神皇正統記評釈

凡例
底本:「神皇正統記評釈」 
大正十四年二月十五日発行
昭和十五年八月二十日十七版発行 定価金一円六十銭
著者 大町芳衛
発行所 明治書院

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神皇正統記評釈

M001
目次
巻一
序論
天神七代
天照大神
天忍穂耳尊
彦々火瓊々杵尊
彦火々出見尊
■■草葺不合尊
巻二
神武天皇
綏靖天皇
安寧天皇
懿徳天皇
孝昭天皇
孝安天皇
孝霊天皇
孝元不皇
開化天皇
崇神天皇
垂仁天皇
景行天皇
成務天皇
仲哀天皇
神功皇后
応神天皇
仁徳天皇
履中天皇
反正天皇
允恭天皇
M002
巻三
安康天皇
雄略天皇
清寧天皇
顕宗天皇
仁賢天皇
武烈天皇
継体天皇
安閑天皇
宣化天皇
欽明天皇
敏達天皇
用明天皇
崇峻天皇
推古天皇
舒明天皇
皇極天皇
孝徳天皇
斉明天皇
天智天皇
天武天皇
持統天皇
文武天皇
元明天皇
元正天皇
聖武天皇
孝謙天皇
淳仁天皇
称徳天皇
光仁天皇
桓武天皇
M003
巻四
平城天皇
嵯峨天皇
淳和天皇
仁明天皇
文徳天皇
清和天皇
陽成天皇
光孝天皇
宇多天皇
醍醐天皇
朱雀天皇
村上天皇
冷泉天皇
円融天皇
花山天皇
一条天皇
三条天皇
後一条天皇
後朱雀天皇
後冷泉天皇
巻五
後三条天皇
白河天皇
堀河天皇
鳥羽天皇
崇徳天皇
近衛天皇
後白河天皇
二条天皇
六条天皇
高倉天皇
M004
安徳天皇
後鳥羽天皇
土御門天皇
順徳天皇
仲恭天皇
後堀河天皇
四条天皇
後嵯峨天皇
後深草天皇
亀山天皇
後宇多天皇
巻六
伏見天皇
後伏見天皇
後二条天皇
花園天皇
後醍醐天皇
後村上天皇
(目次終)
P001
神皇正統記評釈
文学士 大町芳衛著
巻一
大日本(おほやまと)者(は)神国(かみのくに)他。天祖(あまつみおや)はじめて基(もとゐ)をひらき、日神(ひのかみ)ながく統(とう)を伝(つた)へ給ふ。我(わが)国のみ此事あり。異朝(いてう)には其たぐひなし。此故に神国(かみのくに)と云(い)ふ也。神代(かみよ)には豊葦原千五百秋瑞穂(とよあしはらのちいほのあきのみづほの)国と云(い)ふ。天地開闢(てんちかいびやく)の初(はじめ)より此名(な)あり。天祖(あまつみおや)国常立尊(くにのとこたちのみこと)、陽神陰神(をがみめがみ)にさづけ給し勅(みことのり)にきこえたり。天照太神(あまてらすおほみかみ)、天孫(あめみま)の尊に譲(ゆづり)まし<しにも、此名あれば根本(こんぼん)の号(な)なりとはしりぬべし。又は大八州国(おほやしまのくに)と云(い)ふ。是は陽神陰神、此国を生(うみ)給しが、八(やつ)の嶋(しま)なりしによ(つ)て名(なづ)けられたり。又は耶麻土(やまと)と云(い)ふ。是は大八州(おほやしま)の中国(なかつくに)の名也。第八にあたるたび、天御虚空豊秋津根別(あめのみそらとよあきづねわけ)と云神を生(うみ)給ふ。これを
P002
大日本豊秋津州(おほやまととよあきづしま)となづく。今は四十八け国にわかてり。中州(なかつくに)たりし上に、神武(じんむ)天皇東征(とうせい)より代々(よよ)の皇都(くわうと)也。よりて其名をとりて、余(ほか)の七州をもすべて耶麻土と云なるべし。唐(もろこし)にも、周(しう)の国より出(いで)たりしかば、天下(てんか)を周と云(いひ)、漢(かん)の地(ち)よりおこりたれば、海内(かいだい)を漢と名づけしが如し。
P004
耶麻土(やまと)と云へることは山迹(やまあと)と云也。昔天地(あめつち)わかれて泥(でい)のうるほひいまだかわかず、山をのみ往来(わうらい)として其跡(あと)おほかりければ山迹(やまあと)と云(い)ふ。或(あるひは)古語に居住を止(と)と云(い)ふ。山に居住せしによりて山止(やまと)なりとも云へり。大日本とも大倭とも書(かく)ことは、此国に漢字伝(つたはり)て後、国の名をかくに字をば大日本と定(さだめ)てしかも耶麻土(やまと)とよませたるなり。大日■(をほひるめ)のしろしめす御国なれば、其義をもとれるか、はた日の出(いづ)る所にちかければしかいへるか。義はかゝれども字のまゝ日のもとと(ゝ)はよまず。耶麻土と訓(くん)ぜり。我国の漢字を訓ずる
P005
こと多く如此(かくのごとし)。おのづから日(ひ)の本(もと)などいへるは文字(もんじ)によれるなり。国の名とせるにあらず。〔裏書云(うらがきにいふ)。日のもとと(ゝ)よめる哥、万葉(に)云(い)ふ。いざこどもはや日のもとへおほとものみつのはま松まちこひぬらん〕又古(いにしへ)より大日本とも若(もし)は大の字をくはへず、日本ともかけり。州(しま)の名を大日本豊秋津といふ。懿徳(いとく)・孝霊(かうれい)・孝元(かうげん)等の御謚(おくりな)みな大日本の字あり。垂仁(すゐにん)天皇の御女(むすめ)大日本姫(やまとひめ)と云(い)ふ。これみな大の字あり。天神(あまつかみ)饒速日尊(にぎのはやひのみこと)、天(あめ)の磐船(いはふね)にのり大虚(おほぞら)をかけりて「虚空見日本(そらみつやまと)の国」との給(たまふ)。神武の御名神日本磐余彦(かみやまといはれびこ)と号したてまつる。孝安(かうあん)を日本足(やまとたらし)、開化(かいくわ)を稚(わか)日本とも号(がうし)、景行天皇の御子小碓(をうす)の皇子(みこ)を日本武(やまとたけ)の尊となづけ奉る。是は大を加(くはへ)ざるなり。彼此(かれこれ)同(おなじ)くやまとと(ゝ)よませたれど大日■(おほひるめ)の義をとらば、おほやまとと(ゝ)読(よみ)てもかなふべきか。其後(のち)漢土(かんど)より字書(じしよ)を伝(つた)へける時、倭と書(かき)て此国の名に用(もちゐ)たるを、即(すなはち)領納(りやうなふ)して、又此字を耶麻土と訓じて、日本の如(ごとく)に大を加へても又のぞきても同(おなじ)訓に通用(つうよう)しけり。
P007
漢土より倭(わ)と名(なづ)けけ(ゝ)る事は、昔此国の人はじめて彼土(かのど)にいたれりしに、「汝(なんぢ)が国の名をばいかゞ云(い)ふ。」と問けるを、「吾国(わがくに)は」と云をきゝて、即(すなはち)倭(わ)と名づけたりとみゆ。漢書(かんじよ)に、「楽浪(らくらう)の〈 彼土(かのど)の東北に楽浪(らくらう)郡あり 〉海中に倭人(わじん)あり。百余国をわかてり。」と云(い)ふ。もし前漢(ぜんかん)の時すでに通(つうじ)けるか〈 一書(いつしよ)には、秦(しん)の代よりすでに通(つうず)ともみゆ。下(しも)にしるせり 〉。後漢書(ごかんじよ)に、「大倭(だいわ)王は耶麻堆(たい)に居(きよ)す。」とみえたり〈 耶麻堆は山となり 〉。これは若(もし)すでに此国の使人(しじん)本国(ほんごく)の例により大倭と称するによりてかくしるせるか〈 神功皇后(じんぐうくわうごう)の新羅(しらぎ)・百済(くだら)・高麗(かうらい)をしたがへ給しは後漢の末ざまにあたれり。すなはち漢地にも通ぜられたりと見(みえ)たれば、文字も定(さだめ)てつたはれるか。一説には秦(しん)の時より書籍(しよじやく)を伝(つたふ)とも云 〉。大倭と云ことは異朝にも領納して書伝(しよでん)にのせたれば此国にのみほめて称(しよう)するにあらず〈 異朝に大漢(だいかん)・大唐(だいたう)など云は大(おほき)なりと称するこゝろなり 〉。唐書(たうじよに)「高宗(かうそう)咸亨(かんかう)年中に倭国の使(つかひ)始てあらためて日本(にほん)と号す。其国東にあり。日の出所(いづるところ)に近(ちかき)を云(い)ふ。」と載(のせ)たり。此事我国の古記にはたしかならず。推古(すゐこ)天皇の御時、もろこしの隋朝(ずゐてう)より使ありて書をおくれりしに、倭皇(わくわう)とかく。聖徳太子みづから筆(ふで)を取(と)りて、返牒(へんでふ)
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を書(かき)給しには、「東天皇敬白西皇帝。」とありき。かの国よりは倭と書(かき)たれど、返牒には日本とも倭とものせられず。是より上代(かみつよ)には牒ありともみえざる也。唐の咸亨の比(ころ)は天智(てんぢ)の御代にあたりたれば、実(まこと)には件(くだり)の比(ころ)より日本と書(かき)て送られけるにや。
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又此国をば秋津州(あきづしま)といふ。神武天皇国のかたちをめぐらしのぞみ給て、「蜻蛉(あきづ)の■■(となめ)の如くあるかな。」との給しより、此名ありきとぞ。しかれど、神代(かみよ)に豊秋津根(とよあきづね)と云名あれば、神武にはじめざるにや。此外(このほか)もあまた名あり。細戈(くはしほこ)の千足(ちたるの)国とも、磯輪上(しわかみ)の秀真(ほつま)の国とも、玉垣(たまかき)の内国(うちつくに)ともいへり。又扶桑(ふさう)国と云名もあるか。「東海の中に扶桑の木あり。日の出所(いづるところ)なり。」とみえたり。日本も東にあれば、よそへていへるか。此国に彼(かの)木ありと云事
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きこえねば、たしかなる名にはあらざるべし。
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凡(およそ)内典(ないてん)の説(せつ)に須弥(しゆみ)と云山あり。此山をめぐりて七(ななつ)の金山(こんせん)あり。其中間は皆香水海(かうすゐかい)なり。金山の外(そと)に四大海(しだいかい)あり。此海中に四大州あり。州ごとに又二(ふたつ)の中州(ちゆうしう)あり。南州をば贍部(せんぶ)と云〈 又閻浮提(えんぶだいと)云(い)ふ。同(おなじ)ことばの転(てん)也 〉。是は樹(うゑき)の名なり。南州の中心に阿耨達(あのくたつ)と云山あり。山頂(やまのいただき)に池あり〈 阿耨達こゝには無熱(ぶねつ)と云(い)ふ。外書(げしよ)に■崘(こんろん)といへるは即この山なり 〉。池の傍(かたはら)に此(この)樹あり。■(めぐり)七由旬(ゆじゆん)高(たかさ)百由旬なり〈 一由旬とは四十里也。六尺を一歩(いちぶ)とす。三百六十歩を一里(り)とす。この里をもちて由旬をはかるべし 〉。此樹、州の中心にありて最も高し。よりて州の名とす。阿耨達(あのくたつ)山の南は大雪山(だいせつせん)、北は■嶺(そうれい)なり。■嶺の北は胡国(ここく)、雪山の南は五天竺(ごてんぢく)、東北によりては震旦(しんだん)国、西北にあたりては波斯(はし)国也。此贍部(せんぶ)州は縱横(じうわう)七千由旬、里をもちてかぞふれば二十八万里。東海より西海にいたるまで九万里。南海より北海にいたるまで又九万里。天竺は正中(たゞなか)によれり。よ(つ)て贍部の中国(ちゆうごく)とす也。地のめぐり又九万里。震旦ひろしと云へども五天
P012
にならぶれば一辺(いちへん)の小国なり。日本は彼土(かのど)をはなれて海中にあり。北嶺(ほくれい)の伝教大師(でんげうだいし)、南都(なんと)の護命僧正(ごみやうそうじやう)は中州(ちゆうしう)也としるされたり。しからば南州と東州との中(なか)なる遮摩羅(しやもら)と云州なるべきにや。華厳経(けごんきやう)に「東北の海中に山あり。金剛山(こんがうせん)と云(い)ふ。」とあるは大倭(やまと)の金剛山の事也とぞ。されば此国は天竺よりも震旦よりも東北の大海の中にあり。別州にして神明(しんめい)の皇統を伝(つた)へ給へる国也。
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同(おなじ)世界の中なれば、天地開闢の初はいづくもかはるべきならねど、三国の説各(おのおの)ことなり。天竺の説には、世の始りを劫初(こふしよ)と云ふ〈 劫(こう)に成(じやう)・住(ぢゆう)・壊(え)・空(くう)の四(よつ)あり。各二十の■減あり。一■一減を一小劫と云(い)ふ。二十の■減を一中劫と云(い)ふ。四十劫を合(あはせ)て一大劫と云 〉。光音(くわうおん)と云(い)ふ天衆(てんじゆ)、空中に金色(こんじき)
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の雲をおこし、梵天(ぼんてん)に偏布(へんぷ)す。即(すなはち)大雨(だいう)をふらす。風輪(ふうりん)の上につもりて水輪(すゐりん)となる。増長(ぞうちやう)して天上にいたれり。又大風ありて沫(あわ)を吹立(ふきたて)て空中になげおく。即大梵天の宮殿となる。其水次第に退下(たいげし)て欲(よく)界の諸宮殿乃至(ないし)須弥山・四大州・鉄囲山(てちゐせん)をなす。かくて万億の世界同時になる。是を成劫(じやうこふ)と云也〈 此万億の世界を三千大千世界といふなり 〉。光音の天衆下生(げしやう)して次第に住す。是を住劫(ぢゆうこふ)と云(い)ふ。
P015
此住劫の間に二十の増減あるべしとぞ。其初には人の身光明(くわうみやう)とほく照して飛行自在(ひぎやうじざい)也。歓喜(くわんぎ)を以(もちて)食(じき)とす。男女(なんによ)の相(さう)なし。後に地より甘泉(かんせん)涌出(ゆしゆつ)す。味(あぢはひ)酥密(そみつ)のごとし〈 或は地味(ちみ)とも云 〉。これをなめて味着(みちやく)を生ず。仍(よりて)神通(じんづう)を失ひ、光明(くわうみやう)もきえて、世間(せけん)大(おほき)にくらくなる。衆生(しゆじやう)の報(むくい)しからしめければ、黒風海を吹(ふき)て日(にち)・月(ぐわち)二輪を漂出(へうしゆつ)す。須弥の半腹におきて四天下(てんげ)を照さしむ。是より始て昼夜(ちうや)・晦朔(くわいさく)・春秋(しゆんじう)あり。地味に耽(ふけり)しより顔色(がんしよく)もかじけおとろへき。地味又うせて林藤(りんどう)と云物あり〈 或は地皮とも云 〉。衆生又食(じき)とす。林藤又うせて自然(じねん)の■稲(かうたう)あり。諸(もろもろ)の美味(びみ)をそなへたり。朝(あした)にかれば夕(ゆふべ)に熟(じゆく)す。此稲米(たうまい)を食(じき)せ
P016
しによりて、身に残穢(ざんえ)いできぬ。此故に始て二道(にだう)あり。男女の相各(おのおの)別にして、つひに婬欲(いんよく)のわざをなす。夫婦(ふうふ)となづけ舎宅(しやたく)を構(かまへ)て、共に住(すみ)き。光音の諸天、後(のち)に下生(げしやう)する者女人(によにん)の胎中(たいちゆう)にいりて胎生(たいしやう)の衆生となる。其後(そののち)■稲生(しやう)ぜず。衆生うれへなげきて、各(おのおの)境(さかひ)をわかち、田種(でんしゆ)を施(ほどこ)しうゑて食とす。他人の田種をさへうばひぬすむ者出来(いでき)て互にうちあらそふ。是を決する人なかりしかば、衆共(とも)にはからひて一人(ひとり)の平等王(びやうどうわう)を立(たて)、名(なづけ)て刹帝利(せつていり)と云〈 田主(でんしゆ)と云心なり 〉。
其始の王を民主王と号しき。十善(ぜん)の正法(しやうぼふ)をおこなひて国ををさめしかば、人民(にんみん)是を敬愛(きやうあい)す。閻浮提の天下(てんげ)、豊楽安穏(ぶらくあんをん)にして病患(びやうげん)及び大寒熱あることなし。寿命(じゆみやう)も極(きはめ)て久(ひさしく)无量歳(むりやうざい)なりき。民主の子孫相続して久く君たりしが、
P017
漸(やうやく)正法も衰(おとろへ)しより寿命も減(げん)じて八万四千歳にいたる。身のたけ八丈(はちぢやう)なり。其間(あひだ)に王ありて転輪(てんりん)の果報(くわはう)を具足(ぐそく)せり。先(ま)づ天より金輪宝(こんりんほう)飛降(とびくだり)て王の前に現在す。王出(い)で給(たまふ)ことあれば、此輪(りん)、転行(てんぎやう)してもろ<の小王(せうわう)みなむかへて拝す。あへて違(たがふ)者なし。即(すなはち)四大州に主(あるじ)たり。又象(ざう)・馬(め)・珠(しゆ)・玉女(ぎよくによ)・居士(こじ)・主兵(しゆひやう)等の宝(たから)あり。此七宝成就(じやうじゆ)するを金輪王となづく。次々(つぎつぎ)に銀(ごん)・銅(どう)・鉄(てち)の転輪王あり。福力不同(ふくりきふどう)によりて果報も次第に劣(おと)れる也。寿量(じゆりやう)も百年に一年を減じ、身のたけも同く一尺を減(げんじ)てけり。百二十歳にあたれりし時、釈迦仏(しやかぶつ)出(い)で給(たまふ)〈 或は百才(の)時とも云(い)ふ。是よりさきに三仏(さんぶつ)出(い)で給(たまひ)き 〉。
P018
十歳に至らん比(ころ)ほひに小三災(さい)と云ことあるべし。人種(じんしゆ)ほと<尽(つき)てたゞ一万人をあます。その人(ひと)善を行(おこなひ)て、又寿命も増し、果報もすゝみて二万歳にいたらん時、鉄輪王出(いで)て南(なん)一州を領すべし。四万歳の時、銅輪王出て東・南二州を領す。六万歳の時、銀輪(ごんりん)王出て東・西・南三州を領し、八万四千歳の時金輪王出て四天下を統(とう)領す。其報(むくい)上(かみ)に云(いへ)るが如し。かの時又減(げん)にむかひて弥勒仏(みろくぶつ)出(いで)給べし〈 八万才の時とも云 〉。此後十八けの減増あるべし。かくて大火災と云ことおこりて、色界(しきかい)の初禅梵天(しよぜんぼんてん)までやけぬ。三千大千世界同時に滅尽(めつじん)する、これを壊劫(ゑこふ)と云(い)ふ。かくて世界虚空黒穴(こくうこくけつ)のごとくなるを空劫と云(い)ふ。かくの如(ごとく)すること七けの火災をへて大水災あり。このたびは第二禅まで壊(ゑ)す。七々の火・七々の水災をへて大風災ありて第三禅まで壊す。是を大の三災と云也。第四禅已上(いじやう)は内外(ないげ)の過患(くわげん)あることなし。此四禅の中(なか)に五天あり。四(よつ)は凡夫(ぼんふ)の住所、一(ひとつ)は浄居天(じやうごてん)とて証果(しようくわ)の聖者(しやうじや)の住処(ぢゆうしよ)也。此浄居をすぎて摩醯首羅(まけいしゆら)天王の宮殿あり〈 大自在天(だいじざいてん)とも云 〉。色界(しきかい)の最頂(さいちやう)に居(きよ)して大千世界を統領す。其天のひろさ彼(かの)世界にわたれり〈 下天(げてん)も広狭に不同(ふどう)あり。初禅の梵天は一四(いちし)天下のひろさなり 〉。此上に無色界の天あり。又四地をわかてりといへり。
P019
此等の天は小大の災(さい)にあはずと云(いへ)ども、業力(ごふりき)に際限ありて報(はう)尽(つき)なば、退没(たいもつ)すべしと見えたり。
P020
震旦はことに書契(しよけい)をことと(ゝ)する国なれども、世界建立(こんりふ)を云(いへ)る事たしかならず。儒書には伏犠(ふくき)氏と云(い)ふ王よりあなたをば云(いは)ず。但(ただし)異書の説に、混沌未分(こんとんみぶん)のかたち、天・地・人の初(はじめ)を云るは、神代(かみよ)の起(おこり)に相似たり。或は又盤古(ばんこ)と云王あり。「目は日月(じつげつ)となり、毛髪は草木(さうもく)となる。」と云る事もあり。それよりしもつかた、天皇(てんくわう)・地皇・人皇・五龍(ごりよう)等の諸(もろもろの)氏うちつゞきて多くの王あり。其間数(す)万歳をへたりと云(い)ふ。
P021
我朝の初は天神(あまつかみ)の種(しゆ)をうけて世界を建立するすがたは、天竺の説に似たる方もあるにや。されどこれは天祖(あまつみおや)より以来(このかた)継体(けいたい)たがはずして、たゞ一種ましますこと天竺にも其類(たぐひ)なし。彼(かの)国の初の民主王も衆のためにえらびたてられしより相続せり。又世くだりては、その種姓(しゆしやう)もおほくほろぼされて、勢力(せいりき)あれば、下劣の種も国主となり、あまさへ五天竺を統領するやからも有き。震旦又ことさらみだりがはしき国なり。昔世すなほに道ただしかりし時も、賢をえらびてさづくるあとありしにより、一種をさだむる事なし。乱世になるまゝに、力(ちから)をもちて国をあらそふ。かゝれば民間より出でて(ゝ)位に居たるもあり。戎狄(じゆうてき)より起(おこり)て国を奪(うば)へるもあり。或は累(るい)世の臣として其君をしのぎ、つひに譲(ゆづり)をえたるもあり。伏犠氏の後、天子の氏姓(ししやう)をかへたる事三十六。乱(みだれ)のはなはだしさ、
P022
云にたらざる者哉(ものをや)。
唯(ただ)我国のみ天地(あめつち)ひらけし初より今の世の今日(こんにち)に至(いたる)まで、日嗣(ひつぎ)をうけ給ことよこしまならず。一種姓(いちしゆしやう)の中におきてもおのづから傍(かたはら)より伝(つた)へ給しすら猶正(せい)にかへる道ありてぞたもちまし<ける。是しかしながら神明の御誓あらたにして余国にことなるべきいはれなり。抑(そもそも)、神道のことはたやすくあらはさずと云ことあれば、根元をしらざれば猥(みだりがは)しき始ともなりぬべし。其つひえをすくはんために聊(いさゝか)勒(ろく)し侍り。神代より正理(しやうり)にてうけ伝へるいはれを述(のべむ)ことを志(こころざし)て、常に聞(きこ)ゆる事をばのせず。しかれば神皇(じんわう)の正統記(しやうとうき)
P023
とや名(なづ)け侍(はべる)べき。
夫(それ)天地(あめつち)未(いまだ)分(わかれ)ざりし時、混沌(こんとん)として、まろがれること■子(とりのこ)の如し。くゝもりて牙(きざしを)ふくめりき。これ陰陽(いんやう)の元初(げんしよ)未分の一気(いちき)也。其気始てわかれてきよくあきらかなるは、たなびきて天(あめ)と成り、おもくにごれるはつゞいて地(つち)となる。其中より一物(ひとつのもの)出(いで)たり。かたち葦牙(あしかび)の如し。即(すなはち)化(け)して神となりぬ。国常立(くにのとこたちの)尊
P024
と申。又は天の御中主の神とも号し奉つる。此神に木(もく)・火(くわ)・土(ど)・金(ごん)・水(すゐ)の五行(ごぎやう)の徳まします。先(まづ)水徳の神にあらはれ給を国狭槌(くにのさつちの)尊と云(い)ふ。次に火徳の神を豊斟渟(とよくむぬの)尊と云(い)ふ。天(あめ)の道(みち)ひとりなす。ゆゑに純男(じゆんなん)にてます〈 純男といへどもその相ありともさだめがたし 〉。次(つぎに)木徳の神を泥土(うひぢ)〈 蒲鑒反 〉瓊(にの)尊・沙土瓊(すひぢにの)尊と云(い)ふ。次(つぎに)金(こん)徳の神を大戸之道(おほとのぢの)尊・大苫辺(おほとまべの)尊と云(い)ふ。次に土徳の神を面足(おもたるの)尊・惶根(かしこね)の尊と云(い)ふ。天地の道相交(まじはり)て、各(おのおの)陰陽のかたちあり。しかれどそのふるまひなしと云り。此諸(もろもろの)神(かみ)実(まこと)には国常立の一(ひとはしらの)神にましますなるべし。五行の徳各(おのおの)神とあらはれ給。是を六代ともかぞふる也。二世三世の次第を立(たつ)べきにあらざるにや。次に化生(けしやう)し給へる神を伊弉諾(いざなぎの)尊・伊弉冊(いざなみの)尊と申す。是は正(まさし)く陰陽の二(ふたつ)にわかれて造化(ざうくわ)の元(はじめ)となり給ふ。上(かみ)の五行はひとつづつ(ゝ)の徳也。此五徳をあはせて万物を生ずるはじめとす。
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こゝに天祖(あまつみおや)国常立(くにのとこたちの)尊、伊弉諾・伊弉冊の二(ふたはしらの)神に勅(みことのり)しての給はく、「豊葦原の千五百秋の瑞穂の地(くに)あり。汝(いまし)往(ゆき)てしらすべし。」とて、即(すなはち)天瓊矛(あまのぬぼこ)をさづけ給。此矛又は天の逆戈(さかほこ)とも、天魔返(あまのさか)ほこともいへり。二神このほこをさづかりて、天(あま)の浮橋(うきはし)の上にたゝずみて、矛をさしおろしてかきさぐり給しかば、滄海(あをうなばら)のみありき。そのほこのさきよりしたゝりおつる潮(しほ)こりて一(ひとつ)の嶋となる。これを■馭盧嶋(おのごろじま)と云(い)ふ。此名に付(つき)て秘説あり。神代、梵語(ぼんご)にかよへるか。其所(ところ)もあきらかに知(しる)人なし。大日本(やまと)の国宝山(ほうせん)なりと云〈 口伝(くでん)あり 〉。二神此嶋に降居(くだりまし)て、即(すなはち)国の中の柱(みはしら)を
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たて、八尋(やひろ)の殿(との)を化作(けさく)してともにすみ給。さて陰陽和合(わがふ)して夫婦の道あり。此矛は伝(つたへて)、天孫したがへてあまくだり給へりとも云(い)ふ。又垂仁(すゐにん)天皇の御宇(ぎよう)に、大和姫の皇女(くわうぢよ)、天照太神の御をしへのまゝに国々をめぐり、伊勢(いせの)国に宮所(みやどころ)をもとめ給し時、大田(おほた)の命と云神まゐりあひて、五十鈴(いすず)の河上(かはかみ)に霊物(れいもつ)をまぼりおける所をしめし申(まをし)しに、かの天の逆矛・五十鈴(いすず)・天宮(あめのみや)の図形(づぎやう)ありき。大和姫の命よろこびて、其所をさだめて、神宮をたてらる。霊物は五十鈴の宮の酒殿(さかどの)にをさめられきとも、又、滝祭(たきまつり)の神と申は龍(りゆう)神なり、その神あづかりて地中にをさめたりとも云(い)ふ。一(ひとつ)には大和の龍田(たつた)の神はこの滝祭と同体にます、此神のあづかり給へる也、よりて天柱国柱(あめのみはしらくにのみはしら)と云(い)ふ御名ありとも云(い)ふ。昔■馭盧嶋に持(もて)くだり給しことはあきらか也。世に伝(つたふ)と云事はおぼつかなし。天孫のしたがへ給ならば、神代より三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)のごとく伝(つた)へ給べし。さしはなれて、五十鈴(の)河上に有けんもおぼつかなし。但(ただし)天孫も玉矛者(は)みづからしたがへ給(たまふ)と云事見(みえ)たり〈 古語拾遺(こごしふゐの)説なり 〉。しかれど矛も大汝(おほなむち)の神のたてまつらるゝ、国をたひらげし矛もあれば、いづれと云事をしりがたし。宝山にとゞまりて不動のしるしとなりけんことや正説(しやうせつ)なるべからん。龍田(たつた)も宝山ちかき所なれば、龍神
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を天柱国柱(あめのみはしらくにのみはしら)といへるも、深秘(じんぴ)の心あるべきにや〈 凡神書(しんしよ)にさま<”の異説あり 〉。日本紀(にほんぎ)・旧事本紀(くじほんぎ)・古語拾遺等にのせざらん事は末学(まつがく)の輩(ともがら)ひとへに信用しがたかるべし。彼(かの)書の中(うち)猶一決せざること多し。況(いはんや)異書におきては正(しやう)とすべからず。
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かくて、此二(ふたはしらの)神相はからひて八(やつ)の嶋(しま)をうみ給ふ。先(まづ)、淡路(あはぢ)の州(しま)をうみます。淡路穂之狭別(あはぢのほのさわけ)と云(い)ふ。次(つぎに)、伊与(いよ)の二名(ふたな)の州(しま)をうみます。一身(ひとつのみ)に四面(よつのおも)あり。一(ひとつ)を愛比売(えひめ)と云、これは伊与也。二(ふたつ)を飯依比売(いひよりひめ)と云、是は讚岐(さぬき)也。三(みつ)を大宜都比売(おほげつひめ)と云、これは阿波(あは)也。四(よつ)を速依別(はやよりわけ)と云、是は土左(とさ)也。次(つぎに)、筑紫(つくし)の州(しま)をうみます。又一身に四面あり。一を白日(しらひ)の別(わけ)と云、是は筑紫(つくし)也。後に筑前(ちくぜん)・筑後(ちくご)と云(い)ふ。二を豊日別(とよひわけ)と云、これは豊(とよ)国
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也。後に豊前(ぶぜん)・豊後(ぶご)と云(い)ふ。三を昼日別(ひるひわけ)と云、是は肥(ひ)の国也。後に肥前(ひぜん)・肥後(ひご)と云(い)ふ。四を豊久士比泥別(とよくじひねわけ)と云、是は日向(ひむか)也。後に日向(ひうが)・大隅(おほすみ)・薩摩(さつま)と云〈 筑紫・豊国・肥の国・日向といへるも、二神の御代の始の名には非(あらざ)る歟(か) 〉。次(つぎに)、壱岐(いき)の国をうみます。天比登都柱(あめひとつはしら)と云(い)ふ。次(つぎに)、対馬(つしま)の州(しま)をうみます。天之狭手依比売(あまのさてよりひめ)と云(い)ふ。次(つぎに)、隠岐(おき)の州をうみます。天之忍許呂別(あめのおしころわけ)と云(い)ふ。次(つぎに)、佐渡(さど)の州を生(うみ)ます。建日別(たけひわけ)と云(い)ふ。次(つぎに)、大日本豊秋津州(おほやまととよあきづしま)をうみます。天御虚空豊秋津根別(あめのみそらとよあきづねわけ)と云(い)ふ。すべて是を大八州(おほやしま)と云也。此外あまたの嶋を生(うみ)給。後に海山(うみやま)の神、木のおや、草のおやまで悉(ことごとく)うみましてけり。何(いづ)れも神にませば、生(うみ)給へる神の州(しま)をも山をもつくり給へるか。はた州山(しまやま)を生給(うみたまふ)に神のあらはれましけるか、神世(かみよ)のわざなれば、まことに難測(はかりがたし)。
二(ふたはしらの)神又はからひてのたまはく、「我すでに大八州の国および山川草木をうめり。いかでか
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あめの下のきみたるものをうまざらむや。」とてまづ日神(ひのかみ)を生(うみ)ます。此みこひかりうるはしくして国の内(うち)にてりとほる。二神よろこびて天(あめ)におくりあげて、天上の事をさづけ給。此時天地あひさることとほからず。天のみはしらをもてあげ給。これを大日■(おほひるめ)の尊と申(まをす)〈 ■(れいの)字は霊と通ずべきなり。陰気を霊と云とも云へり。女神(めがみ)にましませば自(おのづか)ら相叶(あひかなふ)にや 〉。又天照太神とも申(まをす)。女神にてまします也。次(つぎに)、月神(つきのかみ)を生(うみ)ます。其光日につげり。天(あめ)にのぼせて夜(よる)の政(まつりこと)をさづけ給。次(つぎ)に、蛭子(ひるこ)を生ます。みとせになるまで脚(あし)たゝず。天(あめ)の磐樟(いはくす)船にのせて風のまゝはなちすつ。次(つぎに)、素戔烏(すさのをの)尊を生(うみ)ます。いさみたけく不忍(いぶり)にして父母(かぞいろ)の御心にかなはず。「根(ね)の国にいね。」との給ふ。この三柱(みはしら)は男神(をがみ)にてまします。よりて一女三男(いちによさんなん)と申也。すべてあらゆる神みな二神の所生(しよしやう)にましませど、国の主(あるじ)たるべしとて生(うみ)給しかば、ことさらに此四(よはしらの)神を申伝けるにこそ。其後火神(ひのかみ)軻倶突智(かくつち)を生(うみ)まし<し時、陰神(めがみ)やかれて神退(かんさり)給にき。陽神(をがみ)うらみいかりて、火神を三段(みきだ)にきる。その三段おの<神となる。血のしたゝりもそゝいで神となれり。経津主(ふつぬし)の神〈 斎主(いはひぬし)の神とも申。今の■取(かとり)の神 〉健甕槌(たけみかづちの)神〈 武雷(たけみかづち)の神とも申。今の鹿嶋(かしま)の神 〉の祖(みおや)也。陽神猶したひて黄泉(よみのくに)までおはしましてさまざまのちかひありき。陰神うらみて
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「此国の人を一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)ころすべし。」との給ければ、陽神は「千五百頭(ちいほがしら)を生(うむ)べし。」との給けり。よりて百姓(ひやくしやう)をば天(あめ)の益人(ますびと)とも云(い)ふ。死(しぬ)るものよりも生ずるものおほき也。陽神かへり給て、日向(ひむか)の小戸(をど)の河檍(かはあはぎ)が原と云所にてみそぎし給。この時あまたの神化生(けしやう)し玉へり。日月(ひつきの)神もこゝにて生給(うまれたまふ)と云説あり。伊弉諾尊神功(かむこと)すでにをはりければ、天上にのぼり、天祖に報命(かへりごと)申て、即(すなはち)天にとゞまり給けりとぞ。或(ある)説に伊弉諾・伊弉冊は梵語(ぼんご)なり、伊舎那天(いしやなてん)・伊舎那后(いしやなくう)なりと云(い)ふ。
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○地神(ちじん)第一代、大日■(おほひるめの)尊。是を天照太神(あまてらすおほみかみ)と申。又は日神(ひのかみ)とも皇祖(すめみおや)とも申也。此神の生(うまれ)給こと三(みつ)の説あり。一(ひとつ)には伊弉諾・伊弉冊尊あひ計(はからひ)て、天下(あめのした)の主(あるじ)をうまざらんやとて、先(まづ)、日神をうみ、次に、月神(つきのかみ)、次(つぎに)、蛭子(ひるこ)、次(つぎに)、素戔烏尊を生(うみ)給といへり。又は伊弉諾の尊、左(ひだりの)御手に白銅(ますみ)の鏡をとりて大日■の尊を化生(けしやう)し、右(みぎの)御手にとりて月弓(つきゆみ)の尊を生(うみ)、御首(みかうべ)をめぐらしてかへりみ給しあひだに、素戔烏尊を生(うむ)ともいへり。又伊弉諾尊日向の小戸の川にてみそぎし給し時、左の御眼(みめ)をあらひて天照太神を化生し、右の御眼をあらひて月読(つきよみ)の尊を生(しやうじ)、御(み)鼻を洗(あらひ)て素戔烏尊を生(しやう)じ給とも云ふ。日月(ひつきの)神の御名(みな)も三(みつ)あり、化生の所も三(みつ)あれば、凡慮(ぼんりよ)はかりがたし。又おはします所も、一(ひとつ)には高天(たかま)の原と云(いひ)、二(ふたつ)には日の小宮(わかみや)と云(いひ)、三(みつ)には我日本(わがやまとの)国これ也。八咫(やた)の御鏡をとらせまし<て、「われをみるが如くに
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せよ。」と勅(みことのり)し給けること、和光(わくわう)の御誓もあらはれて、ことさらに深(ふかき)道あるべければ、三所(みところ)に勝劣の義をば存ずべからざるにや。
爰(ここに)、素戔烏尊、父母(かぞいろ)二(ふたはしらの)神にやらはれて根(ねの)国にくだり給へりしが、天上にまうでて(ゝ)姉の尊にみえたてまつりて、「ひたぶるにいなん。」と申給ければ、「ゆるしつ。」との給。よりて天上にのぼります。大うみとゞろき、山をかなりほえき。此神の性(さが)たけきがしからしむるになむ。天照太神おどろきまし<て、兵(つはもの)のそなへを
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して待(まち)給。かの尊黒(きたなき)心なきよしをおこたり給ふ。「さらば誓約(うけひ)をなして、きよきか、きたなきかをしるべし。誓約の中(なか)に女を生ぜば、きたなき心なるべし。男を生ぜば、きよき心ならん。」とて、素戔烏尊のたてまつられける八坂瓊(やさかに)の玉をとり給へりしかば、其玉に感じて男神(をがみ)化生し給。すさのをの尊悦(よろこび)て、「まさやあれかちぬ。」との給ける。よりて御名を正哉吾勝々(まさやあかつかつ)の速日天(はやひあめ)の忍穂耳(おしほみみ)の尊と申〈 これは古語拾遺の説 〉。又の説には、素戔烏尊、天照太神の御くびにかけ給へる御統(みすまる)の瓊玉(にのたま)をこひとりて、天(あめ)の真名井(まなゐ)にふりすゝぎ、これをかみ給しかば、先(まづ)吾勝(あかつ)の尊うまれまします。其後猶四はしらの男神生(うまれ)給。「物のさねわが物なれば我子なり。」とて天照太神の御子になし給といへり〈 これは日本紀の一説 〉。此(この)吾勝尊をば太神めぐしとおぼして、つねに御わきもとにすゑ給しかば、腋子(わきこ)と云(い)ふ。今の世にをさなき子をわかこと云はひが事也。
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かくて、すさのをの尊なほ天上にましけるが、さま<”のとがをを(ゝ)かし給き。天照太神いかりて、天の石窟(いはや)にこもり給。国のうちとこやみになりて、昼夜のわきまへなかりき。もろ<の神達うれへなげき給。其時諸神(しよじん)の上首(じやうしゆ)にて高皇産霊(たかみむすひの)尊と云(い)ふ神まし<き。昔、天御中主(あめのみなかぬし)の尊、みはしらの御子おはします。長(をさ)を高皇産霊とも云(いひ)、次をば神皇産霊(かみむすひ)、次を津速産霊(つはやむすひ)と云とみえたり。陰陽二神(いんやうにじん)こそはじめて諸神を生(しやう)じ給しに、直(ぢき)に天御中主(あめのみなかぬし)の御子と云ことおぼつかなし。
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〈 此みはしらを天御中主の御こと云事は日本紀にはみえず。古語拾遺にあり 〉。此神、天(あめ)のやすかはのほとりにして、八百万(やほよろづ)の神をつどへて相議(ぎ)し給。其御子に思兼(おもひかね)と云神のたばかりにより、石凝姥(いしこりどめ)と云神をして日神の御形(みかたち)の鏡を鋳せしむ。そのはじめなりたりし鏡、諸神の心にあはず〈 紀伊(きの)国日前(ひのくま)の神にます 〉。次に鋳給へる鏡うるはしくまし<ければ、諸神悦(よろこび)あがめ給〈 初は皇居にまし<き。今は伊勢国の五十鈴の宮にいつかれ給(たまふ)、これなり 〉。又天の明玉(あかるたま)の神をして、八坂瓊の玉をつくらしめ、天の日鷲(ひわし)の神をして、青幣白幣(あをにぎてしらにぎて)をつくらしめ、手置帆負(たをきほをい)・彦狭知(ひこさしり)の二神をして、大峡小峡(おほかいをかひ)の材(き)をきりて瑞(みづ)の殿(みやらか)をつくらしむ〈 このほかくさ<”あれどしるさず 〉。其物すでにそなはりにしかば、天の香(かご)山の五百箇(いほつ)の真賢木(まさかき)をねこじにして、上枝(かみつえ)には八坂瓊の玉をとりかけ、中枝(なかつえ)には八咫の鏡をとりかけ、下枝(しもつえ)には青和幣・白和幣をとりかけ、天の太玉の命〈 高皇産霊神の子なり 〉をしてさゝげもたらしむ。天の児屋(こやね)の命〈 津速産霊の子、或は孫とも。興台産霊(こことむすひ)の神の子也 〉をして祈祷(きたう)せしむ。天の鈿目(うずめ)の命、真辟(まさき)の葛(かづら)をかづらにし、蘿葛(ひかげのかづら)を手襁(たすき)にし、竹の葉、飫■木(おけのき)の葉を手草(たぐさ)にし、差鐸(さなぎ)の矛をもちて、石窟(いはや)の前にして俳優(わざをぎ)をして、相ともにうたひまふ。又庭燎(にはひ)をあきらかにし、常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)をつどへて、たがひにながなきせしむ〈 これはみな神楽(かぐら)の起(おこり)なり 〉。天照太神きこしめして、われこのごろ石窟にかくれをり。葦原(あしはら)の中国(なかつくに)はとこやみならん。
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いか(ん)ぞ、天の鈿女の命かくゑらぐするやとおぼして、御手をもてほそめにあけてみ給。この時に、天手力雄(あめのたぢからを)の命と云神〈 思兼の神の子 〉磐戸(いはと)のわきに立(たち)給しが、其戸をひきあけて新殿(にひどの)にうつしたてまつる。中臣(なかとみ)の神〈 天児屋命なり 〉忌部(いむべ)の神〈 天の太玉の命也 〉しりくへなはを〈 日本紀には端出之縄とかけり。注には左(ひだり)縄の端(はし)出(いだ)せると云(い)ふ。古語拾遺には日御縄(ひのみなは)とかく。これ日影(ひかげ)の像(かたち)なりといふ 〉ひきめぐらして「なかへりましそ。」と申。上天(しやうてん)はじめてはれて、もろ<ともに相見(あひみる)。面(おもて)みなあきらかにしろし。手をのべて哥舞(うたひまひ)て、「あはれ〈 天のあきらかなるなり 〉。あな、おもしろ〈 古語に甚(いと)切(せつ)なるをみなあなと云(い)ふ。面白(おもしろ)、もろ<のおもて明(あきらか)に白き也 〉。あな、たのし。あな、さやけ〈 竹のはのこゑ 〉。おけ〈 木の名也。其(その)はをふるこゑ也。天の鈿目の持給へる手草也 〉。」かくて、つみを素戔烏の尊によせて、おほするに千座(ちくら)の置戸(をきど)をもて首(かうべ)のかみ、手足のつめをぬきてあがはしめ、其罪をはらひて神やらひにやらはれき。
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かの尊天(あめ)よりくだりて、出雲(いづも)の簸(ひ)の川上(かはかみ)と云所にいたり給。其所(そのところ)に一(ひとり)のおきなとうばとあり。一(ひとり)のをとめをすゑてかきなでつゝなきけり。素戔烏尊「たそ。」とと(ゝ)ひ給ふ。「われはこれ国神(くにつかみ)也。脚摩乳(あしなつち)・手摩乳(たなつち)と云(い)ふ。このをとめはわが子なり。奇稲田姫(くしいなだひめ)と云(い)ふ。さきに八けの少女(をとめ)あり。としごとに八岐(やまた)の大蛇(をろち)のためにのまれき。今此をとめ又のまれなんとす。」と申ければ、尊、「我にくれんや。」との給。「勅(みことのり)のまゝにたてまつる。」と申ければ、此をとめを湯津(ゆつ)のつまぐしにとりなし、みづらにさし、やしほをりの酒を八(やつ)の槽(ふね)にもりて待(まち)給に、はたしてかの大蛇きたれり。頭(かしら)おの<一(ひとつの)槽に入(いれ)てのみゑひてねぶりけるを、尊はかせる十握(とつか)の剣(つるぎ)をぬきてつだ<にきりつ。尾にいたりて剣の刃(は)すこしかけぬ。さきてみ給へば一(ひとつ)の剣あり。その上に雲気(うんき)ありければ、天の叢雲(むらくも)の剣と名(なづ)く〈 日本武(やまとたけ)の尊にいたりてあらためて草なぎの剣と云(い)ふ。それより熱田社(あつたのやしろ)にます 〉。「これあやしき剣(つるぎ)なり。われ、なぞ、あへて私におけらんや。」との給て、天照太神にたてまつり上(あげ)られにけり。其のち出雲の清(すが)の地にいたり、宮をたてて(ゝ)、稲田姫とすみ給。大己貴(あなむち)の神を〈 大汝(おほなむち)とも云 〉うましめて、素戔烏尊はつひに根の国にいでましぬ。大汝の神、此国にとゞまりて〈 今の出雲の大神にます 〉天下(あめのした)を経営(けいえい)し、葦原(あしはら)の地を領(りやうじ)給けり。よりてこれを大国主の神とも大物主(おほものぬし)とも申。その幸魂奇(さきたまくし)魂は
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大和の三輪(みわ)の神にます。
○第二代、正哉吾勝々(まさやあかつ<)の速日天忍穂耳(はやひあまのをしほみみの)尊。高皇産霊の尊の女(むすめ)栲幡千々姫(たくはたちぢひめ)の命にあひて、饒速日(にぎはやひの)尊・瓊々杵(ににぎの)尊をうましめ給(たまひ)て、吾勝尊葦原中州(あしはらのなかつくに)にくだりますべかりしを、御子うみ給しかば、「かれを下すべし。」と申給て、天上にとゞまります。まづ、饒速日の尊をくだし給し時、外祖(ぐわいそ)高皇産霊尊、十種(とくさ)の瑞宝(みづたから)を授(さづけ)給。瀛都(をきつの)鏡一(ひとつ)、辺津(へつ)鏡一、八握(やつかの)剣一、生玉(いくたま)一、死反(しにかへりの)玉一、足玉(たるたま)一、道反(みちがへしの)玉一、蛇比礼(へみのひれ)一、
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蜂(はちの)比礼一、品(くさぐさ)の物(ものの)比礼一、これなり。此みことはやく神さり給にけり。凡(およそ)国の主(あるじ)とてはくだし給はざりしにや。吾勝尊くだり給(たまふ)べかりし時、天照太神三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を伝(つた)へ給。のちに又瓊々杵尊にも授(さづけ)まし<しに、饒速日尊はこれをえ給はず。しかれば日嗣の神にはましまさぬなるべし〈 此事旧事本紀の説也。日本紀にはみえず 〉。天照太神・吾勝尊は天上に止(とどま)り給へど、地神(ちじん)の第一、二にかぞへたてまつる。其始(はじめ)天下(あめのした)の主(あるじ)たるべしとてうまれ給しゆゑにや。
○第三代、天津彦々火瓊々杵(あまつひこひこほににぎの)尊。天孫(あめみま)とも皇孫(すめみま)とも申。皇祖(すめみおや)天照太神・高皇産霊尊いつきめぐみまし<き。葦原の中州の主(あるじ)として天降(あまくだし)給はんと
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す。こゝに其国邪神(あしきかみ)あれてたやすく下(くだり)給ことかたかりければ、天稚彦(あめわかひこ)と云神をくだしてみせしめ給しに、大汝(おほなむち)の神の女(むすめ)、下照姫(したてるひめ)にとつぎて、返(かへり)こと申さず。みとせになりぬ。よりて名なし雉(きぎし)をつかはしてみせられしを、天稚彦いころしつ。其矢天上にのぼりて太神の御まへにあり。血にぬれたりければ、あやめ給て、なげくだされしに、天稚彦新嘗(にひなめし)てふせりけるむねにあたりて死す。世に返し矢をいむは此故也。さらに又くださるべき神をえらばれし時、経津主(ふつぬし)の命〈 ■取(かとりの)神にます 〉武甕槌(たけみかづち)の神〈 鹿嶋(かしま)の神にます 〉みことのりをうけてくだりましけり。出雲(いづもの)国にいたり、はかせる剣をぬきて、地につきたて、其上にゐて、大汝の神に太神の勅(みことのり)をつげしらしむ。その子都波八重事代主(つみはやへことしろぬしの)神〈 今葛木(かづらき)の鴨(かも)にます 〉あひともに従(したがい)申。又次の子健御名方刀美(たけみなかたとみ)の神〈 今陬方(すは)の神にます 〉したがはずして、にげ給しを、すはの湖(みづうみ)までおひてせめられしかば、又したがひぬ。かくてもろ<の悪(あしき)神をばつみなへ、まつろへるをばほめて、天上にのぼりて返(かへり)こと申給。大物主の神〈 大汝の神は此国をさり、やがてかくれ給と見ゆ。この大物主はさきに云所の三輪の神にますなるべし 〉事代主の神、相共に八十万(やそよろづ)の神をひきゐて、天(あめ)にまうづ。太神ことにほめ給き。「宜(よろしく)八十万の神を領(りやうじ)て皇孫をまぼりまつれ。」とて、先(まづ)かへしくだし給けり。
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其後、天照太神、高皇産霊尊相計(はからひ)て皇孫をくだし給。八百万(やほよろづ)の神、勅(みことのり)を承(うけたまはり)て御供につかうまつる。諸神の上首(じやうしゆ)三十二神あり。其中(なか)に五部(いつとものをの)神と云は、天児屋(あまのこやねの)命〈 中臣の祖(おや) 〉天太玉(ふとたまの)命〈 忌部の祖 〉天鈿女(うづめの)命〈 ■女(さるめ)の祖 〉石凝姥(いしこりどめの)命〈 鏡作(つくり)の祖 〉玉屋(たまのやの)命〈 玉作(たまつくり)の祖 〉也。此中にも中臣・忌部の二(ふたはしらの)神はむねと神勅(しんちよく)をうけて皇孫をたすけまぼり給。又三種(みくさ)の神宝(かむたから)をさづけまします。先(まづ)あらかじめ、皇孫に勅(みことのり)して曰(のたまはく)、「葦原千五百秋之瑞穂国(あしはらのちいほあきのみづほのくには)是(これ)吾子孫(わがうみのこの)可主之(きみたるべき)地(ところ)也(なり)。宜爾皇孫就而治(いましすめみまついてしらすべし)焉。行給矣(さきくゆきたまへ)。宝祚之(あまつひつぎの)隆(さかえまさむこと)当与天壌無窮者矣(まさにあめつちときはまりなかるべし)。」又太神御手に宝鏡をもち給(たまひ)、皇孫にさづけ祝(ほき)て、「吾児(わがこ)視此宝鏡(このたからのかがみをみること)当猶視吾(まさになをしわれをみるがごとくすべし)。可与同床共殿以為斎鏡(ともにゆかをおなじくしみあらかをひとつにしていはひのかがみとすべし)。」との給。八坂瓊の曲玉(まがたま)・天の叢雲の剣をくはへて三種とす。又「此鏡の如(ごとく)に分明(ふんみやう)なるをもて、天下(あめのした)に照臨(せうりんし)給へ。八坂瓊のひろがれるが如く曲妙(たくみなるわざ)
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をもて天下をしろしめせ。神剣をひきさげては不順(まつろはざ)るものをたひらげ給(たまへ)。」と勅(みことのり)まし<けるとぞ。
此国の神霊(しんれい)として、皇統(くわうとう)一種たゞしくまします事、まことにこれらの勅(みことのり)にみえ
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たり。三種の神器世に伝(つたふる)こと、日月星(ひつきほし)の天(あめ)にあるにおなじ。鏡は日の体(たい)なり。玉は月の精(せい)也。剣は星の気(き)也。ふかき習あるべきにや。抑(そもそも)、彼の宝鏡はさきにしるし侍(はべる)石凝姥(いしこりどめ)の命の作(つくり)給へりし八咫の御鏡〈 八咫に口伝あり 〉、〔裏書(に)云(い)ふ。咫説文云(い)ふ。中婦人手長八寸謂之咫。周尺也。但(ただし)、今の八咫の鏡(の)事は別(べつに)口伝あり。〕玉は八坂瓊の曲玉、玉(々)屋の命〈 天明(あめのあかる)玉とも云 〉作(つくり)給へるなり〈 八坂にも口伝あり 〉。剣はすさのをの命のえ給て、太神にたてまつられし叢雲(むらくも)の剣也。此三種につきたる神勅(しんちよく)は正(まさし)く国をたもちますべき道なるべし。鏡は一物(いちもつ)をたくはへず。私(わたくし)の心なくして、万象(ばんしやう)をてらすに是非善悪のすがたあらはれずと云ことなし。其すがたにしたがひて感応(かんおう)するを徳とす。これ正直(しやうぢき)の本源なり。玉は柔和善順(にうわぜんじゆん)を徳とす。慈悲の本源也。剣は剛利決断を徳とす。智恵(ちゑ)の本源也。此三徳を翕受(あはせうけ)ずしては、天下(あめのした)のをさまらんことまことにかたかるべし。神勅(しんちよく)あきらかにして、詞(ことば)つゞまやかにむねひろし。あまさへ神器にあらはれ給へり。いとかたじけなき事をや。中(なか)にも鏡を本(もと)とし、宗廟(そうべう)の正体(しやうたい)とあふがれ給。鏡は明(めい)をかたちとせり。心性(しんしやう)あきらかなれば、慈悲決断は其中(うち)にあり。又正(まさし)く御影(みかげ)をうつし給しかば、ふかき御心をとゞめ給けんかし。天(あめ)にある物、日月(ひつき)よりあきらかなるはなし。仍(よりて)文字(もんじ)を制するにも「日月を明とす。」と云へり。我神、大日(だいにち)の霊(みたま)にましませば、明徳をもて
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照臨し給こと陰陽におきてはかりがたし。冥顕(みやうけん)につきてたのみあり。君も臣(しん)も神明の光胤(くわういん)をうけ、或はまさしく勅(みことのり)をうけし神達の苗裔(べうえい)也。誰か是をあふぎたてまつらざるべき。此理(ことわり)をさとり、其道にたがはずは、内外典(ないげてん)の学問もこゝにきはまるべきにこそ。されど、此道のひろまるべき事は内外典流布(るふ)の力なりと云つべし。魚をうることは網(あみ)の一目(いちもく)によるなれど、衆目の力なければ是をうることかたきが如し。応神(おうじん)天皇の御代より儒書をひろめられ、聖徳(しやうとく)太子の御時より、釈教(しやくけう)をさかりにし給し、是(これ)皆権化(ごんげ)の神聖(かみ)にましませば、天照太神の御心をうけて我国の道をひろめふかくし給なるべし。
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かくて此瓊々杵の尊、天降(あまくだり)ましし(ゝ)に■田彦(さるだびこ)と云神まゐりあひき〈 これはちまたの神也 〉。てりかゝやきて目をあはする神なかりしに、天の鈿目の神行(ゆき)あひぬ。又「皇孫いづくにかいたりましますべき。」と問しかば、「筑紫(つくし)の日向の高千穂の■触(くしふる)の峯(たけ)にましますべし。われは伊勢の五十鈴の川上にいたるべし。」と申(まをす)。彼神の申(まをし)のまゝに、■触の峯にあまくだりて、しづまり給べき所をもとめられしに、事勝(ことかつ)・国勝(くにかつ)と云神〈 これも伊弉諾尊の御子、又は塩土(しほつち)の翁(おきな)と云 〉まい(ゐ)りて、「わがゐたる吾田(あた)の長狭(ながさ)の御崎(みさき)なんよろしかるべし。」と申ければ、その所にすませ給けり。こゝに山の神大山祇(おほやまつみ)、二(ふたり)の女(むすめ)あり。姉を磐長姫(いわながひめ)と云〈 これ磐石(ばんじやく)の神なり 〉、妹を木(こ)の花開耶(はなのさくや)姫と云〈 これは花木の神なり 〉。二人をめしみ給(たまふ)。あねはかたちみにくかりければ返しつ。いもうとを止(とど)め給しに、磐長姫うらみいかりて、「我をもめさましかば、世の人はいのちながくて磐石の如くあらまし。たゞ妹をめしたれば、うめらん子は木(こ)の花の如くちりおちなむ。」ととこひけるによりて、人のいのちはみじかくなれりとぞ。木の花のさくやひめ、め(ゝ)されて一夜(ひとよ)にはらみぬ。天孫のあやめ給ければ、はらたちて無戸室(うつむろ)をつくりてこもりゐて、
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みづから火をはなちしに、三人(みたり)の御子生給(うまれたまふ)。ほのほのおこりける時、生(うまれ)ますを火闌降(ほのすせり)の命と云(い)ふ。火のさかりなりしに生ますを火明(ほあかりの)命と云(い)ふ。後(のち)に生ますを火火出見(ほほでみ)の尊と申(まをす)。此三人の御子をば火もやかず、母の神もそこなはれ給はず。父の神悦(よろこび)まし<けり。此尊天下(あめのした)を治(をさめ)給事三十万八千五百三十三年と云へり。自是(これより)さき、天上にとゞまります神達の御事は年序(ねんじよ)はかりがたきにや。天地(あめつち)わかれしより以来(このかた)のこと、いくとせをへたりと云こともみえたる文(ふみ)なし。抑(そもそも)、天竺の説に、人寿(にんじゆ)無量なりしが八万四千歳になり、それより百年に一年を減じて百二十歳の時〈 或百才とも 〉釈迦仏出(い)で給(たまふ)と云(いへ)る、此仏出世は■■草葺不合(うがやふきあへずの)尊のすゑざまの事なれば〈 神武天皇元年辛酉(かのととり)、仏滅後(ぶつめつののち)二百九十年にあたる。これより上はかぞふべき也 〉、百年に一年を増してこれをはかるに、此瓊々杵の尊の初(はじめ)つかたは迦葉仏(かせふぶつ)の出(いで)給ける時にやあたり侍らん。人寿二万歳の時、此仏は出給けりとぞ。
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○第四代、彦火々出見(ひこほほでみ)の尊と申(まをす)。御兄(このかみ)火(ほ)の闌降(すせり)の命、海の幸(さち)ます。此尊は山の幸(さち)ましけり。こゝろみに相かへ給しに、各(おのおの)其幸(さち)なかりき。弟(おとと)の尊の、弓箭(ゆみや)に魚の釣鉤(つりばり)をかえ(へ)給へりしを、弓箭をば返(かへし)つ。おとゝの尊鉤(つりばり)を魚にくはれて失ひ給けるを、あながちにせめ給しに、せんすべなくて海辺(うみべ)にさまよひ給き。塩土の翁(おきな)〈 此神の事さきにみゆ 〉まゐりあひて、あはれみ申て、はかりことをめぐらして、海神綿積(うみのかみわたつみの)命〈 小童(せうとう)ともかけり 〉の所におくりつ。其女(むすめ)を豊玉姫と云(い)ふ。天神(あまつかみ)の御孫にめでたてまつりて、父の神につげてとゞめ申つ。つひに其女(むすめ)とあひすみ給(たまふ)。みとせばかりありて故郷(もとつくに)をおぼす御気色(みけしき)ありければ、其女父にいひあはせてかへしたてまつる。大小(おほきちひさき)いろくづをつどへてとひけるに、口女(くちめ)と云魚(うを)、やまひありとてみえず。
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しひてめしいづれば、その口(くち)はれたり。是をさぐりしに、うせにし鉤をさぐりいづ〈 一(ひとつ)には赤女(あかめ)と云(い)ふ。又此魚はなよしと云魚とみえたり 〉。海神(うみのかみ)いましめて、「口女いまよりつりくふな。又天孫(あめみま)の饌(おもの)にまゐるな。」となん云ふくめける。又海神ひる珠みつ珠をたてまつりて、兄(このかみ)をしたがへ給べきかたちををしへ申けり。さて故郷(もとつくに)にかへりまして鉤を返(かへし)つ。満珠(みつたま)をいだしてねぎ給へば、塩みちきて、このかみおぼれぬ。なやまされて、「俳優(わざをぎ)の民(たみ)とならん。」とちかひ給しかば、ひる珠をもちて塩をしりぞけ給き。これより天日嗣(あまつひつぎ)をつたへまし<ける。海中にて豊玉姫はらみ給しかば、「産期(うみがつき)にいたらば、海辺(うみべ)に産屋(うぶや)を作(つくり)て待給へ。」と申き。はたして其妹(いも)玉依(たまより)姫をひきゐて、海辺に行(ゆき)あひぬ。屋(や)を作て■■(う)の羽(は)にてふかれしが、ふきもあへず、御子うまれ給によりて■■草葺不合(うがやふきあへずの)尊と申す。又産屋をうぶやと云事もうのはをふけるゆゑなりとなん。さても「産(うみ)の時み給な。」と契申(ちぎりまをし)しを、のぞきて見ましければ、龍(りよう)になりぬ。はぢうらみて、「われにはぢみせ給はずは、海陸(うみくが)をして相かよはしへだつることなからまし。」とて、御子をすておきて海中へかへりぬ。後に御子のきら<しくましますことをきゝて憐み崇(あが)めて、妹の玉依姫を奉て養ひまゐらせけるとぞ。此尊、
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天下を治給こと六十三万七千八百九十二年と云へり。震旦の世の始(はじめ)をいへるに、万物(ばんぶつ)混然としてあひはなれず。是を混沌(こんとん)と云(い)ふ。其後軽(かろく)清(きよき)物は天(てん)となり、重(をもく)濁(にごれる)物は地(ち)となり、中和気(くわのき)は人(じん)となる。これを三才(さんさい)と云〈 これまでは我国の初(はじま)りを云にかはらざる也 〉。其はじめの君盤古(ばんこ)氏、天下を治(をさむる)こと一万八千年。天皇(てんくわう)・地皇・人皇など云王相続(あひつぎ)て、九十一代一百八万二千七百六十年。さきにあはせて一百十万七百六十年〈 これ一説なり。実(まこと)にはあきらかならず 〉。広雅(くわうが)と云書には、開闢より獲麟(くわくりん)に至(いたり)て二百七十六万歳とも云(い)ふ。獲麟とは孔子の在世(ざいせ)、魯(ろ)の哀公の時なり。日本の懿徳(いとく)にあたる。しからば、盤古のはじめは此尊の御代のすゑつかたにあたるべきにや。
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○第五代、彦波激武■■草葺不合(ひこなぎさたけうがやふきあへずの)尊と申(まをす)。御母豊玉姫の名づけ申ける御名なり。御姨(をば)玉依姫にとつぎて四(よ)はしらの御子をうましめ給ふ。彦五瀬(ひこゐつせの)命、稲飯(いなひの)命、三毛入野(みけいりのゝ)命、日本磐余彦(やまといわれひこ)の尊と申す。磐余彦尊を太子に立てて天日嗣(あまつひつぎ)をなんつがしめまし<ける。此神の御代七十七万余年の程にや、もろこしの三皇の初、伏犠(ふくき)と云王あり。次(つぎに)、神農(しんのう)氏、次(つぎに)、軒轅(けんゑん)氏、三代あはせて五万八千四百四十年〈 一説には一万六千八百二十七年。しからば此尊の八十万余の年にあたる也。親経(ちかつねの)中納言の新古今の序を書(かく)に、伏犠の皇徳に基(もとゐ)して四十万年と云り。何(いづれの)説によれるにか。無覚束(おぼつかなき)事(こと)也(なり) 〉。其後に少昊(せうこう)氏、■■(せんぎよく)氏、高■(かうしん)氏、陶唐(たうたう)氏〈 ■也 〉、有虞(いうぐ)氏〈 舜也 〉と云五帝あり。合(あはせ)て四百三十二年。其次(つぎに)、夏(か)・殷(いん)・周(しう)の三代あり。夏には十七主、四百三十二年。殷には三十主、六百二十九年。周の代と成(なり)て第四代の主(しゆ)を
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昭王と云き。その二十六年甲寅(きのえとら)の年までは周おこりて一百二十年。このとしは葺不合尊の八十三万五千六百六十七年にあたれり。ことし天竺に釈迦仏出世しまします。同(おなじ)き八十三万五千七百五十三年に、仏(ほとけ)御年八十にて入滅(にふめつ)しまし<けり。もろこしには昭王の子、穆(ぼく)王の五十三年壬甲(みづのえさる)にあたれり。其後二百八十九年ありて、庚申(かのえさる)にあたる年、此神かくれさせまします。すべて天下を治給こと八十三万六千四十三年と云り。これより上(かみ)つかたを地神(ちじん)五代とは申けり。二代は天上にとゞまり給(たまふ)。下(しも)三代は西の州(くにの)宮にて多の年をおくりまします。神代のことなれば、其行迹(かうせき)たしかならず。葺不合の尊八十三万余年まし<しに、その御子磐余彦尊の御代より、にはかに人王(にんわう)の代(よ)となりて、暦数(れきすう)も短くなりにけること疑ふ人もあるべきにや。されど、神道の事おしてはかりがたし。まことに磐長姫の詛(とこひ)けるまゝ寿命も短くなりしかば、神のふるまひにもかはりて、やがて人の代となりぬるか。天竺の説の如く次第ありて減(げんじ)たりとはみえず。又百王ましますべしと申める。十々の百には非(あらざ)るべし。窮(きはまり)なきを百とも云り。百官百姓(ひやくくわんひやくしやう)など云にてしるべき也。昔、皇祖天照太神天孫の尊に御ことのりせしに、「宝祚之(あまつひつぎの)隆(さかんなること)当
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与天壌無窮(まさにあめつちときはまりなかるべし)。」とあり。天地も昔にかはらず。日月も光をあらためず。況(いはん)や三種の神器世に現在し給へり。きはまりあるべからざるは我国を伝(つたふ)る宝祚(はうそ)也。あふぎてた(つ)とびたてまつるべきは日嗣をうけ給すべらぎになんおはします。
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巻二
○人皇(にんわう)第一代、神日本磐余彦天皇(すめらみこと)と申(まをす)。後に神武(じんむ)となづけたてまつる。地神(ちじん)■■草葺不合の尊の第四の子。御母玉依姫、海神(うみのかみ)小童(わたつみの)第二(の)女(むすめ)也。伊弉諾尊には六世、大日■(おほひるめ)の尊には五世の天孫にまします。神日本磐余彦と申は神代よりのやまとことばなり。神武は中古となりて、もろこしの詞(ことば)によりてさだめたてまつる御名也。又此御代より代ごとに宮所(みやどころ)をうつされしかば、其所(ところ)を名づけて御名とす。此天皇をば橿原(かしはら)の宮と申、是也。又神代より至(いたり)て尊(たふとき)を尊(みこと)と云(いひ)、其次を命(みこと)と云(い)ふ。人の代となりては天皇(すめらみこと)とも号したてまつる。臣下にも朝臣(あそむ)・宿禰(すくね)・臣(おみ)などと(、)いふ号いできにけり。神武の御時よりはじまれる事なり。上古(しやうこ)には尊とも命とも兼(かね)て称(しようし)けるとみえたり。世くだりては天皇を尊と申こともみえず、臣(しん)を命と云事もなし。古語の耳なれずなれるゆゑにや。此天皇(てんわう)御年十五にて太子(たいし)に立(たち)、五十一にて父(ちちの)神にかはりて皇位にはつかしめ給(たまふ)。ことし辛酉(かのととり)なり。筑紫(つくしの)日向の宮崎の宮
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におはしましけるが、兄(このかみ)の神達および皇子群臣(わうじぐんしん)に勅(みことのり)して、東征(せい)のことあり。此大八州(おほやしま)は皆是王地也。神代(かみよ)幽昧(ゆうまい)なりしによりて西偏(にしのほとり)の国にして、おほくの年序(ねんじよ)をおくられけるにこそ。天皇舟楫(しうしふ)をとゝのへ、甲兵(かふへい)をあつめて、大日本州(おほやまとのくに)にむかひ給。みちのついでの国々をたひらげ、大やまとにいりまさむとせしに、其国に天(あめ)の神饒(にぎ)の速日(はやひ)の尊の御すゑ宇麻志間見(うましまみ)の命と云神あり。外舅(はゝかたのをぢ)の長髄彦(ながすねひこ)と云、「天神(あまつかみ)の御子両種有むや。」とて、軍(いくさ)をおこしてふせぎたてまつる。其軍こはくして皇軍(みいくさ)しば<利をうしなふ。又邪神(あしきかみ)毒気(どくき)をはきしかば、士卒(しそつ)みなやみふせり。こゝに天照太神、健甕槌(たけみかづち)の神をめして、「葦原の中つ州(くに)にさわぐおとす。汝ゆきてたひらげよ。」とみことのりし給。健甕槌の神申(まをし)給けるは、「昔国をたひらげし時(の)剣あり。かれをくださば、自(おのづか)らたひらぎなん。」と申て、紀伊(きの)国名草(なぐさ)の村に高倉下(たかくらじの)命と云神にしめして、此剣をたてまつりければ、天皇悦(よろこび)給て、士卒のやみふせりけるもみなおきぬ。又神魂(かみむすひ)の命の孫(まご)、武津之身(たけつのみの)命大烏(からす)となりて軍の御さきにつかうまつる。天皇ほめて八咫烏(やたからす)と号し給。又金色(こんじき)の鴟(とび)くだりて皇弓(みゆみ)のはずにゐたり。其光てりかゝやけり。これによりて皇軍大(おほき)にかちぬ。
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宇麻志間見(うましまみ)の命其舅(をぢ)のひがめる心をしりて、たばかりてころしつ。その軍(いくさ)をひきゐてしたがひ申にけり。天皇はなはだほめまし<て、天(あめ)よりくだれる神剣をさづけ、「其大勲(だいくん)にこたふ。」とぞのたまはせける。此剣を豊布都(とよふつ)の神と号す。はじめは大和(やまと)の石上(いそのかみ)にまし<き。後には常陸(ひたち)の鹿嶋(かしま)の神宮にまします。彼(かの)宇麻志間見(うましまみ)の命又饒速日(にぎはやひ)の尊天降(あまくだり)し時、外祖(ぐわいそ)高皇産霊(たかみむすひ)の尊さづけ給し十種(とくさ)の瑞宝(みづたから)を伝(つた)へもたりけるを天皇に奉る。天皇鎮魂(みたましづめ)の瑞宝也しかば、其祭を始られにき。此宝をも即(すなはち)宇麻志間見(うましまみ)にあづけ給て、大和(やまとの)石上に安置(あんぢ)す。又は布瑠(ふる)と号(がうす)。此瑞宝を一(ひとつ)づつ(ゝ)よびて、呪文(じゆもん)をして、ふる事あるによれるなるべし。かくて天下(あめのした)たひらぎにしかば、大和国橿原(かしはら)に都をさだめて、宮つくりす。其制度(せいど)天上の儀のごとし。天照太神より伝給へる三種の神器を大殿(みあらか)に安置し、床(ゆか)を同くしまします。皇宮・神宮一(ひとつ)なりしかば、国々の御(み)つき物をも斎蔵(いみくら)にをさめて官物(くわんもつ)・神物(じんもつ)のわきだめなかりき。天児屋根(あめのこやねの)命の孫天種子(あめのたねこ)の命、天太玉(あめのふとたま)の命(の)孫天富(あめのとみ)の命もはら神事(しんじ)をつかさどる。神代の例(ためし)にことならず。又霊畤(まつりのには)を鳥見山(とみのやま)の中(なか)にたてて(ゝ)、天神(あまつかみ)・地祇(くにつかみ)をまつらしめ給(たまふ)。此御代の始、辛酉(かのととり)の年、もろこしの周(しう)の世、第十七代にあたる君、恵(けい)王の十七年
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也。五十七年丁巳(ひのとみ)は周の二十一代の君、定(てい)王の三年にあたれり。ことし老子(らうし)誕生(たんじやう)す。是は道教の祖也。天竺(てんぢく)の釈迦如来(しやかによらい)入滅(にふめつ)し給しより元年辛酉までは二百九十年になれるか。此天皇天下(てんか)を治(をさめ)給こと七十六年。一百二十七歳おはしき。
○第二代、綏靖(すゐぜい)天皇(は)〈 これより和語(わご)の尊号をばのせず 〉神武(じんむ)第二(の)御子。御母鞴五十鈴姫(たたらいすずひめ)、事代主(ことしろぬし)の神の女也。父の天皇かくれまして、みとせありて即位し給。庚辰(かのえたつの)年
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也。大和葛城高岡(やまとのかづらきのたかをか)の宮にまします。三十一年庚戌(かのえいぬ)の年もろこしの周の二十三代(の)君、霊(れい)王の二十一年也。ことし孔子(こうし)誕生す。自是(これより)七十三年までおはしけり。儒教をひろめらる。此道は昔の賢王、唐■(たうげう)、虞舜(ぐしゆん)、夏(か)の初(はじめ)の禹(う)、殷(いん)のはじめの湯(たう)、周(しう)のはじめの文(ぶん)王・武(ぶ)王・周(しう)公の国を治め、民をなで給し道なれば、心を正(ただ)しくし、身をなほくし、家を治め、国を治めて、天下におよぼすを宗(むね)とす。さればことなる道にはあらねども、末代(まつだい)となりて、人不正になりしゆゑに、其道ををさめて儒教(じゆけう)をたてらるゝ也。天皇天下を治(をさめ)給こと三十三年。八十四歳おまし<き。
○第三代、安寧(あんねい)天皇は綏靖(すゐぜい)第二の子。御母五十鈴依姫(いすずよりひめ)、事代主(ことしろぬし)の神のおと女(むすめ)也。癸丑(みづのとうし)の年即位。大和(やまと)の片塩(かたしほ)の浮穴(うきあな)の宮にまします。天下を治給こと三十八年。五十七歳おまし<き。
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○第四代、懿徳(いとく)天皇は安寧(あんねい)第二の子。御母渟名底中媛(ぬなそこなかつひめ)、事代主(ことしろぬし)の神の孫也。辛卯(かのとうの)年即位。大和の軽曲峡(かるのまがりを)の宮にまします。天下を治給こと三十四年。七十七歳おはしましき。
○第五代、孝昭(かうせう)天皇は懿徳(いとく)第一の子。御母天豊津(あまのとよつ)姫、息石耳(おきしみみ)の命の女也。父の天皇かくれまして一年(ひととせ)ありて、丙寅(ひのえとら)の年即位。大和の掖(わき)の上池(かみのいけ)の心(こころ)の宮にまします。天下を治給こと八十三年。百十四歳おはしましき。
○第六代、孝安(かうあん)天皇は孝昭(かうせう)第二の子。御母世襲足(よそたらし)の姫、尾張(をはり)の連(むらじ)の上祖(とほつおや)瀛津世襲(おきつよそ)の女也。乙丑(きのとうし)の年即位。大倭秋津嶋(やまとのあきづしま)の宮にまします。天下を治給こと一百二年。百二十歳おまし<き。
○第七代、孝霊(かうれい)天皇は孝安(かうあん)の太子(たいし)。御母押姫(おしひめ)、天足彦国押人(あめたらしひこくにおしひとの)命の女也。辛未(かのとひつじの)年即位。大和の黒田廬戸(くろだいほと)の宮にまします。三十六年丙午(ひのえうま)にあたる年、もろこしの周の国滅(めつ)して秦(しん)にうつりき。四十五年乙卯(きのとう)、秦の始皇(しくわう)即位。此の
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始皇仙方(ほう)をこのみて長生不死(ちやうせいふし)の薬を日本にもとむ。日本より五帝三皇の遺書(ゐしよ)を彼(かの)国にもとめしに、始皇こと<”くこれをおくる。其後三十五年ありて、彼(かの)国、書を焼(やき)、儒をうづみにければ、孔子の全経(きやう)日本にとゞまるといへり。此事異朝の書にのせたり。我国には神功皇后(じんぐうくわうごう)三韓をたひらげ給しより、異国に通じ、応神の御代より経史(けいし)の学つたはれりとぞ申ならはせる。孝霊の御時より此国に文字(もんじ)ありとはきかぬ事なれど、上古(しやうこ)のことは慥(たしか)に注(しるし)とゞめざるにや。応神の御代にわたれる経史だにも今は見えず。聖武の御時、吉備大臣(きびのだいじん)、入唐(にふたう)して伝(つた)へたりける本こそ流布(るふ)したれば、この御代より伝けん事もあながちに疑(うたがふ)まじきにや。凡此国をば君子不死の国とも云也。孔子世のみだれたる事を歎(なげき)て、「九夷(きうい)にをらん。」との給ける。日本は九夷の其一(ひとつ)なるべし。異国には此国をば東夷とす。此国よりは又彼国をも西蕃(せいばん)と云るがごとし。四海(しかい)と云は東夷(とうい)・南蛮(なんばん)・西羌(せいきやう)・北狄(ほくてき)也。南は蛇(じや)の種(しゆ)なれば、虫をしたがへ、西は羊をのみかふなれば、羊をしたがへ、北は犬の種なれば、犬をしたがへたり。たゞ東は仁ありて命(いのち)ながし。よりて大(だい)・弓(きう)の字をしたがふと云へり。〔裏書(に)云(い)ふ。夷説文曰。東方之人也。从大从弓。徐氏曰。唯東夷从大从弓。仁而寿。有君子不死之国云(い)ふ。仁而寿、未合弓字之義。弓者以近窮遠也云(い)ふ。若取此義歟。〕孔子の時すらこなたのことをしり給ければ、秦の世に
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通じけんことあやしむに足(たら)ぬことにや。此天皇天下を治(をさめ)給事七十六年。百十歳おはしましき。
○第八代、孝元(かうげん)天皇は孝霊の太子(たいし)。御母細媛(くはしひめ)、磯城県主(しきのあがたぬし)の女也。丁亥(ひのとゐの)年即位。大倭(やまと)の軽境原(かるのさかひはら)の宮にまします。九年乙未(きのとひつじ)の年、もろこしの秦(しん)滅(ほろび)て漢(かん)にうつりき。此天皇天下を治給こと五十七年。百十七歳おまし<き。
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○第九代、開化(かいくわ)天皇は孝元第二の子。御母鬱色謎(うつしこめ)姫、穂積(ほづみ)の臣(おみの)上祖(とをつをや)鬱色雄命(うつしこをのみことの)妹也。甲申(きのえさるの)年即位。大和の春日率川(かすがのいさがは)の宮にまします。天下を治給こと六十年。百十五歳おまし<き。
○第十代、崇神(すじん)天皇は開化第二の子。御母伊香色謎(いかがしこめ)姫〈 初は孝元の妃(きさき)として彦太忍信(ひこふとおしまこと)の命をうむ 〉、太綜麻杵(おほへそき)の命の女也。甲申(きのえさる)の歳即位。大和の磯城(しき)の瑞籬(みづかき)の宮にまします。此御時神代をさる事、世は十つぎ、年は六百余(あまり)になりぬ。やうやく神威をおそれ給て、即位六年己丑(つちのとうしの)年〈 神武元年辛酉(かのととり)より此己丑(つちのとうし)までは六百二十九年 〉神代の鏡造(かがみつくり)の石凝姥(いしこりどめ)の神のはつこをめして鏡をうつし鋳(い)せしめ、天目一箇(あめのまひとつ)の神のはつこをして剣をつくらしむ。大和宇陀(やまとのうだ)の郡(こほり)にして、此両種をうつしあらためられて、護身(ごしん)の璽(しるし)として同殿(おなじとの)に安置す。神代よりの宝鏡および霊剣をば皇女(くわうぢよ)豊鋤入姫(とよすきいりひめ)の命につけて、大和の笠縫(かさぬひ)の邑(むら)と云所に神籬(ひもろぎ)をたてて(ゝ)あがめ奉らる。これより神宮・皇居各(おのおの)別(べつ)になれりき。其後太神のをしへありて、豊鋤入姫の命、神体を頂戴(ちやうだいし)て所々(ところどころ)をめぐり給けり。十年の秋、大彦(おほひこの)命を北陸(ほくろく)に遣(つかは)し、
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武渟川別(たけぬなかはわけ)の命を東海(とうかい)に、吉備津彦命を西道(さいだう)に、丹波(たには)の道主(みちぬし)の命を丹波(たんば)に遣す。ともに印綬(いんじゆ)を給(たまひ)て将軍とす〈 将軍の名はじめてみゆ 〉。天皇の叔父(しゆくふ)武埴安彦(たけはにやすひこ)の命、朝廷をかたぶけんとはかりければ、将軍等を止(とどめ)て、まづ追討しつ。冬十月(かんなづき)に将軍発路(みちたち)す。十一年の夏、四道の将軍戎夷(じゆうい)を平(たひらげ)ぬるよし復命(かへりこと)す。六十五年秋任那(みまな)の国、使(つかひ)をさして御(み)つきをたてまつる〈 筑紫をさること二千余里と云 〉。天皇天下を治給こと六十八年。百二十歳おまし<き。
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○第十一代、垂仁(すゐにん)天皇は崇神(すじん)第三の子。御母御間城姫(みまきひめ)、大彦(おほひこ)の命(みことの)〈 孝元の御子 〉女也。壬辰(みづのえたつ)の年即位。大和の巻向(まきむく)の珠城(たまき)の宮にまします。此御時皇女大和姫の命、豊鋤入(とよすきいり)姫にかはりて、天照太神をいつきたてまつる。神のをしへにより、なほ国々をめぐりて、二十六年丁巳(ひのとみ)冬十月甲子(かんなづききのえね)に伊勢(いせの)国度会郡(わたらひのこほり)五十鈴(いすずの)川上に宮所(みやどころ)をしめ、高天(たかま)の原に千木高知(ちぎたかしり)下都磐根(したついはね)に大宮柱広敷(ふとしき)立(たて)てしづまりまし<ぬ。此所(ところ)は昔天孫(あめみま)あまくだり給し時、猿田彦(さるだびこ)の神まゐりあひて、「われは伊勢の狭長田(さながた)の五十鈴の川上にいたるべし。」と申ける所也。大倭(やまと)姫の命、宮所を尋(たづね)給しに、大田の命と云人〈 又興玉(おきたま)とも云 〉まゐりあひて、此所ををしへ申き。此命は昔の■田彦の神の苗裔(べうえい)なりとぞ。彼川上に五十鈴(いすず)・天上の図形(づぎやう)などあり〈 天の逆戈(さかほこ)もこの所にありきと云一説あり 〉。「八万歳のあひだまぼりあがめたてまつりき。」となん申ける。かくて中臣(なかとみ)の祖(おや)大鹿嶋(おほかしま)の命を祭主(さいしゆ)とす。又大幡主(おほはたぬし)と云人を太神主(おほかむぬし)になし給(たまふ)。これより皇太神(すめおほみかみ)とあがめ奉て、天下(てんか)第一の宗廟(そうべう)にまします。此天皇天下を治給こと九十九年。百四十歳おまし<き。
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○第十二代、景行(けいかう)天皇は垂仁第三の子。御母日葉州媛(ひはすひめ)、丹波道主の王の女也。辛未(かのとひつじの)年即位。大和の纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮にまします。十二年秋、熊襲(くまそ)〈 日向にあり 〉そむきてみつき奉らず。八月(はつき)に天皇筑紫に幸(みゆき)して是を征(せい)し給。十三年夏こと<”く平(たひら)ぐ。高屋の宮にまします。十九年の秋筑紫より還(かへり)給。二十七年秋、熊襲又そむきて辺境ををかしけり。皇子小碓(をうす)の尊御年十六、をさなくより雄略気(をゝしきけ)まして、容貎(ようばう)魁偉(すぐれたゝはし)。身の長(たけ)一丈、力(ちから)能(よく)かなへをあげ給ひしかば、熊襲をうたしめ給(たまふ)。冬十月(かんなづき)ひそかに彼国にいたり、奇謀(きぼう)をもて、梟帥(たけるひとこのかみ)取石鹿父(とりいしかや)と云物を殺給(ころしたまふ)。梟帥ほめ奉て、日本武(やまとたけ)となづけ申けり。悉(ことごとく)余党を平(たひらげ)て帰給。所々にしてあまたの悪神(あしきかみ)をころしつ。二十八年春かへりこと申給けり。天皇其の功をほめてめぐみ給こと諸子にことなり。
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四十年の夏、東夷(とうい)おほく背(そむき)て辺境さわがしかりければ、又日本武の皇子をつかはす。吉備(きび)の武彦(たけひこ)、大伴(おほとも)の武日(たけひ)を左右の将軍としてあひそへしめ給。十月に枉道(よきりみち)して伊勢の神宮にまうでて(ゝ)、大和姫の命にまかり申(まをし)給。かの命神剣をさづけて、「つゝしめ、なおこたりそ。」とをしへ給ける。駿河(するが)に〈 駿河日本紀説、或(あるひは)相模(さがみ)古語拾遺説 〉いたるに、賊徒(ぞくと)野に火をつけて害(がい)したてまつらんことをはかりけり。火のいきほひまぬかれがたかりけるに、はかせる叢雲(むらくも)の剣をみづからぬきて、かたはらの草をなぎてはらふ。これより名をあらためて草薙(くさなぎ)の剣と云(い)ふ。又火うちをもて火を出(いだし)て、むかひ火を付(つけ)て、賊徒を焼(やき)ころされにき。これより船に乗(のり)給て上総(かづさ)にいたり、転じて陸奥(みちのおくの)国にいり、日高見(ひたかみ)の国〈 その所異説あり 〉にいたり、悉(こと<”く)蝦夷(えびす)を平(たひら)げ給。かへりて常陸(ひたち)をへ甲斐(かひ)にこえ、又武蔵(むさし)・上野(かみつけ)をへて、碓日坂(うすひざか)にいたり、弟橘媛(おとたちばなひめ)と云し妾(みめ)をしのび給〈 上総へ渡(わたり)給し時、風波(ふうは)あらかりしに、尊の御命をあがはんとて海に入(いり)し人なり 〉。東南の方(かた)をのぞみて、「吾嬬(あづま)者耶(はや)。」との給しより、山東(さんとう)の諸国をあづまと云也。
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これより道をわけ、吉備の武彦をば越後(ゑちごの)国に遣(つかは)して不順者(まつろはぬもの)を平(たひらげ)しめ給。尊は信濃(しなの)より尾張(をはり)にいで給。かの国に宮簀媛(みやすひめ)と云女(をんな)あり。尾張(をはり)の稲種宿禰(いなたねのすくね)の妹也。此女をめして淹(ひさしく)留給(とどまりたまふ)あひだ、五十葺(いぶき)の山に荒神(あらぶるかみ)ありときこえければ、剣をば宮簀媛の家にとゞめて、かちよりいでます。山神(やまのかみ)化(け)して小蛇(こへび)になりて、御道によこたはれり。尊またこえてすぎ給しに、山神毒気を吐(はき)けるに、御心みだれにけり。それより伊勢にうつり給。能褒野(のぼの)と云所にて御やまひはなはだしくなりにければ、武彦の命をして天皇に事のよしを
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奏(そう)して、つひにかくれ給ぬ。御年三十也。天皇きこしめして、悲(かなしみ)給事限(かぎり)なし。群卿百寮(ぐんけいひやくれう)に仰(おほせ)て、伊勢国能褒野にをさめたてまつる。白鳥(しらとり)と成(なり)て、大和国をさして琴弾(ことひきの)原にとゞまれり。其所に又陵(みささぎ)をつくらしめられければ、又飛(とび)て河内古市(かはちのふるいち)にとゞまる。その所に陵を定(さだめ)られしかば、白鳥又飛て天(あめ)にのぼりぬ。仍(よりて)三(みつ)の陵あり。彼(かの)草薙の剣は宮簀媛あがめたてまつりて、尾張にとゞまり給。今の熱田(あつたの)神にまします。五十一年秋八月(はつき)、武内(たけうち)の宿禰(すくね)を棟梁(とうりやう)の臣とす。五十三年秋、小碓(をうす)の命の平(ことむけ)し国をめぐりみざらんやとて、東国に幸(みゆき)し給。十二月(しはす)あづまよりかへりて、伊勢の綺(かむばた)の宮にまします。五十四年秋、伊勢より大和にうつり、纏向(まきむく)の宮にかへり給。天下を治給こと六十年。百四十歳おまし<き。
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○第十三代、成務(せいむ)天皇は景行第三(の)子。御母八坂入姫(やさかいりひめ)、八坂入彦の皇子(の)〈 崇神の御子 〉女也。日本武(やまとたけの)尊日嗣(ひつぎ)をうけ給ふべかりしに、世をはやくしまし<しかば、此御門(みかど)立(たち)給。辛未(かのとひつじの)歳即位。近江の志賀高穴穂(しがのたかあなほ)の宮にまします。神武より十二代、大和国にまし<き〈 景行天皇のすゑつかた、此高穴穂にまし<しかども定(さだまれ)る皇都にはあらず 〉。此時はじめて他国にうつり給。三年の春、武内の宿禰を大臣(おほおみ)とす〈 大臣の号これにはじまる 〉。四十八年の春、姪仲足彦(をひなかたらしひこ)の尊〈 日本武の尊の御子 〉をたてて(ゝ)皇太子とす。天下を治給こと六十一年。百七歳おまし<き。
○第十四代、第十四世、仲哀(ちゆうあい)天皇は日本武(やまとたけの)尊第二の子、景行(けいかうの)御孫也。御母両道入姫(ふたちいりひめ)、垂仁(すゐにん)天皇(の)女也。大祖(たいそ)神武より第十二代景行までは代(よ)のまゝに継体(けいたい)し給。日本武尊世をはやくし給しによりて、成務(せいむ)是をつぎ給。此天皇を太子としてゆづりまし<しより、代(だい)と世(せい)とかはれる初也。これよりは世を本(もと)としるし奉(たてまつる)べき也〈 代と世とは常の義差別(しやべつ)なし。然(しかれ)ど凡(およそ)の承運(しよううん)とまことの継体とを分別(ぶんべつ)せん為に書分(かきわけ)たり。但(ただし)字書にもそのいはれなきにあらず。代は更(かう)の義也。世は周礼(しゆらい)の註に、父死(しし)て子立(たつ)を世と云とあり 〉。此天皇御かたち
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いときら<しく、御たけ一丈まし<ける。壬申(みづのえさる)の年即位。此御時熊襲又反乱(ほんらん)して朝貢(こう)せず。天皇軍(いくさ)をめしてみづから征伐(せいばつ)をいたし、筑紫(つくし)にむかひ給。皇后息長足姫(おきながたらしひめの)尊は越前(ゑちぜん)の国笥飯(けい)の神にまうでて(ゝ)、それより北海をめぐりて行あひ給ぬ。こゝに神ありて皇后にかたり奉る。「これより西に宝(たから)の国あり。うちてしたがへ給へ。熊襲は小国也。又伊弉諾・伊弉冊のうみ給へりし国なれば、うたずともつひにしたがひたてまつりなん。」とありしを、天皇うけがひ給はず。事ならずして橿日(かしひ)の行宮(かりみや)にしてかくれ給(たまふ)。長門(ながと)にをさめ奉る。是を穴戸豊浦(あなとのとよら)の宮と申す。天下を治給こと九年。五十二歳おまし<き。
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○第十五代、神功(じんぐう)皇后は息長(おきなが)の宿禰(すくね)の女、開化(かいくわ)天皇四世の御孫也。息長足(おきながたらし)姫の尊と申す。仲哀たてて(ゝ)皇后とす。仲哀神のをしへによらず、世を早くし給しかば、皇后いきどほりまして、七日あ(つ)て別殿(べつでん)を作り、いもほりこもらせ給。此時応神天皇はらまれまし<けり。神がか(ゝ)りてさま<”道ををしへ給ふ。此神は「表筒男(うはつつのを)・中(なか)筒男・底(そこ)筒男なり。」となんなのり給けり。是は伊弉諾尊日向の小戸(をど)の川檍(あはぎ)が原にてみそぎし給し時、化生(けしやう)しましける神也。後には摂津(つの)国住吉(すみよし)にいつかれ給神これなり。かくて新羅(しらぎ)・百済(くだら)・高麗(かうらい)を〈 此三け国を三韓(さんかん)と云(い)ふ。正(ただしく)は新羅にかぎるべきか。辰韓(しんかん)・馬韓(ばかん)・弁韓(べんかん)をすべて新羅と云也。しかれどふるくより百済・高麗をくはへて三韓と云(いひ)ならはせり 〉うちしたがへ給き。海神(うみのかみ)かたちをあらはし、御船をはさみまぼり申しかば、思(おもひ)の如く彼国を平(たひら)げ給。神代より年序久くつもれりしに、かく神威(しんゐ)をあらはし給ける、不測(はからざる)御ことなるべし。海中にして如意(によい)の珠(たま)を得(え)給へりき。さてつくしにかへりて皇子を誕生す。応神天皇にまします。神の申(まをし)給しによりて、是を胎中(たいちゆう)の天皇とも申。皇后摂政(せつしやう)して辛巳(かのとみの)年より天下をしら
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せ給。皇后いまだ筑紫にまし<し時、皇子の異母(いぼ)の兄(このかみ)忍熊(おしくま)の王謀反(むほん)をおこして、ふせぎ申さんとしければ、皇子をば武内の大臣にいだかせて、紀伊(き)の水門(みなと)につけ、皇后はすぐに難波(なには)につき給て、程なく其乱(みだれ)を平げられにき。皇子おとなび給しかば皇太子とす。武内(の)大臣もはら朝政を輔佐(ふさ)し申けり。大和の磐余稚桜(いはれわかさくら)の宮にまします。是より三韓の国、年ごとに御つきをそなへ、此国よりも彼国に鎮守(ちんじゆ)のつかさをおかれしかば、西蕃(せいばん)相通(つうじ)て国家とみさかりなりき。又もろこしへも使をつかはされけるにや。「倭国(わこく)の女王遣使(つかひをつかはし)て来朝す。」と後漢書(ごかんじよ)にみえたり。元年辛巳(かのとみの)年は漢の孝献帝(かうけんてい)二十三年にあたる。漢の世始りて十四代と云し時、王莽(まう)と云臣(しん)位(くらゐ)をうばひて十四年ありき。其後(のち)漢にかへりて、又十三代孝献の時に、漢は滅(めつ)して此御代の十九年己亥(つちのとゐ)に献帝位をさりて、魏(ぎ)の文帝(ぶんてい)にゆづる。是より天下三(みつ)にわかれて、魏(ぎ)・蜀(しよく)・呉(ご)となる。呉は東によれる国なれば、日本の使もまづ通(つう)じけるにや。呉(ごの)国より道々(みちみち)のたくみなどまでわたされき。又魏(ぎの)国にも通ぜられけるかとみえたり。四十九年乙酉(きのととり)と云し年、魏又滅(ほろび)て晉(しん)の代にうつりにき〈 蜀の国は三十年癸未(みづのとひつじ)に魏のためにほろぼされ、呉は魏より後までありしが、応神十七年辛丑(かのとうし)晉のためにほろぼさる 〉。此皇后天下を
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治給こと六十九年。一百歳おまし<き。
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○第十六代、第十五世、応神(おうじん)天皇は仲哀第四の子。御母神功皇后也。胎中(たいちゆう)の天皇とも、又は誉田(ほむだの)天皇ともなづけたてまつる。庚寅(かのえとらの)年即位。大和の軽嶋豊明(かるしまとよあかり)の宮にまします。此時百済(くだら)より博士(はかせ)をめし、経史(けいし)をつたへられ、太子以下(いげ)これをまなびならひき。此国に経史及(および)文字をもちゐることは、これよりはじまれりとぞ。異朝(いてう)の一書の中に、「日本は呉の太伯(たいはく)が後(のち)也と云(い)ふ。」といへり。返々(かへすがへす)あたらぬことなり。昔日本は三韓と同種也と云事のありし、かの書をば、桓武(くわんむ)の御代にやきすてられしなり。天地(あめつち)開(ひらけ)て後、すさのをの尊韓(かん)の地にいたり給きなど云事あれば、彼等の国々も神の苗裔(べうえい)ならん事、あながちにくるしみなきにや。それすら昔よりもちゐざること也。天地神(あめつちのかみ)の御すゑなれば、なにしにか代(よ)くだれる呉(ごの)太伯が後にあるべき。三韓(さんかん)・震旦(しんだん)に通じてより以来(このかた)、異国の人おほく此国に帰化(きくわ)しき。秦のすゑ、漢のすゑ、高麗・百済の種、それならぬ蕃人(ばんじん)の子孫もきたりて、神・皇の御すゑと混乱せ
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しによりて、姓氏録(しやうじろく)と云文(ふみ)をつくられき。それも人民にとりてのことなるべし。異朝にも人の心まち<なれば、異学の輩(ともがら)の云出(いひいだ)せる事歟(か)。後漢書(ごかんじよ)よりぞ此国のことをばあら<しるせる。符合(ふがふ)したることもあり、又心えぬこともあるにや。唐書(たうじよ)には、日本の皇代記(くわうだいき)を神代(かみよ)より光孝(くわうかう)の御代まであきらかにのせたり。さても此御時、武内(たけうちの)大臣筑紫ををさめんために彼国につかはされける比(ころ)、おとゝの讒(ざん)によりて、すでに追討せられしを、大臣の僕(やつこ)、真根子(まねこ)と云人あり。かほかたち大臣に似たりければ、あひかはりて誅(ちゆう)せらる。大臣は忍(しのび)て都にまうでて(ゝ)、とがなきよしを明(あきら)められにき。上古神霊(しんれい)の主(あるじ)猶かゝるあやまちまし<しかば、末代(まつだい)争(いかで)かつゝしませ給はざるべき。天皇天下を治給こと四十一年。百十一歳おまし<き。
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欽明(きんめい)天皇の御代に始て神とあらはれて、筑紫の肥後(ひごの)国菱形(ひしかた)の池と云所にあらはれ給(たまひ)、「われは人皇(にんわう)十六代誉田(ほむだ)の八幡丸(やはたまろ)なり。」との給き。誉田はもとの御名、八幡は垂迹(すゐじやく)の号也。後に豊前(ぶぜん)の国宇佐(うさ)の宮にしづまり給しかば、聖武(しやうむ)天皇東大寺建立(こんりふ)の後、巡礼(じゆんれい)し給べきよし託宣(たくせん)ありき。仍(よりて)威儀(ゐぎ)をとゝのへてむかへ申さる。又神託ありて御出家の儀ありき。やがて彼寺に勧請(くわんじやう)し奉(たてまつ)らる。されど勅使(ちよくし)などは宇佐にまゐりき。清和の御時、大安寺(だいあんじ)の僧、行教(ぎやうけう)
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宇佐にまうでたりしに、霊告(れいかう)ありて、今の男山石清水(をとこやまいはしみづ)にうつりまします。爾来(しかしよりこのかた)行幸も奉幣(ほうへい)も石清水にあり。一代一度(いちだいいちど)宇佐へも勅使(ちよくし)をたてまつらる。昔天孫(あめみま)天降(あまくだり)給し時、御供(とも)の神八百万(やほよろづ)ありき。大物主(おほものぬし)の神したがへて天(あめ)へのぼりしも、八十万(やそよろづ)の神と云り。今までも幣帛(へいはく)を奉(たて)まつらるゝ神、三千余坐(よざ)也。しかるに天照太神(あまてらすおほみかみ)の宮にならびて、二所(ふたところ)の宗廟(そうべう)とて八幡をあふぎ申さるゝこと、いとたふとき御事也。八幡と申御名は御託宣(たくせん)に「得道来(みちをえてよりしてこのかた)不動法性(ほつしやうをうごかさず)。示八正道(はちしやうだうをしめして)垂権迹(ごんじやくをたる)。皆(みな)得解脱苦衆生(くのしゆじやうをげだつすることをえたり)。故(このゆゑに)号八幡大菩薩(はちまんだいぼさつとがうす)。」とあり。八正(はちしやう)とは、内典(ないてん)に、正見(しやうけん)・正思惟(しやうしゆゐ)・正語(しやうご)・正業(しやうごふ)・正命(しやうみやう)・正精進(しやうしやうじん)・正定(しやうぢやう)・正恵(しやうゑ)、是を八正道と云(い)ふ。凡(およそ)心(こころ)正(しやう)なれば身口(しんく)はおのづからきよまる。三業(さんごふ)に邪(よこしま)なくして、内外真正(ないげしんしやう)なるを諸仏(しよぶつ)出世の本懐(ほんくわい)とす。神明の垂迹(すゐじやく)も又これがためなるべし。又八方に八色(やいろ)の幡(はた)を立(たつ)ることあり。密教の習(ならひ)、西方阿弥陀(さいはうあみだ)の三昧耶形(さんまやぎやう)也。其故にや行教和尚(くわしやう)には弥陀三尊(みださんぞん)の形にてみえさせ給けり。光明(くわうみやう)袈裟(けさ)の上にうつらせまし<けるを頂戴(ちやうだい)して、男山には安置し申けりとぞ。神明の本地(ほんぢ)を云ことはたしかならぬたぐひおほけれど、大菩薩(だいぼさつ)の応迹(おうじやく)は昔よりあきらかなる証拠(しようこ)おはしますにや。或は又、「昔於霊鷲山(りやうじゆせんにおいて)説妙法華経(めうほけきやうをとく)。」とも、或は弥勒(みろく)なり
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とも、大自在王菩薩(だいじざいわうぼさつ)なりとも託宣し給。中(なか)にも八正の幡をたてて(ゝ)、八方の衆生を済度(さいど)し給(たまふ)本誓(ほんぜい)を、能々(よくよく)思入(おもひいれ)てつかうまつるべきにや。
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天照太神もたゞ正直(しやうぢき)をのみ御心とし給へる。神鏡を伝(つた)へまし<しことの起(おこり)は、さきにもしるし侍(はべり)ぬ。又雄略(ゆうりやく)天皇二十二年の冬十一月(しもつき)に、伊勢の神宮の新嘗(にひなめ)のまつり、夜ふけてかたへの人々罷出(まかりいで)て後(のち)、神主物忌等(かむぬしものいみら)ばかり
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留(とどまり)たりしに、皇太神(すめおほみかみ)・豊受(とようけ)の太神、倭姫(やまとひめの)命にかゝりて託宣し給(たまひ)しに、「人はすなはち天下の神物(じんもつ)なり。心神をやぶることなかれ。神はたるゝに祈祷(きたう)を以て先(さき)とし、冥(みやう)はくはふるに正直を以て本(もと)とす。」とあり。同(おなじき)二十三年二月(きさらぎ)、かさねて託宣し給しに、「日月(じつげつ)は四州をめぐり、六合(りくがふ)を照すと云(いへ)ども正直の頂(いただき)を照すべし。」とあり。されば二所(ふたところの)宗廟の御心をしらんと思はゞ、只(ただ)正直を先とすべき也。大方(おほかた)天地(あめつち)の間ありとある人、陰陽の気をうけたり。不正にしてはたつべからず。こと更に此国は神国なれば、神道にたがひては一日も日月をいたゞくまじきいはれなり。倭姫の命人にをしへ給けるは「黒(きたなき)心なくして丹(きよき)心をもて、清(きよく)潔(いさぎよく)斎(いもほり)慎(つつしめ)。左の物を右にうつさず、右の物を左にうつさずして、左を左とし右を右とし、左にかへり右にめぐることも万事(よろづのこと)たがふことなくして、太神(おほみかみ)につかうまつれ。元々本々(はじめをはじめとしもとをもとゝす)故なり。」となむ。まことに、君につかへ、神につかへ、国ををさめ、人ををしへんことも、かゝるべしとぞおぼえ侍(はべる)。すこしの事も心にゆるす所あれば、おほきにあやまる本となる。周易(しうやく)に、「霜を履(ふんで)堅(かたき)氷(こほり)に至(いたる)。」と云ことを、孔子釈しての給はく、「積善(しやくぜん)の家に余慶(よきやう)あり、積不善の家に余殃(よあう)あり。君を弑(しい)し父を弑すること一朝一夕の故に
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あらず。」と云(いへ)り。毫釐(がうり)も君をいるかせにする心をきざすものは、かならず乱臣となる。芥蔕(かいたい)も親をおろそかにするかたちあるものは、果(はた)して賊子となる。此故に古の聖人、「道は須臾(しゆゆ)もはなるべからず。はなるべきは道にあらず。」と云けり。但(ただし)其の末(すゑ)を学びて源(みなもと)を明(あきら)めざれば、ことにのぞみて覚(おぼ)えざる過(あやまち)あり。其源と云は、心に一物(いちもつ)をたくはへざるを云(い)ふ。しかも虚無(きよむ)の中(うち)に留(とどま)るべからず。天地あり、君臣あり。善悪の報(むくい)影響(かげひびき)の如し。己(おの)が欲をすて、人を利するを先として、境々(さかひさかひ)に対すること、鏡の物を照すが如く、明々(めいめい)として迷はざらんを、まことの正道と云べきにや。代くだれりとて自(みづか)ら苟(いやし)むべからず。天地の始は今日を始とする理なり。加之(しかのみならず)、君も臣も神をさること遠からず。常に冥(みやう)の知見(ちけん)をかへりみ、神の本誓(ほんぜい)をさとりて、正(しやう)に居(きよ)せんことを心ざし、邪(よこしま)なからんことを思給(おもひたまふ)べし。
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○第十七代、仁徳(にんとく)天皇は応神第一の御子。御母仲姫(なかつひめ)の命、五百城入彦皇子女(いほきいりひこのみこのむすめ)也。大鷦鷯(さゞき)の尊と申(まをす)。応神の御時、菟道稚皇子(うぢのわかのみこ)と申は最末(さいまつ)の御子にてまし<しをうつくしみ給て、太子に立(たて)むとおぼしめしけり。兄(このかみ)の御子達うけがひ給はざりしを、此天皇ひとりうけがひ給しによりて、応神悦(よろこび)まして、菟道稚を太子とし、此尊を輔佐(ふさ)になん定め給ける。応神かくれまし<しかば、御兄(このかみ)達太子を失はんとせられしを、此尊さとりて太子と心を一(ひとつ)にして彼を誅(ちゆう)せられき。爰(ここに)太子天位を尊に譲給(ゆづりたまふ)。尊堅(かた)くいなみ給、三年(みとせ)になるまで互(たがひ)に譲(ゆづり)て位を空(むなしく)す。太子は山城(やましろ)の宇治にます。尊は摂津(つ)の難波(なには)にましけり。国々の御(み)つぎ物もあなたかなたにうけとらずして、民の愁(うれへ)となりしかば、太子みづから失(うせ)給ぬ。尊おどろき歎給(なげきたまふ)ことかぎりなし。されどのがれますべきみちならねば、癸酉(みづのととり)の年即位。摂津国(つのくに)難波高津(たかつ)の宮にまします。日嗣をうけ給ひ
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しより国をしづめ民をあはれみ給(たまふ)こと、ためしもまれなりし御事にや。民間の貧(まづし)きことをおぼして、三年の御調(みつき)を止(とどめ)られき。高殿(たかどの)にのぼりてみ給へば、にぎはゝしくみえけるによりて、
高屋(たかきや)にのぼりてみれば煙立(けぶりたつ)民(たみ)のかまどはにぎはひにけり W
とぞよませ給ける。さて猶三年を許されければ、宮の中破(やぶれ)て雨露(あめつゆ)もたまらず。宮人(みやびと)の衣(ころも)壊(やぶれ)て其よそほひ全(また)からず。御門(みかど)は是をたのしみとなむおぼしける。かくて六年(むとせ)と云に、国々の民各(おのおの)まゐり集(あつまり)て大宮造(づくり)し、色(いろ)<(の)御調を備(そな)へけるとぞ。ありがたかりし御政(まつりこと)なるべし。天下を治給こと八十七年。百十歳おまし<き。
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○第十八代、履中(りちゆう)天皇は仁徳の太子。御母磐之姫(いはのひめ)の命、葛城(かづらき)の襲津彦(そつひこ)の女也。庚子(かのえね)の年即位。又大和の磐余稚桜(いはれのわかさくら)の宮にまします。後(のち)の稚桜の宮と申(まをす)。天下を治給こと六年。六十七歳おまし<き。
○第十九代、反正(はんぜい)天皇は仁徳第三の子、履中(りちゆう)同母の弟也。丙午(ひのえうまの)年即位。河内の丹比(たぢひ)の柴籬(しばがき)の宮にまします。天下を治給こと六年。六十歳おまし<き。
○第二十代、允恭(いんぎよう)天皇は仁徳第四(の)子、履中反正同母(の)弟也。壬子(みづのえね)の年即位。大和の遠明日香(とをつあすか)の宮にまします。此御時までは三韓の御調年々(としどし)にかはらざりしに、これより後はつねにおこたりけりとなん。八年己未(つちのとひつじ)にあたりて、もろこしの晉(しん)ほろびて南北朝となる。宋(そう)・齊(せい)・梁(りやう)・陳(ちん)あひつぎて起(おこ)る。是
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を南朝(なんてう)と云(い)ふ。後魏(こうぎ)・北齊(ほくせい)・後周(こうしう)つぎ<におこれりしを北朝(ほくてう)と云(い)ふ。百七十余年はならびて立(たち)たりき。此天皇天下を治給こと四十二年。八十歳おまし<き。
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巻三
○第二十一代、安康(あんかう)天皇は允恭第二の子。御母忍坂大中(をしさかのおほなかつ)姫、稚渟(わかぬ)野毛二派(けふたまた)の皇子(みこの)〈 応神の御子 〉女也。甲午(きのえうまの)年即位。大和穴穂(やまとのあなほの)宮にまします。大草香(おほくさかの)皇子を〈 仁徳(にんとくの)御子 〉ころして其妻(め)をとりて皇后とす。彼(かの)皇子の子眉輪(まゆわの)王をさなくて、母にしたがひて宮中に出入(しゆつにふ)しけり。天皇高楼(たかどの)の上に酔臥(ゑひふし)給けるをうかゞひて、さしころして、大臣(おほおみ)葛城(かづらき)の円(つぶら)が家ににげこもりぬ。此天皇天上を治給こと三年。五十六歳おまし<き。
○第二十二代、雄略(ゆうりやく)天皇は允恭(いんぎよう)第五(の)子、安康同母の弟也。大泊瀬(おほはつせの)尊と申。安康ころされ給し時、眉輪の王及(および)円(つぶら)の大臣を誅(ちゆう)せらる。あまさへ其の
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事にくみせられざりし市辺押羽(いちべのをしはの)皇子をさへにころして位に即給(つきたまふ)。ことし丁酉(ひのととり)の年也。大和の泊瀬朝倉(あさくら)の宮にまします。天皇性(せい)猛(たけく)まし<けれども、神に通じ給へりとぞ。二十一年丁巳(ひのとみ)冬十月(かんなづき)に、伊勢の皇太神(すめおほみかみ)大和姫の命にをしへて、丹波(たんばの)国与佐(よさ)の魚井(まなゐ)の原よりして豊受(とようけの)太神を迎へ奉らる。大和姫の命奏聞(そうもん)し給しによりて、明年(みやうねん)戊午(つちのえうま)の秋七月(ふみづき)に勅使(ちよくし)をさしてむかへたてまつる。九月(ながつき)に度会(わたらひ)の郡(こほり)山田の原の新宮(しんぐう)にしづまり給。垂仁天皇の御代に、皇太神五十鈴(いすず)の宮に遷(うつ)らしめ給しより、四百八十四年になむなりにける。神武の始(はじめ)よりすでに千百余年に成ぬるにや。又これまで大倭姫(やまとひめ)の命存生(ぞんしやう)し給しかば、内外宮(ないげくう)のつくりも、日の小宮(わかみや)の図形(づぎやう)・文形(もんぎやう)によりてなさせ給けりとぞ。抑(そもそも)此神の御事異説まします。外宮には天祖(あまつみおや)天御中主(あめのみなかぬし)の神と申伝(まをしつたへ)たり。されば皇太神の託宣(たくせん)にて、此宮の祭を先(さき)にせらる。神(かみ)拝(をがみ)奉るも先(ま)づ此宮を先とす。天孫瓊々杵(あめみまににぎ)の尊此宮の相殿(あひどの)にまします。仍(よりて)天児屋(あめのこやね)の命・天太玉(あめのふとたま)の命も天孫につき申て相殿にます也。これより二所(の)太神宮と申。丹波より遷らせ給(たまふ)ことは、昔豊鋤入姫(とよすきいりひめ)の命、天照太神を頂戴(ちやうだい)して、丹波の吉佐(よさ)の宮にうつり
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給ける比(ころ)、此神あまくだりて一所(ひとつところ)におはします。四年ありて天照太神は又大和にかへらせ給(たまふ)。それより此神は丹波にとまらせ給しを、道主(みちぬし)の命と云人いつき申(まをし)けり。古(いにしへ)は此宮にて御饌(みけ)をとゝのへて、内宮へも毎日におくり奉(たてまつり)しを、神亀(じんき)年中より外宮(げくう)に御饌殿(みけどの)をたてて(ゝ)、内宮(ないくう)のをも一所(ひとつところ)にて奉(たてまつる)となん。かやうの事によりて、御饌(みけ)の神と申(まをす)説あれど、御食(みけ)と御気(みけ)との両義あり。陰陽元初(いんやうげんしよ)の御気(みけ)なれば、天(あめ)の狭霧(さぎり)・国(くに)の狭霧(さぎり)と申(まをす)御名もあれば、猶さきの説を正(しやう)とすべしとぞ。天孫(あめみま)さへ相殿(あひどの)にましませば、御饌の神と云説は用(もちゐ)がたき事にや。此天皇天下を治給こと二十三年。八十歳おまし<き。
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○第二十三代、清寧(せいねい)天皇は雄略(ゆうりやく)第三の子。御母韓姫(からひめ)、葛城の円(つぶら)の大臣の女也。庚申(かのえさる)の年即位。大倭の磐余甕栗(いはれのみかくり)の宮にまします。誕生(たんじやう)の始(はじめ)、白髪(はくはつ)おはしければ、しらかの天皇とぞ申ける。御子なかりしかば、皇胤(くわういん)のたえぬべき事を歎(なげき)給て、国々へ勅使(ちよくし)をつかはして皇胤を求(もとめ)らる。市辺(いちべ)の押羽(おしは)の皇子、雄略にころされ給しとき、皇女(くわうぢよ)一人(ひとり)、皇子(わうじ)二人(ふたり)ましけるが、丹波国にかくれ給けるを求出(もとめいで)て、御子にしてやしなひ給けり。天下を治給こと五年。三十九歳おまし<き。
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○第二十四代、顕宗(けんそう)天皇は市辺押羽の皇子第三の子、履中(りちゆう)天皇(の)孫也。御母■媛(はえひめ)、蟻(あり)の臣女(おみのむすめ)也。白髪(しらかの)天皇養(やしなひ)て子とし給ふ。御兄(このかみ)仁賢(にんけん)先(まづ)位に即給(つきたまふ)べかりしを、相共に譲(ゆづり)まし<しかば、同母の御姉飯豊(いゝとよ)の尊しばらく位(くらゐ)に居給き。されどやがて顕宗(けんそう)定(さだま)りまし<しによりて、飯豊(いひとよ)天皇をば日嗣にはかぞへたてまつらぬ也。乙丑(きのとうし)の年即位。大和の近明日香八釣(ちかつあすかやつり)の宮にまします。天下を治給こと三年。四十八歳おまし<き。
○第二十五代、仁賢(にんけん)天皇は顕宗(けんそう)同母の御兄(このかみ)也。雄略(ゆうりやく)の我(わが)父の皇子をころし給しことをうらみて、「御陵(みさゝぎ)をほりて御屍(かばね)をはづかしめん。」との給しを、顕宗いさめまし<しによりて、徳のおよばざることをはぢて、顕宗をさきだて給けり。戊申(つちのえさる)の年即位。大和の石上広高(いそのかみひろたか)の宮にまします。天下を治給こと十一年。五十歳おまし<き。
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○第二十六代、武烈(ぶれつ)天皇は仁賢の太子。御母大娘(おほいらつめ)の皇女、雄略の御女也。己卯(つちのとう)の年即位。大和の泊瀬列城(はつせなみき)の宮にまします。性(せい)さがなくまして、悪(あく)としてなさずと云ことなし。仍(よりて)天祚(あまつひつぎ)も久(ひさし)からず。仁徳(にんとく)さしも聖徳(せいとく)まし<しに、此皇胤(くわういん)こゝにたえにき。「聖徳は必(かならず)百代にまつらる。」〈 春秋(しゆんじう)にみゆ 〉とこそみえたれど、不徳の子孫あらば、其宗(そう)を滅すべき先蹤(せんしよう)甚(はなはだ)おほし。されば上古(しやうこ)の聖賢(せいけん)は、子なれども慈愛におぼれず、器(うつは)にあらざれば伝(つたふる)ことなし。■(げう)の子(こ)丹朱(たんしゆ)不肖(ふせう)なりしかば、舜(しゆん)にさづけ、舜の子商均(しやうきん)又不肖(ふせう)にして夏禹(かのう)に譲(ゆづ)られしが如し。■舜よりこなたには猶天下を私(わたくし)にする故にや、必(かならず)子孫に伝(つたふる)ことになりにしが、禹(う)の後(のち)、桀(けつ)暴虐(ぼうぎやく)にして国を失ひ、殷(いん)の湯(たう)聖徳ありしかど、紂(ちう)が時無道(ぶだう)にして永くほろびにき。天竺(てんぢく)にも仏滅度(めつど)百年の後、阿育(あいく)と云王あり。姓は孔雀(くじやく)氏、王位につきし
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日、鉄輪(てちりん)飛降(とびくだ)る。転輪(てんりん)の威徳(ゐとく)をえて、閻浮提(えんぶだい)を統領(とうりやう)す。あまさへ諸(もろもろ)の鬼神(きじん)をしたがへたり。正法(しやうぼふ)を以て天下ををさめ、仏理に通じて三宝(さんぼう)をあがむ。八万四千の塔(たふ)を立(たて)て、舎利(しやり)を安置(あんぢ)し、九十六億千の金(こがね)を棄(すて)て功徳(くどく)に施(せ)する人なりき。其三世(さんせいの)孫弗沙密多羅(ふしやみつたら)王の時、悪臣のすゝめによ(つ)て、祖王(そわう)の立(たて)たりし塔婆(たふば)を破壊(はゑ)せんと云悪念(あくねん)をおこし、もろ<の寺をやぶり、比丘(びく)を殺害(せつがい)す。阿育王のあがめし■雀寺(けいじやくじ)の仏牙歯(ぶつげし)の塔をこぼたんとせしに、護法神(ごほふじん)いかりをなし、大山(たいせん)を化(け)して王及(およ)び四兵(しひやう)の衆をおしころす。これより孔雀の種(しゆ)永(ながく)絶(たえ)にき。かゝれば先祖大(おほき)なる徳ありとも、不徳(ふとく)の子孫宗廟(そうべう)のまつりをたゝむことうたがひなし。此天皇天下を治給こと八年。五十八歳おまし<き。
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○第二十七代、第二十世、継体(けいたい)天皇は応神(おうじん)五世の御孫也。応神第八(の)御子隼総別(はやぶさわけ)の皇子、其子大迹(おほと)の王、其子私斐(しい)の王、其子彦主人(ひこぬし)の王、其子男大迹(をほと)の王と申(まをす)は此天皇にまします。御母振姫(ふるひめ)、垂仁(すゐにん)七世の御孫也。越前(ゑちぜんの)国にましける。武烈(ぶれつ)かくれ給て皇胤(くわういん)たえにしかば、群臣うれへなげきて国々にめぐり、ちかき皇胤を求奉(もとめたてまつり)けるに、此天皇王者(わうしや)の大度(たいど)まして、潜龍(せんりよう)のいきほひ、世にきこえ給けるにや。群臣相議(はからひ)て迎(むかへ)奉る。
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三たびまで謙譲(けんじやう)し給(たまひ)けれど、つひに位に即(つき)給ふ。ことし丁亥(ひのとゐ)の年也〈 武烈(ぶれつ)かくれ給て後、二年位(くらゐ)をむなしくす 〉。大和の磐余玉穂(いはれたまほ)の宮にまします。仁賢(にんけん)の御女(むすめ)手白香(たしらか)の皇女を皇后とす。即位し給しより誠(まこと)に賢王(けんわう)にまし<き。応神御子おほくきこえ給しに、仁徳(にんとく)賢王にてまし<しかど、御末(みすゑ)たえにき。隼総別(はやぶさわけ)の御末、かく世をたもたせ給(たまふ)こと、いかなる故にかおぼつかなし。仁徳をば大鷦鷯(おほさざき)の尊と申(まをす)。第八の皇子をば隼総別(はやぶさわけ)と申。仁徳の御代(みよ)に兄弟たはぶれて、鷦鷯(さざき)は小鳥(ことり)也、隼(はやぶさ)は大鳥(おほとり)也と争(あらそひ)給ことありき。隼の名にかちて、末の世をうけつぎ給けるにや。もろこしにもかゝるためしあり〈 左伝(さでん)にみゆ 〉。名をつくることもつゝしみおもくすべきことにや。それもおのづから天命(てんめい)なりといはば(ゝ)、凡慮(ぼんりよ)の及(およぶ)べきにあらず。此天皇の立(たち)給しことぞ思外(おもひのほか)の御運(ごうん)とみえ侍(はべ)る。但(ただし)、皇胤(くわういん)たえぬべかりし時、群臣択求奉(えらびもとめたてまつり)き。賢名(けんめい)によりて天位を伝給(つたへたま)へり。天照太神の御本意(ごほんい)にこそとみえたり。皇統(くわうとう)に其人ましまさん時は、賢(かしこき)諸王(しよわう)おはすとも、争(いかで)か望(のぞみ)をなし給べき。皇胤たえ給はんにとりては、賢(けん)にて天日嗣(あまつひつぎ)にそなはり給はんこと、即(すなはち)又天のゆるす所也。此天皇をば我国中興(ちゆうこう)の祖宗(そそう)と仰(あふ)ぎ奉(たてまつ)るべきにや。天下を
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治給こと二十五年。八十歳おまし<き。
○第二十八代、安閑(あんかん)天皇は継体の太子。御母は目子(めのこ)姫、尾張(をはり)の草香(くさか)の連(むらじ)の女(むすめ)也。甲寅(きのえとらの)年即位。大和の勾金橋(まがりのかなはし)の宮にまします。天下を治給こと
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二年。七十歳おまし<き。
○第二十九代、宣化(せんくわ)天皇は継体第二の子、安閑(あんかん)同母の弟也。丙辰(ひのえたつ)の年即位。大和の檜隈廬入野(ひのくまのいほりの)の宮にまします。天下を治給こと四年。七十三歳おまし<き。
○第三十代、第二十一世、欽明(きんめい)天皇は継体(けいたい)第三の子。御母皇后手白香(たしらか)の皇女、仁賢(にんけん)天皇の女也。両兄(りやうけい)まし<しかど、此天皇の御すゑ世をたもち給(たまふ)。御母方(がた)も仁徳(にんとく)のながれにてましませば、猶も其遺徳つきずしてかくさだまり給けるにや。庚申(かのえさるの)年即位。大倭磯城嶋(やまとのしきしま)の金刺(かなさし)の宮にまします。十三年壬申(みづのえさる)十月(かんなづき)に百済(くだら)の国より仏・法・僧をわたしけり。此国に伝来の始なり。釈迦如来(しやかによらい)滅後(めつご)一千十六年にあたる年、もろこしの後漢(ごかん)の明帝(めいてい)永平(えいへい)十年に仏法はじめて彼(かの)国につたはる。それより此壬申(みづのえさる)の年まで四百八十八年。もろこしには北朝の齊(せいの)文宣帝(ぶんせんてい)即位三年、南朝の梁(りやうの)簡文帝(かんぶんてい)にも即位三年也。簡文帝の父をば
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武帝(ぶてい)と申き。大(おほき)に仏法をあがめられき。此御代の初つかたは武帝同時也。仏法はじめて伝来せし時、他国の神をあがめ給はんこと、我国の神慮にたがふべきよし、群臣かたく諌申(いさめまをし)けるによりてすてられにき。されど此国に三宝(さんぼう)の名をきくことは此時にはじまる。又、私(わたくし)にあがめつかへ奉る人もありき。天皇聖徳まし<て三宝を感(かん)ぜられけるにこそ。群臣の諌(いさめ)によりて、其法をたてられずといへども、天皇の叡志(えいし)にはあらざるにや。昔、仏(ぶつ)在世に、天竺(てんぢく)の月蓋長者(ぐわつがいちやうじや)、鋳(い)たてまつりし弥陀三尊(みださんぞん)の金像(こんざう)を伝(つた)へてわたし奉りける、難波(なには)の堀江(ほりえ)にすてられたりしを、善光(ぜんくわう)と云者とり奉て、信濃(しなの)の国に安置(あんぢ)し申き。今の善光寺(ぜんくわうじ)これ也。此御時八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)始(はじめ)て垂迹(すゐじやく)しまします。天皇天下を治給(をさめたまふ)こと三十二年。八十一歳おまし<き。
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○第三十一代、第二十二世、敏達(びだつ)天皇は欽明第二の子。御母石媛(いしひめ)の皇女、宣化(せんくわ)天皇の女也。壬辰(みづのえたつの)年即位。大倭磐余訳語田(やまとのいはれおさだ)の宮にまします。二年癸巳(みづのとみの)年、天皇の御弟豊日(とよひ)皇子の妃(ひ)、御子を誕生(たんじやう)す。厩戸(うまやど)の皇子にまします。生(うまれ)給しよりさま<”の奇瑞(きずゐ)あり。たゞ人(びと)にましまさず。御手をにぎり給しが、二歳にて東方にむきて、南无仏(なむぶつ)とてひらき給しかば、一(ひとつ)の舎利(しやり)ありき。仏法流布(るふ)のために権化(ごんげ)し給へること疑(うたがひ)なし。此仏舎利(ぶつしやり)は今に大倭(やまと)の法隆寺(ほふりゆうじ)にあがめ奉る。天皇天下を治給こと十四年。六十一歳おまし<き。
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○第三十二代、用明(ようめい)天皇は欽明第四の子。御母堅塩姫(きたしひめ)、蘇我(そが)の稲目大臣(いなめのおほおみ)の女也。豊日(とよひ)の尊と申。厩戸の皇子の父におはします。丙午(ひのえうまの)年即位。大和(やまと)の池辺列槻(いけのへのなみつき)の宮にまします。仏法をあがめて、我国に流布(るふ)せむとし給けるを、弓削守屋(ゆげのもりや)の大連(をほむらじ)かたむけ申(まをし)、つひに叛逆(ほんぎやく)におよびぬ。厩戸の皇子、蘇我(そが)の大臣(おほおみ)と心を一(ひとつ)にして誅戮(ちゆうりく)せられ、すなはち仏法をひろめられにけり。天皇天下を治給こと二年。四十一歳おまし<き。
○第三十三代、崇峻(すしゆん)天皇は欽明(きんめい)第十二の子。御母小姉君(こあねきみ)の娘(いらつめ)。これも稲目(いなめ)の大臣(おほおみ)の女也。戊申(つちのえさるの)年即位。大和の倉橋(くらはし)の宮にまします。天皇横死(わうし)の相(さう)みえ給(たまふ)。つゝしみますべきよしを厩戸の皇子奏(そうし)給けりとぞ。天下を治給こと五年。七十二歳おまし<き。或人の云(い)ふ。外舅(ははかたのをぢ)蘇我(そが)の馬子大臣(うまこのおほおみ)と御中(なか)あしくして、彼(かの)大臣のためにころされ給きともいへり。
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○第三十四代、推古(すゐこ)天皇は欽明の御女、用明(ようめい)同母の御妹也。御食炊屋(みけしかや)姫の尊と申(まをす)。敏達天皇皇(々)后とし給(たまふ)〈 仁徳も異母の妹を妃とし給ことありき 〉。崇峻かくれ給しかば、癸丑(みづのとうしの)年即位。大倭(やまと)の小墾田(をはりた)の宮にまします。昔神功皇后(じんぐうくわうごう)六十余年天下を治(をさめ)給しかども、摂政(せつしやう)と申て、天皇とは号したてまつらざるにや。此みかどは正位(しやうゐ)につき給にけるにこそ。即(すなはち)厩戸の皇子を皇太子として万機(ばんき)の政(まつりこと)をまかせ給。摂政と申き。太子の監(けん)国と云こともあれど、それはしばらくの事也。これはひとへに天下を治給けり。太子聖徳(せいとく)まし<しかば、天下の人つくこと日の如く、仰ぐこと雲の如し。太子いまだ皇子にてまし<し時、逆臣(ぎやくしん)守屋(もりや)を誅(ちゆう)し給しより、仏法始(はじめ)て流布(るふ)しき。まして政(まつりこと)をしらせ給へば、三宝(さんぼう)を敬(うやまひ)、正法(しやうぼふ)をひろめ給こと、仏世(ぶつせ)にもことならず。又神通自在(じんづうじざい)にまし<き。御身(み)づから法服を着(ちやく)して、経(きやう)を講じ給しかば、天より
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花をふらし、放光動地(はうくわうどうち)の瑞(ずゐ)ありき。天皇・群臣、たふとびあがめ奉ること仏のごとし。伽藍(がらん)をたてらるゝ事四十余け所におよべり。又此国には昔より人すなほにして法令(ほふりやう)なんどもさだまらず。十二年甲子(きのえね)にはじめて冠位(くわんゐ)と云ことをさだめ〈 冠(かうぶり)のしなによりて、上下(かみしも)をさだむるに十八階あり 〉、十七年己巳(つちのとみ)に憲法(けんはふ)十七け条をつくりて奏し給。内外典(ないげてん)のふかき道をさぐりて、むねをつゞまやかにしてつくり給へる也。天皇悦(よろこび)て天下に施行(しかう)せしめ給き。此ころほひは、もろこしには隋(ずい)の世也。南北朝相分(あひわかれ)しが、南は正統をうけ、北は戎狄(じゆうてき)よりおこりしかども、中国をば北朝にぞをさめける。隋(ずゐ)は北朝の後周(こうしう)と云しがゆづりをうけたりき。後(のち)に南朝の陳(ちん)をうちたひらげて、一統の世となれり。此天皇の元年癸丑(みづのとうし)は文帝(ぶんてい)一統の後(のち)四年也。十三年乙丑(きのとうし)は煬帝(やうだい)の即位元年にあたれり。彼国よりはじめて使をおくり、よしみを通じけり。隋帝(ずゐてい)の書に「皇帝恭問倭皇。」とありしを、これはもろこしの天子の諸侯王(しよこうわう)につかはす礼儀(れいぎ)なりとて、群臣あやしみ申けるを、太子のの給(ゝたまひ)けるは、「皇の字はたやすく用(もちゐ)ざる詞(ことば)なれば」とて、返報(へんはう)をもかゝせ給(たまひ)、さま<”饗祿(きやうろく)をたまひて使をかへしつかはさる。是より此国よりもつねに使をつかはさる。其使を遣隋大使(けんずゐたいし)となむなづけられしに、二十七年
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己卯(つちのとう)の年、隋滅(ほろび)て唐(たう)の世にうつりぬ。二十九年辛巳(かのとみ)の年太子かくれ給。御年四十九。天皇をはじめたてまつりて、天下の人かなしみをしみ申こと父母に喪(も)するがごとし。皇位をもつぎましますべかりしかども、権化(ごんげ)の御ことなれば、さだめてゆゑありけんかし。御諱(いみな)を聖徳となづけ奉(たてまつ)る。この天皇天下を治給こと三十六年。七十歳おまし<き。
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○第三十五代、第二十四世、舒明(じよめい)天皇は忍坂大兄(おしさかおほえ)の皇子の子、敏達(びだつ)の御孫也。御母糠手(ぬかて)姫の皇女、これも敏達の御女(むすめ)也。推古(すゐこ)天皇は聖徳太子の御子に伝(つた)へ給はんとおぼしめしけるにや。されどまさしき敏達の御孫、欽明(きんめい)の嫡曾孫(ちやくそうそん)にまします。又太子御病(やまひ)にふし給し時、天皇此皇子を御使としてとぶらひましし(ゝ)に、天下のことを太子の申付(まをしつけ)給へりけるとぞ。癸丑(みづのとうしの)年即位。大倭の高市郡岡本(たけちのこほりをかもと)の宮にまします。此即位の年はもろこしの唐の太宗のはじめ、貞観(ぢやうぐわん)三年にあたれり。天下を治給こと十三年。四十九歳おまし<き。
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○第三十六代、皇極(くわうぎよく)天皇は茅渟(ちぬの)王の女、忍坂大兄(をしさかおほえ)の皇子の孫、敏達の曾孫(そうそん)也。御母吉備姫(きびひめ)の女王と申き。舒明天皇皇(々)后とし給。天智(てんぢ)・天武(てんむ)の御母也。舒明かくれまして皇子をさなくおはしましし(ゝ)かば、壬寅(みづのえとら)の年即位。大倭明日香河原(やまとのあすかのかはら)の宮にまします。此時に蘇我蝦夷(そがのえみし)の大臣(おほおみ)〈 馬子(うまこ)の大臣の子 〉ならびにその子入鹿(いるか)、朝権(てうけん)を専(もはら)にして皇家(くわうか)をないがしろにする心あり。其家を宮門(みかど)と云(いひ)、諸子を王子となむ云ける。上古(しやうこ)よりの国紀重宝(こくきちようほう)みな私家(わたくしのいへ)にはこびおきてけり。中にも入鹿悖逆(はいげき)の心はなはだし。聖徳太子の御子達のとがなくまし<しをほろぼし奉る。こゝに皇子中(なか)の大兄(おほえ)と申(まをす)は舒明(じよめい)の御子、やがて此天皇御所生(ごしよしやう)也。中臣鎌足(なかとみのかまたり)の連(むらじ)と云人と心を一(ひとつ)にして入鹿(いるか)をころしつ。父蝦夷(えみし)も家に火をつけてうせぬ。国紀重宝はみな焼(やけ)にけり。蘇我の一門久(ひさし)く権をとれりしかども、積悪(しやくあく)のゆゑにやみな滅(ほろび)ぬ。山田石川丸(やまだのいしかはまろ)と云人ぞ皇子と心をかよはし申ければ滅(めつ)せざりける。此鎌足(かまたり)の大臣は天児屋根(あめのこやね)の命二十一世(の)孫(そん)也。昔天孫(あめみま)あまくだり給し時、諸神の上首(じやうしゆ)にて、此命(みこと)、殊に天照太神の勅(みことのり)をうけて輔佐(ふさ)の神にまします。中臣(なかとみ)と云ことも、二(ふたはしらの)神の御中にて、神の御心をやはらげて申給けるゆゑ也とぞ。
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其孫(まご)天種子(あめのたねこ)の命、神武の御代に祭事(まつりこと)をつかさどる。上古(しやうこ)は神(かみ)と皇(きみ)と一(ひとつ)にまし<しかば、祭(まつり)をつかさどるは即(すなはち)政(まつりこと)をとれる也〈 政の字の訓(くん)にても知べし 〉。其後(のち)天照太神、始て伊勢国にしづまりましし(ゝ)時、種子(たねこ)の命のすゑ大鹿嶋(おほかしま)の命祭官(さいくわん)になりて、鎌足(かまたりの)大臣の父〈 小徳冠(せうとくくわん) 〉御食子(みけこ)までもその官にてつかへたり。鎌足にいたりて大勲(たいくん)をたて、世に寵せられしによりて、祖業(そげふ)をおこし先烈をさかやかされける、無止(やんごとなき)こと也。かつは神代よりの余風なれば、しかるべきことわりとこそおぼえ侍(はんべ)れ。後に内臣(うちつおみ)に任じ大臣に転じ、大織冠(たいしよくくわん)となる〈 正一位の名なり 〉。又中臣をあらためて藤原(ふぢはら)の姓(しやう)を給(たまは)らる〈 内臣に任ぜらるゝ事は此御代にはあらず。事の次(ついで)にしるす 〉。此天皇天下を治給こと三年ありて、同母の御弟軽(かる)の王(わう)に譲(ゆづり)給。御名を皇祖母(すめみおや)の尊とぞ申ける。
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○第三十七代、孝徳(かうとく)天皇は皇極(くわうぎよく)同母の弟也。乙巳(きのとみの)年即位。摂津国長柄豊崎(つのくにながらのとよさき)の宮にまします。此御時はじめて大臣(だいじん)を左右(さいう)にわかたる。大臣(おほおみ)は成務の御時武内(たけうち)の宿禰(すくね)はじめてこれに任ず。仲哀(ちゆうあい)の御代に又大連(おほむらじ)の官をお(ゝ)かる。大臣(おほおみ)・大連(おほむらじ)ならびて政(まつりこと)をしれり。此御時大連をやめて左右の大臣とす。又八省百官(はちしやうひやくくわん)をさだめらる。中臣の鎌足を内臣になし給。天下を治給こと十年。五十歳おまし<き。
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○第三十八代、齊明(さいめい)天皇は皇極(くわうぎよく)の重祚(ちようそ)也。重祚と云ことは本朝にはこれに始(はじま)れり。異朝には殷大甲(いんのたいかふ)不明なりしかば、伊尹(いいん)是(これ)を桐宮(とうきゆう)にしりぞけて三年政(まつりこと)をとれりき。されど帝位をすつるまではなきにや。大甲あやまちを悔(くい)て徳ををさめしかば、もとのごとく天子とす。晉世(しんのよ)に桓玄(くわんげん)と云し者、安帝(あんてい)の位をうばひて、八十日ありて、義兵(ぎへい)の為にころされしかば、安帝位にかへり給。唐(たう)の世となりて、則天(そくてん)皇后世をみだられし時、我所生(わがしよしやう)の子なりしかども、中宗をすてて(ゝ)廬陵(ろりやう)王とす。おなじ御子予王(よわう)をたてられしも又すてて(ゝ)みづから位にゐ給。後に中宗(ちゆうそう)位(くらゐ)にかへりて唐の祚(そ)たえず。予王も又重祚あり。是を睿宗(えいそう)と云(い)ふ。これぞまさしき重祚なれど、二代にはたてず。中宗・睿宗とぞつらねたる。我朝に皇極(くわうぎよく)の重祚を齊明(さいめい)と号し、孝謙の重祚を称徳と号す。異朝にかはれり。天日嗣(あまつひつぎ)をおもくするゆゑ歟(か)。先賢の議さだめてよしあるにや。乙卯(きのとうの)年即位。このたびは大和の岡本(をかもと)にまします。
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後(のち)の岡本の宮と申(まをす)。此御世はもろこしの唐(たうの)高宗(かうそう)の時にあたれり。高麗(かうらい)をせめしによりてすくひの兵(つはもの)を申(まをし)うけしかば、天皇・皇太子つくしまでむかはせ給(たまふ)。されど三韓つひに唐に属しし(ゝ)かば、軍(いくさ)をかへされぬ。其後も三韓よしみをわするゝまではなかりけり。皇太子と申(まをす)は中(なか)の大兄(おほえ)の皇子の御事也。孝徳の御代より太子に立給(たちたまひ)、此御時は摂政し給(たまふ)とみえたり。天皇天下を治給こと七年。六十八歳おまし<き。
○御三十九代、第二十五世、天智(てんぢ)天皇は舒明の御子。御母皇極天皇也。壬戌(みづのえいぬの)年即位。近江国大津の宮にまします。即位四年八月(はつき)に内臣(うちつおみ)鎌足
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を内大臣大織冠(ないだいじんたいしよくくわん)とす。又藤原朝臣(ふぢはらのあそん)の姓(しやう)を給(たまふ)。昔の大勲を賞給(しやうしたまひ)ければ、朝奨(てうしやう)ならびなし。先後(せんこう)封(ふう)を給(たまふ)こと一万五千戸(こ)なり。病(やまひ)のあひだにも行幸(みゆき)してとぶらひ給けるとぞ。此天皇中興の祖(そ)にまします〈 光仁(くわうにん)の御祖(おや)なり 〉。国忌(こくき)は時にしたがひてあらたまれども、これはながくかはらぬことになりにき。天下を治給こと十年。五十八歳おまし<き。
○第四十代、天武(てんむ)天皇は天智同母の弟也。皇太子に立(たち)て大倭(やまと)にまし<き。天智は近江にまします。御病(やまひ)ありしに、太子をよび申給けるを近江の朝廷の臣(しん)の中(なか)につげしらせ申(まをす)人(ひと)ありければ、みかどの御意のおもぶきにやありけん、太子の位をみづからしりぞきて、天智の御子太政大臣(だいじやうだいじん)大友(おほとも)の皇子に
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ゆづりて、芳野(よしのの)宮に入(いり)給。天智かくれ給て後、大友の皇子猶あやぶまれけるにや、軍(いくさ)をめして芳野をお(ゝ)そはんとぞはかり給ける。天皇ひそかに芳野をいで、伊勢にこえ、飯高(いひたか)の郡(こほり)にいたりて太神宮を■拝(えうはい)し、美濃(みの)へかゝりて東国の軍をめす。皇子高市(たけち)まゐり給しを大将軍として、美濃の不破(ふは)をまぼらめし、天皇は尾張(をはりの)国にぞこえ給ける。国々したがひ申しし(ゝ)かば、不破の関の軍(いくさ)に打(うち)勝ぬ。則(すなはち)勢多(せた)にのぞみて合戦(かつせん)あり。皇子の軍やぶれて皇子ころされ給ぬ。大臣以下(いげ)或(あるひ)は誅(ちゆう)にふし、或は遠流(をんる)せらる。軍にしたがひ申(まをす)輩(ともがら)しな<”によりて其賞をおこなはる。壬申(みづのえさるの)年即位。大倭の飛鳥浄御原(あすかのきよみはら)の宮にまします。朝廷の法度(はふと)おほくさだめられにけり。上下(かみしも)うるしぬりの頭巾(かぶり)をきることも此御時よりはじまる。天下を治給こと十五年。七十三歳おまし<き。
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○第四十一代、持統(ぢとう)天皇は天智の御女(むすめ)也。御母越智娘(をちのいらつめ)、蘇我の山田(やまだの)石川丸の大臣の女也。天武天皇、太子にまし<しより妃とし給。後に皇后とす。皇子草壁(くさかべ)わかくまし<しかば、皇后朝(てう)にのぞみ給。戊子(つちのえねの)年也。庚寅(かのえとら)の春正月一日(むつきついたち)即位。大倭(やまと)の藤原の宮にまします。草壁(くさかべ)の皇子は太子に立(たち)給しが、世をはやくし給。よりて其御子軽(かる)の王(わう)を皇太子とす。文武(もんむ)にまします。前(さき)の太子は後に追号(つゐがう)ありて長岡(ながをかの)天皇と申(まをす)。此天皇天下を治給こと十年。位を太子にゆづりて太上(たいしやう)天皇と申(まをし)き。太上天皇と云ことは、異朝に、漢(かんの)高祖の父を太公(たいこう)と云(いひ)、尊号ありて太上皇(たいしやうくわう)と号す。其後(のち)後魏(こうぎ)の顕(けん)祖・唐(たうの)高祖・玄宗(げんそう)・睿(えい)宗等也。本朝には昔は其例(ためし)なし。皇極天皇位をのがれ給しも、皇祖母(すめみおや)の尊(みこと)と申き。此天皇よりぞ太上天皇の号は侍る。五十八歳おまし<き。
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○第四十二代、文武(もんむ)天皇は草壁(くさかべ)の太子第二の子、天武の嫡孫(ちやくそん)也。御母阿閇(あへ)の皇女、天智(てんぢの)御女(むすめ)也〈 後に元明天皇と申 〉。丁酉(ひのととりの)年即位。猶(なほ)藤原の宮にまします。此御時唐国(たうこく)の礼をうつして、宮室のつくり、文武官(ぶんぶくわん)の衣服の色(いろ)までもさだめられき。又即位五年辛丑(かのとうし)より始(はじめ)て年号あり。大宝(たいはう)と云(い)ふ。これよりさきに、孝徳(かうとく)の御代に大化(たいくわ)・白雉(はくち)、天智の御時白鳳(はくほう)、天武の御代に朱雀(しゆじやく)・朱鳥(しゆてう)なんど云(い)ふ号ありしかど、大宝より後にぞたえぬことにはなりぬる。よりて大宝を年号の始(はじめ)とする也。又皇子を親王(しんわう)と云こと此御時にはじまる。又藤原の内大臣(ないだいじん)鎌足の子、不比等(ふひと)の大臣、執政(しつせい)の臣(しん)にて律令(りつりやう)なんどをもえらびさだめられき。藤原の氏(うぢ)、此大臣よりいよ<さかりになれり。四人の子おはしき。是を四門(しもん)と云(い)ふ。一門(いちもん)は武智麿(むちまろ)の大臣の流(ながれ)、南家(なんけ)と云(い)ふ。二門(にもん)は参議(さんぎ)中衛(ちゆうゑの)大将房前(ふささき)の流、北家(ほくけ)と云(い)ふ。いまの執政大臣およびさるべき藤原の人々みなこの末なるべし。三門(さんもん)は式部卿(しきぶきやう)宇合(うまかひ)の流(ながれ)、式家(しきけ)と云(い)ふ。四門(しもん)は左京大夫(さきやうのだいぶ)麿(まろ)の流、京家(きやうけ)といひしがはやくたえにけり。南家(なんけ)・式家も儒胤(じゆいん)
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にていまに相続すと云(いへ)ども、たゞ北家のみ繁昌(はんじやう)す。房前の大将人(ひと)にことなる陰徳(いんとく)こそおはしけめ。〔裏書(に)云(い)ふ。正一位左大臣武智丸。天平九年七月薨。天平宝字四年八月贈太政大臣。参議正三位中衛大将房前。天平九年四月薨。十月贈左大臣正一位。宝字四年八月贈太政大臣。天平宝字四年八月大師藤原恵美押勝奏。廻所帯大師之任、欲譲南北両大臣者。勅処分、依請南卿藤原武智丸贈太政大臣、北卿〈 贈左大臣房前 〉転贈太政大臣云々。〕又不比等の大臣は後に淡海公(たんかいこう)と申也。興福寺(こうぶくじ)を建立(こんりふ)す。此寺は大織冠(たいしよくくわん)の建立にて山背(やましろ)の山階(やましな)にありしを、このおとゞ平城(へいせい)にうつさる。仍(よりて)山階寺とも申也。後に玄■(げんばう)と云(い)ふ僧(そう)、唐(たう)へわたりて法相宗(ほつさうしゆう)を伝(つた)へて、此寺にひろめられしより、氏神(うぢのかみ)春日(かすが)の明神(みやうじん)も殊に此宗を擁護(おうご)し給とぞ〈 春日神(かすがのかみ)は天児屋(あめのこやね)の神を本(もと)とす。本社(ほんしや)は河内(かはち)の平岡(ひらをか)にます。春日にうつり給ことは神護景雲年中(じんごけいうんねんちゆう)のこと也。しからば、此大臣以後のこと也。又春日第一の御殿(ごてん)、常陸鹿嶋(ひたちのかしまの)神、第二は下総(しもふさ)の香取(かとりの)神、三は平岡、四は姫御神(ひめおんかみ)と申。しかれば藤氏(とうじ)の氏神(うぢのかみ)は三(さんの)御殿にまします 〉。此天皇天下を治給こと十一年。二十五歳おまし<き。
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○第四十三代、元明(げんめい)天皇は天智第四の女、持統異母(いぼ)の妹。御母蘇我嬪(そがのひめ)。これも山田石川丸の大臣の女也。草壁の太子の妃、文武の御母にまします。丁未(ひのとひつじの)年即位。戊申(つちのえさる)に改元。三年庚戌(かのえいぬ)始て大倭(やまと)の平城宮(へいせいのみや)に都(みやこ)をさだめらる。古(いにしへ)には代(よ)ごとに都を改(あらため)、すなはちそのみかどの御名(みな)によび奉りき。持統天皇藤原宮にましし(ゝ)を文武はじめて改めたまはず。此元明天皇平城にうつりまし<しより、又七代の都になれりき。天下を治給こと七年。禅位(ぜんゐ)
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ありて太上天皇と申(まをし)しが、六十一歳おまし<き。
○第四十四代、元正(げんしやう)天皇は草壁の太子の御女。御母は元明天皇。文武同母の姉也。乙卯(きのとうの)年正月(むつき)に摂政、九月(ながつき)に受禅(じゆぜん)、即日(そくじつ)即位、十一月(しもつき)に改元。平城宮にまします。此御時百官に笏(しやく)をもたしむ〈 五位以上牙笏(げしやく)、六位は木笏(もくしやく) 〉。天下を治給こと九年。禅位の後二十年。六十五歳おまし<き。
○第四十五代、聖武(しやうむ)天皇は文武の太子。御母皇太夫人(くわうたいぶにん)藤原の宮子(みやこ)、淡海公不比等(たんかいこうふひと)の大臣の女也。豊桜彦(とよさくらひこ)の尊と申(まをす)。をさなくましし(ゝ)によりて、元明・元正まづ位にゐ給き。甲子(きのえねの)年即位、改元。平城宮にまします。此御代大(おほき)に仏法をあがめ給こと先代(せんだい)にこえたり。東大寺を建立し、金銅(こんどう)十六丈(ぢやう)
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の仏(ほとけ)をつくらる。又諸国に国分寺(こくぶんじ)及(および)国分尼寺(こくぶんにじ)を立(た)て、国土安穏(こくどあんをん)のために法華(ほつけ)・最勝(さいしよう)両部(りやうぶ)の経(きやう)を講ぜらる。又おほくの高僧他国より来朝(らいてう)す。南天竺(なんてんぢく)の波羅門僧正(ばらもんそうじやう)〈 菩提(ぼだい)と云(い)ふ 〉、林邑(りんをう)の仏哲(ぶつてち)、唐の鑒真和尚(がんじんわじやう)等是(これ)也。真言(しんごん)の祖師(そし)、中(ちゆう)天竺の善無畏(ぜんむい)三蔵(さんざう)も来給(きたりたま)へりしが、密機(みつき)いまだ熟せずとてかへり給(たまひ)にけりともいへり。此国にも行基(ぎやうぎ)菩薩・朗弁僧正(らうべんそうじやう)など権化(ごんげの)人也。天皇・波羅門僧正・行基・朗弁をば四聖(ししやう)とぞ申伝(つた)へたる。此御時太宰少弐(だざいのせうに)藤原広継(ひろつぐ)と云人〈 式部卿(しきぶきやう)宇合(うまかひ)の子なり 〉謀叛(むほん)のきこえあり、追討せらる〈 玄■(げんばう)僧正の讒(ざん)によれりともいへり。仍(よりて)霊(りやう)となる。今の松浦(まつら)の明神也云々 〉。祈祷(きたう)のために天平十二年十月(かんなづき)伊勢の神宮に行幸ありき。又左大臣(さだいじん)長屋王(ながやのわう)〈 太政大臣高市王(たけちのわう)の子、天武の御孫なり 〉つみありて誅(ちゆう)せらる。又陸奥(みちのおくの)国より始て黄金(わうごん)をたてまつる。此朝に金(こがね)ある始なり。国の司(つかさ)の王(わう)、賞ありて三位に叙(じよ)す。仏法繁昌(はんじやう)の感応(かんおう)なりとぞ。天下を治給こと二十五年。天位を御女高野(たかの)姫の皇女にゆづりて太上天皇と申す。後に出家せさせ給。天皇出家の始(はじめ)也。昔天武、東宮の位をのがれて御ぐしおろし給へりしかど、それはしばらくの事なりき。皇后光明子(くわうみやうし)もおなじく出家せさせ給。此天皇五十六歳おまし<き。
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○第四十六代、孝謙天皇は聖武の御女。御母皇后光明子、淡海公不比等の大臣の女也。聖武の皇子安積(あさかの)親王世をはやくして後、男子ましまさず。仍(よりて)この皇女立(たち)給き。己丑(つちのとうしの)年即位、改元。平城宮にまします。天下を治給こと十年。大炊(おほひ)の王を養子として皇太子とす。位をゆづりて太上天皇と申す。出家せさせ給て、平城宮の西宮(にしのみや)になむまし<ける。
○第四十七代、淡路廃帝(あはぢのはいたい)は一品舎人(いちほんとねりの)親王の子、天武の御孫也。御母上総介(かづさのすけ)当麻(たぎま)の老(をきな)が女也。舎人親王は皇子の中に御身の才(さい)もましけるにや、知太政官事(ちだいじやうくわんじ)と云職をさづけられ、朝務を輔(たすけ)給けり。日本紀もこの
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親王勅(みことのり)をうけ玉は(つ)てえらび給。後に追号ありて尽敬(じんけい)天皇と申(まをす)。孝謙天皇御子ましまさず、又御兄弟もなかりければ、廃帝を御子にしてゆづり給。たゞし、年号などもあらためられず。女帝の御まゝなりしにや。戊戌(つちのえいぬの)年即位。天下を治給こと六年。事ありて淡路(あはぢの)国にうつされ給き。三十三歳おまし<き。
○第四十八代、称徳(しようとく)天皇は孝謙の重祚(ちようそ)也。庚戌(かのえいぬの)年正月一日(むつきついたち)更に即位、同(おなじき)七日改元。太上天皇ひそかに藤原武智麿(むちまろ)の大臣の第二の子押勝(をしかつ)を幸(かう)し給(たまひ)き。大師(たいし)〈 其時太政大臣を改(あらため)て大師と云 〉正一位になる。見給へばゑましきとて、藤原に二字
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をそへて藤原恵美(えみ)の姓(しやう)を給(たまひ)き。天下の政(まつりこと)しかしながら委任(ゐにん)せられにけり。後に道鏡(だうきやう)と云法師(ほふし)〈 弓削(ゆげ)の氏人(うぢびと)也 〉又寵幸(ちようかう)ありしに、押勝いかりをなし、廃帝をすゝめ申て、上皇の宮をかたぶけんとせしに、ことあらはれて誅にふしぬ。帝(みかど)も淡路にうつされ給。かくて上皇重祚あり。さきに出家せさせ給へりしかば、尼ながら位にゐ給けるにこそ。非常の極(きはみ)なりけんかし。唐(たう)の則天(そくてん)皇后は太宗の女御(ぢよぎよ)にて、才人(さいじん)と云(い)ふ官にゐ給へりしが、太宗かくれ給て、尼(あま)に成(なり)て、感業(かんげふ)と云寺におはしける、高宗み給て長髪(ちやうはつ)せしめて皇后とす。諌申人(いさめまをすひと)おほかりしかども用(もちゐ)られず。高宗崩じて中宗位にゐ給しをしりぞけ、睿(えい)宗を立(たて)られしを、又しりぞけて、自(みづから)帝位につき、国を大周(たいしう)とあらたむ。唐の名をうしなはんと思(おもひ)給けるにや。中宗・睿宗もわが生(うみ)給しかども、すてて(ゝ)諸王とし、みづからの族(やから)武氏(ぶし)のともがらをもちて、国を伝(つた)へしめむとさへし給き。其時にぞ法師も宦者(くわんじや)もあまた寵せられて、世にそしらるゝためしおほくはべりしか。この道鏡はじめは大臣に准(じゆん)じて〈 日本(にほん)の准大臣のはじめにや 〉大臣禅師(だいじんぜんじ)と云(いひ)しを太政大臣になし給。それによりてつぎ<納言(なふごん)・参議(さんぎ)にも法師をまじへなされにき。道鏡世を心のまゝにしければ、あらそふ人のなかりし
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にや。大臣吉備(きび)の真備(まきび)の公、左中弁(さちゆうべん)藤原の百川(ももかは)などありき。されど、ちからおよばざりけるにこそ。法師の官に任ずることは、もろこしより始(はじめ)て、僧正・僧統(そうとう)など云事のありし、それすら出家の本意(ほんい)にはあらざるべし。いはんや俗の官に任ずる事あるべからぬ事にこそ。されど、もろこしにも南朝の宋の世に恵琳(ゑりん)と云し人、政事(まつりこと)にまじらひしを黒衣宰相(こくいさいしやう)といひき〈 但(ただし)これは官に任(にんず)とはみえず 〉。梁(りやう)の世に恵超(ゑてう)と云し僧、学士(がくし)の官になりき。北朝(の)魏の明元帝(めいげんてい)の代に法果(ほふくわ)と云僧、安城(あんじやう)公の爵(しやく)をたまはる。唐の世となりてはあまたきこえき。粛宗(しゆくそう)の朝(てう)に道平(だうへい)と云人、帝(みかど)と心(こころ)を一(ひとつ)にして安祿山(あんろくさん)が乱(らん)をたひらげし故に、金吾(きんご)将軍になされにけり。代(だい)宗の時、天竺の不空三蔵(ふくうさんぞう)をたふとび給(たまふ)あまりにや、特進(とうしん)試(し)鴻臚卿(こうろけい)をさづけらる。後に開府(かいふ)儀同三司(ぎどうさんし)粛国公(しゆくこくこう)とす。帰寂(きじやく)ありしかば司空(しこう)の官をおくらる〈 司空は大臣の官なり 〉。則天(そくてん)の朝よりこの女帝(によたい)の御代(みよ)まで六十年ばかりにや。両国のこと相似たりとぞ。天下を治給こと五年。五十七歳おまし<き。天武・聖武国に大功あり、仏法をもひろめ給しに、皇胤(くわういん)ましまさず。此女帝(によたい)にてたえ給ぬ。女帝かくれ給しかば、道鏡をば下野(しもつけ)の講師(かうじ)になしてながしくだされにき。抑(そもそも)此道鏡は法王の位をさづけられたりし、猶(なほ)あかずして
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皇位につかんといふ心ざしありけり。女帝さすが思(おもひ)わづらひ給けるにや、和気清丸(わけのきよまろ)と云(い)ふ人を勅使(ちよくし)にさして、宇佐(うさ)の八幡宮に申(まを)されける。大菩薩さま<”託宣(たくせん)ありて更にゆるされず。清丸帰参(きさん)してありのまゝに奏聞(そうもん)す。道鏡いかりをなして、清丸がよぼろすぢをたちて、土左(とさの)国にながしつかはす。清丸うれへかなしみて、大菩薩をうらみかこち申(まをし)ければ、小蛇(こへび)出来(いでき)てそのきずをいやしけり。光仁(くわうにん)位につき給しかば、即(すなはち)めしかへさる。神威をたう(ふ)とび申て、河内(かはちの)国に寺を立(た)て、神願寺(じんぐわんじ)と云(い)ふ。後に高雄(たかを)の山にうつし立(たつ)。今の神護寺(じんごじ)これなり。件(くだり)のころまでは神威(じんゐ)もかくいちじるきことなりき。かくて道鏡つひにのぞみをとげず。女帝も又程なくかくれ給。宗廟社稷(しやしよく)をやすくすること、八幡(やはた)の冥慮(みやうりよ)たりしうへに、皇統をさだめたてまつることは藤原百川朝臣(ももかはのあそん)の功(こう)なりとぞ。
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○第四十九代、第二十七世、光仁(くわうにん)天皇は施基(しきの)皇子の子、天智天皇の御孫也〈 皇子は第三の御子なり。追号ありて田原(たはら)の天皇と申(まをす) 〉。御母贈皇太后紀旅子(きのもろこ)、贈太政大臣旅人(もろひと)の女也。白壁(しらかべ)の王と申き。天平(てんぴやう)年中に御年二十九にて従四位下(げ)に叙し、次第に昇進せさせ給て、正三位勲二等大納言に至給(いたりたまひ)き。称徳(しようとく)かくれましまし
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し(ゝ)かば、大臣以下(いげ)皇胤(くわういん)の中(うち)をえらび申けるに、おの<異議ありしかど、参議百川と云し人、この天皇に心ざしたてまつりて、はかりことをめぐらしてさだめ申てき。天武世をしり給しよりあらそひ申(まをす)人なかりき。しかれど天智御兄にてまづ日嗣(ひつぎ)をうけ給。そのかみ逆臣(ぎやくしん)を誅し、国家をも安(やすく)し給へり。この君のかく継体にそなはり給(たまふ)、猶正(ただしき)にかへるべきいはれなるにこそ。まづ皇太子に立(たち)、すなはち受禅(じゆぜん)〈 御年六十二 〉。ことし庚戌(かのえいぬの)年なり。十月(かんなづき)に即位、十一月(しもつき)改元。平城宮(へいせいのみや)にまします。天下を治給こと十二年。七十三歳おまし<き。
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○第五十代、第二十八世、桓武(くわんむ)天皇は光仁(くわうにん)第一の子。御母皇太后高野(たかの)の新笠(にゐかさ)、贈太政大臣乙継(おとつぐ)の女也。光仁即位のはじめ井上(ゐのへ)の内親王(ないしんわう)〈 聖武(しやうむの)御女 〉をもて皇后とす。彼所生(かのしよしやう)の皇子沢良(さはら)の親王、太子に立(たち)給き。しかるを百川朝臣、此天皇にうけつがしめたてまつらんと心ざして、又はかりことをめぐらし、皇后および太子をすてて(ゝ)、つひに皇太子にすゑたてまつりき。その時しばらく不許(ふきよ)なりければ、四十日まで殿(でん)の前に立(たち)て申けりとぞ。たぐひなき忠烈の臣也けるにや。皇后・前(さきの)太子せめられてうせ給にき。怨霊(をんりやう)をやすめられんためにや、太子はのちに追号(つゐがう)ありて崇道(すだう)天皇と申(まをす)。辛酉(かのととり)の年即位、壬戌(みづのえいぬ)に改元。はじめは平城にまします。山背(やましろ)の長岡にうつり、十年ばかり都なりしが、又今の平安城(へいあんじやう)にうつさる。山背(やましろ)の国をもあらためて山城(やましろ)と云(い)ふ。永代(えいたい)にかはるまじくなんはからはせ給ける。昔聖徳太子蜂岡(はちをか)にのぼり給て〈 太秦(うづまさ)これなり 〉いまの城(じやう)をみめぐらして、「四神(しじん)相応(さうおう)の地(ち)也。百七十余年ありて都(みやこ)をうつされて、かはるまじき所なり。」との給けりとぞ申伝(まをしつたへ)たる。その年紀(ねんき)もたがはず、又数十代不易(ふえき)の都(みやこ)となりぬる、誠(まこと)に王気(わうき)相応の福地(ふくち)たるにや。この天皇大(おほき)に仏法をあがめ給。延暦(えんりやく)二十三年伝教(でんげう)・弘法(こうぼふ)勅(みことのり)をうけて唐へわたり給(たまふ)。其時すなはち唐朝へ使(つかひ)
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をつかはさる。大使は参議左大弁(さだいべん)兼(けん)越前守(ゑちぜんのかみ)藤原葛野麿朝臣(かどのまろのあそん)也。伝教は天台の道邃和尚(だうすいくわしやう)にあひ、その宗をきはめて同(おなじき)二十四年に大使と共に帰朝(きてう)せらる。弘法は猶かの国にとゞまりて大同(だいどう)年中に帰給(かへりたまふ)。この御時東夷(とうい)叛乱(ほんらん)しければ、坂上(さかのうへ)の田村丸(たむらまろ)を征東大将軍になしてつかはされしに、こと<”くたひらげてかへりまうでけり。この田村丸は武勇(ぶよう)人にすぐれたりき。初(はじめ)は近衛(こんゑ)の将監(しやうげん)になり、少将にうつり、中将に転じ、弘仁(こうにん)の御時にや、大将にあがり、大納言をかけたり。文(ぶん)をもかねたればにや、納言の官にものぼりにける。子孫はいまに文士(ぶんし)にてぞつたはれる。天皇天下を治給こと二十四年。七十歳おまし<き。
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巻四
○第五十一代、平城(へいせい)天皇は桓武(くわんむ)第一の子。御母皇太后藤原の乙牟漏(をとむろ)、贈太政大臣良継(よしつぐ)の女也。丙戌(ひのえいぬの)年即位、改元。平安宮(へいあんのみや)にまします〈 これより遷都(せんと)なきによりて御在所(ございしよ)をしるすべからず 〉。天下を治給こと四年。太弟にゆづりて太上天皇と申(まをす)。平城の旧都にかへりてすませ給けり。尚侍(ないしのかみ)藤原の薬子(くすりこ)を寵(ちようし)ましけるに、其弟参議右兵衛督(うひやうゑのかみ)仲成(なかなり)等申(まをし)すゝめて逆乱(げきらん)の事ありき。田村丸(たむらまろ)を大将軍(たいしやうぐん)として追討せられしに、平城(へいせい)の軍(いくさ)やぶれて、上皇出家せさせ給。御子(みこ)東宮高岡(とうぐうたかをか)の親王もすてられて、おなじく出家、弘法大師(こうぼふだいし)の弟子(でし)になり、真如(しんによ)親王と申(まをす)はこれなり。薬子・仲成等誅(ちゆう)にふしぬ。上皇(しやうくわう)五十一歳までおまし<き。
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○第五十二代、第二十九世、嵯峨(さが)天皇は桓武(くわんむ)第二の子、平城(へいせい)同母の弟也。太弟(たいてい)に立(たち)給へりしが、己丑(つちのとうしの)年即位、庚寅(かのえとら)に改元。此天皇幼年より聰明(そうめい)にして読書(とくしよ)を好(このみ)、諸芸を習給(ならひたまふ)。又謙譲(けんじやう)の大度(たいど)もましましけり。桓武帝鍾愛無双(しようあいぶさう)の御子になんおはしける。儲君(ちよくん)にゐ給けるも父のみかど継体のために顧命(こめい)しまし<けるにこそ。格式(きやくしき)なども此御時よりえらびはじめられにき。又深(ふかく)仏法をあがめ給。先世(さきのよ)に美濃(みのの)国神野(かむの)と云所にたふとき僧ありけり。橘太后(きつたいこう)の先世にねむごろに給仕(きふじ)しけるを感じて相共に再誕(さいたん)ありとぞ。御諱(いみな)を神野と申けるも自然(じねん)にかなへり。伝教〈 御名最澄(さいちよう) 〉弘法〈 御名空海(くうかい) 〉両大師唐(たう)より伝(つた)へ給し天台・真言の両宗も、この御時よりひろまり侍ける。此両師直也人(ただなるひと)におはせず。伝教入唐以前より比叡山(ひえいざん)をひらきて練行(れんぎやう)せられけり。今の根本中堂(こんぼんちゆうだう)の地をひかれけるに、八(やつ)の舌(した)ある鎰(かぎ)をもとめいでて(ゝ)唐までもたれたり。天台山(てんだいさん)にのぼりて智者(ちしや)大師〈 天台の宗おこりて四代の祖なり。天台大師とも云 〉六代の正統道邃和尚(だうすいくわしやう)に謁(えつ)して、その宗をならはれしに、彼(かの)
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山に智者帰寂(きじやく)より以来(このかた)鎰(かぎ)をうしなひてひらかざる一蔵(ひとつのくら)ありき。心みに此鎰(かぎ)にてあけらるゝにとゞこほらず。一山(いつさん)こぞりて渇仰(かつがう)しけり。仍(よりて)一宗(いつしゆう)の奥義(あうぎ)のこる所なく伝られたりとぞ。其後慈覚・智証両大師又入唐して天台・真言をきはめならひて、叡山にひろめられしかば、彼門風(もんふう)いよ<さかりになりて天下に流布(るふ)せり。
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唐国みだれしより経教(きやうけう)おほくうせぬ。道邃(だうすゐ)より四代にあたれる義寂(ぎじやく)と云人まで、たゞ観心(くわんじん)を伝(つた)へて宗義をあきらむることたえにけるにや。呉越国(ごゑつこく)の忠懿王(ちゆういわう)〈 姓(せい)は銭(せん)、名は鏐(りう)、唐の末つかたより東南の呉越を領して偏覇(へんば)の主(しゆ)たり 〉此宗のおとろへぬることをなげきて、使者十人をさして、我朝におくり、教典(けうてん)をもとめしむ。こと<”くうつしをはりてかへりぬ。義寂これを見あきらめて、更に此宗を再興す。もろこしには五代(ごだい)の中(うち)、後唐(こうたう)の末ざまなりければ、我朝には朱雀天皇の御代にやあたりけん。日本(にほん)よりかへしわたしたる宗なれば、此国の天台宗はかへりて本(ほん)となるなり。凡(およそ)伝教彼
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宗の秘密を伝(つた)へられたることも〈 唐台州(たうのたいしう)刺史(しし)陸淳(りくじゆん)が印記(いんき)の文(もん)にあり 〉こと<”く一宗の論疏(ろんしよ)をうつし、国にかへれることも〈 釈志磐(しやくしばん)が仏祖統紀(ぶつそとうき)にのせたり 〉異朝の書にみえたり。弘法は母懐胎(くわいたい)の始(はじめ)、夢に天竺の僧来(きた)りて宿(やど)をかり給(たまひ)けりとぞ。宝亀(はうき)五年甲寅(きのえとら)六月(みなづき)十五日誕生(たんじやう)。この日唐の大暦(たいれき)九年六月(ろくぐわつ)十五日にあたれり。不空三蔵(ふくうさんざう)入滅(にふめつ)す。仍(よりて)かの後身(こうしん)と申(まをす)也。かつは恵果和尚(けいくわわしやう)の告(つげ)にも「我と汝と久(ひさしき)契約(けいやく)あり。誓(ちかひ)て密蔵(みつざう)を弘(ひろめん)。」とあるもそのゆゑにや。渡唐の時も或は五筆(ごひつ)の芸をほどこし、さま<”の神異(しんい)ありしかば、唐の主(しゆ)、順宗(じゆんそう)皇帝ことに仰信(あふぎしん)じ給(たまひ)き。彼(かの)恵果(けいくわ)〈 真言第六の祖、不空の弟子 〉和尚(わしやう)六人の附法(ふほふ)あり。剣(けん)南の惟上(ゆいしやう)・河北の義円(ぎゑん)〈 金剛一界を伝(つたふ) 〉、新羅(しらぎ)の恵日(ゑにち)・訶陵(かりよう)の弁弘(べんこう)〈 胎蔵(たいざう)一界を伝(つたふ) 〉、青龍(せいりよう)の義明(ぎめい)・日本の空海〈 両部を伝(つたふ) 〉。義明は唐朝におきて潅頂(くわんぢやう)の師たるべかりしが世をはやくす。弘法は六人の中に瀉瓶(しやびやう)たり〈 恵果の俗弟子呉殷(ごいん)が纂(さん)の詞(ことば)にあり 〉。しかれば、真言の宗には正統なりといふべきにや。これ又異朝の書にみえたる也。伝教も、不空の弟子順暁(じゆんげう)にあひて真言を伝(つた)へられしかど、在唐いくばくなかりしかば、ふかく学せられざりしにや。帰朝の後、弘法にもとぶらはれけり。又いまこの流たえにけり。慈覚・智証は恵果の弟子義操(さう)・法潤(じゆん)ときこえしが弟子法全(はつせん)にあひて
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伝(つた)へらる。凡(およそ)本朝流布(るふ)の宗(しゆう)、今は七宗(しちしゆう)也。此中にも真言・天台の二宗は祖師の意巧(いげう)専(もはら)鎮護国家(ちんごこくか)のためと心ざさ(ゝ)れけるにや。比叡山には〈 比叡と云こと桓武・伝教心を一(ひとつ)にして興隆せられしゆゑなづくと彼山の輩(ともがら)称(しようする)也。しかれど旧事本紀(くじほんぎ)に比叡の神の御ことみえたり 〉顕密ならびて紹隆(せうりう)す。殊に天子本命(ほんみやう)の道場をたてて(ゝ)御願(ごぐわん)を祈る地なり〈 これは密(みつ)につくべし 〉。又根本(こんぼん)中堂を止観院(しくわんゐん)と云(い)ふ。法華(ほつけ)の経文(きやうもん)につき、天台の宗義により、かた<”鎮護の深義(じんぎ)ありとぞ。東寺(とうじ)は桓武遷都(せんと)の初、皇城の鎮(しづめ)のためにこれをたてらる。弘仁(こうにん)の御時、弘法に給(たまひ)てながく真言の寺とす。諸宗の雑住(ざうぢゆう)をゆるさざ(ゝ)る地也。此宗を神通乗(じんづうじよう)と云(い)ふ。如来果上(によらいくわしやう)の法門にして諸教にこえたる極秘密(ごくひみつ)とおもへり。就中(なかんづく)我国は神代よりの縁起(えんぎ)、此宗の所説(しよせつ)に符合(ふがふ)せり。このゆゑにや唐朝に流布せしはしばらくのことにて、則(すなはち)日本にとゞまりぬ。又相応の宗なりと云もことわりにや。大唐の内道場(ないだうぢやう)に准(じゆん)じて宮中に真言院をたつ〈 もとは勘解由使(かげゆし)の庁(ちやう)なり 〉。大師奏聞(そうもん)して毎年正月(むつき)この所にて御修法(みしほ)あり。国土安穏(あんをん)の祈祷、稼穡豊饒(かしよくぶねう)の秘法也。又十八日の観音供(くわんおんく)、晦日(つごもり)の御念誦(みねんじゆ)等も宗によりて深意(じんい)あるべし。三流の真言いづれと云べきならねど、真言をもて諸宗の第一とすることもむねと東寺によれり。延喜(えんぎ)の御宇(ぎよう)に綱所(かうしよ)の印鎰(いんやく)を東寺
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の一阿闍梨(いちのあじやり)にあづけらる。仍(よりて)法務のことを知行(ちぎやう)して諸宗の一座たり。山門・寺門は天台をむねとするゆゑにや、顕密をかねたれど宗の長をも天台座主(てんだいざす)と云めり。此天皇諸宗を並(ならべ)て興(こう)ぜさせ給(たまひ)けり。中にも伝教・弘法御帰依(ごきえ)ふかゝりき。伝教始て円頓(ゑんとん)の戒壇(かいだん)をたつべきよし奏せられしを、南京(なんきやう)の諸宗表(へう)を上(たてまつり)てあらそひ申(まを)ししかど、つひに戒壇の建立をゆるされ、本朝四け所の戒場となる。弘法はことさら師資(しし)の御約(やく)ありければ、おもくし給けるとぞ。
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此両宗の外、華厳(けごん)・三論(さんろん)は東大寺にこれをひろめらる。彼華厳は唐の杜順和尚(とじゆんくわしやう)よりさかりになれりしを、日本の朗弁(らうべん)僧正伝(つた)へて東大寺に興隆(こうりゆう)す。此寺は則(すなはち)此宗(しゆう)によりて建立(こんりふ)せられけるにや、大華厳寺と云名あり。三論は東晉(とうしん)の同時に後秦(こうしん)と云国に、羅什三蔵(らじふさんざう)と云師来(きたり)て、此宗をひらきて世に伝(つた)へたり。孝徳の御世に高麗(かうらい)の僧恵潅(ゑくわん)来朝して伝(つた)へ始ける。しからば最前(さいぜん)流布の教(をしへ)にや。其後道慈(だうじ)律師請来(しやうらい)して大安寺(だいあんじ)にひろめき。今は華厳とならびて東大寺にあり。法相(ほつさう)は興福寺(こうふくじ)にあり。唐玄弉(たうのげんじやう)三蔵天竺より伝(つた)へて国にひろめらる。日本の定恵和尚(ぢやうゑわじやう)〈 大織冠(たいしよくくわん)の子なり 〉彼国にわたり玄弉の弟子たりしかど、帰朝の後(のち)世をはやくす。今の法相は玄■(げんばう)僧正と云人入唐(にふたう)して泗(し)州の智周(ちしう)大師〈 玄弉二世の弟子 〉にあひてこれを伝(つた)へて流布しけるとぞ。春日(かすが)の神もことさら此宗を擁護(おうご)し給なるべし。此三宗に天台をくはへて四家(しけ)の大乗(だいじよう)と云(い)ふ。倶舎(ぐしや)・成実(じやうじつ)なむど云は小乗(せうじよう)也。道慈律師おなじく伝て流布せ
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られけれども、依学(えがく)の宗にて、別に一宗を立(たつる)ことなし。我国大乗純熟(じゆんじゆく)の地なればにや、小乗を習人(ならふひと)なき也。又律宗は大小に通ずる也。鑒真和尚(がんじんわじやう)来朝してひろめられしより東大寺および下野(しもつけ)の薬師(やくし)寺・筑紫(つくし)の観音寺に戒壇をたてて(ゝ)、此戒をうけぬものは僧籍(せき)につらならぬ事になりにき。中古より以来(このかた)、其名ばかりにて戒体(かいたい)をまぼることたえにけるを、南都(なんと)の思円(しゑん)上人等章疏(しやうしよ)を見あきらめて戒師(かいし)となる。北京(ほくきやう)には我禅上人(がぜんしやうにん)入宋(にふそう)して彼土(かのど)の律法(りつほふ)をうけ伝てこれをひろむ。南北の律再興(さいこう)して彼宗に入(いる)輩(ともがら)は威儀を具(ぐ)することふるきがごとし。
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禅宗は仏心宗(ぶつしんしゆう)とも云(い)ふ。仏の教外別伝(けうげべつでん)の宗なりとぞ。梁(りやう)の代(よ)に天竺の達磨(だるま)大師来(きたり)てひろめられしに、武帝に機(き)かなはず。江(かう)を渡(わたり)て北朝にいたる。嵩山(すうざん)
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と云所にとゞまり、面壁(めんぺき)して年をおくられける。後に恵可(ゑか)これをつぐ。恵可より下(しも)、四世に弘忍禅師(くにんぜんじ)ときこえし、嗣法(しほふ)南北に相分(あひわか)る。北宗(ほくしゆう)の流(ながれ)をば伝教・慈覚伝て帰朝せられき。安然和尚(あんねんくわしやう)〈 慈覚(じかくの)孫弟(そんてい) 〉教時諍論(けうじさうろん)と云書に教理の浅深(せんじん)を判(はん)ずるに、真言・仏心・天台とつらねたり。されど、うけ伝人(つたふるひと)なくてたえにき。近代となりて南宗(なんしゆう)のながれおほくつたはる。異朝には南宗の下(しも)に五家(け)あり。その中(うち)臨済(りんざい)宗の下(しも)より又二流となる。これを五家七宗(ごけしちしゆう)と云(い)ふ。本朝には栄西(やうせい)僧正、黄龍(わうりよう)の流(ながれ)をくみて伝来の後、聖一(しやういち)上人、石霜(せきさう)の下(しも)つかた虎丘(くきう)のながれ無準(ぶしゆん)にうく。彼宗のひろまることは此両師よりのこと也。うちつゞき異朝の僧もあまた来朝し、此国よりもわたりて伝(つた)へしかば、諸家(しよけ)の禅おほく流布せり。五家七宗とはいへども、以前の顕(けん)・密(みつ)・権(ごん)・実(じつ)等の不同には相似(にる)べからず。いづれも直指人心(ぢきしにんしん)、見性成仏(けんしやうじやうぶつ)の門(もん)をばいでざる也。弘仁の御宇より真言・天台のさかりになることを聊(いささか)しるし侍(はべる)につきて、大方の宗々伝来のおもむきを載(のせ)たり。極(きはめ)てあやまりおほく侍(はべ)らん。但(ただし)君としてはいづれの宗をも大概(たいがい)しろしめして捨(すて)られざらんことぞ国家攘災(じやうさい)の御はかりことなるべき。菩薩(ぼさつ)・大士(だいし)もつかさどる宗あり。我朝の神明(しんめい)もとりわき擁護し給ふ
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教(をしへ)あり。一宗に志(こころざし)ある人余宗をそしりいやしむ、大(おほき)なるあやまり也。人の機根(きこん)もしな<”なれば教法も無尽(むじん)なり。況(いはんや)わが信ずる宗をだにあきらめずして、いまだしらざる教をそしらむ、極(きはめ)たる罪業(ざいごふ)にや。われは此宗に帰(き)すれども、人は又彼宗に心ざす。共に随分(ずゐぶん)の益(やく)あるべし。是皆今生一世(こんじやういちせ)の値遇(ちぐ)にあらず。国の主(あるじ)ともなり、輔政(ふせい)の人ともなりなば、諸教をすてず、機をもらさずして得益(とくやく)のひろからんことを思給(おもひたまふ)べき也。且(かつ)は仏教にかぎらず、儒(じゆ)・道(だう)の二教乃至(ないし)もろ<の道、いやしき芸までもおこしもちゐるを聖代(せいだい)と云べき也。
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凡(およそ)男夫(なんぷ)は稼穡(かしよく)をつとめておのれも食し、人にもあたへて、飢(うゑ)ざらしめ、女子は紡績(はうせき)をことと(ゝ)してみづからもき、人をしてあたゝかにならしむ。賎(いやしき)に似たれども人倫(じんりん)の大本(たいほん)也。天の時にしたがひ、地の利によれり。此外(このほか)商沽(しやうこ)の利を通ずるもあり、工巧(くげう)のわざを好(このむ)もあり、仕官に心ざすもあり、是を四民と云(い)ふ。仕官するにとりて文武の二(ふたつ)の道あり。坐(ざし)て以(もつて)道を論ずるは文士の道也。此道に明(あきらか)ならば相(しやう)とするにたへたり。征(ゆき)て功を立(たつる)は武人(ぶじん)のわざなり。此わざに誉(ほま)れあらば将(しやう)とするにたれり。されば文武(ぶんぶ)の二(ふたつ)はしばらくもすて給べからず。「世みだれたる時は武を右にし文を左にす。
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国をさまれる時は文を右にし武を左にす。」といへり〈 古に右を上(かみ)にす。仍(よりて)しかいふ也 〉。かくのごとくさま<”なる道をもちゐて、民のうれへをやすめ、おの<あらそひなからしめん事を本(もと)とすべし。民の賦斂(ふれん)をあつくしてみづからの心をほしきまゝにすることは乱世乱国のもとゐ也。我国は王種(わうしゆ)のかはることはなけれども、政(まつりこと)みだれぬれば、暦数(れきすう)ひさしからず。継体もたがふためし、所々にしるし侍りぬ。いはんや、人臣として其職をまぼるべきにおきてをや。
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抑(そもそも)民をみちびくにつきて諸道・諸芸みな要枢(えうすう)也。古には詩・書・礼・楽(がく)をもて国を治(をさむ)る四術(しじゆつ)とす。本朝は四術の学をたてらるゝことたしかならざれど、紀伝(きでん)・明経(みやうぎやう)・明法(みやうばふ)の三道に詩・書・礼(れい)を摂(せつ)すべきにこそ。算道(さんだう)を加(くはへ)て四道と云(い)ふ。代々(よよ)にもちゐられ、其職を置(おか)るゝことなればくはしくするにあたはず。医・陰陽(おんやう)の両道又これ国の至要(しえう)也。金石糸竹(きんせきしちく)の楽(がく)は四学の一にて、もはら政(まつりこと)をする本(もと)也。今は芸能の如くに思へる、無念のこと也。「風(ふう)を移(うつ)し俗をかふるには楽よりよきはなし。」といへり。一音より五声(せい)・十二律に転じて、治乱をわきまへ、興衰(こうすい)を知(しる)べき道とこそみえたれ。又詩賦哥詠(しふかえい)の風(ふう)もいまの人のこのむ所、詩学の本(もと)にはことなり。しかれど一心よりおこりて、よろづのことの葉(は)となり、末の世なれど人を感ぜしむる道也。これをよくせば僻(へき)をやめ邪をふせぐをしへなるべし。かゝればいづれか心の源(みなもと)をあきらめ、正(しやう)にかへる術(じゆつ)なからむ。輪扁(りんへん)が輪(わ)をけづりて齊桓公(せいのくわんこう)ををしへ、弓工(きゆうこう)が弓をつくりて唐の太宗をさとらしむるたぐひもあり。乃至(ないし)囲碁弾碁(ゐごたんき)の戯(たはぶれ)まで
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もおろかなる心ををさめ、かろ<”しきわざをとゞめんがためなり。たゞし其源(みなもと)にもとづかずとも、一芸はまなぶべきことにや。孔子(こうし)も「飽(あくまでに)食(くう)て終日(ひねもす)に心を用(もちゐる)所なからんよりは博■(ばくえき)をだにせよ。」と侍(はべる)めり。まして一道をうけ、一芸にも携(たづさは)らん人、本(もと)をあきらめ、理(ことわり)をさとる志(こころざし)あらば、これより理世(りせい)の要ともなり、出離(しゆつり)のはかりことと(ゝ)もなりなむ。一気一心にもとづけ、五大五行により相剋(さうこく)・相生(さうしやう)をしり自(みづから)もさとり他にもさとらしめん事、よろづの道其理(ことわり)一(ひとつ)なるべし。
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此御門誠に顕密の両宗に帰(きし)給しのみならず、儒学もあきらかに、文章もたくみに、書芸もすぐれ給へりし、宮城(きゆうじやう)の東面(ひがしおもて)の額(がく)も御みづからかゝしめ給き。天下を治給こと十四年。皇太弟にゆづりて太上天皇と申。帝都の西、嵯峨山(さがやま)と云所に離宮をしめてぞまし<ける。一旦(たん)国をゆづり給しのみならず、行末(ゆくすゑ)までもさづけましまさんの御心ざしにや、新帝の御子、恒世(つねよ)の親王
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を太子に立(たて)給しを、親王又かたく辞退して世をそむき給けるこそありがたけれ。上皇ふかく謙譲(けんじやう)しましけるに、親王又かくのがれ給ける、末代(まつだい)までの美談(びだん)にや。昔仁徳兄弟相譲(ゆづり)給し後にはきかざりしこと也。五十七歳おまし<き。
○第五十三代、淳和(じゆんな)天皇、西院(さいゐん)の帝(みかど)とも申。桓武第三の子。御母贈皇太后藤原の旅子(もろこ)、贈太政大臣百川(ももかは)の女也。癸卯(みづのとうの)年即位、甲辰(きのえたつ)に改元。天下を治給こと十年。太子にゆづりて太上天皇と申。此時両上皇まし<ければ、嵯峨をば前(さきの)太上天皇、此御門をば後(のちの)太上天皇と申き。嵯峨(さがの)御門の御おきてにや、東宮には又此帝の御子恒貞(つねさだ)親王立(たち)給しが、両上皇かくれましし(ゝ)後にゆゑありてすてられ給き。五十七歳おまし<き。
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○第五十四代、第三十世、仁明(にんみやう)天皇。諱(いみな)は正良(まさら)〈 これよりさき御諱たしかならず。おほくは乳母(めのと)の姓(しやう)などを諱にもちゐられき。これより二字たゞしくましませばのせたてまつる 〉、深草(ふかくさ)の帝(みかど)とも申。嵯峨第二の子。御母皇太后橘(たちばな)の嘉智子(かちこ)、贈太政大臣清友女(きよとものむすめ)也。癸丑(みづのとうしの)年即位、甲寅(きのえとら)に改元。此天皇は西院の御門の猶子(いうし)の儀(ぎ)まし<ければ、朝覲(てうきん)も両皇(りやうくわう)にせさせ給。或時は両皇同所にして覲礼(きんれい)もありけりとぞ。我国のさかりなりしことはこの比ほひにやありけん。遣唐使(けんたうし)もつねにあり。帰朝の後、建礼門(けんれいもん)の前に、彼国(かのくに)のたから物の市(いち)をたてて(ゝ)、群臣にたまはすることも有き。律令(りつりやう)は文武の御代よりさだめられしかど、此御代にぞえらびとゝのへられにける。天下を治給こと十七年。四十一歳おまし<き。
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○第五十五代、文徳(もんとく)天皇。諱は道康(みちやす)、田村(たむら)の帝とも申。仁明第一の子。御母太皇太后藤原(の)順子(じゆんし)〈 五条の后(きさき)と申 〉、左大臣冬嗣(ふゆつぐ)の女也。庚午(かのえうまの)年即位、辛未(かのとひつじ)に改元。天下を治給こと八年。三十三歳おまし<き。
○第五十六代、清和(せいわ)天皇。諱は惟仁(これひと)、水尾(みづのを)の帝とも申。文徳第四の子。御母皇太后藤原の明子(あきらけいこ)〈 染殿(そめどの)の后と申 〉、摂政太政大臣良房の女也。我朝は幼主位にゐ給ことまれなりき。此天皇九歳にて即位、戊寅(つちのえとらの)年也。己卯(つちのとう)に改元。践祚(せんそ)ありしかば、外祖(ぐわいそ)良房の大臣はじめて摂政(せつしやう)せらる。摂政と云こと、もろこしには唐■(たうげう)の時、虞舜(ぐしゆん)を登用(あげもちゐ)て政(まつりこと)をまかせ給き。これを摂政と云(い)ふ。かくて三十年ありて正位をうけられき。殷(いん)の代に伊尹(いいん)と云聖臣(せいしん)あり。湯(たう)及(および)大甲(たいかう)を輔佐(ふさ)す。是は保衡(ほうかう)と云〈 阿衡(あかう)とも云(い)ふ 〉。其心(こころ)は摂政也。
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周の世に周公旦(しうこうたん)又大聖(たいせい)なりき。文王の子、武王の弟、成王の叔父(しゆくふ)なり。武王の代(よ)には三公につらなり、成王わかくて位につき給しかば、周公みづから南面(なんめん)して摂政す〈 成王を負(おひ)て南面せられけりともみえたり 〉。漢(かんの)昭帝又幼にて即位。武帝の遺詔(ゆゐぜう)により博陸(はくりく)侯霍光(くわくくわう)と云人、大司馬大将軍にて摂政す。中にも周公・霍氏をぞ先蹤(せう)にも申(まをす)める。本朝には応神うまれ給て襁褓(きやうほう)にまし<しかば、神功皇后天位にゐ給。しかれど摂政と申伝(まをしつたへ)たり。これは今の儀にはことなり。推古天皇の御時厩戸(うまやどの)皇太子摂政し給。これぞ帝は位に備(そなはり)て天下の政しかしながら摂政の御まゝなりける。齊明天皇の御世に、御子中(なか)の大兄(おほえ)の皇太子摂政し給。元明(げんめい)の御世のすゑつかた、皇女浄足姫(きよたらしひめ)の尊〈 元正天皇の御ことなり 〉しばらく摂政し給き。この天皇の御時良房の大臣の摂政よりしてぞまさしく人臣にて摂政することははじまりにける。但(ただし)此藤原の一門神代よりゆゑありて国王をたすけ奉ることはさきにも所々にしるし侍りき。淡海公の後、参議中衛(ちゆうゑの)大将房前(ふささき)、其子大納言真楯(またて)、その子右大臣内麿、この三代は上(かみ)二代のごとくさかえずやありけむ。内麿の子冬嗣(ふゆつぐ)の大臣〈 閑院(かんゐん)の左大臣と云(い)ふ。後に贈太政大臣 〉藤氏の衰(おとろへ)ぬることをなげきて、弘法大師に申(まをし)あはせて興福寺に南円(なんゑん)堂
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をたてて(ゝ)祈申(いのりまを)されけり。此時明神役夫(やくぶ)にまじはりて、
補陀落(ふだらく)の南の岸に堂たてて(ゝ)今ぞさかえん北の藤浪(ふじなみ) W
と詠(えいじ)給けるとぞ。此時源氏の人あまたうせにけりと申人あれど、大なるひがこと也。皇子皇孫の源(みなもと)の姓(しやう)を給(たまはり)て高官高位にいたることは此後のことなれば、誰人(たれひと)かうせ侍べき。されど彼一門のさかえしこと、まことに祈請(きせい)にこたへたりとはみえたり。
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大方この大臣とほき慮(おもひはかり)おはしけるにこそ。子孫親族の学問をすゝめんために勧学院を建立す。大学寮に東西の曹司(さうじ)あり。菅(くわん)・江(がう)の二家これをつかさどりて、人を教(をしふ)る所也。彼大学の南にこの院を立(たて)られしかば、南曹とぞ申める。氏長者(うぢのちやうじや)たる人むねとこの院を管領して興福寺及(および)氏の社(やしろ)のことをとりおこなはる。良房の大臣摂政せられしより彼一流につたはりて、
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たえぬことになりたり。幼主の時ばかりかとおぼえしかど、摂政関白もさだまれる職になりぬ。おのづから摂関と云名をとめらるゝ時も、内覧の臣をおかれたれば、執政の儀かはることなし。天皇おとなび給ければ、摂政まつりことをかへしたてまつりて、太政大臣にて白河に閑居せられにけり。君は外孫にましませば、猶も権をもはらにせらるともあらそふ人あるまじくや。されど謙退(けんたい)の心ふかく閑適(かんてき)をこのみて、つねに朝参(てうさん)などもせられざりけり。其比大納言伴善男(とものよしを)と云人寵(ちよう)ありて大臣をのぞむ志なんありける。時に三公闕(けつ)なかりき〈 太政大臣良房、左大臣信(まこと)、右大臣良相(よしすけ) 〉。信(まこと)の左大臣をうしなひて、其闕にのぞみ任ぜんとあひはかりて、まづ応天門を焼(やか)しむ。左大臣世をみだらんとするくはたてなりと讒奏(ざんそう)す。天皇おどろき給て、糺明(きうめい)におよばず、右大臣に召仰(めしおほせ)て、すでに誅せらるべきになりぬ。太政大臣このことをきゝ驚遽(おどろきあはて)られけるあまりに、烏帽子(えぼし)直衣(なほし)をきながら、白昼(はくちう)に騎馬(きば)して、馳参(はせさん)じて申なだめられにけり。其後に善男が陰謀あらはれて流刑(るけい)に処せらる。此大臣の忠節まことに無止(やんごとなき)ことになん。天皇仏法に帰(きし)給て、つねに脱■(だつし)の御志ありき。慈覚大師に受戒し給、法号を授(さづけ)奉らる。素真(そしん)と申。在位の帝、法号をつき給ことよのつねなら
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ぬにや。昔隋煬帝(ずゐのやうだい)の晉王(しんわう)と云し時、天台の智者(ちしや)に受戒して惣持(そうぢ)と云名をつかれたりし、よからぬ君の例(ためし)なれど、智者の昔のあとなれば、なぞらへもちゐられにけるにや。又この御時、宇佐の八幡大菩薩皇城の南、男山石清水(をとこやまいはしみづ)にうつり給。天皇聞食(きこしめし)て勅使(ちよくし)をつかはし、その所を点(てん)じ、もろ<のたくみにおほせて、新宮をつくりて宗廟に擬(ぎ)せらる〈 鎮坐の次第は上(かみ)にみえたり 〉。天皇天下を治給こと十八年。太子にゆづりてしりぞかせ給。中三とせばかりありて出家、慈覚の弟子にて潅頂うけさせ給。丹波(たんば)の水尾(みづのを)と云所にうつらせ給て、練行(れんぎやう)しましし(ゝ)が、ほどなくかくれ給。御年三十一歳おまし<き。
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○第五十七代、陽成(やうぜい)天皇。諱は貞明(さだあきら)、清和第一の子。御母皇太后藤原(の)高子(たかきこ)〈 二条の后と申 〉、贈太政大臣長良(ながら)の女也。丁酉(ひのととりの)年即位、改元。右大臣基経摂政して太政大臣に任ず〈 此大臣は良房の養子なり。実(まこと)は中納言長良の男。此天皇の外舅(ははかたのをぢ)也 〉。忠仁公(ちゆうじんこう)の故事のごとし。此天皇性(せい)悪(あく)にして人主の器(うつは)にたらずみえ給(たまひ)ければ、摂政なげきて廃立(はいりふ)のことをさだめられにけり。昔漢の霍光(くわくくわう)、昭帝をたすけて摂政せしに、昭帝世をはやくし給しかば、昌邑王(しやうゆうわう)を立(たて)て天子とす。昌邑不徳にして器にたらず。即(すなはち)廃立をおこなひて宣帝(せんてい)を立(たて)奉りき。霍光が大功とこそしるし伝(つた)へはべるめれ。此大臣まさしき外戚(ぐわいせき)の臣にて政(まつりこと)をもはらにせられしに、天下のため大義をおもひてさだめおこなはれける、いとめでたし。されば一家にも人こそおほくきこえしかど、摂政関白はこの大臣のすゑのみぞたえせぬことになりにける。つぎ<大臣大将にのぼる藤原の人々もみなこの大臣の苗裔(べうえい)なり。積善(しやくぜん)の余慶(よきやう)なりとこそおぼえはべれ。天皇天下を治給こと八年にてしりぞけられ、八十一歳までおまし<き。
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○第五十八代、第三十一世、光孝(くわうかう)天皇。諱は時康(ときやす)、小松御門(こまつのみかど)とも申(まをす)。仁明第二の子。御母贈皇太后藤原の沢子(さはこ)、贈太政大臣総継(ふさつぐ)の女なり。陽成しりぞけられ給し時、摂政昭宣(せうせん)公もろ<の皇子を相(さうし)申されけり。此天皇一品(いちほん)式部卿兼(けん)常陸(ひたちの)太守ときこえしが、御年たかくて小松の宮にまし<けるに、俄にまうでて(ゝ)見給ければ、人主の器量余(よ)の皇子たちにすぐれましけるによりて、すなはち儀衛(ぎゑい)をとゝのへてむかへ申されけり。本位(ほんゐ)の服を着しながら鸞輿(らんよ)に駕(が)して大内(だいだい)にいらせ給にき。ことし甲辰(きのえたつの)年なり。乙巳(きのとみ)に改元。践祚のはじめ摂政を改(あらため)て関白とす。これ我朝関白の始なり。漢の霍光(くわくくわう)摂政たりしが、宣帝の時政(まつりこと)をかへして退(しりぞき)けるを、「万機の政(まつりこと)猶霍光に関白(あづかりまうさ)しめよ。」とありし、その名を取りてさづけられにけり。此天皇昭宣公のさだめによりて立(たち)給しかば御志(こころざし)もふかゝりしにや、其子を殿上(てんじやう)にめして元服せしめ、御みづから位記(ゐき)をあそばして正五位下(げ)になし給けりとぞ。久(ひさしく)絶(たえ)にける芹(せり)川の御幸(ごかう)などありて、ふるきあとをおこさるゝことど(ゝ)もきこえき。
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天下を治給こと三年。五十七歳おまし<き。
大かた天皇の世つぎをしるせるふみ、昔より今に至(いたる)まで家々にあまたあり。
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かくしるし侍(はべる)もさらにめづらしからぬことなれど、神代より継体正統のたがはせ給はぬ一(ひと)はしを申さんがためなり。我国は神国(かみのくに)なれば、天照太神の御計(おんはからひ)にまかせられたるにや。されど其中(なか)に御あやまりあれば、暦数(れきすう)も久(ひさし)からず。又つひには正路(しやうろ)にかへれど、一旦(いつたん)もしづませ給ためしもあり。これはみなみづからなさせ給(たまふ)御とがなり。冥助(みやうじよ)のむなしきにはあらず。仏(ほとけ)も衆生をみちびきつくし、神も万姓(ばんしやう)をすなほならしめんとこそし給へど、衆生の果報しな<”に、うくる所の性(しやう)おなじからず。十善(じふぜん)の戒力(かいりき)にて天子とはなり給へども、代々の御行迹(かうせき)、善悪又まち<也。かゝれば本(もと)を本として正(しやう)にかへり、元(はじめ)をはじめとして邪(じや)をすてられんことぞ祖神(そじん)の御意(みこころ)にはかなはせ給べき。神武より景行まで十二代は御子孫そのまゝつがせ給へり。うたがはしからず。日本武(やまとたけ)の尊世をはやくしましし(ゝ)によりて、御弟成務へだた(ゝ)り給しかど、日本武の御子にて仲哀伝(つた)へまし<ぬ。仲哀・応神の御後(おんのち)に仁徳つたへ給へりし、武烈悪王にて日嗣(ひつぎ)たえましし(ゝ)時、応神五世の御孫にて、継体天皇えらばれ立(たち)給。これなむめづらしきためしに侍る。されど二(ふたつ)をならべてあらそふ時にこそ傍正(ばうしやう)の疑(うたがひ)もあれ、群臣皇胤なきことをうれへて求出(もとめいだし)奉りしうへ
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に、その御身賢(けん)にして天の命をうけ、人の望(のぞみ)にかなひまし<ければ、とかくの疑(うたがひ)あるべからず。其後相続(つぎ)て天智・天武御兄弟立給しに、大友の皇子の乱(みだれ)によりて、天武の御ながれ久(ひさしく)伝(つた)へられしに、称徳女帝にて御嗣(おんつぎ)もなし。又政(まつりこと)もみだりがはしくきこえしかば、たしかなる御譲(ゆずり)なくて絶にき。光仁又かたはらよりえらばれて立(たち)給。これなん又継体天皇の御ことに似玉へる。しかれども天智は正統にてまし<き。第一の御子大友こそあやまりて天下をえ給はざりしかど、第二の皇子にて施基(しき)のみこ御とがなし。其御子なれば、此天皇の立給へること、正理(しやうり)にかへるとぞ申侍べき。今の光孝又昭宣公のえらびにて立(たち)給といへども、仁明の太子文徳の御ながれなりしかど、陽成悪王にてしりぞけられ給しに、仁明第二の御子にて、しかも賢才諸親王にすぐれまし<ければ、うたがひなき天命とこそみえ侍し。かやうにかたはらより出(いで)給こと是まで三代なり。人のなせることと(ゝ)は心えたてまつるまじき也。さきにしるし侍ることは(わ)りをよくわきまへらるべき者哉(をや)。光孝より上(かみ)つかたは一向(いつかう)上古(しやうこ)也。よろづの例(ためし)を勘(かんがふる)も仁和(にんな)より下(しも)つかたをぞ申める。古(いにしへ)すら猶かゝる理(ことわり)にて天位を嗣給(つぎたまふ)。ましてすえ(ゑ)の世にはまさしき御ゆづりならでは、
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たもたせ給まじきことと(ゝ)心えたてまつるべき也。此御代より藤氏の摂■(せふろく)の家も他流にうつらず、昭宣公の苗裔(べうえい)のみぞたゞしくつたへられにける。上(かみ)は光孝の御子孫、天照太神の正統とさだまり、下(しも)は昭宣公の子孫、天児屋(あめのこやね)の命の嫡流(ちやくりう)となり給へり。二神(ふたはしらのかみ)の御ちかひたがはずして、上は帝王三十九代、下は摂関四十余人、四百七十余年にもなりぬるにや。
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○第五十九代、第三十二世、宇多(うた)天皇。諱は定省(さだみ)、光孝第三の子。御母皇太后(くわうたいこう)班子(はんし)の女王、仲野(なかの)親王〈 桓武(の)御子 〉の女也。元慶(ぐわんぎやう)の比(ころ)、孫王(そんわう)にて源氏の姓(しやう)
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を給(たまは)らせまします。そのかみ、つねに鷹狩(たかがり)をこのませ給けるに、ある時賀茂(かもの)大明神あらはれて皇位につかせ給べきよしをしめし申されけり。践祚(せんそ)の後、彼社(かのやしろ)の臨時の祭(まつり)をはじめられしは、大神の申うけ給けるゆゑとぞ。仁和(にんな)三年丁未(ひのとひつじ)の秋(あき)、光孝御病(やまひ)ありしに、御兄の御子たちをお(ゝ)きて譲(ゆづり)をうけ給。先(まづ)親王とし、皇太子にたち、即(すなはち)受禅。同(おなじき)年の冬即位。中一とせありて己酉(つちのととり)に改元。践祚の初より太政大臣基経(もとつね)又関白せらる。此関白薨(こうじ)て後(のち)はしばらくその人なし。天下を治給こと十年。位を太子にゆづりて太上天皇と申。中一とせばかりありて出家せさせ給。御年三十三にや。わかくよりその御志(こころざし)ありきとぞ仰(おほせ)給ける。弘法大師四代の弟子益信(やくしん)僧正を御師にて東寺にして潅頂(くわんぢやう)せさせ給。又智証(ちしよう)大師の弟子増命僧正(ぞうみやうそうじやう)にも〈 于時法橋也。後謚云靜観 〉比叡山にてうけさせ給へり。弘法の流をむねとせさせ給ければ、其御法流とて今にたえず、仁和寺(にんなじ)に伝侍(つたへはべる)は是なり。およそ弘法の流に広沢(ひろさは)〈 仁和寺 〉・小野〈 醍醐(だいご)寺・勧修寺(くわんじゆじ) 〉の二あり。広沢は法皇の御弟子寛空(くわんぐう)僧正、寛空の弟子寛朝(くわんでう)僧正〈 敦実(あつみ)親王(の)子、法皇(の)御孫也 〉。寛朝広沢にすまれしかば、かの流(ながれ)と云(い)ふ。そのの(ゝ)ち代々(だいだい)の御室(おむろ)相伝(つた)へてたゞ人はあひまじはらず〈 法流をあづけられて師範となることは両度あり。されど御室は代々親王なり 〉。
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小野の流は益信の相弟子(あひでし)に聖宝(しやうぼう)僧正とて知法無双(ちほふぶさう)の人ありき。大師の嫡流と称することのあるにや。しかれど年戒(ねんかい)おとられけるゆゑにや、法皇御潅頂の時は色衆(しきしゆ)につらなりて歎徳(たんどく)と云ことをつとめられたりき。延喜(えんぎ)の護持僧(ごぢそう)にて、ことに崇重(そうちようし)給き。其弟子観賢(くわんげん)僧正もあひついで護持申(まをす)。おなじく崇重ありき。綱中(かうちゆう)の法務を東寺の一阿闍梨(いちのあじやり)につけられしもこの時より始る〈 正(しやう)の法務はいつも東寺の一(いち)の長者(ちやうじや)なり。諸寺になるはみな権(ごんの)法務なり。又仁和寺の御室、惣(そう)の法務にて、綱所(かうしよ)を召仕(めしつかは)るゝことは後白河以来(このかた)の事歟(か) 〉。
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此僧正は高野(かうや)にまうでて(ゝ)、大師入定(にふぢやう)の窟(くつ)を開(ひらき)て御髪を剃(そり)、法服をきせかへ申(まをし)し人なり。其弟子(でし)淳祐(じゆんいう)〈 石山の内供(ないく)と云 〉相伴(ともな)はれけれどもつゐ(ひ)に見奉らず。師の僧正、その手をとりて御身にふれしめけりとぞ。淳祐罪障(ざいしやう)の至(いたり)をなげきて卑下(ひげ)の心ありければ、弟子元杲僧都(げんがうそうづ)に〈 延命院(えんみやうゐん)と云 〉許可(こか)ばかりにて授職(じゆしよく)
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をゆるさず。勅定(ちよくぢやう)によりて法皇の御弟子寛空(くわんぐう)にあひて授職潅頂をとぐ。彼元杲の弟子仁海(にんかい)僧正又知法の人なりき。小野と云所にすまれけるより小野流と云(い)ふ。しかれば法皇は両流の法主(ほふしゆ)にまします也。王位をさりて釈門(しやくもん)に入(いる)ことは其例(ためし)おほし。かく法流の正統となり、しかも御子孫継体し給へる、有がたきためしにや。今の世までもかしこかりしことには延喜・天暦と申ならはしたれど、此御世こそ上代によれれば無為(ぶゐ)の御政(まつりこと)なりけんとおしはかられ侍る。菅氏の才名(さいめい)によりて、大納言大将まで登用し給(たまひ)しも此御時也。又譲国(じやうこく)の時さま<”をしへ申されし、寛平(くわんべい)の御誡(ぎよかい)とて君臣あふぎてみたてまつることもあり。昔もろこしにも「天下の明徳は虞舜(ぐしゆん)より始る。」とみえたり。唐■のもちゐ給しによりて、舜の徳もあらはれ、天下の道もあきらかになりにけるとぞ。二代の明徳をもて此御ことおしはかり奉るべし。御寿(いのち)も長(ながく)て朱雀(すざく)の御代にぞかくれさせ給ける。七十六歳おまし<き。
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○第六十代、第三十三世、醍醐(だいご)天皇。諱は敦仁(あつひと)、宇多第一の子。御母贈皇太后
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藤原の胤子(たねこ)、内大臣高藤(たかふぢ)の女也。丁巳(ひのとみの)年即位、戊午(つちのえうま)に改元。大納言左大将藤原時平(ときひら)、大納言右大将菅氏、両人上皇の勅(みことのり)をうけて輔佐(ふさ)し申されき。後に左右の大臣に任(にんじ)てともに万機を内覧せられけりとぞ。御門(みかど)御年十四にて位につき給。をさなくまし<しかど、聰明叡哲(そうめいえいてつ)にきこえ給き。両大臣天下の政(まつりこと)をせられしが、右相は年もたけ才もかしこくて、天下のの(ゝ)ぞむ所なり。左相は譜第(ふだい)の器(うつは)也ければ、すてられがたし。或時上皇の御在所朱雀院に行幸、猶右相にまかせらるべしと云さだめありて、すでに召仰(めしおほせ)玉ひけるを、右相かたくのがれ申されてやみぬ。其事世にもれにけるにや、左相いきどほりをふくみ、さま<”の讒(ざん)をまうけて、つひにかたぶけ奉りしことこそあさましけれ。此君の御一失と申伝(まをしつたへ)はべり。但(ただし)菅氏権化(ごんげ)の御事なれば、末世(まつせ)のためにやありけん、はかりがたし。善相公清行(ぜんしやうこうきよつら)朝臣はこの事いまだきざさ(ゝ)ざりしに、かねてさとりて菅氏に災(わざはひ)をのがれ給べきよしを申けれど、さたなくて此事出来(いでき)にき。さきにも申はべりし、我国には幼主の立(たち)給こと昔はなかりしこと也。貞観(ぢやうぐわん)・元慶(ぐわんぎやう)の二代始て幼にて立(たち)玉ひしかば、忠仁公(ちゆうじんこう)・昭宣公(せうせんこう)摂政にて天下を治(をさめ)らる。此君
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ぞ十四にてうけつぎ給て、摂政もなく御みづから政(まつりこと)をしらせまし<ける。猶御幼年のゆゑにや、左相の讒にもまよはせ給けん。聖も賢も一失はあるべきにこそ。其趣(おもむき)経書(けいしよ)にみえたり。されば曾子(そうし)は、「吾日三省吾躬(われひにみたびわがみをかへりみる)。」と云(いひ)、季文子(きぶんし)は「三思(みたびおもふ)。」とも云(い)ふ。聖徳のほまれましまさんにつけてもいよ<つゝしみましますべきこと也。昔応神天皇も讒(ざん)をきかせ玉ひて、武内の大臣を誅せられんとしき。彼はよくのがれてあきらめられたり。このたびのこと凡慮およびがたし。ほどなく神とあらはれて、今にいたるまで霊験無双(れいげんぶさう)なり。末世(まつせ)の益(やく)をほどこさんためにや。讒を入(いれ)し大臣はのちなくなりぬ。同心ありけるたぐひもみな神罰(しんばち)をかうぶりにき。此君久(ひさし)く世をたもたせ給て、徳政(とくせい)をこのみ行はせ玉ふこと上代にこえたり。天下泰平(たいへい)民間安穏にて、本朝仁徳のふるき跡にもなぞらへ、異域(いいき)■舜のかしこき道にもたぐへ申き。延喜七年丁卯(ひのとうの)年、もろこしの唐滅(ほろび)て梁(りやう)と云国にうつりにけり。うちつゞき後唐(こうたう)・晉・漢・周となん云五代ありき。此天皇天下を治給こと三十三年。四十四歳おまし<き。
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○第六十一代、朱雀(すざく)天皇。諱は寛明(ひろあきら)、醍醐十一の子。御母皇太后藤原穏子(をんし)、関白太政大臣基経の女也。御兄保明(やすあきら)の太子〈 謚(おくりな)を文彦(ぶんげん)と申 〉早世、その御子慶頼(よしより)の太子もうちつゞきかくれましし(ゝ)かば、保明一腹(ひとつはら)の御弟にて立(たち)給。庚寅(かのえとらの)年即位、辛卯(かのとう)に改元。外舅(ははかたのをぢ)左大臣忠平(ただひら)〈 昭宣公の三男、後(のちに)貞信公(ていしんこう)と云 〉摂政せらる。寛平(くわんべい)に昭宣公薨(こうじ)てのちには、延喜御一代まで摂関なかりき。此君又幼主にて立給(たちたまふ)によりて、故事にまかせて万機を摂行(せつかう)せられけるにこそ。此御時、平(たひら)の将門(まさかど)と云物あり。上総介(かづさのすけ)高望(たかもち)が孫(まご)也〈 高望は葛原(かづらはら)の親王(の)孫(まご)、平姓(たひらのしやう)を給(たまは)る。桓武四代の御苗裔(べうえい)なりとぞ 〉。執政(しつせい)の家(いへ)につかうまつりけるが、使(し)の宣旨(せんじ)を望(のぞみ)申けり。不許(ふきよ)なるによりいきどほりをなし、東国に下向(げかう)して叛逆(ほんぎやく)をおこしけり。まづ伯父(をぢ)常陸(ひたち)の大掾(たいじよう)
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国香(くにか)をせめしかば、国香自殺しぬ。これより坂東(ばんどう)をお(ゝ)しなびかし、下総国(しもふさのくに)相馬郡(さうまのこほり)に居所をしめ、都(みやこ)となづけ、みづから平(へい)親王と称し、官爵をなしあたへけり。これによりて天下騒動す。参議(さんぎ)民部卿(みんぶきやう)兼(けん)右衛門督(うゑもんのかみ)藤原忠文朝臣(ただふんのあそん)を征東大将軍とし、源経基(つねもと)〈 清和の御すゑ六孫王と云(い)ふ。頼義(よりよし)・義家(よしいへの)先祖(せんぞ)也 〉・藤原仲舒(なかのぶ)〈 忠文の弟也 〉を副将軍としてさしつかはさる。平貞盛(さだもり)〈 国香が子 〉・藤原秀郷(ひでさと)等心を一(ひとつ)にして、将門をほろぼして其首(かうべ)を奉りしかば、諸将は道よりかへりまゐりにき〈 将門、承平(じようへい)五年二月(きさらぎ)に事をおこし、天慶(てんぎやう)三年二月に滅ぬ。其間(あひだ)六年へたり 〉。藤原純友(すみとも)と云物、かの将門に同意して西国にて叛乱(ほんらん)せしかば、少将小野好古(をののよしふる)を遣(つかはし)て追討せらる〈 天慶四年に純友はころさるとぞ 〉。かくて天下しづまりにき。延喜の御代さしも安寧(あんねい)なりしに、いつしか此乱(みだれ)出来(いできた)る。天皇もおだやかにまし<けり。又貞信公の執政なりしかば、政(まつりこと)たがふことははべらじ。時の災難にこそとおぼえ侍る。天皇御子ましまさず。一腹(ひとつはら)の御弟太宰帥(だざいのそつ)の親王を太弟(たいてい)にたてて(ゝ)、天位をゆづりて尊号あり。後に出家せさせ給。天下を治給こと十六年。三十歳おまし<き。
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○第六十二代、第三十四世、村上(むらかみ)天皇。諱は成明(なりあきら)、醍醐十四の子、朱雀同母の御弟也。丙午(ひのえうまの)年即位、丁未(ひのとひつじ)に改元。兄弟相譲(ゆづら)せ玉ひしかば、まめやかなる禅譲の礼儀ありき。此天皇賢明の御ほまれ先皇(せんくわう)のあとを継(つぎ)申させ給けれ
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ば、天下安寧なることも延喜・延長の昔にことならず。文筆諸芸を好(このみ)給こともかはりまさざ(ゝ)りけり。よろづのためしには延喜・天暦の二代とぞ申侍る。もろこしのかしこき明王も二、三代とつたはるはまれなりき。周にぞ文・武・成・康〈 文王は正位につかず 〉、漢には文・景(けい)なんどぞありがたきことに申ける。光孝かたはらよりえらばれ立給しに、うちつゞき明主の伝(つたは)り給し、我国の中興すべきゆゑにこそ侍けめ。又継体もたゞこの一流にのみぞさだまりぬる。すゑつかた天徳(てんとく)年中にや、はじめて内裏(だいり)に炎上(えんしやう)ありて内侍所(ないしどころ)も焼(やけ)にしが、神鏡は灰の中よりいだし奉らる。「円規(ゑんき)損ずることなくして分明(ふんみやう)にあらはれ出(いで)給。見奉る人、驚感(きやうかん)せずと云ことなし。」とぞ御記(ぎよき)にみえ侍る。此時に神鏡南殿(なでん)の桜(さくら)にかゝらせ給けるを、小野宮(をののみや)の実頼(さねより)のおとゞ袖にうけられたりと申ことあれど、ひが事をなん云伝侍(いひつたへはべる)也。応和(おうわ)元年辛酉(かのととりの)年もろこしの後周滅(ほろび)て宋の代にさだまる。唐の後、五代、五十五年のあひだ彼国大(おほき)に乱(みだれ)て五姓(ごしやう)うつりかはりて国の主(しゆ)たり。五季(ごき)とぞ云ける。宋の代に賢主うちつゞきて三百二十余年までたもてりき。此天皇天下を治給こと二十一年。四十二歳おまし<き。御子おほくまし<し中(なか)に冷泉・円融
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は天位につき給しかば申(まをす)におよばず。親王の中に具平(ともひらの)親王〈 六条の宮と申。中務卿(なかつかさきやう)に任(にんじ)給き。前(さき)に兼明(かねあきら)親王名誉おはしき。仍(よりて)これをば後(のちの)中書王と申 〉賢才文芸のかた代々の御あとをよく相継(あひつぎ)申玉ひけり。一条の御代に、よろづ昔をおこし、人を用(もちゐ)まし<ければ、この親王昇殿し給し日、清涼殿(せいりやうでん)にて作文(さくもん)ありしに〈 中殿の作文と云ことこれよりはじまる 〉「所貴是賢才」と云題にて韻(ゐん)をさぐらるゝことあり。此親王の御ためなるべし。凡(およそ)諸道にあきらかに、仏法の方(かた)までくらからざりけるとぞ。昔より源氏おほかりしかども、此御すゑのみぞいまに至(いたる)まで大臣以上に至て相継(つぎ)侍る。
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源氏と云ことは、嵯峨の御門世のつひえをおぼしめして、皇子皇孫に姓(しやう)を給(たまひ)て人臣となし給。すなはち御子あまた源氏の姓を給(たまは)る。桓武の御子葛原(かづらはらの)親王の男、高棟平(たかむねたひら)の姓を給る。平城の御子阿保(あほの)親王の男、行平(ゆきひら)・業平(なりひら)等在原(ありはら)
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の姓を給ることも此後のことなれど、これはたま<の儀也。弘仁以後代々の御後(のち)はみな源(みなもとの)姓を給(たまひ)しなり。親王の宣旨を蒙(かうぶ)る人は才不才(さいふさい)によらず、国々に封戸(ふこ)など立(たて)られて、世のつひえなりしかば、人臣につらね宦(みやづかへし)学(ものまなび)して朝要(てうえう)にかなひ、器(うつは)にしたがひ、昇進すべき御おきてなるべし。姓を給る人は直(ぢき)に四位に叙す〈 皇子皇孫にとりての事也 〉。当君のは三位なるべしと云〈 かゝれど其例(ためし)まれなり。嵯峨の御子大納言定(さだむの)卿三位に叙せしかども、当代にはあらず 〉。かくて代々のあひだ姓を給(たまはり)し人百十余人もやありけん。しかれど他流の源氏、大臣以上にいたりて二代と相続する人の今まできこえぬこそいかなるゆゑなるらん、おぼつかなけれ。嵯峨の御子姓を給(たまはる)人二十一人。この中(うち)、大臣にのぼる人、常(ときは)の左大臣兼(けん)大将、信(まこと)の左大臣、融(とほる)の左大臣。仁明の御子に姓を給人十三人。大臣にのぼる人、多(まさる)の右大臣、光(ひかる)の右大臣兼大将。文徳の御子に姓を給人十二人。大臣にのぼる人、能有(よしあり)の右大臣兼大将。清和の御子に姓を給人十四人。大臣にのぼる人、十世の御すゑに実朝(さねとも)の右大臣兼大将〈 これは貞純(さだすみ)親王の苗裔なり 〉。陽成の御子に姓を給人三人。光孝の御子に姓を給人十五人。宇多の御孫に姓を給(たまはり)て大臣にのぼる人、雅信(まさのぶ)の左大臣、重信(しげのぶ)の左大臣〈 ともに敦実(あつみ)親王の男なり 〉。醍醐の御子に姓を給人二十人。大臣
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にのぼる人、高明(たかあきら)の左大臣兼大将、兼明(かねあきら)の左大臣〈 後には親王とす。中務卿に任ず。前(さきの)中書王これなり 〉。この後は皇子の姓を給(たまはる)ことはたえにけり。皇孫にはあまたあり。任大臣を本(ほん)としるすによりてこと<”くはのせず。ちかくは後三条の御孫に有仁(ありひと)の左大臣兼大将〈 輔仁(すけひと)親王の男、白川院御猶子にて直(ぢき)に三位せし人なり 〉二世の源氏にて大臣にのぼれり。かやうにたま<大臣に至てもいづれか二代と相継(つげ)る。ほと<納言(なふごん)以上までつたはれるだにまれなり。雅信の大臣の末ぞおのづから納言までものぼりてのこりたる。高明の大臣の後四代、大納言にてありしもはやく絶にき。いかにもゆゑあることかとおぼえたり。皇胤(くわういん)の貴種(きしゆ)より出(いで)ぬる人、蔭(おん)をたのみ、いと才なんどもなく、あまさへ人におごり、ものに慢(まん)ずる心もあるべきにや。人臣の礼にたがふことありぬべし。寛平の御記にそのはしのみえはべりし也。後をもよくかゞみさせ給けるにこそ。
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皇胤は誠に也にことなるべきことなれど、我国は神代よりの誓(ちかひ)にて、君は天照太神の御すゑ国をたもち、臣は天児屋(あめのこやね)の御流君(きみ)をたすけ奉るべき器(うつは)となれり。源氏はあらたに出たる人臣なり。徳もなく、功もなく、高官にのぼりて人におごらば二(ふたはしらの)神の御とがめ有ぬべきことぞかし。なか<上古には皇子皇孫もおほくて、諸国にも封(ふう)ぜられ、将相(しやうしやう)にも任ぜられき。崇神天皇十年に始て四人(よにん)の将軍を任じて四道(しだう)へつかはされしも皆これ皇族なり。景行天皇五十一年始て棟梁(とうりやう)の臣を置(おき)て武内の宿禰を任ず。成務天皇三年に大臣(おほおみ)とす〈 我朝大臣(だいじん)これに始る 〉。六代の朝につかへて執政たり。此大臣(おほおみ)も孝元の曾孫なりき。しかれど、大織冠氏(うぢ)をさかやかし、忠仁公政(まつりこと)を摂(せつ)せられしより、もはら輔佐(ふさ)の器(うつは)として、立かへり、神代の幽契(いうけい)のまゝに成ぬるにや。閑院の大臣(おとど)冬嗣氏(うぢ)の衰(おとろへ)たることをなげきて、善をつみ功をかさね、神にいのり仏に帰せられける、其しるしも相くはゝり侍けんかし。此親王ぞまことに才もたかく徳もおはしけるにや。其子師房(もろふさ)姓を給(たまはり)て人臣に列せらしれ、才芸古(いにしへ)にはぢず、名望世に聞(きこえ)あり。十七歳にて納言に任じ、数十年
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の間(あいだ)朝廷の故実(こじつ)に練じ、大臣大将にのぼりて、懸車(けんしや)の齢(よはひ)までつかうまつらる。親王の女(むすめ)祇子(きし)の女王は宇治(うぢの)関白の室(しつ)なり。仍(よりて)此大臣をば彼関白の子にし給て、藤子(とうじ)にかはらず、春日社(かすがのやしろ)にもまゐりつかうまつられけりとぞ。又やがて御堂の息女に相嫁(あひか)せられしかば、子孫もみな彼(かの)外孫なり。このゆゑに御堂・宇治をば遠祖(とほつおや)の如くに思へり。それよりこのかた和漢の稽古(けいこ)をむねとし、報国の忠節をさきとする誠(まこと)あるによりてや、此一流のみたえずして十余代におよべり。その中にも行跡(かうせき)うたがはしく、貞節おろそかなるたぐひは、おのづから衰(おとろへ)てあとなきもあり。向後(きやうこう)と云(い)ふともつゝしみ思給べきこと也。大かた天皇の御ことをしるし奉る中(なか)に、藤氏のおこりは所々に申侍ぬ。源(みなもと)の流(ながれ)も久くなりぬる上に、正路をふむべき一はしを心ざしてしるし侍る也。君も村上の御流一(ひと)とほりにて十七代に成(なら)しめ給。臣も此御すゑの源氏こそ相つたはりたれば、たゞ此君の徳すぐれ給けるゆゑに余慶(よきやう)あるかとこそあふぎ申はべれ。
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○第六十三代、冷泉院(れいぜんゐん)。諱は憲平(のりひら)、村上第二の子。御母中宮藤原安子(やすこ)、右大臣師輔(もろすけ)の女也。丁卯(ひのとうの)年即位、戊辰(つちのえたつ)に改元。この天皇邪気(じやき)おはし
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ければ、即位の時大極殿(だいごくでん)に出(いで)給こともたやすかるまじかりけるにや、紫宸殿(ししんでん)にて其礼(れい)ありき。に年ばかりして譲国。六十三歳おはしましき。此御門より天皇の号を申さず。又宇多(うだ)より後、謚(おくりな)をたてまつらず。遺詔(ゆゐぜう)ありて国忌(こくき)・山陵(さんりよう)をお(ゝ)かれざることは君父(くんふ)のかしこき道なれど、尊号をとゞめらるゝことは臣子の義にあらず。神武以来(このかた)の御号も皆後代の定(さだめ)なり。持統・元明より以来(このかた)避位或(は)出家の君も謚をたてまつる。天皇とのみこそ申めれ。中古の先賢の議なれども心をえぬことに侍なり。
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○第六十四代、第三十五世、円融院(ゑんゆうゐん)。諱は守平(もりひら)、村上第五の子、冷泉同母の弟也。己巳(つちのとみの)年即位、庚午(かのえうま)に改元。天下を治給こと十五年。禅譲、尊号つねの如し。翌(つぎの)年の程にや御出家。永延(えいえん)の比、寛平の例(れい)をおふ(う)て、東寺(とうじ)にて潅頂(くわんぢやう)せさせ給。御師(おんし)はすなはち寛平の御孫弟子(でし)寛朝(くわんでう)僧正なり。三十三歳おまし<き。
○第六十五代、花山(くわさん)院。諱は師貞(もろさだ)、冷泉第一の子。御母皇后藤原懐子(かねこ)、摂政太政大臣伊尹(これまさ)の女也。甲申(きのえさるの)年即位、乙酉(きのととり)に改元。天下を治給こと二年ありて、俄(にはか)に発心(ほつしん)して花山寺(くわざんじ)にて出家し給。弘徽殿(こきでん)の女御(にようご)〈 太政大臣為光(ためみつ)の女也 〉かくれて悲歎(かなしみなげき)ましけるをりをえて、粟田関白道兼(みちかね)のおとゞのいまだ蔵人弁(くらうどのべん)ときこえし比にや、そゝのかし申てけるとぞ。山々をめぐりて修行せ
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させましし(ゝ)が、後には都にかへりてすませ給けり。是も御邪気ありとぞ申ける。四十一歳おまし<き。
○第六十六代、第三十六世、一条(いちでう)院。諱は懐仁(かねひと)、円融第一の子。御母皇后藤原詮子(せんし)〈 後には東三条院と申。后宮(こうぐう)院号の始也 〉、摂政太政大臣兼家(かねいへ)の女なり。花山の御門(みかど)神器をすてて(ゝ)宮を出給しかば、太子の外祖にて兼家の右大臣おはせしが、内(うち)にまゐり、諸門をかためて譲位の儀をおこなはれき。新主もをさなくまし<しかば、摂政の儀ふるきがごとし。丙戌(ひのえいぬの)年即位、丁亥(ひのとゐ)に改元。そのの(ゝ)ち摂政病に
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より嫡子(ちやくし)内大臣道隆(みちたか)に譲(ゆづり)て出家、猶准三宮(じゆさんぐう)の宣(せん)を蒙(かうぶる)〈 執政の人出家の始也。その比は出家の人なかりしかば、入道殿となん申。仍(よりて)源の満仲(まんぢゆう)出家したりしをはゞかりて新発(しんぼち)とぞ云ける 〉。此道隆始て大臣を辞(じし)て前官(ぜんくわん)にて関白せられき〈 前官の摂政もこれを始とす 〉。病(やまひ)ありて其子内大臣伊周(これかた)しばらく相かはりて内覧(ないらん)せられしが、相続して関白たるべきよしを存(ぞん)ぜられけるに、道隆かくれて、やがて弟右大臣道兼なられぬ。七日と云しにあへなくうせられにき。其弟にて道長(みちなが)、大納言にておはせしが内覧の宣をかうぶりて左大臣までいたられしかど、延喜・天暦の昔をおぼしめしけるにや、関白はやめられにき。三条の御時にや、関白して、後一条の御世の初、外祖にて摂政せらる。兄弟おほくおはせしに、此大臣のながれ一(ひとつ)に摂政関白はし給ぞかし。昔もいかなるゆゑにか、昭宣公の三男にて貞信公、貞信公(々々々)の二男にて師輔の大臣のながれ、師輔の三男にて東三条のおとゞ、東三条の三男にて〈 道綱(みちつなの)大将は一男歟。されど三弟にこされたり。仍(よりて)道長を三男としるす 〉このおとゞ、みな父の立(たて)たる嫡子ならで、自然(じねん)に家をつがれたり。祖神(そじん)のはからはせ給へる道にこそ侍りけめ〈 いづれも兄にこえて家をつたへらるべきゆゑありと申ことのあれど、ことしげければしるさず 〉。此御代にはさるべき上達部(かんだちめ)・諸道の家々・顕密の僧までもすぐれたる人おほかりき。されば御門(みかど)も「われ人を得たることは延喜・天暦にまされり。」
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とぞ自(みづから)歎(たん)ぜさせ給ける。天下を治給こと二十五年。御病の程(ほど)に譲位ありて出家せさせ給。三十三歳おまし<き。
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○第六十七代、三条(さんでう)院。諱は居貞(ゐやさだ)、冷泉第二の子。御母皇太后藤原(の)超子(てうし)、これも摂政兼家の女也。花山院世をのがれ給しかば、太子に立給しが、御邪気のゆゑにや、をり<御目のくらくおはしけるとぞ。辛亥(かのとゐの)年即位、壬子(みづのえね)に改元。天下を治給こと五年。尊号ありき。四十二歳おまし<き。
第六十八代、後一条(ごいちでう)院。諱は敦成(あつひら)、一条第二の子。御母皇后藤原彰子(しやうし)〈 後に上東(じやうとう)門院と申 〉、摂政道長の大臣の女也。丙辰(ひのえたつの)年即位、丁巳(ひのとみ)に改元。外祖道長のおとゞ摂政せられしが、のちに摂政をば嫡子頼通(よりみち)の内大臣におはせしにゆづり、猶太政大臣にて、天皇御元服の日、加冠(かくわん)・理髪父子(りはつふし)ならびて勤仕(きんし)せられしこそめづらしく侍しか。冷泉・円融の両流かはる<”しらせ給ひ
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しに、三条院かくれ給てのち、御子敦明(あつあきら)の御子、太子にゐ給しが、心とのがれて院号かうぶりて小(こ)一条院と申き。これより冷泉の御流はたえにけり。冷泉はこのかみにて御すゑも正統とこそ申べかりしに、昔天暦(てんりやくの)御時元方(もとかた)の民部卿のむすめ御息所(みやすどころ)、一(いち)のみこ広平(ひろひら)親王をうみたてまつる。九条殿の女御(にようご)まゐり給て、第二の皇子〈 冷泉にまします 〉いでき玉ひし比より、悪霊(あくりやう)になりてこのみこも邪気になやまされましき。花山院の俄(にはか)に世をのがれ、三条院の御目のくらく、此東宮のかくみづからしりぞき給ぬるも怨霊(をんりやう)のゆゑなりとぞ。円融も一腹(ひとつはら)の御弟におはしませど、これまではなやまし申ささざ(ゝ)りけるもしかるべき継体の御運まし<けるにこそ。東宮しりぞき給しかば、此天皇同母の御弟敦良(あつながの)親王立給き。天皇も御子なくて、彼(かの)東宮の御末ぞ継体せさせ給ぬる。天皇天下を治給こと二十年。二十九歳おまし<き。
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○第六十九代、第三十七世、後朱雀(ごすざく)院。諱は敦良(あつなが)、後一条同母の弟也。丙子(ひのえねの)年即位、丁丑(ひのとうし)に改元。天皇賢明にまし<けるとぞ。されど其比執柄(しつへい)権をほしきまゝにせられしかば、御政(まつりこと)のあときこえず。無念(むねん)なることにや。長久(ちやうきう)の比(ころ)内裏(だいり)に火(ひ)ありて、神鏡(しんきやう)焼給(やけたまふ)。猶霊光(れいくわう)を現(げん)じ給ければその灰をあつめて安置(あんぢ)せられき。天下を治給こと九年。三十七歳おまし<き。
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○第七十代、後冷泉(ごれいぜん)院。諱は親仁(ちかひと)、後朱雀第一の子。御母贈皇太后藤原嬉子(きし)〈 本は尚侍(ないしのかみ) 〉、摂政道長のおとゞ第三の女なり。乙酉(きのととりの)年即位、丙戌(ひのえいぬ)改元。此御代のすゑつかた、世の中やすからずきこえき。陸奥(みちのおく)にも貞任(さだたふ)・宗任(むねたふ)など云し者、国をみだりければ、源頼義(みなもとのよりよし)に仰(おほせ)て追討せらる〈 頼義陸奥守に任じ、鎮守府の将軍を兼(けん)す。彼家(かのいへ)鎮守将軍に任ずる始也。曾祖父経基(つねもと)は征東副将軍たりき 〉。十二年ありてなむしづめ侍ける。此君御子ましまさざりし上、後朱雀の遺詔(ゆゐぜう)にて、後三条東宮にゐ給へりしかば、継体はかねてよりさだまりけるにこそ。天下を治給こと二十三年。四十四歳おまし<き。
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巻五
○第七十一代、第三十八世、後三条(ごさんでう)院。諱は尊仁(たかひと)、後朱雀第二の子。御母中宮禎子内親王(ていしないしんわう)〈 陽明(やうめい)門院と申 〉、三条院の皇女也。後朱雀の御素意(おんそい)にて太弟に立(たち)給き。又三条の御末をもうけ給へり。むかしもかゝるためし侍き。両流を内外(ないぐわい)に〈 欽明(きんめい)天皇の御母手白香(たしらか)の皇女、仁賢(にんけん)天皇の御女、仁徳(にんとく)の御後也 〉うけ給て継体の主となりまします。戊申(つちのえさるの)年即位、己酉(つちのととり)に改元。此天皇東宮にて久(ひさし)くおはしましければ、しづかに和漢の文(ふみ)、顕密の教(をしへ)までもくらからずしらせ給。詩哥(しいか)の御製もあまた人の口に侍(はべる)めり。後冷泉のすゑざま世の中あれて民間のうれへありき。四月(うづき)より位(くらゐ)にゐ給しかば、いまだ秋のをさめにもおよばぬに、世の中のなほりにける、有徳(うとく)の君におまし<けるとぞ申伝はべる。始て記録所(きろくしよ)なんど云所おかれて国のおとろへたることをなほされき。延喜・天暦よりこなたにはまことにかしこき御ことなりけんかし。天下を治給こと四年。太子にゆづりて尊号あり。後に出家せさせ給。此御時より執柄の権おさへられて、君の御みづから政(まつりこと)をしらせ給ことにかへり侍にし。されどそのころまでも譲国
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の後、院中にて政務(せいむ)ありとはみえず。四十歳おまし<き。
○第七十二代、第三十九世、白河(しらかは)院。諱は貞仁(さだひと)、後三条第一の子。御母贈皇太后藤原茂子(もちこ)、贈太政大臣能信(よしのぶ)の女、実(まこと)は中納言公成(きんなり)の女也。壬子(みづのえねの)年即位、甲寅(きのえとら)に改元。古(いにしへ)のあとをおこされて野(の)の行幸(ぎやうかう)なんどもあり。又
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白河に法勝寺(ほつしようじ)を立(たて)、九重(くじゆう)の塔婆(たふば)なども昔の御願(ごぐわん)の寺々(てらでら)にもこえ、ためしなきほどぞつくりとゝのへさせ給ける。このの(ゝ)ち代ごとにうちつゞき御願寺(ごぐわんじ)を立られしを、造寺(ざうじ)熾盛(しじやう)のそしり有き。造作(ざうさく)のために諸国の重任(ちようにん)なんど云ことおほくなりて、受領(ずりやう)の功課(こうくわ)もたゞしからず、封戸(ふこ)・庄園(しやうゑん)あまたよせおかれて、まことに国の費(つひえ)とこそ成侍(なりはべり)にしか。天下を治給こと十四年。太子にゆづりて尊号あり。世の政(まつりこと)をはじめて院中にてしらせ給。後に出家せさせ給ても猶そのまゝにて御一期(おんいちご)はすごさせまし<き。おりゐにて世をしらせ給こと昔はなかりしなり。孝謙脱■(だつし)の後(のち)にぞ廃帝(はいたい)は位にゐ給ばかりとみえたれど、古代のことなればたしかならず。嵯峨・清和・宇多の天皇もたゞゆづりてのかせ給。円融(ゑんゆう)の御時はやう<しらせ給こともありしにや。院の御前(おんまへ)にて摂政兼家のおとゞうけ玉はりて、源の時中(ときなか)朝臣を参議になされたるとて、小野宮の実資(さねすけ)の大臣などは傾(かたぶけ)申されけるとぞ。されば上皇ましませど、主上(しゆじやう)をさなくおはします時はひとへに執柄の政(まつりこと)なりき。宇治の大臣の世となりては三代の君の執政にて、五十余年権をもはらにせらる。先代には関白の後は如在(じよさい)の礼(れい)にてありしに、あまりなる程になりにければにや、
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後三条院、坊の御時よりあしざまにおぼしめすよしきこえて、御中(なか)らひあしくてあやぶみおぼしめすほどのことになんありける。践祚の時即(すなはち)関白をやめて宇治にこもられぬ。弟の二条の教通(のりみち)の大臣、関白せられしはことの外に其権もなくおはしき。まして此御代には院にて政(まつりこと)をきかせ給へば、執柄はたゞ職にそなはりたるばかりになりぬ。されどこれより又ふるきすがたは一変するにや侍けん。執柄世をおこなはれしかど、宣旨(せんじ)・官符(くわんぷ)にてこそ天下の事は施行(しかう)せられしに、此御時より院宣(ゐんぜん)・庁御下文(ちやうのおんくだしぶみ)をおもくせられしによりて在位の君又位にそなはり給へるばかりなり。世の末になれるすがたなるべきにや。又城南(せいなん)の鳥羽(とば)と云所に離宮(りきゆう)をたて、土木(どぼく)の大(おほき)なる営(いとなみ)ありき。昔はおり位(ゐ)の君(きみ)は朱雀(すざく)院にまします。これを後院(ごゐん)と云(い)ふ。又冷然院にも〈 然字(ぜんのじ)火(ひ)のことにはゞかりありて泉の字に改む 〉おはしけるに、彼(かの)所々にはすませ給はず。白河よりのちには鳥羽殿(とばどの)をもちて上皇御坐(ござ)の本所(ほんじよ)とはさだめられにけり。御子堀河のみかど・御孫鳥羽の御門・御ひこ崇徳(すとく)の御在位まで五十余年〈 在位にて十四年、院中にて四十三年 〉世をしらせ給しかば、院中(ゐんちゆう)の礼(れい)なんど云こともこれよりぞさだまりける。すべて御心のまゝに久くたもたせ給し御代也。七十七歳おまし<き。
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○第七十三代、第四十世、堀河(ほりかは)院。諱は善仁(たるひと)、白河第二の子。御母中宮賢子(けんし)、右大臣源顕房(みなもとのあきふさ)の女、関白師実(もろさね)のおとゞの猶子(いうし)也。丙寅(ひのえとら)の年即位、丁卯(ひのとう)に改元。このみかど和漢の才まし<けり。ことに管絃(くわんげん)・郢曲(えいきよく)・舞楽(ぶがく)の方(かた)あきらかにまします。神楽(かぐら)の曲(きよく)などは今の世まで地下(ぢげ)につたへたるもこの御説(ごせつ)也。天下を治給こと二十一年。二十九歳おまし<き。
○第七十四代、第四十一世、鳥羽(とば)院。諱は宗仁(むねひと)、堀川(ほりかは)第一の子。御母贈皇太后藤原茨子(じし)、贈太政大臣実季(さねすゑ)の女也。丁亥(ひのとゐ)の年即位、戊子(つちのえね)に改元。天下を治給こと十六年。太子に譲(ゆづり)て尊号あり。白河代をしらせ給しかば、新院とて所々の御幸(ごかう)にもおなじ御車にてありき。雪見の御幸(ごかう)の日御烏帽子直衣(えぼしなほし)にふか沓(ぐつ)をめし、御馬にて本院の御車のさきにまし<ける、世にめづらかなる事なればこぞりてみ奉りき。昔弘仁(こうにん)の上皇、嵯峨の院にうつらせ給し日にや、御馬にてみやこよりいでさせまして宮城の内(うち)をも
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とほらせ給へりと云ことのみえ侍(はべり)し、かやうの例(ためし)にや有けん。御容儀めでたくまし<ければ、きらをもこのませ給けるにや、装束(しやうぞく)のこはくなり烏帽子のひたひなんど云ことも其比より出来(いでき)にき。花園の有仁(ありひと)のおとど又容儀ある人にて、おほせあはせて上下おなじ風になりにけるとぞ申める。白河院かくれ給て後、政(まつりこと)をしらせ給。御孫ながら御子の儀なれば、重服(ぢゆうぶく)をきさせ給けり。これも院中にて二十余年、そのあひだに御出家ありしかど、猶世をしらせ給き。されば院中のふるきためしには白河・鳥羽の二代を申侍(はべる)也。五十四歳おまし<き。
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○第七十五代、崇徳(すとく)院。諱は顕仁(あきひと)、鳥羽第二の子。御母中宮藤原璋子(しやうし)〈 待賢(たいけん)門院と申 〉、入道大納言公実(きんさね)の女也。癸卯(みづのとう)の年即位、甲辰(きのえたつ)に改元。戊申(つちのえさるの)年、宋(そうの)欽宗皇帝靖康(せいかう)三年にあたる。宋の政(まつりこと)みだれしより北狄(てき)の金(きん)国起(おこり)て上皇徽(き)宗並(ならび)に欽宗をとりて北にかへりぬ。皇弟高宗江をわたりて杭(かう)州と云所に都をたてて(ゝ)行在所(あんざいしよ)とす。南渡(なんと)と云はこれ也。此天皇天下を治給こと十八年。上皇と御中らひ心よからでしりぞかせ給き。保元(ほうげん)に、事ありて御出家ありしが、讚岐(さぬきの)国にうつされ給。四十六歳おまし<き。
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○第七十六代、近衛(このゑ)院。諱は体(なり)仁、鳥羽第八の子。御母皇后藤原得子(とくし)〈 美福(びふく)門院と申 〉、贈左大臣長実(ながさね)の女也。辛酉(かのととりの)年即位、壬戌(みづのえいぬ)に改元。天下を治給こと十四年。十七歳にて世をはやくしまし<き。
第七十七代、第四十二世、後白河(ごしらかは)院。諱は雅仁(まさひと)、鳥羽第四(の)子。崇徳同母の御弟也。近衛は鳥羽の上皇鍾愛(しようあい)の御子也しに、早世しまし<ぬ。崇徳の御子重仁(しげひと)親王つかせ給べかりしに、もとより御中(おんなか)心よからでやみぬ。上皇おぼしめしわづらひけれど、この御門(みかど)たゝせ給。立太子もなくてすぐにゐさせ給。今は此御末のみこそ継体し給へばしかるべき天命とぞおぼえ侍る。乙亥(きのとゐ)の年即位、丙子(ひのえね)に改元。年号を保元と云(い)ふ。鳥羽晏駕(あんが)ありしかば天下をしらせ給。左大臣頼長(よりなが)ときこえしは知足院(ちそくゐん)入道関白忠実(たださね)の次郎也。法性寺(ほふしやうじ)関白忠通(ただみち)のおとゞ此大臣の兄にて和漢の才たかくて、久(ひさしく)執柄(しつへい)にてつかへられき。この大臣も漢才はたかくきこえしかど、本性(ほんしやう)あしくおはしけるとぞ。父の愛子(あいし)にてよこざまに申(まをし)うけられければ、関白をお(ゝ)きながら藤氏(とうじ)の長者(ちやうじや)になり、内覧の宣旨を蒙(かうぶ)る。長者の
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他人にわたること、摂政関白はじまりては其例(ためし)なし。内覧は昔醍醐の御代のはじめつかた、本院の大臣と菅家と政(まつりこと)をたすけられし時、あひならびて其号ありきと申めれども、本院も関白にはあらず、其例(ためし)たがふにや。兄のおとゞは本性(ほんしやう)おだやかにおはしければ、おもひいれぬさまにてぞすごされける。近衛の御門かくれ給しころより内覧をやめられたりしに恨(うらみ)をふくみ、大方(おほかた)天下を我(わが)まゝにとはかられけるにや、崇徳の上皇を申すゝめて世をみだらる。父の法皇晏駕のの(ゝ)ち七け日ばかりやありけん。忠孝の道かけにけるよと見えたり。法皇もかねてさとらしめ給けるにや、平清盛(たひらのきよもり)・源義朝(みなもとのよしとも)等にめし仰て、内裏をまぼり奉るべきよし勅命(ちよくめい)ありきとぞ。
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上皇鳥羽よりいで給て白河の大炊殿(おほひどの)と云所にて、すでに兵をあつめられければ、清盛・義朝等に勅(みことのり)して上皇の宮をせめらる。官軍勝(かつ)にのりしかば、上皇は西山(にしやま)の方(かた)にのがれ、左大臣は流矢(ながれや)にあたりて、奈良坂辺(ならざかのほとり)までおちゆかれけるが、つひに客死(かくし)せられぬ。上皇御出家ありしかど猶讚岐にうつされ給。大臣(だいじん)の子共(ども)国々へつかはさる。武士どもも(ゝ)多く誅(ちゆう)にふしぬ。その中に源為義(みなもとのためよし)ときこえしは義朝が父也。いかなる御志かありけん、上皇の御方にて義朝と各別(かくべつ)になりぬ。余(よ)の子共(こども)は父に属(ぞく)しけるにこそ。軍(いくさ)やぶれて為義も出家したりしを、義朝あづかりて誅せしこそためしなきことに侍れ。嵯峨の御代に奈良坂のたゝかひありし後は、都に兵革(ひやうがく)と云ことなかりしに、これよりみだれそめぬるも時運(じうん)のくだりぬるすがたとぞおぼえはべる。此君の御乳母(めのと)
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の夫(をつと)にて少納言通憲(みちのり)法師と云しは、藤家の儒門(じゆもん)より出たり。宏才博覧(くわうさいはくらん)の人なりき。されど時にあはずして出家したりしに、此御世にいみじく用(もちゐ)られて、内々(ないない)には天下の事さながらはからひ申けり。大内(だいだい)は白河の御代より久(ひさしく)荒廃して、里内(りだい)にのみまし<しを、はかりことをめぐらし、国のつひえもなくつくりたてて(ゝ)、たえたる公事(くじ)どもを申おこなひき。すべて京中の道路などもはらひきよめて昔にかへりたるすがたにぞありし。天下を治給こと三年。太子にゆづりて、例(れい)のごとく尊号ありて、院中にて天下をしらせ給こと三十余年。そのあひだに御出家ありしかど政務はかはらず。白河・鳥羽両代のごとし。されどうちつゞき乱世にあはせ給しこそあさましけれ。五代の帝の父祖(ふそ)にて、六十六歳おまし<き。
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○第七十八代、二条(にでう)院。諱は守仁(もりひと)、後白河の太子。御母贈皇太后藤原懿子(いし)、贈太政大臣経実(つねさね)の女也。戊寅(つちのえとら)の年即位、己卯(つちのとう)に改元。年号を平治(へいぢ)と云(い)ふ。右衛門督藤原信頼(のぶより)と云人あり。上皇いみじく寵(ちよう)せさせ給て天下のことをさへまかせらるゝまでなりにければ、おごりの心きざして近衛(の)大将をのぞみ申(まをし)しを通憲法師いさめ申てやみぬ。其時源(みなもとの)義朝朝(々)臣が清盛朝臣におさへられて恨(うらみ)をふくめりけるをあひかたらひて叛逆(ほんぎやく)を思(おもひ)くはたてけり。保元の乱には、義朝が功たかく侍けれど、清盛は通憲法師が縁者(えんじや)になりてことのほかにめしつかはる。通憲法師・清盛等をうしなひて世をほしきまゝにせむとぞはからひける。清盛熊野(くまの)にまうでけるひまをうかゞひて、先(まづ)上皇御坐(ござ)の
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三条殿と云所をやきて大内(だいだい)にうつし申(まをし)、主上をもかたはらにおしこめたてまつる。通憲法師のがれがたくやありけん、みづからうせぬ。其子どもやがて国々へながしつかはす。通憲も才学あり、心もさかしかりけれど、己(おの)が非をしり、未萌(みばう)の禍(わざはひ)をふせぐまでの智分(ちぶん)やかけたりけん。信頼が非をばいさめ申(まをし)けれど、わが子共は顕職顕官(けんしよくけんくわん)にのぼり、近衛の次将なんどにさへなし、参議已上(いじやう)にあがるもありき。かくてうせにしかば、これも天意にたがふ所ありと云ことは疑なし。清盛このことをきゝ、道よりのぼりぬ。信頼かたらひおきける近臣等の中に心がはりする人々ありて、主上・上皇をしのびていだしたてまつり、清盛が家にうつし申(まをし)てけり。すなはち信頼・義朝等を追討せらる。程なくうちかちぬ。信頼はとらはれて首(かうべ)をきらる。義朝は東国へ心ざしてのがれしかど、尾張国にてうたれぬ。その首を梟(けう)せられにき。
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義朝重代の兵(つはもの)たりしうへ、保元の勲功すてられがたく侍(はべり)しに、父の首(かうべ)をきらせたりしこと大(おほき)なるとが也。古今にもきかず、和漢にも例(ためし)なし。勲功に申替(まをしかふ)ともみづから退(しりぞく)とも、などか父を申(まをし)たすくる道なかるべき。名行(めいかう)かけはてにければ、いかでかつひに其身をまたくすべき。滅(めつ)することは天の
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理(ことわり)也。凡(およそ)かゝることは其身のとがはさることにて、朝家(てうか)の御あやまり也。よく案(あん)あるべかりけることにこそ。其比(そのころ)名臣もあまた有しにや、又通憲法師専(もはら)申おこなひしに、などか諌申(いさめまをさ)ざりける。大義滅親云ことのあるは、石■(せきしやく)と云人其子をころしたりしがこと也。父として不忠の子をころすはことわりなり。父不忠なりとも子としてころせと云道理なし。孟子にたとへを取ていへるに、「舜の天子たりし時、其父瞽叟(こそう)人をころすことあらんを時の大理なりし皐陶(かうえう)とらへたらば舜はいかゞし給べきといひけるを、舜は位をすてて(ゝ)父をおひてさらまし。」とあり。大賢のをしへなれば忠孝の道あらはれておもしろくはべり。保元・平治より以来(このかた)、天下みだれて、武用(ぶよう)さかりに王位かろく成ぬ。いまだ太平の世にかへらざるは、名行のやぶれそめしによれることと(ゝ)ぞみえたる。かくてしばししづまれりしに、主上・上皇御中あしくて、主上の外舅(ははかたのをぢ)大納言経宗(つねむね)〈 後にめしかへされて、大臣大将までなりき 〉・御めのとの子別当惟方(これかた)等上皇の御意にそむきければ、清盛朝臣におほせてめしとらへられ、配所(はいしよ)につかはさる。これより清盛天下の権をほしきまゝにして、程なく太政大臣にあがり、其子大臣大将になり、あまさへ兄弟左右の大将にてならべりき〈 この御門の御世のことならぬもあり。ついでにしるしのす。 〉天下の諸国
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は半(なかば)すぐるまで家領(けりやう)となし、官位は多く一門家僕(かぼく)にふさげたり。王家(わうか)の権さらになきがごとくになりぬ。此天皇天下を治給こと七年。二十三歳おまし<き。
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○第七十九代、六条(ろくでう)院。諱は順仁(のぶひと)、二条の太子。御母大蔵少輔(おほくらのせう)伊岐兼盛(いきのかねもり)が女也〈 そのしないやしくて、贈位までもなかりしにや。 〉乙酉(きのととり)の年即位、丙戌(ひのえいぬ)に改元。天下を治給こと三年。上皇世をしらせ給しが、二条の御門の御ことにより心よからぬ御ことなりしゆゑにや、いつしか譲国の事ありき。御元服などもなくて、十三歳にて世をはやくしまし<き。
○第八十代、第四十三世、高倉(たかくら)院。諱は憲仁(のりひと)、後白河第五の御子。御母皇后平滋子(しげこ)〈 建春(けんしゆん)門院と申 〉、贈左大臣時信(ときのぶ)の女也。戊子(つちのえね)の年即位、己丑(つちのとうし)に改元。上皇天下をしらせ給こともとのごとし。清盛権をもはらにせしことは、ことさらに此御代のこと也。其女(むすめ)徳子(とくし)入内(じゆだい)して女御(にようご)とす。即(すなはち)立后(りつこう)ありき。末つかたやう<所々に反乱(ほんらん)のきこえあり。清盛一家非分のわざ天意にそむきけるにこそ。嫡子(ちやくし)内大臣重盛(しげもり)は心ばへさかしくて、父の悪行(あくぎやう)などもいさめとゞめけるさへ
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世をはやくしぬ。いよ<おごりをきはめ、権をほしきまゝにす。時の執柄にて菩提院(ぼだいゐん)の関白基房(もとふさ)の大臣おはせしも、中らひよろしからぬことありて、太宰権帥(だざいのごんのそつ)にうつして配流(はいる)せらる。妙音(めうおん)院の師長(もろなが)のおとゞも京中をいださる。その外(ほか)につみせらるゝ人おほかりき。従三位源頼政(よりまさ)と云しもの、院の御子似仁(もちひと)の王とて元服ばかりし給しかど、親王の宣(せん)などだになくて、かたはらなる宮おはせしをすゝめ申て、国々にある源氏の武士等にあひふれて平氏をうしなはんとはかりけり。ことあらはれて皇子もうしなはれ給ぬ。頼政もほろびぬ。かゝれど、それよりみだれそめてけり。義朝朝(々)臣が子頼朝(よりとも)〈 前右兵衛佐(さきのうひやうゑのすけ)従五位下、平治の比六位の蔵人(くらうど)たりしが、信頼事(こと)をおこしける時任官すとぞ 〉平治の乱に死罪を申(まをし)なだむる人ありて、伊豆(いづの)国に配流せられて、おほくの年をおくりしが、以仁の王の密旨(みつし)をうけ給(たまはり)、院よりも忍(しのび)て仰つかはす道ありければ、東国をすゝめて義兵(ぎへい)をおこしぬ。清盛いよ<悪行をのみなしければ、主上ふかくなげかせ給。俄(にはか)に避位(ひゐ)のことありしも世をいとはせまし<けるゆゑとぞ。天下を治給こと十二年。世の中の御いのりにや、平家のとりわきあがめ申(まをす)神なりければ、安芸(あき)の厳嶋(いつくしま)になむまゐらせ給ける。此御門御心ばへもめでたく孝行の御志ふかゝりき。管絃(くわんげん)のかたもすぐれておはしましけり。尊号
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ありてほどなく世をはやくし給。二十一歳おまし<き。
○第八十一代、安徳(あんとく)天皇。諱は言仁(ときひと)、高倉第一の子。御母中宮平徳子(とくし)〈 建礼(けんれい)門院と申 〉、太政大臣清盛女(きよもりのむすめ)他。庚子(かのえね)の年即位、辛丑(かのとうし)に改元。法皇猶世をしらせ給。平氏はいよ<おごりをなし、諸国はすでにみだれぬ。都をさへうつすべしとて摂津国(つのくに)福原とて清盛すむ所のありしに行幸せさせ
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申ける。法皇・上皇もおなじくうつしたてまつる。人の恨おほくきこえければにやかへし奉る。いくほどなく、清盛かくれて次男宗盛(むねもり)其あとをつぎぬ。世の乱(みだれ)をもかへりみず、内大臣に任ず。天性父にも兄にもおよばざりけるにや、威望もいつしかおとろへ、東国の軍すでにこはく成て、平氏の軍所々にて利をうしなひけるとぞ。法皇忍(しのび)て比叡山にのぼらせ給。平氏力をおとし、主上をすゝめ申(まをし)て西海(さいかい)に没落(ぼつらく)す。中みとせばかりありて、平氏こと<”く滅亡。清盛が後室(こうしつ)従二位平時子(ときこ)と云し人此君をいだき奉りて、神璽(しんし)をふところにし、宝剣をこしにさしはさみ、海中にいりぬ。あさましかりし乱世なり。天下を治給こと三年。八歳おまし<き。遺詔(ゆゐぜう)等のさたなければ、天皇と称し申(まをす)なり。
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○第八十二代、第四十四世、後鳥羽(ごとば)院。諱は尊成(たかひら)、高倉第四の子。御母七条(の)院、藤原殖子(しよくし)〈 先代の母儀(ぼぎ)おほくは后宮(こうぐう)ならぬは贈后(ぞうこう)也。院号ありしはみな先(まづ)立后のの(ゝ)ちのさだめ也。この七条院立后なくて院号の初なり。但(ただし)先(まづ)准后(じゆごう)の勅(みことのり)あり 〉、入道修理大夫(しゆりのだいぶ)信隆(のぶたかの)女也。先帝(せんだい)西海に臨幸ありしかど、祖父法皇の御世なりしかば、都はかはらず。摂政基通(もとみち)のおとゞぞ、平氏の縁(えん)にて供奉(ぐぶ)せられしかど、いさめ申(まをす)輩(ともがら)ありけるにや、九条の大路辺(おほぢのほとり)よりとゞまられぬ。そのほか平氏の親族ならぬ人々は御供つかまつる人なかりけり。還幸あるべきよし院宣(ゐんぜん)ありけれど、平氏承引(しよういん)申(まを)さず。よりて太上法皇の詔(みことのり)にて此天皇たゝせ給ぬ。親王の宣旨(せんじ)までもなし。先(まづ)皇太子とし、即(すなはち)受禅(じゆぜん)の儀あり。翌年(つぎのとし)甲辰(きのえたつ)にあたる年四月(うづき)に改元、七月(ふみづき)に即位。此同胞(どうはう)に高倉の第三の御子まし<しかども、法皇此君をえらび定申(さだめまをし)給けるとぞ。先帝(せんだい)三種の神器をあひぐせさせ給しゆゑに践祚(せんそ)の初(はじめ)の違例(ゐれい)に侍(はべり)しかど、法皇国(くに)の本主にて正統の位を伝(つた)へまします。皇太神宮・熱田の神あきらかにまぼり給ことなれば、天位つゝがましまさず。平氏ほろびて後、内侍所(ないしどころ)・神璽(しんし)はかへりいらせ給。宝剣はつひに海にしづみてみえず。其比ほひは昼(ひ)の御坐(ござ)の御剣(ぎよけん)を宝剣に擬(ぎ)せられたりしが、神宮の御告(つげ)にて神剣をたてまつらせ給しに
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よりて近比までの御まぼりなりき。
三種の神器の事は所々に申侍(まをしはべり)しかども、先(まづ)内侍所は神鏡也。八咫の鏡
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と申。正体は皇太神宮にいはひ奉る。内侍所にましますは崇神天皇の御代に鋳かへられたりし御鏡なり。村上の御時、天徳(てんとく)年中に火事にあひ給。それまでは円規(き)かけましまさず。後朱雀の御時、長久(ちやうきう)年中にかさねて火ありしに、灰燼(くわいじん)の中より光をさゝせ給けるを、をさめてあがめ奉られける。されど正体はつゝがなくて万代(ばんだい)の宗廟にまします。宝剣も正体は天(あめ)の叢雲(むらくも)の剣〈 後には草薙(くさなぎ)と云 〉と申は、熱田の神宮にいはひ奉る。西海にしづみしは崇神の御代におなじくつくりかへられし剣也。うせぬることは末世のしるしにやとうらめしけれど、熱田の神あらたなる御こと也。昔新羅(しらぎの)国より道行(だうぎやう)と云法師、来(きたり)てぬすみたてまつりしかど、神変(じんべん)をあらはして我国をいでたまはず。彼両種は正体昔にかはりましまさず。代々の天皇のとほき御まぼりとして国土のあまねき光となり給へり。うせにし宝剣はもとより如在(じよさい)のことと(ゝ)ぞ申侍べき。神璽(しんし)は八坂瓊の曲玉と申す。神代より今にかはらず、代々の御身をはなれぬ御まぼりなれば、海中よりうかび出給へるもことわり也。三種の御ことはよく心え奉るべきなり。なべて物しらぬたぐひは、上古の神鏡は天徳・長久の災(わざはひ)にあひ、草薙の宝剣は海にしづみにけりと申伝(まをしつたふ)ること侍にや。返々(かへすがへす)
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ひがこと也。此国は三種の正体をもちて眼目(がんもく)とし、福田(ふくでん)とするなれば、日月の天をめぐらん程は一(ひとつ)もかけ給まじき也。天照太神の勅(みことのり)に「宝祚のさかえまさんことあめつちときはまりなかるべし。」と侍れば、いかでか疑(うたがひ)奉るべき。今よりゆくさきもいとたのもしくこそおもひ給(たまふ)れ。
平氏いまだ西海にありしほど、源(みなもと)義仲と云物、まづ京都に入(いり)、兵威(へいゐ)をもて世の中のことをおさへおこなひける。征夷将軍に任ず。此官は昔坂上の田村丸までは東夷征伐のために任ぜられき。其後将門(まさかど)がみだれに右衛門督忠文(ただふん)朝臣征東将軍を兼(かね)て節刀(せつたう)を給(たまはり)しよりこのかた久くたえて任ぜられず。義仲ぞ初てなりにける。あまりなることおほくて、上皇御いきどほりのゆゑにや、近臣の中に軍(いくさ)をおこし対治せんとせしに事不成(ならず)して中々あさましき事なん
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いできにし。東国の頼朝、弟範頼(のりより)・義経(よしつね)等をさしのぼせしかば、義仲はやがて滅ぬ。さてそれより西国へむかひて、平氏をばたひらげしなり。天命きはまりぬれば、巨猾(きよくわつ)もほろびやすし。人民のやすからぬことは時の災難なれば、神も力およばせ給はぬにや。かくて平氏滅亡してしかば、天下もとのごとく君の御まゝなるべきかとおぼえしに、頼朝勲功まことにためしなかりければ、みづからも権をほしきまゝにす。君も又うちまかせられにければ、王家の権はいよ<おとろへにき。諸国に守護をお(ゝ)きて、国司の威をおさへしかば、吏務(りむ)と云こと名ばかりに成ぬ。あらゆる庄園郷保(しやうゑんがうほう)に地頭(ぢとう)を補せしかば、本所はなきがごとくになれりき。頼朝は従五位下前右兵衛佐(さきのうひやうゑのすけ)なりしが、義仲追討の賞に越階(をつかい)して正四位下に叙し、平氏追討の賞に又越階、従二位に叙す。建久(けんきう)の初にはじめて京上(きやうのぼり)して、やがて一度に権大納言に任ず。又右近の大将を兼す。頼朝しきりに辞(じし)申けれど、叡慮によりて朝奨(てうしやう)ありとぞ。程なく辞退してもとの鎌倉の館(たち)になんくだりし。其後征夷大将軍に拝任す。それより天下のこと東方のまゝに成にき。平氏のみだれに南都の東大寺・興福寺やけにしを、東大寺をば俊乗(しゆんじよう)と云上人すゝめたてければ、公家にも委任せられ、
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頼朝もふかく随喜(ずゐき)してほどなく再興す。供養(くやう)の儀ふるきあとをたづねておこなはれける、ありがたきことにや。頼朝もかさねて京上しけり。かつは結縁(けちえん)のため、かつは警固のためなりき。法皇かくれさせ給て、主上世をしらせ給。すべて天下を治給こと十五年ありしかば、太子にゆづりて尊号れいのごとし。院中にて又二十余年しらせ給しが、承久(じようきう)に、ことありて御出家、隠岐(おきの)国にてかくれ給ぬ。六十一歳おまし<き。
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○第八十三代、第四十五世、土御門(つちみかど)院。諱は為仁(ためひと)、後鳥羽の太子。御母承明門院(じようめいもんゐん)、源在子(みなもとのありこ)、内大臣通親(みちちか)の女(むすめ)也。父の御門の例(ためし)にて親王の宣旨なし。立太子の儀ばかりにてすなはち践祚あり。戊午(つちのえうま)の年即位、己未(つちのとひつじ)に改元。天下を治給こと十二年。太弟(たいてい)にゆづりて尊号例の如し。此御門まさしき正嫡(しやうちやく)にて御心ばへもたゞしくきこえ給しに、上皇鍾愛(しようあい)にうつされましけるにや、ほどなく譲国あり。立太子までもあらぬさまに成にき。承久の乱に時のいたらぬことをしらせ給ければにや、さま<”いさめましけれども、ことやぶれにしかば、玉石(ぎよくせき)ともにこがれて、阿波(あはの)国にてかくれさせ給。三十七歳おまし<き。
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○第八十四代、順徳(じゆんとく)院。諱は守成(もりなり)、後鳥羽第三の子。御母修明門院(しうめいもんゐん)、藤原の重子(しげこ)、贈左大臣範季(のりすゑ)の女也。庚午(かのえうま)の年即位、辛未(かのとひつじ)に改元。此御時征夷大将軍頼朝(の)次郎実朝(さねとも)、右大臣左大将までなりにしが、兄左衛門督(さゑもんのかみ)頼家(よりいへ)が子に、公暁(くげう)と云ける法師にころされぬ。又継人(つぐひと)なくて頼朝が跡はながくたえにき。頼朝が後室(こうしつ)に従二位平政子(たひらのまさこ)とて、時政(ときまさ)と云ものの(ゝ)女也し、東国のことをばおこなひき。其弟(おとうと)義時兵権をとりしが、上皇の御子をくだし申て、あふぎ奉るべきよし奏しけれど、不許にや有けん、九条摂政道家(みちいへ)のおとゞは頼朝の時より外戚(ぐわいせき)につゞきてよしみおはしければ、其子をくだして扶持し申ける。大方のことは義時がまゝになりにき。天下を治給こと十一年。譲国ありしが、事みだれて、佐渡(さどの)国にうつされ給。四十六歳おまし<き。
〔裏書(に)云実朝前右大将征夷大将軍頼朝卿二男也。建久十年正月頼朝薨。嫡男頼家可奉行諸国守護事由被宣下〈 于時(ときに)左近中将、正五位下 〉。建仁二年七月任征夷大将軍。同三年受病〈 狂病 〉。遷伊豆国修禅寺翌年遭害。頼家受病之後、為に母■義時等沙汰似実朝令継之。叙従五位下即日任征夷大将軍。次第昇進。不能具記。建保六年十二月二日任右大臣〈 元内大臣、左大将。大将猶帯之 〉。同七年〈 四月改元承久元 〉正月二十七日為拝賀参鶴岡八幡宮。実朝始中終遂不京上。有其煩故也云云(い)ふ。仍以参宮擬拝賀与。而神拝畢退出之処、彼宮別当公暁設刺客殺之〈 年二十八云云 〉。今日扈従人々公卿権大納言忠信坊門左衛門督実氏西園寺宰相中将国通高倉平三位光盛池刑部卿宗長難波殿上人権亮中将信能朝臣(同被殺云々)文章博士仲章朝臣右馬権頭能茂朝臣因幡少将高経伊与少将実種伯耆前司師孝右兵衛佐頼経地下前駈右京権大夫義時修理大夫雅義甲斐右馬助宗泰武蔵守泰時筑後前司頼時駿河左馬助教利蔵人大夫重綱藤蔵人大夫有俊長井遠江前司親広相模守時房足利武蔵前司義氏丹波蔵人大夫忠国前右馬助行光伯耆前司包時駿河前司季時信濃蔵人大夫行国相模前司経定美作蔵人大夫公近藤勾当頼隆平勾当時盛随身府生秦兼峯番長下毛野篤秀近衛秦公氏同兼村播磨定文中臣近任下毛野為光同為氏随兵十人武田五郎信光加々見次郎長清式部大夫河越次郎城介景盛泉次郎左衛門尉頼定長江八郎師景三浦小太郎兵衛尉朝村加藤大夫判官元定隠岐次郎左衛門尉基行〕
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○廃帝。諱は懐成(かねなり)、順徳の太子。御母東一条院、藤原充子(みつこ)、故摂政太政大臣良経女(よしつねのむすめ)也。承久三年春の比より上皇おぼしめしたつことありければ、にはかに譲国したまふ。順徳御身をかろめて合戦の事をも一(ひとつ)御心にせさせ給はん御はかりことにや、新主に譲位ありしかど、即位登壇(とうだん)までもなくて軍やぶれしかば、外舅(ははかたのをぢ)摂政道家の大臣の九条の第(てい)へのがれさせ給。三種(さんじゆの)神器をば閑院の内裏にすておかれにき。譲位の後七十七け日のあひだ、しばらく神器を伝給しかども、日嗣にはくはへたてまつらず。飯(いゝ)豊の天皇の例(ためし)になぞらへ申べきに
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こそ。元服などもなくて十七歳にてかくれまします。
さても其世の乱(みだれ)を思(おもふ)に、まことに末の世にはまよふ心もありぬべく、又下(しも)の上(かみ)をしのぐ端(はし)ともなりぬべし。其いはれをよくわきまへらるべき事にはべり。頼朝勲功は昔よりたぐひなき程なれど、ひとへに天下を掌(たなごころ)にせしかば、君としてやすからずおぼしめしけるもことわりなり。況(いはん)や其跡たえて後室の尼公(にこう)陪臣(ばいしん)の義時が世になりぬれば、彼跡をけづりて御心のまゝにせらるべしと云も一往(いちわう)いひなきにあらず。しかれど白河・鳥羽の御代の比より政道(せいだう)のふるきすがたやう<おとろへ、後白河の御時兵革(ひやうがく)おこりて■臣(かんしん)世をみだる。天下の民ほとんど塗炭(とたん)におちにき。頼朝一臂(いちび)をふるひて其乱(みだれ)をたひらげたり。王室はふるきにかへるまでなかりしかど、九重(ここのへ)の塵(ちり)もをさまり、万民の肩もやすまりぬ。
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上下堵(と)をやすくし、東より西より其徳に伏せしかば、実朝なくなりてもそむく者ありとはきこえず。是にまさる程の徳政なくしていかでたやすくくつがへさるべき。縱(たとひ)又うしなはれぬべくとも、民やすかるまじくは、上天よもくみし給はじ。次に王者(わうしや)の軍(いくさ)と云は、とがあるを討じて、きずなきをばほろぼさず。頼朝高官にのぼり、守護の職を給(たまはる)、これみな法皇の勅裁(ちよくさい)也。わたくしにぬすめりとはさだめがたし。後室その跡をはからひ、義時久く彼が権をとりて、人望にそむかざりしかば、下(しも)にはいまだきず有といふべからず。一往のいはればかりにて追討せられんは、上の御とがとや申べき。謀叛(むほん)おこしたる朝敵の利を得たるには比量(ひりやう)せられがたし。かゝれば時のいたらず、天のゆるさぬことはうたがひなし。但(ただし)下(しも)の上(かみ)を剋(こく)するはきはめたる非道なり。終(つひ)にはなどか皇化に不順(まつろはざる)べき。先(まづ)まことの徳政をおこなはれ、朝威をたて、彼を剋するばかりの道ありて、その上のことと(ゝ)ぞおぼえはべる。且は世の治乱のすがたをよくかゞみしらせ給て、私(わたくし)の御心なくば干戈(かんくわ)をうごかさるゝ歟(か)、弓矢をお(を)さめらるゝ歟、天の命にまかせ、人の望(のぞみ)にしたがはせ給べかりしことにや。つひにしては、継体の道も正路(しやうろ)にかへり、御子孫の世に一統の聖運をひらかれぬれば、御本意
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の末(すゑ)達せぬにはあらざれど、一旦(いつたん)もしづませ給しこそ口惜(くちをしく)はべれ。
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第八十五代、後堀河(ごほりかは)院。諱は茂仁(ゆたひと)、二品守貞(もりさだ)親王〈 後(のちの)高倉院と申 〉第三の子。御母北白河院、藤原陳子(ちんし)、入道中納言基家(もといへ)の女なり。入道親王は高倉第三の御子、後鳥羽同胞(どうはう)の御兄、後白河の御えらびにもれ給し御こと也。承久にことありて、後鳥羽の御ながれのほか、この御子ならでは皇胤(くわういん)ましまさず。よりて此孫王(そんわう)を天位につけたてまつる。入道親王尊号ありて太上皇と申て、世をしらせ給。追号の例は文武の御父草壁(くさかべ)の太子を長岡(ながをか)の天皇と申、淡路の帝(みかどの)御父舎人(とねりの)親王を尽敬(じんきやう)天皇と申、光仁の御父施基(しき)の王子を、
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田原天皇と申。早良(さはら)の廃太子は怨霊(をんりやう)をやすめられんとて崇道(すだう)天皇の号をおくらる。院号ありしことは小一条院ぞましける。此天皇辛巳(かのとみの)年即位、壬午(みづのえうま)に改元。天下を治給こと十一年。太子に譲て尊号例のごとし。しばらく政(まつりこと)をしらせ給しが、二十一歳にて世をはやくしおまし<き。
○第八十六代、四条(しでう)院。諱は秀仁(みつひと)、後堀河の太子。御母藻壁門院(さうへきもんゐん)、藤原の■子(そんし)、摂政左大臣道家女(みちいへのむすめ)也。壬辰(みづのえたつ)の年即位、癸巳(みづのとみ)に改元、例のごとし。一とせばかり有て、上皇かくれ給しかば、外祖にて道家のおとゞ王室の権をとりて、昔の執政のごとくにぞありし。東国にあふぎし征夷大将軍頼経(よりつね)も此大臣の胤子(いんし)なれば、文武一(ひとつ)にて権勢おはしけるとぞ。天下を治給こと十年。俄(にはか)に世をはやくし給。十二歳おまし<き。
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○第八十七代、第四十六世、後嵯峨(ごさが)院。諱は邦仁(くにひと)、土御門院第二の御子。御母贈皇太后源通子(みちこ)、贈左大臣通宗(みちむね)の女、内大臣通親(みちちか)の孫女(まごむすめ)なり。承久のみだれありし時、二歳にならせ給けり。通親の大臣の四男、大納言通方(みちかた)は父の院にも御傍親(ばうしん)、贈皇后にも御ゆかりなりしかば、収養(しうやう)し申てかくしおきたてまつりき。十八の御年にや、大納言さへ世をはやくせしかば、いとゞ無頼(ぶらい)になり給て、御祖母承明門院(じようめいもんゐん)になむうつろひまし<ける。二十二歳の御年、春正月十日四条院俄(にはか)に晏駕(あんが)、皇胤もなし。連枝のみこもましまさず。順徳院ぞいまだ佐渡におはしましけるが、御子達もあまた都にとゞまり給し、入道摂政道家のおとゞ、彼御方の外家(ぐわいけ)におはせしかば、此御流(ながれ)を天位につけ奉り、もとのまゝに世をしらんとおもはれけるにや、そのおもぶきを仰つかはしけれど、鎌倉の義時が子、泰時(やすとき)はからひ申てこの君をすゑ奉りぬ。誠に天命也、正理也。土御門院御兄にて御心ばへもおだしく、孝行もふかくきこえさせ給しかば、天照太神の冥慮(みやうりよ)に代(かはり)てはからひ申ける
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もことわり也。大方(おほかた)泰時心たゞしく政(まつりこと)すなほにして、人をはぐく(ゝ)み物におごらず、公家(くげ)の御ことをおもくし、本所(ほんじよ)のわづらひをとゞめしかば、風の前に塵なくして、天の下すなはちしづまりき。かくて年代をかさねしこと、ひとへに泰時が力とぞ申伝ぬる。陪臣(ばいしん)として久しく権をとることは和漢両朝に先例なし。其主(しゆ)たりし頼朝すら二世をばすぎず。義時いかなる果報にか、はからざる家業をはじめて、兵馬の権をとれりし、ためしまれなることにや。されどことなる才徳はきこえず。又大名(たいめい)の下にほこる心や有けん、中二とせばかりぞありし、身まかりしかど、彼泰時あひつぎて徳政をさきとし、法式をかたくす。己(おのれ)が分をはかるのみならず、親族ならびにあらゆる武士までもいましめて、高(たかき)官位をのぞむ者なかりき。其政(まつりこと)次第のままにおとろへ、つひに滅ぬるは天命のをはるすがたなり。七代までたもてるこそ彼が余薫(よくん)なれば、恨(うらむる)ところなしと云つべし。
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凡(およそ)保元・平治よりこのかたのみだりがはしさに、頼朝と云人もなく、泰時と云者なからましかば、日本国の人民いかゞなりなまし。此いはれをよくしらぬ人は、ゆゑもなく、皇威のおとろへ、武備のかちにけるとおもへるはあやまりなり。所々に申はべることなれど、天日嗣(あまつひつぎ)は御譲(ゆづり)にまかせ、正統にかへらせ給にとりて、用意あるべきことの侍也。神は人をやすくするを本誓(ほんぜい)とす。天下の万民は皆神物(じんもつ)なり。君は尊くましませど、一人(いちにん)をたのしましめ万民をくるしむる事は、天もゆるさず神もさいはひせぬいはれなれば、政(まつりこと)の可否にしたがひて御運の通塞(とうそく)あるべしとぞおぼえ侍る。まして人臣としては、君をたふとび民をあはれみ、天にせくぐ(ゝ)まり地にぬきあしし(ゝ)、日月(ひつき)のてらすをあふぎても心の黒(きたなく)して光にあたらざらんことをおぢ、雨露(あめつゆ)のほどこすをみても身のただしからずしてめぐみにもれんことをかへりみるべし。朝夕(あさゆふ)に長田狭田(ながたさた)の稲のたねをくふ
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も皇恩也。昼夜(ちうや)に生(いく)井栄(さく)井の水のながれを飲(のむ)も神徳也。これを思(おもひ)もいれず、あるにまかせて欲をほしきまゝにし、私(わたくし)をさきとして公(おほやけ)をわするゝ心あるならば、世に久(ひさし)きことわりもはべらじ。いはんや国柄(こくへい)をとる仁(じん)にあたり、兵権をあづかる人として、正路(しやうろ)をふまざらんにおきて、いかで其運をまたくすべき。泰時が昔を思(おもふ)には、よくまことある所(ところ)有(あり)けむかし。子孫はさ程の心あらじなれど、かたくしける法のまゝにおこなひければ、およばずながら世をもかさねしにこそ。異朝のことは乱逆(らんげき)にして紀(のり)なきためしおほければ、例(ためし)とするにたらず。我国は神明の誓いちじるくして、上下の分さだまれり。しかも善悪の報(むくい)あきらかに、困果のことわりむなしからず。かつはとほからぬことど(ゝ)もなれば、近代の得失をみて将来の鑒誡(かんかい)とせらるべきなり。抑(そもそも)此天皇正路にかへりて、日嗣をうけ給し、さきだちてさま<”の奇瑞(きずゐ)ありき。又土御門院阿波国にて告文(かうもん)をかゝせまして、石清水(いはしみづ)の八幡宮に啓白(けいびやく)せさせ給ける、其御本懐すゑとほりにしかば、さま<”の御願(ごぐわん)をはたされしもあはれなる御こと也。つひに継体の主(しゆ)として此御すゑならぬはましまさず。壬寅(みづのえとら)の年即位、癸卯(みづのとう)の春改元。御身をつゝしみ給ければにや、天下を治給こと四年。太子をさなくまし<しかども
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譲国あり。尊号例のごとし。院中にて世をしらせ給(たまひ)、御出家の後もかはらず、二十六年ありしかば、白河・鳥羽よりこなたにはおだやかにめでたき御代なるべし。五十三歳おまし<き。
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○第八十八代、後深草(のちのふかくさ)院。諱は久仁(ひさひと)、後嵯峨第二の子。御母大宮(おほみや)院、藤原の■子(きつし)、太政大臣実氏(さねうぢ)の女也。丙午(ひのえうま)の年四歳にて即位、丁未(ひのとひつじ)に改元。天下を治給こと十三年。后腹(きさいばら)の長子にてまし<しかども、御病おはしましければ、同母の御弟恒仁(つねひと)親王を太子にたてて(ゝ)、譲国、尊号例のごとし。伏見御代にぞしばらく政(まつりこと)をしらせ給しが、御出家ありて政務をば主上
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に譲り申させ給。五十八歳おまし<き。
○第八十九代、第四十七世、亀山(かめやま)院。諱は恒仁(つねひと)、後深草院同母の御弟也。己未(つちのとひつじ)の年即位、庚申(かのえさる)に改元。此天皇を継体とおぼしめしおきてけるにや、后腹(きさいばら)に皇子うまれ給しを後嵯峨とりやしなひまして、いつしか太子に立給(たてたまひ)ぬ。後深草の〈 其時新院と申き 〉御子もさき立(だち)て生(うまれ)給しかどもひきこされましにき〈 太子は後宇多にまします。御年二歳。後深草の御子に伏見、御年四歳になり給ける 〉。後嵯峨かくれさせ給てのち、兄弟の御あはひにあらそはせ給ことありければ、関東より母儀(ぼぎ)大宮院にたづね申けるに、先院(せんゐん)の御素意は当今(たうぎん)にましますよしをおほせつかはされければ、ことさだまりて、禁中(きんちゆう)にて政務せさせ給。天下を治給こと十五年。太子にゆづりて、尊号れいのごとし。院中にても十三年まで世をしらせ給。事あらたまりにし後、御出家。五十七歳おまし<き。
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○第九十代、第四十八世、後宇多(ごうだ)院。諱は世仁(よひと)、亀山の太子。御母皇后藤原(の)僖子(きし)〈 後に京極(きやうごく)院と申 〉、左大臣実雄(さねを)の女也。甲戌(きのえいぬ)の年即位、乙亥(きのとゐ)改元。丙子(ひのえね)の年、もろこしの宋(そうの)幼帝徳祐(とくいう)二年にあたる。ことし、北狄(ほくてき)の種(しゆ)、蒙古(もうこ)おこりて元国と云しが宋の国を滅(ほろぼ)す〈 金(きん)国おこりにしより宋は東南の杭(こう)州にうつりて百五十年になれり。蒙古おこりて、先(まづ)金国をあはせ、のちに江をわたりて宋をせめしが、ことしつひにほろぼさる 〉。辛巳(かのとみ)の年〈 弘安四年なり 〉蒙古の軍(いくさ)おほく船をそろへて我国を侵(をか)す。筑紫(つくし)にて大(おほき)に合戦あり。神明(しんめい)、威をあらはし形(かたち)を現じてふせがれけり。大風にはかにおこりて数十万艘の賊船みな漂倒(へうたう)破滅(はめつ)しぬ。末世といへども神明の威徳不可思議なり。誓約のかはらざることこれにておしはかるべし。この天皇天下を治給こと十三年。おもひの外にのがれまし<て十余年ありき。後二条の御門立給しかば、世をしらせ給。遊義門院(いうぎもんゐん)かくれまして、御歎(なげき)のあまりにや、出家せさせ給。前(さきの)大僧正禅助(ぜんじよ)を御師として、宇多・円融の例により、東寺にて潅頂せさせ給。めづらかにたふとき事にはべりき。其日は後醍醐の御門、中務(なかつかさ)の親王とて王卿の座につかせ御座(ましま)す。只今の心地
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ぞしはべる。後二条かくれさせ給しのち、いとゞ世をいとはせたまふ。嵯峨の奥、大覚寺と云所に、弘仁・寛平の昔の御跡をたづねて御寺などあまた立(たて)てぞおこなはせ給し。其後、後(々)醍醐の御門位につきまし<しかば、又しばらく世をしらせ給て、三とせばかり有てゆづりまし<き。
大方この君は中古よりこなたにはありがたき御ことと(ゝ)ぞ申侍べき。文学の方も後三条の後にはかほどの御才きこえさせ給はざりしにや。寛平(くわんべい)
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の御誡(ぎよかい)には、帝皇(ていわう)の御学問は群書治要(ぐんしよちえう)などにてたりぬべし。雑文(ざふぶん)につきて政事(まつりこと)をさまたげ給ふなとみえたるにや。されど延喜・天暦・寛弘・延久の御門みな宏才博覧に、諸道をもしらせたまひ、政事も明(あきらか)にまし<しかば、先(さきの)二代はことふりぬ、つぎては寛弘・延久をぞ賢王とも申める。和漢の古事をしらせ給はねば、政道(せいだう)もあきらかならず、皇威もかろくなる、さだまれる理(ことわり)なり。尚書に■・舜・禹の徳をほむるには「古(いにしへ)に若稽(したがひかんがふ)。」と云(い)ふ。傅説(ふえつ)が殷(いんの)高宗ををしへたるには「事古(いにしへ)を師(し)とせずして、世にながきことは説(えつ)がきかざる所なり。」とあり。唐(たう)に仇士良(きうしりやう)とて、近習(きんじふ)の宦者(くわんじや)にて内権(ないけん)をとる、極(きはめ)たる■人(かんじん)也。其党類(たうるゐ)にをしへけるは「人主に書をみせたてまつるな。はかなきあそびたはぶれをして御心をみだるべし。書をみて此道を知(しり)たまはば(ゝ)、我(わが)ともがらはうせぬべし。」と云ける、今もありぬべきことにや。寛平の群書治要をさしての給ける、部(ぶ)せばきに似たり。但(ただし)此書は唐太宗、時の名臣魏徴(ぎちよう)をしてえらばせられたり。五十巻の中に、あらゆる経(けい)・史・諸子までの名文をのせたり。全経の書・三史等をぞつねの人はまなぶる。此書にのせたる諸子なんどはみる者すくなし。ほと<名をだにしらぬたぐひもあり。まして万機を
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しらせ給はんに、これまでまなばせ給ことよしなかるべきにや。本経等をならはせまし<そまではあるべからず。已(すで)に雑文とてあれば、経・史の御学問のうへに此書を御覧じて諸子等の雑文までなくともの御心なり。寛平はことにひろくまなばせ給ければにや、周易(しうやく)の深き道をも愛成(ちかなり)と云博士にうけさせ給き。延喜の御こと左右(さう)にあたはず。菅氏輔佐(ふさ)したてまつられき。其後も紀納言(きなふごん)・善相公(しやうこう)等の名儒(めいじゆ)ありしかば、文道のさかりなりしことも上古におよべりき。此御誡(ぎよかい)につきて「天子の御学問さまでなくとも」と申(まをす)人(ひと)のはべる、あさましきことなり。何事も文の上にてよく料簡(れうけん)あるべきをや。此君は在位にても政事(まつりこと)をしらせ給はず、又院にて十余年閑居し給へりしかば、稽古にあきらかに、諸道をしらせ給なるべし。御出家の後もねむごろにおこなはせまし<き。上皇の出家せさせ給ことは、聖武・孝謙・平城・清和・宇多・朱雀・円融・花山・後三条・白河・鳥羽・崇徳・後白河・後鳥羽・後嵯峨・深草・亀山にまします。醍醐・一条は御病おもくなりてぞせさせ給し。かやうにあまたきこえさせ給しかど、戒律を具足(ぐそく)し、始終かくることなく密宗をきはめて大阿闍梨(あじやり)をさへせさせ給しこといとありがたき御こと也。
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この御すゑに一統の運をひらかるゝ、有徳の余薫とぞおもひ給(たまふ)る。元亨(げんかう)のすゑ甲子(きのえね)の六月(みなづき)に五十八歳にてかくれまし<き。
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巻六
○第九十一代、伏見(ふしみ)院。諱は煕仁(ひろひと)、後深草第一の子。御母玄輝門院(げんきもんゐん)、藤原(の)■子(やすこ)、左大臣実雄(さねを)の女也。後嵯峨の御門、継体をば亀山とおぼしめし定ければ、深草の御流いかゞとおぼえしを、亀山、弟順(ていじゆん)の儀をおぼしめしけるにや、此君を御猶子(ごいうし)にして東宮にすゑ給ぬ。そのの(ゝ)ち御心もゆかず、あしざまなる事さへいできて践祚ありき。丁亥(ひのとゐ)の年即位、戊子(つちのえね)に改元。東宮にさへ此天皇の御子ゐ給き。天下を治給こと十一年。太子にゆづりて尊号例の如し。院中にて世をしらせ給しが、程なく時うつりにしかど、中六とせばかり有て又世をしり給き。関東の輩(ともがら)も亀山の正流をうけたまへることはしり侍りしかど、近比となりて、世をうたがはしく思ければにや、両皇の御流をかはる<”すゑ申さんと相計(はからひ)けりとなん。のちに出家せさせ給。五十歳おまし<き。
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○第九十二代、後伏見(ごふしみ)院。諱は胤仁(たねひと)、伏見第一の子。御母永福門院(えいふくもんゐん)、藤原■子(しやうし)、入道太政大臣実兼(さねかね)の女なり。実(まこと)の御母は准三宮(じゆさんぐう)藤原経子(つねこ)、入道参議経氏女(つねうぢのむすめ)也。戊戌(つちのえいぬ)の年即位、己亥(つちのとゐ)に改元。天下を治給こと三年。推譲(すゐじやう)のことあり。尊号例のごとし。正和(しやうわ)の比、父の上皇の御譲(ゆづり)にて世をしらせ給。時の御門は御弟なれど、御猶子の儀なりとぞ。元弘に、世の中みだれし時又しばらくしらせ給。事あらたまりても、かはらず都にすませまし<しかば、出家せさせ給て、四十九歳にてかくれさせまし<き。
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○第九十三代、後二条(ごにでう)院。諱は邦治(くにはる)、後宇多第二の子。御母西花(せいくわ)門院、源基子(みなもとのもとこ)、内大臣具守(とももり)の女なり。辛丑(かのとうし)の年即位、壬寅(みづのえとら)に改元。天下を治給こと六年有て、世をはやくし給。二十四歳おまし<き。
○第九十四代の天皇。諱は富仁(とみひと)、伏見第三の子。御母顕親門院(けんしんもんゐん)、藤原季子(すゑこ)、左大臣実雄(さねを)の女也。戊申(つちのえさる)の歳即位、改元。〔裏書(に)云(い)ふ。天子践祚以禅譲年属先代、踰年即位、是古礼也。而我朝当年即位翌年改元已為流例。但禅譲年即位改元又非無先例。和銅八年九月元明禅位。即日元正即位、改元為霊亀。養老八年二月元正禅位。即日聖武即位、改元為神亀。天平感宝元年四月聖武禅位。同年七月孝謙即位、改元為天平勝宝。神護景雲四年八月称徳崩、同年十月光仁即位、十一月改元為宝亀。徳治三年八月後二条崩、同年月新主即位、十月改元為延慶。又踰年不改元例。天平宝字二年淡路帝即位、不改元。仁和三年宇多帝即位、不改元。隔年改為寛平。延久四年白河帝即位、又不改元。隔年改為承保等也。即位似前改元例、寿永二年八月後鳥羽受禅、同三年四月改元為元暦、七月即位。是非常例也。〕父の上皇世をしらせ給しが、御出家の後は御譲にて、御兄の上皇しらせまします。法皇かくれ給ても諒闇(りやうあん)の儀なかりき。上皇御猶子(いうし)の儀とぞ。例なきこと也。天下を治給こと十一年にてのがれ給。尊号例の如し。世の中あらたまりて出家せさせ給き。
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○第九十五代、第四十九世、後醍醐(ごだいご)天皇。諱は尊治(たかはる)、後宇多第二の御子。御母談天門院(だんてんもんゐん)、藤原忠子(ただこ)、内大臣師継(もろつぐ)の女、実(まこと)は入道(にふだう)参議忠継女(ただつぐのむすめ)なり。御祖父亀山の上皇やしなひ申給き。弘安(こうあん)に、時うつりて亀山・後宇多世をしろしめさずなりにしを、たび<関東に仰(おほせ)給しかば、天命の理(ことわり)かたじけなくおそれ思ければにや、俄(にはか)に立太子の沙汰ありしに、亀山はこの君をすゑ奉らんとおぼしめして、八幡宮に告文(かうもん)ををさめ給しかど、一(いち)の御子(みこ)さしたるゆゑなくてすてられがたき御ことなりければ、後二条ぞゐ給へりし。されど後宇多の御心ざしもあさからず。御元服ありて村上の例(ためし)により、太宰帥(だざいのそつ)にて節会(せちゑ)などに出(いで)させ給き。後に中務(なかつかさの)卿を兼(けん)せさせ給。後二条世をはやくしまし<て、父の上皇なげかせ給し中にも、よろづこの君にぞ委附(ゐふ)し申させ給ける。やがて儲君(ちよくん)のさだめありしに、後二条の一(いち)のみこ邦良(くによしの)親王ゐ給べきかときこえしに、おぼしめすゆゑありとて、此親王を太子にたて給。「かの一(いち)のみこをさなくましませば、御子(みこ)の儀にて伝(つた)へさせ給べし。もし邦良親王早世の御ことあらば、この御すゑ継体たるべし。」とぞしるしおかせましましける。彼親王鶴膝(かくしつ)の御病ありて、あやふくおぼしめしけるゆゑなる
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べし。後宇多の御門こそゆゝしき稽古の君にましましし(ゝ)に、その御跡をばよくつぎ申させ給へり。あまさへもろ<の道をこのみしらせ給こと、ありがたき程の御ことなりけんかし。仏法にも御心ざしふかくて、むねと真言(しんごん)をならはせ給。はじめは法皇にうけましましけるが、後に前大僧正(さきのだいそうじやう)禅助(ぜんじよ)に許可(こか)までうけ給けるとぞ。天子潅頂(くわんぢやう)の例は唐朝にもみえはべり。本朝にも清和の御門、禁中にて慈覚大師(じかくだいし)に潅頂をおこなはる。主上をはじめ奉りて忠仁公などもうけられたる、これは結縁(けちえん)潅頂とぞ申める。此度はまことの授職(じゆしよく)とおぼしめしし(ゝ)にや。されど猶許可にさだまりにきとぞ。それならず、又諸流をもうけさせ給。又諸宗をもすてたまはず。本朝異朝禅門の僧徒までも内(うち)にめしてとぶらはせ給き。すべて和漢の道にかねあきらかなる御ことは中比よりの代々にはこえさせまし<けるにや。戊午(つちのえうま)の年即位、己未(つちのとひつじ)の夏四月(うづき)に改元。元(々)応と号す。はじめつかたは後宇多院の御まつりことなりしを、中二とせばかりありてぞゆづり申させ給し。それよりふるきがごとくに記録所をおかれて、夙(つと)におき、夜(よ)はにおほとのごもりて、民のうれへをきかせ給。天下こぞりてこれをあふぎ奉る。公家(くげ)のふるき御政(まつりこと)にかへるべき世にこそとたかきもいやしきも、
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かねてうたひ侍き。
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かゝりしほどに後宇多院かくれさせ給て、いつしか東宮(とうぐう)の御方(おんかた)にさぶらふ人々そは<にきこえしが、関東に使節をつかはされ天位をあらそふまでの御中らひになりにき。あづまにも東宮の御ことをひき立申(たてまをす)輩(ともがら)ありて、御いきどほりのはじめとなりぬ。元亨甲子(きのえね)の九月(ながつき)のすゑつかた、やう<事あらはれにしかども、うけたまはりおこなふ中にいふかひなき事いできにしかど、大方はことなくてやみぬ。其後ほどなく東宮かくれ給。神慮(しんりよ)にもかなはず、祖皇(そくわう)の御いましめにもたがはせ給けりとぞおぼえし。今こそ此天皇うたがひなき継体の正統にさだまらせ給ひぬれ。されど坊には後伏見第一の御子、量仁(かずひと)親王ゐさせ給。かくて
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元弘辛未(かのとひつじ)の年八月(はつき)に俄(にはか)に都をいでさせ給(たまひ)、奈良の方(かた)に臨幸ありしが、其所よろしからで、笠置(かさぎ)と云山寺のほとりに行宮(かりみや)をしめ、御志(おんこころざし)ある兵(つはもの)をめし集らる。たび<合戦(かつせん)ありしが、同九月(おなじながつき)に東国の軍(いくさ)おほくあつまりのぼりて、事かたくなりにければ、他所(たしよ)にうつらしめ給しに、おもひの外のこといできて、六波羅(ろくはら)とて承久(じようきう)よりこなたしめたる所に御幸(ごかう)ある。御供にはべりし上達部(かんだちめ)・うへのをのこどもも(ゝ)あるひはとられ、或はしのびかくれたるもあり。かくて東宮(とうぐう)位につかせ給。つぎの年の春隠岐(おきの)国にうつらしめまします。
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御子たちもあなたかなたにうつされ給しに、兵部卿(ひやうぶきやう)護良(もりよしの)親王ぞ山々をめぐり、国国をもよほして義兵(ぎへい)をおこさんとくはたて給ける。河内国(かはちのくに)に橘正成(たちばなのまさしげ)と云者ありき。御志ふかゝりければ、河内(かはち)と大和との境(さかひ)に、金剛山(こんがうせん)と云所に城をかまへて、近国ををかしたひらげしかば、あづまより諸国の軍(いくさ)をあつめてせめしかど、かたくまもりければ、たやすくおとすにあたはず。世の中みだれ立にし。次の年癸酉(みづのととり)の春、忍(しのび)て御船にたてまつりて、隠岐をいでて(ゝ)伯耆(はうき)につかせ給。其国に源長年(みなもとのながとし)と云者あり。御方(みかた)にまゐりて船上(ふなのうへ)と云山寺(やまでら)にかりの宮をたてて(ゝ)ぞすませたてまつりける。彼(かの)あたりの軍兵(ぐんぴやう)しばらくはきほひておそひ申けれど、みなな(ゝ)びき
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申ぬ。都ちかき所々にも、御心ざしある国々のつはものより<うちいづれば、合戦もたび<になりぬ。京中(きやうぢゆう)さわがしくなりては、上皇も新主も六波羅にうつり給。伯耆(はうき)よりも軍(いくさ)をさしのぼせらる。ここに畿内(きだい)・近国にも御志ある輩(ともがら)、八幡山(やはたやま)に陣をとる。坂東(ばんどう)よりのぼれる兵(つはもの)の中に藤原の親光(ちかみつ)と云者も彼山にはせくはゝりぬ。つぎ<御方にまゐる輩(ともがら)おほくなりにけり。源高氏(みなもとのたかうぢ)ときこえしは、昔の義家(よしいへ)朝臣が二男、義国(よしくに)と云しが後胤(こういん)なり。彼義国が孫なりし義氏(よしうぢ)は平義時(たひらのよしとき)朝臣が外孫なり。義時等が世となりて、源氏の号ある勇士には心をお(ゝ)きければにや、おしすゑたるやうなりしに、これは外孫なれば取立(とりたて)て領ずる所などもあまたはからひおき、代々になるまでへだてなくてのみありき。高氏も都へさしのぼせられけるに、疑(うたがひ)をのがれんとにや、告文(かうもん)をかきおきてぞ進発しける。されど冥見をもかへりみず、心がはりして御方(みかた)にまゐる。官軍力をえしまゝに、五月(さつき)八日のころにや、都にある東軍みなやぶれて、あづまへこゝろざしておちゆきしに、両院・新帝(しんたい)おなじく御ゆきあり。近江国馬場(あふみのくにばんば)と云所にて、御方に心ざしある輩(ともがら)うちいでにければ、武士はたゝかふまでもなく自滅しぬ。両院・新帝は都にかへし奉り、官軍これをまぼり
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申き。かくて都より西ざま、程なくしづまりぬときこえければ還幸せさせ給。まことにめづらかなりし事になん。
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東(あづま)にも上野国(かみつけのくに)に源義貞(よしさだ)と云者あり。高氏が一族也。世の乱(みだれ)におもひをおこし、いくばくならぬ勢にて鎌倉(かまくら)にうちのぞみけるに、高時(たかとき)等運命きはまりにければ、国々の兵(つはもの)つきしたがふこと、風の草をなびかすがごとくして、五月(さつき)の二十二日にや、高時をはじめとして多(おほく)の一族みな自滅してければ、鎌倉又たひらぎぬ。符契(ふけい)をあはすることもなかりしに、筑紫(つくし)の国々・陸奥(みちのおく)・出羽のおくまでも同(おなじき)月にぞしづまりにける。六七千里のあひだ、一時(いちじ)におこりあひにし、時のいたり運の極(きはまり)ぬるはかゝることにこそと不思議にも侍しもの哉。君はかくともしらせ給はず、摂津国(つのくに)西(にし)の宮(みや)と云所にてぞきかせまし<ける。六月(みなづき)四日東寺にいらせ給ふ。都にある人々まゐりあつまりしかば、威儀をとゝのへて本の宮に還幸し給。いつしか賞罰のさだめありしに、両院・新帝をばなだめ申給て、都にすませまし<ける。されど新帝は偽(ぎ)主の儀にて正位にはもちゐられず。改元して正慶(しやうきやう)と云しをも本(もと)のごとく元弘(げんこう)と号せられ、官位昇進せし輩(ともがら)もみな元弘元年八月(はつき)よりさきのまゝにて
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ぞありし。平治(へいぢ)より後、平氏(へいじ)世をみだりて二十六年、文治(ぶんち)の初(はじめ)、頼朝権をもはらにせしより父子あひつぎて三十七年、承久(じようきう)に義時(よしとき)世をとりおこなひしより百十三年、すべて百七十余年のあひだおほやけの世を一(ひとつ)にしらせ給ことたえにしに、此天皇の御代に掌(たなごころ)をかへすよりもやすく一統し給ぬること、宗廟(そうべう)の御はからひも時節ありけりと、天下こぞりてぞ仰(あふぎ)奉りける。
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同(おなじき)年冬十月(かんなづき)に、先(まづ)あづまのおくをしづめらるべしとて、参議(さんぎ)右近(うこんの)中将源顕家(あきいへの)卿を陸奥守(みちのおくのかみ)になしてつかはさる。代々和漢の稽古(けいこ)をわざとして、朝端(てうたん)につかへ政務にまじはる道をのみこそまなびはべれ。吏途(りと)の方(かた)にもならはず、武勇の芸にもたづさはらぬことなれば、たび<いなみ申(まをし)しかど、「公家(くげ)すでに一統しぬ。文武の道二(ふたつ)あるべからず。昔は皇子皇孫もしは執政の大臣の子孫のみこそおほくは軍(いくさ)の大将にもさゝれしか。今より武をかねて蕃屏(はんぺい)たるべし。」とおほせ給て、御みづから旗の銘(めい)をかゝしめ給(たまひ)、さま<”の兵器をさへくだしたまはる。任国におもむくこともたえてひさしくなりにしかば、ふるき例(ためし)をたづねて、罷申(まかりまをし)の儀あり。御前(おんまへ)にめし勅語ありて御衣(おんぞ)御馬などをたまはりき。猶おくのかためにもと申うけて、御子を一所(ひとところ)ともなひたてまつる。かけまくもかしこき
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今上(きんじやう)皇帝の御ことなればこまかにはしるさず。彼国につきにければ、まことにおくの方ざま両国をかけてみなな(ゝ)びきしたがひにけり。同十二月(おなじきしはす)左馬頭(さまのかみ)直義朝臣(ただよしあそん)相模守(さがみのかみ)を兼て下向す。これも四品(しほん)上野大守(かみつけのたいしゆ)成良親王(なりよしのしんわう)をともなひ奉(たてまつる)。此親王、後にしばらく征夷大将軍を兼せさせ給〈 直義は高氏が弟なり。 〉抑(そもそも)彼高氏御方にまゐりし、其功は誠にしかるべし。すゞろに寵幸(ちようかう)ありて、抽賞(ちうしやう)せられしかば、ひとへに頼朝卿(よりとものきやう)天下をしづめしまゝの心ざしにのみなりにけるにや。いつしか越階(をつかい)して四位に叙し、左兵衛督(さひやうゑのかみ)に任ず。拝賀のさきに、やがて従三位して、程なく参議従二位までのぼりぬ。三け国の吏務(りむ)・守護(しゆご)およびあまたの郡庄(ぐんしやう)を給(たまは)る。弟直義(ただよし)左馬頭(さまのかみ)に任じ、従四位に叙す。
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昔頼朝(よりとも)ためしなき勲功ありしかど、高官高位にのぼることは乱政なり。はたして子孫もはやくたえぬるは高官のいたす所かとぞ申伝たる。高氏等は頼朝・実朝が時に親族などと(ゝ)て優恕(いうじよ)することもなし。たゞ家人(けにん)の列なりき。実朝公八幡(はちまん)宮に拝賀せし日も、地下前駈(ぢげぜんく)二十人の中に相加(くはは)れり。たとひ頼朝が後胤(こういん)なりとも今さら登用すべしともおぼえず。いはむや、ひさしき家人(けにん)
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なり。さしたる大功もなくてかくやは抽賞(ちうしやう)せらるべきとあやしみ申輩(ともがら)もありけりとぞ。関東の高時天命すでに極(きはまり)て、君の御運(ごうん)をひらきしことは、更に人力(じんりよく)といひがたし。武士たる輩(ともがら)、いへば数代(すだい)の朝敵也。御方にまゐりて其家をうしなはぬこそあまさへある皇恩なれ。さらに忠をいたし、労をつみてぞ理運(りうん)の望(のぞみ)をも企(くわたて)はべるべき。しかるを、天の功をぬすみておのれが功とおもへり。介子推(かいしすゐ)がいましめも習(ならひ)しるものなきにこそ。かくて高氏が一族ならぬ輩(ともがら)もあまた昇進し、昇殿をゆるさるゝもありき。されば或人の申されしは、「公家(くげ)の御世にかへりぬるかとおもひしに中<猶武士の世に成ぬる。」とぞ有し。
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およそ政道と云ことは所々にしるしはべれど、正直慈悲を本として決断の力あるべき也。これ天照太神のあきらかなる御をしへなり。決断と云にとりてあまたの道あり。一(ひとつ)には其人をえらびて官に任ず。官に其人ある時は君は垂拱(すゐきよう)してまします。されば本朝にも異朝にもこれを治世の本(もと)とす。二(ふたつ)には国郡をわたくしにせず、わかつ所かならず其理(ことわり)のまゝにす。三(みつ)には功あるをば
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必(かならず)賞(しやう)し、罪あるをば必ず罰す。これ善をすゝめ悪をこらす道なり。是に一もたがふを乱政とはいへり。上古(しやうこ)には勲功あればとて官位をすゝむことはなかりき。つねの官位のほかに勲位(くんゐ)と云しなをお(ゝ)きて一等より十二等まであり。無位の人人なれど、勲功たかくて一等にあがれば、正三位の下(しも)、従三位の上(かみ)につらなるべしとぞみえたる。又本位(ほんゐ)ある人のこれを兼たるも有べし。官位といへるは、上(かみ)三公より下(しも)諸司の一分(いちぶ)にいたる、これを内官(ないくわん)と云(いひ)、諸国の守(かみ)より史生(しじやう)・郡司(ぐんじ)にいたる、これを外官(げくわん)と云(い)ふ。天文(てんもん)にかたどり、地理にのとりておの<つかさどる方(かた)あれば、其才なくては任用せらるべからざることなり。「名与器(なとうつはものと)は人にかさず。」とも云(いひ)、「天の工(つかさ)に人其(それ)代(かはる)。」ともいひて、君のみだりにさづくるを謬挙(びうきよ)とし、臣のみだりにうくるを尸祿(しろく)とす。謬挙と尸祿とは国家のやぶるゝ階(はし)、王業の久(ひさし)からざる基(もとゐ)なりとぞ。
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中古(ちゆうこ)と成て、平将門(たひらのまさかど)を追討の賞にて、藤原秀郷(ふぢはらのひでさと)正四位下に叙し、武蔵(むさし)・
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下野(しもつけ)両国の守(かみ)を兼す。平貞盛(さだもり)正五位下に叙し、鎮守府の将軍に任ず。安倍貞任(あべのさだたふ)奥州(あうしう)をみだりしを、源頼義(よりよし)朝臣十二年までにたゝかひ、凱旋(がいせん)の日、正四位下に叙し、伊与守に任ず。彼等其功たかしといへども、一任四五け年の職なり。これ猶上古(しやうこ)の法にはかはれり。保元の賞には、義朝左馬頭(さまのかみ)に転じ、清盛太宰大弐(だざいのだいに)に任ず。此外(ほか)受領・検非違使(けびゐし)になれるもあり。此時やすでにみだりがはしき始となりにけん。平治よりこのかた皇威ことのほかにおとろへぬ。清盛天下の権を盜(ぬすみ)、太政大臣にあがり、子ども大臣大将に成(なり)しうへはいふにたらぬ事にや。されど朝敵になりてやがて滅亡せしかば後の例(ためし)にはひきがたし。頼朝はさらに一身の力にて平氏の乱をたひらげ、二十余年の御いきどほりをやすめたてまつりし、昔神武の御時、宇麻志麻見(うましまみ)の命(みこと)の中州をしづめ、皇極の御宇(ぎよう)に大織冠の蘇我の一門をほろぼして、皇家(くわうか)をまたくせしより後は、たぐひなき程の勲功にや。それすら京上(きやうのぼり)の時、大納言大将に任ぜられしをば、かたくいなみ申けるをお(ゝ)してなされにけり。公私のわざはひにや侍けん。その子は彼があとなれば、大臣大将になりてやがてほろびぬ。更にあとと(ゝ)云物もなし。天意にはたがひけりとみえたり。君もかゝる
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ためしをはじめ給しによりて、大功なきものまでも皆かゝるべきことと(ゝ)思(おもひ)あへり。頼朝はわが身かゝればとて、兄弟一族をばかたくおさへけるにや。義経(よしつね)五位の検非違使にてやみぬ。範頼(のりより)が三河守(みかはのかみ)なりしは、頼朝拝賀の日地下(ぢげ)の前駈にめしくはへたり。おごる心みえければにや、この両弟をもつひにうしなひにき。さならぬ親族もおほくほろぼされしは、おごりのはしをふせぎて、世をもひさしく、家をもしづめんとにやありけん。
先祖経基(つねもと)はちかき皇孫なりしかど、承平(じようへい)の乱(みだれ)に征東将軍忠文(ただふん)朝臣が副将
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として彼が節度(せつと)をうく。其より武勇(ぶよう)の家となる。其子満仲(まんぢゆう)より頼信(よりのぶ)、頼義(よりよし)、義家(よしいへ)相続(あひつい)で朝家(てうか)のかためとしてひさしく召仕(めしつかは)る。上(かみ)にも朝威まし<、下(しも)にも其分にすぎずして、家を全(またく)し侍りけるにこそ。為義にいたりて乱にくみして誅(ちゆう)にふし、義朝又功をたてんとてほろびにき。先祖の本意にそむきけることはうたがひなし。さればよく先蹤(せんしよう)をわきまへ、得失をかむがへて、身を立(たて)、家をまたくするこそかしこき道なれ。おろかなるたぐひは清盛・頼朝が昇進をみて、みなあるべきことと(ゝ)おもひ、為義、義朝が逆心(ぎやくしん)をよみして、亡(ほろび)たるゆゑをしらず。近ごろ伏見の御時、源為頼(みなもとのためより)と云をのこ内裏(だいり)にまゐりて自害したりしが、かねて諸社に奉る矢にも、その夜射ける矢にも、大政大臣源為頼とかきたりし、いとをかしきことに申めれど、人の心のみだりになり行(ゆく)すがたはこれにておしはかるべし。義時などはいかほどもあがるべくやありけん。されど正四位下(げ)右京権大夫(うきやうのごんのだいぶ)にてやみぬ。まして泰時が世になりては子孫の末をかけてよくおきておきければにや。滅(ほろ)びしまでもつひに高官にのぼらず、上下の礼節をみだらず。近く維貞(これさだ)といひしもの吹挙(すゐきよ)によりて修理大夫(しゆりのだいぶ)になりしをだにいかがと申ける。まことに其の
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身もやがてうせ侍りにき。父祖のおきてにたがふは家門(かもん)をうしなふしるしなり。人は昔をわするゝものなれど、天は道をうしなはざるなるべし。さらばなど天は正理(しやうり)のまゝにおこなはれぬと云こと、うたがはしけれど、人の善悪はみづからの果報(くわはう)也。世のやすからざるは時の災難(さいなん)なり。天道も神明もいかにともせぬことなれど邪(よこしま)なるものは久しからずしてほろび、乱(みだれ)たる世も正(しやう)にかへる、古今の理(ことわり)なり。これをよくわきまへしるを稽古(けいこ)と云(い)ふ。
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昔人をえらびもちゐられし日は先(まづ)徳行をつくす。徳行おなじければ、才用(さいよう)あるをもちゐる。才用ひとしければ労効(らうかう)あるをとる。又徳義(とくぎ)・清慎(せいしん)・公平(くびやう)・恪勤(かくごん)の四善をとるともみえたり。格条(きやくでう)には「朝(あした)に廝養(しやう)たれども夕(ゆふべ)に公卿(こうけい)にいたる。」と云ことの侍るも、徳行才用によりて不次(ふじ)にもちゐらるべき心なり。寛弘(くわんこう)よりあなたには、まことに才かしこければ、種姓(しゆしやう)にかゝはらず、将相(しやうしやう)にいたる人もあり。寛弘以来(よりこのかた)は、譜第(ふだい)をさきとして、其中に才もあり徳もありて、職にかなひぬべき人をぞえらばれける。世の末に、みだりがはしかるべきことをいましめらるゝにやありけん、「七け国の受領(ずりやう)をへて、合格(がふきやく)して公文(くもん)といふことかんがへぬれば、参議に任ず。」と申ならはしたるを、白河の御時、修理(しゆり)のかみ顕季(あきすゑ)といひし人、院の御めのとの夫(をつと)にて、時のきら並(ならぶ)人なかりしが、この労をつのり
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て参議を申けるに、院の仰(おほせ)に、「それも物かきてのうへのこと」と(ゝ)ありければ、理(ことわり)にふしてやみぬ。此人は哥道などもほまれありしかば、物かゝぬ程のことやはあるべき。又参議になるまじきほどの人にもあらじなれど、和漢の才学のたらぬにぞ有けん。白河の御代まではよく官をおもくし給けりときこえたり。あまり譜第(ふだい)をのみとられても賢才のいでこぬはしなれば、上古におよびがたきことをうらむるやからもあれど、昔のまゝにてはいよ<みだれぬべければ、譜第をおもくせられけるもことわり也。但(ただし)才もかしこく徳もあらはにして、登用(とうよう)せられむに、人のそしりあるまじき程の器(うつは)ならば、今とてもかならず非重代(ひぢゆうだい)によるまじき事とぞおぼえ侍る。其道にはあらで、一旦(いつたん)の勲功など云ばかりに、武家代々(だいだい)の陪臣(ばいしん)をあげて高官を授(さづけ)られむことは、朝議(てうぎ)のみだりなるのみならず、身のためもよくつゝしむべきことと(ゝ)ぞおぼえ侍る。
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もろこしにも、漢高祖(かんのかうそ)はすゞろに功臣を大(おほき)に封(ほう)じ、公相(こうしやう)の位をも授(さづけ)しかば、はたして奢(おごり)ぬ。奢(おご)ればほろぼす。よりて後(のち)には功臣のこりなくなりにけり。後漢(ごかん)の光武(くわうぶ)はこの事にこりて、功臣に封爵(ほうしやく)をあたへけるも、其首(しゆ)たりし■禹(とうう)すら封(ほう)ぜらるゝ所四県にすぎず。官を任ずるには文吏(ぶんり)をもとめえらびて、功臣をさしおく。是によりて二十八将の家ひさしく伝(つたはり)て、昔の功もむなしからず。朝(てう)には名士おほくもちゐられて、曠官(くわうくわん)のそしりなかりき。彼二十八将の中にも■禹(とうう)と賈復(かふく)とはそのえらびにあづかりて官にありき。漢朝の昔だに文武の才をそなふることいとありがたく侍りけるにこそ。
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次に功田(こうでん)と云ことは、昔は功のしなにしたがひて大・上・中・下の四(よつ)の功を立(たて)て田をあかち給き。其数(すう)みなさだまれり。大功は世々にたえず。其下(しも)つかたは或(あるひ)は三世につたへ、孫子(まごこ)につたへ、身にとゞまるもあり。天下を治(をさむ)と云ことは、国郡を専(もはら)にせずして、そのことと(ゝ)なく不輸(ふしゆ)の地をたてらるゝことのなかりしにこそ。国に守(かみ)あり、郡(こほり)に領(りやう)あり、一国のうち皆国命のしたにてをさめしゆゑに法にそむく民なし。かくて国司の行迹(かうせき)をかむがへて、賞罰ありしかば、天下のこと掌(たなごころ)をさしておこなひやすかりき。其中に諸院・諸宮に御封(みふ)あり。親王・大臣も又かくのごとし。其外官田(くわんでん)・職田(しよくでん)とてあるも、みな官符(くわんふ)を給(たまはり)て、其所(ところ)の正税(しやうぜい)をうくるばかりにて、国はみな国司の吏務なるべし。但(ただし)大功の者ぞ今の庄園などとて伝(つたふる)がごとく、国にいろはれずしてつたへける。中古となりて庄園おほくたてられ、不輸(ふしゆ)の所いできしより
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乱国とはなれり。上古(しやうこ)にはこの法よくかたかりければにや、推古天皇の御時、蘇我大臣「わが封戸(ふこ)をわけて寺によせん。」と奏せしをつひにゆるされず。光仁天皇は永(ながく)神社・仏寺によせられし地をも「永(えい)の字は一代にかぎるべし。」とあり。後三条院の御世こそ此つひえをきかせ給て、記録所をお(ゝ)かれて国々の庄公(しやうこう)の文書(もんじよ)をめして、おほく停廃(ちやうはい)せられしかど、白河・鳥羽の御時より新立(しんりふ)の地いよ<おほくなりて、国司のしり所(どころ)百分が一になりぬ。後ざまには、国司任におもむくことさへなくて、其人にもあらぬ眼代(がんだい)をさして国ををさめしかば、いかでか乱国とならざらん。況(いはん)や文治(ぶんち)のはじめ、国に守護職(しゆごしよく)を補(ふ)し、庄園(しやうゑん)・郷保(がうほう)に地頭(ぢとう)をおかれしよりこのかたは、さらに古(いにしへ)のすがたと云ことなし。政道をおこなはるゝ道、こと<”くたえはてにき。たま<一統(いちとう)の世にかへりぬれば、この度(たび)ぞふるき費(つゐえ)をもあらためられぬべかりしかど、それまではあまさへのことなり。今は本所(ほんじよ)の領と云し所々さへ、みな勲功に混ぜられて、累家(るゐけ)もほと<其名ばかりになりぬるもあり。これみな功にほこれる輩(ともがら)、君をおとし奉るによりて、皇威もいとゞかろくなるかとみえたり。かゝれば其功なしといへども、ふるくより勢(いきをい)ある輩(ともがら)をなつけられんため、或は本領なりとてたまはるもあり、或は
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近境(きんけい)なりとてのぞむもあり。闕所(けつしよ)をもておこなはるゝにたらざれば、国郡につきたりし地、もしは諸家相伝(しよけさうでん)の領までもきほひ申けりとぞ。をさまらんとしていよ<みだれ、やすからんとしてます<あやふくなりにける、末世(まつせ)のいたりこそまことにかなしく侍れ。
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凡(およそ)王土にはらまれて、忠をいたし命をすつるは人臣の道なり。必(かならず)これを身の高名(かうみやう)とおもふべきにあらず。しかれども後(のち)の人をはげまし、其あとをあはれみて賞せらるゝは、君の御政(まつりこと)なり。下としてきほひあらそひ申べきにあらぬにや。ましてさせる功なくして過分(くわぶん)の望(のぞみ)をいたすこと、みづからあやぶむるはしなれど、前車の轍(てつ)をみることはまことに有がたき習なりけんかし。中古までも人のさのみ豪強(がうきやう)なるをばいましめられき。豪強になりぬればかならずおごる心あり。はたして身をほろぼし、家をうしなふためしあれば、いましめらるゝも理(ことわり)なり。鳥羽院の御代にや、諸国の武士の源平の家に属することをとゞむべしと云(い)ふ制符(せいふ)たび<ありき。源平ひさしく武をとりてつかへしかども、事ある時は、宣旨(せんじ)を給(たまはり)て諸国の兵(つはもの)をめしぐしけるに、近代となりてやがて肩をいるゝ族(やから)おほくなりしによりて、此制符はくだされき。はたして、今までの乱世の基(もとゐ)なれば、云(い)ふかひなきことになりにけり。此比(このごろ)のことわざには、一(ひと)たび軍(いくさ)にかけあひ、或は家子郎従(いへのこらうじゆう)節(せつ)にしぬるたぐひもあれば、「わが功におき
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ては日本国を給(たまへ)、もしは半国を給(たまはり)てもたるべからず。」など申める。まことにさまでおもふことはあらじなれど、やがてこれよりみだるゝ端(はし)ともなり、又朝威のかろ<”しさもおしはからるゝものなり。「言語(げんぎよ)は君子の枢機(すうき)なり。」といへり。あからさまにも君をないがしろにし、人におごることあるべからぬことにこそ。さきにしるしはべりしごとく、かたき氷は霜をふむよりいたるならひなれば、乱臣賊子と云者は、そのはじめ心ことばをつゝしまざるよりいでくる也。世の中のおとろふると申は、日月(ひつき)の光(ひかり)のかはるにもあらず、草木(くさき)の色のあらたまるにもあらじ。人の心のあしくなり行(ゆく)を末世(まつせ)とはいへるにや。
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昔許由(きよいう)と云(い)ふ人は帝■(げう)の国を伝(つた)へんとありしをきゝて、潁川(えいせん)に耳をあらひき。巣父(さうほ)はこれをきゝて此水をだにきたながりてわたらず。其人の五臓六腑(ござうろくふ)のかはるにはあらじ、よくおもひならはせるゆゑにこそあらめ。猶行すゑの人の心おもひやるこそあさましけれ。大方おのれ一身は恩にほこるとも、万人(まんにん)のうらみをのこすべきことをばなどかかへりみざらん。君は万姓(ばんしやう)の主(あるじ)にてましませば、かぎりある地をもて、かぎりなき人にわかたせ給はんことは、おしてもはかりたてまつる
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べし。もし一国づつ(ゝ)をのぞまば、六十六人にてふさがりなむ。一郡づつ(ゝ)といふとも、日本は五百九十四郡こそあれ、五百九十四人はよろこぶとも千万の人は不悦(よろこばじ)。況(いはんや)日本の半(なかば)を心ざし、皆ながらのぞまば、帝王はいづくをしらせ給べきにか。かゝる心のきざしてことばにもいでおもてには恥(はづ)る色のなきを謀反(むほん)のはじめと云べき也。昔の将門(まさかど)は比叡山にのぼりて、大内(だいだい)を遠見して謀反(むほん)をおもひくはたてけるも、かゝるたぐひにや侍けん。昔は人の心正くて自(おのづか)ら将門にみもこり、きゝもこり侍りけん。今は人々の心かくのみなりにたれば、此世はよくおとろへぬるにや。
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漢高祖(かんのかうそ)の天下をとりしは蕭何(せうか)・張良(ちやうりやう)・韓信(かんしん)が力(ちから)なり。これを三傑(けつ)と云(い)ふ。万人(まんにん)にすぐれたるを傑と云とぞ。中にも張良は高祖の師として、「はかりことを帷帳(ゐちやう)の中(なか)にめぐらして、勝(かつ)ことを千里の外(ほか)に決するはこの人なり。」との給しかど、張良はおごることなくして、留(りう)といひてすこしきなる所をのぞみて封ぜられにけり。あらゆる功臣おほくほろびしかど、張良は身をまたくしたりき。ちかき代のことぞかし、頼朝の時までも、文治(ぶんち)の比にや、奥の泰衡(やすひら)を追討せしに、みづからむかふことありしに、平重忠(たひらのしげただ)が先陣(せんぢん)にて其功すぐれたりければ、五十四郡の中(うち)に、いづくをものぞむべかりけるに、長岡(ながをか)の郡(こほり)とてきはめたる小所をのぞみたまはりけるとぞ。これは人々にひろく賞をもおこなはしめんがためにや。かしこかりけるをのこにこそ。又直実(なほざね)と云ける者に一所(いちしよ)をあたへたまふ下文(くだしぶみ)に、「日本第一の甲(かふ)の者なり。」と書て給(たまひ)てけり。一(ひと)とせ彼下文(かのくだしぶみ)を持(もち)て奏聞(そうもん)する人の有けるに、褒美(はうび)の詞(ことば)のはなはだしさに、あたへたる所のすくなさ、まことに名をおもくして利をかろくしける、いみじきことと(ゝ)口<にほめあへり
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ける。いかに心えてほめけんといとをかし。是までの心こそなからめ、事にふれて君をおとし奉り、身をたかくする輩(ともがら)のみ多くなれり。ありし世の東国の風儀(ふうぎ)もかはりはてぬ。公家(くげ)のふるきすがたもなし。いかになりぬる世にかとなげき侍る輩(ともがら)もありときこえしかど、中一(なかひと)とせばかりはまことに一統のしるしとおぼえて、天の下こぞり集(あつまり)て都の中(うち)はえ<”しくこそ侍りけれ。
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建武乙亥(きのとゐ)の秋の比、滅(ほろび)にし高時が余類(よるゐ)謀反(むほん)をおこして鎌倉にいりぬ。直義(ただよし)は成良(なりよし)の親王をひきつれ奉て参河(みかはの)国までのがれにき。兵部卿(ひやうぶきやう)護良(もりよしの)親王ことありて鎌倉におはしましけるをば、つれ申におよばずうしなひ申てけり。みだれの中なれど宿意(しゆくい)をはたすにやありけん。都にも、かねて陰謀のきこえありて嫌疑(けんぎ)せられける中(なか)に権大納言公宗卿(きんむねのきやう)召(めし)おかれしも、このまぎれに誅(ちゆう)せらる。承久(じようきう)より関東の方人(かたうど)にて七代になりぬるにや。高時も七代にて滅(ほろび)ぬれば、運のしからしむることと(ゝ)はおぼゆれど、弘仁(こうにん)に死罪(しざい)をとめられて後、信頼が時にこそめづらかなることに申はべりけれ。戚(せき)里のよせも久しくなり大納言以上にいたりぬるに、おなじ死罪なりともあらはならぬ法令(ほふりやう)もあるに、うけ給(たまはり)おこなふ輩(ともがら)のあやまりなりとぞきこえし。高氏は申うけて東国に
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むかひけるが、征夷将軍ならびに諸国の惣追捕使(そうつゐぶくし)を望けれど、征東将軍になされて悉(ことごと)くはゆるされず。程なく東国はしづまりにけれど、高氏のぞむ所達(たつ)せずして、謀反をおこすよしきこえしが、十一月(しもつき)十日あまりにや、義貞を追討すべきよし奏状をたてまつり、すなはち討手のぼりければ、京中(きやうぢゆう)騒動(さうどう)す。追討のために、中務卿(なかつかさきやう)尊良(たかよし)親王を上将軍(じやうしやうぐん)として、さるべき人々もあまたつかはさる。武家には義貞朝臣をはじめておほくの兵(つはもの)をくだされしに、十二月(しはす)に官軍ひきしりぞきぬ。関々をかためられしかど、次の年丙子(ひのえね)の春正月(むつき)十日官軍又やぶれて朝敵すでにちかづく。よりて比叡山東坂本(ひがしさかもと)に行幸して、日吉社にぞまし<ける。内裏もすなはち焼ぬ。累代(るゐだい)の重宝もおほくうせにけり。昔よりためしなきほどの乱逆(らんげき)なり。
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かゝりしあひだに、陸奥守(みちのおくのかみ)鎮守府の将軍顕家卿この乱(みだれ)をきゝて、親王をさきに立(たて)奉りて、陸奥・出羽の軍兵を率(そつ)してせめのぼる。同(おなじき)十三日近江国につきてことの由を奏聞す。十四日に江をわたりて坂本にまゐりしかば、官軍大に力をえて、山門の衆徒(しゆうと)までも万歳(ばんぜい)をよばひき。同(おなじき)十六日より合戦(かつせん)はじまりて三十日
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つひに朝敵を追落(おひおと)す。やがて其夜還幸(くわんかう)し給。高氏等猶摂津国(つのくに)にありときこえしかば、かさねて諸将をつかはす。二月(きさらぎ)十三日又これをたひらげつ。朝敵は船にのりて西国(さいこく)へなむおちにけり。諸将および官軍はかつ<”かへりまゐりしを、東国(とうごく)の事おぼつかなしとて、親王も又かへらせ給べし、顕家卿も任所(にんじよ)にかへるべきよしおほせらる。義貞は筑紫へつかはさる。かくて親王元服し給。直(ぢき)に三品に叙し、陸奥太守に任じまします。彼国の太守は始(はじめ)たることなれど、たよりありとてぞ任じ給。勧賞(けんしやう)によりて同母の御兄四品成良(なりよし)のみこをこえ給。顕家卿はわざと賞をば申うけざりけるとぞ。義貞朝臣は筑紫へくだりしが、播磨国(はりまのくに)に朝敵の党類(たうるゐ)ありとて、まづこれを対治すべしとて、日をおくりし程に五月(さつき)にもなりぬ。高氏等西国の凶徒(きようと)をあひかたらひてかさねてせめのぼる。官軍利なくして都に帰参(きさん)せしほどに、同(おなじき)二十七日に又山門に臨幸し給。八月(はつき)にいたるまで度々(たびたび)合戦ありしかど、官軍いとすゝまず。仍(より)て都には元弘偽(げんこうぎ)主の御弟に、三の御子豊仁(ゆたひと)と申けるを位につけ奉る。十月(かんなづき)十日の比にや、主上(しゆじやう)都に出させ給、いとあさましかりしことなれど、又行すゑをおぼしめす道ありしにこそ。東宮は北国に行啓(ぎやうけい)あり。
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左衛門督(さゑもんのかみ)実世(さねよ)の卿以下(いげ)の人々、左中将義貞朝臣をはじめてさるべき兵(つはもの)もあまたつかうまつりけり。主上は尊号の儀にてまし<き。御心をやすめ奉らんためにや、成良(なりよしの)親王を東宮にすゑたてまつる。同十二月(おなじきしはす)にしのびて都を出(いで)まし<て、河内国に正成といひしが一族等をめしぐして芳野(よしの)にいらせ給ぬ。行宮(かりみや)をつくりてわたらせ給。もとのごとく存位の儀にてぞまし<ける。内侍所(ないしどころ)もうつらせ給(たまひ)、神璽(しんし)も御身にしたがへ給けり。まことに奇特(きどく)のことにこそ侍しか。芳野のみゆきにさきだちて、義兵(ぎへい)をおこす輩もはべりき。臨幸(りんかう)の後には国々にも御心ざしあるたぐひあまたきこえしかど、つぎの年もくれぬ。
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又の年戊寅(つちのえとら)の春二月(きさらぎ)、鎮守大将軍(ちんじゆたいしやうぐん)顕家(あきいへの)卿又親王をさきだて申、かさねてうちのぼる。海道の国々こと<”くたひらぎぬ。伊勢・伊賀をへて大和に入(いり)、奈良の京(きやう)になんつきにける。それより所々の合戦あまたた(ゝ)び互(たがひ)に勝負(しようぶ)侍りしに、同(おなじき)五月(さつき)和泉国(いづみのくに)にてのたゝかひに、時やいたらざりけん、忠孝の道こゝにきはまりはべりにき。苔(こけ)の下にうづもれぬものとてはたゞいたづらに名をのみぞとゞめてし、心うき世にもはべるかな。官軍猶こゝろをはげまして、男山(をとこやま)に陣をとりて、しばらく合戦ありしかど、朝敵忍(しのび)て社壇をやきはらひしより、ことならずして引しりぞく。北国にありし義貞もたび<めされしかど、のぼりあへ
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ず。させることなくてむなしくさへなりぬときこえしかば、云(い)ふばかりなし。さてしもやむべきならずとて、陸奥の御子(みこ)又東(あづま)へむかはせ給べき定(さだめ)あり。左少将顕信(あきのぶ)朝臣中将に転じ、従三位叙し、陸奥の介(すけ)鎮守将軍を兼(かね)てつかはさる。東国の官軍こと<”く彼節度(せつと)にしたがふべき由を仰(おほせ)らる。親王は儲君(ちよくん)にたゝせ給べきむね申きかせ給(たまひ)、「道の程もかたじけなかるべし。国にてはあらはさせ給へ。」となん申されし。異母(いぼ)の御兄もあまたまし<き。同母(どうぼ)の御兄も前(さきの)東宮、恒良(つねよし)の親王(しんわう)・成良親王(なりよしのしんわう)まし<しに、かくさだまり給ぬるも天命なればかたじけなし。七月(ふみづき)の末つかた、伊勢にこえさせ給て、神宮にことのよしを啓(まをし)て御船をよそひし、九月(ながつき)のはじめ、ともづなをとかれしに、十日ごろのことにや、上総(かづさ)の地ちかくより空のけしきおどろおどろしく、海上(かいしやう)あらくなりしかば、又伊豆(いづ)の崎(さき)と云(い)ふ方(かた)にたゞよはれ侍しに、いとゞ浪風おびたゞしくなりて、あまたの船ゆきかたしらずはべりけるに、御子(みこ)の御船はさはりなく伊勢(いせ)の海につかせ給。顕信朝臣はもとより御船にさぶらひけり。同(おなじ)風のまぎれに、東(あづま)をさして常陸国(ひたちのくに)なる内(うち)の海(うみ)につきたる船はべりき。方々(かたがた)にたゞよひし中(なか)に、この二(ふたつ)のふねおなじ風にて東西にふきわけけ(ゝ)る、末の世
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にはめづらかなるためしにぞ侍べき。儲(まうけ)の君にさだまらせ給て、例(ためし)なきひなの御すまひもいかゞとおぼえしに、皇太神(すめおほみかみ)のとゞめ申させ給けるなるべし。後に芳野へいらせまし<て、御目の前にて天位をつがせ給しかば、いとゞおもひあはせられてたふとく侍るかな。又常陸国(ひたちのくに)はもとより心ざす方(かた)なれば、御志(みこころざし)ある輩(ともがら)あひはからひて義兵こはくなりぬ。奥州・野州の守(かみ)も次の年の春かさねて下向(げかう)して、おの<国につきはべりにき。
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さても旧都(きうと)には、戊寅(つちのえとら)の年の冬改元して暦応(りやくおう)とぞ云ける。芳野の宮にはもとの延元(えんげん)の号なれば、国々もおもひ+の号なり。もろこしには、かゝるためしおほけれど、此国には例(ためし)なし。されど四(よ)とせにもなりぬるにや。大日本嶋根(やまとしまね)はもとよりの皇都(くわうと)也。内侍所(ないしどころ)・神璽(しんし)も芳野におはしませば、いづく
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か都にあらざるべき。さても八月(はつき)の十日あまり六日にや、秋霧(あきぎり)にをかされさせ給てかくれまし<ぬとぞきこえし。ぬるが中(うち)なる夢(ゆめ)の世は、いまにはじめぬならひとはしりながら、かず<めのまへなる心ちして老泪(おいのなみだ)もかきあへねば、筆の跡さへとゞこほりぬ。昔、「仲尼(ちゆうぢ)は獲麟に筆をたつ。」とあれば、こゝにてとゞまりたくはべれど、神皇正統(じんわうしやうとう)のよこしまなるまじき理(ことわり)を申のべて、素意(そい)の末をもあらはさまほしくて、しひてしるしつけ侍るなり。かねて時をもさとらしめ給けるにや、まへの夜より親王をば左大臣の亭(てい)へうつし奉られて、三種の神器を伝(つた)へ申さる。後の号をば、仰(おほせ)のまゝにて後醍醐(ごだいご)天皇と申(まをす)。天下を治給こと二十一年。五十二歳おまし<き。昔仲哀(ちゆうあい)天皇熊襲(くまそ)をせめさせ給し行宮(かりみや)にて神さりまし<き。されど神功皇后(じんぐうくわうごう)程(ほど)なく三韓をたひらげ、諸皇子の乱をしづめられて、胎中天皇(たいちゆうてんわう)の御代にさだまりき。この君(きみ)聖運(せいうん)まし<しかば、百七十余年中(なか)たえにし一統(いちとう)の天下をしらせ給て、御目の前にて日嗣をさだめさせ給ぬ。功(こう)もなく徳もなきぬす人世におごりて、四(よ)とせ余(あまり)がほど宸襟(しんきん)をなやまし、御世をすぐさせ給ぬれば、御怨念(ごをんねん)の末むなしく侍りなんや。今の御門(みかど)また天照太神よりこのかたの正統をうけまし<ぬれ
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ば、この御光にあらそひたてまつる者やはあるべき。中<かくてしづまるべき時の運とぞおぼえ侍る。
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○第九十六代、第五十世の天皇。諱は義良(のりよし)、後醍醐の天皇第七御子(だいしちのみこ)。御母准三宮、藤原の廉子(れんし)。この君はらまれさせ給はんとて、日をいだくとなん夢に見申させ給けるとぞ。さればあまたの御子の中にたゞなるまじき御ことと(ゝ)ぞかねてよりきこえさせ給し。元弘癸酉(げんこうみづのととり)の年、あづまの陸奥・出羽のかためにておもむかせ給。甲戌(きのえいぬ)の夏、立親王、丙子(ひのえね)の春、都にのぼらせまし<て、内裏にて御元服。加冠(かくわん)左のおとゞなり。すなはち三品に叙し、陸奥の太守に任ぜさせ給。おなじき戊寅(つちのえとら)の年(としの)春、又のぼらせ給て、芳野宮(よしののみや)にまし<しが、秋七月(ふみづき)伊勢(いせ)にこえさせ給。かさねて東征(とうせい)ありしかど、猶伊勢にかへりまし、己卯(つちのとう)の年三月(やよひ)又芳野へいらせ給。秋八月(はつき)中の五日ゆづりをうけ
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て、天日嗣(あまつひつぎ)をつたへおまします。

神皇正統記評釈 終
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