南方熊楠の都々逸

菊 池 眞 一


 南方熊楠は都々逸を愛好・愛唱した。辞世も都々逸である。
 吉川寿洋氏の研究(『南方熊楠全集』中の引用詩歌)(「『熊楠漫筆』の引き歌」)から都々逸を抜き出し、熊楠が作った都々逸、それ以外の都々逸(熊楠作の確証が得られないものを含む)と分けて紹介する。
 吉川寿洋氏は、「『熊楠漫筆』の引き歌」(「和歌山工業高等専門学校研究紀要」第27号。平成4年10月)において、

 『南方熊楠日記』(全四巻、八坂書房)を読んでいると、

と書き始めているが、同氏による同日記の引き歌についての研究は未見である。



   (一)南方熊楠作の都々逸


いくつとりてもきはわか山よ同友事にもくらぶする
《和歌山倶楽部を詠んだもの》
(『南方熊楠日記』1886〈明治19〉年1月5日欄外)

わたしじだいはふかゞわ生れやつぱりおまいのばかゞよい
(『南方熊楠日記』1886〈明治19〉年3月30日)

あだなお人のあさりより《ママ》やつぱりおまいのばかゞよい
(『南方熊楠日記』1886〈明治19〉年3月30日)

くつくつ笑ふ与(ト)つゑ残念なこんなステキなやつだらふ
(『南方熊楠日記』1886〈明治19〉年7月1日)

すきな御方に盃さゝばのまぬさきから赤い顔
(『南方熊楠日記』1886〈明治19〉年7月11日)

夕べの夢がまことの夢か僕はまだまださめやらぬ
(『南方熊楠日記』1886〈明治19〉年11月4日)

いれておくれよおこたの中へ一寸一本酒のまん
(『南方熊楠日記』1886〈明治19〉年11月14日)

さくらばなとへそりや何花よ私しや勉強の花がよい
(『南方熊楠日記』1887〈明治20〉年冒頭)

  吉田、平田をよむ
雪の重さは忍で来たが忍でいられぬ雪の膚
(『南方熊楠日記』1887〈明治20〉年1月24日)

  上田俊一郎
主と共にとちかひし言葉踏でみせたる死出の山
(『南方熊楠日記』1887〈明治20〉年1月24日)

古さといかにとからだを伸しや東の月をば西に見る
(『南方熊楠日記』1887〈明治20〉年2月10日)

西の空なるあれあの星を東と見るかよ故郷の
(『南方熊楠日記』1887〈明治20〉年5月7日)

すいなあなたにまちかけられてあけてさゝばやびんの口
(『南方熊楠日記』1887〈明治20〉年6月1日)

  詠高野瑞皐先生
春にさきがけさく梅の花おしやつまれて香を残す
(『南方熊楠日記』1887〈明治20〉年6月24日)

九尺二間に過たるものは孔のついたる吹火筒
《これは熊楠による替え歌か》
(『南方熊楠日記』1887〈明治20〉年6月29日)

芸しや商売仏事に似たよ花やせんこでもちつける
(『南方熊楠日記』1887〈明治20〉年7月9日)

雨のふるのに狐がとほるあれがほんとの雨こんこんかいな
(『南方熊楠日記』1887〈明治20〉年7月9日)

ならば写しえ笑ふておくれ
  綿々蛮々如有情 欲鳴不鳴意自嬌
海山へだてたかひがある
(『南方熊楠日記』1887〈明治20〉年7月19日)

ふつかみつかとあれあけのかねいつかつげたやわしがむね
(『南方熊楠日記』1887〈明治20〉年11月7日)

さめて悔しききのふの昼ね今日は日暮しなきくらす
(『南方熊楠日記』1887〈明治20〉年12月17日)

   和歌浦
いつもいつとてきはわかうらの春の心の面白さ
(明治21年1、2月頃杉村広太郎宛書簡。『南方熊楠全集7』85ページ)

   藤白嶺
春は一きは秋あかぬそら波にあゆか〔ママ〕夕日影
(明治21年1、2月頃杉村広太郎宛書簡。『南方熊楠全集7』85ページ)

すいなおまへにまちかけられてあけてささばやびんの口
(明治21年1、2月頃杉村広太郎宛書簡。『南方熊楠全集7』85ページ)

   高野瑞皐伝を読む
春にさけがけさく梅の花をしやつまれて香を残す
(明治21年1、2月頃杉村広太郎宛書簡。『南方熊楠全集7』85ページ)

   仏人ドラフォッス氏美少年猫を抱ける画に題す
永い日なたにねんねこだいたおまへのねすがた見せてたべ
(明治21年1、2月頃杉村広太郎宛書簡。『南方熊楠全集7』85ページ)

   ナイヤガラ瀑布
音にのみこれまできいたがたきよ今も音にのみ今ぞきく
(明治21年1、2月頃杉村広太郎宛書簡。『南方熊楠全集7』85ページ)

かたらふひまさへはや夏の日も落ちて恨みの夢二つ
(明治21年1、2月頃杉村広太郎宛書簡。『南方熊楠全集7』85ページ)

君がこぬとて枕ななげそなげそ枕に咎もなや
(『珍事評論』第一号。明治22年8月17日)

どゞ一どころかけふ此頃は君の知らない苦労する
(『珍事評論』第一号。明治22年8月17日)

みればみる気でみずかなだらいおやののこしたおのがかげ
(『南方熊楠日記』1889〈明治22〉年9月3日)

ふけてかわぎしうつおときけば身にやよるらむ年の波
(『南方熊楠日記』1889〈明治22〉年10月26日)

湖水ほど深くなりや雪ほどつもるこれも一夜のでき心
(『南方熊楠日記』1889〈明治22〉年12月11日)

  有感 ひなあそび
ふつかふたよさまたれぬわたしまたれぬこどものいぢらしさ
(『南方熊楠日記』1890〈明治23〉年4月12日)

うしや此身はおやはらからにはなれてきゝゐるくれのかね
(『南方熊楠日記』1890〈明治23〉年4月30日)

うしや此身は山々越えてやつと取付く沖のしま
(『南方熊楠日記』1890〈明治23〉年6月23日)

なにをかけたかあの杜鵑月がてりやこそないてゐる   喜多幅氏へ
(『南方熊楠日記』1891〈明治24〉年8月5日)

あけのかねあれは私をじらすかにくゐきかずに過した朝もある  羽山君へ
(『南方熊楠日記』1891〈明治24〉年8月5日)

朝もあるとて苦にせまい物またれてきかしてくれのかね
(『南方熊楠日記』1891〈明治24〉年8月5日)

越方思ふてねられぬよさは心たのみの空の月  吉田氏へ
(『南方熊楠日記』1891〈明治24〉年8月5日)

春はきたかと一寸紀三井寺道(ママ)おいつきやお年も若の浦  山本氏へ
(『南方熊楠日記』1891〈明治24〉年8月5日)

六つ七つから手習したが忘るといふ字はおぼやせぬ
(『南方熊楠日記』1891〈明治24〉年8月5日)

舌でころがしなさけではめて主のあばたは恋の淵
(明治25?年6月21日頃羽山蕃次郎宛書簡。『南方熊楠全集7』99ページ)

二人ならんだ湖水の鯉を心をし鹿がひとり鳴く
(明治25?年6月21日頃羽山蕃次郎宛書簡。『南方熊楠全集7』100ページ)

しづかに和尚と気を忉利天率兜帝釈(そつとしやくらば)身は大亀(けしやぱ)氏
(明治25年8月頃中松盛雄宛書簡。『南方熊楠全集7』126ページ)

腰は迦留陀夷手さきは富楼那日ごと夜ごとに目犍連(まがだれな)
(明治25年8月頃中松盛雄宛書簡。『南方熊楠全集7』126ページ)

舌でころがしなさけではめて主のあばたは恋の淵
(明治25年8月頃中松盛雄宛書簡。『南方熊楠全集7』131ページ)

見えぬ山路を越え往くときにゃ鳴かぬ烏の声もする《辞世》
(明治26年12月24日土宜法竜宛書簡。『南方熊楠全集7』163ページ)

さうしたまことがお前にあらばつらい月日もいとやせぬ
(明治27年3月19日土宜法竜宛書簡。『南方熊楠全集7』274ページ)

文をやれども屎にも成らぬ何のへんじをせんろ虫
(『南方熊楠日記』1902〈明治35〉年8月5日)

冬の夜寒に身にそひねるは
 同学年少多不賤、五陵車馬自軽肥
川で濡らしたやぶれたび
(『南方熊楠日記』1902〈明治35〉年12月30日)

千代とかはらぬつばきの色もあまり大花で目をまわす
(多屋たか宛書簡。1903〈明治36〉年2月9日。『熊楠漫筆』330ページ)

舌でころがしなさけではめてぬしの痘斑は恋のふち
(多屋たか宛書簡。1903〈明治36〉年2月9日。『熊楠漫筆』334ページ)

   当地寿方の小楽に蠑螈を紙包にして贈るとて
黒焼になるほど思ひを焦して見ても佐渡の土程きかぬ物
(台場公園売却反対演説会の弁明。明治42年11月12日「牟婁新報」。『父南方熊楠を語る』140ページ)

   蠑螈を紙に包んで美人に贈るとて
黒焼きになるたけ思ひを焦がして見ても佐渡の土ほど利かぬ物
(田辺随筆。明治44年6月「和歌山新報」。『南方熊楠全集6』14ページ)



   (二)他者作の都々逸

実もまこともつくしたふたり日々にあはねど気ももめぬ
(明治20年7月19日杉村広太郎宛書簡。『南方熊楠全集7』65ページ)

よそにいろもちゃけんじゅつつかひたがひにしないでくらうする
(明治20年7月19日杉村広太郎宛書簡。『南方熊楠全集7』71ページ)

粒々辛苦のこのかけ稲をにくやすずめがきてほぜる
(明治20年9月9日杉村広太郎宛書簡。『南方熊楠全集7』78ページ)

永いやうでもたつ日は早い早い月日がままならぬ
(明治20年11月16日杉村広太郎宛書簡。『南方熊楠全集7』83ページ)

世帯始めに二人の姿写して嬉しやぬりだんす
(明治25年8月頃中松盛雄宛書簡。『南方熊楠全集7』121ページ)

何を何して何してなにと何でかためた起請文《飯村佐平作》
(明治25年8月頃中松盛雄宛書簡。『南方熊楠全集7』121ページ)

いきな島田が小ぢれにぢれて入れておくれよ水屋さん
(明治25年8月頃中松盛雄宛書簡。『南方熊楠全集7』122ページ)

そっと手をとり静かにのりないくといかぬは棹次第
(明治25年8月頃中松盛雄宛書簡。『南方熊楠全集7』125ページ)

市のかりやの一鬧(さわ)ぎちりぢりになる夕暮の空
(明治26年12月24日土宜法竜宛書簡。『南方熊楠全集7』163ページ)

桜ばなかよちりぢりに《俚謡》
(前半「親は薩摩に子は島原に」省略)
(明治27年3月19日土宜法竜宛書簡。『南方熊楠全集7』294ページ)

神に教へた鶺鴒よりも鴛鴦のつがひが羨まし
(明治36年7月18日土宜法竜宛書簡。『南方熊楠全集7』294ページ)

三井寺の釣鐘おろして庭鳥寝せてそして朝寝がして見たい
(鶏の話。明治42年1月「海南時報」。『熊楠漫筆』226ページ』)

蟬と蛍を掌中に握り
(浄瑠璃入り掛声、いよー、四十九日の蒸物迄、持て寺入さすといふ。哀い事が世にあろか)
暗うさせたり鳴せたり
(高山植物の採集禁止に就て。明治42年12月21日「牟婁新報」。『父南方熊楠を語る』123ページ)

飯は大蔵お金は内務それで私は苦内省
(喜怒自在。明治43年1月「牟婁時報」。『熊楠漫筆』256ページ』)

真の闇夜に枕を交はし赤い処を夢で掻く
(西説婦女杜騙経序品。明治45年1月「牟婁新報」。『熊楠漫筆』50ページ)

手指ししたのが主の咎
(前半省略)
(西説婦女杜騙経序品。明治45年1月「牟婁新報」。『熊楠漫筆』65ページ)

苦労させますしもするからに恩に着もせず着せもせず
(神社合併反対意見『日本及日本人』584号。明治45年6月。『南方熊楠全集7』590ページ)

掛けてよいもの衣桁に浴衣掛けて悪いは薄情《田辺芸妓・栄枝作》
(巡礼と蟹との話。大正元年12月1日「紀伊新報」。『熊楠漫筆』135ページ)

枯れて落ちても両人伴
(前半「こぼれ松葉をあれ見やしゃんせ」省略)
(田辺通信。大正3年1月。『南方熊楠全集6』80ページ)

器量ようてもわしゃぼけの花神や仏に嫌はれる《俗謡》
(石蒜の話。大正4年1月1日「日本及日本人」。『南方熊楠全集5』275ページ)
かけてよいもの衣桁に浴衣かけてわるいは薄なさけ
(大正7年5月7日上松蓊宛書簡。『南方熊楠全集別巻1』41ページ)

かけてよいもの衣桁にゆかたかけてわるいは薄なさけ
(大正7年5月7日上松蓊宛書簡。『南方熊楠全集別巻1』44ページ)

初め冗談中ごろ義理よ今じゃ互いの実と実
(馬に関する民俗と伝説。大正7年「太陽」。『南方熊楠全集1』242ページ)

いやなお客もふる雪の夜は炬燵代りにだいてねる
(桑名徳蔵と橋杭岩の話。大正10年6月19日。『南方熊楠全集3』525ページ)

芸者殺すに刃物は入らぬ甚九留めれば皆殺し
(鳥を食うて王になった話。大正10年『現代』。『南方熊楠全集別巻1』598ページ)

花を見捨てて往く雁よりも思ひ思ひは人心
(「上京日記」大正11年3月29日。『南方熊楠全集10』43ページ)

そんならお前も巡礼衆で定めて連衆は女ご達
(「上京日記」大正11年5月6日。『南方熊楠全集10』75ページ)

女嫌ひと口にはいふてかうもやつれるものかいな
(猪に関する民俗と伝説。大正12年「太陽」。『南方熊楠全集1』546ページ)

咲いた桜になぜ駒つなぐ駒が狂へば花がちる
(頭韻を踏んだ歌謡。大正13年2月15日。『南方熊楠全集5』239ページ)

掛けてよいもの衣桁にすだれ掛けてわるいは薄情
(死んだ女が子を産んだ話。大正13年5月「日本土俗資料」1輯。『南方熊楠全集2』26ページ)

お松おめこは釘貫きおめこ胯で挟んで金をとる
(履歴書。大正14年1月31日。『南方熊楠全集7』59ページ)

今度ござらばもてきてたもれいづのお山のなぎのはを《投げ節》
(花さく庭木の話。大正14年6月。『南方熊楠全集6』237ページ)

後家と鶏ゃ死ぬまでほえる死んでからなく法螺の貝《俗謡》
(『土のいろ』を読みて。大正15年6月「土のいろ」3巻3号。『南方熊楠全集4』127ページ)

こけこめんどり死ぬまでなくがしんでからなくほらの貝《俗謡》
(『土のいろ』を読みて。大正15年6月「土のいろ」3巻3号。『南方熊楠全集4』127ページ)

九尺二間に過ぎたる物はべにの付いたる火吹竹
(俗謡の誤伝。大正15年7月1日「月刊日本及日本人」。『南方熊楠全集5』247ページ)

九尺二間にすぎたる物はべにの付たる火吹竹
(大正15年8月7日宮武省三宛書簡。『南方熊楠書簡抄』92ページ)

田にしゃ貝ならとんぼも鳥よお山かふのも商売か
(河合継之助の都々逸。大正15年9月15日「月刊日本及日本人」。『南方熊楠全集5』249ページ)

こいと言うたとて行かれうものか道は百五十里汽車の上
(河合継之助の都々逸。大正15年9月15日「月刊日本及日本人」。『南方熊楠全集5』249ページ)

逢はにゃ逢はぬでまた苦労
(前半省略。「逢ねば逢ぬで苦労に苦労逢へば逢ふたでまた苦労」の記憶違いか)
(昭和2年11月14日上松蓊宛書簡。『南方熊楠全集別巻1』147ページ)

医者と石屋は本ン字でかきな御前(オマエ)とゴゼンは仮名でかけ
(昭和4年8月23日宮武省三宛書簡。『南方熊楠書簡抄』146ページ)

医者と石屋は本字で書きなお前と御ぜんは仮名で書け
(我が命の早使い。昭和4年11月稿。『南方熊楠書簡抄』310ページ)

器量よくてもわしゃボケの花神や仏に嫌はるる《俗謡》
(刺なきイバラ。昭和5年5月「旅と伝説」3年5号。『南方熊楠全集4』267ページ)

永い旱りで干されて食へぬ水に浸して食ふがよい
(亀の甲。昭和5年9月「民俗学」2巻9号。『南方熊楠全集4』377ページ)

沖をみながら儘にはならぬエーモウジレッタイ硝子窓《玉松千年人作》
(「紀伊の国」の端唄。昭和5年10月「民俗学」2巻10号。『南方熊楠全集4』368ページ)

旅のお方と麦わらたすききれてしまへば便りなや
(紙上問答。昭和6年2月「民俗学」3巻2号。『南方熊楠全集4』547ページ)

主の御物が有難い
(前半省略)
(昭和6年9月30日岩田準一宛書簡。『南方熊楠全集9』90ページ)

心の鬼めが狂ひ出す毎に犢鼻褌つっぱる胯の角
(釜煎りの刑。昭和6年頃稿か。『南方熊楠全集6』535ページ)

今の若衆は麦わらたすき一夜かけてはかけすてに
(紙上問答。昭和7年2月「民俗学」4巻2号。『南方熊楠全集4』547ページ)

大和よいとこ女の夜這ひをとこ弥勒の世ぢゃわいな《俗謡》
(中古支那の共産主義。昭和8年11月1日「大日」。『南方熊楠全集5』557ページ)

思ふて通へば千里の浜も障子ひとゑと思ふてくる
(与次郎人形とお花独楽。昭和8年頃稿か。『南方熊楠全集6』464ページ)

よそにつまもちゃ剣術使ひ互ひにしないで苦労する
(地突き唄の文句。昭和9年「ドルメン」。『南方熊楠全集5』55ページ)

タニシは介ならトンボも鳥よお山買ふのも商売か
(昭和12年8月11日上松蓊宛書簡。『南方熊楠全集別巻1』274ページ)

佐渡を出てから尾張で世帯めをと二人で苦労する
(太田君の「進軍中に見た支那習俗」(1)を読む。昭和17年10月「旅と伝説」15年10号。『南方熊楠全集4』263ページ)

をさな馴染とべに花染めは色がさめても気が残る
(太田君の「進軍中に見た支那習俗」(1)を読む。昭和17年10月「旅と伝説」15年10号。『南方熊楠全集4』264ページ)

貞女立てたし間男したし心二つに穴一つ
(穴一つで男と女を捕えた話。成稿年不明。『南方熊楠全集6』509ページ)



参考文献

吉川寿洋「『熊楠漫筆』の引き歌」(「和歌山工業高等専門学校研究紀要」第27号。平成4年10月)
吉川寿洋「岩田準一宛南方熊楠書簡中の引き歌」(「和歌山工業高等専門学校研究紀要」第28号。平成5年10月)
吉川寿洋「『南方熊楠全集』中の引用詩歌Ⅰ」(「和歌山工業高等専門学校研究紀要」第29号。平成6年10月)
吉川寿洋「『南方熊楠全集』中の引用詩歌Ⅱ」(「和歌山工業高等専門学校研究紀要」第29号。平成6年10月)
吉川寿洋「『南方熊楠全集』中の引用詩歌Ⅲ」(「和歌山工業高等専門学校研究紀要」第30号。平成7年10月)
吉川寿洋「『南方熊楠全集』中の引用詩歌Ⅳ」(「和歌山工業高等専門学校研究紀要」第30号。平成7年10月)
吉川寿洋「『南方熊楠全集』中の引用詩歌Ⅴ」(「和歌山工業高等専門学校研究紀要」第31号。平成8年10月)
吉川寿洋「『南方熊楠全集』中の引用詩歌Ⅵ」(「和歌山工業高等専門学校研究紀要」第31号。平成8年10月)
吉川寿洋「『南方熊楠全集』中の引用詩歌Ⅶ」(「和歌山工業高等専門学校研究紀要」第32号。平成9年10月)
吉川寿洋「『南方熊楠全集』中の引用詩歌Ⅷ」(「和歌山工業高等専門学校研究紀要」第32号。平成9年10月)
吉川寿洋「『南方熊楠全集』中の引用詩歌Ⅸ」(「和歌山工業高等専門学校研究紀要」第33号。平成10年10月)
吉川寿洋「『南方熊楠全集』中の引用詩歌Ⅹ」(「和歌山工業高等専門学校研究紀要」第33号。平成10年10月)
吉川寿洋「『南方熊楠全集』中の引用詩歌ⅩⅠ」(「和歌山工業高等専門学校研究紀要」第34号。平成11年10月)
吉川寿洋「『南方熊楠全集』中の引用詩歌ⅩⅡ」(「和歌山工業高等専門学校研究紀要」第34号。平成11年10月)
吉川寿洋「『南方熊楠全集』中の引用詩歌ⅩⅢ」(「和歌山工業高等専門学校研究紀要」第35号。平成12年10月)
吉川寿洋「『南方熊楠全集』中の引用詩歌ⅩⅣ」(「和歌山工業高等専門学校研究紀要」第35号。平成12年10月)

《2016年9月6日公開》

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