「曾我物語」いてふ本

凡例
底本:「曾我物語」いてふ本 正保三年版の仮名本に多少の改変を加えたもの。流布本です。
章段名の後にS+巻(上2桁)+章段(下2桁)で表記しました。
岩波大系のP26〜35の諸本対照表の章段の通し番号をN+(3桁)で表記しました。
ページ数を表示しました。P+ページ数(3桁)。前後で改行
参考としまして岩波大系本のページ数を表示しました。改行なし。T+ページ数(3桁)。
参考としまして国民文庫本のページ数を表示しました。改行なし。K+ページ数(3桁)。(巻第一のみ)
仮名を漢字に改め、漢字の表記を変えた箇所が有ります。
漢字を仮名に改めたものも有ります。
脱字等を他本で補った場合は、〔 〕に入れました。

曾我物語 上
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曾我物語 上編
巻第一
一 神代のはじまりの事 S0101N001
 それ、日域秋津島は、これ、国常立尊より事おこり、宇比地邇・須比智邇、男神・女神とあらはれ、伊弉諾・伊弉冊尊まで、以上天神七代にわたらせ給ひき。又、天照大神より、彦波瀲武〓〓草葺不合尊まで、以上地神五代にて、多くの星霜をおくり給ふ。しかるに、神武天皇と申し奉るは、葺不合の尊の皇子にて、一天の主、百皇にもはじめとして、天下を治め給ひしよりこのかた、国土をかたぶけ、万民のおそるゝはかりこと、文武〔の〕二道にしくはなし。好文の族を寵愛せられずは、誰か万機のまつりごとをたすけん。又は、勇敢の輩を抽賞せられずは、いかでか四海のみだれをしづめん。かるが故に、唐の大宗文皇帝は、瘡をすひて、戦士を賞し、漢の高祖は、三尺の剣を帯して、諸侯を制し給ひき。しかる間、本朝にも、中ごろより、源平の両氏をさだめおかれしよりこのかた、武略をふるひ、朝家を守護し、たがひに名将T050の名をあらはし、諸国の狼藉をK200しづめ、すでに四百余回の年月をおくりをはんぬ。これ清和の後胤、又桓武の累代なり。
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しかりといへども、皇氏を出て、人臣につらなり、鏃をかみ、鋒先をあらそふ志、とり<”也とかや。
二 惟喬・惟仁の位あらそひの事 S0102N002
 そも<、源氏といつぱ、桓武天皇より四代めの皇子を田村の御門と申しけり。これに皇子二人おはします。第一を惟喬親王と申す。帝ことに御志におぼしめして、東宮にもたて、御位をゆづり奉らばやとおぼしめされけり。第二の御子をば、惟仁親王と申しき。いまだいとけなくおはします。御母は染殿の関白忠仁公の御女也ければ、一門の公卿、卿相雲客たち、寵愛し奉られければ、これも又、もだしがたく〔ぞ〕おぼしめされける。かれは継体あいぶんの器量也。これは、万機無異の臣相なり。これをそむきて、宝祚をさづくるものならば、用捨私ありて、臣下唇をひるがへすべし。須らく競馬に乗せ、其の勝負によりて、御位をゆづり奉るべしとて、天安二年三月二日に、二人の御子たちをひき具し奉り、右近の馬場へ行幸なる。月卿雲客、花の袂をかさね、玉の裙をつらね、右近の馬場へ供奉せらる。この事、希代の勝事、天下の不思議と〔ぞ〕見えし。御子たちT051も、東宮の浮沈、これにありと見えし。されば、さま<”の御いのりどもありけり。惟喬の御いのりの師には、柿本紀僧正真済とて、東寺の長者、弘法大師の御弟子なり。惟仁親王の御いのりの師には、我山の住侶に、恵亮和尚とて、慈覚大師の御弟子にて、めでたき上人に
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てぞわたらせ給ひける。西塔の平等坊にて、大威徳の法をぞおこなひける。すでに競馬は、十番を際にさだめられ〔しに〕、六番勝ち給ふ御方に、位を御譲あるべきとの御事なり。さればK201惟喬の御方に、つづけて四番かち給ひけり。惟仁の御方へ心をよせ奉る人々は、汗をにぎり、心をくだきて、祈念せられけり。惟仁の御方〔へは〕、右近の馬場より、天台山平等坊の壇所へ、御つかひはせかさなること、たゞ櫛の歯をひくがごとし。「すでに御方こそ、四番つゞけてまけぬれば」と申しければ、恵亮、心うくおもはれ〔て〕、絵像の大威徳をさかさまにかけ奉り、三尺の土牛を取て、北むきにたて、おこなはれけるに、土牛をどりて、西むきになれば、南むきにとつておしむけ、東むきになれば、西に〔とりて〕おしなほし、肝胆をくだきてもまれしが、なほゐかねて、独鈷を以て、みづから脳をつきくだきて、脳をとり、罌粟にまぜ、炉壇にうちくべ、黒煙をたて、一もみもまれ給ひしかば、土牛たけりて、声をあげてげれば、絵像の大威徳は、利剣をさゝげて、ふり給ひければ、所願成就してげりと、御心をのべ給ふ所に、「御方こそ、六番つゞけてかち給ひ候へ」と、御つかひはしりつきければ、喜悦の眉をひらき、いそぎ壇をぞおりられける。ありがたきT052瑞相なり。されば、惟仁親王、御位にさだまり、東宮にたゝせ給ひけり。しかるに、延暦寺の大衆の僉議にも、「恵亮脳をくだきしかば、次弟位につき、尊意利剣をふり給へば、菅丞霊をたれ給ふ」とぞ申しける。これによつて、惟喬の御持僧真済僧正は、思ひじににぞうせ給ひける。御子も、都へ御かへりなくして、比叡山の麓小野といふ所にとぢこもらせ給ひけり。
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頃は神無月末〔つ方〕、雪げの空の嵐にさえ、しぐるる雲の絶間なく、都にゆきかふ人もまれなりけり。いはんや小野の御すまひ、おもひやられてあはれなりけり。こゝに、在五中将在原業平は、昔の御情あさからざりし人也ければ、紛々たる雪をふみわけ、なく<御跡をたづねまゐりて、見まゐらすれば、孟冬うつりK202きたりて、紅葉嵐にたえ、りういんけんかとうしやくしやくたり。折にまかせ、人目も草もかれぬれば、山里いとゞさびしきに、みな白妙の庭の面、跡ふみつくる人もなし。御子は、端ちかく出させ給ひて、南殿の御格子三間ばかりあげて、四方の山を御覧じ廻らし、げにや、「春はあをく、夏はしげり、秋はそめ、冬はおつる」といふ、昭明太子の、おぼしめしつらね、「香爐峰の雪をば、簾をかかげて見るらん」と、御口ずさみ給ひけり。中将、この御有様を見奉るに、たゞ夢のこゝちせられけるが、かくまゐりて、昔今の事ども申しうけたまはるにつけても、御衣の御袂をしぼりもあへさせ給はず、鳥飼の院の御遊幸、交野の雪の御鷹狩まで、おぼしめしT053出られて、中将かくぞ申されける。
  わすれては夢かとぞおもふ思ひきや雪ふみわけて君をみんとは
御子もとりあへさせ給はで、かへし、
  夢かとも何かおもはん世の中をそむかざりけんことぞくやしき
かくて、貞観四年に、御出家わたらせ給ひしかば、小野宮とも申しけり。〔又は、四品宮内卿宮とも申しけり。〕文徳天王、御年二十にて、崩
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御なりしかば、第二の皇子、御年九歳にて、御ゆづりを受け給ふ。清和天皇の御こと、これなり。後には、丹波国水尾の里にとぢこもらせ給ひければ、水尾帝とぞ申しける。皇子あまたおはします。第一を陽成院、第二を貞固親王、第三を貞元親王、第四を貞保親王、この皇子は、御琵琶の上手にておはします。桂の親王とも申しけり。心をかけらるゝ女は、月の光をまちかね、蛍を袂につつむ、この御子の御ことなり。今のK203しけのこの先祖なり。第五〔を〕貞平親王、第六〔を〕貞純親王とぞ申しける。六孫王、これなり。されば、かの親王の嫡子、多田新発意満仲、その子摂津守頼光、次男大和守頼親、三男多田法眼とて、山法師にて、三塔第一の悪僧なり。四郎河内守頼信、その子伊予入道頼義、その嫡子八幡太郎義家、その子但馬守義親、次男河内判官義忠、三男式部太夫義国、四男六条判官為義、その子左馬頭義朝、その嫡子鎌倉悪源太義平、次男中宮太夫新朝長、三男右近衛T054大将頼朝の上こす源氏ぞなかりける。この六孫王よりこのかた、皇氏を出て、はじめて源の姓を給はり、正体をさりて、ながく人臣につらなり給ひて後、多田満仲より、下野守義朝にいたるまで七代は、みな諸国の竹符に名をかけ、芸を将軍の弓馬にほどこし、家にあらずして、四海をまもりしに、白馬なほこえたり。されば、おの<権をあらそふゆゑに、たがひに朝敵に也て、源氏世をみだせば、平氏勅宣をもつて、これを制して朝恩にほこり、平将国をかたぶくれば、源氏詔命にまかせて、これを罰して、勲功をきはむ。しかれば、ちかごろ、平氏〔ながく〕退散して、源氏おのづから世にほこり、四海の波
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瀾ををさめ、一天のはうきよさだめしよりこのかた、緑林枝枯れて、ふく風〔の声〕おだやか也。しかれば、叡慮をそむくせいらうは、色を雄剣の秋の霜にをかされ、てうそをみだすはくは、音を上弦の月にすます。これ、ひとへに羽林の威風、前代にもこえて、うんてうの故也。しかるに、せいしをひそめて、せいとのみだれを制し。私曲のあらそひをやめて、帰伏せらるるはなかりけり。
三 伊東を調伏する事 S0103N006T055
 こゝに、伊豆国の住人、伊東次郎祐親が孫、曾我十郎祐成、おなじく五郎時致といふ者ありて、将軍K204の陣内もはゞからず、親の敵をうちとり、芸を戦場にほどこし、名を後代にとゞめける、由来をくはしくたづぬるに、すなはち一家の輩、工藤左衛門祐経なり。たとへば、伊豆国に伊東・河津・宇佐美、この三ケ所をふさねて、〓美庄と号する。かの本主は、〓美入道寂心にてぞありける。在国の時は、工藤大夫祐隆といひけり。男子あまたもちたりしが、みな早世して、遺跡すでにたえんとす。しかる間、継女の子をとりて、嫡子にたてて、伊東をゆづり、武者所にまゐらせ、工藤武者祐継と号す。又、嫡孫あり、次男にたてて、河津をゆづり、河津の次郎となのらせける。しかる間、寂心逝去の後、祐親思ひけるは、我こそ、嫡々なれば、嫡子の譲あるべきに、異姓他人の継女の子、この家にいりて、相続するこそ、やすからねと思ふ
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心つきにけり。これ、まことに神慮にもそむき、子孫もたえぬべき悪事なるをや。たとひ他人なりといふとも、親養じてゆづる上は、違乱の義あるべからず。まして、これは、寂心、内々継女のもとにかよひて、まうけたる子也。まことには兄なり。ゆづりたる上、あらそふこと、無益のよし、よそ<にも申しあひけり。されども、祐親とゞまらで、対決度々におよぶといへども、譲状をさゝぐる間、伊東が所領になりて、河津はまけてぞくだりける。その後、上にはしたしみながら、内々安からぬ事にぞ思ひける。されども、T056わが力にはかなはで、年月をおくる。或時、祐親、箱根の別当をひそかによびくだし奉り、種々にもてなし、酒宴すぎしかば、ちかく寄りかしこまりて申しけるは、「かねてよりしろしめされて候ごとく、伊東をば、嫡々にて、祐親があひつぎ候べきを、おもはずの継女の子きたりて、父の墓所、先祖重代の所領を横領つかまつる事、よそにて見え候が、あまりにくちをしく候間、御心をもはゞからず、申しK205いだし候。しかるべくは、伊東武者がふたつなき命を、たちどころにうしなひ候やうに、調伏ありてみせ給へ」と申しければ、別当きき給ひて、しばらく物ものたまはず、やゝありて、「このこと、よく<きゝ給へ。一腹一生にてこそましまさね、兄弟なることは眼前也。公方までもきこしめしひらかれ、すでに御下知をなさるゝ上は、へだての御うらみは、さる事にて候へども、たちまちに害心をおこし、親のおきてをそむき給はんこと、しかるべからず。神明は、正直の頭にやどり給ふ事なれば、さだめて天の加護もあるべからず、冥の照覧もおそろし。その上、愚僧は、幼少より、父母の塵欲をはなれ、師匠のかんしんに入
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て、所説の教法を学し、円頓止観の門をのぞみ、一ねん三まいに、稼穡の艱難を思ひ、〔一度〕きる時、紡績の辛苦をしのぶ。三衣を墨にそめ、鬢髪をまろめ、仏の遺願にまかせ、五戒をたもちしよりこのかた、ものの命をころすことなし。仏ことにいましめ給ふ。されば、衆生の身の中には、三身仏性とて、T057三体の仏のまします。しかるに、人の命をうばはん事、三世の諸仏をうしなひ奉るにおなじ。もろ<もつて、おもひよらざることなり」とて、箱根にのぼり給ひけり。河津は、なまじひなる事申出して、別当、承引なかりければ、その後、消息をもつて、かさね<”申しけれども、なほもちひ給はず。いかがせんとて、ひそかに箱根にのぼり、別当に見参して、ちかくゐよりて、さゝやきけるは、「ものその身にては候はねども、昔より師檀の契約あさからで、たのみたのまれ奉りぬ。祐親が身においては、一生の大事、子々孫々までも、これにしくべからず候。再往に、申入候条、まことにそのおそれすくなからず候へども、かの方へかへりきこえなば、かさねたる難儀、いでき候べし。さればにや、浮沈におよび候」と、くれ<”申しければ、はじめは、別当、大に辞退ありK206けるが、まことに檀那の情もさりがたくして、大方領状ありければ、河津、里へぞくだりける。別当、心憂き事ながら、檀那のたのむと申しければ、壇をたて、荘厳して、伊東を調伏せられけるこそ、おそろしけれ。はじめ三日の本尊には、来迎の阿弥陀の三尊、六道能化の地蔵菩薩、檀那河津の次郎が所願成就のため、伊東武者が二つなき命を取、来世にては、観音・勢至、蓮台をかたぶけ、安養の浄刹に引接し給へ、片時も、地獄におとし給ふな
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と、他念なくいのられけり。後七日の本尊には、烏蒭沙摩金剛童子、五大明王の利剣殊勝なるT058四方にかけて、紫の袈裟を帯し、種々に壇をかざり、肝胆をくだき、汗をものごはず、面をもふらず、余念なくこそいのられけれ。昔より今にいたるまで、仏法護持の御力、今にはじめざる事なれば、七日に満ずる寅のなかばに、伊藤武者がさかんなる首を、明王の剣の先につらぬき、壇上におつると見てければ、さては威験あらはれたりとて、別当、壇をぞおり給ひける、おそろしかりし事ども也。
四 おなじく伊東が死する事 S0104N007
 さても伊東武者は、これをば夢にもしらで、時ならぬ奥野の狩してあそばんとて、射手をそろへ、勢子をもよほし、若党数多あひ具して、伊豆の奥野へぞいりにける。頃しも、夏の末つ方、峰にかさなる木の間より、村<になびくは、さぞと見えしより、おもはざる風にをかされて、心地例ならずわづらひ、心ざす狩場をもみずして、ちかき野辺よりかへりけり。日数かさなる程に、いよ<おもくぞなりにける。その時、九つになりけるかないしをよびて、身づから手をとり、申しけるは、「いかにおのれ、十歳にだにもならざるを、見すててしなK207ん事こそ、かなしけれ。生死かぎりあり、のがるべからず。なんぢを、誰かあはれみ、誰かはごくみてそだてん」と、さめ<”となきT059けり。かないしはをさなければ、たゞなくよりほかの事はなし。女房、ちかくゐより、
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涙をおさへていひけるは、「かなはぬうき世のならひなれども、せめて、かないし十五にならんをまち給へかし。さればとて、あまたある子にもあらず、また、かけこ有中の身にてもなし。いかがはせん」と、なげきけるこそ、理なれ。こゝに、弟の河津次郎祐親が、とぶらひきたりけるが、この有様を見て、ちかくよりて申しけるは、「今をかぎりとこそ、見えさせ給ひて候へ。今生の執心を御とゞめ候ひて、一筋に後生菩提をねがひ給へ。かないし殿においては、祐親かくて候へば、後見し奉るべし。ゆめ<疎略あるべからず。こゝろやすく思ひ給へ。さればにや、史記のことばにも、「昆弟の子は、なほし己が子のごとし」と見えたり。いかでかおろかなるべき」と申しければ、祐継、これをききて、内に害心あるをばしらで、大きによろこび、かきおこされ、人の肩にかかり、手をあはせ、祐親ををがみ、やゝありて、くるしげなる息をつき、「いかに候。たゞ今のおほせこそ、生前にうれしくおぼえ候へ。この頃は何となく下説について、心よからざる事にてましまさんと存ずる所に、かやうにのたまふこそ、返々も本意なれ。さらば、かないしをば、ひとへにわ殿にあづけ奉る。甥なりとも、実子のごとくおもひ、女あまたもち給ふ中にも、万刧御前にあはせて、十五にならば、男になし、当庄のほんけん小松殿の見参にいれ、わ殿の女T060とかないしに、この所をさまたげなく知行せさせよ」とて、伊東の地券文書をとりいだし、かないしに見せ、「なんぢにぢきにとらすべけれども、いまだ幼稚なり。いづれも親なれば、おろかにあるべからず。母にあづくるぞ。十五にならば、とらすべし。よくよくK208見おけ。今より後は、河津殿を、叔父なりとも、まことの
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親とたのむべし。心おきて、にくまれ奉るな。祐継も、草の蔭にて、たちそひまもるべし」とて、文書母が方へわたし、今はこころやすしとて、うちふしぬ。かくて、日数つもりゆけば、いよ<よわりはてて、七月十三日の寅の刻に、四十三にてうせにけり。あはれなりし例なり。弟の河津次郎は、上にはなげくよしなりしかども、下には喜悦の眉をひらき、箱根の別当の方をぞをがみける。一旦の猛悪は、勝利ありといへども、つひには子孫にむくゆならひにて、末いかがとぞおぼえける。やがて、河津はわが家をいで、伊東が館に入かはり、内々存ずる旨ありければ、兄のため、忠あるよしにて、後家にも子にもおとらず、孝養をいたす。七日<のほか、百ケ日、一周忌、第三年にいたるまで、諸善の忠節をつくす。人これをきき、「神をまつる時は、神の在ますごとくせよ。死につかふる時は、生につかふるごとくなれ」とは、論語のことばなるをやと感じけるぞ、おろかなる。さて、かないしには、こゝろやすき乳母をつけてぞ、養じける。遺言にたがへず、十五にて元服させ、くすみの工藤祐経と号す。やがて、女万刧御前にあはせ、T061その秋、あひ具して、上洛し、すなはち、小松殿の見参に入り、祐経をば、京都にとゞめおき、わが身は、国へぞくだりける。その後はかひ<”しき侍の一人もつけず、おとなしき者もなし。所帯におきては、祐親一人して横領し、祐経には、屋敷の一所をも配分せざりけり。まことや、文選のことばに、「徳をつみ、行をかさぬる事、その善をなさざれども時にもちひる事あり、善をすて、理をそむくこと、その悪をなさざれども、時にほろぶることあり。身のあやふきは、勢
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のすぐる所となり、禍のつもるは、寵のさかんなるをこえてなり」。されども、祐経K209は、たれをしゆるとはなきに、公文所をはなれず、奉行所におきて、身をうたせ、沙汰になれける程に、善悪を不審し、分別して、理非をまよはず、諸事に心をわたし、手跡普通にすぐれ、和歌の道を心にかけ、灌頂の筵に推參して、その衆につらなりしかば、工東の優男とぞめされける。十五歳より、武者所に侍ひて、礼儀たゞしくして、男がら尋常なりければ、田舎侍ともなく、こゝろにくしとて、二十一歳にして、武者所の一臈をへて、工藤一臈とぞめされける。
五 伊東次郎と祐経が争論の事 S0105N008T062
 かくて、祐経二十五まで、給仕おこたらざりき。こゝに、おもはざるに、田舎の母の一期つきて、形見に、父があづけおきし譲状をとりそへて、祐経がもとへぞのぼせたりける。祐経、これを披見して、「こはいかに、伊豆の伊藤といふ所は、祖父入道寂心より、父伊東武者祐継まで、三代相伝の所領なるを、何によつて、叔父河津次郎、相続して、この八か年が間、知行しける。いざや冠者ばら、四季の衣がへさせん」とて、暇を申しけれども、御気色最中なりければ、左右なく御暇を給はらざりけり。さらばとて、代官をくだして、催促いたす。伊東、これをきゝ、「祐親より外に、まつたく他の地頭なし」とて、冠者ばらを放逸に追放す。京よりくだ
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る者は、田舎の子細をばしらで、〔いそぎ〕にげのぼりぬ。一臈にこのよしをうつたふ。「その儀ならば、祐経くだらん」とて、いでたちけるが、案者第一の者にて、心をかへて思ひけるは、人の僻事するといふをききながら、〔われ〕又くだりて、おとらじ、まけじとせん程に、まさる狼藉ひきいだし、両方得替の身となるべし。その上、道理をもちながら、親方にむかひ、K210意趣をこめん事、詮なし、祐経ほどの者が、理運の沙汰にまくべきにあらず、田舎よりかの仁をめしのぼせて、上裁をこそあふがめとおもひ、あたる所の道理、さしつめ<、院宣を申しくだし、小松殿の御状をそへ、検非違使をもつて、伊東を京都にめしのぼせ、真のちぎやうなる時こそ、田舎にて、横紙をもやぶり、ちやうちやくT063どもいひけれ、院宣をなし、かさねてかたくめされければ、一門はせあつまり、案者・口ききよりあひ、ともなひ談合するといへ共道理は一つもなかりけり。祐継存生の時より、執心ふかくして、いかにもこの所を、祐親が配領にせんと、多年心にかけ、すでに十余年知行の所なり。一期の大事と、金銀をとゝのへ、ひそかに奉行所へぞのぼりける。まことや、文選のことばに、「青蝿も、すいしやうをけがさず、邪論も、くの聖をまどはさず」とは申せども、奉行のめづるも、理也。又漢書を見るに、「水いたつてきよければ、底に魚すまず。人いたつて善なれば、内に友なし」と見えたり。さればにや、奉行、まことに宝おもくして、祐経が申状、たゝざる事こそ、無念なれ。月あきらかならんとすれども、浮雲これをおほひ、水清からんとすれども、泥沙これをけがす。君賢なりといへども、臣これをけがす理によつて、本券は箱の底
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にくちて、むなしく年月をおくる間、祐経、鬱憤に住して、かさねて申状を奉行所にさゝぐ。その状にいはく、
  伊豆国の住人伊東工藤一郎平祐経、かさねて言上、
 はやく、御裁許をかうぶらんと欲する子細の事。右件の条、祖父●美入道寂心死去の後、親父伊東武者祐継、その舎弟祐親、兄弟の中、不和なるによつて、対決度々におよぶといへども、祐継、当腹寵愛たるによつて、K211安堵の御くだし文を給はつて、T064すでに数ケ年をへをはんぬ。こゝに、祐継、一期かぎりの病の床にのぞむきざみ、河津次郎、日ごろの意趣をわすれ、たちまちにとぶらひきたる。その時、祐経は、生年九歳也き。叔父河津次郎に、地券文書、母ともにあづけおきて、八か年の春秋をおくる。親方にあらずんば、しこうのしんと申すべきや。所詮、世のげいにまかせ、伊東次郎に給はるべきか、また祐経に給はるべきか、相伝の道理について、憲法の上裁をあふがんと欲す。よつて、誠恐誠惶、言上件のごとし。
  仁安二年三月 日               平祐経
とかきてささぐ。公事所に、此状を披見ありて、さしあたる道理にわづらひけるよと、人々よりあひ、内談評定するは、〔まことに、〕祐経が申状、一として僻事なし。これは裁許せずは、憲法にそむきなん。又、伊東宝をのぼせて、万事奉行をたのむといふ。しかれども、祐経は、左右なく理運たる間、奉行所の私なりがたければ、安堵の状二かきて、大宮の令旨をそへ、〔りやうへ〕くださる。伊東は、半分也とも給はる所、奉行の御恩とよろこび
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て、本国へぞくだりける。書はことばをつくさず、ことばは心をつくさずといへども、一郎は、ことばをうしなひ、十五より、本所にまゐり、日夜朝暮、給仕をいたし、今年八箇年かとおぼゆるに、かさねて御恩こそかうぶらざらめ、先祖所領を半分めさるゝ事そもなに事ぞ、「水上にごれる時は、きよからん事を思ひ、T065形のゆがめる時は、影の素直ならん事をおもふ」と、かたに見えたり、父祐継が世には、かやうにはよもわけじ、今なんぞ半分の主たるべきや、これひとへに親方ながら、伊東がいたす所なり、わが身こそ、京都にすむとも、前後はみな、弓矢のいこんなり、いかでか、このK212事うらみざるべきとて、ひそかに都をいでて、駿河国高橋といふ所にくだり、木津川、船越・荻野、蒲原・入江の人々は、外戚につきて、親しかりければ、二百四人よりあひて、祐親うちて、領所を一人にて進退せんと思ふ心、つきにけり。此儀、神慮もはかりがたし。たとへば、さしあたる道理は、顕然たりといへども、昔の恩をわすれ、たちまちに悪行をたくむ事、いとうが昔をも思ひ、てんじゆが古もたづぬべき。第一叔父なり、第二養父也、第三舅なり、第四烏帽子親なり、第五に一族中の老者なり、かた<”もつて、おろかならず。かやうに思ひたつ事ぞ、おそろしき。いかにも思慮あるべきものをや。あまつさへ領地をうばはん事、不可思議なり。かかりける事を祐親、かへりきゝて、嫡子河津三郎祐重、次男伊藤九郎祐清、そのほか一門老少よびあつめ、用心きびしくしければ、力におよばす。これや、富貴にして、善をなし安く、貧賎にして、工をなしがたしとは、今こそ思ひしられたり。その後、伊東次郎、
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此事ありのまゝに京都へうつたへ申して、ながく祐経を本所へ入たてずして、年貢所当におきては、芥子ほどものこらず、横領する間、祐経、身のおき所なくT066して、又、京都にかへりのぼり、ひそかに住ひぬ。伊東に、祐経はなやまされ、本意をわすれ、祐経が妻女とりかへし、相模国の住人土肥次郎実平が嫡子弥太郎遠平にあはせけり。国には又、ならぶ者なくぞ見えけり。されども、「功賞なき不義の富は、禍の媒」と、左伝に見えたり。されば、ゆく末いかがとぞおぼえし。工藤一郎は、なまじひの事をいひいだして、叔父に中をたがはれ、夫妻のわかれ、所帯はうばはれ、身をおきかねて、胆やきける間、給仕も疎略になりにけり。さればにや、御気色もあしく、傍輩も、側目にかけければ、積鬱たへがたく思ひこがれて、ひそかに本国K213にくだり、〔大見庄に住して、年ごろの郎等に、〕大見小藤太、八幡三郎をまねきよせて、なく<さゝやきけるは、「おの<、つぶさにきけ。相伝の所領を押領せらるゝだにも、安からざるに、結句、女房までとりかへされて、土肥弥太郎にあはせらるゝ事、くちをしきとも、あまりあり。今は命をすてて、矢一ついばやとおもふなり。あらはれては、せんことかなふまじ。われ又、便宜をうかがはば、人に見しられて、本意をとげがたし。さればとて、とゞまるべきにもあらず。いかゞせん、おの<さりげなくして、狩すなどりの所にても、便宜をうかがひ、矢一ついんにや、もし宿意をとげんにおきては、重恩、生々世々にも、報じてもあまりありぬべし。いかがせん」とぞくどきける。二人の郎等きき、一同に申しけるは、「それまでも、おほせらるべからず。弓矢をとり、T067世をわたると申せども、万死一生は、一期に一度
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とこそうけたまはれ。されば、ふるきことばにも、「〔功はなしがたくして、しかも〕やぶれやすき、時はあひがたくして、しかもうしなひ安し」。このおほせこそ、面目にて候へ。是非命におきては、君にまゐらする」とて、おの<座敷をたちければ、たのもしくぞ思ひける。伊東は、いさゝか此儀をしらざりけるこそ、かなしけれ。
六 頼朝伊東の館にまします事 S0106N010
 かくて、大見八幡は、伊東を狙ふべき隙をうかがふ程に、その頃、兵衛佐殿は、伊東の館にまし<ける所に、相模国の住人大庭平太景信といふ者あり。一門よりあひ、酒もりしけるが、申しけるは、「われらは、昔、源氏の郎等也。然れども今は、平家の御恩をもつて、妻子をはごくむといへ共、古の事、わするべきにあらず。いざや、佐殿の、いつしか流人として、徒然にましますらん。一夜、宿直申して、なぐさめ奉りて、後日の奉公にK214申さん」「もつともしかるべし」とて、一門五十余人、いでたち、人別ささえ一つあてにぞ持たせける。これを聞きて三浦、鎌倉、土肥次郎、岡崎、本間、渋谷、糟屋、松田、土屋、曾我の人々、思ひ<に出たちける程に、近国の侍、きゝつたへ、「われもいかT068でかのがるべき。いざやまゐらん」とて、相模国には、大庭が舎弟三郎、俣野五郎、さこしの十郎、山内滝口太郎、おなじく三郎、海老名源八、荻野五郎、駿河国には、竹下孫八、合沢弥五郎、吉川、船越、入江の人々、伊豆国には、北条
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四郎、おなじく三郎、天野藤内、狩野藤五をはじめとして、むねとの人々五百人、伊豆の伊東へぞまゐりける。伊東、大きによろこびて、内外の侍、一面にとりはらひ、なほせばかりければ、庭に仮屋をうちいだし、大幕ひき、上下二千四五百人の客人を、一日一夜ぞもてなしける。土肥次郎、これを見て、「雑掌は、百人二百人までは安かるべきに、すでに二三千人の客人を一人にてあづくる事、無骨なり」といふ。伊東、これをききて、「河津と申す小郷を知行せし時にも、いづれの誰にか、おとり候べき。ましてや、〓美庄をふさねて〔もち候間、かねて〕給はるものならば、などや面々に引出物申さであるべき。これほどの事、何かはくるしかるべき」とて、山海の珍物にて、三日三夜ぞもてなしける。又、海老名源八が申しけるは、「かかるよりあひにまゐりぬとかねて存じて候はば、国より勢子の用意して、音にきこゆる奧野にいり、物頭に馬あひつけ、鏑のとほなりさせざるが、無念なり」といひければ、伊東、これをきゝ、「祐親を人と思ひてこそ、国の人々はうちより、両三日はあそび給ふらめ。左右なく、座敷にて、勢子のねがひやうこそ、こゝろせばけれ。それ<河津三郎、勢子をもよほして、鹿T069いさせ申せ」といひけるぞ、伊東の運のきはめなる。K215河津は、もとより穩便のものにて、心の内には、殺生を禁ずる人なりければ、いかにもして、此度の狩を申しとゞめなば、よかるべし、とおもへども、おほき侍の中にて、親の申す事なれば、力およばで、「あつ」と答へて座敷をたち、われと勢子をぞもよほしける。「をさなきものは、馬にのりていでよ。大人は、弓矢をもて」とふれければ、〓美庄ひろくし
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て、老若に三千四五百人ぞいでたりける。かれらを先として、三が国の人々、われも<とうちいでたり。伊東・河津が妻女、数の女房ひきつれて、南の中門にたちいでて、うち出ける人々を見おくりける。中にも、河津三郎は、余の人にもまがはず、器量骨柄すぐれたり。「此うちの大将といひたりとも、あしからじ。子ながらも、優に見ゆるものかな。たのもし」とのたまひければ、河津が女房、これをきき、「弓矢とりのものいでの姿、女見おくる事、詮なし。内にいらせ給へ」といひければ、げにもとて、おの<内にぞ入にける。神無月十日あまりに、伊豆の奥野へいりにけり。
 七 大見・八幡が伊東ねらひし事 S0107N011
こゝに、祐経が二人の郎等大見・八幡、これをきゝ、かやうの所こそ、よき便宜T070なれ、いざや、われら、たよりをねらはんと、おの<、柿の直垂に、鹿矢さげたる竹箙とりてつけ、白木の弓のいよげなるをうちかたげ、勢子にかきまぎれ、ねらふ所は何処々々ぞ。一日は柏峠、熊倉が谷、二日は荻窪、椎沢、三日は長倉がわたり、朽木沢、赤沢峰をはじめとして、七日が間、つきめぐりてぞねらひける。しかれども、伊藤は国一番の大名にて、家の子郎等おほかりければ、たやすくうつべきやうぞ、なかりける。この者どもが、心をつくしける有様、たとへていふべき方ぞなき。
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八 杵臼・程嬰が事 S0108N012
 さても此の二人の者ども、仁義を重んじ、忠孝を励まし、心を尽くし狙ふ事を思ふに昔大国に、孝明王といふ国王あり、ならびの王と国をあらそひ、〔ならびの国の王と〕軍をし給ふ事、度々なり。しかるに、孝明王、たゝかひまけて、自害におよばんとする時に、杵臼・程嬰とて、二人の臣下あり。かれらをちかづけて、「なんぢらは、さだめて、我とともに自害せんとぞおもふらん。これ、まことにじゆんろ、のがるゝ所なし。さりながら、われに一人の太子、屠岸賈といひて十一歳になるを、故郷にとゞめおきたり。われ自害の後、雑兵の手にかかりて、命をむなしくせん事、くちをしければ、なんぢら、いかにもしてのがれいでて、かの子をはぐくみそだてて、敵をほろぼし、無念を散ぜよ」とのたまひけれT071ば、二人の臣下、異議におよばずして、囲のうちをしのびいでけり。孝明王、こゝろやすくして、自害し給ひけり。さて、二人の臣下、故宮にかへり、太子をいざなひいだして、養育しけるぞ、無慙なる。かくて敵の大王、これをきゝつたへ、「末の世には、わが敵なり。かの太子、おなじく二人の臣下どもの首をとりてきたらん者には、勲功は所望によるべし」と、国々に宣旨を下されけり。この宣旨にしたがつて、かの人々に心をかけ、いかにもしてあやしみもとめんとおもはぬ者はなかりけり。しかれども、一所のすまひかなはで、あるいは、とほき里にまじはり、ふかき山にこもりて、身をかくすといへども、所なくして、二人よりあひ、いかがせんとぞなげきける。程嬰
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申しけるは、「われらが、君を養じ奉るに、敵こはくして、国中にかくれがたし。されば、われら二人がうち、一人、敵の王にいでつかへんといはん時、さるK217物とて、〔つかふとも、〕心をゆるす事あらじ。時に我が子きくわくといひて、十一歳になる子を、一人もちたり。さいはひ、〔これも、〕我君と同年也。これを大子と号して、二人が中、一人は山にこもり、一人は討手にきたり、主従二人をうち、首をとり、敵の王にさゝげなば、いかでか心ゆるさざるべき。その時、敵をやす<とうちとるべし」といひければ、杵臼申しけるは、「いのちながらへて後に、事をなすべきこらへのせいは、とほくしてかたし。今、太子とおなじく死せん事はちかくして安し。しかれば、杵臼は、こらへのせい、すくなき者なり。やすきT072につき、われまづしぬべし。程嬰は、敵方にいでんことをいそぎ給へ」とぞ申しける。その後、程嬰、わが子のきくわくをちかづけて、「いかに、なんぢ、くはしくきけ。われらは、主君の大子かくし奉らんとせし故、われ<、なんぢまでも、かたきにとらはれて、犬死をせん事、うたがひなし。しかれば、なんぢを太子といつはり奉りて、首をとるべし。うらむる事なくして、御命にかはり奉りて、君を安全ならしめよ。親なればとて、そひはつべきにもあらず。来世にてむまれあふべし」と申しければ、きくわく、きゝもあへず、涙をながして、しばし返事もせざりけり。父、この色を見て、「未練なり。なんぢ、はや十歳にあまるぞかし。弓矢とる者の子は、胎の内よりも、ものの心はしるぞかし」といさめければ、きくわく、このことばを聞きいひけるは、「わが命惜しきにより泣くにはあらず。まことに、それがしが、命一つにて、君と父との孝行にさゝげ申さん事、露塵ほ
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どもをしからざるものをや、なげきの中のよろこび也」といひもあへず、涙にむせびけり。父、これをきゝ、子ながらも、優につかひたることばかな、いまだをさなきものぞかし、まことにわが子なり、成人の後、さぞ、と思ひければ、をしといふもあまりあり、われ心よわきと見えなば、もし未練にもやなりなんと思ひけれK218ば、ながるゝ涙おしとゞめ、「弓矢の家にむまれて、君のために命をすつる事、なんぢ一人にもかぎらず、最後未練にては、君の御ため、T073父がため、なか<見ぐるしとて、一命を損ずべき也」といひければ、きくわく、涙をおさへて、「かほどに、ふかく思ひさだめて候へば、いかでおろかなるべき。心安く思し召せ。さりながら、さしあたる父母の御わかれ、いかでかをしからで候べき。最後におきては、おもひさだめて候」と申しければ、父も、こゝろやすくぞおもひける。さて又、二人よりあひ、内談するやう、「〔まづ〕今、君の御ために、うたるべき命はやすく、のこりとゞまりて、敵をうちて、太子を世にたて申さん事、おもきが上の大事なり。いかゞせん。ながらへ、功をなす事、堪忍精なくしてはなりがたし。われ、まづしなん」とて、杵臼は、十一歳のきくわくをつれて、山にこもり、討手をまちける心のうち、無慙といふもあまりあり。その後、程嬰は、敵の王のあたりにゆき、「めしつかはれん」と申す。敵王きゝ、この者、身をすて、面をよごし、われにつかふべき臣下にあらず、さりながら、世かはり、時うつれば、さもやと思ひ、かたはらにゆるしおくといへども、なほ害心におそれて、ゆるす心なかりけり。いひあはせたる事なれば、「われ、今、君王につかへて、二心なし。うたがひことわりなれども、世界をせばめられ、恥辱にかへて、
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たすかるなり。なほし、もちひ給はずば、主君の太子、臣下の杵臼もろともに、かくれゐたる所を、くはしくしれり。討手を給はつてむかひ、かれらをうち、首をとりてみせまゐらせん」といふ。その時、国王、和睦の心をなし、数千T074人の兵をさしそへ、かれらがかくれゐたる山へおしよせ、四方をかこみ、閧の声をぞあげたりける。杵臼は、思ひまうけたることなれば、しづまりかへりて、音もせず。程嬰、すゝみいでて申しけるは、「これは、孝明王の太子屠岸賈やまします。程嬰、討手にまゐりたり。K219雑兵の手にかかり給はんより、いそぎ自害し給へ。のがれ給ふべきにあらず」と申しければ、杵臼たちいで、「我君のましますこと、かくし申すべきにあらず。まち給へ。御自害あるべし。さりながら、今日の大将軍の程嬰は、昨日までは、まさしき相伝の臣下ぞかし。一旦の依怙に住すとも、つひには、天罰ふりてきたり、とほからざるに、うせなん果を見ばや」とぞ申しける。程嬰、これをきゝ、「時世にしたがふならひ、昔は、さもこそありつらめ、今又、かはる折節なり。さればにや、君も、御運つきはて、命もつづまり給ふぞかし。いたづらごとにかかはりて、命をうしなひ給はんより、兜をぬぎ、弓の弦をはづし、降参し給へ。古の情をもつて、たすくべし」とぞいひける。十一歳のきくわく、討手は父よとしりながら、かねてさだめしことなれば、父重代の剣をよこたへ、たかき所にはしりあがり、「いかに、人々、きゝ給へ。孝明王の太子として、臣下の手にかかるべき事にもあらず。又、臣下心がはりも、うらむべきにもあらず。たゞ前業こそつたなけれ。さりながら、その家ひさしき郎等ぞかし。程嬰、出給へ。日ごろのよし
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みに、今一度見参せん」といふ。程嬰はわが子のふるまひを見て、こゝろやすくおもへども、しのびの涙ぞすすみける。兵あやしくや見るらんと、おつる涙をおしとゞめ、「人々、これをきゝ給へ。国王の太子とて、優につかひたることばかな。かうこそありたけれ」といひけるが、さすが恩愛のわかれ、つゝみかねたる涙の袖、しぼりもあへず、よそのあはれをもよほしつゝ、あひしたがふ兵は、さしあたる道理なれば、ともに感ぜぬはなかりけり。その後、太子、高声にいはく、「われは〔これ、〕孝明王の太子、生年十一歳。父一所にむかへ給へ」といひもはてず、剣をぬき、つらぬかれてぞ、ふしぬ。杵臼、おなじくたちよりて、「けなげにも、御自害候物かな。それがしも、やがておひつきK220奉らん」とて、腹十文字にかきやぶり、太子の死骸にまろびかゝりて、ふしにける有様、みるにことばもおよばれず、無慙なりし例なり。さて、二人が首をとりて、国王にさゝぐ。叡覧ありて、喜悦の眉をひらき給ふ。今は、うたがふ所なく、程嬰に心をゆるし、一の大臣にそなへ給ふこそ、御運のきはめとぞおぼえける。さても程嬰は隙をうかがひて、敵王をうつて、すみやかに、主君の屠岸賈を世にたて、二度国王にそなへしかば、もとのごとく、程嬰をさう臣にたてらるるによつて、杵臼、きくわくのために、追善その数をしらず。〔かくて、〕三年に、国こと<”くしづまりをはりて後、程嬰、君に暇をこひていはく、「われ、杵臼に契約して、命を君に奉ること、T076遅速をあらそひしなり。御位、これまでなり。今は、おもひおく事なければ、杵臼が草の蔭にての心もはづかし。自害つかまつらん」と申す。帝王、おほきになげきて、これをゆるすことなし。されども、隙をはからひ、しのび出て、
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杵臼が塚の前にゆき、「君の御位は、思ふまゝなり。いかにうれしくおもひ給ふらん。われ又、かくのごとし。古の契約わすれず」といひて、腹かききり、うせにけり。あはれなりし例なり。されば大見・八幡が、主のために、命をかろんじて、伊東をねらひし志、これにはすぎじとぞおぼえける。
九 奥野の狩座の事 S0109N013
 さても、両三が国の人々は、おの<奥野にいり、方々より勢子を入て、野干をかりける程に、七日がうちに、猪六百、鹿千頭、熊三十七、〓鼠三百、そのほか、雉、山鳥、猿、兎、貉、狐、狸、豺、大かめの類にいたるまで、以上その数二千七百あまりぞ、とゞめられける。今は、さのみ野干をほろぼして、何にかはせんK221とて、おの<柏峠にぞあがりける。この程の雑掌は、伊東一人して、暇なかりければ、「もたせたる酒、人々の見参にいれざるこそ、本意なけれ。いざや、山陣をとりて、頼朝に、今T077一獻すすめ奉らん」「しかるべし」とて、むねとの人々五百余人、峠におりゐつつ用意をこそはせられけれ。
十 同じく酒盛りの事S0110
 さる程に柏峠に各うち上がりければ、土肥次郎が申しけるは、「今日の御酒もりは、かねて座敷の
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御さだめあるべし。わかき方々<”の御違乱もや候べき」。大庭平太はこれを聞き、「これは芝居の座敷、誰を上下とさだむべき。年寄ふ人の盃は、海老名殿よりはじめ、若殿ばらは、滝口殿よりはじめよ。この人は、いづかたにぞ」と申しければ、弟の三郎きき、「兄にて候ものは、熊倉の北の脇に、鹿の来るを、目にかけ、ふかいりして、いまだ見えず候へ。家俊こそまゐりて候」。土屋が申しけるは、「三郎殿こそ、滝口殿よ。兄弟の中に、誰をかわきてへだつべき。その盃、三郎殿よりはじめよ」といふ時、大庭きゝ、「滝口殿は、年こそわかけれども、さる人ぞかし。今きたるといふを、すこしの間、またぬか。左右なく肴あらすな」とて、奥野の山口の方へむかひをやり、滝口おそしとまつ所に、滝口は、熊倉の北の脇をすぐるに、埒の外に、熊の大きなるを見つけて、元の繁みへいれじと、平野におひくだす所に、滝口、大なる伏木に馬をのりかけ、まつさかさまにはせたふす。〔たふるゝ〕馬をかへり見ず、弓のもとを、左右の鐙にのりかかり、草がくれに、矢ごろすこしのびたりけるを、三人ばりに、十三束の大鏑矢つがひ、拳上にひきかけ、ひやうどはなつ。〔ひやうど〕とほなりして、右の折骨二つ三つ、はらりといければ、鏑はわれて、さつとK222ちりければ、T078鏃は、岩にがしとあたる。熊は、手をおひ、滝口にたけりてかかる。勢子の者ども、これを見て、四方へばつとぞにげたりける。滝口、二の矢をつがひ、しぼり返して、月の輪をはづさじと、いをかけていければ、熊は、すこしもうごかず、矢二つにて、とゞまりけり。その後、勢子の者どもよびよせ、熊をかかせて、人々のおりゐたる峠にうちのぼり、いそぎ馬よりおり、「肴たづ
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ね候とて、ふかいりつかまつり、遅参申すなり。御免候へ」といひて、笠をもぬがず、靫をもとかず、行縢ながら、弓杖つきてたちたり。吉川三郎、俣野にいくみてありけるが、これを見て、「滝口殿は、きゝしより、見ましておぼゆる物かな。あつぱれ男かな」とほめければ、座敷にゐわづらひたり。まことに気色顔にて、何事がな、力業して、なほほめられんとおもへ共、芝居のことなれば、かなはでありけるを、弟の滝口三郎船越十郎がゐたりける間に、あをめなる石の、たかさ三尺ばかりなるをよりて、もたばやと思ひければ、する<とあゆみけるを見て、弟の家俊、たたんとす。膝をおさへて、はたとにらみて、「弓矢の座敷をかたさるとは、わがゐたる家を出て、他所にゐわたり、その家に人をおくをこそ、座敷かたざるとはいへ。これ、ここなる石の、二人が間にありて、つまりやうのにくさにこそ」といひて、右の手をさしのべて、後ざまへおしければ、大石がおされて、谷へどうどおちゆく。海老名源八が、これを見て、東八か国のうちに、男子もちT079たらん人は、滝口殿をよきものあやかりにせよ、器量といひ、弓矢とりては、樊噌・張良なり。あつぱれ、侍や」とほめられ、いよ<気色をまし、老の末座敷よりすすみいで、申しけるは、「たゞ今の盃も、さる事にて候へども、あまりにもどかしくK223おぼえ候。大なる盃をもつて、一づつ御まはし候へかし」と申しければ、「滝口殿のおほせこそ、おもしろけれ」とて、伊東次郎貝といふ貝をとりいだし、この貝は、日本一二番の貝とて、院へまゐらせたりしを、公家には、貝を御もちひな
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き事なれば、武家にくださるる。太郎貝をば、秩父にくださる、提子五つぞ入ける、次郎貝をば、三郎にくださる、新介給はつて、土肥次郎にとらする、殿上をゆるされたる器物とて、秘蔵してもちけるを、折節、河津三郎、土肥が聟になりてきたりしを、引出物にしたりけり。内はおのれなりにして、外は梨地にまきて、いそなりにめをさしたり、提子三つぞ入ける、これをとりいだし、滝口がもとよりはじめて、二度づつぞまはしける。五百余人のもちたる酒なれば、酒に不足はなかりけり。後には、乱舞して、をどりはねてぞ、あそびける。海老名源八、盃ひかへて、申しけるは、「これは、めでたき世の中を、現ともさだめがたく、昔がたりにならん事こそ、かなしけれ。老少不定といひながら、わかきは、たのみあるものを、若殿ばらのやうに、まひうたはんとおもへども、膝ふるひ、声もたたず、りうせきが、塚よりいでて、はんらうが、茫然とせしT080やうに、酒もれや、殿ばら。あはれ、〔きみ〕わかくありし時は、これほどの盃二三十のみしかども、座敷にふす程の事はあらねども、老のきはめやらん、腰膝のたたざるこそ、かなしけれ。偏に白居易が昔もかくや老いにけん、今更おもひ出られて、哀れにこそは覚えけれ。
十一 おなじく相撲の事 S0111N015
 さる程に、「古を思ふに秀貞がわかざかりには、鷹狩、川狩のかへり足には、力業、相撲がけこそ、おもしろけれ。わかき
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人々、K224相撲とり給へ。見てあそばん。見物には、上やあるべき」といひければ、伊豆国の住人、三島入道将監、ゐだけだかになりて、「石ころばかしの滝口殿と合沢弥五郎殿、いでてとり給へ。これこそ、あひごろの力ときけ。さもあらば、入道いでて、行司にたたん」といふ。滝口きゝて、「坂東八か国に、つよき者はなきか。かほどの小男を、相手にさゝるゝは、馬の上、かちだちなりとも、脇ばさみたゝんに、はたらかさじ」といひければ、弥五郎きゝて、「伊豆、駿河、武藏、相模に、つよき物はなきか。滝口がせいと力をうらやむは。下臈の好むところにこそ、器量によりて、荷をばもて、侍は、せいちひさく、力はよわけれども、鎧一領肩にひつかけ、弓おしはり、矢かきおひ、よき馬にうちのりて、戦場にかけいでて、思ふT081敵にひつくみて、両馬が間におちかさなり、胆まさりて、腰の刀をぬき、下にふしながら、大の男をひつかけ、草摺をたゝみあげ、急所を隙なくさして、はねかへし、おさへて、首をとる時は、大の男も、ものならず」と、あざわらひてぞ申しける。滝口、たまらぬ男にて、「首をとるか、とらるゝか、力は、外にもあらばこそ。いざや、老の御肴に、力くらべの腕相撲一番とらん」といふまゝに、座敷をたち、直垂をぬぎ、「何程のことの候べき。しや肋骨二三枚、つかみやぶりて、すつべきものを」とて、つつといでけり。弥五郎も、「こゝろえたり。物<しや。力拳のこらへん程は、命こそかぎりよ」といひ、座敷をたつ。一座の人々、これを見て、あはや、事こそいできぬと見る程に、ちかくにありける合沢、申すやう、「あまりはやし、滝口殿。相撲は、まづ小童、冠者ばらに、とら
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せて、とりあげたるこそ、おもしろけれ。おとなげなし、滝口殿。とゞまり給へ」とひきすゑたり。吉川、これを見て、「弥五郎殿も、まづおさへよ。合沢が弟の弥七郎に、いでよ」といふ。すこし辞退K225におよびしを、船越ひきたてて、たづなとりかへ、いだしけり。年におきては、十五なり。姿を物にたとふれば、まだ声わかき鴬の、谷よりいづるもかくやらん。「誰をか相手にさすべき」と、座敷をきつと見まはしければ、「滝口が弟の三郎、いでよ」といふ、ことばの下より、いでにけり。年におきては、十八なり。いづれも、相撲は上手なれば、おの<さしよりて、つまどりT082したる有様は、春まちかねてさく梅の、雪をふくめるごとくなり。われ人、力はしらねども、雲ふきたつる山風の、松と桜に音たてて、鳥もおどろく梢かと、諸人、目をこそさましけれ。弥七は、力おとりなれども、手合ましてぞ見えにける。三郎は、力はまさりてありければ、くまんとのみにて、さしつめむすべば、すててぬけ、なぐれば、かけてまはりしは、桃華の節会の鶏の、心をくだき、羽をつがひ、勝負をあらそふ鶏あはせも、これにはすぎじとぞ見えたりける。老若、座敷にこらへかね、「あつぱれ、うき世の見ごとや」と、上下しばらくのゝめきて、東西さらにしづまらず。されども、弥七は、地さがりへおしかけられ、とゞろはしりて、そ首をつかれ、つひに弥七ぞ、まけたりける。兄の弥六、つつといで、三郎をはたとけて、あふのきざまにうち倒す。滝口、無念に思ひつつ、弟の三郎が、いまだおきざる先に、をどり出、大力なりければ、弥六は、手にもたまらず、まけにけり。兄の弥五郎、弟二人まかして、やすからずにおもひ、袴の腰、とくをおそしとひ
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ききり、たづな二筋えりあはせ、つよくをさめ、はしりいで、ちか<”とさしあひ、力ひきて見ければ、大の男が、ふみはりて、すこしもうごかされず、一定、われもまけぬべし、まことや、相撲は、力によらず、手だにまされば、みぎわまさりの相手をもうつものをとおもひいだして、合沢、右の拳をにぎりかため、滝口が鬢のはづれ、きれてのけと、うちければ、滝口、K226うたれT083て、左右の拳をうちかへす。その後、まけじ、おとらじと、手をはなち、はりあひける。今は、相撲はとらで、ひとへに当座の口論とぞ見えける。両方、さへんとする所に、弥五郎、隙なく、つつと入、滝口が小股をかいて、はなじろにおしすゑたり。いきほひたる滝口、あへなくまけしかば、しばらく相撲ぞなかりける。弥五郎は、広言しつる滝口にかちて、百千番のまけも物ならず、これにかつこそうれしけれ、何者なりともと思ふ所に、葛山又七いでて、手にもたまらずまけて後、究竟の相撲五番までかちて、立つたる有様は、勢あまりてぞ見えける。こゝに、相模国の住人、柳下小六郎いでて、合沢弥五郎をはじめとして、よき相撲六番かつ。駿河国の住人、竹下孫八出て、小六郎をはじめとして、よき相撲九番うつて、いらんとする所に、大庭が舎弟俣野五郎いでて、孫八をはじめとして、よき相撲十番勝ちければ、「いでてとらん」といふ者なし。駿河国高橋忠六、「いざやとらん」といふ。側にありける海老名秀貞、「これこそ、俣野五郎よ。道理にて、うちけるぞや」。景久聞きて「相撲が、たえてなからんにこそ」といひければ、〔土屋〕平太、これをきゝ、「俣野も、手一つ、われも、手一
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つ、臆してばし、まけけるか。かれ体の相撲をば、十人ばかりもと一つかみに、思ひ、着る物をぬぎおき、たづなかきまうけ、まくれば、のりこえ、うつれば、いれかへ、息をもつがせず、隙をもあらせず、せめたふせ」「この儀おもしろし」とて、T084十人ばかりなみゐて、まくれば、つと出、うつれば、はねこえ、せめけれども、究竟の上手の大力なれば、つゞけて、二十一番かちけり。その時、土肥次郎実平、座敷をたち、つま紅に、日をいだしたる扇をひらきて、俣野をしばしあふぎて、「よき御相撲かな。あつぱれ、実平が年K227十四五もわかくば、いでてとらばや」といふ。俣野ききて、「何かはくるしかるべき。いで給へ。一番とらん。相撲は、年により候はず」といひければ、土肥は、なまじひに、ことばをかけて、おめ<といはれて、とるよりほかの、事はなし。伊東は、三浦にしたしく、河津は、土肥が聟なり、土肥が今日の恥辱は、この一門にはなれじとおもへば、伊東次郎が嫡子河津三郎祐重をば、父伊東より人おもくおもひければ、無二無三のあそびなれども、「いでてとれ」といふ人もなし、老の末座にありけるが、座敷をたちて、舅の土肥次郎にさゝやきけるは、「今日の御酒もりには、老若のきらひなく候に、などや祐重一番ともうけたまはり候はず。むなしくかへり候はば、わかき者のおひすげしたるににて候。御はからひ候へ。一番〔とり候はん〕」といひければ、実平きゝて、俣野のことばのにが<しさにぞ、とらんといふらん、さりながら、聟をまかしては、面目なしとや思ひけん、返事にもおよばで、赤面してぞゐたりける。父伊東、これをきゝ、子ながらも、力はつよき物を、とらせて見ばやと思ひけれ
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ども、ためらふ折節、此ことばをきゝ、「神妙に申したり。T085出てとれ」といひければ、直垂ぬぎおき、しろきたづな二筋よりあはせ、かたくをさめて、いでんとす。伊東方の者出て、「御相撲にまゐらん。俣野殿」といふ。景久聞きて腹をたて、「相撲はこれに候ぞ。いであはせ候へといふは、常の事ぞかし。〔総じて、〕手相撲の座敷にて、左右なく相手の名字よぶ事なし。氏といひ器量といひ、河津にやまくべき。小腕おしをりすつべきものを」と、わらひていづるを見れば、菩薩なりにして、色あさぐろく、丈は六尺二分、年は三十一にぞなりける。又河津が姿は、さし肩にして、顔の骨あれて、首ふとく、頭小さく、裾ふくらに、後の折骨、臍の下へさしこみ、力士なりにして、丈はK228五尺八分、年は三十二なり。さしより、つまどり、ひし<として、おしはなれ、河津思ひけるは、俣野はきゝつるににず、さしたる力にてはなかりけり、今日の人々のおほくまけけるは、酒にゑひけるか、臆しける故なるべし。今度は、手にもたつまじきものをと思ひけるが、心をかへて思ふやう、さすがに俣野は、相撲の大番つとめに、都へのぼり、三年の間、都にて相撲になれ、一度も不覚をとらぬ者なり。その故に院・内の御目にかかり、日本一番の名をえたる相撲なり。今こゝもとにて、物の手もなくまかさん事は、かへりていひがひなしとおもへば、二度目にはさしより、左右の腕をつかんで、〔左手・〕右手におはします、雑人の上におしかけ、膝をつかせて、いりにけり。俣野は、たゞもいらずして、「こゝなる木の根にけつまづきて、不覚T086のまけをぞしたりけるや。〔いざや、〕今一番とらん」といふ。大庭、こ
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れをきゝ、はしり出で、「げに<、これに木の根あり。まん中にて、勝負し給へ」といひければ、伊東聞きて申しけるは、「河津が膝、すこしながれて見え候ぞ。ねきりの相撲ならばこそ、意趣もあらめ。たゞ一座の一興にまけ申して、おもしろし。出あひ申せ」といひければ、河津は、やがてぞいでにける。俣野も、いでんとしたりしを、一族ども、「いかにとるとも、かつまじきぞ。たゞ此まゝにて、入給へ。論の相撲は、勝負なし。かちたるには、まさるぞかし。この度まけば、二度のまけなるべし」といひければ、俣野がいふやう、「河津は、力はつよくおぼゆれども、相撲の故実は候はず、御覧ぜよ」といひすてて、なほもいでんとする所を、しばしとゞめていひけるは、「河津が手合をよく見れば、御分にみぎわまさりの力なり。かれら体の相撲をば、左右の手をあげ、爪先をたてて、上手にかけてまち給へ。敵も上手に目をかけて、のさんとK229よる所を、小臂をうちあげ、ちがひさまによついをとり、足をぬきてはねまはれ。大力も、はねられて、足のたてどのうく所を、すてゝ足をとりて見よ。組んではかなふまじきぞ。もし又、くまでかなはずは、うちがらみに、しはとかけて、髻をちをはかせ、一はねはねて、しととうて。なんでふ七はなれ八はなれは、見ぐるしきぞ。侍相撲と申すは、よるかとすれば、勝負あり。あまりにはやきも、見わけられず。又、かやうのT087ひね物をば、わづらひなくのしよりて、小首ぜめにせめて、背こゞめて、まはる所を、大さか手に入て、かいひねりて、けすてて見よ。まつさかさまにまけぬべし」と、こま<”とをしへければ、「こゝろえたり」とていであひけり。をしへのごとくに爪先をたて
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て、腕をあげ、隙あらばとねらひけり。河津は、前後相撲は、これがはじめなれば、やうもなく、する<とあゆみより、俣野が、ぬけんとあひしらふ所を、右の腕をつつとのべ、俣野が前ほろをつかんでさしのけ、あらくもはたらかば、たづなも腰もきれぬべし。しばらく有て、むずとひきよせ、目よりたかくさしあげ、半時ばかり有て、横さまに片手をはなちて、しととうつ。俣野は、やがておきなほり、「相撲にまくるは、常のならひ、なんぞ御分が片手業は」と云ひければ、河津いひけるは、「以前も、かちたる相撲を、御論候間、今度は、真中にて、片手をもつてうち申したり。いまだ御不審や候べき。御覧じつるか、人々」といふ。大庭、これを見て、童にもたせたる太刀おつとり、するりとぬきて、飛んでかかる。座敷、にはかにさわぎ、ばつさとたつ。伊東方による者もあり、大庭方による者もあり。両方さへんとおりふさがり、銚子・盃ふみわり、酒肴をこぼす。雑兵三千余人までも、軍せんとてひしめきけり。兵衛佐殿、此よし御覧じ、「いかに頼朝に、情をすてて、仇をむすび給ふか。大庭のK230人々」とおほせられければ、大庭平太うけたまはり、「田舎すまひの者どもの出仕なれT088候はで、かゝる狼藉をつかまつり候。相撲はまけても、恥ならず、わが方人とはいふべからず、一々にしるし申すべきぞ。後日にあらそふな」といかりければ、大庭のしづめ給ふ上はとて、しづまりけり。伊東は、もとより意趣なしとて、やがて面々にこそしづまりけれ。これや、瓊瑶はすくなきをもつて貴也とし、磧礫はおほきをもつていやしとす。人おほしといへ共、景信がことば一にてぞ、しづまりける。かゝる所に、祐
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経が郎等ども、かれらにまじはり、うかゞひけるが、あつぱれ、事の出でこよかし、まぢかくよりて、うたんとするよしにて、伊東殿をおつさまに射殺さんとて、さゝやきけり。七日が間、夜昼つきてうかがへども、しかるべき隙なくして、狩座すでにすぎれけば、おの<、むなしくかへらんとす。小藤太、申しけるは、「さても、一郎殿の御心をつくして、今や<とまち給ふらん。いたづらにかへらん事こそ、くちをしけれ。いざや、おもひきり、とにもかくにもならん」といひければ、「八幡三郎が申しけるは、「しばらく劫をつみて見給へ。いかでかむなしからん」とぞ申しける。
十二 費長房が事 S0112N016
 去程に、劫を積みて望かなへるたとへあり。〔ふるきを思ふに、〕昔、大国に、費長房といふ者あり。仙術をならひえて、くらき所T089もなかりしが、天にあがる術をならはずして、いまだむなしく凡夫にまじはりありきけり。ある時、商用の事ありて、長安の市に出て、商人にともなひしに、ある老人、腰に壺をつけて、この者は市にまじはりけり。知音は、しる理にて、この者、たゞ人ならずと、目をはなさで見るに、この老人、傍にゆき、腰なる壺をおろし、その壺にいで入にけり。K231さればこそ、仙人なれとて、その人の行くにつきて行くて、費長房の曰く、「かの仙人につかへんとて、三年までぞつかへける。ある時、老人のいはく、「なんぢはいかなる志有て、三年まで、一ことばも
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たがへず、われにつかへけるぞや」。費長房きゝて、「われ、仙術をならふといへども、天にあがる事をしらず。老人の壺にいで入給ふ事ををしへ給へ」といひければ、「やすきことなり。わが袖にとりつけ」といふ。すなはち、とりつきければ、二人ともに、かの壺の中へととびいりぬ。この壺の中にめでたき世界有、月日の光は、空にやはらぎ、四方に四季の色をあらはし、百二十丈の宮殿楼閣あり、天にて聖衆まひあそぶ。鴻雁・鴛鴦の声やはらかにして、池には弘誓の船をうかべり。よく<見めぐりて、「今はいでん」といふ。老人、竹の杖をあたへて、「これをつきていでよ」といふ。すなはち、つくと思へば、時の間に、をしみつといふ所にいたりぬ。この杖をすてければ、すなはち竜となりて、天にあがりぬ。費長房は、鶴にのりて、天にのぼりけり。これも、劫をつもる故なり。T090三年までこそなくとも、まちて見よ」とぞ申しける。
十三 河津三郎うたれし事 S0113N017
 「さればこのかへり足をねらひてみん」「しかるべし」とて、道をかへて、先にたち、奥野の口、赤沢山の麓、八幡山の境にある切所をたづねて、椎の木三本、小楯にとり、一の射翳には大見小藤太、二の射翳には八幡三郎、手だれなれば、あまさじ物をとて、立つたりけり。おの<まちかけける所に、一番にとほるは、波多野右馬允、二番にとほるは、大庭三郎、三番にとほるは、海老名源八、四番は、土肥次郎、後陣はるかにひきさがり
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て、流人兵衛佐K232殿ぞとほられける。敵ならねば、みなやりすごしぬこのつぎに、伊東が嫡子河津三郎ぞきたりける。おもしろくこそ出たちたれ。秋野のすりつくしたる間々に、ひき柿したる直垂に、斑の行縢裾たぶやかにはきなし、鶴の本白にてはいだる白こしらへの鹿矢、筈高におひなし、千段籐の弓のまん中とり、萌黄裏つけたる竹笠、こがらしにふきそらせ、宿月毛の馬の五つきあまりの大きなるが、尾髮あくまでちゞみたるに、梨子地にまきたる白覆輪の鞍に、連著鞦の山吹色なるをかけ、銜轡に紺の手綱をいれてぞ乗つたりける。馬もきこゆる名馬なり、主も究竟の馬のりにて、T091伏木・悪所をきらはず、さしくれてこそあゆませけれ。折節、のりがへ一騎もつかざれば、一の射翳の前をやりすごす。二の射翳の八幡三郎はもとよりさわがぬ男なれば、「天のあたへをとらざるは、かへつて咎をうる」といふ、ふるきことばを思ひいでずは、射損ずべき。射翳の前を三段ばかり、左手の方へやりすごして、大のとがり矢さしつがひ、よつぴき、しばしかためて、ひやうどはなつ。おもひもよらでとほりける河津が乗つたる鞍の後の山形をいけづり、行縢の着際を前へつつとぞいとほしける。河津もよかりけり。弓とりなほし、矢とつてつがひ、馬の鼻をひつかへし、四方を見まはす。「知者はまどはず、仁者はうれへず、勇者はおそれず」と申せども、大事のいた手なれば、心はたけく思へ共、性根次第にみだれ、馬よりまつさかさまにおちにけり。後陣にありける父伊東次郎は、これをば夢にもしらずぞくだりける。頃は神無月十日あまりの事なれば、山めぐりのむ
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ら時雨、ふりみふらずみさだめなく、立ちよる雲のたえ<”に、ぬれじと駒をはやめて、手綱かいくる所に、一の射翳にありける大見小藤太、まちK233うけて射たりけれども、験なし。左の手のうちの指二つ、前のしほでの根にいたてたり。伊東は、さるふるつは物にてありければ、敵に二つの矢をいさせじと、大事の手にもてなし、右手の鐙におりさがり、馬を小楯にとり、「山賊ありや。先陣はかへせ、後陣はすすめ」とよばはりければ、先陣・後陣、われおとらじとすゝめども、T092所しも悪所なれば、馬のさくりをたどる程に、二人の敵はにげのびぬ。隈もなくまちけれども、案内者にて、おもはぬしげみの道をかへ、大見庄にぞいりにける。あやふかりし命也。伊東は、河津三郎がふしたる所にたちよりて、「手は大事なるか」ととひけれども、音もせず。おしうごかして、矢をあらくぬきければ、いよ<前後もしらざりけり。河津が首を、父伊東が膝にかきのせ、涙をおさへて申しけるは、「こは何と成ゆく事ぞや。おなじあたる矢ならば、など祐親にはあたらざりけるぞ。齡かたぶき、今日明日をもしらざるうき身なれども、わ殿をもちてこそ、公方私こゝろやすく、後の世かけても、たのもしく思ひつるに、あへなく先だつ事のかなしさよ。今より後、誰をたのみて有べきぞ。なんぢをとゞめおき、祐親先だつものならば、おもひおく事よもあらじ。老少不定のわかれこそかなしけれ」とて、河津が手をとり、懐に入、くどきけるは、「いかに定業なり共、矢一つにて、ものをもいはで、しぬる者やある」といひて、おしうごかしければ、その時、祐重、くるしげ
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なる声にて、「かくは度々おほせらるれども、誰ともしり奉らず候」といふ。土肥次郎申しけるは、「御分の枕にし給ふは、父伊東の膝よ。かくのたまふも、伊東殿。今又かやうに申すは、土肥次郎実平なり。敵やおぼえ給ふ」ととひければ、やゝありて、目をひらき、「祐親を見まゐらせんとすれ共、今はそれもかなはず。K234誰々も、ちかく御いりT093候か。御名残こそをしく候へ」とて、父が手にとりつきにけり。伊藤、涙をおさへて申しけるは、「未練也。なんぢ、敵はおぼえずや」といふ。「工藤一郎こそ、意趣あるものにて候へ。それに、たゞ今、大見と八幡見え候ひつれ。あやしくおぼえ候。したがひ候ひては、祐経在京して、公方の御意さかりに候なる。しかれば、殿の御ゆくへいかゞと、よみぢのさはり共なりぬべし。面々たのみ奉る。をさない者までも」といひもあへず、奥野の露ときえにけり。無慙なりける有様とも、申すはかりぞなかりける。伊東は、あまりのかなしさに、しばしは膝をおろさずして、顔に顔をさしあて、くどきけるこそあはれなれ。「や、殿、きけ、河津。たのむ方なき祐親をすてて、いづくへゆき給ふぞ。祐親をもつれてゆき候へ。母や子どもをば、誰にあづけてゆき給ふぞ。情なの有様や」となげきければ、土肥次郎も、河津が手をとり、「実平も、子とては遠平ばかりなり。御身をもちてこそ、月日のごとくたのもしかりつるに、かやうになりゆき給ふ事よ」と、なきかなしむ事かぎりなし。国々の人々もおなじく一所にあつまりて、互ひに袖をぞぬらしける。さてあるべきにあらざれば、むなしきかたちをかゝせて、家にかへりければ、女房をはじめとして、あやしのしづ
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の男、しづの女にいたるまで、なげきの声、せんかたなし。さても、かの河津三郎祐重に、男子二人有。兄は、一万とて、五なり、弟は、箱王とて、三にぞなりにける。母、思ひT094のあまりに、二人の子どもを左右の膝にすゑおき、髪かきなで、なく<申しけるは、「胎の内の子だにも、母のいふ事をばきゝしるものを、ましてなんぢらは五や三つになるぞかし。十五、十三にならば、親の敵を討ちてわらはに見せよ」となきければ、弟は、きゝしらず、手ずさみして、あそびゐたるばかりなり。兄は、死したるK235父が顔をつく<”とまぼりて、わつとなきしが、涙をおさへて、「いつかおとなしくなりて、父の敵の首きつて、人々に見せまゐらせん」とて、なきしかば、しるもしらぬもおしなべて、袖をしぼらぬ人はなし。なほも、名残をしたひかね、二日までぞおきたりける。黄泉幽冥の道は、如何なる所なれば、一度さりて、二度とかへらぬならひなれば、力およばず、なく<おくりいだし、夕の煙となしにけり。女房、一つ煙とならんと、かなしみけり。伊東次郎申しけるは、「恩愛のわかれ、夫妻のなげき、いづれかおとるべきにはあらねども、うき世のならひ、力およばず候。親におくれ、夫妻にわかるゝごとに、命をうしなふものならば、生老病死もあるべからず。わかれは人ごとの事なれども、思ひすぐれば、おのづから、わするゝ心のあるぞとよ。うきにつけて、身をまたくして、後世菩提をとぶらひ給へ」と、さま<”になぐさめければ、「まことに理なれども、さしあたりたるかなしさなれば」とて、もだえこがれけり。「夫のわかれは、昔も今も、多き所なり。わかれの涙、袂にとゞまりて、かはく間もなし。後先をもしらぬ、T095をさなき
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物共にうちそへて、身さへたゞならず。様をかへんと思へ共、尼の身にて、産所の体も、見ぐるし。又、淵川へしづまんと思ふにも、この身にて死しては、罪ふかゝるべしときけば、とにもかくにも、女の身ほど、心うきものはなし」とくどきたてて、おきふしに、なくよりほかの事ぞなき。一日片時も、〔たゞ〕しのぶべき身にてなかりしが、あけぬくれぬとせし程に、五七日にもなりにけり。
十四 伊東が出家の事 S0114
 かくて、父伊東次郎はさかさまなる事なれども、かの菩提をとぶらはんがために、出家して、六道にあてK236て、三十六本の率塔婆を造立〔供養〕し奉る日、聴聞の貴賎男女、数をつくして、参詣する所に、五つに成ける一万が、父の蟇目に鞭をとりそへて、「これは父の物」とて、ひつさげければ、母これを見てよびよせて、「なき人の物をば、もたぬ事ぞ。みな<すてよ。ゆく末はるかの者ぞかし。なんぢが父は、仏になり給ひて、極楽浄土にましますぞ。わらはも、つひにはまゐるべし」といひければ、一万よろこびて、「仏とは、何ぞ。極楽とは、いづこにあるぞや。いそぎましませ。われもゆかん」とせめければ、母は、いひやる方もなくして、率塔婆の方に指をさして、「かれこそ、浄土の父よ」といひければ、一万、弟の箱王が手をひき、「いざや、父御のもとにまゐらん」と、いそぎけれども、箱王は、三になりければ、あゆむにはかもゆか
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ず、いそぐ心に、弟をすてて、率塔婆の中をはしりめぐり、むなしくかへりて、母の膝の上にたふれふして、「仏の中T096にも、わが父はましまさず」とてなきければ、乳母も、共になきゐたり。その日の説法のみぎりより、一万がふるまひにこそ、貴賎袂をぬらしけれ。四十九日には、八塔を供養するとかや。
十五 御房がむまるゝ事 S0115N019
 さても河津が仏事過ぎしかば、そのつぎの暁方に女房、例ならざれば、人々やがて心得しかば、九月半と申すには、産の紐をぞ解きたりける。此程のなげきには〔産は〕いかゞと案じけるに、何のつゝがもなく男子を生みけり。母申しけるは、「おのれは、果報すくなき者かな。今すこしとくむまれて、などや父を見ざりけるぞ。蜉蝣といふ虫こそ、朝にむまれて、夕に死するなれ。なんぢが命、かくのごとし。わらはも、尼になり、山々K237寺々の麓にとぢこもり、花をつみ水をくみ、仏にそなへ奉り、なんぢが父の孝養にせんとおもへば、身にはそへざるぞ。ゆめ<うらむべからず」とて、やがてすてんとせし所に、河津三郎が弟、伊東九郎祐清といふ者あり。一人も子をもたざりければ、この事をきゝ、女房いそぎて参りて、「まことや、今のをさない人をすてんとおほせらるゝ、由をほの聞きたり。いかでさる事あるべきぞ。なき人の形見にも、見もし給はず、棄て給はん事罪ふかかるべし。又、善悪の事も、それを節と思へば、
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折々におもひいだす事の端になるものを。しかも、男子にてましませば、T097わらはにたび給へ。やしなひたてて、一家の形見にもせん」といひければ、「この身の有様にて、身にそふる事、思ひもよらず候。さやうにおぼしめさば」とて、とらせけり。やがて、こゝろやすき乳母をつけて、養育す。名をば、御房とぞいひける。さる程に、忌は八十日、産は三十日にも成にけり。百か日にあたらん時、かならず尼になりぬべしとて、袈裟衣をぞ用意したりける。
十六 女房、曾我へうつる事 S0116N020
 さても、河津が女房は、月日の重なるに従つて、いよいよ出家遁世の心を思ひ立ちければ、伊東入道此の由をつたへきゝて、人して申しけるは、「まことや、姿をかへんとし給ふなると聞く。子どもをば、誰に預けはごくめとて、さやうの事をばおもひ立ち給ふぞ。おいおとろへたる祖父や祖母をたのみ給ふかや。それ、さらにかなふべからず。三郎なければとて、をさない者どもあまたあれば、つゆほどもおろかならず、ひとへに祐重が形見とこそ思ひ奉れ。いかなる有様にても、身をやつさずして、をさない物共をも育て人となし給へ。されば、K238今さらに、うとき方へましまさば、われも人も、見奉る事かなふまじ。相模国曾我太郎と申すは、入道所縁ある者にて候。折節、この程、年ごろの妻女におくれて、なげきいまだはれやらず候とうけたまはり候。
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それへやり奉るべし。おのづから、心をもなぐさみ給へ。入道があたりT098なれば、へだての心はあらず」と、こま<”とぞいひける。さて女房にはやがて、人をつけ、きびしく守らせければ、尼になるべき隙もなし。すなはち、入道、曾我太郎がもとへ、此よしくはしく文にかきて、つかはしければ、祐信、文を見て、大によろこび、やがて、つかひとうちつれ、伊東へこして、子共もろともにむかへとりて、かへりけり。いつしか、かゝるふるまひは、かへす<”もくちをしけれども、さる事なれば、うらみながらも、月日をぞおくりける。これをもつて、昔を思ふに、せいぢよは、夫のために、禁獄にとめられ、はくゑいは、夫におくれ、夷のすみかになれしも、心ならざるうらめしさ、今さら、おもひしられたり。K239