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◎〔ふぢなみの中〕第五
(卅八)御笠の松 S0501 十八みかさのまつ
ちかくおはしましゝ法性寺のおとゞは、ふけの入道おとゞの御子におはします。御はゝ六條の右のおとゞの御むすめ、仁和寺の御むろと申しし、ひとつ御はらからにおはしましゝかば、そのきたのまんどころ、むかしは白川の院にもまゐりたまひけるにこそ。仁和寺法親王をば、獅子王の宮とぞよには申しし。御母のわらはなにやおはしけん。さてこのおとゞ仁和寺の宮としたしく申しかはしたまひき。ふけのおとゞのきたのかたにては、堀川の左のおとゞの御むすめおはせしかども、それは御こおはしまさでくちをしきことゞもありけるにやよりけん。のちにはうとくなり給ひて、その六条のおとゞの御むすめの、京極のきたのまんどころにさぶらひ給ひけるを、はじめは院にめして宮うみたてまつり給へりけるほどにふけのおとゞわかくおはしける時に、はつかにのぞきてみ給へることありけるより御やまひになりて、なやみ給ひけるを、いのちもたえぬべくおぼゆることの侍れど、心にかなふべきならねば、よにながらへ侍らんこともえ侍るまじ。
又心のまゝに侍らば、いかなるおもきつみも、かぶるみにもなり侍りぬべし。いづれにてかよく侍らんなど、京極の北の方に申し給ひけるにや。いかにも御いのちおはしまさんことに、まさることはあるまじければとて、院に申させ給ひたりければゆるしたまはらせ給ひたりけるとかや。ひがことにや侍らん。人のつたへかたり侍りしなり。さてすみ給ひけるほどに、まづはひめぎみうみ給ひ、又このおとゞをも、うみたてまつり給ひてのち、さてうるはしくすみ給ひけるとぞうけ給はりし。このおとゞ、保安二年のとし関白にならせ給ふ。御とし廿五にぞおはしましゝ。同四年正月に、さぬきのみかどくらゐにつかせ給ひしかば、摂政と申しき。みかどおとなにならせ給ひて、関白と申ししほどに、近衛のみかど位につかせ給ひしかば、又摂政にならせ給ひき。久壽二年七月このゑのみかど、かくれさせたまひて、この一院位につかせ給ひしにも、又関白にならせ給ひしかば、四代のみかどの関白にて、ふたゝび摂政と申しき。昔もいとたぐひなきことにこそ侍りけめ。おほきおとゞにも、ふたゝびなり給へりし。いとありがたく侍りき。藤氏の長者さまたげられ給ひしも、左のおとゞのことにあひ給ひしかば、保元々年七月に、さらにかへりならせ給ひにき。同三年八月十六日、二条のみかど
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くらゐにつかせたまひし時、いまのとのゝ御あにゝおはしましゝ、右のおほいまうちぎみに、関白ゆづりきこえさせ給ひて、大とのとておはしましゝに應保二年に御ぐしおろさせ給ひてき。御とし六十六とぞうけ給はりし。長寛二年二月十九日六十八ときこえさせ給ひしとしかくれさせ給ひにき。むかしまだをさなくおはしましゝ時、かすがのまつりのつかひせさせ給ひしに、内侍周防のごまつりて、行事弁ためたかに申しおくりける、
@ いかばかり神もうれしとみかさ山ふたばの松のちよのけしきを W060
そのかへしは、をとりたりけるにや。きこえ侍らざりき。いのりたてまつりたるしるしありて、めでたくひさしぐせさせ給ひき。法性寺の御堂の御所などつくりて、貞信公の御堂のかたはらに、すませたまひしかば、法性寺殿とぞ申すめる。むかしより摂政関白つゞきておはしませど、みの御ざえはたぐひなくおはしましき。才學もすぐれておはしましけるうへに詩などつくらせ給ふことは、いにしへの宮帥殿などにもおとらせたまはずやおはしけん。哥よませ給ふ事も心たかくむかしのあとをねがひ給ひたるさまなりけり。管絃のかた心にしめさせ給ひて、さうのことを、むねと御遊などにもひかせ給ふとぞきゝ侍りし。ちゝおとゞばかりは、おはしまさずやありけん。てかゝせ給ふ事は、むかしの
上手にもはぢずおはしましけり。まなもかなもこのもしくいまめかしきかたさへそひて、すぐれておはしましき。内裏の額ども、ふるきをばうつし、うせたるをばさらにかゝせ給ふとぞ、うけ給はりし。院宮の御堂御所などの色紙形は、いかばかりかはおほくかゝせ給ひし。御願よりはじめて、寺々の額など、かずしらずかゝせ給ひき。よかはの花臺院などは、ふるきところの額もむかへかうすゝめけるひじりの申したるとてかゝせ給へりとぞ、山の僧は申しし。又人の仁和寺とかより、額申したりければかゝせ給ひけるほどに、おくのえびすもとひらとかいふがてらなりときかせ給ひて、みちのおくへ、とりかへしにつかはしたりけるを、かへしたてまつらじとしけるを、めの心かしこくやありけん。かへしたてまつらざらんは、しれごとなりといさめければかへしたてまつりけるに、みまやとねりとか。つかはしたりける御つかひの、心やたけかりけん。みつにうちわりてぞもてのぼりける。はしらをにらみけんにも、をとらぬつかひなるべし。えびすまでも、なびきたてまつりけるにこそ。又いづれの御願とかのゑにいゐむろの僧正たふとくおはすることかくとて、冷泉院の御たちぬかせ給へるに、僧正にげ給へるあとにとゞまれる三衣はこのもとにて、みかどのものゝけうたせ給ひたるところのしきしかた、これはえかゝじとて、もじもかゝ
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れでいまだ侍る也。御てならびなくかゝせ給へども、さやうの御よういは、ありがたきことぞかし。またをさなくおはしましし時より、うたあはせなどあさゆふの御あそびにて、もととし俊頼などいふ、ときのうたよみどもに、人の名かくして、はんぜさせなどせさせ給ふことたえざりけり。御うたなどおほくきゝ侍りしなかに、
@ わたのはらこぎいでゝみれば久かたの雲ゐにまがふおきつしら浪 W061
などよませ給へる御うたは、人丸がしまかくれゆく舟をしぞ思ふ。などよめるにもはぢずやあらんとぞ人は申し侍りし。
@ よし野山みねのさくらやさきぬらんふもとの里に匂ふ春かぜ W062
などよませ給へるも、心もことばもたへにして金玉集などに、えらびのせられたる哥のつらになん、きこえ侍るなる。からのふみつくらせ給ふ事もかくぞありける。さればふみの心ばへしらせ給ふ事、ふかくなんおはしける。白川院にもみまきの詩えらびてたてまつり給ひ、もとゝしのきみにも、からやまとのをかしき事の葉どもをぞ、えらびつかはせ給ひける。かやうのことゞもおほくなんはべるなり。又つくらせ給へるからのこと葉ども、御集とて、唐の白氏の文集などのごとくにことこのむ人、もてあそぶとぞうけ給はる。
かくざえもおはしまして、日記などもかゞみをかけておはしませば、左大弁ためたかといひし宰相は、日本はゆゝしく、てつらなるくにかな。さきの関白を一の人にて、このおとゞ、はなぞのゝおとゞふたり、わかき大臣よくつかへぬべきを、うちかへつゝ公事もつとめさせで、この殿一の人なればいたづらにあしひきいれてゐたまへるこそをしけれとぞいはれけるとなんきこえ侍りし。
(卅九)菊の露 S0502 きくのつゆ
法門のかたは、またそこをきはめさせ給ひて、山、三井寺、東大寺、やましなでらなど智恵ある僧綱、大とこも、内裏に御讀經などつとむるをりに、みすのうちにて、ふかき心たづねとはせ給ひ、わがとのにて、八講などおこなはせ給ふをりふしのことにつけて、經論のふかきこと、ひろき心、くみつくさせ給はぬことなくなん、おはしましける。御仏供養せさせ給ひける御導師に、菊の枝にさして給はせける、
@ たぐひなきみのりを菊の花なればつもれるつみは露も残らじ W063
などぞきこえ侍りし。御心ばへも、すき<”しくのみおはしましながら、わづらはしく、とりがたき御心にて、ひか<”しきことはおはしまさで、なに事もおどろかぬやう
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にぞおはしましける。さればよにもにさせ給はで、いづかたにも、うときやうに、きこえさせ給ひて、きんだちなど心もとなく、きこえさせ給ひしかども、世の中みだれいできてのち、もとのやうに、氏の長者にも、かへりならせ給ひき。男公達も、くらゐたかくならせ給ひて、法師におはしますも、僧正ともならせ給ひ、ところ<”の長吏もせさせ給へり。女御きさき、かた<”おはして、よろづあるべきこと、みなおはしましき。むかしときにあはせ給ひたる、一の人にをとらせ給ふ事なかりき。馬をうしなひて、なげかざりけんおきなゝどのやうにて、おはしましゝけにや。くるしきよをすぐさせ給ひてのちは、かくさかえさせ給へり。つくらせ給ひたる御詩とて人の申ししは、
官禄身にあまりてよをてらすといへども、素閑性にうけて權をあらそはず。
とかやつくらせ給へるも、その心なるべし。さやうの御心にや。又このゑのみかどのかなしびのあまりにや。関白にこのたびならせ給ひしはじめに、かのみかど、ふなおかにをさめたてまつりし御ともせさせ給へりし、かちよりおはしますさまにて、御こしのつなをながくなされたりしにやにきにしなしてかゝれてぞすえざまはおはしましける。
いとあはれに、かなしくなん侍りける。二条院くらゐにつかせ給ひし時、関白をば御子にゆづりまさせ給ひて、大殿とておはしましゝほどに、御ぐしおろさせ給ひて、御名は円観とぞつかせ給ひける。このおとゞうせさせ給ふほどちかくなりて、法性寺殿かつら殿など、御らんじめぐらせ給ひて、ところ<”のありさまを、さま<”のふみどもつくらせ給ひてもりみつこれとしなどいふ学生どもに給ひて、和してたてまつり判をさせなどせさせ給へり。のちの世に、仏道ならせ給へるにや。こゝのしなのはちすのうへに、おはしますなど、ゆめにも人のみたてまつりたるとかや。式部大輔永範、ゆめにみたてまつりたるとて、詩三首つくりて給はせける中に、
漢月天にうるはしくしてこと<”くなりといへ共わするゝことなかれ。昔のひ文をもてあそぶことを
と、つくらせ給へりけるとて、和して奉らんとしけるほどに、おどろきにけり。夢のうちには都率の内院におはしますと、おぼしかりきとぞ、和してたてまつれるふみにはかゝれはべるなる。
(四十)藤の初花 S0503 ふぢのはつはな
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摂政前左大臣とて、ちかくおはしましゝは、法性寺のおとゞの太郎にぞおはしましゝ。御母従二位みなもとの信子と申すとぞ。國信と申しし中納言のむすめにぞおはしますなる。このおとゞの御名は、基實とぞ申すとうけ給はりし。いづれの御時のれいとか。左衛門督などきこえさせ給ひしに、そのゝち大納言右大臣などに、ならせ給へりき。をりふしあきあはざりけるにや。大将にはならせ給はざりしかとよ。二条のみかど、くらゐにつかせ給ひしに、ちゝおとゞのゆづりにて、保元三年八月十六日、関白になり給ふ。御とし十六とぞきこえ侍りし。むかしよりかくきびわにてなり給へる一の人、これやはじめにておはしますらん。からくにゝ甘羅といひける人は、十二にてぞ大臣になり給ひける。よの人おさなしとも申さゞりけり。人がらによるべきことにこそ侍るめれ。永暦元年八月十一日左大臣にのぼり給ふ。永萬元年六月みかどの御くらゐみこにゆづりたてまつらせ給ひし日、摂政にならせ給ふ。同二年七月廿六日、御とし廿四にて、かくれさせ給ひにき。大臣のくらゐにて十年おはしましき。このおとゞ御みめもこえきよらにおはしましき。またてなども、むかしの跡つぎまさせ給へりけり。いとめでたくきゝたてまつりしほどに、夢のやうにてかくれさせ給ひにし、いとかなしくこそ。
去年は二条のみかど、ことしはこの殿の御事、をりふし心あらん人は、おもひしりぬべきよなるべし。贈太政大臣正一位など、のちにそへたてまつられ侍とぞ、きこえ給ふ。きのふ今日のちごに、おはしますを、むかし物がたりにうけ給はるやうにおぼえていとあはれにかなしく侍り。六条の摂政と申すなるべし。又なかの摂政殿と申す人も侍り。太郎におはせしかども、中関白と申ししやうなるべし。このつぎの一の人には、今の摂政のおとゞにおはします。御母はこれも國信の中納言の三のきみにぞおはする。御名は國子と聞え給ふ。三位し給ひつるとぞ、一の人藤氏の御はらの、おほくは源氏におはします。しかるべきことにぞ侍。宇治殿一条殿の御母は、一条の左大臣の御むすめ、のちの二条の関白殿は、土御門の右のおとゞの御むすめ、法性寺殿は六条の大臣、此の殿ふたところは、源中納言のひめぎみふたところにおはしませば、藤氏は一の人にて源氏は御はゝかたやんごとなし。御ながれかた<”あらまほしくも侍かな。いまのよの事、ことあたらしく申さでも侍るべけれど、ことのつゞきなれば申し侍るになん。このおとゞ永暦元年八月十一日、内大臣にならせ給ひて、同月左大将かけさせ給ひき。同二年九月十三日、左大臣にのぼらせ給ひて、永萬二年七月廿七日、摂政にならせ給ふ。
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御とし廿二におはしましき。やがて藤氏の長者にならせ給ひき。仁安三年二月、當今位につかせ給ひしに、又摂政にならせ給ふ。いとやんごとなく、おはしましける御さかえなり。御あにの摂政殿も、宇治の左のおとゞも、其の御子の大将殿も、長者つぎ給ひて、ひさしくおはしまさば、一の人の御子なりとも、大臣にこそならせ給ふとも、かならずしも、家のあとつがせ給ふ事かたきを、この御ほうにや、おされさせ給ひけん。みなゆめになりて、かくたちまちに摂政にならせたまひ、藤氏の長者におはします。みかさの山のあさ日は、かねててらさせ給ひけん。御身のざえをさなくよりすぐれておはしますとて、内宴の侍るなども、あにをさしおきたてまつりて、そのむしろにまじはらせ給ひき。御心ばへあるべかしく、まだわかくおはしますに、公事をもよくおこなはせ給ふ。おとなしくおはしますなり。閑院ほどなくつくりいださせ給ひて、上達部殿上人など、詩つくり、哥たてまつりなどして、むかしの一の人の御ありさまには、いつしかおはします。心ある人いかばかりかは。ほめたてまつるらん。みかどにかしたてまつらせ給ひて、内裏になりなどし侍らんも、よのためも、いとはえ<”しきことにこそ侍るなれ。ゆくすゑ思ひやられさせ給ひて、しかるべきことゝ、よのためも、たのもしくこそうけたまはれ。此ふたりの
摂政殿たち、みな御子におはしますなれば、ふぢなみのあとたえず、さほがはのながれ、ひさしかるべき御ありさまなるべし。
(四一)浜千鳥 S0504 十九はまちどり
このちかくおはしましゝ入道おほきおとゞ、御心のいろめきておはしましゝかば、ときめき給ふかた<”おほくて、きたのかたは、きびしくものし給ひしかども、はら<”になんきんだちおほくおはしましき。ならの僧正、三井寺の大僧正、このふたりは、をとこにおはしまさば、いまはおい給へるかんだちめにておはすべきを、北のかたの御はらに、をのこ君たちもおはしまさで、女院ばかりもちたてまつり給ひつるにつけてもおほかたもそねましき御心のふかくおはしましけるにや。御房たちの、をさなくおはしましゝより、おとなまで、ちかくもよせ申させたまはず。いなごなどいふむしの心をすこしもたせたまはゞよく侍らまし。きさきなどはかのむしのやうに、ねたむ心なければ御こもうまごもおほくいでき給ふとこそ申すなれ。関白摂政の北のかたも、おなじことにこそおはすべかめれ。されど年よりては、おもほしなほしたりけるにや。きみだちほかばらなれど、とのゝうちにもおほくおはしましき。源中納言のひめぎみたち、ふたりに、ひとりのは、故摂政殿、
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いまひとりのには、たうじの殿、又山に法印御房とておはしましき。又ならに僧都とておはします也。又女房の御はらに、右のおほい殿三井寺のあや僧都のきみ、又三位中将殿など申しておはしますなり。又山の法印などきこえたまふ。又すゑつかたに、ときめかせ給ひしはらにおはする、山の法眼など申してきこえ給ふ。をんなきんだちは、女院中宮などおはします。さぬきのみかどの御ときの中宮聖子と申すは、きたのまん所のひとりうみたてまつらせ給へるぞかし。その御ははは、むねみちの大納言の御むすめ、あきすゑのすりのかみのはらの御むすめを、法性寺殿にたてまつり給へりき。かの女院さぬきのみかどくらゐにおはしましゝ、ちゝのおとゞも、時の関白におはしましゝかば、宮の御かた御あそびつねにせさせ給ふ。をり<につけつゝ、むかしおぼしいづることも、いかにおほく侍らん。うづきのころ、みかど宮の御かたにこゆみの御あそびに、殿上人かたわかちて、かけものなどいだされ侍りけるに、あふぎかみをさうしのかたにつくりて、うたかきつけられたりけり。そのうたは、
@ これをみておもひもいでよ濱千鳥跡なき跡を尋ねけりとは W064
とはべりける返し、公行の宰相右中弁とておはせしぞしたまひける。
@ はま千鳥跡なき跡を思ひ出て尋ねけりともけふこそはしれ W065
とぞうけ給はりし。哥は殿のよませ給へるにや侍りけん。拾遺抄にはべる、をのゝみやのおとゞのふること、おもひいでられて、いとやさしくこそきこえ侍りしか。
(四二)使合 S0505 つかひあはせ
かのみかどくらゐおりさせ給ひしかば、皇太后宮にあがらせ給へりき。このゑのみかどの御時も母后にて、内になほおはしましき。中宮と申ししとき、このゑのみかどの春宮におはしましゝに、ふたみやの女房たち、つねにきこえかはして、をかしきことゞもはべりけるに、ふみのつかひ、いかなるものに侍りけるにか。わろしとて、はじめは蔵人を、東宮によりやられたりければ、返事又少将ためみちしておくりたりけり。其かへりごと、春宮より公通の少将もちておはしたりけり。かやうにするほどに、左のおとゞ中宮の女房のふみもちてわたり給ひたるに、春宮の女房なげきになりて、みやつかさなどゝいかゞせんずると、さま<”ものなげきにしあへるに傅の殿のおはしましたるは、この宮人におはしませば、ことつけにてこそあれなどいへども、からくしまけてわぶるほどに、関白どのわれつかひせんとて、ふみかゝせて、中宮の御方にわたらせ給へるに、女房みなかくれ
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て心えてさしいでねば、とかくしでうちかけてかへらせ給ひぬ。中宮には又これにまさるつかひは、院こそおはしまさめとて、かゝることこそさぶらへとて、うちの御つかひにやありけん。とうの中将とて、のりながのきみ、とばの院の六条におはしましゝに申されければいかにもはべるべきに、女房のとりつぎてをため侍れば、えなんし侍るまじきと、申させ給ひなどしてありときゝ侍りし、のちには、いかゞなり侍りけん。この女院はじめつかたは、うへつねにおはしまして、よるひるあそばせたまひけるに、すゑつかたには、兵衛のすけなどいふ人いできて、めづらしきをりも、おほくおはしましけるに、うへふとわたらせ給ひけるに、しばしみじかき御屏風のうへより、御覧じければきさき十五かさなりたる、しろき御ぞたてまつりたる御そでぐちの、しらなみたちたるやうにゝほひたりけるを、なみのよりたるをみるやうなる御そでかなど、おほせられければうらみぬそでにもやと、いらへ申させ給ひけるときこえ侍りし。うらみぬ袖も、なみはたちけり。といふ、ふるき事なにゝはべるとかや。をりふしいとやさしく侍りけることなどこそ、つたへうけ給はりしか。ひが事にや侍りけん。人のつたへはべることはしりがたくぞ、新院とをくおはしましてのち、この女院は御ぐしおろさせ給ひてけりとなん、きこえさせたまふ。
おなじことゝ申しながらも、いとあはれにかなしく、近衛のみかどの御時の中宮、呈子と申ししも、太政大臣伊通のおとゞの御むすめを、この法性寺殿の御子とてぞたてまつり給へる。此頃九条院と申すなるべし。まことの御子ならねど、院号も関白の御子とてはべるとかや。この法性寺殿は、二条のみかどの御時も、女御たてまつらせ給ひて、中宮にたち給ひき。みかどかくれさせ給ひても、いまの新院くらゐの御時、國母とて、猶うちにおはしましき。みかどくらゐさらせ給ひしかば、さとにおはしませども、猶中宮と申すなるべし。御ぐしおろさせ給へるとかや。まだ御とし廿三四などにや、おはしますらん。このころばかり、上らうの入道宮、院たち、おほくおはしますをりは、ありがたくや侍らん。女院いつところおはします。おほみや中宮、二所のきさきの宮、斎宮さい院などかた<”きこえさせ給ふ。かつはよのはかなきによらせ給ふ。ほとけのみちのひろまり給へるなるべし。
(四三)飾太刀 S0506 廿かざりたち
ふけの入道おとゞの御子は、法性寺のおほきおとゞ、つぎには、宇治の左のおとゞよりながときこえ給へりし、女君は高陽院と申す。泰子皇后宮ときこえたまひき。法性寺殿
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のひとつ御はらのあねにておはしましき。長承三年三月のころ、きさきにたち給ふ。御とし四十ときこえき。保延五年院号えさせ給ひき。左のおとゞ、御はははとさのかみもりざねといひしがむすめにやおはしけん。その左のおとゞは御みめもよくおはし、御身のざえもひろき人になんきこえ給ひし。堀川の大納言に、前書とかきこゆるふみ、うけつたへさせ給へりけり。そのふみは、匡房の中納言よりつたはりて、よみつたへたる人、かたく侍るなるを、この殿ぞつたへさせたまへりける。いまは師のつたへもたえたるにこそ侍るなれ。かやうにして、さま<”のふみどもよませたまひ、僧のよむふみも、因明などいふふみならの僧どもに、たづねさせ給ふとかやきこえき。さうのふえをぞ、御あそびにはふかせ給ふときこえたまひし。御てかゝせ給ふ事をぞ、わざとかきやつさせ給ひけるにや。あにの殿に、いかにもおとらんずればなど、おぼしたりけるを、法性寺殿はわれは詩もつくるやうに、おぼゆるものを、さては詩をぞつくらるまじきなどぞおほせられけるとかやきこえ侍りし。法成寺すりせさせ給ふ。塔のやけたるつくらせ給ひて、すがやかにいとめでたく侍りき。日記などひろくたづねさせ給ひ、おこなはせ給ふことも、ふるきことをおこし、上達部の着座とかしたまはぬをも、みなもよをしつけなどして、おほやけ
わたくしにつけて、なにごともいみじく、きびしき人にぞおはせし。みちにあふ人、きびしくはぢがましきことおほくきこえき。公事おこなひ給ふにつけて、おそくまゐる人、さはり申す人などをば、いへやきこぼちなどせられけり。ならに濟圓僧都ときこえし名僧の、公請にさはり申しければ京の宿房こぼちけるに、山に忠胤僧都ときこえしと、たはぶれがたきにて、みめろむじて、もろともに、われこそおになどいひつゝ、うたよみかはしけるに、忠胤これをきゝて、濟圓がりいひつかはしける、
@ まことにや君がつかやをこぼつなるよにはまされるこゝめ有りけり W066
返し
@ やぶられてたちしのぶべき方ぞなき君をぞ頼むかくれみのかせ W067
とぞきこえ侍りける。又女えんせさせ給ふ事もあら<しくぞ、きこえ侍りける。いはひをなどいふ、ふるきいろごのみとかや思はせ給ひけるに、よるにはかにおはしたりければかくれておもひかけぬものゝ、うしろなどに有りけるを、もりのり、つねのりなどいふ人どもして、もとめなどして、かくれのあやしのかたまでみけれど、えもとめえてかへり給ひて、またひるあらぬさまにて、かくわたらせ給へると侍りければこのたび
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はいであひたてまつり、たいめしけるにも、むかしいまの物がたりなどして、ことうるはしく、かへりいでさせ給ひにけり。ふたゝびながら、よつかざりしなどぞいひけると、人はかたり侍りし、この御わらはなはあやぎみと申しけるに、ふけどの法性寺殿、おやこの御なか、のちにこそたがはせ給へりしか。はじめは左のおとゞ、御子にせさせたてまつり給ひけるころ、かざりたちもたせたてまつらせ給ひけるに、
@ よゝをへてつたへてもたるかざりたちのいしつきもせずあやおぼしめせ W068
とよませ給へりけるほどに、すゑには御心どもたがひて、このおとうとの左のおとゞを、院とゝもにひき給ひて、藤氏の長者をもとりて、これになしたてまつり給ふ。賀茂まうでなどは、一の人こそおほくし給ふを、あにの殿をおきて、この左のおほいどのゝ、賀茂まうでとて、よのいとなみなるに、東三条などをもとりかへして、かぎなどのなかりけるにや。みくらのとわりなどぞし給ふときこえ侍りし、ふたりならびて、内覧の宣旨などかうぶり給ひ、随身給はりなどし給ひき。かゝるほどに、鳥羽院うせさせ給ひて、讃岐院と左のおとゞと御心あはせて、この院のくらゐにおはしましし時、白河のおほいみかどどのにて、いくさし給ひしに、みかどの御まぼりつよくて、左のおとゞも、馬にのりていで
給ひけるほどに、たれがいたてまつりたりけるにか。やにあたり給ひたりけるが、ならににげておはして、ほどなくうせ給ひにき。その公だち、右大将兼長ときこえたまひし、御はゝは、師俊の中納言の御むすめ也。その大将殿は、御みめこそいときよらにあまりぞふとり給ひてやおはしましけん。御心ばへもいとうつくしくおはしけり。つぎに中納言中将師長と申ししは、みちのくのかみ信雅ときこえし、御うまごにやおはすらん。その御おとうとは、中将隆長と申しける。それも入道中納言の御はらなるべし。みなながされ給ひて、うら<におはせしに、中納言中将殿はかへりのぼり給ひて、大納言になり、大将などにおはすめり。身の御ざえなども、をさなくよりよき人にておはしますときこえ給ひき。びはゝすべてじやうずにておはしますとぞきこえ給ふ。みやこわかれて、とさの國へおはしけるに、これもりとかやいふ陪従、御おくりにまゐりけるみちにて、さうのことのえならぬしらべつたへ給ふとて、そのふみのおくに、うたよみ給へりけるこそ、あはれにかなしくうけ給はりしか。
@ をしへをくかたみをふかく忍ばなん身は青海のなみにながれぬ W069
とかやぞきゝ侍りし。あをうみはかのしらべの心なるべし。いとかなしく、やさしく侍りける
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ことかな。もろこしに、むかし〓叔夜といひける人の琴のすぐれたるしらべを、このよならぬ人につたへならひて、ひとりしれりけるを、袁孝尼とかやいひけることひきの、あながちにならはんといひけれども、ないがしろにおもひて、ゆるさゞりけるほどに、つみをかうぶりけるときは、このしらべの、ながくたえぬることをこそ、かなしみいたみけれ。此のことのしらべをつたへ給ひけんことこそ、かしこくたのもしくも、うけ給はりしか。びはこそすぐれ給へりときこえ給へりしか。しやうのことをも、かくきはめさせ給ひて、御おほぢのあとをつがせ給ふ、いとやさしくこそ、うけ給はり侍れ。かくてとしへてのち、かへりのぼり給へるに、二条のみかど、びはをこのませ給ひてめしければまゐらせ給ひて、賀王恩といふ楽をぞひき給ひけると、つたへうけたまはる。さてもとのかずのほかの大納言にくはゝり給ひて、うちつゞき大将かけ給へるなるべし。そのほかのきみだちは、みなうら<にてかくれ給ひにける。いとかなしく、いかにあはれに、ぬしも人もおぼしけん。このならにおはせし禅師のきみも、かへりのぼり給ひてのち、うせ給ひにけり。たゞごとゞもおぼえたまはぬ御ありさまなり。この左のおとゞは、このゑのみかどの御時、女御たてまつり給へりき。おほいのみかどの右大臣、公能のおとゞの三君を、御子にし給ひて、たてまつりたまひて、皇后宮多子とぞ申しし。その左のおとゞのきたのかたは、おほいのみかどのおとゞの御いもうとなれば、そのゆかりに、御子にし給へるなるべし。このころは、大宮とぞきこえさせ給ふなり。
(四四)苔の衣 S0507 こけのころも
のちの二条殿の御子には、ふけの入道おほきおとゞ、その御おとうとにて、宰相中将家政、少納言家隆とておはしき。たじまのかみ良綱といひしが、むすめのはらにおはす。その宰相の御心ばへのきはだがにおはしけるにや。三条のあし宰相とぞ、人は申し侍りし。その御子には、あきたかの中納言のむすめのはらにおはせし、まさのりの中納言と申しし、身の御ざえひろくおはしける。つかさをもかへしたてまつり給ひて、かしらおろして、かうやにおはすときゝ侍りし、その御子にて、少将ふたりおはすなる、さきのみまさかのかみあきよしときこえしが、むすめのはらにやおはすらん。おとうとの少将きんまさときこえ給ふ、二条のみかどかくれさせ給ひて、世をはかなくおもほしとりて、高野山にのぼりて、かしらおろしてすみ給ふなれば、御おやの中納言も、それにひかれて、ふかきやまにも、すみたまへるなるべし。むかしこそわかき近衛のすけなど、世をのがれて山にすみ給ふとは、ふるき物がたり
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にもきこえ侍れ。またにこれこそあはれにかなしく、花山僧正の、ふかくさの御とき、蔵人頭にておはしけるが、よるひるつかうまつりて、りやうあんになりにければかなしびにたへず。御ぐしおろし給ひて苔のころもかはきがたく、入道中納言、後一条の御いみに、みかどをこひたてまつりて、よをそむきて、ふかきやまにすみ給ひけんにも、おくれぬあはれさにこそきこえ給ふめれ。むかしはいかばかりかは、かやうの人きこえ給ひし、九条殿の御子、高光少将、はじめはよかはにすみ給ひてたゞかばかりぞえだにのこれる。などいふ御うたきこえ侍りき。後には多武峯におはしき。又少将時叙ときこえ給ひし源氏の、一條のおとゞの御子、大原の御むろなどきこえて、やんごとなき真言師おはしき。又むらかみの兵部卿致平のみこの、なりのぶの中将、又堀川関白のうまごにやおはしけん。重家の少将とて、左大臣のひとりごにおはせし、もろともに仏道にひとつ御心に、ちぎり申し給ひて、三井寺の慶祚あざりのむろにおはして、よをそむきなんと、のたまひければなだかくおはする君だちにおはするに、びんなく侍りなんどいなび申しけれど、かねて御ぐしをきりておはしければ慶祚あざり、ゆるしきこえてけり。てる中将、ひかる少将など申しけるとかや。中将は廿三、いまひとりは廿五におはしけるとかや。行成大納言
の御夢に、重家のせうそことて、世をそむきなんどいふこと、のたまへりけるを、御堂のおとゞの御もとにおはしあひて、かゝる夢こそみ侍つれと、かたりきこえ給ひければ少将うちわらひて、まさしき御夢に侍り。しか思ふなどのたまはせける。つぎの夜、てらの大阿闍梨房へおはしたりけるとなん。としごろの御心ざしのうへに、ときの一の人の、わづらひ給ふだに、人もたゆむことおほく、よのたのみなきやうに、おぼえたまふことの、心ぼそくおぼえたまへて、さばかりをしかるべき君だちの、その御としのほどにおもほしとり、おこなひすまし給へりし、あはれなどいふもことも、よろしかりしことぞかし。このことを、又人の申し侍りしは、齋信公任俊賢行成ときこえ給ひし大納言たち、陣の座にて、よのさだめなどしたまひけるを、たちきゝたまひて、くらゐたかくのぼらんとおもふは、みのはぢをしらぬにこそありけれ。かやうに、のちのよをぞ思ひとるべかりけるなど思て、いでたまひける夜、しげいへの少将、御おやの大臣殿にいとま申し給ひけるを、おほかたとゞめらるべきけしきもなかりければえとゞめ給はざりけるともきこえ侍りき。行成大納言の御日記には、さきに申しつるやうにぞはべるなる。これはこと人のかたりはべりし也。四条大納言公任の御哥など侍りしかとよ。御集などには
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みえ侍らん。又いひむろの入道中納言の御子、成房の中将の君も、おやの中納言のおなじふかきたにゝいつゝのむろならべて、おこなひ給ひしぞかし。義懐の中納言、惟成の弁、このふたりは花山院のをり、かしらおろし給へりき。四条の大納言の御哥、弁の大とくのもとに、
@ さゞなみやしがのうら風いかばかり心のうちのすずしかるらん W070
ときこえ侍りしむかしこそさかりなる人の、かやうなるはきこえ給ひしか。ちかきよには、かゝる人もきこえたまはぬを、このきんふさの少将こそ、あはれにかなしくきこえたまへ。
(四五)花の山 S0508 廿一はなのやま
おほとのゝをのこ公だちは、後の二条殿のつぎに、花山院の左のおとゞいへたゞとて、大臣の大将にて、ひさしく一のかみにておはしき。そのはゝは、みのゝかみよりくにときこえし源氏のむすめのはらにおはす。このおとゞ、関白にもなり給ふべき人におはすれど、御あにの二条殿の御子、ふけの入道おとゞの大殿のうまごにおはするうへに、御子にしたてまつり給ひて、関白つぎ給へれば、大殿のおはしましゝ代より、ふけ殿をたのみに
してあれと、おほせられをきてさせ給ひければなにごとも申しあはせつゝすぎたまへりけるに、ふけ殿関白になり給ひて、大将のきたまへりけるを、白河院の御おぼえにて、宗通大納言なるべしときこえければこのおとゞ、ふけどのにいかゞし侍るべきと申しあはせ給ひければいかにもちからおよばぬことにこそあめれ。さるにても、もしすこしのつまともやなると、中宮に心ざしをみえ申し給へ。このいへにいとなきことなれどなど侍りければまことにしか侍事とて、申しいれたまへりければ思ひがけぬ御心ざしなどきこえ給ひけるほどに、白川院宗忠のおとゞ、頭弁におはしけるとき、ゝとまゐれと侍りければおそくやおぼしめすらんと、おそれおぼしけれど、いと心よき御けしきにて、堀川のみかど、くらゐおはしましゝとき、うちへまゐりて申せとて、大将あきて侍るに、むねみちをなし侍らんと思ひ給ふなり。をさなくよりおほしたて侍りて、さりがたく思ふあまりになんなどそうせよと侍りければ、わづらはしきことにかゝりぬと思ながら、まゐり給へりけるに、うちは御ふえふかせ給ひて、きこしめしもいれざりけるを、ひまうかゞひてかくとそうし給ひければ御返事もなくて、なほふえふかせたまひて、いらせたまひにけるを、いそぎて返事申せと侍つる物をと思ひて、おどろかし申されければ、
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いでさせ給ひて、いかさまにも、御はからひにこそ侍らめ。かくおほせつかはすべしともおもふたまへ侍らず。かゝるおほせ侍れば、おそれながら申し侍るになん。むかしうけたまはり侍りしおほせに、よのまつりごとはつかさめしにあるべきなり。しかあれば大臣大将などよりはじめて、ゆげいのまつりごとまで、人のみゝおどろくばかりのつかさをばよくためらひて、よの人いはんことをきくべきなりと、うけたまはり侍りしより、いとかしこきおほせなりと、心のそこにおもひ給ひてなん、まかりすぎ侍る。この大将のことは、しかるべきにとりて、いへたゞこそ、関白の子にて侍るうへに、くらゐも上らうに侍るをこえ侍らんや。いかゞと思ふたまふるに、下らうなりとも、身のざえなどすぐれ侍らば、そのかたともおぼえはべるべきに、それもまさりたることも侍らず、いかにも御はからひに侍るべしと申せと、のたまはせければかへりまゐられはべりけるに、いそぎとはせ給ひけるに、かくと申しければ院きかせ給ひてしばしさぶらへとて、かさねてめして、えもいはずのたまはするものかな。まことにことわりなりとて、いへたゞおほせくだすべきよし侍りてぞこのおとゞ大将にはなりたまひける。このおとゞの御子は、中納言たゞむねと申しき。その中納言は、はりまのかみ定綱ときこえしむすめのはらにおはしき。中納言いとよき人にぞ
おはせし。雅兼の中納言とならび給ひて、五位蔵人十年ばかり、蔵人頭にても十年などやおはしけん。廿年の職事にて、ふたりながら、おなじやうにつかへ給ひしに、むかしにもはぢず、すゑのよには、ありがたき職事とて、をしまれ給ふほどに、中<おそくのぼりたまふとぞ、いたみ給ひける。宰相中納言まで、おなじやうにならびてのぼり給ひき。忠宗の中納言は、中宮権太夫ときこえ給ひき。その中納言の御子は、修理のかみいへやすときこえしはらにおはする公だち、花山院のおほきおとゞ忠雅、又中納言忠親など申して、おやの御子なれば、よきかんだちめたちにぞおはすときこえ給ふ。忠親の中納言、これもおやたちのおはせしやうに、まさかぬの子の、雅頼の中納言と、蔵人頭にならびて、宰相中納言にも、おなじやうにうちつゞきのぼり給ふなるも、いとかひ<”しく、たゞまさのおとゞは、三位中将大臣大将などへ給ひて、おほきおとゞまでいたり給へり。その御子におはするなる、兼雅の中納言は、家成の中納言の、むすめのはらにやおはすらん。それも、三位の中将などきこえ給ひき。中宮権大夫のあにゝて、はりまのすけ、たゞかぬといふ人もおはしけり。おとうとの中納言の、かんだちめになり給ひてのち、おやのおほいどの大将をたてまつりて、少将にはじめてなし申したまひける
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とかや。その少将のこに、光家とかきこえ給ひけるを、大臣殿の御子にし給ひて、殿上したまへりける。侍従におはしけるをば、かのこしゞうとぞ人は申しける。おやはかくれて、このあらはれたるとりなるべし。そのおやの少将はこよりのち、殿上もし給ひけるとかや。おほいどのゝ三郎にては、あぜちの大納言經實と申しておはしき。二位大納言とぞ申しし。二位宰相など申しつけたりけるとぞ。その御はゝはみのゝかみ基貞のむすめなり。その大納言の御むすめ、公實の春宮太夫のおほいぎみのはらにおはせしを、院の宮とておはしましゝに、まゐり給ひて、二条のみかどをうみたてまつりてかくれ給ひにき。きさきをおくられ給ひて、ちゝの大納言殿は、おほきおとゞおくられ給へるとぞ。その贈后のひとつ御はらにおはすなる。このころはつねむねの左のおとゞときこえ給ふ。二条の院の御をぢにておはせしうへに、われからもはか<”しくおはするにや。よきかんだちめとぞきこえたまふめる。おやの大納言殿も、あにの中納言殿も、物などかき給ふことおはせずときこえしに、これはふみにもたづさはり給へるとぞきこえ給ふ。御子に中将のきみおはすなる、清隆の中納言のむすめのはらにやおはすらん。この大臣殿の御あにども、おほくおはするなるべし。經定の中納言は、治部卿通俊
のむすめのはらにおはしけるとぞきこえし。そのつぎに、みつたゞの中納言ときこえ給ふも、左のおとゞの御あにゝおはするなるべし。二条のおほぎさいのみやの女房のこにおはせしを、かのみやゝしなはせ給ひて、はるわかぎみときこえし、このころは前中納言民部卿になり給ふとかや。あはぢの大納言の御子は、おほくおはしけるとぞきこえし。おほ侍従などいひてもおはしき。仁和寺に静經僧都ときこえたまひしは、よき真言師にて、しるしある人とてきこえ給ひし。おほとのゝ四郎にやあたり給ひけん。あぜちのひとつはらによしざねの大納言と申しし、をのゝ宮とぞきこえ給ひし。あにの殿よりも、もじなどかきたまひしにや。けびゐしの別当などし給ひき。大殿の五郎にやおはしけん。忠教の大納言、四条の民部卿とぞきこえ給ひし。その御はは遠江守永信がこに、蔵人おりて、つかさもなかりしにや。永業ときこえし人のむすめのはらにおはす。その民部卿の御子どもあまたおはしき。忠基の中納言と申しし、つくしの帥になり給へりしかとよ。かぐらのふえをぞよくふき給ひけると、うけたまはりし。その御子に、六角の宰相家通と申すなるは、重通のあぜちの大納言のやしなひ申し給ひけるとぞきこえ給ふ。
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(四六)水茎 S0509 みづぐき
四條の民部卿の御子は、又俊明の大納言のむすめのはらに、宰相中将教長ときこえ給ひし、のちには左京のかみになりて、さぬきの院のことゞもおはしましゝに、かしらおろし給ひて、ひたちの、うきしまとかやに、ながされ給へりし、帰りのぼり給ひて、かうやにすみ給ふときこえ給ふ。わかのみちにすぐれておはするなるべし。てかきにもおはすとぞ、ところ<”のがくなどもかき給ふなり。又みだうのしきしがたなどもかき給ふとぞきこゆる。佐理の兵部卿、しんのやうをぞこのみて、かき給ふときこゆる、かつは法性寺のおとゞの御すぢなるべし。花ぞのゝおとゞのも、さやうのすぢにかゝせ給ふとぞ、きこえさせ給ひし。宇治の左のおとゞの、ともたか、のりなが、いづれかまさりたると、ときたゞときこえし人に、とひ給はせければさだめきこえんもよしなくて、とり<”によくかき侍りとぞ、こたへ申してし。さだのぶのきみ、人にかたられけるを、たび<とはせ給ひけるにや。申しきられにけりともきこえ侍り。はだへと、ほねとにたとへたるとかや。その入道は人にかたられける。朝隆の中納言は、行成の大納言の消息、ゆゝしくうつしにせられたるとぞきこえ侍るめる。そのせうそくもたぬ人なく、よにおほくはべる也のりなが
の御ても、さま<”京ゐ中つたはり侍るなり。宮内大輔も、ひじりのすゝむるふみ、なにかとすぐさずかきひろめ侍りけり。いかに本おほく侍らん。みちかぜのぬしのいますがりけるよにこそ、ひとくだりもたぬ人は、はぢに思ひはべりけれ。宮内大輔は大納言のすゑなれば、よくにらるべきにて侍れど、ひとつのやうをつたへられたるにや。つねにみゆるやうにはかはりてぞ侍るなる。おほぢのすざかの治部卿の御てにぞよくにて侍りける。そのさだのぶのきみは、一切經を一筆にかきたまへる、たゞ人ともおぼえ給はず。よになきことにこそ侍るめれ。五部の大乘經などたに、ありがたく侍るにいとたふときちぎりむすび給へる人なるべし。のりながの御わらはなは、文殊君と聞えき。殿上人におはせしにも、道心おはして、をとこながらひじりにおはすときこえ給ひしかば、いかばかりたふとくおはすらん。その御おとうとにて、かもばらのきみだち、あまたおはすときこえたまふ。その御はゝこそ、うたよみにおはせしか。おほぢのなだかきうたよみなりしかばなるべし。いとやさしくこそ。月やむかしのかたみなるらん。とよみ給へるぞかし。撰集には有教がはゝとていり給へり。奈良仁和寺山などに、僧きんだちもおほくおはすとぞきこえ給ふ。民部卿のつぎに、宮内卿ときこえたまひし、かんだちめにもなら
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でやみたまひにき。
(四七)故郷の花の色 S0510 ふるさとの花のいろ
おほとのゝ僧公達には、山には理智房の座主と申して、をとこ公達よりあにゝおはしけるなるべし。ならには覚信大僧正、三井寺には、白河の僧正増智とて、さぬきのみかどの護持僧におはしき。たゞのりの大納言の、ひとつはらとぞきこえ給ふ。徳大寺の法眼と申ししは、花山院の左のおとゞの、ひとつはらにおはす。心のきゝ給へるにや。法金剛院の、いしたてなどにめされて、まゐり給ひけるとかや。梵字などもよくかき給ふとぞきこえ給ひし。ならに玄覚僧正と申ししもおはしき。うせ給ひしほどに、仁和寺の寛運とかいひし人、みずほうの賞に、僧都になりし、いかなりしことにか。たれが御つかひとかやとて、ひごとに、みてぐらたてまつらるゝことありと、きこしめしたりけるとかや。二条殿の御時にも範俊とかやきこえし、鳥羽の僧正、はやしの中に、しのびてたてられたる。丈六の明王のみだうにて、みずほうおこなはるなど、きこえ侍りし。これらよしなきことに侍り。山の座主行玄大僧正ときこえ給ひしは、やんごとなき真言師にて、とばの院佛のごとくにおもほし給ふときこえき。三昧のあざり良祐といひしやんごとなき
真言師に、こまかにつたへならひ給ひて、心ばへふるまひありがたく、僧のあらまほしきさまにて、さる人まだいできがたくなんおはしける。尊勝陀羅尼の御導師におはしけるに、ひぐらしあることなれば僧膳などいふこともあり。又おのづからたち給ふことなどありけるに、御あふぎのうへに、五鈷おきて、わが御かはりに、とゞめ給ひけるなどをも、いと心にくゝよしありて、めもあやにぞおもひあへりける。鳥羽院御ぐしおろさせ給ひしとしにや侍りけん。七月ばかりより、御わらはやみ、大事におはしまして、月ごろわづらはせ給ひしに、さま<”の御いのりせさせ給はぬ事なく、かた<”より御いのりしつゝたてまつり給ひ、げんざとて、三井寺の覚宗などいふそうたち、うちかはりつゝまゐりても、おこらせ給ひて、あさましくきこえ侍りしに、げんざなどし給ふさまにはおはせねど、この座主のまゐり給ひて、いのりたてまつり給ひけるにこそ、かひ<”しくおこたらせ給ひにければまたのちにも、ほどへておこらせ給へりけるにもたび<やめたてまつり給ひけるとこそきこえ侍りしか。かやうのげんざには、山ぶしをのみたのもしきものにはおもひあへるに、まことしきことは、このたびぞみえ侍りける。山しなでらの尋範僧正と申すぞ、ひとりのこり給ひてこのころおはする。それはもろかたの弁のむすめ
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のはらにや。ならにはきよきそうもかたきをいとたふとき人にぞおはしますめる。和哥こそよくよみ給ふなめれときこえ侍りしか、
@ やどもやと花も昔にゝほへどもぬしなき色はさびしかりけり W071
とよみ給ふ。ことばもいひなれ、すがたもよみすまされ侍る。近院の大臣の、河原院にてよみたまへるうた、
@ うちつけにさびしくもあるか紅葉ゝのぬしなきやどは色なかりけり W072
といふ御うたの心なるものから、よみかへられて、いとやさしくきこえ侍る。又範永が、月のひかりもさびしかりけり。といふ哥の心なれども、それにもかはりて侍り。おなじ御はらのあにゝて寺の仁證法印とてもおはしき。猶僧公だちは、あし法眼など申すもおはしき。またてらに法印など申すも、おほかたをとこぎみ、十五六人ばかりやおはしましけん。