今鏡読本

凡例
使用テキスト: 今鏡読本 一名 続世継 上・中・下 関根正直校
流布の版本を元とし、校本・古写本により校定した物です。
明治二十九年十月五日印刷
明治二十九年十月八日発行
編纂者 関根正直
発行所 六合館書店
歌の頭に@を付し、末尾にW+新編国歌大観番号を付しました。
ページを記しました。P+巻数(上=1・中=2・下=3)+2桁
各章段の頭には( )内に、連番の番号が有りますが、(十九)が抜けています。
各章段の末尾に原本に無い番号を加えました。S+巻数(2桁)+章段(2桁)
仮名を漢字に改め、漢字の表記を変えた箇所が有ります。漢字を仮名に改めたものも有ります。
脱字等を他本で補った場合は、〔 〕に入れました。

校定 今鏡読本 上巻 目録
  ◎第一 すべらぎの上
(序) 
雲井 子の日 
はつ春 ほしあひ 
もち月 きくの宴 
こがねのみのり つかさめし 
  ◎第二 すべらぎの中
たむけ みのりのし 
もみぢの御かり つりせぬうら< 
たまづさ ところ<”のみてら 
白川の花の宴 鳥羽の御賀 
春のしらべ やへのしほぢ 
  ◎第三 すべらぎの下
をとこ山 むしのね 
おほうちわたり 内宴 
をとめのすがた ひなの別かれ 
花ぞのゝにほひ ふた葉の松 
P101
校定 今鏡読本 上
◎〔すべらぎの上〕第一
(序)
やよひの十日あまりのころ、おなじ心なるともたち、あまたいざなひて、はつせにまうで侍りしついでに、よきたよりに寺めぐりせんとて、やまとのかたに旅ありき日比するに、路とをくて日もあつければ、こかげにたちよりて、やすむとてむれゐる程に、みつわさしたる女のつえにかゝりたるが、めのわらはの花がたみにさわらび折りいれて、ひぢにかけたるひとり具して、そのこのもとにいたりぬ。とをきほどにはあらねど、くるしく成りて侍れば、おはしあへる所はゞからしけれど、都のかたよりものし給ふにや。むかしも恋しければ、しばしもなづさひたてまつらむといふけしきも、くちすげみわなゝくやうなれど、としよりたる程よりも、むかしおぼえてにくげもせず。この
わたりにおはするにやなど問へば、もとは都にもゝとせあまり侍りて、そのゝち、山しろのこまのわたりに、いそぢばかり侍りき。さてのちおもひもかけぬ草のゆかりに、かすがのわたりにすみ侍るなり。すみかのとなりかくなりし侍るも、あはれにといふに、としのつもりきく程に、みなおどろきてあさましくなりぬ。むかしだにさほどのよはひはありがたきに、いかなる人にかおはすらん。まことならば、ありがたき人みたてまつりつといへば、うちわらひて、つくもがみはまだおろし侍らねど、ほとけのいつゝのいむ事を、うけて侍れば、いかゞうきたる事は申さん。おほぢに侍りしものも、ふたもゝちにおよぶまで侍りき。おやに侍りしも、そればかりこそ侍らざりしかども、もゝとせにあまりてみまかりにき。おうなも、そのよはひをつたへ侍るにや。いま<とまち侍りしかど、いまはおもなれて、つねにかくてあらんずるやうに、念佛などもおこたりのみなるも、あはれになんといへば、さていかにおはしけるつゞきにか。あさましくも、ながくもおはしけるよはひどもかな。からのふみよむ人のかたりしは、みちよへたる人もありけり。もゝとせを七かへりすぐせるも有りければこの世にも、かゝる人のおはするかなと、このともたちの中にいふめれば、おほぢはむげにいやしきものに侍りき。きさいの宮になん
P102
つかへまつり侍りける。名は世繼と申しき。おのづからもきかせ給ふらん。くちにまかせて申しける物がたり、とゞまりて侍るめり。おやに侍りしは、なま学生にて大学に侍りき。この女をもわかくては、宮つかへなどせさせ侍りて、からのうた、やまとの哥などよくつくりよみ給ひしが、こしの国のつかさにおはせし御むすめに、式部の君と申しゝ人の、上東門院の后の宮とまうしゝとき、御母のたかつかさ殿にさぶらひ給ひしつぼねに、あやめとまうしてまうで侍りしを、五月にむまれたるかと問ひ給ひしかば、五日になんむまれ侍りける。母の志賀のかたにまかりけるに、ふねにてむまれ侍りけると申すに、さては五月五日、舟のうちなみのうへにこそあなれ。むまの時にやむまれたる。と侍りしかば、しかほどに侍りけるとぞおやは申し侍りし。など申せば、もゝたびねりたるあかゞねなゝりとて、いにしへをかゞみ、いまをかゞみるなどいふ事にてあるに、いにしへもあまりなり。いまかゞみとやいはまし。まだおさ<しげなるほどよりも、としもつもらずみめもさゝやかなるに、こかゞみとやつけましなどかたれば、世に人のみけうずる事、かたり出だされたる人の、むまごにこそおはすなれ。いとあはれに、はづかしくこそ侍れ。式部君たれが事にかと問へば、紫式部とぞ世には申すなるべしといふに、
それは名だかくおはする人ぞかし。源氏といふめでたき物がたり、つくり出だして、世にたぐひなき人におはすれば、いかばかりの事どもか、きゝもちたまへらむ。うれしきみちにも、あひ聞こえけるかな。むかしの風も吹きつたへ給ふらん。しかるべきことの葉をも、つたへ給へといへば、かた<”うけたまはることおほかりしかども、物がたりどもにみな侍らむといへば、そのゝちの事こそゆかしけれといふに、ちかき世の事も、おのづからつたへきゝ侍れば、おろ<としのつもりに申し侍らん。わかく侍りしむかしは、しかるべき人のこなど三四人うみて侍りしかど、この身のあやしさにや。みなほうしになしつゝ、あるはやまぶみしありきて、あともとゞめ侍らざりき。あるは山ごもりにて、おほかた見る世も侍らず。たゞやしなひて侍る、五節の命婦とて侍りし、うちわたりの事もかたり、世の事もくらからず申して、ことのつまならしなどして、きかせ侍るも、よはひのぶる心ちし侍りし、はやくかくれ侍りて、又とのもりのみやつこなる、をのこの侍るも、うひかうぶりせさせ侍りしまでやしなひたてゝ、このかすがのさとに、わすれずまうでくるが、あさぎよめ、みかきのうちに、つかうまつるにつけて、この世の事も聞き侍る。みなもとをしりぬれば、すゑのながれきくに心くまれ侍り。よつぎが申しおける萬壽二年より、ことしは嘉應二年
P103
かのえとらなれば、もゝとせあまりよそぢの春秋に、三とせばかりや過ぎ侍りぬらむ。世は十つぎあまり、三つぎにやならせ給ふらんとぞおぼえ侍る。その折万寿二年に、ことしなると申したれば、かの後一条のみかど世をたもたせ給ふ事、廿年おはしましゝかば、万寿二年のゝち、いまとかへりの春秋はのこり侍らん。神武天皇より六十八代にあたらせ給へり。その御世ゝり申し侍らむとて、
 (一)雲居 S0101 
後一条のみかどとは、前の一条院の第二の皇子におはします。御母上東門院、中宮彰子と申しき。入道前太政大臣道長のおとゞの第一の御むすめ也。このみかど、寛弘五年なが月のとをかあまり、ひとひの日むまれさせ給へり。同じ年の十月十六日にぞ親王の宣旨聞こえさせ給ひし。同じ八年六月十三日東宮に立たせ給ふ。御としよつにおはしましき。一条院位さらせ給ひて、御いとこの三条院東宮におはしましゝに、ゆづり申させ給ひしかば、その御かはりの東宮に立たせ給へりき。かの三条院位におはします事、五とせばかりすぐさせ給ひて、長和五年むつきの廿九日に、位をこのみかどにゆづり申させ給ひき。御とし九つにぞおはしましゝ。さて東宮には、
かの三条院の式部卿のみこをたて申させ給へりき。摂政は、やがて御おほぢの入道おとゞ、左大臣とてさきのみかどの関白におはしましゝ、ひきつゞかせ給ひて、つぎのとしの三月に、御子の宇治のおとゞ、右大将と聞こえさせ給ひしに、ゆづり申させ給ひにき。その日やがて、内大臣にもならせ給ふと、聞こえさせたまひき。その八月九日、東宮わが御心と、のかせ給ひき。三条院も、卯月に御ぐしおろさせ給ふ。五月にかくれさせたまひぬるにも、世の中さう<”しくおもほしめすにや。御やまひなど聞こえて、かくさらせ給ひぬれば、みかどの御おとうとの第三の親王を、このかはりにたて申させ給ふ。廿五日にぞ、さきの東宮に院号聞こえさせたまひて、小一条院と申す。としごとのつかさくらゐ、もとのごとく給はらせたまふ。御随身など聞こえ給ひき。ほりかはの女御の、みえしおもひのなどよみたまへる、ふるき物がたり侍るめればこまかにも申し侍らず。寛仁二年正月にはうへの御とし十にあまらせ給ひて、三日御元服せさせたまへれば、きびはにおはしますに、御かうぶりたてまつりて、おとなにならせ給へる御すがたも、うつくしう、いとめづらかなる雲井の春になむ侍りける。卯月の廿八日におほうち、やう<つくり出だして、わたらせ給ふ。しろがねの
P104
うてな玉のみはし、みがきたてられたるありさま、いときよらにて、あきらけき御世のくもりなきも、いとゞあらはれはべるなるべし。みかうしも、みすもあたらしく、かけわたされたるに、雲のうへ人の夏ごろもごたちの用意などいとゞすずしげになん侍りける。おほ宮もいらせ給ふ。春宮もわたらせ給ひて、むめつぼにぞおはします。入道おとゞの四の君は、威子の内侍のかみと聞こえたまひし、こよひ女御に参り給ひて、藤つぼにおはします。神無月の十日あまりのころ、きさきに立たせ給ふ。國母も、后もあねおとゝにおはしませば、いとたぐひなき御さかえなるべし。廿二日に上東門院にみゆきありて、かつらを折るこゝろみせさせたまふ。だい、霜をへて菊のせいをしる。又みどりの松、色をあらたむる事なし。などぞ聞こえし。おほきおとゞたてまつらせたまへるとなん。八月廿八日東宮御元服せさせ給ふ。御とし十一にぞおはしましゝ。九月廿九日に、入道おとゞ、東大寺にて御かいうけさせたまひき。同四年かのえさる、三月廿二日に、無量壽院つくり出ださせ給ひて、くやうせさせ給ふ。きさき、みところ、行啓せさせたまふ。御ありさまども、ふるき物がたりに、こまかにはべれは、さのみおなじ事をや申しかさね侍るべき。十月には入道のおとゞ、比叡にのぼり給ひて、恵心とかいひて、御かい
かさねて、うけさせたまふ。治安二年みづのえいぬの七月十四日法成寺に行幸せさせ給ひき。入道おとゞ金堂供養せさせ給ひしかば、東宮もきさきたちも、みな行啓せさせ給ひき。つみあるものどもみなゆるされ侍りにけり。三年正月に太皇太后宮に、朝観の行幸せさせ給ひき。春宮もおなじやうに、行啓せさせたまひける、ふたりの御子おはしませば、いとたぐひなき、宮のうちなるべし。十月十三日に、上東門院の御はゝ、たかつかさどの、六十の御賀せさせ給ふ。その御ありさま、むかしの物がたりに侍れば、この中にも、御らんぜさせたまへる人もおはしますらん。万寿元年九月十九日、関白殿の高陽院に行幸ありて、くらべむま御らんぜさせ給ふべきにて、大皇太后宮、まづ十四日にわたりゐさせたまひてぞ、まちたてまつらせ給ひける。かくて廿一日に、大宮は内へいらせ給ひき。高陽院の行幸には、かの家のつかさ、かゝゐなどし侍りけり。むらかみの中つかさの宮の御子、源氏の中将を、入道おとゞの御やしなひ子と聞こえ給ふ。このたび三位中将になりたまひき。二年八月三日春宮のみやす所〔嬉子〕、をとこ〔一〕宮うみたてまつり給ひて、五日にかくれさせ給ひき。入道おとゞの六の君におはする、御さいはひの中に、あさましく、かなしと申すもおろかに侍れど、後冷泉院を、うみおきたてまつり
P105
給へれば、いとやむごとなくおはします。その折のかなしさは、たぐひなく侍りしかども、いきてきさきにたちたまへる御あねたちよりも、おはしまさぬあとのめでたさは、こよなくこそはべるめれ。
 (二)子の日 S0102 
三とせの正月十九日、大皇太后宮、御さまかへさせたまひき。きさきの御名もとゞめさせ給ひて、上東門院と申しき。よそぢにだにまだみたせたまはぬに、いと心かしこく、世をのがれさせ給ふ。めでたくもあはれにも、聞こえさせ給ひき。大斎院と申ししは、選子内親王と聞こえさせ給ひし、この御事をきかせ給ひて、よみてたてまつらせ給へる御うた、
@ 君はしもまことのみちに入りぬなり独やながきやみにまどはん W001
この斎院は、むらかみの皇后宮の、うみおきたてまつらせ給へりしぞかし。東三条殿の御いもうとなれば、この入道殿には、御をばにあたらせ給ふぞかし。なが月には中宮御さんと聞こえさせ給ひて、姫宮うみたてまつらせ給ふ。左衛門督かねたかと聞こえ給ひしが家をぞ、御うぶやにはせさせ給へりし。をとこ宮におはしまさぬは、くちをしけれ
ど、御うぶやしなひなど心ことにいとめでたく、ことはりと申しながら、聞こえ侍りき。この姫宮は、後冷泉院のきさき、二条院と申しし御事なり。東宮にはじめてまゐらせ給ひけるころ、出羽の弁みたてまつりて、
@ 春ごとの子の日はおほく過ぎぬれどかゝる二葉の松はみざりき W002
とぞよめりける。同四年正月には、上東門院にとしのはじめのみゆきありて、朝覲の御はいせさせたまひき。つねのところよりも、御すまゐありさま、いとはえ<”しく、からゑなどのやうに、山のいろ、水のみどり、こだちたて石などいとおもしろきに、くらゐにしたがへる色々の衣の袖、近衛司のひらやなぐひ、ひらをなど、めもあやなるに、きぬのいろまじはれるうちより、からのまひ、こまの舞人、左右かた<”に袖ふるほどなど所にはえておもしろしなども、こと葉もおよばずなん侍りける。しも月には入道おほきおとゞ御やまひ重らせ給ひて、千人の度者とかやいひて、法師になるべき人のかずの、ふみたまはらせ給ふと聞こえ侍りき。法成寺におはしませば、その御寺に行幸ありて、とぶらひたてまつらせ給ふ。御誦經御ふせなどさま<”聞こえ侍りき。東宮にも行啓せさせ給ふ。御むまご内東宮におはしませば、御やまひの折ふしにつけても、御さかえの
P106
めでたさ、むかしもかゝるたぐひやは侍りけん。しはすの四日に、入道殿かくれさせ給ひぬれば、としもかはりて、春のはじめのせちゑなどもとゞまりて、くらゐなどたまはすることも、ほど過ぎてぞ侍りける。長元二年きさらぎの二日、中宮、又ひめ宮うみたてまつらせ給へり。この姫宮は後三条院の、后におはします。二人のひめ宮たち、二代のみかどの后におはします、いとかひ<”しき御有様なり。六年しも月に、たかつかさ殿の七十の御賀せさせ給ふとて、女院中宮関白殿、うちのおほいどの、かた<”いとなませ給ひき。わらはまひなどいとうつくしくて、まだいはけなき御よはひどもに、から人の袖ふり給ふありさま、いとらうありて、いかばかりか侍りけん。又の日うちにめして、昨日のまひども御らんぜさせ給へり。まひ人雲のうへゆるさるゝ人々と聞こえ侍りき。舞の師もつかさ給はりて、このゑのまつりごと人など、くはへさせ給ひけりとなむ。かの御賀の屏風に、りんじきやくのところをあかぞめの衛門がよめる、
@ むらさきの袖をつらねてきたる哉春たつことは是ぞ嬉しき W003
又子の日かきたる所よめる哥も、いふに聞こえ侍りき。
@ よろづよのはじめに君がひかるれば子の日の松もうらやみやせん W004
おなじき九年、やよひの十日あまりのほどより、うへの御なやみと聞こえさせ給ひて、神々にみてぐらたてまつらせ給へるさま<”の御いのり、聞こえ侍りき。殿上人御つかひにて、左右の御むまなどひかれ侍りけり。御としみそぢにだに、いまひとつたらせ給はぬ、いとあたらし。されど廿年たもたせ給ふ、すゑの世にありがたく聞こえさせたまひき。まだおはしますありさまにて、御おとうとの東宮に、くらゐゆづり申させ給ふさまなりけり。のちの御事の、よそほしかるべきによりて、くらゐおりさせ給ふ心なるべし。をとこ御子のおはしまさぬぞくちをしき。いづれの秋にか侍りけん。菊の花ほしに似たりといふ題の御製、からの御ことのは聞こえ侍りき
@ 司天記取葩稀色、分野望看露冷光 W005
とか人のかたり侍りし。御ざえもかしこくおはしましけるにや。菩提樹院に、この御門の御ゑいおはしましけるを、出羽の弁がかよめりける。
@ いかにしてうつしとめけん雲井にてあかずかくれし月の光を W006
かの菩提樹院は、二条院の御だうなれば、御心ざしのあまりに、ちゝのみかどの御すがたをかきとゞめて、おきたてまつらせたまひけるなるべし。おもひやり参らするも、
P107
いとあはれにかなしくこそはべれ。
 (三)初春 S0103 
後朱雀院と申す、さきの一条院の第三の皇子、御母上東門院、せんだいとおなじ御はらからにおはします。このみかど寛弘六年つちのとの酉と申しし年のしも月の廿五日にむまれさせたまひけり。七年正月十六日に、親王と聞こえさせ給ふ。御とし九つと聞こえさせ給ひき。長元九年四月十二日位につかせ給ふ。御とし廿八、そのとし御そくゐ大嘗会など過ぎて、としもかはりぬれば、いつしか、む月の七日、関白左のおとゞとて宇治のおほきおとゞおはしましゝ、女御たてまつらせ給ふ。みかどの御あにゝおはしましし、式部卿の御子の女ぎみの、むらかみの中つかさの宮の、御むすめの御はらにおはせしを、関白殿御子にしたてまつり給ひて、女御にたてまつり給へるなり。一条院の皇后宮の、うみたてまつり給へりし、一の御子におはしませば、春宮にもたち給ふべかりしを、御うしろみおはしまさずとて、二のみこにて、せんだい三のみこにて、このみかどふたり、みだうのむまご、関白の御おひにおはしませば、うちつゞきつかせ給へるなり。彼の一条院の皇后宮は、御せうとのうちのおとゞの、つくしに
おはしましゝ事どもに、おもほしなげかせ給ひて、御さまかへさせ給へりしのちに、式部卿の御子をうみたてまつらせたまへるなり。から國の則天皇后の御ぐしおろさせ給ひてのちに、皇子うみ給ひけんやうにこそおぼえ侍りしか。されどかれはさきのみかどの女御にて、かのみかどかくれさせ給ひにければ、世をそむきて、感業寺とかいふ寺に住み給ひけるを、さきのみかどのみこ位につき給ひて、かの寺におはしてみたまひけるに、御心やより給ひけん。さらに后にたてまつりけると、これはおなじ御世のもとのきさきなれば、いたくかはり給はぬさまにて、なのめなるさまにて侍りき。かしこき御世の御事申し侍るもかたじけなく、かの皇后宮の女房、ひごのかみもとすけと申すがむすめ、清少納言とてことになさけある人に侍りしかばつねにまかりかよひなどして、かの宮の事もうけ給はりなれ侍りき。その式部卿の御子の御むすめにおはしませば、みかどにはめいにあたらせ給へり。かくてやよひのついたちに、きさきに立たせ給ひぬ。御とし廿二にぞおはしましゝ。もとの后は皇后宮にならせ給ひき。そのもとの后は、みかど東宮におはしましゝ時より、参り給へりき。三条院の姫宮におはします。それは御とし廿五にならせたまへりき。陽明門院と申すは
P108
この御事なり。御ぐしのうつくしさを、故院〔え〕見まゐらせぬ、くちをしとてさくり申させ給ひけんもおもひやられて、おなじきさきと申せども、やんごとなくおはします。ひさしくうちへ参らせ給はざりけるころうちより、
@ あやめ草かれしたもとのねをたえてさらに恋ぢにまどふ比哉 W007。
と侍りけん。御返事はわすれにけり。東宮におはしましゝ時の御息所也。このきさきに、みだうの六の君まゐり給ひて、内侍のかみと聞こえ給ひし、後冷泉院のいまの東宮におはしましゝ、うみおきたてまつりて、うせ給ひしかば、この宮はそのゝち参り給へるなり。こないしのかみの御もとに、かすみのうちにおもふ心をと、よませ給ひたる御うた、たまはり給ひけると聞こえ侍りし物を、長暦元年神無月の廿三日関白の殿〔の〕高陽院に、上東門院わたらせ給ひて、行幸ありて、きんだち院司などかゝゐどもし給ひき。かくてとしもあけぬれば、又正月二日上東門院に朝覲のみゆきありて、いづくと申しながら、猶この院のけしきありさま〔の〕、山の嵐よろづ世よばふ聲をつたへ、池のみづも、ちとせのかげをすまして、まちとりたてまつり給ひき。先帝かくれさせ給へれども、かくうちつゞきておはします、二代の國母と申すもやんごとなし。
又三日は東宮朝覲の行啓とて、内に参らせ給ふ。みかどのみゆきよりも、ことしげからぬ物から、はなやかにめづらしく、ゆげひのすけ一員などひきつくろひたるけしき、こゝろことなるべし。すべらぎの御よそひ、みこの宮の御ぞの色かはりてめづらしく、御拜のありさまなど袖ふりたまふたちゐの御よそひ、うつくしうて、よろこびの涙もおさへがたくなん有りける。つらなれるむらさきの袖も、ことにしたがへるあけもみどりも、花やかなるみかきのうちの春なりけるとなん聞こえ侍りし。
 (四)ほしあひ S0104 
中宮こぞよりいつしか、たゞならずならせたまひて、しも月の十三日に、左のおとゞのたかくら殿に出でさせ給へりしが、つぎのとし四月一日、女御子うみたてまつらせ給ひて、又うちつゞき、又のとしもおなじやうにまかり出でさせ給ひて、丹後守ゆきたふのぬしの家にて、長暦三年八月十九日に、猶女宮うみたてまつり給ひて、おなじき廿八日にうせ給ひにき。御とし廿四、あさましくあはれなる事かぎりなし。いとど秋のあはれそひて、ありあけの月のかげも、心をいたましむるいろ、ゆふべの露のしけきも、なみだをもよほすつまなるべし。かくて九月九日にうちより故中宮の御ために、七寺にみず経
P109
せさせ給ふ。みかど御ぶくたてまつりて、廢朝とて、清凉殿のみすおろしこめられ、日のおもの参るも、こゑたててそうしなどすることもせず。よろづしめりたるまゝにはゆふべのほたるをもあはれとながめさせ給ふ。秋のともし火、かゞけつくさせ給ひつゝぞ、心ぐるしき折ふしなりけるに、廿日ぞ解陣とかいひて、よろづれいざまにて、御殿のみすなどもまきあげられ、すこしはるゝけしきなりけれど、なほ御けしきは、つきせずぞみえさせ給ひける。神無月も過ぎぬれば、御いみすゑになりて、かのうせ給ひにし宮にて、御佛事あり。こずゑの色も風のけしきも、おもひしりがほなるさまなり。くれなゐはらはぬむかしのあとも、のりのにはとて、ことにきよめらるゝにつけても、折にふれて、あはれつきせざりけり。しも月の七日ぞ、内にははじめて、まつりごとせさせ給ふ。南殿にいでゐさせ給ひて、官奏などあるべし。後一条院の中宮に侍りける、いづものごといふが、この宮に侍りし伊賀少将がもとに、
@ いかばかり君なげくらんかずならぬみだにしぐれし秋の哀を W008
とよめりけり。秋の宮うちつゞき、秋うせさせ給へるに、いとらうありて、思ひよられけるもあはれにこそ聞こえ侍りしか。またのとしの七月七日、関白殿に、うちより
御せうそくありて、
@ こぞのけふ別れし星もあひぬなりなどたぐひなき我が身なるらん W009
とよませ給ひて侍りけんこそ、いとかたじけなく、なさけおほくおはしましける御事かなと、うけ給はりしか。揚貴妃のちぎりもおもひいでられて、ほしあひの空、いかにながめあかさせ給ひけんと、いとあはれに、たづねゆくまぼろしもがなゝどや、おぼしけんとおしはかられてこそ、つたへきゝ侍りしか。詩などをも、おかしくつくらせ給ひけるとこそ聞こえ侍りしか。秋のかげいづち〔か〕かへらんとす〔る〕。などいふことに、
@ 路非山水誰堪趁、跡任乾坤豈縁尋 W010
などつくらせ給ひけるとこそ、うけたまはりしか。乾坤といふはあめつちといふことにぞ侍りける。長久二年三月四日、花宴せさせ給ひて、哥のしたはうぐひすにしかずといふ題たまひて、かつらを折るこゝろみありと聞こえ侍りき。つぎのとしのやよひのころ、堀川右大臣その時春宮大夫と申ししに、女御たてまつり給ひき。そちの内のおとゞのむすめの御はらなり。おとゞたちにもおとりたまはず、いとめでたく侍りき。神無月の比、おほ二条殿内大臣と聞こえ給ひし、二の君内侍のかみになりてまゐりたまひて、
P110
かた<”はなやかにおはしき。十一月には二宮御ふみはじめとて、式部大輔〔たかちか〕と聞こえしはかせ、御注孝經といふ文をしへたてまつりき。蔵人さねまさ尚複とて、それも御師なるべし。おなじき四年の三月にも、佐国孝言時綱国綱などいふものども、試みさせたまひき。ゆば殿にてぞ、つくりてたてまつり給ひける。もとかつらを折りたるは、はかせをのぞみ、まだをらぬものは、ともし火のゝぞみなむありける。くごとにもろこしのはかせの名などおきければつゞりかなふる人かたくなんありける。寛徳元年八月におほすみのかみ長国、たぢまのすけになり、民部丞生行おなじくにのぞうになし給ひて、こまうどの、かの国につきたる、とぶらはせ給ひき。御なやみとて、あくるとし正月十六日に、くらゐさらせたまひ、御ぐしおろさせ給ふ。御とし卅七になんおはしましゝ。世をたもたせ給ふ事九年なりき。まだわかくおはしますさまを、惜しみたてまつらずといふ人はなし。先帝廿九にておはしましき。これはされど、みそぢあまりの春秋過ぎさせ給へり。母ぎさきのあまりながくおはしますに、かくのみおはしませば、御さいはひの中にも、御なげきに堪へざるべし。なほ御むまごの一の御子はみかど、二のみこは東宮におはしませば、いとやんごとなき御ありさまなるべし。
 (五)望月 S0105 
よつぎもみかどの御ついでに、国母の御事申し侍れば、このみかどの御母ぎさきの御事、このついでに申し侍るべし。御年廿三におはしましゝ時、後一条院、後朱雀院、うちつゞきうみたてまつらせ給へり。つちみかどどのにて、後一条院うみたてまつらせ給へりし七夜の御あそびに、みすのうちより、出だされ侍りける、さかづきにそへられ侍りしうたは、むかしの御つぼねのよみたまへりし、
@ めづらしき光さしそふさかづきはもちながらこそ千世はめぐらめ W011
とぞおぼえ侍る。その女院は、十三より后におはしましき。一条院かくれさせ給ひて、後一条のみかど、をさなくおはしましけるに、なでしこの花をとらせ給ひければ、御母ぎさき、
@ 見るまゝに露ぞこぼるゝおくれにし心も知らぬなでしこの花 W012
五節のころ、むかしを思ひいでゝ、殿上人参りて侍りけるに伊勢大輔、
@ はやくみし山ゐの水のうすごほりうちとけざまはかはらざりけり W013
とぞよみて出だし侍りける。寛弘九年二月に、皇太后宮にあがらせ給ふ。御年廿五
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と聞こえさせ給ひき。後一条のみかど、位につかせ給ひて、寛仁二年正月に大皇太后宮にならせたまひき。万寿三年正月十九日に、御さまかへさせ給ふ。御とし卅九、御名は清浄覚と申しけり。きさきの御名とゞめさせ給ひて女院と聞こえさせ給ふ。としごとのつかさ位たまはらせ給ふ事は、おなじやうにかはり侍らざりけり。長暦三年五月七日、御ぐしおろさせ給ふ。あきもとの入道中納言、
@ 世をすてゝ宿を出でにし身なれども猶恋しきは昔なりけり W014
とよみて、この女院へたてまつり給へる御返事に、
@ つかのまも戀しきことのなぐさまば二たび世をもそむかざらまし W015
とよませ給へる、はじめは御ぐしそがせ給ひて、のちにみなおろさせ給ふ心なるべし。かの中納言は後一条院の御おぼえの人におはしけるに、御いみにおはして、宮のうちに御となぶらもたてまつらず侍りければ、いかにとたづね給ひけるに、女官どもいまの内に参りて、かきともしする人もなし。などきゝ給ふに、いとゞかなしくてみかどのかくれさせ給ひて、六日といふに、かしらおろして、山ふかくこもり給へりけり。年卅七になんおはしける。きく人なみだをながさずといふ事なくなむ侍りける。花山の僧正
の、ふかくさのみかどの御いみに、御ぐしおろしたまひけんにも、おくれぬ御心なるべし。なほつきせずおもほしけるにこそとかなしく、御かへしもいとあはれに、御母ぎさき、さこそはおもほしけめとおぼえて、かの東北院は、この院の御願にて、ちゝおとゞのみだう、法成寺のかたはらにつくらせたまへり。山のかたち、池のすがた〔に〕もなべてならず。松のかげ、花のこずゑも、ほかにはすぐれてなんみえ侍りける。九月十三夜よりもち月のかげまで、仏のみかほもひかりそへられたまへり。御念仏はじまりけるほどに、かんだちめ、殿上人参りあつまりたまへるに、宇治のおほきおとゞの、朗詠はべりなんと、すゝめさせ給ひければ齊信の民部卿、としたけたるかんだちめにて、極楽尊を念じたてまつる事、一夜とうち出だし給ひけん、折ふしいかにめでたく侍りけん。齊名といふはかせのつくりたるが、いけるよに、いかにいみじく侍りけん。この世ならば、いまの人のつくりたる事も出だしたまはざらまし。殿上人しをに色のさしぬき、この御念仏よりこそ着始め給ひしか。この堂つちみかどのすゑにあたれば、上東門院と申す也。このゝち代々の女院の院号、かどの名聞こえはべるめり。陽明門も、このゑにあたりたれは、このれいによりてつかせ給へり。郁芳門、待賢門などは、おほゐのみかど、中のみかどに御所おはしまさ
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ねど、なぞらへてつかせたまへるとぞ聞こえ侍る。待賢門院の院号のさだめ侍りけるに、なぞらへてつかせ給ふならば、などさしこえて、郁芳門院とはつけたてまつりけるにか。など聞こえければ、あきたかの中納言といひし人の、この御れうにのこして、おかれけるにこそはべるめれ。と申されけるとかや。さてぞつかせ給ひにけるとなん。みかどの御前などにては、つちみかどこのゑなどは申さで、上東門のおほぢよりはいづかた、陽明門のおほぢよりはそなたなどぞ奏すなる。されば一條二条など申すにもおなじ心なるべし。この上東門院の御としは、八十七までおはしましき。
 (六)菊の宴 S0106 
このつぎのみかどは、後冷泉院と申しき。後朱雀院の第一の皇子、御母、内侍のかみ、贈皇太后宮嬉子と聞こえき。入道おほきおとゞの第六の御むすめ也。上東門院のおなじ御はらからにおはします。このみかど万寿二年きのとのうしのとしの八月三日、むまれさせ給へり。長暦元年七月二日御元服、やがて三品の位たまはらせ給ふ。八月十七日に東宮に立たせ給ひて、寛徳二年正月十六日、くらゐにつかせたまふ。御とし廿一にぞおはしましゝ。永承元年やよひのころ、いつきたち、おの<さだめさせ
たまふ。七月十日中宮立たせたまひき。東宮の御時より、みやす所にておはしましゝ、後一条院のひめ宮なり。神無月も過ぎて、みかどことしぞとよのみそぎせさせ給ふ。正月十六日、御いみの月とて、たうかのせちゑもなし。十月に関白殿の御おとうとの右のおとゞ女御たてまつりたまふ。大二条殿と申しゝ御事なり。おなじき四年十一月に、殿上の哥合せさせたまひき。むらかみの御時、花山院などのゝち、めづらしく侍るに、いとやさしくおはしましゝにこそ、能因法師のいはねの松もきみがためと、一番の哥によみて侍る。このみちのすきもの、時にあひて侍りき。たつたの川のにしきなりけり。といふうたも、このたびよみて侍るぞかし。五年しはす関白殿の御むすめ、女御に参りたまふ。四条の宮と申しゝ御事なり。六年二月十日、きさきにたち給ふ。皇后宮と申しき。もとのきさきは、皇太后宮にあがりたまひき。さ月五日、殿上のあやめ、ねあはせゝさせ給ひき。そのうたども、哥合の中にはべるらん。きさきの宮、さとにおはしましけるとき、良暹法師、もみぢ葉のこがれてみゆる御ふねかなといふ連哥、殿上人のつけざりけるをもみかどの御はぢにおぼしめしたりけるも、いとなさけおほく、おはしましけるにこそ。九月九日菊のえんせさせたまひて、菊ひらけて水のきしかうばし、といふ題をつくら
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せ給ひけるとぞ聞こえ侍りし。七年神無月のころ、つりどのにて御あそびあり。ふみつくらせ給ひけるとぞ、聞こえ侍りし。かやうの御あそび、つねの事なるべし。
 (七)こがねのみのり S0107 
いづれのとしにかはべりけん。九月十三夜、高陽院のだいりにおはしましけるに、たきの水音すずしくて、いはまの水に月やどして、御らんぜさせ給ひて、よませたまひける、
@ いはまよりながるゝ水ははやけれどうつれる月の影ぞのどけき W016
とぞ聞こえ侍りし。治暦元年九月廿五日に、高陽院にてこがねのもじの御経、みかど御みづからかゝせ給ひて、御八講おこなはせたまひき。むらかみの御代のみづぐきのあとを、ながれくませ給ふなるべし。はじめの御導師は、勝範座主の、まだ僧都など聞こえし折ぞせらるゝと聞こえはべりし、いづれの問とかいひて、論義のことのよしなども、かのむらかみの御時のをぞ、ちりばかりひきかへたるやうなりけるとぞ、聽聞しける人などつたへかたり侍りし。五巻の日は宮々かんだちめ、殿上人、みなささげ物たてまつりて、たつとりのからふね、いけにうかびて、水のうへにこゑ<”しらべあひて、仏の御国うつし給へり。もみぢのにしき、水のあや、ところも折もかなへる、みのりのにはなるべし。三年十月十五日には
宇治の平等院にみゆきありて、おほきおとゞ、二三年かれにのみおはしまししかば、わざとのみゆき侍りて、みたてまつらせ給ふとぞうけ給はりし。うぢはしのはるかなるに、舟よりがく人参りむかひて、宇治川にうかべて、こぎのぼり侍りけるほど、からくにもかくやとぞみえけると、〔人は〕かたり侍りし。みだうの有様、川のうへに、にしきのかりやつくりて、池のうへにも、からふねにふえのね、さま<”しらべて、御前のものなどは、こがね白がね、色々の玉どもをなんつらぬきかざられたりける。十六日にかへられ給ふべきに、あめにとゞまらせ給ひて、十七日にふみなどつくらせたまふ。そのたびのみかどの御製とてうけ給はり侍りしは、
@ 忽看烏瑟三明影暫駐鸞輿一日蹤 W017
とかや、つくらせたまへると、ほのかにおぼえ侍る。折にあひて、おぼしよらせ給ひけんほど、いとめでたき事と、しりたる人申しける。そのたびぞ准三宮の宣旨は、宇治殿かうぶらせ給ひけると、聞こえさせ給ひし。そのころにや侍りけむ。内裏にて、わらはまひ御らんぜさせ給ひき。かんだちめのわかぎみたち、おの<まひ給ひき。楽人は殿上人、さま<”のふき物、ひきものなどせさせたまふ。そのなかに、六条の右のおとゞの中納言と
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聞こえたまひし時、そのわかぎみ胡飲酒まひ給ふを、御前にめして、御ぞたまふに、おほぢの内大臣とておはせし、座をたちて拜し給ひけるは、つちみかどのおとゞとぞ聞こえ給ひし。舞ひたまひしは、太政のおとゞとや申しけん。かくてしはすの十二日、廿二社にみてぐらたてまつらせ給ひき。みかどの御なやみの事とてつぎのとし正月一日は日蝕なりしかば、廢朝とてみすもおろし、世のまつりごとも侍らざりき。さきのおほきおとゞも御なやみとて、きさらぎのころ、皇后宮もさとに出でさせたまひき。内には孔雀明王の法おこなはせ給ひて、大御室とておはしましゝ、仁和寺の宮御でし僧綱になり、我が御身も牛車などかうぶり給ひき。みかど御こゝちおこたらせ給ふなるべし。四月にはこがねしろがね、あやにしきなどのみてぐら、神がみのやしろにたてまつらせたまひき。かゝるほどなれど、左のおとゞの御むすめの女御、皇后宮にたちたまひき。ちゝおとゞも、関白になりたまひき。内にも御なやみおこたらせ給はず。おほきおとゞも、よろづのがれ給ひて、ゆづり申し給ふなるべし。みかど世をたもたせ給ふ事、廿三年なりき。御とし四そぢによとせばかりあまらせ給へりけるなるべし。をとこにても女にても、みこのおはしまさぬぞくちをしきや。御はゝないしのかみ、御とし十九にて、この御門
うみたてまつり給ひて、かくれさせたまひにき。寛徳二年八月十一日に、皇后宮おくりたてまつられき。国忌にて、その日はよろづのまつりごと侍らず。むかしはきさきにたちたまはで、うせたまへれど、御門の御母なれば、のちには、やんごとなき御名とゞまりたまへり。
 (八)司召し S0108 
このつぎの御かど後三条院にぞおはしましゝ。まだ御子におはしましゝとき、ちゝの御門後朱雀院、さきのとしの冬よりわづらはせ給ひて、むつきの十日あまりのころ、位さらせ給ひて、みこの宮にゆづり申させたまふとばかりにて、東宮の立たせ給ふ事は、ともかくも聞こえざりけるを、能信大納言とて、宇治どのなどの御おとうとの、たかまつのはらにおはせしが、御前に参りて、二宮をいづれの僧にか付けたてまつり侍るべきと、聞こえさせ給ひけるに、坊にこそはたてめ。僧にはいかゞつけん。関白の春宮の事はしづかにといへば、のちにこそはとおほせられけるを、けふ立たせ給はずは、かなふまじきことに侍りと申したまひければ、さらばけふとてなん東宮は立たせ給ひける。やがて太夫には、その能信大納言なりたまへりき。君の御ため、たゆみなくすゝめ
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たてまつり給へりけん。いとありがたし。されば白河院はまことにや。太夫どのとぞおほせられけるとぞ人は申し侍りし。二宮とは後三条院の御事なり。このみかどは、後朱雀院の第二の皇子におはします。御母大皇太后宮、禎子の内親王と申。陽明門院この御事也。みかど寛徳二年正月十六日に、春宮に立たせ給ふ。御とし十二、治暦四年四月十九日位につかせ給ふ。御年卅五、大極殿もいまだつくられねば、太政官の廰にて、御即位侍りける。世を治めさせ給ふ事、昔かしこき御世にもはぢずおはしましき。御身のざえは、やむごとなきはかせどもにもまさらせ給へり。東宮におはしましける時、匡房中納言まだ下らうに侍りけるに、世をうらみて、山のなかに入りて、世にもまじらじなど申しければ、つねたふの中納言と申しし人の、われはやむ事なかるべき人なり。しかあらば世のため身のため、くちをしかるべしといさめければ、宇治のおほきおとゞ、心得ずおぼしたりけれど、春宮に参り侍りければ、宮もよろこばせ給ひて、やがて殿上して、人のよそひなど借りてぞ、ふだにもつきける。さてよるひる文のみちの御ともにてなん侍りける。位につかせたまふはじめに、つかさもなくて、五位の蔵人になりたりければ、蔵人の式部大夫とてなむ。あきたるにしたがひて、
中つかさの少輔にぞなり侍りける。大貮實政は、春宮の御時の学士にて侍りしを、時なくおはしませば、かまへて参りよらぬことになんとおもひけるに、さすがいたはしくて、かひのかみに侍りければかの国よりのぼりて、参るまじき心がまへしけるに、くだりけるに、餞せさせたまふとて、
@ 州民縦發甘棠詠莫忘多年風月遊 W018、
とつくらせたまへりけるになん。えわすれ参らせざりける。かんたうの詠とは、から国にくにのかみになりける人のやどれりける所に、やまなしの木のおひたりけるを、その人のみやこへかへりてのち、まつりごとうるはしく、しのばしかりければ、このなしの木きる事なかれ。かの人のやどれりしところなり。といふうたをうたひけるとなん。さてみかどくらゐにつかせ給ひてのち、左中弁にくはへさせ給へと申しければ、つゆばかりも、ことはりなきことをばすまじきに、いかでかゝることをば申すぞ。正左中弁にはじめてならむ事、あるまじきよしおほせられければ、蔵人の頭にて、資仲の中納言侍りけるが、かさねて申しけるは、さねまさ申す事なん侍る。木津のわたりの事を、一日にても思ひしり侍らんとそうしければ、その折おもほししづめさせたまひて、はからはせたまふ御けしきなり
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けり。昔さねまさは春宮のかすがのつかひにまかりくだりけり。隆方は弁にてまかりけるに、さねまさまづふねなどまうけてわたらんとしけるを、たかかたおしさまたげて、まちさいはひするもの、なにゝいそぐぞなど、ないがしろに申し侍りければからくおもひて、かくなんと申したりけるを、おもほし出だして、このことはりあまてる御神に申しうけんとて、左中弁にはくはへさせたまひてけり。たかゝたはかりなき心ばへにて、殿上につかさめしのふみ出だされたるを、かんだちめたち、かつ<見たまひて、なにゝなりけり。かれになりにたり。などのたまはせけるをたかかたつかうまつりて侍らんなどえたりがほに云ひけるを、さもあらぬものゝかみにくはゝりたるぞなど人々侍りければうちしめりて出でにけり。つぎのあしたの陪膳は隆方が番にて侍りけるを、よも参らじ。こと人をもよほせとおほせられけるほどに、むまのときよりさきに、たかゝた参り〔て〕侍りければ、みかどさすがにおもほしめして、日ごろは御ゆする召してうるはしく御びんかゝせ給ひて、たしかにつかせたまふ御心に、けふは待ちけれども、ほど過ぎて出でさせたまへりけるに、陪膳つかうまつりて、弁も辞し申して、こもり侍りにけりとなん。御代のはじめつかたのことにや侍りけん。だいり焼亡の侍りけるに、殿上人、かんだちめなども、さぶらひあひ
たまはぬほどにて、南殿に出でさせたまへりけるに、御らんじも知らぬもの、すくよかにはしりめぐりて、内侍どころ出だしたてまつり、右近陣に、みこしたづね出だして、御はしに寄せて、載せたてまつりなどしければ、おのれはたれぞと問はせ給ひけるに、右少弁正家と申しければ、弁官ならば、ちかくさぶらへとぞおほせられける。正家匡房とて、時にすぐれたるひとつがひのはかせなるに、匡房はあさゆふさぶらひけり。これは御らんじもしられまゐらせざりけるにこそ。つかさをさへ具して、なたいめん申しけむ、折ふしにつけて、いとかどあるこゝろばへなるべし。さてこそ、これかれの殿上人かんだちめ、そくたいなるも、又なほしかりぎぬなどなる人も、とりもあへずさま<”に、参りあつまりたりけれ。となむ聞こえはべりし。