若旦那宛円朝書簡追補若干

菊池眞一



『円朝全集』別巻二(岩波書店。2016年6月29日)八〇四ページに掲げられた七八番の書簡は、『三遊亭円朝全集』第七巻(角川書店。昭和50年12月20日)五八五ページ掲載の書簡をそのまま写したもの、字詰・換行も同じで現物にあたったわけではない。これは『圓朝全集』(春陽堂版)には載っていない。次のような文面である。


78 年月日不明 若旦那 〔角川全集七巻〕
 昨夜は御馳走さま。大酔ひにて大失礼致し、あまりあまり
の面白さのまま、猿のしりの赤きはしれども、おのれがしり
の長きをわすれ、さぞかし御めいわくに
御座候□□□ていね
いに
御弁当までくだされ、母もよろしく御れい申上候。此
品はそまつながら、御笑ひ草に
進上申上候。かしこ
                       三遊
   若旦那さま
    皆々様よろしく。御目通にて御礼申上候。



 角川版全集がどこの資料に拠ったものか、注記がないので不明だが、この書簡とほぼ同じものを伊志井寛が所有していたらしい。
「円朝、順教両師の文」という随筆が『郵政』第十三巻第十一号(昭和三十六年十一月一日)にあって、伊志井は大石順教(松川屋妻吉)からもらった円朝の手紙を紹介している。
 順教の手紙は次のとおり。

 千草にすだく虫のねもいとおもしろく聞え
ます折りからますます御機嫌よろしく何より

嬉しくお喜び申し上げます。
 さて私先年円朝師の筆の文を珍しく入手い
たしまして誠になつかしくも嬉しくもあり、
そうそうそれを床にかけよろこんでおりまし
たが、おもいおこせば私がまだ若きころ高座
に出ておりました時に先生の御尊父で故人と
なられし四代目小勝師にいろいろとふかい因
縁がありまして、この円朝師と御尊父とのつ
ながりを覚えましてこの円朝師の筆になりし
物を私のもとにとどめおきますより日頃風雅
の道にいそしまるる先生のもとにまいらすこ
そよけれと小勝師に私の彼岸にお供えさせて
いただきました。後々のかたり草にともなれ
ばと一筆かきのこさせていただきました。
  あなかしこ       無手庵順教
九月二十日朝

 伊志井寛の父・四代目三升亭小勝(本名:石井清兵衛)は『古今東西落語家事典』(平凡社。1989年4月7日)には「1906年(明治39年)4月6日」没となっているが、伊志井寛は「明治三十八年京都の寄席出演中発病し客死した」と書いている。発病から死亡まで数ヶ月かかったのかもしれない。松川屋妻吉(後の順教)は明治三十八年十一月・十二月に大阪、翌明治三十九年一月・二月に京都の寄席に出ているので、ここで三升家小勝と出会ったのか。あるいは、それ以前に宴席などで知り合っていたか。

 順教から伊志井に譲られた円朝の手紙というのは、次のとおり。

 昨夜は御馳走さま、大酔いにて大失礼いた
し、あまりあまり面白さのまま猿のしりの赤
きはしれどもおのれがしりの長きをわすれ、
さぞかし御めいわくに
いらせられ、ことに
弁当までくだされ、母もよろしく御れい
申し
、この品はそまつながらお笑いぐさに進じ
まいらせ
ソロ
  かしこ            三遊
若旦那さま


 角川・岩波版全集にある最後の一行が欠けている。これは表装の際に切られたものか。また、両全集で判読不能となっている所を伊志井は読んでいるが、この前後の表現(太字着色部分)が両者異なる。その他、若干異なる部分もある。全く同じ手紙ならばこのようなことは起こらないはずなので、どちらかは写しか。あるいは共に写しだろうか。それとも伊志井寛の読みに問題があるか。



 大石順教は1968(昭和43)年4月21日、伊志井寛は1972(昭和47)年4月29日に没している。

『妻吉自叙伝 堀江物語』(日本図書センター。平成十三年一月二十五日。昭和五年版に拠ったもの)には、
明治三十九年《菊池注:「三十八年」の誤り、後の箇所では「三十八年」となっている》、深い五月雨の夜の空を鎖していた六月二十日の深更(二十一日午前)に、私はこの山梅楼の二階で演ぜられた、萬次郎の六人斬りによって、この両腕を切落とされたのでした。
とあり、その年の十一月から大阪の高座に上がっている。翌明治三十九年一月・二月には京都の幾世亭・笑福亭などに出たという。

『京都日出新聞』明治三十九年一月二十五日には「笑福亭へは愈々来月一日より、大阪堀江六人斬にて両腕を失ひたる松川家妻吉と、同妻奴の両名が出席する外、東京より橘家円坊も加はる由」とある。(倉田喜弘編『明治の演芸』(八)による)
『大阪時事新報』明治三十九年四月八日には、「浪花三友派に出勤して松屋町の第三此花館を預り、東京降り《ママ》の軽妙なる落語を以て好人気を博し居たる二代目三桝家小勝こと石井清兵衛は、一昨日午前七時、心臓麻痺の為め北区曽根崎上三丁目の住宅にて死亡したり。本年五十一歳。……都合ありて一昨年九月当地に来り、専ら落語界に勉めつつありし」とある。(倉田喜弘編『明治の演芸』(八)による)
妻吉は、明治三十九年三月末には上京し、四月から東京の寄席に出ている(『東京朝日新聞』明治三十九年三月二十八日)ので、小勝の末期には大阪にはいない。(倉田喜弘編『明治の演芸』(八)による)



2017年9月27日公開

菊池眞一

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