藤田豪之輔校註「大鏡」(昭和4年)
凡例
底本: 『大鏡』藤田豪之輔校註 東京大倉廣文堂 発行(昭和4年)
校定大鏡(萩野由之・松井簡治校訂)を含む11種の本を校合して、本文を立てたものです。

漢字の表記を変え、ひらがなを漢字にした箇所が有ります。
語句を他本により修正した箇所が有ります。
和歌の末尾に Wを付けました。
上・中・下の表記は有りませんが、便宜上、〔大鏡 上〕の様に記しました。
発言者がわかりにくい場合は、《 》に入れて記しました。

奥付
大鏡
昭和四年十二月五日印刷
昭和四年十二月十日発行
昭和六年四月十五日訂正再版
(印紙)
金一円十七銭

校註者 藤田豪之輔
発行者 大倉克次
印刷者 川崎佐一
発行所 大倉廣文堂

大鏡
〔大鏡 上〕
  序
 先(さい)つ頃(ころ)、雲林院(うりんゐん)の菩提講(ぼだいこう)に詣(まう)でて侍(はべ)りしかば、例の人よりはこよなう年老い、うたてげなる翁(おきな)二人、嫗(おうな)といき会(あ)ひて、同じ所に居(ゐ)ぬめり。「あはれに、同じ様(やう)なるもののさまかな」と見侍(はべ)りしに、これらうち笑ひ、見かはして言(い)ふやう、
《世継》『年頃(としごろ)、昔の人に対面(たいめ)して、いかで世の中の見聞(き)くことをも聞(き)こえあはせむ、このただ今の入道(にふだう)殿下(でんか)の御有様(ありさま)をも申(まう)しあはせばやと思(おも)ふに、あはれにうれしくも会(あ)ひ申(まう)したるかな。今ぞ心やすく黄泉路(よみぢ)もまかるべき。おぼしきこと言(い)はぬは、げにぞ腹ふくるる心地(ここち)しける。かかればこそ、昔の人は物(もの)言(い)はまほしくなれば、穴を掘りては言(い)ひ入れ侍(はべ)りけめとおぼえ侍(はべ)り。かへすがへすうれしく対面(たいめ)したるかな。さてもいくつにかなり給(たま)ひぬる』と言(い)へば、いま一人(ひとり)の翁(おきな)、
《繁樹》『いくつといふこと、さらに覚(おぼ)え侍(はべ)らず。ただし、おのれは、故(こ)太政(だいじやう)のおとど貞信公(ていしんこう)、蔵人(くらうど)の少将(せうしやう)と申(まう)しし折の子舎人童(こどねりわらは)、大犬丸(おほいぬまろ)ぞかし。ぬしは、その御時の母后(ははきさき)の宮(みや)の御方の召使(めしつかひ)、高名(かうみやう)の大宅(おほやけの)世継(よつぎ)とぞ言(い)ひ侍(はべ)りしかな。されば、ぬしの御年(みとし)は、おのれにはこよなくまさり給(たま)へらむかし。みづからが小童(こわらは)にてありし時、ぬしは二十五六ばかりの男(をのこ)にてこそはいませしか。』と言(い)ふめれば、世継、
 『しかしか、さ侍(はべ)りしことなり。さてもぬしの御名(みな)はいかにぞや』と言(い)ふめれば、
《繁樹》『太政大臣(だいじやうだいじん)殿(どの)にて元服(げんぶく)つかまつりし時、「きむぢが姓(さう)はなにぞ」と仰(おほ)せられしかば、「夏山(なつやま)となむ申(まう)す」と申(まう)ししを、やがて、繁樹(しげき)となむつけさせ給(たま)へりし』など言(い)ふに、いとあさましうなりぬ。
 たれも、少しよろしき者どもは、見おこせ、居寄(ゐよ)りなどしけり。年三十ばかりなる侍(さぶらひ)めきたる者の、せちに近く寄りて、
《侍》『いで、いと興(きよう)あること言(い)ふ老者(らうざ)たちかな。さらにこそ信ぜられね』と言(い)へば、翁(おきな)二人見かはしてあざ笑ふ。繁樹(しげき)と名のるがかたざまに見やりて、
《侍》『「いくつといふこと覚(おぼ)えず」といふめり。この翁どもは覚(おぼ)え賜(た)ぶや』と問(と)へば、
《世継》『さらにもあらず。一百九十歳にぞ、今年(ことし)はなり侍(はべ)りぬる。されば、繁樹(しげき)は百八十におよびてこそ候(さぶら)ふらめど、やさしく申(まう)すなり。おのれは水尾(みづのを)の帝(みかど)のおり御座(おは)します年の、正月の望(もち)の日(ひ)生まれて侍(はべ)れば、十三代に会(あ)ひ奉(たてまつ)りて侍(はべ)るなり。けしうは候(さぶら)はぬ年なりな。まことと人思(おぼ)さじ。されど、父が生学生(なまがくしやう)に使はれたいまつりて、「下臈(げらふ)なれども都ほとり」と言(い)ふことなれば、目を見給(たま)へて、産衣(うぶぎぬ)に書き置きて侍(はべ)りける、いまだ侍(はべ)り。丙申(ひのえさる)の年に侍(はべ)り』と言(い)ふも、げにと聞(き)こゆ。
 いま一人(ひとり)に、
《侍》『なほ、わ翁(おきな)の年(とし)こそ聞(き)かまほしけれ。生まれけむ年は知(し)りたりや。それにていとやすく数(かず)へてむ。』と言(い)ふめれば、
《繁樹》『これは誠(まこと)の親にも添(そ)ひ侍(はべ)らず、他人のもとに養はれて、十二三まで侍(はべ)りしかば、はかばかしくも申(まう)さず。ただ、
《養父》「我は子うむわきも知(し)らざりしに、主の御使(つかひ)に市(いち)へまかりしに、また、私(わたくし)にも銭十貫を持ちて侍(はべ)りけるに、
母が抱(いだ)きて、「この児(ちご)買はん人がな」とひとりごちしを聞(き)きて、見侍(はべ)りけるに、色白うてにくげも侍(はべ)らざりければ、さるべきにや、あはれにおぼえて抱(いだ)きとり侍(はべ)りけるに、うち笑みてかきつきて侍(はべ)りけるに、いとどかなしくて、「など、かくうつくしき児(ちご)を放(はな)たむとは思(おも)はるるぞ」と問(と)ひ侍(はべ)りければ、「まろも子を十人(とたり)まで・・・・・・」。
 にくげもなき児を抱(いだ)きたる女の、「これ人に放(はな)たむとなむ思(おも)ふ。子を十人(とたり)までうみて、これは四十(よそ)たりの子にて、いとど五月にさへ生まれてむつかしきなり」と言(い)ひ侍(はべ)りければ、この持ちたる銭にかへてきにしなり。「姓は何(なに)とか言(い)ふ」と問(と)ひ侍(はべ)りければ、「夏山」とは申(まう)しける」。さて、十三にてぞ、おほき大殿(おほとの)には参(まゐ)り侍(はべ)りし』など言(い)ひて、
《世継》『さても、うれしく対面(たいめ)したるかな。仏(ほとけ)の御しるしなめり。年頃(としごろ)、ここかしこの説経(せきやう)とののしれど、なにかはとて参(まゐ)らず侍(はべ)り。かしこく思(おも)ひたちて、参(まゐ)り侍(はべ)りにけるが、うれしきこと』とて、
《世継》『そこに御座(おは)するは、その折の女人にやみでますらむ』
と言(い)ふめれば、繁樹(しげき)がいらへ、『いで、さも侍(はべ)らず。それははや失(う)せ侍(はべ)りにしかば、これは、その後(のち)あひ添(そ)ひて侍(はべ)るわらべなり。さて閣下(かふか)はいかが』と言(い)ふめれば、世継がいらへ、『それは侍(はべ)りし時のなり。今日(けふ)もろともに参(まゐ)らむと出(い)でたち侍(はべ)りつれど、わらはやみをして、あたり日(び)に侍(はべ)りつれば、口惜(くちを)しくえ参(まゐ)り侍(はべ)らずなりぬる』と、あはれに言(い)ひ語らひて泣くめれど、涙落つとも見えず。
 かくて講師(こうじ)待つほどに、我も人もひさしくつれづれなるに、この翁(おきな)どもの言(い)ふやう、
《世継》『いで、さうざうしきに、いざ給(たま)へ。昔物語(むかしものがたり)して、このおの御座(おは)さふ人々に、「さは、いにしへは、世はかくこそ侍(はべ)りけれ」と、聞(き)かせ奉(たてまつ)らむ』と言(い)ふめれば、いま、一人(ひとり)、
《繁樹》『しかしか、いと興(きよう)あることなり。いで覚(おぼ)え給(たま)へ。時々、さるべきことのさしいらへ、繁樹(しげき)もうち覚(おぼ)え侍(はべ)らむかし』と言(い)ひて、言(い)はむ言(い)はむと思(おも)へる気色(けしき)ども、いつしか聞(き)かまほしく、おくゆかしき心地(ここち)するに、そこらの人多かりしかど、物(もの)はかばかしく耳とどむるもあらめど、人目にあらはれて、この侍(さぶらひ)ぞ、よく聞(き)かむと、あどうつめりし。世継が言(い)ふやう。
『世はいかに興(きよう)ある物(もの)ぞや。さりとも、翁(おきな)こそ、少々のことは覚(おぼ)え侍(はべ)らめ。昔さかしき帝(みかど)の御政(まつりごと)の折は、「国のうちに年老いたる翁・嫗(おうな)やある」と召(め)し尋ねて、いにしへの掟(おきて)の有様(ありさま)を問(と)はせ給(たま)ひてこそ、奏(そう)することを聞(き)こし召(め)しあはせて、世の政は行はせ給(たま)ひけれ。されば、老いたるは、いとかしこきものに侍(はべ)り。若き人たち、なあなづりそ。』とて、黒柿(くろがへ)の骨九つあるに、黄(き)なる紙張りたる扇(あふぎ)をさしかくして、気色だち笑ふほども、さすがにをかし。
《世継》『まめやかに世継が申(まう)さむと思(おも)ふにことは、ことごとかは。ただ今の入道(にふだう)殿下(でんか)の御有様(ありさま)の、世にすぐれて御座(おは)しますことを、道俗男女の御前(おまへ)にて申(まう)さむと思(おも)ふが、いとこと多くなりて、あまたの帝王・后(きさき)、また大臣(だいじん)・公卿(くぎやう)の御上(うへ)をつづくべきなり。そのなかに、幸(さいは)ひ人(びと)に御座(おは)します、この御有様(ありさま)申(まう)さむと思(おも)ふほどに、世の中のことのかくれなくあらはるべきなり。つてに承(うけたまは)れば、法華経(ほけきやう)一部を説き奉(たてまつ)らむとてこそ、まづ余教(よけう)をば説き給(たま)ひけれ。それを名づけて五時教(ごじけう)とは言(い)ふにこそはあなれ。しかのごとくに、入道(にふだう)殿(どの)の御栄えを申(まう)さむと思(おも)ふほどに、余教の説かるると言(い)ひつべし』など言(い)ふも、わざわざしく、ことごとしく聞(き)こゆれど、「いでやさりとも、なにばかりのことをか」と思(おも)ふに、いみじうこそ言(い)ひつづけ侍(はべ)りしか。
《世継》『世間の摂政(せつしやう)・関白(くわんばく)と申(まう)し、大臣(だいじん)・公卿(くぎやう)と聞(き)こゆる、古今(いにしへいま)の、皆、この入道(にふだう)殿(どの)の御有様(ありさま)のやうにこそは御座(おは)しますらめとぞ、今様(いまやう)の児(ちご)どもは思(おも)ふらむかし。されども、それさもあらぬことなり。言(い)ひもていけば、同じ種一(ひと)つ筋(すぢ)にぞ御座(おは)しあれど、門(かど)別れぬれば、人々の御心用(こころもち)ゐも、また、それにしたがひてことごとになりぬ。この世始(はじ)まりて後(のち)、帝(みかど)はまづ神の世七代をおき奉(たてまつ)りて、神武(じんむ)天皇(てんわう)を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、当代(たうだい)まで六十八代にぞならせ給(たま)ひにける。すべからくは、神武天皇(てんわう)を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、次々の帝(みかど)の御次第(しだい)を覚(おぼ)え申(まう)すべきなり。しかりと言(い)へども、それはいと聞(き)き耳遠ければ、ただ近きほどより申(まう)さむと思(おも)ふに侍(はべ)り。文徳(もんとく)天皇(てんわう)と申(まう)す帝(みかど)御座(おは)しましき。その帝(みかど)よりこなた、今の帝(みかど)まで十四代にぞならせ給(たま)ひにける。世をかぞへ侍(はべ)れば、その帝(みかど)、位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ嘉祥(かしやう)三年庚午(かのえうま)の年より、今年(ことし)までは一百七十六年ばかりにやなりぬらむ。かけまくもかしこき君の御名を申(まう)すは、かたじけなく候(さぶら)へども』とて、言(い)ひつづけ侍(はべ)りし。
一 五十五代  文徳(もんとく)天皇(てんわう)  道康(みちやす)
《世継》『文徳(もんとく)天皇(てんわう)と申(まう)しける帝(みかど)は、仁明(にんみやう)天皇(てんわう)の御第一の皇子なり。御母、太皇太后宮(たいくわうたいごうぐう)藤原(ふぢはらの)順子(じゆんし)と申(まう)しき。その后(きさき)、左大臣(さだいじん)贈(ぞう)正一位(じやういちゐ)太政大臣(だいじやうだいじん)冬嗣(ふゆつぎ)のおとどの御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、天長(てんちやう)四年丁末(ひのとひつじ)八月に生まれ給(たま)ひて、御心あきらかに、よく人をしろしめせり。承和(じようわ)九年壬戌(みづのえいぬ)二月二十六日に御元服(げんぶく)。同八月四日、東宮(とうぐう)にたち給(たま)ふ。御年十六。
仁明(にんみやう)天皇(てんわう)もと御座(おは)する東宮(とうぐう)をとりて、この帝(みかど)を、承和(じようわ)九年八月四日、東宮(とうぐう)にたて奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしなり。いかにやすからず思(おぼ)しけむとこそおぼえ侍(はべ)れ。
嘉祥(かしやう)三年庚午(かのえうま)三月二十一日、位(くらゐ)につき給(たま)ふ。御年二十四。さて世を保(たも)たせ給(たま)ふこと八年。
 御母后(きさき)の御年十九にてぞ、この帝(みかど)をうみ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。嘉祥(かしやう)三年四月に后にたたせ給(たま)ふ。御年四十二。斎衡(さいかう)元年甲戌(きのえいぬ)の年、皇太后宮(くわうたいごうぐう)にあがりゐ給(たま)ふ。貞観(ぢやうぐわん)三年辛巳(かのとみ)二月二十九日癸酉(みづのととり)、御出家(すけ)して、潅頂(くわんぢやう)などせさせ給(たま)へり。同じき六年丙申(ひのえさる)正月七日、太皇太后宮(たいくわうたいごうぐう)にあがりゐ給(たま)ふ。これを五条(ごでう)の后(きさい)と申(まう)す。伊勢物語(ものがたり)に、業平(なりひらの)中将(ちゆうじやう)の、「よひよひごとにうちも寝ななむ」とよみ給(たま)ひけるは、この宮の御ことなり。「春や昔の」なども。
同じことのやうに候(さぶら)ふめる。いかなることにか、二条(にでう)の后(きさい)に通ひまされける間のことどもとぞ、承(うけたまは)りしを。「春や昔の」なども。五条の后の御家と侍(はべ)るは、わかぬ御仲にて、その宮に養はれ給(たま)へれば、同じ所に御座(おは)しけるにや。
一 五十六代  清和(せいわ)天皇(てんわう)  惟仁(これひと)
 次の帝(みかど)、清和(せいわ)天皇(てんわう)と申(まう)しけり。文徳(もんとく)天皇(てんわう)の第四の皇子なり。御母、皇太后宮(くわうたいごうぐう)明子(あきらけいこ)と申(まう)しき。太政大臣(だいじやうだいじん)良房(よしふさ)のおとどの御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、嘉祥三年庚午三月二十五日に、母方の御祖父(おほぢ)、おほきおとどの小一条の家にて、父帝(ちちみかど)の位につかせ給(たま)へる、五日といふ日、生まれ給(たま)へりけむこそ、いかに折さへはなやかにめでたかりけむとおぼえ侍(はべ)れ。この帝(みかど)は、御心いつくしく、御かたちめでたくぞ御座(おは)しましける。惟喬(これたか)の親王の東宮(とうぐう)あらそひし給(たま)ひけむも、この御こととこそおぼゆれ。やがて生まれ給(たま)ふ年の十一月二十五日戊戌(つちのえいぬ)、東宮(とうぐう)にたち給(たま)ひて、天安(てんあん)二年戊寅(つちのえとら)八月二十七日、御年九つにて位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ。貞観(ぢやうぐわん)六年正月一日戊子(つちのえね)、御元服(げんぶく)、御年十五なり。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと十八年。同じ十八年十一月二十九日、染殿院(そめどののゐん)にておりさせ給(たま)ふ。元慶(ぐわんぎやう)三年五月八日、御出家(すけ)。水尾(みづのを)の帝(みかど)と申(まう)す。この御末(すゑ)ぞかし、今の世に源氏(げんじ)の武者(むさ)の族(ぞう)は。それもおほやけの御かためとこそはなるめれ。
 御母、二十三にて、この帝(みかど)をうみ奉(たてまつ)り給(たま)へり。貞観(ぢやうぐわん)六年正月七日、皇后宮(くわうごうぐう)にあがりゐ給(たま)ふ。后(きさい)の位にて四十一年御座(おは)します。染殿(そめどの)の后と申(まう)す。その御時の護持僧(ごぢそう)は智証大師(ちしようだいし)に御座(おは)す。
さばかりの仏の護持僧にて御座(おは)しけむに、この后の御物(もの)の怪(け)のこはかりけるに、など、えやめ奉(たてまつ)り給(たま)はざりけむ。前(さき)の世(よ)のことにて御座(おは)しましけるにやとこそおぼえ侍(はべ)れ。
 天安(てんあん)二年戊寅(つちのえとら)にぞ唐より帰り給(たま)ふ。
一 五十七代  陽成院(やうぜいゐん)  貞明(さだあきら)
 次の帝(みかど)、陽成(やうぜい)天皇(てんわう)と申(まう)しき。これ、清和(せいわ)天皇(てんわう)の第一の皇子なり。御母、皇太后宮(くわうたいごうぐう)高子(たかいこ)と申(まう)しき。権中納言(ごんちゆうなごん)贈(ぞう)正一位(じやういちゐ)太政大臣(だいじやうだいじん)長良(ながら)の御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、貞観(ぢやうぐわん)十年戊子(つちのえね)十二月十六日、染殿院にて生まれ給(たま)へり。同じき十一月二月一日己丑(つちのとうし)、御年二つにて東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ひて、同じき十八年丙申(ひのえさる)十一月二十九日、位につかせ給(たま)ふ。御年九歳。元慶(ぐわんぎやう)六年壬寅(みづのえとら)正月二日乙巳(きのとみ)〈 坎日也 〉、御元服(げんぶく)。御年十五。世をしらせ給(たま)ふこと八年。位おりさせ給(たま)ひて、二条院(にでうのゐん)にぞ御座(おは)しましける。さて六十五年なれば、八十一にてかくれさせ給(たま)ふ。御法事(ほふじ)の願文(ぐわんもん)には、「釈迦如来(しやかによらい)の一年(ひととせ)の兄(このかみ)」とは作られたるなり。智恵(ちゑ)深く思(おも)ひよりけむほど、いと興(きよう)あれど、仏の御年よりは御年高しといふ心の、後世(ごせ)の責(せ)めとなむなれるとこそ、人の夢に見えけれ。
 御母后、清和(せいわ)の帝(みかど)よりは九年の御姉なり。二十七と申(まう)しし年、陽成院(やうぜいゐん)をばうみ奉(たてまつ)り給(たま)ふなり。元慶(ぐわんぎやう)元年正月に后(きさい)にたたせ給(たま)ふ、中宮(ちゆうぐう)と申(まう)す。御年三十六。同じき六年正月七日、皇太后宮(くわうたいごうぐう)にあがり給(たま)ふ。御年四十一。この后(きさい)の宮(みや)の、宮仕(みやづか)ひしそめ給(たま)ひけむやうこそおぼつかなけれ。いまだ世ごもりて御座(おは)しける時、在中将(ざいちゆうじやう)しのびて率(ゐ)てかくし奉(たてまつ)りたりけるを、御せうとの君達、基経(もとつね)の大臣・国経(くにつね)の大納言(だいなごん)などの、若く御座(おは)しけむほどのことなりけむかし、取り返しに御座(おは)したりける折、「つまもこもれりわれもこもれり」とよみ給(たま)ひたるは、この御ことなれば、末の世に、「神代(かみよ)のことも」とは申(まう)し出(い)で給(たま)ひけるぞかし。されば、世(よ)の常(つね)の御かしづきにては御覧(ごらん)じそめられ給(たま)はずや御座(おは)しましけむとぞ、おぼえ侍(はべ)る。もし、離れぬ御仲にて、染殿宮(そめどののみや)に参(まゐ)り通ひなどし給(たま)ひけむほどのことにやとぞ、推(お)しはかられ侍(はべ)る。およばぬ身に、斯様(かやう)のことをさへ申(まう)すは、いとかたじけなきことなれど、これは皆人(みなひと)の知ろしめしたることなれば。いかなる人かは、この頃(ごろ)、古今(こきん)・伊勢物語(ものがたり)など覚(おぼ)えさせ給(たま)はぬはあらむずる。「見もせぬ人の恋しきは」など申(まう)すことも、この御なからひのほどとこそは承(うけたまは)れ。末の世まで書き置き給(たま)ひけむ、おそろしき好き者なりかしな。いかに、昔は、なかなかに気色(けしき)あることも、をかしきこともありける物(もの)』とて、うち笑ふ。気色ことになりて、いとやさしげなり。
《世継》『二条(にでう)の后と申(まう)すは、この御ことなり。
一 五十八代  光孝(くわうかう)天皇(てんわう)  時康(ときやす)
 次の帝(みかど)、光孝(くわうかう)天皇(てんわう)と申(まう)しき。仁明(にんみやう)天皇(てんわう)の第三の皇子なり。御母、贈(ぞう)皇太后宮(くわうたいごうぐう)藤原(ふぢはらの)沢子(たくし)、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)総継(ふさつぎ)の御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、淳和(じゆんな)天皇(てんわう)の御時の天長(てんちやう)七年庚戌(かのえいぬ)、東五条家にて生まれ給(たま)ふ。御親の深草(ふかくさ)の帝(みかど)の御時の承和(じようわ)十三年丙辰(ひのえたつ)正月七日、四品(しほん)し給(たま)ふ。御年十七。嘉祥三年正月、中務卿(なかつかさきやう)になり給(たま)ふ。御年二十一。仁寿(にんじゆ)元年十一月二十一日、三品(さんぼん)にのぼり給(たま)ふ。御年二十二。貞観(ぢやうぐわん)六年正月十六日、上野大守(かうづけのかみ)かけさせ給(たま)ふ。御年三十五。同じ八年正月十三日、大宰権師(だざいのごんのそち)にうつりならせ給(たま)ふ。同じ十二年二月七日、二品(にほん)にのぼらせ給(たま)ふ。御年四十一。同じ十八年十二月二十六日、式部卿(しきぶきやう)にならせ給(たま)ふ。御年四十七。元慶(ぐわんぎやう)六年正月七日、一品(いつぽん)にのぼらせ給(たま)ふ。御年五十三。同じ八年正月十三日に大宰師かけ給(たま)ひて、二月四日、位につき給(たま)ふ。御年五十五。世をしらせ給(たま)ふこと四年。小松(こまつ)の帝(みかど)と申(まう)す。この御時に、藤壷(ふぢつぼ)の上(うへ)の御局(みつぼね)の黒戸(くろど)は開(あ)きたると聞(き)き侍(はべ)るは、誠(まこと)にや。
一 五十九代  宇多(うだ)天皇(てんわう)  定省(さだみ)
 次の帝(みかど)、亭子(ていじ)の帝(みかど)と申(まう)しき。これ、小松の天皇(てんわう)の御第三の皇子。御母、皇太后宮(くわうたいごうぐう)班子(はんし)女王と申(まう)しき。二品式部卿(しきぶきやう)贈(ぞう)一品(いつぽん)太政大臣(だいじやうだいじん)仲野(なかの)の親王の御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、貞観(ぢやうぐわん)九年丁亥(ひのとゐ)五月五日、生まれさせ給(たま)ふ。元慶(ぐわんぎやう)八年四月十三日、源氏(げんじ)になり給(たま)ふ。御年十八。
王侍従(わうじじゆう)など聞(き)こえて、殿上人(てんじやうびと)にて御座(おは)しましける時、殿上の御椅子(ごいし)の前にて、業平(なりひら)の中将(ちゆうじやう)と相撲(すまひ)とらせ給(たま)ひけるほどに、御椅子にうちかけられて高欄(かうらん)折れにけり。その折目(をれめ)今に侍(はべ)るなり。
仁和(にんな)三年丁末(ひのとひつじ)八月二十六日に春宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ひて、やがて同じ日に位につかせ給(たま)ふ。御年二十一。世をしらせ給(たま)ふこと十年。寛平(くわんぴやう)元年己酉(つちのととり)十一月二十一日己酉の日、賀茂(かも)の臨時祭(りんじのまつり)始(はじ)まること、この御時よりなり。使(つかひ)には右近(うこんの)中将(ちゆうじやう)時平(ときひら)なり。昌泰(しやうたい)元年戊午(つちのえうま)四月十日、御出家(すけ)せさせ給(たま)ふ。
この帝(みかど)、いまだ位(くらゐ)につかせ給(たま)はざりける時、十一月二十余(よ)日のほどに、賀茂(かも)の御社(みやしろ)の辺(へん)に、鷹(たか)つかひ、遊びありきけるに、賀茂(かも)の明神(みやうじん)託宣し給(たま)ひけるやう、「この辺に侍(はべ)る翁(おきな)どもなり。春は祭多く侍(はべ)り。冬のいみじくつれづれなるに、祭賜(たま)はらむ」と申(まう)し給(たま)へば、その時に賀茂(かも)の明神(みやうじん)の仰(おほ)せらるるとおぼえさせ給(たま)ひて、「おのれは力および候(さぶら)はず。おほやけに申(まう)させ給(たま)ふべきことにこそ候(さぶら)ふなれ」と申(まう)させ給(たま)へば、「力およばせ給(たま)ひぬべきなればこそ申(まう)せ。いたく軽々(きやうきやう)なるふるまひなさせ給(たま)ひそ。さ申(まう)すやうあり。近くなり侍(はべ)り」とて、かい消(け)つやうに失(う)せ給(たま)ひぬ。いかなることにかと心得ず思(おぼ)し召(め)すほどに、かく位につかせ給(たま)へりければ、臨時の祭せさせ給(たま)へるぞかし。賀茂(かも)の明神(みやうじん)の託宣して、「祭せさせ給(たま)へ」と申(まう)させ給(たま)ふ日、酉(とり)の日(ひ)にて侍(はべ)りければ、やがて霜月(しもつき)のはての酉の日、臨時の祭は侍(はべ)るぞかし。東遊(あづまあそび)の歌は、敏之(としゆき)の朝臣(あそん)のよみけるぞかし。
 ちはやぶる賀茂(かも)の社(やしろ)の姫小松(ひめこまつ)よろづ代(よ)経(ふ)とも色は変はらじ W
 これは古今(こきん)に入りて侍(はべ)り。人(ひと)皆(みな)知(し)らせ給(たま)へることなれども、いみじくよみ給(たま)へるぬしかな。今に絶えずひろごらせ給(たま)へる御末(すゑ)、帝(みかど)と申(まう)すともいとかくやは御座(おは)します。
位(くらゐ)につかせ給(たま)ひて二年といふに始(はじ)まれり。使(つかひ)、右近(うこんの)中将(ちゆうじやう)時平(ときひら)の朝臣(あそん)こそはし給(たま)ひけれ。
寛平(くわんぴやう)九年七月五日、おりさせ給(たま)ふ。昌泰(しやうたい)二年己末(つちのとひつじ)十月十四日、出家(すけ)せさせ給(たま)ふ。御名、金剛覚(こんがうかく)と申(まう)しき。承平(しやうへい)元年七月十九日、失(う)せさせ給(たま)ひぬ。御年六十五。
肥前掾(ひぜんのぞう)橘良利(たちばなのよしとし)、殿上(てんじやう)に候(さぶら)ひける、入道(にふだう)して、修行(すぎやう)の御供(とも)にも、これのみぞつかうまつりける。されば、熊野(くまの)にても、日根(ひね)といふ所にて、「たびねの夢に見えつるは」ともよむぞかし。人々の涙落とすも、ことわりにあはれなることよな。
 この帝(みかど)の、ただ人になり給(たま)ふほどなどおぼつかなし。よくも覚(おぼ)え侍(はべ)らず。御母、洞院(とうゐん)の后(きさき)と申(まう)す。この帝(みかど)の、源氏(げんじ)にならせ給(たま)ふこと、よく知(し)らぬにや、「王侍従(わうじじゆう)」とこそ申(まう)しけれ。陽成院(やうぜいゐん)の御時、殿上人(てんじやうびと)にて、神社行幸(ぎやうかう)には舞人(まひびと)などせさせ給(たま)ひたり。位につかせ給(たま)ひて後(のち)、陽成院(やうぜいゐん)を通りて行幸ありけるに、「当代(たうだい)は家人(けにん)にはあらずや」とぞ仰(おほ)せられける。さばかりの家人持たせ給(たま)へる帝(みかど)も、ありがたきことぞかし。
一 六十代  醍醐(だいご)天皇(てんわう)  敦仁(あつひと)
 次の帝(みかど)、醍醐(だいご)天皇(てんわう)と申(まう)しき。これ、亭子(ていじ)太上法皇(だいじやうほふわう)の第一の皇子に御座(おは)します。御母、皇太后宮(くわうたいごうぐう)胤子(いんし)と申(まう)しき。内大臣藤原(ふぢはらの)高藤(たかふぢ)のおとどの御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、仁和元年乙巳(きのとみ)正月十八日に生まれ給(たま)ふ。寛平(くわんぴやう)五年四月十四日、東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふ。御年九歳。同七年正月十九日、十一歳にて御元服(げんぶく)。また同じ九年丁巳(ひのとみ)七月三日、位につかせ給(たま)ふ。御年十三。やがて今宵(こよひ)、夜(よる)の御殿(おとど)より、にはかに御かぶり奉(たてまつ)りて、さし出(い)で御座(おは)しましたりける。「御手づからわざ」と人の申(まう)すは、誠(まこと)にや。さて、世を保(たも)たせ給(たま)ふこと三十三年。この御時ぞかし、村上(むらかみ)か朱雀院(すざくゐん)かの生まれ御座(おは)しましたる御五十日(いか)の餅(もちひ)、殿上(てんじやう)に出(い)ださせ給(たま)へるに、伊衡(これひら)中将(ちゆうじやう)の和歌つかうまつり給(たま)へるは」とて、覚ゆめる。
《世継》『ひととせに今宵(こよひ)かぞふる今よりはももとせまでの月影を見む W
とよむぞかし。御返し、帝(みかど)のし御座(おは)しましけむかたじけなさよ。
 いはひつる言霊(ことだま)ならばももとせの後(のち)もつきせぬ月をこそ見め W
御集(ぎよしふ)など見給(たま)ふるこそ、いとなまめかしう、かくやうの方(かた)さへ御座(おは)しましける。
一 六十一代  朱雀院(すざくゐん)  寛明(ひろあきら)
 次の帝(みかど)、朱雀院(すざくゐん)天皇(てんわう)と申(まう)しき。これ、醍醐(だいご)の帝(みかど)第十一の皇子なり。御母、皇太后宮(くわうたいごうぐう)穏子(をんし)と申(まう)しき。太政大臣(だいじやうだいじん)基経(もとつね)のおとどの第四の女なり。この帝(みかど)、延長(えんちやう)元年癸未(みづのとひつじ)七月二十四日、生まれさせ給(たま)ふ。同じ三年十月二十一日、東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふ。御年三歳。同じ八年庚寅(かのえとら)九月二十二日、位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ。御年八歳。承平(しようへい)七年正月四日、御元服(げんぶく)。御年十五。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと十六年なり。
八幡の臨時の祭は、この御時よりあるぞかし。この帝(みかど)生まれさせ給(たま)ひては、御格子(みかうし)も参(まゐ)らず、夜昼灯(ひ)をともして御帳の内にて三まで生(おほ)し奉(たてまつ)らせ給(たま)ひき。北野に怖(お)ぢ申(まう)させ給(たま)ひてかくありしぞかし。この帝(みかど)生まれ御座(おは)しまさずは、藤氏の栄えいとかうしも御座(おは)しまさざらまし。いみじき折節生まれさせ給(たま)へりしぞかし。位につかせ給(たま)ひて、将門(まさかど)が乱れ出(い)できて、御願にてぞと聞(き)こえ侍(はべ)りし、この臨時の祭は。その東遊(あづまあそび)の歌、貫之(つらゆき)のぬしの詠みたりし。
 松も生ひまたも影さす石清水(いはしみづ)行末遠く仕へまつらむ W
一 六十二代  村上(むらかみ)天皇(てんわう)  成明(なりあきら)
 次の帝(みかど)、村上天皇(てんわう)と申(まう)す。これ、醍醐(だいご)の帝(みかど)の第十四の皇子なり。御母、朱雀院(すざくゐん)の同じ御腹(はら)に御座(おは)します。この帝(みかど)、延長四年丙戌(ひのえいぬ)六月二日、桂芳坊(けいはうばう)にて生まれさせ給(たま)ふ。天慶(てんぎやう)三年二月十五日辛亥(かのとゐ)、御元服(げんぶく)。御年十五。同じ七年甲辰(きのえたつ)四月二十二日、春宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふ。御年十九。同じ九年丙午(ひのえうま)四月十三日、位につかせ給(たま)ふ。御年二十一。世をしらせ給(たま)ふこと二十一年。
 御母后、延喜(えんぎ)三年癸亥(みづのとゐ)、前坊(せんばう)をうみ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。御年十九。同じ二十年庚辰(かのえたつ)女御(にようご)の宣旨(せんじ)下り給(たま)ふ。御年三十六。同じ二十三年癸末(みづのとひつじ)、朱雀院(すざくゐん)生まれさせ給(たま)ふ。閏(うるふ)四月二十五日、后(きさき)の宣旨かぶらせ給(たま)ふ。御年三十九。やがて、帝(みかど)うみ奉(たてまつ)り給(たま)ふ同じ月に、后(きさき)にもたたせ給(たま)ひけるにや。四十二にて、村上は生まれさせ給(たま)へり。
后にたち給(たま)ふ日は、先坊(せんばう)の御ことを、宮のうちにゆゆしがりて申(まう)し出づる人もなかりけるに、かの御乳母子(めのとご)に大輔(たいふ)の君(きみ)と言(い)ひける女房(にようばう)の、かくよみて出(い)だしける、
 わびぬれば今はとものを思(おも)へども心に似ぬは涙なりけり W
また、御法事はてて、人々まかり出づる日も、かくこそよまれたりけれ。
 今はとてみ山を出づる郭公(ほととぎす)いづれの里に鳴かむとすらむ W
五月のことに侍(はべ)りけり。げにいかにとおぼゆるふしぶし、末の世まで伝ふるばかりのこと言(い)ひおく人、優(いう)に侍(はべ)りかしな。
前(さき)の東宮(とうぐう)におくれ奉(たてまつ)りて、かぎりなく嘆かせ給(たま)ふ同じ年、朱雀院(すざくゐん)生まれ給(たま)ひ、我(われ)、后にたたせ給(たま)ひけむこそ、さまざま、御嘆き御よろこび、かきまぜたる心地(ここち)つかうまつれ。世の、大后(おほきさき)とこれを申(まう)す。
一 六十三代  冷泉院(れいぜいゐん)  憲平(のりひら)
 次の帝(みかど)、冷泉院(れいぜいゐんの)天皇(てんわう)と申(まう)しき。これ、村上天皇(てんわう)の第二の皇子なり。御母、皇后宮(くわうごうぐう)安子(あんし)と申(まう)す。右大臣師輔(もろすけ)のおとどの第一の御女なり。この帝(みかど)、天暦(てんりやく)四年庚戌(かのえいぬ)五月二十四日、在衡(ありひら)のおとどのいまだ従五位下(じゆごゐげ)にて、備前介(びぜんのすけ)と聞(き)こえける折の五条の家にて、生まれさせ給(たま)へり。同じ年の七月二十三日、東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふ。応和(おうわ)三年二月二十八日、御元服(げんぶく)。御年十四。康保(かうほう)四年五月二十五日、御年十八にて位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと二年。寛弘(くわんこう)八年十月二十四日、御年六十二にて失(う)せさせ御座(おは)しましけるを、三条院(さんでうゐん)位につかせ給(たま)ふ年にて、大嘗会(だいじやうゑ)などの延びけるをぞ、「折節(をりふし)」と、世の人申(まう)しける。
一 六十四代  円融院(ゑんゆうゐん)  守平(もりひら)
 次の帝(みかど)、円融院(ゑんゆうゐんの)天皇(てんわう)と申(まう)しき。これ村上の帝(みかど)の第五の皇子なり。御母、冷泉院(れいぜいゐん)の同じ腹(はら)に御座(おは)します。この帝(みかど)、天徳(てんとく)三年己未(つちのとひつじ)三月二日、生まれさせ給(たま)ふ。この帝(みかど)の東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふほどは、いと聞(き)きにくく、いみじきことどもこそ侍(はべ)れな。これは皆人(みなひと)の知ろしめしたることなれば、ことも長し、とどめ侍(はべ)りなむ。安和(あんな)二年己巳(つちのとみ)八月十三日にこそは位につかせ給(たま)ひけれ。御年十一にて。さて天禄三年正月三日、御元服(げんぶく)、御年十四。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと十五年。
 母后(ははきさき)の、御年二十三四にて、うちつづき、この帝(みかど)、冷泉院とうみ奉(たてまつ)り給(たま)へる、いとやむごとなき御宿世(すくせ)なり。御母方の祖父(おほぢ)は出雲守(いづものかみ)従五位下(じゆごゐげ)藤原(ふぢはらの)経邦(つねくに)と言(い)ひし人なり。末(すゑ)の世(よ)には、奏(そう)せさせ給(たま)ひてこそは、贈(ぞう)三位(さんみ)し給(たま)ふとこそは承(うけたまは)りしか。いませぬ後(あと)なれど、この世の光はいと面目(めいぼく)ありかし。中后(なかきさき)と申(まう)す。この御ことなり。女十の宮うみ奉(たてまつ)り給(たま)ふたび、かくれさせ給(たま)へりし御嘆きこそ、いとかなしく承(うけたまは)りしか。村上の御日記御覧(ごらん)じたる人も御座(おは)しますらむ。ほのぼの伝へ承(うけたまは)るにも、およばぬ心にも、いとあはれにかたじけなく候(さぶら)ふな。そのとどまり御座(おは)します女宮こそは、大斎院(おほさいゐん)よ。
一 六十五代  花山院(くわさんゐん)  師貞(もろさだ)
 次の帝(みかど)、花山院(くわさんゐんの)天皇(てんわう)と申(まう)しき。冷泉院(れいぜいゐん)の第一の皇子なり。御母、贈(ぞう)皇后宮(くわうごうぐう)懐子(くわいし)と申(まう)す。太政大臣(だいじやうだいじん)伊尹(これまさ)のおとどの第一の御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、安和元年戊辰(つちのえたつ)十月二十六日丙子(ひのえね)、母方の御祖父(おほぢ)の一条の家にて生まれさせ給(たま)ふとあるは、世尊寺(せそんじ)のことにや。その日は、冷泉院の御時の大嘗会(だいじやうゑ)の御禊(ごけい)あり。同じ二年八月十三日、春宮(とうぐう)にたち給(たま)ふ。御年二歳。天元(てんげん)五年二月十九日、御元服(げんぶく)。御年十五。永観(えいくわん)二年八月二十八日、位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ。御年十七。寛和(くわんな)二年丙戌(ひのえいぬ)六月二十二日の夜(よ)、あさましく候(さぶら)ひしことは、人にも知(し)らせ給(たま)はで、みそかに花山寺に御座(おは)しまして、御出家入道(にふだう)せさせ給(たま)へりしこそ。御年十九。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと二年。その後(のち)二十二年御座(おは)しましき。
 あはれなることは、おり御座(おは)しましける夜は、藤壷(ふぢつぼ)の上(うへ)の御局(つぼね)の子戸(こど)より出(い)でさせ給(たま)ひけるに、有明(ありあけ)の月のいみじく明(あ)かかりければ、「顕証(けんしよう)にこそありけれ。いかがすべからむ」と仰(おほ)せられけるを、「さりとて、とまらせ給(たま)ふべきやう侍(はべ)らず。神璽(しんし)・宝剣(ほうけん)わたり給(たま)ひぬるには」と、粟田殿(あはたどの)のさわがし申(まう)し給(たま)ひけるは、まだ、帝(みかど)出(い)でさせ御座(おは)しまさざりけるさきに、手づからとりて、春宮(とうぐう)の御方にわたし奉(たてまつ)り給(たま)ひてければ、かへり入らせ給(たま)はむことはあるまじく思(おぼ)して、しか申(まう)させ給(たま)ひけるとぞ。さやけき影を、まばゆく思(おぼ)し召(め)しつるほどに、月のかほにむら雲(くも)のかかりて、すこしくらがりゆきければ、「わが出家(すけ)は成就するなりけり」と仰(おほ)せられて、歩み出(い)でさせ給(たま)ふほどに、弘徽殿(こきでん)の女御(にようご)の御文(ふみ)の、日頃(ひごろ)破(や)り残して御身を放(はな)たず御覧(ごらん)じけるを思(おぼ)し召(め)し出(い)でて、「しばし」とて、取りに入り御座(おは)しましけるほどぞかし、粟田殿(あはたどの)の、「いかにかくは思(おぼ)し召(め)しならせ御座(おは)しましぬるぞ。ただ今(いま)過ぎば、おのづから障(さは)りも出(い)でまうできなむ」と、そら泣きし給(たま)ひけるは。
 さて、土御門(つちみかど)より東(ひんがし)ざまに率(ゐ)て出(い)だし参(まゐ)らせ給(たま)ふに、晴明(せいめい)が家の前をわたらせ給(たま)へば、みづからの声にて、手をおびたたしく、はたはたと打ちて、「帝王(みかど)おりさせ給(たま)ふと見ゆるは。
天変(てんぺん)ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。参(まゐ)りて奏(そう)せむ。車に装束(さうぞく)とうせよ」といふ声聞(き)かせ給(たま)ひけむ、さりともあはれには思(おぼ)し召(め)しけむかし。「且(かつがつ)、式神一人内裏(だいり)に参(まゐ)れ」と申(まう)しければ、目には見えぬ物(もの)の、戸をおしあけて、御後(うしろ)をや見参(まゐ)らせけむ、「ただ今、これより過ぎさせ御座(おは)しますめり」といらへけりとかや。その家、土御門町口(まちぐち)なれば、御道なりけり。
 花山寺に御座(おは)しまし着きて、御髪(みぐし)おろさせ給(たま)ひて後(のち)にぞ、粟田殿(あはたどの)は、「まかり出(い)でて、おとどにも、かはらぬ姿、いま一度見え、かくと案内(あない)申(まう)して、かならず参(まゐ)り侍(はべ)らむ」と申(まう)し給(たま)ひければ、「朕(われ)をば謀(はか)るなりけり」とてこそ泣かせ給(たま)ひけれ。あはれにかなしきことなりな。日頃(ひごろ)、よく、「御弟子(でし)にて候(さぶら)はむ」と契りて、すかし申(まう)し給(たま)ひけむがおそろしさよ。東三条(とうさんでう)殿(どの)は、「もしさることやし給(たま)ふ」とあやふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏(げんじ)の武者(むさ)たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどはかくれて、堤(つつみ)の辺(わたり)よりぞうち出(い)で参(まゐ)りける。寺などにては、「もし、おして人などやなし奉(たてまつ)る」とて、一尺(ひとさく)ばかりの刀(かたな)どもを抜きかけてぞまもり申(まう)しける。
一 六十六代  一条院(いちでうゐん)  懐仁
 次の帝(みかど)、一条院(いちでうゐんの)天皇(てんわう)と申(まう)しき。これ、円融院の第一の皇子なり。御母皇后詮子(せんし)と申(まう)しき。これ、太政大臣(だいじやうだいじん)兼家(かねいへ)のおとどの第二の御女(むすめ)なり。この帝(みかど)、天元(てんげん)三年庚辰(かのえたつ)六月一日、兼家のおとどの東三条(とうさんでう)の家にて生まれさせ給(たま)ふ。東宮(とうぐう)にたち給(たま)ふこと、永観(えいくわん)二年八月二十八日なり。御年五歳。寛和(くわんな)二年六月二十三日、位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ。御年七歳。永祚(えいそ)二年庚寅(かのえとら)正月五日、御元服(げんぶく)。御年十一。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと二十五年。御母は、十九にて、この帝(みかど)をうみ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。東三条(とうさんでう)の女院(にようゐん)とこれを申(まう)す。この御母は、摂津守(つのかみ)藤原(ふぢはらの)中正(なかまさ)の女なり。
一 六十七代  三条院(さんでうゐん)  居貞(ゐさだ)
 次の帝(みかど)、三条院と申(まう)す。これ、冷泉院(れいぜいゐん)の第二の皇子なり。御母、贈(ぞう)皇后宮(くわうごうぐう)超子(てうし)と申(まう)しき。太政大臣(だいじやうだいじん)兼家(かねいへ)のおとどの第一の御女なり。この帝(みかど)、貞元(ぢやうげん)元年丙子(ひのえね)正月三日、生まれさせ給(たま)ふ。寛和(くわんな)二年七月十六日、東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふ。同じ日、御元服(げんぶく)。御年十一。寛弘(くわんこう)八年六月十三日、位(くらゐ)につかせ給(たま)ふ。御年三十六。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと五年。
 院にならせ給(たま)ひて、御目を御覧(ごらん)ぜざりしこそ、いといみじかりしか。こと人(ひと)の見奉(たてまつ)るには、いささか変はらせ給(たま)ふこと御座(おは)しまさざりければ、そらごとのやうにぞ御座(おは)しましける。御まなこなども、いと清らかに御座(おは)しましける。いかなる折にか、時々は御覧ずる時もありけり。「御廉(みす)の編諸(あみを)の見ゆる」なども仰(おほ)せられて。一品宮(いつぽんのみや)ののぼらせ給(たま)ひけるに、弁(べん)の乳母(めのと)の御供に候(さぶら)ふが、さし櫛(ぐし)を左にさされたりければ、「あゆよ、など櫛はあしくさしたるぞ」とこそ仰(おほ)せられけれ。この宮をことのほかにかなしうし奉(たてまつ)らせ給(たま)うて、御髪(みぐし)のいとをかしげに御座(おは)しますを、さぐり申(まう)させ給(たま)うて、「かくうつくしう御座(おは)する御髪を、え見ぬこそ、心憂(こころう)く口惜(くちを)しけれ」とて、ほろほろと泣かせ給(たま)ひけるこそ、あはれに侍(はべ)れ。わたらせ給(たま)ひたる度(たび)には、さるべきものを、かならず奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。三条院の御券(ごけん)を持(も)て帰りわたらせ給(たま)うけるを、入道(にふだう)殿(どの)、御覧じて、「かしこく御座(おは)しける宮かな。幼き御心に、古反古(ふるほぐ)と思(おぼ)してうち捨てさせ給(たま)はで、持てわたらせ給(たま)へるよ」と興(きよう)じ申(まう)させ給(たま)ひければ、「まさなくも申(まう)させ給(たま)ふかな」とて、御乳母(めのと)たちは笑ひ申(まう)させ給(たま)ける。冷泉院(れいぜいゐん)も奉(たてまつ)らせ給(たま)ひけれど、「昔より帝王の御領にてのみ候(さぶら)ふ所の、いまさらに私(わたくし)の領になり侍(はべ)らむは、便(びん)なきことなり。おほやけものにて候(さぶら)ふべきなり」とて、返し申(まう)させ給(たま)ひてけり。されば、代々のわたりものにて、朱雀院(すざくゐん)の同じことに侍(はべ)るべきにこそ。
 この御目のためには、よろづにつくろひ御座(おは)しましけれど、その験(しるし)あることもなき、いといみじきことなり。もとより御風(かぜ)重く御座(おは)しますに、医師(くすし)どもの、「大小寒(だいせうかん)の水を御頭(みぐし)に沃(い)させ給(たま)へ」と申(まう)しければ、凍(こほ)りふたがりたる水を多くかけさせ給(たま)けるに、いといみじくふるひわななかせ給(たま)て、御色もたがひ御座(おは)しましたりけるなむ、いとあはれにかなしく人々見参(まゐ)らせけるとぞ承(うけたまは)りし。御病(やまひ)により、金液丹(きんえきたん)といふ薬(くすり)を召(め)したりけるを、「その薬くひたる人は、かく目をなむ病(や)む」など人は申(ま)ししかど、桓算供奉(くわんざんぐぶ)の御物(もの)の怪(け)にあらはれて申(まう)しけるは、「御首(くび)に乗りゐて、左右の羽をうちおほひ申(まう)したるに、うちはぶき動かす折に、すこし御覧ずるなり」とこそいひ侍(はべ)りけれ。御位(くらゐ)去らせ給(たま)しことも、多くは中堂(ちゆうだう)にのぼらせ給(たま)はむとなり。さりしかど、のぼらせ給(たま)ひて、さらにその験(しるし)御座(おは)しまさざりしこそ、口惜(くちを)しかりしか。やがておこたり御座(おは)しまさずとも、すこしの験はあるべかりしことよ。されば、いとど山の天狗(てんぐ)のし奉(たてまつ)るとこそ、さまざまに聞(き)こえ侍(はべ)れ。太奏(うづまさ)にも蘢(こも)らせ給(たま)へりき。さて仏の御前(おまへ)より東の廂(ひさし)に、組入(くみれ)はせられたるなり。
 御鳥帽子(えぼうし)せさせ給(たま)ひけるは、大入道(おほにふだう)殿(どの)にこそ似奉(たてまつ)り給(たま)へりけれ。御心(こころ)ばへいとなつかしう、おいらかに御座(おは)しまして、世の人いみじう恋ひ申(まう)すめり。「斎宮(さいぐう)下らせ給(たま)ふ別れの御櫛(みぐし)ささせ給(たま)ては、かたみに見返らせ給(たま)はぬことを、思(おも)ひかけぬに、この院はむかせ給(たま)へりしに、あやしとは見奉(たてまつ)りし物(もの)を」とこそ、入道(にふだう)殿(どの)は仰(おほ)せらるなれ。
一 六十八代   後一条院(ごいちでうゐん)  敦成(あつひら)
 次の帝(みかど)、当代(たうだい)。一条院の第二の皇子なり。御母、今の入道(にふだう)殿下(でんか)の第一の御女なり。皇太后宮(くわうたいごうぐう)彰子(しやうし)と申(まう)す。ただ今、たれかはおぼつかなく思(おぼ)し思(おも)ふ人の侍(はべ)らむ。されどまづすべらぎの御ことを申(まう)すさまにたがへ侍(はべ)らぬなり。寛弘(くわんこう)五年戊申(つちのえさる)九月十一日、土御門殿(つちみかどどの)にて生まれさせ給(たま)ふ。同じ八年六月十三日、春宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ひき。御年四歳。長和(ちやうわ)五年正月二十九日、位(くらゐ)につかせ給(たま)ひき。御年九歳。寛仁(くわんにん)二年正月三日、御元服(げんぶく)。御年十一。位につかせ給(たま)て十年にやならせ給(たま)ふらむ。今年、万寿(まんじゆ)二年乙丑(きのとうし)とこそは申(まう)すめれ。同じ帝王と申(まう)せども、御後見(うしろみ)多く頼(たの)もしく御座(おは)します。御祖父(おほぢ)にてただ今の入道(にふだう)殿下(でんか)、出家せさせ給(たま)へれど、世の親、一切衆生(いつさいしゆじやう)を子のごとくはぐくみ思(おぼ)し召(め)す。第一の御舅(をぢ)、ただ今の関白(くわんばく)左大臣(さだいじん)、一天下(いつてんが)をまつりごちて御座(おは)します。次の御舅、内大臣・左大将にて御座(おは)します。次々の御舅と申(まう)すは、大納言(だいなごん)春宮(とうぐう)の大夫(だいぶ)、中宮(ちゆうぐうの)権大夫(ごんのだいぶ)、中納言など、さまざまにて御座(おは)します。斯様(かやう)に御座(おは)しませば、御後見多く御座(おは)します。昔も今も、帝(みかど)かしこしと申(まう)せど、臣下のあまたして傾(かたぶ)け奉(たてまつ)る時は、傾き給(たま)ふ物(もの)なり。されば、ただ一天下はわが御後見のかぎりにて御座(おは)しませば、いと頼もしくめでたきことなり。昔、一条院の御悩(なやみ)の折、仰(おほ)せられけるは、「一の親王をなむ春宮(とうぐう)とすべけれども、後見申(まう)すべき人のなきにより、思(おも)ひかけず。されば二宮をばたて奉(たてまつ)るなり」と仰(おほ)せられけるぞ、この当代(たうだい)の御ことよ。げにさることぞかし』
《世継》『帝王の御次第(しだい)は申(まう)さでもありぬべけれど、入道(にふだう)殿下(でんか)の御栄花(えいぐわ)もなにによりひらけ給(たま)ふぞと思(おも)へば、まづ帝(みかど)・后(きさき)の御有様(ありさま)を申(まう)すなり。植木は根をおほくて、つくろひおほしたてつればこそ、枝も茂りて木(こ)の実(み)をもむすべや。しかれば、まづ帝王の御つづきを覚(おぼ)えて、次に大臣のつづきはあかさむとなり』と言(い)へば、大犬丸(おほいぬまろ)をとこ、『いでいで、いといみじうめでたしや。ここらのすべらぎの御有様(ありさま)をだに鏡をかけ給(たま)へるに、まして大臣などの御ことは、年頃闇(としごろやみ)に向(むか)ひたるに、朝日のうららかにさし出(い)でたるにあへらむ心地(ここち)もするかな。また、翁(おきな)が家(いへ)の女(をんな)どものもとなる櫛笥鏡(くしげかがみ)の、影見えがたく、とぐわきも知(し)らず、うち挟(はさ)めて置きたるにならひて、あかく磨(みが)ける鏡に向ひて、わが身の顔を見るに、かつは影はづかしく、また、いとめづらしきにも似給(たま)へりや。いで興(きよう)ありのわざや。さらに翁、いま十二十年の命は、今日(けふ)延びぬる心地し侍(はべ)り』と、いたく遊戯(ゆげ)するを、見聞(き)く人々、をこがましくをかしけれども、言(い)ひつづくることどもおろかならず、おそろしければ、物(もの)も言(い)はで、皆聞(き)きゐたり。
 大犬丸(おほいぬまろ)をとこ、『いで、聞(き)き給(たま)ふや。歌一首つくりて侍(はべ)り』と言(い)ふめれば、世継、
『いと感あることなり』とて、
 世継『承(うけたまは)らむ』と言(い)へば、繁樹(しげき)、いとやさしげにいひ出づ。
『あきらけに鏡にあへば過ぎにしも今ゆく末のことも見えけり W』と言(い)ふめれば、世継いたく感じて、あまた度(たび)誦(ず)して、うめきて、返し、
『すべらぎのあともつぎつぎかくれなくあらたに見ゆる古鏡かも W
 今様(いまやう)の葵八花(あふひやつはな)がたの鏡、螺鈿(らでん)の筥(はこ)に入れたるに向ひたる心地し給(たま)ふや。いでや、それは、さきらめけど、曇りやすくぞあるや。いかにいにしへの古体(こたい)の鏡は、かね白くて、人手ふれねど、かくぞあかき』など、したり顔(がほ)に笑ふ顔つき、絵にかかまほしく見ゆ。あやしながら、さすがなる気(け)つきて、をかしく、誠(まこと)にめづらかになむ。
《世継》『よしなきことよりは、まめやかなることを申(まう)しはてむ。よくよく、たれもたれも聞(き)こし召(め)せ。今日の講師(こうじ)の説法(せつぽふ)は、菩提(ぼだい)のためと思(おぼ)し、翁(おきな)らが説くことをば、日本紀(にほんぎ)聞(き)くと思(おぼ)すばかりぞかし』と言(い)へば、僧俗(そうぞく)、
 『げに説経・説法多く承(うけたまは)れど、かく珍しきこと宣(のたま)ふ人は、さらに御座(おは)せぬなり』とて、年老いたる尼・法師ども、額(ひたひ)に手をあてて、信をなしつつ聞(き)きゐたり。
《世継》『世継はいとおそろしき翁に侍(はべ)り。真実の心御座(おは)せむ人は、などか恥づかしと思(おぼ)さざらむ。世の中を見知(し)り、うかべたてて持ちて侍(はべ)る翁なり。目にも見、耳にも聞(き)き集めて侍(はべ)るよろづのことの中に、ただ今の入道(にふだう)殿下(でんか)の御有様(ありさま)、古(いにしへ)を聞(き)き今を見侍(はべ)るに、二もなく三もなく、ならびなく、はかりなく御座(おは)します。たとへば一乗(いちじよう)の法(ほふ)のごとし。御有様(ありさま)のかへすがへすもめでたきなり。世の中の太政大臣(だいじやうだいじん)・摂政・関白(くわんばく)と申(まう)せど、始終(始(はじ)めをはり)めでたきことは、え御座(おは)しまさぬことなり。法文(ほふもん)・聖教(しやうげう)の中にもたとへるなるは、「魚(うを)の子(こ)多かれど、誠(まこと)の魚となることかたし。菴羅(あんら)といふ植木あれど、木(こ)の実(み)を結ぶことかたし」とこそは説き給(たま)へなれ。天下の大臣・公卿(くぎやう)の御中に、この宝(たから)の君(きみ)のみこそ、世にめづらかに御座(おは)すめれ。今ゆく末(すゑ)も、たれの人かかばかりは御座(おは)せむ。いとありがたくこそ侍(はべ)れや。たれも心をとなへて聞(き)こし召(め)せ。世にあることをば、なにごとをか見残し聞(き)き残し侍(はべ)らむ。この世継が申(まう)すことどもはしも、知(し)り給(たま)はぬ人々多く御座(おは)すらむとなむ思(おも)ひ侍(はべ)る』と言(い)ふめれば、
 人々『すべてすべて申(まう)すべきにも侍(はべ)らず』とて聞(き)きあへり。
《世継》『世始(はじ)まりて後(のち)、大臣皆(みな)御座(おは)しけり。されど、左大臣(さだいじん)・右大臣・内大臣・太政大臣(だいじやうだいじん)と申(まう)す位(くらゐ)、天下になりあつまり給(たま)へる、かぞへて皆覚(おぼ)え侍(はべ)り。世始(はじ)まりて後今にいたるまで、左大臣(さだいじん)三十人、右大臣五十七人、内大臣十二人なり。太政大臣(だいじやうだいじん)はいにしへの帝(みかど)の御代(みよ)に、たはやすくおかせ給(たま)はざりけり。あるいは帝(みかど)の御祖父(おほぢ)、あるいは御舅(をぢ)ぞなり給(たま)ひける。また、しかのごとく、帝王の御祖父・舅などにて、御後見(うしろみ)し給(たま)ふ大臣・納言(なごん)数多く御座(おは)す。失(う)せ給(たま)ひて後、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)などになり給(たま)へるたぐひ、あまた御座(おは)すめり。さやうのたぐひ七人ばかりや御座(おは)すらむ。わざとの太政大臣(だいじやうだいじん)はなりがたく、少なくぞ御座(おは)する。神武(じんむ)天皇(てんわう)より三十七代にあたり給(たま)ふ孝得(かうとく)天皇(てんわう)と申(まう)す帝(みかど)の御代にや、八省・百官・左右大臣・内大臣なり始(はじ)め給(たま)へらむ。左大臣(さだいじん)には阿倍倉橋麿(あべのくらはしまろ)、右大臣には蘇我山田石川麿(そがのやまだのいしかはまろ)、これは、元明(げんめい)天皇(てんわう)の御祖父なり。石川麿の大臣、孝徳天皇(てんわう)位につき給(たま)ての元年乙巳(きのとみ)、大臣になり、五年己酉(つちのととり)、東宮(とうぐう)のために殺され給(たま)へりとこそは、これはあまりあがりたることなり。内大臣には中臣鎌子(なかとみのかまこ)の連(むらじ)なり。年号いまだあらざれば、月日(つきひ)申(まう)しにくし。また、三十九代にあたり給(たま)ふ帝(みかど)、天智(てんぢ)天皇(てんわう)こそは、始(はじ)めて太政大臣(だいじやうだいじん)をばなし給(たま)けれ。それは、やがてわが御弟(おとと)の皇子に御座(おは)します大友皇子(おほとものみこ)なり。正月に太政大臣(だいじやうだいじん)になり。同じ年十二月二十五日に位につかせ給(たま)ふ。天武(てんむ)天皇(てんわう)と申(まう)しき。世をしらせ給(たま)ふこと十五年。神武天皇(てんわう)より四十一代にあたり給(たま)ふ持統(ぢとう)天皇(てんわう)、また、太政大臣(だいじやうだいじん)に高市皇子(たけちのみこ)をなし給(たま)ふ。天武(てんむ)天皇(てんわう)の皇子なり。この二人の太政大臣(だいじやうだいじん)はやがて帝(みかど)となり給(たま)ふ、高市皇子(たけちのみこ)は大臣ながら失(う)せ給(たま)ひにき。その後(のち)、太政大臣(だいじやうだいじん)いとひさしく絶え給(たま)へり。ただし、職員令(しきゐんりやう)に、「太政大臣(だいじやうだいじん)にはおぼろけの人はなすべからず。その人なくば、ただにおかるべし」とこそあんなれ。おぼろけの位(くらゐ)には侍(はべ)らぬにや。四十二代にあたり給(たま)ふ文武(もんむ)天皇(てんわう)の御時に、年号定(さだま)りたり。大宝(たいほう)元年といふ。文徳(もんとく)天皇(てんわう)の末(すゑ)の年、斎衡(さいかう)四年丁丑(ひのとうし)二月十九日、帝(みかど)の御舅(をぢ)、左大臣(さだいじん)従一位(じゆいちゐ)藤原(ふぢはらの)良房(よしふさ)のおとど、太政大臣(だいじやうだいじん)になり給(たま)ふ。御年五十四。このおとどこそは、始(はじ)めて摂政もし給(たま)へれ。やがてこの殿(との)よりして、今の閑院(かんゐん)の大臣まで、太政大臣(だいじやうだいじん)十一人つづき給(たま)へり。ただし、これよりさきの大友皇子(おほとものみこ)・高市皇子くはへて、十三人の太政大臣(だいじやうだいじん)なり。太政大臣(だいじやうだいじん)になり給(たま)ひぬる人は、失(う)せ給(たま)ひて後、かならず諡号(いみな)と申(まう)す物(もの)あり。しかれども、大友皇子やがて帝(みかど)になり給(たま)ふ。高市の皇子の御諡号おぼつかなし。また、太政大臣(だいじやうだいじん)といへど、出家しつれば、諡号なし。されば、この十一人つづかせ給(たま)へる太政大臣(だいじやうだいじん)、二所(ふたところ)は出家し給(たま)へれば、諡号御座(おは)せず。この十一人の太政大臣(だいじやうだいじん)たちの御次第(しだい)・有様(ありさま)。始終(始(はじ)めをはり)申(まう)し侍(はべ)らむと思(おも)ふなり。流れを汲(く)みて、源(みなもと)を尋ねてこそは、よく侍(はべ)るべきを、大織冠(たいしよくくわん)より始(はじ)め奉(たてまつ)りて申(まう)すべけれど、それはあまりあがりて、この聞(き)かせ給(たま)はむ人々も、あなづりごとには侍(はべ)れど、なにごととも思(おぼ)さざらむ物(もの)から、こと多くて講師(こうじ)御座(おは)しなば、こと醒(さ)め侍(はべ)りなば、口惜(くちを)し。されば、帝王の御ことも、文徳(もんとく)の御時より申(まう)して侍(はべ)れば、その帝(みかど)の御祖父(おほぢ)の鎌足(かまたり)のおとどより第六にあたり給(たま)ふ、世の人は、ふぢさしとこそ申(まう)すめれ、その冬嗣(ふゆつぎ)の大臣より申(まう)し侍(はべ)らむ。その中に、思(おも)ふに、ただ今の入道(にふだう)殿(どの)、世にすぐれさせ給(たま)へり。
左大臣(さだいじん)冬嗣(ふゆつぎ)
 このおとどは、内麿(うちまろ)のおとどの三郎。御母、正六位(しやうろくゐ)上(じやう)飛鳥部奈止麿(あすかべのなしまろ)の女(むすめ)なり。公卿(くぎやう)にて十六年、大臣(だいじん)の位(くらゐ)にて六年。田邑(たむら)の御祖父(おほぢ)に御座(おは)します。かるがゆゑに、嘉祥(かしやう)三年庚午(かのえうま)七月十七日、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)になり給(たま)へり。閑院(かんゐん)の大臣と申(まう)す。このおとどは、おほかた男子(をのこご)十一人御座(おは)したるなり。されど、くだくだしき女子(をんなご)たちなどのことは、くはしく知(し)り侍(はべ)らず。ただし、田邑(たむら)の帝(みかど)の御母后(ははきさき)・贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)長良(ながら)・太政大臣(だいじやうだいじん)良房(よしふさ)のおとど・右大臣良相(よしみ)のおとどは、一つ御腹(はら)なり。
太政大臣(だいじやうだいじん)良房(よしふさ)   忠仁公(ちゆうじんこう)
 このおとどは、左大臣(さだいじん)冬嗣の二郎なり。天安(てんあん)元年二月十九日、太政大臣(だいじやうだいじん)になり給(たま)ふ。同年四月十九日、従一位(じゆいちゐ)、御年五十四。水尾(みづのを)の帝(みかど)は御孫(まご)に御座(おは)しませば、即位の年、摂政の詔(みことのり)あり、年官(ねんくわん)・年爵(ねんしやく)賜(たま)はり給(たま)ふ。貞観(ぢやうぐわん)八年に関白(くわんばく)にうつり給(たま)ふ。年六十三。失(う)せ給(たま)ひて後(のち)、御諡号(いみな)忠仁公と申(まう)す。また、白川(しらかわ)の大臣・染殿(そめどの)の大臣とも申(まう)し伝へたり。ただし、このおとどは、文徳(もんとく)天皇(てんわう)の御舅(をぢ)、太皇太后宮(たいくわうたいごうぐう)明子(あきらけいこ)の御父、清和(せいわ)天皇(てんわう)の祖父(おほぢ)にて、太政大臣(だいじやうだいじん)・准三宮(じゆさんぐう)の位にのぼらせ給(たま)ふ。年官・年爵(ねんしやく)の宣旨(せんじ)下り、摂政・関白(くわんばく)などし給(たま)ひて、十五年こそは御座(おは)しましたれ。おほかた公卿にて三十年、大臣の位にて二十五年ぞ御座(おは)する。この殿ぞ、藤氏の始(はじ)めて太政大臣(だいじやうだいじん)・摂政し給(たま)ふ。めでたき御有様(ありさま)なり。
 和歌もあそばしけるにこそ。古今(こきん)にも、あまた侍(はべ)るめるは。「前(さき)のおほいまうち君(ぎみ)」とは、この御ことなり。多かる中にも、いかに御心ゆき、めでたくおぼえてあそばしけむと推(お)しはからるるを、御女(むすめ)の染殿(そめどの)の后(きさき)の御前(おまへ)に、桜の花の瓶(かめ)にさされたるを御覧(ごらん)じて、かくよませ給(たま)へるにこそ。
 年経(ふ)ればよはひは老いぬしかはあれど花をし見れば物(もの)思(おも)ひもなし W
后を、花にたとへ申(まう)させ給(たま)へるにこそ。
 かくれ給(たま)ひて、白川(しらかは)にをさめ奉(たてまつ)る日、素性(そせい)ぎみのよみ給(たま)へりしは、
 血の涙落ちてぞたぎつ白川は君が世までの名にこそありけれ W
皆人(みなひと)知ろしめしたらめど、物(もの)を申(まう)しはやりぬれば、さぞ侍(はべ)る。かくいみじき幸(さいは)ひ人(びと)の、子の御座(おは)しまさぬこそ口惜(くちを)しけれ。御兄(このかみ)の長良(ながら)の中納言、ことのほかに越えられ給(たま)ひけむ折、いかばかり辛(から)う思(おぼ)され、また世の人もことのほかに申(まう)しけめども、その御末(すゑ)こそ、今に栄え御座(おは)しますめれ。ゆく末は、ことのほかにまさり給(たま)ひける物(もの)を。
一 右大臣良相(うだいじんよしみ)
 このおとどは、冬嗣(ふゆつぎ)のおとどの五郎。御母は、白川の大臣に同じ。大臣の位(くらゐ)にて十一年、贈(ぞう)正一位(じやういちゐ)。西三条(さいさんでう)の大臣と申(まう)す。浄蔵定額(じやうざうぢやうがく)を御祈(いのり)の師にて御座(おは)す。千手陀羅尼(せんじゆだらに)の験徳(げんとく)かぶり給(たま)ふ人なり。この大臣の御女子の御ことよく知(し)らず。一人ぞ、水尾(みづのを)の御時の女御(にようご)。男子(をのこご)は、大納言(だいなごん)常行(ときつね)卿と聞(き)こえし。御子二人御座(おは)せしも、五位にて典薬助(てんやくのすけ)・主殿頭(とのものかみ)など言(い)ひて、いとあさくてやみ給(たま)ひにき。かくばかり末栄え給(たま)ひける中納言殿を、やへやへの御弟(おとと)にて、越え奉(たてまつ)り給(たま)ひける御あやまちにや、とこそおぼえ侍(はべ)れ。
一 権中納言(ごんちゆうなごん)従二位左兵衛督長良(じゆにゐさひやうゑのかみながら)
 この中納言は、冬嗣(ふゆつぎ)のおとどの太郎。母、白川(しらかはの)大臣・西三条(さいさんでうの)大臣に同じ。公卿(くぎやう)にて十三年。陽成院(ようぜいゐん)の御時に、御祖父(おほぢ)に御座(おは)するがゆゑに、元慶(ぐわんぎやう)元年正月に贈(ぞう)左大臣(さだいじん)正一位(じやういちゐ)、次に、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)。枇杷(びは)の大臣と申(まう)す。この殿(との)の御男子(をのこご)六人御座(おは)せし、その中に基経(もとつね)のおとどすぐれ給(たま)へり。
一 太政大臣(だいじやうだいじん)基経(もとつね)  昭宣公(せうせんこう)
 この大臣(おとど)は、長良の中納言の三郎に御座(おは)す。このおとどの御女(むすめ)、醍醐(だいご)の御時の后(きさき)、朱雀院(すざくゐん)并(なら)びに村上二代の御母后(ははきさき)に御座(おは)します。このおとどの御母、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)総継(ふさつぎ)の女、贈(ぞう)正一位大夫人乙春(たいふぢんおとはる)なり。陽成院(やうぜいゐん)位(くらゐ)につかせ給(たま)ひて、摂政(せつしやう)の宣旨(せんじ)かぶり給(たま)ふ。御年四十一。寛平(くわんぴやう)の御時、仁和(にんな)三年十一月二十一日、関白(くわんばく)にならせ給(たま)ふ。御年五十六にて失(う)せ給(たま)ひて、御諡号(いみな)、昭宣公と申(まう)す。公卿にて二十七年、大臣の位にて二十年、世をしらせ給(たま)ふこと十余年かとぞ覚(おぼ)え侍(はべ)る。世の人、堀河(ほりかは)の大臣と申(まう)す。
 小松(こまつ)の帝(みかど)の御母、この大臣(おとど)の御母、はらからに御座(おは)します。さて、児(ちご)より小松の帝(みかど)をば親しく見奉(たてまつ)らせ給(たま)ひけるに、
ことにふれ 迹(きやうじやく)に御座(おは)します。「あはれ君かな」と見奉(たてまつ)らせたまひけるが、
良房のおとどの大饗(だいきやう)にや、昔は親王たち、かならず大饗につかせ給(たま)ふことにて、わたらせ給(たま)へるに、雉(きじ)の足はかならず大饗に盛る物(もの)にて侍(はべ)るを、いかがしけむ、尊者(そんじや)の御前(おまへ)にとり落してけり。陪膳(はいぜん)の、皇子(みこ)の御前(おまへ)のをとりて、まどひて尊者(そんじや)の御前に据(す)うるを、いかが思(おぼ)し召(め)しけむ、御前の大殿油(おほとなぶら)を、やをらかい消(け)たせ給(たま)ふ。このおとどは、その折は下臈(げらふ)にて、座の末(すゑ)にて見奉(たてまつ)らせ給(たま)ふに、「いみじうもせさせ給(たま)ふかな」と、いよいよ見めで奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、陽成院(やうぜいゐん)おりさせ給(たま)ふべき陣(ぢん)の定(さだめ)に候(さぶら)はせ給(たま)ふ。融(とほる)のおとど、左大臣(さだいじん)にてやむごとなくて、位(くらゐ)につかせ給(たま)はむ御心ふかくて、「いかがは。近き皇胤(くわういん)をたづねば、融らも侍(はべ)るは」と言(い)ひ出(い)で給(たま)へるを、このおとどこそ、「皇胤なれど、姓(しやう)賜(たま)はりて、ただ人(びと)にて仕へて、位につきたる例(ためし)やある」と申(まう)し出(い)で給(たま)へれ。さもあることなれと、このおとどの定(さだ)めによりて、小松(こまつ)の帝(みかど)は位につかせ給(たま)へるなり。帝(みかど)の御末もはるかに伝はり、おとどの末もともに伝はりつつ後見(うしろみ)申(まう)し給(たま)ふ。さるべく契りおかせ給(たま)へる御仲にやとぞおぼえ侍(はべ)る。
 大臣(おとど)失(う)せ給(たま)ひて、深草(ふかくさ)の山(やま)にをさめ奉(たてまつ)る夜(よ)、勝延僧都(しやうえんそうづ)のよみ給(たま)ふ、
 うつせみはからを見つつも慰めつ深草の山煙(けぶり)だに立て W
また、上野峯雄(かんつけのみねを)と言(い)ひし人のよみたる、
 深草の野辺(のべ)の桜し心あらば今年ばかりは墨染(すみぞめ)に咲け Wなどは、古今(こきん)に侍(はべ)ることどもぞかしな。御家は堀河院(ほりかはゐん)・閑院(かんゐん)とに住ませ給(たま)ひしを、堀河院をば、さるべきことの折、はればれしき料(れう)にせさせ給(たま)ふ。閑院をば、御物忌(ものいみ)や、また、うとき人などは参(まゐ)らぬ所にて、さるべくむつましく思(おぼ)す人ばかり御供(とも)に候(さぶら)はせて、わたらせ給(たま)ふ折も御座(おは)しましける。堀河院(ほりかはゐん)は地形(ぢぎやう)のいといみじきなり。大饗(だいきやう)の折、殿(との)ばらの御車の立ち様(やう)などよ。尊者(そんじや)の御車をば東に立て、牛は御橋(みはし)の平葱柱(ひらきはしら)につなぎ、こと上達部(かんだちめ)の車をば、河よりは西に立てたるがめでたきをは。「尊者の御車の別(べち)に見ゆることは、こと所は見侍(はべ)らぬ物(もの)をや」と見給(たま)ふるに、この高陽院殿(かやのゐんどの)にこそおされにて侍(はべ)れ。方四町(ほうしちやう)にて四面に大路(おほぢ)ある京中の家は、冷泉院(れいぜいゐん)のみとこそ思(おも)ひ候(さぶら)ひつれ、世の末(すゑ)になるままに、まさることのみ出(い)でまうで来るなり。この昭宣公(せうせんこう)のおとどは、陽成院(やうぜいゐん)の御舅(をぢ)にて、宇多(うだ)の帝(みかど)の御時に、准三宮(じゆさんぐう)の位(くらゐ)にて年官(ねんくわん)・年爵(ねんしやく)をえ給(たま)ひ、朱雀院(すざくゐん)・村上の祖父(おほぢ)にて御座(おは)します。「世覚(おぼ)えやむごとなし」と申(まう)せばおろかなりや。御男子(をのこご)四人御座(おは)しましき。太郎左大臣(さだいじん)時平(ときひら)、二郎左大臣(さだいじん)仲平(なかひら)、四郎太政大臣(だいじやうだいじん)忠平(ただひら)』と言(い)ふに、繁樹(しげき)、気色(けしき)ことになりて、まづうしろの人の顔うち見わたして、『それぞ、いはゆる、この翁(おきな)が宝の君貞信公(ていしんこう)に御座(おは)します』とて、扇(あふぎ)うちつかふ顔もち、ことにをかし。
《世継》『三郎にあたり給(たま)ひしは、従三位(じゆさんみ)して宮内卿兼平(くないきやうかねひら)の君(きみ)と申(まう)して失(う)せ給(たま)ひにき。さるは、御母、忠良(ただよし)の式部卿(しきぶきやう)の親王の御女(むすめ)にて、いとやむごとなく御座(おは)すべかりしかど。この三人の大臣たちを、世の人、「三平」と申(まう)しき。
一 左大臣(さだいじん)時平(ときひら)
 この大臣(おとど)は、基経(もとつね)のおとどの太郎なり。御母、四品弾正尹人康(しほんだんじやうのゐんさねやす)の親王の御女なり。醍醐(だいご)の帝(みかど)の御時、このおとど、左大臣(さだいじん)の位(くらゐ)にて年いと若くて御座(おは)します。菅原(すがはら)のおとど、右大臣の位にて御座(おは)します。その折、帝(みかど)御年いと若く御座(おは)します。左右の大臣に世の政(まつりごと)を行ふべきよし宣旨(せんじ)下さしめ給(たま)へりしに、その折、左大臣(さだいじん)、御年二十八九ばかりなり。右大臣の御年五十七八にや御座(おは)しましけむ。ともに世の政をせしめ給(たま)ひし間(あひだ)、右大臣は才(ざえ)世にすぐれめでたく御座(おは)しまし、御心(こころ)おきても、ことのほかにかしこく御座(おは)します。左大臣(さだいじん)は御年も若く、才もことのほかに劣り給(たま)へるにより、右大臣の御おぼえことのほかに御座(おは)しましたるに、左大臣(さだいじん)やすからず思(おぼ)したるほどに、さるべきにや御座(おは)しけむ、右大臣の御ためによからぬこと出(い)できて、昌泰(しやうたい)四年正月二十五日、大宰権師(だざいのごんのそち)になし奉(たてまつ)りて、流され給(たま)ふ。
 この大臣(おとど)、子どもあまた御座(おは)せしに、女君(をんなぎみ)達は婿(むこ)とり、男君達は、皆ほどほどにつけて位(くらゐ)ども御座(おは)せしを、それも皆方々(かたがた)に流され給(たま)ひてかなしきに、幼く御座(おは)しける男君・女君(をんなぎみ)達慕ひ泣きて御座(おは)しければ、「小さきはあへなむ」と、おほやけもゆるさせ給(たま)ひしぞかし。帝(みかど)の御おきて、きはめてあやにくに御座(おは)しませば、この御子どもを、同じ方(かた)につかはさざりけり。かたがたにいとかなしく思(おぼ)し召(め)して、御前(おまへ)の梅の花を御覧(ごらん)じて、
 東風(こち)吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな W
また、亭子(ていじ)の帝(みかど)に聞(き)こえさせ給(たま)ふ、
 流れゆく我は水宵(みくづ)となりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ W
なきことにより、かく罪せられ給(たま)ふを、かしこく思(おぼ)し嘆きて、やがて山崎(やまざき)にて出家(すけ)せしめ給(たま)ひて、都遠くなるままに、あはれに心ぼそく思(おぼ)されて、
 君が住む宿の梢(こずゑ)をゆくゆくとかくるるまでもかへり見しはや W
また、播磨国(はりまのくに)に御座(おは)しましつきて、明石(あかし)の駅(むまや)といふ所に御宿りせしめ給(たま)ひて、駅の長(をさ)のいみじく思(おも)へる気色(けしき)を御覧じて、作らしめ給(たま)ふ詩、いとかなし。
 駅長(えきちやう)驚クコトナカレ、時ノ変改(へんがい)
 一栄一落(いつえいいつらく)、是(こ)レ春秋(しゆんじう)
 かくて筑紫(つくし)に御座(おは)しつきて、物(もの)をあはれに心ぼそく思(おぼ)さるる夕(ゆふべ)、をちかたに所々(ところどころ)煙(けぶり)立つを御覧(ごらん)じて、
 夕されば野にも山にも立つ煙なげきよりこそ燃えまさりけれ W
また、雲の浮きてただよふを御覧じて、
 山わかれ飛びゆく雲のかへり来るかげ見る時はなほ頼(たの)まれぬ W
さりともと、世を思(おぼ)し召(め)されけるなるべし。
月のあかき夜(よ)、
 海ならずたたへる水のそこまでにきよき心は月ぞ照らさむ W
これいとかしこくあそばしたりかし。げに月日(つきひ)こそは照らし給(たま)はめとこそはあめれ』誠(まこと)に、おどろおどろしきことはさるものにて、かくやうの歌や詩などをいとなだらかに、ゆゑゆゑしう言(い)ひつづけまねぶに、見聞(き)く人々、目もあやにあさましく、あはれにもまもりゐたり。物(もの)のゆゑ知(し)りたる人なども、むげに近く居寄(ゐよ)りて外目(ほかめ)せず、見聞(き)く気色(けしき)どもを見て、いよいよはえて物(もの)を繰(く)り出(い)だすやうに言(い)ひつづくるほどぞ、誠(まこと)に希有(けう)なるや。繁樹(しげき)、涙をのごひつつ興(きよう)じゐたり。
《世継》『筑紫に御座(おは)します所の御門(みかど)かためて御座(おは)します。大弐(だいに)の居所(ゐどころ)は遥かなれども、楼(ろう)の上の瓦(かはら)などの、心にもあらず御覧(ごらん)じやられけるに、またいと近く観音寺(くわんおんじ)といふ寺のありければ、鐘の声を聞(き)こし召(め)して、作らしめ給(たま)へる詩ぞかし、
 都府楼(とふろう)ハ纔(わづか)ニ瓦ノ色ヲ看(み)ル
 観音寺ハ只(ただ)鐘ノ声ヲ聴(き)ク
これは、文集(もんじふ)の、白居易(はくきよい)の遺愛寺(ゐあいじ)ノ鐘ハ欹(そばだ)テテ枕ヲ聴キ、香(かう)炉(ろ)峯(ほう)ノ雪ハ撥(かか)ゲテ簾(すだれ)ヲ看ル」といふ詩に、まさざまに作らしめ給(たま)へりとこそ、昔の博士ども申(まう)しけれ。また、かの筑紫にて、九月九日菊の花を御覧じけるついでに、いまだ京に御座(おは)しましし時、九月の今宵(こよひ)、内裏(だいり)にて菊の宴ありしに、このおとどの作らせ給(たま)ひける詩を、帝(みかど)かしこく感じ給(たま)ひて、御衣(おんぞ)賜(たま)はり給(たま)へりしを、筑紫に持(も)て下らしめ給(たま)へりければ、御覧ずるに、いとどその折思(おぼ)し召(め)し出(い)でて、作らしめ給(たま)ひける、
 去年ノ今夜(こよひ)ハ清涼(せいりやう)ニ侍(はべ)リキ
 秋思(しうし)ノ詩篇(しへん)ニ独(ひと)リ腸(はらわた)ヲ断(た)チキ
 恩賜(おんし)ノ御衣(ぎよい)ハ今此(ここ)ニ在(あ)リ
 捧(ささ)ゲ持チテ毎日余香(よかう)ヲ拝シタテマツル
この詩、いとかしこく人々感じ申(まう)されき。このことどもただちりぢりなるにもあらず、かの筑紫にて作り集めさせ給(たま)へりけるを、書きて一巻とせしめ給(たま)ひて、後集(こうしふ)と名づけられたり。また折々(をりをり)の歌(うた)書きおかせ給(たま)へりけるを、おのづから世に散り聞(き)こえしなり。世継若(わか)う侍(はべ)りし時、このことのせめてあはれにかなしう侍(はべ)りしかば、大学(だいがく)の衆(しゆう)どもの、なま不合(ふがふ)にいましかりしを、訪(と)ひたづねかたらひとりて、さるべき餌袋(ゑぶくろ)・破子(わりご)やうの物(もの)調(てう)じて、うち具(ぐ)してまかりつつ、習ひとりて侍(はべ)りしかど、老(おい)の気(け)のはなはだしきことは、皆こそ、忘れ侍(はべ)りにけれ。これはただ頗(すこぶ)る覚(おぼ)え侍(はべ)るなり』と言(い)へば、聞(き)く人々、『げにげに、いみじき好き者にも物(もの)し給(たま)ひけるかな。今の人は、さる心ありなむや』など、感じあへり。
《世継》『また、雨の降る日、うちながめ給(たま)ひて、
 あめのしたかわけるほどのなければやきてし濡衣(ぬれぎぬ)ひるよしもなき W
 やがてかしこにて失(う)せ給(たま)へる、夜のうちに、この北野(きたの)にそこらの松を生(お)ほし給(たま)ひて、わたり住み給(たま)ふをこそは、ただ今の北野の宮と申(まう)して、現人神(あらひとがみ)に御座(おは)しますめれば、おほやけも行幸(ぎやうかう)せしめ給(たま)ふ。いとかしこくあがめ奉(たてまつ)り給(たま)ふめり。筑紫の御座(おは)しまし所は安楽寺(あんらくじ)と言(い)ひて、おほやけより別当(べたう)・所司(しよし)などなさせ給(たま)ひて、いとやむごとなし。内裏(だいり)焼けて度々(たびたび)造らせ給(たま)ふに、円融院(ゑんゆうゐん)の御時のことなり、工(たくみ)ども、裏板(うらいた)どもを、いとうるはしく鉋(かな)かきてまかり出(い)でつつ、またの朝(あした)に参(まゐ)りて見るに、昨日の裏板に物(もの)のすすけて見ゆる所のありければ、梯(はし)に上(のぼ)りて見るに、夜(よ)のうちに、虫の食(は)めるなりけり。その文字は、
 つくるともまたも焼けなむすがはらやむねのいたまのあはぬかぎりは W
とこそありけれ。それもこの北野のあそばしたるとこそは申(まう)すめりしか。かくて、このおとど、筑紫に御座(おは)しまして、延喜(えんぎ)三年癸亥(みづのとゐ)二月二十五日に失(う)せ給(たま)ひしぞかし。御年五十九にて。
 さて後(のち)七年ばかりありて、左大臣(さだいじん)時平(ときひら)のおとど、延喜(えんぎ)九年四月四日失(う)せ給(たま)ふ。御年三十九。大臣の位(くらゐ)にて十一年ぞ御座(おは)しける。本院(ほんゐん)の大臣と申(まう)す。この時平のおとどの御女(むすめ)の女御(にようご)も失(う)せ給(たま)ふ。御孫(まご)の春宮(とうぐう)も、一男八条(はちでう)の大将(だいしやう)保忠(やすただ)卿も失(う)せ給(たま)ひにきかし。この大将、八条に住み給(たま)へば、内(うち)に参(まゐ)り給(たま)ふほどいと遥かなるに、いかが思(おぼ)されけむ、冬は餅(もちひ)のいと大きなるをば一つ、小さきをば二つを焼きて、焼き石のやうに、御身にあてて持ち給(たま)へりけるに、ぬるくなれば、小さきをば一つづつ、大きなるをば中よりわりて、御車副(くるまぞひ)に投げとらせ給(たま)ひける。あまりなる御用意なりかし。その世にも、耳とどまりて人の思(おも)ひければこそ、かく言(い)ひ伝へためれ。この殿(との)ぞかし、病(やまひ)づきて、さまざま祈りし給(たま)ひ、薬師経(やくしきやう)の読経(どきやう)、枕上(まくらがみ)にてせさせ給(たま)ふに、「所謂(いはゆる)宮毘羅大将(くびらだいしやう)」とうちあげたるを、「我を『くびる』とよむなりけり」と思(おぼ)しけり。臆病(おくびやう)に、やがて絶(た)え入(い)り給(たま)へば、経の文といふ中にも、こはき物(もの)の怪(け)にとりこめられ給(たま)へる人に、げにあやしくはうちあげて侍(はべ)りかし。さるべきとはいひながら、物(もの)は折ふしの言霊(ことだま)も侍(はべ)ることなり。
 その御弟(おとと)の敦忠(あつただ)の中納言も失(う)せ給(たま)ひにき。和歌の上手(じやうず)、菅絃(くわんげん)の道にもすぐれ給(たま)へりき。世にかくれ給(たま)ひて後(のち)、御遊びある折、博雅三位(ひろまさのさんみ)の、さはることありて参(まゐ)らざる時は、「今日の御遊びとどまりぬ」と、度々(たびたび)召(め)されて参(まゐ)るを見て、ふるき人々は、「世の末(すゑ)こそあはれなれ。敦忠の中納言のいますかりし折は、かかる道に、この三位、おほやけを始(はじ)め奉(たてまつ)りて、世の大事に思(おも)ひ侍(はべ)るべき物(もの)とこそ思(おも)はざりしか」とぞ宣(のたま)ひける。
先坊(せんばう)に御息所(みやすどころ)参(まゐ)り給(たま)ふこと、本院(ほんゐん)のおとどの御女(むすめ)具して三四人なり。本院のは、失(う)せ給(たま)ひにき。中将(ちゆうじやう)の御息所と聞(き)こえし、後(のち)は重明(しげあきら)の式部卿(しきぶきやう)の親王の北の方にて、斎宮(さいぐう)の女御(にようご)の御母にて、そも失(う)せ給(たま)ひにき。いとやさしく御座(おは)せし。先坊を恋ひかなしび奉(たてまつ)り給(たま)ひ、大輔(たいふ)なむ、夢に見奉(たてまつ)りたると聞(き)きて、よみておくり給(たま)へる、
 時の間も慰めつらむ君はさは夢にだに見ぬ我ぞかなしき W
御返りごと、大輔、
 恋しさの慰むべくもあらざりき夢のうちにも夢と見しかば W
いま一人の御息所は、玄上(はるかみ)の宰相(さいしやう)の女にや。その後朝の使(つかひ)、敦忠(あつただ)の中納言、少将(せうしやう)にてし給(たま)ひける。宮失(う)せ給(たま)ひて後、この中納言には会(あ)ひ給(たま)へるを、かぎりなく思(おも)ひながら、いかが見給(たま)ひけむ、文範(ふみのり)の民部卿(みんぶきやう)の、播磨守(はりまのかみ)にて、殿(との)の家司(けいし)にて候(さぶら)はるるを、「我は命みじかき族(ぞう)なり。かならず死なむず。その後、君は文範にぞ会(あ)ひ給(たま)はむ」と宣(のたま)ひけるを、「あるまじきこと」といらへ給(たま)ひければ、「天(あま)がけりても見む。よにたがへ給(たま)はじ」など宣(のたま)ひけるが、誠(まこと)にさていまするぞかし。
 ただ、この君たちの御中には、大納言(だいなごん)源昇(みなもとののぼる)の卿(きやう)の御女の腹の顕忠(あきただ)のおとどのみぞ、右大臣までなり給(たま)ふ。その位(くらゐ)にて六年御座(おは)せしかど、少し思(おぼ)すところやありけむ、出(い)でて歩(あり)き給(たま)ふにも、家内にも、大臣の作法(さほふ)をふるまひ給(たま)はず。御歩きの折は、おぼろけにて御前(ごぜん)つがひ給(たま)はず。まれまれも数少なくて、御車のしりにぞ候(さぶら)ひし。車副(くるまぞひ)四人つがはせ給(たま)はざりき。御先(みさき)も時々(ときどき)ほのかにぞ参(まゐ)りし。盥(たらひ)して御手すますことなかりき。寝殿(しんでん)の日隠(ひがくし)の間(ま)に棚(たな)をして、小桶(こをけ)に小杓(こひさご)して置かれたれば、仕丁(じちやう)、つとめてごとに、湯を持(も)て参(まゐ)りて入れければ、人してもかけさせ給(たま)はず、我(われ)出(い)で給(たま)ひて、御手づからぞすましける。御召物(めしもの)は、うるはしく御器(ごき)などにも参(まゐ)り据(す)ゑで、ただ御土器(かはらけ)にて、台などもなく、折敷(をしき)などにとり据ゑつつぞ参(まゐ)らせける。
倹約(けんやく)し給(たま)ひしに、さるべきことの折の御座と、御判所(はんしよ)とにぞ、大臣とは見え給(たま)ひし。かくもてなし給(たま)ひし故(け)にや、このおとどのみぞ、御族(ぞう)の中に、六十余りまで御座(おは)せし。四分一の家にて大饗(だいきやう)し給(たま)へる人なり。富小路(とみのこうぢ)の大臣と申(まう)す。
 これよりほかの君達、皆三十余り、四十に過ぎ給(たま)はず。そのゆゑは、他(た)のことにあらず、この北野の御嘆きになむあるべき。
顕忠(あきただ)の大臣の御子、重輔(しげすけ)の右衛門佐(うゑもんのすけ)とて御座(おは)せしが御子なり、今の三井寺(みゐでら)の別当心誉僧都(べたうしんよそうづ)・山階寺(やましなでら)の権別当扶公(ごんのべたうふこう)僧都なり。この君達こそは物(もの)し給(たま)ふめれ。敦忠(あつただ)の中納言の御子あまた御座(おは)しける中に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)なにがし君(ぎみ)とかや申(ま)しし、その君出家(すけ)して往生(わうじやう)し給(たま)ひにき。その仏(ほとけ)の御子なり、石蔵(いはくら)の文慶(もんけい)僧都は。敦忠の御女子は枇杷(びは)の大納言(だいなごん)の北の方にて御座(おは)しきかし。あさましき悪事(あくじ)を申(まう)し行ひ給(たま)へりし罪により、このおとどの御末(すゑ)は御座(おは)せぬなり。さるは、大和魂(やまとだましひ)などは、いみじく御座(おは)しましたる物(もの)を。
 延喜(えんぎ)の、世間の作法(さほふ)したためさせ給(たま)ひしかど、過差(くわさ)をばえしづめさせ給(たま)はざりしに、この殿(との)、制(せい)を破りたる御装束(さうぞく)の、ことのほかにめでたきをして、内(うち)に参(まゐ)り給(たま)ひて、殿上(てんじやう)に候(さぶら)はせ給(たま)ふを、帝(みかど)、小蔀(こじとみ)より御覧(ごらん)じて、御気色(けしき)いとあしくならせ給(たま)ひて、職事(しきじ)を召(め)して、「世間の過差の制きびしき頃、左(ひだり)のおとどの一(いち)の人(ひと)といひながら、美麗(びれい)ことのほかにて参(まゐ)れる、便(びん)なきことなり。はやくまかり出(い)づべきよし仰(おほ)せよ」と仰(おほ)せられければ、承(うけたまは)る職事は、「いかなることにか」と怖(おそ)れ思(おも)ひけれど、参(まゐ)りて、わななくわななく、「しかじか」と申(まう)しければ、いみじくおどろき、かしこまり承(うけたまは)りて、御随身(みずいじん)の御先(みさき)参(まゐ)るも制し給(たま)ひて、急ぎまかり出(い)で給(たま)へば、御前(ごぜん)どもあやしと思(おも)ひけり。さて本院の御門(みかど)一月(ひとつき)ばかり鎖(さ)させて、御簾(みす)の外(と)にも出(い)で給(たま)はず、人などの参(まゐ)るにも、「勘当(かんだう)の重ければ」とて、会はせ給(たま)はざりしにこそ、世の過差はたひらぎたりしか。内々によく承(うけたまは)りしかば、さてばかりぞしづまらむとて、帝(みかど)と御心あはせさせ給(たま)へりけるとぞ。
 物(もの)のをかしさをぞえ念ぜさせ給(たま)はざりける。笑ひたたせ給(たま)ひぬれば、頗(すこぶ)ることも乱れけるとか。北野と世をまつりごたせ給(たま)ふ間(あひだ)、非道(ひだう)なることを仰(おほ)せられければ、さすがにやむごとなくて、せちにし給(たま)ふことをいかがはと思(おぼ)して、「このおとどのし給(たま)ふことなれば、不便(ふびん)なりと見れど、いかがすべからむ」と嘆き給(たま)ひけるを、なにがしの史(し)が、「ことにも侍(はべ)らず。おのれ、かまへてかの御ことをとどめ侍(はべ)らむ」と申(まう)しければ、「いとあるまじきこと。いかにして」など宣(のたま)はせけるを、「ただ御覧ぜよ」とて、座につきて、こときびしく定めののしり給(たま)ふに、この史、文刺(ふんさし)に文(ふみ)挟(はさ)みて、いらなくふるまひて、このおとどに奉(たてまつ)るとて、いと高やかに鳴らして侍(はべ)りけるに、おとど文もえとらず、手わななきて、やがて笑ひて、「今日は術(ずち)なし。右(みぎ)のおとどにまかせ申(まう)す」とだに言(い)ひやり給(たま)はざりければ、それにこそ菅原(すがはら)のおとど、御心のままにまつりごち給(たま)ひけれ。
 また、北野の、神にならせ給(たま)ひて、いとおそろしく神鳴(かみな)りひらめき、清涼殿(せいりやうでん)に落ちかかりぬと見えけるが、本院(ほんゐん)の大臣(おとど)、太刀(たち)を抜きさけて、「生(い)きてもわが次にこそ物(もの)し給(たま)ひしか。今日、神となり給(たま)へりとも、この世には、我に所置き給(たま)ふべし。いかでかさらではあるべきぞ」とにらみやりて宣(のたま)ひける。一度はしづまらせ給(たま)へりけりとぞ、世(よ)の人(ひと)、申(まう)し侍(はべ)りし。されど、それは、かの大臣(おとど)のいみじう御座(おは)するにはあらず、王威(わうゐ)のかぎりなく御座(おは)しますによりて、理非(りひ)を示させ給(たま)へるなり。
一 左大臣(さだいじん)仲平(なかひら)
 この大臣(おとど)は、基経(もとつね)のおとどの次郎。御母は、本院(ほんゐん)の大臣に同じ。大臣の位(くらゐ)にて十三年ぞ御座(おは)せし。枇杷(びは)の大臣と申(まう)す。御子持たせ給(たま)はず。伊勢集(いせしふ)に、
 花薄(はなすすき)われこそしたに思(おも)ひしかほに出(い)でて人にむすばれにけり W
などよみ給(たま)へるは、この人に御座(おは)す。貞信公(ていしんこう)よりは御兄なれども、三十年まで大臣になりおくれ給(たま)へりしを、つひになり給(たま)へれば、おほきおほいどのの御よろこびの歌、
 おそくとくつひに咲きぬる梅の花たが植ゑおきし種にかあるらむ W
やがてその花をかざして、御対面(たいめ)の日、よろこび給(たま)へる。
廂(ひさし)の大饗(だいきやう)せさせ給(たま)ひけるにも、横さまに据ゑ参(まゐ)らせさせ給(たま)ひけるこそ、年頃(としごろ)少しかたはらいたく思(おぼ)されける御心(こころ)とけて、いかにかたみに心ゆかせ給(たま)へりけむと、御あはひめでたけれ。この殿(との)の御心、誠(まこと)にうるはしく御座(おは)しましける。皆人聞(き)き知ろしめしたることなり、申(まう)さじ。
このおとどに伊勢(いせ)の御息所(みやすどころ)の忘られてよむ歌なり。
 人知(し)れずやみなましかばわびつつも無き名ぞとだに言(い)はまし物(もの)を W 
一 太政大臣(だいじやうだいじん)忠平(ただひら)  貞信公(ていしんこう)
 この大臣(おとど)、これ、基経(もとつね)のおとどの四郎君。御母、本院(ほんゐん)の大臣・枇杷(びは)の大臣に同じ。このおとど、延長(えんちやう)八年九月二十一日摂政、天慶(てんぎやう)四年十一月関白(くわんばく)の宣旨(せんじ)かぶり給(たま)ふ。公卿(くぎやう)にて四十二年、大臣にて三十二年、世をしらせ給(たま)ふこと二十年。後(のち)の御諡号(いみな)貞信公と名づけ奉(たてまつ)る。子一条(こいちでう)の太政大臣(だいじやうだいじん)と申(まう)す。朱雀院(すざくゐん)并(なら)びに村上の御舅(をぢ)に御座(おは)します。この御子五人。その折は、御位(くらゐ)太政大臣(だいじやうだいじん)にて、御太郎、左大臣(さだいじん)にて実頼(さねより)のおとど、これ、小野宮(をののみや)と申(まう)しき。二郎、右大臣師輔(もろすけ)のおとど、これを九条殿(くでうどの)と申(まう)しき。四郎、師氏(もろうじ)の大納言(だいなごん)と聞(き)こえき。五郎、また左大臣(さだいじん)師尹(もろまさ)のおとど、子一条殿と申(まう)しきかし。これ、四人君達、左右(さう)の大臣、納言(なごん)などにて、さしつづき御座(おは)しましし、いみじかりし御栄花(えいぐわ)ぞかし。女君(をんなぎみ)一所(ひとところ)は、先坊(せんばう)の御息所(みやすどころ)にて御座(おは)しましき。
 つねにこの三人の大臣たちの参(まゐ)らせ給(たま)ふ料(れう)に、小一条(こいちでう)の南、勘解由小路(かげゆのこうぢ)には、石畳(いしだたみ)をぞせられたりしが、まだ侍(はべ)るぞかし。宗像(むなかた)の明神(みやうじん)の御座(おは)しませば、洞院(とうゐん)・小代(こしろ)の辻子(つじ)よりおりさせ給(たま)ひしに、雨などの降る日の料とぞ承(うけたまは)りし。凡(おほよそ)その一町(ひとまち)は、人まかり歩(あり)かざりき。今は、あやしの者も馬・車に乗りつつ、みしみしと歩(ある)き侍(はべ)れば、昔のなごりに、いとかたじけなくこそ見給(たま)ふれ。この翁(おきな)どもは、今もおぼろけにては通り侍(はべ)らず。今日も参(まゐ)り侍(はべ)るが、腰のいたく侍(はべ)りつれば、術(ずち)なくてぞまかり通りつれど、なほ石畳をばよきてぞまかりつる。南のつらのいとあしき泥(でい)をふみこみて候(さぶら)ひつれば、きたなき物(もの)も、かくなりて侍(はべ)るなり』とて、引き出(い)でて見す。
《世継》『「先祖の御物(もの)は何もほしけれど、小一条のみなむ要(えう)に侍(はべ)らぬ。人は子うみ死なむが料にこそ家もほしきに、さやうの折、ほかへわたらむ所は、なににかはせむ。また、凡(おほよそ)、つねにもたゆみなくおそろし」とこそ、この入道(にふだう)殿(どの)は仰(おほ)せらるなれ。ことわりなりや。この貞信公には、宗像の明神(みやうじん)、うつつに、物(もの)など申(まう)し給(たま)ひけり。「我よりは御位(くらゐ)高くて居(ゐ)させ給(たま)へるなむ、くるしき」と申(まう)し給(たま)ひければ、いと不便(ふびん)なる御こととて、神の御位申(まう)しあげさせ給(たま)へるなり。
 この殿(との)、何(いづれ)の御時とは覚(おぼ)え侍(はべ)らず、思(おも)ふに、延喜(えんぎ)・朱雀院(すざくゐん)の御ほどにこそは侍(はべ)りけめ、宣旨(せんじ)承(うけたまは)らせ給(たま)ひて、おこなひに陣座(ぢんのざ)ざまに御座(おは)します道に、南殿(なでん)の御帳(みちやう)のうしろのほど通らせ給(たま)ふに、物(もの)のけはひして、御太刀(たち)の石突(いしづき)をとらへたりければ、いとあやしくてさぐらせ給(たま)ふに、毛はむくむくと生ひたる手の、爪(つめ)ながくて刀(かたな)の刃(は)の様(やう)なるに、鬼なりけりと、いとおそろしくおぼえけれど、臆(おく)したるさま見えじと念(ねん)ぜさせ給(たま)ひて、「おほやけの勅宣(ちよくせん)承(うけたまは)りて、定(さだめ)に参(まゐ)る人とらふるは何者ぞ。ゆるさずは、あしかりなむ」とて、御太刀をひき抜きて、かれが手をとらへさせ給(たま)へりければ、まどひてうち放(はな)ちてこそ、丑寅(うしとら)の隅(すみ)ざまにまかりにけれ。思(おも)ふに夜(よる)のことなりけむかし。こと殿(との)ばらの御ことよりも、この殿の御こと申(まう)すは、かたじけなくもあはれにも侍(はべ)るかな』とて、音(こゑ)うちかはりて、鼻度々(たびたび)うちかむめり。
《世継》『いかなりけることにか、七月にて生まれさせ給(たま)へるとこそ、人申(まう)し伝へたれ。天暦(てんりやく)三年八月十一日にぞ失(う)せさせ給(たま)ひける。正一位(じやういちゐ)に贈(ぞう)せられ給(たま)ふ。御年七十一。
太政大臣(だいじやうだいじん)実頼(さねより)  清慎公(せいしんこう)
 このおとどは、忠平のおとどの一男に御座(おは)します。小野宮(をののみや)のおとどと申(まう)しき。御母、寛平(くわんぴやう)法皇の御女(むすめ)なり。大臣の位(くらゐ)にて二十七年、天下執行(しふぎやう)、摂政・関白(くわんばく)し給(たま)ひて二十年ばかりや御座(おは)しましけむ。御諡号(いみな)、清慎公なり。
和歌の道にもすぐれ御座(おは)しまして、後撰(ごせん)にもあまた入り給(たま)へり。おほかた、何事にも有識(いうそく)に、御心うるはしく御座(おは)しますことは、世の人の本(ほん)にぞひかれさせ給(たま)ふ。小野宮(をののみや)の南面(みなみおもて)には、御髻(もとどり)放(はな)ちては出(い)で給(たま)ふことなかりき。そのゆゑは、稲荷(いなり)の杉のあらはに見ゆれば、「明神(みやうじん)、御覧(ごらん)ずらむに、いかでかなめげにては出(い)でむ」と宣(のたま)はせて、いみじくつつしませ給(たま)ふに、おのづから思(おぼ)し召(め)し忘れぬる折は、御袖(そで)をかづきてぞ驚きさわがせ給(たま)ひける。
 この大臣(おとど)の御女子(をんなご)、女御(にようご)にて失(う)せ給(たま)ひにき。村上の御時にや、よくも覚(おぼ)え侍(はべ)らず。男君(をとこぎみ)は、時平のおとどの御女(むすめ)の腹に、敦敏(あつとし)の少将(せうしやう)と聞(き)こえし、父大臣(おとど)の御先にかくれ給(たま)ひにきかし。さていみじう思(おぼ)し嘆くに、東(あづま)のかたより、失(う)せ給(たま)へりとも知(し)らで、馬を奉(たてまつ)りたりければ、大臣(おとど)、
 まだ知(し)らぬ人もありけり東路(あづまぢ)に我もゆきてぞ住むべかりける W
いとかなしきことなり」とて、目おしのごふに、
《世継》『大臣(おとど)の御童名(わらはな)をば、うしかひと申(まう)しき。されば、その御族(ぞう)は、牛飼(うしかひ)を「牛つき」と宣(のたま)ふなり。
 敦敏の少将(せうしやう)の子なり、佐理(すけまさ)の大弐(だいに)、世の手書(てかき)の上手(じやうず)。任はてて上(のぼ)られけるに、伊予国(いよのくに)のまへなるとまりにて、日いみじう荒れ、海のおもてあしくて、風おそろしく吹きなどするを、少しなほりて出(い)でむとし給(たま)へば、また同じやうになりぬ。かくのみしつつ日頃(ひごろ)過(す)ぐれば、いとあやしく思(おぼ)して、物(もの)問(と)ひ給(たま)へば、「神の御祟(たたり)」とのみ言(い)ふに、さるべきこともなし。いかなることにかと、怖(おそ)れ給(たま)ひける夢に見え給(たま)ひけるやう、いみじうけだかきさましたる男(をとこ)の御座(おは)して、「この日の荒れて、日頃ここに経(へ)給(たま)ふは、おのれがし侍(はべ)ることなり。よろづの社(やしろ)に額(がく)のかかりたるに、おのれがもとにしもなきがあしければ、かけむと思(おも)ふに、なべての手して書かせむがわろく侍(はべ)れば、われに書かせ奉(たてまつ)らむと思(おも)ふにより、この折ならではいつかはとて、とどめ奉(たてまつ)りたるなり」と宣(のたま)ふに、「たれとか申(まう)す」と問(と)ひ申(まう)し給(たま)へば、「この浦の三島(みしま)に侍(はべ)る翁(おきな)なり」と宣(のたま)ふに、夢のうちにもいみじうかしこまり申(まう)すと思(おぼ)すに、おどろき給(たま)ひて、またさらにもいはず。
さて、伊与(いよ)へわたり給(たま)ふに、多くの日荒れつる日ともなく、うらうらとなりて、そなたざまに追風(おひかぜ)吹きて、飛ぶがごとくまうで着き給(たま)ひぬ。湯度々(たびたび)浴(あ)み、いみじう潔斎(けつさい)して、清(きよ)まはりて、昼(ひ)の装束(さうぞく)して、やがて神の御前(おまへ)にて書き給(たま)ふ。神司(かみづかさ)ども召(め)し出(い)だして打たせなど、よく法(はふ)のごとくして帰り給(たま)ふに、つゆ怖(おそ)るることなくて、すゑずゑの船にいたるまで、たひらかに上(のぼ)り給(たま)ひにき。わがすることを人間(にんげん)にほめ崇(あが)むるだに興(きよう)あることにてこそあれ、まして神の御心にさまでほしく思(おぼ)しけむこそ、いかに御心おごりし給(たま)ひけむ。また、おほよそこれにぞ、いとど日本第一の御手のおぼえはとり給(たま)へりし。六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)の額も、この大弐(だいに)の書き給(たま)へるなり。されば、かの三島(みしま)の社(やしろ)の額と、この寺のとは同じ御手に侍(はべ)り。
 御心ばへぞ、懈怠者(けだいしや)、少しは如泥人(じよでいにん)とも聞(き)こえつべく御座(おは)せし。故(こ)中関白殿(なかのくわんばくどの)、東三条(とうさんでう)つくらせ給(たま)ひて、御障子(しやうじ)に歌絵(うたゑ)ども書かせ給(たま)ひし色紙形(しきしがた)を、この大弐に書かせまし給(たま)ひけるを、いたく人さわがしからぬほどに、参(まゐ)りて書かれなばよかりぬべかりけるを、関白(くわんばく)殿わたらせ給(たま)ひ、上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)など、さるべき人々参(まゐ)りつどひて後(のち)に、日高く待たれ奉(たてまつ)りて参(まゐ)り給(たま)ひければ、少し骨(こち)なく思(おぼ)し召(め)さるれど、さりとてあるべきことならねば、書きてまかで給(たま)ふに、女の装束かづけさせ給(たま)ふを、さらでもありぬべく思(おぼ)さるれど、捨つべきことならねば、そこらの人の中をわけ出(い)でられけるなむ、なほ懈怠の失錯(しつさく)なりける。「のどかなる今朝(けさ)、とくもうち参(まゐ)りて書かれなましかば、かからましやは」とぞ、皆人(みなひと)も思(おも)ひ、みづからも思(おぼ)したりける。「むげの、その道、なべての下臈(げらふ)などにこそ、斯様(かやう)なることはせさせ給(たま)はめ」と、殿(との)をも謗(そし)り申(まう)す人々ありけり。
 その大弐(だいに)の御女(むすめ)、いとこの懐平(やすひら)の右衛門督(うゑもんのかみ)の北の方にて御座(おは)せし、経任(つねたふ)の君の母よ。大弐におとらず、女手書(をんなてかき)にて御座(おは)すめり。大弐の御妹は、法住寺(ほふぢゆうじ)のおとどの北の方にて御座(おは)す。その御腹(はら)の女君(をんなぎみ)は、花山院(くわざんゐん)の御時の弘徽殿(こきでん)の女御(にようご)、また、入道(にふだう)中納言の御北の方。また、男子(をのこご)は、今の中宮(ちゆうぐう)の大夫斎信(だいぶただのぶ)の卿(きやう)とぞ申(まう)すめる。
 小野宮(をののみや)の大臣(おとど)の三郎、敦敏(あつとし)の少将(せうしやう)の同じ腹の君(ぎみ)、右衛門督までなり給(たま)へりし、斎敏(ただとし)とぞ聞(き)こえしかし。その御男君、播磨守(はりまのかみ)尹文(まさぶん)の女の腹に三所(みところ)御座(おは)せし。太郎は高遠(たかとほ)の君、大弐にて失(う)せ給(たま)ひにき。二郎は懐平(やすひら)とて、中納言・右衛門督までなり給(たま)へりし。その御男子なり、今の右兵衛督経通(うひやうゑのかみつねみち)の君、また侍従宰相資平(じじゆうのさいしやうすけひら)の君、今の皇太后宮権大夫(くわうたいごうぐうのごんのだいぶ)にて御座(おは)すめる。その斎敏の君の御男子、御祖父(おほぢ)の小野宮(をののみや)のおとどの御子にし給(たま)ひて、実資(さねすけ)とつけ奉(たてまつ)り給(たま)ひて、いみじうかなしうし給(たま)ひき。このおとどの御名の文字なり、「実」文字は』
といふほども、あまり才(ざえ)がりたりや。「童名(わらはな)は、大学丸(だいがくまろ)とぞつけたりける。
『その君こそ、今の小野宮(をののみや)の右大臣と申(まう)して、いとやむごとなくて御座(おは)すめり。このおとどの、御子なき嘆きをし給(たま)ひて、わが御甥(をひ)の資平の宰相を養ひ給(たま)ふめり。末に、宮仕人(みやづかへびと)を思(おぼ)しける腹に出(い)で御座(おは)したる男子は、法師にて、内供良円(ないぐりやうゑん)の君(きみ)とて御座(おは)す。また、さぶらひける女房(にようばう)を召(め)しつかひ給(たま)ひけるほどに、おのづから生まれ給(たま)へりける女君(をんなぎみ)、かくや姫(ひめ)とぞ申(まう)しける。この母は頼忠(よりただ)の宰相の乳母子(めのとご)。北の方は、花山院の女御、為平(ためひら)の式部卿(しきぶきやう)の御女(むすめ)。院そむかせ給(たま)ひて、道信(みちのぶ)の中将(ちゆうじやう)も懸想(けさう)し申(まう)し給(たま)ふに、この殿参(まゐ)り給(たま)ひにけるを聞(き)きて、中将(ちゆうじやう)の聞(き)こえ給(たま)ひしぞかし、
 うれしきはいかばかりかは思(おも)ふらむ憂(う)きは身にしむ心地(ここち)こそすれ W
この女御、殿に候(さぶら)ひ給(たま)ひしなり
この女君(をんなぎみ)、千日(せんにち)の講(こう)おこなひ給(たま)ふ。資家(すけいへ)の中納言の上(うへ)の腹なり。兼頼(かねより)の中納言の北の方にて失(う)せ給(たま)ひにき。おほかた、子かたく御座(おは)しましける族(ぞう)にや。これも、中宮(ちゆうぐう)の権大夫(ごんのだいぶ)の上も、継子(ままこ)を養ひ給(たま)へる。
この女君(をんなぎみ)を、小野宮(をののみや)の寝殿(しんでん)の東面(ひんがしおもて)に帳(ちやう)たてて、いみじうかしづき据ゑ奉(たてまつ)り給(たま)ふめり。いかなる人か御婿(むこ)となり給(たま)はむとすらむ。
 かの殿は、いみじき隠(こも)り徳人(とくにん)にぞ御座(おは)します。故(こ)小野宮(をののみや)のそこばくの宝物(たからもの)・荘園(しやうゑん)は、皆この殿にこそはあらめ。殿づくりせられたるさま、いとめでたしや。対(たい)・寝殿・渡殿(わたどの)は例のことなり、辰巳(たつみ)の方(はう)に三間四面の御堂(みだう)たてられて、廻廊は皆、供僧(ぐそう)の房(ばう)にせられたり。湯屋(ゆや)に大きなる鼎(かなへ)二つ塗(ぬ)り据(す)ゑられて、煙(けぶり)立たぬ日なし。御堂には、金色(こんじき)の仏多く御座(おは)します。供米(くまい)三十石(こく)を、定図(ぢやうづ)におかれて絶ゆることなし。御堂へ参(まゐ)る道は、御前(おまへ)の池よりあなたをはるばると野につくらせ給(たま)ひて、時々(ときどき)の花・紅葉(もみぢ)を植ゑ給(たま)へり。また舟に乗りて池より漕(こ)ぎても参(まゐ)る。これよりほかに道なし。
これよりほかの道なきけにや、心やすきけなし。さだめて、三日精進(かさうじ)なり。さらずはあへてたひらかに参(まゐ)るべきならず。
住僧(ぢゆうそう)にはやむごとなき智者(ちしや)、あるいは持経者(ぢきやうじや)・真言師(しんごんし)どもなり。これに夏冬の法服(ほふぶく)を賜(た)び、供料(くれう)をあて賜びて、わが滅罪生善(めつざいじやうぜん)の祈(いのり)、また姫君の御息災を祈り給(たま)ふ。
この小野宮(をののみや)をあけくれつくらせ給(たま)ふこと、日に工(たくみ)の七八人絶(た)ゆることなし。世の中に手斧(てをの)の音する所は、東大寺(とうだいじ)とこの宮とこそは侍(はべ)るなれ。祖父(おほぢ)おほいどのの、とりわき給(たま)ひししるしは御座(おは)する人なり。まこと、この御男子は、今の伯耆守(ははきのかみ)資頼(すけより)と聞(き)こゆめるは、姫君の御一(ひと)つ腹(ばら)にあらず、いづれにかありけむ。
一 太政大臣(だいじやうだいじん)頼忠(よりただ)  廉義公(れんぎこう)
 このおとどは、小野宮(をののみや)実頼(さねより)のおとどの二郎なり。御母、時平(ときひら)の大臣の御女(むすめ)、敦敏(あつとし)の少将(せうしやう)の御同(おな)じ腹(はら)なり。大臣の位(くらゐ)にて十九年、関白(くわんばく)にて九年、この生(しやう)きはめさせ給(たま)へる人ぞかし。三条(さんでう)よりは北、西洞院(にしのとうゐん)より東(ひんがし)に住み給(たま)ひしかば、三条殿と申(まう)す。
この大臣(おとど)、いみじきことどもしおき給(たま)へる人なり。賀茂詣(かもまうで)に、検非違使(けびゐし)、車のしりに具(ぐ)すること、また馬の上の随身(ずいじん)、左右(さう)に四人つがはしむることも、この殿(との)のしいで給(たま)へり。古(いにしへ)は、物節(もののふし)のかぎり、一人づつありて、府生(ふしやう)はなくて侍(はべ)りしなり。一(いち)の人(ひと)御座(おは)すなど見ゆること侍(はべ)らざりけり。必ずかく侍(はべ)るなりけることなりかし。あまりよろづしたためあまり給(たま)ひて、殿(との)のうちに宵(よひ)にともしたる油を、またのつとめて、侍(さぶらひ)に油瓶(あぶらがめ)を持たせて、女房(にようばう)の局(つぼね)までめぐりて、残りたるを返し入れて、また、今日の油にくはへてともさせ給(たま)ひけり。あまりにうたてあることなりや。
 一条院位(くらゐ)につかせ給(たま)ひしかば、よそ人(びと)にて、関白(くわんばく)退(の)かせ給(たま)ひにき。ただ、おほきおほいどのと申(まう)して、四条(しでう)の宮(みや)にこそは、一つに住ませ給(たま)ひしか。それに、この前(さき)の師殿(そちどの)は、時の一(いち)の人(ひと)の御孫(まご)にて、えもいはずはなやぎ給(たま)ひしに、六条殿(ろくでうどの)の御婿(むこ)にて御座(おは)せしかば、つねに西洞院(にしのとうゐん)のぼりに歩(あり)き給(たま)ふを、こと人(ひと)ならばこと方(かた)よりよきても御座(おは)すべきを、大后(おほきさき)・太政大臣(だいじやうだいじん)の御座(おは)します前を、馬にてわたり給(たま)ふ。おほきおほいどのいとやすからず思(おぼ)せども、いかがはせさせ給(たま)はむ。なほいかやうにてかとゆかしく思(おぼ)して、中門(ちゆうもん)の北廊(きたのらう)の連子(れんじ)よりのぞかせ給(たま)へば、いみじうはやる馬にて、御紐(ひも)おしのけて、雑色(ざふしき)二三十人ばかりに、先(さき)いと高く御座(おは)せて、うち見いれつつ、馬の手綱(たづな)ひかへて、扇(あふぎ)高くつかひて通り給(たま)ふを、あさましく思(おぼ)せど、なかなかなることなれば、こと多くも宣(のたま)はで、ただ、「なさけなげなる男(をのこ)にこそありけれ」とばかりぞ申(まう)し給(たま)ひける。非常(ひじやう)のことなりや。さるは、師中納言殿(そちのちゆうなごんどの)の上(うへ)の六条殿(ろくでうどの)の姫君は、母は三条殿の御女に御座(おは)すれば、御孫ぞかし。されば、人よりは参(まゐ)りつかまつりだにこそし給(たま)ふべかりしか。この頼忠(よりただ)のおとど、一(いち)の人(ひと)にて御座(おは)しまししかど、御直衣(なほし)にて内(うち)に参(まゐ)り給(たま)ふこと侍(はべ)らざりき。奏(そう)せさせ給(たま)ふべきことある折は、布袴(ほうこ)にてぞ参(まゐ)り給(たま)ふ。さて、殿上(てんじやう)に候(さぶら)はせ給(たま)ふ。年中行事(ねんちゆうぎやうじ)の御障子(さうじ)のもとにて、さるべき職事蔵人(しきじくらうど)などしてぞ、奏せさせ給(たま)ひ、承(うけたまは)り給(たま)ひける。また、ある折は、鬼間(おにのま)に帝(みかど)出(い)でしめ給(たま)ひて、召(め)しある折ぞ参(まゐ)り給(たま)ひし。関白(くわんばく)し給(たま)へど、よその人に御座(おは)しましければにや。
 故(こ)中務卿代明(なかつかさきやうよあきら)の親王の御女の腹に、御女二人・男子一人御座(おは)しまして、大姫君(おほひめぎみ)は、円融院(ゑんゆうゐん)の御時の女御(にようご)にて、天元(てんげん)五年三月十一日に后(きさき)にたち給(たま)ひ、中宮(ちゆうぐう)と申(まう)しき。御年二十六。御子(みこ)御座(おは)せず。四条(しでう)の宮とぞ申(まう)すめりし。いみじき有心者(うしんじや)・有識(いうぞく)にぞいはれ給(たま)ひし。功徳(くどく)も御祈(いのり)も如法(によほふ)に行はせ給(たま)ひし。毎年の季(き)の御読経(みどきやう)なども、つねのこととも思(おぼ)し召(め)したらず、四日がほど、二十人の僧を、房(ばう)のかぎりめでたくて、かしづき据ゑさせ給(たま)ひ、湯あむし、斎(とき)などかぎりなく如法に供養(くやう)せさせ給(たま)ひ、御前(おまへ)よりも、とりわきさるべきものども出(い)ださせ給(たま)ふ。御みづからも清き御衣(おんぞ)奉(たてまつ)り、かぎりなくきよまはらせ給(たま)ひて、僧に賜(た)ぶものどもは、まづ御前にとり据ゑさせて置かせ給(たま)ひて後(のち)につかはしける。恵心(ゑしん)の僧都(そうづ)の頭陀行(づだぎやう)せられける折に、京中こぞりて、いみじき御斎(とき)を設(まう)けつつ参(まゐ)りしに、この宮には、うるはしくかねの御器(ごき)ども失(う)せ給(たま)へりしかば、「かくてあまり見ぐるし」とて、僧都は迄食(こつじき)とどめ給(たま)ひてき。
 いま一所(ひとところ)の姫君(ひめぎみ)、花山院(くわさんゐん)の御時の女御(にようご)にて、四条宮に尼にて御座(おは)しますめり。
 やがて后・女御の一(ひと)つ腹(ばら)の男君、ただ今の按察(あぜちの)大納言(だいなごん)公任(きんたふ)卿と申(まう)す。小野宮(をののみや)の御孫(むまご)なればにや、和歌の道すぐれ給(たま)へり。世にはづかしく心にくきおぼえ御座(おは)す。その御女(むすめ)、ただ今の内大臣の北の方にて、年頃(としごろ)多くの君達うみつづけ給(たま)へりつる、去年(こぞ)の正月に失(う)せ給(たま)ひて、大納言(だいなごん)よろづを知(し)らず、思(おぼ)し嘆くことかぎりなし。また、男君一人ぞ御座(おは)する。左大弁定頼(さだいべんさだより)の君、若殿上人(わかてんじやうびと)の中に、心あり、歌なども上手(じやうず)にて御座(おは)すめり。母北の方いとあてに御座(おは)すかし。村上の九の宮の御女(むすめ)、多武峯(たむのみね)の入道(にふだう)の少将(せうしやう)、まちをさ君(ぎみ)の御女の腹(はら)なり。内大臣殿の上(うへ)も、この弁の君も、されば御なからひいとやむごとなし。
 この大納言(だいなごん)殿、無心(むしん)のこと一度ぞ宣(のたま)へるや。御妹の四条(しでう)の宮(みや)の、后(きさき)にたち給(たま)ひて、初めて入内(じゆだい)し給(たま)ふに、洞院(とうゐん)のぼりに御座(おは)しませば、東三条(とうさんでう)の前をわたらせ給(たま)ふに、大入道(おほにふだう)殿(どの)も、故(こ)女院(にようゐん)も胸痛く思(おぼ)し召(め)しけるに、按察(あぜちの)大納言(だいなごん)は后の御せうとにて、御心地(ここち)のよく思(おぼ)されけるままに、御馬をひかへて、「この女御は、いつか后にはたち給(たま)ふらむ」と、うち見入れて宣(のたま)へりけるを、殿(との)を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、その御族(ぞう)やすからず思(おぼ)しけれど、男宮(をのこみや)御座(おは)しませば、たけくぞ。よその人々も、「益(やく)なくも宣(のたま)ふかな」と聞(き)き給(たま)ふ。一条院(いちでうゐん)、位(くらゐ)につき給(たま)へば、女御、后にたち給(たま)ひて入内し給(たま)ふに、大納言(だいなごん)殿(どの)の、亮(すけ)につかまつり給(たま)へるに、出車(いだしぐるま)より扇をさし出(い)だして、「やや、物(もの)申(まう)さむ」と、女房(にようばう)の聞(き)こえければ、「何事にか」とて、うち寄り給(たま)へるに、進(しん)の内侍(ないし)、顔をさし出(い)でて、「御妹の素腹(すばら)の后は、いづくにか御座(おは)する」と聞(き)こえかけたりけるに、「先年のことを思(おも)ひおかれたるなり。自(みづか)らだにいかがとおぼえつることなれば、道理なり。なくなりぬる身にこそとこそおぼえしか」とこそ宣(のたま)ひけれ。されど、人柄しよろづによくなり給(たま)ひぬれば、ことにふれて捨てられ給(たま)はず、かの内侍のとがなるにてやみにき。
 ひととせ、入道(にふだう)殿(どの)の大井川(おほいがは)に逍遥(せうえう)せさせ給(たま)ひしに作文(さくもん)の船(ふね)・管絃(くわんげん)の船・和歌の船と分(わか)たせ給(たま)ひて、その道にたへたる人々を乗せさせ給(たま)ひしに、この大納言(だいなごん)の参(まゐ)り給(たま)へるを、入道(にふだう)殿(どの)、「かの大納言(だいなごん)、いづれの船にか乗らるべき」と宣(のたま)はすれば、「和歌の船に乗り侍(はべ)らむ」と宣(のたま)ひて、よみ給(たま)へるぞかし、
  をぐら山あらしの風のさむければもみぢの錦(にしき)きぬ人ぞなき W
申(まう)しうけ給(たま)へるかひありてあそばしたりな。御みづからも、宣(のたま)ふなるは、「作文のにぞ乗るべかりける。さてかばかりの詩をつくりたらましかば、名のあがらむこともまさりなまし。口惜(くちを)しかりけるわざかな。さても、殿(との)の、『いづれにかと思(おも)ふ』と宣(のたま)はせしになむ、われながら心おごりせられし」と宣(のたま)ふなる。一事(ひとこと)のすぐるるだにあるに、かくいづれの道もぬけ出(い)で給(たま)ひけむは、いにしへも侍(はべ)らぬことなり。
 大臣(おとど)、永祚(えいそ)元年六月二十六日に、失(う)せ給(たま)ひて、贈(ぞう)正(じやう)一位になり給(たま)ふ。廉義公とぞ申(まう)しける。この大臣(おとど)の末、かくなり。
一 左大臣(さだいじん)師尹(もろまさ)
この大臣(おとど)、忠平のおとどの五郎、小一条(こいちでう)の大臣(おとど)と聞えさせ給(たま)ふめり。御母、九条殿に同じ。大臣の位にて三年。左大臣(さだいじん)にうつり給(たま)ふこと、西宮殿(にしのみやどの)、筑紫へ下り給(たま)ふ御替(かはり)なり。その御ことのみだれは、この小一条の大臣(おとど)のいひ出(い)で給(たま)へるとぞ、世の人聞えし。さて、その年も過(すぐ)さず失(う)せ給(たま)ふことをこそ申(まう)すめりしか。それも誠(まこと)にや。
御娘(むすめ)、村上の御時の宣耀殿(せんえうでん)の女御(にようご)、かたちをかしげにうつくしう御座(おは)しけり。内(うち)へ参(まゐ)り給(たま)ふとて、御車(みくるま)に奉(たてまつ)り給(たま)ひければ、わが御身は乗り給(たま)ひけれど、御(み)ぐしのすそは、母屋(もや)の柱のもとにぞ御座(おは)しける。一筋(すぢ)をみちのくにがみに置きたるに、いかにもすき見えずとぞ申(まう)し伝へためる。御目のしりの少しさがり給(たま)へるが、いとどらうたく御座(おは)するを、帝(みかど)、いとかしこくときめかさせ給(たま)ひて、かく仰(おほ)せられけるとか、
  生(い)きての世死にてののちの後(のち)の世もはねをかはせる鳥となりなむ W
御返し、女御(にようご)、
  秋になることの葉だにもかはらずはわれもかはせる枝となりなむ W
古今うかべ給(たま)へりと聞(き)かせ給(たま)ひて、帝(みかど)、こころみに本(ほん)をかくして、女御には見せさせ給(たま)はで、「やまとうたは」とあるを始(はじ)めにて、まへの句のことばを仰(おほ)せられつつ、問(と)はせ給(たま)ひけるに、いひたがへ給(たま)ふこと、詞(ことば)にても歌にてもなかりけり。かかることなむと、父大臣(おとど)は聞(き)き給(たま)ひて、御装束(しやうぞく)して、手洗(あら)ひなどして、所々(ところどころ)に誦経(ずきやう)などし、念じ入りてぞ御座(おは)しける。帝(みかど)、箏(しやう)の琴(こと)をめでたくあそばしけるも、御心(みこころ)にいれてをしへなど、かぎりなくときめき給(たま)ふに、冷泉院の御母后(ははきさき)失(う)せ給(たま)ひてこそ、なかなかこよなく覚(おぼ)え劣り給(たま)へりとは聞え給(たま)ひしか。「故(こ)宮(みや)のいみじうめざましく、やすらかぬ物(もの)に思(おぼ)したりしかば、思(おも)ひ出づるに、いとほしく、くやしきなり」とぞ仰(おほ)せられける。
 この女御の御腹に、八の宮とて男親王(をとこみこ)一人生れ給(たま)へり。御かたちなどは清げに御座(おは)しけれど、御心きはめたる白物(しれもの)とぞ、聞(き)き奉(たてまつ)りし。世の中のかしこき帝(みかど)の御ためしに、もろこしには堯(げう)・舜(しゆん)の帝(みかど)と申(まう)し、この国には延喜(えんぎ)・天暦(てんりやく)とこそは申(まう)すめれ。延喜(えんぎ)とは醍醐(だいご)の先帝(せんだい)、天暦とは村上の先帝の御ことなり。その帝(みかど)の御子(みこ)、小一条(こいちでう)の大臣(おとど)の御孫(まご)にて、しかしれ給(たま)へりける、いとどあやしきことなりかし。
その母女御の御せうと、済時(なりとき)の左大将と申(ま)しし、長徳(ちやうとく)元年己未(つちのとひつじ)四月二十三日失(う)せ給(たま)ひにき、御年五十五.この大将は、父大臣よりも御心(こころ)ざまわづらはしく、くせぐせしきおぼえまさりて、名聞(みやうもん)になどぞ御座(おは)せし。御妹の女御(にようご)殿(どの)に、村上の、琴をしへさせ給(たま)ひける御前(おまへ)に候(さぶら)ひ給(たま)ひて、聞(き)き給(たま)ふほどに、おのづから、われもその道の上手(じやうず)に、人にも思(おも)はれ給(たま)へりしを、おぼろけにて心よくならし給(たま)はず、さるべきことの折も、せめてそそのかされて、物(もの)一つばかりかきあはせなどし給(たま)ひしかば、「あまりけにくし」と、人にもいはれ給(たま)ひき。人の奉(たてまつ)りたる贄(にへ)などいふ物(もの)は、御前(おまへ)の庭にとりおかせ給(たま)ひて、夜(よる)は贄殿(にへどの)に納(をさ)め、昼はまたもとのやうにとり出(い)でつつ置かせなど、また人の奉(たてまつ)りかふるまでは置かせ給(たま)ひて、とりうごかすことはせさせ給(たま)はぬ、あまりやさしきことなりな。人などの参(まゐ)るにも、かくなむと見せ給(たま)ふ料(れう)なめり。昔人(むかしびと)はさることをよきにはしければ、そのままの有様(ありさま)をせさせ給(たま)ふとぞ。
かくやうにいみじう心ありて思(おぼ)したりしほどよりは、よしなしごとし給(たま)へりとぞ、人にいはれ給(たま)ふめりし。御甥(をひ)の八の宮に大饗(たいきやう)せさせ奉(たてまつ)り給(たま)ひて、上戸(じやうご)に御座(おは)すれば、人々酔(ゑ)はしてあそばむなど思(おぼ)して、「さるべき上達部(かんだちめ)たちとく出づる物(もの)ならば、『しばし』など、をかしきさまにとどめさせ給(たま)へ」と、よくをしへまうさせ給(たま)へりけり。さこそ人がらあやしくしれ給(たま)へれど、やむごとなき親王(みこ)の大事(だいじ)にし給(たま)ふことなれば、人々あまた参(まゐ)りたりしも古体(こたい)なりかし。されど、公事(おほやけごと)さしあはせたる日なれば、いそぎ出(い)で給(たま)ふに、まことさることありつ、と思(おぼ)し出(い)でて、大将の御方をあまたたび見やらせ給(たま)ふに、目をくはせ給(たま)へば、御おもていと赤くなりて、とみにえうち出(い)でさせ給(たま)はず、物(もの)も仰(おほ)せられで、にはかにおびゆるやうに、おどろおどろしくあららかに、人々の上(うへ)の衣(きぬ)の片袂(かたたもと)落ちぬばかり、とりかからせ給(たま)ふに、参(まゐ)りと参(まゐ)る上達部(かんだちめ)は、末の座まで見合せつつ、えしづめずやありけむ、顔けしきかはりつつ、とりあへずことにことをつけつつなむ急ぎ立ちぬ。この入道(にふだう)殿(どの)などは、若殿上人(わかてんじやうびと)にて御座(おは)しましけるほどなれば、ことすゑにてよくも御覧(ごらん)ぜざりけり。「ただ人々のほほゑみて出(い)で給(たま)ひしをぞ見し」とぞ、この頃、をかしかりしことに語り給(たま)ふなる。大将は、「なにせむにかかることをせさせ奉(たてまつ)りて、また、しか宣(のたま)へとも、をしへきこえさせつらむ」と、くやしく思(おぼ)すに、御色も青くなりてぞ御座(おは)しける。誠(まこと)に、親王(みこ)をば、もとよりさる人と知(し)りまうしたれば、これをしも、謗(そし)りまうさず、この殿(との)をぞ、「かかる御心を見る見る、せめてならであるべきことならぬに、かく見ぐるしき御有様(ありさま)を、あまた人に見せきこえ給(たま)へること」とぞ、謗りまうしし。いみじき心ある人と世覚(おぼ)え御座(おは)せし人の、口惜(くちを)しき辱号(ぞくがう)とり給(たま)へるよ。
この殿の御北の方にては、枇杷(びわ)の大納言(だいなごん)延光(のぶみつ)の御女(むすめ)ぞ御座(おは)する。女君(をんなぎみ)二所(ふたところ)・男君二人ぞ御座(おは)せし。女君(をんなぎみ)は、三条院の東宮(とうぐう)にて御座(おは)しましし折の女御(にようご)にて、宣耀殿と申(まう)して、いと時に御座(おは)しましし。男親王(をとこみこ)四所(よところ)・女宮二人、生れ給(たま)へりしほどに、東宮(とうぐう)、位につかせ給(たま)ひてまたの年、長和(ちやうわ)元年四月二十八日、后(きさき)にたち給(たま)ひて、皇后宮(くわうごうぐう)と申(まう)す。また、いま一所の女君(をんなぎみ)は、父殿(ちちとの)失(う)せ給(たま)ひにし後(のち)、御心(こころ)わざに、冷泉院の四(し)の親王(みこ)、師(そち)の宮(みや)と申(まう)す御上(うへ)にて、二三年ばかり御座(おは)せしほどに、宮、和泉式部(いづみしきぶ)に思(おぼ)しうつりにしかば、本意(ほい)なくて、小一条に帰らせ給(たま)ひにし後(のち)、この頃、聞(き)けば、心えぬ有様(ありさま)の、ことのほかなるにてこそ御座(おは)すなれ。
この殿の御おもておこし給(たま)ふは、皇后宮(くわうごうぐう)に御座(おは)しましき。この宮の御腹の一の親王(みこ)敦明(あつあきら)の親王とて、式部卿(しきぶきやう)と申(まう)ししほどに、長和五年正月二十九日、三条院おりさせ給(たま)へば、この式部卿(しきぶきやう)、東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ひにき。御年二十三。ただし、道理あることと、皆人思(おも)ひまうししほどに、二年ばかりありて、いかが思(おぼ)し召(め)しけむ、宮たちと申(まう)しし折、よろづに遊びならはせ給(たま)ひて、うるはしき御有様(ありさま)いとくるしく、いかでかからでもあらばや、と思(おぼ)しなられて、皇后宮(くわうごうぐう)に、「かくなむ思(おも)ひ侍(はべ)る」と申(まう)させ給(たま)ふを、「いかでかは、げにさもとは思(おぼ)さむずる。すべてあさましく、あるまじきこと」とのみ諌(いさ)めまうさせ給(たま)ふに、思(おぼ)しあまりて、入道(にふだう)殿(どの)に御消息(せうそこ)ありければ、参(まゐ)らせ給(たま)へるに、御物語こまやかにて、「この位去りて、ただ心やすくてあらむとなむ思(おも)ひ侍(はべ)る」と聞えさせ給(たま)ひければ、「さらにさらに承(うけたまは)らじ。さは、三条院の御末はたえねと思(おぼ)し召(め)し、おきてさせ給(たま)ふか。いとあさましくかなしき御ことなり。かかる御心のつかせ給(たま)ふは、ことごとならじ、ただ冷泉院の御物(もの)の怪(け)などの思(おも)はせ奉(たてまつ)るなり。さ思(おぼ)し召(め)すべきぞ」と啓(けい)し給(たま)ふに、「さらば、ただ本意(ほい)ある出家(すけ)にこそはあなれ」と宣(のたま)はするに、「さまで思(おぼ)し召(め)すことなれば、いかがはともかくも申(まう)さむ。内(うち)に奏し侍(はべ)りてを」と申(まう)させ給(たま)ふ折にぞ、御けしきいとよくならせ給(たま)ひにける。
さて、殿(との)、内(うち)に参(まゐ)り給(たま)ひて、大宮(おほみや)にも申(まう)させ給(たま)ひければ、いかがは聞(き)かせ給(たま)ひけむな。このたびの東宮(とうぐう)には式部卿(しきぶきやう)の宮をとこそは思(おぼ)し召(め)すべけれど、一条院の、「はかばかしき御後見(うしろみ)なければ、東宮(とうぐう)に当代(たうだい)を奉(たてまつ)るなり」と仰(おほ)せられしかば、これも同じことなりと思(おぼ)しさだめて、寛仁(くわんにん)元年八月五日こそは、九つにて、三の宮、東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ひて、
同じ月の二十三日にこそは、壺切(つぼきり)といふ太刀(たち)は、内より持(も)て参(まゐ)りしか。当代位につかせ給(たま)ひしかば、すなはち東宮(とうぐう)にも参(まゐ)るべかりしを、しかるべきにやありけむ、とかくさはりて、この年頃(としごろ)、内(うち)の納殿(をさめどの)に候(さぶら)ひつるぞかし。
寛仁三年八月二十八日、御年十一にて、御元服(げんぶく)せさせ給(たま)ひしか。前(まへ)の東宮(とうぐう)をば小一条院(こいちでうゐん)と申(まう)す。今の東宮(とうぐう)の御有様(ありさま)、申(まう)すかぎりなし。つひのこととは思(おも)ひながら、ただいまかくとは思(おも)ひかけざりしことなりかし。
小一条院、わが御心(みこころ)と、かく退(の)かせ給(たま)へることは、これを始(はじ)めとす。世始(はじ)まりて後(のち)、東宮(とうぐう)の御位とり下(さ)げられ給(たま)へることは、九代ばかりにやなりぬらむ。中に法師(ほふし)東宮(とうぐう)御座(おは)しけるこそ、失(う)せ給(たま)ひて後(のち)に、贈(ぞう)太上(ぞうだいじやう)天皇(てんわう)と申(まう)して、六十余国にいはひすゑられ給(たま)へれ。公家(おほやけ)にも知ろしめして、官物(くわんもつ)のはつをさき奉(たてまつ)らせ給(たま)ふめり。この院のかく思(おぼ)したちぬること、かつは殿下(でんか)の御報(ごはう)の早く御座(おは)しますにおされ給(たま)へるなるべし。また多くは元方(もとかた)の民部卿(みんぶきやう)の霊(りやう)のつかうまつるなり。」といへば、侍(さぶらひ)、「それもさるべきなり。このほどの御ことどもこそ、ことのほかに変りて侍(はべ)れ。なにがしは、いとくはしく承(うけたまは)ること侍(はべ)る物(もの)を」といへば、世継、「さも侍(はべ)るらむ。伝はりぬることは、いでいで承(うけたまは)らばや。ならひにしことなれば、物(もの)のなほ聞(き)かまほしく侍(はべ)るぞ」といふ。興(きよう)ありげに思(おも)ひたれば、
《侍》「ことの様体(やうだい)は、三条院の御座(おは)しましけるかぎりこそあれ、失(う)せさせ給(たま)ひにける後(のち)は、世(よ)の常(つね)の東宮(とうぐう)のやうにもなく、殿上人(てんじやうびと)参(まゐ)りて、御遊びせさせ給(たま)ひや、もてなしかしづきまうす人などもなく、いとつれづれに、まぎるるかたなく思(おぼ)し召(め)されけるままに、心やすかりし御有様(ありさま)のみ恋しく、ほけほけしきまでおぼえさせ給(たま)ひけれど、三条院御座(おは)しましつるかぎりは、院(ゐん)の殿上人(てんじやうびと)も参(まゐ)りや、御使もしげく参(まゐ)り通ひなどするに、人目もしげく、よろづ慰めさせ給(たま)ふを、院失(う)せ御座(おは)しましては、世の中の物(もの)おそろしく、大路(おほち)の道かひもいかがとのみわづらはしく、ふるまひにくきにより、宮司(みやづかさ)などだにも、参(まゐ)りつかまつることもかたくなりゆけば、ましてげすの心はいかがはあらむ、殿守司(とのもりづかさ)の下部(しもべ)、朝ぎよめつかうまつることなければ、庭の草もしげりまさりつつ、いとかたじけなき御すみかにてまします。
 まれまれ参(まゐ)りよる人々は、世に聞ゆることとて、「三の宮のかくて御座(おは)しますを、心ぐるしく殿(との)も大宮(おほみや)も思(おも)ひまうさせ給(たま)ふに、『もし、内(うち)に男宮(をとこみや)も出(い)で御座(おは)しましなば、いかがあらむ。さあらぬ先に東宮(とうぐう)にたて奉(たてまつ)らばや』となむ仰(おほ)せらるなる。されば、おしてとられさせ給(たま)ふべかむなり」などのみ申(まう)すを、誠(まこと)にしもあらざらめど、げにことのさまも、よもとおぼゆまじければにや、聞(き)かせ給(たま)ふ御心地(ここち)は、いとどうきたるやうに思(おぼ)し召(め)されて、ひたぶるにとられむよりは、我(われ)とや退(の)きなまし、と思(おぼ)し召(め)すに、また、「高松殿(たかまつどの)の御匣殿(みくしげどの)参(まゐ)らせ給(たま)ひ、殿(との)、はなやかにもてなし奉(たてまつ)らせ給(たま)ふべかなり」とも、例のことなれば、世(よ)の人(ひと)のさまざま定め申(まう)すを、皇后宮(くわうごうぐう)、聞(き)かせ給(たま)ひて、いみじう喜ばせ給(たま)ふを、東宮(とうぐう)は、いとよかるべきことなれど、さだにあらば、いとどわが思(おも)ふことえせじ、なほかくてえあるまじく思(おぼ)されて、御母宮に、「しかじかなむ思(おも)ふ」と聞えまうさせ給(たま)へば、「さらなりや、いといとあるまじき御ことなり。御匣殿の御ことをこそ、まことならば、すすみきこえさせ給(たま)はめ。さらにさらに思(おぼ)しよるまじきことなり」と聞えさせ給(たま)ひて、御物(もの)の怪(け)のするなりと、御祈(いのり)どもせさせ給(たま)へど、さらに思(おぼ)しとどまらぬ御心(みこころ)のうちを、いかでか世の人も聞(き)きけむ、「さてなむ、『御匣殿(みくしげどの)参(まゐ)らせ奉(たてまつ)り給(たま)へ』とも聞えさせ給(たま)ふべかなる」などいふこと、殿(との)の辺(へん)にも聞ゆれば、誠(まこと)にさも思(おぼ)しゆるぎて宣(のたま)はせば、いかがすべからむ、など思(おぼ)す。
さて東宮(とうぐう)はつひに思(おぼ)し召(め)したちぬ。後(のち)に御匣殿の御こともいはむに、なかなかそれはなどかなからむなど、よきかたざまに思(おぼ)しなしけむ、不覚(ふかく)のことなりや。
壺切(つぼきり)などのこと、僻事(ひがごと)に候(さぶら)ふめり。故(こ)三条院たびたび申(まう)させ給(たま)ひしかども、とかく申(まう)しやりて奉(たてまつ)らせざりしとこそ聞(き)き侍(はべ)りしか。されば、故(こ)院も、「さむばれ、なくともたてでは」とて、御座(おは)しまししなり。しかるべきとは、おのづからのことを申(まう)させて。
皇后宮(くわうごうぐう)にもかくとも申(まう)し給(たま)はず、ただ御心のままに、殿(との)に御消息(せうそこ)聞えむと思(おぼ)し召(め)すに、むつましうさるべき人も物(もの)し給(たま)はねば、中宮(ちゆうぐうの)権大夫(ごんのだいぶ)殿(ちゆうぐうごんのだいぶどの)の御座(おは)します四条の坊門(ばうもん)と西洞院(にしのとうゐん)とは宮近きぞかし、そればかりを、こと人よりはとや思(おぼ)し召(め)しよりけむ、蔵人(くらうど)なにがしを御使にて、「あからさまに参(まゐ)らせ給(たま)へ」とあるを、思(おぼ)しもかけぬことなれば、おどろき給(たま)ひて、「なにしに召(め)すぞ」と問(と)ひ給(たま)へば、「申(まう)させ給(たま)ふべきことの候(さぶら)ふにこそ」と申(まう)すを、この聞ゆることどもにや、と思(おぼ)せど、退(の)かせ給(たま)ふことは、さりともよにあらじ、御匣殿(みくしげどの)の御ことならむ、と思(おぼ)す。いかにもわが心ひとつには、思(おも)ふべきことならねば、「おどろきながら参(まゐ)り候(さぶら)ふべきを、大臣(おとど)に案内(あない)申(まう)してなむ候(さぶら)ふべき」と申(まう)し給(たま)ひて、まづ、殿(との)に参(まゐ)り給(たま)へり。「東宮(とうぐう)より、しかじかなむ仰(おほ)せられたる」と申(まう)し給(たま)へば、殿もおどろき給(たま)ひて、「何事ならむ」と仰(おほ)せられながら、大夫殿(だいぶどの)と同じやうにぞ思(おぼ)しよらせ給(たま)ひける。誠(まこと)に御匣殿(みくしげどの)の御こと宣(のたま)はせむを、いなびまうさむも便(びん)なし。参(まゐ)り給(たま)ひなば、また、さやうにあやしくてはあらせ奉(たてまつ)るべきならず。また、さては世の人の申(まう)すなるやうに、東宮(とうぐう)退(の)かせ給(たま)はむの御思(おも)ひあるべきならずかし、とは思(おぼ)せど、「しかわざと召(め)さむには、いかでか参(まゐ)らではあらむ。いかにも、宣(のたま)はせむことを聞(き)くべきなり」と申(まう)させ給(たま)へば、参(まゐ)らせ給(たま)ふほど、日も暮れぬ。
 陣(ぢん)に左大臣(さだいじん)殿(どの)の御車(みくるま)や、御前(ごぜん)どものあるを、なまむつかしと思(おぼ)し召(め)せど、帰らせ給(たま)ふべきならねば、殿上(てんじやう)に上(のぼ)らせ給(たま)ひて、「参(まゐ)りたるよし啓(けい)せよ」と、蔵人(くらうど)に宣(のたま)はすれば、「おほい殿の、御前(おまへ)に候(さぶら)はせ給(たま)へば、ただいまはえなむ申(まう)し候(さぶら)はぬ」と聞えさするほど、見まはさせ給(たま)ふに、庭の草もいと深く、殿上の有様(ありさま)も、東宮(とうぐう)の御座(おは)しますとは見えず、あさましうかたじけなげなり。おほい殿出(い)で給(たま)ひて、かくと啓すれば、朝餉(あさがれひ)の方に出(い)でさせ給(たま)ひて、召(め)しあれば、参(まゐ)り給(たま)へり。「いと近く、こち」と仰(おほ)せられて、「物(もの)せらるることもなきに、案内(あない)するもはばかり多かれど、大臣(おとど)に聞ゆべきことのあるを、伝へ物(もの)すべき人のなきに、間近(まぢか)きほどなれば、たよりにもと思(おも)ひて消息(せうそこ)し聞えつる。その旨(むね)は、かくて侍(はべ)るこそは本意(ほい)あることと思(おも)ひ、故(こ)院のしおかせ給(たま)へることをたがへ奉(たてまつ)らむも、かたがたにはばかり思(おも)はぬにあらねど、かくてあるなむ、思(おも)ひつづくるに、罪深くもおぼゆる。内(うち)の御ゆく末はいと遥かに物(もの)せさせ給(たま)ふ。いつともなくて、はかなき世に命も知(し)りがたし。この有様(ありさま)退きて、心に任(まか)せて行ひもし、物詣(ものまうで)をもし、やすらかにてなむあらまほしきを、むげに前東宮(さきのとうぐう)にてあらむは、見ぐるしかるべくなむ。院号(ゐんがう)給(たま)ひて、年(とし)に受領(ずりやう)などありてあらまほしきを、いかなるべきことにかと、伝へ聞えられよ」と仰(おほ)せられければ、かしこまりてまかでさせ給(たま)ひぬ。
 その夜はふけにければ、つとめてぞ、殿(との)に参(まゐ)らせ給(たま)へるに、内へ参(まゐ)らせ給(たま)はむとて、御装束(さうぞく)のほどなれば、え申(まう)させ給(たま)はず。おほかたには御供(とも)に参(まゐ)るべき人々、さらぬも、出(い)でさせ給(たま)はむに見参(げざん)せむと、多く参(まゐ)り集りて、さわがしげなれば、御車(みくるま)に奉(たてまつ)りに御座(おは)しまさむに申(まう)さむとて、そのほど、寝殿(しんでん)の隅(すみ)の間(ま)の格子(かうし)によりかかりてゐさせ給(たま)へるを、源民部卿(げんみんぶきやう)寄り御座(おは)して、「などかくては御座(おは)します」と聞えさせ給(たま)へば、殿には隠しきこゆべきことにもあらねば、「しかじかのことのあるを、人々も候(さぶら)へば、え申(まう)さぬなり」と宣(のたま)はするに、御けしきうち変りて、この殿もおどろき給(たま)ふ。「いみじくかしこきことにこそあなれ。ただとく聞(き)かせ奉(たてまつ)り給(たま)へ。内に参(まゐ)らせ給(たま)ひなば、いとど人がちにて、え申(まう)させ給(たま)はじ」とあれば、げにと思(おぼ)して、御座(おは)します方に参(まゐ)り給(たま)へれば、さならむと御心得(こころえ)させ給(たま)ひて、隅の間に出(い)でさせ給(たま)ひて、「春宮(とうぐう)に参(まゐ)りたりつるか」と問(と)はせ給(たま)へば、よべの御消息(せうそこ)くはしく申(まう)させ給(たま)ふに、さらなりや、おろかに思(おぼ)し召(め)さむやは。おしておろし奉(たてまつ)らむこと、はばかり思(おぼ)し召(め)しつるに、かかることの出(い)で来(き)ぬる御よろこびなほつきせず。まづいみじかりける大宮(おほみや)の御宿世(すくせ)かな、と思(おぼ)し召(め)す。
 民部卿殿に申(まう)しあはせさせ給(たま)へば、「ただとくとくせさせ給(たま)ふべきなり。なにか吉日(よきひ)をも問(と)はせ給(たま)ふ。少しも延びば、思(おぼ)しかへして、さらでありなむとあらむをば、いかがはせさせ給(たま)はむ」と申(まう)させ給(たま)へば、さることと思(おぼ)して、御暦(こよみ)御覧(ごらん)ずるに、今日あしき日にもあらざりけり。やがて関白(くわんばく)殿も参(まゐ)り給(たま)へるほどにて、「とくとく」と、そそのかしまうさせ給(たま)ふに、「まづいかにも大宮に申(まう)してこそは」とて、内(うち)に御座(おは)しますほどなれば、参(まゐ)らせ給(たま)ひて、「かくなむ」と聞(き)かせ奉(たてまつ)らせ給(たま)へば、まして女の御心はいかが思(おぼ)し召(め)されけむ。それよりぞ、東宮(とうぐう)に参(まゐ)らせ給(たま)ひて。
 御子(みこ)どもの殿(との)ばら、また例(れい)も御供(とも)に参(まゐ)り給(たま)ふ上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)引き具(ぐ)せさせ給(たま)へれば、いとこちたく、ひびきことにて御座(おは)しますを、待ちつけ給(たま)へる宮の御心地(ここち)は、さりとも、少しすずろはしく思(おぼ)し召(め)されけむかし。
 心も知(し)らぬ人は、つゆ参(まゐ)りよる人だになきに、昨日(きのふ)、二位(にゐの)中将(ちゆうじやう)殿(どの)の参(まゐ)り給(たま)へりしだにあやしと思(おも)ふに、また今日、かくおびただしく、賀茂詣(かもまうで)などのやうに、御先(みさき)の音もおどろおどろしうひびきて参(まゐ)らせ給(たま)へるを、いかなることぞとあきるるに、少しよろしきほどのものは、「御匣殿(みくしげどの)の御こと申(ま)させ給(たま)ふなめり」と思(おも)ふは、さも似つかはしや。むげに思(おも)ひやりなき際(きは)のものは、またわが心にかかるままに、「内のいかに御座(おは)しますぞ」などまで、心さわぎしあへりけるこそ、あさましうゆゆしけれ。母宮(ははみや)だにえ知(し)らせ給(たま)はざりけり。かくこの御方に物(もの)さわがしきを、いかなることぞとあやしう思(おぼ)して、案内(あない)しまうさせ給(たま)へど、例(れい)の女房(にようばう)の参(まゐ)る道を、かためさせ給(たま)ひてけり。
殿(との)には、年頃(としごろ)思(おぼ)し召(め)しつることなどこまかに聞えむと、心強く思(おぼ)し召(め)しつれど、誠(まこと)になりぬる折は、いかになりぬることぞと、さすがに御心さわがせ給(たま)ひぬ。向(むか)ひきこえさせ給(たま)ひては、かたがたに臆(おく)せられ給(たま)ひにけるにや。ただ昨日のおなじさまに、なかなか言少(ことずく)なに仰(おほ)せらるる。御返りは、「さりとも、いかにかくは思(おぼ)し召(め)しよりぬるぞ」などやうに申(まう)させ給(たま)ひけむかしな。御けしきの心ぐるしさを、かつは見奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、少しおし拭(のご)はせ給(たま)ひて、「さらば、今日、吉日(よきひ)なり」とて、院(ゐん)になし奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。やがてことども始めさせ給(たま)ひぬ。よろづのこと定め行はせ給(たま)ふ。判官代(はうぐわんだい)には、宮司(みやづかさ)ども・蔵人(くらうど)などかはるべきにあらず。別当(べたう)には中宮(ちゆうぐうの)権大夫(ごんのだいぶ)をなし奉(たてまつ)り給(たま)へれば、おりて拝(はい)しまうさせ給(たま)ふ。ことども定まりはてぬれば、出(い)でさせ給(たま)ひぬ。
 いとあはれに侍(はべ)りけることは、殿のまだ候(さぶら)はせ給(たま)ひける時、母宮(ははみや)の御方より、いづかたの道より尋ね参(まゐ)りたるにか、あらはに御覧(ごらん)ずるも知(し)らぬけしきにて、いとあやしげなる姿したる女房(にようばう)の、わななくわななく、「いかにかくはせさせ給(たま)へるぞ」と、声もかはりて申(まう)しつるなむ、「あはれにも、またをかしうも」とこそ仰(おほ)せられけれ。勅使(ちよくし)こそ誰(たれ)ともたしかにも聞(き)き侍(はべ)らね。禄(ろく)など、にはかにて、いかにせられけむ」といへば、
《世継》「殿こそはせさせ給(たま)ひけめ。さばかりのことになりて、逗留(とうりう)せさせ給(たま)はむやは」
《侍》「火焚屋(ひたきや)・陣屋(ぢんや)などとりやられけるほどにこそ、え堪(た)へずしのび音(ね)泣く人々侍(はべ)りけれ。まして皇后宮(くわうごうぐう)・堀河(ほりかは)の女御殿(にようごどの)など、さばかり心深(こころぶか)く御座(おは)します御心どもに、いかばかり思(おぼ)し召(め)しけむとおぼえ侍(はべ)りし。世の中の人、「女御殿、
  雲居(くもゐ)まで立ちのぼるべき煙(けぶり)かと見えし思(おも)ひのほかにもあるかな W といふ歌よみ給(たま)へり」など申(まう)すこそ、さらによもとおぼゆれ。いとさばかりのことに、和歌のすぢ思(おぼ)しよらじかしな。御心のうちには、おのづから後にも、おぼえさせ給(たま)ふやうもありけめど、人の聞(き)き伝ふるばかりは、いかがありけむ」といへば、翁、
《世継》「げにそれはさることに侍(はべ)れど、昔もいみじきことの折、かかることいと多くこそ聞え侍(はべ)りしか」
とてささめくは、いかなることにか。
《侍》「さて、かくせめおろし奉(たてまつ)り給(たま)ひては、また御婿にとり奉(たてまつ)らせ給(たま)ふほど、もてかしづき奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ御有様(ありさま)、誠(まこと)に御心もなぐさませ給(たま)ふばかりこそ聞え侍(はべ)りしか。おもの参(まゐ)らする折は、台盤所に御座(おは)しまして、御台や盤などまで手づから拭はせ給(たま)ふ。なにをも召(め)し試みつつなむ参(まゐ)らせ給(たま)ひける。御障子口までもて御座(おは)しまして、女房に給(たま)はせ、殿上に出すほどにも立ちそひて、よかるべきやうにをしへなど、これこそは御本意よと、あはれにぞ。「このきはに、故(こ)式部卿(しきぶきやう)の宮の御ことありけり」といふ、そらごとなり。なにゆゑ、あることにもあらなくに、昔のことどもこそ侍(はべ)れ、御座(おは)します人の御こと申(まう)す、便なきことなりかし」
《世継》「さて、式部卿(しきぶきやう)の宮と申(まう)すは、故(こ)一条院の一の皇子に御座(おは)します。その宮をば、年頃、帥の宮と申(まう)ししを、小一条院、式部卿(しきぶきやう)にて御座(おは)しまししが、東宮(とうぐう)にたち給(たま)ひて、あく所に、帥をば退かせ給(たま)ひて、式部卿(しきぶきやう)とは申(まう)ししぞかし。その後の度の東宮(とうぐう)にもはづれ給(たま)ひて、思(おぼ)し嘆きしほどに失(う)せ給(たま)ひにし後、またこの小一条院の御さしつぎの二の宮敦儀の親王をこそは、式部卿(しきぶきやう)とは申(まう)すめれ。また次の三の宮敦平の親王を、中務の宮と申(まう)す。次の四の宮師明の親王と申(まう)す。幼くより出家して、仁和寺の僧正のかしづきものにて御座(おは)しますめり。この宮たちの御妹の女宮たち二人、一所は、やがて三条院の御時の斎宮にて下らせ給(たま)ひにしを、上らせ給(たま)ひて後、荒三位道雅の君に名だたせ給(たま)ひにければ、三条院も御悩の折、いとあさましきことに思(おぼ)し嘆きて、尼になし給(たま)ひて失(う)せ給(たま)ひにき。いま一所の女宮まだ御座(おは)します。
 小一条の大将の御姫君ぞ、ただいまの皇后宮(くわうごうぐう)と申(まう)しつるよ。
三条院の御時に、后にたて奉(たてまつ)らむと思(おぼ)しける。こちよりては、大納言(だいなごん)の女の、后にたつ例なかりければ、御父大納言(だいなごん)を贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)になしてこそは、后にたてさせ給(たま)ひてしか。されば皇后宮(くわうごうぐう)いとめでたく御座(おは)しますめり。御せうと、一人は侍従の入道(にふだう)、いま一所は大蔵卿通任の君こそは御座(おは)すめれ。
また、伊予の入道(にふだう)もそれぞかし。
いま一所の女君(をんなぎみ)こそは、いとはなはだしく心憂(こころう)き御有様(ありさま)にて御座(おは)すめれ。父大将のとらせ給(たま)へりける処分(そうぶん)の領所(らうしよ)、近江(あふみ)にありけるを、人にとられければ、すべき様(やう)なくて、かばかりになりぬれば、物(もの)のはづかしさも知(し)られずや思(おも)はれけむ、夜(よる)、かちより御堂(みだう)に参(まゐ)りて、うれへ申(まう)し給(たま)ひしはとよ。
 殿の御前(おまへ)は、阿弥陀堂(あみだだう)の仏の御前(おまへ)に念誦(ねんず)して御座(おは)しますに、夜いたくふけにければ、御脇息(けふそく)によりかかりて、少し眠(ねぶ)らせ給(たま)へるに、犬防(いぬふせぎ)のもとに、人のけはひのしければ、あやしと思(おぼ)し召(め)しけるに、女のけはひにて、忍びやかに、「物(もの)申(まう)し候(さぶら)はむ」と申(まう)すを、御僻耳(ひがみみ)かと思(おぼ)し召(め)すに、あまたたびになりぬれば、まことなりけり、と思(おぼ)し召(め)して、いとあやしくはあれど、「誰(た)そ、あれは」と問(と)はせ給(たま)ふに、「しかじかの人の、申(まう)すべきこと候(さぶら)ひて、参(まゐ)りたるなり」と申(まう)しければ、いといとあさましくは思(おぼ)し召(め)せど、あらく仰(おほ)せられけむも、さすがにいとほしくて、「何事(なにごと)ぞ」と問(と)はせ給(たま)ひければ、「知ろしめしたることに候(さぶら)ふらむ」とて、ことの有様(ありさま)こまかに申(まう)し給(たま)ふに、いとあはれに思(おぼ)し召(め)して、「さらなり、みな聞(き)きたることなり。いと不便(ふびん)なることにこそ侍(はべ)るなれ。いま、しかすまじきよし、すみやかにいはせむ。かくいましたること、あるまじきことなり。人してこそいはせ給(たま)はめ。とく帰られね」と仰(おほ)せられければ、「さこそはかへすがへす思(おも)ひ給(たま)へ候(さぶら)ひつれど、申(まう)しつぐべき人のさらに候(さぶら)はねば、さりともあはれとは仰(おほ)せ言(ごと)候(さぶら)ひなむ、と思(おも)ひ給(たま)へて、参(まゐ)り候(さぶら)ひながらも、いみじうつつましう候(さぶら)ひつるに、かく仰(おほ)せらるる、申(まう)しやるかたなくうれしく候(さぶら)ふ」とて、手をすりて泣くけはひに、ゆゆしくも、あはれにも思(おぼ)し召(め)されて、殿(との)も泣かせ給(たま)ひにけり。
 出(い)で給(たま)ふ途(みち)に、南大門(なんだいもん)に人々ゐたる中を御座(おは)しければ、なにがしぬしの引(ひ)き留(とど)められけるこそ、いと無愛(ぶあい)のことなりや。後(のち)に、殿も聞(き)かせ給(たま)ひければ、いみじうむつからせ給(たま)ひて、いとひさしく御かしこまりにていましき。さて御うれへの所は、長く論あるまじく、この人の領(らう)にてあるべきよし、仰(おほ)せ下されにければ、もとよりいとしたたかに領じ給(たま)ふ、きはめていとよし。「さばかりになりなむには、物(もの)の恥(はぢ)しらでありなむ。かしこく申(まう)し給(たま)へる、いとよきこと」と、口々ほめきこえしこそ、なかなかにおぼえ侍(はべ)りしか。大門にてとらへたりし人は、式部(しきぶの)大夫(たいふ)源(みなもとの)政成(まさなり)が父なり。


〔大鏡 中〕

一 右大臣師輔(もろすけ)
《世継》「この大臣(おとど)は、忠平(ただひら)の大臣(おとど)の二郎君、御母、右大臣源能有(みなもとのよしあり)の御女(むすめ)、いはゆる、九条殿(くでうどの)に御座(おは)します。公卿にて二十六年、大臣の位にて十四年ぞ御座(おは)しましし。御孫(まご)にて、東宮(とうぐう)、また、四・五の宮を見おき奉(たてまつ)りてかくれ給(たま)ひけむは、きはめて口惜(くちを)しき御ことぞや。御年まだ六十(むそじ)にもたらせ給(たま)はねば、ゆく末はるかに、ゆかしきこと多かるべきほどよ」とせめてささやく物(もの)から、手を打ちてあふぐ。
《世継》「その殿(との)の御公達(きんだち)十一人、女五六人ぞ、御座(おは)しましし。第一の御女、村上の先帝(せんだい)の御時の女御(にようご)、多くの女御、御息所(みやすどころ)のなかに、すぐれてめでたく御座(おは)しましき。帝(みかど)も、この女御殿にはいみじう怖(お)ぢまうさせ給(たま)ひ、ありがたきことをも奏(そう)せさせ給(たま)ふことをば、いなびさせ給(たま)ふべくもあらざりけり。いはむや自余(じよ)のことをば申(まう)すべきならず。少し御心(みこころ)さがなく、御物(もの)怨(うら)みなどせさせ給(たま)ふやうにぞ、世の人にいはれ御座(おは)しましし。帝(みかど)をもつねにふすべまうさせ給(たま)ひて、いかなることのありける折にか、ようさりわたらせ御座(おは)しましたりけるを、御格子(みかうし)を叩(たた)かせ給(たま)ひけれど、あけさせ給(たま)はざりければ、叩きわづらはせ給(たま)ひて、「女房に、『などあけぬぞ』と問(と)へ」と、なにがしのぬしの、童殿上(わらはてんじやう)したるが御供(とも)なるに仰(おほ)せられければ、あきたる所やあると、ここかしこ見たうびけれど、さるべき方は皆たてられて、細殿(ほそどの)の口のみあきたるに、人のけはひしければ、寄りてかくとのたうびければ、いらへはともかくもせで、いみじう笑ひければ、参(まゐ)りて、ありつるやうを奏しければ、帝(みかど)もうち笑はせ給(たま)ひて、「例(れい)のことななり」と仰(おほ)せられてぞ、帰りわたらせ御座(おは)しましける。この童は、伊賀前司資国(いがのぜんじすけくに)が祖父(おほじ)なり。
 藤壷(ふぢつぼ)・弘徽殿(こきでん)との上(うへ)の御局(みつぼね)は、ほどもなく近きに、藤壷の方には小一条(いちでう)の女御、弘徽殿にはこの后(きさき)の上(のぼ)りて御座(おは)しましあへるを、いとやすからず、えやしづめがたく御座(おは)しましけむ、中隔(なかへだて)の壁に穴をあけて、のぞかせ給(たま)ひけるに、女御の御かたち、いとうつくしくめでたく御座(おは)しましければ、「むべ、ときめくにこそありけれ」と御覧(ごらん)ずるに、いとど心やましくならせ給(たま)ひて、穴よりとほるばかりの土器(かはらけ)のわれして、打たせ給(たま)へりければ、帝(みかど)御座(おは)しますほどにて、こればかりはえたへさせ給(たま)はずむつかり御座(おは)しまして、「かうやうのことは、女房(にようばう)はせじ。伊尹(これまさ)・兼通(かねみち)・兼家(かねいへ)などが、いひもよほして、せさするならむ」と仰(おほ)せられて、皆、殿上(てんじやう)に候(さぶら)はせ給(たま)ふほどなりければ、三所(みところ)ながら、かしこまらせ給(たま)へりしかば、その折に、いとどおほきに腹立(はらだ)たせ給(たま)ひて、「わたらせ給(たま)へ」と申(まう)させ給(たま)へば、思(おも)ふにこのことならむ、と思(おぼ)し召(め)して、わたらせ給(たま)はぬを、たびたび、「なほなほ」と御消息(しようそく)ありければ、わたらずは、いとどこそむつからめと、おそろしくいとほしく思(おぼ)し召(め)して、御座(おは)しましけるに、「いかでかかることはせさせ給(たま)ふぞ。いみじからむさかさまの罪ありとも、この人々をば思(おぼ)しゆるすべきなり。いはむや、まろが方(かた)ざまにてかくせさせ給(たま)ふは、いとあさましう心憂(こころう)きことなり。ただいま召(め)し返せ」と申(まう)させ給(たま)ひければ、「いかでかただいまはゆるさむ。音聞(おとぎ)き見ぐるしきことなり」と聞えさせ給(たま)ひけるを、「さらにあるべきことならず」と、せめまうさせ給(たま)ひければ、「さらば」とて、帰りわたらせ給(たま)ふを、「御座(おは)しましなば、ただいまもゆるさせ給(たま)はじ。ただこなたにてを召(め)せ」とて、御衣(おんぞ)をとらへ奉(たてまつ)りて、立て奉(たてまつ)らせ給(たま)はざりければ、いかがはせむと思(おぼ)し召(め)して、この御方へ職事(しきじ)召(め)してぞ、参(まゐ)るべきよしの宣旨(せんじ)下させ給(たま)ひける。これのみにもあらず、斯様(かやう)なることども多く聞え侍(はべ)りしかは。
 おほかたの御心(みこころ)はいとひろく、人のためなどにも思(おも)ひやり御座(おは)しまし、あたりあたりに、あるべきほどほど過ぐさせ給(たま)はず、御かへりみあり。かたへの女御(にようご)たちの御ためも、かつは情(なさけ)あり、御みやびをかはさせ給(たま)ふに、心よりほかにあまらせ給(たま)ひぬる時の御物(もの)妬(ねた)みのかたにや、いかが思(おぼ)し召(め)しけむ。この小一条の女御は、いとかく御かたちのめでたく御座(おは)すればにや、御ゆるされにすぎたる折々の出(い)でくるより、かかることもあるにこそ。その道は心ばへにもよらぬことにやな。斯様(かやう)のことまでは申(まう)さじ、いとかたじけなし。
 おほかた、殿上人(てんじやうびと)・女房(にようばう)、さるまじき女官(にようくわん)までも、さるべき折のとぶらひせさせ給(たま)ひ、いかなる折も、かならず見過(みすぐ)し聞(き)き放(はな)たせ給(たま)はず、御覧じ入れて、かへりみさせ給(たま)ひ、まして、御はらからたちをば、さらなりや。御兄(あに)をば親のやうに頼(たの)みまうさせ給(たま)ひ、御弟(おとと)をば子のごとくにはぐくみ給(たま)ひし御心(こころ)おきてぞや。されば、失(う)せ御座(おは)しましたりし、ことわりとはいひながら、田舎世界(ゐなかせかい)まで聞(き)きつぎ奉(たてまつ)りて、惜しみ悲しびまうししか。帝(みかど)、よろづの政(まつりごと)をば聞(きこ)えさせ合(あは)せてせさせ給(たま)ひけるに、人のため嘆きとあるべきことをば直(なほ)させ給(たま)ふ、よろこびとなりぬべきことをばそそのかし申(まう)させ給(たま)ひ、おのづからおほやけ聞し召(め)してあしかりぬべきことなど人の申(まう)すをば、御口(くち)より出(いだ)させ給(たま)はず。斯様(かやう)なる御心おもむけのありがたく御座(おは)しませば、御祈(いのり)ともなりて、ながく栄え御座(おは)しますにこそあべかめれ。
 冷泉院・円融院・為平(ためひら)の式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)と、女宮(をんなみや)四人との御母后(ははきさき)にて、またならびなく御座(おは)しましき。帝(みかど)・春宮(とうぐう)と申(まう)し、代代(よよ)の関白(くわんばく)・摂政と申(まう)すも、多くは、ただこの九条殿(くでうどの)の御一筋(ひとすぢ)なり。男宮(をとこみや)たちの御有様(ありさま)は、代々の帝(みかど)の御ことなれば、かへすがへすまたはいかが申(ま)し侍(はべ)らむ。
この后の御腹には、式部卿(しきぶきやう)の宮こそは、冷泉院の御次に、まづ東宮(とうぐう)にもたち給(たま)ふべきに、西宮殿(にしみやどの)の御婿(むこ)に御座(おは)しますによりて、御弟の次の宮にひき越されさせ給(たま)へるほどなどのことども、いといみじく侍(はべ)る。そのゆゑは、式部卿(しきぶきやう)の宮、帝(みかど)にゐさせ給(たま)ひなば、西宮殿の族(ぞう)に世の中うつりて、源氏(げんじ)の御栄えになりぬべければ、御舅(をぢ)たちの魂(たましひ)深く、非道(ひだう)に御弟をば引き越しまうさせ奉(たてまつ)らせ給(たま)へるぞかし。世の中にも宮のうちにも、殿(との)ばらの思(おぼ)しかまへけるをば、いかでかは知(し)らむ。次第のままにこそはと、式部卿(しきぶきやう)の宮の御ことをば思(おも)ひまうしたりしに、にはかに、「若宮(わかみや)の御(み)ぐしかいけづり給(たま)へ」など、御乳母(めのと)たちに仰(おほ)せられて、大入道(おほにふだう)殿(どの)、御車(みくるま)にうち乗せ奉(たてまつ)りて、北(きた)の陣(ぢん)よりなむ御座(おは)しましけるなどこそ、伝へ承(うけたまは)りしか。されば、道理あるべき御方人(かたうど)たちは、いかがは思(おぼ)されけむ。その頃、宮たちあまた御座(おは)せしかど、ことしもあれ、威儀(ゐぎ)の親王(みこ)をさへせさせ給(たま)へりしよ。見奉(たてまつ)りける人も、あはれなることにこそ申(まう)しけれ。そのほど、西宮殿などの御心地(ここち)よな、いかが思(おぼ)しけむ。さてぞかし、いとおそろしく悲しき御ことども出(い)できにしは。斯様(かやう)に申(まう)すも、なかなかいとどことおろかなりや。かくやうのことは、人中(ひとなか)にて、下臈(げらふ)の申(まう)すにいとかたじけなし、とどめ候(さぶら)ひなむ。されどなほ、われながら無愛(ぶあい)のものにて、おぼえ候(さぶら)ふにや。
 式部卿(しきぶきやう)の宮、わが御身の口惜(くちを)しく本意(ほい)なきを、思(おぼ)しくづほれても御座(おは)しまさで、なほ末の世に、花山院の帝(みかど)は、冷泉院の皇子(みこ)に御座(おは)しませば、御甥(をひ)ぞかし、その御時に、御女奉(たてまつ)り給(たま)ひて、御みづからもつねに参(まゐ)りなどし給(たま)ひけるこそ、「さらでもありぬべけれ」と、世の人もいみじう謗(そし)りまうしけり。さりとても、御継(つぎ)などの御座(おは)しまさば、いにしへの御本意のかなふべかりけるとも見ゆべきに、帝(みかど)、出家(すけ)し給(たま)ひなどせさせ給(たま)ひて後(のち)、また今の小野宮(をののみや)の右大臣殿の北の方にならせ給(たま)へりしよ、いとあやしかりし御ことどもぞかし。その女御殿(にようごどの)には、道信(みちのぶ)の中将(ちゆうじやう)の君も御消息(せうそこ)聞え給(たま)ひけるに、それはさもなくて、かの大臣(おとゞ)に具(ぐ)し給(たま)ひければ、中将(ちゆうじやう)の申(まう)し給(たま)ふぞかし、「憂(う)きは身にしむ心地(ここち)こそすれ」とは、今に人の口にのりたる秀歌(しうか)にて侍(はべ)めり。
 まこと、この式部卿(しきぶきやう)の宮は、世にあはせ給(たま)へるかひある折一度御座(おは)しましたるは、御子(ね)の日(ひ)ぞかし。御弟(おとと)の皇子たちもまだ幼く御座(おは)しまして、かの宮おとなに御座(おは)しますほどなれば、世覚(おぼ)え(よおぼえ)・帝(みかど)の御もてなしもことに思(おも)ひまうさせ給(たま)ふあまりに、その日こそは、御供の上達部(かんだちめ)・殿上人などの狩装束(かりさうぞく)・馬鞍(うまくら)まで内裏(だいり)のうちに召(め)し入れて御覧(ごらん)ずるは、またなきこととこそは承(うけたまは)れ。滝口(たきぐち)をはなちて、布衣(ほい)のもの、内に参(まゐ)ることは、かしこき君の御時も、かかることの侍(はべ)りけるにや。おほかたいみじかりし日の見物ぞかし。物見車(ものみぐるま)、大宮(おほみや)のぼりに所やは侍(はべ)りしとよ。さばかりのことこそ、この世にはえ候(さぶら)はね。
 殿(との)ばらの、宣(のたま)ひけるは、大路(おほぢ)わたることは常(つね)なり。藤壷(ふぢつぼ)の上(うへ)の御局(みつぼね)につぶとえもいはぬ打出(うちいで)ども、わざとなくこぼれ出(い)でて、后(きさい)の宮(みや)・内(うち)の御前(おまへ)などさしならび、御簾(みす)のうちに御座(おは)しまして御覧ぜし御前(おまへ)通りしなむ、たふれぬべき心地(ここち)せし」とこそ宣(のたま)ひけれ。またそれのみかは、大路にも宮の出車(いだしぐるま)十(とを)ばかり引きつづけて立てられたりしは。一町かねてあたりに人もかけらず、滝口・侍(さぶらひ)の御前(ごぜん)どもに選(え)りととのへさせ給(たま)へりし、さるべきものの子どもにて、心のままに、今日はわが世よと、人払はせ、きらめきあへりし気色(きそく)どもなど、よそ人、誠(まこと)にいみじうこそ見侍(はべ)りしか」とて、車の衣(きぬ)の色などをさへ語りゐたるぞあさましきや。
《世継》「さて、この御腹に御座(おは)しましし、女宮一所こそ、いとはかなく、失(う)せ給(たま)ひにしか。」いま一所、入道(にふだう)一品(いつぽん)の宮とて三条に御座(おは)しましき。失(う)せ給(たま)ひて十余年にやならせ給(たま)ひぬらむ。うみおき奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしたびの宮こそは、今の斎院に御座(おは)しませ。いつきの宮、世に多く御座(おは)しませど、これはことにうごきなく、世にひさしくたもち御座(おは)します。ただこの御一筋のかく栄え給(たま)ふべきとぞ見まうす。昔の斎宮・斎院は、仏経などのことは忌ませ給(たま)ひけれど、この宮には仏法をさへあがめ給(たま)ひて、朝ごとの御念誦かかせ給(たま)はず。近くは、この御寺の今日の講には、さだまりて布施をこそは贈らせ給(たま)ふめれ。いととうより神人にならせ給(たま)ひて、いかでかかることを思(おぼ)し召(め)しよりけむとおぼえ候(さぶら)ふは。賀茂(かも)の祭の日、一条大路に、そこら集りたる人、さながらともに仏とならむと、誓はせ給(たま)ひけむこそ、なほあさましく侍(はべ)れ。さりとてまた、現世の御栄華をととのへさせ給(たま)はぬか。御禊より始(はじ)め三箇日の作法、出車などのめでたさ、おほかた御さまのいと優に、らうらうじく御座(おは)しましたるぞ。
今の関白(くわんばく)殿、兵衛左にて、御禊に御前せさせ給(たま)へりしに、いと幼く御座(おは)しませば、例は本院に帰らせ給(たま)ひて、人々に禄など給(たま)はするを、これは川原より出(い)でさせ給(たま)ひしかば、思(おも)ひがけぬ御ことにて、さる御心もうけもなかりければ、御前に召(め)しありて、御対面などせさせ給(たま)ひて、奉(たてまつ)り給(たま)へりける小袿をぞ、かづけ奉(たてまつ)らせ給(たま)へりける。入道(にふだう)殿(どの)、聞(き)かせ給(たま)ひて、「いとをかしくもし給(たま)へるかな。禄なからむもたよりなく、取りにやり給(たま)はむもほど経ぬべければ、とりわきたるさまを見せ給(たま)ふなめり。えせ者は、え思(おも)ひよらじかし」とぞ申(まう)させ給(たま)ひける。
 この当代(とうだい)や東宮(とうぐう)などの、まだ宮たちにて御座(おは)しましし時、祭見せ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひし御桟敷(さじき)の前過ぎさせ給(たま)ふほど、殿(との)の御膝(ひざ)に、二所(ふたところ)ながらすゑ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、「この宮たち見奉(たてまつ)らせ給(たま)へ」と申(まう)させ給(たま)へば、御輿(みこし)の帷(かたびら)より赤色(あかいろ)の御扇(あふぎ)のつまをさし出(い)で給(たま)へりけり。殿を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、「なほ心ばせめでたく御座(おは)する院(ゐん)なりや。かかるしるしを見せ給(たま)はずは、いかでか、見奉(たてまつ)り給(たま)ふらむとも知(し)らまし」とこそは、感じ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひけれ。院より大宮(おほみや)に聞えさせ給(たま)ひける、
  ひかりいづるあふひのかげを見てしより年積(つ)みけるもうれしかりけり W
御返し、
  もろかづら二葉(ふたば)ながらも君にかくあふひや神のゆるしなるらむ W
げに賀茂(かも)の明神(みやうじん)などのうけ奉(たてまつ)り給(たま)へればこそ、二代までうちつづき栄えさせ給(たま)ふらめな。このこと、「いとをかし失(う)せさせ給(たま)へり」と、世の人申(まう)ししに、前帥(さきのそち)のみぞ、「追従(ついそう)ぶかき老(おい)ぎつねかな。あな、愛敬(あいぎやう)な」と申(まう)し給(たま)ひける。
 まこと、この后(きさい)の宮の御おととの中の君は、重明(しげあきら)の式部卿(しきぶきやう)の宮の北の方にて御座(おは)しまししぞかし。その親王(みこ)は、村上(むらかみ)の御はらからに御座(おは)します。この宮の上(うへ)、さるべきことの折は、物(もの)見(み)せ奉(たてまつ)りにとて、后の迎へ奉(たてまつ)り給(たま)へば、忍びつつ参(まゐ)り給(たま)ふに、帝(みかど)ほの御覧じて、いとうつくしう御座(おは)しましけるを、いと色なる御心ぐせにて、宮に、「かくなむ思(おも)ふ」とあながちにせめ申(まう)させ給(たま)へば、一二度、知(し)らず顔(がほ)にて、ゆるしまうさせ給(たま)ひけり。さて後(のち)、御心は通はせ給(たま)ひける御けしきなれど、さのみはいかがとや思(おぼ)し召(め)しけむ、后(きさき)、さらぬことだに、この方(かた)ざまは、なだらかにもえつくりあへさせ給(たま)はざめる中(なか)に、ましてこれはよそのことよりは、心づきなうも思(おぼ)し召(め)すべけれど、御あたりをひろうかへりみ給(たま)ふ御心深(こころぶか)さに、人の御ため聞(き)きにくくうたてあれば、なだらかに色にも出(い)でず、過(すぐ)させ給(たま)ひけるこそ、いとかたじけなうかなしきことなれな。さて后(きさい)の宮(みや)失(う)せさせ御座(おは)しまして後(のち)に、召(め)しとりて、いみじうときめかさせ給(たま)ひて、貞観殿(ちやうぐわんでん)の尚侍(ないしのかみ)とぞ、申(まう)ししかし。世になく覚(おぼ)え御座(おは)して、こと女御(にようご)・御息所(みやすどころ)そねみ給(たま)ひしかども、かひなかりけり。これにつけても、「九条殿の御幸ひ」とぞ、人申(まう)し」ける。
 また三の君は、西宮殿(にしのみやどの)の北の方にて御座(おは)せしを、御子(みこ)うみて、失(う)せ給(たま)ひにしかば、よその人は、君達(きんだち)の御ためあしかりなむとて、また御おととの五にあたらせ給(たま)ふ愛宮(あいみや)と申(まう)ししにうつらせ給(たま)ひにき。四の君はとく失(う)せ給(たま)ひにき。六の君、冷泉院の東宮(とうぐう)に御座(おは)しまししに、参(まゐ)らせ給(たま)ひなど、女君(をんなぎみ)たちは、皆かく御座(おは)しまさふ。
 男君たちは、十一人の御中に、五人は太政大臣(だいじやうだいじん)にならせ給(たま)へり。それあさましうおどろおどろしき御幸ひなりかし。その御ほかは右兵衛督忠君(うひやうゑのかみただきみ)、また北野(きたの)の三位遠度(さんみとほのり)、大蔵卿遠量(おほくらきやうとほかず)、多武峯(たむのみね)の入道(にふだう)少将(せうしやう)なり。また法師にては、飯室(いひむろ)の権僧正(ごんのそうじやう)、今の禅林寺(ぜんりんじ)の僧正などにこそ御座(おは)しますめれ。法師といへども、世の中の一(いち)の験者(げんざ)にて、仏のごとくに公私(おほやけわたくし)、頼(たの)みあふぎまうさぬ人なし。また北野の三位の御子(みこ)は、尋空律師(じんくうりし)・朝源(てうげん)律師などなり。また大蔵卿の御子は、粟田殿(あはたどの)の北の方、今の左衛門督(さゑもんのかみ)の母上。この御族(ぞう)、斯様(かやう)にぞ御座(おは)しますなかにも、多武峯の少将(せうしやう)、出家(すけ)し給(たま)へりしほどは、いかにあはれにもやさしくもさまざまなることどもの侍(はべ)りしかは。なかにも、帝(みかど)の御消息(せうそこ)つかはしたりしこそ、おぼろけならず、御心もや乱れ給(たま)ひけむと、かたじけなく承(うけたまは)りしか。
  みやこより雲のうへまで山の井の横川(よかは)の水はすみよかるらむ W
御返し、
  九重(ここのへ)のうちのみつねにこひしくて雲の八重(やへ)たつ山はすみ憂(う)し W
始(はじ)めは、横川に御座(おは)して、後(のち)に多武峯(たむのみね)には住ませ給(たま)ひしぞかし。いといみじう侍(はべ)りしことぞかし。されども、それは九条殿・后(きさい)の宮(みや)など失(う)せさせ御座(おは)しまして後(のち)のことなり。
 この馬頭殿(うまのかみのとの)の御出家(すけ)こそ、親たちの栄えさせ給(たま)ふことの始(はじ)めをうちすてて、いといとありがたく悲しかりし御ことよ。とうより、さる御心(こころ)まうけは思(おぼ)しよらせ給(たま)ひにけるにや、御はらからの君たちに具(ぐ)し奉(たてまつ)りて、正月二七夜(にしちや)のほどに、中堂(ちゆうだう)に登らせ給(たま)へりけるに、さらに御行(おこな)ひもせで、大殿篭(おほとのごも)りたりければ、殿(との)ばら、暁(あかつき)に、「など、かくては臥(ふ)し給(たま)へる。起きて、念誦(ねんず)もせさせ給(たま)へかし」と申(まう)させ給(たま)ひければ、「いま一度に」と宣(のたま)ひしを、その折は、思(おも)ひもとがめられざりき。「斯様(かやう)の御有様(ありさま)を思(おぼ)しつづけけるにや」とこそ、この折には、君たち思(おぼ)し出(い)でて申(まう)し給(たま)ひけれ。さりとて、うち屈(く)しやいかにぞやなどある御(み)けしきもなかりけり。人よりことにほこりかに、心地(ここち)よげなる人柄(ひとがら)にてぞ御座(おは)しましける。
 この九条殿は、百鬼夜行(ひやくきやぎやう)にあはせ給(たま)へるは。いづれの月といふことは、え承(うけたまは)らず、いみじう夜(よ)ふけて、内(うち)より出(い)で給(たま)ふに、大宮(おほみや)より南ざまへ御座(おは)しますに、あははの辻(つじ)のほどにて、御車(みくるま)の簾(すだれ)うち垂(た)れさせ給(たま)ひて、「御車牛(みくるまうし)もかきおろせ、かきおろせ」と、急ぎ仰(おほ)せられければ、あやしと思(おも)へど、かきおろしつ。御随身(みずいじん)・御前(ごぜん)どもも、いかなることの御座(おは)しますぞと、御車のもとに近く参(まゐ)りたれば、御下簾(したすだれ)うるはしくひき垂(た)れて、御笏(さく)とりて、うつぶさせ給(たま)へるけしき、いみじう人にかしこまりまうさせ給(たま)へるさまにて御座(おは)します。「御車は榻(しぢ)にかくな。ただ随身どもは、轅(ながえ)の左右(ひだりみぎ)の軛(くびき)のもとにいと近く候(さぶら)ひて、先(さき)を高く追へ。雑色(ざふしき)どもも声絶えさすな。御前ども近くあれ」と仰(おほ)せられて、尊勝陀羅尼(そんしようだらに)をいみじう読み奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。牛をば御車の隠(かく)れの方にひき立てさせ給(たま)へり。さて、時中(ときなか)ばかりありてぞ、御簾(すだれ)あげさせ給(たま)ひて、「今は、牛かけてやれ」と仰(おほ)せられけれど、つゆ御供(とも)の人は心えざりけり。後々(のちのち)に、「しかじかのことのありし」など、さるべき人々にこそは、忍(しの)びて語り申(まう)させ給(たま)ひけめど、さるめづらしきことは、おのづから散り侍(はべ)りけるにこそは。
 元方(もとかた)の民部卿(みんぶきやう)の御孫(まご)、儲(まうけ)の君(きみ)にて御座(おは)する頃、帝(みかど)の御庚申(かうしん)せさせ給(たま)ふに、この民部卿参(まゐ)り給(たま)へり、さらなり。九条殿、候(さぶら)はせ給(たま)ひて、人々あまた候(さぶら)ひ給(たま)ひて、攤(だ)打たせ給(たま)ふついでに、冷泉院の孕(はら)まれ御座(おは)しましたるほどにて、さらぬだに世の人いかがと思(おも)ひまうしたるに、九条殿、「いで、今宵(こよひ)の攤(だ)つかうまつらむ」と仰(おほ)せらるるままに、この孕(はら)まれ給(たま)へる御子(みこ)、男に御座(おは)しますべくは、調六(でうろく)出(い)で来(こ)」とて、打たせ給(たま)へりけるに、ただ一度に出(い)でくる物(もの)か。ありとある人、目を見かはして、めで感じもてはやし給(たま)ひ、御みづからもいみじと思(おぼ)したりけるに、この民部卿の御けしきいとあしうなりて、色もいと青くこそなりたりけれ。さて後(のち)に、霊(りやう)に出(い)でまして、「その夜(よ)やがて、胸に釘(くぎ)はうちてき」とこそ宣(のたま)ひけれ。
 おほかた、この九条殿、いとただ人(びと)には御座(おは)しまさぬにや、思(おぼ)しよるゆく末のことなども、かなはぬはなくぞ御座(おは)しましける。口惜(くちを)しかりけることは、まだいと若く御座(おは)しましける時、「夢に、朱雀門(すざくもん)の前に、左右(さう)の足を西東(にしひんがし)の大宮(おほみや)にさしやりて、北向きにて内裏(だいり)を抱(いだ)きて立てりとなむ見えつる」と仰(おほ)せられけるを、御前(おまへ)になまさかしき女房の候(さぶら)ひけるが、「いかに御股(また)痛く御座(おは)しましつらむ」と申(まう)したりけるに、御夢たがひて、かく子孫は栄えさせ給(たま)へど、摂政・関白(くわんばく)えし御座(おは)しまさずなりにしなり。また御末に思(おも)はずなることのうちまじり、帥殿(そちどの)の御ことなども、かれがたがひたる故に侍(はべ)るめり。「いみじき吉相(きつさう)の夢もあしざまにあはせつればたがふ」と、昔より申(まう)し伝へて侍(はべ)ることなり。荒涼(くわうりやう)して、心知(し)らざらむ人の前に、夢語りな、この聞(き)かせ給(たま)ふ人々、し御座(おは)しまされそ。今ゆく末も九条殿の御末のみこそ、とにかくにつけて、ひろごり栄えさせ給(たま)はめ。
 いとをかしきことは、かくやむごとなく御座(おは)します殿(との)の、貫之(つらゆき)のぬしが家に御座(おは)しましたりしこそ、なほ和歌はめざましきことなりかしと、おぼえ侍(はべ)りしか。正月一日つけさせ給(たま)ふべき魚袋(ぎよたい)のそこなはれたりければ、つくろはせ給(たま)ふほど、まづ貞信公(ていしんこう)の御もとに参(まゐ)らせ給(たま)ひて、「かうかうのことの侍(はべ)れば、内(うち)に遅く参(まゐ)る」のよしを申(まう)させ給(たま)ひければ、おほきおとど驚かせ給(たま)ひて、年頃(としごろ)持たせ給(たま)へりける、取り出(い)でさせ給(たま)ひて、やがて、「あえものにも」とて奉(たてまつ)らせ給(たま)ふを、ことうるはしく松の枝につけさせ給(たま)へり。その御かしこまりのよろこびは、御心(みこころ)のおよばぬにしも御座(おは)しまさざらめど、なほ貫之に召(め)さむ、と思(おぼ)し召(め)して、わたり御座(おは)しましたるを、待ちうけましけむ面目(めいぼく)、いかがおろかなるべきな。
  吹く風にこほりとけたる池の魚千代(ちよ)まで松のかげにかくれむ W
集に書き入れたる、ことわりなりかし。
 いにしへより今にかぎりもなく御座(おは)します殿(との)の、ただ冷泉院の御有様(ありさま)のみぞ、いと心憂(こころう)く口惜(くちを)しきことにては御座(おは)します」といへば、侍(さぶらひ)、
「されど、ことの例(れい)には、まづその御時をこそは引かるめれ」といへば、
《世継》「それは、いかでかはさらでは侍(はべ)らむ。その帝(みかど)の出(い)で御座(おは)しましたればこそ、この藤氏(とうし)の殿(との)ばら、今に栄え御座(おは)しませ。「さらざらましかば、この頃わづかにわれらも諸大夫(しよだいぶ)ばかりになり出(い)でて、ところどころの御前(ごぜん)・雑役(ざふやく)につられ歩(あり)きなまし」とこそ、入道(にふだう)殿(どの)は仰(おほ)せられければ、源民部卿(げんみんぶきやう)は、「さるかたちしたるまうちぎみだちの候(さぶら)はましかば、いかに見ぐるしからまし」とぞ、笑ひ申(まう)させ給(たま)ふなる。かかれば、公私(おほやけわたくし)、その御時のことをためしとせさせ給(たま)ふ、ことわりなり。御物(もの)の怪(け)こはくて、いかがと思(おぼ)し召(め)ししに、大嘗会(だいじやうゑ)の御禊(ごけい)にこそ、いとうるはしくて、わたらせ給(たま)ひにしか。「それは、人の目にあらはれて、九条殿なむ御後(うしろ)を抱(いだ)き奉(たてまつ)りて、御輿(みこし)のうちに候(さぶら)はせ給(たま)ひける」とぞ、人申(まう)しし。げに現(うつつ)にても、いとただ人(びと)とは見えさせ給(たま)はざりしかば、まして御座(おは)しまさぬ後(あと)には、さやうに御守(まぼり)にても添(そ)ひまうさせ給(たま)ひつらむ」
《侍》「さらば、元方(もとかた)卿・桓算供奉(くわんざんぐぶ)をぞ、逐(お)ひのけさせ給(たま)ふべきな」。
《世継》「それはまた、しかるべき前(さき)の世(よ)の御報(むくひ)にこそ御座(おは)しましけめ。さるは、御心(みこころ)いとうるはしくて、世の政(まつりごと)かしこくせさせ給(たま)ひつべかりしかば、世間(よのなか)にいみじうあたらしきことにぞ申(まう)すめりし。
 さてまた、今は故(こ)九条殿の御子(みこ)どもの数(かず)、この冷泉院・円融院の御母、貞観殿(ぢやうぐわんでん)の尚侍(ないしのかみ)、一条摂政、堀河殿(ほりかはどの)、大入道(おほにふだう)殿(どの)、忠君(ただきみ)の兵衛督(ひやうゑのかみ)と六人は、武蔵守(むさしのかみ)従(じゆ)五位上経邦(つねくに)の女(むすめ)の腹に御座(おは)しまさふ。世の人「女子(をんなご)」といふことは、この御ことにや。おほかた、御腹ことなれど、男君(をとこぎみ)たち五人は太政大臣(だいじやうだいじん)、三人は摂政し給(たま)へり。
一 太政大臣(だいじやうだいじん)伊尹(これまさ) 謙徳公(けんとくこう)
 この大臣(おとど)は、一条摂政と申(まう)しき。これ、九条殿(くでうどの)の一男に御座(おは)します。いみじき御集(ぎよしふ)つくりて、豊景(とよかげ)と名のらせ給(たま)へり。大臣になり栄え給(たま)ひて三年。いと若くて失(う)せ御座(おは)しましたることは、九条殿の御遺言(ゆいごん)をたがへさせ御座(おは)しましつる故(け)とぞ人申(まう)しける。されどいかでかは、さらでも御座(おは)しまさむ。御葬送(さうそう)の沙汰(さた)を、むげに略定(りやくぢやう)に書きおかせ給(たま)へりければ、「いかでか、いとさは」とて、例(れい)の作法(さはふ)に行(おこなは)せ給(たま)ふとぞ。それはことわりの御しわざぞかし。ただ、御かたち・身の才(ざえ)、何事もあまりすぐれさせ給(たま)へれば、御命のえととのはせ給(たま)はざりけるにこそ。
 折々の御和歌などこそめでたく侍(はべ)れな。春日(かすが)の使(つかひ)に御座(おは)しまして、帰るさに、女のもとに遺(つか)はしける、
  暮ればとくゆきて語らむ逢(あ)ふことはとをちの里の住み憂(う)かりしも W
御返し、
  逢(あ)ふことはとをちの里にほど経(へ)しも吉野の山と思(おも)ふなりけむ W
助信(すけのぶ)の少将(せうしやう)の、宇佐(うさ)の使にたたれしに、殿(との)にて、餞(うまのはなむけ)に「菊の花のうつろひたる」を題にて、別れの歌よませ給(たま)へる、
  さは遠くうつろひぬとかきくの花折りて見るだに飽(あ)かぬ心を W
 帝(みかど)の御舅(をぢ)・東宮(とうぐう)の御祖父(おほぢ)にて摂政せさせ給(たま)へば、世の中はわが御心(みこころ)にかなはぬことなく、過差(くわさ)ことのほかに好ませ給(たま)ひて、大饗(たいきやう)せさせ給(たま)ふに、寝殿(しんでん)の裏板(うらいた)の壁の少し黒かりければ、にはかに御覧(ごらん)じつけて、陸奥紙(みちのくにがみ)をつぶと押させ給(たま)へりけるがなかなか白く清(きよ)げに侍(はべ)りける。思(おも)ひよるべきことかはな。御家は今の世尊寺(せそんじ)ぞかし。御族(ぞう)の氏寺(うぢでら)にておかれたるを、斯様(かやう)のついでには、立ち入りて見給(たま)ふれば、まだその紙の押されて侍(はべ)るこそ、昔にあへる心地(ここち)してあはれに見給(たま)ふれ。斯様(かやう)の御栄えを御覧じおきて、御年五十(いそじ)にだなたらで失(う)せさせ給(たま)へるあたらしさは、父大臣(おとど)にもおとらせ給(たま)はずこそ、世の人惜しみ奉(たてまつ)りしか。
その御男(をとこ)・女君(をんなぎみ)たちあまた御座(おは)しましき。女君(をんなぎみ)一人は、冷泉院の御寺の女御(にようご)にて、花山院の御母、贈(ぞう)皇后宮(くわうごうぐう)にならせ給(たま)ひにき。次々の女君(をんなぎみ)二人は、法住寺(ほふぢゆうじ)の大臣(おとど)の北の方にて、うちつづき失(う)せさせ給(たま)ひにき。九の君は、冷泉院の御皇子(みこ)の弾上(だんじやう)の宮(みや)と申(まう)す御上(うへ)にて御座(おは)せしを、その宮失(う)せ給(たま)ひて後(のち)、尼(あま)にていみじう行ひつとめて御座(おは)すめり。また、忠君(ただきみ)の兵衛督(ひやうゑのかみ)の北の方にて御座(おは)せしが、後(のち)には、六条の左大臣(さだいじん)殿(どの)の御子(みこ)の右大弁(うだいべん)の上にて御座(おは)しけるは、四の君とこそは。
また、花山院の御妹(いもうと)の女一の宮は失(う)せ給(たま)ひにき。女二の宮は冷泉院の御時の斎宮(さいぐう)にたたせ給(たま)ひて、円融院の御時の女御に参(まゐ)り給(たま)へりしほどもなく、内(うち)の焼けにしかば、火(ひ)の宮(みや)と世の人つけ奉(たてまつ)りき。さて二三度参(まゐ)り給(たま)ひて後(のち)、ほどもなく失(う)せ給(たま)ひにき。この宮に御覧(ごらん)ぜさせむとて、三宝絵(さんぽうゑ)はつくれるなり。
 男君たちは、代明(よあきら)の親王(みこ)の御女(むすめ)の腹に、前少将(せうしやう)挙賢(たかかた)・後少将(せうしやう)義孝(よしたか)とて、花を折り給(たま)ひし君たちの、殿(との)失(う)せ給(たま)ひて、三年ばかりありて、天延(てんえん)二年甲戌(きのえいぬ)の年、皰瘡(もがさ)おこりたるに、煩(わづら)ひ給(たま)ひて、前少将(せうしやう)は、朝(あした)に失(う)せ、後少将(せうしやう)は、夕(ゆふべ)にかくれ給(たま)ひにしぞかし。一日(ひとひ)がうちに、二人の子をうしなひ給(たま)へりし、母北の方の御心地(ここち)いかなりけむ、いとこそ悲しく承(うけたまは)りしか。
 かの後少将(せうしやう)は義孝とぞ聞えし。御かたちいとめでたく御座(おは)し、年頃(としごろ)きはめたる道心者(だうしんざ)にぞ御座(おは)しける。病重くなるままに、生くべくもおぼえ給(たま)はざりければ、母上に申(まう)し給(たま)ひけるやう、「おのれ死に侍(はべ)りぬとも、とかく例(れい)のやうにせさせ給(たま)ふな。しばし法華経(ほけきやう)誦(ずん)じ奉(たてまつ)らむの本意(ほい)侍(はべ)れば、かならず帰りまうで来(く)べし」と宣(のたま)ひて、方便品(はうべんぼん)を読み奉(たてまつ)り給(たま)ひてぞ、失(う)せ給(たま)ひける。その遺言(ゆいごん)を、母北の方忘れ給(たま)ふべきにはあらねども、物(もの)も覚(おぼ)えで御座(おは)しければ、思(おも)ふに人のし奉(たてまつ)りてけるにや、枕(まくら)がへしなにやと、例の様(やう)なる有様(ありさま)どもにしてければ、え帰り給(たま)はずなりにけり。後(のち)に、母北の方の御夢に見え給(たま)へる、
  しかばかり契りし物(もの)を渡り川かへるほどには忘るべしやは W
とぞよみ給(たま)ひける、いかにくやしく思(おぼ)しけむな。
 さて後(のち)、ほど経(へ)て、賀縁(がえん)阿闍梨(あざり)と申(まう)す僧の夢に、この君たち二人御座(おは)しけるが、兄、前少将(せうしやう)いたう物(もの)思(おも)へるさまにて、この後少将(せうしやう)は、いと心地(ここち)よげなるさまにて御座(おは)しければ、阿闍梨、「君はなど心地よげにて御座(おは)する。母上は、君をこそ、兄君よりはいみじう恋ひきこえ給(たま)ふめれ」と聞えければ、いとあたはぬさまのけしきにて、
  しぐれとは蓮(はちす)の花ぞ散りまがふなにふるさとに袖(そで)濡(ぬ)らすらむ W
など、うちよみ給(たま)ひける。さて後(のち)に、小野宮(をののみや)の実資(さねすけ)の大臣(おとど)の御夢に、おもしろき花のかげに御座(おは)しけるを、うつつにも語らひ給(たま)ひし御中(なか)にて、「いかでかくは。いづくにか」とめづらしがり申(まう)し給(たま)ひければ、その御いらへに、
  昔ハ契リキ、蓬莱宮(ほうらいきゆう)ノ裏(うち)ノ月ニ
  今ハ遊ブ、極楽界(ごくらくかい)ノ中(なか)ノ風ニ
昔契蓬莱宮裏月 今遊極楽界中風
とぞ宣(のたま)ひける。極楽に生れ給(たま)へるにぞあなる。斯様(かやう)にも夢など示(しめ)い給(たま)はずとも、この人の御往生(わうじやう)疑ひまうすべきならず。
 世の常(つね)の君達(きんだち)などのやうに、内(うち)わたりなどにて、おのづから女房(にようばう)と語らひ、はかなきことをだに宣(のたま)はせざりけるに、いかなる折にかありけむ、細殿(ほそどの)に立ち寄り給(たま)へれば、例(れい)ならずめづらしう物語りきこえさせけるが、やうやう夜中などにもなりやしぬらむと思(おも)ふほどに、立ち退(の)き給(たま)ふを、いづかたへかとゆかしうて、人をつけ奉(たてまつ)りて見せければ、北(きた)の陣(ぢん)出(い)で給(たま)ふほどより、法華経(ほけきやう)をいみじう尊く誦(ずん)じ給(たま)ふ。大宮(おほみや)のぼりに御座(おは)して、世尊寺へ御座(おは)しましつきぬ。なほ見ければ、東(ひんがし)の対(たい)の端(つま)なる紅梅(こうばい)のいみじく盛りに咲きたる下に立たせ給(たま)ひて、「滅罪(めつざい)生善(しやうぜん)、往生(わうじやう)極楽(ごくらく)」といふ、額(ぬか)を西に向(む)きて、あまたたびつかせ給(たま)ひけり。帰りて御有様(ありさま)語りければ、いといとあはれに聞(き)き奉(たてまつ)らぬ人なし。
 この翁(おきな)もその頃大宮なる所に宿りて侍(はべ)りしかば、御声にこそおどろきていといみじう承(うけたまは)りしか。起き出(い)でて見奉(たてまつ)りしかば、空は霞(かす)みわたりたるに月はいみじうあかくて、御直衣(なほし)のいと白きに、濃(こ)き指貫(さしぬき)に、よいほどに御くくりあげて、何色(なにいろ)にか、色ある御衣(おんぞ)どもの、ゆたちより多くこぼれ出(い)でて侍(はべ)りし御様体(やうだい)などよ。御顔の色、月影に映(は)えて、いと白く見えさせ給(たま)ひしに、鬢茎(びんぐき)の掲焉(けちえん)にめでたくこそ、誠(まこと)に御座(おは)しまししか。やがて見つぎ見つぎに御供(とも)に参(まゐ)りて、御額(ぬか)つかせ給(たま)ひしも見奉(たてまつ)り侍(はべ)りにき。いとかなしうあはれにこそ侍(はべ)りしか。御供(とも)には童(わらは)一人ぞ候(さぶら)ふめりし。
また、殿上(てんじやう)の逍遥(せうえう)侍(はべ)りし時さらなり、こと人はみな、こころごころに狩装束(かりしやうぞく)めでたうせられたりけるに、この殿(との)はいたう待たれ給(たま)ひて、白き御衣どもに、香染(かうぞめ)の御狩衣(かりぎぬ)、薄色(うすいろ)の御指貫(さしぬき)、いとはなやかならぬあはひにて、さし出(い)で給(たま)へりけるこそ、なかなかに心を尽(つ)くしたる人よりはいみじう御座(おは)しましけれ。常(つね)の御ことなれば、法華経、御口(くち)につぶやきて、紫檀(したん)の数珠(ずず)の、水精(すいさう)の装束(さうぞく)したる、ひき隠して持ち給(たま)ひける御用意などの、優(いう)にこそ御座(おは)しましけれ。おほかた、一生(いつしやう)精進(さうじん)を始(はじ)め給(たま)へる、まづありがたきことぞかし。なほなほ同じことのやうにおぼえ侍(はべ)れど、いみじう見給(たま)へ聞(き)きおきつることは、申(まう)さまほしう。
 この殿は、御(おほん)かたちのありがたく、末の世にもさる人や出(い)で御座(おは)しましがたからむとまでこそ見給(たま)へしか。雪のいみじう降りたりし日、一条(いちでう)の左大臣(さだいじん)殿(どの)に参(まゐ)らせ給(たま)ひて、御前(おまへ)の梅の木に雪のいたう積(つも)りたるを折りて、うち振らせ給(たま)へりしかば、御上に、はらはらとかかりたりしが、御直衣(なほし)の裏の花なりければ、かへりていと斑(まだら)になりて侍(はべ)りしに、もてはやされさせ給(たま)へりし御かたちこそ、いとめでたく御座(おは)しまししか。御兄の少将(せうしやう)も、いとよく御座(おは)しましき。この弟殿(おととどの)はかくあまりにうるはしく御座(おは)せしをもどきて、すこし勇幹(ようかん)にあしき人にてぞ御座(おは)せし。
 その義孝の少将(せうしやう)、桃園(ももぞの)の源(げん)中納言保光(やすみつ)卿の女(むすめ)の御腹にうませ給(たま)へりし君ぞかし、今の侍従(じじゆう)大納言(だいなごん)行成(ゆきなり)卿、世の手書きとののしり給(たま)ふは。この殿(との)の御男子(をのこご)、ただいまの但馬守(たじまのかみ)実経(さねつね)の君・尾張守(をはりのかみ)良経(よしつね)の君二人は、泰清(やすきよ)の三位(さんみ)の女の腹なり。嫡腹(むかひばら)の少将(せうしやう)行経(ゆきつね)の君なり。女君(をんなぎみ)は、入道(にふだう)殿(どの)の御子(みこ)の、高松腹(たかまつばら)の権(ごん)中納言殿の北の方にて御座(おは)せし、失(う)せ給(たま)ひにきかし。また、今の丹波守(たんばのかみ)経頼(つねより)の君の北の方にて御座(おは)す。また、大姫君(おほひめぎみ)御座(おは)しますとか。
 この侍従大納言(だいなごん)殿こそ、備後介(びごのすけ)とてまだ地下(ぢげ)に御座(おは)せし時、蔵人頭(くらうどのとう)になり給(たま)へる、例(れい)いとめづらしきことよな。その頃は、源民部卿殿(げんみんぶきようどの)は、職事(しきじ)にて御座(おは)しますに、上達部(かんだちめ)になり給(たま)ふべければ、一条院(いちでうゐん)、「この次にはまた誰(たれ)かなるべき」と問(と)はせ給(たま)ひければ、「行成なむまかりなるべき人に候(さぶら)ふ」と奏(そう)せさせ給(たま)ひけるを、「地下(ぢげ)の者はいかがあるべからむ」と宣(のたま)はせければ、「いとやむごとなき者に候(さぶら)ふ。地下など思(おぼ)し召(め)し憚(はばか)らせ給(たま)ふまじ。ゆく末にもおほやけに、何事にもつかうまつらむにたへたる者になむ。斯様(かやう)なる人を御覧(ごらん)じ分(わ)かぬは、世のためあしきことに侍(はべ)り。善悪をわきまへ御座(おは)しませばこそ、人も心遣(こころづか)ひはつかうまつれ。このきはになさせ給(たま)はざらむは、いと口惜(くちを)しきことにこそ候(さぶら)はめ」と申(まう)させ給(たま)ひければ、道理のこととはいひながら、なり給(たま)ひにしぞかし。
 おほかた昔は、前頭(さきのとう)の挙(きよ)によりて、後(のち)の頭はなることにて侍(はべ)りしなり。されば、殿上(てんじやう)に、われなるべしなど、思(おも)ひ給(たま)へりける人は、今宵(こよひ)と聞(き)きて参(まゐ)り給(たま)へるに、いづこもととかにさし会(あ)ひ給(たま)へりけるを、「誰(たれ)ぞ」と問(と)ひ給(たま)ひければ、御名のりし給(たま)ひて、「頭になしたびたれば、参(まゐ)りて侍(はべ)るなり」とあるに、あさましとあきれてこそ、動きもせで立ち給(たま)ひたりけれ。げに思(おも)ひがけぬことなれば、道理なりや。
この源民部卿かく申(まう)しなし給(たま)へることを思(おぼ)し知(し)りて、従二位の折かとよ、越えまうし給(たま)ひしかど、さらに上(かみ)に居(ゐ)給(たま)はざりき。かの殿(との)出(い)で給(たま)ふ日は、われ、病(やまひ)まうし、またともに出(い)で給(たま)ふ日は、むかへ座(ざ)などにぞ居(ゐ)給(たま)ひし。さて民部卿正二位の折こそは、もとのやうに下臈(げらふ)になり給(たま)ひしか。
 おほかた、この御族(ぞう)の頭争(とうあらそ)ひに、敵(かたき)をつき給(たま)へば、これもいかが御座(おは)すべからむ。みな人知ろしめしたることなれど、朝成(あさひら)の中納言と一条摂政と同じ折の殿上人(てんじやうびと)にて、品(しな)のほどこそ、一条殿とひとしからねど、身の才(ざえ)・人覚(ひとおぼ)え、やむごとなき人なりければ、頭になるべき次第(しだい)いたりたるに、またこの一条殿さらなり、道理の人にて御座(おは)しけるを、この朝成の君申(まう)し給(たま)ひけるやう、「殿(との)はならせ給(たま)はずとも、人わろく思(おも)ひ申(まう)すべきにあらず。後々(のちのち)にも御心(みこころ)にまかせさせ給(たま)へり。
おのれは、このたびまかりはづれなば、いみじう辛(から)かるべきことにてなむ侍(はべ)るべきを、このたび、申(まう)させ給(たま)はで侍(はべ)りなむや」と申(まう)し給(たま)ひければ、「ここにもさ思(おも)ふことなり。さらば申(まう)さじ」と宣(のたま)ふを、いとうれしと思(おも)はれけるに、いかに思(おぼ)しなりにけることにか、やがて問(と)ひごともなく、なり給(たま)ひにければ、かく謀(はか)り給(たま)ふべしやはと、いみじう心やましと思(おも)ひまうされけるに、御中(なか)よからぬやうにて過ぎ給(たま)ふほどに、この一条院殿のつかまつり人とかやのために、なめきことしたうびたりけるを、「本意(ほい)なしなどばかりは思(おも)ふとも、いかに、ことにふれてわれなどをば、かくなめげにもてなしぞ」と、むつかり給(たま)ふと聞(き)きて、「あやまたぬよしも申(まう)さむ」とて、参(まゐ)られたりけるに、はやうの人は、われより高き所にまうでては、「こなたへ」となきかぎりは、上(うへ)にものぼらで、下(しも)に立てることになむありけるを、これは六七月のいと暑くたへがたき頃、かくと申(まう)させて、今や今やと、中門(ちゆうもん)に立ちて待つほどに、西日(にしび)もさしかかりて暑くたへがたしとはおろかなり、心地(ここち)もそこなはれぬべきに、「はやう、この殿(との)は、われをあぶり殺さむと思(おぼ)すにこそありけれ。益(やく)なくも参(まゐ)りにけるかな」と思(おも)ふに、すべて悪心(あくしん)おこるとは、おろかなり。夜(よる)になるほどに、さてあるべきならねば、笏(しやく)をおさへて立ちければ、はたらと折れけるは。いかばかりの心をおこされにけるにか。さて家に帰りて、「この族(ぞう)ながく絶(た)たむ。もし男子(をのこご)も女子(をんなご)もありとも、はかばかしくてはあらせじ。あはれといふ人もあらば、それをも恨(うら)みむ」など誓ひて、失(う)せ給(たま)ひにければ、代々(だいだい)の御悪霊(あくりやう)とこそはなり給(たま)ひたれ。されば、まして、この殿(との)近く御座(おは)しませば、いとおそろし。殿の御夢に、南殿(なでん)の御後(うしろ)、かならず人の参(まゐ)るに通る所よな、そこに人の立ちたるを、誰(たれ)ぞと見れど、顔は戸の上(かみ)に隠れたれば、よくも見えず。あやしくて、「誰(た)そ誰(た)そ」と、あまたたび問(と)はれて、「朝成(あさひら)に侍(はべ)り」といらふるに、夢のうちにもいとおそろしけれど、念じて、「などかくては立ち給(たま)ひたるぞ」と問(と)ひ給(たま)ひければ、「頭弁(とうのべん)の参(まゐ)らるるを待ち侍(はべ)るなり」といふと見給(たま)ひて、おどろきて、「今日は公事(くじ)ある日なれば、とく参(まゐ)らるらむ。不便(ふびん)なるわざかな」とて、「夢に見え給(たま)へることあり。今日は御病まうしなどもして、物忌(ものいみ)かたくして、なにか参(まゐ)り給(たま)ふ。こまかにはみづから」と書きて急ぎ奉(たてまつ)り給(たま)へど、ちがひていととく参(まゐ)り給(たま)ひにけり。まもりのこはくや御座(おは)しけむ、例(れい)のやうにはあらで、北(きた)の陣(ぢん)より藤壺(ふぢつぼ)・後涼殿(こうらうでん)のはさまより通りて、殿上(てんじやう)に参(まゐ)り給(たま)へるに、「こはいかに。御消息(せうそこ)奉(たてまつ)りつるは、御覧(ごらん)ぜざりつるか。かかる夢をなむ見侍(はべ)りつるは」。手をはたと打ちて、いかにぞと、こまかにも問(と)ひ申(まう)させ給(たま)はず、また二つ物(もの)も宣(のたま)はで出(い)で給(たま)ひにけり。さて御祈(いのり)などして、しばしは内(うち)へも参(まゐ)り給(たま)はざりけり。この物(もの)の怪(け)の家は、三条(さんでう)よりは北、西洞院(にしのとうゐん)よりは西なり。今に一条殿の御族(ぞう)あからさまにも入らぬところなり。
 この大納言(だいなごん)殿、よろづにととのひ給(たま)へるに、和歌の方や少しおくれ給(たま)へりけむ。殿上(てんじよう)に歌論義(うたろぎ)といふこと出(い)できて、その道の人々、いかが問答(もんだふ)すべきなど、歌の学問よりほかのこともなきに、この大納言(だいなごん)殿は、物(もの)も宣(のたま)はざりければ、いかなることぞとて、なにがしの殿(との)の、「難波津(なにはづ)に咲くやこの花冬ごもり、いかに」と聞えさせ給(たま)ひければ、とばかり物(もの)も宣(のたま)はで、いみじう思(おぼ)し案(あん)ずるさまにもてなして、「え知(し)らず」と答へさせ給(たま)へりけるに、人々笑ひて、こと醒(さ)め
侍(はべ)りにけり。
すこしいたらぬことにも、御魂(たましひ)の深く御座(おは)して、らうらうじうしなし給(たま)ひける御根性(こんじよう)にて、帝(みかど)幼く御座(おは)しまして、人々に、「遊び物ども参(まゐ)らせよ」と仰(おほ)せられければ、さまざま、金(こがね)・銀(しろかね)など心を尽(つ)くして、いかなることをがなと、風流(ふりう)をし出(い)でて、持(も)て参(まゐ)り会(あ)ひたるに、この殿(との)は、こまつぶりにむらごの緒(を)つけて奉(たてまつ)り給(たま)へりければ、「あやしの物のさまや。こはなにぞ」と問(と)はせ給(たま)ひければ、「しかじかの物になむ」と申(まう)す、「まはして御覧(ごらん)じ御座(おは)しませ。興(きよう)ある物になむ」と申(まう)されければ、南殿(なでん)に出(い)でさせ御座(おは)しまして、まはさせ給(たま)ふに、いと広き殿(との)のうちに、のこらずくるべき歩(ある)けば、いみじう興(きよう)ぜさせ給(たま)ひて、これをのみ、つねに御覧じあそばせ給(たま)へば、こと物どもは籠(こ)められにけり。
 また、殿上人(てんじやうびと)、扇(あふぎ)どもして参(まゐ)らするに、こと人々は、骨に蒔絵(まきゑ)をし、あるは、金・銀・沈(ぢん)・紫壇(したん)の骨になむ筋(すぢ)を入れ、彫物(ほりもの)をし、えもいはぬ紙どもに、人のなべて知(し)らぬ歌や詩や、また六十余国の歌枕(うたまくら)に名あがりたる所々などを書きつつ、人人参(まゐ)らするに、例(れい)のこの殿(との)は、骨の漆(うるし)ばかりをかしげに塗(ぬ)りて、黄(き)なる唐紙(からかみ)の下絵(したゑ)ほのかにをかしきほどなるに、表(おもて)の方には楽府(がくふ)をうるはしく真(しん)に書き、裏には御筆(ふで)とどめて草(さう)にめでたく書きて奉(たてまつ)り給(たま)へりければ、うち返しうち返し御覧(ごらん)じて、御手箱(てばこ)に入れさせ給(たま)ひて、いみじき御宝(たから)と思(おぼ)し召(め)したりければ、こと扇どもは、ただ御覧じ興(きよう)ずるばかりにてやみにけり。いずれもいずれも、帝王(みかど)の御感(ぎよかん)侍(はべ)るにますことやはあるべきよな。
 いみじき秀句(すく)宣(のたま)へる人なり。この高陽院殿(かやゐんどの)にて競馬(くらべうま)ある日、鼓(つづみ)は、讃岐前司明理(さぬきのぜんじあきまさ)ぞ打ち給(たま)ひし。一番にはなにがし、二番にはかがしなどいひしかど、その名こそ覚(おぼ)えね。勝つべき方の鼓をあしう打ちさげて、負(まけ)になりにければ、その随身(ずいじん)の、やがて馬の上にて、ない腹(ばら)を立ちて、見返るままに、「あなわざはひや。かばかりのことをだにしそこなひ給(たま)ふよ。かかれば、『明理・行成(ゆきなり)』と一双(いつさう)にいはれ給(たま)ひしかども、一(いち)の大納言(だいなごん)にて、いとやむごとなくて候(さぶら)はせ給(たま)ふに、くさりたる讃岐前司古受領(ふるずりやう)の、鼓打ちそこなひて、立ち給(たま)ひたるぞかし」と放言(はうごん)したいまつりけるを、大納言(だいなごん)殿(どの)聞(き)かせ給(たま)ひて、「明理の濫行(らんかう)に、行成が醜名(しこな)呼ぶべきにあらず。いと辛(から)いことなり」とて、笑はせ給(たま)ひければ、人々、「いみじう宣(のたま)はせたり」とて、興(きよう)じ奉(たてまつ)りて、その頃のいひごとにこそし侍(はべ)りしか。
また、一条摂政殿の御男子(をのこご)、花山院の御時、帝(みかど)の御舅(をぢ)にて、義懐(よしちか)の中納言と聞えし、少将(せうしやう)たちの同じ腹よ。その御時は、いみじうはなやぎ給(たま)ひしに、帝(みかど)の出家(すけ)せさせ給(たま)ひてしかば、やがて、われも、遅れ奉(たてまつ)らじとて、花山(はなやま)まで尋ね参(まゐ)りて、一日をはさめて、法師になり給(たま)ひにき。飯室(いひむろ)といふ所に、いと尊く行ひてぞかくれ給(たま)ひにし。その中納言、文盲(もんまう)にこそ御座(おは)せしかど、御心(こころ)魂(たましひ)いとかしこく、有識(いうそく)に御座(おは)しまして、花山院の御時の政(まつりごと)は、ただこの殿(との)と惟成(これしげ)の弁(べん)として行ひ給(たま)ひければ、いといみじかりしぞかし。
 その帝(みかど)をば、「内劣(うちおと)りの外(と)めでた」とぞ、世の人、申(まう)しし。「冬(ふゆ)の臨時(りんじ)の祭(まつり)の、日の暮るる、あしきことなり。辰(たつ)の時に人々参(まゐ)れ」と、宣旨(せんじ)下させ給(たま)ふを、さぞ仰(おほ)せらるとも、巳(み)・午(うま)の時にぞ始(はじ)まらむなど思(おも)ひ給(たま)へりけるに、舞人(まひびと)の君達(きんだち)装束(さうぞく)賜(たま)はりに参(まゐ)り御座(おは)さうじたりければ、帝(みかど)は御装束奉(たてまつ)りて、立たせ御座(おは)しましたりけるに、この入道(にふだう)殿(どの)も舞人にて御座(おは)しましければ、この頃、語らせ給(たま)ふなるを、伝へて承(うけたまは)るなり。あかく大路(おほち)などわたるがよかるべきにやと思(おも)ふに、帝(みかど)、馬をいみじう興(きよう)ぜさせ給(たま)ひければ、舞人の馬を後涼殿(こうらうでん)の北の馬道(めだう)より通させ給(たま)ひて、朝餉(あさがれひ)の壺(つぼ)にひきおろさせ給(たま)ひて、殿上人(てんじやうびと)どもを乗せて御覧(ごらん)ずるをだに、あさましう人々思(おも)ふに、はては乗らむとさへせさせ給(たま)ふに、すべき方もなくて候(さぶら)ひ会(あ)ひ給(たま)へるほどに、さるべきにや侍(はべ)りけむ、入道(にふだう)中納言さし出(い)で給(たま)へりけるに、帝(みかど)、御おもていと赤くならせ給(たま)ひて、術(ずち)なげに思(おぼ)し召(め)したり。中納言もいとあさましう見奉(たてまつ)り給(たま)へど、人々の見るに、制(せい)しまうさむも、なかなか見ぐるしければ、もてはやし興(きよう)じまうし給(たま)ふにもてなしつつ、みづから下襲(したがさね)のしりはさみて乗り給(たま)ひぬ。さばかりせばき壺(つぼ)に折りまはし、おもしろくあげ給(たま)へば、御けしきなほりて、あしきことにはなかりけり、と思(おぼ)し召(め)して、いみじう興(きよう)ぜさせ給(たま)ひけるを、中納言あさましうもあはれにも思(おぼ)さるる御けしきは、同じ御心(みこころ)によからぬことを囃(はや)しまうし給(たま)ふとは見えず、誰(たれ)もさぞかしとは見知(し)りきこえさする人もありければこそは、かくも申(まう)し伝へたれな。また、「みづから乗り給(たま)ふまではあまりなり」といふ人もありけり。
 これならず、ひたぶるに色にはいたくも見えず、ただ御本性(ほんじやう)のけしからぬさまに見えさせ給(たま)へば、いと大事(だいじ)にぞ。されば源民部卿(げんみんぶきよう)は、「冷泉院の狂(くる)ひよりは、花山院の狂ひは術(ずち)なき物(もの)なれ」と申(まう)し給(たま)ひければ、入道(にふだう)殿(どの)は、「いと不便(ふびん)なることをも申(まう)さるるかな」と仰(おほ)せられながら、いといみじう笑はせ給(たま)ひけり。
 この義懐(よしちか)の中納言の御出家(すけ)、惟成(これしげ)の弁(べん)の勧(すす)めきこえられたりけるとぞ。いみじういたりありける人にて、「いまさらに、よそ人(びと)にてまじらひ給(たま)はむ見ぐるしかりなむ」と聞えさせければ、げにさもと、いとど思(おぼ)して、なり給(たま)ひにしを、もとよりおこし給(たま)はぬ道心(だうしん)なれば、いかがと人思(おも)ひきこえしかど、落(お)ち居(ゐ)給(たま)へる御心(みこころ)の本性なれば、懈怠(けたい)なく行ひ給(たま)ひて、失(う)せ給(たま)ひにしぞかし。
 その御子(みこ)は、ただいまの飯室(いひむろ)の僧都(そうづ)、また、絵阿闍梨(ゑあざり)の君(きみ)、入道(にふだう)中将(ちゆうじやう)成房(なりふさ)の君なり。この三人(みたり)、備中守(びつちゆうのかみ)為雅(ためまさ)の女(むすめ)の腹なり。その中将(ちゆうじやう)の女は、定経(さだつね)のぬしの妻(め)にてこそは御座(おは)すめれ。一条殿の御族(ぞう)は、いかなることにか、御命短くぞ御座(おは)しますめる。
花山院の、御出家(すけ)の本意(ほい)あり、いみじう行はせ給(たま)ひ、修行(すぎやう)せさせ給(たま)はぬところなし。されば、熊野(くまの)の道に千里(ちさと)の浜といふところにて、御心地(ここち)そこなはせ給(たま)へれば、浜づらに石のあるを御枕にて、大殿籠(おほとのごも)りたるに、いと近く海人(あま)の塩焼く煙(けぶり)の立ちのぼる心ぼそさ、げにいかにあはれに思(おぼ)されけむな。
  旅の空夜半(よは)のけぶりとのぼりなば海人(あま)の藻塩火(もしほび)焚(た)くかとや見む W
 かかるほどに、御験(ごげん)いみじうつかせ給(たま)ひて、中堂(ちゆうだう)にのぼらせ給(たま)へる夜(よ)、験競(げんくら)べしけるを、試(こころみ)むと思(おぼ)し召(め)して、御心(みこころ)のうちに念(ねん)じ御座(おは)しましければ、護法(ごほふ)つきたる法師、御座(おは)します御屏風(びやうぶ)のつらに引きつけられて、ふつと動きもせず、あまりひさしくなれば、今はとてゆるさせ給(たま)ふ折ぞ、つけつる僧どものがり、をどりいぬるを、「はやう院(ゐん)の御護法の引き取るにこそありけれ」と、人々あはれに見奉(たてまつ)る。それ、さることに侍(はべ)り。験(げん)も品(しな)によることなれば、いみじき行(おこな)ひ人(びと)なりとも、いかでかなずらひまうさむ。前生(ぜんしやう)の御戒力(かいりき)に、また、国王の位をすて給(たま)へる出家(すけ)の御功徳(くどく)、かぎりなき御ことにこそ御座(おは)しますらめ。ゆく末までも、さばかりならせ給(たま)ひなむ御心には、懈怠(けだい)せさせ給(たま)ふべきことかはな。それに、いとあやしくならせ給(たま)ひにし御心あやまちも、ただ御物(もの)の怪(け)のし奉(たてまつ)りぬるにこそ侍(はべ)めりしか。
 なかにも、冷泉院の、南院(みなみのゐん)に御座(おは)しましし時、焼亡(せうまう)ありし夜(よ)、御とぶらひに参(まゐ)らせ給(たま)へりし有様(ありさま)こそ不思議に候(さぶら)ひしか。御親の院は御車(みくるま)にて二条町尻(まちじり)の辻(つじ)に立たせ給(たま)へり。この院は御馬にて、頂(いただき)に鏡いれたる笠、頭光(づくわう)に奉(たてまつ)りて、「いづくにか御座(おは)します、いづくにか御座(おは)します」と、御手づから人ごとに尋ね申(まう)させ給(たま)へば、「そこそこになむ」と聞(き)かせ給(たま)ひて、御座(おは)しましどころへ近く降りさせ給(たま)ひぬ。御馬の鞭腕(むちかひな)に入れて、御車の前に御袖(そで)うち合(あは)せて、いみじうつきづきしう居(ゐ)させ給(たま)へりしは、さることやは侍(はべ)りしとよ。それにまた、冷泉院の、御車のうちより、高やかに神楽歌(かぐらうた)をうたはせ給(たま)ひしは、さまざま興(きよう)あることをも見聞(き)くかなと、おぼえ候(さぶら)ひし。明順(あきのぶ)のぬしの、「庭火(にはび)、いと猛(まう)なりや」と宣(のたま)へりけるにこそ、万人(ばんにん)えたへず笑ひ給(たま)ひにけれ。
 あてまた、花山院の、ひととせ、祭(まつり)のかへさ御覧(ごらん)ぜし御有様(ありさま)は、誰(たれ)も見奉(たてまつ)り給(たま)ひけむな。前の日、こと出(いだ)させ給(たま)へりしたびのことぞかし。さることあらむまたの日は、なほ御歩(あり)きなどなくてもあるべきに、いみじき一(いち)のものども、高帽頼勢(かうぼうらいせい)を始(はじ)めとして、御車(みくるま)のしりに多くうちむれ参(まゐ)りしけしきども、いへばおろかなり。なによりも御数珠(ずず)のいと興(きよう)ありしなり。小さき柑子(かうじ)をおほかたの玉には貫(つらぬ)かせ給(たま)ひて、達磨(だつま)には大柑子(おほかうじ)をしたる御数珠、いと長く御指貫(さしぬき)に具(ぐ)して出(いだ)させ給(たま)へりしは、さる見物(みもの)やは候(さぶら)ひしな。紫野(むらさきの)にて、人人、御車に目をつけ奉(たてまつ)りたりしに、検非違使(けびゐし)参(まゐ)りて、昨日、こと出(いだ)したりし童(わらは)べ捕(とら)ふべし、といふこと出(い)できにける物(もの)か。このごろの権(ごん)大納言(だいなごん)殿、まだその折は若く御座(おは)しまししほどぞかし、人走らせて、「かうかうのこと候(さぶら)ふ。とく帰らせ給(たま)ひね」と申(まう)させ給(たま)へりしかば、そこら候(さぶら)ひつるものども、蜘蛛(くも)の子を風の吹き払(はら)ふごとくに逃げぬれば、ただ御車副(みくるまぞひ)のかぎりにてやらせて、物見車(ものみぐるま)のうしろの方より御座(おは)しまししこそ、さすがにいとほしく、かたじけなくおぼえ御座(おは)しまししか。さて検非違使つきや、いといみじう辛(から)う責(せ)められ給(たま)ひて、太上(だいじやう)天皇(てんわう)の御名は下(くだ)させ給(たま)ひてき。かかればこそ、民部卿殿の御いひ言(ごと)はげにとおぼゆれ。
 さすがに、あそばしたる和歌は、いづれも人の口にのらぬなく、優(いう)にこそ承(うけたまは)れな。「ほかの月をも見てしがな」などは、この御有様(ありさま)に思(おぼ)し召(め)しよりけることともおぼえず、心ぐるしうこそ候(さぶら)へ。あてまた冷泉院に笋(たかうな)奉(たてまつ)らせ給(たま)へる折は、
  世の中にふるかひもなきたけのこはわが経(へ)む年を奉(たてまつ)るなり W
御返し、
  年経ぬる竹のよはひを返してもこの世をながくなさむとぞ思(おも)ふ W
「かたじけなく仰(おほ)せられたり」と、御集(ぎよしふ)に侍(はべ)るこそあはれに候(さぶら)へ。誠(まこと)に、さる御心(みこころ)にも、祝ひ申(まう)さむと思(おぼ)し召(め)しけるかなしさよ。
 この花山院は、風流者(ふりうざ)にさへ御座(おは)しましけるこそ。御所(ごしよ)つくらせ給(たま)へりしさまなどよ。
寝殿(しんでん)・対(たい)・渡殿(わたどの)などは、つくり会(あ)ひ、檜皮葺(ひはだふ)きあはすることも、この院のし出(い)でさせ給(たま)へるなり。昔は別々(べちべち)にて、あはひに樋(ひ)かけてぞ侍(はべ)りし。内裏(だいり)は今にさてこそは侍(はべ)るめれ。
御車(みくるま)やどりには、板敷(いたじき)を奥には高く、端(はし)はさがりて、大きなる妻戸(つまど)をせさせ給(たま)へる、ゆゑは、御車の装束(さうぞく)をさながら立てさせ給(たま)ひて、おのづからとみのことの折に、とりあへず戸押し開かば、からからと、人も手もふれぬさきに、さし出(いだ)さむが料(れう)と、おもしろく思(おぼ)し召(め)しよりたることぞかし。御調度(てうど)どもなどの清(けう)らさこそ、えもいはず侍(はべ)りけれ。六の宮の絶(た)えいり給(たま)へりし御誦経(みずきやう)にせられたりし御硯(すずり)の箱見給(たま)へき。海賦(かいぶ)に蓬莱山(ほうらいせん)・手長(てなが)・足長(あしなが)、金(こがね)して蒔(ま)かせ給(たま)へりし、かばかりの箱の漆(うるし)つき、蒔絵のさま、くちをかれたりし様(やう)などのいとめでたかりしなり。
 また、木立(こだち)つくらせ給(たま)へりし折は、「桜の花は優(いう)なるに枝ざしのこはごはしく、幹(もと)の様(やう)などもにくし。梢(こずゑ)ばかりを見るなむをかしき」とて中門(ちゆうもん)より外(と)に植ゑさせ給(たま)へる、なによりもいみじく思(おぼ)し寄りたりと、人は感じまうしき。また、撫子(なでしこ)の種を築地(ついひぢ)の上にまかせ給(たま)へりければ、思(おも)ひがけぬ四方(よも)に、色々の唐錦(からにしき)をひきかけたるやうに咲きたりしなどを見給(たま)へしは、いかにめでたく侍(はべ)りしかは。
 入道(にふだう)殿(どの)、競馬(くらべうま)せさせ給(たま)ひし日、迎へまうさせ給(たま)ひけるに、わたり御座(おは)します日の御装(よそひ)は、さらなり、おろかなるべきにあらねど、それにつけても、誠(まこと)に、御車(みくるま)のさまこそ、世にたぐひなく候(さぶら)ひしか。御沓(くつ)にいたるまで、ただ、人の見物(みもの)になるばかりこそ、後(のち)には持(も)て歩(あり)くと承(うけたまは)りしか。
 あて、御絵(ゑ)あそばしたりし、興(きよう)あり。さは、走り車の輪(わ)には、薄墨(うすずみ)に塗(ぬ)らせ給(たま)ひて、大きさのほど、輻(や)などのしるしには墨(すみ)をにほはさせ給(たま)へりし、げにかくこそ書くべかりけれ。あまりに走る車は、いつかは黒さのほどやは見え侍(はべ)る。
また、笋(たかうな)の皮を、男の指(および)ごとに入れて、目かかうして、児(ちご)をおどせば、顔を赤めてゆゆしう怖(お)ぢたるかた、また、徳人(とくにん)・たよりなしの家のうちの作法(さはふ)などかかせ給(たま)へりしが、いづれもいづれも、さぞありけむとのみ、あさましうこそ候(さぶら)ひしか。この中(なか)に、御覧(ごらん)じたる人もや御座(おは)しますらむ。
一 太政大臣(だいじやうだいじん)兼通(かねみち)忠義公(ちゆうぎこう)
この大臣(おとど)、これ、九条殿(くでうどの)の次郎君、堀河(ほりかは)の関白(くわんばく)と聞(きこ)えさせき。関白(くわんばく)し給(たま)ふこと、六年。
安和(あんな)二年正月七日、宰相(さいしやう)にならせ給(たま)ふ。閏(うるふ)五月二十一日、宮内卿(くないきやう)とこそは申(まう)ししか。天禄(てんろく)二年閏二月二十九日、中納言にならせ給(たま)ひて、大納言(だいなごん)をば経(へ)で、十一月二十七日、内大臣にならせ給(たま)ふ。いとめでたかりしことなり。
弟(おとうと)の東三条(とうさんでう)殿(どの)の中納言に御座(おは)しまししに、まだこの殿は宰相にていと辛(から)きことに思(おぼ)したりしに、かくならせ給(たま)ひしめでたかりしことなりかし。天延(てんえん)二年正月七日、従(じゆ)二位せさせ給(たま)ふ。二月二十八日に太政大臣(だいじやうだいじん)にならせ給(たま)ふ。やがて正二位せさせ給(たま)ひ、輦車(てぐるま)ゆるさせ給(たま)ひて、三月二十六日、関白(くわんばく)にならせ給(たま)ひにしぞかし。宰相にならせ給(たま)ひし年より六年(むとせ)といふにかくならせ給(たま)ひにき。天延(てんえん)三年正月七日、一位せさせ給(たま)ひてき。貞元(ぢやうげん)二年十一月八日失(う)せさせ給(たま)ひにき、御年五十三.同じ二十日、贈(ぞう)正(じやう)一位(いちゐ)の宣旨(せんじ)あり。後(のち)の御いみな、忠義公と申(まう)しき。この殿(との)、かくめでたく御座(おは)しますほどよりは、ひまなくて大将にえなり給(たま)はざりしぞ、口惜(くちを)しかりしや。それ斯様(かやう)ならんためにこそあれ。さてもありぬべきことなり。ただ思(おぼ)し召(め)せかしな。
御母のことのなきは、一条殿(いちでうどの)の同じきにや。大入道(おほにふだう)殿(どの)、納言(なごん)にて御座(おは)しますほど、御兄(このかみ)なれど、宰相(さいしやう)にて年頃(としごろ)経(へ)させ給(たま)ひけるを、天禄(てんろく)三年二月に中納言になり給(たま)ひて、宮中のこと内覧(ないらん)すべき宣旨承(うけたまは)らせ給(たま)ひにけり。同じ年十一月に、内大臣にて関白(くわんばく)の宣旨かぶらせ給(たま)ひてぞ、多くの人越え給(たま)ひける。
円融院の御母后(ははきさき)、この大臣(おとど)の妹(いもうと)に御座(おは)しますぞかし。この后(きさき)、村上の御時、康保(かうはう)元年四月二十九日に失(う)せ給(たま)ひにしぞかし。この后のいまだ御座(おは)しましし時に、この大臣(おとど)いかが思(おぼ)しけむ、「関白(くわんばく)は、次第(しだい)のままにせさせ給(たま)へ」と書かせ奉(たてまつ)りて、取り給(たま)ひたりける御文(ふみ)を、守(まもり)のやうに首にかけて、年頃(としごろ)、持ちたりけり。御弟(おとと)の東三条(とうさんでう)殿(どの)は、冷泉院の御時の蔵人頭(くらうどのとう)にて、この殿(との)よりも先(さき)に三位(さんみ)して、中納言にもなり給(たま)ひにしに、この殿は、はつかに宰相ばかりにて御座(おは)せしかば、世の中すさまじがりて、内(うち)にもつねに参(まゐ)り給(たま)はねば、帝(みかど)も、うとく思(おぼ)し召(め)したり。
  その時に、兄の一条(いちでう)の摂政(せつしやう)、天禄三年十月に失(う)せ給(たま)ひぬるに、この御文(ふみ)を内(うち)に持(も)て参(まゐ)り給(たま)ひて、御覧(ごらん)ぜさせむと思(おぼ)すほどに、上(うへ)、鬼(おに)の間(ま)に御座(おは)しますほどなりけり。折よしと思(おぼ)し召(め)すに、御舅(をぢ)たちの中に、うとく御座(おは)します人なれば、うち御覧じて入(い)らせ給(たま)ひき。さし寄りて、「奏(そう)すべきこと」と申(まう)し給(たま)へば、立ち帰らせ給(たま)へるに、この文を引き出(い)でて参(まゐ)らせ給(たま)へれば、取りて御覧ずれば、紫の薄様(うすやう)一重(ひとかさね)に、故(こ)宮(みや)の御手にて、「関白(くわんばく)をば、次第(しだい)のままにせさせ給(たま)へ。ゆめゆめたがへさせ給(たま)ふな」と書かせ給(たま)へる、御覧ずるままに、いとあはれげに思(おぼ)し召(め)したる御けしきにて、「故(こ)宮(みや)の御手よな」と仰(おほ)せられ、御文をば取りて入らせ給(たま)ひにけりとこそは。さてかく出(い)で給(たま)へるとこそは聞(きこ)え侍(はべ)りしか。いと心かしこく思(おぼ)しけることにて、さるべき御宿世(すくせ)とは申(まう)しながら、円融院孝養(けうやう)の心深く御座(おは)しまして、母宮の御遺言(ゆいごん)たがへじとて、なし奉(たてまつ)らせ給(たま)へりける、いとあはれなることなり。
  その時、頼忠(よりただ)の大臣(おとど)、右大臣にて御座(おは)しまししかば、道理のままならば、この大臣(おとど)のし給(たま)ふべきにてありしに、この文(ふみ)にてかくありけるとこそは聞え侍(はべ)りしか。東三条(とうさんでう)殿(どの)も、この堀河殿よりは上臈(じやうらふ)にて御座(おは)しまししかば、いみじう思(おぼ)し召(め)しよりたることぞかし。
この殿(との)の御着袴(ちやくこ)に、貞信公(ていしんこう)の御もとに参(まゐ)り給(たま)へる、贈物(おくりもの)に添(そ)へさせ給(たま)ふとて、貫之(つらゆき)のぬしに召(め)したりしかば、奉(たてまつ)れたりし歌、
  ことに出(い)でで心のうちに知(し)らるるは神のすぢなはぬけるなりけり W
引出物(ひきいでもの)に、琴をせさせ給(たま)へるにや。
 御かたちいと清(きよ)げに、きららかになどぞ御座(おは)しましし。堀河院(ほりかはのゐん)に住ませ給(たま)ひしころ、臨時客(りんじきやく)の日、寝殿(しんでん)の隅(すみ)の紅梅(こうばい)盛(さか)りに咲きたるを、ことはてて内(うち)へ参(まゐ)らせ給(たま)ひざまに、花の下に立ち寄らせ給(たま)ひて、一枝をおし折りて、御挿頭(かざし)にさして、けしきばかりうち奏(かな)でさせ給(たま)へりし日などは、いとこそめでたく見えさせ給(たま)ひしか。
 この殿(との)には、御夜(ごや)に召(め)す卯酒(ばうしゆ)の御肴(さかな)には、ただいま殺したる〓[矢+鳥](きじ)をぞ参(まゐ)らせける。持(も)て参(まゐ)りあふべきならねば、宵(よひ)よりぞまうけておかれける。業遠(なりとほ)のぬしのまだ六位にて、始(はじ)めて参(まゐ)れる夜(よ)、御沓櫃(くつびつ)のもとに居(ゐ)られたりければ、櫃(ひつ)のうちに、物(もの)のほとほとしけるがあやしさに、暗(くら)まぎれなれば、やをら細めにあけて見給(たま)ひければ、〓[矢+鳥](きじ)の雄鳥(をとり)かがまりをる物(もの)か。人のいふことはまことなりけりと、あさましうて、人の寝にける折に、やをら取り出(いだ)して、懐(ふところ)にさし入れて、冷泉院(れいぜいゐん)の山に放(はな)ちたりしかば、ほろほろと飛びてこそ去(ゐ)にしか。「し得(え)たりし心地(ここち)は、いみじかりし物(もの)かな。それにぞ、われは幸(さいは)ひ人(びと)なりけりとはおぼえしか」となむ、語られける。殺生(せつしやう)は殿(との)ばらの皆せさせ給(たま)ふことなれど、これはむげの無益(むやく)のことなり。
この殿(との)の御女(むすめ)、式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)元平(もとひら)の親王(みこ)の御女の御腹の姫君(ひめぎみ)、円融院の御時に参(まゐ)り給(たま)ひて、堀河(ほりかは)の中宮(ちゆうぐう)と申(まう)しき。幼く御座(おは)しまししほど、いかなりけるにか、例(れい)の御親のやうにつねに見奉(たてまつ)りなどもし給(たま)はざりければ、御心(みこころ)いとかしこう、また御後見(うしろみ)などこそは申(まう)しすすめけめ、物詣(ものまうで)・祈(いのり)をいみじうせさせ給(たま)ひけるとか。稲荷(いなり)の坂にても、この女(をんな)ども見奉(たてまつ)りけり。いと苦しげにて、御〓[巾+皮](むし)おしやりて、あふがれさせ給(たま)ひける御姿つき、指貫(さしぬき)の腰ぎはなども、さはいへど、多くの人よりは気高(けだか)く、なべてならずぞ御座(おは)しける。斯様(かやう)につとめさせ給(たま)へるつもりにや、やうやうおとなび給(たま)ふままに、これよりおとななる御女(むすめ)も御座(おは)しまさねば、さりとて后(きさき)にたて奉(たてまつ)らであるべきならねば、かく参(まゐ)らせ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、いとやむごとなく候(さぶら)はせ給(たま)ひしぞかし。いま一所(ひとところ)の姫君は、尚侍(ないしのかみ)にならせ給(たま)へりし、今に御座(おは)します。六条の左大臣(さだいじん)殿(どの)の御子(みこ)の讃岐守(さぬきのかみ)の上(うへ)にて御座(おは)するとかや。
 また、太郎君(たらうぎみ)、長徳(ちやうとく)二年七月二十一日、右大臣にならせ給(たま)ひにき。御年七十八にてや失(う)せ御座(おは)しましけむ。失(う)せ給(たま)ひて、この五年(いつとせ)ばかりにやなりぬらむ。悪霊(あくりやう)の左大臣(さだいじん)殿(どの)と申(まう)し伝へたる、いと心憂(こころう)き御名なりかし。そのゆゑどもみな侍(はべ)るべし。この御北の方には、村上の先帝(せんだい)の女五の宮、広幡(ひろはた)の御息所(みやすどころ)の御腹ぞかし。その御腹に、男子(をのこご)一人・女二人御座(おは)しまししを、男君(をとこぎみ)は重家(しげいへ)の少将(せうしやう)とて、心ばへ有識(いうそく)に、世覚(よおぼ)え重くてまじらひ給(たま)ひしほどに、ひさしく御座(おは)しますまじかりければにや、出家(すけ)して失(う)せ給(たま)ひにき。女君(をんなぎみ)一所(ひとところ)は、一条院の御時の承香殿(しようきやうでん)の女御(にようご)とて御座(おは)せしが、末には、為平(ためひら)の式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)の御子(みこ)、源宰相(げんさいしやう)頼定(よりさだ)の君の北の方にて、あまたの君達(きんだち)御座(おは)すめり。そのほどの御ことどもは、皆人知ろしめしたらむ。その宰相失(う)せ給(たま)ひにしかば、尼(あま)になりて御座(おは)します。いま一所は、今の小一条院(こいちでうゐん)の、まだ式部卿(しきぶきやう)の宮と申(ま)しし折、婿(むこ)にとり奉(たてまつ)らせ給(たま)へりしほどに、春宮(とうぐう)にたたせ給(たま)へりしをうれしきことに思(おぼ)ししかど、院にならせ給(たま)ひにし後(のち)は、高松殿(たかまつどの)の御匣殿(みくしげどの)にわたらせ給(たま)ひて、御心(みこころ)ばかりは通はし給(たま)ひながら、通はせ給(たま)ふこと絶えにしかば、女御も父大臣(ちちおとど)も、いみじう思(おぼ)し嘆きしほどに、御病にもなりにけるにや、失(う)せ給(たま)ひにき。
いみじきものになりて、父大臣(おとど)具(ぐ)してこそ、し歩(あり)き給(たま)ふなれ。院の女御には、つねにつきわづらはせ給(たま)ふなり。
その腹に、宮たちあまた所(ところ)御座(おは)します。
また、堀河の関白(くわんばく)殿の御二郎、兵部卿(ひやうぶきやう)有明(ありあきら)の親王(みこ)の御女(むすめ)の腹の君、中宮の御一(ひと)つ腹(ばら)には御座(おは)せず。これはまた、閑院(かんゐん)の大将朝光(あさてる)とぞ申(まう)しし。兄(このかみ)の大臣(おとど)、宰相にて御座(おは)しけるほどは、この殿(との)は中納言にてぞ御座(おは)しける。ひき越され給(たま)ひけるぞめでたく、その頃などすべていみじかりし御世覚(よおぼ)えにて、御まじらひのほどなど、ことのほかにきらめき給(たま)ひき。胡〓[竹+禄](やなぐひ)の水精(すいさう)の筈(はず)も、この殿の思(おも)ひ寄りし出(い)で給(たま)へるなり。何事(なにごと)の行幸(ぎやうかう)にぞや仕(つか)まつり給(たま)へりしに、この胡〓[竹+禄]負(お)ひ給(たま)へりしは、朝日の光に輝(かかや)き会(あ)ひて、さるめでたきことやは侍(はべ)りし。今は目馴(めな)れにたれば、めづらしからず人も思(おも)ひて侍(はべ)るぞ。何事につけても、はなやかにもて出(い)でさせ給(たま)へりし殿の、父殿(ちちどの)失(う)せ給(たま)ひにしかば、世の中おとろへなどして、御病も重くて、大将も辞(じ)し給(たま)ひてこそ、口惜(くちを)しかりしか。さて、ただ按察(あぜちの)大納言(だいなごん)とぞ聞えさせし。和歌などこそ、いとをかしくあそばししか。四十五にて失(う)せ給(たま)ひにき。
 北の方には、貞観殿(ぢやうぐわんでん)の尚侍の御腹の、重明(しげあきら)の式部卿(しきぶきやう)の宮の御中姫君ぞ御座(おは)せしかし。その御腹に、男君三人、女君(をんなぎみ)のかかやくごとくなる御座(おは)せし、花山院の御時参(まゐ)らせ給(たま)ひて、一月ばかりいみじうときめかせ給(たま)ひしを、いかにしけることにかありけむ、まう上(のぼ)り給(たま)ふこともとどまり、帝(みかど)もわたらせ給(たま)ふこと絶えて、御文(ふみ)だに見えきこえずなりにしかば、一二月候(さぶら)ひわびてこそは、出(い)でさせ給(たま)ひにしか。また、さあさましかりしことやはありし。御かたちなどの、世の常ならずをかしげにて、思(おぼ)し嘆くも、見奉(たてまつ)り給(たま)ふ大納言(だいなごん)・御せうとの君たち、いかがは思(おぼ)しけむ。その御一(ひと)つ腹(ばら)の男君三所(みところ)、太郎君は、今の藤(とう)中納言朝経(あさつね)の卿に御座(おは)すめり。人に重く思(おも)はれ給(たま)へるめり。次郎・三郎君は、馬頭(うまのかみ)・少将(せうしやう)などにて、みな出家(すけ)しつつ失(う)せ給(たま)ひにき。この馬(うま)の入道(にふだう)の御男子(をのこご)なり、今の右京大夫(うきやうのだいぶ)。
この閑院(かんゐん)の大将殿は、後(のち)にはこの君達(きんだち)の母をばさりて、枇杷(びは)の大納言(だいなごん)延光(のぶみつ)の卿の失(う)せ給(たま)ひにし後(のち)、その上(うへ)の、年老いて、かたちなどわろく御座(おは)しけるにや、ことなること聞え給(たま)はざりしをぞ住み給(たま)ひし。徳(とく)につき給(たま)へるとぞ世の人申(まう)しし。さて、世覚(よおぼ)えもおとり給(たま)ひにしぞかし。もとの上、御かたちもいとうつくしく、人のほどもやむごとなく御座(おは)しまししかど、不合(ふがふ)に御座(おは)すとて、かかる今北の方をまうけて、さり給(たま)ひにしぞかし。この今の上の御もとには、女房(にようばう)三十人ばかり、裳(も)・唐衣(からぎぬ)着せて、えもいはずさうぞきて、すゑ並べて、しつらひ有様(ありさま)より始(はじ)めて、めでたくしたてて、かしづききこゆることかぎりなし。大将歩(あり)きて帰り給(たま)ふ折は、冬は火おほらかに埋(うづ)みて、薫物(たきもの)多きにつくりて、伏籠(ふせご)うち置きて、褻(け)に着給(たま)ふ御衣(おんぞ)をば、暖かにてぞ着せ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。炭櫃(すびつ)に銀(しろかね)の提子(ひさげ)二十ばかりを据ゑて、さまざまの薬を置き並べて参(まゐ)り給(たま)ふ。また、寝給(たま)ふ畳(たたみ)の上筵(うはむしろ)に、綿入れてぞ敷(し)かせ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。寝給(たま)ふ時には、大きなる熨斗(のし)持ちたる女房三四人(みたりよたり)ばかり出(い)で来(き)て、かの
大殿籠(おほとのごも)る筵(むしろ)をば、暖かにのしなでてぞ寝させ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。あまりなる御用意なりしかは。
おほかたのしつらひ・有様(ありさま)、女房の装束(さうぞく)などはめでたけれども、この北の方は、練色(ねりいろ)の衣(きぬ)の綿厚き二つばかりに、白袴(しろばかま)うち着てぞ御座(おは)しける。年四十余(よそぢあまり)ばかりなる人の、大将には親ばかりにぞ御座(おは)しける。色黒くて、額(ひたひ)に花がたうち付きて、髪ちぢけたるにぞ御座(おは)しける。御かたちのほどを思(おも)ひ知(し)りて、さまに会(あ)ひたる装束と思(おぼ)しけるにや、誠(まこと)にその御装束こそ、かたちに合ひて見えけれ。さばかりの人の北の方と申(まう)すべくも見えざりけれど、もとの北の方重明(しげあきら)の式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)の姫君、貞観殿(ぢやうぐわんでん)の尚侍(ないしのかみ)の御腹、やむごとなき人と申(まう)しながら、かたち・有様(ありさま)めでたく御座(おは)しけるに、かかる人に思(おぼ)しうつりて、さり奉(たてまつ)らせ給(たま)ひけむほど思(おも)ひ侍(はべ)るに、ただ徳(とく)のありて、かくもてかしづききこゆるに、思(おも)ひの御座(おは)しけるにや。
やむごとなき人だにこそかくは御座(おは)しけれ。あはれ、翁(おきな)らが心にだに、いみじき宝(たから)を降(ふ)らしてあつかはむといふ人ありとも、年頃(としごろ)の女(をんな)どもをうち捨ててまからむは、いとほしかりぬべきに、さばかりにやむごとなく御座(おは)します人は、不合(ふがふ)に御座(おは)すといふとも、翁らが宿(やど)りのやうに侍(はべ)らむやは。この今北の方のことにより、世の人にも軽(かろ)く思(おも)はれ、世覚(よおぼ)えもおとり給(たま)ひにし、いと口惜(くちを)しきことに侍(はべ)りや。さばかりのこと思(おぼ)しわかぬやう侍(はべ)るべしや。あやしの翁らが心におとらせ給(たま)はむやは、と思(おも)ひ給(たま)ふれど、口惜(くちを)しく思(おも)ひ給(たま)ふることなりしかば、申(まう)すぞや」とて、ほほゑむけしき、はづかしげなり。
《世継》「さばかりの人だにかく御座(おは)しましければ、それより次々の人のいかなる振舞(ふるまひ)もせむ、ことわりなりや。翁らがここらの年頃、あやしの宿(やど)りに、わりなき世を念(ねん)じ過して侍(はべ)りつるこそ、ありがたくおぼえ侍(はべ)りつれ」
快(こころよ)くうちすみたりし顔けしきこそいとをかしかりしか。
《世継》「さて、時々、もとの上(うへ)の御もとへ御座(おは)しまさむとて、牛飼(うしかひ)・車副(くるまぞひ)などに、「そなたへ車をやれ」とて仰(おほ)せられけれどさらに聞(き)かざりけれ。この今北の方、侍(さぶらひ)・雑色(ざふしき)・隨身(ずいじん)・車副などに、装束(さうずく)物(もの)取らすることはさるものにて、日ごとに酒を出(いだ)して飲ませ遊ばせ、いみじき志(こころざし)どもをしける。その故(け)にや、かくしけるを、それまたいとあやしき御心(みこころ)なりや。雑色・牛飼の心にまかせて、それによりてえ御座(おは)しまさざりけむよ。さることやは侍(はべ)るな。さるは、この大将は、御心(こころ)ばへもかたちも、人にすぐれてめでたく御座(おは)せし人なり。
また、堀河殿(ほりかはどの)の御子(みこ)、大蔵卿(おほくらきやう)正光(まさみつ)と聞えしが御女(むすめ)、源帥(げんのそち)の御中(なか)の君(きみ)の御腹のぞかし。今の皇太后宮(くわうたいごうぐう)の御匣殿(みくしげどの)とて候(さぶら)ひ給(たま)ふ、ただいまの左兵衛督(さひやうゑのかみ)の北の方。また、上野前司(かうづけのぜんじ)兼定(かねさだ)の君ぞかし。まことや、北面(きたおもて)の中納言とかや、世の人の申(ま)しし時光(ときみつ)の卿、それまた、右京大夫(うきやうのだいぶ)にて御座(おは)せし。この大夫の御子(みこ)ぞかし、今の仁和寺(にんなじ)の別当(べたう)、律師(りし)尋清(じんせい)の君。堀河殿の御末、かばかりか。
 この大臣(おとど)、すべて非常(ひざう)の御心ぞ御座(おは)しし。かばかり末絶えず栄え御座(おは)しましける東三条(とうさんでう)殿(どの)を、ゆゑなきことにより、御官位(つかさくらゐ)を取り奉(たてまつ)り給(たま)へりし、いかに悪事(あくじ)なりしかは。天道(てんたう)もやすからず思(おぼ)し召(め)しけむを。その折の帝(みかど)、円融院にぞ御座(おは)しましし。かかる嘆きのよしを長歌(ながうた)によみて、奉(たてまつ)り給(たま)へりしかば、帝(みかど)の御返り、「いなふねの」とこそ仰(おほ)せられければ、しばしばかりを思(おぼ)し嘆きしぞかし。
堀河殿、はてはわれ失(う)せ給(たま)はむとては、関白(くわんばく)をば、御いとこの頼忠(よりただ)の大臣(おとど)にぞ譲り給(たま)ひしこそ、世の人いみじき僻事(ひがごと)と謗(そし)りまうししか」。
この向(むか)ひ居(を)る侍(さぶらひ)のいふやう、
「東三条(とうさんでう)殿(どの)の官(つかさ)など取り奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしほどのことは、ことわりとこそ承(うけたまは)りしか。おのれが祖父(おほぢ)親(おや)は、かの殿(との)の年頃(としごろ)の者にて侍(はべ)りしかば、こまかに承(うけたまは)りしは。この殿たちの兄弟(あにおとと)の御中(なか)、年頃の官位(つかさくらゐ)の劣(おと)り優(まさ)りのほどに、御中あしくて過ぎさせ給(たま)ひし間に、堀河殿御病重くならせ給(たま)ひて、今はかぎりにて御座(おは)しまししほどに、東(ひんがし)の方に、先(さき)追ふ音のすれば、御前(おまへ)に候(さぶら)ふ人たち、「誰(たれ)ぞ」などいふほどに、「東三条(とうさんでう)殿(どの)の大将殿参(まゐ)らせ給(たま)ふ」と人の申(まう)しければ、殿(との)聞(き)かせ給(たま)ひて、年頃なからひよからずして過ぎつるに、今はかぎりになりたると聞(き)きて、とぶらひに御座(おは)するにこそはとて、御前(おまへ)なる苦しき物(もの)取り遣(や)り、大殿籠(おほとのごも)りたる所ひきつくろひなどして、入れ奉(たてまつ)らむとて、待ち給(たま)ふに、「早く過ぎて、内(うち)へ参(まゐ)らせ給(たま)ひぬ」と人の申(まう)すに、いとあさましく心憂(こころう)くて、御前(おまへ)に候(さぶら)ふ人々も、をこがましく思(おも)ふらむ。御座(おは)したらば、関白(くわんばく)など譲ることなど申(まう)さむとこそ思(おも)ひつるに。かかればこそ、年頃なからひよからで過ぎつれ。あさましくやすからぬことなりとて、かぎりのさまにて臥(ふ)し給(たま)へる人の、「かき起(おこ)せ」と宣(のたま)へば、人々、あやしと思(おも)ふほどに、「車に装束(さうぞく)せよ。御前(ごぜん)もよほせ」と仰(おほ)せらるれば、物(もの)のつかせ給(たま)へるか、現心(うつしごころ)もなくて仰(おほ)せらるるかと、あやしく見奉(たてまつ)るほどに、御冠(かぶり)召(め)し寄せて、装束などせさせ給(たま)ひて、内(うち)へ参(まゐ)らせ給(たま)ひて、陣(ぢん)のうちは君達(きんだち)にかかりて、滝口(たきぐち)の陣の方より、御前(おまへ)へ参(まゐ)らせ給(たま)ひて、昆明池(こんめいち)の障子(さうじ)のもとにさし出(い)でさせ給(たま)へるに、昼(ひ)の御座(ござ)に、東三条(とうさんでう)の大将、御前(おまへ)に候(さぶら)ひ給(たま)ふほどなりけり。
この大将殿は、堀河殿すでに失(う)せさせ給(たま)ひぬと聞(き)かせ給(たま)ひて、内(うち)に関白(くわんばく)のこと申(まう)さむと思(おも)ひ給(たま)ひて、この殿(との)の門(かど)を通りて、参(まゐ)りて申(まう)し奉(たてまつ)るほどに、堀河殿の目をつづらかにさし出(い)で給(たま)へるに、帝(みかど)も大将も、いとあさましく思(おぼ)し召(め)す。大将はうち見るままに、立ちて鬼(おに)の間(ま)の方に御座(おは)しましぬ。関白(くわんばく)殿御前(おまへ)につい居(ゐ)給(たま)ひて、御けしきいとあしくて、「最後の除目(ぢもく)行ひに参(まゐ)り給(たま)ふるなり」とて、蔵人頭(くらうどのとう)召(め)して、関白(くわんばく)には頼忠(よりただ)の大臣(おとど)、東三条(とうさんでう)殿(どの)の大将を取りて、小一条(こいちでう)の済時(なりとき)の中納言を大将になしきこゆる宣旨(せんじ)下して、東三条(とうさんでう)殿(どの)をば治部卿(ぢぶきやう)になしきこえて、出(い)でさせ給(たま)ひて、ほどなく失(う)せ給(たま)ひしぞかし。心意地(こころいぢ)にて御座(おは)せし殿(との)にて、さばかりかぎりに御座(おは)せしに、ねたさに内(うち)に参(まゐ)りて申(まう)させ給(たま)ひしほど、こと人すべうもなかりことぞかし。
されば、東三条(とうさんでう)殿(どの)官(つかさ)取り給(たま)ふことも、ひたぶるに堀河殿の非常(ひざう)の御心(みこころ)にも侍(はべ)らず。ことのゆゑは、かくなり。「関白(くわんばく)は次第(しだい)のままに」といふ御文(ふみ)思(おぼ)し召(め)しより、御妹(いもうと)の宮に申(まう)して取り給(たま)へるも、最後に思(おぼ)すことどもして、失(う)せ給(たま)へるほども、思(おも)ひ侍(はべ)るに、心つよくかしこく御座(おは)しましける殿なり」。
一 太政大臣(だいじやうだいじん)為光(ためみつ) 恒徳公(こうとくこう)
《世継》「この大臣(おとど)は、これ九条殿(くでうどの)の御九郎君、大臣の位にて七年、法住寺(ほふぢゆうじ)の大臣(おとど)と聞(きこ)えさす。御男子(をのこご)七人・女君(をんなぎみ)五人御座(おは)しき。女二所(ふたところ)は、佐理(すけまさ)の兵部卿(ひやうぶきやう)の御妹の腹、いま三所(みところ)は、一条(いちでう)の摂政(せつしやう)の御女(むすめ)の腹に御座(おは)します。男君(をとこぎみ)たちの御母、皆あかれあかれに御座(おは)しましき。女君(をんなぎみ)一所は、花山院の御時の女御(にようご)、いみじう時に御座(おは)せしほどに、失(う)せ給(たま)ひにき。いま一所も、入道(にふだう)中納言(ちゆうなごん)の北の方にて失(う)せ給(たま)ひにき。 男君、太郎は左衛門督(さゑもんのかみ)と聞えさせし、悪心(あくしん)起して失(う)せ給(たま)ひにし有様(ありさま)は、いとあさましかりしことぞかし。人に越えられ、辛(から)いめみることは、さのみこそ御座(おは)しあるわざなるを、さるべきにこそはありけめ。同じ宰相(さいしやう)に御座(おは)すれど、弟殿には人柄(ひとがら)・世覚(よおぼ)えの劣り給(たま)へればにや、中納言あくきはに、われもならむ、など思(おぼ)して、わざと対面(たいめん)し給(たま)ひて、「このたびの中納言望みまうし給(たま)ふな。ここに申(まう)し侍(はべ)るべきなり」と聞え給(たま)ひければ、「いかでか殿(との)の御先(さき)にはまかりなり侍(はべ)らむ。ましてかく仰(おほ)せられむには、あるべきことならず」と申(まう)し給(たま)ひければ、御心(こころ)ゆきて、しか思(おぼ)して、いみじう申(まう)し給(たま)ふにおよばぬほどにや御座(おは)しけむ、入道(にふだう)殿(どの)、この弟殿に、「そこは申(まう)されぬか」と宣(のたま)はせければ、「左衛門督の申(まう)さるれば、いかがは」と、しぶしぶげに申(まう)し給(たま)ひけるに、「かの左衛門督はえなられじ。また、そこにさられば、こと人こそはなるべかなれ」とのたまはせければ、「かの左衛門督まかりなるまじくは、由(よし)なし。なし賜(た)ぶべきなり」と申(まう)し給(たま)へば、またかくあらむには、こと人はいかでかとて、なり給(たま)ひにしを、いかでわれに向(むか)ひて、あるまじきよしを謀(はか)りけるぞ、と思(おぼ)すに、いとど悪心(あくしん)を起して、除目(ぢもく)のあしたより、手をつよくにぎりて、「斉信(ただのぶ)・道長(みちなが)にわれははまれぬるぞ」といひいりて、物(もの)もつゆ参(まゐ)らで、うつぶしうつぶし給(たま)へるほどに、病づきて七日といふに失(う)せ給(たま)ひにしは。にぎり給(たま)ひたりける指(および)は、あまりつよくて、上にこそ通りて出(い)でて侍(はべ)りけれ。
 いみじき上戸(じやうご)にてぞ御座(おは)せし。この関白(くわんばく)殿のひととせの臨時客(りんじきやく)に、あまり酔(ゑ)ひて、御座(ござ)に居(ゐ)ながら立ちもあへ給(たま)はで、物(もの)つき給(たま)へりけるにぞ、高名(かうみやう)の弘高(ひろたか)が書きたる楽府(がふ)の屏風(びやうぶ)にかかりて、そこなはれたなる。この中納言になり給(たま)へるも、いと世覚(おぼ)えあり、よき人にて御座(おは)しき。
 また、権中将(ごんのちゆうじやう)道信(みちのぶ)の君、いみじき和歌の上手(じやうず)にて、心にくき人にいはれ給(たま)ひしほどに、失(う)せ給(たま)ひにき。また、左衛門督(さゑもんのかみ)公信(きんのぶ)の卿・法住寺(ほふぢゆうじ)の僧都(そうづ)の君・阿闍梨(あざり)良光(よしみつ)の君御座(おは)す。まこと、一条(いちでう)摂政殿(せつしやうどの)の御女の腹の女君(をんなぎみ)たち、三・四・五の御方。三の御方は、鷹司殿(たかつかさどの)の上(うへ)とて、尼(あま)になりて御座(おは)します。四の御方は、入道(にふだう)殿(どの)の俗(ぞく)に御座(おは)しましし折の御子(みこ)うみて、失(う)せ給(たま)ひにき。五の君は、今の皇太后宮(くわうたいごうぐう)に候(さぶら)はせ給(たま)ふ。この大臣(おとど)の御有様(ありさま)かくなり。
 法住寺をぞ、いといかめしうおきてさせ給(たま)へる。摂政・関白(くわんばく)せさせ給(たま)はぬ人の御しわざにては、いと猛(まう)なりかし。この大臣(おとど)、いとやむごとなく御座(おは)しまししかど、御末ほそくぞ。
太政大臣(だいじやうだいじん)公季 仁義公
この大臣(おとど)、ただいまの閑院(かんゐん)の大臣(おとど)に御座(おは)します。これ、九条殿(くでうどの)の十一郎君、母、宮腹(みやばら)に御座(おは)します。皇子(みこ)の御女(むすめ)をぞ、北の方にて御座(おは)しましし。その御腹に、女君(をんなぎみ)一所(ひとところ)、男君二所(ふたところ)、女君(をんなぎみ)は、一条院の御時の弘徽殿(こきでん)の女御(にようご)、今に御座(おは)します。男一人は、三味噌都(さんまいそうづ)如源(によげん)と申(ま)しし、失(う)せ給(たま)ひにき。いま一所の男君は、ただいまの右衛門督(うゑもんのかみ)実成(さねなり)の卿にぞ御座(おは)する。この殿(との)の御子(みこ)、播磨守(はりまのかみ)陳政(のぶまさ)の女の腹に、女二所・男一人御座(おは)します。大姫君(おほひめぎみ)は、今の中宮(ちゆうぐうの)権大夫(ごんのだいぶ)殿(どの)の北の方、いま一所は源(げん)大納言(だいなごん)俊賢(としかた)の卿、これ民部卿(みんぶきやう)と聞ゆ、その御子のただいまの頭中将(とうのちゆうじやう)顕基(あきもと)の君の御北の方にて御座(おは)すめる。男君をば、御祖父(おほぢ)の太政大臣(だいじやうだいじん)殿、子にし奉(たてまつ)り給(たま)ひて、公成(きんなり)とつけ奉(たてまつ)らせ給(たま)へるなり。蔵人頭(くらうどのとう)にて、いと覚(おぼ)えことにて御座(おは)すめる君になむ。この太政大臣(だいじやうだいじん)殿(どの)の御有様(ありさま)かくなり。帝(みかど)・后(きさき)、たたせ給(たま)はず。
このおほきおとどの御母上は、延喜(えんぎ)の帝(みかど)の御女、四の宮と聞えさせき。延喜(えんぎ)、いみじうときめかせ、思(おも)ひ奉(たてまつ)らせ給(たま)へりき。御裳着(もぎ)の屏風(びやうぶ)に、公忠(きんただ)の弁(べん)、
  ゆきやらで山路(やまぢ)くらしつほととぎすいま一声の聞(き)かまほしさに W
とよむは、この宮のなり。貫之(つらゆき)などあまたよみて侍(はべ)りしかど、人にとりては、すぐれてののしられ給(たま)ひし歌よ。二代の帝(みかど)の御妹(いもうと)に御座(おは)します。
 さて、内住(うちず)みして、かしづかれ御座(おは)しまししを、九条殿は女房(にようばう)をかたらひて、みそかに参(まゐ)り給(たま)へりしぞかし。世の人、便(びん)なきことに申(まう)し、村上のすべらぎも、やすからぬことに思(おぼ)し召(め)し御座(おは)しましけれど、色に出(い)でて、咎(とが)め仰(おほ)せられずなりにしも、この九条殿の御覚(おぼ)えの、かぎりなきによりてなり。まだ、人々うちささめき、上(うへ)にも聞し召(め)さぬほどに、雨のおどろおどろしう降り、雷鳴(かみな)りひらめきし日、この宮、内(うち)に御座(おは)しますに、「殿上(てんじやう)の人々、四の宮の御方へ参(まゐ)れ。おそろしう思(おぼ)し召(め)すらむ」と仰(おほ)せごとあれば、たれも参(まゐ)り給(たま)ふに、小野宮(をののみや)の大臣(おとど)ぞかし、「参(まゐ)らじ。御前(おまへ)のきたなきに」とつぶやき給(たま)へば、後(のち)にこそ、帝(みかど)、思(おぼ)し召(め)しあはせけめ。
 さて殿(との)にまかでさせ奉(たてまつ)りて、思(おも)ひかしづき奉(たてまつ)らせ給(たま)ふといへば、さらなりや。さるほどに、この太政大臣(だいじやうだいじん)殿(どの)をはらみ奉(たてまつ)り給(たま)ひて、いみじう物(もの)心ぼそくおぼえさせ給(たま)ひければ、「まろはさらにあるまじき心地(ここち)なむする。よし見給(たま)へよ」と男君につねに聞えさせ給(たま)ひければ、「誠(まこと)にさも御座(おは)します物(もの)ならば、片時(かたとき)も後(おく)れまうすべきならず。もし心にあらずながらへ候(さぶら)はば、出家(すけ)かならずし侍(はべ)りなむ。また二つこと人見るといふことはあるべきにもあらず。天(あま)がけりても御覧(ごらん)ぜよ」とぞ申(まう)させ給(たま)ひける。法師にならせ給(たま)はむことはあるまじとや、思(おぼ)し召(め)しけむ、小さき御唐櫃(からびつ)一具(ひとよろひ)に、片つ方は御烏帽子(えぼうし)、いま片つ方には襪(したうづ)を、一唐櫃づつ、御手づからつぶと縫(ぬ)ひ入れさせ給(たま)へりけるを、殿(との)はさも知(し)らせ給(たま)はざりけり。さてつひに失(う)せさせ給(たま)ひにしは。されば、この太政大臣(だいじやうだいじん)殿(どの)は、生れさせ給(たま)へる日を、やがて御忌日(きにち)にて御座(おは)しますなり。かの縫ひおかせ給(たま)ひし御烏帽子・御襪、御覧ずるたびごとに、九条殿しほたれさせ給(たま)はぬ折なし。誠(まこと)に、その後(のち)、一人住(ひとりず)みにてぞやませ給(たま)ひにし。
このうみおき奉(たてまつ)り給(たま)へりし太政大臣(だいじやうだいじん)殿(どの)をば、御姉の中宮(ちゆうぐう)、さらなり、世の常ならぬ御族(ぞう)思(おも)ひに御座(おは)しませば、養(やしな)ひ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。内(うち)にのみ御座(おは)しませば、帝(みかど)もいみじうらうたき物(もの)にせさせ給(たま)ひて、つねに御前(おまへ)に候(さぶら)はせ給(たま)ふ。何事(なにごと)も、宮たちの同じやうに、かしずきもてなしまうさせ給(たま)ふに、御膳(おもの)召(め)す御台(みだい)のたけばかりをぞ、一寸(ひとき)おとさせ給(たま)ひけるを、けぢめに知(し)ることにはせさせ給(たま)ひける。昔は、皇子(みこ)たちも、幼く御座(おは)しますほどは、内住(うちず)みせさせ給(たま)ふことはなかりけるに、この若君(わかぎみ)のかくて候(さぶら)はせ給(たま)ふは、「あるまじきこと」と謗(そし)りまうせど、かくて生(お)ひたたせ給(たま)へれば、なべての殿上人(てんじやうびと)などになずらはせ給(たま)ふべきならねど、若(わか)う御座(おは)しませば、おのづから、御たはぶれなどのほどにも、なみなみにふるまはせ給(たま)ひし折は、円融院の帝(みかど)は、「同じほどの男(をのこ)どもと思(おも)ふにや、かからであらばや」などぞうめかせ給(たま)ひける。
かかるほどに、御年積(つも)らせ給(たま)ひて、また御孫(まご)の頭中将(とうのちゆうじやう)公成(きんなり)の君を、ことのほかにかなしがり給(たま)ひて、内(うち)にも、御車(みくるま)のしりに乗せさせ給(たま)はぬかぎりは、参(まゐ)らせ給(たま)はず。さるべきことの折も、この君、遅くまかり出(い)で給(たま)へば、弓場殿(ゆばどの)に、御先(みさき)ばかり参(まゐ)らせ給(たま)ひて、待ち立たせ給(たま)へりければ、見奉(たてまつ)り給(たま)ふ人、「など、かくては立たせ給(たま)へる」と申(まう)させ給(たま)へば、「いぬ、待ち侍(はべ)るなり」とぞ仰(おほ)せられける。無量寿院(むりやうじゆゐん)の金堂(こんだう)供養(くやう)に、東宮(とうぐう)の行啓(ぎやうけい)ある御車(みくるま)に候(さぶら)はせ給(たま)ひて、ひとみち、「公成(きんなり)思(おぼ)し召(め)せよ、思(おぼ)し召(め)せよ」と、同じことを啓(けい)させ給(たま)ひける、「あはれなる物(もの)から、をかしくなむありし」とこそ、宮仰(おほ)せられけれ。繁樹(しげき)が姪(めひ)の女(むすめ)の、中務(なかつかさ)の乳母(めのと)のもとに侍(はべ)るが、まうできて語り侍(はべ)りしなり。
頭中将(ちゆうじやう)顕基(あきもと)の君の御若君(わかぎみ)御座(おは)すとかな。五十日(いか)をば四条(しでう)にわたしきこえて、太政大臣(だいじやうだいじん)殿(どの)こそくくめさせ給(たま)ひけれ。御舅(をぢ)の右衛門督(うゑもんのかみ)ぞいだききこえ給(たま)へるに、この若君の泣き給(たま)へば、「例(れい)はかくもむづからぬに、いかなればかからむ」と、右衛門督立ち居(ゐ)なぐさめ給(たま)ひければ、「おのづから児(ちご)はさこそはあれ。ましも、さぞありし」と、太政大臣(だいじやうだいじん)殿宣(のたま)はせけるにこそ、さるべき人々参(まゐ)り給(たま)へりける、皆ほほゑみ給(たま)ひけれ。なかにも四位少将(しゐのせうしやう)隆国(たかくに)の君は、つねに思(おも)ひ出(い)でてこそ、今に笑ひ給(たま)ふなれ。斯様(かやう)にあまり古体(こたい)にぞ御座(おは)しますべき。昔の御童名(わらはな)は、宮雄君(みやをぎみ)とこそは申(まう)ししか。
一 太政大臣(だいじやうだいじん)兼家(かねいへ)
この大臣(おとど)は、九条殿(くでうどの)の三郎君、東三条(とうさんでう)の大臣(おとど)に御座(おは)します。御母は、一条(いちでう)摂政(せつしやう)に同じ。冷泉院・円融院の御舅(をぢ)、一条院・三条院の御祖父(おほぢ)、東三条(とうさんでう)の女院(にようゐん)・贈(ぞう)皇后宮(くわうごうぐう)の御父。公卿にて二十年、大臣の位にて十二年、摂政にて五年、太政大臣(だいじやうだいじん)にて二年、世をしらせ給(たま)ふ、栄(さか)えて五年ぞ御座(おは)します。出家(すけ)せさせ給(たま)ひてしかば、後(のち)の御いみななし。
 内(うち)に参(まゐ)らせ給(たま)ふには、さらなり、牛車(ぎつしや)にて北(きた)の陣(ぢん)まで入(い)らせ給(たま)へば、それよりうちはなにばかりのほどならねど、紐(ひも)解(と)きて入らせ給(たま)ふこそ。されど、それはさてもあり、相撲(すまひ)の折、内(うち)・春宮(とうぐう)の御座(おは)しませば、二人の御前(おまへ)に、なにをもおしやりて、汗(あせ)とりばかりにて候(さぶら)はせ給(たま)ひけるこそ、世にたぐひなくやむごとなきことなれ。
 末には、北の方も御座(おは)しまさざりしかば、男(をとこ)住(ず)みにて、東三条(とうさんでう)殿(どの)の西(にし)の対(たい)を清涼殿(せいりやうでん)づくりに、御しつらひより始(はじ)めて、住ませ給(たま)ふなどをぞ、あまりなることに人申(まう)すめりし。なほ、ただ人(びと)にならせ給(たま)ひぬれば、御果報(くわはう)のおよばせ給(たま)はぬにや。さやうの御身持ちにひさしうは保(たも)たせ給(たま)はぬとも、定(さだ)め申(まう)すめりき。
その時は、夢解(ゆめとき)も巫女(かんなぎ)も、かしこきものどもの侍(はべ)りしぞとよ。堀河(ほりかは)の摂政のはやり給(たま)ひし時に、この東三条(とうさんでう)殿(どの)は御官(つかさ)どもとどめられさせ給(たま)ひて、いと辛(から)く御座(おは)しましし時に、人の夢に、かの堀河院(ほりかはゐん)より、箭(や)をいと多く東(ひんがし)ざまに射るを、いかなることぞと見れば、東三条(とうさんでう)殿(どの)に皆落ちぬと見けり。よからず思(おも)ひきこえさせ給(たま)へる方より御座(おは)せ給(たま)へば、あしきことかな、と思(おも)ひて、殿(との)にも、申(まう)しければ、おそれさせ給(たま)ひて、夢解(ゆめとき)に問(と)はせ給(たま)ひければ、いみじうよき御夢なり。世の中の、この殿にうつりて、あの殿の人の、さながら参(まゐ)るべきが見えたるなり」と申(まう)しけるが、当てざらざりしことかは。
 また、その頃、いとかしこき巫女(かんなぎ)侍(はべ)りき。賀茂(かも)の若宮(わかみや)のつかせ給(たま)ふとて、伏(ふ)してのみ物(もの)を申(ま)ししかば、「うち伏しのみこ」とぞ、世の人つけて侍(はべ)りし。大入道(おほにふだう)殿(どの)に召(め)して、物(もの)問(と)はせ給(たま)ひけるに、いとかしこく申(まう)せば、さしあたりたること、過ぎにし方のことは、皆さいふことなれば、しか思(おぼ)し召(め)しけるに、かなはせ給(たま)ふことどもの出(い)でくるままに、後々(のちのち)には、御装束(さうぞく)奉(たてまつ)り、御冠(かぶり)せさせ給(たま)ひて、御膝(ひざ)に枕をせさせてぞ、物(もの)は問(と)はせ給(たま)ひける。それに一事(ひとこと)として、後後のこと申(まう)しあやまたざりけり。さやうに近く召(め)し寄するに、いふがひなきほどの物(もの)にもあらで、少しおもとほどのきはにてぞありける。
この殿(との)、法興院(ほこゐん)に御座(おは)しますことをぞ、こころよからぬ所と,人は、うけ申(まう)さざりしかど、いみじう興(きよう)ぜさせ給(たま)ひて、聞(き)きも入れで、わたらせ給(たま)ひて、ほどなく失(う)せさせ御座(おは)しましにき。
「東山(ひがしやま)などのいとほど近く見ゆるが、山里とおぼえて、をかしきなり」とぞ仰(おほ)せられける。
  御物忌(ものいみ)の折は、わたり給(たま)はむとて、「御座(おは)しましてはいかがある」と、占(うら)せさせ給(たま)ひて、そのたび、法興院にて病づきて失(う)せ給(たま)ひにき。
 「御厩(みまや)の馬に御随身(みずいじん)乗せて、粟田口(あはたぐち)へつかはししが、あらはにはるばると見ゆる」など、をかしきことに仰(おほ)せられて、月のあかき夜(よ)は、下格子(げかうし)もせで、ながめさせ給(たま)ひけるに、目にも見えぬ物(もの)の、はらはらと参(まゐ)りわたしければ、候(さぶら)ふ人々は怖(お)ぢさわげど、殿(との)は、つゆおどろかせ給(たま)はで、御枕上(まくらがみ)なる太刀(たち)をひき抜かせ給(たま)ひて、「月見るとてあげたる格子おろすは、何者のするぞ。いと便(びん)なし。もとのやうにあげわたせ。さらずは、あしかりなむ」と仰(おほ)せられければ、やがて参(まゐ)りわたしなど、おほかた落ち居ぬことども侍(はべ)りけり。さて、つひに殿(との)ばらの領(らう)にもならで、かく御堂(みだう)にはなさせ給(たま)へるなめり。
 この大臣(おとど)の君達(きんだち)、女君(をんなぎみ)四所(よところ)・男君五人、御座(おは)しましき。女二所・男三所(みところ)、五所(いつところ)は、摂津守(せつつのかみ)藤原(ふぢはらの)中正(なかまさ)のぬしの女(むすめ)の腹に御座(おは)します。三条院の御母の贈(ぞう)皇后宮(くわうごうぐう)と、女院(にようゐん)、大臣三人ぞかし。
 この御母、いかに思(おぼ)しけるにか、いまだ若う御座(おは)しける折、二条の大路(おほち)にいでて、夕占(ゆふけ)問(と)ひ給(たま)ひければ、白髪(しらが)いみじう白き女のただ一人ゆくが、立ちとまりて、「なにわざし給(たま)ふ人ぞ。もし夕占問(と)ひ給(たま)ふか。何事(なにごと)なりとも、思(おぼ)さむことかなひて、この大路よりも広くながく栄えさせ給(たま)ふべきぞ」と、うち申(まう)しかけてぞまかりにける。人にはあらで、さるべきものの示し奉(たてまつ)りけるにこそ侍(はべ)りけめ。
 女君(をんなぎみ)は、女院(にようゐん)の后(きさい)の宮にて御座(おは)しましし折の宣旨(せんじ)にて御座(おは)しき。また、対(たい)の御方(おんかた)と聞(き)こえし御腹の女(むすめ)、大臣(おとど)いみじうかなしくしきこえさせ給(たま)ひて、十一に御座(おは)せし折、尚侍(ないしのかみ)になし奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、内住(うちず)みせさせ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひし。御かたちいとうつくしうて、御(み)ぐしも十一二のほどに、糸をよりかけたるやうにて、いとめでたく御座(おは)しませば、ことわりとて、三条院の東宮(とうぐう)にて御元服(げんぶく)(げんぷく)せさせ給(たま)ふ夜(よ)の御添臥(そひふ)しに参(まゐ)らせ給(たま)ひて、三条院もにくからぬ物(もの)に思(おぼ)し召(め)したりき。夏いと暑き日わたらせ給(たま)へるに、御前(おまへ)なる氷(ひ)をとらせ給(たま)ひて、「これしばし持ち給(たま)ひたれ。まろを思(おも)ひ給(たま)はば、『今は』といはざらむかぎりは、置き給(たま)ふな」とて、持たせきこえさせ給(たま)ひて御覧(ごらん)じければ、誠(まこと)に、かたの黒むまでこそ持ち給(たま)ひたりけれ。「さりとも、しばしぞあらむと思(おぼ)ししに、あはれさすぎて、うとましくこそおぼえしか」とぞ、院(ゐん)は仰(おほ)せられける。
あやしきことは、源宰相(げんさいしやう)頼定(よりさだ)の君の通ひ給(たま)ふと、世に聞えて、里に出(い)で給(たま)ひにきかし。ただならず御座(おは)すとさへ、三条院聞(き)かせ給(たま)ひて、この入道(にふだう)殿(どの)に、「さることのあなるは、誠(まこと)にやあらむ」と仰(おほ)せられければ、「まかりて見て参(まゐ)り侍(はべ)らむ」とて、御座(おは)しましたりければ、例(れい)ならずあやしく思(おぼ)して、几帳(きちやう)ひき寄せさせ給(たま)ひけるを、押しやらせ給(たま)へれば、もとはなやかなるかたちに、いみじう化粧(けさう)じ給(たま)へれば、常(つね)よりもうつくしう見え給(たま)ふ。「春宮(とうぐう)に参(まゐ)りたりつるに、しかじか仰(おほ)せられつれば、見奉(たてまつ)りに参(まゐ)りつるなり。そらごとにも御座(おは)せむに、しか聞し召(め)され給(たま)はむが、いと不便(ふびん)なれば」とて、御胸をひきあけさせ給(たま)ひて、乳(ち)をひねり給(たま)へりければ、御顔にさとはしりかかる物(もの)か。ともかくも宣(のたま)はせで、やがて立たせ給(たま)ひぬ。春宮(とうぐう)に参(まゐ)り給(たま)ひて、「誠(まこと)に候(さぶら)ひけり」とて、し給(たま)ひつる有様(ありさま)を啓(けい)せさせ給(たま)へれば、さすがに、もと心ぐるしう思(おぼ)し召(め)しならはせ給(たま)へる御中(なか)なればにや、いとほしげにこそ思(おぼ)し召(め)したりけれ。「尚侍(ないしのかみ)は、殿(との)帰らせ給(たま)ひて後(のち)に、人やりならぬ御心(こころ)づから、いみじう泣き給(たま)ひけり」とぞ、その折見奉(たてまつ)りたる人語り侍(はべ)りし。春宮(とうぐう)に候(さぶら)ひ給(たま)ひしほども、宰相(さいしやう)は通ひ参(まゐ)り給(たま)ふ。ことあまり出(い)でてこそは、宮も聞(きこ)し召(め)して、「帯刀(たちはき)どもして蹴(け)させやせましと思(おも)ひしかど、故(こ)大臣(おとど)のことを、なきかげにもいかがと、いとほしかりしかば、さもせざりし」とこそ仰(おほ)せられけれ。この御あやまちより、源(げん)宰相、三条院の御時は殿上もし給(たま)はで、地下(ぢげ)の上達部(かんだちめ)にて御座(おは)せしに、この御時にこそは殿上し、検非違使(けびゐし)の別当(べたう)などになりて、失(う)せ給(たま)ひにしか。
 いま一つの御腹の大君(おほいぎみ)は、冷泉院の女御(にようご)にて、三条院・弾正(だんじやう)の宮(みや)・帥(そち)の宮(みや)の御母にて、三条院位につかせ給(たま)ひしかば、贈(ぞう)皇后宮(くわうごうぐう)と申(まう)しき。この三人の宮たちを、祖父(おほぢ)殿ことのほかにかなしうしまうし給(たま)ひき。世の中に少しのことも出(い)でき、雷(かみ)も鳴り、地震(なゐ)もふるときは、まづ春宮(とうぐう)の御方に参(まゐ)らせ給(たま)ひて、舅(をぢ)の殿(との)ばら、それならぬ人々などを、「内(うち)の御方へは参(まゐ)れ。この御方にはわれ候(さぶら)はむ」とぞ仰(おほ)せられける。雲形(くもがた)といふ高名(かうみやう)の御帯(おび)は、三条院にこそは奉(たてまつ)らせ給(たま)へれ。かこの裏に、「春宮(とうぐう)に奉(たてまつ)る」と、刀のさきにて、自筆(じひつ)に書かせ給(たま)へるなり。この頃は、一品(いつぽん)の宮(みや)にとこそ承(うけたまは)れ。
この春宮(とうぐう)の御弟(おとと)の宮たちは、少し軽々(きやうきやう)にぞ御座(おは)しましし。帥の宮の、祭のかへさ、和泉式部(いづみしきぶ)の君とあひ乗らせ給(たま)ひて御覧(ごらん)ぜしさまも、いと興(きよう)ありきやな。御車(みくるま)の口の簾(すだれ)を中より切らせ給(たま)ひて、わが御方をば高う上げさせ給(たま)ひ、式部が乗りたる方をばおろして、衣(きぬ)ながう出(いだ)させて、紅(くれなゐ)の袴(はかま)に赤き色紙(しきし)の物忌(ものいみ)いとひろきつけて、地(つち)とひとしうさげられたりしかば、いかにぞ、物見(ものみ)よりは、それをこそ人見るめりしか。弾正尹(だんじやうのゐん)の宮(みや)の、童(わらは)に御座(おは)しましし時、御かたちのうつくしげさは、はかりも知(し)らず、かかやくとこそは見えさせ給(たま)ひしか。御元服(げんぶく)おとりのことのほかにせさせ給(たま)ひにしをや。
 この宮たちは、御心(みこころ)の少し軽(かろ)く御座(おは)しますこそ、一家(け)の殿ばらうけまうさせ給(たま)はざりしかど、さるべきことの折などは、いみじうもてかしづきまうさせ給(たま)ひし。帥(そち)の宮(みや)、一条院の御時の御作文(さくもん)に参(まゐ)らせ給(たま)ひしなどには、御前(ごぜん)などにさるべき人多くて、いとこそめでたくて参(まゐ)らせ給(たま)ふめりしか。御前(おまへ)にて御襪(したうづ)のいたうせめさせ給(たま)ひけるに心地(ここち)もたがひて、いとたへがたう御座(おは)しましければ、この入道(にふだう)殿(どの)にかくと聞えさせ給(たま)ひて、鬼(おに)の間(ま)に御座(おは)しまして、御襪をひき抜き奉(たてまつ)らせ給(たま)へりければこそ、御心地(ここち)なほらせ給(たま)へりけれ。
 贈后(ぞうこう)の御一(ひと)つ腹(ばら)の、いま一所(ひとところ)の姫君は、円融院の御時、梅壷(うめつぼ)の女御(にようご)と申(まう)して、一(いち)の皇子(みこ)生まれ給(たま)へりき。その皇子五つにて春宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ひ、七つにて位につかせ給(たま)ひにしかば、御母、女御殿、寛和(くわんな)二年七月五日、后にたたせ給(たま)ひて、中宮(ちゆうぐう)と申(まう)しき。
この帝(みかど)を一条院と申(まう)しき。その母后(ははきさき)、入道(にふだう)せさせ給(たま)ひて、太上天皇(てんわう)とひとしき位にて、女院(にようゐん)と聞えさせき。一天下(いちてんか)をあるままにして御座(おは)しましし。
この父大臣(おとど)の御太郎君、女院の御一(ひと)つ腹(ばら)の道隆(みちたか)の大臣(おとど)、内大臣にて関白(くわんばく)せさせ給(たま)ひき。二郎君、陸奥守(みちのくにのかみ)倫寧(ともやす)のぬしの女の腹に御座(おは)せし君なり。道綱(みちつな)と聞えし。大納言(だいなごん)までなりて、右大将かけ給(たま)へりき。この母君、きはめたる和歌の上手(じやうず)に御座(おは)しければ、この殿(との)の通はせ給(たま)ひけるほどのこと、歌など書き集めて、『かげろふの日記(にき)』と名づけて、世にひろめ給(たま)へり。殿の御座(おは)しましたりけるに、門(かど)をおそくあけければ、たびたび御消息(せうそこ)いひ入れさせ給(たま)ふに、女君(をんなぎみ)、
  嘆きつつひとり寝(ぬ)る夜(よ)のあくるまはいかにひさしき物(もの)とかはしる W
いと興(きよう)ありと思(おぼ)し召(め)して、
  げにやげに冬の夜(よ)ならぬ槙(まき)の戸もおそくあくるは苦しかりけり W
されば、その腹の君ぞかし、この道綱(みちつな)の卿の、後(のち)には東宮傅(とうぐうのふ)になり給(たま)ひて傅(ふ)の殿(との)とぞ申(まう)すめりし。いとあつくして、大将をも辞(じ)し給(たま)ひてき。その殿、今の入道(にふだう)殿(どの)の北(きた)の政所(まんどころ)の御はらからに住み奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、生れ給(たま)へりし君、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)兼経(かねつね)の君よ。父大納言(だいなごん)は失(う)せ給(たま)ひにき、御年六十六とぞ聞(き)き奉(たてまつ)りし。大入道(おほにふだう)殿(どの)の三郎、粟田殿(あはたどの)。また、四郎は、外腹(ほかばら)の治部少輔(ぢぶせふ)の君とて、世のしれものにて、まじらひもせでやみ給(たま)ひぬとぞ、聞え侍(はべ)りし。五郎君、ただいまの入道(にふだう)殿(どの)に御座(おは)します。女院(にようゐん)の御母北の方の御腹の君達(きんだち)三所(みところ)の御有様(ありさま)、申(まう)し侍(はべ)らむ。昭宣公(せうせんこう)の御君達、「三平(さんぺい)」と聞えさすめりしに、この三所をば、「三道(さんだう)」とや世の人申(まう)しけむ、えこそ承(うけたまは)らずなりにしか」
とて、ほほゑむ。
一 内大臣道隆(みちたか)
《世継》「この大臣(おとど)は、これ、東三条(とうさんでう)の大臣(おとど)の御一男なり。御母は、女院(にようゐん)の御同じ腹なり。関白(くわんばく)になり栄えさせ給(たま)ひて六年ばかりや御座(おは)しけむ、大疫癘(おほえきれい)の年こそ失(う)せ給(たま)ひけれ。されど、その御病にてはあらで、御酒(みき)のみだれさせ給(たま)ひにしなり。男(おのこ)は、上戸(じやうご)、ひとつの興(きよう)のことにすれど、過ぎぬるはいと不便(ふびん)なる折侍(はべ)りや。祭のかへさ御覧(ごらん)ずとて、小一条(こいちでう)の大将・閑院(かんゐん)の大将と一つ御車(みくるま)にて、紫野(むらさいの)に出(い)でさせ給(たま)ひぬ。烏(からす)のつい居(ゐ)たるかたを瓶(かめ)につくらせ給(たま)ひて、興(きよう)ある物(もの)に思(おぼ)して、ともすれば御酒(みき)入れて召(め)す。今日もそれにて参(まゐ)らする、もてはやさせ給(たま)ふほどに、やうやう過ぎさせ給(たま)ひて後(のち)は、御車(みくるま)の後(しり)・前(まへ)の簾(すだれ)皆あげて、三所(みところ)ながら御髻(もとどり)はなちて御座(おは)しましけるは、いとこそ見ぐるしかりけれ。おほかたこの大将殿たちの参(まゐ)り給(たま)へる、世の常にて出(い)で給(たま)ふをば、いと本意(ほい)なく口惜(くちを)しきことに思(おぼ)し召(め)したりけり。物(もの)もおぼえず、御装束(さうぞく)もひきみだりて、車さし寄せつつ、人にかかれて乗り給(たま)ふをぞ、いと興(きよう)あることにせさせ給(たま)ひける。
 ただしこの殿(との)、御酔(ゑひ)のほどよりはとくさむることをぞせさせ給(たま)ひし。御賀茂詣(かもまうで)の日は、社頭(しやとう)にて三度(みたび)の御かはらけ定まりて参(まゐ)らするわざなるを、その御時には、禰宜(ねぎ)・神主(かうぬし)も心得て、大かはらけをぞ参(まゐ)らせしに、三度はさらなることにて、七八度など召(め)して、上(かみ)の社(やしろ)に参(まゐ)りたまふ道にては、やがてのけざまに、しりの方を御枕にて、不覚(ふかく)に大殿篭(おほとおのごも)りぬ。一(いち)の大納言(だいなごん)にては、この御堂(みだう)ぞ御座(おは)しまししかば、御覧(ごらん)ずるに、夜(よ)に入りぬれば、御前(ごぜん)の松の光にとほりて見ゆるに、御透影(すきかげ)の御座(おは)しまさねば、あやしと思(おぼ)し召(め)しけるに、参(まゐ)りつかせ給(たま)ひて、御車かきおろしたれど、え知(し)らせ給(たま)はず。いかにと思(おも)へど、御前(ごぜん)どももえおどろかしまうさで、ただ候(さぶら)ひなめるに、入道(にふだう)殿(どの)おりさせ給(たま)へるに、さてあるべきことならねば、轅(ながえ)の戸(と)ながら、高(たか)やかに、「やや」と御扇(あふぎ)を鳴らしなどせさせ給(たま)へど、さらにおどろき給(たま)はねば、近く寄りて、表(うへ)の御袴(はかま)の裾(すそ)を荒らかにひかせ給(たま)ふ折ぞ、おどろかせ給(たま)ひて、さる御用意はならはせ給(たま)へれば、御櫛(くし)・笄(かうがい)具(ぐ)し給(たま)へりける取り出(い)でて、つくろひなどして、おりさせ給(たま)ひけるに、いささかさりげなくて、清(きよ)らかにてぞ御座(おは)しましし。されば、さばかり酔(ゑ)ひなむ人は、その夜は起きあがるべきかは。それに、この殿(との)の御上戸(じやうご)は、よく御座(おは)しましける。その御心(みこころ)のなほ終りまでも忘れさせ給(たま)はざりけるにや、御病づきて失(う)せ給(たま)ひけるとき、西にかき向け奉(たてまつ)りて、「念仏(ねんぶつ)申(まう)させ給(たま)へ」と、人々のすすめ奉(たてまつ)りければ、「済時(なりとき)・朝光(あさてる)なむどもや極楽(ごくらく)にはあらむずらむ」と仰(おほ)せられけるこそ、あはれなれ。つねに御心に思(おぼ)しならひたることなればにや。あの、地獄の鼎(かなへ)のはたに頭(かしら)うちあてて、三宝(さんぽう)の御名(みな)思(おも)ひ出(い)でけむ人の様(やう)なることなりや。
 御かたちぞいと清らに御座(おは)しましし。帥殿(そちどの)に天下執行(しゆぎやう)の宣旨(せんじ)下し奉(たてまつ)りに、この民部卿殿(みんぶきやうどの)の、頭弁(とうのべん)にて参(まゐ)り給(たま)へりけるに、御病いたくせめて、御装束(さうぞく)もえ奉(たてまつ)らざりければ、御直衣(なほし)にて御簾(みす)の外(と)にゐざり出(い)でさせ給(たま)ふに、長押(なげし)をおりわづらはせ給(たま)ひて、女装束(をんなさうぞく)御手にとりて、かたのやうにかづけさせ給(たま)ひしなむ、いとあはれなりし。こと人のいとさばかりなりたらむは、ことやうなるべきを、なほいとかはらかにあてに御座(おは)せしかば、「病づきてしもこそかたちはいるべかりけれ、となむ見えし」とこそ、民部卿殿はつねに宣(のたま)ふなれ。
 その関白(くわんばく)殿は腹々(はらばら)に男子(をのこご)・女子(をんなご)あまた御座(おは)しましき。今の北の方は、大和守高階成忠(やまとのかみたかしなのなりただ)のぬしの御女(むすめ)なり。後(のち)には高二位(かうにゐ)とこそいひ侍(はべ)りしか。さて積善寺(しやくぜんじ)の供養(くやう)の日は、この入道(にふだう)殿(どの)の上(かみ)に候(さぶら)はれしは、いとめだうなりしわざかな。
 その腹に男君三所(をとこぎみみところ)・女君(をんなぎみ)四所(よところ)御座(おは)しましき。大姫君(おほひめぎみ)は、一条院の十一にて御元服(げんぶく)せしめ給(たま)ひしに、十五にてや参(まゐ)らせ給(たま)ひけむ。やがてその年六月一日、后(きさき)にゐさせ給(たま)ふ。
中宮(ちゆうぐう)と申(まう)しき。
東三条(とうさんでう)殿(どの)の御悩(ごなう)のさかりも過ぐさせ給(たま)はで、奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしをぞ、世人(よひと)、いかにぞや申(まう)し侍(はべ)りし。
 さて関白(くわんばく)殿など失(う)せさせ給(たま)ひて後(のち)に男御子(をとこみこ)一人・女御子二人うみ奉(たてまつ)らせ給(たま)へりき。女一の宮は入道(にふだう)の一品(いつぽん)の宮とて、三条に御座(おは)します。女二の宮は、九つにて失(う)せ給(たま)ひにき。男親王(みこ)、式部卿(しきぶきやう)の宮篤康(みやあつやす)の親王(みこ)とこそ申(まう)ししか。たびたびの御思(おも)ひたがひて、世の中を思(おぼ)し嘆きて失(う)せ給(たま)ひにき、御年二十にて。あさましうて病(や)ませ給(たま)ひにしかは。冷泉院の宮たちなどのやうに、軽々(きやうきやう)に御座(おは)しまさましかば、いとほしさもよろしくや、世の人思(おも)ひまさまし。御才(ざえ)いとかしこう、御心(こころ)ばへもいとめでたうぞ御座(おは)しましし。
 さてまた、この宮の御母后(ははきさき)の御さしつぎの中(なか)の君(きみ)は、三条院の東宮(とうぐう)と申(まう)しし折のしげいさとて、はなやがせ給(たま)ひしも、父殿(ちちどの)失(う)せ給(たま)ひにし後(のち)、御年二十二三ばかりにて失(う)せさせ給(たま)ひにき。
 三の御方は、冷泉院の四の皇子(みこ)、帥(そち)の宮(みや)と申(まう)ししをこそは、父殿(ちちどの)婿(むこ)どり奉(たてまつ)らせ給(たま)へりしも、後(のち)には、やがて御中(なか)絶えにしかば、末の世は、一条の渡りにいとあやしくて御座(おは)するとぞ聞え給(たま)ひし。誠(まこと)にや、御心ばへなどの、いと落(お)ち居(ゐ)ず御座(おは)しければ、かつは、宮もうとみきこえさせ給(たま)へりけるとかや。客人(まらうど)などの参(まゐ)りたる折は、御簾(みす)をいと高やかに押しやりて、御懐(ふところ)をひろげて立ち給(たま)へりければ、宮は御おもてうち赤(あか)めてなむ御座(おは)しましける。候(さぶら)ふ人も、おもての色たがふ心地(ここち)して、うつぶしてなむ、立たむもはしたに、術(ずち)なかりける。宮、後(のち)には、「見返りたりしままに、動きもせられず、物(もの)こそ覚(おぼ)えざりしか」とこそ仰(おほ)せられけれ。
 また、学生(がくしやう)ども召(め)し集めて、作文(さくもん)し遊ばせ給(たま)ひけるに、金(こがね)を二三十両ばかり、屏風(びやうぶ)の上より投げ出(いだ)して、人々うち給(たま)ひければ、ふさはしからず憎しとは思(おも)はれけれど、その座にては饗応(きやうよう)しまうしてとり争ひけり。「金賜(たま)はりたるはよけれども、さも見ぐるしかりし物(もの)かな」とこそ今に申(まう)さるなれ。人々文(ふみ)作りて講じなどするに、よしあしいと高やかに定め給(たま)ふ折もありけり。二位の新発(しぼち)の御流(ながれ)にて、この御族(ぞう)は、女も皆、才(ざえ)の御座(おは)したるなり。
 母上は高内侍(こうないし)ぞかし。されど、殿上(てんじやう)えせられざりしかば、行幸(ぎやうかう)・節会(せちゑ)などには、南殿(なでん)にぞ参(まゐ)られし。それはまことしき文者(もんざ)にて、御前(おまへ)の作文(さくもん)には、文(ふみ)奉(たてまつ)られしはとよ。少々(せうせう)の男(をのこ)にはまさりてこそ聞え侍(はべ)りしか。さやうの折、召しありけるにも、台盤所の方よりは参(まゐ)り給(たま)はで、弘徽殿(こきでん)の上(うえ)の御局(みつぼね)の方より通りて、二間(ふたま)になむ候(さぶら)ひ給(たま)ひけるとこそ承(うけたまは)りしか。古体(こたい)に侍(はべ)りや。「女のあまりに才(ざえ)かしこきは、物(もの)あしき」と、人の申(まう)すなるに、この内侍、後(のち)にはいといみじう堕落(だらく)せられにしも、その故(け)とこそはおぼえ侍(はべ)りしか。さて、その宮の上の御さしつぎの四の君は、御匣殿(みくしげどの)と申(まう)しし。御かたちいとうつくしうて、式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)の御母代(ははしろ)にて御座(おは)しまししも、はかなく失(う)せ給(たま)ひにき。されば、一(ひと)つ腹(ばら)の女君(をんなぎみ)たちかくなり。対(たい)の御方(おんかた)と聞えさせし人の御腹にも、女君(をんなぎみ)御座(おは)しけるは、今の皇太后宮(くわうたいごうぐう)にこそは候(さぶら)ひ給(たま)ふなれ。またも聞え給(たま)ふかし。
 男君たちは、太郎君、故(こ)伊予守守仁(いよのかみもりひと)のぬしの女(むすめ)の腹ぞかし、大千代君(おほちよぎみ)よな。それは祖父大臣(おほぢおとど)の御子(みこ)にし奉(たてまつ)り給(たま)ひて、道頼(みちより)の六郎君とこそは申(ま)ししか。大納言(だいなごん)までなり給(たま)へりき。父関白(くわんばく)殿失(う)せ給(たま)ひし年の六月十一日に、うちつづき失(う)せ給(たま)ひにき。御年二十五とぞ聞えさせ給(たま)ひし。御かたちいと清(きよ)げに、あまりあたらしきさまして、物(もの)より抜け出(い)でたるやうにぞ御座(おは)せし。御心(こころ)ばへこそ、こと御はらからにも似給(たま)はずいとよく、また、ざれをかしくも御座(おは)せしか。この殿(との)は、こと腹(ばら)に御座(おは)す。皇后宮(くわうごうぐう)と一つ腹の男君、法師にて、十あまりのほどに僧都(そうづ)になし奉(たてまつ)り給(たま)へりし。それも三十六にて失(う)せ給(たま)ひにき。いま一所(ひとところ)は、小千代君(こちよぎみ)とて、かの外腹(ほかばら)の大千代君にはこよなくひき越し、二十一に御座(おは)せしとき、内大臣になし奉(たてまつ)り給(たま)ひて、わが失(う)せ給(たま)ひし年、長徳(ちやうとく)元年のことなり、御病重くなるきはに、内(うち)に参(まゐ)り給(たま)ひて、「おのれかくまかりなりにて候(さぶら)ふほど、この内大臣伊周(これちか)の大臣(おとど)に、百官ならびに天下執行(しゆぎやう)の宣旨(せんじ)賜(た)ぶべき」よし、申(まう)し下さしめ給(たま)ひて、われは出家(すけ)せさせ給(たま)ひてしかば、この内大臣殿を関白(くわんばく)殿とて、世の人集り参(まゐ)りしほどに、粟田殿(あはたどの)にわたりにしかば、手に据(す)ゑたる鷹をそらいたらむやうにて嘆かせ給(たま)ふ。一家にいみじきことに思(おぼ)しみだりしほどに、その移りつる方も夢のごとくにて失(う)せ給(たま)ひにしかば、今の入道(にふだう)殿(どの)、その年の五月十一日より世をしろしめししかば、かの殿(との)いとど無徳(むとく)に御座(おは)しまししほどに、またの年、花山院の御こと出(い)できて、御官位(つかさくらゐ)とられて、ただ太宰権帥(だざいのごんのそち)になりて、長徳二年四月二十四日にこそは下り給(たま)ひにしか、御年二十三。いかばかりあはれにかなしかりしことぞ。されど、げにかならず斯様(かやう)のこと、わがおこたりにて流され給(たま)ふにしもあらず。よろづのこと身にあまりぬる人の、唐(もろこし)にもこの国にもあるわざにぞ侍(はべ)るなる。昔は北野(きたの)の御ことぞかし」などいひて、鼻うちかむほどもあはれに見ゆ。
《世継》「この殿も、御才(ざえ)日本にはあまらせ給(たま)へりしかば、かかることも御座(おは)しますにこそ侍(はべ)りしか。
 さて、式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)の生れさせ給(たま)へる御よろこびにこそ召(め)し返させ給(たま)ひつれ。さて、大臣になずなふる宣旨(せんじ)かぶらせ給(たま)ひて歩(あり)き給(たま)ひし御有様(ありさま)も、いと落(お)ち居(ゐ)ても覚(おぼ)え侍(はべ)らざりき。いと見ぐるしきことのみ、いかに聞え侍(はべ)りし物(もの)とて。内(うち)に参(まゐ)らせ給(たま)ひけるに、北(きた)の陣(ぢん)より入らせ給(たま)ひて、西ざまに御座(おは)しますに、入道(にふだう)殿(どの)も候(さぶら)はせ給(たま)ふほどなれば、梅壷(うめつぼ)の東(ひんがし)の塀(へい)の戸(と)のはさまに、下人(げにん)どもいと多くゐたるを、この帥殿(そちどの)の御供(とも)の人々いみじう払(はら)へば、いくべき方のなくて、梅壷の塀のうちにはらはらと入りたるを、これはいかにと、殿(との)御覧(ごらん)ず。あやしと人々見れど、さすがにえともかくもせぬに、なにがしといひし御隋身(みずいじん)の、そら知(し)らずして、荒らかにいたく払ひ出(いだ)せば、また戸(と)ざまに、、いとらうがはしく出づるを、帥殿の御供の人々、このたびはえ払ひあへねば、ふとり給(たま)へる人にて、すがやかにもえ歩(あゆ)み退(の)き給(たま)はで、登花殿(とうくわでん)の細殿(ほそどの)の小蔀(こじとみ)に押し立てられ給(たま)ひて、「やや」と仰(おほ)せられけれど、狭(せば)きところに雑人(ざふにん)いと多く払はれて、おしかけられまつりぬれば、とみにえ退かで、いとこそ不便(ふびん)に侍(はべ)りけれ。それはげに御罪(つみ)にあらねど、ただはなやかなる御歩(あり)き・振舞(ふるまひ)をせさせ給(たま)はずは、さやうに軽々(かろがろ)しきこと御座(おは)しますべきことかはとぞかし。
また、入道(にふだう)殿(どの)、御嶽(みたけ)に参(まゐ)らせ給(たま)へりし道にて帥殿の方より便(びん)なきことあるべしと聞えて、常(つね)よりも世をおそれさせ給(たま)ひて、たひらかに帰らせ給(たま)へるに、かの殿(との)も、「かかること聞えたりけり」と人の申(まう)せば、いとかたはらいたく思(おぼ)されながら、さりとてあるべきならねば、参(まゐ)り給(たま)へり。道のほどの物語などせさせ給(たま)ふに、帥殿いたく臆(おく)し給(たま)へる御けしきのしるきを、をかしくもまたさすがにいとほしくも思(おぼ)されて、「ひさしく双六(すぐろく)つかまつらで、いとさうざうしきに、今日あそばせ」とて、双六のばんを召(め)して、おしのごはせ給(たま)ふに、御けしきこよなうなほりて見え給(たま)へば、殿(との)を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、参(まゐ)り給(たま)へる人々、あはれになむ見奉(たてまつ)りける。さばかりのことを聞(き)かせ給(たま)はむには、少しすさまじくももてなさせ給(たま)ふべけれど、入道(にふだう)殿(どの)は、あくまで情(なさけ)御座(おは)します御本性(ほんじやう)にて、かならず人のさ思(おも)ふらむ事をば、おしかへし、なつかしうもてなさせ給(たま)ふなり。この御博奕(ばくやう)は、うちたたせ給(たま)ひぬれば、二所(ふたところ)ながら裸(はだか)に腰からませ給(たま)ひて、夜半(よなか)・暁(あかつき)まであそばず。「心幼く御座(おは)する人にて、便(びん)なきこともこそ出(い)でくれ」と、人はうけまうさざりけり。いみじき御賭物(かけもの)どもこそ侍(はべ)りけれ。帥殿(そちどの)はふるき物(もの)どもえもいはぬ、入道(にふだう)殿(どの)はあたらしきが興(きよう)ある、をかしきさまにしなしつつぞ、かたみにとりかはさせ給(たま)ひぬれど、斯様(かやう)のことさへ、帥殿はつねに負け奉(たてまつ)らせ給(たま)ひてぞ、まかでさせ給(たま)ひける。
 かかれど、ただいまは、一の宮の御座(おは)しますをたのもしき物(もの)に思(おぼ)し、世の人もさはいへど、したには追従(ついそう)し、怖(お)ぢまうしたりしほどに、今の帝(みかど)・春宮(とうぐう)さしつづき生れさせ給(たま)ひにしかば、世を思(おぼ)しくづほれて、月頃(つきごろ)御病もつかせ給(たま)ひて、寛弘(くわんこう)七年正月二十九日失(う)せさせ給(たま)ひにしぞかし。御年三十七とぞ承(うけたまは)りし。かぎりの御病とても、いたう苦しがり給(たま)ふこともなかりけり。御しはぶき病にやなど思(おぼ)しけるほどに、重(おも)り給(たま)ひにければ、修法(ずほふ)せむとて、僧召(め)せど、参(まゐ)るもなきに、いかがはせむとて、道雅(みちまさ)の君を御使にて、入道(にふだう)殿(どの)に申(まう)し給(たま)へりける。夜(よ)いたうふけて、人もしづまりにければ、やがて御格子(みかうし)のもとによりて、うちしはぶき給(たま)ふ。「誰そ」と問(と)はせ給(たま)へば、御名のり申(まう)して、「しかじかのことにて、修法(ずほふ)始(はじ)めむとつかまつれば、阿闍梨(あざり)にまうでくる人も候(さぶら)はぬを、賜(たま)はらむ」と申(まう)し給(たま)へば、「いと不便(ふびん)なる御ことかな。えこそ承(うけたまは)らざりけれ。いかやうなる御心地(ここち)ぞ。いとたいだいしき御ことにもあるかな」と、いみじうおどろかせ給(たま)ひて、「誰(たれ)を召(め)したるに参(まゐ)らぬぞ」など、くはしく問(と)はせ給(たま)ふ。なにがし阿闍梨をこそは奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしか。されど、世の末は人の心も弱くなりにけるにや、「あしく御座(おは)します」など申(まう)ししかど、元方の大納言(だいなごん)のやうにやは聞えさせ給(たま)ふな。また、入道(にふだう)殿下(でんか)のなほすぐれさせ給(たま)へる威(ゐ)のいみじきに侍(はべ)るめり。老(おい)の波にいひ過(すぐ)しもぞし侍(はべ)る」と、けしきだちて、このほどはうちささめく。
《世継》「源(げん)大納言(だいなごん)重光(しげみつ)の卿の御女(むすめ)の腹に、女君(をんなぎみ)二人・男君一人御座(おは)せしが、この君たち皆おとなび給(たま)ひて女君(をんなぎみ)たちは后(きさき)がねとかしづき奉(たてまつ)り給(たま)ひしほどに、さまざま思(おぼ)ししことどもたがひて、かく御病さへ重(おも)り給(たま)ひにければ、この姫君たちをすゑなめて、泣く泣く宣(のたま)ひける「年頃(としごろ)、仏(ほとけ)・神(かみ)にいみじうつかうまつりつれば、何事もさりともとこそ頼(たの)み侍(はべ)りつれど、かくいふかひなき死(しに)をさへせむことのかなしさ。かく知(し)らましかば、君たちをこそ、われより先に失(う)せ給(たま)ひねと、祈り思(おも)ふべかりけれ。おのれ死なば、いかなる振舞(ふるまひ)・有様(ありさま)をし給(たま)はむずらむと思(おも)ふが悲しく、人笑はれなるべきこと」と、いひつづけて泣かせ給(たま)ふ。「あやしき有様(ありさま)をもし給(たま)はば、なき世なりとも、かならず恨(うら)みきこえむずるぞ」とぞ、母北の方にも、泣く泣く遺言(ゆいごん)し給(たま)ひけるかし。その君たち、大姫君(おほひめぎみ)は、高松殿(たかまつどの)の春宮大夫殿(とうぐうのだいぶどの)の北の方にて、多くの君達(きんだち)うみつづけて御座(おは)すめり。それは、あしかるべきことならず。いま一所(ひとところ)は、大宮(おほみや)に参(まゐ)りて、帥殿(そちどの)の御方とて、いとやむごとなくて候(さぶら)ひ給(たま)ふめるこそは、思(おぼ)しかけぬ御有様(ありさま)なめれ。あはれなりかし。
男君は、松の君とて、生れ給(たま)へりしより、祖父大臣(おほぢおとど)いみじき物(もの)に思(おぼ)して、迎へ奉(たてまつ)り給(たま)ふたびごとに、贈物(おくりもの)をせさせ給(たま)ふ。御乳母(めのと)をも饗応(きやうよう)し給(たま)ひし君ぞかし。この頃三位(さんみ)して御座(おは)すめるは。この君を、父大臣(おとど)、「あなかしこ、わがなからむ世に、あるまじきわざせず、身捨てがたしとて、物(もの)覚(おぼ)えぬ名簿(みやうぶ)うちして、わがおもてふせて、『いでや、さありしかど、かかるぞかし』と、人にいひのたてせさすな。世の中にありわびなむときは、出家(すけ)すばかりなり」と、泣く泣くいひおかせ給(たま)ひけるに、この君、当代(たうだい)の春宮(とうぐう)にて御座(おは)しましし折の亮(すけ)になり給(たま)ひて、いとめやすきことと見奉(たてまつ)りしほどに、春宮亮道雅(とうぐうのすけみちまさ)の君とて、いと覚(おぼ)え御座(おは)しきかし。それに、いかがしけむ、位につかせ給(たま)ひしきざみに、蔵人頭(くらうどのとう)にもえなり給(たま)はずして、坊官(ばうくわん)の労(らう)にて三位ばかりして、中将(ちゆうじやう)をだにえかけたまはずなりにしは、いとかなしかりしことぞかし。あさましう思(おも)ひかけぬことどもかな。
 この君、故(こ)帥中納言惟仲(そちのちゆうなごんこれなか)の女(むすめ)に住み給(たま)ひて、男一人・女一人うませ給(たま)へりしは、法師にて、明尊僧都(めいそんそうず)の御房(ごばう)にこそは御座(おは)すめれ。女君(をんなぎみ)は、いかが思(おも)ひ給(たま)ひけむ、みそかに逃げて、今の皇太后宮(くわうたいごうぐう)にこそ参(まゐ)りて、大和(やまと)の宣旨(せんじ)とて候(さぶら)ひ給(たま)ふなれ。年頃の妻子(めこ)とやは頼(たの)むべかりける。なかなかそれしもこそあなづりて、をこがましくもてなしけれ。あはれ、翁(おきな)らがわらはべのさやうに侍(はべ)らましかば、しらががみをも剃(そ)り、鼻をもかきおとしはべなまし。よき人と申(まう)すものは、いみじかし名の惜しければ、えともかくもし給(たま)はぬにこそあめれ。さるは、かの君、さやうにしれ給(たま)へる人かは、たましひはわき給(たま)ふ君をは。
 帥殿(そちどの)は、この内(うち)の生れさせ給(たま)へりし七夜(しちや)に、和歌の序代(じよだい)書かせ給(たま)へりしぞ、なかなか心なきことやな。本体(ほんたい)は参(まゐ)らせ給(たま)ふまじきを、それに、さし出(い)で給(たま)ふより、多くの人の目をつけ奉(たてまつ)りて、「いかに思(おぼ)すらむ」「なにせむに参(まゐ)り給(たま)へるぞ」とのみ、まもられ給(たま)ふ。いとはしたなきことにはあらずや。それに、例(れい)の入道(にふだう)殿(どの)は誠(まこと)にすさまじからずもてなしきこえさせ給(たま)へるかひありて、憎さは、めでたくこそ書かせ給(たま)へりけれ。当座(たうざ)の御おもては優(いう)にて、それにぞ人々ゆるしまうし給(たま)ひける。
この帥殿の御一(ひと)つ腹(ばら)の、十七にて中納言になりなどして、世の中のさがなものといはれ給(たま)ひし殿(との)の、御童名(わらはな)は阿古君(あこぎみ)ぞかし。この兄殿(あにどの)の御ののしりにかかりて、出雲権守(いづものごんのかみ)になりて、但馬(たじま)にこそは御座(おは)せしか。さて、帥殿の帰り給(たま)ひし折、この殿(との)も上(のぼ)り給(たま)ひて、もとの中納言になりや、また兵部卿(ひやうぶきやう)などこそは聞えさせしか。それも、いみじうたましひ御座(おは)すとぞ、世の人に思(おも)はれ給(たま)へりし。あまたの人々の下臈(げらふ)になりて、かたがたすさまじう思(おぼ)されながら歩(ある)かせ給(たま)ふに、御賀茂詣(かもまうで)につかうまつり給(たま)へるに、むげに下(くだ)りて御座(おは)するがいとほしくて、殿(との)の御車(みくるま)に乗せ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、御物語こまやかなるついでに、「ひととせのことは、おのれが申(まう)し行(おこな)ふとぞ、世の中にいひ侍(はべ)りける。そこにもしかぞ思(おぼ)しけむ。されど、さもなかりしことなり。宣旨(せんじ)ならぬこと、一言(ひとこと)にてもくはへて侍(はべ)らましかば、この御社(みやしろ)にかくて参(まゐ)りなましや。天道(てんたう)も見給(たま)ふらむ。いとおそろしきこと」とも、まめやかに宣(のたま)はせしなむ、「なかなかにおもておかむかたなく、術(ずち)なくおぼえし」とこそ、後(のち)に宣(のたま)ひけれ。それも、この殿(との)に御座(おは)すれば、さやうにも仰(おほ)せらるるぞ。帥殿(そちどの)にはさまでもや聞えさせ給(たま)ひける。
 この中納言は、斯様(かやう)にえさりがたきことの折々ばかり歩(あり)き給(たま)ひて、いといにしへのやうに、まじろひ給(たま)ふことはなかりけるに、入道(にふだう)殿(どの)の土御門殿(つちみかどどの)にて御遊びあるに、「斯様(かやう)のことに、権(ごん)中納言のなきこそ、なほさうざうしけれ」と宣(のたま)はせて、わざと御消息(せうそく)聞えさせ給(たま)ふほど、杯(さかづき)あまたたびになりて、人々みだれ給(たま)ひて、紐(ひも)おしやりて候(さぶら)はるるに、この中納言参(まゐ)り給(たま)へれば、うるはしくなりて、居直(ゐなほ)りなどせられければ、殿、「とく御紐解(と)かせ給(たま)へ。ことやぶれ侍(はべ)りぬべし」と仰(おほ)せられければ、かしこまりて逗留(とうりう)し給(たま)ふを、公信(きんのぶ)の卿、うしろより、「解き奉(たてまつ)らむ」とて寄り給(たま)ふに、中納言御けしきあしくなりて、「隆家(たかいへ)は不運なる事こそあれ、そこたちに斯様(かやう)にせらるべき身にもあらず」と、荒らかに宣(のたま)ふに、人々御けしき変り給(たま)へるなかにも、今の民部卿殿(みんぶきやうどの)は、うはぐみて、人々の御顔をとかく見給(たま)ひつつ、こと出(い)できなむず、いみじきわざかなと思(おぼ)したり。入道(にふだう)殿(どの)、うち笑はせ給(たま)ひて、「今日は、斯様(かやう)のたはぶれごと侍(はべ)らでありなむ。道長(みちなが)解き奉(たてまつ)らむ」とて寄らせ給(たま)ひて、はらはらと解き奉(たてまつ)らせ給(たま)ふに、「これらこそあるべきことよ」とて、御けしきなほり給(たま)ひて、さしおかれつる杯(さかづき)とり給(たま)ひてあまたたび召(め)し、常(つね)よりも乱れあそばせ給(たま)ひけるさまなど、あらまほしく御座(おは)しけり。殿(との)もいみじうぞもてはやしきこえさせ給(たま)ひける。
さて、式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)の御ことを、さりともさりともと待ち給(たま)ふに、一条院の御悩(なやみ)重(おも)らせ給(たま)ふきはに、御前(おまへ)に参(まゐ)り給(たま)ひて、御気色(きそく)賜(たま)はり給(たま)ひければ、「あのことこそ、つひにえせずなりぬれ」と仰(おほ)せられけるに、「『あはれの人非人(にんぴにん)や』とこそ申(まう)さまほしくこそありしか」とこそ宣(のたま)ひけれ。さて、まかで給(たま)うて、わが御家の日隠(ひがくし)の間(ま)に尻(しり)うちかけて、手をはたはたと打ちゐ給(たま)へりける。世の人は、「宮の御ことありて、この殿(との)、御後見(うしろみ)もし給(たま)はば、天下の政(まつりごと)はしたたまりなむ」とぞ、思(おも)ひまうしためりしかども、この入道(にふだう)殿(どの)の御栄えのわけらるまじかりけるにこそは。
 三条院の大嘗会(だいじやうゑ)の御禊(ごけい)に、きらめかせ給(たま)へりしさまなどこそ、常(つね)よりもことなりしか。人の、このきはは、さりともくづほれ給(たま)ひなむ、と思(おも)ひたりしところをたがへむと、思(おぼ)したりしなめり。さやうなるところの御座(おは)しまししなり。節会(せちゑ)・行幸(ぎやうかう)には、掻練襲(かいねりがさね)奉(たてまつ)らぬことなるを、単衣(ひとへ)を青くてつけさせ給(たま)へれば、紅葉襲(もみぢがさね)にてぞ見えける。表(うへ)の御袴(はかま)、竜胆(りんだう)の二重織物(ふたへおりもの)にて、いとめでたく清(けう)らにこそ、きらめかせ給(たま)へりしか。
 御目のそこなはれ給(たま)ひにしこそ、いといとあたらしかりしか。よろづにつくろはせ給(たま)ひしかど、えやませ給(たま)はで、御まじらひ絶え給(たま)へる頃、大弐(だいに)の闕(けち)出(い)できて、人々望みののしりしに、唐人(からびと)の目つくろふがあなるに、見せむと思(おぼ)して、「こころみにならばや」と申(まう)し給(たま)ひければ、三条院の御時にて、またいとほしくや思(おぼ)し召(め)しけむ、二言(ふたこと)となくならせ給(たま)ひてしぞかし。その御北の方には、伊予守兼資(いよのかみかねもと)のぬしの女なり。その御腹の女君(をんなぎみ)二所(ふたところ)御座(おは)せしは、三条院の御子(みこ)の式部卿(しきぶきやう)の宮の北の方、いま一所(ひとところ)は、傅(ふ)の殿(との)の御子に宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)兼経(かねつね)の君、この二所の御婿(むこ)をとり奉(たてまつ)り給(たま)ひて、いみじういたはりきこえ給(たま)ふめり。
 政(まつりごと)よくし給(たま)ふとて、筑紫人(つくしびと)さながら従ひまうしたりければ、例(れい)の大弐(だいに)、十人ばかりがほどにて、上(のぼ)り給(たま)へりとこそ申(まう)ししか。
かの国に御座(おは)しまししほど、刀伊国(といこく)の物(もの)にはかにこの国を討ち取らむとや思(おも)ひけむ、越え来たりけるに、筑紫には、かねて用意もなく、大弐殿、弓矢(ゆみや)の本末(もとすえ)も知(し)り給(たま)はねば、いかがと思(おぼ)しけれど、大和心(やまとごころ)かしこく御座(おは)する人にて、筑後(ちくご)・肥前(ひぜん)・肥後(ひご)、九国の人をおこし給(たま)ふをばさることにて、府(ふ)の内(うち)に仕(つか)うまつる人をさへおしこりて、戦はせ給(たま)ひければ、かやつが方のものども、いと多く死にけるは。さはいへど、家高く御座(おは)します故(け)に、いみじかりしこと、平(たひら)げ給(たま)へる殿(との)ぞかし。公家(おほやけ)、大臣・大納言(だいなごん)にもなさせ給(たま)ひぬべかりしかど、御まじらひ絶えにたれば、ただには御座(おは)するにこそあめれ。この中に、むねと射返(いかへ)したるものどもしるして、公家に奏(そう)せられたりしかば、皆賞せさせ給(たま)ひき。種材(たねき)は壱岐守(ゆきのかみ)になされ、その子は大宰監(だざいのげん)にこそなさせ給(たま)へりしか。
 この種材が族(ぞう)は、純友(すみとも)討(う)ちたりしものの筋(すぢ)なり。この純友は、将門(まさかど)同心(どうしん)に語らひて、おそろしきこと企(くはだ)てたるものなり。将門は、「帝(みかど)を討ちとり奉(たてまつ)らむ」といひ、純友は、「関白(くわんばく)にならむ」と、同じく心をあはせて、この世界に我(われ)と政(まつりごと)をし、君(きみ)となりてすぎむ、といふことを契り会(あ)ひて、一人は東国(ひんがしぐに)にいくさをととのへ、一人は西国(にしぐに)の海に、いくつともなく、大筏(おほいかだ)を数知(し)らず集めて、筏の上に土(つち)をふせて、植木をおほし、よもやまの田をつくり、住みつきて、おほかたおぼろけのいくさに、動(どう)ずべうもなくなりゆくを、かしこうかまへて、討ち奉(たてまつ)りたるは、いみじきことなりな。それはげに人のかしこきのみにはあらじ、王威(わうゐ)の御座(おは)しまさむかぎりは、いかでかさることあるべきと思(おも)へど。
 さて壱岐(ゆき)・対馬国(つしまのくに)の人を、いと多く刀伊国にとりていき
たりければ、新羅(しらぎ)の帝(みかど)いくさをおこし給(たま)ひて、皆討(う)ち返し給(たま)ひてけり。さて使をつけて、たしかにこの島に送り給(たま)へりければ、かの国の使には、大弐(だいに)、金(こがね)三百両とらせてかへさせ給(たま)ひける。このほどのことも、かくいみじうしたため給(たま)へるに、入道(にふだう)殿(どの)、なほこの帥殿(そちどの)を捨てぬものに思(おも)ひきこえさせ給(たま)へるなり。さればにや、世にもいとふり捨てがたき覚(おぼ)えにてこそ御座(おは)すめれ。御門(みかど)には、いつかは馬・車の三つ四つ絶ゆる時ある。また、道もさりあへず立つ折もあるぞかし。この殿(との)の御子(みこ)の男君、ただいまの蔵人(くらうどの)少将(せうしやう)良頼(よしより)の君、また、右中弁経輔(うちゆうべんつねすけ)の君、また式部丞(しきぶのぞう)などにて御座(おは)すめり。
誠(まこと)に、世に会(あ)ひてはなやぎ給(たま)へりし折、この帥殿は花山院とあらがひごとまうさせ給(たま)へりしはとよ。いと不思議なりしことぞかし。「わぬしなりとも、わが門(かど)はえわたらじ」と仰(おほ)せられければ、「隆家(たかいへ)、などてかわたり侍(はべ)らざらむ」と申(まう)し給(たま)ひて、その日と定められぬ。輪(わ)つよき御車(みくるま)に、逸物(いちもち)の御車牛(みくるまうし)かけて、御烏帽子(えぼし)・直衣(なほし)いとあざやかにさうぞかせ給(たま)ひて、葡萄染(えびぞめ)の織物(おりもの)の御指貫(さしぬき)少しゐ出(い)でさせ給(たま)ひて、祭のかへさに紫野(むらさきの)走らせ給(たま)ふ君達(きんだち)のやうに、踏板(ふみいた)にいと長やかに踏みしだかせ給(たま)ひて、くくりは地(つち)にひかれて、簾(すだれ)いと高やかに巻き上げて、雑色(ざふしき)五六十人ばかり、声のあるかぎり、ひまなく御先(みさき)参(まゐ)らせ給(たま)ふ。院(ゐん)には、さらなり、えもいはぬ勇幹幹了(ようかんかんれう)の法師ばら・大中童子(だいちゆうどうじ)など、あはせて七八十人ばかり、大きなる石・五六尺ばかりなる杖(つゑ)ども持たせさせ給(たま)ひて、北・南の御門(みかど)・築地(ついぢ)づらに、小一条(こいちでう)の前、洞院(とうゐん)の裏うへ、ひまなく立て並(な)めて、御門のうちにも、侍(さぶらひ)・僧の若やかに力強(ちからづよ)きかぎり、さるまうけして候(さぶら)ふ。さることをのみ思(おも)ひたる上下(かみしも)の、今日にあへるけしきどもは、げにいかがはありけむ。いづ方にも、石・杖(つゑ)ばかりにて、まことしき弓矢(ゆみや)まではまうけさせ給(たま)はず。中納言殿の、御車(みくるま)、一時(ひととき)ばかり立て給(たま)ひて、勘解由小路(かでのこうぢ)よりは北に、御門(みかど)近うまでは、やり寄せ給(たま)へりしかど、なほえわたり給(たま)はで、帰らせ給(たま)ふに、院方(ゐんがた)にそこらつどひたるものども、ひとつ心に、目をかためまもりまもりて、やりかへし給(たま)ふほど、「は」と一度に笑ひたりし声こそ、いとおびたたしかりしか。さる見物(みもの)やは侍(はべ)りしとよ。王威(わうゐ)はいみじき物(もの)なりけり。えわたらせ給(たま)はざりつるよ。「無益(むやく)のことをもいひてけるかな。いみじき辱号(ぞくがう)とりつる」とてこそ、笑ひ給(たま)ひけれ。院は勝ちえさせ給(たま)へりけるを、いみじと思(おぼ)したるさまも、ことしもあれ、まことしきことの様(やう)なり。
 この帥殿(そちどの)の御はらからといふ君達(きんだち)、数あまた御座(おは)すべし。頼親(よりちか)の内蔵頭(くらのかみ)・周頼(ちかより)の木工頭(もくのかみ)などいひし人、かたはしよりなくなり給(たま)ひて、今は、ただ兵部大輔周家(ひやうぶのたいふちかいへ)の君ばかり、ほのめき給(たま)ふなり。小一条院(こいちでうゐん)の御宮たちの御乳母(めのと)の夫(をとこ)にて、院の格勤(かくごん)して候(さぶら)ひ給(たま)ふ、いとかしこし。また、井手(ゐで)の少将(せうしやう)とありし君は、出家(すけ)とか。故(こ)関白(くわんばく)殿の御心(こころ)おきていとうるはしく、あてに御座(おは)ししかど、御末あやしく、御命も短く御座(おは)しますめり。今は、入道(にふだう)一品(いつぽん)の宮(みや)と、この帥(そちの)中納言殿(ちゆうなごんどの)とのみこそは、残らせ給(たま)へめれ。
一 右大臣道兼
この大臣(おとど)、これ、大入道(おほにふだう)殿(どの)の御三郎、粟田殿(あはたどの)とこそは、聞えさすめりしか。長徳(ちやうとく)元年乙未(きのとひつじ)五月二日関白(くわんばく)の宣旨(せんじ)かうぶらせ給(たま)ひて、同じ月の八日失(う)せさせ給(たま)ひにき。大臣の位にて五年、関白(くわんばく)と申(まう)して七日ぞ御座(おは)しまししか。この殿(との)ばらの御族(ぞう)に、やがて世をしろしめさぬたぐひ多く御座(おは)すれど、またあらじかし、夢のやうにてやみ給(たま)へるは。出雲守(いづものかみ)相如(すけゆき)のぬしの御家(みいへ)に、あからさまにわたり給(たま)へりし折、宣旨(せんじ)は下りしかば、あるじのよろこびたうびたるさま、おしはかり給(たま)へ。狭(せば)うて、ことの作法(さはふ)えあるまじとて、たたせ給(たま)ふ日ぞ、御よろこびも申(まう)させ給(たま)ふ。殿(との)の御前(ごぜん)は、えもいはぬ物(もの)のかぎりすぐられたるに、北の方の二条に帰り給(たま)ふ御供人(ともびと)は、よきもあしきも、数知(し)らぬまで、布衣(ほうい)などにてあるもまじりて、殿の出(いだ)したて奉(たてまつ)りて、わたり給(たま)ひしほどの、殿のうちの栄え・人のけしきは、ただ思(おぼ)しやれ。あまりにもと見る人もありけり。御心地(ここち)は少し例(れい)ならず思(おぼ)されけれど、おのづからのことにこそは、いまいましく今日の御よろこび申(まう)しとどめじと思(おぼ)して、念(ねん)じて内(うち)に参(まゐ)らせ給(たま)へるに、いと苦しうならせ給(たま)ひにければ、殿上(てんじやう)よりはえ出(い)でさせ給(たま)はで、御湯殿(おゆどの)の馬道(めだう)の戸口に、御前(ごぜん)を召(め)してかかりて、北(きた)の陣(ぢん)より出(い)でさせ給(たま)ふに、こはいかにと人々見奉(たてまつ)る。殿には、常(つね)よりもとり経営(けいめい)して待ち奉(たてまつ)り給(たま)ふに、人にかかりて、御冠(かうぶり)もしどけなく、御紐(ひも)おしのけて、いといみじう苦しげにておりさせ給(たま)へるを見奉(たてまつ)り給(たま)へる御心地、出(い)で給(たま)ふつる折にたとしへなし。されど、ただ「さりとも」と、ささめきにこそささめけ、胸はふたがりながら、ここちよ顔(がほ)をつくりあへり。されば、世にはいとおびたたしくも聞えず。
 今の小野宮(をののみや)の右大臣殿の御よろこびに参(まゐ)り給(たま)へりけるを、母屋(もや)の御簾(みす)をおろして、呼び入れ奉(たてまつ)り給(たま)へり。臥(ふ)しながら御対面(たいめ)ありて、「乱れ心地、いとあやしう侍(はべ)りて、外にはえまかり出(い)でねば、かくて申(まう)し侍(はべ)るなり。年頃(としごろ)、はかなきことにつけても、心のうちによろこび申(まう)すことなむ侍(はべ)りつれど、させることなきほどは、ことごとにもえ申(まう)し侍(はべ)らでなむ過ぎまかりつるを、今はかくまかりなりて侍(はべ)れば、公私(おほやけわたくし)につけて、報(ほう)じまうすべきになむ。また、大小のことをも申(まう)し合せむと思う給(たま)へれば、無礼(むらい)をもえはばからず、かくらうがはしき方に案内まうしつるなり」などこまやかに宣(のたま)へど、言葉もつづかず、ただおしあてにさばかりなめりと聞(き)きなさるるに、「御息ざしなどいと苦しげなるを、いと不便(ふびん)なるわざかなと思(おも)ひしに、風の御簾(みす)を吹き上げたりしはさまより見入れしかば、さばかり重き病をうけとり給(たま)ひてければ、御色もたがひて、きららかに御座(おは)する人ともおぼえず、ことのほかに不覚(ふかく)になり給(たま)ひにけりと見えながら、ながかるべきことども宣(のたま)ひしなむ、あはれなりし」とこそ、後に語り給(たま)ひたれ。
この粟田殿(あはたどの)の御男君達(をとこきんだち)ぞ三人御座(おは)せしが、太郎君は福足君(ふくたりぎみ)と申(まう)ししを、幼き人はさのみこそはと思(おも)へど、いとあさましう、まさなう、あしくぞ御座(おは)せし。東三条(とうさんでう)殿(どの)の御賀に、この君、舞をせさせ奉(たてまつ)らむとて、習(なら)はせ給(たま)ふほども、あやにくがりすまひ給(たま)へど、よろづにをこづり、祈(いのり)をさへして、教へきこえさするに、その日になりて、いみじうしたて奉(たてまつ)り給(たま)へるに、舞台(ぶたい)の上にのぼり給(たま)ひて、物(もの)の音調子(ねてうし)吹き出づるほどに、「わざはひかな、あれは舞はじ」とて、髭頬(びづら)ひき乱(みだ)り、御装束(さうぞく)はらはらとひき破(や)り給(たま)ふに、粟田殿(あはたどの)、御色真青(まあを)にならせ給(たま)ひて、あれかにもあらぬ御けしきなり。ありとある人、「さ思(おも)ひつることよ」と見給(たま)へど、すべきやうもなきに、御舅(をぢ)の中(なかの)関白(くわんばく)殿(どの)のおりて、舞台に上(のぼ)らせ給(たま)へば、いひをこづらせ給(たま)ふべきか、また憎さにえたへず、追ひおろさせ給(たま)ふべきかと、かたがた見侍(はべ)りしに、この君を御腰のほどに引きつけさせ給(たま)ひて、御手づからいみじう舞はせたりしこそ、楽(がく)もまさりておもしろく、かの君の御恥(はぢ)もかくれ、その日の興(きよう)もことのほかにまさりたりけれ。祖父(おほぢ)殿(どの)もうれしと思(おぼ)したりけり。父大臣(おとど)はさらなり、よその人だにこそ、すずろに感じ奉(たてまつ)りけれ。斯様(かやう)に、人のためになさけなさけしきところ御座(おは)しましけるに、など御末かれさせ給(たま)ひにけむ。この君、人しもこそあれ、蛇(くちなは)れうじ給(たま)ひて、その崇(たた)りにより、頭(かしら)に物(もの)はれて、失(う)せ給(たま)ひにき。
この御弟(おとと)の次郎君、今の左衛門督兼隆(さえもんのかみかねたか)の卿は、大蔵卿(おほくらきやう)の女(むすめ)の腹なり。この左衛門督の君達(きんだち)、男女(をとこをんな)あまた御座(おは)すなり。大姫君(おほひめぎみ)は、三条院の三の皇子(みこ)、敦平(あつひら)の中務(なかつかさ)の宮に、このきさらぎかとよ、婿(むこ)どり奉(たてまつ)り給(たま)へる、いとよき御中にて御座(おは)しますめり。また、姫君なる四人御座(おは)す。また、粟田殿(あはたどの)の三郎、前頭中将兼綱(さきのとうのちゆうじやうかねつな)の君。その君の祭の日ととのへ給(たま)へりし車こそ、いとをかしかりしか。桧網代(ひあじろ)といふ物(もの)を張(は)りて、的(まと)のかたに彩(いろど)られたりし車の、横ざまのふちを、弓(ゆみ)の形(かた)にし、縦(たて)ぶちを矢の形にせられたりしさまの、興(きよう)ありしなり。和泉式部(いずみしきぶ)の君、歌によまれて侍めりき。
 とをつらの馬ならねども君乗れば車もまとに見ゆる物(もの)かな W
 さて、よき御風流(ふりう)と見えしかど、人の口やすからぬ物(もの)にて、「賀茂(かも)の明神(みやうじん)の御矢めおひ給(たま)へり」と、いひなしてしかば、いと便(びん)なくてやみにき。この君の、頭(とう)とられ給(たま)ひし、いといみじく侍(はべ)りしことぞかし。頭になりておどろきよろこび給(たま)ふべきならねど、あるべきことにてあるに、「粟田殿(あはたどの)、花山院すかしおろし奉(たてまつ)り、左衛門督(さえもんのかみ)、小一条院(こいちでうゐん)すかしおろし奉(たてまつ)り給(たま)へり。帝(みかど)・春宮(とうぐう)の御あたり近づかでありぬべき族(ぞう)」といふこと出(い)できにしぞ、いと希有(けう)に侍(はべ)りきな。誰(たれ)も聞(きこ)し召(め)し知(し)りたることなれど。男君(をとこぎみ)たち、かくなり。
 女君(をんなぎみ)は、故(こ)一条院の御乳母(めのと)の藤三位(とうさんみ)の腹に出(い)で御座(おは)しましたりしを、やがてその御時のくらべやの女御(にようご)と聞えし。後(のち)に、この大蔵卿通任(おほくらきやうみちたふ)の君の御北の方にて失(う)せ給(たま)ひにしかし。御嫡腹(むかへばら)に、仏(ほとけ)・神(かみ)に申(まう)して孕(はら)まれ給(たま)へりし君、今の中宮(ちゆうぐう)に、二条殿の御方とてこそは候(さぶら)ひ給(たま)ふめれ。父殿(ちちどの)、女子(をんなご)をほしがり、願(ぐわん)をたて給(たま)ひしかど、御顔をだにえ見奉(たてまつ)り給(たま)はずなりにき。斯様(かやう)にあはれなることどもの、世に侍(はべ)りしぞかし。
その殿(との)の御北の方、栗田殿の御後は、この堀河殿(ほりかはどの)の御子(みこ)の左大臣(さだいじん)の北の方にてこそは、年頃(としごろ)御座(おは)すと、聞(き)き奉(たてまつ)りしか。その北の方、九条殿(くでうどの)の御子の大蔵卿の君の女(むすめ)ぞかし。されば、この栗田殿の御有様(ありさま)、ことのほかにあへなく御座(おは)しましき。さるは、御心(みこころ)いとなさけなくおそろしくて、人にいみじう怖(お)ぢられ給(たま)へりし殿の、あやしく末なくてやみ給(たま)ひにしなり。
 この殿、父大臣(おとど)の御忌(いみ)には、土殿(つちどの)などにもゐさせ給(たま)はで、暑きにことつけて、御簾(みす)どもあげわたして、御念誦(ねんず)などもし給(たま)はず、さるべき人々呼び集めて、後撰(ごせん)・古今(こきん)ひろげて、興言(きようげん)し、遊びて、つゆ嘆かせ給(たま)はざりけり。そのゆゑは、花山院をばわれこそすかしおろし奉(たてまつ)りたれ、されば、関白(くわんばく)をも譲らせ給(たま)ふべきなり、といふ御恨みなりけり。世(よ)づかぬ御ことなりや。さまざまよからぬ御ことどもこそきこえしか。傅(ふ)の殿・この入道(にふだう)殿(どの)二所(ふたところ)は、如法(によほふ)に孝(けう)じ奉(たてまつ)り給(たま)ひけりとぞ、承(うけたまは)りし。


〔大鏡 下〕

一 太政大臣(だいじやうだいじん)道長(みちなが) (上)
 この大臣(おとど)は、法興院(ほこゐん)の大臣(おとど)の御五男、御母、従四位(じゆしゐ)上摂津守(じやうつのかみ)右京大夫(うきやうのだいぶ)藤原(ふぢはらの)中正(なかまさ)朝臣(あそん)の女(むすめ)なり。その朝臣(あそん)は従二位中納言山蔭(やまかげ)卿の七男なり。この道長のおとどは、今の入道(にふだう)殿下(でんか)これに御座(おは)します。一条院・三条院の御舅(をぢ)、当代(たうだい)・東宮(とうぐう)の御祖父(おほじ)にて御座(おは)します。この殿(との)、宰相(さいしやう)にはなり給(たま)はで、ただちに権(ごん)中納言にならせ給(たま)ふ、御年二十三。その年、上東門院(じやうとうもんゐん)生れ給(たま)ふ。四月二十七日、従二位し給(たま)ふ、御年二十七。関白(くわんばく)殿生れ給(たま)ふ年なり。長徳(ちやうとく)元年乙羊(きのとひつじ)四月二十七日、左近大将(さこんのたいしやう)かけさせ給(たま)ふ。
その年の祭の前より、世の中きはめてさわがしきに、またの年、いとどいみじくなりたちにしぞかし。まづは、大臣・公卿多く失(う)せ給(たま)へりしに、まして、四位・五位のほどは、数やは知(し)りし。
 まづその年失(う)せ給(たま)へる殿(との)ばらの御数、閑院(かんゐん)の大納言(だいなごん)、三月二十八日、中(なかの)関白(くわんばく)殿(どの)、四月十日。これは世の疫(え)に御座(おは)しまさず、ただ同じ折のさしあはせたりしことなり。小一条(こいちでう)の左大将済時(なりとき)卿は四月二十三日、六条の左大臣(さだいじん)殿・粟田(あはた)の右大臣殿・桃園(ももぞの)の中納言保光(やすみつ)卿、この三人は五月八日、一度に失(う)せ給(たま)ふ。山井(やまのゐ)の大納言(だいなごん)殿、六月十一日ぞかし。またあらじ、あがりての世にも、かく大臣・公卿七八人、二三月のうちにかきはらひ給(たま)ふこと。希有(けう)なりしわざなり。それもただこの入道(にふだう)殿(どの)の御幸(さいは)ひの、上(かみ)をきはめ給(たま)ふにこそ侍(はべ)るめれ。かの殿ばら、次第(しだい)のままにひさしく保(たも)ち給(たま)はましかば、いとかくしもやは御座(おは)しまさまし。
 まづ帥殿(そちどの)の御心(こころ)もちゐのさまざましく御座(おは)しまさば、父大臣(おとど)の御病のほど、天下執行(しゆぎやう)の宣旨(せんじ)下り給(たま)へりしままに、おのづからさてもや御座(おは)しまさまし。それにまた、大臣(おとど)失(う)せ給(たま)ひにしかば、いかでか、みどりごの様(やう)なる殿の、世の政(まつりごと)し給(たま)はむとて、粟田殿(あはたどの)にわたりにしぞかし。さるべき御次第にて、それまたあるべきことなり。あさましく夢などのやうに、とりあへずならせ給(たま)ひにし、これはあるべきことかはな。この今の入道(にふだう)殿(どの)、その折、大納言(だいなごん)中宮(ちゆうぐうの)大夫(だいぶ)と申(まう)して、御年いと若く、ゆく末待ちつけさせ給(たま)ふべき御齢(よはひ)のほどに、三十にて、五月十一日に、関白(くわんばく)の宣旨承(うけたまは)り給(たま)うて、栄えそめさせ給(たま)ひにしままに、また外(ほか)ざまへも分かれずなりにしぞかし。いまいまも、さこそは侍(はべ)るべかむめれ。
この殿(との)は、北の方二所(ふたところ)御座(おは)します。この宮宮(みやみや)の母上と申(まう)すは、土御門(つちみかど)の左大臣(さだいじん)源雅信(みなもとのまさざね)のおとどの御女(むすめ)に御座(おは)します。雅信のおとどは、亭子(ていじ)の帝(みかど)の御子(みこ)、一品(いつぽん)式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)敦実(あつみ)の親王(みこ)の御子、左大臣(さだいじん)時平(ときひら)のおとどの御女(むすめ)の腹に生れ給(たま)ひし御子なり。その雅信のおとどの御女を、今の入道(にふだう)殿下(でんか)の北(きた)の政所(まんどころ)と申(まう)すなり。その御腹に、女君(をんなぎみ)四所(よところ)・男君(をとこぎみ)二所ぞ御座(おは)します。その御有様(ありさま)は、ただいまのことなれば、皆人見奉(たてまつ)り給(たま)ふらめど、ことばつづけ申(まう)さむとなり。
 第一の女君(をんなぎみ)は、一条院の御時に、十二にて、参(まゐ)らせ給(たま)ひて、またの年、長保(ちやうはう)二年庚子(かのえね)二月二十五日、十三にて后(きさき)にたち給(たま)ひて、中宮(ちゆうぐう)と申(まう)ししほどに、うちつづき男親王(をとこみこ)二人うみ奉(たてまつ)り給(たま)へりしこそは、今の帝(みかど)・東宮(とうぐう)に御座(おは)しますめれ。二所の御母后(ははきさき)、太皇太后宮(たいくわうたいごうぐう)と申(まう)して、天下第一の母にて御座(おは)します。
 その御さしつぎの尚侍(ないしのかみ)と申(まう)しし、三条院の東宮(とうぐう)に御座(おは)しまししに、参(まゐ)らせ給(たま)うて、宮、位につかせ給(たま)ひにしかば、后にたたせ給(たま)ひて、中宮と申(まう)しき、御年十九。さてまたの年、長和二年癸丑(みづのとうし)七月二十六日に、女親王(をんなみこ)生れさせ給(たま)へるこそは、三四ばかりにて一品(いつぽん)にならせ給(たま)ひて、今に御座(おは)しませ。この頃は、この御母宮を皇太后宮(くわうたいごうぐう)と申(まう)して、枇杷殿(びはどの)に御座(おは)します。一品(いつぽん)の宮は、三宮(さんぐう)に准(じゆん)じて、千戸(こ)の御封(みぶ)を得させ給(たま)へば、この宮に后二所御座(おは)しますがごとくなり。
 また次の女君(をんなぎみ)、これも尚侍にて、今の帝(みかど)十一歳にて、寛仁(くわんにん)二年戊午(つちのえうま)正月二日、御元服(げんぶく)せさせ給(たま)ふ、その二月に参(まゐ)り給(たま)うて、同じき年の十月十六日に后にゐさせ給(たま)ふ。ただいまの中宮と申(まう)して、内に御座(おは)します。
 また、次の女君(をんなぎみ)、それも尚侍、十五に御座(おは)します、今の東宮(とうぐう)十三にならせ給(たま)ふ年、参(まゐ)らせ給(たま)ひて、東宮(とうぐう)の女御(にようご)にて候(さぶら)はせ給(たま)ふ。入道(にふだう)せしめ給(たま)ひて後のことなれば、今の関白(くわんばく)殿の御女と名づけ奉(たてまつ)りてこそは参(まゐ)らせ給(たま)ひしか。今年は十九にならせ給(たま)ふ。妊(にん)じ給(たま)ひて、七八月(つき)にぞ当たらせ給(たま)へる。入道(にふだう)殿(どの)の御有様(ありさま)見奉(たてまつ)るに、かならず男(をのこ)にてぞ御座(おは)しまさむ。この翁(おきな)、さらによも申(まう)しあやまち侍(はべ)らじ」と、扇(あふぎ)を高くつかひつついひしこそ、をかしかりしか。
《世継》「女君(をんなぎみ)たちの御有様(ありさま)かくのごとし。男君二所と申(まう)すは、今の関白(くわんばく)左大臣(さだいじん)頼通(よりみち)のおとどと聞(きこ)えさせて、天下をわがままにまつりごちて御座(おは)します。御年二十六にてや内大臣・摂政にならせ給(たま)ひけむ。帝(みかど)およすけさせ給(たま)ひにしかば、ただ関白(くわんばく)にて御座(おは)します。二十余(はたちあまり)にて納言などになり給(たま)ふをぞ、いみじきことにいひしかど、今の世の御有様(ありさま)かく御座(おは)しますぞかし。御童名(わらはな)は鶴君なり。いま一所は、ただいまの内大臣にて、左大将かけて、教通(のりみち)のおとどと聞えさす。世の二の人にて御座(おは)しますめり。御童名、せや君ぞかし。
かかれば、この北の政所の御栄えきはめさせ給(たま)へり。
御女の御幸(さいは)ひは、あるいは、帝(みかど)・東宮(とうぐう)の御母后(ははきさき)にならせ給(たま)ひ、あるいは、わが御親一の人にて御座(おは)するには、御子生れさせ給(たま)はねど、かねて后にみなゐませ給(たま)ふめり。女の御幸ひは、后(きさき)にこそきはめさせ給(たま)ふことなめれ。されどそれは、いと所狭きに御座(おは)します。いみじきとみのことなれど、おぼろけならねば、えうごかせ給(たま)はず。陣屋(ぢんや)ゐぬれば、女房(にようばう)たやすく心にもまかせず。かように所狭げなり。
ただ人(びと)と申(まう)せど、帝(みかど)・春宮(とうぐう)の御祖母(おほば)にて、准三宮(じゆさんぐう)の御位にて、年官、年爵給(たま)はらせ給(たま)ふ。唐の御車にて、いとたはやすく、御ありきなども、なかなか御身安らかにて、ゆかしく思(おぼ)し召(め)しけることは、世の中の物見、なにの法会(ほふゑ)やなどある折は、御車にても、桟敷(さじき)にても、かならず御覧ずめり。内・東宮(とうぐう)・宮々と、あかれあかれよそほしくて御座(おは)しませど、いづかたにもわたり参(まゐ)らせ給(たま)ひてはさしならび御座(おは)します。
ただいま三后(さんこう)・東宮(とうぐう)の女御(にようご)・関白(くわんばく)左大臣(さだいじん)・内大臣の御母・帝(みかど)・春宮(とうぐう)はた申(まう)さず、おほよそ世の親にて御座(おは)します。入道(にふだう)殿(どの)と申(まう)すもさらなり、おほかたこの二所ながら、さるべき権者(ごんじや)にこそ御座(おは)しますめれ。御なからひ四十年ばかりにやならせ給(たま)ひぬらむ。あはれにやむごとなき物(もの)にかしづき奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ、といへばこそおろかなれ。世の中には、いにしへ・ただいまの国王(こくわう)・大臣、皆藤氏(とうし)にてこそ御座(おは)しますに、この北(きた)の政所(まんどころ)ぞ、源氏(げんじ)にて御幸(さいは)ひきはめさせ給(たま)ひにたる。一昨年(おととし)の御賀(が)の有様(ありさま)などこそ、皆人見聞(き)き給(たま)ひしことなれど、なほかへすがへすもいみじく侍(はべ)りし物(もの)かな。
また、高松殿(たかまつどの)の上(うえ)と申(まう)すも、源氏(げんじ)にて御座(おは)します。延喜(えんぎ)の皇子(みこ)高明(たかあきら)の親王(みこ)を左大臣(さだいじん)になし奉(たてまつ)らせ給(たま)へりしに、思(おも)はざるほかのことによりて、帥にならせ給(たま)ひて、いといと心憂かりしことぞかし。その御女に御座(おは)します。それを、かの殿、筑紫に御座(おは)しましける年、この姫君まだいと幼く御座(おは)しましけるを、御舅(をぢ)の十五の宮と申(まう)したるも、同じ延喜(えんぎ)の皇子に御座(おは)します、
女子(をんなご)も御座(おは)せざりければ、この君をとり奉(たてまつ)りて、養ひかしづき奉(たてまつ)りて、もち給(たま)へるに、西宮殿(にしのみやどの)も、十五の宮もかくれさせ給(たま)ひにし後(のち)に、故(こ)女院(にようゐん)の后に御座(おは)しましし折、この姫君を迎へ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、東三条(とうさんでう)殿(どの)の東(ひんがし)の対(たい)に、帳(ちやう)を立てて、壁代(かべしろ)をひき、わが御しつらひにいささかおとさせ給(たま)はず、しすゑきこえさせ給(たま)ひ、女房(にようばう)・侍(さぶらひ)・家司(けいし)・下人(しもびと)まで別(べち)にあかちあてさせ給(たま)ひて、姫宮(ひめみや)などの御座(おは)しまさせしごとくにかぎりなく、思(おも)ひかしづききこえさせ給(たま)ひしかば、御せうとの殿(との)ばら、我(われ)も我もと、よしばみ申(まう)し給(たま)ひけれど、后かしこく制しまうさせ給(たま)ひて、今の入道(にふだう)殿(どの)をぞ許しきこえさせ給(たま)ひければ、通ひ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしほどに、女君(をんなぎみ)二所(ふたところ)・男君四人御座(おは)しますぞかし。
 女君(をんなぎみ)と申(まう)すは、今の小一条院(こいちでうゐん)の女御(にようご)。いま一所(ひとところ)は故(こ)中務卿具平(なかつかさきやうともひら)の親王(みこ)と申(まう)す、村上の帝(みかど)の七の親王に御座(おは)しましき、その御男君三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)師房(もろふさ)の君と申(まう)すを、
今の関白(くわんばく)殿の上(うへ)の御はらからなるが故(ゆゑ)に、関白(くわんばく)殿、御子(みこ)にし奉(たてまつ)らせ給(たま)ふを、
 入道(にふだう)殿(どの)婿(むこ)どり奉(たてまつ)らせ給(たま)へり。「あさはかに、心得ぬこと」とこそ、世の人申(まう)ししか。殿(との)のうちの人も思(おぼ)したりしかど、入道(にふだう)殿(どの)思(おも)ひおきてさせ給(たま)ふやうありけむかしな。
 男君は、大納言(だいなごん)にて春宮大夫頼宗(とうぐうのだいぶよりむね)と聞ゆる。御童名(わらはな)、石君(いはぎみ)。いま一所、これに同じ、大納言(だいなごん)中宮(ちゆうぐうの)権大夫(ごんのだいぶ)能信(よしのぶ)と聞ゆる。
いま一所、中納言長家(ながいへ)。御童名、小若君(こわかぎみ)。
いま一人は、馬頭(うまのかみ)にて、顕信(あきのぶ)とて御座(おは)しき。御童名、苔君(こけぎみ)なり。寛弘(くわんこう)九年壬子(みづのえね)正月十九日、入道(にふだう)し給(たま)ひて、この十余年は、仏のごとくして行はせ給(たま)ふ。思(おも)ひがけず、あはれなる御ことなり。みづからの菩提(ぼだい)を申(まう)すべからず、殿の御ためにもまた、法師なる御子(みこ)の御座(おは)しまさぬが口惜(くちを)しく、こと欠けさせ給(たま)へる様(やう)なるに、「されば、やがて一度に僧正(そうじやう)になし奉(たてまつ)らむ」となむ仰(おほ)せられけるとぞ承(うけたまは)るを、いかが侍(はべ)らむ。うるはしき法服(ほふぶく)、宮々よりも奉(たてまつ)らせ給(たま)ひ、殿よりは麻の御衣(ころも)奉(たてまつ)るなるをば、あるまじきことに申(まう)させ給(たま)ふなるをぞ、いみじく侘(わ)びさせ給(たま)ひける。
 出(い)でさせ給(たま)ひけるには、緋の御衵(あこめ)のあまた候(さぶら)ひけるを、「これがあまた重(かさ)ねて着たるなむうるさき。綿を一つに入れなして一つばかりを着たらばや。しかせよ」と仰(おほ)せられければ、「これかれそそき侍(はべ)らむもうるさきにことを厚くして参(まゐ)らせむ」と申(まう)しければ、「それはひさしくもなりなむ。ただとくと思(おも)ふぞ」と仰(おほ)せられければ、思(おぼ)し召(め)すやうこそはと思(おも)ひて、あまたを一つにとり入れて参(まゐ)らせたるを奉(たてまつ)りてぞ、その夜は出(い)でさせ給(たま)ひける。
 されば、御乳母(めのと)は、「かくて仰(おほ)せられける物(もの)を、なにしにして参(まゐ)らせけむ」と、「例ならずあやしと思(おも)はざりけむ心のいたりのなさよ」と、泣きまどひけむこそ、いとことわりにあはれなれ。ことしもそれにさはらせ給(たま)はむやうに。かくと聞(き)きつけ給(たま)ひては、やがて絶え入りて、なき人のやうにて御座(おは)しけるを、「かく聞(き)かせ給(たま)はば、いとほしと思(おぼ)して、御心(みこころ)や乱(みだ)れ給(たま)はむ」と、「今さらによしなし。これぞめでたきこと。仏(ほとけ)にならせ給(たま)はば、我が御ためも、後の世のよく御座(おは)せむこそ、つひのこと」と、人々のいひければ、「われは仏にならせ給(たま)はむもうれしからず。わが身の後のたすけられ奉(たてまつ)らむもおぼえず。ただいまのかなしさよりほかのことなし。殿の上も、御子(おほんこ)どもあまた御座(おは)しませば、いとよし。ただわれ一人がことぞや」とぞ、伏(ふ)しまろびまどひける。げにさることなりや。道心(だうしん)なからむ人は、後の世までも知(し)るべきかはな。
 高松殿(たかまつどの)の御夢にこそ、左の方の御ぐしを、なからより剃(そ)り落とさせ給(たま)ふと御覧(ごらん)じけるを、かくて後(のち)にこそ、これが見えけるなりけりと思(おも)ひさだめて、「ちがへさせ、祈などをもすべかりけることを」と仰(おほ)せられける。
皮堂(かはだう)にて御ぐしおろさせ給(たま)ひて、やがてその夜、山へ登らせ給(たま)ひけるに、「鴨河(かもがは)渡りしほどのいみじうつめたくおぼえしなむ、少しあはれなりし。今は斯様(かやう)にてあるべき身ぞかしと思(おも)ひながら」とこそ仰(おほ)せられけれ。
 今の右衛門督(うゑもんのかみ)ぞ、とくより、この君をば、「出家(すけ)の相こそ御座(おは)すれ」と宣(のたま)ひて、中宮(ちゆうぐうの)権大夫(ごんのだいぶ)殿(どの)の上(うへ)に御消息(せうそこ)聞えさせ給(たま)ひけれど、「さる相ある人をばいかで」とて、後にこの大夫殿(だいぶどの)をばとり奉(たてまつ)り給(たま)へるなり。正月に、内(うち)より出(い)で給(たま)ひて、この右衛門督(うゑもんのかみ)、「馬頭(うまのかみ)の、物見(ものみ)よりさし出(い)でたりつるこそ、むげに出家(すけ)の相(さう)近くなりにて見えつれ。いくつぞ」と宣(のたま)ひければ、頭中将(とうのちゆうじやう)「十九にこそなり給(たま)ふらめ」と申(まう)し給(たま)ひければ、「さては、今年ぞし給(たま)はむ」とありけるに、かくと聞(き)きてこそ、「さればよ」と宣(のたま)ひけれ。相人(さうにん)ならねど、よき人は、物(もの)を見給(たま)ふなり。
 入道(にふだう)殿(どの)は、「益(やく)なし。いたう嘆きてかなし。心乱れせられむも、この人のためにいとほし。法師子(ほふしご)のなかりつるに、いかがはせむ。幼くてもなさむと思(おも)ひしかども、すまひしかばこそあれ」とて、ただ例(れい)の作法(さはふ)の法師の御やうにもてなしきこえ給(たま)ひき。受戒(じゆかい)には、やがて殿(との)登らせ給(たま)ひ、人々我も我もと、御供(とも)に参(まゐ)り給(たま)ひて、いとよそほしげなりき。威儀僧(ゐぎそう)には、えもいはぬものども選(え)らせ給(たま)ひき。御先(さき)に、有職(うしき)・僧網(そうがう)どものやむごとなき候(さぶら)ふ。山の所司(しよし)・殿(との)の御随身(みずいじん)ども、人払(はら)ひののしりて、戒壇(かいだん)にのぼらせ給(たま)ひけるほどこそ、入道(にふだう)殿(どの)はえ見奉(たてまつ)らせ給(たま)はざりけれ。御みづからは、本意(ほい)なくかたはらいたしと思(おぼ)したりけり。座主(ざす)の、手輿(たごし)に乗りて、白蓋(びやくがい)ささせてのぼられけるこそ、あはれ天台(てんだい)座主、戒和尚(かいわじやう)の一や、とこそ見え給(たま)ひけれ。世継(よつぎ)が隣(となり)に侍(はべ)る者の、そのきにはに会(あ)ひて見奉(たてまつ)りけるが、語り侍(はべ)りしなり。
「春宮大夫(とうぐうのだいぶ)・中宮(ちゆうぐうの)権大夫(ごんのだいぶ)殿(どの)などの、大納言(だいなごん)にならせ給(たま)ひし折は、さりとも、御耳とまりてきかせ給(たま)ふらむ、とおぼえしかど、その大饗の折のことども、大納言(だいなごん)の座敷(し)き添へられしほどなど、語り申(まう)ししかど、いささか御けしき変らず、念誦(ねんず)うちして、「かうやうのこと、ただしばしのことなり」とうち宣(のたま)はせしなむ、めでたく優(いう)におぼえし」とぞ、通任(みちたふ)の君、宣(のたま)ひける。
この殿(との)の君達(きんだち)、男女あはせ奉(たてまつ)りて十二人、数(かず)のままにて御座(おは)します。男も女も、御官位(つかさくらゐ)こそ心にまかせ給(たま)へらめ、御心(こころ)ばへ・人柄(ひとがら)どもさへ、いささかかたほにて、もどかれさせ給(たま)ふべきも御座(おは)しまさず、とりどりに有識(いうそく)にめでたく御座(おは)しまさふも、ただことごとならず、入道(にふだう)殿(どの)の御幸(さいは)ひのいふかぎりなく御座(おは)しますなめり。先々(さきざき)の殿(との)ばらの君達御座(おは)せしかども、皆かくしも思(おも)ふさまにやは御座(おは)せし。おのづから、男も女もよきあしきまじりてこそ御座(おは)しまさふめりしか。この北(きた)の政所(まんどころ)の二人ながら源氏(げんじ)に御座(おは)しませば、末の世の源氏(げんじ)の栄え給(たま)ふべきと定(さだめ)め申(まう)すなり。かかれば、この二所(ふたところ)の御有様(ありさま)、かくのごとし。
ただし、殿の御前(おまへ)は、三十より関白(くわんばく)せさせ給(たま)ひて、一条院・三条院の御時、世をまつりごち、わが御ままにて御座(おは)しまししに、また当代(たうだい)の九歳にて位につかせ給(たま)ひにしかば、御年五十一にて摂政せさせ給(たま)ふ年、わが御身は太政大臣(だいじやうだいじん)にならせ給(たま)ひて、摂政をば大臣(おとど)に譲り奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、御年五十四にならせ給(たま)ふに、寛仁(くわんにん)三年己未(つちのとひつじ)
三月十八日の夜中ばかりより御胸を病ませ給(たま)ひて、わざとに御座(おは)しまさねど、いかが思(おぼ)し召(め)しけむ、にはかに、二十一日、未(ひつじ)の時ばかり、起き居(ゐ)させ給(たま)ひて、御冠(かうぶり)し、掻練(かいねり)の御下襲(したがさね)に布袴(ほうこ)をうるはしくさうずかせ給(たま)ひて、御手水(てうづ)召(め)せば、何事(なにごと)にかと、関白(くわんばく)殿を始(はじ)め奉(たてまつ)りて殿ばらも思(おぼ)し召(め)す。寝殿(しんでん)の西(にし)の渡殿(わたどの)に出(い)でさせ給(たま)ひて、南面(みなみおもて)拝(はい)せさせ給(たま)ひて、春日(かすが)の明神(みやうじん)にいとま申(まう)させ給(たま)ふなりけり。慶明僧都(きやうめいそうづ)・定基律師(ぢやうきりし)して、御(み)ぐしおろさせ給(たま)ふ。関白(くわんばく)殿を始(はじ)めとして、君達(きんだち)・殿(との)ばらなど、いとあさましく思(おぼ)せど、思(おぼ)したちてにはかにせさせ給(たま)ふことなれば、誰(たれ)も誰もあきれて、え制(せい)しまうさせ給(たま)はず。あさましとはおろかなり。院源法印(ゐんげんほふいん)、御戒師(かいし)し給(たま)ふ。信恵(しんゑ)僧都の袈裟(けさ)・衣をぞ奉(たてまつ)りける。にはかのことにてまうけさせ給(たま)はざりけるにや。御名は行観(ぎやうくわん)とぞ侍(はべ)りし。
 かくて後(のち)にぞ、内(うち)・東宮(とうぐう)・宮々たちには、かくと聞えさせ給(たま)ひける。聞(き)きつけさせ給(たま)へる宮たちの御心(みこころ)ども、あさましく思(おぼ)しさわぐとは、おろかなり。申(さる)の時ばかりに、小一条院(こいちでうゐん)わたらせ給(たま)ひ、御門(おんかど)の外(と)にて、御車(みくるま)かきおろして、引き入れて、中門(ちゆうもん)の外にておりさせ給(たま)ひてこそは御座(おは)しまししか。寄(よ)せてもおりさせ給(たま)はで、かしこまりまうさせ給(たま)ふほども、いともかたじけなくめでたき御有様(ありさま)なりかし。宮たちも、夜(よ)さりこそはわたらせ給(たま)ひしか。
 中宮(ちゆうぐう)・皇后宮(くわうごうぐう)などは、一つ御車にてぞわたらせ給(たま)ひし。行啓(ぎやうけい)の有様(ありさま)、にはかにて、例(れい)の作法(さはふ)も侍(はべ)らざりける。同じき年九月二十七日奈良にて御受戒(じゆかい)侍(はべ)りき。かかる御有様(ありさま)につけても、いかにめでたき御有様(ありさま)にことどもの多く侍(はべ)りしかば、皆人知(し)り給(たま)へることどもなれば、こまかには申(まう)し侍(はべ)らじ。
三月二十一日、御出家(すけ)し給(たま)ひつれど、なほまた同じき五月八日、准三宮(じゆさんぐう)の位にならせ給(たま)ひて、年官・年爵(ねんしやく)得させ給(たま)ふ。帝(みかど)・東宮(とうぐう)の御祖父(おほじ)、三后(みきさき)・関白(くわんばく)左大臣(さだいじん)・内大臣・あまたの納言(なごん)の御父にて御座(おは)します。世を保(たも)たせ給(たま)ふこと、かくて三十一年ばかりにやならせ給(たま)ひぬらむ。今年(ことし)は満六十に御座(おは)しませば、督(かん)の殿(との)の御産(ごさん)の後(のち)、御賀(が)あるべしとぞ人申(まう)す。いかにまたさまざま御座(おは)しまさへて、めでたく侍(はべ)らむずらむ。おほかたまた世になきことなり、大臣(だいじん)の御女三人(みたり)、后(きさき)にてさし並べ奉(たてまつ)り給(たま)ふこと。
あさましう希有(けう)のことなり。唐(もろこし)には、昔三千人の后御座(おは)しけれど、それは筋(すぢ)をたづねずしてただかたちありなど聞ゆるを、隣(となり)の国まで選び召(め)して、その中に楊貴妃(やうきひ)ごときは、あまりときめきすぎて、かなしきことあり。王昭君(わうせうくん)は父の申(まう)すにたがひて胡(こ)の国の人となり、上陽人(じやうやうじん)は楊貴妃にそばめられて、帝(みかど)に見え奉(たてまつ)らで、深き窓のうちにて、春のゆき秋の過ぐることをも知(し)らずして、十六にて参(まゐ)りて、六十までありき。斯様(かやう)なれば、三千人のかひなし。
 わが国には、七(なな)の后こそ御座(おは)すべけれど、代々(よよ)に四人ぞたち給(たま)ふ。
この入道(にふだう)殿下(でんか)の御一門(ひとつかど)よりこそ、太皇太后宮(たいくわうたいごうぐう)・皇太后宮(くわうたいごうぐう)・中宮、三所(みところ)出(い)で御座(おは)しましたれば、誠(まこと)に希有希有(けうけう)の御幸(さいは)ひなり。皇后宮(くわうごうぐう)一人のみ、筋わかれ給(たま)へりといへども、それそら貞信公(ていしんこう)の御末に御座(おは)しませば、これをよそ人と思(おも)ひまうすべきことかは。しかれば、ただ世の中は、この殿(との)の御光ならずといふことなきに、この春こそは失(う)せ給(たま)ひにしかば、いとどただ三后(みきさき)のみ御座(おは)しますめり。
この殿、ことにふれてあそばせる詩・和歌など、居易(きよい)・人麿(ひとまろ)・躬恒(みつね)・貫之(つらゆき)といふとも、え思(おも)ひよらざりけむとこそ、おぼえ侍(はべ)れ。春日(かすが)の行幸(ぎやうかう)、先(さき)の一条院の御時より始(はじ)まれるぞかしな。それにまた、当代(たうだい)幼く御座(おは)しませども、かならずあるべきことにて、始(はじ)まりたる例になりにたれば、大宮(おほみや)御輿(みこし)に添(そ)ひまうさせ給(たま)ひて御座(おは)します、めでたしなどはいふも世の常なり。すべらぎの御祖父にて、うち添ひつかうまつらせ給(たま)へる殿の御有様(ありさま)・御かたちなど少し世の常にも御座(おは)しまさましかば、あかぬことにや。そこらあつまりたる田舎世界(ゐなかせかい)の民百姓(たみひやくしやう)、これこそは、たしかに見奉(たてまつ)りけめ、ただ転輪聖王(てんりんじやうわう)などはかくやと、光るやうに御座(おは)しますに、仏見奉(たてまつ)りたらむやうに、額(ひたひ)に手を当てて拝みまどふさま、ことわりなり。大宮の、赤色(あかいろ)の御扇(あふぎ)さし隠して、御肩のほどなどは、少し見えさせ給(たま)ひけり。かばかりにならせ給(たま)ひぬる人は、つゆの透影(すきかげ)もふたぎ、いかがとこそはもて隠し奉(たてまつ)るに、ことかぎりあれば、今日はよそほしき御有様(ありさま)も、少しは人の見奉(たてまつ)らむも、などかはともや思(おぼ)し召(め)しけむ。殿も宮も、いふよしなく、御心ゆかせ給(たま)へりけること、おしはかられ侍(はべ)れば、殿、大宮に、
  そのかみや祈りおきけむ春日野(かすがの)のおなじ道にもたづねゆくかな W
御返し、 
  曇(くも)りなき世の光にや春日野のおなじ道にもたづねゆくらむ W
斯様(かやう)に申(まう)しかはさせ給(たま)ふほどに、げにげにと聞えて、めでたく侍(はべ)りしなかにも、大宮のあそばしたりし、
  三笠山(みかさやま)さしてぞ来(き)つるいそのかみ古きみゆきのあとをたづねて W
これこそ、翁(おきな)らが心およばざるにや。あがりても、かばかりの秀歌(しうか)え候(さぶら)はじ。その日にとりては、春日(かすが)の明神(みやうじん)もよませ給(たま)へりけるとおぼえ侍(はべ)り。今日かかることどもの栄(は)えあるべきにて、先(さき)の一条院の御時にも、大入道(おほにふだう)殿(どの)、行幸(ぎやうかう)申(まう)し行はせ給(たま)ひけるにやとこそ、心得られ侍(はべ)れな。
 おほかた、幸ひ御座(おは)しまさむ人の、和歌の道おくれ給(たま)へらむは、ことの栄(は)えなくや侍(はべ)らまし。この殿は、折節(をりふし)ごとに、かならず斯様(かやう)のことを仰(おほ)せられて、ことをはやさせ給(たま)ふなり。ひととせの、北(きた)の政所(まんどころ)の御賀(が)に、よませ給(たま)へりしは、
  ありなれし契りは絶えていまさらに心けがしに千代(ちよ)といふらむ W
 また、この一品(いつぽん)の宮の生れ御座(おは)しましたりし御産養(うぶやしなひ)、大宮のせさせ給(たま)へりし夜(よ)の御歌は、聞(き)き給(たま)へりや。それこそいと興(きよう)あることを。ただ人は思(おも)ひよるべきにも侍(はべ)らぬ和歌の体(てい)なり。
  おと宮(みや)の産養(うぶやしなひ)をあね宮のし給(たま)ふ見るぞうれしかりける Wとかや、承(うけたまは)りし」とて、こころよく笑(ゑ)みたり。
《世継》「四条(しでう)の大納言(だいなごん)のかく何事(なにごと)もすぐれ、めでたく御座(おは)しますを、大入道(おほにふだう)殿(どの)「いかでかかからむ。うらやましくもあるかな。わが子どもの、影だに踏むべもあらぬこそ口惜(くちを)しけれ」と申(まう)させ給(たま)ひければ、中(なかの)関白(くわんばく)殿(どの)・粟田殿(あはたどの)などは、げにさもとや思(おぼ)すらむと、はづかしげなる御けしきにて、物(もの)も宣(のたま)はぬに、この入道(にふだう)殿(どの)は、いと若く御座(おは)します御身にて、「影をば踏まで、面(つら)をや踏まぬ」とこそ仰(おほ)せられけれ。まことにこそさ御座(おは)しますめれ。内大臣殿をだに、近くてえ見奉(たてまつ)り給(たま)はぬよ。
さるべき人は、とうより御心魂(こころだましひ)のたけく、御守(まもり)もこはきなめりとおぼえ侍(はべ)るは。花山院の御時に、五月下(さつきしも)つ闇(やみ)に、五月雨(さみだれ)も過ぎて、いとおどろおどろしくかきたれ雨の降る夜(よ)、帝(みかど)、さうざうしとや思(おぼ)し召(め)しけむ、殿上(てんじやう)に出(い)でさせ御座(おは)しまして、遊び御座(おは)しましけるに、人々、物語申(まう)しなどし給(たま)うて、昔おそろしかりけることどもなどに申(まう)しなり給(たま)へるに、「今宵(こよひ)こそいとむつかしげなる夜なめれ。かく人がちなるだに、けしきおほゆ。まして、物(もの)離れたる所などいかならむ。
さあらむ所に一人往(い)なむや」と仰(おほ)せられけるに、「えまからじ」とのみ申(まう)し給(たま)ひけるを、入道(にふだう)殿(どの)は、「いづくなりともまかりなむ」と申(まう)し給(たま)ひければ、さるところ御座(おは)します帝(みかど)にて、「いと興(きよう)あることなり。さらばいけ。道隆(みちたか)は豊楽院(ぶらくゐん)、道兼(みちかね)は仁寿殿(じじゆうでん)の塗篭(ぬりごめ)、道長は大極殿(だいこくでん)へいけ」と仰(おほ)せられければ、よその君達(きんだち)は、便(びん)なきことをも奏(そう)してけるかなと思(おも)ふ。
 また、承(うけたまは)らせ給(たま)へる殿ばらは、御けしきかはりて、益なしと思(おぼ)したるに、入道(にふだう)殿(どの)は、つゆさる御けしきもなくて、「私の従者をば具し候(さぶら)はじ。この陣の吉上(きちじやう)まれ、滝口(たきぐち)まれ、一人を、『昭慶門(せうけいもん)まで送れ』と仰(おほ)せ言(ごと)たべ。それよりうちには一人入り侍(はべ)らむ」と申(まう)し給(たま)へば、「証(そう)なきこと」と仰(おほ)せらるるに、「げに」とて、御手箱(てばこ)に置かせ給(たま)へる小刀まして立ち給(たま)ひぬ。いま二所(ふたところ)も、苦(にが)む苦むおのおの御座(おは)さふじぬ。「子四(ねよ)つ」と奏して、かく仰(おほ)せられ議(ぎ)するほどに、丑にもなりにけむ。「道隆は右衛門(うゑもん)の陣(ぢん)より出(い)でよ。道長は承明門(しようめいもん)より出(い)でよ」と、それをさへ分たせ給(たま)へば、しか御座(おは)しましあへるに、中(なかの)関白(くわんばく)殿、陣まで念(ねん)じて御座(おは)しましたるに、宴(えん)の松原(まつばら)のほどに、その物(もの)ともなき声どもの聞ゆるに、術(ずち)なくて帰り給(たま)ふ。粟田殿(あはたどの)は、露台(ろだい)の外(と)まで、わななくわななく御座(おは)したるに、仁寿殿の東面(ひんがしおもて)の砌(みぎり)のほどに、軒(のき)とひとしき人のあるやうに見え給(たま)ひければ、物(もの)もおぼえで、「身の候(さぶら)はばこそ、仰(おほ)せ言も承(うけたまは)らめ」とて、おのおのたち帰り参(まゐ)り給(たま)へれば、御扇をたたきて笑はせ給(たま)ふに、入道(にふだう)殿(どの)はいとひさしく見えさせ給(たま)はぬを、いかがと思(おぼ)し召(め)すほどにぞ、いとさりげなくことにもあらずげにて参(まゐ)らせ給(たま)へる。「いかにいかに」と問(と)はせたまへば、いとのどやかに、御刀に、削(けづ)られたる物を取り具(ぐ)して奉(たてまつ)らせ給(たま)ふに、「こは何ぞ」と仰(おほ)せらるれば、「ただにて帰り参(まゐ)りて侍(はべ)らむは、証候(さぶら)ふまじきにより、高御座(たかみくら)の南面の柱のもとを削りて候(さぶら)ふなり」と、つれなく申(まう)し給(たま)ふに、いとあさましく思(おぼ)し召(め)さる。こと殿(との)たちの御けしきは、いかにもなほ直(なほ)らで、この殿のかくて参(まゐ)り給(たま)へるを、帝より始(はじ)め感じののしられ給(たま)へど、うらやましきにや、またいかなるにか、物(もの)もいはでぞ候(さぶら)ひ給(たま)ひける。なほ、うたがはしく思(おぼ)し召(め)されければ、つとめて、「蔵人(くらうど)して、削(けづ)り屑(くづ)をつがはしてみよ」と仰(おほ)せ言(ごと)ありければ、持ていきて押しつけて見たうびけるに、つゆたがはざりけり。その削り跡は、いとけざやかにて侍(はべ)めり。末の世にも、見る人はなほあさましきことにぞ申(まう)ししかし。
故(こ)女院(にようゐん)の御修法(みしほ)して、飯室(いひむろ)の権僧正(ごんのそうじやう)の御座(おは)しましし伴僧(ばんそう)にて、相人(さうにん)の候(さぶら)ひしを、女房どもの呼びて相(さう)ぜられけるついでに、「内大臣殿はいかが御座(おは)す」など問(と)ふに、「いとかしこう御座(おは)します。天下(てんか)とる相(さう)御座(おは)します。中宮(ちゆうぐうの)大夫殿(だいぶどの)こそいみじう御座(おは)しませ」といふ。また、粟田殿(あはたどの)を問(と)ひ奉(たてまつ)れば、「それもまた、いとかしこく御座(おは)します。大臣の相(さう)御座(おは)します」。
また、「あはれ中宮大夫殿こそいみじう御座(おは)しませ」といふ。
また、権大納言(だいなごん)殿を問(と)ひ奉(たてまつ)れば、「それも、いとやむごとなく御座(おは)します。雷(いかづち)の相なむ御座(おは)する」と申(まう)しければ、「雷はいかなるぞ」と問(と)ふに、「ひときはは、いと高く鳴(な)れど、後とげのなきなり。されば、御末いかが御座(おは)しまさむと見えたり。中宮(ちゆうぐうの)大夫殿こそ、かぎりなくきはなく御座(おは)しませ」と、こと人を問(と)ひ奉(たてまつ)るたびには、この入道(にふだう)殿(どの)をかならずひき添(そ)へ奉(たてまつ)りて申(まう)す。「いかに御座(おは)すれば、かく毎度(たびごと)には聞(きこ)え給(たま)ふぞ」といへば、「第一の相には、虎(とら)の子の深き山の峰を渡るがごとくなるを申(まう)したるに、いささかもたがはせ給(たま)はねばかく申(まう)し侍(はべ)るなり。このたとひは、虎の子のけはしき山の峰を渡るがごとしと申(まう)すなり。御かたち・容体は、ただ毘沙門のいき本見奉(たてまつ)らむやうに御座(おは)します。御相(さう)かくのごとしといへば、誰よりもすぐれ給(たま)へり」とこそ申(まう)しけれ。いみじかりける上手(じやうず)かな。あてたがはせ給(たま)へることやは御座(おは)しますめる。帥(そち)の大臣(おとど)の大臣(だいじん)までかくすがやかになり給(たま)へりしを、「始(はじ)めよし」とはいひけるなめり。
雷(いかづち)は落ちぬれど、またもあがる物(もの)を、星の落ちて石となるにぞたとふべきや。それこそ返りあがることなけれ。
折々につけたる御かたちなどは、げにながき思(おも)ひ出(い)でとこそは人申(まう)すめれ。なかにも三条院の御時、賀茂(かも)行幸(ぎやうかう)の日、雪ことのほかにいたう降りしかば、御単(ひとへ)の袖(そで)をひき出(い)でて、御扇(あふぎ)を高く持たせ給(たま)へるに、いと白く降りかかりたれば、「あないみじ」とて、うち払(はら)はせ給(たま)へりし御もてなしは、いとめでたく御座(おは)しましし物(もの)かな。上(うへ)の御衣(ぞ)は黒きに、御単衣(ひとへぎぬ)は紅(くれなゐ)のはなやかなるあはひに、雪の色ももてはやされて、えもいはず御座(おは)しましし物(もの)かな。高名(かうみやう)のなにがしといひし御馬、いみじかりし悪馬(あくめ)なり。あはれ、それを奉(たてまつ)りしづめたりしはや。三条院も、その日のことをこそ思(おぼ)し召(め)し出(い)で御座(おは)しますなれ。御病のうちにも、「賀茂(かも)行幸の日の雪こそ、忘れがたけれ」と仰(おほ)せられけむこそ、あはれに侍(はべ)れ。
世間(よのなか)の光にて御座(おは)します殿の、一年(ひととせ)ばかり、物(もの)をやすからず思(おぼ)し召(め)したりしよ、いかに天道(てんたう)御覧(ごらん)じけむ。さりながらも、いささか逼気(ひけ)し、御心(みこころ)やは倒(たう)させ給(たま)へりし。おほやけざまの公事(くじ)・作法(さはふ)ばかりにはあるべきほどにふるまひ、時たがふことなく勤(つと)めさせ給(たま)ひて、うちうちには、所も置ききこえさせ給(たま)はざりしぞかし。
 帥殿(そちどの)の、南院(みなみのゐん)にて人々集めて弓あそばししに、この殿わたらせ給(たま)へれば、思(おも)ひがけずあやしと、中(なかの)関白(くわんばく)殿(どの)思(おぼ)し驚きて、いみじう饗応(きやうよう)しまうさせ給(たま)うて、下藤(げらふ)に御座(おは)しませど、前にたて奉(たてまつ)りて、まづ射(い)させ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひけるに、帥殿、矢数(やかず)いま二つ劣(おと)り給(たま)ひぬ。中(なかの)関白(くわんばく)殿、また御前(おまへ)に候(さぶら)ふ人々も、「いま二度延(の)べさせ給(たま)へ」と申(まう)して、延べさせ給(たま)ひけるを、やすからず思(おぼ)しなりて、「さらば、延べさせ給(たま)へ」と仰(おほ)せられて、また射させ給(たま)ふとて、仰(おほ)せらるるやう、「道長が家より帝(みかど)・后たち給(たま)ふべき物(もの)ならば、この矢あたれ」と仰(おほ)せらるるに、同じ物(もの)を中心にはあたる物(もの)かは。次に、帥殿射給(たま)ふに、いみじう臆(おく)し給(たま)ひて、御手もわななく故にや、的のあたりにだに近くよらず、無辺世界を射給(たま)へるに、関白(くわんばく)殿、色青くなりぬ。また、入道(にふだう)殿(どの)射給(たま)ふとて、「摂政・関白(くわんばく)すべき物(もの)ならば、この矢あたれ」と仰(おほ)せらるるに、始(はじ)めの同じやうに、的の破るばかり、同じところに射させ給(たま)ひつ。饗応し、もてはやしきこえさせ給(たま)ひつる興(きよう)もさめて、こと苦うなりぬ。父大臣、帥殿に、「なにか射る。な射そ、な射そ」と制し給(たま)ひて、ことさめにけり。
入道(にふだう)殿(どの)、矢もどして、やがて出(い)でさせ給(たま)ひぬ。その折は左京大夫(さきやうのだいぶ)とぞ申(まう)しし。弓をいみじう射させ給(たま)ひしなり。また、いみじう好ませ給(たま)ひしなり。
今日に見ゆべきことならねど、人の御さまの、いひ出(い)で給(たま)ふことのおもむきより、かたへは臆せられ給(たま)ふなむめり。
 また、故(こ)女院(にようゐん)の御石山詣(いしやままうで)に、この殿は御馬にて、帥殿は車にて参(まゐ)り給(たま)ふに、さはることありて、粟田口(あはたぐち)より帰り給(たま)ふとて、院の御車(みくるま)のもとに参(まゐ)り給(たま)ひて、案内(あない)申(まう)し給(たま)ふに、御車もとどめたれば、轅(ながえ)をおさへて立ち給(たま)へるに、入道(にふだう)殿(どの)は、御馬をおしかへして、帥殿(そちどの)の御項(うなじ)のもとに、いと近ううち寄せさせ給(たま)ひて、「とく仕(つか)うまつれ。日の暮れぬるに」と仰(おほ)せられければ、あやしく思(おぼ)されて見返り給(たま)へれど、おどろきたる御けしきもなく、とみにも退(の)かせ給(たま)はで、「日暮れぬ。とくとく」とそそのかせ給(たま)ふを、いみじうやすからず思(おぼ)せど、いかがはせさせ給(たま)はむ、やはら立ち退かせ給(たま)ひにけり。父大臣(おとど)にも申(まう)し給(たま)ひければ、「大臣(だいじん)軽(かろ)むる人のよき様(やう)なし」と宣(のたま)はせける。
 三月巳(み)の日(ひ)の祓(はらへ)に、やがて造遥(せうえう)し給(たま)ふとて、帥殿、河原(かはら)にさるべき人々あまた具(ぐ)して出(い)でさせ給(たま)へり。平張(ひらばり)どもあまたうちわたしたる御座(おは)し所(どころ)に、入道(にふだう)殿(どの)も出(い)でさせ給(たま)へる、御車を近くやれば、「便(びん)なきこと。かくなせそ。やりのけよ」と仰(おほ)せられけるを、なにがし丸(まろ)といひし御車副(みくるまぞひ)の、「何事(なにごと)宣(のたま)ふ殿(との)にかあらむ。かくきこし給(たま)へれば、この殿は不運には御座(おは)するぞかし。わざはひや、わざはひや」とて、いたく御車牛(みくるまうし)をうちて、いま少し平張のもと近くこそ、つかうまつり寄せたりけれ。「辛(から)うもこの男(をとこ)にいはれぬるかな」とぞ仰(おほ)せられける。さて、その御車副をば、いみじうらうたくせさせ給(たま)ひ、御かへりみありしは。斯様(かやう)のことにて、この殿たちの御中(なか)いとあしかりき。
女院(にようゐん)は、入道(にふだう)殿(どの)をとりわき奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、いみじう思(おも)ひまうさせ給(たま)へりしかば、帥殿はうとうとしくもてなさせ給(たま)へりけり。帝(みかど)、皇后宮(くわうごうぐう)をねんごろにときめかさせ給(たま)ふゆかりに、帥殿はあけくれ御前(おまへ)に候(さぶら)はせ給(たま)ひて、入道(にふだう)殿(どの)をばさらにも申(まう)さず、女院をもよからず、ことにふれて申(まう)させ給(たま)ふを、おのづから心得(こころえ)やせさせ給(たま)ひけむ、いと本意(ほい)なきことに思(おぼ)し召(め)しける、ことわりなりな。入道(にふだう)殿(どの)の世をしらせ給(たま)はむことを、帝(みかど)いみじうしぶらせ給(たま)ひけり。皇后宮(くわうごうぐう)、父大臣御座(おは)しまさで、世の中をひきかはらせ給(たま)はむことを、いと心ぐるしう思(おぼ)し召(め)して、粟田殿(あはたどの)にも、とみにやは宣旨(せんじ)下させ給(たま)ひし。されど、女院の道理(だうり)のままの御ことを思(おぼ)し召(め)し、また帥殿をばよからず思(おも)ひきこえさせ給(たま)うければ、入道(にふだう)殿(どの)の御ことを、いみじうしぶらせ給(たま)ひけれど、「いかでかくは思(おぼ)し召(め)し仰(おほ)せらるるぞ。大臣越えられたることだに、いといとほしく侍(はべ)りしに、父大臣(おとど)のあながちにし侍(はべ)りしことなれば、いなびさせ給(たま)はずなりにしこそ侍(はべ)れ。粟田(あはた)の大臣(おとど)にはせさせ給(たま)ひて、これにしも侍(はべ)らざらむは、いとほしさよりも、御ためなむ、いと便(びん)なく、世の人もいひなし侍(はべ)らむ」など、いみじう奏(そう)せさせ給(たま)ひければ、むつかしうや思(おぼ)し召(め)しけむ、後(のち)にはわたらせ給(たま)はざりけり。されば、上(うへ)の御局(みつぼね)にのぼらせ給(たま)ひて、「こなたへ」とは申(まう)させ給(たま)はで、我(われ)、夜(よる)の御殿(おとど)に入らせ給(たま)ひて、泣く泣く申(まう)させ給(たま)ふ。その日は、入道(にふだう)殿(どの)は上の御局に候(さぶら)はせ給(たま)ふ。いとひさしく出(い)でさせ給(たま)はねば、御胸つぶれさせ給(たま)ひけるほどに、とばかりありて、戸をおしあけて出(い)でさせ給(たま)ひける、御顔は赤み濡(ぬ)れつやめかせ給(たま)ひながら、御口はこころよく笑(ゑ)ませ給(たま)ひて、「あはや、宣旨下りぬ」とこそ申(まう)させ給(たま)ひけれ。いささかのことだに、この世ならず侍(はべ)るなれば、いはむや、かばかりの御有様(ありさま)は、人の、ともかくも思(おぼ)しおかむによらせ給(たま)ふべきにもあらねども、いかでかは院をおろかに思(おも)ひまうさせ給(たま)はまし。そのなかにも、道理(だうり)すぎてこそは報(はう)じ奉(たてまつ)り仕(つか)うまつらせ給(たま)ひしか。御骨(こつ)をさへこそはかけさせ給(たま)へりしか。
 中(なかの)関白(くわんばく)殿(どの)・粟田殿(あはたどの)うちつづき失(う)せさせ給(たま)ひて、入道(にふだう)殿(どの)に世のうつりしほどは、さも胸つぶれて、きよきよとおぼえ侍(はべ)りしわざかな。いとあがりての世は知(し)り侍(はべ)らず、翁(おきな)物(もの)覚(おぼ)えての後(のち)は、かかること候(さぶら)はぬ物(もの)をや。今の世となりては、一(いち)の人の、貞信公(ていしんこう)・小野宮殿(をののみやどの)をはなち奉(たてまつ)りて、十年と御座(おは)することの、近くは侍(はべ)らねば、この入道(にふだう)殿(どの)もいかがと思(おも)ひまうし侍(はべ)りしに、いとかかる運におされて、御兄たちはとりもあへずほろび給(たま)ひにしにこそ御座(おは)すめれ。それもまた、さるべくあるやうあることを、皆世はかかるなむめりとぞ人々思(おぼ)し召(め)すとて、有様(ありさま)を少しまた申(まう)すべきなり。
  藤原氏物語
世の中の帝(みかど)、神代(かみよ)七代(ななよ)をばさるものにて、神武(じんむ)天皇(てんわう)より始(はじ)め奉(たてまつ)りて、三十七代にあたり給(たま)ふ孝徳(かうとく)天皇(てんわう)の御代(みよ)よりこそは、さまざまの大臣定(さだ)まり給(たま)へなれ。ただしこの御時、中臣鎌子(かまこ)の連(むらじ)と申(まう)して、内大臣になり始(はじ)め給(たま)ふ。その大臣は常陸国にて生れ給(たま)へりければ、三十九代にあたり給(たま)へる帝(みかど)、天智天皇(てんわう)と申(まう)す、その帝(みかど)の御時こそこの鎌足のおとどの御姓(しやう)、藤原(ふぢはら)とあらたまり給(たま)ひたる。されば世の中の藤氏の始(はじ)めには内大臣鎌足のおとどをし奉(たてまつ)る。その末々より多くの帝(みかど)・后・大臣・公卿(くぎやう)さまざまになり出(い)で給(たま)へり。
 ただし、この鎌足のおとどを、この天智天皇(てんわう)いとかしこくときめかし思(おぼ)して、わが女御一人をこの大臣に譲らしめ給(たま)ひつ。その女御ただにもあらず、孕(はら)み給(たま)ひにければ、帝(みかど)の思(おぼ)し召(め)し宣(のたま)ひけるやう、この女御の孕(はら)める子、男ならば臣が子とせむ、女ならば朕が子とせむと思(おぼ)して、かの大臣に仰(おほ)せられけるやう、「男ならば大臣の子とせよ。女ならば朕(わ)が子にせむ」と契らしめ給(たま)へりけるに、この御子、男にて生れ給(たま)へりければ、内大臣の御子とし給(たま)ふ。この大臣は、もとより男一人・女一人をぞ、持ち奉(たてまつ)り給(たま)へりける。この御腹に、さしつづき女二人・男二人生れ給(たま)ひぬ。その姫君、天智天皇(てんわう)の皇子、大友皇子と申(まう)ししが、太政大臣(だいじやうだいじん)の位にて、次にはやがて同じ年のうちに帝(みかど)となり給(たま)ひて、天武天皇(てんわう)と申(まう)しける帝(みかど)の女御(にようご)にて、二所ながらさしつづき御座(おは)しけり。
 大臣(おとど)のもとの太郎君をば、中臣意美麿(おみまろ)とて、宰相(さいしやう)までなり給(たま)へり。天智天皇(てんわう)の御子の孕(はら)まれ給(たま)へりし、右大臣までなり給(たま)ひて、藤原(ふぢはらの)不比等(ふひと)のおとどとて御座(おは)しけり。失(う)せ給(たま)ひて後、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)になり給(たま)へり。鎌足のおとどの三郎は宇合(うまかひ)とぞ申(まう)しける。四郎は麿(まろ)と申(まう)しき。この男君たち、皆宰相ばかりまでぞなり給(たま)へる。かくて鎌足のおとどは、天智天皇(てんわう)の御時、藤原(ふぢはら)の姓賜(たま)はり給(たま)ひし年ぞ、失(う)せさせ給(たま)ひける。内大臣の位にて、二十五年ぞ御座(おは)しましける。太政大臣(だいじやうだいじん)になり給(たま)はねど、藤氏(とうし)の出(い)で始(はじ)めのやむごとなきによりて、失(う)せさせ給(たま)へる後の御いみな、淡海公(たんかいこう)と申(まう)しけり」
 この繁樹(しげき)がいふやう、「大織冠(だいしよくくわん)をば、いかでか淡海公と申(まう)さむ。大織冠は大臣の位にて二十五年、御年五十六にてなむかくれ御座(おは)しましける。ぬしののたぶことも、天の川をかき流すやうに侍(はべ)れど、折々かかる僻事のまじりたる。されども、誰かまた、かうは語らむな。仏在世(ざいせ)の浄名居士(じやうみやうこじ)とおぼえ給(たま)ふ物(もの)かな」といへば、世継がいはく、
「昔、唐国に、孔子(くじ)と申(まう)す物(もの)知(し)り、宣(のたま)ひけるやう侍(はべ)り。
「智者(ちさ)は千のおもひはかり、かならず一つあやまちあり」とあれば、世継、年百歳(ももとせ)に多くあまり、二百歳にたらぬほどにて、かくまでは問(と)はず語り申(まう)すは、昔の人にも劣らざりけるにやあらむ、となむおぼゆる」といへば、繁樹、「しかしか。誠(まこと)に申(まう)すべき方なくこそ興(きよう)あり、おもしろくおぼえ侍(はべ)れ」とて、かつは涙をおしのごひなむ感ずる、誠(まこと)にいひてもあまりにぞおぼゆるや。
《世継》「御子の右大臣不比等(ふひと)のおとど、実は天智天皇(てんわう)の御子なり。されど、鎌足のおとどの二郎になり給(たま)へり。この不比等のおとどの御名より始(はじ)め、なべてならず御座(おは)しましけり。「ならびひとしからず」とつけられ給(たま)へる名にてぞ、この文字は侍(はべ)りける。この不比等のおとどの御男君たち二人ぞ御座(おは)しける。太郎は武智麿(むちまろ)と聞えて、左大臣(さだいじん)までなり給(たま)へり。二郎は房前と申(まう)して、宰相までなり給(たま)へり。この不比等のおとどの御女二人御座(おは)しけり。一所は、聖武天皇(てんわう)の御母后、光明皇后と申(まう)しける。いま一所の御女は、聖武天皇(てんわう)の女御にて、女親王(ひめみこ)をぞうみ奉(たてまつ)り給(たま)へりける。女御子(をんなみこ)を、聖武天皇(てんわう)、女帝(ひめみかど)にすゑ奉(たてまつ)り給(たま)ひてけり。この女帝をば、高野(たかの)の女帝と申(まう)しけり。二度位につかせ給(たま)ひたりける。
 さて、不比等のおとどの男子二人、また御弟二人とを、四家となづけて、皆門わかち給(たま)へりけり。その武智麿をば南家となづけ、二郎房前(ふささき)をば北家となづけ、御はらからの宇合の式部卿(しきぶきやう)をば式家となづけ、その弟の麿をば京家となづけ給(たま)ひて、これを、藤氏の四家とはなづけられたるなりけり。この四家よりあまたのさまざまの国王・大臣・公卿多く出(い)で給(たま)ひて栄え御座(おは)します。しかあれど、北家の末、今に枝ひろごり給(たま)へり。その御つづきを、また一筋(ひとすぢ)に申(まう)すべきなり。絶えにたる方をば申(まう)さじ。人ならぬほどのものどもは、その御末にもや侍(はべ)らむ。
この鎌足のおとどよりの次々、今の関白(くわんばく)殿(どの)まで十三代にやならせ給(たま)ひぬらむ。その次第を聞し召(め)せ。藤氏と申(まう)せば、ただ藤原(ふぢはら)をばさいふなりとぞ、人は思(おぼ)さるらむ。さはあれど、本末知(し)ることは、いとありがたきことなり。
 一、内大臣鎌足のおとど、藤氏の姓賜(たま)はり給(たま)ひての年の十月十六日に失(う)せさせ給(たま)ひぬ、御年五十六。大臣の位にて二十五年。この姓の出(い)でくるを聞(き)きて、紀氏(きのうぢ)の人のいひける、「藤かかりぬる木は枯れぬる物(もの)なり。いまぞ紀氏は失(う)せなむずる」とぞ宣(のたま)ひけるに、誠(まこと)にこそしか侍(はべ)れ。この鎌足のおとどの病づき給(たま)へるに、昔この国に仏法(ぶつぽふ)ひろまらず、僧などたはやすく侍(はべ)らずやありけむ、聖徳太子伝へ給(たま)ふといへども、この頃だに、生れたる児も法華経(ほけきやう)を読むと申(まう)せど、まだ読まぬも侍(はべ)るぞかし、百済(くだらの)国よりわたりたりける尼して、維摩経供養(ゆいまきやうくやう)じ給(たま)へりけるに、御心地ひとたびにおこたりて侍(はべ)りければ、その経をいみじき物(もの)にし給(たま)ひけるままに、維摩会(ゆいまゑ)は侍(はべ)るなり。
 一、鎌足のおとどの二郎、左大臣(さだいじん)正二位不比等、大臣の位にて十三年。贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)にならせ給(たま)へり。元明(げんめい)天皇(てんわう)・元正(げんしやう)天皇(てんわう)の御時二代。
 一、不比等のおとどの二郎、房前、宰相にて二十年。大炊(おほひ)天皇(てんわう)の御時、天平宝字(てんぴやうはうじ)四年庚子八月七日、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)になり給(たま)ふ。元正天皇(てんわう)・聖武天皇(てんわう)二代。
 一、房前のおとどの四男、真楯(またて)の大納言(だいなごん)、称徳天皇(てんわう)の御時、天平神護二年三月十六日、失(う)せ給(たま)ひぬ、御年五十二。贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)。公卿にて七年。
 一、真楯の大納言(だいなごん)の御二郎、右大臣従二位左近大将内麿のおとど、御年五十七。公卿にて二十年、大臣の位にて七年。
贈(ぞう)従一位左大臣(さだいじん)。桓武天皇(てんわう)・平城(へいぜう)天皇(てんわう)二代に会(あ)ひ給(たま)へり。
 一、内麿のおとどの御三郎、冬嗣のおとどは、左大臣(さだいじん)までなり給(たま)へり。贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)。この殿より次、さまざまあかしたればこまかに申(まう)さじ。
鎌足(かまたり)の御代(みよ)より栄えひろごり給(たま)へる、御末々(すゑずゑ)やうやう失(う)せ給(たま)ひて、この冬嗣のほどは無下(むげ)に心ぼそくなり給(たま)へりし。その時は、源氏(げんじ)のみぞ、さまざま大臣・公卿にて御座(おは)せし。それに、この大臣なむ南円堂を建てて、丈六(ぢやうろく)の不空羂索観音(ふくうくゑんじやくくわんおん)を据(す)ゑ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。
さて、やがて不空羂索経一千巻供養(くやう)じ給(たま)へり。今にその経ありつつ、藤氏(とうし)の人々とりて守りにし会(あ)ひ給(たま)へり。その仏経(ぶつきやう)の力にこそ侍(はべ)るめれ、また栄えて、帝(みかど)の御後見(うしろみ)今に絶えず、末々(すゑずゑ)せさせ給(たま)ふめるは。その供養の日ぞかし、こと姓(しやう)の上達部(かんだちめ)あまた、日のうちに失(う)せ給(たま)ひにければ、誠(まこと)にや、人々申(まう)すめり。
一、冬嗣(ふゆつぐ)のおとどの御太郎、長良(ながら)の中納言は、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)。
一、長良のおとどの御三郎、基経(もとつね)のおとどは、太政大臣(だいじやうだいじん)までなり給(たま)へり。
一、基経のおとどの御四郎、忠平(ただひら)のおとどは、太政大臣(だいじやうだいじん)までなり給(たま)へり。
一、忠平のおとどの御二郎、師輔(もろすけ)のおとどは、右大臣までなり給(たま)へり。
一、師輔のおとどの御三郎、兼家(かねいへ)のおとど、太政大臣(だいじやうだいじん)まで。
一、兼家のおとどの御五郎、道長(みちなが)のおとど、太政大臣(だいじやうだいじん)まで。
一、道長のおとどの御太郎、ただいまの関白(くわんばく)左大臣(さだいじん)頼通のおとど、これに御座(おは)します。
 この殿(との)の御子(みこ)の、今まで御座(おは)しまさざりつるこそ、いと不便(ふびん)に侍(はべ)りつるを、この若君(わかぎみ)の生れ給(たま)ひつる、いとかしこきことなり。母は申(まう)さぬことなれど、これはいとやむごとなくさへ御座(おは)するこそ。故(こ)左兵衛督(さひやうゑのかみ)は、人柄こそ、いとしも思(おも)はれ給(たま)はざりしかど、もとの貴人(あてびと)に御座(おは)するに、また、かく世をひびかす御孫(むまご)の出(い)で御座(おは)しましたる、なき後にもいとよし。七夜(しちや)のことは、入道(にふだう)殿(どの)せさせ給(たま)へるに、つかはしける歌、
年を経て待ちつる松の若枝にうれしくあへる春のみどりご W
帝(みかど)・東宮(とうぐう)をはなち奉(たてまつ)りては、これこそ孫(むまご)の長(をさ)とて、やがて御童名(わらはな)を長君(をさぎみ)とつけ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふ。この四家(しけ)の君(きみ)たち、昔も今もあまた御座(おは)しますなかに、道絶えずすぐれ給(たま)へるは、かくなり。
その鎌足(かまたり)のおとど生まれ給(たま)へるは、常陸国(ひたちのくに)なれば、かしこに鹿島(かしま)といふ所に、氏(うじ)の御神を住ましめ奉(たてまつ)り給(たま)ひて、その御代(みよ)より今にいたるまで、あたらしき帝(みかど)・后(きさき)・大臣たち給(たま)ふ折は、幣(みてぐら)の使(つかひ)かならずたつ。帝(みかど)、奈良に御座(おは)しましし時に、鹿島遠しとて、大和国三笠山(やまとのくにみかさやま)にふり奉(たてまつ)りて、春日明神(かすがみやうじん)となづけ奉(たてまつ)りて、今に藤氏(とうし)の御氏神(うぢがみ)にて、公家(おほやけ)、男(をとこ)・女使(をんなづかひ)たてさせ給(たま)ひ、后(きさい)の宮(みや)・氏(うぢ)の大臣(おとど)・公卿、皆、この明神(みやうじん)に仕(つか)うまつり給(たま)ひて、二月(きさらぎ)・十一月(しもつき)上(かみ)の申(さる)の日、御祭にてなむ、さまざまの使たちののしる。帝(みかど)、この京に遷(うつ)らしめ給(たま)ひては、また近くふり奉(たてまつ)りて、大原野(おほはらの)と申(まう)す。
二月の初卯(はつう)の日・霜月の初子(はつね)の日と定(さだ)めて、年(とし)に二度の御祭あり。また同じく公家の使たつ。藤氏(とうし)の殿(との)ばら、皆、この御神に御幣(みてぐら)・十列(とをつら)奉(たてまつ)り給(たま)ふ。なほし近くとて、またふり奉(たてまつ)りて、吉田(よしだ)と申(まう)して御座(おは)しますめり。この吉田の明神(みやうじん)は、山陰(やまかげ)の中納言のふり奉(たてまつ)り給(たま)へるぞかし。御祭の日、四月(うづき)下(しも)の子(ね)・十一月(しもつき)下(しも)の申(さる)の日とを定めて、「わが御族(ぞう)に、帝(みかど)・后(きさい)の宮(みや)たち給(たま)ふ物(もの)ならば、公(おほやけ)祭(まつり)になさむ」と誓(ちか)ひ奉(たてまつ)り給(たま)へれば、一条院の御時より、公祭にはなりたるなり。
また、鎌足のおとどの御氏寺(うぢでら)、大和国多武峯(たむのみね)に造(つく)らしめ給(たま)ひて、そこに御骨を納め奉(たてまつ)りて、今に三昧行ひ奉(たてまつ)り給(たま)ふ。不比等のおとどは、山階寺を建立(こんりふ)せしめ給(たま)へり。それにより、かの寺に藤氏を祈りまうすに、この寺ならびに多武峯・春日・大原野・吉田に、例にたがひ、あやしきこと出(い)できぬれば、御寺の僧・禰宜等(ねぎら)など公家に奏し申(まう)して、その時に、藤氏(とうし)の長者殿占はしめ給(たま)ふに、御慎みあるべきは、年のあたり給(たま)ふ殿ばらたちの御もとに、御物忌(ものいみ)を書きて、一の所より配らしめ給(たま)ふ。おほよそ、かの寺より始(はじ)まりて、年に二三度、会を行はる。正月八日より十四日まで、八省(はつしやう)にて、奈良方の僧を講師(こうじ)とて、御斎会行はしむ。公家より始(はじ)め、藤氏の殿ばら、皆加供し給(たま)ふ。
 また、三月十七日より始(はじ)めて、薬師寺にて最勝会七日、また山階寺にて十月十日より維摩会七日。皆これらのたびに、勅使(ちよくし)下向(げかう)して衾(ふすま)つかはす。藤氏の殿ばらより五位まで奉(たてまつ)り給(たま)ふ。南京(なんきやう)の法師、三会(さんゑ)講師しつれば、已講(いこう)と名づけて、その次第をつくりて、律師、僧綱になる。かかれば、かの御寺、いかめしうやむごとなき所なり。いみじき非道のことも、山階寺にかかりぬれば、またともかくも、人物(もの)いはず、「山階道理(やましなだうり)」とつけて、おきつ。かかれば、藤氏の御有様(ありさま)たぐひなくめでたし。
  同じことの様(やう)なれども、またつづきを申(まう)すべきなり。后(きさい)の宮(みや)の御父・帝(みかど)の御祖父(おほじ)となり給(たま)へるたぐひをこそは、あかし申(まう)さめ」とて、
 「一、内大臣鎌足のおとどの御女二人、やがて皆天武天皇(てんわう)に奉(たてまつ)り給(たま)へりけり。男・女親王(をんなみこ)たち御座(おは)しましけれど、帝(みかど)・春宮(とうぐう)たたせ給(たま)はざめり。
 一、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)不比等のおとどの御女二所、一人の御女は、文武(もんむ)天皇(てんわう)の御時の女御(にようご)、親王(みこ)生れ給(たま)へり。それを聖武天皇(てんわう)と申(まう)す。御母をば光明(こうみやう)皇后と申(まう)しき。いま一人の御女は、やがて御甥(おひ)の聖武天皇(てんわう)に奉(たてまつ)りて、女親王(をんなみこ)うみ奉(たてまつ)り給(たま)へるを、女帝(ひめみかど)にたて奉(たてまつ)り給(たま)へるなり。高野(たかの)の女帝と申(まう)す、これなり。四十六代にあたり給(たま)ふ。それおり給(たま)へるに、また帝(みかど)一人を隔て奉(たてまつ)りて、また四十八代にかへりゐ給(たま)へるなり。母后を贈(ぞう)皇后と申(まう)す。しかれば不比等のおとどの御女、二人ながら后にましますめれど、高野の女帝の御母后は、贈后(ぞうこう)と申(まう)したるにて、御座(おは)しまさぬ世に、后(きさい)の宮(みや)にゐ給(たま)へると見えたり。かるが故に、不比等のおとどは、光明皇后、また贈后(ぞうこう)の父、聖武天皇(てんわう)ならびに高野の女帝の御祖父。或(ある)本(ほん)にまた、「高野の女帝の母后、生(い)き給(たま)へる世に后にたち給(たま)ひて、その御名を光明皇后と申(まう)す」とあり。聖武の御母も、御座(おは)します世に、后となり給(たま)ひて、贈后(ぞうこう)と見え給(たま)はず。
一、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)冬嗣(ふゆつぎ)のおとどは、太皇太后順子(じゆんし)の御父、文徳(もんとく)天皇(てんわう)の御祖父。
一、太政大臣(だいじやうだいじん)良房のおとどは、皇太后宮(くわうたいごうぐう)明子(あきらけいこ)の御父、清和(せいわ)天皇(てんわう)の御祖父。
一、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)長良のおとどは、皇太后高子(たかいこ)の御父、陽成院(やうぜうゐん)の御祖父。
一、贈(ぞう)太政大臣(だいじやうだいじん)総継のおとどは、贈(ぞう)皇太后沢子の御父、光孝天皇(てんわう)の御祖父。
一、内大臣高藤(たかふぢ)のおとどは、皇太后胤子の御父、醍醐(だいご)天皇(てんわう)の御祖父。
一、太政大臣(だいじやうだいじん)基経のおとどは、皇后宮(くわうごうぐう)穏子の御父、朱雀・村上二代の御祖父。
一、右大臣師輔のおとどは、皇后安子の御父、冷泉院ならびに円融院の御祖父。
一、太政大臣(だいじやうだいじん)伊尹(これまさ)のおとどは、贈(ぞう)皇后懐子(くわいし)の御父、花山院の御祖父。
一、太政大臣(だいじやうだいじん)兼家のおとどは、皇太后宮(くわうたいごうぐう)詮子(せんし)、また贈后(ぞうこう)超子(てうし)の御父、一条院・三条院の御祖父。
一、太政大臣(だいじやうだいじん)道長のおとどは、太皇太后宮(たいくわうたいごうぐう)彰子(しやうし)・皇太后宮(くわうたいごうぐう)妍子(けんし)・中宮(ちゆうぐう)威子(ゐし)・東宮(とうぐう)の御息所(みやすどころ)の御父、当代ならびに春宮(とうぐう)の御祖父に御座(おは)します。ここらの御中に、后三人並べすゑて見奉(たてまつ)らせ給(たま)ふことは、入道(にふだう)殿下(でんか)よりほかに聞えさせ給(たま)はざんめり。関白(くわんばく)左大臣(さだいじん)・内大臣・大納言(だいなごん)二人・中納言の御親にて御座(おは)します。さりや、聞し召(め)しあつめよ。日本国には唯一無二(ゆいいつむに)に御座(おは)します。
まづは、造(つく)らしめ給(たま)へる御堂(みだう)などの有様(ありさま)、鎌足のおとどの多武峯(たむのみね)・不比等(ふひと)のおとどの山階寺・基経のおとどの極楽寺(ごくらくじ)・忠平(ただひら)のおとどの法性寺(ほふしやうじ)・九条殿の楞厳院(れうごんゐん)・天(あめ)のみかどの造り給(たま)へる東大寺も、仏ばかりこそは大きに御座(おは)すめれど、なほこの無量寿院(むりやうじゆゐん)には並び給(たま)はず。まして、こと御寺御寺はいふべきならず。大安寺は、兜率天(とそつてん)の一院を天竺(てんぢく)の祇園精舎(ぎをんしやうじや)にうつし造り、天竺の祇園精舎を唐(もろこし)の西明寺にうつし造り、唐(もろこし)の西明寺(さいみやうじ)の一院を、この国の帝(みかど)は、大安寺にうつさしめ給(たま)へるなり。しかあれども、ただいまはなほこの無量寿院まさり給(たま)へり。南京のそこばくの多かる寺ども、なほあたり給(たま)ふなし。恒徳公(こうとくこう)の法住寺(ほふぢゆうじ)いと猛(まう)なれど、なほこの無量寿院すぐれ給(たま)へり。難波(なには)の天王寺(てんわうじ)など、聖徳太子の御心に入れ造り給(たま)へれど、なほこの無量寿院まさり給(たま)へり。奈良は七大寺・十五大寺など見くらぶるに、なほこの無量寿院いとめでたく、極楽浄土(ごくらくじやうど)のこの世にあらはれけると見えたり。かるが故に、この無量寿院も、思(おも)ふに、思(おぼ)し召(め)し願(ぐわん)ずること侍(はべ)りけむ。浄妙寺は、東三条(とうさんでう)の大臣の、大臣になり給(たま)ひて、御慶(よろこ)びに木幡(こはた)に参(まゐ)り給(たま)へりし御供に、入道(にふだう)殿(どの)具し奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて御覧(ごらん)ずるに、多くの先祖の御骨(こつ)御座(おは)するに、鐘の声聞(き)き給(たま)はぬ、いと憂きことなり、わが身思(おも)ふさまになりたらば、三昧堂(さんまいだう)建てむと、御心のうちに思(おぼ)し召(め)し企(くはだ)てたりける、とこそ承(うけたまは)れ。
 昔も、かかりけること多く侍(はべ)りけるなかに、極楽寺(ごくらくじ)・法性寺(ほふしやうじ)ぞいみじく侍(はべ)るや。御年なんどもおとなびさせ給(たま)はぬにだにも思(おぼ)し召(め)しよるらむほど、なべてならずおぼえ侍(はべ)るに、いづれの御時とはたしかにえ聞(き)き侍(はべ)らず、ただ深草(ふかくさ)の御ほどにやなどぞ思(おも)ひやり侍(はべ)る。芹河(せりかは)の行幸(みゆき)せしめ給(たま)ひけるに、昭宣公童殿上(せうせんこうわらはてんじやう)にて仕(つか)うまつらせ給(たま)へりけるに、帝(みかど)、琴(きん)をあそばしける。この琴弾(ひ)く人は、別(べち)の爪(つめ)つくりて、指にさし入れてぞ、弾くことにて侍(はべ)りし。さて持たせ給(たま)ひたりけるを、落し御座(おは)しまして、大事に思(おぼ)し召(め)しけれど、またつくらせ給(たま)ふべきやうもなかりければ、さるべきにてぞ思(おぼ)し召(め)しよりけむ、おとなしき人々にも仰(おほ)せられずて、幼く御座(おは)します君にしも、「求めて参(まゐ)れ」と仰(おほ)せられければ、御馬をうち返して御座(おは)しましけれど、いづくをはかりともいかでかは尋ねさせ給(たま)はむ。見つけて参(まゐ)らせざらむことのいといみじく思(おぼ)し召(め)しければ、これ求め出(い)でたらむ所には一伽藍(がらん)を建てむと、願(ぐわん)じ思(おぼ)して、求め給(たま)ひけるに、出(い)できたる所ぞかし、極楽寺は。幼き御心(みこころ)に、いかでか思(おぼ)し召(め)しよらせ給(たま)ひけむ。さるべきにて御爪も落ち、幼く御座(おは)します人にも仰(おほ)せられけるにこそは侍(はべ)りけめ。
 さて、やむごとなくならせ給(たま)ひて、御堂(みだう)建てさせに御座(おは)します御車(みくるま)に、貞信公(ていしんこう)はいと小さくて具(ぐ)し奉(たてまつ)り給(たま)へりけるに、法性寺の前わたり給(たま)ふとて、「父こそ。こここそ、よき堂所(だうどころ)なむめれ。ここに建てさせ給(たま)へかし」と聞えさせ給(たま)ひけるに、いかに見てかくいふらむと思(おぼ)して、さし出(い)でて御覧(ごらん)ずれば、誠(まこと)にいとよく見えければ、幼き目にいかでかく見つらむ、さるべきにこそあらめと、思(おぼ)し召(め)して、「げにいとよき所なめり。汝(まし)が堂を建てよ。われはしかじかのことのありしかば、そこに建てむずるぞ」と申(まう)させ給(たま)ひける。さて法性寺は建てさせ給(たま)ひしなり」。
《繁樹》「また、九条殿(くでうどの)の飯室(いひむろ)のことなどはいかにぞ。横川(よかは)の大僧正(だいそうじやう)、御房(ごばう)にのぼらせ給(たま)ひし御供には、繁樹参(まゐ)りて侍(はべ)りき」
《世継》「斯様(かやう)のことども聞(き)き見給(たま)ふれど、なほ、この入道(にふだう)殿(どの)、世にすぐれ抜け出(い)でさせ給(たま)へり。天地にうけられさせ給(たま)へるは、この殿こそは御座(おは)しませ。何事も行はせ給(たま)ふ折に、いみじき大風吹き、長雨(ながあめ)降れども、まづ二三日かねて、空晴れ、土乾(かわ)くめり。かかれば、あるいは聖徳太子の生れ給(たま)へると申(まう)し、あるいは弘法大師(こうぼふだいし)の仏法(ぶつぽふ)興隆(こうりゆう)のために生れ給(たま)へるとも申(まう)すめり。げにそれは、翁らがさがな目にも、ただ人とは見えさせ給(たま)はざめり。なほ権者(ごんじや)にこそ御座(おは)しますべかめれとなむ、仰(あふ)ぎ見奉(たてまつ)る。
かかれば、この御世(みよ)の楽しきことかぎりなし。そのゆゑは、昔は、殿ばら・宮(みや)ばらの馬飼(うまかひ)・牛飼(うしかひ)、なにの御霊会・祭の料とて、銭・紙・米など乞ひののしりて、野山の草をだにやは刈らせし。仕丁(じちやう)・おものもち出(い)できて、人の物(もの)取り奪ふこと絶えにたり。また、里の刀禰(とね)・村の行事(ぎやうじ)出(い)できて、火祭やなにやと煩(わづら)はしく責めしこと、今は聞えず。かばかり安穏泰平(あんをんたいへい)なる時には会(あ)ひなむやと思(おも)ふは。翁らがいやしき宿りも、帯(おび)・紐(ひも)を解(と)き、門(かど)をだに鎖(さ)さで、安らかに偃(のいふ)したれば、年も若え、命も延びたるぞかし。まづは、北野(きたの)・賀茂河原(かもがはら)に作りたる、まめ・ささげ・うり・なすびといふ物(もの)、この中頃は、さらに術(ずち)なかりし物(もの)をや。この年頃は、いとこそたのしけれ。人の取らぬをばさるものにて、馬・牛だにぞ食(は)まぬ。されば、ただまかせ捨てつつ置きたるぞかし。かくたのしき弥勒(みろく)の世にこそ会(あ)ひて侍(はべ)れや」といふめれば、いま一人(ひとり)の翁、
《繁樹》「ただいまは、この御堂の夫(ぶ)を頻(しきり)に召(め)すことこそは、人は堪(た)へがたげに申(まう)すめれ。それはさは聞(き)き給(たま)はぬか」
といふめれば、世継、
 「しかしか、そのことぞある。二三日(ふつかみか)まぜに召(め)すぞかし。されどそれ、参(まゐ)るにあしからず。ゆゑは、極楽浄土のあらたにあらはれ出(い)で給(たま)ふべきために召(め)すなり、と思(おも)ひ侍(はべ)れば、いかで、力堪へば、参(まゐ)りて仕うまつらむ。ゆく末に、この御堂の草木となりにしかなとこそ思(おも)ひ侍(はべ)れ。されば、物(もの)の心知(し)りたらむ人は、望みても参(まゐ)るべきなり。されば、翁ら、またあらじ、一度欠(か)かず奉(たてまつ)り侍(はべ)るなり。さて参(まゐ)りたれば、あしきことやはある。飯・酒しげく賜(た)び、持ちて参(まゐ)る果物をさへ恵み賜(た)び、つねに仕うまつるものは、衣裳をさへこそ宛(あ)て行はしめ給(たま)へ。されば、参(まゐ)る下人も、いみじういそがしがりてぞ、すすみつどふめる」といへば、
《繁樹》「しか、それさることに侍(はべ)り。ただし翁らが思(おも)ひ得て侍(はべ)るやうは、いとたのもしきなり。翁いまだ世に侍(はべ)るに、衣裳破(や)れ、むつかしき目見侍(はべ)らず。また、飯(いひ)・酒(さけ)乏(とも)しき目見侍(はべ)らず。もしこのことどもの術なからむ時は、紙三枚をぞ求むべき。ゆゑは、入道(にふだう)殿下(でんか)の御前に申文(まうしぶみ)を奉(たてまつ)るべきなり。その文に作るべきやうは、「翁、故(こ)太政大臣(だいじやうだいじん)貞信公殿下の御時の小舎人童(こどねりわらは)なり。それ多くの年積りて、術なくなりて侍(はべ)り。閤下の君、末の家の子に御座(おは)しませば、同じ君と頼み仰(あふ)ぎ奉(たてまつ)る。物(もの)少し恵み賜(たま)はらむ」と申(まう)さむには、少々の物(もの)は賜(た)ばじやはと思(おも)へば、それは案の物(もの)にて、倉に置きたるごとくになむ思(おも)ひ侍(はべ)る」といへば、世継、「それはげにさることなり。家貧しくならむ折は御寺に申文を奉(たてまつ)らしめむとなむ、卑しきわらはべとうち語らひ侍(はべ)る」と、同じ心にいひかはす。
 世継、「さてもさても、うれしう対面(たいめ)したるかな。年頃の袋の口あけ、綻びを裁ち侍(はべ)りぬること。さても、このののしる無量寿院には、いくたび参(まゐ)りて拝み奉(たてまつ)り給(たま)ひつ」といへば、
《繁樹》「おのれは大御堂の供養の年の会の日は、人いみじう払ふべかなりと聞(き)きしかば、試楽(しがく)といふこと、三日かねてせしめ給(たま)ひしになむ、参(まゐ)りて侍(はべ)りし」といへば、世継、「おのれば、たびたび参(まゐ)り侍(はべ)り。供養の日の有様(ありさま)のめでたさは、さらにもあらずや。またの日、今日は御仏(みほとけ)など近うて拝み奉(たてまつ)らむ、物(もの)ども取りおかれぬ先(さき)にと思(おも)ひて、参(まゐ)りて侍(はべ)りしに、宮たちの諸堂拝み奉(たてまつ)らせ給(たま)ひし、見まうし侍(はべ)りしこそ、かかることにあはむとて、今まで生(い)きたるなりけりとおぼえ侍(はべ)りしか。物(もの)覚(おぼ)えて後、さることをこそまだ見侍(はべ)らね。御輦車(てぐるま)に四所奉(たてまつ)りたりしぞかし。口に大宮・皇太后宮(くわうたいごうぐう)、御袖ばかりをいささかさし出(い)ださせ給(たま)ひて侍(はべ)りしに、枇杷(びは)殿(どの)の宮の御ぐしの、地(つち)にいと長く引かれさせ給(たま)ひて、出(い)でさせ給(たま)へりしは、いとめづらかなりしことかな。しりの方には、中宮・督(かん)の殿奉(たてまつ)りて、ただ御身ばかり御車に御座(おは)しますやうにて、御衣(おんぞ)どもは皆ながら出(い)でて、それも地(つち)までこそ引かれ侍(はべ)りしか。一品(いつぽん)の宮(みや)も中に奉(たてまつ)りたりけるにや、御衣どもは、なにがしぬしの持ちたうび、御車のしりにぞ候(さぶら)はれし。単の御衣ばかりを奉(たてまつ)りて御座(おは)しましけるなめり。御車には、まうちぎみたち引かれて、しりには関白(くわんばく)殿を始(はじ)め奉(たてまつ)り、殿ばら、さらぬ上達部(かんだちめ)・殿上人(てんじやうびと)、御直衣(なほし)にて歩みつづかせ給(たま)へりし、いで、あないみじや。
 中宮(ちゆうぐうの)権大夫殿のみぞ、堅固(けんご)の御物忌(ものいみ)にて参(まゐ)らせ給(たま)はざりし。さていみじく口惜(くちを)しがらせ給(たま)ひける。中宮の御装束(さうぞく)は、権大夫殿せさせ給(たま)へりし、いと清らにてこそ見え侍(はべ)りしか。
「供養の日、啓すべきことありて、御座(おは)します所に参(まゐ)りて、五所居並ばせ給(たま)へりしを見奉(たてまつ)りしかば、中宮(ちゆうぐう)の御衣の優に見えしはわがしたればにや」とこそ、大夫殿仰(おほ)せられけれ。かく口ばかりさかしだち侍(はべ)れど、下臈(げらふ)のつたなきことは、いづれの御衣も、ほど経ぬれば、色どものつぶと忘れ侍(はべ)りにけるよ。ことにめでたくせさせ給(たま)へりければにや、下は紅薄物(うすもの)の御単衣重(ひとえがさね)にや、御表着よくも覚(おぼ)え侍(はべ)らず。萩(はぎ)の織物(おりもの)の三重襲(みへがさね)の御唐衣に、秋の野を縫物にし、絵にもかかれたるにやとぞ、目もとどろきて見給(たま)へし。
 こと宮々のも、殿ばらの調(てう)じて奉(たてまつ)らせ給(たま)へりけるとぞ、人申(まう)しし。大宮は、二重織物折り重ねられて侍(はべ)りし。皇太后宮(くわうたいごうぐう)は、そうじて唐装束(からさうぞく)。督(かん)の殿のは、殿こそせさせ給(たま)へりしか。こと御方々のも、絵かきなどせられたり、と聞(き)かせ給(たま)て、にはかに薄押(はくお)しなどせられたりければ、入道(にふだう)殿(どの)、御覧じて、「よき呪師(じゆし)の装束かな」とて、笑ひまうさせ給(たま)ひけり。
 殿は、まづ御堂御堂あけつつ待ちまうさせ給(たま)ふ。南大門(なんだいもん)のほどにて見まししだに、笑(ゑ)ましくおぼえ侍(はべ)りしに、御堂(みだう)の渡殿の物(もの)のはさまより、一品(いつぽん)の宮の弁(べん)の乳母(めのと)、いま一人は、それも一品(いつぽん)の宮の大輔(たいふ)の乳母・中将(ちゆうじやう)の乳母とかや、三人とぞ承(うけたまは)りし、御車よりおりさせ給(たま)ひて、ゐざりつづかせ給(たま)へるを見奉(たてまつ)りたるぞかし。
 おそろしさにわななかれしかど、今日、さばかりのことはありなむやと思(おも)ひて、見参(まゐ)らするに、などてかはとは申(まう)しながら、いづれと聞えさすべきにもなく、とりどりにめでたく御座(おは)しまさふ。大宮、御ぐし御衣の裾(すそ)にあまらせ給(たま)へり。中宮(ちゆうぐう)は、たけに少しあまらせ給(たま)へり。皇太后宮(くわうたいごうぐう)は、御衣に一尺ばかりあまらせ給(たま)へる御裾、扇のやうにぞ。督の殿、御たけに七八寸あまらせ給(たま)へり。御扇少しのけてさし隠させ給(たま)ひける。一品(いつぽん)の宮は、殿の御前、「なにか居させ給(たま)ふ。立たせ給(たま)へ」とて、長押(なげし)おりのぼらせ給(たま)ふ御手をとらへつつ、助けまうさせ給(たま)ふ。あまりなることは、目ももどろく心地なむし給(たま)ひける。あらはならずひきふたぎなど、つくろはせ給(たま)ひけるほどに、御覧じつけられたる物(もの)かは。「あないみじ。宮仕(みやづか)へに宿世(すくせ)の尽くる日なりけり」と、生ける心地もせで、三人ながら候(さぶら)ひ給(たま)ひけるほどに、「宮たち見奉(たてまつ)りつるか。いかが御座(おは)しましつる。この老法師(おいほふし)の女(むすめ)たちには、けしうはあらず御座(おは)しまさふな。なあなづられそよ」と、うち笑みて仰(おほ)せられかけて、いたうもふたがせ給(たま)はで御座(おは)しましたりしなむ、生(い)き出(い)でたる心地して、うれしなどはいふべきやうもなく、かたみに見れば、顔はそこら化粧(けさう)じたりつれど、草の葉の色のやうにて、また赤くなりなど、さまざま汗水(あせみづ)になりて見かはしたり。「さらぬ人だに、あざれたるもの覗きは、いと便なきことにするを、せめてめでたう思(おぼ)し召(め)しければ、御よろこびに堪(た)へで、さはれと思(おぼ)し召(め)しつるにこそと思(おも)ひなすも、心驕(こころおご)りなむする」と、宣(のたま)ひいまさうじける。
 斯様(かやう)のことどもを見給(たま)ふるままには、いとどもこの世の栄花の御栄えのみおぼえて、染着(せんぢやく)の心のいとどますますにおこりつつ、道心(だうしん)つくべくも侍(はべ)らぬに、河内国(かはちのくに)そこそこに住むなにがしの聖人(しやうにん)は、庵(いほり)より出づることもせられねど、後世の責めを思(おも)へばとて、のぼり参(まゐ)られたりけるに、関白(くわんばく)殿参(まゐ)らせ給(たま)ひて、雑人(ざふにん)どもを払ひののしるに、これこそは一の人に御座(おは)すめれと見奉(たてまつ)るに、入道(にふだう)殿(どの)の御前に居させ給(たま)へば、なほまさらせ給(たま)ふなりけりと見奉(たてまつ)るほどに、また行幸なりて、乱声(らんじやう)し、待ちうけ奉(たてまつ)らせ給(たま)ふさま、御輿(みこし)の入らせ給(たま)ふほどなど、見奉(たてまつ)りつる殿たちの、かしこまりまうさせ給(たま)へば、なほ国王こそ日本第一のことなりけれと思(おも)ふに、おり御座(おは)しまして、阿弥陀堂(あみだだう)の中尊(ちゆうそん)の御前につい居(ゐ)させ給(たま)ひて、拝(をが)みまうさせ給(たま)ひしに、「なほなほ仏こそ上なく御座(おは)しましけれと、この会(ゑ)の庭にかしこう結縁(けちえん)しまうして、道心なむいとど熟し侍(はべ)りぬる」とこそ申(まう)され侍(はべ)りしか。かたはらに居られたりしなりや、まこと、忘れ侍(はべ)りにけり。
 世の中の人の申(まう)すやう、「大宮(おほみや)の入道(にふだう)せしめ給(たま)ひて、太上(だいじやう)天皇(てんわう)の御位にならせ給(たま)ひて、女院(にようゐん)となむ申(まう)すべき。この御寺(みてら)に戒壇(かいだん)たてられて、御受戒あるべかなれば、世の中の尼(あま)ども参(まゐ)りて受くべかむなり」とて、よろこびをこそすなれ。この世継(よつぎ)が女(をんな)ども、かかることを伝へ聞(き)きて、申(まう)すやう、「おのれを、その折にだに、白髪(しらが)の裾(すそ)そぎてむとなむ。なにか制(せい)する」と語らひ侍(はべ)れば、「なにせむにか制せむ。ただし、さらむ後(のち)には、若からむ女(め)のわらはべ求めて得さすばかりぞ」といひ侍(はべ)れば、「わが姪(めひ)なる女(をんな)一人あり。それを今よりいひ語らはむ。いとさし離れたらむも、情(なさけ)なきこともぞある」と申(まう)せば、「それあるまじきことなり。近くも遠くも、身のためにおろかならむ人を、いまさらに寄すべきかは」となむ語らひ侍(はべ)る。やうやう裳(も)・袈裟(けさ)などのまうけに、よき絹(きぬ)一二疋(ひき)求めまうけ侍(はべ)る」
などいひて、さすがにいかにぞや、物(もの)あはれげなるけしきの出(い)できたるは、女(をんな)どもにそむかれむことの心ぼそきにやとぞ見え侍(はべ)りし。
《世継》「さて、今年こそ天変(てんぺん)頻(しきり)にし、世の妖言(えうげん)などよからず聞(きこ)え侍(はべ)るめれ。督(かん)の殿(との)のかく懐妊(くわいにん)せしめ給(たま)ふ、院の女御殿の常の御悩(なやみ)のなかにも、今年となりては、ひまなく御座(おは)しますなるなどこそ、おそろしう承(うけたまは)れ。いでや、かうやうのことをうちつづけ申(まう)せば、昔のことこそただいまのやうにおぼえ侍(はべ)れ」
見かはして、繁樹(しげき)がいふやう、
「いであはれ、」かくさまざまにめでたきことども、あはれにもそこら多く見聞(き)き侍(はべ)れど、なほ、わが宝(たから)の君(きみ)に後(おく)れ奉(たてまつ)りたりしやうに、物(もの)のかなしく思う給(たま)へらるる折こそ侍(はべ)らね。八月十日あまりのことに候(さぶら)ひしかば、折さへこそあはれに、「時しもあれ」とおぼえ侍(はべ)りし物(もの)かな」とて、鼻たびたびかみて、えもいひやらず、いみじと思(おも)ひたるさま、誠(まこと)にその折もかくこそと見えたり。
「一日(ひとひ)片時(かたとき)生(い)きて世にめぐらふべき心地(ここち)もし侍(はべ)らざりしかど、かくまで候(さぶら)ふは、いよいよひろごり栄え御座(おは)しますを見奉(たてまつ)り、よろこびまうさせむとに侍(はべ)めり。さて、またの年五月二十四日こそは、冷泉院(れいぜいゐん)は誕生せしめ給(たま)へりしか。それにつけていとこそ口惜(くちを)しく、折のうれしさは、はかりも御座(おは)しまさざりしか」
などいへば、世継も、
「しか、しか」とこころよく思(おも)へるさまおろかならず。
《世継》「朱雀院(すざくゐん)・村上などのうちつづき生れ御座(おは)しまししは、またいかが」などいふほど、あまりに恐ろしくぞ。
 また、「世継が思(おも)ふことこそ侍(はべ)れ。便(びん)なきことなれど、明日とも知(し)らぬ身にて侍(はべ)れば、ただ申(まう)してむ。この一品(いつぽん)の宮(みや)の御有様(ありさま)のゆかしくおぼえさせ給(たま)ふにこそ、また命惜しく侍(はべ)れ。そのゆゑは、生れ御座(おは)しまさむとて、いとかしこき夢想(むさう)見給(たま)へしなり。さおぼえ侍(はべ)りしことは、故(こ)女院(にようゐん)・この大宮(おほみや)など孕(はら)まれさせ給(たま)はむとて見えし、ただ同じさまなる夢に侍(はべ)りしなり。それにて、よろづおしはかられさせ給(たま)ふ御有様(ありさま)なり。皇太后宮(くわうたいごうぐう)にいかで啓(けい)せしめむと思(おも)ひ侍(はべ)れど、その宮の辺(ほとり)の人に、え会(あ)ひ侍(はべ)らぬが口惜(くちを)しさに、ここら集り給(たま)へる中(なか)に、もし御座(おは)しましやすらむと思う給(たま)へて、かつはかく申(まう)し侍(はべ)るぞ。ゆく末にも、よくいひける物(もの)かなと、思(おぼ)しあはすることも侍(はべ)りなむ」といひし折こそ、
《記者》「ここにあり」とて、さし出(い)でまほしかりしか。
拾遺 〔一 太政大臣(だいじやうだいじん)道長(下)雑々物語(くさぐさものがたり)〕
 いといとあさましくめづらかに、尽(つ)きもせず、二人語らひしに、この侍(さぶらひ)、「いといと興(きよう)あることをも承(うけたまは)るかな。さても、物(もの)の覚(おぼ)え始(はじ)めは何事(なにごと)ぞや。それこそ、まづ聞(き)かまほしけれ。語られよ」といへば、世継(よつぎ)、「六七歳より見聞(き)き侍(はべ)りしことは、いとよく覚(おぼ)え侍(はべ)れど、そのこととなきは、証(そう)のなければ、用ゐる人も候(さぶら)はじ。九つに侍(はべ)りし時の大事(だいじ)を申(まう)し侍(はべ)らむ。
 小松(こまつ)の帝(みかど)の、親王(みこ)にて御座(おは)しましし時の御所(ごしよ)は、皆人知(し)りて侍(はべ)り。おのが親の候(さぶら)ひし所、大炊御門(おほひのみかど)よりは北、町尻(まちじり)よりは西にぞ侍(はべ)りし。されば、宮の傍(かたはら)にて、つねに参(まゐ)りて遊び侍(はべ)りしかば、いと閑散(かんさん)にてこそ御座(おは)しまししか。二月(きさらぎ)の三日、初午(はつうま)といへど、甲午(きのえうま)の最吉日(さいきちにち)、常(つね)よりも世こぞりて、稲荷詣(いなりまうで)にののしりしかば、父の詣で侍(はべ)りし供にしたひ参(まゐ)りて、さは申(まう)せど、幼きほどにて、坂のこはきを登り侍(はべ)りしかば、困(こう)じて、えその日のうちに還向(げかう)つかまつらざりしかば、父がやがて、その御社の禰宜大夫(ねぎのたいふ)が後見(うしろみ)つかうまつりて、いとうるさくて候(さぶら)ひし宿(やど)りにまかりて、一夜は宿りして、またの日帰り侍(はべ)りしに、東洞院(ひがしのとうゐん)よりのぼりにまかるに、大炊御門(おほひのみかど)より西ざまに、人々のさざと走れば、あやしくて見候(さぶら)ひしかば、わが家のほどにしも、いと暗うなるまで人立ちこみて見ゆるに、いとどおどろかれて、焼亡(せうまう)かと思(おも)ひて、上を見あぐれば、煙(けぶり)も立たず。さは、大きなる追捕(ついぶ)かなど、かたがたに心もなきまでまどひまかりしかば、小野宮(をののみや)のほどにて、上達部の御車や、鞍(くら)置きたる馬ども、冠(かうぶり)・表(うへ)の衣(きぬ)着たる人々などの見え侍(はべ)りしに、心得ずあやしくて、「何事ぞ、何事ぞ」と、人ごとに問(と)ひ候(さぶら)ひしかば、「式部卿(しきぶきやう)の宮、帝(みかど)にゐさせ給(たま)ふとて、大殿(おほとの)を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、皆人参(まゐ)り給(たま)ふなり」とて、急ぎまかりしなどぞ、物(もの)覚(おぼ)えたることにて見給(たま)へし。
 また、七つばかりにや、元慶(ぐわんぎやう)二年ばかりにや侍(はべ)りけむ、式部卿(しきぶきやう)の宮の侍従と申(まう)ししぞ、寛平(くわんびやう)の天皇(てんわう)、つねに狩を好ませ御座(おは)しまして、十一月(しもつき)の二十余日(はつかあまり)のほどにや、鷹狩(たかがり)に、式部卿(しきぶきやう)の宮より出(い)で御座(おは)しましし御供に走り参(まゐ)りて侍(はべ)りし。賀茂(かも)の堤(つつみ)のそこそこなる所に、侍従殿、鷹使はせ給(たま)ひて、いみじう興(きよう)に入らせ給(たま)へるほどに、俄(にはか)に霧たち、世間(せけん)もかい暗がりて侍(はべ)りしに、東西(ひんがしにし)もおぼえず、暮(くれ)の往(い)ぬるにやとおぼえて、藪(やぶ)の中(なか)に倒(たふ)れ伏(ふ)して、わななきまどひ候(さぶら)ふほど、時中(ときなか)や侍(はべ)りけむ。後(のち)に承(うけたまは)れば、賀茂(かも)の明神(みやうじん)のあらはれ御座(おは)しまして、侍従殿に物(もの)申(まう)させ御座(おは)しますほどなりけり。そのことは、皆世に申(まう)しおかれて侍(はべ)るなればなかなか申(まう)さじ。知ろしめしたらむ、あはそかに申(まう)すべきに侍(はべ)らず。
 さて後(のち)六年ばかりありてや、賀茂(かも)の臨時(りんじ)の祭始(はじ)まり侍(はべ)りけむ。位につかせ御座(おは)しましし年とぞ覚(おぼ)え侍(はべ)る。その日、酉の日にて侍(はべ)れば、やがて霜月(しもつき)の果(は)ての酉の日にては侍(はべ)るぞ。
始(はじ)めたる東遊(あづまあそび)の歌、敏行(としゆき)の中将(ちゆうじやう)ぞかし。
  ちはやぶる賀茂(かも)の社(やしろ)の姫小松(ひめこまつ)よろづ代までも色はかはらじ W
古今(こきん)に入りて侍(はべ)り。皆人知ろしめしたることなれど、いみじうよみ給(たま)へるぬしかな。今に絶えずひろごらせ給(たま)へる御末とか。帝(みかど)と申(まう)せど、かくしもやは御座(おは)します。
八幡(やはた)の臨時の祭、朱雀院(すざくゐん)の御時よりぞかし。朱雀院(すざくゐん)生れさせ給(たま)ひて三年は、御座(おは)します殿の御格子(みかうし)も参(まゐ)らず、夜昼(よるひる)火をともして、御帳(みちやう)のうちにておほしたてたて参(まゐ)らせ給(たま)ふ、北野に怖(お)ぢまうさせ給(たま)ひて。天暦(てんりやく)の帝(みかど)は、いとさも守り奉(たてまつ)らせ給(たま)はず。いみじき折節(おりふし)に生れ御座(おは)しましたりしぞかし。朱雀院(すざくゐん)生れ御座(おは)しまさずは、藤氏の御栄え、いとかくしも侍(はべ)らざらまし。さて位につかせ給(たま)ひて、将門(まさかど)が乱(みだれ)出(い)できて、その御願にてとぞ承(うけたまは)りし。その東遊(あづまあそび)の歌、貫之(つらゆき)のぬしぞかし。
  松もおひまたも苔(こけ)むす石清水(いはしみづ)ゆく末とほくつかへまつらむ W
集(しふ)にも書きて侍(はべ)るぞかし」といへば、繁樹、
「この翁も、あのぬしの申(まう)されつるがごとく、くだくだしきことは申(まう)さじ。同じことの様(やう)なれど、寛平・延喜(えんぎ)などの御譲位のほどのことなどは、いとかしこく忘れず覚(おぼ)え侍(はべ)るをや。伊勢(いせ)の君の、弘徴殿(こきでん)の壁に書きつけたうべりし歌こそは、そのかみに、あはれなることと人申(まう)ししか。
  別るれど会(あ)ひも思(おも)はぬももしきを見ざらむことやなにかかなしき W
 法皇(ほふわう)の御返し、
  身ひとつのあらぬばかりをおしなべてゆきかへりてもなどか見ざらむ W」といへば、かたはらなる人、
「法皇の書かせ給(たま)へりけるを、延喜(えんぎ)の、後に御覧じつけて、かたはらに書きつけさせ給(たま)へるとも承(うけたまは)るは、いづれかまことならむ」。
《繁樹》「同じ帝(みかど)と申(まう)せど、その御時に生れ会(あ)ひて候(さぶら)ひけるは、あやしの民(たみ)の竃(かまど)まで、やむごとなくこそ。大小寒(だいせうかん)のころほひ、いみじう雪降り、冴えたる夜は、「諸国の民百姓いかに寒からむ」とて、御衣(おんぞ)をこそ、夜の御殿より投げ出(いだ)し御座(おは)しましければ、おのれまでも、恵みあはれびられ奉(たてまつ)りて侍(はべ)る身と、面立(おもだ)たしくこそは。
 されば、その世に見給(たま)へしことは、なほ末までもいみじきことと覚(おぼ)え侍(はべ)るぞ。人々聞し召(め)せ。この座にて申(まう)すは、はばかりあることなれど、かつは、若く候(さぶら)ひしほど、いみじと身にしみて思う給(たま)へし罪も、今に失(う)せ侍(はべ)らじ。今日この伽藍(がらん)にて、懺悔(さんげ)つかうまつりてむとなり。
 六条(ろくでう)の式部卿(しきぶきやう)の宮と申(まう)ししは、延喜(えんぎ)の帝(みかど)の一つ腹(ばら)の御はら
からに御座(おは)します。野の行幸(みゆき)せさせ給(たま)ひしに、この宮供奉(ぐぶ)せしめ給(たま)へりけれど、京のほど遅参(ちさん)せさせ給(たま)ひて、桂(かつら)の里にぞ参(まゐ)りあはせ給(たま)へりしかば、御輿とどめて、先立て奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしに、なにがしといひし犬飼(いぬかひ)の、大の前足を二つながら肩に引き越して、深き河の瀬渡りしこそ、行幸に仕うまつり給(たま)へる人々、さながら興(きよう)じ給(たま)はぬなく、帝(みかど)も、労ありげに思(おぼ)し召(め)したる御けしきにてこそ、見え御座(おは)しまししか。
 さて山口(やまぐち)入らせ給(たま)ひしほどに、しらせうといひし御鷹の、鳥をとりながら、御輿の鳳(ほう)の上に飛び参(まゐ)りて居て候(さぶら)ひし、やうやう日は山の端に入りがたに、光のいみじうさして、山の紅葉(もみぢ)、錦(にしき)をはりたるやうに、鷹の色はいと白く、雉(きじ)は紺青(こんじやう)のやうにて、羽うちひろげて居て候(さぶら)ひしほどは、誠(まこと)に雪少しうち散りて、折節とり集めて、さることやは候(さぶら)ひしとよ。身にしむばかり思う給(たま)へしかば、いかに罪得侍(はべ)りけむ」とて、弾指(だんし)はたはたとす。
《繁樹》「おほかた、延喜(えんぎ)の帝(みかど)、つねに笑みてぞ御座(おは)しましける。そのゆゑは、「まめだちたる人には、物(もの)いひにくし。うちとけたるけしきにつきてなむ、人は物(もの)はいひよき。されば、大小こと聞(き)かむがためなり」とぞ仰(おほ)せ言ありける。それさることなり。けにくき顔には、物(もの)いひふれにくき物(もの)なり。
 さて、「われいかで、七月(ふづき).九月(ながつき)に死にせじ。相撲(すまひ)の節(せち)・九日(ここぬか)の節のとまらむが口惜(くちを)しきに」と仰(おほ)せられけれど、九月に失(う)せさせ給(たま)ひて、九日の節はそれよりとどまりたるなり。その日、左衛門(さゑもん)の陣(ぢん)の前にて御鷹ども放(はな)たれしは、あはれなりし物(もの)かな。とみにこそ飛び退かざりしか。
 公忠(きんただ)の弁(べん)をば、おほかたの世にとりても、やむごとなき物(もの)に思(おぼ)し召(め)したりし中にも、鷹のかたざまには、いみじう興(きよう)ぜさせ給(たま)ひしなり。日々に政(まつりごと)を勤(つと)め給(たま)ひて、馬をいづこにぞや立て給(たま)うて、こと果つるままにこそ、中山へはいませしか。官(くわん)のつかさの弁の曹司(ざうし)の壁には、その殿の鷹の物(もの)はいまだ付きて侍(はべ)らむ。久世の鳥・交野(かたの)の鳥の味(あぢは)ひ、参(まゐ)り知(し)りたりき。「かたへはそらごとを宣(のたま)ふぞ。こころみたいまつらむ」とて、みそかに二所の鳥をつくりまぜて、しるしをつけて、人の参(まゐ)りたりければ、いささかとりたがへず、「これは久世(くぜ)の、これは交野(かたの)のなり」とこそ参(まゐ)り知(し)りたりけれ。かかれば、「ひたぶるの鷹飼にて候(さぶら)ふものの、殿上に候(さぶら)ふこそ見ぐるしけれ」と、延喜に奏しまうす人の御座(おは)しければ、「公事をおろそかにし、狩をのみせばこそは罪はあらめ、一度(ひとたび)政(まつりごと)をもかかで、公事をよろづ勤めて後に、ともかくもあらむは、なんでふことかあらむ」とこそ仰(おほ)せられけれ。
いでまた、いみじく侍(はべ)りしことは、やがて同じ君の、大井河(おほゐがは)の行幸(みゆき)に、富小路(とみのこうぢ)の御息所の御腹の親王(みこ)、七歳にて舞せさせ給(たま)へりしばかりのことこそ侍(はべ)らざりしか。万人(ばんにん)しほたれぬ人侍(はべ)らざりき。あまり御かたちの光るやうにし給(たま)ひしかば、山の神めでて、取り奉(たてまつ)り給(たま)ひてしぞかし。
 その御時に、いとおもしろきことども多く侍(はべ)りきや。おほかた申(まう)し尽くすべきならず。まづ申(まう)すべきことをも、ただ覚ゆることにしたがひて、しどけなく申(まう)さむ。
法皇(ほふわう)の、ところどころの修行(すぎやう)しあそばせ給(たま)うて、宮滝(みやたき)御覧(ごらん)ぜしほどこそいといみじう侍(はべ)りしか。その折、菅原(すがはら)のおとどのあそばしたりし和歌、
  水ひきの白糸(しらいと)はへて織るはたは旅のころもにたちやかさねむ W
大井の御幸(ごかう)も侍(はべ)りしぞかし。さてまた、「みゆきありぬべき所」と申(まう)させ給(たま)ふ、ことのよし秦せむとて、小一条(こいちでう)のおほいまうちぎみぞかし、
  小倉山(をぐらやま)紅葉(もみぢ)の色もこころあらばいまひとたびのみゆきまたなむ W
あはれ優(いう)にも候(さぶら)ひしかな。さて行幸(みゆき)に、あまたの題ありて、やまと歌つかうまつりし中(なか)に、「猿叫(レ)峡(さるかひにさけぶ)」、躬恒(みつね)、
  わびしらにましらななきそあしひきの山のかひある今日にやはあらぬ W
その日の序代(じよだい)は、やがて貫之(つらゆき)のぬしこそはつかうまつり給(たま)ひしか。
さてまた、朱雀院(すざくゐん)も優(いう)に御座(おは)しますとこそはいはれさせ給(たま)ひしかども、将門(まさかど)が乱(みだれ)など出(い)できて、怖(おそ)れ過ごさせ御座(おは)しまししほどに、やがてかはらせ給(たま)ひにしぞかし。そのほどのことこそ、いとあやしう侍(はべ)りけれ。母后(ははきさき)の御もとに行幸せさせ給(たま)へりしを、「かかる御有様(ありさま)の思(おも)ふやうにめでたくうれしきこと」など秦(そう)せさせ給(たま)ひて、「いまは、東宮(とうぐう)ぞかくて見きこえまほしき」と申(まう)させ給(たま)ひけるを、心もとなく急ぎ思(おぼ)し召(め)しけることにこそありけれとて、ほどもなく譲(ゆづ)りきこえさせ給(たま)ひけるに、后(きさい)の宮(みや)は、「さも思(おも)ひても申(まう)さざりしことを。ただゆく末のことをこそ思(おも)ひしか」とて、いみじう嘆かせ給(たま)ひけり。
 さて、おりさせ給(たま)ひて後(のち)、人々の嘆きけるを御覧(ごらん)じて、院(ゐん)より后(きさい)の宮(みや)に聞(きこ)えさせ給(たま)へりし、国譲(くにゆづ)りの日、
  日のひかり出(い)でそふ今日のしぐるるはいづれの方の山辺なるらむ W
后(きさい)の宮(みや)の御返し、
  白雲(しらくも)のおりゐる方(かた)やしぐるらむおなじみ山のゆかりながらに W
などぞ聞え侍(はべ)りし。院は数月(つきごろ)、綾綺殿(りようきでん)にこそ御座(おは)しまししか。後(のち)は少し悔(く)い思(おぼ)し召(め)すことありて、位にかへりつかせ給(たま)ふべき御祈(いのり)などせさせ給(たま)ひけりとあるは、誠(まこと)にや。御心(みこころ)いとなまめかしうも御座(おは)しましし。御心地(ここち)おもくならせ給(たま)ひて、太皇太后宮(たいくわうたいごうぐう)の幼く御座(おは)しますを見奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、いみじうしほたれ御座(おは)しましけり。
  くれ竹のわが世はことになりぬともねは絶えせずぞなほなかるべき W
誠(まこと)にこそかなしくあはれに承(うけたまは)りしか。
 村上(むらかみ)の帝(みかど)、はた申(まう)すべきならず。「なつかしうなまめきたる方(かた)は、延喜(えんぎ)にはまさりまうさせ給(たま)へり」とこそ、人申(まう)すめりしか。「われをば人はいかがいふ」など、人に問(と)はせ給(たま)ひけるに、「『ゆるになむ御座(おは)します』と、世には申(まう)す」と奏(そう)しければ、「さてはほむるなんなり。王(きみ)のきびしうなりなば、世の人いかが堪(た)へむ」とこそ仰(おほ)せられけれ。
 いとをかしうあはれに侍(はべ)りしことは、この天暦(てんりやく)の御時に、清涼殿(せいりやうでん)の御前(おまへ)の梅の木の枯れたりしかば、求めさせ給(たま)ひしに、なにがしぬしの蔵人(くらうど)にていますがりし時、承(うけたまは)りて、「若き者どもはえ見知(し)らじ。きむぢ求めよ」と宣(のたま)ひしかば、一京(ひときやう)まかり歩(あり)きしかども、侍(はべ)らざりしに、西京(にしのきやう)のそこそこなる家に、色濃(いろこ)く咲きたる木の、様体(やうだい)うつくしきが侍(はべ)りしを、掘りとりしかば、家あるじの、「木にこれ結(ゆ)ひつけて持(も)て参(まゐ)れ」といはせ給(たま)ひしかば、あるやうこそはとて、持て参(まゐ)りて候(さぶら)ひしを、「なにぞ」とて御覧(ごらん)じければ、女の手にて書きて侍(はべ)りける。
 勅(ちよく)なればいともかしこしうぐひすの宿はと問(と)はばいかが答へむ W
とありけるに、あやしく思(おぼ)し召(め)して、「何者(なにもの)の家ぞ」とたづねさせ給(たま)ひければ、貫之(つらゆき)のぬしの御女(みむすめ)の住む所なりけり。「遺恨(ゐこん)のわざをもしたりけるかな」とて、あまえ御座(おは)しましける。繁樹(しげき)今生(こんじやう)の辱号(ぞくがう)は、これや侍(はべ)りけむ。さるは、「思(おも)ふ様(やう)なる木持て参(まゐ)りたり」とて、衣(きぬ)かづけられたりしも、辛(から)くなりにき」とて、こまやかに笑ふ。
 繁樹、また、「いとせちにやさしく思(おも)ひ給(たま)へしことは、この同じ御時のことなり。承香殿(しようきやうでん)の女御(にようご)と申(まう)ししは、斎宮(さいぐう)の女御よ。「帝(みかど)ひさしくわたらせ給(たま)はざりける秋の夕暮(ゆうぐれ)に、琴(こと)をいとめでたく弾(ひ)き給(たま)ひければ、急ぎわたらせ給(たま)ひて、御かたはらに御座(おは)しましけれど、人やあるとも思(おぼ)したらで、せめて弾き給(たま)ふを、聞(きこ)し召(め)せば、
  秋の日のあやしきほどの夕暮に荻(おぎ)吹く風のおとぞきこゆる W
と弾きたりしほどこそせちなりしか」と御集(ぎよしふ)に侍(はべ)るこそ、いみじう候(さぶら)へ」といふは、あまりかたじけなしやな。
ある人、「城外(じやうぐわい)やし給(たま)へりし」といへば、
《繁樹》「遠国(おんごく)にはまからず。和泉国(いづみのくに)にこそ、貫之(つらゆき)のぬしの御任(ごにん)に下(くだ)りて侍(はべ)りしか。「ありとほしをば思(おも)ふべしやは」と、よまれしたびの供(とも)にも候(さぶら)ひき。雨の降りしさま」など語りしこそ、古草子(ふるざうし)にあるを見るは、ほど経たる心地し侍(はべ)りしに、昔に会(あ)ひにたる心地して、をかしかりしか。
 この侍(さぶらひ)もいみじう興(きよう)じて、
「繁樹が女(め)どもこそ、いま少しこまやかなることどもは語られめ」といへば、
《妻》「われは京人(きやうびと)にも侍(はべ)らず、高き宮仕(みやづか)へなどもし侍(はべ)らず。若くより、この翁に添ひ候(さぶら)ひにしかば、はかばかしきことをも見給(たま)へぬ物(もの)をは」といらふれば、
《侍》「いづれの国の人ぞ」と問(と)ふ。
《妻》「陸奥国(みちのくに)安積(あさか)の沼にぞ侍(はべ)りし」といへば、
《侍》「いかで京には来(こ)しぞ」と問(と)へば、
《妻》「その人とは、え知(し)り奉(たてまつ)らず、歌よみ給(たま)ひし北(きた)の方(かた)御座(おは)せし守(かみ)の御任にぞ、上(のぼ)り侍(はべ)りし」といふに、中務(なかつかさ)の君(きみ)にこそと聞(き)くもをかしくなりぬ。
《侍》「いといたきことかな。北の方をば誰(たれ)とか聞(きこ)えし。よみ給(たま)ひけむ歌は覚ゆや」といへば、
《妻》「その方(かた)に心も得で、覚(おぼ)え侍(はべ)らず。ただ上り給(たま)ひしに、逢坂(あふさか)の関(せき)に御座(おは)して、よみ給(たま)へりし歌こそ、ところどころ覚(おぼ)え侍(はべ)れ」とて、
  都(みやこ)には待つらむ物(もの)を逢坂(あふさか)の関まで来(き)ぬと告(つ)げややらまし W
など、たどたどしげに語るさま、誠(まこと)に男(をとこ)にたとしへなし。繁樹、
 「この人をば人と覚(おぼ)えずかとよ。さやうの方(かた)は覚ゆらむ物(もの)ぞ。世間(せけん)だましひはしも、いとかしこく侍(はべ)るをとり所にて、え去りがたく思(おも)ひ給(たま)ふるなり」といふに、世継(よつぎ)、
 「いで、この翁(おきな)の女人(をんなびと)こそ、いとかしこく物(もの)は覚(おぼ)え侍(はべ)れ。いまひとめぐりがこのかみに候(さぶら)へば、見給(たま)へぬほどのことなども、あれは知(し)りて侍(はべ)るめり。染殿(そめどの)の后(きさい)の宮(みや)の洗(すま)しに侍(はべ)りけり。母も上(かん)の刀自にて仕うまつりければ、幼くより参(まゐ)り通ひて、忠仁公(ちゆうじんこう)をも見奉(たてまつ)りけり。童部(わらはべ)がたちのほどの、いと物(もの)ぎたなうも候(さぶら)はざりけるにや、やむごとなき君達(きんだち)も御覧じいれて、兼輔(かねすけ)の中納言・良岑衆樹(よしみねのもろき)の宰相(さいしやう)の御文(ふみ)なども持ちて侍(はべ)るめり。中納言はみちのくにがみに書かれ、宰相のは胡桃色(くるみいろ)にてぞ侍(はべ)るめる。
 この宰相ぞかし、五十までさせることなく、おぼやけに捨てられたるやうにていますがりけるが、八幡(やはた)に参(まゐ)りたうび たるに、雨いみじう降る石清水(いはしみづ)の坂登りわづらひつつ参(まゐ)り給(たま)へるに、御前の橘(たちばな)の木の少し枯れて侍(はべ)りけるに立ち寄りて、
  ちはやぶる神の御前の橘ももろきもともに老いにけるかな W
とよみ給(たま)へば、神聞(き)き、あはれびさせ給(たま)ひて、橘も栄え、宰相も思(おも)ひかけず頭(とう)になり給(たま)ふとこそは承(うけたまは)りしか」といへば、侍(さぶらひ)、
「賀茂(かも)の御前(おまへ)にとかや、はるかの世の物語(ものがたり)にわらはべ申(まう)し侍(はべ)るめるは」といらふれば、
《世継》「さもや侍(はべ)りけむ。ほど経て僻事(ひがごと)も申(まう)し侍(はべ)らむ。宰相をば見たいまつりしかど、人となりてこそ尋ね承(うけたまは)れ」といらふ。侍、
「そはさなり。その宰相は、五十六にて宰相になり、左近中将(さこんのちゆうじやう)かけていませしか」
《世継》「その折はなにともおぼえ侍(はべ)らざりしかど、この頃(ごろ)思(おも)ひ出(い)で侍(はべ)れば、見ぐるしかりけることかなと思(おも)ひ侍(はべ)る」この侍、
「いかでさる有識(いうそく)をば、ものげなきわかうどにてはとりこめられしぞ」と問(と)へば、
《世継》「さればこそ。さやうに好き惚(ほ)き候(さぶら)ひしものの、心にもあらず、世継が家にはまうで来(き)よりては、恥(はぢ)にして、いかばかりのいさかひ侍(はべ)りしかど、さばかりにこかけそめて、あからめせさせ侍(はべ)りなむや。さるほどに、ゐつき候(さぶら)ひては、翁(おきな)をまた一夜(ひとよ)もほかめせさせ侍(はべ)らぬをや」と、ほほゑみたる口つき、いとをこがまし。
《世継》「また、この女どもも、世継も、しかるべきにて侍(はべ)りけるぞ。かの女、二百歳ばかりになりにて侍(はべ)り。兼輔の中納言・衆樹(もろき)の宰相(さうしやう)も、今まであとかばねだにいませず、いかがし侍(はべ)らまし。世継も、今様(いまやう)の若き女ども、さらに語らはれ侍(はべ)らじ」といへば、
《繁樹》「かかる命長(いのちなが)の生(い)きあはず侍(はべ)らましかば、いとあしく侍(はべ)らまし」とて、こころよく笑ふ。げにと聞えてをかしくもあり、語るも現(うつつ)のことともおぼえず。
《世継》「あはれ、今日具(ぐ)して侍(はべ)らましかば、女房(にようばう)たちの御耳に、いま少しとどまることどもは、聞(き)かせ給(たま)へてまし。私(わたくし)の頼(たの)む人にては、兵衛内侍(ひやうゑのないし)の御親をぞし侍(はべ)りしかば、内侍のもとへは、時々まかるめりき」といふに、「とは誰(たれ)にか」といふ人ありければ、
《世継》「いで、この高名(かうみやう)の琵琶(びは)ひき。相撲(すまひ)の節(せち)に玄上(げんじやう)賜(たま)はりて、御前(おまへ)にて「青海波(せいがいは)」つかうまつられたりしは、いみじかりし物(もの)かな。博雅(はくが)の三位(さんみ)などだにおぼろけにはえ鳴らし給(たま)はざりけるに、これは承明門(しようめいもん)まで聞え侍(はべ)りしかば、左(ひだり)の楽屋(がくや)にまかりて、承(うけたまは)りしぞかし。
 斯様(かやう)に物(もの)のはえ、うべうべしきことどもも、天暦(てんりやく)の御時までなり。冷泉院(れいぜいゐん)の御世(みよ)になりてこそ、さはいへども、世は暗れふたがりたる心地せし物(もの)かな。世のおとろふることも、その御時よりなり。小野宮殿(をののみやどの)も、一(いち)の人と申(まう)せど、よそ人にならせ給(たま)ひて、若くはなやかなる御舅(をぢ)たちにまかせ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひ、また帝(みかど)は申(まう)すべきならず。
 あはれに候(さぶら)ひけることは、村上失(う)せ御座(おは)しまして、またの年、小野宮(をののみや)に人々参(まゐ)り給(たま)ひて、いと臨時客(りんじきやく)などはなけれど、「嘉辰令月(かしんれいげつ)しなどうち誦(ずん)ぜさせ給(たま)ふついでに、一条(いちでう)の左大臣(さだいじん)・六条殿(ろくでうどの)など拍子(はうし)とりて、「席田(むしろだ)」うち出(い)でさせ給(たま)ひけるに、「あはれ、先帝(せんだい)の御座(おは)しまさましかば」とて、御笏(しやく)もうち置きつつ、あるじ殿(どの)を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、事忌(こといみ)もせさせ給(たま)はず、上(うへ)の御衣(おんぞ)どもの袖(そで)濡(ぬ)れさせ給(たま)ひにけり。さることなりや。何事(なにごと)も、聞(き)き知(し)り見分(みわ)く人のあるはかひあり、なきはいと口惜(くちを)しきわざなり。今日かかることども申(まう)すも、わ殿(どの)の聞(き)きわかせ給(たま)へば、いとどいま少しも申(まう)さまほしきなり」といへば、侍(さぶらひ)もあまえたりき。
《世継》「藤氏(とうし)の御ことをのみ申(まう)し侍(はべ)るに、源氏(げんじ)の御こともめづらしう申(まう)し侍(はべ)らむ。この一条殿・六条の左大臣(さだいじん)殿(どの)たちは、六条の一品(いつぽん)式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)の御子(みこ)どもに御座(おは)しまさふ。寛平(くわんぴやう)の御孫(まご)なりとばかりは申(まう)しながら、人の御有様(ありさま)、有識(いうそく)に御座(おは)しまして、いづれをも村上の帝(みかど)ときめかしまうさせ給(たま)ひしに、いま少し六条殿をば愛しまうさせ給(たま)へりけり。兄殿(あにどの)は、いとあまりうるはしく、公事(おほやけごと)よりほかのこと、他分(たぶん)には申(まう)させ給(たま)はで、ゆるぎたる所の御座(おは)しまさざりしなり。弟殿(おととどの)は、みそかごとは無才(むざえ)にぞ御座(おは)しまししかど、若らかに愛敬(あいぎやう)づき、なつかしき方はまさらせ給(たま)ひしかばなめりとぞ、人申(まう)しし。父宮(ちちみや)は出家(すけ)せさせ給(たま)ひて、仁和寺(にんなじ)に御座(おは)しまししかば、六条殿、修理大夫(すりのかみ)にて御座(おは)しまししほどなれば、仁和寺へ参(まゐ)らせ給(たま)ふゆき帰りの道を、一度(ひとたび)は、東(ひんがし)の大宮(おほみや)より上(のぼ)らせ給(たま)ひて、一条より西ざまに御座(おは)しまし、また一度は、西の大宮より下(くだ)らせ給(たま)ひて、二条より東(ひんがし)ざまなどに過ぎさせ給(たま)ひつつ、内裏(だいり)を御覧(ごらん)じて、破れたる所あれば、修理(すり)せさせ給(たま)ひけり。いと手ききたる御心(こころ)ばへなりな。
 また、一条殿の仰(おほ)せられけるは、「親王(みこ)たちのなかにて、世の案内(あない)も知(し)らず、たづきなかりしかば・さるべき公事(くじ)の折は、人より先に参(まゐ)り、こと果(は)てても、最末(いとすゑ)にまかり出(い)でなどして、見習ひしなり」とぞ宣(のたま)はせける。八幡(やはた)の放生会(はうじやうゑ)には・御馬奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしを・御使(つかひ)などにも浄衣(じやうえ)を給(たま)はせ、御みずからも清(きよ)まらせ給(たま)ひしかばにや、御前(おまへ)近き木に山鳩(やまばと)のかならず居て、ひき出づる折に飛び立ちければ、かひありと、よろこび興(きよう)ぜさせ給(たま)ひけり。御心(みこころ)いとうるはしく御座(おは)します人の、信(しん)をいたさせ給(たま)ひしかば、大菩薩(だいぼさつ)のうけまうさせ給(たま)へりけるにこそ。ひととせの旱(ひでり)の御祈(いのり)にこそ、東三条(とうさんでう)殿(どの)の御賀茂詣(かもまうで)せさせ給(たま)ひしには、この一条殿も参(まゐ)らせ給(たま)ひき。大臣にならせ給(たま)ひぬれば、さる例(れい)なけれども、天下の大事(だいじ)なりとて、御出立(いでた)ちの所には御座(おは)しまさで、わが御殿(ごてん)の前わたらせ給(たま)ひしほどに、引き出(い)でて具(ぐ)しまうさせ給(たま)ひしなり。この生には御数珠(ずず)とらせ給(たま)ふことはなくて、ただ毎日、「南無八幡大菩薩(なむはちまんだいぼさつ)、南無金峯山金(きんぶせん)剛蔵王(こんがざわう)、南無大般若波羅蜜多心経(だいはんにやはらみたしんぎやう)」と、冬の御扇(あふぎ)を数(かず)にとりて、一百遍(いちひやくへん)づつぞ念(ねん)じ申(まう)させ給(たま)ひける。それよりほかの御勤(つとめ)せさせ給(たま)はず。四条(しでう)の大后(おほきさい)の宮(みや)に、かくなむと申(まう)す人のありければ、聞(き)かせ給(たま)ひて、「なつかしからぬ御本尊(ごほんぞん)かな」とぞ仰(おほ)せられける。
 この殿(との)こそ、「荒田(あらた)に生(お)ふる」をば、なべてのやうには謡(うた)ひ変へさせ給(たま)ひけれ。一条院(いちでうゐん)の御時、臨時の祭の御前(おまへ)のこと果てて、上達部たちの物見(ものみ)に出(い)で給(たま)ひしに、外記(げき)の隅(すみ)のほど過ぎさせ給(たま)ふとて、わざとはなく、口ずさみのやうに謡はせ給(たま)ひしが、なかなか優(いう)におぼえ侍(はべ)りし。「富草(とみくさ)の花、手に摘(つ)みいれて、宮へ参(まゐ)らむ」のほどを、例(れい)には変りたるやうに承(うけたまは)りしかば、遠きほどに、老(おい)の僻耳(ひがみみ)にこそはと思(おも)ひ給(たま)へしを、この按察(あぜち)大納言(だいなごん)殿(どの)もしか宣(のたま)はせける。
「殿上人(てんじやうびと)にてありしかば、遠くて、よくも聞(き)かざりき。変りたりしやうの、めづらしう、さまかはりておぼえしは、あの殿(との)の御ことなりしかばにや。またも聞(き)かまほしかりしかども、さもなくてやみにしこそ、今に口惜(くちを)しくおぼゆれ」とこそ宣(のたま)ふなれ。
 このおほい殿(どの)たちの御弟(おとと)の大納言(だいなごん)、優(いう)に御座(おは)しましき。おほかた六条の宮の御子(みこ)どもの、皆めでたく御座(おは)しまさひしなり。御法師子(ほふしご)は、広沢(ひろさは)の僧正(そうじやう)・勧修寺(くわんじゆじ)の僧正二所(ふたところ)こそは御座(おは)しまししか。おほかたそのほどには、かたがたにつけつつ、いみじき人々の御座(おは)しましし物(もの)をや」といへば、「この頃(ごろ)もさやうの人は御座(おは)しまさずやはある」と、侍(さぶらひ)のいへば、
《世継》「この四人の大納言(だいなごん)たちよな。斉信(ただのぶ)・公任(きんたふ)・行成(ゆきなり)・俊賢(としかた)など申(まう)す君達(きんだち)は、またさらなり。
さてまた、多くの見物(みもの)し侍(はべ)りし中(なか)にも、花山院(くわさんゐん)の御時の石清水(いはしみづ)の臨時の祭、円融院(ゑんゆうゐん)の御覧(ごらん)ぜしばかり、興(きよう)あること候(さぶら)はざりき。その折の蔵人頭(くらうどのとう)にては、今の小野宮(をののみや)の右大臣殿ぞ御座(おは)しましし。御前(おまへ)のこと果(は)てけるままに、院はつれづれに御座(おは)しますらむかしと思(おぼ)し召(め)して、参(まゐ)らせ給(たま)へりければ、さるべき人も候(さぶら)ひ給(たま)はざりけり。蔵人・判官代(はうぐわんだい)ばかりして、いといとさうざうしげにて御座(おは)します。かく参(まゐ)らせ給(たま)へるを、いと時よう思(おぼ)し召(め)したる御けしきを、いとあはれに心ぐるしう見参(まゐ)らせさせ給(たま)ひて、「物(もの)御覧ぜよ」など、御けしき賜(たま)はらせ給(たま)へば、「にはかにはいかがあるべからむ」と仰(おほ)せられけるを、「かくて実資(さねすけ)候(さぶら)へば、また、殿上(てんじやう)に候(さぶら)ふ男(をのこ)どもばかりにてあへ侍(はべ)りなむ」とそそのかし申(まう)させ給(たま)ふ。御厩(みまや)の御馬ども召(め)して、候(さぶら)ひしかぎり、御前(ごぜん)仕(つか)まつり、頭中将(とうのちゆうじやう)は束帯(そくたい)ながら参(まゐ)り給(たま)ふ。堀河院(ほりかはのゐん)なれば、ほど近く出(い)でさせ給(たま)ふに、物見車(ものみぐるま)ども二条大宮(にでうおほみや)の辻(つじ)に立ちかたまりて見るに、布衣(ほい)・衣冠(いくわん)なる御前(ごぜん)したる車の、いみじく人払(はら)ひ、なべてならぬ勢(いきほひ)なる来(く)れば、誰(たれ)ばかりならむとあやしく思(おも)ひあへるに、頭中将(とうのちゆうじやう)、下襲(したがさね)の尻(しり)はさみて、移置(うつしお)きたる馬に乗りて御座(おは)するに、院の御座(おは)しますなりけりと見て、車どもも、徒人(かちびと)も、てまどひし立ち騒(さわ)ぎて、いと物(もの)さわがし。二条(にでう)よりは少し北によりて、冷泉院(れいぜいゐん)の築地(ついひぢ)づらに、御車(みくるま)立てつ。御前(ごぜん)どもおりて候(さぶら)ひ並(な)み給(たま)ふほどに、内(うち)より見物(みもの)しに、引きつづき出(い)で給(たま)ふ上達部(かんだちめ)たちの見給(たま)ふに、大路(おほち)のいみじうののしれば、あやしくて、「何事(なにごと)ぞ」と問(と)はせ給(たま)ふに、「院の御座(おは)しますなり」と申(まう)しけるを、よにあらじと思(おぼ)すに、「頭中将(ちゆうじやう)も御座(おは)します」 といふにぞ、まことなりけりとおぼえつつ、御車(みくるま)よりいそぎおりつつ、皆参(まゐ)り給(たま)ひし。大臣二人は、左右(さう)の御車の筒(どう)うち押(おさ)へて立たせ給(たま)へり。東三条(とうさんでう)殿(どの)・一条(いちでう)の左大臣(さだいじん)殿(どの)よ。さて納言以下(なごんいげ)は、轅(ながえ)のこなたかなたに候(さぶら)ひ給(たま)ふ。なかなかうるはしからむ、ことの作法(さはふ)よりも、めでたく侍(はべ)りし物(もの)かな。舞人(まひびと)・陪従(べいじゆう)は皆乗りてわたるに、時中(ときなか)の源(げん)大納言(だいなごん)の、いまだ大蔵卿(おほくらきやう)と申(まう)しし折ぞ、使(つかひ)にて御座(おは)せし、御車の前近く立ちとどまりて、「求子(もとめご)」を袖(そで)のけしきばかりつかまつり給(たま)ひて、つい居(ゐ)給(たま)ひしままに、御はた袖を顔におしあてて候(さぶら)ひ給(たま)ひしかば、香(かう)なる御扇(あふぎ)をさし出させ給(たま)ひて、「はやう」とかかせ給(たま)ひしかばこそ、少しおし拭(のご)ひて立ち給(たま)ひしか。すべてさばかり優(いう)なることまた候(さぶら)ひなむや。
げにあはれなることのさまなれば、人々も御けしきかはり、院(ゐん)の御前(おまへ)にも、少し涙ぐみ御座(おは)しましけりとぞ、後(のち)に承(うけたまは)りし。神泉(しんせん)の丑寅(うしとら)の角(すみ)の垣(かき)のうちにて見給(たま)へしなり。
 また、若く侍(はべ)りし折も、仏法(ぶつぽふ)うとくて、世ののしる大法会(だいほふゑ)ならぬには、まかりあふこともなかりしに、まして年積(としつも)りては、動きがたく候(さぶら)ひしかども、参河(みかは)の入道(にふだう)の入唐(につたう)の馬のはなむけの講師(こうじ)、清照法橋(せいせうほつけう)のせられし日こそ、まかりたりしか。さばかり道心(だうしん)なき物(もの)の、始(はじ)めて心起ることこそ候(さぶら)はざりしか。まづは神分(しんぶん)の心経(しんぎやう)・表白(へうびやく)のたうびて、鐘(かね)打ち給(たま)へりしに、そこばくあつまりたりし万人(ばんにん)、さとこそ泣きて侍(はべ)りしか。それは道理(だうり)のことなり。
 また、清範律師(せいはんりし)の、犬(いぬ)のために法事(ほふじ)しける人の講師に請(しやう)ぜられていくを、清照法橋、同じほどの説法者(せほふざ)なれば、いかがすると聞(き)きに、頭(かしら)つつみて、誰(たれ)ともなくて聴聞(ちやうもん)しければ、「ただいまや、過去聖霊(くわこしやうりやう)は蓮台(れんだい)の上にてひよと吠(ほ)え給(たま)ふらむ」と宣(のたま)ひければ、「さればよ。こと人、かく思(おも)ひよりなましや。なほ、斯様(かやう)のたましひあることは、すぐれたる御房(ごばう)ぞかし」とこそほめ給(たま)ひけれ。誠(まこと)に承(うけたまは)りしに、をかしうこそ候(さぶら)ひしか。これはまた、聴聞衆(ちやうもんしゆう)ども、さざと笑ひてまかりにき。いと軽々(きやうきやう)なる往生人(わうじやうにん)なりや。また、無下(むげ)のよしなしごとに侍(はべ)れど、人のかどかどしく、たましひあることの興(きよう)ありて、優(いう)におぼえ侍(はべ)りしかばなり。
 法成寺(ほふじやうじ)の五大堂供養(ごだいだうくやう)は、師走(しはす)には侍(はべ)らずやな。きはめて寒かりし頃(ころ)、百僧(ひやくそう)なりしかば、御堂(みだう)の北の庇(ひさし)にこそは、題名僧(だいみやうそう)の座(ざ)はせられたりしか。その料(れう)にその御堂の庇はいれられたるなり。わざとの僧膳(そうぜん)はせさせ給(たま)はで、湯漬(ゆづけ)ばかり給(たま)ふ。行事(ぎやうじ)二人に、五十人づつ分(わか)たせ給(たま)ひて、僧の座せられたる御堂の南面(みなみおもて)に、鼎(かなへ)を立てて、湯をたぎらかしつつ、御(お)物(もの)を入れて、いみじう熱くて参(まゐ)らせ渡したるを、思(おも)ふにぬるくこそはあらめと、僧たち思(おも)ひて、ざふざふと参(まゐ)りたるに、はしたなききはに熱かりければ、北風(きたかぜ)はいとつめたきに、さばかりにはあらで、いとよく参(まゐ)りたる御房たちもいまさうじけり。後に、「北向きの座にて、いかに寒かりけむ」など、殿(との)の問(と)はせ給(たま)ひければ、「しかじか候(さぶら)ひしかば、こよなく暖(あたた)まりて、寒さも忘れ侍(はべ)りにき」と申(まう)されければ、行事(ぎやうじ)たちをいとよしと思(おぼ)し召(め)されたりけり。ぬるくて参(まゐ)りたりとも、別(べち)の勘当(かんだう)などあるべきにはあらねど、殿を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、人にほめられ、ゆく末にも、「さこそありけれ」といはれたうばむは、ただなるよりはあしからず、よきことぞかし。
 いでまた、故(こ)女院(にようゐん)の御賀に、この関白(くわんばく)殿、「陵王(りようわう)」、春宮大夫殿(とうぐうのだいぶどの)、「納蘇利(なつそり)」舞(ま)はせ給(たま)へりしめでたさはいかにぞ。「陵王」はいと気高(けだか)くあてに舞はせ給(たま)ひて、御禄(ろく)賜(たま)はらせ給(たま)ひて、舞ひすてて、知(し)らぬさまにて入らせ給(たま)ひぬる御うつくしさ、めでたさに、並(なら)ぶことあらじ、と見参(まゐ)らするに、「納蘇利」のいとかしこく、また、かくこそはありけめと見えて舞はせ給(たま)ふに、御禄を、これはいとしたたかに御肩(おほんかた)にひきかけさせ給(たま)ひて、いまひとかへり、えもいはず舞はせ給(たま)へりし興(きよう)は、またかかるべかりけるわざかな、とこそおぼえ侍(はべ)りしか。御師(おんし)の、「陵王」はかならず御禄は捨てさせ給(たま)ひてむぞ、同じさまにせさせ給(たま)はむ、目馴(めな)れたるべければ、さまかへさせ奉(たてまつ)りたるなりけり。心ばせまされりとこそはいはれ侍(はべ)りしか。女院かうぶり賜(たま)はせば、大夫殿(だいぶどの)をいみじくかなしがりまさせ給(たま)へばとぞ。「陵王(りようわう)」の御師は賜(たま)はらでいと辛かりけり。それにこそ、北(きた)の政所(まんどころ)少しむつからせ給(たま)ひけれ。さて後にこそ賜(たま)はすめりしか。かたのやうに舞かせ給(たま)ふともあしかるべき御年のほどにも御座(おは)しまさず、わろしと人の申(まう)すべきにも侍(はべ)らざりしに、誠(まこと)にこそ、二所(ふたところ)ながら、この世の人とは見えさせ給(たま)はで、天童(てんどう)などの降り来(き)たるとこそ見えさせ給(たま)ひしか。
 また、この大宮(おほみや)の大原野(おほはらの)の行啓(ぎやうけい)はいみじう侍(はべ)りし。ことに雨の降りしこそいと口惜(くちを)しく侍(はべ)りしことよ。舞人(まひびと)には、たれたれ、それそれの君達(きんだち)などかぞへて、一(いち)の舞(まひ)には、関白(くわんばく)殿(どの)の君(きみ)とこそはせさせ給(たま)ひしか。試楽(しがく)の日、掻練襲(かいねりがさね)の御下襲(したがさね)に、黒半臂(くろはんび)奉(たてまつ)りたりしは、めづらしく候(さぶら)ひし物(もの)かな。闕腋(わきあけ)に人の着給(たま)へりしを、いまだ見侍(はべ)らざりしかば。行啓には、入道(にふだう)殿(どの)、それがしといふ御馬に奉(たてまつ)りて、御随身(みずいじん)四人と、らんもんにあげさせ給(たま)へりしは、軽々(かろがろ)しかりしわざかな。公忠(きんただ)が少し控(ひか)へつつ、所おきまうししを、制せさせ給(たま)ひしかば、なほ少し怖(おそ)りましてこそありしか。かしこく京(きやう)のほどは雨も降らざりしぞかし。閑院(かんゐん)の太政大臣(だいじやうだいじん)殿(どの)の、西の七条より帰らせ給(たま)ひしをこそ、入道(にふだう)殿(どの)いみじう恨みまうさせ給(たま)ひけれ。堀河(ほりかは)の左大臣(さだいじん)殿(どの)は、御社(みやしろ)までつかまつらせ給(たま)ひて、御引出物(ひきいでもの)御馬あり。枇杷殿(びはどの)の宮(みや)・中宮(ちゆうぐう)とは、金造(こがねづくり)の御車(みくるま)にて、まうちぎみたちの、やむごとなきかぎり選(え)らせ給(たま)へる御前具(ごぜんぐ)しまうさせ給(たま)へりき。御車のしりには、皇后宮(くわうごうぐう)の御乳母(めのと)、維経(これつね)のぬしの御母(みはは)、中宮の御乳母、兼安(かねやす)・実任(さねたふ)のぬしの御母、おのおのこそ候(さぶら)はれけれ。殿(との)の君達(きんだち)のまだ男(をとこ)にならせ給(たま)はぬ、童(わらは)にて皆仕(つか)うまつらせ給(たま)へりき。
 また、ついでなきことには侍(はべ)れど、怪(け)と人の申(まう)すことどもの、させることなくてやみにしは、前(さき)の一条院(いちでうゐん)の御即位の日、大極殿(だいこくでん)の御装束(さうぞく)すとて人々あつまりたるに、高御座(たかみくら)のうちに、髪(かみ)つきたるものの頭(かしら)の、血うちつきたるを見つけたりける、あさましく、いかがすべきと行事(ぎやうじ)思(おも)ひあつかひて、かばかりのことを隠すべきかとて、大入道(おほにふだう)殿(どの)に、「かかることなむ候(さぶら)ふ」と、なにがしのぬしして申(まう)させけるを、いと眠(ねぶ)たげなる御けしきにもてなさせ給(たま)ひて、物(もの)も仰(おほ)せられねば、もし聞(きこ)し召(め)さぬにやとて、また御けしき賜(たま)はれど、うち眠らせ給(たま)ひて、なほ御いらへなし。いとあやしく、さまで大殿籠(おほとのごも)り入りたりとは見えさせ給(たま)はぬに、いかなればかくては御座(おは)しますぞと思(おも)ひて、とばかり御前(おまへ)に候(さぶら)ふにぞ、うちおどろかせ給(たま)ふさまにて、「御装束(さうぞく)は果(は)てぬるにや」と仰(おほ)せらるるに、聞(き)かせ給(たま)はぬやうにてあらむと、思(おぼ)し召(め)しけるにこそと心得て、立ちたうびける。げにかばかりの祝(いはひ)の御こと、また今日になりてとまらむも、いまいましきに、やをらひき隠してあるべかりけることを、心肝(こころぎも)なく申(まう)すかなと、いかに思(おぼ)し召(め)しつらむと、後(のち)にぞ、かの殿(との)もいみじう悔(く)い給(たま)ひける。さることなりかしな。されば、なでふことかは御座(おは)します、よきことにこそありけれ。
 また、大宮(おほみや)のいまだ幼く御座(おは)しましける時、北(きた)の政所(まんどころ)具(ぐ)し奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、春日(かすが)に参(まゐ)らせ給(たま)ひけるに、御前(おまへ)の物(もの)どもの参(まゐ)らせすゑたりけるを、俄(にはか)に辻風(つじかぜ)の吹き纒(まつ)ひて、東大寺(とうだいじ)の大仏殿(だいぶつでん)の御前に落したりけるを、春日(かすが)の御前なる物(もの)の源氏(げんじ)の氏寺(うじでら)に取られたるはよからぬことにや。これをも、その折、世の人申(まう)ししかど、ながく御末つがせ給(たま)ふは吉相(きつさう)にこそはありけれ、とぞおぼえ侍(はべ)るな。夢も現(うつつ)も、「これはよきこと」と人申(まう)せど、させることなくてやむやう侍(はべ)り。また、斯様(かやう)に怪(け)だちて見給(たま)へきこゆることも、かくよきことも候(さぶら)ふな。
まことは、世の中にいくそばくあはれにもめでたくも興(きよう)ありて、承(うけたまは)り見給(たま)へ集めたることの、数(かず)知(し)らず積(つも)りて侍(はべ)る翁(おきな)どもとか、人々思(おぼ)し召(め)す。やむごとなくも、また下(くだ)りても、間近(まぢか)き御簾(みす)・簾(すだれ)のうちばかりや、おぼつかなさ残りて侍(はべ)らむ。それなりとも、各宮(おのおのみや)・殿(との)ばら・次々の人の御あたりに、人のうち聞(き)くばかりのことは、女房(にようばう)・わらはべ申(まう)し伝へぬやうやは侍(はべ)る。されば、それも、不意(ふい)に伝へ承(うけたまは)らずしも候(さぶら)はず。されど、それをばなにとかは語りまうさむずる。ただ世にとりて、人の御耳とどめさせ給(たま)ひぬべかりし昔のことばかりを、かく語りまうすだにいとをこがましげに御覧(ごらん)じおこする人も御座(おは)すめり。今日は、ただ殿のめづらしう興(きよう)ありげに思(おぼ)して、あどをよくうたせ給(たま)ふにはやされ奉(たてまつ)りて、かばかりも口あけそめて侍(はべ)れば、なかなか残り多く、またまた申(まう)すべきことは、期(ご)もなく侍(はべ)るを、もし誠(まこと)に聞(きこ)し召(め)しはてまほしくは、駄一疋(だいつぴき)を給(たま)はせよ。はひ乗りて参(まゐ)り侍(はべ)らむ。
 かつまた、御宿(やど)りに参(まゐ)りて、殿の御才学(さいがく)のほども承(うけたまは)らまほしう思(おも)ひ給(たま)ふるやうは、いまだ年頃(としごろ)、かばかりもさしいらへし給(たま)ふ人に対面(たいめ)賜(たま)はらぬに、時々くはへさせ給(たま)ふ御ことばの、見奉(たてまつ)るは、翁らが玄孫(やしはご)のほどにこそはとおぼえさせ給(たま)ふに、この知ろしめしげなることども、思(おも)ふに古き御日記(にき)などを御覧(ごらん)ずるならむかしと心にくく。下臈(げらふ)はさばかりの才(ざえ)はいかでか侍(はべ)らむ。ただ見聞(き)き給(たま)へしことを心に思(おも)ひおきて、かくさかしがり申(まう)すにこそあれ。まこと人(びと)に会(あ)ひ奉(たてまつ)りては、思(おぼ)し咎(とが)め給(たま)ふことも侍(はべ)らむと、はづかしう御座(おは)しませば、老(おい)の学問にも承(うけたまは)りあかさまほしうこそ侍(はべ)れ」といへば、繁樹(しげき)もただ、「かうなり、かうなり。さらむ折は、かならず告(つ)げ給(たま)ふべきなり。杖(つゑ)にかかりても、かならず参(まゐ)り会(あ)ひまうし侍(はべ)らむ」と、うなづきあはす。
《世継》「ただし、さまでのわきまへ御座(おは)せぬ若き人々は、そら物語(ものがたり)する翁(おきな)かなと思(おぼ)すもあらむ。わが心におぼえて、一言(ひとこと)にても、むなしきことくははりて侍(はべ)らば、この御寺(みてら)の三宝(さんぽう)、今日の座(ざ)の戒和尚(かいわじやう)に請(しやう)ぜられ給(たま)ふ仏(ぶつ)・菩薩(ぼさつ)を証(しよう)とし奉(たてまつ)らむ。なかにも、若うより、十戒(じつかい)のなかに、妄語(まうご)をばたもちて侍(はべ)る身なればこそ、かく命をば保(たも)たれて候(さぶら)へ。今日、この御寺のむねとそれを授(さづ)け給(たま)ふ講(こう)の庭にしも参(まゐ)りて、あやまちまうすべきならず。おほかた、世の始(はじ)まりは、人の寿(いのち)は八万歳なり。それがやうやう減(げん)じもていきて、百歳になる時、仏(ほとけ)は出(い)で御座(おは)しますなり。されど、生死(しやうじ)の定(さだ)めなきよしを人に示(しめ)し給(たま)ふとて、なほいま二十年を約(つづ)めて八十と申(まう)しし年(とし)、入滅(にふめつ)せさせ給(たま)ひにき。その年より今年まで、一千九百七十三年にぞなり侍(はべ)りぬる。釈迦如来(しやかによらい)滅し給(たま)ふを期(ご)にて、八十には侍(はべ)れど、仏、人の命を不定(ふぢやう)なりと見せさせ給(たま)ふにや、この頃(ごろ)も、九十・百の人、おのづから聞(きこ)え侍(はべ)るめれど、この翁(おきな)どもの寿(いのち)は希(まれ)なること、「甚深甚深希有希有(じんしんじんしんけうけう)なり」とは、これを申(まう)すべきなり。
 いと昔は、かばかりの人侍(はべ)らず。神武(じんむ)天皇(てんわう)を始(はじ)め奉(たてまつ)りて、二十余代までの間に、十代ばかりがほどは、百歳・百余歳までたもち給(たま)へる帝(みかど)も御座(おは)しましたれど、末代(まつだい)には、けやけき寿(いのち)もちて侍(はべ)る翁なりかし。かかれば、前生(ぜんしやう)にも戒(かい)を受けたもちて候(さぶら)ひけると思(おも)ひ給(たま)ふれば、この生にも破らでまかりかへらむと思(おも)ひ給(たま)ふるなり。今日、この御堂(みだう)に影向(やうがう)し給(たま)ふらむ神明(しんめい)・冥道(みやうだう)たちも聞(きこ)し召(め)せ」とうちいひて、したり顔(がほ)に、扇(あふぎ)うちつかひつつ、見かはしたるけしき、ことわりに、何事(なにごと)よりも、公(おほやけ)私(わたくし)うらやましくこそ侍(はべ)りしか。
《繁樹》「さてもさても、繁樹(しげき)が年かぞへさせ給(たま)へ。ただなる折は、年を知(し)り侍(はべ)らぬが口惜(くちを)しきに」 といへば、侍、「いでいで」とて、
《侍》「十三にておほき大殿(おほとの)に参(まゐ)りき」と宣(のたま)へば、十(とを)ばかりにて、陽成院(やうぜいゐん)のおりさせ給(たま)ふ年はいますがりけるにこそ。
それにて推(すい)し思(おも)ふに、あの世継(よつぎ)のぬしには、いま十余年が弟(おとと)にこそあむめれば、百七十には少しあまり、八十にもおよばれにたるべし」など、手を折りかぞへて、
《侍》「いとかばかりの御年(みとし)どもをば、相人(さうにん)などに相(さう)せられやせし」と問(と)へば、
《繁樹》「さる人にも見え侍(はべ)らざりき。ただ狛人(こまうど)のもとに、二人つれてまかりたりしかば、「二人長命」と申(まう)ししかど、いとかばかりまで候(さぶら)ふべしとは、思(おも)ひかけ候(さぶら)ふべきことか。ことごと問(と)はむ、と思(おも)ひ給(たま)へしほどに、昭宣公(せうせんこう)の君達(きんだち)三人御座(おは)しまして、え申(まう)さずなりにき。それぞかし、時平(ときひら)のおとどをば、「御かたちすぐれ、心(こころ)だましひすぐれ賢(かしこ)うて、日本にはあまらせ給(たま)へり。日本のかためと用(もち)ゐむにあまらせ給(たま)へり」と相しまうししは。枇杷殿(びはどの)をば、「あまり御心(みこころ)うるはしくすなほにて、へつらひ飾(かざ)りたる小国にはおはぬ御相なり」と申(まう)す。貞信公(ていしんこう)をば、「あはれ、日本国のかためや。ながく世をつぎ門(かど)ひらくこと、ただこの殿」と申(まう)したれば、「われを、あるが中に、才(ざえ)なく心諂曲(てんごく)なりと、かくいふ、はづかしきこと」と仰(おほ)せられけるは。
 されど、その儀(ぎ)にたがはせ給(たま)はず、門をひらき、栄花(えいぐわ)をひらかせ給(たま)へば、なほいみじかりけりと思(おも)ひ侍(はべ)りて、またまかりたりしに、小野宮殿(をののみやどの)御座(おは)しまししかば、え申(まう)さずなりにき。ことさらにあやしき姿をつくりて、下臈(げらふ)の中に遠く居(ゐ)させ給(たま)へりしを、多かりし人の中より、のびあがり見奉(たてまつ)りて、指(および)をさして物(もの)を申(まう)ししかば、何事(なにごと)ならむと思(おも)ひ給(たま)へりしを、後に承(うけたまは)りしかば、「貴臣(きしん)よ」と申(まう)しけるなりけり。さるは、いと若く御座(おは)しますほどなりしかな。いみじきあざれごとどもに侍(はべ)れど、誠(まこと)にこれは徳至(いた)りたる翁どもにて候(さぶら)ふ。などか人のゆるさせ給(たま)はざらむ。また、拙(つたな)き下臈(げらふ)のさることもありけるはと聞(きこ)し召(め)せ。
亭主院(ていじのゐん)の、河尻(かはじり)に御座(おは)しまししに、白女(しろめ)といふ遊女(あそび)召(め)して、御覧(ごらん)じなどせさせ給(たま)ひて、「はるかに遠く候(さぶら)ふよし、歌につかうまつれ」と仰(おほ)せ言(ごと)ありければ、よみて奉(たてまつ)りし、
 浜千鳥(はまちどり)飛びゆくかぎりありければ雲立つ山をあはとこそ見れ W
いといみじうめでさせ給(たま)ひて、物かづけさせ給(たま)ひき。「命だに心にかなふ物(もの)ならば」も、この白女が歌なり。
 また、鳥飼院(とりかひのゐん)に御座(おは)しましたるに、例(れい)の遊女(あそび)どもあまた参(まゐ)りたる中に、大江玉淵(おほえのたまぶち)が女(むすめ)の、声よくかたちをかしげなれば、あはれがらせ給(たま)ひて、うへに召(め)しあげて、「玉淵はいと労(らう)ありて、歌などいとよくよみき。この『とりかひ』といふ題を、人々のよむに、同じ心につかうまつりたらば、誠(まこと)の玉淵が子とは思(おぼ)し召(め)さむ」と仰(おほ)せ給(たま)ふを承(うけたまは)りて、すなはち、
  ふかみどりかひある春にあふ時はかすみならねどたちのぼりけり W」
など、めでたがりて、帝(みかど)より始(はじ)め奉(たてまつ)りて、物(もの)かづけ給(たま)ふほどのこと、南院(なんゐん)の七郎君(しちらうぎみ)にうしろむべきことなど仰(おほ)せられけるほどなど、くはしくぞ語る。
《繁樹》「延喜(えんぎ)の御時に、古今抄(こきんせう)せられし折、貫之(つらゆき)はさらなり、忠岑(ただみね)や躬恒(みつね)などは、御書所(ごしよどころ)に召(め)されて候(さぶら)ひけるほどに、四月二日なりしかば、まだ忍音(しのびね)の頃(ころ)にて、いみじく興(きよう)じ御座(おは)します。貴之召(め)し出(い)でて、歌つかうまつらしめ給(たま)へり。
  こと夏はいかが鳴きけむほととぎすこの宵ばかりあやしきぞなき W
それをだに、けやけきことに思(おも)ひ給(たま)へしに、同じ御時、御遊びありし夜、御前(おまへ)の御階(みはし)のもとに躬恒(みつね)を召(め)して、「月を弓張(ゆみはり)といふ心はなにの心ぞ。これがよしつかうまつれ」と仰(おほ)せ言ありしかば、
  照る月を弓はりとしもいふことは山辺をさしていればなりけり W
と申(まう)したるを、いみじう感ぜさせ給(たま)ひて、大袿(おほうちき)給(たま)ひて、肩にうちかくるままに、
  白雲(しらくも)のこのかたにしもおりゐるは天(あま)つ風(かぜ)こそ吹き手きぬらし W
いみじかりし物(もの)かな。さばかりの者に、近う召(め)しよせて、勅禄(ちよくろく)給(たま)はすべきことならねど、謗(そし)りまうす人のなきも、君(きみ)の重く御座(おは)しまし、また躬恒(みつね)が和歌の道にゆるされたるとこそ、思(おも)ひ給(たま)へしか。かの遊女(あそび)どもの、歌よみ、感賜(たま)はるは、さぞ侍(はべ)る。院(ゐん)にならせ給(たま)ひ、都(みやこ)離れたる所なれば」と優(いう)にこそ、あまりにおよすけたれ。
 この侍(さぶらひ)問(と)ふ、「円融院(ゑんゆうゐん)の紫野(むらさいの)の子(ね)の日(ひ)の日、曾禰好忠(そねのよしただ)いかに侍(はべ)りけることぞ」といへば、
《繁樹》「それそれ、いと興(きよう)に侍(はべ)りしことなり。さばかりのことに上下(かみしも)をえらばず、和歌を賞(しやう)せさせ給(たま)はむに、げに入(い)らまほしきことに侍(はべ)れど、かくろへにて、優なる歌をよみ出(いだ)さむだに、いと無礼(むらい)に侍(はべ)るべき。ことに、座(ざ)に、ただつきにつきたりし、あさましく侍(はべ)りしことぞかし。小野宮殿(をののみやどの)・閑院(かんゐん)の大将殿などぞかし、「引き立てよ、引き立てよ」と、おきてさせ給(たま)ひしは。躬恒(みつね)が別禄(べちろく)賜(たま)はるに、たとしへなき歌よみなりかし。歌いみじくとも、折節(をりふし)・きりめを見て、つかうまつるべきなり。けしうはあらぬ歌よみなれど、辛(から)う劣りにしことぞかし」といふ。
 侍(さぶらひ)、こまやかにうち笑(ゑ)みて、「いにしへのいみじきことどもの侍(はべ)りけむは知(し)らず。なにがしもの覚(おぼ)えて後(のち)、不思議なりしことは、三条院(さんでうゐん)の大嘗会(だいじやうゑ)の御禊(ごけい)の出車(いだしぐるま)、大宮(おほみや)・皇太后宮(くわうたいごうぐう)より奉(たてまつ)らせ給(たま)へりしぞありしや。大宮の一(いち)の車の口(くち)の眉(まゆ)に、香嚢(かうのふくろ)かけられて、空薫物(そらだきもの)たかれたりしかば、二条(にでう)の大路(おほち)のつぶと煙(けぶり)満ちたりしさまこそめでたく、今にさばかりの見物(みもの)またなし」などいへば、世継(よつぎ)、
「しかしか、いかばかり御心(みこころ)に入れて、いどみせさせ給(たま)へりしかは。それに、女房(にようばう)の御心のおほけなさは、さばかりのことを、簾(すだれ)おろしてわたりたうびにしはとよ。あさましかりしことぞかしな。ものけ賜(たま)はる口に乗るべしと思(おも)はれけるが、しりに押し下され給(たま)へりけるとこそは承(うけたまは)りしか。げに女房の辛(から)きことにせらるれども、主(しゆう)の思(おぼ)し召(め)さむところも知(し)らず、男(をとこ)はえしかあるまじくこそ侍(はべ)れ。
 おほかた、その宮には、心おぞましき人の御座(おは)するにや。一品(いつぽん)の宮(みや)の御裳着(もぎ)に、入道(にふだう)殿(どの)より、玉を貫(つらぬ)き、岩を立て、水を遣(や)り、えもいはず調(てう)ぜさせ給(たま)へる裳(も)・唐衣(からぎぬ)を、「まづ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、なかにも、とりわき思(おぼ)し召(め)さむ人に給(たま)はせよ」と申(まう)させ給(たま)へりけるを、さりともと思(おも)ひ給(たま)へりける女房の、賜(たま)はらで、やがてそれ嘆きの病つきて、七日といふに失(う)せ給(たま)ひにけるを、などいとさまで覚(おぼ)え給(たま)ひけむ。罪ふかく、まして、いかに物(もの)妬(ねた)みの心ふかくいましけむ」などいふに、あさましく、いかでかくよろづのこと、御簾(みす)のうちまで聞(き)くらむとおそろしく。
 斯様(かやう)なる女・翁なんどの古言(ふること)するは、いとうるさく、聞(き)かまうきやうにこそおぼゆるに、これはただ昔にたち返り会(あ)ひたる心地して、またまたもいへかし、さしいらへごと・問(と)はまほしきこと多く、心もとなきに、「講師(こうじ)御座(おは)しにたり」と、立ち騒(さわ)ぎののしりしほどに、かきさましてしかば、いと口惜(くちを)しく、こと果(は)てなむに、人つけて、家はいづこぞと、見せむと思(おも)ひしも、講(こう)のなからばかりがほどに、そのこととなく、とよみとて、かいののしり出(い)で来(き)て、居(ゐ)こめたりつる人も、皆くづれ出づるほどにまぎれて、いづれともなく見まぎらはしてし口惜(くちを)しさこそ。何事(なにごと)よりも、かの夢の聞(き)かまほしさに、居所(ゐどころ)も尋ねさせむとし侍(はべ)りしかども、ひとりびとりをだに、え見つけずなりにしよ。
 まことまこと、帝(みかど)の、母后(ははきさき)の御もとに行幸(みゆき)せさせ給(たま)ひて、御輿(みこし)寄することは、深草(ふかくさ)の御時よりありけることとこそ。それがさきは、降りて乗らせ給(たま)ひけるが、后(きさい)の宮(みや)、「行幸の有様(ありさま)見奉(たてまつ)らむ。ただ寄せて奉(たてまつ)れ」と申(まう)させ給(たま)ひければ、そのたび、さて御座(おは)しましけるより、今は寄せて乗らせ給(たま)ふとぞ。
 後日物語(二の舞の翁の物語)
 皇后宮(くわうごうぐうの)大夫殿(だいぶどの)書きつがはれたる夢なり。
 この年頃(としごろ)聞(き)けば、百日・千日の講(こう)行(おこな)はぬ家々なし。老いたるも若きも、後(のち)の世(よ)の勤(つと)めをのみ思(おぼ)しまうすめるに、一日の講も行はず、ただつらつらといたづらに起(お)き臥(ふ)してのみ侍(はべ)る罪ふかさに、ある所の千日の講、卯(う)の時になむ行ふと聞(き)きて参(まゐ)りたりけるに、人々(ひとびと)、所もなく、車もかちの人もありけむ。やや待てど講師(こうじ)見えず。人々のいふを聞(き)けば、「今日の講は、夕(ゆふ)つ方(かた)ぞあらむ」などいふに、帰らむも罪得がましく思(おも)ふに、百歳(ももとせ)ばかりにやあらむと見ゆる翁(おきな)の居(ゐ)たるかたはらに、法師の同じほどに見ゆる、人の中(なか)を分(わ)けてきて、この翁に、
《僧》「いとかしこく見奉(たてまつ)りつけて、あながちに参(まゐ)りつるなり。そもそも御前(おまへ)は、ひととせ世継(よつぎ)の菩提講(ぼだいこう)にて物語(ものがたり)し給(たま)ひし、あながちに居寄(ゐよ)りて、あどうち給(たま)ひしと見奉(たてまつ)るは、老法師(おいほふし)の僻目(ひがめ)か」
といへば、男(おとこ)、
「さもや侍(はべ)りけむ」といふ。
《僧》「これはいで、興(きよう)ありて。その世継には、またや会(あ)ひ給(たま)へりし」といへば、
《翁》「後三条院(ごさんでうゐん)生れさせ給(たま)ひてなむ、会(あ)ひて侍(はべ)りし」といへば、「さてさていかなることか申(まう)されけむ。そのかみごろも、耳もおよばず承(うけたまは)り思う給(たま)へし。その後(のち)さまざま興(きよう)あることも侍(はべ)るを、聞(き)かせ給(たま)ひけむ。誠(まこと)に今の世
のこと、とりそへて宣(のたま)はせよ。あはれ、幾歳(いくとせ)にななり給(たま)ひ侍(はべ)りぬらむ」といへば、
《翁》「二の舞(まひ)の翁(おきな)にてこそは侍(はべ)らめ。さはあれど、聞(き)かむと思(おぼ)し召(め)さば、すこぶる申(まう)し侍(はべ)らむ。まづ、その年、万寿(まんじゆ)二年乙(きのと)の丑(うし)の年、今年己(つちのと)の亥(ゐ)の年とや申(まう)す。八十三年にこそ、なりにて侍(はべ)りけれ。いでや、なにばかり見聞(き)きたることの情(なさけ)も侍(はべ)らず。かの世継の申(まう)されしことも、耳にとどまるやうにも侍(はべ)らざりき」といへば、法師、
 「いでいで、さりとも八十三年の功徳(くどく)の林(はやし)とは、今日の講(こう)を申(まう)すべきなめり。今も昔もしかぞ侍(はべ)りし。二の舞の翁、
物まねびの翁、僧(そう)らが申(まう)さむことを、正教(しやうげう)になずらへて、誰(たれ)も聞(きこ)し召(め)せ」といへば、翁、
 「聞し召(め)し所(どころ)も侍(はべ)るまじけれど、かくせちにすすめ給(たま)へば、今はのきざみに、痴(をこ)のものに笑はれ奉(たてまつ)るべきにこそ。見聞(き)き侍(はべ)りしは、後一条院(ごいちでうゐん)、長元(ちやうげん)九年四月十七日失(う)せさせ給(たま)へる。天下(てんか)をしろしめすこと、二十一年。そのほど、いらなく悲しきこと多く侍(はべ)りき。中宮(ちゆうぐう)はやがて思(おぼ)し召(め)し嘆きて、同じ年の九月六日失(う)せさせ給(たま)ひにし。上東門院(じやうとうもんゐん)思(おぼ)し召(め)し嘆きしかど、これにも後(おく)れ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひて、一品(いつぽん)の宮(みや)・前斎院(さきのさいゐん)をこそは、かしづき奉(たてまつ)らせ給(たま)ひしか。院の御葬送(おほんさうそう)の夜(よ)ぞかし、常陸国(ひたちのくに)の百姓とかや、
  かけまくもかしこぎ君が雲のうへに煙(けぶり)かからむ物(もの)とやは見し W
 五月ばかり、郭公(ほととぎす)を聞(きこ)し召(め)して、女院(にようゐん)、
   一言(ひとこと)を君に告げなむほととぎすこのさみだれは闇(やみ)にまどふと W
この御思(おほんおも)ひに、源(げん)中納言顕基(あきもと)の君(きみ)出家(すけ)し給(たま)ひて後(のち)、女院に申(まう)し給(たま)へりし、
   身を捨てて宿を出(い)でにし身なれどもなほ恋しきは昔なりけり W
御返し、
   時の間も恋しきことのなぐさまば世はふたたびもそむかれなまし W
その時は、斯様(かやう)なること多く聞え侍(はべ)りしかど、数々(かずかず)申(まう)すべきならず。
後朱雀院(ごすざくゐん)位につかせ給(たま)うて、さはいへど、はなやかにめでたく世にもてなされて、しばしこそあれ、一(いち)の宮(みや)の方にゐさせ給(たま)ふ一品(いつぽん)の宮(みや)、后(きさき)にたたせ給(たま)ふ。後三条院(ごさんでうゐん)生れさせ給(たま)ひにしかば、さればこそ、昔の夢はむなしかりけりや。「なからむ末伝へさせ給(たま)ふべき君に御座(おは)します」とぞ、世継申(まう)されし。今后(いまきさき)、弘徽殿(こきでん)に御座(おは)しまし、春宮(とうぐう)、梅壷(うめつぼ)に御座(おは)しまして、先帝(せんだい)の一品(いつぽん)の宮、春宮(とうぐう)に参(まゐ)らせ給(たま)ひて、藤壷(ふぢつぼ)に御座(おは)しまして、女院入らせ給(たま)ひて、ひとつにおほし奉(たてまつ)らせ給(たま)へる宮たち、いづれともおぼつかなからず見奉(たてまつ)らせ給(たま)ふめでたさに、故(こ)院(ゐん)の御座(おは)しまさぬ嘆き、尽(つ)きせず思(おぼ)し召(め)したりけり。
関白(くわんばく)殿に養ひ奉(たてまつ)らせ給(たま)ひし、故(こ)式部卿(しきぶきやう)の宮(みや)の姫君(ひめぎみ)、内(うち)に参(まゐ)らせ給(たま)ひて、弘徽殿(こきでん)に御座(おは)しますべしとて、かねて后(きさい)の宮(みや)出(い)でさせ給(たま)ひしこそ、いかに安(やす)からず思(おぼ)し召(め)すらむと、世の人、悩みまうししか。明日まかでさせ給(たま)はむとて、上(うへ)にのぼらせ給(たま)ひて、帝(みかど)いかが申(まう)させ給(たま)ひけむ、宮、
  今はただ雲居(くもゐ)の月をながめつつめぐりあふべきほども知(し)られず W
この宮に女宮(をんなみや)二所(ふたところ)御座(おは)します。斎宮(さいぐう)・斎院(さいゐん)にゐさせ給(たま)うて、いとつれづれに、宮たち恋しく、世もすさまじく思(おぼ)し召(め)すに、五月五日に、内(うち)より、
  もろともにかけし菖蒲(あやめ)のねを絶えてさらにこひぢにまどふ頃かな W
御返し、
  かたがたにひき別れつつあやめ草あらぬねをやはかけむと思(おも)ひし W
殿(との)の御もてなし、かたはらいたくわづらはしくて、ひさしく入らせ給(たま)はず。されど、この宮御座(おは)しますこそは、たのもしきことなれど、今の宮に男皇子(をとこみこ)うみ奉(たてまつ)り給(たま)ひてば、うたがひなき儲(まうけ)の君(きみ)と思(おぼ)し召(め)したる、ことわりなり。よき女房(にようばう)多く、出羽(いでは)・少将(せうしやう)・小弁(こべん)・小侍従(こじじゆう)などいひて、手書き・歌よみなど、はなやかにていみじうて、候(さぶら)はせ給(たま)ふ」
  ― 終 ―