宮武外骨著

アメリカ様 全

発行所 蔵六文庫」(表紙)


例 言

日本軍閥の全滅、官僚の没落、財閥の屛息、ヤガテ民主的平和政府となる前提、誠に我々国民一同の大々的幸福、これ全く敗戦の結果、此無血革命、痛快の新時代を寄与してくれたアメリカ様のお蔭である、江戸時代の末期、ペルリ使節が浦賀へ来たので、武士共が騒ぎ出し、永く続いた泰平で、甲胄や刀剣、鞍や鐙を売却して手許に持たぬ者が多くあり、俄にそれを古道具屋で買入れたが、そこで古道具屋が大儲け、当時「武具馬具屋アメリカ様とそツと云い」との柳句があつた、此古道具屋の口吻をかりて、今本書の題号としたのである
著者戯れに「半米人」と称す、今年齢八十歳、米寿は八十八、下の八が足りない、そこでア米リカ様の半支配下、半米人と自称するのである




 官僚や財閥と苟合して無謀の野心を起した軍閥、其軍閥が我国を亡ぼしたのであるが、今日の結果から云へば、此敗戦が我日本国の大なる幸福であり我々国民の大なる仕合せであつた、若しも(万一にも)此方が勝つたのであるならば、軍閥は大々的に威張り、官僚や財閥迄も共に威張り、封建的思想の残存で、ますます我々国民を迫害し、驕傲の振舞、憎々しい態度、肩で風切り、反身になつて、サーベルをがちやつかせるに相違ない、其上、重税を課し、兵役を増し、軍備を倍加し、以て八紘一宇とやらの野心をつツぱり、侵略主義の領土拡大を策する等で、我々国民はドンナに苦しめられるか知れない、これを思へば敗戦の結果、総聯合軍のポツダム会議で決定された我日本を民主化の平和国とするべき意図の実行で、代表的のアメリカ様が御出張、マツクアーサー元帥の指導命令で日本の官僚、軍閥、財閥をたゝき付けて下さる壮絶の快挙、加之、我国開闢以来、初めて言論の自由、何と云ふ仕合せ、何と云ふ幸福であらう、皆これ勝つて下さつたアメリカ様、日本を負けさせて下さつたアメリカ様のお蔭として感謝せねばならぬ、これは成るやうに成つたのだから、あきらめるの外なし、いまさらグチを並べても追付かず、理窟を云つても何の効なし、そこで此『アメリカ様』を発行して自ら慰め、他を慰めんとするのである、



アメリカ様   其お蔭の数々 随筆的記述

侵略主義でない平和理想国の日本

我輩は日本が軍備のない国になつた事を慶賀する者である、其軍備全廃が自力でなく、意外にも他力で行はれた事は、世界平和の理想を実現した歓喜すべき大変動であつたと確信する、此軍備全廃の利益は多々ある、其中でも国税の八割、百億円とすれば八十億円までを軍備費に使はれて居たのであるに、それが全くなくなつたのは、国民の負担が大々的に軽くなつたのであり、此一事だけでも国民の苦患が消解し去つたと見てよい、次ぎに兵役の全廃で、年々何十万という農工商の壮丁が、不生産的軍事に使はれず、各々が安んじて其職に就き得られる産業上の利益もまた大である、又その次ぎに、日本の陸軍海軍、軍衙軍舎、軍艦軍機、軍需会社、軍港軍用地等の解散解放で、国家国民の有用使途に還つた事は、是亦多大の利益である、これを我日本がアメリカ様のお蔭で、侵略主義でない平和の理想国に変つたとして喜ぶのである


支那は我日本の恩国である

人の複数は国である、人に恩人があるごとく、国にも恩国がある、支那は我日本の恩国である、我日本国の歴史を見よ、日本の文化は悉く支那から寄与されたものである、支那から貰つて来たものである、衣食住を始め、制度文物、政治法律学問器具等、みな支那よりの渡来である、若し支那がなかつたならば、日本は絶海の孤島、荒涼の蛮国であつたであらう、日本人そのものが支那人の移住だといふ説もあり、日本は支那の分家であつたらしい
昔京都の儒者が、鴨川の東側に居て西側へ移住した時、支那へ近くなつたと云ふて喜んだとの史話がある、少しでも恩国に接近した有難味を感じた純情の発露と見る、これ位でなくてはならぬのに、明治時代の日清交戦当時、支那人を軽蔑して「チヤンチヤン坊主」と呼んだ等は、実に恩知らずの頂上であると思ひ、今にそのバチ(罰)が来るであらうと予知して居た
果せる哉、支那侵略の野望が破れて現在の為体(て居たらく)ざま見ろと叫んでゐる者がある筈、恩を知らぬ奴、恩を忘れる奴の末路は、人も国も同じであるぞと知れよ、今更ながらそれを悔悟して、日華親善でなく、支那尊敬の謝意を表さなくてはならぬ


日本国民が感謝すべきアメリカ様

誠に奇な囚縁と感ずるのは、我が日本国と阿米利加国との関係である、封建制度の徳川幕府が倒れて明治維新の政府が建設されるに到つたのは、其前嘉永年間にアメリカより使節ペルリが浦賀へ来たのがモトで、鎖国攘夷が開港に変じた結果、西洋諸国の文明を輸入して大に開化ぶることに成つたのである、それが近頃更にアメリカよりマツクアーサー元帥が我が国に押込んで来たのが、破天荒の無血革命、軍閥の全滅、官僚の没落、財閥の屛息、ヤガテ民主的平和政府、開闢以来の最大御維新、勿怪の国勢と成つたのである、これを思へば、アメリカ様は日本国民一同が揃つて感謝礼拝すべき大恩恵国ではないか、南無アメリカ様
絵葉書類別大集成と云ふのは、予が近年全力をあげての別事業であるが、昨年八月以後、戦事に関係したもの三、四帖を作り、其中の「軍閥」には西郷隆盛を元兇として、大山巌、乃木希典、東郷平八郎等数十名の軍人を入れ、その外陸軍、海軍、軍艦等は多くある、特に珍とすべきは、日米関係のものばかり三百枚ほどを集めた一帖である、嘉永に来た黒船、水師提督ペルリを始めとした、其概目は此次の頁に、


日米親善関係の絵葉書概目

米国水師提督ペルリ肖像の和文説明付、三条実美筆の題辞=親仁善隣 幕末黒船絵巻十六枚
伊豆下田史蹟了仙寺絵葉書十二枚
下田港の哀話唐人お吉絵物語十六枚
我国最初の米国領事館、ハリス等十六枚
唐人お吉三十六史図、お吉お福の古文書八通
玉泉寺米国水兵の墓、米人墓参写真等四枚
日米条約の全文
久里浜のペルリ上陸記念碑
明治八年米人クラーク設計の札幌時計台
筑前二島の日米板硝子株式会社工場
東京帝国劇場に於ける米国魔術師
紐育ウツドローンの野口英世博士の墓
米国廻航艦隊歓迎紀念写真前後取交十八枚
宙返り飛行家と松井須磨子
自転車曲乗り
米国観光団横浜上陸の写真、東京市内見物
大阪商船の阿米利加丸
横浜グランドホテル
平和の人形使節、あずま京子さん、答礼人形乗船の天津丸等八枚
神戸港メリケン波止場
以上のほかに、嘉永より昭和までに於ける種々雑多の日米関係絵葉書八十余枚
侵略主義軍閥敗亡の結果、今や我日本国は、アメリカ様の領地となつて其支配を受けて居るが、国土大小の差はあつても、昔は対等の交際で、斯くも親善であつたと示すのが本旨


亡国の基と題する絵葉書帖

我国の敗戦は官僚や軍閥が財閥と結托して軍国主義侵略主義の発展を計らんとしたがモトであるから、彼らが揃つて我国を亡ぼしたと断言してよいが、その外に亡国の原因となつた事物が種々ある、軍閥が悪いと云ふても、その軍閥を跋扈せしめたのは国民である、官僚や財閥の外に、多くの国民が漸次軍閥の悪を増長せしめたのである、それで絵葉書類別集成の中に「亡国の基」と題する一帖を製作してある、其帖の内容は、国民が軍人を崇拝して薩摩の吉之助を大西郷と呼んだり、東郷平八郎を軍神と称したり、さては衒死を遂げた乃木希典等を祭つた乃木神社を建てたりしたのがイケナイ、又国民が戦勝を祝して旅順陥落祝の提灯行列等をやつたのもイケナイ、是等はいづれも軍人を増長せしめたのである、尚又軍人は政治に関与すべからずの原則を破つて総理大臣になつたりした事が度々あつた、それを国民が黙認した等も軍閥跋扈の原因である、其外国民が武運長久の祈念をしたのも軍国主義助成であつた
それで此帳には、以上の絵葉書を集め、尚南洲神社、東郷神社、二百三高地と称した美人の束髪、シンガポール陥落記念ハガキ等も入れてある


軍人政治の害を説いた福地桜痴

日報社長、『東京日日新聞』の主筆として有名であつた桜痴居士福地源一郎は、明治十四年三月の同紙上に、軍人政治の弊害を説き、我国の歴史を見ても明かである、源頼義以来、軍人が政治に関与した時には、国家の不利、人民の不幸が甚だしかつたとの事例を挙げ、当時日清の或交渉事件に付、軍人が容喙したのを咎め、軍人政治は野蛮の遺習であると叫んだ
此後明治二十七八年の日清交戦は、政府の大臣であつた山県有朋、大山巌、西郷従道等の軍人によつて起されたのである、其後三十七、八年の日露戦争は、山県有朋を始め当時の総理大臣たる陸軍大将桂太郎等によつて起されたのであつた
斯く軍人が政府に乗込んだのみでなく、外国との戦争を敢行したのである、日米戦争は如何であらう、これも軍人たる東条英機が総理大臣になつて、途方もない始末をでかし、国家の不利、人民の不幸これより甚だしいのはない、我国開闢以来未曾有の国難であつた、軍人政治の弊害を説いた福地桜痴も、かほどまでの重大事態にならうとは予想しなかつたらしい、此畏るべき軍人政治は、先日アメリカ様の命令で根絶するに到つた


奴隷根性を罵つた民主的学者

先日八十九歳の高齢で熱海に隠棲してゐる政界の長老尾崎行雄(咢堂)が、新聞記者と交談の際「天皇のためならば生命を棄てゝも惜くないと云ふのは奴隷根性である」と語つたとの事が紙上で公表されて居た、これが昨年の八月以前であつたならば、咢堂翁は又も舌禍の種を蒔いた事になるが、アメリカ様のお蔭、文化的民主的時勢の変遷でお構ひなしになつた、
さて咢堂翁の放言は平民的文豪たる福沢諭吉先生の教訓を受けた智的思想の逬出と見る、明治七年三月出版の福沢諭吉著『学問ノスヽメ』第七編に、忠臣義士の誤つた奴隷根性を罵り

権助ガ主人ノ使ニ行キー両ノ金ヲ落シテ途方ニクレ旦那ニ申シ訳ナシト並木ノ枝ニ褌ヲ掛テ首ヲ縊ルノ例忠臣義士モ権助モ共ニ命ノ棄所ヲ知ラザル者卜云テ可ナリ

世間で福沢先生の楠公権助論と云ひ、又赤穂浪士の復讐を暴挙と云ふのも、右の記述に基いたのである、門人咢堂翁が天皇崇拝の盲目的謬想を痛撃したのも同一の軌道と見てよい
「人民ノ権義ヲ主張シ正理ヲ唱テ政府ニ迫リ其生命ヲ棄テヽ世界中ニ恥ル事ナキ者ハ古来唯一名ノ佐倉宗五郎アルノミ」と云つた、福沢先生は我が国に於ける民主的思想の開拓者である


戦争犯罪人たる禅宗坊主等

去日偶ま今より満二年前たる昭和十九年二月六日の東京『毎日新聞』を見ると、其第一面より第四面までの間に左の如き標目があつた、タツタ一枚の古新聞紙

マーシヤルの敵撃滅へ、我が大戦力発揮の秋、航程今や十時間、硝煙近し昭和の元寇
決戦議壇、闘魂凝る必勝決議、国民運動強力展開へ、政府と議会一体の成果
(社説)驕敵撃攘せよ、議会の終了と必勝決議、国民の総力結集時期
大陸航空決戦の新様相(隼戦闘隊勇士座談会)手の裏返す米英の横車、中立圧迫の事実
敵撃滅の大道(鎌倉建長寺菅原時保禅師)一億死を覚悟の戦ひだ、元寇を今に時宗の決断
犠牲に奮ひ立つ(徳富蘇峰談)勇猛心力説、敵に兜を脱がせる最捷路
内に儼たる決意、必勝決議提案の理由(清瀬一郎)、天地怒りを発す(大木惇夫)
積極の大道を闊歩せよ(吉川英治談)ただ凄烈な戦争あるのみ

実に力強いタノモシイやうな記事であつたが、さて今日に於ては、ハカナイ、偽の空言と見る外はない、そして右の禅宗坊主や文士共も、蘇峰同様、戦争犯罪人であると思つた、


歴史上に於ける昔の戦争犯罪人

戦争犯罪といふ無条規法は、既往にも及ぼし得る公法らしいから、これを我が日本国の歴史人物に適用しても好からうと思ふ、多くの敵人を殺したり、多くの民衆を塗炭に苦しめた大奸雄ナポレオンなどは、世界に於ける戦争犯罪人の巨魁であらうが、それに似た奴が我が国にも多くある、今の共産党員は御一人様をも戦争犯罪人だと云つて居る、その論法でゆけば、神武天皇や日本武尊等も戦争犯罪人に入れねばならぬが、それは神祖に対してアマリに無礼であるからやめておく(一々挙げればイクラでもあるが、オモな奴だけ)

源義朝
源頼朝
藤原秀衡
北条時宗
足利尊氏
楠正成
新田義貞
織田信長

此中で源義朝は俘虜虐待の罪もあつたらしい、楠正成の敵対行為は最もヒドかつた、大小便を釜で沸かし、それを敵兵の頭に注ぐなど、前代未聞のキタナイ事をやつたり、泣男を使つて敵を欺瞞する等、卑劣の所為が多かつた、今なら銃殺の死刑である

豊臣秀吉、徳川家康の両人は最も憎むべき悪漢、明治の西郷隆盛、乃木希典、東郷平八郎、伊藤博文、山県有朋、桂太郎等及び数十名は侵略支持者としての重罪人である


軍閥の巨魁西郷隆盛は大盗棒

明治初期に軍閥と云ふ語はなかつたが、軍閥その者は存在して居た、西郷隆盛はその巨魁であり、桐野利秋、篠原国幹、村田新八等はその閥下であつた、此西郷隆盛が征韓論を唱へたのは軍国主義、侵略主義の張本であるからだ、明治十年の錦絵に「都城新座顔見世」と云ふのがある、其一枚に市川団十郎が西郷隆盛に扮し、陸軍大将の服にドテラと羽織を着せ、百日鬘の大親分盗賊姿に描いてあるのが面白いので、予は大正十五年六月発行の『明治奇聞』第六篇に「軍国主義は大泥棒」と題し、百日鬘の姿を写真版として長い記事を載せた、その一節に、

西南戦闘記の類を見ると、薩軍は熊本城へ迫つた前後、肥前肥後の各部落を荒してゐる「人民貯蔵の米穀を掠奪し、野菜物を無償にて抜取り、酒醤油塩類を徴発し、鶏を略取し牛を殺して食ひ、金銭を強借し、婦女を強姦す」等、暴虐の行為ならざるは無しであつた、これだけでも、盗賊の長たるの資格は充分である……軍国主義者を大盗賊に見立てたのは、時勢超越の新思想から出た傑作である

と記述した、此西郷隆盛一人だけでない、軍国主義は悉く大泥棒である、


日本がマケルとの予言的中

先年東京帝国大学の教授であつた法学博士渡辺鉄蔵氏が、戦時中大坂翼賛会支部の座談会席上で「今度の戦争は結局日本がマケル」と云つたのを、反戦思想と見倣しての検挙、裁判所で懲役数ヶ月の刑に処せられ、執行猶予であつたが、昨年の終戦後、ドウダおれが云つた通りぢやないかと、誇り顔で居るだらうと推察する、戦時中不謹慎の放言だとの誹りはあつたにしても予言的中には相違ない、裁判所では流言蜚語として刑に処したが、其実は流言飛語でなく理智的推論であつたのだ、我輩なども、当時日本の弱目を説き、大に憂慮して居たのである、日本の戦報中に、敵が量をたのんで推寄せて来るには困るとの悲鳴を度々あげて居たが、敵が大国であり富強である事は始めから判りきつた事、其量をたのむのは正当であり、又勝ちを制せんとする予定の戦法であつたのだ、飛行機の製造数だけでもアメリカ様は日本の数倍以上、シカモ量ばかりでなく、其質に於ても此方に優つて居た、B二十九の如きは日本に一機もなく、科学的進歩の武器、照明弾、時限爆弾、新焼夷弾などの先端的な発明もなく、質量共に劣り、日本がマケルに定つて居た、それを渡辺氏が検討しての推論、予言的中は当然であつた


萬朝報に出た社会主義者の非戦論

明治二十五年十一月一日創刊の「萬朝報」と云ふ日刊新聞は、社長黒岩周六(涙香)の悪辣な脅喝手段の機関であり、其所得の財力で多くの文士を記者に引入れたが、因果の冥罰で晩年甚だ振はず、終に没落した(近頃何者か復興再刊の広告を出した)其全盛時代の明治三十五六年頃には松居真玄、斯波貞吉、円城寺清、内村鑑三、松井広吉、山県五十雄、三木貞一など数十名の記者がおり、社会主義の幸徳伝次郎、堺利彦、石川三四郎も居た、其後日露間の風雲が不穏になり、開戦論者続出せし中に於て、内村鑑三、幸徳秋水〔伝次郎〕、堺枯川〔利彦〕の三人は非戦論を紙上に発表したので、軍閥の反感で朝報社に圧迫が加はり、遂に内村幸徳堺の三人が放逐された、明治三十六年十月十二日発行の朝報紙上に内村鑑三が退社の挨拶を述べ

国民が挙つて開戦と決する以上は、小生がこれに反対するは小生の忍ぶ能はざる所に御座候、茲に至つて小生は止むを得ず、論壇より退く事に致し候……

社会主義に基く「朝報」紙上の非戦論は、四十余年後の今日も、なお精読すべき真価がある、又これをアメリカ様に提供して、我日本に純真の非戦論者があつた事を示したい


神風と云ふのが真にあつたか否

神慮発して神風と成るとや真か、元寇の昔、神風が吹いて海が大いに荒れ、敵船は悉く覆り、敵兵は皆溺死し、生きて帰る者僅に二三人であつたと云ふが、それを事実としても、偶然の暴風を神風とコジツケたのである、世間にはそれを信じて居た迷信者が多くあり、日米交戦中の昭和二十年春頃、米軍が南方の日本領土へ押寄せて来た時、今に神風が吹くぞと云ふ者があり、又それを祈る者もあつたが、風は自然の気象事態、又ありもせぬ神が風を起すなど云ふのも、非科学的の妄誕である、果して神風も起らず此方の敗亡であつた
此の神風と云ふのを語彙で調べて見ると、『俚言集覧』に神風とは伊勢国の枕詞で、神風の伊勢の乙女など云ひ、其神風とは神のめぐみと云ふ意、何故風をめぐみと訓したかも判らず神風とは空吹く風の事ではないとしてある、尚他の辞書を見ると「神の威力によつて起る風」とあるのみ、元寇の時の暴風を神風と云つたのは、支那燕王時代の「神風三陣敵師頃刻亡」といふ諺を取つて付けたらしい、日本の歴史には斯様なウソが多くある
これは戦時中アメリカ様が神風といふ日本の迷信的妄語を抹殺して下さつた一事


官僚亡国論か軍閥亡国論

鎌倉時代に日蓮上人が真言亡国論を叫んだのは、我日本に於ける亡国論の開祖であらうが、明治時代に佐田介石がランプ亡国論を唱へ、加藤弘之が基督教亡国論を唱へて以来、警戒的又は誇張的排斥的に続々と亡国論が出た

ランプ亡国論
基督教亡国論
華族亡国論
俳諧亡国論
絹布亡国論
小説亡国論
赤湯巻亡国論
食パン亡国論
競馬亡国論
囲碁亡国論
舞踏亡国論
栄爵亡国論
ビリケン亡国論
淫売亡国論
憲政亡国論
謡曲亡国論
肉食亡国論
朝寝亡国論
株式会社亡国論
恩給亡国論
金融亡国論

以上は新聞や雑誌に掲出されたもので、単行本としての発行は、古い『食パン亡国論』と昭和六、七年の多産亡国論と金融亡国論と二種だけである
そして此亡国論の予言が的中したのは一つもない、日本に生れて日本で食へなく、外国へ出稼ぎしたのが、軍国主義、侵略主義の起りであるとすれば、多産亡国論が実現したのだと云へるが、それよりも近頃の常識たる官僚亡国論、軍閥亡国論の方が適切である


皇軍聖戦の婦女強姦と物資掠奪

去る一月三十日の東京『朝日新聞』に支那の延安から野坂参三氏と共に東京へ帰つて来た共産党員の香川孝志と云ふ人の感想談を掲出してあつたが、その帰途見聞としての一に

「日本軍の各地に於ける掠奪ぶりを見て、皇軍の聖戦とはこんなものかと意外に思ひ、初めて眼のさめる動機となつた」

此前に日本軍の将校や兵卒が南洋で婦女を強姦した事実談を聴いたこともあつたが、右の掠奪ぶりと云ふ記事を見て、我輩も亦眼がさめた、皇軍、皇軍と云ひ、又聖戦、聖戦と云つて居た位だから、強姦や掠奪等は無いものと思つて居たのである、然るに右の次第、呆れざるを得ない、尚アメリカ様の報告に拠つて、日本軍の将校が俘虜を虐待殺傷した暴行などが知れたので、皇軍の聖戦といふことの虚偽なるを充分認識するに至つた
抑も、皇軍の聖戦と云ふことが大味噌であつた、皇軍とは天皇の軍隊、聖戦とは神聖の戦争、天皇即ち神様の命令によつて動く征伐との意であるとすれば、大きに笑はせるではないか、今後はアメリカ様のお蔭で、皇軍の聖戦など云ふことが、絶対に無くなつたのを祝する


終戦に反対せし熱狂軍人の檄文

日本軍が無条件降服と決定した終戦当時、陸海の軍人中には反対者も多くあつたのであるが、何者とも知れない熱狂軍人が、左の如き文句の印刷物を散布した、題は「全国赤子ニ訴フ」

ー、敵ハ畏クモ玉体ヲ沖縄次デ比島ニ人質トシテ御遷シ奉ルベキコトヲ放送シ来レリ
ー、最後ノー人ニ到ル迄抗戦ヲ継続セザル所断ジテ御国体ノ護持ナシ
ー、陸海軍ハ徹底抗戦ス 一億国民ハ我等ニ続クヲ信ズ
一、ヤガテ内外攘夷ノ御大詔ハ渙発セラルベシ
ー、陛下ノ赤子ヨ未ダ軍ニモ国民ニモ停戦ノ御命令ハ発セラレシニアラズ
一、独逸ノ惨状ヲ想起セヨ婦女子ハ計画的ニ強姦セラレ民族ノ血ノ純潔ハ破壊セラル
一、敵ハ重慶ニ「ニユギニヤ」ニ「アフリカ」ニ数千万ノ奴隷提供ヲ要求シ来レリ
一、国民ヨ起テ「ユダヤ」ノ甘言ニ惑ハサルヽ勿レ 魂ニ錦ノ御旗ヲ戴ケ
大日本皇国万歳 天皇陛下万歳        皇陸海軍

智慮は浅薄だが、其忠愛心の熱烈なるに感じ、茲に録して皆様及びアメリカ様の参考に供します


米軍が飛行機より投げたビラの文句

昨年の五月頃、アメリカ様の来襲飛行機が東京近郊の上空より撒布したビラの一つに左の如き文句のものがあつた、表面には倒れた家を二人で引き起こす体の図画がある石版黒色印刷

我家が倒れそうな時に逃げる者はない、倒れない中に悪い所を修繕する
日本は国難に直面して居る、即ち軍閥が国家の腐敗部分である、軍閥が自己の力に就いて諸君を欺いて居ると云ふ事は最近の日本空襲が証明して居る、軍閥を取替え、自己を保ち、以て国家を救え!

「軍閥が国家の腐敗部分である」とは仰せの通りであつた、それを日本の国民が早く気付いて軍閥の跋扈を防いだならば、今日の悲境に陥ることもなく、安全生活を続け得たのである、今更悔いても及ばない始末です、憎みても尚余りある軍閥、呪はずには居られない
「最近の日本空襲が証明して居る」これも軍閥の奴共が、国民に対して、敵機を日本の上空には入れさせない、海上で撃退するから安心して居ろと、再三の豪語であつたが、東京始め各地に於て荒されたのを防ぎ得なかつた事実についての言明である、これも仰せの通り


疎開中の操觚たる手わざ

疎開はアメリカ様のお蔭でなく、軍閥や官僚の無謀な野心で、我々が蒙つた損害の一つである、昭和十九年十二月四日より同二十年の八月十六日までの間、予は多摩川の支流たる大栗川へ魚釣りに行つた際馴染になつた南多摩郡多摩村上和田、愛宕山麓の関井と云ふ農家の階上階下の二室を借りての疎開、晴釣雨読、殆ど毎日、鮒や鯉釣り、雨降りの日は階上で読書、其間に武玉川、柳樽、柳樽拾遺等の柳句中より類別の抜記、金屛風、銀煙管、呉服屋、貸本屋、花嫁、花婿、国づくし、文字づくし、新世帯、座敷牢、勘当、妾、妻、夫婦喧嘩、持参金、時鳥、迷信、それみたか、たとへ語等、約五十余の類題に分けての句集であり、また対句をも並べて見た

城をさへ況や蔵においてをや
あつてさへ況や後家に於てをや

鍋鋳掛足一本は無芸なり
手一本無くして掛る縫箔屋

今の目は誰を見やると姑ばゝ
口に称名まなこでは嫁をねめ

心中はほめてやるのが手向なり
山出しは笑ふてやるが指南なり

丙午遠い所から結納が来
花嫁に時々化ける丙午

白鷺は五位鷺よりも暮のこり
五位鷺は白鷺よりも反り返り

対句は此ほかに数十ある、類題中で面白い句の多い独身者(ひとりもの)を次ぎの頁に摘載する


独居生活の一人者(ひとりもの)

近頃は戦災のため夫か婦の一人者が多い、然しそれは独居でなく他家の厄介者だから該当せぬ

一人者、かみさん達になぶられる
屁をひツておかしくもない、一人者
一人者、お茶の沸く頃飯は済み
たまさかに煙りをたてる、一人者
一人者、味噌は買へども音はせず
餅のある内はなまける、一人者
一人者、小面倒なと二升炊き
香の物隣りへ漬ける、一人者
一人者、たなちん程はうちに居ず
金槌で度々あける、一人者
一人者、客に暫く留守をさせ
惜気なく床を放れる、一人者
一人者、綻び一つ手を合はせ
綻びと子をとりかへる、一人者
一人者、隣りの娘うなされる
用向の隣りへたまる、一人者
一人者、内からしめて頓死する
居続を隣りで叱る、一人者
一人者、死ぬと糠味噌までさがし
友達に寝るぞ帰れと、一人者
一人者、やれ茶をくれろ火をくれろ

以上の外にマダ八句ある


戦時中の駄作たる川柳狂句

一昨年(昭和十九年)の二月頃、予は得意でもない川柳を三十句ほど作つてみた、狂句か駄句か知れないが、それを其頃友人に示すと、面白いと云ふ者あり、これはケシカラヌ、此句を公表したら、サアベルが「チヨツト来い」ですよと云ふ者もあつた、アメリカ様のお蔭で、言論自由の今、これ位のこと何ら差支なしの時代、句の巧拙に拘らず、時相観察の料にとて摘録

長期戦、昔は前後十二年
長期戦、今は見越しがつかぬなり
前戦は修羅道、銃後は餓鬼道
敵屠り、此方のマケは玉砕け
肉体の増産、「産よ殖せよ」なり
口ばかり滅私奉公の奴があり
防空壕、畠に似たるおとし穴
新聞は迎合、飛語は反戦よ
食ふ者は腹八分にみたぬなり
三食を二度粥にして尚足らず
外食券なくてケンツクだけを食ひ
一億一心いづれもひだるがり
今が儲け時なりと云ふ諸役人
買物はヤミ値でなくば抱き合せ
手みやげにやりたい物は何も無し
あるものはペラ札ばかりカミの国


身を投げた上を屋形で三下り

江戸時代の川柳作家は実に技巧的の妙句を多く吐いた、これも其一つである、家庭の悲劇で両国橋の上より身を投げた人のあつた場所との評判、そこを日本橋辺で名高い問屋の主人が、柳橋の芸妓をつれての船遊び、二上りの太調子でなく、粋な三下りの爪弾き、低唱浅酌の対座、人生の快事此上もない男女が、有意か無意かは問ふ所でない、前夜近所のお嬢様が袂に石を入れての冥土行き、恋無常、イヤ無常と恋、その穿ちの対照が句の妙趣である、川柳を作るのならば、これ位の情操発達家に擬せらるべきの技巧がなくばならぬと、聊か感寸のあまり、おれも一句と考へてみたが、なかなか以て所詮及びもつかなかつた
場所は両国橋の上流辺として、焼死者の多かつた向島、その焼跡を茶屋から出た自動車の合乗りで通過、男は近頃流行の若いピストル強盗、淫売婦をつれた男女のイチヤツキ、「焼け死んだ町を車で乱調子」では句にならない
外食券なくてケンツクだけを食ひ、の狂句か、一億一心いづれもひだるがり、の如き低級な駄句を作る位の頭では、とてもおはなしにならぬと悟つた、イヤハヤ


短句と云ふ最少十四文字の詩

前に平民詩たる川柳のことを掲出したから、ここには同じ系統に属する短句のことを記して置く、和歌、道歌、狂歌、これは「みそひともじ」と云ふて、いづれも「五七五七七」の三十一文字であるが、情歌の都々逸は「七七七五」の二十六文字、俳諧と川柳は「五七五」の十七文字に定まつて居るが、それよりも少い「七七」の十四文字のものがある、それを短句と称した、今より二百年前の宝暦頃に流行したものである、これは連歌の前句「五七五」が俳諧になり川柳になつたので、あとの「七七」が此短句として独立するやうに成つたのである、古い例句を左に示す

鶴の死ぬのを亀が見てゐる
皆臍からと思ふ小供等
津浪の町の揃う命日
昔の質は人間を置く
道理片寄れ無理がお通り
見失ふたる雪中の鷺
男ありけり女ありけり
酒から喧嘩、喧嘩から酒
どちらが馬鹿か釣もしてみろ

短句に同じ十四字の俚諺が多くある、帯に短し襷に長し、色の白いは七難隠す、人の噂も七十五日、長い浮世に短い生命、楽は苦の種苦は楽の種、郷に入つては郷に従へ、喉もと過ぎて熱さ忘れる、是等は短句が俚諺になつた様だが、古い短句の中にはこれらの句は一つもない、


明治の言論圧迫時代に於ける不敬罪

近頃嬉しい事の多々ある中、その最も大きな嬉しい事は、アメリカ様のお蔭で、我々の言論が自由になつた事である、日本の憲法では人民に言論の自由を許すとあるが、それは法律規定の範囲内に限るとされて居るので、ホントの自由でなくて不自由至極であつた
それで明治八年以後、新聞紙条例違反として記者が重刑に処せられた事が数百件であつた、又演説者が集会条例違反及び、刑法の犯罪として罰せられた事も数十件であつた、其中で最も重く罰されたのは、天皇に対する不敬罪であつた、明治十四年十月、東海暁鐘新報攪眠社長の前島豊太郎は、静岡の劇場に於ての演説中「財を盗む者は賊、国を盗む者は王」といふ老子の語を引き、神武天皇は日向の一豪賊であると云つたので、禁錮三年罰金五百円の刑に処せられ、同会主の荒川高俊も亦禁錮三年罰金二百円であつた、その後、高知人の森田馬太郎は重禁錮四年、千葉県人の山田島吉は重禁錮二年、京都府人の大庭成章は重禁錮四年、いづれも不敬罪である、同十六年十二月、新潟日日新聞に、推古天皇は孱弱無智の婦女子と掲載したので、社主、編輯人、投書人の三人は各重禁錮十ヶ月の刑に処せられた


上は天皇陛下より下は橋の下の乞食まで

前の頁に略記した事の外、不敬罪で罰せられた者は数十名あり、善光寺の尼様は皇族であつたが、其説教を聴いて居た者が、其美容を見て「尼にしておくのは惜しいナア」と云つたので、重禁錮五ヶ月の刑に処せられた事もあつた、又或者が演説中「上は天皇陛下より下は橋の下の乞食に至るまで」としやべツたので、其演説は中止となつて解散を命ぜられたが、弁士は承服せず、臨監の警察官に向ひ、一般の者と云ふ意の例語に過ぎないのであるに、なぜ不穏と認めたかと詰問すると、其の答へに「上は天皇陛下と云つて、すぐに下は橋の下の乞食に至るまでと云つたのは、天皇と乞食とを対照にした不敬の語である」との説明、弁士は其非常識に呆れて居たとの話を明治十七年の春頃聴いたことがあつた、斯程までに勿体が付いて居たのである、予も亦明治二十二年二月発行の「頓智協会雑誌」第二十八号の図画と記事につき、不敬罪犯として発行兼編輯人の資格で、重禁錮三年罰金百円の重刑に処せられ、印刷人の徳山凰洲は重禁錮十ヶ月罰金三十円、挿絵画工の安達平吉(吟光)は重禁錮一年罰金五十円であり、三人共石川島監獄署で其刑の執行を受け、予は上訴期間とも三年八ヶ月の在獄であつた


帝国憲法に擬した頓智研法発布式と其研法

誠にクダラナイ事で、今更お恥かしい次第であるが、事実のまゝを申し上げる、明治二十二年二月十一日の紀元節に憲法発布の盛典があつたので、全市には熱狂的の祝意を表した催し物があり、絵草紙屋には、憲法発布式の錦絵が数種出るなど、前例のない賑ひであつたにつき、其発布式に擬した頓智研法を会員に渡す狂画を掲げ、次ぎに頓智研法発布の囈語、「我協会ノ隆昌卜会員ノ幸福トヲ以テ無上ノ栄誉トシ云々」など勅語に擬した文句を並べ、十大臣に擬して会員十名を列記し、大日本頓智研法、第一条「大頓智協会ハ讃岐平民ノ外骨之ヲ統轄ス」など埒もない事を記述したのであつた、何も悪意はなく駄洒落文句で自慢を云つたに過ぎないものである、然るを重刑に処したのは不当であるとして、不服控訴、上告をもやつたのであるが、結審では、何らの悪意がないにしても頓智研法の授与式に宮武外骨を表示せる骸骨を描いたのは、天皇陛下に擬した所へ、人の忌みふう骸骨を配したのは不敬であると判示されたのである、それなら軽い刑でよい筈、三年とは重きに失すると云つて不服哀訴までをもしたが、其効もなく原審のまゝで確定した


肉体上の禍害が精神上の幸福であつた事

心身同一体と見れば、禍が転じて福となつたとも云へやう、三年八ヶ月の在獄は、予の一代に於ける最大の苦痛であつた、さりながら逆境に処して其苦痛を他へ転換する方策を考へ、精神の修養と身体の鍛錬に注意し、日夜心理学の研究に没頭した、その利益は出獄後より今日までにも続き、奇抜の妙想、苛烈の言動、天下無類の創業、毀誉褒貶を気にせず、偽悪人と呼号して憚らず、冷嘲熱罵、反上抗官、直言直筆、不撓不屈、過激執拗、官僚や軍閥を敵として終始かはらず、貴族富豪を嫌つて其存在を呪ふなど、所謂威武に屈せず、富貴に淫せず、顧みて衷に疚しき事なく、俯仰天地に恥ぢる所なしとして、意志堅実、強情我慢に我儘気儘を押し通せたのも、皆是れ三年八ヶ月間、モツソウ飯を食つた報償だと思つて居る
これを肉体上の禍害が精神上の幸福であつたと見て居るのである、予が若し三年八ヶ月間入獄しなかつたならば、当時酒色に耽溺の放縦者、其後如何なる境遇の者になつたか知れない、これを想へば禍が転じて福となつた予の入獄は誠に仕合せであり、また官僚の迫害に対する反抗心が、予の一代をスネモノに造り上げたものと見れば、どうであらうか


往年の外骨筆禍雪冤祝賀会

昭和九年九月、友人尾佐竹氏より意外の通告に接した、それは法制局長官であつた井上毅が伊藤博文に送つた「検察官並ニ警察官ノ弊害」と云ふ文書の一節(秘書類纂所載)

「其取調ヲ掌ル吏属其人ヲ得ザルガ為メ事ヲ尊大ニ取リ謂ハレナキ獄ヲ起シ政府ノ信用ヲ墜スノ結果ヲ生ズルコト常ナルニ在リトス其例ヲ挙グレバ頓智協会雑誌記者ガ不敬罪ヲ以テ告訴セラレタル事件ノ如キ実ニ抱腹ニ堪ヘザル事卜言ハザルヲ得ズ」

警察官吏や世間の無理解者共は予を目するに前科者を以てし、彼は不敬罪を犯して重刑に処せられた不埒者なりとの罵声を聴き、其痛恨肺腑を衝て終夜不眠の事もあつた、これ畢竟枉法冤罪の結果、終生拭ふ可らざる汚名を着せられたのである、その腹癒せとして仇敵の官僚バラに痛撃を加へて自ら慰むるの外なしとし、これより反上抗官の態度に変じ云々
然るに右の通告に接して予が冤罪であつた事の証明を得たワケ、同年十月十一日尾佐竹氏と長尾氏とが発起人となつて、日比谷公園内の松本楼で外骨筆禍雪冤祝賀会を開いて呉れ、友人四十三人出席の盛会であつた(以上は「公私月報」の記事を抄録)


無政府共産主義者の大逆事件

昭和五年の春頃であつたと記憶する事、宮内省の明治天皇詳伝編纂係より明治文庫へ電話で、明治四十四年一月の『法律新聞』第六百九十三号がありますか、否かと云ふ問合せであつた、予は直ぐに「ありますよ」と答へたので、大喜びで若い男が、早速やつて来たから、如何なる次第で見たいのかと訊くと、実は内務省や警視庁は勿論、諸方へ問合せても、何処にも無いので当惑して居たのです、宮内省の日記中に、明治天皇に関する不埒な記事があるので其発売を禁止し残本を差押へた上、配布先からも取返して焼却したと云ふ程なので、何処にも無いのです、それが此文庫に保存されて居たのは幸でありましたと云ふ、それから実物を通覧して「わかりました」と満足の体であり、その要所を示されたのを見ると、幸徳伝次郎一派二十数名にかかる大逆事件(明治天皇暗殺計画)の公判記事中に「近来政府の迫害甚だしきを以て、決死の士を集め、爆烈弾其他の武器を与へ、暴力革命を起し、諸官衙を焼払ひ、富豪の財を掠奪し、それより二重橋に迫り、番兵を追払ひ、皇居に侵入して大目的を敢行せんと計画し居る旨を告げ」云々など畏ろしい記事のある次ぎが、肝腎の所、それは頁を改めて……次ぎに


天皇の神聖を無視した記述

さて『法律新聞』が発売禁止になつた肝腎の記事は、同記者が被告人の予審調書中にあつた文句を其儘紙上に公表した為めであつた、民主的アメリカ様のお蔭で、今茲に其記事を転載し得る自由の時代になつた事を喜ぶ

証人高宮伝次郎の予審調書中、証人が職務上、坂本清馬に尾行中、或日松尾宇一太宅に於て松尾と坂本の対話中、坂本は「ドウセヤルナラ早クヤツタガヨイ、天皇モ糞モアツタモノデナイ」と云ひ、松尾は「天皇トイツテモ五臓六腑ヲ備ヘタ同ジ人間ダカラネー」と申したるを聴きたることある旨の供述

此言葉を誰も否定する者はないが、官僚は憲法の条文に「天皇は神聖にして侵すべからず」とあるのを楯にして「同じ人間である」と云ふ事を云はさない事にして居た、今より十五年前、某学者が東京裁判所で「天皇陛下と云つても我々と同じ人間ぢやありませんか」と云つたので検事に叱られ、左様な理窟は云はない事になつて居るのです、強いてそれを主張するならばアナタを不敬罪犯として検挙しますとオドサレ、人を馬鹿にしてゐるとの憤慨であつた


人でない神と見るか否かの問題

去る三月初旬、東京『毎日新聞』硯滴に、左の一文があつた、サスがに本職だけあつて、我輩などのとても及ばない筆致の巧妙さがある、と褒めて置いて、本書の二頁を埋める

天皇陛下が戦災地の民衆の中を歩かれ御車を囲む民衆の心からの万歳を浴びられ。こんな光景が何を意味するかをいふに及ばない。殊更に有難がつて意味づけない方が意味が深くなるが、半年前まで、行幸の前後長時間交通遮断をされた日本人が夢にも思はなかつた事実である。「日本はそれほど神秘的でない」と云つた米人があるが、これは終戦後の新現象ではない。皇室を神秘に祭り上げたのは明治以来藩閥的、官僚的な政治意図によるものであつて、人民は別に皇室を非人間的な存在と思ふ者はなかつた、だから「陰では天皇様の事でも色々云ふではないか」といふ新しい諺みたやうな言葉がある。英国の皇室と人民との関係などを引いて、日本の皇室をかくまで、人民から疎隔する必要ありやといふ、極めて当然の疑ひは、知識階級に抱かれたが、かふいふ事が「陰で」なければいへなかつたのだ

これからあとがマダ長いから次の頁に


封建的官僚政治の時代に於ける言論圧迫

「想ひ起す、故森田思軒が、一文を草して黄海(日清戦争の海戦)のいはゆる霊鷹は霊に非ずと説くや、天下皆彼を責むるに国賊を以てしたりき、久米邦武氏が神道は祭天の古俗なりと論ずるや、其大学教授の職を免ぜられたりき、西園寺侯が所謂世界主義的教育を行はんとするや、其文相の地位を殆うしたりき、内村鑑三氏が学校で勅語の礼拝を拒むや、その教授(一高)の職を免ぜられたりき、尾崎行雄氏が演説で共和の二字を口にするや、その大臣の職を免ぜられたりき、彼等は皆大不敬をもつて罵られき、非愛国者をもつて罪せられき、これは明治聖代における日本国民の愛国心の発露なり」とは、明治三十年頃の幸徳秋水の論文の一節である。当時の秋水は、不敬問題を危険とする皇室観念を抱いてゐたのだ。昨今憲法改正案に、出来るだけ現状を維持しようとするものは、民衆の中を歩かれる皇室を「宮城」の中に押しこめようとするの危険を思はねばならない。

右の幸徳秋水は、マダ大逆事件の巨魁に成るまでに亢進して居なかつた時に書いた文章であらう、その方が説文の意義を深からしめる


天皇制打倒を綱領とせる共産党

昨年来アメリカ様のお蔭で言論が自由になり、共産党などは綱領中に公然と天皇制打倒を入れ、去る二月十三日の東京『朝日新聞』には「民主主義革命の展開、野坂参三」と題せる十段ヌキの論文を掲出したが、其中の天皇制の問題では、率直に

現在の天皇は軍部と同様に、戦争の最高責任者の一人であり、戦争犯罪人の一人である、もし天皇に、いさゝかの責任感があるならば、即事退位すべきである、

これが言論自由の範囲であるにしても、囚はれた旧想の失せない我輩などは、一読悲痛の感が起つた、これが若し明治時代でなくも、昨年八月以前の事であつたなら、編輯人発行人投稿者は不敬罪犯として各禁錮五年位の重刑に処せられたであらう
天皇制存廃の問題は、各方面に於て論議され、其可否の解決がマダつかず、今後の重大問題であるが、我輩は其存廃のいづれに決定するにしても、官僚の独断でなく、大衆の多数意見ならば、それに服従するが、若し廃止に決定する際は、政治圏外に於て皇室を永久に存続する別途を講じて貰ひたいのである


南方に於ける地名の記臆法

一昨々年、南方で日本軍の空景気がよくて、アメリカ様や英兵の不利であつた時、新聞紙上にその戦況を報道された記事中、我々旧式の日本人には覚えにくい地名が多かつたので、ある日考えて作つた記臆法の愚案、洒落でも風雅でもないクダラヌかけ言葉

思つたよりも カルカツタ
闇の高値で ボルネオ
洋本の厚表紙 シンガボール 否ポール
爪哇を社婆とも書いて ジャワ
馬が礼に来る マレー
餅いるの逆さ チモール
いやに金持 ブルネー
すらすら行かばやの スラバヤ
韮ニンニクの マニラ
相撲とらうの スマトラ
女学生の笑ふ ××ツカ
バタを出したビヤホール バタビヤ
非立憲らしい ヒリツピン
留守して損した ルソン

貴重の時間を費して、よくもマアこんなツマラナイことを考へたものだと、自から呆れたことだが、貴重な時間を費したことだから、貴重な紙面を埋める


社会主義尻押し論で禁錮二ヶ月

明治四十三年一月の事である、予は禁錮二ヶ月の刑に処せられた、その理由は予が発行の雑誌『滑稽新聞』や『活殺』で、極端なる社会主義は現政府を脅喝するの用に適す、との主意を掲出したが為めであり、其判決理由は数十枚に渉る長文であつたが、論旨の要点

我輩が常に社会主義者の提灯持記事を掲げたり、また曾て社会主義者の尻押しをして、大阪平民新聞を発行せしめたなどは、政界革新の捷径は、現政府者が最も畏れつゝある所の極端なる社会主義者を使嗾するより外に途はない、その使嗾が現政府者の反省となり、随つて国民の利益に成つて居る、そんな事をしては、社会主義者がアバレルかも知れない、マア見合せた方がよいとか、或は労働問題に就ても、富豪等の利益のみを計つては、又騒動が起るかも知れないと云つて、政策を変更した事実などがあり、是れ即ち、極端なる社会主義者が現国家に利益を与へつゝある所……官僚が我々の言論を倍々圧迫するならば……

との論歩をすゝめて「一方の裏面運動に於て、社会主義者が唱道する矛盾行為を敢てする決心である」など記述した事項が、新聞紙法違反の社会秩序紊乱罪に擬せられたのであつた


警視庁が雑誌を押収した悪辣手段

明治政府が社会主義者を大いに圧迫したのは日露戦争後であつた、会社や商店を威喝して同主義者を解雇せしめたり、商業取引を止めさせるなど、生活を困難ならしめた外、主義の宣伝に重圧を加へて進退不能の窮状に陥らしめた、暴戻の大逆事件が起つたのも偶然の事由ではない、社会主義の新聞雑誌、又は当局者が危険と認めた言論機関などに対する圧迫手段は、其印刷物を頒布以前に押収する事であつた、警察官はあらゆる活版所に犬を潜在せしめており、その犬がこれはと思ふ印刷物は、マダ印刷に取り掛らない前のゲラズリを警察官に内々手渡しする、警察官はそれを秩序紊乱と認めて押収する事に決定すると、活版所または製本屋の近傍に刑事巡査をひそませ置き、出来上りを注文主へ届けんとて、車に積んだ所を差押へるのである、其時注文主が押収と決定ならば、印刷終了を待たず、早く知らせてくれゝば印刷もせず用紙の無駄使ひにもならぬと談判してもダメ、それは印刷料を浪費させ、運動力を弱らせるのが目的であるからの事、『大阪平民新聞』なども、右の悪辣手段で十数回押収され、予が出金した約五千円は何の効もない印刷料の支払いに浪費したのであつた


三幅対として東京の三新聞(一)

朝日新聞、毎日新聞、読売報知、此三新聞の外に日本経済新聞といふのがあるけれども、それは第二流に属するもの、右の三新聞が三幅対として床の間に掛けられるのである
此三新聞はマダ、アメリカ様の命令に接して居ないが、いづれも猛烈に侵攻記事を続載して軍閥、官僚擁護の御用を勤めたものであつた、挙国一致、一億一心の強制、若しも反抗らしい記事を書けば、忽ち発行を禁止される恐れがあるので、止むを得ず迎合態度であつたと弁解するであらうが、それにしても表面から云へば戦争犯罪人に相違ない、徳富蘇峰がやられたのは、毎日新聞所載の論陣が主なものであつたとすれば、三新聞の主筆や編輯長等もヤラレねばならぬ筈だと思ふ、読売社長の正力松太郎が羅致されて居るのも、新聞関係もあるやうだと見れば二社の社長もまた安全な身ではあるまい
戦争犯罪といふのが、戦争指導、戦意激励の行為を云ふのであり、その犯罪を罰するのであるとすれば、試みにここ数年来の古い新聞紙を披いて見れば、その敵愾心挑発と戦意昂揚に努めた事実が明瞭するのである、それを捕えて厳罰に処せられても仕方があるまい


三幅対として東京の三財閥(二)

三井、三菱、安田の三財閥、此財閥が軍閥や官僚と荀合して、無謀の戦争を起させ、その結果が我国開闢以来未曾有の惨事となつた、これを思へば、軍閥や官僚と共に此財閥をも撃退せねばならぬ、然らば如何にして撃退するかの問題、これは資本主義を排斥する社会主義者、共産主義者の手段による外はない、公法で全財産没収か、或は彼等の自然消滅を期する政策の運用である、それには彼等の庇護を受けて居る自由党や進歩党、さては彼等と馴合つてゐる官僚政府などでなく、民主政府の確立を待つて此搾取的国賊の撃退を計らねばならぬ、
財閥は常に官僚の保護を受けて私腹を肥やしたり、或は法網を潜つて暴利を貪るなど、良からぬ悪事を重ねて居るのである、今茲に公表された其悪事の一つを挙げて置く、昭和十八年九月支那の山西省内に於ける三井物産会社の出張所長であつた山本正二と云ふ者が、日本軍律によつて監禁十ヶ年の重刑に処せられた、その罪科は日本の作戦地域内で、十数回に渉り敵軍に物資を売込んで居た事が発覚したのであつた、利己本位の三井重役に此乾児のあつた事は怪むに足りない、此一事で財閥の裏面を窺ひ得るであらう


三幅対として東京の三論士(三)

尾崎行雄(咢堂)、徳富猪一郎(蘇峰)、三宅雄二郎(雪嶺)、此古い三論士を三幅対とする、尾崎咢堂は民主的政客の長老である事を別の頁に記述したから茲には省く、徳富蘇峰は予の最も嫌ひな者であり、雑誌の『面白半分』や『公私月報』で数回にわたり痛撃を加へた事がある、此蘇峰が戦争犯罪人として、アメリカ様の逮捕命令を受けたのは、近頃の痛快事であるとして居る、此蘇峰は言論界に於ける戦争犯罪人の巨頭であらう、数年間数十回にわたつて軍国主義の宣伝と敵誹謗の曲論を公表して憚らなかつた、試みに昭和二十年二月二十一日発行の『毎日新聞』にある十二段ヌキの所論を見て、此の一回だけにても死刑に相当するものと思つた

大権発動の急務(蘇峰 徳富猪一郎)旧令古慣を断ち切り、青年に活舞台、粉砕せよ日本抹殺の妄想(細目には、指導者よ目覚めよ、黙視出来ぬ時局など数項あり、皇国革新十箇条)

天皇の大権発動で急務十ヶ条の大詔を渙発せよとの論である
あとの三宅雪嶺は前政教社の主宰者、後に女婿中野正剛と共に我観社経営であつた、此論壇の老雄者、近頃その消息を聴かないが、昨年十月頃他界へ去つたとの説がある


三幅対として東京の三書肆(四)

出版書肆と云はれて居た講談倶楽部の講談社、主婦之友社、文藝春秋社の三社、此三社の末路が一快事である、それはアメリカ様即ちマツクアーサー元帥の司令部より出た旋風に基く大日本出版協会の出版界粛清と云ふ網にかかつて、此三社が其主要雑誌を廃刊せねばならぬやうになつた事、戦熱をあふり戦時に金儲けした戦争犯罪の因果である
講談社の野間某、前代の野間清治は出版界の大香具師と呼ばれたイカサマ人物であつた、その跡を継いだ某、ロクナ奴でない筈、主婦之友社長の石川某、これも女性食物のイカサマ人、文藝春秋社長の菊池寛、これは文壇のシタヽカ者、戦争犯罪でやられてもよい有罪人である、此奴共が出版界粛清のため没落に瀕したのは、当然の成り行きであらう

講談倶楽部と主婦之友は廃刊と決定、文藝春秋は存廃未定であるが、これも打ツ潰されてよい、生かして置くべきでない

此三幅対として東京の何々、いづれも嘲罵の種となつた、よくもまあ斯様に悪く云へたものだと怒る者もあらう、半米人たる著者は闇討されても構はない覚悟の執筆である


変テツな仮名交りの漢語

今より五十年ほど前の明治末期に報知新聞社が漢字を制限して常用を二千字とし、それを紙上で実行して居たが、種々の不便が生じたので、いつしか止めになつた、今度は読売新聞社が、アメリカ様の革新意見に従ひ、文字の民主化と称し「わかりやすく、読みやすく」四千六百余の漢字使用を半減の二千三百字とする事にし、それを去る二月下旬の紙上より実行して居る、試みに点検して見たが、わかりやすくも読みやすくもない

聯合軍総司令部の粛正令に政界は其帰すうを失ひ(趨)
封建的じゆ教(儒)
文部当局の政治的性格を分せきすること(析)
いい加減なおく測(臆)
自由党は封建的詐欺師であり、赤禍の亡霊をでつちあげ、人民を恐怖におとし入れ、共産党をぶ告して其投票を横領せんとして居る(誣)

同社告に「将来文部省等の国語民主化案具体化の場合、其方針に従ふ予定」とあるのは好いとしても「本社の漢字制限が国語民主化運動にいささか(聊)でも役立つ事を望む」とあるそれが、前掲の如き変テツな仮名交りの漢語では、果して役立つか否か判らない


活殺と云ふ社会主義の雑誌発行

活かすか殺すかの活殺、此表題が不穏であつたのではない、記事の内容について仲間割があつた、今より約四十年前の昔、明治四十年五月、大阪で『活殺』といふ雑誌を発行した、活殺同人社と号し、大阪の弁護士数名、教育家二、三名などの連中が社会主義研究会と云ふのを開き、毎回の集会には、社会主義者森近運平(覓牛)を顧問として同氏に疑義の説明を求めて居たのである

此森近運平は大阪平民新聞の発行者であつたが、後に大逆事件で死刑に処せられた人

社会主義研究会の連中が機関雑誌を発行する事になり、予が其発行を引受け森近氏が編輯を担任したのである、それで第一号には、覓牛執筆の宗教堕落、暴戻なる迫害、万国社会党大会等、予の「極端なる社会主義は現政府を脅喝するの用に適す」及び裁判事件多かれ等の外に当時の知名士、安部磯雄、田島博士、高田三郎、大谷誠夫、河野広中、村松恒一郎、占部喜太郎、外数氏に論文又は翻訳記事の寄送を乞ひ、菊版数十頁の紙面を賑はせた
「活殺は穏健なる社会主義を唱道して其実行を期するにあり」との主旨に背き、極端なる社会主義論が混入して居るのは危険なりとの反対者が同人中にあつたので、第一号限り廃刊した


民本主義デモクラシーの雑誌

大正七年冬の世界大戦終了後、欧米諸国に「デモクラシー」と云ふ新思潮が勃興し、我が日本では法学博士の吉野作造氏が「デモクラシー」を民本主義と訳して宣伝したのがモトで大流行となつた、それに乗じて官僚嫌いの予は例の雑誌発行癖を起し

官僚政治討伐 大正維新建設『民本主義』第一号 大正八年三月発行 定価金十五銭

と標榜せる表紙を付け「本誌は我国民の大自覚を促して官僚政治を打破し以て大正維新の建設を期するにあり、本誌は人類共存の意義、生活の意義を闡明して所謂正義人道の要諦を発揚するにあり」との要旨を掲げて、我が堂々たる主張の外、友人よりの寄稿、その他と共に菊版六十四頁に渉る熱血記事を満載した、其条目の一班(附録には政治結社たる民本党の宣言綱領等)

デモクラシーと教育…………谷本梨庵
放擲せられたる暴利取締令…福田徳三
国境なしの増加………………松の里人
今は官僚の引退すべき時……三宅雪嶺
民本的三案 住宅地坪数の制限-兵卒の白由労働制-穀種国定制……大庭柯公
新思想圧迫の危険
温情主義を葬れ
官僚の奴律たる論客
動物園式の政治


官僚政治の罪悪百ヶ条(其一)反抗家列伝(甲)

普通選挙実行運動の方法
世界大改造先導の烽火
潜伏せし不平心の表現

さて右の雑誌は三千部印刷して内務省へ納本すると、即日発売を禁止され、印本悉くを押収された、それで第二号も発行すれば同じく禁止されると見て続刊しなかつた、誠に忌々しい限りであつたが、今般アメリカ様のお蔭で、こんな系統の官僚が没落に瀕したのは嬉しい
右の発売禁止は警視庁が予を呼出して内務省の禁止命令を伝達したのであつた、其際高等課長の机上に右の納本-検閲の朱点付-があつたので、予は自分の携帯して居たものとスリカヘて持帰り、今に保存して居るが、誌面十四、五ヶ所に惨澹たる朱点の付いた好記念物である
吉野博士は此後「デモクラシー」を「民本主義」と訳したのは妥当でないとして「民主主義」と改めた、近頃赤松克麿氏が故吉野博士の此先駆を表彰する記念出版として、当時吉野博士が執筆した民主的論文悉くを蒐集して某書店より発行する、尚アメリカ様のお蔭で言論出版が自由になつた新状勢に乗じ、吉野博士が東京朝日新聞で公表した拒密院問題のため同新聞社を逐はれ、又法衙で糺問もされた同論文を右の記念出版物に加へる事になつて居る


官僚の奴隷たる論客の愚説

大正八年三月発行の『民本主義』第一号所載の一記事、御用党はイツの世にもある
民本主義の大思潮は、官僚軍閥貴族及び資本家等に恐慌を与へて居るが、彼等に隷属する学者論客は、今こそ多年の恩恵に対する忠勤を示すべき時なれとて、不徹底の曲論愚説を並べて、此大思潮に反抗せんとして居る、実に唾棄すべき陋態ではないか、今其実例の五六を左に列挙してお笑い草の種にする(此論客、今は概ね亡き人であらう)

△危険思想の中心としての帝国大学(世界の大勢に随従する奴隷なり) 若宮卯之助
△道徳の独立を期せよ(今の流行たる民本主義は時代遅れなり) 建部遯吾
△英雄主義を高調し、民衆主義の愚論を排斥す 肥田理吉
△我国体と民性(辻褄の合はぬデモクラシーが我青年を誤りつゝあり) 内田良平
△平和の暁鐘は危機の警鐘なり 長瀬鳳軸
△デモクラシー根拠なし 川島清治郎

今より二十七年前に流行した民本主義に反対の愚説、今度は一時の流行でなく、アメリカ様の命令であるから反対は出来ず、官僚までが表面だけ民主と唱へて居る


栄養失調と云ふ新流行語

昨年来我国に栄養失調と云ふ新語がハヤリ、闇市場の露店商人までが「サーこれを買つてたべれば栄養失調になる事は絶対にない」と叫ぶのを聴いた
従来「栄養不良」と云ふ語はあつたが、其意義が明瞭でなく、徹底しない点もあつたので、アメリカ様などが持つて来たのでなく、独逸語の翻訳であらうかと思つてゐる、調和を失ふ、調節を失う、調整を失ふ、調子を失ふ、等、いづれにも通づるよい新語である
此栄養失調と云ふ新語が一般に流行し、其後は各方面にも転用される事になつた、それを列挙

経済失調
金融失調
政治失調
統制失調
封鎖失調
運動失調
料理失調
便通失調

いづれにもアテハマルやうではあるが、本モトの栄養失調には叶はない、それは近年一般人の食糧が不足、栄養分の摂取が少いため、身体の具合が悪く成り、甚だしいのは餓死するのがあるので、栄養失調と云ふ語が適切に感ぜられるからであらう
或医者が云ふには、世間では「栄養失調」を食料の不足による事とのみ思つて居るが、不足ばかりでなく、所謂「食ひ過ぎ」も亦腸胃を害する失調の原因であると語つた


新聞広告縮小同盟会と悪政府

今より三十五年ほど前の大正初年頃であつたと記臆する事、予が大阪に居た頃、新聞紙上に全一頁の大広告を出すことが流行した時であつた、その時に予は新聞広告縮小同盟会と云ふものを起す事にして、先づ仁丹本舗の森下博を訪問した、会の設立趣旨を説き、新聞紙上にキミが仁丹の大広告を出すから、他の薬店までが競争的に大広告を出すことに成つた、それがため、紙面の記事が少く成り、増頁は紙の濫費である、同盟して半分か四分の一位に縮小したまへと云つた、森下博はすぐ賛成同意して、他の薬店へも同じ交渉を願ひますとの言であつた、それで東京へも来て同じ大広告を出す者を説伏する筈であつたが、外に多忙な事が出来て、一時中止が其儘となつた、その後も相変らず大広告が出つゞき、円本流行の時などは、二頁に渉る大広告を出す者もあつた、予は忌々しい事と見て嘆息して居たが、近年戦局のため新聞紙面が縮小され、したがつて広告までが同盟でもなく、一二寸に縮小された、これ如何と云ふまでもなく、時節到来の結果である、我輩が多年攻撃して其存在を呪ふて居た悪政府、官僚や軍閥、富豪等が没落する期は近づいた、これも時節到来の約束であらう


闇市戦線の奮闘ぶり報告

近頃の新聞紙上には、ホントウの戦争でない主義の宣伝とか、又は事業の展開とか、総ての競争事態を報道するのに、戦線といふ語を使ひ、民主戦線、保守戦線、人民戦線、官僚戦線、選挙戦線、廉売戦線など、戦線ばやりの時節であるから、我輩も亦その流行に遅れないやう、茲に闇市戦線の奮闘ぶりを報告する事にした
今は全国各地に此露店の闇市が出来て互に競争して居るが、東京都内では昨年来、新橋、上野、浅草、新宿等が最も繁昌を極め、一日の売上高が何万円と云ふ盛況である、其奮闘ぶり
サア買へ、此蜜柑四つが只の十円、サアどうだ、此牛蒡三本が只の二十円ぢや、早く買はぬと売切れるぞ、サア買へ、烏賊入りのおでん、旨くて頤が外れるぞ、サア来い、甘いお汁粉、ほんと砂糖入りだぞと叫び、彼方では鰯を五つ並べて一つがタツタ二円、安いぞ安いぞと呼び、此方では炒豆の小袋を出し、お子供衆へおみやげは如何ですかとねだる、其うるさい事、其やかましい事、此世の修羅のちまたと見た、食料品でなく、器具や衣料の売場も同じ混雑と喧騒を極めて居た、変態の交戦線路、此闇市戦線も、やがて没落の期が来るであらう


民主的政府の時代に不用の法規

法規は時勢の変遷に応じて改廃せねばならぬのである、我国は大革命と云ふべき新時代になつたので、大々的法規の改廃をなさねばならぬ事になつた、先般アメリカ様の命令、聯合軍総司令部の通告によつて既に廃棄された法規もあるが、尚その上に廃棄されたり、改定されたりしなければならぬ法規が多くある、軍国主義、封建思想的、官僚支配的、財閥保護的等の法規は悉く改廃されねばならぬのである
左に既に廃棄又は無用に帰した法規を「甲」とし、今後廃棄さるべき法規を「乙」とし、改更すべき法規を「丙」として列挙する

治安警察法
治安維持法
兵役法(旧徴兵令)
出版法
新聞紙法
陸軍刑法
海軍刑法
陸軍軍法会議法
海軍軍法会議法
此外陸海軍関係法規一切
台湾及朝鮮に関する法規一切 以上「甲」

華族令
華族戒飭令
華族世襲財産法
貴族院令
枢密院官制
世伝御料制
祭祀令 以上「乙」

憲法 「丙」 これが第一の重要法規である、


昭和時代に流行した新しい言葉

イツの時代にも、世態の変遷で、文化事物や悪俗時弊が現出すると、それに相応した新たな言葉がハヤルものである、明治時代、大正時代の辞典には無い新語が、こゝ十年間ほどの世上に流行した、今思出のまゝ、それをザツト挙げてみる、

前線 共栄圈 統制経済 途上禁煙 隣組 疎開 産業戦士 交通整理 大政翼賛 自爆 銃後 枢軸国 買出部隊 一列励行 配給 時差 総動員法 交通地獄 滅私奉公 玉砕 千人針 慰問袋 防空壕 闇値 勤労奉仕 B二十九 横流し 生めよ殖せよ 協調 外食券 回覧板 防空服 闇市 一億一心 時限爆弾 抱込み 撃ちてし止まん 応召 婦人参政権 隠匿物資 追放令 民主戦線 無血革命 保守派の反共聯盟 新円紙幣 新日本の再建 栄養失調 進駐軍 保守戦線 平和革命 従業員の生産管理 旧円紙幣

以上の外に、近頃の流行語だけでも、戦争犯罪人、封建的残滓、侵略指導者、文化勲章、安全運行、戦災など、まだ幾つもある、後年になつて、これらの中の一語だけを取り出して見ても、立派な話題、畏ろしい談柄、怒るべく、驚くべく、ふうべき事などがあろう


右傾派の結社百二十団体禁止

アメリカ様の命令によつて、日本政府が禁止せねばならぬ事になつた我国の官僚や軍閥財閥の御用党であつた秘密結社などの百二十団体が解散を命ぜられた、いづれも極端な国家主義、暴力主義、軍国主義、侵略主義、僭称の尊王愛国主義などであつた、今その百二十団体中の二割ほどを左に列挙する、過半は各地の暴力団であつたらしい

玄洋社 勤皇護国会 大日本勤皇会 東亜聯盟 大東亜協会 勤皇維新聯盟 聖戦完勝会 大東亜思想戦研究会 政教社 大日本国民特攻隊総本部 皇国同志会 大東亜建設協会 亜細亜大陸協会 大東亜建設国民運動研究会 天柱塾 ひもろぎ塾 振東塾 金鶏学院 北海道国民道場 佐賀県維新同志会 長崎創生会 富山青年有志会 東京創生会

是等はいづれも官僚や軍閥財閥等の寄生虫たるゴロ団体であつた、何らの本業もなく、常に金を貰つて無為に生活するのが目的の集団であり、それで何か事が起ると直ぐに暴力を揮つたのである、時勢の変化で、官僚や軍閥財閥が屏息する様になるのだから、今後は斯様な団体が再生する事は無いと思ふ、又その無いことを望む


無くもがなのガラクタ新聞

武藤貞一の『自由新聞』と云ふのは週刊のイカサマ新聞であるが、此外に今春来日刊のヘツポコ新聞が幾つも出来た、先年『東京日日新聞』に合併といふ事になつて廃刊した『時事新報』を何者か、近頃復刊と称して再興した、又往年脅喝専門の悪辣新聞、黒岩涙香、一名蝮の周六といふ奴が主宰して居た『萬朝報』は往年廃刊したのであるに、これまた再興した者があり、其外ヨセバよいのに式場隆一郎と云ふ男が『東京タイムズ』と号する日刊新聞を発行して居る
斯様に無くもがなのガラクタ新聞が続出したのは、時局のため食ひ詰めて居た記者達が寄合つて、財閥から金を貰ふての企業であるらしいが、甚だよからぬ傾向の流行、世間で要求しない無益有害なもの、アメリカ様にもすまない事象である、文化用途の多い洋紙を濫費するだけでも、其罪輊からずであるに、近頃ケシカラヌ事を聴いた、それは右の中には新聞発行が目的でなく、用紙転売を主として金儲けをやつて居る者があるとの事、たとへば毎日一万枚印刷すると云ふて用紙の配給を受け、其実は千枚印刷で、アトの九千枚を闇の高値で横流しとは、呆れた詐欺行為、当局者が馴合でなくば、速に其発行を禁止せよである


驚くべし高くなつた衣食住の物価

戦費の支出としてムヤミに紙幣を濫発した結果が、今日のインフレ状態に陥つたので、政府当局者は、預貯金封鎖、物価統制令、配給制復活、旧円紙幣無効、新円紙幣発行などいふ騒ぎであつたが、それが順調に行はれて、国民の生活が果して安定になるか否か、それは別問題として、昭和二十一年春頃のインフレ状態は如何であつたかと、後世の人々が参考にする料として、茲に衣食住物価の高低を略記することにした、日本では再び戦争の起る事が絶無だから、再び昨今のやうなインフレ状態になる事も絶無であらうから、興味を以て見るべき記事とならう

一反五六円の銘仙縞が五六百円に騰貴した
一反五六十銭の白木綿が百円以上
一筋二三十円の帯地が四、五百円に騰貴した
一足四五十銭の足袋が四、五十円
一升七八十銭であつた白米が六七十円
一個六七銭であつた鶏卵が六七円
一升一円位であつた清酒が二百円以上
一瓶三四十銭であつたビールが四五十円
一本五六十銭であつた丸太が三四十円
一枚三四円であつたガラス戸が五六十円

其高低の差が甚だしいこと驚くべしである、我輩は此間に処して生きて来たのである


日本帝国が日本国となつた理由

先頃、大日本帝国憲法を日本国憲法(草案)と改め、また帝国議会を国会と改めた、此例によつて、東京帝国大学を東京大学と改め、京都帝国大学を京都大学と改称せねばならぬと云ふが

帝国ホテル  帝国劇場  帝国銀行  帝国商業女学校  帝国生命保険株式会社

などは、何と改めてよいか見当がつかないであらう
さて、今は天皇制打倒を叫ぶ者があるだけで、マダその実行には成らず、上御一人様は現に存在されてゐるのに、何故大日本帝国憲法を日本国憲法、帝国議会を国会と改めたかと云ふ理由が判然しない、察するに、これは敗戦の結果、独立国たる資格を失つて、外国の占領地になつたので、無力の偶像と白覚し、帝国と称するのは不当であるとしたのか、若しさうだとすれば、日本国と称する事も同じく不当とせねばならぬ、帝の字だけを省くのは、やがて主権在民の時代を見越しての事、独立国でないにしても、国土があり国民がある以上日本国と称して可なりとするのか、さなくば「帝国主義」の滅亡であるから、遠慮して帝の字を削つたのか、或は又アメリカ様の命令に因つたのか、我輩は其判断に苦しむのである


大祭祝日を全廃して娯楽日を新定

明治政府が設定して強制的に遵守せしめた大祭祝日、四方拝、元始祭、紀元節、神武天皇祭、孝明天皇祭、春季皇霊祭、秋季皇霊祭、神嘗祭、天長節、新嘗祭等は、祭政分離の時代、主権在民の時代には何らの意義なき祭日である、これを全廃して古来風俗の五節句たる、人日、上巳、端午、七夕、重陽を再興せしめた方がマシであらうが、上巳は階級思想の貴族崇拝であり、端午は尚武侵略主義の表徴であり、七夕は根拠なき愚俗の迷信に過ぎない事であるから、五節句の再興は時代に適応しない、それよりも大衆の娯楽日または慰安日として隔月一回の共同休日を新定し、それを永久に毎年の行事としたがよからう

一月一日 三月三日 五月五日 七月七日 九月九日 十一月十一日

毎月一回でなく、此隔月一回位の方が期待される楽しみがあらう
さて此大祭祝日の全廃は、天皇を人間外の神様として崇拝せしめ、それを自家擁護の本尊として居た官僚共、即ち大祭祝日を制定した儕輩の後継者には全廃断行の意志なしであらうから、これもアメリカ様より現政府に対して、大祭祝日を全廃せよとの命令あらん事を希望する


軍閥の残党を再び立上らせない事

アメリカ様のお蔭で、軍国主義、侵略主義が打倒され、軍備撤廃、軍器没収、軍人終息、軍役皆無等、日本では今後軍事が起らず、平和明朗の新理想国に進展し「合戦は宇治の蛍で見るばかり」の極楽境に成る筈であるに、近頃ケシカラヌ事を聴いた、それは軍閥の残党が寄合つての評議、いかにして我日本を旧態に復するかの問題、大和魂の活動を再興し、モトの軍国主義に帰して、今日の屈辱を脱する術策を立てねばならぬとの提案であり、それに応じて若い軍人であつた何某とやらの意見、其復興策はソ聯と結托して米国を撃退するより外なしである、ソ聯より武器を貰ひ受けて立上れば容易に成功するとの馬鹿気た空想
此空想は論評する迄もないが、軍閥の残党が如何なる術策を考へ出すにしても、我国民はそれに反対して取合はず、其巣窟の全滅を期するやう速かにアメリカ様へ密告するべしである
重ねて云ふ、我国の軍閥が無謀の野心を起した結果、我国を滅亡に瀕せしめたのであつたが、幸ひに聯合軍総司令部の代表たるアメリカ様が来られて、自由主義平和の民主政府を確立される事に成つたのである、再び軍閥の圧制政治を復興させてはタマルものでない


官僚政治の打倒は勿論の事である

財閥と馴合つて軍閥を援助した官僚、幾度か内閣の変動があつても、同じ一つ穴の貉連が盥廻しの陋策を続けたのみである、明治初年より今日までの八十年間に渉る封建的圧制政府、いゝ加減にあきらめて隠退すべき時機ではないか、樺太、朝鮮、満洲、台湾、南方諸島など、侵略した国々を返還したのは、誠に痛快の成り行きであつた、先方の国民が皆喜んでゐることは並大抵でなく、いづれも聯合軍司令部に感謝して居るであらうと思ふ、軍閥の全滅は其冥罰であるに、軍閥の侵略主義を支援して居た官僚が、今尚内閣に残存して居るのは厚顔の至り、一日も早く民主的政治家に株を渡して退去するのが、彼等の国民に対する正当の謝罪法であらう、それにも拘らず、愚図々々して、いつまでも政権を持続しようとするのは、其存在を許されない時勢の到来を無視した破廉恥至極の政権亡者と云はねばならぬ、またアメリカ様より我国の教科書改定、日本国憲法改正の大業を命ぜられてゐる、虚偽と専制を除去すべき新時代化の編纂、これも民主的政府に委ぬべき事ではないか、封建的旧想の官僚輩が関与すべき仕事でない、いづれにしても、早く退去すべき官僚政府であると叫んで擱筆する


とほね(外骨)を主とした蔵六文庫

故瀬木博尚翁は、昭和元年以来、東大内に新聞雑誌蒐集の明治文庫を設立、今は新聞紙約四千種、雑誌約七千種に達し、古今内外未曾有の宝庫となつて居る、これに対して博尚翁の令嗣瀬木博信氏は、内外通信社博報堂内の一部に蔵六文庫を新設し、新刊事業をも開くことに成つた
蔵六とは「とほね」に同じ亀のことである、亀が頭尾四肢の六を甲内に蔵すの義、モト仏典の語であるが、これを故らに文庫所蔵品の六種類に分別した

(一)外骨の発行せし明治十八年以来の新聞、雑誌、図書等約百五十種
(二)外骨の類別せし日本の絵葉書(明治三十三年以来)約三十万枚の集成帖約五百
(三)外骨の珍重せし古書数百冊と図画数百枚(昨今購入せる品もあり)
(四)外骨の愛玩せし手沢品たる古器物及び日常使用せる道具類数点
(五)外骨の蒐集せし明治初年以来の古い写真、類別せるアルバム及び箱入
(六)外骨の編纂せし『府藩県制史』の資料たる各地の古文書及び版物等数十袋

追つてはこれを公開して一般人の観覧にも供する筈である


著者の報告

昭和十八年四月中旬、とほねたよりとして皆様に印刷ハガキを差出した末の文句に

先日或人が或人に対して「あのガンヂーに似た顔の宮武外骨はマダ生きて居るのですか」と云つたさうです、事程さように、人間は生きて居るうちに葬り去られる事もあるものです、誠に忌々しい世の中ぢやありませんか
 昔とつた筆つかの猛者
   今は天下無類明治文庫の要人
  悪く云へば東大の飼殺し
    銃後の配給品喰潰し部隊品
 昭和十八年四月  みやたけとほね

此後翌年九月、福島県の武田正義氏に面会のため同県へ旅行、阿武隈川で漁師に大鮭を捕つて貰ひ、背負て帰宅、此昭和十九年十二月、疎開として南多摩愛宕山麓の農家に仮寓すること九ヶ月、其間豚肉偏食のため胃腸カタルを起し、伊豆の熱海温泉に滞在十日、旅行は此二回限り、疎開地では別項記載の如く晴釣雨読、昨年五月二十四日午前、不在の東京住宅は戦災で全焼し、今は一定の住むべき家なく、毎日明治文庫へ出勤してゐます
  東京都本郷区元富士町一
    東京帝国大学赤門内明治文庫
               宮武外骨

御来訪又は郵便発信宛は右の所へ願ふ
東京在住であつた友人及び親族は概ね其住宅が焼失したので、遠方へ転居、市街は殺風景の焦土、散歩にも出ず、寓所に居て執筆するか、又は文庫の勤務に従事し、好晴の日は魚釣として遠方へ出かけ、或は近所の空地を借り、野菜畠としての耕作、八十歳の老齢にも似ず、活気ある動きを続けてゐます サヨナラ


図書奥附の革新

印刷の年月日記入は法文上の旧形式に過ぎず、新聞雑誌には印刷日の記入なきにあらずや、
又印刷者及び印刷所の署名は、司法当局者の印本押収、検挙、処罰等の便宜に基ける官僚的旧例にして、読者には全く関係なき冗文字なり、故に届書外、茲に記入するを要せずとして省く、これもデモクラシーの新時代に於ける「下より」の新動向と知れ


昭和二十一年五月三日発行     アメリカ様
(五千部印刷) 定価金参円七拾銭
  著者   宮武外骨(ミヤタケトボネ)
東京都神田区錦町三丁目二十二番地
  発行者  高麗芳野
東京都神田区淡路町二ノ九
  配給元 日本出版配給株式会社
東京都神田区錦町三丁目二二
  発行所 蔵六文庫
        電話神田二二八一番


(国会図書館蔵本による。但し奥付上部の出版広告は省略した)




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菊池眞一