平家物語(龍谷大学本)巻第一

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【底本】
本テキストの底本は、龍谷大学大宮図書館所蔵『平家物語』です。直接には、思文閣出版発行の影印本(龍谷大学善本叢書 13)に拠りました。

文責:荒山慶一・菊池真一



P01003

一巻 
一 祇園精舎
二 殿上暗打  しかるを忠盛ヨリ
三 鱸  太政大臣は一人にヨリ
四 禿の沙汰  かくて清盛公ヨリ
五 吾身之栄花  吾身の栄花を極るヨリ
六 二代后  されども鳥羽院ヨリ
七 額打論  一天の君崩御ヨリ
P01004
八 清水炎上  御門かくれさせヨリ
九 殿下乗合  仁安三年ヨリ
十 厳嶋詣  嘉応三年ヨリ 但此奥二ノ巻ニアリ
十一 師子谷之謀反 徳大寺花山院ヨリ
十二 鵜河合戦  然るによつて師光ヨリ [* 相当文無し ]
十三 願立  御裁断おそかりければヨリ
十四 御輿振  さるほどにヨリ
十五 内裏炎上  蔵人左少弁兼光ヨリ
P01005
P83
平家物語巻第一
『祇園精舎』S0101
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりを
あらはす。おごれる人も久しからず。只春の
夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶ
らへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の
禄山、是等は皆旧主先皇の政にもしたがはず、
P01006
楽みをきはめ、諫をもおもひいれず、天下の
みだれむ事をさとらずして、民間の愁る
所をしらざしかば、久しからずして、亡じ
にし者どもなり。近く本朝をうかがふに、承平の
将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、
おごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそ
ありしかども、まぢかくは、六波羅[B の]入道前太政
大臣平朝臣清盛公と申し人のありさま、
P01007
伝承るこそ心も詞も及ばれね。P84其先祖を尋
ぬれば、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原
親王九代の後胤、讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛
朝臣の嫡男なり。彼親王の御子高視の王、無官
無位にしてうせ給ぬ。其御子高望の王の時、始て
平の姓を給て、上総介になり給しより、忽に王
氏を出て人臣につらなる。其子鎮守府将軍
義茂、後には国香とあらたむ。国香より正盛に
P01008
いたるまで、六代は諸国の受領たりしかども、
二 殿上の仙籍をばいまだゆるされず。 『殿上闇討』S0102 しかるを
忠盛備前守たりし時、鳥羽院の御願得長寿
院を造進して、三十三間の御堂をたて、一千一体の
御仏をすへ奉る。供養は天承元年三月十三日なり。
勧賞には闕国を給ふべき由仰下されける。
境節但馬国のあきたりけるを給にけり。上
皇御感のあまりに内の昇殿をゆるさる。忠盛
P01009
三十六にて始て昇殿す。雲の上人是を猜み、同き
年の十二月廿三日、五節豊明の節会の夜、忠盛を
闇打にせむとぞ擬せられける。忠盛是を伝聞て、
「われ右筆の身にあらず、武勇の家にむまれて、
今不慮の恥P85にあはむ事、家の為身の為心う
かるべし。せむずる所、身を全して君に仕と
いふ本文あり」とて、兼て用意をいたす。参
内のはじめより、大なる鞘巻を用意して、
P01010
束帯のしたにしどけなげにさし、火の
ほのぐらき方にむかて、やはら此刀をぬき
出し、鬢にひきあてられけるが氷などの様に
ぞみえける。諸人目をすましけり。其上忠盛の
郎等、もとは一門たりし木工助平貞光が孫、
しんの三郎大夫家房が子、左兵衛尉家貞といふ
者ありけり。薄青のかり衣のしたに萠黄威の
腹巻をき、弦袋つけたる太刀脇ばさむで、
P01011
殿上の小庭に畏てぞ候ける。貫首以下あやしみを
なし、「うつほ柱よりうち、鈴の綱のへんに、布
衣の者の候はなに者ぞ。狼籍なり。罷出よ」と六位を
もていはせければ、家貞申けるは、「相伝の主、備
前守殿、今夜闇打にせられ給べき由承候
あひだ、其ならむ様をみむとて、かくて候。えこそ
罷出まじけれ」とて、畏て候ければ、是等を
よしなしとやおもはれけむ、其夜の闇打なかりけり。
P01012
忠盛御前のめしにまはれければ、人々拍子を
かへて、「伊勢平氏はすがめなりけり」とぞはや
されける。此人々はかけまくもかたじけなく、柏
原天皇の御末とは申ながら、中比は都のすま
ゐもうとうとしく、地下にのみ振舞なて、いせの
国に住国ふかかりしかば、其国のうつはものに
事よせて、伊勢平氏とぞP86 申ける。其上忠盛
目のすがまれたりければ、か様にははやされ
P01013
けり。いかにすべき様もなくして、御遊もいまだ
をはらざるに、偸に罷出らるるとて、よこだへ
さされたりける刀をば、紫震殿の御後にして、
かたえの殿上人のみられける所に、主殿司を
めしてあづけをきてぞ出られける。家貞待
うけたてまて、「さていかが候つる」と申ければ、
かくともいはまほしう思はれけれども、いひ
つるものならば、殿上までもやがてきりのぼらむ
P01014
ずる者にてある間、別の事なし」とぞ答
られける。五節には、「白薄様、こぜむじの紙、巻
上の筆、鞆絵かいたる筆の軸」なむど、さまざま
面白事をのみこそうたひまはるるに、中比
太宰権帥季仲卿といふ人ありけり。あまりに
色の黒かりければ、みる人黒帥とぞ申ける。
其人いまだ蔵人頭なりし時、五節にまはれ
ければ、それも拍子をかへて、「あなくろぐろ、くろき
P01015
頭かな。いかなる人のうるしぬりけむ」とぞはや
されける。又花山院前太政大臣忠雅公、いまだ
十歳と申し時、父中納言忠宗卿にをくれ
たてまて、みなし子にておはしけるを、故中御
門藤中納言家成卿、いまだ播磨守たりし時、
聟にとりて声花にもてなされければ、それも
五節に、「播磨よねはとくさか、むくの葉か、人の
きらをみがくは」とぞはやされける。P87「上古には
P01016
か様にありしかども事いでこず、末代
いかがあらむずらむ。おぼつかなし」とぞ人申
ける。案のごとく、五節はてにしかば、殿上人
一同に申されけるは、「夫雄剣を帯して公宴に列し、
兵杖を給て宮中を出入するは、みな格式の
礼をまもる。綸命よしある先規なり。然を
忠盛朝臣、或は相伝の郎従と号して、布衣の
兵を殿上の小庭にめしをき、或は腰の刀を
P01017
横へさいて、節会の座につらなる。両条希
代いまだきかざる狼籍なり。事既に重
畳せり、罪科尤のがれがたし。早く御札を
けづて、闕官停任ぜらるべき」由、をのをの
訴へ申されければ、上皇大に驚おぼしめし、
忠盛をめして御尋あり。陳[B 「陣」に「陳」と傍書]じ申けるは、「まづ
郎従小庭に祗候の由、全く覚悟仕ず。但近日
人々あひたくまるる子細ある歟の間、年来の
P01018
家人事をつたへきく歟によて、其恥を
たすけむが為に、忠盛にしられずして
偸に参候の条、力及ばざる次第也。若猶其咎
あるべくは、彼身をめし進ずべき歟。次に刀の
事、主殿司にあづけをきをはぬ。是をめし出
され、刀の実否について咎の左右あるべき
か」と申。しかるべしとて、其刀を召出して叡
覧あれば、うへは鞘巻の黒くぬりたりけるが、
P01019
なかは木刀に銀薄をぞおしたりける。「当座の
恥辱をのがれむが為に、刀を帯する由あ
らはすといへども後P88日の訴詔を存知して、
木刀を帯しける用意のほどこそ神妙なれ。
弓箭に携らむ者のはかりことは、尤かうこそ
あらまほしけれ。兼又郎従小庭に祇候の条、
且は武士の郎等の習なり。忠盛が咎にあらず」とて、
還て叡感にあづかしうへは、敢て罪科の沙汰も
P01020
なかりけり。 『鱸』S0103 其子ども、諸衛の佐になる。昇殿
せしに、殿上のまじはりを人きらふに及ばず。
其比忠盛、備前国より都へのぼりたりけるに、
鳥羽院「明石浦はいかに」と、尋ありければ、
あり明の月も明石の浦風に
浪ばかりこそよるとみえしか W001
と申たりければ、御感ありけり。此歌は金葉集
にぞ入られける。忠盛又仙洞に最愛の女房を
P01021
もてかよはれけるが、ある時其女房のつぼねに、
妻に月出したる扇を忘て出られたりければ、
かたえの女房たち、「是はいづくよりの月影ぞや。出どころ
おぼつかなし」とわらひあはれければ、彼女房、
雲井よりただもりきたる月なれば
おぼろけにてはいはじとぞおもふ  W002 P89
とよみたりければ、いとどあさからずぞ思はれ
ける。薩摩守忠教の母是なり。にるを友とかやの
P01022
風情に、忠盛もすいたりければ、彼女房もゆう
なりけり。かくて忠盛刑部卿になて、仁平三年
正月十五日、歳五十八にてうせにき。清盛嫡男
たるによて、其跡をつぐ。保元元年七月に宇治の
左府代をみだり給し時、安芸守とて御方に
て勲功ありしかば、播磨守にうつて、同三年太
宰大弐になる。次に平治元年十二月、信頼卿が
謀叛の時、御方にて[B 「に」の下に「な」と傍書]賊徒をうちたいらげ、勲功
P01023
一にあらず、恩賞是おもかるべしとて、次の年正
三位に叙せられ、うちつづき宰相、衛府督、検非
違使別当、中納言、大納言に経あがて、剰へ烝相の
位にいたる。左右を経ずして内大臣より太
政大臣従一位にあがる。大将にあらねども、兵杖を
給て随身をめし具す。牛車輦車の宣
旨を蒙て、のりながら宮中を出入す。偏に
三 執政の臣のごとし。「太政大臣は一人に師範として、
P01024
四海に儀けいせり。国ををさめ道を論じ、陰
陽をやはらげおさむ。其人にあらずは則かけ
よ」といへり。されば即闕の官とも名付たり。其人
ならではけがすべき官ならねども、一天四海を
掌の内ににぎられしうへ[M 「うへ」をミセケチ、「か」と傍書]は、子細に及ばず。平家
か様に繁昌せられけるも、熊野権現の御
利生とぞきこえし。其故は、P90古へ清盛公いまだ
安芸守たりし時、伊勢の海より船にて熊野へ
P01025
まいられけるに、おほきなる鱸の船に踊入
たりけるを、先達申けるは、「是は権現の御利生也。
いそぎまいるべし」と申ければ、清盛のたまひけるは、
「昔、周の武王の船にこそ白魚は躍入たりけるなれ。
是吉事なり」とて、さばかり十戒をたもち、精
進潔斎の道なれども、調味して家子侍共に
くはせられけり。其故にや、吉事のみうちつづ
いて、太政大臣まできはめ給へり。子孫の官途も竜の
P01026
雲に昇るよりは猶すみやかなり。九代の先蹤を
四 こえ給ふこそ目出けれ。 『禿髪』S0104 かくて清盛公、仁安三年
十一月十一日、年五十一にてやまひにをかされ、存
命の為に忽に出家入道す。法名は浄海とこそ
名のられけれ。其しるしにや、宿病たちどころに
いへて、天命を全す。人のしたがひつく事、
吹風の草木をなびかすが如し。世のあまねく
仰げる事、ふる雨の国土をうるほすに同じ。
P01027
六波羅殿の御一家の君達といひてしかば、花
族も栄耀も面をむかへ肩をならぶる人なし。
されば入道相国のこじうと、平大納言時忠卿の
のたまひけるは、「此P91一門にあらざらむ人は皆人
非人なるべし」とぞのたまひける。かかりしかば、いかなる
人も相構て其ゆかりにむすぼほれむとぞ
しける。衣文のかきやう、鳥帽子のためやうより
はじめて、何事も六波羅様といひてげれば、
P01028
一天四海の人皆是をまなぶ。又いかなる賢王賢
主の御政も、摂政関白の御成敗も、世にあま
されたるいたづら者などの、人のきかぬ所にて、
なにとなうそしり傾け申事はつねの習なれ
ども、此禅門世ざかりのほどは、聊いるかせにも
申者なし。其故は、入道相国のはかりことに、
十四五六の童部を三百人揃て、髪を禿に
きりまはし、あかき直垂をきせて、めし
P01029
つかはれけるが、京中にみちみちて往反し
けり。をのづから平家の事あしざまに申
者あれば、一人きき出さぬほどこそありけれ、
余党に触廻して其家に乱入し、資財雑
具を追捕し、其奴を搦とて、六波羅へゐて
まいる。されば目にみ、心にしるといへども、詞にあ
らはれて申者なし。六波羅殿の禿といひて
しかば、道をすぐる馬・車もよぎてぞとほりける。
P01030
禁門を出入すといへども姓名を尋らるるに
及ばず京師の長吏是が為に目を側とみえ
たり。P92『吾身栄花』S0105 吾身の栄花を極るのみならず、一門共に
繁昌して、嫡子重盛、内大臣の左大将、次男
宗盛、中納言の右大将、三男具盛、三位中将、嫡孫
維盛、四位少将、惣じて一門の公卿十六人、殿上人
卅余人、諸国の受領、衛府、諸司、都合六十余人
なり。世には又人なくぞみえられける。昔奈良
P01031
御門の御時、神亀五年、朝家に中衛の大将を
はじめをかれ、大同四年に中衛を近衛と改
られしより以降、兄弟左右に相並事纔に
三四箇度なり。文徳天皇の御時は、左に良房、右
大臣の左大将、右に良相、大納言の右大将、是は閑院の
左大臣冬嗣の御子なり。朱雀院の御宇には、左に
実頼小野宮殿、右に師資九条殿、貞仁公の
御子なり。後冷泉院の御時は、左に教通大二条殿、
P01032
右に頼宗堀河殿、御堂の関白の御子なり。二条院
御宇には、左に基房松殿、右に兼実月輪殿、
法性寺殿の御子なり。是皆摂禄の臣の御子息、
凡人にとりては其例なし。殿上の交をだに
きらはれし人の子孫にて、禁色雑袍をゆり、
綾羅錦繍を身にまとひ、大臣の大将になて
兄弟左右に相並事、末代とはいひながら不思
議なりし事どもなり。P93其外御娘八人おはしき。
P01033
皆とりどりに、幸給へり。一人は桜町の中納言重教
卿の北の方にておはすべかりしが、八歳の時約
束斗にて、平治のみだれ以後引ちがへられ、
花山院の左大臣殿の御台盤所にならせ給て、
君達あまたましましけり。抑此重教卿を桜
町の中納言と申ける事は、すぐれて心数奇給へる
人にて、つねは吉野山をこひ、町に桜をうへならべ、
其内に屋をたててすみ給しかば、来る年の春毎に
P01034
みる人桜町とぞ申ける。桜はさいて七箇日に
ちるを、余波を惜み、あまてる御神に祈り
申されければ、三七日まで余波ありけり。君も
賢王にてましませば、神も神徳を耀かし、花も
心ありければ、廿日の齢をたもちけり。一人は后に
たたせ給ふ。王子御誕生ありて皇太子にたち、
位につかせ給しかば、院号かうぶらせ給て建
礼門院とぞ申ける。入道相国の御娘なるうへ、
P01035
天下の国母にてましましければ、とかう申に
及ばず。一人は六条の摂政殿の北政所にならせ
給ふ。高倉院御在位の時、御母代とて准三后の
宣旨をかうぶり、白河殿とておもき人にて
ましましけり。一人は普賢寺殿の北政所にならせ
給ふ。一人は冷泉大納言隆房卿の北方、一人は七条
修理大夫信隆卿に相具し給へり。又安芸国
厳島の内侍が腹に一人おはせしは、後白河法皇へ
P01036
まいらせ給て、女御のやうでましましける。
其外九条院の雑仕P94常葉が腹に一人、是は花山院
殿に上臈女房にて、廊の御方とぞ申ける。
日本秋津島は纔に六十六箇国、平家知行の
国卅余箇国、既に半国にこえたり。其外庄園
田畠いくらといふ数を知ず。綺羅充満して、
堂上花の如し。軒騎群集して、門前市を
なす。楊州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の
P01037
錦、七珍万宝一として闕たる事なし。歌堂
舞閣の基、魚竜爵馬の翫もの、恐くは帝闕も
六 仙洞も是にはすぎじとぞみえし。[* 『祇王』S0106は、底本に無し。 ] 『二代后』S0107 昔より今に
至るまで、源平両氏朝家に召つかはれて、王
化にしたがはず、をのづから朝権をかろむずる
者には、互にいましめをくはへしかば、代のみだれも
なかりしに、保元に為義きられ、平治に義朝
誅せられて後は、すゑずゑの源氏ども或は流され、
P01038
或はうしなはれ、今は平家の一類のみ繁昌して、
頭をさし出す者なし。いかならむ末の代までも
何事かあらむとぞみえし。されども、鳥羽院
御晏駕の後は、兵革うちつづき、死罪・流刑・
闕官・停任つねにおこなはP108れて、海内もしづか
ならず、世間もいまだ落居せず。就中に永暦
応保の比よりして、院の近習者をば内より
御いましめあり、内の近習者をば院よりいま
P01039
しめらるる間、上下おそれをののいてやすい
心もなし。ただ深淵にのぞむで薄氷をふむに
同じ。主上上皇、父子の御あひだには、何事の
御へだてかあるべきなれども、思のほかの事
どもありけり。是も世澆季に及で、人梟
悪をさきとする故也。主上、院の仰をつねに
申かへさせおはしましけるなかにも、人耳目を
驚かし、世もて大にかたぶけ申事ありけり。
P01040
故近衛院の后、太皇太后宮と申しは、大炊御門の
右大臣公能公の御娘也。先帝にをくれたて
まつらせ給て後は、九重の外、近衛河原の
御所にぞうつりすませ給ける。さきのきさ
いの宮にて、幽なる御ありさまにてわたらせ
給しかば、永暦のころほひは、御年廿二三に
もやならせ給けむ、御さかりもすこしすぎ
させおはしますほどなり。しケれども、天下
P01041
第一の美人のきこえましましければ、主上
色にのみそめる御心にて、偸に行力使に
詔じて、外宮にひき求めしむるに及で、
此大宮へ御艶書あり。大宮敢てきこしめしも
いれず。さればひたすらはやほにあらはれて、
后御入内あるべき由、右大臣家に宣旨を下さる。
此事天下にをいてことなる勝事なれば、公卿
僉議あり。をのをの意見をいふ。「先P109異朝の先蹤を
P01042
とぶらふに、震旦の則天皇后は唐の太宗の
きさき、高宗皇帝の継母なり。太宗崩御の
後、高宗の后にたち給へる事あり。是は異
朝の先規たるうへ、別段の事なり。しかれども
吾朝には、神武天皇より以降人皇七十余代に
及まで、いまだ二代の后にたたせ給へる例を
きかず」と、諸卿一同に申されけり。上皇も
しかるべからざる由、こしらへ申させ給へば、主上
P01043
仰なりけるは、「天子に父母なし。吾十善の戒功に
よて、万乗の宝位をたもつ。是ほどの事、などか
叡慮にまかせざるべき」とて、やがて御入内の
日、宣下せられけるうへは、力及ばせ給はず。大宮
かくときこしめされけるより、御涙にしづ
ませおはします。先帝にをくれまいらせにし
久寿の秋のはじめ、同じ野の露ともきえ、
家をもいで世をものがれたりせば、かかるうき
P01044
耳をばきかざらましとぞ、御歎ありける。父の
おとどこしらへ申させ給けるは、「「世にしたがは
ざるをもて狂人とす」とみえたり。既に詔命を
下さる。子細を申にところなし。ただすみやかに
まいらせ給べきなり。もし王子御誕生ありて、
君も国母といはれ、愚老も外祖とあふがる
べき瑞相にてもや候らむ。是偏に愚老を
たすけさせおはします御孝行の御いたり
P01045
なるべし」と申させ給へども、御返事もなかりけり。
大宮其比なにとなき御P110手習の次に、
うきふしにしづみもやらでかは竹の
世にためしなき名をやながさむ W004
世にはいかにしてもれけるやらむ、哀にやさ
しきためしにぞ、人々申あへりける。既に御
入内の日になりしかば、父のおとど、供奉のかん
だちめ、出車の儀式など心ことにだしたてまいらせ
P01046
給けり。大宮ものうき御いでたちなれば、と
みにもたてまつらず。はるかに夜もふけ、さ夜もなかばになて後、御車にたすけ
のせられ給けり。御入内の後は麗景殿にぞ
ましましける。ひたすらあさまつりごとをすすめ
申させ給ふ御ありさまなり。彼紫震殿の
皇居には、賢聖の障子をたてられたり。伊尹・
鄭伍倫・虞世南、太公望・角里先生・李勣・
P01047
司馬、手なが足なが・馬形の障子、鬼の間、季将軍が
すがたをさながらうつせる障子也。尾張守小野
道風が、七廻賢聖の障子とかけるもことはりとぞ
みえし。彼清凉殿の画図の御障子には、昔
金岡がかきたりし遠山のあり明の月もありと
かや。故院のいまだ幼主ましましけるそのかみ、な
にとなき御手まさぐりの次に、かきくもら
かさせ給しが、ありしながらにすこしもたがはぬを
P01048
御らむじて、先帝の昔もや御恋しくおぼし
めされけん、P111
おもひきやうき身ながらにめぐりきて
おなじ雲井の月をみむとは W005
其間の御なからへ、いひしらず哀にやさし
かりし御事也。『額打論』S0108 さるほどに、永万元年の春の
比より、主上御不予の御事ときこえさせ
給しかば、夏のはじめになりしかば、事のほかに
P01049
おもらせ給ふ。是によて、大蔵大輔伊吉兼盛が
娘の腹に、今上一宮の二歳にならせ給ふがましましけるを、
太子にたてまいらせ給ふべしときこえし程に、
同六月廿五日、俄に親王の宣旨くだされて、や
がて其夜受禅ありしかば、天下なにとなうあはて
たるさまなり。其時の有職の人々申あはれ
けるは、本朝に童体の例を尋れば、清和天皇
九歳にして文徳天皇の御禅をうけさせ給ふ。
P01050
是は彼周旦の成王にかはり、南面にして一日
万機の政ををさめ給しに准へて、外祖忠仁公
幼主を扶持し給へり。是ぞ摂政のはじめなる。
鳥羽院五歳、近衛院三歳にて践祚あり。かれを
こそいつしかなりと申しに、是は二歳にならせ
給ふ。先例なし。物さはがしともおろかなり。P112さるほどに、
同七月廿七日、上皇つゐに崩御なりぬ。御歳廿
三、つぼめる花のちれるがごとし。玉の簾、錦の
P01051
帳のうち、皆御涙にむせばせ給ふ。やがて其
夜、香隆寺のうしとら、蓮台野の奥、船岡山に
おさめ奉る。御葬送の時、延暦・興福両寺の
大衆、額うち論と云事しいだして、互に狼籍に
七 及ぶ。一天の君崩御なて後、御墓所へわたし
奉る時の作法は、南北二京の大衆悉く供奉して、
御墓所のめぐりにわが寺々の額をうつ事あり。
まづ聖武天皇の御願、あらそふべき寺なければ、
P01052
東大寺の額をうつ。次に淡海公の御願とて、
興福寺の額をうつ。北京には、興福寺にむかへて
延暦寺の額をうつ。次に天武天皇の御願、
教大和尚・智証大師の草創とて、園城寺の額を
うつ。しかるを、山門の大衆いかがおもひけむ、先例を
背て、東大寺の次、興福寺のうへに、延暦寺の
額をうつあひだ、南都の大衆、とやせまし、
かうやせましと僉議する所に、興福寺の
P01053
西金堂衆、観音房・勢至房とてきこえたる
大悪僧二人ありけり。観音房は黒糸威の腹巻に、
しら柄の長刀くきみじかにとり、勢至房は萠
黄威の腹巻に、黒漆の大太刀もて、二人つと
走出、延暦寺の額をきておとし、散々に打わり、
「うれしや水、なるは滝の水、日はてるともたえずと
うたへ」とはやしつつ、南都の衆徒のなかへぞ
入にける。P113『清水寺炎上』S0109 山門の大衆、狼籍をいたさば手むかへ
P01054
すべき所に、ふかうねらう方もやありけむ、
ひと詞もいださず。御門かくれさせ給ては、心
なき草木までも愁たる色にてこそある
べきに、此騒動のあさましさに、高も賎も、
肝魂をうしなて、四方へ皆退散す。同廿九日の
午剋斗、山門の大衆緩う下洛すときこえ
しかば、武士検非違使、西坂下に、馳向て防
けれども、事ともせず、をしやぶて乱入す。
P01055
何者の申出したりけるやらむ、「一院山門の大衆に
仰て、平家を追討せらるべし」ときこえし
ほどに、軍兵内裏に参じて、四方の陣頭を
警固す。平氏の一類、皆六波羅へ馳集る。
一院もいそぎ六波羅へ御幸なる。清盛公其比
いまだ大納言にておはしけるが、大に恐れさ
はがれけり。小松殿「なにによてか只今さる事
あるべき」としづめられけれども、上下ののしりさはぐ事
P01056
緩し。山門の大衆、六波羅へはよせずして、すぞ
ろなる清水寺におしよせて、仏閣僧坊一宇も
のこさず焼はらふ。是はさんぬる御葬送の
夜の会稽の恥を雪めむが為とぞきこえし。
清水寺は興福寺の末寺なるによてなり。清
水寺やけたりける朝、「や、観音火坑変成
池はいかに」と札を書て、大門の前にたてたり
ければ、P114次日又、「歴劫不思議力及ばず」と、かへしの
P01057
札をぞうたりける。衆徒かへりのぼりにければ、
一院六波羅より還御なる。重盛卿斗ぞ御
ともにはまいられける。父の卿はまいられず。猶
用心の為かとぞきこえし。重盛卿御送より
かへられたりければ、父の大納言のたまひけるは、「
一院の御幸こそ大に恐れおぼゆれ。かけても
思食より仰らるる旨のあればこそ、かうはきこゆ
らめ。それにもうちとけ給まじ」とのたまへば、
P01058
重盛卿申されける、「此事ゆめゆめ御けしき
にも、御詞にも出させ給べからず。人に心づけ
がほに、中々あしき御事也。それにつけても、
叡慮に背給はで、人の為に御情をほど
こさせましまさば、神明三宝加護あるべし。さらむに
とては、御身の恐れ候まじ」とてたたれければ、
「重盛卿はゆゆしく大様なるものかな」とぞ、父の
卿ものたまひける。一院還御の後、御前にうと
P01059
からぬ近習者達あまた候はれけるに、「さても
ふし議の事を申出したるものかな。露も思食
よらぬものを」と仰ければ、院中のきりものに
西光法師といふ者あり。境節御前ちかう候
けるが、「天に口なし、にんをもていはせよと申。
平家以外に過分に候あひだ、天の御ぱからひ
にや」とぞ申ける。人々「此事よしなし。壁に耳あり。
おそろしおそろし」とぞ、P115申あはれける。『東宮立』S0110 さるほどに、其年は
P01060
諒闇なりければ、御禊大嘗会もおこなはれず。
同十二月廿四日、建春門院、其比はいまだ東宮の御
方と申ける、御腹に一院の宮のましましけるが、
親王の宣旨下され給ふ。あくれば改元あて仁安と
号す。同年の十月八日、去年親王の宣旨蒙らせ
給し皇子、東三条にて春宮にたたせ給ふ。春
宮は御伯父六歳、主上は御甥三歳、詔目にあひ
かなはず。但寛和二年に一条院七歳にて御即位、
P01061
三条院十一歳にて春宮にたたせ給ふ。先例
なきにあらず。主上は二歳にて御禅をうけさせ
給ひ、纔に五歳と、申二月十九日、東宮践祚
ありしかば、位をすべらせ給て、新院とぞ
申ける。いまだ御元服もなくして、太上天皇の
尊号あり。漢家本朝是やはじめならむ。仁
九 安三年三月廿日、新帝大極殿にして御即
位あり。此君の位につかせ給ぬるは、いよいよ平家の
P01062
栄花とぞみえし。御母儀建春門院と申は、
平家の一門にてましますうへ、とりわき入道相
国の北方、二位殿の御妹也。平大納言P116時忠卿と申も
女院の御せうとなれば、内の御外戚なり。内外に
つけたる執権の臣とぞみえし。叙位除目と申も
偏に此時忠卿のままなり。楊貴妃が幸し時、楊
国忠がさかへしが如し。世のおぼえ、時のきら、めでた
かりき。入道相国天下の大小事をのたまひあはせ
P01063
られければ、時の人平関白とぞ申ける。『殿下乗合』S0111 さるほどに、
嘉応元年七月十六日、一院御出家あり。御出
家の後も万機の政をきこしめされしあひだ、
院内わく方なし。院中にちかくめしつかはるる
公卿殿上人、上下の北面にいたるまで、官位捧
禄皆身にあまる斗なり。されども人の心のな
らひなれば、猶あきだらで、「あぱれ、其人のほろび
たらば其国はあきなむ。其人うせたらば其官にはなりなむ」
P01064
など、うとからぬどちはよりあひよりあひささやき
あへり。法皇も内々仰なりけるは、「昔より代々の朝
敵をたいらぐる者おほしといへども、いまだ加様の
事なし。貞盛・秀里が将門をうち、頼義が貞
任・宗任をほろぼし、義家が武平・家平をせめ
たりしも、勧賞おP117こなはれし事、受領には
すぎざりき。清盛がかく心のままにふるまう
こそしかるべからね。是も世末になて王法のつき
P01065
ぬる故なり」と仰なりけれども、つゐでなければ御
いましめなし。平家も又別して、朝家を恨奉る
事もなかりしほどに、世のみだれそめける根本は、
去じ嘉応二年十月十六日、小松殿の次男新三位
中将資盛卿、其時はいまだ越前守とて十三に
なられけるが、雪ははだれにふたりけり、枯野の
けしき誠に面白かりければ、わかき侍ども卅騎
斗めし具して、蓮台野や紫野、右近馬場に
P01066
うち出て、鷹どもあまたすへさせ、鶉雲雀を
おたておたて、終日かり暮し、薄暮に及て六
波羅へこそ帰られけれ。其時の御摂禄は松殿
にてましましけるが、中御門東洞院の御所より
御参内ありけり。郁芳門より入御あるべきにて、
東洞院を南へ、大炊御門を西へ御出なる。資盛
朝臣、大炊御門猪熊にて、殿下の御出にはな
づきにまいりあふ。御ともの人々「なに者ぞ、狼籍なり。
P01067
御出のなるに、のりものよりおり候へおり候へ」といらて
けれども、余りにほこりいさみ、世を世ともせざり
けりうへ、めし具したる侍ども、皆廿より内の
わか者どもなり。礼儀骨法弁へたる者一人も
なし。殿下の御出ともいはず、一切下馬の礼儀
にも及ばず、かけやぶてとほらむとする間、
くらさは闇し、つやつや入道の孫ともしらず、又
少々はP118知たれどもそらしらずして、資盛朝臣を
P01068
はじめとして、侍ども皆馬よりとて引おとし、
頗る恥辱に及けり。資盛朝臣はうはう六波羅へ
おはして、おほぢの相国禅門に此由うたへ申され
ければ、入道大にいかて、「たとひ殿下なりとも、浄海が
あたりをばはばかり給べきに、おさなき者に左右
なく恥辱をあたへられけるこそ遺恨の次第
なれ。かかる事よりして、人にはあざむかるるぞ。
此事おもひしらせたてまつらでは、えこそあるまじ
P01069
けれ。殿下を恨奉らばや」とのたまへば、重盛卿
申されけるは、「是はすこしもくるしう候まじ。頼政・
光基など申源氏どもにあざむかれて候はんは、
誠に一門の恥辱でも候べし。重盛が子どもとて
候はんずる者の、殿の御出にまいり逢て、
のりものよりおり候はぬこそ尾籠に候へ」とて、其時
事にあふたる侍どもめしよせ、「自今以後も、汝等
能々心うべし。あやまて殿下へ無礼の由を
P01070
申さばやとこそおもへ」とて帰られけり。其後
入道相国、小松殿には仰られもあはせず、片田舎
の侍どもの、こはらかにて入道殿の仰より外は、
又おそろしき事なしと思ふ者ども、難波・瀬尾を
はじめとして、都合六十余人召よせ、「来廿
一日、主上御元服のさだめの為に、殿下御出
あるべかむなり。いづくにても待うけ奉り、前
駆御随身どもがもとどP119りきて、資盛が恥
P01071
すすげ」とぞのたまひける。殿下是を夢にも
しろしめさず、主上明年御元服、御加冠
拝官の御さだめの為に、御直盧に暫く
御座あるべきにて、常の御出よりもひき
つくろはせ給ひ、今度は待賢門より入御
あるべきにて、中御門を西へ御出なる。猪熊堀
河のへんに、六波羅の兵ども、ひた甲三百余
騎待うけ奉り、殿下をなかにとり籠まいらせて、
P01072
前後より一度に、時をどとぞつくりける。前駆
御随身どもがけふをはれとしやうぞひたるを、
あそこに追かけここに追つめ、馬よりとて
引おとし、さむざむに陵礫して、一々にもと
どりをきる。随身十人がうち、右の府生武基が
もとどりもきられにけり。其中に、藤蔵人
大夫隆教がもとどりをきるとて、「是は汝が
もとどりと思ふべからず。主のもとどりと思ふべし」と
P01073
いひふくめてきてげり。其後は、御車の内へも
弓のはずつきいれなどして、簾かなぐりおとし、
御牛の鞦・胸懸きりはなち、かく散々にし
ちらして、悦の時をつくり、六波羅へこそま
いりけれ。入道「神妙なり」とぞのたまひける。御
車ぞひには、因幡のさい使、鳥羽の国久丸と云
おのこ、下臈なれどもなさけある者にて、泣々
御車つかまて、中御門の御所へ還御なし奉る。
P01074
束帯の御袖にて御涙ををさへつつ、還御の
儀式あさましさ、申も中々おろかなり。
大織冠・淡海公の御事はあげて申に及P120ず、
忠仁公・昭宣公より以降、摂政関白のかかる
御目にあはせ給ふ事、いまだ承及ず。是こそ
平家の悪行のはじめなれ。小松殿こそ大に
さはがれけれ。ゆきむかひたる侍ども皆勘
当せらる。「たとひ入道いかなるふし議を下地し
P01075
給ふとも、など重盛に夢をばみせざりけるぞ。
凡は資盛奇怪なり。栴檀は二葉よりかうばしと
こそみえたれ。既に十二三にならむずる者が、今は
礼儀を存知してこそふるまうべきに、か様に
尾籠を現じて、入道の悪名をたつ。不孝の
いたり、汝独りにあり」とて、暫くいせの国に
をくださる。されば此大将をば、君も臣も御感
ありけるとぞきこえし。『鹿谷』S0112 是によて、主上御
P01076
元服の御さだめ、其日はのびさせ給ぬ。同
廿五日、院の殿上にてぞ御元服のさだめは
ありける。摂政殿さてもわたらせ給べきな
らねば、同十一月九日、兼宣旨をかうぶり、十四日太
政大臣にあがらせ給ふ。やがて同十七日、慶申
ありしかども、世中にがにがしうぞみえし。さるほどに
ことしも暮ぬ。あくれば嘉応三年正月五日、
主上御元服あッて、P121同十三日、朝覲の行幸ありけり。
P01077
法皇・女院待うけまいらせ給て、叙爵の
御粧もいか斗らうたくおぼしめされけむ。
入道相国の御娘、女御にまいらせ給ひけり。御年
十五歳、法皇御猶子の儀なり。其比、妙音院殿の
太政のおほいどの、内大臣の左大将にてましまし
けるが、大将を辞し申させ給ふ事ありけり。
時に徳大寺の大納言実定卿、其仁にあたり
給ふ由きこゆ。又花山院の中納言兼雅卿も
P01078
所望あり。其外、故中御門の藤大納言家成卿の
三男、新大納言成親卿もひらに申されけり。院の
御気色よかりければ、さまざまの祈をぞはじめ
られける。八幡に百人の僧をこめて、信読の大
般若を七日よませられける最中に、甲良の大明
神の御まへなる橘の木に、男山の方より山鳩三
飛来て、くひあひてぞ死にける。鳩は八幡大菩薩の
第一の仕者なり。宮寺にかかるふしぎなしとて、時の
P01079
検校、匡清法印奏聞す。神祇官にして御占
あり。天下のさはぎとうらなひ申。但、君のつつしみに
非ず、臣下のつつしみとぞ申ける。新大納言
是におそれをもいたさず、昼は人目のしげ
ければ、夜なよな歩行にて、中御門烏丸の宿
所より賀茂の上の社へ、なな夜つづけてまいられ
けり。なな夜に満ずる夜、宿所に下向して、
くるしさにうちふし、ちとまどろみ給へる夢に、
P01080
賀茂の上の社へまいりたるとおぼしくて、P122御宝殿の
御戸おしひらき、ゆゆしくけだかげなる御声にて、
さくら花かもの河風うらむなよ
ちるをばえこそとどめざりけれ W006
新大納言猶おそろれをもいたさず、かもの上の
社に、ある聖をこめて、御宝殿の御うしろなる
杉の洞に壇をたてて、拏吉尼の法を百日
おこなはせられけるほどに、彼大椙に雷おち
P01081
かかり、雷火緩うもえあがて、宮中既にあや
うくみえけるを、宮人どもおほく走あつまて、
是をうちけつ。さて彼外法おこなひける
聖を追出せむとしければ、「われ当社に百
日参籠の大願あり。けふは七十五日になる。またく
いづまじ」とてはたらかず。此由を社家より
内裏へ奏聞しければ、「只法にまかせて追出
せよ」と宣旨を下さる。其時神人しら杖をもて、
P01082
彼聖がうなじをしらげ、一条の大路より南へ
おひだしてげり。神非礼を享給はずと
申に、此大納言非分の大将を祈申されければ
にや、かかるふしぎもいできにけり。其比の
叙位除目と申は、院内の御ぱからひにも
非ず、摂政関白の御成敗にも及ばず。只一向
平家のままにてありしかば、徳大寺・花山院もなり
給はず。入道相国の嫡男小松殿、大納言の右大将にて
P01083
おはしけるが、左にうつりて、次男宗盛中納言に
ておはせしが、数輩の上臈を超越して、右に
くははられP123けるこそ、申斗もなかりしか。中にも徳大
寺殿は一の大納言にて、花族栄耀、才学雄長、
家嫡にてましましけるが、超られ給けるこそ遺
恨なれ。「さだめて御出家などやあらむずらむ」と、
人々内々は申あへりしかども、暫世のならむ
様をもみむとて、大納言を辞し申て、籠居とぞ
P01084
きこえし。新大納言成親卿のたまひけるは、
十一 「徳大寺・花山院に超られたらむはいかがせむ。平家の
次男に超らるるこそやすからね。是も万[B ツ]おもふ
さまなるがいたす所なり。いかにもして平家を
ほろぼし、本望をとげむ」とのたまひけるこそ
おそろしけれ。父の卿は中納言までこそいた
られしか、其末子にて位正二位、官大納言に
あがり、大国あまた給はて、子息所従朝恩に
P01085
ほこれり。何の不足にかかる心つかれけむ。是偏に
天魔の所為とぞみえし。平治には越後中将とて、
信頼卿に同心のあひだ、既に誅せらるべかり
しを、小松殿やうやうに申て頸をつぎ給へり。
しかるに其恩をわすれて、外人もなき所に
兵具をととのへ、軍兵をかたらひをき、其営みの
外は他事なし。東山のふもと鹿の谷と云所は、
うしろは三井寺につづいてゆゆしき城郭にてぞ
P01086
ありける。俊寛僧都の山庄あり。かれにつねは
よりあひよりあひ、平家ほろP124ぼさむずるはかりことをぞ
廻らしける。或時法皇も御幸なる。故少納言入道
信西が子息、浄憲法印御供仕る。其夜の酒宴に、
此由を浄憲法印に仰あはせられければ、「あなあ
さまし。人あまた承候ぬ。只今もれきこえて、
天下の大事に及候なむず」と、大にさはぎ申
ければ、新大納言けしきかはりて、さとたたれけるが、
P01087
御前に候ける瓶子をかり衣の袖にかけて引
たうされたりけるを、法皇「あれはいかに」と仰
ければ、大納言立かへりて、「平氏たはれ候ぬ」とぞ
申されける。法皇ゑつぼにいらせおはして、「者ども
まいて猿楽つかまつれ」と仰ければ、平判官康
頼まいりて、「ああ、あまりに平氏のおほう候に、
もて酔て候」と申。俊寛僧都「さてそれをば
いかが仕らむずる」と申されければ、西光法師「頸を
P01088
とるにはしかず」とて、瓶子のくびをとてぞ
入にける。浄憲法印あまりのあさましさに、
つやつや物を申されず。返々もおそろしかりし
事どもなり。与力の輩誰々ぞ。近江中将入道
蓮浄俗名成正、法勝寺執行俊寛僧都、
山城守基兼、式部大輔雅綱、平判官康頼、
宗判官信房、新平判官資行、摂津国源氏
多田蔵人行綱を始として、北面の輩おほく
P01089
与力したりけり。P125『俊寛沙汰鵜川軍』S0113 此法勝寺の執行と申は、
京極の源大納言雅俊の卿の孫、木寺の法印
寛雅には子なりけり。祖父大納言させる弓箭を
とる家にはあらねども、余に腹あしき人にて、三
条坊門京極の宿所のまへをば、人をもやすく
とほさず、つねは中門にたたずみ、歯をくひしばり、
いかてぞおはしける。かかる人の孫なればにや、
此俊寛も僧なれども、心もたけく、おごれる
P01090
人にて、よしなき謀叛にもくみしけるにこそ。
新大納言成親卿は、多田蔵人行綱をようで、
「御へんをば一方の大将に憑なり。此事[B し]おほせ
つるものならば、国をも庄をも所望によるべし。
まづ弓袋の料に」とて、白布五十端送られけり。
安元三年三月五日、妙音院殿、太政大臣に
転じ給へるかはりに、大納言定房卿をこえて、
小松殿、内大臣になり給ふ。大臣の大将めでたかりき。
P01091
やがて大饗おこなはる。尊者には、大炊御門右大臣
経宗公とぞきこえし。一のかみこそ先達なれども、
父宇治の悪左府の御例其憚あり。北面は上古には
なかりけり。白河院の御時はじめをかれてより
以降、衛府どP126もあまた候けり。為俊・重盛
童より千手丸・今犬丸とて、是等は左右なききり
ものにてぞありける。鳥羽院の御時も、季教・季頼
父子ともに朝家にめしつかはれ、伝奏するおりも
P01092
ありなどきこえしかども、皆身のほどをばふる
まうてこそありしに、此御時の北面の輩は、
以外に過分にて、公卿殿上人をも者とも
せず、礼儀礼節もなし。下北面より上北面に
あがり、上北面より殿上のまじはりをゆるさるる
者もあり。かくのみおこなはるるあひだ、おごれる
心どもも出きて、よしなき謀叛にもくみ
しけるにこそ。中にも故少納言信西がもとに
P01093
めしつかひける師光・成景と云者あり。師光は
阿波国の在庁、、成景は京の者、熟根いやしき
下臈なり。健児童もしは格勤者などにて
召つかはれけるが、さかざかしかりしによて、師光は
左衛門尉、成景は右衛門尉とて、二人一度に
靭負尉になりぬ。信西が事にあひし時、二人
ともに出家して、左衛門入道西光・右衛門入道
西敬とて、是は出家の後も院の御倉あづかり
P01094
にてぞありける。彼西光が子に師高と云者
あり。是もきり者にて、検非違使五位尉に
経あがて、安元元年十二月二十九日、追儺の除目に
加賀守にぞなされける。国務ををこなふ間、非
法非例を張行し、神社仏寺、権門勢家の
庄領を没倒し、散々の事どもにてぞありける。縦せうこうがあとをへだつと云とも、穏便の
政おこP127なふべかりしが、心のままにふるまひしほどに、
P01095
同二年夏の比、国司師高が弟、近藤判官師経、
加賀の目代に補せらる。目代下着の始、国府の
へんに鵜河と云山寺あり。寺僧どもが境節
湯をわかひてあびけるを、乱入しておいあげ、
わが身あび、雑人どもおろし、馬あらはせなど
しけり。寺僧いかりをなして、「昔より、此所は
国方の者入部する事なし。すみやかに
先例にまかせて、入部の押妨をとどめよ」とぞ
P01096
申ける。「先々の目代は不覚でこそいやしまれ
たれ。当目代は、其儀あるまじ。只法に任よ」と
云ほどこそありけれ、寺僧どもは国がたの者を
追出せむとす、国がたの者どもは次をもて乱入
せむとす、うちあひはりあひしけるほどに、
目代師経が秘蔵しける馬の足をぞうちおりける。
其後は互に弓箭兵杖を帯して、射あひ
きりあひ数剋たたかふ。目代かなはじとや思けん、
P01097
夜に入て引退く。其後当国の在庁ども催し
あつめ、其勢一千余騎、鵜河におしよせて、坊舎
一宇ものこさず焼はらふ。鵜河と云は白山の
末寺なり。此事うたへんとてすすむ老僧
誰々ぞ。智釈・学明・宝台坊、正智・学音・土佐
阿闍梨ぞすすみける。白山三社八院の大衆悉く
起りあひ、都合其勢二千余人、七月九日の
暮方に、目代師経が館ちかう〔こ〕そおしよせたれ。
P01098
けふは日暮ぬ、あすのいくさとさだめて、其日は
よせでゆらへたり。露ふきむすぶ秋風は、
ゐP128むけの袖を翻し、雲井をてらすいな
づまは、甲の星をかかやかす。目代かなはじとや
思けむ、夜にげにして京へのぼる。あくる
卯剋におしよせて、時をどとつくる。城の
うちには音もせず。人をいれてみせければ、
「皆落て候」と申。大衆力及ばで引退く。さらば
P01099
山門へうたへんとて、白山中宮の神輿を
賁り奉り、比叡山へふりあげ奉る。同八月十
二日の午剋斗、白山の神輿既に比叡山東
坂本につかせ給ふと云ほどこそありけれ、北国の
方より雷緩う鳴て、都をさしてなりのぼる。
白雪くだりて地をうづみ、山上洛中おしなべて、
常葉の山の梢まで皆白妙に成にけり。『願立』S0114 神
輿をば客人の宮へいれたてまつる。客人と申は
P01100
白山妙利権現にておはします。申せば父子の
御中なり。先沙汰の成否はしらず、生前の
御悦、只此事にあり。浦島が子の七世の孫に
あへりしにもすぎ、胎内の者の霊山の父を
みしにもこえたり。三千の衆徒踵を継ぎ、七社の
神人袖をつらぬ。時々剋々の法施P129祈念、
言語道断の事どもなり。山門の大衆、国司
加賀守師高を流罪に処せられ、目代近藤
P01101
判官師経を禁獄せらるべき由奏聞す。御
十二 裁断おそかりければ、さも然るべき公卿殿上人は、
「あはれとく御裁許あるべきものを。昔より
山門の訴詔は他に異なり。大蔵卿為房・太宰
権帥季仲は、さしも朝家の重臣なりしかども、
山門の訴詔によて流罪せられにき。况や
師高などは事の数にやはあるべきに、子細にや及べき」
と申あはれけれども、「大臣は禄を重じて諫めず、
P01102
小臣は罪に恐れて申さず」と云事なれば、をのをの
口をとぢ給へり。「賀茂河の水、双六の賽、山
法師、是ぞわが心にかなはぬもの」と、白河院も仰
なりけり。鳥羽院御時、越前の平泉寺を
山門へつけられけるには、当山を帰依あさ
からざるによて、「非をもて理とす」とこそ宣下
せられて、院宣をば下されけり。江帥匡房
卿の申されし様に、「神輿を陣頭へふり
P01103
奉てうたへ申さむには、君いかが御ぱからひ
候べき」と申されければ、「げにも山門の訴詔は
もだしがたし」とぞ仰ける。去じ嘉保二年
三月二日、美濃守源義綱朝臣、当国新立の
庄をたをすあひだ、山の久住者円応を殺
害す。是によて日吉の社司、延暦寺の寺官、都
合卅余P130人、申文をささげて陣頭へ参じけるを、
後二条関白殿、大和源氏中務権少輔頼春に
P01104
仰てふせかせらる。頼春が郎等箭をはなつ。
やにはにゐころさるる者八人、疵を蒙る者十余
人、社司諸司四方へちりぬ。山門の上綱等、子細を
奏聞の為に下洛すときこえしかば、武士検
非違使、西坂本に馳向て、皆おかへす。山門には
御裁断遅々のあひだ、七社の神輿を根本
中堂にふりあげ奉り、其御前にて信読の
大般若を七日ようで、関白殿を呪咀し奉る。結願の
P01105
導師には仲胤法印、其比はいまだ仲胤供奉と
申しが、高座にのぼりかねうちならし、表白の
詞にいはく、「我等なたねの二葉よりおほしたて
給ふ神だち、後[B 二]条の関白殿に鏑箭一はなち
あて給へ。大八王子権現」と、た〔か〕らかにぞ祈誓し
たりける。やがて其夜ふしぎの事あり。八王子の
御殿より鏑箭の声いでて、王城をさして、なて
行とぞ、人の夢にはみたりける。其朝、関白殿の
P01106
御所の御格子をあけけるに、只今山よりとて
きたるやうに、露にぬれたる樒一枝、たたり
けるこそおそろしけれ。やがて山王の御とがめとて、
後二条の関白殿、おもき御病をうけさせ給し
かば、母うへ、大殿の北の政所、大になげかせ給つつ、
御さまをやつし、いやしき下臈のまねをして、
日吉社に御参籠あて、七日七夜P131が間祈
申させ給けり。あらはれての御祈には、百番の
P01107
芝田楽、百番のひとつもの、競馬・流鏑馬・相撲
をのをの百番、百座の仁王講、百座の薬師講、
一■手半の薬師百体、等身の薬師一体、並に
釈迦阿弥陀の像、をのをの造立供養せられけり。
又御心中に三の御立願あり。御心のうちの事
なれば、人いかでかしり奉るべき。それにふしぎ
なりし事は、七日に満ずる夜、八王子の御社に
いくらもありけるまいりうど共のなかに、陸奥より
P01108
はるばるとのぼりたりける童神子、夜半斗
にはかにたえ入にけり。はるかにかき出して
祈ければ、程なくいきいでて、やがて立てまひ
かなづ。人奇特のおもひをなして是をみる。
半時斗舞て後、山王おりさせ給て、やうやう
御詫宣こそおそろしけれ。「衆生等慥に
うけ給はれ。大殿の北の政所、けふ七日わが
御前に籠らせ給たり。御立願三あり。一には、
P01109
今度殿下の寿命をたすけてたべ。さも候
はば、したどのに候もろもろのかたは人にまじ
はて、一千日が間朝夕みやづかひ申さむとなり。
大殿の北の政所にて、世を世ともおぼしめ
さですごさせ給ふ御心に、子を思ふ道に
まよひぬれば、いぶせき事もわすられて、
あさましげなるかたはうどにまじはて、一千日が間、
朝夕みやづかひ申さむと仰らるるこそ、誠に哀に
P01110
おぼしめせ。二には、大宮の橋づめより八王子の
御社まで、廻廊つくてまいらせP132むとなり。三千
人の大衆、ふるにもてるにも、社参の時いた
はしうおぼゆるに、廻廊つくられたらば、いかに
めでたからむ。三には、今度の殿下の寿命をた
すけさせ給はば、八王子の御社にて、法花問
答講毎日退転なくおこなはすべしとなり。いづれも
おろかならねども、かみ二はさなくともありなむ。
P01111
毎日法花問答講は、誠にあらまほしうこそおぼし
めせ。但、今度の訴詔は無下にやすかりぬべき
事にてありつるを、御裁許なくして、神人
宮仕射ころされ、疵を蒙り、泣々まいて訴へ
申事の余に心うくて、いかならむ世までも
忘るべしともおぼえず。其上かれ等があたる所の
箭は、しかしながら和光垂跡の御膚にたたる
なり。まことそらごとは是をみよ」とて、肩ぬいだるを
P01112
みれば、左の脇のした、大なるかはらけの口斗
うげのいてぞみえたりける。「是が余に心うければ、
いかに申とも始終の事はかなふまじ。法花
問答講一定あるべくは、三とせが命をのべて
たてまつらむ。それを不足におぼしめさば力及
ばず」とて、山王あがらせ給けり。母うへは御立願の
事人にもかたらせ給はねば、誰もらしつらむと、
すこしもうたがう方もましまさず。御心の
P01113
内の事共をありのままに御詫宣ありければ、
心肝にそうて、ことにたとくおぼしめし、
泣々申させ給けるは、「縦ひと日かた時にてさぶ
らふとも、ありがたうこそさぶらふべきに、ましてP133
三とせが命をのべて給らむ事、しかるべう
さぶらふ」とて、泣々御下向あり。いそぎ都へ
いらせ給て、殿下の御領紀伊国に田中庄と
云所を、八王子の御社へ寄進ぜらる。それより
P01114
して法花問答講、今の世にいたるまで、毎日
退転なしとぞ承る。かかりしほどに、後二条関
白殿御病かろませ給て、もとの如くにならせ給ふ。
上下悦あはれしほどに、みとせのすぐるは
夢なれや、永長二年になりにけり。六月廿一日、
又後二条関白殿、御ぐしのきはにあしき御
瘡いでさせ給て、うちふさせ給ひしが、同
廿七日、御年卅八にて遂にかくれさせ給ぬ。
P01115
御心のたけさ、理のつよさ、さしもゆゆしき人
人にてましましけれども、まめやかに事のきうに
なりしかば、御命を惜ませ給ける也。誠に惜
かるべし。四十にだにもみたせ給はで、大殿に
先立まいらせ給ふこそ悲しけれ。必しも父を
先立べしと云事はなけれども、生死のをきてに
したがふならひ、万徳円満の世尊、十地究
竟の大士たちも、力及び給はぬ事ども也。
P01116
慈悲具足の山王、利物の方便にてましませば、
十三 御とがめなかるべしとも覚ず。P134『御輿振』S0115 さるほどに、山
門の大衆、国司加賀守師高を流罪に処
せられ、目代近藤判官師経を禁獄せらる
べき由、奏聞度々に及といへども、御裁許
なかりければ、日吉の祭礼をうちとどめて、安
元三年四月十三日辰の一点に、十禅師・客人・
八王子三社の神輿賁り奉て、陣頭へ
P01117
ふり奉る。さがり松・きれ堤・賀茂の河原、糾・
梅ただ・柳原・東福院のへんに、しら大衆・神人・
宮仕・専当みちみちて、いくらと云数をしらず。
神輿は一条を西へいらせ給ふ。御神宝天に
かかやいて、日月地に落給ふかとおどろかる。
是によて、源平両家の大将軍、四方の陣頭を
かためて、大衆ふせくべき由仰下さる。平家には、
小松の内大臣の左大将重盛公、其勢三千余騎
P01118
にて大宮面の陽明・待賢・郁芳三の門を
かため給ふ。弟宗盛・具盛・重衡、伯父頼盛・教
盛・経盛などは、にし南の陣をかためられけり。源氏には、
大内守護の源三位頼政卿、渡辺のはぶく・さ
づくをむねとして、其勢纔に三百余騎、北の
門、縫殿の陣をかため給ふ。所はひろし勢は少し、
まばらにこそみえたりけれ。大衆無勢たるに
よて、北の門、縫殿の陣より神輿を入奉らんとす。
P01119
頼政P135卿さる人にて、馬よりおり、甲をぬいで、
神輿を拝し奉る。兵ども皆かくのごとし。
衆徒の中へ使者をたてて、申送る旨あり。
其使は渡辺の長七唱と云者なり。唱、其日は
きちんの直垂に、小桜を黄にかへいたる
鎧きて、赤銅づくりの太刀をはき、白羽の矢
おひ、しげどうの弓脇にはさみ、甲をばぬぎ、
たかひもにかけ、神輿の御前に畏て申けるは、
P01120
「衆徒の御中へ源三位殿の申せと候。今度
山門の御訴詔、理運の条勿論に候。御成敗
遅々こそ、よそにても遺恨に覚候へ。さては神
輿入奉らむ事、子細に及候はず。但頼政無勢候。
其上あけて入奉る陣よりいらせ給て候はば、
山門の大衆は目だりがほしけりなど、京童部
が申候はむ事、後日の難にや候はんずらむ。
神輿を[B 入]奉らば、宣旨を背くに似たり。
P01121
又ふせき奉らば、年来医王山王に首をかた
ぶけ奉て候身が、けふより後弓箭の道に
わかれ候なむず。かれといひ是といひ、かたがた
難治の様に候。東の陣は小松殿大勢でかため
られて候。其陣よりいらせ給べうや候らむ」と
いひ送りたりければ、唱がかく申にふせかれて、
神人宮仕しばらくゆらへたり。若大衆どもは、
「何条其儀あるべき。ただ此門より神輿を入
P01122
奉れ」と云族おほかりけれども、老僧のなかに
三塔一の僉議者ときこえし摂津竪者
豪運、進み出て申けるは、「尤もさいはれたり。
神輿をさきだP136てまいらせて訴詔を致さば、大
勢の中をうち破てこそ後代のきこえもあらん
ずれ。就中に此頼政卿は、六孫王より以降、源
氏嫡々の正棟、弓箭をとていまだ其不覚を
きかず。凡武芸にもかぎらず、歌道にもすぐれ
P01123
たり。近衛院御在位の時、当座の御会あり
しに、「深山花」と云題を出されたりけるを、人々
よみわづらひたりしに、此頼政卿、
深山木のそのこずゑともみえざりし
さくらは花にあらはれにけり W007
と云名歌仕て御感にあづかるほどのやさ
男に、時に臨で、いかがなさけなう恥辱をば
あたふべき。此神輿かきかへし奉や」と
P01124
僉議しければ、数千人の大衆先陣より後
陣まで、皆尤々とぞ同じける。さて神輿を
先立まいらせて、東の陣頭、待賢門より入奉
らむとしければ、狼籍忽に出来て、武士ども
散々に射奉る。十禅師の御輿にも箭ども
あまた射たてたり。神人宮仕射ころされ、衆徒
おほく疵を蒙る。おめきさけぶ声梵天までも
きこえ、堅牢地神も驚らむとぞおぼえける。
P01125
大衆神輿をば陣頭にふりすて奉り、泣々
本山へかへりのぼる。P137『内裏炎上』S0116 蔵人左少弁兼光に仰て、
殿上にて俄に公卿僉議あり。保安四年七
月に神輿入洛の時は、座主に仰て赤山の
社へ入奉る。又保延四年四月に神輿入洛の時は、
祇園別当に仰て祇園社へ入奉る。今度は
保延の例たるべしとて、祇園の別当権大僧都
澄兼に仰て、秉燭に及で祇園の社へ入奉る。
P01126
神輿にたつ所の箭をば、神人して是を
ぬかせらる。山門の大衆、日吉の神輿を陣頭へ
ふり奉る事、永久より以降、治承までは六箇
度なり。毎度に武士を召てこそふせかるれ
ども、神輿射奉る事是始とぞ承る。「霊
神怒をなせば、災害岐にみつといへり。おそろし
おそろし」とぞ人々申あはれける。同十四日夜
半斗、山門の大衆又下洛すときこえしかば、
P01127
夜中に主上要輿にめして、院御所法住寺
殿へ行幸なる。中宮は御車にたてまつて
行啓あり。小松のおとど、直衣に箭おうて
供奉せらる。嫡子権亮少将維盛、束帯に
ひらやなぐひおうてまいられけり。関白殿を
始奉て、太政大臣以下の公卿殿上人、我も我もと
はせまいる。凡京中の貴賎、禁中の上下、
さはぎののしる事緩し。山門には、神輿に
P01128
箭たち、神人宮仕射ころされ、衆徒おほく
疵をかうぶりしかP138ば、大宮二宮以下、講堂中堂
すべて諸堂一宇ものこさず焼払て、山野に
まじはるべき由、三千一同に僉議しけり。是に
よて大衆の申所、御ぱからひあるべしとき
こえしかば、山門の上綱等、子細を衆徒にふれん
とて登山しけるを、大衆おこて西坂本より
皆おかへす。平大納言時忠卿、其時はいまだ左衛
P01129
門督にておはしけるが、上卿にたつ。大講堂の
庭に三塔会合して、上卿をとてひぱらむと
す。「しや冠うちおとせ。其身を搦て湖に
しづめよ」などぞ僉議しける。既にかうとみえ
られけるに、時忠卿「暫しづまられ候へ。衆徒の
御中へ申べき事あり」とて、懐より小硯たた
うがみをとり出し、一筆かいて大衆の中へ
つかはす。是を披てみれば、「衆徒の濫悪を
P01130
致すは魔縁の所行なり。明王の制止を加るは
善政の加護也」とこそかかれたれ。是をみて
ひぱるに及ばず。大衆皆尤々と同じて、谷々へ
おり、坊々へぞ入にける。一紙一句をもて三塔三
千の憤をやすめ、公私の恥をのがれ給へる
時忠卿こそゆゆしけれ。人々も、山門の衆徒は
発向のかまびすしき斗かとおもひたれば、
ことはりも存知したりけりとぞ、感ぜられける。
P01131
同廿日、花山院権中納言忠親卿を上卿にて、
国司加賀守師高遂に闕官P139ぜられて、尾張の
井戸田へながされけり。目代近藤判官師経
禁獄せらる。又去る十三日、神輿射奉し武士
六人獄定ぜらる。左衛門尉藤原正純、右衛門尉
正季、左衛門尉大江家兼、右衛門尉同家国、
左兵衛尉清原康家、右兵衛尉同康友、
是等は皆小松殿の侍なり。同四月廿八日亥剋斗、
P01132
樋口富少路より火出来て、辰巳の風はげ
しう吹ければ、京中おほく焼にけり。大なる
車輪の如くなるほむらが、三町五町へだてて
戌亥のかたへすぢかへに、とびこえとびこえやけ
ゆけば、おそろしなどもおろかなり。或は具平
親王の千種殿、或は北野の天神の紅梅殿、
橘逸成のはひ松殿、鬼殿・高松殿・鴨居
殿・東三条、冬嗣のおとどの閑院殿、昭宣公の
P01133
堀川殿、是を始て、昔今の名所卅余箇所、
公卿の家だにも十六箇所まで焼にけり。
其外、殿上人諸大夫の家々はしるすに及ばず。
はては大内にふきつけて、朱雀門より
始て、応田門・会昌門、大極殿・豊楽院、諸
司八省・朝所、一時が内に灰燼の地とぞ
なりにける。家々の日記、代々の文書、七珍
万宝さながら麈灰となりぬ。其間の費へ
P01134
いか斗ぞ。人のやけしぬる事数百人、牛馬の
たぐひは数を知ず。是ただ事に非ず、山王の
御とがめとて、比叡山より大なる猿どもが
二三千おりくだり、手々に松火をともひて京中
をやく[M き→く]とぞ、人の夢にはみえたりける。P140大極
殿は清和天皇の御宇、貞観十八年に始て
やけたりければ、同十九年正月三日、陽成院の
御即位は豊楽院にてぞありける。元慶元年
P01135
四月九日、事始あて、同二年十月八日にぞつくり
出されたりける。後冷泉院の御宇、天喜五年二
月廿六日、又やけにけり。治暦四年八月十四日、事
始ありしかども、造り出されずして、後冷泉院崩
御なりぬ。後三条の院の御宇、延久四年四月
十五日作り出して、文人詩を奉り、伶人楽を
奏して遷幸なし奉る。今は世末になて、
国の力も衰へたれば、其後は遂につく
P01136
られず。

平家物語巻第一 P141

平家物語巻第二

【許諾済】
本テキストの公開については、龍谷大学大宮図書館の許諾を得ています。底本使用・テキスト公開を許可された同図書館に厚く御礼申し上げます。
【注意】
本テキストの利用は個人の研究の範囲内に限られます。本テキストの全体あるいは一部の複写物・複写加工物を、インターネット上で、あるいは出版物(CD−ROM等を含む)として公表する場合には、事前に龍谷大学大宮図書館に翻刻掲載許可願いを申請する必要があります。同図書館の許可を得ない本テキストの公表は禁じられています。翻刻掲載許可願い申請送付先:〒600-8268 京都市下京区七条通大宮東入大工町125−1 龍谷大学大宮図書館閲覧係
【底本】
本テキストの底本は、龍谷大学大宮図書館所蔵『平家物語』です。直接には、思文閣出版発行の影印本(龍谷大学善本叢書 13)に拠りました。

文責:荒山慶一・菊池真一



(表紙)
(目録)無し

P02141
P141
平家物語巻第二
『座主流』S0201治承元年五月五日、天台座主明雲大僧
正、公請を停止せらるるうへ、蔵人を御使
にて、如意輪の御本尊をめしかへひて、御持
僧を改易せらる。則使庁の使をつけ
て、今度神輿内裏へ振たてまつる衆
徒の張本をめされけり。加賀国に座主
の御房領あり。国司師高是を停廃の間、
P02142
その宿意によて大衆をかたらひ、訴詔
をいたさる。すでに朝家の御大事に及よし、
西光法師父子が讒奏によて、法皇大
に逆鱗ありけり。ことに重科におこなはる
べしときこゆ。明雲は法皇の御気色あ
しかりければ、印鑰をかへしたてまつ
て、座主を辞し申さる。同十一日、鳥羽院
の第七の宮、覚快法親王天台座主に
P02143
ならせ給ふ。是は青連院の大僧正、行玄の
御弟子也。同十一日、前座主所職をとどめらる
るうへ、検非違使二人をつけて、井にふた
をし、火に水をかけ、水火のせめにをよぶ。
これP142によて、大衆猶参洛すべき由聞えし
かば、京中又さはぎあへり。同十八日、太政大臣
以下の公卿十三人参内して、陣の座につき
て、前の座主罪科の事儀定あり。八条
P02144
中納言長方卿、其時はいまだ左大絅宰相に
て、末座に候けるが、申されけるは、「法家の
勘状にまかせて、死罪一等を減じて遠流せ
らるべしと見えてて候へども、前座主明雲
大僧正は顕密兼学して、浄行持律の
うへ、大乗妙経を公家にさづけ奉り、菩
薩浄戒を法皇にたもたせ奉る。御経の
師、御戒の師、重科におこなはれん事、冥
P02145
の照覧はかりがたし。還俗遠流をなだめ
らるべきか」と、はばかる所もなう申され
ければ、当座の公卿みな長方の義に同ず
と申あはれけれども、法皇の御いきどをり
ふかかりしかば、猶遠流に定らる。太政入道
も此事申さむとて、院参せられけれ共、
法皇御風のけとて御前へもめされ給は
ねば、ほいなげにて退出せらる。僧を罪
P02146
するならひとて、度縁をめしかへし、還俗
せさせ奉り、大納言大輔藤井松枝と俗
名をぞつけられける。此明雲と申は、村
上天皇第七の皇子、具平親王より六
代の御末、久我大納言顕通卿の御子也。誠
に無双の硯徳、天下第一の高僧にておは
しければ、君も臣もたとみ、〔天〕王寺・六勝寺
の別当をもかけ給へり。されども陰陽頭
P02147
安陪P143泰親が申けるは、「さばかりの智者の明雲
と名のり給こそ心えね。うへに日月の光
をならべて、下に雲あり」とぞ難じける。仁安
元年二月廿日、天台座主にならせ給。同三
月十五日、御拝堂あり。中堂の宝蔵をひら
かれけるに、種々の重宝共の中に、方一尺
の箱あり。しろい布にてつつまれたり。一
生不犯の座主、彼箱をあけて見給に、
P02148
黄紙にかけるふみ一巻あり。伝教大師
未来の座主の名字を兼てしるしをかれ
たり。我名のある所までみて、それより
奥をば、見ず、もとのごとくにまき返し
てをかるるならひ也。されば此僧正もさ
こそおはしけめ。かかるたとき人なれども、
前世の宿業をばまぬかれ給はず。あはれ
なりし事共也。同廿一日、配所伊豆国と定
P02149
らる。人々様々に申あはれけれども、西光法
師父子が讒奏によて、かやうにおこなは
れけり。やがてけふ都の内を追出さる
べしとて、追立の官人白河の御房にむか
ひ、をひ奉る。僧正なくなく御坊を出て、粟
田口のほとり、一切経の別所へいらせ給ふ。山門
には、せんずる所、我等が敵は西光父子に過た
る者なしとて、彼等親子が名字をかいて、
P02150
根本中堂におはします十二神将の内、金毘
羅大将の左の御足の下にふませ奉り、「十
二神将・七千夜叉、時刻をめぐらさず西光父
子が命をめしとり給へや」と、おめきP144さけん
で呪咀しけるこそ聞もおそろしけれ。同
廿三日、一切経の別所より配所へおもむき給
けり。さばかんの法務の大僧正ほどの人を、
追立の鬱使がさきにけたてさせ、今日を
P02151
かぎりに都を出て、関の東へおもむかれけ
ん心のうち、をしはかられてあはれ也。大津
の打出の浜にも成しかば、文殊楼の軒端
のしろじろとしてみえけるを、ふた目とも見
給はず、袖をかほにをしあてて、涙にむせび
給けり。山門には、宿老碩徳おほしといへども、
澄憲法印、其時はいまだ僧都にておはしけ
るが、余に名残をおしみ奉り、粟津まで
P02152
送りまいらせ、さても有べきならねば、それ
よりいとま申てかへられけるに、僧正心ざしの
切なる事を感じて、年来御心中に秘せら
れたりし一心三観の血脈相承をさづ
けらる。此法は釈尊の附属、波羅奈国の馬鳴
比丘、南天竺の竜樹菩薩より次第に相伝
しきたれる、けふのなさけにさづけらる。
さすが我朝は粟散辺地の境、濁世末代
P02153
といひながら、、澄憲これを附属して、法衣
の袂をしぼりつつ、都へ帰のぼられける心
のうちこそたとけれ。山門には大衆おこ
て僉議す。「義真和尚よりこのかた、天台座
主はじまて五十五代に至るまで、いまだるざ
いの例をきかず。倩事の心をあむずるに、
延暦の比ほひ、皇帝は帝都をたて、大
師は当山によぢのぼて四明の教法を此P145
P02154
所にひろめ給しよりこのかた、五障の女人跡
たえて、三千の浄侶居をしめたり。嶺には
一乗読誦年ふりて、麓には七社の霊験日
新なり。彼月氏の霊山は王城の東北、大聖の
幽崛也。此日域の叡岳も帝都の鬼門に
峙て、護国の霊地也。代々の賢王智臣、此
所に壇場をしむ。末代ならむがらに、いかんが当山
に瑕をばつくべき。心うし」とて、おめきさけぶ
P02155
といふ程こそありけれ、満山の大衆みな東坂
本へおり下る。『一行阿闍梨之沙汰』S0202「抑我等粟津にゆきむかひて、
貫首をうばひとどめ奉るべし。但追立の
鬱使・令送使あんなれば、事故なくとりえ
たてまつらん事ありがたし。山王大師の御
力の外はたのむかたなし。誠に別の子細
なくとりえ奉るべくは、爰にてまづ瑞相
を見せしめ給へ」と、老僧ども肝胆をくだ
P02156
いて祈念しけり。ここに無動寺法師乗円
律師がわらは、鶴丸とて、生年十八歳になるが、
身心をくるしめ五体に汗をながひて、俄に
くるひ出たり。「われに十禅師権現のりゐ
させ給へり。末代といふ共、いかでか我山の
貫首をば、他国へはうつさるべき。生々世々にP146
心うし。さらむにとては、われ此ふもとに跡を
とどめても何かはせむ」とて、左右の袖をか
P02157
ほにをしあてて、涙をはらはらとながす。大衆こ
れをあやしみて、「誠に十禅師権現の御
詫宣にてましまさば、我等しるしをまいらせむ。
すこしもたがへずもとのぬしに返したべ」
とて、老僧ども四五百人、手々にもたる数珠
共を、十禅師の大床のうへへぞなげあげた
る。此物ぐるひはしりまはてひろひあつめ、
すこしもたがへず一々にもとのぬしにぞ
P02158
くばりける。大衆神明の霊験あらたなる
事のたとさに、みなたな心を合て随喜
の涙をぞもよほしける。「其儀ならば、ゆきむ
かてうばひとどめ奉れ」といふ程こそありけれ、
雲霞の如くに発向す。或は志賀辛崎の
はま路にあゆみつづける大衆もあり、或は
山田矢ばせの湖上に舟をしいだす衆徒
もあり。是を見て、さしもきびしげなりつる
P02159
追立の鬱使・令送使、四方へ皆逃さりぬ。大
衆国分寺へ参り向。前座主大におどろひ
て、「勅勘の者は月日の光にだにもあたら
ずとこそ申せ。何况や、いそぎ都の内を追
出さるべしと、院宣・宣旨の成たるに、しばしも
やすらふべからず。衆徒とうとう帰りのぼり給
へ」とて、はしぢかうゐ出ての給ひけるは、「三台
槐門の家を出て、四明幽渓の窓に入しより
P02160
このかた、ひろく円宗の教法を学して、顕
密両宗をまなびき。ただ吾山のP147興隆を
のみ思へり。又国家を祈奉る事おろそか
ならず。衆徒をはぐくむ志もふかかりき。
両所山王さだめて照覧し給ふらん。身に
あやまつことなし。無実の罪によて遠流
の重科をかうぶれば、世をも人をも神をも
仏をも恨み奉る事なし。これまでとぶらひ
P02161
来り給ふ衆徒の芳志こそ報じ申がたけ
れ」とて、香染の御衣の袖しぼりもあへ給は
ねば、大衆もみな涙をぞながしける。御
輿さしよせて、「とうとうめさるべう候」と申
ければ、「昔こそ三千の衆徒の貫首たり
しか、いまはかかる流人の身と成て、いかむがや
ごとなき修学者、智恵ふかき大衆たち
には、かきささげられてのぼるべき。縦のぼるべ
P02162
きなり共、わらむづなどいふ物しばりはき、
おなじ様にあゆみつづひてこそのぼらめ」と
てのり給はず。ここに西塔の住侶、戒浄房
の阿闍梨祐慶といふ悪僧あり。たけ七
尺ばかり有けるが、黒革威の鎧の大荒目に
かねまぜたるを、草摺長にきなして、甲
をばぬぎ、法師原にもたせつつ、白柄の大
長刀杖につき、「あけられ候へ」とて、大衆の
P02163
中ををし分をし分、前座主のおはしける所へ
つと参り、大の眼をいからかし、しばしにらまへ
奉り、「その御心でこそかかる御目にもあ
はせ給へ。とうとうめさるべう候」と申けれ
ば、おそろしさにいそぎのり給。大衆とり得
奉るうれしさに、いやしき法師原にはあら
で、やごとなき修学者P148どもかきささげ奉
り、おめきさけでのぼりけるに、人はかはれ
P02164
ども祐慶はかはらず、さき輿かいて、長刀の柄
もこしの轅もくだけよととるままに、さしも
さがしき東坂、平地を行が如く也。大講堂の
庭にこしかきすへて、僉議しけるは、「抑我等
粟つに行向て、貫首をばうばひとどめ
奉りぬ。既に勅勘を蒙て流罪せられ
給ふ人を、とりとどめ奉て貫首に用ひ
申さむ事、いかが有べからむ」と僉議す。戒浄房
P02165
の阿闍梨、又先の如くにすすみ出て僉議し
けるは、「夫当山は日本無双の霊地、鎮護国
家の道場、山王の御威光盛にして、仏法王
法牛角也。されば衆徒の意趣に至るま
でならびなく、いやしき法師原までも世も
てかろしめず。况や智恵高貴にして三千の
貫首たり。いまは徳行をもうして一山の和尚
たり。罪なくしてつみをかうぶる、是山上洛中
P02166
のいきどをり、興福・園城の朝にあらずや。此
時顕密のあるじを失て、数輩の学侶、蛍雪
のつとめおこたらむ事心うかるべし。詮ずる
所、祐慶張本に処せられて、禁獄流罪も
せられ、かうべを刎られん事、今生の面目、
冥途の思出なるべし」とて、双眼より涙をは
らはらとながす。大衆尤々とぞ同じける。
それよりしてこそ、祐慶はいか目房とはいは
P02167
れけれ。其弟子に恵慶法師をば、時の人こい
かめ房とぞ申ける。P149大衆、前座主をば東塔
の南谷妙光坊へ入奉る。時の横災をば権化
の人ものがれ給はざるやらん。昔大唐の一行
阿闍梨は、玄宗皇帝の御持僧にておはし
けるが、玄宗の后楊貴妃に名を立給へり。昔
もいまも、大国も小国も、人の口のさがなさは、
跡かたなき事なりしか共、其疑によて果羅
P02168
国へながされ給。件の国へは三の道あり。林池
道とて御幸みち、幽地道とて雑人のかよふ
道、暗穴道とて重科の者をつかはす道也。
されば彼一行阿闍梨は大犯の人なれば
とて、暗穴道へぞつかはしける。七日七夜が間、
月日の光を見ずして行道也。冥々とし
て人もなく、行歩に前途まよひ、深々として
山ふかし。只澗谷に鳥の一声ばかりにて、苔の
P02169
ぬれ衣ほしあへず。無実の罪によて遠流
の重科をかうぶる事を、天道あはれみ給
て、九曜のかたちを現じつつ、一行阿闍梨
をまもり給。時に一行右の指をくひきて、
左の袂に九曜のかたちを写れけり。和漢両
朝に真言の本尊たる九曜の曼陀羅是也。
『西光被斬』S0203 大衆、前座主を取とどむる由、法皇きこし
めして、いとどやすからずぞ覚しP150めされける。
P02170
西光法師申けるは、「山門の大衆みだりがはし
きうたへ仕事、今にはじめずと申ながら、今度は
以外に覚候。是ほどの狼籍いまだ承り及候
はず。よくよく御いましめ候へ」とぞ申ける。身の
只今亡びんずるをもかへりみず、山王大
師の神慮にもはばからず、かやうに申て宸
襟をなやまし奉る。讒臣は国をみだるとい
へり。実なる哉。叢蘭茂からむとすれども、秋
P02171
風是をやぶり、王者明かならむとすれば、讒
臣これをくらうす共、かやうの事をや申べき。
此事、新大納言成親卿已下近習の人々に
仰合られて、山せめらるべしと聞えしかば、
山門の大衆、「さのみ王地にはらまれて、詔命を
そむくべきにあらず」とて、内々院宣にした
がひ奉る衆徒も有など聞えしかば、前座主
明雲大僧正は妙光房におはしけるが、大衆
P02172
二心ありときいて、「つゐにいかなるめにかあはん
ずらむ」と、心ぼそ気にぞの給ひける。され共
流罪の沙汰はなかりけり。新大納言成親卿は、
山門の騒動によて、私の宿意をばしばらく
をさへられけり。そも内義支度はさまざま
なりしかども、義勢ばかりでは此謀反かなふ
べうもみえざりしかば、さしもたのまれたり
ける多田蔵人行綱、此事無益也と思心
P02173
つきにけり。弓袋の料にをくられたりける
布共をば、直垂かたびらにP151裁ぬはせて、家子
郎等どもにさせつつ、めうちしばだたいてゐた
りけるが、倩平家の繁昌する有さまを
みるに、当時たやすくかたぶけがたし。由な
き事にくみしてげり。もし此事もれぬる
ものならば、行綱まづ失はれなんず。他人の
口よりもれぬ先にかへり忠して、命いかうど
P02174
思心ぞつきにける。同五月廿九日のさ夜ふけ
がたに、多田蔵人行綱、入道相国の西八条の亭
に参て、「行綱こそ申べき事候間、まいて候へ」と
いはせければ、入道「つねにもまいらぬものが
参じたるは何事ぞ。あれきけ」とて、主馬
判官盛国を出されたり。「人伝には申まじ
き事なり」といふ間、さらばとて、入道みづから
中門の廊へ出られたり。「夜ははるかに
P02175
ふけぬらむと。只今いかに、何事ぞや」とのた
まへば、「ひるは人めのしげう候間、夜にまぎれ
てまいて候。此程院中の人々の兵具をと
とのへ、軍兵をめされ候をば、何とかきこし
めされ候」。「夫は山攻らるべしとこそきけ」
と、いと事もなげにぞの給ひける。行綱ちかう
より、小声になて申けるは、「其儀では候はず。
一向御一家の御うへとこそ承候へ」。「さて夫をば
P02176
法皇もしろしめされたるか」。「子細にや及び候。
成親卿の軍兵めされ候も、院宣とてこそ
めされ候へ。俊寛がとふるまうて、康頼がかう
申て、西光がと申て」などいふ事共、始より
ありのままにはさし過P152ていひちらし、「いとま
申て」とて出にけり。入道大におどろき、大
声をもて侍どもよびののしり給ふ。聞
もおびたたし。行綱なまじひなる事申出
P02177
して、証人にやひかれんずらむとおそろし
さに、大野に火をはなたる心地して、人も
おはぬにとり袴して、いそぎ門外へぞ逃出け
る。入道、先貞能をめして、「当家かたぶけうす
る謀反の輩、京中にみちみちたん也。一門の
人々にもふれ申せ。侍共もよほせ」との給
へば、馳まいてもよほす。右大将宗盛卿、三位
中将知盛、頭中将重衡、左馬頭行盛以下の人々、
P02178
甲胃をよろひ、弓箭を帯し馳集る。其ほか
軍兵雲霞のごとくに馳つどふ。其夜のうちに
西八条には、兵共六七千騎もあるらむとこそみえ
たりけれ。あくれば六月一日也。まだくらかり
けるに、入道、検非違使安陪資成をめして、「き
と院の御所へ参れ。信成をまねひて申さう
ずるやうはよな、「近習の人々、此一門をほろぼし
て天下をみだらんとする企あり。一々に召とて
P02179
たづね沙汰仕るべし。それをば君もしろしめ
さるまじう候」と申せ」とこその給ひけれ。資
成いそぎ御所へはせ参り、大膳大夫信成
よびいだいて此由申に、色を失ふ。御前へ
まいて此由奏問しければ、法皇「あは、これら
が内々はかりし事のもれにけるよ」と覚しめ
すにあさまし。さるにても、「こは何事ぞ」とP153
ばかり仰られて、分明の御返事もなかりけり。
P02180
資成いそぎ馳帰て、入道相国に此由申せば、
「さればこそ。行綱はまことをいひけり。この事
行綱しらせずは、浄海安穏に有べしや」とて、
飛騨守景家・筑後守貞能に仰て、謀反の
輩からめとるべき由下知せらる。仍二百余き、
三百余騎、あそこここにをしよせをしよせからめとる。
太政入道まづ雑色をもて、中御門烏丸の
新大納言成親卿の許へ、「申合べき事あり。
P02181
きと立より給へ」との給ひつかはされたり
ければ、大納言我身の上とは露しらず、
「あはれ、是は法皇の山攻らるべき事
御結構あるを、申とどめられんずるにこそ。
御いきどをりふかげ也。いかにもかなふまじ
きものを」とて、ないきよげなる布衣たを
やかにきなし、あざやかなる車にのり、侍三
四人めしぐして、雑色牛飼に至るまで、つね
P02182
よりも引つくろはれたり。そも最後とは後に
こそおもひしられけれ。西八条ちかうなてみ給
へば、、四五町に軍兵みちみちたり。「あなおび
たたし。何事やらん」と、むねうちさはぎ、車
よりおり、門の内にさし入て見給へば、内にも
兵どもひまはざまもなうぞみちみちたる。中
門の口におそろしげなる武士共あまた待う
けて、大納言の左右の手をとてひぱり、「いま
P02183
しむべう候やらむ」と申。入道相国簾中より
見P154出して、「有べうもなし」との給へば、武士共十
四五人、前後左右に立かこみ、縁の上にひ
きのぼせて、ひとま〔なる〕所にをしこめてげり。
大納言夢の心ちして、つやつやものも覚え
給はず。供なりつる侍共をしへだてられて、
ちりぢりに成ぬ。雑色・牛飼色をうしなひ、牛・
車をすてて逃さりぬ。さる程に、近江中将入道
P02184
蓮浄、法勝寺執行俊寛僧都、山城守基兼、
式部大輔正綱、平判官康頼、宗判官信房、新
平判官資行もとらはれて出来たり。西光
法師此事きいて、我身のうへとや思けむ、鞭
をあげ、院の御所法住寺殿へ馳参る。平家の
侍共道にて馳むかひ、「西八条へめさるるぞ。きと
まいれ」といひければ、「奏すべき事があて法
住寺殿へ参る。やがてこそ参らめ」といひけれ
P02185
共、「にくひ入道かな、何事をか奏すべき。さな
いはせそ」とて、馬よりとて引おとし、ちうに
くくて西八条へさげて参る。日のはじめより根
元与力の者なりければ、殊につよういましめて、
坪の内にぞひすへたる。入道相国大床にたて、
「入道かたぶけうどするやつがなれるすがたよ。
しやつここへ引よせよ」とて、縁のきはに引
よせさせ、物はきながらしやつらをむずむず
P02186
とぞふまれける。「もとよりをのれらがや
うなる下臈のはてを、君のめしつかはせ給ひ
て、なさるまじき官職をなしたび、父子共
に過分のふるまひP155するとみしにあはせて、
あやまたぬ天台座主流罪に申おこな
ひ、天下の大事引出いて、剰此一門亡ぼすべ
き謀反にくみしてげるやつ也。有のままに
申せ」とこその給ひけれ。西光もとより
P02187
すぐれたる大剛の者なりければ、ちとも色も
変ぜす、わろびれたるけひきもなし。居なを
りあざわらて申けるは、「さもさうず。入道殿こ
そ過分の事をばの給へ。他人の前はしらず、
西光がきかん所にさやうの事をば、えこその
給ふまじけれ。院中に[M 召]つかはるる身なれば、
執事の別当成親卿の院宣とて催されし
事に、くみせずとは申べき様なし。それはくみし
P02188
たり。但、耳にとまる事をもの給ふものかな。
御辺は故刑部卿忠盛の子でおはせしかども、
十四五までは出仕もし給はず。故中御門藤
中納言家成卿の辺に立入給しをば、京わ
らはべは高平太とこそいひしか。保延の比、大
将軍承り、海賊の張本卅余人からめ進ぜら
れし賞に、四品して四位の兵衛佐と申し
しをだに、過分とこそ時の人々は申あはれ
P02189
しか。殿上のまじはりをだにきらはれし人
の子で、太政大臣まで成あがたるや過分なる
らん。侍品の者の受領検非違使になる
事、先例傍例なきにあらず。なじかは過分
なるべき」と、はばかる所もなう申ければ、入道
あまりにいかて物もの給はず。しばしあて「しや
つが頸左右なうきるな。よくよくいましめよ」と
ぞの給ひけP156る。松浦太郎重俊承て、足手を
P02190
はさみ、さまざまにいためとふ。もとよりあらが
ひ申さぬうへ、糾問はきびしかりけり、残なう
こそ申けれ。白状四五枚に記せられ、やがて、「しや
つが口をさけ」とて口をさかれ、五条西朱雀に
してきられにけり。嫡子前加賀守師高、尾
張の井戸田へながされたりけるを、同国の
住人小胡麻郡司維季に仰てうたれぬ。次男
近藤判官師経禁獄せられたりけるを、
P02191
獄より引出され、六条河原にて誅せらる。その
弟左衛門尉師平、郎等三人、同く首をはね
られけり。是等はいふかひなき物の秀て、い
ろうまじき事にいろひ、あやまたぬ天台座
主流罪に申おこなひ、果報やつきにけむ、
山王大師の神罰冥罰をたちどころに
かうぶて、かかる目にあへりけり。『小教訓』S0204 新大納言、ひとま
なる所にをしこめられ、あせ水になりつつ、
P02192
「あはれ、これは日来のあらまし事のもれきこ
えけるにこそ。誰もらしつらむ。定て北面の
者共が中にこそ有らむ」など、思はじ事なう案
じつづけておはしけるに、うしろのかたより
足をとのたからかにしければ、すは只今わ
が命をうしなはんとて、P157もののふ共が参るに
こそとまち給ふに、入道みづからいたじき
たからかにふみならし、大納言のおはしけるうし
P02193
ろの障子をさとあけられたり。素絹の衣の
みじからかなるに、白き大口ふみくくみ、ひじりづ
かの刀をしくつろげてさすままに、以外てのほか)いか
れるけしきにて、大納言をしばしにらまへ、「抑
御辺は平治にもすでに誅せらるべかりしを、内
府が身にかへて申なだめ、頸をつぎたてまし
はいかに。何の遺恨をもて、此一門ほろぼすべき
由御結構は候けるやらん。恩をしるを人とは
P02194
いふぞ。恩をしらぬをちく生とこそいへ。然
共当家の運命つきぬによて、むかへ奉また
り。日来の御結構の次第、直に承らむ」とぞ
の給ひける。大納言「またくさる事候はず。人
の讒言にてぞ候らん。よくよく御尋候へ」と申
されければ、入道いはせもはてず、「人やあ
る、人やある」とめされければ、貞能参りたり。「西
光めが白状まいらせよ」と仰られければ、もてま
P02195
いりたり。これをとて二三返をし返をし返よみ
きかせ、「あなにくや。此うへをば何と陳ずべき」
とて、大納言のかほにさとなげかけ、障子をちや
うどたててぞ出られける。入道、猶腹をすへ
かねて、「経遠・兼康」とめせば、瀬尾太郎・難波
二郎、まいりたり。「あの男とて庭へ引おとせ」
との給へば、これらはさうなうもしたてま
つらず、畏て、「小松殿の御気色いかが候はんずP158ら
P02196
ん」と申ければ、入道相国大にいかて、「よしよし、を
のれらは内府が命をばをもうして、入道が仰
をばかろうしけるごさんなれ。其上は力及はず」
との給へば、此事あしかりなんとやおもひけん、
二人のもの共立あがり、大納言を庭へ引お
とし奉る。其時入道心ちよげにて、「とてふせ
ておめかせよ」とぞの給ひける。二人の者共、
大納言の左右の耳に口をあてて、「いかさまに
P02197
も御声のいづべう候」とささやいてひきふせ
奉れば、二こゑ三声ぞおめかれける。其体冥
途にて、娑婆世界の罪人を、或は業のはか
りにかけ、或は浄頗梨のかがみにひきむ
けて、罪の軽重に任つつ、阿防羅刹が呵嘖
すらんも、これには過じとぞみえし。蕭樊とら
はれとらはれて、韓彭にらきすされたり。兆錯戮
をうけて、周儀つみせらる。たとへば、蕭何・樊
P02198
噌・韓信・彭越、是等は高祖の忠臣なりしか共、
小人の讒によて過敗の恥をうく共、かやうの
事をや申べき。新大納言は我身のかくなるに
つけても、子息丹波少将成経以下、おさな
き人々、いかなるめにかあふらむと、おもひやる
にもおぼつかなく、さばかりあつき六月に、
装束だにもくつろげず、あつさもたへがた
ければ、むねせきあぐる心ちして、あせも
P02199
涙もあらそひてぞながれける。「さり共小松殿は
思食はなたじ物を」との給へども、誰して申
べし共覚え給はず。P159小松のおとどは、其後遥
に程へて、嫡子権亮少将車のしりにのせつ
つ、衛府四五人、随身二三人召具して、兵一人
もめしぐせられず、殊に大様げでおはした
り。入道をはじめ奉て、人々皆おもはずげに
ぞ見給ひける。車よりおり給所に、貞能
P02200
つと参て、「などこれ程の御大事に、軍兵共
をばめしぐせられ候はぬぞ」と申せば、「大事とは
天下の大事をこそいへ。かやうの私ごとを大事
と云様やある」との給へば、兵杖を帯し
たる者共も、皆そぞろいてぞみえける。「そも
大納言をばいづくにをかれたるやらん」とて、
ここかしこの障子引あけ引あけ見給へば、
ある障子のうへに、蜘手ゆふたる所あり。ここ
P02201
やらむとてあけられたれば、大納言おはし
けり。涙にむせびうつぶして、めも見あはせ給
はず。「いかにや」との給へば、其時みつけ奉
り、うれしげに思はれたるけしき、地獄に
て罪人どもが地蔵菩薩を見奉らむも、
かくやとおぼえてあはれ也。「何事にて候や
らん、かかるめにあひ候。さてわたらせ給へば、
さり共とこそたのみまいらせ候へ。平治にも
P02202
既誅せらるべきで候しが、御恩をもて頸をつ
がれまいらせ、正二位の大納言にあがて、歳す
でに四十にあまり候。御恩こそ生々世々にも報
じつくしがたう候へ。今度も同はかひなき
命をたすけさせおP160はしませ。命だにいきて候
はば、出家入道して高野粉川に閉籠り、一
向後世菩提のつとめをいとなみ候はむ」と申
されければ、「さは候共、よも御命失ひ奉る
P02203
まではよも候はじ。縦さは候とも、重盛かうで
候へば、御命にもかはり奉るべし」とて出られけ
り。父の禅門の御まへにおはして、「あの成親卿
うしなはれん事、よくよく御ぱからひ候べし。先
祖修理大夫顕季、白川院にめしつかはれて
よりこのかた、家に其例なき正二位の大
納言にあがて、当時君無双の御いとおしみな
り。やがて首をはねられん事、いかが候べからむ。
P02204
都の外へ出されたらむに事たり候なん。北野
天神は時平のおとどの讒奏にてうき名を
西海の浪にながし、西宮の大臣は多田の満仲
が讒言にて恨を山陽の雲によす。これ皆
延喜の聖代、安和の御門の御ひが事とぞ申
つたへたる。上古猶かくのごとし、况や末代に
をいてをや。賢王猶御あやまりあり、况や
凡人にをいてをや。既に召をかれぬるうへは、
P02205
いそぎうしなはれずとも、なんのくるしみか候べき。
「刑の疑はしきをばかろんぜよ。功のうたがはし
きをばをもんぜよ」とこそみえて候へ。事あた
らしく候へども、重盛彼大納言が妹に相ぐし
て候。維盛又聟なり。かやうにしたしく成て
候へば申とや、おぼしめされ候らん。其儀では候
はず。世のため、君のため、家のための事を
もて申候。一P161とせ、故少納言入道信西が執権
P02206
の時に相あたて、我朝には嵯峨皇帝の御時、
右兵衛督藤原仲成を誅せられてよりこ
のかた、保元までは君廿五代の間おこなはれ
ざりし死罪をはじめてとりおこなひ、宇治の
悪左府の死骸をほりおこいて実験せら
れし事などは、あまりなる御政とこそ覚え
候しか。さればいにしへの人々も、「死罪をおこ
なへば海内に謀反の輩たえず」とこそ申
P02207
伝て候へ。此詞について、中二年あて、平治に
又信西がうづまれたりしをほり出し、首を
刎て大路をわたされ候にき。保元に申行ひし
事、いくほどもなく身の上にむかはりにきと思
へば、おそろしうこそ候しか。是はさせる朝敵に
もあらず。かたがたおそれ有べし。御栄花残る所
なければ、覚しめす事有まじければ、子々
孫々までも繁昌こそあらまほしう候へ。父祖の
P02208
善悪は必子孫に及ぶとみえて候。積善の家に
余慶あり、積悪の門に余殃とどまるとこそ
承はれ。いかさまにも今夜首を刎られん事、然
べうも候はず」と申されければ、入道相国げに
もとや思はれけむ、死罪は思ひとどまり給ひぬ。
其後おとど中門に出て、侍共にの給ひけるは、
「仰なればとて、大納言左右なう失ふ事有べか
らず。入道腹のたちのままに、物さはがしき事
P02209
し給ひては、後に必くやみ給ふべし。僻事
してわれうらむな」との給へば、兵共皆舌をP162ふ
ておそれをののく。「さても経遠・兼康がけさ
大納言に情なうあたりける事、返々も奇怪
也。重盛がかへり聞ん所をば、などかははばからざる
べき。かた田舎のもの共はかかるぞよ」との給へ
ば、難波も瀬尾もともにおそれ入たりけり。
おとどはかやうにの給ひて、小松殿へぞ帰られける。
P02210
さる程に、大納言の供なりつる侍共、中御門烏丸
の宿所へはしり帰て、此由申せば、北方以下の
女房達、声もおしまずなきさけぶ。「既武士
のむかひ候。少将殿を始まいらせて、君達も皆
とらせさせ給ふべしとこそ聞え候へ。急ぎいづ
方へもしのばせ給へ」と申ければ、「今はこれほ
どの身に成て、残りとどまるとても、安穏に
て何にかはせむ。只同じ一夜の露ともきえん事
P02211
こそ本意なれ。さてもけさはかぎりとしらざ
りけるかなしさよ」とて、ふしまろびてぞなか
れける。既武士共のちかづく由聞えしかば、
かくて又はぢがましく、うたてきめをみむも
さすがなればとて、十に成給ふ女子、八歳の
男子、車に取のせ、いづくをさすともなく
やり出す。さても有べきならねば、大宮をの
ぼりに、北山の辺雲林院へぞおはしける。
P02212
其辺なる僧坊におろしをき奉り、をくりの
もの共も、身々のすてがたさにいとま申て帰
けり。今はいとけなきおさなき人々ばかり残
りゐて、み事とふ人もなくしておはしけん
北方の心のうち、をしはかP163られて哀也。暮行
かげを見給ふにつけては、大納言の露の
命、此夕をかぎりなりと思ひやるにも、きえ
ぬべし。女房侍おほかりけれ共、物をだにとり
P02213
したためず、門をだにもをしも立ず。馬ど
もは厩になみたちたれども、草かふもの一人
もなし。夜明れば、馬・車門にたちなみ、賓客
座につらなて、あそびたはぶれ、まひおどり、
世を世とも思給はず、近きあたりの人は
物をだにたかくいはず、おぢをそれてこそ
昨日までも有しに、夜の間にかはるありさま、
盛者必衰の理は目前にこそ顕れけれ。楽
P02214
つきて悲来るとかかれたる江相公の筆の
あと、今こそ思しられけれ。『少将乞請』S0205丹波少将成経は、
其夜しも院御所法住寺殿にうへ臥して、
いまだ出られざりけるに、大納言の侍共、い
そぎ御所へはせ参て、少将殿よび出し
奉り、此由申に、「などや宰相のもとより、今
までしらせざるらむ」との給ひもはてねば、
宰相殿よりとて使あり。此宰相と申は、
P02215
入道相国の弟也。宿所は六波羅の惣門の内
なれば、門脇の宰相とぞ申ける。丹波の
少将にはしうと也。「何事P164にて候やらん、入道
相国のきと西八条へ具し奉れと候」といは
せられたりければ、少将此事心得て、近習
の女房達よび出し奉り、「よべ何となう世
の物さはがしう候しを、例の山法師の下るか
など、よそに思ひて候へば、はや成経が身の
P02216
うへにて候けり。大納言よさりきらるべう候
なれば、成経も同座にてこそ候はむずらめ。
いま一度御前へまいて、君をも見まいらせた
う候へ共、既にかかる身に罷成て候へば、憚存候」
とぞ申されける。女房達御前ヘまいて、此由
奏せられければ、法皇大におどろかせ給ひ
て、「さればこそ。けさの入道相国が使にはや
御心得あり。あは、これらが内々はかりしことの
P02217
もれけるよ」と覚しめすにあさまし。「さるに
てもこれへ」と御気色有ければ、参られたり。
法皇も御涙をながさせ給ひて、仰下さるる
旨もなし。少将も涙に咽で、申あぐる旨もな
し。良ありて、さても有べきならねば、少将袖
をかほにあてて、泣々罷出られけり。法皇はうし
ろを遥に御覧じをくらせ給ひて、「末代こそ
心うけれ。これかぎりで又御覧ぜぬ事もや
P02218
あらむずらん」とて、御涙をながさせ給ふぞ
かたじけなき。院中の人々、少将の袖をひかへ、
袂にすがて名残をおしみ、涙をながさぬは
なかりけり。しうとの宰相のもとへ出られたれ
ば、北方はちかう産すべき人にておはしけP165るが、今
朝より此歎をうちそへては、既命もたえ入
心ちぞせられける。少将御所を罷いづるより、
ながるる涙つきせぬに、北方のありさまをみた
P02219
まひては、いとどせんかたなげにぞみえられ
ける。少将のめのとに、六条といふ女房あり。
「御ちに参りはじめさぶらひて、君をちのなか
よりいだきあげまいらせ、月日のかさなる
にしたがひて、我身の年のゆく事をば歎
ずして、君のおとなしうならせ給ふ事をのみ
うれしう思ひ奉り、あからさまとはおもへ共、既
廿一年ははなれまいらせず。院内へまいらせ
P02220
給ひて、をそう出させ給だにも、おぼつかな
う思ひまいらするに、いかなる御目にかあはせ給
はむずらむ」となく。少将「いたうな歎ひそ。宰相
さておはすれば、命ばかりはさり共こいうけ
給はむずらむ」となぐさめ給へ共、人めもしらず
なきもだへけり。西八条より使しきなみに
有ければ、宰相「ゆきむかふてこそ、ともかう
もならめ」とて出給へば、少将も宰相の車の
P02221
しりにのりてぞ出られける。保元平治より
このかた、平家の人々たのしみさかへのみあ
て、愁歎はなかりしに、此宰相ばかりこそ、よし
なき聟故にかかる歎きをばせられけれ。
西八条ちかうなて車をとどめ、まづ案内を
申入られければ、太政入道「丹波少将をば、此
内へはいれらるべからず」との給ふ間、其辺ちか
き侍の家におろしをきつつ、宰相P166ばかりぞ門の
P02222
内へは入給ふ。少将をば、いつしか兵共打かこんで、
守護し奉る。たのまれたりつる宰相殿には
はなれ給ひぬ。少将の心のうち、さこそは
便なかりけめ。宰相中門に居給ひたれば、
入道対面もし給はず、源大夫判官季貞を
もて申入られけるは、「由なきものにしたしう
成て、返々くやしう候へ共、かひも候はず。相具し
させて候ものが、此ほどなやむ事の候なるが、
P02223
けさより此歎をうちそへては、既命もたえ
なんず。何かはくるしう候べき。少将をばしばらく
教盛にあづけさせおはしませ。教盛かうで候へ
ば、なじかはひが事せさせ候べき」と申されければ、
季貞まいて此由申す。「あはれ、例の宰相が、物に
心えぬ」とて、とみに返事もし給はず。ややあり
て、入道の給ひけるは、「新大納言成親、この一
門をほろぼして、天下を乱らむとする企あり。此
P02224
少将は既彼大納言が嫡子也。うとふもあれしたし〔う〕も
あれ、えこそ申宥むまじけれ。若此謀反とげ
ましかば、御辺とてもおだしうやおはすべきと
申せ」とこその給ひけれ。季貞かへりまいて、此
由宰相に申ければ、誠ほいなげで、重て申
されけるは、「保元平治よりこのかた、度々の合
戦にも、御命にかはりまいらせむとこそ存候へ。
此後もあらき風をばまづふせき参らせ候
P02225
はんずるに、たとひ教盛こそ年老て候とも、
わかき子共あまた候へば、一方の御固にP167はなどか
ならで候べき。それに成経しばらくあづからうど
申すを御ゆるされなきは、教盛を一向二心
ある者とおぼしめすにこそ。是ほどうしろめた
う思はれまいらせては、世にあても何にかはし
候べき。今はただ身のいとまをたまはて、出家入道
し、かた山里にこもり居て、一すぢに後世菩
P02226
提のつとめをいとなみ候はん。由なき浮世の
まじはり也。世にあればこそ望もあれ、望のか
なはねばこそ恨もあれ。しかじ、うき世をいとひ、実
の道に入なんには」とぞの給ひける。季貞ま
いて、「宰相殿ははや覚しめしきて候。ともかう
もよき様に御ぱからひ候へ」と申ければ、其時入
道大におどろいて、「さればとて出家入道まで
はあまりにけしからず。其儀ならば、少将をばし
P02227
ばらく御辺に預奉ると云べし」とこその給ひ
けれ。季貞帰まいて、宰相に此由申せば、「あ
はれ、人の子をばもつまじかりける物かな。我子
の縁にむすぼほれざらむには、是ほど心を
ばくだかじ物を」とて出られけり。少将待うけ奉て、
「さていかが候つる」と申されければ、「入道あまりに
腹をたてて、教盛にはつゐに対面もし給はず。
かなふまじき由頻にの給ひけれ共、出家入道
P02228
まで申たればにやらん、しばらく宿所にをき奉
れとの給ひつれども、始終よかるべしともおぼえ
ず」。少将「さ候へばこそ、成経は御恩をもてP168しばし
の命ものび候はんずるにこそ。夫につき候ては、
大納言が事をばいかがきこしめされ候」。「それまでは
思ひもよらず」との給へば、其時涙をはらはらとな
がいて、「誠に御恩をもてしばしの命いき候はんずる
事は、然べう候へ共、命のおしう候も、父を今一度
P02229
見ばやと思ふ為也。大納言がきられ候はんにお
いては、成経とてもかひなき命をいきて何
にかはし候べき。ただ一所でいかにもなるやうに
申てたばせ給ふべうや候らん」と申されけれ
ば、宰相よにも心くるしげにて、「いさとよ。御辺の
事をこそとかう申つれ。それまではおもひもよら
ね共、大納言殿の御事をば、今朝〔内〕のおとどやうやう
に申されければ、それもしばしは心安いやうに
P02230
こそ承はれ」との給へば、少将泣々手を合てぞ
悦ばれける。子ならざらむ者は、誰か只今我身の
うへをさしをひて、是ほどまでは悦べき。誠の契
はおやこの中にぞありける。子をば人のもつ
べかりける物かなとぞ、やがて思ひかへされける。
さて今朝のごとくに同車して帰られけり。宿
所には女房達、しんだる人のいきかへりたる
心ちして、さしつどひて皆悦泣共せられけり。P169
P02231
『教訓状』S0206太政入道は、かやうに人々あまたいましめをいて
も、猶心ゆかずや思はれけん、既赤地の錦
の直垂に、黒糸威の腹巻の白がな物うたる
むな板せめて、先年安芸守たりし時、神拝の
次に、霊夢を蒙て、厳島の大明神よりうつつに
給はられたりし銀のひる巻したる小長刀、常の
枕をはなたず立られたりしを脇にはさみ、中
門の廊へぞ出られける。そのきそくおほかた
P02232
ゆかしうぞみえし。貞能をめす。筑後守貞能、木
蘭地の直垂にひおどしの鎧きて、御前に畏て
候。ややあて入道の給ひけるは、「貞能、此事いかが
おもふ。保元に平〔右〕馬助をはじめとして、一門半過の
新院のみかたへまいりにき。一宮の御事は、故刑
部卿殿の養君にてましまいしかば、かたがた見
はなちまいらせがたかし〔か〕ども、故院の御遺誡に
任て、みかたにてさきをかけたりき。是一の奉
P02233
公なり。次平治元年十二月、信頼・義朝が院内を
とり奉て、大内にたてごもて、天下くらやみと
成たりしに、入道身を捨て凶徒を追落し、
経宗・惟方をめし警しに至るまで、既に君
の御為に命をうしなはんとする事、度々にをよ
ぶ。縦人なんと申共、七代までは此一門をば争か
捨させ給ふべき。それに、成親P170と云無用の
いたづら者、西光と云下賎の不当人めが申
P02234
事につかせ給て、此一門亡すべき由、法皇の御
結構こそ遺恨の次第なれ。此後も讒奏す
る者あらば、当家追討の院宣下されつとお
ぼゆるぞ。朝敵と成てはいかにくゆ共益有まじ。
世をしづめん程、法皇を鳥羽の北殿へうつし
奉るか、然ずは、是へまれ御幸をなしまいらせむと
思ふはいかに。其儀ならば、北面の輩、矢をも一い
んずらん。侍共に其用意せよと触べし。大方
P02235
は入道、院がたの奉公おもひきたり。馬にくらをか
せよ。きせなが取出せ」とぞの給ひける。主馬
判官盛国、いそぎ小松殿へ馳まいて、「世は既かう
候」と申ければ、おとど聞もあへず、「あははや、成親
卿が首を刎られたるな」との給へば、「さは候はね
共、入道殿きせながめされ候。侍共皆うたて、ただ
今法住寺殿へよせんと出たち候。法皇をば
鳥羽殿へをしこめまいらせうど候が、内々は鎮西
P02236
の方へながしまいらせうど議せられ候」と申ければ、
おとど争かさる事有べきと思へ共、今朝の禅門
のきそく、さる物ぐるはしき事も有らんとて、
車をとばして西八条へぞおはしたる。門前にて車
よりおり、門の内へさし入て見給へば、入道腹巻
をき給ふ上は、一門の卿相雲客数十人、各
色々の直垂に思ひ思ひの鎧きて、中門の廊に
二行P171に着座せられたり。其外諸国の受領・
P02237
衛府・諸司などは、縁にゐこぼれ、庭にもひしと
なみゐたり。旗ざほ共ひきそばめひきそばめ、馬の腹帯
をかため、甲の緒をしめ、只今皆うたたむずる
けしきどもなるに、小松殿烏帽子直衣に、
大文の指貫そばとて、ざやめき入給へば、事外
にぞ見えられける。入道ふしめになて、あはれ、れ
いの内府が世をへうする様にふるまふ、大に諫ば
やとこそ思はれけめども、さすが子ながらも、内に
P02238
は五戒をたもて慈悲を先とし、外には五常をみ
ださず、礼義をただしうし給ふ人なれば、あのすが
たに腹巻をきて向はん事、おもばゆうはづかし
うや思はれ[B け]ん、障子をすこし引たてて、素絹の
衣を腹巻の上にあはてぎにき給ひける
が、むないたの金物のすこしはづれてみえけ
るを、かくさうど、頻に衣のむねを引ちがへ引ちがへ
ぞし給ひける。おとどは舎弟宗盛卿の座上に
P02239
つき給ふ。入道もの給ひ出す旨もなし。おとども
申出さるる事もなし。良あて入道の給ひけるは、
「成親卿が謀反は事の数にもあらず。一向法皇の
御結構にて有けるぞや。世をしづめん程、法皇
を鳥羽の北殿へうつし奉るか、然ずは是へまれ
御幸をなしまいらせんと思ふはいかに」との給へば、
おとど聞もあへずはらはらとぞなかれける。入道「い
かにいかに」とあきれ給ふ。おとど涙をおさへて申
P02240
されけるは、「此仰承候に、P172御運ははや末に成ぬと
覚候。人の運命の傾かんとては、必悪事を思ひ
立候也。又御ありさま、更にうつつ共覚え候はず。さ
すが我朝は辺地粟散の境と申ながら、天照
大神の御子孫、国のあるじとして、天児屋根尊
の御末、朝の政をつかさどり給ひしより以来、太
政大臣の官に至る人の甲冑をよろふ事、礼
義を背にあらずや。就中御出家の御身也。
P02241
夫三世の諸仏、解脱幢相の法衣をぬぎ捨
て、忽に甲冑をよろひ、弓箭を帯しまし
まさん事、内には既破戒無慙の罪をまねく
のみならずや、外には又仁義礼智信の法に
もそむき候なんず。かたがた恐ある申事にて
候へ共、心の底に旨趣を残すべきにあらず。まづ
世に四恩候。天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆
生の恩是也。其中に尤おもきは朝恩也。普天
P02242
の下、王地にあらずといふ事なし。されば彼潁川の
水に耳をあらひ、首陽山に薇をおし賢人も、勅
命そむきがたき礼義をば存知すとこそ
承はれ。何况哉先祖にもいまだきかざし太政
大臣をきはめさせ給ふ。いはゆる重盛が無才
愚闇の身をもて、蓮府槐門の位に至る。しかの
みならず、国郡半過て一門の所領となり、田園
悉一家の進止たり。是希代の朝恩にあら
P02243
ずや。今これらの莫大の御恩を忘て、みだ
りがはしく法皇を傾け奉らせ給はん事、天
照大神・正八幡宮の神慮にも背候なんず。日
本は是神国也。神は非礼を享給はず。P173然ば
君のおぼしめし立ところ、道理なかばなきに
あらず。中にも此一門は、朝敵を平げて四海
の逆浪をしづむる事は無双の忠なれば、その
賞に誇る事は傍若無人共申つべし。聖徳太
P02244
子十七ケ条の御憲法に、「人皆心あり。心各執あり。
彼を是し我を非し、我を是し彼を非す、是非
の理誰かよく定むべき。相共に賢愚なり。環
の如くして端なし。ここをもて設人いかると云共、
かへて我とがをおそれよ」とこそみえて
候へ。しかれ共、御運つきぬによて、謀反既
あらはれぬ。其上仰合らるる成親卿め
しをかれぬる上は、設君いかなるふしぎ
P02245
をおぼしめしたたせ給ふとも、なんのおそれ
か候べき。所当の罪科おこなはれん上は、退
いて事の由を陳じ申させ給ひて、君
の御ためには弥奉公の忠勤をつくし、民
のためにはますます撫育の哀憐をいた
させ給はば、神明の加護にあづかり、仏陀
の冥慮にそむくべからず。神明仏陀感応
あらば、君もおぼしめしなをす事、などか候は
P02246
ざるべき。君と臣とならぶるに親疎わくか
たなし。道理と僻事をならべんに、争か道理
[M か道]につかざるべき」。P174『烽火之沙汰』S0207 「是は君の御ことはりにて
候へば、かなはざらむまでも、院御所法住寺
殿を守護しまいらせ候べし。其故は、重盛
叙爵より今大臣の大将にいたるまで、しかし
ながら君の御恩ならずと云事なし。其恩の
重き事をおもへば、千顆万顆の玉にも
P02247
こえ、其恩のふかき事を案ずれは、一入再
入の紅にも過たらん。しかれば、院中にまい
りこもり候べし。其儀にて候はば、重盛が身
にかはり、命にかはらんと契たる侍共少々候
らん。これらをめしぐして、院御所法住寺
殿を守護しまいらせ候はば、さすが以外の
御大事でこそ候はんずらめ。悲哉、君の御た
めに奉公の忠をいたさんとすれば、迷
P02248
慮八万の頂より猶たかき父の恩、忽に
わすれんとす。痛哉、不孝の罪をのがれん
とおもへば、君の御ために既不忠の逆臣
となりぬべし。進退惟きはまれり、是
非いかにも弁がたし。申うくるところ〔の〕詮は、
ただ重盛が頸をめされ候へ。院中をも守
護しまいらすべからず、院参の御供をも仕る
べからず。かの蕭何は大功かたへにこえたるに
P02249
よて、官大相国に至り、剣を帯し沓をは
きながら殿上にのぼる事をゆるされし
か共、叡慮にそむく事あれば、高祖おもう
警てふかう罪せられにき。かやうの先蹤を
おP175もふにも、富貴といひ栄花といひ、朝恩と
いひ重職といひ、旁きはめさせ給ひぬ
れば、御運のつきむこともかたかるべきに
あらず。富貴の家には禄位重畳せり、ふた
P02250
たび実なる木は其根必いたむとみえ
て候。心ぼそうこそおぼえ候へ。いつまでか
命いきて、みだれむ世をも見候べき。只末
代に生をうけて、かかるうき目にあひ候重
盛が果報の程こそつたなう候へ。ただ今侍
一人に仰付て、御坪のうちに引出されて、
重盛が首のはねられん事は、安いほどの
事で〔こそ〕候へ。是をおのおの聞給へ」とて、直衣
P02251
の袖もしぼるばかりに涙をながしかきくどかれ
ければ、一門の人々、心あるも心なきも、みな
鎧の袖をぞぬらされける。太政入道も、た
のみきたる内府はかやうにの給ふ、力も
なげにて、「いやいや、これまでは思もよりさ
うず。悪党共が申事につかせ給ひて、ひが
事などやいでこむずらんと思ふばかりで
こそ候へ」との給へば、「縦いかなるひが事出
P02252
き候とも、君をば何とかしまいらせ給ふべ
き」とて、ついたて中門に出て、侍共に仰ら
れけるは、「只今重盛が申つる事共をば、
汝等承はらずや。今朝よりこれに候うて、かや
うの事共申しづめむと存じつれ共、あ
まりにひたさはぎにみえつる間、帰りたり
つるなり。院参の御供にをいては、重盛が
頸のめされむを見て仕れ。さらば人まい
P02253
れ」とて、小松殿へぞ帰られける。P176主馬判官
盛国をめして、「重盛こそ天下の大事を別
して聞出したれ。「我を我とおもはん者
共は、皆物ぐして馳まいれ」と披露せよ」
との給へば、此由ひろうす。おぼろけにては
さはがせ給はぬ人の、かかる披露のあるは
別の子細のあるにこそとて、皆物具して
我も我もと馳まいる。淀・はづかし・宇治・岡の屋、
P02254
日野・勧条寺・醍醐・小黒栖、梅津・桂・大原・しづ
原、せれうの里と、あぶれゐたる兵共、或は
よろいきていまだ甲をきぬもあり、或は
矢おうていまだ弓をもたぬもあり。片
鐙ふむやふまずにて、あはてさはいで馳
まいる。小松殿にさはぐ事ありと聞えしかば、
西八条に数千騎ありける兵共、入道に
かうとも申も入ず、ざざめきつれて、皆小
P02255
松殿へぞ馳たりける。すこしも弓箭にたづ
さはる程の者、一人も残らず。其時入道大
に驚き、貞能をめして、「内府は何とおもひて、
これらをばよびとるやらん。是でいひつる様
に、入道が許へ射手などやむかへんずらん」と
の給へば、貞能涙をはらはらとながいて、「人も
人にこそよらせ給ひ候へ。争かさる御事候べき。
申させ給ひつる事共も、みな御後悔ぞ候
P02256
らん」と申ければ、入道内府に中たがふて
はあしかりなんとやおもはれけむ、法皇むかへ
まいらせんずる事もはや思とどまり、腹
巻ぬぎをき、素絹の衣にけさうちかけ
て、いと心にもおこらぬ念珠してこそおはし
けれ。P177小松殿には、盛国承て着到つけけ
り。馳参たる勢ども、一万余騎とぞしる
いたる。着到披見の後、おとど中門に出て、
P02257
侍共にの給ひけるは、「日来の契約をたが
へず、まいりたるこそ神妙なれ。異国に
さるためしあり。周幽王、褒■女+以と云最愛の
后をもち給へり。天下第一の美人也。
されども幽王の心にかなはざりける事は、
褒■女+以咲をふくまずとて、すべて此后わら
う事をし給はず。異国の習には、天下に
兵革おこる時、所々に火をあげ、大鼓をうて
P02258
兵をめすはかり事あり。是を烽火と名づ
けたり。或時天下に兵乱おこて、烽火をあ
げたりければ、后これを見給ひて、「あな
ふしぎ、火もあれ程おほかりけるな」と
て、其時初てわらひ給へり。この后一たび
ゑめば百の媚ありけり。幽王うれしき事に
して、其事となうつねに烽火をあげ給ふ。
諸こう来るにあたなし。あたなければ則
P02259
さんぬ。かやうにする事度々に及べば、まいる
ものもなかりけり。或時隣国より凶賊
おこて、幽王の都をせめけるに、烽火を
あぐれども、例の后の火にならて兵もま
いらず。其時都かたむいて、幽王終にほろ
びにき。さてこの后は野干となてはし
りうせけるぞおそろしき。か様の事がある
時は、自今以後もこれよりめさむには、かく
P02260
のごとくまいるべし。重盛不思議の事を聞
出してめしつるなり。されども其事聞なを
しつ。僻事にてありけり。とうP178とう帰れ」とて
皆帰されけり。実にはさせる事をも聞出
されざりけれども、父をいさめ申され
つる詞にしたがひ、我身に勢のつくかつか
ぬかの程をもしり、又父子戦をせんとには
あらねども、かうして入道相国の謀反[M 「服反」とあり「服」に「謀」と傍書]の心を
P02261
もや、やはらげ給ふとの策也。君君たらず
と云とも、臣もて臣たらずば有べからず。
父父たらずと云共、子もて子たらずば有
べからず。君のためには忠あて、父のため
には孝あり。文宣王のの給ひけるにた
がはず。君も此よしきこしめして、「今にはじめ
ぬ事なれ共、内府が心のうちこそはづか
しけれ。怨をば恩をもて報ぜられたり」
P02262
とぞ仰ける。「果報こそめでたうて、大臣の
大将に至らめ、容儀体はい人に勝れ、才智
才覚さへ世にこえたるべしやは」とぞ、時の
人々感じあはれける。「国に諫る臣あれば
其国必やすく、家に諫る子あれば其家
必ただし」といへり。上古にも末代にもありが
たかりし大臣也。『大納言流罪』S0208同六月二日、新大納言成
親卿をば公卿の座へ出し奉り、御物まいらせ
P02263
たP179りけれども、むねせきふさがて御はしを
だにもたてられず。御車をよせて、とう
とうと申せば、心ならずのり給ふ。軍兵ども
前後左右にうちかこみたり。我方の者
は一人もなし。「今一度小松殿にみえ奉らばや」
との給へ共、それもかなはず。「縦重科を
蒙て遠国へゆく者も、人一人身にそへぬ
者やある」と、車のうちにてかきくどかれ
P02264
ければ、守護の武士共も皆鎧の袖を
ぞぬらしける。西の朱雀を南へゆけば、
大内山も今はよそにぞ見給ける。とし比
見奉りし雑色牛飼に至るまで、涙をな
がし袖をしぼらぬはなかりけり。まして都に
残りとどまり給ふ北方、おさなき人々の
心のうち、おしはかられて哀也。鳥羽
殿をすぎ給ふにも、此御所へ御幸なり
P02265
しには、一度も御供にははづれざりし物
をとて[B 「とそ」とあり「そ」に「て」と傍書]、わが山庄すはま殿とて有し
をも、よそにみてこそとおられけれ。南の
門に出て、舟をそしとぞいそがせける。「こは
いづちへやらむ。おなじううしなはるべくは、
都ちかき此辺にてもあれかし」との給ひける
ぞせめての事なる。ちかうそひたる武士を
「たそ」ととひ給へば、「難波次郎経遠」と申。
P02266
「若此辺に我方さまのものやある。舟に
のらぬ先にいひをくべき事あり。尋
てまいらせよ」との給ひければ、其辺
をはしりまはて尋けれ共、我こそ大納
言殿の方と云者一人もなし。「我世なり
し時は、P180したがひついたりし者共、一二千
人もありつらん。いまはよそにてだにも、
此有さまを見をくる者のなかりけるか
P02267
なしさよ」とてなかれければ、たけきもののふ
共もみな袖をぞぬらしける。身にそふもの
とては、ただつきせぬ涙ばかり也。熊野ま
うで、天王寺詣などには、ふたつがはらの、
三棟につくたる舟にのり、次の舟二三
十艘漕つづけてこそありしに、今はけ
しかるかきすゑ屋形舟に大幕ひかせ、見
もなれぬ兵共にぐせられて、けふをかぎ
P02268
りに都を出て、浪路はるかにおもむかれ
けむ心のうち、おしはかられて哀也。其
日は摂津国大もつの浦に着給ふ。新大
納言、既死罪に行はるべかりし人の、流罪に
宥られけることは、小松殿のやうやうに申さ
れけるによて也。此人いまだ中納言にて
おはしける時、美濃国を知行し給ひしに、
嘉応元年の冬、目代右衛門尉正友が
P02269
もとへ、山門の領、平野庄の神人が葛を売
てきたりけるに、目代酒に飲酔て、くず
に墨をぞ付たりける。神人悪口に及
ぶ間、さないはせそとてさんざんにれうり
やくす。さる程に神人共数百人、目代が
許へ乱入す。目代法にまかせて防けれ
ば、神人等十余人うちころされ、是に
よて同年の十一月三日、山門の大衆飫しう
P02270
蜂起して、国司成親卿を流罪に処せられ、
目代右衛門尉正友を禁獄せらるべき由P181
奏聞す。既成親卿備中国へながさるべき
にて、西の七条までいだされたりしを、君
いかがおぼしめされけん、中五日あてめしかへ
さる。山門の大衆飫しう呪咀すと聞え
しか共、同二年正月五日、右衛門督を兼し
て、検非違使の別当になり給ふ。其時
P02271
姿方・兼雅卿こえられ給へり。資方卿はふ
るい人、おとなにておはしき。兼雅卿は栄花
の人也。家嫡にてこえられ給ひけるこそ
遺恨なれ。是は三条殿造進の賞也。
同三年四月十三日、正二位に叙せらる。その
時は中御門中納言宗家卿こえられ給へ
り。安元元年十月廿七日、前中納言より
権大納言にあがり給ふ。人あざけて、「山門の
P02272
大衆には、のろはるべかりける物を」とぞ
申ける。されども今はそのゆへにや、かかる
うき目にあひ給へり。凡は神明の罰も
人の呪咀も、ときもあり遅もあり、不同
なる事共也。同三日、大もつの浦へ京より
御使ありとてひしめきけり。新大納言
「是にり失へとにや」と聞給へば、さはなく
して、備前の児島へながすべしとの御使
P02273
なり。小松殿より御ふみあり。「いかにもして、み
やこちかき片山里にをき奉らばやと、
さしも申つれどもかなはぬ事こそ、世にある
かひも候はね。さりながらも、御命ばかりは申
うけて候」とて、難波がもとへも「かまへてよく
よく宮仕へ御心にたがうな」と仰られつかはし、
旅のよそほいこまごまと沙汰しをP182くられ
たり。新大納言はさしも忝うおぼしめされ
P02274
ける君にもはなれまいらせ、つかのまもさ
りがたうおもはれける北方おさなき人々
にも別はてて、「こはいづちへとて行やらん。
二度こきやうに帰て、さひしを相みん事も
有がたし。一とせ山門の訴詔によてなが
されしを、君おしませ給ひて、西の七条よ
りめし帰されぬ。これはされば君の御
警にもあらず。こはいかにしつる事ぞや」と、天
P02275
にあふぎ地にふして、泣かなしめ共かひぞな
き。明ぬれば既舟おしいだいて下り給ふ
に、みちすがらもただ涙に咽で、ながらふべ
しとはおぼえねど、さすが露の命はきえ
やらず、跡のしら波へだつれば、都は次第に
遠ざかり、日数やうやう重れば、遠国は既近
付けり。備前の児島に漕よせて、民の家
のあさましげなる柴の庵にをき奉る。
P02276
島のならひ、うしろは山、前はうみ、磯の松風
浪の音、いづれも哀はつきせず。『阿古屋之松』S0209 大納言
一人にもかぎらず、警を蒙る輩おほかり
けり。近江中将入道蓮浄P183佐渡国、山城守
基兼伯耆国、式部大輔正綱播磨国、宗判
官信房阿波国、新平判官資行は美作
国とぞ聞えし。其比入道相国、福原の別
業におはしけるが、同廿日、摂津左衛門盛
P02277
澄を使者で、門脇の宰相の許へ、「存る旨あり。
丹波少将いそぎ是へたべ」との給ひつかはさ
れたりければ、宰相「さらば、只ありし時
ともかくもなりたりせばいかがせむ。今更
物をおもはせんこそかなしけれ」とて、福原
へ下り給ふべき由の給へば、少将なくなく
出立給ひけり。女房達は、「かなはぬ物ゆへ、
なをもただ宰相の申されよかし」とぞ
P02278
歎れける。宰相「存る程の事は申つ。世を
捨るより外は、今は何事をか申べき。され共、
縦いづくの浦におはす共、我命のあらむ
かぎりはとぶらひ奉るべし」とぞの給ひけ
る。少将は今年三になり給ふおさなき人
を持給へり。日ごろはわかき人にて、君達な
どの事も、さしもこまやかにもおはせざりし
か共、今はの時になりしかば、さすが心にやかか
P02279
られけん、「此おさなき者を今一度見ばや」と
こその給ひけれ。めのといだいてまいり
たり。少将ひざのうへにをき、かみかきなで、
涙をはらはらとながいて、「あはれ、汝七歳になら
ば男になして、君へまいらせんとこそおもひ
つれ。され共、今は云かひなし。若命いきてお
ひたちたらば、法師P184になり、我後の世と
ぶらへよ」との給へば、いまだいとけなき心に
P02280
何事をか聞わき給ふべきなれ共、うちう
なづき給へば、少将をはじめ奉て、母へめ
のとの女房、其座になみゐたる人々、心あ
るも心なきも、皆袖をぞぬらしける。福
原の御使、やがて今夜鳥羽まで出させ
給ふべきよし申ければ、「幾程ものびざら
む物ゆへに、こよひばかりは都のうちにて
あかさばや」との給へ共、頻に申せば、其夜
P02281
鳥羽へ出られける。宰相あまりにうらめし
さに、今度はのりも具し給はず。おなじき
廿二日、福原へ下りつき給ひたりければ、
太政入道、瀬尾太郎兼康に仰て、備中国
へぞ下されける。兼康は宰相のかへり聞
給はん所をおそれて、道すがらもやうやう
にいたはりなぐさめ奉る。され共少将なぐ
さみ給ふ事もなし。よるひるただ仏の御
P02282
名をのみ唱て、父の事をぞ歎れける。新
大納言は備前の児島におはしけるを、あづ
かりの武士難波次郎経遠「これは猶舟津
近うてあしかりなん」とて地へわたし奉り、備
前・備中両国の堺、にはせて郷有木の別
所と云山寺にをき奉る。備中の瀬尾
と備前の有木の別所の間は、纔五十町
にたらぬ所なれば、丹波少将、そなたの
P02283
風もさすがなつかしうやおもはれけむ。或時
兼康をめして、「是より大納言殿の御渡あ
むなる備前のP185有木の別所へは、いか程の
道ぞ」ととひ給へば、すぐにしらせ奉てはあし
かりなんとやおもひけむ、「かたみち十二三日
で候」と申。其時少将涙をはらはらとながいて、
「日本は昔三十三ケ国にてありけるを、中
比六十六ケ国に分られたんなり。さ云備前・
P02284
備中・備後も、もとは一国にてありける也。又
あづまに聞ゆる出羽・陸奥両国も、昔は六十
六郡が一国にてありけるを、其時十三郡を
さきわかて、出羽国とはたてられたり。
されば実方中将、奥州へながされたり
ける時、此国の名所にあこやの松と云
所を見ばやとて、国のうちを尋ありき
けるが、尋かねて帰りける道に、老翁の
P02285
一人逢たりければ、「やや、御辺はふるい人
とこそ見奉れ。当国の名所にあこやの
松と云所やしりたる」ととふに、「またく
当国のうちには候はず。出羽国にや候らん」。
「さては御辺しらざりけり。世はすゑに
なて、名所をもはやよびうしなひたるに
こそ」とて、むなしく過んとしければ、老
翁、中将の袖をひかへて、「あはれ君は みちの
P02286
くのあこ屋の松に木がくれていづべき
月のいでもやらぬか W008 といふ歌の心を
もて、当国の名所あこ屋の松とは仰
られ候か、それは両国が一国なりし時
読侍る歌也。十二郡をさきわかて後は、
出羽国にや候らん」と申ければ、さらば
とて、実方中将も出羽国にこえてこそ、
あこ屋の松をばP186見たりけれ。筑紫
P02287
の太宰府より都へ■魚+宣の使ののぼるこそ、
かた路十五日とはさだめたれ。既十二三日と
云は、これより殆鎮西へ下向ごさむなれ。
遠しと云とも、備前・備中の間、両三日には
よも過じ。近きをとをう申は、大納言殿の
御渡あんなる所を、成経にしらせじとて
こそ申らめ」とて、其後は恋しけれ共とひ
給はず。『大納言死去』S0210 さる程に、法勝寺の執行俊寛僧
P02288
都、平判官康頼、この少将相ぐして、三人薩摩
潟鬼界が島へぞながされける。彼島は、都
を出てはるばると浪路をしのいで行所也。
おぼろけにては舟もかよはず。島にも人ま
れなり。をのづから人はあれども、此土の人
にも似ず。色黒うして牛の如し。身には頻
に毛おひつつ、云詞も聞しらず。男は鳥帽
子もせず、女は髪もさげざりけり。衣裳な
P02289
ければ人にも似ず。食する物もなければ、
只殺生をのみ先とす。しづが山田を返さ
ねば、米穀のるいもなく、園の桑をとらざ
れば、絹帛のたぐひもなかりけり。島のな
かにはたかき山あり。鎮に火もゆ。硫黄と
云物みちみてり。かるがゆへに硫P187黄が島
とも名付たり。いかづちつねになりあが
り、なりくだり、麓には雨山せし。一日片時、人
P02290
の命たえてあるべき様もなし。さる程に、新
大納言はすこしくつろぐ事もやと思はれ
けるに、子息丹波少将成経も、はや鬼界が
島へながされ給ひぬときいて、今はさのみ
つれなく何事をか期すべきとて、出家の
志の候よし、便に付て小松殿へ申されけれ
ば、此由法皇へ伺申て御免ありけり。やが
て出家し給ひぬ。栄花の袂を引かへて、
P02291
うき世をよそのすみぞめの袖にぞや
つれ給ふ。大納言の北方は、都の北山雲
林院の辺にしのびてぞおはしける。さらぬ
だに住なれぬ所は物うきに、いとどしのば
れければ、過行月日もあかしかね、くらしわ
づらふさまなりけり。女房侍おほかり
けれども、或世をおそれ、或人目をつつむ
ほどに、とひとぶらふ者一人もなし。され共
P02292
その中に、源左衛門尉信俊と云侍一人、情
ことにふかかりければ、つねはとぶらひた
てまつる。或時北方、信俊をめして、「まことや、
これには備前のこじまにと聞えしが、此程き
けば有木の別所とかやにおはす也。いかにも
して今一度、はかなき筆の跡をも奉り、
御をとづれをもきかばや」とこその給ひけ
れ。信俊涙をおさへ申けるは、「幼少より御
P02293
憐を蒙て、かた時もはなれまいらせ候はず。
御下りの時も、P188何共して御供仕うと申候しか
共、六波羅よりゆるされねば力及候はず。め
され候[*「候」は「か」とも読める ]し御声も耳にとどまり、諫られま
いらせし御詞も肝に銘じて、かた時も忘
まいらせ候はず。縦此身はいかなる目にもあ
ひ候へ、とうとう御ふみ給はてまいり候はん」とぞ申
ける。北方なのめならず悦て、やがてかいてぞ
P02294
たうだりける。おさなき人々も面々に御
ふみあり。信俊これを給はて、はるばると
備前国有木の別所へ尋下る。あづかりの
武士難波次郎経遠に案内をいひけれ
ば、心ざしの程を感じて、やがて見参に
いれたりけり。大納言入道殿は、只今も都
の事をの給ひだし、歎きしづんでおはし
ける処に、「京より信俊がまいて候」と申入
P02295
たりければ、「ゆめかや」とて、ききもあへず
おきなをり、「是へ是へ」とめされければ、
信俊まいて見奉るに、まづ御すまひの
心うさもさる事にて、墨染の御袂を見
奉るにぞ、信俊目もくれ心もきえて覚ゆ
る。北方の仰かうむし次第、こまごまと申て、
文とりいだいて奉る。是をあけて見給へ
ば、水ぐきの跡は涙にかきくれて、そこはか
P02296
とはみえねども、「おさなき人々のあまりに
恋かなしみ給ふありさま、我身もつきせ
ぬもの思にたへしのぶべうもなし」など
かかれたれば、日来の恋しさは事の数
ならずとぞかなしみ給ふ。P189かくて四五日過
ければ、信俊「これに候て、最後の御有様
見まいらせん」と申ければ、あづかりの
武士難波次郎経遠、かなうまじき由頻に
P02297
申せば、力及ばで、「さらば上れ」とこその給ひ
けれ。「我は近ううしなはれんずらむ。此世に
なき者ときかば、相構て我後世とぶら
へ」とぞの給ひける。御返事かいてたうだ
りければ、信俊これを給て、「又こそ参り
候はめ」とて、いとま申て出ければ、「汝がまた
こんたびを待つくべしともおぼえぬぞ。
あまりにしたはしくおぼゆるに、しばししばし」との
P02298
給ひて、たびたびよびぞかへされける。さて
もあるべきならねば、信俊涙をおさへつつ、都
へ帰上りけり。北方に御ふみまいらせたり
ければ、是をあけて御覧ずるに、はや出家
し給ひたるとおぼしくて、御ぐしの一ふさ、
ふみのおくにありけるを、ふた目とも見
給はず。かたみこそ中々今はあだなれ
とて、ふしまろびてぞなかれける。おさなき
P02299
人々も、声々になきかなしみ給ひけり。さる
ほどに、大納言入道殿をば、同八月十九日、備
前・備中両国の堺、にはせの郷吉備の中
山と云所にて、つゐにうしなひ奉る。其さ
ひごの有さま、やうやうに聞えけり。酒に毒
を入てすすめたりければ、かなはざりけ
れば、岸の二丈ばかりありける下にひしを
うへて、うへよりつきおとし奉れば、ひしにつらP190
P02300
ぬかてうせ給ひぬ。無下にうたてき事共
也。ためしすくなうぞおぼえける。大納言北
方は、此世になき人と聞たまひて、「いかに
もして今一度、かはらぬすがたを見もし、み
えんとてこそ、けふまでさまをもかへざり
つれ。今は何にかはせん」とて、菩提院と云
寺におはし、さまをかへ、かたのごとく仏事
をいとなみ、後世をぞとぶらひ給ひける。
P02301
此北方と申は、山城守敦方の娘なり。勝た
る美人にて、後白河法皇の御最愛なら
びなき御おもひ人にておはしけるを、成
親卿ありがたき寵愛の人にて、給はられ
たりけるとぞ聞えし。おさなき人々も
花を手折、閼伽の水を結むで、父の後
世をとぶらひ給ふぞ哀なる。さる程に時
うつり事さて、世のかはりゆくありさまは、
P02302
ただ天人の五衰にことならず。『徳大寺之沙汰』S0211  ここに徳大寺
の大納言実定卿は、平家の次男宗盛卿に
大将をこえられて、しばらく寵居し給へり。
出家せんとの給へば、諸大夫侍共、いかがせん
と歎あへり。其中に藤蔵人重兼と云
諸大夫あり。諸事に心えたる人にて、ある月
の夜、実定卿南面の御格子あげさせ、只ひ
とり月に嘯ておはしける処に、なぐP191さめ
P02303
まいらせんとやおもひけん、藤蔵人まいり
たり。「たそ」。「重兼候」。「いかに何事ぞ」との給へ
ば、「今夜は殊に月さえて、よろづ心のすみ候
ままにまいて候」とぞ申ける。大納言「神妙に
まいたり。余に何とやらん心ぼそうて徒然
なるに」とぞ仰られける。其後何となひ
事共申てなぐさめ奉る。大納言の給ひけ
るは、「倩此世の中のありさまをみるに、平家
P02304
の世はいよいよさかんなり。入道相国の嫡子次
男、左右の大将にてあり。やがて三男知盛、嫡孫
維盛も有ぞかし。かれも是も次第にならば、他
家の人々、大将をいつあたりつぐべし共覚え
ず。さればつゐの事也。出家せん」とぞの給ひ
ける。重兼涙をはらはらとながひて申けるは、
「君の御出家候なば、御内の上下皆まどひ者
になりなんず。重兼めづらしい事をこそ案
P02305
じ出して候へ。喩ば安芸の厳島をば、平家なの
めならずあがめ敬れ候に、何かはくるしう候べき、
彼社へ御まいりあて、御祈誓候へかし。七日斗り
御参籠候はば、彼社には内侍とて、ゆうなる舞
姫共おほく候。めづらしう思ひまいらせて、も
てなしまいらせ候はんずらむ。何事の御祈誓
に御参籠候やらんと申候はば、ありのままに
仰候へ。さて御のぼりの時、御名残おしみ
P02306
まいらせ候はんずらむ。むねとの内侍共をめ
し具して、都まで御のぼり候へ。都へのぼり候
なば、西八条へぞ参候はんずらん。徳大P192寺殿
は何事の御祈誓に厳島へはまいらせ給
ひたりけるやらんと尋られ候はば、内侍ども
ありのままにぞ申候はむずらん。入道相国は
ことに物めでし給ふ人にて、わが崇給ふ
御神へまいて、祈申されけるこそうれしけれ
P02307
とて、よきやうなるはからひもあんぬと
覚え候」と申ければ、徳大寺殿「これこそ思ひ
もよらざりつれ。ありがたき策かな。やがて
まいらむ」とて、俄に精進はじめつつ、厳島へぞ
参られける。誠に彼社には内侍とてゆうなる
女どもおほかりけり。七日参籠せられける
に、よるひるつきそひ奉り、もてなす事
かぎりなし。七日七夜の間に、舞楽も三度
P02308
までありけり。琵琶琴ひき、神楽うたひ
など遊ければ、実定卿も面白事に覚しめ
し、神明法楽のために、いまやう朗詠うたい、
風俗催馬楽など、ありがたき郢曲どもあ
りけり。内侍共「当社へは平家の公達こそ
御まいりさぶらふに、この御まいりこそめづ
らしうさぶらへ。何事の御祈誓に御参籠
さぶらふやらん」と申ければ、「大将を人に
P02309
こえられたる間、その祈のため也」とぞおほ
せられける。さて七日参籠おはて、大明神に
暇申て都へのぼらせ給ふに、名残をを
しみ奉り、むねとのわかき内侍十余人、
舟をしたてて一日路をくり奉る。いとま申
けれ共、さりとてはあまりに名ごりのおし
きに、今一日路、P193今二日路と仰られて、みやこ
までこそ具せられけれ。徳大寺殿の亭へ
P02310
いれさせ給ひて、やうやうにもてなし、さま
ざまの御引出物共たうでかへされけり。内
侍共「これまでのぼる程では、我等がしうの
太政入道殿へ、いかでまいらで有べき」とて、西
八条へぞ参じたる。入道相国いそぎ出あひ給
ひて、「いかに内侍共は何事の列参ぞ」。「徳大
寺殿の御まいりさぶらふて、七日こもらせ
給ひて御のぼりさぶらふを、一日路をくり
P02311
まいらせてさぶらへば、さりとてはあまりに
名ごりのおしきに、今一日路二日路と仰ら
れて、是までめしぐせられてさぶらふ」。「徳
大寺は何事の祈誓に厳島まではまいら
れたりけるやらん」との給へば、「大将の御祈
のためとこそ仰られさぶらひしか」。其時
入道うちうなづいて、「あないとをし。王城にさ
しもたとき霊仏霊社のいくらもまします
P02312
をさしをいて、我崇奉る御神へまいて、祈申
されけるこそ有がたけれ。是ほど心ざし切
ならむ上は」とて、嫡子小松殿内大臣の左
大将にてましましけるを辞せさせ奉り、次
男宗盛大納言の右大将にておはしけるを
こえさせて、徳大寺を左大将にぞなされ
ける。あはれ、めでたかりけるはかりことかな。新
大納言も、かやうに賢きはからひをばし給はで、
P02313
よしなき謀反おこいて、我身も亡、子息所
従[*「従」は「徒」とも読める]に至るまで、かかるうき目をみせ給ふこ
そうたてけれ。P194『山門滅亡堂衆合戦』S0212 さる程に、法皇は三井寺の
公顕僧正を御師範として、真言の秘法
を伝受せさせましましけるが、大日経・金剛
頂経・蘇悉地経、此三部の秘法をうけさせ
給ひて、九月四日三井寺にて御潅頂ある
べしとぞ聞えける。山門の大衆憤申、「むかし
P02314
より御潅頂御受戒、みな当山にしてとげ
させまします事先規也。就中に山王の
化導は受戒潅頂のためなり。しかるを今
三井寺にてとげ〔させましまさば、寺を一向焼払ふべし」とぞ〕申ける。「是無益なり」と
て、御加行を結願して、おぼしめしとどまら
せ給ひぬ。さりながらも猶御本意な
ればとて、三井寺の公顕僧正をめし具し
て、天王寺へ御幸なて、五智光院をたて、
P02315
亀井の水を五瓶の智水として、仏法最
初の霊地にてぞ、伝法潅頂はとげさせまし
ましける。山門の騒動をしづめられんが
ために、三井寺にて御潅頂はなかりしか共、
山上には、堂衆学生不快の事いできて、
かつせん度々に及。毎度に学侶うちおと
されて、山門の滅亡、朝家の御大事とぞ見
えし。堂衆と申は、学生の所従也ける童
P02316
部が法師になたるや、若は中間法師原にて
ありけるが、金剛寿院の座P195主覚尋権僧正
治山の時より、三塔に結番して、夏衆と
号して、仏に花まいらせし者共也。近年
行人とて、大衆をも事共せざりしが、かく
度々の戦にうちかちぬ。堂衆等師主の命
をそむいて合戦を企、すみやかに誅罰せ
らるべきよし、大衆公家に奏聞し、武家に
P02317
触うたう。これによて太政入道院宣を承り、
紀伊国の住人湯浅権守宗重以下、畿
内の兵二千余騎、大衆にさしそへて堂衆
を攻らる。堂衆日ごろは東陽坊にありし
が、近江国三ケの庄に下向して、数多の勢を
率し、又登山して、さう井坂に城をして
たてごもり。同九月廿日辰の一点に、大衆三
千人、官軍二千余騎、都合其勢五千余
P02318
人、さう井坂におしよせたり。今度はさり共
とおもひけるに、大衆は官軍をさきだて
むとし、官軍は又大衆をさきだてんと
あらそふ程に、心々にてはかばかしうもたたか
はず。城の内より石弓はづしかけたりけ
れば、大衆官軍かずをつくいてうたれに
けり。堂衆に語らふ悪党と云は、諸国の
窃盜・強盜・山賊・海賊等也。欲心熾盛に
P02319
して、死生不知の奴原なれば、我一人と
思きてたたかふ程に、今度も又学生いく
さにまけにけり。P196『山門滅亡』S0213其後は山門いよいよ荒は
てて、十二禅衆のほかは、止住の僧侶もまれ
也。谷々の講演磨滅して、堂々の行法も
退転す。修学の窓を閉、坐禅の床をむ
なしうせり。四教五時の春の花もにほはず、
三諦即是の秋の月もくもれり。三百余
P02320
歳の法燈を挑る人もなく、六時不断の
香の煙もたえやしぬらん。堂舎高くそ
びへて、三重の構を青漢の内に挿み、棟
梁遥に秀て、四面の椽を白霧の間に
かけたりき。され共、今は供仏を嶺の
嵐にまかせ、金容を紅瀝にうるほす。夜
の月灯をかかげて、簷のひまよりもり、
暁の露珠を垂て、蓮座の粧をそふ
P02321
とかや。夫末代の俗に至ては、三国の仏法
も次第に衰微せり。遠く天竺に仏跡をと
ぶらへば、昔仏の法を説給ひし竹林精
舎・給孤独園も、此比は狐狼野干の栖と
なて、礎のみや残らん。白鷺池には水たえて、
草のみふかくしげれり。退梵下乗の卒
都婆も苔のみむして傾ぬ。震旦にも天台山・
五台山・白馬寺・玉泉寺も、今は住侶なきさ
P02322
まに荒はてて、大小乗の法門も箱の底に
や朽ぬらん。我朝にも、南都の七大寺荒はて
て、八宗九宗も跡たえ、愛宕護・高雄も、
昔は堂塔軒をならべたりしか共、一夜の
うちに荒にしかば、天狗の棲となりはてぬ。
さればにP197や、さしもやごとなかりつる天台の
仏法も、治承の今に及で、亡はてぬるにや。
心ある人嘆かなしまずと云事なし。離山し
P02323
ける僧の坊の柱に、歌をぞ一首書たりける。
いのりこし我たつ杣の引かへて
人なきみねとなりやはてなむ W009
是は、伝教大師当山草創の昔、阿耨多
羅三藐三菩提[*「藐」は底本は「」]の仏たちにいのり申
されける事をおもひ出て、読たりける
にや。いとやさしうぞ聞えし。八日は薬師の
日なれども、南無と唱るこゑもせず、卯月は
P02324
垂跡の月なれ共、幣帛を捧る人もなし。
あけの玉墻かみさびて、しめなはのみや残
らん。『善光寺炎上』S0214其比善光寺炎上の由其聞あり。彼
如来と申は、昔中天竺舎衛国に五種の
悪病おこて人庶おほく亡しに、月蓋長
者が致請によて、竜宮城より閻浮檀金
をえて、釈尊、目蓮長者、心をひとつ
にして鋳あらはし給へる一ちやく手半の弥
P02325
陀の三尊、閻浮提第一の霊像也。仏滅度
の後、天竺にとどまらせ給事五百余歳、仏
法東漸の理にて、百済国にうつらせ給ひ
て、一千歳の後、百済の御門P198斉明王、吾朝の御
門欽明天皇の御宇に及て、彼国より此国へ
うつらせ給ひて、摂津国難波の浦にして
星霜ををくらせ給ひけり。つねは金色の
光をはなたせましましければ、これによて年
P02326
号を金光と号す。同三年三月上旬に、信濃
国の住人おうみの本太善光と云者、都へ
のぼりたりけるが、彼如来に逢奉りたり
けるに、やがていざなひまいらせて、ひるは善光、
如来ををい奉り、夜は善光、如来におはれ
たてまて、信濃国へ下り、みのちの郡に
安置したてましよりこのかた、星霜既に
五百八十余歳、炎上の例はこれはじめとぞ
P02327
承る。「王法つきんとては仏法まづ亡ず」といへ
り。さればにや、「さしもやごとなかりつる霊寺
霊山のおほくほろびうせぬるは、平家
の末になりぬる先表やらん」とぞ申
ける。『康頼祝言』S0215さるほどに、鬼界が島の流人共、つゆの
命草葉のすゑにかかて、おしむべきとには
あらねども、丹波少将のしうと平宰相の
領、肥前国鹿瀬庄より、衣食を常にをく
P02328
られければ、それにてぞ俊寛僧都も康
瀬も、命をいきて過しける。P199康瀬はながさ
れける時、周防室づみにて出家してを
れは、法名は性照とこそついたりけれ。
出家はもとよりの望なりければ、
つゐにかくそむきはてける世間を
とく捨ざりしことぞくやしき W010
丹波少将・康頼入道は、もとより〔熊野信じの人々なれば、「いかにもして此島のうちに〕熊野
P02329
の三所権現を勧請し奉て、帰洛の事をい
のり申さばや」と云に、俊寛僧都は天姓不信
第一の人にて、是をもちいず。二人はおなじ
心に、もし熊野に似たる所やあると、島のう
ちを尋まいるに、或林塘の妙なるあり、紅
錦繍の粧しなじなに。或雲嶺のあやしきあ
り、碧羅綾の色一にあらず。山のけしき、木
のこだちに至るまで、外よりもなを勝たり。
P02330
南を望めば、海漫々として、雲の波煙の浪
ふかく、北をかへりみれば、又山岳の峨々たる
より、百尺の滝水漲落たり。滝の音ことに
すさまじく、松風神さびたるすまひ、飛滝
権現のおはします那智のお山にさにたり
けり。さてこそやがてそこをば、那智のお山と
は名づけけれ。此峯は本宮、かれは新宮、是
はそむぢやう其王子、彼王子など、王子々々の
P02331
名を申て、康頼入道先達にて、丹波少将相
ぐしつつ、日ごとに熊野まうでのまねをし
て、帰洛の事をぞ祈ける。「南無権現
金剛童子、ねがはくは憐みをたれさせ
おはしまして、古郷へかへし入させ給へ。妻子
どもP200をば今一度みせ給へ」とぞ祈ける。
日数つもりてたちかふべき浄衣もな
ければ、麻の衣を身にまとひ、沢辺の
P02332
水をこりにかいては、岩田河のきよきな
がれと思ひやり、高き所にのぼては、発心
門とぞ観じける。まいるたびごとには、康
頼入道のとを申に、御幣紙もなかれば、
花を手折てささげつつ、
維あたれる歳次、治承元年丁酉、月のな
らび十月二月、日の数三百五十余ケ日、吉
日良辰を択で、かけまくも忝く、日本第
P02333
一大領験、熊野三所権現、飛滝大薩■
の教りやう、宇豆の広前にして、信心の
大施主、羽林藤原成経、並に沙弥性照、一心
清浄の誠を致し、三業相応の志を抽て、
謹でもて敬白。夫証城大菩薩は、済度苦
海の教主、三身円満の覚王也。或東方浄
瑠璃医王の主、衆病悉除の如来也。或
南方補堕落能化の主、入重玄門の大士。
P02334
若王子は娑婆世界の本主、施無畏者
の大士、頂上の仏面を現じて、衆生の所願
をみて給へり。是によて、かみ一人よりしも万
民に至るまで、或現世安穏のため、或後生ぜ
んしよのために、朝には浄水を結でぼん
なうのあかをすすぎ、夕には深山に向てほう
がうを唱るに、感応おこたる事なし。峨々たる
嶺のたかきをば、神徳のたかきに喩へ、嶮々たる
P02335
谷のふかきをば、弘誓のふかきに准へて、雲
を分てのぼり、露をしのいで下る。爰に利
益の地をP201たのまずむば、いかんが歩を嶮
難の路にはこばん。権現の徳をあふがずんば、
何かならずしも幽遠の境にましまさむ。仍証
城大権現、飛滝大薩■、青蓮慈悲の眸
を相ならべ、さをしかの御耳をふりたてて、我等が
無二の丹誠を知見して、一々の懇志を納受
P02336
し給へ。然ば則、むすぶ・はや玉の両所権現、
おのおの機に随て、有縁の衆生をみちびき、
無縁の群類をすくはむがために、七宝荘
厳のすみかをすてて、八万四千の光を和
げ、六道三有の塵に同じ給へり。故に定
業亦能転、求長寿得長寿の礼拝、袖
をつらね、幣帛礼奠を捧る事ひま
なし。忍辱の衣を重、覚道の花を捧て、
P02337
神殿の床を動じ、信心の水をすまして、
利生の池を湛たり。神明納受し給はば、所
願なんぞ成就せざらむ。仰願は、十二所権
現、利生の翅を並て、遥に苦海の空にかけ
り、左遷の愁をやすめて、帰洛の本懐を
とげしめ給へ。再拝。とぞ、康頼のとをば
申ける。『卒都婆流』S0216丹波少将・康頼入道、つねは三所
権現の御前にまいて、通夜するおりも
P02338
あP202りけり。或時二人通夜して、夜もすがら
いまやうをぞうたひける。暁がたに、康
頼入道ちとまどろみたる夢に、おきより
白い帆かけたる小船を一艘こぎよせて、
舟のうちより紅の袴きたる女房達
二三十人あがり、皷をうち、こゑを調て、よろ
づの仏の願よりも千手の誓ぞたのも
しき枯たる草木も忽に花さき実なる
P02339
とこそきけ K013 Iと、三べんうたひすまして、
かきけつやうにぞうせにける。夢さめ
て後、奇異の思をなし、康頼入道
申けるは、「是は竜神の化現とおぼえたり。
三所権現のうちに、西の御前ぜん)と申は、本地
千手観音にておはします。竜神は則千
手の廿八部衆の其一なれば、もて御納
受こそたのもしけれ」。又或夜二人通夜して、
P02340
おなじうまどろみたりける夢に、おき
より吹くる風の、二人が袂に木の葉を
ふたつふきかけたりけるを、何となう
とて見ければ、御熊野の南木の葉に
てぞ有ける。彼二の南木の葉に、一首の
歌を虫ぐひにこそしたりけれ。
千はやぶる神にいのりのしげければ
などか都へ帰らざるべき W011
P02341
康頼入道、古郷の恋しきままに、せめてのは
かりことに、千本の卒都婆を作り、■字の
梵字・年号・月日、仮名実名、二首の歌
をぞかいたりけり。P203
さつまがたおきのこじまに我ありと
おやにはつげよやへのしほかぜ W012
おもひやれしばしとおもふ旅だにも
なをふるさとはこひしきものを W013
P02342
是に浦にもて出て、「南無帰命頂礼、梵
天帝尺、四大天王、けんらふ地神、鎮守諸
大明神、殊には熊野権現、厳島大明神、
せめては一本成共都へ伝てたべ」とて、奥
津しら波のよせてはかへるたびごとに、卒
都婆を海にぞ浮べける。卒都婆を作り
出すに随て、海に入ければ、日数つもれば
卒都婆のかずもつもり、そのおもふ心や便
P02343
の風ともなりたりけむ、又神明仏陀も
やをくらせ給ひけむ、千本の卒都婆のな
かに一本、安芸国厳島の大明神の御まへの
渚にうちあげたり。康頼がゆかりありけ
る僧、しかるべき便もあらば、いかにもして
彼島へわたて、其行衛をきかむとて、西
国修行に出たりけるが、先厳島へぞま
いりける。爰に宮人とおぼしくて、狩ぎぬ
P02344
装束なる俗一人出きたり。此僧何となき
物語しけるに、「夫、和光同塵の利生さまざま
なりと申せども、いかなりける因縁をもて、
此御神は海漫の鱗に縁をむすばせ給
ふらん」ととひ奉る。宮人答けるは、「是は
よな、娑竭羅竜王の第三の姫宮、胎蔵
界の垂跡也」。此島に御影向ありし初より、
済度利生の今に至るまで、甚深〔の〕奇特
P02345
の事共をぞかたりける。さればにや、八社の
御殿甍をならべ、社はわだづみのほとりな
れば、塩のみちP204ひに月こそすむ。しほみ
ちくれば、大鳥居あけの玉墻瑠璃の
如し。塩引ぬれば、夏の夜なれど、御まへの
しら州に霜ぞをく。いよいよたとく覚えて、法
施まいらせて居たりけるに、やうやう日く
れ、月さし出て、塩のみちけるが、そこはか
P02346
となき藻くづ共のゆられよりけるなか
に、卒都婆のかたのみえけるを、何となうとて
見ければ、奥のこじまに我ありと、かきなが
せることのは也。文字をばゑり入きざみ
付たりければ、浪にもあらはれず、あざ
あざとしてぞみえたりける。「あなふしぎ」
とて、これを取て笈のかたにさし、都へ
のぼり、康頼が老母の尼公妻子共が、一条
P02347
の北、紫野と云所に忍つつすみける
に、見せたりければ、「さらば、此卒都婆が
もろこしのかたへもゆられゆかで、なにしにこれ
までつたひ来て、今更物をおもはすらん」
とぞかなしみける。遥の叡聞に及て、法
皇これを御覧じて、「あなむざんや。され
ばいままで此者共は、命のいきてあるに
こそ」とて、御涙をながさせ給ふぞ忝き。小
P02348
松のおとどのもとへをくらせ給ひたり
ければ、是を父の入道相国にみせ奉り
給ふ。柿本人丸は島がくれゆく船を思ひ、
山辺の赤人はあしべのたづをながめ給ふ。
住吉の明神はかたそぎの思をなし、三輪
の明神は杉たてる門をさす。昔素盞
烏尊、三十一字のやまとうたをはじめを
き給ひしよりこのかた、もろもろの神明仏
P02349
陀も、彼詠吟P205をもて百千万端[M 「百千万騎端」とあり「騎」をミセケチ]の思ひ
をのべ給ふ。入道も石木ならねば、さすが
哀げにぞの給ひける。『蘇武』S0217入道相国のあは
れみたまふうへは、京中の上下、老たる
もわかきも、鬼界がの島の流人の歌と
て、口ずさまぬはなかりけり。さても千本
まで作りたりける卒都婆なれば、〔さ〕こそ
はちいさうもありけめ、薩摩潟よりはる
P02350
ばると都までつたはりけるこそふしぎ
なれ。あまりにおもふ事はかくしるしある
にや。いにしへ漢王胡国を攻られけるに、はじ
めは李少卿を大将軍にて、三十万騎むけら
れたりけるが、漢王のいくさよはく、胡国の
たたかひこはくして、官軍みなうちほろ
ぼさる。剰大将軍李少卿、胡王のためにい
けどらる。次に蘇武を大将軍にて、五十
P02351
万騎をむけらる。猶漢のいくさよはく、
えびすのたたかひこはくして、官軍皆
亡にけり。兵六十余人いけどらる。其中に、
大将軍蘇武をはじめとして、宗との兵六
百三十余人すぐり出して、一々にかた足をき
ておぱなつ。則死する者もあり、ほどへて死
ぬる者もあり。其なかにされP206共蘇武はし
なざりけり。かた足なき身となて、山に
P02352
のぼては木の実をひろひ、春は沢の根
芹を摘、秋は田づらのおち穂ひろひな
どしてぞ、露の命を過しける。田にいく
らもありける鴈ども、蘇武に見なれて
おそれざりければ、これはみな我古郷へか
よふものぞかしとなつかしさに、おもふ事
を一筆かいて、「相かまへて是漢王に奉
れ」と云ふくめ、鴈の翅にむすび付てぞ
P02353
はなちける。かひがひしくもたのむの鴈、秋
は必こし地より都へ来るものなれば、漢
昭帝上林苑に御遊ありしに、夕ざれの
空薄ぐもり、何となう物哀なりけるおり
ふし、一行の鴈とびわたる。その中に鴈一と
びさがて、をのが翅を結付たる玉童をく
ひきてぞおとしける。官人是をとて、御門に
奉る。披て叡覧あれば、「昔は巌崛の洞
P02354
にこめられて、三春の愁歎ををくり、今は曠
田の畝に捨られて、胡敵の一足となれり。設
かばねは胡の地にさらすと云共、魂は二たび君
辺につかへん」とぞかいたりける。それより
してぞ、ふみをば鴈書ともいひ、鴈札
とも名付たり。「あなむざんや、蘇武がほ
まれの跡なりけり。いまだ胡国にあるに
こそ」とて、今度は李広と云将軍に仰て、
P02355
百万騎をさしつかはす。今度は漢の戦こはく
して、胡国のいくさ破にけり。御方たたかひかち
ぬと聞えしかば、P207蘇武は曠野のなかよりはい出
て、「是こそいにしへの蘇武よ」とぞなのる。十
九年の星霜を送て、かた足はきられな
がら、輿にかかれて古郷へぞ帰りける。蘇武
は十六の歳、胡国へむけられけるに、御
門より給りたりける旗を、何としてかかく
P02356
したりけん、身をはなたずもたりけり。
今取出して御門のげむざんにいれたりけ
れば、きみも臣も感嘆なのめならず。君
のため大功ならびなかりしかば、大国あま
た給はり、其上天俗国と云司を下され
けるとぞ聞えし。李少卿は胡国にとどまて終
に帰らず。いかにもして、漢朝へ帰らむとのみ
なげけども、胡王ゆるさねばかなはず。漢王
P02357
これをしり給はず。君のため不忠のもの
なりとて、はかなくなれる二親が死骸を
ほりおこいてうたせらる。其外六親をみ
なつみせらる。李少卿是を伝きいて、恨
ふかうぞなりにける。さりながらも猶古
郷を恋つつ、君に不忠なき様を一巻の
書に作てまいらせたりければ、「さては不便
の事ごさんなれ」とて、父母がかばねを堀いだい
P02358
てうたせられたる事をぞ、くやしみ給ひけ
る。漢家の蘇武は書を鴈の翅に付て旧
里へ送り、本朝の康頼は浪のたよりに
歌を故郷に伝ふ。かれは一筆のすさみ、〔これは二首の歌、かれは上代、これは末P208代、胡国〕
鬼界が島、さかひをへだて、世々はかはれ
ども、風情はおなじふぜい、ありがたかりし
事ども也。

P02359
平家物語巻第二

平家物語(龍谷大学本)巻三

【許諾済】
本テキストの公開については、龍谷大学大宮図書館の許諾を得ています。底本使用・テキスト公開を許可された同図書館に厚く御礼申し上げます。
【注意】
本テキストの利用は個人の研究の範囲内に限られます。本テキストの全体あるいは一部の複写物・複写加工物を、インターネット上で、あるいは出版物(CD−ROM等を含む)として公表する場合には、事前に龍谷大学大宮図書館に翻刻掲載許可願いを申請する必要があります。同図書館の許可を得ない本テキストの公表は禁じられています。翻刻掲載許可願い申請送付先:〒600-8268 京都市下京区七条通大宮東入大工町125−1 龍谷大学大宮図書館閲覧係
【底本】
本テキストの底本は、龍谷大学大宮図書館所蔵『平家物語』です。直接には、思文閣出版発行の影印本(龍谷大学善本叢書13)に拠りました。


P03363
(表紙)
P03367
(目録)
  三
一 免シ状
二 御産の巻 御産平安にある ヨリ
三 大塔建立 仁和寺御室は東寺修造  ヨリ
四 頼豪 白河院御在位の御時 ヨリ
五 少将都帰 明れば治承三年 ヨリ
六 有王嶋下 去程に、鬼界が島へ ヨリ
七 医師問答 同五月十二日午剋 ヨリ
八 無紋 天性このおとどは ヨリ
P03369
平家物語巻第三P209
赦文S0301
治承二年正月一日、院御所には拝礼をこ
なはれて、四日朝覲の行幸有ける。例に
かはりたる事はなけれ共、去年の夏新
大納言成親卿以下、近習の人々多くうし
なはれし事、法皇御憤いまだやまず、世の
政も物うくおぼしめされて、御心よからぬ
ことにてぞありける。太政入道も、多田蔵人行
P03370
綱が告しらせて後は、君をも御うしろめたき
事に思ひ奉て、うへには事なき様なれ
共、下には用心して、にがわらひてのみぞあり
ける。同正月七日、彗星東方にいづ。蚩尤
気とも申。又赤気共申。十八日光をます。去
程に、入道相国の御むすめ建礼門院、其比は未
中宮と聞えさせ給しが、御悩とて、雲のうへ
天が下の歎きにてぞありける。諸寺に御読経
P03371
始まり、諸社へ官P210幣を立らる。医家薬を
つくし、陰陽術をきはめ、大法秘法一として
残る処なう修せられけり。され共、御悩ただ
にも渡らせ給はず、御懐姙とぞ聞えし。主上
は今年十八、中宮は廿二にならせ給ふ。しかれ共、
いまだ皇子も姫宮も出きさせ給はず。もし
皇子にてわたらせ給はばいかに目出からんと
て、平家の人々はただ今皇子御誕生のある
P03372
様に、いさみ悦びあはれけり。他家の人々も、「平
氏の繁昌おりをえたり。皇子御誕生疑なし」
とぞ申あはれける。御懐姙さだまらせ給しかば、
有験の高僧貴僧に仰せて、大法秘法を
修し、星宿仏菩薩につげて、皇子御誕生と
祈誓せらる。六月一日、中宮御着帯ありけり。
仁和寺の御室守覚法親王、御参内あて、
孔雀経の法をもて御加持あり。天台座主
P03373
覚快法親王、おなじうまいらせ給て、変成男子の
法を修せらる。かかりし程に、中宮は月のかさなるに
随て、御身をくるしうせさせ給ふ。一たびゑめば
百の媚ありけむ漢の李夫人の、承陽殿の
病のゆかもかくやとおぼえ、唐の楊貴姫、李花
一枝春の雨ををび、芙蓉の風にしほれ、女
郎花の露おもげなるよりも、猶いたはしき
御さまなり。かかる御悩の折節にあはせて、こはき
P03374
御物気共、取いり奉る。よりまし明王の縛に
かけて、霊あらはれたり。殊には讃岐院の御霊、
宇治悪左府の憶念、新大納言成親卿の死
霊、西光法師が悪霊、P211鬼界の島の流人共が
生霊などぞ申ける。是によて、太政入道生霊
も死霊もなだめらるべしとして、其比やがて讃
岐院御追号あて、崇徳天皇と号す。宇治悪左
府、贈官贈位をこなはれて、太政大臣正一位を
P03375
をくらる。勅使は少内記維基とて聞えし。件の
墓所は大和国そうのかんの郡、川上の村、般若野
の五三昧也。保元の秋ほりをこして捨られ
し後は、死骸路の辺の土となて、年々にただ
春の草のみ茂れり。今勅使尋来て宣命
を読けるに、亡魂いかにうれしとおぼしけむ。
怨霊は昔もおそろしきこと也。されば早良
廃太子をば崇道天皇と号し、井上の内
P03376
親王をば皇后の職位にふくす。是みな怨
霊を寛められしはかりこと也。冷泉院の御物
ぐるはしうましまし、花山の法皇の十禅万
乗の帝位をすべらせ給しは、基方民部卿が
霊とかや。三条院の御目も御覧ぜざりしは、
観算供奉が霊也。門脇宰相か様の事共
伝へきいて、小松殿に申されけるは、「中宮御
産の御祈さまざまに候也。なにと申候共、非常の
P03377
赦に過たる事あるべしともおぼえ候はず。
中にも、鬼界の島の流人共めしかへされた
らむほどの功徳善根、争か候べき」と申されけれ
ば、小松殿父の禅門の御まへにおはして、「あの
丹波少将が事を、宰相のあながちに歎申
候が不便候。中宮御悩の御こと、承P212及ごとくんば、
殊更成親卿が死霊など聞え候。大納言が死
霊など聞え候。大納言が死霊をなだめむと
P03378
おぼしめさんにつけても、生て候少将をこそ
めしかへされ候はめ。人のおもひをやめさせ給
はば、おぼしめす事もかなひ、人の願ひをかな
へさせ給はば、御願もすなはち成就して、中
宮やがて皇子御誕生あて、家門の栄花
弥さかむに候べし」など申されければ、入道相国、
日比にもにず事の外にやはらひで、「さてさて、俊
寛と康頼法師が事はいかに」。「それもおなじう
P03379
めしこそかへされ候はめ。若一人も留められんは、
中々罪業たるべう候」と申されければ、「康頼法
師が事はさる事なれ共、俊寛は随分入道が
口入をもて人となたる物ぞかし。それに所しも
こそ多けれ、わが山荘鹿の谷に城郭をかま
へて、事にふれて奇恠のふるまひ共が有けん
なれば、俊寛をば思ひもよらず」と〔ぞ〕の給ける。
小松殿かへて、叔父の宰相殿よび奉り、「少将は
P03380
すでに赦免候はんずるぞ。御心やすう思食され
候へ」との〔た〕まへば、宰相手をあはせてぞ悦れける。
「下りし時も、などか申うけざらむとおもひたり
げにて、教盛を見候度ごとには涙をながし候
しが不便候」と申されければ、小松殿「まことに
さこそおぼしめされ候らめ。子は誰とてもかなし
ければ、能々申候はん」とて入給ぬ。P213去程に、鬼界が
島の流人共めしかへさるべき事さだめられ
P03381
て、入道相国ゆるしぶみ下されけり。御使すでに
都をたつ。宰相あまりのうれしさに、御使に私
の吏をそへてぞ下されける。よるを昼にして
いそぎ下たりしか共、心にまかせぬ海路なれば、
浪風をしのいで行程に、都をば七月下旬に
出たれ共、長月廿日比にぞ、鬼界の島には着に
ける。足摺S0302 御使は丹左衛門尉基康といふ者也。船より
あがて、「是に都よりながされ給し丹波少将殿、
P03382
法勝寺執行御房、平判官入道殿やおはする」
と、声々にぞ尋ける。二人の人々は、例の熊野
まうでしてなかりけり。俊寛僧都一人のこ
たりけるが、是をきき、「あまりに思へば夢やらん。
又天魔波旬の我心をたぶらかさむとていふ
やらむ。うつつ共覚えぬ物かな」とて、あはてふた
めき、はしるともなく、たをるる共なく、いそぎ
御使のまへに走りむかひ、「何事ぞ。是こそ京
P03383
よりながされたる俊寛よ」と名乗り給へば、
雑色が頸にかけさせたる小袋より、入道相国の
ゆるしぶみ取出いて奉る。ひらいてみれば、「重科は
遠P214流にめんず。はやく帰洛の思ひをなすべし。
中宮御産の御祈によて、非常の赦をこなは
る。然間鬼界の島の流人、少将成経、康頼
法師赦免」とばかり書〔れ〕て、俊寛と云文字はなし。
らいしにぞあるらむとて、礼紙をみるにもみえず。
P03384
奥よりはしへよみ、端より奥へ読けれ共、二人
とばかりかかれて、三人とはかかれず。さる程に、少
将や判官入道も出きたり。少将のとてよむ
にも、康頼入道が読にも、二人とばかり書れて
三人とはかかれざりけり。夢にこそかかる事は
あれ、夢かと思ひなさんとすればうつつ也。うつつ
かと思へば又夢の如し。其うへ二人の人々
のもとへは、都よりことづけぶみ共いくらもあり
P03385
けれ共、俊寛僧都のもとへは、事とふ文一も
なし。「抑われら三人は罪もおなじ罪、配所も
一所也。いかなれば赦免の時、二人はめしかへされて、
一人ここに残るべき。平家の思ひわすれかや、
執筆のあやまりか。こはいかにしつる事共
ぞや」と、天にあふぎ地に臥て、泣かなしめ共かひ
ぞなき。少将の袂にすがて、「俊寛がかく成と
いふも、御へんの父、故大納言殿のよしなき
P03386
謀反ゆへ也。さればされば、よその事とおぼすべからず。
ゆるされなければ、都までこそかなはずと云共、此
船にのせて、九国の地へつけ給へ。をのをのの
是におはしつる程P215こそ、春はつばくらめ、秋は
田のむの鴈の音づるる様に、をのづから古郷の
事をも伝へきいつれ。今より後、何としてかは
聞べき」とて、もだえこがれ給ひけり。少将「まこ
とにさこそはおぼしめされ候らめ。我等がめし
P03387
かへさるるうれしさは、さる事なれ共、御あり様
を見をき奉るに、行べき空も覚えず。うち
のせたてまても上りたう候が、都の御使もかなふ
まじき由申うへ、ゆるされもないに、三人ながら島
を出たりなど聞えば、中々あしう候なん。成経
まづ罷りのぼて、人々にも申あはせ、入道相国
の気色をもうかがふて、むかへに人を奉らむ。其
間は、此日比おはしつる様におもひなして待給へ。
P03388
何と〔しても〕命は大切の事なれば、今度こそもれさせ
給ふ共、つゐにはなどか赦免なうて候べき」となぐさめ
たまへ共、人目もしらず泣もだえけり。既に船
出すべしとてひしめきあへば、僧都のてはおりつ、
おりてはのつ、あらまし事をぞし給ひける。少将
の形見にはよるの衾、康頼入道が形見には
一部の法花経をぞとどめける。ともづなといて
おし出せば、僧都綱に取つき、腰になり、脇になり、
P03389
たけの立まではひかれて出、たけも及ば
ず成ければ、船に取つき、「さていかにをのをの、俊
寛をば遂に捨はて給ふか。是程とこそおもは
ざりつれ。日比の情も今は何ならず。ただ
理をまげてのせ給へ。せめては九P216国の地まで」
とくどかれけれ共、都の御使「いかにもかなひ候ま
じ」とて、取つき給へる手を引のけて、船をば
つゐに漕出す。僧都せん方なさに、渚にあがり
P03390
たふれふし、おさなき者のめのとや母などを
したふやうに、足ずりをして、「是のせてゆけ、
ぐしてゆけ」と、おめきさけべ共、漕行船の
習にて、跡はしら浪ばかり也。いまだ遠からぬ
ふねなれ共、涙に暮てみえざりければ、僧都
たかき所に走あがり、澳の方をぞまねきける。
彼松浦さよ姫がもろこし船をしたひつつ、ひれ
ふりけむも、是には過じとぞみえし。船も漕かくれ、
P03391
日もくるれ共、あやしのどへも帰らず。浪に足
うちあらはせて、露にしほれて、其夜はそこ
にぞあかされける。さり共少将はなさけふかき
人なれば、よき様に申事もあらんずらむと
憑をかけ、その瀬に身をもなげざりける
心の程こそはかなけれ。昔壮里・息里が海
岳山へはなたれけむかなしみも、いまこそ思ひ
しられけれ。御産S0303去程に、此人々は鬼界の島を出て、
P03392
平宰相の領、肥前国鹿瀬庄に着給ふ。宰P217
相、京より人を下して、「年の内は浪風はげ
しう、道の間もおぼつかなう候に、それにて能々
身いたはて、春にはて上りたまへ」とありければ、
少将鹿瀬庄にて、年を暮す。さる程に、同
年の十一月十二日寅剋より、中宮御産の
気ましますとて、京中六波羅ひしめき
あへり。御産所は六波羅池殿にてありけるに、
P03393
法皇も御幸なる。関白殿を始め奉て、太政
大臣以下の公卿殿上人、すべて世に人とかぞへられ、
官加階にのぞみをかけ、所帯・所職を帯する
程の人の、一人ももるるはなかりけり。先例、女御
后御産の時にのぞんで、大赦をこなはるる
事あり。大治二年九月十一日、待賢門院御
産の時、大赦ありき。其例とて、今度も重科
の輩おほくゆるされける中に、俊寛僧都
P03394
二 一人、赦免なかりけるこそうたてけれ。御産平
安にあるならば、八幡・平野・大原野などへ行
啓なるべしと、御立願ありけり。仙源法印是を
敬白す。神社は太神宮を始め奉て廿余ケ所、
仏寺は東大寺・興福寺以下十六ケ所に御誦
経あり。御誦経の御使は、宮の侍の中に
有官の輩是をつとむ。ひやうもんの狩衣に
帯剣したる者共が、色々の御誦経もつ、御剣
P03395
御衣を持つづいて、東の台より南庭をわたて、
西の中門にいづ。目出たかし見物也。P218小松の
おとどは、例の善悪にさはがぬ人にておはしければ、
其後遥に程へて、嫡子権亮少将以下公達
の車共みなやりつづけさせ、色々の絹四十
領、銀剣七、広ぶたにをかせ、御馬十二疋ひかせて
まいり給ふ。寛弘に上東門院御産の時、御堂
殿御馬をまいらせられし其例とぞ聞えし。この
P03396
おとどは、中宮の御せうとにておはしけるうへ、
父子の御契なれば、御馬まいらせ給ふもことはり也。
五条大納言国綱卿、御馬二疋進せらる。「心
ざしのいたりか、徳のあまりか」とぞ人申ける。
なを伊勢より始て、安芸の厳島にいたる
まで、七十余ケ所へ神馬を、立らる。大内にも、
竜の御馬に四手つけて、数十疋ひたてたり。
仁和寺の御室は孔雀経の法、天台座主覚快
P03397
法親王は七仏薬師の法、寺の長吏円慶法親
王は金剛童子の法、其外五大虚空蔵・六観音、
一字金輪・五壇法、六字加輪・八字文殊、普賢延
命にいたるまで、残る処なう修せられけり。護摩の
煙御所中にみち、鈴の音雲をひびかし、修法
の声身の毛よだて、いかなる御物の気なり共、
面をむかふべしともみえざりけり。猶仏所の
法印に仰て、御身等身の七仏薬師、並に
P03398
五大尊の像をつくり始めらる。かかりしか共、
中宮はひまなくしきらせ給ふばかりにて、御
産もとみに成やらず。入道相国・二位殿、胸に
手ををいて、「こはいかにせん、いかにせむ」とP219ぞあ
きれ給ふ。人の物申けれ共、ただ「ともかうも能様に、
よきやうに」とぞの給ける。「さり共いくさの陣
ならば、是程浄海は臆せじ物を」とぞ、後には
仰られける。御験者は、房覚・性運両僧正、春堯
P03399
法印、豪禅・実専両僧都、をのをの僧加の
句共あげ、本山の三実、年来所持の本
尊達、〔責〕ふせ〔責〕ふせもまれ
けり。誠にさこそはと覚て
たとかりける中に、法皇は折しも、新熊野へ
御幸なるべきにて、御精進の次でなりける
間、錦帳ちかく御座あて、千手経をうち
あげうちあげあそばされけるにこそ、今一きは事
かはて、さしも踊りくるふ御よりまし共が
P03400
縛も、しばらくうちしづめけれ。法皇仰なり
けるは、「いかなる物気なり共、この老法師がかくて
候はんには、争かちかづき奉るべき。就中にいま
あらはるる処の怨霊共は、みなわが朝恩に
よて人となし物共ぞかし。たとひ報謝の心を
こそ存ぜず共、豈障碍をなすべきや。速にまかり
退き候へ」とて「女人生産しがたからむ時にのぞんで、
邪魔遮生し、苦忍がたからむにも、心をいた
P03401
して大悲呪を称誦せば、鬼神退散して、
安楽に生ぜん」とあそばいて、皆水精の御
数珠おしもませ給へば、御産平安のみならず、
皇子にてこそましましけれ。頭中将重衡、其
時はいまだ中宮亮にておはしけるが、御簾の
内よりつとP220出て、「御産平安、皇子御誕生候ぞ」と、
たからかに申されければ、法皇を始まいらせて、
関白殿以下の大臣、公卿殿上人、をのをのの
P03402
助修、数輩の御験者、陰陽頭・典薬頭、すべて
堂上堂下一同にあと悦あへる声、門外まで
どよみて、しばしはしづまりやらざりけり。入道
相国あまりのうれしさに、声をあげてぞ
なかれける。悦なきとは是をいふべきにや。
小松殿、中宮の御方にまいらせ給ひて、金
銭九十九文、皇子の御枕にをき、「天をもて
父とし、地をもて母とさだめ給へ。御命は方
P03403
士東方朔が齢をたもち、御心には天照大神
入かはらせ給へ」とて、桑の弓・蓬の矢にて、天地
四方を射させらる。 公卿揃S0304 御乳には、前右大将宗
盛卿の北方と定られたりしが、去七月に
難産をしてうせ給しかば、御めのと平大納
言時忠卿の北方、御乳にまいらせ給ひけり。後には
帥の典侍とぞ申ける。法皇やがて還御、御
車を門前に立られたり。入道相国うれしさの
P03404
あまりに、砂金一千両、富士の綿二千両、
法皇へ進上ぜらる。しかるべからずとぞ人々内々
ささやきあはれける。P221今度の御産に勝事
あまたあり。まづ法皇の御験者。次に后御産の
時、御殿の棟より甑をまろばかす事あり。皇
子御誕生には南へおとし、皇女誕生には北へ
おとすを、是は北へおとしたりければ、「こはいかに」と
さはがれて、取あげ落しなをしたりけれ
P03405
共、あしき御事に人々申あへり。おかしかりしは
入道相国のあきれざま、目出たかりしは小松の
おとどのふるまひ。ほいなかりしは右大将宗盛
卿の最愛の北方にをくれ奉て、大納言大
将両職を辞して籠居せられたりし事。兄
弟共に出仕あらば、いかに出たからむ。次には、七
人の陰陽師のめされて、千度の御祓仕
るに、其中に掃部頭時晴といふ老者あり。
P03406
所従なども乏少なりけり。余に人まいりつどひて、
たかんなをこみ、稲麻竹葦のごとし。「役人ぞ。
あけられよ」とて、おし分てまいる程に、右の沓
をふみぬかれぬ。そこにてちと立やすらふが、冠を
さへつきおとされぬ。さばかりの砌に、束帯ただしき
老者が、もとどりはなへてねり出たりければ、
わかき公卿殿上人こらへずして、一同にはとわ
らひあへり。陰陽師などいふは、反陪とて足をも
P03407
あだにふまずとこそ承れ。それにかかる不
思議の有ける、其時はなにとも覚えざりしか共、
後にこそ思ひあはする事共も多かりけれ。
御産によて六波羅へまいらせ給ふ人々、関白
松殿、太政大臣妙音院、左大臣大炊御門、P222右大臣
月輪殿、内大臣小松殿、左大将実定、源大納言定
房、三条大納言実房、五条大納言国綱、藤大納言
実国、按察使資方、中御門中納言宗家、花山院
P03408
中納言兼雅、源中納言雅頼、権中納言実綱、藤中
納言資長、池中納言頼盛、左衛門督時忠、別当忠
親、左の宰相中将実家、右の宰相中将実宗。新宰
相中将通親、平宰相教盛、六角宰相家通、堀河宰相
頼定、左大弁宰相長方、右大弁三位俊経、左兵衛督
重教、右兵衛督光能、皇太后宮大夫朝方、左京大夫長教、
太宰相大弐親宣、新三位実清、已〔上〕三十三人、右大弁の
外は直衣也。不参の人々、花山院前太政大臣忠雅公、
P03409
大宮大納言隆季卿以下十余人、後日に布衣着
して、入道相国の西八条亭へむかはれけるとぞ聞え
し。 大塔建立S0305 御修法の結願に勧賞共をこなはる。仁和寺
御室は東寺修造せらるべし、並に後七日の御
修法、大眼の法の、潅頂興行せらるべき由仰下
さる。御弟子覚誓僧都、法印に挙せらる。座主
宮は、二品並に牛車の宣旨を申させ給ふ。仁和寺
御室ささへ申させ給ふによて、法眼円良、法印
P03410
になさる。其外の勧賞共毛挙にP223いとまあらずとぞ
きこえし。中宮は日数へにければ、六波羅
より内裏へまいらせ給ひけり。此御むすめ后に
たたせ給しかば、入道相国夫婦共に、「あはれ、い
かにもして皇子御誕生あれかし。位につけ奉り、
外祖父、外祖母とあふがれん」とぞねがはれける。
わがあがめ奉る安芸の厳島に申さんとて、
月まうでを始て、祈り申されければ、中宮
P03411
やがて御懐姙あて、思ひのごとく皇子にてまし
ましけるこそ目出たけれ。抑平家の安芸
の厳島を信じ始られける事はいかにといふに、鳥
羽院の御宇に、清盛公いまだ安芸守たりし
時、安芸国をもて、高野の大塔を修理せよ
とて、渡辺の遠藤六郎頼方を雑掌に付られ、
六年に修理をはぬ。修理をはて後、清盛高野へ
のぼり、大塔をがみ、奥院へいられたりければ、いづく
P03412
より来る共なき老僧の、眉には霜をたれ、額に
浪をたたみ、かせ杖のふたまたなるにすがてい
でき給へり。良久しう御物語せさせ給ふ。「昔
よりいまにいたるまで、此山は密宗をひかへて
退転なし。天下に又も候はず。大塔すでに修理
をはり候たり。さては安芸の厳島、越前の気比の
宮は、両界の垂跡で候が、気比の宮はさかへたれ共、
厳島はなきが如て荒はてて候。此次に奏聞して
P03413
修理せさせ給へ。さだにも候はば、官加階は肩をなら
ぶる人もあるまじきぞ」とて立P224れけり。此老僧の
居給へる所に異香すなはち薫じたり。人を
付てみせ給へば、三町ばかりはみえ給て、其後はかき
けつやうに失給ぬ。ただ人にあらず、大師にてま
しましけりと、弥たとくおぼしめし、娑婆世界の
思出にとて、高野の金堂に曼陀羅をかかれける
が、西曼陀羅をば常明法印といふ絵師に書せ
P03414
らる。東曼陀羅をば清盛かかむとて、自筆に
書〔れ〕けるが、何とかおもはれけん、八葉の中尊を
宝冠をばわが首の血をいだいてかかれけるとぞ
聞えし。さて都へのぼり、院参して此由奏聞
せられければ、君もなのめならず御感あて、猶
任をのべられ、厳島を修理せらる。鳥居を立
かへ、社々を作りかへ、百八十間の廻廊をぞ造
られける。修理をはて、清盛厳島へまいり、通夜
P03415
せられたりける夢に、御宝殿の内より鬟ゆふ
たる天童の出て、「これは大明神の御使也。汝この
剣をもて一天四海をしづめ、朝家の御まぼりたる
べし」とて、銀のひるまきしたる小長刀を給はると
いふ夢をみて、覚て後見給へば、うつつに枕がみに
ぞたたりける。大明神御詫宣あて、「汝しれりや、
忘れりや、ある聖をもていはせし事は。但悪
行あらば、子孫まではかなふまじきぞ」とて、大明神
P03416
あがらせ給ぬ。目出たかりし御事也。P225頼豪S0306白河院御
在位の御時、京極大殿の御むすめ后にたたせ給
て、兼子の中宮とて、御最愛有けり。主上此御
腹に皇子御誕生あらまほしうおぼしめし、其比
有験の僧と聞えし三井寺の頼豪阿闍梨
をめして、「汝此后の腹に、皇子御誕生祈申せ。
御願成就せば、勧賞はこふによるべし」とぞ仰ける。
「やすう候」とて三井寺にかへり、百日肝胆を摧て
P03417
祈申ければ、中宮やがて百日のうちに御懐姙
あて、承保元年十二月十六日、御産平安、皇
子御誕生有けり。君なのめならず御感あて、
三井寺の頼豪阿闍梨をめして、「汝が所望の事は
いかに」と仰下されければ、三井寺に戒壇建立の事
を奏す。主上「これこそ存の外の所望なれ。一階
僧正などをも申べきかとこそおぼしめしつれ。凡は
皇子御誕生あて、祚をつがしめん事も、海内
P03418
無為を思ふため也。今汝が所望達せば、山門
いきどほて世上しづかなるべからず。両門合戦して、
天台の仏法ほろびなんず」とて、御ゆるされもな
かりけり。頼豪口おしい事也とて、三井寺に
かへて、ひ死にせんとす。主上大におどろかせ給て、
江帥匡房卿、其比は未美作守と聞えしを召て、
「汝は頼豪と師P226壇の契あんなり。ゆいてこしらへ
て見よ」と仰ければ、美作守綸言を蒙て頼豪が
P03419
宿坊に行むかひ、勅定の趣を仰含めんとする、
以外にふすぼたる持仏堂にたてごもり、おそろ
しげなるこゑして、「天子には戯の詞なし、
綸言汗の如しとこそ承れ。是程の所望かな
はざらむにをいて〔は〕、わが祈りだしたる皇子なれば、
取奉て魔道へこそゆかんずらめ」とて、遂に
対面もせざりけり。美作守帰りまいて、此由を
奏聞す。頼豪はやがてひ死に死にけり。君いかが
P03420
せんずると、叡慮をおどろからせおはします。皇子
やがて御悩つかせ給て、さまざまの御祈共有しか
共、かなうべしともみえさせ給はず。白髪なりける
老僧の、錫杖もて皇子の御枕にたたずみ、人々
の夢にもみえ、まぼろしにも立けり。おそろしな
どもおろかなり。去程に、承暦元年八月六日、
皇子御年四歳にて遂にかくれさせ給ぬ。敦文
の親王是なり。主上なのめならず御歎ありけり。山
P03421
門に又西京の座主、良信大僧、其比は円融房
の僧都とて、有験の僧と聞えしを、内裏へめして、
「こはいかがせんずる」と仰ければ、「いつも我山の力にて
こそか様の御願は成就する事候へ。九条右丞
相、慈恵大僧正に契申させ給しによてこそ、冷
泉院の皇子御誕生は候しか。やすい程の御事
候」とて、比叡山にかへりのぼP227り、山王大師に百日肝
胆を摧て祈申ければ、中宮やがて百日の
P03422
内に御懐姙あて、承暦三年七月九日、御産平
安、皇子御誕生有けり。堀河天皇是也。怨霊は
昔もおそろしき事也。今度さしも目出たき
御産に、大赦はをこなはれたりといへ共、俊寛
僧都一人、赦免なかりけるこそうたてけれ。同十
二月八日、皇子東宮にたたせ給ふ。傅には、小松内
大臣、大夫には池の中納言頼盛卿とぞ聞えし。 少将都帰S0307 
明れば治承三年正月下旬に、丹羽少将成
P03423
経、肥前国鹿瀬庄をたて、都へといそがれけれ
共、余寒猶はげしく、海上もいたく荒ければ、
浦づたひ島づたひして、きさらぎ十日比にぞ
備前児島に着給ふ。それより父大納言殿
のすみ給ける所を尋いりてみ給ふに、竹の
柱、ふりたる障子なんどにかきをかれたる筆のす
さみをみ給て、「人の形見には手跡に過たる
物ぞなき。書をき給はずは、いかでかこれをみる
P03424
べき」とて、康頼入道と二人、ようではなき、ない
てはよむ。「安元三年七月廿日出家、同廿
六日信俊下向」と書れたり。さてこそ源P228左衛
門尉信俊がまいりたりけるも知れけれ。そばなる
壁には、「三尊来迎有便。九品往生無疑」とも書
れたり。此形見を見給てこそ、さすが欣求浄土
ののぞみもおはしけりと、限りなき歎の中
にも、いささかたのもしげにはの給けれ。其墓
P03425
を尋て見給へば、松の一むらある中に、かひ
がひしう壇をついたる事もなし。土のすこし
たかき所に少将袖かきあはせ、いきたる人に
物を申やうに、泣々申されけるは、「遠き御まもりと
ならせおはしまして候事をば、島にてかすかに
伝へ承りしか共、心にまかせぬうき身
なれば、いそぎまいる事も候はず。成経彼島へ
ながされて、露の命消やらずして、二とせを
P03426
をくてめしかへさるるうれしさは、さる事にて
候へ共、この世にわたらせ給ふをも見まいらせ
て候ばこそ、命のながきかひもあらめ。是まで
はいそがれつれ共、いまより後はいそぐべし共
おぼえず」と、かきくどゐてぞなかれける。誠に存
生の時ならば、大納言入道殿こそ、いかに共の給ふ
べきに、生をへてたる習ひ程うらめしかり
ける物はなし。苔の下には誰かこたふべき。
P03427
ただ嵐にさはぐ松の響ばかりなり。其夜は
夜もすがら、康頼入道と二人、墓のまはりを
行道して念仏申、明ぬればあたらしう壇
つき、くぎぬき〔せ〕させ、まへに仮屋つくり、七日七P229夜
念仏申経書て、結願には大なる卒兜婆
をたて、「過去聖霊、出離生死、証大菩提」とかいて、
年号月日の下には、「孝子成経」と書れたれば、
しづ山がつの心なきも、子に過たる宝なしとて、
P03428
泪をながし袖をしぼらぬはなかりけり。年去
年来れ共、忘がたきは撫育の昔の恩、夢の
如く幻のごとし。尽がたきは恋慕のいまの涙也。
三世十方の仏陀の聖衆もあはれみ給ひ、
亡魂尊霊もいかにうれしとおぼしけむ。「いま
しばらく念仏の功をもつむべう候へ共、都に
待人共も心もとなう候らん。又こそまいり候はめ」とて、
亡者にいとま申つつ、泣々そこをぞ立れける。
P03429
草の陰にても余波おしうやおもはれけむ。
三月十八日、少将鳥羽へあかうぞ付給ふ。故
大納言の山荘、すはま殿とて鳥羽にあり。住
あらして年へにければ、築地はあれどもおほい
もなく、門はあれ共扉もなし。庭に立入見
給へば、人跡たえて苔ふかし。池の辺を見ま
はせば、秋山の春風に白波しきりにおりかけて、
紫鴛白鴎逍遥す。興ぜし人の恋しさに、尽せぬ
P03430
物は涙也。家はあれ共、らんもむ破て、蔀やり戸も
たえてなし。「爰には大納言のとこそおはせしか、
此妻戸をばかうこそ出入給しか。あの木をば、
みづからこそうへ給しか」などいひて、ことの葉に
つけて、ちちの事を恋しげにこその給ひけれ。
弥生なかの六日なれば、花はいまだ名残あり。
楊梅桃李P230の梢こそ、折しりがほに色々なれ。
昔のあるじはなけれ共、春を忘れぬ花なれや。
P03431
少将花のもとに立よて、桃李不言春幾暮
煙霞無跡昔誰栖 K017 ふる里の花の物いふ
世なりせばいかにむかしのことをとはまし W014 この
古き詩歌を口ずさみ給へば、康頼入道も
折節あはれに覚えて、墨染の袖をぞぬらし
ける。暮る程とは待れけれ共、あまりに名残
おしくて、夜ふくるまでこそおはしけれ。深行
ままには、荒たる宿のならひとて、ふるき軒
P03432
の板間より、もる月影ぞくまもなき。鶏籠
の山明なんとすれ共、家路はさらにいそがれず。
さてもあるべきならねば、むかへに乗物共つかはし
て待らんも心なしとて、泣々すはま殿を出つつ、
都へかへり入けむ心の内共、さこそはあはれにも
うれしうも有けめ。康頼入道がむかへにも乗
物ありけれ共、それにはのらで、「いまさら名残の惜き
に」とて、少将の車の尻にのて、七条河原
P03433
まではゆく。其より行別けるに、猶行もやらざり
けり。花の下の半日の客、月前の一夜の友、
旅人が一村雨の過行に、一樹の陰に立よて、
わかるる余波もおしきぞかし。况や是はうかりし
島のすまひ、船のうち、浪のうへ、一業所感の身
なれば、先世の芳縁も浅からずや思ひしられけん。P231
少将は舅平宰相の宿所へ立入給ふ。少将の
母うへは霊山におはしけるが、昨日より宰相の
P03434
宿所におはして待れけり。少将の立入給ふ
姿を一目みて、「命あれば」とばかりぞの給ける。引
かづいてぞ臥給ふ。宰相の内の〔女〕房、侍共さし
つどいて、みな悦なき共しけり。まして少将の
北方、めのとの六条が心のうち、さこそはうれしかりけめ。
六条は尽せぬ物おもひに、黒かりし髪もみなし
ろくなり、北方さしも花やかにうつくしうおは
せしか共、いつしかやせおとろへて、其人共みえ給はず。
P03435
ながされ給し時、三歳にて別しおさなき人、おと
なしうなて、髪ゆふ程也。又其御そばに、三ばかり
なるおさなき人のおはしけるを、少将「あれはいか
に」との給へば、六条「是こそ」とばかり申て、袖をか
ほにおしあてて涙をながしけるにこそ、さては
下りし時、心苦しげなる有さまを見をき
しが、事ゆへなくそ立けるよと、思ひ出ても
かなしかりけり。少将はもとのごとく院にめしつか
P03436
はれて、宰相中将にあがり給ふ。康瀬入道は、
東山双林寺にわが山荘のありければ、それに落
つゐて、先おもひつづけけり。
ふる里の軒のいたまに苔むして
おもひしほどはもらぬ月かな W015
やがてそこに籠居して、うかりし昔を思ひ
つづけ、宝物集といふ物語を書けるP232とぞ聞
えし。有王S0308去程に、鬼界が島へ三人ながされたりし
P03437
流人、二人はめしかへされて都へのぼりぬ。俊寛
僧都一人、うかりし島の島守に成にけるこそ
うたてけれ。僧都のおさなうより不便にして、
めしつかはれける童あり。名をば有王とぞ申ける。
鬼界が島の流人、今日すでに都へ入と聞えし
かば、鳥羽まで行むかふて見けれ共、わがしうは
みえ給はず。いかにと問ば、「それはなをつみふかしとて、
島にのこされ給ぬ」ときいて、心うしなどもおろ
P03438
か也。常は六波羅辺にたたずみありいて聞けれ
共、赦免あるべし共聞いださず。僧都の御むす
めのしのびておはしける所へまいて、「このせにも
もれさせ給て、御のぼりも候はず。いかにもして
彼島へわたて、御行えを尋まいらせむと
こそ思ひなて候へ。御ふみ給はらん」と申ければ、
泣々かいてたうだりけり。いとまをこふ共、よも
ゆるさじとて、父にも母にもしらせず、もろこし
P03439
船のともづなは、卯月さ月にとくなれば、夏衣
たつを遅くや思けむ、やよひの末に都を
出て、多くP233の浪路を凌ぎ過ぎ、薩摩潟
へぞ下りける。薩摩より彼島へわたる船津
にて、人あやしみ、きたる物をはぎとりなどし
けれ共、すこしも後悔せず。姫御前の御文
ばかりぞ人に見せじとて、もとゆひの中に隠
したりける。さて商人船にのて、件の島へ
P03440
わたてみるに、都にてかすかにつたへ聞しは
事のかずにもあらず。田もなし、畠もなし。村も
なし、里もなし。をのづから人はあれ共、いふ
詞も聞しらず。もしか様の者共の中に、わが
しうの行えやしりたるものやあらんと、「物まう
さう」どいへば、「何事」とこたふ。「是に都よりながされ
給し、法勝寺執行御房と申人の御行えや
しりたる」と問に、法勝寺共、執行共したらばこそ
P03441
返事もせめ。頸をふて知ずといふ。其中に
ある者が心得て、「いさとよ、さ様の人は三人是に
有しが、二人はめしかへされて都へのぼりぬ。いま
一人はのこされて、あそこ爰にまどひありけ
共、行えもしらず」とぞいひける。山のかたのおぼ
つかなさに、はるかに分入、峯によぢ、谷に下れ共、
白雲跡を埋で、ゆき来の道もさだかならず。
青嵐夢を破て、その面影もみえざりけり。
P03442
山にては遂に尋もあはず。海の辺について
尋るに、沙頭に印を刻む鴎、澳のしら州に
すだく浜千鳥の外は、跡とふ物もなかりけり。
ある朝、いその方よりかげろふなどのやうに
やせおとろへたる者よろぼひP234出きたり。もとは
法師にて有けると覚えて、髪は空さまへ
おひあがり、よろづの藻くづとりつゐて、をどろ
をいただいたるが如し。つぎ目あらはれて皮
P03443
ゆたひ、身にきたる物は絹布のわきも見え
ず。片手にはあらめをひろいもち、片手には
網うどに魚をもらふてもち、歩むやうにはし
けれ共、はかもゆかず、よろよろとして出きたり。
「都にて多くの乞丐人みしか共、かかる者をば
いまだみず。「諸阿修羅等居在大海辺」とて、修
羅の三悪四趣は深山大海のほとりにありと、
仏の解をき給ひたれば、しらず、われ餓鬼道に
P03444
尋来るか」と思ふ程に、かれも是も次第にあゆみ
ちかづく。もしか様のものも、しうの御ゆくえ
知たる事やあらんと、「物まうさう」どいへば、「何ごと」
とこたふ。是は都よりながされ給し、法勝寺
執行御房と申人の、御行えや知たる」と問に、
童は見忘たれ共、僧都は何とてか忘べきなれば、
「是こそそよ」といひもあへず、手にもてる物を
なげ捨て、すなごの上にたふれふす。さてこそ
P03445
わがしうの行えもしりてげれ。やがてきえ入
給ふを、ひざの上にかきふせ奉り、「有王がまい
て候。多くの浪ぢをしのいで、是まで尋ま
いりたるかひもなく、いかにやがてうき目をば
見せさせ給ふぞ」と泣々申ければ、ややあて、す
こし人心地出き、たすけおこされて、「誠に汝が
是まで尋来たる心ざしの程こそ神妙
なれ。P235明ても暮ても、都の事のみ思ひ居
P03446
たれば、恋しき者共が面かげは、夢にみるおり
もあり、まぼろしにたつ時もあり。身もいたく
つかれよはて後は、夢もうつつもおもひわかず。
されば汝が来たれるも、ただ夢とのみこそおぼ
ゆれ。もし此事の夢ならば、さめての後は
いかがせん」。有王「うつつにて候也。此御ありさまにて、
今まで御命ののびさせ給ひて候こそ、不思
議に覚え候へ」と申せば、「さればこそ。去年少
P03447
将や判官入道に捨られて後のたよりなさ、
心の内をばただおしはかるべし。そのせに身
をもなげむとせしを、よしなき少将の「今一度
都の音づれをもまてかし」など、なぐさめをきし
を、をろかにもしやとたのみつつ、ながらへんとはせし
か共、此島には人のくい物たえてなき所なれば、
身に力のありし程は、山にのぼて湯黄と云物
をほり、九国よりかよふ商人にあひ、くい物に
P03448
かへなどせしか共、日にそへてよはりゆけば、いまは
その態もせず。かやうに日ののどかなる時は、磯に
出て網人に釣人に、手をすりひざをかがめて、
魚をもらい、塩干のときは貝をひろひ、あらめを
とり、磯の苔に露の命をかけてこそ、けふま
でもながらへたれ。さらでは浮世を渡るよすが
をば、いかにしつらんとか思ふらむ。爰にて何
事もいはばやとはおもへ共、いざわが家へ」とのたまへば、
P03449
この御ありさまにても家をもち給へるふしぎ
さP236よと思て行程に、松の一むらある中に
より竹を柱にして、葦をゆひ、けたはりに
わたし、上にもしたにも、松の葉をひしと
取かけたり。雨風たまるべうもなし。昔は、
法勝寺の寺務職にて、八十余ケ所の庄
務をつかさどられしかば、棟門平門の内に、四五
百人の所従眷属に囲饒せられてこそおは
P03450
せしか。まのあたりかかるうきめを見給ひける
こそふしぎなれ。業にさまざまあり。順現・順生・
順後業といへり。僧都一期の間、身にもちゐる
処、大伽藍の寺物仏物にあらずと云事なし。
さればかの信施無慙の罪によて、今生に感ぜら
れけりとぞみえたりける。僧都死去S0309僧都うつつにてありとお
もひ定て、「抑去年少将や判官入道がむかへ
にも、是等がふみといふ事もなし。いま汝がたよりに
P03451
も音づれのなきは、かう共いはざりけるか」。有王
なみだにむせびうつぶして、しばしはものも申さず。
ややありておきあがり、泪をおさへて申けるは、「君
の西八条へ出させ給しかば、やがて追捕の官人
まいて、御内の人々搦取り、御謀反の次第を尋
て、うしなひP237はて候ぬ。北方はおさなき人を隠し
かねまいらさせ給て、鞍馬の奥にしのばせ給て候
しに、此童ばかりこそ時々まいて宮仕つかまつり
P03452
候しか。いづれも御歎のをろかなる事は候はざし
か共、おさなき人はあまりに恋まいらさせ給て、
まいり候たび毎に、「有王よ、鬼界の島とかやへ
われぐしてまいれ」とむつからせ給候しが、過候し
二月に、もがさと申事に失させ給候ぬ。北方は
其御歎と申、是の御事と申、一かたならぬ御
思にしづませ給ひ、日にそへてよはらせ給候しが、
同三月二日、つゐにはかなくならせ給ぬ。いま姫御
P03453
前ばかり、奈良の姑御前の御もとに御わたり候。
是に御ふみ給てまいて候」とて、取いだいて奉る。
あけて見給へば、有王が申にたがはず書れたり。
奥には、「などや、三人ながされたる人の、二人はめし
かへされてさぶらふに、いままで御のぼりさぶらはぬ
ぞ。あはれ、高もいやしきも、女の身ばかり心う
かりける物はなし。おのこごの身にてさぶらはば、わたらせ
給ふ島へも、などかまいらでさぶらふべき。このあり
P03454
王御供にて、いそぎのぼらせ給へ」とぞ書れたる。
「是みよ有王、この子が文の書やうのはかなさよ。
をのれを供にて、いそぎのぼれと書たる事こそ
うらめしけれ。心にまかせたる俊寛が身ならば、
何とてか三とせの春秋をば送るべき。今年は
十二になるとこそ思ふに、是P238程はかなくては、人
にもみえ、宮仕をもして、身をもたすくべきか」
とて泣れけるにぞ、人の親の心は闇にあらね共、
P03455
子をおもふ道にまよふ程もしられける。「此島へ
ながされて後は、暦もなければ、月日のかはり行
をもしらず。ただをのづから花のちり葉の落
るを見て春秋をわきまへ、蝉の馨麦秋
を送れば夏とおもひ、雪のつもるを冬としる。
白月黒月のかはり行をみて、卅日をわきまへ、
指をおてかぞふれば、今年は六になるとおもひ
つるおさなき者も、はや先立けるごさんなれは。
P03456
西八条へ出し時、この子が、「我もゆかう」どしたひ
しを、やがて帰らふずるぞとこしらへをきしが、
いまの様におぼゆるぞや。其を限りと思は
ましかば、いましばしもなどか見ざらん。親となり、
子となり、夫婦の縁をむすぶも、みな此世ひと
つにかぎらぬ契ぞかし。などさらば、それらがさ様に
先立けるを、いままで夢まぼろしにもしらざり
けるぞ。人目も恥ず、いかにもして命いかうど思
P03457
しも、これらをいま一度見ばやと思ふためなり。
姫が事こそ心苦しけれ共、それもいき身なれば、
歎きながらもすごさむずらん。さのみながらへて、
をのれにうきめを見せんも、我身ながらつれな
かるべし」とて、をのづからの食事をもとどめ、偏に
弥陀の名号をとなへて、臨終正念をぞ祈られ
ける。有王わたて廿三日と云に、其庵りのうち
にて遂にをはり給P239ぬ。年卅七とぞ聞えし。有王
P03458
むなしき姿に取つき、天に仰地に伏て、
泣かなしめ共かひぞなき。心の行程泣あきて、
「やがて後世の御供仕べう候へ共、此世には姫
御前ばかりこそ御渡候へ、後世訪ひまいらす
べき人も候はず。しばしながらへて後世と
ぶらひまいらせ候はん」とて、ふしどをあらためず、
庵をきりかけ、松のかれ枝、蘆のかれはを
取おほひ、藻しほのけぶりとなし奉り、
P03459
荼■事をへにければ、白骨をひろひ、
頸にかけ、又商人船のたよりに九国の地へぞ
着にける。僧都の御むすめのおはしける所に
まいて、有し様、始よりこまごまと申。「中々
御文を御覧じてこそ、いとど御思ひはまさら
せ給て候しか。硯も紙も候はねば、御返事
にも及ばず。おぼしめされ候し御心の内、
さながらむなしうてやみ候にき。今は生々世々
P03460
を送り、他生曠劫をへだつ共、いかでか
御声をもきき、御姿をも見まいらさせ給
ふべき」と申ければ、ふしまろび、こゑも惜ず
なかれけり。やがて十二の年尼になり、奈良
の法華寺に勤すまして、父母の後世を
訪ひ給ふぞ哀なる。有王は俊寛僧都の
遺骨を頸にかけ、高野へのぼり、奥院に
納めつつ、蓮花谷にて法師になり、諸国七
P03461
道修行して、しうの後世をぞとぶらひける。か様に
人の思歎きのつもりぬる平家の末こそ
おそろしけP240れ。飆S0310同五月十二日午剋ばかり、京中
には辻風おびたたしう吹て、人屋おほく
顛到す。風は中御門京極よりをこて、末
申の方へ吹て行に、棟門平門を吹ぬきて、
四五町十町吹もてゆき、けた・なげし・柱などは
虚空に散在す。桧皮ふき板の〔た〕ぐひ、冬の
P03462
木葉の風にみだるるが如し。おびたた
しうなりどよむ事、彼地獄〔の〕業風なり共、
これには過じとぞみえし。ただ舎屋の破損ずる
のみならず、命を失なふ人も多し。牛馬の
たぐひ数を尽して打ころさる。是ただ事に
あらず、御占あるべしとて、神祇官にして御占あり。
「いま百日のうちに、禄ををもんずる大臣の慎み、
別しては天下の大事、並に仏法王法共に
P03463
傾て、兵革相続すべし」とぞ、神祇官陰陽
寮共にうらなひ申ける。P241医師問答S0311小松のおとど、か様の
事共を聞給て、よろづ御心ぼそうやおもは
れけむ、其比熊野参詣の事有けり。本
官証誠殿の御まへにて、夜もすがら敬白せら
れけるは、「親父入道相国の体をみるに、悪逆
無道にして、ややもすれば君をなやまし奉る。
重盛長子として、頻に諫をいたすといへども、
P03464
身不肖の間、かれもて服膺せず。そのふるま
ひをみるに、一期の栄花猶あやうし。枝葉
連続して、親を顕し名を揚げむ事かたし。
此時に当て、重盛いやしうも思へり。なまじいに
列して世に浮沈せむ事、敢て良臣孝子の
法にあらず。しかじ、名を逃れ身を退て、今生の
名望を抛て、来世の菩提を求めむには。但凡
夫薄地、是非にまどへるが故に、猶心ざしを
P03465
恣にせず。南無権現金剛童子、願くは子孫繁
栄たえずして、仕て朝廷にまじはるべくは、入道
の悪心を和げて、天下の安全を得しめ給へ。栄
耀又一期を限て、後混の恥におよぶべくば、重盛が
運命をつづめて、来世の苦輪を助け給へ。両
ケの求願、ひとへに冥助を仰ぐ」と肝胆を
摧て祈念せられけるに、燈籠の火のやうなる
物の、おとどの御身より出て、ばと消るが如くして失に
P03466
けり。人あまたみ奉りけれ共、恐れて是を申さず。P242又
下向の時、岩田川を渡られけるに、嫡子権亮少将
維盛以下の公達、浄衣のしたに薄色のきぬを着
て、夏の事なれば、なにとなう河の水に戯給ふ
程に、浄衣のぬれ、きぬにうつたるが、偏に色の
ごとくにみえければ、筑後守貞能これを見とがめて、
「何と候やらむ、あの御浄衣のよにいまはしきやうに
見えさせおはしまし候。めしかへらるべうや候らん」と
P03467
申ければ、おとど、「わが所願既に成就しにけり。
其浄衣敢てあらたむべからず」とて、別して
岩田川より、熊野へ悦の奉幣をぞ立
られける。人あやしと思ひけれ共、其心をえず。
しかるに此公達、程なくまことの色をき給ける
こそふしぎなれ。下向の、いくばくの日数を
経ずして、病付給ふ。権現すでに御納受
あるにこそとて、療治もし給はず、祈祷をも
P03468
いたされず。其比宋朝よりすぐれたる名
医わたて、本朝にやすらふことあり。境節入
道相国、福原の別業におはしけるが、越中守盛
俊を使者で、小松殿へ仰られけるは、「所労弥
大事なる由其聞えあり。兼又宋朝より勝たる
名医わたれり。折節悦とす。是をめし請
じて医療をくわへしめ給へ」と、の給ひつかは
されたりければ、小松殿たすけおこされ、盛俊を
P03469
御前へめして、「まづ「医療の事、畏て承候ぬ」
と申べし。但汝も承れ。延喜御門はさばか
の賢王にてましましけれ共、異国の相人P243を
都のうちへ入させ給たりけるをば、末代ま
でも賢王の御誤、本朝の恥とこそみえけれ。
况や重盛ほどの凡人が、異国の医師を
王城へいれむ事、国の辱にあらずや。漢高
祖は三尺の剣を提て天下を治しかども、
P03470
淮南の黥布を討し時、流矢にあたて疵
を蒙る。后呂太后、良医をむかへて見せし
むるに、医のいはく、「此疵治しつべし。但五
十斤の金をあたへば治せん」といふ。高祖の
給はく、「われまもりのつよかし程は、多くの
たたかひにあひて疵を蒙りしか共、そのいた
みなし。運すでに尽ぬ。命はすなはち天に
あり。縦偏鵲といふ共、なんのゑきかあらむ。しからば
P03471
又かねを惜むににたり」とて、五十こむの金
を医師にあたへながら、つゐに治せざりき。
先言耳にあり、いまもて甘心す。重盛い
やしくも九卿に列して三台にのぼる。其運命
をはかるに、もて天心にあり。なんぞ天心を察
ずして、をろかに医療をいたはしうせむや。
所労もし定業たらば、れう治をくわうもゑき
なからむか。又非業たらば、療治をくわへずとも
P03472
たすかる事をうべし。彼耆婆が医術及
ばずして、大覚世尊、滅度を抜提河の
辺に唱ふ。是則、定業の病いやさざる事を
しめさむが為也。定業猶医療にかかはるべう
候ば、豈尺尊入滅あらむや。定業又治するに
堪ざる旨あきらけし。治するは仏体也、療ずるは
耆婆也。しかれば重盛が身仏体にあらず、名P244医
又耆婆に及べからず。たとひ四部の書をかが
P03473
みて、百療に長ずといふ共、いかでか有待
の穢身を救療せん。たとひ五経の説
を詳にして、衆病をいやすと云共、豈先
世の業病を治せむや。もしかの医術に
よて存命せば、本朝の医道なきに似たり。
医術効験なくむば、面謁所詮なし。就中
本朝鼎臣の外相をもて、異朝富有の来
客にまみえむ事、且は国の恥、且は道の陵遅
P03474
なり。たとひ重盛命は亡ずといふ共、いかでか
国の恥をおもふ心の存ぜざらむ。此由を申
せ」とこその給ひけれ。盛俊福原に帰りま
いて、此由を泣々申ければ、入道相国「是程
国の恥をおもふ大臣、上古にもいまだきか
ず。〔ま〕して末代にあるべし共覚えず。日本に
相応せぬ大臣なれば、いかさまにも今度うせ
なんず」とて、なくなく急ぎ都へ上られけり。
P03475
同七月廿八日、小松殿出家し給ぬ。法名は
浄蓮とこそつき給へ。やがて八月一日、臨終
正念に住して遂に失給ぬ。御年四十
三、世はさかりとみえつるに、哀なりし事共
也。「入道相国のさしもよこ紙をやられつるも、
この人のなをしなだめられつればこそ、世も
おだしかりつれ。此後天下にいかなる事か
出こむずらむ」とて、京中の上下歎きあへり。
P03476
前右大将宗盛卿のかた様の人P245は、「世は只今
大将殿へまいりなんず」とぞ悦ける。人の親の
子をおもふならひはをろかなるが、先立だにも
かなしきぞかし。いはむや是は当家の棟
梁、当世の賢人にておはしければ、恩愛の別、
家の衰微、悲ても猶余あり。されば世には
良臣をうしなへる事を歎き、家には武略
のすたれぬることをかなしむ。凡はこのおとど文章
P03477
うるはしうして、心に忠を存じ、才芸
すぐれて、詞に徳を兼給へり。無文S0312天性この
おとどは不思議の人にて、未来の事をも
かねてさとり給けるにや。去四月七日の
夢に、み給けるこそふしぎなれ。たとへば、いづ
く共しらぬ浜路を遥々とあゆみ行給ふ
程に、道の傍に大なる鳥居のありけるを、
「あれはいかなる鳥居やらむ」と、問給へば、「春日
P03478
大明神の御鳥ゐ也」と申。人多く群集
したり。其中に法師の頸を一さしあげ
たり。「さてあのくびはいかに」と問給へば、「是は
平家太政入道殿の御頸を、悪行超過
し給へるによて、当社大明神のめし
とらせ給て候」と申と覚えて、夢うちさめ、
当家は保元平治よP246りこのかた、度々の朝敵
をたひらげて、勧賞身にあまり、かたじけ
P03479
なく一天の君の御外戚として、一族の昇
進六十余人。廿余年のこのかたは、たのしみ
さかへ、申はかりもなかりつるに、入道の悪行超
過せるによて、一門の運命すでにつきんずるに
こそと、こし方行すゑの事共、おぼしめしつづけて、
御涙にむせばせ給ふ。折節妻戸をほとほとと
打たたく。「たそ。あれきけ」との給へば、「灘尾太郎兼
康がまいて候」と申。「いかに、何事ぞ」との給へば、「只
P03480
いま不思議の事候て、夜の明候はんがを
そう覚候間、申さむが為にまいて候。御まへの
人をのけられ候へ」と申ければ、おとど人を遥にのけて
御対面あり。さて兼康見たりける夢のやうを、
始より終までくはしう語り申けるが、おとどの
御覧じたりける御夢にすこしもたがはず。
さてこそ、瀬尾太郎兼康をば、「神にも通じ
たる物にてありけり」と、おとども感じ給ひけれ。
P03481
其朝嫡子権亮少将維盛、院御所へまいらむ
とて出させ給たりけるを、おとどよび奉て、「人の
親の身としてか様の事を申せば、きはめて
おこがましけれ共、御辺は人の子共の中には
勝てみえ給ふ也。但此世の中の有様、いかがあらむ
ずらむと、心ぼそうこそ覚れ。貞能はないか。少
将に酒すすめよ」とのP247給へば、貞能御酌にまいり
たり。「この盃をば、先少将にこそとらせたけれども、
P03482
親より先にはよものみ給はじなれば、重盛まづ
取あげて、少将にささむ」とて、三度うけて、少
将にぞさされける。少将又三度うけ給ふ時、「いか
に貞能、引出物せよ」との給へば、畏て承り、錦の
袋にいれたる御太刀を取出す。「あはれ、是は家に
伝はれる小烏といふ太刀やらむ」など、よにうれし
げに思ひて見給ふ処に、さはなくして、大臣
葬の時もちゐる無文の太刀にてぞ有ける。
P03483
其時少将けしきはとかはて、よにいまはしげに
見給ければ、おとど涙をはらはらとながいて、「いかに
少将、それは貞能がとがにもあらず。其故は如何にと
いふに、此太刀は大臣葬のときもちゐる無文の
太刀也。入道いかにもおはせむ時、重盛がはいて
供せむとて持たりつれ共、いまは重盛、入道殿に
先立奉らむずれば、御辺に奉るなり」とぞの給
ひける。少将是を聞給て、とかうの返事にも
P03484
及ばず。涙にむせびうつぶして、其日は出仕も
し給はず、引かづきてぞふし給ふ。其後おとど熊野へ
まいり、下向して病つき、幾程もなく遂に失給
ひけるにこそ、げにもと思ひしられけれ。P248燈炉之沙汰S0313すべて
此大臣は、滅罪生善の御心ざしふかうおはし
ければ、当来の浮沈をなげいて、東山の麓
に、六八弘誓の願になぞらへて、四十八間の精舎を
たて、一間にひとつづつ、四十八間に四十八の燈籠を
P03485
かけられたりければ、九品の台、目の前にかかやき、
光耀鸞鏡をみがいて、浄土の砌にのぞめるが
ごとし。毎月十四五を点じて、当家他家の
人々の御方より、みめようわかうさかむなる女房
達を多く請じ集め、一間に六人づつ、四十八間に
二百八十八人、時衆にさだめ、彼両日が間は一心
称名声絶ず。誠に来迎引摂の願もこの所
に影向をたれ、摂取不捨の光も此大臣を照し
P03486
給ふらむとぞみえし。十五日の日中を結願として
大念仏ありしに、大臣みづから彼行道の中に
まじはて、西方にむかひ、「南無安養教主弥陀善逝、
三界六道の衆生を普く済度し給へ」と、廻向
発願せられければ、みる人慈悲をおこし、きく物
感涙をもよほしけり。かかりしかば、此大臣をば燈
籠大臣とぞ人申ける。P249金渡S0314又おとど、「我朝にはいかなる
大善根をしをいたり共、子孫あひついでとぶらはう
P03487
事ありがたし。他国にいかなる善根をもして、
後世を訪はればや」とて、安元の此ほひ、鎮西より
妙典といふ船頭をめしのぼせ、人を遥にのけて
御対面あり。金を三千五百両めしよせて、「汝は
大正直の者であんなれば、五百両をば汝にたぶ。三千
両を宋朝へ渡し、育王山へまいらせて、千両を
僧にひき、二千両をば御門へまいらせ、田代を育
王山へ申よせて、我後世とぶらはせよ」とぞの給ける。
P03488
妙典是を給はて、万里の煙浪を凌ぎつつ、大
宋国へぞ渡りける。育王山の方丈仏照禅師
徳光にあひ奉り、此由申たりければ、随喜感嘆
して、千両を僧にひき、二千両をば御門へま
いらせ、おとどの申されける旨を具に奏聞せられ
たりければ、御門大に感じおぼしめして、五百町
の田代を育王山へぞよせられける。されば日本
の大臣平朝臣重盛公の後生善処と祈る
P03489
事、いまに絶ずとぞ承る。P250法印問答S0315入道相国、小松殿に
をくれ給て、よろづ心ぼそうや思はれけむ、福
原へ馳下り、閉門してこそおはしけれ。同十一
月七日の夜戌剋ばかり、大地おびたたしう動て
やや久し。陰陽頭安倍泰親、いそぎ内裏へ
馳まいて、「今度の地震、占文のさす所、其慎み
かろからず。当道三経の中に、根器経の説を
見候に、「年をえては年を出ず、月をえては月を
P03490
出ず、日をえては日を出ず」とみえて候。以外に火
急候」とて、はらはらとぞ泣ける。伝奏の人も色
をうしなひ、君も叡慮をおどろかさせおはします。
わかき公卿殿上人は、「けしからぬ泰親が今の
泣やうや。何事のあるべき」とて、わらひあはれけり。
され共、此泰親は晴明五代の苗裔をうけて、
天文は淵源をきはめ、推条掌をさすが如し。
一事もたがはざりければ、さすの神子とぞ申ける。
P03491
いかづちの落かかりたりしか共、雷火の為に
狩衣の袖は焼ながら、其身はつつがもなかりけり。
上代にも末代にも、有がたかりし泰親也。
同十四日、相国禅門、此日ごろ福原におはしける
が、何とかおもひなられたりけむ、数千騎の軍兵
をたなびいて、都へ入給ふ由聞えしかば、京中
何と聞P251わきたる事はなけれ共、上下恐れおのの
く。何ものの申出したりけるやらん、「入道相国、
P03492
朝家を恨み奉るべし」と披露をなす。関白
殿内々きこしめさるる旨や有けむ、急ぎ御参
内あて、「今度相国禅門入洛の事は、ひとへに基
房亡すべき結構にて候也。いかなる目に逢べきにて
候やらむ」と奏せさせ給へば、主上大におどろかせ給て、
「そこにいかなる目にもあはむは、ひとへにただわがあふ
にてこそあらむずらめ」とて、御涙をながさせ給ふぞ
忝き。誠に天下の御政は、主上摂録の御ぱからひ
P03493
にてこそあるに、こはいかにしつる事共ぞや。天照大
神・春日大明神の神慮の程も計がたし。
同十五日、入道相国朝家を恨み奉るべき事
必定と聞えしかば、法皇大におどろかせ給て、故少
納言入道信西の子息、静憲法印を御使にて、
入道相国のもとへつかはす。「近年、朝廷しづかなら
ずして、人の心もととのほらず。世間も落居せぬ
さまに成行事、惣別につけて歎きおぼし
P03494
めせ共、さてそこにあれば、万事はたのみおぼし
めしてこそあるに、天下をしづむるまでこそなか
らめ、嗷々なる体にて、あまさへ朝家を恨むべし
などきこしめすは、何事ぞ」と仰つかはさる。静憲
法印、御使に西八条の亭へむかふ。朝より夕に及ぶ
まで待れけれ共、無音也ければ、さればこそと無益
に覚えて、源大夫判官季貞をもP252て、勅定の
趣きいひ入させ、「いとま申て」とて出られければ、其
P03495
時入道「法印よべ」とて出られたり。喚かへいて、「やや法印
御房、浄海が申処は僻事か。まづ内府が身ま
かり候ぬる事、当家の運命をはかるにも、入道
随分悲涙をおさへてこそ罷過候へ。御辺の心にも
推察し給へ。保元以後は、乱逆打つづいて、君や
すい御心もわたらせ給はざりしに、入道はただ
大方を取をこなふばかりでこそ候へ、内府こそ
手をおろし、身を摧て、度々の逆鱗をばやすめ
P03496
まいらせて候へ。其外臨時の御大事、朝夕の政
務、内府程の功臣有がたうこそ候らめ。爰をもて
古をおもふに、唐の太宗は魏徴にをくれて、かなしみ
のあまりに、「昔の殷宗は夢のうちに良弼をえ、
今の朕はさめ〔て〕の後賢臣を失ふ」といふ碑の文を
みづから書て、廟に立てだにこそかなしみ給ひ
けるなれ。我朝にも、ま近く見候し事ぞかし。
顕頼民部卿が逝去したりしをば、故院殊に
P03497
御歎あて、八幡行幸延引し、御遊なかりき。
惣て臣下の卒するをば、代々〔の〕御門みな御歎
ある事〔で〕こそ候へ。さればこそ、親よりもなつかしう、子
よりもむつまじきは、君と臣との中とは申事にて
候らめ。され共、内府が中陰に八幡の御幸あて御
遊ありき。御歎の色、一事も是をみず。たとひ
入道がかなしみを御あはれみなく共、などか内府が
忠をおぼしめし忘れさせ給ふべき。P253たとひ内府が
P03498
忠をおぼしめし忘れさせ給ふ共、入道が歎を御
あはれみなからむ。父子共叡慮に背候ぬる事、
今にをいて面目を失ふ、是一。次に、越前国をば
子々孫々まで御変改あるまじき由、御約束あて
給はて候しを、内府にをくれて後、やがてめされ
候事は、なむの過怠にて候やらむ、是一。次に、中
納言闕の候し時、二位中将の所望候しを、入
道随分執り申しか共、遂に御承引なくして、
P03499
関白の息をなさるる事はいかに。たとひ入道非拠
を申をこなふ共、一度はなどかきこしめし入ざる
べき。申候は〔ん〕や、家嫡といひ、位階といひ、理運
左右に及ばぬ事を引ちがへさせ給ふは、ほいなき
御ぱからひとこそ存候へ、是一。次に、新大納言成
親卿以下、鹿谷によりあひて、謀反の企候
し事、またく私の計略にあらず。併君御許
容あるによて也。いまめかしき申事にて候へ共、
P03500
七代までは此一門をば、いかでか捨させ給ふべき。
それに入道七旬に及て、余命いくばくならぬ一
期の内にだにも、ややもすれば、亡すべき由御ぱからひ
あり。申候はんや、子孫あひついで朝家にめし
つかはれん事有がたし。凡老て子を失は、枯
木の枝なきにことならず。今は程なき浮世に、心を
費しても何かはせんなれば、いかでも有なんとこそ
思ひなて候へ」とて、且は腹立し、且は落涙し給へば、
P03501
法印おそろしうも又哀にもP254覚えて、汗水に
なり給ぬ。此時はいかなる人も、一言の返事に
及がたき事ぞかし。其上我身も近習の仁
也、鹿谷によりあひたりし事は、まさしう見き
かれしかば、其人数とて、只今もめしや籠られん
ずらんと思ふに、竜の鬚をなで、虎の尾を
ふむ心地はせられけれ共、法印もさるおそろしい
人で、ちともさはがず。申されけるは、「誠に度々の御
P03502
奉公浅からず。一旦恨み申させまします旨、其謂
候。但、官位といひ俸禄といひ、御身にとては悉く
満足す。しかれば功の莫大なるを、君御感あるでこそ
候へ。しかるを近臣事をみだり、君御許容あ
りといふ事は、謀臣の凶害にてぞ候らん。耳を
信じて目を疑ふは、俗の常のへい也。少人の
浮言を重うして、朝恩の他にことなるに、君を
背きまいらさせ給はん事、冥顕につけて其恐
P03503
すくなからず候。凡は天心は蒼々としてはかりがたし。
叡慮さだめて其儀でぞ候らん。下として上にさかふる
事、豈人臣の礼たらんや。能々御思惟候べし。
詮ずるところ、此趣をこそ披露仕候はめ」とて出
られければ、いくらもなみ居たる人々、「あなおそろし。入
道のあれ程いかり給へるに、ちとも恐れず、返
事うちしてたたるる事よ」とて、法印をほ
めぬ人こそなかりけれ。P255大臣流罪S0316法印御所へまいて、此由奏
P03504
聞しければ、法皇も道理至極して、仰下
さるる方もなし。同十六日、入道相国此日比
思立給へる事なれば、関白殿を始め奉て、
太政大臣已下の公卿殿上人、四十三人が官職
をとどめて、追籠らる。関白殿をば大宰帥にうつして、
鎮西へながし奉る。「かからむ世には、とてもかくても
ありなん」とて、鳥羽の辺ふる川といふ所にて御出家
あり。御年卅五。「礼儀よくしろしめし、くもり
P03505
なき鏡にてわたらせ給つる物を」とて、世の惜み
奉る事なのめならず。遠流の人の道にて出家し
つるをば、約束の国へはつかはさぬ事である間、始は
日向国へと定られたりしか共、御出家の間、備前
国府の辺、井ばさまといふ所に留め奉る。大臣流
罪の例は、左大臣曾我のあかえ、右大臣豊成、左〔大〕臣
魚名、右大臣菅原、左大臣高明公、内大臣藤原伊
周公に至るまで、既に六人。され共摂政関白流罪の
P03506
例は是始めとぞ承る。故中殿御子二位中将基
通は、入道の聟にておはしければ、大臣関白になし
奉る。去円融院の御宇、天禄三年十一月P256一日、一条
摂政謙徳公うせ給しかば、御弟堀川関白仲義公、
其時は未従二位中納言にてましましけり。其御弟
ほご院の大入道殿、其比は大納言の右大将にてお
はしける間、仲義公は御弟に越られ給ひしか共、今又
越かへし奉り、内大臣正〔二〕位にあがて、内覧〔の〕宣旨蒙せ
P03507
給ひたりしをこそ、人耳目をおどろかしたる
御昇進とは申しに、是はそれには猶超過せり。非
参儀二位中将より大中納言を経ずして、
大臣関白になり給ふ事、いまだ承り及ばず。普
賢寺殿の御事也。上卿の宰相・大外記・大夫史
にいたるまで、みなあきれたるさまにぞみえたりける。
太政大臣師長は、つかさをとどめて、あづまの方へなが
され給ふ。去保元に父悪左おほい殿の縁座によて、
P03508
兄弟四人流罪せられ給しが、御兄右大将兼長、
御弟左の中将隆長、範長禅師三人は帰路を
待ず、配所にてうせ給ぬ。是は土佐の畑にて九かへり
の春秋を送りむかへ、長寛二年八月にめし
かへされて、本位に復し、次の年正二位して、仁安
元年十月に前中納言より権大納言にあがり給ふ。
折節大納言あかざりければ、員の外にてくわわられける。
大納言六人になること是始也。又前中納言より
P03509
〔権〕大納言になる事も、後山階大臣躬守公、宇治大納
言隆国卿の外は未承り及ばず。管絃の道に達し、P257
才芸勝れてましましければ、次第の昇進とど
こほらず、太政大臣まできはめさせ給て、又いかなる罪
の報にや、かさねてながされ給ふらん。保元の昔は
南海土佐へうつされ、治承の今は東関尾張国と
かや。もとよりつみなくして配所の月をみむと
いふ事は、心あるきはの人の願ふ事なれば、おとど
P03510
あへて事共し給はず。彼唐太子賓客白楽
天、潯陽江の辺にやすらひ給けむ其古を思遣り、
鳴海潟、塩路遥に遠見して、常は朗月を望
み、浦風に嘯き、琵琶を弾じ、和歌を詠じて、な
をさりがてらに月日を送せ給ひけり。ある時、当
国第三の宮熱田明神に参詣あり。その夜
神明法楽のために、琵琶引、朗詠し給ふに、
所もとより無智の境なれば、情をしれるものなし。
P03511
邑老・村女・漁人・野叟、首をうなだれ、耳を峙と
いへ共、更に清濁をわかち、呂律をしる事なし。され
共、胡巴琴を弾ぜしかば、魚鱗躍りほどばしる。虞
公歌を発せしかば、梁麈うごきうごく。物の
妙を究る時には、自然に感を催す物なれば、
諸人身の毛よだて、満座奇異の思をなす。やうやう
深更に及で、ふがうでうの内には、花芬馥の気を
含み、流泉の曲の間には、月清明の光をあらそふ。
P03512
「願くは今生世俗文字の業、狂言綺語誤をもて」
といふ朗詠をして、秘曲を引給へば、神明感応に
堪へずして、宝殿大に震動す。「平家の悪行
なかりせば、今此瑞相をいかでか拝むべき」P258とて、おとど
感涙をぞながされける。按察大納言資方卿、子
息右近衛少将兼讃岐守源資時、両の官を
留めらる。参議皇太后宮大夫兼右兵衛督藤
原光能、大蔵卿右京大夫兼伊予守高階康経、
P03513
蔵人左少弁兼中宮権大進藤原基親、三官共に〔留らる〕。「按
察大納言資方卿、子息右近衛少将、雅方、是三人をば
やがて都の内を追出さるべし」とて、上卿藤大納言実
国、博士判官中原範貞に仰て、やがて其日都の
うちを追出さる。大納言の給けるは、「三界広しといへ共、
五尺の身をき所なし。一生程なしといへ共、一日暮
しがたし」とて、夜中に九重の内をまぎれ出て、
八重たつ雲の外へぞおもむかれける。彼大江山や、
P03514
いく野の道にかかりつつ、丹波国村雲と云所
にぞ、しばしはやすらひ給ける。其より遂には尋
出されて、信濃国とぞ聞えし。行隆之沙汰S0317前関白松殿の
侍に江大夫判官遠成といふものあり。是も平
家心よからざりければ、既に六波羅より押寄て
搦取らるべしと聞えし間、子息江左衛門尉家P259
成打具して、いづち共なく落行けるが、稲荷山に
うちあがり、馬より下て、親子いひ合せけるは、「東
P03515
国の方へ落くだり、伊豆国の流罪人、前兵衛佐頼
朝をたのまばやとは思へ共、それも当時は勅勘の人で、
身ひとつだにもかなひがたうおはす也。日本国に、平
家の庄園ならぬ所やある。とてものがれざらむ物ゆへ
に、年来住なれたる所を人にみせむも恥がまし
かるべし。ただ是よりかへて、六波羅よりめし使あらば、
腹かき切て死なんにはしかじ」とて、川原坂の宿所へ
とて取て返す。あんのごとく、六波羅より源大夫判官季定、
P03516
摂津判官盛澄、ひた甲三百余騎、河原坂の宿所
へ押寄て、時をどとぞつくりける。江大夫判官えんに
立出て、「是御覧ぜよ、をのをの。六波羅ではこの
様申させ給へ」とて、館に火かけ、父子共に腹かききり、
ほのほの中にて焼死ぬ。抑か様に上下多く
亡損ずる事をいかにといふに、当時関白にならせ
給へる二位中将殿と、前の殿の御子三位中将
殿と、中納言御相論の故と申す。さらば関白殿
P03517
御一所こそ、いかなる御目にもあはせ給はめ、四十
余人まで、人々の事にあふべしやは。去年讃
岐院の御追号、宇治の悪左府の贈官有しか共、
世間はなをしづかならず。凡是にも限るまじかむなり。
「入道相国の心に天魔入かはて、腹をすへかね給へり」
と聞えしかば、「又天下いかなる事か出こむずP260らむ」と
て、京中上下おそれおののく。其比前左少弁
行高と聞えしは、故中山中納言顕時卿の長
P03518
男也。二条院の御世には、弁官にくははてゆゆし
かりしか共、此十余年は官を留められて、夏
冬の衣がへにも及ばず、朝暮の■も心にま
かせず。有かなきかの体にておはしけるを、太政入
道「申べき事あり。きと立より給へ」との給つかはし
たりければ、行高「此十余年は何事にもまじはら
ざりつる物を。人の讒言したる旨あるにこそ」とて、
大におそれさはがれけり。北方公達も「いかなる目にか
P03519
あはんずらむ」と泣かなしみ給ふに、西八条より
使しきなみに有ければ、力及ばで、人に車かて
西八条へ出られたり。思ふにはにず、入道やがて
出むかふて対面あり。「御辺の父の卿は、大小事
申あはせし人なれば、をろかに思ひ奉らず。年来
籠居の事も、いとをしうおもひたてましか共、
法皇御政務のうへは力及ばず。今は出仕し給へ。
官途の事も申沙汰仕るべし。さらばとう帰られ
P03520
よ」とて、入給ぬ。帰られたれば、宿所には女房達、
しんだる人の生かへりたる心地して、さしつどひて
みな悦泣共せられけり。太政入道、源大夫判官季
貞をもて、知行し給べき庄園状共あまた遣はす。
まづさこそあるらめとて、百疋百両に米をつむ
でぞ送れける。出仕の料にP261とて、雑色・牛飼・牛・車
まで沙汰しつかはさる。行高手の舞足の踏と
ころも覚えず。「是はされば夢かや、夢か」とぞ驚かれ
P03521
ける。同十七日、五位の侍中に補せられて、左少弁
になり帰り給ふ。今年五十一、今更わかやぎ給ひ
けり。ただ片時の栄花とぞみえし。 法皇被流S0318同廿日、院
御所法住寺殿には、軍兵四面を打かこむ。「平治に
信頼が三条殿をしたりし様に、火をかけて人をば
みな焼殺さるべし」と聞えし間、上下の女房
めのわらは、物をだにうちかすかず、あはて騒で走り
いづ。法皇も大におどろかせおはします。前〔右〕大将
P03522
宗盛卿御車をよせて、「とうとうめさるべう候」と奏
せられければ、法皇「こはされば何事ぞや。御かとある
べし共おぼしめさず。成親・俊寛が様に、遠き
国遥かの島へもうつしやら〔ん〕ずるにこそ。主上さて
渡せ給へば、政務に口入する計也。それもさるべから
ずは、自今以後さらでこそあらめ」と仰ければ、宗盛
卿「其儀では候はず。世をしづめん程、鳥羽殿へ
御幸なしまいらせんと、父の入道申候」。「さらば
P03523
宗盛やがP262て御供にまいれ」と仰けれ共、父の禅
門の気色に恐れをなしてまいられず。「あはれ、
是につけても兄の内府には事の外におと
りたりける物哉。一年もかかる御めにあふべ
かりしを、内府が身にかへて制しとどめて
こそ、今日までも心安かりつれ。いさむる者もなし
とて、かやうにするにこそ。行末とてもたのもからず」
とて、御涙をながさせ給ふぞ忝なき。さて御車に
P03524
めされけり。公卿殿上人、一人も供奉せられず。
ただ北面の下臈、さては金行といふ御力者ば
かりぞまいりける。御車の尻には、あまぜ一人ま
いられたり。この尼ぜと申せば、やがて法皇の御乳
の人、紀伊二位の事也。七条を西へ、朱雀を
南へ御幸なる。あやしのしづのを賎女にいたるまで、
「あはや法皇のながされさせましますぞや」とて、
泪をながし、袖をしぼらぬはなかりけり。「去七日の
P03525
夜の大地震も、かかるべかりける先表にて、十六
洛叉の底までもこたへ、乾牢地神の驚きさは
ぎ給ひけんも理かな」とぞ、人申ける。さて鳥
羽殿へ入させ給たるに、大膳大夫信成が、何として
まぎれまいりたりけるやらむ、御前ちかう候けるを
めして、「いかさまにも今夜うしなはれなんずとおぼし
めすぞ。御行水をめさばやとおぼしめすはいかが
せんずる」と仰ければ、さらぬだに信成、けさより肝
P03526
たましいも身にそはず、あきれたるP263さまにて
有けるが、此仰承る忝なさに、狩衣に玉だすき
あげ、小柴墻壊、大床のつか柱わりなどして、
水くみ入、かたのごとく御湯しだいてまいらせたり。
又静憲法印、入道相国の西八条の亭に
ゆいて、「法皇の鳥羽殿へ御幸なて候なるに、御前に
人一人も候はぬ由承るが、余にあさましう覚え
候。何かは苦しう候べき。静憲ばかりは御ゆる
P03527
され候へかし。まいり候はん」と申されければ、「とうとう。
御房は事あやまつまじき人なれば」とてゆるされ
けり。法印鳥羽殿へまいて、門前にて車より
おり、門の内へさし入給へば、折しも法皇、御
経をうちあげうちあげあそばされける。御声もことに
すごう〔ぞ〕聞えさせ給ける。法印のつとまいられた
れば、あそばされける御経に御涙のはらはらとかからせ
給ふを見まいらせて、法印あまりのかなしさに、
P03528
旧苔の袖をかほにおしあてて、泣々御前へ
ぞまいられける。御前にはあまぜばかり候はれけり。
「いかにや法印御房、君は昨日のあした、法住
寺にて供御きこしめされて後は、よべも今朝も
きこしめしも入ず。長夜すがら御寝もならず。
御命も既にあやうくこそ見えさせおはしませ」と
の給へば、法印涙をおさへて申されけるは、「何
事も限りある事で候へば、平家たのしみ
P03529
さかへて廿余年、され共悪行法P264に過て、既に
亡び候なんず。天照大神・正八幡宮いかでか捨
まいらさせ給べき。中にも君の御憑みある
日吉山王七社、一乗守護の御ちかひあらたま
らずは、彼法華八軸に立かけてこそ、君をばま
もりまいらさせ給ふらめ。しかれば政務は君の御
代となり、凶徒は水の泡ときえうせ候べし」など申
されければ、此詞にすこしなぐさませおはします。
P03530
主上は関白のながされ給ひ、臣下の多く
亡ぬる事をこそ御歎ありけるに、剰法皇
鳥羽殿におし籠られさせ給ふときこし
めされて後は、つやつや供御もきこしめされず。
御悩とて常はよるのおとどにのみぞいらせ給
ける。法皇鳥羽殿に押籠られさせ給て後は、
内裏には臨時の御神事とて、主上夜ごとに
清凉殿の石灰壇にて、伊勢大神宮をぞ
P03531
御拝ありける。是はただ一向法皇の御祈也。二条
院は賢王にて渡せ給しか共、天子に父母なし
とて、常は法皇の仰をも申かへさせましまし
ける故にや、継体の君にてもましまさず。されば
御譲をうけさせ給ひたりし六条院も、安
元二年七月十四日、御年十三にて崩御なりぬ。
あさましかりし御事也。P265城南之離宮S0319「百行の中には孝行を
もて先とす。明王は孝をもて天下を治」といへり。
P03532
されば唐堯は老衰へたる父をたとび、虞舜
はかたくななる母をうやまふとみえたり。彼賢
王聖主の先規を追はせましましけむ叡慮
の程こそ日出けれ。其比、内裏よりひそかに
鳥羽殿へ御書あり。「かからむ世には、雲井に
跡をとどめても何かはし候べき。寛平の昔をも
とぶらひ、花山の古をも尋て、家を出、世をの
がれ、山林流浪の行者共なりぬべうこそ候へ」と
P03533
あそばされたりければ、法皇の御返事には、「さな
おぼしめされ候そ。さて渡らせ給ふこそ、ひとつの
たのみにても候へ。跡なくおぼしめしならせ
給ひなん後は、なんのたのみか候べき。ただ愚老
が共かうもならむやうをきこしめしはてさせ
給ふべし」とあそばされたりければ、主上此御返
事を竜顔におしあてて、いとど御涙にしづませ
給ふ。君は舟、臣は水、水よく船をうかべ、水又
P03534
船をくつがへす。臣よく君をたもち、臣又君
を覆す。保元平治の比は、入道相国君を
たもち奉るといへ共、安元治承のいまは又
君をなみしたてまつる。史書の文にたがはP266ず。
大宮大相国、三条内大臣、葉室大納言、中山
中納言も失られぬ。今はふるき人とては成頼・
親範ばかり也。この人々も、「かからむ世には、朝につ
かへ身をたて、大中納言を経ても何かはせん」とて、
P03535
いまださかむなし人々の、家を出、よをのがれ、
民部卿入道親範は大原の霜にともなひ、
宰相入道成頼は高野の霧にまじはり、一向
後世菩提のいとなみの外は他事なしとぞ
聞えし。昔も商山の雲にかくれ、潁川の月に
心をすます人もありければ、これ豈博覧清
潔にして世を遁たるにあらずや。中にも
高野におはしける宰相入道成頼、か様の事
P03536
共を伝へきいて、「あはれ、心どうも世をばのがれ
たる物かな。かくて聞も同事なれ共、まのあたり
立まじはて見ましかば、いかにも心うからむ。保
元平治のみだれをこそ浅ましと思しに、世
すゑになればかかる事もありけり。此後猶
いか斗の事か出こんずらむ。雲をわけても
のぼり、山を隔ても入なばや」とぞの給ける。げに
心あらむ程の人の、跡をとどむべき世共みえず。
P03537
同廿三日、天台座主覚快法親王、頻に御辞退
あるによて、前座主明雲大僧正還着せらる。
入道相国はかくさむざむにし散されたれ共、
御女中宮P267にてまします、関白殿と申も
聟也。よろづ心やすうや思はれけむ、「政務は
ただ一向主上の御ぱからひたるべし」とて、福
原へ下られけり。前右大将宗盛卿、いそぎ参内
して此由奏聞せられければ、主上は「法皇のゆ
P03538
づりましましたる世ならばこそ。ただとうとう執柄に
いひあはせて、宗盛ともかうもはからへ」とて、
きこしめしも入ざりけり。法皇は城南の離
宮にして、冬もなかばすごさせ給へば、野山の
嵐の音のみはげしくて、寒庭の月のひかりぞ
さやけき。庭には雪のみ降つもれ共、跡ふみつ
くる人もなく、池にはつららとぢかさねて、むれ
ゐし鳥もみえざりけり。おほ寺のかねの声、遺
P03539
愛寺のききを驚かし、西山の雪の色、香
炉峯の望をもよをす。よる霜に寒き砧の
ひびき、かすかに御枕につたひ、暁氷をきしる
車のあと、遥に門前によこだはれり。巷を
過る行人征馬のいそがはしげなる気色、浮
世を渡る有様もおぼしめししられて哀也。
「宮門をまもる蛮夷のよるひる警衛をつと
むるも、先の世のいかなる契にて今縁をむすぶ
P03540
らむ」と仰の有けるぞ忝なき。凡物にふれ事に
したがて、御心をいたましめずといふ事なし。
さるままにはかの折々の御遊覧、ところどころの御
参詣、御賀のめでたかりし事共、おぼしP268め
しつづけて、懐旧の御泪をさへがたし。年
さり年来て、治承も四年に也にけり。

平家物語巻第三P269
P03541

平家物語(龍谷大学本)巻第四

【許諾済】
本テキストの公開については、龍谷大学大宮図書館の許諾を得ています。底本使用・テキスト公開を許可された同図書館に厚く御礼申し上げます。
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【底本】
本テキストの底本は、龍谷大学大宮図書館所蔵『平家物語』です。直接には、思文閣出版発行の影印本(龍谷大学善本叢書13)に拠りました。

P04001
(表紙)
P04003 P269
平家物語巻第四
厳島御幸S0401 治承四年正月一日、鳥羽殿には相国もゆるさず、
法皇もおそれさせ在ましければ、元日元三の
間、参入する人もなし。され共故少納言入道信西
の子息、桜町の中納言重教卿、其弟左京大夫長教
ばかりぞゆるされてまいられける。同正月廿日、東宮
御袴着ならびに御まなはじめとて、めでたき事共
ありしかども、法皇は鳥羽殿にて御耳のよそにぞ
P04004
きこしめす。二月廿一日、主上ことなる御つつがもわた
らせ給はぬを、をしおろしたてまつり、春宮践祚
あり。これは入道相国よろづおもふさまなるが致す
ところなり。時よくなりぬとてひしめきあへり。内
侍所・神璽・宝剣わたしたてまつる。上達部陣
にあつまて、ふるき事共先例にまかせておこな
ひしに、弁内侍御剣とてあゆみいづ。清凉殿の西
おもてにて、泰道の中将うけとる。備中の内侍P270しる
P04005
しの御箱とりいづ。隆房の少将うけとる。内侍所し
るしの御箱、こよひばかりや手をもかけんとおもひあ
へりけん内侍の心のうち共、さこそはとおぼえてあ
はれおほかりけるなかに、しるしの御箱をば少納言
の内侍とりいづべかりしを、こよひこれに手をも
かけては、ながくあたらしき内侍にはなるまじきよし、
人の申けるをきいて、其期に辞し申てとりいで
ざりけり。年すでにたけたり、二たびさかりを期すべ
P04006
きにもあらずとて、人々にくみあへりしに、備中の内
侍とて生年十六歳、いまだいとけなき身ながら、其期に
わざとのぞみ申てとりいでける、やさしかりしためし
なり。つたはれる御物共、しなじなつかさづかさうけとて、新
帝の皇居五条内裏へわたしたてまつる。閑院殿
には、火の影もかすかに、鶏人の声もとどまり、滝口の
文爵もたえにければ、ふるき人々心ぼそくおぼえて、
めでたきいわいのなかに涙をながし、心をいたましむ。
P04007
左大臣陣にいでて、御位ゆづりの事ども仰せしを
きいて、心ある人々は涙をながし袖をうるほす。われと
御位を儲の君にゆづりたてまつり、麻姑射の
山のうちも閑になどおぼしめすさきざきだにも、
哀はおほき習ぞかし。况やこれは、御心ならず
おしをろされさせ給ひけんあはれさ、申もなかなか
おろか也。P271新帝今年三歳、あはれ、いつしかなる
譲位かなと、時の人々申あはれけり。平大納言時忠
P04008
卿は、内の御めのと帥のすけの夫たるによて、
「今度の譲位いつしかなりと、誰かかたむけ申べ
き。異国には、周成王三歳、晋穆帝二歳、我朝には、
近衛院三歳、六条院二歳、これみな襁褓のなかに
つつまれて、衣帯をただしうせざしか共、或は摂
政おふて位につけ、或は母后いだいて朝にのぞむと
見えたり。後漢の高上皇帝は、むまれて百日
といふに践祚あり。天子位をふむ先蹤、和漢かく
P04009
のごとし」と申されければ、其時の有識の人々、「あなを
そろし、物な申されそ。さればそれはよき例どもかや」と
ぞつぶやきあはれける。春宮位につかせ給ひしかば、
入道相国夫婦ともに外祖父外祖母とて、准三
后の宣旨をかうぶり、年元年爵を給はて、上日
のものをめしつかふ。絵かき花つけたる侍共いで
入て、ひとへに院宮のごとくにてぞ有ける。出家入道
の後も栄雄はつきせずとぞみえし。出家の人の
P04010
准三后の宣旨を蒙る事は、保護院のおほ入道殿
兼家公の御例也。同三月上旬に、上皇安芸国厳島へ
御幸なるべしときこえけり。帝王位をすべらせ給ひ
て、諸社の御幸のはじめには、八幡・賀茂・春日などへ
こそならせ給ふに、安芸国までの御幸はいかにと、
人不審をなす。或人の申けるは、P272「白河院は熊野へ
御幸、後白河は日吉社へ御幸なる。既に知ぬ、叡慮に
ありといふ事を。御心中にふかき御立願あり。其上此
P04011
厳島をば平家なのめならずあがめうやまひ給ふ
あいだ、うへには平家に御同心、したには法皇のいつと
なう鳥羽殿にをしこめられてわたらせ給ふ、入道
相国の謀反の心をもやわらげ給へとの御祈念の
ため」とぞきこえし。山門大衆いきどおり申。「石清
水・賀茂・春日へならずは、我山の山王へこそ御幸は
なるべけれ。安芸国への御幸はいつの習ぞや。其儀
ならば、神輿をふりくだし奉て、御幸をとどめたてまつ
P04012
れ」と僉議しければ、これによてしばらく御延引あり
けり。太政入道やうやうになだめ給へば、山門の大衆しづ
まりぬ。同十八日、厳島御幸の御門出とて、入道相国
の西八条の亭へいらせ給ふ。其日の暮方に、前右大
将宗盛卿をめして、「明日御幸の次に鳥羽殿へまいて、
法皇の見参に入ばやとおぼしめすはいかに。相国禅門に
しらせずしてはあしかりなんや」と仰ければ、宗盛卿
涙をはらはらとながいて、「何条事か候べき」と申されければ、
P04013
「さらば宗盛、其様をやがて今夜鳥羽殿へ申せかし」
とぞ仰ける。前右大将宗盛卿、いそぎ鳥羽殿へ
まいて、此よし奏聞せられければ、法皇はあまりに
おぼしめす御事にて、「夢やらん」とぞ仰ける。P273同十
九日、大宮大納言高季卿、いまだ夜ふかうまいて、
御幸もよほされけり。此日ごろきこえさせ給ひつる
厳島の御幸、西八条よりすでにとげさせをはします。
やよひもなか半すぎぬれど、霞にくもる在明の月は
P04014
猶おぼろ也。こしぢをさしてかへる鴈の、雲井に
おとづれ行も、おりふしあはれにきこしめす。いまだ
夜のうちに鳥羽殿へ御幸なる。門前にて御車
よりおりさせ給ひ、門のうちへさしいらせ給ふに、人
まれにして木ぐらく、物さびしげなる御すまひ、
まづあはれにぞおぼしめす。春すでにくれなんとす、
夏木立にも成にけり。梢の花色をとろえて、宮
の鴬声老たり。去年の正月六日、朝覲のために
P04015
法住寺殿へ行幸ありしには、楽屋に乱声を奏し、
諸卿列に立て、諸衛陣をひき、院司の公卿まいり
むかて、幔門をひらき、掃部寮縁道をしき、ただし
かりし儀式一事もなし。けふはただ夢とのみぞお
ぼしめす。重教の中納言、御気色申されたりければ、
法皇寝殿の橋がくしの間へ御幸なて、待まいら
させ給ひけり。上皇は今年御年廿、あけがたの月の
光にはへさせ給ひて、玉体もいとどうつくしうぞみえさせ
P04016
をはしましける。御母儀建春門院にいたくにまいら
させ給たりければ、法皇まづ故女院の御事おぼし
めしいでて、御涙せきあへさせ給はず。両院の御座ちかく
しつらはれたP274り。御問答は人うけ給はるに及ばず。御前には
尼ぜばかりぞ候はれける。やや久しう御物語せさせ給ふ。
はるかに日たけて御暇申させ給ひ、鳥羽の草津より
御舟にめされけり。上皇は法皇の離宮、故亭幽
閑寂寞の御すまひ、御心ぐる
しく御らむじをかせ
P04017
給へば、法皇は又上皇の旅泊の行宮の浪の上、舟の
中の御ありさま、おぼつかなくぞおぼしめす。まこと
に宗廟・八わた・賀茂などをさしをいて、はるばると
安芸国までの御幸をば、神明もなどか御納受なかる
べき。御願成就うたがひなしとぞみえたりける。還御S0402同
廿六日、厳島へ御参着、入道相国の最愛の内侍が
宿所、御所になる。なか二にちをん逗留あて、経会
舞楽おこなはれけり。導師には三井寺の公兼僧正
P04018
とぞきこえし。高座にのぼり、鐘うちならし、表白
の詞にいはく、「九えの宮こをいでて、八えの塩路を
わきもてまいらせ給ふ御心ざしのかたじけなさ」と、
たからかに申されたりければ、君も臣も感涙をもよ
ほされけり。大宮・客人をはじめまいらせて、社々所々へ
みな御幸なる。大宮より五町ばかり、P275山をまはて、滝の宮へ
まいらせ給ふ。公兼僧正一首の歌ようで、拝殿の
柱に書つけられたり。
P04019
雲井よりおちくる滝のしらいとに
ちぎりをむすぶことぞうれしき W016
神主佐伯の景広、加階従上の五位、国司藤原
有綱、しなあげられて加階、従下の四品、院の殿上ゆる
さる。座主尊永、法印になさる。神慮もうごき、太政
入道の心もはたらきぬらんとぞみえし。同廿九日、
上皇御舟かざて還御なる。風はげしかりければ、御
舟こぎもどし、厳島のうち、ありの浦にとどまらせ
P04020
給ふ。上皇「大明神の御名残をしみに、歌つかまつ
れ」と仰ければ、隆房の少将
たちかへるなごりもありの浦なれば
神もめぐみをかくるしら浪 W017
夜半ばかりより浪もしづかに、風もしづまりければ、
御舟こぎいだし、其日は備後国しき名の泊に
つかせ給ふ。このところはさんぬる応保のころおひ、一
院御幸の時、国司藤原の為成がつくたる御所の
P04021
ありけるを、入道相国、御まうけにしつらはれたりしか共、
上皇それへはあがらせ給はず。「けふは卯月一日、衣がへと
いふ事のあるぞかし」とて、おのおの宮この方をおもひ
やりあそび給ふに、岸に色ふかき藤の松にさき
かかりけるを、上皇叡覧あて、隆季の大P276納言を
めして、「あの花おりにつかはせ」と仰ければ、左史生中原
康定がはし舟にのて、御前をこぎとほりけるをめし
て、おりにつかはす。藤の花を[B た]おり、松の枝につけながら
P04022
もてまいりたり。「心ばせあり」など仰られて、御感あり
けり。「此花にて歌あるべし」と仰ければ、隆季[B ノ]大納言
千とせへん君がよはひに藤浪の
松の枝にもかかりぬるかな W018
其後御前に人々あまた候はせ給ひて、御たはぶれご
とのありしに、上皇しろききぬきたる内侍が、国綱卿
に心をかけたるな」とて、わらはせをはしましければ、
大納言大にあらがい申さるるところに、ふみもたる便
P04023
女がまいて、「五条大納言どのへ」とて、さしあげたり。
「さればこそ」とて満座興ある事に申あはれけり。大
納言これをとてみ給へば、
しらなみの衣の袖をしぼりつつ
君ゆへにこそ立もまはれね W019
上皇「やさしうこそおぼしめせ。この返事はあるべき
ぞ」とて、やがて御硯をくださせ給ふ。大納言返事
には、
P04024
おもひやれ君が面かげたつ浪の
よせくるたびにぬるるたもとを W020
それより備前国小島の泊につかせ給ふ。五日、天晴
風しづかに、海上ものどけかりければ、御所の御舟を
はじめまいらせP277て、人々の舟どもみないだしつつ、雲
の波煙の浪をわけすぎさせ給ひて、其日の酉
剋に、播摩国やまとの浦につかせ給ふ。それより御
輿にめして福原へいらせおはします。六日は供奉の
P04025
人々、いま一日も宮こへとくといそがれけれ共、新院
御逗留あて、福原のところどころ歴覧ありけり。池
の中納言頼盛卿の山庄、あら田まで御らんぜらる。七日、
福原をいでさせ給ふに、隆季の大納言勅定をうけ
給はて、入道相国の家の賞をこなはる。入道の養子
丹波守清門、正下の五位、同入道の孫越前少将
資盛、四位の従上とぞきこえし。其日てら井につ
かせ給ふ。八日都へいらせ給ふに、御むかへの公卿殿上人、
P04026
鳥羽の草津へぞまいられける。還御の時は鳥羽
殿へは御幸もならず、入道相国の西八条の亭へいらせ
給ふ。同四月廿二日、新帝の御即位あり。大極殿にて
あるべかりしか共、一とせ炎上の後は、いまだつくりもいださ
れず。太政官の庁にておこなはるべしとさだめら
れたりけるを、其時の九条殿申させ給けるは、「太
政官の庁は凡人家にとらば公文所ていのとこ
ろ也。大極殿なからん上者、紫震殿にてこそ御即位は
P04027
あるべけれ」と申させ給ひければ、紫震殿にてぞ御
即位はありける。「去じ康保四年十一月一日、冷
泉院の御即位紫震殿にてありしは、主上御
邪気によP278て、大極殿へ行幸かなはざりし故也。其例
いかがあるべからん。ただ後三条の院の延久佳例に
まかせ、太政官の庁にておこなはるべき物を」と、人々
申あはれけれ共、九条殿の御ぱからひのうへは、左右に
及ばず。中宮弘徽殿より仁寿殿へうつらせ給ひ
P04028
て、たかみくらへまいらせ給ひける御ありさまめ
でたかりけり。平家の人々みな出仕せられける
なかに、小松殿の公達はこぞおとどうせ給ひし
あひだ、いろにて籠居せられたり。源氏揃S0403蔵人衛門権佐
定長、今度の御即位に違乱なくめでたき様を
厚紙十枚ばかりにこまごまとしるいて、入道相国の
北方八条の二位殿へまいらせたりければ、ゑみをふ
くんでぞよろこばれける。かやうに花やかにめでたき
P04029
事共ありしかども、世間は猶しづかならず。其比一
院第二の皇子茂仁の王と申しは、御母加賀大
納言季成卿の御娘也。三条高倉にましましけ
れば、高倉の宮とぞ申ける。去じ永万元年
十二月十六日、御年十五にて、忍つつ近衛河原の大
宮の御所にて御元服ありけり。御手P279跡うつくしう
あそばし、御才学すぐれて在ましければ、位にもつか
せ給ふべきに、故建春門院の御そねみにて、おしこめ
P04030
られさせ給ひつつ、花のもとの春の遊には、紫毫
をふるて手づから御作をかき、月の前の秋の宴
には、玉笛をふいて身づから雅音をあやつり給ふ。
かくしてあかしくらし給ふほどに、治承四年には、御
年卅にぞならせ在ましける。其比近衛河原に候ける
源三位入道頼政、或夜ひそかに此宮の御所にまいて、
申ける事こそおそろしけれ。「君は天照大神四十八世
の御末、神武天皇より七十八代にあたらせ給ふ。
P04031
太子にもたち、位にもつかせ給ふべきに、卅まで宮
にてわたらせ給ふ御事をば、心うしとはおぼしめさ
ずや。当世のていを見候に、うへにはしたがいたるやう
なれども、内々は平家をそねまぬ物や候。御謀反おこ
させ給ひて、平家をほろぼし、法皇のいつとなく
鳥羽殿におしこめられてわたらせ給ふ御心をも、やす
めまいらせ、君も位につかせ給ふべし。これ御孝行
のいたりにてこそ候はんずれ。もしおぼしめしたたせ
P04032
給ひて、令旨をくださせ給ふ物ならば、悦をなして
まいらむずる源氏どもこそおほう候へ」とて、申つづ
く。「まづ京都には、出羽前司光信が子共、伊賀守
光基、出羽判官光長、出羽蔵人光重、出羽冠者
光能、熊野には、故六条判官為義が末子十郎P280義盛
とてかくれて候。摂津国には多田蔵人行綱こそ候へ共、
新大納言成親卿の謀反の時、同心しながらかゑり
忠したる不当人で候へば、申に及ばず。さりながら、其弟
P04033
多田二郎朝実、手島の冠者高頼、太田太郎頼基、
河内国には、武蔵権守入道義基、子息石河判官代
義兼、大和国には、宇野七郎親治が子共、[B 太郎]有治・二郎
清治、三郎成治・四郎義治・近江国には、山本・柏木・錦
古里、美乃尾張には、山田次郎重広、河辺太郎重直、
泉太郎重光、浦野[B ノ]四郎重遠、安食次郎重頼、其子[B ノ]
太郎重資、木太[B ノ]三郎重長、開田[B ノ]判官代重国、矢島
先生重高、其子[B ノ]太郎重行、甲斐国には、逸見冠者
P04034
義清、其子太郎清光、武田太郎信義、加賀見[B ノ]二郎
遠光・同小次郎長清、一条[B ノ]次郎忠頼、板垣三郎
兼信、逸見[B ノ]兵衛有義、武田五郎信光、安田三郎
義定、信乃の国には、大内太郎維義、岡田冠者親義、
平賀冠者盛義、其子[B ノ]四郎義信、帯刀[B ノ]先生義方が
次男木曾冠者義仲、伊豆国には、流人前右兵衛佐
頼朝、常陸国には、信太三郎先生義教、佐竹[B ノ]冠者
正義、其子太郎忠義、同三郎義宗、四郎高義、五郎
P04035
義季、陸奥国には、故左馬頭義朝が末子九郎冠者
義経、これみな六孫王の苗裔、多田新発ち)満仲が
後胤なり。朝敵をもたいらげ、宿望をとげし事は、
源平いづれ勝劣なかりしか共、今は雲泥まじはり
をへだてて、主従の礼にも猶おとれり。国には国司に
しP281たがひ、庄には領所につかはれ、公事雑事にかりたて
られて、やすひおもひも候はず。いかばかりか心うく候らん。
君もしおぼしめしたたせ給て、令旨をたうづる物ならば、
P04036
夜を日についで馳のぼり、平家をほろぼさん事、
時日をめぐらすべからず。入道も年こそよて候ども、
子共ひきぐしてまいり候べし」とぞ申たる。宮はこ
の事いかがあるべからんとて、しばしは御承引もなかり
けるが、阿古丸大納言宗通卿の孫、備後前司季通が
子、少納言維長と申し候〔は〕勝たる相人也ければ、時の
人相少納言とぞ申ける。其人がこの宮をみまいらせて、
「位に即せ給べき相在ます。天下の事思召はなたせ
P04037
給ふべからず」と申けるうへ、源三位入道もか様に申され
ければ、「[B さては]しかるべき天照大神の御告やらん」とて、ひし
ひしとおぼしめしたたせ給ひけり。熊野に候十郎
義盛をめして、蔵人になさる。行家と改名して、
令旨の御使に東国へぞ下ける。同四月ぐわつ)廿八日、宮こ
をたて、近江国よりはじめて、美乃尾張の源氏共に
次第にふれてゆく程に、五月十日、伊豆の北条にくだり
つき、流人前兵衛佐殿に令旨たてまつり、信太[B ノ]三郎
P04038
先生義教は兄なればとらせんとて、常陸国信太[B ノ]浮
島へくだる。木曾冠者義仲は甥なればたばんとて、
山道へぞおP282もむきける。其比の熊野の別当湛増は、
平家に心ざしふか〔か〕りけるが、なにとしてかもれきい
たりけん、「新宮十郎義盛こそ高倉宮の令旨給
はて、美乃尾張の源氏どもふれもよほし、既に謀反を
をこすなれ。那智新宮の物共は、さだめて源氏の
方うどをぞせんずらん。湛増は平家の御恩を雨
P04039
やまとかうむたれば、いかでか背たてまつるべき。那知
新宮の物共に矢一いかけて、平家へ子細を申さん」とて、
ひた甲一千人、新宮の湊へ発向す。新宮には鳥井
の法眼・高坊の法眼、侍には宇ゐ・すずき・水屋・かめ
のこう、那知には執行法眼以下、都合其勢二千
余人なり。時つくり、矢合して、源氏の方にはとこそ
いれ、平家の方にはかうこそいれとて、矢さけびの
声の退転もなく、かぶらのなりやむひまもなく、三日が
P04040
ほどこそたたかふたれ。熊野別当湛増、家子
郎等おほくうたせ、我身手おひ、からき命をい
きつつ、本宮へこそにげのぼりけれ。鼬之沙汰S0404さるほどに、法
皇は、「とをき国へもながされ、はるかの島へもうつ
されんP283ずるにや」と仰せけれども、城南の離宮にし
て、ことしは二年にならせ給ふ。同五月十二日午剋計、
御所中にはゐたちおびたたしうはしりさはぐ。法
皇大に驚きおぼしめし、御占形をあそばいて、近江
P04041
守仲兼、其比はいまだ鶴蔵人とめされけるをめし
て、「この占形もて、泰親がもとへゆけ。きと勘がへさせて、
勘状をとてまいれ」とぞ仰ける。仲兼これを給はて、陰
陽頭安陪泰親がもとへ行。おりふし宿所にはなかり
けり。「白河なるところへ」といひければ、それへたづねゆき、
泰親にあふて勅定のおもむき仰すれば、やがて勘状
をまいらせけり。仲兼鳥羽殿にかへりまいて、門より
まいらうどすれば、守護の武士共ゆるさず。案内はした
P04042
り、築地をこへ、大床のしたをはうて、きり板より
泰親が勘状をこそまいらせたれ。法皇これをあけて
御らんずれば、「いま三日がうち御悦、ならびに御なげき」
とぞ申たる。法皇「御よろこびはしかるべし。これほど
の御身になて、又いかなる御難のあらんずるやらん」
とぞ仰ける。さるほどに、前右大将宗盛卿、法皇の
御事をたりふし申されければ、入道相国[Bやうやう]おもひな
おて、同十三日鳥羽殿をいだしたてまつり、八条
P04043
烏丸の美福門院御所へ御幸なしたてまつる。
いま三日がうちの御悦とは、泰P284親これをぞ申ける。
かかりけるところに、熊野別当湛増飛脚をもて、高
倉宮の御謀反のよし宮こへ申たりければ、前右大
将宗盛卿大にさはいで、入道相国おりふし福原に
おはしけるに、此よし申されたりければ、ききもあへず、
やがて宮こへはせのぼり、「是非に及べからず。高倉
宮からめとて、土佐の畑へながせ」とこその給ひけれ。
P04044
上卿は三条大納言実房、識事は頭弁光雅とぞ
きこえし。源大夫判官兼綱、出羽判官光長うけ
給はて、宮の御所へぞむかひける。この源大夫判官
と申は、三位入道の次男也。しかるをこの人数にいれ
られけるは、高倉の宮の御謀反を三位入道すすめ
申たりと、平家いまだしらざりけるによて也。信連S0405宮は
さ月十五夜の雲間の月をながめさせ給ひ、なん
のゆくゑもおぼしめしよらざりけるに、源三位入道
P04045
の使者とて、ふみもていそがしげでいできたり。宮の
御めのと子、六条のすけの大夫宗信、これをとて御
前へまいり、ひらいP285てみるに、「君の御謀反すでにあら
はれさせ給ひて、土左の畑へな[B か]しまいらすべしとて、
官人共御むかへにまいり候。いそぎ御所をいでさせ
給て、三井寺へいらせをはしませ。入道もやがてまいり
候べし」とぞかいたりける。「こはいかがせん」とて、さはがせおは
しますところに、宮の侍長兵衛尉信連といふ物
P04046
あり。「ただ別の様候まじ。女房装束にていでさせ
給へ」と申ければ、「しかるべし」とて、御ぐしをみだし、かさね
たるぎよ衣に一めがさをぞめされける。六条[B ノ]助
の大夫宗信、唐笠もて御ともつかまつる。鶴丸と
いふ童、袋に物いれていただいたり。青侍の女を
むかへてゆくやうにいでたたせ給ひて、高倉を北
ゑおちさせ給ふに、溝のありけるを、いと物がるうこえ
させ給へば、みちゆき人がたちとどまて、「はしたなの
P04047
女房の溝のこえやうや」とて、あやしげにみまい
らせければ、いとどあしばやにすぎさせ給ふ。長兵衛
尉信連は、御所の留守にぞおかれたる。女房達の
少々おはしけるを、かしこここへたちしのばせて、見ぐる
しき物あらばとりしたためんとてみる程に、宮のさし
も御秘蔵ありける小枝ときこえし御笛を、只今
しもつねの御所の御枕にとりわすれさせ給たり
けるぞ、立かへてもとらまほしうおぼしめす、信連
P04048
これをみつけて、「あなあさまし。君のさしも御秘
蔵ある御笛を」と申P286て、五町がうちにおついてまいらせ
たり。宮なのめならず御感あて、「われしなば、此笛をば
御棺にいれよ」とぞ仰ける。「やがて御ともに候へ」と仰け
れば、信連申けるは、「只今御所へ官人共が御むかへに
まいり候なるに、御前に人一人も候はざらんが、無下に
うたてしう覚候。信連が此御所に候とは、上下みなし
られたる事にて候に、今夜候はざらんは、それも其夜は
P04049
にげたりけりなどいはれん事、弓矢とる身は、かり
にも名こそおしう候へ。官人共しばらくあいしらいて、
打破て、やがてまいり候はん」とて、はしりかへる。長兵衛が
其日装束には、うすあをの狩衣のしたに、萠黄
威の腹巻をきて、衛府の太刀をぞはいたりける。
三条面の惣門をも、高倉面の小門をも、ともにひ
らいて待かけたり。源大夫判官兼綱、出羽判官光長、
都合其勢三百余騎、十五日の夜の子の剋に、宮
P04050
の御所へぞ押寄たる。源大夫判官は、存ずる旨
ありとおぼえて、はるかの門前にひかへたり。出羽判
官光長は、馬に乗ながら門のうちに打入り、庭
にひかへて大音声をあげて申けるは、「御謀反のきこえ候
によて、官人共別当宣を承はり、御むかへにまいて候。
いそぎ御出候へ」と申ければ、長兵衛尉大床に立て、
「これは当時は御所でも候はず。御物まうでで候ぞ。何P287事
ぞ、事の子細を申されよ」といひければ、「何条、此御所
P04051
ならではいづくへかわたらせ給べかんなる。さないはせそ。
下部共まいて、さがしたてまつれ」とぞ申ける。長兵衛
尉これをきいて、「物もおぼえぬ官人共が申様かな。
馬に乗ながら門のうちへまいるだにも奇怪くわい)なるに、
下部共まいてさがしまいらせよとは、いかで申ぞ。左兵
衛尉長谷部信連が候ぞ。ちかうよてあやまち
すな」とぞ申ける。庁の下部のなかに、金武といふ大
ぢからのかうの物、長兵衛に目をかけて、大床のうゑゑ
P04052
とびのぼる。これをみて、どうれいども十四五人ぞ
つづいたる。長兵衛は狩衣の帯紐ひきてすつる
ままに、衛府の太刀なれ共、身をば心えてつくらせ
たるをぬきあはせて、さんざんにこそきたりけれ。
かたきは大太刀・大長刀でふるまへ共、信連が衛府
の太刀に切たてられて、嵐に木の葉のちるやうに、
庭へさとぞおりたりける。さ月十五夜の雲間の月
のあらはれいでて、あかかりけるに、かたきは無案内なり、
P04053
信連は案内者也。あそこの面道におかけては、はた
ときり。ここのつまりにおつめては、ちやうどきる。「いかに
宜旨の御使をばかうはするぞ」といひければ、「宜旨
とはなんぞ」とて、太刀ゆがめばおどりのき、おしなをし、
ふみなをし、たちどころによき物共十四五人こそ
きりふせたれ。太刀のさP288き三寸ばかりうちをて、腹を
きらんと腰をさぐれば、さやまきおちてなかりけり。
ちからおよばず、大手をひろげて、高倉面の小門より
P04054
はしりいでんとするところに、大長刀もたる
男一人よりあひたり。信連長刀にのらんととん
でかかるが、のりそんじてももをぬいざまにつら
ぬかれて、心はたけくおもへども、大勢のなかに
とりこめられて、いけどりにこそせられけれ。其後
御所をさがせども、宮わたらせ給はず。信連ばかり
からめて、六波羅へいてまいる。入道相国は簾中にゐ
給へり。前右大将宗盛卿大床にたて、信連を大庭に
P04055
ひすへさせ、「まことにわ男は、「宣旨とはなむぞ」とて
きたりけるか。おほくの庁の下部を刃傷殺害
したん也。せむずるところ、糾問してよくよく事
の子細をたずねとひ、其後河原にひきいだいて、
かうべをはね候へ」とぞの給ひける。信連すこしも
さはがず、あざわらて申けるは、「このほどよなよな
あの御所を、物がうかがい候時に、なに事のあるべきと
存て、用心も仕候はぬところに、よろうたる物共がうち
P04056
入て候を、「なに物ぞ」ととひ候へば、「宜旨の御使」となの
り候。山賊・海賊・強盜など申やつ原は、或は「公達
のいらせ給ふぞ」或は「宜旨の御使」などなのり候と、
かねがねうけ給て候へば、「宜旨とはなんぞ」とて、きた候。
凡者物の具をもおもふさまにつかまつり、P289かねよき
太刀をももて候ば、官人共をよも一人も安穏ではかへ
し候はじ。又宮の御在所は、いづくにかわたらせ給ふら
む、しりまいらせ候はず。たとひしりまいらせて候とも、
P04057
さぶらひほんの物の、申さじとおもひきてん事、
糾問におよで申べしや」とて、其後は物も申
さず。いくらもなみゐたりける平家のさぶらい共、
「あぱれかうの物かな。あたらおのこをきられんずらん
むざんさよ」と申あへり。其なかにある人の申けるは、
「あれは先年ところにありし時も、大番衆がとどめ
かねたりし強盜六人、只一人おかかて、四人きりふせ、
二人いけどりにして、其時なされたる左兵衛尉ぞかし。
P04058
これをこそ一人当千のつは物ともいふべけれ」
とて、口々におしみあへりければ、入道相国いかがおも
はれけん、伯耆のひ野へぞながされける。源氏の
世になて、東国へくだり、梶原平三景時について、
事の根元一々次第に申ければ、鎌倉殿、、神妙也
と感じおぼしめして、能登国に御恩かうぶり
けるとぞきこえし。競S0406 P290宮は高倉を北へ、近衛を東へ、
賀茂河をわたらせ給て、如意山へいらせおはし
P04059
ます。昔清見原の天皇のいまだ東宮の御時、
賊徒におそはれさせ給ひて、吉野山へいらせ給ひ
けるにこそ、をとめのすがたをばからせ給ひける
なれ。いま此君の御ありさまも、それにはたがはせ
給はず。しらぬ山路を夜もすがらわけいらせ給ふ
に、いつならはしの御事なれば、御あしよりいづる血は、
いさごをそめて紅の如し。夏草のしげみがなかの
露けさも、さこそはところせうおぼしめされけめ。
P04060
かくして暁方に三井寺へいらせおはします。「かひ
なき命のおしさよ、衆徒をたのんで入御あり」と
仰ければ、大衆畏悦て、法輪院に御所をしつらい、
それにいれたてまて、供御したててまいらせけり。
あくれば十六日、高倉の宮の御謀叛おこさせ給
て、うせさせ給ぬと申ほどこそありけれ、京中の
騒動なのめならず。法皇これをきこしめて、
「鳥羽殿を御いであるは御悦なり。ならびに御歎と
P04061
泰親が勘状をまいらせたるは、これを申けり」とぞ仰ける。
抑源三位入道、年ごろ日比もあればこそありけめ、こ
としいかなる心にて謀叛をばおこしけるぞといふに、
平家の次男前[B ノ]右大将宗盛卿、すまじき事をし
給へり。されば、人の世にあればとて、すぞろにすま
じき事をもし、いふP291まじき事をもいふは、よくよく
思慮あるべき物也。たとへば、源三位入道の嫡子仲綱
のもとに、九重にきこえたる名馬あり。鹿毛なる
P04062
馬のならびなき逸物、のりはしり、心むき、又
あるべしとも覚えず。名をば木のしたとぞいはれ
ける。前右大将これをつたへきき、仲綱のもとへ使者
たて、「きこえ候名馬をみ候ばや」との給ひつかはされ
たりければ、伊豆守の返事には、「さる馬はもて候つれ
ども、此ほどあまりにのり損じて候つるあひだ、
しばらくいたはらせ候はんとて、田舎へつかはして候」。
「さらんには、ちからなし」とて、其後沙汰もなかりしを、
P04063
おほくなみなみいたりける平家の侍共、「あぱれ、其馬は
おととひまでは候し物を。昨日も候し、けさも庭のり
し候つる」など申ければ、「さてはおしむごさんなれ。にく
し。こへ」とて、侍してはせさせ、ふみなどしても、一日が
うちに五六度七八度などこはれければ、三位入道
これをきき、伊豆守よびよせ、「たとひこがねをま
ろめたる馬なり共、それほどに人のこわう物をおし
むべき様やある。すみやかにその馬六波羅へ
P04064
つかはせ」とこその給ひけれ。伊豆守力およばで、
一首の歌をかきそへて六波羅へつかはす。
恋しくはきてもみよかし身にそへる
かげをばいかがはなちやるべき W021 P292
宗盛卿歌の返事をばし給はで、「あぱれ馬や。馬は
まことによい馬でありけり。されどもあまりに主
がおしみつるがにくきに、やがて主が名のりをかな
やきにせよ」とて、仲綱といふかなやきをして、
P04065
むまやにたてられけり。客人来て、「きこえ候
名馬をみ候ばや」と申ければ、「その仲綱めに鞍お
いてひきだせ、仲綱めのれ、仲綱めうて、はれ」など
の給ひければ、伊豆守これをつたへきき、「身に
かへておもふ馬なれども、権威につゐてとらるる
だにもあるに、馬ゆへ仲綱が天下のわらはれぐ
さとならんずるこそやすからね」とて、大にいきど
をられければ、三位入道これをきき、伊豆守にむ
P04066
かて、「何事のあるべきとおもひあなづて、平家の
人共が、さやうのしれ事をいふにこそあんなれ。其儀
ならば、いのちいきてもなにかせん。便宜をうかがふ
てこそあらめ」とて、わたくしにはおもひもたたず、宮を
すすめ申たりけるとぞ、後にはきこえし。これにつ
けても、天下の人、小松のおとどの御事をぞしのび
申ける。或時、小松殿参内の次に、中宮の御方へま
いらせ給ひたりけるに、八尺ばかりありけるくちなはが、
P04067
おとどのさしぬきの左のりんをはひまはりけるを、
重盛さはがば、女房達もさはぎ、中宮もおどろか
せ給なんずとおぼしめし、左の手でくP293ちなはの
ををさへ、右の手でかしらをとり、直衣の袖のう
ちにひきいれ、ちともさはがず、つゐ立て、「六位や候六位や候」
とめされければ、伊豆守、其比はいまだ衛府蔵人
でをはしけるが、「仲綱」となのてまいられたりけるに、
此くちなはをたぶ。給て弓場殿をへて、殿上の
P04068
小庭にいでつつ、御倉の小舎人をめして、「これ
給はれ」といはれければ、大にかしらをふてにげさ
りぬ。ちからをよばで、わが郎等競の滝口をめ
して、これをたぶ。給はてすててげり。そのあした
小松殿よい馬に鞍おいて、伊豆守のもとへつかはす
とて、「さても昨日のふるまいこそ、ゆうに候しか。是は
のり一の馬で候。夜陰に及で、陣外より傾城の
もとへかよはれん時、もちゐらるべし」とてつかはさる。
P04069
伊豆守、大臣の御返事なれば、「御馬かしこまて
給はり候ぬ。昨日のふるまいは、還城楽にこそにて候
しか」とぞ申されける。いかなれば、小松おとどはかう
こそゆゆしうおはせしに、宗盛卿はさこそなからめ、
あまさへ人のおしむ馬こひとて、天下の大事に
及ぬるこそうたてけれ。同十六日の夜に入て、源
三位入道頼政、嫡子伊豆守仲綱、次男源大夫
判官兼綱、六条[B ノ]蔵人仲家、其子蔵人太郎
P04070
仲光以下、都合其勢三百余騎館に火かけ
やきあげて、三井寺へこそまいられけれ。P294三位入道
の侍に、源三滝口競といふ物あり。はせおくれ
てとどまたりけるを、前右大将、競をめして、「いかに
なんぢは三位入道のともをばせでとどまたるぞ」
との給ければ、競畏て申ける、「自然の事候はば、
まさきかけて命をたてまつらんとこそ、日来は
存て、候つれども、何とおもはれ候けるやらん、かうとも
P04071
おほせられ候はず」。「抑朝敵頼政法師に同心せ
むとやおもふ。又これにも兼参の物ぞかし。先途
後栄を存じて、当家に奉公いたさんとや
おもふ。ありのままに申せ」とこその給ひければ、競
涙をはらはらとながいて、「相伝のよしみはさる事に
て候へども、いかが朝敵となれる人に同心をばし候べき。
殿中に奉公仕うずる候」と申ければ、「さらば奉公
せよ。頼政法師がしけん恩には、ちともおとるまじき
P04072
ぞ」とて、入給ひぬ。さぶらひには、「競はあるか」。「候」。「競はある
か」。「候」とて、あしたより夕に及まで祗候す。やうやう
日もくれければ、大将いでられたり。競かしこまて
申けるは、「三位入道殿三井寺にときこえ候。さだめて
打手むけられ候はんずらん。心にくうも候はず。三井
寺法師、さては渡辺のしたしいやつ原こそ候ら
め。ゑりうちなどもし候べきに、のて事にあふべき
馬の候つる〔を〕、したしいやつめにぬすまれて候。御馬
P04073
一疋くだしあづかるべうや候らん」と申ければ、P295大将
「もともさるべし」とて、白葦毛なる馬の煖廷とて
秘蔵せられたりけるに、よい鞍おいてぞたう
だりける。競やかたにかへて、「はや日のくれよ
かし。此馬に打乗て三井寺へはせまいり、三位
入道殿のまさきかけて打死せん」とぞ申ける。
日もやうやうくれければ、妻子共かしこここへたち
しのばせて、三井寺へ出立ける心のうちこそむざん
P04074
なれ。ひやうもんの狩衣の菊とぢおほきら
かにしたるに、重代のきせなが、ひおどしのよろひ
に星じろの甲の緒をしめ、いか物づくりの大
太刀はき、廿四さいたる大なかぐろの矢おひ、滝
口の骨法わすれじとや、鷹の羽にてはい
だりける的矢一手ぞさしそへたる。しげどう
の弓もて、煖廷にうちのり、のりかへ一騎う
ちぐし、とねり男にもたてわきばさませ、屋形に
P04075
火かけやきあげて、三井寺へこそ馳たりけれ。
六波羅には、競が宿所より火いできたりとて、ひ
しめきけり。大将いそぎいでて、「競はあるか」とたづね
給ふに、「候はず」と申す。「すわ、きやつを手のべにして、
たばかられぬるは。おかけてうて」との給へども、競は
もとよりすぐれたるつよ弓せい兵、矢つぎばやの
手きき、大ぢからの甲の物、「廿四さいたる矢でまづ
廿四人は射ころされなんず。おとなせそ」とて、むかふ
P04076
物こそなかりけれ。P296三井寺にはおりふし競が沙汰
ありけり。渡辺党「競をばめしぐすべう候つる
物を。六波羅にのこりとどまて、いかなるうき目
にかあひ候らん」と申ければ、三位入道心をして、「よも
その物、無台にとらへからめられはせじ。入道に心ざし
ふかい物也。いまみよ、只今まいらずるぞ」との給ひ
もはてねば、競つといできたり。「さればこそ」とぞの
給ひける。競かしこまて申けるは、「伊豆守殿の木の
P04077
したがかはりに、六波羅の煖廷こそとてまいて
候へ。まいらせ候はん」とて、伊豆守にたてまつる。伊
豆守なのめならず悦て、やがて尾髪をきり、かな
やきして、次の夜六波羅へつかはし、夜半ばかり
門のうちへぞおひいれたる。馬やにいて馬どもに
くひあひければ、とねりおどろきあひ、「煖廷がまいて候」
と申す。大将いそぎいでて見給へば、「昔は煖廷、今は平
の宗盛入道」といふかなやきをぞしたりける。大将「や
P04078
すからぬ競めを、手のびにしてたばかられぬる事
こそ遺恨なれ。今度三井寺へよせたらんには、いか
にもしてまづ競めをいけどりにせよ。のこぎりで
頸きらん」とて、おどりあがりおどりあがりいかられけれども、南
丁が尾かみもおいず、かなやきも又うせざりけり。P297
山門牒状S0704 三井寺には貝鐘ならいて、大衆僉議す。「近日世上の
体を案ずるに、仏法の衰微、王法の牢籠、まさに
此時にあたれり。今度清盛入道が暴悪をいまし
P04079
めずば、何日をか期すべき。宮ここに入御の御事、
正八幡宮の衛護、新羅大明神の冥助にあらずや。
天衆地類も影向をたれ、仏力神力も降伏
をくはへまします事などかなかるべき。抑北嶺は
円宗一味の学地、南都は夏臈得度の戒定也。
牒奏のところに、などかくみせざるべき」と、一味同心に
僉議して、山へも奈良へも牒状をこそおくり
けれ。山門への状云、園城寺牒す、延暦寺の衙殊に
P04080
合力をいたして、当寺の破滅を助られんとお
もふ状右入道浄海、ほしいままに王法をうしなひ、
仏法をほろぼさんとす。愁歎無極ところに、去る
十五日の夜、一院第二の王子、ひそかに入寺せし
め給ふ。爰院宣と号していだしたてまつるべき
よし、せめありといへ共、出したてまつるにあたはず。
仍て官軍をはなちつかはすべきむね、聞へあり。当
寺の破滅、まさに此時にあたれり。諸衆何ぞ愁歎
P04081
せざらんや。就中に延暦・園P298城両寺は、門跡
二に相分るといへども、学するところは是円頓一
味の教門におなじ。たとへば鳥の左右の翅の如し。
又車の二の輪に似たり。一方闕けんにおいては、
いかでかそのなげきなからんや。者ことに合力いた
して、当寺の破滅を助られば、早く年来の
遺恨を忘て、住山の昔に復せん。衆徒の僉議
かくの如し。仍牒奏件の如し。治承四年五月十八日
P04082
大衆等とぞかいたりける。南都牒状S0408 山門の大衆此状を披
見して、「こはいかに、当山の末寺でありながら、鳥の左
右の翅の如し、又車の二の輪に似たりと、おさへて
書でう奇怪也」とて、返牒ををくらず。其上入道
相国、天台座主明雲大僧正に衆徒をしずめらる
べきよしの給ひければ、座主いそぎ登山して
大衆をしづめ給ふ。かかりし間、宮の御方へは不定の
よしをぞ申ける。又入道相国、近江米二万石、北国の
P04083
おりのべぎぬ三千疋、往来によせらる。これを
たにだに峯々にひかれけるに、俄P299の事ではあり、
一人してあまたをとる大衆もあり、又手をむな
しうして一もとらぬ衆徒もあり。なに物のしわ
ざにや有けん、落書をぞしたりける。
山法師おりのべ衣うすくして
恥をばえこそかくさざりけれ W022
又きぬにもあたらぬ大衆のよみたりけるやらん、
P04084
おりのべを一きれもえぬわれらさへ
うすはぢをかくかずに入かな W023
又南都への状に云、園城寺牒す、興福寺[B ノ]衙殊
に合力をいたして、当寺の破滅を助られんと
乞状右仏法の殊勝なる事は、王法をまぼらんが
ため、王法又長久なる事は、すなはち仏法による。
爰に入道前太政大臣平朝臣そん)清盛公、法名浄海、
ほしいままに国威をひそかにし、朝政をみだり、内に
P04085
つけ外につけ、恨をなし歎をなす間、今月
十五日[B ノ]夜、一院第二の王子、不慮の難をのが
れんがために、にはかに入寺せしめ給ふ。ここに院
宣と号して出したてまつるべきむね、せめあり
といへども、衆徒一向これををしみ奉る。仍彼禅門、
武士を当寺にいれんとす。仏法と云王法〔と〕云、一
時にまさに破滅せんとす。昔唐の恵正天子、
軍兵をもて仏法をほろぼさしめし時、清凉山
P04086
の衆、合戦をいたしてこP300れをふせく。王権猶
かくの如し。何况や謀叛八逆の輩においてをや。
就中に南京は例なくて罪なき長者を配
流せらる。今度にあらずは、何日か会稽をとげん。
ねがはくは、衆徒、内には仏法の破滅をたすけ、外には
悪逆の伴類を退けば、同心のいたり本懐に足
ぬべし。衆徒の僉議かくの如し。仍牒奏如件。治
承四年五月十八日大衆等とぞかいたりける。南都
P04087
の大衆、此状を披見して、やがて返牒ををくる。
其返牒に云、興福寺牒す、園城寺の衙来牒
一紙に載られたり。右入道浄海が為に、貴寺の
仏法をほろぼさんとするよしの事。牒す、玉泉
玉花、両家の宗義を立といへども、金章金句お
なじく一代教文より出たり。南京北京ともにもて
如来の弟子たり。自寺他寺互に調達が魔
障を伏すべし。抑清盛入道は平氏の糟糠、武
P04088
家の塵芥なり。祖父正盛蔵人五位の家に仕へ
て、諸国受領の鞭をとる。大蔵卿為房賀州刺
史のいにしへ、検非所に補し、修理大夫顕季
播磨[B ノ]大守たし昔、厩[B ノ]別当職に任ず。P301しかるを
親父忠盛昇殿をゆるされし時、都鄙の老少
みな蓬戸瑕瑾ををしみ、内外の栄幸をのをの
馬台の辰門に啼く。忠盛青雲の翅を刷と
いへども、世の民なを白屋の種をかろんず。名をを
P04089
しむ青侍、其家にのぞむ事なし。しかるを去る
平治元年十二月、太上天皇一戦の功を感じて、不
次の賞を授給ひしよりこのかた、たかく相国に
のぼり、兼て兵杖を給はる。男子或は台階をかた
じけなうし、或は羽林につらなる。女子或は中官
職にそなはり、或は准后の宣を蒙る。群弟庶子
みな棘路にあゆみ、其孫彼甥ことごとく竹符をさく。
しかのみならず、九州を統領し、百司を進退
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して、奴婢みな僕従となす。一毛心にたがへば、王
侯といへどもこれをとらへ、片言耳にさかふれば、
公卿といへ共これをからむ。これによて或は一旦
の身命をのべんがため、或は片時の凌蹂をのが
れんとおもて万乗の聖主猶緬転の媚をなし、
重代の家君かへて膝行の礼をいたす。代々相
伝の家領を奪ふといへども、しやうさいもおそれ
て舌をまき、みやみや相承の庄園をとるといへ共、
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権威にはばかて物いふ事なし。勝にのるあまり、
去年の冬十一月、太上皇のすみかを追補し、博陸
公の身ををしながす。反逆の甚しい事、誠に古今
に絶たり。其時我等、すべからく賊衆にゆき向て
其罪を問べしといへ共、或は神慮P302にあひはばかり、
或は綸言と称するによて、鬱陶をおさへ光陰を
送るあひだ、かさねて軍兵ををこして、一院第二
の親王宮をうちかこむところに、八幡三所・春日
P04092
の大明神、ひそかに影向をたれ、仙蹕をささげ
たてまつり、貴寺におくりつけて、新羅のとぼ
そにあづけたてまつる。王法つくべからざるむねあ
きらけし。随て又貴寺身命をすてて守護し
奉る条、含識のたぐひ、誰か随喜せざらん。我等
遠拭にあて、そのなさけを感ずるところに、清盛
入道尚胸気ををこして、貴寺に入らんとするよし、
ほのかに承及をもて、兼て用意をいたす。十八日
P04093
辰一点に大衆ををこし、諸寺に牒奏し、末寺
に下知し、軍士をゑて後、案内を達せんとする
ところに、青鳥飛来てはうかんをなげたり。数日
の鬱念一時に解散す。彼の唐家清凉一山の
■蒭しゆ)、猶ぶそうの官兵を帰へす。况や和国南
北両門の衆徒、なんぞ謀臣の邪類をはらはざら
むや。よくりやうゑん左右の陣をかためて、
よろしく我等が近発のつげを待べし。状を察し
P04094
て疑貽をなす事なかれ。もて牒す。治承四年
五月廿一日大衆等とぞかいたりける。P303永僉議S0409 三井寺には又
大衆おこて僉議す。「山門は心がはりしつ。南都はい
まだまいらず。此事のびてはあしかりなん。いざや六
波羅におしよせて、夜打にせん。其儀ならば、老少
二手にわかて老僧どもは如意が峯より搦手に
むかふべし。足がる共四五百人さきだて、白河の在
家に火をかけてやきあげば、在京人六波羅の武士、
P04095
「あはや事いできたり」とて、はせむかはんずらん。其時
岩坂・桜本にひかけひかけ、しばしささへてたたかはん
まに、大手は伊豆守を大将軍にて、悪僧共六波
羅におしよせ、風うへに火かけ、一もみもうでせ
めんに、などか太政入道やきいだいてうたざるべき」とぞ
僉議しける。其なかに、平家のいのりしける一如房の
阿闍梨真海、弟子同宿数十人ひきぐし、僉議の庭
にすすみいでて申けるは、「かう申せば平家のかたうどと
P04096
やおぼしめされ候らん。たとひさも候へ、いかが衆徒の儀
をもやぶり、我寺の名をもおしまで候べき。昔は源
平左右にあらそひて、朝家の御まぼりたりしか
ども、ちかごろは源氏の運かたぶき、平家世をとて
廿余年、天下になびかぬ草木も候はず。内々のたち
のありさまも、小勢にてはたやすうせめおとしがたP304し。
さればよくよく外にはかり事をめぐらして、勢をもよほし、
後日によせさせ給ふべうや候らん」と、程をのばさんが
P04097
ために、ながながとぞ僉議したる。ここに乗円房の
阿闍梨慶秀といふ老僧あり。衣のしたに腹巻
をき、大なるうちがたなまへだれにさし、ほうしがし
らつつむで、白柄の大長刀杖につき、僉議の庭にすす
みいでて申けるは、「証拠を外にひくべからず。我等
の本願天武天皇は、いまだ東宮の御時、大友の皇子
にはばからせ給ひて、よし野のおくをいでさせ給ひ、
大和国宇多郡をすぎさせ給ひけるには、其勢
P04098
はつかに十七騎、されども伊賀伊勢にうちこへ、
美乃尾張の勢をもて、大友の皇子をほろぼして、
つゐに位につかせ給ひき。「窮鳥懐に入。人輪これ
をあはれむ」といふ本文あり。自余はしらず、慶秀
が門徒においては、今夜六波羅におしよせて、打死
せよや」とぞ僉議しける。円満院大輔源覚、すすみ
いでて申けるは、「僉議はしおほし。夜のふくるに、いそげや
すすめ」とぞ申ける。大衆揃S0410 搦手にむかふ老僧ども、大将軍
P04099
には、源三位入道頼政、乗円房[B ノ]阿闍梨慶秀、P305律
成房[B ノ]阿闍梨日胤、帥法印禅智、禅智が弟子義
宝・禅永をはじめとして、都合其勢一千人、手々で)に
たい松もて如意が峯へぞむかひける。大手の
大将軍には嫡子伊豆守仲綱、次男源大夫判官兼綱、
六条蔵人仲家、其子蔵人太郎仲光、大衆には円満
院の大輔源覚、成喜院の荒土佐、律成房[B ノ]伊賀公、
法輪院の鬼佐渡、これらはちからのつよさ、うち
P04100
物もては鬼にも神にもあはふどいふ、一人当千の
つは物也。平等院には因幡堅者荒大夫、角[B ノ]六郎房、
島の阿闍梨、つつ井法師に卿[B ノ]阿闍梨、悪少
納言、北[B ノ]院には金光院の六天狗、式部・大輔・能登・
加賀・佐渡・備後等也。松井の肥後ご)、証南院の筑後、
賀屋[B ノ]筑前、大矢の俊長、五智院の但馬、乗円房[B ノ]
阿闍梨慶秀が房人六十人の内、加賀光乗、刑部
春秀、法師原には一来法師にしかざりけり。堂衆
P04101
にはつつ井の浄妙明秀、小蔵[B ノ]尊月、尊永・慈慶・
楽住、かなこぶしの玄永、武士には渡辺[B ノ]省、播磨[B ノ]
次郎授、薩摩[B ノ]兵衛、長七唱、競[B ノ]滝口、与[B ノ]右馬允、
続源太、清・勧を先として、都合其勢一千五百
余人、三井寺をこそうたちけれ。宮いらせ給ひて
後は、大関小関ほりきて、堀ほりさかも木ひいた
れば、堀に橋わたし、さかも木ひきのくるなどしける
程に、時剋おしうつて、関地のには鳥なきあへり。
P04102
伊豆守の給ひけるは、「ここで鳥ないては、六波羅は
白P306昼にこそよせんずれ。いかがせん」との給へば、円
満院大輔源覚、又さきのごとくすすみいでて
僉議しけるは、「昔秦の昭王のとき、孟嘗君めし
いましめられたりしに、きさきの御たすけによて、
兵物三千人をひきぐして、にげまぬかれけるに、
凾谷関にいたれり。鶏なかぬかぎりは関の戸を
ひらく事なし。孟嘗君が三千の客のなかに、てん
P04103
かつといふ兵物あり。鶏のなくまねをありがたく
しければ、鶏鳴ともいはれけり。彼鶏鳴たかき
ところにはしりあがり、にはとりのなくまねをし
たりければ、関路のにはとりききつたへてみななきぬ。
其時関もり鳥のそらねにばかされて、関の戸
あけてぞとをしける。これもかたきのはかり事にや
なかすらん。ただよせよ」とぞ申ける。かかりし程に五月
のみじか夜、ほのぼのとこそあけにけれ。伊豆守の給
P04104
ひけるは、「夜うちにこそさりともとおもひつれ
ども、ひるいくさにはかなふまじ。あれよびかへせや」
とて、搦手、如意が峯よりよびかへす。大手は松坂
よりとてかへす。若大衆ども「これは一如房阿闍梨
がなが僉議にこそ夜はあけたれ。おしよせて其坊
きれ」とて、坊をさんざんにきる。ふせくところの弟子、
同宿数十人うたれぬ。一如坊阿闍梨、はうはう六波
羅にまいて、老眼より涙をながいて此由うたへ
P04105
申けれ共、六波羅には軍兵数万騎馳あつまて、
さはぐ事もなかりけり。P307同廿三日の暁、宮は「この寺
ばかりではかなうまじ。山門は心がはりしつ。南都は
いまだまいらず。後日になてはあしかりなん」とて、三
井寺をいでさせ給ひて、南都へいらせおはし
ます。此宮は蝉をれ・小枝ときこえし漢竹の
笛をふたつもたせ給へり。かのせみおれと申は、昔
鳥羽院の御時、こがねを千両宋朝の御門へおく
P04106
らせ給たりければ、返報とおぼしくて、いきたる
蝉のごとくにふしのついたる笛竹をひとよお
くらせ給ふ。「いかがこれ程の重宝をさうなうはゑら
すべき」とて、三井寺の大進僧正覚宗に仰て、壇上に
たて、七日加持してゑらせ給へる御笛也。或時、高松
の中納言実平卿まいて、この御笛をふかれけるが、よの
つねの笛のやうにおもひはすれて、ひざよりしも
におかれたりければ、笛やとがめけん、其時蝉をれに
P04107
けり。さてこそ蝉をれとはつけられたれ。笛のおん
器量たるによて、此宮御相伝ありけり。されども、
いまをかぎりとやおぼしめされけん、金堂の弥勒に
まいらさせおはします。竜花の暁、値遇の御ためかと
おぼえて、あはれなし事共也。老僧どもにはみないとまたう
で、とどめさせおはします。しかるべき若大衆悪僧どもは
まいりけり。源三位入道の一類ひきぐして、其勢
一千人とぞきこえし。乗円房[B ノ]阿闍梨慶秀、鳩の
P04108
杖にすがて宮の御まへにまいり、老眼より涙をP308
はらはらとながいて申けるは、「いづくまでも御とも仕
べう候へども、齢すでに八旬にたけて、行歩にかな
いがたう候。弟子で候刑部房俊秀をまいらせ候。是は
一とせ平治の合戦の時、故左馬頭義朝が手に候ひ
て、六条河原で打死仕候し相模国住人、山内須藤
刑部丞俊通が子で候。いささかゆかり候あひだ、跡ふと
ころでおうしたてて、心のそこまでよくよくして候。いづ
P04109
くまでもめしぐせられ候べし」とて、涙ををさへてとど
まりぬ。宮もあはれにおぼしめし、「いつのよしみに
かうは申らん」とて、御涙せきあへさせ給はず。橋合戦S0411 宮は
宇治と寺とのあひだにて、六度までをん落馬
ありけり。これはさんぬる夜、御寝のならざりしゆへ
なりとて、宇治橋三間ひきはづし、平等院にいれたて
まて、しばらく御休息ありけり。六波羅には、「すはや、
宮こそ南都へおちさせ給ふなれ。おかけてうちたて
P04110
まつれ」とて、大将軍には、左兵衛督知盛、頭中将重衡、
左馬頭行盛、薩摩守忠教、さぶらひ大将には、上総
守忠清、其子上総太郎判官忠綱、飛騨守景家、
其子飛騨太郎判官景高、高橋判官長P309綱、河内判
官秀国、武蔵三郎左衛門有国、越中次郎兵衛尉
盛継、上総五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清を先と
して、都合其勢二万八千余騎、木幡山うちこえ
て、宇治橋のつめにぞおしよせたる。かたき平等院
P04111
にとみてんげれば、時をつくる事三ケ度、宮の御方にも
時の声をぞあはせたる。先陣が、「橋をひいたぞ、あや
まちすな。橋をひいたぞ、あやまちすな」と、どよみ
けれ共、後陣はこれをききつけず、われさきにと
すすむほどに、先陣二百余騎おしをとされ、水に
おぼれてながれけり。橋の両方のつめにうたて矢
合す。宮の御方には、大矢の俊長、五智院の但馬、
渡辺の省・授・続の源太がゐける矢ぞ、鎧もかけず、
P04112
楯もたまらずとほりける。源三位入道は、長絹のよ
ろひ直垂にしながはおどしの鎧也。其日を最後
とやおもはれけん、わざと甲はき給はず。嫡子伊豆守
仲綱は、赤地の錦の直垂に、黒糸威の鎧也。弓を
つようひかんとて、これも甲はきざりけり。ここに
五智院の但馬、大長刀のさやをはづいて、只一人
橋の上にぞすすんだる。平家の方にはこれをみて、
「あれゐとれや物共」とて、究竟の弓の上手どもが
P04113
矢さきをそろへて、さしつめひきつめさんざんに
ゐる。但馬すこしもさはがず、あがる矢をばつゐく
ぐり、さがる矢をばおどりこへ、むかてくるをば長刀で
きておとす。かたきもみかたも見物P310す。それよりして
こそ、矢きりの但馬とはいはれけれ。堂衆のなかに、
つつ井の浄妙明秀は、かちの直垂に黒皮威の鎧
きて、五枚甲の緒をしめ、黒漆〔の〕太刀をはき、廿四さい
たるくろぼろ〔の〕矢おひ、ぬりこめどうの弓に、このむ白
P04114
柄の大長刀とりそへて、橋のうへにぞすすんだる。
大音声をあげて名のりけるは、「日ごろはをとにも
ききつらん、いまは目にもみ給へ。三井寺にはそのかくれ
なし。堂衆のなかにつつ井の浄妙明秀といふ一人
当千の兵物ぞや。われとおもわん人々はよりあへや。げ
ざんせん」とて、廿四さいたる矢をさしつめひきつめ
さんざんにゐる。やにはに十二人ゐころして、十一人に
手おほせたれば、ゑびらに一ぞのこたる。弓をばからと
P04115
なげすて、ゑびらもといてすててげり。つらぬき
ぬいではだしになり、橋のゆきげたをさらさら
さらとはしりわたる。人はおそれてわたらねども、
浄妙房が心地には、一条二条の大路とこそふるまう
たれ。長刀でむかふかたき五人なぎふせ、六人に
あたるかたきにあふて、長刀なかよりうちをてすてて
げり。その後太刀をぬいてたたかふに、かたきは大勢なり、
くもで・かくなは・十文字、とばうかへり・水車、八方すか
P04116
さずきたりけり。やにはに八人きりふせ、九人に
あたるかたきが甲の鉢にあまりにつよう打あてて、
めぬきのもとよりちやうどP311をれ、くとぬけて、河へ
ざぶと入にけり。たのむところは腰刀、ひとへに死
なんとぞくるいける。ここに乗円房の阿闍梨慶秀
がめしつかいける。一来法師といふ大ぢからのはやわざ
ありけり。つづいてうしろにたたかふが、ゆきげたはせ
ばし、そばとほるべきやうはなし。浄妙房が甲の手さ
P04117
きに手ををいて、「あしう候、浄妙房」とて、肩をづんど
おどりこへてぞたたかいける。一来法師打死してん
げり。浄妙房はうはうかへて、平等院の門のまへなる
芝[B ノ]うへに、物ぐぬぎすて、鎧にたたる矢めをかぞへ
たりければ六十三、うらかく矢五所、されども大事
の手ならねば、ところどころに灸治して、かしらからげ、浄衣
きて、弓うちきり杖につき、ひらあしだはき、阿弥陀
仏申て、奈良の方へぞまかりける。浄妙房がわたるを
P04118
手本にして、三井寺の大衆・渡辺党、はしりつづ
きはしりつづき、われもわれもとゆきげたをこそ
わたりけれ。或は分どりしてかへる物もあり、或はいた
手おうて腹かききり、河へ飛入物もあり。橋のうへ
のいくさ、火いづる程ぞたたかいける。これをみて平
家の方の侍大将上総守忠清、大将軍の御まへに
まいて、「あれ御らん候へ。橋のうへのいくさ手いたう候。
いまは河をわたすべきで候が、おりふし五月雨のころで、
P04119
水まさて候。わたP312さば馬人おほくうせ候なんず。淀・
いもあらいへやむかひ候べき。河内路へやまはり候べき」
と申ところに、下野国[B ノ]住人足利[B ノ]又太郎忠綱、すすみ
いでて申けるは、「淀・いもあらい・河内路をば、天竺、震旦の
武士をめしてむけられ候はんずるか。それも我等こそ
むかひ候はんずれ。目にかけたるかたきをうたず
して、南都へいれまいらせ候なば、吉野・とつかはの勢
ども馳集て、いよいよ御大事でこそ候はんずらめ。
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武蔵と上野のさかゐ[B に]とね河と申候大河候。
秩父・足利なかをたがひ、つねは合戦をし候しに、
大手は長井〔の〕わたり、搦手は故我杉のわたりより
よせ候しに、上野国の住人新田[B ノ]入道、足利にか
たらはれて、杉の渡よりよせんとてまうけたる
舟共を、秩父が方よりみなわられて申候しは、「ただ
いまここをわたさずは、ながき弓矢の疵なるべし。
水におぼれてしなばしね。いざわたさん」とて、馬筏
P04121
をつくてわたせばこそわたしけめ。坂東武者の
習として、かたきを目にかけ、河をへだつるい
くさに、淵瀬きらふ様やある。此河のふかさはやさ、
とね河にいくほどのおとりまさりはよもあらじ。つづ
けや殿原」とて、まさきにこそ打入れたれ。つづく
人共、大胡・大室・深須・山上、那波[B ノ]太郎、佐貫[B ノ]広綱
四郎大夫、小野寺[B ノ]禅師太郎、辺屋この四郎、郎等には、
宇夫方次郎、切生の六郎、田中の宗太をはじめと
P04122
しP313て、三百余騎ぞつづきける。足利大音声をあげ
て、「つよき馬をばうは手にたてよ、よはき馬をばした
手になせ。馬の足のおよばうほどは、手綱をくれて
あゆませよ。はづまばかいくておよがせよ。さがらう
物をば、弓のはずにとりつかせよ。手をとりくみ、
肩をならべてわたすべし。鞍つぼによくのり
さだまて、あぶみをつようふめ。馬のかしらしづ
まばひきあげよ。いたうひいてひかづくな。水しと
P04123
まば、さんづのうへにのりかかれ。馬にはよはう、水には
つようあたるべし。河なかで弓ひくな。かたきゐる
ともあひびきすな。つねにしころをかたぶけよ。
いたうかたむけて手へんいさすな。かねにわた
いておしをとさるな。水にしなうてわたせやわ
たせ」とおきてて、三百余騎、一騎もながさず、むかへ
の岸へざとわたす。宮御最期S0412 足利は朽葉の綾の直垂に、赤
皮威の鎧きて、たか角うたる甲のをしめ、こが
P04124
ねづくりの太刀をはき、きりうの矢おひ、しげどう
弓もて、連銭葦毛なる馬に、柏木に耳づく
うたる黄覆輪の鞍おひてぞのたりける。
あぶみふP314ばりたちあがり、大音声あげてなのり
けるは、「とをくは音にもきき、ちかくは目にもみ給へ。
昔朝敵将門をほろぼし、勧賞かうぶし俵藤
太秀里に十代、足利[B ノ]太郎俊綱が子、又太郎忠綱、
生年十七歳、か様に無官無位なる物の、宮にむか
P04125
いまいらせて、弓をひき矢を放事、天のおそ
れすくなからず候へ共、弓も矢も冥がのほども、
平家の御身のうへにこそ候らめ。三位入道[B 殿]の御
かたに、われとおもはん人々はよりあへや、げざんせん」
とて、平等院の門のうちへ、せめ入せめ入たたかいけり。
これをみて、大将軍左兵衛督知盛、「わたせやわ
たせ」と下知せられければ、二万八千余騎、みなう
ちいれてわたしけり。馬や人にせかれて、さばかり
P04126
早き宇治河の水は、かみにぞたたへたる。おのづから
もはづるる水には、なにもたまらずながれけり。雑人
どもは馬のした手にとりつきとりつきわたりければ、
ひざよりかみをばぬらさぬ物もおほかりけり。いかが
したりけん、伊賀・伊勢両国の官兵、馬いかだおし
やぶられ、水におぼれて六百余騎ぞながれける。
萌黄・火威・赤威、いろいろの鎧のうきぬしづみぬ
ゆられけるは、神なび山の紅葉ばの、嶺の嵐にさそ
P04127
はれて、竜田河の秋の暮、いせきにかかてながれも
やらぬにことならず。其中にひをどしの鎧きたる
武者が三人、あじろにながれかかP315てゆられけるを、伊
豆守み給ひて、
伊勢武者はみなひをどしのよろひきて
宇治の網代にかかりぬるかな W024
これは三人ながら伊勢国の住人也。黒田[B ノ]後平四郎、
日野[B ノ]十郎、乙部[B ノ]弥七といふ物なり。其なかに日野
P04128
の十郎はふる物にてありければ、弓のはずを岩のは
ざまにねぢたててかきあがり、二人の物共をもひき
あげて、たすけたりけるとぞきこえし。おほぜい
みなわたして、平等院の門のうちへいれかゑいれかゑたた
かいけり。此まぎれに、宮をば南都へさきだてまいらせ、
源三位入道の一類のこて、ふせき矢ゐ給ふ。三位
入道七十にあまていくさして、弓手のひざ口をゐ
させ、いたでなれば、心しづかに自害せんとて、平等院
P04129
の門の内へひき退て、かたきおそいかかりければ、
次男源大夫判官兼綱、紺地の錦の直垂に、唐綾
威の鎧きて、白葦毛なる馬にのり、父をのばさん
と、かへしあはせかへしあはせふせきたたかふ。上総太郎判官が
ゐける矢に、兼綱うち甲をゐさせてひるむとこ
ろに、上総守が童次郎丸といふしたたか物、おしならべ
ひくで、どうどおつ。源大夫判官はうち甲もいた手
なれ共、きこゆる大ぢからなりければ、童をとておさへ
P04130
て頸をかき、P316たちあがらんとするところに、平家の
兵物ども十四五騎、ひしひしとおちかさなて、つゐに
兼綱をばうてげり。伊豆守仲綱もいた手あまた
おひ、平等院の釣殿にて自害す。その頸をば、しも
河辺の藤三郎清親とて、大床のしたへぞなげ入
ける。六条蔵人仲家、其子蔵人太郎仲光も、さんざん
にたたかひ、分どりあまたして、遂に打死してげり。
この仲家と申は、帯刀[B ノ]先生義方が嫡子也。みなし
P04131
子にてありしを、三位入道養子にして不便にし
給ひしが、日来の契を変ぜず、一所にて死にに
けるこそむざんなれ。三位入道は、渡辺長七唱〔を〕
めして、「わが頸うて」との給ひければ、主のいけくび
うたん事のかなしさに、涙をはらはらとながいて、
「仕ともおぼえ候はず。御自害候はば、其後こそ給はり
候はめ」と申ければ、「まことにも」とて、西にむかひ、高
声に十念となへ、最後の詞ぞあはれなる。
P04132
埋木の花さく事もなかりしに
身のなるはてぞかなしかりける W025
これを最後の詞にて、太刀のさきを腹につき
たて、うつぶさまにつらぬかてぞうせられける。
其時に歌よむべうはなかりしかども、わかうより
あながちにすいたる道なれば、最後の時もわすれ
給はず。その頸をば唱取て、なくなく石にくくり
あはせ、かたきのなかをまぎれいでて、宇治河の
P04133
ふかきところにしP317づめけり。競の滝口をば、平家の
侍共、いかにもしていけどりにせんとうかがひけれ
ども、競もさきに心えて、さんざんにたたかひ、大事
の手おひ、腹かききてぞ死にける。円満院[B ノ]大輔
源覚、いまは宮もはるかにのびさせ給ぬらんとや
おもひけん、大太刀大長刀左右にもて、敵のなか
うちやぶり、宇治河へとんでいり。物の具一も
すてず、水の底をくぐて、むかへの岸にわたり
P04134
つき、たかきところにのぼりあがり、大音声を
あげて、「いかに平家の君達、これまでは御大事か
よう」とて、三井寺へこそかゑりけれ。飛騨守景家
はふる兵物にてありければ、このまぎれに、宮は南都へ
やさきだたせ給ふらんとて、いくさをばせず、其勢
五百余騎、鞭あぶみをあはせておかけたてまつる。
案のごとく、宮は卅騎ばかりで落させ給ひけるを、
光明山の鳥居のまへにておつきたてまつり、
P04135
雨のふる様にゐまいらせければ、いづれが矢とはおぼえ
ねど、宮の左の御そば腹に矢一すぢたちければ、
御馬より落させ給て、御頸とられさせ給ひけり。
これをみて御共に候ける鬼佐渡・荒土左・あら
大夫、理智城房の伊賀公、刑部俊秀・金光院の
六天狗、いつのために命をばおしむべきとて、お
めきさけんで打死す。P318その中に宮の御めのと子、
六条[B ノ]大夫宗信、かたきはつづく、馬はよはし、に井の
P04136
の池へ飛でいり、うき草かほにとりおほひ、ふる
ゐゐたれば、かたきはまへをうちすぎぬ。しばしあて
兵物共の四五百騎、ざざめいてうちかへりける中に、
浄衣きたる死人の頸もないを、しとみのもとにかいて
いできたりけるを、たれやらんとみたてまつれば、宮
にてぞ在ましける。「われしなば、この笛をば御棺に
いれよ」と仰ける、小枝ときこえし御笛も、いまだ御
腰にさされたり。はしりいでてとりもつきまいらせ
P04137
ばやとおもへども、おそろしければそれもかなはず、かた
きみなかへて後、池よりあがり、ぬれたる物ども
しぼりきて、なくなく京へのぼりたれば、にくまぬ
物こそなかりけれ。さる程に、南都の大衆ひた甲
七千余人、宮の御むかへにまいる。先陣は粉津に
すすみ、後陣はいまだ興福寺の南大門にゆらへ
たり。宮ははや光明山の鳥居のまへにてうたれさせ
給ぬときこえしかば、大衆みな力及ばず、涙ををさへて
P04138
とどまりぬ。いま五十町ばかりまちつけ給はで、うたれ
させ給けん宮の御運のほどこそうたてけれ。P319若宮出家S0413 平家
の人々は、宮並に三位入道の一族、三井[B 寺]の衆徒、都合
五百余人が頸、太刀長刀のさきにつらぬき、た
かくさしあげ、夕に及て六波羅へかゑりいる。兵物
どもいさみののしる事、おそろしなどもおろか也。
其なかに源三位入道の頸は、長七唱がとて宇治河
のふかきところにしづめてげれば、それは見えざり
P04139
けり。子共の頸はあそこここよりみな尋いだされ
たり。[B 中に]宮の御頸は、年来まいりよる人もなければ、
見しりまいらせたる人もなし。先年典薬頭定成
こそ、御療治のためにめされたりしかば、それぞ見
しりまいらせたるらんとて、めされけれ共、現所労
とてまいらず。宮のつねにめされける女房とて、
六波羅へたづねいだされたり。さしもあさからず
おぼしめされて、御子をうみまいらせ、最愛あり
P04140
しかば、いかでか見そんじたてまつるべき。只一目見
まいらせて、袖をかほにおしあてて、涙をながされ
けるにこそ、宮の御頸とはしりてげれ。此宮は
はうばうに御子の宮たちあまたわたらせ給ひけり。
八条女院に、伊与守盛教がむすめ、三位局とて候
はれける女房の腹に、七歳の若宮、五歳のP320姫宮
在ましけり。入道相国おとと、池の中納言頼盛卿を
もて、八条[B ノ]女院へ申されけるは、「高倉の宮の御子の
P04141
宮達のあまたわたらせ給候なる、姫宮の御事は申
に及ばず、若宮をばとうとういだしまいらさせ給へ」と
申されたりければ、女院御返事には、「かかるきこえの
ありし暁、御ちの人などが心おさなうぐしたてまて
うせにけるにや、またく此御所にはわたらせ給
はず」と仰ければ、頼盛卿力及ばでこのよしを入道相国
に申されけり。「何条其御所ならでは、いづくへかわた
らせ給べかんなる。其儀ならば武士どもまいてさがし
P04142
奉れ」とぞの給ひける。この中納言は、女院の御めのと
子宰相殿と申女房にあひぐして、つねにまいり
かよはれければ、日来はなつかしうこそおぼしめされ
けるに、此宮の御事申しにまいられたれば、いまは
あらぬ人の様にうとましう〔ぞ〕おぼしめされける。
若宮、女院に申させ給ひけるは、「これほどの御大事
に及候うへは、つゐにのがれ候まじ。とうとういださせ
をはしませ」と申させ給ければ、女院御涙をはらはらと
P04143
ながさせ給ひて、「人の七八は、何事をもいまだお
もひわかぬ程ぞかし。それにわれゆへ大事の
いできたる事を、かたはらいたくおもひて、かやうに
の給ふいとおしさよ。よしなかりける人を此六七年
手ならして、かかるうき目をみるよ」とて、御涙せ
きあへさせ給はず。P321頼盛卿、宮いだしまいらさせ
給ふべきよし、かさねて申されければ、女院ちから
およばせ給はで、つゐに宮をいだしまいらさせ給
P04144
ひけり。御母三位の局、今をかぎりの別なれば、さ
こそは御名残おしうおもはれけめ。なくなく御衣
きせ奉り、御ぐしかきなで、いだしまいらせ給ふも、
ただ夢とのみぞおもはれける。女院をはじめまいらせ
て、局の女房、めの童にいたるまで、涙をながし
袖をしぼらぬはなかりけり。頼盛卿宮うけとり
まいらせ、御車にのせ奉て、六波羅へわたし奉る。
前右大将宗盛卿、此宮をみまいらせて、父の相国
P04145
禅門の御まへにおはして、「なにと候やらん、此宮を
見たてまつるがあまりにいとをしうおもひまいらせ候。
りをまげて此宮の御命をば宗盛にたび候へ」と
申されければ、入道「さらばとうとう出家をせさせ
奉れ」とぞの給ひける。宗盛卿此よしを八条[B ノ]女院
に申されければ、女院「なにのやうもあるべからず。只
とうとう」とて、法師になし奉り、尺子にさだまら
せ給ひて、仁和寺の御室の御弟子になしまいらせ
P04146
給ひけり。後には東寺の一の長者、安井の宮の
僧正道尊と申しは、此宮の御事也。P322通乗之沙汰S0414 又奈良
にも一所在ましけり。御めのと讃岐守重秀が
御出家せさせ奉り、ぐしまいらせて北国へ落く
だり[B たり]しを、木曾義仲上洛の時、主にしまいらせん
とてぐし奉て宮こへのぼり、御元服せさせま
いらせたりしかば、木曾が宮とも申けり。又還俗の
宮とも申けり。後には嵯峨のへん野依にわた
P04147
らせ給しかば、野依の宮とも申けり。昔通乗と
いふ相人あり。宇治殿・二条殿をば、「君三代の関
白、ともに御年八十と申たりしもたがはず。帥のうち
のおとどをば、「流罪の相まします」と申たりしも
たがはず。聖徳太子の崇峻天皇を「横死の相
在ます」と申させ給ひたりしが、馬子の大臣にころ
され給ひにき。さもしかるべき人々は、かならず相人と
しもにあらねども、かうこそめでたかりしか、これは
P04148
相少納言が不覚にはあらずや。中比兼明親王・具平
親王と申しは、前中書王・後中書王とて、ともに
賢王聖主の王子にてわたらせ給しかども、位にも
つかせ給はず。されどもいつかは謀叛ををこさせ給ひし。
又後三条院の第三の王子、資仁の親王も御才学
すぐれてましましければ白河院いまだ東宮にて
ましまいし時、「御位の後P323は、この宮を位にはつけま
いらさせ給へ」と、後三条[B ノ]院御遺詔ありしか共、白河院
P04149
いかがおぼしめされけん、つゐに位にもつけまいらさせ
給はず。せめての御事には、資仁[B ノ]親王の御子に源氏
の姓をさづけまいらさせ給ひて、無位より一度に三
位に叙して、やがて中将になしまいらさせ給ひけ
り。一世の源氏、無位より三位する事、嵯峨の皇
帝の御子、陽院の大納言定卿の外は、これはじめ
とぞうけ給はる。花園[B ノ]左大臣有仁公の[B 御]事也。高倉
の宮御謀叛の間、調伏の法うけ給はて修せられける
P04150
高僧達に、勧賞をこなはる。前右大将宗盛卿の子息
侍従清宗、三位して三位[B ノ]侍従とぞ申ける。今年
纔に十二歳。父の卿もこのよはひでは兵衛佐にて
こそをはせしか。忽に上達めにあがり給ふ事、一の
人の公達の外はいまだ承及ばず。源[B ノ]茂仁・頼政法師
父子追討の賞とぞ除書にはありける。源[B ノ]茂仁とは
高倉宮を申けり。まさしゐ太政法皇の王子を
うちたてまつるだにあるに、凡人にさへなしたてま
P04151
つるぞあさましき。P324■[*空+鳥]S0415 抑源三位入道と申は、摂津守
頼光に五代、三川守頼綱が孫、兵庫頭仲政が子也。
保元の合戦の時、御方にて先をかけたりしかども、
させる賞にもあづからず。又平治の逆乱にも、親類
をすてて参じたりしか共、恩賞これおろそか也
き。大内守護にて年ひさしうありしか共、昇殿
をばゆるされず。年たけよはひ傾て後、述懐の
和歌一首ようでこそ、昇殿をばゆるされけれ。
P04152
人しれず大内山のやまもりは
木がくれてのみ月をみるかな W026
この歌によて昇殿ゆるされ、正下[B ノ]四位にてしば
らくありしが、三位を心にかけつつ、
のぼるべきたよりなき身は木のもとに
しゐをひろひて世をわたるかな W027
さてこそ三位はしたりけれ。やがて出家して、源
三位入道とて、今年は七十五にぞなられける。此
P04153
人一期の高名とおぼえし事は、近衛院御在
位の時、仁平のころほひ、主上よなよなおびへた
まぎらせ給ふ事ありけり。有験の高僧貴僧
に仰て、大法秘法を修せられけれども、其
しるしなし。御悩は丑の剋ばかりでありけるに、東
三P325条の森の方より、黒雲一村立来て御殿
の上におほへば、かならずおびへさせ給ひけり。これに
よて公卿僉義あり。去る寛治の比ほひ、堀河天
P04154
皇御在位の時、しかのごとく主上よなよなおびへ
させ給ふ事ありけり。其時の将軍義家朝臣そん)、
南殿の大床に候はれけるが、御悩の剋限に及で、
鳴絃する事三度の後、高声に「前陸奥守源
義家」と名のたりければ、人々皆身の毛よだて、
御悩おこたらせ給ひけり。しかればすなはち先例
にまかせて、武士に仰せて警固あるべしとて、
源平両家の兵物共のなかを撰せられけるに、
P04155
頼政をゑらびいだされたりけるとぞきこえし。
其時はいまだ兵庫頭とぞ申ける。頼政申けるは、
「昔より朝家に武士をおかるる事は、逆反の物を
しりぞけ違勅の物をほろぼさんが為也。目にも
みえぬ変化の物つかまつれと仰下さるる事、い
まだ承及ばず」と申ながら、勅定なればめしに応
じて参内す。頼政はたのみきたる郎等遠江国[B ノ]住
人井[B ノ]早太に、ほろのかざぎりはいだる矢おはせて、
P04156
ただ一人ぞぐしたりける。我身はふたへの狩衣に、
山鳥の尾をもてはいだるとがり矢二すじ、しげ
どうの弓にとりそへて、南殿の大床に祗候〔す〕。
頼政矢をふたつたばさみける事は、雅頼卿其時は
いまだ左少弁にておはしけるが、「変化の物つかま
つらんずるP326仁は頼政ぞ候」とゑらび申されたる
あひだ、一[B ノ]矢に変化の物をゐそんずる物ならば、
二[B ノ]矢には雅頼の弁のしや頸の骨をゐんと
P04157
なり。日ごろ人の申にたがはず、御悩の剋限に
及で、東三条の森の方より、黒雲一村立来
て、御殿の上にたなびいたり。頼政きとみあげ
たれば、雲のなかにあやしき物の姿あり。これを
ゐそんずる物ならば、世にあるべしとはおもはざり
けり。さりながらも矢とてつがひ、南無八幡大菩
薩と、心のうちに祈念して、よぴいてひやう
どゐる。手ごたへしてはたとあたる。「ゑたりをう」と
P04158
矢さけびをこそしたりけれ。井の早田つとより、
おつるところをとておさへて、つづけさまに九かた
なぞさいたりける。其時上下手々で)に火をとも
いて、これを御らんじみ給ふに、かしらは猿、むく
ろは狸、尾はくちなは、手足は虎の姿なり。なく声
■ [*空+鳥]にぞにたりける。おそろしなどもをろか也。
主上御感のあまりに、師子王といふ御剣をくだ
されけり。宇治の左大臣殿是を給はりついで、
P04159
頼政にたばんとて、御前〔の〕きざはしをなからばかり
おりさせ給へるところに、比は卯月十日あまりの
事なれば、雲井に郭公二声三こゑ音づれ
てぞとほりける。其時左大臣殿
ほととぎぎす名をも雲井にあぐるかなP327
とおほせられかけたりければ、頼政右の膝をつき、
左の袖をひろげ、月をすこしそばめにかけつつ、
弓はり月のゐるにまかせて W028
P04160
と仕り、御剣を給てまかりいづ。「弓矢をとてな
らびなきのみならず、歌道もすぐれたりけり」とぞ、
君も臣も御感ありける。さてかの変化の物
をば、うつほ舟にいれてながされけるとぞきこ
えし。去る応保のころほひ、二条院御在位の
時、■[*空+鳥]といふ化鳥禁中にないて、しばしば震襟を
なやます事ありき。先例をもて頼政をめされ
けり。ころはさ月廿日あまりの、まだよひの事
P04161
なるに、■[*空+鳥]ただ一声おとづれて、二声ともなかざり
けり。目さす共しらぬやみではあり、すがたかた
ちもみえざれば、矢つぼをいづくともさだめがたし。
頼政はかりことに、まづおほかぶらをとてつがひ、■[*空+鳥]
の声しつる内裏のうへへぞいあげたる。■[*空+鳥]かぶら
のをとにおどろいて、虚空にしばしひらめいたり。
二の矢に小鏑とてつがひ、ひふつとゐきて、■[*空+鳥]
とかぶらとならべて前にぞおとしたる。禁中ざざ
P04162
めきあひ、御感なのめならず。御衣をかづけさせ
給ひけるに、其時は大炊御門の右大臣公能公
これを給はりつゐで、頼政にかづけ給ふとて、「昔の
養由は雲の外の鴈をいき。今の頼政はP328雨のう
ちに■[*空+鳥]をゐたり」とぞ感ぜられける。
五月やみ名をあらはせるこよひかな
と仰られかけたりければ、頼政
たそかれ時もすぎぬとおもふに W029
P04163
と仕り、御衣を肩にかけて退出す。其後伊豆国
給はり、子息仲綱受領になし、我身三位して、
丹波の五ケ[B ノ]庄、若狭のとう宮河知行して、さて
おはすべかりし人の、よしなき謀叛おこいて、宮
をもうしなひまいらせ、我身もほろびぬるこそ
うたてけれ。三井寺炎上S0416 日ごろは山門の大衆こそ、みだりがはし
きうたへつかまるに、今度は穏便を存じて
をともせず。「南都・三井寺、或は宮うけとり奉り、
P04164
或は宮の御むかへにまいる、これもて朝敵なり。
されば三井寺をも南都をもせめらるべし」とて、
同五月廿七日、大将軍には入道〔の〕四男頭中将重衡、
副将軍には薩摩守忠教、都合其勢一万余騎
で、園城寺へ発向す。寺にも堀ほり、かいだP329てか
き、さかも木ひいてまちかけたり。卯剋に矢合
して、一日たたかひくらす。ふせくところ大衆以下
の法師原、三百余人までうたれにけり。夜い
P04165
くさになて、くらさはくらし、官軍寺にせめ入て、
火をはなつ。やくるところ、本覚院、成喜院・真如院・
花園院、普賢堂・大宝院・清滝院、教大和尚[B ノ]
本坊ならびに本尊等、八間四面の大講堂、鐘楼・
経蔵・潅頂堂、護法善神の社壇、新熊野の
御宝殿、惣て堂舎塔廟六百三十七宇、大津
の在家一千八百五十三宇、智証のわたし給へる
一切経七千余巻、仏像二千余体、忽に煙と
P04166
なるこそかなしけれ。諸天五妙のたのしみも此
時ながくつき、竜神三熱のくるしみもいよいよ
さかんなるらんとぞみえし。それ三井寺は、近江
の義大領が私の寺たりしを、天武天皇によせ
奉て、御願となす。本仏もかの御門の御本尊、
しかるを生身弥勒ときこえ給ひし教大和尚百六
十年おこなふて、大師に附属し給へり。都士
多天上摩尼宝殿よりあまくだり、はるかに竜
P04167
花下生の暁をまたせ給ふとこそききつるに、
こはいかにしつる事共ぞや。大師このところを
伝法潅頂の霊跡として、ゐけすいの三をむ
すび給しゆへにこそ、三井寺とは名づけたれ。
かかるめでたき聖跡なれ共、今はなにならず。顕
密須臾にほろびて、伽藍さらに跡もなし。三密
道場もなけP330れば、鈴の声もきこえず。一夏の花
もなければ、阿伽のをともせざりけり。宿老磧
P04168
徳の名師は行学におこたり、受法相承の弟子は
又経教にわかれんだり。寺の長吏円慶法
親王、天王寺別当をとどめらる。其外僧綱十
三人闕官ぜられて、みな検非違使にあづけらる。
悪僧はつつ井の浄妙明秀にいたるまで三十
余人ながされけり。「かかる天下のみだれ、国土
のさはぎ、ただ事ともおぼえず。平家の世の
末になりぬる先表やらん」とぞ、人申ける。
P04169
平家物語巻第四

平家物語(龍谷大学本)巻第五

【許諾済】
本テキストの公開については、龍谷大学大宮図書館の許諾を得ています。底本使用・テキスト公開を許可された同図書館に厚く御礼申し上げます。
【注意】
本テキストの利用は個人の研究の範囲内に限られます。本テキストの全体あるいは一部の複写物・複写加工物を、インターネット上で、あるいは出版物(CD−ROM等を含む)として公表する場合には、事前に龍谷大学大宮図書館に翻刻掲載許可願いを申請する必要があります。同図書館の許可を得ない本テキストの公表は禁じられています。翻刻掲載許可願い申請送付先:〒600-8268 京都市下京区七条通大宮東入大工町125−1 龍谷大学大宮図書館閲覧係
【底本】
本テキストの底本は、龍谷大学大宮図書館所蔵『平家物語』です。直接には、思文閣出版発行の影印本(龍谷大学善本叢書13)に拠りました。

P05171
(表紙)
P05173 P331
平家物語巻第五
都遷S0501治承四年六月三日、福原へ行幸有
べしとて、京中ひしめきあへり。此日
ごろ都うつりあるべしときこえしかども、
忽に今明の程とは思ざりつるに、こは
いかにとて上下さはぎ【騒ぎ】あへり。あま【剰】さへ三
日とさだめられたりしが、いま一日ひきあげ
て、二日になりにけり。二日の卯剋に、すでに
P05174
行幸の御輿をよせたりければ、主上は
今年三歳、いまだいと【幼】けなう在ましけれ
ば、なに心もなうめさ【召さ】れけり。主上おさな
う【幼う】わたらせ給時の御同輿には、母后こそ
まいら【参ら】せ給ふに、是は其儀なし。御めのと【乳母】、平
大納言時忠卿の北の方帥のすけ【典侍】殿ぞ、ひ
とつ御輿にはまいら【参ら】れける。中宮・一院上
皇御幸なる。摂政殿をはじめたてまて、太
P05175
政大臣以下の公卿殿上人、我も我もと供奉せらる。
三日福原へいら【入ら】せ給ふ。池の中納言頼盛卿
の宿所、皇居になる。同四日、頼盛家の賞
とて正二位しP332給ふ。九条殿の御子、右大将
能通【*良通】卿、こえられ給ひけり。摂禄の臣の御子
息、凡人の次男に加階こえられ給ふ事、是
はじめとぞきこえし。さる程に、法皇を入道
相国やうやう思ひなを【直つ】て、鳥羽殿をいだし【出し】
P05176
たてまつり、都へいれ【入れ】まいらせ【参らせ】られたりしが、高
倉宮御謀反によて、又大にいきどをり【憤り】、福原
へ御幸なしたてまつり【奉り】、四面にはた【端】板して、
口ひとつあけたるうちに、三間の板屋をつく
ておしこ【押込】めまいらせ【参らせ】、守護の武士には、原田
の大夫種直ぞ候ける。たやすう人のまいり【参り】
かよふ事もなければ、童部は籠の御所
とぞ申ける。きく【聞く】もいまいま【忌々】しうおそろし
P05177
かり【恐ろしかり】し事共也。法皇「今は世の政きこしめさ【聞し召さ】
ばやとは、露もおぼしめし【思召し】よらず。ただ山々
寺々修行して、御心のままになぐさまばや」
とぞおほせける。凡平家の悪行においては
きはまりぬ。「去る安元よりこのかた、おほく
の卿相雲客、或はながし、或はうしなひ【失ひ】、
関白ながし奉り、わが聟を関白になし、
法王を城南の離宮にうつし奉り、第二
P05178
の皇子高倉の宮をうちたてまつり【奉り】、いま
のこる【残る】ところ【所】都うつりなれば、か様【斯様】にし給ふ
にや」とぞ人申ける。みやこうつりは是先蹤
なきにあらず。神武天皇と申は地神五代の
帝、彦波激武■■草不葺合尊の第四
の王子、御母は玉より【依】姫、海人のむすめなり。
神の代P333十二代の跡をうけ、人代百王の帝祖
なり。辛酉歳、日向国宮崎の郡にして皇王の
P05179
宝祚をつぎ、五十九年といし己未歳十月に
東征して、豊葦原中津国にとどまり、この
ごろ大和国となづけたるうねび【畝傍】の山を点じて
帝都をたて、柏原の地をきりはらて宮室を
つくり給へり。これをかし原の宮となづけたり。
それよりこのかた、代々の帝王、都を他国他所
へうつさるる事卅度にあまり、四十度にをよ
べ【及べ】り。神武天皇より景行天皇まで十二
P05180
代は、大和国こほりごほり【郡々】にみやこをたて、他国へは
つゐに【遂に】うつされず。しかるを、成務天皇元年に
近江国にうつて、志賀の郡に都をたつ。仲哀
天皇二年に長門国にうつて、豊良【*豊浦】郡に都を
たつ。其国の彼みやこにて、御門かくれさせ給し
かば、きさき神宮【*神功】皇后御世をうけとらせ給ひ、
女体として、鬼界・高麗・荊旦【*契丹】までせめ【攻め】したがへ
させ給ひけり。異国のいくさをしづめさせ給
P05181
ひて後、筑前国三笠[B ノ]郡にして皇子御誕生、
其所をばうみの宮とぞ申たる。かけまくも
かたじけな【忝】くやわた【八幡】の御事これ也。位につかせ
給ひては、応神天皇とぞ申。其後、神宮【*神功】皇
后は大和国にうつて、岩根稚桜のみや【宮】にをはし
ます。応神天皇は同国軽島明の宮にすませ
給ふ。仁徳天皇元年に津国難波にうつて、
高津の宮にをはします。履中天皇二年に
P05182
大和国にうつて、とうち【十市】の郡にみやこをたつ。
反正天皇元年に河内P334国にうつて、柴垣の宮
にすませ給ふ。允恭天皇四十二年に又大和国
にうつて、飛鳥のあすかの宮におはします。雄
略天皇廿一年に同国泊瀬あさくら【朝倉】に宮ゐ【居】
し給ふ。継体天皇五年に山城国つづき【綴喜】
にうつて十二年、其後乙訓に宮ゐ【居】し給ふ。
宣化天皇元年に又大和国にかへ【帰つ】て、桧隈
P05183
の入[B ル]野の宮にをはします。孝徳天皇大化元年
に摂津国長良【*長柄】にうつて、豊崎の宮にすま
せ給ふ。斉明天皇二年、又大和国にかへ【帰つ】て、岡
本の宮におはします。天智天皇六年に近江
国にうつて、大津宮にすませ給ふ。天武天皇
元年に猶大和国にかへ【帰つ】て、岡本の南の宮に
すませ給ふ。これを清見原の御門と申き。持
統・文武二代の聖朝は、同国藤原の宮におは
P05184
します。元明天皇より光仁天皇まで七代は、
奈良の都にすませ給ふ。しかるを桓武天皇
延暦三年十月二日、奈良の京春日の里よ
り山城国長岡にうつて、十年といし正月に、
大納言藤原小黒丸、参議左大弁紀のこさみ【古佐美】、
大僧都玄慶【*賢■王+景】等をつかはして、当国賀殿【*葛野】郡宇
多の村をみせ【見せ】らるるに、両人共に奏して云、「此
地の体を見るに、左青竜、右白虎、前朱雀、後
P05185
玄武、四神相応の地也。尤帝都をさだむるに
たれり」と申。仍乙城都にをはします賀茂
大明神に告申させ給ひて、延暦十三年
十一月廿一日、長岡の京より此京へうつされP335て
後、帝王卅二代、星霜は三百八十余歳の
春秋ををくり【送り】むかふ。「昔より代々の帝王、国々
ところどころ【所々】におほくの都をたてられしかども、
かくのごとくの勝地はなし」とて、桓武天皇こと
P05186
に執しおぼしめし【思召し】、大臣公卿諸道の才人等
に仰あはせ、長久なるべき様とて、土にて
八尺の人形をつくり、くろがね【鉄】の鎧甲をき【着】せ、
おなじうくろがねの弓矢をもたせて、東山がしやまの)
嶺に、西むきにたて[* 「たたて」と有るのを高野本により訂正]てうづま【埋ま】れけり。「末代に
此都を他国へうつす事あらば、守護神と
なるべし」とぞ、御約束あり【有り】ける。されば天下に
事いでこ【出来】んとては、この塚必ず鳴動す。将軍
P05187
が塚とて今にあり【有り】。桓武天皇と申は、平家
の農祖【*曩祖】にておはします。なかにも此京をば
平安城と名づけて、たひらかにやすきみやこと
かけり。尤平家のあがむべきみやこなり。先
祖の御門のさしも執しおぼしめさ【思召さ】れたる
都を、させるゆへ【故】なく、他国他所へうつさるるこそ
あさましけれ。嵯峨の皇帝の御時、平城の
先帝、内侍[B ノ]かみのすすめ【勧】によて、世をみだり
P05188
給ひし時、すでにこの京を他国へうつさんと
せさせ給ひしを、大臣公卿、諸国の人民そむ
き申しかば、うつされずしてやみにき。一天
の君、万乗のあるじ【主】だにもうつ【遷】しえ【得】給はぬ
都を、入道相国、人臣の身としてうつされける
ぞおそろしき【恐ろしき】。旧都はあはれめでたかりつる
都ぞかし。王城守護の鎮守は四方に光を
やはらP336げ、霊験殊勝の寺々は、上下に甍
P05189
をならべ賜【*給】ひ、百姓万民わづらひなく、五畿七道
もたよりあり【有り】。されども、今は辻々をみな堀
きて、車などのたやすうゆき【行き】かふ事もなし。
たまさかにゆく人もこ【小】車にのり、路をへ【経】て
こそとをり【通り】けれ。軒をあらそひし人のすまひ、
日をへ【経】つつあれゆく。家々は賀茂河・桂河に
こぼちいれ【入れ】、筏にくみうかべ、資財雑具舟に
つみ、福原へとはこび下す。ただなりに花
P05190
の都ゐ中になるこそかなしけれ。なに物の
しわざ[B に]やあり【有り】けん、ふるき都の内裏の柱に、
二首の歌をぞかい【書い】たりける。
ももとせを四かへり【返り】までにすぎき【過来】にし
乙城の里のあ【荒】れやはてなむ W030
さ【咲】きいづる花の都をふりすてて
かぜ【風】ふく原のすゑ【末】ぞあやうき【危ふき】 W031
同六月九日、新都の事はじめあるべしとて、
P05191
上卿〔には〕徳大寺左大将実定の卿、土御門の
宰相中将通信【*通親】の卿、奉行の弁には蔵
人左少弁行高【*行隆】、官人共めしぐし【召具し】て、和田の
松原の西の野を点じて、九城の地をわ【割】ら
れけるに、一条よりしも【下】五条までは其所あ
て、五条よりしもはなかりけり。行事官
かへりまい【参つ】てこのよしを奏聞す。さらば播
磨のいなみ【印南】野か、なを【猶】摂津国の児屋野か
P05192
などいふ公卿僉議あり【有り】しかども、事ゆくべし
ともみえ【見え】ざりけり。P337旧都をばすでにうかれ
ぬ、新都はいまだ事ゆかず。あり【有り】としある人
は、身をうき【浮】雲のおもひ【思ひ】をなす。もと〔こ〕の
ところ【所】にすむ物は、地をうしな【失つ】てうれへ、いま
うつる人々は土木のわづらひをなげき
あへり。すべてただ夢のやうなりし事
どもなり。土御門宰相中将通信【*通親】卿申され
P05193
けるは、異国には、三条の広路をひらい【開い】て
十二の洞門をたつと見えたり。况[B ヤ]五条まで
あらん都に、などか内裏をたてざるべき。かつがつ
さと【里】内裏つくるべきよし議定あて、五条
大納言国綱【*邦綱】卿、臨時に周防国を給て、造進
せられるべきよし、入道相国はからひ申されけり。
この国綱【*邦綱】卿は大福長者にてをはすれば、
つくりいだされん事、左右に及ばねども、[* 末尾に「いかが」と書き消している]
P05194
いかが国の費へ、民のわづらひ【煩】なかるべき。まこと【誠】に
さしあたたる大事、大嘗会などのおこなは
るべきをさし【差し】をい【置い】て、かかる世のみだれに遷
都造内裏、すこしも相応せず。「いにしへの
かしこき御代には、すなはち内裏に茨を
ふき、軒をだにもととのへず。煙のとも【乏】しき
を見給ふ時は、かぎりある御つぎ【貢】物をも
ゆる【免】されき。これすなはち民をめぐ【恵】み、国
P05195
をたすけ給ふによてなり。楚帝花【*章華】の
台をたてて、黎民あら【索】げ、秦阿房の殿を
をこし【起こし】て、天下みだるといへり。茅茨きらず、
采椽けづらず、周車かざらず、衣服あや【文】なかり
ける世もあり【有り】けん物を。されば唐の大宗は、
離宮山【*驪山宮】をつくて、民の費をやP338はばからせ給
けん、遂に臨幸なくして、瓦に松をひ【生ひ】、墻に
蔦しげて止にけるには相違かな」とぞ人
P05196
申ける。月見S0502六月九日、新都の事はじめ、八月十日
上棟、十一月十三日遷幸とさだめらる。ふるき
都はあ【荒】れゆけば、いまの都は繁昌す。あ
さましかりける夏もすぎ、秋にも已になりに
けり。やうやう秋もなかばになりゆけば、福原
の新都に在ます人々、名所の月をみんとて、
或は源氏の大将の昔の跡をしのび【忍び】つつ須
間【*須磨】より明石の浦づたひ、淡路のせとをおし
P05197
わたり、絵島が磯の月をみる【見る】。或はしらら【白良】・吹
上・和歌の浦、住吉・難波・高沙【*高砂】・尾上の月
のあけぼのをながめてかへる人もあり【有り】。旧都に
のこる人々は、伏見・広沢の月を見る。其
なかにも徳大寺の左大将実定の卿は、ふるき
都の月を恋て、八月十日あまりに、福原
よりぞのぼ【上】り給ふ。何事も皆かはりはてて、ま
れにのこる家は、門前草ふかくして
P05198
庭上露しげし。蓬が杣、浅茅が原、鳥のふし
ど【臥所】と荒はてて、虫の声々うらみ【恨み】つつ、黄菊紫
蘭の野辺とぞなりにける。故郷の名残と
ては、近衛P339河原の大宮ばかりぞ在ましける。
大将その御所にまい【参つ】て、まづ随身に惣門をたた
かせらるるに、うちより女の声して、「た【誰】そや、
蓬生の露うちはらう人もなき所に」と
とがむれば、「福原より大将殿の御まいり【参り】候」と
P05199
申。「惣門はじやう【錠】のさされてさぶらうぞ。東面がしおもて)
の小門よりいら【入ら】せ給へ」と申ければ、大将さらば
とて、東がし)の門よりまいら【参ら】れけり。大宮は御
つれづれに、昔をやおぼ【思】しめしい【出】でさせ給
ひけん。南面なみおもて)の御格子あげさせて、御琵琶
あそばさ【遊ばさ】れけるところに、大将まいら【参ら】れたり
ければ、「いかに、夢かやうつつ【現】か、これへこれへ」とぞ
仰ける。源氏の宇治の巻には、うばそくの宮
P05200
の御むすめ、秋の名残ををしみ、琵琶をしら【調】
めて夜もすがら心をすまし給ひしに、在明の
月のい【出】でけるを、猶たえ【堪へ】ずやおぼしけん、撥
にてまねき給ひけんも、いまこそおもひ【思ひ】しら
れけれ。待よひ【宵】の小侍従といふ女房も、此
御所にぞ候ける。この女房を待よひと申
ける事は、或時御所にて「まつよひ、かへ【帰】る
あした、いづれかあはれ【哀】はまされる」と御尋あり【有り】ければ、
P05201
待よひのふ【更】けゆく鐘の声きけば
かへるあしたの鳥はものかは W032
とよ【詠】みたりけるによてこそ待よひとは
めさ【召さ】れけれ。大将かの女房よび【呼び】いだし、昔
いまの物語して、さ夜もやうやうふけ行ば、ふ
るきみやこのあ【荒】れゆくを、P340いま【今】様にこそ
うたはれけれ。ふるき都をき【来】て見ればあ
さぢ【浅茅】が原とぞあ【荒】れにける月の光はくま
P05202
なくて秋風のみぞ身にはしむ K037 Iと、三反う
たひ【歌ひ】すまされければ、大宮をはじめまいら
せ【参らせ】て、御所ぢう【中】の女房達、みな袖をぞぬ【濡】らさ
れける。さる程に夜もあけ【明け】ければ、大将い
とま申て、福原へこそかへ【帰】られけれ。御ともに
候蔵人をめして、「侍従があまりなごりおしげ【惜し気】に
おもひ【思ひ】たるに、なんぢかへ【帰つ】てなにともいひ【言ひ】て
こよ」と仰ければ、蔵人はしり【走り】かへ【帰つ】て、「「畏り
P05203
申せ」と候」とて、
物かはと君がいひけん鳥のねの
けさ【今朝】しもなどかかな【悲】しかるらむ W033
女房涙ををさへて、
また【待た】ばこそふけゆくかねも物ならめ
あかぬわかれの鳥の音ぞうき W034
蔵人かへりまい【参つ】てこのよし申たりければ、
「さればこそなんぢをばつかはし【遣し】つれ」とて、大
P05204
将おほきに感ぜられけり。それよりしてこ
そ物かはの蔵人とはいはれけれ。P341 物怪之沙汰S0503 福原へ都を
うつされて後、平家の人々夢見もあ【悪】しう、
つねは心さはぎ【騒ぎ】のみして、変化の物ども
おほかりけり。或夜入道のふ【臥】し給へる
ところ【所】に、ひと間にはばかる程の物の面いでき
て、のぞきたてまつる【奉る】。入道相国ちとも
さはが【騒が】ず、ちやうどにら【睨】まへてをはし【在し】ければ、
P05205
ただぎ【消】えにきえうせぬ。岡の御所と申すは
あたらしうつく【造】られたれば、しかるべき大木も
なかりけるに、或夜おほ木のたふるる【倒るる】音し
て、人ならば二卅人が声して、どとわらふ【笑ふ】こと
あり【有り】けり。これはいかさまにも天狗の所為と
いふ沙汰にて、ひきめ【蟇目】の当番となづ【名付】けて、
よる百人ひる五十人の番衆をそろ
へて、ひきめをゐ【射】させらるるに、天狗
P05206
のある方へむ【向】いてゐ【射】たる時は音もせず。
ない方へむいてゐ【射】たる時は、はとわらひ【笑ひ】
などしけり。又あるあした【朝】、入道相国帳
台よりいでて、つま【妻】戸ををし【押し】ひらき、坪
のうちを見給へば、死人のしやれかう
べ【骸骨】どもが、いくらといふかず【数】もしらず庭に
みちみちて、うへ【上】になりした【下】になり、ころ
びあひころびのき、はし【端】なるはなか【中】へ
P05207
まろびいり中なるははし【端】へいづ。おびたた【夥】
しうがらめきあひければ、入道相国「人や
ある、人やある」とめさ【召さ】れけれども、おりふし【折節】
人もまいら【参ら】ず。かくしておP342ほくのどく
ろ【髑髏】どもがひと【一】つにかたまりあひ、つぼ【坪】の
うちにはばかる程になて、たかさは十四五
丈もあるらんとおぼゆる山のごとくになりに
けり。かのひとつの大がしら【頭】に、いき【生き】たる人の
P05208
まなこの様に大のまなこどもが千万いできて、
入道相国をちやうどにら【睨】まへて、まだた【瞬】き
もせず。入道すこしもさはが【騒が】ず、はたとにらまへ
てしばらくたた【立た】れたり。かの大がしらあまりに
つよくにらまれたてまつり霜露などの
日にあたてき【消】ゆるやうに、跡かたもなくなり
にけり。其外に、一の厩にたててとねり【舎人】
あまたつけられ、あさゆふ【朝夕】ひまなくな【撫】で
P05209
か【飼】はれける馬の尾に、一夜のうちにねずみ【鼠】
巣をくひ、子をぞう【産】んだりける。「これただ
事にあらず」とて、七人の陰陽師にうらな【占】は
せられければ、「おもき【重き】御つつしみ」とぞ申ける。
この御馬は、相模国の住人大庭三郎景親
が、東八ケ国一の馬とて、入道相国にまいら
せ【参らせ】たり。くろき馬の額しろ【白】かりけり。名を
ば望月とぞつけられたる。陰陽頭安陪【*安倍】
P05210
の泰親給はりけり。昔天智天皇の御時、竜【*寮】
の御馬の尾に鼠す【巣】をくひ、子をう【産】んだり
けるには、異国の凶賊蜂起したりけるとぞ、
日本記ぽんぎ)にはみえ【見え】たる。又、源中納言雅頼卿の
もとに候ける青侍がみ【見】たりける夢も、おそ
ろしかり【恐ろしかり】けり。たとへば、大内の神祇官と
おぼしきところ【所】に、束帯ただしき上臈たち
あP343またおはして、儀定【*議定】の様なる事のあり【有り】しに、
P05211
末座なる人の、平家のかたうどするとおぼしき
を、その中よりおたて【追つ立て】らる。かの青侍夢の心に、
「あれはいかなる上臈にて在ますやらん」と、
或老翁にと【問】ひたてまつれ【奉れ】ば、「厳島の大明
神」とこたへ給ふ。其後座上にけだかげなる
宿老の在ましけるが、「この日来平家のあづ
か【預】りたりつる節斗をば、今者伊豆国の流人
頼朝にた【賜】ばうずる也」と仰られければ、其御そ
P05212
ばに猶宿老の在ましけるが、「其後者わが
孫にもた【賜】び候へ」と仰らるるといふ夢をみて、
是を次第にとひたてまつる【奉る】。「節斗を頼朝にたばう
とおほせられつるは八幡大菩薩、其後
わが孫にもたび候へと仰られつるは春日大明
神、かう申老翁は武内の大明神」と仰らるる
といふ夢を見て、これを人にかたる程に、入
道相国もれ【漏れ】きいて、源大夫判官季貞[* 「秀貞」と有るのを高野本により訂正]をもて
P05213
雅頼卿のもとへ、「夢み【見】の青侍、いそ【急】ぎこれへたべ」
と、の給ひつかはされたりければ、かの夢見
たる青侍やがて逐電してんげり。雅頼卿い
そぎ入道相国のもとへゆき【行き】むかて、「またくさる
こと候はず」と陳じ申されければ、其後沙汰も
なかりけり。平家日ごろは朝家の御かため
にて、天下を守護せしかども、今者勅命に
そむけば、節斗をもめしかへさ【召返さ】るるにや、心ぼそう
P05214
ぞきこえし。なかにも高野におはしける宰相[* 「宇相」と有るのを高野本により訂正]
入道成頼、か様【斯様】の事どもをつたへきいて、P344「すは平
家の代はやうやう末になりぬるは。いつくしま
の大明神の平家の方うど【方人】をし給ひける
といふは、そのいはれあり【有り】。ただしそれは沙羯羅
竜王の第三の姫宮なれば、女神とこそうけ給
はれ。八幡大菩薩の、せつと【節斗】を頼朝にた【賜】ばうど
仰られけるはことはり【理】也。春日大明神の、其後
P05215
はわが孫にもたび候へと仰られけるこそ心えね。
それも平家ほろび、源氏の世つきなん後、大織
冠の御末、執柄家の君達の天下の将軍に
なり給ふべきか」などぞの給ひける。又或僧の
おりふし【折節】来たりけるが申けるは、「夫神明は和
光垂跡の方便まちまちに在ませば、或時は俗
体とも現じ、或時は女神ともなり給ふ。誠
に厳島の大明神は、女神とは申ながら、三明
P05216
六通の霊神にて在ませば、俗体に現じ給はんも
かたかるべきにあらず」とぞ申ける。うき世をいとひ
実の道に入ぬれば、ひとへに後世菩提の
外は世のいとなみあるまじき事なれども、善
政をきい【聞い】てはかん【感】じ、愁をきいてはなげ【歎】く、
これみな人間の習なり。早馬S0504 同九月二日、相模国
の住人大庭三郎景親、福原へ早馬をもて
申けるP345は、「去八月十七日、伊豆国流人前右兵
P05217
衛佐頼朝、しうと【舅】北条四郎時政をつかはして、
伊豆の目代、和泉判官兼高【*兼隆】をやまき【山木】の館
で夜うち【討】にうち候ぬ。其後土肥・土屋・岡崎
をはじめとして三百余騎、石橋山に立籠
て候ところ【所】に、景親御方に心ざしを存ずる
ものども一千余騎を引率して、おしよ【押寄】せせめ
候程に、兵衛佐七八騎にうちなされ、おほ童にたた
かい【戦ひ】なて、土肥の椙山へにげこもり【逃籠り】候ぬ。其後
P05218
畠山五百余騎で御方をつかまつり、三浦大介
義明が子共、三百余騎で源氏方をして、湯井【*由井】・
小坪の浦でたたかふ【戦ふ】に、畠山いくさまけて武
蔵国へひきしりぞく。その後畠山が一族、河
越・稲毛・小山田・江戸・笠井【*葛西】、其外七党の兵
ども三千余騎をあひぐし【具し】て、三浦衣笠の
城にをし【押し】よせてせめ【攻め】たたかふ。大介義明うた
れ候ぬ。子共は、くり【久里】浜の浦より船にのり、
P05219
安房・上総へわたり候ぬ」とこそ申たれ。平
家の人々都うつりもはやけふ【興】さめぬ。わかき
公卿殿上人は、「あはれ、とく【疾く】事のいでこよ【出来よ】かし。
打手にむか【向】はう」などいふぞはかなき。畠山の庄
司重能、小山田の別当有重、宇都宮左衛門
朝綱、大番役にて、おりふし【折節】在京したりけり。畠
山申けるは、「僻事にてぞ候らん。した【親】しうなて
候なれば、北条はしり【知り】候はず、自余の輩は、
P05220
よも朝敵が方人をば仕候はじ。いまきこしP346めし【聞召】
なをさんずる物を」と申ければ、げにもとい
ふ人もあり【有り】。「いやいや只今天下の大事に
及なんず」とささやく物どもおほ【多】かりけり。
入道相国、いから【怒ら】れける様なのめならず。「頼朝
をばすでに死罪におこなはるべかりしを、
故池殿のあながちなげきの給ひし間、
流罪に申なだめたり。しかるに其恩忘て、
P05221
当家にむかて弓をひくにこそあんなれ。神明
三宝もいかでかゆるさせ給ふべき。只今だいま)天のせ
め【責】かうむら【蒙ら】んずる頼朝なり」とぞの給ひける。
朝敵揃S0505 夫我朝に朝敵のはじめを尋れば、やまといは
れ【日本磐余】みこと[* 「ひこと」と有るのを他本により訂正]の御宇四年、紀州なぐさ【名草】の郡高雄
村に一の蜘蛛あり【有り】。身みじかく、足手ながくて、
ちから【力】人にすぐれたり。人民をおほく損害
せしかば、官軍発向して、宣旨をよみかけ、
P05222
葛の網をむす【結】んで、つゐに【遂に】これをおほひ【覆ひ】ころ
す。それよりこのかた、野心をさしはさんで朝
威をほろぼ【滅】さんとする輩、大石[B ノ]山丸、大山王子、
守屋の大臣、山田[B ノ]石河、曾我[B ノ]いるか【入鹿】、大友のま
とり【真鳥】、文屋[B ノ]宮田、[B 橘]逸成、ひかみ【氷上】の河次、伊与の親
王、太宰少弐藤原広嗣、ゑみ【恵美】の押勝、佐あら【早良】の
太子、井上の広公、藤原P347仲成、平将門、藤原
純友、安陪【*安部】貞任・宗任、対馬守源義親、悪
P05223
左府・悪衛門督にいたるまで、すべて廿余人、
されども一人として素懐をとぐる物なし。かばね
を山野にさらし、かうべを獄門にかけられる。此世に
こそ王位も無下にかる【軽】けれ、昔は宣旨をむ
か【向つ】てよみければ、枯たる草木も花さき実な
り、とぶ鳥もしたがひ【従ひ】けり。中比の事ぞかし。延喜
御門神泉苑に行幸あて、池のみぎはに
鷺のゐたりけるを、六位をめして、「あの鷺と
P05224
てまいらせよ【参らせよ】」と仰ければ、争かとら【取ら】んとおもひ【思ひ】
けれども、綸言なればあゆみむかふ。鷺はねづ
くろひ[* 「はねつくひ」と有るのを高野本により訂正]【羽繕ひ】してたた【立た】んとす。「宣旨ぞ」と仰すれば、ひ
ら【平】んで飛さらず。これをと【取つ】てまいり【参り】たり。「なんぢが
宣旨にしたがてまいり【参り】たるこそ神妙なれ。や
がて五位になせ」とて、鷺を五位にぞなされ
ける。「今日より後は鷺のなかの王たるべし」といふ
札をあそばひ【遊ばい】て、頸にかけてはなたせ給。またく
P05225
鷺の御れう【料】にはあらず、只王威の程をしろしめさ【知ろし召さ】ん
がためなり。感陽宮【*咸陽宮】S0406 又先蹤を異国に尋に、燕の太子
丹といふも、秦始皇にとらはれて、いましP348めを
かうぶる事十二年、太子丹涙をながひ【流い】て申
けるは、「われ本国に老母あり。いとまを給はて
かれをみん」と[B 申せば、]始皇帝あざわら【笑つ】て、「なんぢに
いとまをた【賜】ばん事は、馬に角おひ【生ひ】、烏の
頭の白くならん時を待べし」。燕丹天に
P05226
あふぎ地に臥て、「願は、馬に角をひ【生ひ】、烏の頭
しろく【白く】なしたべ。故郷にかへ【帰つ】て今一度母をみん」
とぞ祈ける。かの妙音菩薩は霊山浄
土に詣して、不孝の輩をいましめ、孔子・
顔囘はしな【支那】震旦に出て忠孝の道を
はじめ給ふ。冥顕の三宝孝行〔の〕心ざしを
あはれみ給ふ事なれば、馬に角をひ【生ひ】て宮
中に来り、烏の頭白くなて庭前の木に
P05227
す【栖】めりけり。始皇帝、烏頭馬角[* 「馬の角」と有るのを他本により訂正]の
変におどろき、綸言かへらざる事を信じ
て、太子丹をなだめつつ、本国へこそかへさ【返さ】れ
けれ。始皇なを【猶】くや【悔】しみて、秦の国と燕
の国のさか井【境】に楚国といふ国あり【有り】。大なる河な
がれたり。かの河にわたせ【渡せ】る橋をば楚国の橋
といへり。始皇官軍をつかはして、燕丹がわたる
時、河なかの橋をふまばお【落】つる様にしたためて、
P05228
燕丹をわたらせけるに、なじかはおちい【陥】らざるべ
き。河なかへおち入ぬ。されどもちとも水にもお
ぼれず、平地を行ごとくして、むかへの岸へ付に
けり。こはいかにとおもひ【思ひ】てうしろをかへり見け
れば、亀どもがいくらといふかずもしらず、水の上に
うかれ【浮かれ】来て、こう【甲】をならべてあゆ【歩】ませたりける。
これも孝行のこころざしを冥顕P349あはれみ給ふに
よてなり。太子丹うらみ【恨み】をふくむで又始皇帝
P05229
にしたがはず。始皇官軍をつかはして燕丹を
うた【討た】んとし給ふに、燕丹おそれ【恐れ】をののき、荊訶【*荊軻】
といふ兵をかたらふて大臣になす。荊訶【*荊軻】又田
光先生といふ兵をかたらふ。かの先生申けるは、
「君はこの身がわか【若】うさかん【壮】なし事をしろし
めさ【知ろし召さ】れてたのみ【頼み】仰らるるか。騏■は千里を飛
ども、老ぬれば奴馬にもおとれり。いまはいか
にもかなひ【適ひ】候まじ。兵をこそかたらふてまいらせ【参らせ】
P05230
め」とて、かへ【帰】らむとするところ【所】に、荊訶【*荊軻】「この事
あなかしこ、人にひろふ【披露】すな」といふ。先生申けるは、
「人にうたが【疑】はれぬるにす【過】ぎたる恥こそなけれ。
此事もれ【漏れ】ぬる物ならば、われうたがはれなんず」
とて、門前なる李の木にかしらをつ【突】きあて、
うちくだいてぞ死にける。又范予期【*樊於期】といふ
兵あり【有り】。これは、秦の国のものなり。始皇のためにおや【父】・
おぢ【伯叔】・兄弟をほろぼされて、燕の国ににげ【逃げ】こもれ
P05231
り。秦皇四海に宣旨をくだ【下】いて、「范予期【*樊於期】が
かうべは【刎】ねてまいらせ【参らせ】たらん物には、五百斤
の金をあたへん」とひろふ【披露】せらる。荊訶【*荊軻】これを
きき、范予期【*樊於期】がもとにゆひ【行い】て、「われきく【聞く】。なんぢがかう
べ五百斤の金にほう【報】ぜらる。なんぢが首われに
か【貸】せ。取て始皇帝にたてまつらん。よろこで叡覧
へ【経】られん時、つるぎ【剣】をぬき、胸をささんにやす【安】
かりP350なん」といひければ、范予期【*樊於期】おどり【躍り】あがり、
P05232
大いき【息】ついて申けるは、「われおや・おぢ・兄
弟を始皇のためにほろぼされて、よるひる是
をおもふ【思ふ】に、骨髄にとを【徹つ】て忍がたし。げにも始
皇帝をほろぼすべくは、首をあたへんこ
と、塵あくたよりもなを【猶】やすし」とて、手づから
首を切てぞ死にける。又秦巫陽【*秦舞陽】といふ
兵あり【有り】。これも秦の国の物なり。十三の歳
かたきをうて、燕の国ににげこもれり。ならび
P05233
なき兵なり。かれが嗔てむかふ時は、大の男も
絶入す。又笑てむかふ時は、みどり子もいだ【抱】かれ
けり。これを秦の都の案内者にかた【語】らうて、
ぐし【具し】てゆく程に、ある片山のほとりに宿したり
ける夜、其辺ちかき里に管絃をするを
きい【聞い】て、調子をもて本意の事をうらな【占】ふに、
かたきの方は水なり、我方は火なり。さる程
に天もあけ【明け】ぬ。白虹日をつらぬいてとほら【通ら】ず。
P05234
「我等が本意とげん事ありがたし」とぞ申ける。さり
ながら帰べきにもあらねば、始皇の都咸陽宮に
いたりぬ。燕の指図ならびに范予期【*樊於期】が首も【持つ】て
まいり【参り】たるよし奏しければ、臣下をもてう
けとらんとし給ふ。「またく人してはまいらせ【参らせ】じ。直
にたてまつら【奉ら】ん」と奏する間、さらばとて、節
会の儀をととのへて、燕の使をめされけり。
咸陽宮はみやこのめぐり一万八千三百
P05235
八十里につもれり。内裏をば地より三里
たかく築あげて、其P351上にたてたり。長生
殿・不老門あり【有り】、金をもて日をつくり、銀を
もて月をつくれり。真珠のいさご、瑠璃の砂、
金の砂をし【敷】きみてり。四方にはたかさ四十
丈の鉄の築地をつき、殿の上にも同鉄
の網をぞ張たりける。これは冥途の使を
いれ【入れ】じとなり。秋の田のも【面】の鴈、春はこしぢ【越路】へ
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帰も、飛行自在のさはり【障】あれば、築地には鴈門
となづけて、鉄の門をあけてぞとをし【通し】ける。
そのなかにも阿房殿とて、始皇のつねは行
幸なて、政道おこなはせ給ふ殿あり【有り】。たかさは
卅六丈東西へ九町、南北へ五町、大床のしたは
五丈のはたぼこをたてたるが、猶及ばぬ程也。
上は瑠璃の瓦をもてふき、したは金銀に
てみがけり。荊訶【*荊軻】は燕の指図をもち、秦巫
P05237
陽【*秦舞陽】は范予期【*樊於期】が首をも【持つ】て、珠のきざ【階】橋を
のぼりあがる。あまりに内裏のおびたたし
きを見て秦巫陽【*秦舞陽】わなわなとふるひければ、
臣下あやしみて、「巫陽【*舞陽】謀反の心あり【有り】。刑人を
ば君のかたはら【側】にをか【置か】ず、君子は刑人にちかづ
か【近付か】ず、刑人にちかづく【近付く】はすなはち死をかろんずる
道なり」といへり。荊訶【*荊軻】たち【立ち】帰て、「巫陽【*舞陽】またく
謀反の心なし。ただ田舎のいや【卑】しきにのみ
P05238
なら【習つ】て、皇居にな【馴】れざるが故に心迷惑す」と
申ければ、臣下みなしづまりぬ。仍王に
ちかづき【近付き】たてまつる【奉る】。燕の指図ならびに范
予期【*樊於期】が首げざん【見参】にいるる【入るる】ところ【所】に、指図の入
たる櫃のそこ【底】に、氷の様なるつるぎの
見えければ、始皇帝P352これをみて、やがてに
げ【逃げ】んとし給ふ。荊訶【*荊軻】王の御袖をむずとひか【控】へ
て、つるぎをむね【胸】にさしあてたり。いまはかう
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とぞ見えたりける。数万の兵庭上に袖
をつら【連】ぬといへども、すく【救】はんとするに力なし。
ただ君逆臣にをか【犯】され給はん事をのみか
なしみあへり。始皇の給く、「われに暫時の
いとまをえ【得】させよ。わが最愛の后の琴の音
を今一度きかん」との給へば、荊訶【*荊軻】しばしをか【犯】したて
まつらず。始皇は三千人のきさきをもち給へ
り。其なかに花陽夫人とて、すぐれたる琴の
P05240
上手おはしけり。凡この后の琴のね【音】をきい【聞い】ては、
武きもののふ【武士】のいかれ【怒れ】るもやはらぎ、飛鳥もおち、草
木もゆる【揺】ぐ程なり。况哉いまをかぎりの叡聞に
そな【供】へんと、なくなく【泣く泣く】ひき給ひけん、さこそはおもし
ろかりけめ。荊訶【*荊軻】も頭をうなだれ、耳をそばだて、
殆謀臣のおもひ【思ひ】もたゆ【弛】みにけり。后はじめて
さらに一曲を奏す。「七尺屏風はたかく【高く】とも、おど
ら【躍ら】ばなどかこへ【越え】ざらん。一条の羅■はつよくとも、
P05241
ひか【引か】ばなどかはたえ【絶え】ざらん」とぞひ【弾】き給ふ。荊訶【*荊軻】は
これをききし【聞知】らず、始皇はきき知て、御袖をひ【引つ】き【引切】り、
七尺の屏風を飛こえて、あかがね【銅】の柱のかげにに
げかく【逃隠】れさせ給ひぬ。荊訶【*荊軻】いか【怒】て、つるぎ【剣】をなげ【投げ】か
けたてまつる。おりふし【折節】御前に番の医師の候
けるが、薬の袋を荊訶【*荊軻】がつるぎになげ【投げ】あはせたり。
つるぎ薬の袋をかけ【掛け】られながら、口六尺の銅の
柱をなから【半】まP353でこそき【切つ】たりけれ。荊訶【*荊軻】又剣ももたね
P05242
ばつづ【続】いてもなげず。王たちかへ【立返】てわがつるぎ【剣】を
めしよせて、荊訶【*荊軻】を八[B ツ]ざき【裂】にこそし給ひけれ。
秦巫陽【*秦舞陽】もうた【討た】れにけり。官軍をつか【遣】はして、
燕丹をほろぼさる。蒼天ゆるし給はねば、
白虹日をつらぬいてとほら【通ら】ず。秦の始皇は
のがれて、燕丹つゐに【遂に】ほろびにき。「されば今の
頼朝もさこそはあらんずらめ」と、色代する人々も
あり【有り】けるとかや。文学【*文覚】荒行S0507 抑かの頼朝とは、去る平治元
P05243
年十二月、ちち【父】左馬頭義朝が謀反によて、年十
四歳と申し永暦元年三月廿日、伊豆国蛭島
へながされて、廿余年の春秋ををくり【送り】むかふ。年
ごろもあればこそあり【有り】けめ、ことしいかなる心にて
謀反をばおこさ【起さ】れけるぞといふに、高雄の文
覚上人の申すす【勧】められたりけるとかや。彼文覚
と申は、もとは渡辺の遠藤佐近将監茂遠が
子、遠藤武者盛遠とて、上西門院の衆也。十九の
P05244
歳道心をこし【起こし】出家して、修行にいで【出で】んとし
けるが、「修行といふはいか程の大事やらん、ため【試】い
て見ん」とて、六月の日の草もゆる【揺】がずて【照】たるに、
片山のやぶ【薮】のなかにはいり、あをのけ【仰ふのけ】にふし、あぶ
ぞ、蚊ぞ、P354蜂蟻などいふ毒虫どもが身にひしと
とり【取り】つゐ【付い】て、さしくひ【刺食】などしけれども、ちとも身
をもはたらかさず。七日まではお【起】きあがらず、八
日といふにおきあがて、「修行といふはこれ程
P05245
の大事か」と人にとへば、「それ程ならんには、いかで
か命もいく【生く】べき」といふあひだ、「さてはあんべい【安平】ご
さんなれ」とて、修行にぞいで【出で】にける。熊野
へまいり【参り】、那智ごも【籠】りせんとしけるが、行の心み
に、きこゆる【聞ゆる】滝にしばらくうた【打た】れてみんとて、
滝もと【下】へぞまいり【参り】ける。比は十二月ぐわつ)十日あま
りの事なれば、雪ふ【降】りつもりつららゐ【凍】て、
谷の小河も音もせず、嶺の嵐ふ【吹】きこほ【凍】り、
P05246
滝のしら【白】糸垂氷となり、みな白妙にをし【押し】なべ
て、よもの梢も見えわかず。しかるに、文覚滝
つぼにお【下】りひたり、頸きはつかて、慈救の呪を
み【満】てげるが、二三日こそあり【有り】けれ、四五日にもなり
ければ、こら【耐】へずして文覚う【浮】きあがりにけり。
数千丈みな【漲】ぎりおつる滝なれば、なじかはたまる
べき。ざとをし【押し】おと【落】されて、かたな【刀】のは【刃】のごとくに、
さしもきび【厳】しき岩かどのなかを、う【浮】きぬしづみぬ
P05247
五六町こそながれ【流れ】たれ。時にうつくしげなる
童子一人来て、文覚が左右の手をとてひ
きあ【引上】げ給ふ。人奇特のおもひ【思ひ】をなし、火をた【焚】
きあぶりなどしければ、定業ならぬ命では
あり【有り】、ほどなくいきいで【生出】にけり。文覚すこし人心
地いでき【出来】て、P355大のまなこを見いか【怒】らかし、「われこの
滝に三七日うたれて、慈救の三洛叉をみて【満て】う
どおもふ【思ふ】大願あり【有り】。けふはわずかに五日になる。
P05248
七日だにもす【過】ぎざるに、なに【何】物かここへはと【取つ】てき
たるぞ」といひければ、みる【見る】人身のけ【毛】よだても
のいはず。又滝つぼにかへ【帰】りたてうた【打た】れけり。第
二日といふに、八人の童子来て、ひき【引き】あげんとし
給へども、さんざん【散々】につか【掴】みあふ【合う】てあがらず。三日といふに、
文覚つゐに【遂に】はかな【果敢】くなりにけり。滝つぼをけ
が【汚】さじとや、みずらゆう【結う】たる天童二人、滝のうへ
よりお【下】りくだり、文覚が頂上より手足のつま
P05249
さき【爪先】・たなうらにいたるまで、よにあた【暖】たかにかう
ばし【香】き御手をもて、なで【撫】くだし給ふとおぼえ
ければ、夢の心地していき【生き】いでぬ。「抑いかなる
人にてましませば、かうはあはれみ給ふらん」とと【問】ひ
たてまつる【奉る】。「われは是大聖不動明王の御使
に、こんがら【矜迦羅】・せいたか【制■迦】といふ二童子なり。「文覚無上
の願ををこし【起こし】て、勇猛の行をくはた【企】つ。ゆい【行い】て
ちから【力】をあはすべし」と明王の勅によて来れ
P05250
る也」とこたへ給ふ。文覚声をいか【怒】らかして、「さて
明王はいづくに在ますぞ」。「都率天に」とこたへ
て、雲居はるかにあがり給ひぬ。たな心をあはせ
てこれを拝したてまつる【奉る】。「されば、わが行をば大
聖不動明王までもしろしめさ【知ろし召さ】れたるにこそ」
とたのもしう【頼もしう】おぼえて、猶滝つぼにかP356へり
たてうた【打た】れけり。まこと【誠】にめでたき瑞相ども
あり【有り】ければ、吹くる風も身にしまず、落くる
P05251
水も湯のごとし。かくて三七日の大願つゐに【遂に】
と【遂】げにければ、那智に千日こもり、大峯三
度、葛城二度、高野・粉河・金峯山ぜん)、白山・立
山・富士の嵩、信乃【*信濃】戸隠、出羽羽黒、すべて日
本国のこる【残る】所なくおこなひまは【廻】て、さすが
尚ふる里や恋しかりけん、宮こ【都】へのぼりたりけれ
ば、凡とぶ鳥も祈おと【落】す程のやいば【刃】の検者【*験者】と
ぞきこえし。勧進張S0508 後には高雄といふ山の奥におこ
P05252
なひすま【澄】してぞゐたりける。かのたかを【高雄】に神護
寺といふ山寺あり【有り】。昔称徳天王の御時、和気
の清丸がたてたりし伽藍也。久しく修造な
かりしかば、春は霞にたちこめられ、秋は霧
にまじはり、扉は風にたふれ【倒れ】て落葉の
した【下】にく【朽】ち、薨は雨露にをかされて、仏壇さ
らにあらはなり。住持の僧もなければ、まれに
さし【差】入物とては、月日の光ばかりなり。文覚
P05253
これをいかにもして修造せんといふ大願を
おこし、勧進帳をささげて、十方檀那を
すす【勧】めありき【歩き】ける程に、或時院御所法住
寺殿へぞまいり【参り】たりける。御奉加あP357るべき由
奏聞しけれども、御遊のおりふし【折節】できこしめし【聞し召し】
も入られず、文覚は天性不敵第一のあらひじり【荒聖】
なり、御前の骨ない様をばしら【知ら】ず、ただ申入
ぬぞと心えて、是非なく御坪のうちへやぶりい【破入】り、
P05254
大音声をあげて申けるは、「大慈大悲の君
にてをはします。などかきこしめし【聞し召し】入ざるべき」とて、
勧進帳をひきひろげ、たからか【高らか】にこそよう【読う】だり
けれ。沙弥文覚敬て)白す。殊に貴賎道俗助成
を蒙て、高雄山の霊地に、一院を建立
し、二世安楽の大利を勤行せんと乞勧進[B ノ]
状。夫以ば、真如広大なり。生仏の仮名をたつと
いへども、法性随妄の雲あつく覆て、十二因
P05255
縁の峯にたなびいしよりこのかた【以来】、本有心
蓮の月の光かすか【幽】にして、いまだ三毒四慢
の大虚にあらはれず。悲哉、仏日早く没して、
生死流転の衢冥々たり。只色に耽り、酒に
ふける、誰か狂象重淵の迷を謝せん。いたづらに
人を謗じ法を謗ず、あに閻羅獄卒の責を
まぬかれんや。爰に文覚たまたま俗塵をう
ちはら【払】て法衣をかざるといへども、悪行猶心に
P05256
たくましうして日夜に造り、善苗又耳に逆
て朝暮にすたる。痛哉、再度三途の火■に
かへ【返つ】て、ながく四生苦輪にめぐらん事を。此故に無
二の顕章千万軸、軸々に仏種の因をあかす。
随縁至誠の法一[B ツ]として菩提の彼岸に
いたらずP358といふ事なし。かるがゆへに、文覚無常
の観門に涙をおとし、上下の親俗をすすめて
上品蓮台にあゆ【歩】みをはこび、等妙覚王
P05257
の霊場をたてんと也。抑高雄は、山うづたかく
して鷲峯山せん)の梢を、表し、谷閑にして
商山洞の苔をし【敷】けり。巌泉咽で布を
ひき、嶺猿叫で枝にあそぶ。人里とをう【遠う】し
て囂塵なし。咫尺好うして信心のみあり【有り】。
地形すぐれたり、尤も仏天をあがむべし。奉
加すこしきなり、誰か助成せざらん。風聞、聚沙
為仏塔功徳、忽に仏因を感ず。况哉一紙半
P05258
銭の宝財においてをや。願は建立成就し
て、金闕鳳暦御願円満、乃至都鄙遠近
隣民親疎、■舜無為の化をうたひ【歌ひ】、椿葉
再会の咲をひらかん。殊には、聖霊幽儀先
後大小、すみやかに一仏真門の台にい〔た〕り、必
三身万徳の月をもてあそ【翫】ばん。仍勧進修
行の趣、蓋以て)如斯治承三年三月日 文覚
とこそよみ【読み】あげたれ。文学【*文覚】被流S0509 おりふし【折節】、御前には太政大
P05259
臣妙音院、琵琶かきら【鳴】らし朗詠めでたうせさ
せ給P359ふ。按察大納言資方【*資賢】卿拍子とて、風
俗催馬楽うたはれけり。右馬頭資時・四位侍
従盛定和琴かきなら【掻鳴】し、いま【今】様とりどりにうたひ【歌ひ】、
玉の簾、錦の帳ざざめきあひ、まこと【誠】に面白かり
ければ、法皇もつけ【附】歌せさせおはします。それ
に文覚が大音声いでき【出来】て、調子もたがい【違ひ】、拍
子もみなみだ【乱】れにけり。「なに【何】物ぞ。そくびつ【突】け」と
P05260
仰下さるる程こそあり【有り】けれ、はやりをの若者共、
われもわれもとすす【進】みけるなかに、資行判官といふ
ものはしり【走り】いでて、「何条事申ぞ。まか【罷】りいでよ」
といひければ、「高雄の神護寺に庄一所よ【寄】せ
られざらん程は、またく文覚い【出】づまじ」とてはた
らかず。よてそくびをつ【突】かうどしければ、勧進
帳をとりなをし【直し】、資行判官が烏帽子をは
たとう【打つ】てうちおとし、こぶし【拳】をにぎてしやむね【胸】
P05261
をつゐ【突い】て、のけ【仰】につきたをす【倒す】。資行判官もとど
り【髻】はな【放】て、おめおめと大床のうへへにげ【逃げ】のぼる。
其後文覚ふところ【懐】より馬の尾でつか【柄】ま【巻】
いたる刀の、こほり【氷】のやうなるをぬき【抜き】いだひ【出い】
て、よ【寄】りこん物をつ【突】かうどこそまち【待ち】かけたれ。
左の手には勧進帳、右の手には刀をぬい
てはしり【走り】まはるあいだ【間】、おもひ【思ひ】まうけぬに
はか【俄】事ではあり【有り】、左右の手に刀をも【持つ】たる
P05262
様にぞ見えたりける。公卿殿上人も、「こはいか
にこはいかに」とさはが【騒が】れければ、御遊もはや荒にけり。
院中のさうどう【騒動】なのめならず。信乃【*信濃】国の住
人安藤武者右宗、其比当職のP360武者所で
有けるが、「何事ぞ」とて、太刀をぬいてはし
り【走り】いでたり。文覚よろ【喜】こでかかる所を、き【斬】ては
あし【悪】かりなんとやおもひ【思ひ】けん、太刀のみね【峯】をと
りなをし【直し】、文覚がかたな【刀】も【持つ】たるかいな【腕】をした
P05263
たかにうつ。うた【打た】れてちとひるむところ【所】に、太刀をす
てて、「え【得】たりをう」とてくむ【組ん】だりけり。く【組】まれな
がら文覚、安藤武者が右のかいな【腕】をつ【突】く。つかれ
ながらし【締】めたりけり。互におとらぬ大ぢからな
りければ、うへ【上】になりした【下】になり、ころ【転】びあ
ふところ【所】に、かしこ【賢】がほに上下よて、文覚がはた
らくところ【所】のぢやうをがう【拷】してげり。されども
これを事ともせず、いよいよ悪口放言す。門外
P05264
へひき【引き】いだひ【出い】て、庁の下部にひぱら【引つ張ら】れて、立な
がら御所の方をにらまへ、大音声をあげて、
「奉加をこそし給はざらめ、これ程文覚にから【辛】い
目を見せ給ひつれば、おもひ【思ひ】しらせ[* 「しり」と有るのを高野本により訂正]申さんずる
物を。三界は皆火宅なり。王宮といふとも、其
難をのがるべからず。十善の帝位にほこ【誇】たうとも、
黄泉の旅にいでなん後者、牛頭・馬頭のせ
め【責】をばまぬ【免】かれ給はじ物を」と、おどり【躍り】あがり
P05265
おどり【躍り】あがりぞ申ける。「此法師奇怪くわい)なり」とて、
やがて獄定せられけり。資行判官は、烏帽
子打おとされて恥がましさに、しばし【暫し】は出仕もせず。
安藤武者、文覚く【組】んだる勧賞に、当座に一廊
をへ【経】ずして、右馬允にぞなされける。さる程に、
其比美福門院かくれ【隠れ】させ給ひて、大P361赦あり【有り】し
かば、文覚程なくゆるされけり。しばらくはどこ【何処】
にもおこ【行】なふべかりしが、さはなくして、又勧
P05266
進帳をささげてすす【勧】めけるが、さらばただもなくして、
「あつぱれ、この世[B ノ]中は只今みだ【乱】れ、君も臣も
皆ほろ【滅】びうせんずる物を」など、おそろしき【恐ろしき】こ
とをのみ申ありくあいだ【間】、「この法師都に
をい【置い】てかなう【叶ふ】まじ。遠流せよ」とて、伊豆国
へぞながされける。源三位入道の嫡子仲綱の、
其比伊豆守にておはしければ、その沙汰とし
て、東海道より船にてくだ【下】すべしとて、伊勢
P05267
国へゐ【率】てまかりけるに、法便両三人ぞつ【付】けられ
たる。これらが申けるは、「庁の下部のならひ【習】、
かやうの事につゐ【突い】てこそ、をのづから依怙
も候へ。いかに聖の御房ばう)、これ程の事に逢て
遠国へながされ給ふに、しりうと【知人】はもち給はぬか。
土産粮料ごときの物をもこひ【乞ひ】給へかし」といひ
ければ、文覚は「さ様の要事いふべきとくゐ【得意】
ももたず。東山がしやま)の辺にぞとくゐ【得意】はある。いで
P05268
さらばふみ【文】をやらう」どいひければ、け【怪】しかる紙
をたづねてえ【得】させたり。「かやうの紙で物かく【書く】や
うなし」とて、なげかへす【返す】。さらばとて、厚紙をたづ
ねてえさせたり。文覚わら【笑つ】て、「法師は物をえ
かか【書か】ぬぞ。さらばおれらかけ【書け】」とて、かか【書か】するやう、「文覚
こそ高雄の神護寺造立供養のこころざ
しあて、すす【勧】め候つる程に、かかる君の代にしも
逢て、所願をこそ成就せP362ざらめ、禁獄せられて、
P05269
あまさへ【剰へ】伊豆国へ流罪せらる。遠路の間で候。
土産粮料ごときの物も大切に候。此使にた【賜】
ぶべしとかけ」といひければ、いふままにかいて、「さて
たれどの【誰殿】へとかき【書き】候はうぞ」。「清水の観音房へ
とかけ」。「これは庁の下部をあざむ【欺】くにこそ」と
申せば、「さりとては、文覚は観音をこそふか【深】う
たのみ【頼み】たてま【奉】つたれ。さらでは誰に〔か〕は用事をば
いふべき」とぞ申ける。伊勢国阿野【*阿濃】の津より船
P05270
にの【乗】てくだりけるが、遠江の天竜難だにて、
俄に大風ふき、大なみ【浪】たて、すでに此船をうち
かへさ【返さ】んとす。水手【*水主】梶取ども、いかにもしてたす【助】から
むとしけれども、波風いよいよあれ【荒】ければ、或は
観音の名号をとなへ、或は最後の十念
にをよぶ【及ぶ】。されども文覚これを事ともせず、た
かいびき【高鼾】かいてふ【臥】したりけるが、なに【何】とかおもひ【思ひ】
けん、いま【今】はかうとおぼえける時、かぱとおき、舟の
P05271
へ【舳】にたて奥の方をにらまへ、大音声をあげて、
「竜王やある、竜王やある」とぞよう【呼う】だりける。
「いかにこれほどの大願おこい【起い】たる聖がの【乗つ】たる
船をば、あやま【過】たうどはするぞ。ただいま天
の責かうむら【蒙ら】んずる竜神どもかな」とぞ申ける。
そのゆへ【故】にや、浪風ほどなくしづま【鎮まつ】て、伊豆
国へつき【着き】にけり。文覚京をい【出】でける日より、
祈誓する事あり【有り】。「われ都にかへ【帰つ】て、高雄の
P05272
神護寺造立供養すべくは、死ぬべからず。其
願むなしかるべくは、道にP363て死ぬべし」とて、京
より伊豆へつきけるまで、折節順風なかり
ければ、浦づたひ島づたひして、卅一日が間は
一向断食にてぞあり【有り】ける。されども気力
すこしもおと【劣】らず、おこな【行】ひうちしてゐたり。
まこと【誠】にただ人ともおぼえぬ事どもおほ【多】かり
けり。福原院宣S0510 近藤四郎国高といふものにあづ【預】けられて、
P05273
伊豆国奈古屋がおくにぞすみ【住み】ける。さる
程に、兵衛佐殿へつねはまい【参つ】て、昔今の物
がたりども申てなぐさむ程に、或時文覚申
けるは、「平家には小松のおほいどの【大臣殿】こそ、
心もがう【剛】に、はかり事もすぐれておはせし
か、平家の運命が末になるやらん、こぞ【去年】の八
月薨ぜられぬ。いまは源平のなかに、わど
の程将軍の相も【持つ】たる人はなし。はやはや
P05274
謀反おこして、日本国したがへ給へ」。兵衛佐
「おもひ【思ひ】もよらぬ事の給ふ聖御房ばう)かな。われ
は故池の尼御前にかいなき命をたす【助】けら
れたてまて候へば、その後世をとぶら【弔】はんために、
毎日に法花経一部転読する外は他事
なし」とこその給ひけれ。文覚かさねて申ける
は、「天のあたふるをとら【取ら】ざれば、かへて【却つて】P364其とが【咎】を
うく。時いたておこなはざれば、かへて【却つて】其殃をうく
P05275
といふ本文あり【有り】。かう申せば、御辺の心をみん
とて申などおもひ【思ひ】給か。御辺に心ざしふかい【深い】色
を見給へかし」とて、ふところ【懐】よりしろい【白い】ぬの【布】につつ
むだる髑■をひとつとりい【出】だす。兵衛佐「あ
れはいかに」との給へば、「これこそわどのの父、故
左馬頭殿のかうべ【頭】よ。平治の後、獄舎のまへ
なる苔のしたにうづ【埋】もれて、後世とぶらふ
人もなかりしを、文覚存ずる旨あて、獄
P05276
もり【守】にこふ【乞う】て、この十余年頸にかけ、山々寺々
おがみ【拝み】まはり、とぶら【弔】ひたてまつれ【奉れ】ば、いまは一
劫もたすかり給ぬらん。されば、文覚は故守殿
の御ためにも奉公のものでこそ候へ」と申けれ
ば、兵衛佐殿、一定とはおぼえねども、父のかうべ
ときく【聞く】なつかしさに、まづ涙をぞながされける。
其後はうちとけて物がたりし給ふ。「抑頼朝
勅勘をゆ【許】りずしては、争か謀反をばおこ
P05277
すべき」との給へば、「それやす【安】い事、やがてのぼ【上】
て申ゆるいてたてまつら【奉ら】ん」。「さもさうず、御房
も勅勘の身で人を申ゆるさうどの給ふ
あてがいやうこそ、おほ【大】きにまことしからね」。「わが
身の勅勘をゆりうど申さばこそひがこと【僻言】
ならめ。わどのの事申さうは、なにかくるしかる【苦しかる】べ
き。いまの都福原の新都へのぼ【上】らうに、三日に
す【過】ぐまじ。院宣うかがは【伺は】うに一日がとうりう【逗留】ぞ
P05278
あらんずる。都合七日八日にはす【過】ぐべからず」P365とて、
つきい【出】でぬ。奈古屋にかへ【帰つ】て、弟子共には、伊豆の
御山に人にしのん【忍ん】で七日参籠の心ざしあり【有り】
とて、いでにけり。げにも三日といふに、福原の新
都へのぼりつつ前右兵衛督光能卿のもとに、い
ささかゆかりあり【有り】ければ、それにゆい【行い】て、「伊豆国
流人、前兵衛佐頼朝こそ勅勘をゆるさ【許さ】れて
院宣をだにも給はらば、八ケ国の家人ども催
P05279
しあつめて、平家をほろぼし、天下をしづ
め【鎮め】んと申候へ」。兵衛督「いさとよ、わが身も当時は
三官ともにとどめられて、心ぐるしいおりふし【折節】
なり。法皇もおしこめられてわたらせ給へば、
いかがあらんずらん。さりながらもうかがう【伺う】てこそみ
め」とて、此由ひそかに奏せられければ、法皇や
がて院宣をこそくだ【下】されけれ。聖これをく
びにかけ、又三日といふに、伊豆国へくだ【下】りつく。
P05280
兵衛佐「あつぱれ、この聖御房ばう)は、なまじゐによし
なき事申いだして、頼朝又いかなるう【憂】き目
にかあはんずらん」と、おも【思】はじ事なうあん【案】じつづ【続】
けておはしけるところ【所】に、八日といふ午剋ば
かりくだ【下】りついて、「すは院宣よ」とてたてまつる【奉る】。
兵衛佐、院宣ときくかたじ【忝】けなさに、手水うがひ
をし、あたらしき烏帽子・浄衣きて、院宣を
三度拝してひらかれたり。項年より以来、平
P05281
氏王皇蔑如して、政道にはばかる事なし。仏
法を破滅して、朝威をほろぼさんとす。夫
我朝は神国也。宗■あひならんで、神徳是P366
あらたなり。故朝廷開基の後、数千余歳
のあひだ、帝猷をかたぶけ、国家をあやぶめ
むとする物、みなもて敗北せずといふ事
なし。然則且)は神道の冥助にまかせ、且)は
勅宣の旨趣しゆ)をまも【守つ】て、はやく平氏の
P05282
一類を誅して、朝家の怨敵をしりぞけよ。譜
代弓箭の兵略を継、累祖奉公の忠勤
を抽で、身をたて、家をおこすべし。ていれば【者】、
院宣かくのごとし。仍執達如件。治承四年
七月十四日前右兵衛督光能が奉り謹上
前右兵衛佐殿へとぞかか【書か】れたる。此院宣をば
錦の袋にいれ【入れ】て、石橋〔山〕の合戦の時も、兵衛
佐殿頸にかけられたりけるとかや。富士川S0511 さる程に、福原
P05283
には、勢のつかぬ先にいそぎ打手をくだすべし
と、公卿僉議あて、大将軍には小松権亮少将
維盛、副将軍には薩摩守忠教【*忠度】、都合其勢
三万余騎、九月十八日に都をたて、十九日には
旧都につき、やがて廿日、東国へこそうたた【討つ立た】れ
けれ。大将軍権亮少将維盛は、生年廿三、容
儀体拝絵にかP367くとも筆も及がたし。重代の
鎧唐皮といふきせなが【着背長】をば、唐櫃にいれ【入れ】てかか【舁か】
P05284
せらる。路打には、赤地の錦の直垂に、萠黄
威のよろひ【鎧】きて、連銭葦毛なる馬に、黄
■輪の鞍おいてのり給へり。副将軍薩
摩守忠教【*忠度】は、紺地の錦のひたたれに、ひお
どしの鎧きて、黒き馬のふと【太】うたくましゐ【逞しい】に、
いかけ【沃懸】地の鞍をい【置い】てのり給へり。馬・鞍・鎧・甲・弓
矢・太刀・刀にいたるまで、て【照】りかかや【輝】く程にい
でたた【出立た】れたりしかば、めでたかりし見物也。
P05285
薩摩守忠教【*忠度】は、年来ある宮腹の女房の
もとへかよ【通】はれけるが、或時おはしたりけるに、其
女房のもとへ、やごとなき女房まらうと【客人】きた
て、やや久しう物語し給ふ。さよ【小夜】もはるかに
ふ【更】けゆくまでに、まらうとかへり給はず。忠教【*忠度】
軒[* 「斬」と有るのを高野本により訂正]ばにしばしやすらひて、扇をあらくつかは【使は】れけ
れば、宮腹の女房、「野もせ【狭】にすだく虫の音
よ」と、ゆふ【優】にやさしう口ずさみ給へば、薩摩守や
P05286
がて扇をつかひやみてかへ【帰】られけり。其後又おはし
たりけるに、宮腹の女房「さても一日、なに【何】とて扇
をばつか【使】ひやみしぞや」とと【問】はれければ、「いさ、か
しがましなどきこえ【聞え】候しかば、さてこそつか【使】ひ
やみ候しか」とぞの給ひける。かの女房のもとよ
り忠教【*忠度】のもとへ、小袖を一かさねつか【遣】はすとて、
ち【千】里のなごり【名残】のかなしさに、一首の歌をぞ送られける。P368
あづま路の草葉をわけん袖よりも
P05287
たえ【堪え】ぬたもとの露ぞこぼるる W035
薩摩守返事には
わかれ路をなにかなげかんこえて行
関もむかしの跡とおもへ【思へ】ば W036
「関も昔の跡」とよめる事は、平将軍貞
盛、将門追討のために、東国へ下向せし事を
おもひ【思ひ】いでてよ【詠】みたりけるにや、いとやさしう
ぞきこえし。昔は朝敵をたいらげ【平げ】に外土へ
P05288
むかふ将軍は、まづ参内して切刀を給はる。
震儀【*宸儀】南殿に出御し、近衛階下に陣をひ
き、内弁外弁の公卿参列して、誅儀【*中儀】の節
会おこなは【行なは】る。大将軍副将軍、おのおの礼儀
をただしうしてこれを給はる。承平天慶
の蹤跡も、年久しうなて准へがたしとて、今
度は讃岐守正盛が前対馬守源義親追
討のために出雲国へ下向せし例とて、鈴ばか
P05289
り給はて、皮の袋にいれ【入れ】て、雑色が頸にかけ
させてぞくだ【下】られける。いにしへ、朝敵をほろ
ぼさんとて都をいづる将軍は、三の存
知あり【有り】。切刀を給はる日家をわすれ、家を
いづるとて妻子をわすれ、戦場にして
敵にたたかふ【戦ふ】時、身をわする。されば、今の平
氏の大将維盛・忠教【*忠度】も、定てかやうの事を
ば存知せられたりけん。あはれなりし事共也。
P05290
同廿二日新院又安芸国厳島へ御幸
なる。去る三月にも御幸あり【有り】き。そのゆP369へ
にや、なか一両月世もめでたくおさま【治まつ】て、民
のわづらひもなかりしが、高倉宮の御謀反
によて、又天下みだれて、世上もしづかならず。
これによて、且)は天下静謐のため、且)は聖代
不予の御祈念のためとぞきこえし。今
度は福原よりの御幸なれば、斗薮の
P05291
わづらひもなかりけり。手づからみづから
御願文をあそばひ【遊ばい】て、清書をば摂政
殿せさせをはします。
蓋聞[B ク]。法性雲閑也、十四十五の月高晴[B レ]、権
化智深し、一陰一陽の風旁扇ぐ。夫厳
島の社は称名あまねくきこゆる【聞ゆる】には【場】、効
験無双の砌也。遥嶺の社壇をめぐる、おのづ
から大慈の高く峙てるを彰し、巨海の
P05292
詞宇【*祠宇】にをよぶ【及ぶ】、空に弘誓の深広なるこ
とを表す。夫以、初庸昧の身をもて、忝皇
王の位を践む。今賢猷を霊境の群に翫
で、閑坊〔を〕射山の居にたのしむ。しかるに、ひそかに
一心の精誠を抽で、孤島の幽祠に詣、瑞
籬の下に明恩を仰ぎ、懇念を凝して
汗をながし、宝宮のうちに霊託を垂。その
つげの心に銘ずるあり【有り】。就中にことに怖
P05293
畏謹慎の期をさすに、もはら季夏初秋
の候にあたる。病痾忽に侵し、猶医術の験
を施す事なし。平計頻に転ず、弥神感の
空しからざることを知ぬ。祈祷を求といへ
ども、霧露散じがたし。しかじ、心符のこころざし
を抽でて、かさねて斗薮の行をくはたてん
とおもふ【思ふ】。漠々たP370る寒嵐の底、旅泊に臥て
夢をやぶり、せいせい[* 「さいさい」と有るのを高野本により訂正]【凄々】たる微陽のまへ、遠
P05294
路に臨で眼をきはむ。遂に枌楡の砌について、
敬て、清浄の席を展、書写したてまつる
色紙墨字の妙法蓮花経【*妙法蓮華経】一部、開結二経、
阿弥陀・般若心等の経各一巻。手から自から
書写したてまつる【奉る】金泥の提婆品一巻。
時に[* 「時々」と有るのを高野本により訂正]蒼松蒼栢の陰、共に善理の種をそへ、
潮去潮来響、空に梵唄の声に和す。弟子
北闕の雲を辞して八実【*八日】、凉燠のおほく
P05295
廻る事なしといへども、西海の浪を凌事二
たび【二度】、深く機縁のあさからざる事を知ぬ。朝
に祈る客一にあらず、夕に賽【賽申】するもの且千
也。但し、尊貴の帰仰おほしといへども、院宮
の往詣いまだきかず。禅定法皇初て其
儀をのこい【残い】給ふ。彼嵩高山の月の前には
漢武いまだ和光のかげ弁ぜず。蓬莱洞の
雲の底にも、天仙むなしく垂跡の塵を
P05296
へだつ。仰願くは大明神、伏乞らくは〔一〕乗経、新
に丹祈をてらして唯一の玄応を垂給へ。治承
四年九月廿八日太上天皇とぞあそばさ【遊ばさ】れ
たる。さる程に、此人々は九重の都をたて、
千里の東海におもむき給ふ。たいら【平】かにかへ【帰】り
のぼらむ事もまこと【誠】にあやうき【危ふき】有さまども
にて、或は野原の露にやどをかり、或はたかね
の苔に旅ねをし、山をこえ河をかさね、日かず【数】
P05297
ふれば、P371十月十六日には、するが【駿河】の国清見が
関にぞつ【着】き給ふ。都をば三万余騎でい【出】で
しかど、路次の兵めしぐし【召具し】て、七万余騎とぞ
きこえし。先陣はかん【蒲】原・富士河にすすみ、後
陣はいまだ手越・宇津[B ノ]屋にささへたり。大将軍
権亮少将維盛、侍大将上総守忠清をめして、
「ただ維盛が存知には、足柄をうちこえて坂東
にていくさをせん」とはやられけるを、上総守
P05298
申けるは、「福原をたたせ給し時、入道殿の御
定には、いくさをば忠清にまかせさせ給へと仰
候しぞかし。八ケ国の兵共みな兵衛佐にしたが
ひ【従ひ】ついて候なれば、なん【何】十万騎か候らん。御方の
御勢は七万余騎とは申せども、国々のかり【駆】
武者共なり。馬も人もせめふせて候。伊豆・駿
河の勢のまいる【参る】べきだにもいまだみえ【見え】候はず。
ただ富士河をまへにあてて、みかたの御勢を
P05299
また【待た】せ給ふべうや候らん」と申ければ、力及ばで
ゆらへたり。さる程に、兵衛佐は足柄の山を
打こえて、駿河国きせ河【黄瀬河】にこそつき給へ。甲
斐・信濃の源氏ども馳来てひとつになる。浮
島が原にて勢ぞろへあり【有り】。廿万騎とぞしる
いたる。常陸源氏佐竹太郎が雑色、主の使に
ふみ【文】も【持つ】て京へのぼるを、平家の先陣上総
守忠清これをとどめて、も【持つ】たる文をばひ【奪】とり、
P05300
あけて見れば、女房のもとへの文なり。くるし
かる【苦しかる】まじとて、とらせてげり。「抑兵衛佐殿P372の
勢、いかほどあるぞ」ととへば、「凡八日九日の道に
はたとつづいて、野も山も海も河も武者で候。
下臈は四五百千までこそ物のかずをば
知て候へども、それよりうへはしら【知ら】ぬ候。おほ【多】い
やらう、すくな【少】いやらうをばしり【知り】候はず。昨日
きせ河【黄瀬河】で人の申候つるは、源氏の御勢廿万
P05301
騎とこそ申候つれ」。上総守これをきい【聞い】て、「あ
はれ、大将軍の御心ののび【延び】させ給たる程
口おしい【惜しい】事候はず。いま一日も先に打手を
くださせ給たらば、足柄の山打こへて、八
ケ国へ御出候ば、畠山が一族、大庭兄弟などか
まいら【参ら】で候べき。これらだにもまいり【参り】なば、
坂東にはなびかぬ草木も候まじ」と、後
悔すれどもかいぞなき。又大将軍権亮少
P05302
将維盛、東国の案内者とて、長井の斎
藤別当実盛をめして、「やや実盛、なんぢ程の
つよ弓勢兵、八〔ケ〕国にいか程あるぞ」とと【問】ひ給へ
ば、斎藤別当あざわら【笑つ】て申けるは、「さ候へば、君は
実盛を大矢とおぼしめし【思召し】候歟。わづかに十三
束こそ仕候へ。実盛程ゐ【射】候物は、八ケ国にいくらも
候。大矢と申ぢやう【定】の物の、十五束におとて
ひく【引く】は候はず。弓のつよさもしたたかなる物五
P05303
六人しては【張】り候。かかるせい【精】兵どもがゐ【射】候へ者、
鎧の二三両をもかさねて、たやすうゐとをし【射通し】
候也。大名一人と申は、せい【勢】のすくないぢやう【定】、五
百騎におとるは候はず。馬にの【乗つ】つればお【落】つ
る道をしらず、悪所をは【馳】すれどP373も馬をた
をさ【倒さ】ず。いくさは又おや【親】もうたれよ、子もうた
れよ、死ぬればのりこへ【乗越へ】のりこへ【乗越へ】たたかふ【戦ふ】候。西国の
いくさと申は、おや【親】うた【討た】れぬれば孝養し、
P05304
いみ【忌】あけてよせ、子うたれぬれば、そのおもひ【思ひ】な
げき【歎き】によ【寄】せ候はず。兵粮米つきぬれば、田つ
くり、かり【刈り】おさめ【収め】てよせ、夏はあつし【暑し】といひ、冬は
さむしときら【嫌】ひ候。東国にはすべて其儀候
はず。甲斐・信乃【*信濃】の源氏ども、案内はし【知つ】て候。
富士のこし【腰】より搦手にやまは【廻】り候らん。かう
申せば君をおく【臆】せさせまいらせ【参らせ】んとて申には
候はず。いくさはせい【勢】にはよらず、はかり事に
P05305
よるとこそ申つたへて候へ。実盛今度の
いくさに、命いき【生き】てふたたびみやこ【都】へまいる【参る】べし
とも覚候はず」と申ければ、平家の兵共こ
れきい【聞い】て、みなふるい【震ひ】わななきあへり。さる程に、
十月廿三日にもなりぬ。あすは源平[* 「源氏」と有るのを高野本により訂正]富士河
にて矢合とさだめたりけるに、夜に入て、平家
の方より源氏の陣を見わたせ【渡せ】ば、伊豆・駿河〔の〕
人民・百姓等がいくさにおそれ【恐れ】て、或は野にいり、
P05306
山にかくれ、或は船にとりの【乗つ】て海河にうかび、いと
なみの火のみえ【見え】けるを、平家の兵ども、「あなお
びたたしの源氏の陣のとを【遠】火のおほさ
よ。げにもまこと【誠】に野も山も海も河もみな
かたきであり【有り】けり。いかがせん」とぞあはて【慌て】ける。其
夜の夜半ばかり、富士の沼にいくらもむ
れ【群れ】ゐたりける水鳥どもが、なに【何】にかおどろ【驚】き
たりけん、ただP374一ど【度】にばと立ける羽音の、
P05307
大風いかづち【雷】などの様にきこえければ、平家の
兵共、「すはや源氏の大ぜい【勢】のよ【寄】するは。斎藤
別当が申つる様に、定て搦手もまはるらん。
とりこ【取込】められてはかなう【叶ふ】まじ。ここをばひい【引い】て尾
張河州俣をふせけ【防け】や」とて、とる物もとりあへず、
我さきにとぞ落ゆきける。あまりにあはて
さはい【騒い】で、弓とる物は矢をしら【知ら】ず、矢とるもの
は弓をしらず、人の馬にはわれのり【乗り】、わが馬を
P05308
ば人にのら【乗ら】る。或はつないだる馬にの【乗つ】てくゐ【杭】を
めぐる事かぎりなし。ちかき【近き】宿々よりむか【迎】へ
とてあそびける遊君遊女ども、或はかしら【頭】け【蹴】
わられ、腰ふみ【踏み】おら【折ら】れて、おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】物おほかり
けり。あくる廿四日卯刻に、源氏大勢廿万騎、
ふじ河にをし【押し】よせて、天もひびき、大地もゆるぐ
程に、時をぞ三ケ度つくりける。五節之沙汰S0512平家の方
には音もせず、人をつかはして見せければ、「皆お【落】ち
P05309
て候」と申。或は敵のわすれたる鎧とてまいり【参り】
たる物もあり【有り】、或はかたきのすて【捨て】たる大幕
とてまいり【参り】たるものもあり【有り】。「敵の陣には蝿だにも
か【翔】けり候はず」と申。P375兵衛佐、馬よりおり、甲を
ぬぎ、手水うがいをして、王城の方をふしをが【伏拝】み、
「これはまたく頼朝がわたくしの高名にあらず。
八幡大菩薩の御ぱからひなり」とぞの給ひける。
やがてうとり【打取】所なればとて、駿河国をば
P05310
一条次郎忠頼、遠江をば安田三郎義定に
あづけらる。平家をばつづゐ【続い】てもせ【攻】むべけ
れども、うしろ【後ろ】もさすがおぼつかなしとて、浮島
が原よりひきしり【引退】ぞき、相模国へぞかへら【帰ら】れける。
海道宿々の遊君遊女ども「あないまいまし【忌々し】。打
手の大将軍の矢ひと【一】つだにもゐ【射】ずして、にげ【逃げ】
のぼり給ふうたてしさよ。いくさには見にげ【逃げ】
といふ事をだに、心うき事にこそするに、是は
P05311
きき【聞き】にげし給ひたり」とわらひ【笑ひ】あへり。落書
どもおほかりけり。都の大将軍をば宗盛と
いひ、討手の大将をば権亮といふ間、平家
をひらやによみ【読み】なして、
ひらやなるむねもりいかにさはぐ【騒ぐ】らむ
はしら【柱】とたのむ【頼む】すけををとして W037
富士河のせぜ【瀬々】の岩こす水よりも
はやくもおつる伊勢平氏かな W038
P05312
上総守が富士河に鎧をすて【捨て】たりけるをよめり。
富士河によろひはすてつ墨染の
ころもただき【着】よ後の世のため W039
ただきよはにげの馬にぞのり【乗り】にける
上総しりがいかけてかひなし W040 P376
同十一月八日、大将軍権亮少将維盛、福原
の新都へのぼりつく。入道相国大にいかて、
「大将軍権亮少将維盛をば、鬼界が島へ
P05313
ながすべし。侍大将上総守忠清をば、死罪
におこなへ」とぞの給ひける。同九日、平家
の侍ども老少参会して、忠清が死罪
の事いかがあらんと評定す。なかに主馬判官
盛国[* 「重国」と有るのを他本により訂正]すすみいでて申けるは、「忠清は昔
よりふかく【不覚】人とはうけ給及候はず。あれが十八
の歳と覚候。鳥羽殿の宝蔵に五畿
内一の悪党二人、にげ籠て候しを、よ【寄】て
P05314
からめうど申物も候はざりしに、この忠清、白
昼唯一人、築地をこへ【越え】はね入て、一人をば
うち【討ち】とり、一人をばいけど【生捕】て、後代に名を
あげたりし物にて候。今度の不覚はただ
ことともおぼえ候はず。これにつけてもよくよく
兵乱の御つつしみ候べし」とぞ申ける。同
十日、大将軍権亮少将維盛、右近衛中将に
なり給ふ。打手の大将ときこえしかども、さ
P05315
せるしいだし【出し】たる事もおはせず、「これは何事
の勧賞ぞや」と、人々ささやきあへり。昔将門
追討のために、平将軍貞盛、田原藤太秀
里【*秀郷】うけ給て、坂東へ発向したりしかども、
将門たやすうほろ【亡】びがたかりしかば、重て
打手をくだすべしと公卿僉議あて、宇治
の民部卿忠文、清原重藤【*滋藤】、軍監といふ官
を給はてくP377だられけり。駿河国清見が関に
P05316
宿したりける夜、かの重藤【*滋藤】漫々たる海上
を遠見して、「漁舟火影寒焼浪、駅路鈴
声夜過山」といふから歌をたからか【高らか】に口ずさみ
給へば、忠文いふ【優】におぼえて感涙をぞながさ【流さ】
れける。さる程に将門をば、貞盛・秀里【*秀郷】つゐに【遂に】
打とてげり。其かうべ【頭】をもたせてのぼる程に、
清見が関にてゆき【行】あふたり。其より先後
の大将軍うちつれて上洛す。貞盛・秀里【*秀郷】に
P05317
勧賞おこなはれける時、忠文・重藤【*滋藤】にも勧
賞あるべきかと公卿僉議あり【有り】。九条[B ノ]右丞相
師資【*師輔】公の申させ給ひけるは、「坂東へ打手は
むかふたりといへども、将門たやすうほろ【亡】びがた
きところ【所】に、この人共仰をかうむ【蒙つ】て関の東がし)へ
おもむく時、朝敵すでにほろびたり。されば
などか勧賞なかるべき」と申させ給へども、其
時の執柄小野宮殿、「「うたが【疑】はしきをばなすこと
P05318
なかれ」と礼記の文に候へば」とて、つゐに【遂に】なさせ
給はず。忠文これを口惜[B キ]事にして「小野宮
殿の御末をばやつ子【奴】に見なさん。九条殿の
御末にはいづれの世までも守護神とならん」
とちか【誓】ひつつひじに【干死】にこそし給ひけれ。されば
九条殿の御末はめでたうさかへ【栄え】させ給へども、
小野宮殿の御末にはしかるべき人もまし
まさず、いまはたえ【絶え】はて給ひけるにこそ。さる
P05319
程に、入道相国の四男頭中将重衡、左近衛
中将になり給ふ。同十一月P378十三日、福原には
内裏つく【造】りいだして、主上御遷幸あり【有り】。
大嘗会あるべかりしかども、大嘗会は
十月のすゑ、東河に御ゆきして御禊
あり【有り】。大内の北の野に斎場所[* 「税庁所」と有るのを訂正]をつくて、神
服神具をととのふ。大極殿のまへ、竜尾道の
壇下に廻竜殿【*廻立殿】をたてて、御湯をめす。同壇の
P05320
ならびに太政宮をつくて、神膳をそなふ。震
宴【*宸宴】あり【有り】、御遊あり【有り】、大極殿にて大礼あり【有り】、清
暑堂にて御神楽あり【有り】、豊楽院にて宴
会あり【有り】。しかるを、この福原の新都には大
極殿もなければ、大礼おこなふべきところ【所】も
なし。清暑堂もなければ、御神楽奏すべき
様もなし。豊楽院もなければ、宴会[B も]おこ
なはれず。今年はただ新嘗会・五節
P05321
ばかりあるべきよし公卿僉議あて、なを【猶】新
嘗のまつりをば、旧都の神祇官にして
とげられけり。五節はこれ清御原のそのかみ、
吉野の宮にして、月しろく【白く】嵐はげしか
りし夜、御心をすましつつ、琴をひき給ひ
しに、神女あまくだり、五たび袖をひるがへす。
これぞ五節のはじめなる。都帰S0513 今度の都遷を
ば、君も臣も御なげきあり【有り】。山・奈良をはじめ
P05322
て、諸寺諸社にP379いたるまで、しか【然】るべからざる由
一同にうたへ【訴へ】申あひだ、さしもよこ紙をや【破】らるる
太政入道も、「さらば都がへりあるべし」とて、京
中ひしめきあへり。同十二月二日、にはかに
都がへりあり【有り】けり。新都は北は山にそ【添】ひて
たかく、南は海ちかくしてくだれり。浪の
音つねはかまびすしく、塩風はげしき所也。
されば、新院いつとなく御悩のみしげ【滋】かりけれ
P05323
ば、いそぎ福原をいでさせ給ふ。摂政殿をはじ
めたてまて、太政大臣以下の公卿殿上人、われ
もわれもと供奉せらる。入道相国をはじめとし
て、平家一門の[B 公卿]殿上人、われさきにとぞの
ぼられける。誰か心う【憂】かりつる新都に片時も
のこるべき。去六月より屋共こぼちよせ、
資材雑具はこ【運】びくだし、形のごとくとり
たて【取り立て】たりつるに、又物ぐるはしう都がへり
P05324
あり【有り】ければ、なんの沙汰にも及ばず、うちすて【捨て】打
すてのぼられけり。おのおのすみかもなくして、
やわた【八幡】・賀茂・嵯峨・うづまさ【太秦】・西山・東山がしやま)のかた
ほとりにつゐ【着い】て、御堂の廻廊、社の拝殿
などにたちやど【立宿】てぞ、しかる【然かる】べき人々も在
ましける。今度の都うつ【遷】りの本意をい
かにといふに、旧都は南都・北嶺ちかくして、
いささかの事にも春日の神木、日吉の
P05325
神輿などいひて、みだりがはし。福原は山へだた
り【隔たり】江かさなて、程もさすがとをけれ【遠けれ】ば、さ様の
ことたやすからじとP380て、入道相国のはからひ
いだされたりけるとかや。同十二月廿三日、近
江源氏のそむきしをせめ【攻め】むとて、大将軍
には左兵衛督知盛、薩摩守忠教【*忠度】、都合
其勢二万余騎で近江国へ発向して、山
本・柏木・錦古里などいふあぶれ源氏共、
P05326
一々にみなせめ【攻め】おとし、やがて美乃【*美濃】・尾張へ
こえ【越え】給ふ。奈良炎上S0514 都には又「高倉宮園城寺へ入御
時、南都の大衆同心して、あまさへ【剰へ】御むかへ
にまいる【参る】条、これもて朝敵なり。されば南
都をも三井寺をもせめ【攻め】らるべし」といふ
程こそあり【有り】けれ、奈良の大衆おびたた
しく蜂起す。摂政殿より「存知の旨あらば、
いくたびも奏聞にこそ及ばめ」と仰下され
P05327
けれども、一切もちゐ【用ゐ】たてまつら【奉ら】ず。右官の
別当忠成を御使にくだされたりければ、
「しやのり【乗】物よりとてひきおと【引落】せ。もとどり【髻】きれ」
と騒動する間、忠成色をうしな【失つ】てにげ【逃げ】
のぼる。つぎに右衛門佐親雅をくだ【下】さる。是
をも「もとどりきれ」と大衆ひしめきければ、と
る【取る】ものもとりあへずにげのぼる。其時は勧学
院の雑色二人がP381もとどりきら【切ら】れにけり。又南
P05328
都には大なる球丁の玉をつくて、これは平
相国のかうべ【頭】となづけて、「うて【打て】、ふめ【踏め】」などぞ申
ける。「詞のもらし【漏らし】やすきは、わざはひ【災】をまねく
媒なり。詞のつつし【慎】まざるは、やぶ【敗】れをとる【取る】
道なり」といへり。この入道相国と申すは、
かけまくもかたじけなく当今の外祖にて
おはします。それをかやうに申ける南都の大衆、
凡は天魔の所為とぞ見えたりける。入道相
P05329
国かやうの事どもつた【伝】へきき給ひて、いかでかよし
とおもは【思は】るべき。かつがつ南都の狼籍【*狼藉】をしづめん
とて、備中国住人瀬尾太郎兼康、大和国の
検非所に補せらる。兼康五百余騎で南都へ
発向す。「相構て、衆徒は狼籍【*狼藉】をいたすとも、汝
等はいたすべからず。物の具なせそ。弓箭な帯
しそ」とてむけられたりけるに、大衆かかる
内儀をばしらず、兼康がよせい【余勢】六十余人から
P05330
めとて、一々にみな頸をきて、猿沢の池の
はたにぞかけなら【懸並】べたる。入道相国大にいかて、
「さらば南都をせめ【攻め】よや」とて、大将軍には
頭中将重衡、副将軍には中宮亮通
盛、都合其勢四万余騎で、南都へ発向
す。大衆も老少きらはず、七千余人、甲の緒
をしめ、奈良坂・般若寺二ケ所、路をほり【掘り】
きて、堀ほり、かいだて【掻楯】かき、さかもぎ【逆茂木】ひいて待
P05331
かけたり。平家は四万余騎を二手にわか
て、奈良坂・般若寺二ケ所の城郭に
おしよせて、時をどとつくる。大衆はみなかちP382
立うち【打】物也。官軍は馬にてか【駆】けまはしかけ
まはし、あそこここにおかけ【追つ掛け】おかけ【追つ掛け】、さしつめ【差し詰め】ひきつ
め【引き詰め】さんざん【散々】にゐ【射】ければ、ふせく【防く】ところ【所】の大衆、かず
をつくゐ【尽くい】てうた【討た】れにけり。卯剋に矢合して、
一日たたかう【戦ふ】ひくらす。夜に入て奈良坂・般若寺
P05332
二ケ所の城郭ともにやぶれぬ。お【落】ちゆく衆徒
のなかに、坂四郎永覚といふ悪僧あり【有り】。打物
も【持つ】ても、弓矢をとても、力のつよさも、七大寺・
十五大寺にすぐれたり。もえぎ威の腹巻
のうへに、黒糸威の鎧をかさねてぞき【着】たりける。
帽子甲に五枚甲の緒をしめて、左右の
手には、茅の葉のやうにそ【反】たる白柄の大長
刀、黒漆の大太刀もつままに、同宿十余人、前
P05333
後にたて、てがい【碾磑】の門よりう【打つ】ていでたり。これぞ
しばら【暫】くささへたる。おほくの官兵、馬の足な【薙】が
れてうた【討た】れにけり。されども官軍は大勢
にて、いれかへ【入れ替へ】いれかへ【入れ替へ】せめければ、永覚が前後左右
にふせく【防く】所の同宿みなうたれぬ。永覚
ただひとりたけ【猛】けれど、うしろ【後】あらはになり
ければ、南をさいておちぞゆく。夜いくさに
なて、くらさ【暗さ】はくらし、大将軍頭中将、般若寺
P05334
の門の前にうた【打立】て、「火をいだせ」との給ふほど
こそあり【有り】けれ、平家のせい【勢】のなかに、播摩国
住人福井庄下司、二郎大夫友方といふもの、
たて【楯】をわ【破】りたい松にして、在家に火をぞ
かけたりける。十二月廿八日の夜なりけ
れば、風ははげ【烈】しし、ほP383もと【火元】はひとつなりけれ共、
ふ【吹】きまよふ風に、おほくの伽藍に吹かけ
たり。恥をもおもひ【思ひ】、名をもおしむ【惜しむ】程のものは、
P05335
奈良坂にてうちじに【討死】し、般若寺にして
うた【討た】れにけり。行歩にかなへ【叶へ】る物は、吉野十
津河の〔方へ〕落ゆく。あゆみもえぬ老僧や、
尋常なる修学者児共、おんな童部は、
大仏殿・やましな【山階】寺のうちへ、われさきにとぞ
にげ【逃げ】ゆきける。大仏殿の二階の上には千
余人のぼりあがり、かたき【敵】のつづ【続】くをのぼせじ
と、橋をばひい【引い】てげり。猛火はまさしうおし
P05336
かけ【押し掛け】たり。おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】声、焦熱・大焦熱・無
間阿毘のほのを【炎】の底の罪人も、これにはすぎじ
とぞみえ【見え】し。興福寺は淡海公の御願、藤氏
累代の寺也。東金堂におはします仏法
最初の釈迦の像、西金堂にをはします自然
涌出の勧世音、瑠璃をならべし四面の廊、
朱丹をまじへし二階の楼、九輪そらにかかや【輝】き
し二基の塔、たちまちに煙となるこそかなし
P05337
けれ。東大寺は、常在不滅、実報寂光の
生身の御仏とおぼしめし【思召し】なぞらへて、聖武皇
帝、手づからみづからみが【磨】きたて給ひし金銅
十六丈の廬遮那仏、烏瑟たかくあらはれて
半天の雲にかくれ、白毫新におがまれ給ひし
満月の尊容も、御くし【髪】はや【焼】けおちて大地
にあり【有り】、御身はわきあひ【鎔合】て山の如し。八万四千
の相好は、秋の月はやく五重の雲におぼ
P05338
れ、四十一地の瓔珞は、夜の星むなP384しく十
悪の風にただよふ。煙は中天にみちみち、ほの
を【炎】は虚空にひまもなし。まのあたりに見たてまつ
る【奉る】物、さらにまなこ【眼】をあてず。はるかにつたへきく
人は、肝たましゐ【魂】をうしなへ【失へ】り。法相・三輪の法
門聖教、すべて一巻のこらず。我朝はいふに及ず、
天竺震旦にも是程の法滅あるべしともおぼえず。
うでん【優填】大王の紫磨金をみがき、毘須羯磨が
P05339
赤栴檀をきざ【刻】んじも、わづかに等身の御仏也。
况哉これは南閻浮提のうちには唯一無双
の御仏、ながく朽損の期あるべしともおぼえざりし
に、いま毒縁の塵にまじはて、ひさしくかなしみ
をのこし給へり。梵尺四王、竜神八部、冥官
冥衆も驚きさはぎ【騒ぎ】給ふらんとぞみえ【見え】し。法相
擁護の春日の大明神、いかなる事をかおぼし
けん。されば春日野の露も色かはり、三笠
P05340
山の嵐の音うらむる【恨むる】さまにぞきこえける。
ほのを【炎】のなかにてや【焼】けしぬる人数をしる【記】い
たりければ、大仏殿の二階の上には一千七
百余人、山階寺には八百余人、或御堂には
五百余人、或御堂には三百余人、つぶさに
しるいたりければ、三千五百余人なり。戦
場にしてうたるる大衆千余人、少々は
般若寺の門の前にきりかけ、少々はもたせて
P05341
都へのぼり給ふ。廿九日、頭中将、南都ほろ
ぼして北京へ帰りいら【入ら】る。入道相国ばかり
ぞ、いきどほり【憤】は【晴】れてよろこばれける。中宮・一
院・上皇・摂政殿以下の人々は、P385「悪僧をこそ
ほろ【亡】ぼすとも、伽藍を破滅すべしや」とぞ御
歎あり【有り】ける。衆徒の頸共、もとは大路をわたし
て獄門の木に懸らるべしときこえしかども、
東大寺・興福寺のほろびぬるあさまし
P05342
さに、沙汰にも及ず。あそこここの溝や堀にぞす
て【捨て】をきける。聖武皇帝震筆【*宸筆】の御記文に
は、「我寺興福せば、天下も興福し、吾寺衰
微せば、天下も衰微すべし」とあそばさ【遊ばさ】れたり。され
ば天下の衰微せん事も疑なしとぞ見えたり
ける。あさましかりつる年もくれ、治承も五年に成にけり。
平家物語巻第五P386


平家物語(龍谷大学本)巻第六
P06345

【許諾済】
本テキストの公開については、龍谷大学大宮図書館の許諾を得ています。底本使用・テキスト公開を許可された同図書館に厚く御礼申し上げます。
【注意】
本テキストの利用は個人の研究の範囲内に限られます。本テキストの全体あるいは一部の複写物・複写加工物を、インターネット上で、あるいは出版物(CD−ROM等を含む)として公表する場合には、事前に龍谷大学大宮図書館に翻刻掲載許可願いを申請する必要があります。同図書館の許可を得ない本テキストの公表は禁じられています。翻刻掲載許可願い申請送付先:〒600-8268 京都市下京区七条通大宮東入大工町125−1 龍谷大学大宮図書館閲覧係
【底本】
本テキストの底本は、龍谷大学大宮図書館所蔵『平家物語』です。直接には、思文閣出版発行の影印本(龍谷大学善本叢書13)に拠りました。

P06347 P386
平家物語巻第六
新院崩御S0601治承五年正月一日、内裏には、東国の兵革、
南都の火災によて朝拝とどめ【留め】られ、主上
出御もなし。物の音もふきならさず、舞楽
も、奏せず、吉野のくず【国栖】もまいら【参ら】ず、藤氏の
公卿一人も参ぜられず。氏寺焼失によてなり。
二日、殿上の宴酔もなし。男女うちひそめて、
禁中いまいましう【忌々しう】ぞ見えける。仏法王法ともに
P06348
つきぬる事ぞあさましき。一院仰なりけるは、
「われ十善の余薫によて万乗の宝位を
たもつ。四代の帝王をおもへ【思へ】ば子なり、孫なり。
いかなれば万機の政務をとど【留】められて、年月を
をくる【送る】らん」とぞ御歎あり【有り】ける。同五日、南都の
僧綱等闕官ぜられ、公請を停止し、所職を
没収せらる。衆徒は老たるもわかきも、或は
ゐ【射】ころさ【殺さ】れきり【斬り】ころさ【殺さ】れ、或は煙の内をいで
P06349
ず、炎にむせ【咽】んでおほくほろ【亡】びにしかば、わづ
かにのこる【残る】輩は山林にまじはり、跡P387をとど
むるもの一人もなし。興福寺別当花林院
僧正永円【*永縁】は、仏像経巻のけぶり【煙】とのぼりけるを
見て、あなあさましとむね【胸】うちさはぎ【騒ぎ】、心をくだ
かれけるより病ついて、いくほどもなくつゐに【遂に】うせ
給ぬ。この僧正はゆふ【優】になさけ【情】ふかき人なり。或時
郭公のなくをきひ【聞い】て、
P06350
きく【聞く】たびにめづらしければほととぎす
いつもはつ音の心ち【心地】こそすれ W041
といふ歌をようで、初音の僧正とぞいはれ
給ける。ただし、かた【型】のやうにても御斎会は
あるべきにて、僧名の沙汰有しに、南都の
僧綱は闕官ぜられぬ。北京の僧綱をも【持つ】ておこ
なはるべき歟と、公卿僉議あり【有り】。さればとて、南都
をも捨はてさせ給ふべきならねば、三論宗の
P06351
学生成法【*成宝】已講が、勧修寺に忍つつかくれゐ
たりけるを、めし【召し】いだされて、御斎会かたの
ごとくおこなはる。上皇は、おとどし法王の鳥羽殿
におしこめられさせ給し御事、去年高倉の
宮のうたれさせ給ひし御有様、宮こ【都】うつ【遷】りとて
あさましかりし天下のみだれ、かやうの事
ども御心ぐるしうおぼしめさ【思し召さ】れけるより、御
悩つかせ給ひて、つねはわづら【煩】はしうきこえ
P06352
させ給しが、東大寺・興福寺のほろびぬるよし
きこしめされて、御悩いよいよおもら【重ら】せ給ふ。法王
なのめならず御歎あり【有り】し程に、同P388正月十四日、
六波羅池殿にて、上皇遂に崩御なりぬ。御宇
十二年、徳政千万端詩書仁義の廃たる道
ををこし【起こし】、理世安楽の絶たる跡継給ふ。三明六
通の羅漢もまぬかれ給はず、現術変化の
権者ものがれぬ道なれば、有為無常のならひ【習】
P06353
なれども、ことはり【理】過てぞおぼえける。やがて
其夜東山がしやま)の麓、清閑寺へうつしたてまつり【奉り】、
ゆふべ【夕】のけぶり【煙】とたぐへ、春の霞とのぼらせ給ひ
ぬ。澄憲法印、御葬送にまいり【参り】あはんと、いそぎ
山よりくだられけるが、はやむな【空】しきけぶりと
ならせ給ふを見まいらせ【参らせ】て、
つねに見し君が御幸を今日とへば
かへ【帰】らぬ旅ときくぞかなしき W042
P06354
又ある女房、君かくれさせ給ひぬと承はて、かう
ぞおもひ【思ひ】つづけける。
雲の上に行末とをく【遠く】みし月の
光きえぬときくぞかなしき W043
御年廿一、内には十戒をたもち、外には五常を
みだらず、礼儀をただしうせさせ給ひけり。
末代の賢王にて在ましければ、世のおしみ【惜しみ】
たてまつる【奉る】事、月日の光をうしなへ【失へ】るが
P06355
ごとし。かやうに人のねがひもかなは【叶は】ず、民の果
報もつたなき人間のさかひこそかなしけれ。P389
紅葉S0602ゆふ【優】にやさしう人のおもひつき【思ひ付き】まいらする【参らする】
かたも、おそらくは延喜・天暦の御門と申共、
争か是にまさるべきとぞ人申ける。大かたは
賢王の名をあげ、仁徳の孝をほどこさせ在
ます事も、君御成人の後、清濁をわかたせ
給ひてのうへの事にてこそあるに、此君は
P06356
無下に幼主の時より性を柔和にうけさせ
給へり。去る承安の比おひ、御在位のはじめ
つかた、御年十歳ばかりにもならせ給ひけん、
あまりに紅葉をあひせ【愛せ】させ給ひて、北の陣に
小山をつ【築】かせ、はじ・かへでの色うつくしうもみぢ
たるをうへ【植ゑ】させて、紅葉の山となづけて、終日に
叡覧あるに、なを【猶】あきだらはせ給はず。しかる
をある夜、野分はしたなう[* 「はけしたなう」と有るのを高野本により訂正]ふひ【吹い】て、紅葉
P06357
みな吹ちらし、落葉頗る狼籍【*狼藉】なり。殿守
のとものみやづ子朝ぎよめすとて、是をことごと
く【悉く】はきすて【掃き捨て】てげり。のこれる枝、ちれる木
葉をかきあつめて、風すさまじかりける朝
なれば、縫殿の陣にて、酒あたためてた【食】べける
薪にこそしてんげれ。奉行の蔵人、行幸より
先にといそぎゆひて見るに、跡かたなし。いかにと
と【問】へばしかじかといふ。蔵人大におどろき、「あな
P06358
あさまし。君のさしも執しおぼしめさ【思し召さ】れつる
紅葉を、か様【斯様】にしけるあさましさよ。しら【知ら】ず、なんP390
ぢ等只今禁獄流罪にも及び、わが身もいか
なる逆鱗にかあづか【関】らんずらん」となげくところ【所】
に、主上いとどしくよるのおとどを出させ給ひも
あへず、かしこへ行幸なて紅葉を叡覧なる
に、なかりければ、「いかに」と御たづね【尋ね】有に、蔵人奏
すべき方はなし。あり【有り】のままに奏聞す。天気
P06359
ことに御心よげにうちゑ【笑】ませ給て、「「林間煖
酒焼紅葉」といふ詩の心をば、それらにはた【誰】が
おしへ【教へ】けるぞや。やさしうも仕ける物かな」とて、
かへて【却つて】御感に預しうへは、あへて勅勘なかり
けり。又安元の比おひ、御方違の行幸有しに、
さらでだに鶏人暁唱[* 「鳴」と有るのを高野本により訂正]こゑ【声】、明王の眠ををどろ
かす程にもなりしかば、いつも御ねざめがちにて、
つやつや御寝もならざりけり。况やさゆる霜
P06360
夜のはげしきに、延喜の聖代、国土の民ども
いかにさむ【寒】かるらんとて、夜るのおとどにして御
衣をぬがせ給ける事などまでも、おぼしめし【思し召し】
出して、わが帝徳[* 「旁徳」と有るのを高野本により訂正]のいたらぬ事をぞ御歎有ける。
やや深更に及で、程とをく【遠く】人のさけぶ【叫ぶ】声し
けり。供奉の人々はきき【聞き】つけられざりけれども、
主上きこしめし【聞し召し】て、「今さけぶ【叫ぶ】ものは何ものぞ。
きと見てまいれ【参れ】」と仰ければ、うへぶし【上臥】したる
P06361
殿上人、上日のものに仰す。はしり【走り】ち【散つ】て尋
ぬれば、ある辻にあやしのめのわらは【女童】の、なが
もちのふた【蓋】さ【提】げてなく【泣く】にてぞありける。「いかに」P391
ととへば、「しう【主】の女房の、院の御所にさぶら【候】はせ給ふ
が、此程やうやうにしてした【仕立】てられたる御装束、
も【持つ】てまいる【参る】程に、只今男の二三人まう【詣】で
きて、うばひ【奪ひ】とてまか【罷】りぬるぞや。今は御装
束があらばこそ、御所にもさぶらはせ給はめ。
P06362
又はかばかしうたちやど【立宿】らせ給ふべきした【親】し
い御方もましまさず。此事おもひ【思ひ】つづくるに
なく【泣く】なり」とぞ申ける。さてかのめのわらは【女童】をぐし【具し】
てまいり【参り】、このよし奏聞しければ、主上きこ
しめし【聞し召し】て、「あなむざん【無慚】。いかなるもののしわざ【仕業】にてか
あるらん。■の代の民は、■の心のすなをなるを
もて心とするがゆへ【故】に、みなすなをなり。今の代
の民は、朕が心をもて心とするが故に、かだましき
P06363
もの朝にあて罪ををかす。是わが恥にあらずや」
とぞ仰ける。「さてとら【取ら】れつらんきぬは何いろ【色】ぞ」と
御たづね【尋ね】あれば、しかじかのいろと奏す。建礼門院
のいまだ中宮にて在ましける時なり。其御
方へ、「さ様のいろ【色】したる御衣や候」と仰ければ、
さきのよりはるか【遥】にうつくしきがまいり【参り】たり
けるを、くだんのめのわらは【女童】にぞたまは【給は】せける。「い
まだ夜ふかし。又さるめ【目】にもやあふ」とて、上日の
P06364
ものをつ【付】けて、しう【主】の女房のつぼね【局】までを
くら【送ら】せましましけるぞかた【忝】じけなき。されば、
あやしのしづのお【賎男】しづのめ【賎女】にいたるまで、ただ
此君千秋万歳の宝算をぞ祈たてまつる【奉る】。P392
葵前S0603なかにもあはれ【哀】なりし御事は、中宮の御方に候はせ
給ふ女房のめしつかひ【召使】ける上童、おもは【思は】ざる外、
竜顔に咫尺する事有けり。ただよのつねの
あからさまにてもなくして、主上つねはめさ【召さ】れ
P06365
けり。まめやかに御心ざしふかかり【深かり】ければ、しう【主】の
女房もめしつかは【召し使は】ず、かへて【却つて】主の如くにぞいつき
もてなしける。そのかみ、謡詠にいへる事あり【有り】。
「女をう【産】んでもひいさん【悲酸】する事なかれ。男をうん
でも喜歓する事なかれ。男は功にだも報ぜ
られず。女は妃たり」とて、后にたつといへり。「この
人、女御后とももてなされ、国母仙院ともあふ
が【仰が】れなんず。めでたかりけるさひわゐ【幸】かな」とて、
P06366
其名をば葵のまへ【前】といひければ、内々葵[B女]御な
どぞささやきける。主上是をきこしめし【聞し召し】て、
其後はめさ【召さ】れざりけり。御心ざしのつき【尽き】ぬるには
あらず。ただ世のそしり【謗】をはば【憚】からせ給ふに
よてなり。されば御ながめ【眺】がちにて、よる【夜】のおとどに
のみぞいら【入ら】せ給ふ。其時の関白松殿、「御心ぐるし
き事にこそあむ[* 「あれ」と有るのを高野本により訂正]なれ。申なぐさめまいらせ【参らせ】ん」とて、
いそぎ御参内あて、「さ様に叡虜にかからせ
P06367
ましまさん事、何条事か候べき。件の女房
とくとくめさ【召さ】るべしと覚候。しなたづ【尋】ねらるるに
及ばず。基房やがて猶P393子に仕候はん」と奏せさせ
給へば、主上「いさとよ。そこに申事はさる事なれ
ども、位を退て後はままさるためし【例】もあんなり。ま
さしう在位の時、さ様の事は後代のそしり
なるべし」とて、きこしめ【聞召】しもいれ【入れ】ざりけり。関白
殿ちから【力】をよば【及ば】せ給はず、御涙をおさへて御退出
P06368
あり【有り】。其後主上、緑の薄様のことに匂ふかかり【深かり】
けるに、古きことなれ共おぼしめし【思し召し】い【出】でて、あそば
さ【遊ばさ】れけり。
しのぶれ【忍ぶれ】どいろに出にけりわが恋は
ものやおもふ【思ふ】と人のとふまで W044
此御手習を、冷泉少将隆房給はりつゐ【継い】で、
件の葵の前に給はせたれば、かほ【顔】うちあかめ、
「例ならぬ心ち【心地】出きたり」とて、里へ帰り、うちふ【臥】す
P06369
事五六日して、ついにはかなく【果敢く】なりにけり。「君が
一日の恩のために、妾が百年の身をあやまつ」
ともかやうの事をや申べき。昔唐の太宗、
貞仁機【*鄭仁基】が娘を元観殿にいれんとし給しを、
魏徴「かのむすめ已陸士が約せり」といさめ申
しかば、殿にいるる【入るる】事をやめられけるには、すこ【少】し
もたがは【違は】せ給はぬ御心ばせなり。小督S0604主上恋慕の
御おもひ【思ひ】にしづませをはします。申なぐさめ
P06370
まいらせ【参らせ】んとて、P394中宮の御方より小督殿と申
女房をまいらせ【参らせ】らる。此女房は桜町中納言成
範[B 「重教」に「成範」と傍書]卿の御むすめ、宮中一の美人、琴の上手にて
をはしける。冷泉大納言隆房卿、いまだ少将なり
し時、見そめたりし女房なり。少将はじめは歌
をよみ、文をつくし【尽くし】、恋かなしみ給へ共、なびく
気色もなかりしが、さすがなさけ【情】によはる【弱る】心にや、
遂にはなびき給ひけり。され共今は君にめさ【召さ】れ
P06371
まいらせ【参らせ】て、せんかたもなくかなしさ【悲しさ】に、あかぬ別の
涙には、袖しほたれてほ【乾】しあへず。少将よそながらも
小督殿見たてまつる【奉る】事もやと、つねは参内せ
られけり。をはしける局のへん、御簾のあたりを、あ
なたこなたへ[B 行]とをり【通り】、たたずみありき【歩き】給へども、小
督殿「われ君にめさ【召さ】れんうへは、少将いかにいふ共、詞
をもかはし、文を見るべきにもあらず」とて、つ
てのなさけ【情】をだにもかけられず。少将もしやと
P06372
一首の歌をよ【詠】うで、小督殿のをはしける御簾の
内へなげい【投入】れたる。
おもひ【思ひ】かねこころは空にみちのくの
ちか【千賀】のしほがま【塩釜】ちかき【近き】かひなし W045
小督殿やがて返事もせばやとおもは【思は】れけめども、
君の御ため、御うしろ【後】めたうやおもは【思は】れけん、手に
だにとても見給はず。上童にとらせて、坪[B の]うち
へぞなげいだ【投出】す。少将なさけ【情】なう恨しけれ共、人も
P06373
こそ見れと空おそろしう【恐ろしう】おもは【思は】れければ、いそぎ
是と【取つ】てふところ【懐】に入てぞ出られける。なを【猶】たちかへ【立ち返つ】P395て、
たまづさ【玉章】を今は手にだにとら【取ら】じとや
さこそ心におもひ【思ひ】す【捨】つとも W046
今は此世にてあひみ【見】ん事もかたければ、いき【生き】て
ものをおもは【思は】んより、しな【死な】んとのみぞねがは【願は】れける。
入道相国これをきき、中宮と申も御むすめなり、
冷泉少将聟なり。小督殿にふたりの聟を
P06374
とられて、「いやいや、小督があらんかぎりは世中よかる
まじ。めしいだ【召出】してうしなは【失は】ん」とぞの給ひける。
小督殿もれ【漏れ】きひ【聞い】て、「我身の事はいかでもあり【有り】
なん。君の御ため御心ぐるし」とて、ある暮がたに
内裏を出て、行ゑ【行方】もしらずうせ給ひぬ。主上
御歎なのめならず。ひる【昼】はよる【夜】のおとどにいら【入ら】せ給ひ
て、御涙にのみむせび、夜るは南殿に出御なて、
月の光を御覧じてぞなぐさませ給ひける。
P06375
入道相国是をきき、「君は小督ゆへ【故】におぼしめし【思し召し】
しづ【沈】ませ給ひたんなり。さらんに[* 「さらんには」と有るのを高野本により訂正]と【取つ】ては」とて、御
かひしやく【介錯】の女房達をもまいらせ【参らせ】ず、参内
し給ふ臣下をもそねみ給へば、入道の権威に
はばかて、かよふ人もなし。禁中いまいましう【忌々しう】ぞ見え
ける。かくて八月十日あまりになりにけり。さしも
くま【隈】なき空なれど、主上は御涙にくもりつつ、
月の光もおぼろにぞ御覧ぜられける。やや
P06376
深更に及で、「人やP396ある、人やある」とめさ【召さ】れけれ共、
御いらへ【答へ】申ものもなし。弾正少弼仲国、其夜
しもまい【参つ】て、はるかにとをう【遠う】候が、「仲国」と御いらへ【答へ】
申たれば、「ちかう【近う】まいれ【参れ】。仰下さるべき事あり【有り】」。
何事やらんとて、御前ちかう参じたれば、「なんぢ
もし小督が行ゑ【行方】やしり【知り】たる」。仲国「いかで
かしり【知り】まいらせ【参らせ】候べき。ゆめゆめしり【知り】まいらせ【参らせ】ず候」。
「まことやらん、小督は嵯峨のへんに、かた折戸
P06377
とかやしたる内にあり【有り】と申もののあるぞとよ。
あるじ【主】が名をばしら【知ら】ずとも、尋てまいらせ【参らせ】なん
や」と仰ければ、「あるじ【主】が名をしり【知り】候はでは、争か
尋まいらせ【参らせ】候べき」と申せば、「まこと【誠】にも」とて、竜顔
より御涙をながさせ給ふ。仲国つくづくと物を
あん【案】ずるに、まことや、小督殿は琴ひ【弾】き給ひし
ぞかし。此月のあかさに、君の御事おもひいで【思ひ出で】
まいらせ【参らせ】て、琴ひき給はぬ事はよもあらじ。
P06378
御所にてひ【弾】き給しには、仲国笛の役にめさ【召さ】れし
かば、其琴の音はいづくなりとも[B きき【聞き】]し【知】らんずるものを。
又嵯峨の在家いく程かあるべき。うちまは【廻】てたづ
ね【尋ね】んに、などか聞出さざるべきとおもひ【思ひ】ければ、「さ候はば、
あるじが名はしら【知ら】ず共、若やとたづね【尋ね】まいらせ【参らせ】て
見候はん。ただし尋あひまいらせ【参らせ】て候共、御書を給
はらで申さむには、うは【上】の空にやおぼしめさ【思し召さ】れ候はん
ずらむ。御書を給はてむかひ【向かひ】候はん」と申ければ、
P06379
「まこと【誠】にも」とて、御書をあそばひ【遊ばい】てた【賜】うだりP397
けり。「竜【*寮】の御馬にの【乗つ】てゆけ」とぞ仰ける。仲国
竜【*寮】の御馬給はて、名月にむち【鞭】をあげ、そことも
しらずあこがれ行。をしか【牡鹿】なく此山里と詠じ
けん、嵯峨のあたりの秋の比、さこそはあはれ【哀】にも
おぼえけめ。片折戸したる屋を見つけては、「此内
にやおはすらん」と、ひかへ【控へ】ひかへ【控へ】きき【聞き】けれ共、琴ひく所
もなかりけり。御堂などへまいり【参り】給へることもやと、
P06380
釈迦堂をはじめて、堂々見まはれ共小督殿に
似たる女房だに見え給はず。「むな【空】しう帰りまいり【参り】
たらんは、中々まいら【参ら】ざらんよりあ【悪】しかるべし。是
よりもいづち【何方】へもまよ【迷】ひゆかばや」とおもへ【思へ】ども、
いづくか王地ならぬ、身をかくす【隠す】べき宿もなし。
いかがせんとおもひ【思ひ】わづらう。「まことや、法輪は程ちか
けれ【近けれ】ば、月の光にさそ【誘】はれて、まいり【参り】給へること
もや」と、そなたにむかひ【向ひ】てぞあゆませける。亀
P06381
山のあたりちかく、松の一むらある方に、かすか【幽】に
琴ぞきこえ【聞こえ】ける。峯の嵐か、松風か、たづ【尋】ぬる
人のことの音か、おぼつかなくはおも【思】へども、駒をはや
めて行程に、片折戸したる内に、琴をぞひ【弾】き
すまされたる。ひか【控】へて是をききければ、すこ【少】し〔も〕ま
がふ【紛ふ】べうもなき小督殿の爪音なり。楽はなん【何】
ぞとききければ、夫をおもふ【思う】てこふとよむ想夫恋と
いふ楽なり。さればこそ、君の御事おP398もひ【思ひ】出まいらせ【参らせ】て、
P06382
楽こそおほけれ、此楽をひき給けるやさし
さよ。ありがたふおぼえて、腰よりやうでう【横笛】ぬき
出し、ちとならひ【鳴らい】て、門をほとほととたたけば、やがて
ひ【弾】きやみ給ひぬ。高声に、「是は内裏より仲国が
御使にまい【参つ】て候。あけ【開け】させ給へ」とて、たたけ共たたけ共とが
むる人もなかりけり。ややあて、内より人の出る
音のしければ、うれしう【嬉しう】おもひ【思ひ】て待ところ【所】に、じやう【錠】
をはづし、門をほそめ【細目】にあけ、いたひけ【幼気】したる
P06383
小女房、かほ【顔】ばかりさしいだひ【出い】て、「門たがへ【違へ】てぞ
さぶらう【候ふ】らん。是には内裏より御使など給はる
べき所にてもさぶら【候】はず」と申せば、中々返事
して、門た【閉】てられ、じやう【錠】さされてはあ【悪】しかりなん
とおもひ【思ひ】て、おしあけ【押し開け】てぞ入にける。妻戸のきはの
ゑん【縁】にゐて、「いかに、かやうの所には御わたり【渡り】候やらん。
君は御ゆへ【故】におぼしめし【思し召し】しづませ給ひて、御
命もすでにあやう【危ふ】にこそ見えさせをはしまし
P06384
候へ。ただうは【上】の空に申とやおぼしめさ【思し召さ】れ候はん。
御書を給はてまい【参つ】て候」とて、御書とりいだひ【取り出だい】
てたてまつる【奉る】。ありつる女房とりついで、小督殿に
まいらせ【参らせ】たり。あけて見給へば、まことに君の御
書なりけり。やがて〔御〕返事かき、ひきむす【引結】び、女
房の装束一かさ【重】ねそへて出されたり。仲国、女房
の装束をば肩にうちかけ、申けるは、「余の御使
で候はば、御返事のうへは、とP399かう申には候はねども、
P06385
日ごろ内裏にて御琴あそば【遊ばつ】し時、仲国笛の
役にめされ候し奉公をば、いかでか御わす【忘】れ候べき。
ぢき【直】の御返事を承はらで帰まいら【参ら】ん事こそ、よに
口おしう【惜しう】候へ」と申ければ、小督殿げにもとやおも
は【思は】れけん、身づから返事し給ひけり。「それにも
きか【聞か】せ給ひつらん、入道相国のあまりにおそろし
き【恐ろしき】事をのみ申とききしかば、あさましさに、内
裏をばにげ【逃げ】出て、此程はかかるすまひ【住】なれば、琴
P06386
などひ【弾】く事もなかりつれ共、さてもあるべきなら
ねば、あすより大原のおく【奥】におもひ【思ひ】たつ【立つ】事のさぶ
らへば、あるじの女房の、こよひばかりの名残を
おしう【惜しう】で、「今は夜もふけぬ。たちき【立聞】く人もあらじ」
などすす【勧】むれば、さぞなむかし【昔】の名残もさすが
ゆかしくて、手なれし琴をひ【弾】く程に、やすうも
きき【聞き】出されけりな」とて、涙もせきあへ給はねば、
仲国も袖をぞぬら【濡】しける。ややあて、仲国涙
P06387
をおさ【抑】へて申けるは、「あすより大原のおくにおぼ
しめし【思し召し】立事と候は、御さまなどをか【変】へさせ給ふべき
にこそ。ゆめゆめあるべうも候はず。さて君の御歎
をば、何とかしまいらせ【参らせ】給ふべき。是ばし出しまいら
す【参らす】な」とて、ともにめしぐし【召具し】たるめぶ【馬部】、きつじやう【吉上】など
とどめ【留め】をき、其屋を守護せさせ、竜【*寮】の御馬に
うちの【打ち乗つ】て、内裏へかへ【帰】りまいり【参り】たれば、ほのぼのとあけ【明け】
にけり。「今は入御もなりぬらん、誰して申入
P06388
べき」とP400て、竜【*寮】の御馬つながせ、ありつる女房の装
束をばはね【跳】馬の障子になげ【投げ】かけ、南殿の方へ
まいれ【参れ】ば、主上はいまだ夜部の御座にぞ在まし
ける。「南なみ)に翔北に嚮、寒雲を秋の鴈に付
難し。東がし)に〔出〕西に流、只瞻望を暁の月に
寄す」と、うちなが【詠】めさせ給ふ所に、仲国つとまいり【参り】
たり。小督殿の御返事をぞまいらせ【参らせ】たる。君なのめ
ならず御感なて、「なんぢ【汝】やがてよ【夜】さり具して
P06389
まいれ【参れ】」と仰ければ、入道相国のかへり【返り】きき給はん
ところ【所】はおそろしけれ【恐ろしけれ】共、これ又倫言なれば、雑色・
牛・車きよげに沙汰して、さが【嵯峨】へ行むかひ【向ひ】、
まいる【参る】まじきよしやうやう【様々】にの給へども、さまざま
にこしらへて、車にとりのせ【乗せ】たてまつり【奉り】、内
裏へまいり【参り】たりければ、幽なる所にしのば【忍ば】せて、
よなよな【夜な夜な】めさ【召さ】れける程に、姫宮一所出来させ給ひ
けり。此姫宮と申は、坊門の女院の御事なり。
P06390
入道相国、何としてかもれ【漏れ】きひ【聞い】たりけん、「小督が
うせ【失せ】たりといふ事、あとかたなき空事なり
けり」とて、小督殿をとら【捕】へつつ、尼になしてぞ
はな【放】つ〔たる〕。小督殿出家はもとよりの望なりけれ共、
心ならず尼になされて、年廿三、こ【濃】き墨染にやつ
れはてて、嵯峨のへん【辺】にぞすま【住ま】れける。うたて
かりし事共なり。か様の事共に御悩はつかせ
給ひて、遂に御かくれあり【有り】けるとぞきこえし。法皇は
P06391
うちつづき御歎のみぞしげ【滋】かりける。去る永万には、
第一の御子二P401条院崩御なりぬ。安元二年の
七月には、御孫六条院かくれさせ給ひぬ。天にすま【住ま】ば
比翼の鳥、地にすまば連理の枝とならんと、漢河
の星をさして、御契あさから【浅から】ざりし建春門院、秋
の霧にをか【侵】されて、朝の露ときえさせ給ぬ。年
月はかさ【重】なれ共、昨日今日の御別のやうにおぼし
めし【思し召し】て、御涙もいまだつき【尽き】せぬに、治承四年五月
P06392
には第二の皇子高倉宮うた【討た】れさせ給ひぬ。
現世後生たのみ【頼み】おぼしめさ【思し召さ】れつる新院さへ
さきだた【先立た】せ給ひぬれば、とにかくにかこつかたなき
御涙のみぞすす【進】みける。「悲の至て悲しきは、
老て後子にをくれ【後れ】たるよりも悲しきはなし。
恨の至て恨しきは、若して親に先立よりも
うらめしき【恨めしき】はなし」と、彼朝綱の相公の子息
澄明にをくれ【遅れ】て書たりけん筆のあと、今こそ
P06393
おぼしめし【思し召し】知られけれ。さるままには、彼一乗妙
典の御読誦もおこたらせ給はず、三密行法
の御薫修もつもらせ給けり。天下諒闇になり
しかば、大宮人もおしなべて、花のたもとややつ【窶】れけん。
廻文S0605入道相国かやうにいたくなさけ【情】なうふるま【振舞】ひを
か【置か】れし事を、さすがおそろし【恐ろし】P402とやおもは【思は】れけん、法
皇なぐさめまいらせ【参らせ】んとて、安芸の厳島の内侍
が腹の御むすめ、生年十八になり給ふが、ゆう【優】に
P06394
花やかにをはしけるを、法皇へまいらせ【参らせ】らる。上臈
女房達あまたゑらば【選ば】れてまいら【参ら】れけり。公卿殿
上人おほく供奉して、ひとへに女御まいり【参り】の如く
にてぞ有ける。上皇かくれ【隠れ】させ給て後、わづかに二
七日だにも過ざるに、しか【然】るべからずとぞ、人々内々は
ささやきあはれける。さる程に、其比信濃国に、木曾
冠者義仲といふ源氏あり【有り】ときこえけり。故六
条判官為義が次男、帯刀の先生義方【*義賢】が
P06395
子なり。父義方【*義賢】は久寿二年八月十六日、鎌倉〔の〕悪
源太義平が為に誅せらる。其時義仲二歳
なりしを、母なくなく【泣く泣く】かかへて信乃【*信濃】へこえ、木曾
中三兼遠がもとにゆき、「是いかにもしてそだて【育て】て、
人になして見せ給へ」といひければ、兼遠うけと【受取】て、
かひがひしう廿余年養育す。やうやう長大する
ままに、ちから【力】も世にすぐれてつよく、心もならび
なく甲なりけり。「ありがたきつよ弓、勢兵、馬の
P06396
上、かちだち【徒立】、すべて上古の田村・利仁・与五【*余五】将軍、
知頼【*致頼】・保昌・先祖頼光、義家朝臣そん)といふとも、
争か是にはまさるべき」とぞ、人申ける。或時めの
との兼遠をめし【召し】ての給ひけるは、「兵衛佐頼朝
既に謀叛をおこし、P403東八ケ国をうちしたが【従】へて、
東海道よりのぼり、平家をおひおと【追落】さんとす
なり。義仲も東山・北陸両道をしたがへて、今一日
も先に平家をせめおと【攻落】し、たとへば、日本国ふ
P06397
たり【二人】の将軍といは【言は】ればや」とほのめかしければ、
中三兼遠大にかしこまり悦て、「其にこそ君をば
今まで養育し奉れ。かう仰らるるこそ、誠に八
幡殿の御末ともおぼえさせ給へ」とて、やがて
謀叛をくはた【企】てけり。兼遠にぐせ【具せ】られて、つねは
都へのぼり、平家の人々の振舞、ありさまをも
見うかがひ【窺ひ】けり。十三で元服しけるも、八幡へ
まいり【参り】八幡大菩薩の御まへにて、「わが四代の祖父
P06398
義家朝臣そん)は、此御神の御子となて、名をば八幡
太郎と号しき。かつは其跡ををう【追ふ】べし」とて、
八幡大菩薩の御宝前にてもとどり【髻】とりあげ、
木曾次郎義仲とこそつゐ【付い】たりけれ。兼遠「まづ
めぐら【廻】し文候べし」とて、信濃国には、、ねの【根】井の
小野太、海野の行親をかたらう【語らふ】に、そむく事なし。
是をはじめて、信乃【*信濃】一国の兵もの共、なびかぬ草木
もなかりけり。上野国に故帯刀先生義方【*義賢】がよしみ
P06399
にて、田子の郡の兵共、皆したがひ【従ひ】つきにけり。
平家末になる折を得て、源氏の年来の素
懐をとげんとす。P404飛脚到来S0606木曾といふ所は、信乃【*信濃】にとても
南のはし、美乃【*美濃】ざかひなりければ、都も無下に
程ちかし。平家の人々もれ【漏れ】きひ【聞い】て、「東国のそむ
く【叛く】だにあるに、こはいかに」とぞさはが【騒が】れける。入道相国
仰られけるは、「其もの心にくからず。おもへば信乃【*信濃】一国
の兵共こそしたがひつくといふ共、越後国には
P06400
与五【*余五】将軍の末葉、城太郎助長、同四郎助茂、
これらは兄弟ともに多勢のもの共なり。仰
くだしたらんずるに、やすう打てまいらせ【参らせ】んず」
との給ければ、「いかがあらんずらむ」と、内々はささや
くものもおほかりけり。二月一日、越後国住人
城太郎助長、越後守〔に〕任ず。是は木曾追討せら
れんずるはかり事とぞきこえし。同七日、大臣
以下、家々にて尊勝陀羅尼、不動明王かき【書】
P06401
供養ぜらる。是は又兵乱つつしみのためなり。
同九日、河内国石河郡に居住したりける武蔵
権守入道義基、子息石河判官代義兼、平家
をそむひて兵衛佐頼朝に心をかよはかし【通はかし】、已
東国へ落行べきよしきこえ【聞こえ】しかば、入道相国
やがて打手をさしつか【差遣】はす。打手の大将には、源太
夫判官季定、摂津判官盛澄、都合其勢
三千余騎で発向す。城内には武蔵権守入道
P06402
義基、P405子息判官代義兼を先として、其勢百
騎ばかりには過ざりけり。時つくり矢合して、
いれかへ【入れ替へ】いれかへ【入れ替へ】数剋たたかふ【戦ふ】。城内の兵共、手のきは【際】
たたかひ打死するものおほ【多】かりけり。武蔵権守
入道義基打死す。子息石河判官代義兼は
いた手負て生ど【捕】りにせらる。同十一日、義基法師
が頸都へ入て、大路をわたさ【渡さ】る。諒闇に賊衆をわた
さ【渡さ】るる事は、堀川天皇崩御の時、前対馬守源
P06403
義親が首をわたされし例とぞきこえし。
同十二日、鎮西より飛脚到来、宇佐大宮司
公通が申けるは、「九州のもの共、緒方三郎をはじ
めとして、臼杵・戸次・松浦党にいたるまで、一向平
家をそむひて源氏に同心」のよし申たりければ、
「東国北国のそむくだにあるに、こはいかに」とて、
手をうてあさみあへり。同十六日、伊与【*伊予】国より
飛脚到来す。去年冬比より、河野四郎道清【*通清】
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をはじめとして、四国の物共みな平家を
そむひて、源氏に同心のあひだ、備後国住人、
ぬか【額】の入道西寂、平家に心ざしふかかり【深かり】ければ、伊与【*伊予】
の国へおしわたり、道前・道後のさかひ、高直城
にて、河野四郎道請【*通清】をうち候ぬ。子息河野四郎
道信【*通信】は、父がうた【討た】れける時、安芸国住人奴田次郎
は母方の伯父なりければ、其へこえ【越え】て有あはず。河
野道信【*通信】ちちをうた【討た】せて、「やす【安】からぬものなり。いかに
P06405
しても西P406寂を打とらん」とぞうかがひ【伺ひ】ける。額入
道西寂、河野四郎道清【*通清】をう【討】て後、四国の狼籍【*狼藉】
をしづめ、今年正月十五日に備後のとも【鞆】へおし
わたり、遊君遊女共めし【召し】あつ【集】めて、あそ【遊】びたはぶ【戯】れ
さかもり【酒盛】けるが、先後もしらず酔ふ【臥】したる処に、
河野四郎おもひ【思ひ】き【切つ】たるもの共百余人あひ語
て、ばとおしよ【押寄】す。西寂が方にも三百余人あり【有り】
ける物共、にはかの事なれば、おもひ【思ひ】もまう【設】けず
P06406
あはて【慌て】ふためきけるを、た【立つ】てあふ【合ふ】ものをばゐ【射】ふせ【伏せ】、
きり【斬り】ふせ【伏せ】、まづ西寂を生どりにして、伊与【*伊予】国へ
おしわた【押渡】り、父がうた【討た】れたる高直城へさ【提】げもて
ゆき、のこぎり【鋸】で頸をき【斬つ】たりともきこえけり。
又はつけ【磔】にしたりともきこえけり。入道死去S0607其後四国の
兵共、みな河野四郎にしたがひつく。熊野別当
湛増も、平家重恩の身なりしが、其もそむひ
て、源氏に同心のよし聞えけり。凡東国北国
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ことごとく【悉く】そむきぬ。南海西海かくの如し。夷
狄の蜂起耳を驚し、逆乱の先表頻に奏
す。四夷忽に起れり。世は只今うせなんずとて、必
平家の一門ならね共、心ある人々のなげき【歎き】かなし
ま【悲しま】ぬはなかりけり。P407同廿三日、公卿僉議あり【有り】。前右
大将宗盛卿申されけるは、坂東へ打手はむかう【向う】
たりといへ共、させるしいだし【出し】たる事も候はず。
今度宗盛、大将軍を承はて向べきよし申
P06408
されければ、諸卿色代して、「ゆゆしう候なん」と
申されけり。\公卿殿上人も武官〔に〕備はり、
弓箭に携らん人々は、宗盛卿を大将軍にて、
東国北国の凶徒等追討すべきよし仰下さる。
同廿七日、前右大将宗盛卿、源氏追討の為に、、東国へ
既に門出ときこえしが、入道相国違例の御心ち
とてとどまり給ひぬ。明る廿八日より、重病をう【受】け
給へりとて、京中・六波羅「すは、しつる事を」とぞ
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ささやきける。入道相国、やまひ【病ひ】つき給ひし日より
して、水をだにのど【咽喉】へも入給はず。身の内のあつき【熱き】
事火をたくが如し。ふ【臥】し給へる所四五間が内へ
入ものは、あつ【熱】さたへ【堪へ】がたし。ただの給ふ事とては、
「あたあた」とばかりなり。すこしもただ事とは
見えざりけり。比叡山より千手井の水をくみ
くだし、石の船にたた【湛】へて、それにおり【下り】てひへ【冷え】給へば、
水おびたたしく【夥しく】わ【沸】きあがて、程なく湯にぞなりに
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ける。もしやたす【助】かり給ふと、筧の水をまかせ
たれば、石やくろがね【鉄】などのや【焼】けたるやうに、水ほど
ばし【迸ばしつ】てよりつ【寄付】かず。をのづからあたる水はほむらと
なてもえ【燃え】ければ、くろけぶり殿中にみちみちて、
炎うづまひてあがり【上がり】けり。是や昔法P408蔵僧都と
いし人、閻王の請におもむひ【赴むい】て、母の生前を尋し
に、閻王あはれみ給ひて、獄卒をあひそ【添】へて焦熱
地獄へつかはさる。くろがねの門の内へさし入ば、流星
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などの如くに、ほのを【炎】空へたち【立ち】あがり、多百由旬
に及けんも、今こそおもひ【思ひ】しら【知ら】れけれ。入道相国
の北の方、二位殿の夢に見給ける事こそ
おそろしけれ【恐ろしけれ】。猛火のおびたたしくも【燃】えたる車
を、門の内へやり入たり。前後に立たるものは、
或は馬の面のやうなるものもあり【有り】、或は牛の面の
やうなるものもあり【有り】。車のまへには、無といふ文字
ばかり見えたる鉄の札をぞ立たりける。二位殿
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夢の心に、「あれはいづくよりぞ」と御たづね【尋ね】あれば、
「閻魔の庁より、平家太政入道殿の御迎に
まい【参つ】て候」と申。「さて其札は何といふ札ぞ」とと【問】はせ
給へば、「南閻浮提金銅十六丈の盧遮那仏、焼ほ
ろぼし給へる罪によて、無間の底に堕給ふべき
よし、閻魔の庁に御さだ【定】め候が、無間の無をかか【書か】れ
て、間の字をばいまだかかれぬなり」とぞ申ける。二位
殿うちおどろき、あせ【汗】水になり、是を人々に
P06413
かたり給へば、きく【聞く】人みな身の毛よだちけり。
霊仏霊社に金銀七宝をなげ、馬鞍・鎧甲・弓
矢・太刀、刀にいたるまで、とりいで【取出】はこび出しいの
ら【祈ら】れけれ共、其しるしもなかりけり。男女の君達
あと枕にさしつどひ【集ひ】て、いかにせんとP409なげき【歎き】かなしみ
給へども、かなう【叶ふ】べしとも見えざりけり。同閏[* 「潤」と有るのを高野本により訂正]
二月ぐわつ)二日、二位殿あつ【熱】うたへ【堪へ】がたけれ共、御枕の上によ【寄】て、
泣々の給ひけるは、「御ありさま見たてまつる【奉る】に、日に
P06414
そへてたのみ【頼み】ずくなうこそ見えさせ給へ。此世に
おぼしめし【思し召し】をく【置く】事あらば、すこ【少】しもののおぼ【覚】え
させ給ふ時、仰をけ【置け】」とぞの給ひける。入道相国、
さしも日来はゆゆし気におはせしかども、まこと【誠】に
くるし【苦し】気にて、いき【息】の下にの給ひけるは、「われ保
元・平治より此かた、度々の朝敵をたいらげ【平げ】、勧賞
身にあまり、かたじ【忝】けなくも帝祖太政大臣に
いたり、栄花子孫に及ぶ。今生の望一事もの
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こる【残る】処なし。ただしおもひ【思ひ】をく【置く】事とては、伊豆
国の流人、前兵衛佐頼朝が頸を見ざりつる
こそやすから【安から】ね。われいか【如何】にもなりなん後は、堂
塔をもたて、孝養をもすべからず。やがて打手を
つかはし、頼朝が首をはねて、わがはか【墓】のまへにかく【懸く】
べし。それぞ孝養にてあらんずる」との給ひける
こそ罪ふかけれ。同四日、やまひ【病ひ】にせめられ、せめて
の事に板に水をゐ【沃】て、それにふしまろび【伏し転び】給へ共、
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たす【助】かる心地もし給はず、悶絶■地して、遂に
あつち死にぞし給ける。馬車のはせちがう【馳せ違ふ】音、
天もひびき大地もゆるぐ程なり。一天の君、
万乗のあるじの、いかなる御事在ます共、是には
過じとぞ見えし。今年は六十四にぞP410なり給ふ。老
じに【死】といふべきにはあらねども、宿運忽につき給へば、
大法秘法の効験もなく、神明三宝の威光も
きえ、諸天も、擁護し給はず。况や凡慮に
P06417
おひ【於い】てをや。命にかはり身にかはらんと忠を存
ぜし数万の軍旅は、堂上堂下に次居た
れ共、是は目にも見えず、力にもかかはらぬ無
常の殺鬼をば、暫時もたたかひ【戦ひ】かへさ【返さ】ず。又かへ【帰】り
こぬ四手の山、みつ【三】瀬川、黄泉中有の旅の空に、
ただ一所こそおもむき給ひけめ。日ごろ作りを
か【置か】れし罪業ばかりや獄卒となてむか【迎】へに来り
けん、あはれ【哀】なりし事共なり。さてもあるべき
P06418
ならねば、同七日、をたぎ【愛宕】にて煙になしたてまつり【奉り】、
骨をば円実法眼頸にかけ、摂津国へくだり、
経の島にぞおさめ【納め】ける。さしも日本一州に名を
あげ、威をふるし人なれ共、身はひとときの煙と
なて都の空に立のぼり、かばね【屍】はしばしやすら
ひて、浜の砂にたはぶれつつ、むなしき土とぞなり
給ふ。築島S0608やがて葬送の夜、ふしぎ【不思議】の事あまたあり【有り】。
玉をみがき金銀をちりばめて作られたりし
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西八条殿、其夜にはかにや【焼】けぬ。人の家のや【焼】くるは、
つね【常】のならひ【習】なP411れども、あさましかりし事ども
なり。何もののしわざにや有けん、放火とぞ聞えし。
又其夜六波羅の南にあたて、人ならば二三十人が声
して、「うれしや水、な【鳴】るは滝の水」といふ拍子を出し
てまひ【舞ひ】おどり【踊り】、どとわらう【笑ふ】声しけり。去る正月に
は上皇かくれ【隠れ】させ給ひて、天下諒闇になりぬ。わづ
かに中一両月をへだてて、入道相国薨ぜられ
P06420
ぬ。あやしのしづのお【賎男】、しづのめ【賎女】にいたるまでも、いかが
うれ【愁】へざるべき。是はいかさまにも天狗の所為と
いふさた【沙汰】にて、平家の侍のなかに、はやりをの若
もの共百余人、わらう【笑ふ】声についてたづ【尋】ねゆいて
見れば、院の御所法住寺殿に、この二三年院も
わたらせ給はず、御所あづかり備前前司基宗と
いふものあり【有り】、彼基宗があひ知たる物共二三十人、
夜にまぎれて来り集り、酒をの【飲】みけるが、はじめは
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かかる折ふしにをと【音】なせそとての【飲】む程に、次第
にのみ酔て、か様【斯様】に舞おどり【踊り】けるなり。ばとをし【押し】
よ【寄】せて、酒に酔ども、一人ももらさ【漏らさ】ず卅人ばかり
からめて、六波羅へい【率】てまいり【参り】、前右大将宗盛卿の
をわしたる坪の内にぞひ【引つ】すへ【据ゑ】たる。事の子細を
よくよく尋きき給ひて、「げにもそれほどに酔
たらんものをば、きる【斬る】べきにもあらず」とて、みな
ゆる【赦】されけり。人のうせ【失せ】ぬるあとには、あやしの
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ものも朝夕にかね【鐘】うちならし、例時懺法よむ
事はつね【常】のならひ【習】なれ共、此禅門薨ぜられぬる
後は、供仏施僧のいとなみP412といふ事もなし。朝夕は
ただいくさ【軍】合戦のはかり事より外は他事なし。
凡はさい後【最後】の所労のありさまこそうたてけれ共、
まこと【誠】にはただ【凡】人ともおぼえぬ事共おほかりけり。
日吉社へまいり【参り】給しにも、当家他家の公卿おほ
く供奉して、「摂禄の臣の春日御参宮、宇治
P06423
いり【入り】などいふとも、是には争かまさるべき」とぞ
人申ける。又何事よりも、福原の経の島つ
ゐ【築い】て、今の世にいたるまで、上下往来の船のわづ
らひ【煩】なきこそ目出けれ。彼島は去る応保元年二
月ぐわつ)上旬に築はじ【始】められたりけるが、同年の八月に、
にはかに大風吹大なみ【浪】たち、みなゆりうし【淘失】なひて
き。又同三年三月下旬に、阿波民部重能を奉
行にてつ【築】かせられけるが、人柱たて【立て】らるべしなど、公卿
P06424
御僉議有しか共、それは罪業なりとて、石の面に
一切経をかひ【書い】てつ【築】かれたりけるゆへ【故】にこそ、経の島
とは名づけたれ。慈心房S0609ふるひ【古い】人の申されけるは、清盛公は
悪人とこそおもへ【思へ】共、まことは慈恵僧正の再誕也。
其故は、摂津国清澄寺といふ山寺あり【有り】。彼寺の住
僧慈心房尊恵とP413申けるは、本は叡山の学侶
多年法花の持者也。しかるに、道心ををこし【起こし】離
山して、此寺に年月ををくり【送り】ければ、みな人
P06425
是を帰依しけり。去る承安二年十二月ぐわつ)廿二日
の夜、脇息によりかかり、法花経よみ【読み】たてまつり【奉り】
けるに、丑剋ばかり、夢ともなくうつつ【現】共なく、年
五十斗なる男の、浄衣に立烏帽子きて、わらづ【草鞋】
はばき【脛巾】したるが、立文をも【持つ】て来れり。尊恵「あれ
はいづくよりの人ぞ」とと【問】ひければ、「閻魔王宮より
の御使なり。宣旨候」とて、立文を尊恵にわたす。
尊恵是をひらひ【披い】てみれ【見れ】ば、■[*口+屈]請、閻浮提大
P06426
日本国摂津国清澄寺の慈心房尊恵、来
廿六日閻魔羅城大極殿にして、十万人の持
経者をもて、十万部の法花経を転読せらる
べきなり。仍参勤せらるべし。閻王宣によて、
■[*口+屈]請如件。[* この下に一、二字分の空白有り]  承安二年十二月ぐわつ)廿二日閻魔の
庁とぞかか【書か】れたる。尊恵いなみ申べき事なら
ねば、左右なう領状の請文をかひ【書い】てたてまつる【奉る】と
おぼえてさ【覚】めにけり。ひとへに死去のおもひ【思ひ】を
P06427
なして、院主の光影房に此事をかたる。皆人
奇特のおもひ【思ひ】をなす。尊恵くち【口】には弥陀の
名号をとなへ、心には引摂の悲願を念ず。やうやう
廿五日の夜陰に及で、常住の仏前にいたり、例の
ごとく脇息によりかか【寄り掛つ】て念仏読経す。子剋に
及で眠切なるがP414故に、住房にかへ【帰つ】てうちふ【臥】す。丑
剋ばかりに、又先のごとくに浄衣装束なる男
二人来て、「はやはやまいら【参ら】るべし」とすす【勧】むるあひだ、
P06428
閻王宣を辞せんとすれば甚其恐あり【有り】、参詣
せんとすれば更に衣鉢なし。此おもひ【思ひ】をなす
時、法衣自然に身にまとて肩にかかり、天より
金の鉢[B 「体」に「鉢」と傍書]くだる。二人の童子、二人の従僧、十人の下
僧、七宝の大車、寺坊の前に現ずる。尊恵なのめ
ならず悦て、即時に車にのる。従僧等西北の方に
むかて空をかけて、程なく閻魔王宮にいたり
ぬ。王宮の体を見るに、外郭渺々として、
P06429
其内曠々たり。其内に七宝所成の大極殿
あり【有り】。高広金色にして、凡夫のほむるところ【所】に
あらず。其日の法会をは【終】て後、請僧みなかへ【帰】る
時、尊恵南方の中門に立て、はるかに大極殿
を見わたせば、冥官[B 冥]衆みな閻魔法王の御前に
かしこまる。尊恵「ありがたき参詣なり。此次に
後生の事尋申さん」とて、大極殿へまいる【参る】。其間
に二人の童子蓋をさし、二人の従僧箱をもち、
P06430
十人の下僧列をひいて、やうやうあゆみちかづく時、
閻魔法王、冥官冥衆みなことごとく【悉く】おり【降り】むかふ【向ふ】。
多聞・持国二人〔の〕童子に現じ、薬王菩薩・勇施
菩薩二人の従僧に変ず。十羅刹女十人の下僧
に現じて、随逐給仕し給へり。閻王問ての給はく、
「余僧みな帰りさん【去ん】ぬ。御房来事P415いかん」。「御生
の在所承はらん為なり」。「[B 但]往生不往生は、人の信不
信にあり【有り】」と云々。閻王又冥官に勅ての給はく、
P06431
「此御房の作善のふばこ【文箱】、南方の宝蔵にあり【有り】。
とり出して一生の行、化他の碑文見せ奉つれ」。
冥官承はて、南方の宝蔵にゆいて、一の文箱を
と【取つ】てまいり【参り】たり。良蓋をひらいて是をことごとく
よみ【読み】きかす。尊恵悲歎啼泣して、「ただ願くは我を
哀愍して出離生死の方法をおしへ【教へ】、証大菩提
の直道をしめし給へ」。其時閻王哀愍教化して、
種々の偈を誦ず。冥官筆を染て一々に是をかく。
P06432
妻子王位財眷属 死去無一来相親
常随業鬼繋縛我 受苦叫喚無辺際 K052
閻王此偈を誦じをはて、すなはち彼文を尊恵
に属す。尊恵なのめならず悦て、「日本の平大相国
と申人、摂津国和多の御崎を点じて、四面十余
町に屋を作り、けふの十万僧会のごとく、持経者
をおほく■[*口+屈]請じて、坊ごとに一面に座につき
説法読経丁寧に勤行をいたされ候」と申
P06433
ければ、閻王随喜感嘆して、「件の入道はただ
人にあらず。慈恵僧正の化身なり。天台の仏
法護持のために日本に再誕す。かるがゆへに、われ
毎日に三度彼人を礼する文あり【有り】。すなはちこの
文をも【持つ】て彼人にたてまつる【奉る】べし」とて、P416
敬礼慈恵大僧正 天台仏法擁護者
示現最初将軍身 悪業衆生同利益 K053
尊恵是を給はて、大極殿の南方の中門をいづる
P06434
時、官士等十人門外に立て車にのせ【乗せ】、前後に
したがふ。又空をかけて帰来る。夢の心ち【心地】していき【生き】
出にけり。尊恵是をも【持つ】て西八条へまいり【参り】、入道相
国にまいらせ【参らせ】たりければ、なのめならず悦てやうやう【様々】
にもてなし、さまざまの引出物共た【賜】うで、その勧賞
に律師になされけるとぞきこえ【聞え】し。さてこそ
清盛公をば慈恵僧正の再誕なりと、人し【知つ】てげれ。
祇園女御S0610又ある人の申けるは、清盛者忠盛が子にはあらず、
P06435
まこと【誠】には白河院の皇子なり。其故は、[B 去る]永久の
比ほひ、祇園女御と聞えしさいはひ【幸】人をはし【在し】
ける。件の女房のすまひ所【住所】は、東山がしやま)のふもと【麓】、祇
園のほとりにてぞあり【有り】ける。白河院つねは御幸なり
けり。ある時殿上人一両人、北面少々めしぐし【召具し】て、
しのび【忍び】の御幸有しに、比はさ月【五月】廿日あまりの
まだよひ【宵】の事なれば、目ざすともしらぬP417やみ【闇】で
はあり【有り】、五月雨さへかきくらし、まこと【誠】にいぶせかり
P06436
けるに、件の女房の宿所ちかく御堂あり【有り】。御堂
のかたはら【傍】にひかり【光】物いでき【出来】たり。かしらはしろ
かね【銀】のはり【針】をみが【磨】きたてたるやうにきらめき、
左右の手とおぼしきをさしあげ【差し上げ】たるが、片手には
つち【槌】のやうなるものをもち、片手にはひか【光】る
物をぞも【持つ】たりける。君も臣も「あなおそろし【恐ろし】。
是はまことの鬼とおぼ【覚】ゆる。手にもて【持て】る物はきこ
ゆる【聞ゆる】うちで【打出】のこづち【小槌】なるべし。いかがせん」とさはが【騒が】せ
P06437
をはしますところ【所】に、忠盛其比はいまだ北面の下
臈で供奉したりけるをめし【召し】て、「此中にはなんぢ【汝】
ぞあるらん。あの物ゐ【射】もとどめ【留め】、きり【斬り】もとどめ【留め】なんや」
と仰ければ、忠盛かしこ【畏】まり承はて行むかう【向ふ】。
内々おもひ【思ひ】けるは、「此もの、さしもたけ【猛】き物とは
見ず。きつね【狐】たぬき【狸】などにてぞ有らん。是を
ゐ【射】もころし【殺し】、きり【斬り】もころし【殺し】たらんは、無下に念
なかるべし。いけどりにせん」とおも【思】てあゆ【歩】みよる。
P06438
とばかりあてはさとひかり【光り】、とばかりあてはさとひかり、
二三度しけるを、忠盛はしり【走り】よて、むずとく【組】む。
く【組】まれて、「こはいかに」とさはぐ【騒ぐ】。変化の物にてはなかり
けり。はや人にてぞ有ける。其時上下手々で)に火を
ともひ【点い】て、是を御らん【覧】じ見給に、六十ばかりの法
師なり。たとへば、御堂の承仕法師であり【有り】けるが、御
あかし【燈】まいらせ【参らせ】んとて、手瓶といふ物に油を入て
もち、片手にはかP418はらけ【土器】に火を入てぞも【持つ】たりける。
P06439
雨はゐ【沃】にい【沃】てふる。ぬ【濡】れじとて、かしら【頭】にはこむぎ【小麦】の
わら【藁】を笠のやうにひき【引き】むすふ【結う】でかづひ【被い】たり。
かはらけの火にこむぎのわらかかや【輝】いて、銀の
針のやうには見えけるなり。事の体一々に
あら【露】はれぬ。「これをゐ【射】もころし【殺し】、きり【斬り】もころし【殺し】
たらんは、いかに念なからん。忠盛がふるまひ【振舞】やうにこそ
思慮ふかけれ。弓矢とる身はやさしかりけり」
とて、その勧賞にさしも御最愛と聞えし
P06440
祇園女御を、忠盛にこそた【賜】うだりけれ。さてかの
女房、院の御子をはら【妊】みたてまつり【奉り】しかば、「う【産】めらん
子、女子ならば朕が子にせん、男子ならば忠盛が
子にして弓矢とる身にしたてよ」と仰けるに、
すなはち男をうめり。此事奏聞せんとうかが
ひ【窺ひ】けれ共、しかるべき便宜もなかりけるに、ある時
白河院、熊野へ御幸なりけるが、紀伊国いとが【糸鹿】坂
といふ所に御輿かきす【据】ゑさせ、しばらく御休息
P06441
有けり。やぶ【薮】にぬか子のいくらも有けるを、忠盛
袖にもりいれ【入れ】て、御前へまいり【参り】、
いもが子ははふ【這ふ】程にこそなりにけれ
と申たりければ、院やがて御心得あて、
ただもりとりてやしな【養】ひにせよ W047
とぞつ【付】けさせましましける。それよりしてこそ
我子とはもてなしけれ。此若君P419あまりに夜
なき【泣】をし給ひければ、院きこしめさ【聞し召さ】れて、一首の
P06442
御詠をあそばし【遊ばし】てくだされけり。
よなきすとただもりたてよ末の代に
きよ【清】くさか【盛】ふることもこそあれ W048
さてこそ、清盛[* 「請盛」と有るのを高野本により訂正]とはなの【名乗】られけれ。十二の歳兵衛
佐になる。十八の年四品して四位の兵衛佐と
申しを、子細存知せぬ人は、「花族の人こそかふは」と
申せば、鳥羽院しろしめさ【知ろし召さ】れて、「清盛[* 「請盛」と有るのを高野本により訂正]が花族は、
人におとらじ」とぞ仰ける。昔も天智天皇はら
P06443
み給へる女御を大織冠にたまふとて、「此女御のう【産】め
らん子、女子ならば朕が子にせん、男子ならば臣が子
にせよ」と仰けるに、すなはち男をうみ給へり。
多武峯の本願定恵和尚是なり。上代にも
かかるためしあり【有り】ければ、末代にも平大相国、ま
こと【誠】に白河院の御子にてをはしければにや、さば
かりの天下の大事、都うつりなどいふたやすから
ぬことどもおもひたた【思ひ立た】れけるにこそ。同閏[* 「潤」と有るのを他本により訂正]二月ぐわつ)廿日、
P06444
五条大納言国綱【*邦綱】卿うせ【失せ】給ひぬ。平大相国とさし
も契ふかう【深う】、心ざしあさ【浅】からざりし人なり。せめて
の契のふかさ【深さ】にや、同日に病つゐ【付い】て、同月にぞ
うせ【失せ】られける。此大納言と申は、兼資【*兼輔】の中納言より
八代の末葉、前右馬助守国【*盛国】が子なり。P420蔵人にだに
なら【成ら】ず、進士雑色とて候はれしが、近衛院御在位
の時、仁平の比ほひ、内裏に俄焼亡出きたり。主
上南殿に出御有しか共、近衛司一人も参ぜられ
P06445
ず。あきれてたた【立た】せをはしましたるところ【所】に、此国綱【*邦綱】
要輿をかか【舁か】せてまいり【参り】、「か様【斯様】の時は、かかる御輿に
こそめさ【召さ】れ候へ」と奏しければ、主上是にめし【召し】て
出御あり【有り】。「何ものぞ」と御尋あり【有り】ければ、「進士の雑色
藤原国綱【*邦綱】」となのり【名乗り】申。「かかるさかざかしき物こそ
あれ、めしつかは【召し使は】るべし」と、其時の殿下、法性寺殿
へ仰合られければ、御領あまたた【賜】びなどして、めし
つかは【召し使は】れける程に、おなじ御門の御代にやわた【八幡】へ行
P06446
幸あり【有り】しに、人丁が酒に酔て水にたふれ【倒れ】入、装束
をぬらし、御神楽に遅々したりけるに、此国綱【*邦綱】
「神妙にこそ候はね共、人丁が装束はもたせて候」
とて、一ぐ【具】とりいだ【取出】されたりければ、是をきて御
神楽ととの【調】へ奏しけり。程こそすこ【少】しおしうつ【推移】り
たりけれども、歌の声もすみのぼり【澄み上り】、舞の袖、
拍子にあふ【合う】ておもしろかりけり。物の身に
しみて面白事は、神も人もおなじ心なり。
P06447
むかし天の岩戸をおしひら【押開】かれけん
神代のことわざまでも、今こそおぼしめし【思し召し】
しら【知ら】れけれ。やがてこの国綱【*邦綱】の先祖に、山陰
中納言といふ人をはしき。其子に助務【*如無】僧都
とて、智恵才学身にあまり、浄行持律の
僧をはし【在し】けり。昌泰の比ほひ、寛平法P421皇
大井河へ御幸あり【有り】しに、勧修寺の内
大臣高藤公の御子、泉の大将貞国、小蔵
P06448
山【*小倉山】の嵐に烏帽子を河へ吹入られ、袖にて
もとどり【髻】をおさへ、せんかたなうてた【立つ】たりける
に、此助務【*如無】僧都、三衣箱の中より烏帽子
ひとつとり【取り】出されたりけるとかや。かの僧都は、
父山陰中納言、太宰大弐になて鎮西へくだ【下】ら
れける時、二歳なりしを、継母にくんで、あから
さまにいだ【抱】くやうにして海におとし入、ころ
さ【殺さ】んとしけるを、しに【死に】にけるまことの母、存生の
P06449
時、かつら【桂】のうがひ【鵜飼】が鵜の餌にせんとて、亀をと【取つ】て
ころさ【殺さ】んとしけるを、き【着】給へる小袖をぬぎ、
亀にか【換】へ、はな【放】されたりしが、其恩を報ぜん
と、此きみ【君】おとし入ける水のうへにう【浮】かれ
来て、甲にのせ【乗せ】てぞたす【助】けたりける。それは
上代の事なればいかがあり【有り】けん、末代に国綱【*邦綱】卿の
高名ありがたかりし事共也。法性寺殿の
御世に中納言になる。法性寺殿かくれさせ給て
P06450
後、入道相国存ずる旨あり【有り】とて、此人にかたら
ひ【語らひ】より給へり。大福長者にておはしければ、
何にてもかならず【必ず】毎日に一種をば、入道相国
のもとへをくら【送ら】れけり。「現世のとくひ【得意】、この人に
過べからず」とて、子息一人養子にして、清国と
なのら【名乗ら】せ、又入道相国の四男頭中将重衡は、
かの大納言の聟になる[* 「なり」と有るのを他本により訂正]。治承四年の五節は
福原にておこなはれけるに、殿上人、中宮の御方へ
P06451
推参あ【有つ】P422しが、或雲客の「竹湘浦に斑なり」と
いふ朗詠をせられたりければ、此大納言立聞
して、「あなあさまし、是は禁忌とこそ承はれ。
かかる事きく【聞く】ともきかじ」とて、ぬきあし【抜足】
してにげ【逃げ】出られぬ。たとへば、此朗詠の心は、昔■
の御門に二人の姫宮ましましき。姉をば娥黄と
いひ、妹をば女英といふ。ともに舜の御門の后
なり。舜の御門かくれ給ひて、彼蒼梧の
P06452
野べへをくり【送り】たてまつり【奉り】、煙となし奉る
時、二人のきさき【后】名残をおしみ【惜しみ】奉り、湘浦
といふ所までしたひ【慕ひ】つつなき【泣き】かなしみ給ひ
しに、その涙岸の竹にかか【掛つ】て、まだら【斑】にぞ
そ【染】みたりける。其後もつねは彼所にをはし【在し】て、
瑟をひいてなぐさ【慰】み給へり。今かの所を見る
なれば、岸の竹は斑にてたて【立て】り。琴を調べし
跡には雲たなびいて、物あはれ【哀】なる心を、橘相
P06453
公の賦に作れるなり。此大納言は、させる文才
詩歌か)うるはしうはをはせざりしか共、かかるさかざか
しき人にて、かやうの事までも聞とがめられ
けるにこそ。此人大納言まではおもひ【思ひ】もよらざり
しを、母うへ賀茂大明神に歩をはこび、「ねが
は【願は】くは我子の国綱【*邦綱】一日でもさぶら【候】へ、蔵人頭へ【経】
させ給へ」と、百日肝胆をくだいて祈申され
けるが、ある夜の夢に、びりやう【檳榔】の車を
P06454
ゐて来て、我家の車よせ【寄】にたつ【立つ】といふ夢を
見て、是人にかたり給へば、「それは公卿の北方に
ならせ給ふべきにこそ」とあはせたりければ、「我年
すでに闌たり。今更さ様のP423ふるまひ【振舞】あるべし
共おぼえず」との給ひけるが、御子の国綱【*邦綱】、蔵
人頭は事もよろし、正二位大納言にあがり
給ふこそ目出けれ。同廿二日、法皇は院の御所法
住寺殿へ御幸なる。かの御所は去る応保三年
P06455
四月十五日につくり出されて、新比叡・新熊
野などもまぢかう勧請し奉り、山水
木立にいたるまでおぼしめす【思し召す】さまなりしが、此
二三年は平家の悪行によて御幸もならず。御
所の破壊したるを修理して、御幸なし奉べ
きよし、前右大将宗盛卿奏せられたりければ、
「なん【何】のやう【様】もあるべからず。ただとうとう」とて
御幸なる。まづ故建春門院の御方を御らん【覧】
P06456
ずれば、岸の松、汀の柳、年へ【経】にけりとおぼえ
て、木だか【高】くなれるにつけても、太腋の芙蓉、
未央の柳、これにむかふ【向ふ】にいかん【如何】がなんだ【涙】すす【進】ま
ざらん。彼南内西宮のむかしの跡、今こそ
おぼしめし【思し召し】しられけれ。三月一日、南都の僧
綱等本官に覆して、末寺庄園もとの
如く知行すべきよし仰下さる。同三日、大
仏殿作りはじめらる。事始の奉行には、
P06457
蔵人左少弁行隆とぞきこえし。此行隆、
先年やわた【八幡】へまいり【参り】、通夜せられたりける
夢に、御宝殿の内よりびん【鬢】づらゆうたる
天童のい【出】でて、「是は大菩薩の使なり。大仏
殿奉行の時は、是をもつべし」とて、笏を給
はるといふ夢を見て、さめて後見P424給へば、
うつつ【現】にあり【有り】けり。「あなふしぎ【不思議】、当時何事
あてか大仏殿奉行にまいる【参る】べき」とて、懐
P06458
中して宿所へ帰り、ふかう【深う】おさめ【収め】てをか【置か】れ
たりけるが、平家の悪行によて南都炎上
の間、此行隆、弁のなかにゑらば【選ば】れて、事始
の奉行にまいら【参ら】れける宿縁の程こそ目
出けれ。同三月十日、美乃【*美濃】国の目代、都へ早馬
をもて申けるは、東国源氏共すでに尾張国
までせめのぼ【攻上】り、道をふさぎ、人をとをさ【通さ】ぬ
よし申たりければ、やがて打手をさし
P06459
つかはす。大将軍には、左兵衛督知盛、左中将
清経、小松少将有盛、都合其勢三万余騎で
発向す。入道相国うせ【失せ】給て後、わづかに五旬を
だにも過ざるに、さこそみだれたる世といひな
がら、あさましかりし事どもなり。源氏の方
には、大将軍十郎蔵人行家、兵衛佐のおとと【弟】卿
公義円、都合其勢六千余騎、〔尾〕張川をなかに
へだてて、源平両方に陣をとる。同十六日の
P06460
夜半ばかり、源氏の勢六千余騎川をわたい【渡い】て、
平家三万余騎が中へおめひ【喚い】てかけ入、明れば
十七日、寅の剋より矢合して、夜の明までたた
かう【戦ふ】に、平家のかた【方】にはちともさはが【騒が】ず。「敵は川
をわたひ【渡い】たれば、馬もののぐ【物具】もみなぬ【濡】れたるぞ。
それをしるし【標】でうてや」とて、大勢のなかにとり【取り】
こめ【籠め】て、「あま【余】すな、もらす【漏らす】な」とてせめ【攻め】給へば、源氏
の勢のこり【残り】ずくなに打なされ、P425大将軍行家、
P06461
からき【辛き】命いき【生き】て、川よりひがし【東】へひきしりぞ【退】く。
卿公義円はふか【深】入してうた【討た】れにけり。平家やがて
川をわたひ【渡い】て、源氏を追物射[*「追物射」は「出物財」とも読める]にゐ【射】てゆく。源氏
あそこここでかへし【返し】あはせかへし【返し】合せふせき【防き】
けれ共、敵は大勢、みかたは無勢なり。かなふ【適ふ】べし
とも見えざりけり。「水駅をうしろにする
事なかれとこそいふに、今度の源氏のはかり
こと【策】おろかなり」とぞ人申ける。さる程に、大将
P06462
軍十郎蔵人行家、参河【*三河】国にうちこえ【越え】て、やは
ぎ【矢作】川の橋をひき【引き】、かひだて【掻楯】かひて待かけたり。
平家やがて押寄せめ【攻め】給へば、こら【耐】へずして、そこ
をも又せめ【攻め】おと【落】されぬ。平家やがてつづ【続】いてせめ
給はば、参川【*三河】・遠江の勢は随つ【付】くべかりしに、大将
軍左兵衛督知盛いたはり【労はり】あて、参河【*三河】国より帰り
のぼら【上ら】る。今度もわづかに一陣を破るといへ共、
残党をせめ【攻め】ねば、しいだし【出し】たる事なきが如し。
P06463
平家は、去々年小松のおとど【大臣】薨ぜられぬ。今年
又入道相国うせ給ひぬ。運命の末になる事
あらはなりしかば、年来恩顧の輩の外は、随
ひ〔つ〕く物なかりけり。東国には草も木もみな
源氏にぞなび【靡】きける。P426嗄声S0611さる程に、越後国の住人、
城太郎助長、越後守に任ずる朝恩のかたじけ
なさに、木曾追討のために、都合三万余騎、同
六月十五日門出して、あくる十六日の卯剋に
P06464
すでにうたた【打つ立た】んとしけるに、夜半ばかり、俄に
大風吹、大雨くだり、雷おびたたしう【夥しう】なて、天霽
て後、雲井に大なる声のしはが【嗄】れたるをもて、
「南閻浮提金銅十六丈の盧遮那仏、やき【焼き】ほろ
ぼし【亡ぼし】たてまつる【奉る】平家のかたうど【方人】する物ここに
あり【有り】。めしと【召捕】れや」と、三声さけん【叫ん】でぞとをり【通り】
ける。城太郎をはじめとして、是をきく物
みな身の毛よだちけり。郎等ども「是程おそ
P06465
ろしひ【恐ろしい】天の告の候に、ただ理をまげてとど
まら【留まら】せ給へ」と申けれ共、「弓矢とる物の、それに
よるべき様なし」とて、あくる十六日卯剋に城
をいでて、わづかに十余町ぞゆい【行い】たりける。黒雲
一むら【群】立来て、助長がうへ【上】におほふ【覆ふ】とこそ見え
けれ、俄に身すく【竦】み心ほれて落馬してげり。
輿にかきのせ【乗せ】、館へ帰り、うちふす事三時ばかり
して遂に死にけり。飛脚をもて此由都へ
P06466
申たりければ、平家の人々大にさ[B は]が【騒が】れけり。
同七月十四日、改元あて養和と号す。其日筑
後守貞能、筑前・〔肥〕後両P427国を給はて、鎮西の謀
叛たひらげに西国へ発向す。其日又非常〔の〕大
赦おこなはれて、去る治承三年にながされ給
ひし人々みなめしかへ【召返】さる。松殿入道殿下、
備前国より御上洛、太政大臣妙音院、尾張
国よりのぼらせ給。按察大納言資方【*資賢】卿、信乃【*信濃】国
P06467
より帰洛とぞ聞えし。同廿八日、妙音院殿御
院参。去る長寛[* 「長観」と有るのを高野本により訂正]の帰洛には、御前の簀子に
して、賀王恩・還城楽をひ【弾】かせ給しに、養和
の今の帰京には、仙洞にして秋風楽をぞ
あそばし【遊ばし】ける。いづれもいづれも風情おり【折】をおぼし
めし【思し召し】よらせ給けん、御心の程こそめでたけれ。
按察大納言資方【*資賢】卿も其日院参せらる。法
皇「いかにや、夢の様にこそおぼしめせ【思し召せ】。なら【習】はぬ
P06468
ひな【鄙】のすまひ【住ひ】して、詠曲なども今はあとかた【跡形】
あらじとおぼしめせ【思し召せ】共、今様一あらばや」と
仰ければ、大納言拍子と【取つ】て、「信乃【*信濃】にあんなる木
曾路河」といふ今様を、是は見給ひたりし
あひだ【間】、「信乃【*信濃】に有し木曾路河」とうた【歌】はれ
けるぞ、時にと【取つ】ての高名なる。横田河原合戦S0612八月七日、官の
庁にて大仁王会おこなはる。これは将門追討の
例とぞ聞えし。P428九月一日、純友追討の例とて、
P06469
くろがねの鎧甲を伊勢大神宮へまいらせ【参らせ】らる。
勅使は祭主神祇の権大副大中臣定高【*定隆】、都を
たて近江国甲賀の駅よりやまひ【病ひ】つき、
伊勢の離宮にして死にけり。謀叛の輩調
伏の為に、五壇法承はておこなはれける降三世
の大阿闍梨、大行事の彼岸所にしてね【寝】
死にし【死ん】ぬ。神明も三宝も御納受なしといふ
事いちじるし。又大元法承はて修せられける
P06470
安祥寺の実玄阿闍梨が御巻数を進たり
けるを、披見せられければ、平氏調伏のよし
注進したりけるぞおそろしき【恐ろしき】。「こはいかに」と
仰ければ、「朝敵調伏せよと仰下さる。当世の
体を見候に、平家もぱ【専】ら朝敵と見え給へり。
仍是を調伏す。何のとがや候べき」とぞ申ける。
「此法師奇怪くわい)也。死罪か流罪か」と有しが、
大小事の怱劇にうちまぎれて、其後沙汰
P06471
もなかりけり。源氏の代となて後、鎌倉殿「神
妙なり」と感じおぼしめし【思し召し】て、その勧賞に大
僧正になされけるとぞ聞えし。同十二月ぐわつ)廿四日、
中宮院号かうぶ【蒙】らせ給ひて、建礼門院とぞ
申ける。いまだ幼主の御時、母后の院号是は
じめとぞ承はる。さる程に、養和も二年になり
にけり。二月ぐわつ)廿一日、太白昴星ををかす。天文要
録に云、「太白昴星を侵せば、四夷おP429こる」といへり。
P06472
又「将軍勅命を蒙て、国のさかひ【境】をい【出】づ」共みえ【見え】
たり。三月十日、除目おこなはれて、平家の人々
大略官加階し給ふ。四月ぐわつ)十日、前権少僧都顕
真、日吉社にして如法に法花経一万部転
読する事有けり。御結縁の為に法皇も
御幸なる。何ものの申出したりけるやらん、一
院山門の大衆に仰て、平家を追討せらるべ
しときこえ【聞え】し程に、軍兵内裏へ参て四方
P06473
の陣頭を警固す。平氏の一類みな六波羅へ
馳集る。本三位中将重衡卿、法皇の御むかへに、
其勢三千余騎で、日吉の社へ参向す。山門に又
聞えけるは、平家山せめ【攻め】んとて、数百騎の勢を
卒して登山すと聞えしかば、大衆みな東坂
本がしざかもと)におり下て、「こはいかに」と僉議す。山上洛中の
騒動なのめならず。供奉の公卿殿上人色をう
しなひ【失ひ】、北面のもの【者】のなかにはあまりにあはて【慌て】
P06474
さはひで、黄水つく物おほ【多】かりけり。本三位中将
重衡卿、穴太の辺にて法皇むか【迎】へとり【取り】まいらせ【参らせ】
て、還御なし奉る[* 「奉り」と有るのを他本により訂正]。「かくのみあらんには、御物まう
で【詣】なども、今は御心にまか【委】すまじき事やらん」と
ぞ仰ける。まこと【誠】には、山門大衆平家を追討
せんといふ事もなし。平家山せめ【攻め】んといふ
事もなし。是跡形なき事共なり。「天魔
のよくあ【荒】れたるにこそ」とぞ[* 「とて」と有るのを高野本により訂正]人申ける。同四月
P06475
廿日、臨時に廿二社に官幣P430あり【有り】。是は飢饉疾
疫によてなり。五月廿四日、改元あて寿永と号す。
其日又越後国住人城の四郎助茂、越後守に
任ず。兄助長逝去の間、不吉なりとて頻に辞
し申けれ共、勅命なればちから【力】不及。助茂を
長茂と改名す。同九月二日、城四郎長茂、木曾
追討の為に、越後・出羽、相津四郡の兵共を引
卒して、都合其勢四万余騎、木曾追討の為に
P06476
信乃【*信濃】国へ発向す。同九日、当国横田河原に陣[* 「陳」と有るのを他本により訂正]を
とる。木曾は依田城に有けるが、是をきひ【聞い】て依
田城をい【出】でて、三千余騎で馳向。信乃【*信濃】源氏、井上
九郎光盛がはかり事【謀】〔に〕、にはかに赤旗を七ながれ【流】
つく【作】り、三千余騎を七手にわかち、あそこの
峯、ここの洞より、あかはた【赤旗】ども手々で)にさし
あげ【差し上げ】てよ【寄】せければ、城の四郎是を見て、「あはや、
此国にも平家のかたうど【方人】する人あり【有り】けりと、
P06477
ちから【力】つ【付】きぬ」とて、いさ【勇】みののしるところ【所】に、次第〔に〕
ちかう【近う】なりければ、あひ図【合図】をさだ【定】めて、七手が
ひとつになり、一度に時をどとぞ作ける。用意
したる白旗ざとさしあげ【差し上げ】たり。越後の勢共
是を見て、「敵なん【何】十万騎有らん。いかがせん」と
いろ【色】をうしなひ【失ひ】、あはて【慌て】ふためき、或は川に
お【追つ】ぱめられ、或は悪所におと【落】されて、たすかるものは
すP431くなう【少なう】、うた【討た】るるものぞおほ【多】かりける。城四郎
P06478
がたのみ【頼み】きたる越後の山の太郎、相津の乗丹
房などいふきこゆる【聞ゆる】兵共、そこにてみなうた【討た】れぬ。
我身手おひ、から【辛】き命いきつつ、川につたうて
越後国へ引しりぞ【退】く。同十六日、都には平家是を
ば事共し給はず、前右大将[* 「左大将」と有るのを高野本により訂正]宗盛卿、大納言に還
着して、十月三日内大臣になり給ふ。同七日悦
申あり【有り】。当家の公卿十二人扈従せらる。蔵人
頭以下の殿上人十六人前駆す。東国北国の
P06479
源氏共蜂のごとくに起あひ、ただいま都へせめ【攻め】
のぼら【上ら】んとするに、か様【斯様】に浪のたつ【立つ】やらん、風の
吹やらんもしら【知ら】ぬ体にて、花やかなりし事共、
中々いふかひなうぞ見えたりける。さる程に、
寿永二年になりけり。節会以下常のごとし。
内弁をば平家の内大臣宗盛公つとめらる。正月
六日、主上朝覲の為に、院御所法住寺殿へ行
幸なる。鳥羽院六歳にて、朝覲行幸、其例とぞ
P06480
きこえし。二月廿二日、宗盛公従一位し給ふ。やがて
其日内大臣をば上表せらる。兵乱つつしみ【慎み】の
ゆへ【故】とぞきこえし。南都北嶺の大衆、熊野金
峯山ぜん)の僧徒、伊勢大神宮の祭主神官に
いたるまで、一向平家をそむひて、源氏に心を
かよはし【通はし】ける。四方に宣旨をなしくだし、諸P432国に
院宣をつかはせども、院宣宣旨[* 「の旨」と有るのを高野本により訂正]もみな平家
の下知とのみ心得て、したがひ【従ひ】つくものなかりけり。
P06481
平家物語巻第六

平家物語(龍谷大学本)巻第七

【許諾済】
本テキストの公開については、龍谷大学大宮図書館の許諾を得ています。底本使用・テキスト公開を許可された同図書館に厚く御礼申し上げます。
【注意】
本テキストの利用は個人の研究の範囲内に限られます。本テキストの全体あるいは一部の複写物・複写加工物を、インターネット上で、あるいは出版物(CD−ROM等を含む)として公表する場合には、事前に龍谷大学大宮図書館に翻刻掲載許可願いを申請する必要があります。同図書館の許可を得ない本テキストの公表は禁じられています。翻刻掲載許可願い申請送付先:〒600-8268 京都市下京区七条通大宮東入大工町125−1 龍谷大学大宮図書館閲覧係
【底本】
本テキストの底本は、龍谷大学大宮図書館所蔵『平家物語』です。直接には、思文閣出版発行の影印本(龍谷大学善本叢書13)に拠りました。


P07001
(表紙)
P07003 P2061
平家物語巻第七
清水冠者S0701寿永二年三月上旬に、兵衛佐と木曾冠者義仲
不快の事ありけり。兵衛佐木曾追討のために、
其勢十万余騎で信濃国へ発向す。木曾は
依田の城にありけるが、是をきいて依田の城を
出て、信濃と越後の境、熊坂山に陣をとる。兵衛
佐は同き国善光寺に着給ふ。木曾乳母
子の今井四郎兼平を使者で、兵衛佐の許へ
P07004
つかはす。「いかなる子細のあれば、義仲うた【討た】んとはの
給ふなるぞ。御辺は東八ケ国をうちしたがへて、東海
道より攻のぼり、平家を追おとさ【落さ】んとし給ふなり。
義仲も東山・北陸両道をしたがへて、今一日もさき
に、平家を攻おとさ【落さ】んとする事でこそあれ。なんの
ゆへ【故】に御辺と義仲と中をたがふ【違う】て、平家にわら
は【笑は】れんとは思ふべき。但十郎蔵人殿こそ御辺
をうらむる【恨むる】事ありとて、義仲が許へおはし
P07005
たるを、義仲さへすげなうもてなし申さん事、い
かんぞや候へば、うちP2062つれ申たり。またく義仲にをい
ては、御辺に意趣おもひ【思ひ】奉らず」といひつかはす。兵衛
佐の返事には、「今こそさ様にはの給へども、慥に頼朝
討べきよし、謀反のくはたて【企て】ありと申者あり。それ
にはよるべからず」とて、土肥・梶原をさきとして、
既に討手をさしむけらるる由聞えしかば、木
曾真実意趣なきよしをあらはさんがために、
P07006
嫡子清水の冠者義重とて、生年十一歳になる
小冠者に、海野・望月・諏方【*諏訪】・藤沢などいふ、聞ゆる
兵共をつけて、兵衛佐の許へつかはす。兵衛佐「此上は
まこと【誠】に意趣なかりけり。頼朝いまだ成人の子を
もたず。よしよし、さらば子にし申さん」とて、清水冠
者を相具して、鎌倉へこそ帰られけれ。北国下向S0702 さる程に、
木曾、東山・北陸両道をしたがへて、五万余騎の勢に
て、既に京へせめ【攻め】のぼるよし聞えしかば、平家はこぞ【去年】
P07007
よりして、「明年は馬の草がひ【草飼】について、いくさ【軍】あるべし」
と披露せられたりければ、山陰・山陽・南海・西海
の兵共、雲霞のごとくに馳まいる【参る】。東山道は近江・美
濃・飛騨の兵共はまいり【参り】P2063たれ共、東海道は遠江より
東はまいら【参ら】ず、西は皆まいり【参り】たり。北陸道は若狭より
北の兵共一人もまいら【参ら】ず。まづ木曾冠者義仲
を追討して、其後兵衛佐を討んとて、北陸道
へ討手をつかはす。大将軍には小松三位中将維盛・
P07008
越前三位通盛・但馬守経正・薩摩守忠教【*忠度】・三河守
知教【*知度】・淡路守清房、侍大将には越中前司盛俊・上
総大夫判官忠綱・飛騨大夫判官景高・高橋
判官長綱・河内判官秀国・武蔵三郎左衛門有
国・越中次郎兵衛盛嗣・上総五郎兵衛忠光・悪
七兵衛景清を先として、以上大将軍六人、しかる
べき侍三百四十余人、都合其勢十万余騎、寿永
二年四月十七日辰一点に都を立て、北国へこそおも
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むき【赴き】けれ。かた道を給はてげれば、逢坂の関より
はじめて、路子にもてあふ権門勢家の正税、官
物をもおそれ【恐れ】ず、一々にみなうばひとり、志賀・辛崎・
三河尻・真野・高島・塩津・貝津の道のほとりを
次第に追補【*追捕】してとおり【通り】ければ、人民こらへずして、
山野にみな逃散す。竹生島詣S0703P2064大将軍維盛・通盛はすすみ
給へ共、副将軍経正・知教【*知度】・清房などは、いまだ近江
国塩津・貝津にひかへたり。其なかにも、経正は詩歌
P07010
管絃に長じ給へる人なれば、かかるみだれのなかに
も心をすまし、湖のはた【端】に打出て、遥に奥なる
島をみわたし、供に具せられたる藤兵衛有教を
めして、「あれをばいづくといふぞ」ととは【問は】れければ、
「あれこそ聞え候竹生島にて候へ」と申。「げにさる事
あり。いざやまいら【参ら】ん」とて、藤兵衛有教、安衛門守
教以下、侍五六人めし具して、小船にのり、竹生島へ
ぞわたられける。比は卯月中の八日の事なれば、
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緑にみゆる梢には春のなさけをのこすかとおぼえ、澗
谷の鴬舌声老て、初音ゆかしき郭公、おりしり
がほ【折知顔】につげわたる。まことにおもしろかりければ、いそ
ぎ船よりおり、岸にあがて、此島の景気を見給
ふに、心も詞もをよば【及ば】れず。彼秦皇、漢武、或
童男丱女をつかはし、或方士をして不死の薬
を尋給ひしに、「蓬莱をみずは、いなや帰らじ」と
いて、徒に船のうちにて老、天水茫々として
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求事をえざりけん蓬莱洞の有様も、かくや
ありけんとぞみえ【見え】し。或経の中に、「閻浮提の
うちに湖あり、其なかに金輪際よりおひ出たる
水精輪の山あり。天女すむ所」といへり。則此島の
事也。経正明神の御まへについゐ給ひつつ、「夫
大弁功徳天は往古の如来、法身の大P2065士也。弁才妙
音二天の名は各別なりといへ共、本地一体に
して衆生を済度し給ふ。一度参詣の輩は、
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所願成就円満すと承はる。たのもしう【頼もしう】こそ候へ」とて、
しばらく法施まいらせ【参らせ】給ふに、やうやう日暮、ゐ【居】待の
月さし出て、海上も照わたり、社壇も弥かかや【輝】き
て、まこと【誠】におもしろかりければ、常住の僧共「き
こゆる御事也」とて、御琵琶をまいらせ【参らせ】たりければ、
経正是をひき給ふに、上玄石上の秘曲には、
宮のうちもすみわたり、明神感応にたへ【堪へ】ずして、
経正の袖のうへに白竜現じてみえ【見え】給へり。
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忝くうれしさのあまりに、なくなく【泣く泣く】かうぞ思ひつづけ給ふ。
千はやふる神にいのりのかなへ【適へ】ばや
しるくも色のあらはれにける W049
されば怨敵を目前にたひらげ、凶徒を只今せめ【攻め】
おとさ【落さ】ん事の、疑なしと悦で、又船にとりの【乗つ】て、
竹生島をぞ出られける。火打合戦S0704木曾義仲身がらは
信濃にありながら、越前国火打が城をぞかまへ
ける。彼城郭にこもる勢、平泉寺長吏斎明
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威儀師・稲津新介・斎藤太・林六郎光P2066明・富樫
入道仏誓・土田・武部・宮崎・石黒・入善・佐美を初
として、六千余騎こそこもりけれ。もとより究竟
の城郭也。盤石峙ちめぐて四方に峯をつらねた
り。山をうしろにし、山をまへにあつ。城郭の前には
能美河・新道河とて流たり。二の河の落あひに
おほ【大】木をきてさかもぎ【逆茂木】にひき【引き】、しがらみををび
たたしう【夥しう】かきあげたれば、東西の山の根に水
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さしこうで、水海にむかへるが如し。影南山を浸して
青して晃漾たり。浪西日をしづめて紅にして隠
淪たり。彼無熱池の底には金銀〔の砂〕をしき、昆明池の
渚にはとくせい【徳政】の船を浮べたり。此火打が城のつき【築】
池には、堤をつき、水をにごして、人の心をたぶら
かす。船なくして輙うわたすべき様なかりければ、
平家の大勢むかへの山に宿して、徒に日数をを
くる【送る】。城の内にありける平泉寺の長吏斎明威
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儀師、平家に志ふかかり【深かり】ければ、山の根をまはて、消
息をかき【書き】、ひき目のなかに入て、忍やかに平家の
陣へぞ射入たる。「彼水うみは往古の淵にあらず。
一旦山河をせきあげて候。夜に入足がろ【足軽】共を
つかはして、しがらみをきりおとさ【落さ】せ給へ。水は程な
くおつべし。馬の足きき【利き】よい所で候へば、いそぎわ
たさせ給へ。うしろ矢は射てまいらせ【参らせ】ん。是は平泉
寺の長吏斎明威儀師が申状」とぞかひ【書い】たりける。
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大将軍大に悦、やがP2067て足がる【足軽】共をつかはして柵をきり
おとす【落す】。飫うみえ【見え】つれ共、げにも山川なれば水は程
なく落にけり。平家の大勢、しばしの遅々にも
及ばず、ざとわたす。城の内の兵共、しばしささへてふ
せき【防き】けれ共、敵は大勢也、み方は無勢也ければ、
かなう【叶ふ】べしともみえ【見え】ざりけり。平泉寺長吏斎
明威儀師、平家について忠をいたす。稲津新介・
斎藤太・林六郎光明・富樫入道仏誓、ここをば落
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て、猶平家をそむき、加賀国へ引退き、白山・河内
にひ【引つ】こもる。平家やがて加賀に打越て、林・富樫が
城郭二ケ所焼はらふ。なに面をむかふ【向ふ】べしとも見え
ざりけり。ちかき【近き】宿々より飛脚をたてて、此由都へ
申たりければ、大臣殿以下残りとどまり給ふ一門
の人々いさみ悦事なのめならず。同五月八日、加賀
国しの原【篠原】にて勢ぞろへあり。軍兵十万余騎
を二手にわかて、大手搦手へむかはれけり。大手の大
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将軍は小松三位中将維盛・越前三位通盛、侍大
将には越中前司盛俊をはじめとして、都合其勢
七万余騎、加賀と越中の境なる砥浪山へぞむ
かはれける。搦手の大将軍は薩摩守忠教【*忠度】・参河
守知教【*知度】、侍大将には武蔵三郎左衛門を先として、都合其勢三万余騎、能登越中の境なるしほ【志保】
の山へぞかかられける。木曾は越後の国府にあり
けるが、是をきいて五万余騎で馳向ふ。わがいくさ【軍】の
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吉例なればとて七手に作る。まづ伯父の十P2068郎蔵人
行家、一万騎でしほの手へぞ向ける。仁科・高梨・
山田次郎、七千余騎で北黒坂へ搦手にさしつか
はす。樋口次郎兼光・落合五郎兼行、七千余騎で南
黒坂へつかはしけり。一万余騎をば砥浪山の口、黒
坂のすそ、松長の柳原、ぐみの木林にひきかくす【隠す】。
今井四郎兼平六千余騎で鷲の瀬を打わたし、
ひの宮林【日埜宮林】に陣をとる。木曾我身は一万余騎でお
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やべ【小矢部】のわたりをして、砥浪山のはづれはにう【羽丹生】に陣
をぞとたりける。願書S0705 木曾の給ひけるは、「平家は定て
大勢なれば、砥浪山打越え、ひろみへ出て、かけあひ
のいくさ【軍】にてぞあらんずらん。但かけあひのいくさ【軍】は
勢の多少による事也。大勢かさにかけてはあし
かりなん。まづ旗さしを先だてて白旗をさし
あげたらば、平家是を見て、「あはや源氏の先
陣はむかふ【向う】たるは。定て大勢にてぞあるらむ。左右
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なう広みへうち出て、敵は案内者、我等は無案内也、
とりこめられては叶まじ。此山は四方巌石であんなれば、
搦手よもまはらじ。しばしおりゐて馬休ん」とて、山
中にぞおりゐんずらん。其時義仲しばしあひしらふ
やP2069うにもてなして、日をまち【待ち】くらし、平家の大勢
をくりから【倶利伽羅】が谷へ追おとさ【落さ】うど思ふなり」とて、まづ
白旗三十ながれ先だてて、黒坂のうへにぞう
たて【打つ立て】たる。案のごとく、平家是をみて、「あはや、源氏
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の先陣はむかふ【向う】たるは。定て大勢なるらん。左右なう広
みへ打出なば、敵は案内者、我等は無案内也、とりこめられ
てはあしかりなん。此山は四方巌石であん也。搦手よも
まはらじ。馬の草がい【草飼】水便共によげなり。しばしおり
ゐて馬やすめん」とて、砥浪山の山中、猿の馬場と
いふ所にぞおりゐたる。木曾は羽丹生に陣とて、四
方をきとみまはせば、夏山の嶺のみどりの木の間
より、あけ【朱】の玉墻ほの見えて、かたそぎ【片削】作りの社あり。
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前に鳥居ぞたたりける。木曾殿国の案内者をめし
て、「あれはいづれの宮と申ぞ。いかなる神を崇奉るぞ」。
「八幡でましまし候。やがて此所は八幡の御領で候」と申。
木曾大に悦て、手書に具せられたる大夫房覚明
をめして、「義仲こそ幸に新やはた【八幡】の御宝殿に近付
奉て、合戦をとげんとすれ。いかさまにも今度の
いくさ【軍】には相違なく勝ぬとおぼゆるぞ。さらんにとて
は、且は後代のため、且は当時の祈祷にも、願書を一筆
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かいてまいらせ【参らせ】ばやと思ふはいかに」。覚明「尤もしかるべう候」
とて、馬よりおりてかかんとす。覚明が体たらく、かち【褐】の
直垂に黒革威の鎧きて、黒漆の太刀をはき、
廿四さいたるくP2070ろぼろの矢おい、ぬりごめ藤の弓、脇に
はさみ、甲をばぬぎ、たかひもにかけ、えびらより小
硯たたう【畳】紙とり出し、木曾殿の御前に畏て願書
をかく。あぱれ文武二道の達者かなとぞみえ【見え】たり
ける。此覚明はもと儒家の者也。蔵人道広とて、勧学院
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にありけるが、出家して最乗房信救とぞ名のり
ける。つねは南都へも通ひけり。高倉宮の園城
寺にいら【入ら】せ給ひし時、牒状を山・奈良へつかはしたり
けるに、南都の大衆返牒をば此信救にぞかかせたり
ける。「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥」とかい
たりしを、太政入道大にいかて、「其信救法師めが、
浄海を平氏のぬかかす、武家のちりあくたと
かくべき様はいかに。其法師めからめとて死罪
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におこなへ」との給ふ間、南都をば逃て、北国へ落下、
木曾殿の手書して、大夫房覚明とぞ名のり
ける。其願書に云、帰命頂礼、八幡大菩薩は
日域朝廷の本主、累世明君の曩祖也。宝祚
を守らんがため、蒼生を利せんがために、三身の金容
をあらはし、三所の権扉をおしひらき給へり。爰に
頃年よりこのかた、平相国といふ者あり。四海を
管領して万民を悩乱せしむ。是既仏法の
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怨、王法の敵也。義仲いやしくも弓馬の家に生
て、纔に箕裘の塵をつぐ【継ぐ】。彼暴悪を案ずる
に、思慮を顧にあたはP2071ず。運天道にまかせて、身
を国家になぐ。試に義兵をおこして、凶器を退ん
とす。しかるを闘戦両家の陣をあはすといへ共、
士卒いまだ一致の勇をえざる間、区の心おそ
れ【恐れ】たる処に、今一陣旗をあぐる戦場にして、忽
に三所和光の社壇を拝す。機感の純熟明
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かなり。凶徒誅戮疑なし。歓喜涙こぼれて、渇仰
肝にそむ。就中、曾祖父前陸奥守義家朝臣、
身を宗廟の氏族に帰附して、名を八幡太郎
と号せしよりこのかた、門葉たる者帰敬せず
といふ事なし。義仲其後胤として首を傾
て年久し。今此大功を発す事、たとへば嬰
児の貝をもて巨海を量り、蟷螂の斧をい
からかして隆車に向が如し。然れども国のため、
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君のためにしてこれを発す。家のため、身のために
してこれををこさ【起こさ】ず。心ざしの至、神感そらに
あり。憑哉、悦哉。伏願くは、冥顕威をくはへ、霊神
力をあはせて、勝事を一時に決し、怨を四方に
退給へ。然則、丹祈冥慮にかなひ【叶ひ】、見鑒加護
をなすべくば、先一の瑞相を見せしめ給へ。寿
永二年五月十一日源義仲敬白とかいて、我身を
はじめて十三人が、うは矢【上矢】をぬき、願書にとり
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具して、大菩薩の御宝殿にこそおさめ【納め】けれ。たの
もしき【頼もしき】かな、大菩薩真実の志ふたつなきをや
遥に照覧し給ひけん。雲のなかより山鳩三
飛来て、源氏の白旗の上にP2072翩翻す。昔神
宮【*神功】皇后新羅を攻させ給ひしに、御方のたた
かひ【戦ひ】よはく【弱く】、異国のいくさ【軍】こはくして、既に
かうとみえ【見え】し時、皇后天に御祈誓ありしかば、
霊鳩三飛来て楯の面にあらはれて、異国の
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いくさ【軍】破にけり。又此人々の先祖、頼義朝臣、貞
任・宗任を攻給ひしにも、御方のたたかひ【戦ひ】よはく【弱く】し
て、凶徒のいくさ【軍】こはかりしかば、頼義朝臣敵の
陣にむかて、「是はまたく私の火にはあらず、神火
なり」とて、火を放つ。風忽に異賊の方へ吹おほ
ひ【覆ひ】、貞任が館栗屋河の城焼ぬ。其後いくさ【軍】
破て、貞任・宗任ほろびにき。木曾殿か様【斯様】の先
蹤を忘れ給はず、馬よりおり、甲をぬぎ、手水う
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がひをして、いま霊鳩を拝し給ひけん心のうち
こそたのもしけれ。倶利迦羅【*倶梨迦羅】落S0706さる程に、源平両方陣をあはす。
陣のあはひわづかに三町ばかりによせ【寄せ】あはせたり。源
氏もすすまず、平家もすすまず。勢兵十五騎、楯
の面にすすませて、十五騎がうは矢【上矢】の鏑を平家の
陣へぞ射入たる。平家又はかり事【謀】共しらず、P2073十五騎
を出いて、十五の鏑を射かへす【返す】。源氏卅騎を出いて
射さすれば、平家卅騎を出いて卅の鏑を射かへす【返す】。
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五十騎を出せば五十騎を出しあはせ、百騎を出せば
百騎を出しあはせ、両方百騎づつ陣の面にすすん
だり。互に勝負をせんとはやりけれども、源氏
の方よりせい【制】して勝負をせさせず。源氏は加様
にして日をくらし、平家の大勢をくりから【倶利伽羅】が谷へ
追おとさ【落さ】うどたばかりけるを、すこしもさとら
ずして、ともにあひしらひ日をくらす【暮す】こそはかな
けれ。次第にくらう【暗う】なりければ、北南よりまはつ
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る搦手の勢一万余騎、くりから【倶利伽羅】の堂の辺に
まはりあひ、えびらのほうだて打たたき、時を
どとぞつくりける。平家うしろをかへり見
ければ、白旗雲のごとくさしあげ【差し上げ】たり。「此山は
四方巌石であんなれば、搦手よもまはらじと
思ひつるに、こはいかに」とてさはぎ【騒ぎ】あへり。さる程
に、木曾殿大手より時の声をぞ合せ給ふ。松
長の柳原、ぐみの木林に一万余騎ひかへたり
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ける勢も、今井四郎が六千余〔騎〕でひの宮林【日埜宮林】
にありけるも、同く時をぞつくりける。前後
四万騎がおめく【喚く】声、山も河もただ一度にくづるる
とこそ聞えけれ。案のごとく、平家、次第にくらう
はなる、前後より敵はせめ【攻め】来る、「きたなしや、かへせ
かへせ」といふやからおほかり【多かり】けれ共、大勢の傾た
ちぬるは、左右なうとてかへす【返す】事かたければ、倶梨
迦羅が谷へわれ先P2074にとぞおとし【落し】ける。まさきに
P07038
すすんだる者が見えねば、「此谷の底に道のあるに
こそ」とて、親おとせ【落せ】ば子もおとし【落し】、兄おとせ【落せ】ば弟
もつづく。主おとせ【落せ】ば家子郎等おとし【落し】けり。馬
には人、人には馬、落かさなり落かさなり、さばかり深き谷一
を平家の勢七万余騎でぞうめたりける。巌
泉血をながし、死骸岳をなせり。さればその谷ほ
とりには、矢の穴刀の疵残て今にありとぞ承はる。
平家の方にはむねとたのま【頼ま】れたりける上総大
P07039
夫判官忠綱・飛弾大夫判官景高・河内判官
秀国も此谷にうづもれてうせにけり。備中国
住人瀬尾太郎兼康といふ聞ゆる大力も、そこ
にて加賀国住人蔵光次郎成澄が手にかかて、
いけどり【生捕】にせらる。越前国火打が城にてかへり
忠したりける平泉寺の長吏斎明威儀師も
とらはれぬ。木曾殿、「あまりにくきに、其法師をば
まづきれ」とてきられにけり。平氏大将維盛・通
P07040
盛、けう【稀有】の命生て加賀国へ引退く。七万余騎
がなかよりわづかに二千余騎ぞのがれたりける。明る
十二日、奥の秀衡がもとより木曾殿へ竜蹄二疋奉
る。やがて是に鏡鞍をい【置い】て、白山の社へ神馬にたて
られけり。木曾殿の給ひけるは、「今は思ふ事なし。
ただし十郎蔵人殿の志保のいくさ【軍】こそおぼつかな
けれ。いざゆひ【行い】てみん」とて、四万余騎〔が中より〕馬や人をすぐて、
二万余騎で馳向ふ。ひびの湊をP2075わたさんとするに、
P07041
折節塩みちて、ふかさ【深さ】あささをしら【知ら】ざりければ、鞍をき
馬【鞍置き馬】十疋ばかりおひ入たり。鞍爪ひた【浸】る程に、相違なく
むかひ【向ひ】の岸へ着にけり。「浅かりけるぞや、わたせ【渡せ】や」
とて、二万余騎の大勢皆打入てわたしけり。案
のごとく十郎蔵人行家、さんざん【散々】にかけなされ、ひき
退いて馬の息休る処に、木曾殿「さればこそ」
とて、荒手二万余騎入かへて、平家三万余騎が中へ
おめい【喚い】てかけ入、もみにもうで火出る程にぞ攻たりける。
P07042
平家の兵共しばしささへて防きけれ共、こらへずし
てそこをも遂に攻おとさ【落さ】る。平家の方には、大将軍
三河守知教【*知度】うたれ給ひぬ。是は入道相国の末子也。
侍共おほく【多く】ほろびにけり。木曾殿は志保の山打
こえて、能登の小田中、新王の塚の前に陣をとる。
篠原合戦S0707 そこにて諸社へ神領をよせられけり。白山へは
横江・宮丸、すがう【菅生】の社へはのみ【能美】の庄、多田の八幡へは
てうや【蝶屋】の庄、気比の社へははん原【飯原】の庄を寄進す。
P07043
平泉寺へは藤島七郷をよせられけり。一とせ石
橋の合戦の時、兵衛佐殿射たてまし者共都へ
にげのぼて、平家P2076の方にぞ候ける。むねとの者
には俣野五郎景久・長井斎藤別当実守【*実盛】・
伊藤【*伊東】九郎助氏【*祐氏】・浮巣三郎重親・ましも【真下】の四郎
重直、是等はしばらくいくさ【軍】のあらんまでやすまん
とて、日ごとによりあひよりあひ、巡酒をしてぞなぐさ
みける。まづ実守【*実盛】が許によりあひたりける時、
P07044
斎藤別当申けるは、「倩此世中の有様を見るに、
源氏の御方はつよく、平家の御方はまけ【負】色に
みえ【見え】させ給ひたり。いざをのをの【各々】木曾殿へまいら【参ら】
ふ」ど申ければ、みな「さなう」と同じけり。次日又浮
巣三郎がもとによりあひたりける時、斎藤別
当「さても昨日申し事はいかに、をのをの【各々】」。そのなかに
俣野五郎すすみ出て申けるは、「我等はさすが東国
では皆、人にしられて名ある者でこそあれ、吉に
P07045
ついてあなたへまいり【参り】、こなたへまいら【参ら】ふ事も見ぐる
しかるべし。人をばしり【知り】まいらせ【参らせ】ず、景久にをいて
は平家の御方にていかにもならう」ど申ければ、斎藤
別当あざわら【笑つ】て、「まこと【誠】には、をのをの【各々】の御心どもを
かなびき奉らんとてこそ申たれ。そのうへ実守【*実盛】
は今度のいくさ【軍】に討死せうど思ひきて候ぞ。二度
都へまいる【参る】まじきよし人々にも申をい【置い】たり。大
臣殿へも此やうを申あげて候ぞ」といひければ、みな
P07046
人此儀にぞ同じける。さればその約束をたがへ【違へ】じとや、
当座にありし者共、一人も残らず北国にて皆死
にけるこそむざんなれ。P2077さる程に、平家は人馬の
いきをやすめて、加賀国しの原【篠原】に陣をとる。同
五月廿一日の辰の一点に、木曾しの原【篠原】にをし【押し】よせ【寄せ】
て時をどとつくる。平家の方には畠山庄司重
能・小山田の別当有重、去る治承より今まで
めし【召し】こめられたりしを、「汝等はふるひ【古い】者共也。いくさ【軍】
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の様をもをきてよ【掟てよ】」とて、北国へむけられたり。是
等兄弟三百余騎で陣のおもてにすすんだり。
源氏の方より今井四郎兼平三百余騎でう
ちむかふ【向ふ】。畠山、今井四郎、はじめは互に五騎十騎
づつ出しあはせて勝負をせさせ、後には両方乱
あふ【逢う】てぞたたかひ【戦ひ】ける。五月廿一日の午の剋、草もゆ
るがず照す日に、我おとらじとたたかへば、遍身よ
り汗出て水をながすに異ならず。今井が方にも
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兵おほく【多く】ほろびにけり。畠山家子郎等残ずく
なに討なされ、力およばでひき退く。次平家の
方より高橋判官長綱、五百余騎ですすんだり。
木曾殿の方より樋口次郎兼光・おちあひの
五郎兼行、三百余騎で馳向ふ。しばしささへてたた
かひ【戦ひ】けるが、高橋が勢は国々のかり【駆】武者なれば、一騎
もおち【落ち】あはず、われ先にとこそ落行けれ。高橋
心はたけくおもへ【思へ】ども、うしろあばらになりければ、
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力及ばで引退く。ただ一騎落て行ところ【所】に、越中国
の住人入善の小太郎行重、よい敵と目をかけ、鞭
あぶみをあはせて馳来り、おしならべてむずとく
む。高P2078橋、入善をつかうで、鞍の前輪におしつけ、
「わ君はなにものぞ、名のれきかう」どいひければ、
「越中国の住人、善小太郎行重、生年十八歳」と
なのる【名乗る】。「あなむざん、去年をくれ【遅れ】し長綱が子も、
ことしはあらば十八歳ぞかし。わ君ねぢきて
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すつべけれ共、たすけん」とてゆるしけり。わが身も
馬よりおり、「しばらくみ方の勢またん」とてやすみ
ゐたり。入善「われをばたすけたれ共、あぱれ敵
や、いかにもしてうたばや」と思ひ居たる処に、高
橋うちとけて物語しけり。入善勝たるはやわ
ざのおのこ【男】で、刀をぬき、とんでかかり、高橋がうち
かぶとを二刀さす。さる程に、入善が郎等三騎、をく
れ【遅れ】ばせ【馳】に来ておち【落ち】あふたり。高橋心はたけく
P07051
おもへ【思へ】ども、運やつきにけん、敵はあまたあり、いた手【痛手】
はおう【負う】つ、そこにて遂にうたれにけり。又平家
のかたより武蔵三郎左衛門有国、三百騎ばかりで
おめい【喚い】て。源氏の方より仁科・高梨・山田次郎、五
百余騎で馳むかふ【向ふ】。しばしささへてたたかひ【戦ひ】けるが、有
国が方の勢おほく【多く】うたれぬ。有国ふか入してたた
かふ【戦ふ】程に、矢だね皆い【射】つくして、馬をもいさせ、かち
だちになり、うち物ぬいてたたかひ【戦ひ】けるが、敵あまた
P07052
うちとり、矢七つ八いたてられて、立じににこそ死に
けれ。大将軍か様【斯様】に成しかば、其勢皆おち【落ち】行ぬ。P2079
真盛【*実盛】S0708 又武蔵国の住人長井斎藤別当実守【*実盛】、みかたは
皆おち【落ち】ゆけ共、ただ一騎かへしあはせ返しあはせ防
たたかふ【戦ふ】。存ずるむねありければ、赤地の錦の直垂に、
もよぎおどしの鎧きて、くはがたうたる甲の緒を
しめ、金作りの太刀をはき、きりう【切斑】の矢おひ【負ひ】、滋藤
の弓もて、連銭葦毛なる馬にきぶくりん【黄覆輪】の
P07053
鞍おひ【置い】てぞの【乗つ】たりける。木曾殿の方より手塚の
太郎光盛、よい敵と目をかけ、「あなやさし、いかなる人
にて在せば、み方の御勢は皆落候に、ただ一騎の
こらせ給ひたるこそゆう【優】なれ。なのら【名乗ら】せ給へ」と詞
をかけければ、「かういふわどのはた【誰】そ」。「信濃国の住人
手塚太郎金刺光盛」とこそなの【名乗つ】たれ。「さてはた
がひによい敵ぞ。但わどのをさぐるにはあらず、存ず
るむねがあれば名のるまじいぞ。よれくまう手塚」と
P07054
ておしならぶるところ【所】に、手塚が郎等をくれ【遅れ】馳にはせ
来て、主をうたせじとなかにへだたり、斎藤別当
にむずとくむ。「あぱれ、をのれ【己】は日本一の剛の者に
ぐんでうずな、うれ」とて、とて引よせ、鞍のまへわに
おしつけ、頸かききて捨てげり。手塚太郎、郎等が
うたるるをみて、弓手にP2080まはりあひ、鎧の草摺ひき
あげて二刀さし、よはる【弱る】処にくんでおつ。斎藤別当
心はたけくおもへ【思へ】ども、いくさ【軍】にはしつかれぬ、其上老
P07055
武者ではあり、手塚が下になりにけり。又手塚が郎等
をくれ【遅れ】馳にいできたるに頸とらせ、木曾殿の御まへ
に馳まい【参つ】て、「光盛こそ奇異のくせ者【曲者】くんでうて候へ。
侍かとみ候へば錦の直垂をきて候。大将軍かとみ
候へばつづく勢も候はず。名のれ名のれとせめ候つれ共、つ
ゐに【遂に】なのり【名乗り】候はず。声は坂東声で候つる」と申
せば、木曾殿「あぱれ、是は斎藤別当であるごさんめれ。
それならば義仲が上野へこえたりし時、おさな
P07056
目【幼目】に見しかば、しらがのかすを【糟尾】なりしぞ。いまは定て
白髪にこそなりぬらんに、びんぴげのくろいこそあ
やしけれ。樋口次郎はな【馴】れあそで見〔し〕たるらん。樋口
めせ」とてめされけり。樋口次郎ただ一目みて、「あなむざん
や、斎藤別当で候けり」。木曾殿「それならば今は七十
にもあまり、白髪にこそなりぬらんに、びんぴげのくろ
いはいかに」との給へば、樋口次郎涙をはらはらとながい【流い】て、
「さ候へばそのやうを申あげうど仕候が、あまり哀で
P07057
不覚の涙のこぼれ候ぞや。弓矢とりはいささかの所
でも思ひでの詞をば、かねてつがゐをく【置く】べきで候
ける物かな。斎藤別当、兼光にあふ【逢う】て、つねは物語に
仕候し。「六十にあまていくさ【軍】の陣へむかはん時は、びんぴ
げをくろうP2081染てわかやがうどおもふなり。そのゆへ【故】は、
わか殿原にあらそひてさきをかけんもおとなげなし、
又老武者とて人のあなどらんも口惜かるべし」と申
候しが、まこと【誠】に染て候けるぞや。あらは【洗は】せて御らん候へ」
P07058
と申ければ、「さもあるらん」とて、あらはせて見給へば、
白髪にこそ成にけれ。錦の直垂をきたりける
事は、斎藤別当、最後のいとま申に大臣殿へ
まい【参つ】て申けるは、「実守【*実盛】が身ひとつの事では候
はね共、一年東国へむかひ【向ひ】候し時、水鳥の羽音
におどろいて、矢ひとつだにもいずして、駿河の
かん原【蒲原】よりにげのぼて候し事、老後の恥辱ただ
此事候。今度北国へむかひ【向ひ】ては、討死仕候べし。
P07059
さらんにとては、実守【*実盛】もと越前国の者で候しか共、近
年御領につゐ【付い】て武蔵の長井に居住せしめ候き。
事の喩候ぞかし。古郷へは錦をきて帰れといふ
事の候。錦の直垂御ゆるし候へ」と申ければ、大臣
殿「やさしう申たる物かな」とて、錦の直垂を御免
ありけるとぞきこえし。昔の朱買臣は錦の袂
を会稽山に翻し、今の斎藤別当は其名を北国
の巷にあぐとかや。朽もせぬむなしき名のみとど
P07060
め【留め】をきて、かばねは越路の末の塵となるこそかな
しけれ。去四月十七日、十万余騎にて都を立し
事がらは、なに面をむかふ【向ふ】べしともみえざりしに、
今五月下旬に帰りのぼるには、其勢わづかに二万
余騎、「流をつくP2082してすなどる時は、おほく【多く】のうを【魚】を
う【得】といへども、明年に魚なし。林をやいてか【狩】る時
は、おほく【多く】のけだもの【獣】をう【得】といへども、明年に獣なし。
後を存じて少々はのこさるべかりける物を」と申
P07061
人々もありけるとかや。還亡S0709これをはじめておやは子にお
くれ、婦は夫にわかれ、凡遠国近国もさこそあり
けめ、京中には家々に門戸を閉て、声々に念仏
申おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】事おびたたし【夥し】。六月一日、蔵人
右衛門権佐定長、神祇権少副大中臣親俊を殿
上の下口へめして、兵革しづまらば、大神宮へ行
幸なるべきよし仰下さる。大神宮は高間原よ
り天くだらせ給ひしを、崇神天皇の御宇廿五
P07062
年三月に、大和国笠縫の里より伊勢国わたら
ゐ【度会】の郡五十鈴の河上、したつ【下津】石根に大宮柱を
ふとしき【太敷】たて、祝そめたてまてよりこのかた、日本
六十余州、三千七百五十余社の、大小の神祇冥道の
なかには無双也。されども代々の御門臨幸はなかりし
に、奈良御門の御時、左大臣不比等の孫、参議式
部卿宇合の子、右近衛権少将兼太宰少弐藤
原広嗣といふ人ありけり。天平十五年十月、肥前国
P07063
松浦P2083郡にして、数万の凶賊をかたらて国家を
既にあやぶめんとす。これによて大野のあづま人を
大将軍にて、広嗣追討せられし時、はじめて大神宮
へ行幸なりけるとかや。其例とぞ聞えし。彼広嗣は
肥前の松浦より都へ一日におりのぼる馬をもち
たりけり。追討せられし時も、みかたの凶賊おち【落ち】ゆき、
皆亡て後、件の馬にうちの【乗つ】て、海中へ馳入けると
ぞ聞えし。その亡霊あ【荒】れて、おそろしき【恐ろしき】事共おほ
P07064
かり【多かり】けるなかに、天平十六年六月十八日、筑前国見かさ【見笠】
の郡太宰府観世音寺、供養ぜられける導師
には、玄房僧正とぞ聞えし。高座にのぼり、敬白の
鐘うちならす時、俄に空かきくもり、雷ちおびたた
しう【夥しう】鳴て、玄房の上におち【落ち】かかり、その首をとて
雲のなかへぞ入にける。〔広嗣〕調伏したりけるゆへ【故】とぞ
聞えし。彼僧正は、吉備大臣入唐の時あいともなて、
法相宗わたしたりし人也。唐人が玄房といふ名を
P07065
わら【笑つ】て、「玄房とはかへ【還つ】てほろぶといふ音あり。いかさまにも
帰朝の後事にあふべき人也」と相したりけるとかや。同
天平十九年六月十八日、しやれかうべに玄房といふ銘を
かいて、興福寺の庭におとし【落し】、虚空に人ならば千人ば
かりが声で、どとわらふ【笑ふ】事ありけり。興福寺は法相
宗の寺たるによて也。彼僧正の弟子共是をとて
つか【塚】をつき、其首をおさめ【納め】て頭P2084墓と名付て今に
あり。是則広嗣が霊の致すところ【所】也。是によて
P07066
彼亡霊を崇られて、今松浦の鏡の宮と号す。嵯
峨皇帝の御時は、平城の先帝、内侍のかみのすすめに
よて世をみだり給ひし時、その御祈のために、御門
第三の皇女ゆうち【有智】内親王を賀茂の斎院に奉らせ【立て参らせ】
給ひけり。是斎院のはじめ也。朱雀院の御宇には、将
門・純友が兵乱によて、八幡の臨時の祭をはじめ
らる。今度も加様の例をもてさまざまの御祈共はじ
められけり。木曾山門牒状S0710 木曾、越前の国府について、家子郎等
P07067
めしあつめて評定す。「抑義仲近江国をへてこそ都へ
はいらむずるに、例の山僧どもは防事もやあらんずらん。
か【駆】け破てとをら【通ら】ん事はやすけれども、平家こそ当
時は仏法共いはず、寺をほろぼし、僧をうしなひ【失ひ】、
悪行をばいたせ、それを守護のために上洛せんも
のが、平家とひとつなればとて、山門の大衆にむかて
いくさ【軍】せん事、すこしもたがは【違は】ぬ二の舞なるべし。是こ
そさすがやす【安】大事よ。いかがせん」との給へば、手書に
P07068
ぐせ【具せ】P2085られたる大夫房覚明申けるは、「山門の衆徒は三千
人候。必ず一味同心なる事は候はず、皆思々心々に候也。
或は源氏につかんといふ衆徒も候らん、或は又平家に
同心せんといふ大衆も候らん。牒状をつかはして御らん候へ。
事のやう【様】返牒にみえ【見え】候はんずらん」と申ければ、「此儀
尤もしかるべし。さらばかけ【書け】」とて、覚明に牒状かかせ
て、山門へをくる【送る】。其状に云、義仲倩平家の悪逆
を見るに、保元平治よりこのかた、ながく人臣の礼を
P07069
うしなう。雖然、貴賎手をつかね、緇素足をいただ
く。恣に帝位を進退し、あく【飽く】まで国郡をりよ
領【虜領】ず。道理非理を論ぜず、権門勢家を追補【*追捕】
し、有財無財をいはず、卿相侍臣を損亡す。其資
財を奪取て悉郎従にあたへ、彼庄園を没取
して、みだりがはしく子孫にはぶく。就中に去治承
三年十一月、法皇を城南の離宮に移し奉り、
博陸を海城の絶域に流し奉る。衆庶物いはず、
P07070
道路目をもてす。しかのみならず、同四年五月、二の
宮の朱閣をかこみ奉り、九重の垢塵をおどろかさ
しむ。爰に帝子非分の害をのがれむがために、
ひそかに園城寺へ入御の時、義仲先日に令旨
を給るによて、鞭をあげんとほする処に、怨敵
巷にみちて予参道をうしなふ。近境の源氏
猶参候せず、况や遠境においてをや。しかる
を園城者分限なきによて南都へをもむか【赴むか】しP2086
P07071
め給ふ間、宇治橋にて合戦す。大将三位入道頼政父子、命
をかろんじ、義をおもんじて、一戦の功をはげますと
いへ共、多勢のせめ【攻め】をまぬかれず、形骸を古岸の苔に
さらし、性命を長河の浪にながす。令旨の趣肝に
銘じ、同類のかなしみ魂をけつ。是によて東国
北国の源氏等をのをの【各々】参洛を企て、平家をほろ
ぼさんとほす。義仲去じ年の秋、宿意を達
せんがために、旗をあげ剣をとて信州を出し日、
P07072
越後国の住人城四郎長茂、数万の軍兵を率して
発向せしむる間、当国横田河〔原〕にして合戦す。義
仲わづかに三千余騎をもて、彼兵を破りおはぬ。
風聞ひろきに及で、平氏の大将十万の軍士を
率して北陸に発向す。越州・賀州・砥浪・黒坂・塩
坂・篠原以下の城郭にして数ケ度合戦す。策
を惟幕の内にめぐらして、勝事を咫尺のもと
にえたり。しかるをうてば必ず伏し、せむれば必ず
P07073
くだる。秋の風の芭蕉を破に異ならず、冬の霜
の群ゆうをか【枯】らすに同じ。是ひとへに神明仏陀
のたすけ也。更に義仲が武略にあらず。平氏敗北
のうへは参洛を企る者也。今叡岳の麓を過て
洛陽の衢に入べし。此時にあたてひそかに疑貽
あり。抑天台衆徒平家に同心歟、源氏に与力歟。若
彼悪徒をたすけらるべくは、衆徒にむかて合戦
すべし。若合戦をいたさば叡岳の滅亡踵をめぐ
P07074
らすべからず。悲哉、平氏P2087震襟【*宸襟】を悩し、仏法をほろぼ
す間、悪逆をしづめんがために義兵を発す処に、忽
に三千の衆徒に向て不慮の合戦を致ん事を。
痛哉、医王山〔王〕に憚奉て、行程に遅留せしめば、
朝廷緩怠の臣として武略瑕瑾のそしりをのこ
さん事を。みだりがはしく進退に迷て案内を啓す
る所也。乞願は三千の衆徒、神のため、仏のため、国の
ため、君のために、源氏に同心して凶徒を誅し、鴻
P07075
化に浴せん。懇丹の至に堪ず。義仲恐惶謹言。寿
永二年六月十日源義仲進上恵光坊律師御房とぞ
かい【書い】たりける。返牒S0711 案のごとく、山門の大衆此状を披見して、
僉議まちまち也。或は源氏につかんといふ衆徒もあり、或
は又平家に同心せんといふ大衆もあり。おもひおもひ【思ひ思ひ】異
儀まちまち也。老僧共の僉議しけるは、「詮る所、我等
もぱら金輪聖主天長地久と祈奉る。平家は
当代の御外戚、山門にをいて帰敬をいたさる。され
P07076
ば今P2088に至るまで彼繁昌を祈誓す。しかりといへども、
悪行法に過て万人是をそむく。討手を国々へ
つかはすといへども、かへて【却つて】異賊のためにおとさ【落さ】れぬ。源
氏は近年よりこのかた、度々のいくさ【軍】に討勝て運
命ひらけんとす。なんぞ当山ひとり宿運つき
ぬる平家に同心して、運命ひらくる源氏をそ
むかんや。すべからく平家値遇の儀を翻して、
源氏合力の心に住すべき」よし、一味同心に僉議し
P07077
て、返牒ををくる【送る】。木曾殿又家子郎等めしあつめて、
覚明に此返牒をひらかせらる。六月十日の牒状、同
十六日到来、披閲のところ【所】数日の鬱念一時に解
散す。凡平家の悪逆累年に及で、朝廷の騒動
やむ時なし。事人口にあり、異失するにあたはず。夫叡
岳にいたては、帝都東北の仁祠として、国家静謐
の精祈をいたす。しかるを一天久しく彼夭逆に
をかされて、四海鎮に其安全をえず。顕密の法
P07078
輪なきが如く、擁護の神感しばしばすたる。爰貴下適累
代武備の家に生て、幸に当時政善の仁たり。予奇
謀をめぐらして忽に義兵をおこす。万死の命を
忘て一戦の功をたつ。其勢いまだ両年をすぎざる
に其名既に四海にながる。我山の衆徒、かつがつ以承悦
す。国家のため、累家のため、武功を感じ、武略を感ず。
かくの如くならば則山上の精祈むなしからざる事
を悦び、海内の恵護おこたりなき事をしん【知ん】ぬ。
P07079
自寺他寺、常住の仏P2089法、本社末社、祭奠の神明、定
て教法の二たび【二度】さかへ【栄え】ん事を悦び、崇敬のふるき
に服せん事を随喜し給ふらん。衆徒等が心中、只賢察
をた【垂】れよ。然則、冥には十二神将、忝く医王善逝の
使者として凶賊追討の勇士にあひくははり【加はり】、顕
には三千の衆徒しばらく修学讃仰の勤節を止て、
悪侶治罰の官軍をたすけしめん。止観十乗の梵
風は奸侶を和朝の外に払ひ、瑜伽三蜜【三密】の法雨は
P07080
時俗を■年の昔にかへさ【返さ】ん。衆儀かくの如し。倩これ
を察よ。寿永二年七月二日大衆等とぞかいたりける。
平家山門連署S0712平家はこれをしらずして、「興福園城両寺は鬱
憤をふくめる折節なれば、かたらふ共よもなびかじ。当家
はいまだ山門のためにあたをむすばず、山門又当家
のために不忠を存ぜず。山王大師に祈誓して、
三千の衆徒をかたらはばや」とて、一門の公卿十人、同
心連署の願書をかいて山門へをくる【送る】。其状に云、
P07081
敬白、延暦寺をもて氏寺に准じ、日吉の社をもて
氏社として、一向天P2090台の仏法を仰べき事。右当家
一族の輩、殊に祈誓する事あり。旨趣如何者、叡
山は是桓武天皇の御宇、伝教大師入唐帰朝の
後、天台の仏法を此所にひろめ、遮那の大戒を其
内に伝てよりこのかた、専仏法繁昌の霊崛と
して、鎮護国家の道場にそなふ。方に今、伊豆国
の流人源頼朝、其咎を悔ず、かへて【却つて】朝憲を嘲る。
P07082
しかのみならず奸謀にくみして同心をいたす源氏
等、義仲行家以下党を結て数あり。隣境遠境
数国を掠領して、土宜土貢万物を押領す。
これによて或は累代勲功の跡をおひ、或は当時弓
馬の芸にまかせて、速に賊徒を追討し、凶党
を降伏すべきよし、いやしくも勅命をふくんで、頻
に征罰を企つ。爰に魚鱗鶴翼の陣、官軍利
をえず、聖謀てん戟【*電戟】の威、逆類勝に乗に似たり。若
P07083
神明仏陀の加備にあらずは、争か反逆の凶乱をしづ
めん耳。何况や、忝く臣等が曩祖をおもへ【思へ】ば、本願の
余裔といつべし。弥崇重すべし、弥恭敬すべ
し。自今以後山門に悦あらば一門の悦とし、社家に
憤あらば一家の憤とせん、をのをの【各々】子孫に伝て
ながく失堕せじ。藤氏は春日社興福寺をもて
氏社氏寺として、久しく法相大乗の宗を帰す。
平氏は日吉社延暦寺をもて氏社氏寺として、
P07084
まのあたり円実頓悟の教に値遇せん。かれはむかしのP2091
ゆい跡【遺跡】也、家のため、栄幸をおもふ。これは今の精祈也、
君のため、追罰をこふ【乞ふ】。仰願は、山王七社王子眷属、
東西満山護法聖衆、十二上願日光月光、医王善
逝、無二の丹誠を照して唯一の玄応を垂給へ。然則
逆臣の賊、手を君門につかね、暴逆残害の輩、首を
京土に伝ん。仍当家の公卿等、異口同〔音〕に雷をなし
て祈誓如件。従三位行兼越前守平朝臣通盛従
P07085
三位行兼右近衛中将平朝臣資盛正三位行左近衛
権中将兼伊与【*伊予】守平朝臣維盛正三位行左近衛中
将兼幡摩【*播磨】守平朝臣重衡正三位行右衛門督兼
近江遠江守平朝臣清宗参議正三位皇大后宮
大夫兼修理大夫加賀越中守平朝臣経盛従二位
行中納言兼左兵衛督征夷大将軍平朝臣知盛従
二位行権中納言兼肥前守平朝臣教盛正二位行
権大納言兼出羽陸奥按察使平朝臣頼盛従一位平
P07086
朝臣宗盛寿永二年七月五日敬白P2092とぞかかれたる。貫首
是を憐み給ひて、左右なうも披露せられず、十禅師
の御殿にこめて、三日加持して、其後衆徒に披露
せらる。はじめはありともみえ【見え】ざりし一首の歌、願書
のうは【上】巻にできたり。
たいらか【平か】に花さくやど【宿】も年ふれば
西へかたぶく月とこそなれ W050
山王大師あはれみをたれ給ひ、三千の衆徒力を合せ
P07087
よと也。されども年ごろ日ごろのふるまひ、神慮にもた
がい【違ひ】、人望にもそむきにければ、いのれ共かなは【叶は】ず、かたらへ共
なびかざりけり。大衆まこと【誠】に事の体をば憐みけれ
共、「既に源氏に同心の返牒ををくる【送る】。今又かろがろ敷
其儀をあらたむるにあたはず」とて、是を許容する
衆徒もなし。主上都落S0713同七月十四日、肥後守貞能、鎮西の謀
反たいらげ【平げ】て、菊池・原田・松浦党以下三千余騎を
めし具して上洛す。鎮西は纔にたいらげ【平げ】ども、東国北
P07088
国のいくさ【軍】いかにもしづまらず。P2093同廿二日の夜半ばかり、六波
羅の辺おびたたしう【夥しう】騒動す。馬に鞍をき【置き】腹帯し
め、物共東西南北へはこびかくす。ただ今敵のうち入さま
也。あけて後聞えしは、美濃源氏佐渡衛門尉重貞
といふ者あり、一とせ保元の合戦の時、鎮西の八郎為朝
がかた【方】のいくさ【軍】にまけて、おちうとになたりしを、からめていだし
たりし勧賞に、もとは兵衛尉たりしが右衛門尉になりぬ。
是によて一門にはあた【仇】まれて平家にへつらひ
P07089
けるが、其夜の夜半ばかり、六波羅に馳まい【参つ】て申けるは、
「木曾既に北国より五万余騎でせめ【攻め】のぼり、比叡山東
坂本にみちみちて候。郎等に楯の六郎親忠、手書に
大夫房覚明、六千余騎で天台山にきをひ【競ひ】のぼり、三
千の衆徒皆同心して只今都へ攻入」よし申たりける
故也。平家の人々大にさはい【騒い】で、方々へ討手をむけら
れけり。大将軍には、新中納言知盛卿、本三位中将重
衡卿、都合其勢三千余騎、都を立てまづ山階に
P07090
宿せらる。越前三位通盛、能登守教経、二千余騎で
宇治橋をかためらる。左馬頭行盛、薩摩守忠教【*忠度】、一
千余騎で淀路を守護せられけり。源氏の方には
十郎蔵人行家、数千騎で宇治橋より入とも聞え
けり。陸奥新判官義康が〔子〕、矢田判官代義清、大江
山をへて上洛すとも申あへり。摂津国河内の源氏等、
雲霞の如くに同都へみだれ入よし聞えしかば、平
家の人々「此上はただ一所でいかにもなり給P2094へ」とて、方々
P07091
へむけられたる討手共、都へ皆よびかへさ【返さ】れけり。帝都
名利地、鶏鳴て安き事なし。おさまれ【納まれ】る世だにもかくの
如し。况や乱たる世にをいてをや。吉野山の奥のおくへも入
なばやとはおぼしけれ共、諸国七道悉そむきぬ。いづれの浦
かおだしかるべき。三界無安猶如火宅とて、如来の金言
一乗の妙文なれば、なじかはすこしもたがふ【違ふ】べき。同七月廿四
日のさ夜ふけがたに、前内大臣宗盛公、建礼門院のわ
たらせ給ふ六波羅殿へまい【参つ】て申されけるは、「此世の中
P07092
のあり様、さりともと存候つるに、いまはかうにこそ候めれ。ただ
都のうちでいかにもならんと、人々は申あはれ候へども、まのあ
たりうき目を見せまいらせ【参らせ】んも口惜候へば、院をも内を
もとり奉て、西国の方へ御幸行幸をもなしまいらせ【参らせ】て
みばやとこそ思ひなて候へ」と申されければ、女院「今はただ
ともかうも、そこのはからひにてあらんずらめ」とて、御衣の御
袂にあまる御涙せきあへさせ給はず。大臣殿も直衣の
袖しぼる斗にみえ【見え】られけり。其夜法皇をば
P07093
内々平家のとり奉て、都の外へ落行べしといふ
事をきこしめさ【聞し召さ】れてやありけん、按察大納言
資方【*資賢】卿の子息、右馬頭資時斗御供にて、ひそかに
御所を出させ給ひ、鞍馬へ御幸なる。人是をしら
ざりけり。平家の侍橘P2095内左衛門尉季康といふ者
あり。さかざか【賢々】しきおのこ【男】にて、院にもめしつかはれけり。其
夜しも法住寺殿に御とのゐして候けるに、つねの御
所のかた、よにさはがしう【騒がしう】ざざめきあひて、女房達
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しのびね【忍び音】になきなどし給へば、何事やらんと聞程に、「法
皇の俄にみえ【見え】させ給はぬは。いづ方へ御幸やらん」と
いふ声にききなしつ。「あなあさまし」とて、やがて六波羅
へ馳まいり【参り】、大臣殿に此由申ければ、「いで、ひが事でぞ
あるらん」との給ひながら、ききもあへず、いそぎ法住寺
殿へ馳まい【参つ】て見まいらせ【参らせ】給へば、げにみえ【見え】させ給はず。
御前に候はせ給ふ女房達、二位殿丹後殿以下一人も
はたらき給はず。「いかにやいかに」と申されけれ共、「われこそ
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御ゆくゑ【行方】しりまいらせ【参らせ】たれ」と申さるる人一人もおはせ
ず、皆あきれたるやう也けり。さる程に、法皇都の
内にもわたらせ給はずと申程こそありけれ、京中
の騒動なのめならず。况や平家の人々のあはて【慌て】さは
が【騒が】れけるありさま、家々に敵の打入たり共、かぎりあれば、
是には過じとぞ見えし。日ごろは平家院をも内
をもとりまいらせ【参らせ】て、西国の方へ御幸行幸をもなし
奉らんと支度せられたりしに、かく打すてさせ給ひ
P07096
ぬれば、たのむ【頼む】木のもとに雨のたまらぬ心地ぞせられける。
「さりとては行幸ばかりなり共なしまいらせよ【参らせよ】」とて、卯剋
ばかりに既に行幸P2096の御こし【御輿】よせたりければ、主上は
今年六歳、いまだいとけなうましませば、なに心もなうめ
されけり。国母建礼門院御同輿にまいら【参ら】せ給ふ。内侍
所、神璽、宝剣わたし奉る。「印鑰、時札、玄上、鈴か【鈴鹿】など
もとりぐせよ【具せよ】」と平大納言下知せられけれ共、あまりにあ
はて【慌て】さはい【騒い】でとりおとす【落す】物ぞおほかり【多かり】ける。日の御座御
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剣などもとりわすれさせ給ひけり。やがて此時忠卿、内蔵
頭信基、讃岐中将時実三人ばかりぞ、衣冠にて供奉
せられける。近衛づかさ、御綱のすけ、甲冑をよろい【鎧ひ】弓
箭を帯して供奉せらる。七条を西へ、朱雀を南へ
行幸なる。明れば七月廿五日也。漢天既にひらきて、雲
東嶺にたなびき、あけがたの月しろく【白く】さえて、鶏
鳴又いそがはし。夢にだにかかる事はみず。一とせ都
うつりとて俄にあはたたしかりしは、かかるべかり
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ける先表共今こそおもひ【思ひ】しられけれ。摂政殿も行幸
に供奉して御出なりけるが、七条大宮にてびんづら
ゆひたる童子の御車の前をつと走りとおる【通る】を
御覧ずれば、彼童子の左の袂に、春の日といふ文字ぞ
あらはれたる。春の日とかいてはかすがとよめば、法相擁
護の春日大明神、大織冠の御末をまもら【守ら】せ給ひけり
と、たのもしう【頼もしう】おぼしめす【思し召す】ところ【所】に、P2097件の童子の
声とおぼしくて、
P07099
いかにせん藤のすゑ葉のかれゆくを
ただ春の日にまかせてやみん W051
御供に候進藤左衛門尉高直ちかうめして、「倩事
のていを案ずるに、行幸はなれ共御幸もならず。
ゆく末たのもから【頼もしから】ずおぼしめす【思し召す】はいかに」と仰ければ、
御牛飼に目を見あはせたり。やがて心得て御車を
やりかへし、大宮をのぼりに、とぶが如くにつかまつる。
北山の辺知足院へいら【入ら】せ給ふ。維盛都落S0714平家の侍越中
P07100
次郎兵衛盛次【*盛嗣】、是を承はておひとどめ【留め】まいらせ【参らせ】んと頻
にすすみけるが、人々にせい【制】せられてとどまりけり。小
松三位中将維盛は、日ごろよりおぼしめし【思し召し】まうけられ
たりけれ共、さしあたてはかなしかりけり。北の方と申
は、故中御門新大納言成親卿の御むすめ也。桃顔
露にほころび、紅粉眼に媚をなし、柳髪風にみだ
るるよそほひ、又人あるべしとも見え給はず。六代御前
とて、生年十になり給ふ若公、その妹八歳の姫君おはし
P07101
けり。此人々皆をくれ【遅れ】じとしたひ【慕ひ】給へば、三位中将の
給ひP2098けるは、「日ごろ申し様に、われは一門に具して西国
の方へ落行也。いづくまでも具し奉るべけれ共、道にも
敵待なれば、心やすうとおら【通ら】ん事も有がたし。たといわれ
うたれたりと聞給ふ共、さまなどかへ給ふ事はゆめゆめ
あるべからず。そのゆへ【故】は、いかならん人にも見えて、身
をもたすけ、おさなき【幼き】者共をもはぐくみ給ふべし。
情をかくる人もなど〔か〕なかるべき」と、やうやうになぐさめ
P07102
給へ共、北方とかうの返事もし給はず、ひきかづきてぞ
ふし給ふ。すでにたたんとし給へば、袖にすがて、「都には
父もなし、母もなし。捨られまいらせ【参らせ】て後、又誰にかはみゆ
べきに、いかならん人にも見えよなど承はるこそうらめし
けれ【恨めしけれ】。前世の契ありければ、人こそ憐み給ふ共、又人ごとに
しもや情をかくべき。いづくまでもともなひ奉り、
同じ野原の露ともきえ、ひとつ底のみくづとも
ならんとこそ契しに、さればさ夜のね覚のむつごと
P07103
は、皆偽になりにけり。せめては身ひとつならばいかが
せん、すてられ奉る身のうさをおもひ【思ひ】し【知つ】てもとどまり
なん、おさなき【幼き】者共をば、誰にみゆづり、いかにせよとか
おぼしめす。うらめしう【恨めしう】もとどめ【留め】給ふ物哉」と、且はうら
み【恨み】且はしたひ給へば、三位中将の給ひけるは、「誠に人は
十三、われは十五より見そめ奉り、火のなか水の底へも
ともにいり、ともにしづみ、限ある別路までも、をくれ【遅れ】
先だたじP2099とこそ申しか共、かく心うきありさまにて
P07104
いくさ【軍】の陣へおもむけば、具足し奉り、ゆくゑ【行方】もしらぬ
旅の空にてうき目をみせ【見せ】奉らんもうたてかるべし。
其上今度は用意も候はず。いづくの浦にも心やすう
落ついたらば、それよりしてこそむかへに人をもたて
まつら【奉ら】め」とて、おもひ【思ひ】きてぞたたれける。中門の廊に
出て、鎧とてき【着】、馬ひきよせさせ、既にのらんとし給へば、
若公姫君はしりいでて、父の鎧の袖、草摺に取つ
き、「是はさればいづちへとて、わたらせ給ふぞ。我もま
P07105
いら【参ら】ん、われもゆかん」とめんめん【面々】にしたひなき給ふにぞ、うき世
のきづなとおぼえて、三位中将いとどせんかたなげには
見えられける。さる程に、御弟新三位中将資盛卿・
左中将清経・同少将有盛・丹後侍従忠房・備中
守師盛兄弟五騎、乗ながら門のうちへ打入り、庭に
ひかへて、「行幸は遥にのびさせ給ひぬらん。いかにや今
まで」と声々に申されければ、三位中将馬にうちの【乗つ】て
いで給ふが、猶ひ【引つ】かへし、■のきはへうちよせて、弓の
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はずで御簾をざとかきあげ、「是御覧ぜよ、おのおの。
おさなき【幼き】者共があまりにしたひ候を、とかうこしらへを
か【置か】んと仕る程に、存の外の遅参」との給ひもあへず
なか【泣か】れければ、庭にひかへ給へる人々皆鎧の袖をぞ
ぬらされける。ここに斎藤五、斎藤六とて、兄は十九、
弟は十七になる侍あり。三位中将のP2100御馬の左右の
みづつきにとりつき【取り付き】、いづくまでも御供仕るべき
由申せば、三位中将の給ひけるは、「をのれら【己等】が父
P07107
斎藤別当北国へくだし時、汝等が頻に供せうどいひ
しか共、「存るむねがあるぞ」とて、汝等をとどめ【留め】をき、
北国へくだて遂に討死したりけるは、かかるべかり
ける事を、ふるい【古い】者でかねて【予て】知たりけるにこそ。
あの六代をとどめ【留め】て行に、心やすうふち【扶持】すべき者
のなきぞ。ただ理をまげてとどまれ」との給へば、力
をよば【及ば】ず、涙ををさへてとどまりぬ。北方は、「とし
ごろ日比是程情なかりける人とこそ兼てもおも
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は【思は】ざりしか」とて、ふしまろびてぞなかれける。若公姫君女
房達は、御簾の外までまろび出て、人の聞をもはばか
らず、声をはかりにぞおめき【喚き】さけび【叫び】給ひける。此
声々耳の底にとどま【留まつ】て、西海のたつ浪のうへ、吹風
の音までも聞様にこそおもは【思は】れけめ。平家都を落
行に、六波羅・池殿・小松殿、八条・西八条以下、一門の卿
相雲客の家々廿余ケ所、付々の輩の宿所々々、
京白河に四五万間の在家、一度に火をかけて皆焼
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払ふ。聖主臨幸S0715 P2101或は聖主臨幸の地也、鳳闕むなしく礎をのこ
し、鸞輿ただ跡をとどむ。或后妃遊宴の砌也、椒
房の嵐声かなしみ、腋庭の露色愁ふ。荘香翠
帳のもとゐ、戈林釣渚の館、槐棘の座、燕鸞の
すみか、多日の経営をむなしうして、片時の灰燼
となりはてぬ。况や郎従の蓬■にをいてをや。况
や雑人の屋舎にをいてをや。余炎の及ところ【所】、在々
所々数十町也。強呉忽にほろびて、姑蘇台の露
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荊棘にうつり、暴秦すでに衰て、咸陽宮の煙へい
けいをかくし【隠し】けんも、かくやとおぼえて哀也。日
ごろは函谷二■のさが【嶮】しきをかた【固】うせしか共、北狄の
ために是を破られ、今は洪河■渭のふかきをたのん【頼ん】
じか共、東夷のために是をとられたり。豈図きや、
忽に礼儀の郷を責いだされて、泣々無智の境に
身をよせんと。昨日は雲の上に雨をくだす神竜
たりき。今日は、肆の辺に水をうしなう枯魚の
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如し。禍福道を同うし、盛衰掌をかへす【返す】、いま目の
前にあり。誰か是をかなしまざらん。保元のむかしは春の
花と栄しか共、寿永の今は秋の紅葉と落はてぬ。去治
承四年七月、大番のために上洛したりける畠山庄司
重能・小山田別当有重・宇津宮左衛門朝綱、寿永
までめしこめられたりしが、其時既にきら【斬ら】るべかり
しを、新中納言知盛卿申されけるは、「御運だにつきさ
せ給ひなば、P2102これら百人千人が頸をきらせ給ひたり共、
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世をとらせ給はん事難かるべし。古郷には妻子所従等
いかに歎かなしみ候らん。若不思議に運命ひらけて、
又都へたちかへらせ給はん時は、ありがたき御情でこそ
候はんずれ。ただ理をまげて本国へ返し遣さるべう
や候らん」と申されければ、大臣殿「此儀尤しかるべし」とて、
いとまをたぶ。これらかうべを地につけ、涙をながい【流い】て
申けるは、「去治承より今まで、かひなき命をた
すけられまいらせ【参らせ】て候へば、いづくまでも御供に候て、
P07113
行幸の御ゆくゑ【行方】をみまいらせ【参らせ】ん」と頻に申けれ共、大臣
殿「汝等が魂は皆東国にこそあるらんに、ぬけがら斗
西国へめしぐす【召具す】べき様なし。いそぎ下れ」と仰られ
ければ、力なく涙ををさへて下りけり。これらも廿
余年のしう【主】なれば、別の涙おさへがたし。忠教【*忠度】都落S0716薩摩守
忠教【*忠度】は、いづくよりやかへ【帰】られたりけん、侍五騎、童
一人、わが身共に七騎取て返し、五条三位俊成卿の
宿所におはしてみ【見】給へば、門戸をとぢて開かず。「忠教【*忠度】」
P07114
と名のり給へば、「おちうと【落人】帰りきり」とて、その内さP2103はぎ【騒ぎ】あ
へり。薩摩守馬よりおり、みづからたからかにの給ひ
けるは、「別の子細候はず。三位殿に申べき事あて、忠教【*忠度】
がかへりまい【参つ】て候。門をひらかれず共、此きはまで立よらせ
給へ」との給へば、俊成卿「さる事あるらん。其人ならば
くるしかる【苦しかる】まじ。いれ【入れ】申せ」とて、門をあけて対面あり。
事の体何となう哀也。薩摩守の給ひけるは、
「年来申承はて後、をろか【愚】ならぬ御事におもひ
P07115
まいらせ【参らせ】候へども、この二三年は、京都のさはぎ【騒ぎ】、国々の
みだれ、併当家の身の上の事に候間、そらく【粗略】を存
ぜずといへ共、つねにまいり【参り】よる事も候はず。君既に
都を出させ給ひぬ。一門の運命はやつき候ぬ。撰
集のあるべき由承候しかば、生涯の面目に、一首
なり共御恩をかうぶらうど存じて候しに、やがて
世のみだれいできて、其沙汰なく候条、ただ一身の
歎と存候。世しづまり候なば、勅撰の御沙汰候はんずらん。
P07116
是に候巻物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なり共
御恩を蒙て、草の陰にてもうれしと存候はば、遠き
御まもり【守り】でこそ候はんずれ」とて、日ごろ読をか【置か】れたる
歌共のなかに、秀歌とおぼしきを百余首書あつ
められたる巻物を、今はとてうたた【打つ立た】れける時、是をとて
もたれたりしが、鎧のひきあはせより取いでて、俊成卿に
奉る。三位是をあけてみて、「かかるわすれがたみを
給りをき候ぬる上は、ゆめゆめそP2104らくを存ずまじ
P07117
う候。御疑あるべからず。さても只今の御わたり【渡】こそ、情も
すぐれてふかう【深う】、哀も殊におもひ【思ひ】しられて、感涙おさへ
がたう候へ」との給へば、薩摩守悦て、「今は西海の浪
の底にしづまば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ、
浮世におもひ【思ひ】をく【置く】事候はず。さらばいとま申て」とて、
馬にうちのり甲の緒をしめ、西をさいてぞあゆま【歩ま】
せ給ふ。三位うしろを遥にみをく【送つ】てたたれたれば、
忠教【*忠度】の声とおぼしくて、「前途程遠し、思を鴈
P07118
山の夕の雲に馳」と、たからかに口ずさみ給へば、俊成卿
いとど名残おしう【惜しう】おぼえて、涙ををさへてぞ入給ふ。
其後世しづまて、千載集を撰ぜられけるに、忠
教【*忠度】の有しあり様、いひをきしことの葉、今更おもひ【思ひ】
出て哀也ければ、彼巻物のうちにさりぬべき歌
いくらもありけれ共、勅勘の人なれば、名字をば
あらはされず、故郷花といふ題にてよまれたりける
歌一首ぞ、読人しらずと入られける。
P07119
さざなみや志賀の都はあれにしを
むかしながらの山ざくらかな W052
其身朝敵となりにし上は、子細にをよば【及ば】ずと
いひながら、うらめしかり【恨めしかり】し事共也。P2105経正都落S0717修理大夫経盛
の子息、皇后宮の亮経正、幼少にては仁和寺の
御室の御所に、童形にて候はれしかば、かかる怱劇の
中にも其御名残きとおもひ【思ひ】出て、侍五六騎めし具
して、仁和寺殿へ馳まいり【参り】、門前にて馬よりおり、申入
P07120
られけるは、「一門運尽てけふ既に帝都を罷出候。う
き世におもひ【思ひ】のこす事とては、ただ君の御名残ばかり
也。八歳の時まいり【参り】はじめ候て、十三で元服仕候までは、
あひいたはる事の候はん外は、あからさまにも御前
を立さる事も候はざりしに、けふより後、西海
千里の浪におもむい【赴むい】て、又いづれの日いづれの時
帰りまいる【参る】べしともおぼえぬこそ、口惜く候へ。今一度
御前へまい【参つ】て、君をもみまいらせ【参らせ】たう候へ共、既に甲冑
P07121
をよろい【鎧ひ】、弓箭を帯し、あらぬさまなるよそおひ【粧】に
罷成て候へば、憚存候」とぞ申されける。御室哀におぼし
めし【思し召し】、「ただ其すがたを改めずしてまいれ【参れ】」とこそ仰けれ。
経正、其日は紫地の錦の直垂に、萌黄の匂の鎧
きて、長覆輪の太刀をはき、きりう【切斑】の矢おひ【負ひ】、滋
藤の弓わきにはさみ、甲をばぬぎたかひもにかけ、
御前の御坪に畏る。御室やがて御出あて、御簾たかく
あげさせ、「是へこれへ」とめP2106されければ、大床へこそま
P07122
いら【参ら】れけれ。供に具せられたる藤兵衛有教をめす。
赤地の錦の袋に入たる御琵琶もてまいり【参り】たり。経正
是をとりついで、御前にさしをき、申されけるは、「先年
下しあづかて候し青山もたせてまい【参つ】て候。あまりに
名残はおしう【惜しう】候へ共、さしもの名物を田舎の塵にな
さん事、口惜う候。若不思儀に運命ひらけて、又都
へ立帰る事候はば、其時こそ猶下しあづかり候はめ」と
泣々申されければ、御室哀におぼしめし【思し召し】、一首の御
P07123
詠をあそばひ【遊ばい】てくだされけり。
あかずしてわかるる君が名残をば
のちのかたみにつつみてぞをく【置く】 W053
経正御硯くだされて、
くれ竹のかけひの水はかはれども
なを【猶】すみあかぬみやの中かな W054
さていとま申て出られけるに、数輩の童形・出世
者・坊官・侍僧に至るまで、経正の袂にすがり、袖を
P07124
ひかへて、名残ををしみ涙をながさぬはなかりけり。其中
にも、経正の幼少の時、小師でおはせし大納言法印
行慶と申は、葉室大納言光頼卿の御子也。あま
りに名残をおしみ【惜しみ】て、桂河のはたまでうちをくり【送り】、
さてもあるべきならねば、其よりいとまこう【乞う】て泣々
わかれ給ふに、法印かうぞおもひ【思ひ】つづけ給ふ。P2107
あはれ【哀】なり老木わか木の山ざくら
をくれ【遅れ】さきだち【先立ち】花はのこらじ W055
P07125
経正の返事には、
旅ごろも夜な夜な袖をかたしきて
おもへ【思へ】ばわれはとをく【遠く】ゆきなん W056
さてま【巻】いてもたせられたる赤旗ざとさしあげ【差し上げ】
たり。あそこここにひかへて待奉る侍共、あはやとて
馳あつまり、その勢百騎ばかり、鞭をあげ駒をはや
めて、程なく行幸におつき奉る。青山之沙汰S0718此経正十七の年、
宇佐の勅使を承はてくだられけるに、其時青山
P07126
を給はて、宇佐へまいり【参り】、御殿にむかひ【向ひ】奉り秘曲を
ひき給ひしかば、いつ聞なれたる事はなけれ共、
ともの宮人をしなべて、緑衣の袖をぞしぼりける。
聞しらぬやつごまでも村雨とはまがはじな。目出
かりし事共也。彼青山と申御琵琶は、昔仁明天
皇御宇、嘉祥三年の春、掃部頭貞敏渡唐
の時、大唐の琵琶の博士廉妾夫にあひ、三曲を
伝て帰朝せしに、玄象・師子丸・青山、三面の琵琶
P07127
を相伝してわたり【渡り】けるが、竜神やおしみ【惜しみ】給ひけん、
浪風あらP2108く立ければ、師子丸をば海底にしづ
め、いま二面の琵琶をわたして、吾朝の御門の御たから
とす。村上の聖代応和のころおひ、三五夜中新月
白くさえ、凉風颯々たりし夜なか半に、御門清
凉殿にして玄象をぞあそばさ【遊ばさ】れける時に、影の
如くなるもの御前に参じて、ゆう【優】にけだかき声に
てしやうが【唱歌】をめでたう仕る。御門御琵琶をさしを
P07128
か【置か】せ給ひて、「抑汝はいかなる者ぞ。いづくより来れる
ぞ」と御尋あれば、「是は昔貞敏に三曲をつたへ候
し大唐の琵琶のはかせ廉妾夫と申者で候が、
三曲のうち秘曲を一曲のこせるによて、魔道へ
沈淪仕て候。今御琵琶の御撥音たへ【妙】にきこえ侍る
間、参入仕ところ【所】也。ねがは【願は】くは此曲を君にさづけ奉
り、仏果菩提を証ずべき」由申て、御前に立られ
たる青山をとり、てんじゆ【転手】をねぢて秘曲を君に
P07129
さづけ奉る。三曲のうちに上玄石上是也。其後は
君も臣もおそれ【恐れ】させ給ひて、此御琵琶をあそばし【遊ばし】
ひく事もせさせ給はず。御室へまいらせ【参らせ】られたりけ
るを、経正の幼少の時、御最愛の童形たるによて
下しあづかりたりけるとかや。こう【甲】は紫藤のこう【甲】、
夏山の峯のみどりの木の間より、有明の月の
出るを撥面にかかれたりけるゆへ【故】にこそ、青山
とは付られたれ。玄象にもあひおとらぬ希代の
P07130
名物なりけり。P2109 一門都落S0719 池の大納言頼盛卿も池殿に火を
かけて出られけるが、鳥羽の南の門にひかへつつ、「わ
すれたる事あり」とて、赤じるし切捨て、其勢
三百余騎、都へとてかへさ【返さ】れけり。平家の侍越中次
郎兵衛盛次【*盛嗣】、大臣殿の御まへに馳まい【参つ】て、「あれ御覧
候へ。池殿の御とどまり候に、おほう【多う】の侍共のつきま
いらせ【参らせ】て罷とどまるが奇怪におぼえ候。大納言殿
まではおそれ【恐れ】も候。侍共に矢一いかけ候はん」と申けれ
P07131
ば、「年来の重恩を忘て、今此ありさまを見は
てぬ不当人をば、さなく共ありなん」との給へば、力を
よば【及ば】でとどまりけり。「さて小松殿の君達はいかに」
との給へば、「いまだ御一所もみえ【見え】させ給ひ候はず」と申
す。其時新中納言涙をはらはらとながい【流い】て、「都を
出ていまだ一日だにも過ざるに、いつしか人の
心どものかはりゆくうたてさよ。まして行すゑ
とてもさこそはあらんずらめとおもひ【思ひ】しかば、都の
P07132
うちでいかにもならむと申つる物を」とて、大臣殿
の御かたをうらめしげ【恨めし気】にこそ見給ひけれ。抑池
殿のとどまり給ふ事をいかにといふに、兵衛佐つね【常】
は頼盛に情をかけて、「御かたをばまたくをろか【愚】に
おもひ【思ひ】まいらせ【参らせ】候はず。ただ故池殿のわたP2110らせ給ふとこそ
存候へ。八幡大菩薩も御照罰候へ」など、度々誓状を
もて申されける上、平家追討のために討手の
使ののぼる度ごとに、「相構て池殿の侍共にむかて
P07133
弓ひくな」など情をかくれば、「一門の平家は運つき、
既に都を落ぬ。今は兵衛佐にたすけられんずる
にこそ」とのたまひて、都へかへられけるとぞ聞えし。
八条女院の仁和寺の常葉どのにわたらせ給ふに
まいり【参り】こもられけり。女院の御めのとご、宰相殿と
申女房にあひ具し給へるによてなり。「自然の
事候者、頼盛かまへてたすけさせ給へ」と申され
けれ共、女院「今は世の世にてもあらばこそ」とて、た
P07134
のもし【頼もし】気もなうぞ仰ける。凡は兵衛佐ばかりこそ
芳心は存ぜらるるとも、自余の源氏共はいかがあらん
ずらん。なまじいに一門にははなれ給ひぬ、波にも磯にも
つかぬ心地ぞせられける。さる程に、小松殿の君達
は、三位中将維盛卿をはじめ奉て、兄弟六人、其
勢千騎ばかりにて、淀のむつ田河原【六田河原】にて行幸
におつき奉る。大臣殿待うけ奉り、うれし気にて、
「いかにや今まで」との給へば、三位中将「おさなき【幼き】もの
P07135
共があまりにしたひ候を、とかうこしらへをか【置か】んと遅
参仕候ぬ」と申されければ、大臣殿「などや心づよう
六代どのをば具し奉り給はぬぞ」と仰られけれ
ば、維盛卿「行すゑとてもたのもしう【頼もしう】も候はず」とて、
と【問】ふにつらさの涙P2111をながされけるこそかなしけれ。
落行平家は誰々ぞ。前内大臣宗盛公・平大納言時
忠・平中納言教盛・新中納言知盛・修理大夫経盛・
右衛門督清宗・本三位中将重衡・小松三位中
P07136
将維盛・新三位中将資盛・越前三位通盛、殿上人
には内蔵頭信基・讃岐中将時実・左中将清経・小
松少将有盛・丹後侍従忠房・皇后宮亮経正・左
馬頭行盛・薩摩守忠教【*忠度】・能登守教経・武蔵守知
明【*知章】・備中守師盛・淡路守清房・尾張守清定・若狭
守経俊・蔵人大夫成盛【*業盛】・大夫敦盛、僧には二位僧都
専親【*全真】・法勝寺執行能円・中納言律師仲快、経誦坊
阿闍梨祐円、侍には受領・検非違使・衛府・諸司百六十人、
P07137
都合其勢七千余騎、是は東国北国度々のいくさ【軍】に、
此二三ケ年が間討もらさ【漏らさ】れて、纔に残るところ【所】也。山
崎関戸の院に玉の御輿をかきすへ【据ゑ】て、男山をふし
拝み、平大納言時忠卿「南無帰命頂礼八幡大菩薩、
君をはじめまいらせ【参らせ】て、我等都へ帰し入させ給へ」と、祈
られけるこそかなしけれ。おのおのうしろをかへりみ
給へば、かすめる空の心地して、煙のみこころぼそく
立のぼる。平中納言教盛卿
P07138
はかなしなぬしは雲井にわかるれば
跡はけぶりとたちのぼるかな W057
修理大夫経盛P2112
ふるさとをやけ野の原にかへりみて
すゑもけぶりのなみぢをぞ行 W058
まこと【誠】に古郷をば一片の煙塵と隔つつ、前途万
里の雲路におもむか【赴か】れけん人々の心のうち、おし
はかられて哀也。肥後守貞能は、河尻に源氏まつ
P07139
ときいて、けちらさむとて五百余騎で発向したり
けるが、僻事なれば帰りのぼる程に、うどの【宇度野】の辺にて
行幸にまいり【参り】あふ。貞能馬よりとびおり、弓わきに
はさみ、大臣殿の御前に畏て申けるは、「是は抑いづ
ちへとておち【落ち】させ給候やらん。西国へくだらせ給ひた
らば、おち人とてあそこここにてうちちらされ、うき
名をながさせ給はん事こそ口惜候へ。ただ都のうちで
こそいかにもならせ給はめ」と申ければ、大臣殿「貞能
P07140
はしら【知ら】ぬか。木曾既に北国より五万余騎で攻のぼり、
比叡山東坂本にみちみちたむなり。此夜半ばかり、
法皇もわたらせ給はず。おのおのが身ばかりならば
いかがせん、女院二位殿に、まのあたりうき目をみせ【見せ】
まいらせ【参らせ】んも心ぐるしければ、行幸をもなしまいらせ【参らせ】、
人々をもひき具し奉て、一まどもやとおもふぞ
かし」と仰られければ、「さ候はば、貞能はいとま給はて、都で
いかにもなり候はん」とて、めし具したる五百余騎の
P07141
勢をば、小松殿の君達につけ奉り、手勢卅騎ば
かりで都へひ【引つ】かへす【返す】。P2113京中にのこりとどまる平家
の余党をうたんとて、貞能が帰り入よし聞えしかば、
池大納言「頼盛がうへでぞあるらん」とて、大におそれ【恐れ】さ
はが【騒が】れけり。貞能は西八条のやけ跡に大幕ひかせ、
一夜宿したりけれ共、帰り入給ふ平家の君達
一所もおはせねば、さすが心ぼそうや思ひけん、源
氏の馬のひづめにかけじとて、小松殿の御はか【墓】ほら
P07142
せ、御骨にむかひ【向ひ】奉て泣々申けるは、「あなあさまし、
御一門の御らん候へ。「生ある物は必ず滅す。楽尽て
悲来る」といにしへより書をきたる事にて候へ共、
まのあたりかかるう【憂】き事候はず。君はかやうの事
をまづさとらせ給ひて、兼て仏神三宝に御祈
誓あて、御世をはや【早】うさせましましけるにこそ。ありがたう
こそおぼえ候へ。其時貞能も最後の御供仕るべ
う候ける物を、かひなき命をいきて、今はかかる
P07143
うき目にあひ候。死期の時は必ず一仏土へむかへさせ給
へ」と、泣々遥にかきくどき、骨をば高野へ送り、あ
たりの土を賀茂河にながさせ、世の有様たのもから【頼もしから】
ずやおもひ【思ひ】けん、しう【主】とうしろあはせに東国へこそおち【落ち】行
けれ。宇都宮をば貞能申あづかて、情ありければ、そのよし
みにや、貞能又宇都宮をたのん【頼ん】で下りければ、芳心しけ
るとぞ聞えし。P2114福原落S0720平家は小松三位中将維盛卿の外は、大
臣殿以下妻子を具せられけれ共、つぎざまの人
P07144
共はさのみひきしろふに及ばねば、後会其期をし
らず、皆うち捨てぞ落行ける。人はいづれの日、
いづれの時、必ず立帰るべしと、其期を定をく【置く】
だにも久しきぞかし。况や是はけふを最後、只今
かぎりの別なれば、ゆくもとどまるも、たがゐに袖を
ぞぬらしける。相伝譜代のよしみ、年ごろ日ごろ、
重恩争かわするべきなれば、老たるもわかきも
うしろのみかへりみて、さきへはすすみもやらざり
P07145
けり。或磯べの浪枕、やえ【八重】の塩路に日をくらし、或
遠きをわけ、けはしきをしのぎつつ、駒に鞭うつ
人もあり、舟に棹さす者もあり、思ひ思ひ心々におち【落ち】
行けり。福原の旧都について、大臣殿、しかるべ
き侍共、老少数百人めして仰られけるは、「積善
の余慶家につき【尽き】、積悪の余殃身に及ぶゆへ【故】に、
神明にもはなたれ奉り、君にも捨られまいらせ【参らせ】て、帝
都をいで旅泊にただよふ上は、なんのたのみ【頼み】かあるべき
P07146
なれ共、一樹の陰にやどるも先世の契あさからず。
同じ流をむすぶも、P2115多生の縁猶ふかし。いかに况や、
汝等は一旦したがひつく門客にあらず、累祖相
伝の家人也。或近親のよしみ他に異なるもあり、
或重代芳恩是ふかきもあり、家門繁昌の古
は恩波によて私をかへりみき。今なんぞ芳恩
をむくひざらんや。且は十善帝王、三種の神器を
帯してわたらせ給へば、いかならん野の末、山の奥ま
P07147
でも、行幸の御供仕らんとは思はずや」と仰られけれ
ば、老少みな涙をながい【流い】て申けるは、「あやしの鳥け
だ物も、恩を報じ、徳をむく【報】ふ心は候なり。申候はむ
や、人倫の身として、いかがそのことはり【理】を存知仕候
はでは候べき。廿余年の間妻子をはぐくみ所従を
かへりみる事、しかしながら君の御恩ならずと
いふ事なし。就中に、弓箭馬上に携るなら
ひ【習】、ふた心あるをもて恥とす。然者則日本の外、新
P07148
羅・百済・高麗・荊旦、雲のはて、海のはてまでも、行
幸の御供仕て、いかにもなり候はん」と、異口同音に申
ければ、人々皆たのもし【頼もし】気にぞみえ【見え】られける。福原
の旧里に一夜をこそあかされけれ。折節秋の始
の月は、しもの弓はりなり。深更空夜閑にし
て、旅ねの床の草枕、露も涙もあらそひて、ただ物
のみぞかなしき。いつ帰るべし共おぼえねば、故入道
相国の作りをき給ひし所々を見給ふに、春は
P07149
花みの岡の御所、秋は月見の浜の御所、泉殿・松
陰殿・馬場殿、P2116二階の桟敷殿、雪見の御所、萱
の御所、人々の館共、五条大納言国綱【*邦綱】卿の承はて
造進せられし里内裏、鴦の瓦、玉の石だたみ、いづ
れもいづれも三とせが程に荒はてて、旧苔道をふさぎ、
秋の草門をとづ。瓦に松おひ、墻に蔦しげれり。
台傾て苔むせり、松風ばかりや通らん。簾たえ
て閨あらはなり、月影のみぞさし入ける。あけぬれば、
P07150
福原の内裏に火をかけて、主上をはじめ奉て、人々
みな御舟にめす。都を立し程こそなけれ共、是も
名残はおしかり【惜しかり】けり。海人のたく藻の夕煙、尾上
の鹿の暁のこゑ【声】、渚々によする浪の音、袖に宿
かる月の影、千草にすだく蟋蟀のきりぎりす、す
べて目に見え耳にふるる事、一として哀をも
よほし、心をいたましめずといふ事なし。昨日は
東関の麓にくつばみをならべて十万余騎、今
P07151
日は西海の浪に纜をといて七千余余人、雲海沈々
として、青天既にくれなんとす。孤島に夕霧
隔て、月海上にうかべり。極浦の浪をわけ、塩
にひかれて行舟は、半天の雲にさかのぼる。日かず
ふれば、都は既に山川程を隔て、雲居のよそにぞ
なりにける。はるばるき【来】ぬとおもふにも、ただつきせ
ぬ物は涙也。浪の上に白き鳥のむれゐるをみ【見】
給ひては、かれならん、在原のなにがしの、すみ田川【隅田川】
P07152
にてこととひけん、名もむつまじき都鳥にや
と哀也。寿永二年七月廿五日P2117に平家都を
落はてぬ。
平家物語巻第七

平家物語巻第八

【許諾済】
本テキストの公開については、龍谷大学大宮図書館の許諾を得ています。底本使用・テキスト公開を許可された同図書館に厚く御礼申し上げます。
【注意】
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【底本】
本テキストの底本は、龍谷大学大宮図書館所蔵『平家物語』です。直接には、思文閣出版発行の影印本(龍谷大学善本叢書13)に拠りました。

P07155
(表紙)

P07157 P2118
平家物語巻第八
山門御幸S0801寿永二年七月廿四日夜半ばかり、法皇は按察
大納言資方【*資賢】卿の子息、右馬頭資時ばかり御
供にて、ひそかに御所を出させ給ひ、鞍馬へ御幸
なる。鞍馬寺僧ども「是は猶都ちかくてあしう
候なむ」と申あひだ、篠の峯・薬王坂など申
さが【嶮】しき嶮難を凌がせ給ひて、横河の解脱
谷寂場坊、御所になる。大衆おこて、「東塔へ
P07158
こそ御幸あるべけれ」と申ければ、東塔の南谷
円融坊御所になる。かかりければ、衆徒も武士も、
円融房【*円融坊】を守護し奉る。法皇は仙洞をいでて天台山に、
主上は鳳闕をさて西海へ、摂政殿は吉野の奥と
かや。女院・宮々は八幡・賀茂・嵯峨・うづまさ【太秦】・西
山・東山のかたほとりにつゐ【付い】て、にげ【逃げ】かくれさせ給へり。
平家はおち【落ち】ぬれど、源氏はいまだ入かはらず。既に
此京はぬしなき里にぞなりにける。開闢よりこの
P07159
かた、かかる事あるべしともおぼえP2119ず。聖徳太子の
未来記にも、けふのことこそゆかしけれ。法皇
天台山にわたらせ給ふときこえさせ給ひしかば、馳ま
いら【参ら】せ給ふ人々、其比の入道殿とは前関白松殿、
当殿とは近衛、太政大臣・左右大臣・内大臣・大納
言・中納言・宰相・三位・四位・五位の殿上人、すべて
世に人とかぞへられ、官加階に望をかけ、所帯・所職を
帯する程の人、一人ももるるはなかりけり。円融坊には、
P07160
あまりに人まいり【参り】つどひ【集ひ】て、堂上・堂下・門外・
門内、ひまはざまもなうぞみちみちたる。山門繁昌・
門跡の面目とこそ見えたりけれ。同廿八日に、法皇
宮こ【都】へ還御なる。木曾五万余騎にて守護し奉る。
近江源氏山本の冠者義高、白旗さひて先陣に
候。この廿余年見えざりつる白旗の、けふはじめて
宮こ【都】へいる、めづらしかりし事どもなり。さる程に
十郎蔵人行家、宇治橋をわたて都へいる。陸奥
P07161
新判官義康が子、矢田判官代義清、大江山を
へて上洛す。摂津国・河内の源氏ども、雲霞の
ごとくにおなじく宮こ【都】へみだ【乱】れいる。凡京中には
源氏の勢みちみちたり。勘解由小路中納言経房
卿・検非違使別当左衛門督実家、院の殿上の
簀子に候て、義仲・行家をめす。木曾は赤地の
錦の直垂に、唐綾威の鎧きて、いか物づくりの
太刀をはき、きりふ【切斑】の矢をひ【負ひ】、しげ藤の弓脇にはさみ、
P07162
甲をばぬぎたかひもP2120にかけて候。十郎蔵人は、紺地
の錦の直垂に、火おどしの鎧きて、こがねづくりの
太刀をはき、大なか黒の矢をひ【負ひ】、ぬりごめどう【塗籠籐】の弓
脇にはさみ、是も甲をばぬぎたかひもにかけ、ひざま
づゐて候けり。前内大臣宗盛公以下、平家の一族
追討すべきよし仰下さる。両人庭上に畏て承る。
をのをの【各々】宿所のなきよしを申す。木曾は大膳大
夫成忠が宿所、六条西洞院を給はる。十郎蔵人は
P07163
法住寺殿の南殿と申、萓の御所をぞ給りける。
法皇は主上外戚の平家にとらはれさせ給て、
西海の浪の上にただよはせ給ふことを、御歎き
あて、主上并に三種神器宮こ【都】へ返し入奉る
べきよし、西国へ院宣を下されたりけれ共、
平家もちゐたてまつら【奉ら】ず。高倉院の皇子は、
主上の外三所ましましき。二宮をば儲君にしたて
まつら【奉ら】んとて、平家いざなひまいらせ【参らせ】て、西国へ
P07164
落給ぬ。三四は宮こ【都】にましましけり。同八月五日、
法皇この宮たちをむかへ【向へ】よせ【寄せ】まいらせ【参らせ】給ひて、まづ
三の宮の五歳にならせ給ふを、「是へ是へ」と仰ければ、
法皇を見まいら【参らつ】させ給ひて、大にむつからせ給ふ〔あひだ〕、
「とうとう【疾う疾う】」とて出しまいら【参らつ】させ給ぬ。其後四の宮の
四歳にならせ給ふを、「是へ」と仰ければ、すこしも
はばからせ給はず、やがて法皇の御ひざの
うへにまいら【参ら】せ給ひて、よにもなつかしげにてぞ
P07165
ましましP2121ける。法皇御涙をはらはらとながさせ
給ひて、「げにもすぞろならむものは、かやうの老法師
を見て、なにとてかなつか【懐】しげには思ふべき。是ぞ
我まことの孫にてましましける。故院のおさな
をひ【少生】にすこしもたがは【違は】せ給はぬものかな。かかるわすれ
がたみ【忘れ形見】を今まで見ざりけることよ」とて、御涙
せきあへさせ給はず。浄土寺の二位殿、其時は
いまだ丹後殿とて、御前に候はせ給ふが、
P07166
「さて御ゆづりは、此宮にてこそわたらせおはしまし
さぶらはめ」と申させ給へば、法皇「子細にや」とぞ
仰ける。内々御占ありしにも、「四の宮位につかせ
給ひては、百王まで日本国の御ぬしたるべし」とぞ
かん【勘】がへ申ける。御母儀は七条修理大夫信隆
卿の御娘なり。建礼門院のいまだ中宮にて
ましましける時、その御方に宮づかひ給ひしを、
主上つねはめされける程に、うちつづき宮あまた
P07167
いできさせ給へり。信隆卿御娘あまたおはし
ければ、いかにもして女御后にもなしたてまつら【奉ら】
ばやとねがは【願は】れけるに、人のしろい鶏を千かう【飼う】つれば、
其家に必后いできたるといふ事ありとて、
鶏の白いを千そろへ【揃へ】てかは【飼は】れたりける故にや、此
御娘皇子あまたうみまいらせ【参らせ】給へり。信隆卿
内々うれしう思はれけれども、平家にもはば
かり、中宮にもおそれ【恐れ】まいらせ【参らせ】て、もてなし奉る
P07168
事もおはせざりしを、入道相国の北の方、
八条の二位殿「くP2122るしかる【苦しかる】まじ。われそだてまい
らせ【参らせ】て、まうけの君にしたてまつら【奉ら】ん」とて、御めのと
どもあまたつけて、そだてまいらせ【参らせ】給ひけり。中
にも四の宮は、二位殿のせうと、法勝寺執行能円
法印のやしなひ君にてぞ在ましける。法印
平家に具せられて、西国へ落し時、あまりにあはて【慌て】
さはひで、北方をも宮をも京都にすて【捨】をきまいらせ【参らせ】て、
P07169
下られたりしが、西国よりいそぎ人をのぼせて、
「女房・宮具しまいらせ【参らせ】て、とくとく【疾く疾く】くだり給べし」と
申されたりければ、北方なのめならず悦、宮いざ
なひまいらせ【参らせ】て、西七条なる所まで出られたりしを、
女房のせうと紀伊守教光【*範光】、「是は物のつゐ【付い】て
くるひ給ふか。此宮の御運は只今ひらけさせ給はん
ずる物を」とて、とりとどめ【留め】まいらせ【参らせ】たりける次の
日ぞ、法皇より御むかへ【向へ】の車はまいり【参り】たりける。
P07170
何事もしかる【然る】べき事と申ながら、四の宮の御
ためには、紀伊守教光【*範光】奉公の人とぞ見えたり
ける。されども四の宮位につかせ給ひて後、その
なさけをもおぼしめし【思し召し】いでさせ給はず、朝恩も
なくして歳月を送りけるが、せめての思ひの
あまりにや、二首の歌をようで、禁中に
落書をぞしたりける。
一声はおもひ【思ひ】出てなけほととぎす
P07171
おいそ【老蘇】の森の夜半のむかしを W059
籠のうちもなを【猶】うらやまし山がらの
身のほどかくすゆふがほのやど W060 P2123
主上是を叡覧あて、「あなむざんや、さればいまだ
世にながらへ【永らへ】てあり【有り】けるな。けふまで是をおぼし
めし【思し召し】よらざりけるこそをろか【愚】なれ」とて、朝恩
かうぶり、正三位に叙せられけるとぞきこえし。
名虎S0802同八月十日、院の殿上にて除目おこなはる。木曾は
P07172
左馬頭になて、越後国を給はる。其上朝日の
将軍といふ院宣を下されけり。十郎蔵人は
備後守になる。木曾は越後きらへば、伊与【*伊予】を
たぶ。十郎蔵人備後をきらへば、備前をたぶ。
其外源氏十余人、受領・検非違使・靭負尉・兵衛
尉になされけり。同十六日、平家の一門百六十
余人が官職をとどめ【留め】て、殿上のみふだをけづらる。
其中に平大納言時忠〔卿〕・内蔵頭信基・讃岐
P07173
中将時実、これ三人はけづられず。それは
主上并に三種の神器、都へ帰しいれ【入れ】奉るべき
よし、彼時忠の卿のもとへ、度々院宣を下され
けるによて也。同八月十七日、平家は筑前国
三かさ【三笠】の郡太宰府にこそ着給へ。菊池二郎
高直は都より平家の御供に候けるが、「大津山の
関あけてまいらせ【参らせ】ん」とて、肥P2124後国にうちこえて、
をのれ【己】が城にひ【引つ】こもり、めせ【召せ】どもめせ【召せ】どもまいら【参ら】ず。当時は
P07174
岩戸の諸境大蔵種直ばかりぞ候ける。九国二
島の兵どもやがてまいる【参る】べきよし領状をば申ながら、
いまだまいら【参ら】ず。平家安楽寺へまい【参つ】て、歌よみ
連歌して宮づかひ【仕ひ】給ひしに、本三位中将
重衡卿、
すみなれしふるき宮こ【都】の恋しさは
神もむかしにおもひ【思ひ】しる【知る】らむ W061
人々是をきいてみな涙をながされけり。同廿日
P07175
法皇の宣命にて、四宮閑院殿にて位につかせ
給ふ。摂政はもとの摂政近衛殿かはらせ給はず。頭
や蔵人なしをきて、人々退出せられけり。三宮の
御めのとなきかなしみ、後悔すれども甲斐ぞ
なき。「天に二の日なし、国にふたりの王なし」と申
せども、平家の悪行によてこそ、京・田舎にふたりの
王は在ましけれ。昔文徳天皇は、天安二年
八月廿三日にかくれさせ給ひぬ。御子の宮達あまた
P07176
位に望をかけて在ますは、内々御祈どもあり【有り】けり。一の
御子惟高【*惟喬】親王をば小原の王子とも申き。王者
の財領を御心にかけ、四海の安危は掌の中に
照し、百王の理乱は心のうちにかけ給へり。されば
賢聖の名をもとらせましましぬべき君なりと
見え給へり。二宮惟仁親王は、其比の執柄忠仁
公の御娘、染殿のP2125后の御腹也。一門公卿列して
もてなし奉り給ひしかば、是も又さしをきがたき
P07177
御事也。かれは守文継体の器量あり、是は
万機輔佐の心操あり。かれもこれもいたはし
くて、いづれもおぼしめし【思し召し】わづらはれき。一宮惟高【*惟喬】
親王の御祈は、柿下の紀僧正信済とて、東寺の
一の長者、弘法大師の御弟子也。二宮惟仁の
親王の御祈は、外祖忠仁公の御持僧比叡山の
恵良【*恵亮】和尚ぞうけ給はら【承ら】れける。「互におとらぬ高
僧達也。とみに事ゆきがたうやあらんずらん」と、
P07178
人々ささやきあへり。御門かくれさせ給ひしかば、
公卿僉議あり。「抑臣等がおもむぱかりをもてゑらび【選び】て
位につけ奉らん事、用捨私あるにに【似】たり。万人
脣をかへすべし。しら【知ら】ず、競馬相撲の節をと
げて、其運をしり【知り】、雌雄によて宝祚をさづ
けたてまつる【奉る】べし」と儀定畢ぬ。同年の九月
二日、二人の宮達右近馬場へ行げい【行啓】あり。ここに
王公卿相、花の袂をよそほひ、玉のくつばみを
P07179
ならべ、雲のごとくにかさなり、星のごとくにつら
なり給ひしかば、此事希代の勝事、天下の
荘観、日来心をよせ奉し月卿雲客両方に引
わかて、手をにぎり心をくだき給へり。御祈の
高僧達、いづれかそらく【粗略】あらむや。信済は東寺に
壇をたて、恵良【*恵亮】は大内の真言院に壇をたてて
おこなはれけるに、恵良【*恵亮】和尚うせたりといふ
披露をなす。信済僧正たゆP2126む心もやあり【有り】けん。
P07180
恵良【*恵亮】はうせたりといふ披露をなし、肝胆を
くだひて祈られけり。既に十番競馬はじまる。
はじめ四番、一宮惟高【*惟喬】親王かたせ給ふ。後
六番は二宮惟仁親王かたせ給ふ。やがて相撲の
節あるべしとて、惟高【*惟喬】の御方よりは名虎の右兵
衛督とて、六十人がちから【力】あら【顕】はしたるゆゆしき
人をぞいだされたる。惟仁親王家よりは能雄の少将
とて、せいちい【小】さうたえ【妙】にして、片手にあふべしとも
P07181
見えぬ人、御夢想の御告ありとて申うけてぞ
いでられたる。名虎・能雄よりあふ【逢う】て、ひしひしとつま
どりしての【退】きにけり。しばしあて名虎能雄の
少将をとてささげて、二丈ばかりぞなげたりける。ただ
なを【直つ】てたをれ【倒れ】ず。能雄又つとより、ゑい声をあ
げて、名虎をとてふせむとす。名虎もともに声
いだして、能雄をとてふせむとす。いづれおと
れりとも見えず。されども、名虎だい【大】の男、かさに
P07182
まはる。能雄はあぶなう見えければ、二宮惟仁家の
御母儀染殿の后より、御使櫛のは【歯】のごとく
はしり【走り】かさなて、「御方すでにまけ色にみゆ。いかが
せむ」と仰ければ、恵良【*恵亮】和尚大威徳の法を修せ
られけるが、「こは心うき事にこそ」とて独古【*独鈷】をもて
なづき【脳】をつきくだき、乳和して護摩にたき、
黒煙をたててひともみもまれたりければ、能雄す
まうにかちにけり。親王位につかせ給ふ。清和の
P07183
御門是也。後には水尾天皇とぞ申ける。
それよりP2127してこそ山門には、いささかの事にも、
恵良【*恵亮】脳をくだきしかば、二帝位につき給ひ、
尊意智剣を振しかば、菅丞納受し給ふ
とも伝へたれ。是のみや法力にてもあり【有り】けむ。其外
はみな天照大神の御ぱからひとぞ承はる。平家は
西国にて是をつたへきき、「やすからぬ。三の宮をも
四の宮をもとりまいらせ【参らせ】て、落くだるべかりし
P07184
物を」と後悔せられければ、平大納言時忠卿、「さらむ
には、木曾が主にしたてま【奉つ】たる高倉宮御子を、御めのと
讃岐守重秀が御出家せさせ奉り、具し
まいらせ【参らせ】て北国へ落くだりしこそ、位にはつかせ
給はんずらめ」との給へば、又或人々の申されけるは、
「それは、出家の宮をばいかが位にはつけたてまつる【奉る】
べき」。時忠「さもさうず。還俗の国王のためし【例】、
異国にも先蹤あるらむ。我朝には、まづ天武天皇
P07185
いまだ東宮の御時、大伴の皇子にはばからせ
給ひて、鬢髪をそり、芳野の奥にしのば【忍ば】せ
給ひたりしかども、大伴の皇子をほろぼして、
つゐに【遂に】は位につかせ給ひき。孝謙天皇も、大
菩提心をおこし、御かざりをおろさせ給ひ、御名をば
法幾尓と申しかども、ふたたび位につゐ【即い】て
称徳天皇と申しぞかし。まして木曾が主に
したてまつり【奉り】たる還俗の宮、子細あるまじ」とぞ
P07186
の給ひける。同九月二日、法皇より伊勢へ公卿の
勅使をたてらる。勅使は参議長教とぞP2128聞えし。
太政天皇の、伊勢へ公卿の勅使をたてらるる
事は、朱雀・白河・鳥羽三代の蹤跡ありと
いへども、是みな御出家以前なり。御出家以後の
例は是はじめとぞ承る。緒環S0803 さる程に、筑紫には
内裏つくるべきよし沙汰ありしかども、いまだ宮
こ【都】も定められず。主上は岩戸の諸境大蔵の種直が
P07187
宿所にわたらせ給ふ。人々の家々は野中田なか【田中】
なりければ、あさ【麻】の衣はうたねども、とをち【十市】の里とも
いつべし。内裏は山のなかなれば、かの木の丸殿も
かくやとおぼえて、中々ゆう【優】なる方もあり【有り】けり。
まづ宇佐宮へ行幸なる。大郡司公道が宿所
皇居になる。社頭は月卿雲客の居所になる。庭
上には四国鎮西の兵ども、甲冑弓箭を帯して
雲霞のごとくになみゐたり。ふりにしあけ【朱】の
P07188
玉垣、ふたたびかざるとぞ見えし。七日参籠の
あけがたに、大臣殿の御ために夢想の告ぞあり
ける。御宝殿の御戸をし【押し】ひらきゆゆしく
けだかげなる御こゑ【声】にて、
世のなかのうさには神もなきものを
なにいのるらん心づくしに W062 P2129
大臣殿うちおどろき、むねうちさはぎ【騒ぎ】、
さりともとおもふ心もむし【虫】のね【音】も
P07189
よはり【弱り】はてぬる秋の暮かな W063
といふふる歌【古歌】をぞ心ぼそげに口ずさみ給ける。
さる程に九月も十日あまりになりにけり。荻の葉
むけの夕嵐、ひとりまろねの床のうへ、かたしく
袖もしほれ【萎れ】つつ、ふけゆく秋のあはれ【哀】さは、いづくも
とはいひながら、旅の空こそ忍がたけれ。九月十三
夜は名をえたる月なれども、其夜は宮こ【都】を思ひ
いづる涙に、我からくも【曇】りてさやかならず。九重の
P07190
雲のうへ、久方の月におもひ【思ひ】をのべしたぐひも、
今の様におぼえて、薩摩守忠教【*忠度】
月を見しこぞのこよひの友のみや
宮こ【都】にわれをおもひ【思ひ】いづらむ W064
修理大夫経盛
恋しとよこぞのこよひの夜もすがら
ちぎりし人のおもひ【思ひ】出られて W065
皇后宮亮経正
P07191
わけてこし野辺の露ともきえずして
おもは【思は】ぬ里の月を見るかな W066
豊後国は刑部卿三位頼資卿の国なりけり。
子息[B 頼]経朝臣を代官にをか【置か】れたり。京より頼経の
もとへ、平家は神明にもはなたれたてまつり【奉り】、君
にも捨られまいらせ【参らせ】て、帝都をいで、浪の上に
ただよふおち人となれり。しかる【然る】を、鎮P2130西の者共が
うけ【受け】と【取つ】て、もてなすなるこそ奇怪くわい)なれ、当国に
P07192
おいてはしたがふ【従ふ】べからず。一味同心して追出すべき
よし、の給ひつかはさ【遣さ】れたりければ、頼経朝臣是を
当国の住人、緒方三郎維義に下知す。彼維義は
おそろしき【恐ろしき】ものの末なりけり。たとへば、豊後国の
片山里に昔をんな【女】あり【有り】けり。或人のひとりむ
すめ、夫もなかりけるがもとへ、母にもしら【知ら】せず、男
よなよな【夜な夜な】かよふ程に、とし月もかさなる程に、身も
ただならずなりぬ。母是をあやしむで、「汝がもとへ
P07193
かよふ者は何者ぞ」ととへば、「く【来】るをば見れども、帰るをば
しら【知ら】ず」とぞいひける。「さらば男の帰らむとき、しる
しを付て、ゆかむ方をつなひで見よ」とをしへ
ければ、むすめ母のをしへにしたがて、朝帰する
男の、水色の狩衣をきたりけるに、狩衣の頸かみに
針をさし、しづ【賎】のをだまき【緒環】といふものを付て、
へ【経】てゆくかたをつなひでゆけば、豊後国に
とても日向ざかひ、うばだけといふ嵩のすそ、
P07194
大なる岩屋のうちへぞつなぎいれ【入れ】たる。をんな
岩屋のくちにたたずんできけば、おほき【大き】なるこゑ【声】
してによびけり。「わらはこそ是まで尋まいり【参り】
たれ。見参せむ」といひければ、「我は是人のすがたには
あらず。汝すがたを見ては肝たましゐ【魂】も身に
そふまじきなり。とうとう【疾う疾う】帰れ。汝がはらめる子は男
子なるべし。弓矢打物とて九州二島にならぶ
者もP2131あるまじきぞ」と〔ぞ〕いひける。女重て申けるは、
P07195
「たとひいかなるすがたにてもあれ、此日来のよしみ
何とてかわするべき。互にすがたをも見もし見えむ」と
いはれて、さらばとて、岩屋の内より、臥だけは
五六尺、跡枕べは十四[B 五]丈もあるらむとおぼゆる
大蛇にて、動揺してこそはひ【這ひ】出たれ。狩衣の
くびかみにさすとおもひ【思ひ】つる針は、すなはち大
蛇ののぶゑ(のどぶえ)にこそ[B さ]いたりけれ。女是を見て肝
たましゐ【魂】も身にそはず、ひき具したりける所従
P07196
十余人たふれ【倒れ】ふためき、おめき【喚き】さけむ【叫ん】でにげさ
りぬ。女帰て程なく産をしたれば、男子にてぞ
あり【有り】ける。母方の祖父太大夫そだてて見むとて
そだてたれば、いまだ十歳にもみたざるに、せいおほ
き【大き】にかほながく、たけ【丈】たかかり【高かり】けり。七歳にて元服
せさせ、母方の祖父を太大夫といふ間、是をば大太と
こそつけたりけれ。夏も冬も手足におほき【大き】
なるあかがりひまなくわれければ、あかがり大太と
P07197
ぞいはれける。件の大蛇は日向国にあがめられ給へる
高知尾の明神の神体也。此緒方の三郎はあ
かがり大太には五代の孫なり。かかるおそろしき【恐ろしき】
ものの末なりければ、国司の仰を院宣と号して、
九州二島にめぐらしぶみをしければ、しかる【然る】べき
兵ども維義に随ひつく。P2132 太宰府落S0804 平家いまは宮こ【都】をさだめ、
内裏つくるべきよし沙汰ありしに、維義が謀叛
と聞えしかば、いかにとさはが【騒が】れけり。平大納言時忠卿
P07198
申されけるは、「彼維義は小松殿の御家人也。
小松殿の君達一所むかは【向は】せ給ひて、こしらへて
御らんぜらるべうや候らん」と申されければ、「まこと【誠】にも」
とて、小松の新三位中将資盛卿、五百余騎で
豊後国にうちこえて、やうやうにこしらへ給へども、
維義したがひたてまつら【奉ら】ず。あまさへ【剰へ】「君達をも
只今ここでとりこめまいらす【参らす】べう候へども、「大事の
なかに小事なし」とてとりこめまいらせ【参らせ】ず候。なに
P07199
程の事かわたらせ給ふべき。とうとう太宰府へ
帰らせ給ひて、ただ御一所でいかにもならせ給へ」とて、
追帰し奉る。維義が次男野尻の二郎維村
を使者で、太宰府へ申けるは、「平家は重恩の
君にてましませば、甲をぬぎ弓をはづゐてま
いる【参る】べう候へども、一院の御定【*御諚】に速に追出し
まいらせよ【参らせよ】と候。いそぎ出させ給ふべうや候らん」と
申をく【送つ】たりければ、平大納言時忠卿、ひをぐくり【緋緒括】の
P07200
直垂に糸くず【糸葛】の袴立烏帽子で、維村にいで
むか【向つ】ての給ひけるは、「それ我君は天孫四十九世の
正統、仁王八十一代の御門なり。天照大神・正八幡
宮も我君をこそまもり【守り】P2133まいら【参ら】させ給ふらめ。
就中に、故太政大臣入道殿は、保元・平治両度の
逆乱をしづめ、其上鎮西の者どもをばうち様に
こそめされしか。東国・北国の凶徒等が頼朝・義仲
等にかたらはされて、しおほせたらば国をあづけう、
P07201
庄をたばんといふをまこととおもひ【思ひ】て、其鼻豊
後が下知にしたがはむ事しかる【然る】べからず」とぞの給ひ
ける。豊後の国司刑部卿三位頼資卿はきはめて
鼻の大におはしければ、かうはの給ひけり。維村帰て
父に此よしいひければ、「こはいかに、昔はむかし今は今、
其義ならば速かに追出したてまつれ【奉れ】」とて、勢そろ
ふるなど聞えしかば、平家の侍源大夫判官季定・
摂津判官守澄「向後傍輩のため奇怪くわい)に候。
P07202
めし【召し】とり候はん」とて、其勢三千余騎で筑後国
高野本庄に発向して、一日一夜せめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。
されども維義が勢雲霞のごとくにかさなりければ、
ちからをよば【及ば】で引しりぞく。平家は緒方三郎
維義が三万余騎の勢にて既によすと聞えしかば、
とる物もとりあへず太宰府をこそ落給へ。
さしもたのもしかり【頼もしかり】つる天満天神のしめ【注連】のほとりを、
心ぼそくもたちはなれ、駕輿丁もなければ、そう
P07203
花【葱花】・宝輦はただ名のみききて、主上要輿にめさ
れけり。国母をはじめ奉て、やごとなき女房達、
袴のそばをとり、大臣殿以下の卿相・雲客、指貫の
そばをはさみ、水き【水城】の戸を出て、P2134かちはだしにて我
さきに前にと箱崎の津へこそ落給へ。おりふし【折節】くだる
雨車軸のごとし。吹風砂をあぐとかや。おつる涙、
ふる雨、わきていづれも見えざりけり。住吉・筥崎・
香椎・宗像ふしをがみ【拝み】、ただ主上旧都の還幸と
P07204
のみぞ祈られける。たるみ山・鶉浜などいふ峨々
たる嶮難をしのぎ、渺々たる平沙へぞおもむき【赴き】
給ふ。いつならはしの御事なれば、御足よりいづる
血は沙をそめ、紅の袴は色をまし、白袴はすそ
紅にぞなりにける。彼玄弉三蔵の流砂・葱嶺を
凌がれけんくるしみ【苦】も、是にはいかでかまさるべき。
されどもそれは求法のためなれば、自他の利益も
あり【有り】けむ、是は怨敵のゆへ【故】なれば、後世のくるしみ【苦】
P07205
かつおもふこそかなしけれ。新羅・百済・高麗・
荊旦、雲のはて海のはてまでも落ゆかばやとは
おぼしけれども、浪風むかふ【向う】てかなは【叶は】ねば、兵
藤次秀遠に具せられて、山賀の城にこもり給ふ。山
賀へも敵よすと聞えしかば、小舟どもにめし【召し】て、
夜もすがら豊前国柳が浦へぞわたり給ふ。ここに
内裏つくるべきよし汰汰ありしかども、分限なかり
ければつくられず、又長門より源氏よすと聞え
P07206
しかば、海士のを【小】舟にとりのりて、海にぞうかび
給ひける。小松殿の三男左の中将清経は、
もとより何事もおもひいれ【思ひ入れ】たる人なれば、「宮こ
をば源氏がためにせめ【攻め】おとさ【落さ】れ、鎮西をば維義が
ために追出さる。網にかかP2135れる魚のごとし。いづくへ
ゆか【行か】ばのがる【逃る】べきかは。ながらへ【永らへ】はつべき身にも
あらず」とて、月の夜心をす【澄】まし、舟の屋形に
立出でて、やうでう【横笛】ねとり【音取】朗詠してあそば【遊ば】れ
P07207
けるが、閑かに経よみ念仏して、海にぞしづみ
給ひける。男女なきかなしめども甲斐ぞなき。
長門国は新中納言知盛卿の国なりけり。目代は
紀伊刑部大夫道資といふものなり。平家の
小舟どもにのり給へる由承て、大舟百余艘
点じて奉る。平家これに乗うつり四国の
地へぞわたられける。重能が沙汰として、四国の
内をもよほして、讃岐の八島にかたのやうなる
P07208
いた屋【板屋】の内裏や御所をぞつくらせける。其程は
あやしの民屋を皇居とするに及ばねば、舟を
御所とぞ定めける。大臣殿以下の卿相・雲客、
海士の篷屋に日ををくり【送り】、しづ【賎】がふしど【臥処】に夜を
かさね、竜頭鷁首を海中にうかべ、浪のうへの
行宮はしづかなる時なし。月をひたせる潮の
ふかき愁にしづみ、霜をおほへ【覆へ】る蘆の葉の
もろき命をあやぶむ。州崎にさはぐ【騒ぐ】千鳥
P07209
の声は、暁恨をまし、そはゐにかかる梶の音、夜
半に心をいたましむ。遠松に白鷺のむれゐる
を見ては、源氏の旗をあぐるかとうたがひ、野
鴈の遼海になくを聞ては、兵どもの夜もす
がら舟をこぐかとおどろかる。清嵐はだえ【肌】をを
かし、翠黛紅顔の色やうやうおとろへ、蒼
波眼穿て、外都望郷のP2136涙をさへがたし。翠
帳紅閨にかはれるは、土生の小屋のあしすだれ【蘆簾】、
P07210
薫炉の煙にことなるは、蘆火たく屋のいやし
きにつけても、女房達つきせぬ物おもひ【思ひ】に
紅の涙せきあへねば、翠の黛みだれつつ、其人
とも見え給はず。征夷将軍院宣S0805 さる程に鎌倉の前右兵衛
佐頼朝、ゐながら征夷将軍の院宣を蒙る。
御使は左史生中原泰定とぞ聞えし。十月
十四日関東へ下着。兵衛佐の給けるは、「頼朝年
来勅勘を蒙たりし〔か〕ども、今武勇の名誉
P07211
長ぜるによて、ゐながら征夷将軍の院宣を
蒙る。いかんが私でうけ【受け】とり【取り】奉るべき。若宮の
社にて給はらん」とて、若宮へまいり【参り】むかは【向は】れけり。
八幡は鶴が岡にたたせ給へり。地形石清水にた
がは【違は】ず。廻廊あり、楼門あり、つくり道十余町
見くだしたり。「抑院宣をばたれ【誰】してかうけ【受け】とり【取り】
奉るべき」と評定あり。「三浦介義澄してうけ【受け】
とり【取り】奉るべし。其故は、八ケ国に聞えたりし弓
P07212
矢とり、三浦平太郎為嗣が末葉也。其上父
大介は、君の御ために命をすてたる兵なれば、彼
義明が黄泉の迷暗をてらさむがため」とぞ聞え
し。P2137院宣の御使泰定は、家子二人、郎等十
人具したり。院宣をばふぶくろ【文袋】にいれ【入れ】て、雑色が
頸にぞかけさせたりける。三浦介義澄も家子
二人、郎等十人具したり。二人の家子は、和田三郎
宗実・比木【*比企】の藤四郎能員なり。十人の郎等を
P07213
ば大名十人して、俄に一人づつしたて【仕立て】けり。三浦の
介が其日の装束には、かち【褐】の直垂に、黒糸威の
鎧きて、いか物づくりの大太刀はき、廿四さいたる
大中黒の矢をひ【負ひ】、しげどうの弓脇にはさみ、
甲をぬぎ高ひもにかけ、腰をかがめて院宣を
うけ【受け】とる【取る】。泰定「院宣うけ【受け】とり【取り】奉る人はいか
なる人ぞ、名のれや」といひければ、三浦介とは
名のらで、本名を三浦の荒次郎義澄とこそ
P07214
なの【名乗つ】たれ。院宣をば、らん箱【乱箱】にいれ【入れ】られたり。兵衛
佐に奉る。ややあて、らんばこ【乱箱】をば返されけり。お
もかりければ、泰定是をあけて見るに、沙金百
両いれ【入れ】られたり。若宮の拝殿にして、泰定に
酒をすすめらる。斎院次官親義陪膳す。五
位一人役送をつとむ。馬三疋ひかる。一疋に鞍
をい【置い】たり。大宮のさぶらひたし工藤一臈資経【*祐経】是を
ひく。ふるき萱屋をしつらうて、いれ【入れ】られたり。
P07215
あつ綿【厚綿】のきぬ二両、小袖十重、長持にいれ【入れ】て
まうけたり。紺藍摺白布千端をつめり。盃
飯ゆたかにして美麗なり。次日兵衛佐の
館へむかふ【向ふ】。内外に侍あり、ともに十六間なり。外
侍には家子P2138郎等肩をならべ、膝を組てなみ
ゐたり。内侍には一門源氏上座して、末座に
大名小名なみゐたり。源氏の座上に泰定をすへ【据ゑ】らる。
良あて寝殿へ向ふ。ひろ廂に紫縁の畳を
P07216
しひて、泰定をすへ【据ゑ】らる。うへには高麗縁の畳
をしき、御簾たかくあげさせ、兵衛佐どの
出られたり。布衣に立烏帽子也。■大に、せいひ
き【低】かりけり。容■悠美にして、言語分明也。
「平家頼朝が威勢におそれ【恐れ】て宮こをおち【落ち】、その
跡に木曾の冠者、十郎蔵人うちいりて、わが
高名がほに官加階をおもふ様になり、おもふ
さまに国をきらひ申条、奇怪くわい)也。奥の秀衡が
P07217
陸奥守になり、佐竹四郎高義が常陸介に
なて候とて、頼朝が命にしたがはず。いそぎ追
討すべきよしの院宣を給はるべう候」。左史
生申けるは、「今度泰定も名符まいらす【参らす】べう
候が、御使で候へば、先罷上て、やがてしたためて
まいらす【参らす】べう候。おとと【弟】で候史の大夫重能も其義
を申候」。兵衛佐わら【笑つ】て、「当時頼朝が身として、
各の名符おもひ【思ひ】もよらず。さりながら、げにも申
P07218
されば、さこそ存ぜめ」とぞの給ひける。軈今日
上洛すべきよし申ければ、けふばかりは、逗留
あるべしとてとどめ【留め】らる。次日兵衛佐の館へむかふ【向ふ】。
萌黄の糸威の腹巻一両、しろう【白う】つくたる太刀
一振、しげどうの弓、野矢そへてたぶ。馬十三疋
ひかる。三疋に鞍をひ【置い】たり。P2139家子郎等十二人に、直
垂・小袖・大口・馬鞍にをよび【及び】、荷懸駄卅疋あり【有り】けり。
鎌倉出の宿より鏡の宿にいたるまで、宿々に
P07219
十石づつの米ををか【置か】る。たくさんなるによて、施行
にひきけるとぞ聞えし。猫間S0806 泰定都へのぼり院
参して、御坪の内にして、関東のやうつぶさに
奏聞しければ、法皇も御感あり【有り】けり。公卿
殿上人も皆ゑつぼにいり給へり。兵衛佐はかう
こそゆゆしくおはしけるに、木曾の左馬頭、都の
守護してあり【有り】けるが、たちゐの振舞の無骨
さ、物いふ詞つづきのかたくななることかぎりなし。
P07220
ことはり【理】かな、二歳より信濃国木曾といふ山里に、
三十まですみなれたりしかば、争かしる【知る】べき。或
時猫間中納言光高卿といふ人、木曾にの給ひ
あはすべきことあておはしたりけり。郎等ども
「猫間殿の見参にいり申べき事ありとて、
いらせ給ひて候」と申ければ、木曾大にわら【笑つ】て、
「猫は人にげんざうするか」。「是は猫間の中納言殿と
申公卿でわたらせ給ふ。御宿所の名とおぼえ
P07221
え候」と申ければ、木P2140曾「さらば」とて対面す。猶も
猫間殿とはえいはで、「猫殿のまれまれ【稀々】おはゐたるに、
物よそへ」とぞの給ひける。中納言是をきいて、
「ただいまあるべうもなし」との給へば、「いかが、けどき【食時】に
おはゐたるに、さてはあるべき」。何もあたらしき
物を無塩といふと心えて、「ここにぶゑん【無塩】のひらたけ【平茸】
あり、とうとう【疾う疾う】」といそがす。祢のゐ〔の〕小野太陪膳す。
田舎合子のきはめて大に、くぼかりけるに、飯うづ
P07222
だかくよそゐ、御菜三種して、ひらたけのしる【汁】で
まいらせ【参らせ】たり。木曾がまへにもおなじ体にてすへ【据ゑ】
たりけり。木曾箸とて食す。猫間殿は、合子の
いぶせさにめさざりければ、「それは義仲が精進
合子ぞ」。中納言めさでもさすがあしかるべければ、
箸とてめすよししけり。木曾是を見て、
「猫殿は小食におはしけるや。きこゆる【聞ゆる】猫おろし
し給ひたり。かい給へ」とぞせめたりける。中納言
P07223
かやうの事に興さめて、のたまひあはすべきこと
も一言もいださず、軈いそぎ帰られけり。木曾は、
官加階したるものの、直垂で出仕せん事ある
べうもなかりけりとて、はじめて布衣とり、装
束烏帽子ぎはより指貫のすそまで、まこと【誠】に
かたくななり。されども車にこがみのんぬ。鎧とてき、
矢かきをひ【負ひ】、弓もて、馬にのたるにはに【似】もにずわろ
かりけり。牛車は八島の大臣殿の牛車也。
P07224
牛飼もそなP2141りけり。世にしたがふ習ひなれば、
とらはれてつかは【使は】れけれ共、あまりの目ざまし
さに、すゑ【据ゑ】かう【飼う】たる牛の逸物なるが、門いづる
時、ひとずはへあてたらうに、なじかはよかるべき、
飛でいづるに、木曾、車のうちにてのけにたふ
れ【倒れ】ぬ。蝶のはねをひろげたるやうに、左右の袖をひ
ろげて、おきんおきんとすれども、なじかはおきらるべき。
木曾牛飼とはえいはで、「やれ子牛こでい、やれ
P07225
こうしこでい」といひければ、車をやれといふと心えて、
五六町こそあがかせたれ。今井の四郎兼平、
鞭あぶみをあはせて、お【追つ】つゐ【付い】て、「いかに御車をばかうは
つかまつるぞ」としかり【叱り】ければ、「御牛の鼻がこはう候」と
ぞのべたりける。牛飼なかなをり【仲直り】せんとや思けん、
「それに候手がたにとりつかせ給へ」と申ければ、木曾
手がたにむずととりつゐ【付い】て、「あぱれ支度や、是は
牛こでいがはからひか、殿のやう【様】か」とぞとふ【問う】たりける。
P07226
さて院御所にまいり【参り】つゐ【付い】て、車かけはづさせ、
うしろよりをり【降り】むとしければ、京者の雑色に
つかは【使は】れけるが、「車には、めされ候時こそうしろより
めされ候へ。をり【降り】させ給ふには、まへよりこそをり【降り】させ
給へ」と申けれども、「いかで車であらむがらに、す
どをり【素通り】をばすべき」とて、つゐに【遂に】うしろよりをり【降り】て
げり。其外おかしきこと共おほかり【多かり】けれども、おそれ【恐れ】て是を
申さず。P2142 水島合戦S0807 平家は讃岐の八島にありながら、山陽道
P07227
八ケ国、南海〔道〕六ケ国、都合十四箇国をぞうちとり
ける。木曾左馬頭是をきき、やすからぬ事なり
とて、やがてうつて【討手】をさしつかはす【遣す】。うつて【討手】の大将には
矢田判官代義清、侍大将には信濃国の住人
海野の弥平四郎行広、都合其勢七千余騎、
山陽道へ馳下り、備中国水島がとに舟をうかべて、
八島へ既によせむとす。同閏十月一日、水島が
とに小船一艘いできたり。あま舟釣舟かと見る
P07228
ほどに、さはなくして、平家方より朝の使舟なりけり。
是を見て源氏の舟五百余艘ほし【干し】あげたるを、お
めき【喚き】さけむ【叫ん】でおろしけり。平家は千余艘で
おしよせたり。平家の方の大手の大将軍には新中納言
知盛卿、搦手の大将軍には能登守教経なり。能登
殿のたまひけるは、「いかに者共、いくさ【軍】をばゆるに仕るぞ。
北国のやつばらにいけどら【生捕ら】れむをば、心うしとは
おもは【思は】ずや。御方の舟をばくめ【組め】や」とて、千余艘がとも
P07229
綱・へづなをくみあはせ、中にむやゐ【舫】をいれ【入れ】、あゆみ【歩み】
の板をひきならべひきならべわたひ【渡い】たれば、舟のうへはへいへい【平々】
たり。源平両方時つくり、矢合して、互に舟ども
おしあはせてせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。遠きをば弓でゐ【射】、近きP2143をば、
太刀できり、熊手にかけてとるもあり、とらるるも
あり、引組で海にいるもあり、さしちがへて死ぬるも
あり。思ひ思ひ心々に勝負をす。源氏の方の侍大将
海野の弥平四郎うた【討た】れにけり。是を見て大将軍
P07230
矢田の判官代義清[* 「義澄」と有るのを高野本により訂正]主従七人小舟に乗て、
真前さき)にすすで戦ふ程に、いかがしたりけむ、船ふみ
しづめて皆死にぬ。平家は鞍をき馬を舟のうちに
たてられたりければ、舟さしよせ、馬どもひきおろし、
うちのりうちのりおめい【喚い】てかけければ、源氏の勢、大将軍
はうた【討た】れぬ、われさきにとぞ落行ける。平家は
水島のいくさ【軍】に勝てこそ、会稽の恥をば雪め
けれ。瀬尾【*妹尾】最期S0808 木曾の左馬頭是をきき、やすからぬ事也
P07231
とて、一万騎で山陽道へ馳下る。平家の侍
備中国の住人妹尾太郎兼康は、北国の戦ひに、加賀国
住人倉光の次郎成澄が手にかかて、いけどり【生捕り】にせられ
たりしを、成澄が舎弟倉光の三郎成氏にあづけ
られたり。きこゆる【聞ゆる】甲の者、大ぢから也ければ、木曾殿
「あたらおのこをうしなふ【失なふ】べきか」とて、きら【斬ら】ず。人
あひ心ざまゆう【優】に情あり【有り】ければ、倉P2144光もねんごろに
もてなしけり。蘇子荊【*蘇子卿】が胡国にとらはれ、李少卿が
P07232
漢朝へ帰らざりしが如し。とをく【遠く】異国に付る事
は、昔の人のかなしめりし処也といへり。韋環【*■】・鴨【*毳】
の膜【*幕】もて風雨をふせき【防き】、腥【*羶】肉・駱【*酪】のつくり水もて
飢渇にあつ。夜るはいぬる事なく、昼は終日に
つかへ、木をきり草をからずといふばかりに随ひつつ、
いかにもして敵をうかがひ【伺ひ】打て、いま一度旧
主を見たて奉らんと思ひける兼康が心の程こそ
おそろしけれ【恐ろしけれ】。或時妹尾太郎、倉光の三郎に
P07233
あふ【逢う】て、いひけるは、「去五月より、甲斐なき命を
たすけられまいらせ【参らせ】て候へば、誰をたれとかおもひ【思ひ】
まいらせ【参らせ】候べき。自今以後御いくさ【軍】候ば、真前さき)かけ【駆け】
て木曾殿に命をまいらせ【参らせ】候はん。兼康が知行
仕候し備中の妹尾は、馬の草飼よい所で候。御
辺申て給はらせ候へ」といひければ、倉光此様を
申す。木曾殿「神妙の事申ごさんなれ。さらば汝
妹尾を案内者にして、先くだれ。誠に御馬の草
P07234
なんどをもかまへさせよ」との給へば、倉光三郎かし
こまり悦て、其勢卅騎ばかり、妹尾太郎をさきと
して、備中へぞ下ける。妹尾が嫡子小太郎宗康は、
平家の御方に候けるが、父が木曾殿よりゆるされ
て下るときこえしかば、年来の郎等どももよほし
あつめ、其勢五十騎ばかりでむかへ【向へ】にのぼる程に、
播磨[* 「幡磨」と有るのを高野本により訂正]の国府でゆきあふ【逢う】て、つれて下る。P2145備前国
みつ石の宿にとどま【留まつ】たりければ、妹尾がしたしき
P07235
者共、酒をもたせて出きたり。其夜もすがら悦
のさかもりしけるに、あづかりの武士倉光の三郎、
所従ともに卅余人、しゐ【強ひ】ふせ【臥せ】ておこしもたてず、
一々に皆さしころし【殺し】てげり。備前国は十郎蔵人
の国なり。其代官の国府にあり【有り】けるをも、をし【押し】よせ【寄せ】て
うてげり。「兼康こそいとま給て罷下れ、平家に
心ざし思ひまいらせ【参らせ】む人々は、兼康を先として、
木曾殿の下給ふに、矢ひとつゐ【射】かけ奉れ」と
P07236
披露しければ、備前・備中・備後三箇国の
兵ども、馬・物具しかる【然る】べき所従をば、平家の御方へ
まいらせ【参らせ】て、やすみける老者共、或は柿の直垂に
つめひも【詰紐】し、或は布の小袖にあづまおり【東折】し、
くさり腹巻つづりきて、山うつぼ・たかゑびら【竹箙】に
矢ども少々さし、かきをひ【負ひ】かきをひ【負ひ】妹尾が許へ馳集る。
都合其勢二千余人、妹尾太郎を先として、備
前国福りうじ【福隆寺】縄手、ささ【篠】のせまり【迫り】を城郭に
P07237
かまへ、口二丈ふかさ【深さ】二丈に堀をほり、逆もぎ引、
高矢倉かき、矢さきをそろへて、いまやいまやと待
かけたり。備前国に十郎蔵人のをか【置か】れたりし代
官、妹尾にうた【討た】れて、其下人共がにげて京へ上る
程に、播磨と備前のさかひふなさか【舟坂】といふ所にて、
木曾殿にまいり【参り】あふ。此由申ければ、「やすか
らぬ。きて捨べかりつる物を」と後悔せられけれP2146ば、
今井の四郎申けるは、「さ候へばこそ、きやつがつら
P07238
だましゐ【面魂】ただものとは見候はず。ちたび【千度】きらうど
申候つる物を、助けさせ給て」と申。「思ふに
何程の事かあるべき。追懸てうて【討て】」とぞの給ひ
ける。今井四郎「まづ下て見候はん」とて、三千
余騎で馳下る。ふくりう寺【福隆寺】縄手は、はたばり【端張】弓
杖一たけばかりにて、とをさ【遠さ】は西国一里也。左右は
深田にて、馬の足もをよば【及ば】ねば、三千余騎が心は
さきにすすめども、馬次第にぞあゆま【歩ま】せける。押
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よせてみければ、妹尾太郎矢倉に立出て、大音
声をあげて、「去五月より今まで、甲斐なき
命を助られまいらせ【参らせ】て候をのをの【各々】〔の〕御芳志には、是を
こそ用意仕て候へ」とて、究竟きやう)のつよ弓勢兵
数百人すぐりあつめ、矢前をそろへてさし
つめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さんざんにゐる【射る】。おもてを向べき様も
なし。今井四郎をはじめとして、楯・祢[B ノ]井・
宮崎三郎・諏方【*諏訪】・藤沢などいふはやりをの
P07240
兵ども、甲のしころをかたぶけて、射ころさ【殺さ】るる
人馬をとりいれ【入れ】ひきいれ【入れ】、堀をうめ、おめき【喚き】さ
けむ【叫ん】でせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。或は左右の深田に打いれ【入れ】て、
馬のくさわき【草脇】・むながいづくし・ふと腹などにたつ
所を事ともせず、むら【群】めかいてよせ【寄せ】、或は谷ふけ
をも嫌はず、懸いり懸いり一日戦暮しけり。夜に
いりて妹尾が催しあつめたるかり【駆】武者共、皆
せめ【攻め】おとさ【落さ】れて、たすかる者はすくなう、うたるる
P07241
者ぞおほかり【多かり】ける。妹尾P2147太郎篠のせまり【迫り】の城
郭を破られて、引退き、備中国板倉川の
はた【端】に、かいだて【垣楯】かいて待懸たり。今井四郎軈をし【押し】
よせ【寄せ】責ければ、山うつぼ・たかゑびら【竹箙】に矢種のある
程こそふせき【防き】けれ、みな射つくしてげれば、
われさきにとぞ落行ける。妹尾太郎ただ主従
三騎にうちなされ、板倉川のはたにつゐ【着い】て、
みどろ山のかたへ落行程に、北国で妹尾いけ
P07242
どり【生捕り】にしたりし倉光[B ノ]次郎成澄、おとと【弟】はうた【討た】れ
ぬ、「やすからぬ事なり。妹尾においては又いけどり【生捕り】に
仕候はん」とて、群にぬけてをう【追う】てゆく。あはひ【間】一町
ばかりに追付て、「いかに妹尾殿、まさなう〔も〕敵に
うしろをば見する物かな。返せやかへせ」といはれて、
板倉川を西へわたす河中に、ひかへて待懸たり。
倉光馳来て、おしならべむずと組で、どうどおつ。
互におとらぬ大力なれば、うへになり、したになり、ころび
P07243
あふ程に、川岸に淵のあり【有り】けるにころびいりて、
倉光は無水練なり、妹尾はすぐれたる水練なり
ければ、水の底で倉光をとてをさへ、鎧の草摺
ひきあげ、つか【柄】もこぶし【拳】もとをれ【通れ】とをれ【通れ】と三刀さいて
頸をとる。我馬は乗損じたれば、敵倉光が馬に
乗て落行程に、妹尾が嫡子小太郎宗康、馬には
のらず、歩行にて郎等とつれ【連れ】て落行程に、い
まだ廿二三の男なれども、あまりにふとて一町とも
P07244
えはしら【走ら】ず、物具ぬぎすててあゆめ【歩め】どもかなは【叶は】ざり
けり。父は是をうち捨て、十余町こそ逃のび
たれ。P2148郎等にあふ【逢う】ていひけるは、「兼康は千万の敵に
むか【向つ】て軍するは、四方はれ【晴れ】ておぼゆるが、今度は
小太郎をすててゆけばにや、一向前がくらうて
見えぬぞ。たとひ兼康命いきて、ふたたび平家の御方へ
まいり【参り】たりとも、どうれい【同隷】ども「兼康いまは六十にあ
まりたる者の、いく程の命をおしう【惜しう】で、ただひとり
P07245
ある子を捨ておち【落ち】けるやらん」といはれん事こそ
はづかしけれ」。郎等申けるは、「さ候へばこそ、御一
所でいかにもならせ給へと申つるはここ候。かへさ【返さ】せ
給へ」といひければ、「さらば」とて取てかへす【返す】。小太郎は足かばかり
はれ【腫れ】てふせ【臥せ】り。「なむぢがえお【追つ】つかねば、一所で打死せうどて
帰たるは、いかに」といへば、小太郎涙をはらはらとながい【流い】て、
「此身こそ無器量の者で候へば、自害をも仕候べきに、
我ゆへ【故】に御命をうしなひ【失ひ】まいらせ【参らせ】む事、五逆
P07246
罪にや候はんずらん。ただとうとう【疾う疾う】のびさせ給へ」と申
せども、「思ひきたるうへは」とて、やすむ処に、今井の
四郎まさきかけて、其勢五十騎ばかりおめい【喚い】て
追かけたり。妹尾太郎矢七[B ツ]八[B ツ]射のこしたるを、さし
つめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さんざん【散々】に射る。死生はしら【知ら】ず、やにはに
敵五六騎射おとす【落す】。其後打物ぬいて、先小
太郎が頸打おとし【落し】、敵の中へわていり、さんざん【散々】に戦ひ、
敵あまたうちとて、つゐに【遂に】打死してげり。郎等
P07247
も主にちともおとらず戦ひけるが、大事の手
あまたをひ【負ひ】、たたP2149かひつかれて自害〔せんと〕しけるが、いけどり【生捕り】に
こそせられけれ。中一日あてしに【死に】にけり。是等主
従三人が頸をば、備中国鷺が森にぞかけたりける。
木曾殿是を見給ひて、「あぱれ剛の者かな。是をこそ
一人当千の兵ともいふべけれ。あたら者どもを助て
見で」とぞのたまひける。室山S0809 さる程に、木曾殿は
備中国万寿の庄にて勢ぞろへして、八島へ
P07248
既によせむとす。其間の都の留守にをか【置か】れたる
樋口次郎兼光、使者をたてて、「十郎蔵人殿
こそ殿のましまさぬ間に、院のきり人【切り人】して、やうやうに
讒奏せられ候なれ。西国の軍をば暫さしをか【置か】せ
給ひて、いそぎのぼらせ給へ」と申ければ、木曾「さらば」
とて、夜を日につゐ【継い】で馳上る。十郎蔵人あしかり
なんとやおもひ【思ひ】けむ、木曾にちがはむと丹波路に
さしかかて、播磨国へ下る。木曾は摂津国をへて、
P07249
宮こ【都】へいる。平家は又木曾うたんとて、大将軍には
新中納言知盛卿・本三位中将重衡、侍大将には、
越中次郎兵衛盛次【*盛嗣】・上総五郎兵衛忠光・悪七
兵衛景清・都合其P2150勢二万余人、千余艘の舟に
乗、播磨の地へおしわたりて、室山に陣をとる。
十郎蔵人、平家と軍して木曾と中なをり【仲直り】せん
とやおもひ【思ひ】けむ、其勢五百余騎で室山へこそ
をし【押し】よせ【寄せ】たれ。平家は陣を五[B ツ]にはる。一陣越中
P07250
次郎兵衛盛次【*盛嗣】二千余騎、二陣伊賀平内左衛門
家長二千余騎、三陣上総五郎兵衛・悪七兵衛
三千余騎、四陣本三位中将重衡三千余騎、
五陣新中納言知盛卿一万余騎でかためらる。十
郎蔵人行家五百余騎でおめい【喚い】てかく。一陣越中
次郎兵衛盛次【*盛嗣】、しばらくあひしらう様にもて
なひて、中をさとあけてとをす。二陣伊賀平内
左衛門家長、おなじうあけてとをしけり。三陣上総
P07251
五郎兵衛・悪七兵衛、ともにあけてとをしけり。四陣
本三位中将重衡卿、是もあけていれ【入れ】られけり。
一陣より五陣まで兼て約束したりければ、敵
を中にとりこめて、一度に時をどとぞつくりける。
十郎蔵人今は遁るべき方もなかりければ、たば
かられぬとおもひ【思ひ】て、おもて【面】もふらず、命もおし
ま【惜しま】ず、ここを最後とせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。平家の侍ども、
「源氏の大将にくめや」とて、我さきにとすすめども、さ
P07252
すが十郎蔵人にをし【押し】ならべてくむ武者一騎も
なかりけり。新中納言のむねとたのま【頼ま】れたりける
紀七左衛門・紀八衛門・紀九郎などいふ兵ども、そこにて
皆十郎蔵人にうちとられぬ。かくして十郎蔵人、
五百余騎が纔に卅騎ばかりにうちなされ、
四方はP2151みな敵なり、御方は無勢なり、いかにして
のがる【逃る】べしとは覚えねど、おもひ【思ひ】きて雲霞の如
なる敵のなかをわてとをる【通る】。されども我身は手を
P07253
をはず、家子郎等廿余騎大略手負て、播磨
国高砂より舟に乗、をし【押し】いだひ【出い】て和泉国にぞ
付にける。それより河内へうちこえて、長野
城にひ【引つ】こもる。平家は室山・水島二ケ度のいく
さ【軍】に勝てこそ、弥勢はつきにけれ。皷判官S0810 凡京中には
源氏みちみちて、在々所々にいりどりおほし【多し】。賀茂・
八幡の御領ともいはず、青田を苅てま草にす。
人の倉をうちあけて物をとり、持てとをる【通る】物
P07254
をうばひとり、衣裳をはぎとる。「平家の都に
おはせし時は、六波羅殿とて、ただおほかたおそろし
かり【恐ろしかり】しばかり也。衣裳をはぐまではなかりし
物を、平家に源氏かへおとりしたり」とぞ人申
ける。木曾[B ノ]左馬頭のもとへ、法皇より御使あり。
狼籍【*狼藉】しづめよと仰下さる。御使は壱岐守朝親【*知親】が
子に、壱岐判官朝泰【*知康】といふ者也。天下にすぐれ
たる皷の上手であり【有り】ければ、時の人皷判官とぞ
P07255
申ける。木曾対面して、先御返事を申さで、
「抑P2152わどのを皷判官といふは、よろづの人にうた【打た】れ
たうか、はられたうか」とぞとふ【問う】たりける。朝泰【*知康】返事
にをよば【及ば】ず、院御所に帰りまい【参つ】て、「義仲おこの者で
候。只今だいま)朝敵になり候なんず。いそぎ追討せさせ給
へ」と申ければ、法皇さらばしかる【然る】べき武士には仰
せで、山の座主・寺の長吏に仰られて、山・三井寺
の悪僧どもをめされけり。公卿殿上人のめされける
P07256
勢と申は、むかへつぶて【向へ礫】・いんぢ【印地】、いふかひなき辻冠者
原・乞食法師どもなりけり。木曾左馬頭、院の御
気色あしうなると聞えしかば、はじめは木曾にした
がふたりける五畿内の兵ども、皆そむゐて院方へ
まいる【参る】。信濃源氏村上の三郎判官代、是も
木曾をそむゐて法皇へまいり【参り】けり。今井四郎申
けるは、「是こそ以外の御大事で候へ。さればとて十善帝王に
むかい【向ひ】まいらせ【参らせ】て、争か御合戦候べき。甲をぬぎ弓を
P07257
はづゐて、降人にまいら【参ら】せ給へ」と申せば、木曾大に
いかて、「われ信濃を出し時、をみ【麻績】・あひだ【会田】のいくさ【軍】より
はじめて、北国には、砥浪山・黒坂・塩坂・篠原、西国には
福隆寺縄手・ささ【篠】のせまり【迫り】・板倉が城を責しか
ども、いまだ敵にうしろを見せず、たとひたとひ十善
帝王にてましますとも、甲をぬぎ、弓をはづいて
降人にはえこそまいる【参る】まじけれ。たとへば都の守護
してあらんものが、馬一疋づつかう【飼う】てのら【乗ら】ざるべきか。い
P07258
くらもある田どもからせて、P2153ま草にせんを、あながちに
法皇のとがめ給ふべき様やある。兵粮米もな
ければ、冠者原共がかたほとりにつゐ【付い】て、時々いりどり
せんは何かあながちひが事【僻事】ならむ。大臣家や宮々の
御所へもまいら【参ら】ばこそ僻事ならめ。是は皷判官が
凶害とおぼゆるぞ。其皷め打破て捨よ。今度は
義仲が最後の軍にてあらむずるぞ。頼朝が帰
きかむ処もあり、軍ようせよ。者ども」とてう【打つ】たち【立ち】
P07259
けり。北国の勢ども皆落下て、纔に六七千騎ぞ
あり【有り】ける。我軍の吉例なればとて、七手につくる。先今
井四郎兼平二千騎で、新熊野のかたへ搦手に
さしつかはす【遣す】。のこり六手は、をのをの【各々】がゐたらむ条里
小路より川原へいでて、七条河原にてひとつになれ
と、あひづ【合図】をさだめて出立けり。軍は十一月十九日の
朝なり。院御所法住寺殿にも、軍兵二万余人ま
いり【参り】こもり【籠り】たるよし聞えけり。御方のかさじるし【笠印】には、
P07260
松の葉をぞ付たりたる。木曾法住寺殿の西門に
をし【押し】よせ【寄せ】て見れば、皷判官朝泰【*知康】軍の行事
うけ給【承つ】て、赤地の錦の直垂に、鎧はわざとき【着】ざりけり。
甲斗ぞきたりける。甲には四天をかいて、をし【押し】たり
けり。御所の西の築墻の上にのぼて立たりけるが、
片手にはほこ【矛】をもち、片手には金剛鈴をもて、金剛
鈴を打振打振、時々は舞おり【折】もあり【有り】けり。若き公卿
殿上人「風情なし。朝泰【*知康】には天狗ついたり」とぞわら
P07261
は【笑は】れける。大音P2154声をあげて、「むかしは宣旨をむ
か【向つ】てよみければ、枯たる草木も花さきみ【実】なり、
悪鬼悪神も随ひけり。末代ならむがらに、いかんが
十善帝王にむかひ【向ひ】まいらせ【参らせ】て弓をばひくべき。
汝等がはなたん矢は、返て身にあたるべし、ぬかむ
太刀は身をきるべし」などとののしりければ、木曾
「さないはせそ」とて、時をどとつくる。さる程に、搦手
にさしつかはし【遣し】たる樋口次郎兼光、新熊野の
P07262
方より時のこゑ【声】をぞあはせたる。鏑のなかに火を入て、
法住寺殿の御所に射たて【立て】たりければ、おりふし【折節】
風ははげしし、猛火天にもえあが【上がつ】て、ほのを【炎】は虚空に
ひまもなし。いくさ【軍】の行事朝泰【*知康】は、人よりさきに
落にけり。行事がおつるうへは、二万余人の官軍
ども、我さきにとぞ落ゆきける。あまりにあはて【慌て】さは
い【騒い】で、弓とる者は矢をしら【知ら】ず、矢とる者は弓をしら【知ら】ず、
或は長刀さかさまについて、我足つきつらぬく
P07263
者もあり、或は弓のはず物にかけて、えはづさで捨
てにぐる者もあり。七条がすゑは摂津国源氏の
かためたりけるが、七条を西へおち【落ち】て行。かねて【予て】軍
いぜん【以前】より、「落人のあらむずるをば、用意してうち
ころせ」と、御所より披露せられたりければ、在路の者共、
やねいに楯をつき、おそへの石をとりあつめて、待懸
たるところ【所】に、摂津国源氏のおち【落ち】けるを、「あはや落人
よ」とて、石をP2155ひろい【拾ひ】かけ、さんざん【散々】に打ければ、「これは院
P07264
がたぞ、あやまち仕るな」といへども、「さないはせそ。
院宣であるに、ただ打ころせ打ころせ」とて打間、或は
馬をすてて、はうはう【這ふ這ふ】にぐる者もあり、或はうちこ
ろさ【殺さ】るるもあり【有り】けり。八条がすゑは山僧かためたり
けるが、恥あるものはうち死し、つれなきものは
おち【落ち】ぞゆく。主水正親〔成〕薄青の狩衣のしたに、
萌黄の腹巻をきて、白葦毛なる馬にのり、河
原をのぼりに落てゆく。今井四郎兼平を【追つ】かけ
P07265
て、しや頸の骨を射てゐ【射】おとす。清大外記頼成が
子なりけり。「明経道の博士、甲冑をよろふ
事しかる【然る】べからず」とぞ人申ける。木曾を背て
院方へまい【参つ】たる信濃源氏、村上三郎判官代も
うた【討た】れけり。是をはじめて院方には、近江中将
為清・越前守信行も射ころされて頸とられぬ。
伯耆守光長・子息判官光経、父子共にうた【討た】
れぬ。按察大納言資方【*資賢】卿の孫播磨少将
P07266
雅方【*雅賢】も、鎧に立烏帽子で軍の陣へいでられ
たりけるが、樋口次郎に生どりにせられ給ひぬ。
天台座主明雲大僧正、寺の長吏円慶法親王も、
御所にまいり【参り】こもらせ給ひたりけるが、黒煙既に
をしかけければ、御馬にめし【召し】て、いそぎ川原へ
いでさせ給ふ。武士どもさんざん【散々】に射たてまつる。
明雲大僧正、円慶法親王も、御馬よりゐ【射】おとさ【落さ】れて、
御頸とられさせ給ひP2156けり。豊後国司刑部卿
P07267
三位頼資卿も、御所にまいり【参り】こもられたりけるが、
火は既にをし【押し】かけたり、いそぎ川原へ逃出給。
武士の下部共に衣裳皆はぎとられ、まぱだかで
たたれたり。十一月十九日のあしたなれば、河原の
風さこそすさまじかりけめ。三位〔の〕こじうとに越
前法眼性意といふ僧あり。其中間法師軍
見んとて河原へいでたりけるが、三位のはだかで
たたれたるに見あふ【逢う】て、「あなあさまし」とてはしり【走り】より、
P07268
此法師は白小袖二[B ツ]に衣きたりけるが、さらば小袖を
もぬいできせたてまつれ【奉れ】かし、さはなくて、衣をひ
ぬいでなげかけたり。短き衣うつほにほうかぶて、
帯もせず。うしろさこそ見ぐるしかりけめ。白衣
なる法師どもに具しておはしけるが、さらばいそぎ
もあゆみ【歩み】給はで、あそこ爰に立とどまり、「あれは
たが家ぞ、是は何者が宿所ぞ、ここはいづくぞ」と、
道すがらとはれければ、見る人みな手をたたゐて
P07269
わらひ【笑ひ】あへり。法皇は御輿にめし【召し】て他所へ御幸
なる。武士どもさむざむ【散々】に射たてまつる【奉る】。豊後少将
宗長、木蘭地の直垂に折烏帽子で供奉せら
れたりけるが、「是は法皇の御幸ぞ。あやまちつか
まつるな」との給へば、兵ども皆馬よりをり【降り】てかしこ
まる。「何者ぞ」と御尋あり【有り】ければ、「信濃国住人
矢島の四郎行綱」となのり【名乗り】申。P2157軈御輿に手かけま
いらせ【参らせ】、五条内裏にをし【押し】こめたてま【奉つ】て、きびしう
P07270
守護し奉る。主上は池に船をうかべてめされ
けり。武士どもしきりに矢をまいらせ【参らせ】ければ、七条
侍従信清・紀伊守教光【*範光】御舟に候はれけるが、「是は
うちのわたらせ給ふぞ、あやまち仕るな」との
たまへば、兵ども皆馬よりをり【降り】てかしこまる。閑院
殿へ行幸なし奉る。行幸の儀式のあさまし
さ、申も中々をろか【愚】なり。法住寺合戦S0811 院方に候ける近江守
仲兼、其勢五十騎ばかりで、法住寺殿の西の門
P07271
をかためてふせく【防く】処に、近江源氏山本冠者義
高馳来たり、「いかにをのをの【各々】は、誰をかばはんとて軍を
ばし給ふぞ。御幸も行幸も他所へなりぬとこそ
承はれ」と申せば、「さらば」とて、敵の大勢の中へおめ
い【喚い】てかけいり、さむざむ【散々】に、戦かひ、かけやぶてぞとをり【通り】ける。
主従八騎にうちなさる。八騎がうちに、河内のくさ
か【日下】党、加賀房といふ法師武者あり【有り】けり。白葦毛
なる馬の、きはめて口こはきにぞの【乗つ】たりける。「此馬が
P07272
あまりひあひ【悲愛】で、乗たまるべしともおぼえ候P2158はず」と
申ければ、蔵人、「いでさらばわが馬に乗かへよ」とて、
栗毛なる馬のしたお【下尾】しろい【白い】に乗かへて、祢のゐ【根井】の
小野太が二百騎ばかりでささへたる川原坂の
勢の中へ、おめい【喚い】て懸いり、そこにて八騎が五騎は
うた【討た】れぬ。ただ主従三騎にぞなりにける。加賀房は
わが馬のひあい【悲愛】なりとて、主の馬に乗かへたれども、
そこにてつゐに【遂に】うた【討た】れにけり。源蔵人の家の子に、
P07273
信濃次郎蔵人仲頼といふ者あり。敵にをし【押し】へだ
て【隔て】られて、蔵人のゆくゑ【行方】をしら【知ら】ず、栗毛なる馬の
したお【下尾】しろい【白い】がはしり【走り】いで【出で】たるを見て、下人を
よび【呼び】、「ここなる馬は源蔵人の馬とこそみれ【見れ】。はや
うた【討た】れけるにこそ。死なば一所で死なんとこそ契しに、
所々でうた【討た】れむことこそかなしけれ。どの勢の中へ
かいる【入る】と見つる」。「川原坂の勢のなかへこそ懸いらせ
給ひ候つるなれ。やがてあの勢の中より御馬も
P07274
出きて候」と申ければ、「さらば汝はとうとう是より
帰れ」とて、最後のありさま故郷へいひつかはし【遣し】、
只一騎敵のなかへ懸いり、大音声あげて名
のり【名乗り】けるは、「敦実親王より九代の後胤、信濃
守仲重が次男、信濃次郎蔵人仲頼、生年
廿七歳。我とおもは【思は】む人々はよりあへや、見参せん」
とて、竪様・横様・くも手【蜘蛛手】・十文字に懸わり懸
まはり戦ひけるが、敵あまた打とて、つゐに【遂に】
P07275
うち死してげり。蔵人是をば夢にもしら【知ら】ず、
兄[B ノ]河P2159内守・郎等一騎打具して、主従三騎、
南をさして落行程に、摂政殿の都をば軍に
おそれ【恐れ】て、宇治へ御出なりけるに、木幡山にて
追付たてまつる【奉る】。木曾が余党かとおぼしめし【思し召し】、
御車をとどめ【留め】て「何者ぞ」と御尋あれば、「仲兼、
仲信」となのり申。「こはいかに、北国凶徒かなとおぼし
めし【思し召し】たれば、神妙にまいり【参り】たり。ちかう候て
P07276
守護つかまつれ」と仰ければ、畏て承り、宇治の
ふけ【富家】殿までをくり【送り】まいらせ【参らせ】て、軈此人どもは、
河内へぞ落ゆきける。あくる廿日、木曾左馬頭
六条川原にう【打つ】た【立つ】て、昨日きるところ【所】の頸ども、
かけならべてしるひ【記い】たりければ、六百卅余人也。
其中に明雲大僧正・寺の長吏円慶法親王の
御頸もかからせ給ひたり。是を見る人涙を
ながさずといふことなし。木曾其勢七千余
P07277
騎、馬の鼻を東がし)へむけ、天も響き大地もゆるぐ
程に、時をぞ三ケ度つくりける。京中又さはぎ【騒ぎ】
あへり。但是は悦の時とぞ聞えし。故少納言
入道信西の子息宰相長教、法皇のわたらせ給
五条の内裏にまい【参つ】て、「是は君に奏すべき事が
あるぞ。あけてとをせ【通せ】」とのたまへども、武士共ゆるし
たてまつら【奉ら】ず。力をよば【及ば】である小屋に立いり、
俄に髪そりおろし法師になり、墨染の衣袴
P07278
きて、「此上は何かくるしかる【苦しかる】べき、いれよ【入れよ】」との給へば、
其時ゆるし奉る。御前へまい【参つ】て、今度うた【討た】れ
給へるむねとの人々の事どもつぶさP2160に奏聞し
ければ、法皇御涙をはらはらとながさせ給ひて、「明
雲は非業の死にすべきものとはおぼしめさ【思し召さ】ざりつ
る物を。今度はただわがいかにもなるべかりける御
命にかはり【変り】けるにこそ」とて、御涙せきあへさせ給はず。
木曾、家子郎等召あつめて評定す。「抑義仲、
P07279
一天の君にむかひ【向ひ】奉て軍には勝ぬ。主上にや
ならまし、法皇にやならまし。主上にならうど
おもへ【思へ】ども、童にならむもしかる【然る】べからず。法皇になら
うど思へ共、法師にならむもをかしかるべし。よしよし
さらば関白にならう」ど申せば、手かきに具せられたる
大夫房覚明申けるは、「関白は大織冠の御末、藤
原氏こそならせ給へ。殿は源氏でわたらせ給ふに、
それこそ叶ひ候まじけれ」。「其上は力をよば【及ば】ず」とて、
P07280
院の御厩の別当にをし【押し】なて、丹波国をぞ知行
しける。院の御出家あれば法皇と申、主上のいまだ
御元服もなき程は、御童形にてわたらせ給ふを
しらざりけるこそうたてけれ。前関白松殿の姫君
とりたてま【奉つ】て、軈松殿の聟にをし【押し】なる。同十一月
廿三日、三条中納言朝方卿をはじめとして、卿相雲
客四十九人が官職をとどめ【留め】てお【追つ】こめ【籠め】奉る。平家の
時は四十三人をこそとどめ【留め】たりしに、是は四十九人なれば、
P07281
平家の悪行には超過せり。P2161さる程に、木曾が狼籍【*狼藉】
しづめむとて、鎌倉の前兵衛佐頼朝、舎弟蒲の
冠者範頼・九郎冠者義経をさしのぼせられけるが、
既に法住寺殿焼はらひ、院うちとり奉て天下
くらやみ【暗闇】になたるよし聞えしかば、左右なうのぼて
軍すべき様もなし。是より関東へ子細を申
さむとて、尾張国熱田大郡司が許におはしけるに、
此事うたへ【訴へ】んとて、北面に候ける宮内判官公朝・
P07282
藤内左衛門時成、尾張国に馳下り、此由一々次第に
うたへ【訴へ】ければ、九郎御曹司「是は宮内判官の関東へ
下らるべきにて候ぞ。子細しらぬ使はかへしとは
るるとき不審の残るに」との給へば、公朝鎌倉へ馳
下る。軍におそれ【恐れ】て下人ども皆落うせたれば、
嫡子の宮内どころ【所】公茂が十五になるをぞ具したり
ける。関東にまひ【参つ】て此よし申ければ、兵衛佐大に
おどろき、「まづ皷判官知泰【*知康】が不思議〔の〕事申いだして、
P07283
御所をもやかせ、高〔僧〕貴僧をもほろぼしたてま【奉つ】たる
こそ奇怪くわい)なれ。知泰【*知康】においては既に違勅の者
なり。めし【召し】つかは【使は】せ給はば、かさねて御大事いでき候
なむず」と、宮こ【都】へ早馬をもて申されければ、皷
判官陳ぜんとて、夜を日についで、馳下る。兵衛佐
「しやつにめ【目】な見せそ、あひしらゐなせそ」との給へども、
日ごとに兵衛佐の館へむかふ【向ふ】。終に面目なくして、
宮こ【都】へ帰りのぼりけり。後には稲荷の辺なる所に、
P07284
命ばかりいき【生き】てすごしけるとぞ聞えし。P2162木曾[B ノ]左
馬頭、平家の方へ使者を奉て、「宮こ【都】へ御のぼり候へ。
ひとつになて東国せめ【攻め】む」と申たれば、大臣殿は
よろこばれけれども、平大納言・新中納言「さこそ世
すゑにて候とも、義仲にかたらはれて宮こ【都】へ帰り
いらせ給はむこと、しかる【然る】べうも候はず。十善帝王三種[B ノ]神
器を帯してわたらせ給へば、「甲をぬぎ、弓を
はづいて降人に是へまいれ【参れ】」とは仰候べし」と申
P07285
されければ、此様を御返事ありしかども、木曾も
ちゐ奉らず。松殿入道殿許へ木曾をめし【召し】て
「清盛公はさばかりの悪行人たりしかども、希代の
大善根をせしかば、世をもをだしう廿余年
たもたりしなり。悪行ばかりで世をたもつ
事はなき物を。させるゆへ【故】なくとどめ【留め】たる人々
の官ども、皆ゆるすべき」よし仰られければ、
ひたすらのあらゑびすのやうなれども、した
P07286
がひ奉て、解官したる人々の官どもゆるし
たてまつる【奉る】。松殿の御子師家のとのの、
其時はいまだ中納言中将にてましましける
を、木曾がはからひに、大臣摂政になし奉る。
おりふし【折節】大臣あかざりければ、徳大寺左大将
実定公の、其比内大臣でおはしけるをかり【借り】
たてま【奉つ】て、内大臣になし奉る。いつしか人の
口なれば、新摂政殿をばかるの大臣とぞ申
P07287
ける。同十二月十日、法皇は五条内裏をいで
させ給ひて、大膳大夫成忠が宿所六P2163条西洞院へ
御幸なる。同十三日歳末の御修法あり【有り】
けり。其次に叙位除目おこなはれて、木曾が
はからひに、人々の官どもおもふさまに
なしをきけり。平家は西国に、兵衛佐は
東国に、木曾は宮こ【都】にはり【張り】おこなふ。前漢・
後漢の間、王まう【王莽】が世をうちとて、十八年おさめ【納め】
P07288
たりしがごとし。四方の関々皆とぢたれば、
おほやけの御調物をもたてまつら【奉ら】ず。私の
年貢ものぼらねば、京中の上下の諸人、ただ
少水の魚にことならず。あぶな【危】ながら年
暮て、寿永も三とせになりにけり。
平家物語巻第八

平家物語(龍谷大学本)巻第九

【許諾済】
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【注意】
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【底本】
本テキストの底本は、龍谷大学大宮図書館所蔵『平家物語』です。直接には、思文閣出版発行の影印本(龍谷大学善本叢書13)に拠りました。


P09291
(表紙)
P09293 P2164
平家物語巻第九
生ずきの沙汰S0901寿永三年正月一日、院の御所は大膳大夫
成忠が宿所、六条西洞院なれば、御所のてい
しかる【然る】べからずとて、礼儀お[B こ]なはるべきにあらね
ば、拝礼もなし。院の拝礼なかりければ、内裏の
小朝拝もおこなはれず。平家は讃岐国八島
の磯におくりむかへ【向へ】て、元日元三の儀式事よろ
しからず。主上わたらせ給へども、節会もおこ
P09294
なはれず、四方拝もなし。■魚も奏せず。吉野
のくず【国栖】もまいらせ【参らせ】ず。「世みだれたりしかども、都
にてはさすがかくはなかりし物を」とぞ、おのおの
のたまひあはれける。青陽の春も来り、
浦吹風もやはらかに、日影も長閑になり
ゆけど、ただ平家の人々は、いつも氷に
とぢこめられたる心地して、寒苦鳥にことなら
ず。東岸西岸の柳遅速をまじへ、南枝北枝
P09295
梅開落已に異にして、花の朝月の夜、詩歌・
管絃・鞠・小弓・扇合・絵合・草づくし【尽】・虫づくし【尽】、
さまざまP2165興ありし事ども、おもひ【思ひ】いでかたり
つづけて、永日をくらしかね給ふぞ哀なる。同
正月十一日、木曾[B ノ]左馬頭義仲院参して、平家
追討のために西国へ発向すべきよし奏聞す。
同十三日、すでに門いでときこえ【聞え】し程に、東国より前
兵衛佐頼朝、木曾が狼籍【*狼藉】しづめんとて、数万騎の
P09296
軍兵をさしのぼせられけるが、すでに美濃国・伊
勢国につくと聞えしかば、木曾大におどろき、宇治・
勢田の橋をひいて、軍兵共をわかちつかはす【遣す】。折
ふしせい【勢】もなかりけり。勢田の橋へは大手なればとて、
今井[B ノ]四郎兼平八百余騎でさしつかはす【遣す】。宇治
橋へは、仁科・たかなし【高梨】・山田[B ノ]次郎・五百余騎でつかはす【遣す】。
いもあらい【一口】へは伯父の志太[B ノ]三郎先生義教三百
余騎でむかひ【向ひ】けり。東国よりせめ【攻め】のぼる大手の
P09297
大将軍は、蒲[B ノ]御曹司範頼、搦手の大将軍は
九郎御曹司義経、むねとの大名卅余人、都合其
勢六万余騎とぞ聞えし。其比鎌倉殿にいけ
ずき【生食】・する墨【摺墨】といふ名馬あり。いけずき【生食】をば梶
原源太景季しきりに望み申けれども、鎌倉
殿「自然の事のあらん時、物の具して頼朝がのる
べき馬なり。する墨【摺墨】もおとらぬ名馬ぞ」とて梶原
にはする墨【摺墨】をこそたうだりけれ。P2166佐々木四郎
P09298
高綱がいとま申にまい【参つ】たりけるに、鎌倉殿いかがおぼ
しめさ【思し召さ】れけん、「所望の物はいくらもあれども、存知
せよ」とて、いけずき【生食】を佐々木にたぶ。佐々木畏て
申けるは、「高綱、この御馬で宇治河のまさき
わたし候べし。宇治河で死て候ときこしめし【聞し召し】候はば、
人にさきをせられてげりとおぼしめし【思し召し】候へ。いまだ
いきて候ときこしめさ【聞し召さ】れ候はば、定て先陣はしつ
らん物をとおぼしめされ候へ」とて、御まへをまかり
P09299
たつ。参会したる大名小名みな「荒凉の申様かな」
とささやきあへり。おのおの鎌倉をたて、足柄をへて
行もあり、箱根にかかる人もあり、思ひ思ひに
のぼるほど【程】に、駿河国浮島が原にて、梶原源太景季
たかき所にうちあがり、しばしひかへておほく【多く】の馬共
を見ければ、おもひおもひ【思ひ思ひ】の鞍をい【置い】て、色々の鞦かけ、
或はのり口【乗口】にひかせ、或はもろ口【諸口】にひかせ、いく【幾】千万と
いふかずをしら【知ら】ず。引とほし引とほししける中にも、
P09300
景季〔が〕給たるする墨【摺墨】にまさる馬こそなかりけれ
と、うれしうおもひ【思ひ】てみる【見る】ところ【所】に、いけずき【生食】と
おぼしき馬こそいできたれ。黄覆輪の鞍を
いて、小総の鞦かけ、しらあは【白泡】かませ、とねり【舎人】あまた
つゐ【付い】たりけれども、なを【猶】ひきもためず、おどら【躍ら】せて
出きたり。梶原源太うちよて、「それはたが御馬ぞ」。
「佐々木殿の御馬候」。其時梶原「やすからぬ物P2167也。都へ
のぼて、木曾殿の御内に四天王ときこゆる【聞ゆる】今井・
P09301
樋口・楯・祢[B ノ]井にくんで死ぬるか、しからずは西国へ
むかう【向う】て、一人当千ときこゆる【聞ゆる】平家の侍どもと
いくさ【軍】して死なんとこそおもひ【思ひ】つれ共、此御き
そく【気色】ではそれもせんなし。ここで佐々木にひ【引つ】くみさし
ちがへ、よい侍二人死で、兵衛佐殿に損とらせたて
まつら【奉ら】ん」とつぶやいてこそまち【待ち】かけたれ。佐々木四郎は
何心もなくあゆませて出きたり。梶原、おしならべて
やくむ【組む】、むかふさま【向う様】にやあて【当て】おとす【落す】と思ひけるが、まづ
P09302
詞をかけけり。「[B いかに]佐々木殿、いけずき【生食】給はらせ給て
さうな」といひければ、佐々木、「あぱれ、此仁も内々所
望するとききし物を」と、[B きと]おもひ【思ひ】いだし【出し】て、「さ候へば
こそ。此御大事にのぼりさうが、定て宇治・勢田
の橋をばひいて候らん、乗て河わたすべき馬はなし、
いけずき【生食】を申さばやとはおもへ【思へ】ども、梶原殿の申
されけるにも、御ゆるされないとうけ給る【承る】間、まして
高綱が申ともよも給はらじとおもひ【思ひ】つつ、後日には
P09303
いかなる御勘当もあらばあれと存て、暁たたん
とての夜、とねり【舎人】に心をあはせて、さしも御秘蔵
候いけずき【生食】をぬすみすまいてのぼりさうはいかに」
といひければ、梶原この詞に腹がゐて、「ねたい、さらば
景季もぬすむべかりける物を」とて、どとわら【笑つ】て
のき【退き】にけり。P2168宇治川先陣S0902佐々木四郎が給はたる御馬は、黒[* 「墨」と有るのを高野本により訂正]栗毛
なる馬の、きはめてふとう【太う】たくましゐ【逞しい】が、馬をも人
をもあたりをはらてくひければ、いけずき【生食】とつけ
P09304
られたり。八寸の馬とぞきこえ【聞え】し。梶原が給はたる
する墨【摺墨】も、きはめてふとう【太う】たくましき【逞しき】が、まこと【誠】に
黒かりければ、する墨【摺墨】とつけられたり。いづれもお
とらぬ名馬也。尾張国より大手・搦手二手にわかて
せめ【攻め】のぼる。大手の大将軍、蒲[B ノ]御曹司範頼、あい
ともなふ人々、武田[B ノ]太郎・鏡美[B ノ]次郎・一条[B ノ]次郎・板垣の
三郎・稲毛[B ノ]三郎・楾谷[B ノ]四郎・熊谷[B ノ]次郎・猪俣[B ノ]小平六
を先として、都合其勢三万五千余騎、近江国野
P09305
路・篠原にぞつきにける。搦手[B ノ]大将軍は九郎御曹
司義経、おなじくともなふ人々、安田[B ノ]三郎・大内[B ノ]太郎・
畠山[B ノ]庄司次郎・梶原源太・佐々木四郎・糟屋[B ノ]藤太・
渋谷右馬允・平山[B ノ]武者どころをはじめとして、都
合其勢二万五千余騎、伊賀国をへて宇治橋
のつめにぞをし【押し】よせ【寄せ】たる。宇治も勢田も橋を
ひき、水のそこには乱ぐゐ【乱杭】うて、大綱はり、さかも木【逆茂木】
つないでながしかけたり。P2169比はむ月【睦月】廿日あまりの
P09306
事なれば、比良のたかね、志賀の山、むかしながらの
雪もきえ、谷々の氷うちとけて、水は折ふしま
さりたり。白浪おびたたしう【夥しう】みなぎりおち【落ち】、瀬[* 「灘」と有るのを他本により訂正]
まくら【枕】おほき【大き】に滝な【鳴つ】て、さかまく水もはやかり
けり。夜はすでにほのぼのとあけゆけど、河霧
ふかく立こめて、馬の毛も鎧の毛もさだかならず。
ここに大将軍九郎御曹司、河のはたにすすみ出、水の
おもてをみわたして、人々の心をみんとやおもは【思は】れ
P09307
けん、「いかがせん、淀・いもあらゐ【一口】へやまはるべき、水のおち
足【落足】をやまつべき」との給へば、畠山、其比はいまだ生年
廿一になりけるが、すすみいでて申けるは、「鎌倉にてよく
よく此河の御沙汰は、候しぞかし。しろしめさ【知ろし召さ】ぬ海河
の、俄にできても候はばこそ。此河は近江の水海の末
なれば、まつともまつとも水ひまじ。橋をば又誰かわたいて
まいらす【参らす】べき。治承の合戦に、足利又太郎忠綱は、
鬼神でわたしけるか、重忠瀬ぶみ仕らん」とて、丹[B ノ]党
P09308
をむねとして、五百余騎ひしひしとくつばみをなら
ぶるところ【所】に、平等院の丑寅、橘の小島が崎より
武者二騎ひかけ【引つ駆け】ひかけ【引つ駆け】いできたり。一騎は梶原源太景季、
一騎は佐々木四郎高綱也。人目には何ともみえ【見え】ざりけ
れども、内々は先に心をかけたりければ、梶原は
佐々木に一段ばかりぞすすんだる。佐々木四郎「此河は
西国一の大河ぞや。腹帯ののびてみえ【見え】さうぞ。しめ
給へ」といP2170はれて、梶原さもあるらんとや思ひけん、左右
P09309
のあぶみを〔ふみ〕すかし、手綱を馬のゆがみにすて【捨て】、腹帯
をといてぞしめたりける。そのまに佐々木はつとはせ【馳せ】
ぬい【抜い】て、河へざとぞうちいれ【入れ】たる。梶原たばかられ
ぬとやおもひ【思ひ】けん、やがてつづゐ【続い】てうちいれ【入れ】たり。「い
かに佐々木殿、高名せうどて不覚し給ふな。水の
底には大綱あるらん」といひければ、佐々木太刀をぬき、
馬の足にかかりける大綱どもをばふつふつとうちきりうちきり、
いけずき【生食】といふ世一の馬にはの【乗つ】たりけり、宇治河
P09310
はやしといへども、一文字にざとわたいてむかへ【向へ】の岸に
うちあがる【上がる】。梶原がの【乗つ】たりけるする墨【摺墨】は、河なかより
のため【篦撓】がたにおしなされて、はるかのしもよりうち
あげたり。佐々木あぶみふばりたちあがり【上がり】、大音声
をあげて名のりけるは、「宇多[B ノ]天皇より九代の後
胤、佐々木三郎秀義が四男、佐々木四郎高綱、宇
治河の先陣ぞや。われとおもは【思は】ん人々は高綱にくめ
や」とて、おめい【喚い】てかく。畠山五百余騎でやがてわたす。
P09311
むかへ【向へ】の岸より山田次郎がはなつ矢に、畠山馬の
額をのぶか【篦深】にゐ【射】させて、よはれ【弱れ】ば、河中より弓杖を
つゐ【突い】ておりたたり。岩浪甲の手さきへざとおし
あげけれども、事ともせず、水のそこをくぐて、
むかへ【向へ】の岸へぞつきにける。あがら【上がら】んとすれば、うしろ
に物こそむずとひかへたれ。「た【誰】そ」ととへば、「重親」と
こたふ。「いかに大串P2171か」。「さ候」。大串次郎は畠山には烏帽子
子にてぞあり【有り】ける。「あまりに水がはやうて、馬はおし
P09312
ながされ候ぬ。力およば【及ば】で、つきまいらせ【参らせ】て候」といひけ
れば、「いつもわ【我】殿原は、重忠が様なるものにこそた
すけ【助け】られんずれ」といふままに、大串をひ【引つ】さげて、
岸のうへへぞなげ【投げ】あげたる。なげあげられ、ただなを【直つ】
て、「武蔵国の住人、大串[B ノ]次郎重親、宇治河〔かちたち〕の先陣
ぞや」とぞ名の【乗つ】たる。敵も御方もこれをきい【聞い】て、一度に
どとぞわらひ【笑ひ】ける。其後畠山のりかへにの【乗つ】てうちあがる【上がる】。
魚綾の直垂に火おどしの鎧きて、連銭葦毛なる
P09313
馬に黄覆輪の鞍をいての【乗つ】たる敵の、まさきに
すすんだるを、「ここ[B に]かくる【駆くる】はいかなる人ぞ。なのれ【名乗れ】や」と
いひければ、「木曾殿の家の子に、長瀬判官代重
綱」となのる【名乗る】。畠山「けふのいくさ神【軍神】いははん」とて、をし【押し】
ならべてむずととて引おとし【落し】、頸ねぢきて、本田[B ノ]次
郎が鞍のとつけにこそつけさせけれ。これをはじめて、
木曾殿の方より宇治橋かためたるせい【勢】ども、しばし
ささへてふせき【防き】けれ共、東国の大勢みなわたい【渡い】て
P09314
せめ【攻め】ければ、散々にかけなされ、木幡山・伏見をさ
い【指い】てぞ落行ける。勢田をば稲毛[B ノ]三郎重成がはからひ
にて、田上供御の瀬をこそわたしけれ。P2172河原合戦S0903いくさ【軍】やぶ
れにければ、鎌倉殿へ飛脚をもて、合戦の次第を
しるし申されけるに、鎌倉殿まづ御使に、「佐々木はいかに」
と御尋あり【有り】ければ、「宇治河のまさき候」と申す。
日記をひらいて御らんずれば、「宇治河の先陣、佐々木
四郎高綱、二陣梶原源太景季」とこそかか【書か】れたれ。宇治・
P09315
勢田やぶれぬと聞えしかば、木曾左馬頭、最後のいとま
申さんとて、院の御所六条殿へはせ【馳せ】まいる【参る】。御所には
法皇をはじめまいらせ【参らせ】て、公卿殿上人、「世は只今うせなん
ず。いかがせん」とて、手をにぎり、たてぬ願もましまさず。
木曾門前までまいり【参り】たれども、東国の勢すでに
河原までせめ【攻め】入たるよし聞えしかば、さいて奏する旨も
なくてとてかへす【返す】。六条高倉なるところ【所】に、はじめて見そめ
たる女房のおはしければ、それへうちいり最後の名
P09316
ごりおしま【惜しま】んとて、とみにいで【出で】もやらざりけり。いま
まいり【今参】したりける越後[B ノ]中太家光といふものあり。
「いかにかうはうちとけてわたらせ給ひ候ぞ。御敵すでに
河原までせめ【攻め】入て候に、犬死にせさせ給なんず」と申
けれども、なを【猶】出もやらざりければ、「さ候ばまづさきだち【先立ち】
まいらせ【参らせ】て、四手の山でこそ待まいらせ【参らせ】候はめ」P2173とて、腹かき
きてぞ死にける。木曾殿「われをすすむる自害に
こそ」とて、やがてう【打つ】たち【立ち】けり。上野国の住人那波[B ノ]太
P09317
郎広純を先として、其勢百騎ばかりにはすぎざり
けり。六条河原にうちいでてみれ【見れ】ば、東国のせい【勢】とお
ぼしくて、まづ卅騎ばかり出きたり。そのなかに武者二
騎すすんだり。一騎は塩屋[B ノ]五郎維広、一騎は勅使河原
の五三郎有直なり。塩屋が申けるは、「後陣の勢をや
待べき」。勅使河原が申けるは、「一陣やぶれぬれば
残党またからず。ただかけよ」とておめい【喚い】てかく。木曾
はけふをかぎりとたたかへば、東国のせいはわれう【討つ】
P09318
とらんとぞすすみける。大将軍九郎義経、軍兵共に
いくさ【軍】をばせさせ、院御所のおぼつかなきに、守護し
奉らんとて、まづ我身ともにひた【直】甲五六騎、六条殿
へはせ【馳せ】まいる【参る】。御所には大膳大夫成忠、御所の東のつい垣【築垣】
のうへにのぼて、わななくわななくみまはせば、しら旗ざとさし
あげ【差し上げ】、武士ども五六騎のけかぶとにたたかい【戦ひ】なて、ゐむ
け【射向】の袖ふきなびかせ、くろ煙けたて【蹴立て】てはせ【馳せ】まいる【参る】。成忠
「又木曾がまいり【参り】候。あなあさまし」と申ければ、今度ぞ
P09319
世のうせはてとて、君も臣もさはが【騒が】せ給ふ。成忠かさ
ねて申けるは、「只今はせ【馳せ】まいる【参る】武士どもは、かさじるし【笠印】
のかはて候。今日都へ入東国のせい【勢】と覚候」と、申も
はてねば、九郎義経門前へ馳P2174まい【参つ】て、馬よりおり、
門をたたかせ、大音声をあげて、「東国より前兵衛
佐頼朝が舎弟、九郎義経こそまい【参つ】て候へ。あけさせ給へ」と
申ければ、成忠あまりのうれしさに、つゐ垣【築垣】よりいそぎ
おどり【躍り】おるるとて、腰をつき損じたりけれども、
P09320
いたさはうれしさにまぎれておぼえず、はうはう【這ふ這ふ】まい【参つ】て
此由奏聞しければ、法皇大に御感あて、やがて門
をひらかせて入られけり。九郎義経其日の装束には、
赤地の錦の直垂に、紫すそごの鎧きて、くわがた【鍬形】
うたる甲の緒しめ、こがねづくり【黄金作】の太刀をはき、
きりう【切斑】の矢おひ【負ひ】、しげ藤の弓のとりうち【鳥打】を、紙
をひろさ一寸ばかりにきて、左まきにぞまいたり
ける。今日の大将軍のしるしとぞみえ【見え】し。法皇は中
P09321
門のれんじ【櫺子】より叡覧あて、「ゆゆしげなるもの共哉。
みな名のらせよ」と仰ければ、まづ大将軍九郎義
経、次に安田三郎義定、畠山庄司次郎重忠、梶原源
太景季、佐々木四郎高綱、渋谷馬允重資とこそ名の【乗つ】
たれ。義経ぐし【具し】て、武士は六人、鎧はいろいろなりけれども、
つらだましゐ【面魂】事がらいづれもおとらず。大膳大夫成忠
仰を承て、九郎義経を大床のきはへめし【召し】て、合戦[B ノ]
次第をくはしく御尋あれば、義経かしこまて申けるは、
P09322
「義仲が謀叛の事、頼朝大におどろき、範頼・義経
をはじめとして、むねとの兵物卅余人、其勢六万余
騎をまいらせ【参らせ】候。範頼は勢田よりまはり候が、いP2175まだ
まいり【参り】候はず。義経は宇治の手をせめ【攻め】おとい【落い】て、まづ此
御所守護のためにはせ【馳せ】参じて候。義仲は河原を
のぼりにおち【落ち】候つるを、兵物共におはせ候つれば、今は
定てうとり候ぬらん」と、いと事もなげにぞ申たる。
法皇大に御感あて、「神妙也。義仲が余党など
P09323
まい【参つ】て、狼籍【*狼藉】もぞ仕る。なんぢら此御所よくよく守
護せよ」と仰ければ、義経かしこまりうけ給は【承つ】て、四方の
門をかためてまつほど【程】に、兵物共馳集て、程なく一万
騎ばかりになりにけり。木曾はもしの事あらば、法皇
をとりまいらせ【参らせ】て西国へ落くだり、平家とひとつに
ならんとて、力者廿人そろへてもたりけれども、御所には
九郎義経はせ【馳せ】まい【参つ】て守護したてまつる【奉る】由聞えし
かば、さらばとて、数万騎の大勢のなかへおめい【喚い】てかけいる。
P09324
すでにうた【討た】れんとする事度々に及といへども、
かけやぶり【駆け破り】かけやぶり【駆け破り】とほりけり。木曾涙をながい【流い】て、「かかる
べしとだ〔に〕知りたりせば、今井を勢田へはやらざら
まし。幼少竹馬の昔より、死なば一所で死なんと
こそ契しに、ところどころ【所々】でうた【討た】れん事こそかなし
けれ。今井がゆくゑ【行方】をきかばや」とて、河原のぼりに
かくる【駆くる】ほど【程】に、六条河原と三条河原の間に、敵お
そてかかればとてかへしとてかへし、わづかなる小勢にて、
P09325
雲霞の如なる敵の大勢を、五六度までぞお【追つ】かへす【返す】。
鴨河ざとうちわたし、粟田口・松坂にもかかP2176りけり。
去年信濃を出しには五万余騎と聞えしに、
けふ四の宮河原をすぐるには、主従七騎になりに
けり。まして中有の旅の空、おもひ【思ひ】やられて哀也。
木曾最期S0904 木曾殿は信濃より、ともゑ【巴】・山吹とて、二人の便女を
具せられたり。山吹はいたはり【労】あて、都にとどまりぬ。
中にもともゑ【巴】はいろしろく【白く】髪ながく、容顔まこと【誠】に
P09326
すぐれたり。ありがたきつよ弓、せい兵【精兵】、馬のうへ、かち
だち、うち物もては鬼にも神にもあはふどいふ一人
当千の兵也。究竟のあら馬のり、悪所おとし【落し】、
いくさ【軍】といへば、さねよき鎧きせ、おほ太刀・つよ弓も
たせて、まづ一方の大将にはむけられけり。度々の
高名、肩をならぶるものなし。されば今度も、おほく【多く】
のものどもおち【落ち】ゆきうた【討た】れける中に、七騎が内まで
ともゑ【巴】はうた【討た】れざりけり。木曾は長坂をへて丹波
P09327
路へおもむくとも聞えけり。又竜花ごへ【竜花越】にかかて北国へ
ともきこえ【聞え】けり。かかりしかども、今井が行ゑ【行方】をきか
ばやとて、勢田の方へおち【落ち】ゆくほど【程】に、今井四郎兼平
も、八百余騎で勢田をかためたりけるが、P2177わづかに
五十騎ばかりにうちなされ、旗をばまかせて、主のおぼつ
かなきに、宮こ【都】へとてかへす【返す】ほど【程】に、大津のうちで【打出】の浜にて、
木曾殿にゆきあひたてまつる。互になか一町ばかり
よりそれとみし【見知つ】て、主従駒をはやめてよりあふたり。
P09328
木曾殿今井が手をとての給ひけるは、「義仲六条
河原でいかにもなるべかりつれども、なんぢがゆくえ【行方】の
恋しさに、おほく【多く】の敵の中をかけわて、是までは
のがれ【逃れ】たる也」。今井四郎、「御ぢやう【諚】まこと【誠】に忝なう候。
兼平も勢田で打死つかまつるべう候つれども、御行
え【行方】のおぼつかなさに、これまでまい【参つ】て候」とぞ申ける。
木曾殿「契はいまだくちせざりけり。義仲がせい【勢】は
敵にをし【押し】へだてられ、山林にはせ【馳せ】ちて、此辺にもある
P09329
らんぞ。汝がまかせてもた〔せた〕る旗あげさせよ」との給へば、
今井が旗をさしあげ【差し上げ】たり。京よりおつる勢とも
なく、勢田よりおつるものともなく、今井が旗を見
つけて三百余騎ぞはせ集る。木曾大に悦て、「此勢あら
ばなどか最後のいくさ【軍】せざるべき。ここにしぐらうで
見ゆるはたが手やらん」。「甲斐の一条次郎殿とこそ
承候へ」。「せい【勢】はいくらほどあるやらん」。「六千余騎とこそ
聞え候へ」。「さてはよい敵ごさんなれ。おなじう死なば、
P09330
よからう敵にかけ【駆け】あふ【合う】て、大勢の中でこそ打死
をもせめ」とて、まさきにこそすすみけれ。P2178木曾左馬
頭、其日の装束には、赤地の錦の直垂に、唐綾お
どしの鎧きて、くわがたうたる甲の緒しめ、いか物
づくりのおほ太刀はき、石うちの矢の、其日のいくさ【軍】
にい【射】て少々のこたるを、かしらだか【頭高】におい【負ひ】なし、しげ
どう【滋籐】の弓もて、きこゆる【聞ゆる】木曾の鬼葦毛といふ馬
の、きはめてふとう【太う】たくましゐ【逞しい】に、黄覆輪の鞍を
P09331
い【置い】てぞの【乗つ】たりける。あぶみふばりたちあがり【上がり】、大音声
をあげて名のりけるは、「昔はききけん物を、木曾の
冠者、今はみる【見る】らん、左馬頭[B 兼]伊与【*伊予】守、朝日の将軍源
義仲ぞや。甲斐[B ノ]一条次郎とこそきけ。たがいに
よい敵ぞ。義仲うて兵衛佐に見せよや」とて、おめい【喚い】て
かく。一条二郎【*次郎】、「只今なのる【名乗る】は大将軍ぞ。あますなもの
共、もらす【漏らす】な若党、うてや」とて、大ぜいの中にとり【取り】こめ【籠め】て、
我うとらんとぞすすみける。木曾三百余騎、六千余
P09332
騎が中をたてさま・よこさま・蜘手・十文字にかけ【駆け】わ【破つ】て、
うしろへつといでたれば、五十騎ばかりになりにけり。
そこをやぶ【破つ】てゆくほど【程】に、土肥[B ノ]次郎実平二千余
騎でささへたり。其をもやぶ【破つ】て行ほど【程】に、あそこでは
四五百騎、ここでは二三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが
中をかけわりかけわりゆくほど【程】に、主従五騎にぞなりにける。
五騎が内までともゑ【巴】はうた【討た】れざりけり。木曾殿「おの
れ【己】はとうとう【疾う疾う】、おんな【女】なれば、いづちへもゆけ。我は打死
P09333
せんと思ふなり。もし人手にP2179かからば自害をせん
ずれば、木曾殿の最後のいくさ【軍】に、女をぐせ【具せ】られ
たりけりなどいはれん事もしかる【然る】べからず」との給ひ
けれ共、猶おち【落ち】もゆかざりけるが、あまりにいはれ
奉て、「あぱれ、よからうかたきがな。最後のいくさ【軍】
してみせ【見せ】奉らん」とて、ひかへたるところ【所】に、武蔵国に、
聞えたる大ぢから、をん田の【御田の】八郎師重、卅騎ばかりで
出きたり。ともゑ【巴】そのなかへかけ入、をん田の【御田の】八郎に
P09334
おしならべ、むずととてひきおとし【落し】、わがの【乗つ】たる鞍の
まへわ【前輪】にをし【押し】つけて、ちともはたらかさ【働かさ】ず、頸ねぢ
きてすててげり。其後物具ぬぎすて、東国の方へ
落ぞゆく。手塚太郎打死す。手塚の別当落に
けり。今井[B ノ]四郎、木曾殿、只主従二騎になての給ひ
けるは、「日来はなにともおぼえぬ鎧が、けふはおもう【重う】
なたるぞや」。今井四郎申けるは、「御身も未つかれ【疲れ】
させ給はず、御馬もよはり【弱り】候はず。なにによてか一両の
P09335
御きせなが【着背長】をおもうはおぼしめし【思し召し】候べき。それは御
方に御せいが候はねば、おく病【臆病】でこそさはおぼしめし【思し召し】候へ。
兼平一人候とも、余の武者千騎とおぼしめせ【思し召せ】。矢
七八候へば、しばらくふせき【防き】矢仕らん。あれに見え候、粟津
の松原と申。あの松の中で御自害候へ」とて、うて
行程に、又あら【新】手の武者五十騎ばかり出きたり。「君は
あの松原へいら【入ら】せ給へ。兼平は此敵ふせき【防き】候はん」と
申ければ、木曾殿の給P2180ひけるは、「義仲宮こ【都】にて
P09336
いかにもなるべかりつるが、これまでのがれ【逃れ】くるは、汝と
一所で死なんとおもふ【思ふ】ため也。ところどころ【所々】でうた【討た】れんよりも、
ひとところ【一所】でこそ打死をもせめ」とて、馬の鼻をなら
べてかけ【駆け】んとし給へば、今井四郎馬よりとびおり、主
の馬の口にとりつゐ【付い】て申けるは、「弓矢とりは年来
日来いかなる高名候へども、最後の時不覚しつれば
ながき疵にて候也。御身はつかれ【疲れ】させ給て候。つづくせい【勢】は
候はず。敵にをし【押し】へだてられ、いふかひなき人〔の〕郎等に
P09337
くみおとさ【落さ】れさせ給て、うた【討た】れさせ給なば、「さばかり日本
国にきこえ【聞え】させ給ひつる木曾殿をば、それがしが
郎等のうちたてま【奉つ】たる」など申さん事こそ口惜う
候へ。ただあの松原へいらせ給へ」と申ければ、木曾
さらばとて、粟津の松原へぞかけ給ふ。今井四郎
只一騎、五十騎ばかりが中へかけ入、あぶみふばりたちあ
がり【上がり】、大音声あげてなのり【名乗り】けるは、「日来は音にも
ききつらん、今は目にも見給へ、木曾殿の御めのと子、今井
P09338
四郎兼平、生年卅三にまかりなる。さるものありとは
鎌倉殿までもしろしめさ【知ろし召さ】れたるらんぞ。兼平うて
見参にいれよ【入れよ】」とて、ゐ【射】のこしたる八すぢの矢を、
さしつめ【差し詰め】引つめさんざん【散々】にゐる【射る】。死生はしら【知ら】ず、やに
わ【矢庭】にかたき八騎ゐ【射】おとす【落す】。其後打物ぬいてあれ
にはせ【馳せ】あひ、これに馳あひ、きP2181てまはるに、面をあはする
ものぞなき。分どりあまたしたりけり。只「ゐ【射】とれ
や」とて、中にとりこめ、雨のふる様にゐ【射】けれども、鎧
P09339
よければうらかかず、あき間をゐ【射】ねば手もおはず。
木曾殿は只一騎、粟津の松原へかけ給ふが、正
月廿一日入あひばかりの事なるに、うす氷ははたり
けり、ふか田【深田】ありともしら【知ら】ずして、馬をざとうち入
たれば、馬のかしらも見えざりけり。あおれ【煽れ】どもあおれ【煽れ】ども、
うてどもうてどもはたらか【働か】ず。今井が行え【行方】のおぼつか
なさに、ふりあふぎ給へるうち甲を、三浦[B ノ]の石田次郎
為久、お【追つ】かかてよぴゐてひやうふつとゐる【射る】。いた手【痛手】な
P09340
れば、まかうを馬のかしらにあててうつぶし給へる
処に、石田が郎等二人落あふて、つゐに【遂に】木曾殿の
頸をばとてげり。太刀のさきにつらぬき、たかく
さしあげ【差し上げ】、大音声をあげて、「この日来日本国に
聞えさせ給つる木曾殿を、三浦[B ノ]石田[B ノ]次郎為久が
うち奉たるぞや」となのり【名乗り】ければ、今井四郎いくさ【軍】し
けるが、是をきき、「いまはたれをかばはんとてかいくさ【軍】をば
すべき。是を見給へ、東国の殿原、日本一の甲【*剛】の者の
P09341
自害する手本」とて、太刀のさきを口に含み、馬
よりさかさまにとび落、つらぬ【貫ぬ】かてぞうせにける。さて
こそ粟津のいくさ【軍】はなかりけれ。P2182樋口被討罰S0905今井が兄、樋口
次郎兼光は、十郎蔵人うたんとて、河内国長野の
城へこえたりけるが、そこにてはうちもらし【洩らし】ぬ。紀伊
国名草にありと聞えしかば、やがてつづゐ【続い】てこえたり
けるが、都にいくさ【軍】ありときい【聞い】て馳のぼる。淀の大渡
の橋で、今井が下人ゆきあふたり。「あな心う【憂】、是は
P09342
いづちへとてわたらせ給ひ候ぞ。君うた【討た】れさせ給ひぬ。
今井殿は自害」と申ければ、樋口[B ノ]次郎涙をはらはらと
ながいて、「是を聞給へ殿原、君に御心ざしおもひ【思ひ】ま
いらせ【参らせ】給はん人々は、これよりいづちへもおち【落ち】行、出家入道
して乞食頭陀の行をもたて【立て】、後世をとぶらひま
いらせ【参らせ】給へ。兼光は宮こ【都】へのぼり打死して、冥途にても
君の見参に入、今井四郎をいま一度みんと思ふぞ」と
いひければ、五百余騎のせい、あそこにひかへここにひ
P09343
かへ落行ほど【程】に、鳥羽の南の門をいでけるには、其
勢わづかに廿余騎にぞなりにける。樋口次郎けふす
でに宮こ【都】へ入と聞えしかば、党も豪家も七条・朱
雀・四塚さまへ馳向。樋口が手に茅野[B ノ]太郎と云もの
あり。四塚にいくらも馳むかふ【向う】たる敵の中へかけ入、
大音声をあげて、「此御中に、甲斐の一条次郎殿の
御手の人や在ます」ととひければ、「あながち一条[B ノ]二郎【*次郎】殿
の手でいくさ【軍】P2183をばするか。誰にもあへかし」とて、どとわらふ【笑ふ】。
P09344
わらは【笑は】れてなのり【名乗り】けるは、「かう申は信濃国諏方【*諏訪】
上宮の住人、茅野[B ノ]大夫光家が子に、茅野太郎光広、
必一条[B ノ]次郎殿の御手をたづぬるにはあらず。おとと【弟】の
茅野[B ノ]七郎それにあり。光広が子共二人、信濃国に候が、
「あぱれわが父はようてや死にたるらん、あしうてや死に
たるらん」となげかん処に、おととの七郎がまへで打死して、
子共にたしかにきかせんと思ため也。敵をばきらふ
まじ」とて、あれに馳あひ是にはせあひ、敵三騎ゐ【射】おとし【落し】、
P09345
四人にあたる敵にをし【押し】ならべ、ひ【引つ】く【組ん】でどうどおち【落ち】、さし
ちがへてぞ死にける。樋口次郎は児玉にむすぼほれたり
ければ、児玉の人共寄合て、「弓矢とるならひ、我も人も
ひろい【広い】中へ入らんとするは、自然の事のあらん時、ひと
まどのいきをもやすめ、しばしの命をもつが【継が】んとお
もふ【思ふ】ため也。されば樋口次郎が我等にむすぼほれけんも、
さこそはおもひ【思ひ】けめ。今度の我等が勲功には、樋口が
命を申うけん」とて、使者をたてて、「日来は木曾
P09346
殿の御内に今井・樋口とて聞え給ひしかども、
今は木曾殿うた【討た】れさせ給ひぬ。なにかくるしかる【苦しかる】
べき。我等が中へ降人になり給へ。勲功の賞に申
かへて、命ばかりたすけ【助け】奉らん。出家入道をもして、
後世をとぶらひまいらせ【参らせ】給へ」といひければ、樋口次郎、
きこゆP2184るつはものなれども、運やつきにけん、児玉党
のなかへ降人にこそなりにけれ。是を九郎御曹司
に申。院御所へ奏聞してなだめ【宥め】られたりしを、
P09347
かたはらの公卿殿上人、つぼね【局】の女房達、「木曾が
法住寺殿へよせて時をつくり、君をもなやまし
まいらせ【参らせ】、火をかけておほく【多く】の人々をほろぼしう
しなひ【失ひ】しには、あそこにもここにも、今井・樋口といふ
こゑ【声】のみこそありしか。是らをなだめ【宥め】られんはくち
おしかる【惜しかる】べし」と、面々に申されければ、又死罪にさだめ
らる。同廿二日、新摂政殿とどめ【留め】られ給ひて、本の摂政
還着し給ふ。纔に六十日のうちに替られ給へば、
P09348
いまだ見はてぬ夢のごとし。昔粟田の関白は、
悦申の後只七ケ日だにこそおはせしか、これは六十
日とはいへども、その内に節会も除目もおこなはれ
しかば、思出なきにもあらず。同廿四日、木曾左馬頭并
余党五人が頸、大路をわたさる。樋口次郎は降人
なりしが、頻に頸のとも【伴】せんと申ければ、藍摺の水
干、立烏帽子でわたされけり。同廿五日、樋口次郎遂に
切[B れ]ぬ。範頼・義経やうやうに申されけれども、「今井・
P09349
樋口・楯・祢[B ノ]井とて、木曾が四天王のそのひとつ也。是ら
をなだめ【宥め】られんは、養虎の愁あるべし」とて、殊に沙汰
あて誅られけるとぞきこえ【聞え】し。つて【伝】にきく【聞く】、虎狼
の国衰へて、諸侯蜂のごとく起し時、沛公先に咸
陽宮に入とP2185いへども、項羽が後に来らん事を恐て、
妻は美人をもおかさず、金銀珠玉をも掠めず、徒に
凾谷の関を守て、漸々にかたきをほろぼして、天下を
治する事を得たりき。されば木曾[B ノ]左馬頭、まづ
P09350
都へ入ると云とも、頼朝朝臣の命にしたがはましかば、彼の
沛公がはかり事にはおとらざらまし。平家はこぞの
冬の比より、讃岐国八島の磯をいでて、摂津国難
波潟へをし【押し】わたり、福原の旧都に居住して、西は
一[B ノ]谷を城郭に構へ、東は生田[B ノ]森を大手の木戸口と
ぞさだめける。其内福原・兵庫・板屋ど【板宿】・須磨にこもる
勢、これは山陽道八ケ国、南海道六ケ国、都合十四ケ国
をうちしたがへてめさるるところ【所】の軍兵也。十万余
P09351
騎とぞ聞えし。一谷は北は山、南は海、口はせばくて奥ひ
ろし。岸たかくして屏風をたてたるにことならず。
北の山ぎはより南の海のとをあさ【遠浅】まで、大石をかさね
あげ、おほ木をきてさかも木【逆茂木】にひき、ふかきところ【所】
には大船どもをそばだてて、かいだて【垣楯】にかき、城の面の
高矢倉には、一人当千ときこゆる【聞ゆる】四国鎮西の兵共、甲
冑弓箭を帯して、雲霞の如くになみ居たり。
矢倉のしたには、鞍置馬共十重廿重にひ【引つ】たてたり。
P09352
つねに大皷をうて乱声をす。一張の弓のいきおひ
は半月胸のまへにかかり、三尺の剣の光は秋の霜
腰の間に横だへたり。たかきところ【所】には赤旗おほく【多く】
うちたてたれば、春風にふかれP2186て天に翻るは、火
炎のもえあがる【上がる】にことならず。六ケ度軍S0906平家福原へわたり給
て後は、四国の兵したがい【従ひ】奉らず。中にも阿波讃岐
の在庁ども、平家をそむいて源氏につかんとし
けるが、「抑我等は、昨日今日まで平家にしたがうたる
P09353
ものの、今はじめて源氏の方へまいり【参り】たりとも、よも
もちゐられじ。いざや平家に矢ひとつゐ【射】かけて、
それを面にしてまいら【参ら】ん」とて、門脇中納言、子息越
前三位、能登守、父子三人、備前国下津井に在ます
と聞えしかば、討たてまつら【奉ら】んとて、兵船十余艘で
よせたりけり。能登守是をきき「にくゐやつ原かな。
昨日今日まで我等が馬の草きたる奴原が、すでに
契を変ずるにこそあんなれ。其義ならば一人も
P09354
もらさ【漏らさ】ずうてや」とて、小舟どもにとりの【乗つ】て、「あます
な、もらす【漏らす】な」とてせめ【攻め】給へば、四国の兵物共、人目ばかりに
矢一射て、のか【退か】んとこそ思ひけるに、手いたうせめ【攻め】られ
たてま【奉つ】て、かなは【叶は】じとやおもひ【思ひ】けん、とをまけ【遠負】にして
引退き、宮こ【都】の方へにげのぼるが、淡路国ふく良【福良】
の泊につきにけり。其国に源氏二人あり。故六条判
官為義が末子、P2187賀茂冠者義嗣・淡路冠者義久
と聞えしを、四国の兵共、大将にたのん【頼ん】で、城郭を構て
P09355
待ところ【所】に、能登殿やがてをし【押し】よせ【寄せ】責給へば、一日
たたかひ【戦ひ】、賀茂冠者打死す。淡路冠者はいた手【痛手】負て
自害してげり。能登殿防矢ゐ【射】ける兵ものども、
百卅余人が頸切て、討手の交名しるい【記い】て、福原へ
まいらせ【参らせ】らる。門脇中納言、其より福原へのぼり給ふ。
子息達は、伊与【*伊予】[B ノ]河野四郎がめせ【召せ】どもまいら【参ら】ぬをせ
め【攻め】んとて、四国へぞ渡られける。先兄の越前三位通
盛卿、[B 阿]波国花園の城につき給。能登守讃岐の八島へ
P09356
渡り給ふと聞えしかば、河野四郎道信【*通信】、安芸国
住人沼田次郎は母方の伯父なりければ、ひとつに
ならんとて、安芸国へをし【押し】わたる。能登守是を
きき、やがて讃岐八島をいでておはれけるが、すでに
備後国蓑島にかかて、次日、沼田[B ノ]城へよせ給ふ。沼田
次郎・河野四郎ひとつになてふせき【防き】たたかふ【戦ふ】。能登
殿やがて押寄責給へば、一日一夜ふせき【防き】たたかひ【戦ひ】、
沼田次郎かなは【叶は】じとや思ひけん、甲をぬいで降人に
P09357
まいる【参る】。河野四郎は猶したがひ【従ひ】奉らず。其勢五
百余騎あり【有り】けるが、わづかに五十騎ばかりにうち
なされ、城をいでて行ほど【程】に、能登殿の侍平八兵
衛為員、二百騎ばかりが中にとりこめられて、主従
七騎にうちなされ、たすけ船【助け船】にのらんとほそ道に
かかて、みぎはの方へおち【落ち】ゆく程に、平八兵[B 衛]が子息讃
岐七郎義範、究竟の弓P2188の上手ではあり、お【追つ】かかて、
七騎をやにわ【矢庭】に五騎ゐ【射】おとす【落す】。河野四郎、ただ主従
P09358
二騎になりにけり。河野が身にかへて思ひける郎
等を、讃岐七郎をし【押し】ならべてく【組ん】でおち【落ち】、とておさへて
頸をかかんとする処に、河野四郎とてかへし、郎等が
うへなる讃岐七郎が頸かき切て、ふか田【深田】へなげいれ【入れ】、大音
声をあげて、「河野四郎越智[B ノ]道信【*通信】、生年廿一、かうこそ
いくさ【戦】をばすれ。われとおもはん人々はとどめよ【留めよ】や」とて、
郎等をかたにひ【引つ】かけ、そこをつとのがれ【逃れ】て小舟に
のり、伊与【*伊予】国へぞわたりける。能登殿、河野をも
P09359
うちもらさ【漏らさ】れたれども、沼田次郎が降人たるをめし【召し】
ぐし【具し】て、福原へぞまいら【参ら】れける。又淡路国住人安摩
六郎忠景、平家をそむいて源氏に心をかよはし【通はし】ける
が、大船二艘に兵粮米・物具つう【積う】で、宮こ【都】の方へのぼる
程に、能登殿福原にて是をきき、小舟十艘ばかり
おしうかべ【浮べ】ておは【追は】れけり。安摩の六郎、西宮の奥にて、
かへしあはせふせき【防き】たたかふ【戦ふ】。手いたうせめ【攻め】られたて
ま【奉つ】て、かなは【叶は】じとや思ひけん、引退て和泉国吹井[B ノ]
P09360
浦につきにけり。紀伊国住人園辺兵衛忠康、是
も平家をそむいて源氏につかんとしけるが、あまの
六郎が能登殿に責られたてま【奉つ】て、吹井にありと
聞えしかば、其勢百騎ばかりで馳来てひとつになる。
能登殿やがてつづゐ【続い】て責給へば、一日一夜ふせP2189きたた
かい【戦ひ】、あまの六郎・そのべの兵衛、かなは【叶は】じとや思ひけん、家
子郎等に防矢ゐ【射】させ、身がらはにげて京へのぼる。
能登殿、防矢ゐ【射】ける兵物共二百余人が頸きりかけて、
P09361
福原へこそまいら【参ら】れけれ。又伊与【*伊予】国住人河野四
郎道信【*通信】、豊後国住人臼杵二郎維高・緒方三郎維
義同心して、都合其勢二千余人、備前国へをし【押し】
渡り、いまぎ【今木】の城にぞ籠ける。能登守是をきき、
福原より三千余騎で馳くだり、いまぎ【今木】の城をせめ【攻め】
給ふ。能登殿「奴原はこはい御敵で候。かさねて勢を
給はらん」と申されければ、福原より数万騎の大勢
をむけらるるよしきこえ【聞え】し程に、城のうちの兵物共、
P09362
手のきはたたかひ、分捕高名しきはめて、「平家は
大勢でまします也。我等は無勢也。いかにもかなふ【叶ふ】
まじ。ここをばおち【落ち】てしばらくいき【息】をつが【継】ん」とて、臼杵
次郎・緒方三郎舟にとりのり、鎮西へおしわたる。河
野は伊与【*伊予】へぞ渡りける。能登殿「いまはう[B つ]べき敵な
し」とて、福原へこそまいら【参ら】れけれ。大臣殿をはじめ
たてま【奉つ】て、平家一門の公卿殿上人より【寄り】あひ給ひて、
能登殿の毎度の高名をぞ一同に感じあはれける。P2190
P09363
三草勢揃S0907正月廿九日、範頼・義経院参して、平家追討
のために西国へ発向すべきよし奏聞しけるに、
「本朝には神代よりつたはれる三の御宝あり。内侍所・
神璽・宝剣これ也。相構て事ゆへ【故】なくかへし【返し】い
れ【入れ】たてまつれ【奉れ】」と仰下さる。両人かしこまりうけ給
は【承つ】てまかり出ぬ。同二月四日、福原には、故入道相国の
忌日とて、仏事形の如くおこなはる。あさゆふのいく
さ【軍】だちに、過ゆく月日はしら【知ら】ねども、こぞ【去年】はことしに
P09364
めぐりきて、うかり【憂かり】し春にも成にけり。世の世にて
あらましかば、いかなる起立塔婆のくはたて【企て】、供仏施僧の
いとなみもあるべかりしか共、ただ男女の君達さしつどひて、
なく【泣く】より外の事ぞなき。其次でに叙位除目おこな
はれて、僧も俗もみなつかさ【司】なされけり。門脇中納言、正二位大
納言に成給ふべきよし、大臣殿より仰られければ、教盛卿、
けふまでもあればあるかのわが身かは
夢のうちにも夢をみる【見る】かな W067
P09365
と御返事申させ給ひて、遂に大納言にもなり給
はず。大外記中原師直が子、周防介師純、大外記になる。
兵部少輔正明、五位蔵人になされて蔵人少輔とぞP2191
いはれける。昔将門が東八ケ国をうちしたがへて、下
総国相馬郡に都をたて、我身を平親王と称して、
百官をなしたりしには、暦博士ぞなかりける。是はそれ
にはにる【似る】べからず。旧都をこそ落給ふといへども、主上
三種の神器を帯して、万乗の位にそなはり給へり。
P09366
叙位除目おこなはれんも僻事にはあらず。平氏す
でに福原までせめ【攻め】のぼて、都へかへり入べきよしき
こえ【聞え】しかば、故郷にのこりとどまる人々いさみよろ
こぶ事なのめならず。二位僧都専親【*全真】は、梶井宮の
年来の御同宿なりければ、風のたよりには申
されけり。宮よりも又つねは御音づれあり【有り】けり。「旅
の空のありさまおぼしめし【思し召し】やるこそ心ぐるし
けれ。都もいまだしづまらず」などあそばひ【遊ばい】て、お
P09367
くには一首の歌ぞあり【有り】ける。
人しれずそなたをしのぶ【忍ぶ】こころをば
かたぶく月にたぐへてぞやる W068
僧都これをかほにをし【押し】あてて、かなしみの泪せきあ
えず。さるほど【程】に、小松の三位中将維盛卿は年へだた
り日かさなるに随ひて、ふるさとにとどめ【留め】をき給し
北方、おさなき【幼き】人々の事をのみなげきかなしみ給ひ
けり。商人のたよりに、をのづから文などのかよふにも、
P09368
北方の宮こ【都】の御ありさま、心ぐるしうきき給ふに、
さらばむかへ【向へ】とて一ところ【一所】でいかにもならばやとは思へ
ども、わが身こそあらめ、人のためいたはしくてなどお
ぼしめP2192し、しのび【忍び】てあかしくらし給ふにこそ、せめて
の心ざしのふかさ【深さ】の程もあらはれけれ。さる程に、
源氏は四日よすべかりしが、故入道相国の忌日とき
い【聞い】て、仏事をとげさせんがためによせず。五日は西ふさ
がり、六日は道忌日、七日の卯剋に、一谷の東西の木
P09369
戸口にて源平矢合とこそさだめけれ。さりながら
も、四日は吉日なればとて、大手搦手の大将軍、軍兵
二手にわかて都をたつ。大手の大将軍は蒲御曹司
範頼、相伴人々、武田太郎信義・鏡美次郎遠光・同
小次郎長清・山名次郎教義・同三郎義行、侍大将には
梶原平三景時・嫡子源太景季・次男平次景高・同三郎
景家・稲毛三郎重成・楾谷四郎重朝、同五郎行重・小
山小四郎朝政・同中沼五郎宗政・結城七郎朝光・佐
P09370
貫四郎大夫広綱・小野寺[B ノ]禅師太郎道綱・曾我太郎
資信・中村太郎時経・江戸四郎重春・玉[B ノ]井[B ノ]四郎資景・
大河津太郎広行・庄三郎忠家・同四郎高家・勝大[B ノ]
八郎行平・久下二郎重光・河原太郎高直・同次郎盛
直・藤田三郎大夫行泰を先として、都合其勢五
万余騎、四日の辰の一点に都をたて、其日申酉[B ノ]剋に
摂津国■陽野に陣をとる。搦手の大将軍は九
郎御曹司義経、同く伴ふ人々、安田三郎義貞・太
P09371
内【*大内】太郎維義・村上判官代康国・田代冠者信綱、侍
大将には土肥次郎実平・子息[B ノ]P2193弥太郎遠平・三浦介
義澄・子息[B ノ]平六義村・畠山庄司次郎重忠・同長野
三郎重清・三浦佐原十郎義連・和田小太郎義盛・
同次郎義茂・同三郎宗実・佐々木四郎高綱・同五
郎義清・熊谷次郎直実・子息小次郎直家・平山武者
所季重・天野次郎直経・小河次郎資能・原三郎清
益・金子十郎家忠・同与一親範・渡柳弥五郎清忠・
P09372
別府小太郎清重・多々羅五郎義春・其子の太郎
光義・片岡五郎経春・源八広綱・伊勢三郎義盛・
奥州[B ノ]佐藤三郎嗣信・同四郎忠信・江田[B ノ]源三・熊井
太郎・武蔵房弁慶を先として、都合其勢一万
余騎、同日の同時に都をたて丹波路にかかり、二日
路を一日にう【打つ】て、播磨と丹波のさかひなる三草の
山の東の山口に、小野原にこそつきにけれ。三草合戦S0908 平家の
方には大将軍小松新三位中将資盛・同少将有盛・
P09373
丹後侍従忠房・備中守師盛、侍大将には、平内兵衛
清家・海老次郎盛方を初として、都合其勢三千
余騎、小野原より三里へだてて、三草の山の西の
山口に陣をとる。其夜の戌の剋ばかり、九郎御曹司、
土肥次郎をめし【召し】て、「平家は是より三里へP2194だてて、三草
の山の西の山口に大勢でひかへたんなるは。今夜夜討に
よすべきか、あすのいくさ【軍】か」との給へば、田代冠者すす
みいでて申けるは、「あすのいくさ【軍】とのべ【延べ】られなば、
P09374
平家勢つき候なんず。平家は三千余騎、御方
の御勢は一万余騎、はるかの理に候。夜うちよかん
ぬと覚候」と申ければ、土肥次郎「いしう申させ
給ふ田代殿かな。さらばやがてよせさせ給へ」とてう【打つ】
たち【立ち】けり。つはもの共「くらさはくらし、いかがせんずる」と
口々に申ければ、九郎御曹司「例の大だい松はいかに」。土
肥次郎「さる事候」とて、小野原の在家に火をぞ
かけたりける。是をはじめて、野にも山にも、草にも
P09375
木にも、火をつけたれば、ひるにはちともおとらずして、
三里の山を越行けり。此田代冠者と申すは、
伊豆国のさきの国司中納言為綱の末葉也。母は
狩野介茂光がむすめをおもふ【思う】てまうけたりし
を、母方の祖父にあづけて、弓矢とりにはしたて【仕立て】た
り。俗姓を尋ぬれば、後三条院第三王子、資仁
親王より五代の孫也。俗姓もよきうへ、弓矢とても
よかりけり。平家の方には其夜夜うちによせ【寄せ】ん
P09376
ずるをばしら【知ら】ずして、「いくさ【軍】はさだめてあすのいく
さ【軍】でぞあらんずらん。いくさ【軍】にもねぶたい【眠たい】は大事
のことぞ。ようね【寝】ていくさ【軍】せよ」とて、先陣はをのづ
から用心するもあり【有り】けれども、後陣のものP2195共、或は
甲を枕にし、或は鎧の袖・ゑびら【箙】などを枕にして、
先後もしら【知ら】ずぞふしたりける。夜半ばかり、源
氏一万騎おしよせて、時をどとつくる。平家の方
にはあまりにあはて【慌て】さはい【騒い】で、弓とるものは矢を
P09377
しら【知ら】ず、矢とるものは弓をしら【知ら】ず、馬にあてられ
じと、なか【中】をあけてぞとほしける。源氏はおち【落ち】行
かたきをあそこにお【追つ】かけ、ここにお【追つ】つめせめ【攻め】ければ、
平氏の軍兵やにわ【矢庭】に五百余騎うた【討た】れぬ。手
おふものどもおほかり【多かり】けり。大将軍小松の新三
位中将・同少将・丹後侍従、面目なうやおもは【思は】れ
けん、播磨国高砂より船にの【乗つ】て、讃岐[B ノ]八島へ渡
給ひぬ。備中守は平内兵衛・海老次郎をめし【召し】ぐし【具し】て、
P09378
一谷へぞまいら【参ら】れける。老馬S0909大臣殿は安芸右馬助能
行を使者で、平家の君達のかたがたへ、「九郎義経
こそ三草の手を責おとひ【落い】て、すでにみだれ入候
なれ。山の手は大事に候。おのおのむかは【向は】れ候へ」との給ひ
ければ、みな辞し申されけり。能登殿のもとへ
「たびたびの事で候へども、御へんむかは【向は】れ候なんや」と
の給ひつかはさ【遣さ】れたりけP2196れば、能登殿の返事には、
「いくさ【軍】をばわが身ひとつの大事ぞとおもふ【思う】てこそ
P09379
よう候へ。かり【猟】すなどり【漁】などのやうに、足だちのよか
らう方へはむかは【向は】ん、あしからう方へはむかは【向は】じなど候
はんには、いくさ【軍】に勝事よも候はじ。いくたびでも候へ、こは
からう方へは教経うけ給は【承つ】てむかひ【向ひ】候はん。一方ばかりは
うちやぶり候べし。御心やすうおぼしめさ【思し召さ】れ候へ」と、
たのもしげ【頼もし気】にぞ申されける。大臣殿なのめならず
悦て、越中前司盛俊を先として、能登殿に一万
余騎をぞつけられける。兄の越前三位道盛【*通盛】卿あ
P09380
ひぐして山の手をぞかため給ふ。山の手と申は
鵯越のふもと【麓】なり。通盛卿は能登殿のかり屋【仮屋】に北の
方むかへ【向へ】たてま【奉つ】て、最後のなごりおしま【惜しま】れけり。能
登殿大にいかて、「此手はこはひ方とて教経をむけ
られて候也。誠にこはう候べし。只今もうへの山より
源氏ざとおとし【落し】候なば、とる物もとりあへ候はじ。たとひ
弓をもたりとも、矢をはげずはかなひ【叶ひ】がたし。
たとひ矢をはげたりとも、ひか【引か】ずはなを【猶】あしかるべし。
P09381
ましてさ様にうちとけさせ給ては、なんの用にか
たたせ給ふべき」といさめられて、げにもとや思はれ
けん、いそぎ物の具して、人をばかへし給ひけり。
五日の暮がたに、源氏■陽野をたて、やうやう生
田[B ノ]森に責ちかづく【近付く】。雀の松原・御影の松・■陽野
の方をみわたせ【渡せ】ば、源氏手々に陣をとて、とを火【遠火】P2197を
たく。ふけゆくままにながむれば、晴たる空の星
の如し。平家もとを火【遠火】たけやとて、生田森にも
P09382
かたのごとくぞたいたりける。明行ままに見わた
せ【渡せ】ば、山のはいづる【出づる】月の如し。これやむかし沢辺の
蛍と詠じ給ひけんも、今こそ思ひしられけれ。
源氏はあそこに陣とて馬やすめ、ここに陣とて馬
かひ【飼ひ】などしけるほど【程】にいそがず。平家の方には今
やよする【寄する】いまやよする【寄する】と、やすい心もなかりけり。
六日の明ぼのに、九郎御曹司、一万余騎を二手に
わかて、まづ土肥次郎実平をば七千余騎で一の谷
P09383
の西の手へさしつかはす【遣す】。わが身は三千余騎で一谷の
うしろ、鵯越ををとさ【落さ】むと、丹波路より搦手にこそ
まはられけれ。兵物共「これはきこゆる【聞ゆる】悪所であなり。
敵にあふてこそ死にたけれ、悪所におち【落ち】ては
死たからず。あぱれこの山の案内者やあるらん」と、めん
めんに申ければ、武蔵国住人平山武者所すすみ出
て申けるは、「季重こそ案内は知て候へ」。御曹司「わ
どのは東国そだちのものの、けふはじめてみる【見る】西国
P09384
の山の案内者、大にまことしからず」との給へば、平
山かさねて申けるは、「御ぢやう【諚】ともおぼえ候はぬもの
かな。吉野・泊瀬の花をば歌人がしり、敵のこも
たる城のうしろの案内をば、かう【剛】のものがしる候」と
申ければ、是又傍若無人にぞ聞えける。P2198又武蔵
国住人別府[B ノ]小太郎とて、生年十八歳になる小冠〔者〕
すすみ出て申けるは、「父で候し義重法師がおし
へ【教へ】候しは、「敵にもおそはれよ、山越の狩をもせよ、深
P09385
山にまよひたらん時は、老馬に手綱をうちかけて、
さきにお【追つ】たててゆけ。かならず【必ず】道へいづる【出づる】ぞ」とこ
そおしへ【教へ】候しか」。御曹司「やさしうも申たる物かな。
「雪は野原をうづめども、老たる馬ぞ道はしる【知る】」と云
ためし【例】あり」とて、白葦毛なる老馬にかがみ鞍を
き、しろぐつは【白轡】はげ、手綱むすでうちかけ、さきに
お【追つ】たてて、いまだしらぬ深山へこそいり給へ。比はきさ
らぎはじめの事なれば、嶺の雪むらぎえて、
P09386
花かとみゆる所もあり。谷の鴬をとづれて、
霞にまよふところ【所】もあり。のぼれば白雲皓々
として聳へ、くだれば青山峨々として岸高し。
松の雪だにきえやらで、苔のほそ道かすか【幽】なり。
嵐にたぐふおりおり【折々】は、梅花とも又うたが〔は〕る。東
西に鞭をあげ、駒をはやめて行程に、山路に日
くれぬれば、みなおりゐて陣をとる。武蔵房弁
慶老翁を一人ぐし【具し】てまいり【参り】たり。御曹司「あれは
P09387
なにものぞ」ととはれければ、「此山の猟師で候」と申
す。「さては案内し【知つ】たるらん、ありのままに申せ」とこそ
の給ひけれ。「争か存知仕らで候べき」。「是より平家
の城郭一谷へおとさ【落さ】んと思ふはいかに」。「ゆめゆめかなひ【叶ひ】
候まじ。卅丈の谷、十五丈の岩さきなど申とこP2199ろは、
人のかよふべき様候はず。まして御馬などは思ひも
より候はず」。「さてさ様の所は鹿はかよふ【通ふ】か」。「鹿はかよひ
候。世間だにもあたたかになり候へば、草のふかい【深い】にふ
P09388
さ【伏さ】うどて、播磨の鹿は丹波へ[B こえ]、世間だにさむう
なり候へば、雪のあさきにはま【食ま】うどて、丹波の鹿は播
磨のゐなみ野【印南野】へかよひ候」と申。御曹司「さては
馬場ごさむなれ。鹿のかよはう所を馬のかよは
ぬ様やある。やがてなんぢ案内者仕つれ」とぞの給
ける。此身は年老てかなう【叶ふ】まじゐよしを申す。
「汝が子はないか」。「候」とて、熊王といふ童の、生年十八歳に
なるをたてまつる【奉る】。やがてもとどりとりあげ、父をば
P09389
鷲尾庄司武久といふ間、是をば鷲尾[B ノ]三郎義
久と名のらせ、さきうち【先打】せさせて案内者にこそ
具せられけれ。平家追討の後、鎌倉殿に中
たがう【違う】て、奥州でうた【討た】れ給ひし時、鷲尾三郎義
久とて、一所で死にける兵物也。一二之懸S0910六日の夜半ばかり
までは、熊谷・平山搦手にぞ候ける。熊谷次郎、子息
の小次郎をよう【呼う】でいひけるは、「此手は、悪所をおと
さ【落さ】んずる時に、誰さきといふ事P2200もあるまじ。
P09390
いざうれ、是より土肥がうけ給【承つ】てむかう【向う】たる播磨
路へむかう【向う】て、一の谷のまさきかけう」どいひければ、
小次郎「しかる【然る】べう候。直家もかうこそ申たう候つ
れ。さらばやがてよせさせ給へ」と申す。熊谷「ま
ことや平山も此手にあるぞかし。うちこみ【打込】のいくさ【軍】
このまぬ物也。平山がやう見てまいれ【参れ】」とて、下人を
つかはす【遣す】。案のごとく平山は熊谷よりさきに出立
て、「人をばしら【知ら】ず、季重にをいてはひとひき【一引】もひく
P09391
まじゐ物を、ひくまじゐ物を」とひとり言をぞ
し居たりける。下人が馬をかう【飼ふ】とて、「にくい馬の
ながぐらゐ【長食】かな」とて、うちければ、「かうなせそ、其馬の
名ごりもこよひ【今宵】ばかりぞ」とて、う【打つ】たち【立ち】けり。下人
はしり【走り】かへ【帰つ】て、いそぎ此よし告たりければ、「されば
こそ」とて、やがて是もうち出けり。熊谷はかち【褐】のひ
たたれ【直垂】に、あか皮おどしの鎧きて、紅のほろをかけ、
ごんだ栗毛といふきこゆる【聞ゆる】名馬にぞの【乗つ】たりける。
P09392
小次郎はおもだかを一しほ【入】すたる直垂に、ふし
なはめ【節縄目】の鎧きて、西楼といふ白月毛なる馬にの【乗つ】
たりけり。旗さし【差】はきぢん【麹塵】の直垂に、小桜を黄に
かへい【返い】たる鎧きて、黄河原毛なる馬にぞの【乗つ】たり
ける。おとさ【落さ】んずる谷をば弓手にみなし、馬手へ
あゆま【歩ま】せゆく程に、としごろ人もかよはぬ田井の
畑といふふる道【古道】をへて、一の谷の浪うちぎはへぞ
出たりける。一谷ちかく塩屋といふ所に、いまP2201だ夜
P09393
ふかかり【深かり】ければ、土肥次郎実平、七千余騎でひ
かへたり。熊谷は浪うちきはより、夜にまぎれて、
そこをつとうちとほり、一谷の西の木戸口にぞ
おしよせたる。その時はいまだ敵の方にもしづまり
かへ【返つ】てをと【音】もせず。御方一騎もつづかず。熊谷次郎
子息小次郎をよう【呼う】でいひけるは、「我も我もと、先に
心をかけたる人々はおほかる【多かる】らん。心せばう直実
ばかりとは思ふべからず。すでによせたれども、いまだ
P09394
夜のあくるを相待て、此辺にもひかへたるらん、
いざなのら【名乗ら】う」どて、かいだてのきはにあゆま【歩ま】せよ
り、大音声をあげて、「武蔵国住人、熊谷次郎
直実、子息[B ノ]小次郎直家、一谷先陣ぞや」とぞ名の【乗つ】
たる。平家の方には「よし、音なせそ。敵に馬の足を
つからかさ【疲らかさ】せよ。矢だねをゐ【射】つくさせよ」とて、あひし
らふものもなかりけり。さる程に、又うしろに武者
こそ一騎つづいたれ。「たそ」ととへば「季重」とこたふ。
P09395
「とふはたそ」。「直実ぞかし」。「いかに熊谷殿はいつより
ぞ」。「直実は宵よりよ」とぞこたへける。「季重も
やがてつづゐ【続い】てよすべかりつるを、成田五郎にたばから
れて、今まで遅々したる也。成田が「死なば一所で死
なう」どちぎるあひだ、「さらば」とて、うちつれよする【寄する】間、
「いたう、平山殿、さきがけ【先駆】ばやりなし給ひそ。先を
かくるといふは、御方の勢をうしろにおいてかけP2202
たればこそ、高名不覚も人にしら【知ら】るれ。只一騎
P09396
大勢の中にかけいて、うた【討た】れたらんは、なんの詮
かあらんずるぞ」とせいする【制する】あひだ、げにもと思ひ、
小坂のあるをさきにうちのぼせ、馬のかしらを
くだりさまにひ【引つ】たてて、御方の勢をまつところ【所】に、
成田もつづゐ【続い】て出きたり。うちならべていくさ【軍】の様
をもいひあはせんずるかとおもひ【思ひ】たれば、さはなくて、
季重をばすげなげにうちみて、やがてつとはせ【馳せ】
ぬいてとほる間、「あぱれ、此ものはたばかて、先がけうど
P09397
しけるよ」とおもひ【思ひ】、五六段ばかりさきだたるを、あ
れが馬はわが馬よりはよはげ【弱気】なるものをと目を
かけ、一もみもうでお【追つ】ついて、「まさなうも季重ほ
どの物をばたばかり給ふ物かな」といひかけ、うちす
ててよせつれば、はるかにさがりぬらん。よもうしろ
かげ[B を]も見たらじ」とぞいひける。熊谷・平山、かれ
これ五騎でひかへたり。さる程に、しののめやうやう
あけ行ば、熊谷は先になの【名乗つ】たれ共、平山がきくに
P09398
なのら【名乗ら】んとやおもひ【思ひ】けん、又かいだて【垣楯】のきはにあゆま【歩ま】
せより、大音声をあげて、「以前になの【名乗つ】つる武蔵国〔の〕
住人、熊谷次郎直実、子息小次郎直家、一の谷の先
陣ぞや、われとおもは【思は】ん平家のさぶらひどもは直
実におち【落ち】あへ【合へ】や、おち【落ち】あへ【合へ】」とぞののしたる。是を
きい【聞い】て、「いざや、夜もすがらなのる【名乗る】熊谷おや子ひ【引つ】さ
げてこん」とて、すすP2203む平家の侍たれたれぞ、越中次
郎兵衛盛嗣・上総五郎兵衛忠光・悪七兵衛景清・〔後〕藤
P09399
内定経、これをはじめてむねとの兵もの廿余騎、
木戸をひらいてかけ出たり。ここに平山、しげ目
ゆひ【滋目結】の直垂にひ【緋】おどしの鎧きて、二びきりやう【引両】
のほろをかけ、目糟毛といふきこゆる【聞ゆる】名馬にぞの【乗つ】
たりける。旗さしは黒かは威の鎧に、甲ゐくび【猪頸】に
きないて、さび月毛なる馬にぞの【乗つ】たりける。「保元・
平治両度の合戦に先がけたりし武蔵国住
人、平山武者所季重」となの【名乗つ】て、旗さしと二騎馬
P09400
のはなをならべておめい【喚い】てかく。熊谷かくれば平山
つづき、平山かくれば熊谷つづく。たがひにわれをと
ら【劣ら】じといれかへ【入れ換へ】いれかへ【入れ換へ】、もみにもうで、火いづる【出づる】程ぞ
責たりける。平家の侍共手いたうかけられ
て、かなは【叶は】じとやおもひけん、城のうちへざとひき、敵
をとざま【外様】にないてぞふせき【防き】ける。熊谷は馬のふと
腹ゐ【射】させて、はぬれば足をこい【越い】ており立たり。子息
の小次郎直家も、「生年十六歳」となの【名乗つ】て、かいだての
P09401
きはに馬の鼻をつかする程に、責寄てたたかい【戦ひ】ける
が、弓手のかいな【腕】をゐ【射】させて馬よりとびおり、父と
ならでたたりけり。「いかに小次郎、手おふたか」。「さ候」。「つね
に鎧づきせよ、うらかかすな。しころをかたぶけよ、う
ちかぶとゐ【射】さすな」とぞおしへ【教へ】ける。熊谷は鎧にたた
る矢共かなぐりすてて、城のうちをにらまへ、大音声
をあげて、P2204「こぞの冬の比鎌倉をいでしより、命を
ば兵衛佐殿にたてまつり【奉り】、かばねをば一谷でさら
P09402
さんとおもひ【思ひ】きたる直実ぞや。「室山・水島二ケ
度[B ノ]合戦に高名したり」となのる【名乗る】越中次郎兵衛
はないか、上総五郎兵衛、悪七兵衛はないか、能登殿は
ましまさぬか。高名も敵によてこそすれ。人ごと
にあふ【逢う】てはえせじものを。直実におち【落ち】あへ【合へ】やお
ち【落ち】あへ【合へ】」とののしたり。是をきい【聞い】て、越中次郎兵衛、
このむ装束なれば、こむらご【紺村濃】の直垂にあか【赤】皮
おどしの鎧きて、白葦毛なる馬にのり、熊谷に
P09403
目をかけてあゆま【歩ま】せよる。熊谷おや子は、中を
わられじと立ならんで、太刀をひたひにあて、うし
ろへはひとひき【一引】もひかず、いよいよまへへぞすすみける。
越中次郎兵衛かなは【叶は】じとやおもひ【思ひ】けん、とてかへす【返す】。熊
谷是をみて、「いかに、あれは越中次郎兵衛とこそ見
れ。敵にはどこをきらはふぞ。直実におしならべて
くめやくめ」といひけれども、「さもさうず」とてひ【引つ】かへす【返す】。
悪七兵衛是をみて、「きたない殿原のふるまいやう
P09404
かな」とて、すでにくまむとかけ出けるを、鎧の袖を
ひかへて「君の御大事これにかぎるまじ。あるべうも
なし」とせいせ【制せ】られてくまざりけり。其後熊谷は
のりかへにの【乗つ】ておめい【喚い】てかく。平山も熊谷親子が
たたかふ【戦ふ】まぎれに、馬のいきやすめて、是も又つづ
いたり。平家の方には馬にの【乗つ】たる武者はすくなし、
矢倉のうへの兵P2205共、矢さきをそろへて、雨のふる様に
ゐ【射】けれども、敵はすくなし、みかた【御方】はおほし、勢に
P09405
まぎれて矢にもあたらず、「ただおしならべてくめや
くめ」と下知しけれ共、平家の馬はのる事はしげ
く、かう【飼ふ】事はまれなり、船にはひさしう【久しう】たて【立て】たり、
よりきたる様なりけり。熊谷・平山が馬は、かい【飼ひ】にかう【飼う】
たる大の馬共なり、ひとあてあてば、みなけたおさ【倒さ】れ
ぬべき間、おしならべてくむ武者一騎もなかり
けり。平山は身にかへて思ける旗さしをゐ【射】させて、
敵の中へわていり、やがて其敵をとてぞ出たり
P09406
ける。熊谷も分捕あまたしたりけり。熊谷さき
によせたれど、木戸をひらかねばかけいらず、
平山後によせたれど、木戸をあけたればかけ
入ぬ。さてこそ熊谷・平山が一二のかけをばあらそひ
けれ。二度之懸S0911さるほど【程】に、成田五郎も出きたり。土肥次郎
まさきかけ、其勢七千余騎、色々の旗さしあ
げ【差し上げ】、おめき【喚き】さけ【叫ん】で責たたかふ【戦ふ】。大手生田の森にも
源氏五万余騎でかためたりけるが、其勢の中に
P09407
武蔵国住人、河原太郎・河原次郎といふものあり。
河原太郎弟の次郎をよう【呼う】でいひけるは、「大名は
われと手をおろさP2206ね共、家人の高名をもて名
誉す。われら【我等】はみづから手をおろさずはかなひ【叶ひ】がたし。
敵をまへにをき【置き】ながら、矢ひとつだにもゐ【射】ずして、
まちゐたるがあまりに心もとなう覚ゆるに、高直は
まづ城のうちへまぎれ入て、ひと矢ゐ【射】んと思ふ也。
されば千万が一もいき【生き】てかへらん事ありがたし。
P09408
わ殿はのこりとどま【留まつ】て、後の証人にたて」といひ
ければ、河原次郎泪をはらはらとながい【流い】て、「口惜い
事をものたまふ物かな。ただ兄弟二人あるものが、
兄をうたせておととが一人のこりとどま【留まつ】たらば、いく
程の栄花をかたもつ【保つ】べき。所々でうた【討た】れんより
も、ひとところ【一所】でこそいかにもならめ」とて、下人ども
よびよせ、最後のありさま妻子のもとへいひつか
はし【遣し】、馬にものらずげげをはき、弓杖をつゐ【突い】て、生
P09409
田森のさかも木【逆茂木】をのぼりこえ、城のうちへぞ入
たりける。星あかりに鎧の毛もさだかならず。河
原太郎大音声をあげて、「武蔵国住人、河原太郎
私〔市〕[B ノ]高直、同次郎盛直、源氏の大手生田森の先陣
ぞや」とぞなの【名乗つ】たる。平家の方には是をきい【聞い】て、
「東国の武士ほどおそろしかり【恐ろしかり】けるものはなし。是
程の大勢の中へただ二人いたらば、何程の事をか
しいだすべき。よしよししばしあひせよ【愛せよ】」とて、うたん
P09410
といふものなかりけり。是等おととい【兄弟】究竟の弓の
上手なれば、さしつめひきつめさんざん【散々】にゐる【射る】間、「にく
し、うてや」といふ程こそあり【有り】けれ、西P2207国に聞え
たるつよ弓せい兵【精兵】、備中国住人、真名辺[B ノ]四郎・
真名辺五郎とておととい【兄弟】あり。四郎は一[B ノ]谷にをか【置か】
れたり。五郎は生田森にあり【有り】けるが、是をみて
よぴいてひやうふつとゐる【射る】。河原太郎が鎧のむ
ないたうしろ【後】へつとゐ【射】ぬかれて、弓杖にすがり、
P09411
すくむところ【所】を、弟の次郎はしり【走り】よて是をかた
にひ【引つ】かけ、さかも木【逆茂木】をのぼりこえんとしけるが、
真名辺が二の矢に鎧の草摺のはづれをゐ【射】させ
て、おなじ枕にふしにけり。真名辺が下人落あふ【逢う】て、
河原兄弟が頸をとる。是を新中納言の見参
に入たりければ、「あぱれ剛の者かな。是をこそ
一人当千の兵ともいふべけれ。あたら者どもを
たすけ【助け】てみで」とぞの給ひける。其時下人共、
P09412
「河原殿おととい【兄弟】、只今城のうちへまさきかけて
うた【討た】れ給ひぬるぞや」とよばはり【呼ばはり】ければ、梶原
是をきき、「私の党の殿原の不覚でこそ、河原
兄弟をばうたせたれ。今はとき【時】よく成ぬ。よせ
よや」とて、時をどとつくる。やがてつづいて五万余
騎一度に時をぞつくりける。足がるどもにさかも
木【逆茂木】取のけさせ、梶原五百余騎おめい【喚い】てかく。次男
平次景高、余にさきをかけんとすすみければ、父
P09413
の平三使者をたてて、「後陣の勢のつづかざらん
に、さきかけたらん者は、勧賞あるまじき由、大将
軍のおほせぞ」といひければ、平次しばしP2208ひかへて
「もののふのとりつたへたるあづさ弓
ひいては人のかへるものかは W069
と申させ給へ」とて、おめい【喚い】てかく。「平次うたすな、
つづけやもの共、景高うたすな、つづけや者共」とて、
父の平三、兄の源太、同三郎つづいたり。梶原五百余
P09414
騎、大勢のなかへかけいり、さんざん【散々】にたたかひ【戦ひ】、わづ
かに五十騎ばかりにうちなされ、ざとひい【退い】てぞ出たり
ける。いかがしたりけん、其なかに景季は見えざり
けり。「いかに源太は、郎等共」ととひければ、「ふか
入してうたれさせ給て候ごさめれ」と申。梶原平
三これをきき、「世にあらむと思ふも子共がため、源
太うたせて命いきても何かせん、かへせや」とて
とてかへす。梶原大音声をあげてなのり【名乗り】けるは、
P09415
「昔八幡殿、後三年の御たたかい【戦ひ】に、出羽国千福
金沢の城を攻させ給ひける時、生年十六歳で
まさきかけ、弓手の眼を甲の鉢付の板にゐ【射】
つけられながら、当の矢をゐ【射】て其敵をゐ【射】おとし【落し】、
後代[* 「後氏」と有るのを高野本により訂正]に名をあげたりし鎌倉権五郎景正が
末葉、梶原平三景時、一人当千の兵ぞや。我とおも
は【思は】ん人々は、景時うて見参にいれよ【入れよ】や」とて、おめい【喚い】て
かく。新中納言「梶原は東国にきこえ【聞え】たる兵ぞ。あ
P09416
ますな、もらす【漏らす】な、うてや」とて、大勢のなかに
とりこめて責給へば、梶原まづわが身のうへをば
しら【知ら】ずして、「源太はP2209いづくにあるやらん」とて、数万
騎の大勢のなかを、たてさま・よこさま・蛛手・十
文字にかけわりかけまはりたづぬるほど【程】に、
源太はのけ甲にたたかい【戦ひ】なて、馬をもゐ【射】させ、かち
立になり、二丈ばかり有ける岸をうしろにあて【当て】、
敵五人が中に取籠られ、郎等二人左右に立て、
P09417
面もふらず、命もおしま【惜しま】ず、ここを最後とふせき【防き】
たたかふ【戦ふ】。梶原これを見つけて、「いまだうた【討た】れざ
りけり」と、いそぎ馬よりとんでおり、「景時ここに
あり。いかに源太、しぬる【死ぬる】とも敵にうしろをみ
すな」とて、親子して五人のかたきを三人うとり、
二人に手おほせ、「弓矢とりはかくる【駆くる】もひくも折に
こそよれ、いざうれ、源太」とて、かい具してこそ
出きたれ。梶原が二度のかけとは是也。坂落S0912是を初て、
P09418
秩父・足利・三浦・鎌倉、党には猪俣・児玉・野
井与・横山・にし【西】党・都筑党・私[B ノ]党の兵共、惣
じて源平乱あひ、入かへ入かへ、名のりかへ名のりかへおめ
き【喚き】さけぶ【叫ぶ】声、山をひびかし、馬の馳ちがふ音は
いかづちの如し。ゐ【射】ちがふる矢は雨のふるにこと
ならず。手負をば肩にかけ、うしろへひきしり
ぞくもあP2210り。うすで【薄手】おふ【負う】てたたかふ【戦ふ】もあり。いた
手【痛手】負て討死するものもあり。或はおしならべて
P09419
くんでおち【落ち】、さしちがへて死ぬるもあり、或はとて
おさへて頸をかくもあり、かかるるもあり、いづれひ
まありとも見えざりけり。かかりしか共、源氏大
手ばかりではかなふ【叶ふ】べしとも見えざりしに、九郎
御曹司搦手にまはて七日の明ぼのに、一谷の
うしろ鵯越にうちあがり【上がり】、すでにおとさ【落さ】んとし
給ふに、其勢にや驚たりけん、大鹿二妻鹿一、
平家の城郭一谷へぞ落たりける。城のうちの
P09420
兵ども是をみて、「里ちかから【近から】ん鹿だにも、我等
におそれ【恐れ】ては山ふかうこそ入べきに、是程の
大勢のなかへ、鹿のおちやう【落ち様】こそあやしけれ。
いかさまにもうへの山より源氏おとす【落す】にこそ」とさ
はぐ【騒ぐ】ところ【所】に、伊予[* 「伊豆」と有るのを他本により訂正]国住人、武知の武者所清教、
すすみ出て、「なんでまれ、敵の方より出きたらん物
をのがすべき様なし」とて、大鹿二[B ツ]いとどめ【留め】て、妻鹿
をばゐ【射】でぞとをしける。越中前司「せんない殿原
P09421
の鹿のゐやう【射様】かな。只今の矢一では敵十人はふせ
か【防か】んずるものを。罪つくりに、矢だうなに」とぞせい
し【制し】ける。御曹司城郭遥に見わたいておはしけるが、
「馬共おとい【落い】てみん」とて、鞍をき馬【鞍置馬】をおい【追ひ】おとす【落す】。或は
足をうちお【折つ】て、ころんでおつ、或はさうゐ【相違】なく落て
行もあり。鞍をき馬【鞍置馬】三疋、越中前司が屋形の
うへに落つゐ【着い】て、身ぶるいしてP2211ぞ立たりける。御
曹司是をみて「馬共はぬしぬしが心得ておとさ【落さ】うに
P09422
はそんずまじゐぞ。くはおとせ【落せ】、義経を手本に
せよ」とて、まづ卅騎ばかり、まさきかけておとさ【落さ】れ
けり。大勢みなつづゐ【続い】ておとす【落す】。後陣におとす【落す】人々
のあぶみのはなは、先陣の鎧甲にあたるほどなり。
小石まじりのすなごなれば、ながれおとし【流落】に二町
ばかりざとおとい【落い】て、壇なるところ【所】にひかへたり。そ
れよりしもをみくだせば、大盤石の苔むしたるが、
つるべおとし【落し】に十四五丈ぞくだたる。兵共ここぞ
P09423
最後と申てあきれてひかへたるところ【所】に、佐原
十郎義連すすみ出て申けるは、「三浦の方で我等は
鳥ひとつたて【立て】ても、朝ゆふかやうの所をこそはせあ
りけ【歩け】。三浦の方の馬場や」とて、まさきかけて
おとし【落し】ければ、兵共みなつづゐ【続い】ておとす【落す】。ゑいゑい声
をしのび【忍び】にして、馬にちからをつけておとす【落す】。余りの
いぶせさに、目をふさいでぞおとし【落し】ける。大方人
のしわざとは見えず。ただ鬼神の所ゐとぞみえ【見え】
P09424
たりける。おとし【落し】もはてねば、時をどとつくる。三千
余騎が声なれど、山[B びこ]こたへて十万余騎とぞ聞え
ける。村上の判官代康国が手より火を出し、平家
の屋形、かり屋【仮屋】をみな焼払ふ。おりふし【折節】風ははげ
しし、くろ煙おしかくれば、平氏の軍兵共余にあ
はて【慌て】さはい【騒い】で、若やたすかると前の海へぞおほく【多く】
馳いりける。汀にはまうけ船【設け船】いくらもあり【有り】けれ
ども、わP2212れさきにのらうど、舟一艘には物具したる
P09425
者共が四五百人、千人ばかりこみ【込み】のら【乗ら】うに、なじかは
よかるべき。汀よりわづかに三町ばかりおしいだひ【出い】
て、目のまへに大船三艘しづみにけり。其後は
「よき人をばのす共、雑人共をばのすべからず」とて、
太刀長刀でなが【薙が】せけり。かくする事とはしり【知り】ながら、
のせ【乗せ】じとする船にとりつき【取り付き】、つかみつき、或はうで【腕】
うちきられ、或はひぢ【肘】うちおとさ【落さ】れて、一谷の汀に
あけ【朱】になてぞなみ【並み】ふし【臥し】たる。能登守教経は、
P09426
度々のいくさに一度もふかく【不覚】せぬ人の、今度は
いかがおもは【思は】れけん、うす黒といふ馬にのり、西を
さい【指い】てぞ落給ふ。播磨国明石浦より船に乗て、
讃岐の八島へわたり給ひぬ。越中前司最期S0913大手にも浜の手にも、
武蔵・相模の兵共、命もおしま【惜しま】ずせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。新
中納言は東にむか【向つ】てたたかい【戦ひ】給ふところ【所】に、山の
そはよりよせける児玉党使者をたてま【奉つ】て、「君
は武蔵国司でましまし候し間、是は児玉の者共が
P09427
申候。御うしろをば御らん候はぬやらん」と申。新
中納言以下の人々、うしろをかへP2213りみ給へば、くろ
煙おしかけたり。「あはや、西の手はやぶれにけるは」と
いふ程こそ久しけれ、とる物もとりあへず我
さきにとぞ落行ける。越中前司盛俊は、山の
手の侍大将にて有けるが、今はおつ【落つ】ともかなは【叶は】じとや
思ひけん、ひかへて敵を待ところ【所】に、猪俣小平六
則綱、よい敵と目をかけ、鞭あぶみをあはせて馳
P09428
来り、おしならべむずとくう【組う】でどうどおつ。猪俣は
八ケ国にきこえ【聞え】たるしたたか者也。か【鹿】の角の一二[B ノ]くさ
かりをばたやすうひ【引つ】さき【裂き】けるとぞ聞えし。越中
前司は二三十人が力わざをするよし人めには見え
けれ共、内々は六七十人してあげおろす船を、只一
人しておしあげおしおろす程の大力也。されば
猪俣をとておさへてはたらかさ【働かさ】ず。猪俣したに
ふし【臥し】ながら、刀をぬかうどすれども、ゆび【指】はだかて
P09429
刀のつかにぎる【握る】にも及ばず。物をいはうどすれ共、
あまりにつよう【強う】おさへられてこゑ【声】も出ず。すでに
頸をかかれんとしけるが、ちから【力】はおとたれ共、心は
かう【剛】なりければ、猪俣すこしもさはが【騒が】ず、しばらく
いきをやすめ、さらぬてい【体】にもてなして申けるは、
「抑なの【名乗つ】つるをばきき給ひて〔か〕。敵をうつといふは、
われもなの【名乗つ】てきかせ、敵にもなのらせて頸をと
たればこそ大功なれ。名もしらぬ頸とては、何にか
P09430
し給ふべき」といはれて、げにもとや思ひけん、「是は
もと平家の一門たりしが、身不P2214肖なるによて
当時は侍になたる越中前司盛俊といふ者也。
わ君はなにものぞ、なのれ【名乗れ】、きかう」どいひければ、
「武蔵国住人、猪俣小平六則綱」となのる。「倩此世
間のありさまをみる【見る】に、源氏の御方はつよく、平
家の御方はまけいろ【負色】にみえ【見え】させ給ひたり。今は
主の世にましまさばこそ、敵のくびとてまいらせ【参らせ】
P09431
て、勲功勧賞にもあづかり給はめ。理をまげて
則綱たすけ【助け】給へ。御へんの一門なん十人もおはせよ、
則綱が勲功の賞に申かへてたすけ【助け】奉らん」といひ
ければ、越中前司大にいかて、「盛俊身こそ不肖な
れ共、さすが平家の一門也。源氏たのま【頼ま】うどは思はず。
源氏又盛俊にたのま【頼ま】れうどもよもおもは【思は】じ。にく
い君が哉」とて、やがて頸をかかんとしければ、
猪俣「まさなや、降人の頸かくやうや候」。越中前司
P09432
「さらばたすけ【助け】む」とてひきおこす。まへは畠のやうに
ひあが【上がつ】て、きはめてかたかりけるが、うしろは水田の
ごみふかかり【深かり】けるくろ【畔】のうへに、二人の者共腰う
ちかけていきづきゐたり。しばしあて、黒革威の
鎧きて月毛なる馬にの【乗つ】たる武者一騎はせ来る。
越中前司あやしげにみければ、「あれは則綱が
したしう【親しう】候人見四郎と申者で候。則綱が候をみて
まうでくると覚候。くるしう【苦しう】候まじ」といひながら、
P09433
あれがちかづいたらん時に、越中前司にくんだらば、
さり共おち【落ち】あはんずらんと思ひてP2215待ところ【所】に、一段
ばかり近づいたり。越中前司初めはふたりを一目づつ
見けるが、次第にちかうなりければ、馳来る敵を
はたとまも【守つ】て、猪俣をみぬひまに、ちから足を
ふんでつゐ立あがり【上がり】、ゑいといひてもろ手をもて、
越中前司が鎧のむないた【胸板】をばぐとつゐ【突い】て、うしろ
の水田へのけにつき【突き】たをす【倒す】。おき【起き】あがら【上がら】んとする
P09434
所に、猪俣うへにむずとのりかかり、やがて越中前
司が腰の刀をぬき、鎧の草摺ひきあげて、つかも
こぶしもとおれ【通れ】とおれ【通れ】と三刀さいて頸をとる。さる程に
人見[B ノ]四郎おち【落ち】あふ【合う】たり。か様【斯様】の時は論ずる事も
ありとおもひ【思ひ】、太刀のさきにつらぬき、たかくさしあ
げ【差し上げ】、大音声をあげて、「此日来鬼神と聞えつる
平家の侍越中前司盛俊をば、猪俣[B ノ]小平六則
綱がうたるぞや」となの【名乗つ】て、其日の高名の一の筆
P09435
にぞ付〔に〕ける。忠教【*忠度】最期S0914薩摩守忠教【*忠度】は、一谷の西手の大将
軍にておはしけるが、紺地[B ノ]錦の直垂に黒糸お
どしの鎧きて、黒馬のふとう【太う】たくましきに、ゐか
け地【沃懸地】の鞍をい【置い】て乗給へり。其勢百騎ばかりが中に
うちかこまれていとさはが【騒が】ず、ひかへひかへ落給ふを、
猪P2216俣党に岡辺六野太忠純、大将軍とめ【目】をかけ、
鞭あぶみをあはせて追つき奉り、「抑いかなる人で
在まし候ぞ、名のらせ給へ」と申ければ、「是はみ[B か]た【御方】ぞ」とて
P09436
ふりあふぎ給へるうちかぶとより見いれ【入れ】たれば、
かねぐろ也。あぱれみかた【御方】にはかねつけたる人はない
物を、平家の君達でおはするにこそと思ひ、おし
ならべてむずとくむ。是をみて百騎ばかりある兵共、
国々のかり武者なれば、一騎も落あはず、われさきに
とぞ落行ける。薩摩[* 「薩磨」と有るのを高野本により訂正]守「にくいやつかな。みかた【御方】
ぞといはばいはせよかし」とて、熊野そだち大ぢからの
はやわざにておはしければ、やがて刀をぬき、六野太を
P09437
馬の上で二刀、おち【落ち】つく所で一刀、三刀までぞつか【突か】
れたる。二刀は鎧のうへ【上】なればとをら【通ら】ず、一刀はうち甲
へつき入られたれ共、うす手【薄手】なればしな【死な】ざりけるを
とておさへて、頸をかかんとし給ふところ【所】に、六野太
が童をくれ【遅れ】ばせに馳来て、打刀をぬき、薩摩守の
右のかいな【腕】を、ひぢのもとよりふつときり【斬り】おとす【落す】。
今はかうとやおもは【思は】れけん、「しばしのけ【退け】、十念となへん」
とて、六野太をつかうで弓だけばかりなげ【投げ】のけられ
P09438
たり。其後西にむかひ【向ひ】、高声に十念となへ、「光明
遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨」との給もはてねば、
六野太うしろよりよて薩摩守の頸をうつ。よい大将軍
うたりと思ひけれ共、名をば誰ともしら【知ら】ざりけるに、
ゑびら【箙】にむすびP2217つけられたるふみをといて見れば、
「旅宿花」と云題にて、一首の歌をぞよまれたる。
行くれて木の下かげをやどとせば
花やこよひのあるじならまし W070
P09439
忠教【*忠度】とかかれたりけるにこそ、薩摩守とはしり【知り】て
げれ。太刀のさきにつらぬき、たかく【高く】さしあげ【差し上げ】、大
音声をあげて、「此日来平家の御方にきこえ【聞え】させ
給ひつる薩摩守殿をば、岡辺六野太忠純がうちたて
ま【奉つ】たるぞや」と名のりければ、敵もみかた【御方】も是をき
い【聞い】て、「あないとおし、武芸にも謌道【*歌道】にも達者にて
おはしつる人を、あたら大将軍を」とて、涙をながし
袖をぬらさぬはなかりけり。重衡生捕S0915本三位中将重衡卿は、
P09440
生田森の副将軍にておはしけるが、其勢みな落
うせて、只主従二騎になり給ふ。三位中将其日の装束
には、かち【褐】にしろう【著う】黄なる糸をもて、むら【群】千鳥ぬう
たる直垂に、紫すそご【裾濃】の鎧きて、童子鹿毛と
いふきこゆる【聞ゆる】名馬にのり給へり。めのと子の後藤
兵衛盛長は、しげ目ゆい【滋目結】の直垂に、ひ【緋】おどしの鎧
きて、三位中将の秘蔵せられたりける夜目なし
月毛にのせ【乗せ】られP2218たり。梶原源太景季・庄四郎高
P09441
家、大将軍と目をかけ、鞭あぶみをあはせてお【追つ】
かけたてまつる【奉る】。汀にはたすけ舟【助け舟】いくらもあり【有り】け
れども、うしろより敵はお【追つ】かけたり、のがる【逃る】べきひ
まもなかりければ、湊河・かるも河をもうちわたり、
蓮の池をば馬手にみて、駒の林を弓手になし、
板屋ど【板宿】・須磨をもうちすぎて、西をさいてぞ落
たまふ。究竟の名馬にはのり給へり、もみふせたる
馬共お【追つ】つくべしともおぼえず、ただのびにのび
P09442
ければ、梶原源太景季、あぶみふばり立あがり【上がり】、
もしやと遠矢によぴいてゐ【射】たりけるに、三位中
将馬のさうづ【三頭】[B を]のぶか【篦深】にゐ【射】させて、よはる【弱る】ところ【所】に、後
藤兵衛盛長、わが馬めされなんずとや思ひけん、鞭を
あげてぞ落行ける。三位中将是をみて、「いかに盛長、
年来日ごろさはちぎらざりしものを。我を捨て
いづくへゆくぞ」との給へ共、空きかずして、鎧に
つけたるあかじるし【赤印】かなぐりすて【捨て】、ただにげ【逃げ】にこそ
P09443
逃たりけれ。三位中将敵は近づく、馬はよはし【弱し】、海へ
うちいれ【入れ】給ひたりけれ共、そこしも[* 「すこしも」と有るのを高野本により訂正]とをあさ【遠浅】にて
しづむべきやうもなかりければ、馬よりおり、鎧のうは
帯【上帯】きり、たかひもはづし、物具ぬぎすて、腹を
きらんとし給ふところ【所】に、梶原よりさきに庄四郎
高家、鞭あぶみをあはせて馳来り、いそぎ馬より
飛おり、「まさなう候、いづくまでも御共仕らん」とて、我
馬にかきのせ【乗せ】たてまつり【奉り】、鞍のP2219まへわ【前輪】にしめつけ、
P09444
わが身はのりかへに乗てぞかへりける。後藤兵
衛はいき【息】ながき【長き】究竟の馬にはの【乗つ】たりけり、そこをば
なく逃のびて、後には熊野法師、尾中[B ノ]法橋をた
のん【頼ん】でゐたりけるが、法橋死て後、後家の尼公訴
訟のために京へのぼりたりけるに、盛長とも【供】して
のぼたりければ、三位中将のめのと子にて、上下にはお
ほく【多く】見しら【知ら】れたり。「あなむざん【無慚】の盛長や、さしも不
便にし給ひしに、一所でいかにもならずして、思ひも
P09445
かけぬ尼公の共したるにくさよ」とて、つまはじき
をしければ、盛長もさすがはづかしげにて、扇を
かほにかざしけるとぞ聞えし。敦盛最期S0916いくさ【軍】やぶれに
ければ、熊谷次郎直実、「平家[B ノ]君達たすけ船【助け船】に
のらんと、汀の方へぞおち【落ち】給らん。あはれ、よからう
大将軍にくまばや」とて、磯の方へあゆま【歩ま】するとこ
ろ【所】に、ねりぬき【練貫】に鶴ぬう【縫う】たる直垂に、萌黄の
匂の鎧きて、くはがた【鍬形】うたる甲の緒しめ、こがねづ
P09446
くりの太刀をはき、きりう【切斑】の矢おひ【負ひ】、しげ藤の弓
もて、連銭葺毛なる馬に黄覆輪の鞍をいて
の【乗つ】たる武者一騎、沖なるP2220舟にめ【目】をかけて、海へざと
うちいれ【入れ】、五六段ばかりおよがせたるを、熊谷「あれは
大将軍とこそ見まいらせ【参らせ】候へ。まさなうも敵にうし
ろをみせ【見せ】させ給ふものかな。かへさ【返さ】せ給へ」と扇をあげ
てまねきければ、招かれてとてかへす【返す】。汀にうちあが
ら【上がら】むとするところ【所】に、おしならべてむずとくん【組ん】で
P09447
どうどおち【落ち】、とておさへて頸をかかんと甲をおし
あふのけて見ければ、年十六七ばかりなるが、うす
げしやう【薄化粧】してかねぐろ也。我子の小次郎がよはひ
程にて容顔まこと【誠】に美麗也ければ、いづくに刀を
立べしともおぼえず。「抑いかなる人にてましまし
候ぞ。なのら【名乗ら】せ給へ、たすけ【助け】まいらせ【参らせ】ん」と申せば、「汝は
た【誰】そ」ととひ給ふ。「物そのもので候はね共、武蔵国住人、
熊谷次郎直実」と名のり申。「さては、なんぢにあふ【逢う】ては
P09448
なのる【名乗る】まじゐぞ、なんぢがためにはよい敵ぞ。名のら
ずとも頸をとて人にとへ。みし【見知】らふずるぞ」とぞ
の給ひける。熊谷「あぱれ大将軍や、此人一人うち
たてま【奉つ】たり共、まく【負く】べきいくさ【軍】に勝べき様もなし。
又うちたてまつら【奉ら】ず共、勝べきいくさ【軍】にまくること
よもあらじ。小次郎がうす手【薄手】負たるをだに、直実
は心ぐるしうこそおもふ【思ふ】に、此殿の父、うた【討た】れぬとき
い【聞い】て、いかばかりかなげき給はんずらん、あはれ、たすけ【助け】たて
P09449
まつら【奉ら】ばや」と思ひて、うしろ【後】をきとみければ、土肥・
梶原五十騎ばかりでつづいたり。熊谷涙をおP2221さへて
申けるは、「たすけ【助け】まいらせ【参らせ】んとは存候へ共、御方の軍
兵雲霞の如く候。よものがれ【逃れ】させ給はじ。人手に
かけまいらせ【参らせ】んより、同くは直実が手にかけまいら
せ【参らせ】て、後の御孝養をこそ仕候はめ」と申ければ、「ただ
とくとく【疾く疾く】頸をとれ」とぞの給ひける。熊谷あまりに
いとおしくて、いづくに刀をたつべしともおぼえず、
P09450
め【目】もくれ心もきえ[* 「くれ」と有るのを高野本により訂正]はてて、前後不覚におぼえけれ
ども、さてしもあるべき事ならねば、泣々頸をぞ
かいてげる。「あはれ、弓矢とる身ほど口惜かりける
ものはなし。武芸の家に生れずは、何とてかかる
うき目をばみる【見る】べき。なさけなうもうちたてまつる【奉る】
物かな」とかきくどき、袖をかほにおしあててさめざめ
とぞ泣ゐたる。良久うあて、さてもあるべきならねば、
よろい【鎧】直垂をとて、頸をつつまんとしけるに、錦の
P09451
袋にいれ【入れ】たる笛をぞ腰にさされたる。「あないとお
し、この暁城のうちにて管絃し給ひつるは、この人々
にておはしけり。当時みかた【御方】に東国の勢なん万騎か
あるらめども、いくさ【軍】の陣へ笛もつ人はよもあらじ。
上臈は猶もやさしかりけり」とて、九郎御曹司[B ノ]見
参に入たりければ、是をみる【見る】人涙をながさずと
いふ事なし。後にきけば、修理大夫経盛の子息
に大夫篤盛【*敦盛】とて、生年十七にぞなられける。それ
P09452
よりしてこそ熊谷が発心のおもひ【思ひ】はすすみけれ。
件の笛はおほぢ【祖父】忠盛笛の上手にて、鳥羽院より
給はP2222られたりけるとぞ聞えし。経盛相伝せられたり
しを、篤盛【*敦盛】器量たるによて、もたれたりけると
かや。名をばさ枝【小枝】とぞ申ける。狂言綺語のことはり【理】
といひながら、遂に讃仏乗の因となるこそ哀なれ。
知章最期S0917門脇中納言教盛卿の末子蔵人大夫成盛【*業盛】は、常
陸国住人土屋五郎重行にくんでうた【討た】れ給ひぬ。
P09453
修理大夫経盛の嫡子、皇后宮亮経正は、たすけ
船【助け船】にのらんと汀の方へ落給ひけるが、河越小
太郎重房が手に取籠られてうた【討た】れ給ひぬ。
其弟若狭守経俊・淡路守清房・尾張守清定、
三騎つれて敵のなかへかけ入、さんざんにたたかひ【戦ひ】、分捕
あまたして、一所で討死してげり。新中納言知盛
卿は、生田森大将軍にておはしけるが、其勢み
な落うせて、今は御子武蔵守知明【*知章】、侍に監物太郎
P09454
頼方、ただ主従三騎になて、たすけ船【助け船】にのらんと
汀の方へ落給ふ。ここに児玉党とおぼしくて、
うちわ【団扇】の旗さい【挿い】たる者共十騎ばかり、おめい【喚い】て
お【追つ】かけ奉る。監物太郎は究竟の弓の上手ではあり、
まさきにすすんだる旗さし【差】がしや頸のほねをひやう
ふつとゐ【射】て、馬よりさかP2223さまにゐ【射】おとす【落す】。そのなかの
大将とおぼしきもの、新中納言にくみ奉らんと
馳ならべけるを、御子武蔵守知明【*知章】中にへだたり、
P09455
おしならべてむずとくんでどうどおち【落ち】、とておさへ
て頸をかき、たち【立ち】あがら【上ら】んとし給ふところ【所】に、敵が童
おちあふ【逢う】て、武蔵守の頸をうつ。監物太郎おち【落ち】
かさな【重なつ】て、武蔵守うち【討】たてま【奉つ】たる敵が童をもうて
げり。其後矢だねのある程ゐ【射】つくし【尽し】て、うち【打ち】物ぬ
いてたたかひ【戦ひ】けるが、敵あまたうちとり、弓手のひ
ざのくちをゐ【射】させて、たち【立ち】もあがら【上ら】ず、ゐ【居】ながら討死
してげり。このまぎれに新中納言は、究竟の名馬
P09456
には乗給へり。海のおもて廿余町およがせて、大臣殿
の御船につき給ひぬ。御舟には人おほく【多く】こみ
の【乗つ】て、馬たつべき様もなかりければ、汀へお【追つ】かへす【返す】。
阿波民部重能「御馬敵のものになり候なんず。ゐ【射】
ころし【殺し】候はん」とて、かた手矢はげて出けるを、新中納
言「何の物にもならばなれ。わが命をたすけ【助け】たらん
物を。あるべうもなし」との給へば、ちから【力】及ばでゐ【射】ざり
けり。この馬ぬしの別をしたひつつ、しばしは船を
P09457
もはなれ【離れ】やらず、沖の方へおよぎけるが、次第に
遠くなりければ、むなしき汀におよぎかへる。足
たつ程にもなりしかば、猶船の方をかへりみて、二
三度までこそいななきけれ。其後くが【陸】にあが【上がつ】てや
すみけるを、河越小太郎重房とて、院へまいらせ【参らせ】
たりければ、やがて院の御P2224厩にたてられけり。もとも【最も】
院の御秘蔵の御馬にて、一の御厩にたてられたりし
を、宗盛公内大臣になて悦申の時給はられたり
P09458
けるとぞ聞えし。新中納言にあづけられたり
しを、中納言あまりに此馬を秘蔵して、馬の
祈のためにとて、毎月つゐたち【朔日】ごとに、泰山府
君をぞまつられける。其故にや、馬の命ものび、
ぬしのいのちもたすけ【助け】けるこそめでたけれ。此馬は
信乃【*信濃】国井[B ノ]上だち【立】にてあり【有り】ければ、井上黒とぞ
申ける。後には河越がとてまいらせ【参らせ】たりければ、
河越黒とも申けり。新中納言、大臣殿の御まへに
P09459
まい【参つ】て申されけるは、「武蔵守におくれ候ぬ。監物
太郎うたせ候ぬ。今は心ぼそうこそまかりなて候へ。
いかなる子はあて、親をたすけ【助け】んと敵にくむ【組む】をみ【見】
ながら、いかなるおや【親】なれば、子のうたるるをたすけ【助け】ず
して、かやうにのがれ【逃れ】まい【参つ】て候らんと、人のうへ【上】で候はば
いかばかりもどかしう存候べきに、よう命はおしゐ【惜しい】物で
候けると今こそ思ひしら【知ら】れて候へ。人々の思はれん心
のうち共こそはづかしう候へ」とて、袖をかほにおし【押し】
P09460
あててさめざめと泣給へば、大臣殿是をきき給ひて、
「武蔵守の父の命にかはられけるこそありがた
けれ。手もきき【利き】心もかう【剛】に、よき大将軍にてお
はしつる人を。清宗と同年にて、ことしは十六な」とて、
御子衛門督のおはしける方P2225を御らんじて涙ぐみ
給へば、いくらもなみゐたりける平家の侍共、心あるも
心なきも、皆鎧の袖をぞぬらしける。落足S0918小松殿の
末子、備中守師盛は、主従七人小舟にの【乗つ】ておち【落ち】給ふ
P09461
所に、新中納言の侍清衛門公長といふ者馳来て、
「あれは備中守殿の御舟とこそみ【見】まいらせ【参らせ】候へ。まい
り【参り】候はん」と申ければ、船を汀にさしよせたり。大の
男の鎧きながら、馬より舟へがはと飛のらうに、
なじかはよかるべき。舟はちゐさし【小さし】、くるりとふみ
かへしてげり。備中守うきぬしづみぬし給ひける
を、畠山が郎等本田次郎、十四五騎で馳来り、熊
手にかけてひきあげ奉り、遂に頸をぞかいて[*この三字不要]
P09462
かいてげる。生年十四歳とぞ聞えし。越前三位
通盛卿は山手の大将軍にておはしけるが、其日の
装束には、あか地の錦の直垂に、唐綾おどしの鎧
きて、黄河原毛なる馬に白覆輪の鞍をいて
乗給へり。うち甲をゐ【射】させて、敵におしへだてられ、
おとと【弟】能登殿にははなた【離た】れ給ひぬ、しづか【静か】ならん所
にて自害せんとて、東にむか【向つ】て落給ふ程に、近江P2226
国住人佐々木木村三郎成綱、武蔵国住人玉井
P09463
四郎資景、かれこれ七騎が中にとりこめられて、
遂にうた【討た】れ給ひぬ。其ときまでは侍一人
つき奉たりけれ共、それも最後の時はおち【落ち】あはず。
凡そ東西の木戸口、時をうつす程也ければ、源平
かずをつくゐ【尽くい】てうた【討た】れにけり。矢倉のまへ、逆も木【逆茂木】
のしたには、人馬のししむら【肉】山のごとし。一谷の小篠
原、緑のいろをひきかへ【替へ】て、うす紅にぞ成にける。
一谷・生田森、山のそは、海の汀にてゐ【射】られきら【斬ら】れて
P09464
死ぬるはしら【知ら】ず、源氏の方にきりかけ【懸け】らるる頸共
二千余人也。今度うた【討た】れ給へるむねとの人々には、
越前三位通盛・弟蔵人大夫成盛【*業盛】・薩摩守忠教【*忠度】・武
蔵守知明【*知章】・備中守師盛・尾張守清定・淡路守清房・
修理大夫経盛嫡子皇后宮亮経正・弟若狭守
[M 守]経俊・其弟大夫篤盛【*敦盛】、以上十人とぞ聞えし。いくさ【軍】
やぶれにければ、主上をはじめたてま【奉つ】て、人々みな御
船にめし【召し】て出給ふ心のうちこそ悲しけれ。塩に
P09465
ひかれ、風に随て、紀伊路へおもむく船もあり。
葦屋の沖に漕いでて、浪にゆらるる船もあり。或は
須磨より明石の浦づたひ、泊さだめぬ梶枕、
かたしく袖もしほれ【萎れ】つつ、朧にかすむ春の月、
心をくだかぬ人ぞなき。或は淡路のせとを漕とをり【通り】、
絵島が磯にただよへば、波路かすか【幽】P2227に鳴わたり、友
まよ[B は]せるさ夜千鳥、是もわが身のたぐひかな。行
さき未いづくとも思ひ定めぬかとおぼしくて、
P09466
一谷の奥にやすらふ舟もあり。か様【斯様】に風にまかせ、
浪に随て、浦々島々にただよへば、互に死生もしり【知り】
がたし。国をしたがふる事も十四ケ国、勢のつく
ことも十万余騎、都へちかづく【近付く】事も纔に一日の道
なれば、今度はさり共とたのもしう【頼もしう】思はれけるに、
一谷をも責おとさ【落さ】れて、人々みな心ぼそうぞなられける。

* 小宰相身投S0919 は、龍谷大学本には無し。

平家物語(龍谷大学本)巻第十

【許諾済】
本テキストの公開については、龍谷大学大宮図書館の許諾を得ています。底本使用・テキスト公開を許可された同図書館に厚く御礼申し上げます。
【注意】
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【底本】
本テキストの底本は、龍谷大学大宮図書館所蔵『平家物語』です。直接には、思文閣出版発行の影印本(龍谷大学善本叢書13)に拠りました。


P10001
(表紙)
P10003 P2237
平家物語巻第十
首渡S1001寿永三年二月七日、摂津国一の谷にてうた【討た】
れし平氏の頸ども、十二日に宮こ【都】へいる【入る】。平
家にむすぼほれたる人々は、我方ざまにいかな
るうき目をかみ【見】んずらんと、なげきあひかなし
みあへ【合へ】り。なかにも大覚寺にかくれゐ給へる
小松三位中将維盛卿の北の方、ことさら
おぼつかなく思はれける。「今度一谷にて一門の
P10004
人々のこりすくなううた【討た】れ給ひ、三位中将と
いふ公卿一人、いけどりにせられてのぼるなり」と
きき給ひ、「この人はなれ【離れ】じ物を」とて、ひきか
づきてぞふし給ふ。或女房のいできて申けるは、
「三位中将殿と申は、これの御事にてはさぶら
はず。本三位中将殿の御事なり」と申ければ、
「さては頸どものなか【中】にこそあるらめ」とて、なを【猶】心
やすうもおもひ【思ひ】給はず。同十三日、大夫判官
P10005
仲頼、六条河原にいでむか【向つ】て、頸どもうけ【受け】とる【取る】。
東洞院がしのとうゐん)の大路P2238を北へわたして獄門の木に
かけらるべきよし、蒲冠者範頼・九郎冠者
義経奏聞す。法皇、此条いかがあるべからんと
おぼしめし【思し召し】わづらひて、太政大臣・左右の大臣・
内大臣・堀河大納言忠親卿に仰あはせらる。五人
の公卿申されけるは、「昔より卿相の位にのぼる
物の頸、大路をわたさるる事先例なし。
P10006
就中此輩は、先帝の御時、戚里の臣として
久しく朝家につかうまつる。範頼・義経が申状、
あながち御許容あるべからず」と、おのおの一同に
申されければ、渡さるまじきにてあり【有り】けるを、
範頼・義経かさねて奏聞しけるは、「保元の
昔をおもへ【思へ】ば、祖父為義があた、平治のいにしへ
を案ずれば、ちち義朝がかたき也。君の御いき
どをり【憤り】をやすめたてまつり【奉り】、父祖の恥をきよ
P10007
めんがために、命をすてて朝敵をほろぼす。
今度平氏の頸ども大路をわたされずは、
自今以後なんのいさみあてか凶賊をしりぞ
けんや」と、両人頻にうたへ【訴へ】申あひだ、法皇ちか
らおよば【及ば】せ給はで、つゐに【遂に】わたされけり。みる【見る】人
いくらといふかずをしらず。帝闕に袖をつらねし
いにしへは、おぢをそるる【恐るる】輩おほかり【多かり】き。巷に
かうべをわたさるる今は、あはれみかなしまずと
P10008
いふ事なし。小松の三位中将維盛卿の若君、
六代御前につきたてま【奉つ】たる斎藤五、斎藤六、
あまりのおぼつかなさに、さまをやつしてみ
ければ、頸どもは見しりたP2239てまたれども、三位
中将殿の御頸は見え給はず。されどもあまりに
かなしくて、つつむにたへ【堪へ】ぬ涙のみしげかり
ければ、よその人目もおそろしさ【恐ろしさ】に、いそぎ大覚寺
へぞまひり【参り】ける。北方「さて、いかにやいかに」ととひ
P10009
給へば、「小松殿の君達には、備中守殿の御頸ばか
りこそみえ【見え】させ給ひ候つれ。其外はそんぢやう
その頸、その御頸」と申ければ、「いづれも人のうへ
ともおぼえず」とて、涙にむせび給ひけり。ややあて、
斎藤五涙ををさへて申けるは、「この一両年
はかくれゐ候て、人にもいたくみしられ候はず。いま
しばらくも見まいらす【参らす】べう候つれども、よにくはしう
案内しり【知り】まいらせ【参らせ】たる物の申候つるは、「小松殿の
P10010
君達は、今度の合戦には、播磨と丹波のさかゐ【境】
で候なるみくさ【三草】の山をかためさせ給て候けるが、
九郎義経にやぶられて、新三位中将殿・小松
少将殿・丹後侍従殿は播磨の高砂より御舟
にめし【召し】て、讃岐の八島へわたらせ給て候也。何と
してはなれ【離れ】させ給て候けるやらん、御兄弟の御
なかには、備中守殿ばかり一谷にてうた【討た】れさせ
給て候」と申ものにこそあひ【逢ひ】て候つれ。「さて小松
P10011
三位中将殿の御事はいかに」ととひ候つれば、「それ
はいくさ【軍】以前より大事の御いたはりとて、八島
に御渡候あひだ、このたびはむかは【向は】せ給候はず」と、
こまごまとこそ申候つれ」と申ければ、「それもわ
れら【我等】が事をあまりにおもひ【思ひ】なげP2240き給ふが、病
となりたるにこそ。風のふく日は、けふもや舟に
のり給らんと肝をけし、いくさ【軍】といふ時は、ただ
いまもやうた【討た】れ給らんと心をつくす。ましてさや
P10012
うのいたはりなんどをも、たれか心やすうもあ
つかひたてまつる【奉る】べき。くはしうきかばや」との給へば、
若君・姫君、「など、なんの御いたはりとはとは【問は】ざり
けるぞ」とのたまひけるこそ哀なれ。三位中将
もかよふ心なれば、「宮こ【都】にいかにおぼつかなく
おもふ【思ふ】らん。頸どものなか【中】にはなくとも、水におぼ
れてもしに、矢にあたてもうせぬらん。この世に
ある物とはよもおもは【思は】じ。露の命のいまだなが
P10013
らへ【永らへ】たるとしら【知ら】せたてまつらばや」とて、侍一人
したて【仕立て】て宮こ【都】へのぼせられけり。三の文をぞ
かかれける。まづ北方への御ふみ【文】には、「宮こ【都】にはかた
きみちみちて、御身ひとつのおきどころだにあ
らじに、おさなき【幼き】物どもひきぐし【具し】て、いかにか
なしう【悲しう】おぼすらん。これへむかへ【向へ】たてま【奉つ】て、ひと
ところ【一所】でいかにもならばやとはおもへ【思へ】ども、我身
こそあらめ、御ため心ぐるしくて」などこまごまと
P10014
かきつづけ、おくに一首の歌ぞあり【有り】ける。
いづくともしらぬ逢せのもしほ草
かきをく【置く】跡をかたみとも見よ W073
おさなき【幼き】人々の御もとへは、「つれづれをばいかにして
かなぐさ【慰】み給らん。いP2241そぎむかへ【向へ】とらんずるぞ」
と、こと葉もかはらずかいてのぼせられけり。この
御ふみ【文】どもを給はて、つかひ【使ひ】宮こ【都】へのぼり、北方に
御文まいらせ【参らせ】たりければ、今さら又なげきかな
P10015
しみ給ひけり。つかひ【使ひ】四五日候て、いとま申。北方
なくなく御返事かき給ふ。若公姫君筆をそめ【染め】
て、「さてちち【父】御ぜんの御返事はなにと申べきや
らん」ととひ給へば、「ただともかうも、わ御ぜんたち
のおもは【思は】んやうに申べし」とこその給ひけれ。
「などやいままでむかへ【向へ】させ給はぬぞ。あまりに恋
しく思ひまいらせ【参らせ】候。とくとくむかへ【向へ】させ給へ」
と、おなじこと葉にぞかかれたる。この御ふみ【文】
P10016
どもを給はて、つかひ【使ひ】八島にかへりまいる【参る】。三位中
将、まづおさなき【幼き】人々の御文を御らんじてこそ、いよいよ
せんかたなげにはみえ【見え】られけれ。「抑これより穢土
を厭にいさみなし。閻浮愛執の綱つよければ、浄土
をねがふも物うし。ただこれよりやまづたひ【山伝ひ】
に宮こ【都】へのぼて、恋しきものどもをいま一度
みもし、見えての後、自害をせんにはしかじ」とぞ、
なくなくかたり給ひける。内裏女房S1002 P2242同十四日、いけどり【生捕り】本三位
P10017
中将重衡卿、六条を東がし)へわたされけり。小八葉
の車に先後の簾をあげ、左右の物見をひらく。
土肥次郎実平、木蘭地の直垂に小具足ばかり
して、随兵卅余騎、車の先後にうちかこで守
護したてまつる。京中の貴賎これをみて、「あないと
をし、いかなる罪のむくひぞや。いくらもまします
君達のなかに、かくなり給ふ事よ。入道殿にも
二位殿にも、おぼえの御子にてましまひしかば、
P10018
御一家の人々もおもき【重き】事におもひ【思ひ】たてまつ
り【奉り】給ひしぞかし。院へも内へもまひり【参り】給ひし時
は、老たるも若も、ところ【所】ををき、もてなしたて
まつり【奉り】給ひし物を。これは南都をほろぼし
給へる伽藍の罰にこそ」と申あへ【合へ】り。河原まで
わたされて、かへ【帰つ】て、故中御門藤中納言家成卿の
八条堀川の御だう【堂】にすゑたてま【奉つ】て、土肥二郎【*次郎】
守護したてまつる【奉る】。院御所より御使に蔵人
P10019
左衛門権佐定長、八条堀河へむかは【向は】れけり。赤衣
にて剣笏をぞ帯したりける。三位中将は紺
村滋の直垂に、立烏帽子ひきたてておはし
ます。日ごろは何ともおもは【思は】れざりし定長を、
いまは冥途にて罪人共が冥官に逢へる心地
ぞせられける。仰下されけるは、「八島へかへりたくは、
一門のなかへいひ【言ひ】おく【送つ】て、三種の神器を宮こ【都】へ
返しいれ【入れ】たてまつれ【奉れ】。しからば八島へかへさ【返さ】るべしと
P10020
の御気色で候」と申。三位中将申されけるは、「重
衡千P2243人万人が命にも、三種の神器をかへ
まいらせ【参らせ】んとは、内府以下一門の物共、一人もよも
申候はじ。もし女性にて候へば、母儀の二品なんど
やさも申候はんずらん。さは候へども、居ながら院
宣をかへしまいらせ【参らせ】ん事、其おそれ【恐れ】も候へば、申
おく【送つ】てこそみ候はめ」とぞ申されける。御使は
平三左衛門重国、御坪の召次花方とぞき
P10021
こえ【聞え】し。私のふみはゆるさ【許さ】れねば、人々のもとへも
詞にて事づけ給ふ。北方大納言佐殿へも御詞にて
申されけり。「旅のそらにても、人はわれになぐさみ、
我は人になぐさみたてまつり【奉り】しに、ひき別て後、
いかにかなしう【悲しう】おぼすらん。「契はくちせぬ物」と申
せば、後の世にはかならず【必ず】むまれ【生れ】逢たてまつらん」と、
なくなく【泣く泣く】ことづけ給へば、重国も涙ををさへてたち
にけり。三位中将の年ごろめし【召し】つかは【使は】れける侍に、
P10022
木工右馬允知時といふものあり。八条[B ノ]女院に候
けるが、土肥次郎がもとにゆきむか【向つ】て、「これは中将殿
に先年めし【召し】つかは【使は】れ候しそれがし【某】と申物にて
候が、西国へも御共仕べきよし存候しかども、八条[B ノ]
女院に兼参の物にて候あひだ、ちからおよば【及ば】でま
かりとどまて候が、けふ大路でみまいらせ【参らせ】候へば、目もあて
られず、いとをしうおもひたてまつり【奉り】候。しかる【然る】
べう候者、御ゆるされ【許され】を蒙て、ちかづき【近付き】まひり【参り】候て、
P10023
今一度見参にいり、昔がたりをも申て、なぐ
さめまいらせ【参らせ】ばやと存候。させるP2244弓矢とる身で
候はねば、いくさ【軍】合戦の御供を仕たる事も候はず、
ただあさゆふ祗候せしばかりで候き。さり
ながら、猶おぼつかなうおぼしめし【思し召し】候者、腰の
刀をめし【召し】おかれて、まげて御ゆるされ【許され】を蒙候ばや」
と申せば、土肥次郎なさけあるおのこ【男】にて、「御一
身ばかりは何事か候べき。さりながらも」とて、腰
P10024
の刀をこひ【乞ひ】とていれ【入れ】てげり。右馬允なのめならず
悦て、いそぎまい【参つ】てみたてまつれ【奉れ】ば、誠に思ひいれ【入れ】
給へるとおぼしくて、御すがたもいたくしほれ【萎れ】
かへ【返つ】てゐたまへる御ありさまをみたてまつる【奉る】に、知時
涙もさらにおさへがたし。三位中将もこれを
御らんじて、夢に夢みる【見る】心地して、とかうの事も
のたまはず。ただなく【泣く】より外の事ぞなき。やや
久しうあて、昔いまの物語どもし給ひて後、
P10025
「さてもなんぢして物いひ【言ひ】し人は、いまだ内裏
にとやきく」。「さこそうけ給候へ」。「西国へくだりし
時、ふみをもやらず、いひおく事だになかりし
を、世々の契はみないつはりにてあり【有り】けりとお
もふ【思ふ】らんこそはづかしけれ。ふみ【文】をやらばやと
思は。たづね【尋ね】てゆきてんや」との給へば、「御ふみ【文】を給はて
まいり【参り】候はん」と申。中将なのめならず悦て、や
がてかい【書い】てぞたう【賜う】だりける。守護の武士ども
P10026
「いかなる御ふみ【文】にて候やらん。いだしまいらせ【参らせ】じ」と
申。中将「みせよ【見せよ】」との給へば、みせ【見せ】てげり。「くるしう【苦しう】
候まじ」とてとらせけり。知P2245時もて内裏へま
いり【参り】たりけれども、ひるは人めのしげければ、その
へんちかき小屋に立入て日をくらし、局の
下口へんにたたずできけば、この人のこゑ【声】と
おぼしくて、「いくらもある人のなかに、三位中将
しもいけどり【生捕り】にせられて、大路をわたさるる
P10027
事よ。人はみな奈良をやきたる罪のむくひ
といひあへ【合へ】り。中将もさぞいひし。「わが心におこて
はやかねども、悪党おほかり【多かり】しかば、手々で)に火を
はなて、おほく【多く】の堂塔をやきはらふ。末の露本の
しづくとなるなれば、われ一人が罪にこそならんずら
め」といひしが、げにさとおぼゆる」とかきくどき、さ
めざめとぞなか【泣か】れける。右馬允「これにもおもは【思は】れ
けるものを」といとをしうおぼえて、「物申さう」どいへば、
P10028
「いづくより」ととひ給ふ。「三位中将殿より御文の候」と
申せば、年ごろははぢてみえ【見え】給はぬ女房の、せめ
ての思ひのあまりにや、「いづらやいづら」とてはしり【走り】
いで【出で】て、手づからふみをとてみ【見】給へば、西国よりとら
れてありしありさま、けふあすともしらぬ身
のゆくゑ【行方】などこまごまとかきつづけ、おくには一
首の歌ぞあり【有り】ける。
涙河うき名をながす身なりとも
P10029
いま一たびの逢せともがな W074
女房これをみ【見】給ひて、とかうの事もの給はず、
ふみをふところ【懐】にひき入て、ただなくより外の
事ぞなき。やや久しうあて、さてもあるべき
ならねば、御かP2246へり事あり。心ぐるしういぶせくて、
二とせををくり【送り】つる心のうちをかき給ひて、
君ゆへ【故】にわれもうき名をながすとも
そこ【底】のみくづ【水屑】とともになりなん W075
P10030
知時もてまいり【参り】たり。守護の武士ども、又「見まいらせ【参らせ】
候はん」と申せば、みせ【見せ】てげり。「くるしう【苦しう】候まじ」とて
たてまつる【奉る】。三位中将これをみて、いよいよ
思ひやまさり給ひけん、土肥二郎【*次郎】にの給ひ
けるは、「年来あひぐし【具し】たりし女房に、今一度
対〔面〕して、申たき事のあるはいかがすべき」との給
へば、実平なさけあるおのこ【男】にて、「まこと【誠】に女房な
どの御事にてわたらせ給候はんは、なじかはくるしう【苦しう】
P10031
候べき」とてゆるしたてまつる【奉る】。中将なのめならず
悦て、人に車か【借つ】てむかへ【向へ】につかはし【遣し】たりければ、
女房とりもあへずこれにの【乗つ】てぞおはしたる。ゑん【縁】
に車をやりよせて、かくと申せば、中将車よせ
にいで【出で】むかひ【向ひ】給ひ、「武士どものみ【見】たてまつる【奉る】に、おり
させ給べからず」とて、車の簾をうちかづき、手に
手をとりくみ、かほにかほをおしあてて、しばしは
物もの給はず、ただなくより外の事ぞなき。
P10032
やや久しうあて中将の給ひけるは、「西国へくだ
りし時、今一度みまいらせ【参らせ】たう候しかども、おほ
かたの世のさはがしさ【騒がしさ】に、申べきたよりもなく
てまかりくだり候ぬ。其後はいかにもして御ふみ【文】
をもまいらせ【参らせ】、P2247御かへり事をもうけ給はり【承り】たう
候しかども、心にまかせぬ旅のならひ【習ひ】、あけくれ
のいくさ【軍】にひまなくて、むなしくとし月をおく
り【送り】候き。いま又人しれぬありさまをみ候は、ふた
P10033
たびあひみたてまつる【奉る】べきで候けり」とて、袖を
かほにおしあてて、うつぶしにぞなられける。たがひの
心のうち、おしはかられてあはれ【哀】也。かくてさ夜も
なか半になりければ、「この比は大路の狼籍【*狼藉】に候に、
とうとう【疾う疾う】」とてかへしたてまつる【奉る】。車やりいだせば、
中将別の涙ををさへて、なくなく【泣く泣く】袖をひかへつつ、
逢ことも露の命ももろともに
こよひばかりやかぎりなるらん W076
P10034
女房なみだををさへつつ、
かぎりとてたちわかるれば露の身の
君よりさきにきえぬべきかな W077
さて女房は内裏へまいり【参り】給ひぬ。其後は守護
の武士どもゆるさねば、ちからおよば【及ば】ず、時々御文
ばかりぞかよひける。この女房と申すは、民部
卿入道親範のむすめ也。みめかたち世にすぐ
れ、なさけふかき人也。されば中将、南都へ
P10035
わたされてきられ給ぬときこえ【聞え】しかば、や
がてさまをかへ、こき墨染[* 「黒染」と有るのを高野本により訂正]にやつれはて、彼後世
菩提をとぶらはれけるこそ哀なれ。P2248八島院宣S1003さるほど【程】に、
平三左衛門重国、御坪のめしつぎ花方、八島に
まい【参つ】て院宣をたてまつる【奉る】。おほいとの以下一門の
月卿雲客よりあひ給ひて、院宣をひらかれ
けり。一人聖体、北闕の宮禁をいで【出で】て、諸州に幸じ、
三種の神器、南海・四国にうづもれて数年をふ【経】、
P10036
尤も朝家のなげき、亡国の基也。抑彼重衡
卿は、東大寺焼失の逆臣也。すべからく頼朝
朝臣申請る旨にまかせて、死罪におこなはるべし
といへども、独り親族にわかれて、已にいけどり【生捕り】と
なる。籠鳥雲を恋るおもひ【思ひ】、遥に千里の南
海にうかび、帰雁友を失ふ心、さだめて九重の
中途に通ぜんか。しかれば則三種の神器を
かへし入たてまつら【奉ら】んにおひては、彼卿を寛宥
P10037
せらるべき也。者院宣かくのごとし。仍執達如
件。寿永三年二月十四日大膳大夫成忠が
うけ給はり【承り】進上平大納言殿へとぞかかれたる。P2249
請文S1004大臣殿・平大納言のもとへは院宣のおもむき【趣】を
申給ふ。二位殿へは御ふみ【文】こまごまとかいてまいら
せ【参らせ】られたり。「いま一度御らんぜんとおぼしめし【思し召し】
候はば、内侍所の御事を大臣殿によくよく申
させをはしませ。さ候はでは、この世にてげんざんに入
P10038
べしとも覚候はず」などぞかかれたる。二位殿は
これをみ【見】給ひて、とかうの事もの給はず、ふみを
ふところ【懐】にひき【引き】いれ【入れ】て、うつぶしにぞなられける。
まこと【誠】に心のうち、さこそはをはしけめとおし
はから【推し量ら】れて哀なり。さる程に、平大納言時忠卿
をはじめとして、平家一門の公卿殿上人より
あひ給ひて、御請文のおもむき【趣】僉議せらる。
二位殿は中将のふみをかほにおしあてて、人々の
P10039
なみゐたまへるうしろの障子をひきあけて、
大臣殿の御まへにたをれ【倒れ】ふし、なくなく【泣く泣く】の給ひける
は、「あの中将が京よりいひをこし【遣こし】たる事のむ
ざんさよ。げにも心のうちにいかばかりの事を
思ひゐたるらん。ただわれにおもひ【思ひ】ゆるして、
内侍所を宮こ【都】へかへしいれ【入れ】たてまつれ【奉れ】」との給へば、
大臣殿「誠に宗盛もさこそは存候へども、さすが
世のきこへ【聞え】もいふかいなう候。且)は頼朝がおもは【思は】ん
P10040
事もはづかしう候へば、左右なう内侍所をかへ
し入たてまつる【奉る】事はかなひ【叶ひ】P2250候まじ。其うへ、帝王
の世をたもた【保た】せ給ふ御事は、ひとへに内侍所の
御ゆへ【故】也。子のかなしいも様にこそより候へ。且)は
中将一人に、余の子ども、したしゐ【親しい】人々をば、さて
おぼしめし【思し召し】かへ【替へ】させ給べき歟」と申されければ、
二位殿かさねてのたまひけるは、「故入道にお
くれて後は、かた時も命いきてあるべしともお
P10041
もは【思は】ざりしかども、主上かやうにいつとなく
旅だたせ給ひたる御事の御心ぐるしさ、又君を
も御代にあらせまいらせ【参らせ】ばやなどおもふ【思ふ】ゆへ【故】に
こそ、いままでもながらへ【永らへ】てありつれ。中将一の
谷で生どりにせられぬとききし後は、肝
たましゐ【魂】も身にそはず。いかにしてこの世にて
いま一度あひみる【見る】べきとおもへども、夢にだに
みえ【見え】ねば、いとどむねせきて、ゆみづ【湯水】ものどへ
P10042
入られず。いまこのふみをみて後は、いよいよ思ひ
やりたる方もなし。中将世になき物ときかば、
われも同みちにおもむか【赴か】んと思ふ也。ふたたび
物をおもは【思は】ぬさきに、ただわれをうしなひ【失ひ】
給へ」とて、おめき【喚き】さけび【叫び】給へば、まこと【誠】にさこそは
おもひ【思ひ】給ふらめと哀におぼえて、人々涙をながし
つつ、みなふしめ【伏目】にぞなられける。新中納言
知盛の意見に申されけるは、「三種の神器を
P10043
都へかへし入たてま【奉つ】たりとも、重衡をかへし
給はらん事ありがたし。ただはばかりなくその様
を御請文に申さるべうや候らん」と申されけれ
ば、大臣殿「此儀尤もしかる【然る】べし」とP2251て、御請文申
されけり。二位殿はなくなく【泣く泣く】中将の御かへり事
かき給ひけるが、涙にくれて筆のたてどもお
ぼえねども、心ざしをしるべにて、御文こまごまと
かいて、重国にたび【賜び】にけり。北方大納言佐殿は、
P10044
ただなくより外の事なくて、つやつや御かへり
事もしたまはず。誠に御心のうちさこそは思ひ
給ふらめと、おしはから【推し量ら】れて哀也。重国も狩衣の
袖をしぼりつつ、なくなく【泣く泣く】御まへをまかりたつ。平
大納言時忠は、御坪のめし次花方をめし【召し】て、
「なんぢは花方歟」。「さん候」。「法皇の御使におほく【多く】
の浪路をしのいでこれまでまひり【参り】たるに、
一期が間のおもひでひとつあるべし」とて、花
P10045
方がつら【頬】に「浪方」といふやいじるし【焼印】おぞせ
られける。宮こ【都】へのぼりたりければ、法皇これを
御らんじて、「よしよしちからおよば【及ば】ず。浪方ともめせ【召せ】
かし」とて、わらは【笑は】せおはします。今月十四日の院
宣、同廿八日讃岐国八島の磯に致来。謹以て)承
るところ如件。
ただしこれにつゐ【付い】てかれを案ずるに、通盛卿
以下当家数輩、摂州一谷にして既に誅せられ
P10046
おはぬ。何ぞ重衡一人の寛宥を悦べきや。
夫我君は、故高倉院の御譲をうけさせ給ひ
て、御在位すでに四ケ年、政と堯舜の古風
をとぶらふところ【所】に、東夷北狄党をむすび、
群をなして入洛のあひだ、且)は幼P2252帝母后
の御なげき尤もふかく、且)は外戚近臣のい
きどをり【憤り】あさからざるによて、しばらく九
国に幸ず。還幸なからんにおいては、三種の神器
P10047
いかでか玉体をはなちたてまつる【奉る】べきや。それ臣は
君をもてこころとし、君は臣をもて体とす。君
やすければすなはち臣やすく、臣やすけれ
ばすなはち国やすし。君かみにうれふれば
臣しもにたのしまず。心中に愁あれば
体外によろこびなし。曩祖平将軍貞
盛、相馬小次郎将門を追討せしよりこの
かた、東八ケ国をしづめて子々孫々につたへ、
P10048
朝敵の謀臣を誅罰して、代々世々にいたる
まで朝家の聖運をまもり【守り】たてまつる【奉る】。しかれ
ば則亡父故太政大臣、保元・平治両度の
合戦の時、勅命ををもう【重う】して、私の命をか
ろう【軽う】す。ひとへに君の為にして、身のために
せず。就中彼頼朝は、去平治元年十二月、父
左馬頭義朝が謀反によて、頻に誅罰せ
らるべきよし仰下さるといへども、故入道
P10049
相国慈悲のあまり申なだめ【宥め】られしとこ
ろ【所】也。しかる【然る】に昔の洪恩をわすれ、芳意を
存ぜず、たちまちに狼羸の身をもて猥に
蜂起の乱をなす。至愚のはなはだしき
事申てあまりあり。早く神明の天罰
をまねき、ひそかに敗跡の損滅を期する者
歟。夫日月は一物の為にそのあきらかなること
をくらうせず。明王は一人がためにその法を
P10050
まげず。一悪をもて其善をすてず、P2253小瑕を
もて其功をおおふ【覆ふ】事なかれ。且)は当家数代
の奉公、且)は亡父数度の忠節、思食忘ずは
君かたじけなく四国の御幸あるべき歟。時に
臣等院宣をうけ給はり、ふたたび旧都にかへ【帰つ】て
会稽の恥をすすがん。若然らずは、鬼界・高
麗・天竺・震旦にいたるべし。悲哉、人王
八十一代の御宇にあたて、我朝神代の霊宝、
P10051
つゐに【遂に】むなしく異国のたからとなさん歟。よ
ろしくこれらのおもむき【趣】をもて、しかる【然る】べき様に
洩奏聞せしめ給へ。宗盛誠恐頓首謹言寿
永三年二月廿八日従一位平朝臣宗盛が請
文とこそかかれたれ。戒文S1005三位中将これをきい【聞い】て、
「さこそはあらんずれ。いかに一門の人々わるく
おもひけん」と後悔すれどもかひぞなき。げ
にも重衡卿一人ををしみて、さしもの我朝
P10052
の重宝三種の神器をかへし【返し】いれ【入れ】たてまつる【奉る】
べしともおぼえねば、この御請文のおもむき【趣】は、
兼てよりおもひ【思ひ】まうけ【設け】られたりしかども、いまだ
左右をP2254申されざりつる程は、なにとなう
いぶせくおもは【思は】れけるに、請文すでに到来して、
関東〔へ〕下向せらるべきにさだまりしかば、なん
のたのみ【頼み】もよはり【弱り】はてて、よろづ心ぼそう、宮
こ【都】の名残も今更おしう【惜しう】〔ぞ〕おもは【思は】れける。三位中
P10053
将、土肥二郎【*次郎】をめし【召し】て、「出家をせばやと思ふは
いかがあるべき」との給へば、実平このよしを九郎
御曹司に申す。院御所へ奏聞せられたりけ
れば、「頼朝に見せて後こそ、ともかうもはからは
め。只今は争かゆるすべき」と仰ければ、此よし
を申す。「さらば年ごろ契たりし聖に、今一
度対面して、後生の事を申談ぜばやとお
もふ【思ふ】はいかがすべき」との給へば、「聖をば誰と申候や
P10054
らん」。「黒谷の法然房と申人なり」。「さてはくるし
う【苦しう】候まじ」とて、ゆるしたてまつる【奉る】。中将なの
めならず悦て、聖を請じたてま【奉つ】て、なくなく【泣く泣く】
申されけるは、「今度いきながらとらはれて候けるは、
ふたたび上人の見参にまかり入るべきで候
けり。さても重衡が後生、いかがし候べき。身
の身にて候し程は、出仕にまぎれ、政務にほだ
され、■慢【*驕慢】の心のみふかくして、かつて当来の昇
P10055
沈をかへりみず。況や運つき、世みだれてより
このかたは、ここにたたかひ【戦ひ】、かしこにあらそひ、人
をほろぼし、身をたすからんとおもふ【思ふ】悪心のみ
遮て、善心はかつて発らず。就中に南都炎
上の事、王命といひ、武命といひ、君につ
かへ、世にしたがふP2255はう【法】のがれ【逃れ】がたくして、衆徒
の悪行をしづめんがためにまかりむか【向つ】て候し
程に、不慮に伽藍の滅亡に及候し事、力及ばぬ
P10056
次第にて候へども、時の大将軍にて候し上は、
せめ一人に帰すとかや申候なれば、重衡一人が
罪業にこそなり候ぬらめと覚え候。かつうはか
様【斯様】に人しれずかれこれ恥をさらし候も、し
かしながらそのむくひとのみこそおもひ【思ひ】しられ
て候へ。いまはかしらをそり、戒をたもち【保ち】なんとし
て、ひとへに仏道修行したう候へども、かかる
身にまかりなて候へば、心に心をもまかせ候はず、
P10057
けふあすともしらぬ身のゆくゑ【行方】にて候へば、いか
なる行を修して、一業たすかるべしともおぼ
えぬこそくちをしう候へ。倩ら一生の化行
をおもふ【思ふ】に、罪業は須弥よりもたかく、善業は
微塵ばかりも蓄へなし。かくてむなしく命
おはりなば、火穴湯の苦果、あへて疑なし。ね
がはくは、上人慈悲ををこし【起こし】あはれみを垂て、かかる
悪人のたすかりぬべき方法候者、しめし【示し】
P10058
給へ」。其時上人涙に咽で、しばしは物ものたまはず。
良久しうあて、「誠に受難き人身を受ながら、
むなしう三途にかへり給はん事、かなしんで
も猶あまりあり。しかる【然る】をいま穢土をいとひ、
浄土をねがは【願は】んに、悪心をすてて善心を発
しまさん事、三世の諸仏もさだめて随喜
し給ふべし。それについて、出離のみち【道】まちまち
なりといへども、末法濁乱の機には、称名をもP2256て
P10059
すぐれたりとす。心ざしを九品にわかち、行を
六字につづめて、いかなる愚智闇鈍の物も唱
ふるに便りあり。罪ふかければとて、卑下し
給ふべからず、十悪五逆廻心すれば往生をとぐ。
功徳すくなければとて望をたつ【絶つ】べからず、一念
十念の心を致せば来迎す。「専称名号至西方」
と尺して、専ら名号を称すれば、西方にいたる。
「念々称名常懺悔」とのべて、念々に弥陀を
P10060
唱ふれば、懺悔する也とおしへ【教へ】たり。「利剣即
是弥陀号」をたのめ【頼め】ば、魔閻ちかづか【近付か】ず。「一声称
念罪皆除」と念ずれば、罪みなのぞけりと見え
たり。浄土宗の至極、おのおの略を存じて、大
略これを肝心とす。ただし往生の得否は信心
の有無によるべし。ただふかく信じてゆめゆめ
疑をなし給ふべからず。若このおしへ【教へ】をふかく信
じて、行住坐臥時処諸縁をきらはず、三業
P10061
四威儀において、心念口称をわすれ給はずは、畢
命を期として、この苦域の界をいで【出で】て、彼不退
の土に往生し給はん事、何の疑かあらんや」と教
化し給ひければ、中将なのめならず悦て、「この
つゐでに戒をたもた【保た】ばやと存候は、出家仕り候
はではかなひ【叶ひ】候まじや」と申されければ、「出家せぬ
人も、戒をたもつ【保つ】事は世のつねのならひ【習ひ】也」とて、
額にかうぞり【髪剃】をあてて、そるまねをして、十戒
P10062
をさづけられければ、中将随喜の涙をながひ【流い】て、
これをうけたもち【保ち】給ふ。上人もよろづ物あはれ【哀】に
おぼえP2257て、かきくらす【暮す】心地して、なくなく【泣く泣く】戒をぞ
とか【説か】れける。御布施とおぼしくて、年ごろつねに
おはしてあそば【遊ば】れけるさぶらひ【侍】のもとにあづけ
をか【置か】れたりける御硯を、知時してめし【召し】よせて、上人
にたてまつり【奉り】、「これをば人にたび【賜び】候はで、つねに御
目のかかり候はんところ【所】におかれ候て、それがしが
P10063
物ぞかしと御らん【覧】ぜられ候はんたびごとに、おぼし
めし【思し召し】なずらへて、御念仏候べし。御ひまには、経をも
一巻御廻向候者、しかる【然る】べう候べし」など、なくなく【泣く泣く】申
されければ、上人とかうの返事にも及ばず、これ
をとてふところ【懐】にいれ【入れ】、墨染の袖をしぼり
つつ、なくなく【泣く泣く】かへり給ひけり。この硯は、親父入道
相国砂金をおほく【多く】宋朝の御門へたてまつり【奉り】
給ひたりければ、返報とおぼしくて、日本和田の
P10064
平大相国のもとへとて、おくら【送ら】れたりけるとかや。
名をば松蔭とぞ申ける。海道下S1006 さる程に、本三位中将
をば、鎌倉の前兵衛佐頼朝、しきりに申され
ければ、「さらばくださるべし」とて、土肥二郎【*次郎】実平
が手より、まづ九郎御曹司の宿所へわたし
たてまつる【奉る】。同三月十日、梶原平三景時にぐせ【具せ】
られて、鎌倉へこそP2258くだられけれ。西国よりいけ
どり【生捕り】にせられて、宮こ【都】へかへるだに口おしき【惜しき】に、
P10065
いつしか又関の東がし)へおもむか【赴か】れけん心のうち、をし
はから【推し量ら】れて哀也。四宮河原になりぬれば、ここは
むかし、延喜第四の王子蝉丸の関の嵐に心を
すまし【澄まし】、琵琶をひき給ひしに、伯雅【*博雅】の三位と
云し人、風のふく日もふかぬ日も、雨のふる夜も
ふらぬ夜も、三とせがあひだ、あゆみ【歩み】をはこび、た
ち【立ち】きき【聞き】て、彼の三曲をつたへけんわら屋のとこ【床】
のいにしへも、おもひ【思ひ】やられてあはれ【哀】也。合坂山【*逢坂山】を
P10066
うちこえて、勢田の唐橋駒もとどろにふみな
らし、ひばりあがれ【上がれ】る野路のさと、志賀の浦
浪春かけて、霞にくもる鏡山、比良の高根を
北にして、伊吹の嵩も近づきぬ。心をとむ【留む】とし
なけれども、あれて中々やさしきは、不破の
関屋の板びさし、いかに鳴海の塩ひがた【干瀉】、涙に
袖はしほれ【萎れ】つつ、彼在原のなにがしの、唐衣
きつつなれにしとながめけん、参川【*三河】の国八
P10067
橋にもなりぬれば、蛛手に物をと哀也。浜名の橋
をわたり給へば、松の梢に風さえ【冴え】て、入江にさはぐ【騒ぐ】
浪の音、さらでも旅は物うきに、心をつくす夕
まぐれ、池田の宿にもつき給ひぬ。彼宿の長者
ゆや【熊野】がむすめ、侍従がもとに其夜は宿せられけり。
侍従、三位中将を見たてま【奉つ】て、「昔はつてにだに
おもひ【思ひ】よらざりしに、けふはかかるところ【所】にいら【入ら】せ
給ふふしぎさ【不思議さ】よ」とて、一首の歌をたてまつる【奉る】。P2259
P10068
旅のそらはにふ【埴生】のこやのいぶせさに
ふるさといかにこひしかるらん W078
三位中将返事には、
故郷も恋しくもなしたびの空
宮こ【都】もつゐのすみかならねば W079
中将「やさしうもつかまたる物かな。この歌のぬ
しはいかなる物やらん」と御尋あり【有り】ければ、景時畏て
申けるは、「君はいまだしろしめさ【知ろし召さ】れ候はずや。あ
P10069
れこそ八島の大臣殿、当国のかみでわたらせ
給ひし時、めされまいらせ【参らせ】て、御最愛にて候しが、
老母をこれにとどめ【留め】をき、しきりにいとまを申
せども、給はらざりければ、比はやよひのはじめ
なりけるに、
いかにせん宮こ【都】の春もおしけれ【惜しけれ】ど
なれし吾妻の花やちるらん W080
と仕て、いとまを給てくだりて候し、海道一の
P10070
名人にて候へ」とぞ申ける。宮こ【都】をいで【出で】て日数ふ
れば、やよひもなか半すぎ、春もすでにくれなん
とす。遠山の花は残の雪かとみえ【見え】て、浦々
島々かすみわたり、こし方行末の事どもお
もひつづけ給ふに、「さればこれはいかなる宿業の
うたてさぞ」との給ひて、ただつきせぬ物は涙
なり。御子の一人もおはせぬ事を、母の二位殿
もなげき、北方大納言佐殿もほいなきこと
P10071
にして、よろづの神ほとけにいのり申され
けれども、そのしるしなし。「かしこうぞなかり
ける。子だにあらましかば、いかにP2260心ぐるしからん」
との給ひけるこそせめての事なれ。さや【小夜】の中山
にかかり給ふにも、又こゆべしともおぼえねば、
いとどあはれ【哀】のかずそひて、たもとぞいたくぬれ
まさる。宇都の山辺の蔦の道、心ぼそくも
うちこえて、手ごし【手越】をすぎてゆけば、北にとを
P10072
ざか【遠ざかつ】て、雪しろき【白き】山あり。とへば甲斐のしら根【白根】
といふ。其時三位中将おつる涙ををさへて、かう
ぞおもひ【思ひ】つづけ給ふ。
おしから【惜しから】ぬ命なれどもけふまでぞ
つれなきかひのしらね【白根】をもみつ W081
清見が関うちすぎて、富士のすそ野になり
ぬれば、北には青山峨々として、松吹風索々
たり。南には蒼海漫々として、岸うつ浪も茫々
P10073
たり。「恋せばやせぬべし、恋せずもあり【有り】けり」と、
明神のうたひ【歌ひ】はじめ給ひける足柄の山をも
うちこえて、こゆるぎ【小余綾】の森、まりこ河【鞠子河】、小磯、大井
そ【*大磯】の浦々、やつまと【八的】、とがみ【砥上】が原、御輿が崎をもう
ちすぎて、いそがぬ旅とおもへ【思へ】ども、日数やうやう
かさなれば、鎌倉へこそいり給へ。千手前S1007兵衛佐いそ
ぎ見参して、申されけるは、「抑君の御いき
どをり【憤り】をやすめたてP2261まつり、父の恥をきよめん
P10074
とおもひ【思ひ】たちしうへは、平家をほろぼさんの
案のうちに候へども、まさしくげんざん【見参】にいる
べしとは存ぜず候き。このぢやう【定】では、八島の
大臣殿の見参にも入ぬと覚候。抑南都を
ほろぼさせ給ひける事は、故太政入道殿の
仰にて候しか、又時にとての御ぱからひにて候
けるか。もての外の罪業にてこそ候なれ」と
申されければ、三位中将の給ひけるは、「まづ
P10075
南都炎上の事、故入道の成敗にもあらず、
重衡が愚意の発起にもあらず。衆徒の悪
行をしづめんが為にまかりむか【向つ】て候し程に、
不慮に伽藍滅亡に及候し事、力及ばぬ
次第也。昔は源平左右にあらそひて、朝家
の御まもり【守り】たりしかども、近比源氏の運かた
ぶきたりし事は、事あたらしう初めて
申べきにあらず。当家は保元・平治よりこの
P10076
かた、度々の朝敵をたいらげ【平げ】、勧賞身にあまり、
かたじけなく一天の君の御外戚として、一族
の昇進六十余人、廿余年のこのかたは、たのしみ
さかへ【栄え】申はかりなし。今又運つきぬれば、重衡
とらはれてこれまでくだり候ぬ。それについて、
帝王の御かたきをうたるものは、七代まで
朝恩うせ【失せ】ずと申事は、きはめたるひが
事にて候けり。まのあたり故入道は、君の
P10077
御ためにすでに命をうしなは【失は】んとする事度々
に及ぶ。されども纔に其身一代のさいはひ
にて、子孫かやうにまかりなるべしや。されば、
運つきて宮こ【都】を出P2262し後は、かばねを山野に
さらし、名を西海の浪にながすべしとこそ存
ぜしか。これまでくだるべしとは、かけてもおも
は【思は】ざりき。ただ先世の宿業こそ口惜候へ。
ただし「陰道【*殷湯】はかたい【夏台】にとらはれ、文王はゆうり【■里】に
P10078
とらはる」といふ文あり。上古猶かくのごとし。况や
末代においてをや。弓矢をとるならひ【習ひ】、敵の
手にかかて命をうしなふ事、またく恥にて
恥ならず、ただ芳恩には、とくとくかうべをはね
らるべし」とて、其後は物もの給はず。景時こ
れをうけ給は【承つ】て、「あぱれ大将軍や」とて涙
をながす。其座になみ居たる人々みな袖をぞ
ぬらしける。兵衛佐も、「平家を別して私の
P10079
かたきとおもひ【思ひ】たてまつる【奉る】事、ゆめゆめ候はず。
ただ帝王の仰こそおもう【重う】候へ」とぞの給ひける。
「南都をほろぼしたる伽藍のかたきなれば、大
衆さだめて申旨あらんずらん」とて、伊豆国
住人、狩野介宗茂にあづけらる。そのてい、冥途
にて娑婆世界の罪人を、なぬか【七日】なぬか【七日】に十王の
手にわたさるらんも、かくやとおぼえてあはれ【哀】也。
されども狩野介、なさけある物にて、いたくきび
P10080
しうもあたりたてまつら【奉ら】ず。やうやう【様々】にいたはり、
ゆどの【湯殿】しつらひなどして、御ゆ【湯】ひか【引か】せたてまつる【奉る】。
みち〔す〕がらのあせ【汗】いぶせかりつれば、身をきよめて
うしなは【失は】んずるにこそと思はれけるに、よはひ
廿ばかりなる女房の、色しろう【白う】きよげ【清気】にて、ま
こと【誠】にゆう【優】にP2263うつくしきが、めゆい【目結】のかたびら【帷子】に
そめつけ【染付】のゆまき【湯巻】して、ゆどののと【戸】をおし【押し】あ
けてまいり【参り】たり。又しばしあて、十四五ばかりなる
P10081
めのわらは【女童】の、こむらご【紺村濃】のかたびらきて、かみ【髪】はあ
こめだけ【袙丈】なるが、はんざうたらい【半挿盥】にくし【櫛】いれ【入れ】て、
もてまひり【参り】たり。この女房かいしやく【介錯】して、やや
久しうあみ【浴み】、かみ【髪】あらいなどしてあがり【上がり】給ひ
ぬ。さてかの女房いとま申てかへりけるが、「おとこ【男】
などはこちなう【骨無う】もぞおぼしめす【思し召す】。中々おんな【女】は
くるしから【苦しから】じとて、まいらせ【参らせ】られてさぶらふ。
「なに事でもおぼしめさ【思し召さ】ん御事をばうけ給は【承つ】て
P10082
申せ」とこそ兵衛佐殿は仰られ候つれ」。中将「いま
は是程の身になて、何事をか申すべき。ただお
もふ【思ふ】事とては出家ぞしたき」との給ひければ、かへ
りまい【参つ】てこのよしを申す。兵衛佐「それ思ひも
よらず。頼朝が私のかたきならばこそ。朝敵と
してあづかりたてま【奉つ】たる人なり。ゆめゆめあるべ
うもなし」とぞの給ひける。三位中将守護の
武士にの給ひけるは、「さても只今の女房は、ゆう【優】
P10083
なりつるものかな。名をば何といふやらん」ととは【問は】れけ
れば、「あれは手ごし【手越】の長者がむすめで候を、み
め【眉目】かたち心ざま、ゆう【優】にわりなきもので候とて、
この二三ねんめし【召し】つかは【使は】れ候が、名をば千手の前と
申候」とぞ申ける。その夕雨すこしふて、よろづ
物さびしかりけるに、件の女房、琵琶・琴もP2264たせ
てまいり【参り】たり。狩野介酒をすすめたてまつる【奉る】。
我身も家子郎等十余人ひき具してまいり【参り】、
P10084
御まへちかう候けり。千手の前酌をとる。三位
中将すこしうけて、いと興なげにてをはしける
を、狩野介申けるは、「かつきこしめさ【聞し召さ】れてもや
候らん。鎌倉殿の「相構てよくよくなぐさめまいら
せよ【参らせよ】。懈怠にて頼朝うらむ【恨む】な」と仰られ候。宗茂
はもと伊豆国のものにて候あひだ、鎌倉では旅に
候へども、心の及候はんほどは、奉公仕候べし。何事でも
申てすすめまいら【参ら】させ給へ」と申ければ、千手
P10085
酌をさしおいて、「羅綺の重衣たる、情ない事
を奇婦に妬」といふ朗詠を一両反したりければ、
三位中将の給ひけるは、「この朗詠せん人をば、北
野の天神一日に三度かけてまぼらんとちか
はせ給ふ也。されども重衡は、此生ではすてられ
給ひぬ。助音してもなにかせん。罪障かろみ
ぬべき事ならばしたがふべし」との給ひければ、
千手前やがて、「十悪といへども引摂す」といふ朗詠
P10086
をして、「極楽ねがは【願は】ん人はみな、弥陀の名号とな
ふべし」といふ今様を四五反うたひ【歌ひ】すまし【澄まし】たり
ければ、其時坏をかたぶけらる。千手前給はて狩野
介にさす。宗茂がのむ時に、琴をぞひきすま
し【澄まし】たる。三位中将の給ひけるは、「この楽をば普通
には五常楽といへども、重衡がためには後生楽と
こそ観ずべけれ。やがて往生の急をひか【弾か】ん」と
たはぶれ【戯れ】て、琵琶をとり、てんP2265じゆ【転手】をねぢて、
P10087
皇■〔の〕急をぞひかれける。夜やうやうふけて、よろ
づ心のすむ【澄む】ままに、「あら、おもは【思は】ずや、あづまにもこ
れほどゆう【優】なる人のあり【有り】けるよ。何事にても今
ひと【一】声」との給ひければ、千手前又「一樹のかげ
にやどりあひ、おなじながれをむすぶも、みなこれ
先世の契」といふ白拍子を、まこと【誠】におもしろく
かぞへすまし【澄まし】たりければ、中将も「燈闇しては、
数行虞氏の涙」といふ郎詠をぞせられける。た
P10088
とへばこの郎詠の心は、昔もろこしに、漢高祖と
楚項羽と位をあらそひて、合戦する事七十
二度、たたかい【戦ひ】ごとに項羽かちにけり。されどもつゐ
に【遂に】は項羽たたかい【戦ひ】まけてほろびける時、すい【騅】といふ
馬の、一日に千里をとぶに乗て、虞氏といふ后とと
もににげさらんとしけるに、馬いかがおもひ【思ひ】けん、
足をととのへてはたらか【働か】ず。項羽涙をながい【流い】て、「わが
威勢すでにすたれたり。いまはのがる【逃る】べきかた
P10089
なし。敵のおそふは事のかずならず、この后に別
なん事のかなしさよ」とて、夜もすがらなげきかな
しみ給ひけり。燈くらうなりければ、心ぼそうて
虞氏涙をながす。夜ふくるままに軍兵四面に時
をつくる。この心を橘相公の賦につくれるを、三位
中将思ひいでられたりしにや、いとやさしうぞ
きこえ【聞え】ける。さる程に夜もあけければ、武士ども
いとま申てまかりいづ。千手前もかへりP2266にけり。其朝
P10090
兵衛佐殿、境節持仏堂に法花経よう【読う】でをは
しけるところ【所】へ、千手前まいり【参り】たり。佐殿うち
ゑみ給ひて、千手に「中人は面白うしたる物を」と
の給へば、斎院次官親義、おりふし【折節】御前に物かい
て候けるが、「何事で候けるやらん」と申。「あの平家
の人々は、弓箭の外は他事なしとこそ日ごろは
おもひ【思ひ】たれば、この三位中将の琵琶のばちをと【撥音】、
口ずさみ、夜もすがらたちきい【聞い】て候に、ゆう【優】にわり
P10091
なき人にてをはしけり」。親義申けるは、「たれも
夜部うけ給はる【承る】べう候しが、おりふし【折節】いたはる事
候て、うけ給はら【承ら】ず候。此後は常にたちきき候べし。
平家はもとより代々の歌人才人達で候也。
先年此人々を花にたとへ候しに、この三位中将
をば牡丹の花にたとへて候しぞかし」と申されければ、
「誠にゆう【優】なる人にてあり【有り】けり」とて、琵琶の撥音、
朗詠のやう、後までも、有難き事にぞの給ひける。
P10092
千手前はなかなかに物思ひのたねとやなりにけん。
されば中将南都へわたされて、きられ給ひぬと
きこえ【聞え】しかば、やがてさまをかへ、こき墨染にやつれ
はて、信濃国善光寺におこなひすまし【澄まし】て、彼後
世菩提をとぶらひ、わが身も往生の素懐をとげ
けるとぞきこえ【聞え】し。P2267横笛S1008さる程に、小松の三位中将維盛
卿は、身がらは八島にありながら、心は都へかよはれけり。
ふるさとにとどめ【留め】おき給ひし北方おさなき【幼き】人々
P10093
の面影のみ、身に立そひて、わするるひまもなかり
ければ、「あるにかひなき我身かな」とて、元暦元年
三月十五日の暁、しのび【忍び】つつ八島のたち【館】をまぎれ
出て、与三兵衛重景・石童丸といふわらは【童】、舟に心
えたればとて武里と申とねり【舎人】、これら三人をめし【召し】
ぐし【具し】て、阿波国結城の浦より小舟にのり、鳴戸
浦をこぎとほり、紀伊路へおもむき【赴き】給ひけり。和
歌・吹上・衣通姫の神とあらはれ給へる玉津島の
P10094
明神、日前・国懸の御前をすぎて、紀伊の湊にこそ
つき給へ。「これより山づたひ【山伝ひ】に宮こ【都】へのぼて、恋しき
人々をいま一度み【見】もしみえ【見え】ばやとはおもへ【思へ】ども、本
三位中将のいけどり【生捕り】にせられて、大路をわたされ、
京・鎌倉、恥をさらすだに口おしき【惜しき】に、この身
さへとらはれて、父のかばねに血をあやさん事も
心うし」とて、千たび心はすすめども、心に心をから
かひて、高野の御山にまいら【参ら】れけり。高野にとし【年】
P10095
ごろしり【知り】給へる聖あり。三条の斎藤左衛門
大夫茂頼が子に、斎藤滝口時頼といひしもの也。
もとは小松殿の侍也。十三のとし本所へまいり【参り】
たP2268りけるが、建礼門院の雑仕横笛といふおんな【女】
あり、滝口これを最愛す。ちちこれをつたへきい【聞い】て、
「世にあらんもののむこ子【聟子】になして、出仕なんどをも心
やすうせさせんとすれば、世になき物を思ひそめ
て」と、あながちにいさめければ、滝口申けるは、「西王母と
P10096
きこえ【聞え】し人、昔はあて今はなし。東方朔と
いしものも、名をのみききて目にはみず。老少不定
の世のなかは、石火の光にことならず。たとひ人長
命といへども、七十八十をば過ず。そのうちに
身のさかん【盛】なる事はわづかに廿余年也。夢まぼ
ろしの世のなかに、みにくきものをかた【片】時もみて
なにかせん。おもは【思は】しき物をみんとすれば、父の命
をそむくに似たり。これ善知識也。しかじ、うき世
P10097
をいとひ、まこと【誠】の道に入なん」とて、十九の年もとど
りきて、嵯峨の往生院におこなひすまし【澄まし】て
ぞゐたりける。横笛これをつたへきい【聞い】て、「われを
こそすて【捨て】め、さまをさへかへけん事のうらめし
さ【恨めしさ】よ。たとひ世をばそむくとも、などかかくとしら【知ら】
せざらん。人こそ心つよくとも、尋てうらみ【恨み】ん」とお
もひ【思ひ】つつ、あるくれがた【暮方】に宮こ【都】をいで【出で】て、嵯峨の方へ
ぞあくがれゆく。ころはきさらぎ十日あまりの
P10098
事なれば、梅津の里の春風に、よそのにほひもな
つかしく、大井河の月影も、霞にこめておぼろ
也。一かたならぬあはれさも、たれゆへ【故】とこそおもひ【思ひ】
けめ。往生院とはきき【聞き】たれども、さだかにいP2269づれの
房ともしら【知ら】ざれば、ここにやすらひかしこにたた
ずみ、たづね【尋ね】かぬるぞむざん【無慙】なる。すみ【住み】あらしたる
僧坊に、念誦の声しけり。滝口入道が声ときき
なして、「わらはこそこれまで尋まひり【参り】たれ。さまの
P10099
かはりてをはすらんをも、今一度みたてまつら【奉ら】
ばや」と、具したりける女をもていはせければ、滝口
入道むね【胸】うちさはぎ【騒ぎ】、障子のひまよりのぞひ【覗ひ】てみ
れ【見れ】ば、まこと【誠】にたづね【尋ね】かねたるけしきいたはしう
おぼえて、いかなる道心者も心よはく【弱く】なりぬべし。やがて
人をいだし【出し】て、「またくこれにさる人なし。門たがへ【違へ】
てぞあるらん」とて、つゐに【遂に】あはでぞかへし【返し】ける。横笛
なさけなううらめしけれ【恨めしけれ】ども、ちからなう涙を
P10100
おさへてかへりけり。滝口入道、同宿の僧にあふ【逢う】て
申けるは、「これもよにしづかにて、念仏の障碍は
候はねども、あかで別し女に此すまひ【住ひ】をみえ【見え】て候へば、
たとひ一度は心つよくとも、又もしたふ事あら
ば、心もはたらき【働き】候ぬべし。いとま申て」とて、
嵯峨をば出て、高野へのぼり、清浄心院にぞ
ゐたりける。横笛もさまをかへたるよしきこえ【聞え】
しかば、滝口入道一首のうたをおくり【送り】けり。
P10101
そる【剃る】まではうらみ【恨み】しかどもあづさ弓
まこと【誠】の道に入ぞうれしき W082
横笛がかへり事には、
そる【剃る】とてもなにかうらみ【恨み】んあづさ弓
ひきとどむべき心ならねば W083 P2270
よこぶゑ【横笛】はそのおもひ【思ひ】のつもりにや、奈良の法花
寺にあり【有り】けるが、いく程もなくて、つゐに【遂に】はかなく【果敢く】な
りにけり。滝口入道、か様【斯様】の事をつたへきき、いよいよ
P10102
ふかくおこなひすまし【澄まし】てゐたりければ、父も不
孝をゆるしけり。したしき物どもみなもち
ゐて、高野の聖とぞ申ける。三位中将これに尋
あひてみ【見】給へば、都に候し時は、布衣に立烏帽子、
衣文をつくろひ、鬢をなで、花やかなりしおの
こ【男】也。出家の後はけふはじめてみ【見】給ふに、いまだ
卅にもならぬが、老僧姿にやせ衰へ、こき墨染
におなじ袈裟、おもひいれ【思ひ入れ】たる道心者、浦山
P10103
しくやおもは【思は】れけん。晉の七賢、漢の四皓がすみ
けん商山・竹林のありさまも、これにはすぎじ
とぞ見えし。高野巻S1009滝口入道、三位中将をみ【見】たてま【奉つ】て、
「こはうつつともおぼえ候はぬ物かな。八島よりこれ
までは、なにとしてのがれ【逃れ】させ給て候やらん」と
申ければ、三位中将の給ひけるは、「さればこそ。
人なみなみに宮こ【都】をいで【出で】て、西国へおち【落ち】くだり
たりしかども、ふるさとにとどめ【留め】をきしおさ
P10104
なき【幼き】物共の恋しさ、いつ忘るP2271べしともおぼえ
ねば、その物おもふ【思ふ】けしきのいは【言は】ぬにしるく
やみえ【見え】けん、おほい殿も二位殿も、「この人は池の
大納言のやうにふた心あり」などとて思ひへだ
て給しかば、あるにかひなき我身かなと、いとど
心もとどまら【留まら】で、あくがれいで【出で】て、これまではのが
れ【逃れ】たる也。いかにもして山づたひ【山伝ひ】に都へのぼて、
恋しき物どもを今一度見もしみえ【見え】ばやとは
P10105
おもへ【思へ】ども、本三位中将の事口惜ければ、それ
もかなは【叶は】ず。おなじくはこれにて出家して、火
のなか水の底へもいらばやとおもふ【思ふ】也。ただし
熊野へまいら【参ら】んとおもふ【思ふ】宿願あり」との給へば、
「夢まぼろしの世の中は、とてもかくても候
なん。ながき世のやみこそ心うかるべう候へ」
とぞ申ける。やがて滝口入道先達にて、堂々
巡礼して、奥の院へまいり【参り】給ふ。高野山は
P10106
帝城を避て二百里、京里をはなれて無人声、
清嵐【*青嵐】梢をならして、夕日の影しづかなり。八葉
の嶺、八の谷、まこと【誠】に心もすみ【澄み】ぬべし。花の
色は林霧のそこにほころび、鈴のをと【音】は尾上
の雲にひびけり。瓦に松おひ、墻に苔むして、
星霜久しくおぼえたり。抑延喜の御門の
御時、御夢想の御告あて、ひわだ【桧皮】色の御衣を
まいらせ【参らせ】られしに、勅使中納言資隆卿、般若寺
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の僧正観賢をあひぐして、此御山にまいり【参り】、
御廟の扉をひらいて、御衣をきせたてまつら【奉ら】んP2272と
しけるに、霧あつくへだたて、大師をがま【拝ま】れさせ
給はず。ここに観賢ふかく愁涙して、「われ悲母
の胎内を出て、師匠の室に入しよりこの
かた、いまだ禁戒を犯ぜず。さればなどかおがみ【拝み】
たてまつら【奉ら】ざらん」とて、五体を地に投げ、発露啼
泣し給ひしかば、やうやう霧はれて、月の出るが
P10108
如くして、大師をがま【拝ま】れ給ひけり。時に観賢
随喜の涙をながひ【流い】て、御衣をきせたてまつる【奉る】。御ぐし【髪】
のながくおひさせ給ひたりしかば、そり【剃り】たて
まつる【奉る】こそ目出たけれ。勅使と僧正とはおがみ【拝み】た
てまつり【奉り】給へども、僧正の弟子石山の内供淳祐、
其時はいまだ童形にて供奉せられたりけるが、
大師ををがみ【拝み】たてまつら【奉ら】ずしてなげきしづんで
をはしけるが、僧正手をとて、大師の御ひざに
P10109
おしあてられたりければ、其手一期があひだ
かうばしかり【香ばしかり】けるとかや。そのうつり香は、石山の
聖教にうつ【移つ】て、いまにありとぞうけ給はる【承る】。大師、
御門の御返事に申させ給ひけるは、「われ昔
薩■にあひて、まのあたりことごとく【悉く】印明をつ
たふ。無比の誓願ををこし【起こし】て、辺地の異域に侍
べり。昼夜に万民をあはれんで、普賢の悲願に
住す。肉身に三昧を証じて、慈氏の下生をまつ」
P10110
とぞ申させ給ひける。彼摩訶迦葉の■足
の洞に籠て、しづ【翅都】の春風を期し給ふらんも、
かくやとぞおぼえける。御入定は承和二年三
月廿一日、寅の一点の事なれば、すぎにし方も
三百余歳、行末P2273も猶五十六億七千万歳の後、
慈尊出世三会の暁をまたせ給らんこそ久
しけれ。維盛出家S1010 「維盛が身のいつとなく、雪山の鳥のなく【鳴く】
らんやうに、けふよあすよとおもふ物を」とて、涙ぐみ
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給ふぞ哀なる。塩風にくろみ、つきせぬ物思ひ
にやせおとろへて、その人とはみえ【見え】給はねども、
猶よ【世】の人にはすぐれ給へり。其夜は滝口入道
が庵室にかへ【帰つ】て、よもすがら昔今の物がたりをぞ
し給ひける。聖が行儀をみ【見】給へば、至極甚深
の床の上には、真理の玉をみがくらんとみえ【見え】て、
後夜晨朝の鐘の声には、生死の眠をさま
すらんとも覚たり。のがれ【逃れ】ぬべくはかくても
P10112
あらまほしうや思はれけん。あけぬれば東
禅院の智覚上人と申ける聖を請じたて
ま【奉つ】て、出家せんとし給ひけるが、与三兵衛・石
童丸をめし【召し】ての給ひけるは、「維盛こそ人し
れぬおもひ【思ひ】を身にそへ【添へ】ながら、みち【道】せばう【狭う】のがれ【逃れ】
がたき身なれば、むなしうなるとも、このごろは
世にある人こそおほけれ【多けれ】、なんぢらはいかなるあり
さまをしても、などかすぎ【過ぎ】ざるべき。われいかにも
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ならんやうを見はてて、いそぎ宮こ【都】へのぼり、
おのおのが身をもたすけ【助け】、かつうは妻子をも
はP2274ぐくみ、かつうは又維盛が後生をもとぶらへ
かし」との給へば、二人の物どもさめざめとないて、し
ばしは御返事にも及ばず。ややあて、与三兵衛涙
ををさへて申けるは、「重景が父、与三左衛門景康
は、平治の逆乱の時、故殿の御共に候けるが、二条堀
河のへんにて、鎌田兵衛にくん【組ん】で、悪源太に
P10114
うた【討た】れ候ぬ。重景もなじかはおとり候べき。其時は
二歳にまかりなり候ければ、すこしもおぼえ
候はず。母には七歳でおくれ候ぬ。あはれ【哀】をかくべき
したしい【親しい】物一人も候はざりしかども、故大臣殿、
「あれはわが命にかはりたりし物の子なれば」とて、
御まへにてそだて【育て】られまいらせ【参らせ】、生年九と申
し時、君の御元服候し夜、かしらをとり【取り】あげ【上げ】
られまいらせ【参らせ】て、かたじけなく、「盛の字は家
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字なれば五代につく。重の字を松王に」と仰
候て、重景とはつけられまいらせ【参らせ】て候也。父のよう
で死候けるも、我身の冥加と覚候。随分同齢
どもにも芳心せられてこそまかりすぎ候しか。
されば御臨終の御時も、此世の事をばおぼし
めし【思し召し】すて【捨て】て、一事も仰候はざりしかども、重
景御まへちかう【近う】めされて、「あなむざんや。なんぢは
重盛を父がかたみとおもひ【思ひ】、重盛は汝を景康が
P10116
形見とおもひ【思ひ】てこそすごしつれ。今度の除目
に靭負尉になして、おのれ【己】が父景康をよびし
様にめさばやとこそおもひつるに、むなしうなる
こそかなしけれ。相構て少将殿の心にたがふ【違ふ】な」とP2275
こそ仰候しか。さればこの日ごろは、いかなる御事
も候はんには、みすてまいらせ【参らせ】て落べき物とおぼ
しめし【思し召し】候けるか。御心のうちこそはづかしう候へ。「こ
のごろは世にある人こそおほけれ【多けれ】」と仰かうぶり候
P10117
は、当時のごとくは源氏の郎等どもこそ候なれ。
君の神にも仏にもならせ給ひ候なん後、たのし
みさかへ【栄え】候とも、千年の齢をふるべきか。たとひ
万年をたもつ【保つ】とも、つゐに【遂に】はおはりのなかるべき
か。これにすぎたる善知識、なに事か候べき」とて、
手づからもとどりきて、なくなく【泣く泣く】滝口入道にそら
せけり。石童丸もこれをみて、もとゆい【元結】ぎはより
かみ【髪】をきる。これも八よりつきたてま【奉つ】て、重景にも
P10118
おとらず不便にし給ひければ、おなじく滝口
入道にそらせけり。これらがか様【斯様】に先達てなる
をみ【見】給ふにつけても、いとど心ぼそうぞおぼし
めす【思し召す】。さてもあるべきならねば、「流転三界中、
恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者」と
三反唱へ給ひて、つゐに【遂に】そりおろし給てげり。
「あはれ、かはらぬすがたを恋しき物どもに今一度
みえ【見え】もし、見て後かくもならば、おもふ【思ふ】事あらじ」と
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の給ひけるこそ罪ふかけれ。三位中将も兵衛
入道も同年にて、ことしは廿七歳也。石童丸は
十八にぞなりける。とねり武里をめし【召し】て、「おの
れ【己】はとうとう【疾う疾う】これより八島へかへれ。宮こ【都】へはP2276のぼる
べからず。そのゆへ【故】は、つゐに【遂に】はかくれあるまじけれども、
まさしうこのありさまをきい【聞い】ては、やがてさまを
もかへんずらんとおぼゆるぞ。八島へまい【参つ】て人々
に申さんずるやうはよな、「かつ御らん候しやうに、
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大方の世間も物うきやうにまかりなり候き。
よろづあぢきなさもかずそひ【添ひ】てみえ【見え】候しかば、
おのおのにもしられまいらせ【参らせ】候はで、かくなり候ぬ。
西国で左の中将うせ候ぬ。一谷で備中守う
た【討た】れ候ぬ。われさへかくなり候ぬれば、いかにをのをの【各々】
たよりなうおぼしめさ【思し召さ】れ候はんずらんと、それ
のみこそ心ぐるしう思ひまいらせ【参らせ】候へ。抑唐皮
といふ鎧、小烏といふ太刀は、平将軍貞盛より
P10121
当家につたへて、維盛までは嫡々九代にあひ
あたる。もし不思議にて世もたちなをらば、六代に
たぶべし」と申せ」とこその給ひけれ。とねり武
里「君のいかにもならせをはしまさんやうを見
まいらせ【参らせ】て後こそ、八島へもまいり【参り】候はめ」と申ければ、
「さらば」とてめし【召し】ぐせ【具せ】らる。滝口入道をも善知識
のために具せられけり。山伏修行者のやうにて
高野をばいで【出で】、同国のうち山東へこそ出られ
P10122
けれ。藤代の王子を初として、王子王子ふし
をがみ【拝み】、まいり【参り】給ふ程に、千里の浜の北、岩代の王子の
御前にて、狩装束したる物七八騎が程ゆきあひ
たてまつる【奉る】。すでにからめとられなんずとおぼして、
おのおの腰の刀に手をかけて、腹をきP2277らんとし
給ひけるが、ちかづき【近付き】けれども、あやまつべき気
しきもなくて、いそぎ馬よりおり、ふかう【深う】かしこ
まてとほり【通り】ければ、「みしりたる物にこそ。たれ
P10123
なるらん」とあやしくて、いとど足ばやにさし
給ふ程に、これは当国の住人、湯浅権守宗重が
子に、湯浅七郎兵衛宗光といふもの也。郎等ども
「これはいかなる人にて候やらん」と申ければ、七郎
兵衛涙をはらはらとながい【流い】て、「あら、事もかたじけ
なや。あれこそ小松大臣殿の御嫡子、三位中将
殿よ。八島よりこれまでは、なにとしてのがれ【逃れ】さ
せ給ひたりけるぞや。はや御さまをかへさせ給て
P10124
げり。与三兵衛、石童丸も同じく出家して
御共申たり。ちかうまい【参つ】てげざん【見参】にも入たかり
つれども、はばかりもぞおぼしめす【思し召す】とてとほり【通り】
ぬ。あなあはれ【哀】の御ありさまや」とて、袖をかほに
おしあてて、さめざめとなき【泣き】ければ、郎等どもも
みな涙をぞながしける。熊野参詣S1011やうやうさし給ふ程に、
日数ふれば、岩田河にもかかり給ひけり。「この
河のながれを一度もわたるものは、悪業煩悩無
P10125
始の罪障きゆ【消ゆ】なる物を」と、たのもしう【頼もしう】P2278ぞおぼし
ける。本宮にまいり【参り】つき、証誠殿の御まへに
つゐゐ給ひつつ、しばらく法施まいらせ【参らせ】て、御山
のやうををがみ【拝み】給ふに、心も詞もおよば【及ば】れず。大悲
擁護の霞は、熊野山にたなびき、霊験無双
の神明は、おとなし河【音無河】に跡をたる。一乗修行の
岸には、感応の月くまもなく、六根懺悔の庭には、
妄想の露もむすばず。いづれもいづれもたのもし
P10126
から【頼もしから】ずといふ事なし。夜ふけ人しづまて、啓白
し給ふに、父のおとどのこの御前にて、「命をめし【召し】
て後世をたすけ【助け】給へ」と申されける事までも、
おぼしめし【思し召し】いで【出で】て哀也。「本地阿弥陀如来にてま
します。摂取不捨の本願あやまたず、浄土
へみちびき給へ」と申されける。なかにも「ふるさとに
とどめ【留め】おきし妻子安穏に」といのられけるこそ
かなしけれ。うき世をいとひ、まこと【誠】の道に入給へども、
P10127
妄執は猶つきずとおぼえて哀なりし事共也。
あけぬれば、本宮より舟にのり、新宮へぞまいら【参ら】
れける。かん【神】のくら【蔵】をおがみ【拝み】給ふに、巌松たかくそ
びへ【聳え】て、嵐妄想の夢を破り、流水きよく
ながれて、浪塵埃の垢をすすぐらんとも覚へ
たり。明日の社ふしをがみ【拝み】、佐野の松原さしす
ぎて、那智の御山にまいり【参り】給ふ。三重に漲りお
つる滝の水、数千丈までよぢのぼり、観音の
P10128
霊像は岩の上にあらはれて、補陀落山ともいつ
べし。霞の底には法花読誦の声きこゆ、霊鷲
山とも申つべし。抑権現当山に跡を垂させま
しP2279ましてよりこのかた、我朝の貴賎上下歩を
はこび、かうべをかたむけ、たな心をあはせて、利生に
あづからずといふ事なし。僧侶されば甍をなら
べ、道俗袖をつらねたり。寛和夏の比、花山の
法皇十善の帝位をのがれ【逃れ】させ給ひて、九品の
P10129
浄刹ををこなは【行なは】せ給ひけん、御庵室の旧跡に
は、昔をしのぶ【忍ぶ】とおぼしくて、老木の桜ぞさきに
ける。那智ごもりの僧共のなかに、この三位中将
をよくよく見しりたてま【奉つ】たるとおぼしくて、同
行にかたりけるは、「ここなる修行者をいかなる人
やらんとおもひたれば、小松のおほいとのの御嫡子、
三位中将殿にておはしけるぞや。あの殿のいま
だ四位少将ときこえ【聞え】給ひし安元の春比、法住
P10130
寺殿にて五十御賀のありしに、父小松殿は内
大臣の左大将にてまします、伯父宗盛卿は大
納言の右大将にて、階下に着座せられたり。其外
三位中将知盛・頭中将重衡以下一門の人々、けふ
を晴とときめき給ひて、垣代に立給ひしなか
より、此三位中将、桜の花をかざして青海波
をまう【舞う】て出られたりしかば、露に媚たる花の
御姿、風に翻る舞の袖、地をてらし天もかかやく
P10131
ばかり也。女院より関白殿を御使にて御衣を
かけられしかば、父の大臣座をたち、これを給はて
右の肩にかけ、院を拝したてまつり【奉り】給ふ。面目
たぐひすくなうぞみえ【見え】し。かたえの殿上人、いかP2280
ばかり浦山しうおもは【思は】れけん。内裏の女房達の
なかには、「深山木のなかの桜梅とこそおぼゆれ」
などいはれ給し人ぞかし。只今大臣の大将
待かけ給へる人とこそ見たてまつり【奉り】しに、けふはかく
P10132
やつれはて給へる御ありさま、かねて【予て】はおもひ【思ひ】よら
ざしをや。うつればかはる世のならひ【習ひ】とはいひながら、
哀なる御事かな」とて、袖をかほにおしあててさめざめ
となきければ、いくらもなみゐたりける那知【*那智】ごもり
の僧どもも、みなうち衣【裏衣】の袖をぞぬらしける。維盛入水S1012三の
山の参詣事ゆへ【故】なくとげ給ひしかば、浜の宮
と申王子の御まへより、一葉の舟に棹さして、
万里の蒼海にうかび給ふ。はるかのおき【沖】に山なり【山成】
P10133
の島といふ所あり。それに舟をこぎよせさせ、
岸にあがり【上がり】、大なる松の木をけづて、中将銘跡
をかき【書き】つけらる。「祖父太政大臣平朝臣そん)清盛
公、法名浄海、親父内大臣左大将重盛公、法名
浄蓮、三位中将維盛、法名浄円、生年廿七
歳、寿永三年三月廿八日、那智[B ノ]奥にて入水
す」とかきつけて、又奥へぞこぎいで給ふ。思き
りたる道なれども、今はの時になりぬれば、心ぼそう
P10134
かなしからP2281ずといふ事なし。比は三月廿八日の事
なれば、海路はるかにかすみわたり、あはれをもよほす
たぐひ也。ただ大方の春だにも、くれ行空は物
うきに、况やけふをかぎりの事なれば、さこそ
は心ぼそかりけめ。奥の釣舟の浪にきえ入やう
におぼゆるが、さすがしづみもはてぬをみ【見】給ふ
にも、我身のうへとやおぼしけん。おの【己】が一つら
ひきつれて、今はとかへる雁が音の、越路をさして
P10135
なきゆくも、ふるさとへことづけせまほしく、蘇武
が胡国の恨まで、おもひ【思ひ】のこせるくまもなし。
「さればこは何事ぞ。猶妄執のつきぬにこそ」と
おぼしめし【思し召し】かへして、西にむかひ【向ひ】手をあはせ、念
仏し給ふ心のうちにも、「すでに只今をかぎり
とは、都にはいかでかしるべきなれば、風のたより
のことつて【言伝】も、いまやいまやとこそまたんずらめ。
つゐに【遂に】はかくれ【隠】あるまじければ、此世になき
P10136
ものときい【聞い】て、いかばかりかなげかんずらん」など思
つづけられ給へば、念仏をとどめ【留め】て、合掌をみ
だり、聖にむか【向つ】ての給ひけるは、「あはれ人の身に妻
子といふ物をばもつまじかりける物かな。此世にて
物をおもは【思は】するのみならず、後世菩提のさま
たげとなりけるくちおしさ【口惜しさ】よ。只今もおも
ひ【思ひ】いづる【出づる】ぞや。かやうの事を心中にのこせば、
罪ふかからんなるあひだ、懺悔する也」とぞのたまひ
P10137
ける。聖もあはれ【哀】におぼえけれども、われさへ心よ
はく【弱く】てはかなは【叶は】じとおもひ【思ひ】、涙をし【押し】のP2282ごひ、さら
ぬていにもてないて申けるは、「まこと【誠】にさこそは
おぼしめさ【思し召さ】れ候らめ。たかき【高き】もいやしきも、恩愛
の道はちからおよば【及ば】ぬ事也。なかにも夫妻は一
夜の枕をならぶるも、五百生の宿縁と申候へば、
先世の契あさからず。生者必滅、会者定離は
うき世の習にて候也。末の露もとのしづくの
P10138
ためし【例】あれば、たとひ遅速の不同はありとも、
おくれさきだつ【先立つ】御別、つゐに【遂に】なくてしもや候
べき。彼離山宮の秋の夕の契も、つゐに【遂に】は、
心をくだくはしとなり、甘泉殿の生前の恩
も、をはりなきにしもあらず。松子・梅生、生
涯の恨あり。等覚・十地、なを【猶】生死のおき
てにしたがふ。たとひ君長生のたのしみにほ
こり給ふとも、この御なげきはのがれ【逃れ】させ給ふ
P10139
べからず。たとひ又百年のよわひをたもち【保ち】
給ふとも、この御恨はただおなじ事とおぼし
めさ【思し召さ】るべし。第六天の魔王といふ外道は、欲
界の六天をわがものと領じて、なかにも此界の
衆生の生死をはなるる事をおしみ【惜しみ】、或は妻
となり、或は夫となて、これをさまたぐるに、三世
の諸仏は、一切衆生を一子の如におぼしめし【思し召し】て、
極楽浄土の不退の土にすすめ【進め】いれ【入れ】んとし給ふに、
P10140
妻子といふものが、無始曠劫よりこのかた生死に
流転するきづななるがゆへ【故】に、仏はおもう【重う】いま
しめ給ふ也。さればとて御心よわう【弱う】おぼしめす
べからず。源氏[B ノ]先祖伊与【*伊予】入道頼義は、勅命に
よて奥州のゑびす【夷】貞任・宗任P2283をせめ【攻め】んとて、
十二年があひだに人の頸をきる事一万六千
人、山野の獣、江河の鱗、其いのちをたつ事
いく千万といふかずをしら【知ら】ず。されども、終焉の
P10141
時、一念の菩提心ををこし【起こし】しによて、往生の素懐
をとげたりとこそうけ給はれ【承れ】。就中に、出家の
功徳莫大なれば、先世の罪障みなほろび給
ひぬらん。たとひ人あて七宝の塔をたてん
事、たかさ卅三天にいたるとも、一日の出家の
功徳には及ベからず。たとひ又百千歳の間
百羅漢を供養したらん功徳も、一日の出家の
功徳には及べからずととか【説か】れたり。つみふかかり【深かり】し
P10142
頼義、心のたけきゆへ【故】に往生とぐ。させる御罪
業ましまさざらんに、などか浄土へまいり【参り】給はざるべ
き。其上当山権現は本地阿弥陀如来にて
まします。はじめ無三悪趣の願より、おはり
得三宝忍の願にいたるまで、一々の誓願、衆生
化度の願ならずといふ事なし。なかにも第十八
の願には「設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我
国、乃至十念、若不生者、不取正覚」ととか【説か】れ
P10143
たれば、一念十念のたのみ【頼み】あり。ただふかく信
じて、ゆめゆめ疑ひをなし給ふべからず。無二の
懇念をいたし【致し】て、若は十反、若は一反も唱給ふ
物ならば、弥陀如来、六十万億那由多恒河沙
の御身をつづめ、丈六八尺の御かたちにて、観音
勢至無数の聖衆、化仏菩薩、百重千重に
囲繞し、伎楽歌詠じて、只今極楽の東門をい
で【出で】て来迎し給はんずれば、P2284御身こそ蒼海の底に沈
P10144
とおぼしめさ【思し召さ】るとも、紫雲のうへにのぼり給ふべし。
成仏得脱してさとりをひらき給ひなば、娑婆
の故郷にたちかへ【帰つ】て妻子を道びき給はん事、還
来穢国度人天、すこしも疑あるべからず」とて、かね【鐘】
うちならしてすすめたてまつる【奉る】。中将しかる【然る】べき
善知識かなとおぼしめし【思し召し】、忽に妄念をひる
がへして、高声〔に〕念仏百反ばかりとなへつつ、「南
無」と唱る声とともに、海へぞ入給ひける。兵衛入
P10145
道も石童丸も、同じく御名をとなへつつ、つづ
ゐ【続い】て海へぞ入にける。三日平氏S1013とねり武里もおなじく
入らんとしけるを、聖とりとどめ【留め】ければ、ちからおよ
ばず。「いかにうたてくも、御遺言をばたがへ【違へ】たてま
つら【奉ら】んとするぞ。下臈こそ猶もうたてけれ。今は
ただ後世をとぶらひたてまつれ【奉れ】」と、なくなく【泣く泣く】教訓
しけれども、おくれたてまつる【奉る】かなしさに、後の御
孝養の事もおぼえず、ふなぞこにふしまろび、お
P10146
めき【喚き】さけび【叫び】けるありさまは、むかし悉太太子【*悉達太子】の
檀徳山【*檀特山】に入せ給ひし時、しやのく【車匿】とねり【舎人】がこん
でい【■陟】駒を給はて、王宮にかへりしかなしP2285み【悲しみ】も、これ
にはすぎじとぞみえ【見え】し。しばしは舟ををし【押し】ま
はして、うき【浮き】もやあがり給ふとみけれども、
三人ともにふかくしづんでみえ【見え】給はず。いつしか
経よみ念仏して、「過去聖霊一仏浄土へ」と廻向
しけるこそ哀なれ。さる程に、夕陽西に傾き、
P10147
海上もくらくなりければ、名残はつきせずお
もへ【思へ】ども、むなしき舟をこぎかへる。とわたる舟
のかゐのしづく、聖が袖よりつたふ涙、わきて
いづれもみえ【見え】ざりけり。聖は高野へかへりのぼる。
武里はなくなく八島へまいり【参り】けり。御弟新三位中
将殿に御ふみ【文】とり【取り】いだし【出し】てまいらせ【参らせ】たりければ、
「あな心う、わがたのみ【頼み】たてまつる【奉る】程は、人は思ひ
給はざりける口惜さよ。池[B ノ]大納言のやうに
P10148
頼朝に心をかよはし【通はし】て、都へこそおはしたるらめ
とて、大臣殿も二位殿も、我等にも心をおき
給ひつるに、されば那知【*那智】の奥にて身をなげて
ましますごさんなれ。さらばひきぐして一
所にも沈み給はで、ところどころ【所々】にふさん事こそか
なしけれ。御詞にて仰らるる事はなかりしか」
ととひ給へば、「申せと候しは「西国にて左の
中将殿うせさせ給候ぬ。一谷で備中守殿う
P10149
せ給候ぬ。我さへかくなり候ぬれば、いかにたより
なうおぼしめさ【思し召さ】れ候はんずらんと、それのみこそ
心ぐるしう思まいらせ【参らせ】候へ」。唐皮・小烏の事
までもこまごまと申たりければ、「今は我とても
ながらふ【永らふ】べしとも不覚」とて、袖P2286をかほにをし【押し】
あててさめざめとなき給ふぞ、まこと【誠】に事はり【理】と
おぼえて哀なる。故三位中将殿にゆゆしく
に【似】たまひたりければ、みる【見る】人涙をながしけり。
P10150
さぶらひどもはさしつどひ【集ひ】て、只なくより外の
事ぞなき。大臣殿も二位殿も、「この人は池
の大納言のやうに、頼朝に心をかよはし【通はし】て、都へと
こそおもひ【思ひ】たれば、さはおはせざりける物を」とて、
今更又なげきかなしみ給ひけり。四月一日、
鎌倉前兵衛佐頼朝、正下の四位し給ふ。もとは
従下の五位にてありしに、五階をこえ給ふこそ
ゆゆしけれ。これは木曾左馬頭義仲追討の
P10151
賞とぞきこえ【聞え】し。同三日、崇徳院を神とあ
がめたてまつる【奉る】べしとて、むかし御合戦ありし
大炊御門が末に社をたてて、宮うつしあり。院の
御沙汰にて、内裏にはしろしめされずとぞきこ
え【聞え】し。五月四日、池[B ノ]大納言関東へ下向。兵衛佐「御
かたをばまたくおろかに思まいらせ【参らせ】候はず。ただ故
池殿のわたらせ給ふとこそ存候へ。故尼御
前の御恩をば大納言殿に報じたてまつら【奉ら】ん」と
P10152
たびたび誓状をもて申されければ、一門をもひき
わかれておち【落ち】とどまり給ひたりけるが、「兵衛佐
ばかりこそかうはおもはれけれども、自余の源氏
どもはいかがあらんずらん」と、肝たましひをけすP2287
より外の事なくておはしけるが、鎌倉より
「故尼御前をみたてまつる【奉る】と存て、とくとく
げざん【見参】に入候はん」と申されたりければ、大納言
くだり給ひけり。弥平兵衛宗清といふさぶらい
P10153
あり。相伝専一のものなりけるが、あひぐし【具し】ても
くだらず。「いかに」ととひ給へば、「今度の御ともはつか
まつらじと存候。其ゆへ【故】は、君こそかくてわたらせ
給へども、御一家の君達の、西海の浪のうへにただ
よはせ給ふ御事の心うくおぼえて、いまだ安堵し
ても存候はねば、心すこしおとし【落し】すゑ【据ゑ】て、おさま【追つ様】に
まいり【参り】候べし」とぞ申ける。大納言にがにが【苦々】しうはづ
かしうおもひ【思ひ】給ひて、「一門をひきわかれてのこり【残り】
P10154
とどま【留まつ】たる事は、我身ながらいみじとはおもは【思は】
ねども、さすが身もすてがたう、命もをしければ、
なまじゐにとどまりにき。そのうへは又くだら
ざるべきにもあらず。はるかの旅におもむくに、
いかでか見おくら【送ら】であるべき。うけ【請け】ず思はば、おち【落ち】
とどま【留まつ】し時はなどさはいはざしぞ。大小事一向
なんぢにこそいひ【言ひ】あはせ【合せ】しか」との給へば、宗清
居なおり【直り】畏て申けるは、「たかき【高き】もいやしきも、
P10155
人の身に命ばかりおしき【惜しき】物や候。又世をばすつ
れ【捨つれ】ども、身をばすてずと申候めり。御とどまりを
あしとには候はず。兵衛佐もかゐなき命をた
すけ【助け】られまいらせ【参らせ】て候へばこそ、けふはかかる幸にも
あひ候へ。流罪せられ候しときは、故尼御前の仰
にて、P2288しの原【篠原】の宿までうちおく【送つ】て候き。「其事
など今にわすれず」とうけ給【承り】候へば、さだめて御ともに
まかり下て候者、ひきで物、饗応などもし候はん
P10156
ずらん。それにつけても心うかるべう候。西国にわたら
せ給ふ君達、もしは侍どものかへりきかん事、返々
はづかしう候へば、まげて今度ばかりはまかりとど
まるべう候。君はおち【落ち】とどまら【留まら】せ給て、かくてわ
たらせ給ふ程では、などか御くだりなうても候べき。
はるかの旅におもむか【赴か】せ給ふ事は、まこと【誠】におぼ
つかなうおもひ【思ひ】まいらせ【参らせ】候へども、敵をもせめ【攻め】に御
くだり候者、一陣にこそ候べけれども、これはまい
P10157
ら【参ら】ずとも、更に御事かけ【欠け】候まじ。兵衛佐たづね【尋ね】
申され候者、「あひ労[* 「身」と有るのを高野本により訂正]る事あて」と仰候べし」と
申ければ、心ある侍どもはこれをきいて、みな涙を
ぞながしける。大納言もさすがはづかしうはおも
は【思は】れけれども、さればとてとどまるべきにもあら
ねば、やがてたち給ひぬ。同十六日、鎌倉へく
だりつき給ふ。兵衛佐いそぎ見参して、まづ
「宗清は御ともして候か」と申されければ、「おりふし【折節】
P10158
労はる事候て、くだり候はず」との給へば、「いかに、なにを
いたはり候けるやらん。意趣を存候にこそ。むかし
宗清がもとに候しに、事にふれてありがたうあ
たり候し事、今にわすれ候はねば、さだめて御
ともに罷下候はんずらん、とく見参せばやな
ど恋しう存P2289て候に、うらめしう【恨めしう】もくだり候はぬ
物かな」とて、下文あまたなしまうけ【設け】、馬鞍・物
具以下、やうやうの物どもたばんとせられければ、
P10159
しかる【然る】べき大みやう【大名】ども、われもわれもとひきで
もの【引出物】ども用意したりけるに、くだらざりけれ
ば、上下ほひ【本意】なき事におもひ【思ひ】てぞあり【有り】ける。
六月九日、池の大納言関東より上洛し給ふ。
兵衛佐「しばらくかくておはしませ」と申され
けれども、「宮こ【都】におぼつかなくおもふ【思ふ】らん」とて、いそぎ
のぼり給ひければ、庄園私領一所も相違ある
べからず、并に大納言になしかへさるべきよし、法皇
P10160
へ申されけり。鞍置馬【鞍置馬】卅疋、はだか馬卅疋、長持卅
枝に、葉金・染物・巻絹風情の物をいれ【入れ】てたて
まつり【奉り】給ふ。兵衛佐かやうにもてなし給へば、大名小名
われもわれもと引出物をたてまつる【奉る】。馬だにも三百
疋に及べり。命いき給ふのみならず、徳ついてぞ
かへりのぼられける。同十八日、肥後守定能【*貞能】が伯
父、平太入道定次〔を〕大将として、伊賀・伊勢両
国の住人等、近江国へうち出たりければ、源氏[B ノ]末
P10161
葉等発向して合戦をいたす。両国[B ノ]住人等一人も
のこらずうちおとさ【落さ】る。平家重代相伝の家人
にて、昔のよしみをわすれ【忘れ】ぬ事はあはれ【哀】なれども、
おもひ【思ひ】たつこそおほけなけれ。三日平氏とは是也。P2290
さる程に、小松の三位中将維盛卿の北方は、風のた
よりの事つても、たえて久しくなりければ、な
にとなりぬる事やらんと、心ぐるしうぞおも
は【思は】れける。月に一度などは必ずをとづるる物をと
P10162
まち給へども、春すぎ夏もたけぬ。「三位中将、
いまは八島にもおはせぬ物をと申人あり」と
きき【聞き】給ひて、あまりのおぼつかなさに、とかくして
八島へ人をたてまつり【奉り】給ひたりければ、いそぎも
たちかへらず。夏すぎ秋にもなりぬ。七月の末に、
かの使かへりきたれり。北方「さていかにやいかに」と
とひ給へば、「「すぎ候し三月十五日の暁、八島を御
いで候て、高野へまいら【参ら】せ給ひて候けるが、高野に
P10163
て[* 「にや」と有るのを高野本により訂正]御ぐしおろし、それより熊野へまいら【参ら】せをはし
まし、後世の事をよくよく申させ給ひ、那知【*那智】の
奥にて御身をなげさせ給ひて候」とこそ、御とも申
たりけるとねり武里はかたり申候つれ」と申け
れば、北方「さればこそ。あやしとおもひ【思ひ】つる物を」
とて、ひきかづいてぞふし給ふ。若君姫君も声々
になき【泣き】かなしみ給ひけり。若君の御めのとの
女房、なくなく【泣く泣く】申けるは、「これはいまさらおどろかせ
P10164
給ふべからず。日ごろよりおぼしめし【思し召し】まうけたる御
事也。本三位中将殿のやうにいけどり【生捕り】にせられ
て、宮こ【都】へかへらせ給ひたらば、いかばかり心うかるべ
きに、高野にて御ぐしおろし、熊野へまいら【参ら】せ
給ひ、後世の事よくよく申させおはしまし、臨P2291終
正念にてうせさせ給ひける御事、なげきのなか
の御よろこび也。されば御心やすき事にこそお
ぼしめす【思し召す】べけれ。いまはいかなる岩木のはざま
P10165
にても、おさなき【幼き】人々をおおし【生し】たて【立て】まいらせ【参らせ】ん
とおぼしめせ【思し召せ】」と、やうやう【様々】になぐさめ申けれども、
おぼしめし【思し召し】しのび【忍び】て、ながらふ【永らふ】べしともみえ【見え】給はず。
やがてさまをかへ、かたのごとくの仏事をいとなみ、
後世をぞとぶらひ給ひける。藤戸S1014これを鎌倉の兵
衛佐かへりきき給ひて、「あはれ、へだてなくうちむか
ひ【向ひ】ておはしたらば、命ばかりはたすけ【助け】たてま【奉つ】て
まし。小松の内府の事は、おろかにおもひ【思ひ】たてまつ
P10166
ら【奉ら】ず。池の禅尼の使として、頼朝を流罪に申
なだめ【宥め】られしは、ひとへに彼[B ノ]内府の芳恩なり。
其恩争かわするべきなれば、子息たちもおろかに
おもは【思は】ず。まして出家などせられなんうへは、子細にや
及べき」とぞの給ひける。さる程に、平家は讃岐
の八島へかへり給ひて後も、東国よりあら【新】手の
軍兵数万騎、宮こ【都】につゐ【着い】てせめ【攻め】くだるとも
きこゆ。鎮西より臼杵・戸次・松浦党同心P2292
P10167
しておしわたるとも申あへ【合へ】り。かれをきき是
をきくにも、ただ耳ををどろかし、きも魂を
けすより外の事ぞなき。今度一の谷にて
一門の人々のこりすくなくうたれ給ひ、むね
との侍どもなか半すぎてほろびぬ。いまは
ちから【力】つきはてて、阿波民部大夫重能が兄弟、
四国の物どもかたらて、さりともと申けるをぞ、
たかき山ふかき海ともたのみ【頼み】給ひける。女房達は
P10168
さしつどひ【集ひ】て、ただなく【泣く】より外の事ぞなき。かく
て七月廿五日にもなりぬ。「こぞのけふは宮こ【都】を
いでしぞかし。程なくめぐりき【来】にけり」とて、あさ
ましうあはたたしかりし事どもの給ひいだし【出し】
て、なきぬわらひ【笑ひ】ぬぞし給ひける。同廿八日、新
帝の御即位あり。内侍所・神璽・宝剣もなく
して御即位の例、神武天皇よりこのかた八十
二代、これはじめとぞうけ給はる【承る】。八月六日、蒲冠者
P10169
範頼参川【*三河】守になる。九郎冠者義経、左衛門尉に
なさる。すなはち使の宣旨を蒙て、九郎判官とぞ
申ける。さる程に、荻のうは風もやうやう身にしみ、
萩のした露もいよいよしげく、うらむる【恨むる】虫の声々
に、稲葉うちそよぎ、〔木の葉かつちるけしき〕物おもは【思は】ざらんだにも、ふけ
ゆく秋の旅の空はかなしかる【悲しかる】べし。まして平家
の人々の心のうち、さこそはおはしけめとをしは
から【推し量ら】れて哀也。むかしは九えのうちにて、春P2293の花を
P10170
もてあそび、今者八島の浦にして、秋の月に
かなしむ。凡そさやけき月を詠じても、都のこよ
ひいかなるらんとおもひ【思ひ】やり、心をすまし【澄まし】、涙を
ながしてぞあかしくらし給ひける。左馬頭行盛
かうぞおもひ【思ひ】つづけ給ふ。
君すめばこれも雲井の月なれど
猶恋しきは都なりけり W084
同九月十二日、参川【*三河】守範頼、平家追討のため
P10171
に西国へ発向す。相ひ伴ふ人々、足利蔵人
義兼・鏡美小次郎長清・北条小四郎義時・
斎院次官親義、侍大将には、土肥次郎実平・
子息弥太郎遠平・三浦介義澄・子息平六
義村・畠山庄司次郎重忠・同長野三郎
重清・稲毛三郎重成・榛谷四郎重朝・同
五郎行重・小山小四郎朝政・同長沼五郎宗政・
土屋三郎宗遠・佐々木三郎守綱【*盛綱】・八田四郎
P10172
武者朝家・安西三郎秋益・大胡三郎実秀・
天野藤内遠景・比気【*比企】藤内朝宗・同藤四郎
義員【*能員】・中条藤次家長・一品房章玄・土佐房
正俊【*昌俊】、此等を初として都合其勢三万余騎、
宮こ【都】をたて播磨の室にぞつきにける。平家の
方には、大将軍小松[B ノ]新三位中将資盛・同小将
有盛・丹後侍従忠房、侍大将には、飛騨三郎
左衛門景経・越中次郎兵衛盛次【*盛嗣】・上総五郎兵衛
P10173
忠光・悪七兵衛景清をさきとして、五百余
艘の兵船にとりの【乗つ】て、備前[B ノ]小島【*児島】につくときこ
え【聞え】しかば、源氏室をたて、これも備前国西河尻、藤
戸に陣をぞとP2294たりける。源平の陣のあはひ、海のおも
て五町ばかりをへだてたり。舟なくしてはたやすう
わたすべき様なかりければ、源氏の大勢むかひ【向ひ】
の山に宿して、いたづらに日数ををくる【送る】。平家のかた
よりはやりお【逸男】のわか物ども、小舟にの【乗つ】てこぎいださせ、
P10174
扇をあげて「ここわたせ【渡せ】」とぞまねきける。源氏「や
すからぬ事也。いかがせん」といふところ【所】に、同廿五日の
夜に入て、佐々木三郎盛綱、浦の男をひとりかた
らて、しろい小袖・大口・しろざやまき【白鞘巻】などとらせ、
すかしおほせて、「この海に馬にてわたしぬべきと
ころ【所】やある」ととひ【問ひ】ければ、男申けるは、「浦の物ども
おほう【多う】候へども、案内したるはまれに候。このおとこ
こそよく存知して候へ。たとへば河の瀬のやう
P10175
なるところ【所】の候が、月がしらには東がし)に候、月じり
には西に候。両方の瀬のあはひ、海のをもて十町
ばかりは候らん。この瀬は御馬にてはたやすう
わたさせ給ふべし」と申ければ、佐々木なのめならず
悦で、わが家子郎等にもしらせず、かの男とただ
二人まぎれいで、はだかになり、件の瀬のやう
なるところ【所】をわたてみる【見る】に、げにもいたくふかう【深う】
はなかりけり。ひざ【膝】・こし【腰】、肩にたつ【立つ】ところ【所】もあり。
P10176
鬢のぬるるところ【所】もあり。ふかきところ【所】をばおよ
い【泳い】で、あさきところ【所】におよぎ【泳ぎ】つく。男申けるは、
「これ〔よP2295り〕南なみ)は北よりはるかにあさう候。敵、矢さきを
そろへて待ところ【所】に、はだか【裸】にてはかなは【叶は】せ給まじ。
かへらせ給へ」と申ければ、佐々木げにもとてかへり【帰り】
けるが、「下臈はどこともなき物なれば、又人にかたら
はれて案内をもおしへ【教へ】んずらん。我ばかりこそし
ら【知ら】め」とおもひ【思ひ】て、かの男をさしころし【殺し】、頸かき
P10177
切てすててげり。同廿六日の辰刻ばかり、平家又
小舟にの【乗つ】てこぎいださせ、「ここをわたせ【渡せ】」とぞまね
きける。佐々木三郎、案内はかねて【予て】し【知つ】たり、しげめ
ゆい【滋目結】の直垂に黒糸威の鎧きて、しら葦毛【白葦毛】なる
馬にのり、家子郎等七騎、ざとうちいれ【入れ】てわたし
けり。大将軍参川【*三河】守、「あれせいせよ【制せよ】、とどめよ【留めよ】」と
の給へば、土肥次郎実平むち[* 「ふち」と有るのを高野本により訂正]あぶみ【鞭鐙】をあはせ【合せ】て
お【追つ】ついて、「いかに佐々木殿、物のついてくるい【狂ひ】給ふか。
P10178
大将軍のゆるされ【許され】もなきに、狼籍【*狼藉】也。とどまり
給へ」といひ【言ひ】けれども、耳にもきき【聞き】いれ【入れ】ずわたし
ければ、土肥次郎もせいし【制し】かねて、やがてつれ【連れ】て
ぞわたい【渡い】たる。馬のくさわき【草脇】、むながい【胸懸】づくし、ふと腹に
つくところ【所】もあり、鞍つぼこす所もあり。ふかき
ところ【所】はおよが【泳が】せ、あさきところ【所】にうちあがる【上がる】。
大将軍参川【*三河】守これをみて、「佐々木にたばかられ
にけり。あさかり【浅かり】けるぞや。わたせ【渡せ】やわたせ【渡せ】」と
P10179
下知せられければ、三万余騎の大勢みなうち入
れてわたしけり。平家P2296の方には「あはや」とて、舟ど
もおし【押し】うかべ【浮べ】、矢さきをそろへてさしつめ【差し詰め】ひき
つめさんざん【散々】にいる【射る】。源氏のつは物どもこれを事とも
せず、甲のしころをかたむけ、平家の舟にのり
うつりのりうつり、おめき【喚き】さけん【叫ん】でせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。源平み
だれあひ、或は舟ふみしづめて死ぬる物もあり、
或は舟ひきかへさ【返さ】れてあはて【慌て】ふためくものもあり。
P10180
一日[B チ]たたかひ【戦ひ】くらして夜に入ければ、平家の舟は
おきにうかぶ。源氏は小島【*児島】にうちあが【上がつ】て、人馬のいき
をぞやすめける。平家は八島へこぎしりぞく。源
氏心はたけく思へども、舟なかりければ、おう【追う】ても
せめ【攻め】たたかはず。「昔より今にいたるまで、馬にて河
をわたすつは物はありといへども、馬にて海をわた
す事、天竺・震旦はしら【知ら】ず、我朝には希代のためし【例】
なり」とて[* 「とぞ」と有るのを他本により訂正]、備前[B ノ]小島【*児島】を佐々木に給はりける。
P10181
鎌倉殿の御教書にものせ【載せ】られけり[* 「ける」と有るのを高野本により訂正]。同廿七日、宮
こ【都】には九郎判官義経、検非違使五位尉にな
されて、九郎大夫判官とぞ申ける。さる程に十
月にもなりぬ。八島には浦吹風もはげしく、磯
うつ浪もたかかり【高かり】ければ、つは物もせめ【攻め】来らず、
商客のゆき【行き】かうもまれなれば、宮こ【都】のつても
きか【聞か】まほしく、いつしか空かきくもり、霰うち
散、いとどきえ入心地ぞし給ひける。都には
P10182
太嘗会【*大嘗会】あるべしとて、御禊の行幸あり【有り】けり。
節下は徳大寺左大将実定公、其比内大臣
にておはしけるが、つとめられけり。おとP2297どし先帝
の御禊の行幸には、平家の内大臣宗盛公節下
にてをはせしが、節下のあく屋【幄屋】につき、前に
竜の旗たててゐ給ひたりし景気、冠ぎは、
袖のかかり、表[B ノ]袴のすそまでもことにすぐれて
みえ【見え】給へり。其外一門の人々三位中将知盛・頭の
P10183
中将重衡以下近衛づかさみつな【御綱】に候はれしには、
又立ならぶ人もなかりしぞかし。けふ〔は〕九郎判官
先陣に供奉す。木曾などにはに【似】ず、以外に京
なれ【馴れ】てはありしかども、平家のなかのゑりくづ【選屑】
よりも猶おとれり。同十一月十八日、大嘗会
とげ【遂げ】をこなは【行なは】る。去る治承養和のころより、諸国
七道の人民百姓等、源氏のためになやまされ、
平家のためにほろぼされ、家かまど【竃】をすてて、春〔は〕
P10184
東作のおもひ【思ひ】をわすれ、秋は西収のいとなみにも
及ばず。いかにしてか様【斯様】の大礼もおこなはるべきな
れども、さてしもあるべき事ならねば、かたのごとく
ぞとげ【遂げ】[B ら]れける。参川【*三河】守範頼、やがてつづゐ【続い】て
せめ【攻め】給はば、平家はほろぶ【滅ぶ】べかりしに、室・高
砂にやすらひて、遊君遊女どもめし【召し】あつめ、あ
そびたはぶれ【戯れ】てのみ月日ををくら【送ら】れけり。東国
の大名小名おほし【多し】といへども、大将軍の下知に
したがふ事なれば力及ばず。ただ国のついへ【費】、
民のわづらひのみあて、ことしも既にくれ
にけり。
平家物語巻第十

平家物語(龍谷大学本)巻第十一

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【底本】
本テキストの底本は、龍谷大学大宮図書館所蔵『平家物語』です。直接には、思文閣出版発行の影印本(龍谷大学善本叢書13)に拠りました。


P11189

P11191 P2302
平家物語巻第十一
逆櫓S1101元暦二年正月十日、九郎大夫判官義経、院の
御所へまい【参つ】て大蔵卿泰経朝臣をもて奏聞し
けるは、「平家は神明にもはなたれ奉り、君にもす
てられまいらせ【参らせ】て、帝都をいで、浪のうへ【上】にただよふ
おちうと【落人】となれり。しかる【然る】を此三箇年があひだ、
せめ【攻め】おとさ【落さ】ずして、おほく【多く】の国々をふさげ【塞げ】らるる
事、口惜候へば、今度義経にをいては、鬼界・高麗・天
P11192
竺・震旦までも、平家をせめ【攻め】おとさ【落さ】ざらんかぎりは、
王城へかへるべからず」とたのもしげ【頼もし気】に申ければ、法
皇おほき【大き】に御感あて、「相構て、夜を日につぎ
て勝負を決すべし」と仰下さる。判官宿所に
帰て、東国の軍兵どもにの給ひけるは、「義経、鎌
倉殿の御代官として院宣をうけ給は【承つ】て、平家を
追討す。陸は駒の足のおよば【及ば】んをかぎり、海はろかい【艫櫂】
のとづか【届か】ん程せめ【攻め】ゆくべし。すこし【少し】もふた心あらん
P11193
人々は、とうとう【疾う疾う】P2303これよりかへらるべし」とぞの給ける。
さる程に、八島にはひま【隙】ゆく駒の足はやくして、
正月もたち、二月にもなりぬ。春の草くれ【暮れ】て、秋
の風におどろき、秋の風やんで、春の草になれり。
をくり【送り】むかへ【向へ】てすでに三とせになりにけり。都には
東国よりあら手の軍兵数万騎つい【着い】てせめ【攻め】下る
ともきこゆ。鎮西より臼杵・戸次・松浦党同心し
てをし【押し】わたる【渡る】とも申あへ【合へ】り。かれをきき、是を聞にも、
P11194
ただ耳を驚かし、きも魂をけすより外の事ぞ
なき。女房達は女院・二位殿をはじめまいらせ【参らせ】て、
さしつどい【集ひ】て、「又いかなるうきめをか見んずらん。いか
なるうき事をかきか【聞か】んずらん」となげきあひ、かな
しみあへ【合へ】り。新中納言知盛卿の給ひけるは、「東国
北国の物どもも随分重恩をかうむ【蒙つ】たりしかども、
恩をわすれ契を変じて、[B 頼]朝・義仲等にしたがひ
き。まして西国とても、さこそ[B は]あらんずらめと思ひ
P11195
しかば、都にていかにもならむとおもひ【思ひ】し物を、
わが身ひとつ【一つ】の事ならねば、心よはう【弱う】あくがれ出
て、けふはかかるうき目を見る口惜さよ」とぞの給
ける。誠にことはり【理】とおぼえて哀なり。同二月三日、
九郎大夫判官義経、都をたて、摂津国渡辺より
ふなぞろへして、八島へすでによせんとす。参川【*三河】
守範頼も同日に都をたて、摂津国神P2304崎より
兵船をそろへて、山陽道へおもむか【赴か】んとす。同
P11196
十三日、伊勢大神宮・石[B 清]水・賀茂・春日へ官幣
使をたてらる。「主上并三種の神器、ことゆへ【故】
なうかへりいらせ給へ」と、神祇官[* 「館」と傍書補入するのを他本により「官」と訂正]の官人、もろもろの社
司、本宮本社にて祈誓申べきよし仰下さる。
同十六日、渡辺・神崎両所にて、この日ごろそろへ
ける舟ども、ともづなすでにとかんとす。おりふし【折節】
北風木をを【折つ】てはげしう吹ければ、大浪に舟ども
さんざんにうちそんぜ【損ぜ】られて、いだすに及ばず。修理の
P11197
ために其日はとどまる。渡辺には大名小名よりあひ
て、「抑ふないくさ【舟軍】の様はいまだ調練せず。いかがあるべき」
と評定す。梶原申けるは、「今度の合戦には、舟に
逆櫓をたて候ばや」。判官「さかろとはなんぞ」。梶原「馬は
かけんとおもへ【思へ】ば弓手へも馬手へもまはしやすし。
舟はきとをし【押し】もどすが大事に候。ともへ【艫舳】に櫓を
たてちがへ、わいかぢ【脇楫】をいれ【入れ】て、どなた【何方】へもやすう
をす【押す】やうにし候ばや」と申ければ、判官の給けるは、
P11198
「いくさ【軍】といふ物はひとひき【一引】もひか【引か】じとおもふ【思ふ】だにも、
あはひ【間】あしければひく【引く】はつねの習なり。もと
よりにげ【逃げ】まうけ【設け】してはなんのよからうぞ。まづ
門でのあしさ【悪しさ】よ。さかろをたてうとも、かへさま
ろ【返様櫓】をたてうとも、殿原の船には百ちやう【梃】千ぢや
う【梃】もたて給へ。義経はもとのろ【櫓】で候はん」との給P2305へ
ば、梶原申けるは、「よき大将軍と申は、かく【駆く】
べき所をばかけ、ひく【退く】べき処をばひいて、
P11199
身をまたう【全う】して敵をほろぼすをもてよ
き大将軍とはする候。かたおもむき【片趣】なるをば、
猪のしし武者とてよきにはせず」と申せば、判
官「猪のしし鹿のししはしら【知ら】ず、いくさ【軍】はただひら
ぜめ【平攻】にせめてか【勝つ】たるぞ心地はよき」との給へば、侍ども
梶原におそれ【恐れ】てたかく【高く】はわらは【笑は】ねども、目ひきは
な【鼻】ひききらめきあへ【合へ】り。判官と梶原と、すでに
どしいくさ【同士軍】あるべしとざざめきあへ【合へ】り。やうやう
P11200
日くれ夜に入ければ、判官の給ひけるは、「舟の修
理してあたらしうなたるに、をのをの【各々】一種一瓶
していはひ給へ、殿原」とて、いとなむ様にて舟に
物の具いれ【入れ】、兵粮米つみ、馬どもたてさせて、
「とくとく【疾く疾く】つかまつれ」との給ひければ、水手梶取
申けるは、「此風はおい手【追手】にて候へども、普通にすぎ
たる風で候。奥はさぞふい【吹い】て候らん。争か仕候べき」
と申せば、判官おほき【大き】にいかての給ひけるは、「むか
P11201
ひ【向ひ】風にわたらんといはばこそひが事【僻事】ならめ、順風
なるがすこし【少し】すぎたればとて、是程の御大事
にいかでわたらじとは申ぞ。[B 舟]つかまつらずは、一々に
しやつばら射ころせ」と下知せらる。奥州の佐
藤三郎兵衛嗣信・伊勢三郎義盛、片手矢
はげ[M て]、すすみ出て、「何条子細を申ぞ。御ぢやう
でP2306あるにとくとく仕れ。舟仕らずは一々に射ころ
さ【殺さ】んずるぞ」といひければ、水手梶取是をきき、
P11202
「射ころさ【殺さ】れんもおなじ事、風こはくは、ただはせ
じに【馳死】にしねや、物共」とて、二百余艘の舟のなかに、
ただ五艘いで【出で】てぞはしり【走り】ける。のこりの船は風に
おそるるか、梶原におづるかして、みなとどまりぬ。
判官の給ひけるは、「人のいで【出で】ねばとてとどまる
べきにあらず。ただの時はかたき【敵】も用心すらん。かか
る大風大浪に、おもひ【思ひ】もよらぬ時にをし【押し】よせ【寄せ】て〔こそ〕、
おもふ【思ふ】かたきをばうた【討た】んずれ」とぞの給ひける。
P11203
五艘の船と申は、まづ判官の船、田代冠者、後
藤兵衛父子、金子兄弟、淀の江内忠俊とてふな【舟】
奉行のの【乗つ】たる舟也。判官の給ひけるは、「をのをの【各々】の
船には篝なともひ【点い】そ。義経が舟をほん【本】舟とし
て、ともへのかがりをまもれ【守れ】。火かずおほく【多く】見えば、
かたき【敵】おそれ【恐れ】て用心してんず」とて、夜もすがら
はしる【走る】程に、三日にわたる処をただ三時ばかりに
わたりけり。二月十六日の丑の剋に、渡辺・福島を
P11204
いで【出で】て、あくる卯の時に阿波の地へこそふき【吹き】
つけ【着け】たれ。勝浦付大坂越S1102 P2307夜すでにあけければ、なぎさに赤旗
少々ひらめいたり。判官是を見て「あはや我等が
まうけ【設】はしたりけるは。船ひらづけにつけ、ふみかた
ぶけ【傾け】て馬おろさんとせば、敵の的になてゐ【射】られん
ず。なぎさにつかぬさきに、馬どもをひ【追ひ】おろしをひ【追ひ】
おろし、舟にひき【引き】つけひきつけおよが【泳が】せよ。馬の
足だち【立】、鞍づめ【爪】ひたる【浸る】程にならば、ひたひたとの【乗つ】てかけよ、
P11205
物ども」とぞ下知せられける。五艘の船に物の具
いれ【入れ】、兵粮米つんだりければ、馬ただ五十疋ぞたて
たりける。なぎさちかくなりしかば、ひたひたとうち
の【乗つ】て、おめい【喚い】てかくれば、なぎさに百騎ばかりあり【有り】
ける物ども、しばしもこらへず、二町ばかりざとひ
いてぞのきにける。判官みぎはにう【打つ】た【立つ】て、馬の
いき【息】やすめ【休め】ておはしけるが、伊勢三郎義盛を
めし【召し】て、「あの勢のなかにしかる【然る】べい物やある。一人
P11206
めし【召し】てまいれ【参れ】。たづぬべき事あり」との給へば、
義盛畏てうけ給はり【承り】、只一騎かたき【敵】のなかへかけ
いり、なにとかいひ【言ひ】たりけん、とし四十ばかりなる
男の、黒皮威の鎧きたるを、甲をぬがせ、弓の
弦はづさ【外さ】せて、具してまいり【参り】たり。判官「なに物
ぞ」との給へば、「当国の住人、坂西の近藤六親家」
と申。「なに家でもあらばあれ、物の具なぬがせそ。
やがて八島の案内者に具せんずるぞ。其男に
P11207
目はなつ【放つ】な。にげてゆかば射ころせ、物共」とぞ下知
せられける。「ここをばいづくといふP2308ぞ」ととは【問は】れければ、
「かつ浦と申候」。判官わら【笑つ】て「色代な」との給へば、「一定
勝浦候。下臈の申やすひについて、かつらと申
候へども、文字には勝浦と書て候」と申す。判官「是
きき給へ、殿原。いくさ【軍】しにむかふ【向ふ】義経が、かつ浦に
つく目出たさよ。此程に平家のうしろ矢ゐ【射】つ
べい物はないか」。「阿波民部重能がおとと【弟】、桜間の介
P11208
能遠とて候」。「いざ、さらばけ【蹴】ちらし【散らし】てとをら【通ら】ん」とて、
近藤六が勢百騎ばかりがなかより、卅騎ばかりすぐ
りいだいて、我勢にぞ具せられける。能遠が城に
をし【押し】よせ【寄せ】て見れば、三方は沼、一方は堀なり。堀の
かたよりをし【押し】よせ【寄せ】て、時をどとつくる。城の内のつは
物ども【兵共】、矢さき【矢先】をそろへてさしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さんざん【散々】
にゐる【射る】。源氏〔の〕兵是を事ともせず、甲のしころを
かたぶけ【傾け】、おめき【喚き】さけん【叫ん】でせめ【攻め】入ければ、桜間の介
P11209
かなは【叶は】じとやおもひけん、家子郎等にふせき【防き】矢
ゐ【射】させ、我身は究竟の馬をもたりければ、うち
の【乗つ】て希有にして落にけり。判官ふせき【防き】矢ゐ【射】
ける兵共廿余人が頸きりかけて、いくさ神【軍神】にまつ
り、悦の時をつくり、「門でよし」とぞの給ひける。判
官近藤六親家をめし【召し】て、「八島には平家のせい【勢】
いか程あるぞ」。「千騎にはよもすぎ候はじ」。「などすく
なひ【少い】ぞ」。「かくのごとく四国の浦々島々に五十騎、百騎
P11210
づつさしをか【置か】れて候。其うへ阿波民部重能が嫡子
田内左衛門教能は、河野P2309四郎がめせ【召せ】どもまいら【参ら】ぬ
をせめ【攻め】んとて、三千余騎で伊与【*伊予】へこえて候」。「さては
よいひまごさんなれ。是より八島へはいか程の道ぞ」。
「二日路で候」。「さらば敵のきか【聞か】ぬさきによせよや」とて、
かけ足になつ、あゆま【歩ま】せつ、はせつ、ひかへつ、阿波と
讃岐とのさかゐ【境】なる大坂ごえといふ山を、夜も
すがらこそ越られけれ。夜半ばかり、判官たて
P11211
ぶみ【立文】もたる男にゆきつれて、物語し給ふ。この
男よるの事[B で]はあり、かたき【敵】とは夢にもしら【知ら】ず、み
かた【御方】の兵共八島へまいる【参る】とおもひけるやらん、うち
とけてこまごまと物語をぞ申ける。「そのふみ【文】はい
づくへぞ」。「八島のおほい【大臣】殿へまいり【参り】候」。「たがまいらせ【参らせ】ら
るるぞ」。「京より女房のまいらせ【参らせ】られ候」。「なに事
なるらん」との給へば、「別の事はよも候はじ。源氏
すでに淀河尻にいで【出で】うかう【浮う】で候へば、それをこそ
P11212
つげ申され候らめ」。げにさぞあるらん。是も八島
へまいる【参る】が、いまだ案内をしらぬに、じんじよ【尋所】せよ」と
の給へば、「是はたびたびまい【参つ】て候間、案内は存知し
て候。御共仕らん」と申せば、判官「そのふみ【文】とれ」
とて[B 文]ばい【奪ひ】とらせ、「しやつからめよ。罪つくりに
頸なきそ」とて、山なかの木にしばりつけてぞ
とをら【通ら】れける。さてふみ【文】をあけて見給へば、げに
も女房のふみ【文】とおぼしくて、「九郎はすすどき
P11213
おのP2310こ【男】にてさぶらふ【候ふ】なれば、大風大浪をもきらはず、
よせさぶらふ【候ふ】らんとおぼえさぶらふ。勢どもちらさ【散らさ】で
用心せさせ給へ」とぞかか【書か】れたる。判官「是は義経に
天のあたへ給ふ文なり。鎌倉殿に見せ申さん」
とて、ふかう【深う】おさめ【納め】てをか【置か】れけり。あくる十八日の寅の
剋に、讃岐国ひけ田【引田】といふ所にうちおりて、人
馬のいきをぞやすめける。それより丹生屋・白
鳥、うちすぎうちすぎ、八島の城へよせ給ふ。又近藤六
P11214
親家をめし【召し】て、「八島の館の様はいかに」ととひ給
へば、「しろしめさ【知ろし召さ】ねばこそ候へ、無下にあさまに候。塩
のひ【干】て候時は、陸と島の間は馬の腹もつかり候
はず」と申せば、「さらばやがてよせよや」とて、高松の
在家に火をかけて、八島の城へよせ給ふ。八島には、
阿波民部重能が嫡子田内左衛門教能、河野
四郎がめせどもまいら【参ら】ぬをせめ【攻め】んとて、三千余騎
で伊与【*伊予】へこえたりけるが、河野をばうち【討ち】もらし【洩らし】て、
P11215
家子郎等〔百〕五十[B 余]人が頸きて、八島の内裏へまい
らせ【参らせ】たり。「内裏[* 「大裏」と有るのを高野本により訂正]にて賊首の実検せ〔ら〕れん事
然るべからず」とて、大臣殿の宿所にて実検
せらる。百五十六人が首也。頸ども実検しける処に、
物共、「高松のかたに火いで【出で】き【来】たり」とてひしめき
あへ【合へ】り。「ひるで候へば、手あやまちではよも候はじ。
敵のよせP2311て火をかけたると覚候。定めて大勢
でぞ候らん。とりこめられてはかなう【叶ふ】まじ。とうとう【疾う疾う】
P11216
めされ候へ」とて、惣門の前のなぎさに船どもつけ
ならべたりければ、我も我もとのり給ふ。御所の御
舟には、女院・北の政所・二位殿以下の女房達めさ
れけり。大臣殿父子は、ひとつ【一つ】船にのり給ふ。其外
の人々おもひ【思ひ】おもひ【思ひ】にとりの【乗つ】て、或は一町ばかり、或は
七八段、[B 五六段]などこぎいだしたる処に、源氏の兵物ども、
ひた甲七八十騎、惣門のまへのなぎさにつと
いで【出で】[B き【来】たり。]塩干がたの、おりふし【折節】塩ひるさかりなれば、
P11217
馬のからすがしら【烏頭】、ふと腹にたつ処もあり。そ
れよりあさき処もあり。け【蹴】あぐる【上ぐる】塩のかすみ
とともにしぐらふだるなかより、白旗ざとさし
あげ【差し上げ】たれば、平家は運つきて、大勢とこそ見てん
げれ。判官かたき【敵】に小勢[* 「少勢」と有るのを他本により訂正]と見せじと、五六騎、七八
騎、十騎ばかりうちむれうちむれいできたり。嗣信最期S1103 九郎大
夫判官、其日の装束には、赤地の錦の直垂に、
紫すそごの鎧きて、こがねづくりの太刀をはき、
P11218
きりふ【切斑】の矢をひ【負ひ】、しげどう【滋籐】の弓のまなか【真ん中】とて、P2312
舟のかたをにらまへ[M て]、大音声をあげて、「一院の
御使、検非違使五位尉源義経」となのる【名乗る】。其次
に、伊豆国の住人田代冠者信綱、武蔵国の住人金子
十郎家忠、同与一親範、伊勢三郎義盛とぞなの【名乗つ】
たる。つづゐ【続い】て名のるは、後藤兵衛実基、子息の新
兵衛基清、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信、同四郎
兵衛忠信、江田の源三、熊井太郎、武蔵房弁
P11219
慶と、声々に名の【乗つ】て馳来る。平家の方には「あれ
ゐ【射】とれや」とて、或はとを矢【遠矢】に射舟もあり、或はさし
矢にゐる【射る】船もあり、源氏の兵ども、弓手になし
てはゐ【射】てとをり【通り】、馬手になしてはゐ【射】てとをり【通り】、あげ
をい【置い】たる舟の陰を、馬やすめ処にして、おめき【喚き】
さけん【叫ん】でせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。後藤兵衛実基は、ふる兵【古兵】
にてあり【有り】ければ、いくさ【軍】はせず、まづ内裏にみだれ【乱れ】
いり、手々に火をはな【放つ】て片時の煙とやきはらふ。
P11220
大臣殿、侍どもをめし【召し】て、「抑源氏が勢いか程あるぞ」。
「当時わづかに七八十騎こそ候らめ」と申。「あな心うや。
髪のすぢを一すぢづつわけてとるとも、此勢
にはたるまじかりける物を。なかにとりこめてうたず
して、あはて【慌て】て船にの【乗つ】て、内裏をやかせつる事
こそやすからね。能登殿はおはせぬか。陸へあが【上がつ】て
ひといくさ【軍】し給へ」。「さうけ給【承り】候ぬ」とて、越中次郎兵
衛[B 盛次【*盛嗣】]を相具して、小船[* 「少船」と有るのを高野本により訂正]どもにとりの【乗つ】て、やきはらひ【払ひ】
P11221
たる惣門の前のなぎさに陣をとる。判官八十余
騎、矢ごろP2313によせ【寄せ】てひかへたり。越中次郎兵衛
盛次【*盛嗣】、船のおもてに立いで、大音声をあげて申ける
は、「名のられつるとは聞つれども、海上はるかにへだた
て、其仮名実名分明ならず。けふの源氏の大将
軍は誰人でおはしますぞ」。伊勢の三郎義盛あゆ
ま【歩ま】せいで【出で】て申けるは、「こともおろかや、清和天皇十代の
御末、鎌倉殿の御弟、九郎大夫判官殿ぞかし」。
P11222
盛次【*盛嗣】「さる事あり。一とせ平治の合戦に、父うた【討た】れ
てみなし子にてありしが、鞍馬の児して、後には
こがね商人の所従になり、粮料せをう【背負う】て奥州へ
おち【落ち】まどひし小冠者[* 「少冠者」と有るのを他本により訂正]が事か」とぞ申たる。義盛「舌
のやはらかなるままに、君の御事な申そ。さてわ
人どもは砥浪山のいくさ【軍】にをいおとさ【落さ】れ、からき命い
きて北陸道にさまよひ、乞食してなくなく【泣く泣く】京へ
のぼ【上つ】たりし物か」とぞ申ける。盛次【*盛嗣】かさね【重ね】て申けるは、
P11223
「君の御恩にあきみちて、なんの不足にか乞食を
ばすべき。さいふわ人どもこそ、伊勢の鈴鹿山にてやま
だち【山賊】して、妻子をもやしなひ、我身もすぐる【過ぐる】とはきき
しか」といひければ、金子の十郎家忠「無益の殿原の
雑言かな。われも人も虚言いひ【言ひ】つけ【付け】て雑言せんに
は、誰かはおとるべき。去年の春、一の谷で、武蔵・相模の
若殿原の手なみの程は見てん物を」と申処〔に〕おとと【弟】
の与一そばにあり【有り】けるが、いはせもはてず、十二束二
P11224
ぶせ、よぴい【引い】てひやうどはなつ【放つ】。盛次【*盛嗣】が鎧のむないた
に、うらかく程P2314にぞたたりける。其後は互に詞だたかい
とまりにけり。能登守教経「ふないくさ【舟軍】は様ある物ぞ」
とて、鎧直垂はき【着】給はず、唐巻染の小袖に唐綾威
の鎧きて、いか物づくりの[B 大]太刀はき、廿四さいたるたか
うすべう【鷹護田尾】の矢をひ【負ひ】、しげどう【滋籐】の弓をもち給へり。王
城一のつよ弓【強弓】[B せい兵【精兵】]にておはせしかば、矢さき【矢先】にまはる物、
い【射】とをさ【通さ】れずといふ事なし。なかにも九郎大夫判
P11225
官をゐ【射】おとさ【落さ】んとねらはれけれども、源氏の方にも
心得て、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信・同四郎兵衛
忠信・伊勢三郎義盛・源八広綱・江田源三・熊井太
郎・武蔵房弁慶などいふ一人当千の兵ども、我も我もと、
馬のかしらをたてならべて大将軍の矢おもてにふさ
がりければ、ちからおよび【及び】給はず、「矢おもての雑人原
そこのき候へ」とて、さしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さんざん【散々】にゐ【射】給へば、や
にはに鎧武者十余騎ばかりゐ【射】おとさ【落さ】る。なかにもまさき
P11226
にすすむだる奥州の佐藤三郎兵衛が、弓手の肩
を馬手の脇へつとゐ【射】ぬか【貫か】れて、しばしもたまらず、
馬よりさかさまにどうどおつ。能登殿の童に菊
王といふ大ぢからのかう【剛】の物あり。萌黄おどしの腹
巻に、三枚甲の緒をしめて、白柄長刀のさやをはづ
し【外し】、三郎兵衛が頸をとらんとはしり【走り】かかる。佐藤四
郎兵衛、兄が頸をとらせじとよぴいてひやうど
ゐる【射る】。童が腹巻のひきあはせをあなたへつとゐ【射】ぬ
P11227
か【貫か】れて、犬居にたふれ【倒れ】P2315ぬ。能登守是を見て、いそぎ
舟よりとんでおり、左の手に弓をもちながら、右の
手で菊王丸をひ【引つ】さげて、舟へからりとなげられ
たれば、[B 敵に]頸はとられねども、いた手【痛手】なればしに【死に】にけり。
是はもと[B 越前の]三位の童なりしが、三位うたれて後、
おとと【弟】の能登守につかは【使は】れけり。生年十八歳に
ぞなりける。この童をうたせてあまりにあはれ【哀】
におもは【思は】れければ、其後はいくさ【軍】もし給はず。判
P11228
官は佐藤三郎兵衛を陣のうしろへかきいれ【入れ】
させ、馬よりおり、手をとらへて、「三郎兵衛、いかが
おぼゆる【覚ゆる】」との給へば、いき【息】のしたに申けるは、「いまはかうと
存候」。「おもひ【思ひ】をく【置く】事はなきか」との給へば、「なに事をか
おもひ【思ひ】をき【置き】候べき。君の御世にわたらせ給はんを
見まいらせ【参らせ】で、死に候はん事こそ口惜覚候へ。さ候
はでは、弓矢とる物の、敵の矢にあたてしなん事、
もとより期する処で候也。就中に「源平[B の]御合戦に、
P11229
奥州の佐藤三郎兵衛嗣信といひける物、讃岐国
八島のいそにて、しう【主】の御命にかはりたてま【奉つ】て
うた【討た】れにけり」と、末代の物語に申されん事こそ、
弓矢とる身は今生の面目、冥途の思出にて候へ」と
申もあへ【合へ】ず、ただよはり【弱り】によはり【弱り】にければ、判官涙を
はらはらとながし、「此辺にたとき僧やある」とて、たづね【尋ね】
いだし、「手負のただいまおち【落ち】いるに、一日経かいてとぶ
らへ」とて、黒き馬のふとう【太う】たくましゐ【逞しい】に、きぶくりん【黄覆輪】の
P11230
鞍P2316をいて、かの僧にたびにけり。判官[* 「官判」と有るのを高野本により訂正]五位尉になら
れし時、五位になして、大夫黒とよばれし馬也。一の
谷ひへ鳥ごえ【鵯越】をもこの馬にてぞおとさ【落さ】れたりける。弟
の四郎兵衛をはじめとして、是を見る兵ども皆
涙をながし、「此君の御ために命をうしなは【失は】ん事、ま
たく露塵程もおしから【惜しから】ず」とぞ申ける。那須与一S1104さる程に、
阿波・讃岐に平家をそむいて、源氏を待ける物ども、
あそこの峯、ここの洞より、十四五騎、廿騎、うち【打ち】つれ【連れ】
P11231
うち【打ち】つれ【連れ】まいり【参り】ければ、判官程なく三百余騎にぞ
なりにける。「けふは日くれぬ、勝負を決すべからず」とて
引退く処に、おきの方より尋常にかざたる小舟
一艘、みぎはへむいてこぎよせけり。磯へ七八段ばかりに
なりしかば、舟をよこさまになす。「あれはいかに」と見る
程に、船のうちよりよはひ十八九ばかりなる女房の、
まこと【誠】にゆう【優】にうつくしきが、柳のいつつぎぬ【五衣】に、紅
のはかま【袴】きて、みな紅の扇の日いだし【出し】たるを、舟の
P11232
せがいにはさみ【鋏み】たてて、陸へむいてぞまねひ【招い】たる。判官、
後藤兵衛実基をめして、「あれはいかに」との給へば、「ゐよ【射よ】
とにこそ候めれ。但大将[B 軍]矢おP2317もてにすすんで、傾城を
御らんぜば、手だれにねらうてゐ【射】おとせ【落せ】とのはかり
こととおぼえ候。さも候へ、扇をばゐ【射】させらるべうや候らん」
と申。「ゐ【射】つべき仁はみかた【御方】に誰かある」との給へば、「上手
どもいくらも候なかに、下野国の住人、那須太郎資
高が子に、与一宗高こそ小兵[* 「少兵」と有るのを高野本により訂正]で候へども、手きき【手利】で
P11233
候へ」。「証拠はいかに」との給へば、「かけ鳥などあらがうて、三
に二は必ずゐ【射】おとす物で候」。「さらばめせ」とてめされ
たり。与一其比は廿ばかりのおの子【男】也。かち【褐】に、あか地の錦
をもておほくび【大領】はた【端】袖いろえ【彩へ】たる直垂に、萌黄
おどしの鎧きて、足じろの太刀をはき、きりふ【切斑】の
矢の、其日のいくさ【軍】にゐ【射】て少々のこたりけるを、かしら
だかにおひなし、うすぎりふに鷹の羽はぎまぜ
たるぬた目のかぶらをぞさしそへたる。しげどう【滋籐】の弓
P11234
脇にはさみ【鋏み】、甲をばぬぎたかひもにかけ、判官の
前に畏る。「いかに宗高、あの扇のまなか【真ん中】ゐ【射】て、平家に
見物せさせよかし」。与一畏て申けるは、「ゐ【射】おほせ
候はん事は不定に候。射損じ候なば、ながきみかた【御方】
の御きずにて候べし。一定つかまつらんずる仁に
仰付らるべうや候らん」と申。判官大にいかて、「鎌
倉をたて西国へおもむか【赴か】ん殿原は、義経が命
をそむくべからず。すこし【少し】も子細を存ぜん人は、
P11235
とうとう是よりかへらるべし」とぞの給ひける。与
一かP2318さねて辞せばあしかり【悪しかり】なんとや思ひけん、「は
づれんはしり【知り】候はず、御定で候へばつかまてこそ
み候はめ」とて、御まへを罷立、黒き馬のふとう【太う】
たくましゐ【逞しい】に、小ぶさの鞦かけ、まろぼやすたる
鞍をい【置い】てぞの【乗つ】たりける。弓とりなをし【直し】、手綱
かいくり、みぎはへむひてあゆま【歩ま】せければ、みかた【御方】
の兵どもうしろをはるかに見をく【送つ】て、「此わか物【若者】
P11236
一定つかまつり候ぬと覚候」と申ければ、判官も
たのもしげ【頼もし気】にぞ見給ひける。矢ごろすこし【少し】
遠かりければ、海へ一段ばかりうちいれ【入れ】たれども、
猶扇のあはひ七段ばかりはあるらんとこそ
見えたりけれ。比は二月十八日の酉の剋ばかり
の事なるに、おりふし【折節】北風はげしくて、磯うつ
浪もたかかりけり。船はゆりあげゆりすゑただ
よへば、扇もくしにさだまら【定まら】ずひらめいたり。
P11237
おきには平家船を一面にならべて見物す。陸には
源氏くつばみをならべて是を見る。いづれもいづれも
晴ならずといふ事ぞなき。与一目をふさいで、
「南無八幡大菩薩、我国の神明、日光権現宇
都宮、那須のゆぜん大明神、願くはあの扇の
まなか【真ん中】ゐ【射】させてたばせ給へ。是をゐ【射】そんずる物
ならば、弓きりおり【折り】自害して、人に二たび【二度】面を
むかふ【向ふ】べからず。いま一度本国へむかへ【向へ】んとおぼし
P11238
めさ【思し召さ】ば、この矢はづさ【外さ】せ給ふな」と、心のうちに祈
念して、目を見ひらひ【開い】たれば、風もすこし【少し】吹よはP2319り【弱り】、
扇もゐ【射】よげにぞなたりける。与一鏑をとてつ
がひ、よぴいてひやうどはなつ【放つ】。小兵といふぢやう
十二束三ぶせ、弓はつよし、浦ひびく程ながなり【長鳴】
して、あやまたず扇のかなめぎは一寸ばかりをい
て、ひふつとぞゐ【射】きたる。鏑は海へ入ければ、扇は空へ
ぞあがり【上がり】ける。しばしは虚空にひらめきけるが、春
P11239
風に一もみ二もみもまれて、海へさとぞち【散つ】たり
ける。夕日のかかやい【輝い】たるに、みな紅の扇の日いだし
たるが、しら波【白波】のうへにただよひ、うきぬしづみぬ
ゆられければ、奥には平家ふなばたをたたいて感
じたり、陸には源氏ゑびら【箙】をたたいてどよめきけり。
弓流S1105あまりの面白さに、感にたへ【堪へ】ざるにやとおぼしくて、
舟のうちよりとし五十ばかりなる男の、黒革お
どしの鎧きて、白柄の長刀もたるが、扇たてたり
P11240
ける処にたて舞しめたり。伊勢三郎義盛、
与一がうしろへあゆま【歩ま】せよて、「御定ぞ、つかまつ
れ」といひければ、今度はなかざし【中差】とてうちくはせ、
よぴい【引い】てしや頸の骨をひやうふつとゐ【射】て、ふなぞ
こ【船底】へさかさま【逆様】にゐ【射】たをす【倒す】。平家のP2320方には音もせず、源
氏の方には又ゑびら【箙】をたたいてどよめきけり。「あ、ゐ【射】
たり」といふ人もあり、又「なさけなし」といふものも
あり。平家これをほい【本意】なしとやおもひ【思ひ】けん、楯つい【突い】
P11241
て一人、弓もて一人、長刀もて一人、武者三人なぎ
さにあがり【上がり】、楯をついて「かたき【敵】よせよ【寄せよ】」とぞまねひ【招い】たる。
判官「あれ、馬づよ【強】ならん若党ども、はせ【馳せ】よせ【寄せ】て
け【蹴】ちらせ」との給へば、武蔵国の住人、みをの屋の【三穂屋の】四郎・
同藤七・同十郎、上野国の住人丹生の四郎、信濃
国の住人木曾の中次、五騎つれておめい【喚い】てかく。
楯のかげ【陰】よりぬりの【塗篦】にくろぼろ【黒母衣】はいだる大の矢を
もて、まさきにすすん【進ん】だるみをのやの【三穂屋の】十郎が馬の
P11242
左のむながいづくしを、ひやうづばとゐ【射】て、はず【筈】
のかくるる【隠るる】程ぞゐ【射】こう【込う】だる。屏風をかへす【返す】様に
馬はどうどたふるれ【倒るれ】ば、主は馬手の足をこい【越い】てお
りたて、やがて太刀をぞぬい【抜い】たりける。たて【楯】のかげ
より大長刀うちふてかかりければ、みをの屋
の【三穂屋の】十郎、小太刀長刀にかなは【叶は】じとや思けむ、か
いふい【伏い】てにげ【逃げ】ければ、軈つづいてお【追つ】かけ【掛け】たり。長
刀でなが【薙が】んずるかと見る処に、さはなくして、長刀
P11243
をば左の脇にかいばさみ、右の手をさしのべて、み
をの屋の【三穂屋の】十郎が甲のしころをつかま【掴ま】んとす。つ
かま【掴ま】れじとはしる【走る】。三度つかみはづい【外い】て、四度
のたび【度】むずとつかむ。しばしぞたまて見えし、
鉢つけ【鉢付】のいた【板】よりふつとひ【引つ】P2321き【切つ】てぞにげ【逃げ】たり
ける。のこり四騎は、馬ををしう【惜しう】でかけず、見物
してこそゐたりけれ。みをの屋の【三穂屋の】十郎は、みかた【御方】
の馬のかげににげ【逃げ】入て、いき【息】づきゐたり。敵は
P11244
おう【追う】てもこ【来】で、長刀杖につき、甲のしころを
さしあげ【差し上げ】、大音声をあげて、「日ごろは音にもきき
つらん、いまは目にも見給へ。是こそ京わらんべの
よぶなる上総の悪七兵衛景清よ」となのり【名乗り】捨
てぞかへりける。平家是に心地なをし【直し】て、「悪七兵
衛うた【討た】すな。つづけや物ども」とて、又二百余人
なぎさにあがり【上がり】、楯をめん鳥羽【雌鳥羽】につきならべて、
「敵よせよ【寄せよ】」とぞまねひ【招い】たる。判官是を見て、「やす
P11245
からぬ事なり」とて、後藤兵衛父子、金子兄弟を
さきにたて、奥州の佐藤四郎兵衛・伊勢三郎
を〔弓手〕馬手にたて、田代冠者をうしろにたてて、八十
余騎おめい【喚い】てかけ給へば、平家の兵ども馬には
のらず、大略かち武者にてあり【有り】ければ、馬にあて【当て】ら
れじとひきしりぞひ【退い】て、みな船へぞのりにける。
楯は算をちらし【散らし】たる様にさんざん【散々】にけ【蹴】ちらさ【散らさ】る。源
氏のつは物ども【兵共】、勝にの【乗つ】て、馬のふと腹ひたる【浸る】程に
P11246
うち【打ち】いれ【入れ】て[B せめ【攻め】]たたかふ【戦ふ】。判官ふか入【深入り】してたたかふ【戦ふ】程に、
舟のうちより熊手をもて、判官の甲のしころに
からりからりと二三度までうちかけけるを、みかた【御方】
の兵ども、太刀長刀でうちのけうちのけしける程に、いかが
したりけん、判官弓をかけおとさ【落さ】れぬ。うつぶし
で、鞭をP2322もてかきよせて、とらうとらうどし給へば、兵
ども「ただすてさせ給へ」と申けれども、つゐに【遂に】とて、
わらう【笑う】てぞかへられける。おとなどもつまはじき【爪弾き】
P11247
をして、「口惜き御事候かな、たとひ千疋万疋に
かへさせ給べき御たらしなりとも、争か御命に
かへさせ給べき」と申せば、判官「弓のおしさ【惜しさ】
にとら【取ら】ばこそ。義経が弓といはば、二人してもはり【張り】、
若は三人してもはり【張り】、おぢの為朝が弓の様ならば、
わざともおとし【落し】てとらすべし。■弱たる弓を
かたき【敵】のとりもて、「是こそ源氏の大将九郎義
経が弓よ」とて、嘲哢せんずるが口惜ければ、命に
P11248
かへてとるぞかし」との給へば、みな人是を感じ
ける。さる程に日くれ【暮れ】ければ、ひきしりぞひ【退い】て、
むれ高松のなかなる野山に陣をぞとたり
ける。源氏のつは物ども【兵共】この三日が間はふさ【臥さ】ざり
けり。おととひ【一昨日】渡辺・福島をいづる【出づる】とて、其夜
大浪にゆられてまどろまず。昨日阿波国勝
浦にていくさ【軍】して、夜もすがらなか山【中山】こえ【越え】、けふ又
一日たたかひ【戦ひ】くらしたりければ、みなつかれ【疲れ】はてて、
P11249
或は甲を枕にし、或は鎧の袖、ゑびら【箙】など枕に
して、前後もしら【知ら】ずぞふし【臥し】たりける。其なかに、
判官と伊勢三郎はねざりけり。判官はたかき【高き】と
ころ【所】にのぼりあが【上がつ】て、敵やよする【寄する】と遠見し給へば、
伊勢三郎はくぼき処にかくれゐて、かたき【敵】よせ【寄せ】ば、
まづ馬の腹ゐ【射】んとてまち【待ち】かけたり。平家のP2323方には、
能登守を大将にて、其勢五百余騎、夜討にせん
としたく【支度】したりけれども、越中次郎兵衛盛次【*盛嗣】と
P11250
海老次郎守方【*盛方】と先陣をあらそふ程に、其夜は
むなしう【空しう】あけにけり。夜討にだにもしたらば、源氏
なにかあらまし。よせ【寄せ】ざりけるこそせめての運の
きはめなれ。志渡【*志度】合戦S1106あけければ、平家船にとりの【乗つ】て、当
国志度の浦へこぎしりぞく。判官三百余騎が
なか【中】より馬や人をすぐて、八十余騎追てぞかか
りける。平家是を見て、「かたき【敵】は小勢[* 「少勢」と有るのを高野本により訂正]なり。なかに
とりこめてうてや」とて、又千余人なぎさにあがり、
P11251
おめき【喚き】さけむでせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。さる程に、八島にのこり【残り】
とどま【留まつ】たりける二百余騎の兵ども、おくればせに
馳来る。平家是を見て、「すはや、源氏の大勢の
つづくは。なん【何】十万騎かあるらん。とりこめられてはかなふ【叶ふ】
まじ」とて、又舟にとりの【乗つ】て、塩にひか【引か】れ、風にしたがて、
いづくをさすともなくおち【落ち】ゆき【行き】ぬ。四国はみな大夫
判官におい【追ひ】おとさ【落とさ】れぬ。九国へは入られず。ただ中
有の衆生とぞ見えし。P2324判官志度の浦におり
P11252
ゐて、頸ども実検しておはしけるが、伊勢三郎
義盛をめしての給ひけるは、「阿波民部重能が嫡
子田内左衛門教能は、河野四郎道信【*通信】がめせども
まいら【参ら】ぬをせめ【攻め】んとて、三千余騎にて伊与【*伊予】へこえ
たりけるが、河野をばうち【討ち】もらし【洩らし】て、家子郎等百
五十人が頸きて、昨日八島の内裏へまいらせ【参らせ】たりけるが、
けふ是へつくときく。汝ゆきむか【向つ】て、ともかうもこ
しらへて具してまいれ【参れ】かし」との給ひければ、
P11253
畏てうけ給はり【承り】、旗一流給てさすままに、其勢
わづかに十六騎、みなしら装束【白装束】にて馳むかふ【向ふ】。義盛、
教能にゆきあふ【合う】たり。白旗、赤旗、二町ばかりをへ
だててゆらへたり。伊勢三郎義盛、使者をたてて
申けるは、「是は源氏〔の〕大将軍九郎大夫判官殿の御
内に、伊勢三郎義盛と申物で候が、大将に申べき
事あて、是までまかり【罷り】むか【向つ】て候。させるいくさ合戦の
れう【料】でも候はねば、物の具もし候はず。弓矢ももた
P11254
せ候はず。あけ【明け】ていれ【入れ】させ給へ」と申ければ、三千
余騎の兵どもなかをあけ【明け】てぞとをしける。義盛、
教能にうちならべて、「かつきき給てもあるらん。鎌倉ど
のの御おとと【弟】九郎大夫判官殿、院宣をうけ給は【承つ】て
西国へむかは【向は】せ給て候が、一昨日阿波[B 国]勝浦にて、御辺の
伯父、桜間[B ノ]介うた【討た】れ給ひぬ。昨日八島によせて、
御所内裏みなやき【焼き】はらひ【払ひ】、おほいとの父子いけど
り【生捕り】にしたてまつり【奉り】、能登殿は自害し給P2325ひぬ。その
P11255
外のきんだち、或はうちじに、或は海に入給ひぬ。余
党のわづかにありつるは、志度の浦にてみなうた【討た】れ
ぬ。御辺のちち、阿波[B ノ]民部殿は降人にまいらせ【参らせ】給
ひて候を、義盛があづかりたてま【奉つ】て候が、「あはれ、田内
左衛門が是をば夢にもしらで、あすはいくさ【軍】してう
た【討た】れまいらせ【参らせ】んずるむざんさよ」と、夜もすがらなげ
き給ふがあまりにいとをしくて、此事しらせたて
まつら【奉ら】むとて、是までまかり【罷り】むか【向つ】て候。そのうへは、いくさ【軍】
P11256
してうちじに【討死】せんとも、降人にまい【参つ】て父をいま一
度見たてまつら【奉ら】んとも、ともかうも御へん【辺】がはから
ひ[B ぞ]」といひ【言ひ】ければ、[B 田]内左衛門きこゆる【聞ゆる】兵なれども、運
やつきにけむ、「かつきく事にすこし【少し】もたがは【違は】ず」とて、
甲をぬぎ弓の弦をはづい【外い】て、郎等にもたす。大将
が加様にするうへは、三千余騎の兵どもみなかくのご
とし。纔に十六騎に具せられて、おめおめと降人に
こそまいり【参り】けれ。「義盛がはかりこと【策】まこと【誠】にゆゆし
P11257
かりけり」と、判官も感じ給ひけり。やがて田内左
衛門をば、物具めされて、伊勢三郎にあづけらる。
「さてあの勢どもはいかに」との給へば、「遠国の物どもは、
誰をたれとかおもひ【思ひ】まいらせ【参らせ】候べき。ただ世のみだ
れをしづめて、国をしろしめさ【知ろし召さ】んを君とせん」と
申ければ、「尤しかる【然る】べし」とて、三千余騎をみな
我勢にぞ具せられける。P2326同廿二日〔の〕辰剋ばかり、
渡辺にのこりとどま【留まつ】たりける二百余艘の船ども、
P11258
梶原をさきとして、八島の磯にぞつきにける。
「西国はみな九郎大夫判官にせめおとさ【落さ】れぬ。今は
なんのようにか逢べき。会にあはぬ花、六日の
菖蒲、いさかいはて【果て】てのちぎりきかな」とぞわらひ【笑ひ】
ける。判官都をたち給ひて後、住吉の神主
長盛、院の御所へまい【参つ】て、大蔵卿康経【*泰経】朝臣
をもて奏聞しけるは、「去十六日丑剋に、当社第
三の神殿より鏑矢の声いで【出で】て、西をさして罷候
P11259
ぬ」と申ければ、法皇大に御感あて、御剣以下、
種々の神宝等を長盛して大明神へまいら
せ【参らせ】らる。むかし神宮【*神功】皇后、新羅をせめ【攻め】給ひし
時、伊勢大神宮より二神のあらみさきをさ
しそへさせ給ひけり。二神御船のともへ【艫舳】に立て、
新羅をやすくせめ【攻め】おとさ【落さ】れぬ。帰朝の後、一神は
摂津国住吉のこほり【郡】にとどまり給ふ。住吉の
大明神の御事也。いま一神は信濃国諏方【*諏訪】の
P11260
こほりに跡を垂る。諏方【*諏訪】の大明神是也。昔の征
戎の事をおぼしめし【思し召し】わすれず、いまも朝の怨敵
をほろぼし給べきにやと、君も臣もたのもしう【頼もしう】
ぞおぼしめされける。P2327鶏合壇浦合戦S1107さる程に、九郎大夫判官義経、
周防の地におしわた【渡つ】て、兄の参川【*三河】守とひとつに
なる。平家は長門国ひく島【引島】にぞつきにける。源氏
阿波国勝浦について、八島のいくさ【軍】にうちかちぬ。
平家ひく島【引島】につくときこえ【聞え】しかば、源氏は同国の
P11261
うち【内】、おい津【追津】につくこそ不思議なれ。熊野別当湛
増は、平家へやまいる【参る】べき、源氏へやまいる【参る】べきとて、
田なべ【田辺】の新熊野にて御神楽奏して、権現に
祈誓したてまつる【奉る】。白旗につけと仰けるを、猶うた
がひをなして、白い鶏七つ赤き鶏七つ、是をもて権現の
御まへにて勝負をせさす。赤きとり一もかたず。みな
まけ【負け】てにげにけり。さてこそ源氏へまいら【参ら】んとお
もひ【思ひ】さだめけれ。一門の物どもあひ【相ひ】もよをし【催し】、都合
P11262
其勢二千余人、二百余艘の舟にのりつれて、若王
子の御正体を船にのせ【乗せ】まいらせ【参らせ】、旗のよこがみ【横上】には、
金剛童子をかきたてま【奉つ】て、檀【*壇】の浦へよする【寄する】を見て、
源氏も平家もともにおがむ。されども源氏の方へ
つきければ、平家はけう【興】さめ【醒め】てぞおもはれける。又
伊与【*伊予】国の住人、河野四郎道信【*通信】、百五十艘の兵船に
のりつれ【連れ】てこぎ来たり、源氏とひとつ【一つ】になりにけり。
判官かたがたたのもしう【頼もしう】ちから【力】つい【付い】てぞP2328おもは【思は】れける。
P11263
源氏の船は三千〔余〕艘、平家の舟は千余艘、唐船少々
あひまじれり。源氏の勢はかさなれ【重なれ】ば、平家の
せいは落ぞゆく。元暦二年三月廿四日の卯剋に、
門司赤間の関にて源平矢合とぞさだめける。
其日判官と梶原とすでにどしいくさ【同士戦】せんとする
事あり。梶原申けるは、「けふの先陣をば景時に
たび候へ」。判官「義経がなくばこそ」。「まさなう候。殿は
大将軍にてこそましまし候へ」。判官「おもひ【思ひ】もよらず。
P11264
鎌倉殿こそ大将軍よ。義経は奉行をうけ給【承つ】
たる身なれば、ただ殿原とおなじ事ぞ」との給へば、
梶原、先陣を所望しかねて、「天性この殿は
侍の主にはなり難し」とぞつぶやきける。判官
これをきい【聞い】て、「日本一のおこの物かな」とて、太刀の
つかに手をかけ給ふ。梶原「鎌倉殿の外に主を
もたぬ物を」とて、是も太刀のつかに手をかけけ
り。さる程に嫡子の源太景季、次男平次景高、
P11265
同三郎景家、ちち【父】と一所によりあふ【合う】たり。判官の
景気を見て、奥州佐藤四郎兵衛忠信・伊勢
三郎義盛・源八広綱・江田[B ノ]源三・熊井太郎・武蔵房
弁慶などいふ一人当千のつは物ども【兵共】、梶原をなかに
とりこめて、われう【討つ】とら【取ら】んとぞすすみける。されども
判官には三浦介とり【取り】つき【付き】たてまつる【奉る】。梶原には
土肥次郎つかみつき、両人手をすて申けるは、
「是程の大事をまへにかかへながら、どしいくさ【同士戦】候者、
P11266
平家ちからつき【付き】候なんず。就中鎌倉殿P2329のかへり
きかせ給はん処こそ穏便ならず候へ」と申せば、判
官しづまり給ひぬ。梶原すすむに及ばず。それ
よりして梶原、判官をにくみそめて、つゐに【遂に】
讒言してうしなひ【失ひ】けるとぞきこえ【聞え】し。さる程に、
源平の陣のあはひ、海のおもて卅余町をぞ
へだてたる。門司・赤間・檀【*壇】の浦はたぎておつる塩
なれば、源氏の舟は塩にむかふ【向う】て、心ならずをし【押し】おと
P11267
さ【落さ】る。平家の船は塩におう【逢う】てぞいで【出で】き【来】たる。おき【沖】は
塩のはやけれ【早けれ】ば、みぎは【渚】について、梶原敵の舟の
ゆきちがふ処に熊手をうちかけて、おや子【親子】主
従十四五人のり【乗り】うつり【移り】、うち物ぬい【抜い】て、ともへ【艫舳】にさんざん【散々】に
ない【薙い】でまはる。分どりあまたして、其日の高名の一
の筆にぞつきにける。すでに源平両方陣をあ
はせて時をつくる。上は梵天までもきこえ【聞え】、下は
海竜神もおどろくらんとぞおぼえける。新中納
P11268
言知盛卿舟の屋形にたちいで、大音声をあげて
の給ひけるは、「いくさ【軍】はけふ【今日】ぞかぎり、物ども、すこし【少し】も
しりぞく心あるべからず。天竺・震旦にも日本我朝
にもならびなき名将勇士といへども、運命つき
ぬれば力及ばず。されども名こそおしけれ【惜しけれ】。東国の
物共によはげ【弱気】見ゆな。いつのために命をばおしむ【惜しむ】
べき。是のみぞおもふ【思ふ】事」との給へば、飛騨[B ノ]三郎左
衛門景経御まへに候けるが、「是うけ給はれ【承れ】、侍ども」
P11269
とぞ下知しけP2330る。上総悪七兵衛すすみ出て申
けるは、「坂東武者は馬のうへでこそ口はきき候とも、ふな
いくさ【舟軍】にはいつ調練し候べき。うを【魚】の木にのぼ【上つ】たる
でこそ候はんずれ。一々にとて海につけ【浸け】候はん」とぞ
申たる。越中次郎兵衛申けるは、「おなじくは大将
軍の源九郎にくん給へ。九郎は色しろう【白う】せい【背】ちい
さき【小さき】が、むかば【向歯】のことにさしいで【出で】てしるかん【著かん】なるぞ。ただし
直垂と鎧をつねにきかふ【着替ふ】なれば、きと見わけ【分け】がた
P11270
かん也」とぞ申ける。上総悪七兵衛申けるは、「心こそ
たけくとも、其小冠者、なに程の事あるべき。片
脇にはさんで、海へいれ【入れ】なむ物を」とぞ申たる。新中
納言は加様に下知し給ひ、大臣殿の御まへにまい【参つ】て、
「けふは侍どもけしきよう見え候。ただし阿波民部
重能は心がはりしたるとおぼえ候。かうべをはね候
ばや」と申されければ、大臣殿「見えたる事もなう
て、いかが頸をばきる【斬る】べき。さしも奉公の物であるもの
P11271
を。重能まいれ【参れ】」とめし【召し】ければ、木蘭地の直垂にあら
いかは【洗革】の鎧きて、御まへに畏て候。「いかに、重能は心がはり
したるか、けふこそわるう見ゆれ。四国の物どもに、いく
さ【軍】ようせよと下知せよかし。おくし【臆し】たるな」との給へば、
「なじかはおくし【臆し】候べき」とて、御まへをまかり【罷り】たつ。新中
納言、あはれきやつが頸をうちおとさ【落さ】ばやとおぼし
めし【思し召し】、太刀のつか【柄】くだけよとにぎて、大臣殿の御かた【方】
をしきりに見給P2331ひけれども、御ゆるされ【許され】なければ、
P11272
力及ばず。平家は千余艘を三手につくる。山賀の
兵藤次秀遠、五百余艘で先陣にこぎむかふ。松
浦党、三百余艘で二陣につづく。平家の君達、
二百余艘で三陣につづき給ふ。兵藤次秀遠は、
九国一番の勢兵にてあり【有り】けるが、我程こそなけれども、
普通ざまの勢兵ども五百人をすぐて、船々のとも
へ【艫舳】にたて、肩を一面にならべて、五百の矢を一度に
はなつ【放つ】。源氏は三千余艘の船なれば、せい【勢】のかず【数】さこそ
P11273
おほかり【多かり】けめども、処々よりゐ【射】ければ、いづくに勢兵
ありともおぼえず。大将軍九郎大夫判官、まさきに
すす【進ん】でたたかふ【戦ふ】が、楯も鎧もこらへずして、さんざん【散々】にゐ【射】し
らまさる。平家みかた【御方】勝ぬとて、しきりにせめ【攻め】皷
うて、よろこびの時をぞつくりける。遠矢S1108源氏の方にも、
和田小太郎[* 「少太郎」と有るのを高野本により訂正]義盛、船にはのらず、馬にうちの【乗つ】てなぎ
さにひかへ、甲をばぬいで人にもたせ、鐙のはな【鼻】ふみ【踏み】
そらし、よぴいてゐ【射】ければ、三町がうちと【内外】の物ははづ
P11274
さ【外さ】ずつよう【強う】ゐ【射】けり。そのなかに、ことに遠うゐ【射】たるとP2332
おぼしきを、「其矢給はらん」とぞまねひ【招い】たる。新中
納言是をめし【召し】よせて見給へば、しらの【白篦】に鶴のもと
じろ【本白】、こう【鴻】の羽をわりあはせては【矧】いだる矢の、十三
束ふたつぶせ【二伏】あるに、くつまき【沓巻】より一束ばかりをい
て、和田小太郎平義盛とうるしにてぞかき【書き】つけ
たる。平家の方に勢兵おほし【多し】といへども、[B さすが]〔とを矢【遠矢】ゐる【射る】物は〕すくな【少】かり
けるやらん、良久しうあて、伊与【*伊予】国の住人仁井
P11275
の紀四郎親清めし【召し】いだされ、この矢を給はてゐ【射】返
す。是も奥よりなぎさへ三町余をつとゐ【射】わたして、
和田小太郎がうしろ一段あまりにひかへたる三浦の
石左近の太郎が弓手のかいな【腕】に、したたかにこそたた
りけれ。三浦の人共これを見て、「和田小太郎が
われにすぎて遠矢ゐる【射る】ものなしとおもひ【思ひ】て、恥
かいたるにくさよ。あれを見よ」とぞわらひ【笑ひ】ける。和田
小[B 太]郎是をきき、「やすからぬ事也」とて、小船にの【乗つ】て
P11276
こぎいださせ、平家のせい【勢】のなかをさしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】
さんざん【散々】にゐ【射】ければ、おほく【多く】の物どもゐ【射】ころさ【殺さ】れ、手負
にけり。又判官ののり給へる船に、奥よりしらの【白篦】の
おほ矢【大矢】をひとつ【一つ】ゐ【射】たてて、和田がやうに「こなたへ給は
らん」とぞまねいたる。判官是をぬかせて見給へば、
しらのに山鳥の尾をもてはいだりける矢の、十四束
三ぶせあるに、伊与【*伊予】国住人、仁井[B ノ]紀四郎親清とぞ
かきつけたる。判官、後藤兵衛実基をめし【召し】て、
P11277
「この矢ゐ【射】つべきもの、みかた【御方】P2333に誰かある」との給へば、
「甲斐源氏に阿佐里[B ノ]与一殿こそ、勢兵にて在
まし候へ」。「さらばよべ」とてよばれければ、阿佐里[B ノ]与
一いできたり。判官の給ひけるは、「奥よりこの矢を
ゐ【射】て候が、ゐ【射】かへせ【返せ】とまねき候。御へん【辺】あそばし【遊ばし】
候なむや」。「給て見候はん」とて、つまよて、「是はすこ
し【少し】よはう【弱う】候。矢づか【矢束】もちとみじかう【短かう】候。おなじうは
義成が具足にてつかまつり候はん」とて、ぬりごめ
P11278
藤【塗籠籐】の弓の九尺ばかりあるに、ぬりの【塗篦】にくろぼろ【黒母衣】はい
だる矢の、わが大手にをし【押し】にぎ【握つ】て、十五束あり【有り】ける
をうちくはせ、よぴいてひやうどはなつ【放つ】。四町余を
つとゐ【射】わたし【渡し】て、大船のへ【舳】にたたる仁井[B ノ]紀四郎
親清がまただなかをひやうふつとゐ【射】て、ふなぞこ【船底】へ
さかさまにゐ【射】たうす【倒す】。生死をばしら【知ら】ず。阿佐里[B ノ]
与一はもとより勢兵の手きき【手利】なり。二町にはしる【走る】
鹿をば、はづさ【外さ】ずゐ【射】けるとぞきこえ【聞え】し。其後
P11279
源平たがひに命をおしま【惜しま】ず、おめき【喚き】さけん【叫ん】で
せめ【攻め】たたかふ。いづれおとれりとも見えず。されども、
平家の方には、十善帝王、三種の神器を帯
してわたらせ給へば、源氏いかがあらんずらんとあぶ
なうおもひ【思ひ】けるに、しばしは白雲かとおぼしくて、
虚空にただよひけるが、雲にてはなかりけり、主も
なき白旗ひとながれ【一流】まいさがて、源氏の船の
へ【舳】に棹づけ【付】のお【緒】のさはる程にぞ見えたりける。P2334
P11280
判官、「是は八幡大菩薩の現じ給へるにこそ」と
よろこで、手水うがひをして、是を拝し奉る。
兵どもみなかくのごとし。又源氏の方よりいるか【海豚】
といふ魚一二千はう【這う】て、平家の方へむかひ【向ひ】ける。大
臣殿これを御らんじて、小博士晴信をめし【召し】て、
「いるか【海豚】はつねにおほけれ【多けれ】ども、いまだかやう[B の]事
なし。いかがあるべきとかんがへ【勘へ】申せ」と仰られければ、
「このいるか【海豚】はみ【食み】かへり【返り】候はば、源氏ほろび候べし。
P11281
はう【這う】てとをり【通り】候はば、みかた【御方】の御いくさ【軍】あやうう【危ふう】候」
と申もはてねば、平家の船のしたをすぐに
はう【這う】てとをり【通り】けり。「世の中はいまはかう」とぞ申
たる。阿波民部重能は、この三[B が]年があひだ、平家に
よくよく忠をつくし、度々の合戦に命をおしま【惜しま】ず
ふせき【防き】たたかひ【戦ひ】けるが、子息田内左衛門をいけ
どり【生捕り】にせられて、いかにもかなは【叶は】じとやおもひ【思ひ】けん、
たちまちに心がはりして、源氏に同心してん
P11282
げり。平家の方にははかりこと【策】に、よき人をば兵船
にのせ【乗せ】、雑人どもをば唐船にのせ【乗せ】て、源氏心にく
さに唐船をせめ【攻め】ば、なかにとりこめてうたんとし
たく【支度】せられたりけれども、阿波民部がかへりちう【返忠】の
うへは、唐船には目もかけず、大将軍のやつしの
り給へる兵船をぞせめ【攻め】たりける。新中納言「やす
からぬ。重能めをきてすつ【捨つ】べかりつる物を」と、ち
たび【千度】後悔せられけれどもかなは【叶は】P2335ず。さる程に、
P11283
四国・鎮西の兵ども、みな平家をそむいて源氏に
つく。いままでしたがひ【従ひ】ついたりし物どもも、君に
むか【向つ】て弓をひき、主に対して太刀をぬく。かの
岸につかむとすれば、浪たかくしてかなひ【叶ひ】がた
し。このみぎはによらんとすれば、敵矢さき【矢先】を
そろへてまち【待ち】かけたり。源平の国あらそひ、けふを
かぎりとぞ見えたりける。先帝身投S1109源氏の兵ども、すでに
平家の舟にのりうつりければ、水手梶取ども、ゐ【射】
P11284
ころされ、きりころさ【殺さ】れて、船をなをす【直す】に及ば
ず、舟ぞこにたはれ【倒れ】ふしにけり。新中納言知盛卿
小船にの【乗つ】て御所の御舟にまいり【参り】、「世のなかいまは
かうと見えて候。見ぐるしからん物どもみな海へ
いれ【入れ】させ給へ」とて、ともへ【艫舳】にはしり【走り】まはり、はい【掃い】たり、
のごう【拭う】たり、塵ひろい【拾ひ】、手づから掃除せられけり。女房
達「中納言殿、いくさ【軍】はいかにやいかに」と口々にとひ給
へば、「めづらしきあづま男をこそ御らんぜられ候
P11285
はんずらめ」とて、からからとわらひ【笑ひ】給へば、「なんでうP2336の
ただいまのたはぶれ【戯れ】ぞや」とて、声々におめき【喚き】さけび【叫び】
給ひけり。二位殿はこの有様を御らんじて、
日ごろおぼしめし【思し召し】まうけたる事なれば、にぶ色【鈍色】のふ
たつ【二つ】ぎぬ【衣】うちかづき、ねりばかまのそばたかくはさみ【鋏み】、
神璽をわきにはさみ【鋏み】、宝剣を腰にさし、主上
をいだきたてま【奉つ】て、「わが身は女なりとも、かたき【敵】の
手にはかかるまじ。君の御ともにまいる【参る】なり。
P11286
御心ざしおもひ【思ひ】まいらせ【参らせ】給はん人々は、いそぎつづ
き給へ」とて、ふなばたへあゆみ【歩み】いでられけり。主
上ことしは八歳にならせ給へども、御年の程
よりはるかにねびさせ給ひて、御かたちうつく
しく、あたりも[B てり]かかやく【輝く】ばかり也。御ぐしくろう【黒う】
ゆらゆらとして、御せなかすぎさせ給へり。あきれ
たる御さまにて、「尼ぜ、われをばいづちへぐし【具し】てゆ
かんとするぞ」と仰ければ、いとけなき君にむかい【向ひ】
P11287
たてまつり【奉り】、涙ををさへ申されけるは、「君はいまだ
しろしめさ【知ろし召さ】れさぶらはずや。先世の十善戒行の
御ちからによて、今万乗のあるじと生れさせ給へ
ども、悪縁にひかれて、御運既につきさせ給ひ
ぬ。まづ東にむかは【向は】せ給て、伊勢大神宮に御いと
ま申させ給ひ、其後西方浄土の来迎にあづ
からんとおぼしめし【思し召し】、西にむかは【向は】せ給ひて、御念
仏さぶらふ【候ふ】べし。この国は心うきさかゐ【境】にて
P11288
さぶらへ【候へ】ば、極楽浄土とてめでたき処へぐし【具し】ま
いらせ【参らせ】さぶらふ【候ふ】ぞ」と、なくなく【泣く泣く】申させ給ひければ、
山鳩色の御衣P2337にびんづらゆはせ給て、御涙に
おぼれ、ちいさく【小さく】うつくしき御手をあはせ、まづ
東をふしをがみ【拝み】、伊勢大神宮に御いとま申させ
給ひ、其後西にむかは【向は】せ給ひて、御念仏ありしかば、
二位殿やがていだき奉り、「浪のしたにも都のさぶ
らう【候ふ】ぞ」となぐさめたてま【奉つ】て、ちいろ【千尋】の底へぞいり
P11289
給ふ。悲哉、無常の春の風、忽に花の御すがた
をちらし【散らし】、なさけなきかな、分段のあらき浪、玉
体をしづめたてまつる【奉る】。殿をば長生と名づけて
ながきすみかとさだめ、門をば不老と号して、老
せぬとざしととき【説き】たれども、いまだ十歳のうちにして、
底のみくづ【水屑】とならせ給ふ。十善帝位の御果報、
申すもなかなかをろか【愚】なり。雲上の竜くだて海
底の魚となり給ふ。大梵高台の閣のうへ、釈
P11290
提喜見の宮の内、いにしへは槐門棘路のあひだに
九族をなびかし、今は船のうち、浪のしたに御命
を一時にほろぼし給ふこそ悲しけれ。能登殿最期S1110女院は
この御有様を御らんじて、御やき石、御硯、左
右の御ふところ【懐】にいれ【入れ】て、海へいらせ給ひたり
けるを、渡辺党に源五馬允[M 「高允」とあり「高」をミセケチ「馬」と傍書]むつる[B 「むへる」とあり「へ」に「つ」と傍書]【眤】、たれ【誰】とはし
り【知り】たてP2338まつらねども、御ぐしを熊手にかけて
ひき【引き】あげ奉る。女房達「あなあさまし。あれは
P11291
女院にてわたらせ給ぞ」と、声々口々に申され
ければ、判官に申て、いそぎ御所の御船へわたし
たてまつる【奉る】。大納言の佐殿は、内侍所の御からうと【唐櫃】
をもて、海へいら【入ら】んとし給ひけるが、袴のすそを
ふなばたにゐ【射】つけ【付け】られ、け【蹴】まといてたふれ【倒れ】給
たりけるを、兵どもとりとどめ【留め】奉る。さて武士ども
内侍所のじやう【鎖】ねぢきて、[B 既に]御ふた【蓋】をひらかんと
すれば、忽に目[B くれ]、鼻血たる。平大納言いけどり【生捕り】に
P11292
せられておはしけるが、「あれは内侍所のわたらせ
給ふぞ。凡夫は見たてまつら【奉ら】ぬ事ぞ」との給へば、
兵どもみなのき【退き】にけり。其後判官、平大納言
に申あはせて、もとのごとくにからげおさめ【納め】奉る。
さる程に、平中納言教盛、修理大夫経盛兄弟、鎧
のうへにいかりををひ、手を取組て、海へぞ入給ひ
ける。小松[B ノ]新三位中将資盛、同少将有盛、いとこの
左馬頭行盛、手に手をとりくんで一所にしづみ
P11293
給ひけり。人々は加様にし給へども、大臣殿おや子は
海に入らんずる気色もおはせず、ふなばたに立
いで【出で】て四方み【見】めぐらし、あきれたる様にておはし
けるを、侍どもあまりの心うさに、とほるやうにて、
大臣殿を海へつき入奉る。右衛門督是を見て、
やがてとび入給ひけり。みな人はおもき【重き】鎧のうへに、
おもき【重き】物をおう【負う】たりいだひ【抱い】たりしていれ【入れ】P2339ばこそ
しづめ、この人おやこ【親子】はさもし給はぬうへ、なまじゐに
P11294
究竟の水練にておはしければ、しづみもやり
給はず。大臣殿は右衛門督しづまばわれもしづ
まん、たすかり給はばわれもたすからんとおもひ【思ひ】給ふ。
右衛門督も、父しづみ給はばわれもしづまん、たす
かり給はば我もたすからんとおもひ【思ひ】て、たがひに
目を見かはしておよぎ【泳ぎ】ありき【歩き】給ふ程に、伊勢三
郎義盛、小船をつとこぎよせ、まづ右衛門督
を熊手にかけてひきあげたてまつる【奉る】。大臣殿
P11295
是を見ていよいよしづみもやり給はねば、おなじう
とりたてまつり【奉り】けり。大臣殿の御めのと子【乳母子】飛
弾【*飛騨】[B ノ]三郎左衛門景経、小船にの【乗つ】て義盛が舟にのり
うつり、「我君とり奉るは何物ぞ」とて、太刀をぬいて
はしり【走り】かかる。義盛すでにあぶなう見えけるを、
義盛が童、しう【主】をうた【討た】せじとなかにへだたる【隔たる】。景
経がうつ太刀〔に〕甲のまかう【真甲】うちわられ、二の太刀に
頸うちおとさ【落さ】れぬ。義盛なを【猶】あぶなう見えけるを、
P11296
ならびの舟より堀の弥太郎親経、よぴゐてひや
うどゐる【射る】。景経うち甲をゐ【射】させてひるむ処に、
堀弥太郎のりうつて、三郎左衛門にくんでふす【伏す】。
堀が郎等、主につづゐ【続い】てのりうつり、景経が鎧の
草摺ひきあげて、二刀さす。飛弾【*飛騨】[B ノ]三郎左衛門
景経、きこゆる【聞ゆる】大力のかう【剛】のものなれども、運やつ
きにけん、いた手【痛手】はをう【負う】つ、敵はあまたあり、そこにて
つゐに【遂に】うた【討た】れにけり。大臣殿は生ながらとりP2340あげ
P11297
られ、目の前でめのと子【乳母子】がうたるるを見給ふに、
いかなる心地かせられけん。凡そ能登守教経の
矢さき【矢先】にまはる物こそなかりけれ。矢だねのある
程ゐ【射】つくし【尽くし】て、けふを最後とやおもは【思は】れけん、
赤地の錦の直垂に、唐綾おどしの鎧きて、いか
ものづくりの大太刀ぬき、白柄の大長刀のさや
をはづし【外し】、左右にもてなぎ【薙ぎ】まはり給ふに、おもて
をあはする物ぞなき。おほく【多く】の物どもうた【討た】れにけり。
P11298
新中納言使者をたてて、「能登殿、いたう罪なつ
くり給ひそ。さり[B とて]よき敵か」との給ひければ、「さては
大将軍にくめ【組め】ごさんなれ」と心えて、うち物くき
みじか【茎短】にとて、源氏の船にのりうつりのりうつり、おめき【喚き】
さけむでせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。判官を見しり給はねば、物
の具のよき武者をば判官かとめ【目】をかけて、はせ【馳せ】ま
はる。判官もさきに心えて、おもてにたつ様には
しけれども、とかくちがひ【違ひ】て能登殿にはくま【組ま】れ
P11299
ず。されどもいかがしたりけん、判官の船にのりあたて、
あはやとめ【目】をかけてとんでかかるに、判官かなは【叶は】じ
とやおもは【思は】れけん、長刀脇にかいばさみ、みかた【御方】の
船の二丈ばかりのい【退い】たりけるに、ゆらりととびのり
給ひぬ。能登殿ははやわざ【早業】やおとられたりけん、
やがてつづいてもとび給はず。いま【今】はかうとおもは【思は】れ
ければ、太刀長刀海へなげいれ【入れ】、甲もぬいですて
られけP2341り。鎧の草摺かなぐりすて、どう【胴】ばかり
P11300
きて、おほ【大】童になり、おほ手をひろげてたたれたり。
凡あたりをはら【払つ】てぞ見えたりける。おそろし【恐ろし】なども
をろか【愚】也。能登殿大音声をあげて、「われとお
もは【思は】ん物どもは、よて教経に組でいけどりにせよ。
鎌倉へくだて、頼朝にあふ【逢う】て、物ひと詞いはんと
おもふ【思ふ】ぞ。よれやよれ」との給へども、よる物一人もなかり
けり。[B ここに]土佐国の住人安芸郷を知行しける安芸の
大領実康が子に、安芸太郎実光とて、卅人が
P11301
力もたる大ぢからのかう【剛】の物あり。われにちともおと
らぬ郎等一人、おとと【弟】の次郎も普通にはすぐれ
たるしたたか物なり。安芸の太郎、能登殿を見
たてま【奉つ】て申けるは、「いかにたけう【猛う】ましますとも、
我等三人とりついたらんに、たとひたけ十丈の鬼
なりとも、などかしたがへざるべき」とて、主従三人小船に
の【乗つ】て、能登殿の舟にをし【押し】ならべ、ゑいといひ【言ひ】てのり
うつり、甲のしころをかたぶけ【傾け】、太刀をぬいて一面に
P11302
うてかかる。能登殿ちともさはぎ【騒ぎ】給はず、まさきに
すすんだる安芸太郎が郎等をすそ【裾】をあはせて、
海へどうどけ【蹴】いれ【入れ】給ふ。つづいてよる安芸太郎
を弓手の脇にとてはさみ【鋏み】、弟の次郎をば馬手
のわきにかいばさみ、ひとしめ【一締】しめて、「いざうれ、さらば
おれら死途の山のともせよ」とて、生年廿六
にて海へつとぞいり【入り】給ふ。P2342内侍所都入S1111新中納言「見るべき
程の事は見つ、いまは自害せん」とて、めのと子【乳母子】の
P11303
伊賀平内左衛門家長をめし【召し】て、「いかに、約束は
たがう【違ふ】まじきか」との給へば、「子細にや及候」と、中納言に
鎧二領きせ奉り、我身も鎧二領きて、手をとり
く【組ん】で海へぞ入にける。是を見て侍ども廿余人をく
れ【後れ】たてまつら【奉ら】じと、手に手をとり【取り】くん【組ん】で、一所にしづ
みけり。其中に、越中次郎兵衛・上総五郎兵衛・
悪七兵衛・飛弾【*飛騨】四郎兵衛はなにとしてかのがれ【逃れ】
たりけん、そこをも又落にけり。海上には赤旗あか
P11304
じるし【赤印】なげ【投げ】すて、かなぐりすて【捨て】たりければ、竜田川の
紅葉ばを嵐の吹ちらし【散らし】たるがごとし。汀によする【寄する】
白浪もうすぐれなゐにぞなりにける。主もなき
むなしき【空しき】船は、塩にひかれ風にしたがて、いづくを
さすともなくゆられゆくこそ悲しけれ。生どりに
は、前の内大臣宗盛公、平大納言時忠、右衛門督清
宗、内蔵頭信基、讃岐中将時実、兵部少輔雅
明、大臣殿の八歳になり給ふ若公【若君】、僧には二位僧都
P11305
宣真【*全真】・法勝寺執行能円・中納言律師仲快[M 「仲快」とあり「仲」をミセケチ「忠」と傍書]・経誦
房阿闍梨融円、侍には源大夫判官季貞・摂津
判官盛澄・橘内左衛門季康・藤内左衛門信康・
阿波民部重能父子、已上卅八人也。菊地【*菊池】次郎高直・
原田大夫P2343種直は、いくさ【軍】已前より郎等どもあいぐし【具し】
て降人にまいる【参る】。女房には、女院、北の政所、廊の御方、
大納言佐殿、帥のすけどの【典侍殿】、治部卿局已下四十三
人とぞきこえ【聞え】し。元暦二年の春のくれ【暮】、いかなる
P11306
年月にて一人海底にしづみ、百官波の上にう
かぶらん。国母官女は東夷西戎の手にしたがひ【従ひ】、臣
下卿相は数万の軍侶【*軍旅】にとら【捕】はされて、旧里に帰
り給ひしに、或は朱買臣が錦をきざる事をなげ
き、或は王照君【*王昭君】が胡国におもむき【赴き】し恨もかくや
とぞかなしみ給ひける。同四月三日、九郎大夫判官
義経、源八広綱をもて、院御所へ奏聞しけるは、
去三月廿四日、豊前国田の浦、門司関、長門国檀[B ノ]
P11307
浦【*壇浦】、赤間[B ノ]関にて平家をせめ【攻め】おとし【落し】、三種神器
事ゆへ【故】なく返し入奉るよし申たりければ、院中
の上下騒動す。広綱を御坪のうちへめし【召し】、合戦の
次第をくはしう御尋ありて、御感のあまりに
左兵衛尉になされけり。「一定かへりいら【入ら】せ給ふか
見てまいれ【参れ】」とて、五日、北面に候ける藤判官信盛
を西国へさしつかはさる。宿所へもかへらず、やがて
院の御馬を給て、鞭をあげ、西をさいて馳くだる。
P11308
同十六日、九郎大夫判官義経、平氏男女[B の]いけどりども【生捕り共】、
あひぐし【具し】てのぼりけるが、播磨国明石浦にぞつき
にける。名[B を]えたる浦なれば、ふけゆくままに月さえ
のぼり、秋の空にもおとらず。女房達さしつどひ【集ひ】
て、「一とせ是をとをり【通り】P2344しには、かかるべしとはおもは【思は】ざ
りき」などいひて、しのびね【忍び音】になき【泣き】あはれけり。帥の
すけ殿つくづく月をながめ給ひ、いとおもひ【思ひ】のこす【残す】こと
もおはせざりければ、涙にとこ【床】もうく【浮く】ばかりにて、
P11309
かうぞおもひ【思ひ】つづけ給ふ。
ながむればぬるる【濡るる】たもとにやどり【宿り】けり
月よ雲井のものがたりせよ W085
雲のうへに見しにかはらぬ月影の
すむ【澄む】につけてもものぞかなしき【悲しき】 W086
大納言佐殿
わが身こそあかしの浦に旅ねせめ
おなじ浪にもやどる月かな W087
P11310
「さこそ物がなしう、昔恋しうもおはしけめ」と、判
官物のふなれどもなさけあるおのこ【男】なれば、身に
しみてあはれ【哀】にぞおもは【思は】れける。同廿五日、内侍
所しるしの御箱、鳥羽につかせ給ふときこえ【聞え】
しかば、内裏より御むかへ【向へ】にまいら【参ら】せ給ふ人々、
勘解由小路[* 「勘解由少路」と有るのを他本により訂正]中納言経房卿・高倉宰相中将
泰通・権右中弁兼忠・左衛門権佐親雅・江
浪[B ノ]中将公時・但馬少将教能、武士には伊豆蔵
P11311
人大夫頼兼・石川判官代能兼・左衛門尉有
綱とぞきこえ【聞え】し。其夜の子の剋に、内侍所
しるしの御箱太政官の庁へいらせ給ふ。宝
剣はうせ【失せ】にけり。神璽は海上にうかびたりける
を、片岡太郎経春〔が〕とりあげたてま【奉つ】たりける
とぞきこえ【聞え】し。P2345剣S1112吾朝には神代よりつたはれる
霊剣三あり。十づか【十握】の剣、あまのはやきりの
剣、草なぎ【草薙】の剣是也。十づか【十握】の剣は、大和国いその
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かみ【石上】布留[B ノ]社におさめ【納め】らる。あまのはやきりの
剣は、尾張国熱田の宮にありとかや。草なぎ【草薙】
の剣は内裏にあり。今の宝剣是也。この剣の
由来を申せば、昔素戔[B ノ]烏の尊、出雲国曾
我のさとに宮づくりし給ひしに、そのところ【所】に
八いろの雲常にたちければ、尊これを御らん【覧】
じて、かくぞ詠じ給ひける。
八雲たつ出雲八へがき【八重垣】つまごめに
P11313
やへがき【八重垣】つくるその八重がき【八重垣】を W088
是を三十一字のはじめとす。国を出雲となづ
くる事も、すなはちこのゆへ【故】とぞうけ給はる【承る】。
むかし、みこと、出雲国ひの川上にくだり給ひし
とき、国津神に足なづち手なづちとて夫神
婦神おはします。其子に端正のむすめあり。
ゐなだ姫と号す。おや子【親子】三人なき【泣き】ゐたり。みこと
「いかに」ととひ給へば、こたへ申ていはく、P2346「われにむすめ
P11314
八人ありき。みな大蛇のためにのまれぬ。いま
一人のこるところの少女、又のまれんとす。件の
大蛇は尾かしらともに八あり。をのをの【各々】〔八のみね〕八の谷には
い【這ひ】はびこれり。霊樹異木せなかにおひ【生ひ】たり。いく千
年をへたりといふ事をしら【知ら】ず。まなこは日月の
光のごとし。年々に人をのむ【飲む】。おや【親】のまるる物は
子かなしみ、子のまるる物はおやかなしみ、村南村
北に哭する声たえず」とぞ申ける。みことあは
P11315
れ【哀】におぼしめし【思し召し】、この少女をゆつつまぐし【爪櫛】にとり
なし、御ぐし【髪】にさしかくさ【隠さ】せ給ひ、八の船に酒
をいれ【入れ】、美女のすがたをつくてたかき【高き】をか【岡】にたつ。
其影酒にうつれり。大蛇人とおもて其かげを
あくまでので、酔臥たりけるを、尊はき【佩き】給へる
十づか【十握】の剣をぬいて、大蛇をくだくだにきり給ふ。其
なかに一の尾にいたてきれず。尊あやしとお
ぼしめし【思し召し】、たてさまにわて御らんずれば、一の霊
P11316
剣あり。是をとて天照大神にたてまつり給ふ。
「これはむかし、高間の原にてわがおとし【落し】たりし
剣なり」とぞのたまひける。大蛇の尾のなかにあり【有り】
ける時は、村雲つねにおほひ【覆ひ】ければ、あまのむら
雲の剣とぞ申ける。おほん神これをえて、あめ【天】
の宮の御たからとし給ふ。豊葦原中津国の
あるじとして、天孫をくだし奉り給ひし時、
この剣をも御鏡にそへてたてまつら【奉ら】せ給ひ
P11317
けり。第九代の御門開化天皇の御時までは、ひ
とつ【一つ】殿P2347におはしましけるを、第十代の御門崇神
天皇[B ノ]御宇に及で、霊威におそれ【恐れ】て、天照大神
を大和国笠ぬい【笠縫】の里、磯がきひろきにうつし
たてまつり【奉り】給ひし時、この剣をも天照大神の社
檀【*社壇】にこめたてまつら【奉ら】せ給ひけり。其時剣を作
りかへて、御まもり【守り】とし給ふ。御霊威もとの剣に
あひおとらず。あまの村雲の剣は、崇神天皇より
P11318
景行天皇まで三代は、天照大神の社檀【*社壇】にあがめ
をか【置か】れたりけるを、景行天皇の御宇四[B 十]年六月
に、東夷反逆のあひだ、御子日本武尊御心もかう【剛】
に、御力も人にすぐれておはしければ、精撰に
あたてあづまへくだり給ひし時、天照大神へま
い【参つ】て御いとま申させ給ひけるに、御いもうといつ
き【斎】の尊をもて、「謹でおこたる事なかれ」とて、
霊剣を尊にさづけ申給ふ。さて駿河国に
P11319
くだり給ひたりしかば、其ところ【所】の賊徒等「この
国は鹿のおほう【多う】候。狩してあそば【遊ば】せ給へ」とて、
たばかりいだし【出し】たてまつり【奉り】、野に火をはな【放つ】て既に
やきころし【殺し】たてまつら【奉ら】んとしけるに、尊はき【佩き】給
へる霊剣をぬいて草をなぎ給へば、はむけ【刃向】一里が
うちは草みななが【薙が】れぬ。みこと又火をいださ【出さ】れた
りければ、風たちまちに異賊の方へ吹おほひ【覆ひ】、
凶徒ことごとく【悉く】やけ死にぬ。それよりしてこそ、
P11320
あまの村雲の剣をば草なぎ【草薙】の剣とも名づけ
けれ。尊猶奥へい【入つ】て、三箇年があひだところどころ【所々】の
賊徒をうちたいらげ【平げ】、国々の凶P2348党[M 「凶徒」とあり「徒」をミセケチ「党」と傍書]をせめ【攻め】したがへ
てのぼらせ給ひけるが、道より御悩つかせ給
ひて、御年卅と申七月に、尾張国熱田の
へん【辺】にてつゐに【遂に】かくれ【隠れ】させ給ひぬ。其たまし
ゐ【魂】はしろき【白き】鳥となて天にあがり【上がり】けるこそふし
ぎ【不思議】なれ。いけどり【生捕り】のゑびす【夷】どもをば、御子たけひこ【武彦】
P11321
のみことをもて、御門へたてまつら【奉ら】せ給ふ。草
なぎ【草薙】の剣をば熱田の社におさめ【納め】らる。あめの御
門御宇七年に、新羅の沙門道慶、この剣を
ぬすんで吾国の宝とせむとおもて、ひそかに船に
かくしてゆく程に、風波巨動して忽に海底
にしづまんとす。すなはち霊剣のたたりなりと
して、罪を謝して先途をとげず、もとのごとく
かへし[* 「かくし」と有るのを高野本により訂正]おさめ【納め】たてまつる【奉る】。しかる【然る】を天武天皇朱
P11322
鳥元年に、是をめし【召し】て内裏にをか【置か】る。いまの宝
剣是也。御霊威いちはやうまします。陽成院
長病にをかされましまして、霊剣をぬかせ給ひ
ければ、夜るのおとどひらひらとして電光にこと
ならず。恐怖のあまりになげすてさせ給ひけ
れば、みづからはたとな【鳴つ】てさやにさされにけり。
上古にはかうこそめでたかりしか。たとひ二位殿
腰にさして海にしづみ給ふとも、たやすう
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うす【失す】べからずとて、すぐれたるあまうど【海人】共をめ
し【召し】て、かづき【潛き】もとめ【求め】られけるうへ、霊仏霊社に
たとき僧をこめ、種々の神宝をささげていの
り申されけれども、つゐに【遂に】うせにけり。その
時の有識【*有職】の人々申あはれけるは、「昔天照大
神、百王をまもら【守ら】んP2349と御ちかひあり【有り】ける、其御
ちかひいまだあらたまらずして、石清水の御な
がれいまだつきざるうへに、天照大神の日輪の
P11324
光いまだ地におち【落ち】させ給はず。末代澆季なり
とも、帝運のきはまる程の御事はあらじかし」と
申されければ、其中にある博士のかんがへ申
けるは、「むかし出雲国ひの川上にて、素戔烏の
尊にきりころさ【殺さ】れたてまつし大蛇、霊剣を
おしむ【惜しむ】心ざしふかくして、八のかしら八の尾
を表事として、人王八十代の後、八歳の帝と
なて霊剣をとりかへして、海底に沈み給ふ
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にこそ」と申す。千いろ【千尋】の海の底、神竜のたからと
なりしかば、ふたたび人間にかへらざるもことはり【理】
とこそおぼえけれ。一門大路渡S1113さる程に、二の宮かへりいら【入ら】せ
給ふとて、法皇より御むかへ【向へ】に御車をまいら
せ【参らせ】らる。御心ならず平家にとられさせ給ひて、
西海の浪の上にただよはせ給ひ、三とせをす
ごさせ給ひしかば、御母儀も御めのと【傅】持明院の
宰相も御心ぐるしき事におもは【思は】れけるに、
P11326
別の御事なくかへりのぼらせ給ひたりしかば、
さしつどひてみな悦びなき【泣き】どもせられけり。P2350お
なじき廿六日、平氏のいけどりども【生捕り共】京へいる。み
な八葉の車にてぞありける。前後のすだれ
をあげ、左右の物見をひらく。大臣殿は浄衣
をきたまへり。右衛門督はしろき【白き】直垂にて、車
のしりにぞのら【乗ら】れたる。平大納言時忠卿の車、おな
じくやりつづく。子息讃岐中将時実も、同車
P11327
にてわたるべかりしが、現所労とてわたされず。内
蔵頭信基は疵をかうぶたりしかば、閑道より入にけり。
大臣殿、さしも花やかにきよげ【清気】におはせし人の、あら
ぬさまにやせおとろへ給へり。されども、四方見めぐ
らして、いとおもひ【思ひ】しづめる気色もおはせず。右衛
門督はうつぶして目も見あげ給はず。誠におもひ
いれ【思ひ入れ】たるけしき也。土肥次郎実平、木蘭地の
直垂に小具足ばかりして、随兵卅余騎、車の
P11328
先後にうちかこ【囲ん】で守護し奉る。見る人都の
うちにもかぎらず、凡遠国近国、山々寺々より、老
たるも若きも、来たりあつまれり。鳥羽の南の
門・つくり道・四基【*四塚】までひしとつづいて、いく千万と
いふかず【数】をしら【知ら】ず。人は顧る事をえず。車は輪
をめぐらす事あたはず。治承・養和の飢饉、東
国・西国のいくさ【軍】に、人だねほろびうせ【失せ】たりといへども、
猶のこりはおほかり【多かり】けりとぞ見えし。都をいで【出で】て
P11329
中一年、無下にまぢかき程なれば、めでたかりし
事もわすれず。さしもおそれ【恐れ】おののきし人のけ
ふのありさま、夢うつつともわきかねたり。心なき
あやしのしづP2351のお【賎男】、しづのめ【賎女】にいたるまで、涙をなが
し袖をしぼらぬはなかりけり。ましてなれ【馴れ】ちかづ
き【近付き】ける人々の、いかばかりの事をかおもひ【思ひ】けん。
年来重恩をかうぶり、父祖のときより祗侯
したりし輩の、さすが身のすてがたさに、おほく【多く】は
P11330
源氏につゐ【付い】たりしかども、昔のよしみ忽にわする【忘る】
べきにもあらねば、さこそはかなしくおもひ【思ひ】けめ。
されば袖を■【*顔】にをし【押し】あてて、目を見あげぬ物も
おほかり【多かり】けり。大臣殿の御牛飼は、木曾が院参の
時、車やりそんじ【損じ】てきら【斬ら】れにける次郎丸がおとと【弟】、
三郎丸なり。西国にてはかり【仮】男になたりしが、今[B 一]度
大臣殿の御車をつかまつらんとおもふ【思ふ】心ざしふかか
り【深かり】ければ、鳥羽にて判官に申けるは、「とねり【舎人】牛飼
P11331
など申物は、いふかひなき下臈のはてにて候へば、
心あるべきでは候はねども、年ごろめし【召し】つかは【使は】れま
いらせ【参らせ】て候御心ざしあさから【浅から】ず。しかる【然る】べう候者、御
ゆるされ【許され】をかうぶて、大臣殿の最後の御車を
つかまつり候ばや」とあながちに申ければ、判官「子細
あるまじ。とうとう【疾う疾う】」とてゆるされける。なのめならず
悦て、尋常にしやうぞき【装束き】、ふところ【懐】よりやり
縄【遣縄】とりいだしつけ【付け】かへ、涙にくれてゆくさきも
P11332
見えねども、袖をかほにをし【押し】あてて、牛のゆくに
まかせつつ、なくなく【泣く泣く】やてぞまかり【罷り】ける。P2352法皇は六条
東洞院に御車をたてて叡覧あり。公卿殿上人
の車ども、[B 同う]たてならべたり。さしも御身ちかうめし【召し】
つかは【使は】れしかば、法皇もさすが御心よはう【弱う】、哀にぞ
おぼしめさ【思し召さ】れける。供奉の人々はただ夢とのみこそ
思はれけれ。「いかにもしてあの人にめ【目】をもかけられ、
詞の末にもかからばやとこそおもひ【思ひ】しかば、かかるべし
P11333
とは誰かおもひ【思ひ】し」とて、上下涙をながしけり。ひと
とせ【一年】内大臣になて悦申給ひし時は、公卿には
花山院の大納言をはじめとして、十二人扈従し
てやりつづけ給へり。殿上人には蔵人頭親宗
以下十六人前駆[* 「前馳」と有るのを高野本により訂正]す。公卿も殿上人もけふを晴と
きらめいてこそありしか。中納言四人、三位中将
も三人までおはしき。やがてこの平大納言も
其時は左衛門督にておはしき。御前へめされ
P11334
まいらせ【参らせ】て、御引出物給はて、もてなされ給
ひしありさま、めでたかりし儀式ぞかし。けふは
月卿雲客一人もしたがはず。おなじく檀【*壇】の浦
にていけどり【生捕り】にせられたりし侍ども廿余人、しろ
き【白き】直垂きて、馬のうへにしめ【締め】つけてぞわたされ
ける。川原までわたされて、かへ【帰つ】て、大臣殿父子は
九郎判官の宿所、六条堀川にぞおはしける。
御物まいらせ【参らせ】たりしかども、むねせきふさがて、
P11335
御はしをだにもたてられず。たがひに物はの給はねど
も、目を見あはせて、ひまなく涙P2353をながされけ
り。よるになれども装束もくつろげ給はず、袖を
かたしゐ【片敷い】てふし【臥し】給ひたりけるが、御子右衛門督
に御袖をうちきせ給ふをまもり【守り】たてまつる【奉る】
源八兵衛・江田源三・熊井太郎これをみて、「あは
れたかきもいやしきも、恩愛の道程かなしかり【悲しかり】
ける事はなし。御袖をきせ奉りたらば、いく程
P11336
の事あるべきぞ。せめての御心ざしのふかさ【深さ】かな」
とて、たけき【猛き】物のふどももみな涙をぞながし
ける。鏡S1114同廿八日、鎌倉の前兵衛佐頼朝朝臣、従二
位し給ふ。越階とて二階をするこそありがたき
朝恩なるに、是はすでに三階なり。三位をこそ
し給ふべかりしかども、平家のし給ひたりし
をいまう【忌まう】てなり。其夜の子剋に、内侍所、太政
官の庁より温明殿[* 「霊景殿」と有るのを他本により訂正]へいら【入ら】せ給ふ。主上行幸
P11337
なて、三か夜臨時の御神楽あり。右近将監小
家の能方、別勅をうけ給は【承つ】て、家につたはれる
弓立宮人といふ神楽の秘曲をつかまて、勧賞
かうぶりけるこそ目出けれ。この歌〔は〕、祖父八条判官
資忠といし伶人の外は、しれ【知れ】るもP2354のなし。あまり
に秘して子の親方にはをしへ【教へ】ずして、堀川【*堀河】
天皇御在位の時つたへ【伝へ】まいらせ【参らせ】て死去したり
しを、君親方にをしへ【教へ】させ給ひけり。道をう
P11338
しなは【失は】じとおぼしめす【思し召す】御心ざし、感涙おさへ難
し。抑内侍所と申は、昔天照大神、天の岩戸に閉
こもらんとせさせ給ひし時、いかにもして我御かた
ちをうつしをきて、御子孫に見せ奉らんとて、
御鏡をゐ【鋳】給へり。是なを【猶】御心にあはずとて、又
鋳かへさ【返さ】せ給ひけり。さきの御鏡は紀伊国日前
国懸の社是也。後の御鏡は御子あまのにいほみ【天忍穂耳】の
尊にさづけまいらせ【参らせ】させ給ひて、「殿をおなじう
P11339
してすみ給へ」とぞ仰ける。さて天照大神、天の
岩戸にとぢこもらせ給ひて、天下くらやみと
なたりしに、八百万代の神たち神あつまり【集まり】に
あつま【集まつ】て、岩戸の口にて御神楽をし給ひけれ
ば、天照大神感にたえ【堪へ】させ給はず、岩戸をほそめ【細目】に
ひらき見給ふに、互にかほ【顔】のしろく【白く】見えけるより
面白といふ詞ははじまりけるとぞうけ給はる【承る】。その
時こやねたぢからを【児屋根手力雄】といふ大ぢからの神よて、ゑいと
P11340
いひてあけ給ひしよりしてたて[* 「たれ」と有るのを高野本により訂正]【閉て】られずといへり。さて
内侍所は[* 「に」と有るのを高野本により訂正]、第九代の御門開化天皇の御時まで
はひとつ【一つ】殿におはしましけるを、第十代の御門崇
神天皇の御宇に及で、霊威におそれ【恐れ】て、別の
殿へうつし【移し】たてまつらせ給ふ。近来は温明殿[* 「霊景殿」と有るのを他本により訂正]に
おはします。遷都・遷幸の後百六十年をへて、P2355
村上天皇の御宇、天徳四年九月廿三日の子剋に、
内裏なかのへ【中重】にはじめて焼亡ありき。火は左衛門
P11341
の陣よりいで【出で】き【来】たりければ、内侍所のおはします
温明殿[* 「霊景殿」と有るのを他本により訂正]も程ちかし。如法夜半の事なれば、内
侍も女官もまいり【参り】あはずして、かしこ所【賢所】をいだ
し奉るにも及ばず。小野宮殿いそぎまいら【参ら】せ
給ひて、「内侍所すでにやけさせ給ひぬ。世はいまは
かうごさんなれ」とて御涙をながさせ給ふ程に、内侍
所はみづから炎の中をとびいでさせ給ひ、南
殿の桜の梢にかからせおはしまし、光明かく
P11342
やく【赫奕】として、朝の日の山の端をいづる【出づる】にことならず。
其時小野宮殿「世はいまだうせ【失せ】ざりけり」とおぼし
めす【思し召す】に、よろこびの御涙せきあへさせ給はず、右の
御ひざをつき、左の御袖をひろげて、泣々申させ
給ひけるは、「昔天照大神百王をまもら【守ら】んと御ち
かひあり【有り】ける、其御誓いまだあらたまらずは、神
鏡実頼が袖にやどらせ給へ」と申させ給ふ御
詞のいまだをはらざるさきに、飛うつらせ給ひ
P11343
けり。すなはち御袖につつんで、太政官の朝所へ
わたしたてまつらせ給ふ。近来は温明殿[* 「霊景殿」と有るのを他本により訂正]におはし
ます。この世にはうけ【受け】とり【取り】奉らんとおもひよる人も
誰かはあるべき。神鏡も又やどらせ給ふべからず。
上代こそ猶も目出けれ。P2356文之沙汰S1115平大納言時忠卿父子も、
九郎判官の宿所ちかうぞおはしける。世の中
のかくなりぬるうへは、とてもかうてもとこそおも
は【思は】るべきに、大納言猶命おしう【惜しう】やおもは【思は】れけん、
P11344
子息讃岐中将をまねひ【招い】て、「ちらす【散らす】まじきふみ
ども【文共】を一合、判官にとられてあるぞとよ。是を鎌倉
の源二位に見えなば、人もおほく【多く】損じ、我身も命
いけらるまじ。いかがせんずる」との給へば、中将申
されけるは、「判官はおほ方【大方】もなさけある物にて候
なるうへ、女房などのうちたへ【うち絶え】なげく【歎く】事をば、いか
なる大事をももてはなれ【離れ】ぬとうけ給【承り】候。
何かくるしう【苦しう】候べき。姫君達あまたましまし候へば、
P11345
一人見せさせ給ひ、したしうならせおはしまして
後、仰らるべうや候らん」。大納言涙をはらはらとながい【流い】て、
「我世にありし時は、むすめどもをば女御きさきと
こそおもひ【思ひ】しか。なみなみの人に見せんとはかけても
おもは【思は】ざりし物を」とてなか【泣か】れければ、中将「今は其
事ゆめゆめおぼしめし【思し召し】よらせ給ふべからず。たう
ほく【当腹】の姫君の十八になり給ふを」と申されけれども、
大納言それをば猶かなしき【悲しき】事におぼして、さきの
P11346
腹の姫君の廿三になり給ふをぞ、判官には見せ
られける。是も年こそすこし【少し】おとなしうおは
しP2357けれども、みめかたちうつくしう、心様ゆう【優】に
おはしければ、判官さりがたうおもひ【思ひ】たてま【奉つ】て、
もとのうへ川越【*河越】太郎重頼がむすめもありし
かども、是をば別の方尋常にしつらうてもて
なしけり。さて女房件のふみの事をの給ひいだし【出し】
たりければ、判官あまさへ【剰へ】封をもとかず、いそぎ時
P11347
忠卿のもとへをくら【送ら】れけり。大納言なのめならず
悦て、やがてやき【焼き】ぞすてられける。いかなるふみ
ども【文共】にてかあり【有り】けん、をぼつかなうぞきこえ【聞え】し。平
家ほろびて、いつしか国々しづまり、人のかよふも
煩なし。都もおだしかり【穏しかり】ければ、「ただ九郎判官程
の人はなし。鎌倉の源二位何事をかしいだしたる。
世は一向判官のままにてあらばや」などいふ事を、
源二位もれ【漏れ】きい【聞い】て、「こはいかに、頼朝がよくはからひて
P11348
兵をさしのぼすればこそ、平家はたやすうほろ
びたれ。九郎ばかりしては争か世をしづむべき。
人のかくいふにおご【奢つ】ていつしか世を我ままにしたる
にこそ。人こそおほけれ【多けれ】、平大納言の聟になて、大
納言もてあつかうなるもうけられず。又世にもはば
からず、大納言の聟どりいはれなし。くだても定て
過分の振舞せんずらん」とぞの給ひける。P2358副将被斬S1116同五月
七日、九郎大夫判官、平氏のいけどりども【生捕り共】あひぐし【具し】て、
P11349
関東へ下向ときこえ【聞え】しかば、大臣殿判官のもとへ
使者をたてて、「明日関東へ下向とうけ給候。恩愛
の道はおもひ【思ひ】きられぬ事にて候也。いけどり【生捕り】のう
ちに八歳の童とつけられて候しものは、いまだ此
世に候やらん。今一度見候ばや」とのたまひつかはさ【遣さ】
れたりければ、判官の返事には、「誰も恩愛はお
もひ【思ひ】きられぬ事にて候へば、誠にさこそおぼし
めさ【思し召さ】れ候らめ」とて、河越小太郎重房があづかりたて
P11350
ま【奉つ】たりけるを、大臣殿の〔許へ〕若君いれ【入れ】たてまつる【奉る】
べきよしの給ひければ、人に車かてのせ【乗せ】たてま
つり【奉り】、女房二人つきたてまつり【奉り】しも、ひとつ【一つ】車に
のりぐし【具し】て、大臣殿へぞまいら【参ら】れける。わか公【若君】ははる
かに父を見奉り給て、よにうれしげにおぼしたり。
「いかに是へ」との給へば、やがて御ひざのうへにまいり【参り】
給ふ。大臣殿、若公【若君】の御ぐしをかきなで、涙をはらはらと
ながひ【流い】て、守護の武士どもにのたまひ【宣ひ】けるは、「是は
P11351
をのをの【各々】きき給へ。母もなき物にてあるぞとよ。此子が
はは【母】は是をうむとて、産をばたいらか【平か】にしたりし
かども、やがてうちふし【臥し】てなやみしが、「いかなる人の
腹に公達をまうけ給ふとも、おもひ【思ひ】P2359かへずして
そだて【育て】て、わらはが形見に御らんぜよ。さしはな【放つ】て、
めのと【乳母】などのもとへつかはす【遣す】な」といひしことが不便さ
に、あの右衛門督をば、朝敵をたいらげ【平げ】ん時は
大将軍せさせ、これをば副将軍せさせんずれ
P11352
ばとて、名を副将とつけたりしかば、なのめならず
うれしげにおもひ【思ひ】て、すでにかぎりの時までも
名をよびなどしてあひせ【愛せ】しが、なぬか【七日】といふにはか
なく【果敢く】なりてあるぞとよ。此子を見るたびごとには、
その事がわすれがたくおぼゆる【覚ゆる】なり」とて涙もせき
あへ給はねば、守護の武士どももみな袖をぞし
ぼりける。右衛門督も泣給へば、めのとも袖をし
ぼりけり。良久しうあて大臣殿「さらば副将、
P11353
とく【疾く】かへれ、うれしうも見つ」との給へども、若公【若君】
かへり給はず。右衛門督これを見て、涙ををさへ
ての給ひけるは、「やや副将御ぜ、こよひはとくとく帰れ。
ただいまま〔ら〕う人【客人】のこ【来】うずるぞ。あしたはいそぎまい
れ【参れ】」との給へども、父の御浄衣の袖にひしととり
ついて、「いなや、かへらじ」とこそなき【泣き】給へ。かくてはる
かに程ふれば、日もやうやう暮にけり。さてしもある
べき事ならねば、めのとの女房いだきとて、御
P11354
車にのせ【乗せ】奉り、二人の女房どもも袖を■【*顔】に
をし【押し】あてて、泣々いとま申つつ、ともにの【乗つ】てぞいで【出で】
にける。大臣殿はうしろをはるかに御覧じを
く【送つ】て、「日来の恋しさは事のかずならず」とぞか
なしみ給ふ。「このP2360わか公【若君】は、母のゆひごん【遺言】がむざん【無慙】な
れば」とて、めのとのもとへもつかはさ【遣さ】ず、あさゆふ御
まへにてそだて【育て】給ふ。三歳にてうゐかぶり【初冠】きせて、
義宗とぞなのら【名乗ら】せける。やうやうおい【生ひ】たち【立ち】給ふままに、
P11355
みめかたちうつくしく、心ざまゆう【優】におはしけれ
ば、大臣殿もかなしう【悲しう】いとをしき事におぼして、
西海の旅の空、浪のうへ、船のうちのすまひ【住ひ】にも、
かた時もはなれ給はず。しかる【然る】をいくさ【軍】やぶれて
後は、けふぞたがひ【互】にみ【見】給ひける。河越小太郎、判官
の御まへにまい【参つ】て、「さてわか公【若君】の御事をばなにと御
ぱからひ候やらん」と申ければ、「鎌倉までぐし【具し】たて
まつる【奉る】に及ばず。なんぢともかうも是であひはか
P11356
らへ」とぞの給ひける。河越小太郎二人の女房どもに
申けるは、「大臣殿は鎌倉へ御くだり候が、わか公【若君】は京に
御とどまりあるべきにて候。重房もまかり【罷り】下候あ
ひだ、おかた【緒方】の三郎惟義が手へわたし奉るべきに
て候。とうとうめさ【召さ】れ候へ」とて、御車よせたりければ、
わか公【若君】なに心【何心】もなうのり【乗り】給ひぬ。「又昨日のやうに
父御前の御もとへか」とてよろこば【喜ば】れけるこそ
はかなけれ。六条を東へやてゆく。この女房ども
P11357
「あはやあやしき物かな」と、きも魂をけち【消ち】て思ける
程に、すこし【少し】ひきさがて、兵五六十騎が程河原へ
うちいでたり。やがて車をやりとどめ【留め】て敷皮し
き、「おりさせ給へ」と申けP2361れば、わか公【若君】車よりおり
給ひぬ。よにあやしげにおぼして、「我をばいづちへ
ぐし【具し】てゆかんとするぞ」ととひ給へば、二人の女房ども
とかうの返事にも及ばず。重房が郎等太刀を
ひきそばめて、左の方より御うしろに立ま
P11358
はり、すでにきりたてまつら【奉ら】んとしけるを、わか公【若君】見
つけ給て、いく程のがる【逃る】べき事のやうに、いそぎ
めのと【乳母】のふところ【懐】のうちへぞ入給ふ。さすが心づよう
とりいだし奉るにも及ばねば、わか公【若君】をかかへたて
まつり【奉り】、人のきく【聞く】をもはばからず、天にあふぎ地に
ふしておめき【喚き】さけみける心のうち、をしはから【推し量ら】れ
て哀也。かくて時剋はるかにをし【押し】うつりければ、
川越【*河越】小太郎重房涙ををさへて、「いまはいかにおぼ
P11359
しめされ〔候〕とも、かなは【叶は】せ給候まじ。とうとう」と申け
れば、其時めのと【乳母】のふところ【懐】のうちよりひきいだし
奉り、腰の刀にてをし【押し】ふせ【伏せ】て、つゐに【遂に】頸をぞ
かいてげる。たけき【猛き】物のふどももさすが岩木なら
ねば、みな涙をながしけり。頸をば判官のげざん【見参】に
いれ【入れ】んとて取てゆく。めのとの女房かちはだしにて
を【追つ】つゐ【付い】て、「なにかくるしう【苦しう】候べき。御頸ばかりをば
給はて、後世をとぶらひまいらせ【参らせ】ん」と申せば、判
P11360
官よにあはれ【哀】げにおもひ【思ひ】、涙をはらはらとながい【流い】て、
「まこと【誠】にさこそはおもひ【思ひ】給ふらめ。もともさるべし。
とうとう」とてたびにけり。是をとてふところ【懐】にいれ【入れ】て、
なくなく【泣く泣く】京の方へ帰るとぞ見えし。其P2362後五六日
して、桂川に女房二人身をなげたる事あり【有り】けり。
一人おさなき【幼き】人の頸をふところ【懐】にいだひ【抱い】てしづ
みたりけるは、此わか公【若君】のめのとの女房にてぞあり
ける。いま一人むくろをいだひ【抱い】たりけるは、介惜【介錯】の
P11361
女房なり。めのとがおもひ【思ひ】きる【切る】はせめていかがせん、かい
しやく【介錯】の女房さへ身をなげけるこそありがた
けれ。腰越S1117さる程に、大臣殿は九郎大夫[B ノ]判官にぐせ【具せ】られ
て、七日のあかつき、粟田口をすぎ給へば、大内山、雲
井のよそにへだたりぬ。関の清水を見給ても、
なくなく【泣く泣く】かうぞ詠じ給ひける。
都をばけふをかぎりの関水に
又あふ坂【逢坂】のかげやうつさ【映さ】む W089
P11362
道すがらもあまりに心ぼそげにおぼしければ、判
官なさけある人にて、やうやうになぐさめ奉る。「あひ
かまへて今度の命をたすけ【助け】てたべ」との給ひけ
れば、「遠き国、はるかの島へもうつし[B ぞ]まいらせ【参らせ】候はん
ずらん。御命うしなひ【失ひ】奉るまではよも候はじ。
たとひさるとも、義経が勲功の賞に申かへて、
御命ばかP2363りはたすけ【助け】まいらせ【参らせ】候べし。御心やすく
おぼしめさ【思し召さ】れ候へ」と、たのもしげ【頼もし気】に申され〔けれ〕ば、「たとひ
P11363
ゑぞ【蝦夷】が千島なりとも、甲斐なき命だにあらば」と
の給ひけるこそ口惜けれ。日数ふれば、同廿四日、鎌
倉へくだりつき給ふ。梶原さきだて鎌倉殿
に申けるは、「日本国は今はのこるところ【所】なうした
がひたてまつり【奉り】候。ただし御弟九郎大夫判官
殿こそ、つゐの御敵とは見えさせ給候へ。その
ゆへ【故】は、「一の谷をうへの山よりおとさ【落さ】ずは、東西の
木戸口やぶれがたし。いけどり【生捕り】も死にどりも
P11364
義経にこそ見すべきに、物のよう【用】にもあひ給
はぬ蒲殿の方へ見参に入べき様やある。
本三位中将殿こなたへたば【賜ば】じと候ば、まい【参つ】て給
はるべし」とて、すでにいくさ【軍】いで【出で】き【来】候はんとし
候しを、景時が土肥に心をあはせて、三位中将
殿を土肥次郎にあづけて後こそしづまり
給て候しか」とかたり申ければ、鎌倉殿うち
うなづいて、「けふ九郎が鎌倉へいる【入る】なるに、おのおの
P11365
用意し給へ」と仰られければ、大名小名馳あつ
ま【集まつ】て、程なく数千騎になりにけり。金洗沢に
関すへ【据ゑ】て、大臣殿父子うけ【受け】とり【取り】たてま【奉つ】て、判官
をば腰ごえ【腰越】へお【追つ】かへさ【返さ】る。鎌倉殿は随兵七重八重
にすへ【据ゑ】をいて、我身は其中におはしましながら
「九郎はこのたたみ【畳】のしたよりはひ【這ひ】いでんずる
ものなり。ただし頼朝はせらP2364るまじ」とぞの給
ける。判官おもは【思は】れけるは、「こぞの正月、木曾義
P11366
仲を追討せしよりこのかた、一の谷・檀【*壇】の浦に
いたるまで、命をすてて平家をせめ【攻め】おとし、内
侍所しるしの御箱事ゆへ【故】なく返しいれ【入れ】
たてまつり【奉り】、大将軍父子いけどり【生捕り】にして、ぐし【具し】
て是まで下りたらんには、たとひいかなるふし
ぎ【不思議】ありとも、一度はなどか対面なかるべき。凡は九
国の惣追補使【*惣追捕使】にもなされ、山陰・山陽・南海道、い
づれにてもあづけ、一方のかためともなされんずると
P11367
こそおもひ【思ひ】つるに、わづかに伊与【*伊予】国ばかりを知行
すべきよし仰られて、鎌倉へだにも入られぬ
こそほいなけれ。さればこは何事ぞ。日本国を
しづむる事、義仲・義経がしわざにあらずや。
たとへばおなじ父が子で、先にむまるる【生るる】を兄とし、
後にむまるる【生るる】を弟とするばかり也。誰か天下を
しら【知ら】んにしら【知ら】ざるべき。あまさへ【剰へ】今度見参を
だにもとげずして、をい【追ひ】のぼせ【上せ】らるるこそ遺恨
P11368
の次第なれ。謝するところ【所】をしらず」とつぶや
かれ[B けれ]ども、ちからなし。またく不忠なきよし、たびたび
起請文をもて申されけれども、景時が讒言に
よて、鎌倉殿もちゐ給はねば、判官泣々一通の
状をかいて、広基のもとへつかはす【遣す】。
源義経恐ながら申上候意趣者、御代官の其
一に撰ばれ、勅宣の御使として、朝敵をかたむ
け、会稽の恥辱をすすぐ。勲賞おこなはる
P11369
べき処に、虎P2365口の讒言によてむなしく紅涙
にしづむ。讒者の実否をただされず、鎌倉中
へ入られざる間、素意をのぶるにあたはず、い
たづらに数日ををくる【送る】。此時にあたてながく恩
顔を拝したてまつら【奉ら】ず〔ば〕、骨肉同胞の義す
でにたえ【絶え】、宿運きはめてむなしき【空しき】にに【似】たるか、将又
先世の業因の感ずる歟。悲哉、此条、故亡父
尊霊再誕し給はずは、誰の人か愚意の悲歎
P11370
を申ひらかん、いづれの人か哀憐をたれられん
や。事あたらしき申状、述懐に似たりといへども、
義経身体髪膚を父母にうけて、いくばくの
時節をへず故守殿御他界の間、みなし
子となり、母の懐のうちにいだかれて、大和国宇
多郡におもむき【赴き】しよりこのかた、[B いまだ]一日片時
安堵のおもひ【思ひ】に住せず。甲斐なき命は存す
といへども、京都の経廻難治の間、身を在々所々
P11371
にかくし、辺土遠国をすみかとして、土民百姓
等〔に〕服仕せらる。しかれども高慶忽に純熟して、
平家の一族追討のために上洛せしむる手
あはせに、木曾義仲を誅戮の後、平氏をか
たむけんがために、或時は峨々たる巌石に駿馬
に鞭うて、敵のために命をほろぼさん事を
顧ず、或時は漫々たる大海に風波の難をしの
ぎ、海底にしづまん事をいたま【痛ま】ずして、かばね
P11372
を鯨鯢の鰓にかく。しかのみならず、甲冑を
枕とし弓箭を業とする本意、しかしながら
亡魂のいきどほりをやすめたてP2366まつり、年来
の宿望をとげんと欲する外他事なし。あま
さへ【剰へ】義経五位尉に補任の条、当家の重職何
事か是にしかん。しかりといへども今愁ふかく歎切
也。仏神の御たすけ【助け】にあらずより外は、争か愁
訴を達せん。これによて諸神諸社の牛王[* 「牛玉」と有るのを高野本により訂正]宝
P11373
印のうらをもて、野心を挿まざるむね、日本
国中の神祇冥道を請じ驚かし奉て、数通
の起請文をかき【書き】進ずといへども、猶以御宥免
なし。我国神国也。神非礼を享給べからず。■
処他にあらず。ひとへに貴殿広大の慈悲を
仰ぐ。便宜をうかがひ【伺ひ】高聞に達せしめ、秘計
をめぐらし、あやまりなきよしをゆうぜ【宥ぜ】られ、放
免にあづからば、積善の余慶家門に及び、栄花
P11374
をながく子孫につたへむ。仍年来の愁眉を
開き、一期の安寧を得ん。書紙につくさず。
併令省略候畢。義経恐惶謹言。元暦二年
六月五日源義経進上因幡守殿へとぞかか【書か】れ
たる。大臣殿被斬S1118 P2367さる程に、鎌倉殿大臣殿に対面あり。おはし
ける〔所〕、庭をひとつ【一つ】へだててむかへ【向へ】なる屋にすへ【据ゑ】たて
まつり【奉り】、簾のうちより見いだし、比気【*比企】[B ノ]藤四郎義
員【*能員】を使者で申されけるは、「平家の人々に別の
P11375
意趣おもひ【思ひ】たてまつる【奉る】事、努々候はず。其上
池殿の尼御前いかに申給とも、故入道殿の
御ゆるされ【許され】候はずは、頼朝いかでかたすかり候べ
き。流罪になだめ【宥め】られし事、ひとへに入道殿の
御恩也。されば廿余年までさてこそ罷過候
しかども、朝敵となり給ひて追討すべき由
院宣を給はる間、さのみ王地にはらまれて、詔
命をそむくべきにあらねば、力不及。か様【斯様】に
P11376
見参に入候ぬるこそ本意に候へ」と申され
ければ、義員【*能員】このよし申さんとて、御まへにま
いり【参り】たりければ、ゐ【居】なをり【直り】畏り給ひけるこそ
うたてけれ。国々の大名小名なみ【並み】ゐたる其
中に、京の物どもいくらもあり、平家の家人
たりし物もあり、みなつまはじき【爪弾き】をして
申けるは、「ゐ【居】なをり【直り】畏給ひたらば、御命の
たすかり給べきか。西国でいかにもなり給べき人の、
P11377
[B いきながらとらはれて、]是までくだり[* 「のぼり」と有るのを高野本により訂正]給ふこそことはり【理】なれ」とぞ申
ける。或は涙をながす人もあり。其中にある人の
申けるは、「猛虎深山にある時は、百獣ふるひ【震ひ】おづ。
檻井のうちにあるに及で、尾を動かして食
をもとむとて、たけひ【猛い】虎のふかい山にある時は、
もも【百】のけだ物おぢをそる【恐る】といへども、とており【檻】
の中にこめられぬる時P2368は、尾をふて人にむかふ【向ふ】
らんやうに、いかにたけき【猛き】大将軍なれども、加様に
P11378
なて後は心かはる事なれば、大臣殿もかくおは
するにこそ」と申ける人もありけるとかや。さる程
に、九郎大夫判官やうやうに陳じ申されけれ
ども、景時が讒言によて鎌倉殿さらに分明の
御返事もなし。「いそぎのぼらるべし」と仰られ
ければ、同六月九日、大臣殿父子具し奉て都
へぞ帰りのぼられける。大臣殿はいますこし【少し】も
日数ののぶるをうれしき事におもは【思は】れけり。
P11379
道すがらも「ここにてやここにてや」とおぼしけれども、国々
宿々うちすぎうちすぎとほりぬ。尾張国うつみ【内海】と
いふ処あり。ここは故左馬頭義朝が誅せられし
所なれば、これにてぞ一定とおもは【思は】れけれども、
それをもすぎ【過ぎ】しかば、大臣殿すこし【少し】たのもし
き【頼もしき】心いで【出で】き【来】て、「さては命のいき【生き】んずるやらん」と
の給ひけるこそはかなけれ。右衛門督は「なじかは
命をいくべき。か様【斯様】にあつき比なれば、頸の損
P11380
ぜぬ様にはからひ、京ちかうなてきらんずるに
こそ」とおもは【思は】れけれども、大臣殿のいたく心ぼそ
げにおぼしたるが心ぐるしさに、さは申されず。ただ
念仏をのみぞ申給ふ。日数ふれば都もちかづ
き【近付き】て、近江国しの原【篠原】の宿につき給ひぬ。判官
なさけふかき人なれば、三日路より人を先だ
てて、善知識のために、大P2369原の本性房湛豪といふ
聖を請じ下されたり。昨日まではおや子【親子】一所に
P11381
おはしけるを、けさよりひき【引き】はな【放つ】て、別の所に
すへ【据ゑ】たてまつり【奉り】ければ、「さてはけふを最後にてある
やらん」と、いとど心ぼそうぞおもは【思は】れける。大臣殿
涙をはらはらとながひ【流い】て、「抑右衛門督はいづくに
候やらん。手をとりくんでもをはり、たとひ頸は
おつとも、むくろはひとつ【一つ】席にふさ【臥さ】んとこそおもひ【思ひ】
つるに、いきながらわかれぬる事こそかなし
けれ。十七年が間、一日片時もはなるる事なし。
P11382
海底にしづまでうき名をながすも、あれゆへ【故】
なり」とてなか【泣か】れければ、聖もあはれ【哀】におもひ【思ひ】けれ
ども、我さへ心よはく【弱く】てはかなは【叶は】じとおもひ【思ひ】て、涙
をし【押し】のごひ【拭ひ】、さらぬていにもてないて申けるは、
「いまはとかくおぼしめす【思し召す】べからず。最後の御有
様を御らん【覧】ぜんにつけても、たがひ【互】の御心のうち
かなしかる【悲しかる】べし。生をうけさせ給てよりこの
かた、たのしみさかへ【栄え】、昔もたぐひすくなし。御
P11383
門の御外戚にて丞相の位にいたらせ給へり。
今生の御栄花一事ものこるところなし。いま
又かかる御目にあはせ給ふも、先世の宿業なり。
世をも人をも恨みおぼしめす【思し召す】べからず。大梵
王宮の深禅定のたのしみ、おもへ【思へ】ば程なし。い
はんや電光朝露の下界の命にをいてをや。
■利天の億千歳、ただ夢のごとし。卅九年の
すぐさせ給ひけんも、わづかに一時の間なり。たれか
P11384
甞たりし不老不死P2370の薬、誰かたもち【保ち】たりし
東父西母が命、秦の始皇の奢をきはめしも、
遂には麗山【*驪山】の墓[* 「基」と有るのを高野本により訂正]にうづもれ、漢の武帝の命を
おしみ【惜しみ】給ひしも、むなしく杜陵の苔にくちに
き。「生あるものは必滅す。釈尊いまだ栴檀の
煙をまぬかれ給はず。楽尽て悲来る。天人
尚五衰の日にあへり」とこそうけ給はれ【承れ】。されば
仏も「我心自空、罪福無主、観心無心、法不住〔法〕」〔とて〕、善
P11385
も悪も空なりと観ずるが、まさしく仏の御心に
あひかなふ【叶ふ】事にて候也。いかなれば[* 「いかなる」と有るのを高野本により訂正]弥陀如来は、五劫が
間思惟して、発がたき願を発しましますに、
いかなる我等なれば、億々万劫が間生死に輪廻
して、宝の山に入て手を空うせん事、恨の
なかの恨、愚なるなかの口惜い事に候はずや。
ゆめゆめ余念をおぼしめす【思し召す】べからず」とて、戒たもた【保た】
せたてまつり【奉り】、念仏すすめ【進め】申。大臣殿しかる【然る】べき
P11386
善知識かなとおぼしめし【思し召し】、忽に妄念ひるがへし
て、西にむかひ【向ひ】手をあはせ、高声に念仏し給ふ
処に、橘右馬允公長、太刀をひきそばめて、左
の[B 方より]御うしろにたちまはり、すでにきりたてまつ
らんとしければ、大臣殿念仏をとどめ【留め】て、「右衛
門督もすでにか」との給ひけるこそ哀なれ。公
長うしろへよるかと見えしかば、頸はまへにぞ落
にける。善知識の聖も涙に咽び給ひけり。たけき【猛き】
P11387
もののふも争かあはれ【哀】とおもは【思は】ざるべき。まして
かの公長は、平家重代の家人、新中納言のもとに
朝夕祗候の侍也。P2371「さこそ世をわづらうといひ
ながら、無下になさけなかりける物かな」とぞみな
人慚愧しける。其後右衛門督をも、聖前の
ごとくに戒たもた【保た】せ奉り、念仏すすめ申。「大臣
殿の最後いかがおはしましつる」ととは【問は】れける
こそいとをしけれ。「目出たうましまし候つるなり。
P11388
御心やすうおぼしめさ【思し召さ】れ候へ」と申されければ、涙
をながし悦て、「今はおもふ【思ふ】事なし。さらばとう」
とぞの給ひける。今度は堀[B ノ]弥太郎きてげり。
頸をば判官もたせて都へいる。むくろをば公長
が沙汰として、おや子【親子】ひとつ【一つ】穴にぞうづみける。
さしも罪ふかくはなれ【離れ】がたくの給ひければ、かやう
にしてんげり。同廿三日、大臣殿父子のかうべ都へいる。
検非違使ども、三条河原にいで向て是をうけ【受け】
P11389
とり【取り】、大路をわたして左の獄門の樗の木にぞ
かけたりける。三位以上の人の頸、大路をわたして
獄門にかけらるる事、異国には其例もやある
らん、吾朝にはいまだ先蹤をきかず。されば平治に
信頼は悪行人たりしかば、かうべをばはねられたり
しかども、獄門にはかけられず。平家にとてぞかけ
られける。西国よりのぼ【上つ】てはいき【生き】て六条を東へ
わたされ、東国よりかへ【帰つ】てはしん【死ん】で三条を西へわた
P11390
され給ふ。いきての恥、しんでの恥、いづれもおと
らP2372ざりけり。重衡被斬S1119本三位中将重衡卿者、狩野介宗
茂にあづけられて、去年より伊豆国におはし
けるを、南都大衆頻に申ければ、「さらばわたせ【渡せ】」
とて、源三位入道頼政の孫、伊豆蔵人大夫頼
兼に仰て、遂に奈良へぞつかはし【遣し】ける。都へは
入られずして、[B 大津より山しなどをり【山科通り】に、]醍醐路をへてゆけば、日野は
ちかかり【近かり】けり。此重衡卿の北方と申は、鳥飼の
P11391
中納言惟実のむすめ、五条大納言国綱【*邦綱】卿の
養子、先帝の御めのと【乳母】大納言佐殿とぞ申
ける。三位中将一谷でいけどり【生捕り】にせられ給ひし
後も、先帝につきまいらせ【参らせ】ておはせしが、
檀【*壇】の浦にて海にいらせ給ひしかば、もののふの
あらけなきにとらはれて、旧里に帰り、姉の
大夫三位に同宿して、日野といふ所におはし
けり。中将の露の命、草葉の末にかかてきえ
P11392
やらぬときき給へば、夢ならずして今一度見も
し見えもする事もやとおもはれけれども、[B それも]
かなは【叶は】ねば、なく【泣く】より外のなぐさめなく[M し]て、あか
し【明かし】くらし給ひけり。三位中将守護の武士にの
給ひけるは、「此程事にふれてなさけP2373ふかう【深う】芳
心おはしつるこそ[B ありがたう]うれしけれ。同くは最後に
芳恩かぶりたき事あり。我は一人の子なければ、
この世におもひ【思ひ】をく【置く】事なきに、年来あひぐし【具し】
P11393
たりし女房の、日野といふところ【所】にありときく。
いま一度対面して、後生の事を申をか【置か】ばや
とおもふ【思ふ】なり」とて、片時のいとまをこは【乞は】れけり。
武士どもさすが岩木ならねば、おのおの涙をながし
つつ「なにかはくるしう【苦しう】候べき」とて、ゆるしたてまつる【奉る】。中
将なのめならず悦て、「大納言佐殿の御局は
これにわたらせ給候やらん。本三位中将殿の只
今奈良へ御とをり【通り】候が、立ながら見参に入ばやと
P11394
仰候」と、人をいれ【入れ】ていは【言は】せければ、北方聞もあへ
ず「いづらやいづら」とてはしり【走り】いで【出で】て見給へば、藍
摺の直垂に折烏帽子きたる男の、やせくろみ【黒み】
たるが、縁によりゐたるぞそなりける。北方みす【御簾】の
きはちかく【近く】よて、「いかに夢かやうつつか。これへいり【入り】
給へ」との給ひける御声をきき給ふに、いつしか先立
ものは涙也。大納言佐殿目もくれ心もきえはてて、
しばしは物もの給はず。三位中将御簾うちかづいて、
P11395
なくなく【泣く泣く】の給ひけるは、「こぞの春、一の谷でいかにも
なるべかりし身の、せめての罪のむくひにや、
いきながらとらはれて大路をわたされ、京鎌
倉恥をさらすだに口惜きに、はて【果】は奈良の
大衆の手へわたされてきらるべしとて罷候。
いかにもして今一度御すがたをみ【見】たP2374てまつら【奉ら】
ばやとおもひ【思ひ】つるに、いまは露ばかりもおもひ【思ひ】
をく【置く】事なし。出家して形見にかみ【髪】をもたてまつら【奉ら】
P11396
ばやとおもへ【思へ】ども、ゆるされ【許され】なければ力及ばず」とて、
ひたゐ【額】のかみをすこし【少し】ひきわけて、口のをよぶ【及ぶ】
ところ【所】をくひきて、「是を形見に御らんぜよ」とて
たてまつり【奉り】給ふ。北方は、日来おぼつかなくおぼしける
より、いま一しほかなしみの色をぞまし給ふ。
「まこと【誠】に別たてまつり【奉り】し後は、越前三位のうへの
様に、水の底にもしづむべかりしが、まさしう
この世におはせぬ人ともきか【聞か】ざりしかば、もし
P11397
不思議にて今一度、かはら【変ら】ぬすがたをみ【見】もし
見えもやするとおもひ【思ひ】てこそ、うき【憂き】ながら今
までもながらへ【永らへ】てありつるに、けふ【今日】をかぎりにて
おはせんずらんかなしさよ。いままでのび【延び】つるは、
「もしや」とおもふ【思ふ】たのみ【頼み】もありつる物を」とて、昔
いまの事どもの給ひかはすにつけても、ただつき
せぬ物は涙也。「あまりに[B 御]すがたのしほれ【萎れ】てさぶ
らふ【候ふ】に、たてまつりかへよ」とて、あはせの小袖に
P11398
浄衣をいださ【出さ】れたりければ、三位中将是をきかへ
て、もと[M の]き【着】給へる物どもをば、「形見に御らん【覧】ぜ
よ」とてをか【置か】れけり。北方「それもさる事[B にて]さぶ
らへ【候へ】ども、はかなき筆の跡こそながき世のかた
み【形見】にてさぶらへ【候へ】」とて、御硯をいださ【出さ】れたりければ、
中将なくなく【泣く泣く】一首の歌をぞかかれける。P2375
せきかねて涙のかかるからごろも【唐衣】
のちのかたみにぬぎ【脱ぎ】ぞかへぬる W090
P11399
女房ききもあへず
ぬぎかふる【変ふる】ころも【衣】もいま【今】はなにかせん
けふ【今日】をかぎりのかたみとおもへ【思へ】ば W091
「契あらば後世にてはかならず【必ず】むまれ【生れ】あひたて
まつら【奉ら】ん。ひとつ【一つ】はちす【蓮】[B に]といのり【祈り】給へ。日もたけぬ。
奈良へも遠う候。武士どものまつ【待つ】も心なし」とて、
出給へば、北方袖にすがて「いかにやいかに、しばし」とて
ひき【引き】とどめ【留め】給ふに、中将「心のうちをばただをしはかり
P11400
給べし。されどもつゐに【遂に】のがれ【逃れ】はつべき身にも
あらず。又こ【来】ん世にてこそ見たてまつら【奉ら】め」とて
いで【出で】給へども、まことに此世にてあひ見ん事は、是ぞ
かぎりとおもは【思は】れければ、今一度たちかへりたく
おぼしけれども、心よはく【弱く】てはかなは【叶は】じと、おもひ【思ひ】きて
ぞいでられける。北方御簾のきはちかくふし【臥し】
まろび、おめき【喚き】さけび【叫び】給ふ御声の、門の外まで
はるかにきこえ【聞え】ければ、駒をもさらにはやめ給は
P11401
ず。涙にくれてゆくさきも見えねば、中々なり
ける見参かなと、今はくやしうぞおもは【思は】れける。
大納言佐殿やがてはしり【走り】ついてもおはしぬべく
はおぼしけれども、それもさすがなれば、ひきかづい
てぞふし給ふ。南都[B ノ]大衆うけ【受け】と【取つ】て僉議す。「抑此
重衡卿者大犯の悪人たるうへ、三P2376千五刑のうち
にもれ【漏れ】、修因感果の道理極上せり。仏敵法敵
の逆臣なれば、東大寺・興福寺の大垣をめぐらし
P11402
て、のこぎりにてやきるべき、堀頸にやすべき」と
僉議す。老僧どもの申されけるは、「それも僧徒
の法に穏便ならず。ただ守護の武士にたう【賜う】で、
粉津【*木津】の辺にてきらすべし」とて、武士の手へぞ
かへしける。武士是をうけ【受け】と【取つ】て、粉津川【*木津川】のはたにて
きらんとするに、数千人の大衆、見る人いくらと
いふかず【数】をしら【知ら】ず。三位中将のとしごろめし【召し】つか
は【使は】れける侍に、木工右馬允知時といふ物あり。八条
P11403
女院に候けるが、最後をみたてまつら【奉ら】んとて、鞭を
うてぞ馳たりける。すでに只今きりたてまつら【奉ら】ん
とする処にはせ【馳せ】つゐ【着い】て、千万立かこう【囲う】だる人の
中をかきわけかきわけ、三位中将のおはしける御そ
ばちかうまいり【参り】たり。「知時こそただいま最後の
御有様みまいらせ【参らせ】候はんとて、是までまいり【参り】て
こそ候へ」となくなく【泣く泣く】申ければ、中将「まこと【誠】に心ざし
の程神妙也。仏ををがみ【拝み】たてま【奉つ】てきらればやと
P11404
おもふ【思ふ】はいかがせんずる。あまりに罪ふかう【深う】おぼ
ゆる【覚ゆる】に」との給へば、知時「やすい御事候や」とて、守
護の武士に申あはせ、そのへん【辺】におはしける
仏を一体むかへ【向へ】たてま【奉つ】て出きたり。幸に阿弥
陀にてぞましましける。川原のいさごのうへに
立まいらせ【参らせ】、やがて知時が狩衣の[B 袖の]くくり【括り】をといP2377
て、仏の御手にかけ、中将にひかへさせ奉る。是
をひかへ奉り、仏にむかひ【向ひ】たてま【奉つ】て申されけるは、
P11405
「つたへきく、調達が三逆をつくり、八万[B 蔵]の聖教を
ほろぼしたりしも、遂には天王如来の記■に
あづかり、所作の罪業まこと【誠】にふかしといへども、聖
教に値遇せし逆縁くち【朽ち】ずして、かへて【却つて】得道
の因と〔も〕なる。いま重衡が逆罪をおかす事、またく
愚意の発起にあらず、只世に随ふことはり【理】を
存斗也。命をたもつ【保つ】物誰か王命を蔑如する、
生をうくる物誰か父の命をそむかん。かれといひ、
P11406
是といひ、辞するに所なし。理非仏陀の照覧
にあり。抑罪報たちどころにむくひ、運命只今
をかぎりとす。後悔千万かなしんでもあまり[B あり]。ただし
三宝の境界は慈悲を心として、済度の良
縁まちまちなり。唯縁楽意、逆即是順、此文肝
に銘ず。一念弥陀仏、即滅無量罪、願くは逆縁
をもて順縁とし、只今の最後の念仏によて
九品託生をとぐべし」とて、高声に十念唱へ
P11407
つつ、頸をのべてぞきらせられける。日来の悪
行はさる事なれども、いまのありさまを見たて
まつる【奉る】に、数千人の大衆も守護の武士も、みな
涙をぞながしける。其頸をば、般若寺大鳥井【*大鳥居】
のまへに釘づけ【付】にこそかけたりけれ。治承の合
戦の時、ここにう【打つ】た【立つ】て伽藍をほろぼし給へるゆ
へ【故】なり。北方大納言佐殿、かうべをこそはね【刎ね】られ
たりとも、むくろをばとりよせて孝P2378養せんとて、
P11408
輿をむかへ【向へ】につかはす【遣す】。げにもむくろをばすて【捨て】をき
たりければ、とて輿にいれ【入れ】、日野へかい【舁い】てぞかへり
ける。是をまちうけ見給ひける北方の心の
うち、をしはから【推し量ら】れて哀也。昨日まではゆゆし
げにおはせしかども、あつき【暑き】ころなれば、いつしか
あらぬさまになり給ひぬ。さてもあるべきなら
ねば、其辺に法界寺といふ処にて、さるべき僧
どもあまたかたらひて孝養あり。頸をば大仏
P11409
のひじり俊乗房にとかくの給へば、大衆に
こう【乞う】て日野へぞつかはし【遣し】ける。頸もむくろも
煙になし、骨をば高野へをくり【送り】、墓[* 「基」と有るのを高野本により訂正]をば日
野にぞせられける。北方もさまをかへ、かの
後生菩提をとぶらはれけるこそ哀なれ。
平家物語巻第十一

平家物語(龍谷大学本)巻第十二

【許諾済】
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【注意】
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【底本】
本テキストの底本は、龍谷大学大宮図書館所蔵『平家物語』です。直接には、思文閣出版発行の影印本に拠りました。

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平家物語巻第十二
大地震S1201平家みなほろびはてて、西国もしづまりぬ。
国は国司にしたがひ【従ひ】、庄は領家のままなり。上下
安堵しておぼえし程に、同七月九日の午刻
ばかりに、大地おびたたしく【夥しく】うごいて良久し。
赤県のうち、白河のほとり、六勝寺皆やぶれ
くづる。九重の塔もうへ六重ふりおとす【落す】。得長
寿院も三十三間の御堂を十七間までふり【震り】
P12416
たうす【倒す】。皇居をはじめて人々の家々、すべて
在々所々の神社仏閣、あやしの民屋、さながら
やぶれくづる。くづるる音はいかづちのごとく、
あがる塵は煙のごとし。天暗うして日の光も
見えず。老少ともに魂をけし、朝衆悉く心を
つくす。又遠国近国もかくのごとし。大地さけ[* 「さけん」と有るのを高野本により訂正]【裂け】
て水わきいで、磐石われて谷へまろぶ。山くづれ
て河をうづみ、海ただよひて浜をひたす。汀
P12417
こぐ船はなみにゆられ、陸ゆく駒は足のたてど
をうしなへ【失へ】り。洪水みなぎり来らば、P2380岳に
のぼ【上つ】てもなどかたすからざらむ、猛火もえ来
らば、河をへだててもしばしもさん【去ん】ぬべし。
ただかなしかり【悲しかり】けるは大地振【*大地震】なり。鳥にあら
ざれば空をもかけりがたく、竜にあらざれば雲
にも又のぼりがたし。白河・六波羅、京中にうち
うづま【埋ま】れてしぬる【死ぬる】ものいくらといふかず【数】をしら【知ら】ず。
P12418
四大衆【*四大種】の中に水火風は常に害をなせども、
大地にをいてはことなる変をなさず。こはいかに
しつる事ぞやとて、上下遣戸障子をたて、
天のなり地のうごくたびごとには、只今ぞし
ぬる【死ぬる】とて、こゑごゑ【声々】に念仏申おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】事
おびたたし【夥し】。七八十・九十の者も世の滅するなど
いふ事は、さすがけふあすとはおもは【思は】ずとて、大に
驚さはぎ【騒ぎ】ければ、おさなき【幼き】もの共も是をきい【聞い】て、
P12419
泣かなしむ事限りなし。法皇はそのおり【折】しも
新熊野へ御幸なて、人多くうちころさ【殺さ】れ、触
穢いできにければ、いそぎ六波羅殿へ還御なる。
道すがら君も臣もいかばかり御心をくだかせ給
ひけん。主上は鳳輦にめし【召し】て池の汀へ行幸なる。
法皇は南庭にあく屋【幄屋】をたててぞましましける。
女院・宮々は御所共皆ふり【震り】たおし【倒し】ければ、或御輿に
めし【召し】、或御車にめし【召し】て出させ給ふ。天文博士ども
P12420
馳まい【参つ】て、「よさりの亥子の刻にはかならず大地
うち返すべし」と申せば、おそろし【恐ろし】などもをろ
か【愚】なり。昔文徳天皇の御宇、斉衡三年三月八
日の大地振【*大地震】には、東大寺の仏の御くしをP2381ふりおとし【落し】
たりけるとかや。又天慶二年四月五日の大地振【*大地震】には、
主上御殿をさて常寧殿[* 「清寧殿」と有るのを他本により訂正]の前に五丈のあく屋【幄屋】を
たててましましけるとぞうけ給[B は]る【承る】。其は上代の
事なれば申にをよば【及ば】ず。今度の事は是より後も
P12421
たぐひあるべしともおぼえず。十善帝王
都を出させ給て、御身を海底にしづめ、大臣公卿
大路をわたしてその頸を獄門にかけらる。昔
より今に至るまで、怨霊はおそろしき【恐ろしき】事なれば、
世もいかがあらんずらむとて、心ある人の歎かなし
まぬはなかりけり。紺掻之沙汰S1202 同八月廿二日、鎌倉の源二位
頼朝卿の父、故左馬頭義朝のうるはしき
かうべとて、高雄の文覚上人頸にかけ、鎌田兵衛
P12422
が頸をば弟子が頸にかけさせて、鎌倉へぞ下られ
ける。去治承四年のころとり【取り】いだし【出し】てたてま【奉つ】
たりけるは、まこと【誠】の左馬頭のかうべにはあらず、謀
反をすすめ奉らんためのはかり事に、そぞろなる
ふるい【古い】かうべをしろい【白い】布につつんでたてま【奉つ】たりける
に、謀反をおこし世をうちとて、一向父の頸と信ぜ
られけるところ【所】へ、又尋出してくだりけり。是は年
ごろ義朝の不便にしてめし【召し】つかは【使は】れける紺かき
P12423
の男、年来獄門にP2382かけられて、後世とぶらふ人も
なかりし事をかなしんで、時の大理にあひ奉り、
申給はりとりおろして、「兵衛佐殿流人でおはす
れども、すゑたのもしき【頼もしき】人なり、もし世に出て
たづね【尋ね】らるる事もこそあれ」とて、東山円覚寺と
いふところにふかう【深う】おさめ【納め】てをき【置き】たりけるを、文覚
聞出して、かの紺かき男ともにあひ具して
下りけるとかや。けふ既に鎌倉へつくと聞えし
P12424
かば、源二位片瀬河まで迎におはしけり。それより
色の姿になりて、泣々鎌倉へ入給ふ。聖をば大床に
たて、我身は庭に立て、父のかうべをうけ【受け】とり【取り】給ふ
ぞ哀なる。是を見る大名小名、みな涙をながさずと
いふ事なし。石巌のさがしきをきりはら【払つ】て、新
なる道場を造り、父の御為と供養じて、勝長寿
院と号せらる。公家にもかやうの事をあはれ【哀】と思
食て、故左馬頭義朝の墓へ内大臣正二位を贈
P12425
らる。勅使は左大弁兼忠とぞきこえ【聞え】し。頼朝
卿武勇の名誉長ぜるによて、身をたて家を
おこすのみならず、亡父聖霊贈官贈位に及けるこそ
目出けれ。平大納言被流S1203同九月廿三日、平家の余党の都にある
を、国々へつかはさ【遣さ】るべきよし、鎌倉殿P2383より公家へ
申されたりければ、平大納言時忠卿能登国、子息
讃岐中将時実上総国、内蔵頭信基安芸国、
兵部少輔正明隠岐国、二位僧都専信【*全真】阿波国、
P12426
法勝寺執行能円備後国、中納言律師忠快
武蔵国とぞきこえ【聞え】し。或西海の波の上、或東
関の雲のはて、先途いづくを期せず、後会其期
をしら【知ら】ず。別の涙ををさへ【抑へ】て面々におもむか【赴か】れけん
心のうち、おしはから【推し量ら】れて哀なり。そのなかに、平大納
言は建礼門院の吉田にわたらせ給ふところ【所】にまい【参つ】
て、「時忠こそせめ【責め】おもう【重う】して、けふ既に配所へおもむ
き【赴き】候へ。おなじみやこの内に候て、御あたりの御事共
P12427
うけ給はら【承ら】まほしう候つるに、つゐに【遂に】いかなる御
ありさまにてわたらせ給候はんずらむと思をき
まいらせ【参らせ】候にこそ、ゆく空もおぼゆ【覚ゆ】まじう候へ」と、
なくなく【泣く泣く】申されければ、女院、「げにもむかしの名残
とては、そこばかりこそおはしつれ。今は哀をもかけ、
とぶらふ人も誰かはあるべき」とて、御涙せきあへ
させ給はず。此大納言と申は、出羽前司具信が
孫、兵部権大輔贈左大臣時信が子なり。故建
P12428
春門院の御せうど【兄】にて、高倉の上皇の御外
戚なり。世のおぼえとき【時】のきら目出たかりき。入
道相国の北方八条の二位殿も姉にておはせし
かば、兼官兼職、おもひ【思ひ】のごとく心のごとし。されば
程なくあが【上がつ】て正二位の大納言にいたれり。P2384検非
違使別当にも三ケ度までなり給ふ。此人の庁
務のときは、窃盜強盗をばめし【召し】と【取つ】て、様もなく右
のかいな【腕】をば、うでなかより打おとし【落し】打おとし【落し】おい【追ひ】すて【捨て】
P12429
らる。されば、悪別当とぞ申ける。主上并三種
神器みやこへ返し入奉るべきよし、西国へ
院宣をくだされたりけるに、院宣の御使花形が
つらに、浪がたといふやいじるし【焼印】をせられけるも、此
大納言のしわざなり。法皇も故女院の御せうど【兄】
なれば、御かたみに御覧ぜまほしうおぼしめし【思し召し】
けれども、か様【斯様】の悪行によて御憤あさから【浅から】ず。九
郎判官もしたしう【親しう】なられたりしかば、いかにも
P12430
して申なだめ【宥め】ばやと思はれけれどもかなは【叶は】ず。
子息侍従時家とて、十六になられけるが、流罪
にももれ【漏れ】て、伯父の時光卿のもとにおはし
けり。母うへ帥のすけ【佐】どのとも【共】に大納言の袂に
すがり、袖をひかへて、今を限の名残をぞおし
み【惜しみ】ける。大納言、「つゐに【遂に】すまじき別かは」とこころ
づようはの給へども、さこそは悲うおもは【思は】れけめ。年
闌齢傾て後、さしもむつまじかりし妻子にも
P12431
別はて、すみなれし都をも雲ゐのよそに
かへりみて、いにしへは名にのみ聞し越路の旅に
おもむき【赴き】、はるばると下り給ふに、「かれは志賀唐崎、
これは真野の入江、交田の浦」と申ければ、大納言
泣々詠じ給ひけり。
かへりこむことはかた田にひくあみの
目にもたまらぬわがなみだかな W092 P2385
昨日は西海の波の上にただよひて、怨憎懐苦
P12432
の恨を扁舟の内につみ、けふは北国の雪のしたに
埋れて、愛別離苦のかなしみを故郷の雲に
かさね【重ね】たり。土佐房被斬S1204 さる程に、九郎判官には、鎌倉殿より
大名十人つけられたりけれども、内々御不審を
蒙り給ふよし聞しかば、心をあはせて一人づつ
皆下りはて【果て】にけり。兄弟なるうへ、殊に父子の
契をして、去年の正月木曾義仲を追討
せしよりこのかた、度々平家を攻おとし【落し】、ことし
P12433
の春ほろぼしはて【果て】て、一天をしづめ、四海をす
ます【澄ます】。勧賞おこなはるべき処に、いかなる子細
あてかかかる聞えあるらむと、かみ一人をはじめ
奉り、しも万民に至るまで、不審をなす。此事
は、去春、摂津国渡辺よりふなぞろへして八島へ
わたり給ひしとき、逆櫓たて【立て】うたて【立て】じの
論をして、大きにあざむかれたりしを、梶原遺
恨におもひ【思ひ】て常は讒言しけるによてなり。定謀
P12434
反の心もあるらん、大名共さしのぼせ【上せ】ば、宇
治・勢田の橋をもひき、京中のさはぎ【騒ぎ】となて、
中々あしかり【悪しかり】なんとて、土佐房正俊【*昌俊】をめして、
「和僧のぼ【上つ】て物詣するやうにて、たばかてうて」と
の給ひければ、正俊【*昌俊】P2386畏てうけ給り【承り】、宿所へも帰
らず、御前をたてやがて京へぞ上りける。同九
月廿九日、土佐房都へついたりけれども、次日まで
判官殿へもまいら【参ら】ず。正俊【*昌俊】がのぼりたるよし
P12435
聞給ひ、武蔵房弁慶をもてめされければ、
やがてつれ【連れ】てまいり【参り】たり。判官の給ひけるは、
「いかに鎌倉殿より御文はなきか」。「さしたる御事
候はぬ間、御文はまいらせ【参らせ】られず候。御詞にて申せ
と候しは、『「当時まで都に別の子細なく候事、
さて御渡候ゆへ【故】とおぼえ候。相構てよく守護せ
させ給へ」と申せ』とこそ仰せられ候つれ」。判官
「よもさはあらじ。義経討にのぼる御使なり。
P12436
「大名どもさし上せば、宇治・勢田の橋をも
ひき、都鄙のさはぎ【騒ぎ】ともなて、中々あしかり【悪しかり】
なん。和僧のぼせ【上せ】て物詣する様にてたばかて
うて」とぞ仰付られたるらんな」との給へば、正俊【*昌俊】
大に驚て、「何によてか只今さる事の候べき。いささか
宿願によて、熊野参詣のために罷上て候」。そ
のとき判官の給ひけるは、「景時が讒言によて、
義経鎌倉へも入られず。見参をだにし給はで、
P12437
おひ【追ひ】のぼせ【上せ】らるる事はいかに」。正俊【*昌俊】「其事はい
かが候らん、身にをいてはまたく御腹ぐろ候はず。起
請文[M 「記請文」とあり「記」をミセケチ「起」と傍書]をかき進べき」よし申せば、判官「とても
かうても鎌倉殿によしとおもは【思は】れたてま【奉つ】たら
ばこそ」とて、以外気しき【気色】あしげになり給ふ。
正俊【*昌俊】一旦の害をのがれ【逃れ】んがために、P2387居ながら七枚
の起請文[M 「記請文」とあり「記」をミセケチ「起」と傍書]をかいて、或やいてのみ、或社に納など
して、ゆり【許り】てかへり、大番衆にふれめぐらして
P12438
其夜やがてよせ【寄せ】んとす。判官は磯禅師といふ
白拍子のむすめ、しづか【静】といふ女を最愛せられ
けり。しづかもかたはらを立さる事なし。しづか申
けるは、「大路はみな武者でさぶらふなる。是より
催しのなからむに、大番衆の者どもこれほど
さはぐ【騒ぐ】べき様やさぶらふ。あはれ是はひる【昼】の起請[M 「記請」とあり「記」をミセケチ「起」と傍書]
法師のしわざとおぼえ候。人をつかはし【遣し】てみせ【見せ】
さぶらはばや」とて、六波羅の故入道相国のめし【召し】
P12439
つかは【使は】れけるかぶろを三四人つかは【使は】れけるを、二人
つかはし【遣し】たりけるが、程ふるまで帰らず。「中々女はくる
しからじ」とて、はしたものを一人見せにつかはす【遣す】。
程なくはしり【走り】帰て申けるは、「かぶろとおぼしきものは
ふたりながら、土佐房の門にきりふせ【伏せ】られてさぶらふ。
宿所には鞍をき馬【鞍置き馬】どもひしとひ【引つ】たて【立て】て、大幕の
うちには、矢おひ【負ひ】弓はり【張り】、者ども皆具足して、
只今よせんといで立さぶらふ【候ふ】。すこし【少し】も物まうで
P12440
のけしきとは見えさぶらはず」と申ければ、判官
是をきい【聞い】て、やがてう【打つ】たち【立ち】給ふ。しづかきせなが【着背長】とて
なげかけ奉る。たかひも【高紐】ばかりして、太刀とて出給へば、
中門の前に馬に鞍をいてひ【引つ】たてたり。是に打
乗て、「門をあけよ」とて門あけさせ、今や今やと待
給ふ処に、しばしあてひた甲四五十騎門の前に
おしP2388よせて、時をどとぞつくりける。判官鐙ふば
り立あがり【上がり】、大音声をあげて、「夜討にも昼戦
P12441
にも、義経たやすう討べきものは、日本国に
おぼえぬものを」とて、只一騎おめい【喚い】てかけ給へば、
五十騎ばかりのもの共、中をあけてぞ通しける。
さる程に、江田源三・熊井太郎・武蔵房弁慶
などいふ一人当千の兵共、やがてつづゐ【続い】て攻戦。
其後侍共「御内に夜討いたり」とて、あそこのや
かたここの宿所より馳来る。程なく六七十騎
集ければ、土佐房たけくよせたりけれ共たた
P12442
かふ【戦ふ】にをよば【及ば】ず。散々にかけちらさ【散らさ】れて、たすかる
ものはすくなう、うたるるものぞおほかり【多かり】ける。
正俊【*昌俊】希有にしてそこをばのがれ【逃れ】て、鞍馬の奥に
にげ籠りたりけるが、鞍馬は判官の故山なり
ければ、彼法師土佐房をからめて、次日判官の許へ
送りけり。僧正が谷といふ所にかくれ【隠れ】ゐたりけると
かや。正俊【*昌俊】を大庭にひ【引つ】すへ【据ゑ】たり。かちの直垂にす
ちやう頭巾【首丁頭巾】をぞしたりける。判官わら【笑つ】ての給ひ
P12443
けるは、「いかに和僧、起請にはうてたるぞ」。土佐房す
こしもさはが【騒が】ず、居なをり【直り】、あざわら【笑つ】て申けるは、
「ある事にかいて候へば、うてて候ぞかし」と申。「主
君の命をおもんじて、私の命をかろんず。こころ
ざしの程、尤神妙なり。和僧いのちおしく【惜しく】は鎌倉
へ返しつかはさ【遣さ】んはいかに」。P2389土佐房、「まさなうも御諚[* 「御定」と有るのを高野本により訂正]候
ものかな。おし【惜し】と申さば殿はたすけ【助け】給はんずるか。鎌
倉殿の「法師なれども、をのれ【己】ぞねらはんずる者」
P12444
とて仰せかうぶしより、命をば鎌倉殿に奉りぬ。
なじかはとり返し奉るべき。ただ御恩にはとくとく
頸をめされ候へ」と申ければ、「さらばきれ」とて、六条川原に
ひき【引き】いだい【出い】てき【斬つ】てげり。ほめぬ人こそなかりけれ。判官都落S1205ここに
足立新三郎といふ雑色は、「きやつは下臈なれども以
外さかざかしいやつで候。めし【召し】つかい【使ひ】給へ」とて、判官にまい
らせ【参らせ】られたりけるが、内々「九郎がふるまひみてわれにしら
せよ」とぞの給ひける。正俊【*昌俊】がきらるるをみて、新
P12445
三郎夜を日についで馳下り、鎌倉殿に此由申
ければ、舎弟参河【*三河】守範頼を討手にのぼせ【上せ】給ふべ
きよし仰られけり。頻に辞申されけれ共、重てお
ほせられける間、力をよば【及ば】で、物具していとま申に
まいら【参ら】れたり。「わとのも九郎がまねし給ふなよ」と仰
られければ、此御詞におそれ【恐れ】て、物具ぬぎをきて京
上はとどまり給ぬ。全不忠なきよし、一日に
十枚づつの起請を、昼はかき、夜は御坪の内P2390にて
P12446
読あげ読あげ、百日に千枚の起請を書てまいらせ【参らせ】られ
たりけれども、かなは【叶は】ずして終にうた【討た】れ給ひ
けり。其後北条四郎時政を大将として、討手
のぼると聞えしかば、判官殿鎮西のかたへ落ばやと
おもひ【思ひ】たち給ふ処に、緒方三郎維義は、平家を九
国の内へも入奉らず、追出すほどの威勢のものなりければ、
判官「我にたのま【頼ま】れよ」とぞの給ひける。「さ候ば、御内候菊
地【*菊池】二郎高直は、年ごろの敵で候。給[B は]て頸を
P12447
きてたのま【頼ま】れまいらせ【参らせ】ん」と申。左右なうたう
だりければ、六条川原に引いだし【出し】てきてげり。
其後維義かひがひしう領状す。同十一月二日、
九郎大夫判官院御所へまい【参つ】て、大蔵卿泰経朝臣
をもて奏聞しけるは、「義経君の御為に奉公
の忠を致事、ことあたらしう初て申上にをよ
び【及び】候はず。しかる【然る】を頼朝、郎等共が讒言によて、義
経をうたんと仕候間、しばらく鎮西の方へ罷
P12448
下らばやと存候。院庁の御下文を一通下預候
ばや」と申ければ、法皇「此条頼朝がかへりきかん事
いかがあるべからむ」とて、諸卿に仰合られければ、「義経
都に候て、関東の大勢みだれ入候ば、京都〔の〕狼籍【*狼藉】
たえ【絶え】候べからず。遠国へ下候なば、暫其恐あらじ」と、
をのをの【各々】一同に申されければ、緒方三郎をめし【召し】て、
臼杵・戸次・松浦党、P2391惣じて鎮西のもの、義経を
大将として其下知にしたがふべきよし、庁の御
P12449
下文を給はてげれば、其勢五百余騎、あくる三日
卯刻に京都にいささかのわづらひ【煩ひ】もなさず、浪風
もたてずして下りにけり。摂津国源氏、太田太
郎頼基「わが門の前をとをしながら、矢一射かけ
であるべきか」とて、川原津といふ所にお【追つ】ついてせめ【攻め】
たたかふ【戦ふ】。判官は五百余騎、太田太郎は六十余騎にて
あり【有り】ければ、なかにとりこめ、「あますなもらす【漏らす】な」とて、
散々に攻給へば、太田太郎我身手おひ、家子郎等
P12450
おほく【多く】うたせ、馬の腹い【射】させて引退く。判官
頸どもきりかけて、戦神にまつり、「門出よし」と悦
で、だいもつ【大物】の浦より船にの【乗つ】て下られけるが、折
節西のかぜはげしくふき、住吉の浦にうちあげ
られて、吉野のおくにぞこもりける。吉野法師に
せめ【攻め】られて、奈良へおつ。奈良法師に攻られて、又
都へ帰り入、北国にかかて、終に奥へぞ下られける。
都よりあひ具したりける女房達十余人、住吉
P12451
の浦に捨をきたりければ、松の下、まさごのうへに
袴ふみしだき、袖をかたしい【片敷い】て泣ふしたりけるを、
住吉神官共憐んで、みな京へぞ送りける。凡判
官のたのま【頼ま】れたりける伯父信太三郎先生義教【*義憲】・
十郎蔵人行家・緒方三郎維義が船共、浦々島々
に打よせられて、互にその行ゑ【行方】をしら【知ら】ず。忽に西の
かぜふきける事も、平家の怨霊P2392のゆへ【故】とぞお
ぼえける。同十一月七日、鎌倉の源二位頼朝卿の
P12452
代官として、北条四郎時政、六万余騎を相具して
都へ入、伊与【*伊予】守源義経・備前守同行家・信太
三郎先生同義教【*義憲】追討すべきよし奏聞し
ければ、やがて院宣をくだされけり。去二日は義経が申
うくる旨にまかせて、頼朝をそむくべきよし
庁の御下文をなされ、同八日は頼朝卿申状によて、
義経追討の院宣を下さる。朝にかはり夕に変
ずる世間の不定こそ哀なれ。吉田大納言の沙汰S1206さる程に、鎌倉殿
P12453
日本国の惣追補使【*惣追捕使】を給はて、反別に兵粮米を
宛行べきよし申されけり。朝の怨敵をほろ
ぼしたるものは、半国を給はるといふ事、無量義
経に見えたり。され共我朝にはいまだ其例なし。
「是は過分の申状なり」と、法皇仰なりけれ共、公卿
僉議あて、「頼朝卿の申さるる所、道理なかばなり」
とて、御ゆるされ【許され】あり【有り】けるとかや。諸国に守護を
をき、庄園に地頭を補せらる。一毛ばかりもかくる【隠る】
P12454
べき様なかりけり。鎌倉殿かやうの事人おほし【多し】と
いへ共、吉田大納言経房卿をもて奏聞せらP2393れ
けり。この大納言はうるはしい人と聞え給へり。
平家にむすぼほれたりし人々も、源氏の世の
つより【強り】し後は、或ふみ【文】をくだし、或使者をつかはし【遣し】、
さまざまにへつらひ給ひしか共、この人はさもし給
はず。されば平家の時も、法皇を鳥羽殿におし
こめまいらせ【参らせ】て、後院の別当ををか【置か】れしには、勘
P12455
解由小路[* 「勘解由少路」と有るのを高野本により訂正]中納言此経房卿二人をぞ後院の
別当にはなされたりける。権右中弁光房朝臣
の子也。十二の年父の朝臣うせ給ひしかば、みなし
子にておはせしか共、次第の昇進とどこほらず、
三事の顕要を兼帯して、夕郎の貫首をへ【経】、
参議・大弁・中納言・太宰帥、遂に正二位大納言に
至れり。人をばこえ【越え】給へども、人にはこえられ給はず。
されば人の善悪は錐袋をとおす【通す】とてかくれ【隠れ】なし。
P12456
ありがたかりし人なり。六代S1207北条四郎策に「平家の
子孫といはん人尋出したらん輩にをいては、
所望こふ【乞ふ】によるべし」と披露せらる。京中の
ものども、案内はしたり、勧賞蒙らんとて、尋
もとむるぞうたてき。かかりければ、いくらも尋
いだしたりけり。P2394下臈の子なれども、いろ【色】しろう【白う】
見めよきをばめし【召し】いだい【出い】て、「是はなんの中将殿の
若君、彼少将殿の君達」と申せば、父母なき【泣き】
P12457
かなしめども、「あれは介惜【介錯】が申候」。「あれはめのとが
申」なんどいふ間、無下におさなき【幼き】をば水に入、土
に埋み、少おとなしきをばおしころし【殺し】、さしころ
す。母がかなしみ、めのとがなげき、たとへんかたぞ
なかりける。北条も子孫さすが多ければ、是をいみじ
とは思はねど、世にしたがふならひ【習ひ】なれば、力をよば【及ば】ず。中
にも小松三位中将殿若君、六代御前とておはす
なり。平家の嫡々なるうへ、とし【年】もおとなしう
P12458
ましますなり。いかにもしてとり奉らむとて、
手をわけ【分け】てもとめ【求め】られけれども、尋かねて、既に
下らんとせられける処に、ある女房の六波羅に出
て申けるは、「是より西、遍照寺のおく、大覚寺と
申山寺の北のかた、菖蒲谷と申所にこそ、
小松三位中将殿の北方・若君・姫公おはしませ」と
申せば、時政頓て人をつけて、そのあたりをう
かがは【伺は】せける程に、或坊に、女房達おさなき【幼き】人
P12459
あまた、ゆゆしくしのび【忍び】たるてい【体】にてすまゐ【住ひ】けり。
籬のひまよりのぞきければ、白いゑのこ【犬子】の走出たる
をとらんとて、うつくしげなる若公【若君】の出給へば、めの
との女房とおぼしくて、「あなあさまし。人もこそ
見まいらすれ【参らすれ】」とて、いそぎひき【引き】入奉る。是ぞ一定
そにておはしますらむとおもひ【思ひ】、P2395いそぎ走帰て
かくと申せば、次の日北条かしこに打むかひ【向ひ】、四
方を打かこみ、人をいれ【入れ】ていはせけるは、「平家小松
P12460
三位中将殿の若君六代御前、是におはしますと
承はて、鎌倉殿の御代官に北条四郎時政と申
ものが御むかへ【向へ】にまい【参つ】て候。はやはや出しまいら【参らつ】させ
給へ」と申ければ、母うへ是を聞給ふに、つやつや
物もおぼえ給はず。斎藤五・斎藤六はしり【走り】ま
はて見けれども、武士ども四方を打かこみ、いづかたより
出し奉るべしともおぼえず。めのとの女房も
御まへにたふれ【倒れ】ふし、こゑ【声】もおしま【惜しま】ずおめき【喚き】さけ
P12461
ぶ【叫ぶ】。日ごろはものをだにもたかく【高く】いはず、しのび【忍び】つつ
かくれ【隠れ】ゐたりつれども、今は家の中にありと
あるもの、こゑ【声】を調へて泣かなしむ。北条も是
をきい【聞い】て、よに心くるしげ【苦し気】におもひ【思ひ】、なみだ【涙】おし
のごい、つくづくとぞま【待つ】たりける。ややあてかさね【重ね】
て申されけるは、「世もいまだしづまり候はねば、しど
けなき事もぞ候とて、御むかへ【向へ】にまい【参つ】て候。別
の御事は候まじ。はやはや出しまいら【参らつ】させ給
P12462
へ」と申ければ、若君母うへに申されけるは、「つゐ
に【遂に】のがる【逃る】まじう候へば、とくとくいださせおはしませ。
武士共うち入てさがすものならば、うたてげ
なる御ありさまどもを見えさせ給ひなんず。
たとひまかり【罷り】出候とも、しばしも候はば、いとまこう【乞う】
てかへりまいり【参り】候はん。いたくな歎かせ給ひ候そ」
と、なぐさめ給ふこそいP2396とおしけれ。さてもあるべ
きならねば、母うへなくなく【泣く泣く】御ぐしかきなで、
P12463
ものき【着】せ奉り、既に出し奉らむとしたまひ
けるが、黒木のずず【数珠】のちいさう【小さう】うつくしいを
とりいだして、「是にていかにもならんまで、念仏
申て極楽へまいれ【参れ】よ」とて奉り給へば、若君是
をとて、「母御前にけふ既にはなれ【離れ】まいらせ【参らせ】なんず。
今はいかにもして、父のおはしまさん所へぞま
いり【参り】たき」との給ひけるこそ哀れなれ。是を
きい【聞い】て、御妹の姫君の十になり給ふが、「われも
P12464
ちち御前の御もとへまいら【参ら】む」とて、はしり【走り】出
給ふを、めのとの女房とりとどめ【留め】奉る。六代御前
ことしはわづかに十二にこそなり給へども、よのつ
ねの十四五よりはおとなしく、みめかたちゆう【優】に
おはしければ、敵によはげ【弱気】をみえ【見え】じと、おさふる袖の
ひまよりも、あまりて涙ぞこぼれける。さて御輿
にのり給ふ。武士ども前後左右に打かこ【囲ん】で出に
けり。斎藤五・斎藤六御輿の左右についてぞ
P12465
まいり【参り】ける。北条のりがへ【乗替】共おろしてのすれ【乗すれ】ども
のらず。大覚寺より六波羅までかちはだしに
てぞ走ける。母うへ・めのとの女房、天にあふぎ地に
ふしてもだえ【悶え】こがれ給ひけり。「此日ごろ平家の
子どもとりあつめ【集め】て、水にいるるもあり、土にう
づむ【埋む】もあり、おP2397しころし【殺し】、さしころし【殺し】、さまざまに
すときこゆれば、我子は何としてかうしなは【失は】ん
ずらん。すこし【少し】おとなしければ、頸をこそきら【斬ら】ん
P12466
ずらめ。人の子はめのとなどのもとにをきて、時々
見る事もあり。それだにも恩愛はかなしき【悲しき】
習ぞかし。况や是はうみおとし【落し】て後、ひとひ【一日】
かたとき【片時】も身をはなたず、人のもたぬものを
もちたるやうにおもひ【思ひ】て、朝ゆふふたりの中にて
そだて【育て】しものを、たのみ【頼み】をかけし人にもあかで
別しそののちは、ふたりをうらうへ【裏表】にをきて
こそなぐさみつるに、ひとりはあれどもひとりは
P12467
なし。けふより後はいかがせん。此三とせが間、よる
ひるきも【肝】心をけしつつ、おもひ【思ひ】まうけ【設け】つる
事なれども、さすが昨日今日とはおもひ【思ひ】よらず。
年ごろは長谷の観音をこそふかう【深う】たのみ【頼み】
奉りつるに、終にとられぬる事のかなしさよ。
只今もやうしなひ【失ひ】つらん」とかきくどき【口説き】、泣より
外の事ぞなき。さ夜もふけけれどむね【胸】せき
あぐる心ち【心地】して、露もまどろみ給はぬが、めの
P12468
との女房にの給ひけるは、「ただいまちとうちま
どろみたりつる夢に、此子がしろい【白い】馬にのりて
来りつるが、「あまりに恋しうおもひ【思ひ】まいらせ【参らせ】候へば、
しばしのいとま【暇】こう【乞う】てまいり【参り】て候」とて、そばにつ
いゐて、何とやらん、よにうらめしげ【恨めし気】に思ひて、さめざめ
と泣つるが、程なくうちおどろかれて、もしやとかた
はらをさぐれ【探れ】ども人もなし。夢なり共しばしも
あらで、さめぬるP2398事のかなしさよ」とぞかたり給ふ。
P12469
めのとの女房もなきけり。長夜もいとど明し
かねて、涙に床も浮ばかり也。限あれば、鶏人暁
をとなへて夜も明ぬ。斎藤六帰りまいり【参り】たり。
「さていかにやいかに」と問ひ給へば、「只今まではべち【別】
の御事も候はず。御文の候」とて、とりいだい【出い】て奉る。
あけて御らんずれば、「いかに御心ぐるしうおぼし
めされ候らむ。只今までは別の事も候はず。いつしか
たれだれも御恋しうこそ候へ」と、よにおとなし
P12470
やかにかき給へり。母うへ是を見給ひて、とかうの
事もの給ず。ふみをふところ【懐】に引入て、うつ
ぶしにぞなられける。誠に心の内さこそはおはし
けめとおしはから【推し量ら】れて哀なり。かくて遥に時刻
おしうつりければ、「時の程もおぼつかなう候に、帰まい
ら【参ら】ん」と申せば、母うへ泣々御返事かいてたう【賜う】で
けり。斎藤六いとま申て罷出。めのとの女房せ
めても心のあられずさに、はしり【走り】出て、いづくを
P12471
さすともなく、その辺を足にまかせてなき
ありく程に、ある人の申けるは、「此おくに高雄
といふ山寺あり。その聖文覚房と申人こそ、鎌
倉殿にゆゆしき大事の人におもは【思は】れまいらせ【参らせ】て
おはしますが、上臈の御子を御弟子にせんとて
ほしがら【欲しがら】るなれ」と申ければ、うれしき事をきき
ぬと思ひて、母うへにかく共申さず、ただP2399一人高
雄に尋入り、聖にむかひ【向ひ】奉て、「ち【血】のなかよりおほ
P12472
し【生し】たて【立て】まいらせ【参らせ】て、ことし十二にならせ給ひ
つる若君を、昨日武士にとられてさぶらふ【候ふ】。御命
こい【乞ひ】うけ【請け】まいらせ【参らせ】給ひて、御弟子にせさせ給ひ
なんや」とて、聖のまへにたふれ【倒れ】ふし、こゑ【声】もおしま【惜しま】ず
なきさけぶ【叫ぶ】。まこと【誠】にせんかたなげにぞ見えたり
ける。聖むざんにおぼえければ事の子細をとひ
給ふ。おきあが【上がつ】て泣々申けるは、「平家小松三位
中将の北方の、したしうまします人の御子を
P12473
やしなひ奉るを、もし中将の君達とや人
の申さぶらひけん、昨日武士のとりまいらせ【参らせ】て
まかり【罷り】さぶらひぬるなり」と申。「さて武士をば誰と
いひつる」。「北条とこそ申さぶらひつれ」。「いでいでさらば
行むかひ【向ひ】て尋む」とて、つきいで【出で】ぬ。此詞をたのむ【頼む】
べきにはあらね共、聖のかくいへば、今すこし【少し】人の心
ち【心地】いできて、大覚寺へかへりまいり【参り】、母うへにかくと
申せば、「身をなげに出ぬるやらんとおもひ【思ひ】て、我も
P12474
いかならん淵河にも身をなげんと思ひたれば」
とて、事の子細をとひ給ふ。聖の申つる様を
ありのままに語りければ、「あはれこい【乞ひ】うけ【請け】て、今一度
見せよかし」とて、手をあはせてぞなかれける。聖
六波羅にゆきむか【向つ】て、事の子細をとひ給ふ。北条申
けるは、「鎌倉殿のおほせに、「平家の子孫京中に多く
しのん【忍ん】でありときく。中にも小松三位中将のP2400子息、
中御門の新大納言のむすめの腹にありときく。
P12475
平家の嫡々なるうへ、年もおとなしかんなり。いかにも
尋いだし【出し】て失ふべし」と仰せを蒙て候しが、此
程すゑずゑのおさなき【幼き】人々をば少々取奉て候つれ共、
此若公【若君】は在所をしり奉らで、尋かねて既むな
しう【空しう】罷下らむとし候つるが、おもは【思は】ざる外、一昨日
聞出して、昨日むかへ【向へ】奉て候へども、なのめならず
うつくしうおはする間、あまりにいとおしくて、
いまだともかうもし奉らでをきまいらせ【参らせ】て候」
P12476
と申せば、聖、「いでさらば見奉らむ」とて、若公【若君】の
おはしける所へまい【参つ】て見まいらせ【参らせ】給へば、ふたへおり
もの【二重織物】の直垂に、黒木の数珠手にぬき【貫き】入ておは
します。髪のかかり、すがた、事がら、誠にあてに
うつくしく、此世の人とも見え給はず。こよひ
うちとけてね給はぬとおぼしくて、すこし【少し】
おもやせ給へるにつけて、いとど心ぐるしうらう
たくぞおぼえける。聖を御らんじて何とかおぼし
P12477
けん、涙ぐみ給へば、聖も是を見奉てすぞろに
墨染の袖をぞしぼりける。たとひ末の世に、いか
なるあた敵になるともいかが是を失ひ奉るべきと
かなしう【悲しう】おぼえければ、北条にの給ひけるは、「此若
君を見奉るに、先世の事にや候らん、あまりに
いとおしうおもひ【思ひ】奉り候。廿日が命をのべてたべ。
鎌倉殿へまい【参つ】て申あづかり候はん。聖鎌倉殿を
世にあらせ奉らむとて、我身も流人であり
P12478
ながら、P2401院宣うかがふ【伺う】て奉らんとて、京へ上るに、案
内もしらぬ富士川の尻による【夜】わたりかかて、既に
おしながされんとしたりし事、高市の山にて
ひぱぎ【引剥】にあひ、手をすて命ばかりいき、福原の
籠の御所へまいり【参り】、前右兵衛督光能卿につき奉て、
院宣申いだいて奉しときのやくそく【約束】には、「いかなる
大事をも申せ。聖が申さむ事をば、頼朝が一期の
間はかなへ【適へ】ん」とこその給ひしか。其後もたびたび
P12479
の奉公、かつは見給ひし事なれば、事あたらしう
はじめて申べきにあらず。契をおもう【重う】して
命をかろうず【軽うず】。鎌倉殿に受領神つき給はずは、
よもわすれ給はじ」とて、その暁立にけり。斎藤五・
斎藤六是をきき、聖を生身の仏の如くおもひ【思ひ】
て、手を合て涙をながす。いそぎ大覚寺へまい【参つ】て
此由申ければ、是をきき給ひける母うへの心のうち、
いか斗かはうれしかりけん。されども鎌倉のはか
P12480
らひなれば、いかがあらむずらんとおぼつかなけれ
ども、当時聖のたのもしげ【頼もし気】に申て下りぬる
うへ、廿日の命ののび給ふに、母うへ・めのとの女房
すこし【少し】心もとりのべて、ひとへに観音の御た
すけ【助け】なればたのもしう【頼もしう】ぞおもは【思は】れける。かくて
明し暮し給ふ程に、廿日のすぐる【過ぐる】は夢なれ
や、聖はいまだ見えざりけり。「何となりぬる事や
らん」と、なかなか心ぐるしうて、今更またもだえ【悶え】こがP2402れ
P12481
給ひけり。北条も、「文学房のやくそく【約束】の日数も
すぎぬ。さのみ在京して年を暮すべきにも
あらず。今は下らむ」とてひしめきければ、斎藤五・
斎藤六手をにぎり肝魂をくだけ共、聖もいまだ
見えず、使者をだにも上せねば、おもふ【思ふ】はかりぞ
なかりける。是等大覚寺へ帰りまい【参つ】て、「聖もいまだ
のぼり候はず。北条も暁下向仕候」とて、左右の袖を
かほにおしあてて、涙をはらはらとながす。是をきき
P12482
給ひける母うへの心のうち、いかばかりかはかなし
かり【悲しかり】けむ。「あはれおとなしやかならむものの、聖の
行あはん所まで六代をぐせよといへかし。もし
こひうけ【乞請】てものぼらむに、さきにきりたらんか
なしさをば、いかがせむずる。さてとく【疾く】うしなひ【失なひ】
げなるか」とのたまへば、「やがて此暁の程とこそ見え
させ給候へ。そのゆへ【故】は、此程御とのゐ仕候つる北条の家
子郎等ども、よに名残おしげ【惜し気】におもひ【思ひ】まいらせ【参らせ】て、
P12483
或念仏申者も候、或涙をながす者も候」。「さて此子
は何としてあるぞ」との給へば、「人の見まいらせ【参らせ】候ときは
さらぬやうにもてないて、御数珠をくらせおはし
まし候が、人の候はぬとき【時】は、御袖を御かほにおしあてて、
御涙にむせばせ給ひ候」と申。「さこそあるらめ。おさ
なけれ【幼けれ】ども心おとなしやかなるものなり。こよひ
かぎりの命とおもひ【思ひ】て、いかに心ぼそかるらん。しばし
もあらば、いとまこう【乞う】てまいら【参ら】むといひしか共、P2403廿日
P12484
にあまるに、あれへもゆかず、是へも見えず。けふ
より後又何の日何の時あひ見るべしともおぼえ
ず。さて汝等はいかがはからふ」との給へば、「これはいづく
までも御供仕り、むなしう【空しう】ならせ給ひて候はば、
御骨をとり奉り、高野の御山におさめ【納め】奉り、出家
入道して、後世をとぶらひ【弔ひ】まいらせ【参らせ】むとこそおもひ
なて候へ」と申。「さらば、あまりにおぼつかなうおぼゆる【覚ゆる】
に、とうかへれ」との給へば、二人の者泣々いとま申て
P12485
罷出つ。さる程に、同十二月十六日、北条四郎若公【若君】具
し奉て、既都を立にけり。斎藤五・斎藤六涙に
くれてゆくさきも見えね共、最後の所までとお
もひ【思ひ】つつ、泣々御供にまいり【参り】けり。北条「馬にのれ」と
いへどものらず、「最後の供で候へば、くるしう【苦しう】候まじ」とて、
血の涙をながしつつ、足にまかせてぞ下ける。六代御
前はさしもはなれがたくおぼしける母うへ・めのとの
女房にもわかれはて、住なれし都をも、雲井の
P12486
よそにかへりみて、けふをかぎりの東路におもむ
かれけん心のうち、おしはから【推し量ら】れて哀なり。駒をはやむ
る武士あれば、我頸うたんずるかと肝をけし、物
いひかはす人あれば、既に今やと心をつくす。四の宮河
原とおもへ【思へ】ども、関山をもうち越て、大津の浦に
なりにけり。粟津の原かとうかがへ【伺へ】ども、けふもはや
暮にけり。国々宿々打過々々行程に、駿河[* 「駿川」と有るのを他本により訂正]国にP2404も
つき給ひぬ。若公【若君】の露の御命、けふをかぎりとぞ
P12487
きこへ【聞え】ける。千本の松原に武士どもみなおりゐて、
御輿かきすゑさせ、しきがは【敷皮】しいて、若公【若君】すへ【据ゑ】奉る。
北条四郎若公【若君】の御まゑ【前】ちかうまい【参つ】て申けるは、
「是まで具しまいらせ【参らせ】候つるは、別の事候はず。もし
みちにて聖にもや行あひ候と、まち【待ち】すぐしまい
らせ【参らせ】候つるなり。御心ざしの程は見えまいらせ【参らせ】候ぬ。山
のあなたまでは鎌倉殿の御心中をもしり【知り】がたう
候へば、近江国にてうしなひ【失ひ】まいらせ【参らせ】て候よし、披露
P12488
仕候べし。誰申候共、一業所感の御事なれば、よも
叶候はじ」と泣々申ければ、若君ともかうもその
御返事をばしたまはず、斎藤五・斎藤六を近う
めし【召し】て、「我いかにもなりなん後、汝等都に帰て、穴
賢道にてきら【斬ら】れたりとは申べからず。そのゆへ【故】は、
終にはかくれ【隠れ】あるまじけれども、まさしう此有様
きい【聞い】て、あまりに歎給はば、草の陰にてもこころ
ぐるしう【心苦しう】おぼえて、後世のさはりともならむずる
P12489
ぞ。鎌倉まで送りつけてまい【参つ】て候と申べし」と
の給へば、二人の者共肝魂も消えはてて、しばしは
御返事にもをよば【及ば】ず。良あて斎藤五「君にを
くれ【遅れ】まいらせ【参らせ】て後、命いきて安穏に都まで上り
つくべしともおぼえ候はず」とて、涙ををさへてふしにけり。既に今はの時になりしかば、若公【若君】西
にむかひ【向ひ】手を合て、静に念仏唱つつ、頸をのべ
てぞ待給ふ。狩野工P2405藤三親俊切手にえら
P12490
ばれ、太刀をひ【引つ】そばめて、右のかた【方】より御うしろに
立まはり、既にきり奉らむとしけるが、目もくれ心も
消はてて、いづくに太刀を打あつべしともおぼえ
ず。前後不覚になりしかば、「つかまつ【仕つ】とも覚候
はず。他人に仰付られ候へ」とて、太刀を捨てのきに
けり。「さらばあれきれ、これきれ」とて、切手をえ
らぶ処に、墨染の衣袴きて月毛なる馬にの【乗つ】
たる僧一人、鞭をあげてぞ馳たりける。既に只今
P12491
切り奉らむとする処に馳ついて、いそぎ馬
より飛おり、しばらくいきを休て、「若公【若君】ゆるさせ
給ひて候。鎌倉殿の御教書是に候」とてとり【取り】出し
て奉る。披て見給へば、まことや小松三位中将維
盛卿の子息尋出されて候なる、高雄の聖御房申
うけんと候。疑をなさずあづけ奉るべし。北条四
郎殿へ  頼朝とて御判あり。二三遍おしかへしおしかへし
よう【読う】で後、「神妙々々」とて打をか【置か】れければ、「斎藤五・
P12492
斎藤六はいふにをよば【及ば】ず、北条の家子郎等共も
皆悦の涙をぞ流しける。P2406泊瀬六代S1208さる程に、文覚つと出
きたり、若公【若君】こい【乞ひ】うけ【請け】たりとて、きそく【気色】誠にゆゆし
げなり。「「此若公【若君】の父三位中将殿は、初度の戦の
大将也。誰申共叶まじ」との給ひつれば、「文覚が
心をやぶつては、争か冥加もおはすべき」など、悪
口申つれ共、猶「叶まじ」とて、那須野の狩に下り
給ひし間、剰文覚も狩庭の供して、やうやうに
P12493
申てこい【乞ひ】うけ【請け】たり。いかに、遅ふおぼしつらん」と
申されければ、北条「廿日と仰られ候し御約束
の日かずも過候ぬ。鎌倉殿の御ゆるされ【許され】なきよ
と存じて、具し奉て下る程に、かしこうぞ。爰
にてあやまち仕るらむに」とて、鞍をい【置い】てひか【引か】せたる
馬共に、斎藤五・斎藤六をのせ【乗せ】てのぼせらる。「我
身も遥に打送り奉て、しばらく御供申たう
候へ共、鎌倉殿にさして申べき大事共候。暇申
P12494
て」とてうちわかれてぞ下られける。誠に情ふ
かかりけり。聖若公【若君】を請とり奉て、夜を日に
ついで馳のぼる程に、尾張国熱田の辺にて、
今年も既に暮ぬ。明る正月五日の夜に入て、
都へのぼりつく。二条猪熊なる所に文覚房の
宿所あり【有り】ければ、それに入奉て、しばらくやすめ奉り、
夜半ばP2407かり大覚寺へぞおはしける。門をたたけ共
人なければ音もせず。築地のくづれより若公【若君】の
P12495
かひ【飼ひ】給ひけるしろい【白い】ゑのこ【犬子】のはしり【走り】出て、尾
をふてむかひ【向ひ】けるに、「母うへはいづくにまします
ぞ」ととは【問は】れけるこそせめての事なれ。斎藤六、築
地をこえ、門をあけていれ【入れ】奉る。ちかう【近う】人の住
たる所とも見えず。「いかにもしてかひなき命を
いか【生か】ばやと思ひしも、恋しき人々を今一度見ばや
とおもふ【思ふ】ため也。こはされば何となり給ひけるぞや」とて、
夜もすがら泣かなしみ給ふぞまこと【誠】にことはり【理】と
P12496
覚て哀なる。夜を待あかして近里の者に尋
給へば、「年のうちに大仏まいり【参り】とこそうけ給【承り】候しか。
正月の程は長谷寺に御こもりと聞え候しが、其
後は御宿所へ人の通ふとも見候はず」と申ければ、
斎藤五いそぎ馳まい【参つ】て尋あひ奉り、此よし
申ければ、母うへ【上】・めのとの女房つやつやうつつともおぼえ
給はず、「是はされば夢かや。夢か」とぞの給ひける。
いそぎ大覚寺へ出させ給ひ、若公【若君】を御覧じ
P12497
てうれしさにも、ただ先立ものは涙なり。「早々
出家し給へ」と仰られけれども、聖おしみ【惜しみ】奉て
出家もせさせ奉らず。やがてむかへ【向へ】とて高雄
に置奉り、北の方のかすか【幽】なる御有様をもとぶ
らひ【訪ひ】けるとこそ聞えし。観音の大慈大悲は、
つみ【罪】あるもつみなきをもたすけ【助け】給へば、昔もかかる
ためし【例】多しといへども、ありがたかりし事共
なり。P2408さる程に、北条四郎六代御前具し奉て
P12498
下りけるに、鎌倉殿御使鏡の宿にて行逢
たり。「いかに」ととへば、「十郎蔵人殿、信太三郎先生
殿、九郎判官殿に同心のよし聞え候。討奉れとの
御気色で候」と申。北条「我身は大事のめしうど【召人】
具したれば」とて、甥の北条平六時貞が送りに
下りけるを、おいそ【老蘇】の森より「とう【疾う】わとの【和殿】は帰て
此人々〔の〕おはし所聞出して討てまいらせよ【参らせよ】」とて
とどめ【留め】らる。平六都に帰て尋る程に、十郎蔵人殿の
P12499
在所知たりといふ寺法師いできたり。彼僧に
尋れば、「我はくはしう【詳しう】はしら【知ら】ず。しり【知り】たりといふ僧
こそあれ」といひければ、おし【押し】よせ【寄せ】てかの僧をからめ
とる。「是はなんのゆへ【故】にからむるぞ」。「十郎蔵人殿の
在所し【知つ】たなればからむる也」。「さらば「おしへよ【教へよ】」とこそ
いはめ。さうなうからむる事はいかに。天王寺にと
こそきけ【聞け】」。「さらばじんじよせよ」とて、平六が聟の
笠原の十郎国久、殖原の九郎、桑原次郎、服部
P12500
の平六をさきとして其勢卅余騎、天王寺へ
発向す。十郎蔵人の宿は二所あり。谷の学頭伶
人兼春、秦六秦七と云者のもとなり。ふた手に
つくて押よせたり。十郎蔵人は兼春がもとに
おはし【在し】けるが、物具したるもの共の打入を見て、
うしろより落にけり。学頭がむすめ二人あり。とも
に蔵人のおもひもの【思者】なり。是等をとらへて蔵人の
ゆくゑ【行方】を尋れば、姉は「妹にとへ」といふ、妹は「姉にとへ」P2409と
P12501
いふ。俄に落ぬる事なれば、たれにもよもしら【知ら】せじ
なれども、具して京へぞのぼりける。蔵人は熊野
の方へ落けるが、只一人ついたりける侍、足をやみ
ければ、和泉国八木郷といふ所に逗留してこそ
ゐたりけれ。彼家主の男、蔵人を見し【知つ】て夜も
すがら京へ馳のぼり、北条平六につげたりければ、
「天王寺の手の者はいまだのぼらず。誰をかやるべき」
とて、大源次宗春といふ郎等をよう【呼う】で、「汝が宮たて
P12502
たりし山僧はいまだあるか」。「さ候」。「さらばよべ」とてよばれ
ければ、件法師いできたり。「十郎蔵人のおはします、
討て鎌倉殿にまいらせ【参らせ】て御恩蒙り給へ」。「さうけ
給【承り】候ぬ。人をたび候へ」と申。「やがて大源次くだれ、人も
なきに」とて、舎人雑色人数わづかに十四五人
相そへてつかはす【遣す】。常陸房正明といふものなり。
和泉国に下つき、彼家にはしり【走り】入て見れ共
なし。板じきうちやぶ【破つ】てさがし、ぬりごめ【塗籠】の
P12503
うちを見れどもなし。常陸房大路にたて
みれ【見れ】ば、百姓の妻とおぼしくて、おとなしき女の
とをり【通り】けるをとらへて、「此辺にあやしばうだる
旅人のとどま【留まつ】たる所やある。いはずはきて捨む」と
いへば、「ただいまさがさ【探さ】れさぶらふつる家にこそ、
夜部までよに尋常なる旅人の二人とどま【留まつ】て
さぶらひつるが、けさなどいで【出で】てさぶらふ【候ふ】やらむ。
あれに見えさP2410ぶらふおほや【大屋】にこそいまは
P12504
さぶらふ【候ふ】なれ」といひければ、常陸房黒革威の
腹巻の袖つけたるに、大だち【太刀】はいて彼家に
走入てみれ【見れ】ば、歳五十ばかりなる男の、かち【褐】の直
垂におり烏帽子【折烏帽子】き【着】て、唐瓶子菓子などとり
さばくり、銚子どももて酒すすめむとする処に、
物具したる法師のうち入をみて、かいふいてにげ
ければ、やがてつづいてお【追つ】かけたり。蔵人「あの僧。
や、それはあらぬぞ。行家はここにあり」との給へば、
P12505
はしり【走り】帰て見るに、白い小袖に大口ばかりきて、
左の手には金作の小太刀をもち、右の手には
野太刀のおほき【大き】なるをもた【持た】れたり。常陸房「太
刀なげさせ給へ」と申せば、蔵人大にわらは【笑は】れけり。
常陸房走よ【寄つ】てむずときる。ちやうどあはせて
おどり【躍り】のく。又よ【寄つ】てきる。ちやうどあはせておどり【躍り】
のく。よりあひよりのき一時ばかりぞたたかふ【戦う】たる。
蔵人うしろなるぬりごめの内へしざりいら【入ら】むと
P12506
し給へば、常陸房「まさなう候。ないら【入ら】せ給ひ候そ」と
申せば、「行家もさこそおもへ【思へ】」とて又おどり【躍り】出て
たたかふ【戦ふ】。常陸房太刀を捨てむずとくむ【組ん】でどう
どふす【臥す】。うへ【上】になり下になり、ころびあふ処に、大源
次つといできたり。あまりにあはて【慌て】てはいたる太刀
をばぬかず、石をにぎて蔵人のひたいをはたと
うて打わる。蔵人大にわら【笑つ】て、「をのれ【己】は下臈なれば、
太刀長刀でこそ敵をばうて、つぶてにて敵うつ
P12507
様やある」。P2411常陸房「足をゆへ」とぞ下知しける。
常陸房は敵が足をゆへとこそ申けるに、あまりに
あはて【慌て】て四の足をぞゆう【結う】たりける。其後蔵人の
頸に縄をかけてからめ、ひき【引き】おこし【起し】ておしすへ【据ゑ】
たり。「水まいらせよ【参らせよ】」との給へば、ほしい【干飯】をあらふ【洗う】てまい
らせ【参らせ】たり。水をばめし【召し】て糒をばめさず。さしをき
給へば、常陸房とてくうてげり。「わ僧は山法師か」。「山
法師で候」。「誰といふぞ」。「西塔北谷法師常陸房正
P12508
明と申者で候」。「さては行家につかは【使は】れんといひし
僧か」。「さ候」。「頼朝が使か、平六が使か」。「鎌倉殿の御使候。
誠に鎌倉殿をば討まいらせ【参らせ】むとおぼしめし【思し召し】候しか」。「是
程の身になて後おもは【思は】ざりしといはばいかに。おもひ【思ひ】
しといはばいかに。手なみの程はいかがおもひ【思ひ】つる」と
の給へば、「山上にておほく【多く】の事にあふ【逢う】て候に、いまだ
是ほど手ごはき事にあひ候はず。よき敵三人に
逢たる心地こそし候つれ」と申。「さて正明をばいかが
P12509
思食され候つる」と申せば、「それはとられなんうへは」とぞ
の給ひける。「その太刀とりよせよ」とて見給へば、蔵
人の太刀は一所もきれず、常陸房が太刀は四十二
所きれたりけり。やがて伝馬たてさせ、のせ【乗せ】奉ての
ぼる程に、其夜は江口の長者がもとにとどま【留まつ】て、
夜もすがら使をはしらかす【走らかす】。明る日の午刻斗、
北条平六其勢百騎ばかり旗ささせて下る程に、
淀のあかゐ河原【赤井河原】でゆき逢たり。「都へP2412はいれ【入れ】奉る
P12510
べからずといふ院宣で候。鎌倉殿の御気色も
其儀でこそ候へ。はやはや御頸を給はて、鎌倉殿の
見参にいれ【入れ】て御恩蒙り給へ」といへば、さらばとて
あかゐ河原【赤井河原】で十郎蔵人の頸をきる。信太三郎
先生義教【*義憲】は醍醐の山にこもりたるよしき
こえ【聞え】しかば、おしよせてさがせどもなし。伊賀の
方へ落ぬと聞えしかば、服部平六先として、伊賀
国へ発向す。千度の山寺にありと聞えし間、おし
P12511
よせてからめむとするに、あはせの小袖に大口
ばかりきて、金にてうちくくんだる腰の刀にて腹
かききつ[* 「きん」と有るのを高野本により訂正]てぞふしたりける。頸をば服部平六とて
げり。やがてもたせて京へのぼり、北条平六に見せ
たりければ、「軈てもたせて下り、鎌倉殿の見参に
入て御恩蒙り給へ」といひければ、常陸房・服部
平六、おのおの頸共もたせて鎌倉へくだり、見参に
いれ【入れ】たりければ、「神妙也」とて、常陸房は笠井へ
P12512
ながさる。「下りはてば勧賞蒙らむとこそおもひ【思ひ】
つるに、さこそなからめ、剰流罪に処せらるる
条存外の次第なり。かかるべしとしり【知り】たりせば、
なにしか身命を捨けん」と後悔すれ共かひぞ
なき。されども中二年といふにめし【召し】かへさ【返さ】れ、「大将
軍討たるものは冥加のなければ一旦いましめ
つるぞ」とて、但馬国に多田庄、摂津国に葉室
二ケ所給はて帰り上る。服部平六平家の祗候人
P12513
たりしかば、没官せられたりけP2413る服部返し給
はてげり。六代被斬S1209さる程に、六代御前はやうやう十四五にもなり
給へば、みめかたちいよいようつくしく、あたりもてり
かかやく【輝く】ばかりなり。母うへ是を御覧じて、「あはれ
世の世にてあらましかば、当時は近衛司にてあらん
ずるものを」との給ひけるこそあまりの事なれ。鎌
倉殿常はおぼつかなげにおぼして、高雄の聖の
もとへ便宜ごとに、「さても維盛卿の子息は何と
P12514
候やらむ。昔頼朝を相し給ひしやうに、朝の
怨敵をもほろぼし、会稽の恥をも雪むべき
ものにて候か」と尋申されければ、聖の御返事
には、「是は底もなき不覚仁にて候ぞ。御心やすう
おぼしめし【思し召し】候へ」と申されけれ共、鎌倉殿猶も
御心ゆかずげにて、「謀反おこさばやがてかたうどせう
ずる聖の御房也。但頼朝一期の程は誰か傾べき。
子孫のすゑぞしら【知ら】ぬ」との給ひけるこそおそろし
P12515
けれ【恐ろしけれ】。母うへ是をきき給ひて、「いかにも叶まじ。はやはや
出家し給へ」と仰ければ、六代御前十六と申し
文治五年の春の比、うつくしげP2414なる髪をかた【肩】の
まはりにはさみ【鋏み】おろし、かきの衣、袴に笈などこし
らへ、聖にいとまこう【乞う】て修行にいでられけり。斎藤
五・斎藤六もおなじさまに出立て、御供申けり。
まづ高野へまいり【参り】、父の善知識したりける滝
口入道に尋あひ、御出家の次第、臨終のあり様
P12516
くはしう【詳しう】きき給ひて、「かつはその御跡もゆかし」とて、
熊野へまいり【参り】給ひけり。浜の宮の御前にて父の
わたり給ひける山なり【山成】の島を見渡して、渡らま
ほしくおぼしけれども、浪かぜむかう【向う】てかなは【叶は】ねば、力
をよば【及ば】でながめやり給ふにも、「我父はいづくに沈給
ひけむ」と、沖よりよする【寄する】しら波【白波】にもとは【問は】まほしく
ぞおもは【思は】れける。汀の砂も父の御骨やらんとなつ
かしう【懐しう】おぼしければ、涙に袖はしほれ【萎れ】つつ、塩くむ
P12517
あまの衣ならねども、かはく【乾く】まなくぞ見え給ふ。
渚に一夜とうりう【逗留】して、念仏申経よみ、ゆび【指】
のさきにて砂に仏のかたちをかき【書き】あらはして、
あけ【明け】ければ貴き僧を請じて、父の御ためと供養
じて、作善の功徳さながら聖霊に廻向して、亡者に
いとま申つつ、泣々都へ上られけり。小松殿の御子
丹後侍従忠房は、八島のいくさ【軍】より落てゆくゑ【行方】も
しら【知ら】ずおはせしが、紀伊国の住人湯浅権守宗
P12518
重をたのん【頼ん】で、湯浅の城にぞこもられける。是を
きい【聞い】て平家に心ざしおもひ【思ひ】ける越中次郎兵衛・
上総五郎兵衛・悪七兵衛・飛P2415弾【*飛騨】四郎兵衛以下の
兵共、つき奉るよし聞えしかば、伊賀伊勢両国の
住人等、われもわれもと馳集る。究竟の者共〔数〕百騎
たてこもるよし聞えしかば、熊野別当、鎌倉殿
より仰を蒙て、両三月が間八ケ度よせて攻戦。城
の内の兵ども、命をおしま【惜しま】ずふせき【防き】ければ、毎度に
P12519
みかた【御方】おい【追ひ】ちらさ【散らさ】れ、熊野法師数をつくひ【尽くい】てう
たれにけり。熊野別当、鎌倉殿へ飛脚を奉て、
「当国湯浅の合戦の事、両三月が間に八ケ度よ
せて攻戦。され共城の内の兵ども命をおしま【惜しま】ず
ふせく【防く】間、毎度に御方おいおとさ【落さ】れて、敵を寃に
及ず。近国二三ケ国をも給はて攻おとす【落す】べき」よし
申たりければ、鎌倉殿「其条、国の費[* 「貴」と有るのを高野本により訂正]人の煩なる
べし。たてごもる所の凶徒は定て海山の盜人にてぞ
P12520
あるらん。山賊海賊きびしう守護して城の口を
かためてまぼるべし」とぞの給ひける。其定に
したりければ、げにも後には人一人もなかりけり。鎌
倉殿はかりこと【策】に、「小松殿の君達の、一人も二人も
いきのこり給ひたらむをば、たすけ【助け】奉るべし。其
ゆへ【故】は、池の禅尼の使[* 「便」と有るのを他本により訂正]として、頼朝を流罪に申なだ
め【宥め】られしは、ひとへに彼内府の芳恩なり」との給ひ
ければ、丹後侍従六波羅へ出てなのら【名乗ら】れけり。やがて
P12521
関東へ下し奉る。鎌倉殿対面して「都へ御上
候へ。かたほとりにおもひ【思ひ】あて【当て】まいらする【参らする】事候」とて、
すかし上せ奉り、おさま【追つ様】に人をのぼせ【上せ】て勢
田の橋の辺にて切てげり。P2416小松殿の君達六人
の外に、土佐守宗実とておはしけり。三歳より大炊
御門の左大臣経宗卿の養子にして、異姓他人
になり、武芸の道をばうち捨て、文筆をのみたし
なで、今年は十八になり給ふを、鎌倉殿より
P12522
尋はなかりけれ共世に憚ておい出されたりければ、
先途をうしなひ【失ひ】、大仏の聖俊乗房のもとに
おはして、「我は是小松の内府の末の子に、土佐守
宗実と申者にて候。三歳より大炊御門左大臣
経宗公養子にして、異姓他人になり、武芸のみち
を打捨て、文筆をのみたしなんで、生年十八歳に
罷成。鎌倉殿より尋らるる事は候はね共、世におそれ【恐れ】
ておい出されて候。聖の御房御弟子にせさせ給へ」
P12523
とて、もとどりおしきり給ぬ。「それもなを【猶】おそ
ろしう【恐ろしう】おぼしめさ【思し召さ】ば、鎌倉へ申て、げにもつみ【罪】ふかかる
べくはいづくへもつかはせ【遣せ】」との給ひければ、聖いとお
しくおもひ【思ひ】奉て、出家せさせ奉り、東大寺の油
倉といふ所にしばらくをき奉て、関東へ此よし
申されけり。「何さまにも見参してこそともかうも
はからはめ。まづ下し奉れ」との給ひければ、聖力をよ
ば【及ば】で関東へ下し奉る。此人奈良を立給ひし日より
P12524
して、飲食の名字をたて、湯水をものどへいれ【入れ】ず。
足柄こえて関本と云所にてつゐに【遂に】うせ給ひぬ。
「いかにも叶まじき道なれば」とておもひ【思ひ】きら【切ら】れける
こそおそろしけれ【恐ろしけれ】。P2417さる程に、建久元年十一月七日
鎌倉殿上洛して、同九日、正二位大納言になり給ふ。
同十一日、大納言右大将を兼じ給へり。やがて両職
を辞て、十二月四日関東へ下向。建久三年三月十
三日、法皇崩御なりにけり。御歳六十六、偸伽【*瑜伽】振鈴
P12525
の響[* 「闇」と有るのを他本により訂正]は其夜をかぎり、一乗案誦の御声は其暁に
おはりぬ。同六年三月十三日、大仏供養あるべしとて、
二月中に鎌倉殿又御上洛あり。同十二日、大仏殿へ
まいら【参ら】せ給ひたりけるが、梶原を召て、「てがい【碾磑】の門の南の
かたに大衆なん十人をへだてて、あやしばうだる
ものの見えつる。めし【召し】とてまいらせよ【参らせよ】」との給ひけ
れば、梶原承はてやがて具してまいり【参り】たり。ひげをば
そてもとどりをばきらぬ男也。「何者ぞ」ととひ
P12526
給へば、「是程運命尽はて候ぬるうへは、とかう申に
をよば【及ば】ず。是は平家の侍薩摩中務家資と申
ものにて候」。「それは何とおもひ【思ひ】てかくはなりたるぞ」。
「もしやとねらひ申候つるなり」。「心ざしの程はゆゆし
かり」とて、供養はて【果て】て都へいら【入ら】せ給ひて、六条河原
にてきら【斬ら】れにけり。平家の子孫は去文治元年の冬
の比、ひとつ【一つ】子ふたつ【二つ】子をのこさず、腹の内をあけ
て見ずといふばかりに尋とて失てぎ。今は一人も
P12527
あらじとおもひ【思ひ】しP2418に、新中納言の末の子に、伊賀
大夫知忠とておはしき。平家都を落しとき、
三歳にてすて【捨て】をか【置か】れたりしを、めのとの紀伊次郎
兵衛為教やしない【養ひ】奉て、ここかしこにかくれあり
き【歩き】けるが、備後国太田といふ所にしのび【忍び】つつゐたり
けり。やうやう成人し給へば、郡郷の地頭守護あや
しみける程に、都へのぼり法性寺の一の橋なる所に
しのん【忍ん】でおはしけり。爰は祖父入道相国「自然の
P12528
事のあらん時城郭にもせむ」とて堀をふたへ【二重】に
ほて、四方に竹をうへ【植ゑ】られたり。さかも木【逆茂木】ひいて、昼は
人音もせず、よるになれば尋常なるともがらおほ
く【多く】集て、詩作り歌よみ、管絃などして遊ける
程に、何としてかもれ【漏れ】聞えたりけむ。その比人のおぢ
をそれ【恐れ】けるは、一条の二位入道義泰【*能保】といふ人なり。その
侍に後藤兵衛基清が子に、新兵衛基綱「一の橋に
違勅の者あり」と聞出して、建久七年十月七日の
P12529
辰の一点に、其勢百四五十騎、一の橋へはせ【馳せ】むかひ【向ひ】、
おめき【喚き】さけん【叫ん】で攻戦。城の内にも卅余人あり【有り】ける
者共、大肩[* 「眉」と有るのを他本により訂正]ぬぎに肩[* 「眉」と有るのを他本により訂正]ぬいで、竹の影よりさし
つめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】散々にい【射】れば、馬人おほく【多く】射ころ
さ【殺さ】れて、おもてをむかふ【向ふ】べき様もなし。さる程に、一の
橋に違勅の者ありとききつたへ、在京の武士ども
われもわれもと馳つどふ【集ふ】。程なく一二千騎になりしかば、
近辺の小いゑをこぼちよせ、堀をうめ、おめき【喚き】さけん【叫ん】
P12530
で攻入けり。城のうちの兵共、うち物ぬいて走出P2419て、
或討死にするものもあり、或いたで【痛手】おうて自害す
る者もあり。伊賀大夫知忠は生年十六歳になられ
けるが、いた手【痛手】負て自害し給ひたるを、めのとの紀
伊次郎兵衛入道ひざの上にかきのせ【乗せ】、涙をはらはらと
ながい【流い】て高声に十念となへつつ、腹かき切てぞ死に
ける。其子の兵衛太郎・兵衛次郎ともに討死してん
げり。城の内に卅余人あり【有り】ける者共、大略討死自
P12531
害して、館には火をかけたりけるを、武士ども馳入て
手々に討ける頸共とて、太刀長刀のさきにつら
ぬき、二位入道殿へ馳まいる【参る】。一条の大路へ車やり出
して、頸ども実検せらる。紀伊次郎兵衛入道の頸は
見したるものも少々あり【有り】けり。伊賀大夫の頸、人争か
みしり奉るべき。此人の母うへは治部卿局とて、八条の
女院に候はれけるを、むかへよせ奉り見せ奉り給ふ。「三歳
と申し時、故中納言にぐせ【具せ】られて西国へ下し後は、
P12532
いき【生き】たり共死たり共、そのゆくゑ【行方】をしら【知ら】ず。但故
中納言のおもひ【思ひ】いづる【出づる】ところどころ【所々】のあるは、さにこそ」
とてなか【泣か】れけるにこそ、伊賀大夫の頸共人し【知つ】てげれ。
平家の侍越中次郎兵衛盛次【*盛嗣】は但馬国へ落行て
気比四郎道弘が聟になてぞゐたりける。道弘、越
中次郎兵衛とはしら【知ら】ざりけり。され共錐袋にた
まらぬ風情にて、よるになればしうと【舅】が馬ひき【引き】いだ
い【出い】てはせ【馳せ】ひき【引き】したり、海の底十四P2420五町、廿町くぐり
P12533
などしければ、地頭守護あやしみける程に、何としてか
もれ聞えたりけん、鎌倉殿御教書を下されけり。
「但馬国住人朝倉太郎大夫高清、平家の侍越中
次郎兵衛盛次【*盛嗣】、当国に居住のよしきこしめす【聞し召す】。
めし【召し】進せよ」と仰下さる。気比[B ノ]四郎は朝倉[B ノ]大夫が聟
なりければ、よびよせて、いかがしてからめむずると儀
するに、「湯屋にてからむべし」とて、湯にいれ【入れ】て、した
たかなるもの五六人おろしあはせてからめむとするに、
P12534
とりつけばなげたおさ【倒さ】れ、をき【起き】あがれ【上れ】ばけたおさ【倒さ】る。互に
身はぬれたり、とりもためず。され共衆力に強力か
なは【叶は】ぬ事なれば、二三十人ばとよ【寄つ】て、太刀のみね長刀
のゑ【柄】にてうちなやしてからめとり、やがて関東へまいら
せ【参らせ】たりければ、御まへにひ【引つ】すゑさせて、事の子細を
めし【召し】とは【問は】る。「いかに汝は同平家の侍といひながら、故親
にてあんなるに、しな【死な】ざりけるぞ」。「それはあまりに平家
のもろくほろびてましまし候間、もしやとねらひ
P12535
まいらせ【参らせ】候つるなり。太刀のみ【身】のよきをも、征矢の
尻のかねよきをも、鎌倉殿の御ためとこそこしらへ
もて候つれ共、是程に運命つきはて候ぬるうへは、と
かう申にをよび【及び】候はず」。「心ざしの程はゆゆしかり
けり。頼朝をたのま【頼ま】ばたすけ【助け】てつかは【使は】んは、いかに」。「勇士
二主に仕へず、盛次【*盛嗣】程の者に御心ゆるしし給ひては、
かならず【必ず】御後悔候べし。ただ御恩にはとくとく頸P2421を
めされ候へ」と申ければ、「さらばきれ【斬れ】」とて、由井の浜に
P12536
ひきいだひ【出い】て、きてげり。ほめぬものこそなかりけれ。
其比の主上は御遊をむねとせさせ給ひて、政道
は一向卿の局のままなりければ、人の愁なげきも
やまず。呉王剣角をこのんじかば天下に疵を蒙る
ものたえ【絶え】ず。楚王細腰を愛しかば、宮中に飢て
死するをんなおほかり【多かり】き。上の好に下は随ふ間、世の
あやうき【危ふき】事をかなしんで、心ある人々は歎あへ【合へ】り。ここ
に文覚もとよりおそろしき【恐ろしき】聖にて、いろう【綺ふ】ま
P12537
じき事にいろい【綺ひ】けり。二の宮は御学問おこたらせ
給はず、正理を先とせさせ給ひしかば、いかにもして
此宮を位に即奉らむとはからひけれども、前右大
将頼朝卿のおはせし程にかなは【叶は】ざりけるが、建久十年
正月十三日、頼朝卿うせ給ひしかば、やがて謀反をおこ
さんとしける程に、忽にもれ【漏れ】きこえ【聞え】て、二条猪熊の
宿所に官人共つけられ、めし【召し】とて八十にあまて後、
隠岐国へぞながされける。文覚京を出るとて、「是
P12538
程老の波に望で、けふあすともしらぬ身をたとひ
勅勘なりとも、都のかたほとりにはをき給はで、隠岐
国までながさるる及丁【*毬杖】冠者こそやすからね。つゐに【遂に】は
文覚がながさるる国へむかへ【向へ】申さんずる物を」と申
けるこそおそろしけれ【恐ろしけれ】。されば、承久に御謀反おこ
させ給ひて、国こそおほけれ【多けれ】、隠岐国へうつされ
給ひけるこそふP2422しぎなれ。彼国にも文覚が亡霊
あれ【荒れ】て、つねは御物語申けるとぞ聞えし。さる程に
P12539
六代御前は三位禅師とて、高雄におこなひすまし【澄まし】て
おはしけるを、「さる人の子なり、さる人の弟子なり。
かしらをばそたりとも、心をばよもそらじ」とて鎌倉
殿より頻に申されければ、安判官資兼に仰て召
捕て関東へぞ下されける。駿河[* 「駿川」と有るのを高野本により訂正]国住人岡辺権守
泰綱に仰て、田越河にて切[B ラ]れてげり。十二の歳
より卅にあまるまでたもち【保ち】けるは、ひとへに長谷の
観音の御利生とぞ聞えし。それよりしてこそ
P12540
平家の子孫はながくたえ【絶え】にけれ。
平家物語巻第十二
応安三年十一月廿九日 仏子有阿書

平家物語(龍谷大学本)灌頂巻

【許諾済】
本テキストの公開については、龍谷大学大宮図書館の許諾を得ています。底本使用・テキスト公開を許可された同図書館に厚く御礼申し上げます。
【注意】
本テキストの利用は個人の研究の範囲内に限られます。本テキストの全体あるいは一部の複写物・複写加工物を、インターネット上で、あるいは出版物として公表する場合には、事前に龍谷大学大宮図書館に翻刻掲載許可願いを申請する必要があります。同図書館の許可を得ない本テキストの公表は禁じられています。翻刻掲載許可願い申請送付先:〒600-8268 京都市下京区七条通大宮東入大工町125−1 龍谷大学大宮図書館閲覧係
【底本】
本テキストの底本は、龍谷大学大宮図書館所蔵『平家物語』です。直接には、思文閣出版発行の影印本に拠りました。

P13541 P2423
平家灌頂巻
女院出家S1301 建礼門院は、東山の麓、吉田の辺なる所にぞ
立いらせ給ひける。中納言法印慶恵と申ける
奈良法師の坊なりけり。住あらして年久しう
なりにければ、庭には草ふかく、簷にはしのぶ【忍】茂れり。
簾たえ【絶え】閨あらはにて、雨風たまるやうもなし。花
は色々にほへども、あるじとたのむ【頼む】人もなく、月は
よなよな【夜な夜な】さしいれ【入れ】ど、ながめてあかすぬし【主】もなし。
P13542
昔は玉の台をみがき、錦の帳にまとはれて、あかし
暮し給ひしに、いまはありとしある人にはみな
別はてて、あさましげなるくち坊【朽ち坊】にいらせ給ひける
御心の内、おしはから【推し量ら】れて哀なり。魚のくが【陸】にあがれ【上がれ】る
がごとく、鳥の巣をはなれたるがごとし。さるままには、
うかり【憂かり】し浪の上、船の中の御すまゐ【住ひ】も、今は恋しう
ぞおぼしめす【思し召す】。蒼波路遠し、思を西海千里の
雲によせ、白屋苔ふかくして、涙東山一庭の月に
P13543
おつ。かなしともいふはかりなP2424し。かくて女院は文治元
年五月一日、御ぐしおろさせ給ひけり。御戒の師には
長楽寺の阿証房の上人印誓とぞきこえ【聞え】し。
御布施には、先帝の御直衣なり。今はの時までめさ
れたりければ、その御うつり香もいまだうせ【失せ】ず。御かた
みに御らむぜんとて、西国よりはるばると都までも
たせ給ひたりければ、いかならん世までも御身をはなた
じとこそおぼしめさ【思し召さ】れけれども、御布施になりぬ
P13544
べき物のなきうへ、かつうは彼御菩提のためとて、泣々
とりいださせ給ひけり。上人是を給はて、何と奏する
むねもなくして、墨染の袖をしぼりつつ、泣々罷出
られけり。此御衣をば幡にぬう【縫う】て、長楽寺の仏前に
かけられけるとぞ聞えし。女院は十五にて女御の
宣旨をくだされ、十六にて后妃の位に備り、君王の
傍に候はせ給ひて、朝には朝政をすすめ、よるは夜を専
にし給へり。廿二にて皇子御誕生、皇太子にたち、
P13545
位につかせ給ひしかば、院号蒙らせ給ひて、建礼門院
とぞ申ける。入道相国の御娘なるうへ、天下の国母
にてましましければ、世のおもう【重う】し奉る事なのめならず。
今年は廿九にぞならせ給ふ。桃李の御粧猶こまやか
に、芙蓉の御かたちいまだ衰させ給はね共、翡翠
の御かざしつけても何にかはせさせ給ふべきなれば、
遂に御さまをかへさ【返さ】せ給ふ。浮世をいとP2425ひ、まこと【誠】の道に
いらせ給へども、御歎は更につきせず。人々いまはかく
P13546
とて海にしづみし有様、先帝・二位殿の御面影、
いかならん世までも忘がたくおぼしめすに、露の
御命なにしに今までながらへ【永らへ】て、かかるうき目を見る
らんとおぼしめしつづけて、御涙せきあへさせ給
はず。五月の短夜なれども、あかしかねさせ給ひつつ、
をのづからもうちまどろませ給はねば、昔の事は夢に
だにも御らんぜず。壁にそむける残の燈の影かすか【幽】に、
夜もすがら窓うつくらき雨の音ぞさびしかりける。
P13547
上陽人が上陽宮に閉られけむかなしみも、是には
過じとぞ見えし。昔をしのぶ【忍ぶ】つまとなれとてや、も
とのあるじのうつし【移し】うへ【植ゑ】たりけむはな橘の、簷ち
かく風なつかしう【懐しう】かほりけるに、郭公二こゑ【声】三こゑ【声】
をとづれければ、女院ふるき事なれ共おぼしめし【思し召し】出て、
御硯のふたにかうぞあそばさ【遊ばさ】れける。 郭公花たちばな
の香をとめてなくはむかしの人や恋しき W093 女房達
さのみたけく、二位殿・越前の三位のうへのやうに、水の
P13548
底にも沈み給はねば、武のあらけなき【荒けなき】にとらはれて、
旧里にかへり、わかき【若き】もおい【老い】たるもさまをかへ、かたち
をやつし、あるにもあらぬありさまにてぞ、おもひ【思ひ】も
かけぬ谷の底、岩のはざまにあかし暮し給ひける。
すまゐ【住ひ】し宿は皆煙とのぼりにしP2426かば、むなしき【空しき】
跡のみ残りて、しげき野べとなりつつ、みなれ【見馴れ】し人
のとひくるもなし。仙家より帰て七世の孫に
あひけんも、かくやとおぼえて哀なり。さる程に、七月
P13549
九日の大地震に築地もくづれ、荒たる御所もかた
ぶきやぶれて、いとどすませ給ふべき御たよりもなし。
緑衣の監使宮門をまぼるだにもなし。心のままに
荒たる籬は、しげき野辺よりも露けく、おりしり
がほ【折知顔】にいつしか虫のこゑごゑ【声々】うらむる【恨むる】も、哀なり。
夜もやうやうながくなれば、いとど御ね覚がちにて
明しかねさせ給ひけり。つきせぬ御ものおもひ【物思ひ】に、
秋のあはれ【哀】さへうちそひて、しのび【忍び】がたくぞおぼし
P13550
めさ【思し召さ】れける。何事もかはりはてぬる浮世なれば、をの
づからあはれ【哀】をかけ奉るべき草のたよりさへかれ
はてて、誰はぐくみ奉るべしとも見え給はず。
大原入S1302 されども冷泉大納言隆房卿・七条修理大夫信隆卿
の北方、しのび【忍び】つつやうやうにとぶらひ【訪ひ】申させ給ひけり。
「あの人々どものはぐくみにてあるべしとこそ昔は
おもは【思は】ざりしか」とて、女院御涙をながさせ給へば、つき
まいらせ【参らせ】P2427たる女房達もみな袖をぞしぼられける。
P13551
此御すまゐ【住ひ】も都猶ちかく、玉ぼこの道ゆき人の
人目もしげくて、露の御命風を待ん程は、うき【憂き】事
きかぬふかき山の奥のおくへも入なばやとはおぼし
けれども、さるべきたよりもましまさず。ある女房の
まい【参つ】て申けるは、「大原山のおく、寂光院と申所こそ
閑にさぶらへ【候へ】」と申ければ、「山里は物のさびしき事こそ
あるなれども、世のうきよりはすみよかんなる物を」
とて、おぼしめし【思し召し】たたせ給ひけり。御輿などは隆
P13552
房卿の北方の御沙汰あり【有り】けるとかや。文治元年
長月の末に、彼寂光院へいらせ給ふ。道すがら
四方の梢の色々なるを御覧じすぎさせ給ふ程に、
山かげなればにや、日も既くれかかりぬ。野寺の鐘の入
あひの音すごく、わくる草葉の露しげみ、いとど
御袖ぬれまさり、嵐はげしく木の葉みだりがは
し。空かきくもり【曇り】、いつしかうちしぐれつつ、鹿の音
かすか【幽】に音信て、虫の恨もたえだえ【絶え絶え】なり。とにかくに
P13553
とりあつめ【集め】たる御心ぼそさ、たとへやるべきかたも
なし。浦づたひ島づたひせし時も、さすがかくは
なかりしものをと、おぼしめす【思し召す】こそかなしけれ。
岩に苔むしてさびたる所なりければ、すま【住ま】まほし
うぞおぼしめす【思し召す】。露結ぶ庭の萩原霜がれて、
籬の菊のかれがれ【枯れ枯れ】にうつろふ色を御らんじても、御身
の上とやおぼしけん。仏の御前にまいら【参ら】せ給ひP2428て、
「天子聖霊[* 「座霊」と有るのを他本により訂正]成等正覚、頓証菩提」といのり申させ
P13554
給ふにつけても、先帝の御面影ひしと御身にそひ
て、いかならん世にかおぼしめし【思し召し】わすれさせ給ふべき。
さて寂光院のかたはらに方丈なる御庵室を
むすんで、一間を御寝所にしつらひ、一間をば仏
所に定、昼夜朝夕の御つとめ、長時不断の御念仏、
おこたる事なくて月日を送らせ給ひけり。かくて
神無月中の五日の暮がたに、庭に散しく楢の葉を
ふみならして聞えければ、女院「世をいとふところ【所】に
P13555
なにもののとひくるやらむ。あれ見よや、忍ぶべきもの
ならばいそぎしのば【忍ば】ん」とて、みせ【見せ】らるるに、をしか【牡鹿】の
とおる【通る】にてぞあり【有り】ける。女院いかにと御尋あれば、大納
言佐殿なみだをおさへて、
岩根ふみたれかはとは【問は】むならの葉の
そよぐはしかのわたるなりけり W094
女院哀におぼしめし【思し召し】、窓の小障子に此歌を
あそばし【遊ばし】とどめ【留め】させ給ひけり。かかる御つれづれの
P13556
な[B か]におぼしめし【思し召し】なぞらふる事共は、つらき中にも
あまたあり。軒にならべるうへ木【植木】をば、七重宝樹とかた
どれり。岩間につもる水をば、八功徳水[* 「八功徳池」と有るのを高野本により訂正]とおぼしめす【思し召す】。
無常は春の花、風に随て散やすく、有涯は秋の
月、雲に伴て隠れやすし。承陽殿に花を翫し
朝には、風来て匂を散し、長秋宮に月を詠ぜ
し夕には、雲おほ【覆つ】て光をかくす。昔は玉楼金殿に
錦の褥をしき、P2429たへ【妙】なりし御すまゐ【住ひ】なりしか共、
P13557
今は柴引むすぶ草の庵、よそのたもともしほれ【萎れ】
けり。大原御幸S1303 かかりし程に、文治二年の春の比、法皇、建
礼門院大原の閑居の御すまゐ【住ひ】、御覧ぜまほしう
おぼしめさ【思し召さ】れけれども、きさらぎ【二月】やよひ【三月】の程は風
はげしく、余寒もいまだつきせず。峯の白雪消え
やらで、谷のつららもうちとけず。春すぎ夏きたて
北まつりも過しかば、法皇夜をこめて大原の奥へぞ
御幸なる。しのびの御幸なりけれども、供奉の人々、
P13558
徳大寺・花山院・土御門以下、公卿六人、殿上人八人、
北面少々候けり。鞍馬どおり【鞍馬通り】の御幸なれば、清原[B ノ]深
養父が補堕落寺【*補陀落寺】、小野の皇太后宮の旧跡〔を〕叡
覧あて、それより御輿にめされけり。遠山にかかる白雲
は、散にし花のかたみなり。青葉に見ゆる梢には、
春の名残ぞおしま【惜しま】るる。比は卯月廿日あまりの
事なれば、夏草のしげみが末を分いらせ給ふに、はじ
めたる御幸なれば、御覧じなれたるかたもなし。人跡たえ【絶え】
P13559
たる程もおぼしめし【思し召し】しられて哀なり。P2430西の山
の[ふ]もとに一宇の御堂あり。即寂光院是也。
ふるう作りなせる前水木だち、よしあるさま
の所なり。「甍やぶれては霧不断の香をたき、
枢おち【落ち】ては月常住の燈をかかぐ」とも、かやうの所
をや申べき。庭の若草しげりあひ、青柳の
糸をみだりつつ、池の蘋浪にただよひ、錦を
さらすかとあやまたる。中島の松にかかれる藤
P13560
なみの、うら紫にさける色、青葉まじりのをそ
桜【遅桜】、初花よりもめづらしく、岸のやまぶきさき
みだれ、八重たつ雲のたえ間より、山郭公の一声も、
君の御幸をまちがほなり。法皇是を叡覧あて、
かうぞおぼしめし【思し召し】つづけける。
池水にみぎはのさくら散しきて
なみの花こそさかりなりけれ W095
ふりにける岩のたえ間より、おち【落ち】くる水の音
P13561
さへ、ゆへび【故び】よしある所なり。緑蘿[B ノ]牆、翠黛[B ノ]山、画
にかくとも筆もをよび【及び】がたし。女院の御庵室を御
覧ずれば、軒には蔦槿はひかかり【這ひ掛かり】、信夫まじりの
忘草、瓢箪しばしばむなし、草顔淵が巷にしげし。
藜でうふかくさせり、雨原憲が枢をうるほす
ともい【言つ】つべし。杉の葺目もまばらにて、時雨も
霜もをく【置く】露も、もる月影にあらそひて、たまる
べしとも見えざりけり。うしろは山、前は野辺、
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いささをざさ【小笹】に風さはぎ【騒ぎ】、世にたたぬ身のならひ【習ひ】とて、
うきふししげき竹柱、P2431都の方のことづては、ま
どを【間遠】にゆへ【結へ】るませ垣や、わづかにこととふものとては、
峯に木づたふ猿のこゑ【声】、しづ【賎】がつま木のおのの音、こ
れらが音信ならでは、まさ木のかづら青つづら、くる
人まれなる所なり。法皇「人やある、人やある」とめさ【召さ】れ
けれども、おいらへ【御答】申ものもなし。はるかにあて、
老衰たる尼一人まいり【参り】たり。「女院はいづくへ御幸なり
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ぬるぞ」と仰ければ、「此うへの山へ花つみにいらせ給ひ
てさぶらふ【候ふ】」と申。「さやうの事につかへ奉るべき人も
なきにや。さこそ世を捨る御身といひながら、御いたはしう
こそ」と仰ければ、此尼申けるは、「五戒十善の御果報つ
きさせ給ふによて、今かかる御目を御覧ずるにこそ
さぶらへ【候へ】。捨身の行になじかは御身ををしま【惜しま】せ
給ふべき。因果経には「欲知過去因、見其現在果、欲
知未来果、見其現在因」ととかれたり。過去未来の
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因果をさとらせ給ひなば、つやつや御歎あるべからず。悉
達太子は十九にて伽耶城をいで、檀徳山【*檀特山】のふもと【麓】
にて、木葉をつらねてはだえ【膚】をかくし、嶺にのぼりて
薪をとり、谷にくだりて水をむすび、難行苦行の
功によて、遂に成等正覚し給ひき」とぞ申ける。
此尼のあり様を御覧ずれば、きぬ布のわきも見えぬ
物を結びあつめ【集め】てぞき【着】たりける。「あのあり様にても
かやうの事申すふしぎさ【不思議さ】よ」とおぼしめし【思し召し】、「抑
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汝はいかなるP2432ものぞ」と仰ければ、さめざめとないて、しばしは
御返事にも及ばず。良あて涙ををさへて申けるは、
「申につけても憚おぼえさぶらへ【候へ】ども、故少納言入道
信西がむすめ、阿波の内侍と申しものにてさぶらふ【候ふ】也。
母は紀伊の二位、さしも御いとおしみふかう【深う】こそさぶら
ひしに、御覧じ忘させ給ふにつけても、身のおと
ろへぬる程も思ひしられて、今更せむかたなうこそ
おぼえさぶらへ【候へ】」とて、袖をかほにおしあてて、しのび【忍び】
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あへぬさま、目もあてられず。法皇も「されば汝は阿波
の内侍にこそあんなれ。今更御覧じわすれける。
ただ夢とのみこそおぼしめせ【思し召せ】」とて、御涙せきあへ
させ給はず。供奉の公卿殿上人も、「ふしぎ【不思議】の尼かなと
思ひたれば、理にてあり【有り】けり」とぞ、をのをの【各々】申あはれける。
あなたこなたを叡覧あれば、庭の千種露おもく、
籬にたおれ【倒れ】かかりつつ、そとも【外面】のを田【小田】も水こえて、鴫
たつひまも見えわかず。御庵室にいらせ給ひて、
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障子を引あけて御覧ずれば、一間には来迎〔の〕三尊おは
します。中尊の御手には五色の糸をかけられたり。
左には普賢の画像、右には善導和尚并に先
帝の御影をかけ、八軸の妙文・九帖の御書もをか【置か】れ
たり。蘭麝の匂に引かへて、香の煙ぞ立のぼる。彼
浄名居士の方丈の室の内に三万二千[* 「三万三千」と有るのを高野本により訂正]の床を
ならべ、十方の諸仏を請じ奉り給ひけむも、かく
やとぞおぼえける。障子には諸経の要文共、P2433色紙に
P13568
かいて所々におされたり。そのなかに大江の貞基法師が
清凉山にして詠じたりけむ「笙歌遥聞孤雲[B ノ]
上、聖衆来迎[B ス]落日前」ともかかれたり。すこし引
のけて女院の御製とおぼしくて、
おもひ【思ひ】きやみ山のおくにすまゐ【住ひ】して
雲ゐの月をよそに見むとは W096
さてかたはらを御覧ずれば、御寝所とおぼしくて、
竹の御さほにあさ【麻】の御衣、紙の御衾などかけられたり。
P13569
さしも本朝漢土のたへなるたぐひ数をつくして、
綾羅錦繍の粧もさながら夢になりにけり。供奉
の公卿殿上人もをのをの【各々】見まいらせ【参らせ】し事なれば、
今のやうに覚て、皆袖をぞしぼられける。さる程に、
うへの山より、こき墨染の衣きたる尼二人、岩のかけ
路をつたひつつ、おりわづらひ【煩ひ】給ひけり。法皇是を
御覧じて、「あれは何ものぞ」と御尋あれば、老尼涙を
をさへて申けるは、「花がたみ【筐】ひぢにかけ、岩つつじ
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とり具してもたせ給ひたるは、女院にて渡らせ給
ひさぶらふ【候ふ】なり。爪木に蕨折具してさぶらふは、
鳥飼の中納言維実のむすめ、五条大納言国綱【*邦綱】
卿の養子、先帝の御めのと、大納言佐」と申も
あへずなき【泣き】けり。法皇もよに哀げにおぼしめし【思し召し】
て、御涙せきあへさせ給はず。女院は「さこそ世を捨る
御身といひながら、いまかかる御ありさまを見えまいら
せ【参らせ】むずらんはづかしさよ。消もうせばや」とおぼしP2434
P13571
めせどもかひぞなき。よひよひごとのあかの水、結ぶた
もともしほるる【萎るる】に、暁をき【起き】の袖の上、山路の露も
しげくして、しぼりやかね[* 「かさね」と有るのを高野本により訂正]させ給ひけん、山へも
帰らせ給はず、御庵室へもいらせ給はず、御涙にむせ
ばせ給ひ、あきれてたたせましましたる所に、内侍
の尼まいり【参り】つつ、花がたみをば給はりけり。六道之沙汰S1304 「世をいとふ
ならひ【習ひ】、なにかはくるしう【苦しう】さぶらふ【候ふ】べき。はやはや御
たいめんさぶらふて、還御なしまいら【参らつ】させ給へ」と申
P13572
ければ、女院御庵室にいらせ給ふ。「一念の窓の前には
摂取の光明を期し、十念の柴の枢には、聖衆の
来迎をこそ待つるに、思外に御幸なりけるふし
ぎさ【不思議さ】よ」とて、なくなく【泣く泣く】御げんざん【見参】ありけり。法皇此御
ありさまを見まいら【参らつ】させ給ひて、「非想の八万劫、猶
必滅の愁に逢。欲界の六天、いまだ五衰のかなしみ
をまぬかれず。善見城の勝妙の楽、中間禅の高台
の閣、又夢の裏の果報、幻の間のたのしみ、既に
P13573
流転無窮也。車輪のめぐるがごとし。天人の五衰の
悲は、人間にも[* 「には」と有るのを高野本により訂正]候ける物を」とぞ仰ける。P2435「さるにてもたれか
事とひまいらせ【参らせ】候。何事につけてもさこそ古おぼし
めし【思し召し】いで候らめ」と仰ければ、「いづかたよりをとづるる事
もさぶらはず。隆房・信隆の北方より、たえだえ【絶え絶え】申送る
事こそさぶらへ【候へ】。その昔あの人どものはぐくみにてある
べしとは露も思より候はず」とて、御涙をながさせ給へば、
つきまいらせ【参らせ】たる女房達もみな袖をぞぬらされける。
P13574
女院御涙ををさへて申させ給ひけるは、「かかる身に
なる事は一旦の歎申にをよび【及び】候はねども、後生菩提
の為には、悦とおぼえさぶらふ【候ふ】なり。忽に釈迦[* 「尺迦」と有るのを高野本により訂正]の遺弟に
つらなり、忝く弥陀の本願に乗じて、五障三従の
くるしみ【苦しみ】をのがれ【逃れ】、三時に六根をきよめ、一すぢに九品
の浄刹をねがふ。専一門の菩提をいのり、つねは三尊
の来迎を期す。いつの世にも忘がたきは、先帝の御
面影、忘れんとすれども忘られず、しのば【忍ば】んとすれども
P13575
しのば【忍ば】れず。ただ恩愛の道ほどかなしかり【悲しかり】ける事は
なし。されば彼菩提のために、あさゆふのつとめおこたる
事さぶらはず。是もしかる【然る】べき善知識とこそ覚へ
さぶらへ【候へ】」と申させ給ひければ、法皇仰なりけるは、
「此国は粟散辺土なりといへども、忝く十善の余
薫に答へて、万乗のあるじとなり、随分一として
心にかなは【叶は】ずといふ事なし。就中仏法流布の世に
むまれ【生れ】て、仏道修行の心ざしあれば、後生善所
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疑あるべからず。人間のあだなるならひ【習ひ】は、今更おP2436ど
ろくべきにはあらねども、御ありさま見奉るに、
あまりにせむかたなうこそ候へ」と仰ければ、女院重
て申させ給ひけるは、「我平相国のむすめとして
天子の国母となりしかば、一天四海みなたなごころ
のままなり。拝礼の春の始より、色々の衣がへ【衣更】、仏名
の年のくれ、摂禄以下の大臣公卿にもてなされし
ありさま、六欲四禅の雲の上にて八万の諸天に囲繞
P13577
せられさぶらふ【候ふ】らむ様に、百官悉あふが【仰が】ぬものや
さぶらひし。清凉紫宸の床の上、玉の簾のうち
にてもてなされ、春は南殿の桜に心をとめて日を
くらし、九夏三伏のあつき日は、泉をむすびて心を
なぐさめ、秋は雲の上の月をひとり見む事をゆる
さ【許さ】れず。玄冬素雪のさむき夜は、妻を重てあたた
かにす。長生不老の術をねがひ、蓬莱不死の
薬を尋ても、ただ久しからむ事をのみおもへ【思へ】り。
P13578
あけてもくれても楽さかへ【栄え】し事、天上の果報も
是には過じとこそおぼえさぶらひしか。それに寿永
の秋のはじめ、木曾義仲とかやにおそれ【恐れ】て、一門の人々
住なれし都をば雲井のよそに顧て、ふる里を
焼野の原とうちながめ、古は名をのみききし須磨
より明石の浦づたひ、さすが哀に覚て、昼は漫々たる
浪路を分て袖をぬらし、夜は州崎の千鳥と共に
なきあかし、浦々島々よしある所を見しかども、ふる
P13579
里の事はわすれず。かくてよる【寄る】方なかりしは、五衰
必滅のかなしみとこそおぼえさぶらひしか。人間のP2437事は
愛別離苦、怨憎会苦、共に我身にしられて侍らふ。
四苦八苦一として残る所さぶらはず。さても筑前国
太宰府といふ所にて、維義とかやに九国の内をも
追出され、山野広といへども、立よりやすむべき所も
なし。同じ秋の末にもなりしかば、むかしは九重の
雲の上にて見し月を、いまは八重の塩路にながめ
P13580
つつ、あかしくらしさぶらひし程に、神無月の比
ほひ、清経の中将が、「都のうちをば源氏がためにせめ【攻め】おと
さ【落さ】れ、鎮西をば維義がために追出さる。網にかかれる魚
の如し。いづくへゆか【行か】ばのがる【逃る】べきかは。ながらへ【永らへ】はつべき
身にもあらず」とて、海にしづみ侍ひしぞ、心うき
事のはじめにてさぶらひし。浪の上にて日をくら
し、船の内にて夜をあかし、みつぎものもなかりし
かば、供御を備ふる人もなし。たまたま供御はそな
P13581
へむとすれども、水なければまいら【参ら】ず。大海にうかぶと
いへども、うしほ【潮】なればのむ事もなし。是又餓鬼道の
苦とこそおぼえさぶらひしか。かくて室山・水島、ところ
どころのたたかひ【戦ひ】に勝しかば、人々すこし【少し】色なを【直つ】て
見えさぶらひし程に、一の谷といふ所にて一門おほ
く【多く】ほろびし後は、直衣束帯をひきかへて、くろがね
をのべて身にまとひ、明ても暮てもいくさよば
ひ【軍呼】のこゑ【声】たえ【絶え】ざりし事、修羅の闘諍、帝釈の
P13582
諍も、かくやとこそおぼえさぶらひしか。「一谷を攻
おとさ【落さ】れて後、おやは子にをくれ【遅れ】、妻は夫にP2438わかれ、
沖につりする船をば敵の船かと肝をけし、遠き
松にむれゐる鷺をば、源氏の旗かと心をつくす。
さても門司・赤間の関にて、いくさ【軍】はけふを限と見え
しかば、二位の尼申をく【置く】事さぶらひき。「男のいき
残む事は千万が一もありがたし。設又遠きゆかり
はをのづからいきのこりたりといふとも、我等が後世を
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とぶらはむ事もありがたし。昔より女はころさ【殺さ】ぬな
らひ【習ひ】なれば、いかにもしてながらへ【永らへ】て主上の後世をも
とぶらひ【弔ひ】まいらせ【参らせ】、我等が後生をもたすけ【助け】給へ」と
かきくどき【口説き】申さぶらひしが、夢の心地しておぼえ
さぶらひし程に、風にはかにふき、浮雲あつくたな
びいて、兵心をまどはし、天運つきて人の力にをよび【及び】
がたし。既に今はかうと見えしかば、二位の尼先帝を
いだき奉て、ふなばたへ出し時、あきれたる御様にて、
P13584
「尼ぜわれをばいづちへ具してゆかむとするぞ」と仰
さぶらひしかば、いとけなき君にむかひ【向ひ】奉り、涙を
おさへて申さぶらひしは、「君はいまだしろし
めさ【知ろし召さ】れさぶらはずや。先世の十善戒行の御力に
よて、今万乗のあるじとはむまれ【生れ】させ給へども、悪
縁にひかれて御運既につき給ひぬ。まづ東に
むかは【向は】せ給ひて、伊勢大神宮に御いとま申させ
給ひ、其後西方浄土の来迎にあづからむとおぼし
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めし【思し召し】、西にむかは【向は】せ給ひて御念仏侍らふべし。此
国は心うき堺にてさぶらへ【候へ】ば、極楽浄土とてめで
たき所へ具しまいらせ【参らせ】侍らふP2439ぞ」と泣々申さぶ
らひしかば、山鳩色の御衣にびづら【鬢】いはせ給ひ
て、御涙におぼれ、ちいさう【小さう】うつくしい御手を
あはせ、まづ東をふしおがみ【拝み】、伊勢大神宮に御いと
ま申させ給ひ、其後西にむかは【向は】せ給ひて、御念仏
ありしかば、二〔位尼やがて〕[* 〔 〕内は虫食い、高野本により補う]いだき奉て、海に沈し
P13586
御面影、目もくれ、〔心〕も消〔えは〕て[* 〔 〕内は虫食い、高野本により補う]て、わすれんとすれ
ども忘られず、忍ばむとすれどもしのば【忍ば】れず、残とどまる
人々のおめき【喚き】さけび【叫び】し声、叫喚大叫喚のほの
お【炎】の底の罪人も、これには過じとこそおぼえさぶ
らひしか。さて武共にとらはれてのぼりさぶらひし時、
播磨国明石浦について、ちとうちまどろみてさぶらひ
し夢に、昔の内裏にははるかにまさりたる所に、
先帝をはじめ奉て、一門の公卿殿上人みなゆゆし
P13587
げなる礼儀にて侍ひしを、都を出て後かかる所は
いまだ見ざりつるに、「是はいづくぞ」ととひ侍ひし
かば、二位の尼と覚て、「竜宮城」と答侍ひし時、「めで
たかりける所かな。是には苦はなきか」ととひさぶらひし
かば、「竜畜経[* 「竜蓄経」と有るのを高野本により訂正]のなかに見えて侍らふ。よくよく後世をとぶ
らひ【弔ひ】給へ」と申すと覚えて夢さめぬ。其後はいよいよ
経をよみ念仏して、彼御菩提をとぶらひ【弔ひ】奉る。是
皆六道にたがは【違は】じとこそおぼえ侍へ」と申させ給へば、
P13588
法皇仰なりけるは、「異国の玄弉三蔵は、悟の前に
六道を見、吾朝の日蔵上人は、蔵王権現の御力にて
六道を見たりとこそうけ給はれ【承れ】。P2440是程まのあたりに
御覧ぜられける御事、誠にありがたうこそ候へ」とて、御
涙にむせばせ給へば、供奉の公卿殿上人もみな袖を
ぞしぼられける。女院も御涙をながさせ給へば、つき
まいらせ【参らせ】たる女房達もみな袖をぞぬらされける。
女院死去S1305 さる程に寂光院の鐘のこゑ【声】、けふもくれ【暮れ】ぬとうち
P13589
しら【知ら】れ、夕陽西にかたむけば、御名残おしう【惜しう】はおぼし
けれども、御涙ををさへて還御ならせ給ひけり。
女院は今更いにしへをおぼしめし【思し召し】出させ給ひて、
忍あへぬ御涙に、袖のしがらみせきあへさせ給はず。
はるかに御覧じをくら【送ら】せ給ひて、還御もやうやう
のびさせ給ひければ、御本尊にむかひ【向ひ】奉り、「先帝
聖霊、一門亡魂、成等正覚、頓証菩提」と泣々いの
らせ給ひけり。むかしは東にむかは【向は】せ給ひて、「伊勢
P13590
大神宮、正八幡大菩薩、天子宝算、千秋万歳」と
申させ給ひしに、今はひきかへて西にむかひ【向ひ】、手を
あはせ、「過去聖霊、一仏浄土へ」といのらせ給ふこそ悲
しけれ。御寝所の障子にかうぞあそばさ【遊ばさ】れける。
このごろはいつならひてかわがこころ
大みや人【大宮人】のこひしかるらむ W097 P2441
いにしへも夢になりにし事なれば
柴のあみ戸もひさしから【久しから】じな W098
P13591
御幸の御供に候はれける徳大寺左大臣実定公、御
庵室の柱にかきつけられけるとかや。
いにしへは月にたとへし君なれど
そのひかりなきみ山辺のさと W099
こしかた行末の事共おぼしめし【思し召し】つづけて、御涙に
むせばせ給ふ折しも、山郭公音信ければ、女院
いざさらばなみだくらべむ郭公
われもうき世にねをのみぞなく W100
P13592
抑壇浦にていきながらとられし人々は、大路を
わたして、かうべをはねられ、妻子にはなれて、
遠流せらる。池の大納言の外は一人も命をいけ
られず、都にをか【置か】れず。されども四十余人の女房達
の御事、沙汰にもをよば【及ば】ざりしかば、親類に
したがひ【従ひ】、所縁についてぞおはしける。上は玉の簾
の内までも、風しづかなる家もなく、下は柴の枢
のもとまでも、塵おさまれ【納まれ】る宿もなし。枕をならべ
P13593
しいもせ【妹背】も、雲ゐのよそにぞなりはつる。やし
なひたてしおや子【親子】も、ゆきがたしらず別けり。
しのぶ【忍ぶ】おもひ【思ひ】はつきせねども、歎ながらさてこそ
すごされけれ。是はただ入道相国、一天四海を掌に
にぎて、上は一人をもおそれ【恐れ】ず、下は万民をも顧ず、
死罪流刑、おもふ【思ふ】さまに行ひ、世をも人をも憚
かられざりしがP2442いたす所なり。父祖の罪業は子
孫にむくふ【報ふ】といふ事疑なしとぞ見えたり
P13594
ける。かくて年月をすごさせ給ふ程に、女院御
心地例ならずわたらせ給ひしかば、中尊の御手の
五色の糸をひかへつつ、「南無西方極楽世界教主
弥陀如来、かならず引摂し給へ」とて、御念仏あり
しかば、大納言佐の局・阿波内侍、左右によ【寄つ】て、
いまをかぎりのかなしさに、こゑ【声】もおしま【惜しま】ずなき
さけぶ【叫ぶ】。御念仏のこゑ【声】やうやうよはら【弱ら】せましましければ、
西に紫雲たなびき、異香室にみち、音楽
P13595
そら【空】にきこゆ。かぎりある御事なれば、建久二
年きさらぎの中旬に、一期遂におはらせ給ひ
ぬ。きさいの宮の御位よりかた時もはなれまいらせ【参らせ】
ずして候なれ給しかば、御臨終の御時、別路に
まよひしもやるかたなくぞおぼえける。此女房
達は昔の草のゆかりもかれはてて、よるかたも
なき身なれ共、おりおり【折々】の御仏事営給ふぞ哀なる。
遂に彼人々は、竜女が正覚の跡をおひ、韋提
P13596
希夫人の如に、みな往生の素懐をとげける
とぞ聞えし。
平家灌頂巻P2443
P13597[* 以下の〔 〕内は虫食い、高野本により補う]
于時応安四年 亥辛 三月十五日、平家物
語一部十二巻付灌頂、当流之師説、伝受之
秘决、一字不闕以口筆令書写之、譲与定
一検校訖。抑愚質余算既過七旬、浮命
難期後年、而一期之後、弟子等中雖為一句、
若有廃忘輩者、定及諍論歟。仍為備
後証、〔所令〕書留之也。此本努々不可出他
所、又不可〔及〕他人之披見、附属弟子之
P13598
外者、雖〔為〕同朋并弟子、更莫令書
取之。凡此〔等〕条々〔背〕炳誡之者、仏神
三宝冥罰可蒙厥躬而已。
沙門覚一
P13599 P2444