読売新聞における「都々逸」《明治時代編》

菊池真一

 読売新聞のオンラインデータベース「ヨミダス歴史館」から、都々逸関連記事を拾った。
 各項目の構成は次のとおり。掲載日、見出し、発行形態、分類・ページ・見出し段数・記事本文。
 記事本文前後の「……」は省略を意味する。パソコンで出せない文字は「●」とした。
 本件のWEB公開について、読売新聞社に許可を求めた(2009/11/27)が、1か月以上経過しても回答がない。本件は掲載後97年以上経過しているので、著作権は既に存在しないものと判断し、ここに掲載することにした。(2010/01/03)


明治八年1875.01.06 [投書]「当世都々逸」5首 連れて逃げたいとは思えども隠しおおせぬ戸籍帳 朝刊 社会 2
  当世どゝ一
ちよいと見てさえ心が替るとげて見たのさ新ぶんし
二世も三世もナニ離れまいたゝみ上たる煉化石
金にいとめはつけない便り凧が邪魔する電信機
連て逃たいとはおもへども隠したゝせぬ戸籍帳
角をたてたも昔のはなし今じや中よく丸い貨幣(かね)

1875.02.25 [投書]新聞を東京八景に見立てた都々逸仕立て 朝刊 情報 2
○……
   向島(日報)
須田の流れの濁らぬ社説ほんに眺めは雪月花
   日本橋(真事誌)
江戸ばしにまけチヤいけない名といふ文字は金で買はれぬ家の株
   上野(朝野)
瓦解このかた色気をまして花に見とれる男客
   浅草(読売)
形(な)りの小さな本尊すへて人の山なす仁王門
   愛宕(報知)
高くとまつた愛宕のからす見上げられたる門やぐら
   飛鳥山(曙)
若くかへつて日の出と成らば下に見くだす豊島川
   新吉原(教会)
客はおなじみふりならいやとそこが土地がら昔しふう
   堀切(解訳)
遠馬ぐらゐじやソリヤ詮がない植て見なほせ花菖蒲

1875.04.04 [投書]盗作都々逸や陰惨な挿絵 日新真事誌を難じる 朝刊 情報 2
○日新真事誌に此間(新聞)のうちに都々一が有りましたが前の三つ四つは「新ぶん都々一」といふ子供も承知して居る本の中に有るものを持出し……

1875.10.15 芸者が西洋紙の裁ちくずを、島田髷にかける風習が流行 都々逸までできる 朝刊 社会 2
○先達て中から新橋や柳ばしの芸妓が新聞紙その外西洋紙の裁屑を島田髷へかけるが流行だと云事は報知新聞にて見ましたがだんだん流行出して都々一まで出来ました
 籠の住居が世に出るからは髪掛念じた甲斐が有る
 敬神は守りますぞへ身は芸妓でも粗末にしやせぬ紙の末

1875.10.24 [投書]新聞、勉強を題材にした健康的な都々逸もある=実例つき 朝刊 音楽 2
○僕輩は日就社などの説と同じで何も三絃が悪いといふ訳は決して無いが彼の唄が多く淫事に渡て実に醜体きはまるよ恐るべしサ「君そう論を分ていひ給ふなら僕の別懇にする芸妓の唄ふを一つ聞たまへ実に他の応来的と違つて都々一ひとつ成とも淫事にわたらず醜体を囀らず感服なものサ……

1875.11.25 [投書]読売、仮名読など大衆新聞5紙に創作都々逸の贈り物 朝刊 情報 2
○  独楽(読売新聞)
 真棒しやんすリヤ独楽りはせぬと書も正雄の廻るふで
   凧(絵入新聞)
 紙の数さえふく風ごとに登リヤ見上る高ばたけ
   仮面(仮名読新聞)
 ちよいと替ればまた面白く神楽ジヤなけれどもて囃す
   毬(旭新聞)
 心づくのも旭のおかげ丸でわかるも御代の事
   羽子板(花の都女新聞)
 およ羽根の音をきくさえ嬉しい思ひ見たなら押画で迷をうか

1875.12.23 [投書]男女同権など「けん尽くし」の都々逸3句 朝刊 社会 2
○唄は世につれ代は唄につれとか申て童謡も理に合ぬ事はありませんが此頃流行のどゞ一などは聞にくい文句や為に成らぬ事が多くありますが是も倫理の正しい事を作ツて唄はせたら少しは益に成りましやう私の師匠が砧といふ題で「砧うつともわたしが稼ぎ人ニヤうたせぬ主の点」是なら何処で唄ツても聞にくいことはありますまい親や人の前で「チヤンコナメタリナガメタリ」も気はづかしいジヤありませんか私も出来ませんが一寸当時のけんづくし    下谷 饗庭
 男女の同権 おまへばかりに苦労はさせぬ持つもたれつ倶かせぎ
 口吻(くちぐせ)の民権 秋が来たのかあの蝉の声ぬしの鳴にはまだはやい
 征韓の一件 病気見舞の朝鮮飴もとけて互の口なほし

明治九年1876.01.24 [投書]近江八景をもじった当世都々逸8句 朝刊 社会 3
○オヤ近江八景だと思つたら当時八景とかいふものだとサ面白いかねヱ読で見やうよ  目白台 藤村やす
 下手の遊興 一寸一盃極らく浄土覚て淫売女(ぢごく)の馬鹿らしい
 似山の運の月 おつに絞つてやつては見たがどうか辷るよ油種
 三井の繁昌 又も見上たあの鯱(さちほこ)は富士に縁ある駿河町
 あはずの娼妓(おいらん) 客ニヤ捨られ焼ては裸是ジヤ勤めはできんせん
 華族の楽眼 今日もぶらりと三囲あたり何所か気高い長羽織
 知らぬ不せつ あじな横櫛アリヤ朝鮮か馬爪(ばづ)で蹴て居る人の口
 夜見世の奇顔 ぽんとした顔あんかにもたれ士ぞく寒いと頬冠り
 空車夫の夜の網 何所で聞ても帰りとばかり意気に暮すは嫌いのか

1876.01.31 [投書]文明開化の4字の1字だけでも守りたい=都々逸 朝刊 文学 3
○「文明開化と四字ある中をせめて一字も守りたい
……   花川戸岩床

1876.02.19 [投書]新聞礼賛などの都々逸3句 朝刊 音楽 3
○鈴木田さんこんな都々一を私の姉さんが教へて呉ましたが今まで聞たことが無いから私は新文句だと思つて箱屋さんに頼んでお届け申ます   浅草 小きん
 色の世界の図をかみわけて胸にたゝむも一ト苦労
 よんで楽しむ私が願ひ届いて嬉しい新聞紙
 猫じや猫じやとおしや升けれど下駄を履ても転やせぬ

1876.03.03 [投書]古今の俳句5句を軸にして時事をうたった都々逸調 朝刊 文学 4
○……
 「今日か明日かと待其内も(蓬莱に聞かばや伊勢の初便り)「どうか勝利を黒田君
 「雪の降日も学校通ひ(千生りや蔓一ト筋の心より)「後の誉れを見上ます
 「軒の雀も豊をかたり(元朝や神代の事も思はるゝ)「風はそよそよ御国旗
 「私ヤ日本で生れたからニヤ(黄菊白菊其外の名はなくもがな)「国の為ならいとやせぬ
 「道も三筋に銀座の通り(是は是はと計り花の吉野山)「軒を並べし煉化石
 「能も悪きも記者(わしや)探訪(さき)しだい(稲妻や昨日は東けふは西)「日々に新たな新聞紙
          本町二丁目 松廼家一光

1876.03.13 [投書]読売新聞などを源氏各帖と並べて都々逸風に 朝刊 情報 3
○私は以前投扇興が大好で毎日毎日ぶらぶら打に出かけたのが始りで終に投扇場で悪い友達と深くなり其男に引こまれて都々一の稽古に出かけ昼は投扇興夜るは都々一気違ひで有りましたが当節に成つて始めて眼がさめナゼあんな無用なものに金を費したり隙をつぶしたりと思ふと今さら残念で堪りませんから急に新聞を読む気に成つたが○印が無いから日々縦覧所へ参つて昔し益にも成らない事に根気と金を捨た悔しさに源氏の五十余帖を(投扇興から思ひ出して)諸新聞を都々一に書ましたが拙いから新聞にお出しは御免蒙ります   新吉原 松もと
   花の宴  日日新聞 報知新聞
 色と香をりニヤ月でも雪も及ばないぞへ花の宴
   梅ケ枝  朝野新聞 読売新聞
 花の兄きと世に立られて可愛がられる梅の枝
   松風  曙新聞 大坂日報
 強い枝ぶりヨ見せても人にチヨイと好れる松の風
   野分  采風新聞 評論新聞
 吹いチヤ見たれど靡かぬ草木なぎて嬉しい小夜嵐
   初音  雅俗新聞 一七雑報
 鴬の初音が便りで今日此頃は気まで開けた薄氷
   蓬生  農業雑誌 開農雑誌
 土地はどうでも丹精次第深い蓬の葉も茂る
   絵合  絵入新聞 仮名読新聞
 よくも揃つてコヲ美しく書けたものだよ梅桜
   浮舟  横浜新聞 神戸新聞
 岸による浪うわさも高く水ニヤ居られぬ粋な文
   藤の裏葉  甲府新聞 愛知新聞
 紫の由縁なつかし藤色衣はだを脱でも見る贔屓
   若菜  信飛新聞 西海新聞
 詠め見倦ぬ雪解の景色やがて芽を出す野の若菜
   鈴虫  遐邇新聞 浪華新聞
 鳴音たのしむアノ鈴虫に秋は来ないと人がいふ
   御法  明教新誌 信教雑誌
 阿弥陀様でも光るがお金びんぼさんすリヤ向ふ面
   雲がくれ  開化新聞 旭新聞
 焦れて居のに身を何処やらヱ心ないぞへ雲がくれ
   榊  明六雑誌 洋々社談
 気高い話しはお宮の榊はゞかり無のが私シヤすく
   胡蝶  真新聞 女新聞
 蝶よ花々しく書く文は番ひジヤなけれど離されぬ

1876.04.04 [投書]常連の投書家が神武天皇祭で架空の宴会 朝刊 行事 4
○……サアサア今度は声吉原の都さん何ぞドヾ一で結構結構
「一生に大事な件よ嫁聟とるも「偖婚礼の吉日は縁を定めの日を撰み「末は同権睦ましく……

1876.05.01 [投書]教導職にある僧りょの私娼買いは恥、と都々逸で皮肉 朝刊 文学 4
○アレ見ヤ人民(ひと)を諭す坊主が衣を着て居ながら頭に置手拭で格子へつかまつてひやかす体は醜いじやアネヱか心有る人や外国人に対して恥入ではネヱかと咄ながら過行ましたが肉食妻帯自由の権だといつても教導職の先生で敬神愛国を主張仕ながら是では困ます斯ういふ都々一が有りますよ
「難有(ありがたい)ぞや開化の御代は地獄へお寺が来るわいな
して見ると地獄もまだ有かしらん追々開て何処も明く成ますからくら暗(やみ)の恥では済ませんよ底でもう一つ
「門に瓦斯燈三十一日ニヤ月夜文明開化に闇はない
坊主計では無い誰でも娼妓に明るくなるには困ります
          築地一丁目 岩瀬良衛

1876.05.24 湯屋で大声の都々逸、あげくの果てにけんか/東京・本所 朝刊 社会 2
○三味線も油じみたよ今日この頃は寝糸で済ませる彼の座敷」と唄つたので芸妓が気障な奴だ此方から纒頭ぐらゐは遣ると捻つた紙を客の顔へ打つけてすたすた階子(はしご)を下りて帰つたのは何処かの茶屋の二階だと聞て居りましたが本所石原の松原金次郎の悴彦太郎は今月廿一日に近所の弁天湯へはいると若宮町の文次郎と業平町の芳次郎に出逢ひ互ひに焼原銅壺の都々一で風呂の中は雷の鳴る様な騒ぎ頓て彦太郎が唄つた都々一が気に障つたとて文次郎と喧嘩をはじめ彦太郎の上るのを待つて居て文次郎は下駄で打てかゝり頭へ二ケ所疵をおはせて逃出し……

1876.07.12 [投書]盆の都々逸(明日掲載)の前書き 朝刊 音楽 4
○……イヱ夫でよく分りましたソコデ私が開化の生霊祭りの品物都々一を書ましたからといつて出した端紙にこんな事が書て有りましたから写しとつておめにかけます    浅草奥山 曾我辰之
(今日はあきが無いからおもしろい都々一は明日)

1876.07.13 [投書]都々逸でお盆の生活戯評=前日の続き 朝刊 宗教 4
○昨日のつゞき都々一     曾我辰之
蓮葉の私も心の中が飯(まゝ)になるのは自主の権
火の消た様だ何ぞと言れチヤならぬ門は明るいお迎火
稗棒の青い穂先も実があるからは一本立だと人がいふ
酢だの揉だのいはずと豆に和してごらんよ芋茎(づいき)あへ
麻売(あさがら)の箸た無い身も三度の食を給リヤ誰にも恥やせぬ
おごり杉の葉気をもませ垣堅くないので犬も入る
胸の闇路もひらけて見ればけして迷はぬ盆燈籠

1876.09.02 [投書]旗本の娘が遊女稼業 いっそ小気味いい転身 朝刊 社会 3
○素見ぞめきの小格子さきも昔と替り心いきの都々一をどなれば巡査さんに是待ての一声をかけられ……

1876.10.05 [投書]座敷の合間の手習いの成果 芸者衆の都々逸7選 朝刊 婦人 4
○……昨日も中よしが六七人よつて筆を買つたり墨をすつたりしてこんな都々一をこしらへましたから一寸よんで頂戴しんぶんへ出すときゝませんよ     金春連中
過チヤ悪いと葡萄酒隠くし汲器(こつぷ)採のも酷た中 きん治
十把束げで転ぶといへば解て見せたい胸の中 さく
堅くなれよと世渡る橋も石で架つた今の御代 よし松
引たお方に剛飯(おこわ)を貰ひふけて見えるも恨しい 小勝
撥を取手に糸針持て縫つてやりたい記者の口 小かね
親の笑顔に見とれる時がつらひ座敷の憂晴し 小せん
虫につゞれをさせよと鳴れ恥しいぞへ針の道 きん
 これは出すなといふ事で有ましたが都々一の中にいいのが有るからいたゞいて遅まきながら紙の明き地をうめました(芸妓にかゝりあひの投書が出た序に)

明治十年1877.02.06 〔投書〕貴社の鈴木田正雄氏の留守を守る加藤氏へ、憂さ晴らしの都々逸を詠む 朝刊 音楽 4
○……夫では私が心意気のドヽ一を一つ二つ
「兄弟(おとゝい)思ひの新聞記者が善し悪しヨいふのも人のため
「金のなる木を一ト枝とつて勉強する木に接せたい
……   日本橋 会田皆真

1877.06.14 〔投書〕近所で大流行の都々逸 朝刊 社会 4
○鈴木田の正チヤンこの都々一はわたいの近所で大流行ですから明きが有つたら投書の中へ出して頂戴ボツしよとやらにすると化て出ますよ怖く無い様に    大坂町 とく
 場末の芝居の話をきいて玉に当るも気にかゝる
「是は極内々お隣りのおぶち姉さんが西国とかへいつて居る旦那を思つた時のですとサ
 まゝに成るなら鑑札かくし紙幣の雇ひもして見たい
「是は余まり隙だもんだからごろちやんがやつたの
 世の中が開けリヤつぼまる私の肩身かい化といはれリヤ痛い耳
「是は三毛吉さんの自がね
此あとのは例の先生から聞いたのですよ
 離れ離れに切られてゆくも主の為だよ綿撒糸

明治十一年1878.03.16 [投書]両雄並び立たず 友人から聞いた都々逸2編 朝刊 文学 4
○……友人来たつて君なにを書く答へて投書さ止給へ止給へ紙屑籠に没されんよりは昨日柳橋にて聞た都々一がある君筆を閣て聞たまへ「毀れた木戸には仕方もないが倒れた垣をば直したい」まだ一つある「西と南が凹んだ後はなぜか窪みに溜る水」君の都々一は以前地震か嵐のあとで流行つた歌に似てゐるやうだとかけ合ひ話を其まゝおくる     妻恋下 梅亭鈍生

1878.04.11 [投書]1年を12首で謡った都々逸 朝刊 文学 3
○……  芝の金也
   一月 朝の雪
うしといはねど此大雪に誰の子だやら乳配り
   二月 坂上田村麿
鬼神でも蛇でもお前ニヤ皆倒れる常ニヤ優い顔なれど
   三月 遥峰晩霞を帯ぶ
夕ぐれは山の肌さへ霞で包むひかしチヤ成ない春の風
   四月 雨中の花
降られて散らされ踏まれて泣くも濡たが不覚の雨の足
   五月 孔丘
儘に成らなキヤ筏に乗つてやけだとさし込む水馴棹
   六月 船中郭公を聞く
艪の手緩むな彼の子は手くだ今のは空音のほとゝぎす
   七月 浦の夏草
浦見ては帰り浦みてまた来る波の涙露おく夏の草
   八月 伯徳禄
新造おろしてあの楽しみは馬鹿ニヤならない船大工
   九月 山家の月
御前の殿のと其方気をおくが見やれ山家も月が照る
   十月 残菊
油断しやんすな莟の花もいつか十日の菊となる
   十一月 新聞紙
配達にたゝき起され昔の夢が破れて私しは眼がさめた
   十二月 冬の祝
炬燵の炭団も角ふしたてず丸く治まる君が御代

1878.06.20 [投書]6月12日付投書の都々逸に異議、と注釈入りで説明 朝刊 4
○僕は常に貴社の新聞を拝見して居りますが先日千二十号の寄書に通新舎の箱館の都々一が出て居りましたが少し違ひましやう如何(なぜ)なら「ピリカ(美くしい)メノコ(女)トナセ(一所に)モクロ(ねて)ニシヤタ(あした)パシコロ(からすの)ツチコラチ(鳴まで)」といふ訳で有るから一寸皆さんへ申しあげます
            神田旅籠町  あらゐ述

明治十二年1879.02.20 親類の酒宴で浮かれた酒乱男、隣近所まで当たり散らし拘引/東京・常磐町 朝刊 社会 2
○……頓て亀次郎は酔ふに随つて一人で浮れ出し人人の留るのも構はず大きな声で調子外れの甚句だか都々逸だかを口から出任せに謡ひながら飛んだりはねたり騒ぎ散すので……

1879.07.22 大阪で「よしこの会」 俗謡の歌詞を募集、1等には白米5俵 朝刊 文学 1
○此ごろ大坂安堂寺の呉服店越後屋何某と外三人が会主にてよしこの会を催し入花は拾章二十五銭づゝにて毎会一万五千章余を集めて優等の者へは景物を出し第一等の景物は白米五俵にて以下千章までを撰抜いて夫夫景物を出すといふ

明治十三年1880.01.28 一杯機嫌の浮かれ男 遊郭から流れる三味線、太鼓の音に合わせ道路で踊る/東京 朝刊 犯罪・事件 2
○李公が酒を飲んで張公が酔うといふ支那の俗諺に似た気楽な男は通り三丁目の古帳屋庄司庄吉(二十三年)にて一昨ばん千住北組の往来を一杯機嫌でブラブラ歩いて居ると同所貸座敷のスツチヤン騒ぎに心がうかれ其三味線太鼓に合せて大きな声でドヽ一を唄ひ出しだんだん面白く成るので我を忘れ魔のさした死人の様に往来中を一人で踊り跳ねて居たので其筋へ拘引

明治十四年1881.04.15 遊芸好きの男、車夫を居酒屋に集め、詩吟や踊りなどさせ金をまく/東京・千住 朝刊 食 3
○……車夫達は図に乗て勇み立ち今こそは士族の落果を見せて呉れんと濁声を振り立てゝ詩を吟じるもあればまたは端唄を唄ふもあり其外都々一ヘラヘラ踊りと奇々妙々なる一座の中に……

1881.10.25 都々逸の「コリャ、コリャ」を巡査と勘違い、盗んだ衣類を捨てて逃走/東京 朝刊 犯罪・事件 2
○日曜日休の微酔機嫌手に喰余りの笹折を提ながら一昨夜八時頃北品川の海岸をぶらぶら歩行く二人連の一人は南品川に住む土方の巨魁小川弥吉が小声で唄ふ都々逸をコリヤコリヤ来たサと跡から囃すと此二人連より六七間ほど先へ行く一個の男が何思ひけん抱へてゐた風呂敷包を弥吉の足元へ投付け駒下駄を脱で跣足に成て一目散に駈出したれば弥吉と二人は胆を潰し如何いふわけか分らねば幸ひ前を通りかゝつた警察署へ持出して有し次第を訴へ包の中を明て見ると単物に目くら縞の腹掛け腹巻犢鼻褌三尺帯まで揃つてゐるを其掛りが改めてゐる処へ同所二日五日市村の湯屋渡世松ケ花六松かたへ来た客相州小田原駅十字町に住む鋳懸職鎌倉卯之助が出京するに付て今夜は品川宿へ泊り松ケ花へ入湯中身ぐるみ盗まれて詮方なさに六松方にて古半纒を借用しぶるぶる慄へながら六松と同行で右の始末を訴へに出たに付て今弥吉が投付られて拾ひ取た包の中の品々を見せると卯之助がとられた衣服に相違なければ其儘本人へ戻されたは卯之助の大仕合せにて鼻唄の都々逸を口拍子で囃子た所が警察署の前なればコリヤコリヤといふ声を賊は巡査に呼止られた事と思ひ周章て逃た物と見えるが疵持つ脛に篠原を走るとは此賊などの事をいふか

明治十五年1882.04.08 貸座敷の前で卑わいな都々逸をうたう住職が拘引/東京・品川 朝刊 宗教 3
○……往来で立小便や放歌ぐらゐは咎むるに足らずと自から免す蕩楽和尚高輪台町辺の或る寺の住職何某(四十二年)は一昨夜皺枯れた声を振り立てゝ猥褻極まるドヾ一を唄ふを巡査が諭しても聞き入れず猶大きな声で唄ふので終に其筋へ拘引された処は品川歩行新宿の或る貸座敷の前とは場所も悪い

1882.04.30 巡査を誹毀2件 派出所前で放歌の男に罰金 都々逸の芸者に説諭/東京 朝刊 警察 2
○……又吉原仲の町山口巴屋の抱へ芸妓小房(二十三年)は一昨夜同家の二階で「いやだ母(おつか)さん巡査の女房」と面白くもないドヾ一を大きな声で唄ふ下を巡査が通り是は説諭で済みました

明治十七年1884.09.11 書籍 井上勤訳「太政大臣号難船日記」ほか出版 朝刊 情報 3
○新著出版 ……下槙町の商弘所よりは月並ドヽ一の十三会、……を出板されました。

明治二十年1887.07.09 書籍 「改良百々逸評集」出版 朝刊 情報 3
○改良百々逸評集 横山町の辻文及び銀座三丁目の彩霞園にて発売の「改良百々逸評集」と云ふは此道に委き仮名垣、広岡、若菜等の通人粋客が評言を加へたる珍書なり

明治二十一年1888.10.31 芸者が県会議員に辞職勧告書送る 石川県七尾で、都々逸入り 朝刊 地方 3
○芸妓県会議員の辞職を勧告す 石川県下鹿島郡七尾西岸にて常磐町と云るは同地方にて有名なる狭斜巷(いろざと)なる由なるが其の内にても殊に有名なる参盛楼の内芸妓お定は時勢の風潮に伴ふて進化したるものにや同郡撰出の県会議員真館貞造氏に向つて都々逸入り退職の勧告書を送りたりといふ其都々逸に曰く
 親は子で持つ子は親で持つ南瓜議員は蔓で持つ
蓋し右真館氏の父は同郡々書記を勤め父子共稼ぎにて仲々の勉強家なる由なれば右等の内幕を知るものが一読する時は一層意味深長に聞ゆるなるべししかし御渡世柄とは申し乍ら都々逸入りの勧告書とは又近来の新趣向なる哉

明治二十二年1889.01.16 即席自作の都々逸を披露 朝刊 音楽 3
○新調どゝ逸 釜ちやん大層お真面ですねヱ陽気に一つ心意気をお聞せなさいヨーと云れてお客はシガレツトの灰を火鉢の側にてチヨイとはたき
  十人十色に心が違ふ合す調子が六かしい
と即席自作のどゝ逸を謡れたり芸妓は何の気も附ずオヤ嬉しいねヱと云てゐたが其次官イヤ次席のお客が之をきゝ成ど今の大臣は十人だ流石は端唄博士ほどあつて……

1889.12.05 風俗乱すとして出版物2点に発売禁止命令 朝刊 情報 2
○発売禁止 ……静岡県静岡市七間町一丁目八番地金原佐兵衛の発行する新撰都々逸辻占(銅板)は風俗を壊乱するものと認められ何れも発売頒布を禁止されたり

明治二十三年1890.02.09 政党争い髷に及ぶ 富山県下で改進党支持者が島田髷、大同派は都々逸で皮肉 朝刊 3
○政党の軋轢髪に及ぶ ……嘗て聞く富山県下の改進党は同地に於て同党の牛耳を取れる島田孝之氏を景慕するのあまりに六十路を越せし翁媼までが無けなしの髪に髢を入れて髷を島田に束ねると云ふ有様なれば大同派員は之に反して二八二九の娘子でさへ断じて島田髷に結はずと云ふ今大同派の機関新聞北陸公論の記する処を見るには同県下砺波郡の花街にては左の如き都々逸を謡ふものありといふ
 気障な島田はさらりと止て自由に束ねた髪がよい
 とかう思あんを凝して見ても念た妓縁は断リヤせぬ
 さいの異見もきかずに主はくさり島田に迷ふとは
 おやの異見を仮めんになして今ぢや世上の物笑ひ

1890.07.24 チャリ語りのうまい太夫 あばた呼ばわりにも滑稽な洒落や都々逸でかわす 朝刊 音楽 3
○……或る客は之を憎らしく思ひ某太夫を伴ふて或る料理店へ赴き数多の芸妓乾婢(なかゐ)に心得させ痘痕さん痘痕さんと痘痕の八百も八千も云散して某太夫を嬲りしは如何に滑稽無頓着な洒蛙面でも癇癪をおこしさうなものと思ひきや太夫は一向頓着なく微笑ながら姉さんチヨイトと芸妓に三味線をたみ真面になつて唄ひ出した都々一
  痘痕ありやこそ人間らしい犬に痘痕があるものか
と声麗しく唄ふたれば一座思はず絶倒せしとぞ

1890.10.17 磐梯山建碑の再興義援会 披露かたがた、26日に江東井生村楼で/東京 朝刊 社会 3
○磐梯山建碑再興義捐会 ……余興には新古書画器物の陳列、夜雪庵宗匠の発句、霧垣夢文氏の哇情(どゝいつ)の運座、柳派扇派の落語手品越路綾瀬東玉の面々、雁次郎福助の両優も出席するとの事

明治二十四年1891.01.26 都々逸で風刺の政談演説 「治安妨害」で中止に/横浜 朝刊 2
○どゝ一の演題、菅野氏演説の中止 当時横浜に退去中なる菅野道親前島浩象氏等を始め二三の人々は一昨廿四日午后七時頃より同港馬車道通り万竹亭に於て政談演説会を開きしに聴衆は無慮三百名程ありて第一に菅野氏が登壇し
  切れてしまへば又新らしく掛けて楽しむ三味の糸
と云ふ都々逸を演題と為し例の雄弁にて新陳代謝の事例より説き起し東西古今英雄の籠絡手段を挙げ最後に独逸前宰相ビスマーク公が田舎よりポツト出の国会議員を饗応して威嚇政略を行ひしことを述べ暗に諷刺の寓言を加ふるや臨監の和泉警察署長は突然起て注意を加へしが……

1891.02.02 元大阪壮士で都々逸弁士の異名をとる菅野道親が横浜で熱心に演説 朝刊 3
○あきらめられぬとあきらめた 此頃横浜の万竹亭に於て都々逸の演題を掲げて政談演説をなし中止を命じられし以来都々逸弁士の渾名を受たる退去者菅野道親氏は一昨三十一日午後七時より伊勢佐木の町勇座に於て演説会を開きしよしこの日は晦日なるがため商人の多き土地のことゝて来聴者殊に少くかてて加へて雨天にもありしかば折角の演説も思ひしより不景気なりしは弁士の為誠に気の毒にてありきしかし菅野氏は之にも係はらず熱心に二席の演説をなせしが其第一席は「泣て有情の人に訴ふ」といふ題にて演説をなし最後には
  あきらめますぞへもふあきらめたあきらめられぬとあきらめた
といふ演題にて右は同氏が耳順に近き老腐し親を棄て飢餓に泣く妻子を顧りみず壮士仲間に入りて国事に奔走する際に当り朋友等の忠告に対し盟ひたる都都逸なりとて夫より国権拡張に及ぼし無事に演説を終りたりといふ

1891.06.08 政談好き新橋芸妓が、条約改正おり込んだ都々逸と端唄 朝刊 社会 3
○……然るに其の芸妓この頃より諸新聞に条約改正中止のことあるを見これに擬したる都々逸数十種を製造して誰彼の前を論ぜずこれを唄ふにぞ某伯爵にも一日この芸妓と一座になりし節頻りに其心懸けのよきを感嘆せられたる程にて昨今は条約改正拍子の名其筋に流行し居れりといふ而して左の端唄の如きも同人の作に係るといふ
 内閣の頭に松が生ながら折れぬ気象も何がさて
 改正すべき条約の中止沙汰とは気が知れぬ

1891.06.14 勅語広める都々逸 朝刊 皇室 3
○勅語俚謡(どゝいつ) 道の光といふは勅語を奉戴して聖意の在る所を汎く庶民に伝ふる斯道館の蔵板にして潜爵道人甲斐順宜氏の著述せしものなるが巻首に命じ廿三年十月卅日に発布せられし勅語を掲げ何人にも解釈し易からんが為に傍訓(ふりがな)を附して一々其の要旨を和げ猶之が意を体して誤らざる俚謡を載せたり句調宜くして聖旨に叶ひしを以て茲に其二三を抜粋す
   ○崇祖
「檜木の小やねに丸木のはしらこれぞつきせぬためしなる
   ○忠君
「玉とかゞみとつるぎのみつはせかいつらぬくかみだから
   ○孝悌
「はなのみやこで花さくとてもわすれさんすなふるさとを
   ○貞信
「こゝろあはして火水になりてつくりかためよ国のもと
   ○敬愛
「うきにたへせぬくをこのうへにうけてこゝろをためしたい
   ○自主理性
「はなもさか?しみもとりたくばまことにたねまくほかはない
   ○自治開進
「ゆだんさんすなひはくれかゝり道ははるかでにはおもし
   ○国憲照明
「がらすやらんぷとさわぐをやめて玉やかゞみをみがゝんせ
   ○尚武興風
「みよりかねよりだいじのものをすてちやにほんはひとのもの
   ○報本反始
「玉の光はみもよもいつもせかいひとつにてりわたる
   ○聖旨奉戴
「くにの国たるこのくにのみちすてちや国とはいはれない
   ○国真煥発
「ろんよりしようこのみをやのゐくんあさなゆふなにあふがんせ

1891.08.15 改良便利切手、都々逸独り占い等を発売停止 朝刊 情報 3
○出版物の発売禁止 東京市押足斧八の発行に係る改良便利切手、大坂市吉村清助の発行に係る都々逸独占兌為沢及び沢地萃の部は何れも風俗壊乱と認められ発売頒布を停止せらる……

明治二十五年1892.01.06 自由党員が懇親会欠席通知に都々逸を添える 朝刊 2
○栗原自由禅僧の諸面 事少しく旧聞に属すれど栗原氏の洒落を聞き得し儘左に其全文を報道せん
 今日愚僧は千駄木の皆無庵に閉居し御経の文句を書き綴り居候へば今日の如き愉快なる懇親会に出席するを得ざるは残念なり茲に都々逸を寄せて我党の万歳を祝す諸君へよろしくかしく
  ちよいとじらして背中を向けてこちらむいては笑ひ顔
文中御経の文句とは自由党宣言書の謂にして愉快なる懇親会とは去る廿九日の自由党懇親会を指すものなりと云ふ

1892.01.18 都々逸坊扇歌姫の神戸下り 井筒太席で新内、清元、トッチリトンを演じ好評 朝刊 音楽 3
○都々一坊扇歌の神戸下 矯絃妙喉夙に名誉を博せし都々一坊扇歌嬢は此程神戸に下りて同地井筒太席にて例の新内清元トツチリトン即席都々一曲弾などを演ずるに非常の人気ありとの報あり

1892.04.09 都々逸贈って記事の取り消し求める 芝の芸者が朝日新聞へ/東京 朝刊 社会 3
○都々逸を贈て取消を求む 芝区日影街の芸妓柏屋小るゐは此程の朝日新聞に自分の事を記したる雑報の事実は相違なりとて取消文を送り紙末に一首の都々逸を記して曰く
  桶屋に能く似て新聞記者はひどく叩くよ輪をかけて
と流石は商売柄だけありて愛嬌あり朝日記者忽ち浮かされてコリヤコリヤコリヤと拍子を取つて奇麗に取消したり聞く和歌は天地を感ぜしむと今小るゐの都々一が朝日記者を浮させしも理なきにあらず

1892.05.10 凌雲閣の新趣向 発句、都々逸を募集 入選作を額面にして展示/東京・浅草 別刷 文学 1
○凌雲閣の新趣向 浅草十二階の凌雲閣は先頃百美人の趣向にて大当りを取りしが今度は発句、都々逸を広く募集し点者、評者は何れも有名なる宗匠に依頼し昨九日より各地へ広告を配り発句、都々逸とも来る六月廿五日迄に〆切り感吟千句づゝを撰みて之を額面となし七月十五日より八月十五日まで閣内階上に掲げ出句者は勿論広く縦覧人の投票を乞ひ同八月十五日を以て投票開函の上発句、都々逸とも最高点者「天」へは銀側時計一個「地」へは花色絹地一反「人」は同断以下番外五客へ手拭地一反づゝ千点以上は金製紀念章五百点以上は銀製紀念章を贈る由而して是等の秀逸玉句は悉皆美麗なる大額面に記載して永く階上に掲げ登覧者の覧に供する筈なりと……都々逸の題は日本の山の名、東京名所、四季の花等にて矢張凌雲閣花深の内一字結込なり評者は仮名垣魯文、旧門柳枝進、為永春暁、養老舎滝音、三遊亭新橘の諸氏其景物入花等は前同断なり

1892.06.12 絞首台上の都々逸 香川県高松監獄で強盗殺人罪の囚人2人、執行前に詠んだ数首 朝刊 司法 3
○絞首台上都々一を謡ふ 強盗殺人罪を以て香川県高松監獄に繋留の身と為り去三月上旬死刑の宣告を受たる同県三野郡麻村大字下麻唐田和三郎(二十七年)愛媛県宇麻郡小富士村大字中林高橋徳造(三十六年)の二名は此程同監獄に於て死刑の執行を受たるが今右両名等の最後の有様を聞くに従来教誨の効績著るしく大に過罪を悔善に遷りたるものゝ如く共に死に臨んで動ずるの色なく数首の雑詠をさへ残したり……今絞首台上右の両囚人が口吟みたる咏首を左に掲げん
     ○   高橋徳造
  高橋に御法の水が流れ来て徳に洗うて濁り去りけり
  盗人の種蒔く者は無けれども酒と賭博が本となるなり
     ○   唐田和三郎
  おやのいふこと千分の一も聞けば然る身にならぬもの
  私しや今更此の気が附けどさぞやおそかり由良の助

1892.07.16 [反古しらべ]木戸松菊の「よしこの」/桃の屋ほか 朝刊 社会 2
○松菊先生の「よしこの」  桃の屋
前号反古しらべの内に長州の勤王家久阪玄瑞氏の一ツトセーといふを掲げられたるがそれと日を同うして談ずべきことこそ思ひ出したれ、そは木戸松菊先生が未だ桂小五郎と呼びて京師に出没せられし頃とか幕吏の探偵厳しきに身の置所なく竊に●(のが)れて辻芝居の俳優市川市十郎(……)の姉にたよりて同人の家に隠れ居られしが後程経て市十郎が芝居の用向にて神戸へ下りける時同人の弟子と偽り容貌を背負ひて辛うじて虎口を免れしといふ其頃口吟まれしものゝ由にて祇園新地に語り伝へたるを余もまた当時京地に在りて聴得たりしなり其小歌は左の如し
  五月闇あやめ分たぬ憂世の中に泣くはわたしとほとゝぎす

1892.08.15 凌雲閣が募集した俳句と都々逸、入場者の投票で入賞決定へ/東京・浅草 朝刊 文学 3
○懸賞発句都々逸の投票 浅草公園凌雲閣にては予て階上に発句都々逸の大額面を掲げ登閣者の一覧に供せん為め広く衆庶に出句を促し之れを夜雪・其角・団洲・燕枝等をして評せしめ居りし処昨今漸く点済になりたれば取敢ず各感吟の部を仮りに額面に仕立て……


1892.08.26 凌雲閣の懸賞発句都々逸の投票 応募作数万点を選句、高点者に賞品/東京・浅草 朝刊 文学 3
○凌雲閣の懸賞発句都々逸の投票 浅草公園の凌雲閣にては懸賞発句都々逸を広く募集中の処既に全国より数万句集まりたるを以て過日来有名の宗匠又は諸大人に乞うて撰評中なりしが愈よ点済となり今廿六日より前号に記したるが如く向ふ三十日間内に投票を募集し……
○横井小楠翁の都々逸 横井小楠翁が維新前の当時に於ける輿論を察し之れを都々逸に諷したるものなりと云ふを得たれば左に掲ぐ先きの広瀬淡窓の大津絵と好一対と云ふべし
 大海はみんな水だよ手でふせがれぬうちやつておきなよすいたよに

明治二十六年1893.07.27 都々逸坊扇歌が義妹を告訴 私書偽造で/東京地方裁判所 別刷 司法 1
○扇歌義妹を告訴す 下谷区池の端七軒町荒沢熊蔵は都々逸坊扇歌事志沢たけの義妹志沢染と共謀し扇歌の借用証書及び印影を偽造し扇歌に対し二十五円の債権ありと称し詐欺の目的を達せんとせしより扇歌は弁護士設楽勇雄氏を以て熊蔵・染に対し私書偽造の告訴を東京地方裁判所に提起したるに両人は一応取調の末拘留となれり

1893.11.22 榎本子爵ひいきの老妓、時計のくさりと都々逸贈られる/東京・新橋 朝刊 行政 3
●榎本子、時計の鎖と都々逸を芸者に贈る 新橋の老妓山田屋小紋が頻りに秘蔵する時計の鎖ありて価は百金にてプラチナ製なり如何にして斯る貴き品を手に入れしやと聞くに小紋は元八万騎の中に算へられたる旗本の出にて伯父何某の如きは榎本子爵と進退を共にし弾丸雨の如く血河腥さき函館五稜郭に楯籠りし縁より自然榎本子も小紋を贔屓にして屡ば酒席に侍らせしに小紋も名家の末気質磊落なれば漫に媚を献じ笑ひを呈する事を為さず眉を軒げ觴を控へて子爵に向ひ徳川様の御家来はみんな活智(いくぢ)無しと云はるゝ中に貴下一人が感心なお心掛で少しは江戸つ子の鼻が高う御座いますと傍若無人の一言に子爵も其奇峭に感じて殊に心を懸けられける、然に其後子爵は清国公使に任じ夫より露国公使に転任して久しく海外に駐剳の身となりしを小紋昔懐かしく折々伝手を求め消息を通じて其健康を祈り末には自作の替歌又は都々一などを記して其慰みに供したりしが間もなく子爵よりの返書到着して「国の権威を双羽(もろは)に負ふて波濤万里の浮寝鳥」との一首を認め猶形見にとて贈られしは右のプラチナ製の鎖なれば……

明治二十七年1894.02.28 鳥尾将軍、品川弥二郎の都々逸を添削 ドイツの温泉の交遊で 朝刊 行政 3
●鳥尾将軍品川子の都々一を添削す 品川弥二郎氏嘗て駐在独逸全権公使となりて独都会伯林に滞淹の頃偶々鳥尾中将応酬巡遊の途に上り行き行きて伯林に着きぬ、桟雲峡雨永く他郷に在りて花にも涙を濺ぐ身も国家の為と思へば何の辛き事はなけれど万里天涯に故人と逢ふ英雄豈感なからんや別後久闊の情を叙べんとて二氏相携へ同じく在留の一紳士と共に同地有名のカルヽス温泉に遊び山媚び水明かなる処閑に座を占めて談正に闌はなる時品子容を改ためて云ひけるは、僕の菲才を以つてして星槎海外に公使となり特に 聖明の恩寵を忝けなふするを思へば微臣骨摧け肉●となるも大海一滴の恩を酬ゆる能はざるを恐れ鶯春夜雁片時も国家を忘るゝことなしと言畢つて一葉の撮影(しやしん)を懐に取り其裏に筆の痕鮮やかに
 今日も三杯カルヽスバット飲んで感ずる君が恩
と一首の俚謡を認めて伴なる紳士に似(しめ)せり、坐臥遊宴にも君恩を忘れぬ志知られて一層床しくこそと紳士が賞むるを傍にありし鳥尾将軍つくづく打眺め謡の心は然もあるべきことながら下の句佶屈にて俚謡の体を得ず斯く改ためては如何と云ひさま直ちに鉛筆もて下の句を削り其傍へ
 飲むもお前の為めじやもの
と書き付けたり、実に斯くてこそ臣子の心なれ海外万里に客となりても君恩偏へに身に洽ねきを思ふに付け国の為め君の為めには身を愛して百年の命を健かにし犬馬の労を執んとする忠愛の志いと愛でたしと品子も感を同ふして談ますます興に入りける、……

1894.04.28 握り飯知事(籠手田安定知事)の治県方針 都々逸に託す 朝刊 地方 3
●握飯知事の県治方針 山梨県官近頃宴に臨む毎に金切声を振り立てゝ二種の都々逸を呻る曰く先般来峡したる彼の握飯を以て有名なる籠手田知事より受売したるものなりと
 だまさばだませだまされもせうが私やお前をだましやせぬ
 苦労する墨すらるゝ硯濃いも薄いもぬし次第
聞く握飯先生は之れが拙者の県治の方針だと云へりと随分洒落た方針といふべし

1894.10.06 酌婦が都々逸歌って出征兵士の門出を祝す/仙台 朝刊 社会 3
●酌婦都々一を唄ふて兵士の首途を祝す ……日清事件と時計の針はカツタノ(以下紙面破損)

1894.12.19 とんだ深夜の痴話喧嘩 つい歌った都々逸の文句が引き金となる 朝刊 社会 3
●都々逸を唄ふて罪あり ……「もしや知れたら佃の島よ鉄の鎖で二人連れ」……

明治二十八年1895.02.06 都々逸坊扇歌の碑、建立 珂北仙史が山寺鐘夢翁と計画/東京 朝刊 国土・都市計画 3
●墨畔白鬚に都々逸坊扇歌の碑を立んとす 都々逸は俗謡にして其格調亦卑猥なりと雖も往時愛国勤王の士の弄吟にかゝるものにして風韻雅趣に富むもの少からず「三千世界の鴉を殺しそして朝寝がして見たい」とは長州の豪傑高杉晋作が倒幕の意を寓したる吟にして「奥のお客の心は知れぬ一人で二人の苦労する」とは木戸孝允が会津帰順の至誠を表はしたる折に詠みけるものと伝ふ其他会津の勇士武井完平が「さつとちやうしを合せて見ても」の如き品川弥二郎氏が「赤き心を墨で書く」の如き皆胸懐洒落の間勤王愛国の意を寓して血なき熱なき俗間の死句と同からず而して之を介したるは文政天保の比江戸に其名を轟かしたる都々逸坊扇歌となす扇歌死して扇歌なく其名世の変遷と共に次第に湮滅せんとするを遺憾と為し之と故郷(常陸多賀郡)を同ふする河北仙史は斯道の熱心者中教正山寺鐘夢翁と謀り墨堤の桜花爛漫たる佳節を期して白鬚祠畔に扇歌の碑を建設し且品川子其他斯道に名うての貴顕に出句を乞ひ之を世に公にし洒落の間に尚武愛国の気を養成せんとの計画有るよし

1895.08.30 新作キンライ節と都々逸 征台軍の困難を思って、と某人 朝刊 アジア 3
●新作キンライ節と都々逸 遠征万里金を鑠らかすの炎熱に苦み疫病と戦ひつつ土匪の掃攘に従事せる我征台軍の困難を思ふて左のキンライ節と都々逸を新作せる人あり
 通宵行や武夫山河を越て土匪の在家を●すらん
 蟋蟀鳴くや台湾清けき夜半に猛き武夫進みゆく
 路は突兀兵粮は籾も君のためなら厭やせぬ
 わしが鳥なら台湾陣屋鳴て心がしらせたい

明治二十九年1896.12.28 春畝侯、須磨の都々一 多能多芸、句調団珍の投書に似たり、京美耳語して諫止 朝刊 3
●春畝侯須磨の都々一
藤侯多能多芸悉く此中の消息を知る嘗て須磨に遊んで俚謡(よしこの)を作りしに京坂の間伝唱して矯歌艶舞の境に囃さる今又侯が須磨詠勝の都々一を得たり
 まこと明石で淡路にかへりやなんだかこゝろが須磨の浦
口調団珍の投書家に似たり京美侯に耳語して曰く御前余り唄やはると襤褸が出まつせ

明治三十年1897.01.10 品川弥二郎の情歌(どどいつ) 朝刊 音楽 4
●品川の情歌(どゞいつ)は己より甘(うま)い  ……乙羽氏藤侯に問ふて曰く閣下西遊中の奇談往々新聞に出たるが彼は事実にて候や殊に「舞子の浜」と「おくにや置かれぬ」の情歌(どゞいつ)の如き中々のお上手と拝見しましたと言未だ畢らざるに侯は髯を撫でゝ大笑しウム皆な事実だ何して彼な事が早く新聞に知れたらう併し僕よりも情歌(どゞいつ)は品川(子爵)の方が甘いよ先年僕と奈良に遊んだ時に九鬼(子爵)は宝物取調掛で奈良では大いに幅が利いて居たが三人対山楼で一杯飲んだ事がある其時どうも九鬼が対山楼の娘に怪しい様子が見ゆる様なとて品川は忽ち情歌(どゞいつ)を作っくつた其れは恁いふのだ
  古物アお寺で拝んで置いて新ぶつア宿屋で抱いて見る

1897.09.02 侍従武官の出張▽野田監督総監、北海道へ▽大谷医博、ドイツ留学から帰国、ほか 朝刊 社会 3
○実業行脚の都々逸 米国関税改正案に関する用件其他欧米各国実業視察の為め漫遊中なる前田正名氏は七月三十一日紐育を発し英国に向ひ同国の視察を了へて目下仏国に滞在し巴里万国博覧会役員に面し種々の取調をなしつゝある由なるが此程京都の或人に一書を寄せ左の都々逸を添へたりと云ふ
 遠い国まで恋路の旅よしらぬ山でも道がある

1897.09.03 またまた実業行脚の和歌と都々逸 ニューヨークから前田正名が送信 朝刊 経済 3
●又々実業行脚の和歌と都々逸 目下欧州巡遊中なる前田正名氏が京都の知人へ送り越したる都々逸は前号にも記せしが尚氏が去る七月下旬紐育ブルツクリンに到着し同市在留同胞の歓迎を受け同三十日の夜サンド街なる杉崎倶楽部に於て氏の為に開ける送別会の際氏は起つて席上左の国風並に都々逸を詠じたりと
    和歌
 後の世の春を頼みて植置きし人の心の桜をぞ見る
 時来れば赤き心もあらはれて惜まれて散る紅葉なるらん
    都々逸
 遠き道には山川越して越して行かねば里がない
 苦労する気で苦労をしたが今ぢや苦労の甲斐がある

1897.11.08 [月曜付録][ひらき封]十千万=4 ベルリンより/小美野 別刷 文学 1
(四伯林より) 小美野
……扨此度は都々一註信といふのを入御覧候、
  ▲女の自転車士官の化粧そして書生は疵だらけ
……
  ▲お染ひさ松ありや倉の中下女と兵隊さんは森の中
……
  ▲顔も知らねば所も知らずそれでも親なりや夢に見る
……
  ▲明けても暮れても恋しいものは子供、女房、米の飯
……
  ▲教師はしやべくる聴くのは女書生は其顔ばかり見る
……
  ▲麦酒旅行で財布をはたき内に帰れば夜が明ける
……
  ▲まゝになるなら資格を変へて御用旅行で遊びたい
  ▲人を頼んで翻訳させて御用すまして御昇級
……
  ▲二百と四十ぢや莨も買へず煙立ちかね候かしく
……
  ▲お湯に入るには七十五歳髪を刈るにも一マルク
……
  ▲目下瑞西(シユワイツ)気候はいかに「画入りはがき」を待侘びる
……

明治三十二年1899.05.02 デオシーの都々逸に満座息をのむ/京都 朝刊 社会 4
●デオシー氏の都々逸 すぐる廿八日の夕京都商業会議所の人々彼のデオシー氏を京都倶楽部に招きて宴会をを開きデ氏は一時間余の英語演説を試みしが宴酣なるころ欄干にもたれて後庭の蛙声に耳傾けさても天然の音楽の美なることよなど言ひつゝ近く一妓を招きて三味線弾けと命じ『遠く離れて咲く花もてばけさの嵐が気にかゝる』と唄ひし都々一の美声には満坐静まり返り如何なればかくは甘(うま)いにやと喝采することも忘れて呆然たる許りなりしとぞ

明治三十三年1900.01.20 四十女が年始回りで大酔、大道に座し都々逸、カッポレ 朝には恐縮/東京・神田 朝刊 社会 4
●女喰酔うて警察署で唄を謳ふ 一昨夜七時頃神田区美土代町巡査派出所近き大道に一人の大年増がどつかと座したる儘都々逸やらカツポレやら取止めもなき唄を大声にて謳出したるより……

1900.10.29 落語柳派は今輔と燕枝が死亡、柳枝も大病で連中無人に 英国人雇い都々逸仕込む 朝刊 芸能 6
●英国人の都々逸 落語柳派にては今輔燕枝死亡し又柳枝も大病にて連中無人となり心細く思ひ居る折から今度助六及び左楽両人の発起にて英国人サーベー(二十五年)を雇ひ入れ都々逸を仕込みて来る十一月一日より人形町末広を初席とし毛色の変つた都々逸を聞かせると云ふ

明治三十四年1901.11.20 柳家つばめが5代目都々一坊扇歌を襲名、改名祝い/東京・浅草 朝刊 芸能 4
●柳家つばめ五代目扇歌となる 四代目都々一坊扇歌死去の後暫く中絶しゐたるが今度柳家つばめが右五代目の名を継ぐ事になり改名祝ひは明廿一日浅草の松島に開くべく、また来春の初席より改名の看板を掲ぐべしと

明治三十六年1903.03.15 その日その日 年度末、中央政府官吏は海外へ 都々逸「書生に翻訳頼んで昇給」 朝刊 行政 1
……所が御用有之欧州へ出張仰付られた官吏達は、英語の外は話せぬものが多いから、欧州大陸では、何の取調をする事も出来ず、各国の政府で種々の書類を貰ふて、留学生に翻訳させ、何喰はぬ顔で帰つて来る、乃で在伯林の某書生に都々逸あり曰く、『人に頼んで翻訳させて御用済んだと御昇給。』

1903.08.20 都々逸採点の石橋思案、盗作に泥棒泥棒と口ずさみ潜入ドロ退散させる 朝刊 社会 3
▲都々一泥棒を走らす▽ ……其れに似た話は去十七日の夜石橋思案外史方へ忍び込んだ賊の事である。
どうも困つたな、何んだ此の横浜の蟹丸といふのは下手な癖に沢山作るのだから溜らない、次は仙台の箆坊か此奴は毎時も仮名違ひだスとシの違は一首の中に五もあるのだから以後はゴタガヒと名を替へろと言てやつたが未だ旧の通りだ、越後のヘとエとイの違ひにも困るオヤ信濃のゝ暮か彼奴もまづいが良いのがあるかも知れぬウヽとなる程
 濡れちや悪いと遂ひ知りながらいつか手を出す水の月
かなハア是れは陳腐だ、人のを泥棒するからいけねい、泥棒かな、ウヽト泥棒と、其次はどうだ
 人は知らぬと思ふて居ても月は見て居る二人中
是も泥棒の都々一の雄だ次はと
 忍ぶ夜道に何やら踏んで恋は曲者くせいもの
是は乱暴だ
 止さう止さうもとつくの昔今じや止されぬ岩田帯
こいつは驚いた、詰らない
 誰か来たよと障子を明けれあ月は雨戸の隙間から
どうも皆んなものになつて居らん
 思案の外とはあれあ誰が言ふた濡れじとすれども萩の露
ハアこれは当て込んだナ、けれども皆な泥棒だ、泥棒はいかん、アヽ泥棒かなと思案子何時しか調子に乗り泥棒泥棒と口癖に言ふたので、次の間から細君が飛び出しド、ド何処に泥棒が居ますと大騒ぎになり、其れから何やら薄気味が悪いといふので裏口庭先などを見廻ると果せるかな乳母車とパナマの帽子がいつの間にやら庭に引出されて水口から門にかけて打水の濡地に大きな足跡が三つ半許りと龍の胴切りとも覚しき一塊の人糞があつた

明治三十七年1904.09.26 もしお草 風流歩兵伍長、都々逸うなり、戦場で一句▽男日照りの昨今 朝刊 軍事 3
◎歩兵 伍長大沢兼五郎と云ふ某師団の勇士元来いなせの肌合と見え都々逸宗匠鶯亭金升の門に入り十升と名乗りて都々逸作◎余念 なく間がな隙がなコーラコーラと囃しながら唄ふほどなりしが戦地に在りてもまづその如く都々逸を唄ふて自ら遠征の◎情を 慰めり……

明治三十八年1905.12.03 上村中将、祇園芸妓の頼みに即妙の都々逸一首 朝刊 軍事 3
●上村中将の都々逸 ……不計通り懸つたる上村中将、多佳は早くも認めて五条大橋の絵葉書を突付けさアさア何でも書いておくれやすと筆を持添へて攻め立つれば将軍も不意撃を喰つて逡巡したるが美人の頼みに背くも本意ならずと何の思慮なく筆おつ取つて
 加茂河の浅い心と人には見せて夜は千鳥で泣き明かす
と都々逸一首書き付けたれば……実を云へばこの都々逸将軍の作りしものにあらずして維新の昔長藩の志士久坂玄瑞が祇園の名妓に与へしものなり……

明治四十年1907.02.17 [文芸付録]募集俗歌 都々逸、端唄 別刷 文学 4
募集俗歌
都々逸
見る目よけれど手にばし触るな笑ふ薔薇にも刺がある 在桑港 気妙庵
雪の中でも口紅さして笑顔しほらし梅の花 本郷 可笑
十里松原白帆も見えず海人の苫屋の雨の音 蘆葉
黄金夕日が流れて融けた浪にチラチラ真帆片帆 同
星の雫か真珠の玉が見やれお庭の芝の露 紫磨
的の扇を小舟に掛けて招く柳の五ツ衣 同
朧月夜に君待つ隙を又もなぶるか花吹雪 月男
若い夫婦の世帯を見れば米やお針の掛試合 夢生

明治四十一年1908.02.04 隣の噂 葭町の百尺で青木正太郎が主催で相場仲間の天狗連を集めて鞍馬会 朝刊 金融 2
●隣の噂 一昨夜葭町の百尺で青木正太君の主催で相場仲間の天狗連を集めて鞍馬会といふを開いた▲何づれも芸当の有だけを尽くして鼻の高さを較べ合つたがかつほれは青正君に独々逸は入江保之助君にトヾメをさし万金一攫君はお山の大将山栗君にみんな吹飛ばされたさうだ。

1908.03.29 隣の噂 阿部浩新東京府知事と直通列車速成▽代議士懇親会で別辞の都々逸ほか 朝刊 2
●隣の噂 ……▲福井君の事と言へば一昨夜の懇親会で今席の別盃は恰かも戦場へ行く門出のやうなものだ酔うて砂上に臥す君笑ふ勿れ古来征戦幾人か還る自分等も或ひは討死するかも知れぬと悵然と別辞を述べた後▲一声高く「敵は大勢味方は一人頼むお方は二心」と意味あり気な都々一を唸つた……

明治四十二年1909.01.17 品川の楼閣で劇薬心中図る 娼妓となじみ客 ともに借金苦を嘆き都々逸の遺書 朝刊 犯罪・事件 3
●品川の劇薬心中 書置に発句と都々逸 ……尚ほ両人の枕元には男より女房に宛てたる一通と女より楼主に宛てたる一通の書置あり男の分は斯かる事にて死果しは申訳なけれど許して呉れ何卒か小児の養育を頼むと書き最後に何のつもりだか「初雪に積る恋路と又逢ふ時は積り積りて深くなる」「思出に此世の名残り雪見酒」と都々逸と発句を認めあり

1909.08.17 都々一坊扇歌の女房が家出 養女との仲を疑い貯金や金時計ごと姿かくす/浅草 朝刊 社会 4
●扇歌の女房家出す ▲附たり扇歌と左楽のいがみ合ひ
浅草区駒形町十二番地落語家都々一坊扇歌事岡谷喜代松(五十一)は落語家の内では先づ堅い方で昨今は小金を貯へ老後の楽みに先頃より骨董店を開き女房おチヨ(四十五)と養女おシヅ(二十)の三人何不足なく暮ら居たるが先頃おチヨは寒冒に罹りて二三日打臥し其間の扇歌の手廻りは一切おシヅが取廻し居たるがそれ以来おシヅの挙動が怪しいとおチヨは嫉妬を起し摺つた揉んだの紛紜の末一昨日同人は扇歌の貯金千円余と金時計二個を掻浚ひ何れへか姿を隠したるより扇歌の立腹は一方ならず直ちに浅草橋へ捜索願を出したるが一方に此事を聞いた寄席の川竹、立花抔がおチヨを捜し出し元の鞘に納めんと尽力したるも扇歌の気焔熾なれば柳派の頭取左楽の許へ持込み左楽は芝楽を使者として説得せんとしたるも元の鞘に納める事を●(うん)と言はぬより今度は左楽が立腹し目下紛紜中なり

1909.09.06 灯下閑談 都々逸坊扇歌・伊予の田畑の立て札 朝刊 情報 3
●燈下閑談 久しき大ゴタゴタで高座以外の大笑はせを行つた都々逸扇歌も愈よ女房を離別することにし数日前に三下り半に大枚千円に衣類持物等悉く持たせてやつて女房問題は一先づ落着したが▲熟ら熟ら思ん見るに元来扇歌といふ名は初代だけは大当であつたが二代目から四代目が余り振はず五代目の同人も遂う遂う二十年来連れ添つた女房を捨てねばならぬ様になつたのも全く「扇歌」といふ名が祟つたのだらうと御幣を担ぎ出し今度の席から以前の燕に復名する事としさうだ……

明治四十三年1910.05.19 警察署長宛に都々逸 「犯人知れたか深川署長、知れなきゃ貴様の首が飛ぶ」 朝刊 犯罪・事件 3
●深川署長の首 一昨日又も本局消印で深川警察署長宛に都々逸を贈つた者がある「犯人知れたか深川署長、知れなきや貴様の首が飛ぶ」余り徒らな事はせぬものぢや

1910.06.18 女義太夫竹園月子の都々逸 最近作を紹介 朝刊 婦人 3
●月子の都々逸 女義太夫竹園月子(十八さい増水フク)は義太夫界に破天荒の名で打て出て歯医者の娘といふのと顔と声の美しいので一時に売出した女だが近頃都々逸に凝りはじめ間がな隙がな考へてはうなつて見るがろくな歌は一つも出来ない最近のやつ一つ二つ御紹介せう
 人は何とか夕顔棚よ晴れぬ月子の尼ケ崎(有楽座にて語りし義太夫を恥て)
 悪縁深川切られた中も初手は足駄で首つ丈(首無し女)
三蝶さん如何だらう○を遣れようか

1910.10.01 [一万二千号記念付録] 記念懸賞募集 都々逸 第一等作品 別刷 文学 4
記念懸賞募集 都々逸
   △第一等   三蝶選
○支那は遠いといふたは昔今ぢや眼の先鼻の先  福井 山岸
  選者曰「帝国万々歳だ、君一杯酒でも奢れ」
○花が実になり実がまた花に幾世咲くやら続くやら  芝 花升
  選者曰「天下泰平国土安寧」
○襖一重に気を揉むよりも一層千里も離れたい  浅草 清子
  選者曰「少々それはヤケでせう」
○鶴亀合せた年より永く続く目出度い新聞紙  小石川 堀
  選者曰「まだまだモツと永く続いて見せやす」
○晴れて添ふ日を数へた指で今じやわが子の年を繰る  下谷 花和尚
  選者曰「円満な家庭羨むべし」
○金や宝は持たないけれどわしにや涙も血もござる  相模 お茶の子
  選者曰「オヤマアそうですか」
○こんな昔もあつたと主に見せてやりたい古写真  王子 紫苑
  選者曰「思へば今の凸凹面が恨めしい」
○むかしや嫁故今では子故絶えぬ苦労も浮世ゆゑ  武蔵 てる子
○たつた三年と別れて来たがタツタ三年が待遠しい  下谷 磯の家
  選者曰「御察し申しやすよ」
○胸に畳めぬ羽織の皺を妻が火熨斗の当こすり  豊多摩 恭悦
  選者曰「狐色の焼焦がしが出来ぬ様御用心」
○やさしい言葉の其一言がいつも帰さぬ気にさせる  同 可祝
  選者曰「そうですかよ御馳走様」

1910.10.05 [一万二千号記念付録] 記念懸賞募集 都々逸 第二等、第三等、秀逸の作品 別刷 社会 4
記念懸賞募集 都々逸
   △第二等
○君を待つ夜の更けゆく鐘は明の鐘より憎らしい  日本橋 井上静
  選者曰「御経験があると見えるね」
○小春日和に釜山が見ゆる見ゆる釜山に日の御旗  本郷 小品子
  選者曰「何やら聞えるは喇叭の音か」
   秀逸
○夢の昨日はどうでもよいが今日のうつつが気にかゝる  函館 春子
  選者曰「今によい事が来るよ」
○蚤にや刺される身体ぢやけれど人に指される身ではない  神奈川 三嵐
  選者曰「豪(えら)い豪い」
○年に不足は無いとは云へどいつ迄居たとて親ぢやもの  日本橋 孤村
  選者曰「永く孝養をお尽しなさい」
○今はこうして別れて居れどいつも変らぬ私の胸  徳島 震五郎
  選者曰「誰かさんに聞かしたら嘸喜ぶだろう」
○稼ぐ二人の嬉しい仲に出来た子宝金だから  上毛 寺徳院
  選者曰「何て間が好いんでせう」
○汗の雫が実つた田の面見やれ黄金の波が打つ  本郷 蝶夢楼
  選者曰「やがて金にして酒でも飲むベエよ」
○待てば海路の日和の譬世間晴れての新世帯  下谷 木葉舟
  選者曰「やけますやけます」
○添ふて嬉しや添はない先はどうなる事かと物案じ  伊豆 はま
  選者曰「でも左様なりや安心したろ」
○飛行機船のある世ぢやないか分れりやまた逢ふ時もある  深川 花風
  選者曰「ト其口には乗りませんよ」
○男女同権云ふのぢやないが余り男が得手勝手  本郷 清流
  選者曰「まアまア待つて下しやんせいなア」
○号を重ねるその度毎に様の苦労が思はれる  豊後 花郎
  選者曰「私の苦労も些たア察して下され」
○お里うたへや豊年祭日和よいよい紅葉よい  小石川 不二女
  選者曰「其滝の川に巣をくつて居やす些お立寄りなされ」
○都遠いが山家の秋は月に花野に遠砧  同 菊童子
  選者曰「一句なかるべからずですな」
○添ふて世間へ今日晴れ小袖着飾る身幅も広々と  照降川 雅州
  選者曰「チヨイと貴君御覧なさいよアラ電車が通るわ」

1910.12.30 銀行集金係の悪事 都々逸で罪状を自白/東京・神田 朝刊 犯罪・事件 3
●銀行集金係の悪事 ▽都々逸で罪状を自白す ……吉原新万楼の娼妓花緑(二二)の許に流連し毎日蠣殻町へ通ひ居たるが去る廿日の朝矢張り花緑の許を立去る際金縁眼鏡が破損したのみか下駄の鼻緒が切れたので神経を起し花緑に人形を買ひ与へ「秘蔵の人形を情婦に渡し伸るか反るかの一勝負」と愚にも付かぬ事を云つて同楼を出でしが案に違はず其日は相場に失敗し忽ち預り居たる集金二百円余を失ひ悄然として花緑の許に引返し自棄酒を煽りたる上「一か撥かの勝負にまけて縄目の恥をこゝで頂戴」と都々逸様のもの唸り出し其足で銀行へ赴き之れ迄の罪状を自白せしかば直に錦町署に引渡され昨日検事局へ送らる

明治四十四年1911.01.03 [新年付録][懸賞都々逸]読者の投稿/三蝶選 別刷 文学 2
懸賞都々逸  三蝶選
   ▲当選
○羽根はつきたし舅にや気兼ね若い昔が懐しい  呉 紫石
  選者曰「母ちやアお銭頂戴……」
   ▲選外
○九尺二間の門にも立てる松の操にや変りない  下谷 周坊
  選者曰「マヅマヅお目出度うございます」
○鬼に頭を下げなきやならぬ金の無い身が恨しい  花升
  選者曰「時世時節ぢや諦めしやんせ」
○当座ばかりのながめと知らでうかと引かれた姫小松  在米 無妙庵
  選者曰「可愛らしいぢやないかいナ」
○知れりや羞し知れねば苦しそれと言はねど歌がるた  北海道 舞天郎
  選者曰「むべ山風を嵐と云ふらんかね」
○百の賀状を手にするよりも主の一枚わしや欲しい  浅草 清子
  選者曰「そうでせうよ」
○軒にかけたる注連縄ゆれてあるかないかの東風が吹く  在米 無妙庵
  選者曰「伊勢へ行つた趣がある」
○お国自慢を云ふではないがほかぢや見られぬ初日の出  福井 宅次
  選者曰「それでは見に行かうかナ」
○羽根に暮れてはカルタに更ける春はうれしやたのもしや  在米 無妙庵
  選者曰「それに反して我輩は……」
○外ぢや遣羽根内では歌留多いづれ目出度い松の内  麻布 もみぢ
  選者曰「年礼や車上に寒き膝頭」
○明けりや遣り羽根暮るれば歌留多睦月楽しや松の内  神奈川 檜笠
  選者曰「一人来な二人来な、みつて来な寄つて来な、何の薬師茲の前ぢや十よ」
○若い若いといふてるうちにいつか鏡に残る皺  同 つぼみ
  選者曰「だから御用心が肝腎」
○親を泣かせた其天罰で今ぢや我子に泣される  麻布 もみぢ
  選者曰「そうれ見なさい」

1911.05.30 スポット 西山前代議士の葬儀 南極探検隊へ送金 都々逸投稿懇親会 朝刊 3
●読売都々逸投書家懇親会 既報の如く一昨日午後一時より府下西ヶ原閑都里倶楽部に開会、来会者百六名、先づ社員三蝶大島宝水の挨拶ありて兼題席題の発表に移り更に勝田蕉琴、池田秋旻両氏の書画の揮毫、若宮春雄氏の講談「新牡丹燈籠」、志賀山伊之助氏の踊及び来会者の隠し芸等あり就中当日の喝采を博したるは三味線入りの発表と田楽の接待となりき歓を尽して散会せしは七時半

明治四十五年1912.06.01 五代目扇歌が死去 都々逸・柳派の大家▽浅草出演の女浪花節・虎筆(顔)=写真 朝刊 芸能 3
●五代目扇歌死す 柳派の大家として一時全盛を極めたる五代目都々逸扇歌は永らく肺病にて療養中なりしが薬石効なく廿九日午後八時卅分浅草区駒形町十五番地にて死去したり同人は安政五年三月の出生にて本名を岡谷喜代松と呼び紀州和歌山小湊小野町の材木商河合某の実子にて十七歳の時上京し故談洲楼燕枝の門に入り初めの名を柳亭楽枝と云ひ後に柳むじなと改め後年つばめと改名し永らく柳派の重鎮と仰がれ居たる男なり五代目扇歌を襲名したは明治卅四年十一月にて其後四十二年六月十二日肺病の為め休席し爾来一日も出席叶はず一時片瀬へ転地療養し居たるが今春来帰京し引続き静養中本月に入り更に腹膜炎を併発し遂に訃を伝ふるに至りたるは惜むべし

1912.07.09 小唄の粋と都々逸の通 里謡研究会をつくり初催し 朝刊 音楽 5
小唄の粋と都々逸の通 ▽俚謡研究会 都々一の鶯亭金升氏と、小唄の山藤桃作氏とが発起して、かう云ふ会を設けて粋と通とを作りつ唄ひつ、昔に優る立派なものを興さんと其の第一回を昨夜南明倶楽部に開き通人粋士、其の道の達者は申すも更なり、当世に名ある文芸家を始め趣味ある人々多く集まる。金升氏は語つて曰く
▼都々一は単に酒席のみに行はれて其の興を助けるものと限られてゐたが、今から二十三四年前、丁度仮名垣魯文の全盛時代に俳諧や川柳と同じやうに同好者相会して運座をしたり或は互ひに之を作つて楽しんだものであつた。けれども唄ふものは新作よりも矢張り古くから唄ひならされたものを唄ひ、作るものばかり作つた唄を唄つて楽しんでゐた。従つて新作は作者の心意気で、唄はれる唄は益々卑俗なものとなり、其の懸隔は次第次第に遠くなつたのである。どうも斯う云ふ状態でゐては面白くないので、卑俗な唄を棄てゝ高尚な趣味のあるものを唄ひ、趣味のある高尚なものを作つて世に流布したいと考へ、それには作るものと唄ふものと全く分離してゐてはいけないから共に相会して研究しやうと、さてこそ此の会を発起したのである」と
▼都々一にしても小唄にしても、古きを固守しなければ形式や題材ばかりを小巧妙に取扱ひ、内容に美しい情調を欠いて唯だ理屈めくやうになつた近来の傾向は是非とも改善しなければならぬ。昨夜の会に於て唄はれた「小唄」も、「都々一」も、「きやり」も、「めりやす」も何れも新作もので、今度始めて若柳に唄はせた「都々一振」を紹介しやう。
「蝙蝠に、文の使゛たのんで見たい、すゞみながらの心まち「まねきたいにも、まゝにはならぬ、水にちらつく初ほたる「のこる思ひは山時鳥うしろ姿を三日の月。