『柳屋』五十五号一九頁(昭和十一年十一月十日)に、発行者・三好米吉の
外骨先生(時代)の食味
という文章が載っている。末尾に
一〇・四月食道楽
とあるので、
『食道楽』昭和十年四月号に掲載されたものを転載したのだろう。
以下、引用。



   外骨先生(時代)の食味
                 三好米吉

「外骨先生時代の食味」を書けと御下命ですが帰来多忙、期を逸した形ちです。でも外骨先生の頃の想ひ出になると懐しきことばかり。その頃の自分は若くはあり食味の食通のといつた生活でもないので、どうといつた御答も出来かねますが宮武先生は宴会好きでその頃在つた綱〈ママ〉島の鮒宇や中の島の銀水楼でよく会を催された、富田屋八千代が必ずお座敷を勤めてゐた、芝居はキライであつたが曾我廼家の喜劇は好かれてゐた。西区の槌橋辺の小料理屋が気に入りでよく御供をしたが板場にウンと祝儀を出して旨いものをこしらへよといつてられたがどんな食味であつたのか一向に覚へて居らぬ。
 神戸で外人が自転車に乗つてゐるのを観てそれが恋しくてたまらずとうとう手に入れて得々と乗り廻したのが日本人として最初、其が若い頃の宮武の坊つちやんなのだ、その頃のお話をきゝ其の写真を見てゐると、つい先達て前進座が演じた牛を喰ふと云ふ芝居を思ひ出す。女房が意地を立てゝる小料理屋若い女などが居ても客が無い、店の半分を仕切つた亭主の方の牛を喰べさす店は無暗に繁盛する。その頃の色と匂ひとをさへ感じる程である、帝大の新聞雑誌保存館の主任として納まつてお出の外骨先生を久しぶりにお尋ねした、ところがサア支那料理を馳走すると、池の端の雨月荘へ行く、満員だ、根津の緑風荘へ行く、渡邊治右衛門氏の第二号邸だつたそうで数奇を凝らした庭と座敷だ、前日の雪の消ゑ残つた樹石の風情も殊によい、支那料理を好まれる先生の健康を喜ぶ、童心といふのか、ご飯が遅い、さあ会計だ自動車を呼べと私が慣れぬ靴の紐を結んでる間に玄関から半丁もある門の辺まで奥様と一緒に駆け出して這入つて来る自動車へ乗り込まれる、スピード時代なのか流線型なのか、相変らず昔ながらせつかちで可なり性急の私でも呆然とする、今回は永見徳太郎氏に渋谷道玄坂上の松葉で長崎料理を戴いたがわが外骨先生へはこの長崎料理が最適任だと思ひもした。
 以上何だか時代の食味で無く先生の食味になつた様です。御返事として是丈けを申し上て責を果します。
 正岡さん久しぶりに一度大阪へ来られませんか、今大阪の野田屋では南仏蘭西の魚介料理と云ふのを南欧渡来のアドモアゼル・ジヨセフイン・ヴイジイ女史と云へる若い美しいのが始めた、昨今結城礼一郎氏などゝ試食しましたが魚介の蒸し焼きやスープと云ふのがチーズの味噌汁のやうなのを、珍らしく感心した、大和の(三号雑誌で五万円損失して誰れかゞ責任問題を起してる雑誌の大和と違ひます)東洋料理と称へる日本と支那料理をチヤンポンに出す人を喰つた様なのでも御馳走して食道楽の近頃の大阪も見て貰ひたく思ひます、では。     一〇・四月食道楽
(『柳屋』五十五号一九頁。昭和十一年十一月十日)



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菊池眞一