史実と虚構の間
                                               延広真治

 昭和三十四年東京大学に入学、教養学部文科二類三Bというクラスに在籍することとなった。担任は井上光貞先生であられたが、病気休講の掲示が続いた。そこで、お見舞いに伺わねばとの議が出たが、三浪して世慣れた級友の曰く、「大学の先生は休講にして勉強しているから行かない方がいいよ」。右せんか左せんか、地方出身の純真な私は勿論見舞い派で、根津美術館近くの御邸に伺うこととなった。ところが(案の定)先生はお元気で休講の言い訳をなさりながら、リンガ信仰などインドでの体験談をお聞かせ下さった。
 サークルは落語研究会に所属していたので、御指導下さっている三遊亭小円朝師匠の父君も小円朝を名乗り、大師匠円朝の高弟であったことは良く承知していた。一方、先生の御大父が外務大臣などを歴任した馨であることも常識の内であった。しかし円朝が元勲の眷顧甚しい存在であった事実を知るのは、遥か後年のことである。例えば、『霧隠伊香保湯煙(きりがくれいかほのゆけむり)』(八巻。以下巻数は現在刊行中の岩波書店版『円朝全集』による)一の「或御方(あるおかた)の御随行(おとも)で磯辺へ参り」、『火中の蓮華』(十二巻)一の「或る御贔負(ごひいき)の御方様(おかたさま)のお供を致して」などに登場する貴人は井上馨で、作品の成立にも関わって来る。『塩原多助一代記』(一巻)や、『安中草三(あんなかそうざ)伝 後開(おくれざき)榛名(はるな)の梅(うめ)が香(か)』(二巻)など群馬県(上州)を
舞台とする作が目立つのも、磯部温泉(安中)に別荘を有し、上州遷都論を唱えた井上馨の存在と無縁ではあるまい。「欧州小説黄薔薇(こうしょうび)」(四巻)など、飜案物に情熱を注ぐのも、欧化政策との関連を考慮する必要があろう。先生御存生ならば、御家に伝わる口碑や書簡などの有無について直接お伺い致せるのにと、臍(ほぞ)を嚙む思いで『円朝全集』の編集に携わっている。
 円朝と井上馨の両者が最も長く行動を共にしたのは、明治十九年の北海道巡行であろう。外相の他に、山県有朋内相、榎本武揚逓信相の三大臣が数十名を伴って一箇月余視察、その成果は以後、道政の方針に多大の影響を与えることとなった。三相は揃って車駕(しゃが)を連ねる時もあれば別行動の折もあり(逓信相は期間も短い)、内外両相の夫人など女性が加わっているのも見逃せまい。別格は円朝と書家の長三洲(内相の師)で、円朝の場合は徒然を慰める御伽衆(おとぎしゅう)の役回りの上に、北海道の現状を広く伝える広報活動を期待されたのであろう。円朝の日記は関東大震災で焼失したと伝えられるものの、東京日日新聞記者関直彦が八月十四日より同紙に連載した「北海道巡行記」など、日程を推する糸口も残されている。ただ残念なのは円朝と記者と旅程を異にする場合も起っていることである。例えば、予定を急拠変更、両相が陸路根室に赴くと決した際、宿泊施設の事情などで分けざるを得なくなり、記者は本隊、円朝は言わば分隊となったため手懸りを失う。悪路を落馬しながら長駆(ちょうく)するという苦難の旅となったが、陸行へと両相を煽っておいて、榎本武揚は不参加。五稜郭の敵を根室で討った按配となった。
 北海道への関心から生まれたのが、『蝦夷錦古郷の家土産(いえづと)』(三巻)、『福禄寿』(七巻)など、殊に『蝦夷訛(えぞなまり)』(十一巻)は、朔北の地を踏まねば全く創り得ない作で、『北海道文学全集』(全二十三巻、立風書房、一九七九-八一年)第一巻巻頭に収められた。八月五日正午解纜の薩摩丸に乗船するが、横浜の停車場で一行を出迎えたのが有島武税関長。つまり武郎など三兄弟の父で、幸子夫人の託した「おやころしのはなし」により、円朝は『名人長二』(十巻)を草し、モーパッサン初紹介の栄誉を担うこととなった。『蝦夷訛』十二席に、上等船室の食堂を「皇族方や又(また)は大臣方など身分のあるお方(かた)がお乗込(のりこみ)の時は此処(このところ)の花飾(はなかざり)もなかなか立派なもので」と描くのは、現実の薩摩丸と思(おぼ)しい。八日午前九時、函館に入港。函館新聞社を訪れた円朝の様子を、当時編輯に従事していた岡野知十(おかのちじゅう)は、「紺の香がぷんぷん匂ふやうな、薩摩がすりに、茶献上の博多の帯、紺足袋で羽織を着ず、いかにもきりゝとした身軽ななり」と記憶する(「円朝の禅室(図入) 附け、とり交ぜ雑載」『郊外』大正十五年九月号)。この旅装では自ずと行動範囲も限定される筈である。とは言え、「アイヌ」の人々の風俗言語、函館などの市街地、屯田兵の村々、有珠山(うすざん)や蓴菜池(じゅんさいいけ)等の風景、麦酒(ビール)・甜菜(てんさい)などの物産、登別温泉を開いた瀧本金蔵の人となり、羆(ひぐま)に襲われた堺(酒井)倉吉一家の惨劇など、東京周辺の住民は北海道に関する活き活きとした新知識を、本作によって得たのである。木原直彦『北海道文学史 明治編』(北海道新聞社、昭和五十年)には、札幌の現況を述べた条(十九席)を引き、「随所に誤まりもあるが、ざっとこんな調子で道内各地を描写しており、なかなかの観察を示している」と評する。確かに過誤も存する。しかし正確を旨とする関記者の記事より、遥かに北の大地の空気を感じ得るのも事実である。
 帰途、両相は紋別(鼈(べつ))を過ぎる頃より旅程を異にし、円朝の随った外相一行は、九月四日午前八時出航の長門丸に乗船すべきところ、コレラ発生などの理由で八日朝抜錨の名古屋丸に替え、翌九日午後四時、石巻近くの荻の浜に上陸、十六日磯部温泉到着、外相は翌日帰京。同夫人等と円朝は、なおも滞在して二十三日帰京。
 このように記すと、円朝は貴顕の紳士淑女のみに目を向けているかのように受け取られかねないが、決してそうではない。『蝦夷訛』は五稜郭で戦死した春日左衛門が腰元との間に設けた嘉代の薄幸な生涯を中心に据えた作で、嘉代は架空の人物と思われる。しかし左衛門は実在の旗本で、山崎有信『彰義隊戦史』(隆文館、明治四十三年)によると「容顔美麗」とあり、美人薄命の典型たる嘉代の父にふさわしいと判断したのであろうか。先に触れた『霧隠伊香保湯煙』の藤は、罪なくして斬首された小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)の妾の娘との設定で、波乱の末にめでたく結婚。高橋敏『小栗上野介忠順(ただまさ)と幕末維新』(岩波書店、二〇一三年)には妾への言及がなく、架空の存在と思われる。『松と藤芸妓の替紋』(八巻)と『雨後の残月』(十一巻)は同工異曲の作。後者によると、松山久次郎は父が会津藩士で討死、自らも彰義隊に加わったが生き延びて、今は唐物商の若松屋新助は、実妹のために良かれと思った行動が誤解を生んで、かつての旗本、今は車夫となった藤川幸三郎に殺されたものの、新助の女房は幸いに資産を得るとの筋立て。「彰義隊(しょうぎたい)の墓所へ線香を献(あげ)て頻(しきり)に拝(おが)んで居た」新助と、幇間(ほうかん)との出会が発端となっている。前の二作は敗者の血を引く人物を登場させて、在りし日の情念の何ほどかを開化の世を背景に表現しようとし、後の一作は生き残ったものの、新しい時代に合わぬ悲劇を描いている。
 では、円朝その人の御一新観はどうなのであろうか。『米商(べいしょう)』(十三巻収録予定)は、先に触れた『福禄寿』の類作で、米寿と喜寿を迎えた子福者夫婦の祝宴を中心としている。長女が「従来(いままで)は皆徳川様の御家来も今度は朝臣(ちょうしん)とか云つて皆禁裏(きんり)様の御家来になつたンだ、是(これ)はモウ爾(そ)うなるのが当然(あたりまえ)たツてネ、吾儕(あたし)なんぞは何(なん)にも知らないけれど徳川様は唯(ただ)御政治向(むき)を禁裏様から預つて居ただけのことだと仰(おつ)しやつた方がありましたヨ」と言うと、長男が「何(なに )をグヅグヅ喋舌(しゃべっ)てるンだ」と遮る三席)。母親は長男を「屑(くず)」「痴漢(ばか)」と呼ぶものの、長女と合せて「此(この)二人だけが私共の欠目(かけめ)だけれどもまア人の家には少しは欠目がある方が宜(よ)いのだとネ」と甘い(二席)。つまり長女の発言の正否は曖昧である。幽霊の実在を肯定しているのか否か、直截的な表現を避けている円朝の本音を探ったことがあるが(「怪談咄のゆくえ」『文学』二〇一四年九・一〇月号)、御一新に関しても聴衆の多様さを顧慮しての表現を選んだのであろう。
 『蝦夷訛』は同時代との関わりを示す例として触れたが、次に歴史上の人物をどう描いたのか、『谷文晁(たにぶんちょう)の伝』(十二巻)を見て置こう。文晁は師事した加藤文麗没後「外(ほか)の者を師と頼ま」ず、「狩野守信探幽(かのうもりのぶたんゆう)だけが信仰」と咄す。しかし史実では文麗生存中に渡辺玄対にも師事。その画風も八宗兼学(はっしゅうけんがく)、折衷と評されるように(河野元昭「谷文晁」『日本の美術』二五七、昭和六十二年十月号)、探幽のみを尊しとしたわけではない。また性格も「性来無口(せいらいむくち)」で、「何(ど)うしても親(したし)くなりやふが無い」とあるが、寧ろ歓談博交を好んだと思われる。このように例示して行くと、間違いだらけと唾棄されかねない。本作は文晁に名を借りて名人はかくあるべしとの存念を形象化した作と見做し得よう。なお探幽の軼事――某侯の家臣が主君よりの画料を差し出したので激怒、馬の草鞋(わらじ)で馬を屏風に描く――を述べるが、「御姓名(おなまい)は申上げられませぬが某(ある)御大名」と名を伏せる(一席続)。川崎三郎『日本百傑伝』十(博文館、明治二十六年)によって某侯は伊達政宗と推し得るが、明治三十一年に至っても「少し憚(はばか)る所が」有ると断らねばならなかったのである。
 文晁の実像と、円朝の描く文晁像とのズレに触れたが、時代錯誤も間々見受けられる。例えば『真景(しんけい)累(かさね)が淵(ふち)』(五巻)には、質屋の女中の園に懸想(けそう)した同じ店に奉公する新五郎が、風邪で伏す園を温州蜜柑二つを持って見舞う場面がある(九席)。明治十四年に東京初お目見得となった温州が、安永四年(一七七五)に有ろう筈がない(『くだもの紳士録』朝日新聞社、昭和四十一年)。しかし明治二十年頃の奉公人同士の見舞いとして、いかにも相応しいとの判断を優先させたのであろう。同じく三十七席に新五郎の弟新吉が、法蔵寺(累の菩提寺)の和尚から「死霊(しりょう)の祟りのある人」と図星を指され、「千本の石塔を磨くと忍術が行なへる」などと無縁墓の掃除を勧められる場面がある。文政十年(一八二七)九月、同十三年夏頃に江戸等で誰とも知れぬ者が石塔を磨くことが横行、松代藩主真田家では毎夜赤坂(港区)の菩提寺を見張らせる騒ぎとなる(拙稿コニ遊亭円朝と忍術」吉丸雄哉他『忍者文芸研究読本』笠間書院、二〇一四年)。寛政八年(一七九六)との時代設定とは合致しないが、聴き手の耳に残る幽かな記憶を喚起して、石塔磨きを有り得る忠告と納得させ、召捕りの対象となった行為を「功徳(くどく)に成(なる)から」と善行に転じたのが円朝の働きである。記憶違いによる時代錯誤もあり得ようが、円朝の創作技法の一端を探る糸口ともなっている。
 今日殊に尊く思えるのは円朝の生活体験に基づくさりげない記述である。例えば『敵討(かたきうち)札所(ふだしょ)の霊験(れいげん)』(五巻)大団円、白島山平(しろしまさんぺい)や継(つぎ)が水司又市(みずしまたいち)を討って本懐を遂げる際の有様を、「四ツ角で鮪(まぐろ)を屠(こな)す様(よう)で」と活写する。鮪の切り売りに譬えた表現から、江戸の街頭の光景が目に浮かぶではないか。『業平文治漂流奇談』(三巻)一回に、「其昔(そのむかし)は場末(ばずえ)の湯屋(ゆうや)は。皆入込(いれご)みで御座いまして。男女(なんにょ)一つに湯に入るのは何処(どこ)かに愛嬌のあるもので」と咄すが、読む我々までもノンビリとするではないか。天保十年(一八三九)に生まれ、明治三十三年に没した円朝ならではの役回りは、江戸時代を明治に飜訳することである。例えば、『塩原多助後日譚(ごにちものがたり)』(十二巻)十六に次の様な場面がある。多助が大火後の江戸の人々に草履などを売り出すと買い手が殺到、大混乱を呈する。「今日(こんにち)なら巡査をお願ひ申して」制して貰うところ、当時なので町内の「抱(かか)への鳶(とび)の者」を頼んだとある。明治の巡査と江戸の鳶には同じ働きが期待されており、往時の鳶の実態が如実に分る。
 私にとっての円朝研究の究極の目標は、創作技法の解明にある。そのために緊要なのは史実を明らかにし、その史実と円朝の創り上げた虚構との比較研究より、技法の一端が見えてくるのではと期待している。例えば、『塩原多助一代記』(一巻)では初代多助(実在の人物名は太助)と二代太助の事績が分明にならない限り、実伝と虚構の区別がつかないのである。先に触れた「怪談咄のゆくえ」に藤川整斎『天保雑記』一を引いたが、同書には二代太助の女房たみを藤野屋娘と記し、円朝は初代多助の女房花を藤野屋娘とする。一例として掲げたが、史家の参入なくして円朝研究の遂行は不可能である。是非とも御参加頂くことを願って止まない。
           (のぶひろしんじ 東京大学名誉教授)
(岩波講座『日本歴史』第13巻月報16 二〇一五年三月岩波書店)