「曾我物語」いてふ本

凡例
底本:「曾我物語」いてふ本 正保三年版の仮名本に多少の改変を加えたもの。流布本です。
章段名の後にS+巻(上2桁)+章段(下2桁)で表記しました。
岩波大系のP26〜35の諸本対照表の章段の通し番号をN+(3桁)で表記しました。
ページ数を表示しました。P+ページ数(3桁)。前後で改行
参考としまして岩波大系本のページ数を表示しました。改行なし。T+ページ数(3桁)。
参考としまして国民文庫本のページ数を表示しました。改行なし。K+ページ数(3桁)。(巻第一のみ)
仮名を漢字に改め、漢字の表記を変えた箇所が有ります。
漢字を仮名に改めたものも有ります。
脱字等を他本で補った場合は、〔 〕に入れました。

曾我物語 上
P001
曾我物語 上編
巻第一
一 神代(かみよ)のはじまりの事 S0101N001
 それ、日域(じちゐき)秋津島(あきつしま)は、これ、国常立尊(くにとこたちのみこと)より事おこり、宇比地邇(うひぢに)・須比智邇(すひぢに)、男神(なんしん)・女神(によしん)とあらはれ、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冊尊(いざなみのみこと)まで、以上天神七代にわたらせ給(たま)ひき。又、天照大神(あまてるおほんかみ)より、彦波瀲武〓〓草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあわせずのみこと)まで、以上地神五代にて、多(おほ)くの星霜(せいさう)をおくり給(たま)ふ。しかるに、神武(じんむ)天皇(てんわう)と申(まう)し奉(たてまつ)るは、葺不合(ふきあわせず)の尊の皇子(わうじ)にて、一天(いつてん)の主(あるじ)、百皇(はくわう)にもはじめとして、天下を治(をさ)め給(たま)ひしよりこのかた、国土(こくど)をかたぶけ、万民(ばんみん)のおそるゝはかりこと、文武(ぶんぶ)〔の〕二道(にだう)にしくはなし。好文(かうぶん)の族(やから)を寵愛(ちようあい)せられずは、誰(たれ)か万機(ばんき)のまつりごとをたすけん。又は、勇敢(ようかん)の輩(ともがら)を抽賞(ちうしやう)せられずは、いかでか四海(しかい)のみだれをしづめん。かるが故(ゆゑ)に、唐(たう)の大宗文皇帝(たいそうぶんくはうてい)は、瘡(きず)をすひて、戦士(せんし)を賞(しやう)し、漢(かん)の高祖(かうそ)は、三尺(さんじやく)の剣(けん)を帯(たい)して、諸侯(しよこう)を制(せい)し給(たま)ひき。しかる間(あひだ)、本朝(ほんてう)にも、中(なか)ごろより、源平(げんぺい)の両氏(りやうじ)をさだめおかれしよりこのかた、武略(ぶりやく)をふるひ、朝家(てうか)を守護(しゆご)し、たがひに名将(めいしやう)T050の名(な)をあらはし、諸国(しよこく)の狼藉(らうぜき)をK200しづめ、すでに四百余回(よくはひ)の年月(としつき)をおくりをはんぬ。これ清和(せいわ)の後胤(こうゐん)、又桓武(くわんむ)の累代(るいたい)なり。
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しかりといへども、皇氏(わうじ)を出(いで)て、人臣(じんしん)につらなり、鏃(やじり)をかみ、鋒先(ほこさき)をあらそふ志(こころざし)、とり<”也とかや。
二 惟喬(これたか)・惟仁(これひと)の位(くらゐ)あらそひの事 S0102N002
 そも<、源氏(げんじ)といつぱ、桓武天皇(くわんむてんわう)より四代めの皇子(わうじ)を田村(たむら)の御門(みかど)と申(まう)しけり。これに皇子(わうじ)二人おはします。第一を惟喬親王(これたかのしんわう)と申(まう)す。帝(みかど)ことに御志(おんこころざし)におぼしめして、東宮(とうぐう)にもたて、御位(みくらゐ)をゆづり奉(たてまつ)らばやとおぼしめされけり。第二の御子(みこ)をば、惟仁親王(これひとのしんわう)と申(まう)しき。いまだいとけなくおはします。御母は染殿(そめどの)の関白(くわんばく)忠仁公(ちうじんこう)の御女(おんむすめ)也(なり)ければ、一門(いちもん)の公卿(くぎやう)、卿相(けいしやう)雲客(うんかく)たち、寵愛(ちようあい)し奉(たてまつ)られければ、これも又、もだしがたく〔ぞ〕おぼしめされける。かれは継体(けいてい)あいぶんの器量(きりやう)也。これは、万機(ばんき)無異の臣相(しんさう)なり。これをそむきて、宝祚(ほうそ)をさづくるものならば、用捨(ようしや)私(わたくし)ありて、臣下(しんか)唇(くちびる)をひるがへすべし。須らく競馬に乗せ、其の勝負によりて、御位(みくらゐ)をゆづり奉(たてまつ)るべしとて、天安二年三月二日に、二人の御子(みこ)たちをひき具(ぐ)し奉(たてまつ)り、右近の馬場(ばゞ)へ行幸(ぎやうがう)なる。月卿雲客(げつけいうんかく)、花の袂(たもと)をかさね、玉(たま)の裙(もすそ)をつらね、右近(うこん)の馬場(ばゝ)へ供奉(ぐぶ)せらる。この事、希代(きたい)の勝事(せうじ)、天下の不思議(ふしぎ)と〔ぞ〕見えし。御子(みこ)たちT051も、東宮(とうぐう)の浮沈(ふちん)、これにありと見えし。されば、さま<”の御いのりどもありけり。惟喬(これたか)の御いのりの師(し)には、柿本(かきのもとの)紀僧正(きそうじやう)真済(しんぜい)とて、東寺(とうじ)の長者(ちやうじや)、弘法大師(こうぼうだいし)の御弟子(でし)なり。惟仁親王(これひとのしんわう)の御いのりの師(し)には、我(わが)山の住侶(ぢうりよ)に、恵亮和尚(ゑりやうくはしやう)とて、慈覚大師(じかくだいし)の御弟子(でし)にて、めでたき上人に
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てぞわたらせ給(たま)ひける。西塔(さいたう)の平等坊(びやうどうぼう)にて、大威徳(いとく)の法(ほう)をぞおこなひける。すでに競馬(けいば)は、十番(ばん)を際(きは)にさだめられ〔しに〕、六番(ばん)勝ち給(たま)ふ御方に、位を御譲あるべきとの御事なり。さればK201惟喬(これたか)の御方(かた)に、つづけて四番(ばん)かち給(たま)ひけり。惟仁(これひと)の御方(かた)へ心(こゝろ)をよせ奉(たてまつ)る人々(びと)は、汗(あせ)をにぎり、心(こゝろ)をくだきて、祈念(きねん)せられけり。惟仁(これひと)の御方(かた)〔へは〕、右近(うこん)の馬場(ばゞ)より、天台山(てんだいさん)平等坊(びやうどうばう)の壇所(だんしよ)へ、御つかひはせかさなること、たゞ櫛(くし)の歯(は)をひくがごとし。「すでに御方(みかた)こそ、四番つゞけてまけぬれば」と申(まう)しければ、恵亮(ゑりやう)、心うくおもはれ〔て〕、絵像(ゑざう)の大威徳(いとく)をさかさまにかけ奉(たてまつ)り、三尺(さんじやく)の土牛(とぎう)を取(とつ)て、北(きた)むきにたて、おこなはれけるに、土牛(とぎう)をどりて、西(にし)むきになれば、南(みなみ)むきにとつておしむけ、東むきになれば、西(にし)に〔とりて〕おしなほし、肝胆(かんたん)をくだきてもまれしが、なほゐかねて、独鈷(とつこ)を以て、みづから脳(なづき)をつきくだきて、脳(なう)をとり、罌粟(けし)にまぜ、炉壇(ろだん)にうちくべ、黒煙(くろけぶり)をたて、一もみもまれ給(たま)ひしかば、土牛(とぎう)たけりて、声(こゑ)をあげてげれば、絵像(ゑざう)の大威徳(いとく)は、利剣(りけん)をさゝげて、ふり給(たま)ひければ、所願(しよぐわん)成就(じやうじゆ)してげりと、御心をのべ給(たま)ふ所(ところ)に、「御方(みかた)こそ、六番(ばん)つゞけてかち給(たま)ひ候へ」と、御つかひはしりつきければ、喜悦(きゑつ)の眉(まゆ)をひらき、いそぎ壇(だん)をぞおりられける。ありがたきT052瑞相(ずいさう)なり。されば、惟仁(これひとの)親王(しんわう)、御位(くらい)にさだまり、東宮(とうぐう)にたゝせ給(たま)ひけり。しかるに、延暦寺(ゑんりやくじ)の大衆(しゆ)の僉議(せんぎ)にも、「恵亮(ゑりやう)脳(なづき)をくだきしかば、次弟(じてい)位(くらい)につき、尊意利剣(りけん)をふり給(たま)へば、菅丞(かんしやう)霊(れい)をたれ給(たま)ふ」とぞ申(まう)しける。これによつて、惟喬(これたか)の御持僧(ぢそう)真済僧正(しんぜいそうじやう)は、思ひじににぞうせ給(たま)ひける。御子も、都(みやこ)へ御かへりなくして、比叡山(ひゑいさん)の麓(ふもと)小野(をの)といふ所(ところ)にとぢこもらせ給(たま)ひけり。
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頃(ころ)は神無月(かんなづき)末(すゑ)〔つ方(かた)〕、雪(ゆき)げの空(そら)の嵐(あらし)にさえ、しぐるる雲(くも)の絶間(たえま)なく、都(みやこ)にゆきかふ人もまれなりけり。いはんや小野(おの)の御すまひ、おもひやられてあはれなりけり。こゝに、在五(ざいご)中将在原業平(ありはらのなりひら)は、昔(むかし)の御情あさからざりし人也(なり)ければ、紛々(ふんふん)たる雪(ゆき)をふみわけ、なく<御跡(あと)をたづねまゐりて、見まゐらすれば、孟冬(まうとう)うつりK202きたりて、紅葉(こうよう)嵐(あらし)にたえ、りういんけんかとうしやくしやくたり。折(をり)にまかせ、人目(め)も草(くさ)もかれぬれば、山里(ざと)いとゞさびしきに、みな白妙(しろたえ)の庭(には)の面(をも)、跡(あと)ふみつくる人もなし。御子(こ)は、端(はし)ちかく出(いで)させ給(たま)ひて、南殿(なんでん)の御格子(かうし)三間(げん)ばかりあげて、四方(よも)の山(やま)を御覧(らん)じ廻らし、げにや、「春(はる)はあをく、夏(なつ)はしげり、秋はそめ、冬はおつる」といふ、昭明太子(せうめいたいし)の、おぼしめしつらね、「香爐峰(かうろほう)の雪(ゆき)をば、簾(すだれ)をかかげて見るらん」と、御口(おんくち)ずさみ給(たま)ひけり。中将、この御有様(おんありさま)を見奉(たてまつ)るに、たゞ夢(ゆめ)のこゝちせられけるが、かくまゐりて、昔今(むかしいま)の事ども申(まう)しうけたまはるにつけても、御衣(ぎよい)の御袂(おんたもと)をしぼりもあへさせ給(たま)はず、鳥飼(とりかひ)の院(ゐん)の御遊幸(ゆうがう)、交野(かたの)の雪(ゆき)の御鷹狩(たかがり)まで、おぼしめしT053出(いで)られて、中将かくぞ申されける。
  わすれては夢(ゆめ)かとぞおもふ思ひきや雪(ゆき)ふみわけて君(きみ)をみんとは
御子(こ)もとりあへさせ給(たま)はで、かへし、
  夢(ゆめ)かとも何(なに)かおもはん世(よ)の中をそむかざりけんことぞくやしき
かくて、貞観(ぢやうぐわん)四年に、御出家(しゆつけ)わたらせ給(たま)ひしかば、小野宮(をののみや)とも申(まう)しけり。〔又は、四品宮内卿宮(ほんくないきやうのみや)とも申(まう)しけり。〕文徳(もんどく)天王、御年(おんとし)二十にて、崩
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御(ほうぎよ)なりしかば、第二の皇子(わうじ)、御年(おんとし)九歳(さい)にて、御ゆづりを受け給(たま)ふ。清和(せいわ)天皇の御こと、これなり。後(のち)には、丹波国(たんばのくに)水尾(みづのを)の里(さと)にとぢこもらせ給(たま)ひければ、水尾帝(みづのをのてい)とぞ申(まう)しける。皇子(わうじ)あまたおはします。第一を陽成院(やうぜいいん)、第二を貞固親王(ていこしんわう)、第三を貞元親王(ていげんしんわう)、第四を貞保親王(ていほうしんわう)、この皇子(わうじ)は、御琵琶(びわ)の上手(じやうず)にておはします。桂(かつら)の親王(しんわう)とも申(まう)しけり。心(こゝろ)をかけらるゝ女は、月の光(ひかり)をまちかね、蛍(ほたる)を袂(たもと)につつむ、この御子の御ことなり。今(いま)のK203しけのこの先祖(せんぞ)なり。第五〔を〕貞平親王(ていへいしんわう)、第六〔を〕貞純親王(ていじゆんしんわう)とぞ申(まう)しける。六孫王(そんわう)、これなり。されば、かの親王(しんわう)の嫡子(ちやくし)、多田(たゞの)新発意(しんぼつ)満仲(まんぢう)、その子摂津守(つのかみ)頼光(らいくわう)、次男(じなん)大和守(やまとのかみ)頼親(らいしん)、三男(なん)多田法眼(たゞのほうげん)とて、山法師(やまぼうし)にて、三塔(さんたう)第一の悪僧(あくそう)なり。四郎(しらう)河内守(かわちのかみ)頼信(よりのぶ)、その子伊予(いよの)入道(にふだう)頼義(らいぎ)、その嫡子(ちやくし)八幡太郎(はちまんたらう)義家(よしいへ)、その子但馬守(たぢまのかみ)義親(よしちか)、次男(じなん)河内判官(かわちのはんぐはん)義忠(よしたゞ)、三男(なん)式部(しきぶの)太夫義国(よしくに)、四男(なん)六条判官(でうのはんぐはん)為義(ためよし)、その子(こ)左馬(さまの)頭義朝(よしとも)、その嫡子(ちやくし)鎌倉悪源太義平(かまくらのあくげんだよしひら)、次男(じなん)中宮太夫(ちうぐうのたゆう)新朝長(ともなが)、三男(なん)右近衛(うこんゑの)T054大将(しやう)頼朝(よりとも)の上(うへ)こす源氏(げんじ)ぞなかりける。この六孫王(そんわう)よりこのかた、皇氏(わうじ)を出(いで)て、はじめて源(みなもと)の姓(しやう)を給(たま)はり、正体(しやうたい)をさりて、ながく人臣(じんしん)につらなり給(たま)ひて後(のち)、多田満仲(たゞのまんぢう)より、下野守(しもつけのかみ)義朝(よしとも)にいたるまで七代は、みな諸国の竹符(ちくふ)に名(な)をかけ、芸(げい)を将軍(しやうぐん)の弓馬(きうば)にほどこし、家(いへ)にあらずして、四海(かひ)をまもりしに、白馬(はくば)なほこえたり。されば、おの<権(けん)をあらそふゆゑに、たがひに朝敵(てうてき)に也(なり)て、源氏(げんじ)世(よ)をみだせば、平氏(へいじ)勅宣(ちよくせん)をもつて、これを制(せい)して朝恩(てうおん)にほこり、平将(へいしやう)国(くに)をかたぶくれば、源氏(げんじ)詔命(せうめい)にまかせて、これを罰(ばつ)して、勲功(くんこう)をきはむ。しかれば、ちかごろ、平氏(へいじ)〔ながく〕退散(たいさん)して、源氏(げんじ)おのづから世(よ)にほこり、四海(しかい)の波
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瀾(はらん)ををさめ、一天(いつてん)のはうきよさだめしよりこのかた、緑林(りよくりんゑ)枝枯れて、ふく風(かぜ)〔の声(こゑ)〕おだやか也。しかれば、叡慮(ゑいりよ)をそむくせいらうは、色(いろ)を雄剣(おうけん)の秋の霜(しも)にをかされ、てうそをみだすはくは、音(おと)を上弦(しやうげん)の月にすます。これ、ひとへに羽林(うりん)の威風(いふう)、前代(だい)にもこえて、うんてうの故(ゆゑ)也。しかるに、せいしをひそめて、せいとのみだれを制(せい)し。私曲(しきよく)のあらそひをやめて、帰伏(きぶく)せらるるはなかりけり。
三 伊東(いとう)を調伏(てうぶく)する事 S0103N006T055
 こゝに、伊豆(いづの)国の住人(ぢゆうにん)、伊東(いとうの)次郎(じらう)祐親(すけちか)が孫(まご)、曾我(そがの)十郎祐成(すけなり)、おなじく五郎時致(ときむね)といふ者(もの)ありて、将軍(しやうぐん)K204の陣内(ぢんなひ)もはゞからず、親(をや)の敵(かたき)をうちとり、芸(げい)を戦場(せんぢやう)にほどこし、名(な)を後代(こうたい)にとゞめける、由来(ゆらい)をくはしくたづぬるに、すなはち一家(か)の輩(ともがら)、工藤左衛門祐経(くどふさへもんすけつね)なり。たとへば、伊豆国(いづのくに)に伊東(いとう)・河津(かはづ)・宇佐美(うさみ)、この三ケ所(しよ)をふさねて、〓美庄(くすみのしやう)と号(かう)する。かの本主(ほんじゆ)は、〓美(くすみの)入道(にふだう)寂心(じやくしん)にてぞありける。在(ざい)国の時(とき)は、工藤(くどう)大夫(たゆう)祐隆(すけたか)といひけり。男子(なんし)あまたもちたりしが、みな早世(さうせい)して、遺跡(ゆいせき)すでにたえんとす。しかる間(あひだ)、継女(まゝむすめ)の子をとりて、嫡子(ちやくし)にたてて、伊東(いとう)をゆづり、武者所(むしやどころ)にまゐらせ、工藤(くどう)武者(むしや)祐継(すけつぐ)と号(かう)す。又、嫡孫(ちやくそん)あり、次男(じなん)にたてて、河津(かはづ)をゆづり、河津(かはづ)の次郎(じらう)となのらせける。しかる間(あひだ)、寂心(じやくしん)逝去(せいきよ)の後(ゝち)、祐親(すけちか)思ひけるは、我こそ、嫡々(ちやく<)なれば、嫡子(ちやくし)の譲あるべきに、異姓(いしやう)他(た)人の継女(まゝむすめ)の子、この家(いへ)にいりて、相続(さうぞく)するこそ、やすからねと思ふ
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心(こゝろ)つきにけり。これ、まことに神慮(しんりよ)にもそむき、子孫(しそん)もたえぬべき悪事(あくじ)なるをや。たとひ他(た)人なりといふとも、親養(やう)じてゆづる上(うえ)は、違乱(いらん)の義(ぎ)あるべからず。まして、これは、寂(じやく)心、内々(ない<)継女(まゝむすめ)のもとにかよひて、まうけたる子也。まことには兄(あに)なり。ゆづりたる上(うへ)、あらそふこと、無益(むやく)のよし、よそ<にも申(まう)しあひけり。されども、祐親(すけちか)とゞまらで、対決(たいけつ)度々におよぶといへども、譲状(ゆづりぢやう)をさゝぐる間(あひだ)、伊東(いとう)が所領(しよりやう)になりて、河津(かはづ)はまけてぞくだりける。その後(のち)、上(うへ)にはしたしみながら、内々(ない<)安からぬ事にぞ思ひける。されども、T056わが力(ちから)にはかなはで、年月をおくる。或(ある)時(とき)、祐親(すけちか)、箱根(はこね)の別当(べつとう)をひそかによびくだし奉(たてまつ)り、種々(しゆ<”)にもてなし、酒宴(しゆゑん)すぎしかば、ちかく寄りかしこまりて申(まう)しけるは、「かねてよりしろしめされて候ごとく、伊東(いとう)をば、嫡々(ちやく<)にて、祐親(すけちか)があひつぎ候べきを、おもはずの継女(まゝむすめ)の子きたりて、父(ちゝ)の墓所(はかどころ)、先祖(せんぞ)重代(ぢうだひ)の所領(しよりやう)を横領(わうりやう)つかまつる事、よそにて見え候が、あまりにくちをしく候間(あひだ)、御心(こゝろ)をもはゞからず、申(まう)しK205いだし候。しかるべくは、伊東武者(いとうむしや)がふたつなき命(いのち)を、たちどころにうしなひ候やうに、調伏(てうぶく)ありてみせ給(たま)へ」と申(まう)しければ、別当(べつたう)きき給(たま)ひて、しばらく物ものたまはず、やゝありて、「このこと、よく<きゝ給(たま)へ。一腹(ぷく)一生(しやう)にてこそましまさね、兄弟(きやうだい)なることは眼前(がんぜん)也。公方(くばう)までもきこしめしひらかれ、すでに御下知(げぢ)をなさるゝ上は、へだての御うらみは、さる事にて候へども、たちまちに害心(がひしん)をおこし、親(おや)のおきてをそむき給(たま)はんこと、しかるべからず。神明(しんめい)は、正直(しやうじき)の頭(かうべ)にやどり給(たま)ふ事なれば、さだめて天の加護(かご)もあるべからず、冥(みやう)の照覧(せうらん)もおそろし。その上(うへ)、愚僧(ぐそう)は、幼少(ようせう)より、父母(ちゝはゝ)の塵欲(ぢんよく)をはなれ、師匠(ししやう)のかんしんに入(いり)
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て、所説(しよせつ)の教法(けうぼう)を学(がく)し、円頓止観(ゑんどんしくわん)の門(もん)をのぞみ、一ねん三まいに、稼穡(かしよく)の艱難(かんなん)を思ひ、〔一度(たび)〕きる時(とき)、紡績(ばうせき)の辛苦(しんく)をしのぶ。三衣(ゑ)を墨(すみ)にそめ、鬢髪(びんぱつ)をまろめ、仏(ほとけ)の遺願(ゆいぐはん)にまかせ、五戒(かい)をたもちしよりこのかた、ものの命(いのち)をころすことなし。仏(ほとけ)ことにいましめ給(たま)ふ。されば、衆生(しゆじやう)の身の中には、三身仏性(じんぶつしやう)とて、T057三体(たい)の仏(ほとけ)のまします。しかるに、人の命(いのち)をうばはん事、三世(ぜ)の諸仏(しよぶつ)をうしなひ奉(たてまつ)るにおなじ。もろ<もつて、おもひよらざることなり」とて、箱根(はこね)にのぼり給(たま)ひけり。河津(かはづ)は、なまじひなる事申出(まうしいだ)して、別当(べつたう)、承引(せういん)なかりければ、その後(のち)、消息(せうそく)をもつて、かさね<”申(まう)しけれども、なほもちひ給(たま)はず。いかがせんとて、ひそかに箱根(はこね)にのぼり、別当(べつたう)に見参(げんざん)して、ちかくゐよりて、さゝやきけるは、「ものその身にては候はねども、昔(むかし)より師檀(しだん)の契約(けいやく)あさからで、たのみたのまれ奉(たてまつ)りぬ。祐親(すけちか)が身(み)においては、一生(しやう)の大事、子々孫々(しゝそん<)までも、これにしくべからず候。再往(さいわう)に、申入(まうしいれ)候条(でう)、まことにそのおそれすくなからず候へども、かの方(かた)へかへりきこえなば、かさねたる難儀(なんぎ)、いでき候べし。さればにや、浮沈(ふちん)におよび候」と、くれ<”申(まう)しければ、はじめは、別当(べつたう)、大(おほき)に辞退(じたい)ありK206けるが、まことに檀那(だんな)の情(なさけ)もさりがたくして、大方領状(りやうじやう)ありければ、河津(かはづ)、里(さと)へぞくだりける。別当(べつたう)、心憂き事ながら、檀那(だんな)のたのむと申(まう)しければ、壇(だん)をたて、荘厳(しやうごん)して、伊東(いとう)を調伏(てうぶく)せられけるこそ、おそろしけれ。はじめ三日の本尊(ほんぞん)には、来迎(らいかう)の阿弥陀(あみだ)の三尊(ぞん)、六道能化(のうけ)の地蔵菩薩(ぢざうぼさつ)、檀那(だんな)河津(かはづ)の次郎が所願(しよぐわん)成就(じやうじゆ)のため、伊東武者(いとうむしや)が二(ふた)つなき命を取(とり)、来世(らいせ)にては、観音(くわんおん)・勢至(せいし)、蓮台(れんだい)をかたぶけ、安養(あんやう)の浄刹(じやうせつ)に引接(いんぜう)し給(たま)へ、片時(へんし)も、地獄(ぢごく)におとし給(たま)ふな
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と、他念(たねん)なくいのられけり。後(のち)七日の本尊(ほんぞん)には、烏蒭沙摩金剛(うすさまこんがう)童子(どうじ)、五大明王の利剣(りけん)殊勝(しゆせう)なるT058四方(はう)にかけて、紫(むらさき)の袈裟(けさ)を帯(たい)し、種々(しゆ<”)に壇(だん)をかざり、肝胆(かんたん)をくだき、汗(あせ)をものごはず、面(おもて)をもふらず、余念(よねん)なくこそいのられけれ。昔(むかし)より今(いま)にいたるまで、仏法護持(ぶつぽうごぢ)の御力(おんちから)、今(いま)にはじめざる事なれば、七日に満(まん)ずる寅(とら)のなかばに、伊藤(いとう)武者(むしや)がさかんなる首(くび)を、明王(みやうわう)の剣(けん)の先(さき)につらぬき、壇上(だんじやう)におつると見(み)てければ、さては威験(いげん)あらはれたりとて、別当(べつたう)、壇(だん)をぞおり給(たま)ひける、おそろしかりし事ども也。
四 おなじく伊東(いとう)が死(し)する事 S0104N007
 さても伊東武者(いとうむしや)は、これをば夢(ゆめ)にもしらで、時(とき)ならぬ奥野(おくの)の狩(かり)してあそばんとて、射手(いて)をそろへ、勢子(せこ)をもよほし、若党(わかたう)数多(あまた)あひ具(ぐ)して、伊豆(いづ)の奥野(おくの)へぞいりにける。頃(ころ)しも、夏(なつ)の末(すゑ)つ方(かた)、峰(みね)にかさなる木(こ)の間(ま)より、村<(むらむら)になびくは、さぞと見えしより、おもはざる風(かぜ)にをかされて、心地(こゝち)例(れい)ならずわづらひ、心(こゝろ)ざす狩場(かりば)をもみずして、ちかき野辺(のベ)よりかへりけり。日数(かず)かさなる程(ほど)に、いよ<おもくぞなりにける。その時(とき)、九つになりけるかないしをよびて、身づから手(て)をとり、申(まう)しけるは、「いかにおのれ、十歳(さい)にだにもならざるを、見すててしなK207ん事こそ、かなしけれ。生死(しやうじ)かぎりあり、のがるべからず。なんぢを、誰(たれ)かあはれみ、誰(たれ)かはごくみてそだてん」と、さめ<”となきT059けり。かないしはをさなければ、たゞなくよりほかの事はなし。女房(にようばう)、ちかくゐより、
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涙(なみだ)をおさへていひけるは、「かなはぬうき世(よ)のならひなれども、せめて、かないし十五にならんをまち給(たま)へかし。さればとて、あまたある子にもあらず、また、かけこ有(ある)中の身にてもなし。いかがはせん」と、なげきけるこそ、理(ことわり)なれ。こゝに、弟(おとゝ)の河津(かわづの)次郎祐親(すけちか)が、とぶらひきたりけるが、この有様(ありさま)を見(み)て、ちかくよりて申(まう)しけるは、「今(いま)をかぎりとこそ、見えさせ給(たま)ひて候へ。今生(こんじやう)の執心(しうしん)を御とゞめ候(さうら)ひて、一筋(すぢ)に後生菩提(ごしやうぼだひ)をねがひ給(たま)へ。かないし殿においては、祐親(すけちか)かくて候へば、後見(こうけん)し奉(たてまつ)るべし。ゆめ<疎略(そりやく)あるべからず。こゝろやすく思ひ給(たま)へ。さればにや、史記(しき)のことばにも、「昆弟(こんてい)の子は、なほし己(おのれ)が子のごとし」と見えたり。いかでかおろかなるべき」と申(まう)しければ、祐継(すけつぐ)、これをききて、内(うち)に害心(がいしん)あるをばしらで、大きによろこび、かきおこされ、人の肩(かた)にかかり、手(て)をあはせ、祐親(すけちか)ををがみ、やゝありて、くるしげなる息(いき)をつき、「いかに候。たゞ今のおほせこそ、生前(しやうぜん)にうれしくおぼえ候へ。この頃(ごろ)は何(なに)となく下説(げせつ)について、心よからざる事にてましまさんと存(ぞん)ずる所(ところ)に、かやうにのたまふこそ、返々(かへすがへす)も本意(ほんい)なれ。さらば、かないしをば、ひとへにわ殿(との)にあづけ奉(たてまつ)る。甥(おい)なりとも、実子(じつし)のごとくおもひ、女(むすめ)あまたもち給(たま)ふ中(なか)にも、万刧(まんこう)御前(ぜん)にあはせて、十五にならば、男(をとこ)になし、当庄(たうしやう)のほんけん小松(こまつ)殿の見参(げんざん)にいれ、わ殿(との)の女(むすめ)T060とかないしに、この所(ところ)をさまたげなく知行(ちぎやう)せさせよ」とて、伊東(いとう)の地券文書(ぢけんもんじよ)をとりいだし、かないしに見せ、「なんぢにぢきにとらすべけれども、いまだ幼稚(ようち)なり。いづれも親(をや)なれば、おろかにあるべからず。母(はゝ)にあづくるぞ。十五にならば、とらすべし。よくよくK208見おけ。今(いま)より後(のち)は、河津殿(かわづどの)を、叔父(おぢ)なりとも、まことの
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親(おや)とたのむべし。心おきて、にくまれ奉(たてまつ)るな。祐継(すけつぐ)も、草(くさ)の蔭(かげ)にて、たちそひまもるべし」とて、文書(もんじよ)母(はゝ)が方(かた)へわたし、今(いま)はこころやすしとて、うちふしぬ。かくて、日数(かず)つもりゆけば、いよ<よわりはてて、七月十三日の寅(とら)の刻(こく)に、四十三にてうせにけり。あはれなりし例(ためし)なり。弟(おとゝ)の河津(かはづの)次郎は、上(うへ)にはなげくよしなりしかども、下(した)には喜悦(きゑつ)の眉(まゆ)をひらき、箱根(はこね)の別当(べつたう)の方(かた)をぞをがみける。一旦(たん)の猛悪(まうあく)は、勝利(せうり)ありといへども、つひには子孫(しそん)にむくゆならひにて、末(すゑ)いかがとぞおぼえける。やがて、河津(かはづ)はわが家(いへ)をいで、伊東(いとう)が館(たち)に入(いり)かはり、内々(なひ<)存(ぞん)ずる旨(むね)ありければ、兄(あに)のため、忠(ちう)あるよしにて、後家(ごけ)にも子にもおとらず、孝養(けうやう)をいたす。七日<のほか、百ケ日、一周忌(いつしゆき)、第(だい)三年にいたるまで、諸善(しよぜん)の忠節(ちうせつ)をつくす。人これをきき、「神をまつる時(とき)は、神の在ますごとくせよ。死につかふる時(とき)は、生(しやう)につかふるごとくなれ」とは、論語(ろんご)のことばなるをやと感(かん)じけるぞ、おろかなる。さて、かないしには、こゝろやすき乳母(めのと)をつけてぞ、養(やう)じける。遺言(ゆいごん)にたがへず、十五にて元服(げんぶく)させ、くすみの工藤祐経(くどうすけつね)と号(かう)す。やがて、女(むすめ)万刧(まんこう)御前にあはせ、T061その秋、あひ具(ぐ)して、上洛(しやうらく)し、すなはち、小松(こまつ)殿の見参(げんざん)に入り、祐経(すけつね)をば、京都(きやうと)にとゞめおき、わが身(み)は、国(くに)へぞくだりける。その後(ゝち)はかひ<”しき侍(さぶらい)の一人もつけず、おとなしき者もなし。所帯(しよたい)におきては、祐親(すけちか)一人して横領(わうりやう)し、祐経(すけつね)には、屋敷(やしき)の一所(しよ)をも配分(はいぶん)せざりけり。まことや、文選(もんぜん)のことばに、「徳(とく)をつみ、行(かう)をかさぬる事、その善(ぜん)をなさざれども時(とき)にもちひる事あり、善(ぜん)をすて、理(り)をそむくこと、その悪(あく)をなさざれども、時(とき)にほろぶることあり。身のあやふきは、勢(いきをい)
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のすぐる所(ところ)となり、禍(わざわい)のつもるは、寵(てう)のさかんなるをこえてなり」。されども、祐経(すけつね)K209は、たれをしゆるとはなきに、公文所(くもんじよ)をはなれず、奉行所(ぶぎやうしよ)におきて、身をうたせ、沙汰(さた)になれける程(ほど)に、善悪(ぜんあく)を不審し、分別(ふんべつ)して、理非(りひ)をまよはず、諸事(しよじ)に心(こゝろ)をわたし、手跡(しゆせき)普通(ふつう)にすぐれ、和歌(わか)の道(みち)を心(こころ)にかけ、灌頂(くわんちやう)の筵(むしろ)に推參(すひさん)して、その衆(しゆう)につらなりしかば、工東(くどう)の優男(やさをとこ)とぞめされける。十五歳(さい)より、武者所(むしやどころ)に侍ひて、礼儀(れいぎ)たゞしくして、男(をとこ)がら尋常(じんじやう)なりければ、田舎侍(いなかさぶらひ)ともなく、こゝろにくしとて、二十一歳(さい)にして、武者所(むしやどころ)の一臈をへて、工藤(くどう)一臈とぞめされける。
五 伊東(いとうの)次郎(じらう)と祐経(すけつね)が争論(さうろん)の事 S0105N008T062
 かくて、祐経(すけつね)二十五まで、給仕(きうじ)おこたらざりき。こゝに、おもはざるに、田舎(いなか)の母(はゝ)の一期(ご)つきて、形見(かたみ)に、父(ちゝ)があづけおきし譲状(ゆづりじやう)をとりそへて、祐経(すけつね)がもとへぞのぼせたりける。祐経(すけつね)、これを披見(ひけん)して、「こはいかに、伊豆(いづ)の伊藤(いとう)といふ所(ところ)は、祖父(おうぢ)入道(にふだう)寂心(じやくしん)より、父(ちゝ)伊東(いとう)武者(むしや)祐継(すけつぐ)まで、三代(だい)相伝(さうでん)の所領(しよりやう)なるを、何(なに)によつて、叔父(をぢ)河津(かわづの)次郎(じらう)、相続(さうぞく)して、この八か年(ねん)が間(あひだ)、知行(ちぎやう)しける。いざや冠者(くわじや)ばら、四季(き)の衣(ころも)がへさせん」とて、暇(いとま)を申(まう)しけれども、御気色(きしよく)最中(さいちう)なりければ、左右(さう)なく御暇(おんいとま)を給(たま)はらざりけり。さらばとて、代官(だいくわん)をくだして、催促(さいそく)いたす。伊東(いとう)、これをきゝ、「祐親(すけちか)より外(ほか)に、まつたく他(た)の地頭(ぢとう)なし」とて、冠者(くわじや)ばらを放逸(はういつ)に追放(ついはう)す。京よりくだ
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る者(もの)は、田舎(いなか)の子細(しさい)をばしらで、〔いそぎ〕にげのぼりぬ。一臈(らう)にこのよしをうつたふ。「その儀(ぎ)ならば、祐経(すけつね)くだらん」とて、いでたちけるが、案者(あんじや)第一(だいいち)の者(もの)にて、心(こゝろ)をかへて思ひけるは、人の僻事(ひがこと)するといふをききながら、〔われ〕又くだりて、おとらじ、まけじとせん程(ほど)に、まさる狼藉(らうぜき)ひきいだし、両方(りやうはう)得替(とくたい)の身(み)となるべし。その上、道理(だうり)をもちながら、親方(おやかた)にむかひ、K210意趣(いしゆ)をこめん事、詮(せん)なし、祐経(すけつね)ほどの者(もの)が、理運(りうん)の沙汰(さた)にまくべきにあらず、田舎(いなか)よりかの仁(じん)をめしのぼせて、上裁(じやうさい)をこそあふがめとおもひ、あたる所(ところ)の道理(だうり)、さしつめ<、院宣(ゐんぜん)を申(まう)しくだし、小松殿(こまつどの)の御状(ごじやう)をそへ、検非違使(けんびいし)をもつて、伊東(いとう)を京都(と)にめしのぼせ、真(まこと)のちぎやうなる時(とき)こそ、田舎(いなか)にて、横紙(よこがみ)をもやぶり、ちやうちやくT063どもいひけれ、院宣(ゐんぜん)をなし、かさねてかたくめされければ、一門(いちもん)はせあつまり、案者(あんじや)・口(くち)ききよりあひ、ともなひ談合(だんがふ)するといへ共(ども)道理(だうり)は一(ひと)つもなかりけり。祐継(すけつぐ)存生(ぞんじやう)の時(とき)より、執心(しうしん)ふかくして、いかにもこの所(ところ)を、祐親(すけちか)が配領(はいりやう)にせんと、多年(たねん)心(こゝろ)にかけ、すでに十余年(よねん)知行(ちぎやう)の所(ところ)なり。一期(ご)の大事と、金銀(きんぎん)をとゝのへ、ひそかに奉行所(ぶぎやうしよ)へぞのぼりける。まことや、文選(もんぜん)のことばに、「青蝿(せいよう)も、すいしやうをけがさず、邪論(じやろん)も、くの聖(ひじり)をまどはさず」とは申せども、奉行(ぶぎやう)のめづるも、理(ことわり)也。又漢書(かんじよ)を見るに、「水(みづ)いたつてきよければ、底(そこ)に魚(うを)すまず。人いたつて善なれば、内(うち)に友(とも)なし」と見えたり。さればにや、奉行(ぶぎやう)、まことに宝(たから)おもくして、祐経(すけつね)が申状(まうしじやう)、たゝざる事こそ、無念(むねん)なれ。月あきらかならんとすれども、浮雲(ふうん)これをおほひ、水(みづ)清からんとすれども、泥沙(でいしや)これをけがす。君(きみ)賢(けん)なりといへども、臣(しん)これをけがす理(ことわり)によつて、本券(ほんけん)は箱(はこ)の底(そこ)
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にくちて、むなしく年月(としつき)をおくる間(あひだ)、祐経(すけつね)、鬱憤(うつぷん)に住(じう)して、かさねて申状(まうしじやう)を奉行所(ぶぎやうしよ)にさゝぐ。その状(じやう)にいはく、
  伊豆(いづの)国の住(じう)人伊東工藤(いとうくどう)一郎平祐経(たいらのすけつね)、かさねて言(ごん)上、
 はやく、御裁許(さいきよ)をかうぶらんと欲(ほつ)する子細(しさい)の事。右(みぎ)件(くだん)の条(でう)、祖父(おうぢ)●美(くすみの)入道(にふだう)寂心(じやくしん)死去の後(ゝち)、親父(しんぷ)伊東(いとう)武者(むしや)祐継(すけつぐ)、その舎弟(しやてい)祐親(すけちか)、兄弟(きやうだひ)の中、不和(ふわ)なるによつて、対決(たいけつ)度々(どゞ)におよぶといへども、祐継(すけつぐ)、当腹(たうぶく)寵愛(ちようあい)たるによつて、K211安堵(あんど)の御くだし文(ぶみ)を給(たま)はつて、T064すでに数(す)ケ年をへをはんぬ。こゝに、祐継(すけつぐ)、一期(ご)かぎりの病(やまひ)の床(ゆか)にのぞむきざみ、河津(かわづの)次郎(じらう)、日(ひ)ごろの意趣(いしゆ)をわすれ、たちまちにとぶらひきたる。その時(とき)、祐経(すけつね)は、生年(しやうねん)九歳(きうさい)也(なり)き。叔父(おぢ)河津(かわづの)次郎(じらう)に、地券文書(ぢけんもんじよ)、母(はゝ)ともにあづけおきて、八か年(ねん)の春秋をおくる。親方(おやかた)にあらずんば、しこうのしんと申(まう)すべきや。所詮(しよせん)、世(よ)のげいにまかせ、伊東(いとうの)次郎(じらう)に給(たま)はるべきか、また祐経(すけつね)に給(たま)はるべきか、相伝(さうでん)の道理(だうり)について、憲法(けんばう)の上裁(じやうさい)をあふがんと欲(ほつ)す。よつて、誠恐誠惶(せいくわうせいけう)、言上(ごんぜう)件(くだん)のごとし。
  仁安二年三月 日               平祐経(たいらのすけつね)
とかきてささぐ。公事所に、此状(じやう)を披見(ひけん)ありて、さしあたる道理(だうり)にわづらひけるよと、人々(びと)よりあひ、内談(ないだん)評定するは、〔まことに、〕祐経(すけつね)が申状(まうしじやう)、一として僻事(ひがこと)なし。これは裁許(さいきよ)せずは、憲法(けんばう)にそむきなん。又、伊東(いとう)宝(たから)をのぼせて、万事(ばんじ)奉行(ぶぎやう)をたのむといふ。しかれども、祐経(すけつね)は、左右(さう)なく理運(りうん)たる間(あひだ)、奉行所(ぶぎやうしよ)の私なりがたければ、安堵(あんど)の状(じやう)二かきて、大宮の令旨(りやうじ)をそへ、〔りやうへ〕くださる。伊東(いとう)は、半分(はんぶん)也(なり)とも給(たま)はる所(ところ)、奉行(ぶぎやう)の御恩(ごおん)とよろこび
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て、本国(ほんごく)へぞくだりける。書(しよ)はことばをつくさず、ことばは心(こゝろ)をつくさずといへども、一郎は、ことばをうしなひ、十五より、本所(ほんじよ)にまゐり、日夜朝暮(やてうぼ)、給仕(きうじ)をいたし、今年(ことし)八箇年かとおぼゆるに、かさねて御恩(ごおん)こそかうぶらざらめ、先祖(せんぞ)所領(しよりやう)を半分(はんぶん)めさるゝ事そもなに事ぞ、「水上(みなかみ)にごれる時(とき)は、きよからん事を思ひ、T065形(かたち)のゆがめる時(とき)は、影(かげ)の素直ならん事をおもふ」と、かたに見えたり、父(ちゝ)祐継(すけつぐ)が世には、かやうにはよもわけじ、今(いま)なんぞ半分(はんぶん)の主(ぬし)たるべきや、これひとへに親方(おやかた)ながら、伊東(いとう)がいたす所(ところ)なり、わが身(み)こそ、京都(きやうと)にすむとも、前後はみな、弓矢(ゆみや)のいこんなり、いかでか、このK212事うらみざるべきとて、ひそかに都(みやこ)をいでて、駿河国(するがのくに)高橋(たかはし)といふ所(ところ)にくだり、木津川、船越(ふなこし)・荻野、蒲原(かんばら)・入江(いりゑ)の人々は、外戚(げしやく)につきて、親(した)しかりければ、二百四人よりあひて、祐親(すけちか)うちて、領所(りやうしよ)を一人にて進退(しんだい)せんと思ふ心、つきにけり。此儀(ぎ)、神慮(しんりよ)もはかりがたし。たとへば、さしあたる道理(だうり)は、顕然(けんぜん)たりといへども、昔(むかし)の恩(おん)をわすれ、たちまちに悪行(あくぎやう)をたくむ事、いとうが昔(むかし)をも思ひ、てんじゆが古(いにしへ)もたづぬべき。第一叔父(おぢ)なり、第二養父(やうぶ)也、第三舅(しうと)なり、第四烏帽子親(ゑぼしをや)なり、第五に一族中(ぞくちう)の老者(らうしや)なり、かた<”もつて、おろかならず。かやうに思ひたつ事ぞ、おそろしき。いかにも思慮(しりよ)あるべきものをや。あまつさへ領地(りやうち)をうばはん事、不可思議(ふかしぎ)なり。かかりける事を祐親(すけちか)、かへりきゝて、嫡子(ちやくし)河津(かはづ)三郎(さぶらう)祐重(すけしげ)、次男(じなん)伊藤(いとう)九郎祐清(すけきよ)、そのほか一門老少(もんらうせう)よびあつめ、用心(ようじん)きびしくしければ、力(ちから)におよばす。これや、富貴(ふき)にして、善(ぜん)をなし安(やす)く、貧賎(ひんせん)にして、工(こう)をなしがたしとは、今(いま)こそ思ひしられたり。その後(ゝち)、伊東(いとうの)次郎(じらう)、
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此事ありのまゝに京都(きやうと)へうつたへ申(まう)して、ながく祐経(すけつね)を本所(ほんじよ)へ入(いれ)たてずして、年貢(ねんぐ)所当(しよたう)におきては、芥子(けし)ほどものこらず、横領(わうりやう)する間(あひだ)、祐経(すけつね)、身(み)のおき所(どころ)なくT066して、又、京都(と)にかへりのぼり、ひそかに住(すま)ひぬ。伊東(いとう)に、祐経(すけつね)はなやまされ、本意(ほんい)をわすれ、祐経(すけつね)が妻女(さいぢよ)とりかへし、相模(さがみの)国の住人(ぢゆうにん)土肥(とひの)次郎(じらう)実平(さねひら)が嫡子(ちやくし)弥太郎(やたらう)遠平(とほひら)にあはせけり。国(くに)には又、ならぶ者(もの)なくぞ見えけり。されども、「功賞(こうしやう)なき不義(ふぎ)の富(とみ)は、禍(わざわひ)の媒(なかだち)」と、左伝(さでん)に見えたり。されば、ゆく末(すゑ)いかがとぞおぼえし。工藤(くどう)一郎は、なまじひの事をいひいだして、叔父(おぢ)に中(なか)をたがはれ、夫妻(ふさい)のわかれ、所帯(しよたい)はうばはれ、身(み)をおきかねて、胆(きも)やきける間(あひだ)、給仕(きうじ)も疎略(そらく)になりにけり。さればにや、御気色(きしよく)もあしく、傍輩(はうばい)も、側目(そばめ)にかけければ、積鬱(せきうつ)たへがたく思ひこがれて、ひそかに本国(ほんごく)K213にくだり、〔大見庄(おほみのしやう)に住(ぢう)して、年(とし)ごろの郎等(らうどう)に、〕大見(おほみの)小藤太、八幡(やはたの)三郎(さぶらう)をまねきよせて、なく<さゝやきけるは、「おの<、つぶさにきけ。相伝(さうでん)の所領(しよりやう)を押領(あふりやう)せらるゝだにも、安からざるに、結句(けつく)、女房(にようばう)までとりかへされて、土肥(とひの)弥太郎(やたらう)にあはせらるゝ事、くちをしきとも、あまりあり。今(いま)は命(いのち)をすてて、矢(や)一(ひと)ついばやとおもふなり。あらはれては、せんことかなふまじ。われ又、便宜(びんぎ)をうかがはば、人に見しられて、本意(ほんい)をとげがたし。さればとて、とゞまるべきにもあらず。いかゞせん、おの<さりげなくして、狩(かり)すなどりの所(ところ)にても、便宜(びんぎ)をうかがひ、矢(や)一(ひと)ついんにや、もし宿意(しゆくい)をとげんにおきては、重恩(ぢうおん)、生々世々(しやう<”せゝ)にも、報(ほう)じてもあまりありぬべし。いかがせん」とぞくどきける。二人の郎等(らうどう)きき、一同(どう)に申(まう)しけるは、「それまでも、おほせらるべからず。弓矢(ゆみや)をとり、T067世(よ)をわたると申せども、万死(ばんし)一生(しやう)は、一期(いちご)に一度(ど)
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とこそうけたまはれ。されば、ふるきことばにも、「〔功(こう)はなしがたくして、しかも〕やぶれやすき、時(とき)はあひがたくして、しかもうしなひ安し」。このおほせこそ、面目(めんぼく)にて候へ。是非(ぜひ)命(いのち)におきては、君(きみ)にまゐらする」とて、おの<座敷(ざしき)をたちければ、たのもしくぞ思ひける。伊東(いとう)は、いさゝか此儀(ぎ)をしらざりけるこそ、かなしけれ。
六 頼朝伊東(いとう)の館(たち)にまします事 S0106N010
 かくて、大見(おほみ)八幡は、伊東(いとう)を狙ふべき隙(ひま)をうかがふ程(ほど)に、その頃(ころ)、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)は、伊東(いとう)の館(たち)にまし<ける所に、相模国(さがみのくに)の住人(ぢゆうにん)大庭(おほばの)平太(へいだ)景信(かげのぶ)といふ者(もの)あり。一門(いちもん)よりあひ、酒(さか)もりしけるが、申(まう)しけるは、「われらは、昔(むかし)、源氏(げんじ)の郎等(らうどう)也(なり)。然れども今(いま)は、平家(へいけ)の御恩(ごおん)をもつて、妻子(さいし)をはごくむといへ共(ども)、古(いにしへ)の事、わするべきにあらず。いざや、佐殿(すけどの)の、いつしか流人(るにん)として、徒然(とぜん)にましますらん。一夜(や)、宿直(とのい)申(まう)して、なぐさめ奉(たてまつ)りて、後日(ごにち)の奉公(ほうこう)にK214申さん」「もつともしかるべし」とて、一門(いちもん)五十余(よ)人、いでたち、人別(べつ)ささえ一つあてにぞ持たせける。これを聞きて三浦(みうら)、鎌倉(かまくら)、土肥(とひの)次郎(じらう)、岡崎(おかざき)、本間(ほんま)、渋谷(しぶや)、糟屋(かすや)、松田(まつだ)、土屋(つちや)、曾我(そが)の人々、思ひ<に出(いで)たちける程(ほど)に、近国(きんごく)の侍(さぶらひ)、きゝつたへ、「われもいかT068でかのがるべき。いざやまゐらん」とて、相模国(さがみのくに)には、大庭(おほば)が舎弟(しやてい)三郎(さぶらう)、俣野(またのの)五郎、さこしの十郎、山内(やまうち)滝口(たきぐちの)太郎、おなじく三郎(さぶらう)、海老名(えびなの)源八(げんぱち)、荻野(おぎの)五郎、駿河(するがの)国には、竹下(たけのしたの)孫(まご)八、合沢弥(あひざわのや)五郎、吉川(きつかわ)、船越(ふなこし)、入江(いりゑ)の人々、伊豆国(いづのくに)には、北条(ほうでうの)
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四郎(しらう)、おなじく三郎(さぶらう)、天野藤内(あまのゝとうない)、狩野藤五(かののとうご)をはじめとして、むねとの人々五百人、伊豆(いづ)の伊東(いとう)へぞまゐりける。伊東(いとう)、大きによろこびて、内外(ないげ)の侍(さぶらい)、一面(めん)にとりはらひ、なほせばかりければ、庭に仮屋(かりや)をうちいだし、大幕(をうまく)ひき、上下二千四五百人の客人(きやくじん)を、一日一夜(や)ぞもてなしける。土肥(とひの)次郎(じらう)、これを見(み)て、「雑掌(ざつしやう)は、百人二百人までは安かるべきに、すでに二三千人の客人(きやくじん)を一人にてあづくる事、無骨(ぶこつ)なり」といふ。伊東(いとう)、これをききて、「河津(かはづ)と申(まう)す小郷(せうがう)を知行(ちぎやう)せし時(とき)にも、いづれの誰(たれ)にか、おとり候べき。ましてや、〓美庄(くすみのしやう)をふさねて〔もち候間(あひだ)、かねて〕給(たま)はるものならば、などや面々(めん<)に引出物(ひきでもの)申さであるべき。これほどの事、何(なに)かはくるしかるべき」とて、山海(さんかい)の珍物(ちんぶつ)にて、三日三夜(や)ぞもてなしける。又、海老名(えびなの)源八(げんぱち)が申(まう)しけるは、「かかるよりあひにまゐりぬとかねて存(ぞん)じて候はば、国より勢子(せこ)の用意(ようい)して、音(おと)にきこゆる奧野(おくの)にいり、物頭(ものがしら)に馬(むま)あひつけ、鏑(かぶら)のとほなりさせざるが、無念(むねん)なり」といひければ、伊東(いとう)、これをきゝ、「祐親(すけちか)を人と思ひてこそ、国(くに)の人々はうちより、両三日はあそび給(たま)ふらめ。左右(さう)なく、座敷(ざしき)にて、勢子(せこ)のねがひやうこそ、こゝろせばけれ。それ<河津(かわづの)三郎(さぶらう)、勢子(せこ)をもよほして、鹿(しゝ)T069いさせ申せ」といひけるぞ、伊東(いとう)の運(うん)のきはめなる。K215河津(かはづ)は、もとより穩便(おんびん)のものにて、心(こゝろ)の内(うち)には、殺生(せつしやう)を禁(きん)ずる人なりければ、いかにもして、此度(たび)の狩(かり)を申(まう)しとゞめなば、よかるべし、とおもへども、おほき侍(さぶらい)の中(なか)にて、親(をや)の申(まう)す事なれば、力(ちから)およばで、「あつ」と答へて座敷(ざしき)をたち、われと勢子(せこ)をぞもよほしける。「をさなきものは、馬(むま)にのりていでよ。大人(をとな)は、弓矢(ゆみや)をもて」とふれければ、〓美庄(くすみのしやう)ひろくし
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て、老若(らうにやく)に三千四五百人ぞいでたりける。かれらを先(さき)として、三が国(こく)の人々、われも<とうちいでたり。伊東(いとう)・河津(かはづ)が妻女(さいぢよ)、数(かず)の女房(にうばう)ひきつれて、南(みなみ)の中門(もん)にたちいでて、うち出(いで)ける人々を見おくりける。中(なか)にも、河津(かはづ)三郎(さぶらう)は、余(よ)の人にもまがはず、器量骨柄(きりやうこつがら)すぐれたり。「此うちの大将といひたりとも、あしからじ。子ながらも、優(ゆう)に見ゆるものかな。たのもし」とのたまひければ、河津(かはづ)が女房(ねうばう)、これをきき、「弓矢(ゆみや)とりのものいでの姿(すがた)、女(おんな)見おくる事、詮(せん)なし。内(うち)にいらせ給(たま)へ」といひければ、げにもとて、おの<内(うち)にぞ入(いり)にける。神無月(かんなづき)十日あまりに、伊豆(いづ)の奥野(おくの)へいりにけり。
 七 大見(おほみ)・八幡(やはた)が伊東(いとう)ねらひし事 S0107N011
こゝに、祐経(すけつね)が二人の郎等(らうどう)大見(おほみ)・八幡(やわた)、これをきゝ、かやうの所(ところ)こそ、よき便宜(びんぎ)T070なれ、いざや、われら、たよりをねらはんと、おの<、柿(かき)の直垂(ひたゝれ)に、鹿矢(しゝや)さげたる竹箙(たけゑびら)とりてつけ、白木(しらき)の弓(ゆみ)のいよげなるをうちかたげ、勢子(せこ)にかきまぎれ、ねらふ所(ところ)は何処々々ぞ。一日は柏峠(かしはがたうげ)、熊倉(くまくら)が谷、二日は荻窪(おぎがくぼ)、椎沢(しいがさは)、三日は長倉(ながくら)がわたり、朽木沢(くちきがさは)、赤沢峰(あかざはがみね)をはじめとして、七日が間(あひだ)、つきめぐりてぞねらひける。しかれども、伊藤(いとう)は国(くに)一番(ばん)の大名(だいみやう)にて、家(いへ)の子(こ)郎等(らうどう)おほかりければ、たやすくうつべきやうぞ、なかりける。この者(もの)どもが、心をつくしける有様(ありさま)、たとへていふべき方ぞなき。
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八 杵臼(しよきう)・程嬰(ていゑい)が事 S0108N012
 さても此の二人の者ども、仁義を重んじ、忠孝を励まし、心を尽くし狙ふ事を思ふに昔(むかし)大国(こく)に、孝明王(かうめいわう)といふ国王(こくわう)あり、ならびの王(わう)と国(くに)をあらそひ、〔ならびの国(くに)の王(わう)と〕軍(いくさ)をし給(たま)ふ事、度々(たび<)なり。しかるに、孝明王(かうめいわう)、たゝかひまけて、自害(じがい)におよばんとする時(とき)に、杵臼(しよきう)・程嬰(ていゑい)とて、二人の臣下(しんか)あり。かれらをちかづけて、「なんぢらは、さだめて、我とともに自害(じがい)せんとぞおもふらん。これ、まことにじゆんろ、のがるゝ所(ところ)なし。さりながら、われに一人の太子(たいし)、屠岸賈(とがんか)といひて十一歳(さい)になるを、故郷(ふるさと)にとゞめおきたり。われ自害(じがい)の後(のち)、雑兵(ざうひやう)の手(て)にかかりて、命をむなしくせん事、くちをしければ、なんぢら、いかにもしてのがれいでて、かの子をはぐくみそだてて、敵(かたき)をほろぼし、無念(むねん)を散(さん)ぜよ」とのたまひけれT071ば、二人の臣下(しんか)、異議(いぎ)におよばずして、囲(かこみ)のうちをしのびいでけり。孝明王(かうめいわう)、こゝろやすくして、自害(じがい)し給(たま)ひけり。さて、二人の臣下(しんか)、故宮にかへり、太子(たいし)をいざなひいだして、養育(やういく)しけるぞ、無慙(むざん)なる。かくて敵(かたき)の大王(わう)、これをきゝつたへ、「末(すゑ)の世には、わが敵(かたき)なり。かの太子、おなじく二人の臣下(しんか)どもの首(くび)をとりてきたらん者(もの)には、勲功(くんこう)は所望(しよまう)によるべし」と、国々(くに<”)に宣旨(せんじ)を下されけり。この宣旨(せんじ)にしたがつて、かの人々に心(こゝろ)をかけ、いかにもしてあやしみもとめんとおもはぬ者(もの)はなかりけり。しかれども、一所(いつしよ)のすまひかなはで、あるいは、とほき里(さと)にまじはり、ふかき山にこもりて、身をかくすといへども、所(ところ)なくして、二人よりあひ、いかがせんとぞなげきける。程嬰(ていゑい)
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申(まう)しけるは、「われらが、君(きみ)を養(やう)じ奉(たてまつ)るに、敵(かたき)こはくして、国中(こくちう)にかくれがたし。されば、われら二人がうち、一人、敵(かたき)の王(わう)にいでつかへんといはん時、さるK217物とて、〔つかふとも、〕心(こゝろ)をゆるす事あらじ。時に我が子きくわくといひて、十一歳(さい)になる子を、一人もちたり。さいはひ、〔これも、〕我君(わがきみ)と同年(どうねん)也。これを大子(し)と号(かう)して、二人が中、一人は山にこもり、一人は討手(うつて)にきたり、主従(しう<”)二人をうち、首(くび)をとり、敵(かたき)の王(わう)にさゝげなば、いかでか心(こゝろ)ゆるさざるべき。その時(とき)、敵(かたき)をやす<とうちとるべし」といひければ、杵臼(しよきう)申(まう)しけるは、「いのちながらへて後(のち)に、事(こと)をなすべきこらへのせいは、とほくしてかたし。今(いま)、太子(たいし)とおなじく死(し)せん事はちかくして安し。しかれば、杵臼(しよきう)は、こらへのせい、すくなき者(もの)なり。やすきT072につき、われまづしぬべし。程嬰(ていゑい)は、敵方(てきはう)にいでんことをいそぎ給(たま)へ」とぞ申(まう)しける。その後(ゝち)、程嬰(ていゑい)、わが子(こ)のきくわくをちかづけて、「いかに、なんぢ、くはしくきけ。われらは、主君(しゆくん)の大子(し)かくし奉(たてまつ)らんとせし故、われ<、なんぢまでも、かたきにとらはれて、犬死(いぬじに)をせん事、うたがひなし。しかれば、なんぢを太子(たいし)といつはり奉(たてまつ)りて、首(くび)をとるべし。うらむる事なくして、御命(おんいのち)にかはり奉(たてまつ)りて、君(きみ)を安全(あんぜん)ならしめよ。親(おや)なればとて、そひはつべきにもあらず。来世(らいせ)にてむまれあふべし」と申(まう)しければ、きくわく、きゝもあへず、涙をながして、しばし返事もせざりけり。父(ちゝ)、この色(いろ)を見(み)て、「未練(みれん)なり。なんぢ、はや十歳(さい)にあまるぞかし。弓矢(ゆみや)とる者(もの)の子(こ)は、胎(はら)の内(うち)よりも、ものの心(こゝろ)はしるぞかし」といさめければ、きくわく、このことばを聞きいひけるは、「わが命惜しきにより泣くにはあらず。まことに、それがしが、命(いのち)一つにて、君(きみ)と父(ちゝ)との孝行(かう<)にさゝげ申さん事、露塵ほ
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どもをしからざるものをや、なげきの中(なか)のよろこび也」といひもあへず、涙(なみだ)にむせびけり。父(ちゝ)、これをきゝ、子ながらも、優(ゆう)につかひたることばかな、いまだをさなきものぞかし、まことにわが子(こ)なり、成人(せいじん)の後(のち)、さぞ、と思ひければ、をしといふもあまりあり、われ心(こころ)よわきと見えなば、もし未練(みれん)にもやなりなんと思ひけれK218ば、ながるゝ涙(なみだ)おしとゞめ、「弓矢(ゆみや)の家(いへ)にむまれて、君(きみ)のために命(いのち)をすつる事、なんぢ一人にもかぎらず、最後(さいご)未練(みれん)にては、君(きみ)の御ため、T073父(ちゝ)がため、なか<見ぐるしとて、一命(めい)を損(そん)ずべき也」といひければ、きくわく、涙(なみだ)をおさへて、「かほどに、ふかく思ひさだめて候へば、いかでおろかなるべき。心安く思し召せ。さりながら、さしあたる父母(ちゝはゝ)の御わかれ、いかでかをしからで候べき。最後(さいご)におきては、おもひさだめて候」と申(まう)しければ、父(ちゝ)も、こゝろやすくぞおもひける。さて又、二人よりあひ、内談(ないだん)するやう、「〔まづ〕今(いま)、君(きみ)の御ために、うたるべき命(いのち)はやすく、のこりとゞまりて、敵(かたき)をうちて、太子(たいし)を世にたて申さん事、おもきが上(うへ)の大事なり。いかゞせん。ながらへ、功(こう)をなす事、堪忍(かんにん)精なくしてはなりがたし。われ、まづしなん」とて、杵臼(しよきう)は、十一歳(さい)のきくわくをつれて、山にこもり、討手(うつて)をまちける心(こゝろ)のうち、無慙(むざん)といふもあまりあり。その後(のち)、程嬰(ていゑい)は、敵(かたき)の王(わう)のあたりにゆき、「めしつかはれん」と申(まう)す。敵王(てきわう)きゝ、この者(もの)、身(み)をすて、面(おもて)をよごし、われにつかふべき臣下(しんか)にあらず、さりながら、世かはり、時(とき)うつれば、さもやと思ひ、かたはらにゆるしおくといへども、なほ害心(がいしん)におそれて、ゆるす心(こゝろ)なかりけり。いひあはせたる事なれば、「われ、今(いま)、君王(くんわう)につかへて、二心(ごゝろ)なし。うたがひことわりなれども、世界(せかい)をせばめられ、恥辱(ちじよく)にかへて、
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たすかるなり。なほし、もちひ給(たま)はずば、主君(しゆくむ)の太子(たいし)、臣下(しんか)の杵臼(しよきう)もろともに、かくれゐたる所(ところ)を、くはしくしれり。討手(うつて)を給(たま)はつてむかひ、かれらをうち、首(くび)をとりてみせまゐらせん」といふ。その時(とき)、国王(こくわう)、和睦(くわぼく)の心(こゝろ)をなし、数千T074人(すせんにん)の兵(つわもの)をさしそへ、かれらがかくれゐたる山へおしよせ、四方(はう)をかこみ、閧(とき)の声(こゑ)をぞあげたりける。杵臼(しよきう)は、思ひまうけたることなれば、しづまりかへりて、音(おと)もせず。程嬰(ていゑい)、すゝみいでて申(まう)しけるは、「これは、孝明王(かうめいわう)の太子(たいし)屠岸賈(とがんか)やまします。程嬰(ていゑい)、討手(うつて)にまゐりたり。K219雑兵(ざうひやう)の手(て)にかかり給(たま)はんより、いそぎ自害(じがい)し給(たま)へ。のがれ給(たま)ふべきにあらず」と申(まう)しければ、杵臼(しよきう)たちいで、「我君(わがきみ)のましますこと、かくし申(まう)すべきにあらず。まち給(たま)へ。御自害(じがい)あるべし。さりながら、今日(けふ)の大将軍(ぐん)の程嬰(ていゑい)は、昨日(きのふ)までは、まさしき相伝(さうでん)の臣下(しんか)ぞかし。一旦(たん)の依怙(ゑこ)に住(じう)すとも、つひには、天罰(てんばつ)ふりてきたり、とほからざるに、うせなん果(はて)を見ばや」とぞ申(まう)しける。程嬰(ていゑい)、これをきゝ、「時世(ときよ)にしたがふならひ、昔(むかし)は、さもこそありつらめ、今(いま)又、かはる折節(をりふし)なり。さればにや、君(きみ)も、御運(ごうん)つきはて、命(めい)もつづまり給(たま)ふぞかし。いたづらごとにかかはりて、命(いのち)をうしなひ給(たま)はんより、兜(かぶと)をぬぎ、弓(ゆみ)の弦(つる)をはづし、降参(かうさん)し給(たま)へ。古(いにしへ)の情(なさけ)をもつて、たすくべし」とぞいひける。十一歳(さい)のきくわく、討手(うつて)は父(ちゝ)よとしりながら、かねてさだめしことなれば、父(ちゝ)重代(ぢうだい)の剣(けん)をよこたへ、たかき所(ところ)にはしりあがり、「いかに、人々、きゝ給(たま)へ。孝明王(かうめいわう)の太子(たいし)として、臣下(しんか)の手(て)にかかるべき事にもあらず。又、臣下(しんか)心(こゝろ)がはりも、うらむべきにもあらず。たゞ前業(ぜんごう)こそつたなけれ。さりながら、その家(いへ)ひさしき郎等(らうどう)ぞかし。程嬰(ていゑい)、出(いで)給(たま)へ。日(ひ)ごろのよし
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みに、今(いま)一度(ど)見参(げんざん)せん」といふ。程嬰(ていゑい)はわが子(こ)のふるまひを見(み)て、こゝろやすくおもへども、しのびの涙(なみだ)ぞすすみける。兵(つわもの)あやしくや見るらんと、おつる涙(なみだ)をおしとゞめ、「人々、これをきゝ給(たま)へ。国王(こくわう)の太子(たいし)とて、優(ゆふ)につかひたることばかな。かうこそありたけれ」といひけるが、さすが恩愛(おんない)のわかれ、つゝみかねたる涙(なみだ)の袖(そで)、しぼりもあへず、よそのあはれをもよほしつゝ、あひしたがふ兵(つはもの)は、さしあたる道理(だうり)なれば、ともに感(かん)ぜぬはなかりけり。その後(のち)、太子(たいし)、高声(かうしやう)にいはく、「われは〔これ、〕孝明王(かうめいわう)の太子(たいし)、生年(しやうねん)十一歳(さい)。父(ちゝ)一所(しよ)にむかへ給(たま)へ」といひもはてず、剣(けん)をぬき、つらぬかれてぞ、ふしぬ。杵臼(しよきう)、おなじくたちよりて、「けなげにも、御自害(じがい)候物かな。それがしも、やがておひつきK220奉(たてまつ)らん」とて、腹(はら)十文字(もんじ)にかきやぶり、太子(たいし)の死骸(しがひ)にまろびかゝりて、ふしにける有様(ありさま)、みるにことばもおよばれず、無慙(むざん)なりし例(ためし)なり。さて、二人が首(くび)をとりて、国王(こくわう)にさゝぐ。叡覧(えいらん)ありて、喜悦(きゑつ)の眉(まゆ)をひらき給(たま)ふ。今(いま)は、うたがふ所(ところ)なく、程嬰(ていゑい)に心(こゝろ)をゆるし、一の大臣(じん)にそなへ給(たま)ふこそ、御運(ごうん)のきはめとぞおぼえける。さても程嬰(ていゑい)は隙(ひま)をうかがひて、敵(てき)王をうつて、すみやかに、主君(しゆくん)の屠岸賈(とがんか)を世にたて、二度(たび)国王にそなへしかば、もとのごとく、程嬰(ていゑい)をさう臣(しん)にたてらるるによつて、杵臼(しよきう)、きくわくのために、追善(ついぜん)その数(かず)をしらず。〔かくて、〕三年(とせ)に、国(くに)こと<”くしづまりをはりて後(のち)、程嬰(ていゑい)、君(きみ)に暇(いとま)をこひていはく、「われ、杵臼(しよきう)に契約(けいやく)して、命(いのち)を君(きみ)に奉(たてまつ)ること、T076遅速(ちそく)をあらそひしなり。御位(くらい)、これまでなり。今(いま)は、おもひおく事なければ、杵臼(しよきう)が草(くさ)の蔭(かげ)にての心(こゝろ)もはづかし。自害(じがい)つかまつらん」と申(まう)す。帝王(ていわう)、おほきになげきて、これをゆるすことなし。されども、隙(ひま)をはからひ、しのび出(いで)て、
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杵臼(しよきう)が塚(つか)の前(まへ)にゆき、「君(きみ)の御位(くらい)は、思ふまゝなり。いかにうれしくおもひ給(たま)ふらん。われ又、かくのごとし。古(いにしへ)の契約(けいやく)わすれず」といひて、腹(はら)かききり、うせにけり。あはれなりし例(ためし)なり。されば大見(おほみ)・八幡(やわた)が、主(しう)のために、命(いのち)をかろんじて、伊東(いとう)をねらひし志(こころざし)、これにはすぎじとぞおぼえける。
九 奥野(おくの)の狩座(かりくら)の事 S0109N013
 さても、両三が国(こく)の人々は、おの<奥野(おくの)にいり、方々(はう<”)より勢子(せこ)を入(いれ)て、野干(やかん)をかりける程(ほど)に、七日がうちに、猪(いのしゝ)六百、鹿(かのしし)千頭(せんかしら)、熊(くま)三十七、〓鼠(むさゝび)三百、そのほか、雉(きじ)、山鳥(やまどり)、猿(さる)、兎(うさぎ)、貉(むじな)、狐(きつね)、狸(たぬき)、豺(さい)、大かめの類(たぐひ)にいたるまで、以上その数(かず)二千七百あまりぞ、とゞめられける。今(いま)は、さのみ野干(やかん)をほろぼして、何(なに)にかはせんK221とて、おの<柏峠(かしはがたうげ)にぞあがりける。この程(ほど)の雑掌(ざつしやう)は、伊東(いとう)一人して、暇(ひま)なかりければ、「もたせたる酒(さけ)、人々(ひと<”)の見参(げんざん)にいれざるこそ、本意(ほんい)なけれ。いざや、山陣(ぢん)をとりて、頼朝(よりとも)に、今(いま)T077一獻(こん)すすめ奉(たてまつ)らん」「しかるべし」とて、むねとの人々五百余(よ)人、峠(たうげ)におりゐつつ用意(ようい)をこそはせられけれ。
十 同じく酒盛りの事S0110
 さる程に柏峠(かしはがたうげ)に各うち上がりければ、土肥(とひの)次郎(じらう)が申(まう)しけるは、「今日(けふ)の御酒(さか)もりは、かねて座敷(ざしき)の
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御さだめあるべし。わかき方々(かた)<”の御違乱(いらん)もや候べき」。大庭(おほばの)平太(へいだ)はこれを聞き、「これは芝居(しばい)の座敷(ざしき)、誰(たれ)を上下とさだむべき。年寄(としよら)ふ人の盃(さかづき)は、海老名殿(えびなどの)よりはじめ、若殿(わかとの)ばらは、滝口殿(たきぐちどの)よりはじめよ。この人は、いづかたにぞ」と申(まう)しければ、弟(おとゝ)の三郎(さぶらう)きき、「兄(あに)にて候ものは、熊倉(くまくら)の北(きた)の脇(わき)に、鹿(しゝ)の来るを、目(め)にかけ、ふかいりして、いまだ見えず候へ。家俊(いへとし)こそまゐりて候」。土屋(つちや)が申(まう)しけるは、「三郎(さぶらう)殿こそ、滝口殿(たきぐちどの)よ。兄弟(きやうだい)の中に、誰(たれ)をかわきてへだつべき。その盃(さかづき)、三郎(さぶらう)殿(どの)よりはじめよ」といふ時、大庭(おほば)きゝ、「滝口殿(たきぐちどの)は、年(とし)こそわかけれども、さる人ぞかし。今(いま)きたるといふを、すこしの間(あひだ)、またぬか。左右(さう)なく肴(さかな)あらすな」とて、奥野(おくの)の山口(やまぐち)の方(かた)へむかひをやり、滝口(たきぐち)おそしとまつ所(ところ)に、滝口(たきぐち)は、熊倉(くまくら)の北(きた)の脇(わき)をすぐるに、埒(らち)の外(そと)に、熊(くま)の大きなるを見つけて、元(もと)の繁みへいれじと、平野(ひらの)におひくだす所(ところ)に、滝口(たきぐち)、大なる伏木(ふしき)に馬(むま)をのりかけ、まつさかさまにはせたふす。〔たふるゝ〕馬(むま)をかへり見ず、弓(ゆみ)のもとを、左右(さう)の鐙(あぶみ)にのりかかり、草(くさ)がくれに、矢(や)ごろすこしのびたりけるを、三人ばりに、十三束(ぞく)の大鏑矢(おほかぶらや)つがひ、拳上(こぶしうへ)にひきかけ、ひやうどはなつ。〔ひやうど〕とほなりして、右(みぎ)の折骨(をりぼね)二(ふた)つ三つ、はらりといければ、鏑(かぶら)はわれて、さつとK222ちりければ、T078鏃(やじり)は、岩(いわ)にがしとあたる。熊(くま)は、手(て)をおひ、滝口(たきぐち)にたけりてかかる。勢子(せこ)の者(もの)ども、これを見(み)て、四方(はう)へばつとぞにげたりける。滝口(たきぐち)、二の矢(や)をつがひ、しぼり返して、月の輪(わ)をはづさじと、いをかけていければ、熊(くま)は、すこしもうごかず、矢(や)二つにて、とゞまりけり。その後(ゝち)、勢子(せこ)の者(もの)どもよびよせ、熊(くま)をかかせて、人々のおりゐたる峠(たうげ)にうちのぼり、いそぎ馬(むま)よりおり、「肴(さかな)たづ
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ね候とて、ふかいりつかまつり、遅参(ちさん)申(まう)すなり。御免(ごめん)候へ」といひて、笠(かさ)をもぬがず、靫(うつぼ)をもとかず、行縢(むかばき)ながら、弓杖(ゆづゑ)つきてたちたり。吉川(きつかわの)三郎(さぶらう)、俣野(またの)にいくみてありけるが、これを見(み)て、「滝口(たきぐち)殿は、きゝしより、見ましておぼゆる物かな。あつぱれ男(をとこ)かな」とほめければ、座敷(ざしき)にゐわづらひたり。まことに気色顔(きしよくがほ)にて、何事(なにごと)がな、力業(ちからわざ)して、なほほめられんとおもへ共(ども)、芝居(しばい)のことなれば、かなはでありけるを、弟(おとゝ)の滝口(たきぐち)三郎(さぶらう)船越(ふなこし)十郎がゐたりける間(あひだ)に、あをめなる石(いし)の、たかさ三尺(さんじやく)ばかりなるをよりて、もたばやと思ひければ、する<とあゆみけるを見(み)て、弟(おとゝ)の家俊(いへとし)、たたんとす。膝(ひざ)をおさへて、はたとにらみて、「弓矢(ゆみや)の座敷(ざしき)をかたさるとは、わがゐたる家(いへ)を出(いで)て、他所(たしよ)にゐわたり、その家(いへ)に人をおくをこそ、座敷(ざしき)かたざるとはいへ。これ、ここなる石(いし)の、二人が間(あひだ)にありて、つまりやうのにくさにこそ」といひて、右(みぎ)の手(て)をさしのべて、後(うしろ)ざまへおしければ、大石(せき)がおされて、谷(たに)へどうどおちゆく。海老名(えびなの)源八(げんぱち)が、これを見(み)て、東(とう)八か国(こく)のうちに、男子(をのこご)もちT079たらん人は、滝口殿(たきぐちどの)をよきものあやかりにせよ、器量(きりやう)といひ、弓矢(ゆみや)とりては、樊噌(はんくわい)・張良(ちやうりやう)なり。あつぱれ、侍(さむらひ)や」とほめられ、いよ<気色(きしよく)をまし、老(おい)の末座敷(ばつざしき)よりすすみいで、申(まう)しけるは、「たゞ今(いま)の盃(さかづき)も、さる事にて候へども、あまりにもどかしくK223おぼえ候。大なる盃(さかづき)をもつて、一(ひとつ)づつ御まはし候へかし」と申(まう)しければ、「滝口殿(たきぐちどの)のおほせこそ、おもしろけれ」とて、伊東(いとうの)次郎(じらう)貝(かひ)といふ貝(かい)をとりいだし、この貝(かい)は、日本(ぽん)一二番(ばん)の貝(かい)とて、院(ゐん)へまゐらせたりしを、公家(くげ)には、貝(かい)を御もちひな
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き事なれば、武家(ぶけ)にくださるる。太郎貝(かひ)をば、秩父(ちゝぶ)にくださる、提子(ひさげ)五つぞ入(いり)ける、次郎(じらう)貝(がい)をば、三郎(さぶらう)にくださる、新介(しんすけ)給(たま)はつて、土肥(とひの)次郎(じらう)にとらする、殿上(てんじやう)をゆるされたる器物(うつはもの)とて、秘蔵(ひさう)してもちけるを、折節(をりふし)、河津(かわづの)三郎(さぶらう)、土肥(とひ)が聟(むこ)になりてきたりしを、引出物(ひきでもの)にしたりけり。内(うち)はおのれなりにして、外(そと)は梨地(なしぢ)にまきて、いそなりにめをさしたり、提子(ひさげ)三つぞ入(いり)ける、これをとりいだし、滝口(たきぐち)がもとよりはじめて、二度(ど)づつぞまはしける。五百余(よ)人のもちたる酒(さけ)なれば、酒(さけ)に不足(ふそく)はなかりけり。後(のち)には、乱舞(らんぶ)して、をどりはねてぞ、あそびける。海老名(えびなの)源八(げんぱち)、盃(さかづき)ひかへて、申(まう)しけるは、「これは、めでたき世の中(なか)を、現(うつつ)ともさだめがたく、昔(むかし)がたりにならん事こそ、かなしけれ。老少不定(らうせうふぢやう)といひながら、わかきは、たのみあるものを、若殿(わかとの)ばらのやうに、まひうたはんとおもへども、膝(ひざ)ふるひ、声(こゑ)もたたず、りうせきが、塚(つか)よりいでて、はんらうが、茫然(ばうぜん)とせしT080やうに、酒(さけ)もれや、殿(との)ばら。あはれ、〔きみ〕わかくありし時(とき)は、これほどの盃(さかづき)二三十のみしかども、座敷(ざしき)にふす程(ほど)の事はあらねども、老(おい)のきはめやらん、腰膝(こしひざ)のたたざるこそ、かなしけれ。偏に白居易(はつきよい)が昔(むかし)もかくや老いにけん、今更おもひ出(いで)られて、哀れにこそは覚えけれ。
十一 おなじく相撲(すまふ)の事 S0111N015
 さる程に、「古を思ふに秀貞(ひでさだ)がわかざかりには、鷹狩(たかがり)、川狩(かわがり)のかへり足(あし)には、力業(ちからわざ)、相撲(すまふ)がけこそ、おもしろけれ。わかき
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人々、K224相撲(すまふ)とり給(たま)へ。見(み)てあそばん。見物(けんぶつ)には、上やあるべき」といひければ、伊豆国(いづのくに)の住人(ぢゆうにん)、三島(みしまの)入道(にふだう)将監(しやうげん)、ゐだけだかになりて、「石(いし)ころばかしの滝口殿(たきぐちどの)と合沢(あひざはの)弥(や)五郎殿、いでてとり給(たま)へ。これこそ、あひごろの力(ちから)ときけ。さもあらば、入道(にふだう)いでて、行司(ぎやうじ)にたたん」といふ。滝口(たきぐち)きゝて、「坂東(ばんどう)八か国(こく)に、つよき者(もの)はなきか。かほどの小男(こをとこ)を、相手(あいて)にさゝるゝは、馬(むま)の上(うへ)、かちだちなりとも、脇(わき)ばさみたゝんに、はたらかさじ」といひければ、弥(や)五郎きゝて、「伊豆(いづ)、駿河(するが)、武藏(むさし)、相模(さがみ)に、つよき物はなきか。滝口(たきぐち)がせいと力(ちから)をうらやむは。下臈(げらう)の好むところにこそ、器量(きりやう)によりて、荷(に)をばもて、侍(さむらひ)は、せいちひさく、力はよわけれども、鎧(よろい)一領(りやう)肩にひつかけ、弓(ゆみ)おしはり、矢(や)かきおひ、よき馬(むま)にうちのりて、戦場(せんぢやう)にかけいでて、思ふT081敵(かたき)にひつくみて、両馬(りやうば)が間(あひだ)におちかさなり、胆(きも)まさりて、腰(こし)の刀(かたな)をぬき、下(した)にふしながら、大の男(をとこ)をひつかけ、草摺(くさずり)をたゝみあげ、急所(きうしよ)を隙(ひま)なくさして、はねかへし、おさへて、首(くび)をとる時(とき)は、大の男(をとこ)も、ものならず」と、あざわらひてぞ申(まう)しける。滝口(たきぐち)、たまらぬ男(をとこ)にて、「首(くび)をとるか、とらるゝか、力(ちから)は、外(ほか)にもあらばこそ。いざや、老(おい)の御肴(おんさかな)に、力(ちから)くらべの腕相撲(うでずまう)一番とらん」といふまゝに、座敷(ざしき)をたち、直垂(ひたたれ)をぬぎ、「何程(なにほど)のことの候べき。しや肋骨(あばらぼね)二三枚(まひ)、つかみやぶりて、すつべきものを」とて、つつといでけり。弥(や)五郎も、「こゝろえたり。物<しや。力拳(ちからこぶし)のこらへん程(ほど)は、命(いのち)こそかぎりよ」といひ、座敷(ざしき)をたつ。一座(ざ)の人々、これを見(み)て、あはや、事(こと)こそいできぬと見る程(ほど)に、ちかくにありける合沢(あひざは)、申(まう)すやう、「あまりはやし、滝口(たきぐち)殿。相撲(すまふ)は、まづ小童(こわらんべ)、冠者(くわじや)ばらに、とら
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せて、とりあげたるこそ、おもしろけれ。おとなげなし、滝口殿(たきぐちどの)。とゞまり給(たま)へ」とひきすゑたり。吉川(きつかわ)、これを見(み)て、「弥(や)五郎殿(どの)も、まづおさへよ。合沢(あひざは)が弟(をとゝ)の弥(や)七郎に、いでよ」といふ。すこし辞退(じたい)K225におよびしを、船越(ふなこし)ひきたてて、たづなとりかへ、いだしけり。年(とし)におきては、十五なり。姿(すがた)を物(もの)にたとふれば、まだ声(こゑ)わかき鴬(うぐひす)の、谷(たに)よりいづるもかくやらん。「誰(たれ)をか相手(あひて)にさすべき」と、座敷(ざしき)をきつと見まはしければ、「滝口(たきぐち)が弟(をとゝ)の三郎(さぶらう)、いでよ」といふ、ことばの下(した)より、いでにけり。年(とし)におきては、十八なり。いづれも、相撲(すまふ)は上手(じやうず)なれば、おの<さしよりて、つまどりT082したる有様(ありさま)は、春(はる)まちかねてさく梅(むめ)の、雪(ゆき)をふくめるごとくなり。われ人、力(ちから)はしらねども、雲(くも)ふきたつる山風(かぜ)の、松(まつ)と桜(さくら)に音(おと)たてて、鳥(とり)もおどろく梢(こずへ)かと、諸(しよ)人、目(め)をこそさましけれ。弥(や)七は、力(ちから)おとりなれども、手合(てあひ)ましてぞ見えにける。三郎(さぶらう)は、力(ちから)はまさりてありければ、くまんとのみにて、さしつめむすべば、すててぬけ、なぐれば、かけてまはりしは、桃華(たうくわ)の節会(せちゑ)の鶏(にはとり)の、心をくだき、羽(は)をつがひ、勝負(せうぶ)をあらそふ鶏(とり)あはせも、これにはすぎじとぞ見えたりける。老若(らうにやく)、座敷(ざしき)にこらへかね、「あつぱれ、うき世(よ)の見ごとや」と、上下しばらくのゝめきて、東西(とうざい)さらにしづまらず。されども、弥(や)七は、地さがりへおしかけられ、とゞろはしりて、そ首(くび)をつかれ、つひに弥(や)七ぞ、まけたりける。兄(あに)の弥(や)六、つつといで、三郎(さぶらう)をはたとけて、あふのきざまにうち倒す。滝口(たきぐち)、無念(むねん)に思ひつつ、弟の三郎(さぶらう)が、いまだおきざる先(さき)に、をどり出(いで)、大力(おほぢから)なりければ、弥(や)六は、手(て)にもたまらず、まけにけり。兄(あに)の弥(や)五郎、弟(おとゝ)二人まかして、やすからずにおもひ、袴(はかま)の腰(こし)、とくをおそしとひ
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ききり、たづな二筋(すぢ)えりあはせ、つよくをさめ、はしりいで、ちか<”とさしあひ、力(ちから)ひきて見ければ、大の男(をとこ)が、ふみはりて、すこしもうごかされず、一定(ぢやう)、われもまけぬべし、まことや、相撲(すまふ)は、力(ちから)によらず、手(て)だにまされば、みぎわまさりの相手(あひて)をもうつものをとおもひいだして、合沢(あひざは)、右(みぎ)の拳(こぶし)をにぎりかため、滝口(たきぐち)が鬢(びん)のはづれ、きれてのけと、うちければ、滝口(たきぐち)、K226うたれT083て、左右(さう)の拳(こぶし)をうちかへす。その後(のち)、まけじ、おとらじと、手(て)をはなち、はりあひける。今(いま)は、相撲(すまふ)はとらで、ひとへに当座(たうざ)の口論(こうろん)とぞ見えける。両方(りやうはう)、さへんとする所(ところ)に、弥(や)五郎、隙(ひま)なく、つつと入(いり)、滝口(たきぐち)が小股(こまた)をかいて、はなじろにおしすゑたり。いきほひたる滝口(たきぐち)、あへなくまけしかば、しばらく相撲(すまふ)ぞなかりける。弥(や)五郎は、広言(かうげん)しつる滝口(たきぐち)にかちて、百千番(ばん)のまけも物ならず、これにかつこそうれしけれ、何者(なにもの)なりともと思ふ所(ところ)に、葛山(かつらやまの)又七いでて、手(て)にもたまらずまけて後(のち)、究竟(くつきやう)の相撲(すまふ)五番までかちて、立つたる有様(ありさま)は、勢(いきおひ)あまりてぞ見えける。こゝに、相模(さがみの)国の住人(ぢゆうにん)、柳下(やぎしたの)小(こ)六郎いでて、合沢(あひざはの)弥(や)五郎をはじめとして、よき相撲(すまふ)六番(ばん)かつ。駿河(するがの)国の住人(ぢゆうにん)、竹下(たけのしたの)孫(まご)八出(いで)て、小(こ)六郎をはじめとして、よき相撲(すまふ)九番(ばん)うつて、いらんとする所(ところ)に、大庭(おほば)が舎弟(しやてい)俣野(またのゝ)五郎いでて、孫(まご)八をはじめとして、よき相撲(すまふ)十番勝ちければ、「いでてとらん」といふ者(もの)なし。駿河国(するがのくに)高橋(たかはしの)忠(ちう)六、「いざやとらん」といふ。側(そば)にありける海老名(えびなの)秀貞(ひでさだ)、「これこそ、俣野(またのゝ)五郎よ。道理(だうり)にて、うちけるぞや」。景久(かげひさ)聞きて「相撲(すまふ)が、たえてなからんにこそ」といひければ、〔土屋(つちやの)〕平太(へいだ)、これをきゝ、「俣野(またの)も、手(て)一つ、われも、手(て)一
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つ、臆(おく)してばし、まけけるか。かれ体(てい)の相撲(すまふ)をば、十人ばかりもと一(ひと)つかみに、思ひ、着る物をぬぎおき、たづなかきまうけ、まくれば、のりこえ、うつれば、いれかへ、息(いき)をもつがせず、隙(すき)をもあらせず、せめたふせ」「この儀(ぎ)おもしろし」とて、T084十人ばかりなみゐて、まくれば、つと出(いで)、うつれば、はねこえ、せめけれども、究竟(くつきやう)の上手(じやうず)の大力(おほぢから)なれば、つゞけて、二十一番かちけり。その時(とき)、土肥(とひの)次郎(じらう)実平(さねひら)、座敷(ざしき)をたち、つま紅(ぐれなひ)に、日をいだしたる扇(あふぎ)をひらきて、俣野(またの)をしばしあふぎて、「よき御相撲(すまふ)かな。あつぱれ、実平(さねひら)が年K227十四五もわかくば、いでてとらばや」といふ。俣野(またの)ききて、「何(なに)かはくるしかるべき。いで給(たま)へ。一番(ばん)とらん。相撲(すまふ)は、年(とし)により候はず」といひければ、土肥(とひ)は、なまじひに、ことばをかけて、おめ<といはれて、とるよりほかの、事はなし。伊東(いとう)は、三浦(みうら)にしたしく、河津(かはづ)は、土肥(とひ)が聟(むこ)なり、土肥(とひ)が今日(こんにち)の恥辱(ちじよく)は、この一門(いちもん)にはなれじとおもへば、伊東(いとうの)次郎(じらう)が嫡子(ちやくし)河津(かわづの)三郎(さぶらう)祐重(すけしげ)をば、父(ちゝ)伊東(いとう)より人おもくおもひければ、無(む)二無三のあそびなれども、「いでてとれ」といふ人もなし、老(おい)の末座(ばつざ)にありけるが、座敷(ざしき)をたちて、舅(しうと)の土肥(とひの)次郎(じらう)にさゝやきけるは、「今(こん)日の御酒(さか)もりには、老若(らうにやく)のきらひなく候に、などや祐重(すけしげ)一番ともうけたまはり候はず。むなしくかへり候はば、わかき者のおひすげしたるににて候。御はからひ候へ。一番(ばん)〔とり候はん〕」といひければ、実平(さねひら)きゝて、俣野(またの)のことばのにが<しさにぞ、とらんといふらん、さりながら、聟(むこ)をまかしては、面目(めんぼく)なしとや思ひけん、返事(へんじ)にもおよばで、赤面(せきめん)してぞゐたりける。父(ちゝ)伊東(いとう)、これをきゝ、子(こ)ながらも、力(ちから)はつよき物を、とらせて見ばやと思ひけれ
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ども、ためらふ折節(をりふし)、此ことばをきゝ、「神妙(しんべう)に申(まう)したり。T085出(いで)てとれ」といひければ、直垂(ひたゝれ)ぬぎおき、しろきたづな二筋(すぢ)よりあはせ、かたくをさめて、いでんとす。伊東方(いとうがた)の者(もの)出(いで)て、「御相撲(すまふ)にまゐらん。俣野(またの)殿」といふ。景久(かげひさ)聞きて腹(はら)をたて、「相撲(すまふ)はこれに候ぞ。いであはせ候へといふは、常(つね)の事ぞかし。〔総(そう)じて、〕手相撲(てずまふ)の座敷(ざしき)にて、左右(さう)なく相手(あひて)の名字(みやうじ)よぶ事なし。氏(うぢ)といひ器量(きりやう)といひ、河津(かはづ)にやまくべき。小腕(こがひな)おしをりすつべきものを」と、わらひていづるを見れば、菩薩(ぼさつ)なりにして、色(いろ)あさぐろく、丈(たけ)は六尺(しやく)二分(にぶん)、年(とし)は三十一にぞなりける。又河津(かはづ)が姿(すがた)は、さし肩(かた)にして、顔の骨(ほね)あれて、首(くび)ふとく、頭(かしら)小さく、裾(すそ)ふくらに、後(うしろ)の折骨(をりほね)、臍(ほぞ)の下(した)へさしこみ、力士(りきじ)なりにして、丈(たけ)はK228五尺(しやく)八分(ぶん)、年(とし)は三十二なり。さしより、つまどり、ひし<として、おしはなれ、河津(かはづ)思ひけるは、俣野(またの)はきゝつるににず、さしたる力(ちから)にてはなかりけり、今日(けふ)の人々のおほくまけけるは、酒(さけ)にゑひけるか、臆(おく)しける故(ゆゑ)なるべし。今度(こんど)は、手(て)にもたつまじきものをと思ひけるが、心をかへて思ふやう、さすがに俣野(またの)は、相撲(すまふ)の大番(おふばん)つとめに、都(みやこ)へのぼり、三年の間(あひだ)、都にて相撲(すまふ)になれ、一度(ど)も不覚(ふかく)をとらぬ者(もの)なり。その故(ゆゑ)に院(ゐん)・内(うち)の御目(め)にかかり、日本(ほん)一番(ばん)の名(な)をえたる相撲(すまふ)なり。今(いま)こゝもとにて、物の手(て)もなくまかさん事は、かへりていひがひなしとおもへば、二度目(どめ)にはさしより、左右(さう)の腕(かひな)をつかんで、〔左手(ゆんで)・〕右手(めて)におはします、雑(ざう)人の上(うへ)におしかけ、膝(ひざ)をつかせて、いりにけり。俣野(またの)は、たゞもいらずして、「こゝなる木(き)の根(ね)にけつまづきて、不覚(ふかく)T086のまけをぞしたりけるや。〔いざや、〕今(いま)一番(ばん)とらん」といふ。大庭(おほば)、こ
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れをきゝ、はしり出で、「げに<、これに木(き)の根(ね)あり。まん中(なか)にて、勝負(せうぶ)し給(たま)へ」といひければ、伊東(いとう)聞きて申(まう)しけるは、「河津(かはづ)が膝(ひざ)、すこしながれて見え候ぞ。ねきりの相撲(すまふ)ならばこそ、意趣(いしゆ)もあらめ。たゞ一座(ざ)の一興(いつけう)にまけ申(まう)して、おもしろし。出(いで)あひ申せ」といひければ、河津(かはづ)は、やがてぞいでにける。俣野(またの)も、いでんとしたりしを、一族(ぞく)ども、「いかにとるとも、かつまじきぞ。たゞ此(この)まゝにて、入(いり)給(たま)へ。論(ろん)の相撲(すまふ)は、勝負(せうぶ)なし。かちたるには、まさるぞかし。この度(たび)まけば、二度(ど)のまけなるべし」といひければ、俣野(またの)がいふやう、「河津(かはづ)は、力(ちから)はつよくおぼゆれども、相撲(すまふ)の故実(こじつ)は候はず、御覧(らん)ぜよ」といひすてて、なほもいでんとする所(ところ)を、しばしとゞめていひけるは、「河津(かはづ)が手合(てあひ)をよく見れば、御分(ごぶん)にみぎわまさりの力(ちから)なり。かれら体(てい)の相撲(すまふ)をば、左右(さう)の手(て)をあげ、爪先(つまさき)をたてて、上手(うはて)にかけてまち給(たま)へ。敵(てき)も上手(うはて)に目(め)をかけて、のさんとK229よる所(ところ)を、小臂(こひぢ)をうちあげ、ちがひさまによついをとり、足(あし)をぬきてはねまはれ。大力(おほぢから)も、はねられて、足(あし)のたてどのうく所(ところ)を、すてゝ足(あし)をとりて見よ。組んではかなふまじきぞ。もし又、くまでかなはずは、うちがらみに、しはとかけて、髻(もとゞり)をちをはかせ、一(ひと)はねはねて、しととうて。なんでふ七はなれ八はなれは、見ぐるしきぞ。侍相撲(さぶらひすまふ)と申(まう)すは、よるかとすれば、勝負(かちまけ)あり。あまりにはやきも、見わけられず。又、かやうのT087ひね物をば、わづらひなくのしよりて、小首(こくび)ぜめにせめて、背(せ)こゞめて、まはる所(ところ)を、大さか手(て)に入(いれ)て、かいひねりて、けすてて見よ。まつさかさまにまけぬべし」と、こま<”とをしへければ、「こゝろえたり」とていであひけり。をしへのごとくに爪先(つまさき)をたて
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て、腕(かひな)をあげ、隙(すき)あらばとねらひけり。河津(かはづ)は、前後(ぜんご)相撲(すまふ)は、これがはじめなれば、やうもなく、する<とあゆみより、俣野(またの)が、ぬけんとあひしらふ所(ところ)を、右(みぎ)の腕(かひな)をつつとのべ、俣野(またの)が前(まへ)ほろをつかんでさしのけ、あらくもはたらかば、たづなも腰(こし)もきれぬべし。しばらく有(あり)て、むずとひきよせ、目(め)よりたかくさしあげ、半時(はんとき)ばかり有(あり)て、横(よこ)さまに片手(かたて)をはなちて、しととうつ。俣野(またの)は、やがておきなほり、「相撲(すまふ)にまくるは、常(つね)のならひ、なんぞ御分(ぶん)が片手業(かたてわざ)は」と云ひければ、河津(かはづ)いひけるは、「以前(ぜん)も、かちたる相撲(すまふ)を、御論(ごろん)候間(あひだ)、今度(こんど)は、真中にて、片手(かたて)をもつてうち申(まう)したり。いまだ御不審(ふしん)や候べき。御覧(らん)じつるか、人々(ひと<”)」といふ。大庭(おほば)、これを見(み)て、童(わらは)にもたせたる太刀(たち)おつとり、するりとぬきて、飛んでかかる。座敷(ざしき)、にはかにさわぎ、ばつさとたつ。伊東方(いとうがた)による者(もの)もあり、大庭(おほば)方(がた)による者(もの)もあり。両方(ほう)さへんとおりふさがり、銚子(てうし)・盃(さかづき)ふみわり、酒肴(さけさかな)をこぼす。雑兵(ざうひやう)三千余(よ)人までも、軍(いくさ)せんとてひしめきけり。兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)、此よし御覧(らん)じ、「いかに頼朝(よりとも)に、情(なさけ)をすてて、仇(あた)をむすび給(たま)ふか。大庭(おほば)のK230人々」とおほせられければ、大庭(おほばの)平太(へいだ)うけたまはり、「田舎(いなか)すまひの者どもの出仕(しゆつし)なれT088候はで、かゝる狼藉(らうぜき)をつかまつり候。相撲(すまふ)はまけても、恥(はぢ)ならず、わが方人(かたふど)とはいふべからず、一々(いち)にしるし申(まう)すべきぞ。後日(ごにち)にあらそふな」といかりければ、大庭(おほば)のしづめ給(たま)ふ上(うへ)はとて、しづまりけり。伊東(いとう)は、もとより意趣(いしゆ)なしとて、やがて面々(めん<)にこそしづまりけれ。これや、瓊瑶(けいよう)はすくなきをもつて貴(き)也とし、磧礫(せきれき)はおほきをもつていやしとす。人おほしといへ共(ども)、景信(かげのぶ)がことば一(ひとつ)にてぞ、しづまりける。かゝる所(ところ)に、祐
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経(すけつね)が郎等(らうどう)ども、かれらにまじはり、うかゞひけるが、あつぱれ、事の出でこよかし、まぢかくよりて、うたんとするよしにて、伊東殿(いとうどの)をおつさまに射殺さんとて、さゝやきけり。七日が間(あひだ)、夜昼(よるひる)つきてうかがへども、しかるべき隙(ひま)なくして、狩座(かりくら)すでにすぎれけば、おの<、むなしくかへらんとす。小藤太(ことうだ)、申(まう)しけるは、「さても、一郎殿の御心(こゝろ)をつくして、今(いま)や<とまち給(たま)ふらん。いたづらにかへらん事こそ、くちをしけれ。いざや、おもひきり、とにもかくにもならん」といひければ、「八幡(やわたの)三郎(さぶらう)が申(まう)しけるは、「しばらく劫(こふ)をつみて見給(たま)へ。いかでかむなしからん」とぞ申しける。
十二 費長房(ひちやうばう)が事 S0112N016
 去程に、劫(こふ)を積みて望かなへるたとへあり。〔ふるきを思ふに、〕昔(むかし)、大国(たいこく)に、費長房(ひちやうばう)といふ者あり。仙術(せんじゆつ)をならひえて、くらき所(ところ)T089もなかりしが、天(てん)にあがる術(じゆつ)をならはずして、いまだむなしく凡夫(ぼんふ)にまじはりありきけり。ある時(とき)、商用(しやうやう)の事ありて、長安(ちやうあん)の市(いち)に出(いで)て、商人(あきびと)にともなひしに、ある老人(らうじん)、腰(こし)に壺(つぼ)をつけて、この者(もの)は市(いち)にまじはりけり。知音(ちいん)は、しる理(ことわり)にて、この者(もの)、たゞ人ならずと、目(め)をはなさで見るに、この老人(らうじん)、傍(かたはら)にゆき、腰(こし)なる壺(つぼ)をおろし、その壺(つぼ)にいで入(いり)にけり。K231さればこそ、仙人(せんにん)なれとて、その人の行くにつきて行くて、費長房(ひちやうばう)の曰く、「かの仙人(せんにん)につかへんとて、三年までぞつかへける。ある時(とき)、老人(らうじん)のいはく、「なんぢはいかなる志(こころざし)有(あり)て、三年(ねん)まで、一(ひと)ことばも
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たがへず、われにつかへけるぞや」。費長房(ひちやうばう)きゝて、「われ、仙術(せんじゆつ)をならふといへども、天(てん)にあがる事をしらず。老人(らうじん)の壺(つぼ)にいで入(いり)給(たま)ふ事ををしへ給(たま)へ」といひければ、「やすきことなり。わが袖(そで)にとりつけ」といふ。すなはち、とりつきければ、二人ともに、かの壺(つぼ)の中へととびいりぬ。この壺(つぼ)の中にめでたき世界(せかい)有(あり)、月日の光(ひかり)は、空(そら)にやはらぎ、四方(よも)に四季(しき)の色(いろ)をあらはし、百二十丈(じやう)の宮殿楼閣(くうでんろうかく)あり、天(てん)にて聖衆(しやうじゆ)まひあそぶ。鴻(こう)雁(がん)・鴛鴦(ゑんあう)の声(こゑ)やはらかにして、池(いけ)には弘誓(ぐぜい)の船(ふね)をうかべり。よく<見めぐりて、「今(いま)はいでん」といふ。老人(らうじん)、竹(たけ)の杖(つゑ)をあたへて、「これをつきていでよ」といふ。すなはち、つくと思へば、時(とき)の間(ま)に、をしみつといふ所(ところ)にいたりぬ。この杖(つゑ)をすてければ、すなはち竜(りう)となりて、天(てん)にあがりぬ。費長房(ひちやうばう)は、鶴(つる)にのりて、天(てん)にのぼりけり。これも、劫(こふ)をつもる故(ゆゑ)なり。T090三年(ねん)までこそなくとも、まちて見よ」とぞ申(まう)しける。
十三 河津(かはづの)三郎(さぶらう)うたれし事 S0113N017
 「さればこのかへり足(あし)をねらひてみん」「しかるべし」とて、道(みち)をかへて、先(さき)にたち、奥野(おくの)の口(くち)、赤沢山(あかざわやま)の麓(ふもと)、八幡(やはた)山の境(さかい)にある切所(せつしよ)をたづねて、椎(しい)の木(き)三本(ぼん)、小楯(こだて)にとり、一(いち)の射翳(まぶし)には大見(おほみの)小(こ)藤太、二の射翳(まぶし)には八幡(やはたの)三郎(さぶらう)、手だれなれば、あまさじ物をとて、立つたりけり。おの<まちかけける所(ところ)に、一番(ばん)にとほるは、波多野右馬允(はだののむまのぜう)、二番にとほるは、大庭(おほばの)三郎(さぶらう)、三番にとほるは、海老名(えびなの)源八(げんぱち)、四番(ばん)は、土肥(とひの)次郎(じらう)、後陣(ごぢん)はるかにひきさがり
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て、流人(るにん)兵衛佐K232殿(ひやうゑのすけどの)ぞとほられける。敵(かたき)ならねば、みなやりすごしぬこのつぎに、伊東(いとう)が嫡子(ちやくし)河津(かわづの)三郎(さぶらう)ぞきたりける。おもしろくこそ出(いで)たちたれ。秋野(あきの)のすりつくしたる間々(あい<)に、ひき柿(がき)したる直垂(ひたゝれ)に、斑(まだら)の行縢(むかばき)裾(すそ)たぶやかにはきなし、鶴(つる)の本白(もとじろ)にてはいだる白(しら)こしらへの鹿矢(ししや)、筈高(はずだか)におひなし、千段籐(せんだんどう)の弓(ゆみ)のまん中(なか)とり、萌黄裏(もよぎうら)つけたる竹笠(たけがさ)、こがらしにふきそらせ、宿月毛(さびつきげ)の馬(むま)の五(い)つきあまりの大きなるが、尾髮(おかみ)あくまでちゞみたるに、梨子地(なしぢ)にまきたる白覆輪(しろふくりん)の鞍(くら)に、連著鞦(れんじやくしりがひ)の山吹色(やまぶきいろ)なるをかけ、銜轡(ふくみぐつわ)に紺(こん)の手綱(たづな)をいれてぞ乗つたりける。馬(むま)もきこゆる名馬(めいば)なり、主(ぬし)も究竟(くつきやう)の馬(むま)のりにて、T091伏木(ふしき)・悪所(あくしよ)をきらはず、さしくれてこそあゆませけれ。折節(をりふし)、のりがへ一騎(き)もつかざれば、一の射翳(まぶし)の前(まへ)をやりすごす。二の射翳(まぶし)の八幡(やわたの)三郎(さぶらう)はもとよりさわがぬ男(をのこ)なれば、「天(てん)のあたへをとらざるは、かへつて咎(とが)をうる」といふ、ふるきことばを思ひいでずは、射損(いそん)ずべき。射翳(まぶし)の前(まへ)を三段(たん)ばかり、左手(ゆんで)の方(かた)へやりすごして、大のとがり矢(や)さしつがひ、よつぴき、しばしかためて、ひやうどはなつ。おもひもよらでとほりける河津(かはづ)が乗つたる鞍(くら)の後(うしろ)の山形(がた)をいけづり、行縢(むかばき)の着際(きゞは)を前(まゑ)へつつとぞいとほしける。河津(かはづ)もよかりけり。弓(ゆみ)とりなほし、矢(や)とつてつがひ、馬(むま)の鼻(はな)をひつかへし、四方(はう)を見まはす。「知者(ちしや)はまどはず、仁者(じんしや)はうれへず、勇者(よふしや)はおそれず」と申せども、大事のいた手(で)なれば、心(こゝろ)はたけく思へ共(ども)、性根(しやうね)次第(しだひ)にみだれ、馬(むま)よりまつさかさまにおちにけり。後陣(ごぢん)にありける父(ちゝ)伊東(いとうの)次郎(じらう)は、これをば夢(ゆめ)にもしらずぞくだりける。頃(ころ)は神無月(かんなづき)十日あまりの事なれば、山(やま)めぐりのむ
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ら時雨(しぐれ)、ふりみふらずみさだめなく、立ちよる雲(くも)のたえ<”に、ぬれじと駒(こま)をはやめて、手綱(たづな)かいくる所(ところ)に、一の射翳(まぶし)にありける大見(おほみの)小(こ)藤太、まちK233うけて射たりけれども、験(しるし)なし。左(ひだり)の手(て)のうちの指(ゆび)二つ、前(まへ)のしほでの根(ね)にいたてたり。伊東(いとう)は、さるふるつは物にてありければ、敵(てき)に二つの矢(や)をいさせじと、大事の手(て)にもてなし、右手(めて)の鐙(あぶみ)におりさがり、馬(むま)を小楯(こだて)にとり、「山賊(やまだち)ありや。先陣(せんぢん)はかへせ、後陣(ごぢん)はすすめ」とよばはりければ、先陣(せんぢん)・後陣(ごぢん)、われおとらじとすゝめども、T092所(ところ)しも悪所(あくしよ)なれば、馬(むま)のさくりをたどる程(ほど)に、二人の敵(かたき)はにげのびぬ。隈(くま)もなくまちけれども、案内者(あんないしや)にて、おもはぬしげみの道(みち)をかへ、大見庄(おほみのしやう)にぞいりにける。あやふかりし命(いのち)也。伊東(いとう)は、河津(かわずの)三郎(さぶらう)がふしたる所(ところ)にたちよりて、「手(て)は大事なるか」ととひけれども、音(おと)もせず。おしうごかして、矢(や)をあらくぬきければ、いよ<前後(ぜんご)もしらざりけり。河津(かはづ)が首(かうべ)を、父(ちゝ)伊東(いとう)が膝(ひざ)にかきのせ、涙(なみだ)をおさへて申(まう)しけるは、「こは何(なに)と成(なり)ゆく事ぞや。おなじあたる矢(や)ならば、など祐親(すけちか)にはあたらざりけるぞ。齡(よはひ)かたぶき、今日明日(けふあす)をもしらざるうき身(み)なれども、わ殿(との)をもちてこそ、公方私(くばうわたくし)こゝろやすく、後(のち)の世かけても、たのもしく思ひつるに、あへなく先(さき)だつ事のかなしさよ。今(いま)より後(のち)、誰(たれ)をたのみて有(ある)べきぞ。なんぢをとゞめおき、祐親(すけちか)先(さき)だつものならば、おもひおく事よもあらじ。老少不定(らうせうふでう)のわかれこそかなしけれ」とて、河津(かはづ)が手(て)をとり、懐(ふところ)に入(いれ)、くどきけるは、「いかに定業(でうごう)なり共(とも)、矢(や)一(ひと)つにて、ものをもいはで、しぬる者(もの)やある」といひて、おしうごかしければ、その時(とき)、祐重(すけしげ)、くるしげ
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なる声(こゑ)にて、「かくは度々(たび<)おほせらるれども、誰(たれ)ともしり奉(たてまつ)らず候」といふ。土肥(とひの)次郎(じらう)申(まう)しけるは、「御分(ごぶん)の枕(まくら)にし給(たま)ふは、父(ちゝ)伊東(いとう)の膝(ひざ)よ。かくのたまふも、伊東殿(いとうどの)。今(いま)又かやうに申(まう)すは、土肥(とひの)次郎(じらう)実平(さねひら)なり。敵(かたき)やおぼえ給(たま)ふ」ととひければ、やゝありて、目(め)をひらき、「祐親(すけちか)を見まゐらせんとすれ共(ども)、今(いま)はそれもかなはず。K234誰々(たれ<)も、ちかく御いりT093候か。御名残(なごり)こそをしく候へ」とて、父(ちゝ)が手(て)にとりつきにけり。伊藤(いとう)、涙(なみだ)をおさへて申(まう)しけるは、「未練(みれん)也。なんぢ、敵(かたき)はおぼえずや」といふ。「工藤(くどう)一郎こそ、意趣(いしゆ)あるものにて候へ。それに、たゞ今(いま)、大見(おほみ)と八幡(やわた)見え候(さうら)ひつれ。あやしくおぼえ候。したがひ候(さうら)ひては、祐経(すけつね)在京(さいきやう)して、公方(くばう)の御意(ぎよい)さかりに候なる。しかれば、殿(との)の御ゆくへいかゞと、よみぢのさはり共(とも)なりぬべし。面々(めん<)たのみ奉(たてまつ)る。をさない者(もの)までも」といひもあへず、奥野(おくの)の露(つゆ)ときえにけり。無慙(むざん)なりける有様(ありさま)とも、申(まう)すはかりぞなかりける。伊東(いとう)は、あまりのかなしさに、しばしは膝(ひざ)をおろさずして、顔(かほ)に顔(かほ)をさしあて、くどきけるこそあはれなれ。「や、殿(との)、きけ、河津(かはづ)。たのむ方(かた)なき祐親(すけちか)をすてて、いづくへゆき給(たま)ふぞ。祐親(すけちか)をもつれてゆき候へ。母(はゝ)や子どもをば、誰(たれ)にあづけてゆき給(たま)ふぞ。情(なさけ)なの有様(ありさま)や」となげきければ、土肥(とひの)次郎(じらう)も、河津(かわず)が手(て)をとり、「実平(さねひら)も、子(こ)とては遠平(とおひら)ばかりなり。御身(おんみ)をもちてこそ、月日のごとくたのもしかりつるに、かやうになりゆき給(たま)ふ事よ」と、なきかなしむ事かぎりなし。国々(くに<”)の人々もおなじく一所(ひとつところ)にあつまりて、互ひに袖(そで)をぞぬらしける。さてあるべきにあらざれば、むなしきかたちをかゝせて、家(いへ)にかへりければ、女房(にようばう)をはじめとして、あやしのしづ
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の男(を)、しづの女(め)にいたるまで、なげきの声(こゑ)、せんかたなし。さても、かの河津(かはづの)三郎(さぶらう)祐重(すけしげ)に、男子(なんし)二人有(あり)。兄(あに)は、一万(まん)とて、五(いつつ)なり、弟(おとゝ)は、箱王(はこわう)とて、三(みつ)にぞなりにける。母(はゝ)、思ひT094のあまりに、二人の子(こ)どもを左右(さう)の膝(ひざ)にすゑおき、髪(かみ)かきなで、なく<申(まう)しけるは、「胎(はら)の内(うち)の子だにも、母(はゝ)のいふ事をばきゝしるものを、ましてなんぢらは五(いつつ)や三つになるぞかし。十五、十三にならば、親(おや)の敵(かたき)を討ちてわらはに見せよ」となきければ、弟(おとゝ)は、きゝしらず、手(て)ずさみして、あそびゐたるばかりなり。兄(あに)は、死(し)し(ゝ)たるK235父(ちゝ)が顔(かほ)をつく<”とまぼりて、わつとなきしが、涙(なみだ)をおさへて、「いつかおとなしくなりて、父(ちゝ)の敵(かたき)の首(くび)きつて、人々(ひと<”)に見せまゐらせん」とて、なきしかば、しるもしらぬもおしなべて、袖(そで)をしぼらぬ人はなし。なほも、名残(なごり)をしたひかね、二日までぞおきたりける。黄泉幽冥(くわうせんゆうめい)の道(みち)は、如何なる所なれば、一度(ひとたび)さりて、二度(たび)とかへらぬならひなれば、力(ちから)およばず、なく<おくりいだし、夕(ゆふべ)の煙(けぶり)となしにけり。女房(にようばう)、一つ煙(けぶり)とならんと、かなしみけり。伊東(いとうの)次郎(じらう)申(まう)しけるは、「恩愛(おんあひ)のわかれ、夫妻(ふさい)のなげき、いづれかおとるべきにはあらねども、うき世のならひ、力(ちから)およばず候。親(おや)におくれ、夫妻(ふさい)にわかるゝごとに、命(いのち)をうしなふものならば、生老病死(しやうらうびやうし)もあるべからず。わかれは人ごとの事なれども、思ひすぐれば、おのづから、わするゝ心(こゝろ)のあるぞとよ。うきにつけて、身をまたくして、後世菩提(ごせぼだい)をとぶらひ給(たま)へ」と、さま<”になぐさめければ、「まことに理(ことわり)なれども、さしあたりたるかなしさなれば」とて、もだえこがれけり。「夫(おつと)のわかれは、昔(むかし)も今(いま)も、多き所(ところ)なり。わかれの涙(なみだ)、袂(たもと)にとゞまりて、かはく間(ま)もなし。後先(あとさき)をもしらぬ、T095をさなき
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物共にうちそへて、身さへたゞならず。様(さま)をかへんと思へ共(ども)、尼(あま)の身にて、産所(さんところ)の体(てい)も、見ぐるし。又、淵川(ふちかわ)へしづまんと思ふにも、この身にて死(し)し(ゝ)ては、罪(つみ)ふかゝるべしときけば、とにもかくにも、女の身ほど、心うきものはなし」とくどきたてて、おきふしに、なくよりほかの事ぞなき。一日片時(へんし)も、〔たゞ〕しのぶべき身にてなかりしが、あけぬくれぬとせし程(ほど)に、五七日にもなりにけり。
十四 伊東(いとう)が出家(しゆつけ)の事 S0114
 かくて、父(ちゝ)伊東(いとうの)次郎(じらう)はさかさまなる事なれども、かの菩提(ぼだい)をとぶらはんがために、出家(しゆつけ)して、六道(だう)にあてK236て、三十六本(ぽん)の率塔婆(そとば)を造立(ざうりう)〔供養(くやう)〕し奉(たてまつ)る日、聴聞(ちやうもん)の貴賎男女(きせんなんによ)、数(かづ)をつくして、参詣(さんけい)する所に、五つに成(なり)ける一万(まん)が、父(ちゝ)の蟇目(ひきめ)に鞭(むち)をとりそへて、「これは父(ちゝ)の物」とて、ひつさげければ、母(はゝ)これを見(み)てよびよせて、「なき人の物(もの)をば、もたぬ事ぞ。みな<すてよ。ゆく末(すゑ)はるかの者(もの)ぞかし。なんぢが父(ちゝ)は、仏(ほとけ)になり給(たま)ひて、極楽浄土(ごくらくじやうど)にましますぞ。わらはも、つひにはまゐるべし」といひければ、一万(まん)よろこびて、「仏(ほとけ)とは、何(なん)ぞ。極楽(ごくらく)とは、いづこにあるぞや。いそぎましませ。われもゆかん」とせめければ、母(はゝ)は、いひやる方(かた)もなくして、率塔婆(そとば)の方(かた)に指(ゆび)をさして、「かれこそ、浄土の父よ」といひければ、一万(まん)、弟(おとゝ)の箱王(はこわう)が手(て)をひき、「いざや、父御(ちゝご)のもとにまゐらん」と、いそぎけれども、箱王(はこわう)は、三(みつ)になりければ、あゆむにはかもゆか
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ず、いそぐ心に、弟(おとゝ)をすてて、率塔婆(そとば)の中(なか)をはしりめぐり、むなしくかへりて、母(はゝ)の膝(ひざ)の上(うへ)にたふれふして、「仏(ほとけ)の中(なか)T096にも、わが父(ちゝ)はましまさず」とてなきければ、乳母(めのと)も、共になきゐたり。その日の説法(せつぱう)のみぎりより、一万(まん)がふるまひにこそ、貴賎(きせん)袂(たもと)をぬらしけれ。四十九日には、八塔(たう)を供養(くやう)するとかや。
十五 御房(ばう)がむまるゝ事 S0115N019
 さても河津(かはづ)が仏事過ぎしかば、そのつぎの暁方に女房(ねうばう)、例ならざれば、人々やがて心得しかば、九月半と申すには、産(さん)の紐をぞ解きたりける。此程(ほど)のなげきには〔産(さん)は〕いかゞと案じけるに、何のつゝがもなく男子(なんし)を生みけり。母(はゝ)申(まう)しけるは、「おのれは、果報(くわほう)すくなき者(もの)かな。今(いま)すこしとくむまれて、などや父(ちゝ)を見ざりけるぞ。蜉蝣(ふゆう)といふ虫(むし)こそ、朝(あした)にむまれて、夕(ゆふべ)に死(し)するなれ。なんぢが命(いのち)、かくのごとし。わらはも、尼(あま)になり、山々K237寺々(やま<てら<”)の麓(ふもと)にとぢこもり、花(はな)をつみ水(みづ)をくみ、仏(ほとけ)にそなへ奉(たてまつ)り、なんぢが父(ちゝ)の孝養(きやうやう)にせんとおもへば、身にはそへざるぞ。ゆめ<うらむべからず」とて、やがてすてんとせし所(ところ)に、河津(かわづの)三郎(さぶらう)が弟(おとゝ)、伊東(いとうの)九郎祐清(すけきよ)といふ者(もの)あり。一人も子(こ)をもたざりければ、この事をきゝ、女房(にようばう)いそぎて参りて、「まことや、今(いま)のをさない人をすてんとおほせらるゝ、由をほの聞きたり。いかでさる事あるべきぞ。なき人の形見(かたみ)にも、見もし給(たま)はず、棄て給(たま)はん事罪(つみ)ふかかるべし。又、善悪(ぜんあく)の事も、それを節(ふし)と思へば、
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折々(をり<)におもひいだす事の端になるものを。しかも、男子(なんし)にてましませば、T097わらはにたび給(たま)へ。やしなひたてて、一家(か)の形見(かたみ)にもせん」といひければ、「この身の有様(ありさま)にて、身にそふる事、思ひもよらず候。さやうにおぼしめさば」とて、とらせけり。やがて、こゝろやすき乳母(めのと)をつけて、養育(やういく)す。名(な)をば、御房(ぼう)とぞいひける。さる程(ほど)に、忌(いみ)は八十日、産(さん)は三十日にも成(なり)にけり。百か日にあたらん時(とき)、かならず尼(あま)になりぬべしとて、袈裟衣(けさころも)をぞ用意(ようい)したりける。
十六 女房(にようばう)、曾我(そが)へうつる事 S0116N020
 さても、河津(かわづ)が女房(にようばう)は、月日の重なるに従つて、いよいよ出家遁世の心を思ひ立ちければ、伊東(いとう)入道(にふだう)此の由をつたへきゝて、人して申(まう)しけるは、「まことや、姿(すがた)をかへんとし給(たま)ふなると聞く。子(こ)どもをば、誰(たれ)に預けはごくめとて、さやうの事をばおもひ立ち給(たま)ふぞ。おいおとろへたる祖父(おうぢ)や祖母(うば)をたのみ給(たま)ふかや。それ、さらにかなふべからず。三郎(さぶらう)なければとて、をさない者(もの)どもあまたあれば、つゆほどもおろかならず、ひとへに祐重(すけしげ)が形見(かたみ)とこそ思ひ奉(たてまつ)れ。いかなる有様(さま)にても、身をやつさずして、をさない物共をも育て人となし給(たま)へ。されば、K238今(いま)さらに、うとき方(かた)へましまさば、われも人も、見奉(たてまつ)る事かなふまじ。相模(さがみの)国曾我(そがの)太郎と申(まう)すは、入道(にふだう)所縁(しよえん)ある者(もの)にて候。折節(をりふし)、この程(ほど)、年(とし)ごろの妻女(さいぢよ)におくれて、なげきいまだはれやらず候とうけたまはり候。
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それへやり奉(たてまつ)るべし。おのづから、心(こゝろ)をもなぐさみ給(たま)へ。入道(にふだう)があたりT098なれば、へだての心(こゝろ)はあらず」と、こま<”とぞいひける。さて女房(にようばう)にはやがて、人をつけ、きびしく守らせければ、尼(あま)になるべき隙(ひま)もなし。すなはち、入道(にふだう)、曾我(そがの)太郎がもとへ、此よしくはしく文(ふみ)にかきて、つかはしければ、祐信(すけのぶ)、文(ふみ)を見(み)て、大(おほき)によろこび、やがて、つかひとうちつれ、伊東(いとう)へこして、子共もろともにむかへとりて、かへりけり。いつしか、かゝるふるまひは、かへす<”もくちをしけれども、さる事なれば、うらみながらも、月日をぞおくりける。これをもつて、昔(むかし)を思ふに、せいぢよは、夫(おつと)のために、禁獄(きんごく)にとめられ、はくゑいは、夫(おつと)におくれ、夷(えびす)のすみかになれしも、心(こゝろ)ならざるうらめしさ、今(いま)さら、おもひしられたり。K239