水鏡 日本文学叢書本
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底本:日本文学叢書第七巻 「古事記 大鏡 水鏡」 日本文学叢書刊行会
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水鏡
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水鏡
巻之上 〔序〕
慎(つゝし)むべき年(とし)にて、過ぎにし二月の初午の日、龍蓋寺へ詣で侍(はべ)りて、やがてそれより、初瀬に、たそがれのほどに参(まゐ)り着きたりしに、年の積もりには、いたく苦しう覚えて、師のもとにしばし休み侍(はべ)りし程に、うちまどろまれにけり。初夜の鐘の声におどろかれて、御前に参(まゐ)りて通夜し侍(はべ)りしに、世の中うちしづまる程に、修行者の三十四五などにやなるらんと見えしが、経をいと尊く読むあり。かたはら近く居たれば、「いかなる人のいづこより参(まゐ)り給(たま)へるぞ。御経などの承(うけたまは)らまほしからむには、尋(たづ)ね奉(たてまつ)らん」と云ふに、この修行者言ふやう、「いづこと定めたるところも侍(はべ)らず。少しものゝ心つきて後、この十余年、世のなりまかるさまの心とゞむべくも見え侍(はべ)らねば、人まねに、もし
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後世や助るとて、斯様に惑ひ歩き侍(はべ)るなり」と言へば、「誠に賢く思(おぼ)し取りたる事にこそ侍(はべ)れ、誰も流石に此の理は思(おも)へども、眞しくは思(おも)ひ立たぬこそ愚に侍(はべ)るめれ。此尼、今まで世に侍(はべ)るは希有の事なり、今日明日とも知らず、今年七十三になんなり侍(はべ)る。三十三を過ぎ難く、相人なども申(まう)し合ひたりしかば、岡寺は厄を転じ給(たま)ふと承(うけたまは)りて、詣で初めしより、慎(つゝし)みの年毎に、二月の初午の日参(まゐ)りつる験にこそ、今まで世に侍(はべ)れば、今年慎(つゝし)むべき年にて、参(まゐ)りつる身ながらもをかしく、今は何にの命かは惜しかるべきと思(おも)ひながら、年此参(まゐ)り慣ひて侍(はべ)るに合せて、軈て此の御寺へも参(まゐ)らんと思(おも)ひ立ちてなん。今此の御寺には、偏に後世助り侍(はべ)らん善知識に逢はせ〔させ〕給(たま)へと、申(まう)し参(まゐ)れるに、斯く潔く後世思(おぼ)す人に逢ひ奉(たてまつ)りぬるは、然かるべきにこそ、世を背く人も、自から物言触れ給(たま)ふ人なきは、頼なかるべき事なり。此の尼も偏に子とも思(おも)ひ奉(たてまつ)らん。又必ず善知識となり給(たま)へ」と言へば、修行者、「いと嬉しき事なり、今日よりは然こそ頼み申(まう)し侍(はべ)らめ」とて、又経など読み
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て、さし果てし程に、後夜打過ぎて、我も人も眠られしかば、「修行し歩き給(たま)ひけん物語し給(たま)へ、目をも覚し侍(はべ)らん。大峰葛城などには、尊き事にも、又恐しき事にも逢ひ侍(はべ)るなるは、如何なる事か侍(はべ)りし」と問へば、「年比は別に然る事もなかりしに、一昨年の秋、葛城にてこそ浅しき事に逢ひ侍(はべ)りたりしか。常よりも心澄みて、哀に覚えて経を誦し奉(たてまつ)りしに、谷の方より人の気色のして詣で来しかば、いと物恐しく覚えながら、経を誦し奉(たてまつ)りしに、九月上の十日頃の事にて、月の入方になり侍(はべ)りし程に、仄かに其の形を見れば、翁の姿したる者の、浅しげに痩せ神さびたるが、藤の皮を編て衣とし、竹の杖をつきたるが来れるなりけり。漸々傍へ来寄りて言ふやう、「御経のいと尊く聞え〔侍(はべ)り〕つれば、詣で来たる」と言ふ。物恐しく覚え侍(はべ)りしかども、鬼魅などの姿にもあらざりしかば、仙人といふ物にやと思(おも)ひて、期く申(まう)す程に、八の巻の末つ方なりしかば、又一部を誦して聞かせ侍(はべ)りしかば、此の仙人悦びて、「修行し給(たま)ふ人多く在せども、眞しく仏道を心にかけ給(たま)ふやらん
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と、見奉(たてまつ)るが、尊く覚え侍(はべ)るなり。いかなる事にて心を起し初め給(たま)へりしぞ』と、問ひしかば、先に申(まう)しつるやうに申(まう)ししを、仙人聞きて、『いとかしこきことなり。おほかたは、今の世をはかなく見、疎み給(たま)ひて、古はかくしもあらざりけんと浅く思(おぼ)すまじ。すべて三界は厭ふべき事なりとぞ思(おぼ)すべき。この目の前の世の有様は、折に従ひて、ともかくもなりまかるなり。古を褒め、今を謗るべきにあらず。神代より、この葛城、吉野山などを住処として、時々はかたちを隠して都の有様も、諸国に至るまで、見聞きて過ぎ侍(はべ)りき。由なき事どもに侍(はべ)れども、お経を承(うけたまは)りぬる喜びに、ひとへに目の前の事ばかりをのみ謗る心おはして、古はかくしもなかりけんなど思(おぼ)す、一筋なる心のおはする方をも申(まう)し聞かせば、一分の執心をも失ひ奉(たてまつ)りなば、仏道に進み給(たま)ふ方とも、などかならざらん。神の世より見侍(はべ)りし事、おろおろ申(まう)し侍(はべ)らん』と言へば、『いみじくうれしく侍(はべ)るべきことなり。生年二十などまでは、男のまねかたにて、世に立ち交らひ侍(はべ)りしかども、はかばかしく昔の事考へみる事もなかりき。たゞ遊び
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戯れにて、夜を明かし日を暮らしてのみ過ぎ侍(はべ)りしに、近ごろの事などを、人の語り伝へ申(まう)すを聞くに、この世の中はいかにかくはなりまかるやらんと、事に触れてあはれにのみ覚えて、かゝる道に入りにたれば、一方になべての世を謗る心もあり罪も定めて侍(はべ)らん。いで、宣(のたま)はせよ。承(うけたまは)らん』と言ふに、仙人のいふ、『さてはこの世の有様のみならず、内典の方なども疎くこそはおはすらめ。端々を申(まう)さん。生死は車の輪の如くにして、始まりては終り、終りては始まり、何時を初め、何時を終りといふ事あるべからず。まづ劫の有様を申(まう)して、世の成行く様もかくぞかしと知らせ奉(たてまつ)らん。人の命の八万歳ありしが、百年と言ふに、一年の命の縮まり縮まりして、十歳になるを一の小劫とは申(まう)すなり。さて〔又、〕十歳より、又百年に一年の命を添へて、八万歳になりぬ。これをも一の小劫と申(まう)す。この二の小劫を合はせて一の中劫とは申(まう)すなり。さて世の始まる時をば成劫と申(まう)して、この中劫と申(まう)しつるほどを二十過すなり。その初めの一劫のほどはつやつやと世の中なくて、空の如くにてあり
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しに、自然に山河など出で来て、かく世間の出で来るなり。いま十九劫には、極光浄といふてんより、一人の天人生れて大梵王となる。その後、次第にやうやう下ざまに生れて、次に人生れ、餓鬼、畜生出で来て、果てに、地獄は出で来るなり。かくて成劫二十劫は究まりぬ。世間も有情もなり定まるによりて成劫とは申(まう)すなり。次に住劫と申(まう)して、又二十の中劫のほどを過すなり。たゞし初めの一劫は、命、次第に劣りのみして、まさる事なし。されば住劫の初めの人の命は八万歳にはあらで、無量歳にて、それより十歳までなるなり。されども程の経る事は、ひとつの中劫のほどなり。さて第二の劫より十九の劫まで、先に申(まう)しつるやうに、八万歳より十歳になり、十歳より八万歳になり、劫ごとにかく侍(はべ)るなり。さて第二十の劫は、十歳より八万歳まで、まさる事のみありて、劣る事なし。これも過ぐるほどは一の中劫の間なり。これは天より地獄まで、成劫に出で来調ほりて、有情のある程なり。さて住劫とは申(まう)すなり。次に壊劫と申(まう)して、このほど又二十の中劫のほどなり。初めの十九劫には、地獄より初めて、有情みな失せ
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ぬ。この失すと申(まう)すは、いづこともなく失せぬるにはあらず。しかるべくして天上へ生るゝなり。たゞし地獄の業なほ尽きぬ衆生をば、こと三千界の地獄へしばし移しやるなり。かくて第二十の劫に、水出で来て、しも風輪とて、風吹きはりたる所の上より梵天まで、山河も何もかもなく焼け失せぬ。かく破れぬれば、壊劫とは申(まう)すなり。次に空劫と申(まう)して、又二十の中劫のほどを、世の中に何もなくて、大空の如くにて過ぐるなり。空しければ、空劫とは申(まう)すなり。この成住壊空の四劫を経るほどは、八十の中劫を過しつるぞかし。これをひとつの大劫とは申(まう)すなり。かくて終りては〔又〕始まり、始まりては終りして、いつを限りといふ事なし。かくの如くして、水火風災などあるべし。こと長ければ申(まう)さず。この住劫と申(まう)しつるに、仏は世に出で給(たま)ふなり。その中に、人の命まさりざまになる折は、楽しみ驕れる心のみありて、教へに叶ふまじければ出で給(たま)はず。命やうやう落ちつ方に、ものゝあはれをも知(し)り、教へ事にも叶ひぬべきほどを見はからひ〔給(たま)ひ〕て出で給(たま)ふなり。この住劫にとりては、初め八劫には、仏出で給(たま)はず。第九の減劫に七仏
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の出で給(たま)ひしなり。釈迦の出で給(たま)ひしは、人の命百歳の時なれば、第九劫のむげに末になり〔に〕たるにこそ。第十の減劫の初めに、弥勒は出で給(たま)はんずるなれ。第十五の減劫に、九百九十四仏出で給(たま)ふべし。かくの如く、世に従ひて、人の命も果報もなりまかるなり。おほかたはさる事にて、この日本国にとりても、又なかなか世あがりては事定まらず、かへりてこの頃に相似たる事も侍(はべ)りき。仏法渡り、因果弁へなどしてより、やうやうしづまりまかりし名残の、又末になりて、仏法も失せ、世の有様もわろくなりまかるにこそあるべきことわりなれば、良し悪しを定むべからず。ひとへにあらぬ世になるにやなど、欺き思(おも)ふべからず。万寿の頃ほひ、世継と申(まう)しし賢しき翁侍(はべ)りき。文徳天皇(てんわう)より後つ方の事は暗からず申(まう)し置きたるよし承(うけたまは)る。その前はいと聞き耳遠ければとて申(まう)さざりけれども、世の中を究め知らぬは、片おもむきに、今の世を謗る心の出で来るも、かつは罪にも侍(はべ)らん。目の前の事を昔に似ずとは、世を知らぬ人の申(まう)すことなるべし。かの嘉祥三年より前の事を、おろおろ申(まう)すべし。まづ神の世七代、
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その後、伊勢太神宮の御代より、うのかやふきあはせずのみことまで五代。合せて十二代のことは、言葉に表し申(まう)さむにつけて憚り多く侍(はべ)るべし。神武天皇(てんわう)より申(まう)し侍(はべ)るべきなり。その御門(みかど)、位に即き給(たま)ひし辛酉の年(とし)より嘉祥三年庚午の年(とし)まで、千五百二十二年にやなりぬらん。そのほど、御門(みかど)五十四代ぞおはしましけん。まづ神武天皇(てんわう)より』とて、言ひ続けはべりし。
第一代 神武天皇(てんわう)
神武天皇(てんわう)と申(まう)しし御門(みかど)は、顱草葺不合尊の第四の御子なり。御母は海神の女玉依姫なり。又まことの御母は海に入り給(たま)ひて、玉依姫は養ひ奉(たてまつ)り給(たま)へりけるとも申(まう)しき。その世に侍(はべ)りしかども、こまかに〔も〕、知(し)り侍(はべ)らざりき。この御門(みかど)、父の御門(みかど)の御世、庚午の年(とし)、生れ給(たま)ふ。甲申の年(とし)、東宮(とうぐう)に立ち給(たま)ふ。御年(おんとし)十五。辛酉の年(とし)正月一日、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)五十二。さて世を保ち給(たま)ふ事、七十六年。神世より伝はりて剣三あり。一は
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石上神布留の社にます。一は熱田の社にます。一は内裏にます。又、鏡三あり。一は太神宮におはします。一は日前におはします。一は内裏におはします。内侍所にこそおはしますめれ。この日本を秋津嶋とせられし事はこの御時なり。事はるかにしてこまかに申(まう)しがたし。位に即かせおはしましゝ年ぞ、釈迦仏涅槃に入り給(たま)ひて後、二百九十年にあたり侍(はべ)りし。されば世あがりたりといへども、仏の在世にだにもあたらざりければ、やうやう世の末にてこそは侍(はべ)るなれ。
第二代 綏靖天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、綏靖天皇(てんわう)と申(まう)しき。神武天皇(てんわう)の第三の御子なり。御母、事代主命の御女、五十鈴姫なり。神武天皇(てんわう)の御世、四十二年正月甲寅の日、東宮(とうぐう)に立ち給(たま)ふ。御年(おんとし)十九。庚辰の年正月八日己卯、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)五十二。世を保ち給(たま)ふ事、三十三年。父御門(みかど)亡せ給(たま)ひて、諒闇のほど、
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世の政事を御兄の皇子に申(まう)し付け給(たま)へりしを、この御兄の皇子の、弟達を失ひ奉(たてまつ)らんと謀り給(たま)へりしを、この弟の皇子心得給(たま)ひて、御果てなど過ぎて、御門(みかど)、いま一人の御兄の皇子と、御心を合はせて、かの兄の皇子を射させ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふに、この兄皇子、手を慄かしてえ射給(たま)はずなりぬ。御門(みかど)、その弓を取りて射殺し給(たま)ひつ。このえ射ずなりぬる兄の皇子の宣(のたま)ふやう、「我、兄なりと雖も、心弱くしてその身堪へず。汝は悪しき心持ちたる兄をすでに失へり。速やかに位に即き給(たま)ふべし」と申(まう)し給(たま)ひしに、互に位を譲りて、誰も即き給(たま)はで四年過し給(たま)へりしかども、つひにこの御門(みかど)、兄の御勧めにて位に即き給(たま)へりしなり。
第三代 安寧天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、安寧天皇(てんわう)と申(まう)しき。綏靖天皇(てんわう)の御子。御母、皇大后宮五十鈴依姫なり。綏靖天皇(てんわう)の御世、二十五年正月戊子の日、東宮(とうぐう)に立ち
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給(たま)ふ。御年(おんとし)十一。父御門(みかど)亡せ給(たま)ひて、明くる年十月二十一日ぞ位に即き給(たま)ひし。御年(おんとし)二十。世を保ち給(たま)ふ事、三十八年なり。
第四代 懿徳天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、懿徳天皇(てんわう)と申(まう)しき。安寧天皇(てんわう)の第三の皇子。御母、皇后渟名底中媛なり。安寧天皇(てんわう)の御世、十一年正月壬戌の日、東宮(とうぐう)に立ち給(たま)ふ。御年(おんとし)十六。辛卯の年(とし)二月四日壬子、位に即き給(たま)ふ。世を治らせ給(たま)ふ事、三十四年なり。三十二年と申(まう)ししにぞ孔子は亡せ給(たま)ひにけると承(うけたまは)りし。
第五代 孝昭天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、孝昭天皇(てんわう)と申(まう)しき。懿徳天皇(てんわう)第一の御子。御母、皇太后宮
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天豊津媛なり。懿徳天皇(てんわう)二十二年壬子三月戊午の日、東宮(とうぐう)に立ち給(たま)ふ。御年(おんとし)十八。丙寅の年(とし)正月九日、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)三十二。世を保たせ給(たま)ふ事、八十三年なり。
第六代 孝安天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、孝安天皇(てんわう)と申(まう)しき。孝昭天皇(てんわう)の第二の皇子。御母、世襲足姫なり。孝昭天皇(てんわう)の御世、六十八年正月に東宮(とうぐう)に立ち給(たま)ひき。御年(おんとし)二十。己丑の年(とし)正月十三日辛卯、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)三十六。世を保たせ給(たま)ふ事、百二年なり。
第七代 孝霊天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、孝霊天皇(てんわう)と申(まう)しき。孝安天皇(てんわう)第一の御子。御母、皇太后姉押姫
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なり。考安天皇(てんわう)の御世、七十六年庚申正月に東宮(とうぐう)に立ち給(たま)ふ。御年(おんとし)二十六。父御門(みかど)亡せ給(たま)ひて次の年辛未、正月二年ぞ位に即き給(たま)ひし。御年(おんとし)五十三。位を保ち給(たま)ふ事、七十六年なり。この御世とぞ覚え侍(はべ)る、天竺の祗園精舎の焼けて後、旃育迦王の造り給(たま)ふと承(うけたまは)り侍(はべ)りしは。彼の須達長者造りて仏に奉(たてまつ)りて二百年と申(まう)ししに焼けにけるを、祗陀太子、又もとのやうに造り給(たま)へりける。其の後、五百年を経て焼けたるを、いま旃育迦王の造り給(たま)ふとぞ聞こえし。
第八代 孝元天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、孝元天皇(てんわう)と申(まう)しき。孝霊天皇(てんわう)の御子。御母、皇后宮細媛なり。孝霊天皇(てんわう)の御世、三十六年丙午正月、東宮(とうぐう)に立ち給(たま)ふ。御年(おんとし)十九、丁亥の年(とし)正月十四日に位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)六十。世を治らせ給(たま)ふ事、五十七年なり。三十九年乙丑六月にゆゝしき大雪の降りたりしこそ
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あさましく侍(はべ)りしか。
第九代 開化天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、開化天皇(てんわう)と申(まう)しき。孝元天皇(てんわう)の第二の御子。御母、皇太后宮鬱色迷命なり。孝元天皇(てんわう)の御世、二十二年丁未正月に、東宮(とうぐう)に立ち給(たま)ふ。御年(おんとし)十六。癸未の年(とし)十一月十二日に、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)五十一。世を知(し)り給(たま)ふ事、六十年。この御世のほどとぞ覚え侍(はべ)る。南天竺に龍猛菩薩と申(まう)す僧いますなりと承(うけたまは)りし。真言を初めて弘め給(たま)ひしことはこの菩薩なり。又、祗園精舎は二度まで焼けしを、旃育迦王の造り給(たま)へりけるを、百年と申(まう)ししに、盗人焼き侍(はべ)りにけり。何処も何処も心憂きは人の心なり。その後十三年ありて、六師迦王、又造り給(たま)へると承(うけたまは)りしは、この御時、位に即かせ給(たま)ひて十年など申(まう)ししほどゝぞ覚え侍(はべ)る。
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第十代 崇神天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、崇神天皇(てんわう)と申(まう)しき。開化天皇(てんわう)〔の〕第二の御子。御母、皇太后宮伊香色迷命なり。甲申の年(とし)、正月十三日に位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)五十二。世を知(し)り給(たま)ふ事、六十八年なり。六年と申(まう)ししに斎宮は初めて立ち給(たま)へりしなり。又、国々の貢物徒歩より持て参(まゐ)る事、民も苦しみ、日数も経る悪しき事なりとて、諸国に船を造らせ〔させ〕給(たま)ひき。六十二年と申(まう)しし頃ほひ、天竺に悪王おはして、祗園精舎を毀ち捨て人を殺すところにせんと定め給(たま)ひしかば、四天王、沙竭羅龍王怒りをなして、毀ちける人を大きなる石をもちて押し殺し給(たま)ひけると承(うけたまは)り侍(はべ)りき。六十五年と申(まう)ししに熊野の本宮は出でおはしましゝなり。凡て此の御門は御心めでたく、殊に御おきて暗からずおはしましき。
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第十一代 垂仁天皇(てんわう)
次の御門(みかど)垂仁天皇(てんわう)と申(まう)しき。崇神天皇(てんわう)第二の御子。御母、皇太后御間城姫なり。崇神天皇(てんわう)四十八年辛未四月に御夢の告げありて、東宮(とうぐう)に立て奉(たてまつ)り給(たま)ひき。御年(おんとし)二十二。壬辰の年(とし)正月三日、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)四十三。世を知らせ給(たま)ふ事九十九年なり。四年と申(まう)ししに、后の兄、よき隙を窺ひて后に申(まう)し給(たま)ふやう、「兄と夫と誰をか心ざし深く思(おも)ひ給(たま)ふ」と申(まう)し給(たま)ふに、后何とも思(おぼ)さで、「兄をこそは思(おも)ひまし奉(たてまつ)れ」と宣(のたま)ふを聞きて、この御兄〔の〕宣(のたま)はく、「しからば夫は、若く色衰へず盛りなるほどなり。世の中に、かたちよく、われもわれもと思(おも)ふ人こそ多かる事にて侍(はべ)れ。我、位に即きなば、この世におはせんほどは、世の中を御心にまかせ奉(たてまつ)るべし。御門(みかど)を失ひ奉(たてまつ)り給(たま)へ」とて、剣をとりて后に奉(たてまつ)り給(たま)ひつ。后あさましく恐ろしく思(おぼ)せど、かく言ひかけられなん事、逃るべき方もなくて、常に御衣の中に剣を隠して隙を窺ひ給(たま)ふに、明くる年の
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十月に、御門(みかど)、后の御膝を枕にして昼御殿籠りたりしに、后、この事たゞ今にこそと思(おぼ)しゝに、おのづから涙下りて御門(みかど)の御顔にかゝりしかば、御門(みかど)はおどろき給(たま)ひて宣(のたま)ふやう、「われ、今夢に錦の色の小蛇、わが首を纒ふと見つ。又、大きなる雨、后の方より降りきてわが顔に注ぐと見つ。いかなることにか」と仰せられしに、后え隠し果て給(たま)はで、震ひ怖ぢ怖れ給(たま)ひて、涙にむせびてありのまゝの事を申(まう)し給(たま)ふを、御門(みかど)聞こしめして、「この事、后の御咎にあらず」と仰せられながら、兄の王、又、后をも失はせ給(たま)ひにき。ゆゝしくあさましかりし事に侍(はべ)りき。七年と申(まう)ししにぞ、すまひは始まり侍(はべ)りし。十五年と申(まう)ししに、丹波国に住み給(たま)ひし皇子の御女五人おはしき。御門(みかど)これを皆参(まゐ)らすべき由、仰せ言ありしかば、やがて奉(たてまつ)り給(たま)へりしに、おのおのときめかせ給(たま)ひしに、中の弟のおはせし、容貌いと醜くなんおはしければ、本の国へ返し遣はしゝほどに、桂川渡りて心憂しとや思(おぼ)しけん、車より落ちてやがてはかなくなり給(たま)ひき。さてそれよりかしこをおちくにと申(まう)ししを、この頃は、乙訓とぞ
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人は申(まう)すなる。その年の八月〔に〕、星の雨の如くにて降りしをこそ見侍(はべ)りしか。あさましかりし事に侍(はべ)り〔し〕。二十五年と申(まう)ししに太神宮は初めて伊勢国におはしましゝなり。これよりさきに天降りおはしましたりしかども、所々におはしまして、伊勢の宮に遷りおはしますことは、天照御神の御教へにて、この年ありしなり。二十八年と申(まう)ししに御門(みかど)の御弟の御子亡せ給(たま)ひにき。そのほどの世の習ひにて、近く仕うまつる人々を、生きながら御墓に籠められにけり。この人々久しく死なずして、朝夕に泣き悲しぶを、御門(みかど)聞しめして、仰せらるゝやうは、「生きたる人をもちて詞ぬるに従へん事は、古より伝はれる事なれども、我このことを見聞くに悲しき事限りなし。今よりはこのこと長く止むべし」と宣(のたま)ひて、その後は、土師の氏の人、土にて人形、けものゝ形などを作りてなん、人の代りに籠め侍(はべ)りし。朝廷(おほやけ)これを喜びて、土師といふ姓を賜はせしなり。この頃大江と申(まう)す姓は、その土師の氏の末なるべし。八十二年、このほどとぞ承(うけたまは)りし。祗園精舎は荒れ果てゝ、人もなくて九十年ばかり過ぎにけるを、■利天王の
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第二の御子を下して、人王となして、又造り磨かると承(うけたまは)りき。仏などのおはしましゝにもまさりてめでたくぞ造られにける。九三年と申(まう)ししにぞ、後漢の明帝の御夢に、黄金の人来たると御覧じて、其の明くる年天竺より初めて仏法唐土へ伝はりにし。
第十二代 景行天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、景行天皇(てんわう)と申(まう)しき。垂仁天皇(てんわう)の第三の御子。御母、皇后日葉酢媛命なり。垂仁天皇(てんわう)の御世、三十年辛酉正月甲子の日、東宮(とうぐう)に立ち給(たま)ふ。御年(おんとし)二十一。父御門(みかど)、二人の御子に申(まう)し給(たま)ふやう、「おのおの心に何をか得んと思(おも)ふ」と宣(のたま)ふに、兄の御子「我は弓矢なん欲しく侍(はべ)る」と申(まう)し給(たま)ふ。弟の御子〔は〕「我は皇位をなん得んと思(おも)ふ」と申(まう)し給(たま)ふ。このことにしたがひて、兄の御子には弓矢を奉(たてまつ)り、弟の御子をば東宮(とうぐう)に立て奉(たてまつ)り給(たま)へりしなり。辛未の年(とし)、七月十一日、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)八十四。
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世を保ち給(たま)ふ事六十年なり。五十一年と申(まう)ししに内宴おこなひ給(たま)ひしに、成務天皇(てんわう)のいまだ皇子と申(まう)ししに、武内宿禰と、その座に参(まゐ)り給(たま)はざりしかば、御門(みかど)、其の故を尋(たづ)ねさせ給(たま)ひしに、申(まう)し給(たま)はく、「人々みな御遊びの間、心を緩ぶべき折なり。その時、もし隙を窺ふ心あるものも侍(はべ)らんにと思(おも)ひて、門を固めてなん侍(はべ)る」と申(まう)し給(たま)ひしかば、御門(みかど)いよいよ並びなく寵し給(たま)ひき。武内は孝元天皇(てんわう)の御孫なり。この後代々の御門(みかど)の御後見として、世に久しくおはしき。今に八幡の御傍に近く斎はれ給(たま)へるはこの人にいます。五十八年二月に近江の穂穴宮に遷りにき。熊野の新宮はこの御時にぞ始まり給(たま)へりし。
第十三代 成務天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、成務天皇(てんわう)と申(まう)しき。景行天皇(てんわう)の第四の御子。御母、皇后八坂入姫なり。景行天皇(てんわう)の御世五十一年辛酉八月壬子の日、東宮(とうぐう)に立ち
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給(たま)ふ。辛未の年正月五日戊子、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)四十九。世を保ち給(たま)ふ事六十一年なり。御容ことにすぐれ、御たけ一丈ぞおはしましゝ。武内、この御時三年と申(まう)ししにぞ、大臣になり給(たま)へりし。大臣と申(まう)すことはこれよりぞ始まれる。もとは棟梁の臣と申(まう)しき。これもたゞ大臣おなじことなり。官の名を変へ給(たま)へりしばかりなり。この御門(みかど)、御子おはせざりしぞ口惜しくは侍(はべ)りし。さて御甥の皇子ぞ位には即き給(たま)へりし。
第十四代 仲哀天皇(てんわう)
次の御門(みかど)仲哀天皇(てんわう)と申(まう)しき。景行天皇(てんわう)の御子に日本武尊と申(まう)しし第二の御子におはします。御母は両道入姫命、垂仁天皇(てんわう)の御女なり。成務天皇(てんわう)三十八年戊申三月に東宮(とうぐう)に立ち給(たま)ふ、御年(おんとし)二十。壬申の年(とし)正月十一日に、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)四十四。世を保ち給(たま)ふ事九年。筑紫にて亡せ給(たま)ひにしかば、武内、御骨をばとりて京へ帰り給(たま)へりしなり。
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第十五代 神功皇后
次の御門(みかど)、神功皇后と申(まう)しき。開化天皇(てんわう)の五世の孫なり。仲哀天皇(てんわう)の后にておはせしなり。御母は、葛木高額媛。辛巳の年(とし)十月二日、位に即き給(たま)ひき。女帝はこの御時始まりしなり。世を保ち給(たま)ふ事六十九年。御心ばへめでたく、御容よにすぐれ給(たま)へりき。仲哀天皇(てんわう)の御時、八年と申(まう)ししに、筑紫にて、神、この皇后につき給(たま)ひて宣(のたま)はく、「さまざまの宝多かる国あり。新羅といふ。行き向ひ給(たま)はゞ、おのづから従ひなん」と宣(のたま)ひき。しかるにその事なくてやみにき。皇后いま宣(のたま)はく、「御門(みかど)、神の教へに従ひ給(たま)はで、世を保ち給(たま)ふ事久しからずなりぬ。いと悲しき事なり。いづれの神のたゝりをなし給(たま)へるぞ」と、七日祈り給(たま)ひしかば、神、託宣して宣(のたま)はく、「伊勢国五十鈴の宮に侍(はべ)る神なり」とあらはれ給(たま)ひしによりて、皇后、浦に出でさせ給(たま)ひて、御髪を海にうち入れさせ給(たま)ひて、「この事かなふべきならば、わが髪分れて二つになれ」と宣(のたま)ひしに、やがて二つになりにき。
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すなはちみづらに結ひ給(たま)ひて、臣下に宣(のたま)はく、「軍をおこす事は国の大事なり。今このことを思(おも)ひたつ。ひとへに汝達に任す。われ女の身にして男の姿を借りて、軍をおこす。上には神の恵みを蒙り、下には汝達の助けを頼む」とて、松浦といふ河におはして祈りて宣(のたま)はく、「もし西の国を得べきならば、釣りにかならず魚を得ん」とて釣り給(たま)ひしに、鮎を釣り上げ給(たま)ひにき。その後諸国に詔して船を召し、兵を集めて海を渡り給(たま)はんとて、まづ人を出して、国のありなしを見せさせ給(たま)ふに、見えぬよしを申(まう)す。又人を遣はして見せしめ給(たま)ふに、日数多く積もりて帰り参(まゐ)りて、「戌亥の方に山あり。雲かゝりてかすかに見え侍(はべ)る」と申(まう)ししかば、皇后やがてその国に向ひ給(たま)はんとて、石をとりて御腰にさしはさみ給(たま)ひて、「事終りて帰らん日、この国にして産み奉(たてまつ)らん」と祈り誓ひ給(たま)ひにき。この程八幡をはらみ奉(たてまつ)らせおはしましたりしなり。仲哀天皇(てんわう)亡せさせおはします事は二月なり。このことは十月なれば、たゞならずおはしますとも、御門(みかど)に知らせ給(たま)はぬほどにもや侍(はべ)りけん。さて、十月辛丑の日ぞ新羅へ渡り給(たま)へりしに、海の中の様々の大きなる
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魚ども、船どもの左右に添ひて、大きなる風吹きてすみやかに至る。船に従ひて、波荒く立ちて、新羅国のうちへたゞ入りに入り来る時に、かの国の王、怖ぢ恐れて、臣下を集めて、「昔よりいまだかゝる事なし。海の水すでに国の内に満ちなんとす。運のつき終りて、国の海になりなんとするか」と嘆き悲しむほどに、軍の船海に満ちて鼓の声山を動かす。新羅の王、これを見て思(おも)はく、「これより東に神国あり。日本といふなり。その国の兵なるべし。われたちあふべからず」と思(おも)ひて、かの王進みて皇后の御船の前に参(まゐ)りて、「今より長く従ひ奉(たてまつ)りて年毎に貢物を奉(たてまつ)るべし」と申(まう)しき。皇后、その国へ入り給(たま)ひて、様々の宝の倉を封じ、国の指図文書をとり給(たま)ひき。王、様々の宝を、船八十に積みて奉(たてまつ)る。高麗、百済といふ二の国、この事を聞きて、怖ぢ恐れて進みて従ひ奉(たてまつ)りぬ。かくて筑紫に帰り給(たま)ひて、十二月に皇子を産み奉(たてまつ)り給(たま)ひき。これぞ八幡の宮にはおはします。明くる年皇后京へ帰り給(たま)ひしを、御継子の御子たち思(おも)ひ給(たま)ふやう、「父御門(みかど)、
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亡せ給(たま)ひにけり。又皇后すでに皇子を産み奉(たてまつ)り給(たま)ひてけり。これを位に即けんとこそ謀り給(たま)ふらめ。われら兄にて、いかでか弟に従ふべき」とて、播磨の明石にて、皇后を待ち奉(たてまつ)りて、傾け奉(たてまつ)らんと謀り給(たま)ひしを、皇后聞き給(たま)ひてみづから皇子を抱き奉(たてまつ)り給(たま)ひて、武内の大臣に仰せられて、南海へ御船を出し給(たま)ひしかば、おのづから紀伊国に至り給(たま)ひにき。その後、御子たち謀叛を起し給(たま)ひて、皇后を傾け奉(たてまつ)らんとし給(たま)ひしほどに、赤き猪出で来たりて、兄の御子を食ひ殺してき。その後、次の御子、武内の大臣と、又戦ひ給(たま)ひしも失はれ給(たま)ひにき。さてもあさましかりし事は、この戦ひの間、昼も夜のごとくに暗くて、日数の過ぎしを、皇后大きに怪しみ給(たま)ひて、年老いたる者どもに問ひ給(たま)ひしかば、「二人をひと所に葬りたるゆゑなり」と申(まう)ししかば尋(たづ)ねさせ給(たま)ふに、「小竹の祝と亡せにけるを、天野祝泣き悲しびて、『われ生きて何にかはせん』とて、かたはらに伏して同じく亡くなりにけるを、ひとつ塚に籠めてり」と申(まう)し
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しかば、その塚を毀ちて見せさせ給(たま)ふに、まことに申(まう)すがごとくなりしかば、ほかほかに埋ませさせ給(たま)ひて後、すなはち日の光あらはれにしなり。十月に臣下たち、皇后を皇太后にあげ奉(たてまつ)る。この程とぞ覚え侍(はべ)る。祗園精舎を天魔焼き侍(はべ)りにけりと聞き侍(はべ)りし。
第十六代 応神天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、応神天皇(てんわう)と申(まう)しき。今の八幡の宮はこの御事なり。仲哀天皇(てんわう)第四の御子。御母、神功皇后におはします。神功皇后の御世三年癸未に東宮(とうぐう)に立ち給(たま)ふ。御年(おんとし)四歳なり。庚寅の年(とし)正月丁亥の日、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)七十一。世を知ろしめす事四十一年なり。八年と申(まう)す四月に、〔武内の大臣を筑紫へ遣はして、事を定めまつりごたせ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしに、この〕武内の大臣の〔御〕弟にておはせし人の、御門(みかど)に申(まう)し給(たま)はく、「武内の大臣常に王位を心にかけ侍(はべ)り。筑紫にて新羅、高麗、百済この三の国を語らひて、公(おほやけ)を傾け奉(たてまつ)らんとす」と、無きことを讒し申(まう)ししかば、御門(みかど)、人を
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遣はして、この武内を討たしめ給(たま)ふに、武内嘆きて、「われ君の〔御〕ため二心なし。今、罪なくして身を失ひてんとす。心憂きことなり」と宣(のたま)ふ。その時に壱岐直祖真根子といふものありき。容、武内の大臣に違はずあひ似たりき。この人、大臣に申(まう)していはく、「かまへて逃れて都へ参(まゐ)りて罪なきよしを奏し給(たま)へ。われ大臣にかはり奉(たてまつ)らん」と進み出でてみづから死ぬ。武内ひそかに都に帰りて、事の有様を申(まう)し給(たま)ふに、大臣たち二人を召して、かさねて問はせ給(たま)ふに、武内罪おはせぬよし、おのづからあらはれにき。その後、御門(みかど)、この武内の大臣を籠し給(たま)ひしなり。
第十七代 仁徳天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、仁徳天皇(てんわう)と申(まう)しき。応神天皇(てんわう)第四の御子。御母、皇后仲姫なり。葵酉の年(とし)正月己卯の日、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)二十四。世を知(し)り給(たま)ふ事、八十七年なり。この御門(みかど)の御弟を東宮(とうぐう)と申(まう)ししかば、すべからく位を
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継ぎ給(たま)ふべかりしに、兄に譲り申(まう)し給(たま)ひしかども、たがひに継ぎ給(たま)はずして、空しく三年を過ぐさせ給(たま)ひしかば、東宮(とうぐう)みづから命失ひ給(たま)ひにき。御門(みかど)このことを聞こし召して、かの東宮(とうぐう)へ急ぎおはしまして、泣き悲しみ給(たま)ひしかどもかひなくて、その後、位に〔は〕即かせ給(たま)ひしなり。四年と申(まう)しし二月に高き楼に登りて御覧ぜしに、民の住処賑ひて御覧ぜられければ、御門(みかど)詠ませ給(たま)ひし。
高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどは賑ひにけり W
四十三年と申(まう)しし九月にぞ鷹の鳥をとるといふ事を知(し)りそめて、狩、始め給(たま)ひし。五十五年と申(まう)ししに、武内の大臣亡せ給(たま)ひにき。年二百八十にぞなり給(たま)ひし。六代の御門(みかど)の御後見をして、大臣の位にて二百四十四年ぞおはせし。六十二年と申(まう)ししに、氷すうることは出で来始めて、今に至るまで供御にそなふるなり。この御門(みかど)、〔御〕容貌よにすぐれて、御心ばえ
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めでたくおはしましき。
第十八代 履中天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、履中天皇(てんわう)と申(まう)しき。仁徳天皇(てんわう)第一の御子。御母、皇后磐之媛なり。仁徳天皇(てんわう)三十一年癸卯に東宮(とうぐう)に立ち給(たま)ふ。御年(おんとし)五歳。庚子の年(とし)二月一日、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)六十二。世を保ち給(たま)ふ事六年。父御門(みかど)亡せおはしまして後、いまだ位に即き給(たま)はざりしほどに、葦田の宿禰のむすめ黒媛といひし人を、后とせんと思(おぼ)して、御弟の住吉仲皇子を遣はして、その日おはすべきよし仰せられしに、この皇子わが名を隠して、東宮(とうぐう)のおはするさまにもてなして、この姫君に親しきさまになんなりにける。さて持ちたりつる鈴を忘れて帰りにけり。その次の夜、東宮(とうぐう)、姫君のもとへおはしたるに、居給(たま)へる傍らに、鈴のありければ、怪しく思(おぼ)して、姫君に問ひ奉(たてまつ)り給(たま)ひければ、「これこそは昨夜持ておはしたりし鈴よ」と宣(のたま)ふに、
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東宮(とうぐう)、われと名乗(なの)りて、皇子の近づき給(たま)ひにけるにこそと思(おぼ)して、帰り給(たま)ひにけり。皇子、この事を東宮(とうぐう)聞き給(たま)ひぬらん。わが身平らかならんこと難かるべしとおもほして、東宮(とうぐう)を傾け奉(たてまつ)らんと謀りて、兵をおこして、宮を囲み給(たま)ひしを、大臣たち東宮(とうぐう)に、かゝる事侍(はべ)りと告げ奉(たてまつ)りしに、いふかひなく酔ひ給(たま)ひて、おどろき給(たま)はざりしかば、大臣たち、この東宮(とうぐう)を馬にかき乗せ奉(たてまつ)りて、逃げ侍(はべ)りにき。これは津の国の難波の宮なり。東宮(とうぐう)、大和の国におはして、酔ひさめ給(たま)ひて、「これはいづれのところぞ」と問ひ給(たま)ひしかば、大臣たち、事のありつるさまを申(まう)し給(たま)ひき。さて、石上の宮におはし着きたりしに、又の御弟に瑞歯皇子と申(まう)しし人急ぎ参(まゐ)り給(たま)へりしを、疑ひ給(たま)ひて、会ひ給(たま)はざりしかば、この皇子、「われにおきてはさらに同じ心に侍(はべ)らず」と申(まう)し給(たま)ひしかば、「しからば、かの住吉の仲皇子を殺してのちに来たるべし」と宣(のたま)はせしかば、この瑞歯の皇子、すなはち難波に帰りて、住吉の仲皇子に近く使ひ給(たま)ひし人を語らひて、「わが言はん事に従ひたらば、われ
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位を保たん時、汝を大臣になさん」と宣(のたま)ひしかば、「いかにも仰せに従ふべし」と申(まう)ししかば、多くものどもを賜ひて、「しからば汝が主を殺して、われに得さすべし」と宣(のたま)ふに、そのことに従ひて、主の皇子の厠におはするを矛を以て刺し殺してき。瑞歯の皇子、その人を相具して参(まゐ)りて、このよしを申(まう)し給(たま)ふに、 東宮(とうぐう)の宣(のたま)はく、「この人わがために忠あれども、おのれが主を殺しつれば、うるはしき心にあらず。されども大臣の位にのぼせさせ給(たま)ひて、今日大臣と酒盛りせん」と宣(のたま)はせて、顔隠るゝほどの大きなる盃にて、東宮(とうぐう)まづ飲み給(たま)ふ。次に瑞歯の皇子飲み給(たま)ふ。次に大臣飲む折に、太刀を抜きて首を斬り給(たま)ひてき。さて、次の年、位に即き給(たま)ひて後、その黒媛をば、后に立て奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしなり。五年九月に、御門(みかど)淡路の国におはして、狩りし給(たま)ひしに、空に風の音に似て声する物ありしほどに、にはかに人走り参(まゐ)りて、后亡せ給(たま)ひぬるよし申(まう)ししこそ、いとあへなく侍(はべ)りしか。
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第十九代 反正天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、反正天皇(てんわう)と申(まう)しき。仁徳天皇(てんわう)第三の御子。履中天皇(てんわう)の御弟なり。御母、皇后磐之媛なり。履中天皇(てんわう)の御世、二年辛丑正月に東宮(とうぐう)に立ち給(たま)ふ。御年(おんとし)五十。履中天皇(てんわう)の御子おはせしかども、この御門(みかど)を東宮(とうぐう)には立て奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしなり。丙午の年(とし)正月二日、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)五十五。世を知らせ給(たま)ふ事、六年。御門(みかど)、御容めでたくおはしましき。御たけ九尺二寸五分。御歯の長さ一寸二分。上下整ほりて、玉を貫きたるやうにおはしき。生まれ給(たま)ひし時、やがて御歯ひとつ骨のごとくにて生ひ給(たま)へりき。さて瑞歯の、皇子とぞ申(まう)し侍(はべ)りし。この御世には、雨風も時に従ひ、世安らかに、民豊かなりき。位に即き給(たま)ひて、次の年十月に都、河内国柴垣の宮に遷りにき。
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第二十代 允恭天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、允恭天皇(てんわう)と申(まう)しき。仁徳天皇(てんわう)第四の御子。御母、皇后磐之媛なり。壬子の年(とし)、十二月に位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)三十九。世を知(し)り給(たま)ふ事、四十二年なり。兄の御門(みかど)亡せ給(たま)ひて後、大臣を始めて、位にはこの君こそ即き給(たま)ふべけれとて、璽の箱を奉(たてまつ)りしかども受け取り給(たま)はずして、「我が身久しく病に沈めり。公(おほやけ)の位はおろかなる身にて保つべきことならず」と宣(のたま)ひしを、大臣以下なほすゝめ奉(たてまつ)りて、「帝王の御位の、空しくて久しかるべきにあらず」と、たびたび申(まう)ししかども、なほ聞こし召さずして、正月に兄御門(みかど)亡せおはしまして、明くる年の十二月まで御門(みかど)おはしまさでありしを、御乳母にておはしましゝ人の、水をとりて御うがひを奉(たてまつ)り給(たま)ひしついでに、「皇子はなど位に即き給(たま)はで年月をば過させ給(たま)ふにか侍(はべ)る。大臣より始めて、世の中の嘆きに侍(はべ)るめり。人々の申(まう)すに従ひて位に即かせ給(たま)へかし」と申(まう)し給(たま)ふを、なほ聞こし召さで、うち後向き給(たま)ひて、ものも宣(のたま)はざりしかば、この
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御うがひを持ちて、さりとも、とかく仰せらるゝこともやと待ち居侍(はべ)りしほどに、十二月のことにていと寒かりしに、久しくなりにしかば、御うがひも氷りて持ち給(たま)へる手も冷えとほりて、すでに死に入り給(たま)へりしを、皇子見驚き給(たま)ひて、抱き助けて、「位を継ぐことは極りなき大事なれば、今まで受け取らぬことにて侍(はべ)れども、かく宣(のたま)ひあひたることなれば、あながちに逃れ侍(はべ)るべきことにあらず」 三年と申(まう)しし正月に新羅へ医師を召しに遣はしたりしかば、八月に参(まゐ)りたりき。御門(みかど)の御病をつくろはさせ給(たま)ひしに、その験ありて、御病癒えさせおはしましにしかば、さまざまの祿どもなど賜はせて帰しつかはしてき。七年と申(まう)しし十二月に、御遊びありしに、御門(みかど)琴を弾き給(たま)ふを、后聞き愛で奉(たてまつ)りて、舞ひて、うち居給(たま)ひし折、「あはれ、姫御をまゐらせばや」と申(まう)し給(たま)ひしを、御門(みかど)、「姫御とは誰がことにか」と問ひ申(まう)させ給(たま)ひしを、御琴のめでたさに、我にもあらず申(まう)し給(たま)へりけることにや侍(はべ)りけん。さりながらも申(まう)し出し給(たま)ひぬることなれば、隠し
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給(たま)ふべきならで、「わが弟に侍(はべ)る弟姫となん申(まう)す。色、容貌なん世に又並ぶ類侍(はべ)らず。衣の上、光り通り輝き侍(はべ)り。世の人はされば衣通姫とぞ申(まう)す」御門(みかど)、これを聞こし召して、「それ奉(たてまつ)り給(たま)へ」と、后を責め申(まう)させ給(たま)ひしかども、ともかくも御返り事も申(まう)し給(たま)はざりしかば、御使を遣はして七度まで召しゝかども参(まゐ)り給(たま)はざりしかば、又御使庭にひれ伏して、七日までつやつやとものを食はざりしを、御使のいふかひなく死なんことのあさましさに、弟姫内へ参(まゐ)り給(たま)ひにき。御門(みかど)喜び給(たま)ふ事限りなくて、ときめき給(たま)ふさま〔に〕並ぶべき人なかりき。このことを姉后やすからぬ事にし給(たま)ひしかば、宮を別に造りてぞ据ゑ奉(たてまつ)り給(たま)へりし。四十二年おはしましゝに、御門(みかど)亡せ給(たま)ひしにを、新羅より年毎のことなれば、船八十に様々のもの積みて、楽人八十人あひ添へて奉(たてまつ)りたりしに、御門(みかど)亡せ給(たま)ひにけりと聞きて、泣き悲しむこと限りなし。難波の津より京まで、この貢物を持て続け奉(たてまつ)りおきて帰りにき。この後はわづかに船二などをぞ奉(たてまつ)りし。又、怠る年々も侍(はべ)りき。
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第二十一代 安康天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、安康天皇(てんわう)と申(まう)しき。允恭天皇(てんわう)の第二の御子。御母、皇后忍坂大中姫なり。甲午の年(とし)十月に兄の東宮(とうぐう)を失ひ奉(たてまつ)りて、十二月十四日に位には即き給(たま)ひしなり。御年(おんとし)五十六。世を知(し)り給(たま)ふ事、三年なり。明くる年の二月に御弟の雄略天皇(てんわう)の大泊瀬の皇子と申(まう)しておはせし、御妻になし奉(たてまつ)らんとて、御叔父の大草香の皇子と申(まう)しし人の御妹を奉(たてまつ)り給(たま)へと、御門(みかど)仰せ言ありて、御使を遣はしたりしに、この御子喜びて「身に病を受けて久しくまかりなりぬ。世に侍(はべ)る事今日明日といふことを知らず。この人みなし子にて侍(はべ)るを、見おき難くて黄泉路も安くまかられざるべきに、その容貌の醜きをも嫌ひ給(たま)はず、かゝる仰せを蒙る、忝き事なり。この心ざしをあらはし奉(たてまつ)らん」とて、御使につけてめでたき宝を奉(たてまつ)れるを、此の御使これを見てふける心出で来て、この宝物をかすめ隠しつ。さて帰り参(まゐ)りて、御門(みかど)に申(まう)すやう、「さらに奉(たてまつ)るべからず。同じ皇子たちといふ
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とも、われらが妹にて、いかでかあはせ奉(たてまつ)るべき」と申(まう)すよしを偽り申(まう)ししかば、大きに怒りたひて、軍を遣はして殺し給(たま)ひてき。その妻をとりてわが后とし給(たま)ひ、その妹を召して本意のごとく大泊瀬の皇子にあはせ給(たま)ひつ。三年と申(まう)す八月に御門(みかど)楼に登り給(たま)ひて、后の宮に「何事か思(おぼ)す事はある」と申(まう)し給(たま)ひしかば、后の宮「御門(みかど)の御いとほしみを蒙れり。何事をかは思(おも)ひ侍(はべ)るべき」と申(まう)し給(たま)ふ。御門(みかど)仰せられていはく、「我身には恐るゝ事あり。この継子の眉輪に王、おとなしくなりて、わが、その父を殺したりと知(し)りなば、さだめて悪しき心を起してん」と宣(のたま)ふを、この眉輪の王、楼の下に遊びありきて聞き給(たま)ひてけり。さて御門(みかど)の酔ひて后の御膝を枕にして、昼御殿籠りたるを、傍らなる太刀を取りて、眉輪の王過ち奉(たてまつ)りて、逃げて大臣の家におはしにき。御門(みかど)の御弟の大泊瀬の皇子、このことを聞きて、軍を起して、かの大臣の家を囲みて戦ひ給(たま)ひき。眉輪の王「もとよりわれ位に即かんとの心なし。たゞ父の仇を報ゆるばかりなり」と言ひて、自ら首を斬りて死ぬ。この
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眉輪の王七歳になんなり給(たま)ひし。
第二十二代 雄略天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、雄略天皇(てんわう)と申(まう)しき。允恭天皇(てんわう)第五の御子。御母、皇后忍坂大中姫なり。丙申の年(とし)十一月十三日、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)七十。世を知(し)り給(たま)ふこと、二十三年なり。この御門(みかど)、生まれ給(たま)ひし時、宮の内なん光りたりし。おとなになり給(たま)ひて後、御心猛くして多くの人を殺し給(たま)ひき。世の人、大悪天皇(てんわう)と申(まう)しき。二年と申(まう)しし七月に、御門(みかど)、愛せさせ給(たま)ひし女、他男にあひにけり。御門(みかど)怒り給(たま)ひて、男女二人ながら召し寄せて、四つの肢を木の上に張りつけて、火をつけて焼き殺し給(たま)ひてき。四年二月と申(まう)ししに、御門(みかど)、この葛城山にて狩をし給(たま)ひしに、御門(みかど)の御容姿にいさゝかも違はぬ人出で来たれりき。御門(みかど)「これは誰の人ぞ」と宣(のたま)はせしに、その人「まづ王の名を名乗(なの)り給(たま)へ。その後申(まう)さむ」と申(まう)ししかば、御門(みかど)
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名乗(なの)り給(たま)ひき。その後「我は一言主の神に侍(はべ)り」と申(まう)して、あひともに狩をして、日暮れて帰り給(たま)ひしに、この一言主の神、送り奉(たてまつ)りしかば、世の中の人「たゞ人にはおはせぬか」とぞ申(まう)しあひたりし。二十二年と申(まう)しし七月に、浦島の子、蓬莱へまかりにけりといふ事侍(はべ)りしなり。みな人の知(し)り給(たま)ひたる事なれば、こまかに〔は〕申(まう)すべからず。
第二十三代 清寧天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、清寧天皇(てんわう)と申(まう)しき。雄略天皇(てんわう)の第三の御子。御母、皇太夫人葛城韓姫なり。雄略天皇(てんわう)の御世二十二年戊午正月に、東宮(とうぐう)に立ち給(たま)ふ。御年(おんとし)三十五。世を知(し)り給(たま)ふ事、五年。御門(みかど)、生まれ給(たま)ひて、御髪白く長かりき。さて、白髪皇子とは申(まう)ししなり。民を愛し給(たま)ふ御心ありしを、父御門(みかど)、御子たちの中に籠し給(たま)ひて、東宮(とうぐう)に立て奉(たてまつ)り〔給(たま)ひ〕しなり。庚申の年(とし)正月四日、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)三十七。世を知(し)り給(たま)ふ事、五年なり。
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この御門(みかど)、位を継ぐべき人なきことを嘆きて、よろづの国々に使を遣はして王孫を求め給(たま)ひしに、履中天皇(てんわう)の御孫といふ人二人を播磨国より求め出して、兄をば東宮(とうぐう)に立て〔て〕、弟をば皇子とし給(たま)ひき。
第二十四代 飯豊天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、飯豊天皇(てんわう)と申(まう)しき。これは女帝におはします。履中天皇(てんわう)の御子に押羽の皇子と申(まう)して、黒媛の御腹に皇子おはしき。その御女なり。御母、■媛なり。甲子の年(とし)二月に位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)四十五。この御門(みかど)の御弟二人、互に位を譲りて継ぎ給(たま)はざりしほどに、御妹を位に即け奉(たてまつ)り給(たま)へりしなり。さて、ほどなくその年の内十一月に亡せ給(たま)ひにしかば、この御門(みかど)をば系図などにも入れ奉(たてまつ)らぬとかやぞ承(うけたまは)る。されども日本紀には入れ奉(たてまつ)りて侍(はべ)るなれば、次第に申(まう)し侍(はべ)るなり。
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第二十五代 顕宗天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、顕宗天皇(てんわう)と申(まう)しき。飯豊天皇(てんわう)の同じ御腹の弟におはします。乙丑の年(とし)正月一日、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)三十六。世を知(し)り給(たま)ふ事、三年。御父の押羽の皇子は、安康天皇(てんわう)の御世三年と申(まう)ししに、安康の御弟の雄略天皇(てんわう)と申(まう)しし御門(みかど)の、いまだ皇子にておはしましゝに、失はれ給(たま)ひしかば、その御子二人、丹波国に逃げておはしたりしに、なほ世の中を恐り給(たま)ひて、弟の君、兄の君を勧め奉(たてまつ)りて、播磨の国へおはして、御名どもをかへて、郡の司に仕へ給(たま)ひき。さて、年月を過し給(たま)ひしほどに、弟の君、兄の君に申(まう)し給(たま)はく、「われら命逃れて、此処(ここ)にて年を経にたり。命は名を顕はしてん」と宣(のたま)ひしに、兄の君、「しからば、命を保たん事いと難かるべし」と宣(のたま)ひしかば、又弟の君、「われらは履中天皇(てんわう)の御孫なり。身を苦しめて、人に使へて、馬牛を飼ふ。生ける甲斐なし。たゞ名を顕はして、命を失ひてん、いとよき事なり」と宣(のたま)ひて、兄弟互に抱きつきて泣き給(たま)ふ
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事限りなし。兄の君、「さらば、とくわれらが名を顕はし給(たま)ひてよ」と宣(のたま)ひしかば、二人相具して、郡の司の家におはして、雨垂りのもとに居給(たま)へりしかば、呼び入れ奉(たてまつ)りて、竈の前に据ゑて、酒飲み遊びなどして、おのおの立ちて舞ふに、この弟の君、わが御身の有様を言ひ続けて舞ひ給(たま)ふを、郡の司、聞き驚きて、降りさわぎ、拝し奉(たてまつ)りて、郡のうちの民どもを起して、にはかに宮造りして、かりそめに据ゑ奉(たてまつ)りて、御門(みかど)に、「この二人の王を迎へ奉(たてまつ)り給(たま)へ」と申(まう)ししかば、清寧天皇(てんわう)喜びて、すなはち迎へ取り給(たま)ひつ。「われ子なし。位を継ぎ給(たま)ふべし」とて、兄の王を東宮(とうぐう)に立て奉(たてまつ)り給(たま)ひき。さて、清寧天皇(てんわう)亡せ給(たま)ひにしかば、東宮(とうぐう)位に即き給(たま)ふべかりしを、御弟に譲り給(たま)ひしかども、あるべきことにあらずと申(まう)し給(たま)へりき。かくて互に位を継ぎ給(たま)はざりしかば、御妹の飯豊天皇(てんわう)を即け奉(たてまつ)り給(たま)ひしほどに、その年のうちに亡せ給(たま)ひにしかば、なほ弟の王、東宮(とうぐう)の御勧めに従ひて、位に即き給(たま)ひき。その年、三月上巳の日ぞ、始めて曲水の宴を行はせ給(たま)ひし。二年八月と申(まう)ししに、御門(みかど)、御兄の東宮(とうぐう)に申(まう)し給(たま)はく、「わが父の皇子、罪なく
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して、雄略天皇(てんわう)に失はれ給(たま)へりき。恨みの心、今に止む事なし。われ、かの御門(みかど)の陵を毀ちて、その骨を砕きて捨てん」と宣(のたま)ひしを、東宮(とうぐう)申(まう)し給(たま)はく、「雄略天皇(てんわう)は御門(みかど)におはします。わが父は御門(みかど)の御子なりといへども、位に登り給(たま)はざりき。又、御門(みかど)、清寧天皇(てんわう)の御恵を蒙り給(たま)へり。雄略天皇(てんわう)は清寧天皇(てんわう)の御父におはせずや。今、位に登り給(たま)ふ。いかでかその志を忘れ給(たま)はん。陵を破り給(たま)はん事あるべからず」と申(まう)し給(たま)ひしかば、その言に従ひ給(たま)ひき。この御時、世治まり、民安らかに侍(はべ)りき。
第二十六代 仁賢天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、仁賢天皇(てんわう)と申(まう)しき。顕宗天皇(てんわう)のひとつ御腹の〔御〕兄なり。清寧天皇(てんわう)の御世、三年四月〔に〕東宮(とうぐう)に立ち給(たま)ふ。御年(おんとし)四十。世を知(し)り給(たま)ふ年、十一年なり。この御門(みかど)の御有様、顕宗天皇(てんわう)の御事の中に細かに〔は〕申(まう)し侍(はべ)りぬ。御心ざまめでたく
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おはしましき。
第二十七代 武烈天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、武烈天皇(てんわう)と申(まう)しき。仁賢天皇(てんわう)の御子。御母、皇后春日大娘なり。仁賢天皇(てんわう)七年正月に東宮(とうぐう)に立ち給(たま)ふ。御年(おんとし)六歳。戊寅の年(とし)十二月に、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)十歳。世を知(し)り給(たま)ふ事、八年。その程、人を殺すこと〔を〕朝夕のしわざとし給(たま)ふ。孕める人の腹を裂き割りて、その子を見給(たま)ひ、人の爪を抜きて芋を掘らせ、人を木に登せて落として殺し、ある時は、人を水に入れて矛にて刺し殺し、ある時は、女を裸になして板の上に据ゑて、馬のゆゝしきわざするを見せさせ給(たま)ふに、その方に心の入りたる女は板を潤ほすを、御門(みかど)、これを憎みて、やがて殺し給(たま)ひき。さ無きをば召して宮仕へすべき由の仰せありき。かやうの、あさましく心憂き事多かりし御世なり。御年(おんとし)十八にて亡せ給(たま)ひにき。御子もおはせず。
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第二十八代 継体天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、継体天皇(てんわう)と申(まう)しき。応神天皇(てんわう)第八の御子、隼総別皇子と申(まう)しき。その御子を大迹王と申(まう)しき。その御子を私斐王と申(まう)しき。又その御子に彦主人の王と申(まう)しし王の子にて、この御門(みかど)はおはしましゝなり。御母、垂仁天皇(てんわう)の七世の御孫、振姫なり。丁亥の年(とし)二月に位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)五十八。世を知(し)り給(たま)ふ事、二十五年。武烈天皇(てんわう)亡せ給(たま)ひて後、位を継ぎ給(たま)ふべき人なきことを、大臣をはじめて一天下の人嘆きて、「仲哀天皇(てんわう)の五代の御孫、丹波国におはすと聞ゆ。かの王を迎へ奉(たてまつ)りて、位に即け奉(たてまつ)らん」とて、司司、御迎へに参(まゐ)りしを、はるかに見やりて、怖ぢ恐れ、色を失ひて、山中に隠れ給(たま)ひて、その行き方を知らずなりにき。かくて、明くる年の正月に、越前国に応神天皇(てんわう)の五代の御孫の王おはすといふ事聞えて、又、司司、御迎へに参(まゐ)りたりしに、この王、驚く御気色なくして、あぐらに尻をかけて、御前に候(さうら)ふ人々、畏まり敬ひ奉(たてまつ)る事、公(おほやけ)のごとく
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なりき。この御迎へに参(まゐ)りたる人々、いよいよ畏まりて、事の由を申(まう)しき。王、このことを疑ひ給(たま)ひて、空しく二日二夜を過させ給(たま)ひき。御迎への人々、重ねて、大臣の迎へ奉(たてまつ)るよし、事の有様を申(まう)し侍(はべ)りし時に、京へ入り給(たま)ひしなり。さりながらも位を受け取り給(たま)はざりしかば、大臣をはじめてあながちに勧め奉(たてまつ)りしかば、つひに位に即き給(たま)ひしなり。この御時、都遷り三度ありき。
第二十九代 安閑天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、安閑天皇(てんわう)と申(まう)しき。継体天皇(てんわう)の御子。御母、妃尾張目子媛。葵丑の年(とし)二月に位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)六十八。世を知(し)り給(たま)ふこと、二年。位に即き給(たま)ひて、明くる年正月に、都、大和の高市郡に遷りにき。
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第三十代 宣化天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、宣化天皇(てんわう)と申(まう)しき。安閑天皇(てんわう)のひとつ腹の御弟におはします。乙卯の年(とし)十二月に、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)六十九。世を知(し)り給(たま)ふ事、四年。位に即き給(たま)ひて三年と申(まう)ししにぞ、天台大師生まれ給(たま)ひしときに侍(はべ)りしと、後に承(うけたまは)りし。
第三十一代 欽明天皇(てんわう)
次の御門(みかど)、欽明天皇(てんわう)と申(まう)しき。安閑天皇(てんわう)の御弟。御母、皇后手白香皇女なり。葵亥の年(とし)、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)四十。世を知(し)り給(たま)ふこと、三十二年。十三年と申(まう)ししに、百済国より仏経渡り給(たま)へりき。御門(みかど)、喜び給(たま)ひて、世の中の、心地起りて、人多く患ひき。尾輿の大連といひし人、「仏法を崇むる故に、この病起るなるべし」とて申(まう)し、寺を
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焼き失ひしかば、空に雲なくして雨降り、内裏焼け、かの大連亡せにき。この後、さまざまの仏経なほ渡り給(たま)ひき。継体天皇(てんわう)の御世に唐土より人渡りて、仏を持し奉(たてまつ)りて、崇め行ひしかども、その時の人、唐土の神と名づけて、仏とも知(し)り奉(たてまつ)らず。又世の中にも弘まり給(たま)はずなりにき。この御世よりぞ、世の人、仏法といふことは知(し)り初め侍(はべ)りし。三十三年と申(まう)ししに、聖徳太子は生まれ給(たま)ひき。御父の用明天皇(てんわう)は、この御門(みかど)の第四の御子と申(まう)ししなり。太子の御母の御夢に黄金の色したる僧の「われ、世を救ふ願あり。しばらく君が腹に宿らん」と宣(のたま)ひしかば、御母「かく宣(のたま)ふは誰にかおはする」と申(まう)し給(たま)ひき。その僧「われは救世菩薩なり。家はこれより西の方にあり」と宣(のたま)ひき。御母申(まう)し給(たま)はく「わが身は穢らはし。いかでか宿り給(たま)はん」と宣(のたま)ふに、この僧「〔われ〕穢らはしきを厭はず」と宣(のたま)ひしに、「しからば」と許し奉(たてまつ)り給(たま)ひしに従ひて、母の御口に躍り入り給(たま)ふと覚えて、驚き給(たま)ひたりしに、御喉にものある心地し給(たま)ひて孕み給(たま)へりしなり。八月と申(まう)ししに、腹のうちにてもの宣(のたま)ふ、聞え侍(はべ)りき。この頃ほひ
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に、宇佐の宮は顕れ始めおはしましき。よしなき事に侍(はべ)れども、この御時とぞ覚え侍(はべ)る、野干を「きつね」と申(まう)し侍(はべ)りしは。事の起りは、美濃の国に侍(はべ)りし人、顔よき妻を求むとてものへまかりしに、野中に女に会ひ侍(はべ)りにき。この男、語らひ寄りて、「わが妻になりなんや」と言ひき。この女、「いかにも、宣(のたま)はんに従ふべし」と言ひしかば、相具して家に帰りて住むほどに、男子一人産みてき。かくて年月を過すに、家にある犬、十二月十五日に子を産みてき。その犬の子、少し大人びて、この妻の女を見る度ごとに吠えしかれば、かの妻の女、いみじくおぢて、男に、「これ、打ち殺してよ」と言ひしかども、夫の男聞かざりき。この妻の女、米白ぐる女どもにもの食はせんとて、唐臼の屋に入りにき。其の時この犬走り来て、妻の女を食はんとす。この妻の女驚き恐れて、え堪へずして、野干になりて籬の上に登りてけり。男これを見て、あさましと思(おも)ひながらいはく、「汝と我とが中に子既にいできにたり。我、汝を忘るべからず。つねに来て寝よ」と言ひしかば、その後、来たりて寝侍(はべ)りき。さて「きつね」とは申(まう)し初めしなり。その
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妻は桃の花初めの裳をなん着て侍(はべ)りし。その産みたりし子をば「きつ」とぞ申(まう)しし。力強くして、走る事飛ぶ鳥のごとく侍(はべ)りき。
水鏡巻之上 終
水鏡 日本文学叢書本
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巻之中
第三十二代 敏達天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、敏達天皇(てんわう)と申(まう)しき。欽明天皇(てんわう)の第二の御子、御母(おんはは)宣化天皇(てんわう)の御女、石姫皇后なり。欽明天皇(てんわう)の御世、十五年甲戌正月(しやうぐわつ)に東宮(とうぐう)に立ち給(たま)ふ。世を知(し)り給(たま)ふ事(こと)、十四年なり。今年正月(しやうぐわつ)一日ぞ聖徳太子(たいし)は生れ給(たま)ひし。父の用明天皇(てんわう)は御門(みかど)の御弟にて、いまだ皇子と申(まう)ししなり。御母(おんはは)、宮の内を遊びありかせ給(たま)ひしに、厩の前にて、御心にいさゝかも覚えさせ給(たま)ふ事(こと)もなくて、にはかに生れさせ給(たま)ひしなり。この月までは十二ヶ月にぞ当たらせ給(たま)ひし。人々(ひとびと)いそぎ抱きとり奉(たてまつ)りてき。かくて、赤く黄なる光西の方よりさして、御殿の内を照らしき。御門(みかど)この由(よし)を聞こしめして、行幸なりて、事の有様(ありさま)を問(と)ひ申(まう)し給(たま)ふに、又(また)ありつるやうに宮の内光さして輝きけり。御門(みかど)あさましと思(おぼ)し
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て、「凡人(たゞびと)にはおはすまじき人なり」とぞ、人々(ひとびと)には宣(のたま)はせし。四月になりにしかば、ものなどいとよく宣(のたま)ひき。今年の五月とぞ覚え侍(はべ)る。高麗より烏の羽にものを書きて奉(たてまつ)りたりしを、いかにして読むべしとも覚えぬ事(こと)にて侍(はべ)りしを、なにがしの王とかや申(まう)しし人の、こしきの内に置きて、写しとりて読みたりしこそいみじき事(こと)にて侍(はべ)りしか。御門(みかど)、愛でほめ給(たま)ひて、その王は御前近く常に候(さうら)ふべき由(よし)など仰せられき。二年と申(まう)しし二月十五日、聖徳太子(たいし)東に向ひて掌を合せて「南無仏」と宣(のたま)ひき。今年御年(おんとし)二にこそはなり給(たま)ひしか。三年三月三日、父の皇子、聖徳太子(たいし)を愛し奉(たてまつ)りて抱き給(たま)へりしに、いみじく香ばしくおはしき。その後、多くの月日を過るまで、その移り香失せ給(たま)はざりしかば、宮の内の女房たち、われもわれもと争ひ抱き奉(たてまつ)り侍(はべ)りき。六年十月と申(まう)ししに、百済国より経論、又(また)あまた渡り給(たま)へりしを、太子(たいし)、「これを見侍(はべ)らん」と御門(みかど)に申(まう)し給(たま)ひしかば、御門(みかど)その故(ゆゑ)を問(と)ひ給(たま)ふに、太子(たいし)申(まう)し給(たま)はく、「むかし唐土の衡山に侍(はべ)りしに、仏教は見侍(はべ)りき。今その経論を奉(たてまつ)りて侍(はべ)るなれば、見給(たま)へらん
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と思(おも)ひ給(たま)ふるなり」と申(まう)し給(たま)ひしかば、御門(みかど)あさましと思(おぼ)し召して、「汝は六歳になり給(たま)ふ。いつの程(ほど)に唐土に在りしとは宣(のたま)ふぞ」と仰せ言ありしかば、太子(たいし)「前の世の事(こと)の覚え侍(はべ)るを申(まう)すなり」と申(まう)し給(たま)ひし時に、御門(みかど)をはじめ奉(たてまつ)りて、聞く人、手をうち、あざみ申(まう)しき。法華経は今年渡り給(たま)へりけりとぞ承(うけたまは)りし。七年と申(まう)しし二月に、太子(たいし)よろづの経論を開き見給(たま)ひて、「六斎日は梵天帝釈降り下り給(たま)ひて、国の政を見給(たま)ふ日なり。ものゝ命を殺す事(こと)を留め給(たま)へ」と申(まう)し給(たま)ひしかば、やがて宣旨(せんじ)を下し給(たま)ひき。今年太子(たいし)七歳にぞなり給(たま)ひし。八年と申(まう)しし十月に、新羅より釈迦仏を渡し奉(たてまつ)りしかば、御門(みかど)喜び給(たま)ひて供養し奉(たてまつ)り〔給(たま)ひ〕き。山階寺の東金堂におはしますはこの仏なり。十二年と申(まう)しし七月に百済国より日羅といふ僧来たれりき。太子(たいし)会ひ給(たま)ひて物語(ものがたり)をし給(たま)ひし程(ほど)に、日羅、身より光を放ちて、太子(たいし)を拝み奉(たてまつ)るとて「敬礼救世観世音伝灯東方粟散王」と申(まう)しき。太子(たいし)、又(また)、眉間より光を放ち給(たま)ひき。かくて人々(ひとびと)に宣(のたま)ひき。「我、むかし唐土にありしとき、日羅は弟子にてありしものなり。常の日を
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拝み奉(たてまつ)りしによりて、かく身より光を出すなり。後の世に必ず天に生るべし」と宣(のたま)ひき。十三年と申(まう)しし九月に、百済国より石にて造りたる弥勒を渡し奉(たてまつ)りたりしを、蘇我馬子の大臣、堂を造りて据ゑ奉(たてまつ)りき。いま元興寺におはします仏なり。十四年と申(まう)しし三月に、守屋の大臣、御門(みかど)に申(まう)さく、「先帝の御時より今に到るまで、世の中の病いまだ怠(おこた)らず。蘇我の大臣、仏法を行ふ故(ゆゑ)なるべし」と申(まう)ししかば、仏法を失ふべき由(よし)、宣旨(せんじ)下りにき。守屋みづから寺に行き向ひて、堂を切り倒し、仏像を破り失ひ、火をつけて焼き、尼の着る物を剥ぎ、笞をもちて打ちし程(ほど)に、空に雲なくして大いに雨降り風吹きゝ。天下に瘡おこりて命を失ふもの数を知らず。その瘡を病む人、身を焼きゝるがごとくになん覚えける。仏像を焼きし罪によりてこの病起れりしなり。六月に、蘇我の大臣「病久しく癒えず、なほ三宝を仰ぎ奉(たてまつ)らん」と申(まう)しき。御門(みかど)「しからば、汝ひとり行ふべし」と宣(のたま)はせしかば、喜びて、又(また)堂塔を造りき。仏法はこれよりやうやう弘まり始まりしなり。かくて八月十五日に御門(みかど)
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は亡せさせ給(たま)ひにき。この御時とぞ覚え侍(はべ)る。尾張の国に田を作るものありき。夏になりて田に水まかせんとせし程(ほど)に、俄に神鳴り雨降りしかば、木の下に立ち入りてありし程(ほど)に、その前に雷落ちにき。その形、幼き子のごとし。この男、鋤をもちて打たんとせしかば、雷「我を殺す事(こと)なかれ。必ずこの恩を報いん」と言ひき。男のいはく、「何事にて恩を報ゆべきぞ」と言ひき。雷答へていはく、「汝に子をまうけさせて、かれにて恩を報いん。我に、楠の木の船を造りて、水を入れて竹の葉を浮かべて、速やかに与へよ」と言ひしかば、この男、雷の言ふがごとくにして与へつ。雷これを得て、すなはち空へのぼりにき。〔その〕後、男子をまうけてき。生れ〔に〕し時に、蛇その頭を纏ひて、尾・頭・項の方にさがれりき。年十余になりて、方八尺の石を易く投げき。この童、元興寺の僧に仕へし程(ほど)に、その寺の鐘撞堂に鬼ありて、夜毎に鐘撞く人を喰ひ殺すを、この童、「鬼の人を殺す事(こと)を止めてん」と言ひしかば、寺の僧ども喜びて、速やかに止むべき由(よし)をすゝめき。その夜になりて、童、鐘撞堂に上りて鐘
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を打つ程(ほど)に、例のごとく鬼来たれり。童、鬼の髪にとりつきぬ。鬼は外へ引き出さんとし、童は内へ引き入れんとする程(ほど)に、夜はたゞ明けに明けなんとす。鬼し侘びて、髪際を放ち落して逃げ去りぬ。夜明けて、血を尋(たづ)ねて求め〔侍(はべ)り〕しかば、その寺の傍らなる塚のもとにてなん血止まり侍(はべ)りにし。むかし心悪しかりし人を埋めりし所なり。その人、鬼になり〔に〕たりけるとぞ人々(ひとびと)申(まう)しあひたりし。その後、鬼、人を殺す事(こと)侍(はべ)らざりき。鬼の髪は宝蔵にをさまりていまだ侍りけり。この童、男になりて、なほこの寺に侍(はべ)りき。寺の田を作りて水をまかせんとせしに、人々(ひとびと)妨げて水を入れさせざりしかば、十余人ばかりして担ひつべき程(ほど)の鋤柄を作りて、水口に立てたりしを、人々(ひとびと)抜きて捨てたりしかば、この、男、又(また)、五百人して引く石をとりて、他人の田の水口に置きて、水を寺田に入れしかば、人々(ひとびと)怖ぢ恐れてその水口を塞がずなりにき。かくて寺田焼くる事なかりしかば、寺の僧、此の男法師になる事を許してき。世の人、道場法師とぞ申(まう)しし。
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第三十三代 用明天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、用明天皇(てんわう)と申(まう)しき。欽明天皇(てんわう)の第四の御子。御母(おんはは)、大臣蘇我宿禰稲目の女、妃堅塩姫。乙巳の年(とし)九月五日、位に即き給(たま)ふ。世を知(し)り給(たま)ふ事(こと)、二年。位に即き給(たま)ひて明くる年、聖徳太子(たいし)、父の御門(みかど)を相し奉(たてまつ)りて、「御命ことのほかに短く見えさせ給(たま)へり。政をよくすなほにし給(たま)ふべし」と申(まう)し給(たま)ひき。かくて、次(つぎ)の年の四月に、父御門(みかど)、御心地例ならずおはせしに、太子(たいし)夜昼つきそひ奉(たてまつ)りて、声だもえせず祈り奉(たてまつ)り給(たま)ひき。御門(みかど)、大臣以下「三宝を崇め奉(たてまつ)らん。いかゞあるべき」と仰せられあはせ給(たま)ひしに、守屋は「あるべき事(こと)にも侍(はべ)らず。わが国の神を背きて、いかでか異国の神をば崇むべき」と申(まう)しき。蘇我の大臣は「たゞ仰せ言に従ひて崇め奉(たてまつ)らん」と申(まう)しき。御門(みかど)、蘇我の大臣の言に従ひ給(たま)ひて、法師を内裏へ召し入れられしかば、太子(たいし)〔の〕大きに喜び給(たま)ひて、蘇我の大臣手をとり〔て〕、涙を流し、「三宝の妙理を人知る事(こと)なくして、みだりがはしく用ひ奉(たてまつ)らざるに、大臣、
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仏法を信じ奉(たてまつ)る、いといとかしこき事(こと)なり」と宣(のたま)ひしを、守屋、大きに怒りて、腹立ちにき。太子(たいし)、人々(ひとびと)に宣(のたま)はく、「守屋、因果を知らずして今滅びなんとす。悲しき事なり」と宣(のたま)ひしを、人ありて守屋に告げ聞かせしかば、守屋いよいよ怒りをなして兵を集め、様々の蠱業どもをしき。この事(こと)聞えて、太子(たいし)の、舎人を遣して、守屋に片寄れる人々(ひとびと)を殺させ給(たま)ひし程(ほど)に、四月九日御門(みかど)亡せ〔させ〕給(たま)ひにき。七月になりて、太子(たいし)、蘇我の大臣もろともに軍をおこして、守屋と戦ひ給(たま)ふ。守屋が方の軍数を知らざりしかば、太子(たいし)の御方の軍怖ぢ恐れて、三度まで退きかへりき。その時に太子(たいし)大誓願を起し、白膠の木をとりて四天王を刻み奉(たてまつ)りて、頂きの上に置き奉(たてまつ)りて、「今放つところの矢は四天王の放ち給(たま)ふところなり」と宣(のたま)はせて、舎人をして射させしめ給(たま)ひしかば、その矢守屋が胸に当たりて、たちどころに命を失ひつ。秦川勝をして首を切ら〔せ〕しめ給(たま)ふ。守屋が妹は、蘇我の大臣の妻にて侍(はべ)りしかば、その妻の謀にて、守屋は討ちとられぬるなりとぞ、その時の人は申(まう)しあへりし。さてこの守屋を射殺して侍(はべ)りし舎人をば、
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赤檮とぞ申(まう)し侍(はべ)りし。水田一万頃をなん賜はせし。かくて今年天王寺をば造り始められしなり。
第三十四代 崇峻天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、崇峻天皇(てんわう)と申(まう)しき。欽名天皇(てんわう)の第十二の御子。御母(おんはは)、稲目の大臣の女、小姉君姫なり。丁未の年(とし)八月二日、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)六十七。世を知(し)り給(たま)ふ事(こと)、五年。位に即き給(たま)ひて明くる年の冬、御門(みかど)、聖徳太子(たいし)を呼び奉(たてまつ)りて、「汝よく人を相す。われを相し給(たま)へ」と宣(のたま)ひしかば、太子(たいし)「めでたくおはします。たゞし横ざまに御命の危みなん見えさせおはします。心知らざらん人を宮の内へ入れさせ給(たま)ふまじきなり」と申(まう)し給(たま)ひしかば、御門(みかど)「いかなる所を見て宣(のたま)ふぞ」と仰せられしに、太子(たいし)「赤きすぢ御眼を貫けり。これは傷害の相なり」と申(まう)し給(たま)ひしかば、御門(みかど)御鏡にて見給(たま)ひしに、申(まう)し給(たま)ふごとくにおはしましゝかば、大きに驚き恐りおはしましき。
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かくて太子(たいし)、人々(ひとびと)に「御門(みかど)の御相は、前の世の御事なれば、変るべき御事にあらず」とぞ宣(のたま)ひし。三年と申(まう)しし十一月に、太子(たいし)御年(おんとし)十九にて、元服し給(たま)ひき。五年と申(まう)しし二月に、御門(みかど)しのびやかに太子(たいし)に宣(のたま)はく、「蘇我の大臣、内には私をほしきまゝにし、外には偽りを飾り、仏法を崇むるやうなれども、心正しからず。いかゞすべき」と宣(のたま)ひしかば、太子(たいし)「たゞこの事を忍び給(たま)ふべし」と申(まう)し給(たま)ひし程(ほど)に、十月に人の猪を奉(たてまつ)りたりしを、御門(みかど)御覧じて、「いつか猪の首を斬るがごとくに、わが嫌ふところの人を断ち失ふべき」と宣(のたま)はせしかば、太子(たいし)大きに驚き給(たま)ひて、「世の中の大事、この御言葉によりてぞ出で来べき」とて、にはかに内宴を行なひて、人々(ひとびと)に禄賜はせなどして、「今日、御門(みかど)の宣(のたま)はせつる事(こと)、ゆめゆめ散らすな」と語らひ給(たま)ひしを、誰か言ひけん、蘇我の大臣に、「御門(みかど)かゝる事(こと)をなん宣(のたま)ひつる」と語りければ、わが身を宣(のたま)ふにこそと思(おも)ひて、御門(みかど)を失ひ奉(たてまつ)らんと謀りて、東漢駒といふ人を語らひて、十一月〔の〕三日、御門(みかど)を失ひ奉(たてまつ)り〔て〕き。宮の内の人驚き騒ぎしを、蘇我の大臣、その人を捕へ
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させしめしかば、人々(ひとびと)この大臣のしわざにこそと知(し)りて、とかくものいふ人なかりき。大臣、駒を賞して様々のものを賜はせて、わが家の内に、女房などの中にもはゞかりなく出で入り、心にまかせてせさし程(ほど)に、大臣の女を忍びて犯してき。大臣この事(こと)を聞きて、大きに怒りて、髪をとりて木に掛けて、自らこれを射き。「汝おろかなる心をもちて、御門(みかど)を失ひ奉(たてまつ)る」と言ひて矢を放ちしかば、駒叫びて「われその時に、大臣のみを知れりき、御門(みかど)といふ事(こと)を知(し)り奉(たてまつ)らず」と言ひしかば、大臣この時〔に〕いよいよ怒りて、剣をとりて腹を割き、頭を斬りてき。大臣の心悪しき事いよいよ世間に広まりしなり。
第三十五代 推古天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、推古天皇(てんわう)と申(まう)しき。欽明天皇(てんわう)の御女。御母(おんはは)、稲目の大臣の女、蘇我小姉君姫なり。壬子の年(とし)十二月八日に、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)三十八。
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世を知ろしめす事(こと)、三十六年。位に即き給(たま)ひて明くる年の四月に、御門(みかど)「わが身は女人なり。心に物をさとらず。世の政は、聖徳太子(たいし)にし給(たま)へ」と申(まう)し給(たま)ひしかば、世の人喜びをなしてき。太子(たいし)はこの時に太子(たいし)には立ち給(たま)ひて、世の政をし給(たま)ひしなり。その前はたゞ皇子と申(まう)ししかども、今、語り申(まう)す事(こと)なれば、さきざきも太子(たいし)とは申(まう)し侍(はべ)りつるなり。御年(おんとし)二十二になんなり給(たま)ひし。今年四天王寺をば難波荒陵には移し給(たま)ひしなり。元は玉造りの峰に立て給(たま)へりき。三年と申(まう)しし春、沈はこの国に始めて波につきて来たれりしなり。土左の国の南の海に、夜毎に大いに光るものありき。その声雷のごとくにして、三十日を経て、四月に淡路の島の南の岸に寄り来たれり〔き〕。太さ人の抱く程(ほど)にて、長さ八尺ばかりなん侍(はべ)りし。その香しき事たとへん方なくめでたし。これを御門(みかど)に奉(たてまつ)りき。島人なにとも知らず。多く薪になんしける。これを太子(たいし)見給(たま)ひて「沈水香と申(まう)すものなり。この木を栴檀香といふ。南天竺の南の海の岸に生ひたり。この木冷やかなるによりて、夏になりぬれば、もろもろの蛇まとひつけり。
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その時に、人かの所へ住き向ひて、その木に矢を射立てゝ、冬になりて、蛇の穴にこもりて後、射立てし矢をしるしにて、これを捕るなり。その実は鶏舌香。その花は丁子。その油は薫陸。久しくなりたるを沈水香といふ。久しからぬを浅香といふ。御門(みかど)、仏法を崇め給(たま)ふが故(ゆゑ)に、釈梵・威徳の浮べ送り給(たま)ふなるべし」と申(まう)し給(たま)ひき。御門(みかど)この木にて観音をつくりて、比蘇寺になん置奉(たてまつ)り給(たま)ひし。ときどき光を放ち給(たま)ひき。六年と申(まう)しし四月に、太子(たいし)良き馬を求めしめ給(たま)ひしに、甲斐の国より黒き馬の四の足白きを奉(たてまつ)れりき。太子(たいし)多くの馬の中よりこれを選び出して、九月にこの馬に乗り給(たま)ひて、雲の中に入りて、東をさしておはしき。麻呂といふ人ひとりぞ御馬の右の方にとりつきて、雲に入りにしかば、見る人驚きあざみ侍(はべ)りし程(ほど)に、三日ありて帰り給(たま)ひて、「われこの馬に乗りて、富士の嶽に至りて、信濃の国へ伝はりて帰り来たれり」と宣(のたま)ひき。十一年と申(まう)しし十一月に、太子(たいし)の持ち給(たま)へりし仏像を「この仏、誰か崇め奉(たてまつ)るべき」と宣(のたま)ひしに、秦の川勝進み出でゝ申(まう)しうけ侍(はべ)りしかば、賜はせ
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たりしを、蜂岡寺を造りて、据ゑ奉(たてまつ)りき。その蜂岡寺と申(まう)すは、今の太秦なり。仏は弥勒とぞ承(うけたまは)り侍(はべ)りし。十四年と申(まう)しし、七月に御門(みかど)「わが前にて勝鬘経講じ給(たま)へ」と申(まう)し給(たま)ひしかば、太子(たいし)、師子の床に上りて三日講じ給(たま)ひき。その有様(ありさま)、僧のごとくになんおはせし。めでたかりし事なり。翁その庭に聴聞して侍(はべ)りき。果ての夜とぞ覚え侍(はべ)る。蓮の花の長さ二三尺ばかりなる、空より降りたりし、あさましかりし事(こと)ぞかし。御門(みかど)その所に、寺を建て給(たま)ひき。今の橘寺これなり。十五年と申(まう)しし五月に、御門(みかど)に申(まう)し給(たま)はく、むかし持ち奉(たてまつ)りし経、唐土の衡山と申(まう)すところにおはします。取り寄せ奉(たてまつ)りて、この渡れる経のひがごとの侍(はべ)るに見合はせんと申(まう)し給(たま)ひて、小野の妹子を七月に唐土へ遣はしき。明くる年の四月に妹子、一巻にしたる法花経をもて来たれりき。九月に太子(たいし)斑鳩の宮の夢殿に入り給(たま)ひて、七日七夜出で給(たま)はず。八日といふ朝に枕上に一巻の経あり。太子(たいし)宣(のたま)はく、「この経なんわが前の世に持し奉(たてまつ)りし経にておはします。妹子がもて来たれるは、わが弟子の経なり。この経に三十四の文字あり。
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世の中に弘まる経はこの文字なし」となん宣(のたま)ひし。二十九年二月二十二日〔に〕、太子(たいし)、亡せ給(たま)ひにき。御年(おんとし)四十九なり。御門(みかど)を始め奉(たてまつ)りて、一天下の人、父母を失ひたるがごとくに悲しびをなしき。おほかた太子(たいし)の御事(こと)、万が一を申(まう)し侍(はべ)るとも、事(こと)あたらしく申(まう)し続くべくもなけれども、めでたき事(こと)はみな人知(し)り給(たま)へれども、繰り返し申(まう)さるゝなり。太子(たいし)世に出で給(たま)はざらましかば、暗きより暗きに入りて、ながく仏法の名字を聞かぬ身にてぞあらまし。天竺より唐土に仏法伝はりて三百年と申(まう)ししに、百済国に伝はりて、百年ありてぞ、この国へ渡り給(たま)へりし。その時、太子(たいし)の御力にあらざりせば、守屋が邪見にぞ、この国の人は従ひ侍(はべ)らまし。三十四年と申(まう)す六月に大雪降りて侍(はべ)りき。
第三十六代 舒明天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、舒明天皇(てんわう)と申(まう)しき。敏達天皇(てんわう)の御子に彦人の大兄と申(まう)し
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し皇子の御子なり。御母(おんはは)、敏達天皇(てんわう)の御女、糠手姫なり。己丑の年(とし)正月(しやうぐわつ)四日、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)四十七。世を知(し)り給(たま)ふ事(こと)、十三年なり。三年と申(まう)ししにぞ玄奘三蔵唐土より天竺へ渡り給(たま)ふと承(うけたまは)り侍(はべ)りし。
第三十七代 皇極天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、皇極天皇(てんわう)と申(まう)しき。敏達天皇(てんわう)の曽孫におはします。舒明天皇(てんわう)の后にておはしき。御母(おんはは)、欽明天皇(てんわう)の御孫に吉備姫と申(まう)し侍(はべ)りしなり。壬寅の年(とし)正月(しやうぐわつ)十五日、位に即き給(たま)ふ。世を知(し)り給(たま)ふ事三年。女帝におはします。七月に世の中日照りして、様々の御祈侍(はべ)りしかども、その験さらになし。大臣蝦夷と申(まう)ししは、蘇我の馬子の大臣の子なり。この事(こと)を歎きて、御手づから香炉を取りて祈り請ひしかども、なほ験なかりき。八月になりて、御門(みかど)川上に行幸し給(たま)ひて、四方を拝み、天に仰ぎて祈り請ひ給(たま)ひしかば、たちまちに神鳴り、雨下りて五日を経き。世の中みななほり、百穀
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豊かなりき。いみじく侍(はべ)りし事(こと)なり。十一月十一日、蘇我の蝦夷の大臣の子入鹿、その罪といふ事(こと)もなかりしに、聖徳太子(たいし)の御子・孫二十三人を失ひ奉(たてまつ)りてき。軍をおこして斑鳩の宮を囲みて攻め奉(たてまつ)りしに、太子(たいし)の御子に大兄王と申(まう)しし、獣の骨を取りて御殿籠りし所に置きて、我は逃げて生駒山に入り給(たま)へりしに、入鹿が軍、火を放ちて斑鳩の宮を焼きて、灰の中を見しに、ものゝ骨ありき。これを大兄王、六日といひしに、この所に帰り来たり給(たま)ひて、香炉を捧げて誓ひ給(たま)ひしかば、煙、雲に上りて後、仙人、天人の形あらはれて、西に向ひて飛び去り給(たま)ひにき。光を放ち、空に楽の声聞こえしかば、これを見聞きし人は遥かに礼拝をなしき。入鹿が父の大臣これを聞きて、「罪なくして太子(たいし)の御後を失ひ奉(たてまつ)れり。我ら久しく世にあるべからず」と驚き歎き侍(はべ)りき。三年と申(まう)しし月に天智天皇(てんわう)の中大兄皇子と申(まう)しし御時、法興寺にて鞠を遊ばし給(たま)ひし程(ほど)に、御沓の鞠につきて落ちて侍(はべ)りしを、鎌足の取りて奉(たてまつ)り給(たま)へりしを、皇子嬉しき事(こと)に思(おぼ)し
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て、その時より〔相〕互に思(おぼ)す事(こと)、つゆ隔てなく聞えあはせ奉(たてまつ)り給(たま)ひて、その御末の今日までも、御門(みかど)の御後見はし給(たま)ふぞかし。よき事も悪しき事もはかなき程(ほど)の事(こと)故(ゆゑ)に出で来る事なり。十一月に大臣蝦夷その子の入鹿、厳めしき家を造りて、内裏のごとくに宮門といひて、我が子どもをばみな皇子と名づけき。五十人の兵〔を〕身に従へて、出で入りにいさゝかも立ち離れざりき。かくてひとへに世の政を執れるがごとくなりしかば、御門(みかど)、入鹿を失はんの御心ありき。又(また)、天智天皇(てんわう)のいまだ皇子と申(まう)ししも同じくこの事(こと)を御心のうちに思(おぼ)し立ちしかども、思(おも)ひのまゝならざらん事(こと)を思(おぼ)し恐れし程(ほど)に、鎌足、皇子を勧め奉(たてまつ)りて、蘇我宿禰山田石川麻呂が女をかりそめにあはせ奉(たてまつ)りて、この事を謀り給(たま)ひき。鎌足願を起して、丈六の釈迦仏の像をあらはし奉(たてまつ)り給(たま)ひき。今の山階寺の金堂におはしますはこの御仏なり。六月に御門(みかど)大極殿に出で給(たま)ひて、入鹿を召しき。入鹿召しに従ひて参(まゐ)りぬ。人の心を疑ひて夜昼太刀を佩きてなん侍(はべ)りしを、鎌足なにともなき様に戯れに言ひなし給(たま)ひて、太刀を解かせて座に据ゑ給(たま)ひつ。その後
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十二門を鎖し固めて、山田石川麻呂にて、新羅、高麗、百済、この三韓の表を読ませしめ給(たま)ひしに、石川麻呂この事を謀り給(たま)ふを心のうちに怖ぢ恐れ思(おも)ひけるにや、身震ひ声わなゝきて、え読まずなりにければ、入鹿「いかなればかく怖ぢ恐れ侍(はべ)るぞ」と問(と)ひしかば、「御門(みかど)に近づき奉(たてまつ)る事〔の〕、恐れ思(おも)ひ侍(はべ)るなり」と答ふ。かくて入鹿が首を斬るべきにてあるに、その事を承(うけたまは)りたる人二人ながら怖ぢ恐れ、汗を流して寄らざりしかば、皇子その一人を相具し給(たま)ひて、入鹿が前に進み寄りて、その人をして肩を斬らせしめ給(たま)ひつ。入鹿驚きて立ち騒ぎしに、又(また)足を斬りつ。入鹿、御門(みかど)に申(まう)していはく、「我なにごとの罪といふ事を知(し)り侍(はべ)らず。その事を承(うけたまは)らん」と申(まう)しき。御門(みかど)大きに驚き給(たま)ひて、「いかなる事ぞ」と問(と)ひ給(たま)ひしかば、皇子「入鹿は多くの皇子を失ひ、御門(みかど)の御位を傾け奉(たてまつ)らんとす」と申(まう)し給(たま)ひしかば、御門(みかど)立ちて内へ入り給(たま)ひにき。この折つひに入鹿が首を斬りてき。その後入鹿が屍を父の大臣に賜はせしかば、大臣大きに怒りて、自ら命を滅ぼして、大鬼道に堕ちて、蘇我の
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一門、時の程(ほど)に滅び失せにき。この御時とぞ覚え侍(はべ)る、但馬の国に人ありき。幼き女子を持ちたりき。その子庭にはひありきし程(ほど)に、にはかに鷲出できたりて子を取りて東をさして飛び去りぬ。父母、泣き悲しめども行方を知らず。その後八年といひしに、その子の父、事(こと)の縁ありて、丹後の国へ行きけるが、宿れる家に女の童あり。井に行きて水を汲む。この宿れる男、井のもとにて足を洗ひて立てる程(ほど)に、その村の女の童ども来たり集まりて水を汲むとて、ありつる女の童の汲みたりつる水を奪ひ取りてければ、取られじと惜しむ程(ほど)に、この女の童べども、「をのれは鷲の食ひ残しぞかし。いかでわれらをばいるかせにはいふべきぞ」とて打ちしかば、女の童泣きて、この宿り〔に〕足りつる家に帰りぬ。男、家主に「この女の童を鷲の食ひ残しと申(まう)しあひたりつるは、いかなる事(こと)ぞ」と問(と)へば、家主「その年のその月日、われ木に登りて侍(はべ)りしに、鷲幼き子を取りて西の方より来たりて、巣に落し入れて、鷲の子に飼はせんとせし程(ほど)に、この子泣く事(こと)限りなし。鷲の子、その声に驚き恐れて食はざりき。我、稚児泣く
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声を聞きて、巣のもとに寄りて取りおろし侍(はべ)りし子なり。さてかく申(まう)しあひたるにこそ」と言ひしを聞くに、我が子の鷲に取られにし月日なり。この事(こと)を聞くに、あさましく覚えて、泣き悲しびて、親子というふ事(こと)〔を〕知(し)りにき。人の命の限りある事(こと)は、あさましく侍(はべ)る事なり。
第三十八代 孝徳天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、孝徳天皇(てんわう)と申(まう)しき。皇極天皇(てんわう)の御弟。御母(おんはは)、欽明天皇(てんわう)の御孫吉備姫なり。乙巳の年(とし)六月十四日〔に〕位に即き給(たま)ふ。世を知(し)り給(たま)ふ事(こと)、十年なり。皇極天皇(てんわう)は位をわが御子〔の〕天智天皇(てんわう)のいまだ皇子と聞えしに譲り奉(たてまつ)らんと宣(のたま)ひしを、皇子「あるべき事(こと)に侍(はべ)らず」と申(まう)し給(たま)ひて、鎌足に「御門(みかど)かゝる事(こと)をなん宣(のたま)はせつる」と言ひ合はせ給(たま)ひしに、鎌足「この御門(みかど)の御子、御叔父の皇子を越え奉(たてまつ)りて、いかでかその先に位を継ぎ給(たま)ふべき。世の人のうけ申(まう)さん事もありがたく侍(はべ)るべし」と申(まう)し
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給(たま)ひしかば、皇子、わが御心にかなひて思(おぼ)しければ、あながちに申(まう)し返し給(たま)ひしかば、この御門(みかど)に譲り奉(たてまつ)り給(たま)ひしを、これも、又(また)度々返し奉(たてまつ)り給(たま)ひき。又(また)、天智天皇(てんわう)の兄の御子に譲り奉(たてまつ)られしに、皇子「あるべき事(こと)に侍(はべ)らず」とて出家して吉野山へ入り給(たま)ひにき。二人の御子、あながちにかく返し奉(たてまつ)り給(たま)ひしかば、つひにこの御門(みかど)は位に即き給(たま)ひしなり。かくて鎌足、大臣の位になずらへて内臣となん始めて申(まう)し侍(はべ)りし。大化二年に道登といひし者の宇治橋を渡し始めたりしなり。この御時に元興寺に智光・頼光といふ二人の僧ありき。稚(をさな)くより同所にて学問をす。頼光身にする勤めもなく、又(また)、人に会ひてものなどいふ事もなし。たゞいたづらにして月日を過す。智光あやしみをなして「いかにいたづらにておはするぞ」と問(と)へども、ふつといらふる事もなく。かくて多くの年を経て頼光亡せにき。智光歎きて、「年ごろの友なりき。いかなるところにか生まれぬらん。行ひする事もなく、ものをだに〔も〕はかばかしく言はざりつれば、後の世の有様(ありさま)いとおぼつかなし」と思(おも)ひて、二三月の程(ほど)「頼光が在り所知らせ給(たま)へ」と仏に祈り申(まう)しし
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程(ほど)に、智光、夢に頼光が居たる所へ行きて見れば、たとへんかたなくめでたし。智光「これはいかなる所ぞ」と問(と)へば、頼光「これは極楽なり。汝あながちに祈りつれば、わが生まれたる所を見するなり。汝があるべき所にあらず。とく帰りね」と言ふに、智光「われ浄土を願ふ身なり。いかでか帰らん」と言ふ。頼光「汝、させる行ひをせず。しばしもいかでかこの所に止まらん」と言ふ。智光「汝、世にありし時、させる行ひもし給(たま)はざりき。いかにしてこの所に〔は〕生れ給(たま)へるぞ」と言ふ。頼光「いかでか知(し)り給(たま)はん。むかし経論を見給(たま)ひしに、極楽に生れん事(こと)いと難く覚えしかば、ひとへに世の事を捨て、もの言ふ事を止めて、心の中に弥陀の相好、浄土の荘厳を観じて、多くの年を積もりてわづかに生れて侍(はべ)るなり。汝、心乱れ善根少なくて、浄土へ参(まゐ)るべき程(ほど)にいまだ至らず」といふを、智光聞きて泣き悲しびて、「いかにしてか決定して往生すべき」と問(と)ひしかば、頼光「仏に問(と)ひ奉(たてまつ)れ」とて、智光を相具して仏の御前に参(まゐ)りぬ。智光、仏を礼拝し奉(たてまつ)りて、「いかなる事(こと)をしてか、この所に参(まゐ)るべき」
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と申(まう)しき。仏、智光に告げて宣(のたま)はく、「仏の相好、浄土の荘厳を観ずべし」と。智光「この土の荘厳は、心も眼も及ばず。凡夫はいかでかこれを観ずべき」と申(まう)ししかば、仏、右の御手を捧げ給(たま)ひて掌の内に小さき浄土を表し給(たま)ひき。智光、夢さめて、この浄土の有様(ありさま)を写し書かせて、朝夕にこれを観じてつひに極楽に参(まゐ)りにき。かゝれば仏道はたゞ心によるべき事なり。
第三十九代 斉明天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、斉明天皇(てんわう)と申(まう)しき。これは皇極天皇(てんわう)と申(まう)しし女帝の又(また)かへり即き給(たま)ひしなり。乙卯の年(とし)正月(しやうぐわつ)三日、位に即き給(たま)ふ。世を知(し)り給(たま)ふ事(こと)、七年なり。二年と申(まう)ししに、鎌足病を受けて久しくなり給(たま)ひしかば、御門(みかど)、大きに歎かせ給(たま)ひしに、百済国より来たれし尼、法明といひし、「維摩経を読みて、この病を祈らん」と申(まう)ししかば、御門(みかど)大きに喜び給(たま)ひき。法明、
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この経を読みしにすなはち鎌足の御病おこたり給(たま)ひにき。さて、明くる年、山階寺を建てゝ維摩会を始め給(たま)ひしなり。七月に智通・智達といふ二人の僧を唐土に遣はして、玄弉三蔵に法相宗をば伝へ習はせさせ給(たま)ひしなり。この御時に義覚といふ僧ありき。百済国より来たれりし人なり。難波の百済寺になん住み侍(はべ)りし。その寺に恵義といふ僧ありき。夜中ばかりに出でゝ、義覚がある所を寄りて見れば、室の内に光を放てり。恵義あやしく思(おも)ひて密かに窓の紙を破りて見れば、義覚、経を読みける口より光を放てるなり〔けり〕。恵義あさましく思(おも)ひて、明くる日なん、人々(ひとびと)に語り侍(はべ)りし。義覚、弟子に語りしを聞き侍(はべ)りしかば、「一夜、心経を読み奉(たてまつ)りて百遍ばかりになりし程(ほど)に、目を見上げて室の内を見しかば、廻りに隔てもさらになくて、庭のあらはに見えしかば、いかなる事(こと)にかと思(おも)ひて、室を出でゝ寺の内を見廻りて帰りたりしかば、もとのごとく壁もあり、戸ぼそも閉じたりしかば、室の外の床に居て、又(また)、心経を読み奉(たてまつ)りしに、さきにありつるやうに隔てもなくなりにき。これは般若の不思議なり」となん申(まう)しし。
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心に万法みなむなしと思(おも)ひて観念のいたりけると覚えてあはれに侍(はべ)りし事なり。
第四十代 天智天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、天智天皇(てんわう)と申(まう)しき。舒明天皇(てんわう)の第二の御子。御母(おんはは)、斉明天皇(てんわう)なり。孝徳天皇(てんわう)位に即き給(たま)ひし日、東宮(とうぐう)に立ち給(たま)ひき。壬戌の年(とし)正月(しやうぐわつ)三日、位に即き給(たま)ふ。世を知(し)り給(たま)ふ事(こと)、十年なり。七年と申(まう)しし十月十三日、鎌足内大臣になり給(たま)ふ。この御時に初めて内大臣といふ官は出で来しなり。御姓は中臣と申(まう)ししを藤原と賜はらせき。大織冠となん申(まう)しし。かゝりし程(ほど)に御心地例ならず思(おぼ)されしが、まことしく、重り給(たま)ひし時に、御門(みかど)行幸し給(たま)ひて「思(おぼ)し置く事あらば、宣(のたま)はせよ」と仰せ言ありしかば、大臣「今は限りに侍(はべ)る、何事をかは申(まう)し侍(はべ)るべき」と申(まう)し給(たま)ひしを聞こし召して、御門(みかど)、御涙にむせびて帰らせおはしまして、御弟の東宮(とうぐう)を、又(また)、
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大臣の家におはして宣(のたま)はせよとて、「さきざきの御門(みかど)の御後見多かりしかども、大臣の心ざしに比ぶべき人さらになし。われひとりかくさり難く思(おも)ふのみにあらず。次々の御門(みかど)、大臣の末を恵て年ごろの恩を必ず報ゆべし」と宣(のたま)はせて、太政大臣に上げ奉(たてまつ)り給(たま)ふよし仰せ給(たま)ふと、その時の人申(まう)しあひたりしかども、この事はたしかにも聞き侍(はべ)らざりき。内大臣になり給(たま)ふを、太政大臣とはひがごとぞとも申(まう)し合ひたりしなり。十六日につひに亡せ給(たま)ひにき。御門(みかど)歎き悲しび給(たま)ふ事限りなし。先に申(まう)し侍(はべ)りつるやうに、御門(みかど)も皇子と申(まう)し、大臣もいまだ位浅くおはせしに、御沓取りて奉(たてまつ)り給(たま)へりし、はかなかりし御心寄せの後、位に即き給(たま)ひて、今日に至るまで互に二心なく思(おぼ)し通はし給(たま)へるに、御年(おんとし)の程(ほど)のいまはいかゞはなど思(おぼ)し慰むべきにもあらず。今年五十六にこそはなり給(たま)ひしか。事にふれて思(おぼ)し続くるに、げにことわりと、御門(みかど)の御心のうち推し量られ侍(はべ)りし事(こと)なり。大臣は大中臣美気■卿の子におはす。十年と申(まう)しし正月(しやうぐわつ)五日、御門(みかど)の御子に大友皇子と申(まう)ししを、太政大臣になし奉(たてまつ)り給(たま)ひき。二十五
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にぞなり給(たま)ひし。東宮(とうぐう)などにぞ立ち給(たま)ふべかりしを、御門(みかど)の御弟の東宮(とうぐう)にてはおはしましゝかば、かくなり給(たま)へりしにこそ。九月に御門(みかど)例ならず思(おぼ)されしかば、東宮(とうぐう)を呼び奉(たてまつ)りて、「わが病重くなりたり。今は位譲り奉(たてまつ)りてん」と宣(のたま)はせしかば、東宮(とうぐう)「あるべき事にも侍(はべ)らず。身に病多く侍(はべ)り。后の宮に位を譲り奉(たてまつ)り給(たま)ひて、大友の太政大臣を摂政とし給(たま)ふべきなり。われ、御門(みかど)の御ために仏道を行はん」と申(まう)し給(たま)ひて、やがて頭を剃りて吉野山に入り給(たま)ひにき。さて十月にぞ大友太政大臣は東宮(とうぐう)に立ち給(たま)ひし。十二月三日、御門(みかど)御馬に奉(たてまつ)りて山科へおはして、林の中に入りて失せ給(たま)ひぬ。いづくにおはすといふ事(こと)を知らず。たゞ御沓の落ちたりしを陵には籠め奉(たてまつ)りしなり。
第四十一代 天武天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、天武天皇(てんわう)と申(まう)しき。舒明天皇(てんわう)の第三の御子。御母(おんはは)、斉明天皇(てんわう)
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なり。天智天皇(てんわう)の御世七年二月に東宮(とうぐう)に立ち給(たま)ふ。癸酉の年(とし)二月二十七日に位に即き給(たま)ふ。世を知(し)り給(たま)ふ事十五年なり。この御門(みかど)、うちまかせては位に即き給(たま)ふべかりしかども、又(また)ありがたくして即き給(たま)ひしなり。世を遁れ給(たま)ひし事(こと)、天智天皇(てんわう)の御事の中に申(まう)し侍(はべ)りぬ。天智天皇(てんわう)、十二月三日亡せさせ給(たま)ひにしかば、同じき五日、大友皇子位を継ぎ給(たま)ひて、明くる年の五月に、なほこの御門(みかど)を疑ひ奉(たてまつ)りて、家出して吉野の宮に入り籠らせ給(たま)へりしを、左右の大臣もろともに兵〔を〕おこして、吉野の宮を囲み奉(たてまつ)らんと謀りし程(ほど)に、この事(こと)洩れ聞えにき。美濃尾張の国に、天智天皇(てんわう)の陵を造らん料とて、人夫をその数召すに、皆兵の具を持ちて参(まゐ)るべき由(よし)仰せ下さる。「この事(こと)さらに陵の事にあらず。必ず事の起り侍(はべ)るべきにこそ。この宮を逃げ去り給(たま)はずば悪しかりなん」と告げ申(まう)す人あり。又(また)「近江の京より大和の京まで所々にみな兵を置きて守らしめ侍(はべ)る」など申(まう)す人もありき。大友皇子の御妻はこの御門(みかど)の御女なりしかば、みそかにこの事の有様(ありさま)を御消息には告げ申(まう)し給(たま)へりけり。
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吉野の宮には、位を譲り世を遁るゝ事(こと)は、病をつくろひ命を保たん〔ため〕とこそ思(おも)ひつるに、思(おも)はざるに我が身を失ふべからんにとりては、いかでか〔は〕うちとけてもあるべきと思(おぼ)して、皇子たちをひき具し奉(たてまつ)りて、ものにも乗り給(たま)はずして東国の方へ入り給(たま)ひし途に、懸犬養大伴といひし者、会ひ奉(たてまつ)りて、馬に乗せ奉(たてまつ)りてき。又(また)、妃の宮を輿に乗せ奉(たてまつ)りて、御供には皇子二人、男ども二十余人、女十余人ぞ付き奉(たてまつ)りたりし。その日、菟田といふ所におはし着きたりしに、猟人二十余人従ひ奉(たてまつ)りにき。又(また)米負せたる馬三十疋ばかり逢ひ奉(たてまつ)りたりしを、その米を下ろし捨てゝ、徒歩にて御供にさぶらふ人をみな乗せ給(たま)ひて、夜中ばかりに伊賀の国におはし着きて、国の軍あまた従ひ奉(たてまつ)りしを相具して、明くる日、伊勢の国におはして、天照御神を拝し奉(たてまつ)り給(たま)ひき。国の守、五百人の軍をおこして、鈴鹿の関を固め、大友皇子、三千人の軍を率ゐて、不破の関を固む。御門(みかど)、不破の宮におはして、国々の軍をおこし給(たま)ひしに、兵その数を知らず。かくて七月六日より所々にして大友皇子と戦ひ給(たま)ふ。二十一日に瀬田に攻め寄り
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給(たま)ひしに、大友皇子、左右の大臣あひともに橋の西に陣を張りて戦ふ。こなたかなたの軍、雲霞のごとくにして、その数を知らず。矢の下る事(こと)雨のごとし。かゝりし程(ほど)に、皇子の方の軍破れて、皇子も大臣もわづかに命を逃れて山に入りにき。二十三日に皇子自ら遂に命を失ひてしかば、二十六日にぞその首を取りて不破の宮に奉(たてまつ)り〔て〕し。二十七日に右大臣殺され、左大臣流されにき。その他の人々(ひとびと)は、罪を被る、多く侍(はべ)りき。やがてその日ぞ、軍に力を入れたる人々(ひとびと)、官位どもを賜はせし。御門(みかど)は皇子の御叔父にておはせしうへに、御舅にてもおはしましゝぞかし。方々従ひ奉(たてまつ)り給(たま)ふべかりしを、あながちに勝にのり給(たま)ひし事(こと)の仏神も受け給(たま)はずなりにしにこそ侍めれ。八月に御門(みかど)、野上の宮に遷り給(たま)ひたりしに、筑紫より足三ありし雀の朱きを奉(たてまつ)りしかば、年号を朱雀元年とぞ申(まう)し侍(はべ)りし。明くる年三月に備後国より白き雉を奉(たてまつ)りたりしかば、朱雀といふ年号を鳳凰とぞ更へられにし。三月に川原寺にて初めて一切経を書かしめ給(たま)ひき。九年と申(まう)しし十一月に、妃の宮御病によりて、薬師寺を建て
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させ給(たま)ひしなり。十三年と申(まう)ししに、御門(みかど)例ならずおはしまして、東宮(とうぐう)を初め奉(たてまつ)りて、百官大安寺に詣でゝ、御門(みかど)この寺にして法会を行はんと思(おぼ)す御願あるを、果たし遂げ給(たま)はずしてやみなんとす。「たとひ定業なりとも、三年の御命を延べ奉(たてまつ)り給(たま)へ。この〔大〕願を遂げさせ奉(たてまつ)らん」と祈り申(まう)ししに、御門(みかど)〔の〕御夢に御命延び給(たま)ふよし御覧ぜられて、御病怠らせ給(たま)ひにしかば、三年の間、仏をあらはし経を写して、本意のごとく供養し奉(たてまつ)り給(たま)ひき。十四年と申(まう)しし十月二十三日、天文のことごとくに乱れ、星の落つる事(こと)、雨のごとく侍(はべ)りき。十五年と申(まう)ししに、大和の国より朱き雉を奉(たてまつ)れりき。さて朱鳥元年と年号を更へられにき。明くる年、大友皇子の御子、父の宣(のたま)はせ置きしによりて、三井寺を〔ば〕造り給(たま)ひしなり。
第四十二代 持統天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、持統天皇(てんわう)と申(まう)しき。天智天皇(てんわう)の第二の御女。天武天皇(てんわう)の妃
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なり。〔御〕母、山田大臣石川麻呂の女、越智姫なり。丁亥の年を元年として、第四年に位に即き給(たま)ひて、世を知(し)り給(たま)ふ事(こと)十年なり。七年と申(まう)しし正月(しやうぐわつ)にぞ、踏歌は始まり侍(はべ)りし。十年と申(まう)ししに位を去り給(たま)ひて、太上天皇(てんわう)と申(まう)し侍(はべ)りき。
第四十三代 文武天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、文武天皇(てんわう)と申(まう)しき。天武天皇(てんわう)の御子に草壁の皇子と申(まう)しし皇子の第一の御子。母は、元明天皇(てんわう)なり。丁酉の年(とし)八月一日に、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)十五。世を知(し)り給(たま)ふ事(こと)、十一年なり。三年と申(まう)しし五月に、役行者を伊豆国へ流しつかはしてき。その行者は大和国の人なり。広くものを習ひ、深く三宝を仰ぎて、三十二といひし年よりこの葛城山に籠りゐて、三十余年の程、藤の皮を着物とし、松の葉を食物として、孔雀の神呪を保ちて、様々の験を施しき。五色の雲に乗りて仙宮に至り、
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鬼神を使ひて水を汲ませ薪を採らす。又(また)、御嶽とこの葛城の峰とに「岩橋を渡せ」とこの鬼神どもに言ひしかば、夜々巌を運びて、削り整へて既に渡し始めし程(ほど)に、行者心もとながりて、昼もたゞ形をあらはして渡せと責めしを、一言主の神、わが容貌の醜き事(こと)を恥ぢて、なほ夜々ばかり渡し侍(はべ)りしかば、行者怒りて神呪をもちてこの一言主の神を縛りて谷の底に投げ入れてき。その後、一言主の神、御門(みかど)に近くさぶらひし人につきて、「我は御門(みかど)の御ために悪しき心をおこす人を鎮むるものなり。役行者、御門(みかど)を傾け奉(たてまつ)らんと謀る」と申(まう)ししかば、宣旨(せんじ)を下して行者を召しに遣はしたりしに、行者、空に飛び上りて、捕ふべき力も及ばで、使帰り参(まゐ)りてこの由(よし)を申(まう)ししかば、行者の母を召し捕られたりし折、筋なくて母に代らんが為に行者参(まゐ)れりしを、伊豆の大島に流しつかはしたりしに、昼は公(おほやけ)に従ひ奉(たてまつ)りてその島に居、夜は富士の山に行きて行ひき。六月に、御門(みかど)、丈六の仏像を造り奉(たてまつ)らんとて、仏師のよからんを求め給(たま)ひしに、その人なかりしかば、御門(みかど)、大安寺に行幸ありて、仏
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の御前に掌を合せ願をおこし給(たま)ひて、よき仏師に会ひてこの仏を造り奉(たてまつ)らんと申(まう)し給(たま)ひしに、その夜の御夢に一人の僧ありて「この寺の仏を造り奉(たてまつ)りしは化人なり。又(また)来たるべきにあらず。たとひよき仏師に会ひ給(たま)ふとも、なほ斧のつまづきあるべし。たとひよき絵師に会ひ給(たま)ふとも、いかでか筆のあやまちなからん。たゞ大きならん鏡を仏の御前に懸けて、その映り給(たま)へらん影を礼し奉(たてまつ)り給(たま)へ。かけるにもあらず造れるにもあらずして、三身具足し給(たま)はん。そのかたちを見るは応身の躰なり。その影をうかゞふは化身の相なり。その空しき事を観ずるは法身の理なり。功徳のすぐれたる事(こと)、これに過ぎたるはなかるべし」と申(まう)しき。御門(みかど)〔は〕御夢さめ給(たま)ひて、如来の御願に応じ給(たま)ふ事を喜び給(たま)ひて、大きなる鏡を仏の前に懸けて、五百人の僧を請じて供養し奉(たてまつ)り給(たま)ひき。真実の功徳と覚え侍(はべ)りし事なり。この頃もこの思(おも)ひをなしてする人侍(はべ)らば、いかにめでたき事(こと)にか侍(はべ)らん。四年と申(まう)しし三月に道昭和尚と申(まう)しし人の室の内ににはかに光満ちて香はしき事限りなし。道昭、弟子を呼びて、「この光を見る
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や」と問(と)ひしに、弟子、見ゆる由(よし)を答へしかば、道昭「ものな言ひそ」と言ひし程(ほど)に、室より光出でゝ寺の庭に廻りて、やゝ久しくして、その光、西をさして行き去りて後、道昭縄床に端坐して、命終りにしかば、弟子ども火をもちて葬りて、その骨を取ら〔せ〕んとせしに、にはかに風吹きて、灰だにもなく撒(ま)き失ひてき。日本に火葬はこれになん始まり侍(はべ)りし。五年と申(まう)しし正月(しやうぐわつ)に不比等中納言になり給(たま)ひて、やがてその日、大納言になり給(たま)ひにき。その月とぞ覚え侍(はべ)る。役の行者、伊豆国より召し返されて、京に入りて後、空へ飛び上りて、わが身は草座に居、母の尼をば鉢に乗せて、唐土へ渡り侍(はべ)りにき。さりながらも本所を忘れずして、三年に一度、この葛城山と富士の峰へとは来たり給(たま)ふなり。時々は会ひ申(まう)し侍(はべ)り。唐土にては第三の仙人にておはする由(よし)ぞ語り給(たま)ふ。二月丁未の日、釈奠は始まると承(うけたまは)り侍(はべ)りき。三月二十一日に対馬より初めて銀を参(まゐ)らせたりしかば、大宝元年と年号を申(まう)しき。其の後より年号はあひ続きて今日まで絶えず侍(はべ)るにこそ。二年と申(まう)しし七月よりぞ、御子達馬に
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乗りて九重の内に出で入り給(たま)ふ事は止まりにし。四年と申(まう)しし五月五日、大極殿の西の楼の上に慶雲見えしかば、年号を慶雲とかへられにき。二年と申(まう)ししに、世の中の心地おこりて煩ふひと多かりしかば、追儺といふ事(こと)は始まれりしなり。
第四十四代 元明天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、元明天皇(てんわう)と申(まう)しき。天智天皇(てんわう)の第四の御女。御母(おんはは)、蘇我大臣山田石川麻呂の女、嬪姪娘なり。この御門(みかど)は文武天皇(てんわう)の御母(おんはは)におはします。文武天皇(てんわう)、いまだ三十にだに及び給(たま)はで亡せさせおはしましにし、いと心憂かりし事なり。その時、聖武天皇(てんわう)はいまだいとけなくおはしましき。八歳にやならせ給(たま)ひけん。この頃こそ二三にても位に即かせおはしますめれ、その程(ほど)まではさる事なかりしかば、御母(おんはは)にて位に即かせ給(たま)へりしなり。慶雲四年七月十七日に位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)三十六。世を知(し)り給(たま)ふ事(こと)、七年
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なり。五年正月(しやうぐわつ)十一日に武蔵より銅を初めて奉(たてまつ)りしかば、年号を和銅とかへられにき。三月に不比等、右大臣になり給(たま)ふ。同二年五月に新羅の使、様々の物を相具して参(まゐ)れりしに、不比等その使に会ひ給(たま)ひにき。「昔より執政の大臣の会ふ事はいまだなき事なり。しかれどもこの国の睦まじき事(こと)をあらはすなり」と宣(のたま)ひしかば、使ども座をさりて拝し奉(たてまつ)りて、うるはしく又(また)座につきて、「使どもは本国の賤しき者どもなり。王の仰せを蒙りて、今京に参(まゐ)れり。幸ひのはなはだしきなり。しかるにかたじけなく相見え奉(たてまつ)りぬ。喜びおそるゝ事限りなし」と申(まう)しき。国王・大臣も時に従ひて振舞ひ給(たま)ふべきにこそ。この頃ならば、片趣きに異国の人に一の人の会ひ給(たま)ふは、なき事なりなどぞ謗り申(まう)さまし。同三年三月に難波より大和の平城の京へ都遷りて、左右京の條坊を定め給(たま)ひき。これより前々も代々常に京遷り侍(はべ)りしかども、ことならぬをば申(まう)し侍(はべ)らず。この月に不比等、興福寺を山科より奈良の京に移し建て給(たま)ひき。同六年、国々の郡の名を記して、様々の出で来る物どもの数を目録をせさせしめ給(たま)ひ
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き。同七年十月、維摩会を山階寺に移し行ひ給(たま)ひき。この会は九ところにて行はれしに、その事中絶えて、今年四十二年にぞなり侍(はべ)りし。同八年九月三日、位を御女の元正天皇(てんわう)の氷高内親王と聞え給(たま)ひしに譲り奉(たてまつ)り給(たま)ひき。
第四十五代 元正天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、元正天皇(てんわう)と申(まう)しき。文武天皇(てんわう)の御姉。これも元明天皇(てんわう)の御腹におはします。元明天皇(てんわう)位を去り給(たま)ひし時、聖武天皇(てんわう)を東宮(とうぐう)と申(まう)ししかば、位を継ぎ給(たま)ふべかりしかども、その年ぞ御元服し給(たま)ひて、御年(おんとし)十四になり給(たま)ひしに、猶いまだいとけなくおはすとて、この御門(みかど)は御伯母にて譲りを得給(たま)ひしなり。和銅八年乙卯九月三日、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)三十五。世を知(し)り給(たま)ふ事(こと)、九年なり。年号かはりて霊亀と申(まう)しき。三年と申(まう)しし九月に御門(みかど)、美濃国不破の山の出湯に行幸ありき。その湯を浴み
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し人、白髪かへりて黒くなりき。目暗かりし者たちまちに明らかになり、痛き所を洗ひしかば、すなはち癒えにき。かくて御門(みかど)帰り給(たま)ひて、十一月七日、年号を養老とかへられにき。二年と申(まう)ししに不比等、律令を選びて御門(みかど)に奉(たてまつ)り給(たま)ひき。同三年と申(まう)しし二月に百官を召して笏を持つ事は始まり侍(はべ)りしなり。同四年八月三日、不比等亡せ給(たま)ひにき。九月〔に〕大隅、日向の国に朝廷(おほやけ)に従ひ奉(たてまつ)らぬ者どもありしかば、宇佐の宮の禰宜、宣旨(せんじ)を承(うけたまは)りて、軍をおこしてこれらを討ち平げてき。その時に宇佐の宮の託宣し給(たま)ひて、「戦ひの間、多くの人を殺せり。これによりて放生会をすべし」と宣(のたま)はせしかば、これより諸国の放生会を始められしなり。同五年八月三日、御門(みかど)、太上天皇(てんわう)もろともに不比等の御果に山階寺の内に北円堂を建て給(たま)ひき。〔同〕八年二月四日、御門(みかど)位を東宮(とうぐう)に譲り奉(たてまつ)り給(たま)ひて、太上天皇(てんわう)と申(まう)しき。
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第四十六代 聖武天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、聖武天皇(てんわう)と申(まう)しき。文武天皇(てんわう)の御子。御母(おんはは)、不比等の御女、皇太后宮の御子なり。養老八年二月四日、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)二十五。世を知(し)り給(たま)ふ事(こと)、二十五年なり。年号を神亀とかへられにき。二年と申(まう)ししに唐土より柑子の種を持て来たれりき。これより初めてこの国には出で来初めしなり。三年と申(まう)しし七月に太上天皇(てんわう)例ならずおはしましゝ御祈りに、御門(みかど)、山階寺の内に東金堂をば建て給(たま)ひしなり。その年、行基菩薩山崎の橋を造りて、その上に法会を設けて供養し給(たま)ひしに、にはかに大水出でゝ、流れ死ぬる人多かりき。四年と申(まう)しし三月二十日、初瀬は供養せられしなり。行基菩薩其の導師にておはしき。天平五年七月に盂欄盆は始まりしなり。同六年正月(しやうぐわつ)十一日に光明皇后、御母(おんはは)の橘の氏の御ために山階寺の内に西金堂を建て給(たま)ひき。同七年、吉備の大臣、唐土に留められて、日月を封じたりければ、十日ばかり世の中
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暗くなりにけり。この事を占はしめけるに、「日本国の人を留めて帰さゞるによりて、秘術をもちて日月を隠せるなり」と申(まう)しければ、この国へは帰り来たれりしなり。同十二年九月に大宰少弐広継と申(まう)しし人は、宇合の子におはす。その人一万人の兵をおこして、御門(みかど)を傾け奉(たてまつ)らんと謀り奉(たてまつ)るといふ事聞えて、大野東人といふ人に国々の軍一万七千余人を相具して、八幡の宮に祈り申(まう)して戦はしめに遣はす。十一月に御門(みかど)、伊勢太神宮に行幸し給(たま)ひてこの事を祈り申(まう)し給(たま)ひしに、この月十一日に肥前国松浦の郡にて少弐鎮まり給(たま)ひしところなり。今、鏡の宮とておはします。同十三年六月戊寅の日の夜、京中の条々に飯降りて侍(はべ)りき。同十四年十一月に陸奥に赤き雪降りて侍(はべ)りき。十五年十月十五日、近江の信楽京にて東大寺の大仏を始め給(たま)ひき。同十七年八月二十三日に東大寺の大仏の座を築き始め給(たま)ふ。同十九年九月二十九日、大仏を鋳奉(たてまつ)り給(たま)ふ。同二十年正月(しやうぐわつ)に陸奥より金九百両を奉(たてまつ)れりき。日本国に金出で来る事(こと)、これより始まれりき。これによりて四月十八日に、
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年号を天平感宝元年とかへられにき。されどもこの年号はやがて又(また)かはりにしかば、年代記などには入り侍(はべ)らざるなり。七月二日、位を去りて、御髪下ろして太上天皇(てんわう)とぞ申(まう)し侍(はべ)りし。御年(おんとし)五十にならせ給(たま)ひしなり。
第四十七代 孝謙天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、孝謙天皇(てんわう)と申(まう)しき。聖武天皇(てんわう)の御女。御母(おんはは)、不比等の御女、光明皇后におはします。天平勝宝元年己丑七月二日、位に即き給(たま)ふ。御年(おんとし)三十一。世を知(し)り給(たま)ふ事(こと)、十年なり。御弟に東宮(とうぐう)おはしましゝかども、神亀五年に御年(おんとし)二歳にて亡せ給(たま)ひにしかば、この御門(みかど)、位を継ぎおはしましき。天平勝宝元年十月二十四日に東大寺の大仏を鋳奉(たてまつ)りをはりにき。三年の程、八度といふに事果てにしなり。十一月に八幡の宮、託宣し給(たま)ひて、十二月に筑紫より京へ移りおはしましき。梨原に宮造りして祝ひ奉(たてまつ)りしなり。七日丁亥、東大寺供養侍(はべ)りき。行幸ありき。又(また)聖武天皇(てんわう)
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は太上天皇(てんわう)とて同じくこの供養にあはせ給(たま)ひき。八幡の宮もおはしましき。めでたく侍(はべ)りし事どもなり。皆人知(し)り給(たま)へる事どもなり。天平勝宝四年三月十四日に東大寺の大仏に初めて黄金を塗り奉(たてまつ)りき。四月九日、万僧を請じて供養し奉(たてまつ)り給(たま)ひき。今年ぞかし。道鏡内へ参(まゐ)りて如意輪法を行ひ給(たま)ひし程(ほど)に、やうやう御門(みかど)の御覚え出で来始まりしなり。弓削の法皇と申(まう)ししはこの人なり。宝字二年、御門(みかど)、位を東宮(とうぐう)に譲り奉(たてまつ)り給(たま)ひて、太上天皇(てんわう)と申(まう)しき。
水鏡巻之中 終
水鏡 日本文学叢書本
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巻之下
第第四十八代 廃帝(はいだい)
次(つぎ)の御門(みかど)、廃帝(はいだい)と申(まう)しき。 天武天皇(てんわう)の御子に一品舎人親王(しんわう)と申(まう)しし第七の御子なり。 御母(おんはは)、上総守当麻の老が女なり。 天平宝字元年(ぐわんねん)四月(しぐわつ)に東宮(とうぐう)に立(た)ち給(たま)ふ。 御年(おんとし)二十五。 同二年己亥八月(はちぐわつ)一日、位に即(つ)き給(たま)ふ。 御年(おんとし)二十六。 位にて六年ぞおはしましゝ。 この御門(みかど)、東宮(とうぐう)に立(た)ち給(たま)ひし折は、ゆゝしき事ども侍(はべ)りき。 孝謙天皇(てんわう)の御時(おんとき)、東宮(とうぐう)は新田部親王(しんわう)の子、道祖王とておはせしに、聖武天皇(てんわう)亡(う)せさせ給(たま)ひて諒闇にてありしに、この東宮(とうぐう)、この程(ほど)をも憚り給(たま)はず、女の方にのみ乱れ給(たま)へりしかば、孝謙天皇(てんわう)「折節(をりふし)も知(し)り給(たま)はず、かくなおはせそ」と申(まう)し給(たま)ひしかども、つゆその言に従ひ給(たま)はざりしかば、天平勝宝九年三月(さんぐわつ)二十九日、大臣以下「この東宮(とうぐう)は、聖武天皇(てんわう)の御すゝめにて立(た)て奉(たてまつ)りき。しかるにその事
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をも思(おも)ひ知(し)り給(たま)はず、かくみだりがはしき心のし給(たま)へるをば、いかゞし奉(たてまつ)るべき」と宣(のたま)はせしに、人々(ひとびと)皆(みな)「たゞ仰(おほ)せ言に従ふべし」と申(まう)ししかば、東宮(とうぐう)を取(と)り奉(たてまつ)り給(たま)ひて、四月(しぐわつ)に大臣以下を召して、「東宮(とうぐう)には誰をか立(た)て奉(たてまつ)るべき」と定め申(まう)すべき由(よし)、仰(おほ)せ言ありしに、右大臣豊成、式部卿永手は、「前の東宮(とうぐう)の御兄、塩焼の王、立(た)ち給(たま)ふべし」と申(まう)しき。 摂津大夫(たいふ)珍努、左大弁(さだいべん)古麿は、「池田王、立(た)ち給(たま)ふべし」と申(まう)しき。 大納言(だいなごん)仲麻呂(なかまろ)は、「臣を知るは君にはしかず。子を知るは父にはしかず。たゞ御門(みかど)の御心にまかせ奉(たてまつ)る」と、各々(おのおの)思(おも)ひ思(おも)ひに申(まう)ししかば、御門(みかど)の宣(のたま)はく、「御子達の中に舎人、新田部、この二人はむねとおはせし人なれば、新田部親王(しんわう)の子を東宮(とうぐう)に立(た)てたりつれども、かく教へに従ひ給(たま)はずなりぬれば、今は舎人親王(しんわう)の子を立(た)て申(まう)すべきに、各々(おのおの)咎どもおはす。その中(うち)に、大炊王は年若くおはせど、させる咎聞えず。この人を立(た)てんと思(おも)ふは、いかゞあるべき」と宣(のたま)はせき。 大臣以下皆(みな)仰(おほ)せ言に従ふべき由(よし)、申(まう)しき。 この定めよりさきに、仲麻呂(なかまろ)の大納言(だいなごん)、この大炊王を迎へとり奉(たてまつ)りて、わが家
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に据ゑ奉(たてまつ)りたりしかば、内よりの御使その殿に参(まゐ)りて迎へ奉(たてまつ)りて、東宮(とうぐう)には立(た)ち給(たま)ひしなり。 大炊王と申(まう)すは、すなはちこの御門(みかど)におはします。 かくてのち、この東宮(とうぐう)に選び捨てられ給(たま)ひつる王達、又(また)、志(こころざし)ある人々(ひとびと)数多(あまた)寄り合ひて、御門(みかど)、東宮(とうぐう)を傾け奉(たてまつ)り、仲麻呂(なかまろ)を失はんとすといふ事(こと)、おのづから漏れ聞えしかば、仲麻呂(なかまろ)内に参(まゐ)りてこの由(よし)を申(まう)ししかば、様々(さまざま)の罪を行はれき。 その程(ほど)の事(こと)ども、推し量り給(たま)ふべし。 この程(ほど)は道鏡(だうきやう)もいまだほひろかに参(まゐ)りつかうまつらざりしかば、この仲麻呂(なかまろ)、御門(みかど)の御覚(おぼ)え並びなかりき。 天平宝字二年八月(はちぐわつ)二十五日、仲麻呂(なかまろ)大保になりにき。 これは右大臣をかく申(まう)ししなり。 やがてその日、大将になりて、もとの藤原の姓に恵美といふ二文字(ふたもじ)を加へ賜(たま)はせき。 是等(これら)も皆(みな)太上(だじやう)天皇(てんわう)の御覚(おぼ)え並びなくてせさせ給(たま)ひしなり。 恵美といふ姓の、御覧(ごらん)ずるたびに笑ましく思(おぼ)すとて賜(たま)はするとぞ申(まう)しあひたりし。 又(また)、仲麻呂(なかまろ)といふ名を変へておしかつとぞ申(まう)しし。 同三年六月(ろくぐわつ)二日、道のほとりに果物の木を植うべき由(よし)、仰(おほ)せ下されき。 この事は、東大寺の普昭法師と申(まう)す人の申(まう)し行ひ侍(はべ)りしなり。 その故(ゆゑ)
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は、国々(くにぐに)の民、行き来絶ゆる事なし。 その蔭に休み、その実をとりて疲れを支へんとなり。 いみじき功徳と覚(おぼ)え侍(はべ)りし事なり。 八月(はちぐわつ)三日、鑑真和尚と申(まう)しし人、聖武天皇(てんわう)の御為(ため)に、招提寺を建て給(たま)ひき。 同六年六月(ろくぐわつ)、太上(だじやう)天皇(てんわう)、尼になり給(たま)ひて宣(のたま)はく、「われ菩提心をおこして尼となりぬれども、御門(みかど)事(こと)にふれて恭(ゐや<)しき気さらにおはせず。かやうに言はるべき身にはあらず。世の政の常の小事をば行ひ給(たま)へ。世の大事、賞罰をば、われ行はん」と宣(のたま)はせて、この後、世を行ひ給(たま)ひき。 同七年九月(くぐわつ)に道鏡(だうきやう)少僧都になりて、常に太上(だじやう)天皇(てんわう)の御傍らにさぶらひて、御覚(おぼ)え並びなかりしかば、恵美の大臣、私に太政官の印をさして事を行ふといふ事(こと)を、大外記比良麻呂忍びやかに申(まう)したりしかば、十一日に太上(だじやう)天皇(てんわう)、少納言(せうなごん)を遣はして、鈴印を収めさせしめ給(たま)ひしを、恵美の大臣聞きつけて、その道にわが子の宰相(さいしやう)といひしをやりて、奪ひ止めさせしかば、又(また)、太上(だじやう)天皇(てんわう)人を遣はして射殺(ころ)さしめ給(たま)ひしに、大臣の使又(また)相互に射殺(ころ)し
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てき。 かゝる世の乱れ出で来て、大臣官位をとられ、関を固め、軍をおこして討たしめんとし給(たま)ひしかば、大臣その夜逃げて近江の国へ行きしに、御方の軍、外の道よりさきに至りて、瀬田の橋を焼きてき。 大臣これを見(み)て、高嶋の郡の方に逃げて、少領といふものゝ家に泊れりしに、星の大きさ甕の程(ほど)なりしが、その屋の上に落ちたりし、如何(いか)なる事にてか侍(はべ)りけん。 さて越前の国に行きて、相具したる御人々(ひとびと)を、「これは御門(みかど)におはす。これは上達部(かんだちめ)なり」など偽りいひて、人の心をたぶらかしき。 斯くて御方の軍追ひ至りて攻めしかば、大臣又(また)近江の国へ帰(かへ)りて、船に乗りて逃げんとせし程(ほど)に、荒き風吹きて溺れなんとせしかば、船より下りて相戦ひし程(ほど)に、十八日に大臣討ち取(と)られてき。 その頭をとりて京へ持て参(まゐ)られりしにこそ、同(おな)じ大臣と申(まう)せども、世の覚(おぼ)えめでたくおはせし人の、時の間にかくなり給(たま)ひぬる、哀(あはれ)に侍(はべ)りし事なり。 又(また)心憂き事(こと)侍(はべ)りき。 その大臣の女おはしき。 色容めでたく、世に並ぶ人なかりき。 鑑真和尚の「この人、千人の男にあひ給(たま)ふ相おはす」と宣(のたま)はせしを、たゞうちある程(ほど)の人
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にもおはせず、一二人の程(ほど)だにもいかでかと思(おも)ひしに、父の大臣討ち取(と)られし日、御方の軍千人悉くに、この人を犯してき。 相は恐ろしき事(こと)にぞ侍(はべ)る。 二十日、太上(だじやう)天皇(てんわう)宣(のたま)はく、「仲麻呂(なかまろ)、前の東宮(とうぐう)の兄の塩焼の王を位に即(つ)けんといふ事(こと)を謀りて、官の印をさして国々(くにぐに)に遣はして、人の心をたぶらかし、関を固め、兵をおこし、罪もなかりける兄〔の〕豊成の大臣を讒し申(まう)して、位を退けたりけり。この事(こと)、仲麻呂(なかまろ)が偽れる事とぞ知(し)り〔給(たま)ひ〕ぬ。 豊成を元のごとく大臣の位にをさめ給(たま)ふ。又(また)この禅師(ぜんじ)、朝夕に仕うまつれる有様(ありさま)を見(み)るに、いと尊し。われ髪を剃りて仏の御袈裟を着てあれども、世の政をせざるべきにあらず。仏も、経に、『国王位に即(つ)き給(たま)はん折は、菩薩戒を受けよ』とこそ説き置き給(たま)ひたれ。これを思(おも)へば、尼となりても世の政をせんに何の障りかあるべき。しかれば、御門(みかど)の出家(しゆつけ)していませんに、又(また)出家(しゆつけ)してあらん大臣もあるべしと思(おも)ひて、この道鏡(だうきやう)禅師(ぜんじ)を大臣禅師(ぜんじ)と位を授け奉(たてまつ)る」と宣(のたま)はせて、十月(じふぐわつ)九日、太政天皇(てんわう)、兵をおこして内裏(だいり)を囲み給(たま)ひしかば、宮の内に候(さうら)ひし人々(ひとびと)皆(みな)逃げ失(う)せにしかば、御門(みかど)、
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御母(おんはは)、又(また)その仕り人二三人ばかりを相具して、徒歩にて図書寮の方におはして立(た)ち給(たま)へりしにこそは、少納言(せうなごん)向ひ奉(たてまつ)りて、位をおろし奉(たてまつ)る由(よし)の宣命(せんみやう)をば読みかけ奉(たてまつ)りしか。 その御言葉には「位を保ち給(たま)ふべきうつはものにおはせぬにあはせて、仲麻呂(なかまろ)と同(おな)じ心にて、われを害はんと謀り給(たま)ひけり。しかれば御門(みかど)〔の〕位を退け奉(たてまつ)りて、親王(しんわう)の位を賜(たま)ふ」とて、淡路の国へ流し奉(たてまつ)り給(たま)ひてき。 心憂く侍(はべ)りし事なり。
第四十九代 称徳天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、称徳天皇(てんわう)と申(まう)しき。 これは孝謙天皇(てんわう)の又(また)かへり即(つ)き給(たま)へりしなり。 天平宝字八年十月(じふぐわつ)九日、位に即(つ)き給(たま)ふ。 御年(おんとし)四十七。 世を知(し)り給(たま)ふ事(こと)五年なり。 同九年に淡路の廃帝(はいだい)、国土を呪ひ給(たま)ふによりて、日照り大風吹きて、世の中悪くて、飢ゑ死ぬる人多かりきと申(まう)しあひたりき。 十月(じふぐわつ)に廃帝(はいだい)怨みの心に堪へずして垣を越えて逃げ給(たま)ひしを、
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国守兵〔を〕おこして止め申(まう)ししかば、帰(かへ)り給(たま)ひて明くる日亡(う)せ給(たま)ひにき。 閏(うるふ)十月(じふぐわつ)二日、大臣禅師(ぜんじ)道鏡(だうきやう)、太政(だいじやう)大臣(だいじん)になりき。 十一月(じふいちぐわつ)に大嘗会(だいじやうゑ)ありしに、われ仏の御弟子となれりとて、出家(しゆつけ)の人もあひ交りてつかはるべき由(よし)仰(おほ)せられき。 今年西大寺を造り給(たま)ひて金銅の四天王(してんわう)を鋳奉(たてまつ)り給(たま)ひしに、三体は成り給(たま)ひて、いま一体の、七度まで鋳損はれ給(たま)ひしかば、御門(みかど)誓ひ給(たま)ひて、「もし仏の徳によりて、ながく女の身を捨てゝ仏となるべくば、銅の沸くにわが手を入(い)れん。この度、鋳られ給(たま)へ。もしこの願い叶ふべからずば、わが手焼けてそこなはるべし」と宣(のたま)ひしに、御手にいさゝかなる疵なくして、天王の像なり給(たま)ひにき。 神護景雲二年十月(じふぐわつ)二十日、道鏡(だうきやう)に法皇(ほふわう)の位を授け給(たま)ひき。 神護景雲三年七月に、和気清麿(きよまろ)が姉の尼、偽りて八幡の宮の御託宣といひて、道鏡(だうきやう)を位に即(つ)け給(たま)ひたらば、世の中大きによかるべき由(よし)を申(まう)しき。 道鏡(だうきやう)この事を聞きて喜ぶ事限りなかりし程(ほど)に、八幡の宮、御門(みかど)の御夢に見(み)え給(たま)ひて、「我が国は昔(むかし)より只人を君とする事(こと)は、いまだなき事なり。かくよこざまなる心あらん人をば、速やかに払ひのく
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べし」と宣(のたま)はせしを、道鏡(だうきやう)大きに怒りをなして、御門(みかど)を勧め奉(たてまつ)りて、清麿(きよまろ)を御使として宇佐の宮へ奉(たてまつ)りて、この事を申(まう)し請はしめ奉(たてまつ)りしに、託宣し給(たま)ひし事(こと)は、御門(みかど)の御夢にいさゝかも違はざりしかば、清麿(きよまろ)「この事きはまりなき大事なり。宣託ばかりは信じがたかるべし。なほそのしるしをあらはし給(たま)へ」と祈り申(まう)ししかば、すなはち容を現はし給(たま)ひき。 御たけ三丈ばかりにて、望月のごとくにて光輝き給(たま)へり。 清麿(きよまろ)、肝魂も失(う)せて、え見奉(たてまつ)らざりき。 この時に重ねて託宣し給(たま)はく、「道鏡(だうきやう)、へつらへる幣帛を様々(さまざま)の神たちに奉(たてまつ)りて、世を乱らんとす。われ天の日嗣の弱くなりゆく事(こと)を嘆き、悪しき輩のおこり出でんとする事を憂ふ。彼は多く我は少なし。仏の御力を仰ぎて、御門(みかど)の末を助け奉(たてまつ)らんとす。速やかに一切経を書き、仏像をつくり、最勝王経一万巻を読み奉(たてまつ)り、ひとつの伽藍を建てゝ、この悪しき心ある輩を失ひ給(たま)へと申(まう)すべし。この事(こと)、一言も落すべからず」と宣(のたま)はせき。 清麿(きよまろ)帰(かへ)り参(まゐ)りてこの由(よし)を申(まう)ししかば、道鏡(だうきやう)大きに怒りて、清麿(きよまろ)が官を取(と)り、大隅の国へ流し遣はして、よぼろのすぢを断ちて
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き。 清麿(きよまろ)悲しびをなして、輿に乗りて宇佐の宮へ参(まゐ)れりしに、猪三万ばかり出で来たりて、道の左右に歩み連なりて十里ばかり行きて、山の中へ走り入(い)りにき。 かくて清麿(きよまろ)宇佐に参(まゐ)り着きて拝し奉(たてまつ)りしに、すなはちもとのごとく立(た)ちにき。 託宣し給(たま)ひて、神封の綿八万余屯を賜(たま)はせき。 同四年三月(さんぐわつ)十五日に、御門(みかど)由義の宮に行幸ありき。 道鏡(だうきやう)日にそへて御覚(おぼ)え盛りにて、世の中すでに失(う)せなんとせしを、百川(ももかは)憂へ嘆きしかども力も及ばざりしに、道鏡(だうきやう)、御門(みかど)の〔御〕心をいよいよゆかし奉(たてまつ)らんとて、思(おも)ひかけぬものを奉(たてまつ)れたりしに、あさましき事(こと)出で来て、奈良の京へ帰(かへ)らせおはしまして、様々の御薬どもありしかども、その験さらに見(み)えざりしに、ある尼〔の〕一人出で来たりて、いみじき事どもを申(まう)して、「やすくおこたり給(たま)ひなん」と申(まう)ししに、百川(ももかは)怒りて追ひ出してき。 御門(みかど)つひにこの事(こと)にて八月(はちぐわつ)四日亡(う)せさせ給(たま)ひにき。 細かに申(まう)さばおそれも侍(はべ)らん。 この事(こと)は百川(ももかは)の伝にも、細かに書きたると承(うけたまは)る。 この御門(みかど)、只人にはおはしまさゞりしにこそ。 かやうの事も世の末を戒めんが為(ため)にやおはしましけんとぞ覚(おぼ)え侍(はべ)りし。
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第五十代 光仁天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、光仁天皇(てんわう)と申(まう)しき。 天智天皇(てんわう)の御子に施基皇子と申(まう)し〔し〕、第六子におはす。 母は、贈太政(だいじやう)大臣(だいじん)紀諸人の女、贈皇后橡姫なり。 神護景雲四年八月(はちぐわつ)四日、称徳天皇(てんわう)亡(う)せさせおはしましにしかば、位を継ぎ給(たま)ふべき人もなくて、大臣以下各々(おのおの)この事を定め給(たま)ひしに、天武天皇(てんわう)の御子に長親王(しんわう)と申(まう)しし人の子に大納言(だいなごん)文屋浄三と申(まう)す人を位に即(つ)け奉(たてまつ)らんと申(まう)す人々(ひとびと)もありき。 又(また)、白壁王とてこの御門(みかど)のおはしましゝを即(つ)け奉(たてまつ)るべしと申(まう)す人々(ひとびと)もありしかども、なほ浄三をと申(まう)す人のみ強くてすでに即(つ)き給(たま)ふべきにてありしに、この浄三「我が身その器量に叶はず」とあながちに申(まう)し給(たま)ひしかば、その弟の宰相(さいしやう)大市と申(まう)ししを、さらば即(つ)け申(まう)さんと申(まう)すに、大市うけひき給(たま)ひしかば、すでに宣命(せんみやう)を読むべきになりて、百川(ももかは)・永手・良継、この人々(ひとびと)、心をひとつにて目をくはせて、密かに白壁王を太子(たいし)と定め申(まう)す由(よし)の宣命(せんみやう)をつくりて、宣命(せんみやう)使を語らひ
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て、大市の宣命(せんみやう)をば巻き隠してこの宣命(せんみやう)を読むべき由(よし)を言ひしかば、宣命(せんみやう)使庭に立(た)ちて読むを聞くに、「事(こと)、俄かにあるによりて、諸臣たちはからく、白壁王は諸王の中に年たけ給(たま)へり。又(また)、先帝の功あるゆゑに太子(たいし)と定め奉(たてまつ)る」といふ由(よし)を読むを聞きて、この大市をたてんと言ひつる人々(ひとびと)あさましく思(おも)ひて、とかくいふべき方もなくてありし程(ほど)に、百川(ももかは)やがて兵を催して白壁王を迎へ奉(たてまつ)りて、御門(みかど)と定め奉(たてまつ)りてき。 この御門(みかど)の位に即(つ)き給(たま)ふ事は、ひとへに百川(ももかは)のはからひ給(たま)へりしなり。 二十一日に道鏡(だうきやう)をば下野国へ流しつかはす。 大納言(だいなごん)弓削清人を土佐へ流しつかはす。 この清人は道鏡(だうきやう)が弟なり。 十一月(じふいちぐわつ)一日に、位に即(つ)き給(たま)ふ。 御年(おんとし)六十二。 世を知(し)り給(たま)ふ事(こと)、十二年なり。 粉河寺は今年建てられしなり。 宝亀三年に御門(みかど)、井上の后と博奕し給(たま)ふとて戯れ給(たま)ひて、「われ負けなば、盛りならん男を奉(たてまつ)らん。后負け給(たま)ひなば、色・容並びなからん女を得させ給(たま)へ」と宣(のたま)ひて打ち給(たま)ひしに、御門(みかど)負け給(たま)ひにき。 后まめやかに御門(みかど)を責め申(まう)し給(たま)ふ。 御門(みかど)、戯れとこそ思(おぼ)しつるに、事(こと)苦りて思(おも)ひわづらひ給(たま)ふ程(ほど)に、百川(ももかは)この事を
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聞きて、「山部親王(しんわう)を后に奉(たてまつ)り給(たま)へ」と御門(みかど)にすゝめ申(まう)しき。 この山部親王(しんわう)と申(まう)すは桓武天皇(てんわう)なり。 さて、百川(ももかは)、又(また)、親王(しんわう)の御もとへ参(まゐ)りて、「御門(みかど)この事(こと)を申(まう)し給(たま)はんずらん。あなかしこ否び申(まう)し給(たま)ふな。思(おも)ふやうありて申(まう)し侍(はべ)るなり」と申(まう)しし程(ほど)に、御門(みかど)、親王(しんわう)を呼び奉(たてまつ)り給(たま)ひて、「かゝる事なんある。后の御許へおはせ」と申(まう)し給(たま)ひしに、親王(しんわう)恐れ畏まりて「あるべき事に侍(はべ)らず」と申(まう)してまかり出で給(たま)ひしを、たびたび強ひ申(まう)し給(たま)ひしかどもなほ承(うけたまは)り給(たま)はざりしかば、御門(みかど)、「孝といふは父のいふ事(こと)に従ふなり。われ年老いて力堪へず。速やかに后の御許へ参(まゐ)り給(たま)へ」と責め給(たま)ひしかば、え逃れ給(たま)はずして、つひに后の御許へ参(まゐ)り給(たま)ひにき。 さてこの后、親王(しんわう)の御事をいみじきものにし奉(たてまつ)り給(たま)ひし、いとけしからず侍(はべ)りし事なり。 この后御年(おんとし)五十六になり給(たま)ひき。 この御腹の他戸(をさべ)の親王(しんわう)は御門(みかど)の第四の御子にて、御年(おんとし)などもいまだいとけなくおはしまして、今年は十二にぞなり給(たま)ひしかども、この后の御腹にておはせしかば、兄たちをおき奉(たてまつ)りて去年の正月(しやうぐわつ)に東宮(とうぐう)に立(た)ち給(たま)ひしぞかし。 后の御年(おんとし)
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もたけ、東宮(とうぐう)の御母(おんはは)〔など〕にて、いみじく重々しくおはすべかりしに、この山部親王(しんわう)、御継子にて御年(おんとし)などもことのほかに合ひ給(たま)はず。 今年三十六になり給(たま)ひしを、又(また)なきものと思(おも)ひ申(まう)し給(たま)へりし、いと見苦しくこそ侍(はべ)りしか。 常にこの親王(しんわう)をのみ呼び奉(たてまつ)り給(たま)ひて、御門(みかど)を疎くのみもてなし奉(たてまつ)り給(たま)へば、御門(みかど)、恥ぢ恨み給(たま)ふ御心やうやう出で来けり。 百川(ももかは)この程(ほど)の事どもをうかゞひ見(み)るに、后蠱業をして御井に入(い)れさせ給(たま)ひき。 御門(みかど)をとく失ひ奉(たてまつ)りて、我が御子の東宮(とうぐう)を位に即(つ)け奉(たてまつ)らんといふ事どもなり。 その井に入(い)りたる物を、ある人とりて宮の内にもて扱ひしかば、此の事皆(みな)人知(し)りにき。 百川(ももかは)、御門(みかど)に「此の事すでに顕れにたり。又(また)、后の宮の人八人、この頃よこざまなる事をのみ仕うまつりて、世の人堪ふべからず。人の妻を奪ひて、やがてその男の前にてゆゝしきわざをして見せ、又(また)、その男を殺(ころ)し、かやう事申(まう)し尽くすべからず。この八人を捕へさせしめて人の憂へを鎮めん」と申(まう)ししかば、御門(みかど)、申(まう)ししまゝに許し給(たま)ひしかば、百川(ももかは)兵を遣はして召し捕りし程(ほど)に、その八人を打ち殺(ころ)してき。 その
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使、帰(かへ)りてこの由(よし)を申(まう)すに、后、御門(みかど)のおはしますところへ怒りておはして、「老朽ちはおのれが老いぼれたるをば知らずして、我が宮人どもをばいかでか殺(ころ)さするぞ」と罵り申(まう)し給(たま)ひしかば、百川(ももかは)この事を聞きて「あさましく侍(はべ)る事なり。后をしばし縫殿寮に渡し奉(たてまつ)りてこらしめ奉(たてまつ)らん。又(また)、東宮(とうぐう)も悪しき御心のみおはす。世の為(ため)いといと不便に侍(はべ)る」と申(まう)ししかば、御門(みかど)「よからんさまに行ふべし」と宣(のたま)ひしかば、三月(さんぐわつ)四日、后の位をとり奉(たてまつ)りて、出で給(たま)ふべき由(よし)、啓せしかども、后のさらに出で給(たま)はずして、しのびやかに巫(かんなぎ)どもを召し寄せて様々(さまざま)の物どもを賜(たま)はせて、御門(みかど)を呪咀し奉(たてまつ)り給(たま)へりしを、百川(ももかは)聞きつけて、巫(かんなぎ)を尋(たづ)ね召さしめしに、巫(かんなぎ)逃げ失(う)せ〔に〕しかば、その巫(かんなぎ)の親しかりしものを召して、「さらに恐りをなすべからず。ありのまゝにこの事を申(まう)さば、我かならず位を申(まう)し授くべし」といひしかば、すなはちこの由(よし)をかの巫(かんなぎ)に告げ言ひしかば、巫(かんなぎ)謀られて申(まう)していはく、「君をあやまち奉(たてまつ)らんと謀れる罪は、逃れ難かるべき事なり。后宮、われらを召して様々(さまざま)の物を賜(たま)はせたりしかども、如何(いか)にすべしとも
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覚(おぼ)え侍(はべ)らで、たゞ御門(みかど)の御為(ため)に、かへりて寺々に誦経にして悪しき心つゆ起さずなり侍(はべ)りにき」と言ひき。 この由(よし)を百川(ももかは)つぶさに御門(みかど)に申(まう)ししかば、その巫(かんなぎ)どもを召し寄せて重ねて問(と)はしめさせ給(たま)ひしに、各々(おのおの)皆(みな)落ち伏しにき。 御門(みかど)この事を聞こし召して涙を流し給(たま)ひて、「我、后の為(ため)にいさゝかもおろかなる心なかりつるに、いま此の事あり。如何(いか)にすべき事ぞ」と仰(おほ)せ言ありしかば、百川(ももかは)申(まう)していはく「この事(こと)、世の中の人皆(みな)聞き侍(はべ)りにたり。いかでかさてはおはしますべき」と申(まう)ししかば、御門(みかど)「まことにいかでか〔は〕たゞもあらん」と宣(のたま)はせて、后の御封など皆(みな)停め給(たま)へりしかども、后さらに憚り給(たま)ふけしきなくて、たゞ御門(みかど)を様々(さまざま)のあさましき言葉にてみだりがはしく罵り申(まう)し給(たま)ふ事(こと)よりほかになし。 百川(ももかは)、「東宮(とうぐう)〔を〕もしばし退け奉(たてまつ)りて心を鎮めたてまつらん」と申(まう)ししかば、御門(みかど)許し給(たま)ひき。 百川(ももかは)偽りて宣命(せんみやう)を作りて人々(ひとびと)をもよほして、太政官にして宣命(せんみやう)を読ましむ。 皇后及び皇太子(たいし)を放ち追ひ奉(たてまつ)るべき由(よし)なり。 この事をある人御門(みかど)に申(まう)すに、御門(みかど)大きに驚(おどろ)き給(たま)ひて、百川(ももかは)を召して「后なほ懲り給(たま)はず。しばし東宮(とうぐう)を
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退けんとこそ申(まう)し乞ひつるに、如何(いか)にかゝる事はありけるぞ」と宣(のたま)ふに、百川(ももかは)申(まう)していはく「退くとは永く退くる名なり。母罪あり。子驕れり。まことに放ち追はんに足れる事なり」と少しも私あるけしきなく、ひとへに世の為(ため)と思(おも)ひたる心、容貌(かたち)に顕れて見(み)えしかば、御門(みかど)かへりて百川(ももかは)に怖ぢ給(たま)ひて、ともかくも宣(のたま)はせずして内々に歎き悲しび給(たま)ふ事かぎりなかりき。 これも百川(ももかは)の謀計にて、位に即(つ)き給(たま)へりし功労の量りもなかりしかば、たゞ申(まう)すまゝにておはしましゝなり。 同四年正月(しやうぐわつ)十四日に山部親王(しんわう)の中務卿と申(まう)しておはせし、東宮(とうぐう)に立(た)ち給(たま)ふ。 この事ひとへに百川(ももかは)の力なり。 其の故は先づ等定と申(まう)しし僧を、百川(ももかは)、梵天・帝釈を造り奉(たてまつ)りて行ひ奉(たてまつ)りき。 大臣以下、御門(みかど)に申(まう)していはく、「儲けの君はしばしもおはせずしてあるべき事ならず。速やかに立(た)て奉(たてまつ)り給(たま)へ」と申(まう)ししかば、御門(みかど)「誰をか立つべき」と宣(のたま)はせしかば、百川(ももかは)進みて、第一(だいいち)の御子山部親王(しんわう)を立(た)て申(まう)し給(たま)ふべし」と申(まう)しき。 御門(みかど)仰(おほ)せらるゝやう「山部
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は無礼の親王(しんわう)なり。我如何(いか)に言ふとも、いかで后をば犯すべきぞ」と宣(のたま)はせしを、百川(ももかは)申(まう)していはく「この仰(おほ)せ言いはれなく侍(はべ)り。父の言ふ事(こと)を違へざるを孝子とはいふなりと仰(おほ)せ言ありしかばこそ、親王(しんわう)は仰(おほ)せに従ひ給(たま)ひしか。初め勧め給(たま)ふも御門(みかど)におはします。後に嫌ひ給(たま)ふも御門(みかど)なり。如何(いか)にかくは仰(おほ)せ言あるぞ」と申(まう)すに、浜成申(まう)していはく「山部親王(しんわう)は〔御〕母(おんはは)卑しくおはす。いかでか位に即(つ)き給(たま)はん」と申(まう)ししかば、御門(みかど)「まことにさる事なり。酒人内親王(しんわう)を立(た)て申(まう)さん」と宣(のたま)ひき。 浜成又(また)申(まう)していはく「第二の御子稗田親王(しんわう)、御母(おんはは)卑しからず。この親王(しんわう)こそ立(た)ち給(たま)ふべけれ」と申(まう)ししを、百川(ももかは)目を怒らかし太刀を引きくつろげて、浜成を罵りていはく、「位に即(つ)き給(たま)ふ人、さらに母の卑しき尊きを選ぶべからず。山部親王(しんわう)は御心めでたく、世の人も皆(みな)従ひ奉(たてまつ)る心あり。浜成申(まう)す事(こと)道理にあらず。我、命をも惜しみ侍(はべ)らず。又(また)、二心なし。たゞ早く御門(みかど)の御ことはりをかうぶり侍(はべ)らん」と責め申(まう)ししかば、御門(みかど)ともかくも宣(のたま)はで立(た)ちて内へ入(い)り給(たま)ひにき。 百川(ももかは)この事を承(うけたまは)り切らんとて、歯をくひしばりて、少し
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も眠らずして、四十余日立(た)てりき。 御門(みかど)、百川(ももかは)が心の強く動がざる事を御覧(ごらん)じて、「さらばとく山部親王(しんわう)の立つべきにこそ」としぶしぶに仰(おほ)せ出だし給(たま)ひしを、御言葉いまだ終らざりしに、庭に下りて手を打ち喜ぶ声おびたゞしく高くして人々(ひとびと)皆(みな)驚(おどろ)き騒ぎ、百川(ももかは)やがて官々を召して、山部親王(しんわう)の御許へ奉(たてまつ)りて、太子(たいし)に立(た)て奉(たてまつ)りにき。 御門(みかど)あわたゞしく思(おぼ)してあきれ給(たま)へるさまにてぞおはしましゝ。 浜成、色を失ひ、朽ちたる木などのごとくに見(み)え侍(はべ)りき。 百川(ももかは)、君の御為(ため)に力を尽くし身を捨つる事(こと)、古もかゝる例なしと人々(ひとびと)申(まう)しあへりき。 同六年四月(しぐわつ)二十五日、井上の后亡(う)せ給(たま)ひにき。 現身に龍になり給(たま)ひにき。 他戸部(をさべ)の親王(しんわう)も亡(う)せ給(たま)ひにきといふ事(こと)世に聞え侍(はべ)りき。 同七年九月(くぐわつ)に、二十日ばかり、夜毎に瓦、石、土塊降りき。 つとめて見しかば、屋の上に降り積れりき。 同八年冬、雨も降らずして世の中の井の水皆(みな)絶えて、宇治川の水すでに絶えなんとする事侍(はべ)りき。 十二月(じふにぐわつ)に百川(ももかは)が夢に、鎧冑を着たるもの百余人来たりて我を求むとたびたび見(み)えき。 又(また)、御門(みかど)、東宮(とうぐう)の御夢にもかやうに見(み)えさせ給(たま)ひて、
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悩ましく思(おぼ)されき。 これ皆(みな)井上の后、他戸部(をさべ)の親王(しんわう)の霊と思(おぼ)して、御門(みかど)深く憂へ給(たま)ひて、諸国の国分寺にて金剛般若を読ましめさせ給(たま)へりき。 同九年二月(にぐわつ)に他戸部(をさべ)の親王(しんわう)いまだ世におはすといふ事(こと)を、ある人御門(みかど)に申(まう)しき。 御門(みかど)この親王(しんわう)を東宮(とうぐう)に返し立(た)てんの御心もとより深かりしかば、人を遣はして見せしめ給(たま)ひしに、百川(ももかは)、御使を呼び寄せて、「汝、あなかしこまことを申(まう)す事なかれ。もし申(まう)しては国は傾きなんずるぞ。安く生けらんものと思(おも)ふな」と言ひしかば、この御使怖ぢわなゝきながら行きて見(み)るに、亡(う)せ給(たま)ひにきと聞え給(たま)ひし他戸部(をさべ)の親王(しんわう)はいさゝかのつゝがもなくておはす〔る〕ものか。 あさましく思(おも)ひながらこの〔御〕使帰(かへ)り参(まゐ)りて百川(ももかは)に怖ぢ恐りて「ひがごとに侍(はべ)り。あらぬ人なり」と申(まう)ししを、親王(しんわう)の乳母、仕うまつり人集まり参(まゐ)りて御使とかたみに争ひ申(まう)すに、御使誓言を立(た)てゝ、もし偽れる事を申(まう)さば二つの目抜け落ち侍(はべ)るべし」と申(まう)ししかば、人皆(みな)ひがごとゝ思(おも)ひて親王(しんわう)を追ひ棄て申(まう)して後いくばくの程(ほど)もなくて、その御使の目二つながら抜け落ち侍(はべ)りにし、顕著にあさましく侍(はべ)りし事(こと)なり。 十月(じふぐわつ)
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に東宮(とうぐう)、伊勢大神宮(いせのだいじんぐう)へ参(まゐ)り給(たま)ひぬ。 過ぎぬる春の頃、御病重くて様々(さまざま)にせさせ給(たま)ひしかども、その験なかりき。 その時の御願にて怠り給(たま)ひて後、参(まゐ)らせ給(たま)ひしなり。 今年とぞ覚(おぼ)え侍(はべ)る、伝教大師(でんげうだいし)、大安寺に行表と申(まう)しし僧の弟子になりて法師になり給(たま)ひしは。 年十二になり給(たま)ふとぞ承(うけたまは)りし。 もと近江の国の人におはしき。 同十年五月(ごぐわつ)に安倍の仲麻呂(なかまろ)、唐土(もろこし)にて亡(う)せにけりと聞え侍(はべ)りき。 家乏しくして後の事など叶はずと、御門(みかど)聞こし召して、絹百疋、綿三百屯をなん賜(たま)はせし。 この人なり、唐土(もろこし)にて月の出づるを見(み)て、この国の方を思(おも)ひ出して「三笠の山に出でし月かも」と詠めりき。 七月五日、ある巫(かんなぎ)、百川(ももかは)に「この月の九日、物忌かたくすべし。あなかしこ」と言ひしかば、百川(ももかは)常に夢見騒がしき事(こと)を思(おも)ひあはせて、巫(かんなぎ)の言を頼みて、九日になりて戸を鎖し固めて籠り居たる程(ほど)に、秦隆といふ僧は、年頃百川(ももかは)が祈りをしてあひ頼めりしものなり。 その僧の夢にも、井上の后を殺(ころ)すによりて、百川(ももかは)が首をきる人ありと見(み)て驚(おどろ)きさめて、すなはち百川(ももかは)が許へ走り行きてこの事(こと)を告げんとするに、
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百川(ももかは)、巫(かんなぎ)の教に従ひてこの秦隆にあはず。 秦隆爪弾きをして帰(かへ)りにき。 この日、百川(ももかは)にはかに亡(う)せにき。 年三十八になんなりし。 私の心なく世の為(ため)とてこそは申(まう)し行へりしかども、つひにかく又(また)なりにし。 凡夫の心は如何(いか)に侍(はべ)るべきにか。 御門(みかど)「わが位を保てる事(こと)はひとへに百川(ももかは)が力なり。永くその形容(かたち)をも見(み)るまじき事(こと)」と宣(のたま)ひ続けて泣き歎かせ給(たま)ふ事(こと)限りなし。〔さらなり。〕又(また)、東宮(とうぐう)の御歎き思(おぼ)しやるべし。御容貌(かたち)も変る程(ほど)にならせ給(たま)ひしかば、見奉(たてまつ)る人「如何(いか)にかくならせ給(たま)へるぞ」と申(まう)ししかば、「百川(ももかは)わが為(ため)に身をも惜しまず力を尽くせりき。我、させる報なし。今、図らざるに命を失ひつ。この事を思(おも)ふに、かくなれるなり」と宣(のたま)ひし、まことにことはりと覚(おぼ)え侍(はべ)りし事なり。 天応元年(ぐわんねん)四月(しぐわつ)三日、御門(みかど)、位を東宮(とうぐう)に譲り奉(たてまつ)り給(たま)ひて、太上(だじやう)天皇(てんわう)と申(まう)しき。
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第五十一代 桓武天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、桓武天皇(てんわう)と申(まう)しき。 光仁天皇(てんわう)の第一(だいいち)の御子。 御母(おんはは)、贈正一位乙継の女、皇太夫人高野新笠なり。 宝亀四年正月(しやうぐわつ)十四日、東宮(とうぐう)に立(た)ち給(たま)ふ。 御年(おんとし)三十七。 その程(ほど)の事(こと)、百川(ももかは)が力を入(い)れ奉(たてまつ)りしさま、光仁天皇(てんわう)の御事の中に申(まう)し侍(はべ)りぬ。 天応元年(ぐわんねん)辛酉四月(しぐわつ)二十五日、位に即(つ)き給(たま)ふ。 御年(おんとし)四十五。 世を知(し)り給(たま)ふ事(こと)、二十四年なり。 延暦元年(ぐわんねん)五月(ごぐわつ)四日、宇佐の宮託宣し給(たま)ふやう、「われ、無量劫の中に三界に化生して、方便をめぐらして衆生を導く。名をば大自在王菩薩となんいふ」と宣(のたま)ひき。 尊く侍(はべ)る事なり。 同三年五月(ごぐわつ)七日、蛙三万ばかり集まりて三町ばかりにつらなりて、難波より天王寺(てんわうじ)へ入(い)りにき。 この事(こと)、都遷りのあるべき相なりと申(まう)しあへりし程(ほど)に、二十六日に山城の長岡(ながをか)に京たつべしといふ事(こと)出で来て、人々(ひとびと)を遣はしてその所を定めさせ給(たま)ひき。 六月(ろくぐわつ)に長岡(ながをか)の京に宮造りを始めさせ給(たま)ふ。 諸国の正税六十八万束を大臣以下参議已上に賜(たま)ひて、長岡(ながをか)の京
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の家を造らしめ給(たま)ふ。 十一月(じふいちぐわつ)八日の戌の時より丑の時まで、空の星走り騒ぎき。 十一日戊申、長岡(ながをか)の京に遷り給(たま)ふ。 同四年七月中の十日頃に、伝教大師(でんげうだいし)比叡の山に登りて住み始め給(たま)ひき。 生年(しやうねん)十九にぞなり給(たま)ひし。 八月(はちぐわつ)に奈良の京(みやこ)へ行幸侍(はべ)りき。 去年、京(みやこ)、長岡(ながをか)に遷り〔に〕しかども、斎宮はなほ奈良におはしましゝかば、伊勢へ下らせ給(たま)ふべき程(ほど)近くなりて行幸ありしなり。 長岡(ながをか)の京には中納言(ちゆうなごん)種継(たねつぐ)留守にて候(さうら)ひしを、御門(みかど)の御弟の早良の親王(しんわう)、東宮(とうぐう)とておはせしが、人を遣はして射殺(ころ)さしめ給(たま)ひてき。 事の起りは、御門(みかど)、常にこゝかしこに行幸し給(たま)ひて、世の政を東宮(とうぐう)にのみ預け奉(たてまつ)りしかば、天応二年に佐伯今毛人といひし人を宰相(さいしやう)になさせ給(たま)ひたりしを、御門(みかど)帰(かへ)らせ給(たま)ひたりしに、この種継(たねつぐ)、「佐伯の氏のかゝる事(こと)はいまだ侍(はべ)らず」と御門(みかど)に申(まう)ししかば、宰相(さいしやう)をとり給(たま)ひて三位(さんみ)を経させさせ給(たま)ひてしを、東宮(とうぐう)よに口惜しき事(こと)に思(おぼ)して、「種継(たねつぐ)を賜(たま)はらん」と申(まう)し〔給(たま)ひ〕しを、御門(みかど)むづかり給(たま)ひて、さらに聞き給(たま)はずして、この後、東宮(とうぐう)に政を預け奉(たてまつ)り給(たま)ふ事なくなりにしを、安からず思(おぼ)して、その
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隙を年頃窺ひ給(たま)ひつるに、よき折節(をりふし)にて、かくし給(たま)ひつるなり。 御門(みかど)、奈良より還り給(たま)ひにき。 丙戌の日、行幸はありて、今日は壬辰の日なれば、七日といひしに還り給(たま)へりとぞ覚(おぼ)え侍(はべ)る。 この頃は忌むなど申(まう)すとかや。 かくて十月(じふぐわつ)に東宮(とうぐう)を乙訓寺に籠め奉(たてまつ)り給(たま)へりしに、十八日までその命、絶え給(たま)はざりしかば、淡路の国へ流し奉(たてまつ)り給(たま)ひしに、山崎にて亡(う)せさせ給(たま)ひにき。 延暦七年に去年の冬より今年の四月(しぐわつ)まで五月(ごぐわつ)の程(ほど)雨降らで、世の人この事を歎きしに、御門(みかど)、御湯殿ありて御身を清めて庭におりて祈り請ひ給(たま)ひしかば、しばしばかりありて空暗がり雲出で来て、たちまちに雨下りて世の人喜ぶ事(こと)、限りなかりき。 今年伝教大師(でんげうだいし)比叡の山に根本中堂を建て給(たま)ひき。 生年(しやうねん)二十二にぞなり給(たま)ひし。 やがて今年とぞ覚(おぼ)え侍(はべ)る、弘法(こうぼふ)大師(だいし)讃岐より京へ上り給(たま)ひて、生年(しやうねん)十五にぞなり給(たま)ひし。 同十年八月(はちぐわつ)辛卯の日の夜、盗人伊勢大神宮(いせのだいじんぐう)を焼き奉(たてまつ)りき。 今も昔(むかし)も人の心ばかりゆゝしきものは侍(はべ)らず。 十月(じふぐわつ)に東宮(とうぐう)伊勢へ参(まゐ)らせ給(たま)ひき。 御病の折の御願とぞ承(うけたまは)りし。 この東宮(とうぐう)と申(まう)すは平城天皇(てんわう)
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におはします。 同十二年に今の京の宮城を造り給(たま)ひき。 同十三年十二月(じふにぐわつ)二十二日辛酉、長岡(ながをか)の京より今の京に遷り給(たま)ひて、賀茂の社に行幸ありき。 同十五年に御門(みかど)東寺を造り給(たま)ふ。 今年、又(また)、藤原伊勢人といひし人、貴船の明神の御教にて鞍馬をば造り奉(たてまつ)りしなり。 同十七年〔三月(さんぐわつ)〕に勅使を淡路の国へ遣はして、早良の親王(しんわう)の骨を迎へ奉(たてまつ)りて大和の国八嶋の〔御〕陵に納め給(たま)ひき。 この親王(しんわう)流され給(たま)ひて後、世の中心地おこりて人多く死に亡(う)せしかば、御門(みかど)驚(おどろ)き給(たま)ひて御迎へに二度まで人を奉(たてまつ)り給(たま)ひし、皆(みな)海に入(い)り波に漂ひて命を失ひてき。 第三度に、親王(しんわう)の御甥の宰相(さいしやう)五百枝を遣はしき。 殊に祈り請ひて平かに行き着きて渡し奉(たてまつ)りしなり。 七月二日、田村の将軍清水の観音を造り奉(たてまつ)り、又(また)我が家を毀ちわたして堂に建てき。 同十九年七月己未の日、御門(みかど)「思(おも)ふところあり」と宣(のたま)ひて、前東宮(とうぐう)早良親王(しんわう)に尊号を奉(たてまつ)り、崇道天皇(てんわう)と申(まう)す。 又(また)井上内親王(しんわう)を皇太后に崇め奉(たてまつ)るべき由(よし)、仰(おほ)せられき。 各々(おのおの)おはしまさぬ後にも怨みの御心を鎮め奉(たてまつ)らんと思(おぼ)し召しけるにこそ侍(はべ)るめれ。 同二十一年正月(しやうぐわつ)十九日、
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和気の広世、高雄の法華会を行ひ始めき。 九月(くぐわつ)二日、伝教大師(でんげうだいし)唐土(もろこし)へ渡り給(たま)ひて天台の教文を伝ふべき由(よし)の宣旨(せんじ)を下され侍(はべ)りしなり。 十月(じふぐわつ)に維摩会をもとのやうに山階寺にて行ひて、永くほかにて行ふべからざる由(よし)、宣旨(せんじ)を下さる。 これより先には長岡(ながをか)にして行はるゝ事もありき。 又(また)奈良の法華寺にても行はれしなり。 同二十二年閏(うるふ)十月(じふぐわつ)二十三日、伝教大師(でんげうだいし)筑紫におはして、唐土(もろこし)へ平かに渡り給(たま)はんの御祈に、竈門の山寺にて薬師仏四体を造り給(たま)ひき。 同(おな)じき二十三年五月(ごぐわつ)十二日、弘法(こうぼふ)大師(だいし)生年(しやうねん)三十一と申(まう)ししに唐土(もろこし)へ渡り給(たま)ひき。 七月に伝教大師(でんげうだいし)同(おな)じく唐土(もろこし)へ渡り給(たま)ひき。 同二十四年六月(ろくぐわつ)に伝教大師(でんげうだいし)唐土(もろこし)より帰(かへ)り給(たま)ひて天台の法文これより弘まりしなり。
第五十二代 平城天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、平城天皇(てんわう)と申(まう)しき。 桓武天皇(てんわう)の第一(だいいち)の御子。 御母(おんはは)、内大臣藤原良継
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の女、皇后乙牟漏なり。 延暦元年(ぐわんねん)十一月(じふいちぐわつ)二十五日に東宮(とうぐう)に立(た)ち給(たま)ふ。 御年(おんとし)十二。 早良親王(しんわう)の御代りなり。 同六年五月(ごぐわつ)十八日に御元服ありき。 大同元年(ぐわんねん)五月(ごぐわつ)二十八日に位に即(つ)き給(たま)ふ。 御年(おんとし)三十二。 世を知(し)り給(たま)ふ事四年なり。 御心敏く、御才賢くおはしましき。 十一月(じふいちぐわつ)に天台の受戒始まりき。 今年、崇道天皇(てんわう)の御為(ため)に、山科に八嶋寺を建て給(たま)ひて、諸国の正税の上分を奉(たてまつ)りて祈り鎮め奉(たてまつ)り給(たま)ひき。 御門(みかど)位に即(つ)き給(たま)ひし日、御弟の嵯峨(さが)の御門(みかど)を東宮(とうぐう)に立(た)て申(まう)させ給(たま)ひたりしを、御門(みかど)棄て奉(たてまつ)らんの御志(こころざし)ありしに、冬嗣(ふゆつぐ)の、東宮(とうぐう)の傅(ふ)にておはせしが、「かゝる事なん」と告げ申(まう)し給(たま)ひしかば、東宮(とうぐう)怖ぢ恐り給(たま)ひて、「いかゞせんずる」と宣(のたま)はせしかば、冬嗣(ふゆつぐ)「この事(こと)、今日明日既に侍(はべ)るべき事(こと)にこそ。人の力の及ぶべきにあらず。父御門(みかど)の陵に祈り申(まう)し給(たま)ふべきなり」と申(まう)し給(たま)ひしかば、東宮(とうぐう)、日の御装束奉(たてまつ)りて、庭に下りて、遥かに柏原の方を拝し〔て〕、雨雫と泣き愁へ申(まう)させ給(たま)ひしに、俄かに煙世の中に満ちて、夜のごとくになりにしかば、御門(みかど)驚(おどろ)きをのゝき給(たま)ひて御占ありしに、柏原の御祟と
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占ひ申(まう)ししかば、御門(みかど)大きに驚(おどろ)き給(たま)ひて、この事を陵に悔い申(まう)させ給(たま)ひしかば、二日ありて煙やうやう失(う)せにき。 同二年十月(じふぐわつ)二十二日に弘法(こうぼふ)大師(だいし)唐土(もろこし)より帰(かへ)り給(たま)へりき。 東寺の仏法これより伝はれりしなり。 この大師(だいし)あらはに権者とふるまひ給(たま)ひたりき。 御手ならびなく書かせ給(たま)ひしかば、唐土(もろこし)にても、御殿の壁の二間侍(はべ)るなるに、羲之といひし手かきの物を書きたりけるが、年久しくなりて崩れにければ、又(また)改められて後、大師(だいし)に書き給(たま)へと唐土(もろこし)の御門(みかど)申(まう)し給(たま)ひければ、五つの筆を、御口、左右の御足・手にとりて、壁に飛びつきて一度に五行になん書き給(たま)ひける。 この国に帰(かへ)り給(たま)ひて南門の額は書き給(たま)ひしぞかし。 さて又(また)、応天門の額を書かせ給(たま)ひしに、上のまろなる点を忘れ給(たま)ひて、門にうちて後、見つけ給(たま)ひて驚(おどろ)きて、筆をぬらして投げ上げ給(たま)ひしかば、その所につきにき。 見(み)る人、手を打ちあざむ事(こと)限りなく侍(はべ)りき。 たゞ空に仰ぎて文字(もじ)を書き給(たま)ひしかば、その文字(もじ)現はれにき。 これのみならず、事にふれて、かやうの事(こと)多く侍(はべ)れど、たゞ今思(おも)ひ出さるゝ事を片端申(まう)すなり。 十一月(じふいちぐわつ)に中務卿伊与親王(しんわう)、
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御門(みかど)を傾け奉(たてまつ)らんと謀り奉(たてまつ)るといふ事(こと)聞えて、母の夫人ともに河原寺の北なりし所に籠められ給(たま)へりしに、みづから毒を食ひて亡(う)せ給(たま)ひにき。 その親王(しんわう)管絃の方すぐれ給(たま)へりき。 その後、世の中、心地おこりて、大嘗会(だいじやうゑ)もとゞまりにき。 同三年、慈覚大師(だいし)、生年(しやうねん)十五にて比叡の山に登り給(たま)ひて、伝教大師(でんげうだいし)の御弟子になり給(たま)ひしなり。 もとは下野の国の人におはす。 いまだ下野におはせしに、伝教大師(でんげうだいし)を夢に見奉(たてまつ)りて、明け暮れ、いかで大師(だいし)の御もとへ参(まゐ)らんと思(おも)ひ給(たま)ひしに、つひに人に付きて登り給(たま)ひて、山に登りて見奉(たてまつ)り給(たま)ひしに、夢の御姿にいさゝか違ひ給(たま)はざりき。 同四年に、御門(みかど)春の頃より例ならず思(おぼ)されて、怠り給(たま)はざりしかば、御位を御弟の東宮(とうぐう)に譲り奉(たてまつ)りて、太上(だじやう)天皇(てんわう)と申(まう)しき。 御子の高岳親王(しんわう)を東宮(とうぐう)に立(た)て申(まう)し給(たま)ふ。
第五十三代 嵯峨(さが)天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、嵯峨(さが)天皇(てんわう)と申(まう)しき。 桓武天皇(てんわう)の第二の御子。 平城天皇(てんわう)の一つ御腹
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なり。 大同元年(ぐわんねん)五月(ごぐわつ)十八日に東宮(とうぐう)に立(た)ち給(たま)ふ。 御年(おんとし)二十一。 同四年己丑四月(しぐわつ)十三日に位に即(つ)き給(たま)ふ。 御年(おんとし)二十四。 弘仁元年(ぐわんねん)正月(しやうぐわつ)に太上(だじやう)天皇(てんわう)、奈良の都に移り住み給(たま)ふ。 中納言(ちゆうなごん)種継(たねつぐ)の女に、内侍のかみと申(まう)しし人を思(おぼ)し召しき。 その兄の右兵衛督(うひやうゑのかみ)仲成、心おちゐずして、妹の威をかりて様々(さまざま)の横ざまの事をのみせしかども、世の人、憚りをなしてとかく言はざりき。 内侍のかみも心ざましづまり給(たま)はざりし人にて、太上(だじやう)天皇(てんわう)に、事にふれて、位を去り給(たま)ひにし事の口惜しき由(よし)をのみ申(まう)し聞かせしかば、悔しく思(おぼ)す心やうやう出で来給(たま)ひし程(ほど)に、九月(くぐわつ)に内侍のかみ、太上(だじやう)天皇(てんわう)を勧め奉(たてまつ)りて、位に帰(かへ)り即(つ)きて、我、后に立たんといふ事(こと)出で来て、世の中静かならずさゞめきあへりし程(ほど)に、御門(みかど)、内侍のかみの官位を取(と)り給(たま)ひ、仲成を土佐国へ流し遣はす由(よし)、宣旨(せんじ)を下させ給(たま)ひしに、太上(だじやう)天皇(てんわう)大きに怒り給(たま)ひて、十日丁未、畿内の兵を召し集め給(たま)ひしかば、御門(みかど)関を固めしめ給(たま)ひて、田村麻呂(たむらまろ)の中納言(ちゆうなごん)の大将と申(まう)ししを、俄に大納言(だいなごん)になし給(たま)ひてき。 事すでに起りにしかば、かねて将軍の心を勇ま
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させ給(たま)ひしにこそ。 さて十一日に、太上(だじやう)天皇(てんわう)、軍をおこして、内侍のかみと一つ御輿に奉(たてまつ)りて東国(とうごく)の方へ向ひ給(たま)ひしに、大外記上毛頴人奈良より馳せ参(まゐ)りて、「太上(だじやう)天皇(てんわう)すでに諸国の軍を召し集めて東国(とうごく)へ入(い)り給(たま)ひぬ」と御門(みかど)に申(まう)ししかば、大納言(だいなごん)田村麻呂(たむらまろ)、宰相(さいしやう)綿麻呂を遣はしてその道を遮りて、仲成を射殺(ころ)してき。 太上(だじやう)天皇(てんわう)の御方、軍逃げ失(う)せにしかば、太上(だじやう)天皇(てんわう)筋なくて帰(かへ)り給(たま)ひて、御髪おろして入道し給(たま)ひてき。 御年(おんとし)三十七なり。 内侍のかみ、みづから命を失ひてき。 恐しかりし人の心なり。 太上(だじやう)天皇(てんわう)の御子の東宮(とうぐう)を棄て奉(たてまつ)りて、御門(みかど)の御弟の大伴親王(しんわう)とて淳和天皇(てんわう)のおはしましゝを、東宮(とうぐう)に立(た)て申(まう)させ給(たま)ひき。 すべて太上(だじやう)天皇(てんわう)の御方の人、罪を蒙る、多かりき。 同二年正月(しやうぐわつ)七日、初めて青馬を御覧(ごらん)じき。 二十三日に豊楽院に出でさせ給(たま)ひて、弓遊ばして、親王(しんわう)以下射させ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしに、御門(みかど)の御弟の葛井親王(しんわう)はいまだ稚(をさな)くおはして、弓射給(たま)ふうちにも思(おぼ)しよらざりしを、御門(みかど)、たはぶれて「親王(しんわう)稚(をさな)くとも弓矢をとり給(たま)ふべき人なり。射給(たま)へ」と宣(のたま)はせしに、親王(しんわう)立(た)ち走りて射給(たま)ひしに、二つの矢皆(みな)
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的に当たりにき。 生年(しやうねん)十一にぞなり給(たま)ひし。 母方の祖父にて田村麻呂(たむらまろ)大納言(だいなごん)その座に侍(はべ)りて、驚(おどろ)き騒ぎ喜びて、えしづめあへずして座を立(た)ちて、孫の親王(しんわう)をかき抱き奉(たてまつ)りて、舞ひかなでゝ御門(みかど)に申(まう)していはく、「田村麻呂(たむらまろ)、昔(むかし)、多くの軍の将軍として夷を討ち平げ侍(はべ)りしは、たゞ御門(みかど)の御稜威なり。兵の道を習ふといへども、いまだ究めざるところ多し。今、親王(しんわう)の年いとけなくしてかくおはする、田村麻呂(たむらまろ)さらに及び奉(たてまつ)るべからず」と申(まう)しき。 今も昔(むかし)も子孫を思(おも)ふ心は哀(あはれ)に侍(はべ)る事なり。 さて程(ほど)なく、五月(ごぐわつ)二十三日に田村麻呂(たむらまろ)亡(う)せにき。 年五十四になんなりし。容貌(かたち)有様(ありさま)ゆゝしかりし人なり。 丈五尺八寸、胸の厚さ一尺二寸、目は鷹の眼のごとく、鬚は金の糸筋をかけたるがごとし。 身を重くなすときは二百一斤、軽くなす折は六十四斤。 心にまかせて折に従ひしなり。 怒れる折は眼をめぐらせば獣皆(みな)倒れ、笑ふときは、容貌(かたち)なつかしく、稚(をさな)き子も怖ぢ恐れず抱かれき。 たゞ人とは見(み)え侍(はべ)らざりしなり。 同四年正月(しやうぐわつ)に御斎会の内論議は始まりしなり。 今年、冬嗣(ふゆつぐ)、山階寺のうちに南円堂を立(た)て給(たま)ひにき。 その時、藤氏の人僅に三四人
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おはせしを嘆きて、氏の栄を願して建て給(たま)へりしなり。 まことにその験と見(み)え侍(はべ)るめり。 神武天皇(てんわう)より後、御門(みかど)の御後見代々におはすれども、子孫相継ぎて今日〔明日〕までかくおはするは、この藤氏こそはおはすめれ。 六月(ろくぐわつ)一日、官符を下し給(たま)ひて、病人を道の辺に出し棄つる事を止めさせ給(たま)ひき。 「尊きも卑しきも命を惜む心は変る事なきを、世の人、生ける折は苦しめ使ひて、病づきぬればすなはち大路に出す。あつかひ養ふ人さらになければ、つひに飢ゑ死ぬ。ながくこの事を止むべし」と仰(おほ)せ下されしこそ、めでたき功徳と覚(おぼ)え侍(はべ)りしか。 此の頃もやすくありぬべき事なり。 五年の春、伝教大師(でんげうだいし)唐土(もろこし)へ渡り給(たま)ひし折の願を遂げんとて、筑紫へおはして仏を造り経を写し給(たま)ふ。 又(また)、宇佐の宮の神宮寺にて、みづから法華経を講じ給(たま)ひしに、大菩薩託宣し給(たま)ひて、「我久しく法を聞かざりつ。今わが為(ため)に様々(さまざま)の功徳を行ひ給(たま)ふ。いとうれしき事なり。わが持てる衣あり」と宣(のたま)ひて、託宣の人御殿に入(い)りて、紫の七条の御袈裟一帖、紫の衾一領を大師(だいし)に奉(たてまつ)り給(たま)ひき。 禰宜・祝など、「昔(むかし)よりかゝる事(こと)〔を〕、いまだ見聞かず」と
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申(まう)し侍(はべ)りき。 その御袈裟・衾、今に比叡の山にあり。 五月(ごぐわつ)八日、皇子たち源といふ姓を賜(たま)はり給(たま)ひき。 同七年、弘法(こうぼふ)大師(だいし)、入定の所を高野の山に定め給(たま)ひき。 御年(おんとし)四十三。 同十三年六月(ろくぐわつ)四日、伝教大師(でんげうだいし)亡(う)せ給(たま)ひにき。 生年(しやうねん)五十六になんなり給(たま)ひし。 同十四年、御門(みかど)、位を御弟の東宮(とうぐう)に譲り奉(たてまつ)りて、やがてその御子の治部卿親王(しんわう)恒世を東宮(とうぐう)に立(た)て申(まう)し給(たま)ひしを、親王(しんわう)あながちにのがれ申(まう)し給(たま)ひて籠り居て、御使をだに通はし給(たま)はざりしかば、仁明天皇(てんわう)の御子にておはしましゝを東宮(とうぐう)に立(た)て申(まう)し給(たま)ひき。 位をこそ東宮(とうぐう)にておはしませば、限りありて譲り奉(たてまつ)り給(たま)はめ。 わが御子のおはしまさぬにてもなきに、弟の御子を東宮(とうぐう)にさへ立(た)て奉(たてまつ)らんとし給(たま)ひし御心はありがたかりし事なり。
第五十四代 淳和天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、淳和天皇(てんわう)と申(まう)しき。 桓武天皇(てんわう)の第三の御子。 御母(おんはは)、参議百川(ももかは)
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の女、旅子なり。 弘仁元年(ぐわんねん)庚寅九月(くぐわつ)に東宮(とうぐう)に立(た)ち給(たま)ふ。 御年(おんとし)二十五。 平城天皇(てんわう)の御子、高岳親王(しんわう)の御代りなり。 同十四年癸卯四月(しぐわつ)二十八日に位に即(つ)き給(たま)ふ。 御年(おんとし)三十八。 世を知(し)り給(たま)ふ事(こと)十年なり。 天長二年十一月(じふいちぐわつ)四日丙申、御門(みかど)、嵯峨(さが)の法皇(ほふわう)の四十の御賀し給(たま)ひき。 今年、浦嶋の子は帰(かへ)られりしなり。 持たりし玉の箱を開けたりしかば、箱の内より紫の雲、一筋西ざまへまかりて後、いとけなかりける容貌(かたち)、たちまちに翁となりて、はかばかしくあゆみをだにもせぬ程(ほど)になりにき。 雄略天皇(てんわう)の御世に失(う)せて、今年三百四十七年といひしに帰(かへ)りたりしなり。 同四年に智証大師(だいし)生年(しやうねん)十四にて、讃岐の国より上り給(たま)ひて、比叡の山へ登り給(たま)ひき。 母は弘法(こうぼふ)大師(だいし)の御姪なり。 同九年十一月(じふいちぐわつ)十二日に、弘法(こうぼふ)大師(だいし)高雄より高野へ帰(かへ)り居給(たま)ふべき由(よし)、申(まう)し給(たま)ひしかば、太上(だじやう)天皇(てんわう)、弘福寺賜(たま)はせき。 「高野より都に通ひ給(たま)はん道の宿所にし給(たま)へ」とぞ宣(のたま)はせし。 弘福寺は天武天皇(てんわう)の御願なり。 同十年二月(にぐわつ)二十八日に、御門(みかど)、位を御甥の東宮(とうぐう)に譲り申(まう)し給(たま)ひて、西院に移りおはしましき。
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第五十五代 仁明天皇(てんわう)
次(つぎ)の御門(みかど)、仁明天皇(てんわう)と申(まう)しき。 嵯峨(さが)天皇(てんわう)の第二の御子。 御母(おんはは)、太皇大后橘嘉智子なり。 弘仁十四年癸卯四月(しぐわつ)二十五日、東宮(とうぐう)に立(た)ち給(たま)ふ。 御年(おんとし)十五。 天長十年癸丑三月(さんぐわつ)六日、位に即(つ)き給(たま)ふ。 御年(おんとし)二十四。 世を知(し)り給(たま)ふ事(こと)、十七年。 御才賢く、管絃の方もいみじくおはしましき。 すべて御身の能、古への御門(みかど)にもすぐれ給(たま)ひて、医師の方などさへ並び奉(たてまつ)る人なかりしなり。 今年、慈覚大師(だいし)、如法経を書き給(たま)ひき。 承和元年(ぐわんねん)正月(しやうぐわつ)二日、淳和院へ朝覲〔の〕行幸侍(はべ)りき。 弘法(こうぼふ)大師(だいし)の申(まう)し行ひ給(たま)ひしによりて、今年より後七日の御修法始まりしなり。 三月(さんぐわつ)二十一日に、弘法(こうぼふ)大師(だいし)、定に入(い)り給(たま)ひにき。 同四年六月(ろくぐわつ)十七日、慈覚大師(だいし)、唐土(もろこし)へ渡り給(たま)ひき。 同五年十二月(じふにぐわつ)十九日に仏名は始まりしなり。 この月に、小野篁(たかむら)を隠岐国へ流し遣はしき。 其の故は、度々唐土(もろこし)へ遣はさんとせしかども、身に病侍(はべ)る由(よし)など申(まう)してまからざりしにあはせて、唐土(もろこし)へ遣はしける文の言葉
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の続きにひかされて、世の為(ため)に良からぬ事どもを書きたりけるを、嵯峨(さが)の法皇(ほふわう)御覧(ごらん)じて、大きに怒り給(たま)ひて流し遣はさせ給(たま)ひしなり。 同六年正月(しやうぐわつ)にぞ篁(たかむら)は隠岐へまかりし。
わたのはら八十島(やそしま)かけてこぎいでぬと人には告げよ海士(あま)のつり舟 W
とは、この時に詠み侍(はべ)りしなり。 同七年四月(しぐわつ)八日、初めて潅仏は行はれしなり。 六月(ろくぐわつ)に小野篁(たかむら)召し返されて、いまだ位もなかりしかば、黄なる上の衣を着てぞ京へは入(い)れりし。 同九年七月十五日に、嵯峨(さが)法皇(ほふわう)亡(う)せさせ給(たま)ひにき。 当代の御父におはします。 十七日、平城天皇(てんわう)の御子に阿保親王(しんわう)と申(まう)しし人、嵯峨(さが)の大后の御許へ御消息を奉(たてまつ)りて申(まう)し給(たま)ふやう、「東宮(とうぐう)の帯刀健岑と申(まう)す者、詣で来て、『太上法皇(ほふわう)すでに亡(う)せさせ給(たま)ひぬ。世の中の乱れ出で来侍(はべ)りなんず。東宮(とうぐう)を東国(とうごく)へ渡し奉(たてまつ)らん』と申(まう)す」由(よし)を告げ申(まう)し給(たま)ひしかば、忠仁公の、中納言(ちゆうなごん)と申(まう)しておはせしを、后呼び申(まう)させ給(たま)ひて、阿保親王(しんわう)の文を御門(みかど)に奉(たてまつ)り給(たま)ひき。 この事(こと)、建岑(こはみね)と但馬権守橘逸勢と謀れりける事にて、東宮(とうぐう)は知(し)り給(たま)はざりけり。
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二十四日に事顕れて、二十五日に但馬権守を伊豆国へ遣はし、建岑(こはみね)を隠岐へ遣はす。 又(また)、中納言(ちゆうなごん)吉野、宰相(さいしやう)秋津など流されにき。 此の但馬権守と申(まう)すは、世の人、きせいとぞ申(まう)す。 神になりておはすめり。 東宮(とうぐう)恐れ怖ぢ給(たま)ひて「太子(たいし)を逃れん」と申(まう)し給(たま)ひしかば、御門(みかど)「この事は建岑(こはみね)ひとりが思(おも)ひ立(た)ちつる事なり。東宮(とうぐう)の御誤りにあらず。とかく思(おぼ)す事(こと)なかれ」とて、たゞもとのやうにておはしまさせき。 東宮(とうぐう)と申(まう)すは淳和天皇(てんわう)の御子なり。 御門(みかど)には御従弟にておはしましゝなり。 今年、十六にぞなり給(たま)ひし。 八月(はちぐわつ)三日、御門(みかど)、冷泉院に行幸ありて涼ませ給(たま)ひしに、東宮(とうぐう)もやがて参(まゐ)らせ給(たま)ひたりしに、何方よりともなくて文を投げ入(い)れたりき。 建岑(こはみね)が東宮(とうぐう)を教へ奉(たてまつ)りたることゞもありしかば、俄に東宮(とうぐう)の宮司、帯刀・御許人など百余人捕へられて、東宮(とうぐう)をば淳和院へ帰し奉(たてまつ)りて、四日、当代の第一(だいいち)の親王(しんわう)を東宮(とうぐう)に立(た)て申(まう)し給(たま)ひき。 文徳天皇(てんわう)これにおはします。 嘉祥元年(ぐわんねん)三月(さんぐわつ)二十六日に慈覚大師(だいし)も唐土(もろこし)より帰(かへ)り給(たま)ふ。 唐土(もろこし)におはせし間、悪王に遭ひ奉(たてまつ)りて、悲しき目どもを見給(たま)へりしなり。 仏、経を焼き失ひ、
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尼法師を還俗せさせしめ給(たま)ひし折に会ひて、この大師(だいし)も男になりて、頭を包みておはせしなり。 同三年三月(さんぐわつ)に、御門(みかど)御病重くならせ給(たま)ひて、御髪下して中一日ありて、亡(う)せおはしましてきとぞ。
さてこの申(まう)す事(こと)は、見聞きし事(こと)ばかりなれば、大切なることも多く落ち侍(はべ)りぬらん。 これはたゞ大様の有様(ありさま)を思(おぼ)し合はせさせんと思(おも)ひ給(たま)ふるばかりなり。 この申(まう)し続けつる事ども、暁の眠りの程(ほど)の夢に何処か違ひ侍(はべ)りたる。 いづらは愛でたかりし世の中、いづらは悪かりし事。 たとひ桓武天皇(てんわう)の御世より生ける人ありとも、我身にて思(おも)ふに、長き夢見たる人にてぞ侍(はべ)らん。 ましてこの頃の人、命長からん定、七八十なり。 とてもかくてもありぬべし。 おほかた世の中の減劫の末、仏の滅後に小国の中に生れて、見聞く事の悪からんこそまことの理なれ』とて、もとの道方(みちさま)へ帰(かへ)りまかりにき。 今、かく語り申(まう)すも、なほ仙人の申(まう)しし事(こと)、十が一をぞ申(まう)すらん。 その中になほ僻言多く、世の人の皆(みな)知(し)り、をこがましきことゞもにてこそ侍(はべ)らめ。 いたづらに寝を寝んよりは、御目をも覚し奉(たてまつ)らんとて、あさましかりし事(こと)の
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有様(ありさま)を語り申(まう)すなり。 御心の外に散らし給(たま)ふな」とて、夜明け方になりしかば、又(また)所作などして、「京へ必ずおはせ」と契りてまかり出でにき。 その後、行き方を知らず。 尋(たづ)ね来たる事(こと)もなし。 本意なき事(こと)、限りなし。 心より外にはと言ひしかども、此の事を消ちて止まん、口惜しくて書きつけ侍(はべ)るなり。 世あがり、才かしこかりし人の大鏡などいひて書き置きたるには似ずして、言葉卑しく、僻言多うして見どころなく、文字(もじ)落ち散りて、見ん人に謗り欺かれん事(こと)、疑ひなかるべし。 紫式部が源氏など書きて侍(はべ)るさまは、たゞ人の為業とやは見ゆる。 されどもその時には日本〔書〕紀の御局などつけて笑ひけりとこそは、やがて〔紫〕式部が日記には書きて侍(はべ)るめれ。 ましてこの世の人の口、かねて推し量られてかたはらいたく覚ゆれども、人の為(ため)とも思(おも)ひ侍(はべ)らず。 たゞ若くより、かやうの事の心にしみならひて、行ひのひまにも捨てがたければ、我ひとり見んとて書きつけ侍(はべ)りぬ。 大鏡の巻も凡夫の為業なれば、仏の大円鏡智の鏡にはよも侍(はべ)らじ。 これも、もし大鏡に思(おも)ひよそへば、そのかたち正しく見(み)えずとも、などか
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水鏡の程(ほど)は侍(はべ)らざらんとてなん。
水鏡巻之下 終