今鏡読本 第二

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◎〔すべらぎの中〕第二
 (九)たむけ S0201
このみかど、よをしらせ給ひてのち、世の中みなおさまりて、いまにいたるまで、そのなごりになん侍る。たけき御心におはしましながら、又なさけおほくぞおはしましける。石清水の放生會に、上卿宰相諸衛のすけなどたてさせ給ふ事も、この御時よりはじまり、佛の道もさま<”それよりぞまことしきみちは、おこれる事おほくはべるなる。円宗寺の二會の講師おかせ給ひて、山三井寺ざえたかき僧などくらゐたかくのぼり、ふかきみちもひろまり侍る也。又日吉の行幸はじめてせさせ給ひて、法花經おもくあがめさせ給ふ。かのみちひろまる所を、おもくせさせ給ふ事は、まことにみのりをもてなさせ給ふにこそはべるなれ。ひえの明神は、法花經まもり給ふ神におはします。ふかきみのりをまもり給ふ神におはすれば、うごきなくまもり給はんがために、世の中の人をもひろくめぐみ、しるしをもきはめ、ほどこしたまふなるべし。石清水の行幸、はじめてせさせ給ひけるに、物みぐるまどもの、かな物うちたるを御らんじて、みこしとゞめさせ給ひて、ぬかせ給ひ
ける、御めのとの車より、いかでか我が君のみゆきに、この車ばかりはゆるされ侍らざらむと、聞こえければこのよしをやそうしけむ。そればかりぞ、ぬかれ侍らざりけるとかや。賀茂のみゆきには、かなものぬきたるあとある車どもぞ、たちならびて侍りける。大極殿、さきのみかどの御とき、火事侍りしのち、十年すぐるまで侍りしに、くらゐにつかせ給ひて、いつしかつくりはじめさせ給ひて、よとせといふに、つくりたてさせ給ひにしかば、わたらせ給ひてよろこびの詩などつくられ侍りけり。よろづの事むかしにもはぢず、おこなはせ給ひて、山のあらし、枝もならさぬ御世なれば、雲ゐにてちとせをもすぐさせ給ふべかりしを、世の中さだまりて、心やすくやおぼしめしけん。又たかき雲のうへにて、世の事もおぼつかなく、ふかき宮の中は、よを治めさせ給ふも、わづらひおほく、いますこし、おりゐのみかどとて、御心のまゝにとやおぼしめしけむ。位におはします事、よとせありて、白河の御かど、春宮におはしましゝに、ゆづり申させ給ひき。御母女院御むすめの一品の宮など、具したてまつらせ給ひて、すみのえにまうでさせ給ふとて、
@ 住よしの神もうれしと思ふらんむなしき船をさしてきたれば W019、
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とよませ給へる、みかどの御うたとおぼえて、いとおもしろくも聞こえ侍る御製なるべし。おりゐのみかどにて、ひさしくもおはしまさば、いかばかりめでたくも侍るべかりしに、つぎのとしかくれさせ給ひにし、世にくちをしきとは申せども、くらゐの御時、よろづしたゝめおかせ給ひて、東宮にくらゐゆづり申させ給ひて、かくれさせ給ひぬれば、いまはかくてと、おぼしけるなるべし。ある人の夢に、こと国のそこなはれたるをなほさんとて、このくにをば、さらせ給ふとみたる事も侍りけり。又嵯峨に世をのがれて、こもりゐたる人の夢に、がくのこゑそらに聞こえて、むらさきの雲たなびきたりけるを、何事ぞとたづねければ、院の仏のみくにゝ、むまれさせ給ふとみたりけるに、院かくれさせ給ひぬと、世の中に聞こえけるにぞ、まさしきゆめと、たのみはべりけるとなむ。
 (十)みのりのし S0202
むかしみこの宮におはしましゝ時より、のりのみちをもふかくしろしめされけり。勝範座主といふ人、参り給へりけるに、真言止観かねまなびたらん僧の、俗のふみも心得たらん、一人たてまつれ。さるべき僧のおのづからたのみたるがなきに、とおほせられければ、顯密かねたるは、つねの事にてあまた侍り。からの文の心しりたる物こそ
ありがたく侍れ。さるにても、たづねて申し侍らんとてかへりて薬智といふ僧をぞ奉られけるに、わざととりつくろひて、車などをもかされざりけるにや。かりばかまにのりたる僧の、座主のもとよりとて、まゐりたりければ、めしよせて、みすごしにたいめせさせ給ひけるに、まきゑの御すゞりのはこのふたに、止観の一のまきをおきて、さしいださせ給ひて、よませてとはせ給ひければ、あきらかにときゝかせまゐらせけり。眞言の事は、ふみはなくてたゞとはせ給ひければ、ことの有さま、又申しのべなどしけり。そのゝち、俗の文のことを、おほせられければ、法文にあはせつゝ、それもあへしらひ申しけり。すゑつかたに、極楽と兜率と、いづれをかねがふと、の給はせければ、いづれをものぞみかけ侍らず。たゞ日ごとに法花經一部兩界などおこなひ侍るを、おこたらでみろくの世までし侍らばやと思ひ給へて、大鬼王の、いのちながきにて、おこなひこの定にしつゝ侍らんとぞねがひ侍るとぞ申しける。須弥山のほとりに、しかある鬼のおこなひなどするありとみゆる經の侍るとぞ、のちにたれとかや申され侍りける。鬼は化生のものなれば、むまれて程なくおこなひなどしつきて、おこたるまじき心に申しけるとぞ。さて又おほせられけるは、御いのりなど、とりたててせんこともかなひがたければ、さしたることもおほせ
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られつけず。たゞ心にかけて、おこなひのついでにいのりて、おだやかにたもたん事を、心にかくべきなりとぞ、の給はせける。くらゐにつかせ給ひて、たづねさせ給ひければ、薬智は身まかりにけり。弟子なりける法師をぞ、僧綱になさせ給ひける。おほうへの法橋〈 顕耀 〉とかいひけるとなん。春宮におはしましける時、よのへだておほくおはしましければ、あやうくおぼしけるに、検非違使の別當にて、経成といひし人、なほしにかしわばさみにて、やなぐひおひて中門の廊にゐたりける日は、いかなることのいできぬるぞとて、宮のうちの女房よりはじめて、かくれさわぎけるとかや。おはしましける所は、二条東洞院なりければ、そのわたりを、いくさのうちめぐりて、つゝみたりければ、かゝる事こそ侍れなど申しあへりける程に、別當のまゐりたりければ、東宮も御なほしたてまつりなどして、御よういありけるに、別當検非違使めして、をかしの者はめしとりたりやと、とはれければ、すでにめして侍りと、いひければこそ、ともかくも申さで、まかりいでられけれ。おもくあやまちけるものおはしますちかきあたりにこもりゐたりければ、うちつゝみたりけるに、もし春宮ににげいる事もやあるとて、まゐりたりけり。かやうにのみあやぶまれ給ひて、東宮をもすてられやせさせ給はんずらんと
おもほしけるに、殿上人にて衛門権佐ゆきちかときこえし人の相よくする、おぼえありて、いかにもあめのしたしろしめすべきよし申しけるかひありて、かくならびなくぞおはしましゝ。このみかどの御母陽明門院と申すは、三条院の御むすめなり。後朱雀院、東宮の御時より御息所におはしまして、このみかどをば、廿二にてうみたてまつらせ給へり。長元十年二月三日、皇后宮にたち給ふ。御とし廿五、其の時江侍従たゝせ給ふべきときゝて、
@ むらさきの雲のよそなる身なれどもたつと聞くこそうれしかりけれ W020
となんよめりける。寛徳二年七月廿一日、御ぐしおろさせ給ふ。治暦二年二月、陽明門院ときこえさせ給ふ。御哥などこそ、いとやさしくみえ侍るめれ。後朱雀院にたてまつらせ給ふ、
@ いまはたゞ雲井の月をながめつゝめぐり逢ふべき程も知れず W021
などよませ給へる。むかしにはぢぬ御歌にこそはべるめれ。この女院の御母、皇太后宮妍子と申すは、御堂の入道殿の第二の御むすめなり。
 (十一)紅葉のみかり S0203
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白河院は後三条院の一の御子におはしましき。その御母贈皇后宮茂子と申す。権大納言能信の御むすめとて、後三条院の春宮におはしましゝ、御息所にまゐり給へりき。まことには閑院の左兵衛督公成の中納言のむすめ也。この中納言の御いもうとは、能信の大納言の北の方なり。このみかど天喜元年みづのとのみ六月廿日むまれさせ給ひ、延久元年四月廿八日に東宮にたゝせ給ふ。御とし十七、同四年十二月八日、位につかせ給ふ。御とし廿にやおはしましけん。くらゐゆづりたてまつらせ給ひて、つぎのとしの五月に後三条院かくれさせ給ひにしかば、國のまつりごと、廿一の御としより、みづからしらせ給ひて、位におはします事十四年なりしに、卅四にて位おりさせ給ひてのち、七十七までおはしまししかば、五十六年、くにのまつりごとをせさせ給へりき。延喜のみかどは卅三年たもたせたまへりしかども、位の御かぎり也。陽成院は八十一までおはしましゝかども、院ののちひさしくて、世をばしらせ給はざりき。この院はちゝの太上天皇世をしらせ給ひし事、いくばくもおはしまさず。さきの御なごりにて、一の人のわがまゝにおこなひ給ふもおはせねば、わかくよりよをしらせ給ひて、院のゝちは、堀河院、鳥羽院、さぬきの院、御こうまごひひご、うちつゞき三代の*
みかどのみよ、みな法皇の御まつりごとのまゝ也。かくひさしく世をしらせ給ふ事は、むかしもたぐひなき御ありさま也。後二条のおとゞこそ、おりゐのみかどのかどに、車たつるやうやはあるなどのたまはせける。それかくれ給ひてのちは、すこしもいきおとたつる人やは侍りし。このみかど、かん日にむまれさせ給ひたるとぞきこえ侍りし。又まことにやありけん。御めのとの二位も、かん日にまゐりそめられたりけるとかや。されどもすゑのさかえ給ふこと、このころまでいやまさりにおはすめり。あしき日まゐれりともきこえざりし。今ひとりの御めのとの、ともつなのぬしのみはゝにていますがりしは、日野三位のむすめにて、世おぼえも事の外にきこえ給ひしかども、みかどの五におはしましゝとし、かのめのと、かくれられにしかば、二位のみならびなくおはすめり。すぐせかしこければ、あしき日もさはりなかるべし。しかあらざらん人は、いかゞそのまねもせん。従二位親子のざうしあはせとて、人々よき哥どもよみて侍るも、いとやさしくこそきこえ侍りしか。このみかどは、御心ばへたけくも、やさしくもおはしましけるさまは後三条院にぞにたてまつらせ給へりける。さればゆゝしく事<しきさまにぞ、このませ給ひける。白河の御てらも、すぐれておほきに、やおもてこゝのこし
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の塔などたてさせ給ひ、百躰の御仏などつねは供養せさせ給ふ。百たいの御あかしを、一どにほどなくそなふる、ふりうおぼしめしよりて、前栽のあなたにものゝぐかくしおきて、あづかり百人めして、一度にたてまつらせ給ひけるに、事おこなひける人、心もえで少々まつともしなどしたりけるをも、むづからせ給ひて、さらに一どにともされなどせられけり。鳥羽などをもひろくこめて、さま<”いけ山などこちたくせさせ給へり。後三条院は、五壇御修法せさせ給ひても、くにやそこなはれぬらんなどおほせられ、円宗寺をも、こちたくつくらせ給はず。漢の文帝の露臺つくらんとし給ひて、國たへじなどいひてとゞめ給ひ、女御愼夫人には、すそもひかせず。御帳のかたびらにもあやなぎをせられける御心なるべし。おの<時にしたがふべきにやあらん。白河院は御ゆみなども上手にておはしましけるにや。池の鳥をいたりしかば、故院のむづからせ給ひしなど、おほせられけるとかや。まだ東宮のわか宮と申しける時より、和哥をもおもくせさせ給ひて、位にても後拾遺あつめさせ給ふ。院のゝちも金葉集えらばせ給へり。いづれにも、御製どもおほく侍るめり。承保三年十月廿四日、大井川にみゆきせさせ給ひて、嵯峨野にあそばせ給ひ、みかりなどせさせ給ふ。
そのたびの御哥、
@ 大井川ふるきながれを尋きてあらしの山の紅葉をぞみる W022
などよませ給へる。むかしの心ちして、いとやさしくおはしましき。承暦二年四月廿八日、殿上の哥合せさせ給ふ。判者は六条右のおとゞ、皇后宮太夫と申しし時せさせ給ひき。哥人ども時にあひ、よき哥もおほく侍るなり。哥のよしあしはさる事にて、ことざまのぎしきなどえもいはぬ事にて、天徳哥合、承暦哥合をこそは、むねとある哥會には、よのすゑまで思ひて侍るなれ。又から國の哥をも、ゝてあそばせ給へり。朗詠集にいりたる詩のゝこりの句を、四韻ながらたづねぐせさせ給ふ事も、おぼしめしよりて、匡房中納言なん、あつめられ侍りける。その中にさ月のせみのこゑは、なにの秋をおくるとかやいふ詩の、ゝこりの句をえたづねいださゞりける程に、ある人これなんとて、たてまつりたりければ、江帥み給ひて、これこそこのゝこりとも、おぼえ侍らねとそうしけるのちに、仁和寺の宮なりける手本の中に、まことの詩、いできたりけるなどぞきこえ侍りし。又本朝秀句と申すなる文のゝちしつがせ給ふとては、法性寺入道おとゞにえらばせたてまつり給ふとぞうけ給はりし。さてそのふみの名は、
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續本朝秀句と申して、みまき、なさけおほくえらばせ給へるふみ也。五十の御賀こそめでたくは侍りけれ。康和四年三月十八日、堀川の御かど、鳥羽に行幸せさせ給ひて、ちゝの法皇の五十の御よはひを、よろこび給ふ也。舞人樂人などは、殿上人中少將さま<”左右のしらべし給ひき。童舞三人、胡飲酒、陵王、納蘇利なん侍りける。その中に胡飲酒は源氏のわかぎみなんまひ給ひし。袖ふり給ふさま、天童のくだりたるやうにて、このよの人のしわざともなく、めもあやになん侍りける。御ぞかつかり給へるをば、御おやの大納言とて、太政のおほい殿おはせしぞ、とりてはいし給ひける。そのわかぎみは、なかの院の大將と聞え給ひしなるべし。
 (十二)釣りせぬうら< S0204
この御時ぞ、むかしのあとをおこさせ給ふ事はおほく侍りし。人のつかさなどなさせ給ふ事も、よしありて、たはやすくもなさせたまはざりけり。六条の修理太夫顯季といひし人、よおぼえありておはせしに、敦光といひしはかせの、など殿は宰相にはならせ給はぬぞ。宰相になるみちはなゝつ侍るなり。中に三位におはするめり。又いつくに、をさめたる人も、なるとこそはみえ侍れといひければ、あきすゑも、さおもひて、御氣色
とりたりしかば、それも物かくうへの事也と、おほせられしかば、申すにもおよばでやみにきとぞいはれ侍りける。又顯隆の中納言といひし人、よにはよるの關白などきこえしも、弁になさんと思ふに、詩つくらではいかゞならん。四韻詩つくるものこそ弁にはなれと、おほせられければ、おどろきてこのみなどせられけり。ことにあきらかにおはしまして、はかなき事をも、はえ<”しくかんぜさせ給ひ、やすき事をも、きびしくなんおはしましける。いづれの山とか。御いのりのしやうおこなはんとおぼされけるに、たゞ御ふせばかり給はんは、ねんごろにおぼしめすほいなかるべし。あざりなどよせおかんこそかひあるべきに、さすがさせる事なくて、さる事もたはやすかるべしと、おぼしわづらはせ給へるを、あきたかの中納言しか侍らは、たゞこのたび阿闍梨の宣旨をくださせ給ひて、ながくよらせらるゝ事は、なくて候へかしと、申されければ、まことにしかこそあるべかりけれ。おのれなからましかば、我いかゞせましとぞ、かひ<”しくかんぜさせ給ひける。そのこのあきよりといひし中納言をも、夢に手をひかれてゆくとみたりし物をなどおほせられて、ことの外におもほしめせりける人にて、ふみのはこなどひきさげなどする事をも、下らうなどめして、もたせさせ給ふなど、
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おもくおもほしめせりけるに、五位藏人にて、ぢもくの目録とかそうせられけるに、御らんじて、あらゝかにさかせ給ひて、かへしたびければ、なに事にかと、おそれ思ひて、まかりいでゝ、そのゝち父の中納言まゐりたりけるにぞ、大外記もろとをは、津の國の公文も、まだかむがへぬものをば、いかで目録にいれて、たてまつりけるぞと、おほせられなどして、さやうの事と、かくなんおはしましける。法文などをもまことしくならはせ給ひけるにこそ。良眞座主に、六十巻といひて、法花経の心とける文うけさせ給へりけるに、西京にこもりゐ給ひて、ひえの山の大衆のゆるさゞりければ、さてゐ給へりける所、とぶらはせ給ひけり。西院のほとけ、をがませ給ふついでとてぞ、御幸ありける。みのりのためも、人のためも、面目ありけるとなんきゝ侍りし。金泥の一切経かゝせ給へるももろこしにも、たぐひすくなくやときこえし。そのゝちこそ、このくにゝも、あまたきこえ侍れ。この院のしはじめさせ給へるなり。又いきとしいけるものゝいのちをすくはせ給ひて、かくれさせ給ふまでおはしましき。さ月のさやまに、ともしするしづのをもなく、秋の夕ぐれうらにつりするあまもたえにき。おのづからあみなどもちたるあまのとまやもあれば、とりいだしてたぐなはのゝこるもなくけぶりとなりぬ。もたる
ぬしはいひしらぬめどもみて、つみをかぶる事かずなし。神のみくりやばかりぞゆるされて、かたのやうにそなへて、そのほかは、殿上のだいばんなども六さいにかはる事なかりけり。位におはしましゝ時は、中宮の御事なげかせ給ひて、おほくのみだうどもつくらせ給ひき。院ののちは、その御むすめの郁芳門院かくれさせ給へりしこそ、かぎりなくなげかせ給ひて、御ぐしもおろさせ給ひしぞかし。四十五六の程にや、おはしましけん。御なげきのあまりに、世をばのがれさせ給へりしかども、御受戒などはきこえさせ給はで、仏道の御名などもおはしまさゞりけるにや。教王房ときこえし山の座主、御いのりのさいもんに、御名の事申されけるに、いまだつかぬとおほせられければ、その心をえはべりてこそ、申しあげ侍らめと申されけるとかや。そのゝちひさしくよををさめさせ給ひしほどに、七月七日にはかに御心ちそこなはせ給ひて、御霍乱などきこえしほどに、月日もへさせ給はで、やがてかくれさせ給ひにしかば、そらのけしきも、つねにはかはりて、雨風のおともおどろ<しく、日をかさねてよのなげきもうちそへたる心ちして侍りき。あさましき心のうちにも、すき<”しかりし人にて、平氏の刑部卿忠盛ときこえし、そのをりなにのかみとか申しけん。そのうたとてつたへ聞侍りし、
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@ 又もこん秋をまつべき七夕のわかるゝだにもいかゞ恋しき W023。
とかや。鳥羽院、はなぞのゝおとゞ、攝政殿などの、わかき御すがたに御ぞどもそめさせ給ひて、御いみのほど、仏の道のこと、ゝぶらひ申させ給ふ。いづれの程に、たれかよませ給ひけるとかや。
@ いかにしてきえにし秋のしら露をはちすの上の玉とみがゝん W024。
といふ御哥侍りけるとなん。鳥羽殿は、この法皇のつくらせ給へれば、さやうにや申さんと、おもへりしかども、白河にもかた<”御所ども侍りしかは、白河院とぞさだめまゐらせ侍りける。
このみかどの御母は、春宮のみやすどころとて、うせさせ給へれば、延久三年五月十八日、従二位おくりたてまつらせ給ふ。位につかせ給ひて、同五年五月六日、皇后宮おくりたてまつらせ給ふ。國忌みさゝきなどおかれて、おなじき日、よしのぶの大納言殿、おほきおとゞ、おほきひとつのくらゐおくらせ給ふ。御息所の御母、藤原祕子と申ししにも、おおきひとつの位をおくり給ふ、これはきびなかのつかさ、知光のぬしのむすめなり。
 (十三)たまづさ S0205 
堀川のみかどは、白河の法皇の第二の御子におはしましき。その御母、贈太皇太后宮賢子中宮なり。關白左大臣師實のおとゞの御むすめ、まことには、右大臣源顯房のおとゞの御むすめなり。このみかど、承暦三年つちのとのひつじ二月十日むまれさせ給へり。應徳三年十一月廿六日、位につかせ給ふ。御とし八、このみかど御心ばへあてにやさしくおはしましけり。そのなかに、ふえをすぐれてふかせ給ひて、あさゆふに御あそびあれば、たきぐちの、なだいめんなど申すも、てうしたかうとて、あかつきになるをりもありけり。その御時、笛ふき給ふ殿上人も、ふえのしなどみなかの御時給はりたるふみなりなどいひて、すゑの世までもちあはれ侍るなる。時元といふ笙のふえふき、御おぼえにて夏はみづし所にひめしてたまふ。おのづからなきをりありけるには、すずしき御あふぎなりとて、給はせなどせさせ給ひけり。宗輔のおほきおとゞ、このゑのすけにおはしけるほどなど、夜もすがら御ふえふかせ給ひてぞ、あかさせ給ひける。和哥をもたぐひなくよませ給ひて、さ月の頃、つれ<”におぼしめしけるにや。哥よむをとこ女、よみかはさせて御らんじける。大納言公實、中納言國信などよりはじめて、俊頼などいふ人々も、さま<”のうすやうに、かきてやり給ひけり。女は周防内侍、
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四条宮の筑前、高倉の一宮の紀伊、前齋宮のゆり花、皇后宮の肥後、つのきみなどいふ、ところ<”の女房、われも<とかへしあへり。又女のうらみたる哥よみて、男のがりやりなどしたる、堀川院の艶書合とて、すゑの世までとゞまりて、よき哥はおほく撰集などにいれるなるべし。ふたまにてぞ、かうじてきこしめしける。又時のうたよみ十四人に、百首哥おの<にたてまつらせ給ひけり。をとこ女僧など、哥人みな名あらはれたる人々なり。題は匡房の中納言ぞたてまつりける。このよの人、哥よむなかたてには、それなんせらるなる。尊勝寺つくられ侍りけるころ、殿上人に、花慢あてられ侍りけるに、俊頼哥人にておはしけるに、百首哥あんぜんとすれば、いつもじには花慢とのみおかるゝときかせ給ひて、ふびんの事かなとて、のぞかせ給ひけるとぞ、きこえ侍りし。いづれのころにかありけん。南殿か仁壽殿かにて、御らんじつかはしけるに、たれにか有りけん。殿上人のまゐりて、殿上にのぼりてゐたりければ、
@ 雲のうへに雲のうへ人のぼりゐぬ。
とおほせられけるに、俊頼のきみ、
  しもさぶらひにさぶらひもせで W025、
とつけられたりけるを、ことばとゞこほりたりときこゆれど、心ばせもあることゝきこゆめり。哥のふぜい、いたづらにうする事なりとて、連哥をば、おほかたせられざりけりときこえ侍りしに、金葉集にぞいとしもなき、おほくあつめられたる。いたづらにいできたるを、をしまれ侍るなるべし。基俊のきみが連哥は、つきくさのうつしのもとのくつわむし、などしたるをいふ也。又からかどやこのみかどともたゝくかな。ゝど侍りけり。木工頭俊頼も、高陽院の大殿のひめ君と聞え給ひし時、つくりたてまつり給へりとかきこゆるわかのよむべきやうなど侍るふみには、道信の中將の連哥、伊勢大輔が、こはえもいはぬ花の色かな。とつけたる事などいというなることにこそ侍なれば、連哥をもうけぬことに、ひとへにし給ふともきこえず。おほかたは、みる事、きくことにつけて、かねてぞよみまうけられける。當座によむことはすくなく、疑作とかきてぞ侍つる。さて侍りけるにや。家集に、きゝときゝ給へりけると、おぼゆることをよみあつめられ侍るめり。これは連哥のついでに、うけたまはりしことを申し侍るになむ。さてこの御時に、みやす所は、これかれさだめられ給へりけれ
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ども、御をばの前齋院ぞ女御にまゐり給ひて、中宮にたち給ひし。ことのほかの御よはひなれど、をさなくよりたぐひなくみとりたてまつらせ給ひて、たゞ四宮をとかや、おぼせりければにや侍りけん。まゐらせ給ひけるよも、いとあはぬ事にて、御車にもたてまつらざりければ、あか月ちかくなるまでぞ、心もとなく侍りける。とばの御かどの御母の女御どのもまゐり給ひて、院もてなしきこえさせ給へば、はなやかにおはしましゝかども、中宮はつきせぬ御心ざしになん、きこえさせ給ひし。女御うせさせ給ひてのころ、
@ あづさ弓はるの山べのかすみこそ恋しき人のかたみ成りけれ W026。
とよませ給へりけるこそ、あはれに御なさけおほくきこえ侍りしか。すゑのよのみかど、廿一年までたもたせ給ふ、いとありがたき事なり。時の人をえさせ給へる、まことにさかりなりけり。一のかみにて堀河の左のおとゞ、物かく宰相にて通俊、匡房、藏人頭にて季仲あり。むかしにはぢぬ世也。などぞおほせられける。みち<のはかせも、すぐれたる人、おほかる世になむ侍りし。このみかど、みそぢにだにみたせ給はぬ、よのをしみたてまつる事、かぎりなかるべし。その御ありさま、ないしのすけさぬきとかきこえ
給ひし、こまかにかゝれたるふみ侍りとかや。人のよまれしを、ひとかへりはきゝ侍りし、このなかにも御らんじてやおはしますらん。
 (十四)ところ<”の御寺 S0206
このみかどの御母、権中納言たかとしの御むすめのはらに、六条の右のおとゞの御むすめにおはしましゝ、大殿の御こにしたてまつりて、延久三年三月九日、御とし十五にて、白河院東宮におはしましゝ、御息所にまゐらせ給へり。同五年七月廿三日、女御ときこえ給ひて、四位の位給はり給ふ。承保元年六月廿日、きさきにたち給ふ。御とし十八におはしましき。十二月廿六日前坊うみたてまつらせ給ふ。三年四月五日、郁芳門院むまれさせ給ひて、そのゝち、二条の大ぎさきの宮、うみたてまつらせ給へり。御年廿三にて、このみかどはうみたてまつらせ給へり。應徳元年九月廿三日、三条の内裏にて、かくれさせ給ひにき。御とし廿八とぞきこえ給ひし。村上の御母、なしつぼにてうせ給ひてのち、内にてきさきかくれ給ふ事、これぞおはしましける。廿四日に備後守經成のぬしの四条高倉の家に、わたしたてまつりて、神な月の一日ぞ、とりべのにおくりたてまつり、けぶりとのぼり給ひにし。かなしさたとふべきかた
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なし。まだ卅にだにたらせ給はぬに、おほくの宮たちうみおきたてまつり給ひて、上の御おぼえたぐひもおはしまさぬに、はかなくかくれさせ給ひぬれば、世の中かきくらしたるやうなり。白河のみかどは位の御ときなれば、廢朝とて、三日はひの御ざのみすもおろされ、よのまつりごともなく、なげかせ給ふ事、からくにの李夫人楊貴妃などのたぐひになんきこえ侍りし。御なげきのあまりに、おほくの御堂御仏をぞつくりてとぶらひたてまつらせ給ひし。ひえの山のふもとに、円徳院ときこゆる御堂の御願文に、匡房中納言の、七夕のふかきちぎりによりて、驪山の雲に眺望する事なかれ。とこそかきて侍るなれ。いひむろには勝楽院とて御堂つくりて、又のとしのきさらぎに、くやうをせさせ給ひき。八月には法勝寺の内に、常行堂つくらせ給ひて、仁和寺入道宮して供養せさせ給ふ。同日醍醐にも円光院とてくやうせさせ給へり。九月十五日、白川の御寺にて御仏事せさせ給ふ。廿二日御正日に、同J御寺にておこなはせ給ふ。事にふれてかなしきこと、みたてまつる人まで、むねあかぬ時になんあるべき。あさなゆふなの御心ち、みかきのやなぎもいけのはちすも、むかしをこふるつまとぞなり侍りける。寛治元年しはすのころ、皇太后宮をおくりたてまつらせ給ふ。いにしへもいまも、
かゝるたぐひなんおはしましける。
 (十五)白河の花の宴 S0207
鳥羽院は堀川の先帝の第一の皇子、御母贈皇太后宮苡子と申しき。實季大納言の御むすめなり。このみかど康和五年みづのとのひつじ、正月十六日むまれさせ給へり。八月十七日春宮にたち給ひて、嘉承二年七月十九日位につかせ給ふ。天永四年正月一日御元服せさせ給ひき。十六年位におはしまして、一の御子にゆづり申させ給ひき。白河の法皇のおはしまししかぎりは、世の中の御まつり事なかりしに、かの院うけさせ給ひてのちは、ひとへに世をしらせ給ひて、廿八年ぞおはしましゝ。白河院おはしましゝ程は、本院新院とて、ひとつ院に御かた<”にて、三条室町殿にぞおはしましゝ。待賢門院又女院の御かたとて、三院の御かた、いとはなやかにて、わか宮姫宮たち、みなひとつにおはしましき。本院新院、つねにはひとつ御車にて、みゆきせさせ給へば、法皇の御車なれど、さきに御随身ぐせさせ給へりき。保安五年にや侍りけむ。きさらぎにうるう月侍りし年、白河の花御らんぜさせ給ふとて、みゆきせさせ給ひしこそ、世にたぐひなきことには侍りしか。法皇も院も、ひとつ御車にたてまつりて、
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御随身に、にしきぬひもの、色々にたちかさねたるに、かんだちめ、殿上人、かりさうぞくにて、さま<”にいろをつくして、われも<とことばもおよばず。こがの太政のおとゞも御むまにて、それはなほしにかうぶりにてつかうまつり給へり。院の御車のゝちに、待賢門院ひきつゞきておはします。女房のいだしぐるまのうちいで、しろがねこがねにしかへされたり。女院の御車のしりには、みなくれなゐの十ばかりなるいだされて、くれなゐのうちぎぬ、さくらもえぎのうはぎ、あか色のからぎぬに、しろがねこがねをのべて、くわんのもんおかれて、地ずりの裳にも、かねをのべて、すはまつるかめをしたるに、裳のこしにもしろがねをのべて、うはざしは、玉をつらぬきてかざられ侍りける。よしだの齋宮の御はゝや、のり給へりけんとぞきこえ侍りし。又いだし車十兩なれば、四十人の女房おもひ<によそひども心をつくして、けふばかりはせいもやぶれてぞ侍りける。あるはいつゝにほひて、むらさき、くれなゐ、もえぎ、やまぶき、すわう、廿五かさねたるに、うちぎぬ、うはぎもからぎぬ、みなかねをのべて、もんにおかれ侍りけり。あるはやなぎさくらをまぜかさねて、うへはおり物、うらはうち物にして、ものこしには、にしきに玉をつらぬきて、玉にもぬける春の柳か。といふうた、柳さくらをこきまぜて、といふうたの心也。もはえびぞめをちにて
かいふをむすびて、月のやどりたるやうに、かゞみをしたにすかして、花のかゞみとなる水は、とせられたり。からぎぬには、日をいだして、たゞはるのひにまかせたらなん。といふうたの心也。あるはからぎぬににしきをして、桜の花をつけて、うすきわたを、あさきにそめてうへにひきて、野べのかすみはつつめども、といふ哥の心なり。はかまもうちばかまにて、はなをつけたりけり。このこぼれてにほふは、七の宮など申御母のよそひとぞきゝ侍りし。御車ぞひの、かりぎぬはかまなどいろ<のもんおしなどして、かゞやきあへるに、やりなはといふものも、あしつをなどにやよりあはせたる。色まじはれるみすのかけをなどのやうに、かな物ふさなどゆら<とかざりて、なに事もつねなくかゞやきあへり。攝政殿は御車にて、随身などきらめかし給へりしさま、申すもおろかなり。法勝寺にわたらせ給ひて、花御らんじめぐりて、白河殿にわたらせ給ひて、御あそびありて、かんだちめのざに、御かはらけたび<すゝめさせ給ひて、おの<哥たてまつられ侍りける。序は花ぞのゝおとゞぞかき給ひけるとなんうけ給はり侍りし。新院の御製など集にいりて侍るとかや。女房のうたなどさまざまに侍りけるとぞきゝ侍りし。
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@ よろづよのためしとみゆる花の色をうつしとゞめよ白河の水 W027
などぞよまれ侍りけるときゝ侍りし。みてらの花、雪のあしたなどのやうに、さきつらなりたるうへに、わざとかねてほかのをもちらして、庭にしかれたりけるにや、うしのつめもかくれ車のあともいるほどに花つもりたるに、こずゑの花も、雪のさかりにふるやうにぞ侍りけるとぞ、つたへうけ給はりしだに、おもひやられ侍りき。まいてみ給へりけん人こそおもひやられ侍れ。そのゝちいづれのとしにか侍りけん。雪の御幸せさせ給ひしに、たび<はれつゝ、けふ<ときこえけるほど、にはかに侍りけるに、西山ふなをかのかた、御らんじめぐりて、法皇も院もみやこのうちには、ひとつ御車にたてまつりて、新院御なほしに、くれなゐのうち御ぞいださせ給ひて、御むまにたてまつりけるこそ、いとめづらしくゑにもかゝまほしく侍りけれ。二条の大宮の女房、いだし車に、菊もみぢの色々なるきぬどもいだしたるに、うへしたに、しろきゝぬをかさねて、ぬいあはせたれば、ほころびはおほく、ぬひめはすくなくて、あつきぬのわたなどのやうにて、ごほれいでたるが、きくもみぢのうへに、雪のふりおけるやうにて、いつくるまたてつゞけ侍りけるこそいとみ所おほく侍りけれ。このみかど御心はいといたく
すかせ給ふ事はなくて、御心ばへうるはしく、御みめもきよらに、功徳の道たうしも御いのりをのみせさせ給ひき。御ふえをぞ、えならずふかせ給ひて、堀川院にも、おとらずやおはしましけん。樂などもつくしてしらせ給ふ。御ふえのねも、あいつかはしく、すずしきやうにぞおはしましける。きんのり、きんよしなど申しおほいどの、これざね、なりみちなど申す中納言などみな御弟子なりとぞきゝ侍りし。れいならぬ御心ち、ひさしくならせ給ひて、世など心ぼそくおぼしめしけるにや。徳大寺の左のおとゞにや。花をりて給はすとて、御哥侍りける、
@ 心あらばにほひをそへよ桜花のちのはるをばいつかみるべき W028
となんよませ給ひける。
 (十六)鳥羽の御賀 S0208
この院世をしらせ給ひて、ひさしくおはしましゝに、よろづの御まつりごと、御心のまゝなるに、中院のおとゞの、大將になり給ひしたび、人々あらそひて、さぬきの院、位におはしましゝかば、しぶらせ給ひしにこそ。このゑのみかど、東宮にてまなめしける夜、にはかに内へ御幸とて、殿上人せう<かぶりして、よにいりて、きたの陣に御車たて
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させ給ひて、権大納言大將にまかりならん事、わざと申しうけに、まゐりたると申しいれさせ給へりしかば、さてこそやがてその夜なり給ひけれ。さねよしの大將、下臈なれども、もとよりなりゐ給へれば、かみにはくはへじと、おさへ申し給ふ。実ゆきの大納言、われこそ上臈なれば、ならめといひて、下臈ふたりにこえられんことゝ、内をふたりして、かた<”申し給へば、御おぢの事、さりがたくておさへさせ給ふなり。院にはさきに下臈をこして、なさせ給ひしかども、なほいとほしみいできて、なさんとおぼしめしかためけるに、うちのおさへさせ給へば、としごろはかゝることもなきに、いと心よからずおぼしめして、みゆきあるなりけり。とかく申させ給ひ、めしておほせをくだされなどする程に、御車にて、春の夜あけなんとす。といふ朗詠、又十方仏土の中には、などいふ文を詠ぜさせ給ひて、佛のみなたび<となへさせ給ひける、きく人みな、なみだぐましくぞ思あへりけるとなむきこえ侍りし。かくてつぎのとし御ぐしおろさせ給ひき。御とし四十にだにみたせ給はねども、としごろの御ほいも、又つゝしみのとしにて、年比は御随身なども、とゞめさせ給ひて、ぐせさせ給はねども、白河のおほゐのみかどどのゝむかひに、御堂つくらせ給ひて、くやうせさせ給ふに、兵仗
かへし給はらせ給ひて、めづらしく太上天皇の御ふるまひなり。うちつゞきやはたかもなど御幸ありて、三月十日ぞ鳥羽殿にて御ぐしおろさせ給ふ。すこしも御なやみもなくて、かくおもほしたつ事を、よの人なみだぐましくぞ思ひあへる。御名は空覚とぞきこえさせ給ひし。五十日御仏事とてせさせ給ふほど、おほぢにありくいぬや、きつみてありく車うしなどまでやしなはせ給ひ、御堂の池どものいをにも、庭のすゞめからすなどかはせ給ふ。山々寺々の僧にゆあむし、御ふせなどはいひしらず、たゞのをりも、かやうの御くどくは、つねの御いとなみなり。人のたてまつるもの、おほくは僧のふせになんなりける。おはしますあたり、あまたの御所どもには、いひしらぬ、あやにしき、からあや、からぎぬ、さま<”のたから物、ところもなきまでぞ、おきめでられ侍りけるを、御ふせにせさせ給へば、こむよの御功徳いかばかりか侍らん。白河院はおはしますところ、きら<とはきのごひて、たゞうちの見參とて、かみやかみにかきたる文の、ひごとにまゐらするばかりを、みづしにとりおかせ給ひて、さらぬ物は御あたりにみゆるものなかりけり。ましてたちぬはぬ物などは、御前にとりいださるゝことなくて、かたしはぶきうちせさせ給ひて、たゞひとゝころおはしまして、近習の上臈下臈などを、とり<”めしつかひ
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つゝおはしましける。おの<御ありさまかはらせ給ひてなんきこえ侍りし。仁平二年三月七日、このゑのみかど、鳥羽院にみゆきせさせ給ひて、法皇の五十の御賀せさせ給ひき。等身の御仏、壽命經もゝまき、たまのかたちをみがき、こがねのもじになむありける。僧はむそぢのかず、ひきつらなりて、仏をほめたてまつり、まひ人はちかきまぼりのつかさ、雲のうへ人あをいろのわきあけに、柳さくらのしたがさね、ひらやなぐひのすいしやうのはず、日のひかりにかゞやきあへり。つぎの日も、なほとゞまらせ給ひて、法皇をがみたてまつり給ふ。さま<”のそなへ共、庭もせにつらねて、たてまつらせたまふ。池のふね、はるのしらべとゝのへて、みぎはにこぎよせて、おの<おりて、左右のまひの袖ふりき。青海波、左のおとゞの御子、右大將のまごの中將の公達まひ給ふ。はてには、左大將の御子とて、胡飲酒、わらはまひし給ふ。ふるきあと、いへのことなれば、かづかり給ふ御ぞ、ちゝのおとゞとりて、袖ふり給ひて、庭におりて、よろこび申のやうに、さらにはいし給ふに。ゆふひのかげにくれなゐのいろかゞやきあへり。そのわかぎみは、まことには御わらは名、くま君とて、前中納言もろなかのこを大將殿の子にし給へるとぞ。このわかぎみのはゝは、鳥羽院の御子たち、うみたてまつられたる人とぞ、きゝたてまつりし。かやうにはなやかに侍りしほどに、
なかふたとせばかりやへだて侍りけん。近衛のみかど、かくれさせ給ひしかば、おぼしめしなげきて、鳥羽にこもりゐさせ給ひて、としのはじめにも、もんろうなどさして、人もまゐらざりき。御とし五十四までぞ、おはしましける。御母贈皇太后宮は、承徳二年十一月に内にまゐり給ひて、康和五年正月に、このみかどうみおきたてまつりて、かくれさせ給ひにしかば、きさきおくりたてまつりたまへり。
 (十七)春のしらべ S0209
仁和寺の女院の御はらの一の御子は、位おりさせ給ひて、新院ときこえさせ給ひし。のちにさぬきにおはしましゝかば、さぬきのみかどとこそ聞えさせ給ふらめな。御母女院は中宮璋子と申しき。公實大納言の第三の女なり。鳥羽院の位におはしましゝとき、法皇の御むすめとて、まゐり給へりき。此みかど元永二年己亥五月十八日に、むまれさせ給へり。保安四年正月廿八日に、位につかせ給ふ。大治四年御元服せさせ給へり。御とし十一、法性寺のおほきおとゞの御むすめ、女御にまゐり給ひて、中宮にたち給ひし、皇嘉門院と申御事也。時の攝政の御女、きさきの宮におはします。白河院、鳥羽院、おやおほぢとておはします。御母女院ならぶ人なくておはしまし
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ゝかば、御せうとの侍従中納言さねたか、左衛門督みちすゑ、右衛門督さねゆき、さ兵衛督さねよしなど申して、みかどの御をぢにて、なほしゆるされて、つねにまゐり給ふ。そのきんだち近衛のすけにて、あさゆふさぶらひ給ふ。みかどの御心ばへたえたる事をつぎ、ふるきあとをゝこさむとおもほしめせり。をさなくおはしましけるより哥をこのませ給ひて、あさゆふさぶらふ人々に、かくしだいよませ、しそくの哥、かなまりうちてひゞきのうちによめなどさへおほせられて、つねは和哥の會ぞせさせ給ひける。さのみうち<にはやとて、花の宴せさせ給ひけるに、松にはるかなるよはひをちぎる。といふ題にてかんだちめ束帯にて、殿よりはじめて、まゐり給ひけり。まづ御あそびありて、關白殿ことひき給ふ、はなぞのゝおとゞ、そのとき右大臣とてびはひき給ふ。中院の大納言さうのふえ、右衛門佐季兼にはかに殿上ゆるされて、ひちりきつかうまつりけり、拍子は中御門大納言宗忠、ふえは成通さねひらなどの程にやおはしけん。すゑなりの中將、わごんなどとぞきゝ侍りし。序は堀川の大納言師頼ぞかき給ひける。講師は左大弁さねみつ、御製のはたれにか侍りけん。つねの御哥どもは、あさゆふの事なりしに、つねの御製などきこえ侍りしに、めづらしくありがたき御哥ども、おほくきこえ侍りき。遠く山のはなをたづぬといふ事を、
@ たづねつる花のあたりに成りにけり匂ふにしるし春の山かぜ W029
などよませ給へりしは、よの末にありがたくとぞ人は申し侍りける。まだをさなくおはしましゝとき、
@ こゝをこそ雲のうへとは思ひつれ高くも月のすみのぼる哉 W030。
などよませ給へりしより、かやうの御哥のみぞおほく侍るなる。これらおのづからつたへきこえ侍るにこそあれ。天承二年三月にや侍りけむ。臨時客せさせ給ひき。りんじのまつりのしがくのさまになん侍りける。清凉殿のみすおろして、まごひさしに御倚子たてゝ、みかど御なほしにておはします。きたのらうのたてしとみどりのけて、みすかけて、きさいの宮の女房うちいでのきぬさま<”にいだされたり。ふたまには中宮おはします。左右のまひ人かさねのよそひして、月華門にあつまれり。がくの行事しげみち、すゑなりの中將ぞうけ給はりてせられける。はるのしらべ、まづはふきいだして、はるのにはといふがくをなんそうしてまゐりける。みかどいでさせ給ひて、關白殿右のおとゞよりはじめて、すのこにさぶらひ給ふ。宰相はれいの事なれば、なかはしにおはしけり。しかるべきまひども、ふえのしなど賞かぶりける中に、なりみちの宰相中將とておはしける、わざとはるかに北のかた
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にめぐりて、もとまさといふ笛の師かぶり給はれる、よろこびいひにおはしたりけるこそ、いとやさしく侍りけれ。百首哥など人々によませさせ給ひけり。又撰集などせさせ給ふときこえ侍りき。かばかりこのませ給ふに、哥合はべらざりけるこそ、くちをしく侍りしか。ふるき事どもおこさんの御心ざしはおはしましながら、よを心にもえまかせさせ給はで、院の御まゝなれば、やすき事もかなはせ給はずなんおはしましける。哥よませ給ふにつけて、あさゆふさぶらはれける修理権太夫ゆきむね、三位せさせんとて、徳大寺のおとゞにつけて院にみせまゐらせよとて、
@ 我宿に一本たてるおきな草哀といかゞ思はざるべき W031
とぞよませ給ひけるときこえ侍りし。
 (十八)八重の潮路 S0210
もとの女院ふたところも、かた<”にかろからぬさまにおはしますに、いまの女院ときめかせ給ひて、このゑのみかどうみたてまつらせ給へる、東宮にたてまつりて、位ゆづりたてまつらせ給ふ。その日たつの時より、かんだちめ、さま<”のつかさ<まゐりあつまるに、内より院にたび<御つかひありて、蔵人の中務少輔とかいふ人、かはる<”まゐり、又
六位の蔵人、御書ささげつゝまゐる程に、日くれがたにぞ神璽寳剱など春宮の御所昭陽舎へ、かんだちめひきつゞきてわたり給ひける。みかどの御やしなひご、れいなきこととて、皇太弟とぞ宣命にはのせられ侍りける。その御さたに、けふのぶべしなど内より申させ給ひけれど、事はじまりて、いかでかとてなんその日侍りけるとぞきこえ侍りし。いまのうちには、職事殿上人などおほせくだされ、あるべきことゞもありて、新院は九日ぞ三条西洞門へわたらせ給ふ。太上天皇の御尊号たてまつらせ給ふ。かくてとしへさせ給ふほどに、このゑのみかどかくれさせ給ひぬれば、いまの一院の、いま宮とておはします、位につかせ給ひにき。さるほどに鳥羽院御心ちおもらせ給ひて、七月二日うせさせ給ひぬれば、みかどの御代にてさだまりぬるを、院のおはしましゝをりより、きこゆる事どもありて、みかきのうち、きびしくかためられけるに、さがのみかどの御とき、あにの院とあらそはせ給ひけるやうなる事いできて、新院御ぐしおろさせ給ひて、御おとゞの仁和寺の宮におはしましければ、しばしはさやうにきこえしほどに、やへのしほぢをわけて、とをくおはしまして、かんだちめ殿上人の、ひとりまゐるもなく、一宮の御はゝの兵衛佐ときこえ給ひし、さらぬ女房ひとりふたりばかりにて、男もなき御たびずみ
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も、いかに心ぼそくあさゆふにおぼしめしけん。したしくめしつかひし人どもみなうら<にみやこをわかれて、おのづからとゞまれるも、世のおそろしさに、あからさまにも、まゐる事だにもなかるべし。皇嘉門院よりも、仁和寺の宮よりも、しのびたる御とぶらひなどばかりやありけん。たとふるかたなき御すまひなり。あさましきひなのあたりに、九年ばかりおはしまして、うき世のあまりにや、御やまひもとしにそへてをもらせ給ひければ宮こへかへらせ給ふこともなくて、秋八月廿六日に、〔かの國にてうせさせ給ひにけりとなむ。しろみねのひじりといひて、〕かの國にながされたるあざりとて、むかしありけるが、この院にむまれさせ給へるとぞ、人の夢にみえたりける。そのはかのかたはらに、よきかたにあたりたりければとてぞおはしますなる。やへのしほぢをかき分て、はる<”とおはしましけん。いとかなしく、心ちよきだに、あはれなるべきみちを人もなくて、いかばかりの御心ちせさせ給ひけん。
このみかどの御母ぎさき、十九と申しし御とし此の帝をうみたてまつらせ給ひて皇子位につかせ給ひてのち、后の位廿三の御とし后の位をさらせ給ひて、待賢門院と申す。おなじ國母と申せど、白河院の御むすめとてやしなひ申させ給ひければ、ならびなくさかえさせ給ひき。まして院号のはじめなどは、いかばかりか、もてなしきこえたまひし。
おほくの御子うみたてまつらせ給ひ、今の一院の御母におはしませば、いとやんごとなくおはします。仁和寺に御堂つくらせ給ひ、こがねの一切經などかゝせ給ひて、康治二年御ぐしおろさせ給ふ。御名は眞如法とつかせ給ふとぞ。久安元年八月廿二日かくれさせ給ひにき。又のとしの正月に、かの院の女房の中より、たかくらのうちおとゞのもとへ、
@ みな人はけふのみゆきといそぎつゝ消にし跡はとふ人もなし W032
あきなかの伯のむすめ、ほりかはのきみの哥とぞきこえ侍りし。この女院の御母は、但馬守たかゝたの弁の女なり。従二位光子とて、ならびなく、よにあひたまへりし人におはすめり。