外骨編纂

笑ふ女   本名 売春婦異名集

          半狂堂




自序
各国の郵便切手を集め、燐寸のレツテルを集め、藩札を集め、富札を集めて娯楽とせる人々多し、何が為めにさる物を集むるやと詰る者あれば、皆夫々の口実あるべし、然れども詮するところは、類聚に趣味ありとして只何となくおもしろしと云ふに外なからん
遊女の異名を蒐集して、何の益あるかと問ふ人ありとせんか、予も亦只何となくおもしろしと答ふるの外なきか、否か
故人既に此癖者あり、寛文九年『藻塩草』の著者釈宗碩を始めとして、彼の
 物類称呼の越谷五山  里の小手巻評の平賀源内  恋の栞の葎雪庵北元
 誹諧通言の並木五瓶  嬉遊笑覧の喜多村信節  俚言集覧の村田了阿
 笈埃随筆の百井塘雨  守貞漫稿の喜田川季荘
等の著者皆然りとすべし、近くは内務省衛生局防疫研究課長氏原佐蔵子は、欧米各国の売春婦視察を了へて帰朝するや、過る五月、我全国各府県の警察部に命令を下して「私娼の地方的名称」其外を報告せしめつゝあり、今子に対して、何が為に地方的名称を蒐集するやと詰る者あらば、子は只何となくおもしろきが故にとは答へざるべし、必ずや、風俗人情の機微を窺ひ知ると共に、防疫衛生の参考上、必要なるが為めとせん
然らば予もまた答へん、現行の私娼異名を集むる事のみにても、斯くの如く国家的必要あり、加之(しかも)、古来の雅名、公娼の俗名、文壇の異称、悪漢の隠語等をも併録して説明を付し、尚其上に風俗画までをも添ふるに至つては、啻に好古趣味、俗語趣味の益あるのみならず、これを大にしては、国家の制度、歴史、文学の研究資料たるべく、これを小にしては、行旅夜泊の便益たるを得べし、豈只何となくおもしろしのみに止まらんやと、述ぶるは如何か
 大正十年十月十日午前十時               廃姓外骨



  例言

○本書に蒐集せし公私娼妓の異名は総数四百五十余語なりとす(目次及索引に挙げざりし語もあり)試みにこれを類別せし概数を云へば左の如し
古名……三十七語
公娼……八十二語
私娼……三百十六語
混用と不明……十七語
更に廃語と現行語とを調べし概数
廃語……二百〇三語
現行語……百六十二語
不明……八十一語
私娼の異名多きは、公然ならざる秘密の遊び女なるが故外聞を憚り、隠語として使用せしもの多きが為めなり、廃語の多きは、時代の推移、出没の変化多かりしが為めなるべし。
尚、玉価より起れる異名、行動より起れる異名、形態より起れる異名等を区別せんとしたれども、不明のもの多かりし故に止めたり
○配列の順序は五十音に分ちたれども、頭字の同音を一括せしのみにて、語音の順序によらず、古名を先にして新語を後にし、公娼を先にして私娼を後にし、又中には其標準によらず、挿絵の体裁、行数の都合にて前後を顚倒せし所もあり、次第不同と知らるべし
○古書数百を渉猟せしも、何等の材料なく徒労に帰せしこと多かりし、又方言の語義不詳なるもの多かりし故、印刷物にて各地方人の回答を求めたれども、同く不詳として正解を得ること少かりし
○京都府警察部にて全国犯罪人の隠語を集めし大正四年の刊本『隠語輯覧』に載するものにて、本書に採らざりしもの十数語あり、いづれもデタラメと認むべき語なり
○全国の私娼異名は、これに漏れたるもの尚多かるべし、内務省衛生局にて、本年五月各府県に命じて私娼の調査を行はしめし項目十一の劈頭に「私娼の地方的名都」といへる一項あb、其各報告を合して印別物とする時ある由を聞けり、それに拠りて漏れたるは、他日拙者の一端に追補として掲出せん
○本書は『日本擬人名辞書』に同く、昨年十月中旬、予が病臥中の発意にて、爾来見聞の抄録を怠らざりしなれども、いよいよ編纂浄書に着手すれば、尚取調べを要すべき事項多く、意外の手数かゝりて、其ため殆ど三ヶ月を費せり、これだけの時日と精力を重ぬれば、モ少し有益なもか、面白きものかを編纂し得らるれと、中途にて嫌気の生ぜし事もありしなれど、さりとて今夏中止もできずと、終に努めて結了せしなり、然れども尚誤脱、不完全のものたるを免れざるべし、只此四百数十語を集めし苦の一事を認めらるれば幸なり



遊女を商品として抱え置ける家を、支那にては忘八舘と呼び女肆と呼び、我国にてはクツワと称し、マガキと称せり、古へ青墓の長、池田の長といひしは、駅路に於けるクヾツメの館主なり、傾域局設定の後は君がテヽと呼びしとなん、近世は青楼又は貸座敷、曖昧屋など称すれども、これにも古今の異名多し、人置茶屋、女郎屋、揚屋、子供屋、モシモシ屋、姉さん屋、曰く茶屋、蛮語めきしは吉原のアリンス国、アキレン洲、新潟のヨリナレ洲、江戸にて私娼窟を岡場所と云ひしは、『跖婦伝』に岡を陸と書けり、苦界の界を海にかへて、苦海と見立てし遊廓外の陸場所といへる義ならん、是等を総称して悪所と呼べり、川柳「悪所とは罰の当つた言葉なり」



目次  索引

(あ)
あそび(遊)
あそびめ(遊女)
あそびとり
あまのこ(海人の子)
朝妻舟
揚屋女郎
姉女郎
あんにや(姉)
あねま(姉様)
赤字
赤手拭
あをのご
青餅
あひる(家鴨)
あきざし
間鼠
穴熊
垢掻女
足さすり
足洗女
あざみ
あさりや
尼出
暗物
曖昧女
揚巻

(い)
遊君
遊女
一寸局
一夜妻(ひと夜妻)
いしくら
板頭(御職)

(う)
浮かれ女
栴茶女郎
梅女郎
梅の位
歌比丘尼
歌女の枕付
薄鍋
浮身
うはゞみ(蟒蛇)

牛ン坊

馬糞女郎
馬糞拾ひ
うり(瓜)
ウー(W)
鱗(十一六)
うにらん(おいらん)

(え)
えばしと

(お)
おほよそどり(大凡鳥)
御の字
おいらん(花魁)
おやま(阿山)
御職
お茶ひき女郎
大原神子
阿千代舟
お赤飯組
追込
おしくら(押比)
おしやま
おじやめ
おじやれ
おしやらく(お洒落)
応来芸者
おくしま
おば
おばさ
お化
おけ
おツたぼ
お密

お獅子
おツペ
お亀

(か)
川竹の流の身
桂女
加賀女
格子の君
かこひ(囲、鹿恋)
禿立
かさどめ(傘止)
籠の烏
河岸女郎
河岸君
隠し売女
隠し米
竈祓
髪洗女 髪結女
籠廻し
かんつ(燗壺握)
買はんせ
かぼちや(南瓜)
干瓢
川うり
かばね
鴈の字
かきす
革足袋 革羽織
高等内侍


(き)


切見世女郎
切売女
金猫 銀猫
巾着
きぶし
北向女郎

(く)
くゞつ(傀儡)
草餅
くさや(臭屋)
車櫃
繰出し
九年母
黒字(赤字)

(け)
傾城
 契情 契誠
けちぎり(仮契)
けんどん(喰鈍、慳貪)
拳固の君
げんぽ
けころ(蹴転)
 蹴倒し 毛呉呂
化粧者
蹴飛ばし
げんさい(衒妻、幻妻)
けんたん(間短、契短)
化鳥
毛饅頭

 (こ)
五三の君
こつち
木傅
こん吉
子供
五寸局
小傾城
小女郎
小女姓
小獅子
ころ蔵 ころり
転び芸者
後家
薦被り こも
五十蔵(五十雑、嫂、双)
狐鼠屋女
昆布巻芸者
腰元出
米屋女
蒟蒻

(さ)
さぶるこ(戯児、侍女)
散茶女郎
三八
三寸局
座敷持

提重
早歌
さぼし(茶盆子)
さんやれ
里船屋
笊蕎麦
さんころ(三転)
さんぐわなー

(し)
白拍子
白女
上郎
新造(新艘)
宿場女郎
しのび妻
仕懸比丘尼
襦子鬢
しやんす
芝姫
白湯文字(素妹子)
白首
白鬼
鹿
釈伽
絞り
しゝ(獅子)
しやら(洒落)
十文
十銭 十銭口
自然生
しやく(杓)
杓子
素人
島屋びん(びんしよ)

(す)
尾頰
居物
坐り夜鷹
擂鉢
すべた
すツぷ

(せ)
せんびり
洗濯女
世話女郎(番頭女郎)

(そ)
総右衛門
総嫁
総衆(惣州)
そぶつ(麁物)
それしや(其者)
底たゝき

(た)
たわやめ(手弱女)
たはれめ(戯女、淫女)
大夫
太鼓女郎
立君
たち(立)
竹釘
たぼ(髱)
章魚
達磨
太鼓の胴
打巴鼓
団子
だんまり(暗黙)
大正芸妓

(ち)
女郎
女郎芸者
昼三
茶女郎
茶汲女
茶立女
茶屋女
茶女
茶摘
地獄(地極)
地馬
地色
地代
地蔵様
ちんころ
チヨンの間
チヨンキナ
チヤラ
チヤブ

(つ)
づし君
辻君
局女郎
夫不足
附廻
壺握
唾付
筑紫綿(綿帽子)

(て)
天神(転進)
出而姫
鉄砲
手刻
手管
出女
出女房
てしま
てんれつ(転烈)
手たゝき
テンダラ
てくゞつ(くゞつ)

(と)
十一六
どらふね
どんぶり
どんべき
どうらん
伽やらう
どゝいつ
どつ どち
トンネル(隧道)

(な)
流の君
流の女
なびき
長屋女郎
生章魚
七連

菜の花(菜の葉)

(に)
二十四文
二寸五分
二百蔵
ニユースー
にヤにヤ
鰊七連(七連)

(ぬ)
めけびく

(ね)
寝君


根餅
ねずり

(の)
のすかひ

(は)
端女郎
番頭女郎
張見世女郎
半夜
はね
坊まて
貝母
ばいた(売女)
機織姫
機屋
橋傾城
橋局
橋姫
浜君
蓮葉女
白人
灰八
はしりがね(把針策)
はしり
柱負
ばく(麦、馬具)
花菖蒲
針箱
八兵衛
八百八後家(後家)
早馬
はんふ
ばいたご
はちよう
初瀬後家
ハイプロ

(ひ)
一夜妻
回出
よuaF
引舟
引込
百議
百余
柄杓
比正尼
びんしょ(一升)
冷水
びる
引ツ張り
彦八(灰八)

(ふ)
振袖新造
ふんばり(踏張)
伏玉
風呂屋者
風呂敷
船比丘尼
船君
船饅頭
ふぐつめ
ふえずら(ずり)

(へ)
部屋持
べざい
べんてん(弁天)
べいか
へちや
平八(灰八)

(ほ)
鳳凰
本詰
本肉
帆洗女
盆姫

ぼんぼら
ホワイト、スレーブ
棒立

(ま)
松の位
まんた(転進)
枕付
まるた(丸女)
前垂
前蕾(本詰)
豆売
亡者

籬女郎(張見世女郎)

(み)
道の者
水汲
不見転
みき

(む)
室の友君
麦飯
むぎ(ばく)
むじり

(め)
飯盛
めんたん(綿丹)
銘酒屋女

(も)
もぐり
もしもし
もか(藻冠、百花)
股引
紋付もん

(や)
山しう
山さん

夜発
薬罐
山猫
山羊
やちこまり
やちばい
やちやなご(屋茶女)
やぞう
矢場女
やばなを
やシヤこら
やとばん
やとな(雇仲居)
闇の白手
やん やはた

(ゆ)
湯女
夕顔
ゆこが(湯桶)

(よ)
よね
呼出し
夜鷹
夜からん
よもや縮緬

(ら)
ラシヤメン女郎
駱駝
らん

(れ)
れんとび

(ろ)
路傍の柳
路次者
呂しう
六字分
六地蔵

(わ)
若衆女郎
和気女郎
綿摘
綿帽子
綿打

(ゑ)
円助芸者

(を)
和尚
尾なし狐

以上
通計四百三十八語




売春婦異名集   一名 笑ふ女

【あ】

あそび(遊)
古くは遊女を「あそび」と呼べり、『和名類聚抄』に「宇加礼女又云阿曾比」とあり、『十訓抄』にも「あやしの賤の女、あそび、くゞつ迄も鄙曲にすがれ和歌を好む輩、よき人にもてなされ」とあり、これは『栄華物語』に「江口のあそび二船ばかり参り」、『更科日記』に「あそび三人いづくともなく出で来たり」、などあるに拠るなり
「あそび」は「あそびめ」、「あそびもの」などを略して言へるなり、されば「遊女」と書きて「あそび(遊女)」と訓せるも多し、此「あそび」といへるは『万葉集』以後の語にて、同集に「あそび」又は「あそぶ」とあるは、管弦の類を楽むことなり、『源語梯』にも「此物語(源氏物語)にあそびとのみいふは、多くは音楽の事なり」とあり、故に遊女を「あそび」と称し、又「あそび」と書きしなれども、概して遊女の際には「あそびども」と「ども」の辞を添へしなり、要するに、遊女をあそび、あそび者、あそび女と云ひしは、売淫婦の義にあらずして歌舞女の義なり

あそびもの(遊者) 
『増鏡』上巻第二「新島もり」の条に「建久の初めつかた都にのぼる、その勢のいかめしき事いへば更なり、道すがらあそびものどもまゐる」とあり、又『住吉物語』にも、「あそびものどもあまた船に乗りつぎて」とあり
此両書いづれにも「あそびものども」とあれど、「ども」は女郎衆といふ「衆」に同じ

あそびめ(遊女)
『宇津保物語』に「夜昼あそびめすゑ(侍)て好物……」、又「遊びめ二十人ばかり……」などあり、此外雑書に遊女と書きて「あそびめ」と訓せるもの多し、「遊女」の二字は最古の語ウカレメ遊行女婦の略なるべし
和語の「あそび」「あそぶ」の語原は不詳なれども、遊女遊君など書く「遊」の字は、オヨグ「游」の転にて、元来は水あそびを娯楽とせるに起りしならん、柳里恭の『ひとりね』に、「女郎を買て慰むは水遊びの上もり、世界たのしみの極意なり」と見ゆ、游女游君と書くが正しかるべく、又流れ女、浮れ女にも縁あるなり
茲に付記すべき事あり、そは相場長昭の著『遊女考』に引用せる所によれば、『平家物語』巻の五、富士川合戦の条に「其辺近き宿によりゆう君ゆう女ども召集め」、同巻の六に「備後の鞆へおしわたり遊君遊女共召あつめ」同巻の十に「室高砂にやすらひ遊君ゆう女どもめしあつめ」とあり、斯く遊君遊女と重ねて書けるは、当時遊君と遊女とは格式品位の差別ありて、後世の吉原に於ける大夫と天神との如き相違ありしにあらずやと思ふ一事なり

あそびとり
延宝六年の『色道大鏡』に「端-端女郎とも局女郎とも、あそびとりともいふ、けちぎり女の事なり」とあり、此「とり」は「鳥」にて、端女郎には上妓の如き苦心も身たしなみも無く、其ノンキ放縦なるを遊び鳥に擬せしならん

あまのこ(海人の子)
奈良朝時代の遊女の異名なり、『和漢朗詠集』に遊女の題にて「白波の寄する渚に世を過ぐす、あまのこなれば宿も定めず」とあり、又『六百番歌合』にも「誰となきうきねを忍ぶあまの子も、思へば浅き怨みなりけり」とありと云へり、「あまのこ」とは漁夫の娘といへる義なり
これをサブルコ即ち遊行女婦の異名とせしは、漁夫の娘に遊女多かりしにあらずして、漁家兼飲食店に遊女を抱え、又漁舟に乗りて客を呼びし遊女多かりし故、海浜に住める遊女を総て「あまの子」と称せしならん、その起原は『万葉集』第五巻所載の大伴旅人が魚を釣る女子に懸想して、「あさりする海人の子どもと人はいへど、見るに知らえぬ貴人(うまびと)の子と」など詠み、尚互に数首の贈答ありしを、サブルコに似たる海人の子と見しに因るならん

朝妻舟(あさづまぶね)
風来山人の著『阿千代之伝』に、「遊女の初まりは船饅頭ではあるめいか、そのかみあさづま船といひたりし」とあり、「朝妻舟」は船饅頭(水上売春婦)の如き汎称にあらず、近江国琵琶湖の東北岸朝妻の里にありしうかれめ船饅頭の異名なり、烏帽子水干を着て前に鼓を置き、手に末広を持てる舟中の白拍子の絵は「あだしあだ浪、よせてはかへる浪、朝妻ぶねのあさましや、あゝ、又の日は誰に契を、かはして色を、色を、枕はづかし、偽がちなる我床の山、よしやそれとても世の中」といへる小唄と共に、英一蝶の画作として「朝妻舟」の名は顕著のものなり
然れども、此「朝妻舟」の名は古く西行法師の歌にもあり
「おぼつかな伊吹おろしの風さきにあさづまふねはあひやしぬらん」
此「朝妻舟」は可憐な肉饅頭の船を云ふなるか、はた又漁舟か商船かは不詳なれども、兎に角鎌倉時代前に朝妻舟の名ありし事は明確とすべし
『滋賀県名所案内』といへる明治末年の俗書に曰く、「朝妻の里-坂田郡入江村の字なり、古は船舶輻輳せし湖北の港なりき、当時摂津の江口、神崎の如く遊女の居し所、世に朝妻船の名あるは此処なり、後(慶長の頃)米原に着船するに至りて衰ふ」
前に記せる英一蝶の小唄を基として作れる長唄および常磐津の曲名にも「朝妻舟」の称あり
近き頃の狂句「ぺちやぺちやと浅妻船に水の音」

揚屋女郎(あげやぢよらう)
「揚屋」とは、遊女屋より遊女を招きて客に遊興せしむる茶屋(中宿)を云ひ、其揚屋に招かるゝ遊女は一二流の上妓に限られたるを以て、其上妓を「揚屋女郎」と呼びし也、遊女が揚屋に行くを大夫の道中と称す
『色道大鏡』には「揚屋」を「挙屋」と書けり、京の島原と大阪の新町には、今尚此揚屋継続せり、吉原は享保の頃十中の九は廃絶して引手茶屋に変り、今は揚屋町の名称のみ存せり、古き俗諺に曰く「京の女郎に江戸のハリを持たせ、長崎の衣裳を着せて大阪の揚屋で遊びたい」
『日本類語大辞典』には「昔吉原にて梅女郎(第四位)の次なりし女郎を揚屋女郎といへり」とあり、斯かる時代もありしなれど、後には「呼出」と称して最上妓のみが「揚屋女郎」たりしなり

姉女郎(あねぢよらう)
「禿立」の新造女郎を妹分と見て、万事の干渉と教訓をする遊女を云ふ、此「姉女郎」に対して其小女郎を「妹女郎」と呼べり、古き浮世草紙(元禄前後の小説本)の類には、此「姉女郎」の語を多く使へり、川柳にも亦多し、
「また何か借りに来たかと姉女郎」
「惚れやうの振付けもする姉女郎」
「姉女郎吹き出すやうな伝授をし」

あんにや(姉)
伊勢の古市および山田にて唱ふる娼妓の異名なり、貞享三年の『好色伊勢物語』に「あんにや-遊女の名なり、好色しのぶ山に、伊勢遊女の事をかきて、女郎をも所によりて替名呼ぶ、浪華おなごは伊勢のあんにや」とあり、安永四年の『物類称呼』には「伊勢の山田にて艶女(あんにや)といふ」と書けり、『俚言集覧』には「あにやう、阿娘の呉音なり、伊勢の俗あんにやといふもあにやうの訛りなるべし、よて又娼妓をあんにやといへり、龍図公案に土娼只呼娘子といへるが如し」とあれども、「あんにや」は「姉」のナマリなるべし
近刊の『東北方言集』には、福島県全部及び山形県村山地方にて「兄」を「あんにや」と呼ぶよしを記せり、又『越佐方言集』には「兄」を「あんにやさ」とあり、加賀の山中にては湯女頭を「あんにやま」と呼べり、「姉様」の義なり

あねま(姉様)
羽前の鶴岡、羽後の酒田等、庄内地方に於ける娼妓の異名なり、明治二十四年の刊本『庄内方言考』に曰く、「あねまは娼婦の一異称にて、姉様の略言なり、在郷にて若き男を兄まといへれば、其始めあねまも在郷より出たるまゝの、いつしか異称となりたるならん」
羽前大山町の松山正中子よりの報告にも「鶴岡にては公娼をアネマと申候、マは敬称にて姉様の略に候」とあり

赤字(あかじ)
天保弘化の頃、伊勢の桑名にて和娼の上等なるを「黒字」と称し、下等なるを「赤字」と称せり、此称呼は招牌行燈の家号を上店は墨にて書き、下店は朱にて書きしに因る、『磯山千鳥』所載、堀秀成の飯盛考にも「桑名は黒字といひ赤字といふ、黒字は上の品、赤字は下の品なり」とあり

赤手拭(あかてぬぐひ)
若狭小浜町の内藤三三郎子よりの報告中に「赤手拭(丹波神林)原因不知」とあり、演劇『丹波与作』に「とまりとまりの赤前垂に、じやらくら致さないやう」と云へる如く、「赤前垂」は宿屋の出女おじやれの常套なりしが、昔時赤手拭の私娼ありしに因る異名ならんか、赤手拭を男女会合の相印とせしことは『好色一代男』に「出合茶屋の暖簾に赤手拭を結置きぬ」とあり

あをのご
安永三年の『里の小手巻評』に惣嫁の方言として「越後には冷水、浮身、あをのごあり」と記せり、明治三十五年の現在語として『越後の婦人』に列挙せる同国各地の方言、私娼異名三十種の中には、右の「浮身」及び「あおのご」の語は無し、察するに、安永以後いつしか廃語に帰せしなるべし、此「あおのこ」の語義は不詳なり、当推量なれども、私娼「草餅」の如く「青物籠(あをのご)」を提げて売り廻りし女ならんかと思ふ

青餅(あをもち)
肥前の長崎、佐賀等にて私娼の異名なり、東北各地にての同異名たる「草餅」に同じく、昔時私娼が青き草餅を行商せしに起因する名称ならん
あひる(家鴨) 
寛政の頃、江戸深川新佃町にありし私娼の異名なり、此異名の起原として、安房国畦蒜郡より来りし漁船の帆洗女が化せしによると云ひ、網干場の「網干(あみひる)」より出ると云ひ、尚二三の異説あれども、関東米の『玉の帳』に「船頭、モシ旦那、ゆうべ家鴨をおいにめいりました、客、何故に土橋をあひると云ふの、船頭、二百のことをガアと申します、ガアを二つで一本になりますから、泊りが出来ます、ガアガアは家鴨より外ございません」とあり、一夜の揚代四百文ゆへ、ガアガアの家鴨と通称せしとの解釈、明了なりと『洒落本通解』に見ゆ
此新佃町の遊所を当時「海」と呼べり、海岸なりし故に云ふ、『仕懸文庫』に「海といふは深川八幡の向ふ海手の四六見世なり」とあり
昔奥州仙台にて私娼を「あひる」と称せりといふ、瘡毒にて家鴨の歩むが如き姿の女多かりしに因るならんか

あきざし 
明治三十五年に越後柏崎町の人が発行せし『越後の婦人』に売淫婦の異名として「あきざしとは地蔵堂」とあり、地蔵堂とは西蒲原郡地蔵堂町を云ふ、語義語源不詳、或は「あきざし」は「あきざす」にて、買物送付銭、即ち前金を渡さねば応ぜぬ女との義ならんか

間鼠(あひねずみ)
「妾商売の女が二三の旦那を取つて居ながら、尚その旦那に内密にて、チヨイチヨイと一夜限りの淫売することをネズミと云ひ、亭主ある女がその亭主と相談の上にて淫売するをアイネズミと云ふ、蓋し相対づくのネズミと云ふ意か、或は右のネズミと普通の淫売婦との間と解すべきか、」(スコブル)

穴熊(あなぐま)
甲斐にて私娼を云ふ、享保前よりの語なるべし、柳里恭の『ひとりね』にも、甲斐の辞として「惣嫁といふことをアナグマと云ふなり」とあり、穴熊が穴より出て餌をあさるが如く、男を捕へて魔窟に引き入ることの義ならんか、又は甲斐の隣国駿河にては、粗暴の女を「赭熊」と称す、これに縁ある語か

垢掻女(あかかきおんな)
「風呂屋者」の一名なり、天和二年の『好色一代男』に此語あり、又兵庫の風呂屋の図として、湯女が男客の背を洗ふ様をも描けり、垢をかく故に「猿」とも呼べり、後には「垢すり女」と称せり、『筆拍子』に「延宝の頃、大阪の市中にあかすり女のありたる風呂屋十四軒」と記せり、又大阪島の内の風呂屋者を「髪洗女」と称せり、これも男客の髪を洗ふ故に名づけしなり
是等の「風呂屋者」が淫を売りしことは、足利時代よりの風習にて、明治二十年頃まで其余風継続して行はれたり、予が少壮の頃、東京の各湯屋にも此怪しき女が二、三人づゝ居たり、浴客は先づ二階に上りて衣を脱し、入浴せば女来りて背を洗ひ、浴後其女に戯れながら茶菓を喫し、夜間密かに付近の曖昧屋に連れ行きしなりと聞けり
髪洗女、猿、風呂屋者、呂衆等の項をも見よ

足擦り(あしさすり)
旅客の要求に応ずる駅妓の一種なり、表面は按摩女として招かれ(いくらか草臥れ足を揉むもあり)五百文内外の賃料にて転びし女を云ふ
本業女按摩にて売淫を兼業とする者今尚各地にあり又先年東京麹町にはマツサヂーを招牌として売淫を本業とせし外国婦人もありたり

足洗女(あしあらひをんな)
『守貞漫稿』に「駅亭の女は必ず旅客を泊める時、客の足をそゝぐ故に、駅亭の遊女を足あらひ女と名目すと也、今世の飯盛女といふに同じ」とあり、「出女」の異名

あざみ
豊前にて私娼を云ふと聞けり、語義不詳なり、察するに、花は咲けども刺あり、近づく可らずとしての「薊」ならんか

あさりや
越後にて私娼を云ひしよし、何かの書冊にて見し事あり、男をあさる女との義か、又は赤貝とか蛤とかの類たるアサリ(浅蜊)貝に擬して、其剝身を売る女との義か、但し今は廃語なるべし

尼出(あまで)
「比丘尼」、「仕懸比丘尼」、「歌比丘尼」又は「丸女」、「竹釘」、など称せし売淫婦を云ふ、大家の腰元風を装いて出でし私娼を「腰元出」と呼びしが如く、尼の姿にて出る売春婦との義なり、尼出身の者と云ふ義にはあらざるべし、

暗物(あんぶつ)
貞享元禄の頃、京阪地方にて私娼を云へり、暗所の物といふ義なり、『好色一代女』に「世間を忍ぶ暗物女……暗物といふは、恋の中宿に呼れて、かりそめの慰を銀二匁、中にも形の見よきに衣類美しきを着せて銀一両と、少し位を付置きぬ」といへり、これと同く江戸にて地獄といひたるもくらき義なりと『嬉遊笑覧』にあり

曖昧女(あいまいをんな)
明治初年頃より三都及び二三の地方にて行はるゝ語なり、曖昧とは明白ならず薄暗しとの意にて、素人でなく公娼でもなき曖昧なる女との義なり
京都芸妓の事を記せる明治十年の『鴨東新誌』に曰く「往時妓輩皆擁二三狎客而無禁也、新令一播、建一妓一客之制妓既定情、乃記其客之姓名貫籍緊封而送之券番局赤縄絶之日、又乞其記而帰、其既獲客者、絶不許其狎眤他也、而猶有狎者俗呼之曰曖昧曖昧者官之所禁也、故定情之客、媒酌之楼得公然問曖昧之罪焉」、これは特殊の曖昧女とすべし
曖昧女の出入する家を曖昧屋又は曖昧宿と称す、『辞海』に曰く、「曖昧屋-職業の明かならざる家、多くは秘密に売淫婦を抱へ置く家をいふ、地獄屋、だるまや」

揚巻(あげまき)
盗賊社会の者が唱ふる隠語にて娼妓を云ふ、語原はあけまきの異名あるたこまくらによるか、又は娼妓の名に揚巻といふが多きに因るならん


   【い】

遊君(いうくん)
往古は芸娼の妓を「あそび」、「あそび者」、「あそび女」など称し、又「流れの君」、「浮かれ君」、「寝君」など云へり、此「あそびのきみ」を漢字漢音にて「遊君」と呼びしなり
『明月記』の建仁二年二月十五日の条に「今朝路頭遊君各賜衣裳云々」、此外『平治物語』、『神明鏡』、『撰集抄』等、数書に「遊君」の語出で、『吾妻鏡』には源頼朝が「召里見冠者義成向後可為遊君別当云々」とありとの考証は『松屋筆記』に委し
『寝ぬ夜の夢』に、柳井三碩が相州にて詠める歌あり
「曾我の里これより近し遊君の虎や通へる唐土の原」

一寸局(いつすんつぼね)
江戸吉原の河岸にありし局女郎の揚代三匁なりしを「三寸」、五匁なりしを「五寸局」など云ひしに倣ひ、一匁位にて売りし私娼を「一寸局」と呼べり、右の局女郎は元禄の頃廃絶せしが、天明の頃再興せし時、此洒落語江戸にて行はる、三寸局五寸局といひしは、布帛の切売に擬せし語なりと云ふ

遊女(いうじよ)
古くはサブルコ、うかれめに「遊行女婦」の語を充てたり、「あそびめ」の「遊女」は此約言略称なり
本書は此語「遊女」を根本として異名集と題せしなり
公娼私娼の別は官許非官許の別を云ふなれども、古今各地に官許の私娼、非官許の公娼あり、ともに「遊女」と称して可なるべし

いしくら
越前の鯖江にて私娼を云ふと或る人より聞けり、語義不詳なり、武蔵の本庄にては「おしくら」と云ふ、縁あるか


   【う】

浮かれ女(うかれめ)
最古の語なり、『万葉集』に「宇加礼女蒲生娘子、児島、土師」などあり、「遊行女婦」と書きて「うかれめ」とも訓せり、『松屋筆記』には「六百番歌合に、うかれめのうかれてありく旅すがた云々、夫木抄傀儡の条に、うかれめあり、是は遊女をうかれめとよめるにあらず、ウカレは心のうかるゝよし、浪にうかるゝにあらず」と見ゆ、心の浮きたる女、即ちうかれめなり、「草嬢」と書きてうかれめと傍訓せるもあり
うかれ妻、うかれづま、うかれ君などの語、徳川時代の中頃まで盛んに行はる、『やつこ俳諧』に、
「うつほりとさまを待ぬる夕暮に心はひよろらひよんとうかれめ」

梅茶女郎(うめちやぢよらう)
元禄頃より寛保頃までの間、吉原にて行はれたる語、第三流の遊女を「散茶女郎」と呼びしが、其次位の遊女にて、散茶の湯に水をうめてぬるくしたり(権式ぶらずとの意)とて「うめ茶女郎」と称せしなりといふ、後には「梅茶」の字に変り、略して「梅女郎」とも呼べり、『恋の栞』などには「ばいちや(梅茶)」と記するに至れり

梅女郎(うめぢよらう)
「梅茶女郎」を略して「梅女郎」とも呼びしは江戸吉原にての事なり、京の島原にては「天神」女郎の異名を「梅女郎」又は略して「うめ」と呼びしなり、『好色伊勢物語』に曰く「天神-昔二十五匁に売りし故、天神の縁日の日数二十五日に評してかく言ふとぞ、一名うめ、是も神の木なればかくいふなるべし」

梅の位(うめのくらゐ)
「大夫」たる上職の遊女を秦皇の故事に因みて「松の位」と称せしに対して、「天神」職の遊女を菅公の故事に因みて「梅の位」と称せり、明暦元年の刊本、京島原の遊女評判記『桃源集』には、当時遊女に松の位、梅の位、かこひ、はしの四品ありとして、松の位十三人、梅の位四十人の遊女を品騭せり

歌比丘尼(うたびくに)
元禄二年の京版『人倫訓蒙図彙』に曰く、「歌比丘尼-もとは清浄の立派にて熊野を信じて諸方に勧進しけるが、いつしか衣を略し歯をみがき頭をしさいに包みて小歌を便に色を売るなり、功齡歴たるをば御寮と号し、夫に山伏を持つ、女童の弟子あまたとりて仕立つる也、都鄙にあり都は建仁寺町薬師の図子に侍る、皆是末世の誤也」、又『残口之記』に曰く、「昔は脇挟みし文匣に巻物入れて地獄の絵解きし、熊野権現の事触れめきたりしが、いつのほどよりか、隠し白粉、薄紅つけて付鬢帽子に帯幅広くなりし」
此「歌比丘尼」の流行よりして、「比丘尼」「尼出」、「仕懸比丘尼」、「船比丘尼」、「丸女」など起れり、其項を見よ
「売比丘尼」とも云ひしなり、『続飛鳥川』に「歌比丘尼、うりびくに」とありて、其註に「売びくには、二人づゝ屋敷を廻る遊女なり」とあり、又『嬉遊笑覧』にも「寛延宝暦の初め頃までも売比丘尼ありたり」と見ゆ、「売女」と云ふに同じ語なり

歌女の枕付(うたひめのまくらつき)
歌女とは歌舞の妓女を云ふ、其歌女が客の望みに応ずべく、枕を付物にして居る者との義なり、「ころび芸者」の古名なり、『花街百人一首』に曰く、「遊女はもと酒宴遊興の席に出て、其座の興を添へ取り持ちて、人形など舞はせしより傀儡の名は起りしなり、後の世に歌妓の枕付などゝ呼ぶ者は、古へ傀儡の遺風なるべし」
此「歌女の枕付」といへる語を売女の異名とするは如何か、「枕付の歌女」といふが当たれるならん

薄鍋(うすなべ)
若狭小浜町の内藤三三郎子よりの報告に、私娼の異名として「うすなべ(若狭大飯郡高浜)ぢきに煮える故」とあり、即座に要領を得るとの義ならんも、浮気女を播摩鍋といへる如く「尻が早い」との意もあるならんか

浮身(うきみ)
安永三年の『里の小手巻評』に、「越後に冷水、浮身、あおのごあり」と見ゆ、安永四年の『物類称呼』には「越前越後の海辺に浮身といふ者あり、是は旅商人此所に逗留の内、女をまうけて夫婦の如くす、此家を浮身宿といふ、海に降る雪や恋しき浮身宿 芭蕉」とあり、此異名は其後廃れて今は無きが如し
寛文九年の『藻塩草』に、遊 の異称として「うきね、是もうかれあるく心也」とあれども、異称としては如何か

うはゞみ(蠎蛇)
『越後の婦人』に載する私娼異名の方言中に「うはゞみとは椎谷」とあり、椎谷は刈羽郡高浜町なり、人を呑んでかゝる女との義ならんか

牛(うし)
伊豆の下田にて私娼を云ふ、『守貞漫稿』に「豆州下田の密売女を異名してうしといふ、牛の字を用ふ」とあり、近刊の『静岡民友新聞』には「伊豆方面のざるそば、うし」とあり、『木魚仙記』に「衣服の色黒きが故か、或は草原にて臥するによるか」とあれども、牛の如くよくねる女との義なるべし

牛ン坊(うしんばう)
上野の前橋にて私娼を云ふ、語義は伊豆の「牛」に同じ、「ン坊」は「癩ン坊」「吝ン坊」に同く蔑視の助辞なり
『静岡県方言辞典』には「うしンべー(牛)」とあり、同型なり

馬(うま)
「くつわ-女郎の親方なり、轡と書けり、此者川竹の流れの女を抱へ、一生をあさましく暮す故、命終る時、馬の轡の音を聞いて息絶ゆるといふ説あり、信用し難き事とぞ、一説に女郎の異名を馬といふ、心は人を乗せてすぐるといふ事なりとぞ 此馬を引廻す者くつわといふとぞ、さもあるべき事にや」貞享三年(好色伊勢物語)

馬糞女郎(うまぐそじよろう)
『半日閑話』に「明和九年二月二十四日、四谷内藤新宿に問屋宿次を建立、伝馬を出し、遊女を置く事御免あり」と見ゆ、これは享保五年に禁止されしを再興せしなり、此内藤新宿の娼妓を罵りて「馬糞女郎」と呼べり、新宿は上武地方及び甲州地方との交通路たる咽喉の地にて、常に駄馬の糞多かりし故の名なり、
安永四年の『金々先生栄華夢』に「四谷新宿、馬糞の中に女郎衆ありとは露知らず」といへる唄の文句あり、又川柳に「駒下駄で馬糞よけよけ茶屋を出る」といへるもあり、『天言筆記』には「色里十八ヶ所順礼詠歌、第十六番四谷山新宿寺、本尊吸付鮹薬師如来、御開帳金二朱」として「あやめ咲くまぐその中でしほらしい、花の色達ならぶかげ見世」とあり、『末摘花』には、女郎二人の居る店頭にて馬糞拾ひの少年が馬の股間を覗く猥褻画(文調筆)出づ、又紀南子著『馬糞夜話』といへる洒落本もあり

馬糞拾い(うまぐそひろひ)
薩摩の鹿児島にて私娼を云ふ、侮蔑嘲罵の語義なるべし

うり(瓜)
近刊の『静岡民友新聞』に、同県下に於ける現在私娼の異名を列記せる中「駿河のぢば、かぼちや、だるま、うり、さぼし、けとばし」とあり、「うり」とは旧来語の「南瓜」を変へて「瓜」と云へるならんか

ウー(W)
大正四年発行の『隠語輯覧』に「うー〔W〕、芸娼妓密淫売婦等(関東地方不良少年団隠語)」とあり、「W」は、英語の売女たるウエンチ(Wench)の略なりと云ふ


   【え】

えばしと
『日本類語大辞典』の「女郎」の類語中に「えばしと(女郎)」とあるを見しのみなり、誤記にはあらざるべしと思へども、古語か方言か、何等の挙証を得ず


   【お】

おほよそどり(大凡鳥)
葎雪庵北元の著にて文化十三年に刊行せる俳書『恋の栞』に売色者の異名を列挙し、其終りに「あそび、あまの子、つま定めず、おほよそ鳥、みな遊女の事なり」とあり、此出処は釈宗碩の著にて寛文九年に刊行せる『藻塩草』なるべし、其巻の十五に「傀儡-陸地のあそび物なり」の条に「おほよそ鳥」と題し、其割註に「あはれなきおほよそ鳥の心すら、月夜となればされありくなり、おほよそ鳥とはてくゞつの実名也と云」とあり、此復出処の何なるやは不詳なれども、てくゞつ(遊女)の実名なりとは、個人の名称に非ずして傀儡の本称といへる義なるべし、傀儡はくゞつ、てくゞつが本来なり、若し其実名が他にありとすれば、「おほよそ鳥」の本義を明らかにせざる可らず、予は今それを研究すべき暇を有せず、茲には疑問のまゝ遊女の異名として録するのみ
さて此「大凡鳥」を陸上の遊女たるくゞつの異称なりとすれば、茲におもしろき考証の一材料と成るべき事あり、そは吉原遊女の上々御の字たる大夫を「鳳凰」と異名せし語原は、裲襠に鳳凰の金糸模様ありしに基くものとしても、其模様は籠の鳥の王としての鳳凰にあらずして、此「大凡鳥」ならんと思ふにあり、「凡鳥を鳳となす」とは陸佃以来的確の字義たり、而して松の位の大夫を「鳳凰」と称せしことは「鳳凰は桐の花降る里に住み」(金銀貨)「鳳凰の足跡からも文字が出来」(道中の八文字)、などいへる数十の川柳が存するに徴しても明かなり

御の字(おんのじ)
元禄前、吉原にて容色技芸の完備せる評判よき遊女を云へり、延宝三年の『吉原大雑書』には「さすが御の字の位」「御の字の薄雲様」などあり、全盛を過ぐれば御の字の尊称 廃さるゝなり、寛文六年の『吉原袖かゞみ』に「御の字なりしが、いかなる事にやおりられし」とあり、又寛文七年『讃嘲記時の太鼓』には「なさけすぐるゝ時は、格子たりといへども御の字にあづかる」ともあり、菱川師宣著画の『絵本上々御の字』(延宝六年刊本)といへるは、巻首数葉に吉原上妓の風俗を画き、標註の冒頭には「上々御の字、傾城買と申すは、紋日紋日にうらをふみ、度々の無心をもきゝて……」と書出せり
上等の客をも「御の字」といひ、黒き羽織を冠リたる客を「兎の御の字」と云ひ、又深川洲崎町の茶屋に居し私娼の上等をも「御の字」と云ひし事『嬉遊笑覧』に見ゆ
『安斎随筆』に曰く「御の字をつけていふ事は、上古は天子の御事に限りたり、後に摂政の威強く成りて諂諛の人、摂政の事にも御の字付けていふ事に成り、又其後に至りては、御の字軽く成りて、相互に敬ふにも御の字つくる事に成りしなり、御の字のオンはオホンの略にて大の義なり」
されば『俗枕草紙』に「梅津歌門が新徒然草に、大夫おほん、位はいともかしこし、やりて禿の末々迄も、大やうにしてやんごとなきと書きける」とあるなり

おいらん(花魁)
享保の末頃より吉原の上妓を「おいらん」と称し、後には文字に「花魁」の二字を充てたり、此語原は「おいら」の延なりと云ふ、「いつちよく咲いたおいらが桜かな」のおいらは己等、即ち我の義にして、大夫自らが「おいら」と云ひしに因るとの説と、「おいら」の末をはねて「おいらん」と云ふは「我姉と」の意にて、妹女郎が唱へし敬称なりとの説もあり、尚此外採るに足らぬ付会の説一二あり
又『琉球雑話』には「琉球にて女郎の上品なるをうにらんといふ、此方のおいらんと云ふはこれによるか」とあり、因由アマリ遠きに過ぎずや
此「おいらん」の名称は下落して、明治時代には中店以下第三流の娼妓をも「おいらん」と呼ぶに至れり
此上段に載する「おいらん」の頭は、極端の形容画なれども、左右に六本以上(八本乃至十四本)の簪を挿せしは、寛政以後の事なり

おやま(阿山)
「京阪の俗は大夫天神の二妓を除きて、其他は官許非官許の売女ともに、遊女の惣名をおやまといふ也、故に江戸の俗の女郎買といふを阿山買といふ、或は姫買ともいふ也、京阪にておやまといふ事は、承応の比、繰りに小山(をやま)次郎三郎といふ人形遣、若女の木偶を遣ふに妙なりしより、美女をさして小山人形の様なりと云ひしより転じ、後には売女の通唱となると云へり」(守貞漫稿)
右は『扁額軌範』付録の説を採りしなるべし

御職(おしよく)
古へは大夫たる上妓を「御職」と呼び、一楼に二三人或は四五人の「御職」女郎ありしなり、『皇都午睡』に「中の町張りのおいらんといふは、皆お職の飛切にて、新造禿を随へ、向ふに箱挑灯を一対、男に持たせ、好の襠にて夕方前、仲の町へ練り出すなり」とあり、此「御職」とは大夫職の上妓といへる義にて「上職」とも称せり
近世吉原の妓楼にては、最上位の遊女一人を「御職」と呼べり、其店の上中下に拘らず、一妓楼毎に一人あるなり、即ち前月分の玉代を総計して其金額の最高なりし全盛の妓を「御職」と云ふなり、川柳「智恵まんまんたる嘘ツつきお職なり」
江戸の岡場所(私娼窟)にては、今世の「御職」女郎に相当する妓を「板頭」と呼べり、張り出し板の記名表中にて首位を占むる者との義なるべし

お茶ひき女郎(おちやひきぢよらう)
常に売れ残り勝ちの女郎を云へり、語原は、慶長元和の頃、遊女が歴々の家に召出されて茶の会の茶を碾きし故、本業の休みをお茶ひきと云ひしなりとの説『洞房語園』にあれども非なり、茶をひくとは寂しき様の形容語なりと『嬉遊笑覧』に見ゆる説を可とすべし
 川柳「お茶をひく女郎その夜はねかしもの」
寛文の『おかし男』に「大阪阿波座横町の局女郎が「茶引ぐさをしのぶと云ふといひけり」云々とあり、大阪にても古く「お茶ひき」の称ありし証とすべし

大原神子(おばらみこ) 
元禄の前後、丹波国大原大明神の神子(巫女)が勧進として諸国に廻りしが、いつしか堕落して売色をなすに至り「おばらみこ」又は「かまばらひ」といふ語は、売淫婦の異名と成りしなり、貞享の京版『好色貝合』に曰く「ちはやかけて菅笠、家々にいつて鈴をふり、幾度も袖をひるがへして舞ひぬる、太鼓うち(付添男)は一荷の櫃をかたげながら、しやらしやらの拍子にあはせて、でんつでんつと、そゝけずに一拍子そなはつて大原殿の神楽なり、神子は暖簾の内に入れば(中略)いかやうのやりくり(密事)もなる事なり、しかのみならず、すこし手占を頼みたいといへば、二階へも奥の間へも呼ぶ所へ来る、何なりと占はせて、世の咄にするに、それしやの女、あぢには気が遠つなり、あのゝものゝとぬれかける……」

阿千代舟(おちよぶね)
宝暦の頃か、江戸にお千代といへる「船饅頭」あり、風来山人の戯著『太平楽巻物』一名『阿千代之伝』に「浮ふししげき浮れ舟、苫もる名代隠れなき、ぼちやぼちやの阿千代といふ船饅頭の品者あり」といへるこれなり、此お千代が乗りし舟を「お千代舟」と称せしなれども、後には水上売淫婦たる「船饅頭」の代名詞に使はれたり、ぼちやぼちやとは猥褻語なりといふ、川柳「お千代舟沖までこぐは馴染なり」、「お千代舟苫をしき寝のかぢ枕」
『只今御笑草』には、船饅頭の形を模したる張子を腰につけし「お千代舟」といへる乞食の芸人ありし事を記して、「鼻於千世一時夢、三十二文水上泡」と題せり

お赤飯組(おこはぐみ)
寛延二年の『跖婦伝』に「傾城流れをうしなつて山猫を生じ、地色味を損して御赤飯組となる」とあり、私娼を云ふにて語義は「麦飯」の類なるべし

追込(おひこみ)
森川許六の『飲食色欲ノ箴』に「やす傾城の匂ひは、郡内縞のうつり香ならん、追込辻君のたぐひは、におひ曾て定らず」とあり、此「追込」は辻君の冠詞にあらずして、客を強制する売女に此名ありしならんと思ふ

おしくら(押比) 
武蔵の本庄、上野の妙義等にて私娼を云ふ、其土地の人に語原を訊ねしに、土娼が店に居並びて目白鳥の押すが如く、互にモタレかゝりて押合ひ比べの競争をせしに起りしなりと云へり

おしやま 
犯罪人の隠語にて芸妓又は酌婦を云ふ、売淫婦を「寝子」と称し、「寝子」は「猫」に通ず(彼等の弾く三絃の皮に因みて猫と呼ぶ也との説もあり)、「猫ぢや猫ぢやとおしやますが、猫が下駄穿いて絞りの浴衣で来るものか」といへる俗謡によりて、猫を「おしやます」と云ふなり、その「す」を省きし語ならん、軽佻の義に用ゆるおしやま女との意にはあらざるべし

おじやめ
『日本類語大辞典』に、女郎の異称として「やちこまり、おじやめ(羽前)」と記せり、仙台税務監督局編纂の『東北方言集』には、娼妓の「あねま」、淫売婦の「馬具」、「山羊」、酌婦の「めんたん」あるのみにて、此「おじやめ」なし、古語の「やちこまり」と共に今は廃語なるべし
此「おじやめ」は駅妓「おじやれ」の転訛ならんか

おじやれ 
『風流志道軒伝』に「宿屋の出女」と記し、其解説に曰く「道中宿屋の女をおじやれと名付けし其いはれは、旅人其家に泊つてつれづれにたへかねて、晩に伽におじやれといえば、こそこそと寝に来る故、其名をおじやれとなんいへる、おじやれと云ふは来いと云とおいでといふの間にて、来やれといふより三四文かた慇懃なる詞なり」
「出女」と書きて「おじやれ」と訓するは、字義の上より云へば適当ならず、出女は出迎女の略にて、客引き女の義なり、『東牗子』に「御出有(おじやれ)」とあり、『皇都午睡』に「大津に四の宮柴屋町八丁の招婦(おじやれ)」とあるなどを可とすべし、

おしやらく(お洒落)
陸羽地方及び信濃の軽井沢等の方言なり、『碁太平記白石噺』吉原揚屋の段、信夫の言葉に「どこもかもお光り申して、おしやらくの櫛さア見るやうに、塗りこべつた箪笥さア」とあり、此語原は『俚言集覧』に「奥羽二邦にて賤妓を杓子といふ、又飯盛ともいふ、飯杓子を取るによりて名づくと云へり、又オシヤラクといふ、シヤラクは杓の延にて、それにオを添へたるなるべし」とあれども、「おしやらく」は「お洒落」の義かとある『松屋筆記』及び『守貞漫稿』の説を可とすべし、「お洒落」は平気、悪ズレの義ならん、『空おぼへ』には、佃煮に用ゆる子持の小沙魚を「おしやらくハゼ」といひ、「小身にして子を孕むといふ義」とあり、越前三国にては遊女を「しやら」と呼びしよし『洞房語園』にあり、「おしやらく」の略なるべし
東京の俗言、メカスの別語「おしやれをする」といふ意を、福島県地方にては「おしやらくする」といふよし、娼婦の真似をするといへる義ならん
『柳樽』第五十三篇に「隠元の後はおしやらく豆和尚」といへるあり、堕落僧を諷刺せるバレ句なるべし

応来芸者(おうらいげいしや) 
明治十年頃より唱え初めし語、客の望みに応じ来りて枕席に就く「ころび芸者」の異名なり、文字には「応来」と書けれども、英語のオールライト(All right)の訳音オーライ、よろし、承知が本義なるべし、「商売往来にもなき往来商売」といへる洒落語あるも、此売淫芸妓を云へる也
又此「応来芸者」を「モグリ芸者」とも呼べり、法禁モグリの義なり
川柳に「三味線はアイ付けたりと撥で打ち」といへる句あるも、此「応来芸者」のことなり

おくしま 
紀伊の和歌山付近にて私娼を云ふ、奥島の衣服(棧留織の一種、赤糸入の縦縞)を着し者多かりし故の異名ならん

おば 
羽前の鶴岡にて公娼を云ふ、同地方にては妹をも「おば」と呼べども、其アクセント異るよし、同国大山町の松山正中子より報ぜらる

おばさ
『越後の婦人』に私娼の異名として「おばさ又はすつぷとは長岡、ひつぱり、おばさとは三条」とあり
陸羽地方及び越後地方にては妹を「おば」と呼べり(『東北方言集』及び『越佐方言集』に拠る)此妹の「おば」に兄さ、姉さの如く敬称の様たる「さ」を加へしならん
庄内地方にて娼妓を「あねま」(姉様)と呼べると同型の姉妹語たるべし

お化(おばけ) 
丹波にて私娼を云ふと曾て大阪にて聞けり、白粉を多く塗付するによるか、又は「無而忽現名化生」の怪物と見て、暗中よりニユーと出る者との義なるか
類語としては白鬼、化粧の者、化鳥、亡者等あり

おけ 
沢塵外子の談に曰く「大和奈良の塗師は淫売婦をおけと云つて居ました、語原は判りません」、
檜又は榊を「おけ」と云ふよし『言海』にあり、塗師なるが故に、木地に因みての語か、又「おけ」は「をけ」にて、塗り麻笥(をけ)に縁ある語か

おツたぼ 
肥前の佐賀、筑後の柳川地方等にて唱ふる私娼の異名なり、信濃の追分にて駅妓を「たぼ」と称せり、又「髱」を一般婦人の代名詞とせる所もあり、「おツたぼ」はオツなタボの義か、又は東京にて小児アヤシの「居ない居ないバー」を関西にては「居(を)ツたバー」といふ、暗中より突然顔を出す女との義か

お密(おみつ)
私娼を云ふ、不良少年等の隠語なり、密売婦の頭字に、「お」を付けて、固有名詞の女名に擬せしなり、きちがひ(発狂者)を「おきち」と云ふに同じ

鬼(おに)
『越後の婦人』に私娼異名として「鬼とは五泉」とあり、五泉町は同国中蒲原郡なり、東京などにて私娼を「白鬼」と云へると同義なるべし

お獅子(おしし)
信濃の上田にて私娼を云ふ、「角兵衛獅子の如く、よくひツくりかえる、即ちコロブ女との意ならん」と同地の花月子より報告ありたり

おツぺ 
越前の福井にて現に唱ふる私娼の異名なり、或書におべいと書けるは誤なり、同地の人々も此語原は知らずと云へり、予には何等の臆説も出ず
お亀
伊勢尾張などにて娼妓を云へり、『守貞漫稿』に曰く、「尾勢辺にては於山とも又阿亀ともいふ也、これ阿亀といひし名妓ありしよりの惣名なりと土人の話なり」



   【か】

川竹の流の身(かはたけのながれのみ)
斑女といふ謡曲に「うきふししげきかはたけの流の身こそ悲しけれ」とあり、又、江口といふ謡曲にも「ことにためし少きかはたけのながれの女となる前の世のむくいまで思ひやるこそ悲しけれ」とあり、俗に遊女を川竹の流れの身といふは、右の謡曲より古き書には無し「かはたけ」とは古歌にも多くありて若竹を云ふなりとの説と若き草の名なりとの説もあれど、うきふししげきの語によせて「川竹」の字に書けるならんと『難波江』の著者岡本保孝は云へり
『物類称呼』には「川竹の流れの身などいへるは、或は備後の鞆ノ津、津ノ国の神崎より出て、揚屋、新艘、水揚、引舟これらの品類、悉く水辺によるの名なりとかや」とあり、此語は「うかれめ」の転なるべし、「流れの君」又は「流れ女」、「流れの女」などとも云へり、遊女立花の歌
「行く水の流によどむ川竹は浮きふししげきものと知らめや」

桂女(かつらめ)
「かつらとも桂女とも云ふは、山城国桂の里より出づる遊女なり、畠山記に云く、此間公方(足利義澄)の御慰に参り舞歌などしける桂の遊女の装束を着せまゐらせ、若君(畠山政長の子)を桂(遊女)に作り、かの遊女の中に入れ、敵陣の前を通りける、敵の方にも桂遊女を見知りたる人多ければ、無左右是を通しける、又永禄四年正月五日、桂女地蔵千百の両人、将軍の前に祗候せるよし年中恒例記にあり」(貞丈雑記)
『安斎随筆』に桂女の風俗を記して「白布一丈二尺を広げて額にあて、うしろ廻し前へとり、両端を折りて左右に挟み置くなり、此布をびなんかつらと云ふ、古へ賤しき女の体なり」とありて、上に抜載せる『米の恩』の図とは少しく違へり
宝暦の頃、桂の里に桂女と云ふがありたり、是は古への遊女にあらず、今いふ助産婦の如き者なり、俳句に火蛾の題にて「桂女の月待つ夜や灯取虫」といへるあり、いづれの桂女を詠みしなるか知らず

加賀女(かゞめ)
「加賀女といふは遊女なり、加賀国より出でしなるべし、殿中申次記に曰く、加賀女は殿中へも参ること自然可在之云々、条々聞書に、加賀ぶしなどは今は聞きたる人もまれに候べしとあるは、加賀女のうたひたる歌のふしを云ふなるべし、殿中日々記に、六月十四日祇園会、かゞ車公方へ参るとあるも、加賀女の事にて車といふ女の名なるべし、書札雑々聞書に曰く、公方へ白拍子は不参候、かゞ女と申す遊女参り候、加賀ぶしなどとてはやり候云々」(貞丈雑記)
此「加賀女」も「桂女」と同じく足利時代にありし遊女にて徳川時代には既に廃絶して無かりしものなり

格子の君(かうしのきみ)
江戸吉原の草創時代より第二位の遊女を云へり、此時代の遊女は、大夫、格子、端の三階級たりしなり、楼内の大格子の内に居し故に名づく、寛永十九年版の旧吉原細見記『あづま物語』に「今様をうたひ、扇おつとり、一ふししほらしく舞ふたるを大夫と名づく、すこし品劣れるをかうしと名づけ、はしといふ」とあり、又寛永二十年版の『色音論』よし原の条に「此町なみの習ひにて、人に異名をつくるなり、後に見えける侍の異名をいへばとられんぼ、あれに見えける上ろうはこうしの君と申しけり」とあり、而して右の『あづま物語』には、当時の遊女の総数を挙げて「大夫七十五人、格子三十一人、端八百八十一人、総数九百八十七人」とあり
万治三年の『高屛風くだ物語』新吉原の事をいへる条に「内に女郎の数五百有余にして、太夫、かうし、はしなど三品にわかち」とあり、遊女の減数は移転後二三年間の衰微を証するものと見るべし
此「格子の君」を略して「格子」と云ひしことは右にあるが如し、後には「格子女郎」と呼び、太夫職の遊女は無く、「格子女郎」のみの居し遊女屋を格子店と称せり、吉原の変遷表を見るに、元禄二年には遊女屋二百八十二軒、格子店十三軒、宝永五年には遊女屋二百四十九軒の中、格子店五軒とありて、元禄二年には遊女総数二千七百八十余人の中、大夫三人、格子女郎五十七人とあり、以て格子女郎の比較的上妓たりし事を察知すべし、因みに記す、格子おろしといへる語あり、格子女郎が散茶女郎に成下りしを云ふ

かこひ(囲、鹿恋、鹿子位)
元禄前、京島原、大阪新町にて大夫、天神に次ぎし第三流の遊女を云へり、『好色訓蒙図彙』には「鹿恋」又「栫」、『色道大鑑』には「囲」と書き、「大夫を松とし、天神を梅とし、囲を鹿とせり……」、『俳諧通言』には「鹿子位」と記せり、「囲」とは、大夫、天神に比すれば、佗びて居るといふ意より、茶席に擬して囲といふなりとの説と、博徒の語に十五の数をかこひといふより、十五匁の揚代にかけしなりとの説あり、「鹿恋」とは其閑を表して、深山の鹿が牡を恋ふるに比せるなりと、次に「鹿子位」とは、揚代十六匁なりし故、四々の十六、四々はしし(鹿)なりと云ふにあり、いづれか可なるを知らず
但し「鹿子位」の称は近世までも存せりといふ

禿立(かむらたち)
遊女に仕込むべき子飼ひの幼児「禿」が年たけて遊女に成りたるを云ふ、『色道大鏡』に曰く、「禿立とは傾城の性を誉めていふこと也、出世以前、禿にて先輩につかへ、道をわきまへ知りたるといふこと也、或書に曰く、よきもの三あり、喝食立の僧、執筆立の連歌師、禿立の傾城」
『花街百人一首』に曰く、「禿立-幼少の時より売られ来て里なれて禿と成り、新造と成りてから、相応なる客をとりて、部屋持と成り、座敷持と成るもあり」
又大阪版の『虚実柳巷方言』に曰く、「禿より仕込み、出来あしきは追回しのこめろにし、中なるは端女郎、よい所を天神とし、至つてよい所を太夫とす」
「禿立」に縁ある川柳四句を左に録す
「花の里芥子から育つ女郎花」
「物になるかぶろ即席うそをつき」
「雛鶴は千両にするつもりの名」
「早いこと緑が松の太夫職」

かさどめ(傘止)
『俚言集覧』に「かさ留-大阪詞、太夫、お職女郎を云ふ」とあり、太夫、お職女郎の総称にはあらず、各大夫の道中に際し、其最後(シンガリ)に出る大夫を云へり、即ち廓中第一の全盛妓といへる義なり、「かさどめ」とは、大夫の道中には妓夫をして長柄の傘を翳ざしむるが故に、其傘の終りといふ事なり

籠の鳥(かごのとり)
大門の一方囗、四囲に塀柵又は泥溝を設けて脱走を防がれ、其身廓外に出づるの自由を禁ぜられたる遊女を云ふ
此「籠の鳥」といふ語は、其境遇の形容詞にあらず、『恋の栞』にも遊女の異名とせり
『皇都午睡』に曰く、「大門囗より外へ出る事なく、籠の鳥かや恨めしきとは是を云ふなり」
川柳にも此句多し
「不仕合はせ箱の娘を籠に入れ」
「鳥籠へ娘を入れるむごいこと」
「掃溜の鶴鳥籠へ女衒入れ」
此外男装脱出の句「股引と羽織で籠の鳥は逃げ」など多し

河岸女郎(かしぢよろう)
「局女郎」の形式と其称廃れて此名起れり、吉原廓内河岸店の女郎といふ義なり、安永天明頃の吉原細見調べには河岸店十何軒、河岸女郎三百何十何人とあり、寛政頃より此名称廃れて「長屋女郎」と云へり
河岸とは廓外の溝に接する地なるが故の名にはあらず、『吉原十四ヶ条』中に『常々草』を引て曰く「彼局見世の家毎に暖簾をかけ、軒下を通るさまの本町河岸に似たる故に本町河岸と名づけ、略して河岸と云ひしなるべし」
投げ節「親兄弟に見放され、あかの他人の傾城に、可愛がられる筈はない」、地回り吉公の此ソヽリを風呂場にて聞きつけし入浴中の馴染女「オヤ、どうしんせう、吉の声だよ」とイラチし事、其淫書にあり、これ河岸女郎の真相を穿てるもの也

河岸君(かしぎみ)
川端に出る夜鷹を云ふ、寛政五年の江尸版『絵本世吉の物競』に、此図を描きて「河岸君や立木の中に呼子鳥」と題せり、流れの君、格子の君、船君などいふに擬せし語なり
隠し売女(かくしばいぢよ)
江戸にて私娼の総称なり、徳川幕府の制令にも「隠売女イタシ候モノ身上ニ応ジ過料ノ上百日手鎖ニテ所エ預ケ隔日封印改」など此語を使用せり、「隠し」は公然ならざるを云ふ、又「隠し色」とも云へり、『続俳諧清鉋』に「店には商ひ物を置きて、内にかくし色のあるを曰く茶屋といふ」とあり、又「隠し米」とも称せり
『越後の婦人』に「かくしとは与板」とあり、与板町は三島郡なり、「かくし」とは「隠し売女」の略なるべし

隠し米(かくしよね)
吉原の遊女を「よね」と称せしに対する語にて、岡場所の売淫婦を公然の遊女にあらずとして呼びし名称なり
元禄六年の『西鶴置土産』に江戸の事をいへる条中「清水町のかくしよね、百で酒肴もてなし、さまざまなるも可笑」とあり、当時谷中清水町に後の谷中茶屋町に於けるいろは茶屋の如き魔窟ありしなり
「隠し」とは、法規に従はざる内密の義、「米」は「よね」の項を見るべし

竈祓(かまはらひ)
丹波国大原大明神の神子(巫子)勧進のためとして諸国を廻り、カマドの祓をなせしが、いつしか堕落して売色を本業とし、元禄の前後、「竈祓」といへば「歌比丘尼」と同様、売淫婦の異名と知らるゝに至れり、『嬉遊笑覧』に、「竈はらひは、江戸にもありしと見えて『吉原常々草』に下屋敷の若き男、釜はらひに馴染みありて云々、西鶴が『男色大鑑』に、竈はらひの神子、男ばかりの内を心がくる、『好色一代男』に、「あらおもしろの竈神や、おかまの前に松うえて、とすゞしめの鈴を鳴らして、あがたみこ来れり、下には檜皮色の襟をかさね、薄衣に月日のかげをうつし、ちはやかけ帯むすびさげ、淡化粧して眉黛こく、髪はおのづから撫で下げて、其有様中々御初穂のぶんにてはなるまじ云々、品こそかはれ、望めば遊女の如し」とあり、其風俗の概略を推知し得らる
右の「あがたみこ」といへるは、山城県神社の巫女を云へるなるべし、大原神子の流行につれて県神子も亦「竈祓」を名として売淫行脚に出でしならんか
「大原神子」の項をも参照すべし

髪洗女(かみあらひおんな)
足利時代より継続して徳川時代の初期頃に最も繁昌を極めたる風呂屋に居りし私娼を云ふ、表面は浴客の髪を洗ふ女として「髪洗女」と呼びしなり、尾張相応寺蔵の風俗絵屛風に此古き「髪洗女」の図あり
『元吉原の記』には「江戸中なる風爐屋の髪結女といへる隠売女を厳禁にせられて」とあり、髪を洗つて後、結束をもせし故に「髪結女」とも呼びしならん
垢かき女、猿、風呂屋者、呂衆等の項をも見よ

籠回し(かごまはし)
『里の小手巻評』に、私娼の異名として「長門の萩にかごまはし」とあり、木魚仙子は「かごまはしは竹籠廻しにて、大阪のピンシヨに同じ、即ち報償としての米を乞ふザルを廻すが故ならん」と云へり、花月子の報告には、「旅宿で旅客のために駕籠雇ひ上げの交渉を担任する女といふ意より起りしならん、取回し、二階廻しなどの廻しと同義にて周旋の意と解せり、如何か」とあり
此「かごまはし」を、水上売淫婦の異名とすれば、前説を可とせざるべからず、又若し旅宿の私娼を云ふなれば、後説を可とせざるべからず、編者は此先決問題を断定すべき見聞資料を有せざるなり

かんつ(燗壺握)
美濃国中部の方言にて「燗壺握り」の略なり、燗壺とは酒の徳利をいふ、其燗壺を握る女、即ち料理店の酌婦といふに同じ、酌婦は売淫を本業とするがゆゑ代名詞に成れるなり、とは編者が最近岐阜県人よりの聞書なりしが、信濃松本の胡桃沢勘内子より「美濃中部のみにあらず、信州木曾地方一円に通用し、鳥居峠以南にては、何れの宿駅にもありて、芸妓輩よりも勢力あり、有名な木曾踊なども、此カンツに中々堪能なる者もあり」と大層御ヒーキの報告ありたり
遠江にては「つぼにぎり」と称すと『静岡民友新聞』にありたり、ヤハリ「燗壺握り」の略なるべし

買(か)はんせ 
出雲にて公娼私娼を云ふ、遊女屋の引子、茶屋の仲居、又は私窩の老婆などが、客を唆る呼び声より出でし語なり

かぼちや(南瓜)
『越後の婦人』に私娼の異名として「かぼちやとは新発田」とあり、越前及び駿河の一地方にても唱ふと聞けり、南瓜の如き醜婦と蔑視しての名義か、或は私娼が「道理でカボチヤが唐茄子だ」を盛んに唄ひしに因るか
同『越後の婦人』に「辻君、立君、夜発、浮身とは優しけれども、私窩子、地獄、白首とは怖ろし、家亡女、女市土妓とは漢土(から)めき、飯盛り、船饅頭とはうまそうなり」とあり、此書の外にては未だ此「家亡女」の語を見ず、新潟の名物「八百八後家」の後家を、越後にて「家亡女」と書きしならんかと思ひたれども、再び案ずるに、これは新発田にて私娼を「かぼちや」と称するを、「さぼし」に「茶盆子」の字を充てしが如く、通者が「家亡女(かぼちや)」と書きしならんか、知らず此当推量、あたるや否やを
因みに記す、女市、土妓は「漢土めき」にあらず、固より漢語なり、支那の『五雑組』巻八に「今時娼妓布満天下……又有不隷於官家居而売姦者謂之土妓俗謂之私窩子」とあり、『和漢三才図会』に「俗謂曾宇加者、南史所謂女市是也」とあり

干瓢(かんぺう)
越前の敦賀、越後の出雲崎、羽後の酒田等にて公娼私娼(を)云ふ、敦賀にては現在も行はれ居れど、其外は如何か知らず、『好色一代男』に「この処(地国阪田港)にて干瓢と申侍る、夕貌を作りてひらしやら靡くといふ事ぞかし」
『物類称呼』には「越前敦賀にてかんぴやうと云、夕顔をさらすといふ心なり」とあり
安藤和風子の俳句に「夕顔の君が巻きけり葭簾」といへるあり、此「干瓢」の類を云ふなるべし、尚「夕顔」を見よ

川(かは)うり
『越後の婦人』に私娼の異名として「川うり又は薦と沼垂」とあり、駿河にては私娼を「瓜」といへり、又往時は瓜を女陰の代用に使へり、川竹の流れに浮ける瓜との義ならんか、中清子よりの報告には「信濃川で売る女(船饅頭の類)といふ意味ぢやないでしょうか」とありたり

かばね
是亦『越後の婦人』に「かばねとは栃尾」とあるを見るのみ

鴈の字(かのじ)
函館の水上売淫婦を云ふ、文久三年版『西蝦夷日誌』に、「蝦夷にて雁の字と云ふ、其起原は、妓等船々へ入るや水夫共各々二百の銭を投げ出すに、其銭、雁行に成りし男に、其夜の情を契るとかや、依つて雁の字と号く」とあり、『松前方言考』には、「夜発、遊び女などのことをかのじといふ、昼にても夜にても揚代二百銅、ある客その二百銅のさしを渡せしに、厂の字になりしと云ふによる、阿波の前川文蔵といふ人、其詩文集に厂児と書きたり」との旨を記し、尚該著者の臆説として「江戸吉原にて金銀を伽羅の字といへり、金にて買ふ女としての伽の字ならんか」とあれども付会に過ぎず

かきす
越前の武生にて私娼を云ふ、「がきす」又は「かぎす」など書けるもあり、「昔、府中と称せし頃、淫売宿に簾を掛けあり、其掛簾即ち「かけす」を同地方の訛りにて「かきす」と云ひ、其「かきす」の中に居る女との意にて、売淫婦を「かきす」と呼ぶに至りしなり」と奴欲内子よりの報告

革足袋(かはたび)
越前及び北海道にて私娼を云ふ、往時革足袋を穿きし女ありしに因るか、杜撰多き某書に「宿屋の飯盛女を革羽織といふ、行燈に羽織を打掛て客の寝所に入る故なり」とあり、説明の意義不可解、「革足袋」の誤なるべし

高等内侍(かうとうないじ)
明治三十五六年頃流行せし私娼の異名なり、容姿服装美にして送迎には腕車を用ゐし一流の妖婦を云へり、「蝦茶式部」の語、流行せし際とて「匂当内侍」に擬せしなり

鴨(かも)
「安芸の呉軍港では引ツ張り(売淫婦)を鴨といふ」と斎藤且力子よりの報告、白粉を濃く塗りし白首女は、鴨の一種の「首白」に似たりとしての名義ならんか


   【き】

君(きみ)
『増鏡』に「遠江国橋本の宿につきたるに、例の遊女多くえもいはず、さうそぎて参れり、頼朝うちほゝゑみて、橋本の君に何をかわたすべき、といへば、梶原平三景時といふ武士とりあへず、たゞそま山のくれであらばや、いと差別(あひだち)なしや、馬鞍紺絞染など運びいでてひけば(与)喜び騒ぐこと限りなし」とあり
此鎌倉時代前にも、遊女を江口の君、神崎の君、室の君など称し、又遊客を子夫(こつま)と呼びしに対して遊女を「子君」とも称せり、(尚遊女個人の名にも中君、小君、初君、比和君など云ふがありたり)西行法師の歌に「仮りの宿りを惜む君かな」といへる君とは江口の遊女なり、又『古今著聞集』にも、今津の遊女に君の代名詞を多く使へり、貞応二年の『海道記』相模国の条に「関下の宿をすぐれば住民は、人を宿して主とし、窓にうたふ君女は、客をとゝめて夫とす」とある君女と書けるも遊女の事なり
これよりして「遊君」の語も出来、流れの君、浮れ君、寝君、さては厨子君、立君、辻君、格子君、五三の君、河岸君、船君、浜君、拳固の君など云へる名称も起りしなり、又『環斎記聞』には、吉原の開祖庄司甚右衛門のことを記して「其頃諸奉行様、甚右衛門の名をきみがテヽと御呼び被成候、古来大人歴々の御言葉に、遊女屋の亭主をきみがテヽと呼び給ふは、君が親方(てて)、遊女長(きみがてう)とも書き候由」とあり、寛文延宝頃の吉原遊女評判記には、いづれも遊女を「君」と称し「下腹に毛のなき君なり」とか「あふて面白きは此君なるべし」など記せり、又俳人其角の著に『吉原源氏五十四君』といへる遊女評判記あり
「君は照日か、わりや降雪か、見れば心の消へ消へと」
「君が来ぬとて枕な投げぞ、投げぞ枕に咎もなや」
などいへるが『吉原はやり小歌総まくり』に多し、「君と寝やるか、五千石とろか、何の五千石君と寝る」といへる君も亦遊女を云へるなり
「君とは民に長たる至尊の通称なり」といふが本義なれども、支那にて王昭君など士大夫の妾を君と呼びしより、貴族の嬖妾同様たりし我国古代の遊女を君と称するに至りしなるべし
『越後の婦人』には私娼異名「きみとは六日町」とあり

狐(きつね)
いつの頃よりかは不詳なれども、古来遊女を「狐」と異名せり、狐は陰類の妖獣なりとか、美女に化けて男をたぶらかすなど云へる怪談多くあるによりて名づけしなるべし
『和漢三才図会』に「狐-古淫婦所化、其名曰紫」とあり、『五雑組』物部一には「狐陰類也、得陽乃成故雖牡狐必托之女以惑男子」とあり、『俚言集覧』には「佞媚を狐といふ」とあり、又〔唔吟我集〕に「化粧にて人をまよはすたはれ女は、狐ならねどこれも面白(つらしろ)」とある「狐ならねど」は、たはれ女に狐の異名はあれども真の狐には非ず、然れども狐の子がツラ白なるが如く、遊女も亦ツラ白しとの義なるべし、『夫木集』に「花を見る道めほとりの古狐、かりの色にや人惑ふらん」といへる古狐も亦遊女のことならんか、『暗夜訓蒙図彙』に「能い客の狐につくや午まつり」といへる句あり、又川柳にも「穴を出て山谷で育つ狐の子」といへるあり、『艶道通鑑』には「今時の傾城買は、生身の狐狂ひするにぞありける」と見え、明治の新聞雑誌には「娼妓(きつね)」と訓せるもありたり、又「来つ寝つ」にて「狐」なりとの付会説もあり
遊女を「こんきち」と称せしも、此「狐」より出でし語なり、又後の世には「尾なし狐」とも呼べり、其項を見よ

切見世女郎(きりみせぢよらう)
「局女郎」又は「長屋女郎」と呼びし最下級の女郎を云ふ、「切見世」とは一夜を三度に仕切り、一切りの玉代を三匁乃至五匁の規定とせし故の名なり、『守貞漫稿』には「切見世、本名局女郎なり、昔の吉原の局女郎は中品妓なり今は吉原及岡場所ともに下品妓の名とす、切とは須臾を一ト切りといひ、一切百文なり、一切須臾なるが故に房事に及び難く、多くは一倍或は二三倍す」とあり
川柳「切見世は突き出すやうに暇乞」

切売女(きりうりをんな)
公娼私娼総てを云ふ、此語義は、情交にあらずして、代償によつて肉の切売をなす女なりと、今は解すれども、古人の云ひし「切売女」の「切」は「切見世」の切に同じく、時間を切りて売る女とか、或は情の切売との義なり
『蜘蛛の糸巻』提重の項に曰く「切売女と号して色を売る、美醜にて価上下あり」

金猫(きんねこ)銀猫(ぎんねこ)
享保の末頃より江戸にて私娼たる踊子(芸妓)を「猫」と呼び、其寺院の境内に居しを「山猫」と称し、其「山猫」を玉代によりて「金猫」又「銀猫」と異名せり、『奴凧』に「天明の頃まで、両国橋の東回向院前に隠し売女あり、金一分を金猫といひ、銀二朱を銀猫といひしなり、其頃川柳の前句付に、回向院ばかり涅槃に猫も見え、といふ句ありしも可笑」と見ゆ、大阪にても此金猫銀猫の称ありしか、嘉永の『皇都午睡』に「堀江、是は又一風立て、気性にも外々の遊所より異なる所あり、女郎にも金猫銀猫二座の一本付なぞと、深き口授あり」と見ゆ
天保の川柳に「今西行は銀猫を買ひに行き」といへるあり、僧徒の堕落を諷刺せし句なり

巾着(きんちやく)
「都、辺土に遊び女の異名を巾着とつけて、家々に二人三人づゝ隠し置き、之を世渡る業とせしに……元禄八年に顕はれ、あはれや門差込められ……」と諸国落首咄にある由、又正徳五年の『艶道通鑑』に「巾着の〆込、蓮葉のびらしやらも、馴ては同じ思ひ川」とあり、此「巾着」の語は、入れて〆込む(客を入れて戸を閉づ)との義なるべし、其証『後の月見』にあり

きぶし
『里の小手巻評』に私娼の異名として「肥後にきぶし」とあり、語義不詳、「きぶし」は「木節」か「五倍子」なるべし、某子は「歯黒染に縁ある語か」とのみ云へり

北向女郎(きたむきぢよらう)
貞享元禄の頃、京都北方の横町にありし北向に建てたる娼家の劣等女郎を云へり、『好色訓蒙図彙』等に出づ




   【く】

くゞつ(傀儡)
奈良朝時代より徳川時代初期頃迄の間、諸国宿駅の旅舎に居し売淫婦を云へり、村田了阿の『俚言集覧』に「くゞつ-莎草(くゞ)にてあみし袋の如き物、藻また貝など拾ひて入るゝなり」とあり、又「筬造りの賤民をくゞつといふ」とあるをも見たり、折囗信夫子の『万葉集辞典』には「藁で編んで、物を容れて腰に吊る籠やうのもの、此くゞつを作る賤民をくゞつといふ」とあり
此「くゞつ」を造る賤民の婦女が、駅舎に行き、木偶人形を使ひ謡を唄ひて旅客より銭を乞ひしが、後には旅客に淫を売る事が専業に成りしなり、故に「傀儡」と書きて、「くゞつ」と訓し、其「くゞつ」が遊女の義に変ぜしなり、『安斎雑考』に「傀儡師-貞丈云、駅舎人遊女ノスルワザナリ、題林抄ニクヾツハ旅ノムマヤニアリト見エタリ」とあり、ムマヤとは駅舎にて宿屋を云ふなり
「躰源抄十末巻、今様事の条に、前草(女名)ハ始ハクヾツニテ、後ニハ遊女ニナリテ両方ノ事ヲ知リテメデタカリケリ云々」(松屋筆記)
「くゞつ-遊女とは聊か異れども、旅店の女をしか云ふは後に准へていふなり、こはもと人形を舞はし、又は放下などする者の妻娘どもの、色を売る者なれば、傀儡とは呼びたるなり、『朝野群載』に大江匡房の傀儡子記あり」云々と嬉遊笑覧に見ゆ
要するに、古へ遠江の橋本、美濃の青墓、野上、近江の鏡山、其外国々の宿駅に居し売淫婦をくゞつ、くゞつめ、てくゞつと呼びしなり
徳川時代中期の浮世絵師が画きし遊女の姿絵に、人形を遣ふさまのもの多し、此くゞつめの名残にて、吉原の遊女が座興として人形を舞はせしに因るならんか

草餅(くさもち)
信濃、上野、下野の大部分、岩代の信夫郡安達郡、陸前の仙台地方、陸中の南部地方等にて私娼を云ふ、語義として『風俗画報』に「食ておいしいといふ意なるべし」とありしが、これは付会の臆説なるべし、此語原は「提重」といふに同じく、昔草餅の行商を表面の業として淫を売り歩きし者ありしに因ると聞けり
『東北方百集』には「くさもつ(笑婦)宮城県仙南地方」とあり、笑婦とは売笑婦の売字の誤脱なるべし、「もち」を「もつ」とは同地方の訛りなり、仙南地方のみにあらざる事は前記の如し

くさや(臭屋)
正徳五年の『艶道通鑑』に「白人、呂州、茶女、臭屋、間短、蹴転、夜発」とあり、又同書の別項には「黄昏時の夕貌の、白顔見する草屋、ひじき物に袖すてふ、雲屋根ふける惣嫁まで、恋の切売、情の夜市」とあり、いづこにて如何なる者を云ひしかは不詳なれども、「くさや」とは臭気を放つ夜発の類を云ひしなるべし

車櫂(くるまかい)
渡島の函館に於ける水上売淫婦の異名として文久三年の『西蝦夷日記』に記せる中「箱館弁天の車櫂とは、此町海端なる故、自ら車櫂を操りて船に行く故号け」とあり、遊女自らが船の櫂をあやつりて碇泊せる大船に漕ぎつけ、交渉調ふれば其大船に移りて淫を売るなり、松浦子重の歌「うかれめの名こそうべけれ蝦夷の海に、うかれうかれて世を渡るらん」

繰出し(くりだし)
高安澄信翁筆記の一節として『民族と歴史』所載の私娼異名中に「備前の岡山ではくり出しと云」とあるを見しのみなり、語義不詳なれども、察するに、日没の頃白首連がゾロゾロとくり出すとの義なるべし

九年母(くねんぼ)
『里の小手巻評』に「松崎にくねんぼあり」と見ゆ、松崎とは伊豆国加茂郡松崎町を云ふなれども、今は同地にて此語を唱へずとて語義を知る人なし



   【け】

傾城(けいせい)
平安朝時代の末期より遊女を「傾城」とも呼べり、『万物ノ始』に「傾城といふこと寛文年中より云ひ始めける」とあるは誤なり、こは寛永二十年の『色音論』に「人の心もうかれめの遊女遊君、今はまたけいせいなどゝ申しつゝ」とあるなどに同じ
「傾城」の語は古く『宇治拾遺物語』、『続古事談』等にも出で居り、頼朝時代の鎌倉長吏の配下にも傾城屋あり、足利義晴将軍の時代には幕府が傾城局といへる遊女取締兼課税所を設けたり、『貞丈雑記』に曰く「傾城といふも遊女也、今の世の如く一所に集り居らず所々にあり、大名の家などへも召寄せて酒宴の興を催し、歌ひ舞ひ酌などにも立てし也、唐にて傾城といふは遊女に限らず、すべて美女の事を云ふ也」、此傾城の語は、漢武帝李夫人の故事、「一顧傾人城再顧傾人国」より出しなり
『洞房語園』に曰く「慶長年中迄は傾城の町売とて、先様より雇ひ来れば、何方までも遣はしけれども、元和年中傾城町一ケ所に仰付られ候より、町売は相止め、寛永十七年秋、町売御停止あり」云々
「傾城に誠なし」などいへる俚諺多し、俳諧にも傾城を詠める句数百あり、就中最も著名なるは、其角の「傾城の賢なるは此柳かな」とす、道歌には「傾城は弘誓の船の渡し守、しにくる人をのせぬ日はなし」といへるあり
「傾城」を「契情」と書けるもあり、川柳「契情の手跡大かた信田流」、俳句「契情や傾城を見る夕涼み」、又『花哇一夕話』には「目黒に比翼塚あり、誠を契ればこそ契誠ともいふなり」とあり、いづれも通者の充当字なり
遊女買の面白味は張見世女郎にありとして、川柳に「女郎買、傾城買いをあざ笑ひ」といへるあり、古へは女郎と云ひ傾城と云ふに区別なかりしが、寛政頃に至りて、大夫を傾城と称し、その他を女郎と呼ぶ事に成れり、明治には傾城買の語廃りて「おいらん買」と「女郎買」に変り、其後は単に「女郎買」のみとなれり、其称呼の変遷と共に実質も異りて「傾城の昼寝ぬ程に思ひつめ」、「傾城は人を頼んで一つ打ち」の風情ある遊女は今世絶無となれり
けちぎり(仮契)
『色道大鏡』に「仮契-端女郎なり、端居してあふ仮の契なる故にしかいふ、風流談に曰く、十銭宛の仮契にも、腕ひとつ衝て投げ出すよりは、抜群勝れりともおもふ者、世に多かるべし」とあり、『柳亭筆記』には「けちぎりは局女郎といふなり、仮契りと書くは仮字なるべし、あるひはけちとばかりもいへり」とあり、『好色訓蒙図彙』には「端、化契(けち)」と書けり、『好色伊勢物語』にも「けち-一名局、一名はし女郎、青暖簾のうちに三味を調べ歌うたひて男を待つ、好色しのぶ山に仮契と書けり」とあり
右の『色道大鏡』に「彗星-端女郎仮契の事なり、されど此詞古くして当時(延宝)はつかはず、 けちぎりを下略してけちといふ、此けちといふを奇怪のことに取倣し、彗星とはいへり」とあり、此「彗星」はスイセイかハフキボシか、はた又「ケイセイ」と音読して「傾城」にかけしか否かは不詳なり

けんどん(喧鈍、慳貧、倹飩)
古き頃「端女郎」といへり、『洞房語園』に「喧鈍-寛文二寅の秋中より吉原にはじめて出来たる名なり、往来の人を呼ぶ声喧すしく、局女郎よりはるか劣りて鈍く見ゆとて喧鈍と書きたり、其頃、江戸町二丁目に仁左衛門といふ者、饂飩を拵え、蕎麦切を仕込みて銀目五分づゝに売り初め、けいせいの下直に擬へてけんどんそばと名付けしより世間に広まるなり」とあれども、「喧鈍」は「慳貪」なるべし、又蕎麦のケンドンは「倹飩」にて、其安価を云ふなるべし、『けんどん争ひ』には「巻飩」と書けり

拳固の君(げんこのきみ)
元禄宝永の頃、江戸の夜鷹を通人共が、厨子君、格子の君などに擬して呼びなせし洒落語なり、「拳固」とは指の五本にかたどりし五の数の符牒にて、玉代五十文の遊君といへる義なり、『俗枕草紙』に「こんかきの暖簾、さては端々の木綿乙女、別して此里(四谷鮫ケ橋)のげんこ君も、酒相過ごし味らしく……」とあり

げんぽ
『里の小手巻評』に私娼「津軽にてげんほといひ」とあり、今は廃語なるべし、語義不詳

けころ(蹴転)
天明の末頃まで江戸の下谷広小路、数寄屋町、仏店、浅草堀田原、広徳寺前等にありし私娼をいふ、『親子草』には「深川八幡の御旅所、下谷山下広小路裏表、竹町、長者町、御数寄屋町、此五ケ所をケコロといふ」とあり、『蜘蛛の糸巻』に「けころの名は蹴転ばしの義なり、此けころ切二百、泊りは客より酒食をまかなひ、夜四ツより二朱なり、一軒に二三人づゝ昼夜に見世を張り、衣服は縮緬を禁じ、前垂にて必ず半畳の上に坐するなり、此売色仏店より軒を並べて四五十軒ばかりありつらん、是おのれ(京山)が目睫をいふ、けころの姿、絵にも団扇にも売出したり」とあり、『塵塚談』に「けころといふ妓女、天明の末迄……寛政以来、此売女絶えて無し」とあり
「蹴転ばし」を「蹴倒し」とも云へり、又「山下の前垂」といふも、上黒山下のケコロが前垂かけなりし故の名なり
『通詩選諺解』山下即事の転句に「蹴転含情已無限」とあり、又安永頃の川柳に「十二文ほどの機嫌でけころ出る」、十二文の粗酒一本をあふつて張店に出るとの事なり
此「蹴転」を「毛呉絽」とも云ひしか、『川柳吉原志』に「音羽町、仏店の毛呉絽……異彩を柳句の表に放つて居る」と記して「身仕舞を毛呉絽てんど(大道)へ向いてする」、「仏御前は毛呉絽かとむごい奴」など二三句を抜記せり、此妓に毛呉絽の帯若しくは前垂を着けし者ありしとかにて、語呂相似たりとしての異称なるべし

化粧者(けしやうのもの)
公娼私娼を云ふ、紅をつけ白粉を塗り、眉を描き髪を染る等、総て売淫の徒には濃厚の化粧を施す者多き故の異名なり、相模の大磯辺に「化粧坂」と云へる遊所ありしも、古き浮れ女に縁ある名称なるべし

蹴飛ばし(けとばし)
駿河にて私娼を「蹴飛ばし」と呼ぶよし、『静岡民友新聞』にありたり、「蹴転ばし」、「蹴倒し」と同義なるべし

げんさい(幻妻、玄妻、衒妻)
『物類称呼』に「紀州にて幻妻といふ、大阪及尾州にて人の妻をげんさいといふ、これは罵る詞に用ゆと見えたり、春秋左氏伝、昭公(二十)八年、有仍氏女、黰黒而光、可以鑑名曰玄妻」とあり、「幻妻」とは一夜妻の義に同じく、夢幻マボロシの妻といふ義か、十返舎一九の『道中膝栗毛』大阪の条に、女郎を「玄妻女」と書けり、「玄妻」とは「衒妻」にて「女衒」の衒に同じく売るの義、即ち「げん妻」は売女の義なるべしと『東牗子』にいへり

けんたん(間短、契短)
『物類称呼』に私娼を「四国にてけんたんといふ、間短と書くか」とあり、『艶道通鑑』に「間短」とあるに拠るならん、四国の何処にて云ひしか不詳なり(讃岐にては言はず)語義は夜鷹の類にて、其契りを結ぶ間の短きを云ふならんか、宝暦頃の大阪版『好色節用集』には「契短といふ、今けんたんと云ひあやまる、其ありさま、挽切りの枕、木綿ふとん、床に入りては、さてもあはたゞしき事なり」とあり

化鳥(けてう)
安永の頃、加賀にて私娼の異名なりしと云ふ、其後廃れしか今は知る人も無しと聞けり、「化鳥」は「怪鳥」にて夜鷹と云ふに同じ義ならんか
『日本売笑史』に私娼の異名として「加賀の北烏」とあり、又『風俗画報』にも同じく「北烏」と記せり、此「北烏」は「化鳥」の誤りなり、『里の小手巻評』に「加賀に化鳥」とあるを『嬉遊笑覧』が抜記せるに、字形相似たりしより、同書の活字体はこれを「北烏」と誤植せるに基くなるべし
本書に蒐集せる異名中にも、斯かる誤謬あるやも知れず、乞ふ之を諒せよ

毛饅頭(けまんぢう)
延宝二年の刊本『吉原つれづれ失墜』の抜記として、総嫁を「本庄にてけまんぢう」と云ふと柳亭種彦の『足薪翁記』にあり、本庄とは武蔵国児玉郡本庄町なるべし、今は同地に此語行はず、専ら「おしくら」と称せり、三河地方にては現在にも唱へ居れりと聞く、「毛饅頭」とは茲に解説し難き猥褻の語義なるべし



   【こ】

五三の君(ごさんのきみ)
寛文の頃、京島原にて遊女の上級なるを云へり、揚代金五十三匁なりし故の異名なり、『色道大鏡』に「五三、三八、天神、囲とて皆一日の遊料の数をたとへて名とせり」とあり、『吉野伝』には「大夫職、又五三の君など通称す」とあり
大阪新町には「五八」と呼びける上妓の異称もありたり

こつち
『日本類語大辞典』に「京都島原にて中等の女郎、方言、こつち」とあるを見しのみにて語義は知らず

木伝(こつたひ)
古へ京都にて上妓を云ひし由、語義不詳なり、鶯が枝から枝に伝ふ如く、身の寄所不定なるに擬して云ふとすれば、遊女の総称ならざるべからず、何か外かに故事ありての名なるべし
こん吉(こんきち)
狐を云ふ、又転じて人を訛かす遊女をも「こん吉」と呼べり、狐の鳴声のコンコンより出でし語なり、「紀伊国」といへる端唄の合に「こんこんちきや、こんちきや」と云ふも、これに縁ある語なるべし
吉原三浦屋の遊女吉野といへるが、度々妊娠して子を産みしとて、或人、
「子をやすくたびたび生める故にこそこんきちさまと人はいふなり」
との狂歌ありしこと、寛文六年版の『吉原袖かゞみ』に見えたり、「様」の敬称を付けしは、当時の遊女に対する風習たりしなり(日本擬人名辞書)
「狐」及び「尾なし狐」の項を見よ

子供(こども)
年若き芸娼妓一般を云へり、「子飼ひ」と称する少女養成の親方、又は妓女雇入れの抱主が「うちのごとも」など云ひしより、客人も又「誰かこどもを一人呼べよ」など云ひ、終に「子供屋」の称も起りしなり、『古契三娼』に深川私娼の事をいへる条中「子供は十二匁の内を茶屋へ六匁とられて、子供屋へ腮(食料)を三百二十四匁(一ヶ月分)とられやす」とあり、稲光舎随筆『寛天見聞記』には「本所一ツ目弁天の門前に五軒の娼家あり、至て穏便なる遊びにして芸者もなし、高笑ひ大声を禁じ、手をたゝきて呼ぶことならず、畳を打て仲居を呼ぶ、子供屋裏にありて呼出す、価昼夜一両一歩、一切一分なり」とあり

五寸局(ごすんつぼね)
切見世の「局女郎」、一夜を三度に仕切り、其一切の揚代五匁なりしを云へり、布帛の切売に擬せし語なり、『諸芸太平記』にも此「五寸局」の語あり、揚代の三匁なりしを「三寸局」といへること別項に記す、尚「切見世女郎」及び「局女郎」の項を参照すべし

小傾城(こけいせい)
大夫職にならざる遊女を云ふ、此語俳句に多くあり、
「小傾城行てなぶらん年の暮、其角」、「短夜や長い文書く小傾城、松宇」、「七夕の清がき見せよ小傾城、晩得」、「小傾城蕣の君と申しけり、子規」などあり、又「呪禁の指南を受ける小傾城、峰月」といへる新川柳もあり

小女郎(こぢよらう)
「小傾城」といふに同じく、大夫以下の安女郎を云ふ、博多小女郎といへるも、鄙地の下等遊女といへる義なるべし、『三国小女郎』といへる京山作の青本は、摂津神崎の三国屋に小女郎と称する遊女ありとしての吉原小説なり
「小女郎」と呼びしは遊女にあらずして下婢なるべし、『虚実柳巷方言』に、端女郎にも仕難き不出来の女(禿)を「追まわしのこめろうにし」て使ふとの事あり

小女性(こねしやう)
『里の小手巻評』に、「長崎に小女性」とあり、成年の妓女を「子供」といい「小女郎」と云ふに同じ義なるべし

小獅子(こじし)
加賀の山中温泉山代温泉の湯女を「獅子」と称す(其項を見よ)、永田残月子の報告に曰く「湯女見習中の少女、やがて大獅子に成るとの義にて小獅子と呼ぶ」

ころ蔵(ころざう)
宝永の頃、江戸小石川白山に居りし私娼を云ふ、『寛濶平家物語』に、「目黒の茶屋女、品川のれんとび、白山のころ蔵……」とあり、「ころび芸者」といい、「けころ」といふがありし如く、寝るをころぶと称するによる異名なり
『契情手管三味線』に「新艘、禿、局女郎、百(ころり)どの迄」とあり、「百蔵」を「ころり」と呼びしならん

転び芸者(ころびげいしや)
天明の頃、浅草、両国、石町などに巣窟ありて、一回百疋即ち銀一分の売淫料たりし芸妓を云へり、歌舞妓の変体として寛永頃より「踊子」と称する者、各町に出没せしが、其踊子も亦風俗を紊すものとして屢々禁止されしがため、更に「芸子」と称する同態のもの生じ、其芸子を後に芸者と云ひしなり、『我衣』に「寛保元年、踊子停止せらる、ころび芸者の鼻祖なり」とあり
『蜘蛛の糸巻』に「けころといふ名義はころび芸者より起れり」とあれども、其前既に「ころ蔵」あり、けころ、ころび芸者の称は「ころ蔵」より起りて同時に行はれしなり
安永八年の『楠無益委記』に「猫も杓子も芸者となる、杓子さんは一本足で、さぞちよツちよツと、ころびなさらう」とあり、又『天言筆記』に「嘉永元年春深川櫓下大黒屋といふ鰻屋、中村屋といふ茶屋へ、堅き御客の来る時は、芸者をすゝめて大酔の上にて其所へつツぷし寝る故に、此茶屋をつツぷし茶屋と称して大繁昌」とあり
川柳「三味線の下手は転ぶが上手なり」、「駒下駄で出るとそこらで転ぶなり」など多し

後家(ごけ)
「俚諺に越後新潟八百八後家といへり、新潟は北国の船舶輻輳の地にて娼婦色を衒る者多し、皆一女一室を構へ、一人住して客を曳く、そのさま後家所帯の家に似たればこれを後家と呼び、又数の多きをたとへて八百八後家といへりとなん」(松屋筆記)
「似孀而非者曰後家聞昔無有娼妓寡婦無依者陪酒奉情、是為土妓之起本、世所謂八百八孀存名耳、後家則剃眉別之、八百八之称今不詳其由、或云取諸八千八水、或言不過称数之多、与呼菜肆曰八百屋同、或然矣」(新潟繁昌記)
新潟八百八後家の事を記せる洒落本『後の月見』には、「夕立後家(あふ人大に濡る)蜜柑後家(客に身の皮を剝れる)弓後家(はりが強い)蟹後家(手が多く爪が長い)などいへる戯語二百ほどを並べあり、大正七年の『新潟短古』に、「楊柳影暗美人迎、引袖乞憐密売情、亦是舟江一長所、八百八孀乃旧名」といへる一詩あり
私娼を「後家」と称するは新潟のみにあらず、青森、函館、大阪などにても後家と云へり、小樽の『北門日報』には「北海道の白首(ごけ)」とあり、文化の『筆拍手』には「藤の棚(大阪野田)のあたり、路次の内に闇屋ありて、女郎も上下の品あり、六分、八分、一匁と定まれり」とありて、その名代者八名を挙げたるに「こまのごけ本名せき、紀州ごけ本名たつ、やくしごけ本名とり」など、八名悉く後家の号あり

薦被り(こもかぶり)
越後の新潟、沼垂、羽後の酒田、渡島の湯殿沢等にて私娼を云ふなり、安政六年の『新潟繁昌記』に「似娼而非者曰被薦、郷典不使被薦穿美服」とあり、文久三年の『西蝦夷日記』には「湯殿沢の薦被りは、人目をしのぶ意なり」とあり
此「薦被り」を略して「こも」と呼ぶ地方もあり

五十蔵(ごじふざう)
宝暦明和の頃、江戸の三田、本郷、谷中などに居し私娼を云ふ、玉代銅銭五十文なりし故に名づく、五十雑、五十嫂、五十双など書けるもあり、『末摘花』及び『柳樽』には「五十ぞう」と仮名にて載す、此「ぞう」は「蔵」なるべし、当時吉原の河岸女郎にて玉代百文なりしを「百蔵」と呼びしに倣ひて「五十蔵」と云ひしなるべし
当時三田の地廻り連のソヽリ節に「五十ぞう五十ぞうと下げて呼びやるな、なんぼ五十ぞうでも、心言葉は諸国諸大名のお姫さんより、たうとうござる」と謡ひしよし『武野俗説』に見ゆ、川柳に「サア遊びなさいとせつく五十ぞう」、「手拭を人質にする五十ぞう」などいへる句多し

狐鼠屋女(こそやをんな)
加賀及び能登にて現に唱うる私娼の異名なり、淫売宿をコソ屋と称す、コソは俗にいふコソコソにて内密の義、其コソ屋に居る女との称なり、『恋の栞』に「虎鼠-中宿なり」とあり、宝暦七年の大阪版『耳勝手』に「こそやの女房浴衣着て酌、鹿島茶雷」といへる付句あり

昆布巻芸者(こぶまきげいしや)
加賀の金沢にてチヨンの間の切売りをする芸妓を云ふ、帯を締めたるまゝ転ぶが故に、牛蒡の昆布巻に類すとしての名称なり、帯を解き衣を脱して転ぶを「夏蜜柑」と称す、皮を剝くとの義にて「昆布巻」に対する語なり

腰元出(こしもとで)
『高安澄信翁記』に「腰元出といひて、大家の腰元の姿にて出る、素人といふ心なり」とあり、比丘尼の姿にて出でし売春婦を「尼出」と称せし如く、妾風にて男の好奇心をそゝりし者なるべし

米屋女(こめやをんな)
北海道釧路にて私娼をいふ、「白粉をコテコテと塗つて居るのが、米屋の女が糠で白くなつて居るのに似て居る故か」と斎藤且力子より報告ありたり

蒟蒻(こんにやく)
北海道根室にて私娼をいふ、蒟蒻の如きグニヤグニヤ女の義か



   【さ】

さぶるこ(遊行女婦)
「うかれめ」と共に最古の語なり、訳解『万葉集』巻十八に「里人の見る目恥かし佐夫流児に惑はす君が宮出後姿(しりぶり)」、又「縁る方無み佐夫流其児に」云々などありて、註に「佐夫流と云ふは遊行女婦の字なり」とあり、「遊行女婦」と書きて「うかれめ」とも「さぶるこ」とも訓せり、此「さぶるこ」の語義は、『倭訓栞』に「万葉集にさぶる子など見え、遊行女婦をよめり、然ぶる義、ぶる反び、さびに同じ、万葉集に神さびを神さぶるともよめり」とあれども、此意義要領を得ず、『松屋筆記』には「佐夫流は、そぼるの通音なり、佐夫流児は戯児(たはれこ)の義にてたはれめに同じ」とあり、之を正解とすべきか否か、折口信夫子の『万葉集辞典』には異説あり、「さぶる(侍)貴人の傍につきそふこと、古くは遊女などが、貴人の傍に居ることをいふたのであらう」、又「侍るといふ意で、宴席などに侍るところから出たものかともいふが、さぶるといふ語に侍るといふ意のある処から、遊女を呼ぶ語であつて、さぶるその子などいふたのであらう」と見ゆ、「侍娘子」といへる古名もありたり、此説を可とすべきか

散茶女郎(さんちやぢよらう)
「寛文五年、岡より来りし遊女(風呂屋女)は未だはりもなく、客をふるなどいふ事はなし、されば、意気張りもなく、ふらずといふ意にて散茶女郎といひけり、これは吉原の遊女共が時の戯れに散茶女郎といひしが、云ひ止まずして、今(享保)に散茶といひもて来りしなり」と『洞房語園』にあり、元禄二年の『新吉原常々草』にも「さん茶ばかり久しきはなし、散茶と書くはふらぬといふ心也」とあり、又延宝六年の『絵本上々御の字』には「散茶女郎の風俗も、今の男伊達の賤しき風を好くなり、衣服も見苦しく、襟元などは茶の湯の道具に似寄り、殊の外古く垢つきて見苦し、ふるけれども出所あしきかちやなればさん茶と名づくる」とあり
此「散茶」の語原には異説あり、そのかみ風呂屋にて茶を「ちらし」と称せり、其証は古き浮世草紙に「ちらしを呑み」、「ちらしを汲み」などあるは皆散茶のことなり、其風呂屋の茶汲女が吉原に追込められて散茶女郎と呼ばれしなりと『嬉遊笑覧』にあり
此散茶女郎は宝暦の頃より、昼夜の揚代三分なりし故、「昼三」と呼ばれ、後には「散茶」の名廃れて「昼三」これに代れり、『古今吉原大全』にも「さんちや-いはゆる今の(明和五年)昼三の事なり」とあり
但し天明寛政の頃にも吉原細見には「散茶」の名残れり

三八(さんぱち)
『色道大鏡』に「大夫と天神との間の職なり、此名目、当時(延宝)は断絶す、五三、三八、天神、囲とて、皆一日の遊料の数をたとへて名とせり」とあり、京島原にての称なり、五三は五十三匁、天神は二十五匁、囲は十六匁の揚代にて、「三八」は三十八匁なりし故の名なり

三寸局(さんずんつぼね)
切見世の「局女郎」、一夜を三つに仕切り、其一切の揚代三匁なりしを云へり、布帛の切売に擬せし語なり、『傾城色三味線』に「それから五寸三寸、新町河岸の柿の暖簾」とある三寸は、此三寸局を云へるなり、尚「切見世」及び「局女郎」の項を見よ

座敷持(ざしきもち)
明和後、江戸吉原にて第四位の遊女「梅茶女郎」を云へり、揚代は昼夜二分、夜ばかり一分、其半額なるもありし、「座敷持」とは共同用の座敷にあらずして、独占の室ありしを云ふなり、川柳「座敷持何か書物も一部見え」、「座敷持琴はあゝして置くばかり」

猿(さる)
足利時代の末頃より徳川時代の初期まで、都会の風呂屋にありて流行を極めし売淫婦たる湯女を云ふ、貞享三年の京版『好色訓蒙図蒙』に「湯娜、風呂屋物、猿」と題して、湯女が浴場にて客の髪をかく図あり、『洞房語園』には「寛永十三年の頃より江戸町中に風呂屋といふもの発興して遊女を抱へ置き、昼夜の商売をしたり、是よりして吉原衰微しける也、吉原を贔屓にする人は、風呂屋女に仇名つけて猿といひける也、垢をかくといふ心か」とあり、遊女の真似といへる義にはあらざるべし、古図は「垢かき女」の項に入る、尚「髪洗女」、「風呂屋者」、「呂衆」などの項を見るべし

提重(さげぢゆう)
明和安永の頃、江戸にて私娼の一種を云へり、餅又は饅頭などを重箱に入れて提げ歩き、其行商を表向きとして、寺院又は独身者の家にて淫を売りし故の名なり、その頃の川柳に「提重は胡粉下地のように塗り」、「提重は坊主殺しの毛饅頭」などいへる句あり
安永三年の『里の小手巻評』に私娼の異名を列記せる中、「近年提籃(さげぢゆう)と称するは、持ちはこびの手軽きよりいひはじめ」とあり、異説とすべし
『川柳吉原志』に「提重」を吉原ケンドン女郎の異名とせるは誤なるべし、『蜘蛛の糸巻』にも「隠し売女」の項に「提重、切売女と号して色を売る」と見え、『守貞漫稿』にも「提重箱に食物を納れ売あるきて売色せしなり」と見え、『けんどん争ひ』にも「けんどん提重といへるは、巻飩の事なり、後世、隠売女に提重と唱へる者あるも、其名目けんどん提重より起りて、売女の持出し出前を旨とするより名付けし也」とあるを以て証とすべし、但し「持出し出前」といへるは、餅菓子饅頭などの行商にあらずして、蕎麦屋の出前持を兼ねし女を云へるが如し、いかゞか

早歌(さうか)
「京都にて早歌といふは江戸の夜鷹なり、貞柳が狂歌、親のため夫のための辻君を、さてはサウカといふ人もなし」と『俚言集覧』にあり、『好色伊勢物語』には「近頃惣嫁といふ名、人また呼ぶ、此女口早に小唄歌ひて男を呼ぶを世すがとす、早歌と書くとぞ」とあり、此私娼としての「早歌」の語字は「総嫁」の語字よりも古きか否かは未詳なり、『安斎随筆』には「早歌と書きてハヤウタとよむは上古のうたひ物なり、サウカと書くは中古地下のうたひものなり」とあるのみ、『北窓瑣談』巻三、御神楽の次第中に「早歌」ありて薦枕、得銭子などいへるに列せり
按ずるに、私娼はハヤウタをうたひし故に「早歌」の異名生じ、其「さうか」を後に「総嫁」と書くに至りしならん、其理屈は、「総嫁」或は「惣嫁」「孀嫁」、「想嫁」、等は皆熟語にあらず、後人が「そーか」の成語に塡充せし語字と見るの外なく、加之、「よいしよこら」の俗謡をうたふ女なりとて三河に「やしやこら」といへる私娼の異名生じ、都々逸をうたう女なりとて飛騨に「どつ」といへる私娼の異名起りし例もあれば、「そうか」は「さうか」の早歌が起原なるべしと思ふなり

さぼし
甲斐及び信濃の諏訪地方、駿河の北部等にて私娼を云ふ、古語に「籬にさぼす花」といへるあり、夕顔をさらす女との義ならんか、簀の上にさらせし干魚をさぼし魚と称すと花月子の報告に見ゆ、「恥さらし」の義なりと甲州人は云へりと且力子よりの報告にありたり、茶汲女の義として「茶盆子」と書くは近世新聞記者の洒落なりと云ふ。

さんやれ
紀州にて私娼を云ふと聞けり、何地の方言なるやは知らず、語原は「何か唄の文句から出たやうですね」と中尾子は云ひ、「サー早くの義か」と仰天子の想像説などあるのみなり、いづれか当たれるなるべし

里船屋(さとぶねや)
神戸にて私娼を云ふ、語義は多淫女を「辻便所」又は「共同便所」、「小便たご」など称するが如く、里船屋(糞尿取)とは、誰彼なしの排泄物を受入るとの義なるべし

笊蕎麦(ざるそば)
武蔵の八王子、青梅、相模、伊豆、下野の二三地方に於ける私娼の異名なり、語義には二三の説あれども、臆説のみにて採るに足るもの無し

さんころ(三転)
美濃の岐阜にて売淫芸妓を云ふ、近年の新語なり、同地の新聞紙上にも「三ころ芸妓何某」など記せり、三円の枕金にてころぶとの義なりと云ふ

さんくわなー 『沖縄語典』に「隠し売女-ふえずらー、さんぐわなー」とあり、「ふえずらー」は非尾類(私娼)の義(「ずり」の項を見よ)、「さんぐわなー」は語義未詳



   【し】

白拍子(しらべうし)
平安朝時代の永久年間に起りし舞妓の名称にて、其舞妓は売淫を兼業とせし者なり、此「白拍子」といへるは、釈信西(藤原通憲)の創意作曲にて、之を舞妓磯の禅師に教へて舞はしめ、磯の禅師、これを島の千歳、和歌の前に伝へしなり、祇王、祇女、仏、静、千寿、亀菊等は皆亜流にて其名高く聞こゆ、「白拍子」の称は、立烏帽子に白の水干を着せし故の名なりとする説と、外に合はせるものなくて舞ふ素拍子の義ならんとの説あり

白女(しろめ)
「しろめといふは遊女の総名なり、形うるはしく総身白きが故にかくいふ」と『恋の栞』にあり
中島広足の著『白女考』には、遊女たりし大江丹後守玉淵の娘白女が、宇多天皇の寵を得て有名に成りしがため、後の遊女に「白女」と名乗る者多く出で、世々に同名の遊女ありしなりと説けり、然し「白女」といふは、初めは個人の名なれども、「白女」の続出にて「白女」を遊女の代名詞に使ひし時代もありしなるべし

上郎(じやうらう)
寛永頃より元禄頃までの間、吉原にて上妓を云ひ、又一般遊女の総称にも使へり、『色音論』元吉原の条に「しづが心もよし原に、二八ばかりの上ろうの、肌には白き薄小袖」など上ろうと書けり、又寛文六年の『吉原袖かゞみ』にも「奇麗なるもの、上ろうの茶壺(陰)」とあり、万治三年の『高屛風くだ物語』には、「わか山様とて、さしも品高く、上郎などとは誠に此君をいはんか」、延宝三年の『吉原大雑書』には「三浦屋の上郎御の字薄雲」とあり、いづれも上妓を云へり
又寛永十九年の『あづま物語』には「あれを通らせたまふはたゆう、これなるはかうしの君、さて又はしの上らうなり」とあり、延宝八年の『吉原評判』には「かうし上郎、はし上郎」と記し、貞享三年の『好色伊勢物語』には総ての遊女を「上良」と書けり
天和三年の『島原大和暦』には全巻遊女を悉く「上郎」と書けり、京にても吉原同様なりしを知るべし
「上ろう」は、最初「上臈」の義なりしを、郎の字に書き、後には「女郎」に変りしなり
享和元年、吉田重房の『筑紫紀行』長門下ノ関の条に「此あたりの遊女は、かの平家没落の後に、官女達の落ぶれて、此業をしたりける故に、今も女郎とは書かずして上臈衆といふといへり」とあり、単に下ノ関の遊女ばかりに非ず、今より四五百年前には下等遊女をも「上臈」と云ひしなり、「女郎」の項を見よ

新造(しんざう)(新艘)
寛文頃より三都の遊廓にて第四五流の遊女を云へり(但し京阪にては「新艘」と書けり)、禿上りの妓、又は初めて入廓せし見習中の遊女、大夫付の妹女郎を云ふ、吉原にては番頭新造、振袖新造、引込新造などいへるもあり、其後其名称廃れたり(明治初年以来、吉原に「新造」の呼称復活せしも、そは娼妓に非ず、娼妓付添の女中なり)
『色道大鏡』には「新艘-禿なるも禿ならざるも、傾城と成りて初めて出世したる砌をいふ、船を新らしく造りたる詞より出たり」とあり、又或書に「備後鞆の津等の海浜にて振袖を着たる遊女を新艘と云ふ、元同地方の遊女は新造の船に乗りて客を取りし故に名づく」とあるは、後に出来し「引舟」等の上方語に付会せし説なり、『貞丈雑記』に「人の妻を御新造といふ事、婚礼の前に其妻の居所を新らしく造りたる故なり」とある如く、新妻に擬せし新造なるべし、『客衆胆膽鏡』には「雛妓(しんぞう)」と書けり
寛文前には遊女の名称に非ずして、単に若き女、ツキダシの義に使用せり、其証拠は『あづま物語』寛永二十年の追補に、十五六歳の大夫十六名を挙げ「この十六人はたゆふ、たゞししんぞう也」とあることなり

宿場女郎(しゆくばぢよらう)
各道中の宿駅にありし遊女を云へり、江戸にては品川、新宿、千住、板橋を四宿と称し、各娼家の妓を「宿場女郎」と呼べり、『守貞漫稿』に「東海道五十三駅にて、官許の妓院あるは駿府の弥勒町のみ、其他は飯盛女なり、五十三駅の内、売女なきは草津、石部、水口、坂下なり」とあり、天保頃の事なるべし

しのび妻(しのびづま)
此語は「隠し妻」と同義にて、公然ならざる情婦又は囲妾を云ふなれども、昔は之を遊女の異称にも云ひしか、例の『恋の栞』には「売色」の中に加へて「一夜妻、しのび妻、たはれめ」と列記せり

仕懸比丘尼(しかけびくに)
貞享の京版、『好色貝合』中の一項にあり、其頃京都にて行はれし売淫婦の一種なり、年若き女が円頂黒衣の尼姿にて、奉加帳など持廻り、女気なき独身男の家に行き、色仕懸にて淫を売りしなり、「歌比丘尼」、「丸女」等の類

襦子鬢(しゆすびん)
江戸にて売淫比丘尼の一種を云へり、寛文頃の土手節に「今日はどこやら物さびし、綿つみを呼びにやらうか、しゆすびイんを招かうか、ずんとゆかしきものがある」といへる唄あり、又「しゆツぴん」とも訛れり、襦子の頭巾を被りて円頂を隠せしなるが、其襦子の端を鬢と見倣しての名称なりと云ふ

しやんす
筑後の久留米にて私娼を「シヤンス」と称すと聞けり、長崎にては色事を「相思」の清音にてシヤンスと云ふ由、又文化七年の『鄙通辞』に「陰門(おしやんす)」とあり、これに因める語なるか否か、或は邦俗の買はしやんす、寝やしやんすのしやんすなるか否か

芝姫(しばひめ)
京都にて立君、辻君の別名なり、芝生の上に転ぶ姫との義なり(関西にては遊女を姫と呼ぶ)、此外に「橋姫」といひ、「盆姫」といへる異名もあり

白湯文字(しろゆもじ)
京都、大阪、筑前、伊勢、能登等にて私娼を云ふ、天保頃より行はれし語にして、現に唱ふる地方もあり、「白湯文字」とは白地の腰巻を着せる故に名とす、「湯文字」とは女詞にて「湯巻」の略、公娼は総て赤湯巻なり
『駅路の鈴口』に「京ぽんと町、こゝの女を白湯文字といふ」とあり、又『皇都午睡』大阪私娼の条に「浜側には辻君あり、市中には白湯文字とて隠し売女あり」と見ゆ、曾て見し『伊勢古市細見』には「素妹子」と書きてしろゆもじとの傍訓ありたり
『民族と歴史』に掲出せる『高安澄信翁筆記』に白湯文字の狂歌あり「白幕は弓矢鉄砲とほらねど、抜身で通ふじんばりの武士」

白首(しらくび)
江尸時代の末期、明治の初年頃より東京にて私娼たる矢場女、銘酒屋女、茶屋女、夜鷹等を云ふ、又京都及び大阪にては専ら辻君を云へり、白粉を首に濃く塗り付ける故の異名なり

白鬼(しろおに)
「白首」に同じ、私娼を「地獄」と称するに因みて「鬼」と見立て、顔及び首に白粉を濃く塗れるによりて「白鬼」と云へるなり、「しらおぎ」と訛る地方もあり

鹿(しか)
渡島松前の馬門にて船夫相手の水上売春婦を云ふ、語原は「鹿といへる獣は好んで潮を呑みに下る故それに倣へり」と『西蝦夷日誌』にあり

釈伽(しやか)
娼婦を「釈伽」と称すること講談本などにありと聞けり、語義は不詳なり、或は衆人済度、即ち色餓鬼に肉欲を満足せしむる活仏との比喩語ならんか

絞り(しぼり)
『越後の婦人』私娼異名中に「絞りとは白根」とあり、絞りの衣服を着せし女の多かりしより起これる名称か、或は金を絞り取る女との義ならんか

しゝ(獅子)
加賀の山中温泉、山代温泉にて湯女と云ふ、山中節の唄に「鉄砲かついで来た山中で、しゝも撃たずに帰るのか」といへるあり、鉄砲とは男陰の事なり、同「加賀の山中おそろしとこよ、夜の夜中にしゝが出る」、又山代節にも「薬師山から湯茶屋を見れば、しゝが髪結て身をやつす」といへるあり、此語原は猪鹿にあらず、「獅子」なり、
永田残月子の報告に曰く、「凡て客の招きに応じて各旅舎に来りし者、昔其往復の途中、俗にいふ一反風呂敷の浅黄地をカツギの代りに頭より被りしことが、恰も獅子舞の姿に似たりとて獅子と異名せしなり」
湯女見習中の少女を「小獅子」と称す

しやら(洒落)
『洞房語園』に「越前の三国あたりにては、遊女の別名をしやらといふ、又人の女房娘などの、遊女の風俗に似たるを見ては、しやらくさいといふ由、たとへば、坊主を坊主臭いなど云ふに同じ」とあり、「しやら」は「おしやらく」の略にて洒落の義なるべし、同項を見よ
『里の小手巻評』に私娼異名として「丹後にしやらかう」とあり、「しやら」の延なるべし


十文(じふもん)
元禄の頃、江戸にて最下等の夜鷹を「十文」と呼べり、銭十文にて買ひ得し故の名なり、京阪にても又安価の総嫁を「十文」と云へり、近刊の『性の研究』所載、『夜鷹考』に曰く「近松の作品には十文色といわれてゐる、十文といふのは、其価から出た言葉で、好色一代男に、上中下なしに十文に極め、と見え、当世娘容気にも、往来の袖をひかへて十文づゝに情の切売、とあり、忠臣講釈にも、行装と所体は黒白の、雪に上着の黒木綿、顔は殊更十文の、惣嫁に惜き容色なり、とある」

十銭(じつせん)
明治二三十年の頃、大阪にて最下等の総嫁を「十銭」と云へり、代償金十銭の安価なりし故に名とす
其頃、伊勢にては下等私娼を「十銭口」と云へり、「口」とは品類の義なるべし、或は十銭にて買い得べき陰口との義ならんか

自然生(じねんじやう)
相模の戸塚地方にて屋外の売淫婦を云ふ、語原は同地方にて、男女の野合を自然生掘りと称するに起りしなり、自然生とは山薯のこと、男女が近傍の山へ「自然生を掘りに行く」と云ひて野合せし事が隠語に成り、後には誰彼の別なく、多くの男に接して自然生掘りをする女との義にて、私娼の異名に変りしなりと聞く

しやく(杓)
『俚言集覧』に「奥羽二邦にて賤妓を杓子といふ、又杓とばかりもいふ、又ヒシヤクともいふ、又飯盛ともいふ、飯杓子を取るによりて名づくといへり、〔好色一代男〕越後出雲崎の遊女の事をいふ所に、上方のハスバ女とおぼしき者十四五人も居間に見えわたりて云々、異名を所言葉にてシヤクといへり、人の心をクムといふ事かといふ、こゝの人に問へども子細は知らず」とあり、『物類称呼』には「越後にてしやくといふ、すこしの流れをくむといふ心なり」とあり、「しやく」は「杓」にて汲むの義なるべし、『風俗文選』所載、木導の「出女説」にも「国々の名目当世の洒落、柄杓、干瓢、白人、巾着の類、大むね一種より出で、位階の高下は金銀の相当なるべし」とあり、

杓子(しやくし) 前項を見よ、文化の川柳に「みやげにもならぬ杓子を旅で買ひ」といへるあり、私娼飯盛女の事なり、又弘化二年の江戸版、俳風五文字『紙鉄砲』といへるに「是も縁、杓子顔の娘が飯盛に売れ」、「おしのつよい、下地のわるい杓子を塗上げ」といふ冠付あり、単に杓子顔の女といふ義のみにあらずして、私娼の「杓子」といふ異名にかけし句なるべし

素人(しらうと)
『越後の婦人』に私娼異名として「しらうととは小千谷」とあり、「くらうと」即ち本娼にあらずとの義なるべし



   【す】

尾類(ずり)
琉球にて遊女を云ふ、犬猫牛馬等、有尾動物の類、即ち破倫者との義なり、同地にて遊女屋を「ずイりぬやー」といふも、亡八館と呼ぶに同じく、「ずり屋」の義なり、又隠し売女を「ふえずらー」といふも、非尾類、即ち私娼の義なるべし、那覇の娼妓は今も蛇皮線を弾きて座興を添ふといふ

居物(すゑもの)
『好色一代男』に「すゑ物は其内へ客をとり込み、外の出合に行かず」とあり、居物とは居坐り物の義にて、外出せざる私娼を云ふなり
『俚言集覧』に「妾をのみ愛して本妻にかまはぬを居物にするなど云」とあり、此すゑものは据置物にて、本妻をいふなり、腰をすゑて落つき居る物といふ私娼とは其義異れり

坐り夜鷹(すわりよたか)
『天言筆記』に「弘化二年十月二日、深川にすはり夜鷹と称し、切見世出し候得共、是も早速取払に相成」とあり、普通の夜鷹の如く、外出して立つて客を引かず、家に坐して客を迎ふる夜鷹といへる義なり

擂鉢(すりばち)
私娼の略名として「丹後では擂鉢と云」と『高安翁筆記』にあり、男の擂木を使はせる擂鉢との義ならんと、花月子及び且力子より報ぜらる

すべた
上総の北部に於ける私娼の異名なり、『隠語輯覧』には、「すべた-娼妓、醜業婦」とあり、すべたは醜面の義なり、加賀大聖寺町にて「へちや」と云ふに同じか

すツぷ
『越後の婦人』に私娼の異名として「すツぷとは長岡」とあり、語義不詳、臆説も出ず



   【せ】

せんびり
伊豆の下田にて私娼を云へり、同地方の俚諺に「せんびり虫が取り付いたやう」といへるあり、其虫の如く、男の袖に縋りて放れずとの義なりと云ふ、「せんびり虫」とは「こがね虫」の類を云ふなるべし
安永三年の『里の小手巻評』にも「せんびり」の語出づ、されど今は廃れて唱ふる者稀なりと聞けり
或書に「伊豆の下田にてのせんびりといふ」とあり、「下田のせんびり」と書ける「の」の結合詞を、名詞の頭字と見し誤りなるべし

洗濯女(せんだくをんな)
『俚言集覧』に「相模浦賀の宿駅の抱へ女を洗濯女と云」とあり、鳥羽の走り金(把針兼)の如く、船夫に買はれて短期日の間、船に乗込み、洗濯針仕事をもせし故、此名称起りしならん
「把針」を「洗衣」と訓すと辞書にもあり



   【そ】

総右衛門(そうゑもん)
古き頃、京阪にて唱へし遊女の異名なり、『足薪翁記』に「辻君の事を江戸にて夜鷹といひ、上方にて総嫁又は総右衛門といふも、総は総嫁の一字を取り、右衛門は例の嘲り添へたる詞なり」とあれども、総右衛門とは初めは公娼たる遊女の異名にして辻君を総右衛門と云ひしにはあらざるべし、明暦元年の京島原遊女評判記『桃源集』に「上代有傾城傾国白拍子之名、中古有大夫天神加古伊之称、近世有佐宇宇衛毛武之号、」とあり、私娼賤妓にあらざること明なり
但し総右衛門が後に辻君の異名に変りしや否やは未詳なり、「早歌」の総嫁といへる名称も初めは遊女の異名なりしに、いつしか私娼に変りしものならんと思へる事もあり(日本擬人名辞書)
其後、同書『桃源集』の別項を見しに、梅の位の遊女初島の評中に「顔も様子もよしとは定め難し、風は惣右衛門の如し」とあり、ヤハリ足薪翁種彦の説を可とすべきか

総嫁(そうか)
京阪地方にて夜発を云へり、『艶道通鑑』に「雲屋根葺ける惣嫁まで、恋の切売、情の夜市」といへる文句あり、「総嫁」或は「惣嫁」と書くは、孀嫁、想嫁、蒼嫁などに同じく、いづれも皆後人の充て字なり、起原「早歌」なるべし(早歌の項を見よ)、「あれは売女だ、ウヽそうか」とは坐興の落語なり、之を語原と云ふは滑稽に過ぎず、京阪の古書には「惣州」、「総嫁」、「想与女」とも書けり、讃岐にては「総嫁ぶろ」と称す、ぶろは輩なり、『足薪翁記』に上方語「ついころびそうか」とあるは戯語なるべし
総嫁の風俗記事、宝暦の大阪版『好色節用集』にあり「かの葛城の神ならで、暮を待て出かける惣嫁といへる女あり、浜納屋の間、野はづれ、河原等を揚屋として客を受け、帯解くと其まゝ(中略)いやな虫を下さるゝはうるさし、紺の布子にねずみ帯、顔白々と塗りて、跛あり、眇あり、親を養ふ娘あり、独住の後家、夫持ちたる女房などいろいろあり、成人の子二三人もある嬶が、暮前から大振袖着て、出かける有様、雨風をいとはず、是をせずとも、口は養はれそうなものと思へども、悪性とのらとは是非もなし、行きくれて材木の間を宿とせば、……や今宵のあるじならまし」とあり
又『守貞漫稿』に曰く、「孀嫁-京は鴨川橋辺の川原に小屋を造りて莚を敷き、戸口に立て客を待つ、大阪は更に小屋を製せず、諸川岸土蔵の間、或は材木の間に彳みて客を待つ、敷物は草莚を用ひ、又外見を覆ふには草莚に竹を挟みて二枚屛風としたるを用ひ、又は雨傘を用ふ、大阪の孀嫁一交三十二文を定制とす、江戸の如く定制より多く与ふる甚だ稀なりと聞けり、或は客乞て帯を解かしめる者など百文も与ふと云へり」
川柳に「京は君、嫁は大阪、江戸は鷹」といへる句あり、これは江戸の流行唄たりし「京で辻君、大阪で総嫁、江戸の夜鷹は吉田町」といへるを詠みしなれども「辻君」の項に記せる如く、京にては辻君と云はず、大阪と同様、古今ともに「総嫁」と云ふなり

総衆(そうしゆう)(惣州)
「総嫁」を云ふ、「総嫁衆」の略なり、「お山」を「山しう」、「風呂屋女」を「呂しう」、「百蔵」を「百しう」と呼びしが如く、「しう」は元禄頃の流行語なり
「惣州」と書きしもあれど、者共の義にして「総衆」と書くが正当なるべし

そぶつ(麁物)
『物類称呼』に私娼の異名として「近江にてそぶつといふ」とあり、『俚言集覧』に「そうぶつ-彦根辺にて娼妓をいふ」とあり、『守貞漫稿』には「彦根にて麁物といふ、密売女なり」とあり、「端女郎」を「麁女」といひし如く、そまつのしろ物といふ義なるべし

それしや
芸妓娼妓、密売婦等を指せる代名詞なり、「それしやとは誰が目にも見える」とか「あれはそれしやらしい」とか云ふ、此「それしや」とは「其者」にて、其道の者の義なり、「某は例の一件を何する者」といへるが如く、言明せざる代名詞にて隠語に均し
又芸妓か娼妓か妾か酌婦か、いづれ色商売の者ならんと云ふ場合に「何か者」といへるも此語に同じ

底たゝき(そこたたき)
宝永七年の『寛濶平家物語』に遊女の異名として「板橋の底たゝき」とあり、財布の底をたゝくまで、絞り取る女との義なるべし
『木曾街道図絵』には「板橋の遊び女」と題し、居続客の宿酔を看護せる体にて冷水を注ぎつゝあり、「底たゝき」の風情察すべきか、又『天言筆記』には「色里十八ヶ所順礼詠歌」の第十七番として「板橋山中仙堂、本尊飯盛杓子如来、御初穂五十文」と記し「板橋で痛い目にあふ吝ン坊、臍くり金を出し金にして」とあり



   【た】

たわやめ(手弱女、嫋女)
『色道大鏡』名目鈔「遊女」の項に「これをたはれめともたをやめとも、一夜妻ともいふ」とあり、『好色訓蒙図彙』にも「手弱女、流の女、いづれも遊女の惣名なり」とあり、『万葉集辞典』に「たわやめ(嫋女)たわに体言語尾やのついた形容詞に女をつけたもの、なよなよした女」とあり、一茶の俳句「手弱女の側へすり寄る毛虫かな」、普通には遊女のみにあらず、総て優美柔弱の若き女を云ふ

たわれめ(戯女、淫女)
うかれめ、遊び女に同じ、たはれはたはむる、ざれるの義にあらず、男女礼なくして交るをたはれと云ふとて、「淫女」と書きて「たはれめ」と訓せるもあり
六百番歌合に、兼宗朝臣の歌
「波の上にうかれてすぐるたはれめもたのむ人にはたのまれぬかは」
といへるがありと、二三の古書に見ゆ

大夫(たゆふ)
京島原、大阪新町、江戸吉原にて遊女の最上位を云ふ、島原の名妓『吉野伝』に「傾城の上首を太夫といへるは、元和の頃よりの称なり」とあり、此名称は大夫を松の位といへると共に、秦皇封松の故事より出でしなりとする説は非なり、『洞房語園』に「太夫-これ芸の上の名なり、慶長年中まで、遊女ども乱舞仕舞を習ひ、一年に二三度づゝ、四条河原に芝居を構へ、能太夫舞太夫皆傾城ども勤めしなり、尤も大人歴々の御方も御見物あり、種々の余情花麗なる事ども多かりしとなり、さるによりて、今日の太夫は誰家の何といふ太夫が勤るなどと云ひしより、おのづからよき遊女どもの総名となりけるよし」とあるを是とすべし、此大夫を秦皇の故事に因みて松の位と称せしは後の事なり
寛永十九年の『あづま物語』に「形かたの如く、今様をうたひ朗詠し、扇おつとり一節しほらしく舞ふたるを大夫と名づく、少し品劣れるを格子と名づけ、はしといふ」とあり、寛文七年の『讃嘲記時之太鼓』にも「始めより奇麗にしてすぐるゝ者は上つて大夫と成り、劣れるは下つてはしとなる、中央は格子たり、もし其姿衰ふる時は、大夫たりといへども其位を得ず」とあり、吉原にては此時頃まで、妓品は大夫、格子、端の三級たりしなり、右の『あづま物語』には、当時吉原の遊女総数九百八十七人と記して、其中大夫は七十五人、格子は三十一人とあり、元禄二年の統計表を見るに、遊女総数二千七百七十八入の内、大夫は三人、格子は五十七人とあり
「大夫おろし」といへる語あり、大夫の位にありし者が次位(天神又は格子)に成下りし遊女を云ふ
長谷川城山の『芳原竹枝』に「簪如松葉挿青瑜、衣似桃花箝赤珠、古来一種頭銜在、盛装尚能呼大夫」の一詩あり、古式の此風装は明治二十年頃まで二三の青楼に存したりし
但し島原と新町には今尚古風の大夫継続せり

太鼓女郎(たいこぢよらう)
幇間女郎又は牽頭女郎とも書けり、京の島原、大阪の新町にありし特種の遊女、揚屋に呼ばれて坐興を助けし芸娼兼業の者を云ふ、享保の頃、廓内に専業の芸妓出来しため此「太鼓女郎」は廃れたり
『守貞漫稿』に曰く「芸子江戸にていふ芸者なり、昔は芸子なし、遊女三絃を弾く、其後未熟の遊女あり、或は尊大を極めて自ら之を弾かず、一目千本に曰く、大夫天神自ら三絃をひかざる故に、幇間女郎を呼ぶなり、澪標にいはく、たいこ女郎といへる者は、揚茶屋へ呼ばれて座敷の興を催すための者なり、琴三絃胡弓は云ふもさらなり、昔は女舞も勤めし者なり云々」、「たいこ」の語原には二三の説あり、茲には省く

立君(たちぎみ)
路傍に立ちて客を引く総嫁の古名なり、室町時代頃よりの名称なり、古歌に「宵の間はえりあまさるゝ立君の、五条わたりの月ひとり見る」といへるあり、『七十一番職人尽歌合』にも立君の絵詞見ゆ、『絵本世吉の物競』には「立君や雪が粧ふ枯柳」といへる題画の俳句あり、『見た京物語』に「京の立君、声をたてゝ呼ぶなし、皆鼠啼なり」とあるなど雑書に散見す

たち(立)
大阪にて屋外売淫婦の一種を云ふ、立君の「立」にあらず、立淫売の略にて、草蓆をも用ゐざる手軽の者なり、警官などの唱ふる語

竹釘(たけくぎ)
元禄宝永の頃、江戸にて流行せし売淫比丘尼の異名なり、円頂にて髪なきを竹釘のあたまなしに比喩せし語なり、宝永版の『傾城風流杉盃』比丘尼の条に「これを竹くぎ、丸太なんど異名をつけ」とあり

たぼ(髱)
信濃の追分宿にて飯盛女郎を云ふ、『金草鞋』追分の条に宿屋女自身が「此たぼがお相手いたしませう」、大笹の条には「ゆふべ追分でたぼをよんで大もて」とあり
女が髪を結ふに、後方頸部の上へ髪を撓めて張出す所を「髱」と云ふなるが、江戸時代の中期後、女を総称して、「たぼ」と呼び、酒席には妓女酌婦なかる可らずとして、「酒はたぼ」などいふ語行はれたり、此「たぼ」が私娼の異名に転ぜしなるべし

章魚(たこ)
「紀州熊野浦、黒潮のブツ突かる潮ノ岬に大島といふがある、潮ノ岬は潮流が極めて早く、漁船は八挺櫓とか十挺櫓とかでなくば乗り切れない、それで少し荒れると、和船の航行はピタツと止まつて了ふ、大島は其碇泊所であるが、昔から章魚といわれる私娼が居る、美醜は兎も角、その能く吸ひ付く所に、南国の気分がよく現はれて居る」無名子寄
陸中南部にて私娼を「生章魚」といふに類せり

達磨(だるま)
武蔵の過半、上野、下野、駿河、越後の村上、北海道の二三地方などにて私娼を云ふ、土偶の達磨の如く容易に転ぶとの義なり、狂句「友禅を着た達磨あり田舎茶屋」、「腰抜の客は達磨にまでふられ」、「達磨に浮かれ赤毛布足を出し」などいへる駄句多し、此語古き雑書には見えず、江戸末期以来の語なるべし

太鼓の胴(たいこのどう)
加賀の山代温泉場にて唱ふる売淫湯女の異名なり、同地方の俗謡に「しゝの十六、山中の名物、山代太鼓の胴で鳴り渡る」といへるあり、古き時代よりの称にて語原は不詳なり

打巴鼓(たばこ)
「上品を装ふ淫売、高等淫売を打巴鼓といふ」と『日本類語大辞典』にあり、巴鼓を打つ歌女といふ支那俗語の伝来なるべし

団子(だんご)
出雲及び因幡にて公娼私娼を云ふ、徳川時代の中期頃より始まりし語にて今尚行はる、団子の如く能く転ぶとの義なり、桂園子の『出雲なまり』にも「ダンゴ-娼妓、酌婦、転ぶの意」とあり
服部仰天子の報告には「大和の上市下市、三備の山奥などにて団子といふ」とあり、又『隠語輯覧』には「団子-密淫売婦又は曖昧料理屋の酌婦」とあり

だんまり
偸盗社会の者及び神戸の不良団員等が唱ふる私娼の異名なり、語義は暗黙の間に事を弁じ得るを云ふ

大正芸妓(たいしやうげいぎ)
大正三四年の頃、東京日本橋浜町辺にて全盛を極めたる売淫婦の異名なり、何等の芸なき者が、芸妓稼ぎとしての鑑札を受け、其実売淫を専業とせしなり
大阪の南地新世界にも同名同義の者ありと佐々木卍楼主人より報告ありたり



   【ち】

女郎(ぢよらう)
うかれめ、さぶるこ、たはれめ等の和語廃れて、傾城の漢語行はれ、徳川時代の初期頃其傾城を「女郎」と呼ぶに至りしなり、「女郎」は貴族の婦女を、「上臈方」と云ひしに起り、最初は「上郎」と書きしが後に「女郎」に変りしなり(上郎の項を見よ)
今より四百余年前の『七十一番職人尽歌合』には「づし君」を、「上臈」と書けり、『安斎随筆』に「女郎-昔は娼妓を云ふにあらず、凡ての女を云ひしなり、又婦人を称して女郎と云ふは我国の俗語にあらず(漢語なり)」とあり、されば、西川祐信の『百人女郎品定』には、女帝より惣嫁に至る諸職業の婦人を列記しあるなり
「女郎」といふ名称付の娼妓には、散茶女郎、梅茶女郎、格子女郎、局女郎、端女郎、切見世女郎、太鼓女郎、御職女郎、宿場女郎、若衆女郎等、二三十の種類あり

女郎芸者(ぢよらうげいしや)
安永天明の頃、江戸深川の色町にて全盛を極めたる羽織芸者を、其頃深川土橋の茶屋にて「女郎芸者」と呼べり、表面は芸妓なれども、売淫を主とし、客ありて茶屋より招かるれば、直ちに寝具を持運ばせし程にて、吉原女郎に異ならざりし故の名称なり

昼三(ちうさん)
宝暦の頃より、昼夜の揚代金三分なりし吉原の散茶女郎を云へり、大夫に優る全盛を極めし女郎なり、此名称は幕末慶応の頃まで存続す、尚「散茶女郎」の項を見よ

茶女郎(ちやぢよらう)
散茶女郎、梅茶女郎を云へり、但し梅茶女郎は梅女郎とも略称されたり

茶汲女(ちやくみをんな)
『花街百人一首』に「遊女は諸国船がかりの大港又は旅人多き駅路、すべて長途の憂を慰むる為の備なり、物変り星移りて茶汲女、飯盛と、名はさまざまかはれども」云々とあり、『高安澄信翁筆記』には「茶汲-遊女の事、今京都の西壬生村に地蔵堂あり、其後ろに茶見世あり、客人床几にかけると女、前垂して茶を持出る、其女を買ふ也、此茶店は今のぼん茶屋なり、茶を汲みて出づる故に斯く名づく」とあり、然れども此処のみの称呼にはあらず、古く貞享の『好色旅日記』にも、祇園町に「茶汲女」といへる怪き女ありしことを記せり

茶立女(ちやたてをんな)
享保宝暦の頃、大阪島の内の売淫芸子を云へり、大夫職の上妓が客に抹茶を立てゝ供せし古風に倣ひし故の名称なるべし、嘉永の『皇都午睡』に「芸子の古名を茶立女と云ふ、廓中(大阪新町)にては、女郎の方上位にて、芸子はいはゞ座持也、島の内は芸子の方を買はやらせ、伯人は二段に下る」とあり(承応明暦の頃は京阪にて「能茶をく立てる女」といふことを猥褻語に使へり)
京都にても云ひしか、元禄の『女大名丹前能』藤森稲荷の条には「あれは此処の茶立女、望めば奥に伴ひ、花代が一分」云々とあり

茶屋女(ちややをんな)
何処にても、田舎の料理店の酌婦は売淫を本業とするが故に、「茶屋女」といへる名称を私娼の代名詞に使ふ地方も多し
飲食店にては、先づ客に茶を供するが故に、飲食店を茶屋と呼び、転じて売淫宿をも茶屋と称するなり

茶女(ちやをんな)
正徳五年の『艶道通鑑』に「白人、呂州、茶女、臭屋、間短、蹴倒、夜発まで、同じ習ひに移り行く」、「白人、呂州、茶女も、大形かはる化もなし、お定まりの習ひの化のみ」とあり、「茶汲女」の略なるべし

茶摘(ちやつみ)
『日本類語大辞典』に、淫売女の異名として「茶摘、徳川時代」と略記せり、「出女や昼過ぎまでは麦の秋」といへる俳句の如く、又往時大阪高津新地の売女が、昼は女祭文語りとして寄席に出でしといふが如く、薄化粧に手拭の頰冠り、手ツ甲に赤前垂の艶な姿にて茶摘に出でし女が、市間売色せしより起りし名称なるべし、そしてこれは山城宇治の里に近き地の方言ならん

地獄(じごく)(地極)
関東地方にて唱ふる私娼の異名なり、二百五六十年来の語なるべし、語原には異説多し、西鶴の『好色一代女』には「世間を忍ぶ暗物女、江戸にて地獄といひたるも、くらき義なり」とありて、地獄の如き暗き所の女と解せり
風来山人の『里の小手巻評』には「地獄とあだなせしは、其初の清左衛門となんいへる者、此事を企けるを、箱根の清左衛門地獄に基きて、仲間の者の合詞に、地獄地獄といひしより、今は其名と成りけらし」と見え、『了阿遺書』及び『麗遊』には「売淫をぢごくといふは地獄の義にあらず、地者の極上といふ義なり」とあり、『守貞漫稿』にも「俗に売女に非ざる者を地者、或は素人ともいふ、其地者が極密にて売色するが故に地極と方言す、獄極の音同じきが故に、今は通じて地獄といふ也」とあり、尚此外に一二の説あれども、暗物が語原の本義なるべし
明治の狂句「地獄にも観音様(虱)は這つて居る」
「ぢごく」を略して「ぢご」といふ地方もあり、又近世売淫俳優を「男地獄」と称せり

地馬(ぢば)
駿河にて私娼を云ふ、天明以来今尚行はる、地馬は旅馬に対する語にて土娼の義なり、『末摘花』に「我慢して歩き夜馬に乗る気なり」、同並百員中の付句に「夜馬の事は洩らす道の記」とあり、駅妓を馬に擬せしなり

地色(ぢいろ)
『越後の婦人』に私娼異名として「地色三朱とは柏崎」とあり、地色と三朱とは別語なるべし、「地色」は素人の義、「三朱」とは昔の玉代より出でし異名を今尚唱ふるならん

地代(ぢしろ)
岩代の会津地方にて現に唱ふる私娼の異名なり、地色、地女といふに同じく、此土地の代物といふ義なり

地蔵様(ぢざうさん)
紀伊の御坊町地方にて私娼を云ふ、「辻に立つて居るとの義か」と大阪の服部仰天子いへり

ちんころ
東北地方にて田舎茶屋の酌婦(私娼)を云ふ、「ちんころ」は小狗の義に非ず、犯罪人の隠語に、他人の妻を「ちんすけ」と云ひ、下等芸妓を「ちんふり」、若き娘を「ちんまい」と云ふなど、「ちん」を女の代名詞に用ゆ(語原不詳)、此「ちん」にて「ころ」は転ぶ、即ち「転ぶ女」の義なるべし

チヨンの間(ま)
遠江にて現に唱ふる私娼の異名なり、川柳に「ちよんのまはならぬ掟の緋の袴」、「ちよんのまは手拭を濡らして帰り」、「出世する下女ちよんの間へ召し出され」などいへる如く、普通には、早わざ、刹那の濡事を云ふなれども、私娼の異名としても又同じく、短時間に要領を得るものとの義なるべし
此「ちよんのま」の語、『枕文庫』には「早急の間」と書き、『誹諧通言』には「一寸の間」と書き、『辰巳婦言』には「チヨンの幕(ま)」と書けり、「チヨン」は日本語にあらざるが故に、斯く充字を書くなり
此「チヨン」は、予が『猥褻廃語辞彙』に記せるが如く、唐白行簡賦にある「当忿拠之一廻、勝安床之百度」の「忿(ツオン)」(急匆の義)の転訛なるべし

チヨンキナ
横浜にて私娼を云ふ、「チヨンキナ、チヨンキナ、チヨンチヨンキナキナ」といへる闘拳の俗謡を唄ふ女との義か、又はチヨイト来ナにて要領を得る女との義か

チヤラ
神戸にて私娼を云ふ、『俚言集覧』に「人を眩惑するを、チヤラクラといふ、チヤラとばかりもいふ」とあり、此チヤラの義か、「チヤラ」は日本語にあらず、チヤラテン、チヤラポコ、チヤランポランなど云ふ俗語に同じく、支那語のチヤルメラ(哨吶)の転訛なり
若し右の義にあらずとすれば、関東にて銭をチヤンコロと称せり、チヤンと音して落ち、コロコロと転ぶ故の名なり、今も銅貨銀貨を「チヤラ」と称する地方あり、私娼を古くは「十文」、「二十四文」、近くは「十銭」、「テンダラ」など呼びしに同く、チヤラ銭にて買得る女との義か

チヤブ
『隠語輯覧』に「ちやぶ-売春婦、東京横浜地方ニ於テ密売淫ノ媒介ヲナスノ疑ヒアル曖昧ノ飲食店ヲちやぶ屋卜称スルヨリ出ヅ」とあり
『西域探険日誌』に「食を南清音にて、チヤといふ、チヤバーとは食飯のことなり、チヤバーがチヤブと転じ、横浜あたりにチヤブ屋の名称起りしなり」とあり



   【つ】

づし君(づしぎみ)
足利時代の中頃、町の路次内に居りし遊君を云へる也、「づし」は図子にて小路、通次の義なりと云ひ、或は小路内の家居は、厨子棚の厨子に似たるが故に厨子と名づけたるならんとの説もあり
「づし君」は「つじ君」といふが正当にて、字を「辻子君」と書き、それが終に「辻君」と成りて「立君」と混同さるゝに至りしなりと云ふ、そは今より四百余年前の『七十一番職人尽歌合』に、立君、辻子君の二図ありて、立君は総嫁夜鷹に均しく、路頭に立ちて客を呼び、辻子君は切見世と云ひし局女郎に均しく、屋内に在りて客を呼び入れんとする絵様なるを証として云へるなり

辻君(つじぎみ)
往昔京都にて、街路の辻に立ちし遊君を云へるとして、江戸の流行唄に「京で辻君、大阪で総嫁、江戸の夜鷹は吉田町云々」といへるあり、されど京都にては「辻君」と云はず、総嫁と云へるよし『守貞漫稿』に記せり
此「辻君」は「辻子君(つじぎみ)」(厨子君、図子君)の訛伝にて「立君」の類を云ふに非ずとの説あり、前項を見よ
語原は「立君」の類にあらずとしても、後世には「立君」の別名と見しが故に、「辻君」を夜発としての俳句多し、「辻君の顔に師走の月日かな、柳居」、「辻君の袂に光る蛍かな、歌川」、「辻君の屯所に入るや冬の月、丁二」
又川柳に「辻君はあまだれ程な流れの身」といへるあり、江戸にても夜鷹を辻君の名にて詠みし狂歌多し、『天言筆記』に「馴染客あと見返りの柳原、露の情になびく辻君」「蛤もたこも中にはあり磯海の、浜の真砂の辻君の数」などいへるあり

局女郎(つぼねぢよらう)
吉原及び島原にて最下位の遊女を云へり、「端女郎」、「切見世女郎」、「長屋女郎」とも呼べり、「局」とは官女の居室の如く、一戸一人制とせし故の名なり、長屋を数戸に仕切り、一戸は間口四尺五寸乃至六尺にて奥行二間(奥は襖にて仕切り其襖を開けば抱主の居間なり)を普通とせり、其揚代三匁なりしを「三寸局」五匁なりしを「五寸局」と異名せり、此「局女郎」は、吉原にては元禄の頃廃止し天明の頃再興せしが、其後復絶えたり、但し岡場所には此称永く存せり、「局女郎」の図は「鉄砲」の項にあり
川柳に「吉原のお局只の人でなし」といふあり、又狂歌に「局見世百も承知の客人は、二百も合点お直しの床」といふあり、『狂歌倭人物』には局女郎の彩色図を載す

夫不定(つまさだめず)
寛文九年の『藻塩草』に「つまさだめず、遊女の事なり」とあり、朝に呉客を送り、夕に越郎を迎ふる故の名称なり
「つま」とは、後の世には「妻」のみを云ふといへども、近古までは「夫」をも「つま」と呼び、夫妻互ひの称呼たりしなり、古くは「妻」を「め」と云ひ、「夫」を「つま」と称し、遊女が客を「子夫」と呼びし時代もありしなり、此「つま」を「つれまつわる」の義とする説もあり

付回(つけまはし)
吉原にて散茶女郎、昼三の次位たる遊女を云へり、寛政五年の『吉原細見』には「さんちや」の次に「付まわし」三十目(銀二分)とあり、明和五年の『古今吉原大全』に「付廻しといふ事、近き世より始まりて、昼見世ひけても、行燈を出さゞれば、昼夜のぶん、火をともせば、片しまひとなるなり」とあり、夕方に登楼せし客にても、点火前なれば付廻して昼夜の揚代金二分を支払はしむる遊女の義ならん、早く行きて女郎の本部屋を占めんとせし競争客の弱点に乗ぜし規定なるべし、此制規の語を遊女の異称とせしこと奇怪なり

壺握(つぼにぎり)
遠江にて私娼を云ふ、酒の徳利を燗壺と称し、其燗壺握りの略にて「かんつ」と云ふに同じ、同項を見よ

唾付(つばつき)
『隠語輯覧』に「つばつき(唾付)娼妓、売春婦」とあり、多くの男の唾の付きたる女との義なるべし



   【て】

天神(てんじん)(転進)
京阪にて大夫の次位たる遊女を云ふ、吉原にて「格子」と云ひしと同等なり、『好色伊勢物語』に「昔、二十五匁に売りし故、天神(菅公)の縁日(二十五日)に評して斯くいふとぞ、一名むめ(梅)、これも神の木なれば、かくいふなるべし、一名はね(刎)てんじんとはぬる故とぞ」とあり、此「天神」に上下の品ありて「大天神」、「小天神」、「店天神」などの異称もありたり、又「大夫」を上職と云ひしに対して「天神」を「天職」と称せり
文化の頃より此「天神」を「まんた」と呼べり、神号を憚りての改名なりといふ、明治の新聞には「転進(まんた)」と書けり、転んで進めるとの充て字は、「天神」との同音に利かせしなり、尚「まんた」の項を見よ

出而姫(でゞひめ)
『守貞漫稿』に「京阪の俗は遊女の総名をおやまといふ、故に江戸の俗の女郎買といふをおやま買といふ、或は姫買ともいふ也、姫とは専ら遊女をさすといへども、又婦女の総名にもいふ也、特に遊女をさしてでゝ姫ともいふなり、出而姫なり」とあり、蝸牛をでゝ虫と称すと同義にて、窩中より出る姫との義なるべし

鉄砲(てつはう)
岡場所の切見世を「鉄砲見世」と称せり、其店の女郎を云ふ、鉄砲見世の解は、『守貞漫稿』に「房事一回なるが故に、こゝに行くを一つ放しに行くなど云ひしより鉄砲といふなり」とあり、予の『一癖随筆』に詳記せり
又天明寛政の頃、吉原にありし局女郎をも「鉄砲」と称せり、喜多川歌麿の錦絵に「北国五色墨」と題するものあり、其一に「てつほう」女郎の姿絵あり
川柳「鉄砲の疵年をへて鼻へぬけ」、「おきあがれ鉄砲玉まで廓訛り」、「いい玉で鉄砲見世はドンとあて」

手刻(てきざみ)
寛文頃より宝暦頃まで盛んに行はれし売淫比丘尼の異名なり、延宝八年の『囃物語』熊野比丘尼の条に「かれらがから名を手きざみと申すなりと云ふ、手きざみとは如何やうな義理だと問へば、油ひかずといふ事なり、総じて女は髪に油をつけて嗜み侍れど、かれは頭をまるめ侍る故、油を用ひず、さるによつて莨菪にたとへ候といふ」とある由、煙草を器械にて刻むには、油差を要すれども手庖丁にて手刻みにするには、油を付けずとの義に出づとの事、「竹釘」といふに同じ比喩語なり

手管(てくだ)
遠江及び相模の横須賀などにて私娼の異名なり、俗にいふ「手管者」の手管にて、冶郎を欺瞞する女との義なるべし

出女(でをんな)
道中駅舎の軒頭に立ちて行人を呼び迎へ、或は街路に出て旅客の袖を引き手を捕へて宿泊を強ゆる私娼を云ふ、「飯盛」、「おじやれ」、「柱負ひ」、「夜馬」、「足洗女」等の異名多し、『風俗文選』に木導の出女の説あり、「新しき竪縞に京染の帯結び、赤前垂を着け、塗下駄を引きずり、果は駕籠舁の妻となる」とあり、又同書の色欲箴に「出女は八ツ時を威勢の盛といふべし」とあり、一ヶ年期の勤めなりしにや、「出女も出替り顔や年の暮」といへる許六の句あり、尚『恋愛俳句集』には出女の句多し
「出女の七つ下りや更衣、魚波」、「出女や昼過ぎまでは麦の秋、吐月」、「出女の声の中飛ぶ燕かな、子規」
『風流志道軒伝』には「宿屋の出女」と訓せり、「出女」は出迎女の義、「おじやれ」は来れの義なること其項に云へり、此「出女」を「留め女」とも呼べり、宿泊せよと引留る女との義なり、『東海道中膝栗毛』に「おとまりはよい程ヶ谷ととめをんな、戸塚前ては放さゞりけり」の狂歌もあり

出女房(でにようぼ)
昔伊勢にて宿屋の私娼(飯盛女)を云へり、『物類称呼』に「京大阪の旅人宿の下女をはすばといふ(中略)勢州にて出女房といふ」とあり、此「女房」とは人妻の義に非ず、貴族の侍女を女房といいしに比して、旅客の前に出る侍女との義なるべし、「蓮葉」の私娼たる事は別項に記す

てしま 『俚言集覧』に「てしま-出羽鶴岡にて密売淫をいふ」とあり、羽前大山町の松山正中子よりの報告には「今此語を聞かず」と見ゆ、旧時行はれし名称とすれば、手縞織を着せし「麁物」の義ならん

てんれつ(転烈)
三河の碧海郡幡豆郡地方にて私娼を云ふ、岡崎市の松井菅甲子よりの報告には「此語明治初年頃より三河海岸部にて用ゆ、漢学者がコロブことハゲシの転烈と云ひしによるならん」とあり、又同市の稲垣豆人子よりも、同様の報告ありて「新聞紙上などにも私娼検挙の記事中に、毎時転烈或は転列と記し居れり、尚村の若者はれつを略して「てん」とのみも呼べり」とありたり、然るに同国西尾町鈴木狂石子よりは「去る明治三十五年頃、当国新川町の旗亭柳屋方に強酒家の酌婦あり、酔へば必ず、チツ、テンレツテンレツと口三味線にて手拍子を打ちながら唄ふの癖あり、加之、淫を売ること盛なりしが故、近傍の遊冶郎、彼女を綽号してテンレツと呼べり、これが起原にて終に一般の酌婦、徳利握りの異名とは成りしなり」との報告ありたり、察するに、チツ、テンレツが語原にて、それに後人が熟語ならぬ「転烈」の二字を充てはめしならん、其例「さぼし」の「茶盆子」に於けるが如き類と見るべし、尚古くは「さうか」に「総嫁」の字を充て、「けんどん」に「倹飩」の字を充てし例もあり

手たゝき 長門の下ノ関にて水上売淫婦を云へり、『里の小手巻評』に「下ノ関にて手拍とは、船を見かけて手をたゝくより号く」とあり、夜泊の船夫を顧客とし、招かるれば其船に杲移りて転ぶなり、鎌倉時代よりの遺風なりと云へり(「手拍子」と書けるもあり、誤なり)
『越後の婦人』には同国寺泊町にて売淫婦を「手たゝき」と称すとあり、寺泊町は『好色一代男』にも出でし遊女屋の在る地、浦浜海岸の勝景をひかへし良港、語義は下ノ関に同じか、或は吉田通れば二階から招くの類か

テンダラ(十銭銀貨)
明治の末頃、横浜にて劣等私娼を云へり、大阪にて「十銭」と称せしに同じく、英語にて「テンセンツ」と云ひ、後には十銭銀貨にて買得る女として「テンダラ」と呼びしなり



   【と】

十一六(といちろく)
並木五瓶の『誹諧通言』に「京祇園町-素人、十一六、鱗、本詰、中詰、若詰」とあり、妓品の種類による階級の名称なり、これ「十一六」とは十七歳にて襟替をせし妓女を云ふならんと木魚仙子の説なり

どらふね
上総の山武郡地方にて私娼を云ふ、「どら」は梵語より転ぜし蕩楽にて「ドラ息子」のドラに同じく、「ふね」は女性の代名詞たる「船」なるべし、要するに不身持女といへる義に出づるか、同地方にては淫婦をドウラク者と云へり、これも亦右の傍証とすべし

どんぶり
『越後の婦人』に私娼の異名として「どんぶりとは糸魚川」とあり、上田花月子の報告に「賤の小手巻に、更紗純子などにて大なる袋を作り、此袋へ何となく入れて懐中する人もありけり、之をどんぶりと号し、若き遊人俗客などは専ら用ゐたりとあり、今も職人などは腹掛の隠しをどんぶりと呼び、又財布をどんぶりと呼ぶ地方もあり、即ち何物をも入るゝといふ義ならん」とありたり

どんべき
能登の七尾地方にて私娼を云ふ、ドンベキとは同地の方言にて小便所をいふ(語原不詳)、それが私娼の異名に転ぜしなり、多情淫婦又は娼妓を「辻便所」或は「共同便所」と称するに同じく、誰にでもとの義なり
同地方の俗謡に「みさきやドンベキなら今いふて今じや三毛猫なら一思案」といへるあり、三崎の私娼ならは即座に要領を得れども、芸妓は一考の後ならでは諾否を決せずとの意なるべし

どうらん
『俚言集覧』に「どうらん-越中にて下等女郎をいふ」とあり、江戸の洒落語に、醜き肥大の遊女を罵りて「おいらんかどうらんか」いふがありたり、胴乱(袋)の如き短身肥肉の醜女多きによりての異名なるべし

伽(とぎ)やらう
駅路の宿屋に居し私娼を云へり、馬琴の『覊旅漫録』には「大阪にて船饅頭を伽やらうと云ふ」とあり、これは浜松歌国の『筆拍子』に「大阪安治川口、木津川の大船へ伽やらうと言て三味線弾て女を小舟に乗せ行をピンシヨと呼べり、江戸にて船饅頭といふ類」とあるに拠りしならん、此「伽やらうと言て」とあるは、私娼の異名としての語にあらずして、其呼声を云へるならん、然しいづれなりとするも、「伽やらう」は船饅頭の事のみにあらず、竹田出雲作の戯曲『大内裏大友真鳥』にも伽やらうの語ありて宿場女郎を云へり、語原は漢語の「土妓野合」なりしが、夜伽にやらうといふ義に転ぜしなりと聞く

どゝいつ
飛騨の高山町にて私娼を云へり、同地の福田夕咲子よりの報告には「当高山に於て二三十年前までは盛んに用ゐし由なれど、今は全く廃れて口にする者なし、語原は都々逸を唄ひし女といふ位な単純な事より出でしか」とあり

どつ どち 飛騨の古川町にて私娼を「どつ」と称す、高山町のとゞいつを略せしなりと或人より聞きしが、福田夕咲子よりは古川町にては「どち」と唱ふる由報告あり、尚近在の古き俚謡に「三枝(地名)蓆はとちが織る」と云へるあり、どちは此とちか否か不明との付記ありたり、濃飛地方の方言に肥り女を「どつ」と云へり、此通音の「どち」ならんか

トンネル(隧道)
明治の中頃より尾張及び三河にて私娼を云へり、モグリの義か暗室者の義なるべし、三河の稲垣豆人子よりの報には「淫売酌婦を単にトンネルと云ひ、不見転芸者をトンネル芸者又はトンネル拍子と云ふ」とありたり



   【な】

流の君(ながれのきみ)
遊行女婦たるうかれ女、うかれ君の転なり、「流れ女」又「流れの女」、「流れの遊君」、「川竹の流れの身」などとも云へり、水上売淫婦の義にはあらず、浮浪漂泊の女といへる義なり

流の女(ながれのをんな)
「流の君」に同じ、「流れめ」とも云へり、『藻塩草』に「ながれのをんな、是遊女の事なり」とあり
『越後の婦人』に私娼の異名として「流れとは瀬波」とあり、瀬波町は岩船郡なり、瀬波に因みて「流れ」と云ふか
下の図は失名の黄表紙本にありし比喩画なり

なびき
昔遊女を「なびき」と云へりと聞く、風に靡くの靡きにて何人の望みにも応ずる女との義なるべし、故事ありての「菜引」にはあらざるべし

長屋女郎(ながやぢよらう)
吉原に於ける「局女郎」の形式と名称廃れて「河岸女郎」に変じ、寛政の頃より其「河岸女郎」の名また廃れて此称起れり、明治十五年発行の『吉原新繁昌記』に曰く「娼妓を別けて上中下の三段とす、第一段に位する者、則ち花魁なる者にて玉価は金一円なり、第二段に位する者亦花魁と称すれども蓋し中等娼妓、玉価は金五十銭より同七十五銭までなり、第三段に位する者、則ち下等娼妓にて、長屋女郎亦此区域内にあり、玉価は一般に金三十銭とす」云々

生章魚(なまたこ)
陸中の南部にて私娼を云ふ、今は廃語か、紀伊の大島にて「章魚」と云ふと同義なるべし

七連(なゝつら)
北海道の釧路後志等にて私娼を云ふ、小樽の『北門新報』に「本道開拓の草創時代、称して「七連」と呼んだ、此名称の由つて来る処を尋ぬれば、鰊七連で一夜の春を売つたからださうな」とあり、鰊七連とは鰊を四五本並べて一連と称し、それを一二銭にて売れり、其七連分の代価十銭内外にて淫を売りしよりの異名なり

鍋(なべ)
播磨にて私娼を云ふ、上田花月子の報告に曰く、「古き川柳に「播磨屋のお鍋で尻が早いなり」、「播麿鍋相模女と一つ鍋」、「水性は相模、金性は播磨鍋」などいへる句多し、播磨名産の鍋は薄手にて物が早く煮えるを以て聞こゆ、即ち尻が早いといふ義を取りての異名ならん」

菜の花(なのはな)
羽後の秋田にて私娼を云ふ由、又「菜の葉」と記せるもあり、然し『東北方言集』には此語なし、語義は「蝶々止まれ」なるべし



   【に】

二十四文(にじふしもん)
享保の頃より江戸にて夜鷹を云へり、二十四文の賃銭なりし故の異名なり、寛延二年の『跖婦伝』に「二十四文で二十四文が情をかくれば、口説といふやうな野暮らしい沙汰もなし」とあり、本所吉田町、四谷鮫ヶ橋等より出て、両国、柳原、呉服橋外護持院ヶ原等にて稼ぎし者多かりしなり、二十四文といふ勘定は四文銭(大浪銭)六枚の価なり、『天言筆記』に「花ござは花の道中波銭の六文字にて歩む辻君」とあり、八文字にかけし狂歌なり

二寸五分(にすんごぶ)
「加賀国大聖寺町付近にて隠し売女を云ふ」と『風俗画報』にありたり、語義は猥褻の意なりとの説あれど如何か

二百蔵(にひやくざう)
近江及び信濃の飯田にて私娼を云へり、玉代百文の女郎を江戸にて「百蔵」と呼びしと同義なり
若狭の小浜にては単に「二百」と称し、越後の糸魚川町にては「二百三文」と称し居れり、三文は何かの小付として取られしならんか、讃岐の古き俗謡に「容色が好いとて気に高ぶるな、天保銭三枚ありや此方が自由」といへるがありたり、当百銭三枚、三百蔵なりしならん

ニユースー
神戸にて夜発を云ふ由、近き頃性欲雑誌にて見たり、闇の中よりニユーと出て、男を捕ふれば引連れてスーと消えるとのいひなりと記しありたり、或る一部の連中の唱ふる新語なるべし

にやにや
能登にて現に行はるゝ娼妓の異名なり、「にヤにヤ」は姉の義なれども、茶屋にて女中を「姉さん」と呼ぶ如く、娼妓をも云へるなり



   【ぬ】

ぬけびく
『隠語輯覧』に「ぬけびく-密淫売婦」とあり、比丘尼の売色者古今にあり(近年東京谷中の尼寺にもありしと聞けり)されば夜間密かに本坊より脱け出る比丘尼との義ならんか、と思ひたれども、単に「密淫売婦」とのみ註せるを、斯く解するは如何あらんか
友人某は、此「ぬけびく」は「ぬけくび」の誤にて、「抜首」の如く、白粉を濃厚に塗付する女との義なるべしと云へり、あるひは然らんか



   【ね】

寝君(ねぎみ)
『俚言集覧』に「寝君-遊女の事、寝夫-遊女の客の事、沙石集七の上に見ゆ」とあり、男と共に寝ることをたつきとする遊君との義なり

猫(ねこ)(寝子)
公娼の「狐」に対して私娼を「猫」と呼べり、『親子草』に、「本所回向院前、一ツ目弁天門前、此二ケ所を猫といふ」とあり、又遊女(公娼)をも猫と云ひしか、支考の祭猫文に「前生は誰が膝枕に契りてか、さらに傾城の身仕舞」とあり、(但し俳家は夜鷹をも傾城と呼べる例あり、此傾城いづれか不詳とせんか)
元文後、江戸にて寺院境内の私娼を「山猫」と称し、又「金猫」「銀猫」の異称もありたり、京都にては東山の私娼を「山猫」と称せり、其項を見よ、「化けて出る」との語義もあれど、此「猫」の称ありしに基くなり
讃岐にては公娼私娼を総て「ねこ」と呼べり、佞媚の意義たる「猫」に、転び女の「寝子」をも兼ねたるなり
芸妓を「猫」と呼び初めしは天保前後の頃と聞けり

鼠(ねづみ)
明治三十四年発行の『都の花』(都新聞付録)所載、東京に於ける「高等淫売の内幕」と題せる記事中に「高等地獄にも自前、分け、丸抱への三種がある、自前は矢張り芸妓と同じ事で、自分扶持の独立だが、是にも種類があつて、一夜限りの客を専門として居るのを、此社会の符牒で、ハタシといひます、それから月給で二人か三人の旦那取をして繰廻しながら、尚その隙にチヨイチヨイと待合で稼ぐのがネズミ……」とあり、俗にいふコソコソ稼ぎなるが故に「鼠」と云ふなり、又「間鼠」といふ語もあり
去来の鼠ノ譜に「夜出て昼隠る、常に盗みを以て身を養ふ」とあり、右の語義に適切なり、又俳道にては「鼠」を「嫁が君」といへり、総嫁、寝君にも通ひて面白し

根餅(ねもち)
『物類称呼』に私娼の異名として「出羽秋田にてねもちといふ」とあり、又『里の小手巻評』には「出羽奥州にて根餅とは、其初の女共、蕨餅を売ける故、其名とは成ける也」とあり、今は廃語なるべし

ねずり
『隠語輯覧』に「ねずり-売春婦又は田舎料亭の酌婦」とあり、「ねずり」とは寝て金をすり取るの義か、或は単に寝るの義か、駿河地方にては「寝ないか」を「寝ず」と云ひ、信濃地方にては男女の交会を「ねづれる」と云へり



   【の】

のすかい 肥後及び筑後にて公私娼を云ふ、此語原につき大坪一郎子の報告に曰く「明治十年、西南戦争の時に起りし私娼の異名なり、当時軍用人夫として山口広島等の県々より壮丁が続々九州に入込み、九州地の軍夫と共に戦地に於て労役に服せしが、同地方にて我慢が出来ぬ事をノサヌといふより、女(当時私娼も多く出来たり)でも買はねばやりきれない、即ちノサバイの反語ノスカヒは、買はずに我慢ができるかいと云ふ事なり」
北海道にても此語行はる、移住者が唱ひ初めしなるべし



   【は】

端女郎(はしぢよらう)
寛永以来、吉原及び京阪にて下級の遊女を云へり、「端」とも略称せり、吉原にては遊女を大夫、格子、端の三位とし、京阪にては大夫、天神、端の三位とせり
『色道大鏡』に、「端-端女郎とも局女郎とも、あそびとりとも云、けちぎり女の事なり、麁女-同端女郎の事なり」とあり、『好色訓蒙図彙』には「端は局に立給ふ御方なり、端居の義なり」とあり、「端傾城」とも云ふ
逸人の俳句に「覗かれて団扇かざすやはし女郎」といへるあり、此語江戸時代の中頃廃れたり

番頭女郎(ばんとうぢよらう)
天明八年の『傾城觹』に「番頭女郎といふは、万事姉女郎の世話を預かる女郎をいふ、又世話女郎ともいふ、何れも新造なり」とあり、故に「番頭新造」とも呼び、略しては「番新」といへり、『客衆肝胆鏡』に「誰家の遊冶郎、牛台に声をひそめて番新を呼出し」とあり
川柳「傾城に番頭の名は堅すぎる」、「振袖で番頭をする別世界」、「からくりの糸を番新引いて居る」

張見世女郎(はりみせぢよらう)
近世吉原廓内の店頭に居並びて客を引きし小店の遊女を云へり、大店中店の妓楼にては遊女に張見世をなさしめず、これを「籬女郎」と云ひしに対する語、店に出張りて客を迎ふる女郎との事なり、見世又は店とは、実物を見せるの義、即ち顔を衆客の目前に現はすを云ふ
遊廓開始後数十年間の遊女はすべて張見世(屋外の床几に腰かけて顔を見せしもあり)なりし故、此称なし
大正五年七月三日限り、此張見世は官より禁止されて、「張見世女郎」の名は廃れたり

半夜(はんや)
延宝元禄の頃、京の島原にて第三流の遊女を云へり、「半夜女」の略称なり、『色道大鏡』に「半夜は囲職の女を昼夜にわけたる者なり、されども囲職の傾城をわけて売るにはあらず、外に半夜女あり、兼て約する時は囲職のなみなり」とあり、貞享二年の『好色訓蒙図彙』には「半夜は九匁、知れたこと、かこいの切売なり」とあり

はね
京の島原にて「天神」女郎を云へり、貞享三年の『好色伊勢物語』に「はね-てんじんとはねる故とぞ」とあり、「ん」字の末端は筆を払ひ上げて書くべき字なるが故に、はね字と称し、又天神、丸散円丹などの発音をはね音と称するに因るなり

坊(ばう)まて
『足薪翁記』に『吉原つれづれ失墜』を引きて、隠し売女の異名を列記せる中「大阪にて坊まて」とあり、茶屋を坊と称す、坊に待たせ置く女との義か

貝母(ばいも)
『摂陽落穂集』に「大阪市語、女を貝母といふ、遊里にて貝母といへるはおやまのことなり」とあり、大阪道修町の薬種商人は、女陰を「貝母」と通称せり、貝母は編笠百合の根に生ずる物にて、肺病又は悪瘡の治薬たり、『和漢三才図会』に「根有弁子黄白色、如聚貝子、故名貝母」とあり、其形貝に似、貝は女性的なるを以て、遊女を「貝母」と云へるならんか

ばいた(売女)
江戸にて隠し売女を云へり、元禄七年に建替えし吉原大門の高札に「此以前より制禁の通、江戸川々端々に若遊女ばいた隠置候得ば、早々番所へ訴出可申候」とありし由『環斎記聞』に見ゆ、『里の小手巻評』には「岡場所の私娼でも吉原へ来りたれば、直に吉原の娼妓なり」とあり、「ばいた」の「ばい」は「売女」の売にて、「た」は助辞なるべし、番人を番太と呼びしに同じか、『好色訓蒙図彙』及び『艶道通鑑』には「売女」と書けり
越中の方言にも、隠し売女を「バイタ」と云ふ、又『隠語輯覧』には「ばい」、「ばいすけ(売助)」を売春婦として出せり、又「売人」といふも売女なり
徳川幕府の『御定書百箇条』の九十七には「妻を売女ニ致シ候御仕置之事」とありて、左の如く規定せり
一商物ヲモ出シ渡世乍致妻ヲ不為同心売女ニ出シ候者死罪  但飢渇モノ夫婦申合売女為致候迄ニテ盗等之悪事無之候ハヽ不及咎事

機織女(はたおりひめ)
「蘭州瑣語にいはく、聞京師六七十年前、有婦人呼曰織、一男子擁機杼之具随後、続呼曰上工、官禁之、蓋有売淫者也、こゝに六七十年以前といへるは、元禄中にあたる」と『嬉遊笑覧』或問付録にあり
越後の見附町にて私娼を「機織」と云ふ、語義は機織の工女が淫を売りしに由るなるべし、今も機織女又は紡績職の工女が淫を売るもありと聞けり

機屋(はたや)
加賀の小松にて私娼を云ふ、加賀絹などを織りし機屋女が淫を売りしに起れる異名なるべし

橋傾城(はしけいせい)
徳川時代に京阪地方にて云ひし語、橋の上に立ちて行人の袖を引く売春婦の異名なり
橋局(はしつぼね)
「橋傾城」に同じ、「お局さん」の局にあらず、「局女郎」の局にて、橋の欄干を局と見立てし語なるべし

橋姫(はしひめ)
是亦「橋傾城」に同じ、『源氏物語』宇治の橋姫の名を採りしならん、「河岸君」と共に、其実に過ぎたる優美の異名といふべし、乙二の俳句に「橋姫のひとりはあれよ最上川」といへるは此売女の事なるべし

浜君(はまぎみ)
安永四年の『物類称呼』に「京大阪にてそうかといふ、いにしへ辻君立君などいへるものゝ類か、大阪にて浜君などと古くいへり」とあり、「河岸君」、「船君」と同型の語にて、浜辺の立君といへる義なり

蓮葉女(はすばめ)
延宝頃より正徳頃まで、大阪の大問屋たる商家に抱え置きし売春下女を云ふ、貞享三年の『好色一代女』に「浪花の浦は日本第一の大港にして、諸国の商人爰に集りぬ、上問屋下問屋数を知らず、客馳走のために蓮葉女といふ者を拵へ置きぬ、是は飯炊女の見よげなるが、下に薄綿の小袖、上に紺染の無紋に、黒き大幅帯、赤前垂(中略)びらしやらするが故に此名を付けぬ物のよろしからぬを蓮の葉物といふ心なり」とあり
此他『好色一代男』及び『好色貝合』にも、此「蓮葉女」の風俗及び性質を詳記せり
此「はすばめ」を略して「はすば」とも称し、又「蓮葉をんな」とも呼びしなり

白人(はくじん)
京の祇園、大阪の島ノ内、新地等に居し私娼を云へり、元禄宝永の頃より唱へしか、「白人、呂州」の名は『艶道通鑑』及『俗枕草紙』等に出づ、公娼たる黒人に対して「しろうと」と云ふを字音に呼べるなり、伯人、𡛳人又は素人と書けるもあり
寛政六年の『虚実柳巷方言』に「白人とは白人といふこと也、島の内新地にての名物とす」と見え、『守貞漫稿』には「島ノ内の白人は大阪非官許の遊女の最上なり」とあり
右の図は宝暦頃の大阪版『好色節用集』に出づるものなり、「伯人」に非ずして「泊人」と書けるが如し

灰八(はいはち)
長崎にて下等娼妓を云へり、灰吹銀八分の玉代たりし故に名づけしなり、灰吹銀とは鉱山より出でしまゝの物にて、銀細工物に使用し難き純銀の未成品をいふ
此「灰八」転訛して「平八」「彦八」の語あるならん
「京大阪にて総嫁といひ、長崎にて彦八といひ、江戸にて夜鷹といふ」と『俚言集覧』にあり、何故私娼を「彦八」と云ふかは不詳なり、然れども予按ずるに同『俚言集覧』には左の如くあり
「灰八-長崎の諺にて賤妓をいふ」
「平八-長崎にて娼妓の下等なるものをいふ」
「彦八-(前記の通り)」
これは「はひふへほ」の相通にて灰吹銀八分の略たる「灰八」を「平八」と訛り、「平八」が又「彦八」に転じたるならんか(日本擬人名辞書)
享和元年の『筑紫紀行』、長崎の方言を記せる中に「そうかをひやあはちといふ」とあり、「灰八」の訛りなるべし、斯く「ひやアはち」と発音するが故に「平八」の訛伝も生ぜしならん

はしりがね(把針兼)
志摩の鳥羽港にて水上売淫婦を云ふ、此遊女は小舟に乗りて入港の大船に至り、船頭に春を売り、尚船頭の望みによつては、十日間とか半月間とかの買切りにて、他の港へ往復する期間、船に乗込むもあり、其船に乗れる間は、着物の仕立、雑巾綴り、ボロの繕ひなどもする也、安永四年の『物類称呼』に「鳥羽にてはしりがね」、其註に「鳥羽は港なるによりてはしるとは船人の祝詞なるべし」とあるは非なり、又明治四十年頃の『大阪時事新報』に、「金次第で船と共に走るから走り金と云ふのであらう」とありしも、付会の説なり
『俚言集覧』に『はしんがね-志摩国の港の賤妓にハシンガネと云あり、針仕事を兼るとの義なり、今は走り金といふといへり、〔節用集の古写本〕把針(ハシン)者、注、洗衣とあり、武州忍町あたりにても把針といふ」とあるを正当とすべし、『鳥羽誌』に、ハシリガネは針師兼の転訛なりとあるも把針兼の誤記なり
近世此遊女は、陸上稼と港湾稼の二枚鑑札なりしが、明治三十五年頃、娼妓の外出を厳禁され港湾稼の鑑札を停止されて以来、此名物の「はしりがね」も廃絶せしが、今尚私娼は其筋の眼をかすめて、密かに「把針兼」の実を存し居れりと云ふ

はしり
『越後の婦人』私娼異名中「はしりとは堀ノ内」とあり、語義不詳、「はしり」とは関西にては台所の流し元を云ひ、東京にては菓物野菜類などの早出の初物をいふ、水走り、早走りにて、いづれも「走り」なり、右、第二語の早走りにて初物、素人の義ならんか

柱負(はしらおひ)
讃岐にて茶屋の出女、即ち客引き私娼を云へり、柱を負ふとは、上の図に描けるが如く、店頭の柱にもたれて客を待つ体を云ふなり、『一蝶狂画集』には江戸深川の茶屋の図中にあるものなれど、同体なるを以て之を採れり

ばく(麦、馬具)
相模及び羽後の二三地方にて私娼を云ふ、安永四年の版本『物類称呼』に「相州小田原辺にてばくといふ、遊女をよねといへば、米に対したる麦なり」とあり、大正九年の『東北方言集』には「ばく(淫売婦)秋田中央部の方言、馬具即ち乗り物を意味せしものか」とあり
安政五年の『積翠閑話』には「相州小田原にてむぎと云ふ、是も旅店の婢女なり、遊女をよね(米)といふより、それに亜ぐ故麦なりとぞ」とあり、小田原にては「ばく」とも「むぎ」とも云ひしならんか

花菖蒲(はなあやめ)
常陸の潮来に在りし遊女を、俳人などが其詞藻の上に於て「花菖蒲」と云へり、「いたこ出島の真菰の中にあやめ咲くとはしほらしや」といへる俗謡によるなり、俳句に「露けしや真菰の中の花あやめ」、「花あやめ弾くや潮来のさんさ節」などいへるあり、又『潮来細見』の序文に、「四時のながめの其中に、わけて目にたつ花あやめ、手折らんものと我かちに、通ひ曲輪の格子先、紋日物日のかけ札も、一二あらさう船駕の、ちぎりはたへぬ客のかずかず、漁尺漁夫孤羊』とあり

針箱(はりばこ)
信濃の松本、上田、諏訪地方等にて私娼をいふ、針箱に多くの針をさせるが如く、多くの男に接する女との義なり、善光寺参詣『金草鞋』信州下諏訪の条に「此宿のおじやれ女のことを針箱といふ、宿屋には針箱出して旅人に夜なべ仕事をすゝめこそすれ」とあり

八兵衛(はちべゑ)
安房下総地方にて売淫婦を云ふ、『馬子の歌袋』に、下総船橋の宿屋にて主人が客に「八兵衛さんを召さるべくや」と云ひし事を記せり、呼出し私娼を云へるなり、此「八兵衛」とは飯盛女が押売り口上として「四べい四べい」と云ふに起れり、川柳「名を聞けば八兵衛といふ女郎なり」

早馬(はやうま)
北海道渡島の森にて私娼を云ふ、即時に用を弁じ得るものとの義ならん

はんふ
山形にて私娼を云ふと何かの書にて見たり、廃語か現行語かも知らず、又語原も不詳なり
『風俗画報』には「バンホ」とあり、『隠語輯覧』には「はんぽ」とあり、いづれにして解し難し

ばいたご
薩摩の鹿児島にて私娼を云ふ、現在も唱へ居れり、此語「はいたこ」、「はいだこ」、「ばいたこ」など書けるもあり、「ばいた」は「売女」の義、「ご」又は「こ」は「子」なるべし、「這鱆」ならんとの説もあれど如何か

はちよう
加賀にて私娼を云ふと古き雑誌にて見たり、語義不詳

初瀬後家(はつせごけ)
明治三十八年頃、肥前の佐世保港にて高等売春婦を云へり、日露交戦中の同三十七年五月十五日、我戦闘艦初瀬は旅順港沖にて敵の機械水雷に触れて沈没し、乗組の将卒も亦溺死せり、其後将卒の後家、名誉の戦死と叫ばれし亡夫に対し社会に対して再婚すること能はず、又裏面に生活難の事情もありて、夜陰密かに春を売りし者多かりしと云ふ、これ此異名の起原なり、無論偽称の偽物もありしなるべし、此語間もなく廃れたり

ハイプロ
東京及び横浜にて私娼たる高等売春婦を云ふ、「ハイ」は英語の高等、「プロ」は売淫の略なり、英語の「プロステイテイユーシヨン」は前に置くの義にて、人身御供、即ち売淫、娼婦の義に使うなりと云ふ、横浜の外人を客とする此「ハイプロ」には、スコブルハイカラの美人もありと聞く



   【ひ】

一夜妻(ひとよづま)
『色道大鏡』名目鈔「遊女」の項に「たはれめとも、たをやめとも、一夜妻ともいふ」とあり、
「一夜妻 (一)初めて一夜逢へる女、「吾が門に千鳥数鳴く起きよ起きよ、我が一夜妻人に知らゆな」、(二)遊女の異名」と『言海』にあり
「いちやづま-一夜だけ連れ添ふ妻、遊女の類、ひとよづま、いちやをんな、吉野都女楠「御身は定めて思ひ者か、一夜妻」、若風俗「南の端のはたごやに、人とめる一夜女の立ち出て」と『大日本国語辞典』にあり

姫(ひめ)
京阪地方にて公娼私娼を云ふ、普通「女郎買」といふを、「姫買」と唱ふ、「姫」は貴女の称なるが、遊女の美をたゝへて古くは「君」と呼びし例に倣ひ、美人といへる義にて「姫」と唱へしなるべし
讃岐及び越後の小出島等にても公娼私娼を「姫」と称す

引舟(ひきふね)
正徳の頃より京島原、大阪新町にて大夫に付添ふ遊女を云へり、江戸吉原にて「番頭新造」、「世話女郎」と云ひし類、大夫を大船に見立てゝ大夫丸と称し、それに引かるゝ小舟の義なりとの説あれども非なり、寛政六年の『虚実柳巷方言』に「新艘大夫(新艘が大夫に昇進)の出る時は、かいせうのある引舟をつける也、新艘の聞はあまたの道具から穿物に至る迄、よろづ引舟の世話に成り、諸分手管も魂胆も引舟が教ゆる事とぞ、新艘進退の指揮を司るが故に引舟とは名づけたり、黒繻子の前帯、素顔の投島田にて、色事黒人の悦ぶ事なり」とあり
享保八年の『百人女郎品定』の絵を見るに、引舟は大夫、新艘と殆ど同じ風装をなせり
『阿千代之伝』に「大阪の新町では太夫に付く引舟といふ」とあれど、新町のみならず島原にもありしなり
『風俗画報』に「備後鞆の津、播磨の室などの如き海浜にて太夫の次位なる遊女を引舟といふ、元当地の遊女は川船にて浮びて旅客を誘引しけるより此名あり」と記せるは、時代相違の付会説なり

引込(ひきこみ)
天明六年の『客衆肝胆鏡』に「引込」と題して「かぶろ十四五より引込ませる、是を引込みかぶろといふ、黒棧留の振袖、紫の麻の葉小紋の帯、金柑のほうづきを鳴らし」とあり、禿の役をやめさせて引込み、新造女郎として客に接せしむるを云ふ、『川端吉原志』には「引込新造といふのは、内所にて育て上げられた、云はゝ家付の新造であつて、これらは、お梅お松など、俗名を用ゐ、源氏名を呼ばせぬ慣例となつて居たのである」と見ゆ
「引込禿」といふも「引込新造」といふも同じ者にて、やがて「振袖新造」と名が変り「名代に出したり下で使つたり」さるゝ者なり「引込と号しおの字ではやらせる」

百衆(ひやくしゆう)(百州)
宝永四年の『吉原一言艶談』に「元吉原に較べて十倍せり、昔は大夫、格子、五寸、三寸のきれ女郎、百州までうちこんで女郎の数五六百には過ずとかや」、又「西河岸東河岸の百州」などある「百州」は「百蔵」の異称なり、風呂屋女を、「呂州」、お山を「山州」など呼びし例なり、但し「州」は若衆、女郎衆、男衆の如く「衆」と書くが正当なるべし

柄杓(ひしやく)
羽後の酒田、越後の直江津等にて売女を云ふ、蜀山人の『一話二百』には「遊女をひしやくといふ」とあり、又風来山人の『阿千代之伝』後序には「国々の名目、当世の洒落、柄杓、干瓢、白人、巾着のたぐひ」とあり
「杓」又は「杓子」と呼びしに同じく、少しの流れを汲む女との義なるべし、同項を見よ、「ひしやく」の語原は、瓢にて造りし杓、ひさご、ひさくの転なりと云ふ、『足薪翁記』には「ひさく」と記せり

比丘尼(びくに)
仏典より出でし女僧の通称なれども、江戸時代の中期には売春婦の代名詞たりしなり、『蜘蛛の糸巻』に「深川大橋びくに、切二百、下は百、泊り二朱」とある如く、殆ど公然の売女に均しく、盛時には江戸の各所に数百名の売色比丘尼ありたり、身は法体なれども、念仏誦経をなすにあらず、たゞ流行に乗じて普通の売女が剃髪変装せしまでの者多かりしなり、又江戸のみならず、此風、各地にも伝はりて、比丘尼姿の売女行はれたり
歌比丘尼、丸女、仕懸比丘尼、尼出、竹釘、手刻み等の異称もありたり、其項を見よ
天保頃には此風廃りて珍らしかりしにや、箕川翁といへる人の『伊豆国懐紀行』熱海温泉場の条に「浮れ女は唯三人居たりしが、一人の女は髪を剃りて黒き頭巾を冠り居たり、こはけしかる者を見しなど思ひつゝ」と記して、其戯れ歌に「思い出ばや伊豆の国、熱海の浦のうかれ妻、仇し仇波寄ては返す、千尋の底の深情、蜑が苅布の余所目さへ、厭はぬ様と黒髪も、剃り捨てこそ比丘尼とは、浮世の外に情売る、波の枕や風の海」云々とあり

ぴんしよ(一升)
「大阪南堀江六丁目、天保府令後、幸町の西涯に移す、此所は坊間の人を専客とせず、船人を専らとするなり、毎朝此売女二三人を小舟に乗せ、一夫掉をさし櫓を押して河口の泊船を巡り、売女ども紙張の籠に渋を塗りたるを携へ、大船の下に寄つていれてんかといふ、泊船より白米を椀の蓋に一杯づゝ女の数を与ふ也、是は此船(売女の乗りし船)は大阪にて死刑の骸を葭島といふ所に積行て捨るを公役とす、故に当津の泊船はこれに与へざることを許さず、此米を乞に寄る時、水主(船頭)の呼に応じ泊船に移りて売色する也、価は専ら米一升或は二升を以てする由、これをぴんしよといふ、此ぴんしよ皆綿服にて紅粉を粧ひたり、三絃もひく、総嫁に聊か勝れり、考ふるに、博徒の方言に一をぴんといふ、ぴんしよはぴんしやうの訛りにて、即ち米一升を以て情を売るの謂なるべし」と『守貞漫稿』にあり
『筆拍子』には「安治川口、木津川口の大船へ、伽やらふと言て、三味線弾て女を小船に乗せ行くをピンシヨと呼べり」とあり、天保三年の『琉球雑話』に那覇の娼妓の事を記せる条「浪華にていふピンシヤウの如く、小舟に浮み出て、外島より来る舟人にすゝむるもあり」と見ゆ
明和四年の『長崎行役日記』大阪安治川夜泊の条に「夜に入ば、安治川の遊女ども十人ばかり手組みつれ、船へ乗り戯るゝ、また蜆川の方よりも島屋ぴんとて売女船幾十艘といふ数知れず、客船の左右へ漕ぎ寄せ呼びめぐり」とあり、此「島屋ぴん」の語義不詳なれども、ピンシヤウ、枷やらふの類を云ふなるべし

冷水(ひやみづ)
安永の『里の小手巻評』に、私娼の異名として「越後には冷水あり」と記し、明治の『越後の婦人』には「冷水とは柏崎」とあり、古名尚存せること知るべし、『阿千代之伝』に「越後の国でひや水と名づくるは、ひつふかひといふ事なり」とあり、此語義の註釈、解し難し

びる
犯罪人の隠語として「びり(娼妓)びく(娼妓)びる(芸娼妓、売春婦)」と『隠語輯覧』にあり、いづれも語義不詳なり
「びり」と「びる」は琉琉語の「ずり」尾類に縁あるか

引ツ張り(ひつぱり)
江戸時代より今尚行はるゝ夜鷹の異名なり、東京、横浜、越後の三条等にて唱ふ、夜間行人の袖を引ツ張りて買色を勧誘する故の名なり、『守貞漫稿』に江戸の状態を記して曰く、「ひつぱりは天保以前よりあり、売女自ら出て之を勧む、或は売女は宿に在て老婆など出て之を勧む、客を宿に伴ひ帰りて売色せし也、近年(天保頃)の引張りは宿に伴ひ帰るも稀にはありと雖も、多くは総厠に伴ひ立てすます也、実に浅間敷き行ひ也、大抵四五十歳の婦にて、若き女は甚だ稀也」云々
十数年前迄は各所に出没せしも、今は甚だ稀なりと聞く



   【ふ】

振袖新造(ふりそでしんざう)
『川柳吉原志』に曰く「新造とは禿上りの年若き、突出し前の見習女郎で、まだ勿論一本立の部屋持とはならぬ、先づ太夫付の妹女郎といつた格である、句面では、老人客に可愛がられたものらしく、通例、赤色勝の振袖を着て居たので、振袖新造、略して振新などと呼ばれた」、川柳「振袖の前帯を好く色親爺」、「振袖の温石で寝るいゝ隠居」、「新造は入歯はづして見なといふ」

ふんばり(踏張)
『足薪翁記』に「ふんばり-浮かれ女の名なり」、『俚言集覧』に「江戸にていやしき妓女を罵りてふんばりと云ふ」、『守貞漫稿』には「京阪にておやま、ひめ等を以て通称とし、江戸はおいらん以下を総て女郎といふ、極めては三都ともに売女、ふんばり」とあり、立小便などにて両脚を踏張る下卑女との義なるべし、東京にては普通の女を罵るにも此語を用ゆ
『郷土研究』に、下野足利地方にて土娼をフンバリ女といふ、語原は機織女の足を踏張るより出でしならんとありしが、元は野卑の女を嘲罵したる言にて、娼婦に限りたるに非ずと『日本及日本人』に見えたり、又大津絵節に、「二人づれ、ふいと出て、深川の福井町の瓢屋で、不思議なフンバリ女を不思議に買当てた、ホイ忘れた古褌を」といふがありしと也

伏玉(ふせだま)
安永頃より天保の末頃まで全盛を極めたりし江戸深川の仲町にて唱へし私娼の名称なり、茶屋より口かけて子供屋の妓を呼び出すを「呼出し」と云ひ、子供屋兼業の茶屋が直接客に侍せしめし自家の抱妓を「伏玉」と称せり、隠し置くシロモノの義なり、川柳に「伏玉も昼から上るのろしの日」といへるあり、両国川開の日を云ふ

風呂屋者(ふろやもの)
足利時代の中期以後、各地繁華の市街にありし風呂屋の抱え私娼を云へり、江戸にては慶長寛永の頃、最も流行を極めたり、風呂屋者として著名の遊女は、丹前の勝山なり、此「風呂屋者」といへるを略して「呂衆」と呼べり、又、垢かき女、猿、髪洗女、髪結女などいへる異名もありたり、其項を見よ
有馬、伊香保、草津等の温泉宿に居りし湯女に擬せしものなりしが故に、江戸にては私娼の居し風呂屋を、普通の銭湯と区別して「湯女風呂」と呼びたり、川柳「万治以前はとらうちが湯屋で出来」

風呂敷(ふろしき)
売女の異名として文久三年の『西蝦夷日誌』に「箱館なる内沼の風呂敷といふは、彼地厳寒の地故、男女共、秋と春は風呂敷を角違ひに折り、之を被り歩くに、内沼の妓は人目を忍び四時とも被る故に号く」とあり

船比丘尼(ふなびくに)
売色「比丘尼」の全盛時代、「船饅頭」に倣ひて水上に出でし比丘尼江戸にありたり、之を「船比丘尼」と称す、明和の『末摘花』には「帆柱の……をねかす船比丘尼」といへるバレ句もあり、「丸太船」といひしも、此「船比丘尼」を云へるなり
大阪にもありしか、『筆拍子』伽遣ふ船の条に「中古は熊野の牛王を売て、さも殊勝なりしも、いつの程にか色を商う者に成りしが、夫さへ今(文化頃)は姿かはりて、舟比丘尼と云て小舟に打乗り、大船毎に漕寄すれば、いつとても炭薪の類を与へる習ひとは成りぬ、これなん比丘尼に布施物を遣はせし余風なるべし」とあり、物貰ひを兼ねたること「ピンシヨ」に同じ

船君(ふなぎみ)
宝暦明和の頃、水上売春婦を云へり、「船饅頭」の異名なり、辻君、河岸君、浜君など呼べる類なり

船饅頭(ふなまんぢう)
享保頃より天明頃まで江尸に在りし水上売春婦を云へり、小舟に乗りて陸上の客を迎へ、或は他船に移りて其船夫に接せしなり、風来山人の戯著に此事多し、『風流志道軒伝』に「舟饅頭に餡もなく、夜鷹に羽は無けれども、皆それぞれのすぎはひ」、『阿千代之伝』に「牡丹餅は棚にあり、饅頭は船にあり」又「ナント遊女の始まりは、船饅頭ではあめいか、そのかみ朝妻船といひたりしを船饅頭と名づくる事……」とあり、『蜘蛛の糸巻』に「船饅頭とて深川吉永町に軒をつらねたるもの、夜に入れば船に一人づゝ乗りて、所々河岸あるひは高瀬船に色を売る、百文、下なるは五十文」とあり、『只今お笑草』には「船饅頭、寛政の頃迄はありしといふ、今(文化九年)は絶て無し」とあり、嘉永四年に再興せしこと『守貞漫稿』に見ゆ
此外、四方山人の『通詩選諺解』に永久夜泊の詩あり、「鼻落声鳴篷掩身、饅頭下戸抜銭緡、味噌田楽寒冷酒、夜半小船酔客人」、『江戸職人歌合』に「浮舟の浮きたる客のかねことは、永代橋の末の白波」、又『閨玉三十六佳選』には「床に鳴く傾城、水に住む船饅頭」の語あり、川柳の「朝妻に似たが三十二文なり」とは玉代をいふ
此「船饅頭」の語は、万治頃初めて江戸深川に起りしか、元文三年の『洞房語園集』所載の戯文、饅頭の賦に「往じ万治の頃か、一人の饅頭どらを打つて、深川辺に落魄して、船売女になじみ、己が名題を許しけり」とあり、但し「船饅頭」とは、船にて売る肉饅頭の義なり
川柳に「立つことのならぬを船で商はせ」といへるあり、船饅頭の事なるべし、『寛天見聞記』舟饅頭の項に「瘡毒にて足腰の叶はぬもの多し」とあるを証とすべし

ふぐつめ
『俚言集覧』に「ふくつめ-総嫁、上方の賤妓也」とあり、「ふぐつめ」は醜女の義なり、総嫁には醜女多き故の名か、又「くゞつめ」に擬して「河豚つ女」即ち毒ある女といふ義か、『滑稽雑談』河豚の毒の事を記せる終りに「眤暫時口味賭身命矣、与密淫者趣一也」とあり



   【へ】

部屋持(へやもち)
吉原にて「新造」女郎の進級したるを云へり、川柳に「三界に家なし新造廻し部屋」といへるあり、それが後に、「留袖がすむとあき部屋授けられ」にて、振袖新造が留袖に変りて部屋持女郎に成るを云ふ、「部屋持の床の間いつも花屋流」、大夫の如き活花の手技なきを諷す

べざい
上田花月子の報告に曰く「平賀鳩渓の里の小手巻評に、私娼の異名として、信州上田にてべざいといふ由見えたり、我上田に古来此称ありしを聞かず、語原を案ずるに譚海四ノ巻に、羽州酒田の船唄「酒田こやの浜、米ならよかろ、沖のべざいに唯積ましよ」とうたふなり、此べざいといふは船の異名なりとあり、婦人を船に擬しての語ならんか」
「べざい」は同地の方言にあらずとすれば、昔時何処にかありて今は廃語なるべし、語原は「弁財」ならんと思ひしことありしも、天女の比は美称に過ぎて当らざるべし、花月子の考証たる船の異名といふを可とすべし、但し、船を何故に「べざい」といふかの不明なるを遺憾とす

べんてん(弁天)
越前の鯖江にて私娼を云ふと、一二の新書にて見たれども、越前通の人に訊ねしに、此語を聞かずと云へり
此語ありとすれば、語義は美称に過ぐるとしても弁財天女の外なかるべし

べいか
加賀の山中山代温泉場にて私娼たる湯女を云ふ、永田残月子の報告に曰く、「同地方にて女を買ひに行くことを、ベベカヒと云ふ、それが転じて湯女の異称に成りし也」、「べヽ」を女陰の称とする地方もあり、それに由るか
同地方にて湯女を「しゝ」又は「太鼓の胴」ともいへり

へちや
加賀の大聖寺付近にて私娼を云ふ、「へちや」は俗語にて醜婦の義、上総にて「すべた」と云ふに同じなるべし



   【ほ】

鳳凰(ほうわう)
吉原の花魁大夫を云へり、寛政頃の川柳家が云ひ初めし語ならん、大夫職の遊女が着ける裲襠に鳳凰の金糸模様が多かりし故の異名なり、『狂歌倭人物』に「鳳凰を背負ふ遊女に倣ひけん、よき玉ならぶ紅雀長屋は」とあり、又籠の鳥の王としての鳳凰といへる義もありしか、「大凡鳥」の項を見よ、川柳
「桐の光で鳳凰も籠を出る」(金銀貨)
「正月二日鳳凰が舞ひ初め」(道中)
「鳳凰が雁首を出す格子先」(吹付煙草)
「吉原は鳳凰、四谷はとんびなり」(鳶)
「鳳凰が一日鷺に化けて出る」(八朔の白無垢)

本詰(ほんづめ)
『俳諧通言』に、京の祇園町に「本詰、中詰、若詰」ありと記せり、『守貞漫稿』には、京阪官許非官許の遊女にて、素人風の装ひをなせる者を「本詰」と云ひ、眉を剃らず、島田髷にて振袖を着せざる妓を「若詰」と云ふとあり、その中間なるを「中詰」と云ふなるべし
此「本詰」を「前帯」とも呼べり、同書に「本詰を俗には前帯といふなり、然れども実に前結にするに非ず、帯は背に結びて、前帯は空名なり」とあり

本肉(ほんにく)
寛政三年の『麗遊』に「隠し売女は皆地女のしのびて勤めするもの故、上方にては本肉といひ、東にては地極(地者の極上)といふ」とあり、京阪地方にて今は此語を聞かず、さりとて伝写の誤りとも思へず、其後、廃語に帰せしなるべし、語義は「地色」即ち素人女の情実といふ意か

帆洗女(ほあらひをんな)
『川柳吉原志』に「昔房州畦蒜郡の船頭、江戸の佃島に移り来り、帆洗女といへる名目にて売女屋を始む、これあひるといへる名の根源なり(社会事彙)」と見ゆ
此「あひる」の語原説は付会なりとの評あり、「家鴨」の項を見よ、随つて「帆洗女」の名もありしや否や覚束なしとせざるべからず

盆姫(ぼんひめ)
京阪にて男女の密会所たる出合茶屋を「盆屋」と称す、其盆屋にて淫を売る姫との義なり、総嫁の類なり、「盆屋」とは煙草盆と茶盆を出すのみなるが故の名なるべし、姫は同地方にて娼婦の通称なり
『守貞漫稿』に此盆屋の事を記して「戸口を入れば直に二階に上る段梯子を構へたり、二階には昼夜ともに大小蒲団と枕二つ室毎に出しあり、当家の者妄りに二階に上らず」とあり、その暖簾又は看板には「貸席」と記すを例とせり、此盆屋、大正の初年頃にも存し居たり、今尚あるや否やは知らず

蛍(ほたる)
越後の高田にて私娼を云ふと某書にて見しが、『越後の婦人』には「蛍とは尾瀬、出雲崎」とあり、暮夜尻を光らせて出るとの義なるべし
『隠語輯覧』には犯罪人の用語として「蛍-辻淫売婦」とあり、同義なるべし、古歌の下句に「よるは蛍のもえこそわたれ」といへるあり

ぼんぼら
何処にてか此語を私娼の義に用ゆる地方ありと聞けり、周防にて灰吹を「ぼんぼら」と称す、又雪洞ボンボリを、「ぼんぼら」と称する地方もあり、唾液の如き汚物を受くる身とか、提灯の如く夜間出るとの義ならんか

ホワイト・スレーブ (White Slave)
近来此英語のまゝを私娼の義に使ふ者あり、所謂新らしい言葉の一つなり
「ホワイト」は白、「スレーブ」は奴隷、皮膚の色の白き金銭の奴隷といへる語にて、売春婦の義なり、旧来語の「白首」、「白鬼」以上の侮蔑語と云ふべし

棒立(ぼうだち)
『隠語輯覧』に「棒立-辻淫売婦」とあり、棒の如く立ちて客を待つ女との義なるべし



   【ま】

松の位(まつのくらゐ)
「大夫」職の上妓を、秦皇の故事に因みて「松の位」と称せしなり、明暦元年の版本、京島原の遊女評判記『桃源集』には、当時遊女に松の位、梅の位、かこい、はしの四品ありとせり
江戸の吉原にても此称ありしか、正月二日の大夫道中(八文字)を詠める川柳に「二日には松の位の程が知れ」といへるあり、又天明の頃より吉原細見を「五葉の松」と称するに至りしも、五丁町の大夫といへる義と知らるゝなり
此松梅の二位に倣ひしか、大阪の新町遊廓にては、局女郎を塩の位、月の位、影の位の三品に分てること、享保八年の『百人女郎品定』に見ゆ、図は即ち其一面(影ノ位、月ノ位)を縮写せるものなり

まんた(転進)
京阪にて「天神」職の遊女を云へり、『守貞漫稿』に「天神を指して揚屋及び茶屋の徒、又禿などより呼ぶにはまんたといふ也、或はまやんたともいふ、もしあなたの略なり、又天神茶屋の妻をも奴婢より之を指してまんたと称する也」とあり、其後は一般人が上妓を「まんた」と呼び、「まんた買」など云ふに至れり、此「天神」女郎を「まんた」と呼びしは、文化の頃、「天神」といへる神号は憚りありとて改称せしなりと云ふ
明治の京阪新聞には「転進」と書けり、転んで進めるとの充て字は「天神」との同音に利かせしなり

枕付(まくらつき)
「歌女の枕付」といへる語あり(同項を見よ)其略称なり、又江戸の夜鷹にも「枕付」といふがありたり、普通の夜鷹は屋外売淫なれど、客を家内に誘ひ行きし夜鷹を「枕付」と呼びしなり、「坐り夜鷹」といひしも亦此類なるべし

まるた(丸女)
売春比丘尼の一異称なり、毛髪なく円頂なるが故に、頭の丸き女との義、「丸太」と書きしもあれど、「売女」の例にて「丸女」と書くが可なるべし、『好色訓蒙図案』には、「比丘尼、丸女」と傍訓せり、此「丸女」を「まるめ」とよむは非なるべし、『雨夜三盃機嫌』に「丸奼」と書けるは、「丸太」を不当としての苦作なり
『風流志道軒伝』に「出る舟あれば入舟町、石場につくだけころばし、踏返したる丸太の名物、立ふと伏ふと銭次第』とあり、『和漢文操』の比丘尼の曲には「嵯峨のまるたの転びやすきに」といへる句あり、『通詩選諺解』には橋艶の題にて深川大橋の丸女を詠みし狂詩あり
「丸太船」とは此丸太の水上稼ぎにて「船比丘尼」に同じ、尚「比丘尼、歌比丘尼、仕懸比丘尼、尼出、竹釘」などを見よ

前垂(まへだれ)
享保の末頃より天明の末頃まで、全盛を極めたる江戸の私娼「蹴転」の一名なり、上野山下のケコロは、前垂を着けて半畳に坐せしが特色なりし故に云へり、延享二年の『時津風』には「山下敝垂(まえだれ)」と書けり、『江戸名所鑑』にも、「山下敝膝、ひと銚子、足に恨やこぼれ萩」とあり

豆売(まめうり)
越後の新潟にて娼婦を云ふ、語義は猥褻なるべし、狂句に貧の売淫といふ意味にて「曲物も無くなつてから豆を売り」といへるあり、東京監獄の囚人は「空豆」を「天竺の花魁」と称せり、『力婦伝』には、江戸本郷の大根畠の私娼を云へる条に「俠たるかの淫行党が、大根畠に豆の萌がござると唄ひしは、此地開闢の頃の口調」とあり

亡者(まうじや)
『越後の婦人』に私娼の方言として「もうじやとは津川」とあり、津川は東蒲原郡津川町を云ふ、語義は丹波国にて「お化」といふに同じく、白粉を塗つた白首が、夜陰幽霊の如くニユツト出るとの義なるべし

鮪(まぐろ)
『足薪翁記』に私娼の異名として「越後にてまぐろとは、下々の喰料なる故にいふ」とあり、今は廃語なるべし



   【み】

道の者(みちのもの)
『屠龍工随筆』に「遊女を道の者といふこと曾我物語にあり」と略記せり、『好色伊勢物語』には「みちのもの-ある本にこれを遊女の惣名とすること非なりとぞ、是則ち道の傍、四ッ辻にて仮の契をなす者なるべし、古は夜発と云ひしとぞ」とあり、此説こそは非なれ、遊女の総称と云へるを可とすべし、室町時代前の遊女は、渡津の「浮れ女」、駅舎の「くゞつめ」等を主とし、行旅夜泊の徒然、道中宿舎の無聊を慰むべき者として存在せしなれば、これを「道の者」と称せしなるべし
『笈埃随筆』に「昔し京より諸国へ任国の守、又は調貢の官使、往来の宿駅、其地に名だゝる豪家を選びて旅館とす、其亭館を主長といふ(中略、美濃青墓の長、遠江池田の長これなり)旅客の労を慰めんと宴興を設くる事なれば、婦人出て饗せり、其旅客皆貴孫公子なれば、歌舞をも手馴、和歌をも詠得、才有て艶なる女子を選びけり」云々と記して、道の者遊女の起因を明かにせり

水汲(みづくみ)
遠江にて私娼を云ふ、語義は「流れを汲む」といへるが如き高尚の主旨にはあらざるべし、水汲女が夜陰売色せりといふ位の事に起りしならんか、上野の草津温泉場にては、飯炊の下婢を水汲女と称し、それが後に中働きの女中になりても尚水汲女と呼ぶと聞けり、斯かる類か

不見転(みずてん)
明治二十年頃より東京にて売春芸妓を云ふ、客の種類を選ばず、誰彼となく其要求のまゝに応ずるなり、語原は花骨牌八々憲法に、親が幾許かの報償を得るを目的として、其手札の良否、場札の如何を問はず、無謀に出戦するを「不見出」と称するに由来するなり、「不見出」の「出」は「放出」と云ふが如く「てん」の音もあり、其「てん」を芸妓が「ころぶ」といふ「転」に変へて書くなり
新川柳に「不見転の手だけ浄めた朝不動」といへるあり

みき 青森にて私娼を云ふと聞けり、「きみ」君の倒語ならんか



   【む】

室の友君(むろのともきみ)
古へ遊女の異名として此語行はれたり、平安朝時代末期の語なるべし、播磨の室の津は、摂津の神崎、江口などの全盛期に、同じ流れの君の集合地として、月卿雲客の足をとゞめし著名の遊所にして一時は其数の多きと設備の完きこと全国に冠たりとの勢力ありしなり、されば、其室の君のともがらと云ふが、遊女の代名詞たりしならんか
其後、同遊廓は頽廃せしも今尚遊女は継続せりと聞く

麦飯(むぎめし)
天明の頃、江戸の赤坂溜池辺に居し私娼を云へり、吉原女郎を「米」と称せしに対し、米の飯よりは劣るものとの義にて「麦飯」と呼びしなりとの説あり、又其茶屋は小料理店にて「麦飯」の招牌を掲げ居りしに基くなりとの説もあり、『日本及日本人』に曰く、「暗娼といふがあり、享保世説抄録(十二年)に「仕出したは即座麦めし」とあれば、享保には早いと安いとにて好評なりしものなるべし、愛敬昔色好には「此お座敷へは子供さまがたか、女郎さんがたか申て参りましたか、いやなふ麦食は不得手」とあり、京にても売色の宜からぬに云へる証とすべし、宝暦十一年江戸版、風流源平浮世息子には「嚊はさし出……お気には入らずとも、私が様な麦飯でも、お腹のすいた時は一膳もと、おどけ交りのてい主役」とあり、これは茶屋の女房の言葉なり、斯く暫が程は譬喩に遣はれ、それより麦飯といふ暗娼の名義にもなれるか」

むじり 横浜にて私娼を云ふと聞けるのみなり、語義不詳



   【め】

飯盛(めしもり)
宿場女郎を云へり、「飯盛女」の略なり、旅客の食事の給仕をせし下婢が、客に淫を売りし故に起りし名とす、伊勢の飯盛女が唄ふ歌、きく尽の結句に「今宵はお客の無理もきく」といへるあり、俳風五文字の『紙鉄砲』に「是も縁、杓子顔の娘が飯盛に売れ」とあり、『柳樽』に「飯盛の客に釈氏はきついこと」といへるは、品川女郎を芝山内の僧が買ふとの義なり、『狂歌倭人物』に「風呂場をも覗きて世辞のかけ流し、あかのぬけたる宿の飯盛」といへるなり
此「飯盛女」には各地の方言たる異称多し、又「くゞつ、出女、おじやれ、足洗女」等の普遍名称も多くありたり

めんたん(綿丹)
羽前大山町の松山正中子よりの報告に曰く、「当庄内地方にては、密淫売婦めんたんと称す、語義は初め此私娼が一様に綿丹縞の衣服を着せしに由るなり」
『東北方言集』に「めんこ(可愛子)たんぽ(燗徳利)めんたん(酌婦)」とありし故、めんたんとは可愛燗徳利持の女、即ち酌婦(私娼)の義ならんと思ひしは誤想なりし

銘酒屋女(めいしゆやをんな)
私娼たる「矢場女」の廃れし明治二十年頃より、東京市内の各所に、表面は銘酒の一盃売りを看板にして、其実は数名の私娼を抱え置くこと流行せり、大正年度に入りし前後は、浅草公園裏に数百軒の銘酒屋と称する私娼窟出来、官の黙許を得て公然営業し、今尚存在せり、世俗此私娼を「銘酒屋女」と称す



   【も】

もぐり
『越後の婦人』に「そうか、むぐり、よたか、柄杓、巾着、干瓢の類多かるべし」とあり、此「むぐり」は関東地方にて私娼を云ふなり、法禁の網を潜りて淫を売るとの義、「むぐり」は「もぐり」の訛り、「もぐり」といふが正音なり、明治の中期頃行はれし「もぐり代言」といへる語の如く、「もぐり売女」の義なり
斎藤且力子の報告に「横須賀にては私娼をもぐりと云ふ、法律をもぐり、警察官吏の目をもぐりの意」とありたり

もしもし
横浜及び京都にて私娼を云ふ、大阪にては下等の遊女屋を「もしもし屋」と称す、娼妓又は客引女が「もしもし」と声をかけて男を呼び止むる故の異名、これと同義なり
新潟の遊廓にては、娼妓が「コレモシ、兄様、寄りなれや」と叫ぶによりて、遊廓を「ヨリナレ」州と称す、モシに複音なき故なるべし

もか(藻冠、百花)
「今より二百年程以前、名古屋の公娼を厳禁されし時、初めて起りし下等密淫売の名にして、其頃熱田より藻冠りと云ひて、新鮮の魚に藻を冠ぶせて売りしが、味良く価廉なりしより転じて売女の称となれり、其後略して、「もか」と云ひ「百花」と書くに至れり、これに対して高等淫売を高等百花、又は令嬢百花と云ふ、志摩鳥羽の走り鐘、三河地方の毛饅頭等と同意義なり」と名古屋の五面堂左馬といへる人の寄書によりて『滑稽新聞』に掲出せり、此図も又同時に掲出せるものなり
安永四年の『物類称呼』には「勢州及美濃にてもかといふ」とあり、又遠江にても今現に唱へ居る由『静岡民友新聞』に見えたり、名古屋の語が伝播せしなるべし

股引(もゝひき)
飛騨高山町の福田夕咲子よりの報告に曰く、「当国舟津町にて私娼の異名なり、股引を買ふなど云ふ、はめるものとの義か、或は此町界隈の売女は特に股引を穿きて居しに由るか、出所不明なり」
昔、銭二百文のことを「股引」といへり、股引は指二本の如き形なるを以て云ひしなり、私娼の玉代二百文なりし故の異名ならんかとも思ふ

紋付(もんつき)
大阪の服部仰天子よりの報告に曰く、「大阪に紋付といふ異名あり、常に紋付の羽織を着する高等淫売婦をいふ、生玉神社表門などの待合を巣窟として発展する者、公娼よりも其値高し」

もん
『隠語輯覧』に「もん-売春婦」とあり、紋付の紋か、百文の文か、語義不詳なり
此『隠語輯覧』は京都府警察編纂、大正四年発行なり



   【や】

山(やま)しう
貞享三年の京版『好色伊勢物語』に「山しう-お山といふを斯く云へり、いつの頃よりしうといふ字を入れていふ事か、ある書に、例へば大和を和州といい、河内を河州といふが如しとぞ」とあり、京阪地方にて遊女を「お山」と云ふを「山しう」とも呼べりと云ふ事なるが、当時「風呂屋者」を「呂しう」といひ、「百蔵」を「百しう」と云ふなど「しう」の流行にて「山しう」と云ひしなり、「しう」は者共の義にて、字を充つれば「衆」なるべし
元禄十四年の『軽口ばなし』に「祇園藪の下の色茶屋に、さはといふやましうあり」と記せり
山(やま)さん
昔、吉原にて「お職女郎」を「山さん」と呼べりといふこと、何かの古書にて見しやう覚ゆ、山又山の細見符号に因めることか、又は勝山、外山、若山、松山、など云ひし名妓の称に縁ある語か否かも固より不明なり

奴(やつこ)
『古今吉原大全』に「いにしへ武家方にて不義などありし婦人を、いましめのためとて、五年あるひは三年の年期にて、此里(吉原)へ勤めに出すをやつ子といひしなり、其後は端々の売女、此里へとらるゝをもやつ子といふ」とあり、『花街百人一首』には「岡場所のころび芸者を此里へ三年三月の奉公さするも、此やつこの例なり」とあり、『嬉遊笑覧』には「正徳享保延享年中、隠し売女ども捕へられて吉原へ下されぬること度々あり」と見ゆ
此「やつこ」は身の代金なく無償にて遊女稼業を強制されしなるが、天保頃には官より引渡しを受くれば、吉原の楼主共、競争入札にて、美貌の女は四十両五十両に落札し、夜鷹たりし老婆などは、一二両にて三年間下働き女に使用せしなり、其落札の金は積立て置きて、廓内の費用に充て、又無事に満期まで勤めし者には、手当金として幾分を与へしなりといふ 「散茶女郎」の項参照
此「やつこ」とは幕府が刑名としての称なり、法令に背き売淫せし女を、禁錮の代りとして吉原廓内に押送し、奴隷の婢として無償の労役に服せしむるの主旨たりし也

夜発(やほち)
源順の『和名類聚抄』に「楊氏漢語鈔ニ云、遊行女児、一云、昼遊行謂之遊女、侍夜而発其淫奔者謂夜発、今按、夜発俗言夜保知、本文未詳」とあり、本文は夜発なるべし、『安斎雑考』に「此註ニテハ常人ノ淫婦ノ如クニ聞コユ、非ナリ、売色女ノ夜ヲ待テ路傍ニ立テ客ヲヒク者也ト改ムベシ」とあり
『好色訓蒙図彙』には「売女、夜発」とあり、「やぼつ」は「やほち」の訛りなり、此「夜発」とは立君、辻君、夜鷹、総嫁など云へる下等私娼の古名なり、『通詩選諺解』には、「二十四文沽夜発』の句あり
『新猿楽記』に「遊女夜発之長者云々」とあるよし、『松屋筆記』に見ゆ、古き時代にも夜発に抱主のありしこと知らるゝなり

薬鑵(やくわん)
安永三年の『里の小手巻評』の私娼異名中に「松前にて薬罐といふは、尻が早いといふ事なり」とあり、今も尚此語存するや否やは知らず

山猫(やまねこ)
『瀬田問答』に曰く、「江戸の寺社境内に山猫とて隠売女を置候事、根津など始に候や、何頃初り候や、答、初めは踊子(芸者)にて、橘町其外所々、牛込行願寺辺の寺より事起り候やに候、寺社境内にて猫の号を顕はし候は、元文の初より寛保年中へかけ専らに覚え候」
寛延二年の『跖婦伝』に「傾城流れを失つて山猫を生じ」とあり『里の小手巻評』に「山猫と名付しは、化けて出るといふ事ならん」とあり
京都にても東山の売春芸妓を、「山猫」と呼べり、元は僧徒相手の私娼を云ひしなるか、『高安澄信翁筆記』に「円山の茶屋へ諸山の坊主内々にて遊びに行く時、下河原より配膳の女来りて取持ち、其夜坊主と床入する、坊主は女を犯す事ならぬ故、猫を抱いて寝ると云ふ也、なほ円山の猫ゆへ山猫と云ふ也、又昼は配膳にて夜は遊女と化けて出る故、斯く云ふ也」とあり、又『俳諧通言』にも「山猫-東山料理店にて呼ぶ山芸子なり」とあり、明治十二年の『花月新誌』所載「京猫一斑」には鴨東の芸妓として「西京之東山、有奇猫人皆呼山猫、此彙也、非尋常翔走之品彙匹儔、粉面而涅歯、嬌声而便体、好弾絃索鼓猫皮」とあり

山羊(やぎ)
『東北方言集』に曰く、「やぎ(淫売婦)山羊を買入れに行くとて家を出て、途中料理店に登り、淫売婦を買ふて所持金全部を消費し、空しく帰宅せし者ありしより起りたる語、秋田中央部の方言なり」

やちこまり
『和訓栞』に「羽州にて売女の方言なりといへり」とあり、今は廃語なるべし、『東北方言集』には此語見えず
「やち」とは関東にて女陰をいい、「こまり」は陸羽地方にて、かゞみ、屈するを云ふ、成語としての意義解しがたし、或は「こまり」は「小廻り」にて、融通の利く女陰との義ならんか、「女陰」の通称たる「やち」の語原は「やちばい」の項に記せり

やちばい
『隠語輯覧』に「やちばい-娼妓、密淫売婦」とあり、「やち」とは関東語にて、谷間の水沢又は女陰を云ふ、元はアイヌ語なり、『辞海』に「やち(谷地)沼沢などの湿地」とあり、『俚言集覧』には「津軽にて草ありて水のある所をヤチといふ」とあり、「ばい」は「売」にて、陰部を売る女との義ならんか、又「やちばらし(売春婦)」の語もあり

やちやなご(屋茶女子)
上総の北部地方にて現に唱ふる私娼の異名なり、茶屋女といふに同じ、「やちや」は「茶屋」の倒語、「なご」は「おなご」の略にて、茶屋女子の義なり
何処にても、田舎の料理店の酌婦は、淫売を本業とするが故に、「茶屋女」といへる名称を私娼の代名詞に使ふ地方の多きことは「茶屋女」の項にも云へり

やぞう
安永四年の『物類称呼』に私娼の異名として「遠州にてやぞうといふ」とあるを見しのみなり
矢場女(やばをんな)
『辞海』に「矢場-弓を射る所、楊弓店、転じて表面には楊弓店とし、其実淫売婦を置き淫売をせさする家」とあり、享和二年の歌川豊国画『絵本時世相』に、矢場女の絵はあれども、売淫婦としての記事はなく、其起原、何時頃なりしか不明なり
予が少壮の頃、明治十四五年より同二十年頃までの間、東京の芝神明前、両国郡代、浅草公園等には、軒を列ねて数十の楊弓店あり、いづれも妙齢脂粉の妖婦二三を置き「アラお寄ンなさいよ」の艶声にて客を呼び入るゝを見たり、今も稀には存在せり、「矢場の客、的は女の尻にあり」といへるが如き類の狂句、当時の『団々珍聞』に多し

やばなを
『隠語輯覧』に「やばなを-売春婦」とあり、「やば」は矢場、「なを」は「おなご」の「ご」を略せし倒語にて「矢場女」の義ならん、もし然らずとすれば、「やば」は犯罪人の隠語にて危険の意(危き事をヤバイと云ふ)、悪疾などあるアブナイ女との義ならんか

ヤシヤこら
三河にて私娼を云ふ、岡崎市の松井菅甲子よりの報告に曰く、「古老の言に、往時、よいシヨこら、よいシヨこらこらこらといふ俗謡流行したることあり、淫売の浮れ女が、それを能く唄ひし故、彼等をよいシヨこらと異名せり、其よいシヨこらがやシヤこらに転ぜしなり」
右のほか、俗謡の文句より出でし私娼の異名は、同三河に「てんれつ」あり、参照とすべし

やとばん
加賀の金沢にて私娼を云ふと、古き雑誌か何かにて見たり、廃語か現行語か、語義も亦不詳なり、「やと」は大阪神戸などにて云ふ「やとな」の「やと」か、「ばん」は夜伽番の番にてもあらんか

やとな(雇仲居)
大阪及び神戸などには、芸妓に甲乙の二種あり、甲は普通の芸妓、乙は宴席の配膳酌取役をも兼ぬる者にて、三絃を弾き、舞踊をも為す、この乙種の芸妓を同地方にて、「やとな」と称す、やとひなかゐ(雇仲居)の略なり、この「やとな」も亦売春の常習者たる半娼なり

暗の白手(やみのしろて)
海南四国の何処にてか私娼を云ふよし、夜陰の闇から白き手を出して行人の袖を引く故なりと、近刊の某誌にて見しが、現代式のニキビ文士などが、自作自賛にての吹聴語なるべし

やん やはた
犯罪人の隠語として「やん(娼妓)やはた(娼妓)」と例の『隠語輯覧』にあり、此註解なく語義不詳にて、何やらんやはたのやはた知らず也



   【ゆ】

湯女(ゆな)
湯治場たる温泉宿に居し私娼を云へり、摂津の有馬が開祖なるべし、浴客の用を便ずる今の「湯女」には私娼ならざる者もあり、「昔の湯女は白衣紅袴の装束を着け、歯を染め黛を描きて、恰も上臈の如き姿を為し、専ら高位公卿の澡浴せらるる前後、休憩の折に当り、座に侍りて、或は碁を囲み、或は琴を弾き、又は和歌を詠じ、今様を謡ひなどして、徒然を慰むるを以てわざとせり」と『有馬温泉記』にあるは、表面の記述のみ、平安朝時代より高位公卿の遊び場所たりし橋本、江口、神崎、室などの漸次衰微せしは、「くゞつ」発達の影響もあれど、此「湯女」の居し温泉場に客を奪はれたること一原因なるべし、されば「流れの君」の流れ行きて「湯女」に早変りせしも多かりなん、斯く足利時代の中期には最も旺盛を極め、徳川時代の元禄頃までは、此古湯女の古風存せしが如し
宝暦七年の『耳勝手』に「大知識、父は旗本、母は湯女」といへるあり、又俳句に多し、「春風や湯女の草原わけて寝ん、許六」、「木枯の湯の山寒し湯女の顔、移竹」、「五月雨や枕をゆする湯女の声、一到」
若き湯女を「小湯女」と呼び、老いたるを「母(かか)湯女」と称す、又後には市中の風呂屋に居りし売女も「湯女」と称せり

夕顔(ゆふがほ)
『恋愛俳句集』に「夕顔や古君、今の名は知らず」といへる召波の句あり、夕顔とは古遊君の異称なるか、源氏物語の外、古遊君個人の名に「夕顔」といひし者ありしを聞かず、尚「買捨と見し夕顔も行方かな、沾徳」、「夕顔や待人持て咲き急ぐ、斑象」、「夕顔の宿にや一夜浮かれ妻、也有」、「夕顔の君が巻きけり葭簾、和風」などいへるあり、句意の解しがたきもあれど、「夕顔」は遊女の異称なるべし、少くとも俳壇にては遊女の類を黄昏草に因みて、「夕顔」と呼びしならんか、尚「干瓢」の項を参照すべし

ゆこが(湯桶)
斎藤且力子の報告に曰く、「私の郷里(茨城県結城郡)では私娼をユコガと申します、ユコガとは据風呂桶の方言で風呂の如く誰にでも……といふ意です」



   【よ】

よね(米、夜寝、宿、世根)
吉原の遊女を云へり、語原には異説多し、『好色伊勢物語』には「若よね-美しき姿を呼びていふ、ある書に米と書きてぼさつとよめり、菩薩の如く美しきをいふ事とぞ」とあり、『俚言集覧』には「夜寝」と書き、『壒嚢鈔』を引きて「ヨネは米に非ず、宿の意なり」と記せり、『洞房語園』には寛永の頃、羽州坂田によねといへる名妓ありしによりて、よき遊女をよねと呼ぶに至りしなりと説けり、此外「よね」は「世根」なりとか、「妖姉」なりとか、又「よね」は「米」なり、遊女を「お子女」と称し、お子女をお米にあて、其お米を「よね」と云ふなりとの付会説もあり、斯く異説多き上に、尚一つ面白き解説あり、元禄二年の『新吉原常々草』に「よね-遊女の替名なり、注に曰く、よたれそつねと書きて上と下とにてよねとよむ、中にたれそつと文字四つあり、しゞをはさむといふ心にて斯く付けたると也」とあり、此「しゞをはさむ」とは「四字を挟む」を「脧を挟む」にかけたるにて、脧とは男根を云ふ也
以上の数説いづれを可とすべきやを知らず、友人某曰く、「よね」とは女陰の古名なり、伯耆の「米子」は女陰に似たる地形にて「よねこ」と名づけたるなり、小夜中山の「夜泣石」といへるも、実は女陰に似たる石にて、よねこ石ならんとの説もあり云々
「よね」を女陰の古名とすれば、印度語にては女陰を「ヨニ」といえり、ヨニはよねと相通なり、其語原を同くするか
此「よね」を「米」として、「麦」および「麦飯」又「隠し米」といへる私娼の異名ありたり、其項を見よ、金龍山の名物たりし、「米饅頭」も亦吉原遊女に因める名なり

呼出し(よびだし)
遊女屋の座敷にて客を迎へず、揚屋に呼出されて客に接せし女郎を云へり、岡場所にも此称ありたり、吉原にては明和の頃、初めて「呼出」といへる名称起れり、「昼三」の類なり、『古今吉原大全』に「囲といへる名、今の呼出し女郎に相当せり」とあり、寛政以後は大夫、格子等の名称全く廃れて「呼出」といふが最上妓の名称たりし也
『守貞漫稿』に曰く「京坂の太夫、天神、鹿子位、ともに置屋に客を迎へず、皆揚屋茶屋、呼屋にて房事に及ぶ也、非官許の遊女も茶屋呼屋にて房事し、置屋に客を迎へず、如此を江戸にてよびだしといふ也」

夜鷹(よたか)
江戸にて「夜発」を云へり、『傍廂』に「夜発といへる賤しき遊女を夜鷹といへるはさる事なり、和名類聚抄に、恠鴟、与多加、昼伏、夜行、鳴以為恠者也とあり(中略)、道路にふす故に夜鷹と号けしにやあらん」とあり
『跖婦伝』に「夜多嫁」と書ける充て字は奇とすべし、本所吉田町を巣窟の第一とし、これに次げるは四谷鮫ヶ橋なりし、川柳に「人目も草もいとはぬは夜鷹なり」、「頼政の射通しさうな吉田町」、「はな散る里は吉田町鮫ヶ橋」、などいへる句多し、『俗枕草紙』には「鮫ケ橋-惣じて関東夜鷹の根元、瘡毒の本寺は是や此里になん侍る」と記せり
『寛天見聞記』に、「吉田町に夜鷹屋といふがありて、四十あまりの女、墨にて眉を作り、白髪を染て島田の髷に結ひ、手拭を頬かぶりして、垢付たる木綿布子に、同く黄ばみたる二布して、敷物を抱へて辻に立ち、朧月夜にお出お出と呼声いとはあはれ也」とあり、右の夜鷹が百万遍を繰る図は文化五年の『絞染五郎剛勢談』といへる小説の挿画なり

夜(よ)からす
例の『越後の婦人』に、私娼の異名として「夜からすとは村松」とあり、村松とは中蒲原郡村松町を云ふ、語義は亦例の不詳なり
「からす」とは、名詞か動詞か、はた形容詞か、聞きも及ばず、臆測も出ず、恐らくは「からむ」にて、夜陰の途上、男にからみつく女との義たる「絡む」ならんか

よもや縮緬(ちりめん)
肥前の長崎にて高等売淫婦を云ふ、明治の初年頃、同地の一等旅館に出入して旅客に春を鬻ぎし上級私娼あり、高髷に黒縮緬の羽織、往復は腕車にての驕奢ぶり、令夫人か権の位か、誰が目にも私娼とは見えざりしが、其実、相暴露の際、「あの黒縮緬の女、よもや淫売ではあるまいと思つたに」と人々の呆れし言の葉が起原にて「よもや縮緬黒縮緬」といふが高等売淫婦の異名になり、後には「よもや」と略称し、又「黒縮緬」とも呼ぶに至つて、今尚此語、同地に行はれつゝありと云ふ、他に類例なきおもしろき異名なり



   【ら】

ラシヤメン女郎(ぢよらう)
文久の頃、横浜の遊廓にては、紅毛人を客に迎ふる事を忌避せし遊女多かりしが、偶ま和蘭陀人に接する遊女あれば、其遊女を「ラシヤメン女郎」と呼べり、紅毛人は常に綿羊を犯すとの説あり、其綿羊の代用たる女郎と云ふ義なり、今も尚、外人に接する遊女に対して此語行はれ居ると聞けり

駱駝(らくだ)
『静岡県方言辞典』に「らくだ-酌婦」とあり、酌婦を半娼と見て之を茲に入る、比喩語としては、男女の同行、又は物の粗大なるを「駱駝」と称する外は知らず、或は駱駝が能くうなづくに擬して、即座に要領を得る者との義か

らん
例の『隠語輯覧』に「らん-娼妓-花魁の略」とあり、此外に註解を要せざる平凡語なり



   【れ】

れんとび
宝永七年版の『寛濶平家物語』に「目黒の茶屋女、品川のれんとび、白山のころ蔵、板橋の底たゝき、鎌倉河岸の夜鷹」とあり、不可解の称呼なりと山中共古子いへり、『好色一代男』に「品川のれんとび云々」、『嬉遊笑覧』これに註して「品川のれんとびとはかはりたる名なり、れん飛は軽業の種類なり、連飛、あるひは蓮飛とも書けり、いづれか弁へ難し」といへり、『閑田耕筆』には「彼が木を登りてれん飛とやらむいふことするに似たれば、田楽と名づくるのみ(此れん飛ば蓮の実の飛出す如きをいふとぞ)」とあり、品川女郎の軽佻を嘲りて、オテンバ、スレカラシの義に用ゐしならんかと思ふが如何か



   【ろ】

路傍の柳(ろぼうのやなぎ)
『日本類語大辞典』に遊女の古名として入る、彼此を選ばず、万人の手に触るゝとの義か、又は「立君」の異名か

路次者(ろじもの)
江戸にて夜鷹の別称なり、路次、即ち裏家住居の者、路次にて客を引との義なり、『末摘花』に「銭がなか、よしなと路次へ突き出され」といへる句もあり

呂(ろ)しう
元禄前後の頃、風呂屋者(私娼)を云へり、当時「百蔵」を「百しう」、「お山」を「山しう」と呼べるが如き通人語にて、風呂屋者の呂を取りて「呂しう」と云ひしなり、宝永の版本『吉原一言艶談』に「丹後殿前に勝山とて名とりの呂州」とあり、又正徳の『艶道通鑑』に「白人、呂州、茶女」とあれども、『御入部伽羅女』に「大阪中の茶屋、白人、呂衆」とある如く、者共の義にて「呂衆」と書くが正当なるべし

六字分(ろくじわけ)
享和元年の『東牗子』に「駅亭の婢をヲジヤレとよぶ、これ御出有の謬説せし也、鄙には洒落の称あり、然るに浪華瓢簞町(新町を云ふ)の色廓の妓品に六字分など、号くる傾城あり、契価を以て品名を立る、其陋、卑劣尾籠なり、これに対すれば、ヲジヤレは古雅にして洒落なり、嗚呼大阪は商売輻輳の地に決せり」とあり
「六字分」とは六の字を分けるといふ事、「六」の字を分ければ「二八」なり、玉価二十八匁、若しくは十六匁の妓を云ひしなるべし
京阪の遊廓にて玉価を品名とすること是のみにあらず、三八、五三の君は勿論、天神、囲、等皆玉価によれる名称なり、但し吉原にも「昼三」の品名ありたり

六地蔵(ろくぢざう)
『隠語輯覧』に「六地蔵-辻淫売婦」とあり、紀伊の御坊町にて「地蔵さん」と云ふに同じく、性欲亡者を済度する六道能化の「立君」といふが本義なるべし



   【わ】

若衆女郎(わかしゆうぢよらう)
男色のカゲマたる若衆流行の際、其若衆男に装ひて客を取りし遊女を云へり、カゲマの如く鶏姦をさせし也との説もあり、寛永十九年の『あづま物語』に男名の遊女あるは、吉原に於ける若衆女郎の祖ならんと云へり、京の祇園にても試みし事あり、大阪の新町にては寛文九年に富士屋といへるが、若衆女郎と号して売出せり、それが好評を博せしため模倣者続出せりといふ、延宝六年の『色道大鏡』に「近年傾城の端女に若衆女郎といふあり(中略)堺、奈良、伏見の方までひろまれり、是若道にすける者をも引き入れむの謂ならんか、されどもよき女をば若衆女郎にはしがたし、それにとりあひたる貌を見立てすると見ゆ」とあり、
江戸深川の「羽織芸者」といへるも若衆模倣なり

和気女郎(わけぢよらう)
『誹諧通言』に、大阪新町の妓品を列記して「大夫、天神、小天神、見世天神、鹿子位、和気女郎、新造」とあり、此「和気女郎」の義は知らず、廓詞に「和気知り」といへるは通人のことなり、これに因める語か

綿摘(わたつみ)
寛文頃より近世までの間、三都にて行はれし私娼を云ふ、塗桶にて綿を延し、小袖の中入綿、又は綿帽子などを作る業を「綿摘」と云へり、これを表面の職として、密に淫を売りし女を「綿摘」と称せしなり、古き川柳に「仲条は綿の師匠へ五枚投げ」といへるあり、此綿の師匠とは、私娼の「綿摘」女を多く抱え置くい所謂地獄宿の主人を云ふにて、句意は「仲条の引札おろし値段なり」の引札を五枚も投込みて堕胎受負の広告をするとの事なり、尚「綿摘」の事は予が発行せし『此花』第十九枝に詳細掲出せり
『恋の栞』に「新井白石の書ける文に、踊子、わたつみといふ妓女を禁ぜらるゝといふ事を書たり」とあり、宝永六年「綿摘」に対する幕府の禁令「町中に遊び女を綿摘抔と名付、隠し置候儀不届云々」を云ふなるべし

綿帽子(わたばうし)
享保の頃、京都先斗町にありし売淫婦を「筑紫綿」と呼べり、又「綿帽子」とも称せり、宝永八年の『傾城禁短気』所載、私娼の中に「綿帽子屋」といへるあり、「綿摘」といふが私娼の異名なるが如く、女にふさはしき綿帽子の製作を表面の営業とせしならん、そして筑紫は綿の名産地なるが故に「筑紫綿」の称もありしなり

綿打(わたうち)
加賀金沢の安川久流美子よりの報告に「加賀の粟津温泉場にては、淫売することを綿打と申候」とありしのみにて、語義は記されざりしも、「綿打」といふが私娼の異名にも成れるが如し


   【ゑ】

円助芸者(ゑんすけげいしや)
明治年間、金一円にて春を売りし芸妓を「円助芸者」と称し、単に「円助」とも呼ぶに至れり、一円助の略なり、又五十銭にてコロブ芸妓を「半助」と称せり、半円助の略なり、芸妓には松助、玉助、花助などいふ男名に擬せし名多きに因るなり



   【を】

和尚(をしやう)
万治三年の『高屛風くだ物語』に「御年のほど二十許と見ゆる女郎は、吉田様と申て、此所のおせうとあがめ奉る御方」、又「高しま屋の吉野様、三浦屋の高を様とて、こひの玉子、美人草の身の上にこそと、世のもてなしも隠れなし、此君たちこそ此所のおしやう共、日本一の名とり共、やがてなるべき也」とあり
『慶長見聞集』に「和尚と号する遊女三十余人、其次に名を得る遊女百余人」とあり、遊女の上職を「和尚」と呼びしなり、吉原の開祖庄司甚右衛門の姉、和尚婦といへるが、北条氏政の寵妾たりし故、上妓を崇めて和尚と呼びしなりとの説あれども非なり、此語は吉原開始前よりありしなり、「和尚」は仏語なれども、鎗の和尚、茶の和尚など云ひて、其道に秀でたる者を和尚と呼びしに倣ひ、上妓を「和尚」と称せしなり

尾なし狐(をなしきつね)
古くより遊女を「狐」と呼べり、真の狐と区別すべく「尾なし狐」又は「尾の無い狐」と称せり、奸人を「下腹に毛の無い狐」など云ひしに同じ、『唐金義宝詩』といへる狂詩本(文政二年京版)に娼婦の五絶あり、其転結に曰く、「全体能欺客、故言無尾狐」、又相模三浦郡地方の俗謡に「三崎城ケ島尾のない狐、わしも二三度だまされた」といへるあり、今は無けれど、昔は城ケ島に私娼ありしならんか

                大尾


追補

(付録)
此『売春考』の一篇は、予が今春『解放』といふ雑誌の編輯者から頼まれて、二三日間に書いた略記ものである、委しい事は、他日別著にして公刊したいと思つて居る

   売春考

母系制度劣敗後の女は男の奴隷又は玩弄物になつて、常に掠奪売買等の対象物にされたのであるが、随つて後世の財産結婚、門閥結婚、落籍結婚、若しくは政略結婚等にて成立せし妻たる者は、其自由意志に基くのでなく、男に都合のよき強制配偶の奴隷で、今の貴婦人と呼ばれて居る衣裳人形の連中も一種の売春婦に過ぎないのである、然し、茲に所謂売春とは、右の如き広義の売春ではなく、普通一般の解釈に同じもので、商品たる女が男より代償を得て暫時一身を放置する虚偽の生殖行為を業とする者を言ふのである、考とは我国史籍の記述に拠つて、其発生進化等の径路を歴叙することで、売春考は即ち一夜妻の史論である

   サブルコの時代
『嗚呼売淫国』とは往年或人が我日本を罵つた標語であるが、古今内外を通じて売淫国でない国はあるまい、世界各国の歴史に徴すれば、二千年の昔、或は三千年前に売春の行はれた事が明記されて居る、我日本に於ても有史以前既に行はれて居たに違ひない、岩戸舞の名物女、神々の前で陰部露出のイミジキ振舞をされた天鈿女命といふは、今の芸妓娼妓の二枚鑑札同様で、白拍子兼遊女の祖であらうとの臆説もあるが、確乎たる遊女として史実に表はれて居るのは天智天皇時代(千二百五十年前)である、『万葉集』の遊行女婦、これを後世遊女と略称するに至つたが、遊行女婦の訓はサブルコ(佐夫流児)又は「うかれめ」で、サブルコは戯れ女の意、「うかれめ」は心の浮きたる女の意である、後の学者は此遊行女婦と肩書せる者のみを遊女と認めて居るが、予は『万葉集』前半所載の「いらつめ」又は「をとめ」(郎女、女郎、娘子、嬢子などかけり)とあるのは遊女なりと断定するのである、即ち遊行女婦の名起らざりし前の「いらつめ」「をとめ」の名称には遊女をも含めりと云ふのである、後の学者はイラツメ(淑女)オトメ(娘子)の敬称を賤業婦の称呼に使つたとは思はないのであらうが、此時代の「いらつめ」「をとめ」は敬称でなく、「いらつめ」は「色之女」、「をとめ」は「小之女」で、男称の「色之子(イラツコ)」「小之子(ヲツコ)」の対で、要は愛する女との意である、仮令此の二語を敬称なりとするも、後世遊女を「きみ」と称し、流れの君、浮れ君、厨子君、立君、辻君、格子の君、遊君などの敬称もあるのに比すれば不思議はない、遊女を賤業婦なりと卑むのは後世の事である、されば予は『万葉集』第二巻所載の石川郎女を始めとして、巨勢郎女、依羅娘子、坂上郎女、阿部郎女などは悉く遊女なりと見るのである、其事実の証明としては、第一の石川郎女の如きは、久米禅師、大津皇子、外数多の馴染男があるに、尚押かけ売春として大伴宿禰田主の家に行き、それをハネられたので「風流男と吾は聞けるを宿貸さず、吾を帰せりをぞ(愚鈍)の風流男」と詠んで、押売に応じない男を馬鹿者と罵つて居る、これ放浪的売春の遊行女婦サブルコ、うかれめに非ずして何ぞやと云ひたいのである、古い『平民新聞』に、婦人の独身生活といふ思想が売淫行為を助成するといふ例として下田歌子を挙げ、彼は名誉と権勢を獲んがために、伊藤博文、井上馨、土方久元、山県有朋、田中光顕等に淫を売り、尚勤めの欝散としての情夫には黒田長成、秋山定輔、望月小太郎、林田亀太郎、三島通良などがあつたと掲載したが、之を事実とすれば、石川郎女は下田歌子の如き女であつて、本職の遊行女婦ではあるまいと予に語つた友もあるが、奈良朝前後の遊行女婦は、紳士閥の淫奔娘であって、賤家の出でなく、生活のための売春でもなく、当時の名門権勢家に近づく事を名誉としての行為で、物品の報償を唯一の目的としたのではなかつた、されば石川郎女には、下田歌子の如き女子教育といふやうな本職はなく、又定まる夫もなき独身生活者で、全くの遊行女婦であつたのである、次に、身を老嬢で終つた坂上郎女などは和歌の達人として数十首の名歌を残しているが、其歌の過半は男たらしの挑発的呼出状である、此外阿部郎女、紀郎女、娘子児島の歌なども皆同型のものである、或学者は『万葉集』所載の歌を評して真率なる思想の流露であると云つたが、予は同集にある数百首の歌は、淫奔なる遊行女婦が男を欺瞞し翻弄した虚偽の恋文に外ならないものと信ずるのである
そして、此時代に何故斯かる売春が輩出したかと云ふに、此種の売春婦は此時代に初めて発生したのでなく、既に上代から行はれて居たもので、虚偽恋愛的の和歌も盛んに贈答したのであらうが、只其記録が存しない迄で、晩くとも人皇時代の当初から既に行はれて居たものであらう、男子専横の極、女子を奴隷扱ひにし物品扱ひにし、一方、階級制度を樹立して、其一部の上級者が労役を卑しんだ結果、職業婦人たることを好まない淫奔女子、或は強制服従を快しとせない新しい女どもが、男を翻弄すべく、其美貌と詞藻を招牌にして愉快な放縦生活をなすに至るのは当然の帰着であらねばならぬ、加之、此時代より鎌倉時代頃までの社会道徳は、個人の独占に属しない女の放縦は、之を咎めないで、寧ろ上流者の遊戯物として必要視されて居たことは、遊行女婦として尊貴の顕門にも出入し得られた一事に徴しても明かである
然らば此の時代には、貧のための売春は無かつたか否かと云ふに、男が女を手馴づけんとする手段として、女に物品を贈るとか、労力を貸すとか、或は歓心を買ひ或は慰藉のために、雄鶏が好餌を雌鶏に与へて誘致するが如き報償を出すことが、女子中心の時代から行はれて居たのであるが、男子専制の時代になつても、尚其習性が失せないので、下等な石川郎女が各所に散在して居たに違ひないと思ふ、且又仏教の輸入以来僧侶が多く出来、其僧侶の妻帯を禁じたので、各所に隠し妻たる妾商売の女も増加し、随つて一夜妻の発生も必要となつたであらう

   流れの君と白拍子の時代
「いらつめ」「をとめ」の汎称名詞から特殊の専門名詞に変つたサブルコ遊行女婦とは、浮浪的行商淫婦、即ち押かけ売春婦の義であるが、平安朝時代になつてからは、何時か其遊女が一定の場所に常在して行旅の客を捉へる事になつた、川尻、江口、神崎、蟹島、室、高砂等、船舶の出入繁き地、国司巡使、月卿雲客の往来多き渡津に居を構へた船饅頭、朝妻舟、所謂「流れの君」がそれである、然し此時代に遊女悉くが渡津に集つたのではない、都会及び各地の宿駅には従来のウカレメが存在して居たのであるが、それは其土地限りの勢力で、顕門貴紳の多くが皆「流れの君」を愛するに至つたことは、『大和物語』や『大鏡』所載の亭子の帝(宇多天皇)が川尻の遊女白を召寄せられた事や、同じ遊女大江玉淵の娘に袿衣桍などを賜はつたことで明かである、(其記事の一節「ていじのみかど鳥養の院に御座にけり、例のごと御遊びあり、此わたりのうかれめ共あまたまゐりて侍らふ中に、音おもしろくよしある者が侍りやと問はせ給ふに、遊女ばらの申すやう、大江の玉淵が娘といふものなん、珍しうまゐりて侍ると申しければ」云々とあり)又此後太政大臣藤原伊通が川尻の遊女加禰の方へ通つた事や、関白藤原道長が川尻の遊女小観音を愛した事や、宇治大納言藤原頼通が江口の遊女中君を愛した事や、其他月卿雲客が神崎に遊び蟹島に遊んだ事実が旧記に存して居るので、「流れの君」の全盛が察せられる、尚『松屋筆記』に抜載せる大江匡房の遊女記(原漢文)といふに拠ると、神崎の項に「門ヲ比シ戸ヲ連ネテ人家絶ユル無シ、倡女群ヲ成シ、扁舟ニ掉シテ旅舶ニ着キ、以テ枕席ヲスヽム、声ハ渓雲ヲ遏メ、韻ハ水風ニ飄ル、経過ノ人、家ヲ忘レザルナシ、洲蘆浪花釣翁高客、舳艫相連リテ殆ド水無キガ如シ、蓋シ天下第一ノ楽地ナリ…………皆是レ倶尸羅ノ再誕、衣通姫ノ後身ナリ、上卿相ヨリ下黎庶ニ及ブマデ牀第ニ接シテ慈愛ヲ施サヾルハ莫シ」とあり、又枕席の報償物を分配する項には「所得ノ物之ヲ団手卜謂フ、均分ノ時ニ及ベバ、盧恥ノ心去リ、忿厲コレ興リ、大小ノ諍論ハ闘乱ニ異ラズ、或ハ麁絹尺寸ヲ切リ、或ハ米ヲ分ツコト斗升、蓋シ亦陣平分肉ノ法アリ」云々とあるが、其艶冶嬌態の美貌に似ず、物貨争奪の陋状は察するに余りがあらう
茲に至つて、異性籠絡、貴紳翻弄の名誉を主としたイラツメ、サブルコの正体は漸次失せて、其報償物件を主とするやうになつたことが明かで、やがて抱主占有の商品制度に化する基礎を形成したものと見ねばならぬ、語をかへて之を云へば、第三者の囚はれ者に成る可憐の少女を増加するに至らしめたのは此時代であらうと思ふのである、
そして又、斯く「流れ君」が全盛を極めるに至つた原因は種々あるが、要は当時上流の風俗が乱れて『伊勢物語』や『源氏物語』などの題材にされたほど淫蕩淫靡に陥つて居た時代の産物である、されば遊女も顕門貴紳の嗜好に迎合すべく、歌を詠み舞曲を巧みにする者であつたが、稍々売春を専門とする傾向を生じてきた「流れの君」の末路は、一方に舞曲を本位とする、「白拍子」といへる売春婦を発生せしむるに至つた
白拍子は鳥羽天皇の永久三年に島の千歳、和歌の前が舞ひ初めた曲名から出た舞妓の名称で、磯の禅師が元祖なりといふ説もある、其服装は白の水干に立烏帽子で白鞘巻の太刀を佩びたものであるが、酒宴の席に侍して座興を助ける特殊の職業婦人として其独立を保ち難いのは当然で、酔客の要求に余儀なくされて一種の売春婦に化したのである、それで後鳥羽天皇と亀菊、平清盛と祇王祇女、源義経と静御前の如き関係をも生ずるに至つたのであるが、此白拍子はあまり永続せず、源平時代後は全く廃滅に帰して了つた、そして社会道徳も聊か進歩したので、上臈が女郎になるといふ事も、此時代後は漸次少なくなつたのである

   クヾツメの時代
鎌倉時代になつてからは諸国にクヾツメ(傀儡女)といふ宿場女郎が盛んに行はれることになつた、これは従来の土娼(下等売春婦)の発達したもので、それに流れの君や白拍子などの変形も加つたのである、此土娼が発達したのは、此前に長者といふ娼業専門の資本家が出来、人買といふ女子仲買の専業者ができて狩出しに努めたのと、一方には戦敗者の遺族が衣食に窮して堕落し、戦乱後の不景気と人情の軽薄化とで娘を売る親が増加したなどが原因であるらしい、そして関西と鎌倉との交通も頻繁になつたので、道中の無聊を慰むべき設備の必要が増大したことなどが相待つて、其繁昌を助成したるものと見るが正当であらう、されば此時代に全国各地の宿駅に売春婦のない所はないやうになり、殊にに東海道中の各宿駅には、舞曲兼業の上妓より、飯盛兼業の下妓に至るまで、貴賤旅客の要求に応ずべき設備が充分であつた、其中でも鎌倉幕府に近い相州の各宿駅、片瀬、手越、黄瀬川、腰越、稲村ヶ崎、小磯、大磯、宿河原、化粧坂等には立派な娼家があつて、源頼家、工藤祐経、祐成などの関係で、手越の少将、黄瀬川の亀鶴、大磯の虎御前愛寿などいふ名妓は後世にも知られるやうになつた
斯く宿駅の土娼が盛んになつたのは、無論交通旅客が多くなつた為めであるが、又一面には彼是の戦争が絶えなかつたので、陣中に武将が売女を引入れたこと「妓者待軍士無妻者』で兵卒が下等娼婦を買ひに行つたこと、又平時には武士が狩猟に出て、其宿泊中の遊興が豪奢に行はれたなどで、一層土娼を盛んならしめたのである、そこで遊女の争論を裁決せしむべき遊女別当といふ官職もでき、芸能ある者を選び置きて、召に応ずべしとの命令をも発するに至つたのである
そして此クヾツメ時代は奴隷制度の稍々「次第に」完備したものであつて、長者といへる抱主の権力は強大で、娼婦に対する圧迫も尋常でなかつたのである、此クヾツメは鎌倉幕府の倒れると共に、相州の各宿駅は衰微したが、全国各地の娼家は不相変盛況で其営業を持続し、其後何等大した変化もなくて、足利時代も過ぎ、元亀天正の戦国時代に至つたのである、只茲に特記すべきは、室町時代の前頃より、クヾツメの外に湯屋風呂女(湯女)といふ湯屋を根拠とせる売春婦が各地に出来て、其湯女が明治の初年頃までも連続して居た事である、次には足利義晴時代に幕府が傾城局といふを新設して遊女取締の新令を布き、遊女稼ぎは一々官の免許を受けしむる事にし、遊女一人に年税十五貫文を課した事である、従来公娼私娼の別はなかつたが、此の時初めて公娼制度が行はれたのである、これより公娼たる遊女は倍々低下して劣等の者になると共に、一方にはカゲマと称する変態売春の男娼が流行するやうになつた、此男娼の流行は、戦国時代に陣中へ女子を引入れることを厳禁した反動として、美少年の小姓を同伴して枕席に侍せしめたので、其風習が伝播して市井にも現はれるやうに成つた

   公娼私娼大跋扈の時代
官許の遊女といふ公娼制になつて後、其遊女が都会の各所に散在するのよりは、一ヶ所に集つて賑かな方が、景気が好く客足も多からうとの見込みで、天正十七年に官許を得て京は冷泉万里小路に新屋敷を開いたのが例になつて、慶長元和寛永の頃、江戸の吉原、京の島原、大阪の新町などの大遊廓が出来たのであるが、一ヶ所に集ると抱主共の競争心も起り、又金遣の多い遊客を迎へる策としては、遊女其者の選抜を第一とせねばならぬので、人買を八方に走らせて芸能ある尤物を狩集める事になつた、それで足利末期の遊女よりは稍々上品の者も多くなつたが、後には世の泰平無事が続いて、其上玉を手に入れることが困難になつたので、容貌美しき貧家の幼女を買入れて、遊芸は勿論書画や和歌の修養迄も仕込む「子飼」法が行はれる事になつた
斯くて幕府は此集娼制の遊廓を利用して、謀叛人や大盗賊を捕へる事にし、尚江戸参勤交代のお国侍共には、吉原を性欲発展の遊興所たらしめたのであるが、後には大大名たる仙台の伊達綱宗、高田の榊原政元、名古屋の徳川宗春等も遊びに行つたさうである、此中でも仙台様が三浦屋の高尾にフラレたといふ事実は著明のことであるが、武家に大権力のあった武断専制時代、町人百姓が小侍の刀の鞘に触れても断捨にされた時代に、氏素性も知れぬ遊女ばらの身が、勿体なくも奥州六十二万石の大殿様に肱鉄砲を啖はせたと云ふ事は、古来絶無の容易ならざる大問題で、今ならばお上の威信を毀け随つて社会の秩序を紊するものとして、政府当局者が新聞記事の差止命令を発すべき重大事件であるが、当時これを遊女の思想悪化とも認めず、抱主さへ何等の咎めも受けなかつたのである(高尾が舟中で釣し斬にされたといふ事は墟で、全くの捏造である)抑もこれは何故かと言ふに、当時の遊女には此フリといふ絶対不可侵の大権威を有せしめていたのである、其訳は、男には上淫を好む性情があつて王侯の妃をも犯したいと思ふものであるが、吉原の遊廓では商略上、此性情を利用して、遊女に上臈風の粧飾をなさしめ、それに権威と見識を持たせ、太夫様此君様と敬称して、客よりも上席に坐せしめ、又俚諺にも「遊女に挨拶なし」と云へるが如く、客に対して低頭の礼式をなさしめず、ハリといふ意地とフリといふ一種の拒否権を有せしめる等、故らに倨傲尊大の態度を執らしめたのである、そして客を「買人共」とか「すて坊」、「とられん坊」とか呼びて侮つたが、此商略は甘くあたつて、都人士は我勝ちに遊女の歓心を得んと欲し、逆鱗に触れざらんとして苦心と注意を払つて通つたのである
吉原大火後の仮宅営業がいつも繁昌したと云ふのは、客の好奇心に因る点もあるが、主とする所は「鳳凰も目白押し」の其混雑中に行けば、平素権式高い花魁でも、真逆フリはすまいとか、或は大いにモテタとかで通ひ行く客が多かつたのであらうと察せられる、それ程、吉原の娼権は強大であつて、客は何者でも己れの気に向かない時には遠慮なしにフツタのである、特に旗下御家人お国侍等の武士に対しては、それが一層猛烈であつた、中でも勤番者を大いに嫌つて浅黄裏と貶し、新五左と呼び、武左衛門と称して蔑視したが、これは其「ぐわち」其不粋なのに因るばかりでなく、一種の反感から出たのであらうと思ふ、士農工商の四階級外に置かれた賤しき遊女の身としては、権勢ある武士との添寝を名誉と心得ねばならぬ筈、それで多少の無理も厭味も我慢して、柔和に服従すべきであるのに、廓の掟上其正反対の虐待に出るのには、何等かの理由がなくてはならぬ、其理由、彼等は常に武士と威張つて庶民を土芥視する横
者である、此庶民の敵は此治外法権の地に於て膺懲せねばならぬと云ふ暗々の憎悪心、少くとも江戸つ子客の教唆で、「武士たる者を背中にてあひしらひ」、「昨日は宿直今晩は床の番」の憂目を見せたのであらう、されば高尾が綱宗をフツタのも、野暮の馬鹿殿様がイヤであつたばかりでなく、大名面の権柄を憎んだ結果であらうとすれば、奴隷制度の濁渦中にも民権を主張する反抗者、武断政治を呪ふ危険思想家があつたと見ねばなるまい、然しフリといふ此大権威の発揮も永くは続かず、遊女堕落し遊客堕落して漸次俗化し、芸能あり見識あるものは失せて、寛政以後は京の島原、大阪の新町、其他、全国の各宿駅津々浦々に居る娼婦と変りのないものとなつた、これも徳川幕府が漸次其権勢を失つた如くの径路に類して居る
却説、元和偃武後の泰平は、全国の娼家をして全盛を極めしめたる外、私娼の跋扈も亦甚だしかつた、古くは大阪の商家に蓮葉女を抱へ置きて仕入客を饗応するあり、湯治場風呂屋には湯女盛んに行はれ、勧進歌比丘尼は丸太に化け、綿摘み草餅はそれが本職でなく、戸外には橋姫、辻君、夜鷹、引つ張りあり、水上には下の関の手たゝき、大阪のピンシヨ、鳥羽の把針兼、江戸の船饅頭、函館の鴈の字、吉原外の岡場所は金猫銀猫、蹴転、麦飯、アヒル等の類数十ケ所にあつて日夜の客絶えず、変態売春の若衆陰間は寛文延宝元禄享保に亘つて最も横行し、其若衆の向を張りし深川の羽織芸妓、粋者は吉原行を野暮として両国辺の茶屋遊び、斯くて徳川は明治、江戸は東京と変るに至つた

   続いては偽自由の明治大正
王政復古の大維新と叫んで首尾よく政権を奪取した明治政府の役人共、開港通商、文物輸入の唱道で、人権の擁護を衒はねばならぬ事に成つて、明治五年に奴隷売買制の娼妓解放を断行したのは良かつたが、それはホンノ束の間、従来の妓楼を貸座敷営業として許可し、娼妓は任意の出稼といふ鑑札、其実、貸座敷は旧のまゝの牢獄で資本主義者の横暴、出稼は名目のみで自由廃業も容易にやれない可憐の囚はれ者、それで今日まで尚連続して居るのであるが、此明治大正にも時々の栄枯盛衰はあつても、下層社会は漸次生活難の声高くて「勤めすりやこそお召の着物、うちぢや御飯もたべかねる」の遊女が年々歳々其数を増し、尚海外に輸出される娘子軍も亦少くない、一方各地の私娼は旧に優る繁昌で、手段や名称は異つて、矢場女が銘酒屋女になり、円助半助が大正芸者、高等内侍、ハイブロと新らしい名に変つたのみで、要求は倍々多く、供給亦それに相応するやうになつて、如何に警視庁や各府県の警察部が其撲滅策に苦心してもなんらの効なく、到る所でモシモシの呼声、チユーチユーの鼠鳴を聞かされて居る
虚偽の生殖行為たる売春は、これを人道問題の上より云へば人権蹂躙であり、個人道徳の上より云へば破倫破廉恥であり、社会風教の上より云へば陋俗邪淫であり、国民衛生の上より云へば悪疾媒介である、此醜行為の非道悖理は何人も諒する所であるに拘はらず、尚之を売り之を買ふ者が多い、又古今内外の為政者は之を根絶せんとして、種々の法を実施したが、何等の効がなかつた、それは無い筈、曾て新人某氏は「売淫制度の基礎を成して居るものは、私有財産制の確立による富の懸隔と婦人の屈従とである、故に私有財産制の上に立つ現在の社会組織が根本的に革新されない限り、如何なる予防策、如何なる救治策も売淫業の存在を根絶することはできない」と喝破した、此論を外にして救治根絶の法は無い、さあれ現制度の革新、これを新人に待つのみである  (了)




   真か偽か遊女「雲井」の文

遊女の誠はお客の実より引出され、お客の誠は此方の実にて引出し候へば、嘘も誠もお互の心にありて、別にむつかしきわけはなく候へども、人はたゝ疑ひと申すこと一つが面倒にて候、つれづれ草には迷ひの一つをおそろしと書き候へども、迷よりまだまだむつかしきは疑ひにて候、何故と申すに、迷ひはおもてに見ゆるものなれば、捨つるに捨てやすく候へども、疑ひは心にかくれ候へば、取ることも捨ることも成リ難く候、されど思ひ中にあれば、色外にあらはるゝならひ、嘘も誠も永きうちには自からわかる御事にて候、されば世に物事をつゝみかくすほど道具なることはなく候、これは嘘これは誠と知れながらも、嘘を誠といひ誠を嘘といひ、好かぬを好きといふうちに、嘘も誠も根ざしは先づその嘘のうらに含みまゐらせ候、よつて始めはいやと思ひし客も、馴染めばいつとなく可愛く成り、繁々に来たまへば、惚々とし呼びまゐらせたく候、これ元は偽りのつけ心より、かさねて見れば心もおけず、されば、誠は不興の始とおぼし、嘘を誠の種なりと御心得ありたく候、悟と申す字は吾心と書き、偽といふ字は人の為と書き申し候、まことにまことに文字は苦界の理をせめ候故、よくよく御思案ありたく候。めでたくかしこ




大正十年十月十五日印刷
大正十年十月二十日発行
               定価 和装金参円五拾銭
                  洋装金弐円五拾銭
許不複製

編纂兼発行者 東京市下谷区上野桜木町二十二番地
               (宮武)外骨
印刷者  東京市麹町区飯田町六丁目一番地 杉本新吉
発行所  東京市下谷区上野桜木町二十二番地
                 半狂堂
               電話下谷 六五九〇番
               振替東京三九四二〇番
発売元  東京市本郷区本郷四丁目四番地
                 文武堂
               電話小石川三一三六番
               振替東京 九五二七番



売春婦異名集の追補

○鯉  「諏合、一名鯉といふ、あがるとねるといふ事にや、次に組屋、扇屋、頃日仕出しの針売、此類あり」と元禄十二年の『好色文伝受』にあり
○紅衣人(アカヂンチヤー)  土妓多衣紅衣、俗呼紅衣人と『琉球国志略』にありと『沖縄女性史』に見ゆ
○ざふり  「琉球に近き大島にては娼妓をざふりといふか『南島雑話』中に「まといふざふりの図」とあり」と『沖縄女性史』に見ゆ
○内裏拝み  『足利氏の季世に方り京都勤番の武士等に淫を売りたる宮中の女官を云ふ、此名は当時の落首に見えたり、又蕪村の「女を倶して内裏拝まん朧月」の句は、此「だいりをがみ」を詠みたるもの也といふ説あり、此語は内裏の拝観を名とし竊かに女官の許に春を買ひに往くと云ふ意ならんと小生は愚考す(秋の屋)
○あんま 伊賀の名張では宿屋へ「按摩はいりませんか」と云つて淫売婦が押売りに来るので此異名あり(服部仰天)
○いしかけ  京都大仏前の大石垣の下に出でし辻君を云ふと近頃聞けり(田中緑紅)
○パンヤ  甲子夜話巻五十六に、奈良木辻云々、首座の女をパンヤと呼ぶ云々(中山太郎)
○販婦(ひさめ)  塵添壒嚢鈔巻三に、和名抄に販婦と書きてひさぎめと読めり云々、高倉院御宇承安四年、皆濫行女后百人皆販女と歌ひて舞はれけり云々(中山太郎)
○上招  東京語辞典に、上招(女郎の意)元一八(チーハー)の用語より出づ(同)
○みてくれ  これは江戸末期頃、静岡市中で私娼を呼んだものです(法月対晶堂)
○なべ焼  これは伊豆の下田でいひます、近頃は「牛」といふ名称を口にする者がなくなりました(同)
○てかけおり  京都にて囲妾たりし者が、祇園町等に出て私娼となりしをいふ、『羈旅漫録』に曰く、「はじめてつとめに出るものを、腰元おり、てかけおりといふ、江戸にて何あがりといふが如し、又はみな様御ぞんじ何屋の仲居おりなどともかくなり」
附、又同書に曰く「本詰とは、本どしま眉毛なし、中詰とは、中どしまなり」
○雑  上田花月子よりの報告に「すがひ(肥後)、あらもの(彦根)、犬つり(不明)、べゝ(越後尼瀬)、こぶ(同寺泊)、もしか(北海道登別)、油ツ子(同トリサキ)、おつとせい(同山クシナイ)、蓴菜(同ヲトシベ)、かき(同厚岸)、温石(相良)、かたどて(下総)、」とありて、いづれも語義不詳とせり
以下三十項は鶴岡春三郎子よりの寄稿
○粟餅  水戸地方にて私娼を斯くいふ、東北の草餅などと同義にて、粟餅を行商し密かに淫を売りたるより出てし語なるべし
○あんこう  江戸末期に於ける売女の異名なり、名義はあんこうは店頭に吊して肉の切売りをなすを以て、後に売色の徒に転用せしものならん
○あま  中国にて私娼を「あま」と称す、海岸にて賤しき蜑女などが売淫せしに因れる語と思へど如何
○有合  大阪に有合町あり、同所の売女は客の懐中したる金銭の多少を論ぜず、有合次第にで埒明を以て名づくといふ、右は随筆ものより抜書せしものなるが出処を忘れたり、有合町とは果して何処の遊所に存在せしか
○色子  長門赤間ケ関より僅かに海を隔てし藍島に於ける売淫婦をいへり、夜泊りの船夫を顧客とする手たゝきの異称なり
○おてんげん  越後柏崎にて娼妓を指して斯くいふ、蓋しおてんげんはおてにあげ御上手也、客のもて遊びになるをいふ義
○かり子  大阪新町置屋小遣の小女郎なり (俚言集覧)
○空茶釜  京小野の隠売女なり、見世には釜買といふ体にて其釜は空なればなり(北里見聞録)
○キンゴ  昔京にて鹿恋をキンゴと云へり、博徒の符牒
○北山  京都に於て巫女の売淫するを北山といふ、同所は巫女の巣窟なるにより此名起れり、尚同地にては接吻のことをも北山といふ
○くめちや  うめ茶の一名、元禄版『諸芸太平記』に見ゆ
○さんぶつ  奥州地方津軽、南部、秋田辺にて称する淫売婦の一名なり
○醤油樽  越中砺波地方にて淫売婦に此称あり、湿つぽき故なるべし
○尻まい  松前地方私娼称呼尻舞なりといふ説あれど信じ難し、思ふに前尻を売る意なるべし
○杓取  江戸言葉なり、隠売女をいふ(北里見聞録)
○だんぶ  奥州地方津軽、南部、秋田辺にて淫売婦を斯く呼べり、陸中鹿角郡にては芸娼妓を「だぶ」とツメていふ、語義はアイヌ語にて陰門を「タンベ」といふより起りし言葉なりとか
○釣者  元禄頃にありし淫売婦の一種、女自ら途中にて男と約束して密会するものをいふ
○八百米 所沢にて売春婦をいふ、同所飛行場にて用ふる語なり、其故は飛行場より八百米の地点に遊女屋あるを以て、飛行将校等の聞に「八百米に着陸した」などと戯れに使ひ出でしよりの名なりと聞けり
○針婦(はりかゝ)  享保頃大阪に於ける売女の一名(徒然時世粧)
○早鍋  丹後にて私娼をいふ、若狭の薄鍋と同義
○ぴんこ  福島地方にて小女郎の一名なり、凡て小さきものを「ぴん」といふより起りたり、背の低き徳太郎といふ男を「ぴん徳」などといふ類なり
○ひるうり  米沢に於ける私娼の称呼なり、名義は未だ考へ得ず
○ひさぐ  直江津にて私娼のあざ名(越後風俗志)、淫をの約なるべし
○ピー  東京十二階下などの白首女をいふ、ピーとは彼等はよく口笛を吹き鳴して客を呼ぶ故此称ありと
○みじつけ  奥州地方津軽、南部、秋田辺にて淫売婦をいふ、語義不明
○もり  名古屋辺にて私娼をいふ、飯盛女の略か
○楊枝  越後瀬波辺にていふ私娼のあざ名(越後風俗志)
○よもぎ  百蔵の一名(北里見聞録)
○呼出し下女  享保頃大阪に此称あり、名義は下女にして淫を売りたる者の称呼なるべし
○尾羽  「山形県鶴岡近在田川場村といふ温泉場あり、同所に尾羽といふ遊女あり、慶長頃より此名起る」と風俗画報に見ゆれど名義は記さず、出羽の酒田町にても斯く称ふるよし聞けり、貴著に「おば」とせしは如何か
  「蛇足略語」として以下八項同じ鶴岡子より
○おつぺ  物を折り取ることを「おつぺしよる」といへり、「おつぺ」は右の略語か、若し然りとすれば、折花の意味に通ぜざるにあらず
○梅茶女郎  「五寸局をあつめうめ茶といふ者出来ぬ」と嬉遊笑覧にあり、五をウメといふこと寛保以前に於ける拳の術語なりといふ
○臭屋  「京摂に臭屋、間短、蹴倒などいふは切見世長屋の類か」と巷街贅説にあり
○けんぽ  椇枳梨の略語にて見掛けより甘いといふ意に解しては如何、付会か
○うし  「豆州下田にて淫売女の一名なり、其価孔方二百文なり、是を呼ぶ時燈を消して語らひ、又くらまぎれに帰る故にうしといふとぞ」と北里見聞録にあれど、やはり能く寝る意味の牛なるべし
○地獄  うなぎをつる法に地獄釣といふあり、穴釣のことなりと聞けり
○地馬  昔しの雲助符牒に二百をジバと云へり、されば二百文にて事の足りる意より此語起りしならん
○びんしやん  志道軒伝に「深川のびんしやんも度かさなれば飴の如し」の文あり、このびんしやんとは私娼称呼にてははなきかと中山丙子氏疑へり、余も同感なり
○あきざし  「あきざし」の語義不詳とせしが、中山太郎子の通告によれば、『越後風俗志』には、地蔵堂にては空指とあるよしなり、空指とは空家を指して同行をすゝむる女との義か
○夜からん  『越後の婦人』に拠りて採り「からん」の語解し難しと記せしが、中山太郎子の通告によりて「からん」は「からす」の誤りなることを知れり、「夜烏」とすれば臆説も出ざるにあらず
越後の阿部真祐子よりの報告には「村松町にては私娼をカラスといふ」とあり、単に「烏」とも呼ぶならん、又上田花月子よりは「日がらす、越後村松」とあり、昼間に出るをいふか
○べんてん  越前の鯖江にて私娼を「べんてん」と云ふは地名に因るなりと聞けり
○いしくら  異名集の九頁「いしくら」に就て、小生の郷里近江国水口(東海道古駅)に遊廓有之、町の郊外「石倉」と申す土地にあるため、同地にては「いしくら」は一種の異名に相成居候、しかし是が隣国越前鯖江のそれに関係あるか否かは存じ不申候(高田杏湖)
○さんころ  岐阜の淫売芸妓の異名「さんころ」につき、三円で転ぶ故と御記しあれど、此方(岐阜県北方町)では三味線枕でころぶ義と解し居り候(鷲見忠)
○ずり  琉球の娼妓「ずり」を「尾類」と記せしが、又「侏𠌯」とも書きしが、『沖縄女性史』に「寛文三年(清の康煕二年)の張学礼使録に琉球の事を記せる中、風間土妓甚衆、謂侏𠌯実則傾城二字之音也とあり
○白拍子  語源は「素拍子」にあらずして、波斯語シラバーシーの転訛なりとの読あり




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菊池眞一