
加賀国住人蔵光次郎成澄が手にかかて、いけ
P07041
どり【生捕り】にせらる。越前国火打が城にてかへり
忠【返り忠】したりける平泉寺の長吏斎明威儀
師もとらはれぬ。木曾殿、「あまりにくきに、
其法師をばまづきれ」とてきられにけり。
平氏[B ノ]大将維盛・通盛、けう[B 「けう」に「希有」と傍書]の命生て加賀
の国へ引退く。七万余騎がなかよりわづかに
二千余騎ぞのがれ【逃れ】たりける。明る十二日、奥の
秀衡がもとより木曾殿へ竜蹄二疋奉る。
一疋はくろ月毛、一疋はれんぜんあしげなり。
P07042
やがて是に鏡鞍をい【置い】て、白山の社へ神馬
にたてられけり。木曾殿の給ひけるは、
「今はおもふ【思ふ】事なし。但十郎蔵人殿の志保
のいくさ【軍】こそおぼつかなけれ。いざゆい【行い】て
見む」とて、四万余騎〔が中より〕馬や人をすぐて、二万
余騎で馳むかふ【向ふ】。ひび[B みイ]の湊をわたさんとする
に、折節塩みちて、ふかさ【深さ】あささをしら【知ら】ざり
ければ、鞍をき馬【鞍置き馬】十疋ばかりをひ【追ひ】入たり。
鞍爪ひたる【浸る】程に、相違なくむかひ【向ひ】の岸へ
P07043
着にけり。「浅かりけるぞや、わたせ【渡せ】や」とて、二
万余騎の大勢皆打入てわたしけり。案
のごとく十郎蔵人行家、散々にかけなされ、
ひき【引き】退いて馬の息休る処に、木曾殿「され
ばこそ」とて、荒手二万余騎入かへて、平
家三万余騎が中へおめい【喚い】てかけ入、もみに
もふで火出るほど【程】にぞ攻たりける。平家の
兵共しばしささへて防きけれ共、こらへずし
てそこをも遂に攻おとさ【落さ】る。平家の方には、
P07044
大将軍三河守知教【*知度】うた【討た】れ給ひぬ。是は入
道相国の末子也。侍共おほく【多く】ほろびにけり。
木曾殿は志保の山打こえて、能登の
『篠原合戦』S0707
小田中、新王の塚の前に陣をとる。○そこ
にて諸社へ神領をよせられけり。白山へは
横江・宮丸、すがう【菅生】の社へはのみ【能美】の庄、多田の
八幡へはてう屋【蝶屋】の庄、気比の社へははん原【飯原】
の庄を寄進す。平泉寺へは藤島七郷
をよせられけり。一とせ石橋の合戦の時、
P07045
兵衛佐殿射たてま【奉つ】し者ども【共】都へにげのぼ【上つ】
て、平家の方にぞ候ける。むねとの者には
俣野五郎景久・長井斎藤別当実守【*実盛】・
伊藤【*伊東】九郎助氏【*祐氏】・浮巣三郎重親・ましも【真下】の四郎
重直、是等はしばらくいくさ【軍】のあらんまでやす
まんとて、日ごとによりあひよりあひ、巡酒をして
ぞなぐさみ【慰さみ】ける。まづ実守【*実盛】が許によりあひ
たりける時、斎藤別当申けるは、「倩此世中の
有様をみる【見る】に、源氏の御方はつよく、平家
P07046
の御方はまけ色【負色】にみえ【見え】させ給ひけり。いざ
をのをの【各々】木曾殿へまいら【参ら】ふ」ど申ければ、みな
「さなう」と同じけり。次日又浮巣三郎が許
によりあひたりける時、斎藤別当「さても
昨日申し事はいかに、をのをの【各々】」。そのなかに俣野
五郎すすみ出て申けるは、「我等はさすが東
国では皆、人にしられて名ある者でこそ
あれ、吉についてあなたへまいり【参り】、こなたへ
まいら【参ら】ふ事もみ【見】ぐるしかる【苦しかる】べし。人をば
P07047
しり【知り】まいらせ【参らせ】ず、景久にをいては平家の
御方にていかにもならふ」ど申ければ、斎藤
別当あざわら【笑つ】て、「まこと【誠】には、をのをの【各々】の
御心どもをかなびき奉らんとてこそ申
たれ。其上さねもり【実盛】は今度のいくさ【軍】に討死
せふど思きて候ぞ。二たび【二度】都へまいる【参る】まじ
き由人々にも申をい【置い】たり。大臣殿へも此
やうを申上て候ぞ」といひければ、みな人
此儀にぞ同じける。さればその約束をたが
P07048
へ【違へ】じとや、当座にありしものども【者共】、一人も残
らず北国にて皆死にけるこそむざん
なれ。さる程に、平家は人馬のいきをやす
め【休め】て、加賀国しの原【篠原】に陣をとる。同五月
廿一日の辰の一点に、木曾しの原【篠原】におし【押し】
よせ【寄せ】て時をどとつくる。平家の方には
畠山庄司重能・小山田の別当有重、去る治
承より今までめし【召し】こめられたりしを、
「汝等はふるい【古い】者共也。いくさ【軍】の様をもをき
P07049
てよ【掟てよ】」とて、北国へむけられたり。是等兄弟
三百余騎で陣のおもてにすすんだり。
源氏の方より今井四郎兼平三百余騎
でうちむかふ【向ふ】。畠山、今井四郎、はじめは互に
五騎十騎づつ出しあはせ【合はせ】て勝負をせさ
せ、後には両方乱あふ【逢う】てぞたたかひ【戦ひ】ける。
五月廿一日の午剋、草もゆるがず照す日に、
我をとらじとたたかへば、遍身より汗
出て水をながすに異ならず。今井が方にも
P07050
兵おほく【多く】ほろびにけり。畠山、家子郎等
残ずくなに討なされ、力をよば【及ば】でひき【引き】
しりぞく【退く】。次平家のかた【方】より高橋判官
長綱、五百余騎ですすむ【進む】だり。木曾殿の
方より樋口次郎兼光・おちあひの五郎兼
行、三百余騎で馳向ふ。しばしささへて
たたかひ【戦ひ】けるが、高橋が勢は国々のかり武者【駆武者】
なれば、一騎もおち【落ち】あはず、われさき【先】にとこそ
おちゆき【落ち行き】けれ。高橋心はたけくおもへ【思へ】共、うしろ
P07051
あばらになりければ、力及ばで引退く。
ただ一騎落て行ところ【所】に、越中国の
住人入善の小太郎行重、よい敵と目をかけ、
鞭あぶみをあはせ【合はせ】て馳来り、おしならべて
むずとくむ。高橋、入善をつかうで、鞍の前
輪におしつけ、「わ君はなにもの【何者】ぞ、名のれ
きかふ」どいひければ、「越中国の住人、入善小太
郎行重、生年十八歳」となのる【名乗る】。「あなむざん、
去年をくれ【遅れ】し長綱が子も、ことしはあらば
P07052
十八歳ぞかし。わ君ねぢきてすつべけれ共、
たすけ【助け】ん」とてゆるしけり。わが身も馬
よりおり、「しばらくみかた【味方】の勢またん」とて
やすみゐたり。入善「われをばたすけ【助け】たれ共、
あぱれ敵や、いかにもしてうたばや」と思ひ
居たる処に、高橋うちとけて物語しけり。
入善すぐれ【勝れ】たるはやわざのおのこ【男】で、刀を
ぬき、とんでかかり、高橋がうちかぶとを二
刀さす。さる程に、入善が郎等三騎、をくれ【遅れ】
P07053
ばせ【馳】に来ておち【落ち】あふたり。高橋心はたけくおもへ【思へ】ども、運やつきにけん、敵はあまたあり、
いた手【痛手】はおふ【負う】つ、そこにて遂にうた【討た】れにけり。
又平家のかたより武蔵三郎左衛門有国、三
百騎ばかりでおめい【喚い】てかく。源氏の方より
仁科・高梨・山田次郎、五百余騎で馳むかふ【向ふ】。
しばしささへてたたかひ【戦ひ】けるが、有国が方の
勢おほく【多く】うた【討た】れぬ。有国ふか入【深入り】してたたかふ【戦ふ】
ほど【程】に、矢だね皆い【射】つくして、馬をもい【射】させ、
P07054
かちだちになり、うち物【打物】ぬいてたたかひ【戦ひ】けるが、
敵あまたうちとり、矢七つ八い【射】たてられて、
立じににこそ死にけれ。大将か様【斯様】になり【成り】し
『真盛【*実盛】』S0708
かば、其勢みな【皆】落行ぬ。○又武蔵国の住人
長井斎藤別当実守【*実盛】、みかた【御方】は皆おち【落ち】ゆけ
共、ただ一騎かへしあはせ【合はせ】返しあはせ【合はせ】防
たたかふ【戦ふ】。存るむねあり【有り】ければ、赤地の錦
の直垂に、もよぎおどしの鎧きて、くわがた
うたる甲の緒をしめ、金作りの太刀をはき、
P07055
きりう【切斑】の矢おひ【負ひ】、滋藤の弓もて、連銭葦
毛なる馬にきぶくりん【黄覆輪】の鞍をい【置い】てぞ
の【乗つ】たりける。木曾殿の方より手塚の太郎
光盛、よい敵と目をかけ、「あなやさし、いか
なる人にて在せば、み方の御勢は皆落候
に、ただ一騎のこらせ給ひたるこそゆう【優】
なれ。なのら【名乗ら】せ給へ」と詞をかけければ、「かういふ
わとのはた【誰】そ」。「信濃国の住人手塚太郎金
刺光盛」とこそなの【名乗つ】たれ。「さてはたがひによい敵
P07056
ぞ。但わとのをさぐるにはあらず、存るむねが
あれば名のるまじひぞ。よれくまふ手塚」とて
おしならぶる処に、手塚が郎等をくれ【遅れ】馳に
はせ来て、主をうたせじとなかにへだたり、
斎藤別当にむずとくむ。「あぱれ、をのれ【己】は
日本一の剛の者とぐんでうず【組んでうず】な、うれ」とて、とて
引よせ、鞍のまへわにおしつけ、頸かききて
捨てげり。手塚太郎、郎等がうたるるをみて、
弓手にまはりあひ、鎧の草摺ひき【引き】あげて
P07057
二刀さし、よはる【弱る】処にくんでおつ。斎藤別当
こころ【心】はたけくおもへ【思へ】ども、いくさ【軍】にはしつかれ【疲れ】ぬ、
其上老武者ではあり、手塚が下になりに
けり。又手塚が郎等をくれ【遅れ】馳に出できたるに
頸とらせ、木曾殿の御まへに馳まい【参つ】て、「光盛
こそ奇異のくせ者【曲者】くんでう【打つ】て候へ。侍かと見
候へば錦の直垂をきて候。大将軍かと見
候へばつづく勢も候はず。名のれ名のれとせめ
候つれども、終になのり【名乗り】候はず。声は坂東
P07058
声で候つる」と申せば、木曾殿「あぱれ、是は
斎藤別当であるごさんめれ。それならば
義仲が上野へこえたりし時、おさな目【幼目】に
み【見】しかば、しらがのかすを【糟尾】なりしぞ。いまは定而
白髪にこそなりぬらんに、びんぴげのくろい
こそあやしけれ。樋口次郎はなれ【馴れ】あそでみ【見】
したるらん。樋口めせ」とてめされけり。樋口次郎
ただ一目みて、「あなむざんや、斎藤別当で
候けり」。木曾殿「それならば今は七十にも
P07059
あまり、白髪にこそなりぬらんに、びんぴげ
のくろいはいかに」との給へ【宣へ】ば、樋口次郎涙を
はらはらとながひ【流い】て、「さ候へばそのやうを申あ
げうど仕候が、あまり哀で不覚の涙のこぼれ
候ぞや。弓矢とりはいささかの所でも思ひいでの
詞をば、かねてつかひをく【置く】べきで候ける物
かな。斎藤別当、兼光にあふ【逢う】て、つねは物語に
仕候し。「六十にあまていくさ【軍】の陣へむかは【向は】ん
時は、びんぴげをくろう【黒う】染てわかやがふどおもふ【思ふ】
P07060
なり。其故は、わか殿原【若殿原】にあらそひてさき
をかけんもおとなげなし、又老武者とて
人のあなどらんも口惜かるべし」と申候しが、
まこと【誠】に染て候けるぞや。あらは【洗は】せて御らん
候へ」と申ければ、「さもあるらん」とて、あらはせ
て見給へば、白髪にこそ成にけれ。錦の
直垂をきたりける事は、斎藤別当、最後
のいとま申に大臣殿へまい【参つ】て申けるは、「さね
もり【実盛】が身ひとつ【一つ】の事では候はねども、一年東
P07061
国へむかひ【向ひ】候し時、水鳥の羽音におどろいて、
矢ひとつ【一つ】だにも射ずして、駿河のかん原【蒲原】より
にげのぼ【上つ】て候し事、老後の恥辱ただ此
事候。今度北国へむかひ【向ひ】ては、討死仕候べし。さ
らんにとては、実守【*実盛】もと越前国の者で候し
かども、近年御領につい【付い】て武蔵の長井に
居住せしめ候き。事の喩候ぞかし。古郷へ
は錦をきて帰れといふ事の候。錦の直
垂御ゆるし候へ」と申ければ、大臣殿「やさしう
P07062
申たる物かな」とて、錦の直垂を御免あり【有り】
けるとぞ聞えし。昔の朱買臣は錦の
袂を会稽山に翻し、今の斎藤別当は其
名を北国の巷にあぐとかや。朽もせぬむな
しき【空しき】名のみとどめ【留め】をきて、かばねは越路
の末の塵となるこそかなしけれ。去四月十
七日、十万余騎にて都を立し事がらは、なに
面をむかふ【向ふ】べしともみえざりしに、今五月下
旬に帰りのぼるには、其勢わづかに二万余騎、
P07063
「流をつくしてすなどる時は、おほく【多く】のうを【魚】を
う【得】といへども、明年に魚なし。林をやいて
かる【狩る】時は、おほく【多く】のけだもの【獣】をう【得】といへども、
明年に獣なし。後を存じて少々はのこ
さるべかりける物を」と申人々もあり【有り】けると
『還亡』S0709
かや。○上総督忠清、飛弾督景家は、おととし入道
相国薨ぜられける時、ともに出家したりけるが、
今度北国にて子ども皆亡びぬときいて
其おもひのつもりにや、つゐに【遂に】なげき死にぞ
P07064
しににける。是をはじめておやは子にをくれ、
婦は夫にわかれ、凡遠国近国もさこそあり
けめ、京中には家々に門戸を閉て、声々
に念仏申おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】事おびたたし【夥し】。六月
一日、蔵人右衛門権佐定長、神祇権少副大中臣
親俊を殿上の下口へめし【召し】て、兵革しづまらば、
大神宮へ行幸なるべきよし仰下さる。大神
宮は高間[B ノ]原より天くだらせ給ひしを、崇神
天皇の御宇廿五年三月に、大和国笠縫の里
P07065
より伊勢国わたらひ【度会】の郡五十鈴の河上、
したつ石根【下津石根】に大宮柱をふとしきたて【太敷立て】、
祝そめたてま【奉つ】てよりこのかた、日本六十
余州、三千七百五十余社の、大小の神祇
冥道のなかには無双也。され共代々の御
門臨幸はなかりしに、奈良御門の御時、
左大臣不比等の孫、参議式部卿宇合
の子、右近衛[B ノ]権少将兼太宰少弐藤原広
嗣といふ人あり【有り】けり。天平十五年十月、
P07066
肥前国松浦郡にして、数万の凶賊を
かたらて国家を既にあやぶめんとす。是
によて大野のあづま人を大将軍にて、
広嗣追討せられし時、はじめて大神宮
へ行幸なりけるとかや。其例とぞ聞えし。
彼広嗣は肥前の松浦より都へ一日におり
のぼる馬を持たりけり。追討せられし
時も、みかた【御方】の凶賊おち【落ち】ゆき、皆亡て後、
件の馬にうちの【乗つ】て、海中へ馳入けるとぞ
P07067
聞えし。その亡霊あれ【荒れ】て、おそろしき【恐ろしき】事
ども【共】おほかり【多かり】けるなかに、天平十六年
六月十八日、筑前国みかさ【見笠】の郡太宰府
の観世音寺、供養ぜられける導師には、
玄房僧正とぞきこえ【聞え】し。高座にのぼり、
敬白の鐘うちならす時、俄に空かき曇、
雷ちおびたたしう【夥しう】鳴て、玄房の上に
おち【落ち】かかり、その首をとて雲のなかへぞ
入にける。広嗣調伏したりけるゆへ【故】とぞ
P07068
聞えし。彼僧正は、吉備大臣入唐の時あひ【相】
ともなて、法相宗わたしたりし人也。
唐人が玄房といふ名をわら【笑つ】て、「玄房とは
〔かへ【還つ】て〕ほろぶ【亡ぶ】といふ音あり【有り】。いか様にも帰朝の後
事にあふべき人なり」と相したりける
とかや。同天平十九年六月十八日、しやれかう
べ【髑髏】に玄房といふ銘をかいて、興福寺の庭
におとし【落し】、虚空に人ならば千人[B 「千」に「二三百イ」と傍書]ばかりが声
で、どとわらふ【笑ふ】事あり【有り】けり。興福寺は
P07069
法相宗の寺たるによて也。彼僧正の弟
子共是をとてつか【塚】をつき、其首をおさ
め【納め】て頭墓と名付て今にあり【有り】。是則
広嗣が霊のいたす【致す】ところ【所】なり。是によて
彼亡霊を崇られて、今松浦の鏡の宮と
号す。嵯峨皇帝の御時は、平城の先帝、
内侍のかみのすすめによて世をみだり給ひ
し時、その御祈の為に、御門第三皇女ゆう
ち【有智】内親王を賀茂の斎院にたてまいらせ【立て参らせ】
P07070
給ひけり。是斎院のはじめ也。朱雀院の
御宇には、将門・純友が兵乱によて、八幡の
臨時の祭をはじめらる。今度もかやう【斯様】の
例をもてさまざまの御祈共はじめられけり。
『木曾山門牒状』S0710
○木曾、越前の国府について、家子郎等めし【召し】
あつめ【集め】て評定す。「抑義仲近江国をへ
てこそ都へはいらむずるに、例の山僧共は
防事もやあらんずらん。かけ【駆け】破てとをら【通ら】ん
事はやすけれ共、平家こそ当時は仏法とも【共】
P07071
いはず、寺をほろぼし、僧をうしなひ【失ひ】、悪行を
ばいたせ、それを守護の為に上洛せんものが、
平家とひとつ【一つ】なればとて、山門の大衆にむ
か【向つ】ていくさ【軍】せん事、すこし【少し】もたがは【違は】ぬ二の
舞なるべし。是こそさすがやす大事【安大事】よ。いかが
せん」との給へ【宣へ】ば、手書に具せられたる大夫房
覚明申けるは、「山門の衆徒は三千人候。必ず
一味同心なる事は候はず、皆思々心々に候也。
或は源氏につかんといふ衆徒も候らん、或は又
P07072
平家に同心せんといふ大衆も候らん。牒状を
つかはし【遣し】て御覧候へ。事のやう【様】返牒にみえ【見え】候
はんずらむ」と申ければ、「此儀尤しかる【然る】べし。
さらばかけ【書け】」とて、覚明に牒状かかせて、山門へ
をくる【送る】。其状に云、義仲倩平家の悪逆を
見るに、保元平治よりこのかた、ながく人臣の
礼をうしなふ【失ふ】。雖然、貴賎手をつかね、緇素
足をいただく。恣に帝位を進退し、あく【飽く】
まで国郡をりよ領【虜領】す。道理非理を論ぜず、
P07073
権門勢家を追補【*追捕】し、有財無財をいはず、
卿相侍臣を損亡す。其資財を奪取て
悉郎従にあたへ、彼庄園を没取して、
みだり
がはしく子孫にはぶく。就中に去治承三年
十一月、法皇を城南の離宮に移し奉る。
博陸を海城の絶域に流し奉る。衆庶物
いはず、道路目をもてす。しかのみならず、同四年
五月、二の宮の朱閣をかこみ奉り、九重の垢
塵をおどろかさしむ。爰に帝子非分の害
P07074
をのがれ【逃れ】んがために、ひそかに園城寺へ入御
の時、義仲先日に令旨を給るによて、鞭を
あげんとほする処に、怨敵巷にみちて予
参道をうしなふ。近境の源氏猶参候せず、況
や遠境においてをや。しかる【然る】を園城は分限
なきによて南都へおもむか【赴むか】しめ給ふ間、宇治
橋にて合戦す。大将三位入道頼政父子、命を
かろんじ、義をおもんじて、一戦の功をはげま
すといへども、多勢のせめ【攻め】をまぬかれ【免かれ】ず、形骸
P07075
を古岸の苔にさらし、性命を長河の浪に
ながす。令旨の趣肝に銘じ、同類のかなしみ
魂をけつ。是によて東国北国の源氏等をの
をの【各々】参洛を企て、平家をほろぼさんとほす。
義仲去じ年の秋、宿意を達せんが為に、
旗をあげ剣をとて信州を出し日、越後
の国の住人城四郎ながもち【長茂】、数万の軍兵
を率して発向せしむる間、当国横田川原
にして合戦す。義仲わづかに三千余騎を
P07076
もて、彼数万の兵を破りおはぬ。風聞ひろ
きに及で、平氏の大将十万の軍士を率
して北陸に発向す。越州・賀州・砥浪・黒坂・塩
坂・篠原以下の城郭にして数ケ度合戦す。
策を惟幕の内にめぐらして、勝事を咫
尺のもとにえたり。しかる【然る】をうてば必ず伏し、
せむれば必ずくだる。秋の風の芭蕉を破に
異ならず、冬の霜の群葉をからす【枯らす】に同じ。
是ひとへに神明仏陀のたすけ【助け】也。更に義仲が
P07077
武略にあらず。平氏敗北のうへ【上】は参洛を企る
者也。今叡岳の麓を過て洛陽の衢に
いる【入る】べし。此時にあたてひそかに疑貽【*疑殆】あり【有り】。抑天
台衆徒平家に同心歟、源氏に与力歟。若彼
悪徒をたすけ【助け】らるべくは、衆徒にむか【向つ】て合
戦すべし。若合戦をいたさば叡岳の滅亡踵
をめぐらすべからず。悲哉、平氏震襟【*宸襟】を悩し、
仏法をほろぼす間、悪逆をしづめんがために
義兵を発す処に、忽に三千の衆徒に向て
P07078
不慮の合戦を致ん事を。痛哉、医王山王に
憚奉て、行程に遅留せしめば、朝廷緩
怠の臣として武略瑕瑾のそしりをのこ
さん事を。みだりがはしく進退に迷て案内
を啓する所也。乞願は三千の衆徒、神のため、〔仏のため、〕
国のため、君の為に、源氏に同心して凶徒を
誅し、鴻化に浴せん。懇丹の至に堪ず。義仲
恐惶謹言。寿永二年六月十日源義仲進上
『返牒』S0711
恵光坊律師御房とぞかい【書い】たりける。○案のごとく、
P07079
山門の大衆此状を披見して、僉議まちまち
なり。或は源氏につかんといふ衆徒もあり、或は
又平家に同心せんといふ大衆もあり【有り】。おもひおもひ【思ひ思ひ】
異儀まちまち也。老僧共の僉議しけるは、「詮る
所、我等もぱら【専ら】金輪聖主天長地久と祈奉る。平
家は当代の御外戚、山門にをいて帰敬をいたさる。
されば今に至るまで彼繁昌を祈誓す。し
かりといへども、悪行法に過て万人是を背
く。討手を国々へつかはす【遣す】といへ共、かへて【却つて】異賊
P07080
のためにほろぼさる。源氏は近年より
このかた、度々のいくさ【軍】に討勝て運命ひら
けんとす。なんぞ当山ひとり宿運つき
ぬる平家に同心して、運命ひらくる源
氏をそむかんや。すべからく平家値遇の儀
を翻して、源氏合力の心に住すべき」よし、一
味同心に僉議して、返牒ををくる【送る】。木曾殿
又家子郎等めし【召し】あつめ【集め】て、覚明に此返牒
をひらかせらる。六月十日の牒状、同十六日到
P07081
来、披閲のところ【所】に数日の鬱念一時に
解散す。凡平家の悪逆累年に及で、
朝廷の騒動やむ時なし。事人口にあり、
異失するにあたはず。夫叡岳にいたては、
帝都東北の仁祠として、国家静謐の精
祈をいたす。しかる【然る】を一天久しく彼夭逆に
をかされて、四海鎮に其安全をえず。顕密
の法輪なきが如く、擁護の神威しばしば
すたる。爰貴下適累代武備の家に生て、
P07082
幸に当時政善【*精撰】の仁たり。予奇謀をめぐ
らして忽に義兵をおこす。万死の命を
忘て一戦の功をたつ。其労いまだ両年を
すぎざるに其名既に四海にながる。我
山の衆徒、かつがつ以承悦す。国家のため、累家
のため、武功を感じ、武略を感ず。かくのごと
く【如く】ならば則山上の精祈むなしからざる事
を悦び、海内の恵護おこたりなき事をしん【知ん】
ぬ。自寺他寺、常住の仏法、本社末社、祭奠
P07083
の神明、定て教法の二たび【二度】さかへ【栄え】ん事を悦び、
崇敬のふるきに服せん事を隨喜し給ふ
らむ。衆徒等が心中、只賢察をたれよ【垂れよ】。然則、
冥には十二神将、忝く医王善逝の使者と
して凶賊追討の勇士にあひくははり【加はり】、顕に
は三千の衆徒しばらく修学讃仰の勤
節を止て、悪侶治罰の官軍をたすけし
めん。止観十乗の梵風は奸侶を和朝の外に
払ひ、瑜伽三蜜【三密】の法雨は時俗を尭年の
P07084
昔にかへさ【返さ】ん。衆儀かくの如し。倩是を察よ。
寿永二年七月二日大衆等とぞかいたりける。
『平家山門連署』S0712
○平家はこれをしら【知ら】ずして、「興福園城両寺は
鬱憤をふくめる折節なれば、かたらふとも【共】
よもなびかじ。当家はいまだ山門のためにあた
をむすばず、山門又当家のために不忠を存
ぜず。山王大師に祈誓して、三千の衆徒を
かたらはばや」とて、一門の公卿十人、同心連署
の願書をかいて山門へ送る。其状に云、敬白、
P07085
延暦寺をもて氏寺に准じ、日吉の社を
もて氏社として、一向天台の仏法を仰べ
き事。右当家一族の輩、殊に祈誓する事
あり【有り】。旨趣如何者、叡山は是桓武天皇の
御宇、伝教大師入唐帰朝の後、円頓の教
法を此所にひろめ、遮那の大戒を其内に
伝てよりこのかた、専仏法繁昌の霊崛と
して、鎮護国家の道場にそなふ。方に今、
伊豆国の流人源頼朝、其身の咎を悔ず、
P07086
かへて【却つて】朝憲を嘲る。しかのみならず奸謀
にくみして同心をいたす源氏等、義仲行家
以下党を結て数あり。隣境遠境数国を
掠領し、土宜土貢万物を押領す。これに
よて或は累代勲功の跡をおひ、或当時
弓馬の芸にまかせ【任せ】て、速に賊徒を追
討し、凶党を降伏すべき由、いやしくも勅
命をふくん【含ん】で、頻に征罰を企つ。爰に
魚鱗鶴翼の陣、官軍利をえず、聖謀
P07087
先戟【*電戟】の威、逆類勝に乗に似たり。若神明仏
陀の加備にあらずは、争か反逆の凶乱をしづ
めん〔是を以て、一向天台之仏法に帰し、不退日吉の神恩を憑み奉る〕耳。何況や、忝く臣等が曩祖をおもへ【思へ】ば、
本願の余裔といつべし。弥崇重すべし、弥
恭敬すべし。自今以後山門に悦あらば一門
の悦とし、社家に憤あらば一家の憤とし
て、をのをの【各々】子孫に伝てながく失堕せじ。
藤氏は春日社興福寺をもて氏社氏寺
として、久しく法相大乗の宗を帰す。平氏は
P07088
日吉社延暦寺をもて氏社氏寺として、まのあた
り円実頓悟の教に値遇せん。かれはむかし
のゆい跡【遺跡】[M 「ゆく跡」とあり「ゆく」をミセケチ「ユイ」と傍書]也、家のため、栄幸をおもふ【思ふ】。これは
今の精祈也、君のため、追罰をこふ【乞ふ】。仰願は、
山王七社王子眷属、東西満山護法聖衆、十二
上願日光月光、医王善逝、無二の丹誠を照
して唯一の玄応を垂給へ。然則じやぼう【邪謀】逆臣
の賊、手を君門につかね、暴逆残害の輩、
首を京土に伝ん。仍当家の公卿等、異口同音に
P07089
雷をなして祈誓如件。従三位ぎやう【行】けん【兼】越
前守平朝臣通盛従三位行兼右近衛中将
平朝臣資盛正三位行左近衛権中将兼伊与【*伊予】
守平朝臣維盛正三位行左近衛中将兼播磨[* 「幡摩」と有るのを他本により訂正]守
平朝臣重衡正三位行右衛門督兼近江遠江守
平朝臣清宗参議正三位皇大后宮大夫兼修
理大夫加賀越中守平朝臣経盛従二位行中
納言兼左兵衛督征夷大将軍平朝臣知盛従
二位行権中納言兼肥前守平朝臣教盛正弐位
P07090
行権大納言兼出羽陸奥按察使平朝臣頼盛
従一位平朝臣宗盛寿永二年七月五日敬白と
ぞかかれたる。貫首是を憐み給ひて、左右
なふも披露せられず、十禅師の御殿にこめ
て、三日加持して、其後衆徒に披露せらる。はじ
めはありともみえ【見え】ざりし一首の歌、願書の
うは巻【上巻】にできたり。
たいらか【平か】に花さくやど【宿】も年ふれば
西へかたぶく月とこそなれ W050
P07091
山王大師あはれみをたれ給ひ、三千の衆徒力
を合せよと也。されども年ごろ日比のふる
まひ【振舞】、神慮にもたがひ【違ひ】、人望にもそむきに
ければ、いのれどもかなは【叶は】ず、かたらへ共なびかざり
けり。大衆まこと【誠】に事の体をば憐みけれ共、
「既に源氏に同心の返牒ををくる【送る】。今又かろ
がろしく其儀をあらたむるにあたはず」とて、
『主上都落』S0713
是を許容する衆徒もなし。○同七月十四日、
肥後守貞能、鎮西の謀反たいらげ【平げ】て、菊池・原
P07092
田・松浦党以下三千余騎をめし【召し】ぐし【具し】て上洛
す。鎮西は纔にたいらげ【平げ】ども、東国北国のいくさ【軍】
いかにもしづまらず。同廿二日の夜半ばかり、六
波羅の辺おびたたしう【夥しう】騒動す。馬に鞍をき【置き】
腹帯しめ、物共東西南北へはこびかくす。ただ
今敵のうち入さまなり。あけて後聞えしは、
美濃源氏佐渡衛門尉重貞といふ者あり、一とせ
保元の合戦の時、鎮西の八郎為朝がかた【方】の
いくさ【軍】にまけて、おちうとになたりしを、から
P07093
めていだしたりし勧賞に、もとは兵衛尉
たりしが右衛門尉になりぬ。是によて一門
にはあたま【仇ま】れて平家にへつらひけるが、其
夜の夜半ばかり、六波羅に馳まい【参つ】て申ける
は、「木曾既に北国より五万余騎でせめ【攻め】の
ぼり、比叡山東坂本にみちみちて候。郎等に
楯の六郎親忠、手書に大夫房覚明、六千余
騎で天台山にきをひ【競ひ】のぼり、三千の衆徒皆
同心して唯今都へ攻入」よし申たりける故也。
P07094
平家の人々大にさはい【騒い】で、方々へ討手をむ
けられけり。大将軍には、新中納言知盛卿、
本三位中将重衡卿、都合其勢三千余騎、
都を立てまづ山階に宿せらる。越前三位
通盛、能登守教経、二千余騎で宇治橋をかた
めらる。左馬頭行盛、薩摩守忠教【*忠度】、一千余騎
で淀路を守護せられけり。源氏の方には
十郎蔵人行家、数千騎で宇治橋より入とも
聞えけり。陸奥新判官義康が子、矢田判官
P07095
代義清、大江山をへて上洛すとも申あへり。
摂津国河内の源氏等、雲霞のごとく【如く】に同
都へみだれ入よし聞えしかば、平家の人々
「此上はただ一所でいかにもなり給へ」とて、
方々へむけられたる討手共、都へ皆よびかへ
さ【返さ】れけり。帝都名利地、鶏鳴て安き事なし。
おさまれ【納まれ】る世だにもかくのごとし【如し】。況や乱たる
世にをいてをや。吉野山の奥のおくへも
入なばやとはおぼしけれども、諸国七道悉
P07096
そむきぬ。いづれの浦かおだしかるべき。三
界無安猶如火宅とて、如来の金言一乗の
妙文なれば、なじかはすこし【少し】もたがふ【違ふ】べき。
同七月廿四日のさ夜ふけがたに、前内大臣宗
盛公、建礼門院のわたらせ給ふ六波羅殿へ
まい【参つ】て申されけるは、「此世のなか【中】のあり様、さり
ともと存候つるに、いまはかうにこそ候めれ。
ただ都のうちでいかにもならんと、人々は申
あはれ候へ共、まのあたりうき目をみせ【見せ】まいら
P07097
せ【参らせ】むも口惜候へば、院をも内をもとり奉
て、西国のかた【方】へ御幸行幸をもなしまいら
せ【参らせ】て見ばやとこそ思ひなて候へ」と申され
ければ、女院「今はただともかうも、そこのはか
らひにてあらんずらめ」とて、御衣の御袂に
あまる御涙せきあへさせ給はず。大臣殿も
直衣の袖しぼる計にみえ【見え】られけり。其夜
法皇をば内々平家のとり奉て、都の外へ
落行べしといふ事をきこしめさ【聞し召さ】れてや
P07098
あり【有り】けん、按察大納言資方【*資賢】卿の子息、右馬頭
資時計御供にて、ひそかに御所を出させ
給ひ、鞍馬へ御幸なる。人是をしらざりけり。
平家の侍橘内左衛門尉季康といふ者あり【有り】。
さかざか【賢々】しきおのこ【男】にて、院にもめし【召し】つかは【使は】れ
けり。其夜しも法住寺殿に御とのゐして
候けるに、つねの御所のかた、よにさはがしう【騒がしう】ささ
めきあひて、女房達しのびね【忍び音】になきなど
し給へば、何事やらんと聞程に、「法皇の俄に
P07099
見えさせ給はぬは。いづ方へ御幸やらん」といふ
声にききなしつ。「あなあさまし」とて、やがて
六波羅へ馳まいり【参り】、大臣殿に此由申ければ、
「いで、ひが事【僻事】でぞあるらむ」との給ひながら、
ききもあへず、いそぎ法住寺殿へ馳まい【参つ】て見
まいらせ【参らせ】給へば、げにみえ【見え】させ給はず。御前に
候はせ給ふ女房達、二位殿丹後殿以下一人も
はたらき【働き】給はず。「いかにやいかに」と申されけれ
共、「われこそ御ゆくゑ【行方】しりまいらせ【参らせ】たれ」と申さるる
P07100
人一人もおはせず、皆あきれたるやうなり
けり。さる程に、法皇都の内にもわたらせ
給はずと申程こそあり【有り】けれ、京中の騒動
なのめならず。況や平家の人々のあはて【慌て】さは
が【騒が】れけるありさま【有様】、家々に敵の打入たりとも【共】、
かぎりあれば、是には過じとぞ見えし。日比
は平家院をも内をもとりまいらせ【参らせ】て、
西国の方へ御幸行幸をもなし奉らんと支度
せられたりしに、かく打すてさせ給ひぬれば、
P07101
たのむ【頼む】木のもとに雨のたまらぬ心地ぞせら
れける。「さりとては行幸ばかりなり共なし
まいらせよ【参らせよ】」とて、卯剋ばかりに既に行幸
のみこし【御輿】よせたりければ、主上は今年六
歳、いまだいとけなうましませば、なに心も
なうめされけり。国母建礼門院御同輿にまいら【参ら】
せ給ふ。内侍所、神璽、宝剣わたし奉る。「印鑰、
時の札、玄上、鈴か【鈴鹿】などもとりぐせよ【具せよ】」と平大
納言下知せられけれども、あまりにあはて【慌て】さは
P07102
い【騒い】でとりおとす【落す】物ぞおほかり【多かり】ける。日の御座の
御剣などもとりわすれさせ給ひけり。やがて
此時忠卿、子息蔵頭信基、讃岐中将時実三
人ばかりぞ、衣冠にて供奉せられける。近衛
づかさ、御綱のすけ、甲冑をよろひ【鎧ひ】、弓箭を
帯して供奉せらる。七条を西へ、朱雀を南
へ行幸なる。明れば七月廿五日也。漢天既に
ひらきて、雲東嶺にたなびき、あけがたの
月しろく【白く】さえ【冴え】て、鶏鳴又いそがはし【忙がはし】。夢に
P07103
だにかかる事は見ず。一とせ宮こ【都】うつり
とて俄にあはたたしかりしは、かかるべかりける
先表とも【共】今こそおもひ【思ひ】しられけれ。摂政殿
も行幸に供奉して御出なりけるが、七
条大宮にてびんづら【鬢】ゆひたる童子の御
車の前をつとはしり【走り】とをる【通る】を御覧ずれば、
彼童子の左の袂に、春の日といふ文字ぞ
あらはれ【現はれ】たる。春の日とかいてはかすがとよめば、
法相擁護の春日大明神、大織冠の御末を
P07104
まもら【守ら】せ給ひけりと、たのもしう【頼もしう】おぼしめす【思し召す】
ところ【所】に、件の童子の声とおぼしくて、
いかにせん藤のすゑ葉のかれゆくを
ただ春の日にまかせ【任せ】てや見ん W051
御供に候進藤左衛門尉高直ちかふ【近う】めし【召し】て、「倩
事のていを案ずるに、行幸はなれ共御幸
もならず。ゆく末たのもしから【頼もしから】ずおぼしめす【思し召す】
はいかに」と仰ければ、御牛飼に目を見あはせ【合はせ】
たり。やがて心得て御車をやりかへし、大宮
P07105
のぼりに、とぶが如くにつかまつる。北山の辺知
『維盛都落』S0714
足院へいら【入ら】せ給ふ。○平家の侍越中次郎兵衛
盛次【*盛嗣】、是を承はてをひ【追ひ】とどめ【留め】まいらせ【参らせ】むと頻
にすすみけるが、人々にせいせ【制せ】られてとどまり
けり。小松三位中将維盛は、日比よりおぼしめし【思し召し】
まうけられたりけれ共、さしあたてはかなしかり【悲しかり】
けり。北のかた【方】と申は、故中[B ノ]御門新大納言成親
卿の御むすめ也。桃顏露にほころび、紅粉
眼に媚をなし、柳髪風にみだるるよそほひ、
P07106
又人あるべしとも見え給はず。六代御前
とて、生年十になり給ふ若公【若君】、その妹
八歳の姫君おはしけり。此人々皆をくれ【遅れ】じと
したひ【慕ひ】給へば、三位中将の給ひけるは、「日比
申し様に、われは一門に具して西国の方へ
落行なり。いづくまでも具し奉るべけれ共、
道にも敵待なれば、心やすふ【安う】とをら【通ら】ん事も有
がたし。たとひわれうた【討た】れたりと聞たまふ【給ふ】共、
さまなどかへ給ふ事はゆめゆめ有べからず。その
P07107
ゆへ【故】は、いかならん人にも見えて、身をもたす
け【助け】、おさなき【幼き】もの【者】共をもはぐくみ給ふべし。
情をかくる人もなどかなかるべき」と、やうやう
になぐさめ給へども、北方とかうの返事
もし給はず、ひき【引き】かづきてぞふしたまふ【給ふ】。
すでにうたたんとし給へば、袖にすがて、「都
には父もなし、母もなし。捨られまいらせ【参らせ】て
後、又誰にかはみゆべきに、いかならんひと【人】にも
見えよなど承はるこそうらめしけれ【恨めしけれ】。前世の
P07108
契あり【有り】ければ、人こそ憐み給ふとも【共】、又人ごと
にしもや情をかくべき。いづくまでも友なひ
奉り、同じ野原の露ともきえ、ひとつ【一つ】
底のみくづともならんとこそ契しに、
さればさ夜の寝覚のむつごとは、皆偽に
なりにけり。せめては身ひとつ【一つ】ならばいかが
せん、すてられ奉る身のうさをおもひ【思ひ】し【知つ】てもとど
まりなん、おさなき【幼き】者共をば、誰にみ【見】ゆづり、
いかにせよとかおぼしめす。うらめしう【恨めしう】もとどめ【留め】
P07109
給ふ物かな」と、且はうらみ【恨み】且はしたひ給へば、三位
中将の給ひけるは、「誠に人は十三、われは
十五より見そめ奉り、火のなか水の底へも
ともにいり、ともにしづみ、限ある別路まで
も、をくれ【遅れ】先だたじとこそ申しかども、かく
心うきあり様【有様】にていくさ【軍】の陣へおもむけば、
具足し奉り、ゆくゑ【行方】もしらぬ旅の空にて
うき目を見せ奉らんもうたてかるべし。其
上今度は用意も候はず。いづくの浦にも心
P07110
やすう落ついたらば、それよりしてこそ迎に
人をもたてまつら【奉ら】め」とて、おもひ【思ひ】きてぞたた
れける。中門の廊に出て、鎧とてき【着】、馬ひき【引き】
よせさせ、既にのらんとし給へば、若公【若君】姫君
はしりいで【出で】て、父の鎧の袖、草摺に取つき、
「是はさればいづちへとて、わたらせ給ふぞ。我
もまいら【参ら】ん、われもゆかん」とめんめん【面々】にしたひ
なき給ふにぞ、うき世のきづなとおぼえ
て、三位中将いとどせんかたなげには見えられける。
P07111
さる程に、御弟新三位中将資盛卿・左中将
清経・同少将有盛・丹後侍従忠房・備中守師
盛兄弟五騎、乗ながら門のうちへ打入り、庭に
ひかへて、「行幸は遥にのびさせ給ひぬらん。いか
にや今まで」と声々に申されければ、三位中
将馬にうちの【乗つ】ていで給ふが、猶ひ【引つ】かへし、■の
きはへうちよせて、弓のはずで御簾をざと
かきあげ、「是御覧ぜよ、おのおの。おさなき【幼き】者
共があまりにしたひ候を、とかうこしらへをか【置か】んと
P07112
仕るほど【程】に、存の外の遅参」との給ひもあへず
なか【泣か】れければ、庭にひかへ給へる人々皆鎧
の袖をぞぬらさ【濡らさ】れける。ここに斎藤五、斎藤
六とて、兄は十九、弟は十七になる侍あり【有り】。三位
中将の御馬の左右のみづつきにとりつき【取り付き】、
いづくまでも御供仕るべき由申せば、三位
中将の給ひけるは、「をのれら【己等】が父斎藤別当北
国へくだし時、汝等が頻に供せうどいひしかども、
「存るむねがあるぞ」とて、汝等をとどめ【留め】をき、
P07113
北国へくだて遂に討死したりけるは、かかる
べかりける事を、ふるひ【古い】者でかねて【予て】知たり
けるにこそ。あの六代をとどめ【留め】て行に、心や
すうふち【扶持】すべき者のなきぞ。ただ理をま
げてとどまれ」との給へ【宣へ】ば、力をよば【及ば】ず、涙
ををさへ【抑へ】てとどまりぬ。北方は、「としごろ日
比是程情なかりける人とこそ兼てもおも
は【思は】ざりしか」とて、ふしまろびてぞなかれける。
若公【若君】姫君女房達は、御簾の外までまろび
P07114
出て、人の聞をもはばからず、声をはかりに
ぞおめき【喚き】さけび【叫び】給ひける。此声々耳の底
にとどま【留まつ】て、西海のたつ浪のうへ【上】、吹風の
音までも聞様にこそおもは【思は】れけめ。平家
都を落行に、六波羅・池殿・小松殿、八条・西八条
以下、一門の卿相雲客の家々廿余ケ所、付々
の輩の宿所宿所、京白河に四五万間の在家、一度
『聖主臨幸』S0715
に火をかけて皆焼払ふ。○或は聖主臨幸の
地也、鳳闕むなしく礎をのこし、鸞輿ただ
P07115
跡をとどむ。或后妃遊宴の砌也、椒房の嵐声
かなしみ、腋庭の露色愁ふ。荘香[B 「香」に「鏡」と下部に傍書]翠帳の
もとゐ、戈林【*弋林】釣渚[M 「釣法」とあり「法」をミセケチ「渚」と傍書]の館、槐棘の座、燕鸞のすみか【栖】、
多日の経営をむなしう【空しう】して、片時の灰燼と
なりはてぬ。況や郎従の蓬■にをいて
をや。況や雑人屋舎にをいてをや。余炎
の及ところ【所】、在々所々数十町也。強呉忽に
ほろびて、姑蘇台の露荊棘にうつり、暴
秦すでに衰て、咸陽宮の煙へいげいをかくし【隠し】
P07116
けんも、かくやとおぼえて哀也。日比は函谷二
■のさがしき【嶮しき】をかたう【固う】せしかども、北狄のため
に是を破られ、今は洪河■渭のふかきをた
のん[B 「ん」に「ミ」と傍書]【頼ん】じか共、東夷のために是をとられたり。豈
図きや、忽に礼儀の郷を責いだされて、泣々
無智の境に身をよせんと。昨日は雲の上に
雨をくだす神竜たりき。今日は、肆の辺に
水をうしなふ【失ふ】枯魚の如し。禍福道を同うし、
盛衰掌をかへす【返す】、いま目の前にあり【有り】。誰か是を
P07117
かなしまざらん。保元のむかしは春の花と栄し
かども、寿永の今は秋の紅葉と落はてぬ。去
治承四年七月、大番のために上洛したりける
畠山庄司重能・小山田別当有重・宇津宮左衛門
朝綱、寿永までめし【召し】こめられたりしが、其時
既にきら【斬ら】るべかりしを、新中納言知盛卿申
されけるは、「御運だにつきさせ給ひなば、これら
百人千人が頸をきらせ給ひたり共、世をとら
せ給はん事難かるべし。古郷には妻子所従等
P07118
いかに歎かなしみ候らん。若不思議に運命
ひらけて、又宮古へたちかへらせ給はん時は、あり
がたき御情でこそ候はんずれ。ただ理をまげて
本国へ返し遣さるべうや候らむ」と申されけれ
ば、大臣殿「此儀尤しかる【然る】べし」とて、いとまをたぶ。
これらかうべを地につけ、涙をながい【流い】て申ける
は、「去治承より今まで、かひなき命をた
すけ【助け】られまいらせ【参らせ】て候へば、いづくまでも御供
に候て、行幸の御ゆくゑ【行方】を見まいらせ【参らせ】ん」と頻に
P07119
申けれ共、大臣殿「汝等が魂は皆東国にこそ
あるらんに、ぬけがらばかり西国へめし【召し】ぐす【具す】べ
き様なし。いそぎ下れ」と仰られければ、力なく
涙ををさへ【抑へ】て下りけり。これらも廿余年
『忠教【*忠度】都落』S0716
のしう【主】なれば、別の涙おさへ【抑へ】がたし。○薩摩守
忠教【*忠度】は、いづくよりやかへら【帰ら】れたりけん、侍五騎、
童一人、わが身とも【共】に七騎取て返し、五条
の三位俊成卿の宿所におはして見給へば、
門戸をとぢて開かず。「忠教【*忠度】」と名のり給へば、
P07120
「おちうと【落人】帰りきたり」とて、その内さはぎ【騒ぎ】あへり。
薩摩守馬よりおり、みづからたからかにの給
けるは、「別の子細候はず。三位殿に申べき事
あて、忠教【*忠度】がかへりまひ【参つ】て候。門をひらかれず
とも【共】、此きはまで立よらせ給へ」との給へ【宣へ】ば、俊成卿
「さる事あるらん。其人ならばくるしかる【苦しかる】まじ。
いれ【入れ】申せ」とて、門をあけて対面あり【有り】。事の
体何となふ哀也。薩摩守の給ひけるは、「年
来申承て後、をろか【愚】ならぬ御事におもひまい
P07121
らせ【参らせ】候へ共、この二三年は、京都のさはぎ【騒ぎ】、国々の
みだれ、併当家の身の上の事に候間、そらく【粗略】
を存ぜずといへども、つねにまいり【参り】よる事
も候はず。君既に都を出させ給ひぬ。一門
の運命はやつき候ぬ。撰集のあるべき由
承候しかば、生涯の面目に、一首なり共御恩
をかうぶらうど存じて候しに、やがて世の
みだれいできて、其沙汰なく候条、ただ一身
の歎と存る候。世しづまり候なば、勅撰の御
P07122
沙汰候はんずらむ。是に候巻物のうちに、
さりぬべきもの候はば、一首なりとも【共】御恩を
蒙て、草の陰にてもうれしと存候はば、
遠き御まもり【守り】でこそ候はんずれ」とて、日比
読をか【置か】れたる歌共のなかに、秀歌とおぼし
きを百余首書あつめ【集め】られたる巻物を、今
はとてう【打つ】たた【立た】れける時、是をとてもたれ
たりしが、鎧のひきあはせ【合はせ】より取いで【出で】て俊
成卿に奉る。三位是をあけてみて、「かかる
P07123
わすれがたみ【忘れ形見】を給をき候ぬる上は、ゆめゆめ
そらく【粗略】を存ずまじう候。御疑あるべからず。さて
も唯今の御わたり【渡】こそ、情もすぐれてふかう【深う】、
哀もこと【殊】におもひ【思ひ】しられて、感涙おさへ【抑へ】がたう
候へ」との給へ【宣へ】ば、薩摩守悦で、「今は西海の浪
の底にしづまば沈め、山野にかばねを
さらさばさらせ、浮世におもひ【思ひ】をく【置く】事候
はず。さらばいとま申て」とて、馬にうちのり
甲の緒をしめ、西をさいてぞあゆま【歩ま】せ給ふ。
P07124
三位うしろを遥に見をく【送つ】てたたれたれば、
忠教【*忠度】の声とおぼしくて、「前途程遠し、
思を鴈山の夕の雲に馳」と、たからかに
口ずさみ給へば、俊成卿いとど名残おしう【惜しう】
おぼえて、涙ををさへ【抑へ】てぞ入給ふ。其後世
しづまて、千載集を撰ぜられけるに、忠教【*忠度】
のあり【有り】しあり様、いひをきしことの葉、今
更おもひ【思ひ】いで【出で】て哀也ければ、彼巻物のうち
にさりぬべき歌いくらもあり【有り】けれ共、勅勘の
P07125
人なれば、名字をばあらはされず、故郷花
といふ題にてよまれたりける歌一首ぞ、
読人しら【知ら】ずと入られける。
さざなみや志賀の都はあれにしを
むかしながらの山ざくらかな W052
其身朝敵となりにし上は、子細にをよば【及ば】
ずといひながら、うらめしかり【恨めしかり】し事ども【共】也。
『経正都落』S0717
○修理大夫経盛の子息、皇后宮の亮経正、幼少
にては仁和寺の御室の御所に、童形にて候
P07126
はれしかば、かかる■劇【怱劇】の中にも其御名残
きとおもひ【思ひ】出て、侍五六騎めし【召し】具して、
仁和寺殿へ馳まいり【参り】、門前にて馬よりおり、
申入られけるは、「一門運尽てけふ既に帝都
を罷出候。うき世におもひ【思ひ】のこす事とては、
ただ君の御名残ばかり也。八歳の時まいり【参り】
はじめ候て、十三で元服仕しまでは、あひ
いたはる事の候はぬ外は、あからさまにも御
前を立さる事も候はざりしに、けふより後、
P07127
西海千里の浪におもむい【赴むい】て、又いづれの日
いづれの時帰りまいる【参る】べしともおぼえぬ
こそ、口惜く候へ。今一度御前へまい【参つ】て、君をも
見まいらせ【参らせ】たふ候へども、既に甲冑をよろひ【鎧ひ】、
弓箭を帯し、あらぬさまなるよそほ
ひ【粧】に罷成て候へば、憚存候」とぞ申されける。
御室哀におぼしめし【思し召し】、「ただ其すがたを改
めずしてまいれ【参れ】」とこそ仰けれ。経正、其
日は紫地の錦の直垂に、萌黄の匂の
P07128
鎧きて、長覆輪の太刀をはき、きりう【切斑】
の矢おひ【負ひ】、滋藤の弓わきにはさみ【鋏み】、甲を
ばぬぎたかひもにかけ、御前の御坪に
畏る。御室やがて御出あて、御簾たかく
あげさせ、「是へこれへ」とめされければ、大
床へこそまいら【参ら】れけれ。供に具せられたる
藤兵衛有教をめす。赤地の錦の袋
に入たる御琵琶もてまいり【参り】たり。経正是
をとりついで、御前にさしをき、申されけるは、
P07129
「先年下しあづかて候し青山もたせま
い【参つ】て候。あまりに名残はおしう【惜しう】候へども、さしも
の名物を田舎の塵になさん事、口惜う
候。若不思議に運命ひらけて、又都へ立帰る
事候はば、其時こそ猶下しあづかり【預り】候はめ」と
泣々申されければ、御室哀におぼしめし【思し召し】、一
首の御詠をあそばひ【遊ばい】てくだされけり。
あかずしてわかるる君が名残をば
のちのかたみにつつみてぞをく【置く】 W053
P07130
経正御硯くださ【下さ】れて、
くれ竹のかけひの水はかはれども
なを【猶】すみあかぬみやの中かな W054
さていとま申て出られけるに、数輩の
童形・出世者・坊官・侍僧に至るまで、経正の
袂にすがり、袖をひかへて、名残をおしみ【惜しみ】
涙をながさぬはなかりけり。其中にも、経
正の幼少の時、小師でおはせし大納言法印
行慶と申は、葉室大納言光頼卿[* 「光」の左にの振り仮名]の御子也。
P07131
あまりに名残をおしみ【惜しみ】て、桂川のはたまで
うちをくり【送り】、さてもあるべきならねば、それ【其れ】
よりいとまこふ【乞う】て泣々わかれ給ふに、法印
かうぞおもひ【思ひ】つづけ給ふ。
あはれ【哀】なり老木わか木も山ざくら
をくれ【遅れ】さきだち【先立ち】花はのこらじ W055
経正の返事には、
旅ごろも【旅衣】夜な夜な袖をかたしき【片敷き】て
おもへ【思へ】ばわれはとをく【遠く】ゆきなん W056
P07132
さてまい【巻い】てもたせられたる赤旗ざとさし
あげ【差し上げ】たり。あそこここにひかへて待奉る侍
共、あはやとて馳あつまり、その勢百騎ばかり、
鞭をあげ駒をはやめて、程なく行幸に
『青山之沙汰』S0718
を【追つ】つき奉る。○此経正十七の年、宇佐の勅
使を承はてくだられけるに、其時青山
を給はて、宇佐へまいり【参り】、御殿にむかひ【向ひ】奉り
秘曲をひき給ひしかば、いつ聞なれたる
事はなけれ共、ともの宮人をしなべて、
P07133
緑衣の袖をぞしぼりける。聞しらぬや
つこまでも村雨とはまがはじな。目出かりし
事共なり。彼青山と申御琵琶は、昔仁
明天皇御宇、嘉祥三年の春、掃部頭貞敏
渡唐の時、大唐の琵琶の博士廉妾夫にあひ、
三曲を伝て帰朝せしに、玄象・師子丸・青山、
三面の琵琶を相伝してわたり【渡り】けるが、竜神
やおしみ【惜しみ】給ひけむ、浪風あらく立ければ、師子
丸をば海底にしづめ、いま二面の琵琶を
P07134
わたして、吾朝の御門の御たからとす。村上の
聖代応和のころおひ、三五夜中[B ノ]新月白く
さえ【冴え】、涼風颯々たりし夜なか半に、御門
清涼殿にして玄象をぞあそばさ【遊ばさ】れける時
に、影のごとく【如く】なるもの御前に参じて、ゆう【優】
にけだかき声にてしやうが【唱歌】をめでたう仕る。
御門御琵琶をさしをか【置か】せ給ひて、「抑汝はいか
なるもの【者】ぞ。いづくより来れるぞ」と御尋あれ
ば、「是は昔貞敏に三曲をつたへ候し大唐の
P07135
琶のはかせ廉妾夫と申者で候が、三曲
のうち秘曲を一曲のこせるO[BH 罪イ]によて、魔道へ沈淪
仕て候。今御琵琶の御撥音たへ【妙】にきこえ【聞え】侍る
間、参入仕ところ【所】なり。ねがは【願は】くは此曲を君に
さづけ奉り、仏果菩提を証すべき」由申て、
御前に立られたる青山をとり、てんじゆ【転手】を
ねぢて秘曲を君にさづけ奉る。三曲のうちに
上玄石上是也。其後は君も臣も
おそれ【恐れ】させ
給ひて、此御琵琶をあそばし【遊ばし】ひく事もせさ
P07136
せ給はず。御室へまいらせ【参らせ】られたりけるを、経
正の幼少の時、御最愛の童形たるによて下
しあづかり【預り】たりけるとかや。こう【甲】は紫藤のこう【甲】、
夏山の峯のみどりの木の間より、有明の月
のいづる【出づる】を撥面にかかれたりけるゆへ【故】にこそ、
青山とは付られたれ。玄象にもあひをとらぬ
『一門都落』S0719
希代の名物なりけり。○池の大納言頼盛卿も
池殿に火をかけて出られけるが、鳥羽の南
の門にひかへつつ、「わすれたる事あり」とて、
P07137
赤じるし切捨て、其勢三百余騎、都へとてかへ
さ【返さ】れけり。平家の侍越中次郎兵衛盛次【*盛嗣】、大臣
殿の御まへに馳まい【参つ】て、「あれ御覧候へ。池殿の御
とどまり候に、おほう【多う】の侍共のつきまいらせ【参らせ】て
罷とどまるが奇怪におぼえ候。大納言殿まで
はおそれ【恐れ】も候。侍共に矢一いかけ候はん」と申け
れば、「年来の重恩を忘て、今此ありさま【有様】を
見はてぬ不当人をば、さなくとも【共】ありなん」
との給へ【宣へ】ば、力をよば【及ば】でとどまりけり。「扨
P07138
小松殿の君達はいかに」との給へ【宣へ】ば、「いまだ御一
所も見えさせ給候はず」と申す。其時新中納
言なみだ【涙】をはらはらとながい【流い】て、「都を出ていまだ一日だにも過ざるに、いつしか人の心共
のかはりゆくうたてさよ。まして行すゑとて
もさこそはあらんずらめとおもひ【思ひ】しかば、都の
うちでいかにもならんと申つる物を」とて、大臣
殿の御かたをうらめしげ【恨めし気】にこそ見給ひけれ。
抑池殿のとどまり給ふ事をいかにといふに、
P07139
兵衛佐つね【常】は頼盛に情をかけて、「御かたをば
またくをろか【愚】におもひ【思ひ】まいらせ【参らせ】候はず。ただ故
池殿のわたらせ給ふとこそ存候へ。八幡大菩
薩も御照罰候へ」など、度々誓状をもて申
されける上、平家追討のために討手の使の
のぼる度ごとに、「相構て池殿の侍共にむか【向つ】て弓ひくな」など情をかくれば、「一門の平家は運
つき、既に都を落ぬ。今は兵衛佐にたすけ【助け】
られんずるにこそ」との給ひ【宣ひ】て、都へかへられける
P07140
とぞきこえ【聞え】し。八条女院の仁和寺の常葉
どのにわたらせ給ふにまいり【参り】こもられけり。
女院の御めのとご、宰相殿と申女房にあひ具
し給へるによてなり。「自然の事候はば、頼盛
かまへてたすけ【助け】させ給へ」と申されけれども、
女院「今は世の世にてもあらばこそ」とて、たの
もしげ【頼もし気】もなふぞ仰ける。凡は兵衛佐ばかり
こそ芳心は存ぜらるるとも、自余の源氏
共はいかがあらんずらむ。なまじひに一門にははなれ
P07141
給ひぬ、波にも磯にもつかぬ心ち【心地】ぞせられ
ける。さる程に、小松殿の君達は、三位中将維
盛卿をはじめ奉て、兄弟六人、其勢千騎
ばかりにて、淀のむつだ河原【六田河原】にて行幸に
を【追つ】つき奉る。大臣殿待うけ奉り、うれしげ【気】
にて、「いかにや今まで」との給へ【宣へ】ば、三位中将「お
さなき【幼き】もの共があまりにしたひ候を、とかうこし
らへをか【置か】んと遅参仕候ぬ」と申されければ、
大臣殿「などや心づよふ六代どのをば具し奉
P07142
給はぬぞ」と仰られければ、維盛卿「行すゑ
とてもたのもしう【頼もしう】も候はず」とて、とふ【問ふ】につら
さのなみだ【涙】をながされけるこそかなし
けれ。落行平家は誰々ぞ。前内大臣宗盛公・
平大納言時忠・平中納言教盛・新中納言知盛・修
理大夫経盛・右衛門督清宗・本三位中将重衡・小松三
位中将維盛・新三位中将資盛・越前三位通盛、
殿上人には蔵頭信基・讃岐中将時実・左中将
清経・小松少将有盛・丹後侍従忠房・皇后宮亮経正・
P07143
左馬頭行盛・薩摩守忠教【*忠度】・能登守教経・武蔵守
知明【*知章】・備中守師盛・淡路守清房・尾張守清定・
若狭守経俊・兵部少輔正明・蔵人大夫成盛【*業盛】・大夫敦
盛[* 「淳盛」と有るのを他本により訂正]、僧には二位僧都専親【*全真】・法勝寺執行能円・中
納言律師仲快、経誦坊阿闍梨祐円、侍には受
領・検非違使・衛府・諸司百六十人、都合其勢七千
余騎、是は東国北国度々のいくさ【軍】に、此二三ケ
年が間討もらさ【漏らさ】れて、纔に残るところ【所】也。
山崎関戸[B ノ]院に玉の御輿をかきすへ【据ゑ】て、男山を
P07144
ふし拝み、平大納言時忠卿「南無帰命頂礼
八幡大菩薩、君をはじめまいらせ【参らせ】て、我等都へ
帰し入させ給へ」と、祈られけるこそかなしけれ。
おのおのうしろをかへり見給へば、かすめる空
の心ち【心地】して、煙のみこころぼそく立のぼる。平
中納言教盛卿
はかなしなぬしは雲井にわかるれば
跡はけぶりとたちのぼるかな W057
修理大夫経盛
P07145
ふるさとをやけ野の原にかへりみて
すゑ【末】もけぶりのなみぢをぞゆく【行く】 W058
まこと【誠】に古郷をば一片の煙塵に隔つつ、前
途万里の雲路におもむか【赴か】れけん人々の心
のうち、おしはから【推し量ら】れて哀也。肥後守貞能は、河
尻に源氏まつときい【聞い】て、けちらさ【散らさ】んとて五
百余騎で発向したりけるが、僻事なれば帰りのぼる程に、うどの【宇度野】の辺にて行幸に
まいり【参り】あふ。貞能馬よりとびおり、弓わきばさみ【鋏み】、
P07146
大臣殿の御前に畏て申けるは、「是は抑いづち
へとておち【落ち】させ給候やらん。西国へくだらせ給ひ
たらば、おち人とてあそこここにてうちちら
さ【散らさ】れ、うき名をながさせ給はん事こそ口惜候へ。
ただ宮古のうちでこそいかにもならせ給はめ」
と申ければ、大臣殿「貞能はしら【知ら】ぬか。木曾既に
北国より五万余騎で攻のぼり、比叡山東坂本
にみちみちたんなり。此夜半ばかり、法皇もわた
らせ給はず。おのおのが身ばかりならばいかがせん、
P07147
女院二位殿に、まのあたりうき目を見せまいら
せ【参らせ】んも心ぐるしければ、行幸をもなしまい
らせ【参らせ】、人々をもひき【引き】具し奉て、一まどもやと
おもふ【思ふ】ぞかし」と仰られければ、「さ候はば、貞能は
いとま給はて、都でいかにもなり候はん」とて、めし【召し】
具したる五百余騎の勢をば、小松殿の
君達につけ奉り、手勢卅騎ばかりで都へ
ひ【引つ】かへす【返す】。京中にのこりとどまる平家の
余党をうたんとて、貞能が帰り入よし聞えしかば、
P07148
池大納言「頼盛がうへ【上】でぞあるらん」とて、大に
おそれ【恐れ】さはが【騒が】れけり。貞能は西八条のやけ跡
に大幕ひかせ、一夜宿したりけれ共、帰り入
給ふ平家の君達一所もおはせねば、さすが心
ぼそうやおもひ【思ひ】けん、源氏の馬のひづめにかけじ
とて、小松殿の御はか【墓】ほらせ、御骨にむかひ【向ひ】奉
て泣々申けるは、「あなあさまし、御一門を御覧
候へ。「生あるもの【者】は必ず滅す。楽尽て悲み
来る」といにしへより書をきたる事にて候へ共、
P07149
まのあたりかかるうき【憂き】事候はず。君はかやう
の事をまづさとらせ給ひて、兼て仏神
三宝に御祈誓あて、御世をはやう【早う】させまし
ましけるにこそ。ありがたうこそおぼえ候へ。
其時貞能も最後の御供仕るべう候けるもの
を、かひなき命をいきて、今はかかるうき目に
あひ候。死期の時は必ず一仏土へむかへ【向へ】させ給へ」と、
泣々遥にかきくどき【口説き】、骨をば高野へ送り、
あたりの土をば賀茂川にながさせ、世の有様
P07150
たのもしから【頼もしから】ずやおもひ【思ひ】けん、しう【主】とうしろあ
はせ【後ろ合はせ】に東国へこそおち【落ち】ゆき【行き】けれ。宇都宮をば
貞能が申あづかて、情ありければ、そのよしみ
にや、貞能又宇都宮をたのん【頼ん】で下りければ、
『福原落』S0720
芳心しけるとぞ聞えし。○平家は小松[B ノ]三位[B ノ]中
将維盛[B ノ]卿の外は、大臣殿以下妻子を具せられ
けれ共、つぎざま【次様】の人共はさのみひき【引き】しろふに
及ばねば、後会其期をしら【知ら】ず、皆うち捨てぞ
落行ける。人はいづれの日、いづれの時、必ず
P07151
立帰るべしと、其期を定をく【置く】だにも久
しきぞかし。況や是はけふを最後、唯今限
の別なれば、ゆくもとどまるも、たがひに
袖をぞぬらしける。相伝譜代のよしみ、年
ごろ日比、重恩争かわする【忘る】べきなれば、老
たるもわかきもうしろのみかへりみて、
さきへはすすみもやらざりけり。或磯べ
の浪枕、やへ【八重】の塩路に日をくらし、或遠き
をわけ、けはしきをしのぎつつ、駒に鞭うつ
P07152
人もあり、舟に棹さす者もあり、思ひ思ひ
心々におち【落ち】行けり。福原の旧都につい
て、大臣殿、しかる【然る】べき侍共、老少数百人めし【召し】
て仰られけるは、「積善の余慶家につき【尽き】、
積悪の余殃身に及ぶゆへ【故】に、神明にもは
なたれ奉り、君にも捨られまいらせ【参らせ】て、帝
都をいで旅泊にただよふ上は、なんのたのみ【頼み】
かあるべきなれども、一樹の陰にやどるも先
世の契あさから【浅から】ず。同じ流をむすぶも、多生
P07153
の縁猶ふかし。いかに況や、汝等は一旦したがひ【従ひ】
つく門客にあらず、累祖相伝の家人なり。
或近親のよしみ他に異なるもあり、或重
代芳恩是ふかきもあり、家門繁昌の古
は恩波によて私をかへりみき。今なんぞ
芳恩をむくひざらんや。且は十善帝王、三種
の神器を帯してわたらせ給へば、いかなら
む野のすゑ【末】、山の奥までも、行幸の御供
仕らんとは思はずや」と仰られければ、老少
P07154
みな涙をながい【流い】て申けるは、「あやしの鳥け
だものも、恩を報じ、徳をむくふ【報ふ】心は候なり。
申候はんや、人倫の身として、いかがそのことはり【理】
を存知仕らでは候べき。廿余年の間妻子
をはぐくみ所従をかへりみる事、しかしな
がら君の御恩ならずといふ事なし。就中
に、弓箭馬上に携るならひ【習ひ】、ふた心あるを
もて恥とす。然ば則日本の外、新羅・百済・
高麗・荊旦、雲のはて、海のはてまでも、行
P07155
幸の御供仕て、いかにもなり候はん」と、異口
同音に申ければ、人々皆たのもしげ【頼もし気】にぞ
見えられける。福原の旧里に一夜をこそ
あかされけれ。折節秋のはじめ【始め】の月は、
しもの弓はり【弓張り】なり。深更空夜閑にして、旅
ねの床の草枕、露もなみだ【涙】もあらそひて、
ただ物のみぞかなしき【悲しき】。いつ帰るべし共
おぼえねば、故入道相国の作りをき給ひし
所々を見給ふに、春は花みの岡の御所、秋は
P07156
月み【月見】の浜の御所、泉殿・松陰殿・馬場殿、二
階の桟敷殿、雪見の御所、萱の御所、人々
の館共、五条大納言国綱【*邦綱】卿の承はて造進
せられし里内裏、鴦の瓦、玉の石だたみ【石畳】、いづ
れもいづれも三とせ【三年】が程に荒はてて、旧苔
道をふさぎ、秋の草門をとづ。瓦に松おひ、
墻に蔦しげれり。台傾て苔むせり、松風
ばかりや通らん。簾たえ【絶え】て閨あらはなり、
月影のみぞさし入ける。あけぬれば、福原の
P07157
内裏に火をかけて、主上をはじめ奉て、
人々みな御舟にめす。都を立し程こそ
なけれども、是も名残はおしかり【惜しかり】けり。海
人のたく藻の夕煙、尾上の鹿の暁の
こゑ【声】、渚々によする【寄する】浪の音、袖に宿かる
月の影、千草にすだく蟋蟀のきりぎりす【蟋蟀】、
すべて目に見え耳にふるる事、一[B ツ]として
哀をもよほし、心をいたま【痛ま】しめずといふ事
なし。昨日は東関の麓にくつばみをならべ
P07158
て十万余騎、今日は西海の浪に纜をとい
て七千余人、雲海沈々として、青天既に
くれなんとす。孤島に夕霧隔て、月海
上にうかべ【浮べ】り。極浦[* 右に左にの振り仮名]の浪をわけ、塩にひかれ
て行舟は、半天の雲にさかのぼる。日かず
ふれば、都は既に山川程を隔て、雲居
のよそにぞなりにける。はるばるき【来】ぬと
おもふ【思ふ】にも、ただつきせぬ物は涙なり。浪の
上に白き鳥のむれゐるを見給ひて
P07159
は、かれなら[B 「ら」に「ンイ」と傍書]ん、在原のなにがしの、すみ田川【隅田川】
にてこととひけん、名もむつましき都鳥
にやと哀也。寿永二年七月廿五日に平家
都を落はてぬ。

平家物語巻第七

平家物語 高野本 巻第八

平家 八(表紙)
P08001
平家八之巻 目録
山門御幸    名虎
宇佐行幸付緒環 太宰府落
征夷将軍院宣  猫間
水島合戦    瀬尾最期
室山合戦    鼓判官
法住寺合戦
P08002
P08003
平家物語巻第八
『山門御幸』S0801
○寿永二年七月廿四日夜半ばかり、法皇は
按察大納言資方【*資賢】卿の子息、右馬頭資時
ばかり御供にて、ひそかに御所を出させ給
ひ、鞍馬へ御幸なる。鞍馬O[BH 寺]僧ども「是は尚
都ちかく【近く】てあしう【悪しう】候なむ」と申あひだ、篠の
峯・薬王坂など申さがしき【嶮しき】嶮難を凌がせ
給ひて、横河の解脱谷寂場坊、御所に
なる。大衆おこて、「東塔へこそ御幸あるべけ
P08004
れ」と申ければ、東塔の南谷円融坊御所に
なる。かかりければ、衆徒も武士も、円融房【*円融坊】を
守護し奉る。法皇は仙洞をいでて天台山に、
主上は鳳闕をさて西海へ、摂政殿は吉野
の奥とかや。女院・宮々は八幡・賀茂・嵯峨・うづ
まさ【太秦】・西山・東山のかたほとりにつゐ【付い】て、にげ【逃げ】
かくれさせ給へり。平家はおち【落ち】ぬれど、源
氏はいまだ入かはらず。既に此京はぬしなき
里にぞなりにける。開闢よりこのかた、O[BH かかる]事
P08005
あるべしともおぼえず。聖徳太子の未来記に
も、けふの事こそゆかしけれ。法皇天台山に
わたらせ給ふと聞えさせ給しかば、馳まいら【参ら】
せ給ふ人々、其比の入道殿とは前関白松殿、
当殿とは近衛、太政大臣・左右大臣・内大臣・
大納言・中納言・宰相・三位・四位・五位の殿上人、
すべて世に人とかぞへられ、官加階に望をかけ、
所帯・所職を帯する程の人の、一人ももるる
はなかりけり。円融坊には、あまりに人まいり【参り】
P08006
つどひ【集ひ】て、堂上・堂下・門外・門内、ひまはざま
もなうぞみちみちたる。山門繁昌・門跡の面
目とこそ見えたりけれ。同廿八日に、法皇宮こ【都】
へ還御なる。木曾五万余騎にて守護し奉る。
近江源氏山本の冠者義高、白旗さひて先
陣に供奉す。この廿余年見えざりつる白
旗の、けふはじめて宮こ【都】へいる、めづらしかりし
事どもなり。さるほど【程】に十郎蔵人行家、宇治
橋をわた【渡つ】て都へいる。陸奥新判官義康が
P08007
子、矢田判官代義清、大江山をへて上洛す。摂
津国・河内の源氏ども、雲霞のごとくにおなじく
宮こ【都】へみだれ【乱れ】いる。凡京中には源氏の勢み
ちみちたり。勘解由小路の中納言経房卿・検
非違使別当左衛門督実家、院の殿上の簀
子に候て、義仲・行家をめす。木曾は赤地の錦
の直垂に、唐綾威の鎧きて、いか物づくりの太
刀をはき、きりふ【切斑】の矢をひ【負ひ】、しげどう【滋籐】の弓脇に
はさみ【鋏み】、甲をばぬぎたかひもにかけて候。十郎
P08008
蔵人は、紺地の錦の直垂に、火おどしの鎧きて、
こがねづくりの太刀をはき、大なか黒の矢を
ひ【負ひ】、ぬりごめどう【塗籠籐】の弓脇にはさみ【鋏み】、是も甲をば
ぬぎたかひもにかけ、ひざまづゐて候けり。前
内大臣宗盛公以下、平家の一族追討すべき
よし仰下さる。両人庭上に畏て承る。をのをの【各々】
宿所のなきよしを申す。木曾は大膳大夫成
忠が宿所、六条西洞院を給はる。十郎蔵人は法
住寺殿の南殿と申、萓の御所をぞ給はりける。
P08009
法皇は主上外戚の平家にとらはれさせ給て、西
海の浪のうへ【上】にただよはせ給ふ事を、御なげき【歎き】
あて、主上并に三種神器宮こ【都】へ返しいれ【入れ】
たてまつる【奉る】べき由、西国へ院宣を下されたり
けれども、平家もちゐたてまつら【奉ら】ず。高倉院
の皇子は、主上の外三所ましましき。二宮を
ば儲君にしたてまつら【奉ら】むとて、平家いざなひま
いらせ【参らせ】て、西国へ落給ぬ。三四は宮こ【都】にましまし
けり。同八月五日、法皇この宮たちをむかへ【向へ】よ
P08010
せ【寄せ】まいらせ【参らせ】給ひて、まづ三の宮の五歳にならせ
給ふを、「是へ是へ」と仰ければ、法皇を見まい
ら【参らつ】させ給ひて、大にむつからせ給ふあひだ、「と
うとう【疾う疾う】」とて出しまいら【参らつ】させ給ひぬ。其後四の
宮の四歳にならせ給ふを、「是へ」と仰ければ、
すこし【少し】もはばからせ給はず、やがて法皇の御
ひざのうへ【上】にまいら【参ら】せ給ひて、よにもなつかし
げ【懐しげ】にてぞましましける。法皇御涙をはらはら
とながさせ給ひて、「げにもすぞろならむも
P08011
のは、かやうの老法師を見て、なにとてかなつかし
げ【懐しげ】にはおもふ【思ふ】べき。是ぞ我まこと【誠】の孫にて
ましましける。故女院のおさなをひ【少生】にすこし【少し】も
たがは【違は】せ給はぬ物かな。かかるわすれがたみ【忘れ形見】
を今まで見ざりける事よ」とて、御涙せき
あへさせ給はず。浄土寺の二位殿、その【其の】とき【時】は
いまだ丹後殿とて、御前に候はせ給ふが、「さて
御ゆづりは、此宮にてこそわたらせおはしましさぶ
らはめ」と申させ給へば、法皇「子細にや」とぞ
P08012
仰ける。内々御占ありしにも、「四の宮位につか
せ給ひては、百王まで日本国の御ぬしたるべし」
とぞかんがへ【勘がへ】申ける。御母儀は七条[B ノ]修理大夫
信隆卿の御娘なり。建礼門院のいまだ中宮
にてましましける時、その御方に宮づかひ給ひ
しを、主上つねはめされける程に、うちつづ
き宮あまたいできさせ給へり。信隆卿御娘
あまたおはしければ、いかにもして女御后にも
なしたてまつら【奉ら】ばやとねがは【願は】れけるに、人のしろい
P08013
鶏を千かう【飼う】つれば、其家に必ず后いできたる
といふ事ありとて、鶏の白いを千そろへ【揃へ】て
かは【飼は】れたりける故にや、此御娘皇子あまたう
みまいらせ【参らせ】給へり。信隆卿内々うれしうはおも
は【思は】れけれども、平家にもはばかり、中宮にもお
それ【恐れ】まいらせ【参らせ】て、もてなし奉る事もおはせざ
りしを、入道相国の北の方、八条の二位殿「く
るしかる【苦しかる】まじ。われそだてまいらせ【参らせ】て、まうけの
君にしたてまつら【奉ら】む」とて、御めのとどもあまた
P08014
つけて、そだてまいらせ【参らせ】給ひけり。中にも四の宮
は、二位殿のせうと、法勝寺執行能円法印の
やしなひ君【養ひ君】にてぞ在ましける。法印平家に
具せられて、西国へ落し時、あまりにあはて【慌て】
さはひで、北方をも宮をも京都にすて【捨】をきま
いらせ【参らせ】て、下られたりしが、西国よりいそぎ人
をのぼせ【上せ】て、「女房・宮具しまいらせ【参らせ】て、とくとく【疾く疾く】くだ
り【下り】給べし」と申されたりければ、北方なのめな
らず悦、宮いざなひまいらせ【参らせ】て、西七条なる所
P08015
まで出られたりしを、女房のせうと紀伊守教光【*範光】、
「是は物のつゐ【付い】てくるひ給ふか。此宮の御運は
只今ひらけさせ給はんずる物を」とて、とりとど
め【留め】まいらせ【参らせ】たりける次の日ぞ、法皇より御む
かへ【向へ】の車はまいり【参り】たりける。何事もしかる【然る】べき事
と申ながら、四の宮の御ためには、紀伊守教光【*範光】
奉公の人とぞ見えたりける。されども四の宮
位につかせ給ひて後、そのなさけをもおぼし
めし【思し召し】いでさせ給はず、朝恩もなくして歳月を
P08016
をくり【送り】けるが、せめてのおもひ【思ひ】のあまりにや、二首
の歌をようで、禁中に落書をぞしたりける。
一声はおもひ【思ひ】出てなけほととぎす
おいそ【老蘇】の森の夜半のむかしを W059
籠のうちもなを【猶】うらやまし山がらの
身のほどかくすゆふがほのやど W060
主上是を叡覧あて、「あなむざんや、さればい
まだ世にながらへ【永らへ】てあり【有り】けるな。けふまでこれ【是】を
おぼしめし【思し召し】よらざりけるこそをろか【愚】なれ」とて、朝
P08017
恩かうぶり、正三位に叙せられけるとぞきこえ【聞え】し。
『名虎』S0802
○同八月十日、院の殿上にて除目おこなはる。木曾
は左馬頭になて、越後国を給はる。其上朝日の
将軍といふ院宣を下されけり。十郎蔵人は
備後守になる。木曾は越後をきらへば、伊与【*伊予】
をたぶ。十郎蔵人備後をきらへば、備前をたぶ。
其外源氏十余人、受領・検非違使・靭負尉・
兵衛尉になされけり。同十六日、平家の一門百
六十余人が官職をとどめ【留め】て、殿上のみふだをけ
P08018
づらる。其中に平大納言時忠・内蔵頭信基・
讃岐中将時実、これ三人はけづられず。それは
主上并に三種の神器、都へ帰しいれ【入れ】奉るべ
きよし、彼時忠の卿のもとへ、度々院宣を下
されけるによて也。同八月十七日、平家は筑
前国三かさ【三笠】の郡大宰府【太宰府】にこそ着給へ。菊
池二郎高直は都より平家の御供に候ける
が、「大津山の関あけてまいらせ【参らせ】ん」とて、肥後
国にうちこえて、をのれ【己】が城にひ【引つ】こもり、めせ【召せ】ど
P08019
もめせ【召せ】どもまいら【参ら】ず。当時は岩戸の諸境【*少卿】大蔵種直
ばかりぞ候ける。九州二島の兵どもやがてまいる【参る】
べき由領状をば申ながら、いまだまいら【参ら】ず。平
家安楽寺へまい【参つ】て、歌よみ連歌して宮づ
かひ【仕ひ】給ひしに、本三位中将重衡卿、
すみなれしふるき宮こ【都】の恋しさは
神もむかしにおもひ【思ひ】しる【知る】らん W061
人々是をきい【聞い】てみな涙をながされけり。同廿
日法皇の宣命にて、四宮閑院殿にて位につか
P08020
せ給ふ。摂政はもとの摂政近衛殿かはらせ給は
ず。頭や蔵人なしをきて、人々退出せられけり。三
宮の御めのとなきかなしみ、後悔すれども甲斐
ぞなき。「天に二の日なし、国にふたりの王なし」と
申せども、平家の悪行によてこそ、京・田舎に
ふたりの王は在ましけれ。昔文徳天皇は、天安
二年八月廿三日にかくれさせ給ひぬ。御子の宮
達あまた位に望をかけて在ますは、内々御祈
どもあり【有り】けり。一の御子惟高【*惟喬】親王をば小原の
P08021
王子とも申き。王者の財領を御心にかけ、四海の
安危は掌の内に照し、百王の理乱は心のうちに
かけ給へり。されば賢聖の名をもとらせまし
ましぬべき君なりと見え給へり。二宮惟仁
親王は、其比の執柄忠仁公の御娘、染殿の后の
御腹也。一門公卿列してもてなし奉り給ひしか
ば、是も又さしをきがたき御事也。かれは守文
継体の器量あり、是は万機輔佐の心操あ
り【有り】。かれもこれもいたはしくて、いづれもおぼし
P08022
めし【思し召し】わづらはれき。一宮惟高【*惟喬】親王の御祈は、柿下
の木【紀】僧正信済とて、東寺の一の長者、弘法大師
の御弟子也。二宮惟仁の親王の御祈には、外祖
忠仁公の御持僧比叡山の恵良【*恵亮】和尚ぞうけ給
はら【承ら】れける。「互におとらぬ高僧達也。とみにO[BH こと]ゆき
がたうやあらむずらむ」と、人々ささやきあへり。
御門かくれさせ給ひしかば、公卿僉議あり【有り】。「抑臣
等がおもむぱかりをもてゑらむ【選ん】で位につけ奉
らん事、用捨私あるにに【似】たり。万人脣をかへす【反す】
P08023
べし。しら【知ら】ず、競馬相撲の節をとげて、其運を
しり【知り】、雌雄によて宝祚をさづけたてまつる【奉る】べし」
と儀定畢ぬ。同年の九月二日、二人の宮達
右近馬場へ行げい【行啓】あり【有り】。ここに王公卿相、花の
袂をよそほひ、玉のくつばみをならべ、雲の
ごとくにかさなり、星のごとくにつらなり給ひし
かば、此事希代の勝事、天下の荘観、日来心
をよせ奉し月卿雲客両方に引わかて、手をに
ぎり心をくだき給へり。御祈の高僧達、いづれ
P08024
かそらく【粗略】あらむや。信済は東寺に壇をたて、
恵良【*恵亮】は大内の真言院に壇をたてておこなは
れけるに、恵良【*恵亮】和尚うせたりといふ披露を
なす。信済僧正たゆむ【弛む】心もやあり【有り】けむ。恵良【*恵亮】
はうせたりといふ披露をなし、肝胆をくだひて
祈られけり。既に十番競馬はじまる。はじめ四番、
一宮惟高【*惟喬】親王かたせ給ふ。後六番は二宮惟
仁親王かたせ給ふ。やがて相撲の節あるべし
とて、惟高【*惟喬】の御方よりは名虎の右兵衛督と
P08025
て、六十人がちから【力】あらはし【顕はし】たるゆゆしき人をぞい
だされたる。惟仁親王家よりは能雄の少将
とて、せいちいさう【小さう】たえ【妙】にして、片手にあふべしと
も見えぬ人、御夢想の御告ありとて申うけ
てぞいでられたる。名虎・能雄よりあふ【逢う】て、ひしひし
とつまどりしてのき【退き】にけり。しばしあて名虎能
雄の少将をとてささげて、二丈ばかりぞなげたり
ける。ただなを【唯直つ】てたをれ【倒れ】ず。能雄又つとより、
ゑい声をあげて、名虎をとてふせむとす。
P08026
名虎もともに声をいだし【出し】て、能雄をとてふせむ
とす。いづれおとれりとも見えず。されども、名虎
だい【大】の男、かさ【嵩】にまはる【回る】。能雄はあぶなう見えければ、二宮
惟仁家の御母儀染殿の后より、御使櫛のは【歯】の
ごとくはしり【走り】かさな【重なつ】て、「御方すでにまけ色に見ゆ。い
かがせむ」と仰ければ、恵良【*恵亮】和尚大威徳の法を
修せられけるが、「こは心うき事にこそ」とて独鈷
をもてなづき【脳】をつきくだき、乳和して護摩
にたき、黒煙をたててひともみもまれたりけ
P08027
れば、能雄すまうにかちにけり。親王位につかせ給
ふ。清和の御門是也。後には水穂【水尾】天王とぞ申ける。
それよりしてこそ山門には、いささかの事にも、
恵良【*恵亮】脳をくだきしかば、二帝位につき給ひ、尊
伊【尊意】智剣を振しかば、菅丞納受し給ふとも伝へた
れ。是のみや法力にてもあり【有り】けん。其外はみな天
照太神【大神】の御ぱからひとぞ承はる。平家は西国にて
是をつたへきき、「やすからぬ。三の宮をも四の宮
をもとりまいらせ【参らせ】て、落くだるべかりし物を」と
P08028
後悔せられければ、平大納言時忠卿、「さらむには、
木曾が主にしたてま【奉つ】たる高倉宮御子を、御めの
と讃岐守重秀が御出家せさせ奉り、具
しまいらせ【参らせ】て北国へ落くだり【下り】しこそ、位にはつか
せ給はんずらめ」との給へ【宣へ】ば、又或人々の申さ
れけるは、「それは、出家の宮をばいかが位にはつ
けたてまつる【奉る】べき」。時忠「さもさうず。還俗の
国王のためし【例】、異国にも先蹤あるらむ。我朝には、
まづ天武天皇いまだ東宮の御時、大伴の
P08029
皇子にはばからせ給ひて、鬢髪をそり、芳野の
奥にしのば【忍ば】せ給ひたりしかども、大伴の皇子
をほろぼして、つゐに【遂に】は位につかせ給ひき。又
孝謙天皇も、大菩提心をおこし、御かざりをおろ
させ給ひ、御名をば法幾爾と申しかども、ふた
たび位につゐ【即い】て称徳天皇と申しぞかし。まし
て木曾が主にしたてまつり【奉り】たる還俗の宮、子
細あるまじ」とぞの給ひける。同九月二日、法皇よ
り伊勢へ公卿の勅使をたてらる。勅使は参議
P08030
長教とぞ聞えし。太政天皇の、伊勢へ公卿の勅使
をたてらるる事は、朱雀・白河・鳥羽三代の蹤跡
ありといへども、是みな御出家以前なり。御出家
『緒環』S0803
以後の例は是はじめとぞ承る。○さる程に、筑紫に
は内裏つくるべきよし沙汰ありしかども、いまだ宮
こ【都】も定められず。主上は岩戸の諸境【*少卿】大蔵の種
直が宿所にわたらせ給ふ。人々の家々は野中田
なか【田中】なりければ、あさ【麻】の衣はうたねども、とをち【十市】
の里ともいつべし。内裏は山のなかなれば、かの
P08031
木の丸殿もかくやとおぼえて、中々ゆう【優】なる方も
あり【有り】けり。まづ宇佐宮へ行幸なる。大郡司公道
が宿所皇居になる。社頭は月卿雲客の居所に
なる。くわひ廊【廻廊】には、五位・六位の官人、庭上には四国
鎮西の兵ども、甲冑弓箭を帯して雲霞のごと
くになみゐたり。ふりにしあけ【朱】の玉垣、ふたたびか
ざるとぞ見えし。七日参籠のあけがたに、大臣殿
の御ために夢想の告ぞあり【有り】ける。御宝殿の
御戸をし【押し】ひらきゆゆしくけだかげなる御こゑ【声】にて、
P08032
世のなかのうさには神もなきものを
なにいのるらむ心づくしに W062
大臣殿うちおどろき、むねうちさはぎ【騒ぎ】、
さりともとおもふ【思ふ】心もむし【虫】の音も
よはり【弱り】はてぬる秋のくれ【暮】かな W063
といふふる歌【古歌】をぞ心ぼそげに口ずさみ給ける。
さてださゐ府【太宰府】へ還幸なる。さる程に九月十日あ
まりになりにけり。荻の葉むけの夕嵐、ひとり
まろね【丸寝】の床のうへ【上】、かたしく【片敷く】袖もしほれ【萎れ】つつ、ふけ
P08033
ゆく秋のあはれ【哀】さは、いづくもとはいひながら、旅の空
こそ忍がたけれ。九月十三夜は名をえたる月な
れども、其夜は宮こ【都】を思ひいづる【出づる】涙に、我から
くもり【曇り】てさやかならず。九重の雲のうへ【上】、久方の月に
思ひをのべしたぐひも、今の様におぼえて、薩摩
守忠教【*忠度】
月を見しこぞのこよひの友のみや
宮こ【都】にわれをおもひ【思ひ】いづらむ W064
修理大夫経盛
P08034
恋しとよこぞのこよひの夜もすがら
ちぎりし人のおもひ【思ひ】出られて W065
皇后宮亮経正
わけてこし野辺の露ともきえずして
おもは【思は】ぬ里の月をみる【見る】かな W066
豊後国は刑部卿三位頼資卿の国なりけり。子
息頼経朝臣を代官にをか【置か】れたり。京より頼経の
の[* 「の」衍字]もとへ、平家は神明にもはなたれたてまつり【奉り】、
君にも捨られまいらせ【参らせ】て、帝都をいで、浪のうへ【上】に
P08035
ただよふおち人となれり。しかる【然る】を、鎮西の者ど
も【共】がうけ【受け】と【取つ】て、もてなすなるこそ奇怪なれ、当
国においてはしたがふ【従ふ】べからず。一味同心して追出
すべきよし、の給ひつかはさ【遣さ】れたりければ、頼経
朝臣是を当国の住人、緒方三郎維義に下知
す。彼維義はおそろしき【恐ろしき】ものの末なりけり。たと
へば、豊後国の片山里に昔をんな【女】あり【有り】けり。或
人のひとりむすめ、夫もなかりけるがもとへ、母に
もしら【知ら】せず、男よなよな【夜な夜な】かよふ程に、とし月も
P08036
かさなる程に、身もただならずなりぬ。母是を
あやしむで、「汝がもとへかよふ者は何者ぞ」ととへ
ば、「くる【来る】をば見れども、帰るをばしら【知ら】ず」とぞいひけ
る。「さらば男の帰らむとき、しるしを付て、ゆかむ
方をつなひで見よ」とをしへ【教へ】ければ、むすめ母
のをしへ【教へ】にしたがて、朝帰する男の、水色の狩
衣をきたりけるに、狩衣の頸かみに針をさし、
しづ【賎】のをだまき【緒環】といふものをつけ【付け】て、へ【経】てゆく
かたをつなひでゆけば、豊後国にとても日向ざか
P08037
ひ【日向境】、うばだけ【姥岳】といふ嵩のすそ、大なる岩屋のう
ちへぞつなぎいれ【入れ】たる。をんな岩屋のくちに
たたずんできけば、おほき【大き】なるこゑ【声】してに
よびけり。「わらはこそ是まで尋まいり【参り】たれ。見
参せむ」といひければ、「我は是人のすがたに
はあらず。汝すがたを見ては肝たましゐ【魂】も身に
そふまじきなり。とうとう【疾う疾う】帰れ。汝がはらめる子は
男子なるべし。弓矢打物とて九州二島にな
らぶ者もあるまじきぞ」とぞいひける。女重て
P08038
申けるは、「たとひいかなるすがたにてもあれ、此日
来のよしみ何とてかわする【忘る】べき。互にすがたを
も見もし見えむ」といはれて、さらばとて、岩屋の
内より、臥だけは五六尺、跡枕へは十四五丈もある
らむとおぼゆる【覚ゆる】大蛇にて、動揺してこそはひ【這ひ】
出たれ。狩衣のくびかみにさすとおもひ【思ひ】つる
針は、すなはち大蛇ののぶゑ(のぶえ)にこそさいたりけれ。
女是をみ【見】て肝たましゐ【魂】も身にそはず、ひき【引き】ぐ
し【具し】たりける所従十余人たふれ【倒れ】ふためき、お
P08039
めき【喚き】さけむ【叫ん】でにげさりぬ。女帰て程なく産
をしたれば、男子にてぞあり【有り】ける。母方の祖父
太大夫そだててみ【見】むとてそだてたれば、いまだ
十歳にもみたざるに、せいおほき【大き】にかほ【顔】ながく、
たけ【丈】たかかり【高かり】けり。七歳にて元服せさせ、母方
の祖父を太大夫といふ間、是をば大太とこそ
つけたりけれ。夏も冬も手足におほき【大き】なる
あかがりひまなくわれければ、あかがり大太とぞ
いはれける。件の大蛇は日向国にあがめられ給へる
P08040
高知尾の明神の神体也。此緒方の三郎はあ
かがり大太には五代の孫なり。かかるおそろしき【恐ろしき】物
の末なりければ、国司の仰を院宣と号して、
九州二島にめぐらしぶみをしければ、しかる【然る】べき
『太宰府落』S0804
兵ども維義に随ひつく。○平家いまは宮こ【都】をさ
だめ、内裏つくるべきよし沙汰ありしに、維義が
謀叛と聞えしかば、いかにとさはが【騒が】れけり。平大納言[B 新中納言知盛イ]
時忠卿申されけるは、「彼維義は小松殿の御家人
なり。小松殿の君達一所むかは【向は】せ給ひて、こしらへ
P08041
て御らんぜらるべうや候らん」と申されければ、
「まこと【誠】にも」とて、小松の新三位中将資盛卿、五百余
騎で豊後国にうちこえて、やうやうにこしらへ給へ
ども、維義したがひ【従ひ】たてまつら【奉ら】ず。あまさへ【剰へ】「君達を
も只今ここでとりこめまいらす【参らす】べう候へども、「大事
のなかに小事なし」とてとりこめまいらO[BH せ]【参らせ】ずは、なに
程の事かわたらせ給ふべき。とうとう太宰府へ
帰らせ給ひて、ただ御一所でいかにもならせ給へ」
とて、追帰し奉る。維義が次男野尻の二郎維
P08042
村を使者で、太宰府へ申けるは、「平家は重恩
の君にてましませば、甲をぬぎ弓をはづゐて
まいる【参る】べう候へども、一院の御定【*御諚】に速に九国内を
追出しまいらせよ【参らせよ】と候。いそぎ出させ給ふべうや
候らん」と申をく【送つ】たりければ、平大納言時忠
卿、ひをぐくり【緋緒括】の直垂に糸くず【糸葛】の袴立烏帽
子で、維村にいでむか【向つ】ての給ひけるは、「それ我君
は天孫四十九世の正統、仁王八十一代の御門なり。
天照太神【大神】・正八幡宮も我君をこそまもり【守り】まい
P08043
ら【参ら】させ給ふらめ。就中に、故太政大臣入道殿は、
保元・平治両度の逆乱をしづめ、其上鎮西の
者どもをばうち様【内様】へこそめされしか。東国・北国の
凶徒等が頼朝・義仲等にかたらはれて、しおほせ
たらば国をあづけう、庄をたばんといふをまこ
ととおもひ【思ひ】て、其鼻豊後が下知にしたがはん事
しかる【然る】べからず」とぞの給ける。豊後の国司刑部
卿三位頼資卿はきはめて鼻の大におはしけれ
ば、かうはの給ひけり。維村帰て父に此よしいひ
P08044
ければ、「こはいかに、昔はむかし今は今、其義ならば
速かに追出したてまつれ【奉れ】」とて、勢そろふるなど聞
えしかば、平家の侍源大夫判官季定・摂津判
官守澄「向後傍輩のため奇怪に候。めし【召し】とり候
はん」とて、其勢三千余騎で筑後国高野本庄に発向して、一日一夜せめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。されども維義が
勢雲霞のごとくにかさなりければ、ちからをよば【及ば】
でひき【引き】しりぞく。平家は緒方三郎維義が三万
余騎の勢にて既によすと聞えしかば、とる物も
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とりあへず太宰府をこそ落ち給へ。さしもた
のもしかり【頼もしかり】つる天満天神のしめ【注連】のほとりを、心ぼ
そくもたちはなれ、駕輿丁もなければ、そう花【葱花】・
宝輦はただ名のみききて、主上要輿にめされけ
り。国母をはじめ奉て、やごとなき女房達、袴の
そば【稜】をとり、大臣殿以下の卿相・雲客、指貫のそ
ば【稜】をはさみ【鋏み】、水き【水城】の戸を出て、かちはだしにて
我さきに前にと箱崎の津へこそ落給へ。おり
ふし【折節】くだる雨車軸のごとし。吹風砂をあぐとかや。お
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つる涙、ふる雨、わきていづれも見えざりけり。住吉・
筥崎・香椎・宗像ふしをがみ【拝み】、ただ主上旧都の
還幸とのみぞ祈られける。たるみ山【垂見山】・鶉浜など
いふ峨々たる嶮難をしのぎ、渺々たる平沙へぞ
おもむき【赴き】給ふ。いつならはし【習はし】の御事なれば、御足
よりいづる【出づる】血は沙をそめ、紅の袴は色をまし、白
袴はすそ紅にぞなりにける。彼玄弉三蔵の
流砂・葱嶺を凌がれけんくるしみ【苦しみ】も、是にはいか
でまさるべき。されどもそれは求法のためなれば、
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自他の利益もあり【有り】けん、是は怨敵のゆへ【故】なれば、
後世のくるしみ【苦しみ】かつおもふ【思ふ】こそかなしけれ。原田大夫
種直は、二千余騎で平家の御ともにまいる【参る】。山鹿
兵藤次秀遠、数千騎で平家の御むかひにま
いり【参り】けるが、種直・秀遠以外に不和になりけれ
ば、種直は、あしかりなんとて道より引かへす。あし
屋の津といふところをすぎさせ給ふにも、「これは
我らが宮こ【都】より福原へかよひしとき、里の名なれば」
とて、いづれの里よりもなつかしう、今さらあはれを
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ぞもよをされける。新羅・百済・高麗・荊旦、雲の
はて海のはてまでも落ゆかばやとはおぼしけれ
ども、浪風むかふ【向う】てかなは【叶は】ねば、兵藤次秀遠にぐせ【具せ】
られて、山賀の城にぞこもり給ふ。山賀へも敵
よすと聞えしかば、小舟どもにめし【召し】て、夜もすがら豊
前国柳が浦へぞわたり給ふ。ここに内裏つくる
べきよし汰汰ありしかども、分限なかりければ
つくられず、又長門より源氏よすと聞えしかば、
海士を舟【小舟】にとりのりて、海にぞうかび給ひけ
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る。小松殿の三男左の中将清経は、もとより
何事もおもひ【思ひ】いれ【入れ】たる人なれば、「宮こをば源
氏がためにせめ【攻め】おとさ【落さ】れ、鎮西をば維義がため
に追出さる。網にかかれる魚のごとし。いづくへゆか【行か】
ばのがる【逃る】べきかは。ながらへ【永らへ】はつべき身にもあらず」
とて、月の夜心をすまし【澄まし】、舟の屋形にたち【立ち】いで【出で】て、
やうでう【横笛】ねとり【音取】朗詠してあそば【遊ば】れけるが、閑に
経よみ念仏して、海にぞしづみ給ひける。男
女なきかなしめども甲斐ぞなき。長門国は新
P08050
中納言知盛卿の国なりけり。目代は紀伊刑部大夫
道資といふものなり。平家の小舟どもにのり給
へる由承て、大舟百余艘点じて奉る。平家これ
に乗うつり四国の地へぞわたられける。重能が沙
汰として、四国の内をもよをして、讃岐の八島に
かたのやうなるいた屋【板屋】の内裏や御所をぞつくら
せける。其程はあやしの民屋を皇居とする
に及ばねば、舟を御所とぞ定めける。大臣殿以
下の卿相・雲客、海士の篷屋に日ををくり【送り】、しづ【賎】
P08051
がふしど【臥処】に夜をかさね、竜頭鷁首を海中に
うかべ【浮べ】、浪のうへ【上】の行宮はしづかなる時なし。月を
ひたせる潮のふかき愁にしづみ、霜をおほへ【覆へ】る
蘆の葉のもろき命をあやぶむ。洲崎にさは
ぐ【騒ぐ】千鳥の声は、暁恨をまし、そはゐにかかる梶の
音、夜半に心をいたま【痛ま】しむ。遠松に白鷺のむれ
ゐるを見ては、源氏の旗をあぐるかとうたがひ、野
鴈の遼海になくを聞ては、兵どもの夜もすがら
舟をこぐかとおどろかる。清嵐はだえ【肌】ををかし、翠
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黛紅顔の色やうやうおとろへ、蒼波眼穿て、外
都望郷の涙をさへ【抑へ】難し。翠帳紅閨にかはれ
るは、土生の小屋のあしすだれ【蘆簾】、薫炉の煙に
ことなるは、蘆火たく屋のいやしきにつけても、
女房達つきせぬ物おもひ【思ひ】に紅の涙せきあへ
ねば、翠の黛みだれつつ、其人とも見え給
『征夷将軍院宣』S0805
はず。○さる程に鎌倉の前右兵衛佐頼朝、ゐな
がら征夷将軍の院宣を蒙る。御使は左史生[* 「左吏生」と有るのを他本により訂正]
中原泰定とぞ聞えし。十月十四日関東へ下
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着。兵衛佐の給けるは、「頼朝年来勅勘を蒙た
りしかども、今武勇の名誉長ぜるによて、ゐな
がら征夷将軍の院宣を蒙る。いかんが私でう
け【受け】とり【取り】奉るべき。若宮の社にて給はらん」とて、
若宮へまいり【参り】むかは【向は】れけり。八幡は鶴が岡にたた
せ給へり。地形石清水にたがは【違は】ず。廻廊あり、楼
門あり、つくり道十余町見くだしたり。「抑院宣
をばたれ【誰】してかうけ【受け】とり【取り】奉るべき」と評定あり【有り】。
「三浦介義澄してうけ【受け】とり【取り】奉るべし。其故は、八ケ
P08054
国に聞えたりし弓矢とり、三浦平太郎為嗣が
末葉也。其故父大介は、君の御ために命を
すてたる兵なれば、彼義明が黄泉の迷暗
をてらさむがため」とぞ聞えし。院宣の御使
泰定は、家子二人、郎等十人具したり。院宣
をばふぶくろ【文袋】にいれ【入れ】て、雑色が頸にぞかけさせ
たりける。三浦介義澄も家子二人、郎等十人具
したり。二人の家子は、和田三郎宗実・比木【*比企】の藤
四郎能員なり。十人の郎等をば大名十人して、
P08055
俄に一人づつしたて【仕立て】けり。三浦の介が其日の
装束には、かち【褐】の直垂に、黒糸威の鎧きて、
いか物づくりの大太刀はき、廿四さいたる大中黒
の矢をひ【負ひ】、しげどう【滋籐】の弓脇にはさみ【鋏み】、甲をぬぎ
高ひもにかけ、腰をかがめて院宣をうけ【受け】とる【取る】。
泰定「院宣うけ【受け】とり【取り】奉る人はいかなる人ぞ、
名のれや」といひければ、三浦介とは名のらで、本
名を三浦の荒次郎義澄とこそなの【名乗つ】たれ。
院宣をば、らん箱【乱箱】にいれ【入れ】られたり。兵衛佐に奉る。
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ややあて、らんばこ【乱箱】をば返されけり。おもかりければ、
泰定是をあけてみる【見る】に、沙金百両いれ【入れ】られ
たり。若宮の拝殿にして、泰定に酒をすすめ
らる。斎院次官親義陪膳す。五位一人亦送【役送】を
つとむ。馬三疋ひかる。一疋に鞍をい【置い】たり。大宮の
さぶらひたしかのの工藤一臈資経【*祐経】是をひく。ふる
き萱屋をしつらうて、いれ【入れ】られたり。あつ綿【厚綿】の
きぬ二両、小袖十重、長持にいれ【入れ】てまうけたり。
紺藍摺白布千端をつめり。盃飯ゆたかにし
P08057
て美麗なり。次日兵衛介【兵衛佐】の館へむかふ【向ふ】。内外
に侍あり、ともに十六間なり。外侍には家子郎
等肩をならべ、膝を組でなみゐたり。内侍には
一門源氏上座して、末座に大名小名なみ
ゐたり。源氏の座上に泰定をすへ【据ゑ】らる。良あ
て寝殿へ向ふ。ひろ廂に紫縁の畳をしひて、泰
定をすへ【据ゑ】らる。うへ【上】には〔高麗縁の畳をしき、〕御簾たかくあげさせ、兵衛
佐どの出られたり。布衣に立烏帽子也。貌【*顔】大に、
せいひきかり【低かり】けり。容貌悠美にして、言語分明也。
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まづ子細を一じのべ給ふ。「平家頼朝が威勢に
おそれ【恐れ】て宮こをおち【落ち】、その跡に木曾の冠
者、十郎蔵人うちいりて、わが高名がほに官加階
をおもふ【思ふ】様になり、剰へ国をきらひ申条、奇怪
也。奥の秀衡が陸奥守になり、佐竹四郎高義
が常陸守になて候とて、頼朝が命にしたがはず。いそ
ぎ追討すべきよしの院宣を給はるべう候」。左史
生申けるは、「今度泰定も名符まいらす【参らす】べう候
が、御使で候へば、先罷上て、やがてしたためてまいら
P08059
す【参らす】べう候。おとと【弟】で候史の大夫重能も其義を申
候」。兵衛佐わら【笑つ】て、「当時頼朝が身として、各の
名符おもひ【思ひ】もよらず。さりながら、げにも申されば、
さこそ存ぜめ」とぞの給ひける。軈今日上洛す
べきよし申ければ、けふばかりは、逗留あるべし
とてとどめ【留め】らる。次日兵衛佐の館へむかふ【向ふ】。萌
黄の糸威の腹巻一両、しろう【白う】つくたる太刀一
振、しげどう【滋籐】の弓、野矢そへてたぶ。馬十三疋ひ
かる。三疋に鞍をひ【置い】たり。家子郎等十二人に、直
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垂・小袖・大口・馬鞍にをよび【及び】、荷懸駄卅疋あり【有り】け
り。鎌倉出の宿より鏡の宿にいたるまで、宿
々に十石づつの米ををか【置か】る。たくさんなるに
『猫間』S0806
よて、施行にひきけるとぞ聞えし。○泰定都へ
のぼり院参して、御坪の内にして、関東のやう
つぶさに奏聞しければ、法皇も御感あり【有り】けり。
公卿殿上人も皆ゑつぼにいり給へり。兵衛佐
はかうこそゆゆしくおはしけるに、木曾の左馬
頭、都の守護してあり【有り】けるが、たちゐの振舞
P08061
の無骨さ、物いふ詞つづき【詞続き】のかたくななる事かぎ
りなし。ことはり【理】かな、二歳より信濃国木曾
といふ山里に、三十まですみなれたりしかば、
争かしる【知る】べき。或時猫間中納言光高卿といふ人、
木曾にの給ひあはすべき事あておはしたりけり。
郎等ども「猫間殿の見参にいり申べき事あり
とて、いらせ給ひて候」と申ければ、木曾大にわら【笑つ】
て、「猫は人にげんざうするか」。「是は猫間の中納言
殿と申公卿でわたらせ給ふ。御宿所の名とおぼえ候」
P08062
と申ければ、木曾「さらば」とて対面す。猶も猫間殿
とはえいはで、「猫殿のまれまれ【稀々】わゐたるに、物よそへ」
とぞの給ひける。中納言是をきい【聞い】て、「ただいまあ
るべうもなし」との給へ【宣へ】ば、「いかが、けどき【食時】にわゐたるに、
さてはあるべき」。何もあたらしき物を無塩といふと
心えて、「ここにぶゑん【無塩】のひらたけ【平茸】あり、とうとう【疾う疾う】」といそ
がす。ねのゐ【根井】[B ノ]小野太陪膳す。田舎合子のきはめて
大に、くぼかりけるに、飯うづたかくよそゐ、御菜三種
して、ひらたけ【平茸】のしる【汁】でまいらせ【参らせ】たり。木曾がまへ
P08063
にもおなじ体にてすへ【据ゑ】たりけり。木曾箸とて
食す。猫間殿は、合子のいぶせさにめさざりければ、
「それは義仲が精進合子ぞ」。中納言めさでもさす
があしかる【悪しかる】べければ、箸とてめすよししけり。木曾是
を見て、「猫殿は小食におはしけるや。きこゆる【聞ゆる】猫
おろしし給ひたり。かい給へ」とぞせめたりける。中
納言かやうの事に興さめて、のたまひ【宣ひ】あはすべき
ことも一言もいださず、軈いそぎ帰られけり。木曾
は、官加階したるものの、直垂で出仕せん事ある
P08064
べうもなかりけりとて、はじめて布衣とり、装束
烏帽子ぎはより指貫のすそまで、まこと【誠】にかた
くななり。されども車にこがみ【屈み】のんぬ。鎧とて
き、矢かきをひ【負ひ】、弓もて、馬にのたるにはに【似】もに
ずわろかりけり。牛車は八島の大臣殿の牛車
なり。牛飼もそなりけり。世にしたがふ習ひなれ
ば、とらはれてつかは【使は】れけれども、あまりの目ざ
ましさに、すゑ【据ゑ】かう【飼う】たる牛の逸物なるが、門いづ
る【出づる】時、ひとすはへあてたらうに、なじかはよかるべき、
P08065
飛でいづる【出づる】に、木曾、車のうちにてのけに
たふれ【倒れ】ぬ。蝶のはねをひろげたるやうに、左
右の袖をひろげて、おきむおきむとすれども、
なじかはおきらるべき。木曾牛飼とはえいはで、
「やれ子牛こでい【健児】、やれこうしこでい【健児】」といひければ、
車をやれといふと心えて、五六町こそあがかせた
れ。今井の四郎兼平、鞭あぶみをあはせ【合はせ】て、お【追つ】
つゐ【付い】て、「いかに御車をばかうはつかまつるぞ」としか
り【叱り】ければ、「御牛の鼻がこはう候」とぞのべたりける。牛
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飼なかなをり【仲直り】せんとや思ひけん、「それに候手が
たにとりつかせ給へ」と申ければ、木曾手がたに
むずととりつゐ【付い】て、「あぱれ支度や、是は牛こで
い【牛健児】がはからひか、殿のやう【様】か」とぞとふ【問う】たりける。さて院
御所にまいり【参り】つゐ【付い】て、車かけはづさ【外さ】せ、うしろより
をり【降り】むとしければ、京者の雑色につかは【使は】れけるが、
「車には、めされ候時こそうしろよりめされ候へ。をり【降り】
させ給ふには、まへよりこそをり【降り】させ給へ」と申け
れども、「いかで車であらむがらに、すどをり【素通り】をばすべ
P08067
き」とて、つゐに【遂に】うしろよりをり【降り】てげり。其外おかし
き事どもおほかり【多かり】けれども、おそれ【恐れ】て是を申
『水島合戦』S0807
さず。○平家は讃岐の八島にありながら、山陽道
八ケ国、南海道六ケ国、都合十四箇国をぞうちと
りける。木曾左馬頭是をきき、やすからぬ事なり
とて、やがてうつて【討手】をさしつかはす【遣す】。うつて【討手】の大将には
矢田判官代義清、侍大将には信濃国の住人海
野の弥平四郎行広、都合其勢七千余騎、山陽
道へ馳下り、備中[B ノ]国水島がとに舟をうかべ【浮べ】て、八島
P08068
へ既によせむとす。同閏十月一日、水島がとに小
船一艘いできたり。あま舟【海士舟】釣舟かと見る程に、
さはなくして、平家方より朝の使舟なりけり。
是を見て源氏の舟五百余艘ほし【干し】あげたるを、
おめき【喚き】さけむ【叫ん】でおろしけり。平家は千余艘
でおしよせたり。平家の方の大手の大将軍に
は新中納言知盛卿、搦手の大将軍には能登守教
経なり。能登殿のたまひ【宣ひ】けるは、「いかに者共、いく
さ【軍】をばゆるに仕るぞ。北国のやつばらにいけどら【生捕ら】
P08069
れむをば、心うしとはおもは【思は】ずや。御方の舟を
ばくめ【組め】や」とて、千余艘がとも綱・へづな【舳綱】をくみあ
はせ【合はせ】、中にむやゐ【舫】をいれ【入れ】、あゆみ【歩み】の板をひ
き【引き】わたしひき【引き】わたしわたひ【渡い】たれば、舟のうへ【上】はへいへい【平々】
たり。源平[* 「源氏」と有るのを他本により訂正]両方時つくり、矢合して、互に舟どもお
しあはせ【合はせ】てせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。遠きをば弓でゐ【射】、近きをば、
太刀できり、熊手にかけてとるもあり、とらるる
もあり、引組で海にいるもあり、さしちがへて
死ぬるもあり【有り】。思ひ思ひ心々に勝負をす。源氏
P08070
の方の侍大将海野の弥平四郎うた【討た】れにけり。
是をみ【見】て大将軍矢田の判官代義清主従七
人小舟に乗て、真前にすす【進ん】で戦ふ程に、いかがした
りけむ、船ふみ沈めて皆死にぬ。平家は鞍をき
馬【鞍置き馬】を舟のうちにたてられたりければ、舟差よ
せ、馬どもひき【引き】おろし、うちのりうちのりおめい【喚い】てかけけ
れば、源氏の勢、大将軍はうた【討た】れぬ、われさきに
とぞ落行ける。平家は水島のいくさ【軍】に勝て
『瀬尾【*妹尾】最期』S0808
こそ、会稽の恥をば雪めけれ。○木曾の左馬
P08071
頭是をきき、やすからぬ事なりとて、一万騎で
山陽道へ馳下る。平家の侍備中国の住人妹
尾太郎兼康は、北国の戦ひに、加賀国住人
倉光の次郎成澄が手にかかて、いけどり【生捕り】にせら
れたりしを、成澄が弟倉光の三郎成氏にあづ
けられたり。きこゆる【聞ゆる】甲【*剛】の者、大ぢから【大力】なりけ
れば、木曾殿「あたらおのこをうしなふ【失なふ】べきか」と
て、きら【斬ら】ず。人あひ心ざまゆう【優】に情あり【有り】ければ、倉
光もねむごろにもてなしけり。蘇子荊【*蘇子卿】が胡国に
P08072
とらはれ、李少卿が漢朝へ帰らざりしがごとし【如し】。とをく【遠く】
異国に付る事は、昔の人のかなしめりし処也と
いへり。韋環【*■】・鴨【*毳】の膜【*幕】もて風雨をふせき【防き】、腥【*羶】肉・
駱【*酪】がつくり水【作水】もて飢渇にあつ。夜るはいぬる事
なく、昼は終日につかへ、木をきり草をからずといふ
ばかりに随ひつつ、いかにもして敵をうかがひ【伺ひ】打
て、いま一度旧主を見たて奉らむと思ひける
兼康が心の程こそおそろしけれ【恐ろしけれ】。或時妹尾太郎、
倉光の三郎にあふ【逢う】て、いひけるは、「去五月より、
P08073
甲斐なき命をたすけ【助け】られまいらせ【参らせ】て候へば、
誰をたれとかおもひ【思ひ】まいらせ【参らせ】候べき。自今以後
御いくさ【軍】候ば、真前かけ【駆け】て木曾殿に命をまい
らせ【参らせ】候はん。兼康が知行仕候し備中の妹尾は、
馬の草飼よい所で候。御辺申て給はらせ給へ」と
いひければ、倉光此様を申す。木曾殿「神妙の
事申ごさんなれ。さらば汝妹尾を案内者にし
て、先くだれ。誠に馬の草なんどをもかまへさせ
よ」との給へ【宣へ】ば、倉光三郎かしこまり悦で、其勢
P08074
卅騎ばかり、妹尾太郎をさきとして、備中へぞ下け
る。妹尾が嫡子小太郎宗康は、平家の御方に候。
父が木曾殿よりゆるさ【許さ】れて下るときこえ【聞え】しかば、
年来の郎等どももよほしあつめ【集め】、其勢五十騎
ばかりでむかへ【向へ】にのぼる程に、播磨の国府でゆき
あふ【逢う】て、つれて下る。備前国みつ石の宿にとど
ま【留まつ】たりければ、妹尾がしたしき者共、酒をもたせて
出きたり。其夜もすがら悦のさかもりしけるに、あ
づかり【預り】の武士倉光の三郎、所従ともに卅余人、し
P08075
ゐ【強ひ】ふせ【臥せ】ておこしもたてず、一々に皆さしころし【殺し】て
げり。備前[B ノ]国は十郎蔵人の国なり。其代官の
国府にあり【有り】けるをも、おし【押し】よせ【寄せ】てう【打つ】てげり。「兼
康こそいとま給て罷下れ、平家に心ざし思ひ
まいらせ【参らせ】む人々は、兼康を先として、木曾殿の下
給ふに、矢ひとつ【一つ】ゐ【射】かけ奉れ」と披露しければ、
備前・備中・備後三箇国の兵ども、馬・物具しかる【然る】
べき所従をば、平家の御方へまいらせ【参らせ】て、やす
みける老者共、或は柿の直垂につめひも【詰紐】し、
P08076
或は布の小袖にあづまおり【東折】し、くさり腹巻つづ
りきて、山うつぼ【山靭】・たかゑびら【竹箙】に矢ども少々さし、かき
をひ【負ひ】かきをひ【負ひ】妹尾が許へ馳集る。都合其勢二千余人、
妹尾太郎を先として、備前国福りうじ【福隆寺】縄手、
ささ【篠】のせまり【迫り】を城郭にかまへ、口二丈ふかさ【深さ】二丈
に堀をほり、逆もぎ引、高矢倉あげ、かいだて【垣楯】か
き、矢さき【矢先】をそろへて、いまやいまやと待かけたり。
備前国に十郎蔵人のをか【置か】れたりし代官、妹尾
にうた【討た】れて、其下人共がにげて京へ上る程に、播
P08077
磨と備前のさかひふなさか【舟坂】といふ所にて、木曾殿
にまいり【参り】あふ。此由申ければ、「やすからぬ。きて捨べ
かりつる物を」と後悔せられければ、今井の四郎
申けるは、「さ候へばこそ、きやつがつらだましゐ【面魂】ただ
もの【唯者】とは見候はず。ちたび【千度】きらうど申候つる物を、
助けさせ給て」と申。「思ふに何程の事かあるべき。
追懸て討て」とぞのたまひ【宣ひ】ける。今井四郎「まづ
下て見候はん」とて、三千余騎で馳下る。ふくりう
寺【福隆寺】縄手は、はたばり【端張】弓杖一たけばかりにて、とをさ【遠さ】は
P08078
西国一里也。左右は深田にて、馬の足もをよば【及ば】ね
ば、三千余騎が心はさきにすすめども、馬次第に
ぞあゆま【歩ま】せける。押よせて見ければ、妹尾太郎
矢倉に立出て、大音声をあげて、「去五月より今
まで、甲斐なき命を助られまいらせ【参らせ】て候をのをの【各々】の
御芳志には、是をこそ用意仕て候へ」とて、究竟の
つよ弓【強弓】勢兵数百人すぐりあつめ【集め】、矢前をそ
ろへてさしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さんざんにゐる【射る】。おもてを
向べき様もなし。今井四郎をはじめとして、楯・
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祢[B ノ]井・宮崎三郎・諏方【*諏訪】・藤沢などいふはやりを【逸男】
の兵ども、甲のしころをかたぶけて、射ころさ【殺さ】
るる人馬をとりいれ【入れ】ひき【引き】いれ【入れ】、堀をうめ、おめき【喚き】
さけむ【叫ん】でせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。或は左右の深田に打い
れ【入れ】て、馬のくさわき【草脇】・むながいづくし・ふと腹などに
たつ所を事ともせず、むらめかい【群めかい】てよせ【寄せ】、或は谷ふ
け【谷深】をも嫌はず、懸いり懸いり一日戦暮しけり。夜に
いりて妹尾が催しあつめ【集め】たるかり武者ども【駆武者共】、皆せ
め【攻め】おとさ【落さ】れて、たすかる者はすくなう、うたるる
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者ぞおほかり【多かり】ける。妹尾太郎篠のせまり【迫り】の城
郭を破られて、引退き、備中国板倉川のはた【端】
に、かいだて【垣楯】かいて待懸たり。今井四郎軈をし【押し】よ
せ【寄せ】責ければ、山うつぼ【山靭】・たかゑびら【竹箙】に矢種のある程
こそふせき【防き】けれ、みな射つくしてげれば、われ
さきにとぞ落行ける。妹尾太郎ただ主従三
騎にうちなされ、板倉川のはたにつゐ【着い】て、みど
ろ山のかたへ落行程に、北国で妹尾いけどり【生捕り】に
したりし倉光の次郎成澄、おとと【弟】はうた【討た】れぬ、「や
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すからぬ事なり。妹尾においては又いけどり【生捕り】に仕候はん」
とて、群にぬけてをう【追う】てゆく。あはひ【間】一町ばかりに
追付て、「いかに妹尾殿、まさなうも敵にうしろをば見
する物かな。返せやかへせ」といはれて、板倉川を
西へわたす河中に、ひかへて待懸たり。倉光馳来
て、おしならべむずと組で、どうどおつ。互におと
らぬ大力なれば、うへ【上】になり、したになり、ころび
あふ程に、川岸に淵のあり【有り】けるにころびいりて、
倉光は無水練なり、妹尾はすぐれたる水練なり
P08082
ければ、水のそこ【底】で倉光をとてをさへ【抑へ】、鎧の草
摺ひき【引き】あげ、つか【柄】もこぶし【拳】もとをれ【通れ】とをれ【通れ】と三刀さい
て頸をとる。我馬は乗損じたれば、敵倉光が馬に
乗て落行程に、妹尾が嫡子小太郎宗康、馬に
はのらず、歩行にて郎等とつれ【連れ】て落行程に、
いまだ廿二三の男なれども、あまりにふとて一
町ともえはしら【走ら】ず、物具ぬぎすててあゆめ【歩め】ども
かなは【叶は】ざりけり。父は是をうち捨て、十余町こそ
逃のびたれ。郎等にあふ【逢う】ていひけるは、「兼康は
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千万の敵にむか【向つ】て軍するは、四方はれ【晴れ】ておぼゆる
が、今度は小太郎をすててゆけばにや、一向前
がくらうて見えぬぞ。たとひ兼康命いきて、ふた
たび平家の御方へまいり【参り】たりとも、どうれい【同隷】ども
「兼康いまは六十にあまりたる者の、いく程の命
をおしう【惜しう】で、ただひとりある子を捨ておち【落ち】けるや
らん」といはれむ事こそはづかしけれ」。郎等申
けるは、「さ候へばこそ、御一所でいかにもならせ給へと
申つるはここ候。かへさ【返さ】せ給へ」といひければ、「さらば」とて
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取てかへす【返す】。小太郎は足かばかりはれ【腫れ】てふせ【臥せ】り。「な
むぢがえお【追つ】つかねば、一所で打死せうどて帰たるは、
いかに」といへば、小太郎涙をはらはらとながい【流い】て、「此身
こそ無器量の者で候へば、自害をも仕候べきに、我
ゆへ【故】に御命をうしなひ【失ひ】まいらせ【参らせ】む事、五逆罪にや候
はんずらむ。ただとうとう【疾う疾う】のびさせ給へ」と申せども、
「思ひきたるうへ【上】は」とて、やすむ処に、今井の四
郎まさきかけて、其勢五十騎ばかりおめい【喚い】て追
かけたり。妹尾太郎矢七つ八つ射のこしたるを、
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さしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さむざむ【散々】に射る。死生はしら【知ら】ず、
やにはに敵五六騎射おとす【落す】。其後打物ぬいて、
先小太郎が頸打おとし【落し】、敵の中へわていり、さむ
ざむ【散々】に戦ひ、敵あまたうちとて、つゐに【遂に】打死し
てげり。郎等も主にちともおとらず戦ひけるが、
大事の手あまたをひ【負ひ】、たたかひつかれ【疲れ】て自害せ
むとしけるが、いけどり【生捕り】にこそせられけれ。中一日あ
てしに【死に】にけり。是等主従三人が頸をば、備中国
鷺が森にぞかけたりける。木曾殿是を見給
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ひて、「あぱれ剛の者かな。是をこそ一人当千の兵と
もいふべけれ。あたら者どもを助けてみ【見】で」とぞ
『室山』S0809
のたまひ【宣ひ】ける。○さる程に、木曾殿は備中国万寿
の庄にて勢ぞろへして、八島へ既によせむとす。
其間の都の留守にをか【置か】れたる樋口次郎兼光、
使者をたてて、「十郎蔵人殿こそ殿のましまさ
ぬ間に、院のきり人【切り人】して、やうやうに讒奏せられ
候なれ。西国の軍をば暫さしをか【置か】せ給ひて、いそ
ぎのぼらせ給へ」と申ければ、木曾「さらば」とて、夜
P08087
を日につゐ【継い】で馳上る。十郎蔵人あしかり【悪しかり】なん
とやおもひ【思ひ】けむ、木曾にちがはむと丹波路に
かかて、播磨国へ下る。木曾は摂津国をへて、みや
こ【都】へいる。平家は又木曾うたむとて、大将軍には
新中納言知盛卿・本三位中将重衡、侍大将には、越
中次郎兵衛盛次【*盛嗣】・上総五郎兵衛忠光・悪七兵
衛景清・都合其勢二万余騎、千余艘の舟に
乗、播磨の地へおしわたりて、室山に陣をとる。十
郎蔵人、平家と軍して木曾と中なをり【仲直り】せん
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とやおもひ【思ひ】けむ、其勢五百余騎で室山へこそをし【押し】
よせ【寄せ】たれ。平家は陣を五つにはる。一陣越中[B ノ]次郎
兵衛盛次【*盛嗣】二千余騎、二陣伊賀平内左衛門家
長二千余騎、三陣上総五郎兵衛・悪七兵衛三千
余騎、四陣本三位中将重衡三千余騎、五陣新
中納言知盛卿一万余騎でかためらる。十郎蔵人行
家五百余騎でおめい【喚い】てかく。一陣越中次郎兵衛盛
次【*盛嗣】、しばらくあひしらう様にもてなひて、中をざと
あけてとをす。二陣伊賀平内左衛門家長、おな
P08089
じうあけてとをしけり。三陣上総五郎兵衛・悪七
兵衛、ともにあけてとをしけり。四陣本三位中将重
衡卿、是もあけていれ【入れ】られけり。一陣より五陣まで
兼て約束したりければ、敵を中にとりこめて、一度
に時をどとぞつくりける。十郎蔵人今は遁るべ
き方もなかりければ、たばかられぬとおもひ【思ひ】て、おもて【面】も
ふらず、命もおしま【惜しま】ず、ここを最後とせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。平
家の侍ども、「源氏の大将にくめや」とて、我さきにとすすめども、さすが十郎蔵人にをし【押し】ならべてくむ
P08090
武者一騎もなかりけり。新中納言のむねとたのま【頼ま】
れたりける紀七左衛門・紀八衛門・紀九郎などいふ兵
ども、そこにて皆十郎蔵人にうちとられぬ。かくし
て十郎蔵人、五百余騎が纔に卅騎ばかりにうちな
され、四方はみな敵なり、御方は無勢なり、いかにして
のがる【逃る】べしとは覚えねど、おもひ【思ひ】きて雲霞のごとく【如く】
なる敵のなかをわてとをる【通る】。されども我身は手
もをはず、家子郎等廿余騎大略手負て、播
磨国高砂より舟に乗、をし【押し】いだひ【出い】て和泉国
P08091
にぞ付にける。それより河内へうちこえて、長野
城にひ【引つ】こもる。平家は室山・水島二ケ度のいくさ【軍】
『皷判官』S0810
に勝てこそ、弥勢はつきにけれ。○凡京中には源
氏みちみちて、在々所々にいりどり【入り捕り】おほし【多し】。賀茂・八
幡の御領ともいはず、青田を苅てま草にす。人の
倉をうちあけて物をとり、持てとをる【通る】物をうば
ひ【奪ひ】とり、衣裳をはぎとる。「平家の都におはせし時は、
六波羅殿とて、ただおほかた【大方】おそろしかり【恐ろしかり】しばかり也。
衣裳をはぐまではなかりし物を、平家に源氏
P08092
かへおとり【替へ劣り】したり」とぞ人申ける。木曾の左馬頭
のもとへ、法皇より御使あり【有り】。狼籍【*狼藉】しづめよと仰
下さる。御使は壱岐守朝親【*知親】が子に、壱岐判官朝
泰【*知康】といふ者也。天下にすぐれたる皷の上手であ
りければ、時の人皷判官とぞ申ける。木曾
対面して、先御返事をば申さで、「抑わとのを皷判
官といふは、よろづの人にうた【打た】れたうたか、はられ
たうたか」とぞとふ【問う】たりける。朝泰【*知康】返事にをよば【及ば】ず、
院御所に帰りまい【参つ】て、「義仲おこの者で候。只今朝
P08093
敵になり候なんず。いそぎ追討せさせ給へ」と申け
れば、法皇さらばしかる【然る】べき武士にも仰付られずし
て、山の座主・寺の長吏に仰られて、山・三井寺の
悪僧どもをめされけり。公卿殿上人のめされける勢
と申は、むかへつぶて【向へ礫】・いんぢ【印地】、いふかひなき辻冠
者原・乞食法師どもなりけり。木曾左馬頭、
院の御気色あしう【悪しう】なると聞えしかば、はじめは
木曾にしたがふたりける五畿内の兵ども、皆そ
むゐて院方へまいる【参る】。信濃源氏村上の三郎判
P08094
官代、是も木曾をそむゐて法皇へまいり【参り】けり。今
井四郎申けるは、「是こそ以外の御大事で候へ。されば
とて十善帝王にむかい【向ひ】まいらせ【参らせ】て、争か御合戦
候べき。甲をぬぎ弓をはづゐて、降人にまいら【参ら】せ
給へ」と申せば、木曾大にいかて、「われ信濃を出し時、
をみ【麻績】・あひだ【会田】のいくさ【軍】よりはじめて、北国には、砥浪山・
黒坂・篠原、西国には福立寺【福隆寺】縄手・ささ【篠】のせまり【迫り】・板
倉が城を責しかども、いまだ敵にうしろを見せず、た
とひたとひ十善帝王にてましますとも、甲をぬぎ、
P08095
弓をはづい【外い】て降人にはえこそまいる【参る】まじけ
れ。たとへば都の守護してあらむものが、馬一疋
づつかう【飼う】てのら【乗ら】ざるべきか。いくらもある田ども
からせて、ま草にせんを、あながちに法皇のとが
め給ふべき様やある。兵粮米もなければ、冠者
原共がかたほとりにつゐ【付い】て、時々いりどり【入り捕り】せんは
何かあながちひが事【僻事】ならむ。大臣家や宮々の御所へ
もまいら【参ら】ばこそ僻事ならめ。是は皷判官が凶害
とおぼゆるぞ。其皷め打破て捨よ。今度は義
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仲が最後の軍にてあらむずるぞ。頼朝が帰きか
む処もあり、軍ようせよ。者ども」とてう【打つ】たち【立ち】け
り。北国の勢ども皆落下て、纔に六七千騎ぞ
あり【有り】ける。我軍の吉例なればとて、七手につくる。
先樋口次郎兼光、二千騎で、新熊野のかたへ
搦手にさしつかはす【遣す】。のこり六手は、をのをの【各々】がゐた
らむずる条里小路より川原へいで【出で】て、七条河
原にてひとつ【一つ】になれと、あひづ【合図】をさだめ【定め】て出立
けり。軍は十一月十九日の朝なり。院[B ノ]御所法住寺
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殿にも、軍兵二万余人まいり【参り】こもり【籠り】たるよし聞え
けり。御方のかさじるし【笠印】には、松の葉をぞ付たり
たる。木曾法住寺殿の西門にをし【押し】よせ【寄せ】てみれ【見れ】ば、
皷判官朝泰【*知康】軍の行事うけ給【承つ】て、赤地の
錦の直垂に、鎧はわざとき【着】ざりけり。甲斗ぞ
きたりける。甲には四天をかいて、をし【押し】たりけり。
御所の西の築墻【築垣】の上にのぼ【上つ】て立たりけるが、
片手にはほこ【矛】をもち、片手には金剛鈴をもて、金
剛鈴を打振打振、時々は舞おり【折】もあり【有り】けり。若き
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公卿殿上人「風情なし。朝泰【*知康】には天狗ついたり」とぞ
わらは【笑は】れける。大音声をあげて、「むかしは宣旨をむ
か【向つ】てよみければ、枯たる草木も花さきみ【実】なり、悪鬼
悪神も隨ひけり。末代ならむがらに、いかんが十善
帝王にむかひ【向ひ】まいらせ【参らせ】て弓をばひくべき。汝等が
はなたん矢は、返て身にあたるべし、ぬかむ太刀は身をきるべし」などとののしりければ、木曾「さないは
せそ」とて、時をどとつくる。さる程に、搦手にさしつ
かはし【遣し】たる樋口次郎兼光、新熊野の方より時の
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こゑ【声】をぞあはせ【合はせ】たり。鏑のなかに火をいれ【入れ】て、法住
寺殿の御所に射たて【立て】たりければ、おりふし【折節】風は
はげしし、猛火天にもえあが【上がつ】て、ほのを【炎】は虚空に
ひまもなし。いくさ【軍】の行事朝泰【*知康】は、人よりさきに
落にけり。行事がおつるうへ【上】は、二万余人の官軍
ども、我さきにとぞ落ゆきける。あまりにあはて【慌て】
さはひ【騒い】で、弓とる者は矢をしら【知ら】ず、矢をとる者は弓
をしら【知ら】ず、或は長刀さかさまについて、我足つき
つらぬく者もあり、或は弓のはず物にかけて、えはづ
P08100
さ【外さ】で捨てにぐる者もあり【有り】。七条がすゑは接津【摂津】国
源氏のかためたりけるが、七条を西へおち【落ち】て行。かね
て【予て】軍いぜん【以前】より、「落人のあらむずるをば、用意して
うちころせ」と、御所より披露せられたりけれ
ば、在洛の者共、屋ねい【屋根】に楯をつき、おそへ【押へ】の石をと
りあつめ【集め】て、待懸たるところ【所】に、摂津国源氏のお
ち【落ち】けるを、「あはや落人よ」とて、石をひろい【拾ひ】かけ、さん
ざん【散々】に打ければ、「これは院がたぞ、あやまち仕る
な」といへども、「さないはせそ。院宣であるに、ただ打
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ころせ打ころせ」とて打間、或は馬をすてて、はうはう【這ふ這ふ】に
ぐるもの【者】もあり、或はうちころさ【殺さ】るるもあり【有り】けり。
八条がすゑは山僧かためたりけるが、恥あるものは
うち死し、つれなきものはおち【落ち】ぞゆく。主水正親
成薄青の狩衣のしたに、萌黄[B 威]の腹巻をき
て、白葦毛なる馬にのり、河原をのぼりに落
てゆく。今井四郎兼平を【追つ】かかて、しや頸の骨
を射てゐ【射】おとす。清大外記頼成が子なりけり。
「明行道【明経道】の博士、甲冑をよろふ事しかる【然る】べからず」とぞ
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人申ける。木曾を背て院方へまい【参つ】たる信濃源氏、
村上三郎判官代もうた【討た】れけり。是をはじめて
院方には、近江中将為清・越前守信行も射こ
ろされて頸とられぬ。伯耆守光長・子息判官
光経、父子共にうた【討た】れぬ。按察大納言資方【*資賢】卿
の孫播磨少将雅方【*雅賢】も、鎧に立烏帽子で軍
の陣へいでられたりけるが、樋口次郎に生どり
にせられ給ぬ。天台座主明雲大僧正、寺の
長吏円慶法親王も、御所にまいり【参り】こもらせ
P08103
給ひたりけるが、黒煙すでに【既に】をし【押し】かけければ、御
馬にめし【召し】て、いそぎ川原へいでさせ給ふ。武士
どもさむざむ【散々】に射たてまつる。明雲大僧正、円慶
法親王も、御馬よりゐ【射】おとさ【落さ】れて、御頸とられさせ
給ひけり。豊後の国司刑部卿三位頼資卿も、御所
にまいり【参り】こもられたりけるが、火は既にをし【押し】かけた
り、いそぎ川原へ逃出給。武士の下部ども【共】に衣
裳皆はぎとられ、まぱだか【真裸】でたたれたり。十一月十九
日のあしたなれば、河原の風さこそすさまじかり
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けめ。三位こじうとに越前法眼性意といふ僧あり【有り】。
其中間法師軍見んとて河原へいでたりけるが、
三位のはだかでたたれたるに見あふ【逢う】て、「あなあさまし」
とてはしり【走り】より、此法師は白小袖二に衣きたりけ
るが、さらば小袖をもぬいできせたてまつれ【奉れ】かし、さは
なくて、衣をひぬいでなげかけたり。短き衣うつほ
にほうかぶて、帯もせず。うしろさこそ見ぐるしかり
けめ。白衣なる法師ともにぐし【具し】ておはしけるが、さらば
いそぎもあゆみ【歩み】給はで、あそこ爰に立とどまり、「あれ
P08105
はたが家ぞ、是は何者が宿所ぞ、ここはいづく
ぞ」と、道すがらとは【問は】れければ、見る人みな手を
たたゐてわらひ【笑ひ】あへり。法皇は御輿にめし【召し】て他
所へ御幸なる。武士どもさんざん【散々】に射たてまつる【奉る】。
豊後少将宗長、木蘭地の直垂に折烏帽子
で供奉せられたりけるが、「是は法皇の御幸
ぞ。あやまちつかまつるな」との給へ【宣へ】ば、兵ども
皆馬よりをり【降り】てかしこまる。「何者ぞ」と御尋あ
り【有り】ければ、「信濃国住人矢島の四郎行綱」と
P08106
なのり【名乗り】申。軈御輿に手かけまいらせ【参らせ】、五条内裏
にをし【押し】こめたてま【奉つ】て、きびしう守護し奉る。主上は
池に船をうかべ【浮べ】てめされけり。武士どもしきりに
矢をまいらせ【参らせ】ければ、七条侍従信清・紀伊守
教光【*範光】御舟に候はれけるが、「是はうちのわたらせ
給ふぞ、あやまち仕るな」とのたまへ【宣へ】ば、兵ども皆
馬よりをり【降り】てかしこまる。閑院殿へ行幸なし
奉る。行幸の儀式のあさましさ、申も中々を
『法住寺合戦』S0811
ろか【愚】なり。○院方に候ける近江守[B 「近江守」に「源蔵人イ」と傍書]仲兼、其勢五十
P08107
騎ばかりで、法住寺殿の西の門をかためてふ
せく【防く】処に、近江源氏山本冠者義高馳来た
り、「いかにをのをの【各々】は、誰をかばはんとて軍をばし
給ふぞ。御幸も行幸も他所へなりぬとこそ承
はれ」と申せば、「さらば」とて、敵の大勢のなか【中】へおめ
い【喚い】てかけいり、さんざん【散々】に、戦ひ、かけやぶ【破つ】てぞとを
り【通り】ける。主従八騎にうちなさる。八騎がうちに、河
内のくさか[B 日下]党、加賀房といふ法師武者あり【有り】け
り。白葦毛なる馬の、きはめて口こはきにぞの【乗つ】たり
P08108
ける。「此馬があまりひあひ【悲愛】で、乗たまるべしともお
ぼえ候はず」と申ければ、蔵人、「いでさらばわが馬
に乗かへよ」とて、栗毛なる馬のしたお【下尾】しろい【白い】にのり【乗り】
かへて、ねのゐ【根井】の小野太が二百騎ばかりでささへたる
川原坂の勢の中へ、おめい【喚い】て懸いり、そこにて
八騎が五騎はうた【討た】れぬ。ただ主従三騎にぞなり
にける。加賀房はわが馬のひあい【悲愛】なりとて、主の馬
に乗かへたれども、そこにてつゐに【遂に】うた【討た】れにけり。
源蔵人の家の子に、信濃次郎蔵人仲頼といふ
P08109
もの【者】あり【有り】。敵にをし【押し】へだて【隔て】られて、蔵人の
ゆくゑ【行方】をしら【知ら】ず、栗毛なる馬のしたお【下尾】しろ
い【白い】がはしり【走り】いで【出で】たるを見て、下人をよび【呼び】、「ここな
る馬は源蔵人の馬とこそみれ【見れ】。はやうた【討た】れ
けるにこそ。死なば一所で死なむとこそ契し
に、所々でうた【討た】れん事こそかなしけれ。どの勢の
中へかいる【入る】と見つる」。「川原坂の勢のなかへこそ
懸いらせ給ひ候つるなれ。やがてあの勢の中
より御馬も出きて候」と申ければ、「さらば汝は
P08110
とうとう是より帰れ」とて、最後のありさま【有様】故郷へ
いひつかはし【遣し】、只一騎敵のなかへ懸いり、大音声
あげて名のり【名乗り】けるは、「敦躬【敦実】親王より九代の
後胤、信濃守仲重が次男、信濃次郎蔵人仲
頼、生年廿七歳。我とおもは【思は】ん人々はよりあへや、
見参せん」とて、竪様・横様・くも手【蜘蛛手】・十文字に
懸わり懸まはり戦ひけるが、敵あまた打とて、
つゐに【遂に】うち死してげり。蔵人是をば夢にも
しら【知ら】ず、兄の河内守・郎等一騎打具して、主従
P08111
三騎、南をさして落行ほど【程】に、摂政殿の都を
ば軍におそれ【恐れ】て、宇治へ御出なりけるに、木
幡山にて追付たてまつる【奉る】。木曾が余党かとおぼ
しめし【思し召し】、御車[M の]をとどめ【留め】て「何者ぞ」と御尋あれ
ば、「仲兼、仲信」となのり申。「こはいかに、北国凶徒か
などおぼしめし【思し召し】たれば、神妙にまいり【参り】たり。ちかう
候て守護つかまつれ」と仰ければ、畏て承り、
宇治のふけ【富家】殿までをくり【送り】まいらせ【参らせ】て、軈此人
どもは、河内へぞ落ゆきける。あくる廿日、木曾左
P08112
馬頭六条川原にう【打つ】た【立つ】て、昨日きるところ【所】の頸ども、
かけならべてしるひ【記い】たりければ、六百卅余人なり。
其中に明雲大僧正・寺の長吏円慶法親王の
御頸もかからせ給ひたり。是をみる【見る】人涙をなが
さずといふ事なし。木曾其勢七千余騎、馬の
鼻を東へむけ、天も響き大地もゆるぐ程に、時
をぞ三ケ度つくりける。京中又さはぎ【騒ぎ】あへり。
但是は悦の時とぞきこえ【聞え】し。故少納言入道信西
の子息宰相長教、法皇のわたらせ給五条内
P08113
裏にまい【参つ】て、「是は君に奏すべき事がある
ぞ。あけてとをせ【通せ】」とのたまへ【宣へ】ども、武士ども【共】
ゆるしたてまつら【奉ら】ず。力をよば【及ば】である小屋にたち【立ち】
いり、俄に髪そりおろし、法師になり、墨染の
衣袴きて、「此上は何かくるしかる【苦しかる】べき、いれよ【入れよ】」と
の給へ【宣へ】ば、其時ゆるし奉る。御前へまい【参つ】て、今度
うた【討た】れ給へるむねとの人々の事どもつぶさに
奏聞しければ、法皇御涙をはらはらとながさせ
給ひて、「明雲は非業の死にすべきものとはお
P08114
ぼしめさ【思し召さ】ざりつる物を。今度はただわがいかにも
なるべかりける御命にかはり【変り】けるにこそ」とて、御涙
せきあへさせ給はず。木曾、家子郎等召あつめ【集め】
て評定す。「抑義仲、一天の君にむかひ【向ひ】奉て
軍には勝ぬ。主上にやならまし、法皇にやならまし。
主上にならうどおもへ【思へ】ども、童にならむもしかる【然る】べから
ず。法皇にならうどおもへ【思へ】ども、法師にならむも
をかしかるべし。よしよしさらば関白にならう」ど申
せば、手かきにぐせ【具せ】[* 「くらせ」と有るのを他本により訂正]られたる大夫房覚明
P08115
申けるは、「関白は大織冠の御末、藤原氏こそなら
せ給へ。殿は源氏でわたらせ給ふに、それこそ叶
ひ候まじけれ」。「其上は力をよば【及ば】ず」とて、院の御厩
の別当にをし【押し】なて、丹後国をぞ知行しける。
院の御出家あれば法皇と申。主上のいまだ
御元服もなき程は、御童形にてわたらせ給ふを
しらざりけるこそうたてけれ。前関白松殿の
姫君とりたてま【奉つ】て、軈松殿の聟にをし【押し】なる。同
十一月廿三日、三条中納言朝方卿をはじめとして、
P08116
卿相雲客四十九人が官職をとどめ【留め】てお【追つ】こめ【籠め】奉る。
平家の時は四十三人をこそとどめ【留め】たりしに、
是は四十九人なれば、平家の悪行には超過せ
り。さる程に、木曾が狼籍【*狼藉】しづめんとて、鎌倉の前
兵衛佐頼朝、舎弟蒲の冠者範頼・九郎冠者
義経をさしのぼせ【上せ】られけるが、既に法住寺殿焼
はらひ【払ひ】、院うちとり奉て天下くらやみ【暗闇】になたるよし
聞えしかば、左右なうのぼ【上つ】て軍すべき様もなし。是
より関東へ子細を申さんとて、尾張国熱田大郡
P08117
司が許におはしけるに、此事うたへ【訴へ】んとて、北面に候
ける宮内判官公朝・藤内左衛門時成、尾張国に
馳下り、此由一々次第うたへ【訴へ】ければ、九郎御曹司「是
は宮内判官の関東へ下らるべきにて候ぞ。子細し
らぬ使はかへしとは【問は】るるとき不審の残るに」との
給へ【宣へ】ば、公朝鎌倉へ馳下る。軍におそれ【恐れ】て下人ども
皆落うせたれば、嫡子の宮内どころ【所】公茂が十五に
なるをぞ具したりける。関東にまい【参つ】て此よし申
ければ、兵衛佐大におどろき、「まづ皷判官知泰【*知康】が
P08118
不思議事申いだし【出し】て、御所をもやかせまいらせ【参らせ】、
高僧貴僧をもほろぼしたてま【奉つ】たるこそ奇怪
なれ。知泰【*知康】においては既に違勅の者なり。めし【召し】
つかは【使は】せ給はば、かさね【重ね】て御大事いでき候なむ
ず」と、宮こ【都】へ早馬をもて申されければ、皷判
官陳ぜんとて、夜を日についで、馳下る。兵衛佐「し
やつにめ【目】な見せそ、あひしらゐなせそ」との給へ【宣へ】ど
も、日ごとに兵衛佐の館へむかふ【向ふ】。つゐに【遂に】面目なくし
て、宮こ【都】へ帰りのぼりけり。後には稲荷の辺なる
P08119
所に、命ばかりいき【生き】てすごしけるとぞ聞えし。木曾
左馬頭、平家の方へ使者を奉て、「宮こ【都】へ御の
ぼり候へ。ひとつ【一つ】になて東国せめ【攻め】む」と申たれば、
大臣殿はよろこば【喜ば】れけれども、平大納言・新
中納言「さこそ世すゑにて候とも、義仲にかたらは
れて宮こ【都】へ帰りいらせ給はん事、しかる【然る】べうも候はず。
十善帝王三種神器を帯してわたらせ給へば、
「甲をぬぎ、弓をはづい【外い】て降人に是へまいれ【参れ】」とは
仰候べし」と申されければ、此様を御返事あり
P08120
しかども、木曾もちゐ奉らず。松殿入道殿許へ木曾
をめし【召し】て「清盛公はさばかりの悪行人たりしかども、希
代の大善根をせしかば、世をもをだしう廿余年
たもたりしなり。悪行ばかりで世をたもつ【保つ】事は
なき物を。させるゆへ【故】なくとどめ【留め】たる人々の官
ども、皆ゆるすべき」よし仰られければ、ひたすらの
あらゑびす【荒夷】のやうなれども、したがひ【従ひ】奉て、解官
したる人々の官どもゆるしたてまつる【奉る】。松殿の御
子師家のとのの、其時はいまだ中納言中将
P08121
にてましましけるを、木曾がはからひに、大臣摂政
になし奉る。おりふし【折節】大臣あかざりければ、徳大
寺左大将実定公の、其比内大臣でおはしける
をかり【借り】たてま【奉つ】て、内大臣になし奉る。いつしか人の
口なれば、新摂政をばかるの大臣とぞ申ける。
同十二月十日、法皇は五条内裏をいでさせ給
ひて、大膳大夫成忠が宿所六条西洞院へ御
幸なる。同十三日歳末の御修法あり【有り】けり。其次に
叙位除目おこなはれて、木曾がはからひに、人々の
P08122
官どもおもふ【思ふ】さまになしをきけり。平家は西国
に、兵衛佐は東国に、木曾は宮こ【都】にはり【張り】おこなふ【行ふ】。
前漢・後漢の間、王まう【王莽】が世をうちとて、十八年
おさめ【納め】たりしがごとし。四方の関々皆とぢたれば、
おほやけの御調物をもたてまつら【奉ら】ず。私の年
貢ものぼらねば、京中の上下の諸人、ただ少
水の魚にことならず。あぶな【危】ながらとし【年】暮て、
寿永もみとせ【三年】になりにけり。
P08123
平家物語巻第八

平家物語 高野本 巻第九

平家 九(表紙)
P09001
平家九之巻 目録
生ずきするすみ   宇治川
河原合戦      木曾最期
樋口討罰(チウハツ)六箇度軍
三草勢揃付三草合戦 老馬
一二のかけ     二度のかけ
坂落        盛俊最期
忠度最期      重衡生捕
敦盛最期      知章(アキラ)最期イはまいくさ
P09002
一の谷落足     小宰相

P09003
平家物語巻第九
『生ずきの沙汰』S0901
○寿永三年正月一日、院の御所は大膳[B ノ]大夫成忠が
宿所、六条西[B ノ]洞院なれば、御所のていしかる【然る】べからず
とて、礼儀おこなはるべきにあらねば、拝礼も
なし。院の拝礼なかりければ、内裏の小朝拝も
おこなはれず。平家は讃岐国八島の磯にをくり【送り】
むかへ【向へ】て、年のはじめなれども、元日元三の儀式
事よろしからず。主上わたらせ給へども、節会
もおこなはれず、四方拝もなし。■魚も奏せず。
P09004
吉野のくず【国栖】もまいら【参ら】ず。「世みだれたりしかども、
みやこ【都】にてはさすがかくはなかりしもの【物】を」とぞ、
おのおののたまひ【宣ひ】あはれける。青陽の春も来
り、浦吹風もやはらかに、日かげ【日影】ものどか【長閑】になり
ゆけど、ただ平家の人々は、いつも氷にとぢこめ
られたる心ち【心地】して、寒苦鳥にことならず。東
岸西岸の柳遅速をまじへ、南枝北枝の梅
開落已に異にして、花の朝月の夜、詩歌・管絃・
鞠・小弓・扇合・絵合・草づくし【草尽し】・虫づくし【虫尽し】、さまざま
P09005
興ありし事ども、おもひ【思ひ】いでかたりつづけて、
永日をくらしかね給ふぞあはれ【哀】なる。同正月十一
日、木曾[B ノ]左馬頭義仲院参して、平家追討の
ために西国へ発向すべきよし奏聞す。同十三日、
既に門出ときこえ【聞え】し程に、東国より前兵衛佐
頼朝、木曾が狼籍【*狼藉】しづめんとて、数万騎の軍兵
をさしのぼせ【上せ】られけるが、すでに美乃【美濃】国・伊勢国に
つくときこえ【聞え】しかば、木曾大におどろき、宇治・勢
田の橋をひいて、軍兵ども【共】をわかちつかはす【遣す】。
P09006
折ふし【折節】せい【勢】もなかりけり。勢田の橋は大手なれ
ばとて、今井[B ノ]四郎兼平八百余騎でさしつかはす【遣す】。
宇治橋へは、仁科・たかなし【高梨】・山田の次郎・五百余騎
でつかはす【遣す】。いもあらひ【一口】へは伯父の志太の三郎
先生義教三百余騎でむかひ【向ひ】けり。東国よりせめ【攻め】
のぼる大手の大将軍は、蒲の御曹司範頼、からめ
手【搦手】の大将軍は九郎御曹司義経、むねとの大名
三十余人、都合其勢六万余騎とぞ聞えし。
其比鎌倉殿にいけずき【生食】・する墨【摺墨】といふ名馬
P09007
あり【有り】。いけずき【生食】をば梶原源太景季しきりに望み
申けれども、鎌倉殿「自然の事のあらん時、物の
具して頼朝がのるべき馬也。する墨【摺墨】もおとらぬ
名馬ぞ」とて梶原にはするすみ【摺墨】をこそたうだり
けれ。佐々木四郎高綱がいとま申にまい【参つ】たりけるに、
鎌倉殿いかがおぼしめさ【思し召さ】れけん、「所望の物はいくらも
あれども、存知せよ」とて、いけずき【生食】を佐々木にたぶ。
佐々木畏て申けるは、「高綱、この御馬で宇治河
のまさきわたし候べし。宇治河で死て候ときこし
P09008
めし【聞し召し】候はば、人にさきをせられてげりとおぼし
めし【思し召し】候へ。いまだいきて候ときこしめさ【聞し召さ】れ候はば、さだ
めて【定めて】先陣はしつらん物をとおぼしめされ候へ」と
て、御前をまかり【罷り】たつ。参会したる大名小名みな
「荒涼の申やう【申様】かな」とささやきあへり。おのおの鎌倉
をたて、足柄をへてゆく【行く】もあり、箱根にかかる
人もあり、おもひおもひ【思ひ思ひ】にのぼるほど【程】に、駿河国浮島
が原にて、梶原源太景季たかき【高き】ところ【所】にうちあが
り、しばしひかへておほく【多く】の馬ども【共】を見ければ、思ひ
P09009
おもひ【思ひ思ひ】の鞍をい【置い】て、色々の鞦かけ、或はのり口【乗り口】に
ひかせ、或はもろ口【諸口】にひかせ、いく【幾】千万といふ数を
しら【知ら】ず。引とをし【通し】引とをし【通し】しける中にも、景季が給は
たるする墨【摺墨】にまさる馬こそなかりけれと、うれしう
思ひてみる【見る】処に、いけずき【生食】とおぼしき馬こそ
出来たれ。黄覆輪の鞍をいて、小総の鞦かけ、しら
あは【白泡】かませ、とねり【舎人】あまたつい【付い】たりけれども、なを【猶】
ひきもためず、おどら【躍ら】せていで【出で】きたり。梶原源太
うちよて、「それはたが御馬ぞ」。「佐々木殿の御馬候」。
P09010
其時梶原「やすからぬ物也。おなじやうにめしつか
はるるかげすゑ【景季】 をささ木【佐々木】におぼしめしかへられける
こそ遺恨なれ。みやこ【都】へのぼ【上つ】て、木曾殿の御内に
四天王ときこゆる[* 「きここゆる」とあり「こ」1字衍字]【聞ゆる】今井・樋口・楯・祢[B ノ]井にくんで
死ぬるか、しからずは西国へむかう【向う】て、一人当千と
きこゆる【聞ゆる】平家の侍どもといくさ【軍】して死なん
とこそおもひ【思ひ】つれども【共】、此御きそく【気色】ではそれも
せんなし。ここで佐々木にひ【引つ】くみさしちがへ、よい侍
二人死で、兵衛佐殿に損とらせたてまつら【奉ら】む」と
P09011
つぶやいてこそ待かけたれ。佐々木四郎はなに心【何心】も
なくあゆませていで【出で】きたり。梶原、おしならべてや
くむ【組む】、むかふさま【向う様】にやあて【当て】おとす【落す】とおもひ【思ひ】けるが、
まづ詞をかけけり。「いかに佐々木殿、いけずき【生食】たま
はら【賜ら】せ給てさうな」と言ひければ、佐々木、「あぱれ、此
仁も内々所望すると聞し物を」と、きとおもひ【思ひ】
いだし【出し】て、「さ候へばこそ。此御大事にのぼりさうが、
定て宇治・勢田の橋をばひいて候らん、の【乗つ】て
河わたすべき馬はなし、いけずき【生食】を申さばやとは
P09012
おもへ【思へ】ども、梶原殿の申されけるにも、御ゆるされ【許され】ない
とうけたまはる【承る】間、まして高綱が申ともよもたま
はら【賜ら】じとおもひ【思ひ】つつ、後日にはいかなる御勘当も
あらばあれと存て、暁たたんとての夜、とねり【舎人】
に心をあはせ【合はせ】て、さしも御秘蔵候いけずき【生食】を
ぬすみすまひてのぼりさうはいかに」といひければ、
梶原この詞に腹がゐて、「ねたい、さらば景季も
ぬすむべかりける物を」とて、どとわら【笑つ】てのき【退き】にけり。
『宇治川先陣』S0902
○佐々木四郎が給はたる御馬は、黒栗毛なる馬の、きは
P09013
めてふとう【太う】たくましゐ【逞しい】が、馬をも人をもあたり
をはら【払つ】てくひければ、いけずき【生食】とつけられたり。
八寸の馬とぞきこえ【聞え】し。梶原が給はたるする墨【摺墨】
も、きはめてふとう【太う】たくましき【逞しき】が、まこと【誠】に黒かり
ければ、する墨【摺墨】とつけられたり。いづれもおとらぬ
名馬也。尾張国より大手・搦手ふた手【二手】にわかてせめ【攻め】
のぼる。大手の大将軍、蒲[B ノ]御曹司範頼、あひ【相】とも
なふ人々、武田[B ノ]太郎・鏡美[B ノ]次郎・一条[B ノ]次郎・板垣[B ノ]
三郎・稲毛[B ノ]三郎・楾谷[B ノ]四郎・熊谷[B ノ]次郎・猪俣[B ノ]小
P09014
平六を先として、都合其勢三万五千余騎、
近江国野路・篠原にぞつきにける。搦手[B ノ]大将軍
は九郎御曹司義経、おなじくともなふ人々、安田[B ノ]
三郎・大内[B ノ]太郎・畠山[B ノ]庄司次郎・梶原源太・佐々木
四郎・糟屋[B ノ]藤太・渋谷右馬允・平山[B ノ]武者所をはじめ
として、都合其勢二万五千余騎、伊賀国をへ
て宇治橋のつめにぞをし【押し】よせ【寄せ】たる。宇治も勢田
も橋をひき【引き】、水のそこには乱ぐゐ【乱杭】う【打つ】て、大綱
はり、さかも木【逆茂木】つないでながしかけたり。比はむ月【睦月】
P09015
廿日あまり【余り】の事なれば、比良のたかね、志賀の
山、むかしながらの雪もきえ、谷々の氷うちとけて、
水はおりふし【折節】まさりたり。白浪おびたたしう【夥しう】みなぎり
おち【落ち】、灘まくら【瀬枕】おほき【大き】に滝な【鳴つ】て、さかまく水も
はやかりけり。夜はすでにほのぼのとあけゆ
けど、河霧ふかく立こめて、馬の毛も鎧の毛
もさだかならず。ここに大将軍九郎御曹司、河の
はたにすすみいで【出で】、水のおもてをみわたして、
人々のこころ【心】をみんとやおもは【思は】れけん、「いかが
P09016
せむ、淀・いもあらひ【一口】へやまはるべき、水のおち足【落ち足】
をやまつべき」とのたまへ【宣へ】ば、畠山、其比はいまだ生
年廿一になりけるが、すすみ出て申けるは、「鎌倉にて
よくよく此河の御沙汰は、候しぞかし。しろしめさ【知ろし召さ】ぬ
海河の、俄にできても候はばこそ。此河は近
江の水海の末なれば、まつともまつとも水ひまじ。橋
をば又誰かわたひ【渡い】てまいらす【参らす】べき。治承の合戦
に、足利又太郎忠綱は、鬼神でわたしけるか、重忠
瀬ぶみ仕らん」とて、丹の党をむねとして、五百余
P09017
騎ひしひしとくつばみをならぶるところ【所】に、
平等院の丑寅、橘の小島がさき【崎】より武者二
騎ひかけ【引つ駆け】ひかけ【引つ駆け】いできたり。一騎は梶原源太景季、
一騎は佐々木四郎高綱也。人目には何とも
みえ【見え】ざりけれども、内々は先に心をかけたりければ、
梶原は佐々木に一段ばかりぞすすんだる。佐々木
四郎「此河は西国一の大河ぞや。腹帯ののびて
みえ【見え】さうは、しめたまへ【給へ】」といはれて、梶原さもあるらん
とやおもひ【思ひ】けん、左右のあぶみをふみすかし、
P09018
手綱を馬のゆがみ【結髪】にすて【捨て】、腹帯をといてぞ
しめたりける。そのまに佐々木はつとはせ【馳せ】ぬい【抜い】て、
河へざとぞうちいれ【入れ】たる。梶原たばかられぬとや
おもひ【思ひ】けん、やがてつづい【続い】てうちいれ【入れ】たり。「いかに
佐々木殿、高名せうどて不覚し給ふな。水の
底には大づな【大綱】あるらん」といひければ、佐々木太刀を
ぬき、馬の足にかかりける大綱どもをばふつふつ
とうちきりうちきり、いけずき【生食】といふ世一の馬には
の【乗つ】たりけり、宇治河はやしといへども、一文字に
P09019
ざとわたひ【渡い】てむかへ【向へ】の岸にうちあがる【上がる】。梶原が
の【乗つ】たりけるするすみ【摺墨】は、河なか【河中】よりのため【篦撓】がたに
おしなされて、はるかのしもよりうちあげたり。
佐々木あぶみふばりたちあがり【上がり】、大音声を
あげて名のりけるは、「宇多[B ノ]天皇より九代の
後胤、佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、
宇治河の先陣ぞや。われとおもは【思は】ん人々は高綱
にくめや」とて、おめい【喚い】てかく。畠山五百余騎で
やがてわたす。むかへ【向へ】の岸より山田次郎がはなつ【放つ】
P09020
矢に、畠山馬の額をのぶか【篦深】にい【射】させて、よはれ【弱れ】ば、
河なか【河中】より弓杖をつい【突い】ておりたたり。岩浪甲
の手さきへざとおしあげけれども、事共せず、
水の底をくぐて、むかへ【向へ】の岸へぞつきにける。
あがら【上がら】んとすれば、うしろに物こそむずとひかへたれ。
「た【誰】そ」ととへば、「重親」とこたふ。「いかに大串か」。「さ候」。
大串次郎は畠山には烏帽子子にてぞあり【有り】ける。
「あまりに水がはやうて、馬はおしながされ候ひぬ。
力およば【及ば】で、つきまいらせ【参らせ】て候」といひければ、
P09021
「いつもわ【我】殿原は、重忠がやう【様】なるものにこそ
たすけ【助け】られむずれ」といふままに、大串をひ【引つ】さげ
て、岸のうへ【上】へぞなげ【投げ】あげたる。なげ【投げ】あげられ、
ただなを【唯直つ】て、「武蔵国の住人、大串[B ノ]次郎重親、
宇治河〔かちたち〕の先陣ぞや」とぞなの【名乗つ】たる。敵も御方も
是をきい【聞い】て、一度にどとぞわらひ【笑ひ】ける。其後
畠山のりがへにの【乗つ】てうちあがる【上がる】。魚綾の直垂に
火おどしの鎧きて、連銭葦毛なる馬に黄覆
輪の鞍をいての【乗つ】たる敵の、まさきにすすんだるを、
P09022
「ここにかくる【駆くる】はいかなる人ぞ。なのれ【名乗れ】や」といひければ、
「木曾殿の家の子に、長瀬判官代重綱」となのる【名乗る】。
畠山「けふのいくさ神【軍神】いははん」とて、をし【押し】ならべて
むずととて引おとし【落し】、頸ねぢきて、本田[B ノ]次郎が
鞍のとつけにこそつけさせけれ。これをはじめて、
木曾殿の方より宇治橋かためたるせい【勢】ども、しばし
ささへてふせき【防き】けれども【共】、東国の大勢みなわた
い【渡い】てせめ【攻め】ければ、散々にかけなされ、木幡山・伏見
をさい【指い】てぞおち【落ち】行ける。勢田をば稲毛[B ノ]三郎重成が
P09023
はからひにて、田上供御の瀬をこそわたしけれ。
『河原合戦』S0903
○いくさ【軍】やぶれにければ、鎌倉殿へ飛脚をもて、
合戦の次第をしるし申されけるに、鎌倉殿まづ
御使に、「佐々木はいかに」と御尋あり【有り】ければ、「宇治
河のまさき候」と申す。日記をひらいて御覧ずれ
ば、「宇治河の先陣、佐々木四郎高綱、二陣梶原
源太景季」とこそかか【書か】れたれ。宇治・勢田やぶれぬ
ときこえ【聞え】しかば、木曾左馬頭、最後のいとま申
さんとて、院の御所六条殿へはせ【馳せ】まいる【参る】。御所には
P09024
法皇をはじめまいらせ【参らせ】て、公卿殿上人、「世は只今うせ
なんず。いかがせん」とて、手をにぎり、たてぬ願も
ましまさず。木曾門前までまいり【参り】たれども、東
国の勢すでに河原までせめ【攻め】入たるよし聞え
しかば、さいて奏する旨もなくてとてかへす【返す】。
六条高倉なるところ【所】に、はじめて見そめたる
女房のおはしければ、それへうちいり最後のなご
り【名残】おしま【惜しま】んとて、とみにいで【出で】もやらざりけり。
いままいり【今参り】したりける越後[B ノ]中太家光といふものあり【有り】。
P09025
「いかにかうはうちとけてわたらせ給ひ候ぞ。御敵
すでに河原までせめ【攻め】入て候に、犬死にせさ
せ給ひなんず」と申けれども、なを【猶】いで【出で】もやらざり
ければ、「さ候ばまづさきだち【先立ち】まいらせ【参らせ】て、四手
の山でこそ待まいらせ【参らせ】候はめ」とて、腹かき切て
ぞ死にける。木曾殿「われをすすむる自害にこそ」
とて、やがてう【打つ】たち【立ち】けり。上野国の住人那波の
太郎広純を先として、其勢百騎ばかりには
すぎざりけり。六条河原にうちいで【出で】てみれ【見れ】ば、
P09026
東国のせい【勢】とおぼしくて、まづ卅騎ばかり
いで【出で】きたり。その中に武者二騎すすんだり。一騎は
塩屋[B ノ]五郎維広、一騎は勅使河原の五O[BH 三]郎有直なり。
塩屋が申けるは、「後陣の勢をや待べき」。勅使河原
が申けるは、「一陣やぶれぬれば残党またからず。ただ
かけよ」とておめい【喚い】てかく。木曾はけふをかぎりと
たたかへば、東国のせいはわれう【討つ】とらんとぞすすみ
ける。大将軍九郎義経、軍兵ども【共】にいくさ【軍】をばせさ
せ、院の御所のおぼつかなきに、守護し奉らん
P09027
とて、まづ我身ともにひた甲【直甲】五六騎、六条殿
へはせ【馳せ】まいる【参る】。御所には大膳大夫成忠、御所の東の
つい垣【築垣】のうへ【上】にのぼ【上つ】て、わななくわななく見まはせば、しら
旗ざとさし【差し】あげ【上げ】、武士ども五六騎のけかぶとに
たたかひ【戦ひ】なて、いむけ【射向】の袖ふきなびかせ、くろ煙
けたて【蹴立て】てはせ【馳せ】まいる【参る】。成忠「又木曾がまいり【参り】候。あな
あさまし」と申ければ、今度ぞ世のうせはてとて、
君も臣もさはが【騒が】せ給ふ。成忠かさね【重ね】て申けるは、
「只今はせ【馳せ】まいる【参る】武士どもは、かさじるし【笠印】のかはて候。
P09028
今日都へ入東国のせい【勢】と覚候」と、申もはてねば、
九郎義経門前へ馳まい【参つ】て、馬よりおり、門をたた
かせ、大音声をあげて、「東国より前兵衛佐頼
朝が舎弟、九郎義経こそまい【参つ】て候へ。あけさせ
給へ」と申ければ、成忠あまりのうれしさに、つい
垣【築垣】よりいそぎおどり【躍り】おるるとて、腰をつき損じ
たりけれども、いたさはうれしさにまぎれておぼ
えず、はうはう【這ふ這ふ】まい【参つ】て此由奏聞しければ、法皇
大に御感あて、やがて門をひらかせていれ【入れ】られけり。
P09029
九郎義経其日の装束には、赤地の錦の直垂に、
紫すそごの鎧きて、くわがた【鍬形】うたる甲の緒しめ、
こがねづくり【黄金作】の太刀をはき、きりう【切斑】の矢おひ【負ひ】、しげ
どう【滋籐】の弓のとりうち【鳥打】を、紙をひろさ一寸ばかりに
きて、左まきにぞまいたりける。今日の大将軍の
しるしとぞみえ【見え】し。法皇は中門のれんじ【櫺子】より
叡覧あて、「ゆゆしげなるものども【共】かな。みな名のら
せよ」と仰ければ、まづ大将軍九郎義経、次に安
田[B ノ]三郎義定、畠山庄司次郎重忠、梶原源太景
P09030
季、佐々木四郎高綱、渋谷右馬允重資とこそ
なの【名乗つ】たれ。義経ぐし【具し】て、武士は六人、鎧はいろいろ也
けれども、つらだましゐ【面魂】事がらいづれもおとらず。
大膳大夫成忠仰をうけたまは【承つ】て、九郎義経を
大床のきはへめし【召し】て、合戦の次第をくはしく【詳しく】
御尋あれば、義経かしこまて申けるは、「義仲が
謀叛の事、頼朝大におどろき、範頼・義経をはじめとして、むねとの兵物卅余人、其勢六万O[BH 余]騎
をまいらせ【参らせ】候。範頼は勢田よりまはり候が、いまだまいり【参り】
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候はず。義経は宇治の手をせめ【攻め】おとひ【落い】て、まづ
此御所守護のためにはせ【馳せ】参じて候。義仲は
河原をのぼりにおち【落ち】候つるを、兵物共におはせ候つ
れば、いま【今】はさだめて【定めて】うとり候ぬらん」と、いと事
もなげにぞ申されたる。法皇大に御感あて、
「神妙也。義仲が余党などまい【参つ】て、狼籍【*狼藉】もぞ
仕る。なんぢら此御所よくよく守護せよ」と仰ければ、
義経かしこまりうけ給は【承つ】て、四方の門をかため
てまつほど【程】に、兵物ども【共】はせ【馳せ】集て、ほど【程】なく一万
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騎ばかりに成にけり。木曾はもしの事あらば、
法皇をとりまいらせ【参らせ】て西国へ落くだり【下り】、平家と
ひとつにならんとて、力者廿人そろへてもたり
けれども、御所には九郎義経はせ【馳せ】まい【参つ】て守護
したてまつる【奉る】よし【由】きこえ【聞え】しかば、さらばとて、
数万騎の大勢のなかへおめひ【喚い】てかけいる。既に
うた【討た】れんとする事度々に及といへども、かけ【駆け】
やぶり【破り】かけ【駆け】やぶり【破り】とをり【通り】けり。木曾涙をながひ【流い】て、「かかる
べしとだにしり【知り】たりせば、今井を勢田へはやらざらまし。
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幼少竹馬の昔より、死なば一所で死なんとこそ
契しに、ところどころ【所々】でうた【討た】れん事こそかなし
けれ。今井がゆくゑ【行方】をきかばや」とて、河原のぼりに
かくる【駆くる】ほど【程】に、六条河原と三条河原のあひだ【間】に、
敵おそてかかればとてかへしとてかへし、わづかなる小勢
にて、雲霞の如なる敵の大勢を、五六度までぞ
お【追つ】かへす【返す】。鴨河ざとうちわたし、粟田口・松坂にも
かかりけり。去年信濃を出しには五万余騎と
きこえ【聞え】しに、けふ四の宮河原をすぐる【過ぐる】には、主従
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七騎に成にけり。まして中有の空、おもひ【思ひ】
『木曾最期』S0904
やられて哀なり。○木曾殿は信濃より、ともゑ【巴】・
山吹とて、二人の便女をぐせ【具せ】られたり。山吹は
いたはり【労】あて、都にとどまりぬ。中にもともゑ【巴】は
いろしろく【白く】髪ながく、容顔まこと【誠】にすぐれたり。あり
がたきつよ弓【強弓】、せい兵【精兵】、馬の上、かちだち、うち物もて
は鬼にも神にもあはうどいふ一人当千の
兵もの也。究竟のあら馬のり、悪所おとし【悪所落し】、いくさ【軍】
といへば、さねよき鎧きせ、おほ太刀・つよ弓【強弓】もたせて、
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まづ一方の大将にはむけられけり。度々の高名、
肩をならぶるものなし。されば今度も、おほく【多く】の
ものどもおち【落ち】ゆきうた【討た】れける中に、七騎が内まで
ともゑ【巴】はうた【討た】れざりけり。木曾は長坂をへて丹波
路へおもむくともきこえ【聞え】けり。又竜花越にかかて
北国へともきこえ【聞え】けり。かかりしかども、今井がゆく
ゑ【行方】をきかばやとて、勢田の方へ落行ほど【程】に、
今井四郎兼平も、八百余騎で勢田をかためたり
けるが、わづかに五十騎ばかりにうちなされ、旗をば
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まかせて、主のおぼつかなきに、みやこ【都】へとてかへす【返す】
ほど【程】に、大津のうちで【打出】の浜にて、木曾殿にゆき
あひたてまつる。互になか一町ばかりよりそれと
みし【見知つ】て、主従駒をはやめてよりあふたり。木曾殿
今井が手をとての給ひけるは、「義仲六条河原で
いかにもなるべかりつれども、なんぢがゆくゑ【行方】の恋しさに、
おほく【多く】の敵の中をかけわて、これ【是】まではのがれ【逃れ】
たるなり」。今井四郎、「御諚まこと【誠】にかたじけなう【忝なう】候。
兼平も勢田で打死つかまつるべう候つれ共、御ゆく
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ゑ【行方】のおぼつかなさに、これまでまい【参つ】て候」とぞ申
ける。木曾殿「契はいまだくちせざりけり。義仲
がせい【勢】は敵にをし【押し】へだてられ、山林にはせ【馳せ】ちて、この【此の】
辺にもあるらんぞ。汝がまかせてもたせたる旗あげ
させよ」とのたまへ【宣へ】ば、今井が旗をさし【差し】あげ【上げ】たり。京より
おつるせい【勢】ともなく、勢田よりおつるものともなく、
今井が旗をみ【見】つけて三百余騎ぞはせ集る。木曾
大に悦て、「此せい【勢】あらばなどか最後のいくさ【軍】せざるべ
き。ここにしぐらうでみゆる【見ゆる】はたが手やらん」。「甲斐の
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一条次郎殿とこそ承候へ」。「せい【勢】はいくらほどあるやらん」。
「六千余騎とこそきこえ【聞え】候へ」。「さてはよい敵ごさん
なれ。おなじう死なば、よからう敵にかけ【駆け】あふ【合う】て、大勢
の中でこそ打死をもせめ」とて、まさきにこそ
すすみけれ。木曾左馬頭、其日の装束には、赤地の錦の
直垂に、唐綾おどし【唐綾威】の鎧きて、くわがたうたる
甲の緒しめ、いかものづくりのおほ太刀はき、石うち
の矢の、其日のいくさ【軍】にい【射】て少々のこたるを、かしら
だか【頭高】におひ【負ひ】なし、しげどう【滋籐】の弓もて、きこゆる【聞ゆる】
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木曾の鬼葦毛といふ馬の、きはめてふとう【太う】たく
ましひ【逞しい】に、黄覆輪の鞍をい【置い】てぞの【乗つ】たりける。あぶみ
ふばり立あがり【上がり】、大音声をあげて名のりけるは、
「昔はききけん物を、木曾の冠者、今はみる【見る】らん、左馬
頭兼伊与【*伊予】守、朝日の将軍源義仲ぞや。甲斐の一
条次郎とこそきけ。たがひ【互ひ】によいかたき【敵】ぞ。義仲
う【打つ】て兵衛佐にみせよ【見せよ】や」とて、おめい【喚い】てかく。一条の
二郎【次郎】、「只今なのる【名乗る】は大将軍ぞ。あますなものども【共】、
もらす【漏らす】な若党、うてや」とて、大ぜいの中にとり【取り】
P09040
こめ【籠め】て、我うとらんとぞすすみける。木曾三百
余騎、六千余騎が中をたてさま・よこさま・蜘手・
十文字にかけ【駆け】わ【破つ】て、うしろへつといでたれば、五十騎
ばかりになりにけり。そこをやぶ【破つ】てゆくほど【程】に、土肥の二郎実平二千余騎でささへたり。其をも
やぶ【破つ】てゆく【行く】ほど【程】に、あそこでは四五百騎、ここでは二三
百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中をかけわりかけわり
ゆくほど【程】に、主従五騎にぞなりにける。五騎が内まで
ともゑ【巴】はうた【討た】れざりけり。木曾殿「おのれ【己】はとうとう【疾う疾う】、
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女なれば、いづちへもゆけ。我は打死にせんと思ふ
なり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曾
殿の最後のいくさ【軍】に、女を具せられたりけりなど
いはれん事もしかる【然る】べからず」とのたまひ【宣ひ】けれども【共】、
なを【猶】おち【落ち】もゆかざりけるが、あまりにいはれ奉て、
「あぱれ、よからうかたき【敵】がな。最後のいくさ【軍】して
みせ【見せ】奉らん」とて、ひかへたるところ【所】に、武蔵国に、きこえ【聞え】
たる大ぢから【大力】、をん田の【御田の】八郎師重、卅騎ばかりでいで【出で】
きたり。ともゑ【巴】その中へかけ入、をん田の【御田の】八郎に
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おしならべて、むずととてひき【引き】おとし【落し】、わがの【乗つ】たる
鞍の前輪にをし【押し】つけて、ちともはたらかさ【働かさ】ず、頸
ねぢきてすててげり。其後物具ぬぎすて、
東国の方へ落ぞゆく。手塚太郎打死す。手塚の
別当落にけり。今井の四郎、木曾殿、主従二騎に
なてのたまひ【宣ひ】けるは、「日来はなにともおぼえぬ
鎧が、けふはおもう【重う】なたるぞや」。今井四郎申けるは、
「御身もいまだつかれ【疲れ】させたまは【給は】ず、御馬もよはり【弱り】候は
ず。なにによてか一両の御きせなが【着背長】をおもうはおぼし
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めし【思し召し】候べき。それは御方に御せいが候はねば、おく病【臆病】
でこそさはおぼしめし【思し召し】候へ。兼平一人候とも、余の武者
千騎とおぼしめせ【思し召せ】。矢七八候へば、しばらくふせき矢【防き矢】
仕らん。あれにみえ【見え】候、粟津の松原と申。あの松の
中で御自害候へ」とて、う【打つ】てゆく【行く】程に、又あら【新】手の
武者五十騎ばかりいで【出で】きたり。「君はあの松原へい
ら【入ら】せ給へ。兼平は此敵ふせき【防き】候はん」と申ければ、木曾
殿のたまひ【宣ひ】けるは、「義仲宮こ【都】にていかにもなるべかり
つるが、これまでのがれ【逃れ】くるは、汝と一所で死なんと
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思ふ為也。ところどころ【所々】でうた【討た】れんよりも、一ところ【一所】で
こそ打死をもせめ」とて、馬の鼻をならべてかけ【駆け】
むとしたまへ【給へ】ば、今井四郎馬よりとびおり、主の
馬の口にとりつい【付い】て申けるは、「弓矢とりは年来
日来いかなる高名候へども、最後の時不覚しつれば
ながき疵にて候也。御身はつかれ【疲れ】させ給ひて候。
つづくせい【勢】は候はず。敵にをし【押し】へだてられ、いふかひなき
人、郎等にくみおとさ【落さ】れさせ給て、うた【討た】れさせ給なば、
「さばかり日本国にきこえ【聞え】させ給ひつる木曾殿をば、
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それがしが郎等のうちたてま【奉つ】たる」など申さん事
こそ口惜う候へ。ただあの松原へいらせ給へ」と申ければ、
木曾さらばとて、粟津の松原へぞかけたまふ【給ふ】。
今井[B ノ]四郎只一騎、五十騎ばかりが中へかけ入、あぶみ
ふばりたちあがり【上がり】、大音声あげてなのり【名乗り】けるは、「日来
は音にもききつらん、今は目にも見たまへ【給へ】、木曾殿の
御めのと子【乳母子】、今井の四郎兼平、生年卅三にまかり【罷り】
なる。さるものありとは鎌倉殿までもしろしめさ【知ろし召さ】れ
たるらんぞ。兼平う【打つ】て見参にいれよ【入れよ】」とて、い【射】のこしたる
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八すぢの矢を、さしつめ【差し詰め】引つめ【引き詰め】さんざん【散々】にいる【射る】。死生は
しら【知ら】ず、やにわ【矢庭】にかたき【敵】八騎い【射】おとす【落す】。其後打物ぬい
てあれにはせ【馳せ】あひ、これに馳あひ、きてまはるに、
面をあはするものぞなき。分どり【分捕】あまたしたり
けり。只「い【射】とれや」とて、中にとりこめ、雨のふるやう【様】に
い【射】けれども、鎧よければうらかかず、あき間をい【射】ねば
手もおはず。木曾殿は只一騎、粟津の松原へかけ
たまふ【給ふ】が、正月廿一日入相ばかりの事なるに、うす氷
ははたりけり、ふか田【深田】ありともしら【知ら】ずして、馬をざと
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うち入たれば、馬のかしら【頭】もみえ【見え】ざりけり。あをれ【煽れ】
どもあをれ【煽れ】ども、うてどもうてどもはたらか【働か】ず。今井がゆくゑ【行方】のおぼ
つかなさに、ふりあふぎたまへ【給へ】るうち甲【内甲】を、三浦[B ノ]石田の
次郎為久、お【追つ】かかてよつぴいてひやうふつといる【射る】。いた
手【痛手】なれば、まかうを馬のかしら【頭】にあててうつぶしたま
へ【給へ】る処に、石田が郎等二人落あふて、ついに【遂に】木曾殿の
頸をばとてげり。太刀のさきにつらぬき、たかく
さし【差し】あげ【上げ】、大音声をあげて、「此日ごろ【日比】日本国に聞え
させ給ひつる木曾殿をば、三浦の石田の次郎為久が
P09048
うち奉たるぞや」となのり【名乗り】ければ、今井四郎いくさ【軍】
しけるが、これ【是】をきき、「いまはたれをかばはむとてかいくさ【軍】
をもすべき。これ【是】を見たまへ【給へ】、東国の殿原、日本一の
剛の者の自害する手本」とて、太刀のさきを口に
ふくみ【含み】、馬よりさかさまにとび落、つらぬか【貫ぬかつ】てぞうせに
『樋口被討罰』S0905
ける。さてこそ粟津のいくさ【軍】はなかりけれ。○今井が兄、
樋口次郎兼光は、十郎蔵人うたんとて、河内国長野
の城へこえたりけるが、そこにてはうちもらし【洩らし】ぬ。紀伊
国名草にありときこえ【聞え】しかば、やがてつづひ【続い】てこえ
P09049
たりけるが、都にいくさ【軍】ありと聞て馳のぼる。淀の
大渡の橋で、今井が下人ゆきあふたり。「あな心う【憂】、是は
いづちへとてわたらせ給ひ候ぞ。君うた【討た】れさせ給ひ
ぬ。今井殿は自害」と申ければ、樋口の次郎涙を
はらはらとながひ【流い】て、「これ【是】をきき【聞き】たまへ【給へ】殿原、君に
御心ざしおもひ【思ひ】まいらせ【参らせ】給はん人々は、これよりいづ
ちへもおち【落ち】ゆき【行き】、出家入道して乞食頭陀の行を
もたて【立て】、後世をとぶらひ【弔ひ】まいらせ【参らせ】たまへ【給へ】。兼光は都
へのぼり打死して、冥途にても君の見参に
P09050
入、今井四郎をいま一度みんとおもふ【思ふ】ぞ」といひけ
れば、五百余騎のせい、あそこにひかへここにひかへ
おち【落ち】ゆく【行く】ほど【程】に、鳥羽の南の門をいでけるには、其勢
わづかに廿余騎にぞ成にける。樋口二郎けふすでに
みやこ【都】へ入ときこえ【聞え】しかば、党も豪家も七条・朱雀・
四塚ざまへ馳向。樋口が手に茅野太郎といふ【云ふ】もの
あり【有り】。四塚にいくらも馳むかふ【向う】たる敵の中へかけ入、大
音声をあげて、「此御中に、甲斐の一条次郎殿の
御手の人や在ます」ととひければ、「あながち一条の
P09051
二郎【次郎】殿の手でいくさ【軍】をばするか。誰にもあへかし」
とて、どとわらふ【笑ふ】。わらは【笑は】れてなのり【名乗り】けるは、「かう申は
信濃国諏方【*諏訪】上[B ノ]宮の住人、茅野大夫光家が子に、
茅野太郎光広、かならず【必ず】一条の二郎殿の御手を
たづぬるにはあらず。おとと【弟】の茅野[B ノ]七郎それにあり【有り】。
光広が子共二人、信乃【信濃】国に候が、「あぱれわが父はようて
や死にたるらん、あしうてや死にたるらん」となげかん処に、
おとと【弟】の七郎がまへで打死して、子共にたしかに
きかせんと思ため也。敵をばきらふまじ」とて、あれに
P09052
はせ【馳せ】あひこれ【是】にはせ【馳せ】あひ、敵三騎きておとし【落し】、
四人にあたる敵にをし【押し】ならべて、ひ【引つ】く【組ん】でどうどおち【落ち】、
さしちがへてぞ死にける。樋口二郎は児玉[B 党]にむす
ぼほれたりければ、児玉の人ども【共】寄合て、「弓矢とる
ならひ、我も人もひろい【広い】中へ入らんとするは、自然の
事のあらん時、ひとまどのいきをもやすめ、しばしの
命をもつが【継が】んと思ふためなり。されば樋口次郎が
我等にむすぼほれけんも、さこそは思ひけめ。今度
の我等が勲功には、樋口が命を申うけん」とて、使者を
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たてて、「日来は木曾殿の御内に今井・樋口とて
聞え給ひしかども、今は木曾殿うた【討た】れさせ給ひ
ぬ。なにかくるしかる【苦しかる】べき。我等が中へ降人になり給へ。
勲功の賞に申かへて、命ばかりたすけ【助け】たてまつら【奉ら】ん。
出家入道をもして、後世をとぶらひ【弔ひ】まいらせ【参らせ】給へ」
と云ければ、樋口二郎、きこゆるつはものなれども、
運やつきにけむ、児玉党の中へ降人にこそ
成にけれ。これ【是】を九郎御曹司に申。院御所へ
奏聞してなだめ【宥め】られたりしを、かたはらの公卿
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殿上人、つぼね【局】の女房達、「木曾が法住寺殿へよせ
て時をつくり、君をもなやましまいらせ【参らせ】、火をかけ
ておほく【多く】の人々をほろぼしうしなひ【失ひ】しには、あそこ
にもここにも、今井・樋口といふ声のみこそありしか。
これ【是】らをなだめ【宥め】られんは口おしかる【惜しかる】べし」と、面々に申
されければ、又死罪にさだめ【定め】らる。同廿二日、新摂政
殿とどめ【留め】られ給ひて、本の摂政還着したまふ【給ふ】。
纔に六十日の内に替られ給へば、いまだ見はてぬ
夢のごとし。昔粟田の関白は、悦申の後只七ケ日
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だにこそおはせしか、これは六十日とはいへども、その内
に節会も除目もおこなはれしかば、思出なきにも
あらず。同廿四日、木曾[B ノ]左馬頭并余党五人が頸、大路
をわたさる。樋口次郎は降人なりしが、頻に頸のとも【伴】
せんと申ければ、藍摺の水干、立烏帽子でわたされけり。同廿五日、樋口次郎遂に切られぬ。範頼・義
経やうやうに申されけれども、「今井・樋口・楯・祢[B ノ]井と
て、木曾が四天王のそのひとつ【一つ】なり。これ【是】らをなだ
め【宥め】られむは、養虎の愁あるべし」とて、殊に沙汰あて
P09056
誅られけるとぞきこえ【聞え】し。つて【伝】にきく【聞く】、虎狼の
国衰へて、諸侯蜂の如く起し時、沛公先に
咸陽宮に入といへども、項羽が後に来らん事を
恐て、妻は美人をもおかさず、金銀珠玉をも掠め
ず、徒に函谷の関を守て、漸々にかたき【敵】をほろぼ
して、天下を治する事を得たりき。されば木曾の
左馬頭、まづ都へ入るといふ【云ふ】とも、頼朝朝臣の命
にしたがはましかば、彼沛公がはかり事にはおとら
ざらまし。平家はこぞの冬の比より、讃岐国八島の
P09057
磯をいで【出で】て、摂津国難波潟へをし【押し】わたり、福原の旧
里に居住して、西は一の谷を城郭にかまへ【構へ】、東は
生田[B ノ]森を大手の木戸口とぞさだめ【定め】ける。其内福原・
兵庫・板やど【板宿】・須磨[B 「須間」とあり「間」に「磨」と傍書]にこもる勢、これは山陽道八ケ国、
南海道六ケ国、都合十四ケ国をうちしたがへてめさ
るるところ【所】の軍兵なり。十万余騎とぞきこえ【聞え】し。
一[B ノ]谷は北は山、南は海、口はせばくて奥ひろし。岸
たかくして屏風をたてたるにことならず。北の山
ぎはより南の海のとをあさ【遠浅】まで、大石をかさね【重ね】あげ、
P09058
おほ木【大木】をきてさかも木【逆茂木】にひき【引き】、ふかきところ【所】に
は大船どもをそばだてて、かいだて【垣楯】にかき、城の面
の高矢倉には、一人当千ときこゆる【聞ゆる】四国鎮西の
兵物ども【共】、甲冑弓箭を帯して、雲霞の如くに
なみ居たり。矢倉のしたには、鞍置馬ども【共】十重
廿重にひ【引つ】たてたり。つねに大皷をう【打つ】て乱声を
す。一張の弓のいきほひは半月胸のまへにかかり、
三尺の剣の光は秋の霜腰の間に横だへたり。たかき【高き】
ところ【所】には赤旗おほく【多く】うちたてたれば、春風にふか
P09059
れて天に翻るは、火炎のもえあがる【上がる】にことならず。
『六ケ度軍』S0906
○平家福原[B 「福原」に「一谷イ」と傍書]へわたり給て後は、四国の兵ものしたがい【従ひ】
たてまつら【奉ら】ず。中にも阿波讃岐の在庁ども、
平家をそむいて源氏につかむとしけるが、「抑我等は、
昨日今日まで平家にしたがうたるものの、今はじ
めて源氏の方へまいり【参り】たりとも、よももちひ【用ゐ】ら
れじ。いざや平家に矢ひとつ【一つ】い【射】かけて、それを面[* 下欄に「表」と注記]に
してまいら【参ら】ん」とて、門脇の中納言、[* 「中納言の」と有るのを他本により訂正]子息越前の三
位、能登守、父子三人、備前国下津井に在ますと
P09060
きこえ【聞え】しかば、討たてまつら【奉ら】んとて、兵船十余艘
でよせたりけり。能登守これ【是】をきき「にくひやつ
原かな。昨日今日まで我等が馬の草きたる奴原が、
すでに契を変ずるにこそあんなれ。其義ならば
一人ももらさ【漏らさ】ずうてや」とて、小舟どもにとりの【乗つ】て、
「あますな、もらす【漏らす】な」とてせめ【攻め】たまへ【給へ】ば、四国の兵物共、
人目ばかりに矢一射て、のか【退か】んとこそおもひ【思ひ】けるに、
手いたうせめ【攻め】られたてま【奉つ】て、かなは【叶は】じとや思ひけん、
とをまけ【遠負】にして引退き、都のかた【方】へにげのぼるが、
P09061
淡路国ふくら【福良】の泊につきにけり。其国に源氏二人
あり【有り】。故六条判官為義が末子、賀茂冠者義嗣・淡
路冠者義久ときこえ【聞え】しを、四国の兵物共、大将に
たのん【頼ん】で、城郭を構て待ところ【所】に、能登殿やが
てをし【押し】よせ【寄せ】責給へば、一日たたかひ【戦ひ】、賀茂冠者打死す。
淡路冠者はいた手【痛手】負て自害してげり。能登殿
防矢い【射】ける兵ものども、百卅余人が頸切て、討手の
交名しるい【記い】て、福原へまいらせ【参らせ】らる。門脇中納言、其
より福原へのぼり給ふ。子息達は、伊与【*伊予】の河野
P09062
四郎がめせ【召せ】どもまいら【参ら】ぬをせめ【攻め】んとて、四国へぞ渡
られける。先兄の越前三位通盛卿、阿波国花園の
城につき給。能登守讃岐の八島へわたり【渡り】給ふと聞
えしかば、河野の四郎道信【*通信】、安芸国住人沼田次郎は
母方の伯父なりければ、ひとつ【一つ】にならんとて、安芸
国へをし【押し】わたる。能登守これ【是】をきき、やがて讃岐の
八島をいで【出で】ておはれけるが、すでに備後国蓑島に
かかて、次日、沼田の城へよせ給ふ。沼田二郎・河野四郎
ひとつ【一つ】になてふせき【防き】たたかふ【戦ふ】。能登殿やがて押寄
P09063
せめ【攻め】たまへ【給へ】ば、一日一夜ふせき【防き】たたかひ【戦ひ】、沼田二郎叶
はじとやおもひ【思ひ】けん、甲をぬいで降人にまいる【参る】。
河野四郎はなを【猶】したがひ【従ひ】たてまつら【奉ら】ず。其勢
五百余騎あり【有り】けるが、わづかに五十騎ばかりにうち
なされ、城をいで【出で】てゆく【行く】ほど【程】に、能登殿の侍平八兵衛
為員、二百騎ばかりが中にとりこめられて、主従
七騎にうちなされ、たすけ舟【助け船】にのらんとほそ道に
かかて、みぎはの方へおち【落ち】ゆく程に、平八兵衛が子息
讃岐七郎義範、究竟の弓の上手ではあり、お【追つ】かかて、
P09064
七騎をやには【矢庭】に五騎い【射】おとす【落す】。河野四郎、ただ主従
二騎になりにけり。河野が身にかへておもひ【思ひ】ける
郎等を、讃岐七郎をし【押し】ならべてくむ【組ん】でおち【落ち】、とて
おさへ【抑へ】て頸をかかんとする処に、河野四郎とて
かへし、郎等がうへ【上】なる讃岐七郎が頸かき切て、深
田へなげ入、大音声をあげて、「河野四郎越智の道
信【*通信】、生年廿一、かうこそいくさ【戦】をばすれ。われとおもは
む人々はとどめよ【留めよ】や」とて、郎等をかたにひ【引つ】かけ、そこ
をつとのがれ【逃れ】て小舟にのり、伊与【*伊予】国へぞわたりける。
P09065
能登殿、河野をもうちもらさ【漏らさ】れたれども、沼田二郎
が降人たるをめし【召し】ぐし【具し】て、福原へぞまいら【参ら】れける。
又淡路国の住人安摩の六郎忠景、平家をそむ
いて源氏に心をかよはし【通はし】けるが、大舟二そう【艘】に兵粮
米・物具つう【積う】で、宮こ【都】の方へのぼる程に、能登殿福
原にてこれ【是】をきき、小船十艘ばかりおしうかべ【浮べ】て
おは【追は】れけり。安摩の六郎、西宮の奥にて、かへしあは
せ【合はせ】ふせき【防き】たたかふ【戦ふ】。手いたうせめ【攻め】られたてま【奉つ】て、かな
は【叶は】じとやおもひ【思ひ】けん、引退て和泉国吹井の浦に
P09066
つきにけり。紀伊国住人園辺兵衛忠康、これ【是】も平
家をそむいて源氏につかんとしけるが、あまの六郎が
能登殿に責られたてま【奉つ】て、吹井にありと聞え
しかば、其勢百騎ばかりで馳来てひとつ【一つ】になる。
能登殿やがてつづゐ【続い】てせめ【攻め】給へば、一日一夜ふせき
たたかひ【戦ひ】、あまの六郎・そのべの兵衛、かなは【叶は】じとや思ひ
けん、家子郎等に防矢い【射】させ、身がらはにげて京へ
のぼる。能登殿、防矢い【射】ける兵物ども【共】二百余人が頸
きりかけて、福原へこそまいら【参ら】れけれ。又伊与【*伊予】国の
P09067
住人河野四郎道信【*通信】、豊後国住人臼杵二郎
維高・緒方三郎維義同心して、都合其勢二千
余人、備前国へをし【押し】わたり【渡り】、いまぎ【今木】の城にぞ籠ける。
能登守是をきき、福原より三千余騎で馳くだり【下り】、
いまぎ【今木】の城をせめ【攻め】給ふ。能登殿「奴原はこわい御敵
で候。かさね【重ね】て勢を給はらん」と申されければ、福原より
数万騎の大勢をむけらるるよし聞えし程に、城の
うちの兵物ども【共】、手のきはたたかひ、分捕高名しきは
めて、「平家は大勢でまします也。我等は無勢なり。
P09068
いかにも叶まじ。ここをばおち【落ち】てしばらくいき【息】をつが【継】
む」とて、臼杵二郎・緒方三郎舟にとりのり、鎮西へ
おしわたる。河野は伊与【*伊予】へぞ渡りける。能登殿「いまは
うつべき敵なし」とて、福原へこそまいら【参ら】れけれ。
大臣殿をはじめたてま【奉つ】て、平家一門の公卿殿上人
より【寄り】あひ給ひて、能登殿の毎度の高名をぞ
『三草勢揃』S0907
一同に感じあはれける。○正月廿九日、範頼・義経院参
して、平家追討のために西国へ発向すべきよし
奏聞しけるに、「本朝には神代よりつたはれる三の御宝
P09069
あり【有り】。内侍所・神璽・宝剣これ也。相構て事ゆへ【故】なく
かへし【返し】いれ【入れ】たてまつれ【奉れ】」と仰下さる。両人かしこまり
うけ給は【承つ】てまかり【罷り】いで【出で】ぬ。同二月四日、福原には、故入
道相国の忌日とて、仏事かた【形】のごとく【如く】おこなはる。
あさゆふのいくさだち【軍立ち】に、過ゆく月日はしら【知ら】ね共、こぞ【去年】は
ことしにめぐりきて、うかり【憂かり】し春にも成にけり。
世の世にてあらましかば、いかなる起立塔婆のくはたて【企て】、
供仏施僧のいとなみもあるべかりしかども【共】、ただ男女
の君達さしつどひて、なく【泣く】より外の事ぞなき。
P09070
其次でに叙位除目おこなはれて、僧も俗も
みなつかさ【司】なされけり。門脇中納言、正二位大納言に
なり【成り】たまふ【給ふ】べきよし、大臣殿よりの給ひ【宣ひ】ければ、教盛卿、
けふまでもあればあるかのわが身かは
夢のうちにもゆめ【夢】をみる【見る】かな W067
と御返事申させ給ひて、つゐに【遂に】大納言にもなり
たまは【給は】ず。大外記中原師直が子、周防介師純、大外記
になる。兵部少輔正明、五位蔵人になされて蔵人少輔
とぞいはれける。昔将門が東八ケ国をうちしたがへて、
P09071
下総国相馬郡に都をたて、我身を平親王と
称して、百官をなしたりしには、暦博士ぞなかりける。
これ【是】はそれにはにる【似る】べからず。旧都をこそおち【落ち】給ふと
いへども、主上三種の神器を帯して、万乗の位
にそなはり給へり。叙位除目おこなはれんも僻事
にはあらず。平氏すでに福原までせめ【攻め】のぼ【上つ】て、
宮こ【都】へかへり入べきよし聞えしかば、故郷にのこり
とどまる人々いさみよろこぶ事なのめならず。二位[B ノ]
僧都専親【*全真】は、梶井[B ノ]宮の年来の御同宿なりければ、
P09072
風のたよりには申されけり。宮よりも又つねは御をと
づれ【音信】あり【有り】けり。「旅の空のありさま【有様】おぼしめし【思し召し】やるこそ
心ぐるしけれ。宮こ【都】もいまだしづまらず」などあそばひ【遊ばい】
て、おくには一首の歌ぞあり【有り】ける。
人しれずそなたをしのぶ【忍ぶ】こころをば
かたぶく月にたぐへてぞやる W068
僧都是をかほ【顔】にをし【押し】あてて、かなしみの涙せきあへ
ず。さるほど【程】に、小松の三位中将維盛卿は年へだたり
日かさなるにしたがひ【随ひ】て、ふる郷【故郷】にとどめ【留め】をき給ひし
P09073
北方、おさなき【幼き】人々の事をのみなげきかなしみ
たまひ【給ひ】けり。商人のたよりに、をのづから文などの
かよふにも、北方の宮こ【都】の御ありさま、心ぐるしう
きき給ふに、さらばむかへ【向へ】[M と]てひとところ【一所】でいかにも
ならばやとはおもへ【思へ】ども、我身こそあらめ、人のため
いたはしくてなどおぼしめし、しのび【忍び】てあかし
くらし給ふにこそ、せめての心ざしのふかさ【深さ】の程も
あらはれけれ。さる程に、源氏は四日[B 「四」に「二月イ」と傍書]よすべかりしが、
故入道相国の忌日ときい【聞い】て、仏事をとげさせんが
P09074
ためによせず。五日は西ふさがり、六日は道忌日、七日の
卯剋に、一谷の東西の木戸口にて源平矢合
とこそさだめ【定め】けれ。さりながらも、四日は吉日なれば
とて、大手搦手の大将軍、軍兵二手にわかて
みやこ【都】をたつ。大手の大将軍は蒲御曹司範頼、
相伴人々、武田太郎信義・鏡美次郎遠光・同小次郎
長清・山名次郎教義・同三郎義行、侍大将には梶原
平三景時・嫡子[B ノ]源太景季・次男平次景高・同三郎
景家・稲毛三郎重成・楾谷四郎重朝、同五郎行重・
P09075
小山[B ノ]小四郎朝政・同中沼五郎宗政・結城七郎朝光・
佐貫四郎大夫広綱・小野寺[B ノ]禅師太郎道綱・曾
我太郎資信・中村太郎時経・江戸四郎重春・玉[B ノ]井[B ノ]
四郎資景・大河津太郎広行・庄三郎忠家・同四郎
高家・勝大八郎行平・久下二郎重光・河原太郎
高直・同次郎盛直・藤田三郎大夫行泰を先として、
都合其勢五万余騎、二月四日の辰の一点に都
をたて、其日申酉[B ノ]剋に摂津国■陽野に
陣をとる。搦手の大将軍は九郎御曹司義経、同く
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伴ふ人々、安田三郎義貞・大内[B ノ]太郎維義・村上判
官代康国・田代冠者信綱、侍大将には土肥次郎実
平・子息[B ノ]弥太郎遠平・三浦介義澄・子息[B ノ]平六義村・
畠山庄司次郎重忠・同長野三郎重清・三浦佐原
十郎義連・和田小太郎義盛・同次郎義茂・同三郎
宗実・佐々木四郎高綱・同五郎義清・熊谷次郎直
実・子息[B ノ]小次郎直家・平山武者所季重・天野次郎
直経・小河次郎資能・原三郎清益・金子十郎家
忠・同与一親範・渡柳弥五郎清忠・別府小太郎清
P09077
重・多々羅五郎義春・其子の太郎光義・片岡太郎
経春・源八広綱・伊勢三郎義盛・奥州[B ノ]佐藤三郎嗣信・
同四郎忠信・江田[B ノ]源三・熊井太郎・武蔵房弁慶を先
として、都合其勢一万余騎、同日の同時に宮こ【都】を
たて丹波路にかかり、二日路を一日にう【打つ】て、播磨と
丹波のさかひなる三草の山の東の山ぐち【山口】、小野原に
『三草合戦』S0908
こそつきにけれ。○平家の方には大将軍小松新三位中将
資盛・同少将有盛・丹後侍従忠房・備中守師盛、
侍大将には、平内兵衛清家・海老次郎盛方を初として、
P09078
都合其勢三千余騎、小野原より三里へだてて、三草
のやま【山】の西の山口に陣をとる。其夜の戌の剋ば
かり、九郎御曹司、土肥次郎をめし【召し】て、「平家はこれ【是】
より三里へだてて、三草の山の西の山口に大勢でひかへ
たんなるは。今夜夜討によすべきか、あすのいくさ【軍】か」と
のたまへ【宣へ】ば、田代冠者すすみいで【出で】て申けるは、「あすのいく
さ【軍】とのべ【延べ】られなば、平家せい【勢】つき候なんず。平家は三千
余騎、御方の御せい【勢】は一万余騎、はるかの理に候。夜
うち【夜討】よかんぬと覚候」と申ければ、土肥次郎「いしう
P09079
申させ給ふ田代殿かな。さらばやがてよせさせ給へ」
とてう【打つ】たち【立ち】けり。つはものども【共】「くらさはくらし、
いかがせんずる」と口々に申ければ、九郎御曹司「例
の大だい松はいかに」。土肥二郎「さる事候」とて、
小野原の在家に火をぞかけたりける。これ【是】をはじ
めて、野にも山にも、草にも木にも、火をつけ
たれば、ひるにはちともおとらずして、三里の山を
こえ【越え】ゆき【行き】けり。此田代冠者と申は、父は伊豆国の
さきの国司中納言為綱の末葉也。母は狩野介
P09080
茂光がむすめをおもふ【思う】てまうけたりしを、母方の
祖父にあづけて、弓矢とりにはしたて【仕立て】たり。
俗姓を尋ぬれば、後三条院第三王子、資仁親王
より五代の孫也。俗姓もよきうへ【上】、弓矢とても
よかりけり。平家の方には其夜夜うち【夜討】によせ【寄せ】んずる
をばしら【知ら】ずして、「いくさ【軍】はさだめて【定めて】あすのいくさ【軍】で
ぞあらんずらん。いくさ【軍】にもねぶたい【眠たい】は大事の事ぞ。
ようね【寝】ていくさ【軍】せよ」とて、先陣はをのづから
用心するもあり【有り】けれども、後陣のものども【共】、或は
P09081
甲枕にし、或は鎧の袖・ゑびら【箙】などを枕にして、先
後もしら【知ら】ずぞふしたりける。夜半ばかり、源氏一万騎
おしよせて、時をどとつくる。平家の方にはあまりに
あはて【慌て】さはひ【騒い】で、弓とるものは矢をしら【知ら】ず、矢とる
ものは弓をしら【知ら】ず、馬にあてられじと、なか【中】をあけ
てぞとをし【通し】ける。源氏はおち【落ち】ゆく【行く】かたき【敵】をあそこ
にお【追つ】かけ、ここにお【追つ】つめせめ【攻め】ければ、平氏の軍兵
やには【矢庭】に五百余騎うた【討た】れぬ。手おふものどもおほ
かり【多かり】けり。大将軍小松の新三位中将・同少将・丹
P09082
後侍従、面目なうやおもは【思は】れけん、播磨国高砂
より舟にの【乗つ】て、讃岐の八島へ渡給ひぬ。備中守
は平内兵衛・海老二郎をめし【召し】ぐし【具し】て、一谷へぞ
『老馬』S0909
まいら【参ら】れける。○大臣殿は安芸右馬助能行を使
者で、平家の君達のかたがた【方々】へ、「九郎義経こそ、
三草の手をせめ【攻め】おとひ【落い】て、すでにみだれ入候な
れ。山の手は大事に候。おのおのむかは【向は】れ候へ」とのた
まひ【宣ひ】ければ、みな辞し申されけり。能登殿のもとへ
「たびたびの事で候へども、御へんむかは【向は】れ候なんや」と
P09083
のたまひ【宣ひ】つかはさ【遣さ】れたりければ、能登殿の返事には、
「いくさ【軍】をば我身ひとつ【一つ】の大事ぞとおもふ【思う】てこそ
よう候へ。かり【猟】すなどり【漁】などのやうに、足だち【足立】のよか
らう方へはむかは【向は】ん、あしからう方へはむかは【向は】じなど候
はんには、いくさ【軍】に勝事よも候はじ。いくたびで
も候へ、こはからう方へは、教経うけ給は【承つ】てむかひ【向ひ】
候はん。一方ばかりはうちやぶり候べし。御心やすう
おぼしめさ【思し召さ】れ候へ」と、たのもしげ【頼もし気】にぞ申されける。
大臣殿なのめならず悦て、越中前司盛俊を先
P09084
として、能登殿に一万余騎をぞつけられける。
兄の越前三位道盛【*通盛】卿あひ具して山の手をぞ
かため給ふ。山の手〔と〕申は鵯越のふもと【麓】なり。
通盛卿は能登殿のかり屋【仮屋】に北の方むかへ【向へ】たてま【奉つ】て、
最後のなごりおしま【惜しま】れけり。能登殿大にいかて、
「此手はこはひ方とて教経をむけられて候也。
誠にこはう候べし。只今もうへ【上】の山より源氏ざと
おとし【落し】候なば、とる物もとりあへ候はじ。たとひ弓を
もたりとも、矢をはげずはかなひ【叶ひ】がたし。たとひ
P09085
矢をはげたりとも、ひか【引か】ずはなを【猶】あしかる【悪しかる】べし。
ましてさ様にうちとけさせ給ては、なんのよう【用】にか
たたせ給ふべき」といさめられて、げにもとやおも
は【思は】れけん、いそぎ物の具して、人をばかへし給ひ
けり。五日のくれがた【暮れ方】に、源氏■陽野をたて、
やうやう生田の森にせめ【攻め】ちかづく【近付く】。雀の松原・御影の
杜・■陽野の方をみわたせ【渡せ】ば、源氏手々に陣を
とて、とを火【遠火】をたく。ふけゆくままにながむれば、
山のは【端】いづる【出づる】月のごとし【如し】。平家もとを火【遠火】たけやとて、
P09086
生田[B ノ]森にもかたのごとくぞたいたりける。あけ【明け】ゆく【行く】
ままにみ【見】わたせ【渡せ】ば、はれ【晴れ】たる空のほし【星】のごとし【如し】。これや
むかし沢辺のほたる【蛍】と詠じ給ひけんも、今こそ
思ひしられけれ。[B 老馬イ]源氏はあそこに陣とて馬やすめ、
ここに陣とて馬かひ【飼ひ】などしけるほど【程】にいそがず。
平家の方には今やよする【寄する】いまやよする【寄する】と、やすい心
もなかりけり。六日のあけぼの【曙】に、九郎御曹司、一
万余騎を二手にわかて、まづ土肥二郎実平をば
七千余騎で一の谷の西の手へさしつかはす【遣す】。我身は
P09087
三千余騎で一の谷のうしろ、鵯越をおとさ【落さ】んと、
丹波路より搦手にこそまはられけれ。兵物ども【共】
「これはきこゆる【聞ゆる】悪所であなり。敵にあふてこそ
死にたけれ、悪所におち【落ち】ては死にたからず。あぱれ
此山の案内者やあるらん」と、めんめんに申ければ、
武蔵国住人平山武者所すすみいで【出で】て申けるは、
「季重こそ案内は知て候へ」。御曹司「わとのは東国
そだちのものの、けふはじめてみる【見る】西国の山の
案内者、大にまことしからず」との給へ【宣へ】ば、平山かさね【重ね】
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て申けるは、「御諚ともおぼえ候はぬものかな。吉野・
泊瀬の花をば歌人がしり、敵のこもたる城の
うしろの案内をば、かう【剛】の者がしる候」と申ければ、
是又傍若無人にぞきこえ【聞え】ける。又武蔵国住人
別府[B ノ]小太郎とて、生年十八歳になる小冠
すすみ出て申けるは、「父で候し義重法師がおしへ【教へ】
候ひし[* 「候へし」と有るのを他本により訂正]は、「敵にもおそはれよ、山越ごえの狩をもせよ、深
山にまよひたらん時は、老馬に手綱をうちかけて、
さきにお【追つ】たててゆけ。かならず【必ず】道へいづる【出づる】ぞ」とこそ
P09089
をしへ【教へ】候しか」。御曹司「やさしうも申たる物かな。「雪は
野原をうづめども、老たる馬ぞ道はしる【知る】」といふ【云ふ】
ためし【例】あり」とて、白葦毛なる老馬にかがみ鞍【鏡鞍】
をき、しろぐつは【白轡】はげ、手綱むすでうちかけ、さき
にお【追つ】たてて、いまだしらぬ深山へこそいり給へ。比はきさ
らぎ【二月】はじめの事なれば、峰の雪むら消えて、花
かとみゆる所もあり【有り】。谷の鴬をとづれて、霞
にまよふところ【所】もあり【有り】。のぼれば白雲皓々として
聳へ、下れば青山峨々として岸たかし【高し】。松の
P09090
雪だに消やらで、苔のほそ道かすか【幽】なり。嵐に
たぐふおりおり【折々】は、梅花とも又うたがはるれ。東西に
鞭をあげ、駒をはやめてゆく【行く】程に、山路に日くれ
ぬれば、みなおりゐて陣をとる。武蔵房弁慶
老翁を一人具してまいり【参り】たり。御曹司「あれは
なにもの【何者】ぞ」と問たまへ【給へ】ば、「此山の猟師で候」と申
す。「さては案内はし【知つ】たるらん、ありのままに申せ」とこそ
のたまひ【宣ひ】けれ。「争か存知仕らで候べき」。「これ【是】より平
家の城郭一谷へおとさ【落さ】んとおもふ【思ふ】はいかに」。「ゆめゆめ
P09091
叶ひ候まじ。卅丈の谷、十五丈の岩さきなど申所は、
人のかよふべき様候はず。まして御馬などは思ひも
より候はず」。其うへ、城のうちにはおとしあなをもほり、
ひしをもうへて待まいらせ【参らせ】候らん」と申。さてさ様の
所は鹿はかよふ【通ふ】か」。「鹿はかよひ候。世間だにもあたたかに
なり候へば、草のふかい【深い】にふさ【伏さ】うどて、播磨の鹿は
丹波へこえ、世間だにさむうなり候へば、雪のあさりに
はま【食ま】んとて、丹波の鹿は播磨のいなみ野【印南野】へかよひ候」
と申。御曹司「さては馬場ごさんなれ。鹿のかよO[BH は]ふ
P09092
所を馬のかよはぬやう【様】やある。やがてなんぢ案内者
つかまつれ【仕れ】」とぞのたまひ【宣ひ】ける。此身はとし【年】老てかなう【叶ふ】
まじひよしを申す。「汝が子はないか」。「候」とて、熊王と云
童の、生年十八歳になるをたてまつる【奉る】。やがて
もとどり【髻】とりあげ、父をば鷲尾庄司武久といふ間、
これ【是】をば鷲尾の三郎義久となのら【名乗ら】せ、さきうち【先打】
せさせて案内者にこそ具せられけれ。平家追討
の後、鎌倉殿になか【中】たがう【違う】て、奥州でうた【討た】れ給ひし時、
鷲尾三郎義久とて、一所で死にける兵物也。
P09093
『一二之懸』S0910
○六日の夜半ばかりまでは、熊谷・平山搦手にぞ候ける。
熊谷二郎、子息の小二郎をよう【呼う】でいひけるは、「此手は、
悪所をおとさ【落さ】んずる時に、誰さきといふ事もあるまじ。
いざうれ、これ【是】より土肥がうけ給【承つ】てむかふ【向う】たる播磨
路へむかう【向う】て、一の谷のまさきかけう」どいひければ、
小二郎「しかる【然る】べう候。直家もかうこそ申たう候つれ。
さらばやがてよせさせ給へ」と申す。熊谷「まことや
平山も此手にあるぞかし。うちごみ【打込】のいくさ【軍】このま
ぬもの【物】なり。平山がやう見てまいれ【参れ】」とて、下人をつかはす【遣す】。
P09094
案のごとく平山は熊谷よりさきにいで【出で】立て、「人をば
しら【知ら】ず、季重におゐてはひとひき【一引】もひくまじひ
物を」とひとり事【独り言】をぞしゐ【居】たりける。下人が馬を
かう【飼ふ】とて、「にくい馬のながぐらゐ【長食】かな」とて、うち
ければ、「かうなせそ、其馬のなごり【名残】もこよひ【今宵】ばかりぞ」
とて、う【打つ】たち【立ち】けり。下人はしり【走り】かへ【帰つ】て、いそぎ此よし
告たりければ、「さればこそ」とて、やがてこれ【是】もうち
いで【出で】けり。熊谷はかち【褐】のひたたれ【直垂】に、あか皮おどしの
鎧きて、くれなゐ【紅】のほろをかけ、ごんだ栗毛といふ
P09095
聞ゆる名馬にぞの【乗つ】たりける。小二郎はおもだか【沢瀉】を
一しほ【一入】す【摺つ】たる直垂に、ふしなは目【節縄目】の鎧きて、西楼と
いふ白月毛なる馬にの【乗つ】たりけり。旗さし【旗差し】はきちん【麹塵】の
直垂に、小桜を黄にかへい【返い】たる鎧きて、黄河原毛
なる馬にぞの【乗つ】たりける。おとさ【落さ】んずる谷をば弓手に
みなし、馬手へあゆま【歩ま】せゆく程に、としごろ【年来】人も
かよはぬ田井の畑といふふる道【古道】をへて、一の谷の
浪うちぎはへぞ出たりける。一谷ちかく【近く】塩屋といふ
所に、いまだ夜ふかかり【深かり】ければ、土肥二郎実平、七千
P09096
余騎でひかへたり。熊谷は浪うちぎはより、夜に
まぎれて、そこをつとうちとをり【通り】、一谷の西の
木戸口にぞをし【押し】よせたる。その時はいまだ夜ふかか
り【深かり】ければ、敵の方にもしづまりかへ【返つ】ておと【音】もせず。
御方一騎もつづかず。熊谷二郎子息の小二郎をよう【呼う】
でいひけるは、「我も我もと、先に心をかけたる人々は
おほかる【多かる】らん。心せばう直実ばかりとはおもふ【思ふ】べからず。
すでによせたれども、いまだ夜のあくるを相待て、
此辺にもひかへたるらん、いざなのら【名乗ら】う」どて、かいだて
P09097
のきはにあゆま【歩ま】せより、大音声をあげて、「武蔵国
住人、熊谷次郎直実、子息の小二郎直家、一谷
先陣ぞや」とぞ名の【名乗つ】たる。平家の方には「よし、をと【音】な
せそ。敵に馬の足をつからかさ【疲らかさ】せよ。矢だねをい【射】つく
させよ」とて、あひしらふものもなかりけり。さる程に、
又うしろに武者こそ一騎つづひ【続い】たれ。「たそ」ととへば
「季重」とこたふ。「とふはたそ」。「直実ぞかし」。「いかに熊谷
殿はいつよりぞ」。「直実は宵[B 「夜居」に「宵」と傍書]より」とぞこたへ
ける。「季重もやがてつづひ【続い】てよすべかりつるを、成田
P09098
五郎にたばかられて、いま【今】まで遅々したる也。成田が
「死なば一所で死なう」どちぎるあひだ、「さらば」とて、
うちつれよする【寄する】あひだ【間】、「いたう、平山殿、さきかけばや
り【先駆逸り】なしたまひ【給ひ】そ。先をかくるといふは、御方のせい【勢】を
うしろにをい【置い】てかけたればこそ、高名不覚も人に
しら【知ら】るれ。只一騎大勢の中にかけいて、うた【討た】れたらん
は、なんの詮かあらんずるぞ」とせいする【制する】間、げにもと
思ひ、小坂のあるをさきにうちのぼせ【上せ】、馬のかしら【頭】を
くだりさまにひ【引つ】たてて、御方のせい【勢】をまつところ【所】に、
P09099
成田もつづひ【続い】ていで【出で】きたり。うちならべていくさ【軍】の
やう【様】をもいひあはせ【合はせ】んずるかとおもひ【思ひ】たれば、さは
なくて、季重をばすげなげにうちみて、やがて
つとはせ【馳せ】ぬいてとをる【通る】あひだ【間】、「あぱれ、此ものはたば
かて、先かけうどしけるよ」とおもひ【思ひ】、五六段ばかり
さきだたるを、あれが馬は我馬よりはよはげ【弱気】なる物
をと目をかけ、一もみもうでお【追つ】ついて、「まさなうも
季重ほどの物をばたばかりたまふ【給ふ】ものかな」といひ
かけ、うちすててよせつれば、はるかにさがりぬらん。よも
P09100
うしろかげをも見たらじ」とぞいひける。熊谷・平山、
かれこれ【彼此】五騎でひかへたり。さる程に、しののめやうやう
あけゆけ【行け】ば、熊谷は先になの【名乗つ】たれども【共】、平山がきく
になのら【名乗ら】んとやおもひ【思ひ】けん、又かいだて【垣楯】のきはにあ
ゆま【歩ま】せより、大音声をあげて、「以前になの【名乗つ】つる
武蔵国の住人、熊谷二郎直実、子息の小二郎直家、
一の谷の先陣ぞや、われとおもは【思は】ん平家の侍共
は直実におち【落ち】あへ【合へ】や、おち【落ち】あへ【合へ】」とぞののしたる。是
をきい【聞い】て、「いざや、夜もすがらなのる【名乗る】熊谷おや子【親子】
P09101
ひ【引つ】さげてこん」とて、すすむ平家の侍たれたれぞ、
越中二郎兵衛盛嗣・上総五郎兵衛忠光・悪七兵衛
景清・後藤内[B 「五藤内」とあり「五」に「後」と傍書]定経、これをはじめてむねとのつは
もの【兵】廿余騎、木戸をひらいてかけいで【出で】たり。ここに
平山、しげ目ゆひ【滋目結】の直垂にひおどし【緋縅】の鎧きて、
二ひきりやう【引両】のほろをかけ、目糟毛といふきこゆる【聞ゆる】
名馬にぞの【乗つ】たりける。旗さし【旗差し】は黒かは威の鎧に、
甲ゐくび【猪頸】にきないて、さび月毛なる馬にぞの【乗つ】たり
ける。「保元・平治両度の合戦に先かけたりし武蔵
P09102
国住人、平山武者所季重」となの【名乗つ】て、旗さしと
二騎馬のはなをならべておめい【喚い】てかく。熊谷
かくれば平山つづき、平山かくれば熊谷つづく。たがひに
われおとら【劣ら】じと入かへ【換へ】入かへ【換へ】、もみにもうで、火いづる【出づる】
程ぞせめ【攻め】たりける。平家の侍ども【共】手いたうかけ
られて、かなは【叶は】じとやおもひけん、城のうちへざと
ひき【引き】、敵をとざま【外様】にないてぞふせき【防き】ける。熊谷は
馬のふと腹い【射】させて、はぬれば足をこえ【越え】ており
立たり。子息の小二郎直家も、「生年十六歳」となの【名乗つ】て、
P09103
かいだてのきはに馬の鼻をつかする程責寄て
たたかひ【戦ひ】けるが、弓手のかいな【腕】をい【射】させて馬より
とびおり、父とならでたたりけり。「いかに小二郎、手おふ
たか」。「さ候」。「つねに鎧づきせよ、うらかかすな。しころをかた
ぶけよ【傾けよ】、うちかぶとい【射】さすな」とぞをしへ【教へ】ける。熊谷
は鎧にたたる矢ども【共】かなぐりすてて、城の内をにら
まへ【睨まへ】、大音声をあげて、「こぞの冬の比鎌倉を出
しより、命をば兵衛佐殿にたてまつり【奉り】、かばねをば
一谷でさらさんとおもひ【思ひ】きたる直実ぞや。「室山・
P09104
水島二ケ度の合戦に高名したり」となのる【名乗る】越中
次郎兵衛はないか、上総五郎兵衛、悪七兵衛はないか、
能登殿はましまさぬか。高名も敵によてこそすれ。
人ごとにあふ【逢う】てはえせまじものを。直実におち【落ち】あへ【合へ】
やおち【落ち】あへ【合へ】」とののしたる。是をきい【聞い】て、越中次郎兵衛、
このむ装束なれば、こむらご【紺村濃】の直垂にあかおどし【赤威】の
鎧きて、白葦毛なる馬にのり、熊谷に目をかけて
あゆま【歩ま】せよる。熊谷おや子【親子】は、なか【中】をわられじとたち【立ち】
ならんで、太刀をひたいにあて、うしろへひとひき【一引】も
P09105
ひかず、いよいよまへへぞすすみける。越中次郎兵衛叶
はじとや思ひけん、とてかへす【返す】。熊谷これ【是】をみて、
「いかに、あれは越中次郎兵衛とこそみれ【見れ】。敵にはどこを
きらふぞ。直実にをし【押し】ならべてくめやくめ」といひ
けれども、「さもさうず」とてひ【引つ】かへす【返す】。悪七兵衛是
をみて、「きたない殿原のふるまひ【振舞ひ】やうかな」とて、
すでにくまんとかけいで【出で】けるを、鎧の袖をひかへ
て「君の御大事是にかぎるまじ。あるべうもなし」
とせいせ【制せ】られてくまざりけり。其後熊谷はのり
P09106
がへにの【乗つ】ておめい【喚い】てかく。平山も熊谷おや子【親子】が
たたかふ【戦ふ】まぎれに、馬のいきやすめて、是も又つづい
たり。平家のかた【方】には馬にの【乗つ】たる武者はすくなし、
矢倉のうへ【上】の兵ども【共】、矢さき【矢先】をそろへて、雨の
ふるやう【様】にい【射】けれども、敵はすくなし、みかた【御方】はおほし、
せい【勢】にまぎれて矢にもあたらず、「ただをし【押し】ならべて
くめやくめ」と下知しけれども【共】、平家の馬は
のる事はしげく、かう【飼ふ】事はまれなり、舟にはひさ
しう【久しう】たて【立て】たり、より[B 「より」に「彫」と傍書]きたる様なりけり。熊谷・平山が
P09107
馬は、かい【飼ひ】にかう【飼う】たる大の馬ども【共】なり、ひとあてあてば、
みなけたをさ【倒さ】れぬべきあひだ【間】、をし【押し】ならべてくむ
武者一騎もなかりけり。平山は身にかへて思ひ
ける旗さし【旗差し】をい【射】させて、かたき【敵】のなか【中】へわていり、
やがて其敵をとてぞ出たりける。熊谷も分捕あ
またしたりけり。熊谷さきによせたれど、木戸を
ひらかねばかけいらず、平山後によせたれど、木戸を
あけたればかけ入ぬ。さてこそ熊谷・平山が一二の
『二度之懸』S0911
かけをばあらそひけれ。○さるほど【程】に、成田五郎も
P09108
出きたり。土肥次郎まさきかけ、其勢七千余騎、色々
の旗さし【差し】あげ【上げ】、おめき【喚き】さけ【叫ん】でせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。大手
生田の森にも源氏五万余騎でかためたりけるが、
其勢のなか【中】に武蔵国住人、河原太郎・河原次郎
といふものあり【有り】。河原太郎弟の次郎をよう【呼う】でいひ
けるは、「大名は我と手をおろさねども【共】、家人の
高名をもて名誉す。われら【我等】はみづから手をおろ
さずはかなひ【叶ひ】がたし。かたき【敵】をまへにをき【置き】ながら、矢
ひとつ【一つ】だにもい【射】ずして、まちゐたるがあまりにこころ【心】
P09109
もとなう覚ゆるに、高直はまづ城の内へまぎれ
入て、ひと矢い【射】んとおもふ【思ふ】なり。されば千万が一もいき【生き】
てかへらん事ありがたし。わ殿はのこりとどま【留まつ】て、後の
証人にたて」といひければ、河原次郎涙をはらはら
とながひ【流い】て、「口惜い事をものたまふ物かな。ただ
兄弟二人ある物が、あに【兄】をうたせておとと【弟】が一人のこ
りとどま【留まつ】たらば、いく程の栄花をかたもつ【保つ】べき。
所々でうた【討た】れんよりも、ひとところ【一所】でこそいかにも
ならめ」とて、下人どもよびよせ、最後のありさま【有様】
P09110
妻子のもとへいひつかはし【遣し】、馬にものらずげげ[B 「げげ」に「芥下」と傍書]をはき、
弓杖をつい【突い】て、生田森のさかも木【逆茂木】をのぼりこえ、
城のうちへぞ入たりける。星あかり【星明かり】に鎧の毛も
さだかならず。河原太郎大音声をあげて、「武蔵
国住人、河原太郎私[B ノ]高直、同次郎盛直、源氏の
大手生田[B ノ]森の先陣ぞや」とぞなの【名乗つ】たる。平家の方
には是をきい【聞い】て、「東国の武士ほどおそろし
かり【恐ろしかり】けるものはなし。是程の大ぜい【大勢】の中へただ
二人入たらば、何ほど【程】の事をかしいだすべき。よしよし
P09111
しばしあひせよ【愛せよ】」とて、うたんといふものなかりけり。
是等おととい【兄弟】究竟の弓の上手なれば、さしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】
さんざん【散々】にいる【射る】あひだ【間】、「にくし、うてや」といふ程こそ
あり【有り】けれ、西国にきこえ【聞え】たるつよ弓【強弓】せい兵【精兵】、備中国住
人、真名辺[B ノ]四郎・真名辺五郎とておととひ【兄弟】あり【有り】。
四郎は一の谷にをか【置か】れたり。五郎は生田森にあり【有り】
けるが、是を見てよぴいてひやうふつといる【射る】。河原
太郎が鎧のむないたうしろ【後】へつとい【射】ぬかれて、弓杖に
すがり、すくむところ【所】を、おとと【弟】の次郎はしり【走り】よ【寄つ】て
P09112
是をかたにひ【引つ】かけ、さかも木【逆茂木】をのぼりこえんと
しけるが、真名辺が二の矢によろひ【鎧】の草摺の
はづれをい【射】させて、おなじ枕にふしにけり。真名辺が
下人おち【落ち】あふ【逢う】て、河原兄弟が頸をとる。是を新
中納言の見参に入たりければ、「あぱれ剛の者かな。
これ【是】をこそ一人当千の兵ともいふべけれ。あたら者
どもをたすけ【助け】てみで」とぞのたまひ【宣ひ】ける。其時下
人ども【共】、「河原殿おととい【兄弟】、只今城の内へまさきかけて
うた【討た】れ給ひぬるぞや」とよばはり【呼ばはり】ければ、梶原是を
P09113
きき、「私の党の殿原の不覚でこそ、河原兄弟
をばうたせたれ。いま【今】は時よくなり【成り】ぬ。よせよや」とて、
時をどとつくる。やがてつづひ【続い】て五万余騎一度に
時をぞつくりける。足がる共にさかも木【逆茂木】取のけさせ、
梶原五百余騎おめひ【喚い】てかく。次男平次景高、余
にさきをかけんとすすみければ、父の平三使者を
たてて、「後陣の勢のつづかざらんに、さきかけたらん
者は、勧賞あるまじき由、大将軍のおほせぞ」と
いひければ、平次しばしひかへて
P09114
「もののふのとりつたへたるあづさ弓
ひいては人のかへすものかは W069
と申させ給へ」とて、おめい【喚い】てかく。「平次うたすな、
つづけやものども【共】、景高うたすな、つづけやもの【者】ども【共】」
とて、父の平三、兄の源太、同三郎つづいたり。梶原
五百余騎、大勢のなかへかけいり、さんざん【散々】にたたかひ【戦ひ】、
わづかに五十騎ばかりにうちなされ、ざとひい【退い】てぞ
出たりける。いかがしたりけん、其なかに景季はみえ【見え】ざり
けり。「いかに源太は、郎等ども【共】」ととひければ、「ふかいり【深入り】し
P09115
てうたれさせ給ひて候ごさめれ」と申。梶原平三
是をきき、「世にあらんとおもふ【思ふ】も子共がため、源太うた
せて命いきても何かはせん、かへせや」とてとて
かへす。梶原大音声をあげてなのり【名乗り】けるは、「昔八幡
殿、後三年の御たたかひ【戦ひ】に、出羽国千福金沢の城
を攻させ給ひける時、生年十六歳でまさき
かけ、弓手の眼を甲の鉢付の板にい【射】つけられな
がら、当の矢をい【射】て其敵をい【射】おとし【落し】、後代[B 氏]に名を
あげたりし鎌倉権五郎景正が末葉、梶原平三
P09116
景時、一人当千の兵ぞや。我とおもは【思は】ん人々は、景
時う【打つ】て見参にいれよ【入れよ】や」とて、おめい【喚い】てかく。
新中納言「梶原は東国にきこえ【聞え】たる兵ぞ。あます
な、もらす【漏らす】な、うてや」とて、大勢のなかに取こめて
攻給へば、梶原まづ我身のうへ【上】をばしら【知ら】ずして、
「源太はいづくにあるやらん」とて、数万騎の大勢の
なかを、たてさま・よこさま・蛛手・十文字にかけ
わりかけまはりたづぬる程に、源太はのけ甲に
たたかい【戦ひ】なて、馬をもい【射】させ、かち立になり、二丈計
P09117
あり【有り】ける岸をうしろにあて【当て】、敵五人がなか【中】に取
籠られ、郎等二人左右にたて【立て】て、面もふらず、命も
おしま【惜しま】ず、ここを最後とふせき【防き】たたかふ【戦ふ】。梶原是
を見つけて、「いまだうた【討た】れざりけり」と、いそぎ馬
よりとんでおり、「景時ここにあり【有り】。いかに源太、しぬ
る【死ぬる】とも敵にうしろをみすな」とて、おや子【親子】して
五人の敵、三人うとり、二人に手おほせ【負せ】、「弓矢とりは
かくる【駆くる】もひくもおり【折】にこそよれ、いざうれ、源太」とて、
かい具してぞ出たりける。梶原が二度のかけ【駆け】とは
P09118
『坂落』S0912
これ【是】なり。○是をはじめ【始め】て、秩父・足利・三浦・鎌倉、党
には猪俣・児玉・野井与・横山・にし【西】党・都筑党・私
の党の兵ども【共】、惣じて源平乱あひ、いれ【入れ】かへいれ【入れ】かへ、
名のりかへ名のりかへおめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】声、山をひびかし、
馬の馳ちがふをと【音】はいかづちの如し。い【射】ちがふる矢は
雨のふるにことならず。手負をば肩にかけ、うしろへ
ひき【引き】しりぞくもあり。うすで【薄手】おふ【負う】てたたかふ【戦ふ】もあり【有り】。
いた手【痛手】負て討死するものもあり【有り】。或はおしならべて
くんでおち【落ち】、さしちがへて死ぬるもあり、或は
P09119
とておさへ【抑へ】て頸をかくもあり、かかるるもあり、いづれ
ひまありとも見えざりけり。かかりしかども【共】、源氏
大手ばかりではかなふ【叶ふ】べしとも見えざりしに、
九郎御曹司搦手にまはて七日のひの明ぼのに、
一の谷のうしろ鵯越にうちあがり【上がり】、すでにおとさ【落さ】ん
としたまふ【給ふ】に、其勢にや驚たりけん、大鹿二妻鹿
一、平家の城郭一谷へぞ落たりける。城のうちの
兵ども是を見て、「里ちかから【近から】ん鹿だにも、我等に
おそれ【恐れ】ては山ふかうこそ入べきに、是程の大勢の
P09120
なかへ、鹿のおちやう【落ち様】こそあやしけれ。いかさまにも
うへ【上】の山より源氏おとす【落す】にこそ」とさはぐ【騒ぐ】ところ【所】に、
伊与【伊予】国住人、武知の武者所清教、すすみ出て、「なんで
まれ、敵の方よりいで【出で】きたらんもの【物】をのがすべき
やう【様】なし」とて、大鹿二つい【射】とどめ【留め】て、妻鹿をばい【射】でぞ
とをしける。越中前司「せんない殿原の鹿のいやう【射様】
かな。唯今の矢一では敵十人はふせか【防か】んずる物を。
罪つくりに、矢だうなに」とぞせいし【制し】ける。御曹司城郭
はるか【遥】に見わたい【渡い】ておはしけるが、「馬ども【共】をといて
P09121
みむ」とて、鞍をき馬【鞍置馬】をO[BH 追]おとす【落す】。或は足をうちお【折つ】て、
ころんでおつ、或はさうい【相違】なくおち【落ち】てゆく【行く】もあり【有り】。
鞍をき馬【鞍置馬】三疋、越中前司が屋形のうへ【上】におち【落ち】つい【着い】
て、身ぶるい【身振るひ】してぞ立たりける。御曹司是をみて
「馬ども【共】はぬしぬしが心得ておとさ【落さ】うにはそんずまじ
ひぞ。くはおとせ【落せ】、義経を手本にせよ」とて、まづ
卅騎ばかり、まさきかけておとさ【落さ】れけり。大勢みな
つづひ【続い】ておとす【落す】。後陣におとす【落す】人々のあぶみの
鼻は、先陣の鎧甲にあたるほどなり。小石まじりの
P09122
すなご【砂子】なれば、ながれおとし【流落】に二町計ざとおとひ【落い】て、
壇なるところ【所】にひかへたり。それよりしもを見くだ
せば、大盤石の苔むしたるが、つるべおとし【釣瓶落し】に十四〔五〕丈ぞ
くだたる。兵ども【共】うしろへとてかへすべきやうもなし、
又さきへおとすべしともみえず。「ここぞ最後と申て
あきれてひかへたるところ【所】に、佐原十郎義連すすみ
いで【出で】て申けるは、「三浦の方で我等は鳥ひとつ【一つ】たて【立て】ても、
朝ゆふか様【斯様】のところ【所】をこそはせ【馳せ】ありけ【歩け】。三浦の方
の馬場や」とて、まさきかけておとし【落し】ければ、
P09123
兵ども【共】みなつづい【続い】ておとす【落す】。ゑいゑい声をしのび【忍び】に
して、馬にちからをつけておとす【落す】。あまり【余り】のいぶせ
さに、目をふさいでぞおとし【落し】ける。おほかた【大方】人のしわ
ざとはみえ【見え】ず。ただ鬼神の所為とぞみえ【見え】たりける。
おとし【落し】もはてねば、時をどとつくる。三千余騎が声
なれど、山びこにこたへて十万余騎とぞきこえ【聞え】
ける。村上の判官代康国が手より火をいだし【出だし】、平
家の屋形、かり屋【仮屋】をみな焼払ふ。おりふし【折節】風は
はげしし、くろ煙おしかくれば、平氏の軍兵ども【共】
P09124
あまり【余り】にあはて【慌て】さはひ【騒い】で、若やたすかると前の
海へぞおほく【多く】はせ【馳せ】いりける。汀にはまうけ舟[B 「まうけ」に「タスケイ」と傍書]【設け船】いく
らもあり【有り】けれども、われさきにのらうど、舟一艘には
物具したる者ども【共】が四五百人、〔千人〕ばかりこみ【込み】のら【乗ら】うに、
なじかはよかるべき。汀よりわづかに三町ばかり
おしいだひ【出い】て、目の前に大ふね【大船】三ぞう【三艘】しづみに
けり。其後は「よき人をばのすとも【共】、雑人共をば
のすべからず」とて、太刀長刀でなが【薙が】せけり。かくする
事とは知ながら、のせ【乗せ】じとする舟にとり【取り】つき【付き】、つかみ
P09125
つき、或はうで【腕】うちきられ、或はひぢ【肘】うちおとさ【落さ】れ
て、一の谷の汀にあけ【朱】になてぞなみ【並み】ふし【臥し】たる。
能登守教経は、度々のいくさに一度もふかく【不覚】せぬ人の、
今度はいかがおもは【思は】れけん、うす黒【薄黒】といふ馬にのり、
西をさい【指い】てぞ落たまふ【給ふ】。播磨国明石浦より舟に
『越中前司最期』S0913
の【乗つ】て、讃岐の八島へ渡り給ひぬ。○大手にも浜の
手にも、武蔵・相模の兵ども【共】、命もおしま【惜しま】ずせめ【攻め】
たたかふ【戦ふ】。新中納言は東にむか【向つ】てたたかい【戦ひ】給ふとこ
ろ【所】に、山のそは【岨】よりよせける児玉党使者をたてま【奉つ】て、
P09126
「君はO[BH 一年]武蔵の国司でましまし候しあひだ【間】、これ【是】は児玉
の者ども【共】が申候。御うしろをば御覧候はぬやらん」と
申。新中納言以下の人々、うしろをかへりみたまへ【給へ】ば、
くろ煙をし【押し】かけたり。「あはや、西の手はやぶれに
けるは」といふほど【程】こそありけれ、とる物もとりあへず
我さきにとぞ落行ける。越中前司盛俊は、山手
の侍大将にてあり【有り】けるが、いま【今】はおつ【落つ】ともかなは【叶は】じ
とやおもひ【思ひ】けん、ひかへて敵を待ところ【所】に、猪俣の
小平六則綱、よい敵と目をかけ、鞭あぶみを合せて
P09127
はせ【馳せ】来り、おしならべてむずとくう【組う】でどうどおつ。
猪俣は八ケ国にきこえ【聞え】たるしたたか者【強者】也。か【鹿】の角の
一二のくさかりをばたやすうひ【引つ】さき【裂き】けるとぞ聞えし。
越中前司は二三十人が力わざ【力業】をするよし人目には
みえ【見え】けれども【共】、内々は六七十人してあげをろす【下す】舟を、
唯一人しておしあげをし【押し】おろす程の大力なり。
されば猪俣をとておさへ【抑へ】てはたらかさ【働かさ】ず。猪俣
したにふし【臥し】ながら、刀をぬかうどすれども、ゆび【指】はたかて
刀のつかにぎる【握る】にも及ばず。物をいはうどすれども【共】、
P09128
あまりにつよう【強う】おさへ【抑へ】られて声もいで【出で】ず。既に
頸をかかれんとしけるが、ちから【力】はおとたれ共、心はかう【剛】
成ければ、猪俣すこし【少し】もさはが【騒が】ず、しばらくいきを
やすめ、さらぬてい【体】にもてなして申けるは、
「抑なの【名乗つ】つるをばきき給ひてか。敵をうつといふは、我も
なの【名乗つ】てきかせ、敵にもなのらせて頸をとたればこそ
大功なれ。名もしらぬ頸とては、何にかしたまふ【給ふ】
べき」といはれて、げにもとやおもひ【思ひ】けむ、「これ【是】は
もと平家の一門たりしが、身不肖なるによて
P09129
当時は侍なたる越中前司盛俊といふもの【者】也。わ君
は何もの【何者】ぞ、なのれ【名乗れ】、きかう」どいひければ、「武蔵国住
人、猪俣小平六則綱」となのる。「倩此世間の有さま【有様】を
みる【見る】に、源氏の御かた【御方】はつよく、平家の御かた【御方】はまけい
ろ【負色】にみえ【見え】させ給たり。いま【今】はしう【主】の世にましまさばこそ、
敵のくびとてまいらせ【参らせ】て、勲功勧賞にもあづかり【預り】
給はめ。理をまげて則綱たすけ【助け】給へ。御へんの一
門なん十人もおはせよ、則綱が勲功の賞に申
かへてたすけ【助け】[* 「たけん」と有るのを他本により訂正]奉らん」といひければ、越中前司大に
P09130
怒て、「盛俊身こそ不肖なれども【共】、さすが平家の一門也。
源氏たのま【頼ま】うどは思はず。源氏又盛俊にたのま【頼ま】
れうどもよも思はじ。にくい君が申やう【申様】かな」とて、
頸をかかんとしければ、猪俣「まさなや、降人の頸かく
様や候」。越中前司「さらばたすけ【助け】ん」とてひき【引き】おこす。
まへは畠のやうにひあが【上がつ】て、きはめてかたかりけるが、
うしろは水田のごみふかかり【深かり】けるくろ【畔】のうへ【上】に、二人の
者ども【共】腰うちかけていきづきゐたり。しばしあて、
黒革威の鎧きて月毛なる馬にの【乗つ】たる武者
P09131
一騎はせ【馳せ】来る。越中前司あやしげにみければ、「あれは
則綱がしたしう【親しう】候人見の四郎と申者で候。則綱
が候をみてまうで【詣で】くると覚候。くるしう【苦しう】候まじ」と
いひながら、あれがちかづひ【近づい】たらん時に、越中前司に
くんだらば、さりとも【共】おち【落ち】あはんずらんと思ひて
待ところ【所】に、一段ばかりちかづい【近づい】たり。越中前司はじめ【始め】
はふたりを一目づつ見けるが、次第にちかう成ければ、
馳来る敵をはたとまも【守つ】て、猪俣をみぬひまに、
ちから足をふんでつい立あがり【上がり】、ゑいといひて
P09132
もろ手をもて、越中前司が鎧のむないた【胸板】をばく
とつい【突い】て、うしろの水田へのけにつき【突き】たをす【倒す】。おき【起き】
あがら【上がら】んとする所に、猪俣うへ【上】にむずとのりかかり、
やがて越中前司が腰の刀をぬき、鎧の草摺ひき【引き】
あげて、つかもこぶし【拳】もとをれ【通れ】とをれ【通れ】と三刀さいて
頸をとる。さる程に人見の四郎おち【落ち】あふ【合う】たり。か様【斯様】の
時は論ずる事もありとおもひ【思ひ】、太刀のさきに
つらぬき、たかくさし【差し】あげ【上げ】、大音声をあげて、「この【此の】
日来鬼神ときこえ【聞え】つる平家の侍越中前司
P09133
盛俊をば、猪俣の小平六則綱がうたるぞや」となの【名乗つ】て、
『忠教【*忠度】最期』S0914
其日の高名の一の筆にぞ付にける。○薩摩守忠教【*忠度】
は、一の谷の西手の大将軍にておはしけるが、
紺地の錦の直垂に黒糸おどしの鎧きて、
黒[B キ]馬のふとう【太う】たくましきに、いかけ地【沃懸地】の鞍をい【置い】て
のり【乗り】給へり。其勢百騎ばかりがなか【中】に打かこま【囲ま】れ
ていとさはが【騒が】ず、ひかへひかへ落給ふを、猪俣党に
岡辺の六野太忠純、大将軍と目をかけ、鞭あぶ
みをあはせ【合はせ】て追付たてまつり【奉り】、「抑いかなる人で
P09134
在まし候ぞ、名のらせ給へ」と申ければ、「是はみかた【御方】ぞ」
とてふりあふぎたまへ【給へ】るうちかぶとよりみ【見】いれ【入れ】
たれば、かねぐろ也。あぱれみかた【御方】にはかねつけたる
人はないものを、平家の君達でおはするにこそと
おもひ【思ひ】、をし【押し】ならべてむずとくむ。これ【是】をみて百騎
ばかりある兵ども【共】、国々のかり武者【駆武者】なれば、一騎も
落あはず、われさきにとぞ落ゆき【行き】ける。薩摩
守「にくひやつかな。みかた【御方】ぞといはばいはせよかし」とて、
熊野そだち大ぢから【大力】のはやわざにておはしければ、
P09135
やがて刀をぬき、六野太を馬の上で二刀、おち【落ち】つく
ところ【所】で一刀、三刀までぞつか【突か】れける。二刀は鎧のうへ【上】
なればとをら【通ら】ず、一刀はうちかぶと【内甲】へつき入られ
たれども【共】、うす手【薄手】なればしな【死な】ざりけるをとておさへ【抑へ】
て、頸をかかんとし給ふところ【所】に、六野太が童をく
れ【遅れ】ばせに馳来て、うち刀【打刀】をぬき、薩摩守の右の
かいな【腕】を、ひぢのもとよりふつときり【斬り】おとす【落す】。今は
かうとやおもは【思は】れけん、「しばしのけ【退け】、十念となへん」
とて、六野太をつかうで弓だけばかりなげ【投げ】のけ
P09136
られたり。其後西にむかひ【向ひ】、高声に十念となへ、
「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」とのたまひ【宣ひ】
もはてねば、六野太うしろよりよ【寄つ】て薩摩守
の頸をうつ。よい大将軍うたりとおもひ【思ひ】けれども【共】、
名をば誰ともしら【知ら】ざりけるに、ゑびら【箙】にむすび付
られたる文をといてみれ【見れ】ば、「旅宿花」といふ【云ふ】題
にて、一首の歌をぞよまれたる。
ゆき【行き】くれて木のしたかげ【下陰】をやどとせば
花やこよひのあるじならまし W070
P09137
忠教【*忠度】とかかれたりけるにこそ、薩摩守とはしり【知り】てげれ。
太刀のさきにつらぬき、たかく【高く】さし【差し】あげ【上げ】、大音声を
あげて、「この【此の】日来平家の御方にきこえ【聞え】させ給ひ
つる薩摩守殿をば、岡辺の六野太忠純がうちたて
ま【奉つ】たるぞや」と名のりければ、敵もみかた【御方】も是を
きひ【聞い】て、「あないとをし、武芸にも歌道にも達者
にておはしつる人を、あたら大将軍を」とて、涙を
『重衡生捕』S0915
ながし袖をぬらさ【濡らさ】ぬはなかりけり。○本三位中将
重衡卿は、生田森の副将軍にておはしけるが、
P09138
其勢みなおち【落ち】うせて、只主従二騎になり給ふ。
三位中将其日の装束には、かち【褐】にしろう【著う】黄なる
糸をもて、岩に村千鳥【群千鳥】ぬう【縫う】たる直垂に、紫すそ
ご【紫裾濃】の鎧きて、童子鹿毛といふきこゆる【聞ゆる】名馬に
のり給へり。めのと子【乳母子】の後藤兵衛盛長は、しげ目ゆい【滋目結】
の直垂に、火おどし【緋縅】の鎧きて、三位中将の秘蔵せ
られたりける夜目なし月毛にのせ【乗せ】られたり。梶原
源太景季・庄の四郎高家、大将軍と目をかけ、
鞭あぶみをあはせ【合はせ】てお【追つ】かけたてまつる【奉る】。汀にはたすけ
P09139
舟【助け舟】いくらもあり【有り】けれども、うしろより敵はお【追つ】かけ
たり、のがる【逃る】べきひまもなかりければ、湊河・かるも河
をもうちわたり、蓮の池をば馬手にみて、駒の林
を弓手になし、板やど【板宿】・須磨をもうちすぎて、
西をさいてぞ落たまふ。究竟の名馬にはのり
たまへ【給へ】り、もみ[B 「み」に「リイ」と傍書]ふせたる馬共お【追つ】つくべしともおぼえ
ず、ただのびにのびければ、梶原源太景季、あぶみ
ふばり立あがり【上がり】、もしやと遠矢によぴいてい【射】た
りけるに、三位中将馬のさうづ【三頭】をのぶか【篦深】にい【射】させて、
P09140
よはる【弱る】ところ【所】に、後藤兵衛盛長、我馬めされなんず
とや思ひけん、鞭をあげてぞ落行ける。三位中将
これ【是】をみて、「いかに盛長、年ごろ【年来】日来さはちぎら
ざりしものを。我をすて【捨て】ていづくへゆくぞ」との給へ【宣へ】
ども【共】、空きかずして、鎧につけたるあかじるし【赤印】
かなぐりすて【捨て】、ただにげ【逃げ】にこそにげ【逃げ】たりけれ。
三位中将敵はちかづく【近づく】、馬はよはし【弱し】、海へうちいれ【入れ】給ひ
たりけれども【共】、そこしもとをあさ【遠浅】にてしづむべき
様もなかりければ、馬よりおり、鎧のうは帯【上帯】きり、
P09141
たかひもはづし【外し】、物具ぬぎすて、腹をきらんと
したまふ【給ふ】ところ【所】に、梶原よりさきに庄の四郎高
家、鞭あぶみをあはせ【合はせ】てはせ【馳せ】来り、いそぎ馬より飛
おり、「まさなう候、いづくまでも御供仕らん」とて、
我馬にかきのせ【乗せ】奉り、鞍の前輪にしめつけて、
わが身はのりがへにの【乗つ】てO[BH 御方の陣へ]ぞかへりける。後藤兵衛は
いき【息】ながき【長き】究竟の馬にはの【乗つ】たりけり、そこをば
なくにげ【逃げ】のびて、後に熊野法師、尾中の法橋を
たのん【頼ん】でゐたりけるが、法橋死て後、後家の尼公
P09142
訴訟のために京へのぼりたりけるに、盛長とも【供】し
てのぼ【上つ】たりければ、三位中将のめのと子【乳母子】にて、上下
にはおほく【多く】見しら【知ら】れたり。「あなむざん【無慚】の盛長や、
さしも不便にしたまひ【給ひ】しに、一所でいかにもならず
して、おもひ【思ひ】もかけぬ尼公のとも【供】したるにくさよ」と
て、つまはじき【爪弾き】をしければ、盛長もさすがはづかしげ
『敦盛最期』S0916
にて、扇をかほ【顔】にかざしけるとぞ聞えし。○いくさ【軍】
やぶれにければ、熊谷次郎直実、「平家の君達た
すけ舟【助け船】にのらんと、汀の方へぞおち【落ち】たまふ【給ふ】らむ。
P09143
あぱれ、よからう大将軍にくまばや」とて、磯の方へ
あゆま【歩ま】するところ【所】に、ねりぬき【練貫】に鶴ぬう【縫う】たる
直垂に、萌黄匂の鎧きて、くはがた【鍬形】うたる甲の
緒しめ、こがねづくりの太刀をはき、きりう【切斑】の矢おひ【負ひ】、
しげどう【滋籐】の弓もて、連銭葦毛なる馬に黄覆
輪の鞍をいての【乗つ】たる武者一騎、沖なる舟に目を
かけて、海へざとうちいれ【入れ】、五六段ばかりおよが【泳が】せたる
を、熊谷「あれは大将軍とこそ見まいらせ【参らせ】候へ。まさ
なうも敵にうしろをみせ【見せ】させたまふ【給ふ】ものかな。
P09144
かへさ【返さ】せ給へ」と扇をあげてまねきければ、招かれ
てとてかへす【返す】。汀にうちあがら【上がら】んとするところ【所】に、
おしならべてむずとくん【組ん】でどうどおち【落ち】、とておさ
へ【抑へ】て頸をかかんと甲をおしあふのけてみ【見】ければ、
年十六七ばかりなるが、うすげしやう【薄化粧】してかねぐろ也。
我子の小次郎がよはひ程にて容顔まこと【誠】に
美麗也ければ、いづくに刀を立べしともおぼえず。
「抑いかなる人にてましまし候ぞ。名のら【名乗ら】せ給へ、たすけ【助け】
まいらせ【参らせ】ん」と申せば、「汝はた【誰】そ」ととひ給ふ。「物そのもの
P09145
で候はねども【共】、武蔵国住人、熊谷次郎直実」となの
り【名乗り】申。「さては、なんぢにあふ【逢う】てはなのる【名乗る】まじひぞ、
なんぢがためにはよい敵ぞ。名のらずとも頸をと
て人にとへ。み【見】しら【知ら】ふずるぞ」とぞのたまひ【宣ひ】ける。
熊谷「あぱれ大将軍や、此人一人うちたてま【奉つ】たり共、
まく【負く】べきいくさ【軍】に勝べきやう【様】もなし。又うちたて
まつら【奉ら】ずとも【共】、勝べきいくさ【軍】にまくる事もよもあらじ。
小二郎がうす手【薄手】負たるをだに、直実は心ぐるしう
こそおもふ【思ふ】に、此殿の父、うた【討た】れぬときひ【聞い】て、いか計か
P09146
なげき給はんずらん、あはれ、たすけ【助け】たてまつら【奉ら】ばや」
とおもひ【思ひ】て、うしろ【後】をきとみければ、土肥・梶原
五十騎ばかりでつづひ【続い】たり。熊谷涙をおさへて
申けるは、「たすけ【助け】まいらせ【参らせ】んとは存候へども【共】、御方の
軍兵雲霞のごとく【如く】候。よものがれ【逃れ】させ給はじ。人
手にかけまいらせ【参らせ】んより、同くは直実が手にかけ
まいらせ【参らせ】て、後の御孝養をこそ仕候はめ」と申ければ、
「ただとくとく【疾く疾く】頸をとれ」とぞのたまひ【宣ひ】ける。熊谷あ
まりにいとをしくて、いづくに刀をたつべしとも
P09147
おぼえず、目もくれ心もきえはてて、前後O[BH 不]覚に
おぼえけれども、さてしもあるべき事ならねば、
なくなく【泣々】頸をぞかいてげる。「あはれ、弓矢とる身
ほど口惜かりけるものはなし。武芸の家に生れ
ずは、何とてかかるうき目をばみる【見る】べき。なさけなうも
うちたてまつる【奉る】ものかな」とかきくどき【口説き】、袖を
かほ【顔】にをし【押し】あててさめざめとぞなき【泣き】ゐたる。良久
しうあて、さてもあるべきならねば、よろい【鎧】直垂を
とて、頸をつつまんとしけるに、錦袋にいれ【入れ】たる
P09148
笛をぞ腰にさされたる。「あないとおし、この暁城の
うちにて管絃し給ひつるは、此人々にておはし
けり。当時みかた【御方】に東国の勢なん万騎かあるらめ
ども、いくさ【軍】の陣へ笛もつ人はよもあらじ。上臈は
猶もやさしかりけり」とて、九郎御曹司の見参に
入たりければ、これ【是】をみる【見る】人涙をながさずといふ事
なし。後にきけば、修理大夫経盛の子息に大夫篤
盛【*敦盛】とて、生年十七にぞなられける。それよりして
こそ熊谷が発心のおもひ【思ひ】はすすみけれ。件の
P09149
笛はおほぢ【祖父】忠盛笛の上手にて、鳥羽院より
給はられたりけるとぞきこえ【聞え】し。経盛相伝せら
れたりしを、篤盛【*敦盛】器量たるによて、もたれたり
けるとかや。名をばさ枝【小枝】とぞ申ける。狂言綺語の
ことはり【理】といひながら、遂に讃仏乗の因となる
『知章最期』S0917
こそ哀なれ。○門脇中納言教盛卿の末子蔵人大夫
成盛【*業盛】は、常陸国住人土屋五郎重行にくんで
うた【討た】れ給ひぬ。修理大夫経盛の嫡子、皇后宮亮
経正は、たすけ舟【助け船】にのらんと汀の方へ落給ひ
P09150
けるが、河越小太郎重房が手に取籠られてうた【討た】
れ給ひぬ。若狭守経俊・淡路守清房・尾張守清定、
三騎つれてかたき【敵】のなかへかけ入、さんざんにたたか
ひ【戦ひ】、分捕あまたして、一所で討死してげり。新中
納言知盛卿は、生田森大将軍にておはしけるが、
其勢みな落うせて、今は御子武蔵守知明【*知章】、侍に
監物太郎頼方、ただ主従三騎になて、たすけ
舟【助け船】にのらんと汀のかた【方】へ落たまふ【給ふ】。ここに児玉党と
おぼしくて、うちわ【団扇】の旗さい【挿い】たる者ども【共】十騎計、
P09151
おめい【喚い】てお【追つ】かけ奉る。監物太郎は究竟の弓の
上手ではあり、まさきにすすんだる旗さし【旗差し】がしや
頸のほねをひやうふつとい【射】て、馬よりさかさまに
い【射】をとす【落す】。そのなかの大将とおぼしきもの、新中
納言にくみ奉らんと馳ならべけるを、御子武蔵守
知明【*知章】なか【中】にへだたり、おしならべてむずとくんで
どうどおち【落ち】、とておさへ【抑へ】て頸をかき、たち【立ち】あがら【上ら】ん
としたまふ【給ふ】ところ【所】に、敵が童おちあふ【逢う】て、武蔵守
の頸をうつ。監物太郎おち【落ち】かさな【重なつ】て、武蔵守うち【討】
P09152
たてま【奉つ】たる敵が童をもう【打つ】てげり。其後矢だね
のある程い【射】つくし【尽し】て、うちもの【打ち物】ぬいてたたかひ【戦ひ】けるが、
敵あまたうちとり、弓手のひざぐちをい【射】させて、
たち【立ち】もあがら【上ら】ず、い【居】ながら討死してげり。此まぎれに
新中納言は、究竟の名馬にはのり【乗り】たまへ【給へ】り。海の
おもて廿余町およが【泳が】せて、大臣殿の御舟に
つきたまひ【給ひ】O[BH ぬ]。御舟には人おほく【多く】こみの【乗つ】て、馬たつ
べきやう【様】もなかりければ、汀へお[M 「お」をミセケチ「を」と傍書]【追つ】かへす【返す】。阿波民部重能
「御馬かたき【敵】のものに成候なんず。い【射】ころし【殺し】候はん」とて、
P09153
かた手矢【片手矢】はげて出けるを、新中納言「何の物にも
ならばなれ。我命をたすけ【助け】たらんものを。ある
べうもなし」とのたまへ【宣へ】ば、力及ばでい【射】ざりけり。
此馬主のわかれ【別れ】をしたひつつ、しばしは舟をもはなれ【離れ】
やらず、沖の方へおよぎ【泳ぎ】けるが、次第にとをく【遠く】成
ければ、むなしき【空しき】汀におよぎ【泳ぎ】かへる。足たつほど【程】にも
成しかば、猶舟の方をかへりみて、二三度までこそ
いななき【嘶き】けれ。其後くが【陸】にあが【上がつ】てやすみけるを、
河越小太郎重房とて、院へまいらせ【参らせ】たりければ、
P09154
やがて院の御厩にたてられけり。もとも院の
御秘蔵の御馬にて、一の御厩にたてられたりしを、
宗盛公内大臣になて悦申の時給はられたりける
とぞきこえ【聞え】し。新中納言にあづけられたりし
を、中納言あまりに此馬を秘蔵して、馬のいの
り【祈り】のためにとて、毎月ついたち【朔日】ごとに、泰山府君
をぞまつられける。其ゆへ【故】にや、馬の命も
のび、ぬしの命をもたすけ【助け】けるこそめでたけれ。
この【此の】馬は信乃【*信濃】国井の上だち【立ち】にてあり【有り】ければ、井上
P09155
黒とぞ申ける。後には河越がとてまいらせ【参らせ】たりければ、
河越黒とも申けり。新中納言、大臣殿の御まへに
まい【参つ】て申されけるは、「武蔵守にをくれ【遅れ】候ぬ。監物太郎
うたせ候ぬ。今は心ぼそうこそまかり【罷り】なて候へ。いかなれば、
子はあて、親をたすけ【助け】んと敵にくむ【組む】を見ながら、
いかなる親なれば、子のうたるるをたすけ【助け】ずして、
かやうにのがれ【逃れ】まい【参つ】て候らんと、人のうへ【上】で候はば
いかばかりもどかしう存候べきに、我身の上に成
ぬれば、よう命はおしひ【惜しい】物で候けりといま【今】こそ
P09156
思ひしら【知ら】れて候へ。人々の思はれん心のうちども【共】
こそはづかしう候へ」とて、袖をかほ【顔】におし【押し】あててさめ
ざめとなき【泣き】たまへ【給へ】ば、大臣殿これ【是】をききたまひ【給ひ】て、
「武蔵守の父の命にかはられけるこそありがた
けれ。手もきき【利き】心もかう【剛】に、よき大将軍にて
おはしつる人を。清宗と同年にて、ことしは十六な」
とて、御子衛門督のおはしけるかた【方】を御覧じて
涙ぐみ給へば、いくらもなみゐたりける平家の
侍ども【共】、心あるも心なきも、皆鎧の袖をぞぬらし
P09157
『落足』S0918
ける。○小松殿の末子、備中守師盛は、主従七人小舟に
の【乗つ】ておち【落ち】給ふところ【所】に、新中納言の侍清衛門
公長といふもの【者】馳来て、「あれは備中守殿の御
舟とこそみ【見】まいらせ【参らせ】候へ。まいり【参り】候はん」と申ければ、
舟を汀にさしよせたり。大の男の鎧きながら、馬
より舟へかはと飛のらうに、なじかはよかるべき。舟は
ちいさし【小さし】、くるりとふみかへしてげり。備中守うき
ぬしづみぬしたまひ【給ひ】けるを、畠山が郎等本田次
郎、十四五騎で馳来り、熊手にかけてひき【引き】あげ
P09158
奉り、遂に頸をぞかいてげる。生年十四歳とぞ聞
えし。越前三位道盛【通盛】卿は山手の大将軍にておはし
けるが、其日の装束には、あかぢ【赤地】の錦の直垂に、唐綾
威の鎧きて、黄河原毛なる馬に白覆輪の鞍
をいてのり【乗り】たまへ【給へ】り。うち甲【内甲】をい【射】させて、敵にをし【押し】
へだてられ、おとと【弟】能登殿にははなれ給ひぬ、しづか【静か】
ならん所にて自害せんとて、東にむか【向つ】ておち【落ち】
給ふ程に、近江国住人佐々木の木村三郎成綱、武蔵
国住人玉井四郎資景、かれこれ【彼此】七騎がなか【中】に
P09159
取こめられて、ついに【遂に】うた【討た】れたまひ【給ひ】ぬ。其時までは
侍一人つき奉たりけれども【共】、それも最後の時は
おち【落ち】あはず。凡東西の木戸口、時をうつす程也ければ、
源平かずをつくひ【尽くい】てうた【討た】れにけり。矢倉のまへ、
逆も木【逆茂木】のしたには、人馬のししむら【肉】山のごとし。一谷
の小篠原、緑の色をひき【引き】かへ【替へ】て、うす紅にぞ成
にける。一谷・生田森、山のそは【岨】、海の汀にてい【射】られ
きら【斬ら】れて死ぬるはしら【知ら】ず、源氏のかた【方】にきりかけ【懸け】らるる
頸ども【共】二千余人也。今度うた【討た】れ給へるむねとの人々には、
P09160
越前三位道盛【通盛】・弟蔵人大夫成盛【*業盛】・薩摩守忠教【*忠度】・武蔵守
知明【*知章】・備中守師盛・尾張守清定・淡路守清房・修理
大夫経盛嫡子皇后宮亮経正・弟若狭守経俊・
其弟大夫篤盛【*敦盛】、以上十人とぞきこえ【聞え】し。いくさ【軍】
やぶれにければ、主上をはじめたてま【奉つ】て、人々みな
御舟にめし【召し】て出給ふ心のうちこそ悲しけれ。塩に
ひかれ、風に随て、紀伊路へおもむく舟もあり。
葦屋の沖に漕いで【出で】て、浪にゆらるる舟もあり【有り】。
或は須磨より明石のうらづたひ【浦伝ひ】、泊さだめ【定め】ぬ梶枕、
P09161
かたしく【片敷く】袖もしほれ【萎れ】つつ、朧にかすむ春の月、心を
くだかぬ人ぞなき。或は淡路のせとを漕とをり【通り】、
絵島が磯にただよへば、波路かすか【幽】になき【鳴き】わたり、
友まよはせるさ夜鵆【小夜千鳥】、是も我身のたぐひかな。
行さきいまだいづくともおもひ【思ひ】定めぬかとおぼ
しくて、一谷の沖にやすらふ舟もあり【有り】。かやう【斯様】に
風にまかせ【任せ】、浪に随ひて、浦々島々にただよへば、
互に死生もしり【知り】がたし。国をしたがふる事も
十四箇国、勢のつく事も十万余騎、都へちかづく【近付く】
P09162
事も纔に一日の道なれば、今度はさりとも【共】と
たのもしう【頼もしう】おもは【思は】れけるに、一谷をもせめ【攻め】
おとさ【落さ】れて、人々みな心ぼそうぞなられける。
『小宰相身投』S0919 以他本書入
越前の三位通盛の卿の侍に、くんだ【君太】たきぐち【滝口】
時員といふものあり【有り】。北のかたのお舟にまい【参つ】て
申けるは、「君はみなと河【湊河】のしもにて、かたき【敵】
七騎が中にとりこめられて、うた【討た】れさせ給ひ
候ひぬ。其中にことに手をおろしてうち【討ち】まい
P09163
らせ【参らせ】候ひしは、あふみの国の住人佐々木の木
村の三郎成綱、武蔵の国の住人玉の井の
四郎資景とこそ名のり申候ひつれ。時員も
一所でいかにもなり、最後の御供つかまつるべう
候へども、かねて【予て】よりおほせ候ひしは、「通盛いかに
なるとも、なんぢはいのち【命】をすつ【捨つ】べからず。いかにも
してながらへ【永らへ】て、御ゆくゑ【行方】をもたづね【尋ね】まいらせよ【参らせよ】」
と仰せ候しあひだ、かひなきいのちいき【生き】て、つれ
なうこそこれまでのがれ【逃れ】まい【参つ】て候へ」と申けれども、
P09164
北のかた【方】とかうの返事にもおよび【及び】たまは【給は】ず、
ひき【引き】かづひ【被い】てぞふし【伏し】給ふ。一ぢやう【一定】うた【討た】れぬと
きき【聞き】たまへども、もしひが事【僻事】にてもやあるらん、
いき【生き】てかへら【帰ら】るる事もやと、二三日はあからさまに
出たる人をまつ心ち【心地】しておはしけるが、四五日も
過しかば、もしやのたのみ【頼み】もよはり【弱り】はてて、いとど
心ぼそうぞなられける。ただ一人付たてまつり【奉り】
たりけるめのと【乳母】のねうばう【女房】も、おなじ【同じ】枕にふし【伏し】
しづみにけり。かくときこえ【聞え】し七日のひの暮
P09165
ほどより、十三日の夜までは、おき【起き】もあがり【上がり】たま
は【給は】ず。あくれば十四日、八島へつかんずるよい【宵】うちすぐ
る【過ぐる】までふし給ひたりけるが、ふけ【更け】ゆくままに
舟の中もしづまりければ、北の方めのとの女房
にのたまひ【宣ひ】けるは、「このほどは、三位うた【討た】れぬと
きき【聞き】つれども、まことともおもは【思は】でありつるが、この
くれほどより、さもあるらんとおもひ【思ひ】さだめ【定め】て
あるぞとよ。人ごとにみなと河【湊河】とかやのしも【下】に
てうた【討た】れにしとはいへども、そののちいき【生き】てあひ【逢ひ】
P09166
たりといふものは一人もなし。あすうち【討ち】いで【出で】ん
とての夜、あからさまなるところ【所】にてゆき【行き】
あひ【逢ひ】たりしかば、いつよりも心ぼそげにうちなげ
きて、「明日のいくさ【軍】には、一ぢやう【一定】うた【討た】れなんずと
おぼゆる【覚ゆる】はとよ。我いかにもなりなんのち、人は
いかがし給ふべき」なんどいひ【言ひ】しかども、いくさ【軍】はいつ
もの事なれば、一ぢやう【一定】さるべしとおもは【思は】ざりける
事のくやしさよ。それをかぎりとだにおもは【思は】
ましかば、などのち【後】の世とちぎらざりけんと、思ふ
P09167
さへこそかなしけれ。ただならず成たる事をも、
日ごろはかくし【隠し】ていは【言は】ざりしかども、心づよふ【強う】
おもは【思は】れじとて、いひ【言ひ】いだし【出し】たりしかば、なのめ
ならずうれしげにて、「通盛すでに三十に
なるまで、子といふもののなかりつるに、あはれ【哀】
なんし【男子】にてあれかし。うきよ【浮世】のわすれがたみ【忘れ形見】
にもおもひ【思ひ】をく【置く】ばかり。さていく月ほど【程】に
なるやらん。心ち【心地】はいかがあるやらん。いつとなき
波の上、舟のうちのすまひ【住ひ】なれば、しづかに身々と
P09168
ならん時もいかがはせん」などいひ【言ひ】しは、はかなか
りけるかねごと【予言】かな。まことやらん、おんな【女】はさやう
の時、とを【十】にここのつ【九のつ】はかならず【必ず】しぬる【死ぬる】なれば、
はぢがましきめ【目】を見て、むなしう【空しう】ならんも
心うし。しづかにみみ【身々】となつてのち、おさなき【幼き】もの
をもそだてて、なき【亡き】人のかたみ【形見】にもみ【見】ばやとは
おもへ【思へ】ども、おさなき【幼き】ものをみ【見】んたびごとには、
むかしの人のみこひしく【恋しく】て、おもひ【思ひ】の数はつもる
とも、なぐさむ事はよもあらじ。ついに【遂に】はのがる【逃る】
P09169
まじき道也。もしふしぎ【不思議】にこのよ【世】をしのび【忍び】
すぐす【過す】とも、心にまかせ【任せ】ぬ世のならひ【習ひ】は、おもは【思は】
ぬほかのふしぎ【不思議】もあるぞとよ。それもおもへ【思へ】ば
心うし。まどろめば夢にみえ【見え】、さむれ【覚むれ】ばおもかげ【面影】
にたつ【立つ】ぞかし。いき【生き】てゐて、とにかくに人を
こひし【恋し】とおもは【思は】んより、ただ水の底へいら【入ら】ばやと
おもひ【思ひ】さだめ【定め】てあるぞとよ。そこにひとり
とどまつて、なげか【歎か】んずる事こそ心ぐるし
けれども、わらは【妾】がしやうぞく【装束】のあるをば取て、
P09170
いかならん僧にもとら【取ら】せ、なき人の御ぼだい【菩提】をも
とぶらひ【弔ひ】、わらはが後生をもたすけたまへ。
かきをきたる文をば都へつたへてたべ」など、こま
ごまとのたまへば、めのとのねうばう【女房】涙をはらはら
とながして、「いとけなき子をもふりすて【捨て】、老たる
おや【親】をもとどめ【留め】をき、是までつきまいらせ【参らせ】て
さぶらふ【候ふ】心ざしをば、いかばかりとかおぼしめさ【思し召さ】れさぶらふ【候ふ】ら
む。そのうへ今度一の谷にてうた【討た】れさせたまひし
人々の北の方の御おもひ【思ひ】ども、いづれかおろかにわた
P09171
らせ給ひさぶらふ【候ふ】べき。されば御見ひとつ【一つ】のこと
とおぼしめす【思し召す】べからず。しづかに身々とならせ
給ひてのち、おさなき【幼き】人をもそだて【育て】まいらせ【参らせ】、
いかならん岩木のはざまにても、御さまをかへ、仏の
御名をもとなへて、なき人の御ぼだい【菩提】をもとぶ
らひ【弔ひ】まいら【参ら】させ給へかし。かならず【必ず】ひとつ【一つ】道へとおぼ
しめす【思し召す】とも、生かはら【変ら】せ給ひなんのち、六道四生の
間にて、いづれのみちへかおもむか【赴か】せ給はんずらん。
ゆきあはせ【合はせ】給はん事も不定なれば、御身を
P09172
なげ【投げ】てもよしなき事也。其上都の事なんど
をば、たれみ【見】つぎ【次ぎ】まいらせよ【参らせよ】とてかやうにはおほせ【仰せ】
さぶらふ【候ふ】やらん。うらめしう【恨めしう】もうけたまはる物かな」と
さめざめとかきくどき【口説き】ければ、北の方此事あしう【悪しう】
もきかれぬとやおもは【思は】れけん、「それは心にかはりて
もをしはかりたまふべし。大かたの世のうらめしさ【恨めしさ】
にも、身をなげんなどいふ事はつねのならひ【習ひ】也。
されどもおもひ【思ひ】たつ【立つ】ならば、そこにしらせ【知らせ】ずしては
あるまじきぞ。夜もふけぬ、いざやね【寝】ん」とのたまへ【宣へ】ば、
P09173
めのとの女房、この四五日はゆみづ【湯水】をだにはかばか
しう御らんじ【御覧じ】いれ【入れ】たまは【給は】ぬ人の、かやうに仰らるるは、
まこと【誠】におもひ【思ひ】たちたまへるにこそと悲しくて、
「相かまへて思召たつならば、ちいろ【千尋】の底までもひき【引き】
こそ具せさせ給はめ。おくれ【後れ】まいらせ【参らせ】てのち、かた
時【片時】もながらふ【永らふ】べしともおぼえ【覚え】さぶらはず」なんど申て、
御そば【側】にありながら、ちとまどろみたりけるひまに、
北の方やはらふなばた【舷】へをき【起き】いで【出で】て、漫々たる海上
なれば、いづちを西とはしら【知ら】ね共、月の入さの山のは【端】を、
P09174
そなたの空とやおもは【思は】れけん、しづかに念仏し
たまへば、沖のしら洲【白洲】に鳴千鳥、あまのとわたる
梶の音、折からあはれ【哀】やまさりけん、しのびごゑ【忍び声】に
念仏百返ばかりとなへ[B 「となた」とあり「た」に「へ」と傍書]給ひて、「なむ【南無】西方極楽世界
教主、弥陀如来、本願あやまたず浄土へみちびき
給ひつつ、あかで別しいもせ【夫婦】のなからへ【仲】、必ひとつ【一つ】
はちす【蓮】にむかへ【迎へ】たまへ」と、なくなく【泣く泣く】はるかにかきくどき、
なむ【南無】ととなふるこゑ【声】共に、海にぞしづみたまひける。
一の谷よりやしま【屋島】へをし【押し】わたる【渡る】夜半ばかりの事
P09175
なれば、舟の中しづまつて、人是をしら【知ら】ざりけり。
その中にかんどり【楫取】の一人ねざりけるがみつけ【見付け】奉て、
「あれはいかに、あのお舟より、よにうつくしうまし
ますねうばう【女房】の、ただいま海へいら【入ら】せたまひぬる
ぞや」とよばはり【呼ばはり】ければ、めのと【乳母】のねうばう【女房】打おどろき、
そばをさぐれ【探れ】どもおはせざりければ、「あれよあれ」
とぞあきれける。人あまたおり【下り】て、とりあげ奉
らんとしけれども、さらぬだに春の夜の[B 「春の夜は」とあり「は」に「の」と傍書]ならひ【習ひ】に
かすむ物なるに、四方の村雲うかれき【来】て、かづけ【潛け】
P09176
どもかづけ【潛け】ども、月おぼろにてみえ【見え】ざりけり。やや
あてとりあげたてまつたりけれども、はや此世に
なき人となり給ひぬ。ねりぬき【練貫】のふたつ【二つ】ぎぬ【衣】に
しろき【白き】はかま【袴】を着たまへり。かみ【髪】もはかま【袴】もしほたれて、
とり【取り】あげ【上げ】たれどもかい【甲斐】ぞなき。めのとのねうばう【女房】
手に手をとりくみ、かほ【顔】にかほ【顔】をおし【押し】あてて、「などや
是程におぼしめし【思し召し】たつ【立つ】ならば、ちいろ【千尋】の底までも
ひき【引き】は具せさせたまは【給は】ぬぞ。さるにても今一度、
ものひとこと葉【一言葉】おほせられてきか【聞か】せさせたまへ」と、
P09177
もだへ【悶え】こがれけれども、一言の返事にもおよばず、
わづかにかよひ【通ひ】つるいき【息】もはやたえ【絶え】はてぬ。さる程に、
春の夜の月も雲井にかたぶき、かすめる空も
明ゆけば、名残はつきせずおもへ【思へ】ども、さてしも
あるべき事ならねば、うき【浮き】もやあがり【上り】たまふと故三位
殿のきせなが【着背長】の一両のこり【残り】たりけるにひき【引き】まとひ【纏ひ】
奉り、ついに【遂に】海にぞしづめ【沈め】ける。めのとのねうばう【女房】、
今度はをくれ【後れ】奉らじと、つづひ【続い】ていら【入ら】んとしけ
るを、人々やうやうに取とどめ【留め】ければ、力およば【及ば】ず。
P09178
せめてのせんかたなさにや、手づからかみ【髪】をはさみ【鋏み】
おろし【下し】、故三位殿の御おとと【弟】、中納言律師仲快
にそら【剃ら】せ奉り、なくなく【泣く泣く】戒たもつ【保つ】て、主の後世を
ぞとぶらひ【弔ひ】ける。昔より男にをくるる【後るる】たぐひ
おほし【多し】といへども、さま【様】をかふる【変ふる】はつね【常】のならひ【習ひ】、身を
なぐるまでは有がたきためし【例】也。忠臣は二君に
つかへず、貞女は二夫にまみえ【見え】ずとも、かやうの事
をや申べき。此女房と申は、頭の刑部卿[* 「形部卿」と有るのを他本により訂正]教方【*則方】のむす
め、上西門院のねうばう【女房】、宮中一の美人、名をば
P09179
小宰相殿とぞ申ける。此女房、十六と申し安元
の春のころ、女院、法勝寺へ花見の御幸ありしに、
通盛の卿、其時はいまだ中宮の亮にて供奉せ
られたりけるが、此女房をただ一め【目】みて、あはれ【哀】と
思ひそめけるより、そのおもかげのみ身にひしとたち【立ち】そひて、わするる【忘るる】ひま【暇】もなかりければ、はじめは
歌をよみ、文をつくし【尽くし】たまへ共、玉づさ【章】のかずのみ
つもり【積り】て、とり【取り】いれ【入れ】給ふ事もなし。すでに三
とせ【年】になりしかば、みちもり【通盛】の卿いまをかぎりの
P09180
文をかひ【書い】て、こざいしやうどの【小宰相殿】のもとへつかはす【遣す】。おり
ふし【折節】とり【取り】つたへ【伝へ】たる女房にもあはずして、つかひ【使】
むなしくかへり【帰り】けるみちにて、小宰相殿は折ふし【折節】
我里より御所へぞまいり【参り】たまひける。つかひ【使】むな
しう【空しう】かへり【帰り】まいら【参ら】ん事のほい【本意】なさに、御車のそば
をつとはしり【走り】とをる【通る】やうにて、みちもり【通盛】のきやう【卿】の
文を小宰相殿の車のすだれの中へぞなげ【投げ】いれ【入れ】
ける。とも【供】のもの共にとひ【問ひ】たまへば、「しら【知ら】ず」と申。さて
此文をあけてみ【見】たまへば、通盛の卿の文にてぞ
P09181
有ける。車にをく【置く】べきやうもなし、おほち【大路】に
すて【捨て】んもさすがにて、はかま【袴】の腰にはさみ【鋏み】つつ、
御所へぞまいり【参り】たまひける。さて宮づかへ〔し〕たまふ
ほど【程】に、所しもこそおほけれ【多けれ】、御前に文をおとさ【落さ】
れたり。女院是を御覧じて、いそぎとら【取ら】せおは
しまし、御衣の御たもと【袂】にひき【引き】かくさ【隠さ】せ給ひ
て、「めづらしき物をこそもとめ【求め】たれ。此主は誰なるらん」
とおほせければ、御前の女房たち、よろづの
神仏にかけて「しら【知ら】ず」とのみぞ申あはれける。
P09182
その中に小宰相殿は、かほ【顔】うちあかめ【赤め】て、物も
申されず。女院もみちもり【通盛】の卿の申とはかねて【予て】
よりしろしめさ【知ろし召さ】れたりければ、さて此文をあけて
御覧ずるに、きろ【妓炉】のけぶり【煙】のにほひ【匂】ことになつ
かしく【懐しく】、筆のたてど【立て処】もよのつねならず、「あまりに
人の心づよきもなかなかいまはうれしくて」なんど、
こまごまとかひ【書い】て、おく【奥】には一首の歌ぞ有ける。
我こひ【恋】はほそ谷河【細谷河】のまろ木ばし【丸木橋】
ふみかへさ【返さ】れてぬるる袖かな  W071
P09183
女院、「これはあは【逢は】ぬをうらみ【恨み】たる文や。あまりに
人の心づよきもなかなかあたとなる物を」。中比
小野小町とて、みめかたち世にすぐれ、なさけ
のみち【道】ありがたかりしかば、みる【見る】人きくもの肝たま
しゐ【魂】をいたま【痛ま】しめずといふ事なし。されども
心づよき名をやとり【取り】たりけん、はてには人の思ひ
のつもり【積り】とて、風をふせく【防く】たよりもなく、雨を
もらさ【漏らさ】ぬわざ【業】もなし。やどにくもら【曇ら】ぬ月ほし【星】を、
涙にうかべ【浮べ】、野べのわかな、沢のねぜり【根芹】をつみ【摘み】て
P09184
こそ、つゆの命をばすぐし【過し】けれ。女院、「是はいかにも
返しあるべきぞ」とて、かたじけなく【忝く】も御すずり
めし【召し】よせて、身づから御返事あそばさ【遊ばさ】れけり。
ただたのめ【頼め】ほそ谷河【細谷河】のまろ木橋【丸木橋】
ふみかへしてはおち【落ち】ざらめやは W072
むねのうちのおもひ【思ひ】はふじ【富士】のけぶり【煙】にあらはれ【現はれ】、
袖のうへ【上】の涙はきよみ【清見】が関の波なれや。みめは
さいわい【幸】のはな【花】なれば、三位此女房をたまはて、
たがひに心ざしあさから【浅から】ず。されば西海の旅の空、
P09185
舟の中、波上のすまひ【住ひ】までもひき具して、
ついに【遂に】おなじみちへぞおもむか【赴か】れける。門脇の
中納言は、嫡子越前の三位、末子業盛にもをくれ【遅れ】
たまひぬ。いまたのみ【頼み】たまへる人とては、能登守
教経、僧には中納言の律師仲快ばかりなり。
こ【故】三位どののかたみ共此ねうばう【女房】をこそみ【見】給ひ
つるに、それさへかやうになられければ、いかが心ぼそ
うぞなられける。
平家物語巻第九

平家物語 高野本 巻第十

平家 十(表紙)
P10001
平家十之巻 目録
           イ本 重衡大路渡
首渡          内裏女房
八島院宣        請文
戒文          海道下
千手前         横笛
高野巻         維盛出家
維盛熊野参詣      維盛入水
イ池大納言関東下向
三日平氏付維盛北方出家 藤戸
大嘗会の沙汰
P10003
平家物語巻第十
『首渡』S1001
○寿永三年二月七日、摂津国一の谷にて
うた【討た】れし平氏の頸共、十二日都へいる【入る】。平家に
むすぼほれたる人々は、わが【我が】方ざまにいかなるうき
目をかみ【見】むずらんと、なげきあひかなしみあへ【合へ】
り。中にも大覚寺にかくれ居給へる小松三位
中将維盛卿の北方、ことさらおぼつかなく思
はれける。「今度一の谷にて一門の人々残ずく
なううた【討た】れたまひ【給ひ】、三位中将と云公卿一人、いけ
P10004
どりにせられてのぼる也」ときき給ひ、「この人
はなれ【離れ】じ物を」とて、ひき【引き】かづきてぞふし
たまふ【給ふ】。ある【或】女房の出きて申けるは、「三位中将
殿と申は、是の御事にてはさぶらはず。本三
位中将殿の御こと【御事】也」と申ければ、「さては頸共の
中にこそあるらめ」とて、なを【猶】心やすうもおもひ【思ひ】
給はず。同十三日、大夫判官仲頼、六条河原に
出むか【向つ】て、頸共うけ【受け】とる【取る】。東洞院の大路を北へ
わたして獄門の木にかけらるべきよし、蒲冠者
P10005
範頼・九郎冠者義経奏聞す。法皇、此条いかが
あるべからむとおぼしめし【思し召し】わづらひ【煩ひ】て、太政大臣・
左右の大臣・内大臣・堀河大納言忠親卿に仰あは
せ【合はせ】らる。五人の公卿申されけるは、「昔より卿相の
位にのぼるもの【者】の頸、大路をわたさるる事先
例なし。就中此輩は、先帝の御時、戚里の
臣として久しく朝家につかうまつる。範頼・
義経が申状、あながち御許容あるべからず」と、
おのおの一同に申されければ、わたさ【渡さ】るまじき
P10006
にて有けるを、範頼・義経かさね【重ね】て奏聞し
けるは、「保元の昔をおもへ【思へ】ば、祖父為義があた、
平治のいにしへを案ずれば、父義朝がかたき【敵】也。
君の御憤をやすめ奉り、父祖の恥をきよめん
がために、命を捨て朝敵をほろぼす。今度
平氏の頸共大路をわたされずは、自今以後
なんのいさみあてか凶賊をしりぞけんや」と、
両人頻にうたへ【訴へ】申間、法皇力およば【及ば】せ給はで、
終にわたされけり。みる【見る】人いくらといふ数を
P10007
しらず。帝闕に袖をつらねしいにしへは、おぢおそ
るる【恐るる】輩おほかり【多かり】き。巷に首をわたさるる今は、
あはれみかなしまずといふ事なし。小松の三位
中将維盛卿の若君、六代御前につき奉たる
斎藤五、斎藤六、あまりのおぼつかなさに、さま
をやつして見ければ、頸共は見しりたてま
たれども、三位中将殿の御頸はみえ【見え】たまは【給は】ず。
されどもあまりにかなしくて、つつむにたへ【堪へ】ぬ
涙のみしげかりければ、よその人目もおそろ
P10008
しさ【恐ろしさ】に、いそぎ大覚寺へぞまいり【参り】ける。北方
「さて、いかにやいかに」と問給へば、「小松殿の君達に
は、備中守殿の御頸ばかりこそみえ【見え】させ
給ひ候つれ。其外はそんぢやうその頸、其御頸」
と申ければ、「いづれも人のうへ【上】ともおぼえず」
とて、涙にむせび給ひけり。ややあて、斎藤
五涙をおさへ【抑へ】て申けるは、「此一両年はかくれ
居候て、人にもいたくみしられ候はず。今しばらく
もみ【見】まいらす【参らす】べう候つれども、よにくはしう【詳しう】案内
P10009
しり【知り】まいらせ【参らせ】たる者の申候つるは、「小松殿の君達は、
今度の合戦には、播磨と丹波のさかひ【境】で候
なるみくさ【三草】山をかためさせ給ひて候けるが、
九郎義経にやぶられて、新三位中将殿・小松
少将殿・丹後侍従殿は播磨の高砂より御舟に
めし【召し】て、讃岐の八島へわたらせ給て候也。何と
してはなれ【離れ】させ給て候けるやらん、御兄弟の
御なかには、備中守殿ばかり一谷にてうた【討た】れさせ
給て候」と申ものにこそあひ【逢ひ】て候つれ。「さて
P10010
小松三位中将殿の御事はいかに」ととひ候つれば、
「それはいくさ【軍】以前より大事の御いたはりとて、
八島に御渡候間、此たびはむかは【向は】せ給候はず」と、
こまごまとこそ申候つれ」と申ければ、「それも
われら【我等】がこと【事】をあまりにおもひ【思ひ】なげき給ふが、
病となりたるにこそ。風のふく日は、けふもや船
にのり給らんと肝をけし、いくさ【軍】といふ時は、ただ
今【只今】もやうた【討た】れ給らむと心をつくす。まして
さ様の御いたはりなんどをも、たれか心やすう
P10011
あつかひたてまつる【奉る】べき。くはしうきかばや」との
たまへ【宣へ】ば、若君・姫君、「など、なんの御いたはりとはとは【問は】
ざりけるぞ」とのたまひ【宣ひ】けるこそ哀なれ。三位
中将もかよふ心なれば、「都にいかにおぼつかなく
思ふらん。頸共のなか【中】にはなくとも、水におぼれて
も死に、矢にあたてもうせぬらん。此世にある
もの【物】とはよもおもは【思は】じ。露の命の末ながらへ【永らへ】たる
としらせ【知らせ】奉らばや」とて、侍一人したて【仕立て】て都へ
のぼせ【上せ】られけり。三のふみ【文】をぞかかれける。まづ北方
P10012
への御ふみ【文】には、「都にはかたき【敵】みちみちて、
御身ひとつ【一つ】のをきどころ【置き所】だにあらじに、おさな
き【幼き】もの【者】共引ぐし【具し】て、いかにかなしう【悲しう】おぼすらん。
是へむかへ【向へ】たてま【奉つ】て、ひとところ【一所】でいかにもならば
やとは思へども、我身こそあらめ、御ため心ぐるし
くて」などこまごまと書つづけ、おくに一首の
歌ぞ有ける。
いづくともしらぬあふせ【逢瀬】のもしほ草【藻塩草】
かきをく【置く】あと【跡】をかたみともみよ【見よ】 W073
P10013
おさなき【幼き】人々の御もとへは、「つれづれをばいかにして
かなぐさみ【慰さみ】給ふらむ。いそぎむかへ【向へ】とらんずる
ぞ」と、こと葉もかはらずかひ【書い】てのぼせ【上せ】られけり。
此御文共を給はて、使都へのぼり、北方に
御文まいらせ【参らせ】たりければ、今さら又なげき
かなしみ給ひけり。使四五日候て、いとま申。
北方なくなく御返事かき給ふ。若公【若君】姫君筆
をそめ【染め】て、「さて父御ぜんの御返事は何と
申べきやらん」と問給へば、「ただともかうも、わ御前
P10014
たちのおもは【思は】んやうに申べし」とこその給ひ
けれ。「などや今までむかへ【向へ】させ給はぬぞ。あ
まりにこひしく【恋しく】思ひまいらせ【参らせ】候に、とくとく
むかへ【向へ】させ給へ」と、おなじこと葉にぞかかれたる。
此御文共を給はて、使八島にかへりまいる【参る】。
三位中将、まづおさなき【幼き】人々の御文を御覧
じてこそ、いよいよせん方なげにはみえ【見え】られ
けれ。「抑是より穢土を厭にいさみなし。
閻浮愛執の綱つよければ、浄土をねがふも
P10015
もの【物】うし。唯是より山づたひ【山伝ひ】に都へのぼ【上つ】て、こひしき【恋しき】ものどもを今一度見もし、みえ【見え】ての
後、自害をせんにはしかじ」とぞ、泣々かたり給ひ
『内裏女房』S1002
ける。○同十四日、いけどり【生捕り】本三位中将重衡卿、六条を
東へわたされけり。小八葉の車に先後の
簾をあげ、左右の物見をひらく。土肥次郎
実平、木蘭地の直垂に小具足ばかりして、
随兵卅余騎、車の先後にうちかこ【囲ん】で守護
し奉る。京中の貴賎是をみて、「あないとをし、
P10016
いかなる罪のむくひぞや。いくらもまします
君達のなかに、かくなり給ふ事よ。入道殿に
も二位殿にも、おぼえの御子にてましま
いしかば、御一家の人々もおもき【重き】事に思ひ奉
り給ひしぞかし。院へも内へもまいり【参り】給ひし
時は、老たるも若も、ところ【所】ををきてもて
なし奉り給ひし物を。是は南都をほろぼし
給へる伽藍の罰にこそ」と申あへ【合へ】り。河原まで
わたされて、かへ【帰つ】て、故中〔御〕門藤中納言家成卿の
P10017
八条堀川の御だう【堂】にすゑたてま【奉つ】て、土肥
次郎守護し奉る。院御所より御使に蔵人
左衛門権佐定長、八条堀河へむかは【向は】れけり。赤衣
にて剣笏をぞ帯したりける。三位中将は
紺村滋の直垂に、立烏帽子ひき【引き】たてておはし
ます。日比は何共おもは【思は】れざりし定長を、今は
冥途にて罪人共が冥官にあへ【逢へ】る心地ぞせら
れける。仰下されけるは、「八島へかへりたくは、一門の
中へいひ【言ひ】をく【送つ】て、三種の神器を都へ返し
P10018
入奉れ。しからば八島へかへさ【返さ】るべしとの御気色
で候」と申。三位中将申されけるは、「重衡千人
万人が命にも、三種の神器をかへまいらせ【参らせ】んとは、
内府以下一門の者共、一人もよも申候はじ。
もし女性にて候へば、母儀の二品なんO[BH ど]やさも申
候はんずらむ。さは候へども、居ながら院宣をかへし
まいらせ【参らせ】む事、其恐も候へば、申送てこそ見候
はめ」とぞ申されける。O[BH 三位中将の][M 御]使は平三左衛門重国、O[BH 院宣の御使は、]御
坪の召次花方とぞ聞えし。私の文はゆる
P10019
さ【許さ】れねば、人々のもとへも詞にてことづけ【言付け】給ふ。
北方大納言佐殿へも御詞にて申されけり。「旅の
空にても、人はわれになぐさみ【慰さみ】、我は人になぐ
さみ【慰さみ】奉りしに、引別てのち【後】、いかにかなしう【悲しう】
おぼすらん。「契は朽せぬ物」と申せば、後の世には
かならず【必ず】むまれ【生れ】逢奉らん」と、泣々ことづけ給へば、
重国も涙をおさへ【抑へ】てたちにけり。三位中将
の年ごろめし【召し】つかは【使は】れける侍に、木工右馬允
知時といふ者あり【有り】。八条の女院に候けるが、土肥
P10020
次郎がもとにゆきむか【向つ】て、「是は中将殿に先
年めし【召し】つかは【使は】れ候し某と申者にて候が、西国
へも御供仕べき由存候しか共、八条の女院に
兼参[* 左にの振り仮名]の者にて候間、力およば【及ば】でまかり【罷り】とど
まて候が、けふ大路で見まいらせ【参らせ】候へば、目もあて
られず、いとをしう[B 「いとをしう」に「あまりにいたしうイ」と傍書]おもひ奉り候。しかる【然る】べう候はば、
御ゆるされ【許され】を蒙て、ちかづき【近付き】まいり【参り】候て、今一度
見参にいり、昔語りをも申て、なぐさめまいらせ【参らせ】
ばやと存候。させる弓矢とる身で候はねば、いくさ【軍】
P10021
合戦の御供を仕たる事も候はず、ただ朝ゆふ【朝夕】
祗候せしばかりで候き。さりながら、なを【猶】[B おぼ]つかなう
おぼしめし【思し召し】候はば、腰の刀をめし【召し】をか【置か】れて、まげて
御ゆるされ【許され】を蒙候ばや」と申せば、土肥次郎なさけ
あるおのこ【男】にて、「御一人ばかりは何事か候べき。
さりながらも」とて、腰の刀をこひ【乞ひ】とていれ【入れ】て
げり。右馬允なのめならず悦て、いそぎまい【参つ】
てみ【見】奉れば、誠に思ひいれ【入れ】給へるとおぼしくて、
御姿もいたくしほれ【萎れ】かへ【返つ】て居給へる御有様を
P10022
見奉るに、知時涙もさらにおさへ【抑へ】がたし。三位
中将も是を御覧じて、夢にゆめ【夢】みる【見る】心地
して、とかうの事もの給は【宣は】ず。只なく【泣く】より
外の事ぞなき。やや久しうあて、昔いまの物
語共したまひ【給ひ】て後、「さても汝して物いひ【言ひ】し
人は、未内裏にとやきく」。「さこそ承候へ」。「西国へ下
し時、文をもやらず、いひをく【置く】事だになかりしを、
世々のちぎり【契り】はみな偽にてあり【有り】けりと思ふらん
こそはづかしけれ。文をやらばやと思ふは。尋て行
P10023
てんや」との給へ【宣へ】ば、「御文を給【賜つ】てまいり【参り】候はん」と
申す。中将なのめならず悦て、やがてかい【書い】てぞ
たう【賜う】だりける。守護の武士共「いかなる御文にて候や
らむ。いだしまいらせ【参らせ】じ」と申。中将「みせよ【見せよ】」との給へ【宣へ】ば、
みせ【見せ】てげり。「くるしう【苦しう】候まじ」とてとらせけり。
知時もて内裏へまいり【参り】たりけれ共、ひるは人目
のしげければ、其へんちかき小屋にたち【立ち】入て
日を待暮し、局の下口へんにたたずできけ
ば、此人のこゑ【声】とおぼしくて、「いくらもある人の
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なかに、三位中将しも生取にせられて、大路をわた
さるる事よ。人はみな奈良を焼たる罪のむく
ひといひあへ【合へ】り。中将もさぞいひし。「わが心におこて
はやかねども、悪党おほかり【多かり】しかば、手々に火を
はな【放つ】て、おほく【多く】の堂塔を焼はらふ。末のつゆ【露】
本のしづくとなるなれば、われ一人が罪にこそ
ならんずらめ」といひしか。げにさとおぼゆる【覚ゆる】」とかき
くどき、さめざめとぞなか【泣か】れける。右馬允「是
にも思はれける物を」といとをしう覚へて、「もの【物】
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申さう」どいへば、「いづくより」と問給ふ。「三位中将殿
より御文の候」と申せば、年ごろははぢて見え
たまは【給は】ぬ女房の、せめての思ひのあまりにや、
「いづらやいづら」とてはしり【走り】出て、手づから文をとて
み【見】たまへ【給へ】ば、西国よりとられてありしありさま【有様】、
けふあすともしらぬ身のゆくゑ【行方】などこまごま
と書つづけ、おくには一首の歌ぞ有ける。
涙河うき名をながす身なりとも
いま一たびのあふせ【逢瀬】ともがな W074
P10026
女房これをみ【見】給ひて、とかうの事もの給はず、
文をふところ【懐】に引入て、ただなくより外の
事ぞなき。やや久しうあて、さてもあるべきなら
ねば、御かへり事あり【有り】。心ぐるしういぶせくて、
二とせ【年】ををくり【送り】つる心の中をかきたまひ【給ひ】て、
君ゆへ【故】にわれもうき名をながすとも
そこ【底】のみくづ【水屑】とともに成なむ W075
知時もてまいり【参り】たり。守護の武士共、又「み【見】まひ
らせ【参らせ】候はん」と申せば、みせ【見せ】てげり。「くるしう【苦しう】候まじ」
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とて奉る。三位中将是をみて、いよいよ思ひや
まさり給ひけん、土肥次郎にのたまひ【宣ひ】けるは、
「年来あひぐし【具し】たりし女房に、今一度対〔面〕して、
申たき事のあるはいかがすべき」とのたまへ【宣へ】ば、
実平なさけあるおのこ【男】にて、「誠に女房などの
御事にてわたらせ給候はんは、なじかはくるしう【苦しう】
候べき」とてゆるし奉る。中将なのめならず悦て、
人に車か【借つ】てむかへ【向へ】につかはし【遣し】たりければ、女房とり
もあへず是にの【乗つ】てぞおはしたる。ゑん【縁】に車を
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やりよせて、かくと申せば、中将車よせ【車寄せ】に出むかひ【向ひ】
給ひ、「武士共の見奉るに、おりさせ給べからず」
とて、車の簾をうちかづき、手に手をとり
くみ、かほ【顔】にかほ【顔】をおしあてて、しばしは物もの給
はず、只なくより外の事ぞなき。稍久しう
あて中将の給ひけるは、「西国へくだりし時、
今一度見まいらせ【参らせ】たう候しか共、おほかた【大方】の
世のさはがしさ【騒がしさ】に、申べきたよりもなくてまかり【罷り】
くだり【下り】候ぬ。其後はいかにもして御文をもまい
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らせ【参らせ】、御かへり事をも承はりたう候しか共、心にまかせ【任せ】ぬ
旅のならひ【習ひ】、明暮のいくさ【軍】にひまなくて、むなしく
年月ををくり【送り】候き。今又人しれぬありさま【有様】を
見候は、二たび【二度】あひ奉るべきで候けり」とて、袖を
かほ【顔】にをし【押し】あてて、うつぶしにぞなられける。たがひの
心のうち、おしはかられてあはれ【哀】なり。かくてさ夜も
なかば【半ば】になりければ、「此比は大路の狼籍【*狼藉】に候に、
とうとう【疾う疾う】」とてかへし奉る。車やりいだせば、中将別
の涙をおさへ【抑へ】て、泣々袖をひかへつつ、
P10030
逢ことも露の命ももろともに
こよひばかりやかぎりなるらむ W076
女房泪をおさへ【抑へ】つつ、
かぎりとて立わかるれば露の身の
君よりさきにきえぬべきかな W077
さて女房は内裏へまいり【参り】給ひぬ。其後は守護
の武士共ゆるさ【許さ】ねば、ちからおよば【及ば】ず、時々御文ばかり
ぞかよひける。此女房と申すは、民部卿入道親範
のむすめ也。みめ【眉目】形世にすぐれ、なさけふかき
P10031
人なり。されば中将、南都へわたされてきられ給ぬと
聞えしかば、やがてさまをかへ、こき墨染にやつれ
はて、彼後世菩提をとぶらはれけるこそ哀なれ。
『八島院宣』S1003
○さる程に、平三左衛門重国、御坪の召次、八島に
まい【参つ】て院宣をたてまつる【奉る】。おほいとの以下一門
の月卿雲客よりあひ給ひて、院宣をひらかれけり。
一人聖体、北闕の宮禁を出て、諸州に幸し、
三種の神器、南海・四国にうづもれて数年をふ【経】、
尤も朝家のなげき、亡国の基也。抑彼重衡卿は、
P10032
東大寺焼失の逆臣也。すべからく頼朝朝臣申請る
旨にまかせ【任せ】て、死罪におこなはるべしといへども、
独親族にわかれて、既に生取となる。籠鳥雲を
恋るおもひ【思ひ】、遥に千里の南海にうかび、帰雁友を
失ふ心、定て九重の中途に通ぜんか。しかれば則
三種の神器を返しいれ【入れ】奉らんにおゐては、
彼卿を寛宥せらるべき也。者院宣かくのごとし。
仍執達如件。寿永三年二月十四日大膳大夫成忠が
うけたまはり【承り】進上[B 「進」に「謹」と傍書]平大納言殿へとぞかかれたる。
P10033
『請文』S1004
○大臣殿・平大納言のもとへは院宣の趣を申給ふ。
二位殿へは御文こまごまとかいてまいらせ【参らせ】られたり。
「今一度御覧ぜんとおぼしめし【思し召し】候はば、内侍所の
御事を大臣殿に能々申させおはしませ。さ候は
では、此世にてげざん【見参】に入べしとも覚え候はず」
などぞかかれたる。二位殿はこれを見給ひて、とかうの
事もの給はず、文をふところ【懐】に引いれ【入れ】て、うつ
ぶしにぞなられける。まこと【誠】に心のうち、さこそは
おはしけめとおしはから【推し量ら】れて哀なり。さる程に、平
P10034
大納言時忠卿をはじめとして、平家一門の公卿
殿上人よりあひ給ひて、御請文のおもむき【趣】僉
議せらる。二位殿は中将の文をかほ【顔】におしあてて、
人々のなみ居給へるうしろの障子をひき【引き】あけて、
大臣殿の御まへにたふれ【倒れ】ふし、泣々のたまひ【宣ひ】けるは、
「あの中将が京よりいひおこし【遣こし】たる事のむざん
さよ。げにも心のうちにいかばかりの事を思ひ居たる
らん。只われに思ひゆるして、内侍所を宮こ【都】へかへし
いれ【入れ】奉れ」との給へ【宣へ】ば、大臣殿「誠に宗盛もさこそは
P10035
存候へども、さすが世の聞えもいふかいなう候。且は頼朝
がおもは【思は】ん事もはづかしう候へば、左右なう内侍所
を返し入奉る事はかなひ【叶ひ】候まじ。其うへ、帝王の
世をたもた【保た】せ給ふ御事は、ひとへに内侍所の御故也。
子のかなしひ【悲しい】も様にこそより候へ。且は中将一人に、
余の子共、したしひ【親しい】人々をば、さておぼしめし【思し召し】かへ【替へ】させ
給べきか」と申されければ、二位殿かさねての給ひ【宣ひ】
けるは、「故入道にをくれ【遅れ】て後は、かた時【片時】も命いきて
あるべしともおもは【思は】ざりしか共、主上か様【斯様】にいつと
P10036
なく旅だたせ給たる御事の御心ぐるしさ、
又君をも御代にあらせまいらせ【参らせ】ばやなど思ふ
ゆへ【故】にこそ、今までもながらへ【永らへ】てありつれ。中将一
谷で生取にせられぬと聞し後は、肝たましい【魂】も
身にそはず。いかにして此世にて今一度あひみる【見る】
べきと思へども、夢にだにみえ【見え】ねば、いとどむねせきて、
湯水ものどへ入られず。今此文をみて後は、弥思ひ
やりたる方もなし。中将世になき物ときかば、われも
同みちにおもむか【赴か】んと思ふ也。二たび【二度】物をおもは【思は】ぬ
P10037
さきに、ただわれをうしなひ【失ひ】給へ」とて、おめき【喚き】さけ
び【叫び】給へば、まこと【誠】にさこそは思ひ給ふらめと哀に
覚えて、人々涙をながしつつ、みなふしめ【伏目】にぞなられ
ける。新中納言知盛の意見に申されけるは、
「三種の神器を都へ返し入たてま【奉つ】たりとも、
重衡をかへし給らむ事有がたし。只はばかりなく
その様を御請文に申さるべうや候らむ」と申され
ければ、大臣殿「此儀尤しかる【然る】べし」とて、御請文申
されけり。二位殿は泣々中将の御かへり事かき
P10038
たまひ【給ひ】けるが、涙にくれて筆のたてど【立て処】も
おぼえね共、心ざしをしるべにて、御文こまごまと書
て、重国にたび【賜び】にけり。北方大納言佐殿は、只なく
より外の事なくて、つやつや御かへり事もし給はず。
誠に御心のうちさこそは思ひ給ふらめと、おし
はから【推し量ら】れて哀也。重国も狩衣の袖をしぼりつつ、
泣々御まへをまかり【罷り】たつ。平大納言時忠は、御坪の召
次花方をめし【召し】て、「なんぢは花方歟」。「さん候」。「法皇
の御使におほく【多く】の浪路をしのいで是までまい
P10039
り【参り】たるに、一期が間の思出ひとつ【一つ】あるべし」とて、花方が
つら【頬】に「浪方」といふやいじるし【焼印】をぞせられける。
都へのぼりたりければ、法皇是を御覧じて、
「よしよしちからおよば【及ば】ず。浪方ともめせ【召せ】かし」とて、
わらは【笑は】せおはします[* 「ず」と有るのを他本により訂正]。今月十四日の院宣、同廿八日讃
岐国八島の磯に到来。謹以承る所如件。
但これについ【付い】てかれを案ずるに、通盛卿已下当家
数輩、摂州一谷にして既に誅せられおはぬ。何ぞ
重衡一人の寛宥を悦べきや。夫我君は、故高倉
P10040
院の御譲をうけさせ給ひて、御在位既に
四ケ年、政尭舜の古風をとぶらふところ【所】に、東
夷北狄党をむすび、群をなして入洛の間、
且は幼帝母后の御歎尤もふかく、且は外戚近臣
のいきどをり【憤り】あさから【浅から】ざるによて、しばらく九国に
幸す。還幸なからんにおいては、三種の神器いかでか
玉体をはなち【放ち】奉るべきや。それ臣は君を以て心と
し、君は臣をもて体とす。君やすければすなはち
臣やすく、臣やすければすなはち国やすし。君かみに
P10041
うれふれば臣しもにたのしまず。心中に愁あれば
体外に悦なし。曩祖平将軍貞盛、相馬小次郎
将門を追討せしよりこのかた、東八ケ国をしづめて
子々孫々につたへ、朝敵の謀臣を誅罰して、代々
世々にいたるまで朝家の聖運をまもり【守り】奉る。然則
亡父故太政大臣、保元・平治両度の合戦の時、勅命
をおもう【重う】して、私の命をかろう【軽う】ず。ひとへに君の
為にして、身のためにせず。就中彼頼朝は、去平
治元年十二月、父左馬頭義朝が謀反によて、頻に
P10042
誅罰せらるべきよし仰下さるといへども、故入道相国
慈悲のあまり申なだめ【宥め】られしところ【所】也。しかる【然る】に昔の
洪恩を忘れ、芳意を存ぜず、忽に狼羸の身
をもて猥蜂起の乱をなす。時儀[* 下欄に「至愚」と注記]の甚しき
事申てあまりあり【有り】。早く神幣の天罰をまね
き、ひそかに拝跡[* 下欄に「敗積」と注記]の損滅[* 「損奥」と有るのを下欄の「滅」の注記により訂正]を期する者歟。夫日月は一
物の為にそのあきらかなることをくらうせず。明王は
一人が為にその法をまげず。一悪をもて其善を
捨ず、小瑕をもて其功をおおふ【覆ふ】事なかれ。且は
P10043
当家数代の奉公、且は亡父数度の忠節、思食
忘れずは君忝く四国の御幸あるべきか。時に臣等院
宣をうけ給はり、二たび【二度】旧都にかへ【帰つ】て会稽の恥を
すすがむ。若しから【然ら】ずは、鬼界・高麗・天竺・震旦にいたる
べし。悲哉、人王八十一代の御宇にあたて、我朝神代
の霊宝、ついに【遂に】むなしく異国のたからとなさんか。
よろしくこれらの趣をもて、しかる【然る】べきやう【様】に洩奏
聞せしめ給へ。宗盛誠恐頓首謹言。寿永三年
二月廿八日従一位平朝臣宗盛が請文とこそかかれたれ。
P10044
『戒文』S1005
○三位中将是をきい【聞い】て、「さこそはあらむずれ。いかに
一門の人々わるく思ひけん」と後悔すれ共かひぞ
なき。げにも重衡卿一人をおしみ【惜しみ】て、さしもの
我朝の重宝三種の神器を返しいれ【入れ】奉るべし共
おぼえねば、此御請文のおもむき【趣】は、かねてより思ひ
まうけ【設け】られたりしかども、未左右を申されざりつる
程は、なにとなういぶせくおもは【思は】れけるに、請文す
でに到来して、関東へ下向せらるべきにさだまり【定まり】
しかば、なむ【何】のたのみ【頼み】もよはり【弱り】はてて、よろづ心ぼそう、
P10045
都の名残も今更おしう【惜しう】思はれける。三位中将、
土肥次郎をめし【召し】て、「出家をせばやと思ふはいかが
あるべき」とのたまへ【宣へ】ば、実平此由を九郎御曹司に
申す。院御所へ奏聞せられたりければ、「頼朝に
みせ【見せ】て後こそ、ともかうもはからはめ。只今はいかで【争】か
ゆるすべき」と仰ければ、此よしを申す。「さらば年
ごろ契たりし聖に、今一度対面して、後生の
こと【事】を申談ぜばやと思ふはいかがすべき」との給へ【宣へ】ば、
「聖をば誰と申候やらん」。「黒谷の法然房と申人也」。
P10046
「さてはくるしう【苦しう】候まじ」とて、ゆるし奉る。中将なの
めならず悦て、聖を請じたてま【奉つ】て、泣々申され
けるは、「今度いきながらとらはれて候けるは、二たび【二度】
上人の見参に罷いる【入る】べきで候けり。さても重衡が
後生、いかがし候べき。身の身にて候し程は、出仕に
まぎれ、政務にほだされ、■慢【*驕慢】の心のみふかくして、
かへて当来の昇沈をかへりみず。況や運つき、
世乱てより以来は、ここにたたかひ【戦ひ】、かしこにあらそひ、
人をほろぼし、身をたすからんと思ふ悪心のみ
P10047
遮て、善心はかつて発らず。就中に南都炎上
の事、王命といひ、武命といひ、君につかへ、世にした
がう【従ふ】はう【法】遁がたくして、衆徒の悪行をしづめんが
為にまかり【罷り】むか【向つ】て候し程に、不慮に伽藍の滅亡に
及候し事、力及ばぬ次第にて候へども、時の大将軍
にて候し上は、せめ一人に帰すとかや申候なれば、
重衡一人が罪業にこそなり候ぬらめと覚え候。
且はか様【斯様】に人しれずかれこれ【彼此】恥をさらし候も、しかし
ながら其むくひとのみこそ思ひしられて候へ。今は
P10048
かしら【頭】O[BH を]そり、戒をたもち【保ち】なんどして、偏に仏道修行
したう候へども、かかる身にまかり【罷り】なて候へば、心に心をも
まかせ【任せ】候はず、けふ明日ともしらぬ身のゆくゑ【行方】にて
候へば、いかなる行を修して、一業たすかるべしとも
覚えぬこそ口をしう【口惜しう】候へ。倩一生の化行を思ふに、
罪業は須弥よりも高く、善業[* 下欄に「根」と注記]は微塵ばかりも
蓄へなし。かくてむなしく命おはりなば、火穴湯【火血刀】の
苦果、あへて疑なし。願くは、上人慈悲をおこし【起こし】
あはれみをたれ【垂れ】て、かかる悪人のたすかりぬべき方法O[BH 候はば]、しめし【示し】給へ」。
P10049
其時上人涙に咽て、しばしは物もの給は【宣は】ず。良久しう
あて、「誠に受難き人身をうけ【受け】ながら、むなしう【空しう】三途
にかへり給はん事、かなしんでもなを【猶】あまりあり【有り】。
しかる【然る】を今穢土をいとひ、浄土をねがは【願は】んに、悪心
を捨て善心発しO[BH まし]まさん事、三世の諸仏も
定て随喜したまふ【給ふ】べし。それについて、出離の道
まちまちなりといへども、末法濁乱の機には、称名
をもて勝れたりとす。心ざしを九品にわかち、行
を六字につづめて、いかなる愚智闇鈍の者も唱ふ
P10050
るに便あり【有り】。罪ふかければとて、卑下したまふ【給ふ】べからず、
十悪五逆廻心すれば往生をとぐ。功徳すくなければ
とて望をたつ【絶つ】べからず、一念十念の心を致せば
来迎す。「専称名号至西方」と釈して、専名号を
称ずれば、西方にいたる。「念々称名常懺悔」とのべて、
念々に弥陀を唱ふれば、懺悔する也とをしへ【教へ】たり。
「利剣即是弥陀号」をたのめ【頼め】ば、魔閻ちかづか【近付か】ず。
「一声称念罪皆除」と念ずれば、罪みなのぞけりと
みえ【見え】たり。浄土宗の至極、をのをの【各々】略を存じて、大略是を
P10051
肝心とす。但往生の得否は信心の有無によるべし。
ただふかく信じてゆめゆめ疑をなし給ふべからず。
若此をしへ【教へ】をふかく信じて、行住座臥時処諸
縁をきらはず、三業四威儀において、心念口称を
わすれ給はずは、畢命を期として、此苦域の界
を出て、彼不退の土に往生し給はん事、何の
疑かあらむや」と教化し給ひければ、中将なのめ
ならず悦て、「此ついでに戒をたもた【保た】ばやと存候
は、出家仕候はではかなひ【叶ひ】候まじや」と申されければ、
P10052
「出家せぬ人も、戒をたもつ【保つ】事は世のつねの
ならひ【習ひ】なり」とて、額にかうぞり【髪剃】をあてて、そる
まねをして、十戒をさづけられければ、中将随喜
の涙をながい【流い】て、是をうけたもち【保ち】給ふ。上人
もよろづ物あはれ【哀】に覚えて、かきくらす【暮す】心地し
て、泣々戒をぞとか【説か】れける。御布施とおぼしくて、
年ごろつねにおはしてあそば【遊ば】れける侍のもとに
あづけをか【置か】れたりける御硯を、知時して
めし【召し】よせて、上人にたてまつり【奉り】、「是をば人にたび【賜び】
P10053
候はで、つねに御目のかかり候はんところ【所】にをか【置か】れ
候て、某が物ぞかしと御覧ぜられ候はんたびごとに、お
ぼしめし【思し召し】なずらへて、御念仏候べし。御ひまには、経をも
一巻御廻向候はば、しかる【然る】べう候べし」など、泣々申
されければ、上人とかうの返事にも及ばず、是を
とて懐にいれ【入れ】、墨染の袖をしぼりつつ、泣々
帰りたまひ【給ひ】けり。此硯は、親父入道相国砂金を
おほく【多く】宋朝の御門へ奉り給ひたりければ、
返報とおぼしくて、日本和田の平大相国のもとへ
P10054
とて、をくら【送ら】れたりけるとかや。名をば松蔭とぞ
『海道下』S1006
申ける。○さる程に、本三位中将をば、鎌倉の前兵衛
佐頼朝、頻に申されければ、「さらば下さるべし」とて、
土肥次郎実平が手より、まづ九郎御曹司の
宿所へわたし奉る。同三月十日、梶原平三景時に
具せられて、鎌倉へこそ下られけれ。西国より生取
にせられて、都へかへるだに口惜に、いつしか又関の
東へおもむか【赴か】れけん心のうち、をしはから【推し量ら】れて哀
也。四宮河原になりぬれば、ここはむかし、延喜第四の
P10055
王子蝉丸の関の嵐に心をすまし【澄まし】、琵琶をひき
給ひしに、伯雅【*博雅】の三位と云し人、風の吹日もふかぬ
日も、雨のふる夜もふらぬよ【夜】も、三とせ【年】が間、あゆみ【歩み】を
はこび、たち【立ち】聞て、彼三曲を伝へけむわら屋【藁屋】の
床のいにしへも、思ひやられて哀也。相坂山【逢坂山】を打
こえて、勢田の唐橋駒もとどろにふみならし【鳴らし】、
雲雀あがれ【上がれ】る野路の里、志賀のうら浪【浦浪】はる【春】
かけて、霞にくもる鏡山、比良の高根を北に
して、伊吹の嵩もちかづき【近付き】ぬ。心をとむ【留む】としなけれ共、
P10056
あれて中々やさしきは、不破の関屋の板
びさし、いかに鳴海の塩干潟【潮干潟】、涙に袖はしほれ【萎れ】つつ、
彼在原のなにがしの、から衣【唐衣】きつつなれにしと
ながめけん、三河の国八橋にもなりぬれば、蛛手
に物をと哀也。浜名の橋をわたりたまへ【給へ】ば、松の
梢に風さえ【冴え】て、入江にさはぐ【騒ぐ】浪の音、さらでも
たび【旅】は物うきに、心をつくすゆふまぐれ【夕間暮れ】、池田の宿
にもつきたまひ【給ひ】ぬ。彼宿の長者ゆや【熊野】がむすめ、侍従が
もとに其夜は宿せられけり。侍従、三位中将を見
P10057
たてま【奉つ】て、「昔はつてにだに思ひよらざりしに、
けふはかかるところ【所】にいら【入ら】せたまふ【給ふ】ふしぎ【不思議】さよ」とて、
一首のうた【歌】をたてまつる【奉る】。
旅の空はにふ【埴生】のこやのいぶせさに
ふる郷【故郷】いかにこひしかるらむ W078
三位中将返事には、
故郷もこひしく【恋しく】もなしたびのそら【空】
みやこ【都】もついのすみか【栖】ならねば W079
中将「やさしうもつかまたるものかな。此歌のぬしは、
P10058
いかなる者やらん」と御尋あり【有り】ければ、景時畏て
申けるは、「君は未しろしめさ【知ろし召さ】れ候はずや。あれこそ
八島の大臣殿の、当国のかみでわたらせ給候し時、
めされまいらせ【参らせ】て、御最愛にて候しが、老母を
是に留めをき、頻にいとまを申せども、給はらざり
ければ、ころ【比】はやよひ【弥生】のはじめなりけるに、
いかにせむみやこ【都】の春もおしけれ【惜しけれ】ど
なれしあづま【東】の花やちるらむ W080
と仕て、いとまを給てくだり【下り】て候し、海道一の
P10059
名人にて候へ」とぞ申ける。都を出て日数ふれば、
弥生もなかば【半ば】すぎ、春もすでに暮なんとす。
遠山の花は残の雪かとみえ【見え】て、浦々島々かすみ
わたり、こし方行末の事共おもひつづけ給ふに、
「されば是はいかなる宿業のうたてさぞ」との給て、
ただつきせ【尽きせ】ぬ物は涙なり。御子の一人もおはせぬ
事を、母の二位殿もなげき、北方大納言佐殿
も本い【本意】なきことにして、よろづの神仏に
祈申されけれ共、そのしるしなし。「かしこうぞなかり
P10060
ける。子だにあらましかば、いかに心ぐるしからむ」との給
ひけるこそせめての事なれ。さや【小夜】の中山にかかり
給ふにも、又こゆべしともおぼえねば、いとど哀の
かずそひて、たもとぞいたくぬれまさる。宇都の
山辺の蔦の道、心ぼそくも打越て、手ごし【手越】を
すぎてゆけば、北に遠ざかて、雪しろき【白き】山あり【有り】。
とへば甲斐のしらね【白根】といふ。其時三位中将おつる
涙をおさへ【抑へ】て、かうぞおもひ【思ひ】つづけたまふ【給ふ】。
おしから【惜しから】ぬ命なれどもけふまでぞ
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つれなき[B 「つねなき」とあり「ね」に「れ」と傍書]かひのしらね【白根】をもみつ W081
清見が関うちすぎて、富士のすそ野になり
ぬれば、北には青山峨々として、松ふく【吹く】風索々
たり。南には蒼海漫々として、岸うつ浪も
茫々たり。「恋せばやせ【痩せ】ぬべし、こひせ【恋せ】ずもあり【有り】けり」と、
明神のうたひ【歌ひ】はじめたまひ【給ひ】ける足柄の山をも
うちこえて、こゆるぎ【小余綾】の森、まりこ河【鞠子河】、小磯、大磯
の浦々、やつまと【八的】、とがみが原【砥上が原】、御輿が崎をも
うちすぎて、いそがぬたび【旅】と思へども、日数やうやう
P10062
『千手前』S1007
かさなれば、鎌倉へこそ入給へ。○兵衛佐いそぎ見参
して、申されけるは、「抑君の御いきどをり【憤り】をやすめ
奉り、父の恥をきよめんと思ひたちしうへ【上】は、
平家をほろぼさんの案の内に候へども、まさしく
げざむ【見参】にいるべしとは存ぜず候き。このぢやう【定】では、
八島の大臣殿のげざむ【見参】にも入ぬと覚え候。抑南都
をほろぼさせたまひ【給ひ】ける事は、故太政入道殿[B 「太政入道殿」に「入道相国」と傍書]の
仰にて候しか、又時にとての御ぱからひにて
候けるか。以外の罪業にてこそ候なれ」と申されければ、
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三位中将のたまひ【宣ひ】けるは、「まづ南都炎上の事、
故入道の成敗にもあらず、重衡が愚意の発起
にもあらず。衆徒の悪行をしづめむがため【為】にまかり【罷り】
むか【向つ】て候し程に、不慮に伽藍滅亡に及候し事、
力及ばぬ次第也。昔は源平左右にあらそひて、
朝家の御かためたりしかども、近比は、源氏の運かた
ぶきたりし事は、事あたらしう初て申べきに
あらず。当家は保元・平治より以来、度々の朝
敵をたいらげ【平げ】、勧賞身にあまり、かたじけなく
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一天の君の御外戚として、一族の昇進六十余人、
廿余年の以来は、たのしみさかへ【栄え】申はかりなし。今又
運つきぬれば、重衡とらはれて是まで下候ぬ。
それにつひ【付い】て、帝王の御かたき【敵】をうたるものは、
七代まで朝恩うせ【失せ】[B 「うせ」に「ツキ」と傍書]ずと申事は、きはめたるひが
事にて候けり。まのあたり故入道は、君の御ために
すでに命をうしなは【失は】んとすること【事】度々に及ぶ。され共
纔に其身一代のさいはい【幸】にて、子孫かやうにまかり【罷り】
なるべしや。されば、運つきて都を出し後は、かばねを
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山野にさらし、名を西海の浪にながすべしとこそ
存ぜしか。これまでくだるべしとは、かけても思はざりき。
唯先世の宿業こそ口惜候へ。但「陰道[* 下欄に「殷湯」]と注記」はかたい【夏台】
にとらはれ、文王はゆうい[B 「い」に「り」と傍書]【*■里】にとらはる」と云文あり。
上古なを【猶】かくのごとし。況末代にをひてをや。
弓矢をとるならひ【習ひ】、敵の手にかかて命を失ふ事、
またく恥にて恥ならず、只芳恩には、とくとく
かうべをはねらるべし」とて、其後は物もの給はず。
景時これをうけたまは【承つ】て、「あぱれ大将軍や」とて、
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涙をながす。其座になみ居たる人々みな袖をぞ
ぬらしける。兵衛佐も、「平家を別して私のかた
き【敵】と思ひ奉る事、ゆめゆめ候はず。ただ帝王の
仰こそおもう【重う】候へ」とぞのたまひ【宣ひ】ける。「南都をほろ
ぼO[BH され]たる伽藍のかたき【敵】なれば、大衆定て申旨あらん
ずらん」とて、伊豆国住人、狩野介宗茂にあづけらる。
其体、冥途にて娑婆世界の罪人を、なぬか【七日】なぬか【七日】に
十王の手にわたさるらんも、かくやとおぼえて哀也。
されども狩野介、なさけある者にて、いたくきび
P10067
しうもあたり奉らず。やうやう【様々】にいたはり、湯殿しつ
らひなどして、御ゆ【湯】ひか【引か】せ奉る。道すがらのあせ【汗】
いぶせかりつれば、身をきよめてうしなは【失は】んずるに
こそと思はれけるに、よはひ廿ばかりなる女房の、
色しろう【白う】きよげ【清気】にて、まこと【誠】にゆう【優】にうつくし
きが、目結の帷にそめつけ【染付】のゆまき【湯巻】して、湯殿
の戸をおし【押し】あけてまいり【参り】たり。又しばしあて、
十四五ばかりなるめのわらは【女童】の、こむらご【紺村濃】のかたびらき
て、かみ【髪】はあこめだけ【袙丈】なるが、はむざうたらひ【半挿盥】に
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櫛いれ【入れ】て、もてまいり【参り】たり。此女房かいしやく【介錯】
して、あがり【上がり】たまひ【給ひ】ぬ。さてかの女房いとま申て
かへりけるが、「おとこ【男】などはこちなう【骨無う】もぞおぼし
めす【思し召す】。中々おんな【女】はくるしから【苦しから】じとて、まいらせ【参らせ】
られてさぶらふ【候ふ】。「何事でもおぼしめさ【思し召さ】ん御事
をばうけ給は【承つ】て申せ」とこそ兵衛佐殿は
仰られ候つれ」。中将「今は是程の身になて、
何事をか申候べき。ただ思ふ事とては出家ぞ
したき」とのたまひ【宣ひ】ければ、帰りまい【参つ】て此よしを
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申す。兵衛佐「それ思ひもよらず。頼朝が私の
かたき【敵】ならばこそ。朝敵としてあづかり【預り】たて
ま【奉つ】たる人なり。努々あるべうもなし」とぞの給ひ
ける。三位中将守護の武士にの給ひけるは、
「さても唯今の女房は、ゆう【優】なりつる物かな。
名をば何といふやらん」と問れければ、「あれは手ごし【手越】
の長者がむすめで候を、みめ【眉目】形心ざま、ゆう【優】に
わりなき者で候とて、此二三年めし【召し】つかは【使は】れ
候が、名をば千手の前と申候」とぞ申ける。その夕、
P10070
雨すこし【少し】ふて、よろづもの【物】さびしかりけるに、件の
女房、琵琶・琴もたせてまいり【参り】たり。狩野介
酒をすすめ奉る。我身も家子郎等十余人
引具してまいり【参り】、御まへちかう候けり。千手の前
酌をとる。三位中将すこし【少し】うけて、いと興なげ
にておはしけるを、狩野介申けるは、「かつきこし
めさ【聞し召さ】れてもや候らん。鎌倉殿の「相構てよくよく
なぐさめまいらせよ【参らせよ】。懈怠にて頼朝うらむ【恨む】な」と
仰られ候。宗茂はもと伊豆国の者にて候
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間、鎌倉では旅にて候へども、心の及候はんほどは、
奉公仕候べし。何事でも申てすすめまいら【参ら】
させ給へ」と申ければ、千手O[BH 前]、酌をさしをい【置い】て、
「羅綺の重衣たる、情ない事を奇婦に
妬」といふ朗詠を一両返したりければ、三位
中将のたまひ【宣ひ】けるは、「此朗詠をせん人をば、北野の
天神一日に三度かけてまぼらんとちかはせ
給ふ也。されども[* 「されば」と有るのを他本により訂正]重衡は、此[B 今]生にてはすてられ
給ぬ。助音しても何かせん。罪障かろみぬべき
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事ならばしたがふべし」との給ひければ、千手前
やがて、「十悪といへども引摂す」と云朗詠をし
て、「極楽ねがは【願は】ん人はみな、弥陀の名号唱べし」
といふ今様を四五返うたひ【歌ひ】すまし【澄まし】たりければ、
其時さかづき【坏】をかたぶけ【傾け】らる。千手前給はて狩
野介にさす。宗茂がのむ時、琴をぞひきすま
し【澄まし】たりける。三位中将のたまひ【宣ひ】けるは、「此楽をば
普通には五常楽といへども、重衡が為には
後生楽とこそ観ずべけれ。やがて往生の急を
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ひか【弾か】ん」とたはぶれ【戯れ】て、琵琶をとり、てんじゆ【転手】をねぢ
て、皇■急をぞひかれける。夜やうやうふけて、
よろづ心のすむ【澄む】ままに、「あら、おもは【思は】ずや、あづまにも
これ程ゆう【優】なる人のあり【有り】けるよ。何事にても
今一こゑ【声】」とのたまひ【宣ひ】ければ、千手前又「一樹の陰
にやどりあひ、おなじながれをむすぶも、みな是
先世のちぎり【契り】」と云白拍子を、まこと【誠】におもしろく
かぞへすまし【澄まし】たりければ、中将も「灯闇しては、
数行虞氏之涙」といふ郎詠をぞせられける。
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たとへば此郎詠の心は、昔もろこしに、漢高祖と
楚項羽と位をあらそひて、合戦する事七
十二度、たたかい【戦ひ】ごとに項羽かちにけり。されども
ついに【遂に】は項羽たたかい【戦ひ】まけてほろびける時、騅と
いふ馬の、一日に千里をとぶに乗て、虞氏と云
后と共に逃さらんとしけるに、馬いかが思ひけん、
足をととのへてはたらか【働か】ず。項羽涙をながひ【流い】て、
「わが威勢すでにすたれたり。今はのがる【逃る】べき方なし。
敵のおそふは事の数ならず、此后に別なん事の
P10075
悲しさよ」とて、夜もすがらなげきかなしみ給ひ
けり。灯闇うなりければ、心ぼそうて虞氏涙
をながす。夜ふくるままに軍兵四面に時を作る。
此心を橘相公の賦につくれるを、三位中将思ひ
出られたりしにや、いとやさしうぞ聞えける。
さる程に夜も明ければ、武士どもいとま申て
まかり【罷り】いづ。千手前も帰りにけり。其朝兵衛佐、
折ふし【折節】持仏堂に法花経よう【読う】でおはしける
ところ【所】へ、千手前まいり【参り】たり。佐殿うちゑみ給ひて、
P10076
千手に「O[BH 夜部は]中人は面白うしたる物を」とのたまへ【宣へ】ば、
斎院[B ノ]次官親義、おりふし【折節】御前に物かいて候
けるが、「何事で候けるやらん」と申。「あの平家の
人々は、甲胃・弓箭の外は他事なしとこそ日来は
思ひたれば、この三位中将の琵琶の撥音、口ず
さみ【口遊み】、夜もすがらたちきい【聞い】て候に、ゆう【優】に
わりなき人にておはしけり」。親義申けるは、
「たれも夜部承るべう候しが、折ふし【折節】いたはる事
候て、うけたまはら【承ら】ず候。此後は常にたち聞候べし。
P10077
平家はもとより代々の歌人才人達で候也。
先年この【此の】人々を花にたとへ候しに、此三位中将
をば牡丹の花にたとへて候しぞかし」と申され
ければ、「誠にゆう【優】なる人にてあり【有り】けり」とて、琵琶
の撥音、朗詠のやう、後までも、有難き事
にぞの給ひける。千手前は中々にものおもひ【物思ひ】
のたねとや成にけん。されば中将南都へわた
されて、きられ給ひぬと聞えしかば、やがてさまを
かへ、こき墨染にやつれはて、信濃国善光寺に
P10078
おこなひすまし【澄まし】て、彼後世菩提をとぶらひ【弔ひ】、
わが身もつゐに【遂に】、往生の素懐をとげけるとぞ
『横笛』S1008
きこえ【聞え】し。○さる程に、小松の三位中将維盛卿は、
身がらは八島にありながら、心は都へかよはれ
けり。故郷に留めをき【置き】給ひし北方おさなき【幼き】人々
の面影のみ、身にたち【立ち】そひて、わするる【忘るる】ひまも
なかりければ、「あるにかひなきわが【我が】身かな」とて、元
暦元年[B 寿永三年]三月十五日の暁、しのび【忍び】つつ八島の
たち【館】をまぎれ出て、与三兵衛重景・石童丸
P10079
と云童、船に心得たればとて武里と申とねり【舎人】、
是等三人をめし【召し】具して、阿波[B ノ]国結城の浦より
小船にのり、鳴戸浦[B 「浦」に「沖」と傍書]を漕とをり【通り】、紀伊路へおもむ
き【赴き】給ひけり。和歌・吹上・衣通姫の神とあらはれ【現はれ】
給へる玉津島の明神、日前・国懸の御前を
すぎて、紀伊の湊にこそつき給へ。「是より山
づたひ【山伝ひ】に都へのぼ【上つ】て、恋しき人々を今一度
み【見】もしみえ【見え】ばやとは思へども、本三位中将の生取
にせられて、大路をわたされ、京・鎌倉、恥をさら
P10080
すだに口惜きに、此身さへとらはれて、父のかばねに
血をあやさん事も心うし」とて、千たび心は
すすめ共、心に心をからかひて、高野の御山にまいら【参ら】
れけり。高野に年ごろ【年来】しり【知り】たまへ【給へ】る聖あり【有り】。三条
の斎藤左衛門大夫茂頼が子に、斎藤滝口時頼と
いひし者也。もとは小松殿の侍也。十三の年本所へ
まいり【参り】たりけるが、建礼門院の雑仕横笛といふ
おんな【女】あり、滝口是を最愛す。父是をつたへ
きひ【聞い】て、「世にあらんもののむこO[BH 子]【聟子】に成して、出仕なんどをも
P10081
心やすうせさせんとすれば、世になき者を思ひそめ
て」と、あながちにいさめければ、滝口申けるは、
「西王母ときこえ【聞え】し人、昔はあて今はなし。
東方朔といし者も、名をのみききて目には
みず。老少不定の世の中は、石火の光にこと
ならず。たとひ人長命といへども、七十八十をば
過ず。そのうちに身のさかむ【盛】なる事はわづかに
廿余年也。夢まぼろしの世の中に、みにくき
者をかた時【片時】もみて何かせん。おもは【思は】しき者を
P10082
みむとすれば、父の命をそむくに似たり。是善知識
也。しかじ、うき世をいとひ、まこと【誠】の道に入なん」
とて、十九のとし【年】もとどり【髻】きて、嵯峨の往生
院におこなひすまし【澄まし】てぞゐたりける。横笛
これをつたへきい【聞い】て、「われをこそすて【捨て】め、さまを
さへかへけむ事のうらめしさ【恨めしさ】よ。たとひ世をば
そむくとも、などかかくとしらせ【知らせ】ざらむ。人こそこころ【心】
づよくとも、たづね【尋ね】て恨みむ」と思ひつつ、ある暮がた【暮方】に
都を出て、嵯峨の方へぞあくがれゆく。ころは
P10083
きさらぎ【二月】十日あまりの事なれば、梅津の里の
春風に、よその匂ひもなつかしく【懐しく】、大井河の
月影も、霞にこめておぼろ也。一方ならぬ
哀さも、たれゆへ【故】とこそ思ひけめ。往生院とは
聞たれども、さだかにいづれの坊ともしら【知ら】ざれば、
ここにやすらひかしこにたたずみ、たづね【尋ね】かぬる
ぞむざん【無慙】なる。住あらしたる僧坊に、念誦の声
しけり。滝口入道が声と聞なして、「わらはこそ
是までたづね【尋ね】まいり【参り】たれ。さまのかはりておは
P10084
すらんをも、今一度み【見】奉らばや」と、具したりける
女をもていはせければ、滝口入道むね【胸】うちさはぎ【騒ぎ】、
障子のひまよりのぞひ【覗ひ】てみれ【見れ】ば、まこと【誠】に
尋かねたるけしきいたはしうおぼえて、いかな
る道心者も心よはく【弱く】なりぬべし。やがて人を
出して、「またく是にさる人なし。門たがへ【違へ】でぞ
あるらむ」とて、ついに【遂に】あはでぞかへし【返し】ける。横笛
なさけなううらめしけれ【恨めしけれ】ども、力なう涙をおさ
へて帰りけり。滝口入道、同宿の僧にあふ【逢う】て
P10085
申けるは、「是もよにしづかにて、念仏の障
碍は候はねども、あかで別し女に此すまゐ【住ひ】を
みえ【見え】て候へば、たとひ一度は心づよく共、又もしたふ
事あらば、心もはたらき【働き】候ぬべし。いとま申て」とて、
嵯峨をば出て、高野へのぼり、清浄心院にぞ
居たりける。横笛もさまをかへたるよし聞えし
かば、滝口入道一首の歌を送りけり。
そる【剃る】まではうらみ【恨み】しかどもあづさ弓
まこと【誠】の道にいる【入る】ぞうれしき W082
P10086
横笛が返こと【返事】には、
そる【剃る】とてもなにかうらみ【恨み】むあづさ弓
ひき【引き】とどむべきこころ【心】ならねば W083
よこ笛【横笛】はその思ひのつもり【積り】にや、奈良の
法花寺にあり【有り】けるが、いくほど【程】もなくて、遂に
はかなく【果敢く】成にけり。滝口入道、かやう【斯様】の事を
伝へきき、弥ふかくおこなひすまし【澄まし】てゐたり
ければ、父も不孝をゆるしけり。したしき
者共も、みなもちひ【用ゐ】て、高野の聖とぞ申ける。
P10087
三位中将是に尋あひて見給へば、都に候し時は、
布衣に立烏帽子、衣文をつくろひ、鬢をなで、
花やかなりしおのこ【男】也。出家の後はけふはじめ
てみ【見】給ふに、未卅にもならぬが、老僧姿にやせ【痩せ】
おとろへ【衰へ】、こき墨染におなじ袈裟、思ひいれ【入れ】
たる道心者、うら山しくや思はれけむ。晋の七賢、
漢の四皓がすみけむ商山・竹林のありさま【有様】も、
『高野巻』S1009
是にはすぎじとぞ見えし。○滝口入道、三位中将を
見たてま【奉つ】て、「こはうつつ共覚え候はぬものかな。
P10088
八島より是までは、何としてのがれ【逃れ】させ給て候
やらん」と申ければ、三位中将の給ひけるは、「されば
こそ。人なみなみに都を出て、西国へ落くだり
たりしかども、ふるさとにとどめ【留め】をきしおさなき【幼き】者
共のこひし【恋し】さ、いつ忘るべしとも覚えねば、その物思ふ
けしき【気色】のいは【言は】ぬにしるくや見えけん、大臣殿も二
位殿も、「此人は池の大納言のやうにふた心あり」
などとて思ひへだてたまひ【給ひ】しかば、あるにかい【甲斐】なき
我身かなと、いとど心もとどまら【留まら】で、あくがれ出て、
P10089
是まではのがれ【逃れ】たる也。いかにもして山づたひ【山伝ひ】に
都へのぼ【上つ】て、恋しき者共を今一度み【見】もし
みえ【見え】ばやとは思へども、本三位中将の事口惜
ければ、それも叶はず。おなじくは是にて出家
して、火の中水の底へもいらばやと思ふ也。
但熊野へまいら【参ら】んと思ふ宿願あり」とのたまへ【宣へ】ば、
「夢まぼろしの世の中は、とてもかくても候なん。
ながき世のやみこそ心うかるべう候へ」とぞ申ける。
やがて滝口入道を先達にて、堂塔巡礼して、
P10090
奥院へまいり【参り】たまふ【給ふ】。高野山は帝城を避て
二百里、京里をはなれて無人声、清嵐【*青嵐】梢を
ならし【鳴らし】て、夕日[B ノ]影しづか也。八葉の嶺、八の谷、まこと【誠】に
心もすみ【澄み】ぬべし。花の色は林霧の底にほころび、
鈴の音は尾上の雲にひびけり。瓦に松おひ、
墻に苔むして、星霜久しく覚えたり。抑延喜
の御門の御時、御夢想の御告あて、ひはだ色【桧皮色】の
御ころも【衣】をまいらせ【参らせ】られしに、勅使中納言資澄卿【*資隆卿】、
般若寺の僧正観賢をあひ具して、此御山に
P10091
まいり【参り】、御廟の扉をひらいて、御衣をきせ【着せ】奉らんと
しけるに、霧あつくへだたて、大師おがま【拝ま】れさせ
給はず。ここに観賢ふかく愁涙して、「われ悲母の
胎内を出て、師匠の室に入しより以来、未禁
戒を犯ぜず。さればなどかおがみ【拝み】奉らざらん」とて、
五体を地になげ【投げ】、発露啼泣したまひ【給ひ】しかば、
やうやう霧はれて、月の出るが如くして、大師お
がま【拝ま】れ給ひけり。時に観賢随喜の涙をながひ【流い】
て、御衣をきせ【着せ】奉る。御ぐし【髪】のながくおひさせ
P10092
給ひたりしかば、そり【剃り】奉るこそ目出けれ。勅使と
僧正とは拝み奉り給へども、僧正の弟子石山の
内供淳祐、其時は未童形にて供奉せられたり
けるが、大師をおがみ【拝み】奉らずしてなげきしづんで
おはしけるが、僧正手をとて、大師の御ひざに
おしあてられたりければ、其手一期が間かう
ばしかり【香ばしかり】けるとかや。そのうつり香【移り香】は、石山の聖
教にうつ【移つ】て、今にありとぞ承る。大師、御門
の御返事に申させ給ひけるは、「われ昔薩■に
P10093
あひて、まのあたり悉く印明をつたふ。無比の
誓願をおこし【起こし】て、辺地の異域に侍り、昼夜に
万民をあはれんで、普賢の悲願に住す。肉
身に三昧を証じて、慈氏の下生をまつ」
とぞ申させ給ひける。彼[B ノ]摩訶迦葉の鶏足
の洞に籠て、しづ【翅都】[* 下欄に「氏頭」と注記]の春風を期し給ふらむも、
かくやとぞ覚えける。御入定は承和二年
三月廿一日、寅の一点の事なれば、過にし方も
三百余歳、行末も猶五十六億七千万歳の後、
P10094
慈尊出世三会の暁をまたせ給ふらむこそ久
『維盛出家』S1010
けれ。○「維盛が身のいつとなく、雪山の鳥の鳴
らんやうに、けふよあすよとおもふ[M 「おもふおもふ」とあり始めの「おもふ」をミセケチ]物を」
とて、涙ぐみたまふ【給ふ】ぞあはれ【哀】なる。塩風にくろみ、
つきせ【尽きせ】ぬ物思ひにやせ【痩せ】おとろへて、その人とは
見えたまは【給は】ね共、なを【猶】よ【世】の人にはすぐれたまへ【給へ】り。
其夜は滝口入道が庵室に帰て、夜もすがら
昔今のものがたり【物語】をぞしたまひ【給ひ】ける。聖が行
儀をみ【見】たまふ【給ふ】に、至極甚深の床の上には、真理
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の玉をみがくらむとみえ【見え】て、後夜晨朝の鐘
の声には、生死の眠をさますらむ共覚えたり。
のがれ【逃れ】ぬべくはかくてもあらまほしうや思はれ
けむ。明ぬれば東禅院の智覚上人と申ける
聖を請じたてま【奉つ】て、出家せんとしたまひ【給ひ】けるが、
与三兵衛・石童丸をめし【召し】てのたまひ【宣ひ】けるは、
「維盛こそ人しれぬ思ひを身にそへ【添へ】ながら、道せ
ばう【狭う】のがれ【逃れ】がたき身なれば、むなしう【空しう】なる共、
此比は世にある人こそおほけれ【多けれ】、汝等はいかなる
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ありさま【有様】をしても、などかすぎ【過ぎ】ざるべき。われ
いかにもならむやうを見はてて、いそぎ都へ
のぼり、おのおのが身をもたすけ【助け】、且は妻子をも
はぐくみ、且は又維盛が後生をも訪へ【弔へ】かし」と
のたまへ【宣へ】ば、二人の者共さめざめとないて、しばしは
御返事にも及ばず。ややあて、与三兵衛涙を
おさへ【抑へ】て申けるは、「重景が父、与三左衛門景康は、
平治の逆乱の時、故殿の御共に候けるが、二条堀
河の辺にて、鎌田兵衛にくん【組ん】で、悪源太にうた【討た】れ
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候ぬ。重景もなじかはおとり候べき。其時は二歳
に罷なり候ければ、すこし【少し】も覚え候はず。母には
七歳でをくれ【遅れ】候ぬ。哀をかくべきしたしい【親しい】もの【者】
一人も候はざりしか共、故大臣殿、「あれはわが命
にかはりたりし者の子なれば」とて、御まへにて
そだて【育て】られまいらせ【参らせ】、生年九と申し時、君の
御元服候し夜、かしらを取あげ【上げ】られまいらせ【参らせ】て、
かたじけなく【忝く】、「盛の字は家字なれば五代[M 「後代」とあり「後」をミセケチ「五」と傍書]につく。
重の字をば松王に」と仰候て、重景とは付られ
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まいらせ【参らせ】て候也。其上わらは名を松王と申ける
事も、生れて忌五十日と申し時、父がいだひて
まいり【参り】たれば、「此家を小松といへば、いはうてつくる
なり」と仰候て、松王とはつけられまいらせ【参らせ】候也。
父の[B 「の」に「ガ」と傍書]ようて死候けるは、わが【我が】身の冥加と覚え候。
随分同齢共にも芳心せられてこそまかり【罷り】
過候しか。されば御臨終の御時も、此世の事をば
おぼしめし【思し召し】捨て、一事も仰候はざりしか共、
重景御まへちかう【近う】めされて、「あなむざんや。汝は
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重盛を父が形見と思ひ、重盛は汝を景康が
かたみ【形見】と思ひてこそすごしつれ。今度の除
目に靭負尉になして、おのれ【己】が父景康を
よびし様にめさばやとこそおもひつるに、むな
しう【空しう】なるこそかなしけれ。相構て少将殿の
心にたがふ【違ふ】な」とこそ仰候しか。されば此日来は、
いかなる御事も候はむには、みすてまいらせ【参らせ】
て落べきもの【物】とおぼしめし【思し召し】候けるか。御心のうち
こそはづかしう候へ。「此ごろは世にある人こそおほ
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けれ【多けれ】」と仰かうぶり候は、当時のごとくは源氏の
郎等共こそ候なれ。君の神にも仏にもならせ
給ひ候なむ後、たのしみさかへ【栄え】候とも、千年の
齢をふるべきか。たとひ万年をたもつ【保つ】とも、
遂にはおはりのなかるべきか。是に過たる善知
識、なに事か候べき」とて、手づからもとどり【髻】
きて、泣々滝口入道にそらせけり。石童丸
も是をみて、もとゆひぎは【元結際】より髪をきる。
是も八よりつきたてま【奉つ】て、重景にもおとらず
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不便にしたまひ【給ひ】ければ、おなじく滝口入道に
そらせけり。是等がかやう【斯様】に先達てなるを
見たまふ【給ふ】につけても、いとど心ぼそうぞおぼし
めす【思し召す】。さてもあるべきならねば、「流転三界中、
恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者」
と三返唱へ給ひて、遂にそりおろし給て
げり。「あはれ、かはらぬ姿をこひしき【恋しき】者共に今一
度みえ【見え】もし、見て後かくもならば、思ふ事あらじ」
とのたまひ【宣ひ】けるこそ罪ふかけれ。三位中将も、
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兵衛入道も同年にて、ことしは廿七歳也。石童丸
は十八にぞ成ける。とねり武里をめし【召し】て、
「おのれ【己】はとうとう【疾う疾う】是より八島へかへれ。都へはのぼる
べからず。そのゆへ【故】は、遂にはかくれあるまじけれ共、
まさしう此ありさま【有様】をきい【聞い】ては、やがてさまを
もかへんずらむとおぼゆる【覚ゆる】ぞ。八島へまい【参つ】て人々に
申さむずるやうはよな、「かつ御覧候しやうに、
大方の世間ももの【物】うきやうにまかり【罷り】成候き。
よろづあぢきなさもかずそひ【添ひ】てみえ【見え】候しかば、
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おのおのにもしられまいらせ【参らせ】候はで、かく成候ぬ。
西国で左の中将うせ候ぬ。一谷で備中守うた【討た】れ
候ぬ。われさへかく成候ぬれば、いかにおのおの【各々】たより
なうおぼしめさ【思し召さ】れ候はんずらむと、それのみこそ
心ぐるしう思ひまいらせ【参らせ】候へ。抑唐皮といふ鎧、
小烏といふ太刀は、平将軍貞盛より当家につたへ
て、維盛までは嫡々九代にあひあたる。若不
思議にて世もたちなをらば、六代にたぶべし」と
申せ」とこその給ひけれ。とねり武里「君のいかにも
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ならせおはしまさむやうを見まいらせ【参らせ】て後こそ、
八島へもまいり【参り】候はめ」と申ければ、「さらば」とて召
具せらる。滝口入道をも善知識のため具せられ
けり。山伏修行者のやうにて高野をば出、同
国のうち山東へこそ出られけれ。藤代の王子を
初として、王子王子ふし【伏し】おがみ【拝み】、まいり【参り】給ふ程に、
千里の浜の北、岩代の王子の御前にて、狩装
束したる者七八騎が程行あひ奉る。すでに
搦とられなむずとおぼして、おのおの腰の刀に手を
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かけて、腹をきらむとし給ひけるが、ちかづき【近付き】
けれども、あやまつべきけしき【気色】もなくて、
いそぎ馬よりおり、ふかう【深う】かしこまてとをり【通り】
ければ、「見しりたる者にこそ。誰なるらん」とあやし
くて、いとど足ばやにさし給ふ程に、是は当国の
住人、湯浅権守宗重が子に、湯浅七郎兵衛
宗光といふ者也。郎等共「是はいかなる人にて
候やらむ」と申ければ、七郎兵衛涙をはらはらと
ながひ【流い】て、「あら、事もかたじけなや。あれこそ
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小松大臣殿の御嫡子、三位中将殿よ。八島より
是までは、何としてのがれ【逃れ】させ給ひたりける
ぞや。はや御さまをかへさせ給てげり。与三兵衛、
石童丸も同く出家して御供申たり。ちかう
まい【参つ】てげざむ【見参】にも入たかりつれ共、はばかりもぞ
おぼしめす【思し召す】とてとをり【通り】ぬ。あな哀れの御あり
さま【有様】や」とて、袖をかほ【顔】におしあてて、さめざめと
泣ければ、郎等共もみな涙をぞながしける。
『熊野参詣』S1011
やうやうさし給ふ程に、日数ふれば、岩田河にも
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かかりたまひ【給ひ】けり。「此河のながれを一度もわたる
者は、悪業煩悩無始の罪障きゆ【消ゆ】なる物
を」と、たのもしう【頼もしう】ぞおぼしける。本宮にまいり【参り】
つき、証誠殿の御まへにつゐ居給ひつつ、しばらく
法施まいらせ【参らせ】て、御山のやうをおがみ【拝み】給ふに、心も
詞もおよば【及ば】れず。大悲擁護の霞は、熊野山に
たなびき、霊験無双の神明は、音なし河【音無河】に
跡をたる。一乗修行の岸には、感応の月くま
もなく、六根懺悔の庭には、妄想の露もむすばず。
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いづれもいづれもたのもしから【頼もしから】ずといふ事なし。夜更
人しづまて、啓白したまふ【給ふ】に、父のおとど【大臣】の此御前
にて、「命をめし【召し】て後世をたすけ【助け】給へ」と申され
ける事までも、思食いで【出で】て哀也。「O[BH 当山権現は、]本地阿弥陀
如来にてまします。摂取不捨の本願あやまた
ず、浄土へ引導給へ」と申されける。中にも「ふる郷【故郷】に
とどめ【留め】をき【置き】し妻子安穏に」といのられけるこそ
かなしけれ。うき世をいとひ、まこと【誠】の道に入給へ
ども、妄執はなを【猶】つきずと覚えて哀也し事
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共也。明ぬれば、本宮より船にのり、新宮へぞ
まいら【参ら】れける。かんのくら【神の蔵】をおがみ【拝み】たまふ【給ふ】に、巌松
たかくそびえ【聳え】て、嵐妄想の夢を破り、流水き
よくながれて、浪塵埃の垢をすすぐらむとも
覚えたり。明日社ふし【伏し】おがみ【拝み】、佐野の松原さし過て、
那知の御山にまいり【参り】給ふ。三重に漲りおつる
滝の水、数千丈までうちのぼり、観音の霊
像は岩の上にあらはれ【現はれ】て、補陀落山共いつべし。
霞の底には法花読誦の声きこゆ、霊鷲山
P10110
とも申つべし。抑権現当山に跡を垂させまし
ましてより以来、我朝の貴賎上下歩をはこび、
かうべをかたむけ、掌をあはせ【合はせ】て、利生にあづから
ずといふ事なし。僧侶されば甍をならべ、道俗
袖をつらねたり。寛和夏の比、花山の法皇十善
の帝位をのがれ【逃れ】させ給ひて、九品の浄刹を
おこなは【行なは】せ給ひけん、御庵室の旧跡には、昔を
しのぶ【忍ぶ】とおぼしくて、老木の桜ぞさきにける。
那智籠の僧共の中に、此三位中将をよくよく
P10111
み【見】しりたてま【奉つ】たるとおぼしくて、同行にかたり
けるは、「ここなる修行者をいかなる人やらむと
思ひたれば、小松の大臣殿の御嫡子、三位中将殿にて
おはしけるO[BH ぞ]や。あの殿の未四位少将と聞え給ひし
安元の春の比、法住寺殿にて五十御賀のありしに、
父小松殿は内大臣の左大将にてまします、伯父
宗盛卿は大納言の右大将にて、階下に着座せら
れたり。其外三位中将知盛・頭中将重衡以下
一門の人々、けふを晴とときめき給ひて、垣代に
P10112
立給ひし中より、此三位中将、桜の花をかざし
て青海波をまう【舞う】て出られたりしかば、露に媚
たる花の御姿、風に翻る舞の袖地をてらし
天もかかやく【輝く】ばかり也。女院より関白殿を御使
にて御衣をかけられしかば、父の大臣座を立、
是を給はて右の肩にかけ、院を拝し奉り
給ふ。面目たぐひすくなうぞみえ【見え】し。かたへ【傍】の殿
上人、いかばかりうら山しうおもは【思は】れけむ。内裏の
女房達の中には、「深山木のなかの桜梅とこそ
P10113
おぼゆれ」などいはれ給ひし人ぞかし。唯今大
臣の大将待かけ給へる人とこそみ【見】奉りしに、
けふはかくやつれはて給へる御ありさま【有様】、かねて【予て】は
思ひもよらざしをや。うつればかはる世のならひ【習ひ】とは
いひながら、哀なる御事哉」とて、袖をかほ【顔】に
おしあててさめざめと泣ければ、いくらもなみ
ゐたりける那知籠【*那智籠】の僧共も、みなうち衣【裏衣】の
『維盛入水』S1012
袖をぞぬらしける。○三の山の参詣事ゆへ【故】なく
とげ給ひしかば、浜の宮と申王子の御まへより、
P10114
一葉の船に棹さして、万里の蒼海にうかび
給ふ。はるかの奥に山なり【山成】の島といふ所あり【有り】。
それに舟をこぎよせさせ、岸にあがり【上がり】、大なる松
の木をけづて、中将銘跡をかき【書き】つけらる。
「祖父太政大臣平朝臣清盛公、法名浄海、親父
内大臣左大将重盛公、法名浄蓮、三位中将維盛、
法名浄円、生年廿七歳、寿永三年三月廿八日、
那知【*那智】の奥にて入水す」と書つけて、又奥へぞ
こぎ出給ふ。思ひきりたる道なれ共、今はの時に
P10115
成ぬれば、心ぼそうかなしからずといふ事なし。
比は三月廿八日の事なれば、海路遥に霞わた
り、哀をもよほすたぐひ也。ただ大方の春だに
も、暮行空は物うきに、況やけふをかぎりの
事なれば、さこそは心ぼそかりけめ。奥の釣舟の
浪にきえ入やうにおぼゆる【覚ゆる】が、さすがしづみも
はてぬをみ【見】たまふ【給ふ】にも、我身のうへ【上】とやおぼし
けむ。おの【己】が一行ひき【引き】つれて、今はとかへる雁がね【雁金】の、
越路をさして鳴ゆくも、ふるさとへことづけせま
P10116
ほしく、蘇武が胡国のうらみ【恨み】まで、思ひのこせる
くまもなし。「さればこは何事ぞ。猶妄執のつきぬに
こそ」と思食かへして、西にむかひ【向ひ】手をあはせ【合はせ】、
念仏したまふ【給ふ】心のうちにも、「すでに只今をかぎ
りとは、都にはいかでかしるべきなれば、風のたより
のことつて【言伝】も、いまやいまやとこそまたんずらめ。
遂にはかくれ【隠れ】あるまじければ、此世になきものと
きい【聞い】て、いかばかりかなげかんずらん」など思ひつづ
けたまへ【給へ】ば、念仏をとどめ【留め】、合掌をみだり、聖にむか【向つ】て
P10117
の給ひけるは、「あはれ人の身に妻子といふ物をば
もつまじかりけるものかな。此世にて物を思はする
のみならず、後世菩提のさまたげと成ける口
おしさ【口惜しさ】よ。只今も思ひ出るぞや。か様【斯様】の事を
心中にのこせば、罪ふかからむなる間、懺悔する也」
とぞのたまひ【宣ひ】ける。聖も哀に覚えけれ共、我
さへ心よはく【弱く】てはかなは【叶は】じと思ひ、涙おし【押し】のごひ、
さらぬ体にもてないて申けるは、「まこと【誠】にさこそ
はおぼしめさ【思し召さ】れ候らめ。たかき【高き】も賤きも、恩愛の
P10118
道は力およば【及ば】ぬ事也。中にも夫妻は一夜の枕を
ならぶるも、五百生の宿縁と申候へば、先世の契浅
からず。生者必滅、会者定離は浮世の習にて
候也。すゑ【末】の露もとのしづくのためし【例】あれば、
たとひ遅速の不同はありとも、をくれ【遅れ】先だつ【先立つ】
御別、遂になくてしもや候べき。彼離山宮の秋の
夕の契も、遂には、心を摧くはしとなり、甘泉殿
の生前の恩も、おはりなきにしもあらず。松子・梅
生、生涯の恨あり【有り】。等覚・十地、猶生死の掟にしたがふ。
P10119
たとひ君長生のたのしみにほこり給ふ共、此御な
げきはのがれ【逃れ】させたまふ【給ふ】べからず。たとひ又百年の
齢をたもち【保ち】給ふ共、此御恨はただおなじ事と
思食さるべし。第六天の魔王といふ外道は、欲
界の六天を我物と領じて、中にも此界の衆生
の生死をはなるる事をおしみ【惜しみ】、或は妻となり、或は
夫となて、是をさまたぐるに、三世諸仏は、
一切衆生を一子の如く思食て、極楽浄土の不
退の土にすすめ【進め】いれ【入れ】んとしたまふ【給ふ】に、妻子といふ
P10120
もの、無始曠劫より以来生死に流転するきづな
なるがゆへ【故】に、仏はおもう【重う】いましめ給ふ也。さればとて
御心よはう【弱う】おぼしめすべからず。源氏の先祖伊与【*伊予】
入道頼義は、勅命によて奥州のゑびす【夷】貞任・
宗任をせめ【攻め】んとて、十二年が間に人の頸をきる
事一万六千人、山野の獣、江河の鱗、其命を
たつ事いく千万といふ数をしら【知ら】ず。され共、終焉の
時、一念の菩提心をおこし【起こし】しによて、往生の素
懐をとげたりとこそ承れ。就中に、出家の功徳
P10121
莫太なれば、先世の罪障みなほろび給ひぬらむ。
たとひ人あて七宝の塔をたてん事、たかさ
三十三天にいたる共、一日の出家の功徳には及ベ
からず。たとひ又百千歳の間百羅漢を供養じ
たらん功徳も、一日の出家の功徳には及べからずと
とか【説か】れたり。罪ふかかり【深かり】し頼義、心のたけき【猛き】ゆへ【故】に
往生をとぐ。させる御罪業ましまさざらんに、などか
浄土へまいり【参り】給はざるべき。其上当山権現は
本地阿弥陀如来にてまします。はじめ無三悪
P10122
趣の願より、おはり得三宝忍の願にいたるまで、
一々の誓願、衆生化度の願ならずといふ事なし。
中にも第十八の願には「設我得仏、十方衆生、至心
信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚」
ととか【説か】れたれば、一念十念のたのみ【頼み】あり【有り】。只ふかく
信じて、努々疑をなしたまふ【給ふ】べからず。無二の懇
念をいたし【致し】て、若は一返、若は十反も唱給ふ物ならば、
弥陀如来、六十万億那由多恒河沙の御身を
つづめ、丈六八尺の御形にて、観音勢至無数の
P10123
聖衆、化仏菩薩、百重千重に囲繞し、伎楽
歌詠じて、唯今極楽の東門を出て来迎し
給はむずれば、御身こそ蒼海の底にしづむ【沈む】と思召
るとも、紫雲のうへ【上】にのぼり給ふべし。成仏得脱
してさとりをひらき給なば、娑婆の故郷にたち
かへ【帰つ】て妻子を道びき給はむ事、還来穢O[BH 国]度人天、
すこし【少し】も疑あるべからず」とて、金【*鐘】うちならし【鳴らし】て
すすめ奉る。中将しかる【然る】べき善知識かなと思食、
忽に妄念をひるがへして、O[BH 西に向ひ手を合せ、]高声に念仏百返斗
P10124
となへつつ、「南無」と唱る声ともに、海へぞ入給ひ
ける。兵衛入道も石童丸と同じく御名を唱へ
『三日平氏』S1013
つつ、つづひ【続い】て海へぞ入にける。○とねり武里も同く
いら【入ら】むとしけるを、聖とり留めければ、力およばず。
「いかにうたてくも、御遺言をばたがへ【違へ】たてまつら【奉ら】んと
するぞ。下臈こそなを【猶】もうたてけれ。今はただ後
世をとぶらひ【弔ひ】奉れ」と、泣々教訓しけれ共、をくれ【遅れ】
たてまつる【奉る】かなしさに、後の御孝養の事も
覚えず、舟ぞこ【舟底】にふし【伏し】まろび【転び】、おめき【喚き】さけび【叫び】
P10125
ける有さま【有様】は、むかし悉太太子【*悉達太子】の檀徳山【*檀特山】に入せ
給ひし時、しやのく【車匿】とねり【舎人】がこんでい【ノ陟】駒を給はて、
王宮にかへりし悲みも、是には過じとぞみえ【見え】し。
しばしは舟をおし【押し】まはして、浮もやあがり給ふと
見けれ共、三人ともに深くしづんでみえ【見え】給はず。
いつしか経よみ念仏して、「過去聖霊一仏浄土へ」
と廻向しけるこそ哀なれ。さる程に、夕陽西に
傾き、海上もくらく成ければ、名残はつきせ【尽きせ】ず
おもへ【思へ】共、むなしき【空しき】舟を漕かへる。とわたる舟のかい【櫂】の
P10126
しづく、聖が袖よりつたふ涙、分ていづれもみえ【見え】
ざりけり。聖は高野へかへりのぼる。武里は泣々
八島へまいり【参り】けり。御弟新三位中将殿に御ふみ【文】
取いだし【出し】てまいらせ【参らせ】たりければ、「あな心う、わがたのみ【頼み】
奉る程は、人は思ひ給はざりける口惜さよ。池の大
納言のやうに頼朝に心をかよはし【通はし】て、都へこそおはし
たるらめとて、大臣殿も二位殿も、我等にも心を
をき【置き】給ひつるに、されば那知【*那智】の奥にて身をなげて
ましますごさんなれ。さらば引具して一所にも
P10127
しづみ【沈み】給はで、ところどころ【所々】にふさむ事こそかなし
けれ。御詞にて仰らるる事はなかりしか」と問
給へば、「申せと候しは「西国にて左の中将殿うせ
させ給ひ候ぬ。一谷で備中守殿うたれさせ給候ぬ。
われ【我】さへかく成候ぬれば、いかにたよりなうおぼし
めさ【思し召さ】れ候はんずらんと、それのみこそ心ぐるしう思ひ
まいらせ【参らせ】候へ」。唐皮・小烏の事までもこまごまと
申たりければ、「今はわれ【我】とてもながらふ【永らふ】べしとも
覚えず」とて、袖をかほ【顔】におし【押し】あててさめざめと
P10128
泣給ふぞ、まこと【誠】にことはり【理】と覚えて哀なる。故三
位中将殿にゆゆしく似給ひたりければ、みる【見る】人涙を
ながしけり。侍共はさしつどひ【集ひ】て、只なくより外の事ぞ
なき。大臣殿も二位殿も、「此人は池の大納言の様に、
頼朝に心をかよはし【通はし】て、都へとこそ思ひたれば、
さはおはせざりける物」とて、今更なげきかなしみ
給けり。四月一日、鎌倉前兵衛佐頼朝、正下の四位
したまふ【給ふ】。元は従下の五位にてありしに、五階をこえ
給こそゆゆしけれ。是は木曾左馬頭義仲追討の
P10129
賞とぞ聞えし。同三日、崇徳院を神とあがめ
奉るべしとて、むかし御合戦ありし大炊御門が末に
社をたてて、宮うつし【宮遷し】あり【有り】。院の御沙汰にて、内裏には
しろしめされずとぞ聞えし。五月四日、池の大納
言関東へ下向。兵衛佐「御かたをば全くおろかに
思ひまいらせ【参らせ】候はず。只故池殿のわたらせ給ふとこそ
存候へ。故尼御前の御恩を、大納言殿に報じたて
まつら【奉ら】ん」とたびたび誓状をもて申されければ、
一門をもひき【引き】わかれておち【落ち】とどまり給ひたり
P10130
けるが、「兵衛佐ばかりこそかうは思はれけれ共、自余の
源氏共いかがあらむずらん」と、肝たましひをけすより
外の事なくておはしけるが、鎌倉より「故尼御
前を見奉ると存て、とくとくげざん【見参】に入候はん」と
申されたりければ、大納言くだり【下り】給ひけり。弥平
兵衛宗清といふ侍あり【有り】。相伝専一の者なりけるが、
あひ具してもくだらず。「いかに」ととひ給へば、「今度
の御共はつかまつらじと存候。其ゆへ【故】は、君こそかく
てわたらせ給へども、御一家の君達の、西海の浪
P10131
のうへ【上】にただよはせ給ふ御事の心うくおぼえて、
未安堵しても存候はねば、心すこしおとし【落し】すへ【据ゑ】て、
お[B ッ]さま【追つ様】にまいり【参り】候べし」とぞ申ける。大納言にがにが
しう【苦々しう】はづかしう思ひ給ひて、「一門をひき【引き】わかれて
のこり【残り】とどま【留まつ】たる事は、我身ながらいみじ[* 下欄に「美」と注記]とは
おもは【思は】ね共、さすが身も捨がたう、命もおしけれ【惜しけれ】ば、
なまじゐにとどまりにき。そのうへ【上】は又くだらざる
べきにもあらず。はるかの旅におもむくに、いかでか
み【見】をくら【送ら】であるべき。うけ【請け】ず思はば、おち【落ち】とどま【留まつ】し
P10132
時はなどさはいはざしぞ。大小事一向なんぢに
こそいひ【言ひ】あはせ【合はせ】しか」とのたまへば、宗清居なをり【直り】
畏て申けるは、「たかき【高き】もいやしきも、人の身に
命ばかりおしき【惜しき】物や候。又世をばすつれ【捨つれ】ども、身をば
すてずと申候めり。御とどまりをあしとには候はず。
兵衛佐もかい【甲斐】なき命をたすけ【助け】られまいらせ【参らせ】て
こそ、けふはかかる幸にもあひ候へ。流罪せられ候し
時は、故尼御前の仰にて、O[BH 近江ノ国]、しの原【篠原】の宿までうち
をく【送つ】て候き。「其事など今に忘れず」と承り
P10133
候へば、さだめて御共に罷くだり【下り】て候はば、ひきで
物、饗応などもし候はんずらむ。それにつけて
も心うかるべう候。西国にわたらせ給ふ君達、もしは
侍共のかへりきかむ事、返々はづかしう候へば、まげて
今度ばかりはまかり【罷り】とどまるべう候。君おち【落ち】とど
まら【留まら】せ給て、かくてわたらせ給ふ程では、などか
御くだりなうても候べき。はるかの旅におもむか【赴か】せ
給ふ事は、まこと【誠】におぼつかなう思ひまいらせ【参らせ】
候へ共、敵をもせめ【攻め】に御くだり【下り】候はば、一陣にこそ
P10134
候べけれ共、是はまいら【参ら】ず共、更に御事かけ【欠け】候まじ。
兵衛佐たづね【尋ね】申され候はば、「あひ労る事あて」と
仰候べし」と申ければ、心ある侍共は是をきひ【聞い】て、
みな涙をぞながしける。大納言もさすがはづか
しうは思はれけれども、さればとてとどまるべき
にもあらねば、やがてたち給ひぬ。同十六日、鎌倉へ
下つき給ふ。兵衛佐いそぎ見参して、まづ「宗清は
御共して候か」と申されければ、「折ふし【折節】労はる事
候て、くだり【下り】候はず」との給へ【宣へ】ば、「いかに、何をいたはり
P10135
候けるやらむ。意趣を存候にこそ。むかし宗清が
もとに候しに、事にふれて有がたうあた
り候し事、今にわすれ候はねば、さだめて御
共に罷下候はむずらん、とく見参せばやなど
こひしう【恋しう】存て候に、うらめしう【恨めしう】もくだり【下り】候はぬもの【物】
かな」とて、下文あまたなしまうけ【設け】、馬鞍・物具
以下、やうやうの物共たばむとせられければ、しかる【然る】
べき大みやう【大名】共、われもわれもとひきで物【引出物】共用意
したりけるに、くだらざりければ、上下ほい【本意】なき事に
P10136
思ひてぞ有ける。六月九日、池の大納言関東より
上洛し給ふ。兵衛佐「しばらくかくておはしませかし」
と申されけれども、「宮こ【都】におぼつかなく思ふ
らん」とて、いそぎのぼり給ひければ、庄園私領
一所も相違あるべからず、并に大納言になし
かへさるべきよし、法皇へ申されけり。鞍置馬【鞍置馬】卅疋、
はだか馬【裸馬】卅疋、長持卅枝に、葉金・染物・巻絹風情
の物をいれ【入れ】て奉り給ふ。兵衛佐かやうにもて
なし給へば、大名小名われもわれもと引出物を奉る。
P10137
馬だにも三百疋に及べり。命いき給ふのみならず、
徳ついてぞ帰りのぼられける。同十八日、肥後守
定能【*貞能】が伯父、平太入道定次を大将として、伊賀・
伊勢両国の住人等、近江国へうち出たりければ、
源氏の末葉等発向して合戦をいたす。両国の
住人等一人ものこらずうちおとさ【落さ】る。平家重代
相伝の家人にて、昔のよしみを忘れぬ事は
哀なれども、思ひたつこそおほけなけれ。三日
平氏とは是也。さる程に、小松の三位中将維盛卿の
P10138
北方は、風のたよりの事つても、たえて久しく
成ければ、何と成ぬる事やらむと、心ぐるしうぞ
思はれける。月に一度などは必ず音づるる【音信るる】物をと
待給へ共、春すぎ夏もたけぬ。「三位中将、今は
八島にもおはせぬ物をと申人あり」ときき【聞き】給ひて、
あまりのおぼつかなさに、とかくして八島へ人を
奉り給ひたりければ、いそぎも立かへらず。夏過
秋にも成ぬ。七月の末に、かの使かへりきたれり。
北方「さていかにやいかに」と問たまへ【給へ】ば、「「過候し三月
P10139
十五日の暁、八島を御出候て、高野へまいら【参ら】せ給ひ
て候けるが、高野にて御ぐしおろし、それより
熊野へまいら【参ら】せおはしまし、後世の事をよくよく
申させ給ひ、那知【*那智】の奥にて御身をなげさせ給ひ
て候」とこそ、御共申たりけるとねり武里は
かたり申候つれ」と申ければ、北方「さればこそ。あやし
と思ひつる物を」とて、引かづいてぞふし給ふ。
若君姫君も声々になき【泣き】かなしみ給ひけり。
若君の御めのとの女房、泣々申けるは、「是は今更
P10140
おどろかせ給ふべからず。日来よりおぼしめし【思し召し】まう
けたる御事也。本三位中将殿のやうに生取に
せられて、都へかへらせ給ひたらば、いかばかり心う
かるべきに、高野にて御ぐしおろし、熊野へ
まいら【参ら】せ給ひ、後世の事よくよく申させおはしまし、
臨終正念にてうせさせ給ひける御事、歎の
なかの御よろこび也。されば御心やすき事にこそ
おぼしめす【思し召す】べけれ。今はいかなる岩木のはざまに
ても、おさなき【幼き】人々をおほし【生し】たて【立て】まいらせ【参らせ】んと思召
P10141
せ」と、やうやう【様々】になぐさめ申けれ共、思食しのび【忍び】て、
ながらふ【永らふ】べし共みえ【見え】給はず。やがてさまをかへ、かた
のごとくの仏事をいとなみ、後世をぞとぶらひ【弔ひ】
『藤戸』S1014
給ひける。○是を鎌倉の兵衛佐かへり聞給ひて、
「哀れ、へだてなくうちむかひ【向ひ】ておはしたらば、命斗
はたすけ【助け】たてま【奉つ】てまし。小松の内府の事は、
おろかに思ひたてまつら【奉ら】ず。池の禅尼の使として、
頼朝を流罪に申なだめ【宥め】られしは、ひとへに彼内府の
芳恩なり。其恩争かわする【忘る】べきなれば、子息
P10142
たちもおろかに思ず。まして出家などせられなむ
うへ【上】は、子細にや及べき」とぞの給ひける。さる程に、
平家は讃岐の八島へかへり給ひて後も、東国
よりあら【新】手の軍兵数万騎、都につい【着い】てせめ【攻め】下る
共聞ゆ。鎮西より臼杵・戸次・松浦党同心して
おしわたるとも申あへ【合へ】り。かれをきき是をきくにも、
只耳をおどろかし【驚かし】、肝魂をけすより外の事
ぞなき。今度一の谷にて一門の人々のこりずく
なくうたれ給ひ、むねとの侍共なかば【半ば】すぎてほろ
P10143
びぬ。今はちから【力】つきはてて、阿波民部大夫重能が
兄弟、四国の者共かたらて、さり共と申けるをぞ、
高き山深き海共たのみ【頼み】給ひける。女房達は
さしつどひ【集ひ】て、只泣より外の事ぞなき。かくて
七月廿五日にも成ぬ。「こぞのけふは都を出しぞかし。
程なくめぐり来にけり」とて、あさましうあはたたし
かりし事共の給ひいだし【出し】て、なきぬわらひ【笑ひ】ぬぞ
したまひ【給ひ】ける。同廿八日、新帝の御即位あり【有り】。
内侍所・神璽・宝剣もなくして御即位の
P10144
例、神武天皇より以来八十二代、是はじめとぞ
うけ給はる【承る】。八月六日、除目おこなはれて、蒲冠者
範頼参河【*三河】守になる。九郎冠者義経、左衛門尉に
なさる。すなはち使の宣旨を蒙て、九郎判官と
ぞ申ける。さる程に、荻のうは風【上風】もやうやう身に
しみ、萩の下露もいよいよしげく、うらむる【恨むる】虫の声々
に、いなば【稲葉】うちそよぎ、木の葉かつちるけしき【景色】、
物おもは【思は】ざらむだにも、ふけゆく秋の旅の空は
かなしかる【悲しかる】べし。まして平家の人々の心の中、さこそは
P10145
おはしけめとおしはから【推し量ら】れて哀也。むかしは九重の
雲の上にて、春の花をもてあそび、今は
八島のうら【浦】にして、秋の月にかなしむ。凡さやけき
月を詠じても、都のこよひいかなるらむと思
やり、心をすまし【澄まし】、涙をながしてぞあかしくらし
給ひける。左馬頭行盛かうぞ思ひつづけ給ふ。
君すめばこれも雲井の月なれど
なを【猶】こひしき【恋しき】はみやこ【都】なりけり W084
同九月十二日、参河【*三河】守範頼、平家追討のために
P10146
西国へ発向す。相伴ふ人々、足利蔵人義兼・鏡美
小次郎長清・北条小四郎義時・斎院次官親義、
侍大将には、土肥[B ノ]次郎実平・子息弥太郎遠平・
三浦介義澄・子息平六義村・畠山庄司次郎重忠・
同長野三郎重清・稲毛三郎重成・椿谷【*榛谷】四郎
重朝・同五郎行重・小山小四郎朝政・同長沼五郎
宗政・土屋三郎宗遠・佐々木三郎守綱【*盛綱】・八田[B ノ]四郎
武者朝家・安西三郎秋益・大胡三郎実秀・天野
藤内遠景・比気【*比企】藤内朝宗・同藤四郎義員【*能員】・中
P10147
条[B ノ]藤次家長・一品房章玄・土佐房正俊【*昌俊】、此等を初
として都合其勢三万余騎、都をたて播磨
の室にぞつきにける。平家の方には、大将軍
小松新三位中将資盛・同小将有盛・丹後侍従
忠房、侍大将には、飛弾【*飛騨】三郎左衛門景経・越中
次郎兵衛盛次【*盛嗣】・上総五郎兵衛忠光・悪七兵衛
景清をさきとして、五百余艘の兵船にとり
の【乗つ】て、備前の小島【*児島】につくと聞えしかば、源氏室を
たて、是も備前国西河尻、藤戸に陣をぞ
P10148
とたりける。源平の陣のあはひ、海のおもてO[BH 廿]五町
ばかりをへだてたり。舟なくしてはたやすうわた
すべき様なかりければ、源氏の大勢むかひ【向ひ】の山に
宿して、いたづらに日数ををくる【送る】。平家の方より
はやりお【逸男】のわか者【若者】共、小船にの【乗つ】て漕いださせ、扇
をあげて「ここわたせ【渡せ】」とぞまねきける。源氏
「やすからぬ事也。いかがせん」といふところ【所】に、同廿五日
の夜に入て、佐々木三郎守綱【*盛綱】、浦の男をひとり
かたらて、しろい小袖・大口・しろざやまき【白鞘巻】などとらせ、
P10149
すかしおほせて、「この海に馬にてわたしぬべき
ところ【所】やある」ととひ【問ひ】ければ、男申けるは、「浦の者
共おほう【多う】候へども、案内したるはまれに候。此男こそ
よく存知して候へ。たとへば河の瀬のやうなる所の候
が、月がしらには東に候、月尻には西に候。両方の
瀬のあはひ、海のおもて【面】十町ばかりは候らむ。
この瀬は御馬にてはたやすうわたさせ給ふべし」
と申ければ、佐々木なのめならず悦で、わが家
子郎等にもしらせず、かの男と只二人まぎれ出、
P10150
はだかになり、件の瀬のやうなる所をみる【見る】に、げ
にもいたくふかう【深う】はなかりけり。ひざ【膝】・こし【腰】、肩に
たつ【立つ】所もあり【有り】。鬢のぬるる所もあり【有り】。深き所をば
およひ【泳い】で、あさき所におよぎ【泳ぎ】つく。男申けるは、
「これより南は北よりはるかに浅う候。敵、矢さき【矢先】を
そろへて待ところ【所】に、はだか【裸】にてはかなは【叶は】せ給ふ
まじ。かへらせ給へ」と申ければ、佐々木げにもとて
かへり【帰り】けるが、「下臈はどこともなき者なれば、又人に
かたらはれて案内をもをしへ【教へ】むずらん。我斗こそ
P10151
しら【知ら】め」と思ひて、彼男をさしころし【殺し】、頸かき
き【切つ】てすててげり。同廿六日の辰剋ばかり、平家
又小舟にの【乗つ】て漕いださせ、「ここをわたせ【渡せ】」とぞ
まねきける。佐々木三郎、案内はかねて【予て】し【知つ】たり、
しげめゆひ【滋目結】の直垂に黒糸威の鎧きて、白葦
毛なる馬にのり、家子郎等七騎、ざとうち入
てわたしけり。大将軍参河【*三河】守、「あれせいせよ【制せよ】、留
めよ」とのたまへ【宣へ】ば、土肥次郎実平鞭鐙をあは
せ【合はせ】てお【追つ】つひ【付い】て、「いかに佐々木殿、物のついて
P10152
くるひ【狂ひ】給ふか。大将軍のゆるされ【許され】もなきに、狼籍【*狼藉】
也。とどまり給へ」といひ【言ひ】けれ共、耳にも聞いれ【入れ】ず
わたしければ、土肥次郎もせいし【制し】かねて、やがて
つれ【連れ】てぞわたひ【渡い】たる。馬のくさわき【草脇】、むながいづくし、
ふと腹につくところ【所】もあり、鞍つぼこす所も
あり【有り】。ふかきところ【所】はおよが【泳が】せ、あさきところ【所】に
うちあがる【上がる】。大将軍参河【*三河】守是をみて、「佐々木に
たばかられけり。あさかり【浅かり】けるぞや。わたせ【渡せ】やわたせ【渡せ】」
と下知せられければ、三万余騎の大勢みなうち
P10153
入てわたしけり。平家の方には「あはや」とて、舟共
おし【押し】うかべ【浮べ】、矢さき【矢先】をそろへてさしつめ【差し詰め】ひきつめ[B 「つきつめ」とあり1字目の「つ」に「ひ」と傍書]
さんざん【散々】にいる【射る】。源氏のつは物【兵】共是を事共せず、甲の
しころをかたむけ、平家の舟にのりうつりのりうつり、
おめき【喚き】さけん【叫ん】でせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。源平みだれあひ、
或は舟ふみしづめて死ぬる者もあり、或は舟
引かへさ【返さ】れてあはて【慌て】ふためくものもあり【有り】。一日たた
かひ【戦ひ】くらして夜に入ければ、平家の舟は奥に
うかぶ。源氏は小島【*児島】にうちあが【上がつ】て、人馬のいきをぞ
P10154
やすめける。平家は八島へ漕しりぞく。源氏心は
たけく思へ共、船なかりければ、おう【追う】てもせめ【攻め】たたかはず。
「昔より今にいたるまで、馬にて河をわたす
つはもの【兵】はありといへども、馬にて海をわたす事、
天竺・震旦はしら【知ら】ず、我朝には希代のためし【例】
也」とぞ、備前の小島【*児島】を佐々木に給はりける。
鎌倉殿の御教書にものせ【載せ】られけり。同廿七日、
都には九郎判官義経、検非違使五位尉になさ
れて、九郎大夫判官とぞ申ける。さる程に
P10155
十月にもなりぬ。八島にはうら【浦】吹風もはげしく、
磯うつ浪もたかかり【高かり】ければ、つは物【兵】もせめ【攻め】来らず、
商客のゆき【行き】かうもまれなれば、都のつても
きか【聞か】まほしく、いつしか空かきくもり【曇り】、霰うち
ちり【散り】、いとどきえ入[B ル]心地ぞしたまひ【給ひ】ける。都には
大嘗会[* 「大」に濁点]あるべしとて、御禊の行幸あり【有り】けり。
節下は徳大寺左大将実定公、其比内大臣にて
おはしけるが、つとめられけり。おととし先帝の御
禊の行幸には、平家の内大臣宗盛公節下にて
P10156
おはせしが、節下のあく屋【幄屋】につき、前に竜の旗
たててゐ給ひたりし景気、冠ぎは、袖のかかり、
表[B ノ]袴のすそまでもことにすぐれてみえ【見え】給へり。
其外一門の人々三位中将知盛・頭の中将重衡
以下近衛づかさみつな【御綱】に候はれしには、又立ならぶ
人もなかりしぞかし。けふは九郎判官先陣に供奉
す。木曾などには似ず、以[B ノ]外に京なれ【馴れ】てありし
か共、平家のなかのゑりくづ【選屑】よりもなを【猶】おとれり。
同十一月十八日、大嘗会[* 「大」に濁点]とげ【遂げ】おこなは【行なは】る。去る治承・
P10157
養和の比より、諸国七道の人民百性【*百姓】等、源氏の
ためになやまされ、平家のためにほろぼされ、
家かまど【竃】を捨て、山林にまじはり、春は東作
の思ひを忘れ、秋は西収のいとなみにも及ばず。
いかにしてか様【斯様】の大礼もおこなはるべきなれ共、さて
しもあるべき事ならねば、かたのごとくぞとげ【遂げ】られ
ける。参河【*三河】守範頼、やがてつづひ【続い】てせめ【攻め】給はば、
平家はほろぶ【滅ぶ】べかりしに、室・高砂にやすらひ
て、遊君遊女共めし【召し】あつめ【集め】、あそびたはぶれ【戯れ】て
P10158
のみ月日ををくら【送ら】れけり。東国の大名小名
おほし【多し】といへ共、大将軍の下知にしたがふ事なれば
力及ばず。只国のついへ【費】、民のわづらひ【煩ひ】のみあて、
ことしもすで【既】に暮にけり。

平家物語巻第十

平家物語 高野本 巻第十一

平家 十一(表紙)
P11001
平家十一之巻 目録
逆櫓       大坂越
八島軍次信最期  那須与一
弓なかし     志度合戦どしいくさ
鶏合       壇浦合戦
遠矢       先帝身投
能登殿最期    内侍所宮古入
つるき      一門大路わたし
かかみ      文のさた
P11002
副将       腰越
大臣殿のきられ  重衡のきられ
P11003
平家物語巻第十一
『逆櫓』S1101
○元暦二年正月十日、九郎大夫判官義経、院
の御所へまい【参つ】て大蔵卿泰経朝臣をもて
奏聞せられけるは、「平家は神明にもはなた
れ奉り、君にもすてられまいらせ【参らせ】て、帝都
をいで、浪のうへ【上】にただよふおちうと【落人】となれり。
しかる【然る】を此三箇年が間、せめ【攻め】おとさ【落さ】ずして、
おほく【多く】の国々をふさげ【塞げ】らるる事、口惜候へば、
今度義経においては、鬼界・高麗・天竺・震旦
P11004
までも、平家をせめ【攻め】おとさ【落さ】ざらんかぎりは、王城へ
かへるべからず」とたのもしげ【頼もし気】に申されけ
れば、法皇おほき【大き】に御感あて、「相構て、夜を
日についで勝負を決すべし」と仰下さる。判
官宿所にかへ【帰つ】て、東国の軍兵どもにの給ひ
けるは、「義経、鎌倉殿の御代官として院宣
をうけ給は【承つ】て、平家を追討すべし。陸は駒の
足のをよば【及ば】むをかぎり、海はろかい【艫櫂】のとづか[* 「とつが」と有るのを他本により訂正]【届か】ん
程せめ【攻め】ゆくべし。すこし【少し】もふた心あらむ人々
P11005
は、とうとう【疾う疾う】これよりかへらるべし」とぞの給ける。
さる程に、八島にはひま【隙】ゆく駒の足はやくし
て、正月もたち、二月にもなりぬ。春の草く
れ【暮れ】て、秋の風におどろき、秋の風やんで、春
の草になれり。をくり【送り】むかへ【向へ】てすでに三と
せ【年】になりにけり。都には東国よりあら手の
軍兵数万騎つい【着い】てせめ【攻め】くだる【下る】ともきこゆ。鎮
西より臼杵・戸次・松浦党同心してをし【押し】わたる【渡る】
とも申あへ【合へ】り。かれをきき、これ【是】をきく【聞く】にも、
P11006
ただ耳を驚かし、きも魂をけすより外の事
ぞなき。女房達は女院・二位殿をはじめま
いらせ【参らせ】て、さしつどい【集ひ】て、「又いかなるうき目をか見
むずらん。いかなるうき事をかきか【聞か】んずらん」と
なげきあひ、かなしみあへ【合へ】り。新中納言知盛卿
の給ひけるは、「東国北国の物共も随分重
恩をかうむ【蒙つ】たりしかども、恩をわすれ契を
変じて、頼朝・義仲等にしたがひき。まして
西国とても、さこそはあらむずらめとおもひ【思ひ】
P11007
しかば、都にていかにもならんと思ひし物を、わが
身ひとつ【一つ】の事ならねば、心よはう【弱う】あくがれ
出て、けふはかかるうき目をみる【見る】口惜さよ」と
ぞの給ひける。誠にことはり【理】とおぼえて哀
なり。同二月三日、九郎大夫判官義経、都を
たて、摂津国渡辺よりふなぞろへして、八
島へすでによせんとす。参川【*三河】守範頼も同日
に都をたて、摂津国神崎より兵船をそろ
へて、山陽道へおもむか【赴か】むとす。同十三日、伊勢
P11008
大神宮・石清水・賀茂・春日へ官幣使をたて
らる。「主上并三種の神器、ことゆへ【故】なうかへり
いらせ給へ」と、神祇館【*神祇官】の官人、もろもろの社司、
本宮本社にて祈誓申べきよし仰下さる。同十
六日、渡辺・神崎両所にて、この日ごろそろへける
舟ども、ともづなすでにとかんとす。おりふし【折節】北
風木をを【折つ】てはげしう吹ければ、大浪に舟どもさ
むざむ【散々】にうちそむぜ【損ぜ】られて、いだすに及ばず。
修理のために其日はとどまる。渡辺には大名小名
P11009
よりあひて、「抑ふないくさ【舟軍】の様はいまだ調練せ
ず。いかがあるべき」と評定す。梶原申けるは、「今度
の合戦には、舟に逆櫓をたて候ばや」。判官「さか
ろとはなんぞ」。梶原「馬はかけんとおもへ【思へ】ば弓手
へも馬手へもまはしやすし。舟はきとをし【押し】もど
すが大事候。ともへ【艫舳】に櫓をたてちがへ、わいかぢ【脇楫】を
いれ【入れ】て、どなた【何方】へもやすうをす【押す】やうにし候ばや」と
申ければ、判官の給ひけるは、「いくさ【軍】といふ
物はひとひき【一引】もひか【引か】じとおもふ【思ふ】だにも、あはひ【間】あし
P11010
ければひく【引く】はつねの習なり。もとよりにげま
うけ【逃げ設け】してはなんのよかるべきぞ。まづ門でのあし
さ【悪しさ】よ。さかろをたてうとも、かへさまろ【返様櫓】をたてうと
も、殿原の舟には百ちやう【梃】千ぢやう【梃】もたて給へ。
義経はもとのろ【櫓】で候はん」との給へば、梶原申
けるは、「よき大将軍と申は、かく【駆く】べき処をば
かけ、ひく【退く】べき処をばひいて、身をまたう【全う】し
てかたき【敵】をほろぼすをもてよき大将軍と
はする候。かたおもむき【片趣】なるをば、猪のしし武者
P11011
とてよきにはせず」と申せば、判官「猪のしし
鹿のししはしら【知ら】ず、いくさ【軍】はただひらぜめ【平攻め】にせめ
てか【勝つ】たるぞ心地はよき」との給へ【宣へ】ば、侍共梶原
におそれ【恐れ】てたかく【高く】はわらは【笑は】ねども、目ひき【引き】は
な【鼻】ひきぎぎめきあへ【合へ】り。判官と梶原と、す
でに同士いくさ【同士軍】あるべしとざざめきあへ【合へ】り。や
うやう日くれ夜に入ければ、判官の給ひけ
るは、「舟の修理してあたらしうなたるに、おの
おの【各々】一種一瓶してゆはひ給へ、殿原」とて、いと
P11012
なむ様にて[* 「にで」と有るのを他本により訂正]舟に物の具いれ【入れ】、兵粮米つみ、馬
どもたてさせて、「とくとく【疾く疾く】つかまつれ」との給ひ
ければ、水手梶取申けるは、「此風はおい手【追手】に
て候へども、普通にすぎたる風で候。奥はさぞ
ふい【吹い】て候らん。争か仕候べき」と申せば、判官
おほき【大き】にいかての給ひけるは、「野山のすへ【末】
にてしに、海河のそこにおぼれてうするも、
皆これせんぜのしゆくごう【宿業】也。海上にいでうかふ【浮う】
だる時風こわき【強き】とていかがする。むかひ風【向ひ風】にわた
P11013
らんといはばこそひが事【僻事】ならめ、順風なるが
すこし【少し】すぎたればとて、是程の御大事にい
かでわたらじとは申ぞ。舟つかまつらずは、一々
にしやつばら射ころせ」と下知せらる。奥州の
佐藤三郎兵衛嗣信・伊勢三郎義盛、片手
矢はげ、すすみ出て、「何条子細を申ぞ。御ぢや
うであるにとくとく仕れ。舟仕らずは一々に射
ころさ【殺さ】んずるぞ」といひければ、水手梶取是
をきき、「射ころさ【殺さ】O[BH れ]んもおなじ事、風こはくは、ただ
P11014
はせじに【馳せ死に】にしねや、物共」とて、二百余艘の舟
のなかに、ただ五艘いで【出で】てぞはしり【走り】ける。のこり
の船はかぜ【風】におそるるか、梶原におづるかして、
みなとどまりぬ。判官の給ひけるは、「人のいで【出で】
ねばとてとどまるべきにあらず。ただの時はか
たき【敵】も用心すらむ。かかる大風大浪に、思ひ
もよらぬ時にをし【押し】よせ【寄せ】てこそ、おもふ【思ふ】かたき
をばうた【討た】んずれ」とぞの給ひける。五艘の舟
と申は、まづ判官の舟、田代冠者、後藤兵衛
P11015
父子、金子兄弟、淀の江内忠俊とてふな奉行【舟奉行】
のの【乗つ】たる舟也。判官の給ひけるは、「おのおの【各々】の
舟に、篝なともひ【点い】そ。義経が舟をほん【本】舟
として、ともへのかがりをまぼれ【守れ】や。火かずお
ほく【多く】見えば、かたき【敵】おそれ【恐れ】て用心してんず」と
て、夜もすがらはしる【走る】程に、三日にわたる処をた
だ三時ばかりにわたりけり。二月十六日の丑剋
に、渡辺・福島をいで【出で】て、あくる卯の時に阿波
『勝浦付大坂越』S1102
の地へこそふき【吹き】つけ【着け】たれ。○夜すでにあけけ
P11016
れば、なぎさに赤旗少々ひらめいたり。判官こ
れ【是】を見て「あはや我等がまうけ【設】はしたりけるは。
舟ひらづけ【平着け】につけ、ふみかたぶけ【傾け】て馬おろ
さむとせば、かたき【敵】の的になてゐ【射】られなんず。
なぎさにつかぬさきに、馬どもおひ【追ひ】おろし
おひ【追ひ】おろし、舟にひき【引き】つけひき【引き】つけおよが【泳が】
せよ。馬の足だち【足立】、鞍づめ【鞍爪】ひたる【浸る】程にならば、
ひたひたとの【乗つ】てかけよ、物共」とぞ下知せられ
ける。五艘の舟に物の具いれ【入れ】、兵粮米つんだり
P11017
ければ、馬ただ五十余疋ぞたてたりける。なぎ
さちかく【近く】なりしかば、ひたひたとうちの【乗つ】て、おめい【喚い】て
かくれば、なぎさに百騎ばかりあり【有り】ける物共、
O[BH しばしも]こらへず、二町ばかりざとひいてぞのきにける。
判官みぎはにう【打つ】た【立つ】て、馬のいき【息】やすめ【休め】て
おはしけるが、伊勢三郎義盛をめし【召し】て、「あの勢
のなかにしかる【然る】べい物やある。一人めし【召し】てまいれ【参れ】。
たづぬべき事あり」との給へ【宣へ】ば、義盛畏てう
け給はり【承り】、只一騎かたき【敵】のなかへかけいり、なに
P11018
とかいひ【言ひ】たりけん、とし四十ばかりなる男の、黒
皮威の鎧きたるを、甲をぬがせ、弓の弦はづ
さ【外さ】せて、具してまいり【参り】たり。判官「なに物【何者】ぞ」との
給へ【宣へ】ば、「当国の住人、坂西の近藤六親家」と申。
「なに家でもあらばあれ、物の具なぬがせそ。やが
て八島の案内者に具せんずるぞ。其男に
目はなつ【放つ】な。にげてゆかばゐ【射】ころせ、物共」とぞ
下知せられける。「ここをばいづくといふぞ」ととは【問は】れ
ければ、「かつ浦と申候」。判官わら【笑つ】て「色代な」と
P11019
の給へ【宣へ】ば、「一定勝浦候。下臈の申やすひについて、
かつらと申候へども、文字には勝浦と書て候」と
申す。判官「是きき給へ、殿原。いくさ【軍】しにむかふ【向ふ】
義経が、かつ浦につく目出たさよ。此辺に平
家のうしろ矢ゐ【射】つべい物はないか」。「阿波民部
重能がおとと【弟】、桜間の介能遠とて候」。「いざ、さらば
け【蹴】ちらし【散らし】てとをら【通ら】ん」とて、近藤六が勢百騎ば
かりがなかより、卅騎ばかりすぐりいだいて、我せ
い【勢】にぞ具せられける。能遠が城にをし【押し】よせ【寄せ】て
P11020
見れば、三方はぬま【沼】、一方は堀なり。堀のかたよりを
し【押し】よせ【寄せ】て、時をどとつくる。城のうち【内】のつは物【兵】共、
矢さき【矢先】をそろへてさしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さんざん【散々】に
ゐる【射る】。源氏の兵是を事ともせず、甲のしころを
かたぶけ【傾け】、おめき【喚き】さけん【叫ん】でせめ【攻め】入ければ、桜間
の介かなは【叶は】じとやおもひけむ、家子郎等にふ
せき矢【防き矢】ゐ【射】させ、我身は究竟の馬をもたりけ
れば、うちの【乗つ】て希有にして落にけり。判官ふせ
き矢【防き矢】ゐ【射】ける兵共廿余人が頸きりかけて、いくさ
P11021
神【軍神】にまつり、悦の時をつくり、「門でよし」とぞの給
ひける。判官近藤六親家をめし【召し】て、「八島には平
家のせい【勢】いか程あるぞ」。「千騎にはよもすぎ候は
じ」。「などすくなひ【少い】ぞ」。「かくのごとく四国の浦々島々に
五十騎、百騎づつさしをか【置か】れて候。其うへ阿波民
部重能が嫡子田内左衛門教能は、河野四郎
がめせ【召せ】どもまいら【参ら】ぬをせめ【攻め】んとて、三千余騎で伊
与【*伊予】へこえて候」。「さてはよいひまごさんなれ。是より
八島へはいかほど【程】の道ぞ」。「二日路で候」。「さらばかたき【敵】の
P11022
きか【聞か】ぬさきによせよや」とて、かけ足になつ、あゆ
ま【歩ま】せつ、はせつ、ひかへつ、阿波と讃岐とのさかゐ【境】
なる大坂ごえ【大坂越え】といふ山を、夜もすがらこそこえ【越え】ら
れけれ。夜半ばかり、判官たてぶみ【立文】もたる男に
ゆきつれて、物語し給ふ。この男よるの事では
あり、かたき【敵】とは夢にもしら【知ら】ず、みかた【御方】の兵共の
八島へまいる【参る】とおもひけるやらん、うちとけてこま
ごまと物語をぞ申ける。「そのふみ【文】はいづくへぞ」。
「八島のおほい【大臣】殿へまいり【参り】候」。「たがまいらせ【参らせ】らるる
P11023
ぞ」。「京より女房のまいらせ【参らせ】られ候」。「なに事なるらん」
との給へ【宣へ】ば、「別の事はよも候はじ。源氏すでに淀
河尻にいで【出で】うかう【浮う】で候へば、それをこそつげ申され候
らめ」。げにさぞあるらん。是も八島へまいる【参る】が、いまだ案
内をしらぬに、じんじよ【尋所】[B 尋承]せよ」との給へ【宣へ】ば、「これ【是】はたび
たびまい【参つ】て候間、案内は存知して候。御共仕らん」と
申せば、判官「そのふみ【文】とれ」とてふみ【文】ばい【奪ひ】とらせ、「し
やつからめよ。罪つくりに頸なきそ」とて、山なかの
木にしばりつけてぞとほら【通ら】れける。さてふみ【文】を
P11024
あけて見給へば、げにも女房のふみ【文】とおぼしく
て、「九郎はすすどきおのこ【男】にてさぶらふ【候ふ】なれば、大風
大浪をもきらはず、よせさぶらふ【候ふ】らんとおぼえ
さぶらふ。勢どもちらさ【散らさ】で用心せさせ給へ」とぞ
かか【書か】れたる。判官「是は義経に天のあたへ給ふ
文なり。鎌倉殿に見せ申さん」とて、ふかう【深う】お
さめ【納め】てをか【置か】れけり。あくる十八日の寅の刻に、讃
岐国ひけ田【引田】といふ処にうちおりて、人馬のいき
をぞやすめける。それより丹生屋・白鳥、うち過ぎ
P11025
うち過ぎ、八島の城へよせ給ふ。又近藤六親家をめ
し【召し】て、「八島のたち【館】のやう【様】はいかに」ととひ給へば、
「しろしめさ【知ろし召さ】ねばこそ候へ、無下にあさまに候。塩の
ひ【干】て候時は、陸と島の間は馬の腹もつかり候
はず」と申せば、「さらばやがてよせよや」とて、高松
の在家に火をかけて、八島の城へよせ給ふ。八
島には、阿波民部重能が嫡子田内左衛門教能、河
野四郎がめせどもまいら【参ら】ぬをせめ【攻め】んとて、三千余
騎で伊与【*伊予】へこえたりけるが、河野をばうち【討ち】もらし【洩らし】て、
P11026
家子郎等百五十余人が頸きて、八島の内裏へまい
らせ【参らせ】たり。「内裏にて賊首の実検せられん事
然るべからず」とて、大臣殿の宿所にて実検せら
る。百五十六人が首也。頸ども実検しける処に、物
共、「高松のかたに火いで【出で】き【来】たり」とてひしめきあへ【合へ】
り。「ひるで候へば、手あやまちではよも候はじ。かた
き【敵】のよせて火をかけたると覚候。さだめて【定めて】大ぜ
い【大勢】でぞ候らん。とりこめられてはかなう【叶ふ】まじ。とうとう【疾う疾う】め
され候へ」とて、惣門の前のなぎさに舟どもつけ
P11027
ならべたりければ、我も我もとのり給ふ。御所の御舟
には、女院・北の政所・二位殿以下の女房達めされけり。
大臣殿父子は、ひとつ【一つ】舟にのり給ふ。其外の人々
思ひ思ひにとりの【乗つ】て、或は一町ばかり、或は七八段、五
六段などこぎいだしたる処に、源氏のつは物ども、
ひた甲【直甲】七八十騎、惣門のまへのなぎさにつとい
で【出で】き【来】たり。塩ひがた【潮干潟】の、おりふし【折節】塩ひるさかりなれ
ば、馬のからすがしら【烏頭】、ふと腹にたつ処もあり【有り】。それ
よりあさき処もあり【有り】。け【蹴】あぐる【上ぐる】しほ【潮】のかすみと
P11028
ともにしぐらうだるなかより、白旗ざとさし【差し】あげ【上げ】た
れば、平家は運つきて、大勢とこそ見てんげれ。
判官かたき【敵】に小勢と見せじと、五六騎、七八騎、十
『嗣信最期』S1103
騎ばかりうちむれうちむれいできたり。○九郎大夫判官、
其日の装束には、赤地の錦の直垂に、紫すそ
ごの鎧きて、こがねづくりの太刀をはき、きりふ【切斑】
の矢をひ【負ひ】、しげどう【滋籐】の弓のまなか【真ん中】とて、舟のかたを
にらまへ【睨まへ】、大音声をあげて、「一院の御使、検非違
使五位尉源義経」となのる【名乗る】。其次に、伊豆国の住人
P11029
田代冠者信綱、武蔵国の住人金子十郎家忠、
同与一親範、伊勢三郎義盛とぞ名の【名乗つ】たる。つづゐ【続い】
て名のるは、後藤兵衛実基、子息の新兵衛基
清、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信、同四郎兵衛忠信、江
田の源三、熊井太郎、武蔵房弁慶と、声々に名の【名乗つ】
て馳来る。平家の方には「あれゐ【射】とれや」とて、或は
とを矢【遠矢】にゐる【射る】舟もあり、或はさし矢にゐる【射る】舟もあり、
源氏のつは物ども、弓手になしてはゐ【射】てとほり【通り】、馬手
になしてはゐ【射】てとほり【通り】、あげをい【置い】たる舟のかげ【陰】を、馬
P11030
やすめ処【馬休め処】にして、おめき【喚き】さけん【叫ん】でせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。後藤兵
衛実基は、ふるつは物【古兵】にてあり【有り】ければ、いくさ【軍】をば
せず、まづ内裏にみだれ【乱れ】いり、手々に火をはな【放つ】て片
時の烟とやきはらふ。おほいとの【大臣殿】、侍どもをめし【召し】て、「抑
源氏が勢いか程あるぞ」。「当時わづかに七八十騎こ
そ候らめ」と申。「あな心うや。髪のすぢを一すぢ
づつわけてとるとも、此勢にはたるまじかりける
物を。なかにとりこめてうたずして、あはて【慌て】て舟に
の【乗つ】て、内裏をやかせつる事こそやすからね。能登
P11031
殿はおはせぬか。陸へあが【上がつ】てひといくさ【軍】し給へ」。「さう
け給【承り】候ぬ」とて、越中次郎兵衛盛次【*盛嗣】をあひ【相】具
して、小舟共にとりの【乗つ】て、やきはらひ【払ひ】たる惣門の
前のなぎさに陣をとる。判官八十余騎、矢ごろ
によせ【寄せ】てひかへたり。越中次郎兵衛盛次【*盛嗣】、舟のお
もてに立いで、大音声をあげて申けるは、「名の
られつるとはきき【聞き】つれども、海上はるかにへだたて、
その【其の】仮名実名分明ならず。けふの源氏の大将軍
は誰人でおはしますぞ」。伊勢三郎義盛あゆま【歩ま】
P11032
せいで【出で】て申けるは、「こともおろかや、清和天皇十代
の御末、鎌倉殿の御弟、九郎大夫判官殿ぞかし」。
盛次【*盛嗣】「さる事あり【有り】。一とせ【年】平治の合戦に、ちち【父】うた【討た】れ
てみなし子にてありしが、鞍馬の児して、後には
こがね商人の所従になり、粮料せをう【背負う】て奥州へ
おち【落ち】まどひし小冠者が事か」とぞ申たる。義盛
「舌のやはらかなるままに、君の御事な申そ。さて
わ人どもは砥浪山のいくさ【軍】におい【追ひ】おとさ【落さ】れ、からき
命いきて北陸道にさまよひ、乞食してなくなく【泣く泣く】
P11033
京へのぼり【上り】たりし物か」とぞ申ける。盛次【*盛嗣】かさね【重ね】
て申けるは、「君の御恩にあきみちて、なんの
不足にか乞食をばすべき。さいふわ人共こそ、
伊勢の鈴鹿山にて山だち【山賊】して、妻子をもや
しなひ、わが【我が】身もすぐる【過ぐる】とはききしか」といひ
ければ、金子の十郎家忠「無益の殿原の雑言
かな。われも人も空言いひ【言ひ】つけ【付け】て雑言せんに
は、誰かはおとるべき。去年の春、一の谷で、武蔵・相
模の若殿原の手なみの程は見てん物を」と
P11034
申処におとと【弟】の与一そばにあり【有り】けるが、いはせも
はてず、十二束二ぶせ、よぴい【引い】てひやうどはなつ【放つ】。盛
次【*盛嗣】が鎧のむないたに、うらかく程にぞたたりける。
其後は互に詞だたかひ【詞戦ひ】とまりにけり。能登守教
経「ふないくさ【舟軍】は様ある物ぞ」とて、よろい直垂は
き【着】給はず、唐巻染の小袖に唐綾威の鎧きて、
いか物づくりの大太刀はき、廿四さいたるたかうす
べう【鷹護田尾】の矢をひ【負ひ】、しげどう【滋籐】の弓をもち給へり。王
城一のつよ弓【強弓】せい兵【精兵】にておはせしかば、矢さき【矢先】に
P11035
まはる物、い【射】とほさ【通さ】れずといふ事なし。なかにも九
郎大夫判官をゐ【射】おとさ【落さ】むとねらはれけれども、
源氏の方にも心得て、奥州の佐藤三郎兵衛
嗣信・同四郎兵衛忠信・伊勢三郎義盛・源八広
綱・江田源三・熊井太郎・武蔵房弁慶などいふ一
人当千の兵ども、われ【我】もわれ【我】もと、馬のかしら【頭】をたてなら
べて大将軍の矢おもてにふさがりければ、ちか
らおよび【及び】給はず、「矢おもての雑人原そこのき
候へ」とて、さしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さんざん【散々】にゐ【射】給へば、やに
P11036
はに鎧武者十余騎ばかりゐ【射】おとさ【落さ】る。なかにもま
さきにすすむだる奧州の佐藤三郎兵衛が、
弓手の肩を馬手の脇へつとゐ【射】ぬか【貫か】れて、しばし
もたまらず、馬よりさかさまにどうどおつ。能登殿
の童に菊王といふ大ぢから【大力】のかう【剛】の物あり【有り】。萌
黄おどしの腹巻に、三枚甲の緒をしめて、白柄の
長刀のさやをはづし【外し】、三郎兵衛が頸をとらんと
はしり【走り】かかる。佐藤四郎兵衛、兄が頸をとらせじ
とよぴいてひやうどゐる【射る】。童が腹巻のひきあは
P11037
せ【引き合はせ】をあなたへつとゐ【射】ぬか【貫か】れて、犬居にたふれ【倒れ】ぬ。能登
守これ【是】を見て、いそぎ舟よりとんでおり、左の手
に弓をもちながら、右の手で菊王丸をひ【引つ】さげて、
舟へからりとなげられたれば、かたきに頸はとら
れねども、いた手【痛手】なればしに【死に】にけり。これ【是】はもと
越前の三位の童なりしが、三位うたれて後、お
とと【弟】の能登守につかは【使は】れけり。生年十八歳にぞ
なりける。この童をうたせてあまりにあはれ【哀】にお
もは【思は】れければ、其後はいくさ【軍】もし給はず。判官は佐
P11038
藤三郎兵衛を陣のうしろへかきいれ【入れ】させ、馬よ
りおり、手をとらへて、「三郎兵衛、いかがおぼゆる【覚ゆる】」
との給へ【宣へ】ば、いき【息】のしたに申けるは、「いまはかうと存
候」。「おもひ【思ひ】をく【置く】事はなきか」との給へ【宣へ】ば、「なに事をか
おもひ【思ひ】をき【置き】候べき。君の御世にわたらせ給はん
を見まいらせ【参らせ】で、死に候はん事こそ口惜覚候へ。
さ候はでは、弓矢とる物の、かたき【敵】の矢にあたて
しなん事、もとより期する処で候也。就中に
「源平の御合戦に、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信
P11039
といひける物、讃岐国八島のいそにて、しう【主】の御命
にかはりたてま【奉つ】てうた【討た】れにけり」と、末代の物語に
申さ〔れ〕む事こそ、弓矢とる身O[BH に]は今生の面目、冥
途の思出にて候へ」と申もあへ【合へ】ず、ただよはり【弱り】によはり【弱り】
にければ、判官涙をはらはらとながし、「此辺にたと
き僧やある」とて、たづね【尋ね】いだし、「手負のただいま
おち【落ち】いるに、一日経かいてとぶらへ」とて、黒き馬のふ
とう【太う】たくましゐ【逞しい】に、きぶくりん【黄覆輪】の鞍おい【置い】て、かの
僧にたびにけり。判官五位尉になられし時、五位
P11040
になして、大夫黒とよばれし馬也。一の谷のひへ鳥
ごえ【鵯越】をもこの馬にてぞおとさ【落さ】れたりける。弟の四
郎兵衛をはじめとして、これ【是】を見るつは物共みな【皆】
涙をながし、「此君の御ために命をうしなは【失は】ん事、ま
『那須与一』S1104
たく露塵程もおしから【惜しから】ず」とぞ申ける。○さる程
に、阿波・讃岐に平家をそむいて、源氏をまち【待ち】け
る物ども、あそこの峯、ここの洞より、十四O[BH 五]騎、廿騎、
うち【打ち】つれ【連れ】うち【打ち】つれ【連れ】まいり【参り】ければ、判官ほど【程】なく
三百余騎にぞなりにける。「けふは日くれぬ、勝負
P11041
を決すべからず」とて引退く処に、おきの方より
尋常にかざたる小舟一艘、みぎはへむい【向い】てこぎ
よせけり。磯へ七八段ばかりになりしかば、舟をよ
こさまになす。「あれはいかに」とみる【見る】程に、舟のうち
よりよはひ十八九ばかりなる女房の、まこと【誠】にゆう【優】
にうつくしきが、柳のいつつぎぬ【五衣】に、くれなゐ【紅】の
はかま【袴】きて、みな紅の扇の日いだし【出し】たるを、舟
のせがい【船竅zにはさみ【鋏み】たてて、陸へむひ【向い】てぞまねひ【招い】
たる。判官、後藤兵衛実基をめして、「あれはいか
P11042
に」との給へ【宣へ】ば、「ゐよ【射よ】とにこそ候めれ。ただし【但し】大将軍
矢おもてにすすむ【進む】で、傾城を御らんぜば、手たれ
にねらうてゐ【射】おとせ【落せ】とのはかり事【策】とおぼえ候。さも
候へ、扇をばゐ【射】させらるべうや候らん」と申。「ゐ【射】つべ
き仁はみかた【御方】に誰かある」との給へ【宣へ】ば、「上手ども
いくらも候なかに、下野国の住人、那須太郎資
高が子に、与一宗高こそ小兵で候へども、手きき【手利】で
候へ」。「証拠はいかに」との給へ【宣へ】ば、「かけ鳥などをあらが
うて、三に二は必ずゐ【射】おとす物で候」。「さらばめせ」
P11043
とてめされたり。与一其比は廿ばかりのおのこ【男】也。
かち【褐】に、あか地の錦をもておほくび【大領】はた袖【端袖】い
ろえ【彩へ】たる直垂に、萌黄をどし【萌黄縅】の鎧きて、足じ
ろの太刀をはき、きりふ【切斑】の矢の、其日のいく
さ【軍】にゐ【射】て少々のこたりけるを、かしらだかにおひ
なし、うすぎりふ【薄切斑】に鷹の羽はぎまぜたるぬた目
のかぶら【鏑】をぞさしそへたる。しげどう【滋籐】の弓脇に
はさみ【鋏み】、甲をばぬぎたかひもにかけ、判官の
前に畏る。「いかに宗高、あの扇のまなか【真ん中】ゐ【射】て、平
P11044
家に見物せさせよかし」。与一畏て申けるは、「ゐ【射】おほ
せ候はむ事ふ定【不定】に候。ゐ【射】損じ候なば、ながきみ
かた【御方】の御きずにて候べし。一定つかまつらんず
る仁に仰付らるべうや候らん」と申。判官大に
いかて、「鎌倉をたて西国へおもむか【赴か】ん殿原は、
義経が命をそむくべからず。すこし【少し】も子細を存
ぜん人は、とうとう是よりかへらるべし」とぞの
給ひける。与一かさねて辞せばあしかり【悪しかり】なんと
や思けん、「はづれんはしり【知り】候はず、御定で候へば、
P11045
つかまてこそみ【見】候はめ」とて、御まへを罷立。黒
き馬のふとう【太う】たくましゐ【逞しい】に、小ぶさの鞦かけ、
まろぼやすたる鞍おい【置い】てぞの【乗つ】たりける。弓とり
なをし【直し】、手綱かいくり【繰り】、みぎはへむひてあゆま【歩ま】せ
ければ、みかた【御方】の兵共うしろをはるかに見をく【送つ】て、
「この【此の】わかもの【若者】一定つかまつり候ぬと覚候」と申け
れば、判官もたのもしげ【頼もし気】にぞ見給ひける。矢
ごろすこし【少し】とをかり【遠かり】ければ、海へ一段ばかりうちい
れ【入れ】たれども、猶扇のあはひ七段ばかりはあるらむと
P11046
こそ見えたりけれ。ころ【比】は二月十八日の酉刻ばか
りの事なるに、おりふし【折節】北風はげしくて、磯うつ
浪もたかかりけり。舟はゆりあげゆりすゑただ
よへば、扇もくしにさだまら【定まら】ずひらめいたり。おき
には平家舟を一面にならべて見物す。陸に
は源氏くつばみをならべて是をみる【見る】。いづれも
いづれも晴ならずといふ事ぞなき。与一目をふさ
いで、「南無八幡大菩薩、我国の神明、日光権現
宇都宮、那須のゆぜん【湯泉】大明神、願くはあの
P11047
扇のまなか【真ん中】ゐ【射】させてたばせ給へ。これ【是】をゐ【射】そん
ずる物ならば、弓きりおり【折り】自害して、人に二た
び【二度】面をむかふ【向ふ】べからず。いま一度本国へむかへ【向へ】ん
とおぼしめさ【思し召さ】ば、この矢はづさ【外さ】せ給ふな」と、心
のうちに祈念して、目を見ひらひ【開い】たれば、風も
すこし【少し】吹よはり【弱り】、扇もゐ【射】よげにぞなたりける。
与一鏑をとてつがひ、よぴいてひやうどはなつ【放つ】。小
兵といふぢやう十二束三ぶせ、弓はつよし、浦ひ
びく程ながなり【長鳴】して、あやまたず扇のかなめぎ
P11048
は【要際】一寸ばかりをいて、ひふつとぞゐ【射】きたる。鏑は海へ
入ければ、扇は空へぞあがり【上がり】ける。しばしは虚空に
ひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、
海へさとぞち【散つ】たりける。夕日のかかやい【輝い】たるに、
みな紅の扇の日いだしたるが、しら浪【白波】のうへ【上】にただ
よひ、うきぬしづみぬゆられければ、奥には平家
ふなばたをたたいて感じたり、陸には源氏ゑび
『弓流』S1105
ら【箙】をたたいてどよめきけり。○あまりの面白さに、感
にたへ【堪へ】ざるにやとおぼしくて、舟のうちよりとし
P11049
五十ばかりなる男の、黒革おどしの鎧きて、白柄
の長刀もたるが、扇たてたりける処にたて
まひ【舞ひ】しめ[B 「しめ」に「スマシイ」と傍書]たり。伊勢三郎義盛、与一がうしろへあ
ゆま【歩ま】せよ【寄つ】て、「御定ぞ、つかまつれ」といひければ、
今度はなかざし【中差】とてうちくはせ【銜はせ】、よぴい【引い】てしや
くび【頸】の骨をひやうふつとゐ【射】て、ふなぞこ【船底】へ
さかさま【逆様】にゐ【射】たをす【倒す】。平家のかた【方】には音もせず、
源氏のかた【方】には又ゑびら【箙】をたたいてどよめきけ
り。「あ、ゐ【射】たり」といふ人もあり、又「なさけなし」といふ
P11050
ものもあり【有り】。平家これをほい【本意】なしとやおもひ【思ひ】けん、
楯つい【突い】て一人、弓もて一人、長刀もて一人、武者三人
なぎさにあがり【上がり】、楯をついて「かたき【敵】よせよ【寄せよ】」とぞま
ねひ【招い】たる。判官「あれ、馬づよ【馬強】ならん若党ども、は
せ【馳せ】よせ【寄せ】てけ【蹴】ちらせ」との給へ【宣へ】ば、武蔵国の住人、
みをの屋の【三穂屋の】四郎・同藤七・同十郎、上野国の住人
丹生の四郎、信乃【信濃】国の住人木曾の中次、五騎つ
れておめい【喚い】てかく。楯のかげ【陰】よりぬりの【塗篦】にくろぼろ【黒母衣】
はい【矧い】だる大の矢をもて、まさきにすすん【進ん】だるみを
P11051
の屋の【三穂屋の】十郎が馬の左のむながひづくしを、ひやう
づばとゐ【射】て、はず【筈】のかくるる【隠るる】ほど【程】ぞゐ【射】こう【込う】だる。屏
風をかへす【返す】様に馬はどうどたふるれ【倒るれ】ば、主は馬
手の足をこえ【越え】て弓手の方へおりたて、やがて太
刀をぞぬい【抜い】たりける。たて【楯】のかげより大長刀うち
ふてかかりければ、みをの屋の【三穂屋の】十郎、小太刀大長
刀にかなは【叶は】じとや思けむ、かいふい【伏い】てにげ【逃げ】ければ、や
がて【軈】つづいてお【追つ】かけ【掛け】たり。長刀でなが【薙が】んずるかとみ〔る〕【見る】
処に、さはなくして、長刀をば左の脇にかいはさみ、
P11052
右の手をさしのべて、みをの屋の【三穂屋の】十郎が甲の
しころをつかま【掴ま】んとす。つかま【掴ま】れじとはしる【走る】。三度
つかみはづい【外い】て、四度のたび【度】むずとつかむ。し
ばしぞたまて[* 下欄に「勘」と注記]見えし、鉢つけ【鉢付】のいた【板】よりふつと
ひつ【引つ】き【切つ】てぞにげ【逃げ】たりける。のこり四騎は、馬をを
しう【惜しう】でかけず、見物してこそゐたりけれ。みをの
屋の【三穂屋の】十郎は、みかた【御方】の馬のかげににげ【逃げ】入て、いき【息】づ
きゐたり。かたき【敵】はおう【追う】てもこ【来】で、長刀杖につき、
甲のしころをさし【差し】あげ【上げ】、大音声をあげて、「日ごろ
P11053
は音にもききつらん、いまは目にも見給へ。これ【是】こそ京
わらんべのよぶなる上総の悪七兵衛景清よ」となの
り【名乗り】すて【捨て】てぞかへりける。平家これ【是】に心地なをし【直し】て、
「悪七兵衛うた【討た】すな。つづけや物共」とて、又二百余人
なぎさにあがり【上がり】、楯をめん鳥羽【雌鳥羽】につきならべて、
「かたき【敵】よせよ【寄せよ】」とぞまねひ【招い】たる。判官これ【是】をみ【見】て、
「やすからぬ事なり」とて、後藤兵衛父子、金子兄
弟をさきにたて、奥州の佐藤四郎兵衛・伊勢[B ノ]
三郎を弓手馬手にたて、田代の冠者をうしろに
P11054
たてて、八十余騎おめい【喚い】てかけ給へば、平家の兵物
ども馬にはのらず、大略かち武者【徒武者】にてあり【有り】けれ
ば、馬にあて【当て】られじとひき【引き】しりぞひ【退い】て、みな舟へ
ぞのりにける。楯は算をちらし【散らし】たる様にさむざむ【散々】に
け【蹴】ちらさ【散らさ】る。源氏のつは物【兵】共、勝にの【乗つ】て、馬のふと
腹ひたる【浸る】程にうち【打ち】いれ【入れ】てせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。判官ふか
入【深入り】してたたかふ【戦ふ】ほど【程】に、舟のうちより熊手をもて、
判官の甲のしころにからりからりと二三度までう
ちかけけるを、みかた【御方】の兵共、太刀長刀でうちの
P11055
けうちのけしける程に、いかがしたりけむ、判官弓をかけ
おとさ【落さ】れぬ。うつぶして鞭をもてかきよせて、とらう
とらうどし給へば、兵共「ただすてさせ給へ」と申けれ
ども、つゐに【遂に】とて、わらう【笑う】てぞかへられける。おとな
どもつまはじき【爪弾き】をして、「口惜き御事候かな、たと
ひ千疋万疋にかへさせ給べき御たらしなりとも、
争か御命にかへさせ給べき」と申せば、判官「弓
のおしさ【惜しさ】にとら【取ら】ばこそ。義経が弓といはば、二人し
てもはり【張り】、若は三人してもはり【張り】、おぢの為朝が弓の
P11056
様ならば、わざともおとし【落し】てとらすべし。■弱たる弓を
かたき【敵】のとりもて、「これ【是】こそ源氏の大将九郎義
経が弓よ」とて、嘲哢せんずるが口惜ければ、命に
かへてとるぞかし」との給へ【宣へ】ば、みな人これ【是】を感じ
ける。さる程に日くれ【暮れ】ければ、ひき【引き】しりぞひ【退い】て、むれ【牟礼】
高松のなかなる野山に陣をぞとたりける。源氏
のつは物【兵】共この三日が間はふさ【臥さ】ざりけり。おととひ【一昨日】
渡辺・福島をいづる【出づる】とて、其夜大浪にゆられてまど
ろまず。昨日阿波[B ノ]国勝浦にていくさ【軍】して、夜もすがら
P11057
なか山【中山】こえ【越え】、けふ又一日たたかひ【戦ひ】くらしたりければ、み
なつかれ【疲れ】はてて、或は甲をまくら【枕】にし、或は鎧の袖、
ゑびら【箙】など枕にして、前後もしら【知ら】ずぞふし【臥し】たり
ける。其なかに、判官と伊勢三郎はねざりけり。
判官はたかき【高き】O[BH 所] にのぼりあが【上がつ】て、敵やよする【寄する】ととを
見【遠見】し給へば、伊勢三郎はくぼき処にかくれゐて、かた
き【敵】よせ【寄せ】ば、まづ馬の腹ゐ【射】んとてまち【待ち】かけたり。平
家の方には、能登守を大将にて、其勢五百余騎、夜
討にせんとしたく【支度】したりけれども、越中次郎兵衛盛
P11058
次【*盛嗣】と海老次郎守方【*盛方】と先陣をあらそふ程に、其
夜はむなしう【空しう】あけにけり。夜討にだにもしたらば、
源氏なにかあらまし。よせ【寄せ】ざりけるこそせめての運
『志渡【*志度】合戦』S1106
のきはめなれ。○あけければ、平家舟にとりの【乗つ】て、
当国志度の浦へこぎしりぞく。判官三百余騎
がなか【中】より馬や人をすぐて、八十余騎追てぞかか
りける。平家是をみ【見】て、「かたき【敵】は小勢なり。なかに
とりこめてうてや」とて、又千余人なぎさにあがり、お
めき【喚き】さけん【叫ん】でせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。さる程に、八島にのこり【残り】
P11059
とどま【留まつ】たりける二百余騎のつは物共、おくればせ
に馳来る。平家これ【是】を見て、「すはや、源氏の大勢
のつづくは。なん【何】十万騎かあるらん。とりこめられては
かなふ【叶ふ】まじ」とて、又舟にとりの【乗つ】て、塩にひか【引か】れ、かぜ【風】に
したがて、いづくをさすともなくおち【落ち】ゆき【行き】ぬ。四国はみな
大夫判官におい【追ひ】おとさ【落とさ】れぬ。九国へは入られず。ただ
中有の衆生とぞ見えし。判官志度の浦におり
ゐて、頸ども実検しておはしけるが、伊勢三郎義
盛をめしての給ひけるは、「阿波[B ノ]民部重能が嫡子田
P11060
内左衛門教能は、河野四郎道信【*通信】がめせどもまいら【参ら】
ぬをせめ【攻め】んとて、三千余騎にて伊与【*伊予】へこえたりけるが、
河野をばうち【討ち】もらし【洩らし】て、家子郎等百五十人が頸きて、
昨日八島の内裏へまいらせ【参らせ】たりけるが、けふ是へつく
ときく。なんぢ【汝】ゆきむか【向つ】て、ともかうもこしらへて具
してまいれ【参れ】かし」との給ひければ、畏てうけ給はり【承り】、旗
一流給はてさすままに、其勢わづかに十六騎、みな
しら装束【白装束】にて馳むかふ【向ふ】。義盛、教能にゆきあふ【合う】たり。
白旗、赤旗、二町ばかりをへだててゆらへたり。伊勢[B ノ]
P11061
三郎義盛、使者をたてて申けるは、「これ【是】は源氏の
大将軍九郎大夫判官殿の御内に、伊勢三郎
義盛と申物で候が、大将に申べき事あて、是までま
かり【罷り】むか【向つ】て候。させるいくさ合戦のれう【料】でも候はね
ば、物の具もし候はず。弓矢ももたせ候はず。あ
け【明け】ていれ【入れ】させ給へ」と申ければ、三千余騎のつ
は物共なかをあけ【明け】てぞとほし【通し】ける。義盛、教能にう
ちならべて、「かつきき給てもあるらん。鎌倉殿の御
おとと【弟】九郎大夫判官殿、院宣をうけ給は【承つ】て西国
P11062
へむかは【向は】せ給て候が、一昨日阿波国かつ浦【勝浦】にて、御辺
の伯父、桜間の介うた【討た】れ給ひぬ。昨日八島によせ
て、御所内裏みなやき【焼き】はらひ【払ひ】、おほいとの父子いけ
どり【生捕り】にしたてまつり【奉り】、能登殿は自害し給ひぬ。
其外のきんだち、或はうちじに、或は海にいり【入り】
給ひぬ。余党のわづかにありつるは、志度の浦
にてみなうた【討た】れぬ。御辺のちち、阿波の民部殿は
降人にまいらせ【参らせ】給ひて候を、義盛があづかり【預り】たて
ま【奉つ】て候が、「あはれ、田内左衛門がこれ【是】をば夢にもしら
P11063
で、あすはいくさ【軍】してうた【討た】れまいらせ【参らせ】んずる
むざんさよ」と、夜もすがらなげき給ふがあまり
にいとをしくて、この【此の】事しらせたてまつら【奉ら】んとて、
これ【是】までまかり【罷り】むか【向つ】て候。そのうへは、いくさ【軍】してう
ちじに【討死】せんとも、降人にまい【参つ】てちち【父】をいま一度見
たてまつら【奉ら】んとも、ともかうも御へん【辺】がはからひ
ぞ」といひ【言ひ】ければ、田内左衛門きこゆる【聞ゆる】つは物な
れども、運やつきにけん、「かつきく事にすこし【少し】も
たがは【違は】ず」とて、甲をぬぎ弓の弦をはづい【外い】て、郎等
P11064
にもたす。大将がか様【斯様】にするうへ【上】は、三千余騎のつは
物どもみなかくのごとし。わづかに十六騎に具せら
れて、おめおめと降人にこそまいり【参り】けれ。「義盛が
はかり事【策】まこと【誠】にゆゆしかりけり」と、判官も感じ
給ひけり。やがて田内左衛門をば、物具めされて、
伊勢三郎にあづけらる。「さてあの勢どもはいかに」
との給へ【宣へ】ば、「遠国の物どもは、誰を誰とかおもひ【思ひ】
まいらせ【参らせ】候べき。ただ世のみだれをしづめて、国を
しろしめさ【知ろし召さ】んを君とせん」と申ければ、「尤しかる【然る】べし」とて、
P11065
三千余騎をみな我勢にぞ具せられける。同廿
二日の辰刻ばかり、渡辺にのこりとどま【留まつ】たりける二
百余艘の舟ども、梶原をさきとして、八島の磯に
ぞつきにける。「西国はみな九郎大夫判官にせ
めおとさ【落さ】れぬ。いま【今】はなんのようにか逢べき。会
にあはぬ花、六日の菖蒲、いさかひ【争ひ】はて【果て】てのちぎ
りき【乳切り木】かな」とぞわらひ【笑ひ】ける。判官都をたちたま
ひ【給ひ】て後、住吉の神主長盛、院の御所へまい【参つ】て、
大蔵卿康経[B ノ]【*泰経】朝臣をもて奏聞しけるは、「去十六日
P11066
の丑刻に、当社第三の神殿より鏑矢の声いで【出で】て、
西をさしてまかり【罷り】候ぬ」と申ければ、法皇大に御
感あて、御剣以下、種々の神宝等を長盛して大
明神へまいらせ【参らせ】らる。むかし神功皇后、新羅をせめ【攻め】
給ひし時、伊勢大神宮より二神のあらみさ
きをさしそへさせ給ひけり。二神御舟のともへ【艫舳】に
立て、新羅をやすくせめ【攻め】おとさ【落さ】れぬ。帰朝の後、
一神は摂津国住吉のこほり【郡】にとどまり給ふ。住
吉の大明神の御事也。いま一神は信濃国諏防【*諏訪】の
P11067
こほりに跡を垂る。諏防【*諏訪】の大明神是也。昔の征
伐の事をおぼしめし【思し召し】わすれず、いまも朝の怨敵
をほろぼし給べきにやと、君も臣もたのもしう【頼もしう】
『鶏合壇浦合戦』S1107
ぞおぼしめされける。○さる程に、九郎大夫判官義
経、周防の地におしわた【渡つ】て、兄の参川【*三河】守とひとつに
なる。平家は長門国ひく島【引島】にぞつきにける。源
氏阿波[B ノ]国勝浦について、八島のいくさ【軍】にうちか
ちぬ。平家ひく島【引島】につくときこえ【聞え】しかば、源氏は
同国のうち【内】、おい津【追津】につくこそふしぎ【不思議】なれ。熊野
P11068
別当湛増は、平家へやまいる【参る】べき、源氏へやまいる【参る】
べきとて、田なべ【田辺】の新熊野にて御神楽奏
して、権現に祈誓したてまつる【奉る】。白旗につけと御
たくせん【詫宣】有けるを、猶うたがひをなして、白[B イ]鶏七[B ツ]
赤き鶏七つ、これ【是】をもて権現の御まへにて勝負
をせさす。赤きとり一もかたず。みなまけ【負け】てにげ
にけり。さてこそ源氏へまいら【参ら】んとおもひ【思ひ】さだめ
けれ。一門の物どもあひ【相ひ】もよをし【催し】、都合其勢二千
余人、二百余艘の舟にのりつれて、若王子の
P11069
御正体を舟にのせ【乗せ】まいらせ【参らせ】、旗のよこがみ【横上】には、
金剛童子をかきたてま【奉つ】て、檀【*壇】の浦へよする【寄する】を
見て、源氏も平氏もともにおがむ。されども源
氏の方へつきければ、平家けう【興】さめ【醒め】てぞ
おもはれける。又伊与【*伊予】国の住人、河野四郎道信【*通信】、
百五十艘の兵船にのりつれ【連れ】てこぎ来り、源氏
とひとつ【一つ】になりにけり。判官かたがた【旁々】たのもしう【頼もしう】ち
から【力】つい【付い】てぞおもは【思は】れける。源氏の舟は三千余艘、
平家の舟は千余艘、唐船せうせう【少々】あひまじれり。
P11070
源氏のせい【勢】はかさなれ【重なれ】ば、平家のせいは落ぞゆく。
元暦二年三月廿四日の卯刻に、O[BH 豊前[B ノ]国]門司赤間の関にて
源平矢合とぞさだめ【定め】ける。其日判官と梶原と
すでにどしいくさ【同士戦】せむとする事あり【有り】。梶原申けるは、
「けふの先陣をば景時にたび候へ」。判官「義経がな
くはこそ」。「まさなう候。殿は大将軍にてこそましまし
候へ」。判官「おもひ【思ひ】もよらず。鎌倉殿こそ大将軍よ。
義経は奉行をうけ給【承つ】たる身なれば、ただ殿原
とおなじ事ぞ」との給へ【宣へ】ば、梶原、先陣を所望
P11071
しかねて、「天性この殿は侍の主にはなり難し」と
ぞつぶやきける。判官これをきい【聞い】て、「日本一の
おこの物かな」とて、太刀のつかに手をかけ給ふ。梶原
「鎌倉殿の外に主をもたぬ物を」とて、これ【是】も太刀
のつかに手をかけけり。さる程に嫡子の源太景
季、次男平次景高、同三郎景家、ちち【父】と一所に
よりあふ【合う】たり。判官の景気を見て、奥州佐藤
四郎兵衛忠信・伊勢三郎義盛・源八広綱・江田[B ノ]
源三・熊井太郎・武蔵房弁慶などいふ一人当
P11072
千のつは物【兵】ども【共】、梶原をなかにとりこめて、われう【討つ】と
ら【取ら】んとぞすすみける。されども判官には三浦介
とり【取り】つき【付き】たてまつる【奉る】。梶原には土肥次郎つか
みつき、両人手をすて申けるは、「これ【是】程の大事
をまへにかかへながら、どしいくさ【同士戦】候ば、平家ちからつ
き【付き】候なんず。就中鎌倉殿のかへりきかせ給はん
処こそ穏便ならず候へ」と申せば、判官しづまり
給ひぬ。梶原すすむに及ばず。それよりして
梶原、判官をにくみそめて、つゐに【遂に】讒言してうし
P11073
なひ【失ひ】けるとぞきこえ【聞え】し。さる程に、源平の陣の
あはひ、海のおもて卅余町をぞへだてたる。門
司・赤間・檀【*壇】の浦はたぎりておつる塩なれば、源氏
の舟は塩にむかふ【向う】て、心ならずをし【押し】おとさ【落さ】る。平家
の舟は塩におう【負う】てぞいで【出で】き【来】たる。おき【沖】は塩のはや
けれ【早けれ】ば、みぎは【渚】について、梶原敵の舟のゆきち
がふ処に熊手をうちかけて、おや子【親子】主従十四五人
のり【乗り】うつり【移り】、うち物【打物】ぬい【抜い】て、ともへ【艫舳】にさむざむ【散々】にない【薙い】でま
はる。分どりあまたして、其日の高名の一の筆に
P11074
ぞつきにける。すでに源平両方陣をあはせ【合はせ】て
時をつくる。上は梵天までもきこえ【聞え】、下は海竜神も
おどろくらんとぞおぼえける。新中納言知盛卿舟
の屋形にたちいで、大音声をあげての給ひけ
るは、「いくさ【軍】はけふ【今日】ぞかぎる。物ども、すこし【少し】もしり
ぞく心あるべからず。天竺・震旦にも日本我朝
にもならびなき名将勇士といへども、運命
つきぬれば力及ばず。されども名こそおしけれ【惜しけれ】。
東国の物共によはげ【弱気】見ゆな。いつのために命を
P11075
ばおしむ【惜しむ】べき。これ【是】のみぞおもふ【思ふ】事」との給へ【宣へ】ば、
飛弾【*飛騨】三郎左衛門景経御まへに候けるが、「これ【是】
うけ給はれ【承れ】、侍ども」とぞ下知しける。上総悪七
兵衛すすみ出て申けるは、「坂東武者は馬のうへ【上】
でこそ口はきき候とも、ふないくさ【舟軍】にはいつ調練し
候べき。うを【魚】の木にのぼ【上つ】たるでこそ候はんずれ。一々
にとて海につけ【浸け】候はん」とぞ申たる。越中次郎兵
衛申けるは、「おなじくは大将軍の源九郎にくん
給へ。九郎は色しろう【白う】せい【背】ちいさき【小さき】が、むかば【向歯】のことに
P11076
さしいで【出で】てしるかん【著かん】なるぞ。ただし直垂と鎧をつ
ねにきかふ【着替ふ】なれば、きと見わけ【分け】がたかん也」とぞ
申ける。上総悪七兵衛申けるは、「心こそたけく
とも、その【其の】小冠者、なに程の事かあるべき。片脇
にはさんで、海へいれ【入れ】なん物を」とぞ申たる。新
中納言はか様【斯様】に下知し給ひ、おほい殿【大臣殿】の御まへに
まい【参つ】て、「けふは侍どもけしき【気色】よう見え候。ただし
阿波民部重能は心がはりしたるとおぼえ候。かうべを
はね候ばや」と申されければ、大臣殿「見えたる
P11077
事もなうて、いかが頸をばきる【斬る】べき。さしも奉公
のもの【者】であるものを。重能まいれ【参れ】」とめし【召し】けれ
ば、木蘭地の直垂にあらいがは【洗革】の鎧きて、御まへ
に畏て候。「いかに、重能は心がはりしたるか、けふこそ
わるう見ゆれ。四国の物共に、いくさ【軍】ようせよと下知
せよかし。おくし【臆し】たるな」との給へ【宣へ】ば、「なじかはをくし【臆し】候べ
き」とて、御まへをまかり【罷り】たつ。新中納言、あはれきや
つが頸をうちおとさ【落さ】ばやとおぼしめし【思し召し】、太刀のつか【柄】
くだけよとにぎて、大臣殿の御かた【方】をしきりに
P11078
見給ひけれども、御ゆるされ【許され】なければ、力及ば
ず。平家は千余艘を三手につくる。山賀の兵
藤次秀遠、五百余艘で先陣にこぎむかふ。松
浦党、三百余艘で二陣につづく。平家の君
達、二百余艘で三陣につづき給ふ。兵藤次秀
遠は、九国一番の勢兵にてあり【有り】けるが、我程こそ
なけれども、普通ざまの勢兵ども五百人をす
ぐて、舟々のともへ【艫舳】にたて、肩を一面にならべて、五百
の矢を一度にはなつ【放つ】。源氏は三千余艘の舟
P11079
なれば、せい【勢】のかず【数】さこそおほかり【多かり】けめども、処
々よりゐ【射】ければ、いづくに勢兵ありともおぼ
えず。大将軍九郎大夫判官、まさきにすす【進ん】でた
たかふ【戦ふ】が、楯も鎧もこらへずして、さんざん【散々】にゐ【射】しら
まさる。平家みかた【御方】かち【勝ち】ぬとて、しきりにせめ皷【攻め皷】
『遠矢』S1108
う【打つ】て、よろこびの時をぞつくりける。○源氏の方
にも、和田小太郎義盛、舟にはのらず、馬にうちの【乗つ】
てなぎさにひかへ、甲をばぬいで人にもたせ、あぶ
み【鐙】のはな【鼻】ふみ【踏み】そらし、よぴいてゐ【射】ければ、三町が
P11080
うちと【内外】の物ははづさ【外さ】ずつよう【強う】ゐ【射】けり。そのなかに、
ことにとをう【遠う】ゐ【射】たるとおぼしきを、「その【其の】矢給はらん」
とぞまねひ【招い】たる。新中納言これ【是】をめし【召し】よせて見
給へば、しらの【白篦】に鶴のもとじろ【本白】、こう【鴻】の羽をわりあ
はせ【合はせ】てはい【矧い】だる矢の、十三ぞく【束】ふたつぶせ【二伏】あるに、
くつまき【沓巻】より一束[B 「足」に「束」と傍書]ばかりをいて、和田小太郎平
義盛とうるしにてぞかき【書き】つけたる。平家の方に
勢兵おほし【多し】といへども、さすがとを矢【遠矢】ゐる【射る】物はすく
なかり【少かり】けるやらん、良久しうあて、伊与【*伊予】国の住人仁
P11081
井の紀四郎親清めし【召し】いだされ、この矢を給
はてゐ【射】かへす【返す】。これ【是】も奧よりなぎさへ三町余を
つとゐ【射】わたして、和田小太郎がうしろ一段あまりに
ひかへたる三浦の石左近の太郎が弓手のかいな【腕】
に、したたかにこそたたりけれ。三浦の人共これをみ【見】
て、「和田小太郎がわれにすぎてとを矢【遠矢】ゐる【射る】もの
なしとおもひ【思ひ】て、恥かいたるにくさよ。あれをみよ【見よ】」
とぞわらひ【笑ひ】ける。和田小太郎これ【是】をきき、「やすか
らぬ事也」とて、小船にの【乗つ】てこぎいださせ、平家
P11082
のせい【勢】のなかをさしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さむざむ【散々】にゐ【射】け
れば、おほく【多く】の物どもゐ【射】ころさ【殺さ】れ、手負にけり。又
判官ののり給へる舟に、奥よりしらの【白篦】のおほ矢【大矢】
をひとつ【一つ】ゐ【射】たてて、和田がやうに「こなたへ給はらん」
とぞまねいたる。判官これ【是】をぬかせて見給へば、
しらのに山どり【山鳥】の尾をもてはい【矧い】だりける矢の、
十四そく【束】三ぶせあるに、伊与【*伊予】国住人、仁井紀四郎
親清とぞかきつけたる。判官、後藤兵衛実基
をめし【召し】て、「この矢ゐ【射】つべきもの、みかた【御方】にたれ【誰】かあ
P11083
る」との給へ【宣へ】ば、「甲斐源氏に阿佐里与一殿こそ、勢
兵にてましまし候へ」。「さらばよべ」とてよばれければ、あ
さりの【阿佐里の】与一いできたり。判官の給ひけるは、「おき【沖】
よりこの矢をゐ【射】て候が、ゐ【射】かへせ【返せ】とまねき候。御へ
ん【辺】あそばし【遊ばし】候なんや」。「給は【賜つ】て見候はん」とて、つま
よて、「これ【是】はのがすこし【少し】よはう【弱う】候。矢づか【矢束】もちとみじ
かう【短かう】候。おなじうは義成が具足にてつかまつり候
はん」とて、ぬりごめ藤【塗籠籐】の弓の九尺ばかりあるに、
ぬりの【塗篦】にくろぼろ【黒母衣】はい【矧い】だる矢の、わが大手にをし【押し】
P11084
にぎ【握つ】て、十五そく【束】あり【有り】けるをうちくはせ【銜はせ】、よぴい
てひやうどはなつ【放つ】。四町余をつとゐ【射】わたし【渡し】て、大舟
のへ【舳】にたたる仁井の紀四郎親清がまただなかを
ひやうふつとゐ【射】て、ふなぞこ【船底】へさかさまにゐ【射】たう
す【倒す】。死生をばしら【知ら】ず。阿佐里の与一はもとより
勢兵の手きき【手利】なり。二町にはしる【走る】しか【鹿】をば、
はづさ【外さ】ずゐ【射】けるとぞきこえ【聞え】し。其後源平た
がひに命ををしま【惜しま】ず、おめき【喚き】さけん【叫ん】でせめ【攻め】たたかふ。
いづれおとれりとも見えず。されども、平家の
P11085
方には、十善帝王、三種の神器を帯してわた
らせ給へば、源氏いかがあらんずらんとあぶなう
おもひ【思ひ】けるに、しばしは白雲かとおぼしくて、虚空に
ただよひけるが、雲にてはなかりけり、主もなき白幡
ひとながれ【一流】まいさがて、源氏の舟のへ【舳】にさほづけ【棹付】の
お【緒】のさはる程にぞ見えたりける。判官、「是は八
幡大菩薩の現じ給へるにこそ」とよろこで、手
水うがひをして、これ【是】を拝したてまつる【奉る】。兵共みなかく
のごとし。又源氏のかた【方】よりいるか【海豚】といふ魚一二千
P11086
はう【這う】で、平家の方へむかひ【向ひ】ける。大臣殿これを御
らんじて、小博士晴信をめし【召し】て、「いるか【海豚】はつねにおほ
けれ【多けれ】ども、いまだかやうの事なし。いかがあるべきとかん
がへ【勘へ】申せ」と仰られければ、「このいるか【海豚】はみ【食み】かへり【返り】候
はば、源氏ほろび候べし。はう【這う】でとほり【通り】候はば、みかた【御方】の
御いくさ【軍】あやうう【危ふう】候」と申もはてねば、平家の舟の
したをすぐにはう【這う】でとほり【通り】けり。「世の中はいまは
かう」とぞ申たる。阿波民部重能は、この三がね
ん【年】があひだ、平家によくよく忠をつくし、度々の
P11087
合戦に命ををしま【惜しま】ずふせき【防き】たたかひ【戦ひ】けるが、子
息田内左衛門をいけどり【生捕り】にせられて、いかにも
かなは【叶は】じとやおもひ【思ひ】けん、たちまちに心がはりして、
源氏に同心してんげり。平家の方にははかりこ
と【策】に、よき人をば兵船にのせ【乗せ】、雑人どもをば唐船
にのせ【乗せ】て、源氏心にくさに唐船をせめ【攻め】ば、なかに
とりこめてうたんとしたく【支度】せられたりけれども、阿
波民部がかへりちう【返り忠】のうへ【上】は、唐船には目もかけず、
大将軍のやつしのり給へる兵船をぞせめ【攻め】たり
P11088
ける。新中納言「やすからぬ。重能めをきてすつ【捨つ】べ
かりつる物を」と、千たび【千度】後悔せられけれどもかな
は【叶は】ず。さる程に、四国・鎮西のつは物共、みな平家を
そむいて源氏につく。いままでしたがひ【従ひ】ついたり
し物共も、君にむか【向つ】て弓をひき、主に対して太刀
をぬく。かの岸につかんとすれば、浪たかくして
かなひ【叶ひ】がたし。このみぎはによらんとすれば、敵
矢さき【矢先】をそろへてまち【待ち】かけたり。源平の国あ
『先帝身投』S1109
らそひ、けふをかぎりとぞ見えたりける。○源氏の
P11089
つは物共、すでに平家の舟にのりうつりけれ
ば、水手梶取ども、ゐ【射】ころさ【殺さ】れ、きりころさ【殺さ】れて、舟
をなをす【直す】に及ばず、舟ぞこにたはれ【倒れ】ふし【伏し】に
けり。新中納言知盛卿小舟にの【乗つ】て御所の御舟に
まいり【参り】、「世のなかは、今はかうと見えて候。見ぐるしか
らん物共みな海へいれ【入れ】させ給へ」とて、ともへ【艫舳】には
しり【走り】まはり、はい【掃い】たり、のごう【拭う】たり、塵ひろい【拾ひ】、手づ
から掃除せられけり。女房達「中納言殿、いくさ【軍】は
いかにやいかに」と口々にとひ給へば、「めづらしきあづ
P11090
ま男【東男】をこそ御らんぜられ候はんずらめ」とて、から
からとわらひ【笑ひ】給へば、「なんでうのただいまのたは
ぶれ【戯れ】ぞや」とて、声々におめき【喚き】さけび【叫び】給ひけ
り。二位殿はこのありさま【有様】を御らんじて、日ごろ
おぼしめし【思し召し】まうけたる事なれば、にぶ色【鈍色】のふた
つ【二つ】ぎぬ【衣】うちかづき、ねりばかま【練袴】のそば【稜】たかくは
さみ【鋏み】、神璽をわきにはさみ【鋏み】、宝剣を腰にさし、主
上をいだきたてま【奉つ】て、「わが身は女なりとも、かたき【敵】
の手にはかかるまじ。君の御ともにまいる【参る】也。御心
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ざしおもひ【思ひ】まいらせ【参らせ】給はん人々は、いそぎつづき給
へ」とて、ふなばたへあゆみ【歩み】いでられけり。主上こと
しは八歳にならせ給へども、御とし【年】の程よりは
るかにねびさせ給ひて、御かたちうつくしく、あた
りもてりかかやく【輝く】ばかり也。御ぐしくろう【黒う】ゆらゆら
として、御せなかすぎさせ給へり。あきれたる
御さまにて、「尼ぜ、われをばいづちへぐし【具し】てゆか
むとするぞ」と仰ければ、いとけなき君にむかひ【向ひ】
たてまつり【奉り】、涙ををさへ【抑へ】て申されけるは、「君はいま
P11092
だしろしめさ【知ろし召さ】れさぶらはずや。先世の十善戒
行の御ちからによて、いま【今】万乗のあるじとむまれ【生れ】
させ給へども、悪縁にひかれて、御運すで【既】につ
きさせ給ひぬ。まづ東にむかは【向は】せ給ひて、伊勢
大神宮に御いとま申させ給ひ、其後西方浄土
の来迎にあづからむとおぼしめし【思し召し】、西にむかは【向は】せ
給ひて、御念仏さぶらふ【候ふ】べし。この国はそくさ
む【粟散】辺ぢ【辺地】とて、心うきさかゐ【境】にてさぶらへ【候へ】ば、極楽
浄土とてめでたき処へぐし【具し】まいらせ【参らせ】さぶらふ【候ふ】ぞ」と、
P11093
なくなく【泣く泣く】申させ給ひければ、山鳩色の御衣に
びんづら【鬢】ゆはせ[M 「ゆはせゆはせ」とあり後の「ゆはせ」をミセケチ]給ひて、御涙におぼれ、ち
いさく【小さく】うつくしき御手をあはせ【合はせ】、まづ東をふし【伏し】おが
み【拝み】、伊勢大神宮に御いとま申させ給ひ、其後
西にむかは【向は】せ給ひて、御念仏ありしかば、二位殿
やがていだき奉り、「浪のしたにも都のさぶらふ【候ふ】
ぞ」となぐさめたてま【奉つ】て、ちいろ【千尋】の底へぞ入給ふ。
悲哉、無常の春の風、忽に花の御すがたをちらし【散らし】、
なさけなきかな、分段のあらき浪、玉体をしづめ
P11094
たてまつる【奉る】。殿をば長生と名づけてながきすみか【栖】と
さだめ、門をば不老と号して、老せぬとざしとかき【書き】[M 「とき」とあり「と」をミセケチ「か」と傍書]
たれども、いまだ十歳のうちにして、底のみくづ【水屑】となら
せ給ふ。十善帝位の御果報、申すもなかなかおろ
か【愚】なり。雲上の竜くだて海底の魚となり給ふ。
大梵高台の閣のうへ【上】、釈提喜見の宮の内、い
にしへは槐門棘路のあひだに九族をなびかし、今
は舟のうち、浪のしたに御命を一時にほろぼし
『能登殿最期』S1110
給ふこそ悲しけれ。○女院はこの御ありさま【有様】を御
P11095
らんじて、御やき石、御硯、左右の御ふところ【懐】に
いれ【入れ】て、海へいらせ給ひたりけるを、渡辺党
に源五馬允むつる[B 「むへる」とあり「へ」に「つ」と傍書][* 下欄に「眤」と注記]、たれ【誰】とはしり【知り】たてまつらね
ども、御ぐしをくま手【熊手】にかけてひき【引き】あげたて
まつる【奉る】。女房達「あなあさまし。あれは女院にて
わたらせ給ぞ」と、声々口々に申されければ、判官
に申て、いそぎ御所の御舟へわたしたてまつる【奉る】。
大納言の佐どの【殿】は、内侍所の御からうと[* 下欄に「唐櫃」と注記]をもて、
海へいら【入ら】んとし給ひけるが、はかま【袴】のすそをふな
P11096
ばたにゐ【射】つけ【付け】られ、け【蹴】まとゐてたふれ【倒れ】給たり
けるを、つはもの【兵】どもとりとどめ【留め】たてまつる【奉る】。さて
武士ども内侍所のじやう【鎖】ねぢきて、すでに御
ふた【蓋】をひらかんとすれば、たちまち【忽】に目くれ、
鼻血たる。平大納言いけどり【生捕り】にせられておはし
けるが、「あれは内侍所のわたらせ給ふぞ。凡夫は
見たてまつら【奉ら】ぬ事ぞ」との給へ【宣へ】ば、兵共みなのき【退き】
にけり。其後判官、平大納言に申あはせ【合はせ】て、も
とのごとくからげおさめ【納め】たてまつる【奉る】。さる程に、平
P11097
中納言教盛卿、修理大夫経盛兄弟、よろひ【鎧】の
うへ【上】にいかりををひ、手をとりくんで、海へぞ入給
ひける。小松の新三位中将資盛、同少将有盛、
いとこの左馬頭行盛、手に手をとりくんで一所に
しづみ給ひけり。人々はか様【斯様】にし給へども、おほい殿【大臣殿】
おやこ【親子】は海にいら【入ら】んずるけしき【気色】もおはせず、ふなば
たに立いで【出で】て四方見めぐらし[* 「めぐりし」と有るのを他本により訂正]、あきれたるさま【様】にて
おはしけるを、侍どもあまりの心うさに、とほるやうに
て、大臣殿を海へつき入たてまつる【奉る】。右衛門督
P11098
これ【是】を見て、やがてとび入給ひけり。みな人は
おもき【重き】鎧のうへ【上】に、おもき【重き】物をおふ【負う】たりいだひ【抱い】た
りしていれ【入れ】ばこそしづめ、この人おや子【親子】はさ
もし給はぬうへ【上】、なまじゐにく[B ッ]きやう【究竟】の水練にて
おはしければ、しづみもやり給はず。大臣殿は
右衛門督しづまばわれもしづまん、たすかり
給はばわれもたすからむとおもひ【思ひ】給ふ。右衛門
督も、ちち【父】しづみ給はばわれもしづまん、たすかり
給はば我もたすからんとおもひ【思ひ】て、たがひに目を
P11099
見かはしておよぎ【泳ぎ】ありき【歩き】給ふ程に、伊勢三
郎義盛、小舟をつとこぎよせ、まづ右衛門
督を熊手にかけてひき【引き】あげたてまつる【奉る】。
大臣殿是をみ【見】ていよいよしづみもやり給はねば、お
なじうとりたてま【奉つ】てげり。大臣殿の御めのと子【乳母子】飛弾【*飛騨】[B ノ]
三郎左衛門景経、小舟にの【乗つ】て義盛が舟にのり
うつり、「我君とりたてまつる【奉る】はなに物【何者】ぞ」とて、太刀
をぬいてはしり【走り】かかる。義盛すでにあぶなうみえ【見え】
けるを、義盛が童、しう【主】をうた【討た】せじとなかにへだた
P11100
る【隔たる】。景経がうつ太刀〔に〕甲のまかう【真甲】うちわられ、二の太刀
にくび【頸】うちおとさ【落さ】れぬ。義盛なを【猶】あぶなうみえ【見え】ける
を、ならびの舟より堀弥太郎親経、よぴいてひ
やうどゐる【射る】。景経うち甲【内甲】をゐ【射】させてひるむところ【処】
に、堀の弥太郎のりうつて、三郎左衛門にくんで
ふす【伏す】。堀が郎等、主につづい【続い】てのりうつり、景経が
鎧のくさずり【草摺】ひき【引き】あげ、二かたな【二刀】さす。飛弾【*飛騨】の
三郎左衛門景経、きこゆる【聞ゆる】大ぢから【大力】のかう【剛】のもの
なれども、運やつきにけん、いた手【痛手】はをう【負う】つ、敵はあ
P11101
またあり、そこにてつゐに【遂に】うた【討た】れにけり。大臣殿
は生ながらとりあげられ、目の前でめのと子【乳母子】がう
たるるを見給ふに、いかなる心地かせられけん。凡
そ能登守教経の矢さき【矢先】にまはる物こそなかり
けれ。矢だねの有程ゐ【射】つくし【尽くし】て、けふを最後とや
おもは【思は】れけむ、赤地の錦の直垂に、唐綾おどし【唐綾威】
の鎧きて、いかものづくりの大太刀ぬき、しら柄【白柄】
の大長刀のさやをはづし【外し】、左右にもてなぎ【薙ぎ】まはり
給ふに、おもてをあはする物ぞなき。おほく【多く】の物
P11102
どもうた【討た】れにけり。新中納言使者をたてて、「能登
殿、いたう罪なつくり給ひそ。さりとてよきかた
き【敵】か」との給ひければ、「さては大将軍にくめ【組め】ご
さんなれ」と心えて、うちもの【打物】くきみじか【茎短】にとて、
源氏の舟にのりうつりのりうつり、おめき【喚き】さけん【叫ん】
でせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。判官を見しり給はねば、物のぐ【物の具】
のよき武者をば判官かとめ【目】をかけて、はせ【馳せ】まは
る。判官もさきに心えて、おもてにたつ様にはしけ
れども、とかくちがひ【違ひ】て能登殿にはくま【組ま】れず。されども
P11103
いかがしたりけむ、判官の舟にのりあたて、あは
やと目をかけてとんでかかるに、判官かなは【叶は】じと
やおもは【思は】れけん、長刀脇にかいはさみ、みかた【御方】の
舟の二丈ばかりのい【退い】たりけるに、ゆらりととび
のり給ひぬ。能登殿ははやわざ【早業】やおとられたり
けん、やがてつづいてもとび給はず。いま【今】はかうとお
もは【思は】れければ、太刀長刀海へなげいれ【入れ】、甲もぬ
いですてられけり。鎧の草ずり【草摺】かなぐりすて、ど
う【胴】ばかりきて、おほ【大】童になり、おほ手をひろ
P11104
げてたたれたり。凡あたりをはら【払つ】てぞ見えた
りける。おそろし【恐ろし】などもおろか【愚】也。能登殿大音声
をあげて、「われとおもは【思は】ん物どもは、よ【寄つ】て教経に
くん【組ん】でいけどりにせよ。鎌倉へくだて、頼朝に
あふ【逢う】て、物ひと詞いはんとおもふ【思ふ】ぞ。よれやよれ」と
の給へ【宣へ】共、よるもの【者】一人もなかりけり。ここに土佐
国の住人安芸郷を知行しける安芸[B ノ]大領実
康が子に、安芸[B ノ]太郎実光とて、卅人がちから【力】も
たる大ぢから【大力】のかう【剛】のもの【者】あり【有り】。われにちともおと
P11105
らぬ郎等一人、おとと【弟】の次郎も普通にはす
ぐれたるしたたか物なり。安芸の太郎、能
登殿を見たてま【奉つ】て申けるは、「いかにたけ
う【猛う】ましますとも、我等三人とりついたらんに、
たとひたけ十丈の鬼なりとも、などかしたがへざ
るべき」とて、主従三人小舟にの【乗つ】て、能登殿の
舟にをし【押し】ならべ、ゑいといひ【言ひ】てのりうつり、甲のしこ
ろをかたぶけ【傾け】、太刀をぬいて一面にう【打つ】てかかる。能
登殿ちともさはぎ【騒ぎ】給はず、まさきにすすんだる
P11106
安芸太郎が郎等をすそ【裾】をあはせ【合はせ】て、海へどう
どけ【蹴】いれ【入れ】給ふ。つづいてよる安芸太郎を弓
手の脇にとてはさみ【鋏み】、弟の次郎をば馬手のわき
にかいはさみ、ひとしめ【一締】しめて、「いざうれ、さらばおO[BH の]れら【己等】
死途の山のともせよ」とて、生年廿六にて海へつ
『内侍所都入』S1111
とぞいり【入り】給ふ。○新中納言「見るべき程の事は
見つ、いまは自害せん」とて、めのと子【乳母子】の伊賀平内
左衛門家長をめし【召し】て、「いかに、約束はたがう【違ふ】まじ
きか」との給へ【宣へ】ば、「子細にや及候」と、中納言に鎧二領
P11107
きせ【着せ】たてまつり【奉り】、我身も鎧二領きて、手をと
りく【組ん】で海へぞ入にける。是をみ【見】て侍共廿余人
おくれ【遅れ】たてまつら【奉ら】じと、手に手をとり【取り】くん【組ん】で、一
所にしづみけり。其中に、越中次郎兵衛・上総五
郎兵衛・悪七兵衛・飛弾【*飛騨】四郎兵衛はなにとし
てかのがれ【逃れ】たりけん、そこをも又落にけり。海上
には赤旗赤じるし【赤印】なげ【投げ】すて、かなぐりすて【捨て】たりけ
れば、竜田河の紅葉ばを嵐の吹ちらし【散らし】たるがごと
し。みぎは【汀】によする【寄する】しら浪【白浪】もうすぐれなゐに
P11108
ぞなりにける。主もなきむなしき【空しき】舟は、塩にひか
れ風にしたがて、いづくをさすともなくゆられゆ
くこそ悲しけれ。生どりには、前の内大臣宗盛公、平
大納言時忠、右衛門督清宗、蔵頭信基、讃岐[B ノ]中
将時実、兵部[B ノ]少輔雅明、大臣殿の八歳になり給ふ
若公【若君】、僧には二位僧都宣真【*全真】・法勝寺執行能
円・中納言律師仲快・経誦房阿闍梨融円、
侍には源大夫判官季貞・摂津[B ノ]判官盛澄・橘
内左衛門季康・藤内左衛門信康・阿波民部
P11109
重能父子、以上卅八人也。菊地【*菊池】次郎高直・原田
大夫種直は、いくさ【軍】以前より郎等どもあひ【相】具して
降人にまいる【参る】。女房には、女院、北の政所、廊の御方、
大納言[B ノ]佐殿、帥のすけ【帥の典侍】殿、治部卿[B ノ]局已下四十三人
とぞきこえ【聞え】し。元暦二年の春のくれ【暮】、いかなる年
月にて一人海底にしづみ、百官波上にうかぶらん。
国母官女は東夷西戎【征戎】の手にしたがひ【従ひ】、臣下卿相は
数万の軍旅にとらはれ【捕はれ】て、旧里にかへり【帰り】給ひし
に、或は朱買臣が錦をきざる事をなげき、或は
P11110
王照君【*王昭君】が胡国におもむき【赴き】し恨もかくやとぞかなし
み給ひける。同四月三日、九郎大夫判官義経、源
八広綱をもて、院御所へ奏聞せられけるは、去三
月廿四日、豊前[B ノ]国田の浦、門司関、長門[B ノ]国檀[B ノ]浦【*壇浦】、赤
間が関にて平家をせめ【攻め】おとし【落し】、三種神器事ゆへ【故】
なくかへし【返し】入奉るよし申されたりければ、院中の
上下騒動す。広綱を御坪のうちへめし【召し】、合戦の次
第をくはしう【詳しう】御尋ありて、御感のあまりに左兵
衛[B ノ]尉になさ[* 「めさ」と有るのを他本により訂正]れけり。「一定かへりいら【入ら】せ給ふかみ【見】て
P11111
まいれ【参れ】」とて、五日O[BH ノ日]、北面に候ける藤判官信盛を西
国へさしつかはさる。宿所へもかへらず、やがて院の
御馬を給は【賜つ】て、鞭をあげ、西をさいてはせ【馳せ】くだる。
同十四日、九郎大夫判官義経、平氏男女のいけ
どり【生捕り】ども【共】、あひぐし【具し】てのぼりけるが、播磨国明石浦
にぞつきにける。名をえたる浦なれば、ふけゆ
くままに月さへのぼり、秋の空にもおとらず。女
房達さしつどひ【集ひ】て、「一とせ【年】これ【是】をとをり【通り】しには、
かかるべしとはおもは【思は】ざりき」などいひて、しのびね【忍び音】に
P11112
なき【泣き】あはれけり。帥のすけ【帥の典侍】殿つくづく月をなが
め給ひ、いとおもひ【思ひ】のこす【残す】事もおはせざりけれ
ば、涙にとこ【床】もうく【浮く】ばかりにて、かうぞ思ひつづけ給ふ。
ながむればぬるる【濡るる】たもとにやどり【宿り】けり
月よ雲井のものがたりせよ W085
雲のうへ【上】に見しにかはらぬ月かげ【月影】の
すむ【澄む】につけてもものぞかなしき【悲しき】 W086
大納言佐殿
我身こそあかしの浦にたびね【旅寝】せめ
P11113
おなじ浪にもやどる月かな W087
「さこそ物がなしう、昔恋しうもおはしけめ」と、判官
物のふなれどもなさけあるおのこ【男】なれば、身に
しみてあはれ【哀】にぞおもは【思は】れける。同廿五日、内侍所しる
し【璽】の御箱、鳥羽につかせ給ふときこえ【聞え】しかば、内
裏より御むかへ【向へ】にまいら【参ら】せ給ふ人々、勘解由小
路[* 「勘解由少路」と有るのを他本により訂正]中納言経房卿・高倉宰相中将泰通・権右中弁
兼忠・左衛門権佐親雅・江浪[B ノ][* 下欄に「榎並」と注記]中将公時・但馬少将教
能、武士には伊豆蔵人大夫頼兼・石川[B ノ]判官代能
P11114
兼・左衛門尉有綱とぞきこえ【聞え】し。其夜の子刻に、
内侍所しるし【璽】の御箱太政官の庁へいらせ給
ふ。宝剣はうせ【失せ】にけり。神璽は海上にうかびたり
けるを、片岡[B ノ]太郎経春がとりあげたてま【奉つ】た
『剣』S1112
りけるとぞきこえ【聞え】し。○吾朝には神代よりつ
たはれる霊剣三あり【有り】。十つか【十握】の剣、あまのはや
きりの剣、草なぎ【草薙】の剣これ【是】也。十つか【十握】の剣は、
大和国いそのかみ【石上】布留の社におさめ【納め】らる。あま
の羽やきりの剣は、尾張国熱田の宮にあり
P11115
とかや。草なぎ【草薙】の剣は内裏にあり。今の宝剣
これ【是】也。この剣の由来を申せば、昔素戔の烏
の尊、出雲国曾我のさとに宮づくりし給ひ
しに、そのところ【所】に八いろの雲常にたちければ、
尊これを御らんじ【御覧じ】て、かくぞ詠じ給ひける。
八雲たつ出雲八えがき【八重垣】つまごめに
やえがき【八重垣】つくるそのやえがき【八重垣】を W088
これ【是】を三十一字のはじめとす。国を出雲と
なづくる事も、すなはちこのゆへ【故】とぞ奉はる【承る】。
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むかし、みこと、出雲国ひの河上にくだり【下り】給ひしと
き、国つの神【国津神】に足なづち手なづちとて夫神
婦神おはします。其子に端正のむすめあり【有り】。ゐな
だ姫と号す。おや子【親子】三人なき【泣き】ゐたり。みこと「いか
に」ととひ給へば、こたえ【答へ】申ていはく、「われにむすめ
八人ありき。みな大蛇のためにのまれぬ。いま一人
のこるところの少女、又のまれんとす。件の大蛇は
尾かしら【頭】ともに八あり【有り】。おのおの【各々】八のみね、八の谷に
はひ【這ひ】はびこれり。霊樹異木せなかにおひ【生ひ】たり。い
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く千年をへたりといふ事をしら【知ら】ず。まなこは日
月の光のごとし。年々に人をのむ【飲む】。おや【親】のまるる
もの【者】は子かなしみ、子のまるるもの【者】はおやかなしみ、
村南村北に哭する声たえず」とぞ申ける。みこと
あはれ【哀】におぼしめし【思し召し】、この少女をゆつ[* 「ゆづ」と有るのを他本により訂正]のつまぐし【爪櫛】
にとりなし、御ぐし【髪】にさしかくさ【隠さ】せ給ひ、八の舟に
酒をいれ【入れ】、美女のすがたをつくてたかき【高き】岡にた
つ。その【其の】かげ【影】酒にうつれり。大蛇人とおもて其かげ
をあくまでので、酔ふし【臥し】たりけるを、尊はき【佩き】
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給へる十つか【十握】の剣をぬいて、大蛇をづだづだにき
り給ふ。其なかに一の尾にいたてきれず。尊あや
しとおぼしめし【思し召し】、たてさまにわて御らんずれば、
一の霊剣あり【有り】。これ【是】をとて天照大神にたてまつ
り給ふ。「これはむかし、高間の原にてわがおとし【落し】たり
し剣なり」とぞの給ひ【宣ひ】ける。大蛇の尾のなかに
あり【有り】ける時は、村雲つねにおほひ【覆ひ】ければ、あま
の村雲の剣とぞ申ける。おおん神【御神】是をえて、あ
め【天】の御門の御たからとし給ふ。豊葦原中津国の
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あるじとして、天孫をくだしたてまつり【奉り】給ひしと
き【時】、この剣をも御鏡にそへてたてまつら【奉ら】せ給ひけ
り。第九代の御門開化天皇の御時までは、ひとつ【一つ】
殿におはしましけるを、第十代の御門崇神天皇[B ノ]
御宇に及で、霊威におそれ【恐れ】て、天照大神を大和
国笠ぬい【笠縫】の里、磯がきのひろきにうつしたてまつ
り【奉り】給ひし時、この剣をも天照大神の社壇にこめ
たてまつら【奉ら】せ給ひけり。其時剣を作りかへて、御
まもり【守り】とし給ふ。御霊威もとの剣にあひおと
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らず。あまの村雲の剣は、崇神天皇より景行
天皇まで三代は、天照大神の社壇にあがめをか【置か】
れたりけるを、景行天皇の御宇四十年六
月に、東夷反逆のあひだ、御子日本武の尊御心も
かう【剛】に、御力も人にすぐれておはしければ、精撰に
あたてあづまへくだり【下り】給ひし時、天照大神へま
い【参つ】て御いとま申させ給ひけるに、御いもうといつ
き【斎】の尊をもて、「謹でおこたる事なかれ」とて、霊剣
を尊にさづけ申給ふ。さて駿河国に下り給ひ
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たりしかば、其ところ【所】の賊徒等「この国には鹿おほ
う【多う】候。狩してあそば【遊ば】せ給へ」とて、たばかりいだし【出し】たて
まつり【奉り】、野に火をはな【放つ】て既にやきころし【殺し】たてま
つら【奉ら】んとしけるに、尊はき【佩き】給へる霊剣をぬい
て草をなぎ給へば、はむけ【刃向】一里がうちは草みな
なが【薙が】れぬ。みこと又火をいださ【出さ】れたりければ、かぜ【風】
たちまちに異賊の方へ吹おほひ【覆ひ】、凶徒ことごと
く【悉く】やけしに【死に】ぬ。それよりしてこそ、あまの村雲の
剣をば草なぎ【草薙】の剣とも名づけられけれ。
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尊猶おく【奥】へせめ【攻め】い【入つ】て、三箇年があひだところどころ【所々】の
賊徒をうちたいらげ【平げ】、国々の凶党をせめ【攻め】したがへ
てのぼらせ給ひけるが、道より御悩つかせ給ひて、
御とし【年】卅と申七月に、尾張国熱田のへん【辺】にてつゐ
に【遂に】かくれ【隠れ】させ給ひぬ。其たましゐ【魂】はしろき【白き】鳥とな
て天にあがり【上がり】けるこそふしぎ【不思議】なれ。いけどり【生捕り】の
ゑびす【夷】共をば、御子たけひこ【武彦】のみこと【尊】をもて、御門
へたてまつら【奉ら】せ給ふ。草なぎ【草薙】の剣をば熱田の
社におさめ【納め】らる。あめの御門[B ノ]御宇七年に、新羅
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の沙門道慶、この剣をぬすんで吾国の宝とせ
むとおもて、ひそかに舟にかくしてゆく程に、波
風巨動して忽に海底にしづまんとす。すなは
ち霊剣のたたりなりとして、罪を謝して先途
をとげず、もとのごとくかへしおさめ【納め】たてまつる【奉る】。し
かる【然る】を天武天皇朱鳥元年に、これ【是】をめし【召し】て内
裏にをか【置か】る。いまの宝剣是也。御霊威いちはや
うまします。陽成院狂病にをかされさせましまし
て、霊剣をぬかせ給ひければ、夜るのおとどひら
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ひらとして電光にことならず。恐怖のあまりにな
げすてさせ給ひければ、みづからはたとな【鳴つ】てさ
やにさされにけり。上古にはかうこそめでたかりし
か。たとひ二位殿腰にさして海にしづみ給ふとも、
たやすううす【失す】べからずとて、すぐれたるあまうど【海人】
ども【共】をめし【召し】て、かづき【潛き】もとめ【求め】られけるうへ【上】、霊仏霊
社にたとき僧をこめ、種々の神宝をささげて
いのり申されけれども、つゐに【遂に】うせにけり。其時の
有識【*有職】の人々申あはれけるは、「昔天照大神、百
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王をまもら【守ら】むと御ちかひあり【有り】ける、其御ちかひい
まだあらたまらずして、石清水の御ながれいま
だつきせざるがゆへ【故】に、天照大神の日輪の光いま
だ地におち【落ち】させ給はず。末代澆季なりとも、帝
運のきはまる程の御事はあらじかし」と申されけ
れば、其なか【中】にある博士のかんがへ申けるは、「むかし
出雲国ひの河上にて、素戔烏の尊にきりこ
ろさ【殺さ】れたてまつし大蛇、霊剣をおしむ【惜しむ】心ざしふか
くして、八のかしら【頭】八の尾を表事として、人王八
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十代の後、八歳の帝となて霊剣をとりかへして、
海底に沈み給ふにこそ」と申す。千いろ【千尋】の海の底、
神竜のたからとなりしかば、ふたたび人間にか
『一門大路渡』S1113
へらざるもことはり【理】とこそおぼえけれ。○さる程に、
二の宮かへりいら【入ら】せ給ふとて、法皇より御むかへ【向へ】
に御車をまいらせ【参らせ】らる。御心ならず平家にとら
れさせ給ひて、西海の浪の上にただよはせ給ひ、三
とせ【年】をすごさ【過さ】せ給ひしかば、御母儀も御めのと【傅】持明
院の宰相も御心ぐるしき事におもは【思は】れけるに、
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別の御事なくかへりのぼらせ給ひたりしかば、
さしつどひてみなよろこびなき【悦び泣き】どもせられ
ける。同廿六日、平氏のいけどり【生捕り】ども【共】京へい
る。みな八葉の車にてぞありける。前後の
すだれをあげ、左右の物見をひらく。大臣殿
は浄衣をき給へり。右衛門督はしろき【白き】直垂
にて、車のしりにぞのら【乗ら】れたる。平大納言時忠
卿の車、おなじくやりつづく。子息讃岐の中将時
実も、同車にてわたさるべかりしが、現所労とて
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わたされず。蔵頭信基は疵をかうぶたりしかば、閑
道より入にけり。大臣殿、さしも花やかにきよげ【清気】にお
はせし人の、あらぬさまにやせ【痩せ】おとろえ【衰へ】給へり。されど
も、四方見めぐらして、いとおもひ【思ひ】しづめるけしき【気色】も
おはせず。右衛門督はうつぶして目も見あげ給はず。
誠におもひ【思ひ】いれ【入れ】たるけしき【気色】也。土肥次郎実平、
木蘭地のひたたれ【直垂】に小具足ばかりして、随兵
卅余騎、車の先後にうちかこ【囲ん】で守護したてま
つる【奉る】。見る人都のうちにもかぎらず、凡遠国
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近国、山々寺々より、老たるも若きも、来りあつ
まれり。鳥羽の南の門・つくり道・四基【*四塚】までひしと
つづいて、いく千万といふかず【数】をしら【知ら】ず。人は顧る
事をえず。車は輪をめぐらす事あたはず。治
承・養和の飢饉、東国・西国のいくさ【軍】に、人だねほろ
びうせ【失せ】たりといへども、猶のこりはおほかり【多かり】けり
とぞ見えし。都をいで【出で】てなか【中】一年、無下にまぢかき
程なれば、めでたかりし事もわすられず。さしも
おそれ【恐れ】おののきし人のけふのありさま【有様】、夢うつつ
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ともわきかねたり。心なきあやしのしづのお【賎男】、しづ
のめ【賎女】にいたるまで、なみだ【涙】をながし袖をしぼらぬは
なかりけり。ましてなれ【馴れ】ちかづき【近付き】ける人々の、いか
ばかりの事をかおもひ【思ひ】けん。年来重恩をかう
むり、父祖のときより祗侯したりし輩の、さすが
身のすてがたさに、おほく【多く】は源氏につゐ【付い】たりし
かども、昔のよしみたちまち【忽】にわする【忘る】べきにも
あらねば、さこそはかなしうおもひ【思ひ】けめ。されば袖を
かほ【顔】にをし【押し】あてて、目を見あげぬ物もおほかり【多かり】
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けり。大臣殿の御牛飼は、木曾が院参の時、車
やりそんじ【損じ】てきら【斬ら】れにける次郎丸がおとと【弟】、三郎
丸なり。西国にてはかり男【仮男】になたりしが、今一度大
臣殿の御車をつかまつらんと思ふ心ざしふかかり【深かり】
ければ、鳥羽にて判官に申けるは、「とねり【舎人】牛飼
など申物は、いふかひなき下臈のはてにて候へば、
心あるべきでは候はねども、年ごろめし【召し】つかは【使は】れ
まいらせ【参らせ】て候御心ざしあさから【浅から】ず。しかる【然る】べう候ば、
御ゆるされ【許され】をかうぶて、大臣殿の最後の御車を
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つかまつり候ばや」とあながちに申ければ、判官「し
さい【子細】あるまじ。とうとう【疾う疾う】」とてゆるされける。なのめなら
ず悦て、尋常にしやうぞき【装束き】、ふところ【懐】よりやり
なは【遣縄】とりいだしつけ【付け】かへ、涙にくれてゆくさきも
みえ【見え】ねども、袖をかほ【顔】にをし【押し】あてて、牛のゆくにま
かせ【任せ】つつ、なくなく【泣く泣く】やてぞまかり【罷り】ける。法皇は六条東
洞院に御車をたてて叡覧あり【有り】。公卿殿上人の
車ども、おなじうたてならべたり。さしも御身ちかう
めし【召し】つかは【使は】れしかば、法皇もさすが御心よはう【弱う】、あは
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れ【哀】にぞおぼしめさ【思し召さ】れける。供奉の人々はただ夢
とのみこそおもは【思は】れけれ。「いかにもしてあの人に
め【目】をもかけられ、詞の末にもかからばやとこそ
おもひ【思ひ】しかば、かかるべしとは誰かおもひ【思ひ】し」とて、上下
涙をながしけり。一とせ【一年】内大臣になてよろこび【悦び】申
し給ひし時は、公卿には花山院の大納言をはじ
めとして、十二人扈従してやりつづけ給へり。殿
上人には蔵人頭親宗以下十六人前駆す。公卿も
殿上人もけふを晴ときらめいてこそありしか。
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中納言四人、三位中将も三人までおはしき。やがて
この平大納言も其時は左衛門督にておはしき。
御前へめされまいらせ【参らせ】て、御引出物給はて、もて
なされ給ひしありさま【有様】、めでたかりし儀式ぞかし。
けふは月卿雲客一人もしたがはず。おなじく檀【*壇】の
浦にていけどり【生捕り】にせられたりし侍共廿余人、し
ろき【白き】直垂きて、馬のうへ【上】にしめ【締め】つけてぞわ
たされける。河原までわたされて、かへ【帰つ】て、大臣殿
父子は九郎判官の宿所、六条堀河にぞおはし
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ける。御物まいらせ【参らせ】たりしかども、むねせきふさが
て、御はしをだにもたてられず。たがひに物はの給
はねども、目を見あはせ【合はせ】て、ひまなく涙をなが
されけり。よるになれども装束もくつろげ給
はず、袖をかたしゐ【片敷い】てふし【臥し】給ひたりけるが、御子
右衛門督に御袖をうちきせ【着せ】給ふをまぼり【守り】
たてまつる【奉る】源八兵衛・江田源三・熊井太郎これ
をみて、「あはれたかき【高き】もいやしきも、恩愛の道
程かなしかり【悲しかり】ける事はなし。御袖をきせ【着せ】たてま
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つり【奉り】たらば、いく程の事あるべきぞ。せめての御
心ざしのふかさ【深さ】かな」とて、たけき【猛き】物のふどももみ
『鏡』S1114
な涙をぞながしける。○同[B 四月イ]廿八日、鎌倉の前兵衛
佐頼朝朝臣、従二位し給ふ。越階とて二階を
するこそありがたき朝恩なるに、これ【是】はすでに
三階なり。三位をこそし給ふべかりしかども、平
家のし給ひたりしをいまう【忌まう】で也。其夜の子刻に、
内侍所、太政官の庁より霊景殿【*温明殿】へいら【入ら】せ給ふ。
主上行幸なて、三が夜臨時の御神楽あり【有り】。右近
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将監小家の能方、別勅をうけ給は【承つ】て、家につた
はれる弓立宮人といふ神楽の秘曲をつかま
て、勧賞かうぶりけるこそ目出けれ。この歌は、祖
父八条判官資忠といし伶人の外は、しれ【知れ】るも
のなし。あまりに秘して子の親方にはをしへ【教へ】ずし
て、堀河天皇御在位の時つたへ【伝へ】まいらせ【参らせ】て死
去したりしを、君親方にをしへ【教へ】させ給ひけり。道を
うしなは【失は】じとおぼしめす【思し召す】御心ざし、感涙おさへ【抑へ】難
し。抑内侍所と申は、昔天照大神、天の岩戸に
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閉こもらむとせさせ給ひし時、いかにもして我御かた
ちをうつしおき【置き】て、御子孫に見せたてまつら【奉ら】ん
とて、御鏡をゐ【鋳】給へり。これ【是】なを【猶】御心にあはずとて、
又い【鋳】かへさせ給ひけり。さきの御鏡は紀伊国
日前国懸の社是也。後の御鏡は御子あまのに
いほみ【天忍穂耳】の尊にさづけまいらせ【参らせ】させ給ひて、「殿
をおなじうしてすみ給へ」とぞ仰ける。さて天照
大神、天の岩戸にとぢこもらせ給ひて、天下
くらやみとなたりしに、やをよろづ代【八百万代】の神た
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ち神あつまり【集まり】にあつま【集まつ】て、岩戸の口にて御神楽
を奏し給ひければ、天照大神感にたえ【堪へ】させ給
はず、岩戸をほそめ【細目】にひらき見給ふに、互にか
ほ【顔】のしろく【白く】見えけるより面白といふ詞ははじま
りけるとぞうけ給はる【承る】。其時こやねたぢから
を【児屋根手力雄】といふ大ぢから【大力】の神よ【寄つ】て、ゑいといひてあけ
給ひしよりしてたて【閉て】られずといへり。さて内
侍所は、第九代の御門開化天皇の御時まで
はひとつ【一つ】殿におはしましけるを、第十代の御門、
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崇神天皇の御宇に及で、霊威におそれ【恐れ】て、別の
殿へうつし【移し】たてまつらせ給ふ。ちかごろ【近来】はうんめい殿【温明殿】に
おはします。遷都・遷幸の後百六十年をへて、
村上天皇の御宇、天徳四年九月廿三日の子刻
に、内裏なかのへ【中重】にはじめて焼亡ありき。火は左衛
門の陣よりいで【出で】き【来】たりければ、内侍所のおはします
雲明殿【温明殿】もほど【程】ちかし。如法夜半の事なれば、内侍も
女官もまいり【参り】あはずして、かしこ所【賢所】をいだしたてま
つる【奉る】にも及ばず。少野宮殿【*小野宮殿】いそぎまいら【参ら】せ給ひ
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て、「内侍所すでにやけさせ給ひぬ。世はいまはかう
ごさんなれ」とて御涙をながさせ給ふ処に、内侍所
はみづから炎のなか【中】をとびいでさせ給ひ、南殿
の桜の梢にかからせおはしまし、光明かくやく【赫奕】として、
朝の日の山の端をいづる【出づる】にことならず。其時小野宮
殿「世はいまだうせ【失せ】ざりけり」とおぼしめす【思し召す】に、よろこ
びの御涙せきあへさせ給はず、右の御ひざをつ
き、左の御袖をひろげて、なくなく【泣々】申させ給ひけ
るは、「昔天照大神百王をまぼら【守ら】んと御ちかひあり【有り】
P11142
ける、其御誓いまだあらたまらずは、神鏡実頼
が袖にやどらせ給へ」と申させ給ふ御詞のい
まだをはらざるさきに、飛うつらせ給ひけり。
すなはち御袖につつんで、太政官の朝所へわたし
たてまつらせ給ふ。ちかごろ【近来】はうんめい殿【温明殿】におはしま
す。この世にはうけ【受け】とり【取り】たてまつら【奉ら】んと思ひよる
人も誰かはあるべき。神鏡も又やどらせ給ふべか
『文之沙汰』S1115
らず。上代こそ猶も目出けれ。○平大納言時忠卿父
子も、九郎判官の宿所ちかうぞおはしける。世の中
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のかくなりぬるうへ【上】は、とてもかうてもとこそ
おもは【思は】るべきに、大納言猶いのち【命】をしう【惜しう】やおも
は【思は】れけん、子息讃岐中将をまねひ【招い】て、「ちらす【散らす】
まじきふみども【文共】を一合、判官にとられてあるぞと
よ。是を鎌倉の源二位に見えなば、人もおほく【多く】損
じ、我身もいのち【命】いけらるまじ。いかがせんずる」と
の給へ【宣へ】ば、中将申されけるは、「判官はおほ方【大方】もなさ
けある物にて候なるうへ【上】、女房などのうちたへ【うち絶え】なげく【歎く】
事をば、いかなる大事をももてはなれ【離れ】ぬとうけ給
P11144
はり【承り】候。なに【何】かくるしう【苦しう】候べき。ひめ君【姫君】達あまたまし
まし候へば、一人見せさせ給ひ、したしうならせおは
しまして後、仰らるべうや候らん」。大納言涙をは
らはらとながい【流い】て、「我世にありし時は、むすめども
をば女御きさきとこそおもひ【思ひ】しか。なみなみの
人に見せんとはかけてもおもは【思は】ざりし物を」とて
なか【泣か】れければ、中将「今はその【其の】事ゆめゆめおぼしめ
し【思し召し】よらせ給ふべからず」とて、「たうぶく【当腹】のひめ君【姫君】の
十八になり給ふを」と申されけれども、大納言それ
P11145
をば猶かなしき【悲しき】事におぼして、さきの腹の姫
君の廿三になり給ふをぞ、判官には見せら
れける。是も年こそすこし【少し】おとなしうおはしけ
れども、みめ【眉目】かたちうつくしう、心ざま【心様】ゆう【優】におは
しければ、判官さりがたうおもひ【思ひ】たてま【奉つ】て、もと
のうへ【上】河越太郎重頼がむすめもありしかども、これ【是】
をば別の方尋常にしつらうてもてなしけり。
さて女房件のふみの事をの給ひいださ【出さ】れたり
ければ、判官あまさへ【剰へ】封をもとかず、いそぎ時忠卿の
P11146
もとへをくら【送ら】れけり。大納言なのめならず悦て、
やがてやき【焼き】ぞすてられける。いかなるふみども【文共】
にてかあり【有り】けん、おぼつかなうぞきこえ【聞え】し。平家
ほろびて、いつしか国々しづまり、人のかよふも煩な
し。都もおだしかり【穏しかり】ければ、「ただ九郎判官ほど【程】の人は
なし。鎌倉の源二位は何事をかしいだしたる。世は
一向判官のままにてあらばや」などいふ事を、源二
位もれ【漏れ】きい【聞い】て、「こはいかに、頼朝がよくはからひて
つはもの【兵】をさしのぼすればこそ、平家はたや
P11147
すうほろびたれ。九郎ばかりしては争か世を
しづむべき。人のかくいふにおご【奢つ】ていつしか世を
我ままにしたるにこそ。人こそおほけれ【多けれ】、平大納言
の聟になて、大納言もてあつかうなるもうけられず。
又世にもはばからず、大納言の聟どり【聟取り】いはれなし。くだ
ても定て過分のふるまひ【振舞】せんずらん」とぞのた
『副将被斬』S1116
まひ【宣ひ】ける。○同五月七日、九郎大夫判官、平氏のい
けどり【生捕り】ども【共】あひぐし【具し】て、関東へ下向ときこえ【聞え】しかば、
大臣殿判官のもとへ使者をたてて、「明日関東へ
P11148
下向とうけ給候。恩愛の道はおもひ【思ひ】きられぬこと【事】
にて候也。いけどり【生捕り】のうちに八歳の童とつけら
れて候しものは、いまだこの【此の】世に候やらん。いま【今】一
度見候ばや」との給ひ【宣ひ】つかはさ【遣さ】れたりければ、
判官の返事には、「誰も恩愛はおもひ【思ひ】きられ
ぬ事にて候へば、誠にさこそおぼしめさ【思し召さ】れ候らめ」
とて、河越小太郎重房があづかりたてま【奉つ】たりけ
るを、大臣殿の許へわか君【若君】いれ【入れ】たてまつる【奉る】べき
よしの給ひければ、人に車かてのせ【乗せ】たてまつり【奉り】、
P11149
女房二人つきたてま【奉つ】たりしも、ひとつ【一つ】車にの
りぐし【具し】て、大臣殿へぞまいら【参ら】れける。わか公【若君】ははる
かにちち【父】を見たてまつり【奉り】給て、よにうれしげに
おぼしたり。「いかにこれ【是】へ」との給へ【宣へ】ば、やがて御ひざ
のうへ【上】にまいり【参り】給ふ。大臣殿、わか公【若君】の御ぐしをかき
なで、涙をはらはらとながい【流い】て、守護の武士どもにの
給ひ【宣ひ】けるは、「これ【是】はおのおの【各々】きき給へ。はは【母】もなき物に
てあるぞとよ。この【此の】子がはは【母】はこれ【是】をうむとて、産を
ばたいらか【平か】にしたりしかども、やがてうちふし【臥し】てなや
P11150
みしが、「いかなる人の腹に公達をまうけ給ふとも、思ひ
かへずしてそだて【育て】て、わらはがかたみ【形見】に御らんぜよ。
さしはな【放つ】て、めのと【乳母】などのもとへつかはす【遣す】な」と
いひし事が不便さに、あの右衛門督をば、朝敵
をたいらげ【平げ】ん時は大将軍せさせ、これをば副
将軍せさせんずればとて、名を副将とつけ
たりしかば、なのめならずうれしげにおもひ【思ひ】て、
すでにかぎりの時までも名をよびなどしてあ
ひせ【愛せ】しが、なぬか【七日】といふにはかなく【果敢く】なりてあるぞ
P11151
とよ。この【此の】子を見るたびごとには、その事がわす
れがたくおぼゆる【覚ゆる】也」とて涙もせきあへ給はねば、
守護の武士どももみな袖をぞしぼりける。右衛
門督もなき【泣き】給へば、めのとも袖をしぼりけり。良
久しくあて大臣殿「さらば副将、とく【疾く】かへれ、うれしう
見つ」との給へ【宣へ】ども、わか公【若君】かへり給はず。右衛門督
これを見て、涙ををさへ【抑へ】ての給ひけるは、「やや副
将御ぜ、こよひはとくとくかへれ【帰れ】。ただいままらう人【客人】のこ【来】
うずるぞ。あしたはいそぎまいれ【参れ】」との給へ【宣へ】ども、
P11152
ちち【父】の御浄衣の袖にひしととりついて、「いなや、かへ
らじ」とこそなき【泣き】給へ。かくてはるかに程ふれば、
日もやうやうくれ【暮れ】にけり。さてしもあるべき事ならね
ば、めのとの女房いだきとて、御車にのせ【乗せ】たてま
つり【奉り】、二人の女房どもも袖をかほ【顔】にをし【押し】あてて、なく
なく【泣々】いとま申つつ、ともにの【乗つ】てぞいで【出で】にける。おほ
い殿【大臣殿】はうしろをはるかに御らんじ【御覧じ】をく【送つ】て、「日来の恋
しさは事のかずならず」とぞかなしみ給ふ。「この
わか公【若君】は、母のゆひごん【遺言】がむざん【無慙】なれば」とて、めの
P11153
とのもとへもつかはさ【遣さ】ず、あさゆふ御まへにてそ
だて【育て】給ふ。三歳にてうゐかぶり【初冠】きせ【着せ】て、義宗と
ぞなのら【名乗ら】せける。やうやうおい【生ひ】たち【立ち】給ふままに、み
め【眉目】かたちうつくしく、心ざまゆう【優】におはしければ、
大臣殿もかなしう【悲しう】いとをしき事におぼして、西
海の旅の空、浪のうへ【上】、舟のうちのすまゐ【住ひ】にも、
かた時【片時】もはなれ給はず。しかる【然る】をいくさ【軍】やぶれて
後は、けふぞたがひ【互】に見給ひける。河越小太郎、
判官の御まへにまい【参つ】て、「さてわか公【若君】の御事をば、
P11154
なにと御ぱからひ候やらん」と申ければ、「鎌倉ま
でぐし【具し】たてまつる【奉る】に及ばず。なんぢともかうも
これ【是】であひはからへ【計らへ】」とぞの給ひける。河越小太郎
二人の女房どもに申けるは、「大臣殿は鎌倉へ御
くだり【下り】候が、わか公【若君】は京に御とどまりあるべきにて候。
重房もまかり【罷り】下候あひだ、おかた【緒方】の三郎維義【惟義】
が手へわたしたてまつる【奉る】べきにて候。とうとうめさ【召さ】れ
候へ」とて、御車よせたりければ、わか公【若君】なに心【何心】もなう
のり【乗り】給ひぬ。「又昨日のやうにちち【父】御前の御もとへか」
P11155
とてよろこば【喜ば】れけるこそはかなけれ。六条を
東へやてゆく。この女房ども「あはやあやしき物
かな」と、きも魂をけし【消し】て思ける程に、すこし【少し】ひき【引き】
さがて、つはもの【兵】五六十騎が程河原へうち出たり。
やがて車をやりとどめ【留め】て敷皮しき、「おりさせ給
へ」と申ければ、わか公【若君】車よりおり給ひぬ。よに
あやしげにおぼして、「我をばいづちへぐし【具し】てゆか
むとするぞ」ととひ給へば、二人の女房共とかう
の返事にも及ばず。重房が郎等太刀をひき【引き】
P11156
そばめて、左の方より御うしろに立まはり、すで
にきりたてまつら【奉ら】んとしけるを、わか公【若君】見つけ給
ひて、いく程のがる【逃る】べき事のやうに、いそぎめのと【乳母】
のふところ【懐】のうちへぞ入給ふ。さすが心づよう
とりいだしたてまつる【奉る】にも及ばねば、わか公【若君】を
かかへたてまつり【奉り】、人のきく【聞く】をもはばからず、
天にあふぎ地にふしておめき【喚き】さけみける心の
うち、おしはから【推し量ら】れて哀也。かくて時刻はるかに
をし【押し】うつりければ、河越小太郎重房涙をお
P11157
さへ【抑へ】て、「いまはいかにおぼしめされ候とも、かなは【叶は】せ
給候まじ。とうとう」と申ければ、其時めのと【乳母】のふと
ころ【懐】のうちよりひき【引き】いだしたてまつり【奉り】、腰の刀
にてをし【押し】ふせ【伏せ】て、つゐに【遂に】頸をぞかいてげる。た
けき【猛き】物のふどももさすがいは木【岩木】ならねば、みな
涙をながしけり。くび【頸】をば判官のげざん【見参】に
いれ【入れ】んとて取てゆく。めのとの女房かちはだし
にてお【追つ】つい【付い】て、「なにかくるしう【苦しう】候べき。御頸ばかり
をば給はて、後世をとぶらひ【弔ひ】まいらせ【参らせ】ん」と申せば、
P11158
判官もよにあはれ【哀】げにおもひ【思ひ】、涙をはらはらと
ながい【流い】て、「まこと【誠】にさこそはおもひ【思ひ】給ふらめ。もと
もさるべし。とうとう」とてたびにけり。これ【是】をとて
ふところ【懐】にいれ【入れ】て、なくなく【泣く泣く】京の方へかへる【帰る】とぞみ
え【見え】し。其後五六日して、桂河に女房二人身をなげ
たる事あり【有り】けり。一人おさなき【幼き】人のくび【頸】をふ
ところ【懐】にいだひ【抱い】てしづみたりけるは、此わか
公【若君】のめのとの女房にてぞありける。いま一人む
くろをいだひ【抱い】たりけるは、介惜【介錯】の女房也。めの
P11159
とがおもひ【思ひ】きる【切る】はせめていかがせん、かいしやく【介錯】
の女房さへ身をなげけるこそありがたけれ。
『腰越』S1117
○さる程に、おほい殿【大臣殿】は九郎大夫の判官にぐ
せ【具せ】られて、七日のあかつき、粟田口をすぎ給
へば、大内山、雲井のよそにへだたりぬ。関
の清水を見給ひて、なくなく【泣く泣く】かうぞ詠じ給ひける。
都をばけふをかぎりのせきみづ【関水】に
また【又】あふさか【逢坂】のかげやうつさ【映さ】む W089
道すがらもあまりに心ぼそげにおぼしければ、
P11160
判官なさけある人にて、やうやうになぐさめたてま
つる【奉る】。「あひかまへて今度の命をたすけ【助け】てたべ」
との給ひければ、「とをき【遠き】国、はるかの島へもうつ
しぞまいらせ【参らせ】候はんずらん。御命うしなひ【失ひ】たて
まつる【奉る】まではよも候はじ。たとひさるとも、義経が
勲功の賞に申かへて、御命ばかりはたすけ【助け】
まいらせ【参らせ】候べし。御心やすうおぼしめさ【思し召さ】れ候へ」と、た
のもしげ【頼もし気】に申されければ、「たとひゑぞ【蝦夷】が千島な
りとも、かい【甲斐】なき命だにあらば」との給ひける
P11161
こそ口惜けれ。日数ふれば、同廿四日、鎌倉へ
下りつき給ふ。梶原さきだて鎌倉殿に申
けるは、「日本国は今はのこるところ【所】なうしたがひ
たてまつり【奉り】候。ただし御弟九郎大夫判官殿
こそ、つゐの御敵とは見えさせ給候へ。そのゆへ【故】は、
一をもて万をさつす[* 「さんす」と有るのを他本により訂正]とて、「一の谷をうへ【上】の山
よりおとさ【落さ】ずは、東西の木戸口やぶれがたし。い
けどり【生捕り】も死にどり【死に捕り】も義経にこそ見すべき
に、物のよう【用】にもあひ給はぬ蒲殿の方へ見参に
P11162
入べき様やある。本三位中将殿こなたへたば【賜ば】じ
と候ば、O[BH 義経]まい【参つ】て給はるべし」とて、すでにいくさ【軍】[B 「いくさ」に「事イ」と傍書]いで【出で】
き【来】候はんとし候しを、景時が土肥に心をあはせ【合はせ】
て、三位中将殿を土肥次郎にあづけて後こ
そしづまり給て候しか」とかたり申ければ、かま
くら【鎌倉】殿うちうなづいて、「けふ九郎が鎌倉へいる【入る】
なるに、おのおの用意し給へ」と仰られければ、大
名小名はせ【馳せ】あつま【集まつ】て、ほど【程】なく数千騎になり
にけり。金洗沢に関すへ【据ゑ】て、大臣殿父子うけ【受け】と
P11163
り【取り】たてま【奉つ】て、判官をば腰ごえ【腰越】へお【追つ】かへさ【返さ】る。かま
くら【鎌倉】殿は随兵七重八重にすへ【据ゑ】をいて、我身はそ
の【其の】なか【中】におはしましながら「九郎はO[BH 進疾男なれば、]このたたみ【畳】のし
たよりO[BH も]はひ【這ひ】いでんずるもの也。ただし頼朝はせら
るまじ」とぞの給ひける。判官おもは【思は】れけるは、
「こぞの正月、木曾義仲を追討せしよりこの
かた、一の谷・檀【*壇】の浦にいたるまで、命をすてて平
家をせめ【攻め】おとし、内侍所しるし【璽】の御箱事ゆへ【故】
なくかへし【返し】いれ【入れ】たてまつり【奉り】、大将軍父子いけどり【生捕り】
P11164
にして、ぐし【具し】てこれ【是】までくだり【下り】たらんには、たとひ
いかなるふしぎ【不思議】ありとも、一度はなどか対面なか
るべき。凡は九国の惣追補使【*惣追捕使】にもなされ、山陰・
山陽・南海道、いづれに〔て〕もあづけ、一方のかた
めともなされんずるとこそおもひ【思ひ】つるに、わづ
かに伊与【*伊予】国ばかりを知行すべきよし仰られて、
鎌倉へだにも入られぬこそほいなけれ。さ
ればこは何事ぞ。日本国をしづむる事、義
仲・義経がしわざにあらずや。たとへばおなじ
P11165
父が子で、先にむまるる【生るる】を兄とし、後にむまるる【生るる】
を弟とするばかり也。誰か天下をしら【知ら】んにしら【知ら】
ざるべき。あまさへ【剰へ】今度見参をだにもとげ
ずして、おい【追ひ】のぼせ【上せ】らるるこそ遺恨の次第
なれ。謝するところ【所】をしらず」とつぶやかれけれども、
ちからなし。またく不忠なきよし、たびたび起請文
をもて申されけれども、景時が讒言によて、鎌
倉殿もちゐ【用ゐ】給はねば、判官なくなく【泣々】一通の
状をかいて、広基のもとへつかはす【遣す】。
P11166
源[B ノ]義経恐ながら申上候意趣者、御代官の其
一に撰ばれ、勅宣の御使として、朝敵をかたむ
け、会稽の恥辱をすすぐ。勲賞おこなはる
べき処に、思外〔に〕虎口の讒言によて莫太の
勲功を黙せらる。義経おかしなう【無う】して咎をかうむ
る。劫あつて誤なしといへ共、御勘気を蒙るあひだ【間】、
むなしく紅涙にしづむ。讒者の実否をたださ
れず、鎌倉中へ入られざる間、素意をのぶ
るにあたはず、いたづらに数日ををくる【送る】。此時に
P11167
あたてながく恩顔を拝したてまつら【奉ら】ず。骨肉同
胞の義すでにたえ【絶え】、宿運きはめてむなしき【空しき】
にに【似】たる歟。将又先世の業因の感ずる歟。悲
哉、此条、故亡父尊霊再誕し給はずは、誰の人か
愚意の悲歎を申ひらかん、いづれの人か哀憐
をたれられんや。事あたらしき申状、述懐に
似たりといへども、義経身体髪膚を父母に
うけて、いくばくの時節をへず故守殿御他界[* 「御他家」と有るのを他本により訂正]
の間、みなし子となり、母の懐のうちにいだかれて、
P11168
大和国宇多郡におもむき【赴き】しよりこのかた、いまだ一日
片時安堵のおもひ【思ひ】に住せず。甲斐なき命[B を]ば存
すといへども、京都の経廻難治の間、身を在々
所々にかくし、辺土遠国をすみか【栖】として、土民
百姓等に服仕せらる。しかれども高慶たちまち【忽】に純
熟して、平家の一族追討のために上洛せしむる
手あはせ【合はせ】に、木曾義仲を誅戮の後、平氏を
かたむけんがために、或時は峨々たる巌石に
駿馬[* 「髪馬」と有るのを他本により訂正]に鞭う【打つ】て、敵の為に命をほろぼさん事
P11169
を顧みず、或時は漫々たる大海に風波の難を
しのぎ、海底にしづまん事をいたま【痛ま】ずして、
かばねを鯨鯢の鰓にかく。しかのみならず、甲冑
を枕とし弓箭を業とする本意、しかしながら亡
魂のいきどほりをやすめたてまつり、年来の
宿望をとげんと欲する外他事なし。あまさへ【剰へ】
義経五位尉に補任の条、当家の重職何事か
これ【是】にしかん。しかりといへども今愁ふかく歎き切也。
仏神の御たすけ【助け】にあらずより外は、争か愁訴を
P11170
達せん。これによて諸神諸社の牛王宝印の
うらをもて、野心を挿まざるむね、日本国中の
大小の神祇冥道を請じ驚かしたてま【奉つ】て、数通
の起請文をかき【書き】進ずといへども、猶以御宥免な
し。我国は神国也。神は非礼を享給べからず。
憑ところ【処】他に
あらず。ひとへに貴殿広大の慈悲を仰ぐ。便宜を
うかがひ【伺ひ】高聞に達せしめ、秘計をめぐらし、あやま
りなきよしをゆうぜ【宥ぜ】られ、放免にあづからば、積
善の余慶家門に及び、栄花をながく子孫に
P11171
つたへん。仍て年来の愁眉を開き、一期の安
寧をえ【得】ん。書紙につくさず。併令省略候畢。
義経恐惶謹言。元暦二年六月五日源義経
『大臣殿被斬』S1118
進上因幡[B ノ]守殿へとぞかか【書か】れたる。○さる程に、鎌
倉殿大臣殿に対面あり【有り】。おはしける所、庭をひと
つ【一つ】へだててむかへ【向へ】なる屋にすへ【据ゑ】たてまつり【奉り】、簾
のうちより見いだし、比気【*比企】藤四郎義員【*能員】を使
者で申されけるは、「平家の人々に別の意趣
おもひ【思ひ】たてまつる【奉る】事、努々候はず。其上池殿の尼
P11172
御前いかに申給とも、故入道殿の御ゆるされ【許され】
候はずは、頼朝いかでかたすかり候べき。流罪に
なだめ【宥め】られし事、ひとへに入道殿の御恩也。され
ば廿余年までさてこそ罷過候しかども、朝敵
となり給ひて追討すべき由院宣を給はる
間、さのみ王地にはらまれて、詔命をそむくべ
きにもあらねば、力不及。か様【斯様】に見参に入候ぬる
こそ本意に候へ」と申されければ、義員【*能員】この由
申さんとて、御まへにまいり【参り】たりければ、ゐ【居】なをり【直り】
P11173
畏り給ひけるこそうたてけれ。国々の大名小
名なみ【並み】ゐたる其なか【中】に、京の物どもいくらも
あり、平家の家人たりし物もあり、みなつま
はじき【爪弾き】をして申けるは、「ゐ【居】なをり【直り】畏給ひた
らば、御命のたすかり給べきか。西国でいかにも
なり給べき人の、いきながらとらはれて、これ【是】
までくだり【下り】給ふこそことはり【理】なれ」とぞ申ける。
或は涙をながす人もあり。其なか【中】にある人の
申けるは、「猛虎深山にある時は、百獣ふるひ【震ひ】
P11174
おづ。檻井のうちにあるに及で、尾を動[* 左にの振り仮名]かして[B 「動かして」の右に「フツテイ」と傍書]
食をもとむとて、たけひ【猛い】虎のふかい山にある
時は、もも【百】のけだ物おぢおそる【恐る】といへ共、とてお
り【檻】のなか【中】にこめられぬる時は、尾をふて人にむかふ【向ふ】
らんやうに、いかにたけき【猛き】大将軍なれども、か様【斯様】に
なて後は心かはる事なれば、大臣殿もかくお
はするにこそ」と申ける人もありけるとかや。
さる程に、九郎大夫判官やうやうに陳じ申
されけれども、景時が讒言によて鎌倉殿さらに
P11175
分明の御返事もなし。「いそぎのぼらるべし」と
仰られ[B 「仰られ」に「の給ひイ」と傍書]ければ、同六月九日、大臣殿父子具した
てま【奉つ】て都へぞかへり【帰り】のぼられける。大臣殿はい
ますこし【少し】も日数ののぶるをうれしき事におも
は【思は】れけり。道すがらも「ここにてやここにてや」とおぼしけれ
ども、国々宿々うちすぎうちすぎとほり【通り】ぬ。尾張国うつ
み【内海】といふ処あり【有り】。ここは故左馬頭義朝が誅せ
られしところ【所】なれば、これにてぞ一定とおもは【思は】れ
けれども、それをもすぎ【過ぎ】しかば、大臣殿すこし【少し】たの
P11176
もしき【頼もしき】心いで【出で】き【来】て、「さては命のいき【生き】んずるや
らん」との給ひけるこそはかなけれ。右衛門督は
「なじかは命をいくべき。か様【斯様】にあつきころ【比】なれば、頸の
損ぜぬ様にはからひて、京ちかうなてきらんず
るにこそ」とおもは【思は】れO[BH けれ]ども、大臣殿のいたく心ぼそ
げにおぼしたるが心ぐるしさに、さは申されず。
ただ念仏をのみぞ申給ふ。日数ふれば都もちか
づき【近付き】て、近江国しの原【篠原】の宿につき給ひぬ。判
官なさけふかき人なれば、三日路より人を先
P11177
だてて、善知識のために、大原の本性房湛豪
といふ聖を請じ下されたり。昨日まではおや子【親子】
一所におはしけるを、けさよりひき【引き】はな【放つ】て、別の
ところ【所】にすへ【据ゑ】たてまつり【奉り】ければ、「さてはけふを最後
にてあるやらん」と、いとど心ぼそうぞおもは【思は】れける。大
臣殿涙をはらはらとながひ【流い】て、「そもそも【抑】右衛門督はい
い[* 「い」1字衍字]づくに候やらん。手をとりくんでもをはり、たとひ
頸はおつとも、むくろはひとつ【一つ】席にふさ【臥さ】んとこそ思
つるに、いきながらわかれぬる事こそかなしけれ。十七
P11178
年が間、一日片時もはなるる事なし。海底にしづま
でうき名をながすも、あれゆへ【故】なり」とてなか【泣か】れけ
れば、聖もあはれ【哀】におもひ【思ひ】けれども、我さへ心よは
く【弱く】てはかなは【叶は】じとおもひ【思ひ】て、涙をし【押し】のごひ【拭ひ】、さらぬ
ていにもてないて申けるは、「いまはとかくおぼしめ
す【思し召す】べからず。最後の御ありさま【有様】を御らんぜ【御覧ぜ】むに
つけても、たがひ【互】の御心のうちかなしかる【悲しかる】べし。
生をうけさせ給てよりこのかた、たのしみさかへ【栄え】、
昔もたぐひすくなし。御門の御外戚にて丞
P11179
相の位にいたらせ給へり。今生の御栄花一
事ものこるところなし。いま又かかる御目にあは
せ【合はせ】給ふも、先世の宿業なり。世をも人をも
恨みおぼしめす【思し召す】べからず。大梵王宮の深禅定
のたのしみ、おもへ【思へ】ば程なし。いはんや電光朝
露の下界の命においてをや。■利天の憶千
歳【*億千歳】、ただ夢のごとし。卅九年をすぐさせ給ひけ
むも、わづかに一時の間なり。たれか嘗たりし
不老不死の薬、誰かたもち【保ち】たりし東父西母が
P11180
命、秦の始皇の奢をきはめしも、遂には麗山【*驪山】の
墓にうづもれ【埋もれ】、漢の武帝の命ををしみ【惜しみ】給ひ
しも、むなしく杜陵の苔にくちにき。「生あるも
のは必滅す。釈尊いまだ栴檀の煙をまぬかれ【免かれ】
給はず。楽尽て悲来る。天人尚五衰の日に
あへり」とこそうけ給はれ【承れ】。されば仏は、「我心自空、
罪福無主、観心無心、法不住法」とて、善も悪も
空なりと観ずるが、まさしく仏の御心にあひかな
ふ【叶ふ】事にて候也。いかなれば弥陀如来は、五劫が間、
P11181
思惟して、発がたき願を発しましますに、いかな
る我等なれば、億々万劫が間生死に輪廻して、
宝の山に入て手を空うせん事、恨のなかの恨、
愚なるなかの口惜い事に候はずや。ゆめゆめ余
念をおぼしめす【思し召す】べからず」とて、戒たもた【保た】せたてま
つり【奉り】、念仏すすめ【進め】申。大臣殿しかる【然る】べき善知識
かなとおぼしめし【思し召し】、忽に妄念翻へして、西にむかひ【向ひ】手
をあはせ【合はせ】、高声に念仏し給ふところ【処】に、橘右馬允
公長、太刀をひき【引き】そばめて、左のかたより御うしろ
P11182
に立まはり、すでにきりたてまつらんとしければ、大
臣殿念仏をとどめ【留め】て、「右衛門督もすでにか」との給
ひけるこそ哀なれ。公長うしろへよるかと見えしかば、
頸はまへにぞ落にける。善知識のひじり【聖】も涙に
咽び給ひけり。たけき【猛き】もののふも争かあはれ【哀】と
おもは【思は】ざるべき。ましてかの公長は、平家重代の
家人、新中納言のもとに朝夕祗候の侍也。「さ
こそ世をへつらうといひながら、無下になさけな
かりける物かな」とぞみな人慚愧しける。其後右
P11183
衛門督をも、聖前のごとくに戒たもた【保た】せたてま
つり【奉り】、念仏すすめ申。「大臣殿の最後いかがおはし
ましつる」ととは【問は】れけるこそいとをしけれ。「目出たう
ましまし候つるなり。御心やすうおぼしめさ【思し召さ】れ候へ」と申
されければ、涙をながし悦て、「今はおもふ【思ふ】事なし。さら
ばとう」とぞの給ひける。今度は堀[B ノ]弥太郎きて
げり。頸をば判官もたせて都へいる。むくろをば公
長が沙汰として、おや子【親子】ひとつ【一つ】穴にぞうづみける。
さしも罪ふかくはなれ【離れ】がたくの給ひければ、かやうに
P11184
してんげり。同廿三日、大臣殿父子のかうべ都へいる。検
非違使ども、三条河原にいで向てこれ【是】をうけ【受け】とり【取り】、
大路をわたして左の獄門の樗の木にぞかけた
りける。O[BH 昔より]三位以上の人の頸、大路をわたして獄門に
かけらるる事、異国には其[B ノ]例もやあるらん、吾
朝にはいまだ先蹤をきかず。されば平治に信頼
はO[BH さばかりの]悪行人たりしかば、かうべをばはねられたりし
かども、獄門にはかけられず。平家にとてぞかけ
られける。西国よりのぼ【上つ】てはいき【生き】て六条を東へ
P11185
わたされ、東国よりかへ【帰つ】てはしん【死ん】で三条を西へ
わたされ給ふ。いきての恥、しんでの恥、いづれもお
『重衡被斬』S1119
とらざりけり。○本三位中将重衡卿は、狩野介宗
茂にあづけられて、去年より伊豆国におは
しけるを、南都[B ノ]大衆頻に申ければ、「さらばわた
せ【渡せ】」とて、源三位入道頼政の孫、伊豆蔵人大夫頼
兼に仰て、遂に奈良へぞつかはし【遣し】ける。都へは入
られずして、大津より山科どほり【山科通り】に、醍醐路を
へてゆけば、日野はちかかり【近かり】けり。此重衡卿の北方
P11186
と申は、鳥飼の中納言惟実のむすめ、五条大納
言国綱【*邦綱】卿の養子、先帝の御めのと【乳母】大納言佐
殿とぞ申ける。三位中将一谷でいけどり【生捕り】にせ
られ給ひし後も、先帝につきまいらせ【参らせ】てお
はせしが、檀【*壇】の浦にて海にいらせ給しかば、もののふ
のあらけなき【荒けなき】にとらはれて、旧里にかへり【帰り】、姉
の大夫三位に同宿して、日野といふところ【所】にお
はしけり。中将の露の命、草葉の末にかかて
きえやらぬときき給へば、夢ならずして今一
P11187
度見もし見えもする事もやとおもはれけれど
も、それもかなは【叶は】ねば、なく【泣く】より外のなぐさめなく
て、あかし【明かし】くらし給ひけり。三位中将守護の武士
にの給ひけるは、「この【此の】程事にふれてなさけふ
かう【深う】芳心おはしつるこそありがたううれしけれ。
同くは最後に芳恩かO[BH う]ぶりたき事あり【有り】。我は
一人の子なければ、この世におもひ【思ひ】をく【置く】事な
きに、年来あひぐし【具し】たりし女房の、日野といふ
ところ【所】にありときく。いま一度対面して、後生の
P11188
事を申をか【置か】ばやとおもふ【思ふ】也」とて、片時のいとま
をこは【乞は】れけり。武士どもさすが岩木ならねば、お
のおの涙をながしつつ「なにかはくるしう【苦しう】候べき」と
て、ゆるしたてまつる【奉る】。中将なのめならず悦て、「大納言
佐殿の御局はこれにわたらせ給候やらん。本三
位中将殿の只今奈良へ御とほり【通り】候が、立ながら見
参に入ばやと仰候」と、人をいれ【入れ】ていは【言は】せければ、
北方きき【聞き】もあへず「いづらやいづら」とてはしり【走り】
いで【出で】て見給へば、藍摺の直垂に折烏帽子き【着】た
P11189
る男の、やせくろみ【黒み】たるが、縁によりゐたるぞ
そなりける。北方みす【御簾】のきはちかく【近く】よ【寄つ】て、「いか
に夢かやうつつか。これへ入給へ」との給ひける
御声をきき給ふに、いつしか先立物は涙也。
大納言佐殿目もくれ心もきえはてて、しばしは
物もの給はず。三位中将御簾うちかづいて、
なくなく【泣く泣く】の給ひけるは、「こぞの春、一の谷でいかに
もなるべかりし身の、せめての罪のむくひにや、
いきながらとらはれて大路をわたされ、京鎌倉、
P11190
恥をさらすだに口惜きに、はて【果】は奈良の大衆
の手へわたされてきらるべしとてまかり【罷り】候。いかに
もして今一度御すがたを見たてまつら【奉ら】ばやと
おもひ【思ひ】つるに、いまは露ばかりもおもひ【思ひ】をく【置く】事な
し。出家してかたみ【形見】にかみ【髪】をもたてまつら【奉ら】ばやと
おもへ【思へ】ども、ゆるされ【許され】なければ力及ばず」とて、
ひたい【額】のかみをすこし【少し】ひき【引き】わけて、口のおよぶ【及ぶ】
ところ【所】をくひきて、「これ【是】をかたみ【形見】に御らんぜ
よ」とてたてまつり【奉り】給ふ。北方は、日来おぼつか
P11191
なくおぼしけるより、いま一しほかなしみの色を
ぞまし給ふ。「まこと【誠】に別たてまつり【奉り】し後は、越前
三位のうへ【上】の様に、水の底にもしづむべか
りしが、まさしうこの世におはせぬ人ともき
か【聞か】ざりしかば、もし不思儀にて今一度、かはら【変ら】ぬ
すがたを見もし見えもやするとおもひ【思ひ】てこそ、
うき【憂き】ながらいま【今】までもながらへ【永らへ】てありつるに、
けふ【今日】をかぎりにておはせんずらんかなしさよ。いまま
でのび【延び】つるは、「もしや」とおもふ【思ふ】たのみ【頼み】もありつる
P11192
物を」とて、昔いまの事どもの給ひかはすにつ
けても、ただつきせ【尽きせ】ぬ物は涙也。「あまりに御す
がたのしほれ【萎れ】てさぶらふ【候ふ】に、たてまつりかへよ」と
て、あはせ【合はせ】の小袖に浄衣をいださ【出さ】れたりければ、
三位中将これ【是】をきかへて、もとき【着】給へる物ど
もをば、「形見に御らんぜよ【御覧ぜよ】」とてをか【置か】れけり。北
方「それもさる事にてさぶらへ【候へ】ども、はかなき筆
の跡こそながき世のかた見【形見】O[BH にて]さぶらへ【候へ】」とて、御硯
をいださ【出さ】れたりければ、中将なくなく【泣く泣く】一首の
P11195[* 以下の二丁が錯簡のため置き換えます。]
歌をぞかかれける。
せきかねて泪のかかるからころも【唐衣】
後のかたみにぬぎ【脱ぎ】ぞかへぬる W090
女房ききもあへず
ぬぎかふる【変ふる】ころも【衣】もいま【今】はなにかせん
けふ【今日】をかぎりのかたみとおもへ【思へ】ば W091
「契あらば後世にてはかならず【必ず】むまれ【生れ】あひたてま
つら【奉ら】ん。ひとつ【一つ】はちす【蓮】にといのり【祈り】給へ。日もたけ
ぬ。奈良へもとをう【遠う】候。武士のまつ【待つ】も心なし」とて、
P11196
出給へば、北方袖にすがて「いかにやいかに、しばし」とて
ひき【引き】とどめ【留め】給ふに、中将「心のうちをばただおし
はかり【推し量り】給ふべし。されどもつゐに【遂に】のがれ【逃れ】はつべき
身にもあらず。又こ【来】ん世にてこそ見たてまつ
ら【奉ら】め」とていで【出で】給へども、まことに此世にてあひみ【見】ん
事は、これ【是】ぞかぎりとおもは【思は】れければ、今一度たち
かへりたくおぼしけれども、心よはく【弱く】てはかなは【叶は】じ
と、おもひ【思ひ】きてぞいでられける。北方御簾の
きはちかく【近く】ふし【臥し】まろび【転び】、おめき【喚き】さけび【叫び】給ふ御声
P11193
の、〔門の〕外まではるかにきこえ【聞え】ければ、駒をもさらに
はやめ給はず。涙にくれてゆくさきも見えねば、
中々なりける見参かなと、今はくやしうぞおもは【思は】
れける。大納言佐殿やがてはしり【走り】ついてもおは
しぬべくはおぼしけれども、それもさすがなれ
ば、ひき【引き】かづいてぞふし給ふ。南都の大衆うけ【受け】
と【取つ】て僉議す。「抑此重衡卿は大犯の悪人たる
うへ【上】、三千五刑のうちにもれ【漏れ】、修因感果の道理極
上せり。仏敵法敵の逆臣なれば、東大寺・興福寺
P11194
の大垣をめぐらして、のこぎりにてやきるべき、堀
頸にやすべき」と僉議す。老僧どもの申されける
は、「それも僧徒の法に穏便ならず。ただ守護の
武士にたう【賜う】で、粉津【*木津】の辺にてきらすべし」とて、武
士の手へぞかへしける。武士これ【是】をうけ【受け】と【取つ】て、粉津
河【*木津川】のはたにてきらんとするに、数千人の大衆、
見る人いくらといふかず【数】をしら【知ら】ず。三位中将
のとしごろ【年来】めし【召し】つかは【使は】れける侍に、木工右馬[B ノ]允
知時といふ物あり【有り】。八条女院に候けるが、最後
P11197
を見たてまつら【奉ら】んとて、鞭をう【打つ】てぞ馳たりけ
る。すでに只今きりたてまつら【奉ら】むとするとこ
ろ【処】にはせ【馳せ】つゐ【着い】て、千万立かこう【囲う】だる人のなか【中】を
かきわけかきわけ、三位中将のおはしける御そば
ちかうまいり【参り】たり。「知時こそただ今【只今】O[BH 御]最後の御
ありさま【有様】見まいらせ【参らせ】候はんとて、是までまいり【参り】
てこそ候へ」となくなく【泣く泣く】申ければ、中将「まこと【誠】に心
ざしのほど【程】神妙也。仏ををがみ【拝み】たてま【奉つ】てきら
ればやとおもふ【思ふ】はいかがせんずる。あまりに罪ふかう【深う】
P11198
おぼゆる【覚ゆる】に」との給へば、知時「やすい御事候や」とて、
守護の武士に申あはせ【合はせ】、そのへん【辺】におはしける
仏を一体むかへ【向へ】たてま【奉つ】て出きたり。幸に阿弥
陀にてぞましましける。河原のいさごのうへ【上】に立
まいらせ【参らせ】、やがて知時が狩衣の袖のくくり【括り】を
といて、仏の御手にかけ、中将にひかへさせたて
まつる【奉る】。これ【是】をひかへたてまつり【奉り】、仏にむかひ【向ひ】たて
ま【奉つ】て申されけるは、「つたへきく、調達が三逆を
つくり、八万蔵の聖教をO[BH 焼イ]ほろぼしたりしも、遂に
P11199
は天王如来の記■にあづかり【預り】、所作の罪業まこ
と【誠】にふかしといへども、聖教に値遇せし逆縁くち【朽ち】
ずして、かへて【却つて】得道の因となる。いま重衡が逆罪を
おかす事、またく愚意の発起にあらず、只世に
随がふことはり【理】を存斗也。命をたもつ【保つ】物誰か王命
を蔑如する、生をうくる物誰か父の命をそむ
かん。かれといひ、これ【是】といひ、辞するにところ【所】なし。
理非仏陀の照覧にあり【有り】。抑罪報たちどころ
にむくひ、運命只今をかぎりとす。後悔千万、
P11200
かなしんでもあまりあり。ただし三宝の境界は慈
悲を心として、済度の良縁まちまち也。唯縁楽
意、逆即是順、此[B ノ]文肝に銘ず。一念弥陀仏、即滅
無量罪、願くは逆縁をもて順縁とし、只今の
最後の念仏によて九品託生をとぐべし」とて、
高声に十念となへ【唱へ】つつ、頸をのべてぞきらせ
られける。日来の悪行はさる事なれ共、いまの
ありさま【有様】を見たてまつる【奉る】に、数千人の大衆も
守護の武士も、みな涙をぞながしける。その【其の】頸
P11201
をば、般若寺大鳥井【*大鳥居】の前に釘づけ【釘付け】にこそかけた
りけれ。治承の合戦の時、ここにう【打つ】た【立つ】て伽藍をほ
ろぼし給へる故也。北方大納言佐殿、かうべをこそ
はね【刎ね】られたりとも、むくろをばとりよせて孝
養せんとて、輿をむかへ【向へ】につかはす【遣す】。げにもむく
ろをばすて【捨て】をきたりければ、とて輿にいれ【入れ】、日野へ
かい【舁い】てぞかへりける。これ【是】をまちうけ見給ひける北
方の心のうち、をしはから【推し量ら】れて哀也。昨日まではゆゆ
しげにおはせしかども、あつき【暑き】ころなれば、いつしかあらぬ
P11202
さまになり給ひぬ。さてもあるべきならねば、其辺に
法界寺といふ処にて、さるべき僧どもあまたかた
らひて孝養あり【有り】。頸をば大仏のひじり俊乗
房にとかくの給へ【宣へ】ば、大衆にこう【乞う】て日野へぞ
つかはし【遣し】ける。頸もむくろも煙になし、骨をば高野へ
をくり【送り】、墓をば日野にぞせられける。北方もさ
まをかへ、かの後生菩提をとぶらはれけるこそ哀
なれ。

P11203
平家物語巻第十一

平家物語 高野本 巻第十二

平家 十二(表紙)
P12001
平家十二之巻 目録
大地震     紺掻之沙汰
平大納言流罪  土佐房被斬
判官都落    イ付吉田の大納言
六代      初瀬六代
六代きられ

P12002

P12003
平家物語巻第十二
『大地震』S1201
○平家みなほろびはてて、西国もしづまりぬ。
国は国司にしたがひ【従ひ】、庄は領家のままなり。
上下安堵しておぼえし程に、同七月九日の
午刻ばかりに、大地おびたたしく【夥しく】うごいて良
久し。赤県のうち、白河のほとり、六勝寺皆
やぶれくづる。九重の塔もうへ【上】六重ふりおと
す【落す】。得長寿院も三十三間の御堂を十七間
までふり【震り】たうす【倒す】。皇居をはじめて人々の
P12004
家々、すべて在々所々の神社仏閣、あやし
の民屋、さながらやぶれくづる。くづるる
音はいかづちのごとく、あがる塵は煙の
ごとし。天暗うして日の光も見えず。老少
ともに魂をけし、朝衆悉く心をつくす。
又遠国近国もかくのごとし。大地さけ【裂け】て
水わきいで、盤石われて谷へまろぶ。山くづれ
て河をうづみ、海ただよひて浜をひたす。
汀こぐ船はなみにゆられ、陸ゆく駒は足の
P12005
たてど【立て処】をうしなへ【失へ】り。洪水みなぎり【漲ぎり】来らば、
岳にのぼ【上つ】てもなどかたすからざらむ、猛
火もえ来らば、河をへだててもしばしも
さん【去ん】ぬべし。ただかなしかり【悲しかり】けるは大地振【*大地震】なり。
鳥にあらざれば空をもかけりがたく、竜に
あらざれば雲にも又のぼりがたし。白河・
六波羅、京中にうちうづま【埋ま】れてしぬる【死ぬる】もの
いくらといふ数をしら【知ら】ず。四大衆【*四大種】の中に水火
風は常に害をなせども、大地にをいては
P12006
ことなる変をなさず。こはいかにしつること【事】
ぞやとて、上下遣戸障子をたて、天の
なり地のうごくたびごとには、唯今ぞし
ぬる【死ぬる】とて、声々に念仏申。おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】事
おびたたし【夥し】。七八十・九十の者も世の滅する
などいふ事は、さすがけふあすとはおもは【思は】ず
とて、大に驚さはぎ【騒ぎ】ければ、おさなき【幼き】
もの共も是をきい【聞い】て、泣かなしむ事限
なし。法皇はそのおり【折】しも新熊野へ
P12007
御幸なて、人多くうちころさ【殺さ】れ、触穢出
きにければ、いそぎ六波羅殿へ還御
なる。道すがら君も臣もいかばかり御心
をくだかせ給ひけん。主上は鳳輦に
めし【召し】て池の汀へ行幸なる。法皇は南庭
にあく屋【幄屋】をたててぞましましける。
女院・宮々は御所ども【共】皆ふり【震り】たをし【倒し】けれ
ば、或御輿にめし【召し】、或御車にめし【召し】て出させ
給ふ。天文博士ども馳まい【参つ】て、「よさりの亥子
P12008
の刻にはかならず大地うち返すべし」
と申せば、おそろし【恐ろし】などもをろか【愚】なり。
昔文徳天皇の御宇、斉衡三年三月八日
の大地振【*大地震】には、東大寺の仏の御ぐしをふり
おとし【落し】たりけるとかや。又天慶二年四月
五日の大地振【*大地震】には、主上御殿をさて清寧
殿【*常寧殿】の前に五丈のあく屋【幄屋】をたててましまし
けるとぞうけ給はる【承る】。其は上代の事
なれば申にをよば【及ば】ず。今度の事は是より
P12009
後もたぐひあるべしともおぼえず。十善
帝王都を出させ給て、御身を海底にしづめ、
大臣公卿大路をわたしてその頸を獄門に
かけらる。昔より今に至るまで、怨霊は
おそろしき【恐ろしき】事なれば、世もいかがあらんずらん
とて、心ある人の歎かなしまぬはなかり
『紺掻之沙汰』S1202
けり。○同八月廿二[B 三イ]日、鎌倉の源二位頼朝卿
の父、故左馬頭義朝のうるはしきかうべとて、
高雄の文覚上人頸にかけ、鎌田兵衛が頸
P12010
をば弟子が頸にかけさせて、鎌倉へぞ下
られける。去治承四年のころとり【取り】いだし【出し】
てたてま【奉つ】たりけるは、まこと【誠】の左馬頭のかうべ
にはあらず、謀反をすすめ奉らんための
はかりこと【策】に、そぞろなるふるい【古い】かうべをしろい【白い】
布につつんでたてま【奉つ】たりけるに、謀反を
おこし世をうちとて、一向父の頸と信ぜ
られけるところ【所】へ、又尋出してくだり【下り】けり。
是は年ごろ[B 「ころ」に「来」と傍書]義朝の不便にしてめし【召し】つか
P12011
は【使は】れける紺かき【紺掻】の男、年来獄門にかけられ
て、後世とぶらふ人もなかりし事をかなしん
で、時の大理にあひ奉り、申給はりとりおろ
して、「兵衛佐殿流人でおはすれ共、すゑたの
もしき【頼もしき】人なり、もし世に出てたづね【尋ね】らるる
事もこそあれ」とて、東山円覚寺といふ所
にふかう【深う】おさめ【納め】てをき【置き】たりけるを、文覚聞
出して、かの紺かき[B ノ]男【紺掻男】ともにあひ具して
下りけるとかや。けふ既に鎌倉へつくと聞
P12012
えしかば、源二位片瀬河まで迎におはし
けり。それより色の姿になりて、泣々鎌
倉へ入給ふ。聖をば大床にたて、我身は
庭に立て、父のかうべをうけ【受け】とり【取り】たまふ【給ふ】
ぞ哀なる。是を見る大名小名、みな涙を
ながさずといふ事なし。石巌のさがしき【嶮しき】を
きりはら【払つ】て、新なる道場を造り、父の御
為と供養じて、勝長寿院と号せらる。
公家にもかやうの事を哀と思食て、故左
P12013
馬頭義朝の墓へ内大臣正二位を贈らる。
勅使は左大弁兼忠とぞきこえ【聞え】し。頼朝
卿武勇の名誉長ぜるによて、身をたて
家をおこすのみならず、亡父聖霊贈官贈
『平大納言被流』S1203
位に及けるこそ目出けれ。○同九月廿三[B 二イ]日、平
家の余党の都にあるを、国々へつかはさ【遣さ】る
べきよし、鎌倉殿より公家へ申されたりければ、
平大納言時忠卿能登国、子息讃岐中将時実
上総国、蔵頭信基安芸国、兵部少輔正明隠岐国、
P12014
二位僧都専信【*全真】阿波国、法勝寺執行能円
備後国、中納言律師忠快武蔵国とぞきこ
え【聞え】し。或西海の波の上、或東関の雲のはて、
先途いづくを期せず、後会其期をしら【知ら】ず。
別の涙をおさへ【抑へ】て面々におもむか【赴か】れけん心
のうち、おしはから【推し量ら】れて哀なり。その中に、
平大納言は建礼門院の吉田にわたらせ給ふ
所にまい【参つ】て、「時忠こそせめ【責め】をもふ【重う】して、けふ既に
配所へおもむき【赴き】候へ。おなじみやこの内に
P12015
候て、御あたりの御事共うけ給はら【承ら】まほし
う候つるに、つゐに【遂に】いかなる御ありさま【有様】
にてわたらせ給ひ候はんずらむと思をき
まいらせ【参らせ】候にこそ、ゆく空もおぼゆ【覚ゆ】まじう
候へ」と、なくなく【泣く泣く】申されければ、女院、「げにも昔
の名残とては、そこばかりこそおはしつれ。
今は哀をもかけ、とぶらふ人も誰かは有べき」
とて、御涙せきあへさせ給はず。此大納言と
申は、出羽前司具信が孫、兵部権大輔贈左
P12016
大臣時信が子なり。故建春門院の御せうと【兄】
にて、高倉の上皇の御外戚なり。世のおぼえ
とき【時】のきら目出たかりき。入道相国の北方八
条の二位殿も姉にておはせしかば、兼官
兼職、おもひ【思ひ】のごとく心のごとし。さればほど【程】
なくあが【上がつ】て正二位の大納言にいたれり。検
非違使[* 「検」の左にの振り仮名]別当にも三ケ度までなりたまふ【給ふ】。
此人の庁務のときは、窃盗強盗をばめし【召し】
と【取つ】て、様もなく右のかいな【腕】をば、うでなか【腕中】
P12017
より打おとし【落し】打おとし【落し】をひ【追ひ】捨らる。されば、悪別
当とぞ申ける。主上并三種の神器都へ
返し入奉るべき由、西国へ院宣をくださ【下さ】れ
たりけるに、院宣の御使花形がつらに、浪
がたといふやいじるし【焼印】をせられけるも、此
大納言のしわざなり。法皇も故女院の御
せうと【兄】なれば、御かた見【形見】に御覧ぜまほしう
おぼしめし【思し召し】けれ共、か様【斯様】の悪行によて御憤
あさから【浅から】ず。九郎判官もしたしう【親しう】なられたり
P12018
しかば、いかにもして申なだめ【宥め】ばやとおもは【思は】れ
けれどもかなは【叶は】ず。子息侍従時家とて、十六に
なられけるが、流罪にももれ【漏れ】て、伯父の時光[B ノ]
卿のもとにおはしけり。母うへ【上】帥のすけ【帥の典侍】どの【殿】
とも【共】に大納言の袂にすがり、袖をひかへて、
今を限の名残をぞおしみ【惜しみ】ける。大納言、
「つゐに【遂に】すまじき別かは」とこころづよふは
の給へ共、さこそは悲うおもは【思は】れけめ。年闌齢
傾て後、さしもむつましかりし妻子にも
P12019
別はて、すみなれし都をも雲ゐの
よそにかへりみて、いにしへは名にのみ聞し
越路の旅におもむき【赴き】、はるばると下り給ふに、
「かれは志賀唐崎、これは真野の入江、交
田の浦」と申ければ、大納言なくなく【泣々】詠じ
給ひけり。
かへりこむことはかた田【交田】にひくあみの
め【目】にもたまらぬわがなみだかな W092
昨日は西海の波の上にただよひて、怨憎
P12020
懐苦【*怨憎会苦】の恨を扁舟の内につみ、けふは北国の
雪のしたに埋れて、愛別離苦のかなしみ
『土佐房被斬』S1204
を故郷の雲にかさね【重ね】たり。○さる程に、九郎判
官には、鎌倉殿より大名十人つけられたり
けれども、内々御不審を蒙りたまふ【給ふ】よし
聞えしかば、心をあはせ【合はせ】て一人づつ皆下り
はて【果て】にけり。兄弟なるうへ【上】、殊に父子の契
をして、去年の正月木曾義仲を追討
せしよりこのかた、度々平家を攻おとし【落し】、
P12021
ことしの春ほろぼしはて【果て】て、一天をしづめ、
四海をすます【澄ます】。勧賞おこなはるべき処に、
いかなる子細あてかかかる聞えあるらんと、
かみ一人をはじめ奉り、しも万民に至る
まで、不審をなす。此事は、去春、摂津国
渡辺よりふなぞろへして八島へわたり
給ひしとき、逆櫓たて【立て】うたて【立て】じの論
をして、大きにあざむかれたりしを、梶原
遺恨におもひ【思ひ】て常は讒言しけるによて
P12022
なり。定謀反の心もあるらむ、大名共さし
のぼせ【上せ】ば、宇治・勢田の橋をもひき【引き】、京中
のさはぎ【騒ぎ】となて、中々あしかり【悪しかり】なんとて、
土佐房正俊【*昌俊】をめして、「和僧のぼ【上つ】て物詣する
やうにて、たばかてうて」との給ひければ、
正俊【*昌俊】畏てうけ給り【承り】、宿所へも帰らず、御前
をたてやがて京へぞ上りける。同九月廿
九日、土佐房都へついたりけれ共、次日まで
判官殿へもまいら【参ら】ず。正俊【*昌俊】がのぼりたるよし
P12023
聞給ひ、武蔵房弁慶をもてめされければ、
やがてつれ【連れ】てまいり【参り】たり。判官の給ひ
けるは、「いかに鎌倉殿より御文はなきか」。「さし
たる御事候はぬ間、御文はまいらせ【参らせ】られ
ず候。御詞にて申せと候しは、『「当時まで
都に別の子細なく候事、さて御渡候ゆへ【故】
とおぼえ候。相構てよく守護せさせ給
へ」と申せ』とこそ仰せられ候つれ」。判官「よも
さはあらじ。義経討にのぼる御使なり。「大名
P12024
どもさし上せば、宇治・勢田の橋をもひき【引き】、
都鄙のさはぎ【騒ぎ】ともなて、中々あしかり【悪しかり】
なん。和僧のぼせ【上せ】て物詣する様にてたば
かてうて」とぞ仰付られたるらむな」との給
へ【宣へ】ば、正俊【*昌俊】大に驚て、「何によてか唯今さる
事の候べき。いささか宿願によて、熊野参
詣のために罷上て候」。そのとき判官の給
ひけるは、「景時が讒言によて、義経鎌倉へ
も入られず。見参をだにし給はで、をひ【追ひ】上せ
P12025
らるる事はいかに」。正俊【*昌俊】「其事はいかが候覧、
身にをいてはまたく御腹くろ候はず。記請
文【*起請文】をかき進べき」よし申せば、判官「とても
かうても鎌倉殿によしとおもは【思は】れたてま【奉つ】
たらばこそ」とて、以外けしき【気色】あしげになり
給ふ。正俊【*昌俊】一旦の害をのがれ【逃れ】んが為に、居な
がら七枚の記請文【*起請文】をかいて、或やいてのみ、或
社に納などして、ゆり【許り】てかへり、大番衆に
ふれめぐらして其夜やがてよせ【寄せ】んとす。判官
P12026
は磯禅師といふ白拍子のむすめ、しづか【静】と
いふ女を最愛せられけり。しづかもかたはら
を立さる事なし。しづか申けるは、「大路は皆
武者でさぶらふなる。是より催しのなからん
に、大番衆の者どもこれほどさはぐ【騒ぐ】べき
様やさぶらふ。あはれ是はひる【昼】の記請【*起請】法師
のしわざとおぼえ候。人をつかはし【遣し】てみせ【見せ】
さぶらはばや」とて、六波羅の故入道相国の
めし【召し】つかは【使は】れけるかぶろを三四人つかは【使は】れ
P12027
けるを、二人つかはし【遣し】たりけるが、程ふるまで
帰らず。「中々女はくるしからじ」とて、はした
ものを一人見せにつかはす【遣す】。程なくはしり【走り】
帰て申けるは、「かぶろとおぼしきものはふたり
ながら、土佐房の門にきりふせ【伏せ】られてさぶ
らふ。宿所には鞍をき馬【鞍置き馬】どもひしとひ【引つ】
たて【立て】て、大幕のうちには、矢おひ【負ひ】弓はり【張り】、者
ども皆具足して、唯今よせんといでたち【立ち】
さぶらふ【候ふ】。すこし【少し】も物まふで【物詣で】のけしきとは
P12028
見えさぶらはず」と申ければ、判官是をきい【聞い】
て、やがてう【打つ】たち【立ち】給ふ。しづかきせなが【着背長】とて
なげかけ奉る。たかひも【高紐】ばかりして、太刀
とて出給へば、中門の前に馬に鞍をいて
ひ【引つ】たてたり。是にうち【打ち】乗て、「門をあけよ」
とて門あけさせ、いま【今】やいま【今】やと待給ふ処に、
しばしあてひた甲【直甲】四五十騎門の前に
おしよせて、時をどとぞつくりける。判官
鐙ふばり立あがり【上がり】、大音声をあげて、「夜
P12029
討にも昼戦にも、義経たやすう討べき
ものは、日本国におぼえぬものを」とて、只一騎
おめい【喚い】てかけ給へば、五十騎ばかりのもの共、
中をあけてぞ通しける。さる程に、O[BH 伊勢[B ノ]三郎義盛・奥州[B ノ]佐藤四郎兵衛忠信・]江田
源三・熊井太郎・武蔵房弁慶などいふ一人
当千の兵共、やがてつづゐ【続い】て攻戦。其後侍共
「御内に夜討いたり」とて、あそこのやかた
ここの宿所より馳来る。程なく六七十
騎集ければ、土佐房たけくよせたりけれ
P12030
ども【共】たたかふ【戦ふ】にをよば【及ば】ず。散々にかけちら
さ【散らさ】れて、たすかるものはすくなう、うたるる
ものぞおほかり【多かり】ける。正俊【*昌俊】希有にして
そこをばのがれ【逃れ】て、鞍馬の奥ににげ籠り
たりけるが、鞍馬は判官の故山なりけれ
ば、彼法師土佐房をからめて、次日判官の
許へ送りけり。僧正が谷といふ所にかくれ【隠れ】
ゐたりけるとかや。正俊【*昌俊】を大庭にひ【引つ】すへ【据ゑ】たり。
かちの直垂にすちやう頭巾[* 「ずちやう頭巾」と有るのを他本により訂正]【首丁頭巾】をぞしたりける。
P12031
判官わら【笑つ】てのたまひ【宣ひ】けるは、「いかに和僧、記
請【*起請】にはうてたるぞ」。土佐房すこしもさは
が【騒が】ず、居なをり【直り】、あざわら【笑つ】て申けるは、「ある
事にかいて候へば、うてて候ぞかし」と申。「主
君の命をおもんじて、私の命をかろんず。
心ざし【志】の程、尤神妙なり。和僧命おしく【惜しく】は
鎌倉へ返しつかはさ【遣さ】んはいかに」。土佐坊、「まさ
なうも御諚候ものかな。おし【惜し】と申さば殿はたすけ【助け】給はんずるか。鎌倉殿の「法師
P12032
なれども、をのれ【己】ぞねらはんずる者」とて
仰かうぶしより、命をば鎌倉殿に奉り
ぬ。なじかはとり返し奉るべき。唯御恩
にはとくとく頸をめさ[B 「めさ」に「刎ラ」と傍書]れ候へ」と申ければ、
「さらばきれ」とて、六条河原にひき【引き】いだい【出い】て
『判官都落』S1205
き【斬つ】てげり。ほめぬ人こそなかりけれ。○ここに
足立新三郎といふ雑色は、「きやつは下臈
なれども以外さかざかしい【賢々しい】やつで候。めし【召し】
つかひ【使ひ】給へ」とて、判官にまいらせ【参らせ】られたりけるが、
P12033
内々「九郎がふるまひ【振舞】みてわれにしらせよ」
とぞの給ひける。正俊【*昌俊】がきらるるをみて、
新三郎夜を日についで馳下り、鎌倉殿
に此由申ければ、舎弟参河【*三河】守範頼を討
手にのぼせ【上せ】たまふ【給ふ】べきよし仰られけり。
頻に辞申されけれ共、重而おほせられ
ける間、力をよば【及ば】で、物具していとま申に
まいら【参ら】れたり。「わとのも九郎がまねし給ふ
なよ」と仰られければ、此御詞におそれ【恐れ】て、
P12034
物具ぬぎをきて京上はとどまり給ひ
ぬ。全不忠なきよし、一日に十枚づつの起
請を、昼はかき、夜は御坪の内にて読あげ
読あげ、百日に千枚の記請【*起請】を書てまいらせ【参らせ】
られたりけれども、かなは【叶は】ずして終に
うた【討た】れ給ひけり。其後北条四郎時政を
大将として、討手のぼると聞えしかば、
判官殿鎮西のかたへ落ばやとおもひ【思ひ】たち
給ふ処に、緒方三郎維義は、平家を九国の
P12035
内へも入奉らず、追出すほどの威勢のもの
なりければ、判官「我にたのま【頼ま】れよ」とぞ
の給ひける。「さ候ば、御内候菊地【*菊池】[B ノ]二郎高直は、
年ごろの敵で候。給はて頸をきてたの
ま【頼ま】れまいらせ【参らせ】む」と申。左右なふ【無う】たうだりけれ
ば、六条川原に引いだし【出し】てきてげり。其
後維義かひがひしう領状す。同十一月二日、九
郎大夫判官院御所へまい【参つ】て、大蔵卿泰経朝臣
をもて奏聞しけるは、「義経君の御為に奉公
P12036
の忠を致事、ことあたらしう初て申上に
をよび【及び】候はず。しかる【然る】を頼朝、郎等共が讒言
によて、義経をうたんと仕候間、しばらく
鎮西の方へ罷下らばやと存候。O[BH 哀]院庁の御下
文を一通下預候ばや」と申されければ、法皇
「此条頼朝がかへりきかん事いかがあるべからん」
とて、諸卿に仰合られければ、「義経都に
候て、関東の大勢みだれ入候ば、京都[B ノ]狼藉
たえ【絶え】候べからず。遠国へ下候なば、暫其恐あらじ」と、
P12037
をのをの【各々】一同に申されければ、緒方三郎を
はじめて、臼杵・戸次・松浦党、惣じて鎮西の
もの、義経を大将として其下知にしたがふべ
きよし、庁の御下文を給はてげれば、其
勢五百余騎、あくる三日卯剋に京都に
いささかのわづらひ【煩ひ】もなさず、浪風もたてず
して下りにけり。摂津国源氏、太田太郎頼
基「わが門の前をとをしながら、矢一射かけ
であるべきか」とて、川原津といふ所にお【追つ】ついて
P12038
せめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。判官は五百余騎、太田太郎は
六十余騎にて有ければ、なかにとりこめ、
「あますなもらす【漏らす】な」とて、散々に攻給へば、
太田太郎我身手おひ、家子郎等おほく【多く】う
たせ、馬の腹い【射】させて引退く。判官頸共
きりかけて、戦神にまつり、「門出よし」と
悦で、だいもつ【大物】の浦より船にの【乗つ】て下られけるが、
折節西の風はげしくふき、住吉の浦にうち
あげられて、吉野の奥にぞこもりける。
P12039
吉野法師にせめ【攻め】られて、奈良へおつ。奈良法
師に攻られて、又都へ帰り入、北国にかかて、
終に奥へぞ下られける。都よりあひ具し
たりける女房達十余人、住吉の浦に捨置
たりければ、松の下、まさご【真砂】のうへ【上】に袴ふみ
したき、袖をかたしい【片敷い】て泣ふしたりけるを、
住吉の神官共憐んで、みな京へぞ送り
ける。凡判官のたのま【頼ま】れたりける伯父信
太三郎先生義教【*義憲】・十郎蔵人行家・緒方三郎維義が
P12040
船共、浦々島々に打よせられて、互にその行
ゑ【行方】をしら【知ら】ず。忽に西の風ふきける事も、平
家の怨霊のゆへ【故】とぞおぼえける。同十一月
七日、鎌倉の源二位頼朝卿の代官として、北条
四郎時政、六万余騎を相具して都へ入。伊与【*伊予】守
源義経・備前守同行家・信太三郎先生同義教【*義憲】
追討すべきよし奏聞しければ、やがて院
宣をくだされけり。去二日は義経が申うくる
旨にまかせ【任せ】て、頼朝をそむくべきよし庁の
P12041
御下文をなされ、同八日は頼朝卿の申状によて、
義経追討の院宣を下さる。朝にかはり夕
『吉田大納言沙汰』S1206
に変ずる世間の不定こそ哀なれ。○さる
程に、鎌倉殿日本国の惣追補使【*惣追捕使】を給はて、
反別に兵粮米を宛行べきよしO[BH 公家へ]申され
けり。朝の怨敵をほろぼしたるものは、
半国を給はるといふ事、無量義経に見え
たり。され共我朝にはいまだその【其の】例なし。
「是は過分の申状なり」と、法皇仰なりけれ共、
P12042
公卿僉議あて、「頼朝卿の申さるる所、道理
なかばなり」とて、御ゆるされ【許され】あり【有り】けると
かや。諸国に守護ををき、庄園に地頭を
補せらる。一毛ばかりもかくる【隠る】べきやう【様】なかり
けり。鎌倉殿かやうの事人おほし【多し】といへ共、
吉田大納言経房卿をもて奏聞せられけり。
この大納言はうるはしい人と聞え給へり。
平家にむすぼほれたりし人々も、源氏の
世のつより【強り】し後は、或ふみ【文】をくだし、或使者
P12043
をつかはし【遣し】、さまざまにへつらひ給ひしかども【共】、
この人はさもし給はず。されば平家の時も、
法皇を鳥羽殿におしこめまいらせ【参らせ】て、
後院の別当ををか【置か】れしには、勘解由小路[* 「勘解由少路」と有るのを他本により訂正]
中納言此経房卿二人をぞ後院の別当には
なされたりける。権右中弁光房朝臣の子也。
十二の年父の朝臣うせ給ひしかば、みなし子
にておはせしかども【共】、次第の昇進とどこほ
らず、三事の顕要を兼帯して、夕郎の
P12044
貫首をへ【経】、参議・大弁・太宰帥、遂に正二位大
納言に至れり。人をばこえ【越え】給へ共、人にはこえ
られ給はず。されば人の善悪は錐袋をとを
す【通す】とてかくれ【隠れ】なし。有がたかりし人なり。
『六代』S1207
○北条四郎策[* 「策」の右に、左にの振り仮名]に「平家の子孫といはん人尋
出したらむ輩にをいては、所望こふ【乞ふ】による
べし」と披露せらる。京中のもの共、案内は
したり、勧賞蒙らんとて、尋もとむるぞうた
てき。かかりければ、いくらも尋出したりけり。下臈
P12045
の子なれ共、色しろう【白う】見めよきをばめし【召し】
いだひ【出だい】て、「是はなんの中将殿の若君、彼少将
殿の君達」と申せば、父母なき【泣き】かなしめ
ども、「あれは介惜【介錯】が申候」。「あれはめのとが申」
なんどいふ間、無下におさなき【幼き】をば水に入、
土にうづみ【埋み】、少おとなしきをばおしころし【殺し】、
さしころす。母がかなしみ、めのとがなげき、
たとへんかたぞなかりける。北条も子孫さすが
多ければ、是をいみじとは思はねど、世にしたがふ
P12046
ならひ【習ひ】なれば、力をよば【及ば】ず。中にも小松三位中
将殿若君、六代御前とておはすなり。平家
の嫡々なるうへ【上】、年もおとなしうまします
なり。いかにもしてとり奉らんとて、手を分
てもとめ【求め】られけれ共、尋かねて、既に下らん
とせられける処に、ある女房の六波羅に
出て申けるは、「是より西、遍照寺のおく、
大覚寺と申山寺の北のかた、菖蒲谷と
申所にこそ、小松三位中将殿の北方・若君・姫公
P12047
おはしませ」と申せば、時政やがて【軈】人をつけ
て、其あたりをうかがは【伺は】せける程に、ある【或】坊
に、女房達おさなき【幼き】人あまた、ゆゆしく忍び
たるてい【体】にてすまゐ【住ひ】けり。籬のひまより
のぞきければ、白いゑのこ【犬子】の走出たるをとらん
とて、うつくしげなる若公【若君】の出給へば、めのと
の女房とおぼしくて、「あなあさまし。人もこそ
見まいらすれ【参らすれ】」とて、いそぎひき【引き】入奉る。是ぞ
一定そにておはしますらんとおもひ【思ひ】、いそぎ
P12048
走帰てかくと申せば、次の日かしこにうち【打ち】
むかひ【向ひ】、四方を打かこみ、人をいれ【入れ】ていはせ
けるは、「平家小松三位中将殿の若君六代御前、
是におはしますと承はて、鎌倉殿の御代官
に北条四郎時政と申ものが御むかへ【向へ】にまい【参つ】て候。
はやはや出しまいら【参らつ】させ給へ」と申されければ、
母うへ是を聞給ふに、つやつや物もおぼえ
給はず。斎藤五・斎藤六はしり【走り】まはて見けれ
ども、武士ども四方を打かこみ、いづかたより
P12049
出し奉るべしともおぼえず。めのとの女房も
御まへにたふれ【倒れ】ふし、声もおしま【惜しま】ず
おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】。日比は物をだにもたかく【高く】いは
ず、しのび【忍び】つつかくれ【隠れ】ゐたりつれ共、いま【今】は
家の中にありとあるもの、こゑ【声】を調へて
泣かなしむ。北条も是をきい【聞い】て、よにこころ【心】
ぐるしげ【苦し気】におもひ【思ひ】、なみだ【涙】のごひ、つくづく
とぞまた【待た】れける。ややあてかさね【重ね】て申され
けるは、「世もいまだしづまり候はねば、しどけなき
P12050
事もぞ候とて、御むかへ【向へ】にまい【参つ】て候。別の御事
は候まじ。はやはや出しまいら【参らつ】させ給へ」と申
されければ、若君母うへに申させたまひ
けるは、「つゐに【遂に】のがる【逃る】まじう候へば、とくとく
出させおはしませ。武士ども【共】うち入てさがす
ものならば、うたてげなる御ありさま【有様】共を
見えさせ給ひなんず。たとひまかり【罷り】出候とも、
しばしも候はば、いとまこふ【乞う】てかへりまいり【参り】候はん。
いたくな歎かせたまひ【給ひ】候そ」と、なぐさめ給ふこそ
P12051
いとおしけれ。さてもあるべきならねば、母うへ
なくなく【泣く泣く】御ぐしかきなで、ものきせ【着せ】奉り、
既に出し奉らんとしたまひけるが、黒木の
ずず【数珠】のちいさふ【小さう】うつくしいを取出して、「是にて
いかにもならんまで、念仏申て極楽へまい
れ【参れ】よ」とて奉り給へば、若君是をとて、「母御
前にはけふ既にはなれ【離れ】まいらせ【参らせ】なんず。今は
いかにもして、父のおはしまさん所へぞまいり【参り】
たき」とのたまひ【宣ひ】けるこそ哀なれ。これ【是】を
P12052
きい【聞い】て、御妹の姫君の十になり給ふが、「われも
ちち御前の御もとへまいら【参ら】ん」とて、はしり【走り】出
たまふ【給ふ】を、めのとの女房とりとどめ【留め】奉る。
六代御前ことしはわづかに十二にこそなり
たまへ【給へ】ども、よのつねの十四五よりはおとなし
く、見め【眉目】かたちゆう【優】におはしければ、敵によはげ【弱気】
をみえ【見え】じと、おさふる袖のひまよりも、余
て涙ぞこぼれける。さて御輿にのりたまふ【給ふ】。
武士ども前後左右に打かこ【囲ん】で出にけり。
P12053
斎藤五・斎藤六御輿の左右についてぞまいり【参り】
ける。北条のりがへ【乗替】共おろしてのすれ【乗すれ】共のら
ず。大覚寺より六波羅までかちはだしに
てぞ走ける。母うへ・めのとの女房、天にあふぎ
地にふしてもだえ【悶え】こがれ給ひけり。「此日比平家
の子どもとりあつめ【集め】て、水にいるるもあり、
土にうづむ【埋む】もあり、おしころし【殺し】、さしころし【殺し】、
さまざまにすときこゆれば、我子はなに【何】と
してかうしなは【失は】んずらん。O[BH すこし【少し】]おとなしければ、頸を
P12054
こそきら【斬ら】んずらめ。人の子はめのとなどのもと
にをきて、時々見る事もあり【有り】。それだに
も恩愛はかなしき【悲しき】ならひ【習ひ】ぞかし。況や是は
うみおとし【落し】て後、ひとひ【一日】かたとき【片時】も身をはな
たず、人のもたぬものをもちたるやうに思ひ
て、あさゆふ【朝夕】ふたりの中にてそだて【育て】し物を、
たのみ【頼み】をかけし人にもあかで別し其後は、
ふたりをうらうへ【裏表】にをきてこそなぐさみつる
に、ひとりはあれ共独はなし。けふより後は
P12055
いかがせむ。此三とせが間、よるひるきも【肝】心を
けしつつ、おもひ【思ひ】まうけ【設け】つる事なれ共、
さすが昨日今日とは思よらず。年ごろは
長谷の観音をこそふかう【深う】頼み奉りつる
に、終にとられぬること【事】のかなしさよ。唯今
もやうしなひ【失ひ】つらん」とかきくどき【口説き】、泣より
外の事ぞなき。さ夜もふけけれどむね【胸】
せきあぐる心ち【心地】して、露もまどろみ給は
ぬが、めのとの女房にの給ひけるは、「ただいま
P12056
ちとうちまどろみたりつる夢に、此子が白い
馬にのりて来つるが、「あまりに恋しう思
まいらせ【参らせ】候へば、しばしのいとま【暇】こふ【乞う】てまいり【参り】て
候」とて、そばについゐて、なに【何】とやらん、よに
うらめしげ【恨めし気】におもひ【思ひ】て、さめざめとなき【泣き】つるが、
程なくうちおどろかれて、もしやとかたはらを
さぐれ【探れ】共人もなし。夢なりとも【共】しばし
もあらで、さめぬる事のかなしさよ」とぞ
語たまふ【給ふ】。めのとの女房もなきけり。長夜も
P12057
いとどあかし【明かし】かねて、なみだ【涙】に床も浮計
也。限あれば、鶏人暁をとなへて夜も明ぬ。
斎藤六帰りまいり【参り】たり。「さていかにやいかに」
と問ひ給へば、「唯今まではべち【別】の御事
も候はず。御文の候」とて、取いだい【出い】て奉る。
あけて御覧ずれば、「いかに御心ぐるしう思し
めされ候らむ。只今までは別の事も候はず。
いつしかたれたれも御恋しうこそ候へ」と、
よにおとなしやかにかき給へり。母うへこれ【是】を
P12058
見たまひ【給ひ】て、とかうの事もの給は【宣は】ず。ふみを
ふところ【懐】に引入て、うつぶしにぞなられ
ける。誠に心のうち【内】さこそはおはしけめと
おしはから【推し量ら】れて哀なり。かくて遥に時剋
おしうつりければ、「時の程もおぼつかなう候に、
帰まいら【参ら】ん」と申せば、母うへ泣々御返事かい
てたう【賜う】でげり。斎藤六いとま申てまかり【罷り】出。
めのとの女房せめても心のあられずさに、
はしり【走り】出て、いづくをさすともなく、その
P12059
辺を足にまかせ【任せ】てなきありくほど【程】に、
ある人の申けるは、「此おくに高雄といふ
山寺あり【有り】。その聖文覚房と申人こそ、鎌倉
殿にゆゆしき大事の人におもは【思は】れまいらせ【参らせ】
ておはしますが、上臈の御子を御弟子にせん
とてほしがら【欲しがら】るなれ」と申ければ、うれしき
事をききぬと思ひて、母うへにかくとも【共】申
さず、ただ一人高雄に尋入り、聖にむかひ【向ひ】奉
て、「ち【血】のなかよりおほし【生し】たて【立て】まいらせ【参らせ】て、ことし
P12060
十二にならせ給ひつる若君を、昨日武士に
とられてさぶらふ【候ふ】。御命こひ【乞ひ】うけ【請け】まいらせ【参らせ】給ひて、
御弟子にせさせたまひ【給ひ】なんや」とて、聖の前
にたふれ【倒れ】ふし、こゑ【声】もおしま【惜しま】ずなきさけぶ【叫ぶ】。
まこと【誠】にせんかたなげにぞ見えたりける。聖
むざんにおぼえければ事の子細をとひ給ふ。
おきあが【上がつ】て泣々申けるは、「平家小松三位中
将の北方の、したしうまします人の御子を
やしなひ奉るを、もし中将の君達とや人
P12061
の申さぶらひけん、昨日武士のとりまいらせ【参らせ】て
まかり【罷り】さぶらひぬるなり」と申。「さて武士をば
誰といひつる」。「北条とこそ申さぶらひつれ」。
「いでいでさらば行むかひ【向ひ】て尋む」とて、つき
いで【出で】ぬ。此詞をたのむ【頼む】べきにはあらね共、聖の
かくいへば、今すこし【少し】ひと【人】の心ち【心地】いできて、大
覚寺へかへりまいり【参り】、母うへにかくと申せば、
「身をなげに出ぬるやらんとおもひ【思ひ】て、我も
いかならん淵河にも身をなげんと思ひ
P12062
たれば」とて、事の子細をとひたまふ【給ふ】。聖の
申つるやう【様】をありのままに語ければ、「あはれ
こひ【乞ひ】うけ【請け】て、今一度見せよかし」とて、手をあは
せ【合はせ】てぞなかれける。聖六波羅にゆきむか【向つ】て、事
の子細をとひたまふ【給ふ】。北条申されけるは、「鎌倉
殿のおほせに、「平家の子孫京中におほく【多く】
しのん【忍ん】でありときく。中にも小松三位中将
の子息、中御門の新大納言のむすめの腹に
ありときく。平家の嫡々なるうへ【上】、年も
P12063
おとなしかんなり。いかにも尋いだし【出し】て失ふ
べし」と仰せを蒙て候しが、此程すゑずゑ
のおさなき【幼き】人々をば少々取奉て候つれ共、
此若公【若君】は在所をしり奉らで、尋かねて既
むなしう【空しう】罷下らむとし候つるが、おもは【思は】ざる
外、一昨日聞出して、昨日むかへ【向へ】奉て候へども、な
のめならずうつくしうおはする間、あまりに
いとおしくて、いまだともかうもし奉らで
をきまいらせ【参らせ】て候」と申せば、聖、「いでさらば
P12064
見奉らん」とて、若公【若君】のおはしける所へまい【参つ】て
み【見】まいらせ【参らせ】給へば、ふたへをりもの【二重織物】の直垂に、
黒木の数珠手にぬき【貫き】入ておはします。髪
のかかり、すがた、事がら、誠にあてにうつくし
く、此世の人とも見え給はず。こよひうち
とけてねたまは【給は】ぬとおぼしくて、すこし【少し】
おもやせ【痩せ】給へるにつけて、いとど心ぐるし
うらうたくぞおぼえける。聖を御覧
じて何とかおぼしけん、涙ぐみ給へば、聖も
P12065
是を見奉てすぞろに墨染の袖をぞ
しぼりける。たとひすゑ【末】の世に、いかなる
あた敵になるともいかが是を失ひ奉る
べきとかなしう【悲しう】おぼえければ、北条にの給
けるは、「此若君を見奉るに、先世の事にや
候らん、あまりにいとおしう思ひ奉り候。廿日
が命をのべてたべ。鎌倉殿へまい【参つ】て申あづ
かり候はむ。聖鎌倉殿を世にあらせ奉らん
とて、わが【我が】身も流人でありながら、院宣うかが
P12066
ふ【伺う】て奉らんとて、京へ上るに、案内もしらぬ
富士川の尻による【夜】わたりかかて、既におし
ながされんとしたりし事、高市の山にて
ひぱぎ【引剥】にあひ、手をすて命ばかりいき、福原
の籠の御所へまいり【参り】、前右兵衛督光能卿に
つき奉て、院宣申いだいて奉しときの約
束には、「いかなる大事をも申せ。聖が申さん
事をば、頼朝が一期の間はかなへ【適へ】ん」とこそ
のたまひ【宣ひ】しか。其後もたびたびの奉公、かつ〔う〕は
P12067
見給ひし事なれば、こと【事】あたらしう始而
申べきにあらず。契をおもふ【重う】して命をかろ
うず【軽うず】。鎌倉殿に受領神[* 「神」の左にの振り仮名]つき給はずは、よも
わすれ給はじ」とて、その暁立にけり。斎
藤五・斎藤六是をきき、聖を生身の仏の
如くおもひ【思ひ】て、手を合て涙をながす。いそぎ
大覚寺へまい【参つ】て此由申ければ、是をきき
給ひける母うへのこころ【心】のうち、いか計かは
うれしかりけむ。され共鎌倉のはからひ
P12068
なれば、いかがあらんずらむとおぼつかなけれ
ども、当時聖のたのもしげ【頼もし気】に申て下り
ぬるうへ【上】、廿日の命ののびたまふ【給ふ】に、母うへ・めのと
の女房すこし【少し】心もとりのべて、ひとへに
観音の御たすけ【助け】なればと、たのもしう【頼もしう】
ぞおもは【思は】れける。かくて明し暮したまふ【給ふ】
ほど【程】に、廿日の過るは夢なれや、聖はいまだ
見えざりけり。「何となりぬる事やらん」
と、なかなか心ぐるしうて、今更またもだえ【悶え】
P12069
こがれ給ひけり。北条も、「文学房のやく
そく【約束】の日数もすぎぬ。さのみ在京して
年を暮すべきにもあらず。今は下らむ」と
てひしめきければ、斎藤五・斎藤六手を
にぎり肝魂をくだけども【共】、聖もいまだ
見えず、使者をだにも上せねば、おもふ【思ふ】はかり
ぞなかりける。是等大覚寺へ帰りまい【参つ】て、
「聖もいまだのぼり候はず。北条も曉下向
仕候」とて、左右の袖をかほ【顔】におしあてて、涙を
P12070
はらはらとながす。是をきき給ひける母うへ
の心のうち、いかばかりかはかなしかり【悲しかり】けむ。
「あはれおとなしやかならんものの、聖の行
あはん所まで六代をぐせよといへかし。もし
こひ【乞ひ】うけ【請け】てものぼら【上ら】んに、さきにきりたらん
かなしさをば、いかがせむずる。さてとく【疾く】うし
なひ【失なひ】げなるか」とのたまへ【宣へ】ば、「やがて此暁の
程とこそ見えさせ給候へ。そのゆへ【故】は、此ほど【程】御
とのゐ【宿直】仕候つる北条の家子郎等ども、よに
P12071
名残おしげ【惜し気】におもひ【思ひ】まいらせ【参らせ】て、或念仏
申者も候、或涙をながす者も候」。「さて此子
は何としてあるぞ」とのたまへ【宣へ】ば、「人の見
まいらせ【参らせ】候ときはさらぬやうにもてないて、
御数珠をくらせおはしまし候が、人の候はぬ
とき【時】は、御袖を御かほ【顔】におしあてて、御なみだ【涙】
にむせばせ給ひ候」と申。「さこそあるらめ。
おさなけれ【幼けれ】共心おとなしやかなるものなり。
こよひかぎりの命とおもひ【思ひ】て、いかに心ぼそかる
P12072
らん。しばしもあらば、いとまこふ【乞う】てまいら【参ら】
むといひしかども【共】、廿日にあまるに、あれへ
もゆかず、是へも見えず。けふより後又
何の日何の時あひ見るべしともおぼえず。
さて汝等はいかがはからふ」との給へ【宣へ】ば、「これはいづく
までも御供仕り、むなしう【空しう】ならせ給ひて
候はば、御骨をとり奉り、高野のお山【御山】におさめ【納め】
奉り、出家入道して、後世をとぶらひ【弔ひ】まいらせ【参らせ】ん
とこそおもひなて候へ」と申。「さらば、あまりに
P12073
おぼつかなふおぼゆる【覚ゆる】に、とうかへれ」との給へ【宣へ】ば、
二人の者なくなく【泣々】いとま申て罷出づ。さる程
に、同十二月十六[B 七イ]日、北条四郎若公【若君】具し奉て、
既都を立にけり。斎藤五・斎藤六涙にくれて
ゆくさきも見えね共、最後の所までと思ひ
つつ、泣々御供にまいり【参り】けり。北条「馬にのれ」と
いへどものらず、「最後の供で候へば、くるしう【苦しう】
候まじ」とて、血の涙をながしつつ、足にまかせ【任せ】
てぞ下ける。六代御前はさしもはなれがたく
P12074
おぼしける母うへ・めのとの女房にもわかれはて、
住なれし都をも、雲井のよそにかへりみ
て、けふをかぎりの東路におもむかれけん
心のうち、おしはから【推し量ら】れて哀なり。駒をはやむる
武士あれば、我頸うたんずるかと肝をけし、
物いひかはす人あれば、既に今やと心をつくす。
四の宮河原とおもへ【思へ】共、関山をもうちこえ【越え】て、
大津の浦になりにけり。粟津の原かとうかが
へ【伺へ】ども、けふもはや暮にけり。国々宿々打
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過打過行程に、駿河国にもつき給ぬ。若公【若君】
の露の御命、けふをかぎりとぞきこえ【聞え】
ける。千本の松原に武士どもみなおりゐ
て、御輿かきすへ【据ゑ】させ、しきがは【敷皮】しいて、若公【若君】すへ【据ゑ】
奉る。北条四郎若公【若君】の御まへ【前】ちかふ【近う】まい【参つ】て申
されけるは、「是まで具しまいらせ【参らせ】候つるは、
別の事候はず。もしみちにて聖にもや行
あひ候と、まち【待ち】すぐしまいらせ【参らせ】候つるなり。
御心ざしの程は見えまいらせ【参らせ】候ぬ。山のあなた
P12076
までは鎌倉殿の御心中をもしり【知り】がたふ【難う】候へば、
近江国にてうしなひ【失ひ】まいらせ【参らせ】て候よし、披
露仕候べし。誰申候共、一業所感の御事なれ
ば、よも叶候はじ」と泣々申ければ、若君とも
かうもその返事をばしたまは【給は】ず、斎藤五・
斎藤六をちかふ【近う】めし【召し】て、「我いかにもなりなん
後、汝等都に帰て、穴賢道にてきら【斬ら】れたり
とは申べからず。そのゆへ【故】は、終にはかくれ【隠れ】あるまじ
けれ共、まさしう此有様きい【聞い】て、あまりに歎
P12077
給はば、草の陰にてもこころぐるしう【心苦しう】おぼ
えて、後世のさはりともならんずるぞ。鎌
倉まで送つけてまい【参つ】て候と申べし」との給
へ【宣へ】ば、二人のもの【者】共肝魂も消はてて、しばしは
御返事にもをよば【及ば】ず。良あて斎藤五
「君にをくれ【遅れ】まいらせ【参らせ】て後、命いきて安
穏に都まで上りつくべしともおぼえ候
はず」とて、なみだ【涙】をおさへ【抑へ】てふしにけり。既
今はの時になりしかば、若公【若君】御ぐしのかたに
P12078
かかりたりけるを、よにうつくしき御手をもて
前へ打越し給ひたりければ、守護の武士ども
見まいらせ【参らせ】て、「あないとをし。いまだ御心のまし
ますよ」とて、皆袖をぞぬらしける。其後
西にむかひ【向ひ】手を合て、静に念仏唱つつ、頸
をのべてぞ待たまふ【給ふ】。狩野工藤三親俊
切手にゑらば【選ば】れ、太刀をひ【引つ】そばめて、左のかた【方】
より御うしろに立まはり、既にきり奉らん
としけるが、目もくれ心も消はてて、いづくに
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太刀を打つくべしともおぼえず。前後
不覚になりしかば、「つかまつ【仕つ】とも覚候はず。
他人に仰付られ候へ」とて、太刀を捨てのき
にけり。「さらばあれきれ、これきれ」とて、
切手をえらぶ処に、墨染の衣袴きて
月毛なる馬にの【乗つ】たる僧一人、鞭をあげて
ぞ馳たりける。あないとをし、あの松原の
中に、世にうつくしき若君を、北条殿のきら【斬ら】
せたまふぞや」とて、物共ひしひしとはしり
P12080
あつまりければ、此僧「あな心う」とて、手をあがい
てまねきけるが、猶おぼつかなさに、きたる
笠をぬぎ、指あげてぞまねきける。北条
「子細有」とて待処に、此僧馳ついて、いそぎ
馬より飛おり、しばらくいきを休て、「若公【若君】
ゆるさ【許さ】せ給ひて候。鎌倉殿の御教書是に
候」とてとり【取り】出して奉る。披て見たまへ【給へ】ば、
まことや小松三位中将維盛卿の子息尋出され
て候なる、高雄の聖御房申うけんと候。疑を
P12081
なさずあづけ奉るべし。北条四郎殿へ頼朝
とあそばして、御判あり【有り】。二三遍おしかへしおしかへし
よふ【読う】で後、「神妙々々」とて打をか【置か】れければ、
「斎藤五・斎藤六はいふにをよば【及ば】ず、北条の
家子郎等共も皆悦の涙をぞながし【流し】ける。
『泊瀬六代』S1208
○さる程に、文覚房もつと出きたり、若公【若君】こひ【乞ひ】
うけ【請け】たりとて、きそく【気色】誠にゆゆしげなり。
「「此若公【若君】の父三位中将殿は、初度の戦の大将也。
誰申とも【共】叶まじ」とのたまひ【宣ひ】つれば、「文覚が
P12082
心をやぶつては、争か冥加もおはすべき」など、
悪口申つれ共、猶「叶まじ」とて、那須野の
狩に下り給ひし間、剰文覚も狩場の供
して、やうやうに申てこひ【乞ひ】請たり。いかに、遅ふ
おぼしつらん」と申されければ、北条「廿日と
仰られ候し御約束の日かずも過候ぬ。鎌倉
殿の御ゆるされ【許され】なきよと存じて、具し
奉て下る程に、かしこうぞ。爰にてあやまち
仕候らむに」とて、鞍をい【置い】てひか【引か】せたる馬共に、
P12083
斎藤五・斎藤六をのせ【乗せ】てのぼらせらる。「我身
も遥にうち【打ち】送り奉て、しばらく御供申たふ
候へども【共】、鎌倉殿にさして申べき大事共候。
暇申て」とてうちわかれてぞ下られける。誠
に情ふかかりけり。聖若公【若君】を請とり奉て、
夜を日についで馳のぼるほど【程】に、尾張国
熱田の辺にて、今年も既に暮ぬ。明る
正月五日の夜に入て、都へのぼりつく。二条
猪熊なる所に文覚房の宿所あり【有り】ければ、
P12084
それに入奉て、しばらくやすめ奉り、夜半
ばかり大覚寺へぞおはしける。門をたたけ
共人なければ音もせず。築地のくづれより
若公【若君】のかひ【飼ひ】給ひけるしろい【白い】ゑのこ【犬子】のはしり【走り】
出て、尾をふてむかひ【向ひ】けるに、「母うへはいづく
にましますぞ」ととは【問は】れけるこそせめての
事なれ。斎藤六、築地をこえ、門をあけて
いれ【入れ】奉る。ちかふ【近う】人の住たる所とも見えず。
「いかにもしてかひなき命をいか【生か】ばやと思しも、
P12085
恋しき人々を今一度見ばやとおもふ【思ふ】ため也。
こはされば何となり給ひけるぞや」とて、夜
もすがら泣かなしみたまふ【給ふ】ぞまこと【誠】にこと
はり【理】と覚て哀なる。夜を待あかして近
里の者に尋給へば、「年のうちに大仏まいり【参り】
とこそうけ給【承り】候しか。正月の程は長谷寺に
御こもりと聞え候しが、其後は御宿所へ
人のかよふ【通ふ】とも見候はず」と申ければ、斎藤
五いそぎ長谷へ[M 「馳」をミセケチ「長谷へ」と傍書]まい【参つ】て尋あひ奉り、此由申ければ、
P12086
母うへ【上】・めのとの女房つやつやうつつともおぼえ
給はず、「是はされば夢かや。夢か」とぞの給ひ
ける。いそぎ大覚寺へ出させたまひ【給ひ】、若公【若君】を
御覧じてうれしさにも、ただ先立ものは
涙なり。「早々出家し給へ」と仰られけれ共、
聖おしみ【惜しみ】奉て出家もせさせ奉らず。やがて
むかへ【向へ】とて高雄に置奉り、北の方のかすか【幽】
なる御有様をもとぶらひ【訪ひ】けるとこそ
聞えし。観音の大慈大悲は、つみ【罪】あるもつみ
P12087
なきをもたすけ【助け】給へば、昔もかかるためし【例】
おほし【多し】といへ共、ありがたかりし事共なり。
○さるほど【程】に、北条四郎六代御前具し奉て
下りけるに、鎌倉殿御使鏡の宿にて行
逢たり。「いかに」ととへば、「十郎蔵人殿、信太三郎
先生殿、九郎判官殿に同心のよしきこえ【聞え】候。
討奉れとの御気色で候」と申。北条「我身は
大事のめしうと【召人】具したれば」とて、甥の
北条平六時貞が送りに下りけるを、おいそ【老蘇】
P12088
の森より「とう【疾う】わとの【和殿】は帰て此人々おはし
所聞出して討てまいらせよ【参らせよ】」とてとどめ【留め】
らる。平六都に帰て尋る程に、十郎蔵人殿
の在所知たりといふ寺法師いできたり。彼
僧に尋れば、「我はくはしう【詳しう】はしら【知ら】ず。しり【知り】たり
といふ僧こそあれ」といひければ、おし【押し】よせ【寄せ】て
かの僧をからめとる。「是はなんのゆへ【故】にからむる
ぞ」。「十郎蔵人殿の在所し【知つ】たなればからむる也」。
「さらば「をしへよ【教へよ】」とこそいはめ。さう【左右】なうからむる
P12089
事はいかに。天王寺にとこそきけ【聞け】」。「さらば
じんじよ【尋所】せよ」とて、平六が聟の笠原の十郎
国久、殖原の九郎、桑原の次郎、服部の平六
をさきとして其勢卅余騎、天王寺へ発向す。
十郎蔵人の宿は二所あり【有り】。谷の学頭伶人兼
春、秦六秦七と云者のもとなり。ふた手に
つくて押よせたり。十郎蔵人は兼春がもと
におはし【在し】けるが、物具したるもの共の打入を見
て、うしろより落にけり。学頭がむすめ
P12090
二人あり【有り】。ともに蔵人のおもひもの【思者】なり。是等を
とらへて蔵人のゆくゑ【行方】を尋れば、姉は「妹に
とへ」といふ、妹は「姉にとへ」といふ。俄に落ぬる
事なれば、たれにもよもしらせ【知らせ】じなれ
共、具して京へぞのぼりける。蔵人は熊野
の方へ落けるが、只一人ついたりける侍、足
をやみければ、和泉国八木郷といふ所に逗留
してこそゐたりけれ。彼主の男、蔵人を見
し【知つ】てよ【夜】もすがら京へ馳のぼり、北条平六に
P12091
つげたりければ、「天王寺の手の者はいまだ
のぼらず。誰をかやるべき」とて、大源次宗春と
いふ郎等をよう【呼う】で、「汝が宮たてたりし山
僧はいまだあるか」。「さ候」。「さらばよべ」とてよばれ
ければ、件法師いできたり。「十郎蔵人の
おはします、討て鎌倉殿にまいらせ【参らせ】て御恩
蒙りたまへ【給へ】」。「さうけ給【承り】候ぬ。人をたび候へ」と
申。「やがて大源次くだれ、人もなきに」とて、舎
人雑色人数わづかに十四五人相そへてつかはす【遣す】。
P12092
常陸房正明といふものなり。和泉国に下つき、
彼家にはしり【走り】入てみれ【見れ】共なし。板じき
うちやぶ【破つ】てさがし、ぬりごめ【塗籠】のうちをみれ【見れ】
共なし。常陸房大路にたてみれ【見れ】ば、百姓
の妻とおぼしくて、おとなしき女のとをり【通り】
けるをとらへて、「此辺にあやしばうだる旅
人のとどま【留まつ】たる所やある。いはずはきて捨ん」
といへば、「唯今さがさ【探さ】れさぶらふつる家にこそ、
夜部までよに尋常なる旅人の二人とど
P12093
ま【留まつ】てさぶらひつるが、けさなどいで【出で】てさぶらふ【候ふ】
やらん。あれに見えさぶらふおほ屋【大屋】にこそ
いまはさぶらふ【候ふ】なれ」といひければ、常陸房
黒革威の腹巻の袖つけたるに、大だち【太刀】はい
て彼家に走入てみれ【見れ】ば、歳五十ばかり
なる男の、かち【褐】の直垂におり烏帽子【折烏帽子】き【着】て、
唐瓶子菓子などとりさばくり【捌くり】、銚子ども
もて酒すすめむとする処に、物具したる
法師のうち入を見て、かいふいてにげければ、
P12094
やがてつづいてを【追つ】かけたり。蔵人「あの僧。や、それは
あらぬぞ。行家はここにあり」との給へ【宣へ】ば、走
帰て見るに、白い小袖に大口ばかりきて、左
の手には金作の小太刀をもち、右の手には
野太刀のおほき【大き】なるをもた【持た】れたり。常
陸房「太刀なげさせ給へ」と申せば、蔵人大に
わらは【笑は】れけり。常陸房走よ【寄つ】てむずときる。
ちやうどあはせ【合はせ】ておどり【躍り】のく。又よ【寄つ】てきる。
ちやうどあはせ【合はせ】ておどり【躍り】のく。よりあひより
P12095
のき一時ばかりぞたたかふ【戦う】たる。蔵人うしろ
なるぬりごめの内へしざり【退り】いら【入ら】んとし給へば、
常陸房「まさなう候。ないら【入ら】せ給ひ候そ」と申
せば、「行家もさこそおもへ【思へ】」とて又おどり【躍り】出て
たたかふ【戦ふ】。常陸房太刀を捨てむずとくん【組ん】で
どうどふす【臥す】。うへ【上】になり下になり、ころびあふ
処に、大源次つといできたり。あまりにあは
て【慌て】てはいたる太刀をばぬかず、石をにぎて蔵
人のひたいをはたとう【打つ】て打わる。蔵人大に
P12096
わら【笑つ】て、「をのれ【己】は下臈なれば、太刀長刀でこそ
敵をばうて、つぶて【礫】にて敵うつ様やある」。
常陸房「足をゆへ」とぞ下知しける。常陸
房は敵が足をゆへとこそ申けるに、余に
あはて【慌て】て四の足をぞゆう【結う】たりける。其後蔵
人の頸に縄をかけてからめ、ひき【引き】おこし【起し】て
おしすへ【据ゑ】たり。「水まいらせよ【参らせよ】」とのたまへ【宣へ】ば、
ほしい【干飯】をあらふ【洗う】てまいらせ【参らせ】たり。水をばめし【召し】
て糒をばめさず。さしをき給へば、常陸房
P12097
とてくうてげり。「わ僧は山法師か」。「山法師
で候」。「誰といふぞ」。「西塔の北谷法師常陸房正
明と申者で候」。「さては行家につかは【使は】れんといひし
僧か」。「さ候」。「頼朝が使か、平六が使か」。「鎌倉殿の御
使候。誠に鎌倉殿をば討まいらせ【参らせ】んとおぼし
めし【思し召し】候しか」。「是程の身になて後おもは【思は】ざりし
といはばいかに。おもひ【思ひ】しといはばいかに。手なみ
の程はいかがおもひ【思ひ】つる」との給へ【宣へ】ば、「山上にて
おほく【多く】の事にあふ【逢う】て候に、いまだ是ほど
P12098
手ごはき事にあひ候はず。よき敵三人に
逢たる心地こそし候つれ」と申。「さて正明を
ばいかが思めされ候つる」と申せば、「それは
とられなんうへ【上】は」とぞのたまひ【宣ひ】ける。「その
太刀とりよせよ」とて見給へば、蔵人の太刀
は一所もきれず、常陸房が太刀は四十二
所きれたりけり。やがて伝馬たてさせ、のせ【乗せ】
奉てのぼる程に、其夜は江口の長者がもと
にとどま【留まつ】て、夜もすがら使をはしらかす【走らかす】。
P12099
明る日の午剋ばかり、北条平六其勢百騎
ばかり旗ささせて下る程に、淀のあか井
河原【赤井河原】でゆき逢たり。「都へはいれ【入れ】奉るべから
ずといふ院宣で候。鎌倉殿の御気色も
其儀でこそ候へ。はやはや御頸を給はて、
鎌倉殿の見参にいれ【入れ】て御恩蒙給へ」といへば、
さらばとてあかゐ河原【赤井河原】で十郎蔵人の
頸をきる。信太三郎先生義教【*義憲】は醍醐の
山にこもりたるよしきこえ【聞え】しかば、おし
P12100
よせてさがせ共なし。伊賀の方へ落ぬ
と聞えしかば、服部平六先として、伊賀
国へ発向す。千度の山寺にありと聞えし
間、おしよせてからめんとするに、あはせ【合はせ】の小袖
に大口ばかりきて、金にてうちくくんだる
腰の刀にて腹かききつてぞふしたりける。
頸をば服部平六とてげり。やがてもたせ
て京へのぼり、北条平六に見せたりければ、
「軈而もたせて下り、鎌倉殿の見参に入て、
P12101
御恩蒙たまへ【給へ】」といひければ、常陸房・服部平
六、おのおの頸共もたせてかまくら【鎌倉】へくだり【下り】、
見参にいれ【入れ】たりければ、「神妙なり」とて、常
陸房は笠井へながさる。「下りはてば勧賞
蒙らんとこそおもひ【思ひ】つるに、さこそなからめ、
剰流罪に処せらるる条存外の次第也。
かかるべしとしり【知り】たりせば、なにしか身命
を捨けむ」と後悔すれ共かひぞなき。され共
中二年といふにめし【召し】かへさ【返さ】れ、「大将軍討たる
P12102
ものは冥加のなければ一旦いましめつるぞ」
とて、但馬国に多田庄、摂津国に葉室二
ケ所給はて帰上る。服部平六平家の祗候
人たりしかば、没官せられたりける服部
『六代被斬』S1209
返し給はてげり。○さる程に、六代御前はやう
やう十四五にもなり給へば、みめ【眉目】かたちいよ
いようつくしく、あたりもてりかかやく【輝く】ばかり
なり。母うへ是を御覧じて、「あはれ世の世
にてあらましかば、当時は近衛司にてあらん
P12103
ずるものを」とのたまひ【宣ひ】けるこそ[* 「こぞ」と有るのを他本により訂正]あまり[B ノ]事
なれ。鎌倉殿常はおぼつかなげにおぼして、
高雄の聖のもとへ便宜ごとに、「さても維盛
卿の子息は何と候やらむ。昔頼朝を相し
給ひしやうに、朝の怨敵をもほろぼし、会
稽の恥をも雪むべき仁[M 「もの」をミセケチ「仁」と傍書]にて候か」と尋ね
申されければ、聖の御返事には、「是は底も
なき不覚仁にて候ぞ。御心やすうおぼしめし【思し召し】
候へ」と申されけれ共、鎌倉殿猶も御心ゆかず
P12104
げにて、「謀反おこさばやがてかたうど【方人】せふ
ずる聖の御房也。但頼朝一期の程は誰か
傾べき。子孫のすゑぞしら【知ら】ぬ」との給ひ
けるこそおそろしけれ【恐ろしけれ】。母うへ是をきき
たまひ【給ひ】て、「いかにも叶まじ。はやはや出家し
給へ」と仰ければ、六代御前十六と申し文治
五年の春の比、うつくしげなる髪をかた【肩】の
まはりにはさみ【鋏み】おろし、かきの衣、袴に笈
などこしらへ、聖にいとまこう【乞う】て修行にいで
P12105
られけり。斎藤五・斎藤六もおなじさまに
出立て、御供申けり。まづ高野へまいり【参り】、父の
善知識したりける滝口入道に尋あひ、御
出家の次第、臨終のあり様くはしう【詳しう】きき給ひ
て、「かつうはその御跡もゆかし」とて、熊野へ
参たまひ【給ひ】けり。浜の宮の御前にて父の
わたり給ひける山なり【山成】の島を見渡して、
渡らまほしくおぼしけれ共、浪風むかふ【向う】て
かなは【叶は】ねば、力をよば【及ば】でながめやり給ふにも、
P12106
「我父はいづくに沈給ひけん」と、沖よりよする【寄する】しら浪【白波】にもとは【問は】まほしくぞおもは【思は】れける。汀
の砂も父の御骨やらんとなつかしう【懐しう】おぼし
ければ、涙に袖はしほれ【萎れ】つつ、塩くむあま
の衣ならね共、かはく【乾く】まなくぞ見え給ふ。
渚に一夜とうりう【逗留】して、念仏申経よみ、
ゆび【指】のさきにて砂に仏のかたちをかき【書き】
あらはして、あけ【明け】ければ貴き僧を請じて、
父の御ためと供養じて、作善の功徳さな
P12107
がら聖霊に廻向して、亡者にいとま申つつ、
泣々都へ上られけり。小松殿の御子丹後侍従
忠房は、八島のいくさ【軍】より落てゆくゑ【行方】もしら【知ら】
ずおはせしが、紀伊国の住人湯浅権守宗重
をたのん【頼ん】で、湯浅の城にぞこもられける。是
をきい【聞い】て平家に心ざしおもひ【思ひ】ける越中次
郎兵衛・上総五郎兵衛・悪七兵衛・飛弾【*飛騨】四郎兵衛
以下の兵共、つき奉るよし聞えしかば、伊賀
伊勢両国の住人等、われもわれもと馳集る。究竟
P12108
の者共数百騎たてごもたるよし聞えし
かば、熊野別当、鎌倉殿より仰を蒙て、両三
月が間八ケ度よせて攻戦。城の内の兵ども、
命をおしま【惜しま】ずふせき【防き】[* 「ふせぎ」と有るのを他本により訂正]ければ、毎度にみかた【御方】
をひ【追ひ】ちらさ【散らさ】れ、熊野法師数をつくひ【尽くい】てうた
れにけり。熊野別当、鎌倉殿へ飛脚を奉
て、「当国湯浅の合戦の事、両三月が間に八ケ
度よせて攻戦。され共城の内の兵ども命を
おしま【惜しま】ずふせく【防く】[* 「ふせぐ」と有るのを他本により訂正]間、毎度に御方をひおとさ【落さ】れて、
P12109
敵を寃に及ず。近国二三ケ国をも給はて攻
おとす【落す】べき」よし申たりければ、鎌倉殿「其条、
国の費人の煩なるべし。たてごもる所の凶
徒は定て海山の盗人にてぞあるらん。山賊
海賊きびしう守護して城の口をかためて
まぼるべし」とぞの給ひける。其定にした
りければ、げにも後には人一人もなかりけり。
鎌倉殿はかりこと【策】に、「小松殿の君達の、一人
も二人もいきのこり給ひたらんをば、たすけ【助け】
P12110
奉るべし。其故は、池の禅尼の便[B 使]として、頼朝
を流罪に申なだめ【宥め】られしは、ひとへにかの【彼の】
内府の芳恩なり」との給ひければ、丹後侍従
六波羅へ出てなのら【名乗ら】れけり。やがて関東へ
下し奉る。鎌倉殿対面して「都へ御上候へ。
かたほとりにおもひ【思ひ】あて【当て】まいらする【参らする】事候」
とて、すかし上せ奉り、おさま【追つ様】に人をのぼせ【上せ】
て勢田の橋の辺にて切てげり。小松殿の
君達六人の外に、土佐守宗実とておはし
P12111
けり。三歳より大炊御門の左大臣経宗卿の
養子にして、異姓他人になり、武芸の道
をばうち捨て、文筆をのみたしなで、今
年は十八になり給ふを、鎌倉殿より尋は
なかりけれ共世に憚てをひ出されたりけれ
ば、先途をうしなひ【失ひ】、大仏の聖俊乗房
のもとにおはして、「我は是小松の内府の末
の子に、土佐守宗実と申者にて候。三歳
より大炊御門左大臣経宗公養子にして、異
P12112
姓他人になり、武芸のみちをうち【打ち】捨て、文
筆をのみたしなんで、生年十八歳に罷成。
かまくら【鎌倉】殿より尋らるる事は候はねども【共】、
世におそれ【恐れ】てをひ出されて候。聖の御房
御弟子にせさせ給へ」とて、もとどり【髻】おしきり
給ひぬ。「それもなを【猶】おそろしう【恐ろしう】おぼし
めさ【思し召さ】ば、かまくら【鎌倉】へ申て、げにもつみ【罪】ふかかる
べくはいづくへもつかはせ【遣せ】」とのたまひ【宣ひ】
ければ、聖いとおしくおもひ【思ひ】奉て、出家せさせ
P12113
奉り、東大寺の油倉といふ所にしばらく
をき奉て、関東へ此よし申されけり。「なに
さま【何様】にも見参してこそともかうもはからは
め。まづ下し奉れ」との給ひければ、聖力をよ
ば【及ば】で関東へ下し奉る。此人奈良を立給ひし
日よりして、飲食の名字をたて、湯水を
ものどへいれ【入れ】ず。足柄こえて関本と云所
にてつゐに【遂に】うせ給ひぬ。「いかにも叶まじき
道なれば」とておもひ【思ひ】きら【切ら】れけるこそおそろし
P12114
けれ【恐ろしけれ】。[B 「けれ」に「是ヨリ跡ナシ」と傍書]さる程に、建久元年十一月七日鎌倉殿
上洛して、同九日、正弐位大納言になり給ふ。
同十一日、大納言右大将を兼じ給へり。やがて
両職を辞て、十二月四日関東へ下向。建久
三年O[BH 三月]十三日、法皇崩御なりにけり。御歳
六十六、偸伽【*瑜伽】振鈴の響[B 「闇」に「響歟」と傍書]は其夜をかぎり、一乗
案誦の御声は其暁におはりぬ。同六年三
月十三日、大仏供養あるべしとて、二月中に
鎌倉殿又御上洛あり【有り】。同十二日、大仏殿へまいら【参ら】
P12115
せ給ひたりけるが、梶原を召て、「てがい【碾磑】の門
の南のかたに大衆なん十人をへだてて、あや
しばうだるものの見えつる。めし【召し】とてまいら
せよ【参らせよ】」との給ひければ、梶原承はてやがて
具してまいり【参り】たり。ひげをばそてもと
どり【髻】をばきらぬ男也。「何者ぞ」ととひ給へば、
「是程運命尽はて候ぬるうへ【上】は、とかう申に
及ばず。是は平家の侍薩摩中務家資と
申ものにて候」。「それは何とおもひ【思ひ】てかくは
P12116
なりたるぞ」。「もしやとねらひ申候つるなり」。
「心ざしの程はゆゆしかり」とて、供養はて【果て】て
都へいら【入ら】せ給ひて、六条河原にてきら【斬ら】れに
けり。平家の子孫は去文治元年の冬の比、
ひとつ【一つ】子ふたつ【二つ】子をのこさず、腹の内をあけ
て見ずといふばかりに尋とて失てき。今
は一人もあらじとおもひ【思ひ】しに、新中納言
の末の子に、伊賀大夫知忠とておはしき。
平家都を落しとき、三歳にてすて【捨て】をか【置か】れ
P12117
たりしを、めのとの紀伊次郎兵衛為教やし
なひ【養ひ】奉て、ここかしこにかくれありき【歩き】けるが、
備後国太田といふ所にしのび【忍び】つつゐたりけり。
やうやう成人し給へば、郡郷の地頭守護
あやしみける程に、都へのぼり法性寺の
一の橋なる所にしのん【忍ん】でおはしけり。爰は
祖父入道相国「自然の事のあらん時城郭にも
せん」とて堀をふたへ【二重】にほて、四方に竹を
うへ【植ゑ】られたり。さかも木【逆茂木】ひいて、昼は人音もせず、
P12118
よるになれば尋常なるともがらおほく【多く】
集て、詩作り歌よみ、管絃などして遊
ける程に、なに【何】としてかもれ【漏れ】聞えたりけん。
その比人のおぢをそれ【恐れ】けるは、一条の二位入道
義泰【*能保】といふ人なり。その侍に後藤兵衛基清
が子に、新兵衛基綱「一の橋に違勅の者
あり」と聞出して、建久七年十月七日の辰
の一点に、其勢百四五十騎、一の橋へはせ【馳せ】むかひ【向ひ】、
おめき【喚き】さけん【叫ん】で攻戦。城の内にも卅余人
P12119
あり【有り】ける者共、大肩ぬぎ【大肩脱ぎ】に肩ぬいで、竹の陰[M 「影」をミセケチ「陰」と傍書]
よりさしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】散々にいれ【射れ】ば、馬
人おほく【多く】射ころさ【殺さ】れて、おもてをむかふ【向ふ】べき
様もなし。さる程に、一の橋に違勅のもの【者】
ありとききつたへ、在京の武士どもわれも
われもと馳つどふ【集ふ】。程なく一二千騎になりし
かば、近辺の小いゑをこぼちよせ、堀をうめ、
おめき【喚き】さけん【叫ん】で攻入けり。城のうちの兵ども【共】、
うち物【打物】ぬいて走出て、或討死にするものも
P12120
あり、或いたで【痛手】おふ【負う】て自害するもの【者】もあり【有り】。
伊賀大夫知忠は生年十六歳になられけるが、
いた手【痛手】負て自害し給ひたるを、めのとの
紀伊次郎兵衛入道ひざの上にかきのせ【乗せ】、涙を
はらはらとながい【流い】て高声に十念となへつつ、
腹かき切てぞ死にける。其子の兵衛太郎・
兵衛次郎ともに討死してんげり。城の内
に卅余人あり【有り】ける者共、大略討死自害
して、館には火をかけたりけるを、武士ども
P12121
馳入て手々に討ける頸共とて、太刀長刀
のさきにつらぬき、弐位入道殿へ馳まいる【参る】。
一条の大路へ車やり出して、頸共実検せら
る。紀伊次郎兵衛入道の頸は見したるものも
少々有けり。伊賀大夫の頸、人争か見知り奉
べき。此人の母うへは治部卿局とて、八条の
女院に候はれけるを、むかへよせ奉て見せ奉り
たまふ【給ふ】。「三歳と申し時、故中納言にぐせ【具せ】ら
れて西国へ下し後は、いき【生き】たり共死たり共、
P12122
そのゆくゑ【行方】をしら【知ら】ず。但故中納言の思いづる【出づる】
ところどころ【所々】のあるは、さにこそ」とてなか【泣か】れける
にこそ、伊賀大夫の頸共人し【知つ】てげれ。平家の
侍越中次郎兵衛盛次【*盛嗣】は但馬国へ落行て気
比の四郎道弘が聟になてぞゐたりける。
道弘、越中次郎兵衛とはしら【知ら】ざりけり。され共
錐袋にたまらぬ風情にて、よるになれば
しうと【舅】が馬ひき【引き】いだい【出い】てはせ【馳せ】ひき【引き】したり、
海の底十四五町、廿町くぐりなどしければ、
P12123
地頭守護あやしみける程に、何としてか
もれ聞えたりけん、鎌倉殿御教書を下
されけり。「但馬国住人朝倉太郎大夫高清、平
家の侍越中次郎兵衛盛次【*盛嗣】、当国に居住の由
きこしめす【聞し召す】。めし【召し】進せよ」と仰下さる。気比の
四郎は朝倉の大夫が聟なりければ、よびよせ
て、いかがしてからめむずると儀するに、「湯
屋にてからむべし」とて、湯にいれ【入れ】て、した
たかなるもの五六人おろしあはせ【合はせ】てからめん
P12124
とするに、とりつけばなげたをさ【倒さ】れ、おき【起き】
あがれ【上れ】ばけたをさ【倒さ】る。互に身はぬれたり、取
もためず。され共衆力に強力かなは【叶は】ぬ事
なれば、二三十人ばとよ【寄つ】て、太刀のみね長刀の
ゑ【柄】にてうちなやしてからめとり、やがて関
東へまいらせ【参らせ】たりければ、御まへにひ【引つ】すへ【据ゑ】
させて、事の子細をめし【召し】とは【問は】る。「いかに汝は
同平家の侍といひながら、故親[* 「親」の左にの振り仮名]にてあんなる
に、しな【死な】ざりけるぞ」。「それはあまりに平家
P12125
のもろくほろびてましまし候間、もしやと
ねらひまいらせ【参らせ】候つるなり。太刀のみ【身】のよき
をも、征矢の尻のかねよきをも、鎌倉殿の
御ためとこそこしらへもて候つれども【共】、
是程に運命つきはて候ぬるうへ【上】は、と
かう申にをよび【及び】候はず」。「心ざしの程はゆゆし
かりけり。頼朝をたのま【頼ま】ばたすけ【助け】て
つかは【使は】んは、いかに」。「勇士二主に仕へず、盛次【*盛嗣】程の
者に御心ゆるしし給ひては、かならず【必ず】御後悔
P12126
候べし。ただ御恩にはとくとく頸をめされ
候へ」と申ければ、「さらばきれ【斬れ】」とて、由井の浜
にひき【引き】いだい【出い】て、きてげり。ほめぬものこそ
なかりけれ。其比の主上は御遊をむねとせさ
せ給ひて、政道は一向卿の局のままなりけれ
ば、人の愁なげきもやまず。呉王剣角【剣客】を
このんじかば天下に疵を蒙るものたえ【絶え】ず。
楚王細腰を愛しかば、宮中に飢て死する
をんなおほかり【多かり】き。上の好に下は随ふ間、世の
P12127
あやうき【危ふき】事をかなしんで、心ある人々は歎
あへ【合へ】り。ここに文覚もとよりおそろしき【恐ろしき】
聖にて、いろふ【綺ふ】まじき事にいろい【綺ひ】けり。二の
宮は御学問おこたらせ給はず、正理を先
とせさせ給ひしかば、いかにもして此宮を
位に即奉らんとはからひけれ共、前右大将
頼朝卿のおはせし程はかなは【叶は】ざりけるが、
建久十年正月十三日、頼朝卿うせ給ひしかば、
やがて謀反をおこさんとしける程に、忽に
P12128
もれ【漏れ】きこえ【聞え】て、二条猪熊の宿所に官人共
つけられ、めし【召し】とて八十にあまて後、隠岐国
へぞながされける。文覚京を出るとて、「是
程老の波に望で、けふあすともしらぬ
身をたとひ勅勘なりとも、都のかたほとり
にはをき給はで、隠岐国までながさるる及
丁【*毬杖】冠者こそやすからね。つゐに【遂に】は文覚がなが
さるる国へむかへ【向へ】申さむずる物を」と申ける
こそおそろしけれ【恐ろしけれ】。このきみはあまりに及丁【*毬杖】
P12129
の玉をあひせ【愛せ】させ給へば、文覚かやうに悪口
申ける也。されば、承久に御謀反おこさせ給
ひて、国こそおほけれ【多けれ】、隠岐国へうつされ給ひ
けるこそふしぎなれ。彼国にも文覚が亡
霊あれ【荒れ】て、つねは御物語申けるとぞ聞
えし。さる程に六代御前は三位禅師とて、
高雄におこなひすまし【澄まし】ておはしけるを、
「さる人の子なり、さる人の弟子なり。かしら【頭】
をばそたりとも、心をばよもそらじ」とて、
P12130
鎌倉殿より頻に申されければ、安判官資
兼に仰て召捕て関東へぞ下されける。駿河
国住人岡辺権守泰綱に仰て、田越川にて切ら
れてげり。十二の歳より卅にあまるまで
たもち【保ち】けるは、ひとへに長谷の観音の御利
生とぞ聞えし。それよりしてこそ平家
の子孫はながくたえ【絶え】にけれ。

平家物語巻第十二
P12131

応安三年十一月廿九日仏子有阿書

平家物語 高野本 灌頂巻
P12132

P12133
平家灌頂巻
『女院出家』S1301
○建礼門院は、東山の麓、吉田の辺なる所にぞ
立いらせ給ひける。中納言[B ノ]法印慶恵と申
ける奈良法師の坊なりけり。住あらし
て年久しうなりにければ、庭には草ふかく、
簷にはしのぶ【忍】茂れり。簾たえ【絶え】閨あらはにて、
雨風たまるべうもなし。花は色々にほへ
ども、あるじとたのむ【頼む】人もなく、月はよな
よな【夜な夜な】さしいれ【入れ】ど、詠てあかすぬし【主】もなし。
P12134
昔は玉の台をみがき、錦の帳にまとはれ
て、あかし暮し給ひしに、いまはありとし
ある人にはみな別はてて、あさましげなる
くち坊【朽ち坊】にいらせ給ひける御心のうち【内】、おしはか
ら【推し量ら】れて哀なり。魚のくが【陸】にあがれ【上がれ】るが如く、
鳥の巣をはなれたるがごとし。さるままに
は、うかり【憂かり】し浪の上、船の中の御すまゐ【住ひ】も、今は
恋しうぞおぼしめす【思し召す】。蒼波路遠し、思を
西海千里の雲によせ、白屋苔ふかくして、
P12135
涙東山一庭の月におつ。かなしとも云はかり
なし。かくて女院は文治元年五月一日、御ぐし
おろさせ給けり。御戒の師には長楽寺の阿
証房の上人印誓とぞきこえ【聞え】し。御布
施には、先帝の御直衣なり。今はの時まで
めされたりければ、その御うつり香【移り香】も未
うせ【失せ】ず。御かたみに御覧ぜんとて、西国よりはる
ばると都までもたせ給ひたりければ、いか
ならん世までも御身をはなたじとこそおぼし
P12136
めさ【思し召さ】れけれども、御布施になりぬべき物の
なきうへ【上】、かつうは彼御菩提のためとて、
泣々とりいださせ給ひけり。上人これ【是】を
給はて、何と奏するむねもなくして、
墨染の袖をしぼりつつ、泣々罷出られけり。
此御衣をば幡にぬふ【縫う】て、長楽寺の仏前に
かけられけるとぞ聞えし。女院は十五にて
女御の宣旨をくださ【下さ】れ、十六にて后妃の位
に備り、君王の傍に候はせ給ひて、朝には
P12137
朝政をすすめ、よるは夜を専にしたまへ【給へ】り。
廿二にて皇子御誕生、皇太子にたち、位に
つかせ給ひしかば、院号蒙らせ給ひて、建
礼門院とぞ申ける。入道相国の御娘なる
うへ【上】、天下の国母にてましましければ、世のおも
う【重う】し奉る事なのめならず。今年は廿九にぞ
ならせたまふ【給ふ】。桃李の御粧猶こまやかに、
芙蓉の御かたちいまだ衰させ給はねども【共】、
翡翠の御かざし【挿頭】つけても何にかはせさせ
P12138
たまふ【給ふ】べきなれば、遂に御さまをかへさせ給ふ。
浮世をいとひ、まこと【誠】の道にいらせたまへ【給へ】共、
御歎はさら【更】につきせ【尽きせ】ず。人々いまはかくとて
海にしづみし有様、先帝・二位殿の御面影、
いかならん世までも忘がたくおぼしめすに、
露の御命なにしに今までながらへ【永らへ】て、かかる
うき目を見るらんとおぼしめしつづけて、御涙
せきあへさせ給はず。五月の短夜なれ共、あかし
かねさせ給ひつつ、をのづからうちまどろませ
P12139
給はねば、昔のこと【事】は夢にだにも御覧ぜず。
壁にそむける残の灯のかげ【影】かすか【幽】に、
夜もすがら窓うつくらき雨の音ぞさびし
かりける。上陽人が上陽宮に閉られけん悲み
も、是には過じとぞ見えし。昔をしのぶ【忍ぶ】
つまとなれとてや、もとのあるじの
うつし【移し】うへ【植ゑ】たりけんはな橘【花橘】の、簷近く
風なつかしう【懐しう】かほりけるに、山郭公二こゑ【声】
三こゑ【声】をとづれければ、女院ふるき事
P12140
なれ共おぼしめし【思し召し】出て、御硯のふたにかう
ぞあそばさ【遊ばさ】れける。ほととぎす【郭公】花たちばな【花橘】
の香をとめてなくはむかしのひと【人】や
恋しき W093女房達さのみたけく、二位殿・越前
の三位のうへ【上】のやうに、水の底にも沈み給
はねば、武[B 士]のあらけなき【荒けなき】にとらはれて、旧
里にかへり、わかき【若き】も老たるもさまを
かへ、かたちをやつし、あるにもあられぬあり
さま【有様】にてぞ、おもひ【思ひ】もかけぬ谷の底、岩の
P12141
はざまにあかし暮し給ひける。すまゐ【住ひ】し
宿は皆煙とのぼりにしかば、むなしき【空しき】
跡のみのこり【残り】て、しげき野べとなりつつ、
見なれ【馴れ】し人のとひくるもなし。仙家
より帰て七世の孫にあひけんも、かくや
とおぼえてあはれ【哀】なり。さるほど【程】に、七月九日
の大地震に築地もくづれ、荒たる御所
もかたぶきやぶれて、いとどすませたまふ【給ふ】
べき御たよりもなし。緑衣の監使宮門を
P12142
まぼるだにもなし。心のままに荒たる籬
は、しげき野辺よりも露けく、おりしり
がほ【折知顔】にいつしか虫のこゑごゑ【声々】うらむる【恨むる】も、
哀也。夜もやうやうながくなれば、いとど御
ね覚がちにて明しかねさせたまひ【給ひ】けり。
つきせ【尽きせ】ぬ御物おもひ【物思ひ】に、秋のあはれ【哀】さへうち
そひて、しのび【忍び】がたくぞおぼしめさ【思し召さ】れける。
何事もかはりはてぬるうき世【浮世】なれば、をの
づからなさけをかけ奉るべき草のゆかりも
P12143
かれはてて、誰はぐくみ奉るべしとも
『大原入』S1302
見え給はず。○されども冷泉大納言隆房卿・
七条[B ノ]修理[B ノ]大夫信隆卿の北方、しのび【忍び】つつやう
やうにとぶらひ【訪ひ】申させ給ひけり。「あの人々共
のはぐくみにてあるべしとこそ昔はおも
は【思は】ざりしか」とて、女院御涙をながさせ給へば、
つきまいらせ【参らせ】たる女房たち【達】もみな袖をぞ
しぼられける。此御すまゐ【住ひ】も都猶ちかく【近く】
て、玉ぼこの【玉鉾の】道ゆき人のひと目【人目】もしげくて、
P12144
露の御命風を待ん程は、うき【憂き】事きかぬ
ふかき山の奥のおくへも入なばやとは
おぼしけれども、さるべきたよりもまし
まさず。ある女房のまい【参つ】て申けるは、「大原山
のおく、寂光院と申所こそ閑にさぶらへ【候へ】」
と申ければ、「山里は物のさびしき事こそ
あるなれども、世のうきよりはすみよかん
なるものを」とて、おぼしめし【思し召し】たたせ給ひけり。
御輿などは隆房卿の北方の御沙汰有けると
P12145
かや。文治元年長月の末に、彼寂光院へ
いらせたまふ【給ふ】。道すがら四方の梢の色々
なるを御覧じすぎさせたまふ【給ふ】程に、やま
かげ【山陰】なればにや、日も既にくれかかりぬ。野
寺の鐘の入あひの音すごく【凄く】、わくる草
葉の露しげみ、いとど御袖ぬれまさり、嵐
はげしく木の葉みだりがはし。空かき曇、
いつしかうちしぐれつつ、鹿の音かすか【幽】に
音信て、虫の恨もたえだえ【絶え絶え】なり。とに角に
P12146
とりあつめ【集め】たる御心ぼそさ、たとへやるべき
かたもなし。浦づたひ【浦伝ひ】島づたひ【島伝ひ】せし時も、
さすがかくはなかりし物をと、おぼしめす【思し召す】
こそかなしけれ。岩に苔[B ノ]むしてさびたる
所なりければ、すま【住ま】まほしうぞおぼしめす【思し召す】。
露結ぶ庭の萩原霜がれて、籬の菊の
かれがれ【枯れ枯れ】にうつろふ色を御覧じても、御身
の上とやおぼしけん。仏の御前にまいら【参ら】せ
給ひて、「天子聖霊[B 「座霊」とあり「座」に「聖」と傍書]成等正覚、頓証菩提」といのり
P12147
申させ給ふにつけても、先帝の御面影
ひしと御身にそひて、いかならん世にか思召
わすれさせたまふ【給ふ】べき。さて寂光院のかた
はらに方丈なる御庵室をむすんで、一間
をば御寝所にしつらひ、一間をば仏所に
定、昼夜朝夕の御つとめ、長時不断の
御念仏、おこたる事なくて月日を送ら
せたまひ【給ひ】けり。かくて神無月中の五日
の暮がたに、庭に散しく楢の葉をふみ
P12148
ならし【鳴らし】てきこえ【聞え】ければ、女院「世をいとふ所
になにもの【何者】のとひくるやらん。あれ見よや、
忍ぶべきものならばいそぎしのば【忍ば】ん」とて、
みせ【見せ】らるるに、をしか【牡鹿】のとをる【通る】にてぞ有
ける。女院いかにと御尋あれば、大納言[B ノ]佐殿
なみだをおさへ【抑へ】て、
岩根ふみたれかはとは【問は】んならの葉の
そよぐはしかのわたるなりけり W094
女院哀におぼしめし【思し召し】、窓の小障子にこの【此の】
P12149
歌をあそばし【遊ばし】とどめ【留め】させたまひ【給ひ】けり。
かかる御つれづれのなかにおぼしめし【思し召し】なぞ
らふる事共は、つらき中にもあまたあり【有り】。
軒にならべるうへ木【植木】をば、七重宝樹とかた
どれり。岩間につもる水をば、八功徳水と
おぼしめす【思し召す】。無常は春の花、風に随て
散やすく、有涯は秋の月、雲に伴て隠れ
やすし。承陽殿に花を翫し朝には、風
来て匂を散し、長秋宮に月を詠ぜし
P12150
ゆふべには、雲おほ【覆つ】て光をかくす。昔は
玉楼[* 「玉桜」と有るのを他本により訂正]金殿に錦の褥をしき、たへ【妙】なりし
御すまゐ【住ひ】なりしかども【共】、今は柴引むすぶ
草の庵、よそのたもともしほれ【萎れ】けり。
『大原御幸』S1303
○かかりし程に、文治二年の春の比、法皇、
建礼門院大原の閑居の御すまゐ【住ひ】、御覧
ぜまほしうおぼしめさ【思し召さ】れけれ共、きさらぎ【二月】
やよひ【弥生】の程は風はげしく、余寒もいまだ
つきせ【尽きせ】ず。峯の白雪消えやらで、谷のつららも
P12151
うちとけず。春過夏きたて北まつり【北祭り】
も過しかば、法皇夜をこめて大原の
奥へぞ御幸なる。しのびの御幸なり
けれ共、供奉の人々、徳大寺・花山[B ノ]院・土御門
以下、公卿六人、殿上人八人、北面少々候けり。
鞍馬どをり【鞍馬通り】の御幸なれば、彼清原の深
養父が補堕落寺【*補陀落寺】、小野の皇太后宮の旧
跡を叡覧あて、それより御輿にめされ
けり。遠山にかかる白雲は、散にし花の
P12152
かたみなり。青葉にみゆる【見ゆる】梢には、春の
名残ぞおしま【惜しま】るる。比は卯月廿日余の
事なれば、夏草のしげみが末を分いらせ
給ふに、はじめたる御幸なれば、御覧じ
なれたるかたもなし。人跡たえ【絶え】たる程
もおぼしめし【思し召し】しられて哀なり。西の山
のふもとに一宇の御堂あり【有り】。即寂光
院是也。ふるう作りなせる前水木立、
よしあるさまの所なり。「甍やぶれては、
P12153
霧不断の香をたき、枢おち【落ち】ては月常
住の灯をかかぐ」とも、かやうの所をや
申べき。庭の若草しげりあひ、青柳
糸をみだりつつ、池の蘋浪にただよひ、
錦をさらすかとあやまたる。中島の
松にかかれる藤なみの、うら紫にさける
色、青葉まじりの遅桜、初花よりも
めづらしく、岸のやまぶき咲みだれ、八重
たつ雲のたえま【絶え間】より、山郭公の一声も、
P12154
君の御幸をまちがほなり。法皇是を
叡覧あて、かうぞおぼしめし【思し召し】つづけける。
池水にみぎはのさくら散しきて
なみの花こそさかりなりけれ W095
ふりにける岩のたえ間より、おち【落ち】くる
水の音さへ、ゆへび【故び】よしある所也。緑蘿
の牆、翠黛の山、画にかくとも筆も
をよび【及び】がたし。女院の御庵室を御らん
ずれ【御覧ずれ】ば、軒には蔦槿はひ【這ひ】かかり【掛かり】、信夫まじ
P12155
りの忘草、瓢箪しばしばむなし、草
顔淵が巷にしげし。藜でうふかく
させり、雨原憲が枢をうるほすとも
い【言つ】つべし。杉の葺目もまばらにて、時雨
も霜もをく【置く】露も、もる月影にあら
そひて、たまるべしとも見えざりけり。
うしろは山、前は野辺、いざさをざさ【小笹】に風
さはぎ【騒ぎ】、世にたたぬ身のならひ【習ひ】とて、うき
ふししげき竹柱、都の方のことづては、
P12156
まどを【間遠】にゆへ【結へ】るませがき【籬垣】や、わづかに事
とふ物とては、峯に木づたふ【木伝ふ】猿のこゑ【声】、
しづ【賎】がつま木のをの【斧】の音、これらが音信
ならでは、正木のかづら青つづら、くる
人まれなる所也。法皇「人やある、人やある」
とめさ【召さ】れけれ共、おいらへ【御答】申ものもなし。はるか
にあて、老衰たる尼一人まいり【参り】たり。「女院は
いづくへ御幸なりぬるぞ」と仰ければ、「この【此の】
うへ【上】の山へ花つみにいらせ給ひてさぶらふ【候ふ】」と
P12157
申。「さやうの事につかへ奉るべき人もなき
にや。さこそ世を捨る御身といひながら、
御いたはしうこそ」と仰ければ、此尼申けるは、
「五戒十善の御果報[* 「御」の左にの振り仮名]つきさせたまふ【給ふ】によて、
今かかる御目を御覧ずるにこそさぶらへ【候へ】。
捨身の行になじかは御身をおしま【惜しま】せ
給ふべき。因果経には「欲知過去因、見其現在
果、欲知未来果、見其現在因」ととかれたり。過去
未来の因果をさとらせ給ひなば、つやつや
P12158
御歎あるべからず。悉達太子は十九にて伽耶
城をいで、檀徳山【*檀特山】のふもと【麓】にて、木葉を
つらねてはだへ【膚】をかくし、嶺にのぼりて
薪をとり、谷にくだり【下り】て水をむすび、
難行苦行の功によて、遂に成等正覚し
給ひき」とぞ申ける。此尼のあり様を御
覧ずれば、きぬ布のわきも見えぬ物を
むすび【結び】あつめ【集め】てぞき【着】たりける。「あの有様
にてもかやうの事申す不思議さよ」と
P12159
おぼしめし【思し召し】、「抑汝はいかなるものぞ」と仰
ければ、さめざめとないて、しばしは御返事
にも及ばず。良あて涙をおさへ【抑へ】て申
けるは、「申につけても憚おぼえさぶらへ【候へ】共、
故少納言入道信西がむすめ、阿波の内侍と
申しものにてさぶらふ【候ふ】なり。母は紀伊の
二位、さしも御いとおしみふかう【深う】こそさぶ
らひしに、御覧じ忘させ給ふにつけても、
身のをとろへ【衰へ】ぬる程も思しられて、今更
P12160
せんかたなふ【無う】こそおぼえさぶらへ【候へ】」とて、袖を
かほ【顔】におしあてて、しのび【忍び】あへぬさま、目も
あてられず。法皇も「されば汝は阿波の内侍
にこそあんなれ。今更御覧じわすれける。
ただ夢とのみこそおぼしめせ【思し召せ】」とて、御
涙せきあへさせ給はず。供奉の公卿殿上
人も、「ふしぎ【不思議】の尼かなと思ひたれば、理
にて有ける」とぞ、をのをの【各々】申あはれけり[B 「り」に「ル」と傍書]。
こなたかなたを叡覧あれば、庭の千種[B 「千種」に「千草」と傍書]
P12161
露をもく【重く】、籬にたおれ【倒れ】かかりつつ、そとも【外面】
の小田も水こえて、鴫たつひまも見え
わかず。御庵室にいらせ給ひて、障子を引
あけて御覧ずれば、一間には来迎の三尊
おはします。中尊の御手には五色の糸を
かけられたり。左には普賢の画像、右には
善導和尚并に先帝の御影をかけ、八軸
の妙文・九帖の御書もをか【置か】れたり。蘭麝の
匂に引かへて、香の煙ぞ立のぼる。かの【彼の】
P12162
浄名居士の方丈の室の内に三万二千の
床をならべ、十方の諸仏を請じ奉り
給ひけんも、かくやとぞおぼえける。障子
には諸経の要文共、色紙にかいて所々に
おされたり。其なかに大江の貞基法師が
清涼山にして詠じたりけん「笙歌遥
聞孤雲[* 「■[*馬+瓜]雲」と有るのを他本により訂正][B ノ]上、聖衆来迎[B ス]落日前」ともかかれ
たり。すこしひき【引き】のけて女院の御製[* 「御」の左にの振り仮名]と
おぼしくて、
P12163
おもひ【思ひ】きやみ山のおくにすまゐ【住ひ】して
雲ゐの月をよそに見んとは W096
さてかたはらを御覧ずれば、御寝所とおぼし
くて、竹の御さほにあさ【麻】の御衣、紙の御
衾などかけられたり。さしも本朝漢土
のたへなるたぐひ数をつくして、綾羅
錦繍の粧もさながら夢になりにけり。
供奉の公卿殿上人もをのをの【各々】見まいらせ【参らせ】し
事なれば、今のやうにおぼえ【覚え】て[* 「で」と有るのを他本により訂正]、皆袖をぞ
P12164
しぼられける。さる程に、うへ【上】の山より、こき
墨染の衣き【着】たる尼二人、岩のかけぢ【掛け路】を
つたひつつ、おりわづらひ【煩ひ】給ひけり。法皇
是を御覧じて、「あれは何ものぞ」と御尋
あれば、老尼涙をおさへ【抑へ】て申けるは、「花
がたみ【花筐】ひぢにかけ、岩つつじ【岩躑躅】とり具して
もたせ給ひたるは、女院にてわたら【渡ら】せ給ひ
さぶらふ【候ふ】なり。爪木に蕨折具してさぶ
らふは、鳥飼の中納言維実のむすめ、五条
P12165
大納言国綱【*邦綱】卿の養子、先帝の御めのと、
大納言[B ノ]佐」と申もあへずなき【泣き】けり。法皇
もよにあはれ【哀】げにおぼしめし【思し召し】て、御涙
せきあへさせ給はず。女院は「さこそ世を捨る
御身といひながら、いまかかる御ありさま【有様】
を見えまいらせ【参らせ】O[BH む]ずらんはづかしさよ。消
もうせばや」とおぼしめせどもかひぞなき。
よひよひごとのあかの水、結ぶたもとも
しほるる【萎るる】に、暁をき【起き】の袖の上、山路の露
P12166
もしげくして、しぼりやかねさせたまひ【給ひ】
けん、山へもかへら【帰ら】せ給はず、御庵室へもいら
せ給はず、御なみだ【涙】にむせばせたまひ【給ひ】、
あきれてたたせましましたる処に、内侍の
尼まいり【参り】つつ、花がたみ【花筐】をば給はりけり。
『六道之沙汰』S1304
○「世をいとふならひ【習ひ】、なにかはくるしう【苦しう】さぶら
ふ【候ふ】べき。はやはや御対面さぶらふて、還御
なしまいら【参らつ】させ給へ」と申ければ、女院御庵
室にいらせ給ふ。「一念の窓の前には摂取の
P12167
光明を期し、十念の柴の枢には、聖衆の
来迎をこそ待つるに、思[B ノ]外に御幸なり
ける不思議さよ」とて、なくなく【泣く泣く】御げんざん【見参】
ありけり。法皇此御ありさま【有様】を見まいら【参らつ】
させ給ひて、「非想の八万劫、猶必滅の愁に
逢、欲界の六天、いまだ五衰のかなしみを
まぬかれ【免かれ】ず。善見城の勝妙の楽、中間禅の
高台の閣、又夢の裏の果報、幻の間の楽み、
既に流転無窮也。車輪のめぐるが如し。
P12168
天人の五衰の悲は、人間にも候ける物かな」
とぞ仰ける。「さるにてもたれか事とひ
まいらせ【参らせ】候。何事につけてもさこそ古お
ぼしめし【思し召し】いで候らめ」と仰ければ、「いづかた
よりをとづるる事もさぶらはず。隆房・
信隆の北方より、たえだえ【絶え絶え】申送る事こそ
さぶらへ【候へ】。その昔あの人どものはぐくみにて
あるべしとは露も思より候はず」とて、御涙
をながさせ給へば、つきまいらせ【参らせ】たる女房達も、
P12169
みな袖をぞぬらさ【濡らさ】れける。女院御涙をおさへ【抑へ】
て申させ給ひけるは、「かかる身になる事は
一旦の歎申にをよび【及び】さぶらは【候は】ね共、後生菩
提の為には、悦とおぼえさぶらふ【候ふ】なり。忽に
釈迦の遺弟につらなり、忝く弥陀の本
願に乗じて、五障三従のくるしみ【苦しみ】をのがれ【逃れ】、
三時に六根をきよめ、一すぢに九品の浄
刹をねがふ。専一門の菩提をいのり、つねは
三尊の来迎を期す。いつの世にも忘がたきは、
P12170
先帝の御面影、忘れんとすれ共忘られず、
しのば【忍ば】んとすれ共しのば【忍ば】れず。ただ恩愛
の道ほどかなしかり【悲しかり】ける事はなし。されば
彼菩提のために、あさゆふのつとめおこたる
事さぶらはず。是もしかる【然る】べき善知識と
こそ覚へさぶらへ【候へ】」と申させ給ひければ、
法皇仰なりけるは、「此国は粟散辺土なり
といへども、忝く十善の余薫に答て、万
乗のあるじとなり、随分一としてこころ【心】に
P12171
かなは【叶は】ずといふ事なし。就中仏法流布の
世にむまれ【生れ】て、仏道修行の心ざしあれば、
後生善所疑あるべからず。人間のあだなる
ならひ【習ひ】は、今更おどろくべきにはあらねども、
御ありさま【有様】見奉るに、あまりにせんかたなふ【無う】
こそ候へ」と仰ければ、女院重て申させ給ひ
けるは、「我平相国のむすめとして天子の
国母となりしかば、一天四海みなたなごころ
のままなり。拝礼の春の始より、色々の
P12172
衣がへ【衣更】、仏名の年のくれ、摂禄以下の大臣
公卿にもてなされしありさま、六欲四禅の
雲の上にて八万の諸天に囲繞せられ
さぶらふ【候ふ】らむ様に、百官悉あふが【仰が】ぬものや
さぶらひし。清涼紫震【*紫宸】の床の上、玉の簾の
うちにてもてなされ、春は南殿の桜に心を
とめて日を暮し、九夏三伏のあつき日は、
泉をむすびて心をなぐさめ、秋は雲の
上の月をひとり見むこと【事】をゆるさ【許さ】れず。
P12173
玄冬素雪のさむき夜は、妻をかさね【重ね】て
あたたかにす。長生不老の術をねがひ、蓬
莱不死の薬を尋ても、只久しからん事
をのみおもへ【思へ】り。あけてもくれても楽み
さかへ【栄え】し事、天上の果報も是には過じと
こそおぼえさぶらひしか。それに寿永の
秋のはじめ、木曾義仲とかやにおそれ【恐れ】て、
一門の人々住なれし都をば雲井のよそに
顧て、ふる里を焼野の原とうちながめ、
P12174
古は名をのみききし須磨より明石の浦
づたひ【浦伝ひ】、さすが哀に覚て、昼は漫々たる
浪路をわけ【分け】て袖をぬらし、夜は洲崎の
千鳥ととも【供】になきあかし、浦々島々よし
ある所をみ【見】しかども、ふるさと【故郷】の事は忘ず。
かくてよる【寄る】方なかりしは、五衰必滅の悲み
とこそおぼえさぶらひしか。人間の事は
愛別離苦、怨憎会苦、共に我身にしられて
さぶらふ【侍ふ】。四苦八苦一として残る所さぶらはず。
P12175
さても筑前[B ノ]国太宰府といふ所にて、維義
とかやに九国のうち【内】をも追出され、山野広
といへ共、立よりやすむべき所もなし。同じ
秋の末にもなりしかば、むかしは九重の
雲の上にて見し月を、いまは八重の塩路
にながめつつ、あかし暮しさぶらひし程に、
神無月の比ほひ、清経の中将が、「都のうち
をば源氏がためにせめ【攻め】おとさ【落さ】れ、鎮西をば
維義がために追出さる。網にかかれる魚の
P12176
如し。いづくへゆか【行か】ばのがる【逃る】べきかは。ながらへ【永らへ】はつ
べき身にもあらず」とて、海にしづみさぶ
らひ【侍ひ】しぞ、心うき事のはじめにてさぶらひし。
浪の上にて日をくらし、船の内にて夜を
あかし、みつぎものもなかりしかば、供御を
備ふる人もなし。たまたま供御はそなへん
とすれ共、水なければまいら【参ら】ず。大海に
うかぶといへども、うしほ【潮】なればのむ事も
なし。是又餓鬼道の苦とこそおぼえ
P12177
さぶらひしか。かくて室山・水島、所々の
たたかひ【戦ひ】に勝しかば、人々すこし【少し】色なを【直つ】て
見えさぶらひし程に、一の谷といふ所にて
一門おほく【多く】ほろびし後は、直衣束帯を
ひき【引き】かへて、くろがね【鉄】をのべて身にまとひ、
明ても暮てもいくさよばひ【軍呼】のこゑ【声】たえ【絶え】
ざりし事、修羅の闘諍、帝釈の諍も、
かくやとこそおぼえさぶらひしか。「一谷を
攻おとさ【落さ】れて後、おやは子にをくれ【遅れ】、妻は
P12178
夫にわかれ、沖につりする船をば敵の舟
かと肝をけし、遠き松にむれゐる鷺
をば、源氏の旗かと心をつくす。さても
門司・赤間の関にて、いくさ【軍】はけふを限と
見えしかば、二位の尼申をく【置く】事さぶら
ひき。「男のいきのこら【残ら】む事は千万が一も有
がたし。設又遠きゆかりはをのづからいき
残りたりといふとも、我等が後世をとぶらはん
事もありがたし。昔より女はころさ【殺さ】ぬならひ【習ひ】
P12179
なれば、いかにもしてながらへ【永らへ】て主上の
後世をもとぶらひ【弔ひ】まいらせ【参らせ】、我等が後生
をもたすけ【助け】給へ」とかきくどき【口説き】申さぶ
らひしが、夢の心ち【心地】しておぼえさぶら
ひしほど【程】に、風にはかにふき、浮雲
あつくたなびいて、兵こころ【心】をまどはし、
天運つきて人の力にをよび【及び】がたし。
既に今はかうと見えしかば、二位の尼
先帝をいだき奉て、ふなばたへ出し時、
P12180
あきれたる御様にて、「尼ぜわれをば
いづちへ具してゆかむとするぞ」と
仰さぶらひしかば、いとけなき君にむかひ【向ひ】
奉り、涙をおさへ【抑へ】て申さぶらひしは、
「君はいまだしろしめさ【知ろし召さ】れさぶらはずや。
先世の十善戒行の御力によて、今
万乗のあるじとは生れさせ給へども、
悪縁にひかれて御運既につき給ひぬ。
まづ東にむかは【向は】せ給ひて、伊勢大神宮に
P12181
御いとま申させ給ひ、其後西方浄土の
来迎にあづからんとおぼしめし【思し召し】、西
にむかは【向は】せ給ひて御念仏侍らふべし。
此国はそくさん【粟散】へんど【辺土】とて、心うき堺
にてさぶらへ【候へ】ば、極楽浄土とてめでた
き所へ具しまいらせ【参らせ】侍らふぞ」と泣々
申さぶらひしかば、山鳩色の御衣にび
づら【鬢】いはせ給ひて、御涙におぼれ、ちい
さう【小さう】うつくしい御手をあはせ【合はせ】、まづ東
P12182
をふし【伏し】おがみ【拝み】、伊勢大神宮に御いとま
申させ給ひ、其後西にむかは【向は】せ給ひ
て、御念仏ありしかば、二位[B ノ]尼やがて
いだき奉て、海に沈し御面影、目も
くれ、心も消はてて、わすれんとすれ共
忘られず、忍ばんとすれ共しのば【忍ば】れず、
残とどまる人々のおめき【喚き】さけび【叫び】し声、
叫喚大叫喚のほのほ【炎】の底の罪人も、
これには過じとこそおぼえさぶらひしか。
P12183
さて武O[BH 士]共にとらはれてのぼりさぶら
ひし時、播磨[B ノ]国明石浦について、ちと
うちまどろみてさぶらひし夢に、昔の
内裏にははるかにまさりたる所に、
先帝をはじめ奉て、一門の公卿殿上人
みなゆゆしげなる礼儀にて侍ひしを、
都を出て後かかる所はいまだ見ざりつる
に、「是はいづくぞ」ととひ侍ひしかば、
弐位の尼と覚て、「竜宮城」と答侍ひし
P12184
時、「めでたかりける所かな。是には苦は
なきか」ととひさぶらひしかば、「竜畜経
のなかに見えて侍らふ。よくよく後世を
とぶらひ【弔ひ】給へ」と申すと覚えて夢さめぬ。
其後はいよいよ経をよみ念仏して、彼
御菩提をとぶらひ【弔ひ】奉る。是皆六道に
たがは【違は】じとこそおぼえ侍へ」と申させ給
へば、法皇仰なりけるは、「異国の玄弉三
蔵は、悟の前に六道を見、吾朝の日蔵
P12185
上人は、蔵王権現の御力にて六道を見たり
とこそうけ給はれ【承れ】。是程まのあたりに
御覧ぜられける御事、誠にありがたふ【難う】
こそ候へ」とて、御涙にむせばせ給へば、
供奉の公卿殿上人もみな袖をぞしぼ
られける。女院も御涙をながさせ給へば、
つきまいらせ【参らせ】たる女房達もみな袖を
『女院死去』S1305
ぞぬらさ【濡らさ】れける。○さる程に寂光院の
鐘のこゑ【声】、けふもくれ【暮れ】ぬとうちしら【知ら】れ、
P12186
夕陽西にかたぶけば、御名残おしう【惜しう】は
おぼしけれども、御涙をおさへ【抑へ】て還御
ならせ給ひけり。女院は今更いにしへを
おぼしめし【思し召し】出させ給ひて、忍あへぬ御
涙に、袖のしがらみせきあへさせ給はず。
はるかに御覧じをくら【送ら】せ給ひて、還御
もやうやうのびさせ給ひければ、御本
尊にむかひ【向ひ】奉り、「先帝聖霊、一門亡魂、
成等正覚、頓証菩提」と泣々いのらせ給ひ
P12187
けり。むかしは東にむかは【向は】せ給ひて、「伊勢
大神宮、正八幡大菩薩、天子宝算、千秋万歳」
と申させ給ひしに、今はひき【引き】かへて西
にむかひ【向ひ】、手をあはせ【合はせ】、「過去聖霊、一仏浄
土へ」といのらせ給ふこそ悲しけれ。御寝
所の障子にかうぞあそばさ【遊ばさ】れける。
このごろはいつならひてかわがこころ
大みや人【大宮人】のこひしかるらん W097
いにしへも夢になりにし事なれば
P12188
柴のあみ戸もひさしから【久しから】じな W098
御幸の御供に候はれける徳大寺[B ノ]左大臣
実定公、御庵室の柱にかきつけられ
けるとかや。
いにしへは月にたとへし君なれど
そのひかりなき深山辺の里 W099
こしかたゆくすゑ【行く末】の事ども【共】おぼしめし【思し召し】
つづけて、御涙にむせばせたまふ【給ふ】折し
も、山郭公音信ければ、女院、
P12189
いざさらばなみだくらべん時鳥
われもうき世にねをのみぞ鳴 W100
抑壇の浦にていきながらとられし
人々は、大路をわたして、かうべをはねら
れ、妻子にはなれて、遠流せらる。池の大
納言の外は一人も命をいけられず、都に
をか【置か】れず。され共四十余人の女房達の御
事、沙汰にもをよば【及ば】ざりしかば、親類
にしたがひ【従ひ】、所縁についてぞおはしける。
P12190
上は玉の簾の内までも、風しづかなる
家もなく、下は柴の枢のもとまでも、
塵おさまれ【納まれ】る宿もなし。枕をならべし
いもせ【妹背】も、雲ゐのよそにぞなりはつる。
やしなひたてしおや子【親子】も、ゆきがたしら
ず別けり。しのぶ【忍ぶ】おもひ【思ひ】はつきせ【尽きせ】ねども、
歎ながらさてこそすごさ【過さ】れけれ。是は
ただ入道相国、一天四海を掌ににぎて、
上は一人をもおそれ【恐れ】ず、下は万民をも顧ず、
P12191
死罪流刑、おもふ【思ふ】さまに行ひ、世をも人
をも憚かられざりしがいたす所なり。父祖
の罪業は子孫にむくふ【報ふ】といふ事疑なし
とぞ見えたりける。かくて年月を
すごさ【過さ】せたまふ【給ふ】程に、女院御心ち【心地】例
ならずわたらせ給ひしかば、中尊の御手
の五色の糸をひかへつつ、「南無西方極楽
世界教主弥陀如来、かならず引摂し給へ」
とて、御念仏ありしかば、大納言[B ノ]佐の局・阿
P12192
波[B ノ]内侍、左右に候て、いまをかぎりのかなし
さに、こゑ【声】もおしま【惜しま】ずなきさけぶ【叫ぶ】。御念
仏のこゑ【声】やうやうよはら【弱ら】せましましければ、
西に紫雲たなびき、異香室にみち、音
楽そら【空】にきこゆ。かぎりある御事なれば、
建久二年きさらぎ【二月】の中旬に、一期遂に
おはらせ給ひぬ。きさいの宮【后の宮】の御位よりかた
時【片時】もはなれまいらせ【参らせ】ずして候はれ給し
かば、御臨終の御時、別路にまよひしも、
P12193
やるかたなくぞおぼえける。此女房達
はむかし【昔】の草のゆかりもかれはてて、
よるかたもなき身なれ共、おりおり【折々】の
御仏事営給ふぞあはれ【哀】なる。遂に
彼人々は、竜女が正覚の跡ををひ【追ひ】、韋提
希夫人の如に、みな往生の素懐をとげ
けるとぞきこえ【聞え】し。

平家灌頂巻
P12194

P12195
于時応安四年〈 亥辛 〉三月十五日、平家物
語一部十二巻付灌頂、当流之師説、伝受
之秘决、一字不闕、以口筆令書写之、譲与
定一検校訖。抑愚質余算既過七旬、
浮命難期後年、而一期之後、弟子等中
雖為一句、若有廃忘輩者、定及諍論歟。
仍為備後証、所令書留之也。此本努々
不可出他所、又不可及他人之披見、附属
弟子之外者、雖為同朋并弟子、更莫
P12196
令書取之。凡此等条々背炳誡之者、
仏神三宝冥罰可蒙厥躬而已。

沙門覚一