『円朝全集』未掲載円朝俳句(その四)
菊池眞一
明治二十八年九月九日発行、青木夢春斎(徳一郎)著『竹本住の助実伝』(文錦堂)は、前年病没した竹本住之助の追悼書だが、口絵の住之助遺影に続き、
世の中のさまは是なり
露 の 玉
三遊亭円朝
と円朝の追悼句を掲げる。
この句は、後掲のように、谷口典子によって『円朝全集』第十一巻月報で紹介されているが、『円朝全集』別巻二(岩波書店。平成二十八年六月)「俳諧・狂歌・都々逸・端唄」の項には掲載されていない。
谷口典子「牛込「和良店亭」と円朝」(『円朝全集』第十一巻月報十一。平成二十六年十一月)に、円朝と竹本住之助との関係が次のように記されている。
円朝はこの頃〈菊池注=明治二十四年〉、貴顕の宴席に招かれる際に小住と、その愛弟子竹本住之助をよく伴ったとされ、住之助は、総理大臣松方正義、頭山満、穂積陳重、渋沢栄一等の贔屓を受けたという。
竹本住之助(本名桜井てつ)は、明治十一年、牛込神楽坂毘沙門前で八百屋を営む両親の元に生まれた。七歳から義太夫を習い始め、十歳で自ら望んで厳しい修行を求めて小住の内弟子となり住八と呼ばれる。明治二十三年七月、十三歳で真打となり神田小川亭から「住之助」の看板を上げ評判になった。明治二十六年八月に『改進新聞』が行った「将来大立て者になるべき者」という投票で、住之助は約三万票を獲得し義太夫の部で第一位となった。新聞社の授与式には、三六〇〇人以上の人びとが詰めかけて立錐の余地もなかったが、住之助が語り出すと水を打った様に静まり返ったという。この人気が地方にも広まり、仙台の席亭からの丁重なる招きに応じて、小住一座が繰り出す際には、円朝、五代目尾上菊五郎などそれぞれが大幟を贈っている。
仙台公演から帰京して明けた二十七年、一月半ばに和良店を発って以降北国方面の巡業が続いた。七月半ばの秋田で、住之助は重態となる。風邪をこじらせていたのに、駐韓兵士慰労義捐興行に臨み兵隊さんの御苦労に報いたいと反対を押し切って出演して以来、容態が悪化し九月七日に亡くなった。十七歳だった。
一周忌に刊行された『竹本住之助実伝』に、円朝は「世の中のさまは是なり露の玉」という俳句を寄せている。重い一句である。この冊子の発行者は住之助の実父になっているが、住之助はもとより小住に関しても詳しく述べられていることから実際には廉之助〈菊池注=佐藤。和良店亭経営者〉が手がけ、住之助の父の収入になる様に図ったのだろう。
住之助の墓所は、円朝と同じ谷中全生庵にある。墓地入り口、本堂近くの白い墓標の裏面に、建墓者として師匠小住をはじめ菊五郎、中村福助、市川小団次、三遊亭円遊、竹本綾瀬などの名が彫られている。風化が激しいこの墓石は、水戸藩御用の寒水石(大理石)か。廉之助の故郷の石である。住之助が全生庵に葬られたいきさつは不明だが、師山岡鉄舟の墓参の折節に円朝がこの純白の墓石に手を合わせたことは疑いの無いことと思う。
『竹本住の助実伝』にも、
丈は真打となりし以来猶一層奮励したれば其の技芸も大に進歩して、世に麒麟児との称賛を受るに至る。其比芸人の泰斗と仰がるゝ円朝。播磨。綾瀬。如燕等の発起に係る演芸会或は慈善会を催す時は必ず丈の出席を促し、充分の技芸を振はしめしは、実に最も丈の幸福にして、円朝諸氏の厚誼も、亦た称するに余りあり。
とある。
『日本芸能人名事典』(三省堂。平成七年)には、
竹本住之助 明治一一(一八七八)―明治二七(一八九四)九・七 明治前期の女義太夫。東京生まれ。本名は桜井てつ。明治二〇年(一八八七)竹本小住の内弟子になり、住八の名で寄席へ出た。二三年住之助と改名して真打となるが、二七年に巡業先の秋田で病没した。
とある。
因みに、『竹本住の助実伝』を書いた青木徳一郎は、『悔堂野々村政也追憶』(昭和七年)に寄せた「故野々村先生を追慕して」という文章によると、佐賀の出身で、野々村政也のつてを得て日本銀行に奉職していたらしい。それ以上の詳しいことはわからない。
2019年7月21日公開
菊池眞一