神皇正統記評釈

凡例
底本:「神皇正統記評釈」 
大正十四年二月十五日発行
昭和十五年八月二十日十七版発行 定価金一円六十銭
著者 大町芳衛
発行所 明治書院

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神皇正統記評釈

M001
目次
巻一
序論
天神七代
天照大神
天忍穂耳尊
彦々火瓊々杵尊
彦火々出見尊
■■草葺不合尊
巻二
神武天皇
綏靖天皇
安寧天皇
懿徳天皇
孝昭天皇
孝安天皇
孝霊天皇
孝元不皇
開化天皇
崇神天皇
垂仁天皇
景行天皇
成務天皇
仲哀天皇
神功皇后
応神天皇
仁徳天皇
履中天皇
反正天皇
允恭天皇
M002
巻三
安康天皇
雄略天皇
清寧天皇
顕宗天皇
仁賢天皇
武烈天皇
継体天皇
安閑天皇
宣化天皇
欽明天皇
敏達天皇
用明天皇
崇峻天皇
推古天皇
舒明天皇
皇極天皇
孝徳天皇
斉明天皇
天智天皇
天武天皇
持統天皇
文武天皇
元明天皇
元正天皇
聖武天皇
孝謙天皇
淳仁天皇
称徳天皇
光仁天皇
桓武天皇
M003
巻四
平城天皇
嵯峨天皇
淳和天皇
仁明天皇
文徳天皇
清和天皇
陽成天皇
光孝天皇
宇多天皇
醍醐天皇
朱雀天皇
村上天皇
冷泉天皇
円融天皇
花山天皇
一条天皇
三条天皇
後一条天皇
後朱雀天皇
後冷泉天皇
巻五
後三条天皇
白河天皇
堀河天皇
鳥羽天皇
崇徳天皇
近衛天皇
後白河天皇
二条天皇
六条天皇
高倉天皇
M004
安徳天皇
後鳥羽天皇
土御門天皇
順徳天皇
仲恭天皇
後堀河天皇
四条天皇
後嵯峨天皇
後深草天皇
亀山天皇
後宇多天皇
巻六
伏見天皇
後伏見天皇
後二条天皇
花園天皇
後醍醐天皇
後村上天皇

P001
神皇正統記評釈
文学士 大町芳衛著
巻一
大日本者神国他。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝へ給ふ。我国のみ此事あり。異朝には其たぐひなし。此故に神国と云ふ也。神代には豊葦原千五百秋瑞穂国と云ふ。天地開闢の初より此名あり。天祖国常立尊、陽神陰神にさづけ給し勅にきこえたり。天照太神、天孫の尊に譲まし<しにも、此名あれば根本の号なりとはしりぬべし。又は大八州国と云ふ。是は陽神陰神、此国を生給しが、八の嶋なりしによて名けられたり。又は耶麻土と云ふ。是は大八州の中国の名也。第八にあたるたび、天御虚空豊秋津根別と云神を生給ふ。これを
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大日本豊秋津州となづく。今は四十八け国にわかてり。中州たりし上に、神武天皇東征より代々の皇都也。よりて其名をとりて、余の七州をもすべて耶麻土と云なるべし。唐にも、周の国より出たりしかば、天下を周と云、漢の地よりおこりたれば、海内を漢と名づけしが如し。
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耶麻土と云へることは山迹と云也。昔天地わかれて泥のうるほひいまだかわかず、山をのみ往来として其跡おほかりければ山迹と云ふ。或古語に居住を止と云ふ。山に居住せしによりて山止なりとも云へり。大日本とも大倭とも書ことは、此国に漢字伝て後、国の名をかくに字をば大日本と定てしかも耶麻土とよませたるなり。大日■のしろしめす御国なれば、其義をもとれるか、はた日の出る所にちかければしかいへるか。義はかゝれども字のまゝ日のもととはよまず。耶麻土と訓ぜり。我国の漢字を訓ずる
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こと多く如此。おのづから日の本などいへるは文字によれるなり。国の名とせるにあらず。〔裏書云。日のもととよめる哥、万葉云ふ。いざこどもはや日のもとへおほとものみつのはま松まちこひぬらん〕又古より大日本とも若は大の字をくはへず、日本ともかけり。州の名を大日本豊秋津といふ。懿徳・孝霊・孝元等の御謚みな大日本の字あり。垂仁天皇の御女大日本姫と云ふ。これみな大の字あり。天神饒速日尊、天の磐船にのり大虚をかけりて「虚空見日本の国」との給。神武の御名神日本磐余彦と号したてまつる。孝安を日本足、開化を稚日本とも号、景行天皇の御子小碓の皇子を日本武の尊となづけ奉る。是は大を加ざるなり。彼此同くやまととよませたれど大日■の義をとらば、おほやまとと読てもかなふべきか。其後漢土より字書を伝へける時、倭と書て此国の名に用たるを、即領納して、又此字を耶麻土と訓じて、日本の如に大を加へても又のぞきても同訓に通用しけり。
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漢土より倭と名けける事は、昔此国の人はじめて彼土にいたれりしに、「汝が国の名をばいかゞ云ふ。」と問けるを、「吾国は」と云をきゝて、即倭と名づけたりとみゆ。漢書に、「楽浪の〈 彼土の東北に楽浪郡あり 〉海中に倭人あり。百余国をわかてり。」と云ふ。もし前漢の時すでに通けるか〈 一書には、秦の代よりすでに通ともみゆ。下にしるせり 〉。後漢書に、「大倭王は耶麻堆に居す。」とみえたり〈 耶麻堆は山となり 〉。これは若すでに此国の使人本国の例により大倭と称するによりてかくしるせるか〈 神功皇后の新羅・百済・高麗をしたがへ給しは後漢の末ざまにあたれり。すなはち漢地にも通ぜられたりと見たれば、文字も定てつたはれるか。一説には秦の時より書籍を伝とも云 〉。大倭と云ことは異朝にも領納して書伝にのせたれば此国にのみほめて称するにあらず〈 異朝に大漢・大唐など云は大なりと称するこゝろなり 〉。唐書「高宗咸亨年中に倭国の使始てあらためて日本と号す。其国東にあり。日の出所に近を云ふ。」と載たり。此事我国の古記にはたしかならず。推古天皇の御時、もろこしの隋朝より使ありて書をおくれりしに、倭皇とかく。聖徳太子みづから筆を取りて、返牒
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を書給しには、「東天皇敬白西皇帝。」とありき。かの国よりは倭と書たれど、返牒には日本とも倭とものせられず。是より上代には牒ありともみえざる也。唐の咸亨の比は天智の御代にあたりたれば、実には件の比より日本と書て送られけるにや。
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又此国をば秋津州といふ。神武天皇国のかたちをめぐらしのぞみ給て、「蜻蛉の■■の如くあるかな。」との給しより、此名ありきとぞ。しかれど、神代に豊秋津根と云名あれば、神武にはじめざるにや。此外もあまた名あり。細戈の千足国とも、磯輪上の秀真の国とも、玉垣の内国ともいへり。又扶桑国と云名もあるか。「東海の中に扶桑の木あり。日の出所なり。」とみえたり。日本も東にあれば、よそへていへるか。此国に彼木ありと云事
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きこえねば、たしかなる名にはあらざるべし。
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凡内典の説に須弥と云山あり。此山をめぐりて七の金山あり。其中間は皆香水海なり。金山の外に四大海あり。此海中に四大州あり。州ごとに又二の中州あり。南州をば贍部と云〈 又閻浮提云ふ。同ことばの転也 〉。是は樹の名なり。南州の中心に阿耨達と云山あり。山頂に池あり〈 阿耨達こゝには無熱と云ふ。外書に■崘といへるは即この山なり 〉。池の傍に此樹あり。■七由旬高百由旬なり〈 一由旬とは四十里也。六尺を一歩とす。三百六十歩を一里とす。この里をもちて由旬をはかるべし 〉。此樹、州の中心にありて最も高し。よりて州の名とす。阿耨達山の南は大雪山、北は■嶺なり。■嶺の北は胡国、雪山の南は五天竺、東北によりては震旦国、西北にあたりては波斯国也。此贍部州は縱横七千由旬、里をもちてかぞふれば二十八万里。東海より西海にいたるまで九万里。南海より北海にいたるまで又九万里。天竺は正中によれり。よて贍部の中国とす也。地のめぐり又九万里。震旦ひろしと云へども五天
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にならぶれば一辺の小国なり。日本は彼土をはなれて海中にあり。北嶺の伝教大師、南都の護命僧正は中州也としるされたり。しからば南州と東州との中なる遮摩羅と云州なるべきにや。華厳経に「東北の海中に山あり。金剛山と云ふ。」とあるは大倭の金剛山の事也とぞ。されば此国は天竺よりも震旦よりも東北の大海の中にあり。別州にして神明の皇統を伝へ給へる国也。
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同世界の中なれば、天地開闢の初はいづくもかはるべきならねど、三国の説各ことなり。天竺の説には、世の始りを劫初と云ふ〈 劫に成・住・壊・空の四あり。各二十の■減あり。一■一減を一小劫と云ふ。二十の■減を一中劫と云ふ。四十劫を合て一大劫と云 〉。光音と云ふ天衆、空中に金色
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の雲をおこし、梵天に偏布す。即大雨をふらす。風輪の上につもりて水輪となる。増長して天上にいたれり。又大風ありて沫を吹立て空中になげおく。即大梵天の宮殿となる。其水次第に退下て欲界の諸宮殿乃至須弥山・四大州・鉄囲山をなす。かくて万億の世界同時になる。是を成劫と云也〈 此万億の世界を三千大千世界といふなり 〉。光音の天衆下生して次第に住す。是を住劫と云ふ。
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此住劫の間に二十の増減あるべしとぞ。其初には人の身光明とほく照して飛行自在也。歓喜を以食とす。男女の相なし。後に地より甘泉涌出す。味酥密のごとし〈 或は地味とも云 〉。これをなめて味着を生ず。仍神通を失ひ、光明もきえて、世間大にくらくなる。衆生の報しからしめければ、黒風海を吹て日・月二輪を漂出す。須弥の半腹におきて四天下を照さしむ。是より始て昼夜・晦朔・春秋あり。地味に耽しより顔色もかじけおとろへき。地味又うせて林藤と云物あり〈 或は地皮とも云 〉。衆生又食とす。林藤又うせて自然の■稲あり。諸の美味をそなへたり。朝にかれば夕に熟す。此稲米を食せ
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しによりて、身に残穢いできぬ。此故に始て二道あり。男女の相各別にして、つひに婬欲のわざをなす。夫婦となづけ舎宅を構て、共に住き。光音の諸天、後に下生する者女人の胎中にいりて胎生の衆生となる。其後■稲生ぜず。衆生うれへなげきて、各境をわかち、田種を施しうゑて食とす。他人の田種をさへうばひぬすむ者出来て互にうちあらそふ。是を決する人なかりしかば、衆共にはからひて一人の平等王を立、名て刹帝利と云〈 田主と云心なり 〉。
其始の王を民主王と号しき。十善の正法をおこなひて国ををさめしかば、人民是を敬愛す。閻浮提の天下、豊楽安穏にして病患及び大寒熱あることなし。寿命も極て久无量歳なりき。民主の子孫相続して久く君たりしが、
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漸正法も衰しより寿命も減じて八万四千歳にいたる。身のたけ八丈なり。其間に王ありて転輪の果報を具足せり。先づ天より金輪宝飛降て王の前に現在す。王出で給ことあれば、此輪、転行してもろ<の小王みなむかへて拝す。あへて違者なし。即四大州に主たり。又象・馬・珠・玉女・居士・主兵等の宝あり。此七宝成就するを金輪王となづく。次々に銀・銅・鉄の転輪王あり。福力不同によりて果報も次第に劣れる也。寿量も百年に一年を減じ、身のたけも同く一尺を減てけり。百二十歳にあたれりし時、釈迦仏出で給〈 或は百才時とも云ふ。是よりさきに三仏出で給き 〉。
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十歳に至らん比ほひに小三災と云ことあるべし。人種ほと<尽てたゞ一万人をあます。その人善を行て、又寿命も増し、果報もすゝみて二万歳にいたらん時、鉄輪王出て南一州を領すべし。四万歳の時、銅輪王出て東・南二州を領す。六万歳の時、銀輪王出て東・西・南三州を領し、八万四千歳の時金輪王出て四天下を統領す。其報上に云るが如し。かの時又減にむかひて弥勒仏出給べし〈 八万才の時とも云 〉。此後十八けの減増あるべし。かくて大火災と云ことおこりて、色界の初禅梵天までやけぬ。三千大千世界同時に滅尽する、これを壊劫と云ふ。かくて世界虚空黒穴のごとくなるを空劫と云ふ。かくの如すること七けの火災をへて大水災あり。このたびは第二禅まで壊す。七々の火・七々の水災をへて大風災ありて第三禅まで壊す。是を大の三災と云也。第四禅已上は内外の過患あることなし。此四禅の中に五天あり。四は凡夫の住所、一は浄居天とて証果の聖者の住処也。此浄居をすぎて摩醯首羅天王の宮殿あり〈 大自在天とも云 〉。色界の最頂に居して大千世界を統領す。其天のひろさ彼世界にわたれり〈 下天も広狭に不同あり。初禅の梵天は一四天下のひろさなり 〉。此上に無色界の天あり。又四地をわかてりといへり。
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此等の天は小大の災にあはずと云ども、業力に際限ありて報尽なば、退没すべしと見えたり。
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震旦はことに書契をこととする国なれども、世界建立を云る事たしかならず。儒書には伏犠氏と云ふ王よりあなたをば云ず。但異書の説に、混沌未分のかたち、天・地・人の初を云るは、神代の起に相似たり。或は又盤古と云王あり。「目は日月となり、毛髪は草木となる。」と云る事もあり。それよりしもつかた、天皇・地皇・人皇・五龍等の諸氏うちつゞきて多くの王あり。其間数万歳をへたりと云ふ。
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我朝の初は天神の種をうけて世界を建立するすがたは、天竺の説に似たる方もあるにや。されどこれは天祖より以来継体たがはずして、たゞ一種ましますこと天竺にも其類なし。彼国の初の民主王も衆のためにえらびたてられしより相続せり。又世くだりては、その種姓もおほくほろぼされて、勢力あれば、下劣の種も国主となり、あまさへ五天竺を統領するやからも有き。震旦又ことさらみだりがはしき国なり。昔世すなほに道ただしかりし時も、賢をえらびてさづくるあとありしにより、一種をさだむる事なし。乱世になるまゝに、力をもちて国をあらそふ。かゝれば民間より出でて位に居たるもあり。戎狄より起て国を奪へるもあり。或は累世の臣として其君をしのぎ、つひに譲をえたるもあり。伏犠氏の後、天子の氏姓をかへたる事三十六。乱のはなはだしさ、
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云にたらざる者哉。
唯我国のみ天地ひらけし初より今の世の今日に至まで、日嗣をうけ給ことよこしまならず。一種姓の中におきてもおのづから傍より伝へ給しすら猶正にかへる道ありてぞたもちまし<ける。是しかしながら神明の御誓あらたにして余国にことなるべきいはれなり。抑、神道のことはたやすくあらはさずと云ことあれば、根元をしらざれば猥しき始ともなりぬべし。其つひえをすくはんために聊勒し侍り。神代より正理にてうけ伝へるいはれを述ことを志て、常に聞ゆる事をばのせず。しかれば神皇の正統記
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とや名け侍べき。
夫天地未分ざりし時、混沌として、まろがれること■子の如し。くゝもりて牙ふくめりき。これ陰陽の元初未分の一気也。其気始てわかれてきよくあきらかなるは、たなびきて天と成り、おもくにごれるはつゞいて地となる。其中より一物出たり。かたち葦牙の如し。即化して神となりぬ。国常立尊
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と申。又は天の御中主の神とも号し奉つる。此神に木・火・土・金・水の五行の徳まします。先水徳の神にあらはれ給を国狭槌尊と云ふ。次に火徳の神を豊斟渟尊と云ふ。天の道ひとりなす。ゆゑに純男にてます〈 純男といへどもその相ありともさだめがたし 〉。次木徳の神を泥土〈 蒲鑒反 〉瓊尊・沙土瓊尊と云ふ。次金徳の神を大戸之道尊・大苫辺尊と云ふ。次に土徳の神を面足尊・惶根の尊と云ふ。天地の道相交て、各陰陽のかたちあり。しかれどそのふるまひなしと云り。此諸神実には国常立の一神にましますなるべし。五行の徳各神とあらはれ給。是を六代ともかぞふる也。二世三世の次第を立べきにあらざるにや。次に化生し給へる神を伊弉諾尊・伊弉冊尊と申す。是は正く陰陽の二にわかれて造化の元となり給ふ。上の五行はひとつづつの徳也。此五徳をあはせて万物を生ずるはじめとす。
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こゝに天祖国常立尊、伊弉諾・伊弉冊の二神に勅しての給はく、「豊葦原の千五百秋の瑞穂の地あり。汝往てしらすべし。」とて、即天瓊矛をさづけ給。此矛又は天の逆戈とも、天魔返ほこともいへり。二神このほこをさづかりて、天の浮橋の上にたゝずみて、矛をさしおろしてかきさぐり給しかば、滄海のみありき。そのほこのさきよりしたゝりおつる潮こりて一の嶋となる。これを■馭盧嶋と云ふ。此名に付て秘説あり。神代、梵語にかよへるか。其所もあきらかに知人なし。大日本の国宝山なりと云〈 口伝あり 〉。二神此嶋に降居て、即国の中の柱を
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たて、八尋の殿を化作してともにすみ給。さて陰陽和合して夫婦の道あり。此矛は伝、天孫したがへてあまくだり給へりとも云ふ。又垂仁天皇の御宇に、大和姫の皇女、天照太神の御をしへのまゝに国々をめぐり、伊勢国に宮所をもとめ給し時、大田の命と云神まゐりあひて、五十鈴の河上に霊物をまぼりおける所をしめし申しに、かの天の逆矛・五十鈴・天宮の図形ありき。大和姫の命よろこびて、其所をさだめて、神宮をたてらる。霊物は五十鈴の宮の酒殿にをさめられきとも、又、滝祭の神と申は龍神なり、その神あづかりて地中にをさめたりとも云ふ。一には大和の龍田の神はこの滝祭と同体にます、此神のあづかり給へる也、よりて天柱国柱と云ふ御名ありとも云ふ。昔■馭盧嶋に持くだり給しことはあきらか也。世に伝と云事はおぼつかなし。天孫のしたがへ給ならば、神代より三種の神器のごとく伝へ給べし。さしはなれて、五十鈴河上に有けんもおぼつかなし。但天孫も玉矛者みづからしたがへ給と云事見たり〈 古語拾遺説なり 〉。しかれど矛も大汝の神のたてまつらるゝ、国をたひらげし矛もあれば、いづれと云事をしりがたし。宝山にとゞまりて不動のしるしとなりけんことや正説なるべからん。龍田も宝山ちかき所なれば、龍神
P027
を天柱国柱といへるも、深秘の心あるべきにや〈 凡神書にさま<”の異説あり 〉。日本紀・旧事本紀・古語拾遺等にのせざらん事は末学の輩ひとへに信用しがたかるべし。彼書の中猶一決せざること多し。況異書におきては正とすべからず。
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かくて、此二神相はからひて八の嶋をうみ給ふ。先、淡路の州をうみます。淡路穂之狭別と云ふ。次、伊与の二名の州をうみます。一身に四面あり。一を愛比売と云、これは伊与也。二を飯依比売と云、是は讚岐也。三を大宜都比売と云、これは阿波也。四を速依別と云、是は土左也。次、筑紫の州をうみます。又一身に四面あり。一を白日の別と云、是は筑紫也。後に筑前・筑後と云ふ。二を豊日別と云、これは豊国
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也。後に豊前・豊後と云ふ。三を昼日別と云、是は肥の国也。後に肥前・肥後と云ふ。四を豊久士比泥別と云、是は日向也。後に日向・大隅・薩摩と云〈 筑紫・豊国・肥の国・日向といへるも、二神の御代の始の名には非る歟 〉。次、壱岐の国をうみます。天比登都柱と云ふ。次、対馬の州をうみます。天之狭手依比売と云ふ。次、隠岐の州をうみます。天之忍許呂別と云ふ。次、佐渡の州を生ます。建日別と云ふ。次、大日本豊秋津州をうみます。天御虚空豊秋津根別と云ふ。すべて是を大八州と云也。此外あまたの嶋を生給。後に海山の神、木のおや、草のおやまで悉うみましてけり。何れも神にませば、生給へる神の州をも山をもつくり給へるか。はた州山を生給に神のあらはれましけるか、神世のわざなれば、まことに難測。
二神又はからひてのたまはく、「我すでに大八州の国および山川草木をうめり。いかでか
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あめの下のきみたるものをうまざらむや。」とてまづ日神を生ます。此みこひかりうるはしくして国の内にてりとほる。二神よろこびて天におくりあげて、天上の事をさづけ給。此時天地あひさることとほからず。天のみはしらをもてあげ給。これを大日■の尊と申〈 ■字は霊と通ずべきなり。陰気を霊と云とも云へり。女神にましませば自ら相叶にや 〉。又天照太神とも申。女神にてまします也。次、月神を生ます。其光日につげり。天にのぼせて夜の政をさづけ給。次に、蛭子を生ます。みとせになるまで脚たゝず。天の磐樟船にのせて風のまゝはなちすつ。次、素戔烏尊を生ます。いさみたけく不忍にして父母の御心にかなはず。「根の国にいね。」との給ふ。この三柱は男神にてまします。よりて一女三男と申也。すべてあらゆる神みな二神の所生にましませど、国の主たるべしとて生給しかば、ことさらに此四神を申伝けるにこそ。其後火神軻倶突智を生まし<し時、陰神やかれて神退給にき。陽神うらみいかりて、火神を三段にきる。その三段おの<神となる。血のしたゝりもそゝいで神となれり。経津主の神〈 斎主の神とも申。今の■取の神 〉健甕槌神〈 武雷の神とも申。今の鹿嶋の神 〉の祖也。陽神猶したひて黄泉までおはしましてさまざまのちかひありき。陰神うらみて
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「此国の人を一日に千頭ころすべし。」との給ければ、陽神は「千五百頭を生べし。」との給けり。よりて百姓をば天の益人とも云ふ。死るものよりも生ずるものおほき也。陽神かへり給て、日向の小戸の河檍が原と云所にてみそぎし給。この時あまたの神化生し玉へり。日月神もこゝにて生給と云説あり。伊弉諾尊神功すでにをはりければ、天上にのぼり、天祖に報命申て、即天にとゞまり給けりとぞ。或説に伊弉諾・伊弉冊は梵語なり、伊舎那天・伊舎那后なりと云ふ。
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○地神第一代、大日■尊。是を天照太神と申。又は日神とも皇祖とも申也。此神の生給こと三の説あり。一には伊弉諾・伊弉冊尊あひ計て、天下の主をうまざらんやとて、先、日神をうみ、次に、月神、次、蛭子、次、素戔烏尊を生給といへり。又は伊弉諾の尊、左御手に白銅の鏡をとりて大日■の尊を化生し、右御手にとりて月弓の尊を生、御首をめぐらしてかへりみ給しあひだに、素戔烏尊を生ともいへり。又伊弉諾尊日向の小戸の川にてみそぎし給し時、左の御眼をあらひて天照太神を化生し、右の御眼をあらひて月読の尊を生、御鼻を洗て素戔烏尊を生じ給とも云ふ。日月神の御名も三あり、化生の所も三あれば、凡慮はかりがたし。又おはします所も、一には高天の原と云、二には日の小宮と云、三には我日本国これ也。八咫の御鏡をとらせまし<て、「われをみるが如くに
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せよ。」と勅し給けること、和光の御誓もあらはれて、ことさらに深道あるべければ、三所に勝劣の義をば存ずべからざるにや。
爰、素戔烏尊、父母二神にやらはれて根国にくだり給へりしが、天上にまうでて姉の尊にみえたてまつりて、「ひたぶるにいなん。」と申給ければ、「ゆるしつ。」との給。よりて天上にのぼります。大うみとゞろき、山をかなりほえき。此神の性たけきがしからしむるになむ。天照太神おどろきまし<て、兵のそなへを
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して待給。かの尊黒心なきよしをおこたり給ふ。「さらば誓約をなして、きよきか、きたなきかをしるべし。誓約の中に女を生ぜば、きたなき心なるべし。男を生ぜば、きよき心ならん。」とて、素戔烏尊のたてまつられける八坂瓊の玉をとり給へりしかば、其玉に感じて男神化生し給。すさのをの尊悦て、「まさやあれかちぬ。」との給ける。よりて御名を正哉吾勝々の速日天の忍穂耳の尊と申〈 これは古語拾遺の説 〉。又の説には、素戔烏尊、天照太神の御くびにかけ給へる御統の瓊玉をこひとりて、天の真名井にふりすゝぎ、これをかみ給しかば、先吾勝の尊うまれまします。其後猶四はしらの男神生給。「物のさねわが物なれば我子なり。」とて天照太神の御子になし給といへり〈 これは日本紀の一説 〉。此吾勝尊をば太神めぐしとおぼして、つねに御わきもとにすゑ給しかば、腋子と云ふ。今の世にをさなき子をわかこと云はひが事也。
P035
かくて、すさのをの尊なほ天上にましけるが、さま<”のとがををかし給き。天照太神いかりて、天の石窟にこもり給。国のうちとこやみになりて、昼夜のわきまへなかりき。もろ<の神達うれへなげき給。其時諸神の上首にて高皇産霊尊と云ふ神まし<き。昔、天御中主の尊、みはしらの御子おはします。長を高皇産霊とも云、次をば神皇産霊、次を津速産霊と云とみえたり。陰陽二神こそはじめて諸神を生じ給しに、直に天御中主の御子と云ことおぼつかなし。
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〈 此みはしらを天御中主の御こと云事は日本紀にはみえず。古語拾遺にあり 〉。此神、天のやすかはのほとりにして、八百万の神をつどへて相議し給。其御子に思兼と云神のたばかりにより、石凝姥と云神をして日神の御形の鏡を鋳せしむ。そのはじめなりたりし鏡、諸神の心にあはず〈 紀伊国日前の神にます 〉。次に鋳給へる鏡うるはしくまし<ければ、諸神悦あがめ給〈 初は皇居にまし<き。今は伊勢国の五十鈴の宮にいつかれ給、これなり 〉。又天の明玉の神をして、八坂瓊の玉をつくらしめ、天の日鷲の神をして、青幣白幣をつくらしめ、手置帆負・彦狭知の二神をして、大峡小峡の材をきりて瑞の殿をつくらしむ〈 このほかくさ<”あれどしるさず 〉。其物すでにそなはりにしかば、天の香山の五百箇の真賢木をねこじにして、上枝には八坂瓊の玉をとりかけ、中枝には八咫の鏡をとりかけ、下枝には青和幣・白和幣をとりかけ、天の太玉の命〈 高皇産霊神の子なり 〉をしてさゝげもたらしむ。天の児屋の命〈 津速産霊の子、或は孫とも。興台産霊の神の子也 〉をして祈祷せしむ。天の鈿目の命、真辟の葛をかづらにし、蘿葛を手襁にし、竹の葉、飫■木の葉を手草にし、差鐸の矛をもちて、石窟の前にして俳優をして、相ともにうたひまふ。又庭燎をあきらかにし、常世の長鳴鳥をつどへて、たがひにながなきせしむ〈 これはみな神楽の起なり 〉。天照太神きこしめして、われこのごろ石窟にかくれをり。葦原の中国はとこやみならん。
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いかぞ、天の鈿女の命かくゑらぐするやとおぼして、御手をもてほそめにあけてみ給。この時に、天手力雄の命と云神〈 思兼の神の子 〉磐戸のわきに立給しが、其戸をひきあけて新殿にうつしたてまつる。中臣の神〈 天児屋命なり 〉忌部の神〈 天の太玉の命也 〉しりくへなはを〈 日本紀には端出之縄とかけり。注には左縄の端出せると云ふ。古語拾遺には日御縄とかく。これ日影の像なりといふ 〉ひきめぐらして「なかへりましそ。」と申。上天はじめてはれて、もろ<ともに相見。面みなあきらかにしろし。手をのべて哥舞て、「あはれ〈 天のあきらかなるなり 〉。あな、おもしろ〈 古語に甚切なるをみなあなと云ふ。面白、もろ<のおもて明に白き也 〉。あな、たのし。あな、さやけ〈 竹のはのこゑ 〉。おけ〈 木の名也。其はをふるこゑ也。天の鈿目の持給へる手草也 〉。」かくて、つみを素戔烏の尊によせて、おほするに千座の置戸をもて首のかみ、手足のつめをぬきてあがはしめ、其罪をはらひて神やらひにやらはれき。
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かの尊天よりくだりて、出雲の簸の川上と云所にいたり給。其所に一のおきなとうばとあり。一のをとめをすゑてかきなでつゝなきけり。素戔烏尊「たそ。」ととひ給ふ。「われはこれ国神也。脚摩乳・手摩乳と云ふ。このをとめはわが子なり。奇稲田姫と云ふ。さきに八けの少女あり。としごとに八岐の大蛇のためにのまれき。今此をとめ又のまれなんとす。」と申ければ、尊、「我にくれんや。」との給。「勅のまゝにたてまつる。」と申ければ、此をとめを湯津のつまぐしにとりなし、みづらにさし、やしほをりの酒を八の槽にもりて待給に、はたしてかの大蛇きたれり。頭おの<一槽に入てのみゑひてねぶりけるを、尊はかせる十握の剣をぬきてつだ<にきりつ。尾にいたりて剣の刃すこしかけぬ。さきてみ給へば一の剣あり。その上に雲気ありければ、天の叢雲の剣と名く〈 日本武の尊にいたりてあらためて草なぎの剣と云ふ。それより熱田社にます 〉。「これあやしき剣なり。われ、なぞ、あへて私におけらんや。」との給て、天照太神にたてまつり上られにけり。其のち出雲の清の地にいたり、宮をたてて、稲田姫とすみ給。大己貴の神を〈 大汝とも云 〉うましめて、素戔烏尊はつひに根の国にいでましぬ。大汝の神、此国にとゞまりて〈 今の出雲の大神にます 〉天下を経営し、葦原の地を領給けり。よりてこれを大国主の神とも大物主とも申。その幸魂奇魂は
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大和の三輪の神にます。
○第二代、正哉吾勝々の速日天忍穂耳尊。高皇産霊の尊の女栲幡千々姫の命にあひて、饒速日尊・瓊々杵尊をうましめ給て、吾勝尊葦原中州にくだりますべかりしを、御子うみ給しかば、「かれを下すべし。」と申給て、天上にとゞまります。まづ、饒速日の尊をくだし給し時、外祖高皇産霊尊、十種の瑞宝を授給。瀛都鏡一、辺津鏡一、八握剣一、生玉一、死反玉一、足玉一、道反玉一、蛇比礼一、
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蜂比礼一、品の物比礼一、これなり。此みことはやく神さり給にけり。凡国の主とてはくだし給はざりしにや。吾勝尊くだり給べかりし時、天照太神三種の神器を伝へ給。のちに又瓊々杵尊にも授まし<しに、饒速日尊はこれをえ給はず。しかれば日嗣の神にはましまさぬなるべし〈 此事旧事本紀の説也。日本紀にはみえず 〉。天照太神・吾勝尊は天上に止り給へど、地神の第一、二にかぞへたてまつる。其始天下の主たるべしとてうまれ給しゆゑにや。
○第三代、天津彦々火瓊々杵尊。天孫とも皇孫とも申。皇祖天照太神・高皇産霊尊いつきめぐみまし<き。葦原の中州の主として天降給はんと
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す。こゝに其国邪神あれてたやすく下給ことかたかりければ、天稚彦と云神をくだしてみせしめ給しに、大汝の神の女、下照姫にとつぎて、返こと申さず。みとせになりぬ。よりて名なし雉をつかはしてみせられしを、天稚彦いころしつ。其矢天上にのぼりて太神の御まへにあり。血にぬれたりければ、あやめ給て、なげくだされしに、天稚彦新嘗てふせりけるむねにあたりて死す。世に返し矢をいむは此故也。さらに又くださるべき神をえらばれし時、経津主の命〈 ■取神にます 〉武甕槌の神〈 鹿嶋の神にます 〉みことのりをうけてくだりましけり。出雲国にいたり、はかせる剣をぬきて、地につきたて、其上にゐて、大汝の神に太神の勅をつげしらしむ。その子都波八重事代主神〈 今葛木の鴨にます 〉あひともに従申。又次の子健御名方刀美の神〈 今陬方の神にます 〉したがはずして、にげ給しを、すはの湖までおひてせめられしかば、又したがひぬ。かくてもろ<の悪神をばつみなへ、まつろへるをばほめて、天上にのぼりて返こと申給。大物主の神〈 大汝の神は此国をさり、やがてかくれ給と見ゆ。この大物主はさきに云所の三輪の神にますなるべし 〉事代主の神、相共に八十万の神をひきゐて、天にまうづ。太神ことにほめ給き。「宜八十万の神を領て皇孫をまぼりまつれ。」とて、先かへしくだし給けり。
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其後、天照太神、高皇産霊尊相計て皇孫をくだし給。八百万の神、勅を承て御供につかうまつる。諸神の上首三十二神あり。其中に五部神と云は、天児屋命〈 中臣の祖 〉天太玉命〈 忌部の祖 〉天鈿女命〈 ■女の祖 〉石凝姥命〈 鏡作の祖 〉玉屋命〈 玉作の祖 〉也。此中にも中臣・忌部の二神はむねと神勅をうけて皇孫をたすけまぼり給。又三種の神宝をさづけまします。先あらかじめ、皇孫に勅して曰、「葦原千五百秋之瑞穂国是吾子孫可主之地也。宜爾皇孫就而治焉。行給矣。宝祚之隆当与天壌無窮者矣。」又太神御手に宝鏡をもち給、皇孫にさづけ祝て、「吾児視此宝鏡当猶視吾。可与同床共殿以為斎鏡。」との給。八坂瓊の曲玉・天の叢雲の剣をくはへて三種とす。又「此鏡の如に分明なるをもて、天下に照臨給へ。八坂瓊のひろがれるが如く曲妙
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をもて天下をしろしめせ。神剣をひきさげては不順るものをたひらげ給。」と勅まし<けるとぞ。
此国の神霊として、皇統一種たゞしくまします事、まことにこれらの勅にみえ
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たり。三種の神器世に伝こと、日月星の天にあるにおなじ。鏡は日の体なり。玉は月の精也。剣は星の気也。ふかき習あるべきにや。抑、彼の宝鏡はさきにしるし侍石凝姥の命の作給へりし八咫の御鏡〈 八咫に口伝あり 〉、〔裏書云ふ。咫説文云ふ。中婦人手長八寸謂之咫。周尺也。但、今の八咫の鏡事は別口伝あり。〕玉は八坂瓊の曲玉、玉屋の命〈 天明玉とも云 〉作給へるなり〈 八坂にも口伝あり 〉。剣はすさのをの命のえ給て、太神にたてまつられし叢雲の剣也。此三種につきたる神勅は正く国をたもちますべき道なるべし。鏡は一物をたくはへず。私の心なくして、万象をてらすに是非善悪のすがたあらはれずと云ことなし。其すがたにしたがひて感応するを徳とす。これ正直の本源なり。玉は柔和善順を徳とす。慈悲の本源也。剣は剛利決断を徳とす。智恵の本源也。此三徳を翕受ずしては、天下のをさまらんことまことにかたかるべし。神勅あきらかにして、詞つゞまやかにむねひろし。あまさへ神器にあらはれ給へり。いとかたじけなき事をや。中にも鏡を本とし、宗廟の正体とあふがれ給。鏡は明をかたちとせり。心性あきらかなれば、慈悲決断は其中にあり。又正く御影をうつし給しかば、ふかき御心をとゞめ給けんかし。天にある物、日月よりあきらかなるはなし。仍文字を制するにも「日月を明とす。」と云へり。我神、大日の霊にましませば、明徳をもて
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照臨し給こと陰陽におきてはかりがたし。冥顕につきてたのみあり。君も臣も神明の光胤をうけ、或はまさしく勅をうけし神達の苗裔也。誰か是をあふぎたてまつらざるべき。此理をさとり、其道にたがはずは、内外典の学問もこゝにきはまるべきにこそ。されど、此道のひろまるべき事は内外典流布の力なりと云つべし。魚をうることは網の一目によるなれど、衆目の力なければ是をうることかたきが如し。応神天皇の御代より儒書をひろめられ、聖徳太子の御時より、釈教をさかりにし給し、是皆権化の神聖にましませば、天照太神の御心をうけて我国の道をひろめふかくし給なるべし。
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かくて此瓊々杵の尊、天降まししに■田彦と云神まゐりあひき〈 これはちまたの神也 〉。てりかゝやきて目をあはする神なかりしに、天の鈿目の神行あひぬ。又「皇孫いづくにかいたりましますべき。」と問しかば、「筑紫の日向の高千穂の■触の峯にましますべし。われは伊勢の五十鈴の川上にいたるべし。」と申。彼神の申のまゝに、■触の峯にあまくだりて、しづまり給べき所をもとめられしに、事勝・国勝と云神〈 これも伊弉諾尊の御子、又は塩土の翁と云 〉まいりて、「わがゐたる吾田の長狭の御崎なんよろしかるべし。」と申ければ、その所にすませ給けり。こゝに山の神大山祇、二の女あり。姉を磐長姫と云〈 これ磐石の神なり 〉、妹を木の花開耶姫と云〈 これは花木の神なり 〉。二人をめしみ給。あねはかたちみにくかりければ返しつ。いもうとを止め給しに、磐長姫うらみいかりて、「我をもめさましかば、世の人はいのちながくて磐石の如くあらまし。たゞ妹をめしたれば、うめらん子は木の花の如くちりおちなむ。」ととこひけるによりて、人のいのちはみじかくなれりとぞ。木の花のさくやひめ、めされて一夜にはらみぬ。天孫のあやめ給ければ、はらたちて無戸室をつくりてこもりゐて、
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みづから火をはなちしに、三人の御子生給。ほのほのおこりける時、生ますを火闌降の命と云ふ。火のさかりなりしに生ますを火明命と云ふ。後に生ますを火火出見の尊と申。此三人の御子をば火もやかず、母の神もそこなはれ給はず。父の神悦まし<けり。此尊天下を治給事三十万八千五百三十三年と云へり。自是さき、天上にとゞまります神達の御事は年序はかりがたきにや。天地わかれしより以来のこと、いくとせをへたりと云こともみえたる文なし。抑、天竺の説に、人寿無量なりしが八万四千歳になり、それより百年に一年を減じて百二十歳の時〈 或百才とも 〉釈迦仏出で給と云る、此仏出世は■■草葺不合尊のすゑざまの事なれば〈 神武天皇元年辛酉、仏滅後二百九十年にあたる。これより上はかぞふべき也 〉、百年に一年を増してこれをはかるに、此瓊々杵の尊の初つかたは迦葉仏の出給ける時にやあたり侍らん。人寿二万歳の時、此仏は出給けりとぞ。
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○第四代、彦火々出見の尊と申。御兄火の闌降の命、海の幸ます。此尊は山の幸ましけり。こゝろみに相かへ給しに、各其幸なかりき。弟の尊の、弓箭に魚の釣鉤をかえ給へりしを、弓箭をば返つ。おとゝの尊鉤を魚にくはれて失ひ給けるを、あながちにせめ給しに、せんすべなくて海辺にさまよひ給き。塩土の翁〈 此神の事さきにみゆ 〉まゐりあひて、あはれみ申て、はかりことをめぐらして、海神綿積命〈 小童ともかけり 〉の所におくりつ。其女を豊玉姫と云ふ。天神の御孫にめでたてまつりて、父の神につげてとゞめ申つ。つひに其女とあひすみ給。みとせばかりありて故郷をおぼす御気色ありければ、其女父にいひあはせてかへしたてまつる。大小いろくづをつどへてとひけるに、口女と云魚、やまひありとてみえず。
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しひてめしいづれば、その口はれたり。是をさぐりしに、うせにし鉤をさぐりいづ〈 一には赤女と云ふ。又此魚はなよしと云魚とみえたり 〉。海神いましめて、「口女いまよりつりくふな。又天孫の饌にまゐるな。」となん云ふくめける。又海神ひる珠みつ珠をたてまつりて、兄をしたがへ給べきかたちををしへ申けり。さて故郷にかへりまして鉤を返つ。満珠をいだしてねぎ給へば、塩みちきて、このかみおぼれぬ。なやまされて、「俳優の民とならん。」とちかひ給しかば、ひる珠をもちて塩をしりぞけ給き。これより天日嗣をつたへまし<ける。海中にて豊玉姫はらみ給しかば、「産期にいたらば、海辺に産屋を作て待給へ。」と申き。はたして其妹玉依姫をひきゐて、海辺に行あひぬ。屋を作て■■の羽にてふかれしが、ふきもあへず、御子うまれ給によりて■■草葺不合尊と申す。又産屋をうぶやと云事もうのはをふけるゆゑなりとなん。さても「産の時み給な。」と契申しを、のぞきて見ましければ、龍になりぬ。はぢうらみて、「われにはぢみせ給はずは、海陸をして相かよはしへだつることなからまし。」とて、御子をすておきて海中へかへりぬ。後に御子のきら<しくましますことをきゝて憐み崇めて、妹の玉依姫を奉て養ひまゐらせけるとぞ。此尊、
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天下を治給こと六十三万七千八百九十二年と云へり。震旦の世の始をいへるに、万物混然としてあひはなれず。是を混沌と云ふ。其後軽清物は天となり、重濁物は地となり、中和気は人となる。これを三才と云〈 これまでは我国の初りを云にかはらざる也 〉。其はじめの君盤古氏、天下を治こと一万八千年。天皇・地皇・人皇など云王相続て、九十一代一百八万二千七百六十年。さきにあはせて一百十万七百六十年〈 これ一説なり。実にはあきらかならず 〉。広雅と云書には、開闢より獲麟に至て二百七十六万歳とも云ふ。獲麟とは孔子の在世、魯の哀公の時なり。日本の懿徳にあたる。しからば、盤古のはじめは此尊の御代のすゑつかたにあたるべきにや。
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○第五代、彦波激武■■草葺不合尊と申。御母豊玉姫の名づけ申ける御名なり。御姨玉依姫にとつぎて四はしらの御子をうましめ給ふ。彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命、日本磐余彦の尊と申す。磐余彦尊を太子に立てて天日嗣をなんつがしめまし<ける。此神の御代七十七万余年の程にや、もろこしの三皇の初、伏犠と云王あり。次、神農氏、次、軒轅氏、三代あはせて五万八千四百四十年〈 一説には一万六千八百二十七年。しからば此尊の八十万余の年にあたる也。親経中納言の新古今の序を書に、伏犠の皇徳に基して四十万年と云り。何説によれるにか。無覚束事也 〉。其後に少昊氏、■■氏、高■氏、陶唐氏〈 ■也 〉、有虞氏〈 舜也 〉と云五帝あり。合て四百三十二年。其次、夏・殷・周の三代あり。夏には十七主、四百三十二年。殷には三十主、六百二十九年。周の代と成て第四代の主を
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昭王と云き。その二十六年甲寅の年までは周おこりて一百二十年。このとしは葺不合尊の八十三万五千六百六十七年にあたれり。ことし天竺に釈迦仏出世しまします。同き八十三万五千七百五十三年に、仏御年八十にて入滅しまし<けり。もろこしには昭王の子、穆王の五十三年壬甲にあたれり。其後二百八十九年ありて、庚申にあたる年、此神かくれさせまします。すべて天下を治給こと八十三万六千四十三年と云り。これより上つかたを地神五代とは申けり。二代は天上にとゞまり給。下三代は西の州宮にて多の年をおくりまします。神代のことなれば、其行迹たしかならず。葺不合の尊八十三万余年まし<しに、その御子磐余彦尊の御代より、にはかに人王の代となりて、暦数も短くなりにけること疑ふ人もあるべきにや。されど、神道の事おしてはかりがたし。まことに磐長姫の詛けるまゝ寿命も短くなりしかば、神のふるまひにもかはりて、やがて人の代となりぬるか。天竺の説の如く次第ありて減たりとはみえず。又百王ましますべしと申める。十々の百には非るべし。窮なきを百とも云り。百官百姓など云にてしるべき也。昔、皇祖天照太神天孫の尊に御ことのりせしに、「宝祚之隆当
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与天壌無窮。」とあり。天地も昔にかはらず。日月も光をあらためず。況や三種の神器世に現在し給へり。きはまりあるべからざるは我国を伝る宝祚也。あふぎてたとびたてまつるべきは日嗣をうけ給すべらぎになんおはします。
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巻二
○人皇第一代、神日本磐余彦天皇と申。後に神武となづけたてまつる。地神■■草葺不合の尊の第四の子。御母玉依姫、海神小童第二女也。伊弉諾尊には六世、大日■の尊には五世の天孫にまします。神日本磐余彦と申は神代よりのやまとことばなり。神武は中古となりて、もろこしの詞によりてさだめたてまつる御名也。又此御代より代ごとに宮所をうつされしかば、其所を名づけて御名とす。此天皇をば橿原の宮と申、是也。又神代より至て尊を尊と云、其次を命と云ふ。人の代となりては天皇とも号したてまつる。臣下にも朝臣・宿禰・臣などといふ号いできにけり。神武の御時よりはじまれる事なり。上古には尊とも命とも兼て称けるとみえたり。世くだりては天皇を尊と申こともみえず、臣を命と云事もなし。古語の耳なれずなれるゆゑにや。此天皇御年十五にて太子に立、五十一にて父神にかはりて皇位にはつかしめ給。ことし辛酉なり。筑紫日向の宮崎の宮
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におはしましけるが、兄の神達および皇子群臣に勅して、東征のことあり。此大八州は皆是王地也。神代幽昧なりしによりて西偏の国にして、おほくの年序をおくられけるにこそ。天皇舟楫をとゝのへ、甲兵をあつめて、大日本州にむかひ給。みちのついでの国々をたひらげ、大やまとにいりまさむとせしに、其国に天の神饒の速日の尊の御すゑ宇麻志間見の命と云神あり。外舅の長髄彦と云、「天神の御子両種有むや。」とて、軍をおこしてふせぎたてまつる。其軍こはくして皇軍しば<利をうしなふ。又邪神毒気をはきしかば、士卒みなやみふせり。こゝに天照太神、健甕槌の神をめして、「葦原の中つ州にさわぐおとす。汝ゆきてたひらげよ。」とみことのりし給。健甕槌の神申給けるは、「昔国をたひらげし時剣あり。かれをくださば、自らたひらぎなん。」と申て、紀伊国名草の村に高倉下命と云神にしめして、此剣をたてまつりければ、天皇悦給て、士卒のやみふせりけるもみなおきぬ。又神魂の命の孫、武津之身命大烏となりて軍の御さきにつかうまつる。天皇ほめて八咫烏と号し給。又金色の鴟くだりて皇弓のはずにゐたり。其光てりかゝやけり。これによりて皇軍大にかちぬ。
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宇麻志間見の命其舅のひがめる心をしりて、たばかりてころしつ。その軍をひきゐてしたがひ申にけり。天皇はなはだほめまし<て、天よりくだれる神剣をさづけ、「其大勲にこたふ。」とぞのたまはせける。此剣を豊布都の神と号す。はじめは大和の石上にまし<き。後には常陸の鹿嶋の神宮にまします。彼宇麻志間見の命又饒速日の尊天降し時、外祖高皇産霊の尊さづけ給し十種の瑞宝を伝へもたりけるを天皇に奉る。天皇鎮魂の瑞宝也しかば、其祭を始られにき。此宝をも即宇麻志間見にあづけ給て、大和石上に安置す。又は布瑠と号。此瑞宝を一づつよびて、呪文をして、ふる事あるによれるなるべし。かくて天下たひらぎにしかば、大和国橿原に都をさだめて、宮つくりす。其制度天上の儀のごとし。天照太神より伝給へる三種の神器を大殿に安置し、床を同くしまします。皇宮・神宮一なりしかば、国々の御つき物をも斎蔵にをさめて官物・神物のわきだめなかりき。天児屋根命の孫天種子の命、天太玉の命孫天富の命もはら神事をつかさどる。神代の例にことならず。又霊畤を鳥見山の中にたてて、天神・地祇をまつらしめ給。此御代の始、辛酉の年、もろこしの周の世、第十七代にあたる君、恵王の十七年
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也。五十七年丁巳は周の二十一代の君、定王の三年にあたれり。ことし老子誕生す。是は道教の祖也。天竺の釈迦如来入滅し給しより元年辛酉までは二百九十年になれるか。此天皇天下を治給こと七十六年。一百二十七歳おはしき。
○第二代、綏靖天皇〈 これより和語の尊号をばのせず 〉神武第二御子。御母鞴五十鈴姫、事代主の神の女也。父の天皇かくれまして、みとせありて即位し給。庚辰年
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也。大和葛城高岡の宮にまします。三十一年庚戌の年もろこしの周の二十三代君、霊王の二十一年也。ことし孔子誕生す。自是七十三年までおはしけり。儒教をひろめらる。此道は昔の賢王、唐■、虞舜、夏の初の禹、殷のはじめの湯、周のはじめの文王・武王・周公の国を治め、民をなで給し道なれば、心を正しくし、身をなほくし、家を治め、国を治めて、天下におよぼすを宗とす。さればことなる道にはあらねども、末代となりて、人不正になりしゆゑに、其道ををさめて儒教をたてらるゝ也。天皇天下を治給こと三十三年。八十四歳おまし<き。
○第三代、安寧天皇は綏靖第二の子。御母五十鈴依姫、事代主の神のおと女也。癸丑の年即位。大和の片塩の浮穴の宮にまします。天下を治給こと三十八年。五十七歳おまし<き。
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○第四代、懿徳天皇は安寧第二の子。御母渟名底中媛、事代主の神の孫也。辛卯年即位。大和の軽曲峡の宮にまします。天下を治給こと三十四年。七十七歳おはしましき。
○第五代、孝昭天皇は懿徳第一の子。御母天豊津姫、息石耳の命の女也。父の天皇かくれまして一年ありて、丙寅の年即位。大和の掖の上池の心の宮にまします。天下を治給こと八十三年。百十四歳おはしましき。
○第六代、孝安天皇は孝昭第二の子。御母世襲足の姫、尾張の連の上祖瀛津世襲の女也。乙丑の年即位。大倭秋津嶋の宮にまします。天下を治給こと一百二年。百二十歳おまし<き。
○第七代、孝霊天皇は孝安の太子。御母押姫、天足彦国押人命の女也。辛未年即位。大和の黒田廬戸の宮にまします。三十六年丙午にあたる年、もろこしの周の国滅して秦にうつりき。四十五年乙卯、秦の始皇即位。此の
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始皇仙方をこのみて長生不死の薬を日本にもとむ。日本より五帝三皇の遺書を彼国にもとめしに、始皇こと<”くこれをおくる。其後三十五年ありて、彼国、書を焼、儒をうづみにければ、孔子の全経日本にとゞまるといへり。此事異朝の書にのせたり。我国には神功皇后三韓をたひらげ給しより、異国に通じ、応神の御代より経史の学つたはれりとぞ申ならはせる。孝霊の御時より此国に文字ありとはきかぬ事なれど、上古のことは慥に注とゞめざるにや。応神の御代にわたれる経史だにも今は見えず。聖武の御時、吉備大臣、入唐して伝へたりける本こそ流布したれば、この御代より伝けん事もあながちに疑まじきにや。凡此国をば君子不死の国とも云也。孔子世のみだれたる事を歎て、「九夷にをらん。」との給ける。日本は九夷の其一なるべし。異国には此国をば東夷とす。此国よりは又彼国をも西蕃と云るがごとし。四海と云は東夷・南蛮・西羌・北狄也。南は蛇の種なれば、虫をしたがへ、西は羊をのみかふなれば、羊をしたがへ、北は犬の種なれば、犬をしたがへたり。たゞ東は仁ありて命ながし。よりて大・弓の字をしたがふと云へり。〔裏書云ふ。夷説文曰。東方之人也。从大从弓。徐氏曰。唯東夷从大从弓。仁而寿。有君子不死之国云ふ。仁而寿、未合弓字之義。弓者以近窮遠也云ふ。若取此義歟。〕孔子の時すらこなたのことをしり給ければ、秦の世に
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通じけんことあやしむに足ぬことにや。此天皇天下を治給事七十六年。百十歳おはしましき。
○第八代、孝元天皇は孝霊の太子。御母細媛、磯城県主の女也。丁亥年即位。大倭の軽境原の宮にまします。九年乙未の年、もろこしの秦滅て漢にうつりき。此天皇天下を治給こと五十七年。百十七歳おまし<き。
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○第九代、開化天皇は孝元第二の子。御母鬱色謎姫、穂積の臣上祖鬱色雄命妹也。甲申年即位。大和の春日率川の宮にまします。天下を治給こと六十年。百十五歳おまし<き。
○第十代、崇神天皇は開化第二の子。御母伊香色謎姫〈 初は孝元の妃として彦太忍信の命をうむ 〉、太綜麻杵の命の女也。甲申の歳即位。大和の磯城の瑞籬の宮にまします。此御時神代をさる事、世は十つぎ、年は六百余になりぬ。やうやく神威をおそれ給て、即位六年己丑年〈 神武元年辛酉より此己丑までは六百二十九年 〉神代の鏡造の石凝姥の神のはつこをめして鏡をうつし鋳せしめ、天目一箇の神のはつこをして剣をつくらしむ。大和宇陀の郡にして、此両種をうつしあらためられて、護身の璽として同殿に安置す。神代よりの宝鏡および霊剣をば皇女豊鋤入姫の命につけて、大和の笠縫の邑と云所に神籬をたててあがめ奉らる。これより神宮・皇居各別になれりき。其後太神のをしへありて、豊鋤入姫の命、神体を頂戴て所々をめぐり給けり。十年の秋、大彦命を北陸に遣し、
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武渟川別の命を東海に、吉備津彦命を西道に、丹波の道主の命を丹波に遣す。ともに印綬を給て将軍とす〈 将軍の名はじめてみゆ 〉。天皇の叔父武埴安彦の命、朝廷をかたぶけんとはかりければ、将軍等を止て、まづ追討しつ。冬十月に将軍発路す。十一年の夏、四道の将軍戎夷を平ぬるよし復命す。六十五年秋任那の国、使をさして御つきをたてまつる〈 筑紫をさること二千余里と云 〉。天皇天下を治給こと六十八年。百二十歳おまし<き。
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○第十一代、垂仁天皇は崇神第三の子。御母御間城姫、大彦の命〈 孝元の御子 〉女也。壬辰の年即位。大和の巻向の珠城の宮にまします。此御時皇女大和姫の命、豊鋤入姫にかはりて、天照太神をいつきたてまつる。神のをしへにより、なほ国々をめぐりて、二十六年丁巳冬十月甲子に伊勢国度会郡五十鈴川上に宮所をしめ、高天の原に千木高知下都磐根に大宮柱広敷立てしづまりまし<ぬ。此所は昔天孫あまくだり給し時、猿田彦の神まゐりあひて、「われは伊勢の狭長田の五十鈴の川上にいたるべし。」と申ける所也。大倭姫の命、宮所を尋給しに、大田の命と云人〈 又興玉とも云 〉まゐりあひて、此所ををしへ申き。此命は昔の■田彦の神の苗裔なりとぞ。彼川上に五十鈴・天上の図形などあり〈 天の逆戈もこの所にありきと云一説あり 〉。「八万歳のあひだまぼりあがめたてまつりき。」となん申ける。かくて中臣の祖大鹿嶋の命を祭主とす。又大幡主と云人を太神主になし給。これより皇太神とあがめ奉て、天下第一の宗廟にまします。此天皇天下を治給こと九十九年。百四十歳おまし<き。
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○第十二代、景行天皇は垂仁第三の子。御母日葉州媛、丹波道主の王の女也。辛未年即位。大和の纏向の日代の宮にまします。十二年秋、熊襲〈 日向にあり 〉そむきてみつき奉らず。八月に天皇筑紫に幸して是を征し給。十三年夏こと<”く平ぐ。高屋の宮にまします。十九年の秋筑紫より還給。二十七年秋、熊襲又そむきて辺境ををかしけり。皇子小碓の尊御年十六、をさなくより雄略気まして、容貎魁偉。身の長一丈、力能かなへをあげ給ひしかば、熊襲をうたしめ給。冬十月ひそかに彼国にいたり、奇謀をもて、梟帥取石鹿父と云物を殺給。梟帥ほめ奉て、日本武となづけ申けり。悉余党を平て帰給。所々にしてあまたの悪神をころしつ。二十八年春かへりこと申給けり。天皇其の功をほめてめぐみ給こと諸子にことなり。
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四十年の夏、東夷おほく背て辺境さわがしかりければ、又日本武の皇子をつかはす。吉備の武彦、大伴の武日を左右の将軍としてあひそへしめ給。十月に枉道して伊勢の神宮にまうでて、大和姫の命にまかり申給。かの命神剣をさづけて、「つゝしめ、なおこたりそ。」とをしへ給ける。駿河に〈 駿河日本紀説、或相模古語拾遺説 〉いたるに、賊徒野に火をつけて害したてまつらんことをはかりけり。火のいきほひまぬかれがたかりけるに、はかせる叢雲の剣をみづからぬきて、かたはらの草をなぎてはらふ。これより名をあらためて草薙の剣と云ふ。又火うちをもて火を出て、むかひ火を付て、賊徒を焼ころされにき。これより船に乗給て上総にいたり、転じて陸奥国にいり、日高見の国〈 その所異説あり 〉にいたり、悉蝦夷を平げ給。かへりて常陸をへ甲斐にこえ、又武蔵・上野をへて、碓日坂にいたり、弟橘媛と云し妾をしのび給〈 上総へ渡給し時、風波あらかりしに、尊の御命をあがはんとて海に入し人なり 〉。東南の方をのぞみて、「吾嬬者耶。」との給しより、山東の諸国をあづまと云也。
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これより道をわけ、吉備の武彦をば越後国に遣して不順者を平しめ給。尊は信濃より尾張にいで給。かの国に宮簀媛と云女あり。尾張の稲種宿禰の妹也。此女をめして淹留給あひだ、五十葺の山に荒神ありときこえければ、剣をば宮簀媛の家にとゞめて、かちよりいでます。山神化して小蛇になりて、御道によこたはれり。尊またこえてすぎ給しに、山神毒気を吐けるに、御心みだれにけり。それより伊勢にうつり給。能褒野と云所にて御やまひはなはだしくなりにければ、武彦の命をして天皇に事のよしを
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奏して、つひにかくれ給ぬ。御年三十也。天皇きこしめして、悲給事限なし。群卿百寮に仰て、伊勢国能褒野にをさめたてまつる。白鳥と成て、大和国をさして琴弾原にとゞまれり。其所に又陵をつくらしめられければ、又飛て河内古市にとゞまる。その所に陵を定られしかば、白鳥又飛て天にのぼりぬ。仍三の陵あり。彼草薙の剣は宮簀媛あがめたてまつりて、尾張にとゞまり給。今の熱田神にまします。五十一年秋八月、武内の宿禰を棟梁の臣とす。五十三年秋、小碓の命の平し国をめぐりみざらんやとて、東国に幸し給。十二月あづまよりかへりて、伊勢の綺の宮にまします。五十四年秋、伊勢より大和にうつり、纏向の宮にかへり給。天下を治給こと六十年。百四十歳おまし<き。
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○第十三代、成務天皇は景行第三子。御母八坂入姫、八坂入彦の皇子〈 崇神の御子 〉女也。日本武尊日嗣をうけ給ふべかりしに、世をはやくしまし<しかば、此御門立給。辛未歳即位。近江の志賀高穴穂の宮にまします。神武より十二代、大和国にまし<き〈 景行天皇のすゑつかた、此高穴穂にまし<しかども定る皇都にはあらず 〉。此時はじめて他国にうつり給。三年の春、武内の宿禰を大臣とす〈 大臣の号これにはじまる 〉。四十八年の春、姪仲足彦の尊〈 日本武の尊の御子 〉をたてて皇太子とす。天下を治給こと六十一年。百七歳おまし<き。
○第十四代、第十四世、仲哀天皇は日本武尊第二の子、景行御孫也。御母両道入姫、垂仁天皇女也。大祖神武より第十二代景行までは代のまゝに継体し給。日本武尊世をはやくし給しによりて、成務是をつぎ給。此天皇を太子としてゆづりまし<しより、代と世とかはれる初也。これよりは世を本としるし奉べき也〈 代と世とは常の義差別なし。然ど凡の承運とまことの継体とを分別せん為に書分たり。但字書にもそのいはれなきにあらず。代は更の義也。世は周礼の註に、父死て子立を世と云とあり 〉。此天皇御かたち
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いときら<しく、御たけ一丈まし<ける。壬申の年即位。此御時熊襲又反乱して朝貢せず。天皇軍をめしてみづから征伐をいたし、筑紫にむかひ給。皇后息長足姫尊は越前の国笥飯の神にまうでて、それより北海をめぐりて行あひ給ぬ。こゝに神ありて皇后にかたり奉る。「これより西に宝の国あり。うちてしたがへ給へ。熊襲は小国也。又伊弉諾・伊弉冊のうみ給へりし国なれば、うたずともつひにしたがひたてまつりなん。」とありしを、天皇うけがひ給はず。事ならずして橿日の行宮にしてかくれ給。長門にをさめ奉る。是を穴戸豊浦の宮と申す。天下を治給こと九年。五十二歳おまし<き。
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○第十五代、神功皇后は息長の宿禰の女、開化天皇四世の御孫也。息長足姫の尊と申す。仲哀たてて皇后とす。仲哀神のをしへによらず、世を早くし給しかば、皇后いきどほりまして、七日あて別殿を作り、いもほりこもらせ給。此時応神天皇はらまれまし<けり。神がかりてさま<”道ををしへ給ふ。此神は「表筒男・中筒男・底筒男なり。」となんなのり給けり。是は伊弉諾尊日向の小戸の川檍が原にてみそぎし給し時、化生しましける神也。後には摂津国住吉にいつかれ給神これなり。かくて新羅・百済・高麗を〈 此三け国を三韓と云ふ。正は新羅にかぎるべきか。辰韓・馬韓・弁韓をすべて新羅と云也。しかれどふるくより百済・高麗をくはへて三韓と云ならはせり 〉うちしたがへ給き。海神かたちをあらはし、御船をはさみまぼり申しかば、思の如く彼国を平げ給。神代より年序久くつもれりしに、かく神威をあらはし給ける、不測御ことなるべし。海中にして如意の珠を得給へりき。さてつくしにかへりて皇子を誕生す。応神天皇にまします。神の申給しによりて、是を胎中の天皇とも申。皇后摂政して辛巳年より天下をしら
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せ給。皇后いまだ筑紫にまし<し時、皇子の異母の兄忍熊の王謀反をおこして、ふせぎ申さんとしければ、皇子をば武内の大臣にいだかせて、紀伊の水門につけ、皇后はすぐに難波につき給て、程なく其乱を平げられにき。皇子おとなび給しかば皇太子とす。武内大臣もはら朝政を輔佐し申けり。大和の磐余稚桜の宮にまします。是より三韓の国、年ごとに御つきをそなへ、此国よりも彼国に鎮守のつかさをおかれしかば、西蕃相通て国家とみさかりなりき。又もろこしへも使をつかはされけるにや。「倭国の女王遣使て来朝す。」と後漢書にみえたり。元年辛巳年は漢の孝献帝二十三年にあたる。漢の世始りて十四代と云し時、王莽と云臣位をうばひて十四年ありき。其後漢にかへりて、又十三代孝献の時に、漢は滅して此御代の十九年己亥に献帝位をさりて、魏の文帝にゆづる。是より天下三にわかれて、魏・蜀・呉となる。呉は東によれる国なれば、日本の使もまづ通じけるにや。呉国より道々のたくみなどまでわたされき。又魏国にも通ぜられけるかとみえたり。四十九年乙酉と云し年、魏又滅て晉の代にうつりにき〈 蜀の国は三十年癸未に魏のためにほろぼされ、呉は魏より後までありしが、応神十七年辛丑晉のためにほろぼさる 〉。此皇后天下を
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治給こと六十九年。一百歳おまし<き。
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○第十六代、第十五世、応神天皇は仲哀第四の子。御母神功皇后也。胎中の天皇とも、又は誉田天皇ともなづけたてまつる。庚寅年即位。大和の軽嶋豊明の宮にまします。此時百済より博士をめし、経史をつたへられ、太子以下これをまなびならひき。此国に経史及文字をもちゐることは、これよりはじまれりとぞ。異朝の一書の中に、「日本は呉の太伯が後也と云ふ。」といへり。返々あたらぬことなり。昔日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、桓武の御代にやきすてられしなり。天地開て後、すさのをの尊韓の地にいたり給きなど云事あれば、彼等の国々も神の苗裔ならん事、あながちにくるしみなきにや。それすら昔よりもちゐざること也。天地神の御すゑなれば、なにしにか代くだれる呉太伯が後にあるべき。三韓・震旦に通じてより以来、異国の人おほく此国に帰化しき。秦のすゑ、漢のすゑ、高麗・百済の種、それならぬ蕃人の子孫もきたりて、神・皇の御すゑと混乱せ
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しによりて、姓氏録と云文をつくられき。それも人民にとりてのことなるべし。異朝にも人の心まち<なれば、異学の輩の云出せる事歟。後漢書よりぞ此国のことをばあら<しるせる。符合したることもあり、又心えぬこともあるにや。唐書には、日本の皇代記を神代より光孝の御代まであきらかにのせたり。さても此御時、武内大臣筑紫ををさめんために彼国につかはされける比、おとゝの讒によりて、すでに追討せられしを、大臣の僕、真根子と云人あり。かほかたち大臣に似たりければ、あひかはりて誅せらる。大臣は忍て都にまうでて、とがなきよしを明められにき。上古神霊の主猶かゝるあやまちまし<しかば、末代争かつゝしませ給はざるべき。天皇天下を治給こと四十一年。百十一歳おまし<き。
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欽明天皇の御代に始て神とあらはれて、筑紫の肥後国菱形の池と云所にあらはれ給、「われは人皇十六代誉田の八幡丸なり。」との給き。誉田はもとの御名、八幡は垂迹の号也。後に豊前の国宇佐の宮にしづまり給しかば、聖武天皇東大寺建立の後、巡礼し給べきよし託宣ありき。仍威儀をとゝのへてむかへ申さる。又神託ありて御出家の儀ありき。やがて彼寺に勧請し奉らる。されど勅使などは宇佐にまゐりき。清和の御時、大安寺の僧、行教
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宇佐にまうでたりしに、霊告ありて、今の男山石清水にうつりまします。爾来行幸も奉幣も石清水にあり。一代一度宇佐へも勅使をたてまつらる。昔天孫天降給し時、御供の神八百万ありき。大物主の神したがへて天へのぼりしも、八十万の神と云り。今までも幣帛を奉まつらるゝ神、三千余坐也。しかるに天照太神の宮にならびて、二所の宗廟とて八幡をあふぎ申さるゝこと、いとたふとき御事也。八幡と申御名は御託宣に「得道来不動法性。示八正道垂権迹。皆得解脱苦衆生。故号八幡大菩薩。」とあり。八正とは、内典に、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正定・正恵、是を八正道と云ふ。凡心正なれば身口はおのづからきよまる。三業に邪なくして、内外真正なるを諸仏出世の本懐とす。神明の垂迹も又これがためなるべし。又八方に八色の幡を立ることあり。密教の習、西方阿弥陀の三昧耶形也。其故にや行教和尚には弥陀三尊の形にてみえさせ給けり。光明袈裟の上にうつらせまし<けるを頂戴して、男山には安置し申けりとぞ。神明の本地を云ことはたしかならぬたぐひおほけれど、大菩薩の応迹は昔よりあきらかなる証拠おはしますにや。或は又、「昔於霊鷲山説妙法華経。」とも、或は弥勒なり
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とも、大自在王菩薩なりとも託宣し給。中にも八正の幡をたてて、八方の衆生を済度し給本誓を、能々思入てつかうまつるべきにや。
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天照太神もたゞ正直をのみ御心とし給へる。神鏡を伝へまし<しことの起は、さきにもしるし侍ぬ。又雄略天皇二十二年の冬十一月に、伊勢の神宮の新嘗のまつり、夜ふけてかたへの人々罷出て後、神主物忌等ばかり
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留たりしに、皇太神・豊受の太神、倭姫命にかゝりて託宣し給しに、「人はすなはち天下の神物なり。心神をやぶることなかれ。神はたるゝに祈祷を以て先とし、冥はくはふるに正直を以て本とす。」とあり。同二十三年二月、かさねて託宣し給しに、「日月は四州をめぐり、六合を照すと云ども正直の頂を照すべし。」とあり。されば二所宗廟の御心をしらんと思はゞ、只正直を先とすべき也。大方天地の間ありとある人、陰陽の気をうけたり。不正にしてはたつべからず。こと更に此国は神国なれば、神道にたがひては一日も日月をいたゞくまじきいはれなり。倭姫の命人にをしへ給けるは「黒心なくして丹心をもて、清潔斎慎。左の物を右にうつさず、右の物を左にうつさずして、左を左とし右を右とし、左にかへり右にめぐることも万事たがふことなくして、太神につかうまつれ。元々本々故なり。」となむ。まことに、君につかへ、神につかへ、国ををさめ、人ををしへんことも、かゝるべしとぞおぼえ侍。すこしの事も心にゆるす所あれば、おほきにあやまる本となる。周易に、「霜を履堅氷に至。」と云ことを、孔子釈しての給はく、「積善の家に余慶あり、積不善の家に余殃あり。君を弑し父を弑すること一朝一夕の故に
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あらず。」と云り。毫釐も君をいるかせにする心をきざすものは、かならず乱臣となる。芥蔕も親をおろそかにするかたちあるものは、果して賊子となる。此故に古の聖人、「道は須臾もはなるべからず。はなるべきは道にあらず。」と云けり。但其の末を学びて源を明めざれば、ことにのぞみて覚えざる過あり。其源と云は、心に一物をたくはへざるを云ふ。しかも虚無の中に留るべからず。天地あり、君臣あり。善悪の報影響の如し。己が欲をすて、人を利するを先として、境々に対すること、鏡の物を照すが如く、明々として迷はざらんを、まことの正道と云べきにや。代くだれりとて自ら苟むべからず。天地の始は今日を始とする理なり。加之、君も臣も神をさること遠からず。常に冥の知見をかへりみ、神の本誓をさとりて、正に居せんことを心ざし、邪なからんことを思給べし。
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○第十七代、仁徳天皇は応神第一の御子。御母仲姫の命、五百城入彦皇子女也。大鷦鷯の尊と申。応神の御時、菟道稚皇子と申は最末の御子にてまし<しをうつくしみ給て、太子に立むとおぼしめしけり。兄の御子達うけがひ給はざりしを、此天皇ひとりうけがひ給しによりて、応神悦まして、菟道稚を太子とし、此尊を輔佐になん定め給ける。応神かくれまし<しかば、御兄達太子を失はんとせられしを、此尊さとりて太子と心を一にして彼を誅せられき。爰太子天位を尊に譲給。尊堅くいなみ給、三年になるまで互に譲て位を空す。太子は山城の宇治にます。尊は摂津の難波にましけり。国々の御つぎ物もあなたかなたにうけとらずして、民の愁となりしかば、太子みづから失給ぬ。尊おどろき歎給ことかぎりなし。されどのがれますべきみちならねば、癸酉の年即位。摂津国難波高津の宮にまします。日嗣をうけ給ひ
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しより国をしづめ民をあはれみ給こと、ためしもまれなりし御事にや。民間の貧きことをおぼして、三年の御調を止られき。高殿にのぼりてみ給へば、にぎはゝしくみえけるによりて、
高屋にのぼりてみれば煙立民のかまどはにぎはひにけり W
とぞよませ給ける。さて猶三年を許されければ、宮の中破て雨露もたまらず。宮人の衣壊て其よそほひ全からず。御門は是をたのしみとなむおぼしける。かくて六年と云に、国々の民各まゐり集て大宮造し、色<御調を備へけるとぞ。ありがたかりし御政なるべし。天下を治給こと八十七年。百十歳おまし<き。
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○第十八代、履中天皇は仁徳の太子。御母磐之姫の命、葛城の襲津彦の女也。庚子の年即位。又大和の磐余稚桜の宮にまします。後の稚桜の宮と申。天下を治給こと六年。六十七歳おまし<き。
○第十九代、反正天皇は仁徳第三の子、履中同母の弟也。丙午年即位。河内の丹比の柴籬の宮にまします。天下を治給こと六年。六十歳おまし<き。
○第二十代、允恭天皇は仁徳第四子、履中反正同母弟也。壬子の年即位。大和の遠明日香の宮にまします。此御時までは三韓の御調年々にかはらざりしに、これより後はつねにおこたりけりとなん。八年己未にあたりて、もろこしの晉ほろびて南北朝となる。宋・齊・梁・陳あひつぎて起る。是
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を南朝と云ふ。後魏・北齊・後周つぎ<におこれりしを北朝と云ふ。百七十余年はならびて立たりき。此天皇天下を治給こと四十二年。八十歳おまし<き。
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巻三
○第二十一代、安康天皇は允恭第二の子。御母忍坂大中姫、稚渟野毛二派の皇子〈 応神の御子 〉女也。甲午年即位。大和穴穂宮にまします。大草香皇子を〈 仁徳御子 〉ころして其妻をとりて皇后とす。彼皇子の子眉輪王をさなくて、母にしたがひて宮中に出入しけり。天皇高楼の上に酔臥給けるをうかゞひて、さしころして、大臣葛城の円が家ににげこもりぬ。此天皇天上を治給こと三年。五十六歳おまし<き。
○第二十二代、雄略天皇は允恭第五子、安康同母の弟也。大泊瀬尊と申。安康ころされ給し時、眉輪の王及円の大臣を誅せらる。あまさへ其の
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事にくみせられざりし市辺押羽皇子をさへにころして位に即給。ことし丁酉の年也。大和の泊瀬朝倉の宮にまします。天皇性猛まし<けれども、神に通じ給へりとぞ。二十一年丁巳冬十月に、伊勢の皇太神大和姫の命にをしへて、丹波国与佐の魚井の原よりして豊受太神を迎へ奉らる。大和姫の命奏聞し給しによりて、明年戊午の秋七月に勅使をさしてむかへたてまつる。九月に度会の郡山田の原の新宮にしづまり給。垂仁天皇の御代に、皇太神五十鈴の宮に遷らしめ給しより、四百八十四年になむなりにける。神武の始よりすでに千百余年に成ぬるにや。又これまで大倭姫の命存生し給しかば、内外宮のつくりも、日の小宮の図形・文形によりてなさせ給けりとぞ。抑此神の御事異説まします。外宮には天祖天御中主の神と申伝たり。されば皇太神の託宣にて、此宮の祭を先にせらる。神拝奉るも先づ此宮を先とす。天孫瓊々杵の尊此宮の相殿にまします。仍天児屋の命・天太玉の命も天孫につき申て相殿にます也。これより二所太神宮と申。丹波より遷らせ給ことは、昔豊鋤入姫の命、天照太神を頂戴して、丹波の吉佐の宮にうつり
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給ける比、此神あまくだりて一所におはします。四年ありて天照太神は又大和にかへらせ給。それより此神は丹波にとまらせ給しを、道主の命と云人いつき申けり。古は此宮にて御饌をとゝのへて、内宮へも毎日におくり奉しを、神亀年中より外宮に御饌殿をたてて、内宮のをも一所にて奉となん。かやうの事によりて、御饌の神と申説あれど、御食と御気との両義あり。陰陽元初の御気なれば、天の狭霧・国の狭霧と申御名もあれば、猶さきの説を正とすべしとぞ。天孫さへ相殿にましませば、御饌の神と云説は用がたき事にや。此天皇天下を治給こと二十三年。八十歳おまし<き。
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○第二十三代、清寧天皇は雄略第三の子。御母韓姫、葛城の円の大臣の女也。庚申の年即位。大倭の磐余甕栗の宮にまします。誕生の始、白髪おはしければ、しらかの天皇とぞ申ける。御子なかりしかば、皇胤のたえぬべき事を歎給て、国々へ勅使をつかはして皇胤を求らる。市辺の押羽の皇子、雄略にころされ給しとき、皇女一人、皇子二人ましけるが、丹波国にかくれ給けるを求出て、御子にしてやしなひ給けり。天下を治給こと五年。三十九歳おまし<き。
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○第二十四代、顕宗天皇は市辺押羽の皇子第三の子、履中天皇孫也。御母■媛、蟻の臣女也。白髪天皇養て子とし給ふ。御兄仁賢先位に即給べかりしを、相共に譲まし<しかば、同母の御姉飯豊の尊しばらく位に居給き。されどやがて顕宗定りまし<しによりて、飯豊天皇をば日嗣にはかぞへたてまつらぬ也。乙丑の年即位。大和の近明日香八釣の宮にまします。天下を治給こと三年。四十八歳おまし<き。
○第二十五代、仁賢天皇は顕宗同母の御兄也。雄略の我父の皇子をころし給しことをうらみて、「御陵をほりて御屍をはづかしめん。」との給しを、顕宗いさめまし<しによりて、徳のおよばざることをはぢて、顕宗をさきだて給けり。戊申の年即位。大和の石上広高の宮にまします。天下を治給こと十一年。五十歳おまし<き。
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○第二十六代、武烈天皇は仁賢の太子。御母大娘の皇女、雄略の御女也。己卯の年即位。大和の泊瀬列城の宮にまします。性さがなくまして、悪としてなさずと云ことなし。仍天祚も久からず。仁徳さしも聖徳まし<しに、此皇胤こゝにたえにき。「聖徳は必百代にまつらる。」〈 春秋にみゆ 〉とこそみえたれど、不徳の子孫あらば、其宗を滅すべき先蹤甚おほし。されば上古の聖賢は、子なれども慈愛におぼれず、器にあらざれば伝ことなし。■の子丹朱不肖なりしかば、舜にさづけ、舜の子商均又不肖にして夏禹に譲られしが如し。■舜よりこなたには猶天下を私にする故にや、必子孫に伝ことになりにしが、禹の後、桀暴虐にして国を失ひ、殷の湯聖徳ありしかど、紂が時無道にして永くほろびにき。天竺にも仏滅度百年の後、阿育と云王あり。姓は孔雀氏、王位につきし
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日、鉄輪飛降る。転輪の威徳をえて、閻浮提を統領す。あまさへ諸の鬼神をしたがへたり。正法を以て天下ををさめ、仏理に通じて三宝をあがむ。八万四千の塔を立て、舎利を安置し、九十六億千の金を棄て功徳に施する人なりき。其三世孫弗沙密多羅王の時、悪臣のすゝめによて、祖王の立たりし塔婆を破壊せんと云悪念をおこし、もろ<の寺をやぶり、比丘を殺害す。阿育王のあがめし■雀寺の仏牙歯の塔をこぼたんとせしに、護法神いかりをなし、大山を化して王及び四兵の衆をおしころす。これより孔雀の種永絶にき。かゝれば先祖大なる徳ありとも、不徳の子孫宗廟のまつりをたゝむことうたがひなし。此天皇天下を治給こと八年。五十八歳おまし<き。
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○第二十七代、第二十世、継体天皇は応神五世の御孫也。応神第八御子隼総別の皇子、其子大迹の王、其子私斐の王、其子彦主人の王、其子男大迹の王と申は此天皇にまします。御母振姫、垂仁七世の御孫也。越前国にましける。武烈かくれ給て皇胤たえにしかば、群臣うれへなげきて国々にめぐり、ちかき皇胤を求奉けるに、此天皇王者の大度まして、潜龍のいきほひ、世にきこえ給けるにや。群臣相議て迎奉る。
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三たびまで謙譲し給けれど、つひに位に即給ふ。ことし丁亥の年也〈 武烈かくれ給て後、二年位をむなしくす 〉。大和の磐余玉穂の宮にまします。仁賢の御女手白香の皇女を皇后とす。即位し給しより誠に賢王にまし<き。応神御子おほくきこえ給しに、仁徳賢王にてまし<しかど、御末たえにき。隼総別の御末、かく世をたもたせ給こと、いかなる故にかおぼつかなし。仁徳をば大鷦鷯の尊と申。第八の皇子をば隼総別と申。仁徳の御代に兄弟たはぶれて、鷦鷯は小鳥也、隼は大鳥也と争給ことありき。隼の名にかちて、末の世をうけつぎ給けるにや。もろこしにもかゝるためしあり〈 左伝にみゆ 〉。名をつくることもつゝしみおもくすべきことにや。それもおのづから天命なりといはば、凡慮の及べきにあらず。此天皇の立給しことぞ思外の御運とみえ侍る。但、皇胤たえぬべかりし時、群臣択求奉き。賢名によりて天位を伝給へり。天照太神の御本意にこそとみえたり。皇統に其人ましまさん時は、賢諸王おはすとも、争か望をなし給べき。皇胤たえ給はんにとりては、賢にて天日嗣にそなはり給はんこと、即又天のゆるす所也。此天皇をば我国中興の祖宗と仰ぎ奉るべきにや。天下を
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治給こと二十五年。八十歳おまし<き。
○第二十八代、安閑天皇は継体の太子。御母は目子姫、尾張の草香の連の女也。甲寅年即位。大和の勾金橋の宮にまします。天下を治給こと
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二年。七十歳おまし<き。
○第二十九代、宣化天皇は継体第二の子、安閑同母の弟也。丙辰の年即位。大和の檜隈廬入野の宮にまします。天下を治給こと四年。七十三歳おまし<き。
○第三十代、第二十一世、欽明天皇は継体第三の子。御母皇后手白香の皇女、仁賢天皇の女也。両兄まし<しかど、此天皇の御すゑ世をたもち給。御母方も仁徳のながれにてましませば、猶も其遺徳つきずしてかくさだまり給けるにや。庚申年即位。大倭磯城嶋の金刺の宮にまします。十三年壬申十月に百済の国より仏・法・僧をわたしけり。此国に伝来の始なり。釈迦如来滅後一千十六年にあたる年、もろこしの後漢の明帝永平十年に仏法はじめて彼国につたはる。それより此壬申の年まで四百八十八年。もろこしには北朝の齊文宣帝即位三年、南朝の梁簡文帝にも即位三年也。簡文帝の父をば
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武帝と申き。大に仏法をあがめられき。此御代の初つかたは武帝同時也。仏法はじめて伝来せし時、他国の神をあがめ給はんこと、我国の神慮にたがふべきよし、群臣かたく諌申けるによりてすてられにき。されど此国に三宝の名をきくことは此時にはじまる。又、私にあがめつかへ奉る人もありき。天皇聖徳まし<て三宝を感ぜられけるにこそ。群臣の諌によりて、其法をたてられずといへども、天皇の叡志にはあらざるにや。昔、仏在世に、天竺の月蓋長者、鋳たてまつりし弥陀三尊の金像を伝へてわたし奉りける、難波の堀江にすてられたりしを、善光と云者とり奉て、信濃の国に安置し申き。今の善光寺これ也。此御時八幡大菩薩始て垂迹しまします。天皇天下を治給こと三十二年。八十一歳おまし<き。
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○第三十一代、第二十二世、敏達天皇は欽明第二の子。御母石媛の皇女、宣化天皇の女也。壬辰年即位。大倭磐余訳語田の宮にまします。二年癸巳年、天皇の御弟豊日皇子の妃、御子を誕生す。厩戸の皇子にまします。生給しよりさま<”の奇瑞あり。たゞ人にましまさず。御手をにぎり給しが、二歳にて東方にむきて、南无仏とてひらき給しかば、一の舎利ありき。仏法流布のために権化し給へること疑なし。此仏舎利は今に大倭の法隆寺にあがめ奉る。天皇天下を治給こと十四年。六十一歳おまし<き。
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○第三十二代、用明天皇は欽明第四の子。御母堅塩姫、蘇我の稲目大臣の女也。豊日の尊と申。厩戸の皇子の父におはします。丙午年即位。大和の池辺列槻の宮にまします。仏法をあがめて、我国に流布せむとし給けるを、弓削守屋の大連かたむけ申、つひに叛逆におよびぬ。厩戸の皇子、蘇我の大臣と心を一にして誅戮せられ、すなはち仏法をひろめられにけり。天皇天下を治給こと二年。四十一歳おまし<き。
○第三十三代、崇峻天皇は欽明第十二の子。御母小姉君の娘。これも稲目の大臣の女也。戊申年即位。大和の倉橋の宮にまします。天皇横死の相みえ給。つゝしみますべきよしを厩戸の皇子奏給けりとぞ。天下を治給こと五年。七十二歳おまし<き。或人の云ふ。外舅蘇我の馬子大臣と御中あしくして、彼大臣のためにころされ給きともいへり。
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○第三十四代、推古天皇は欽明の御女、用明同母の御妹也。御食炊屋姫の尊と申。敏達天皇皇后とし給〈 仁徳も異母の妹を妃とし給ことありき 〉。崇峻かくれ給しかば、癸丑年即位。大倭の小墾田の宮にまします。昔神功皇后六十余年天下を治給しかども、摂政と申て、天皇とは号したてまつらざるにや。此みかどは正位につき給にけるにこそ。即厩戸の皇子を皇太子として万機の政をまかせ給。摂政と申き。太子の監国と云こともあれど、それはしばらくの事也。これはひとへに天下を治給けり。太子聖徳まし<しかば、天下の人つくこと日の如く、仰ぐこと雲の如し。太子いまだ皇子にてまし<し時、逆臣守屋を誅し給しより、仏法始て流布しき。まして政をしらせ給へば、三宝を敬、正法をひろめ給こと、仏世にもことならず。又神通自在にまし<き。御身づから法服を着して、経を講じ給しかば、天より
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花をふらし、放光動地の瑞ありき。天皇・群臣、たふとびあがめ奉ること仏のごとし。伽藍をたてらるゝ事四十余け所におよべり。又此国には昔より人すなほにして法令なんどもさだまらず。十二年甲子にはじめて冠位と云ことをさだめ〈 冠のしなによりて、上下をさだむるに十八階あり 〉、十七年己巳に憲法十七け条をつくりて奏し給。内外典のふかき道をさぐりて、むねをつゞまやかにしてつくり給へる也。天皇悦て天下に施行せしめ給き。此ころほひは、もろこしには隋の世也。南北朝相分しが、南は正統をうけ、北は戎狄よりおこりしかども、中国をば北朝にぞをさめける。隋は北朝の後周と云しがゆづりをうけたりき。後に南朝の陳をうちたひらげて、一統の世となれり。此天皇の元年癸丑は文帝一統の後四年也。十三年乙丑は煬帝の即位元年にあたれり。彼国よりはじめて使をおくり、よしみを通じけり。隋帝の書に「皇帝恭問倭皇。」とありしを、これはもろこしの天子の諸侯王につかはす礼儀なりとて、群臣あやしみ申けるを、太子のの給けるは、「皇の字はたやすく用ざる詞なれば」とて、返報をもかゝせ給、さま<”饗祿をたまひて使をかへしつかはさる。是より此国よりもつねに使をつかはさる。其使を遣隋大使となむなづけられしに、二十七年
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己卯の年、隋滅て唐の世にうつりぬ。二十九年辛巳の年太子かくれ給。御年四十九。天皇をはじめたてまつりて、天下の人かなしみをしみ申こと父母に喪するがごとし。皇位をもつぎましますべかりしかども、権化の御ことなれば、さだめてゆゑありけんかし。御諱を聖徳となづけ奉る。この天皇天下を治給こと三十六年。七十歳おまし<き。
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○第三十五代、第二十四世、舒明天皇は忍坂大兄の皇子の子、敏達の御孫也。御母糠手姫の皇女、これも敏達の御女也。推古天皇は聖徳太子の御子に伝へ給はんとおぼしめしけるにや。されどまさしき敏達の御孫、欽明の嫡曾孫にまします。又太子御病にふし給し時、天皇此皇子を御使としてとぶらひまししに、天下のことを太子の申付給へりけるとぞ。癸丑年即位。大倭の高市郡岡本の宮にまします。此即位の年はもろこしの唐の太宗のはじめ、貞観三年にあたれり。天下を治給こと十三年。四十九歳おまし<き。
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○第三十六代、皇極天皇は茅渟王の女、忍坂大兄の皇子の孫、敏達の曾孫也。御母吉備姫の女王と申き。舒明天皇皇后とし給。天智・天武の御母也。舒明かくれまして皇子をさなくおはしまししかば、壬寅の年即位。大倭明日香河原の宮にまします。此時に蘇我蝦夷の大臣〈 馬子の大臣の子 〉ならびにその子入鹿、朝権を専にして皇家をないがしろにする心あり。其家を宮門と云、諸子を王子となむ云ける。上古よりの国紀重宝みな私家にはこびおきてけり。中にも入鹿悖逆の心はなはだし。聖徳太子の御子達のとがなくまし<しをほろぼし奉る。こゝに皇子中の大兄と申は舒明の御子、やがて此天皇御所生也。中臣鎌足の連と云人と心を一にして入鹿をころしつ。父蝦夷も家に火をつけてうせぬ。国紀重宝はみな焼にけり。蘇我の一門久く権をとれりしかども、積悪のゆゑにやみな滅ぬ。山田石川丸と云人ぞ皇子と心をかよはし申ければ滅せざりける。此鎌足の大臣は天児屋根の命二十一世孫也。昔天孫あまくだり給し時、諸神の上首にて、此命、殊に天照太神の勅をうけて輔佐の神にまします。中臣と云ことも、二神の御中にて、神の御心をやはらげて申給けるゆゑ也とぞ。
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其孫天種子の命、神武の御代に祭事をつかさどる。上古は神と皇と一にまし<しかば、祭をつかさどるは即政をとれる也〈 政の字の訓にても知べし 〉。其後天照太神、始て伊勢国にしづまりましし時、種子の命のすゑ大鹿嶋の命祭官になりて、鎌足大臣の父〈 小徳冠 〉御食子までもその官にてつかへたり。鎌足にいたりて大勲をたて、世に寵せられしによりて、祖業をおこし先烈をさかやかされける、無止こと也。かつは神代よりの余風なれば、しかるべきことわりとこそおぼえ侍れ。後に内臣に任じ大臣に転じ、大織冠となる〈 正一位の名なり 〉。又中臣をあらためて藤原の姓を給らる〈 内臣に任ぜらるゝ事は此御代にはあらず。事の次にしるす 〉。此天皇天下を治給こと三年ありて、同母の御弟軽の王に譲給。御名を皇祖母の尊とぞ申ける。
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○第三十七代、孝徳天皇は皇極同母の弟也。乙巳年即位。摂津国長柄豊崎の宮にまします。此御時はじめて大臣を左右にわかたる。大臣は成務の御時武内の宿禰はじめてこれに任ず。仲哀の御代に又大連の官をおかる。大臣・大連ならびて政をしれり。此御時大連をやめて左右の大臣とす。又八省百官をさだめらる。中臣の鎌足を内臣になし給。天下を治給こと十年。五十歳おまし<き。
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○第三十八代、齊明天皇は皇極の重祚也。重祚と云ことは本朝にはこれに始れり。異朝には殷大甲不明なりしかば、伊尹是を桐宮にしりぞけて三年政をとれりき。されど帝位をすつるまではなきにや。大甲あやまちを悔て徳ををさめしかば、もとのごとく天子とす。晉世に桓玄と云し者、安帝の位をうばひて、八十日ありて、義兵の為にころされしかば、安帝位にかへり給。唐の世となりて、則天皇后世をみだられし時、我所生の子なりしかども、中宗をすてて廬陵王とす。おなじ御子予王をたてられしも又すててみづから位にゐ給。後に中宗位にかへりて唐の祚たえず。予王も又重祚あり。是を睿宗と云ふ。これぞまさしき重祚なれど、二代にはたてず。中宗・睿宗とぞつらねたる。我朝に皇極の重祚を齊明と号し、孝謙の重祚を称徳と号す。異朝にかはれり。天日嗣をおもくするゆゑ歟。先賢の議さだめてよしあるにや。乙卯年即位。このたびは大和の岡本にまします。
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後の岡本の宮と申。此御世はもろこしの唐高宗の時にあたれり。高麗をせめしによりてすくひの兵を申うけしかば、天皇・皇太子つくしまでむかはせ給。されど三韓つひに唐に属ししかば、軍をかへされぬ。其後も三韓よしみをわするゝまではなかりけり。皇太子と申は中の大兄の皇子の御事也。孝徳の御代より太子に立給、此御時は摂政し給とみえたり。天皇天下を治給こと七年。六十八歳おまし<き。
○御三十九代、第二十五世、天智天皇は舒明の御子。御母皇極天皇也。壬戌年即位。近江国大津の宮にまします。即位四年八月に内臣鎌足
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を内大臣大織冠とす。又藤原朝臣の姓を給。昔の大勲を賞給ければ、朝奨ならびなし。先後封を給こと一万五千戸なり。病のあひだにも行幸してとぶらひ給けるとぞ。此天皇中興の祖にまします〈 光仁の御祖なり 〉。国忌は時にしたがひてあらたまれども、これはながくかはらぬことになりにき。天下を治給こと十年。五十八歳おまし<き。
○第四十代、天武天皇は天智同母の弟也。皇太子に立て大倭にまし<き。天智は近江にまします。御病ありしに、太子をよび申給けるを近江の朝廷の臣の中につげしらせ申人ありければ、みかどの御意のおもぶきにやありけん、太子の位をみづからしりぞきて、天智の御子太政大臣大友の皇子に
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ゆづりて、芳野宮に入給。天智かくれ給て後、大友の皇子猶あやぶまれけるにや、軍をめして芳野をおそはんとぞはかり給ける。天皇ひそかに芳野をいで、伊勢にこえ、飯高の郡にいたりて太神宮を■拝し、美濃へかゝりて東国の軍をめす。皇子高市まゐり給しを大将軍として、美濃の不破をまぼらめし、天皇は尾張国にぞこえ給ける。国々したがひ申ししかば、不破の関の軍に打勝ぬ。則勢多にのぞみて合戦あり。皇子の軍やぶれて皇子ころされ給ぬ。大臣以下或は誅にふし、或は遠流せらる。軍にしたがひ申輩しな<”によりて其賞をおこなはる。壬申年即位。大倭の飛鳥浄御原の宮にまします。朝廷の法度おほくさだめられにけり。上下うるしぬりの頭巾をきることも此御時よりはじまる。天下を治給こと十五年。七十三歳おまし<き。
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○第四十一代、持統天皇は天智の御女也。御母越智娘、蘇我の山田石川丸の大臣の女也。天武天皇、太子にまし<しより妃とし給。後に皇后とす。皇子草壁わかくまし<しかば、皇后朝にのぞみ給。戊子年也。庚寅の春正月一日即位。大倭の藤原の宮にまします。草壁の皇子は太子に立給しが、世をはやくし給。よりて其御子軽の王を皇太子とす。文武にまします。前の太子は後に追号ありて長岡天皇と申。此天皇天下を治給こと十年。位を太子にゆづりて太上天皇と申き。太上天皇と云ことは、異朝に、漢高祖の父を太公と云、尊号ありて太上皇と号す。其後後魏の顕祖・唐高祖・玄宗・睿宗等也。本朝には昔は其例なし。皇極天皇位をのがれ給しも、皇祖母の尊と申き。此天皇よりぞ太上天皇の号は侍る。五十八歳おまし<き。
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○第四十二代、文武天皇は草壁の太子第二の子、天武の嫡孫也。御母阿閇の皇女、天智御女也〈 後に元明天皇と申 〉。丁酉年即位。猶藤原の宮にまします。此御時唐国の礼をうつして、宮室のつくり、文武官の衣服の色までもさだめられき。又即位五年辛丑より始て年号あり。大宝と云ふ。これよりさきに、孝徳の御代に大化・白雉、天智の御時白鳳、天武の御代に朱雀・朱鳥なんど云ふ号ありしかど、大宝より後にぞたえぬことにはなりぬる。よりて大宝を年号の始とする也。又皇子を親王と云こと此御時にはじまる。又藤原の内大臣鎌足の子、不比等の大臣、執政の臣にて律令なんどをもえらびさだめられき。藤原の氏、此大臣よりいよ<さかりになれり。四人の子おはしき。是を四門と云ふ。一門は武智麿の大臣の流、南家と云ふ。二門は参議中衛大将房前の流、北家と云ふ。いまの執政大臣およびさるべき藤原の人々みなこの末なるべし。三門は式部卿宇合の流、式家と云ふ。四門は左京大夫麿の流、京家といひしがはやくたえにけり。南家・式家も儒胤
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にていまに相続すと云ども、たゞ北家のみ繁昌す。房前の大将人にことなる陰徳こそおはしけめ。〔裏書云ふ。正一位左大臣武智丸。天平九年七月薨。天平宝字四年八月贈太政大臣。参議正三位中衛大将房前。天平九年四月薨。十月贈左大臣正一位。宝字四年八月贈太政大臣。天平宝字四年八月大師藤原恵美押勝奏。廻所帯大師之任、欲譲南北両大臣者。勅処分、依請南卿藤原武智丸贈太政大臣、北卿〈 贈左大臣房前 〉転贈太政大臣云々。〕又不比等の大臣は後に淡海公と申也。興福寺を建立す。此寺は大織冠の建立にて山背の山階にありしを、このおとゞ平城にうつさる。仍山階寺とも申也。後に玄■と云ふ僧、唐へわたりて法相宗を伝へて、此寺にひろめられしより、氏神春日の明神も殊に此宗を擁護し給とぞ〈 春日神は天児屋の神を本とす。本社は河内の平岡にます。春日にうつり給ことは神護景雲年中のこと也。しからば、此大臣以後のこと也。又春日第一の御殿、常陸鹿嶋神、第二は下総の香取神、三は平岡、四は姫御神と申。しかれば藤氏の氏神は三御殿にまします 〉。此天皇天下を治給こと十一年。二十五歳おまし<き。
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○第四十三代、元明天皇は天智第四の女、持統異母の妹。御母蘇我嬪。これも山田石川丸の大臣の女也。草壁の太子の妃、文武の御母にまします。丁未年即位。戊申に改元。三年庚戌始て大倭の平城宮に都をさだめらる。古には代ごとに都を改、すなはちそのみかどの御名によび奉りき。持統天皇藤原宮にまししを文武はじめて改めたまはず。此元明天皇平城にうつりまし<しより、又七代の都になれりき。天下を治給こと七年。禅位
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ありて太上天皇と申しが、六十一歳おまし<き。
○第四十四代、元正天皇は草壁の太子の御女。御母は元明天皇。文武同母の姉也。乙卯年正月に摂政、九月に受禅、即日即位、十一月に改元。平城宮にまします。此御時百官に笏をもたしむ〈 五位以上牙笏、六位は木笏 〉。天下を治給こと九年。禅位の後二十年。六十五歳おまし<き。
○第四十五代、聖武天皇は文武の太子。御母皇太夫人藤原の宮子、淡海公不比等の大臣の女也。豊桜彦の尊と申。をさなくまししによりて、元明・元正まづ位にゐ給き。甲子年即位、改元。平城宮にまします。此御代大に仏法をあがめ給こと先代にこえたり。東大寺を建立し、金銅十六丈
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の仏をつくらる。又諸国に国分寺及国分尼寺を立て、国土安穏のために法華・最勝両部の経を講ぜらる。又おほくの高僧他国より来朝す。南天竺の波羅門僧正〈 菩提と云ふ 〉、林邑の仏哲、唐の鑒真和尚等是也。真言の祖師、中天竺の善無畏三蔵も来給へりしが、密機いまだ熟せずとてかへり給にけりともいへり。此国にも行基菩薩・朗弁僧正など権化人也。天皇・波羅門僧正・行基・朗弁をば四聖とぞ申伝へたる。此御時太宰少弐藤原広継と云人〈 式部卿宇合の子なり 〉謀叛のきこえあり、追討せらる〈 玄■僧正の讒によれりともいへり。仍霊となる。今の松浦の明神也云々 〉。祈祷のために天平十二年十月伊勢の神宮に行幸ありき。又左大臣長屋王〈 太政大臣高市王の子、天武の御孫なり 〉つみありて誅せらる。又陸奥国より始て黄金をたてまつる。此朝に金ある始なり。国の司の王、賞ありて三位に叙す。仏法繁昌の感応なりとぞ。天下を治給こと二十五年。天位を御女高野姫の皇女にゆづりて太上天皇と申す。後に出家せさせ給。天皇出家の始也。昔天武、東宮の位をのがれて御ぐしおろし給へりしかど、それはしばらくの事なりき。皇后光明子もおなじく出家せさせ給。此天皇五十六歳おまし<き。
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○第四十六代、孝謙天皇は聖武の御女。御母皇后光明子、淡海公不比等の大臣の女也。聖武の皇子安積親王世をはやくして後、男子ましまさず。仍この皇女立給き。己丑年即位、改元。平城宮にまします。天下を治給こと十年。大炊の王を養子として皇太子とす。位をゆづりて太上天皇と申す。出家せさせ給て、平城宮の西宮になむまし<ける。
○第四十七代、淡路廃帝は一品舎人親王の子、天武の御孫也。御母上総介当麻の老が女也。舎人親王は皇子の中に御身の才もましけるにや、知太政官事と云職をさづけられ、朝務を輔給けり。日本紀もこの
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親王勅をうけ玉はてえらび給。後に追号ありて尽敬天皇と申。孝謙天皇御子ましまさず、又御兄弟もなかりければ、廃帝を御子にしてゆづり給。たゞし、年号などもあらためられず。女帝の御まゝなりしにや。戊戌年即位。天下を治給こと六年。事ありて淡路国にうつされ給き。三十三歳おまし<き。
○第四十八代、称徳天皇は孝謙の重祚也。庚戌年正月一日更に即位、同七日改元。太上天皇ひそかに藤原武智麿の大臣の第二の子押勝を幸し給き。大師〈 其時太政大臣を改て大師と云 〉正一位になる。見給へばゑましきとて、藤原に二字
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をそへて藤原恵美の姓を給き。天下の政しかしながら委任せられにけり。後に道鏡と云法師〈 弓削の氏人也 〉又寵幸ありしに、押勝いかりをなし、廃帝をすゝめ申て、上皇の宮をかたぶけんとせしに、ことあらはれて誅にふしぬ。帝も淡路にうつされ給。かくて上皇重祚あり。さきに出家せさせ給へりしかば、尼ながら位にゐ給けるにこそ。非常の極なりけんかし。唐の則天皇后は太宗の女御にて、才人と云ふ官にゐ給へりしが、太宗かくれ給て、尼に成て、感業と云寺におはしける、高宗み給て長髪せしめて皇后とす。諌申人おほかりしかども用られず。高宗崩じて中宗位にゐ給しをしりぞけ、睿宗を立られしを、又しりぞけて、自帝位につき、国を大周とあらたむ。唐の名をうしなはんと思給けるにや。中宗・睿宗もわが生給しかども、すてて諸王とし、みづからの族武氏のともがらをもちて、国を伝へしめむとさへし給き。其時にぞ法師も宦者もあまた寵せられて、世にそしらるゝためしおほくはべりしか。この道鏡はじめは大臣に准じて〈 日本の准大臣のはじめにや 〉大臣禅師と云しを太政大臣になし給。それによりてつぎ<納言・参議にも法師をまじへなされにき。道鏡世を心のまゝにしければ、あらそふ人のなかりし
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にや。大臣吉備の真備の公、左中弁藤原の百川などありき。されど、ちからおよばざりけるにこそ。法師の官に任ずることは、もろこしより始て、僧正・僧統など云事のありし、それすら出家の本意にはあらざるべし。いはんや俗の官に任ずる事あるべからぬ事にこそ。されど、もろこしにも南朝の宋の世に恵琳と云し人、政事にまじらひしを黒衣宰相といひき〈 但これは官に任とはみえず 〉。梁の世に恵超と云し僧、学士の官になりき。北朝魏の明元帝の代に法果と云僧、安城公の爵をたまはる。唐の世となりてはあまたきこえき。粛宗の朝に道平と云人、帝と心を一にして安祿山が乱をたひらげし故に、金吾将軍になされにけり。代宗の時、天竺の不空三蔵をたふとび給あまりにや、特進試鴻臚卿をさづけらる。後に開府儀同三司粛国公とす。帰寂ありしかば司空の官をおくらる〈 司空は大臣の官なり 〉。則天の朝よりこの女帝の御代まで六十年ばかりにや。両国のこと相似たりとぞ。天下を治給こと五年。五十七歳おまし<き。天武・聖武国に大功あり、仏法をもひろめ給しに、皇胤ましまさず。此女帝にてたえ給ぬ。女帝かくれ給しかば、道鏡をば下野の講師になしてながしくだされにき。抑此道鏡は法王の位をさづけられたりし、猶あかずして
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皇位につかんといふ心ざしありけり。女帝さすが思わづらひ給けるにや、和気清丸と云ふ人を勅使にさして、宇佐の八幡宮に申されける。大菩薩さま<”託宣ありて更にゆるされず。清丸帰参してありのまゝに奏聞す。道鏡いかりをなして、清丸がよぼろすぢをたちて、土左国にながしつかはす。清丸うれへかなしみて、大菩薩をうらみかこち申ければ、小蛇出来てそのきずをいやしけり。光仁位につき給しかば、即めしかへさる。神威をたうとび申て、河内国に寺を立て、神願寺と云ふ。後に高雄の山にうつし立。今の神護寺これなり。件のころまでは神威もかくいちじるきことなりき。かくて道鏡つひにのぞみをとげず。女帝も又程なくかくれ給。宗廟社稷をやすくすること、八幡の冥慮たりしうへに、皇統をさだめたてまつることは藤原百川朝臣の功なりとぞ。
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○第四十九代、第二十七世、光仁天皇は施基皇子の子、天智天皇の御孫也〈 皇子は第三の御子なり。追号ありて田原の天皇と申 〉。御母贈皇太后紀旅子、贈太政大臣旅人の女也。白壁の王と申き。天平年中に御年二十九にて従四位下に叙し、次第に昇進せさせ給て、正三位勲二等大納言に至給き。称徳かくれましまし
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しかば、大臣以下皇胤の中をえらび申けるに、おの<異議ありしかど、参議百川と云し人、この天皇に心ざしたてまつりて、はかりことをめぐらしてさだめ申てき。天武世をしり給しよりあらそひ申人なかりき。しかれど天智御兄にてまづ日嗣をうけ給。そのかみ逆臣を誅し、国家をも安し給へり。この君のかく継体にそなはり給、猶正にかへるべきいはれなるにこそ。まづ皇太子に立、すなはち受禅〈 御年六十二 〉。ことし庚戌年なり。十月に即位、十一月改元。平城宮にまします。天下を治給こと十二年。七十三歳おまし<き。
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○第五十代、第二十八世、桓武天皇は光仁第一の子。御母皇太后高野の新笠、贈太政大臣乙継の女也。光仁即位のはじめ井上の内親王〈 聖武御女 〉をもて皇后とす。彼所生の皇子沢良の親王、太子に立給き。しかるを百川朝臣、此天皇にうけつがしめたてまつらんと心ざして、又はかりことをめぐらし、皇后および太子をすてて、つひに皇太子にすゑたてまつりき。その時しばらく不許なりければ、四十日まで殿の前に立て申けりとぞ。たぐひなき忠烈の臣也けるにや。皇后・前太子せめられてうせ給にき。怨霊をやすめられんためにや、太子はのちに追号ありて崇道天皇と申。辛酉の年即位、壬戌に改元。はじめは平城にまします。山背の長岡にうつり、十年ばかり都なりしが、又今の平安城にうつさる。山背の国をもあらためて山城と云ふ。永代にかはるまじくなんはからはせ給ける。昔聖徳太子蜂岡にのぼり給て〈 太秦これなり 〉いまの城をみめぐらして、「四神相応の地也。百七十余年ありて都をうつされて、かはるまじき所なり。」との給けりとぞ申伝たる。その年紀もたがはず、又数十代不易の都となりぬる、誠に王気相応の福地たるにや。この天皇大に仏法をあがめ給。延暦二十三年伝教・弘法勅をうけて唐へわたり給。其時すなはち唐朝へ使
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をつかはさる。大使は参議左大弁兼越前守藤原葛野麿朝臣也。伝教は天台の道邃和尚にあひ、その宗をきはめて同二十四年に大使と共に帰朝せらる。弘法は猶かの国にとゞまりて大同年中に帰給。この御時東夷叛乱しければ、坂上の田村丸を征東大将軍になしてつかはされしに、こと<”くたひらげてかへりまうでけり。この田村丸は武勇人にすぐれたりき。初は近衛の将監になり、少将にうつり、中将に転じ、弘仁の御時にや、大将にあがり、大納言をかけたり。文をもかねたればにや、納言の官にものぼりにける。子孫はいまに文士にてぞつたはれる。天皇天下を治給こと二十四年。七十歳おまし<き。
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巻四
○第五十一代、平城天皇は桓武第一の子。御母皇太后藤原の乙牟漏、贈太政大臣良継の女也。丙戌年即位、改元。平安宮にまします〈 これより遷都なきによりて御在所をしるすべからず 〉。天下を治給こと四年。太弟にゆづりて太上天皇と申。平城の旧都にかへりてすませ給けり。尚侍藤原の薬子を寵ましけるに、其弟参議右兵衛督仲成等申すゝめて逆乱の事ありき。田村丸を大将軍として追討せられしに、平城の軍やぶれて、上皇出家せさせ給。御子東宮高岡の親王もすてられて、おなじく出家、弘法大師の弟子になり、真如親王と申はこれなり。薬子・仲成等誅にふしぬ。上皇五十一歳までおまし<き。
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○第五十二代、第二十九世、嵯峨天皇は桓武第二の子、平城同母の弟也。太弟に立給へりしが、己丑年即位、庚寅に改元。此天皇幼年より聰明にして読書を好、諸芸を習給。又謙譲の大度もましましけり。桓武帝鍾愛無双の御子になんおはしける。儲君にゐ給けるも父のみかど継体のために顧命しまし<けるにこそ。格式なども此御時よりえらびはじめられにき。又深仏法をあがめ給。先世に美濃国神野と云所にたふとき僧ありけり。橘太后の先世にねむごろに給仕しけるを感じて相共に再誕ありとぞ。御諱を神野と申けるも自然にかなへり。伝教〈 御名最澄 〉弘法〈 御名空海 〉両大師唐より伝へ給し天台・真言の両宗も、この御時よりひろまり侍ける。此両師直也人におはせず。伝教入唐以前より比叡山をひらきて練行せられけり。今の根本中堂の地をひかれけるに、八の舌ある鎰をもとめいでて唐までもたれたり。天台山にのぼりて智者大師〈 天台の宗おこりて四代の祖なり。天台大師とも云 〉六代の正統道邃和尚に謁して、その宗をならはれしに、彼
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山に智者帰寂より以来鎰をうしなひてひらかざる一蔵ありき。心みに此鎰にてあけらるゝにとゞこほらず。一山こぞりて渇仰しけり。仍一宗の奥義のこる所なく伝られたりとぞ。其後慈覚・智証両大師又入唐して天台・真言をきはめならひて、叡山にひろめられしかば、彼門風いよ<さかりになりて天下に流布せり。
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唐国みだれしより経教おほくうせぬ。道邃より四代にあたれる義寂と云人まで、たゞ観心を伝へて宗義をあきらむることたえにけるにや。呉越国の忠懿王〈 姓は銭、名は鏐、唐の末つかたより東南の呉越を領して偏覇の主たり 〉此宗のおとろへぬることをなげきて、使者十人をさして、我朝におくり、教典をもとめしむ。こと<”くうつしをはりてかへりぬ。義寂これを見あきらめて、更に此宗を再興す。もろこしには五代の中、後唐の末ざまなりければ、我朝には朱雀天皇の御代にやあたりけん。日本よりかへしわたしたる宗なれば、此国の天台宗はかへりて本となるなり。凡伝教彼
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宗の秘密を伝へられたることも〈 唐台州刺史陸淳が印記の文にあり 〉こと<”く一宗の論疏をうつし、国にかへれることも〈 釈志磐が仏祖統紀にのせたり 〉異朝の書にみえたり。弘法は母懐胎の始、夢に天竺の僧来りて宿をかり給けりとぞ。宝亀五年甲寅六月十五日誕生。この日唐の大暦九年六月十五日にあたれり。不空三蔵入滅す。仍かの後身と申也。かつは恵果和尚の告にも「我と汝と久契約あり。誓て密蔵を弘。」とあるもそのゆゑにや。渡唐の時も或は五筆の芸をほどこし、さま<”の神異ありしかば、唐の主、順宗皇帝ことに仰信じ給き。彼恵果〈 真言第六の祖、不空の弟子 〉和尚六人の附法あり。剣南の惟上・河北の義円〈 金剛一界を伝 〉、新羅の恵日・訶陵の弁弘〈 胎蔵一界を伝 〉、青龍の義明・日本の空海〈 両部を伝 〉。義明は唐朝におきて潅頂の師たるべかりしが世をはやくす。弘法は六人の中に瀉瓶たり〈 恵果の俗弟子呉殷が纂の詞にあり 〉。しかれば、真言の宗には正統なりといふべきにや。これ又異朝の書にみえたる也。伝教も、不空の弟子順暁にあひて真言を伝へられしかど、在唐いくばくなかりしかば、ふかく学せられざりしにや。帰朝の後、弘法にもとぶらはれけり。又いまこの流たえにけり。慈覚・智証は恵果の弟子義操・法潤ときこえしが弟子法全にあひて
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伝へらる。凡本朝流布の宗、今は七宗也。此中にも真言・天台の二宗は祖師の意巧専鎮護国家のためと心ざされけるにや。比叡山には〈 比叡と云こと桓武・伝教心を一にして興隆せられしゆゑなづくと彼山の輩称也。しかれど旧事本紀に比叡の神の御ことみえたり 〉顕密ならびて紹隆す。殊に天子本命の道場をたてて御願を祈る地なり〈 これは密につくべし 〉。又根本中堂を止観院と云ふ。法華の経文につき、天台の宗義により、かた<”鎮護の深義ありとぞ。東寺は桓武遷都の初、皇城の鎮のためにこれをたてらる。弘仁の御時、弘法に給てながく真言の寺とす。諸宗の雑住をゆるさざる地也。此宗を神通乗と云ふ。如来果上の法門にして諸教にこえたる極秘密とおもへり。就中我国は神代よりの縁起、此宗の所説に符合せり。このゆゑにや唐朝に流布せしはしばらくのことにて、則日本にとゞまりぬ。又相応の宗なりと云もことわりにや。大唐の内道場に准じて宮中に真言院をたつ〈 もとは勘解由使の庁なり 〉。大師奏聞して毎年正月この所にて御修法あり。国土安穏の祈祷、稼穡豊饒の秘法也。又十八日の観音供、晦日の御念誦等も宗によりて深意あるべし。三流の真言いづれと云べきならねど、真言をもて諸宗の第一とすることもむねと東寺によれり。延喜の御宇に綱所の印鎰を東寺
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の一阿闍梨にあづけらる。仍法務のことを知行して諸宗の一座たり。山門・寺門は天台をむねとするゆゑにや、顕密をかねたれど宗の長をも天台座主と云めり。此天皇諸宗を並て興ぜさせ給けり。中にも伝教・弘法御帰依ふかゝりき。伝教始て円頓の戒壇をたつべきよし奏せられしを、南京の諸宗表を上てあらそひ申ししかど、つひに戒壇の建立をゆるされ、本朝四け所の戒場となる。弘法はことさら師資の御約ありければ、おもくし給けるとぞ。
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此両宗の外、華厳・三論は東大寺にこれをひろめらる。彼華厳は唐の杜順和尚よりさかりになれりしを、日本の朗弁僧正伝へて東大寺に興隆す。此寺は則此宗によりて建立せられけるにや、大華厳寺と云名あり。三論は東晉の同時に後秦と云国に、羅什三蔵と云師来て、此宗をひらきて世に伝へたり。孝徳の御世に高麗の僧恵潅来朝して伝へ始ける。しからば最前流布の教にや。其後道慈律師請来して大安寺にひろめき。今は華厳とならびて東大寺にあり。法相は興福寺にあり。唐玄弉三蔵天竺より伝へて国にひろめらる。日本の定恵和尚〈 大織冠の子なり 〉彼国にわたり玄弉の弟子たりしかど、帰朝の後世をはやくす。今の法相は玄■僧正と云人入唐して泗州の智周大師〈 玄弉二世の弟子 〉にあひてこれを伝へて流布しけるとぞ。春日の神もことさら此宗を擁護し給なるべし。此三宗に天台をくはへて四家の大乗と云ふ。倶舎・成実なむど云は小乗也。道慈律師おなじく伝て流布せ
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られけれども、依学の宗にて、別に一宗を立ことなし。我国大乗純熟の地なればにや、小乗を習人なき也。又律宗は大小に通ずる也。鑒真和尚来朝してひろめられしより東大寺および下野の薬師寺・筑紫の観音寺に戒壇をたてて、此戒をうけぬものは僧籍につらならぬ事になりにき。中古より以来、其名ばかりにて戒体をまぼることたえにけるを、南都の思円上人等章疏を見あきらめて戒師となる。北京には我禅上人入宋して彼土の律法をうけ伝てこれをひろむ。南北の律再興して彼宗に入輩は威儀を具することふるきがごとし。
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禅宗は仏心宗とも云ふ。仏の教外別伝の宗なりとぞ。梁の代に天竺の達磨大師来てひろめられしに、武帝に機かなはず。江を渡て北朝にいたる。嵩山
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と云所にとゞまり、面壁して年をおくられける。後に恵可これをつぐ。恵可より下、四世に弘忍禅師ときこえし、嗣法南北に相分る。北宗の流をば伝教・慈覚伝て帰朝せられき。安然和尚〈 慈覚孫弟 〉教時諍論と云書に教理の浅深を判ずるに、真言・仏心・天台とつらねたり。されど、うけ伝人なくてたえにき。近代となりて南宗のながれおほくつたはる。異朝には南宗の下に五家あり。その中臨済宗の下より又二流となる。これを五家七宗と云ふ。本朝には栄西僧正、黄龍の流をくみて伝来の後、聖一上人、石霜の下つかた虎丘のながれ無準にうく。彼宗のひろまることは此両師よりのこと也。うちつゞき異朝の僧もあまた来朝し、此国よりもわたりて伝へしかば、諸家の禅おほく流布せり。五家七宗とはいへども、以前の顕・密・権・実等の不同には相似べからず。いづれも直指人心、見性成仏の門をばいでざる也。弘仁の御宇より真言・天台のさかりになることを聊しるし侍につきて、大方の宗々伝来のおもむきを載たり。極てあやまりおほく侍らん。但君としてはいづれの宗をも大概しろしめして捨られざらんことぞ国家攘災の御はかりことなるべき。菩薩・大士もつかさどる宗あり。我朝の神明もとりわき擁護し給ふ
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教あり。一宗に志ある人余宗をそしりいやしむ、大なるあやまり也。人の機根もしな<”なれば教法も無尽なり。況わが信ずる宗をだにあきらめずして、いまだしらざる教をそしらむ、極たる罪業にや。われは此宗に帰すれども、人は又彼宗に心ざす。共に随分の益あるべし。是皆今生一世の値遇にあらず。国の主ともなり、輔政の人ともなりなば、諸教をすてず、機をもらさずして得益のひろからんことを思給べき也。且は仏教にかぎらず、儒・道の二教乃至もろ<の道、いやしき芸までもおこしもちゐるを聖代と云べき也。
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凡男夫は稼穡をつとめておのれも食し、人にもあたへて、飢ざらしめ、女子は紡績をこととしてみづからもき、人をしてあたゝかにならしむ。賎に似たれども人倫の大本也。天の時にしたがひ、地の利によれり。此外商沽の利を通ずるもあり、工巧のわざを好もあり、仕官に心ざすもあり、是を四民と云ふ。仕官するにとりて文武の二の道あり。坐て以道を論ずるは文士の道也。此道に明ならば相とするにたへたり。征て功を立は武人のわざなり。此わざに誉れあらば将とするにたれり。されば文武の二はしばらくもすて給べからず。「世みだれたる時は武を右にし文を左にす。
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国をさまれる時は文を右にし武を左にす。」といへり〈 古に右を上にす。仍しかいふ也 〉。かくのごとくさま<”なる道をもちゐて、民のうれへをやすめ、おの<あらそひなからしめん事を本とすべし。民の賦斂をあつくしてみづからの心をほしきまゝにすることは乱世乱国のもとゐ也。我国は王種のかはることはなけれども、政みだれぬれば、暦数ひさしからず。継体もたがふためし、所々にしるし侍りぬ。いはんや、人臣として其職をまぼるべきにおきてをや。
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抑民をみちびくにつきて諸道・諸芸みな要枢也。古には詩・書・礼・楽をもて国を治る四術とす。本朝は四術の学をたてらるゝことたしかならざれど、紀伝・明経・明法の三道に詩・書・礼を摂すべきにこそ。算道を加て四道と云ふ。代々にもちゐられ、其職を置るゝことなればくはしくするにあたはず。医・陰陽の両道又これ国の至要也。金石糸竹の楽は四学の一にて、もはら政をする本也。今は芸能の如くに思へる、無念のこと也。「風を移し俗をかふるには楽よりよきはなし。」といへり。一音より五声・十二律に転じて、治乱をわきまへ、興衰を知べき道とこそみえたれ。又詩賦哥詠の風もいまの人のこのむ所、詩学の本にはことなり。しかれど一心よりおこりて、よろづのことの葉となり、末の世なれど人を感ぜしむる道也。これをよくせば僻をやめ邪をふせぐをしへなるべし。かゝればいづれか心の源をあきらめ、正にかへる術なからむ。輪扁が輪をけづりて齊桓公ををしへ、弓工が弓をつくりて唐の太宗をさとらしむるたぐひもあり。乃至囲碁弾碁の戯まで
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もおろかなる心ををさめ、かろ<”しきわざをとゞめんがためなり。たゞし其源にもとづかずとも、一芸はまなぶべきことにや。孔子も「飽食て終日に心を用所なからんよりは博■をだにせよ。」と侍めり。まして一道をうけ、一芸にも携らん人、本をあきらめ、理をさとる志あらば、これより理世の要ともなり、出離のはかりことともなりなむ。一気一心にもとづけ、五大五行により相剋・相生をしり自もさとり他にもさとらしめん事、よろづの道其理一なるべし。
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此御門誠に顕密の両宗に帰給しのみならず、儒学もあきらかに、文章もたくみに、書芸もすぐれ給へりし、宮城の東面の額も御みづからかゝしめ給き。天下を治給こと十四年。皇太弟にゆづりて太上天皇と申。帝都の西、嵯峨山と云所に離宮をしめてぞまし<ける。一旦国をゆづり給しのみならず、行末までもさづけましまさんの御心ざしにや、新帝の御子、恒世の親王
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を太子に立給しを、親王又かたく辞退して世をそむき給けるこそありがたけれ。上皇ふかく謙譲しましけるに、親王又かくのがれ給ける、末代までの美談にや。昔仁徳兄弟相譲給し後にはきかざりしこと也。五十七歳おまし<き。
○第五十三代、淳和天皇、西院の帝とも申。桓武第三の子。御母贈皇太后藤原の旅子、贈太政大臣百川の女也。癸卯年即位、甲辰に改元。天下を治給こと十年。太子にゆづりて太上天皇と申。此時両上皇まし<ければ、嵯峨をば前太上天皇、此御門をば後太上天皇と申き。嵯峨御門の御おきてにや、東宮には又此帝の御子恒貞親王立給しが、両上皇かくれましし後にゆゑありてすてられ給き。五十七歳おまし<き。
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○第五十四代、第三十世、仁明天皇。諱は正良〈 これよりさき御諱たしかならず。おほくは乳母の姓などを諱にもちゐられき。これより二字たゞしくましませばのせたてまつる 〉、深草の帝とも申。嵯峨第二の子。御母皇太后橘の嘉智子、贈太政大臣清友女也。癸丑年即位、甲寅に改元。此天皇は西院の御門の猶子の儀まし<ければ、朝覲も両皇にせさせ給。或時は両皇同所にして覲礼もありけりとぞ。我国のさかりなりしことはこの比ほひにやありけん。遣唐使もつねにあり。帰朝の後、建礼門の前に、彼国のたから物の市をたてて、群臣にたまはすることも有き。律令は文武の御代よりさだめられしかど、此御代にぞえらびとゝのへられにける。天下を治給こと十七年。四十一歳おまし<き。
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○第五十五代、文徳天皇。諱は道康、田村の帝とも申。仁明第一の子。御母太皇太后藤原順子〈 五条の后と申 〉、左大臣冬嗣の女也。庚午年即位、辛未に改元。天下を治給こと八年。三十三歳おまし<き。
○第五十六代、清和天皇。諱は惟仁、水尾の帝とも申。文徳第四の子。御母皇太后藤原の明子〈 染殿の后と申 〉、摂政太政大臣良房の女也。我朝は幼主位にゐ給ことまれなりき。此天皇九歳にて即位、戊寅年也。己卯に改元。践祚ありしかば、外祖良房の大臣はじめて摂政せらる。摂政と云こと、もろこしには唐■の時、虞舜を登用て政をまかせ給き。これを摂政と云ふ。かくて三十年ありて正位をうけられき。殷の代に伊尹と云聖臣あり。湯及大甲を輔佐す。是は保衡と云〈 阿衡とも云ふ 〉。其心は摂政也。
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周の世に周公旦又大聖なりき。文王の子、武王の弟、成王の叔父なり。武王の代には三公につらなり、成王わかくて位につき給しかば、周公みづから南面して摂政す〈 成王を負て南面せられけりともみえたり 〉。漢昭帝又幼にて即位。武帝の遺詔により博陸侯霍光と云人、大司馬大将軍にて摂政す。中にも周公・霍氏をぞ先蹤にも申める。本朝には応神うまれ給て襁褓にまし<しかば、神功皇后天位にゐ給。しかれど摂政と申伝たり。これは今の儀にはことなり。推古天皇の御時厩戸皇太子摂政し給。これぞ帝は位に備て天下の政しかしながら摂政の御まゝなりける。齊明天皇の御世に、御子中の大兄の皇太子摂政し給。元明の御世のすゑつかた、皇女浄足姫の尊〈 元正天皇の御ことなり 〉しばらく摂政し給き。この天皇の御時良房の大臣の摂政よりしてぞまさしく人臣にて摂政することははじまりにける。但此藤原の一門神代よりゆゑありて国王をたすけ奉ることはさきにも所々にしるし侍りき。淡海公の後、参議中衛大将房前、其子大納言真楯、その子右大臣内麿、この三代は上二代のごとくさかえずやありけむ。内麿の子冬嗣の大臣〈 閑院の左大臣と云ふ。後に贈太政大臣 〉藤氏の衰ぬることをなげきて、弘法大師に申あはせて興福寺に南円堂
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をたてて祈申されけり。此時明神役夫にまじはりて、
補陀落の南の岸に堂たてて今ぞさかえん北の藤浪 W
と詠給けるとぞ。此時源氏の人あまたうせにけりと申人あれど、大なるひがこと也。皇子皇孫の源の姓を給て高官高位にいたることは此後のことなれば、誰人かうせ侍べき。されど彼一門のさかえしこと、まことに祈請にこたへたりとはみえたり。
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大方この大臣とほき慮おはしけるにこそ。子孫親族の学問をすゝめんために勧学院を建立す。大学寮に東西の曹司あり。菅・江の二家これをつかさどりて、人を教る所也。彼大学の南にこの院を立られしかば、南曹とぞ申める。氏長者たる人むねとこの院を管領して興福寺及氏の社のことをとりおこなはる。良房の大臣摂政せられしより彼一流につたはりて、
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たえぬことになりたり。幼主の時ばかりかとおぼえしかど、摂政関白もさだまれる職になりぬ。おのづから摂関と云名をとめらるゝ時も、内覧の臣をおかれたれば、執政の儀かはることなし。天皇おとなび給ければ、摂政まつりことをかへしたてまつりて、太政大臣にて白河に閑居せられにけり。君は外孫にましませば、猶も権をもはらにせらるともあらそふ人あるまじくや。されど謙退の心ふかく閑適をこのみて、つねに朝参などもせられざりけり。其比大納言伴善男と云人寵ありて大臣をのぞむ志なんありける。時に三公闕なかりき〈 太政大臣良房、左大臣信、右大臣良相 〉。信の左大臣をうしなひて、其闕にのぞみ任ぜんとあひはかりて、まづ応天門を焼しむ。左大臣世をみだらんとするくはたてなりと讒奏す。天皇おどろき給て、糺明におよばず、右大臣に召仰て、すでに誅せらるべきになりぬ。太政大臣このことをきゝ驚遽られけるあまりに、烏帽子直衣をきながら、白昼に騎馬して、馳参じて申なだめられにけり。其後に善男が陰謀あらはれて流刑に処せらる。此大臣の忠節まことに無止ことになん。天皇仏法に帰給て、つねに脱■の御志ありき。慈覚大師に受戒し給、法号を授奉らる。素真と申。在位の帝、法号をつき給ことよのつねなら
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ぬにや。昔隋煬帝の晉王と云し時、天台の智者に受戒して惣持と云名をつかれたりし、よからぬ君の例なれど、智者の昔のあとなれば、なぞらへもちゐられにけるにや。又この御時、宇佐の八幡大菩薩皇城の南、男山石清水にうつり給。天皇聞食て勅使をつかはし、その所を点じ、もろ<のたくみにおほせて、新宮をつくりて宗廟に擬せらる〈 鎮坐の次第は上にみえたり 〉。天皇天下を治給こと十八年。太子にゆづりてしりぞかせ給。中三とせばかりありて出家、慈覚の弟子にて潅頂うけさせ給。丹波の水尾と云所にうつらせ給て、練行しまししが、ほどなくかくれ給。御年三十一歳おまし<き。
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○第五十七代、陽成天皇。諱は貞明、清和第一の子。御母皇太后藤原高子〈 二条の后と申 〉、贈太政大臣長良の女也。丁酉年即位、改元。右大臣基経摂政して太政大臣に任ず〈 此大臣は良房の養子なり。実は中納言長良の男。此天皇の外舅也 〉。忠仁公の故事のごとし。此天皇性悪にして人主の器にたらずみえ給ければ、摂政なげきて廃立のことをさだめられにけり。昔漢の霍光、昭帝をたすけて摂政せしに、昭帝世をはやくし給しかば、昌邑王を立て天子とす。昌邑不徳にして器にたらず。即廃立をおこなひて宣帝を立奉りき。霍光が大功とこそしるし伝へはべるめれ。此大臣まさしき外戚の臣にて政をもはらにせられしに、天下のため大義をおもひてさだめおこなはれける、いとめでたし。されば一家にも人こそおほくきこえしかど、摂政関白はこの大臣のすゑのみぞたえせぬことになりにける。つぎ<大臣大将にのぼる藤原の人々もみなこの大臣の苗裔なり。積善の余慶なりとこそおぼえはべれ。天皇天下を治給こと八年にてしりぞけられ、八十一歳までおまし<き。
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○第五十八代、第三十一世、光孝天皇。諱は時康、小松御門とも申。仁明第二の子。御母贈皇太后藤原の沢子、贈太政大臣総継の女なり。陽成しりぞけられ給し時、摂政昭宣公もろ<の皇子を相申されけり。此天皇一品式部卿兼常陸太守ときこえしが、御年たかくて小松の宮にまし<けるに、俄にまうでて見給ければ、人主の器量余の皇子たちにすぐれましけるによりて、すなはち儀衛をとゝのへてむかへ申されけり。本位の服を着しながら鸞輿に駕して大内にいらせ給にき。ことし甲辰年なり。乙巳に改元。践祚のはじめ摂政を改て関白とす。これ我朝関白の始なり。漢の霍光摂政たりしが、宣帝の時政をかへして退けるを、「万機の政猶霍光に関白しめよ。」とありし、その名を取りてさづけられにけり。此天皇昭宣公のさだめによりて立給しかば御志もふかゝりしにや、其子を殿上にめして元服せしめ、御みづから位記をあそばして正五位下になし給けりとぞ。久絶にける芹川の御幸などありて、ふるきあとをおこさるゝことどもきこえき。
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天下を治給こと三年。五十七歳おまし<き。
大かた天皇の世つぎをしるせるふみ、昔より今に至まで家々にあまたあり。
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かくしるし侍もさらにめづらしからぬことなれど、神代より継体正統のたがはせ給はぬ一はしを申さんがためなり。我国は神国なれば、天照太神の御計にまかせられたるにや。されど其中に御あやまりあれば、暦数も久からず。又つひには正路にかへれど、一旦もしづませ給ためしもあり。これはみなみづからなさせ給御とがなり。冥助のむなしきにはあらず。仏も衆生をみちびきつくし、神も万姓をすなほならしめんとこそし給へど、衆生の果報しな<”に、うくる所の性おなじからず。十善の戒力にて天子とはなり給へども、代々の御行迹、善悪又まち<也。かゝれば本を本として正にかへり、元をはじめとして邪をすてられんことぞ祖神の御意にはかなはせ給べき。神武より景行まで十二代は御子孫そのまゝつがせ給へり。うたがはしからず。日本武の尊世をはやくしまししによりて、御弟成務へだたり給しかど、日本武の御子にて仲哀伝へまし<ぬ。仲哀・応神の御後に仁徳つたへ給へりし、武烈悪王にて日嗣たえましし時、応神五世の御孫にて、継体天皇えらばれ立給。これなむめづらしきためしに侍る。されど二をならべてあらそふ時にこそ傍正の疑もあれ、群臣皇胤なきことをうれへて求出奉りしうへ
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に、その御身賢にして天の命をうけ、人の望にかなひまし<ければ、とかくの疑あるべからず。其後相続て天智・天武御兄弟立給しに、大友の皇子の乱によりて、天武の御ながれ久伝へられしに、称徳女帝にて御嗣もなし。又政もみだりがはしくきこえしかば、たしかなる御譲なくて絶にき。光仁又かたはらよりえらばれて立給。これなん又継体天皇の御ことに似玉へる。しかれども天智は正統にてまし<き。第一の御子大友こそあやまりて天下をえ給はざりしかど、第二の皇子にて施基のみこ御とがなし。其御子なれば、此天皇の立給へること、正理にかへるとぞ申侍べき。今の光孝又昭宣公のえらびにて立給といへども、仁明の太子文徳の御ながれなりしかど、陽成悪王にてしりぞけられ給しに、仁明第二の御子にて、しかも賢才諸親王にすぐれまし<ければ、うたがひなき天命とこそみえ侍し。かやうにかたはらより出給こと是まで三代なり。人のなせることとは心えたてまつるまじき也。さきにしるし侍ることはりをよくわきまへらるべき者哉。光孝より上つかたは一向上古也。よろづの例を勘も仁和より下つかたをぞ申める。古すら猶かゝる理にて天位を嗣給。ましてすえの世にはまさしき御ゆづりならでは、
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たもたせ給まじきことと心えたてまつるべき也。此御代より藤氏の摂■の家も他流にうつらず、昭宣公の苗裔のみぞたゞしくつたへられにける。上は光孝の御子孫、天照太神の正統とさだまり、下は昭宣公の子孫、天児屋の命の嫡流となり給へり。二神の御ちかひたがはずして、上は帝王三十九代、下は摂関四十余人、四百七十余年にもなりぬるにや。
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○第五十九代、第三十二世、宇多天皇。諱は定省、光孝第三の子。御母皇太后班子の女王、仲野親王〈 桓武御子 〉の女也。元慶の比、孫王にて源氏の姓
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を給らせまします。そのかみ、つねに鷹狩をこのませ給けるに、ある時賀茂大明神あらはれて皇位につかせ給べきよしをしめし申されけり。践祚の後、彼社の臨時の祭をはじめられしは、大神の申うけ給けるゆゑとぞ。仁和三年丁未の秋、光孝御病ありしに、御兄の御子たちをおきて譲をうけ給。先親王とし、皇太子にたち、即受禅。同年の冬即位。中一とせありて己酉に改元。践祚の初より太政大臣基経又関白せらる。此関白薨て後はしばらくその人なし。天下を治給こと十年。位を太子にゆづりて太上天皇と申。中一とせばかりありて出家せさせ給。御年三十三にや。わかくよりその御志ありきとぞ仰給ける。弘法大師四代の弟子益信僧正を御師にて東寺にして潅頂せさせ給。又智証大師の弟子増命僧正にも〈 于時法橋也。後謚云靜観 〉比叡山にてうけさせ給へり。弘法の流をむねとせさせ給ければ、其御法流とて今にたえず、仁和寺に伝侍は是なり。およそ弘法の流に広沢〈 仁和寺 〉・小野〈 醍醐寺・勧修寺 〉の二あり。広沢は法皇の御弟子寛空僧正、寛空の弟子寛朝僧正〈 敦実親王子、法皇御孫也 〉。寛朝広沢にすまれしかば、かの流と云ふ。そののち代々の御室相伝へてたゞ人はあひまじはらず〈 法流をあづけられて師範となることは両度あり。されど御室は代々親王なり 〉。
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小野の流は益信の相弟子に聖宝僧正とて知法無双の人ありき。大師の嫡流と称することのあるにや。しかれど年戒おとられけるゆゑにや、法皇御潅頂の時は色衆につらなりて歎徳と云ことをつとめられたりき。延喜の護持僧にて、ことに崇重給き。其弟子観賢僧正もあひついで護持申。おなじく崇重ありき。綱中の法務を東寺の一阿闍梨につけられしもこの時より始る〈 正の法務はいつも東寺の一の長者なり。諸寺になるはみな権法務なり。又仁和寺の御室、惣の法務にて、綱所を召仕るゝことは後白河以来の事歟 〉。
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此僧正は高野にまうでて、大師入定の窟を開て御髪を剃、法服をきせかへ申し人なり。其弟子淳祐〈 石山の内供と云 〉相伴はれけれどもつゐに見奉らず。師の僧正、その手をとりて御身にふれしめけりとぞ。淳祐罪障の至をなげきて卑下の心ありければ、弟子元杲僧都に〈 延命院と云 〉許可ばかりにて授職
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をゆるさず。勅定によりて法皇の御弟子寛空にあひて授職潅頂をとぐ。彼元杲の弟子仁海僧正又知法の人なりき。小野と云所にすまれけるより小野流と云ふ。しかれば法皇は両流の法主にまします也。王位をさりて釈門に入ことは其例おほし。かく法流の正統となり、しかも御子孫継体し給へる、有がたきためしにや。今の世までもかしこかりしことには延喜・天暦と申ならはしたれど、此御世こそ上代によれれば無為の御政なりけんとおしはかられ侍る。菅氏の才名によりて、大納言大将まで登用し給しも此御時也。又譲国の時さま<”をしへ申されし、寛平の御誡とて君臣あふぎてみたてまつることもあり。昔もろこしにも「天下の明徳は虞舜より始る。」とみえたり。唐■のもちゐ給しによりて、舜の徳もあらはれ、天下の道もあきらかになりにけるとぞ。二代の明徳をもて此御ことおしはかり奉るべし。御寿も長て朱雀の御代にぞかくれさせ給ける。七十六歳おまし<き。
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○第六十代、第三十三世、醍醐天皇。諱は敦仁、宇多第一の子。御母贈皇太后
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藤原の胤子、内大臣高藤の女也。丁巳年即位、戊午に改元。大納言左大将藤原時平、大納言右大将菅氏、両人上皇の勅をうけて輔佐し申されき。後に左右の大臣に任てともに万機を内覧せられけりとぞ。御門御年十四にて位につき給。をさなくまし<しかど、聰明叡哲にきこえ給き。両大臣天下の政をせられしが、右相は年もたけ才もかしこくて、天下ののぞむ所なり。左相は譜第の器也ければ、すてられがたし。或時上皇の御在所朱雀院に行幸、猶右相にまかせらるべしと云さだめありて、すでに召仰玉ひけるを、右相かたくのがれ申されてやみぬ。其事世にもれにけるにや、左相いきどほりをふくみ、さま<”の讒をまうけて、つひにかたぶけ奉りしことこそあさましけれ。此君の御一失と申伝はべり。但菅氏権化の御事なれば、末世のためにやありけん、はかりがたし。善相公清行朝臣はこの事いまだきざさざりしに、かねてさとりて菅氏に災をのがれ給べきよしを申けれど、さたなくて此事出来にき。さきにも申はべりし、我国には幼主の立給こと昔はなかりしこと也。貞観・元慶の二代始て幼にて立玉ひしかば、忠仁公・昭宣公摂政にて天下を治らる。此君
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ぞ十四にてうけつぎ給て、摂政もなく御みづから政をしらせまし<ける。猶御幼年のゆゑにや、左相の讒にもまよはせ給けん。聖も賢も一失はあるべきにこそ。其趣経書にみえたり。されば曾子は、「吾日三省吾躬。」と云、季文子は「三思。」とも云ふ。聖徳のほまれましまさんにつけてもいよ<つゝしみましますべきこと也。昔応神天皇も讒をきかせ玉ひて、武内の大臣を誅せられんとしき。彼はよくのがれてあきらめられたり。このたびのこと凡慮およびがたし。ほどなく神とあらはれて、今にいたるまで霊験無双なり。末世の益をほどこさんためにや。讒を入し大臣はのちなくなりぬ。同心ありけるたぐひもみな神罰をかうぶりにき。此君久く世をたもたせ給て、徳政をこのみ行はせ玉ふこと上代にこえたり。天下泰平民間安穏にて、本朝仁徳のふるき跡にもなぞらへ、異域■舜のかしこき道にもたぐへ申き。延喜七年丁卯年、もろこしの唐滅て梁と云国にうつりにけり。うちつゞき後唐・晉・漢・周となん云五代ありき。此天皇天下を治給こと三十三年。四十四歳おまし<き。
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○第六十一代、朱雀天皇。諱は寛明、醍醐十一の子。御母皇太后藤原穏子、関白太政大臣基経の女也。御兄保明の太子〈 謚を文彦と申 〉早世、その御子慶頼の太子もうちつゞきかくれまししかば、保明一腹の御弟にて立給。庚寅年即位、辛卯に改元。外舅左大臣忠平〈 昭宣公の三男、後貞信公と云 〉摂政せらる。寛平に昭宣公薨てのちには、延喜御一代まで摂関なかりき。此君又幼主にて立給によりて、故事にまかせて万機を摂行せられけるにこそ。此御時、平の将門と云物あり。上総介高望が孫也〈 高望は葛原の親王孫、平姓を給る。桓武四代の御苗裔なりとぞ 〉。執政の家につかうまつりけるが、使の宣旨を望申けり。不許なるによりいきどほりをなし、東国に下向して叛逆をおこしけり。まづ伯父常陸の大掾
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国香をせめしかば、国香自殺しぬ。これより坂東をおしなびかし、下総国相馬郡に居所をしめ、都となづけ、みづから平親王と称し、官爵をなしあたへけり。これによりて天下騒動す。参議民部卿兼右衛門督藤原忠文朝臣を征東大将軍とし、源経基〈 清和の御すゑ六孫王と云ふ。頼義・義家先祖也 〉・藤原仲舒〈 忠文の弟也 〉を副将軍としてさしつかはさる。平貞盛〈 国香が子 〉・藤原秀郷等心を一にして、将門をほろぼして其首を奉りしかば、諸将は道よりかへりまゐりにき〈 将門、承平五年二月に事をおこし、天慶三年二月に滅ぬ。其間六年へたり 〉。藤原純友と云物、かの将門に同意して西国にて叛乱せしかば、少将小野好古を遣て追討せらる〈 天慶四年に純友はころさるとぞ 〉。かくて天下しづまりにき。延喜の御代さしも安寧なりしに、いつしか此乱出来る。天皇もおだやかにまし<けり。又貞信公の執政なりしかば、政たがふことははべらじ。時の災難にこそとおぼえ侍る。天皇御子ましまさず。一腹の御弟太宰帥の親王を太弟にたてて、天位をゆづりて尊号あり。後に出家せさせ給。天下を治給こと十六年。三十歳おまし<き。
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○第六十二代、第三十四世、村上天皇。諱は成明、醍醐十四の子、朱雀同母の御弟也。丙午年即位、丁未に改元。兄弟相譲せ玉ひしかば、まめやかなる禅譲の礼儀ありき。此天皇賢明の御ほまれ先皇のあとを継申させ給けれ
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ば、天下安寧なることも延喜・延長の昔にことならず。文筆諸芸を好給こともかはりまさざりけり。よろづのためしには延喜・天暦の二代とぞ申侍る。もろこしのかしこき明王も二、三代とつたはるはまれなりき。周にぞ文・武・成・康〈 文王は正位につかず 〉、漢には文・景なんどぞありがたきことに申ける。光孝かたはらよりえらばれ立給しに、うちつゞき明主の伝り給し、我国の中興すべきゆゑにこそ侍けめ。又継体もたゞこの一流にのみぞさだまりぬる。すゑつかた天徳年中にや、はじめて内裏に炎上ありて内侍所も焼にしが、神鏡は灰の中よりいだし奉らる。「円規損ずることなくして分明にあらはれ出給。見奉る人、驚感せずと云ことなし。」とぞ御記にみえ侍る。此時に神鏡南殿の桜にかゝらせ給けるを、小野宮の実頼のおとゞ袖にうけられたりと申ことあれど、ひが事をなん云伝侍也。応和元年辛酉年もろこしの後周滅て宋の代にさだまる。唐の後、五代、五十五年のあひだ彼国大に乱て五姓うつりかはりて国の主たり。五季とぞ云ける。宋の代に賢主うちつゞきて三百二十余年までたもてりき。此天皇天下を治給こと二十一年。四十二歳おまし<き。御子おほくまし<し中に冷泉・円融
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は天位につき給しかば申におよばず。親王の中に具平親王〈 六条の宮と申。中務卿に任給き。前に兼明親王名誉おはしき。仍これをば後中書王と申 〉賢才文芸のかた代々の御あとをよく相継申玉ひけり。一条の御代に、よろづ昔をおこし、人を用まし<ければ、この親王昇殿し給し日、清涼殿にて作文ありしに〈 中殿の作文と云ことこれよりはじまる 〉「所貴是賢才」と云題にて韻をさぐらるゝことあり。此親王の御ためなるべし。凡諸道にあきらかに、仏法の方までくらからざりけるとぞ。昔より源氏おほかりしかども、此御すゑのみぞいまに至まで大臣以上に至て相継侍る。
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源氏と云ことは、嵯峨の御門世のつひえをおぼしめして、皇子皇孫に姓を給て人臣となし給。すなはち御子あまた源氏の姓を給る。桓武の御子葛原親王の男、高棟平の姓を給る。平城の御子阿保親王の男、行平・業平等在原
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の姓を給ることも此後のことなれど、これはたま<の儀也。弘仁以後代々の御後はみな源姓を給しなり。親王の宣旨を蒙る人は才不才によらず、国々に封戸など立られて、世のつひえなりしかば、人臣につらね宦学して朝要にかなひ、器にしたがひ、昇進すべき御おきてなるべし。姓を給る人は直に四位に叙す〈 皇子皇孫にとりての事也 〉。当君のは三位なるべしと云〈 かゝれど其例まれなり。嵯峨の御子大納言定卿三位に叙せしかども、当代にはあらず 〉。かくて代々のあひだ姓を給し人百十余人もやありけん。しかれど他流の源氏、大臣以上にいたりて二代と相続する人の今まできこえぬこそいかなるゆゑなるらん、おぼつかなけれ。嵯峨の御子姓を給人二十一人。この中、大臣にのぼる人、常の左大臣兼大将、信の左大臣、融の左大臣。仁明の御子に姓を給人十三人。大臣にのぼる人、多の右大臣、光の右大臣兼大将。文徳の御子に姓を給人十二人。大臣にのぼる人、能有の右大臣兼大将。清和の御子に姓を給人十四人。大臣にのぼる人、十世の御すゑに実朝の右大臣兼大将〈 これは貞純親王の苗裔なり 〉。陽成の御子に姓を給人三人。光孝の御子に姓を給人十五人。宇多の御孫に姓を給て大臣にのぼる人、雅信の左大臣、重信の左大臣〈 ともに敦実親王の男なり 〉。醍醐の御子に姓を給人二十人。大臣
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にのぼる人、高明の左大臣兼大将、兼明の左大臣〈 後には親王とす。中務卿に任ず。前中書王これなり 〉。この後は皇子の姓を給ことはたえにけり。皇孫にはあまたあり。任大臣を本としるすによりてこと<”くはのせず。ちかくは後三条の御孫に有仁の左大臣兼大将〈 輔仁親王の男、白川院御猶子にて直に三位せし人なり 〉二世の源氏にて大臣にのぼれり。かやうにたま<大臣に至てもいづれか二代と相継る。ほと<納言以上までつたはれるだにまれなり。雅信の大臣の末ぞおのづから納言までものぼりてのこりたる。高明の大臣の後四代、大納言にてありしもはやく絶にき。いかにもゆゑあることかとおぼえたり。皇胤の貴種より出ぬる人、蔭をたのみ、いと才なんどもなく、あまさへ人におごり、ものに慢ずる心もあるべきにや。人臣の礼にたがふことありぬべし。寛平の御記にそのはしのみえはべりし也。後をもよくかゞみさせ給けるにこそ。
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皇胤は誠に也にことなるべきことなれど、我国は神代よりの誓にて、君は天照太神の御すゑ国をたもち、臣は天児屋の御流君をたすけ奉るべき器となれり。源氏はあらたに出たる人臣なり。徳もなく、功もなく、高官にのぼりて人におごらば二神の御とがめ有ぬべきことぞかし。なか<上古には皇子皇孫もおほくて、諸国にも封ぜられ、将相にも任ぜられき。崇神天皇十年に始て四人の将軍を任じて四道へつかはされしも皆これ皇族なり。景行天皇五十一年始て棟梁の臣を置て武内の宿禰を任ず。成務天皇三年に大臣とす〈 我朝大臣これに始る 〉。六代の朝につかへて執政たり。此大臣も孝元の曾孫なりき。しかれど、大織冠氏をさかやかし、忠仁公政を摂せられしより、もはら輔佐の器として、立かへり、神代の幽契のまゝに成ぬるにや。閑院の大臣冬嗣氏の衰たることをなげきて、善をつみ功をかさね、神にいのり仏に帰せられける、其しるしも相くはゝり侍けんかし。此親王ぞまことに才もたかく徳もおはしけるにや。其子師房姓を給て人臣に列せらしれ、才芸古にはぢず、名望世に聞あり。十七歳にて納言に任じ、数十年
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の間朝廷の故実に練じ、大臣大将にのぼりて、懸車の齢までつかうまつらる。親王の女祇子の女王は宇治関白の室なり。仍此大臣をば彼関白の子にし給て、藤子にかはらず、春日社にもまゐりつかうまつられけりとぞ。又やがて御堂の息女に相嫁せられしかば、子孫もみな彼外孫なり。このゆゑに御堂・宇治をば遠祖の如くに思へり。それよりこのかた和漢の稽古をむねとし、報国の忠節をさきとする誠あるによりてや、此一流のみたえずして十余代におよべり。その中にも行跡うたがはしく、貞節おろそかなるたぐひは、おのづから衰てあとなきもあり。向後と云ふともつゝしみ思給べきこと也。大かた天皇の御ことをしるし奉る中に、藤氏のおこりは所々に申侍ぬ。源の流も久くなりぬる上に、正路をふむべき一はしを心ざしてしるし侍る也。君も村上の御流一とほりにて十七代に成しめ給。臣も此御すゑの源氏こそ相つたはりたれば、たゞ此君の徳すぐれ給けるゆゑに余慶あるかとこそあふぎ申はべれ。
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○第六十三代、冷泉院。諱は憲平、村上第二の子。御母中宮藤原安子、右大臣師輔の女也。丁卯年即位、戊辰に改元。この天皇邪気おはし
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ければ、即位の時大極殿に出給こともたやすかるまじかりけるにや、紫宸殿にて其礼ありき。に年ばかりして譲国。六十三歳おはしましき。此御門より天皇の号を申さず。又宇多より後、謚をたてまつらず。遺詔ありて国忌・山陵をおかれざることは君父のかしこき道なれど、尊号をとゞめらるゝことは臣子の義にあらず。神武以来の御号も皆後代の定なり。持統・元明より以来避位或出家の君も謚をたてまつる。天皇とのみこそ申めれ。中古の先賢の議なれども心をえぬことに侍なり。
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○第六十四代、第三十五世、円融院。諱は守平、村上第五の子、冷泉同母の弟也。己巳年即位、庚午に改元。天下を治給こと十五年。禅譲、尊号つねの如し。翌年の程にや御出家。永延の比、寛平の例をおふて、東寺にて潅頂せさせ給。御師はすなはち寛平の御孫弟子寛朝僧正なり。三十三歳おまし<き。
○第六十五代、花山院。諱は師貞、冷泉第一の子。御母皇后藤原懐子、摂政太政大臣伊尹の女也。甲申年即位、乙酉に改元。天下を治給こと二年ありて、俄に発心して花山寺にて出家し給。弘徽殿の女御〈 太政大臣為光の女也 〉かくれて悲歎ましけるをりをえて、粟田関白道兼のおとゞのいまだ蔵人弁ときこえし比にや、そゝのかし申てけるとぞ。山々をめぐりて修行せ
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させまししが、後には都にかへりてすませ給けり。是も御邪気ありとぞ申ける。四十一歳おまし<き。
○第六十六代、第三十六世、一条院。諱は懐仁、円融第一の子。御母皇后藤原詮子〈 後には東三条院と申。后宮院号の始也 〉、摂政太政大臣兼家の女なり。花山の御門神器をすてて宮を出給しかば、太子の外祖にて兼家の右大臣おはせしが、内にまゐり、諸門をかためて譲位の儀をおこなはれき。新主もをさなくまし<しかば、摂政の儀ふるきがごとし。丙戌年即位、丁亥に改元。そののち摂政病に
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より嫡子内大臣道隆に譲て出家、猶准三宮の宣を蒙〈 執政の人出家の始也。その比は出家の人なかりしかば、入道殿となん申。仍源の満仲出家したりしをはゞかりて新発とぞ云ける 〉。此道隆始て大臣を辞て前官にて関白せられき〈 前官の摂政もこれを始とす 〉。病ありて其子内大臣伊周しばらく相かはりて内覧せられしが、相続して関白たるべきよしを存ぜられけるに、道隆かくれて、やがて弟右大臣道兼なられぬ。七日と云しにあへなくうせられにき。其弟にて道長、大納言にておはせしが内覧の宣をかうぶりて左大臣までいたられしかど、延喜・天暦の昔をおぼしめしけるにや、関白はやめられにき。三条の御時にや、関白して、後一条の御世の初、外祖にて摂政せらる。兄弟おほくおはせしに、此大臣のながれ一に摂政関白はし給ぞかし。昔もいかなるゆゑにか、昭宣公の三男にて貞信公、貞信公の二男にて師輔の大臣のながれ、師輔の三男にて東三条のおとゞ、東三条の三男にて〈 道綱大将は一男歟。されど三弟にこされたり。仍道長を三男としるす 〉このおとゞ、みな父の立たる嫡子ならで、自然に家をつがれたり。祖神のはからはせ給へる道にこそ侍りけめ〈 いづれも兄にこえて家をつたへらるべきゆゑありと申ことのあれど、ことしげければしるさず 〉。此御代にはさるべき上達部・諸道の家々・顕密の僧までもすぐれたる人おほかりき。されば御門も「われ人を得たることは延喜・天暦にまされり。」
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とぞ自歎ぜさせ給ける。天下を治給こと二十五年。御病の程に譲位ありて出家せさせ給。三十三歳おまし<き。
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○第六十七代、三条院。諱は居貞、冷泉第二の子。御母皇太后藤原超子、これも摂政兼家の女也。花山院世をのがれ給しかば、太子に立給しが、御邪気のゆゑにや、をり<御目のくらくおはしけるとぞ。辛亥年即位、壬子に改元。天下を治給こと五年。尊号ありき。四十二歳おまし<き。
第六十八代、後一条院。諱は敦成、一条第二の子。御母皇后藤原彰子〈 後に上東門院と申 〉、摂政道長の大臣の女也。丙辰年即位、丁巳に改元。外祖道長のおとゞ摂政せられしが、のちに摂政をば嫡子頼通の内大臣におはせしにゆづり、猶太政大臣にて、天皇御元服の日、加冠・理髪父子ならびて勤仕せられしこそめづらしく侍しか。冷泉・円融の両流かはる<”しらせ給ひ
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しに、三条院かくれ給てのち、御子敦明の御子、太子にゐ給しが、心とのがれて院号かうぶりて小一条院と申き。これより冷泉の御流はたえにけり。冷泉はこのかみにて御すゑも正統とこそ申べかりしに、昔天暦御時元方の民部卿のむすめ御息所、一のみこ広平親王をうみたてまつる。九条殿の女御まゐり給て、第二の皇子〈 冷泉にまします 〉いでき玉ひし比より、悪霊になりてこのみこも邪気になやまされましき。花山院の俄に世をのがれ、三条院の御目のくらく、此東宮のかくみづからしりぞき給ぬるも怨霊のゆゑなりとぞ。円融も一腹の御弟におはしませど、これまではなやまし申ささざりけるもしかるべき継体の御運まし<けるにこそ。東宮しりぞき給しかば、此天皇同母の御弟敦良親王立給き。天皇も御子なくて、彼東宮の御末ぞ継体せさせ給ぬる。天皇天下を治給こと二十年。二十九歳おまし<き。
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○第六十九代、第三十七世、後朱雀院。諱は敦良、後一条同母の弟也。丙子年即位、丁丑に改元。天皇賢明にまし<けるとぞ。されど其比執柄権をほしきまゝにせられしかば、御政のあときこえず。無念なることにや。長久の比内裏に火ありて、神鏡焼給。猶霊光を現じ給ければその灰をあつめて安置せられき。天下を治給こと九年。三十七歳おまし<き。
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○第七十代、後冷泉院。諱は親仁、後朱雀第一の子。御母贈皇太后藤原嬉子〈 本は尚侍 〉、摂政道長のおとゞ第三の女なり。乙酉年即位、丙戌改元。此御代のすゑつかた、世の中やすからずきこえき。陸奥にも貞任・宗任など云し者、国をみだりければ、源頼義に仰て追討せらる〈 頼義陸奥守に任じ、鎮守府の将軍を兼す。彼家鎮守将軍に任ずる始也。曾祖父経基は征東副将軍たりき 〉。十二年ありてなむしづめ侍ける。此君御子ましまさざりし上、後朱雀の遺詔にて、後三条東宮にゐ給へりしかば、継体はかねてよりさだまりけるにこそ。天下を治給こと二十三年。四十四歳おまし<き。
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巻五
○第七十一代、第三十八世、後三条院。諱は尊仁、後朱雀第二の子。御母中宮禎子内親王〈 陽明門院と申 〉、三条院の皇女也。後朱雀の御素意にて太弟に立給き。又三条の御末をもうけ給へり。むかしもかゝるためし侍き。両流を内外に〈 欽明天皇の御母手白香の皇女、仁賢天皇の御女、仁徳の御後也 〉うけ給て継体の主となりまします。戊申年即位、己酉に改元。此天皇東宮にて久くおはしましければ、しづかに和漢の文、顕密の教までもくらからずしらせ給。詩哥の御製もあまた人の口に侍めり。後冷泉のすゑざま世の中あれて民間のうれへありき。四月より位にゐ給しかば、いまだ秋のをさめにもおよばぬに、世の中のなほりにける、有徳の君におまし<けるとぞ申伝はべる。始て記録所なんど云所おかれて国のおとろへたることをなほされき。延喜・天暦よりこなたにはまことにかしこき御ことなりけんかし。天下を治給こと四年。太子にゆづりて尊号あり。後に出家せさせ給。此御時より執柄の権おさへられて、君の御みづから政をしらせ給ことにかへり侍にし。されどそのころまでも譲国
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の後、院中にて政務ありとはみえず。四十歳おまし<き。
○第七十二代、第三十九世、白河院。諱は貞仁、後三条第一の子。御母贈皇太后藤原茂子、贈太政大臣能信の女、実は中納言公成の女也。壬子年即位、甲寅に改元。古のあとをおこされて野の行幸なんどもあり。又
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白河に法勝寺を立、九重の塔婆なども昔の御願の寺々にもこえ、ためしなきほどぞつくりとゝのへさせ給ける。こののち代ごとにうちつゞき御願寺を立られしを、造寺熾盛のそしり有き。造作のために諸国の重任なんど云ことおほくなりて、受領の功課もたゞしからず、封戸・庄園あまたよせおかれて、まことに国の費とこそ成侍にしか。天下を治給こと十四年。太子にゆづりて尊号あり。世の政をはじめて院中にてしらせ給。後に出家せさせ給ても猶そのまゝにて御一期はすごさせまし<き。おりゐにて世をしらせ給こと昔はなかりしなり。孝謙脱■の後にぞ廃帝は位にゐ給ばかりとみえたれど、古代のことなればたしかならず。嵯峨・清和・宇多の天皇もたゞゆづりてのかせ給。円融の御時はやう<しらせ給こともありしにや。院の御前にて摂政兼家のおとゞうけ玉はりて、源の時中朝臣を参議になされたるとて、小野宮の実資の大臣などは傾申されけるとぞ。されば上皇ましませど、主上をさなくおはします時はひとへに執柄の政なりき。宇治の大臣の世となりては三代の君の執政にて、五十余年権をもはらにせらる。先代には関白の後は如在の礼にてありしに、あまりなる程になりにければにや、
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後三条院、坊の御時よりあしざまにおぼしめすよしきこえて、御中らひあしくてあやぶみおぼしめすほどのことになんありける。践祚の時即関白をやめて宇治にこもられぬ。弟の二条の教通の大臣、関白せられしはことの外に其権もなくおはしき。まして此御代には院にて政をきかせ給へば、執柄はたゞ職にそなはりたるばかりになりぬ。されどこれより又ふるきすがたは一変するにや侍けん。執柄世をおこなはれしかど、宣旨・官符にてこそ天下の事は施行せられしに、此御時より院宣・庁御下文をおもくせられしによりて在位の君又位にそなはり給へるばかりなり。世の末になれるすがたなるべきにや。又城南の鳥羽と云所に離宮をたて、土木の大なる営ありき。昔はおり位の君は朱雀院にまします。これを後院と云ふ。又冷然院にも〈 然字火のことにはゞかりありて泉の字に改む 〉おはしけるに、彼所々にはすませ給はず。白河よりのちには鳥羽殿をもちて上皇御坐の本所とはさだめられにけり。御子堀河のみかど・御孫鳥羽の御門・御ひこ崇徳の御在位まで五十余年〈 在位にて十四年、院中にて四十三年 〉世をしらせ給しかば、院中の礼なんど云こともこれよりぞさだまりける。すべて御心のまゝに久くたもたせ給し御代也。七十七歳おまし<き。
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○第七十三代、第四十世、堀河院。諱は善仁、白河第二の子。御母中宮賢子、右大臣源顕房の女、関白師実のおとゞの猶子也。丙寅の年即位、丁卯に改元。このみかど和漢の才まし<けり。ことに管絃・郢曲・舞楽の方あきらかにまします。神楽の曲などは今の世まで地下につたへたるもこの御説也。天下を治給こと二十一年。二十九歳おまし<き。
○第七十四代、第四十一世、鳥羽院。諱は宗仁、堀川第一の子。御母贈皇太后藤原茨子、贈太政大臣実季の女也。丁亥の年即位、戊子に改元。天下を治給こと十六年。太子に譲て尊号あり。白河代をしらせ給しかば、新院とて所々の御幸にもおなじ御車にてありき。雪見の御幸の日御烏帽子直衣にふか沓をめし、御馬にて本院の御車のさきにまし<ける、世にめづらかなる事なればこぞりてみ奉りき。昔弘仁の上皇、嵯峨の院にうつらせ給し日にや、御馬にてみやこよりいでさせまして宮城の内をも
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とほらせ給へりと云ことのみえ侍し、かやうの例にや有けん。御容儀めでたくまし<ければ、きらをもこのませ給けるにや、装束のこはくなり烏帽子のひたひなんど云ことも其比より出来にき。花園の有仁のおとど又容儀ある人にて、おほせあはせて上下おなじ風になりにけるとぞ申める。白河院かくれ給て後、政をしらせ給。御孫ながら御子の儀なれば、重服をきさせ給けり。これも院中にて二十余年、そのあひだに御出家ありしかど、猶世をしらせ給き。されば院中のふるきためしには白河・鳥羽の二代を申侍也。五十四歳おまし<き。
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○第七十五代、崇徳院。諱は顕仁、鳥羽第二の子。御母中宮藤原璋子〈 待賢門院と申 〉、入道大納言公実の女也。癸卯の年即位、甲辰に改元。戊申年、宋欽宗皇帝靖康三年にあたる。宋の政みだれしより北狄の金国起て上皇徽宗並に欽宗をとりて北にかへりぬ。皇弟高宗江をわたりて杭州と云所に都をたてて行在所とす。南渡と云はこれ也。此天皇天下を治給こと十八年。上皇と御中らひ心よからでしりぞかせ給き。保元に、事ありて御出家ありしが、讚岐国にうつされ給。四十六歳おまし<き。
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○第七十六代、近衛院。諱は体仁、鳥羽第八の子。御母皇后藤原得子〈 美福門院と申 〉、贈左大臣長実の女也。辛酉年即位、壬戌に改元。天下を治給こと十四年。十七歳にて世をはやくしまし<き。
第七十七代、第四十二世、後白河院。諱は雅仁、鳥羽第四子。崇徳同母の御弟也。近衛は鳥羽の上皇鍾愛の御子也しに、早世しまし<ぬ。崇徳の御子重仁親王つかせ給べかりしに、もとより御中心よからでやみぬ。上皇おぼしめしわづらひけれど、この御門たゝせ給。立太子もなくてすぐにゐさせ給。今は此御末のみこそ継体し給へばしかるべき天命とぞおぼえ侍る。乙亥の年即位、丙子に改元。年号を保元と云ふ。鳥羽晏駕ありしかば天下をしらせ給。左大臣頼長ときこえしは知足院入道関白忠実の次郎也。法性寺関白忠通のおとゞ此大臣の兄にて和漢の才たかくて、久執柄にてつかへられき。この大臣も漢才はたかくきこえしかど、本性あしくおはしけるとぞ。父の愛子にてよこざまに申うけられければ、関白をおきながら藤氏の長者になり、内覧の宣旨を蒙る。長者の
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他人にわたること、摂政関白はじまりては其例なし。内覧は昔醍醐の御代のはじめつかた、本院の大臣と菅家と政をたすけられし時、あひならびて其号ありきと申めれども、本院も関白にはあらず、其例たがふにや。兄のおとゞは本性おだやかにおはしければ、おもひいれぬさまにてぞすごされける。近衛の御門かくれ給しころより内覧をやめられたりしに恨をふくみ、大方天下を我まゝにとはかられけるにや、崇徳の上皇を申すゝめて世をみだらる。父の法皇晏駕ののち七け日ばかりやありけん。忠孝の道かけにけるよと見えたり。法皇もかねてさとらしめ給けるにや、平清盛・源義朝等にめし仰て、内裏をまぼり奉るべきよし勅命ありきとぞ。
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上皇鳥羽よりいで給て白河の大炊殿と云所にて、すでに兵をあつめられければ、清盛・義朝等に勅して上皇の宮をせめらる。官軍勝にのりしかば、上皇は西山の方にのがれ、左大臣は流矢にあたりて、奈良坂辺までおちゆかれけるが、つひに客死せられぬ。上皇御出家ありしかど猶讚岐にうつされ給。大臣の子共国々へつかはさる。武士どもも多く誅にふしぬ。その中に源為義ときこえしは義朝が父也。いかなる御志かありけん、上皇の御方にて義朝と各別になりぬ。余の子共は父に属しけるにこそ。軍やぶれて為義も出家したりしを、義朝あづかりて誅せしこそためしなきことに侍れ。嵯峨の御代に奈良坂のたゝかひありし後は、都に兵革と云ことなかりしに、これよりみだれそめぬるも時運のくだりぬるすがたとぞおぼえはべる。此君の御乳母
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の夫にて少納言通憲法師と云しは、藤家の儒門より出たり。宏才博覧の人なりき。されど時にあはずして出家したりしに、此御世にいみじく用られて、内々には天下の事さながらはからひ申けり。大内は白河の御代より久荒廃して、里内にのみまし<しを、はかりことをめぐらし、国のつひえもなくつくりたてて、たえたる公事どもを申おこなひき。すべて京中の道路などもはらひきよめて昔にかへりたるすがたにぞありし。天下を治給こと三年。太子にゆづりて、例のごとく尊号ありて、院中にて天下をしらせ給こと三十余年。そのあひだに御出家ありしかど政務はかはらず。白河・鳥羽両代のごとし。されどうちつゞき乱世にあはせ給しこそあさましけれ。五代の帝の父祖にて、六十六歳おまし<き。
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○第七十八代、二条院。諱は守仁、後白河の太子。御母贈皇太后藤原懿子、贈太政大臣経実の女也。戊寅の年即位、己卯に改元。年号を平治と云ふ。右衛門督藤原信頼と云人あり。上皇いみじく寵せさせ給て天下のことをさへまかせらるゝまでなりにければ、おごりの心きざして近衛大将をのぞみ申しを通憲法師いさめ申てやみぬ。其時源義朝朝臣が清盛朝臣におさへられて恨をふくめりけるをあひかたらひて叛逆を思くはたてけり。保元の乱には、義朝が功たかく侍けれど、清盛は通憲法師が縁者になりてことのほかにめしつかはる。通憲法師・清盛等をうしなひて世をほしきまゝにせむとぞはからひける。清盛熊野にまうでけるひまをうかゞひて、先上皇御坐の
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三条殿と云所をやきて大内にうつし申、主上をもかたはらにおしこめたてまつる。通憲法師のがれがたくやありけん、みづからうせぬ。其子どもやがて国々へながしつかはす。通憲も才学あり、心もさかしかりけれど、己が非をしり、未萌の禍をふせぐまでの智分やかけたりけん。信頼が非をばいさめ申けれど、わが子共は顕職顕官にのぼり、近衛の次将なんどにさへなし、参議已上にあがるもありき。かくてうせにしかば、これも天意にたがふ所ありと云ことは疑なし。清盛このことをきゝ、道よりのぼりぬ。信頼かたらひおきける近臣等の中に心がはりする人々ありて、主上・上皇をしのびていだしたてまつり、清盛が家にうつし申てけり。すなはち信頼・義朝等を追討せらる。程なくうちかちぬ。信頼はとらはれて首をきらる。義朝は東国へ心ざしてのがれしかど、尾張国にてうたれぬ。その首を梟せられにき。
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義朝重代の兵たりしうへ、保元の勲功すてられがたく侍しに、父の首をきらせたりしこと大なるとが也。古今にもきかず、和漢にも例なし。勲功に申替ともみづから退とも、などか父を申たすくる道なかるべき。名行かけはてにければ、いかでかつひに其身をまたくすべき。滅することは天の
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理也。凡かゝることは其身のとがはさることにて、朝家の御あやまり也。よく案あるべかりけることにこそ。其比名臣もあまた有しにや、又通憲法師専申おこなひしに、などか諌申ざりける。大義滅親云ことのあるは、石■と云人其子をころしたりしがこと也。父として不忠の子をころすはことわりなり。父不忠なりとも子としてころせと云道理なし。孟子にたとへを取ていへるに、「舜の天子たりし時、其父瞽叟人をころすことあらんを時の大理なりし皐陶とらへたらば舜はいかゞし給べきといひけるを、舜は位をすてて父をおひてさらまし。」とあり。大賢のをしへなれば忠孝の道あらはれておもしろくはべり。保元・平治より以来、天下みだれて、武用さかりに王位かろく成ぬ。いまだ太平の世にかへらざるは、名行のやぶれそめしによれることとぞみえたる。かくてしばししづまれりしに、主上・上皇御中あしくて、主上の外舅大納言経宗〈 後にめしかへされて、大臣大将までなりき 〉・御めのとの子別当惟方等上皇の御意にそむきければ、清盛朝臣におほせてめしとらへられ、配所につかはさる。これより清盛天下の権をほしきまゝにして、程なく太政大臣にあがり、其子大臣大将になり、あまさへ兄弟左右の大将にてならべりき〈 この御門の御世のことならぬもあり。ついでにしるしのす。 〉天下の諸国
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は半すぐるまで家領となし、官位は多く一門家僕にふさげたり。王家の権さらになきがごとくになりぬ。此天皇天下を治給こと七年。二十三歳おまし<き。
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○第七十九代、六条院。諱は順仁、二条の太子。御母大蔵少輔伊岐兼盛が女也〈 そのしないやしくて、贈位までもなかりしにや。 〉乙酉の年即位、丙戌に改元。天下を治給こと三年。上皇世をしらせ給しが、二条の御門の御ことにより心よからぬ御ことなりしゆゑにや、いつしか譲国の事ありき。御元服などもなくて、十三歳にて世をはやくしまし<き。
○第八十代、第四十三世、高倉院。諱は憲仁、後白河第五の御子。御母皇后平滋子〈 建春門院と申 〉、贈左大臣時信の女也。戊子の年即位、己丑に改元。上皇天下をしらせ給こともとのごとし。清盛権をもはらにせしことは、ことさらに此御代のこと也。其女徳子入内して女御とす。即立后ありき。末つかたやう<所々に反乱のきこえあり。清盛一家非分のわざ天意にそむきけるにこそ。嫡子内大臣重盛は心ばへさかしくて、父の悪行などもいさめとゞめけるさへ
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世をはやくしぬ。いよ<おごりをきはめ、権をほしきまゝにす。時の執柄にて菩提院の関白基房の大臣おはせしも、中らひよろしからぬことありて、太宰権帥にうつして配流せらる。妙音院の師長のおとゞも京中をいださる。その外につみせらるゝ人おほかりき。従三位源頼政と云しもの、院の御子似仁の王とて元服ばかりし給しかど、親王の宣などだになくて、かたはらなる宮おはせしをすゝめ申て、国々にある源氏の武士等にあひふれて平氏をうしなはんとはかりけり。ことあらはれて皇子もうしなはれ給ぬ。頼政もほろびぬ。かゝれど、それよりみだれそめてけり。義朝朝臣が子頼朝〈 前右兵衛佐従五位下、平治の比六位の蔵人たりしが、信頼事をおこしける時任官すとぞ 〉平治の乱に死罪を申なだむる人ありて、伊豆国に配流せられて、おほくの年をおくりしが、以仁の王の密旨をうけ給、院よりも忍て仰つかはす道ありければ、東国をすゝめて義兵をおこしぬ。清盛いよ<悪行をのみなしければ、主上ふかくなげかせ給。俄に避位のことありしも世をいとはせまし<けるゆゑとぞ。天下を治給こと十二年。世の中の御いのりにや、平家のとりわきあがめ申神なりければ、安芸の厳嶋になむまゐらせ給ける。此御門御心ばへもめでたく孝行の御志ふかゝりき。管絃のかたもすぐれておはしましけり。尊号
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ありてほどなく世をはやくし給。二十一歳おまし<き。
○第八十一代、安徳天皇。諱は言仁、高倉第一の子。御母中宮平徳子〈 建礼門院と申 〉、太政大臣清盛女他。庚子の年即位、辛丑に改元。法皇猶世をしらせ給。平氏はいよ<おごりをなし、諸国はすでにみだれぬ。都をさへうつすべしとて摂津国福原とて清盛すむ所のありしに行幸せさせ
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申ける。法皇・上皇もおなじくうつしたてまつる。人の恨おほくきこえければにやかへし奉る。いくほどなく、清盛かくれて次男宗盛其あとをつぎぬ。世の乱をもかへりみず、内大臣に任ず。天性父にも兄にもおよばざりけるにや、威望もいつしかおとろへ、東国の軍すでにこはく成て、平氏の軍所々にて利をうしなひけるとぞ。法皇忍て比叡山にのぼらせ給。平氏力をおとし、主上をすゝめ申て西海に没落す。中みとせばかりありて、平氏こと<”く滅亡。清盛が後室従二位平時子と云し人此君をいだき奉りて、神璽をふところにし、宝剣をこしにさしはさみ、海中にいりぬ。あさましかりし乱世なり。天下を治給こと三年。八歳おまし<き。遺詔等のさたなければ、天皇と称し申なり。
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○第八十二代、第四十四世、後鳥羽院。諱は尊成、高倉第四の子。御母七条院、藤原殖子〈 先代の母儀おほくは后宮ならぬは贈后也。院号ありしはみな先立后ののちのさだめ也。この七条院立后なくて院号の初なり。但先准后の勅あり 〉、入道修理大夫信隆女也。先帝西海に臨幸ありしかど、祖父法皇の御世なりしかば、都はかはらず。摂政基通のおとゞぞ、平氏の縁にて供奉せられしかど、いさめ申輩ありけるにや、九条の大路辺よりとゞまられぬ。そのほか平氏の親族ならぬ人々は御供つかまつる人なかりけり。還幸あるべきよし院宣ありけれど、平氏承引申さず。よりて太上法皇の詔にて此天皇たゝせ給ぬ。親王の宣旨までもなし。先皇太子とし、即受禅の儀あり。翌年甲辰にあたる年四月に改元、七月に即位。此同胞に高倉の第三の御子まし<しかども、法皇此君をえらび定申給けるとぞ。先帝三種の神器をあひぐせさせ給しゆゑに践祚の初の違例に侍しかど、法皇国の本主にて正統の位を伝へまします。皇太神宮・熱田の神あきらかにまぼり給ことなれば、天位つゝがましまさず。平氏ほろびて後、内侍所・神璽はかへりいらせ給。宝剣はつひに海にしづみてみえず。其比ほひは昼の御坐の御剣を宝剣に擬せられたりしが、神宮の御告にて神剣をたてまつらせ給しに
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よりて近比までの御まぼりなりき。
三種の神器の事は所々に申侍しかども、先内侍所は神鏡也。八咫の鏡
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と申。正体は皇太神宮にいはひ奉る。内侍所にましますは崇神天皇の御代に鋳かへられたりし御鏡なり。村上の御時、天徳年中に火事にあひ給。それまでは円規かけましまさず。後朱雀の御時、長久年中にかさねて火ありしに、灰燼の中より光をさゝせ給けるを、をさめてあがめ奉られける。されど正体はつゝがなくて万代の宗廟にまします。宝剣も正体は天の叢雲の剣〈 後には草薙と云 〉と申は、熱田の神宮にいはひ奉る。西海にしづみしは崇神の御代におなじくつくりかへられし剣也。うせぬることは末世のしるしにやとうらめしけれど、熱田の神あらたなる御こと也。昔新羅国より道行と云法師、来てぬすみたてまつりしかど、神変をあらはして我国をいでたまはず。彼両種は正体昔にかはりましまさず。代々の天皇のとほき御まぼりとして国土のあまねき光となり給へり。うせにし宝剣はもとより如在のこととぞ申侍べき。神璽は八坂瓊の曲玉と申す。神代より今にかはらず、代々の御身をはなれぬ御まぼりなれば、海中よりうかび出給へるもことわり也。三種の御ことはよく心え奉るべきなり。なべて物しらぬたぐひは、上古の神鏡は天徳・長久の災にあひ、草薙の宝剣は海にしづみにけりと申伝ること侍にや。返々
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ひがこと也。此国は三種の正体をもちて眼目とし、福田とするなれば、日月の天をめぐらん程は一もかけ給まじき也。天照太神の勅に「宝祚のさかえまさんことあめつちときはまりなかるべし。」と侍れば、いかでか疑奉るべき。今よりゆくさきもいとたのもしくこそおもひ給れ。
平氏いまだ西海にありしほど、源義仲と云物、まづ京都に入、兵威をもて世の中のことをおさへおこなひける。征夷将軍に任ず。此官は昔坂上の田村丸までは東夷征伐のために任ぜられき。其後将門がみだれに右衛門督忠文朝臣征東将軍を兼て節刀を給しよりこのかた久くたえて任ぜられず。義仲ぞ初てなりにける。あまりなることおほくて、上皇御いきどほりのゆゑにや、近臣の中に軍をおこし対治せんとせしに事不成して中々あさましき事なん
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いできにし。東国の頼朝、弟範頼・義経等をさしのぼせしかば、義仲はやがて滅ぬ。さてそれより西国へむかひて、平氏をばたひらげしなり。天命きはまりぬれば、巨猾もほろびやすし。人民のやすからぬことは時の災難なれば、神も力およばせ給はぬにや。かくて平氏滅亡してしかば、天下もとのごとく君の御まゝなるべきかとおぼえしに、頼朝勲功まことにためしなかりければ、みづからも権をほしきまゝにす。君も又うちまかせられにければ、王家の権はいよ<おとろへにき。諸国に守護をおきて、国司の威をおさへしかば、吏務と云こと名ばかりに成ぬ。あらゆる庄園郷保に地頭を補せしかば、本所はなきがごとくになれりき。頼朝は従五位下前右兵衛佐なりしが、義仲追討の賞に越階して正四位下に叙し、平氏追討の賞に又越階、従二位に叙す。建久の初にはじめて京上して、やがて一度に権大納言に任ず。又右近の大将を兼す。頼朝しきりに辞申けれど、叡慮によりて朝奨ありとぞ。程なく辞退してもとの鎌倉の館になんくだりし。其後征夷大将軍に拝任す。それより天下のこと東方のまゝに成にき。平氏のみだれに南都の東大寺・興福寺やけにしを、東大寺をば俊乗と云上人すゝめたてければ、公家にも委任せられ、
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頼朝もふかく随喜してほどなく再興す。供養の儀ふるきあとをたづねておこなはれける、ありがたきことにや。頼朝もかさねて京上しけり。かつは結縁のため、かつは警固のためなりき。法皇かくれさせ給て、主上世をしらせ給。すべて天下を治給こと十五年ありしかば、太子にゆづりて尊号れいのごとし。院中にて又二十余年しらせ給しが、承久に、ことありて御出家、隠岐国にてかくれ給ぬ。六十一歳おまし<き。
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○第八十三代、第四十五世、土御門院。諱は為仁、後鳥羽の太子。御母承明門院、源在子、内大臣通親の女也。父の御門の例にて親王の宣旨なし。立太子の儀ばかりにてすなはち践祚あり。戊午の年即位、己未に改元。天下を治給こと十二年。太弟にゆづりて尊号例の如し。此御門まさしき正嫡にて御心ばへもたゞしくきこえ給しに、上皇鍾愛にうつされましけるにや、ほどなく譲国あり。立太子までもあらぬさまに成にき。承久の乱に時のいたらぬことをしらせ給ければにや、さま<”いさめましけれども、ことやぶれにしかば、玉石ともにこがれて、阿波国にてかくれさせ給。三十七歳おまし<き。
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○第八十四代、順徳院。諱は守成、後鳥羽第三の子。御母修明門院、藤原の重子、贈左大臣範季の女也。庚午の年即位、辛未に改元。此御時征夷大将軍頼朝次郎実朝、右大臣左大将までなりにしが、兄左衛門督頼家が子に、公暁と云ける法師にころされぬ。又継人なくて頼朝が跡はながくたえにき。頼朝が後室に従二位平政子とて、時政と云ものの女也し、東国のことをばおこなひき。其弟義時兵権をとりしが、上皇の御子をくだし申て、あふぎ奉るべきよし奏しけれど、不許にや有けん、九条摂政道家のおとゞは頼朝の時より外戚につゞきてよしみおはしければ、其子をくだして扶持し申ける。大方のことは義時がまゝになりにき。天下を治給こと十一年。譲国ありしが、事みだれて、佐渡国にうつされ給。四十六歳おまし<き。
〔裏書云実朝前右大将征夷大将軍頼朝卿二男也。建久十年正月頼朝薨。嫡男頼家可奉行諸国守護事由被宣下〈 于時左近中将、正五位下 〉。建仁二年七月任征夷大将軍。同三年受病〈 狂病 〉。遷伊豆国修禅寺翌年遭害。頼家受病之後、為に母■義時等沙汰似実朝令継之。叙従五位下即日任征夷大将軍。次第昇進。不能具記。建保六年十二月二日任右大臣〈 元内大臣、左大将。大将猶帯之 〉。同七年〈 四月改元承久元 〉正月二十七日為拝賀参鶴岡八幡宮。実朝始中終遂不京上。有其煩故也云云ふ。仍以参宮擬拝賀与。而神拝畢退出之処、彼宮別当公暁設刺客殺之〈 年二十八云云 〉。今日扈従人々公卿権大納言忠信坊門左衛門督実氏西園寺宰相中将国通高倉平三位光盛池刑部卿宗長難波殿上人権亮中将信能朝臣文章博士仲章朝臣右馬権頭能茂朝臣因幡少将高経伊与少将実種伯耆前司師孝右兵衛佐頼経地下前駈右京権大夫義時修理大夫雅義甲斐右馬助宗泰武蔵守泰時筑後前司頼時駿河左馬助教利蔵人大夫重綱藤蔵人大夫有俊長井遠江前司親広相模守時房足利武蔵前司義氏丹波蔵人大夫忠国前右馬助行光伯耆前司包時駿河前司季時信濃蔵人大夫行国相模前司経定美作蔵人大夫公近藤勾当頼隆平勾当時盛随身府生秦兼峯番長下毛野篤秀近衛秦公氏同兼村播磨定文中臣近任下毛野為光同為氏随兵十人武田五郎信光加々見次郎長清式部大夫河越次郎城介景盛泉次郎左衛門尉頼定長江八郎師景三浦小太郎兵衛尉朝村加藤大夫判官元定隠岐次郎左衛門尉基行〕
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○廃帝。諱は懐成、順徳の太子。御母東一条院、藤原充子、故摂政太政大臣良経女也。承久三年春の比より上皇おぼしめしたつことありければ、にはかに譲国したまふ。順徳御身をかろめて合戦の事をも一御心にせさせ給はん御はかりことにや、新主に譲位ありしかど、即位登壇までもなくて軍やぶれしかば、外舅摂政道家の大臣の九条の第へのがれさせ給。三種神器をば閑院の内裏にすておかれにき。譲位の後七十七け日のあひだ、しばらく神器を伝給しかども、日嗣にはくはへたてまつらず。飯豊の天皇の例になぞらへ申べきに
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こそ。元服などもなくて十七歳にてかくれまします。
さても其世の乱を思に、まことに末の世にはまよふ心もありぬべく、又下の上をしのぐ端ともなりぬべし。其いはれをよくわきまへらるべき事にはべり。頼朝勲功は昔よりたぐひなき程なれど、ひとへに天下を掌にせしかば、君としてやすからずおぼしめしけるもことわりなり。況や其跡たえて後室の尼公陪臣の義時が世になりぬれば、彼跡をけづりて御心のまゝにせらるべしと云も一往いひなきにあらず。しかれど白河・鳥羽の御代の比より政道のふるきすがたやう<おとろへ、後白河の御時兵革おこりて■臣世をみだる。天下の民ほとんど塗炭におちにき。頼朝一臂をふるひて其乱をたひらげたり。王室はふるきにかへるまでなかりしかど、九重の塵もをさまり、万民の肩もやすまりぬ。
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上下堵をやすくし、東より西より其徳に伏せしかば、実朝なくなりてもそむく者ありとはきこえず。是にまさる程の徳政なくしていかでたやすくくつがへさるべき。縱又うしなはれぬべくとも、民やすかるまじくは、上天よもくみし給はじ。次に王者の軍と云は、とがあるを討じて、きずなきをばほろぼさず。頼朝高官にのぼり、守護の職を給、これみな法皇の勅裁也。わたくしにぬすめりとはさだめがたし。後室その跡をはからひ、義時久く彼が権をとりて、人望にそむかざりしかば、下にはいまだきず有といふべからず。一往のいはればかりにて追討せられんは、上の御とがとや申べき。謀叛おこしたる朝敵の利を得たるには比量せられがたし。かゝれば時のいたらず、天のゆるさぬことはうたがひなし。但下の上を剋するはきはめたる非道なり。終にはなどか皇化に不順べき。先まことの徳政をおこなはれ、朝威をたて、彼を剋するばかりの道ありて、その上のこととぞおぼえはべる。且は世の治乱のすがたをよくかゞみしらせ給て、私の御心なくば干戈をうごかさるゝ歟、弓矢をおさめらるゝ歟、天の命にまかせ、人の望にしたがはせ給べかりしことにや。つひにしては、継体の道も正路にかへり、御子孫の世に一統の聖運をひらかれぬれば、御本意
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の末達せぬにはあらざれど、一旦もしづませ給しこそ口惜はべれ。
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第八十五代、後堀河院。諱は茂仁、二品守貞親王〈 後高倉院と申 〉第三の子。御母北白河院、藤原陳子、入道中納言基家の女なり。入道親王は高倉第三の御子、後鳥羽同胞の御兄、後白河の御えらびにもれ給し御こと也。承久にことありて、後鳥羽の御ながれのほか、この御子ならでは皇胤ましまさず。よりて此孫王を天位につけたてまつる。入道親王尊号ありて太上皇と申て、世をしらせ給。追号の例は文武の御父草壁の太子を長岡の天皇と申、淡路の帝御父舎人親王を尽敬天皇と申、光仁の御父施基の王子を、
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田原天皇と申。早良の廃太子は怨霊をやすめられんとて崇道天皇の号をおくらる。院号ありしことは小一条院ぞましける。此天皇辛巳年即位、壬午に改元。天下を治給こと十一年。太子に譲て尊号例のごとし。しばらく政をしらせ給しが、二十一歳にて世をはやくしおまし<き。
○第八十六代、四条院。諱は秀仁、後堀河の太子。御母藻壁門院、藤原の■子、摂政左大臣道家女也。壬辰の年即位、癸巳に改元、例のごとし。一とせばかり有て、上皇かくれ給しかば、外祖にて道家のおとゞ王室の権をとりて、昔の執政のごとくにぞありし。東国にあふぎし征夷大将軍頼経も此大臣の胤子なれば、文武一にて権勢おはしけるとぞ。天下を治給こと十年。俄に世をはやくし給。十二歳おまし<き。
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○第八十七代、第四十六世、後嵯峨院。諱は邦仁、土御門院第二の御子。御母贈皇太后源通子、贈左大臣通宗の女、内大臣通親の孫女なり。承久のみだれありし時、二歳にならせ給けり。通親の大臣の四男、大納言通方は父の院にも御傍親、贈皇后にも御ゆかりなりしかば、収養し申てかくしおきたてまつりき。十八の御年にや、大納言さへ世をはやくせしかば、いとゞ無頼になり給て、御祖母承明門院になむうつろひまし<ける。二十二歳の御年、春正月十日四条院俄に晏駕、皇胤もなし。連枝のみこもましまさず。順徳院ぞいまだ佐渡におはしましけるが、御子達もあまた都にとゞまり給し、入道摂政道家のおとゞ、彼御方の外家におはせしかば、此御流を天位につけ奉り、もとのまゝに世をしらんとおもはれけるにや、そのおもぶきを仰つかはしけれど、鎌倉の義時が子、泰時はからひ申てこの君をすゑ奉りぬ。誠に天命也、正理也。土御門院御兄にて御心ばへもおだしく、孝行もふかくきこえさせ給しかば、天照太神の冥慮に代てはからひ申ける
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もことわり也。大方泰時心たゞしく政すなほにして、人をはぐくみ物におごらず、公家の御ことをおもくし、本所のわづらひをとゞめしかば、風の前に塵なくして、天の下すなはちしづまりき。かくて年代をかさねしこと、ひとへに泰時が力とぞ申伝ぬる。陪臣として久しく権をとることは和漢両朝に先例なし。其主たりし頼朝すら二世をばすぎず。義時いかなる果報にか、はからざる家業をはじめて、兵馬の権をとれりし、ためしまれなることにや。されどことなる才徳はきこえず。又大名の下にほこる心や有けん、中二とせばかりぞありし、身まかりしかど、彼泰時あひつぎて徳政をさきとし、法式をかたくす。己が分をはかるのみならず、親族ならびにあらゆる武士までもいましめて、高官位をのぞむ者なかりき。其政次第のままにおとろへ、つひに滅ぬるは天命のをはるすがたなり。七代までたもてるこそ彼が余薫なれば、恨ところなしと云つべし。
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凡保元・平治よりこのかたのみだりがはしさに、頼朝と云人もなく、泰時と云者なからましかば、日本国の人民いかゞなりなまし。此いはれをよくしらぬ人は、ゆゑもなく、皇威のおとろへ、武備のかちにけるとおもへるはあやまりなり。所々に申はべることなれど、天日嗣は御譲にまかせ、正統にかへらせ給にとりて、用意あるべきことの侍也。神は人をやすくするを本誓とす。天下の万民は皆神物なり。君は尊くましませど、一人をたのしましめ万民をくるしむる事は、天もゆるさず神もさいはひせぬいはれなれば、政の可否にしたがひて御運の通塞あるべしとぞおぼえ侍る。まして人臣としては、君をたふとび民をあはれみ、天にせくぐまり地にぬきあしし、日月のてらすをあふぎても心の黒して光にあたらざらんことをおぢ、雨露のほどこすをみても身のただしからずしてめぐみにもれんことをかへりみるべし。朝夕に長田狭田の稲のたねをくふ
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も皇恩也。昼夜に生井栄井の水のながれを飲も神徳也。これを思もいれず、あるにまかせて欲をほしきまゝにし、私をさきとして公をわするゝ心あるならば、世に久きことわりもはべらじ。いはんや国柄をとる仁にあたり、兵権をあづかる人として、正路をふまざらんにおきて、いかで其運をまたくすべき。泰時が昔を思には、よくまことある所有けむかし。子孫はさ程の心あらじなれど、かたくしける法のまゝにおこなひければ、およばずながら世をもかさねしにこそ。異朝のことは乱逆にして紀なきためしおほければ、例とするにたらず。我国は神明の誓いちじるくして、上下の分さだまれり。しかも善悪の報あきらかに、困果のことわりむなしからず。かつはとほからぬことどもなれば、近代の得失をみて将来の鑒誡とせらるべきなり。抑此天皇正路にかへりて、日嗣をうけ給し、さきだちてさま<”の奇瑞ありき。又土御門院阿波国にて告文をかゝせまして、石清水の八幡宮に啓白せさせ給ける、其御本懐すゑとほりにしかば、さま<”の御願をはたされしもあはれなる御こと也。つひに継体の主として此御すゑならぬはましまさず。壬寅の年即位、癸卯の春改元。御身をつゝしみ給ければにや、天下を治給こと四年。太子をさなくまし<しかども
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譲国あり。尊号例のごとし。院中にて世をしらせ給、御出家の後もかはらず、二十六年ありしかば、白河・鳥羽よりこなたにはおだやかにめでたき御代なるべし。五十三歳おまし<き。
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○第八十八代、後深草院。諱は久仁、後嵯峨第二の子。御母大宮院、藤原の■子、太政大臣実氏の女也。丙午の年四歳にて即位、丁未に改元。天下を治給こと十三年。后腹の長子にてまし<しかども、御病おはしましければ、同母の御弟恒仁親王を太子にたてて、譲国、尊号例のごとし。伏見御代にぞしばらく政をしらせ給しが、御出家ありて政務をば主上
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に譲り申させ給。五十八歳おまし<き。
○第八十九代、第四十七世、亀山院。諱は恒仁、後深草院同母の御弟也。己未の年即位、庚申に改元。此天皇を継体とおぼしめしおきてけるにや、后腹に皇子うまれ給しを後嵯峨とりやしなひまして、いつしか太子に立給ぬ。後深草の〈 其時新院と申き 〉御子もさき立て生給しかどもひきこされましにき〈 太子は後宇多にまします。御年二歳。後深草の御子に伏見、御年四歳になり給ける 〉。後嵯峨かくれさせ給てのち、兄弟の御あはひにあらそはせ給ことありければ、関東より母儀大宮院にたづね申けるに、先院の御素意は当今にましますよしをおほせつかはされければ、ことさだまりて、禁中にて政務せさせ給。天下を治給こと十五年。太子にゆづりて、尊号れいのごとし。院中にても十三年まで世をしらせ給。事あらたまりにし後、御出家。五十七歳おまし<き。
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○第九十代、第四十八世、後宇多院。諱は世仁、亀山の太子。御母皇后藤原僖子〈 後に京極院と申 〉、左大臣実雄の女也。甲戌の年即位、乙亥改元。丙子の年、もろこしの宋幼帝徳祐二年にあたる。ことし、北狄の種、蒙古おこりて元国と云しが宋の国を滅す〈 金国おこりにしより宋は東南の杭州にうつりて百五十年になれり。蒙古おこりて、先金国をあはせ、のちに江をわたりて宋をせめしが、ことしつひにほろぼさる 〉。辛巳の年〈 弘安四年なり 〉蒙古の軍おほく船をそろへて我国を侵す。筑紫にて大に合戦あり。神明、威をあらはし形を現じてふせがれけり。大風にはかにおこりて数十万艘の賊船みな漂倒破滅しぬ。末世といへども神明の威徳不可思議なり。誓約のかはらざることこれにておしはかるべし。この天皇天下を治給こと十三年。おもひの外にのがれまし<て十余年ありき。後二条の御門立給しかば、世をしらせ給。遊義門院かくれまして、御歎のあまりにや、出家せさせ給。前大僧正禅助を御師として、宇多・円融の例により、東寺にて潅頂せさせ給。めづらかにたふとき事にはべりき。其日は後醍醐の御門、中務の親王とて王卿の座につかせ御座す。只今の心地
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ぞしはべる。後二条かくれさせ給しのち、いとゞ世をいとはせたまふ。嵯峨の奥、大覚寺と云所に、弘仁・寛平の昔の御跡をたづねて御寺などあまた立てぞおこなはせ給し。其後、後醍醐の御門位につきまし<しかば、又しばらく世をしらせ給て、三とせばかり有てゆづりまし<き。
大方この君は中古よりこなたにはありがたき御こととぞ申侍べき。文学の方も後三条の後にはかほどの御才きこえさせ給はざりしにや。寛平
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の御誡には、帝皇の御学問は群書治要などにてたりぬべし。雑文につきて政事をさまたげ給ふなとみえたるにや。されど延喜・天暦・寛弘・延久の御門みな宏才博覧に、諸道をもしらせたまひ、政事も明にまし<しかば、先二代はことふりぬ、つぎては寛弘・延久をぞ賢王とも申める。和漢の古事をしらせ給はねば、政道もあきらかならず、皇威もかろくなる、さだまれる理なり。尚書に■・舜・禹の徳をほむるには「古に若稽。」と云ふ。傅説が殷高宗ををしへたるには「事古を師とせずして、世にながきことは説がきかざる所なり。」とあり。唐に仇士良とて、近習の宦者にて内権をとる、極たる■人也。其党類にをしへけるは「人主に書をみせたてまつるな。はかなきあそびたはぶれをして御心をみだるべし。書をみて此道を知たまはば、我ともがらはうせぬべし。」と云ける、今もありぬべきことにや。寛平の群書治要をさしての給ける、部せばきに似たり。但此書は唐太宗、時の名臣魏徴をしてえらばせられたり。五十巻の中に、あらゆる経・史・諸子までの名文をのせたり。全経の書・三史等をぞつねの人はまなぶる。此書にのせたる諸子なんどはみる者すくなし。ほと<名をだにしらぬたぐひもあり。まして万機を
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しらせ給はんに、これまでまなばせ給ことよしなかるべきにや。本経等をならはせまし<そまではあるべからず。已に雑文とてあれば、経・史の御学問のうへに此書を御覧じて諸子等の雑文までなくともの御心なり。寛平はことにひろくまなばせ給ければにや、周易の深き道をも愛成と云博士にうけさせ給き。延喜の御こと左右にあたはず。菅氏輔佐したてまつられき。其後も紀納言・善相公等の名儒ありしかば、文道のさかりなりしことも上古におよべりき。此御誡につきて「天子の御学問さまでなくとも」と申人のはべる、あさましきことなり。何事も文の上にてよく料簡あるべきをや。此君は在位にても政事をしらせ給はず、又院にて十余年閑居し給へりしかば、稽古にあきらかに、諸道をしらせ給なるべし。御出家の後もねむごろにおこなはせまし<き。上皇の出家せさせ給ことは、聖武・孝謙・平城・清和・宇多・朱雀・円融・花山・後三条・白河・鳥羽・崇徳・後白河・後鳥羽・後嵯峨・深草・亀山にまします。醍醐・一条は御病おもくなりてぞせさせ給し。かやうにあまたきこえさせ給しかど、戒律を具足し、始終かくることなく密宗をきはめて大阿闍梨をさへせさせ給しこといとありがたき御こと也。
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この御すゑに一統の運をひらかるゝ、有徳の余薫とぞおもひ給る。元亨のすゑ甲子の六月に五十八歳にてかくれまし<き。
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巻六
○第九十一代、伏見院。諱は煕仁、後深草第一の子。御母玄輝門院、藤原■子、左大臣実雄の女也。後嵯峨の御門、継体をば亀山とおぼしめし定ければ、深草の御流いかゞとおぼえしを、亀山、弟順の儀をおぼしめしけるにや、此君を御猶子にして東宮にすゑ給ぬ。そののち御心もゆかず、あしざまなる事さへいできて践祚ありき。丁亥の年即位、戊子に改元。東宮にさへ此天皇の御子ゐ給き。天下を治給こと十一年。太子にゆづりて尊号例の如し。院中にて世をしらせ給しが、程なく時うつりにしかど、中六とせばかり有て又世をしり給き。関東の輩も亀山の正流をうけたまへることはしり侍りしかど、近比となりて、世をうたがはしく思ければにや、両皇の御流をかはる<”すゑ申さんと相計けりとなん。のちに出家せさせ給。五十歳おまし<き。
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○第九十二代、後伏見院。諱は胤仁、伏見第一の子。御母永福門院、藤原■子、入道太政大臣実兼の女なり。実の御母は准三宮藤原経子、入道参議経氏女也。戊戌の年即位、己亥に改元。天下を治給こと三年。推譲のことあり。尊号例のごとし。正和の比、父の上皇の御譲にて世をしらせ給。時の御門は御弟なれど、御猶子の儀なりとぞ。元弘に、世の中みだれし時又しばらくしらせ給。事あらたまりても、かはらず都にすませまし<しかば、出家せさせ給て、四十九歳にてかくれさせまし<き。
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○第九十三代、後二条院。諱は邦治、後宇多第二の子。御母西花門院、源基子、内大臣具守の女なり。辛丑の年即位、壬寅に改元。天下を治給こと六年有て、世をはやくし給。二十四歳おまし<き。
○第九十四代の天皇。諱は富仁、伏見第三の子。御母顕親門院、藤原季子、左大臣実雄の女也。戊申の歳即位、改元。〔裏書云ふ。天子践祚以禅譲年属先代、踰年即位、是古礼也。而我朝当年即位翌年改元已為流例。但禅譲年即位改元又非無先例。和銅八年九月元明禅位。即日元正即位、改元為霊亀。養老八年二月元正禅位。即日聖武即位、改元為神亀。天平感宝元年四月聖武禅位。同年七月孝謙即位、改元為天平勝宝。神護景雲四年八月称徳崩、同年十月光仁即位、十一月改元為宝亀。徳治三年八月後二条崩、同年月新主即位、十月改元為延慶。又踰年不改元例。天平宝字二年淡路帝即位、不改元。仁和三年宇多帝即位、不改元。隔年改為寛平。延久四年白河帝即位、又不改元。隔年改為承保等也。即位似前改元例、寿永二年八月後鳥羽受禅、同三年四月改元為元暦、七月即位。是非常例也。〕父の上皇世をしらせ給しが、御出家の後は御譲にて、御兄の上皇しらせまします。法皇かくれ給ても諒闇の儀なかりき。上皇御猶子の儀とぞ。例なきこと也。天下を治給こと十一年にてのがれ給。尊号例の如し。世の中あらたまりて出家せさせ給き。
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○第九十五代、第四十九世、後醍醐天皇。諱は尊治、後宇多第二の御子。御母談天門院、藤原忠子、内大臣師継の女、実は入道参議忠継女なり。御祖父亀山の上皇やしなひ申給き。弘安に、時うつりて亀山・後宇多世をしろしめさずなりにしを、たび<関東に仰給しかば、天命の理かたじけなくおそれ思ければにや、俄に立太子の沙汰ありしに、亀山はこの君をすゑ奉らんとおぼしめして、八幡宮に告文ををさめ給しかど、一の御子さしたるゆゑなくてすてられがたき御ことなりければ、後二条ぞゐ給へりし。されど後宇多の御心ざしもあさからず。御元服ありて村上の例により、太宰帥にて節会などに出させ給き。後に中務卿を兼せさせ給。後二条世をはやくしまし<て、父の上皇なげかせ給し中にも、よろづこの君にぞ委附し申させ給ける。やがて儲君のさだめありしに、後二条の一のみこ邦良親王ゐ給べきかときこえしに、おぼしめすゆゑありとて、此親王を太子にたて給。「かの一のみこをさなくましませば、御子の儀にて伝へさせ給べし。もし邦良親王早世の御ことあらば、この御すゑ継体たるべし。」とぞしるしおかせましましける。彼親王鶴膝の御病ありて、あやふくおぼしめしけるゆゑなる
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べし。後宇多の御門こそゆゝしき稽古の君にましまししに、その御跡をばよくつぎ申させ給へり。あまさへもろ<の道をこのみしらせ給こと、ありがたき程の御ことなりけんかし。仏法にも御心ざしふかくて、むねと真言をならはせ給。はじめは法皇にうけましましけるが、後に前大僧正禅助に許可までうけ給けるとぞ。天子潅頂の例は唐朝にもみえはべり。本朝にも清和の御門、禁中にて慈覚大師に潅頂をおこなはる。主上をはじめ奉りて忠仁公などもうけられたる、これは結縁潅頂とぞ申める。此度はまことの授職とおぼしめししにや。されど猶許可にさだまりにきとぞ。それならず、又諸流をもうけさせ給。又諸宗をもすてたまはず。本朝異朝禅門の僧徒までも内にめしてとぶらはせ給き。すべて和漢の道にかねあきらかなる御ことは中比よりの代々にはこえさせまし<けるにや。戊午の年即位、己未の夏四月に改元。元応と号す。はじめつかたは後宇多院の御まつりことなりしを、中二とせばかりありてぞゆづり申させ給し。それよりふるきがごとくに記録所をおかれて、夙におき、夜はにおほとのごもりて、民のうれへをきかせ給。天下こぞりてこれをあふぎ奉る。公家のふるき御政にかへるべき世にこそとたかきもいやしきも、
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かねてうたひ侍き。
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かゝりしほどに後宇多院かくれさせ給て、いつしか東宮の御方にさぶらふ人々そは<にきこえしが、関東に使節をつかはされ天位をあらそふまでの御中らひになりにき。あづまにも東宮の御ことをひき立申輩ありて、御いきどほりのはじめとなりぬ。元亨甲子の九月のすゑつかた、やう<事あらはれにしかども、うけたまはりおこなふ中にいふかひなき事いできにしかど、大方はことなくてやみぬ。其後ほどなく東宮かくれ給。神慮にもかなはず、祖皇の御いましめにもたがはせ給けりとぞおぼえし。今こそ此天皇うたがひなき継体の正統にさだまらせ給ひぬれ。されど坊には後伏見第一の御子、量仁親王ゐさせ給。かくて
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元弘辛未の年八月に俄に都をいでさせ給、奈良の方に臨幸ありしが、其所よろしからで、笠置と云山寺のほとりに行宮をしめ、御志ある兵をめし集らる。たび<合戦ありしが、同九月に東国の軍おほくあつまりのぼりて、事かたくなりにければ、他所にうつらしめ給しに、おもひの外のこといできて、六波羅とて承久よりこなたしめたる所に御幸ある。御供にはべりし上達部・うへのをのこどももあるひはとられ、或はしのびかくれたるもあり。かくて東宮位につかせ給。つぎの年の春隠岐国にうつらしめまします。
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御子たちもあなたかなたにうつされ給しに、兵部卿護良親王ぞ山々をめぐり、国国をもよほして義兵をおこさんとくはたて給ける。河内国に橘正成と云者ありき。御志ふかゝりければ、河内と大和との境に、金剛山と云所に城をかまへて、近国ををかしたひらげしかば、あづまより諸国の軍をあつめてせめしかど、かたくまもりければ、たやすくおとすにあたはず。世の中みだれ立にし。次の年癸酉の春、忍て御船にたてまつりて、隠岐をいでて伯耆につかせ給。其国に源長年と云者あり。御方にまゐりて船上と云山寺にかりの宮をたててぞすませたてまつりける。彼あたりの軍兵しばらくはきほひておそひ申けれど、みななびき
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申ぬ。都ちかき所々にも、御心ざしある国々のつはものより<うちいづれば、合戦もたび<になりぬ。京中さわがしくなりては、上皇も新主も六波羅にうつり給。伯耆よりも軍をさしのぼせらる。ここに畿内・近国にも御志ある輩、八幡山に陣をとる。坂東よりのぼれる兵の中に藤原の親光と云者も彼山にはせくはゝりぬ。つぎ<御方にまゐる輩おほくなりにけり。源高氏ときこえしは、昔の義家朝臣が二男、義国と云しが後胤なり。彼義国が孫なりし義氏は平義時朝臣が外孫なり。義時等が世となりて、源氏の号ある勇士には心をおきければにや、おしすゑたるやうなりしに、これは外孫なれば取立て領ずる所などもあまたはからひおき、代々になるまでへだてなくてのみありき。高氏も都へさしのぼせられけるに、疑をのがれんとにや、告文をかきおきてぞ進発しける。されど冥見をもかへりみず、心がはりして御方にまゐる。官軍力をえしまゝに、五月八日のころにや、都にある東軍みなやぶれて、あづまへこゝろざしておちゆきしに、両院・新帝おなじく御ゆきあり。近江国馬場と云所にて、御方に心ざしある輩うちいでにければ、武士はたゝかふまでもなく自滅しぬ。両院・新帝は都にかへし奉り、官軍これをまぼり
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申き。かくて都より西ざま、程なくしづまりぬときこえければ還幸せさせ給。まことにめづらかなりし事になん。
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東にも上野国に源義貞と云者あり。高氏が一族也。世の乱におもひをおこし、いくばくならぬ勢にて鎌倉にうちのぞみけるに、高時等運命きはまりにければ、国々の兵つきしたがふこと、風の草をなびかすがごとくして、五月の二十二日にや、高時をはじめとして多の一族みな自滅してければ、鎌倉又たひらぎぬ。符契をあはすることもなかりしに、筑紫の国々・陸奥・出羽のおくまでも同月にぞしづまりにける。六七千里のあひだ、一時におこりあひにし、時のいたり運の極ぬるはかゝることにこそと不思議にも侍しもの哉。君はかくともしらせ給はず、摂津国西の宮と云所にてぞきかせまし<ける。六月四日東寺にいらせ給ふ。都にある人々まゐりあつまりしかば、威儀をとゝのへて本の宮に還幸し給。いつしか賞罰のさだめありしに、両院・新帝をばなだめ申給て、都にすませまし<ける。されど新帝は偽主の儀にて正位にはもちゐられず。改元して正慶と云しをも本のごとく元弘と号せられ、官位昇進せし輩もみな元弘元年八月よりさきのまゝにて
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ぞありし。平治より後、平氏世をみだりて二十六年、文治の初、頼朝権をもはらにせしより父子あひつぎて三十七年、承久に義時世をとりおこなひしより百十三年、すべて百七十余年のあひだおほやけの世を一にしらせ給ことたえにしに、此天皇の御代に掌をかへすよりもやすく一統し給ぬること、宗廟の御はからひも時節ありけりと、天下こぞりてぞ仰奉りける。
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同年冬十月に、先あづまのおくをしづめらるべしとて、参議右近中将源顕家卿を陸奥守になしてつかはさる。代々和漢の稽古をわざとして、朝端につかへ政務にまじはる道をのみこそまなびはべれ。吏途の方にもならはず、武勇の芸にもたづさはらぬことなれば、たび<いなみ申しかど、「公家すでに一統しぬ。文武の道二あるべからず。昔は皇子皇孫もしは執政の大臣の子孫のみこそおほくは軍の大将にもさゝれしか。今より武をかねて蕃屏たるべし。」とおほせ給て、御みづから旗の銘をかゝしめ給、さま<”の兵器をさへくだしたまはる。任国におもむくこともたえてひさしくなりにしかば、ふるき例をたづねて、罷申の儀あり。御前にめし勅語ありて御衣御馬などをたまはりき。猶おくのかためにもと申うけて、御子を一所ともなひたてまつる。かけまくもかしこき
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今上皇帝の御ことなればこまかにはしるさず。彼国につきにければ、まことにおくの方ざま両国をかけてみななびきしたがひにけり。同十二月左馬頭直義朝臣相模守を兼て下向す。これも四品上野大守成良親王をともなひ奉。此親王、後にしばらく征夷大将軍を兼せさせ給〈 直義は高氏が弟なり。 〉抑彼高氏御方にまゐりし、其功は誠にしかるべし。すゞろに寵幸ありて、抽賞せられしかば、ひとへに頼朝卿天下をしづめしまゝの心ざしにのみなりにけるにや。いつしか越階して四位に叙し、左兵衛督に任ず。拝賀のさきに、やがて従三位して、程なく参議従二位までのぼりぬ。三け国の吏務・守護およびあまたの郡庄を給る。弟直義左馬頭に任じ、従四位に叙す。
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昔頼朝ためしなき勲功ありしかど、高官高位にのぼることは乱政なり。はたして子孫もはやくたえぬるは高官のいたす所かとぞ申伝たる。高氏等は頼朝・実朝が時に親族などとて優恕することもなし。たゞ家人の列なりき。実朝公八幡宮に拝賀せし日も、地下前駈二十人の中に相加れり。たとひ頼朝が後胤なりとも今さら登用すべしともおぼえず。いはむや、ひさしき家人
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なり。さしたる大功もなくてかくやは抽賞せらるべきとあやしみ申輩もありけりとぞ。関東の高時天命すでに極て、君の御運をひらきしことは、更に人力といひがたし。武士たる輩、いへば数代の朝敵也。御方にまゐりて其家をうしなはぬこそあまさへある皇恩なれ。さらに忠をいたし、労をつみてぞ理運の望をも企はべるべき。しかるを、天の功をぬすみておのれが功とおもへり。介子推がいましめも習しるものなきにこそ。かくて高氏が一族ならぬ輩もあまた昇進し、昇殿をゆるさるゝもありき。されば或人の申されしは、「公家の御世にかへりぬるかとおもひしに中<猶武士の世に成ぬる。」とぞ有し。
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およそ政道と云ことは所々にしるしはべれど、正直慈悲を本として決断の力あるべき也。これ天照太神のあきらかなる御をしへなり。決断と云にとりてあまたの道あり。一には其人をえらびて官に任ず。官に其人ある時は君は垂拱してまします。されば本朝にも異朝にもこれを治世の本とす。二には国郡をわたくしにせず、わかつ所かならず其理のまゝにす。三には功あるをば
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必賞し、罪あるをば必ず罰す。これ善をすゝめ悪をこらす道なり。是に一もたがふを乱政とはいへり。上古には勲功あればとて官位をすゝむことはなかりき。つねの官位のほかに勲位と云しなをおきて一等より十二等まであり。無位の人人なれど、勲功たかくて一等にあがれば、正三位の下、従三位の上につらなるべしとぞみえたる。又本位ある人のこれを兼たるも有べし。官位といへるは、上三公より下諸司の一分にいたる、これを内官と云、諸国の守より史生・郡司にいたる、これを外官と云ふ。天文にかたどり、地理にのとりておの<つかさどる方あれば、其才なくては任用せらるべからざることなり。「名与器は人にかさず。」とも云、「天の工に人其代。」ともいひて、君のみだりにさづくるを謬挙とし、臣のみだりにうくるを尸祿とす。謬挙と尸祿とは国家のやぶるゝ階、王業の久からざる基なりとぞ。
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中古と成て、平将門を追討の賞にて、藤原秀郷正四位下に叙し、武蔵・
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下野両国の守を兼す。平貞盛正五位下に叙し、鎮守府の将軍に任ず。安倍貞任奥州をみだりしを、源頼義朝臣十二年までにたゝかひ、凱旋の日、正四位下に叙し、伊与守に任ず。彼等其功たかしといへども、一任四五け年の職なり。これ猶上古の法にはかはれり。保元の賞には、義朝左馬頭に転じ、清盛太宰大弐に任ず。此外受領・検非違使になれるもあり。此時やすでにみだりがはしき始となりにけん。平治よりこのかた皇威ことのほかにおとろへぬ。清盛天下の権を盜、太政大臣にあがり、子ども大臣大将に成しうへはいふにたらぬ事にや。されど朝敵になりてやがて滅亡せしかば後の例にはひきがたし。頼朝はさらに一身の力にて平氏の乱をたひらげ、二十余年の御いきどほりをやすめたてまつりし、昔神武の御時、宇麻志麻見の命の中州をしづめ、皇極の御宇に大織冠の蘇我の一門をほろぼして、皇家をまたくせしより後は、たぐひなき程の勲功にや。それすら京上の時、大納言大将に任ぜられしをば、かたくいなみ申けるをおしてなされにけり。公私のわざはひにや侍けん。その子は彼があとなれば、大臣大将になりてやがてほろびぬ。更にあとと云物もなし。天意にはたがひけりとみえたり。君もかゝる
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ためしをはじめ給しによりて、大功なきものまでも皆かゝるべきことと思あへり。頼朝はわが身かゝればとて、兄弟一族をばかたくおさへけるにや。義経五位の検非違使にてやみぬ。範頼が三河守なりしは、頼朝拝賀の日地下の前駈にめしくはへたり。おごる心みえければにや、この両弟をもつひにうしなひにき。さならぬ親族もおほくほろぼされしは、おごりのはしをふせぎて、世をもひさしく、家をもしづめんとにやありけん。
先祖経基はちかき皇孫なりしかど、承平の乱に征東将軍忠文朝臣が副将
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として彼が節度をうく。其より武勇の家となる。其子満仲より頼信、頼義、義家相続で朝家のかためとしてひさしく召仕る。上にも朝威まし<、下にも其分にすぎずして、家を全し侍りけるにこそ。為義にいたりて乱にくみして誅にふし、義朝又功をたてんとてほろびにき。先祖の本意にそむきけることはうたがひなし。さればよく先蹤をわきまへ、得失をかむがへて、身を立、家をまたくするこそかしこき道なれ。おろかなるたぐひは清盛・頼朝が昇進をみて、みなあるべきこととおもひ、為義、義朝が逆心をよみして、亡たるゆゑをしらず。近ごろ伏見の御時、源為頼と云をのこ内裏にまゐりて自害したりしが、かねて諸社に奉る矢にも、その夜射ける矢にも、大政大臣源為頼とかきたりし、いとをかしきことに申めれど、人の心のみだりになり行すがたはこれにておしはかるべし。義時などはいかほどもあがるべくやありけん。されど正四位下右京権大夫にてやみぬ。まして泰時が世になりては子孫の末をかけてよくおきておきければにや。滅びしまでもつひに高官にのぼらず、上下の礼節をみだらず。近く維貞といひしもの吹挙によりて修理大夫になりしをだにいかがと申ける。まことに其の
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身もやがてうせ侍りにき。父祖のおきてにたがふは家門をうしなふしるしなり。人は昔をわするゝものなれど、天は道をうしなはざるなるべし。さらばなど天は正理のまゝにおこなはれぬと云こと、うたがはしけれど、人の善悪はみづからの果報也。世のやすからざるは時の災難なり。天道も神明もいかにともせぬことなれど邪なるものは久しからずしてほろび、乱たる世も正にかへる、古今の理なり。これをよくわきまへしるを稽古と云ふ。
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昔人をえらびもちゐられし日は先徳行をつくす。徳行おなじければ、才用あるをもちゐる。才用ひとしければ労効あるをとる。又徳義・清慎・公平・恪勤の四善をとるともみえたり。格条には「朝に廝養たれども夕に公卿にいたる。」と云ことの侍るも、徳行才用によりて不次にもちゐらるべき心なり。寛弘よりあなたには、まことに才かしこければ、種姓にかゝはらず、将相にいたる人もあり。寛弘以来は、譜第をさきとして、其中に才もあり徳もありて、職にかなひぬべき人をぞえらばれける。世の末に、みだりがはしかるべきことをいましめらるゝにやありけん、「七け国の受領をへて、合格して公文といふことかんがへぬれば、参議に任ず。」と申ならはしたるを、白河の御時、修理のかみ顕季といひし人、院の御めのとの夫にて、時のきら並人なかりしが、この労をつのり
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て参議を申けるに、院の仰に、「それも物かきてのうへのこと」とありければ、理にふしてやみぬ。此人は哥道などもほまれありしかば、物かゝぬ程のことやはあるべき。又参議になるまじきほどの人にもあらじなれど、和漢の才学のたらぬにぞ有けん。白河の御代まではよく官をおもくし給けりときこえたり。あまり譜第をのみとられても賢才のいでこぬはしなれば、上古におよびがたきことをうらむるやからもあれど、昔のまゝにてはいよ<みだれぬべければ、譜第をおもくせられけるもことわり也。但才もかしこく徳もあらはにして、登用せられむに、人のそしりあるまじき程の器ならば、今とてもかならず非重代によるまじき事とぞおぼえ侍る。其道にはあらで、一旦の勲功など云ばかりに、武家代々の陪臣をあげて高官を授られむことは、朝議のみだりなるのみならず、身のためもよくつゝしむべきこととぞおぼえ侍る。
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もろこしにも、漢高祖はすゞろに功臣を大に封じ、公相の位をも授しかば、はたして奢ぬ。奢ればほろぼす。よりて後には功臣のこりなくなりにけり。後漢の光武はこの事にこりて、功臣に封爵をあたへけるも、其首たりし■禹すら封ぜらるゝ所四県にすぎず。官を任ずるには文吏をもとめえらびて、功臣をさしおく。是によりて二十八将の家ひさしく伝て、昔の功もむなしからず。朝には名士おほくもちゐられて、曠官のそしりなかりき。彼二十八将の中にも■禹と賈復とはそのえらびにあづかりて官にありき。漢朝の昔だに文武の才をそなふることいとありがたく侍りけるにこそ。
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次に功田と云ことは、昔は功のしなにしたがひて大・上・中・下の四の功を立て田をあかち給き。其数みなさだまれり。大功は世々にたえず。其下つかたは或は三世につたへ、孫子につたへ、身にとゞまるもあり。天下を治と云ことは、国郡を専にせずして、そのこととなく不輸の地をたてらるゝことのなかりしにこそ。国に守あり、郡に領あり、一国のうち皆国命のしたにてをさめしゆゑに法にそむく民なし。かくて国司の行迹をかむがへて、賞罰ありしかば、天下のこと掌をさしておこなひやすかりき。其中に諸院・諸宮に御封あり。親王・大臣も又かくのごとし。其外官田・職田とてあるも、みな官符を給て、其所の正税をうくるばかりにて、国はみな国司の吏務なるべし。但大功の者ぞ今の庄園などとて伝がごとく、国にいろはれずしてつたへける。中古となりて庄園おほくたてられ、不輸の所いできしより
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乱国とはなれり。上古にはこの法よくかたかりければにや、推古天皇の御時、蘇我大臣「わが封戸をわけて寺によせん。」と奏せしをつひにゆるされず。光仁天皇は永神社・仏寺によせられし地をも「永の字は一代にかぎるべし。」とあり。後三条院の御世こそ此つひえをきかせ給て、記録所をおかれて国々の庄公の文書をめして、おほく停廃せられしかど、白河・鳥羽の御時より新立の地いよ<おほくなりて、国司のしり所百分が一になりぬ。後ざまには、国司任におもむくことさへなくて、其人にもあらぬ眼代をさして国ををさめしかば、いかでか乱国とならざらん。況や文治のはじめ、国に守護職を補し、庄園・郷保に地頭をおかれしよりこのかたは、さらに古のすがたと云ことなし。政道をおこなはるゝ道、こと<”くたえはてにき。たま<一統の世にかへりぬれば、この度ぞふるき費をもあらためられぬべかりしかど、それまではあまさへのことなり。今は本所の領と云し所々さへ、みな勲功に混ぜられて、累家もほと<其名ばかりになりぬるもあり。これみな功にほこれる輩、君をおとし奉るによりて、皇威もいとゞかろくなるかとみえたり。かゝれば其功なしといへども、ふるくより勢ある輩をなつけられんため、或は本領なりとてたまはるもあり、或は
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近境なりとてのぞむもあり。闕所をもておこなはるゝにたらざれば、国郡につきたりし地、もしは諸家相伝の領までもきほひ申けりとぞ。をさまらんとしていよ<みだれ、やすからんとしてます<あやふくなりにける、末世のいたりこそまことにかなしく侍れ。
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凡王土にはらまれて、忠をいたし命をすつるは人臣の道なり。必これを身の高名とおもふべきにあらず。しかれども後の人をはげまし、其あとをあはれみて賞せらるゝは、君の御政なり。下としてきほひあらそひ申べきにあらぬにや。ましてさせる功なくして過分の望をいたすこと、みづからあやぶむるはしなれど、前車の轍をみることはまことに有がたき習なりけんかし。中古までも人のさのみ豪強なるをばいましめられき。豪強になりぬればかならずおごる心あり。はたして身をほろぼし、家をうしなふためしあれば、いましめらるゝも理なり。鳥羽院の御代にや、諸国の武士の源平の家に属することをとゞむべしと云ふ制符たび<ありき。源平ひさしく武をとりてつかへしかども、事ある時は、宣旨を給て諸国の兵をめしぐしけるに、近代となりてやがて肩をいるゝ族おほくなりしによりて、此制符はくだされき。はたして、今までの乱世の基なれば、云ふかひなきことになりにけり。此比のことわざには、一たび軍にかけあひ、或は家子郎従節にしぬるたぐひもあれば、「わが功におき
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ては日本国を給、もしは半国を給てもたるべからず。」など申める。まことにさまでおもふことはあらじなれど、やがてこれよりみだるゝ端ともなり、又朝威のかろ<”しさもおしはからるゝものなり。「言語は君子の枢機なり。」といへり。あからさまにも君をないがしろにし、人におごることあるべからぬことにこそ。さきにしるしはべりしごとく、かたき氷は霜をふむよりいたるならひなれば、乱臣賊子と云者は、そのはじめ心ことばをつゝしまざるよりいでくる也。世の中のおとろふると申は、日月の光のかはるにもあらず、草木の色のあらたまるにもあらじ。人の心のあしくなり行を末世とはいへるにや。
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昔許由と云ふ人は帝■の国を伝へんとありしをきゝて、潁川に耳をあらひき。巣父はこれをきゝて此水をだにきたながりてわたらず。其人の五臓六腑のかはるにはあらじ、よくおもひならはせるゆゑにこそあらめ。猶行すゑの人の心おもひやるこそあさましけれ。大方おのれ一身は恩にほこるとも、万人のうらみをのこすべきことをばなどかかへりみざらん。君は万姓の主にてましませば、かぎりある地をもて、かぎりなき人にわかたせ給はんことは、おしてもはかりたてまつる
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べし。もし一国づつをのぞまば、六十六人にてふさがりなむ。一郡づつといふとも、日本は五百九十四郡こそあれ、五百九十四人はよろこぶとも千万の人は不悦。況日本の半を心ざし、皆ながらのぞまば、帝王はいづくをしらせ給べきにか。かゝる心のきざしてことばにもいでおもてには恥る色のなきを謀反のはじめと云べき也。昔の将門は比叡山にのぼりて、大内を遠見して謀反をおもひくはたてけるも、かゝるたぐひにや侍けん。昔は人の心正くて自ら将門にみもこり、きゝもこり侍りけん。今は人々の心かくのみなりにたれば、此世はよくおとろへぬるにや。
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漢高祖の天下をとりしは蕭何・張良・韓信が力なり。これを三傑と云ふ。万人にすぐれたるを傑と云とぞ。中にも張良は高祖の師として、「はかりことを帷帳の中にめぐらして、勝ことを千里の外に決するはこの人なり。」との給しかど、張良はおごることなくして、留といひてすこしきなる所をのぞみて封ぜられにけり。あらゆる功臣おほくほろびしかど、張良は身をまたくしたりき。ちかき代のことぞかし、頼朝の時までも、文治の比にや、奥の泰衡を追討せしに、みづからむかふことありしに、平重忠が先陣にて其功すぐれたりければ、五十四郡の中に、いづくをものぞむべかりけるに、長岡の郡とてきはめたる小所をのぞみたまはりけるとぞ。これは人々にひろく賞をもおこなはしめんがためにや。かしこかりけるをのこにこそ。又直実と云ける者に一所をあたへたまふ下文に、「日本第一の甲の者なり。」と書て給てけり。一とせ彼下文を持て奏聞する人の有けるに、褒美の詞のはなはだしさに、あたへたる所のすくなさ、まことに名をおもくして利をかろくしける、いみじきことと口<にほめあへり
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ける。いかに心えてほめけんといとをかし。是までの心こそなからめ、事にふれて君をおとし奉り、身をたかくする輩のみ多くなれり。ありし世の東国の風儀もかはりはてぬ。公家のふるきすがたもなし。いかになりぬる世にかとなげき侍る輩もありときこえしかど、中一とせばかりはまことに一統のしるしとおぼえて、天の下こぞり集て都の中はえ<”しくこそ侍りけれ。
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建武乙亥の秋の比、滅にし高時が余類謀反をおこして鎌倉にいりぬ。直義は成良の親王をひきつれ奉て参河国までのがれにき。兵部卿護良親王ことありて鎌倉におはしましけるをば、つれ申におよばずうしなひ申てけり。みだれの中なれど宿意をはたすにやありけん。都にも、かねて陰謀のきこえありて嫌疑せられける中に権大納言公宗卿召おかれしも、このまぎれに誅せらる。承久より関東の方人にて七代になりぬるにや。高時も七代にて滅ぬれば、運のしからしむることとはおぼゆれど、弘仁に死罪をとめられて後、信頼が時にこそめづらかなることに申はべりけれ。戚里のよせも久しくなり大納言以上にいたりぬるに、おなじ死罪なりともあらはならぬ法令もあるに、うけ給おこなふ輩のあやまりなりとぞきこえし。高氏は申うけて東国に
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むかひけるが、征夷将軍ならびに諸国の惣追捕使を望けれど、征東将軍になされて悉くはゆるされず。程なく東国はしづまりにけれど、高氏のぞむ所達せずして、謀反をおこすよしきこえしが、十一月十日あまりにや、義貞を追討すべきよし奏状をたてまつり、すなはち討手のぼりければ、京中騒動す。追討のために、中務卿尊良親王を上将軍として、さるべき人々もあまたつかはさる。武家には義貞朝臣をはじめておほくの兵をくだされしに、十二月に官軍ひきしりぞきぬ。関々をかためられしかど、次の年丙子の春正月十日官軍又やぶれて朝敵すでにちかづく。よりて比叡山東坂本に行幸して、日吉社にぞまし<ける。内裏もすなはち焼ぬ。累代の重宝もおほくうせにけり。昔よりためしなきほどの乱逆なり。
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かゝりしあひだに、陸奥守鎮守府の将軍顕家卿この乱をきゝて、親王をさきに立奉りて、陸奥・出羽の軍兵を率してせめのぼる。同十三日近江国につきてことの由を奏聞す。十四日に江をわたりて坂本にまゐりしかば、官軍大に力をえて、山門の衆徒までも万歳をよばひき。同十六日より合戦はじまりて三十日
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つひに朝敵を追落す。やがて其夜還幸し給。高氏等猶摂津国にありときこえしかば、かさねて諸将をつかはす。二月十三日又これをたひらげつ。朝敵は船にのりて西国へなむおちにけり。諸将および官軍はかつ<”かへりまゐりしを、東国の事おぼつかなしとて、親王も又かへらせ給べし、顕家卿も任所にかへるべきよしおほせらる。義貞は筑紫へつかはさる。かくて親王元服し給。直に三品に叙し、陸奥太守に任じまします。彼国の太守は始たることなれど、たよりありとてぞ任じ給。勧賞によりて同母の御兄四品成良のみこをこえ給。顕家卿はわざと賞をば申うけざりけるとぞ。義貞朝臣は筑紫へくだりしが、播磨国に朝敵の党類ありとて、まづこれを対治すべしとて、日をおくりし程に五月にもなりぬ。高氏等西国の凶徒をあひかたらひてかさねてせめのぼる。官軍利なくして都に帰参せしほどに、同二十七日に又山門に臨幸し給。八月にいたるまで度々合戦ありしかど、官軍いとすゝまず。仍て都には元弘偽主の御弟に、三の御子豊仁と申けるを位につけ奉る。十月十日の比にや、主上都に出させ給、いとあさましかりしことなれど、又行すゑをおぼしめす道ありしにこそ。東宮は北国に行啓あり。
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左衛門督実世の卿以下の人々、左中将義貞朝臣をはじめてさるべき兵もあまたつかうまつりけり。主上は尊号の儀にてまし<き。御心をやすめ奉らんためにや、成良親王を東宮にすゑたてまつる。同十二月にしのびて都を出まし<て、河内国に正成といひしが一族等をめしぐして芳野にいらせ給ぬ。行宮をつくりてわたらせ給。もとのごとく存位の儀にてぞまし<ける。内侍所もうつらせ給、神璽も御身にしたがへ給けり。まことに奇特のことにこそ侍しか。芳野のみゆきにさきだちて、義兵をおこす輩もはべりき。臨幸の後には国々にも御心ざしあるたぐひあまたきこえしかど、つぎの年もくれぬ。
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又の年戊寅の春二月、鎮守大将軍顕家卿又親王をさきだて申、かさねてうちのぼる。海道の国々こと<”くたひらぎぬ。伊勢・伊賀をへて大和に入、奈良の京になんつきにける。それより所々の合戦あまたたび互に勝負侍りしに、同五月和泉国にてのたゝかひに、時やいたらざりけん、忠孝の道こゝにきはまりはべりにき。苔の下にうづもれぬものとてはたゞいたづらに名をのみぞとゞめてし、心うき世にもはべるかな。官軍猶こゝろをはげまして、男山に陣をとりて、しばらく合戦ありしかど、朝敵忍て社壇をやきはらひしより、ことならずして引しりぞく。北国にありし義貞もたび<めされしかど、のぼりあへ
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ず。させることなくてむなしくさへなりぬときこえしかば、云ふばかりなし。さてしもやむべきならずとて、陸奥の御子又東へむかはせ給べき定あり。左少将顕信朝臣中将に転じ、従三位叙し、陸奥の介鎮守将軍を兼てつかはさる。東国の官軍こと<”く彼節度にしたがふべき由を仰らる。親王は儲君にたゝせ給べきむね申きかせ給、「道の程もかたじけなかるべし。国にてはあらはさせ給へ。」となん申されし。異母の御兄もあまたまし<き。同母の御兄も前東宮、恒良の親王・成良親王まし<しに、かくさだまり給ぬるも天命なればかたじけなし。七月の末つかた、伊勢にこえさせ給て、神宮にことのよしを啓て御船をよそひし、九月のはじめ、ともづなをとかれしに、十日ごろのことにや、上総の地ちかくより空のけしきおどろおどろしく、海上あらくなりしかば、又伊豆の崎と云ふ方にたゞよはれ侍しに、いとゞ浪風おびたゞしくなりて、あまたの船ゆきかたしらずはべりけるに、御子の御船はさはりなく伊勢の海につかせ給。顕信朝臣はもとより御船にさぶらひけり。同風のまぎれに、東をさして常陸国なる内の海につきたる船はべりき。方々にたゞよひし中に、この二のふねおなじ風にて東西にふきわけける、末の世
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にはめづらかなるためしにぞ侍べき。儲の君にさだまらせ給て、例なきひなの御すまひもいかゞとおぼえしに、皇太神のとゞめ申させ給けるなるべし。後に芳野へいらせまし<て、御目の前にて天位をつがせ給しかば、いとゞおもひあはせられてたふとく侍るかな。又常陸国はもとより心ざす方なれば、御志ある輩あひはからひて義兵こはくなりぬ。奥州・野州の守も次の年の春かさねて下向して、おの<国につきはべりにき。
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さても旧都には、戊寅の年の冬改元して暦応とぞ云ける。芳野の宮にはもとの延元の号なれば、国々もおもひ+の号なり。もろこしには、かゝるためしおほけれど、此国には例なし。されど四とせにもなりぬるにや。大日本嶋根はもとよりの皇都也。内侍所・神璽も芳野におはしませば、いづく
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か都にあらざるべき。さても八月の十日あまり六日にや、秋霧にをかされさせ給てかくれまし<ぬとぞきこえし。ぬるが中なる夢の世は、いまにはじめぬならひとはしりながら、かず<めのまへなる心ちして老泪もかきあへねば、筆の跡さへとゞこほりぬ。昔、「仲尼は獲麟に筆をたつ。」とあれば、こゝにてとゞまりたくはべれど、神皇正統のよこしまなるまじき理を申のべて、素意の末をもあらはさまほしくて、しひてしるしつけ侍るなり。かねて時をもさとらしめ給けるにや、まへの夜より親王をば左大臣の亭へうつし奉られて、三種の神器を伝へ申さる。後の号をば、仰のまゝにて後醍醐天皇と申。天下を治給こと二十一年。五十二歳おまし<き。昔仲哀天皇熊襲をせめさせ給し行宮にて神さりまし<き。されど神功皇后程なく三韓をたひらげ、諸皇子の乱をしづめられて、胎中天皇の御代にさだまりき。この君聖運まし<しかば、百七十余年中たえにし一統の天下をしらせ給て、御目の前にて日嗣をさだめさせ給ぬ。功もなく徳もなきぬす人世におごりて、四とせ余がほど宸襟をなやまし、御世をすぐさせ給ぬれば、御怨念の末むなしく侍りなんや。今の御門また天照太神よりこのかたの正統をうけまし<ぬれ
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ば、この御光にあらそひたてまつる者やはあるべき。中<かくてしづまるべき時の運とぞおぼえ侍る。
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○第九十六代、第五十世の天皇。諱は義良、後醍醐の天皇第七御子。御母准三宮、藤原の廉子。この君はらまれさせ給はんとて、日をいだくとなん夢に見申させ給けるとぞ。さればあまたの御子の中にたゞなるまじき御こととぞかねてよりきこえさせ給し。元弘癸酉の年、あづまの陸奥・出羽のかためにておもむかせ給。甲戌の夏、立親王、丙子の春、都にのぼらせまし<て、内裏にて御元服。加冠左のおとゞなり。すなはち三品に叙し、陸奥の太守に任ぜさせ給。おなじき戊寅の年春、又のぼらせ給て、芳野宮にまし<しが、秋七月伊勢にこえさせ給。かさねて東征ありしかど、猶伊勢にかへりまし、己卯の年三月又芳野へいらせ給。秋八月中の五日ゆづりをうけ
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て、天日嗣をつたへおまします。

神皇正統記評釈 終
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