円朝と渋沢一家
菊池眞一
円朝と名士との関係については、既に多くの指摘がある。延広真治「円朝と貴顕紳士」(『明治文学の雅と俗』〈「文学」増刊〉岩波書店。平成十三年十月三日)は簡にして要を得たものである。
本稿では、円朝と渋沢栄一、及び円朝と穂積歌子(渋沢栄一の長女)との関係を中心に資料をまとめる。表題は「円朝と渋沢栄一、及び円朝と穂積歌子一家」とすべきかもしれないが、これでは長すぎるので、栄一と歌子をまとめて「一家」とした。一門・一族では大げさだろう。
円朝と渋沢栄一との関係についての論考は、秋本正義「渋沢栄一と円朝」がある。これは『円朝考文集』第一~第三(昭和四十四~四十六年)に連載されたものだが、秋本著『明治を夢みる』(昭和四十六年)にまとめて再掲されている。
秋本は、『渋沢栄一伝記資料』(昭和四十年本編刊行終了)から円朝に関する記述を抜き出して詳述しているが、渋沢栄一記念財団は2016年11月11日、デジタル版『渋沢栄一伝記資料』を公開した。これによって秋本の取り上げなかった資料を見ることができるし、秋本が全文を引用しなかった資料を掲げることもできる。
渋沢栄一の長女歌子は明治十五年四月穂積陳重と結婚。その日記を抄録した、穂積重行編『穂積歌子日記』(みすず書房。平成元年)があるが、この日記中に円朝の出てくることを指摘したものは、前掲延広真治「円朝と貴顕紳士」と、犬丸治「明治婦人の観劇記録 演劇史料としての「穂積歌子日記」」(『歌舞伎 研究と批評』七号。平成三年六月)とを知るのみである。前者には『穂積歌子日記』明治二十四年十二月二十七日の条が、後者には『穂積歌子日記』明治二十三年七月十五日の条が引かれている。
以下、『渋沢栄一伝記資料』『穂積歌子日記』から円朝関連記事を抜き出し、関係性の種類別に概観する。典拠資料は末尾に別途引用する。恣意的分類なので、同一資料が複数の項目に該当する場合がある。
1.円朝が穂積陳重邸を訪問する(挨拶・ご機嫌伺い)
『穂積歌子日記』明治二十四年一月八日(木)の項に「留主に八束君お出、円朝来りしよし」とある。穂積重行は「単なる芸人の挨拶まわり」と考えている。《後掲【資料1】参照》
『穂積歌子日記』明治二十四年一月二十七日(水)の項に「夕三遊亭円朝来る。この頃わら店寄席へ出で居りしが、今夜きりにてしまひなりとぞ」とある。藁店(和良店亭とも。牛込区袋町、現在の新宿区袋町)と穂積邸(牛込区払方町九番地。現在の新宿区払方町)はすぐ近くなので、挨拶に寄ったということか。《後掲【資料2】参照》
2.円朝が渋沢栄一の自宅(別荘)に招かれる
家令芝崎確次郎の日記簿、明治十七年三月二十三日の項に、「本日ハ王子別荘ニ来客ニ付、午前九時ヨリ同所江出頭、諸事手伝ひ、来客之内十人不参、十六人来荘、盛宴ニ有之候/落語家 円朝/清元 菊太夫/よし原 芸妓十人/庭園ニテ住よし踊有之候事」とある。別荘での宴会に、余興として咄を披露したのだろう。渋沢栄一は明治十一年、飛鳥山に別荘「曖依村荘」を設けた。現在、東京都北区西ヶ原二丁目16番1号(飛鳥山公園内)に渋沢史料館がある。《後掲【資料3】参照》
家令芝崎確次郎の日記簿、明治十七年十二月二十八日の項に、渋沢栄一自宅での忘年会の余興として、「芸人ハよし原の俄連・円朝・菊太夫・清瀬太夫、柳橋・よし原大小芸妓大勢参リ候事」とある。渋沢栄一の自宅は、深川福住町(現在の江東区永代二丁目)。《後掲【資料4】参照》
家令芝崎確次郎の日記簿、明治十八年六月十日の項に、渋沢栄一自宅での懇話会に「円朝其外芸人も罷出候」とある。余興として芸を披露したのだろう。《後掲【資料5】参照》
家令芝崎確次郎の日記、明治二十年十二月二十六日の項によると、渋沢栄一自宅(深川福住町)での結納の儀の余興として円朝が咄を披露したらしい。「……御親類御一同御立会ニテ盛宴ニ御座候/料理ハ常盤やナリ/如燕 円朝」とある。栄一の次女・琴子は、明治二十一年二月二十六日、阪谷芳郎と結婚している。《後掲【資料6】参照》
『穂積歌子日記』明治二十三年七月十五日(火)の項に「兜町にて午後五時より渡辺様を招待し、同時前に行く。御両人お出。綾瀬の寺子屋、円朝の人情話あり。いと面白し」とある。兜町は渋沢栄一の邸宅。明治二十一年、深川福住町から兜町に転居した。日本橋区兜町は現在中央区日本橋兜町。綾瀬は初代竹本綾瀬太夫、義太夫節の太夫。穂積重行は、渡辺洪基の慰労祝賀会と推定している。《後掲【資料7】参照》
『穂積歌子日記』明治二十四年十一月十五日(日)の項に「午後二時旦那様と共に兜町へ行く。親族会格別の議題なし。晩餐後円朝のお里の伝きく」とある。兜町の渋沢栄一の邸宅で親族会が開かれ、その余興に円朝が話をしたというもの。「お里の伝」は『操競女学校』の内「お里の伝」。渋沢栄一には実子・庶子が多数いたが、実子(の家族)のみに限って毎月一回「同族会」なる家族会議を開いていた。《後掲【資料8】参照》
『穂積歌子日記』明治二十四年十二月二十七日(日)の項に「四時深川邸へ行く。忘年会相変らずにぎやかなり。円朝の話、お葉の梅の春、いもせ山のおどり、及び円遊の茶番、越子の二十四孝等あり。十二時過帰宅」とある。渋沢栄一は明治九年、深川福住町(現在の江東区永代二丁目)の屋敷を買い取って住んでいたが、明治二十一年兜町に引っ越した。それ以後も深川の邸宅は残して別邸として利用していたらしい。円朝『名人競』第一席(『やまと新聞』明治二十四年七月二十三日)に「目下アノ渋沢栄一様にお在遊ばす福住町の彼処が近江屋さんのお宅で、彼川岸を近江屋川岸と申ました」とある。お葉は、清元お葉。円朝より一歳年下で明治三十四年没。越子は、竹本越子で女義太夫。後掲【資料9】参照》
『穂積歌子日記』明治二十五年三月二日(木)の項に「兜町より雛祭にて案内あり。五時頃大人御帰宅あり。雛は象牙ぼりにていと立派なり。道具未だなし。余興は円朝、十一時帰宅す」とある。渋沢栄一宅での雛祭の余興に円朝が呼ばれている。《後掲【資料10】参照》
年次不詳渋沢家宛円朝坊書簡に、「昨日は御懇之御追福 拙子まで末席〔に〕連なり御嬉しく御回向致し候」とある。渋沢家の法事に招かれたことがわかる。先妻・千代は明治十五年七月十四日に他界している。書簡の「七月五日」が「七月十五日」の間違いであれば、千代の追善となる。あるいは、何かの事情で早めに法事を済ませたものか。円朝は法要にふさわしい咄を披露したのであろうか。《後掲【資料11】参照》
年次不詳(明治二十年代か)柴崎確次郎宛渋沢栄一書簡は、王子別荘での宴席の手配を指示しているが、その中に「外に円朝か南龍にても御申付可被下候」とある。これは余興のメンバーである。南龍は田辺南龍。《後掲【資料12】参照》
3.円朝がその他の場所での会合・宴席に招かれる
『穂積歌子日記』明治二十四年十二月十三日(日)の項に「同族会にて坂谷へ行く。旦那様あとよりお出。会計検査其外少々議事あり。大人家法したため給ふ。晩餐は支那料理なり。円朝業平文治の話あり。十一時散会」とある。坂谷は、歌子の妹琴子の嫁いだ阪谷芳郎の家。「大人」は渋沢栄一。「業平文治」は『業平文治漂流奇談』。《後掲【資料13】参照》
『穂積歌子日記』明治二十五年二月十二日(金)の項に「十一時しゅん魚成つれ番町へ行く。用意ととのひ居る。旦那様大学へお出、十一時御帰宅、直ちに番町へお出。午後1時半頃御縁女(花嫁)御両親御着、程なく御仲人(栄一夫妻)お出。二時過より婚礼の盃、……五時頃に済み、それより本膳で酒宴となる。円朝塩原太助婚礼の話をなす。九時過より御客追々開かれ、自分ら帰宅せしは十一時頃なり」とある。これは歌子の夫穂積陳重の弟穂積八束の結婚式である。八束の家は麹町区中六番町(現在の千代田区四番町)。八束は浅野総一郎の長女松子と結婚した。「塩原太助」は『塩原多助一代記』、前年には御前口演がなされ、この年一月には歌舞伎座で五代目尾上菊五郎によって上演された人気演目であった。《後掲【資料14】参照》
『穂積歌子日記』明治二十五年二月十三日(土)の項に「午後三時番町へ行く。……五時頃お客皆そろひ、昨日の通り本膳の馳走あり。円朝名人競と落語を話す」とある。前日と同じく穂積八束の家である。《後掲【資料15】参照》
『穂積歌子日記』明治二十五年三月二十日(日)の項に「今日宅にて同族会開くに付、種々支度す。……尊大人は製麻会社の会ありとて御遅刻との事に付、夕飯前に二階にて円朝の人情話名人競、寺の場一くさりあり。……《大人=栄一》八時頃やうやくお出おり。御膳すみしは九時頃、それより又円朝名人競根岸宅の場、及び落語一人酒宴等あり」とある。穂積陳重邸は、牛込区払方町九番地(現在の新宿区払方町)。《後掲【資料16】参照》
『穂積歌子日記』明治二十五年四月七日(木)の項に「四時半旦那様と共に帝国ホテルへ行く。兄上お出になり居る。五時半頃より皆様お出、控室にてしばらくお話あり。それより借切の食堂へ案内申す。……食事すみ、大人案内にて七宝焼陳列所見物し、休息所へ帰りて円朝の人情話落語等あり」とある。兄上とは穂積重頴。帝国ホテルは明治二十三年十一月七日開業。これには渋沢栄一も関わっている。当時は三階建て客室六十であった。《後掲【資料17】参照》
『竜門雑誌』第五十一号(明治二十五年八月)に「第九回竜門社総集会」の報告が載っている。七月二十七日午後五時から、日本橋区浜町一丁目(現在中央区日本橋浜町)日本橋倶楽部で開催。余興として円朝が人情話を披露した。《後掲【資料18】参照》
『竜門雑誌』第五十七号(明治二十六年二月)に「青淵先生を招待す」という記事がある。浜町一丁目の会席茶屋・常盤屋で慰労会を開いたものである。「円朝の落語数番」とある。《後掲【資料19】参照》
『穂積歌子日記』明治二十九年九月二十四日(木)の項に「午後一時半深川に着す。敬三殿はうばきん和田付添ひ八幡宮(深川八幡)へ参詣して後兜町へ行き居られ、三時頃帰らる。……敬三殿宮参り祝、……ときは屋(常盤屋)の料理にて余興に円朝(五十八歳、最晩年である=穂積重行の注釈)の話あり」とある。敬三は歌子の弟・渋沢篤二の長男として明治二十九年八月二十五日、深川で生まれた。《後掲【資料20】参照》
4.円朝が旅行のお伴を仰せつかる
明治六年一月下旬、陸奥宗光は、渋沢栄一と共に富岡製糸場を視察したが、この旅に円朝を同伴したという。《後掲【資料21】参照》
家令芝崎確次郎の日記簿、明治十九年七月二十六日の項に、朝、上野駅から日光へ渋沢栄一一行が大勢で旅行に出かけたとある。付き添う芸人の中に「円朝」の名がある。八月二日夜帰京だから一週間ほどの旅行であった。《後掲【資料22】参照》
明治二十六年一月、渋沢栄一は円朝を伴って静岡の徳川慶喜公の所へ伺い、「塩原多助」をお聞かせ申し上げたという。『明治を夢みる』(昭和四十六年)で秋本正義は、「静岡に居住しておられた徳川慶喜公の処へ円朝を同行して『塩原多助』をお聞かせしたところ、大変嬉ばれたということを、渋沢翁が語られているが、明治何年頃か判然としていない」とし、「明治二十八年から明治三十年の間ではないかしら」としているが、この秋本の推測は誤りである。
「徳川慶喜公静岡時代年表」(『家扶日記』主体に作成されたもの)には、
http://www.hotoku-group.co.jp/history/
1893(明26)年1月1日 渋沢栄一、夫人とともに来岡。三遊亭円朝を同伴。
とある。正月の縁起物として話をお聞かせしたものであろう。
『家扶日記』を紹介した、前田匡一郎『慶喜邸を訪れた人々』(平成15年10月10日。羽衣出版)明治二十六年一月二日・三日の項には、次のようにある。
◇一月二日 渋沢栄一が妻と三遊亭円朝を連れ、年始に来邸。側にて酒肴賜る。
◇一月三日 渋沢栄一再び来邸予定の処、徳信院危篤の報により、大東舘にいた渋沢にお断りを申し述べた。
《菊池注:徳信院は一橋慶寿夫人。一月二日午後十二時十分薨去》
窪田孝司は、「考証 渋沢栄一と円朝」(『青淵』第729号。平成21年12月1日)において、
最近入手した『慶喜邸を訪れた人々―「徳川慶喜家夫日記」より』〔前田匡一郎編著・羽衣出版・二〇〇三年〕に、《明治二十九年十一月二十七日、円朝講演》とある。秋本正義の稿に該当するのはこの日か、と思われるが考証資料不十分のため、年月日の特定はできない。
とするが、前田匡一郎『慶喜邸を訪れた人々』明治二十九年十一月廿日・廿七日の項には、次のようにある。
◇十一月廿日 三遊亭円朝、御機嫌伺い、来邸。静岡へ興行のため廿七日まで滞在。大東舘へ宿泊。
◇十一月廿七日 三遊亭円朝、講演のため午後二時出頭。夕食と廿五円賜る。
これによれば、静岡での興行を終えた明治二十九年十一月二十七日、慶喜の御前で円朝が口演をしたようである。しかし、ここには渋沢栄一の姿はない。
追記:
延広真治先生から、『円朝全集』第七巻月報(岩波書店。2014年)に、高松寿夫「三遊亭円朝と徳川慶喜」のあることを御垂教たまわった。高松氏は『徳川慶喜邸日誌』(前述の『家扶日記』)明治二十六年一月二日の記述が、
同人〔=渋沢〕三遊亭円朝召シ連レ出デ罷ルニ付、御側ニテ御酒肴下サレ、且ツ祝儀金拾五円下サレ候事。
とあるのみで、「口演の有無は明記しない」として、
「円朝遺聞」の「確か塩原多助」云々という渋沢の記憶には、不審が残る。
としている。これは菊池の推測と異なる。菊池は明治二十六年一月二日に円朝が慶喜の御前で「塩原多助」の一節を口演し、その祝儀として「拾五円」賜ったと考える。
5.円朝が仲介役を頼まれる
鐘淵紡績は明治二十三年苦境に陥った。三井家の助力を仰ぐべく、三井家の顧問であった井上馨の斡旋を得て三井の融資を得ようとした。この時鐘紡が井上馨への橋渡し役として頼んだのが三遊亭円朝であった。結果、三井銀行から六、七拾万円の融資を受けることになり、会社は苦境を脱した。円朝は実務的な役割も果たしたのである。因みに、カネボウは平成に入って粉飾決算を繰り返し、2008年に121年の歴史を閉じた。《後掲【資料23】参照》
追記:
《『渋沢栄一伝記資料』にあったので掲げたが、この件では、円朝と渋沢栄一とは直接関係がないようである。付録・オマケとしておく。》
6.円朝の噂話を歌子が書き留める
『穂積歌子日記』明治二十三年一月二十二日(水)の項に「此頃円朝わらだなの席へ出るよし」とある。穂積陳重・歌子の邸宅は牛込区払方町九番地(現在の新宿区払方町)で、神楽坂の藁店へは数百メートルと近かった。これは近所の噂になって歌子の耳に入ったということで、歌子が寄席に行きたいということではない。寄席へ行くような身分ではなかった。《後掲【資料24】参照》
『穂積歌子日記』明治三十三年八月十二日の項に「三遊亭円朝昨日死去したるよし、新聞に記載しあり。斯道においては空前絶後の名人なりしに、いとをしきことなり」とある。《後掲【資料25】参照》
7.渋沢栄一が円朝の芸・人物を評価する
渋沢栄一著『実験論語処世談』(大正十一年十二月四版刊)の「○三遊亭円朝の落語革新」で、渋沢は次のように述べている。
芸に達した人は私の知つてる人々の中にも大分あるが、今の三遊亭円右なぞの師匠に当る円朝も確に其一人であるかの如くに想はれる。円朝は落語家の名人で、あの方の大家を以て目せられ、人情話で売出した人だが、初めから人情話をした人では無い。若い中は猶且芝居話《やはり》のやうなものを演つてたもので、高座の後背《うしろ》へ背景として書割様のものを懸け、その前で尺八を揮り廻して、ドタンバタンと身振をしたり身構へをしたり、又衣裳の引抜なんかを演つたりなぞして、話をして居つたのだ。万事が大袈裟で、シンミリした話なんかしたもので無かつたのである。
然し後日には、名人と呼ばるゝほどの者に成る人の事だから、妙な軽口みたやうな落語《おとしばなし》だとか、或は大袈裟な芝居懸つた真似なんかし無くつても、何とかシンミリと素話《すばなし》丈けで聴衆を感動させ、泣かせたり笑せたりして、之によつて因果応報の道理を覚らせ、勧善懲悪の道を心得させるやうにする工風は無いものかと考へ、遂に人情話といふものを発明し、素話を演ることにしたのである。それが大変に時世の嗜好に投じウケるやうになり、名人の誉れを揚げるまでになつたのだ。
一体自分で発明した新しい事により、世間の人を成る程と感服させ得る人には、何処か他人の及ばざる優れた長所のあるものだ。円朝がその発明した新しい話方によつて落語界に一新紀元を劃し、然も世間の人々を感服さして聴かせる事の出来たのは、円朝に他の落語家の持つて居らぬ優れた豪い処があつたからだ。今日でも円朝一門の弟子等《たち》が演ずる「安中草三郎」とか「牡丹灯籠」とか、或は又「塩原多助」とか云ふ人情話は、皆円朝が自分で作つて話したものである。畢竟円朝は話術《はなし》が旨かつたばかりで無く、却々学問もあつて文事に長け、能く読書して居つたので、あんな纏まつた長い人情話を作ることが出来たのだ。私は親しく円朝と会談《はなし》したことは無いが、かく学問があり文事の趣味もあつたから、何んな立派な人とも談の能きたもので、高貴の人の御前だからとて、別に憶劫《おくび》れるやうな事なぞは無かつたのである。この点から謂へば、円朝には本業の芸以外、なほその芸に遊び得る余裕のあつたものだと謂はねばならぬ。《後掲【資料26】参照》
鈴木古鶴(行三)の『円朝遺聞』(『圓朝全集』巻十三、昭和三年一月)に、渋沢栄一の次の話が載せられている。
渋沢子爵と円朝 子爵は語る、円朝は随分世話もしたが、誠に芸人に珍らしい忠孝の念の篤い男であつた。それで酒席へなど呼んでも、諂ふといふやうな態度は少しも無かつた。話は旨いもんだつたね、円朝が親子の聾といふ話をすると、ほんの一言か二言だが、実に何うも何とも云へなく面白かつた。徳川公のお見舞に私が円朝を連れて駿府へ往つた事があつた。この時は確か塩原多助を一席演つたと思つた。公も非常な御満足であつたよ。井上侯がひどく贔屓であつた。川田(小一郎)も随分贔屓にした、大倉も馬越も皆円朝贔屓で、その時分円朝の速記本が出ると夢中になつて読んだものだつた。云々。《後掲【資料27】参照》
昭和四年刊『落語全集 上』の序文で、渋沢栄一は「落語の用」と題して次のように述べている。
近頃は社交の様子がすつかり変つて、一体に雑駁になるばかりで、妙趣といふものが無くなつて来たやうに思はれる。客を損ずるにしても、往事は徒らに談論し飲食するといふだけではなく、必らず講談師とか落語家とか、或は清元、義太夫などの芸人をよんで、これに余興を添へなければ、宴席の体をなさず、客に対して真情をつくした礼儀といふことは出来なかつたものである。
○
予は青年時代から頽齢に至るまで、かやうな社交場裡で過ごして来たので何時頃からとはなく落語が好きになつて、随分いろいろのものを聴いてゐるので、主なものは大抵覚えてゐたものである。殊に三遊亭円朝が大の好きで、よく聴いた。円朝といふ人は、文学上の力があつたかどうかは知らないが、塩原太助、安中草三、牡丹灯籠などいふ自作の人情ばなしを演じて、非常に好評を博したものである。その話しぶりも実に上品で、他の落語家のやうに通り一遍のものでなく、自分自身が涙をながして話したくらゐで、従つて感銘も深かつた。
それに、円朝は人間も出来てゐたし、人情の機微に通ずることも深く、お出入りの家庭の風儀など機敏にこれを視察し、巧みに調子を合はせてよく親しませるといふ風で、何処の家でも気に入られたやうである。
前に外務大臣をしてゐた陸奥宗光伯も、大の円朝贔屓で、予と二人で上州の富岡の製糸場を視察に行つた時など、円朝を同伴したこともあつた。陸奥伯は至つて気むづかしい方で、随分無理難題をいつたものだが、円朝はよくその呼吸をのみこんで、工合よく機嫌をとつてゐたには、予もひそかに敬服したことであつた。円朝の如きは、落語によつて処世の妙諦に参したものといへるであらう。《後掲【資料28】参照》
8.円朝・渋沢が発起人等に名を連ねる
明治十二年五月刊『福田会育児院規則』の末尾に、三遊亭円朝は随喜居士会友の一人として、渋沢栄一は会計監査委員として名を連ねている。福田会育児院は、明治十二年、仏教諸宗派合同で貧窮孤児・貧児の救済を目的として東京茅場町の智泉院内に設立された育児施設。《後掲【資料29】参照》
明治二十一年五月「東京改良演芸会設立趣意書」の末尾に発起人総代として「(三遊亭円朝事)出淵次郎吉」が、賛成者の一人として「渋沢栄一」の名が出ている。《後掲【資料30】参照》
9.冠婚葬祭に円朝が参加する
明治十五年七月十四日に亡くなった栄一夫人千代子の本葬が十月二十二日に執り行われた。同日の『御悔到来帳』に、「一蝋燭 壱函 凡拾弐円位 園朝《(円朝)》」とあるので、円朝も参列したことがうかがえる。《後掲【資料31】参照》
【資料6】は、明治二十年十二月二十六日の結納の儀、【資料14】【資料15】は、明治二十五年二月十二・十三日の結婚披露宴で、いずれも円朝が話を披露している。
【資料11】は年次不明だが、円朝が渋沢家の法事に参列した証。
10.円朝落語に渋沢の名が出る
『荻の若葉』第一席に「此露友を贔屓に致しました仁は江戸深川、現今では福住町と申して渋沢栄一君の御所有地で御坐います其前を北川町河岸と申しまして、彼の河岸を近江屋河岸と云ひますのは茲に近江屋喜左衛門と云ふ人が居まして諸大名へ御金御用達を致して居る豪家で御座います」とある。『荻の若葉』は雑誌『百千鳥』明治二十三年に連載。(『円朝全集』第九巻。岩波書店。平成二十六年六月二十六日)
『名人競』第一席(『やまと新聞』明治二十四年七月二十三日)に「目下アノ渋沢栄一様にお在遊ばす福住町の彼処が近江屋さんのお宅で、彼川岸を近江屋川岸と申ました」とある。(『円朝全集』第十巻。岩波書店。平成二十六年八月二十八日)
『七福神詣』(『読売新聞』明治三十一年一月一日)に、次の一節がある。
甲「僕の七福廻りといふのは豪商紳士の許を廻るのサ
乙「へ、へー何処へ
甲「第一番に大黒詣を先にするネ 当時豪商紳士で大黒様と云ふべきは渋沢栄一君だらう
乙「ナール程ニコヤカで頰の膨れてゐる所なんぞは大黒天の相があります それに深川の福住町の本宅は悉皆米庫で取囲てあり米俵も積揚て在るからですか
甲「そればツかりじやアない まア此明治世界にとつては尊貴い御仁サ 福分もあり運もあるから開運出世大黒天サ
乙「成程子分の多人数在るのは子槌で夫れから種数の宝を振り出しますが 兜町の御宅へ往つて見ると子宝の多い事
甲「第一国立銀行で大黒の縁は充分に在ります
(『円朝全集』第十三巻。岩波書店。平成二十七年六月二十六日)
《以下、資料編》
【資料1】
『穂積歌子日記』
(明治二十四年)一月八日(木)朝曇天、大に寒し。正午頃より晴る、風あり。旦那様九時前お出まし、大学より貴族院、上院にては弁護士法のつづきのよし。(かね子の病状わるく見舞い。やや持ち直す。記事詳細、夜十二時帰宅)留主に八束君お出、円朝来りしよし。
《以下、穂積重行のコメント》
* 歌子は「円朝」を娘時代に父の宴席なとで聞いているが、日記にはこれまで同族会の余興として一度その名が見られるのみであり、その後も何度か同様の形で現れる。十年後三十三年のその死にあたり「古今の名人」とおしんではいるが、この時期特に「ひいき筋」だったとは思われない。単なる芸人の挨拶まわりと考えてよかろうが、彼がこの前後息子の素行になやんでいたこと、席亭の横暴を怒ってこの年六月に寄席から引退していることなどがちょっと気になる(23・1・22参照)。この日から「上院」「下院」という言葉をつかっている。
【資料2】
『穂積歌子日記』
(明治二十四年)一月二十七日(水)朝雨ふりしが午前晴れ、大に暖気にして春の如し。夕より又くもる。旦那様終日御在宅。夕三遊亭円朝来る。この頃わら店寄席へ出で居りしが、今夜きりにてしまひなりとぞ。
《以下、穂積重行のコメント》
* 名人「円朝」と特に深い交際はなかった。ただ渋沢の宴席等で先方も知っており、近くの寄席へ出ているついでに挨拶に来たという程度のことであろう。最終日に挨拶というところに、円朝側も「義理ずく」の感じがある。(円朝がこの頃席亭と対立して寄席をはなれたこと、前出)。歌子は寄席に出かけることはほとんどなく、陳重もこのところずっと御無沙汰である。あるいは八束結婚の挨拶か。(2・12参照)。
【資料3】
『渋沢栄一伝記資料』第29巻 p.406-407
(芝崎確次郎) 日記簿 明治一七年 (芝崎猪根吉氏所蔵)
廿三日 ○三月 晴
休日
本日ハ王子別荘ニ来客ニ付、午前九時ヨリ同所江出頭、諸事手伝ひ、来客之内十人不参、十六人来荘、盛宴ニ有之候
落語家 円朝
清元 菊太夫
よし原 芸妓十人
庭園ニテ住よし踊有之候事
夜ニ入十時退散、小生も同時退荘、帰邸泊、十二時ヨリ雨降
【資料4】
『渋沢栄一伝記資料』第14巻 p.336
(芝崎確次郎)日記簿 明治一七年(芝崎猪根吉氏所蔵)
廿八日○一二月 晴
休日
今夕ハ例年之通リ御邸ニテ忘年会御催ニテ銀行重立候モノ不残亦商工会・倉庫会社・集会所・製紙会社・製銅会社各員其外共合テ三十八人来客大盛会ニ御座候、芸人ハよし原の俄連・円朝・菊太夫・清瀬太夫、柳橋・よし原大小芸妓大勢参リ候事
【資料5】
『渋沢栄一伝記資料』第15巻 p.375
(芝崎確次郎) 日記簿 明治一八年 (芝崎猪根吉氏所蔵)
六月九日
例刻出頭、今日ハ御邸ニ御招客有之候、是ハ別懇之方々懇話会と申事御始メ相成、順席御宿被成候御事ニ御座候、午后三時御揃相成候○下略
十日○六月
例刻出頭、午後四時頼合帰宅御邸ニ御知己之方々打寄懇話会盛宴ニ御座候、九日附懇話会言々ハ間違ひニ御座候、九日ハ王子別荘へ阿仁・院内両鉱山古川市兵衛[古河市兵衛]殿今般引受いたし、右ニ付主人公と古川市兵衛[古河市兵衛]殿と両人より工部卿大輔少輔其外役員ヲ別荘江招待相成候、御奥ニテモ一同御越し、円朝其外芸人も罷出候
【資料6】
『渋沢栄一伝記資料』第29巻 p.61
(芝崎確次郎) 日記 明治二〇年 (芝崎猪根吉氏所蔵)
廿六日 ○一二月 晴
○上略
本日午後四時より御屋しき
御嬢様御縁談御究、結納ニ付先方より仲人御夫婦、御聟様等被為入、御親類御一同御立会ニテ盛宴ニ御座候
料理ハ常盤やナリ
如燕 円朝
【資料7】
『穂積歌子日記』
(明治二十三年)七月十五日(火)快晴、あつさはげし。兜町にて午後五時より渡辺様を招待し、同時前に行く。御両人お出。綾瀬の寺子屋、円朝の人情話あり。いと面白し。篤二君行かず。重遠学校、律之助貞三幼稚園休業。
《以下、穂積重行のコメント》
〈「渡辺様」はやはり「渡辺洪基」と考える。前出の通り(1・23参照)彼は工部少輔・府知事時代に栄一と深い関係にあったと思われるし、二十一年には阪谷と琴子との仲人も引き受けている。前註で「私的な関係」と述べたのはこれである。「御両人」、つまり夫婦を招いていることも、こうした縁故を思わせる。彼は二カ月前の五月に帝国大学総長を辞し、後出のように(9・4参照)すでにこの時期にはオーストリア駐剳特命全権公使に擬せられていたはずであるから(二年間在任)、この日の宴席はその慰労祝賀のためであろう。
それにしても「綾瀬太夫と円朝」とは豪華版である。「竹本綾瀬太夫」(一八三三―一九〇〇)は晩年綾翁と称した一代の名人。特に三十年代においては、渋く渋く、物によっては特に凄惨なまでの芸域に達して最高の玄人筋の絶讃を博したが、軽い曲や艶物などをさらりと演じても無類であったという。歌子もその時期の日記の何個所かで、たとえば前者としては「宗玄庵室」や「日向島」、後者については「お半長右衛門」などについて、まったくその通りの讃辞をおしんでいない。歌子は寄席に出かけることはなかったが、同族会その他このような小人数の席で、当時の名人上手の芸にふれるという幸運にめぐまれたし、音曲についてはかなりの耳をもっていたらしい。このことについては後出。「円朝」については一月二十二日註に述べた通り、最高の円熟期に達しつつある。両者とも十年後の同じ年に没する。「篤二君行かず」に注意される。
【資料8】
『穂積歌子日記』
(明治二十四年)十一月十五日(日)快晴、大にあたたかし。午後二時旦那様と共に兜町へ行く。親族会格別の議題なし。晩餐後円朝のお里の伝きく。十一時頃まで話し帰宅。まさ里帰り十八日と定む。
【資料9】
『穂積歌子日記』
(明治二十四年)十二月二十七日(日)快晴暖気なり。四時深川邸へ行く。忘年会相変らずにぎやかなり。円朝の話、お葉の梅の春、いもせ山のおどり、及び円遊の茶番、越子の二十四孝等あり。十二時過帰宅。
《以下、穂積重行のコメント》
* 「お葉」は「清元お葉」としてきこえた。三十四年没、六十二歳。円朝・円遊とともに、私宅の忘年会ともいえない豪華版である。
【資料10】
『穂積歌子日記』
(明治二十五年)三月二日(木)雨終日ふり夜に入りやみしが、少しく暖気なり。旦那様朝お出まし。兜町より雛祭にて案内あり。五時頃大人御帰宅あり。雛は象牙ぼりにていと立派なり。道具未だなし。余興は円朝、十一時帰宅す。
【資料11】
(年次未詳)七月五日 渋沢栄一家 持参状
昨日は御懇之御追福 拙子まで末席〔に〕連なり御嬉しく御回向致候 付而御前様に御まねぎ相成 有難く奉存候 其折小子羽織を失念致候 黒呂と申ば上等の様なれど 御むし物のようかん色に候へ共 此身にとりては袈裟とも衣ともかけ替なき品に候間 これなる伝良〔寺〕男に御渡し被下様頼上候
乍憚御奥様へよろしく御伝言被下度 早々以上
七月五日
三遊庵円朝坊
渋沢様御内
御見世中様
(岩波書店『円朝全集』別巻2〈平成二十八年六月二十九日〉による)
【資料12】
(年次不詳)五月九日 柴崎確次郎宛渋沢栄一書簡
別封名宛の方へ夫々御届可被下候
明後十一日午後三時より王子の方に御客有之候に付 今夕常盤屋へ其用意御申付可被下候
右は先刻失念に付書中申進候義に候人数は秋田県官員三人 瀬川方の者三人 銀行の者三人 主人とも十人
料理は先頃前島君被参候節(先月廿三日)位にてよろしく候 併秋田県官員は中々食事に心を用い候様子に付 随分入念候様御申付可被下候
酌人は五人位にて宜敷 外に円朝か南龍にても御申付可被下候
庭中は別に趣向に不及 只例の団子位を花邨に可申付 又菓子も此方にて手配仕候間右常盤屋の方丁寧御申付可被下候 匆々
五月九日
栄一
柴崎殿
(秋本正義『明治を夢みる』〈昭和四十六年九月二十七日〉による)
【資料13】
『穂積歌子日記』
(明治二十四年)十二月十三日(日)快晴。昨夜の火事、伊東氏官舎焼けしよし。旦那様出がけに見舞にお出。午前十一時、同族会にて坂谷へ行く。旦那様あとよりお出。会計検査其外少々議事あり。大人家法したため給ふ。晩餐は支那料理なり。円朝業平文治の話あり。十一時散会。
【資料14】
『穂積歌子日記』
(明治二十五年)二月十二日(金)朝八時頃より雨ふり出せしが午後止み、終日曇天なれども余り寒からず。朝より仕度し、十一時しゅん魚成つれ番町へ行く。用意ととのひ居る。旦那様大学へお出、十一時御帰宅、直ちに番町へお出。午後1時半頃御縁女(花嫁)御両親御着、程なく御仲人(栄一夫妻)お出。二時過より婚礼の盃、八束君と両親の盃及び両方親類の盃等三席、兄上より帯一筋、主人より小袖一重、縁女へ進物、御仲人御披露あり。縁女より此方一同へ反物松魚土産、御仲人御披露あり。五時頃に済み、それより本膳で酒宴となる。円朝塩原太助婚礼の話をなす。九時過より御客追々開かれ、自分ら帰宅せしは十一時頃なり。本日出席、此方親類は児島御両所西園寺御両所、兄上姉上宅両人竹内両人等なり。縁女の親類は御両親万子幸子泰次郎、浅野奥さんの兄鈴木恒吉御夫婦同在五郎御夫婦、同妹おつるさんのつれ合ひ馬場氏、浅野さん叔父沖牙太郎御夫婦等なり。御酌人は津田の令嬢と沖の令嬢なり。島台は自分等の節のを用ふ。坂谷西園寺にて両度、此度にて五度目なり。
【資料15】
『穂積歌子日記』
(明治二十五年)二月十三日(土)朝より快晴、風なく大に暖気にして春の如し。午後三時番町へ行く。途中都築氏(馨六)に会ひたり。馬上なりたり。五時頃お客皆そろひ、昨日の通り本膳の馳走あり。円朝名人競と落語を話す。九時頃お開き、浅野御両所としばらく話し十一時過帰宅。お客は琴子飯島(魁?)両人、若大川両人(平三郎・照子)、尾高御御所、兜町母上、西園寺亀太郎氏(公成長男)等なり。芳郎君は(数日前から風邪であったが)もはや熱はなけれど外出は宜しからず、不参のよし。
【資料16】
『穂積歌子日記』
(明治二十五年)三月二十日(日)今日宅にて同族会開くに付、種々支度す。午後三時頃坂谷両所来る。おてるさん(大川)お文さん(尾高)昨夜より坂谷へ来り居りしとて同伴す。程なく兜町母上、尾高柴崎両氏来らる。尊大人は製麻会社の会ありとて御遅刻との事に付、夕飯前に二階にて円朝の人情話名人競、寺の場一くさりあり。大人あまりおそきに付、電話(6・10参照)にて伺ひしにすぐお出あるべしとの事。よって夕飯始めてお待ち申す。八時頃やうやくお出おり。御膳すみしは九時頃、それより又円朝名人競根岸宅の場、及び落語一人酒宴等あり。その後会議ありしため、皆々お帰りになりしは一時半頃なりけり。料理は例の如く偕楽園、お菓子は虎屋のまんじうなりしが、皆様風味よしとてほめ給ふ。
《菊池注:「偕楽園」は東京最初の中華料理店。日本橋区亀島町二丁目(現在の中央区日本橋茅場町)にあった。》
【資料17】
『穂積歌子日記』
(明治二十五年)四月七日(木)朝かすみ深く、後花曇りと云ふべき空となり、桜の花咲き始めたり。今夕大人を始め方々を招待するに付、四時半旦那様と共に帝国ホテルへ行く。兄上お出になり居る。五時半頃より皆様お出、控室にてしばらくお話あり。それより借切の食堂へ案内申す。花かざり等も中々立派に出来居り、御客皆々御機嫌よくにぎやかに食事すみ、大人案内にて七宝焼陳列所見物し、休息所へ帰りて円朝の人情話落語等あり。十一時半御客御退出、程なく自分らも帰宅す(3・31参照)。
【資料18】
竜門雑誌 第五一号・第四六―五〇頁 明治二五年八月
○第九回竜門社総集会 七月廿七日水曜日午後五時より、日本橋区浜町一丁目日本橋倶楽部に於て第九回竜門社総集会を開く、先是各員に招待状を発したり
拝啓、本社長渋沢篤二君今般暑中休暇にて帰京せられ、且本社委員尾高次郎君近々秋田へ赴任せられ候に付、歓迎・送別の会を兼ね来る二十七日午後五時より日本橋区浜町一丁目日本橋倶楽部に於て本社第九回総集会を開き、有益なる演説会と清爽なる納涼会とを相催ほし候間、御差繰の上、御知人御同伴御光臨被下度、此段御案内申上候 草々敬具
廿五年七月二十日
深川区福住町四番地
竜門社
当日は幸に天気都合好かりしかは、凡ての準備極めて整理し、門前にハ第九回竜門社総集会と大書したる建札をなし、入口には来会者名簿を具へ、庭中池辺に氷店・水菓子店・茶店等を設け、大川に臨みたる処に納涼台あり、緑陰風清き処に大弓場あり、以て遊楽の料となすへし、総集会の順序は左に掲くる事目に拠る
午後五時
池辺の納涼
午後七時
晩餐
午後八時
演説
渋沢社長
青淵先生
菊池武夫君
来賓会員 諸君
余興
落語 三遊亭 円朝
講談 放牛舎 桃林
其他数番
定時より来会の人々は、青淵先生・渋沢社長・坂谷芳郎君《(阪谷芳郎君)》・尾高惇忠君・浅野総一郎君・佐々木勇之助君・熊谷辰太郎君・谷敬三君・星野錫君・田中栄八郎君・同令夫人・尾高次郎君・同令夫人・朝山令夫人福岡健良君・和田格太郎君・村尾智実君・山中譲三君・村井清君・原林之助君・清水工学士・渡辺工学士・諏訪・水野・白石の三法学士・石津芳三郎君・岩田豊朔君・斎藤峰三郎君、其他百数十名にして、客員には大倉喜八郎君・平田譲衛君・木村清四郎君・蘆田順三郎君、其他数十名(菊池武夫君・山田喜之助君は、当日に至り差支を生したりとて来会せす)の来会あり、皆庭中に逍遥して各自其好に随ひ納涼して稍暑熱を忘れたり、午後七時より支那料理の行厨とビール・ラムネの徳利を携へ適意の処に至りて晩餐を了し、午後八時より楼上なる演説場に会同す
社長代理文学士 坂谷芳郎君
渋沢社長
尾高次郎君
法学士 平田譲衛君
青淵先生
と順次演説あり、次に
人情話 三遊亭 円朝
義士伝 放牛舎 桃林
小話 三遊亭 円朝
右終りて散会を告けたるは午後十一時四十分頃なりき
因に記す、同会へ寄附せられたるは
一金五十円 青淵先生
一金五円 佐々木勇之助君
一金五円 熊谷辰太郎君
一金三円 穂積陳重君
一金三円 坂谷芳郎君
一金三円 渋沢篤二君
一金三円 穂積八束君
一金壱円 村井清君
(『渋沢栄一伝記資料』第26巻 p.145-146 による)
【資料19】
竜門雑誌 第五七号・第三八頁 明治二六年二月
○青淵先生を招待す 第一国立銀行の西園寺・三井・須藤・佐々木・熊谷・長谷川・大沢・大井・斎藤、王子製紙会社の谷・大川・田中、東京製紙分社の星野、東京瓦斯会社の谷瀬、東京人造肥料会社の和田東京海上保険会社の津田、銀行集会所の山中、東京商業会議所の萩原古河鎔銅所の福岡、清水方の原等の諸氏は、去月二十二日を卜し、午後三時より青淵先生を浜町の常盤やへ招請し、劇務の積鬱を慰むる為め宴会を催ほしたり、此会同は賓主ともに隔意なき間柄とて、極めて愉快を覚えたり、殊に円朝の落語数番、綾の助の義太夫其他歌舞等、更に興を助け、席上の周旋も手馴れし連中にて和気靄然たり、当日床の掛物は布袋の唐子遊ひ、置物は鶴を用ひ、朱地に万々歳の金字を置きたる祝杯を用ゐたるは、常盤やの心尽しにて、此会同を祝し、且旧臘の遭変免難を慶賀する意なりとかや
(『渋沢栄一伝記資料』第29巻 p.630 による)
【資料20】
『穂積歌子日記』
(明治二十九年)九月二十四日(木)曇天なりしが午後半晴となる。午前十一時出かけ、旦那様始めおくにさんふさと共に富士見町河岸より船にのる。女子二人ふみ学校より帰りがけここに来る。午後一時半深川に着す。敬三殿はうばきん和田付添ひ八幡宮(深川八幡)へ参詣して後兜町へ行き居られ、三時頃帰らる。益々丈夫のよし。大に成長されたり。平河町よりも程なく来らる。大人御不快、追々およろしけれども風邪にあたるは宜しからずとの事にてお二方ともお出でなかりしは残念なり。敬三殿宮参り祝、お客は深川尾高(惇忠)、根岸尾高(幸五郎)、皆川御夫婦(兼子の親類)両御隠居、猿渡(医師)、吉岡、大亦(二人埼玉の縁者)、おくにさん、照子さん等なり。大川伯父上伯母上とも少々御不快のためお出でなし。ときは屋(常盤屋)の料理にて余興に円朝(五十八歳、最晩年である=穂積重行の注釈)の話あり。女子二人は夜七時頃帰へす。十一時頃お客帰らる。旦那様自分は留る。
【資料21】
落語全集 上
昭和四年一〇月刊
落語の用
子爵 渋沢栄一
○
近頃は社交の様子がすつかり変つて、一体に雑駁になるばかりで、妙趣といふものが無くなつて来たやうに思はれる。客を損ずるにしても、往事は徒らに談論し飲食するといふだけではなく、必らず講談師とか落語家とか、或は清元、義太夫などの芸人をよんで、これに余興を添へなければ、宴席の体をなさず、客に対して真情をつくした礼儀といふことは出来なかつたものである。
○
予は青年時代から頽齢に至るまで、かやうな社交場裡で過ごして来たので何時頃からとはなく落語が好きになつて、随分いろいろのものを聴いてゐるので、主なものは大抵覚えてゐたものである。殊に三遊亭円朝が大の好きで、よく聴いた。円朝といふ人は、文学上の力があつたかどうかは知らないが、塩原太助、安中草三、牡丹灯籠などいふ自作の人情ばなしを演じて、非常に好評を博したものである。その話しぶりも実に上品で、他の落語家のやうに通り一遍のものでなく、自分自身が涙をながして話したくらゐで、従つて感銘も深かつた。
それに、円朝は人間も出来てゐたし、人情の機微に通ずることも深く、お出入りの家庭の風儀など機敏にこれを視察し、巧みに調子を合はせてよく親しませるといふ風で、何処の家でも気に入られたやうである。
前に外務大臣をしてゐた陸奥宗光伯も、大の円朝贔屓で、予と二人で上州の富岡の製糸場を視察に行つた時など、円朝を同伴したこともあつた。陸奥伯は至つて気むづかしい方で、随分無理難題をいつたものだが、円朝はよくその呼吸をのみこんで、工合よく機嫌をとつてゐたには、予もひそかに敬服したことであつた。円朝の如きは、落語によつて処世の妙諦に参したものといへるであらう。
論語には『子は温にして厲し、威あつて猛からず、恭にして安し』とあつて、これは孔子の為人をいうたのである。温和の中にも犯すべからざるところあり、威あつて猛からず、慎しみ深うして而も窮屈でないといふのであるから、実に聖人の渾然たる人格が窺はれる。
○
人にはいろいろの型があつて、とかく一方に偏しがちのものである。中正を得た人物といふものは、まことに少い。人の世に立つて最も注意すべきは、たとひ、いかなる懇親の間にあつても、狎れて犯さないといふことである。まして懇親の仲でない一般の人に対しては、あくまで心身を端正に持して、相互に守るべきを守り、相犯さゞるやう心
掛くべきである。
しかし、人生いかに端正を尚ぶからというて、厳に過ぎて温和を欠く時は、やはり世に処して円滑なる交際を完うすることは出来ない。恩威ならび存し、寛厳よろしきを得て、初めて調和した人物となり、凡べての事業を円満に遂行し得るのである。吾人が聖人の道を学ぶといふのも、一つはこゝに存するのである。
しかし、一般に聖人の道を学んで人格を修養するといつても、これは容易な業ではない。世には方便といふものがあつて、この方便によつておのづから修養を積むことも出来る。円朝は処世の妙諦を得てゐたというたが、この落語などは面白く聴いてゐながら、人物の修養上頗る効果が多いもので、誠に結構なものであると考へる。
○
一つの話の中に、あらゆる世態人情の機微を穿ち、また奇智頓才の妙をつくしてゐるので、不知不識の間に腹を練り人格を円満にし、以て処世の妙諦を会得せしめると共に、交際の秘訣を理解することも出来る。殊に落語のさげといふものは、一つの話を締め括つて要領を得させ、しかも余韻嫋々として妙味尽るところを知らないものがある。単なる小咄のやうなものでも、味へばそこに尽きざる味ひが存するのである。
円朝の話した小話の中に親子の聾といふ咄がある。親曰く『今あちらへ行つたのはあれは横町の源兵衛さんぢやないか』子の曰く『いいえ、あれは横町の源兵衛さんですよ』親曰く『さうか、わしは又横町の源兵衛さんだと思つた』たゞこれだけの咄である。親子の間に横町の源兵衛さんを三回繰り返して其発声と態度にてよく味へば、実に限りない妙味があるではないか。
○
余韻のある処世、余情のある交際、これほど人生に於て大切なことはないのである。老生抔は滔々たる懸河の弁を弄するよりも、世人が此の落語に学ぶところ多からんことを希ふ次第である。
《注:
第3巻 p.661-662(DK030146k)
明治六年癸酉一月下旬(1873年)
租税頭陸奥宗光ト共ニ富岡製糸場ヲ視察シ、租税権大属尾高惇忠等ヲシテ該製糸場ヲ管セシム。
■資料
富岡製糸場記 【渋沢子爵家所蔵】(DK030146k-0001)
第3巻 p.661
富岡製糸場記 (渋沢子爵家所蔵)
明治六年一月下旬、三等出仕大蔵少輔事務取扱正五位渋沢栄一、租税頭正五位陸奥宗光来リ、繰糸就業ヲ視、庶務ヲ聴断シテ返ル
》
(『渋沢栄一伝記資料』第48巻 p.145-165 による)
【資料22】
(芝崎確次郎) 日記簿 明治一九年 (崎猪根吉氏所蔵)
廿五日 ○七月 晴
休日
○上略 明日君公日光ヘ御発車ニ御決定相成候事
廿六日 晴
今暁五時廿五分御発車ニ付小生ハ第一銀行より四時三十分出ニテ上野ステーシヨンヘ罷出、五時十分御出頭ニ相成、直ニ御乗車御出発相成候
さん
君公 奥方 若様 嬢様 両女
とよ
芸人ニハ 円朝 よし原里ゑ のぶ しん
大勢ニテ御出相成候事
○下略
(八月)二日 晴
○上略 午後三時半宇都宮出主人より主人《(衍)》より電報参リ、本日五時発汽車ニテ帰京、上野ヘ迎ひ出セ、岡本より通知有之候間、夕五時半より退社、直ニ上野ヘ参リ御待受、八時五十分着車、直ニ馬車ニテ御帰リ相成候
○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第29巻 p.445 による)
【資料23】
鐘紡東京本店史 第七八―一二六頁 〔昭和九年四月タイプ版〕
(鐘淵紡績株式会社東京工場所蔵)
第参章 明治二十三年の恐慌
三 業績不振にて欠損を生づ
創業第一年は業界稀に見る好況の波に乗りしが翌二十三年に入るや急転直下苦難の淵に沈淪するに至れり
前年暮頃より糸価は一体に低落の一方に傾きたるも、兎に角二・三月の頃迄は相応に売行ありしが四月に入りてより販路頓に梗塞し製品は徒らに倉庫に堆積するの有様となれり、更に五・六月の候は例年需要の最も減少するの折柄なれば価格は益々低落を告げ遂に壱梱八拾円以下を以つて販売せり、然れども猶甚だ売行悪しく同業者の中には夜業を廃して昼業のみに従事するものあり、或は全部休業を為すものもありて遂に六月中同業聯合会に於て一般に製造高減少の為め期を定めて休業日を増加するの臨時約束を可決せり、以後聯合加盟者は総て之を遵守して競争の弊を予防し只管耐久の策を持したり、六月の末に至り稍買気を萌し値段を昇騰せしむる迄には到らざりしも徐々に注文ある有様を呈し七月初旬に至りて一時多数の注文を得、綿糸の値段も連日壱・弐円を進め、七・八月頃には八十七円迄に達したり、此の如き好況は独り我社のみにあらずして各所同一なりしを以つて六月の定時同業聯合会に於て議決せし生産制限の臨時約束も、各所より陸続請求してこれを取消すに至れり、蓋し俄然として此好況を呈したる所以は畢竟外国為替の昂低激しくして綿糸相場の定まらざりしと、春以来内地の糸価低落の一方にのみ傾き、却つて需要者の狐疑心を惹起して、孰れも買控へ居たるに一時実需筋の買気起りしより刺激せられ、競ふて買進みたるとの二点より来りし結果にして真正立直りの市況を見るに至らざりしなり、故に日ならずして再び低落の一方に向ひ、従つて漸次販売高を減却したり、此際会社の出来高は日一日と増加し来りたるを以つて、座して各問屋の注文を待たんより進んで販路を拡むるの捷敏なるに如かずとし、先づ名古屋地方に委托販売の方法を試みたれども不景気の趨勢は都鄙一般にして未だ遽かに充分なる販路を得るに至らず、爾来商業益々不振にして各所とも在荷庫中に堆積し業界稀に見る困難の極に達せり、加ふるに十一月より同業中販売競争の色あり、十二月上旬に至りては一層の下落を辿り、会社の十六手の如き遂に七拾円を昇降し殆んど底止する所を知らざる有様なりき、而かも工業会社に不似合なる鉄門又は庭園を設け偉容にのみ腐心したる為め、世間よりは紡績大学校と悪口を言はれ内憂外患一時に至れるの感あり、利益配当の如き思ひもよらず、同年末決算に於て実に拾弐万参千六百拾七円の損失を生じ、会社株券の如きは市価拾四・五円に下落せり
四 三井家の助力を仰ぐ
やがて百万円の資本金は殆んど費ひ果され、運転資金を欠くに至りて会社は容易ならぬ苦境に直面せり、玆に於て三井家の代理者山岡正治氏は折角会社の為めに苦心参劃せられたるにも拘はらず主家不首尾にて遂に閉門を申し附けられ、副社長西村虎四郎氏の命により松山仙右衛門氏代りて事に当られたるも、幾ばくもなく退隠せられたり、乃ち明治二十四年一月二十三日京橋区木挽町厚生館に於て開催せる第八回定時株主総会に於て役員改選の結果、新に北岡文兵衛氏取締役に就任せられ会社主脳部の陣容はこゝに全く一新せり、即ち左の如し
社長 三井得右衛門氏
副社長 西村虎四郎氏
取締役 北岡文兵衛氏
同 浜口吉右衛門氏
同 佐羽吉右衛門氏
監査役 稲延利兵衛氏
同 鶴田助次郎氏
同 上柳清助氏
技師長 吉田朋吉氏
副支配人 荒井泰治氏
当時一部株主間には会社の解散を唱ふる者を生じ危急存亡の機に達したるが、前記諸氏就中監査役稲延利兵衛氏は最も強硬に解散論に反対し、時の大株主たりし三井家の助力を仰ぐより外途なきを提唱せられたり、玆に於て同氏は当時の三井家の顧問たりし井上侯に懇請せんとし、侯の眷寵を受け居たる三遊亭円朝を通じて侯に面接し、縷々苦衷を披瀝したるに幸に侯の容るゝ所となり、西村虎四郎氏の奔走にて三井銀行より無慮六・七拾万円の融通を受くるに至り会社は漸く更生の路を辿れり、後年井上侯が短冊に書して稲延氏に贈られたる和歌は当時稲延氏の会社整理に与りて力ありしを示すものなり
もつれ糸履んで切らんかいなのベて
宝の山に這入る鐘紡
○中略
(『渋沢栄一伝記資料』第10巻 p.197-205 による)
【資料24】
『穂積歌子日記』
(明治二十三年)一月二十二日(水)篤二君少し風気なりと云ふ。此頃円朝わらだなの席へ出るよし。夜十一時頃岡本来る。大磯にて新島じゃう氏大病にてベルツ氏を頼み度、父上より御申越に付、添書をたのみ来る。てつ王子宿へ行く。
《以下、穂積重行のコメント》
* 名人「三遊亭円朝」(一八三九―一九〇〇)、五十一歳。「塩原太助一代記」(十一年)「怪談牡丹燈籠」(十七年)等で人情話を中心とする地位を確立し、二十年頃から翻案物も開拓して全盛期に達していたが、二十四年席亭と対立して寄席に現れなくなった。その後は特別の席に出演し、後出の通り渋沢らの宴席でもしばしば演じているが、寄席の芸としては日記の時期が最後といいうる。「わらだな」(藁店)は今日も残る神楽坂の地名で、一流の寄席があった。
【資料25】
『穂積歌子日記』明治三十三年八月十二日
三遊亭円朝(一八三九―一九〇〇、六十二歳=穂積重行注)昨日死去したるよし、新聞に記載しあり。斯道においては空前絶後の名人なりしに、いとをしきことなり。
【資料26】
実験論語処世談 渋沢栄一著 第五一八―五二〇頁大正一一年一二月四版刊
○完全なる人物とは何か
○三遊亭円朝の落語革新
芸に達した人は私の知つてる人々の中にも大分あるが、今の三遊亭円右なぞの師匠に当る円朝も確に其一人であるかの如くに想はれる。円朝は落語家の名人で、あの方の大家を以て目せられ、人情話で売出した人だが、初めから人情話をした人では無い。若い中は猶且芝居話《やはり》のやうなものを演つてたもので、高座の後背《うしろ》へ背景として書割様のものを懸け、その前で尺八を揮り廻して、ドタンバタンと身振をしたり身構へをしたり、又衣裳の引抜なんかを演つたりなぞして、話をして居つたのだ。万事が大袈裟で、シンミリした話なんかしたもので無かつたのである。
然し後日には、名人と呼ばるゝほどの者に成る人の事だから、妙な軽口みたやうな落語《おとしばなし》だとか、或は大袈裟な芝居懸つた真似なんかし無くつても、何とかシンミリと素話丈《すばなし》けで聴衆を感動させ、泣かせたり笑せたりして、之によつて因果応報の道理を覚らせ、勧善懲悪の道を心得させるやうにする工風は無いものかと考へ、遂に人情話といふものを発明し、素話を演ることにしたのである。それが大変に時世の嗜好に投じウケるやうになり、名人の誉れを揚げるまでになつたのだ。
一体自分で発明した新しい事により、世間の人を成る程と感服させ得る人には、何処か他人の及ばざる優れた長所のあるものだ。円朝がその発明した新しい話方によつて落語界に一新紀元を劃し、然も世間の人々を感服さして聴かせる事の出来たのは、円朝に他の落語家の持つて居らぬ優れた豪い処があつたからだ。今日でも円朝一門の弟子等《たち》が演ずる「安中草三郎」とか「牡丹灯籠」とか、或は又「塩原多助」とか云ふ人情話は、皆円朝が自分で作つて話したものである。畢竟円朝は話術《はなし》が旨かつたばかりで無く、却々学問もあつて文事に長け、能く読書して居つたので、あんな纏まつた長い人情話を作ることが出来たのだ。私は親しく円朝と会談《はなし》したことは無いが、かく学問があり文事の趣味もあつたから、何んな立派な人とも談の能きたもので、高貴の人の御前だからとて、別に憶劫《おくび》れるやうな事なぞは無かつたのである。この点から謂へば、円朝には本業の芸以外、なほその芸に遊び得る余裕のあつたものだと謂はねばならぬ。
(『渋沢栄一伝記資料』第47巻 p.429 による)
【資料27】
円朝全集 鈴木行三編 巻一三・第五八三頁 昭和三年一月刊
○円朝遺聞(鈴木古鶴)
名士の観た円朝
○上略
渋沢子爵と円朝 子爵は語る、円朝は随分世話もしたが、誠に芸人に珍らしい忠孝の念の篤い男であつた。それで酒席へなど呼んでも、諂ふといふやうな態度は少しも無かつた。話は旨いもんだつたね、円朝が親子の聾といふ話をすると、ほんの一言か二言だが、実に何うも何とも云へなく面白かつた。徳川公のお見舞に私が円朝を連れて駿府へ往つた事があつた。この時は確か塩原多助を一席演つたと思つた。公も非常な御満足であつたよ。井上侯がひどく贔屓であつた。川田(小一郎)も随分贔屓にした、大倉も馬越も皆円朝贔屓で、その時分円朝の速記本が出ると夢中になつて読んだものだつた。云々。
○下略
(『渋沢栄一伝記資料』第29巻 p.401 による)
【資料28】
落語全集 上
昭和四年一〇月刊
落語の用
子爵 渋沢栄一
○
近頃は社交の様子がすつかり変つて、一体に雑駁になるばかりで、妙趣といふものが無くなつて来たやうに思はれる。客を損ずるにしても、往事は徒らに談論し飲食するといふだけではなく、必らず講談師とか落語家とか、或は清元、義太夫などの芸人をよんで、これに余興を添へなければ、宴席の体をなさず、客に対して真情をつくした礼儀といふことは出来なかつたものである。
○
予は青年時代から頽齢に至るまで、かやうな社交場裡で過ごして来たので何時頃からとはなく落語が好きになつて、随分いろいろのものを聴いてゐるので、主なものは大抵覚えてゐたものである。殊に三遊亭円朝が大の好きで、よく聴いた。円朝といふ人は、文学上の力があつたかどうかは知らないが、塩原太助、安中草三、牡丹灯籠などいふ自作の人情ばなしを演じて、非常に好評を博したものである。その話しぶりも実に上品で、他の落語家のやうに通り一遍のものでなく、自分自身が涙をながして話したくらゐで、従つて感銘も深かつた。
それに、円朝は人間も出来てゐたし、人情の機微に通ずることも深く、お出入りの家庭の風儀など機敏にこれを視察し、巧みに調子を合はせてよく親しませるといふ風で、何処の家でも気に入られたやうである。
前に外務大臣をしてゐた陸奥宗光伯も、大の円朝贔屓で、予と二人で上州の富岡の製糸場を視察に行つた時など、円朝を同伴したこともあつた。陸奥伯は至つて気むづかしい方で、随分無理難題をいつたものだが、円朝はよくその呼吸をのみこんで、工合よく機嫌をとつてゐたには、予もひそかに敬服したことであつた。円朝の如きは、落語によつて処世の妙諦に参したものといへるであらう。
論語には『子は温にして厲し、威あつて猛からず、恭にして安し』とあつて、これは孔子の為人をいうたのである。温和の中にも犯すべからざるところあり、威あつて猛からず、慎しみ深うして而も窮屈でないといふのであるから、実に聖人の渾然たる人格が窺はれる。
○
人にはいろいろの型があつて、とかく一方に偏しがちのものである。中正を得た人物といふものは、まことに少い。人の世に立つて最も注意すべきは、たとひ、いかなる懇親の間にあつても、狎れて犯さないといふことである。まして懇親の仲でない一般の人に対しては、あくまで心身を端正に持して、相互に守るべきを守り、相犯さゞるやう心
掛くべきである。
しかし、人生いかに端正を尚ぶからというて、厳に過ぎて温和を欠く時は、やはり世に処して円滑なる交際を完うすることは出来ない。恩威ならび存し、寛厳よろしきを得て、初めて調和した人物となり、凡べての事業を円満に遂行し得るのである。吾人が聖人の道を学ぶといふのも、一つはこゝに存するのである。
しかし、一般に聖人の道を学んで人格を修養するといつても、これは容易な業ではない。世には方便といふものがあつて、この方便によつておのづから修養を積むことも出来る。円朝は処世の妙諦を得てゐたというたが、この落語などは面白く聴いてゐながら、人物の修養上頗る効果が多いもので、誠に結構なものであると考へる。
○
一つの話の中に、あらゆる世態人情の機微を穿ち、また奇智頓才の妙をつくしてゐるので、不知不識の間に腹を練り人格を円満にし、以て処世の妙諦を会得せしめると共に、交際の秘訣を理解することも出来る。殊に落語のさげといふものは、一つの話を締め括つて要領を得させ、しかも余韻嫋々として妙味尽るところを知らないものがある。単なる小咄のやうなものでも、味へばそこに尽きざる味ひが存するのである。
円朝の話した小話の中に親子の聾といふ咄がある。親曰く『今あちらへ行つたのはあれは横町の源兵衛さんぢやないか』子の曰く『いいえ、あれは横町の源兵衛さんですよ』親曰く『さうか、わしは又横町の源兵衛さんだと思つた』たゞこれだけの咄である。親子の間に横町の源兵衛さんを三回繰り返して其発声と態度にてよく味へば、実に限りない妙味があるではないか。
○
余韻のある処世、余情のある交際、これほど人生に於て大切なことはないのである。老生抔は滔々たる懸河の弁を弄するよりも、世人が此の落語に学ぶところ多からんことを希ふ次第である。
《注:
第3巻 p.661-662(DK030146k)
明治六年癸酉一月下旬(1873年)
租税頭陸奥宗光ト共ニ富岡製糸場ヲ視察シ、租税権大属尾高惇忠等ヲシテ該製糸場ヲ管セシム。
■資料
富岡製糸場記 【渋沢子爵家所蔵】(DK030146k-0001)
第3巻 p.661
富岡製糸場記 (渋沢子爵家所蔵)
明治六年一月下旬、三等出仕大蔵少輔事務取扱正五位渋沢栄一、租税頭正五位陸奥宗光来リ、繰糸就業ヲ視、庶務ヲ聴断シテ返ル
》
(『渋沢栄一伝記資料』第48巻 p.145-165 による)
【資料29】
福田会育児院規則 第一―一六丁 明治一二年五月刊
福田会育児院規則
此育児院ハ、幼稚ニシテ父母ヲ失ヒ、或ハ貧窮ニ困セラレ養育シ能ハサル者ヲ入院教育シテ、其己有ノ厚徳深智ヲ発達セシメン事ヲ冀望シ以テ設立スルモノナリ
第一条 本院ニ於テ養育スル教童ハ出産年ヨリ六年未満ノ者ニ限リ入院ヲ許スヘシ、而シテ其六年ニ満ツルトキハ相当ノ学問ニ従事セシムヘシ
第二条 教童ノ養育中又ハ修業中、若シ他人ヨリ要求シテ之ヲ一家ノ相続人ニ充テント欲スル者アレハ、則チ要求者ノ貧富及ヒ品行等ヲ審察シテ後ニ付与スヘシ
第三条 本院ニ児童ノ入院ヲ願フトキハ、本院ハ其親類組合等ヨリ書面ヲ出サセ、並ニ其属籍地方区役所ノ添翰ヲ要収スヘシ
第四条 入院児童戸籍上ノ件ハ総テ政府ノ法則ニ従フヘシ
但会友ノ中一名ヲ撰ンテ本院ノ側ニ本籍ヲ設ケ、入院ノ者ハ皆之レニ附籍スルヲ要ス
第五条 凡ソ児童ノ入院ヲ許スハ本院幹事ノ衆議ヲ以テ許可スルヲ例トス
但シ至急ニ出テ已ムヲ得サルトキハ、会長又ハ当日出勤ノ幹事之ヲ収留シテ後ニ衆議ヲ取ルヘシ
第六条 本院ニ収養スル児童ハ総テ之ヲ教童ト称呼スヘシ
第七条 育児ノ科ヲ分テ二ト為ス
第一科ハ幼稚ニシテ未タ乳ヲ離レサル者、之ヲ里子ト為シ、其預リ人ノ生質ヲ査明シテ之ニ世話料・衣料ヲ給スルニ左ノ別ヲ立ツ
一年ヨリ二年マテハ一ケ月金弐円五拾銭、三年ヨリ四年マテハ
一ケ月金弐円七拾五銭、五年ヨリ六年マテハ一ケ月金三円
一金三円弐拾銭 育児送迎人費 合 金二百円
第二科ハ六年以上独歩独喰シ得テ乳母ノ手ヲ離レタル者ハ普通ノ学則ニ就カシムヘシ
但毎月食料・衣料トシテ金三円ヲ付スヘシ
第八条 乳母ノ科ヲ分テ二ト為ス
第一科ハ六年間世話料・衣料ヲ受ケス、自費之ヲ弁シテ乳母タル者ナリ、此種ノ乳母ニハ褒賞ヲ与ヘテ称揚スヘシ
第二科ハ世話料・衣料ヲ受ケテ乳母トナル者ナリ、此種ノ乳母ニハ其住居ノ地方ニ在ル親類・組合両人ヨリ確実ナル保証ヲ要求シテ養育ノ契約ヲ擬スヘシ
第九条 乳母・教童ノ監督者ヲ設ケ、時々視察シテ実行ヲ点撿シ、若シ不都合ナル情状アレハ衆議ヲ以テ保証人ニ談シ所置スヘシ
第十条 教童若シ疾病アルトキハ、乳母家ヨリ速ニ住地ノ区医又ハ附近ノ公私病院ニ依頼シ治療ヲ受ケシムヘシ、仍テ此際便宜ノ為メ本院ヨリ治療依頼牌ヲ作ツテ、一方ハ乳母家ニ給付シ置キ、一方ハ其区医及ヒ附近ノ公私病院ニ照管シ置クヘシ
第十一条 乳母家ヨリ区医又ハ公私病院ニ治療ヲ乞フトキハ、其由ヲ速ニ本院(各地方ハ会友)ニ届ケ、後時々病状ヲ具報シ、痊回ヲ得レハ病費・薬費等ヲ届出テ、本院幹事ノ撿査ヲ経テ其費用ヲ領収スルヲ例トス
但薬費ハ区医又ハ公私病院ヨリ書面ヲ受ケテ之ヲ証シ、他ノ病費ハ乳母家ヨリ書面ヲ作ツテ具報スヘシ
第十二条 教童若シ不幸ニシテ病死スルトキハ、府下ハ本院事務所、各地方ハ其地ニ在ル会友教導職ニ於テ葬儀ヲ執行スヘシ
第十三条 亡児ノ葬式年式追福等ハ教導職ノ宗旨ニ従テ執行スヘシ
但本文費用ハ総テ本院ノ会計ニ立ツヘシ
第十四条 凡ソ教童及ヒ乳母ハ所在福田会説教所ノ日並ニ当テ拝礼スルヲ法トス、因テ各乳母ハ此日教童ヲ提携シテ該所ニ参詣シ、嘗テ本院ヨリ授クル所ノ参詣帳ニ撿印ヲ受クヘシ
第十五条 本院ノ外各地方ニ於テ本院ノ分院ヲ設立スルハ妨ケナシト雖トモ、皆必ス本院ノ許可ヲ得テ、本院ノ規律ニ準拠スルヲ法トス
第十六条 本院ハ当分ノ内府内ニ在ル寺院一宇ヲ借テ以テ開設シ、他日適宜ノ地ヲ択テ堂舎ヲ建築スルヲ要ス
第十七条 教師及ヒ委員ノ如キハ温厚篤実ノ者ヲ撰出シ、教科ハ普通学ヲ以テ教訓スヘシ
第十八条 本院通常ノ事務ハ幹事之ヲ担当シ、出納計算ノ事件ハ会計委員之ヲ担当スヘシ
第十九条 此育児院ハ福田会々友ノ主持スル所ニシテ、永続会友ハ即チ各宗教導職中ノ同志相会盟スル者ナリ
第二十条 居士ニシテ此会ニ入テ始終保護ヲ専ニ志ス者、之ヲ随喜会友ト称ス
第二十一条 凡ソ世上ノ仁人君子本院ノ善行ヲ悦テ資金ヲ恵給スル者ハ、之ヲ捐助者ト称スヘシ
福田会慈恵金送附手続告白
此福田会ハ諸宗教導職相会盟シテ捐資ヲ募リ以テ育児院ヲ開弁スルカ為メニ設クル者ナリ、其立会及ヒ育児ノ主旨、院則ノ如キハ備ニ章程アリ、蓋育児法ノ如キハ実ニ生々ノ理ヲ補摂シ、其任極メテ重大ナリト雖トモ、固ヨリ亦吾輩有志ノ之ヲ創画スルヲ以テ本院会長及幹事ノ責ニ在ル者謹テ其務ニ従事シ、以テ主旨ヲ誤ルナキヲ要ス、特リ捐資ヲ使用スルノ途ニ至テハ苟モ職務ニ精練セサル者ノ叨リニ従事スルヲ得ヘカラサル所ナリ、況ヤ人ノ金銭ニ於ル錙銖ト雖トモ信疑ノ繋ラサルナキ者ヲヤ、是ニ因テ捐資出納ノ事務ハ東京府内ノ紳富ニ委托シ以テ之ヲ管理セシメ、且其金円ハ第一国立銀行・三井銀行ニ委頓シテ利息ヲ生スヘキ事ヲ妥議セリ、冀クハ世ノ仁人善士育児ノ善法ヲ嘉ミシ吾輩ノ微志ヲ賛ケ、会計ノ確実ナルヲ信シ、各応分ノ資ヲ捐テ相共ニ生々ノ理ヲ補摂セラレン事ヲ、因テ捐資募集ノ順序ヲ設ケ、左ニ列ス
第一条 凡ソ仁人善士ノ此会ニ金穀等ヲ捐助セント欲セハ、其額ノ多少ヲ論セス、各便宜ニ就テ地方ノ慈恵金請取所ニ向テ送附セラルヽヘシ
但慈恵金受取ノ場所地名ハ下文ニ詳カナリ
第二条 此慈恵金ヲ募集スルハ年限ヲ定メス、金額ヲ設ケス、之ヲ要スルニ仁人善士ノ適宜捐助アルヲ祈望ス
但一時ノ捐助ニ止ラスシテ、期ヲ定メテ送附スルハ、其書面ヲ以テ慈恵金請取所ニ通知アルヲ要ス
第三条 仁人善士ノ慈恵金ヲ送付スルニ当リ、該請取所ハ次ニ掲クル甲号ノ書式ニ従ヒ請取書ヲ本人ニ交付シ、乙号ノ書式ニ従ヒ東京第一国立銀行・三井銀行ニ報告スヘシ
受取所ノ扣 住所姓名 金額 番号 日附
乙号書式 ……銀行 右之通御送附致シ候也 慈恵人住所姓名 金額 番号 日附
甲号書式 殿 月 日 ……銀行 明治 年 右金額正ニ受取申候ニ付速ニ福田会々計委員ニ通知可致候也 一金 福田会慈恵金受取証 番
第四条 此慈恵金ハ各地ノ受取所ヨリ、一週間毎ニ乙号ノ切符ト倶ニ東京第一国立銀行・三井銀行ニ送附シ、第一国立銀行・三井銀行ハ其慈恵者ノ姓名及ヒ金額等ヲ東京福田会ノ会計管理委員ニ報告シ、該金円ハ約定ニ照ラシテ蓄積預リニ算入スヘシ
第五条 会計管理委員ハ右ノ金穀ヲ請取ル毎ニ本院ノ会長ニ報告シ、会長ハ毎時ノ報告ヲ蒐集シ毎月一回之ヲ印刷シ、名印ヲ記シテ各地ノ郡役所並ニ慈恵金請取所ニ送致シ、処在慈恵者ノ為メニ何時ヲ論セス査閲スルニ便ス
第六条 若シ右ノ出版ニ遺漏アレハ、諸君其レ幸ニ本院又ハ所在会友ノ内ニ向テ推問スル事ヲ祈ル
第七条 慈恵金保護ノ方法及ヒ出納会計ノ事務ハ、東京府内名望アル紳士ニ委托シ、其監督ヲ以テ務メテ確実ニ従フ者ナリ
右ノ通リ手続相定メ、謹テ四方ノ仁人善士ニ告ク、願クハ本会ノ微旨ヲ諒納シ幸ニ捐助ヲ吝ム勿レ
福田会慈恵金受取場所
東京海運橋兜町 第一国立銀行本店
同駿河町 三井銀行本店
大坂高麗橋通三町目 第一国立銀行支店
同同二丁目 三井銀行分店
西京新町通六角下ル六角町 第一国立銀行支店
同所 三井銀行分店
神戸栄町四丁目 第一国立銀行支店
同同三丁目 三井銀行分店
長崎本博多町 三井銀行分店
同東浜町 第十八国立銀行
横浜本町五丁目 第一国立銀行支店
同海岸通一丁目 三井銀行分店
新潟東堀江丁 第四国立銀行
函館内澗町一丁目 三井銀行分店
静岡本通二丁目 第三十五国立銀行
岐阜鉄屋町 三井銀行分店
同松屋町 第十六国立銀行
名古屋伝馬町六丁目 三井銀行分店
同茶屋町三丁目 第十一国立銀行
四ケ市北町 三井銀行分店
津大門町 同行分店
山梨甲府常盤丁 第十国立銀行
前橋本町二丁目 第三十九国立銀行
館林館林町 第四十国立銀行
水戸南町 三井銀行分店
千葉吾妻町一丁目 三井銀行分店
福島福島町七丁目 第六国立銀行
仙台東一番町 第一国立銀行支店
仙台大町二丁目 第七十七国立銀行
盛岡紺屋町 第一国立銀行支店
石ノ巻本町 同行支店
青森米町 三井銀行分店
青森弘前町 第五十九国立銀行
鶴ケ岡三日町 第六十七国立銀行
和歌山本町二丁目 三井銀行分店
同中店中ノ丁 第四十三国立銀行
大津小唐崎町 三井銀行分店
同中京町 第六十四国立銀行
長浜神戸町 第廿一国立銀行
岡山船着町 第廿二国立銀行
佐賀呉服町 三井銀行分店
広島塚本町 三井銀行分店
松江本町 同行分店
同南田町 第七十九国立銀行
下ノ関西南部町 三井銀行分店
山口田町 三井銀行分店
福岡橋口町 第十七国立銀行
大分大分町 第廿三国立銀行
高知種崎町 第七国立銀行
明石西本町 第五十六国立銀行
中津中津町 第七十八国立銀行
愛媛宇和島川ノ石浦 第廿九国立銀行
同松山紙屋町 第五十二国立銀行
同松山本町二丁目 興産会社
小浜塩竈町 第廿五国立銀行
敦賀蓬莱町 三井銀行分店
福井佐久良中町 第九十二国立銀行
堺岸和田本町 第五十一国立銀行
彦根白壁町 第六十四国立銀行支店
出石柳町 第五十五国立銀行
以上 六十ケ所
第三条教童入会願書式 幹事御中 福田会育児院本支局事務所 組合 何ノ誰印 同…… 年月日 親類 何ノ誰印 何府県区町村番地 右者父死去母多病貧困相迫リ養育方難渋仕候ニ付其御院ヘ入会御養育奉願候、然ル上者鴻恩忘却仕間敷、総而御規則ニ依リ進退被成下度、此段親類並組合連調ヲ以奉願上候也 年月 何名 士族平民何ノ誰長男長女 何府県区町村番地
第八条教童乳母願書式 福田会育児院本支局事務所幹事御中 組合 何ノ誰印 年月日 同……… 親類 何ノ誰印 何府県区町村番地 右ハ貴院教童乳母ニ願上度候、尤モ御規則ノ入費衣料等申受候上ハ篤実ニ養育可為致候、万一不実意等之義有之候ハヽ如何様之義被仰付候共聊苦情申間敷此段親類組合連調ヲ以テ奉願上候也 士族平民何ノ誰妻 何府県区町村番地
第八条教童治療依頼書式 公私病院御中 何府県区町村 事務所幹事印 月日 福田会育児院 右ノ者今般貴方乳母某家ヘ年限中預ケ置候条、疾病ノ節ハ治療与薬被下度御依頼申置候也 年月 何ノ誰 福田会育児院教童 何府県区町村何番地何ノ誰方ヘ生年六ケ年限預ケ置
福田会育児院設置願
今般全国各宗有志協議之上、別冊写之通規約ヲ設ケ、府下日本橋区茅場町二十九番地天台宗智泉院ヲ借受仮事務所トシ、貧童教育仕度、別紙東京府伺書指令相添上願仕候、御省ニ於テ御差閊無之候ハヽ御允可被下度、此段連署上願仕候也
各宗有志総代
府下小石川区表町
浄土宗伝通院住職
中教正 福田行誡印
新潟県越後国蒲原郡国上村
真言宗国上寺住職
権中教正 大崎行智印
静岡県駿河国安倍郡大岩村
臨済宗臨済寺住職
少教正 今川貞山印
千葉県上総国長柄郡茂原駅
日蓮宗藻原寺住職
権少教正 神保日淳印
群馬県上野国新田郡世良田村
天台宗長楽寺住職
大講義 石泉信如印
府下日本橋区茅場町廿九番地
同宗智泉院住職
権少講義 矢吹信亮印
内務卿 伊藤博文殿
朱書
書面福田会育児院設置
出願之趣聴置候事
明治十二年四月十八日
内務卿 伊藤博文内務卿伊藤博文印
福田会永続会友
時宗 相摸国藤沢駅清浄光寺住職 大教正 他阿尊教
臨済宗相国派 西京相国寺町相国寺住職 大教正 荻野独園
臨済宗妙心派 西京花園妙心寺住職 大教正 関無学
天台宗 近江国比叡山延暦寺住職 権大教正 赤松光映
日蓮宗 甲斐国身延山久遠寺前住職 権大教正 新居日薩
時宗 東京浅草日輪寺住職 権大教正 卍山実弁
天台宗真盛派 近江国坂本西致寺住職 権大教正 率渓考恭
真言宗新義派 大和国初瀬山長谷寺住職 権大教正 守野秀善
天台宗 下野国日光山満願寺住職 中教正 修多羅亮栄
天台宗 東京浅草浅草寺住職 中教正 唯我韶舜
浄土宗 東京芝増上寺住職 中教正 福田行誡
日蓮宗妙満寺派 西京二条榎木町妙満寺住職 中教正 坂本日桓
真言宗 紀伊国高野山金剛峰寺住職 権中教正 獅岳快猛
同 同無量寿院住職 権中教正 高岡増隆
真言宗新義派 越後国蒲原郡国上村国上寺住職 権中教正 大崎行智
天台宗 西京大仏妙法院住職 権中教正 村田寂順
天台宗 東京東叡山寛永寺住職 少教正 松山徳門
時宗 甲斐国甲府一蓮寺住職 少教正 武田義徹
日蓮宗 甲斐国身延山久遠寺住職 少教正 吉川日鑑
臨済宗妙心派 駿河国阿倍郡大岩村臨済寺住職 少教正 今川貞山
真言宗 西京東寺教王護国寺住職 権少教正 三条西乗禅
日蓮宗本成寺派 東京芝伊皿子町長応寺住職 権少教正 広日広
日蓮宗 西京妙顕寺町妙顕寺住職 権少教正 福田日曜
真言宗新義派 東京音羽坂下町護国寺住職 権少教正 直樹俊海
真言宗新義派 下野国都賀郡出流村千手院住職 権少教正 吉堀慈恭
日蓮宗 上総国長柄郡茂原駅藻原寺住職 権少教正 神保日淳
時宗 西京七条金光寺住職 権少教正 河野覚阿
真言宗 相摸国大住郡大畑村金剛頂寺住職 権少教正 五古快全
真言宗新義宗 下野国足利郡小俣村鶏足寺住職 権少教正 上野相憲
真言宗新義派 伊予国温泉郡石手村石手寺住職 権少教正 高志大了
天台宗寺門派 近江国三井寺法明院住職 権少教正 桜井敬徳
天台宗 下野国新田郡世良田長楽寺住職 大講義 石泉信如
浄土宗 東京芝公園宝松院住職 大講義 松濤泰成
浄土宗 遠江国城東郡中内田村応声院住職 大講義 吉田蕉巌
曹洞宗 駿河国益頭郡坂本村林叟院住職 大講義 青島興庵
臨済宗妙心派 駿河国庵原郡興津駅清見寺住職 大講義 浄見蓉嶺
真言宗新義派 東京湯島切通根生院住職 大講義 赤田明盛
同宗同派 越後国三島郡一之坪正法寺住職 大講義 権田電斧
臨済宗妙心派 東京浅草海禅寺住職 大講義 済門敬沖
同宗同派 武蔵国埼玉郡埼玉村天祥寺住職 大講義 大矢鄧嶺
同宗建長派 相摸国津久井郡青山村光明寺住職 大講義 大内寿応
同宗天竜派 西京葛野郡天竜寺村臨川寺住職 権大講義 椋野心田
同宗妙心派 西京葛野郡花園村天球院住職 権大講義 釈薩水
同宗建長派 武蔵国足立郡芝村長徳寺住職 権大講義 武田文国
真言宗新義派 下総国海上郡銚子円福寺住職 権大講義 成田照玄
真言宗 紀伊国高野山洞雲院住職 権大講義 林実成
真言宗新義派 東京西新井総持寺住職 権大講義 佐伯堅渓
真言宗 備中国下道郡川辺村蔵境寺住職 中講義 樹下覚三
臨済宗大徳派 東京品川馬場町東海寺住職 中講義 秋庭圭窗
同宗妙心派 東京本郷区竜岡町麟祥院住職 中講義 天沢嶧陽
同宗同派 西京葛野郡花園村如是院住職 中講義 釈文津
同宗同派 駿河国有渡郡静岡宝泰寺住職 中講義 金岡礼道
同宗建長派 武蔵国多摩郡柴崎村普済寺住職 中講義 柴崎維船
同宗同派 同国同郡野辺村普門寺住職 中講義 北条灌渓
日蓮宗 駿河国有渡郡沓谷村蓮永寺住職 中講義 小泉日慈
臨済宗 伊豆国賀茂那仁科宇久須両組教会支黌二十九ケ寺
日蓮宗 相摸国鎌倉郡大町村本行院住職 権中講義 藤原日迦
臨済宗建長派 伊豆国加茂郡入間村海蔵寺住職 権中講義 北山譲山
臨済宗妙心派 遠江国山名郡二宮村連福寺住職 権中講義 伊沢紹倫
同宗同派 東京牛込榎木町済松寺住職 権中講義 関祖誠
日蓮宗 武蔵国久良木郡杉田村妙法寺住職 少講義 小宮日良
真言宗新義派 下総国望陀郡請西村長楽寺住職 少講義 慶雲海量
同宗同派 東京本所林町徳上院無住職 少講義 関俊道
臨済宗建長派 上野国利根郡門前組吉祥寺住職 少講義 菅原碩応
同宗東福派 同国群馬郡上白井村空恵寺住職 少講義 須佐樵堂
同宗建長派 相摸国大住郡糟谷村普済寺住職 少講義 広沢東軾
真言宗新義派 武蔵国葛飾郡三輪野江村定勝寺住職 少講義 清水喜広
浄土宗 東京小石川表町伝通院学寮主 権少講義 岡田䋸誘
天台宗 東京日本橋茅場町智泉院住職 権少講義 矢吹信亮
臨済宗建長派 相摸国多摩郡下長瀬村玉泉寺住職 権少講義 藤田古梅
同宗同派 伊豆国加茂郡岩科村永禅寺住職 権少講義 山口楊宗
同宗妙心派 武蔵国新座郡野火止村平林寺住職 権少講義 窪田藍渓
同宗同派 東京芝区下高縄町東禅寺住職 訓導 守永宗教
同宗建長派 上野国利根郡師村竜谷寺住職 訓導 菅原古堂
同宗円覚派 武蔵国埼玉郡飯塚村法華寺住職 訓導 天野玉堂
同宗同派 伊豆国加茂郡田子村円成寺住職 訓導 山田瀛洲
天台宗 東京浅草浅草寺徒弟 試補 室賀竹堂
天台宗 武蔵国南多摩郡高築村円通寺住職 中講義 高築亮宥
臨済宗東福派 西京東福寺中南明院住職 権中講義 宮城雪江
随喜居士会友
静岡県 高橋泥舟
東京府 川井文蔵
同 三遊亭円朝
山口県 島田蕃根
広島県 山内瑞円
東京府 大井干城
同 村岡六愛
以上
会長 権大教正 新居日薩
幹事 権中教正 大崎行智
同 少教正 今川貞山
同 権少教正 五古快全
同 大講義 石泉信如
会計監査委員 渋沢栄一
同 福地源一郎
同 益田孝
同 三野村利助
同 渋沢喜作
同 大倉喜八郎
明治十二年五月
(『渋沢栄一伝記資料』第24巻 p.236-244 による)
【資料30】
願伺届録 会社規則二 明治廿一年 (東京府文庫所蔵)
東京改良演芸会組織書
東京改良演芸会設立趣意書
今ヤ風俗改良ノ中ニ就テ漫然抛擲シ去ルヘカラザルモノアリ、演芸ノ一事是ナリ、従来諸寄席ニ於テ興行シ来ル所ノ落語・講釈其他種々ノ演芸ヲ事トスルモノヲ見ルニ、多クハ旧習ニ拘泥シ、猥褻野鄙僅ニ下等人民ノ歓心ヲ得ルニ止リ、意ヲ人情世態ニ注カズ、世ノ開明ト共ニ推移変遷スルヲ知ラザルニ因リ、以テ紳士淑女ノ耳目ヲ楽シマシムルニ足ラサルノミナラズ、其演スル所ノ技場ノ構造モ又宜キヲ得ス、而モ狭隘不潔上等者流ヲシテ足ヲ容ルヽ能ハザラシムルニ至リ、芸人中間々之ヲ患ヘテ高尚ナル技芸ヲ演セント欲スルモノアルモ、已ニ世間ニ現存セル寄席ハ以テ士君子ノ来観ヲ求ムル能ハサルニヨリ、或ハ有名会ト称シ無名会ト唱ヘテ紳士淑女ノ耳目ヲ歓バシムルヲ得タルモ、其場席ハ多ク客館若クハ割烹店ナルニヨリ、是等家屋ノ構造ハ音響其他ニ適合スルヲ得ズ、為之右ノ諸会モ一起一仆常ナラス、漸ク将ニ其跡ヲ絶ントス、於是乎今般本会ヲ設立シ、構造完全ナル一技場ヲ新設シ、其講演ニ上スベキ脚本ノ如キモ亦学術文章ノ士ト謀リテ多クハ其著作ニ係ルモノヲ演セシメ、其他ノ諸芸モ亦極メテ高尚閑雅ナルモノヲ取リ、一ハ以テ上流士君子ノ耳目ヲ楽マシメ、一ハ以テ間接ニ風俗ノ改良ヲ補ハントス、若シ夫収入金ノ中其幾分ヲ割テ養育院等ヘ義捐スルカ如キハ、是レ本会ノ微衷ノミ、幸ニ大方諸君本会設立ノ趣意ヲ賛成アランコトヲ
明治二十一年五月
発起人総代(イロハ順)
伊東燕尾
(三遊亭円遊事) 竹内金太郎
(禽語楼小さん事) 大藤楽三郎
(清元延寿太夫事) 岡村藤兵衛
(清元およふ事) 同よふ
(竹本播磨太夫事) 大和田伝四郎
(松林伯円事) 若林義行
(三遊亭円生事) 立石勝次郎
(常盤津文仲事) 常岡つね
(柳亭燕枝事) 長島伝次郎
(帰天斎正一事) 波淵粂次郎
中能島松声
(山彦事) 伊東秀治郎
(錦城斎一山事) 内山幸吉
(松永和風事) 松永鉄五郎
(松永鉄五郎事) 松永金太郎
(三遊亭円朝事) 出淵次郎吉
荒木古童
岸沢式佐
(放牛舎桃林事) 島左右助
(春風亭柳枝事) 鈴木文吉
(都太夫一中事) 平野梅太郎
(桃川如燕事) 杉浦要助
同創立事務委員
小島信民
(新場小安事) 米本卯之助
金谷佐兵衛
高橋幸義
小泉保
賛成者
渋沢栄一
伊達宗城
松平定教
太田実
大倉喜八郎
橋本綱常
川村伝衛
西村虎四郎
福地源一郎
中川又三郎
杉村甚兵衛
青木庄太郎
中島行孝
島郁太郎
福島宜三
近藤政利
丸山岩蔵
朝川荘助
朝比奈閑水
後藤冬見
牧逸馬
太田秀雄
川田幹一
(別冊)
東京改良演芸会定款
第一章 総則
第一款 本会ノ名称ハ、東京改良演芸会ト称ス
第二款 本会ノ目的ハ、構造完全ナル演芸場ヲ新設シ、専ラ世態人情ニ適合スヘキ高尚閑雅ナル技芸ヲ演シテ、上等者流ノ耳目ヲ楽マシテ、間接ニ風俗ノ改良ヲ図ルニアリ
第三款 本会ハ演芸場ヲ日本橋区蠣殻町三丁目十一番地ニ新設シ、友楽館ト名ツク
第四款 本会ハ有限責任トシ、負債弁償ノ為メ株主ノ負担スヘキ義務ハ株金全額ニ止ルモノトス
第五款 本会ノ挙行期限ハ満十ケ年ヲ以テ一期トシ、満期ニ至リ株主ノ決議ヲ以テ更ニ次期ノ継続ヲナスヘシ
第二章 資本金
第六款 本会ノ資本金ハ弐万円ト定メ、之ヲ千株ニ分チ一株ヲ弐拾円ト定ム
第七款 本会ノ株金払込期日ハ之ヲ三期ニ分チ、第一期・第二期ノ払込ハ一株ニ付金五円宛、第三期ニハ金十円ヲ第一国立銀行ヘ払込ムモノトス
第三章 役員及責任
第八款 本会ノ役員ト称スルモノハ左ノ如シ
理事長 一名
理事 二名
相談役 五名
書記 若干名
第九款 理事長・理事ハ、拾株以上ヲ所持スル株主ヨリ撰挙シ、相談役ハ総株主中ヨリ撰挙スベシ
○第十款ヨリ第三十款マデ略ス。
第卅一款 本会ノ収入金総額ヨリ営業上一切ノ経費ヲ引去リ、残余即チ純益金ヲ左ノ割合ニ準拠シ諸積立金等ヲ扣除シ、剰余ヲ以テ株高ニ割合配当スベシ
純益金十分ノ二 維持積立金
同十分ノ一 養育院ヘ義捐
同十分ノ一 技芸奨励金
同十分ノ六 株主配当金
○第卅二款ヨリ第四十一款マデ略ス。
(『渋沢栄一伝記資料』第27巻 p.395-398 による)
【資料31】
御悔到来帳 明治一五年一〇月二二日 (渋沢子爵家所蔵)
(表紙)
図明治十五年十月二十二日
御悔到来帳
丸地藤兵衛
中川知一
一菓物 弐籃 大凡五円位 湯浅徳二郎
西脇長吉
武田信政
村木善次郎
一石油 壱函 大凡三円五拾銭位 増田啓造
第四拾五銀行
一白砂糖折詰 壱函 大凡弐円位 朝比奈一
一蝋燭 壱函 大凡壱円五拾銭位 山中譲三
一香 弐包 大凡五拾銭位 金沢徳平
一金壱円也 羽毛田次郎
信州
一金五拾銭 伊藤佐七
一蝋燭 壱函 大凡五拾銭位 藤本精一
一菓子 壱函 大凡弐円五拾銭位 米川久敬
正宗印
一酒 壱樽 大凡拾弐円位 第一国立銀行
一金三百円
一石灯籠 壱対 大凡四拾五円位 西園寺公成
斎藤純造
三井八郎次郎
佐々木勇之助
須藤時一郎
向井小右衛門
本山七郎兵衛
大沢正道
小川貞之助
鈴木善三
脇田久三郎
高橋東三郎
市川正之丞
増田啓造
大井保二郎
北村芳太郎
藤井晋作
清水琇蔵
江尻雄二
西井理兵衛
高橋聚
蒲義質
沼崎彦太郎
高橋新平
村井清
野呂整太郎
増田太郎
以上
新原敏三
一西洋蝋 拾包 大凡弐円五拾銭位
杉村泰次郎
一日本蝋 壱函 大凡五拾銭位 榎本吉三郎
一金弐円也 辻準市
一金参拾円也 渋沢市郎
一金拾五円也 尾高勝五郎
一金拾円也 大川修三
一金拾円也 尾高幸五郎
一金拾円也 木村清夫
一金参円也 根岸俊平
一金参円也 大川栄助
一金五円也 吉岡十郎
一金五円也 岡部礼助
一金拾円也 須永伝蔵
一金五円也 小栗尚三
仙台
一金五円也 渡辺幸兵衛
一金参拾円也 穂積陳重
井口新三郎
一茶 三斤 大凡七円位
熊谷辰五郎
福住町拾五番地
一胡麻油 代金壱円五拾銭切手 長家中
今村清之助
一西洋蝋 拾五 大凡三円七拾五銭位
岡本善七
一蝋燭 壱函 大凡弐円位 坂本柳左
一銘茶 切手弐円 芝崎守三
一西洋蝋燭 壱函 大凡六円位 第七拾四国立銀行
一西洋蝋燭 弐函 大凡拾弐円位 茂木総兵衛
一生蝋燭 壱函 大凡壱円五拾銭位 桜田親義
大祭印
一酒 弐樽 大凡拾八円位 三井物産会社
一中判奉書 壱〆 凡三円五拾銭位 益田孝
一水菓子 壱籠 大凡壱円位 木村正幹
一金千疋 三井武之助
池田宗七
一生蝋 壱函 大凡壱円五拾銭
母伊勢
一香重函入 一ツ 大凡拾円位 三野村利介
西村虎四郎
中井三郎
今井友五郎
一御香資 千疋 三井三郎助
一御香資 千疋 三井八郎右衛門
一御香資 千疋 三井源右衛門
一御香資 千疋 三井元之助
一御香資 千疋 三井高福
一御香資 千疋 三井宸之助
一西洋蝋燭 百袋入壱函 大凡弐拾五円位 三井銀行
一御菜台 大凡弐円位 荒木功
一香料 五千疋
渋沢喜作
一生花 壱対 大凡五円位
一西洋蝋燭 壱函 大凡六円位 第二銀行
一香 弐包 大凡弐円位 向井一郎兵衛
一手洗石水鉢 壱箇 大凡弐拾円位 平野吉蔵
富永愛二郎
関口荘八
岡田新七
和田鎌次郎
川崎総輔
松田栄二郎
椙山貞治
小宮乙次郎
田中観六
志村仁兵衛
中村藤二郎
深沢四郎
高田敬五郎
斎藤喜之助
山本忠二郎
関口正作
亀田清二郎
黛邦蔵
小川友吉
渡辺文吉
高橋隼之助
桂原清二郎
中村義太郎
谷沢勇吉郎
小林徳三郎
小林三蔵
小林藤太郎
川上帰一
府馬孝志
永山猪三
原米吉
三輪牛之助
一色生次郎
永石信行
飯島甲太郎
土田常次郎
橋爪惟忠
関口慶吉
柴田保
土屋長則
保坂貞三郎
早乙女 昱太郎
沼崎平四郎
山本朝貴
田村政基
松田常吉
橋本孝三郎
殿木三郎
岡田寅七
佐藤清二郎
三宅清二郎
松永市左衛門
山崎彦五郎
安原亀太郎
塩山信重
以上
大井保二郎
一煎餅 四袋 大凡弐円五拾銭位
鈴木善三
一金弐円 鯨井勘衛
一洋蝋 大凡壱円位
一洋菓子 大凡弐円位
一洋蝋燭 五函 大凡壱円二十五銭位 浅野幸兵衛
一御菓子 壱折 大凡三円位 芳川顕正
西成度
一生花 一対 大凡五円位
坂元政均
一蝋燭 壱函 大凡弐円位 佐藤進
一金拾円也 尾高惇忠
一金拾円也 韮塚直次郎
一金壱円也 福嶋吉平
一金壱円也 大島喜一
一金五円也 井原仲次
一金壱円也 鈴木正偉
一茶切手 弐円 日東銀行
一同 切手 弐円五拾銭 小西義敬
一御香 壱函 凡壱円位 土屋清太郎
杉山勧
一洋蝋 廿五 凡六円位
川村義方
一洋蝋 拾弐 凡三円位 馬越恭平
一洋蝋 六包 凡壱円五十銭位 松本常三
一金五円也 福岡健良
一菓子 壱箱 凡弐円位 福田彦四郎
一洋蝋 拾弐 凡三円位 穂積重頴
一洋蝋 拾弐 凡三円位 児島惟謙
一蒸菓子 壱函 凡三円位 西園寺猪太郎
一糖菓子 壱台 凡三円位 大沢正道
一金五円也 諸井専衛
一金壱円也 橋本幸三郎
一生花 壱対 凡壱円五拾銭位 原六郎
一蝋 二函 凡弐円位
一大内香 壱函 凡三円位 桃井可雄
一金五円也 渋沢愛吉
一生太織 凡三円位
一金壱円也 松村浅郎
一金弐円也 宮川寿作
一金弐円也 尾高治郎
一金壱円也 扇屋弥左衛門
一蝋燭 壱函 凡壱円位 諸葛政太
一御香 壱函 凡壱円位 鳩居堂支店
一安息香 壱函 凡三拾銭位 青山留平
一線香 三束 凡七拾五銭位 第廿八国立銀行支店
一金三円也 関直之
一金三円也 鈴木竜象
一金五百疋 松川清美
一金五円也 渋沢信吉
一樒 壱対 凡弐拾五円位 畑野長四郎
宇田川忠三
粕谷源介
的倉弥八
田木屋 安五郎
馬具兼
柴田松兵衛
浅野惣一郎
下村栄
畳屋弥三郎
石屋幾二郎
家根屋辰三
政野屋文右衛門
高橋三五郎
失功粂三
笊屋金二郎
桶屋勘二郎
植屋弥六
越□鎌六《(不明)》
後藤藤太郎
石井惣七
以上
一洋蝋 四包 凡壱円位 笹瀬
一御香 壱函 凡弐円五拾銭位 安田善二郎
土木用立組
伊集院兼常
一日本蝋 七函 凡弐円八拾銭位 久原庄三郎
大倉喜八郎
一洋蝋 拾四 凡弐円五拾銭位 久原荘三郎
一生花 壱対 凡三拾円也 製紙会社工場一同
一菓物鬚籠 弐対 凡三拾円也 谷敬三
大川平三郎
上村欣一郎
山崎一
小川増三郎
鈴木徳二郎
伊藤久次郎
小寺信徳
中村順一
大谷倉之助
一菓子籠 壱対 凡弐拾円也 陽其二
大西正雄
鈴木園
加福喜一郎
馬場啓一郎
星野錫
須原徳義
以上
一茶 七壷 凡九円位 大井五郎
宇佐美惟新
浅香忠蔵
河村鍬三郎
松崎正文
藤井文二郎
一茶 七鑵 凡代九円位 製紙分社職工一同
製紙会社用達
一金壱円五拾銭 佐藤栄三
近藤清右衛門
昼川左二郎
一生花 壱対 凡三円位 渡辺策二郎
一生花 壱対 凡三円位 福田会
一生花 壱対 凡弐円五拾銭位 大倉喜八郎
一菓子切手 凡弐円位 吉田幸兵衛
一金五円也 永田清三郎
一御廟前 敷石壱通 凡六拾五円也 芝崎確二郎
一蝋 壱函 凡壱円位 因速寺万徳院
一蒸羊羹 壱函 凡壱円五拾銭位 渋沢文作
一金壱円也 新島吾三郎
一茶 壱袋 凡壱円也 高木兵助
堀江仁右衛門
一御花料 正金五拾銭 金子仲二郎
一洋蝋 拾弐 凡三円位 遠武秀行
一柿 弐籠 凡弐円位 山県有朋
一ユバ 壱包 凡七拾五銭位 広郡霍
一洋蝋 壱函 凡六円位 林若吉
一菓子 凡弐円位 采野床三郎《(采野庄三郎カ)》
一日本蝋 壱函 凡弐円位 林徳右衛門
一日本蝋 壱函 凡壱円位 芦田順三郎
一蝋 壱函 凡七拾五銭位 花村卯之助
山田金右衛門
一粕底羅 壱函 凡弐円五拾銭位 杉浦良能
杉浦宜也
一茶 壱袋 凡壱円位 白梅亭
一菓子切手 凡弐円位 近藤玄齢
一金弐円也 栗原必
一洋蝋 六ツ 凡壱円五拾銭位 北村重礼
一金参円也 中村利兵衛
馳付人足
一蝋燭 弐函 凡壱円五拾銭位 御□八五郎
〃三吉
〃七五郎
〃惣太郎
植木屋
〃松五郎
〃三吉
〃喜平
左官
〃金太郎
〃音次郎
〃銀之助
以上
一枕香 凡弐円位 栗原信近
一金壱円也 勝部静男
一御香 凡壱円位 猿渡盛雅
一洋蝋 壱函 凡六円位 原善三郎
一金五円也 井上馨
一金壱円三拾銭 中井弘
一蝋燭 弐函 弐円位 萩原源太郎
一蝋 壱函 凡弐円 横山孫一郎
一同 壱函 凡壱円五拾銭位 池田謙斎
一香奠 正金八拾銭位 伊達宗城
一生花 壱対 凡三円位 鉱業会社
一生花 壱対 凡三円位 平山正斎
一御花 壱対 凡三円位 蜂須賀
一洋蝋 壱函 凡六円位 風帆会社
一薫香 凡弐円五拾銭位 赤井善平
一茶切手 凡弐円位 峰島喜代
保険会社惣代
一干菓子 凡弐円位 小山田弁助
埼玉県南埼玉郡大松村
一金五円也 長野四郎兵衛
一金弐円也 峰岸三郎平
一茶 壱鑵 凡弐円位 穂刈半兵衛
一蝋燭 壱函 凡拾弐円位 園朝《(円朝)》
如燕
南竜
葉女
りゑ
いく
延信
常盤屋
一香 弐包 凡五拾銭位 亀田妹おし津
一洋蝋 三ツ 凡七拾五銭位 佐藤貞嘉
一蝋燭 弐函 凡壱円五拾銭位 西成一
尾高磯吉
一金壱円也
石川荘次
一菓子 金壱円切手 小山平吉
一金壱円也 森ヱイ
辻金五郎
一西洋蝋 壱函 凡六円位
吉川七兵衛
一金弐円也 中山信安
一金壱円也 今村義利
一切ユバ 凡五拾銭位 仕立屋銀二郎
田中久右衛門
一蝋燭 壱箱 凡壱円位
同鉄之助
秩父大野村
一金拾円也 柴崎両作
一洋酒瓶入 六本 凡五円位 品川弥二郎
一香ロウ 一ツ 凡弐拾五円位 松尾儀助
一線香函入 壱ツ 凡壱円位
一金弐円也 富田鉄之助
正金五百八拾壱円八拾五銭
〆
物品凡見積代金五百九拾三円六拾銭
総計
金千百七拾五円四拾五銭
外
金三百八拾七円三拾五銭 七月十四日ヨリ分御仮葬ノ節帳簿ヨリ出ス
合金千五百六拾弐円八拾銭
右之通御座候也
明治十五年
第十月 日
(『渋沢栄一伝記資料』第29巻 p.29-37 による)
2017年11月5日公開
2017年11月11日増補改訂
菊池眞一
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