増鏡 尾張徳川家本
岩波文庫 増鏡 和田英松 校訂 岩波書店
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増鏡 上巻 〔序〕
二月の中の五日は、鶴の林に薪尽きにし日なれば、彼の如来二伝の御形見の睦ましさに、嵯峨の清涼寺に詣でて、常在霊鷲山など心の内に唱へて、拝み奉る。傍らに、八十にもや余りぬらんと見ゆる尼一人、鳩の杖に掛かりて参れり。とばかり有りて、「猛く思ひ立ちつれど、いと腰痛くて堪へ難し。今宵は、此の局に打ち休みなん。坊へ行きて御燈の事など言へ」とて、具したる若き女房の、つきづきしき程なるをば、返しぬめり。「釈迦牟尼仏」と度々申して、夕日の花やかに差し入りたるを打ち見遣りて、「あはれにも山の端近く傾きぬめる日影かな。我が身の上の心地こそすれ」とて、寄り居たる気色、何と無く艶めかしく、心有らんかしと見ゆれば、近く寄りて、「何処より詣で給へるぞ。有りつる人の帰り来ん程、御伽せんは如何」など言へば、「此の渡り近く侍れど、年の積もりにや、いと遙けき心地し侍る、あはれになん」と言ふ。「さても、幾つにか成り給ふらん」と問へば、「いさ。よくも我ながら思ひ給へ別れぬ程になん。百年にもこよなく余り侍りぬらん。来し方行く先、例も有り難かりし世の騒ぎにも、此の御寺ばかり、恙なく御座します。猶、止む事無き
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如来の御光なりかし」など言ふも、古代にみやびやかなり。年の程など聞くも、珍しき心地して、斯かる人こそ昔物語もすなれと、思ひ出でられて、まめやかに語らひつつ、「昔の事の聞かまほしき儘に、年の積もりたらん人もがなと思ひ給ふるに、嬉しき業かな。少し宣はせよ。自づから古き歌など書き置きたる物の片端見るだに、其の世にあへる心地するぞかし」と言へば、〔打ち〕すげみたる口打ちほほゑみて、「いかでか聞こえん。若かりし世に見聞き侍りし事は、ここらの年頃に、むばたまの夢ばかりだに無くおぼほれて、何のわきまへか侍らん」とは言ひながら、けしうは有らず、あへなんと思へる気色なれば、いよいよ言ひはやして、「彼の雲林院の菩提講に参りあへりし翁の言の葉をこそ、仮名の日本紀にはすめれ。又彼の世継が孫とか言ひし、つくも髪の物語も、人のもてあつかひ草になれるは、御有様の様なる人にこそ有りけめ。猶宣へ」など賺せば、さは心得べかめれど、いよいよ口すげみがちにて、「其のかみは、げに人の齢も高く機も強かりければ、それに従ひて、魂も明らかにてや、しか聞こえ尽くしけむ。あさましき身は、徒らなる年のみ積もれるばかりにて、昨日今日と言ふばかりの事だに、目も耳もおぼろになりにて侍れば、ましていと怪しき僻事共にこそは侍らめ。そも然様に御覧じ集めける古言共は、如何にぞ」と言ふ。「いさ。只おろおろ見及びし者共は、水鏡と言ふにや。神武天皇の御代より、
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いとあららかにしるせり。其の次には、大鏡、文徳の古より、後一条の御門まで侍りしにや。又世継とか、四十帖の草子にて、延喜より堀川の先帝まで、少し細やかなめる。又某の大臣の書き給へると聞き侍りし今鏡に、後一条より高倉院まで有りしなめり。誠や、いや世継は、隆信の朝臣の、後鳥羽院の位の御程までをしるしたりとぞ見え侍りし。其の後の事なん、〔いと〕おぼつかなくなりにける。覚え給へらん所々までも宣へ。今宵誰も御伽せん。斯かる人に会ひ奉れるも、然るべき御契有らん物ぞ」など語らへば、「其のかみの事は、いみじうたどたどしけれど、誠に事の続きを聞こえざらんもおぼつかなかるべければ、たえだえに少しなん。僻事ぞ多からんかし。そは差し直し給へ。いといと傍らいたき業にも侍るべきかな。彼の古言共に、なぞらへ給ふまじうなん」とて、おろかなる心や見えん増鏡古き姿に立ちは及ばでとわななかし出でたるもにくからず、いと古代なり。「さらば、今宣はん事をも、又書きしるして、彼の昔の面影にひとしからんとこそは思すめれ」といらへて、今も又昔を書けば増鏡ふりぬる代々の跡に重ねん
第一 おどろのした
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御門始まり給ひてより八十二代にあたりて、後鳥羽院と申す御座しましき。御諱は尊成、これは高倉院第四の御子、御母七条院と申しき。修理大夫信隆の主の娘也。高倉院位の御時、后の宮〈 建礼門院 〉の御方に、兵衛の督の君とて仕られし程に、忍びて御覧じ放たずや有りけん、治承四年七月十五日生まれさせ給ふ。其の年の春の頃、建礼門院后の宮と聞こえし御腹の第一の御子〈 安徳天皇 〉、三つに成り給ふに位を譲りて、御門は降り給ひにしかば、平家の一族のみいよいよ時の花をかざし添へて、花やかなりし世なれば、掲焉にももてなされ給はず。又の年養和元年正月十四日、院さへ隠れさせ給ひしかば、いよいよ位などの御望み有るべくも御座しまさざりしを、彼の新帝平家の人々にひかされて、遙かなる西の海にさすらへ給ひにし後、後白河法皇、御孫の宮達渡し聞こえて見奉り給ふ時、三の宮を次第の儘にて思されけるに、法皇をいといたう嫌ひ奉りて、泣き給ひければ、「あなむつかし」とて、率て放ち給ひて、「四の宮此処にいませ」と宣ふに、やがて御膝の上に抱かれ奉りて、いと睦ましげなる御気色なれば、「これこそ誠の孫に御座しけれ。故院の児生ひにも、まみなど覚え給へり。いとらうたし」とて、寿永二年八月二十日、御年四つにて位につかせ給ひけり。内侍所・神璽・宝剣は、譲位の時必ず渡る事なれど、先帝筑紫へ率て御座しにければ、こたみ初めて三種の神器無くて、
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珍しき例に成りぬべし。後にぞ内侍所・しるしの御箱ばかり帰り上りにけれど、宝剣は遂に、先帝の海に入り給ふ時、御身に添へて沈みたるこそ、いと口惜しけれ。かくて此の御門、元暦元年七月二十八日御即位、其の程の事、常の儘なるべし。平家の人々、未だ筑紫にただよひて、先帝と聞こゆるも御兄なれば、彼処に伝へ聞く人々の心地、上下さこそは有りけめ、思ひ遣られて、いと忝し。同年十月二十五日御禊、十一月十八日に大嘗会なり。主基方の御屏風の歌、兼光の中納言と言ふ人、丹波国長田村とかやを、
神世より今日の為とや八束穂に長田の稲のしなひ初めけむ
御門いとおよすげて賢く御座しませば、法皇もいみじう美しと思さる。文治二年十二月一日、御書始めせさせ給ふ。御年七つなり。同じ六年、女御参り給ふ。月輪の関白殿兼実の御娘なり。后立有りき。後には宜秋門院と聞こえし御事なり。此の御腹に、春花門院と聞こえ〔給ひ〕し姫宮ばかり御座しましき。建久二年正月三日、十一にて御元服し給ふ。同じき三年三月十三日、法皇隠れさせ給ひにし後は、御門偏に世を知ろし召して、四方の海波静に、吹く風も枝をならさず、世治まり民安うして、あまねき御うつくしびの波、秋津島の外まで流れ、繁き御恵み、筑波山のかげよりも深し。万の道々に明らけく
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御座しませば、国に才有る人多く、昔に恥ぢぬ御世にぞ有りける。中にも、敷島の道なん、勝れさせ給ひける。御歌数知らず人の口に有る中にも、
奥山のおどろの下を踏み分けて道有る世ぞと人に知らせん
と侍るこそ、〔政大事と思されける程しるく聞こえて、〕いといみじう止む事無くは侍れ。建久九年正月、第一の御子四つになり給ふに、御位譲り申させ給ひて、降り居給ふ。位に御座しますこと十五年なり。今日明日、二十ばかりの御齢にて、いとまだしかるべき御事なれど、万所せき御有様よりは、中々安らかに、御幸など御心の儘ならんとにや。世を知ろし召す事は今も変はらねば、いとめでたし。鳥羽殿・白河殿なども修理せさせ給ひて、常に渡り住ませ給へど、猶又水無瀬と言ふ所に、えも言はず面白き院づくりして、しばしば通ひ御座しましつつ、春秋の花紅葉につけても、御心行く限り世を響かして、遊びをのみぞし給ふ。所がらも、遙々と川にのぞめる眺望、いと面白くなむ。元久の頃、詩に歌を合はせられしにも、取りわきてこそは、
見渡せば山もとかすむ水無瀬川夕は秋と何思ひけむ
かやぶきの廊・渡殿など、遙々と艶にをかしうせさせ給へり。御前の山より滝落とされて、石のたたずまひ、苔深き深山木に枝に差しかはしたる庭の小松も、げに千世を込めたる霞の洞なり。前栽つくろはせ給へる頃、人々数多召して、御遊びなど有りける後、定家の中納言、未だ
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下臈なりし時、奉られける。
有りへけむもとの千年にふりもせで我が君契る千世の若松
君が代にせき入るる庭を行く水の岩越す数は千世も見えけり
今の御門の御諱は為仁と申しき。御母は能円法印と言ふ人の娘、宰相の君とて仕られける程に、此の御門生まれさせ給ひて後には、内大臣通親の御子になり給ひて、末には承明門院と聞こえき。彼の大臣の北の方の腹にて御座しければ、もとより後の親なるに、御幸ひさへ引き出で給ひしかば、誠の御娘に変はらず。此の御門もやがて彼の殿にぞ養ひ奉らせ給ひける。かくて、建久九年三月三日御即位、十月二十七日御禊、十一月は例の大嘗会、元久二年正月三日御冠し給ひ、いと艶めかしく美しげにぞ御座します。御本性も、父の御門よりは、少しぬるく御座しましけれど、情け深う、物のあはれなど聞こし召しすぐさずぞ有りける。今の摂政は、院の御時の関白〈 普賢寺殿基通 〉の大臣。其の後は後京極殿良経と聞こえ給ひし、いと久しく御座しき。此の大臣はいみじき歌の聖にて、院の上同じ御心に、和歌の道をぞ申し行はせ給ひける。文治の頃、千載集有りしかど、院未だきびはに御座しまししかばにや、御製も見えざめるを当代位の御程に、又集めさせ給ふ。土御門の内の大臣の二郎君右衛門督通具と言ふ人を始めにて、有家の三位・定家の中将・
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家隆・雅経などに宣はせて、昔より今までの歌を、広く集めらる。各奉れる歌を、院の御前にて、自ら磨き整へさせ給ふ様、いと珍しく面白し。此の時も、先に聞こえつる摂政殿、取り持ちて行はせ給ふ。大方、古奈良の御門の御代に、はじめて、右大臣橘の朝臣勅を承りて、万葉集を撰びしより此の方、延喜の聖の御時の古今集、友則・貫之・躬恒・忠岑。天暦の賢かりし御代にも、一条の摂政殿謙徳公、未だ蔵人の少将など聞こえける頃、和歌所の別当とかやにて、梨壺の五人に仰せられて、後撰集は集められけるとぞ、ひが聞きにや侍らん。其の後、拾遺抄は、花山の法皇の自ら撰ばせ給へるとぞ。白河院の位の御時は、後拾遺集は、通俊の治部卿承る。崇徳院の詞花集は、顕輔の三位撰ぶ。又、白河院降り居させ給ひて後、金葉集重ねて俊頼の朝臣に仰せて撰ばせ給ひしこそ、初め奏したりけるに、輔仁の親王の御名乗りを書きたる。悪しとて返され、又奉るにも、何事とかや有りて、三度奏して後こそ納まりにけれ。斯様の例も、自づからの事なり。押しなべては、撰者の儘にて侍るなれど、こたみは、院の上自ら、和歌の浦に降り立ちあさらせ給へば、誠に心異なるべし。此の撰集より先に、千五百番の歌合せさせ給ひしにも、勝れたる限りを撰ばせ給ひて、其の道の聖達判じけるに、やがて院も加はらせ給ひながら、猶此のなみには立ち及び難しと卑下せさせ給ひて、
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判の言葉をばしるされず、御歌にて優り劣れる志ばかりをあらはし給へる、中々いと艶に侍りけり。上の其の道を得給へれば、下も自づから時を知る習ひにや、男も女も、此の御世にあたりて、良き歌よみ多く聞こえ侍りし中に、宮内卿の君と言ひしは、村上の帝の御後に、俊房の左の大臣と聞こえし人の御末なれば、早うはあて人なれど、官浅くて打ち続き、四位ばかりにて失せにし人の子也。まだいと若き齢にて、そこひも無く深き心ばへをのみ詠みしこそ、いと有り難く侍りけれ。此の千五百番の歌合の時、院の上宣ふやう、「こたみは、皆世に許りたる古き道の者共なり。宮内はまだ然るべけれども、けしうは有らずと見ゆめればなん。構へてまろが面起こすばかり、良き歌仕れ」と仰せらるるに、面打ち赤めて、涙ぐみて候ひける気色、限り無き好きの程、あはれにぞ見えける。さて其の御百首の歌、いづれもとりどりなる中に、
薄く濃く野辺の緑の若草に跡まで見ゆる雪の村消え
草の緑の濃き薄き色にて、去年の古雪遅く疾く消えける程を、推し量りたる心ばへなど、まだしからん人は、いと思ひ寄り難くや。此の人、年積もるまで有らましかば、げに如何ばかり、目に見えぬ鬼神をも動かしなましに、若くて失せにし、いといとほしくあたらしくなん。かくて、此の度撰ばれたるをば、新古今と言ふなり。元久二年三月二十六日、竟宴と言ふ事、春日殿にて行は
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せ給ふ。いみじき世の響きなり。彼の延喜の昔思しよそへ〔られ〕て、院の御製、
石の上古きを今に並べこし昔の跡を又尋ねつつ
摂政殿良経の大臣、
敷島や大和言の葉海にして拾ひし玉は磨かれにけり
次々、順流るめりしかど、さのみはうるさくてなん。何と無く明け暮れて、承元二年にもなりぬ。十二月二十五日、二の宮御冠し給ふ。修明門院の御腹なり。此の御子を、院限り無く愛しき物に思ひ聞こえさせ給ひつれば、二無く清らを尽くし、いつくしうもてかしづき奉り給ふ事斜ならず。遂に同じ四年十一月に、御位に即き奉り給ふ。もとの御門、今年こそ十六にならせ給へば、未だ遙かなるべき御盛りに、斯かるを、いとあかずあはれに思されたり。永治の昔、鳥羽法皇、崇徳院の御心もゆかぬに下ろし聞こえて、近衛院をすゑ奉り給ひし時は、御門いみじうしぶらせ給ひて、其の夜になるまで、勅使を度々奉らせ給ひつつ、内侍所・剣璽などをも渡し兼ねさせ給へりしぞかし。さて其の御憤りの末にてこそ、保元の乱れも引き出で給へりしを、此の御門は、いとあてにおほどかなる御本性にて、思しむすぼほれぬには有らねども、気色にも漏し給はず。世にもいと敢へ無き事に思ひ申しけり。承明門院などは、まいて、
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いと胸痛く思されけり。其の年の十二月に、太上天皇の尊号有りて、新院と聞こゆれば、父の御門をば、今は本院と申す。猶、御政は変はらず。今の御門は十四になり給ふ。御諱守成と聞こえしにや。建暦二年十一月十三日、大嘗会なり。新院の御時も仕られたりし資実の中納言に、此の度も悠紀方の御屏風の歌召さる。長楽山、
菅の根のながらの山の峰の松吹きくる風も万代の声
斯様の事は、皆人の知ろし召したらん。こと新しく聞こえなすこそ、老いの僻事ならめ。此の御世には、いと掲焉なる事多く、所々の行幸繁く、好ましき様なり。建保二年、春日社に行幸有りしこそ、有り難き程いどみ尽くし、面白うも侍りけれ。さて其の又の年、御百首歌よませ給ひけるに、去年の事思し出でて、内の御製、
春日山こぞのやよひの花の香に染めし心は神ぞ知るらん
御心ばへ、新院よりも少しかどめいて、あざやかにぞ御座しましける。御才も、やまともろこし兼ねて、いと止む事無く物し給ふ。朝夕の御営みは、和歌の道にてぞ侍りける。末の世に、八雲など言ふ物作らせ給へるも、此の御門の御事なり。摂政殿の姫君参り給ひて、いと花やかにめでたし。此の御腹に、建保六年十月十日、一の御子生まれ給へり。いよいよ物合ひたる心地して、世の中ゆすりみちたり。十一月二十一日、やがて親王に
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成し奉り給ひて、同じ二十六日、坊に居給ふ。未だ御五十日だに聞こし召さぬに、いちはやき御もてなし、珍かなり。心もと無く思ほされければなるべし。今一入、世の中めでたく、定まり果てぬる様なり。新院は、いでやと思さるらんかし。かくて院の上も、ややもすれば水無瀬殿にのみ渡らせ給ひて、琴笛の音につけ、花紅葉の折々にふれて、万の遊び業をのみ尽くしつつ、御心行く様にて過ごさせ給ふ。誠に万世も尽きすまじき御世の栄え、次々今よりいと頼もしげにぞ見えさせ給ふ。御囲碁うたせ給ふついでに、若き殿上人共召して、此彼心のひきひきに、いどみ争はせさせ給へば、あるは小弓・双六など言ふ事まで、思ひ思ひに勝負をさうどきあへるも、いとをかしう御覧じて、様々の興ある賭物共取う出させ給ふとて、某の中将を御使ひにて、修明門院の御方へ、「何にても、男共に賜はせぬべからん賭物」と申されたるに、取り敢へず、小さき唐櫃の金物したるが、いと重らかなるを、参らせられたり。此の御使ひの上人、何ならんと、いといぶかしくて、片端ほのあけて見るに銭なり。いと心得ずなりて、さと面打ち赤みて、あさましと思へる気色しるきを、院御覧じおこせて、「朝臣こそ、むげに口惜しくは有りけれ。かばかりの事、知らぬ様やはある。古より、殿上の賭弓と言ふ事には、これをこそ賭物にせしか。然れば、今、賭物と聞こえたるに、これをしも出だされたるなむ、古
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の事知り給へるこそ、いたき業なれ」とほほゑみて宣ふに、「さは悪しく思ひけり」と、心地騒ぎて覚ゆべし。大方、此の院の上は、万の事に至り深く、御心も花やかに、物に詳しうなどぞ御座しましける。夏の頃、水無瀬殿の釣殿に出でさせ給ひて、氷水召して、水飯様の物など、若き上達部・殿上人共に賜はせて、大御酒参るついでにも、「あはれ、古の紫式部こそいみじくは有りけれ。彼の源氏の物語にも、「近き川の鮎、西川より奉れるいしぶし様の物、御前にて調じて」と書けるなむ、勝れてめでたきぞとよ。只今然様の料理仕りてんや」など宣ふを、秦の某とか言ふ御随身、勾欄のもと近く候ひけるが、承りて、池の汀なる篠を少し敷きて、白き米を水に洗ひて奉れり。「拾はば消えなん」とにや。これもけしかる業かな」とて、御衣ぬぎてかづけさせ給ふ。御土器度々聞こし召す。其の道にも、いとはしたなう物し給ふ。何事も愛敬づき、めでたく見えさせ給ふ御有様、千年経とも飽く世あるまじかめり。又、清撰の御歌合とて、限り無く磨かせ給ひしも、水無瀬殿にての事なりしにや。当座に衆議判なれば、人々の心地、いとど置き所無かりけむかし。建保二年七月の頃、勝れたる限りぬき出で給ふめりしかば、いづれかおろかならん。中にもいみじかりし事は、第七番に、左、院の御歌、
明石潟浦路晴れ行く朝なぎに霧に漕ぎ入る海士の釣舟
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と有りしに、北面の中に、藤原秀能とて、年頃も此の道に許りたるすき物なれば、召し加へらるる事常の事なれど、止む事無き人々の歌だにも、あるは一首二首三首には過ぎざりしに、此の秀能九首まで召されて、しかも院の御かたてに参る。さて有りつる海士の釣舟の御歌の右に、
契りおきし山の木の葉の下紅葉染めし頃にも[B 「にも」に「もにイ」と傍書]秋風ぞ吹く
と詠めりしは、其の身の上に取りて、長き世の面目、何かは有らん、とぞ聞き侍りし。昔の躬恒が、御階のもとに召されて、「弓張としも言ふ事は」と奏して、御衣賜はりしをこそ、いみじき事には言ひ伝ふめれ。又、貫之が家に、枇杷の大臣、魚袋の歌の返し、訪ひに御座したりしをも、道の高名とこそ、日記には書きて侍れ。近き頃は、西行法師ぞ北面の者にて、世にいみじき歌の聖なめりしが、今の代の秀能、ほとほと古きにも立ち勝りてや侍らん。此の度の御歌合、大方、いづれと無く打ち見渡して、勝れたる限りを撰り出でさせ給ひしかば、各むらむらにぞ侍りける。吉水の僧正慈円と聞こえし、又類無き歌聖にていましき。それだに四首ぞ入り給ひにける。さのみは事ながければもらしぬ。此の僧正、世にもいと重く、山の座主にて物し給ふ事も年久しかりし其の程に、止む事無き高名数知らず御座せしかば、崇められ給ふ様も、二無く物し給ひしかど、猶、飽かず思す事や有りけん。院に
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奉られける長歌、
さても如何に鷲のみ山の月の影鶴の林に入りしより経にける年を数ふれば二千年をも過ぎ果てて後の五つの百年になりにけるこそ悲しけれあはれ御法の水泡の消え行く頃になりぬればそれに心を澄ましてぞ我が山川に沈み行く心争ふ法の師は我も我もと青柳のいと所せく乱れきて花も紅葉も散り行けば梢跡無きみ山辺の道に惑ひて過ぎながら一人心をとどむるもかひもなぎさの志賀の浦跡垂れましし日吉のや神のめぐみを頼めども人の願ひをみつかはの流れも浅くなりぬべし峰の聖の住処さえ苔の下にぞ埋もれ行く打ち払ふべき人もがなあなうの花の世の中や春の夢路は空しくて秋の梢を思ふより冬の雪をも誰か問ふかくてや今はあと絶えむと思ふからにくれはとり怪しき夜の我が思ひ消えぬばかりを頼みきて猶さりともと花の香にしひて心を
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筑波山繁き歎きの根を尋ね沈む昔の魂を問ひ救ふ心は深くして勤め行くこそあはれなれ深山の鐘をつくづくと我が君が世を思ふにも峰の松風のどかにて千世に千年をそふる程法のむしろの花の色野にも山にも匂いてぞ人を渡さむはしとしてしばし心をやすむべき遂には如何飛鳥川あすより後や我が立ちし杣のたつきの響きより峰の朝霧晴れのきて曇らぬ空に立ち帰るべき
返歌
さりともと思ふ心ぞ猶深き絶えて絶え行く山川の水
定家の中将、折節御前に候ひければ、此の返しせよとて、さし給はするに、いと疾く書きて、御覧ぜさせけり。
久方の天地ともに限り無き天つ日つぎを誓ひてし神諸共にまもれとて我が立つ杣を祈りつつ昔の人のしめてける峰の杉むら色かへず幾年々を隔つとも八重の白雲ながめ遣る都の春をとなりにて御法の花も
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衰へず匂はん物と思ひおきし末葉の露も定め無きかやが下葉に乱れつつもとの心のそれならぬうきふし繁き呉竹になく音をたつる鴬のふるすは雪にあらしつつ跡絶えぬべき谷がくれこりつむ歎き椎柴のしひて昔にかへされぬ葛のうら葉は恨むとも君は三笠の山高み雲井の空にまじりつつ照日を世々に助けこし星の宿りを振り捨てて一人出でにし鷲の山よにも稀なるあととめて深き流れに結ぶてふ法の清水の底澄みて濁れる世にも濁り無し沼の葦間に影宿す秋の半ばの月なれば猶山の端を行きめぐり空吹く風を仰ぎても空しくなさぬ行く末をみつの川波立ち返り心のやみをはるくべき日吉の御影のどかにて君を祈らん万世に千代を重ねて松が枝を翼にならす鶴の子の譲る齢は和歌の浦や今は玉藻をかきつめて例もなみに磨きおく我が道までも絶えせずば言の葉ごとの色々に後見む人も恋ひざらめかも
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反歌
君を祈る心深くは頼むらん絶えては更に山川の水
新院も、のどかに御座します儘に、御歌をのみ詠ませ給へど、万の事、もて出でぬ御本性にて、人々など集めて、わざとある様をば好ませ給はず。建保の頃、内々百首の御歌詠み給へりしを、家隆の三位、又定家の治部卿のもとなどへ、言ふ甲斐無き児の詠めるとて、遣はして見せられしに、いづれもめでたく様々なる中に、懐旧の御歌に、
秋の色を送り迎へて雲の上になれにし月も物忘れすな
とある所に、定家の君驚き畏まりて、裏書に、「あさましく計られ奉りける事」などしるして、
あかざりし月もさこそは思ふらめ古き涙も忘られぬ世に
と奏せられたり。院も縁有りて御覧ずべし。げに如何御心動かずしも御座しまさむとぞ、〔其の〕世の事忝くなむ。今も少し、世の中隔たれる様にてのみ御座しますこそ、いといとほしき御有様なめれとぞ。
増鏡 尾張徳川家本
第二 新島守
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猛き武士の起こりを尋ぬれば、古の田村、利仁など言ひけん将軍共の事は、耳遠ければ差し置きぬ。其のかみより今まで、源平の二流れぞ、時により折に従ひて、公の御守りとは成りにける。桓武天皇と聞こえし御門をば、柏原とも申しけり。其の御子に式部卿の親王と聞こえしより五代の末に、平将軍貞盛と言ふ人、維衡・維時とて、二人の子を持たりけり。間近く栄えし西八条の清盛の大臣は、彼の太郎維衡より六代の末なりき。其の一つ門亡びしかば、此の頃は、僅かにあるか無きかにぞ、さまよふめる。さて彼の維時が名残は、ひたすら民と成りて、平四郎時政と言ふ者のみぞ、伊豆の国北条の郡とかやにあめる。それも維時には六代の末なるべし。又源氏武者と言ふも、清和の御門、あるは宇多院などの御後共なり。二条院の御時、平治の乱れに、伊豆の国蛭が島へ流されし兵衛佐頼朝は、清和の御門より八代の流れ、六条の判官為義と言ひし者の孫なり。左馬頭義朝が三郎になむ有りける。西八条の入道大臣、漸う栄花衰へんとて、後白河院を悩まし奉りしかば、安からず思ほされて、彼の頼朝を召し出でて、軍を起し給ひしに、然るべき時や至りけむ、平家の人々は、寿永の秋の木枯しに散り果てて、遂にわたつ海の底のもくづと沈みにし後、いよいよ頼朝権を施して、更に君の御後見を仕る。相模の国鎌倉の里と言ふ所に居りながら、世をば掌の中に思ひき。皆人知り給へる事なれば、今更に申すも中々なれど、院の上、位につか
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せ給ひし始めより、世の固めと成りて、文治元年四月、二の階を上りしも、八島の内の大臣宗盛を生捕りの賞と聞こえき。建久の初めつ方、都に上る。其の勢ひのいかめしき事、言へば更なり。道すがら遊び者共参る。遠江の国橋本の宿に着きたるに、例の遊女、多くえも言はず装束きて参れり。頼朝打ちほほゑみて、
橋本の君に何をか渡すべき
と言へば、梶原平三影時と言ふ武士、取り敢へず、
只杣山のくれで有らばや W
いとあいだちなしや。馬鞍紺括り物など運び出でて引けば、喜び騒ぐ事限り無し。其の年十一月九日、権大納言になされて、右近大将を兼ねたり。十二月の一日頃、喜び申しして、同じき四日、やがて官をば返し奉る。此の時ぞ、諸国の総追捕使と言ふ事承りて、地頭職に、我が家の兵共をなし集めける。此の日本国の衰ふる初めは、是よりなるべし。さて東に帰り下る頃、上下色々のぬさ多かりし中に、年頃も祈りなどし給ひし吉水の僧正、彼の長歌の座主、宣ひ遣はしける。
東路の方に勿来の関の名は君を都に住めとなりけり W
御返し、頼朝、
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都には君に相坂近ければ勿来の関は遠きとを知れ W
其の後も、又上りて、東大寺の供養にも詣でたりき。かくて新院御位の初めつ方、正治元年正月、東にて頭下ろして、同じ十三日に、年五十三にて隠れにけり。治承四年より天の下に用ゐられて、二十年ばかりや過ぎぬらん。北の方は、先に聞こえつる北条の四郎時政が娘なり。其の腹に男二人有り。太郎をば頼家と言ふ。弟をば実朝と聞こゆ。大将隠れて後、兄はやがて立ち継ぎて、建仁元年六月二十二日従二位、同じ日、将軍の宣旨を賜はる。又の年、左衛門督になさる。かかれども、少し落ち居ぬ心ばへなど有りて、漸う兵も背き背きにぞ成りにける。時政は遠江守と言ひて、故大将の有りし時より私の後見なりしを、まいて今は孫の世なれば、いよいよ身重く勢ひそふ事限り無くて、うけばりたる様なり。子二人有り。太郎は宗時と言ふ。二郎義時と言ふは、心も猛く魂勝れるが、左衛門督をばふさはしからず思ひて、弟の実朝の君に付き従ひて、思ひかまふる事なども有りけり。督は、日に添へて人にも背けられ行くに、いといみじき病をさへして、建仁三年九月十六日、年二十二にて頭下ろす。世の中残り多く、何事もあたらしかるべき程なれば、さこそ口惜しかりけめ。幼き子の一万と言ふにぞ、世をば譲りけれど、うけひく者無し。入道は、彼の病つくろはんとて、鎌倉より伊豆の国へ出で湯あびに越えたりける
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程に、彼処の修善寺と言ふ所にて、遂に討たれぬ。一万もやがて失はれけり。是は、実朝と義時と、一つ心にてたばかりけるなるべし。さて、今は偏に、実朝、故大将の跡をうけ継ぎて、官・位とどこほる事無く、万心の儘なり。建保元年二月二十七日、正二位せしは、閑院の内裏作れる賞とぞ聞き侍りし。同じ六年、権大納言に成りて、左大将を兼ねたり。左馬寮をさへぞ付けられける。其の年やがて内大臣に成りても、猶大将ももとの儘なり。父にもやや立ち勝りていみじかりき。此の大臣は、大方、心ばへうるはしく、猛くもやさしくも、万目安ければ、理にも過ぎて、武士の靡き従ふ様も代々に越えたり。如何なる時にか有りけむ、
山はさけ海はあせなん世なりとも君に二心我が有らめやも W
とぞ詠みける。時政は建保三年隠れにしかば、義時は跡を継ぎけり。故左衛門督の子にて公暁と言ふ大徳有り。親の討たれにし事を、如何でか安き心有らん。如何ならむ時〔に〕かとのみ思ひ渡るに、此の大臣、又右大臣に上がりて、大饗など、珍しく東にて行ふ。京より尊者を始め上達部・殿上人多く訪ひいましけり。さて、鎌倉に移し奉れる八幡の御社に、神拝に詣づる、いといかめしき響きなれば、国々の武士は更にも言はず、都の人々も扈従し〔たり〕けり。立ち騒ぎ罵る者、見る人も多かる中に、彼の大徳、打ち紛れ
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て、女のまねをして、白き薄衣引き折り、大臣の車より降るる程を、差しのぞく様にぞ見えける。あやまたず首を打ち落としぬ。其の程のとよみいみじさ、思ひ遣りぬべし。かく言ふは、承久元年正月二十七日なり。そこら集ひ集まれる者共、只あきれたるより外の事無し。京にも聞こし召し驚く。世の中火を消ちたる様なり。扈従に西園寺の宰相の中将実氏も下り給ひき。さならぬ人々も、泣く泣く袖を絞りてぞ上りける。未だ子も無ければ、立ち継ぐべき人も無し。事鎮まりなん程とて、故大臣の母北の方二位殿と言ふ人、二人の子をも失ひて、涙ほす間も無く、しをれ過ぐすをぞ、将軍に用ゐける。かくてもさのみは如何にて、君達一所下し聞こえて、将軍になし奉らせ給へ」と、公経の大臣に申し上せければ、あへなんと思す所に、九条の左大臣殿の上は、此の大臣の御娘なり。其の御腹の若君、二つに成り給ふを、下し聞こえんと、九条殿宣へば、御孫ならんも同じ事と思し定め給ひぬ。其の年の六月に、東に率て奉る。七月十九日に御座しまし着きぬ。むつきの内の御有様は、只形代などを祝ひたらん様にて、万の事、さながら右京権大夫義時の朝臣心の儘なれど、一の人の御子、将軍に成り給へるは、是ぞ初めなるべき。彼の平家の亡びがた近く、人の夢に、「頼朝が後は、其の御太刀預かるべし」と、春日大明神仰せられけるは、此の今の若君の御事にこそ有りけめ。かくて世を靡かし、
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したため行ふ事も、ほとほと古きには越えたり。まめやかにめざましき事も多く成り行くに、院の上、忍びて思し立つ事あるべし。近く仕る上達部・殿上人、まいて北面の下臈・西面など言ふも、皆此の方にほのめきたるは、あけくれ弓矢兵仗の営みより外の事無し。剣などを御覧じ知る事さへ、如何で習はせ給へるにか、道の者にもやや立ち勝りて、賢く御座しませば、御前にて良きあしきなど定めさせ給ふ。斯様の紛れにて、承久も三年に成りぬ。四月二十日、御門降りさせ給ふ。春宮四つにならせ給ふに譲り申させ給ふ。近頃、皆此の御齢にて受禅有りつれば、是もめでたき御行く末ならんかし。同じ二十三日、院号の定め有りて、今降りさせ給へるを、新院と聞こゆれば、御兄の院をば中の院(ゐん)と申し、父御門をば本院とぞ聞こえさする。此の程は、家実の大臣関白にて御座しつれど、御譲位の時、左大臣道家の大臣、摂政に成り給ふ。彼の東の若君の御父なり。さても院の思し構ふる事、忍ぶとすれど、漸う漏れ聞こえて、東様にも、其の心遣ひすべかんめり。東の代官にて伊賀の判官光季と言ふ者有り。かつがつ彼を御勘事の由仰せらるれば、御方に参る兵共押し寄せたるに、逃がるべきやう無くて、腹切りてけり。先づいとめでたしとぞ、院は思し召しける。東にも、いみじうあわて騒ぐ。「然るべくて身の失すべき時にこそあんなれ」と思ふ物から、
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「討手の攻め来たりなん時に、はかなき様にて屍をさらさじ、公と聞こゆとも、自らし給ふ事ならねば、かつは我が身の宿世をも見るばかり」と思ひ成りて、弟の時房と泰時と言ふ一男と、二人を頭として、雲霞の兵をたなびかせて、都に上す。泰時を前に据ゑて言ふやう、「己を此の度都に参らする事は、思ふ所多し。本意の如く清き死をすべし。人に後ろ見えなんには、親の顔、又見るべからず。今を限りと思へ。賎しけれども、義時、君の御為に後ろめたき心やはある。然れば、横さまの死をせん事はあるべからず。心を猛く思へ。己打ち勝つならば、二度此の足柄・箱根山は越えつべし」など、泣く泣く言ひ聞かす。「誠にしかなり。又親の顔拝まむ事もいと危ふし」と思ひて、泰時も鎧の袖を絞る。形見に今や限りと哀れに心細げなり。かくて打ち出でぬる又の日、思ひ掛けぬ程に、泰時只一人、鞭を上げて馳せ来たり。父、胸打ち騒ぎて、「如何に」と問ふに、「軍のあるべき様、大方の掟などは、仰せの如く其の心を得侍りぬ。もし道の辺にも、計らざるに、忝く鳳輦を先立てて、御旗を上げられ、臨幸の厳重なる事も侍らんに参りあへらば、其の時の進退は如何侍るべからん。此の一事を尋ね申さんとて、一人馳せ侍りき」と言ふ。義時、とばかり打ち案じて、「賢くも問へる男かな。其の事なり。まさに君の御輿に向ひて弓を引く事は、如何有らん。さばかりの時は、兜を脱ぎ弓の弦を切りて、偏に畏まりを
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申して、身を任せ奉るべし。さは有らで、君は都に御座しましながら、軍兵を賜はせば、命を捨てて千人が一人になるまでも戦ふべし」と、言ひも果てぬに急ぎ立ちにけり。都にも思し設けつる事無ければ、武士共召しつどへ、宇治・勢多の橋ひかせて、敵を防くべき用意、心異なり。公経の大将一人のみなむ、御孫の事も然る事にて、北の方は、一条の中納言能保と言ふ人の娘なり。其の母北の方は、故大将のはらからなれば、一方ならず東を重く思して、さしいらへもせず、院の御心の軽き事と、危ながり給ふ。七条院の御縁の殿原、坊門の大納言忠信・尾張の中将清経・中御門の大納言宗家、又修明門院の御はらからの甲斐の宰相の中将範茂など、次々数多聞こゆれど、さのみはしるし難し。軍に交じり立つ人々、此の外上達部にも殿上人にも、数多有りき。御修法共数知らず行はる。止む事無き顕密の高僧も、斯かる時こそ頼もしき業ならめ。各心を致して仕る。御自らもいみじう念ぜさせ給ふ。日吉の社に忍びて詣でさせ給へり。大宮の御前に、夜もすがら御念誦し給ひて、御心の内に、いかめしき願共を立てさせ給ふ。夜少し更け鎮まりて、御社すごく、燈籠の光かすかなる程に、幼き童の臥したりけるが、俄におびえ上がりて、院の御前に只参りに走り参りて、託宣しけり。「忝くもかく渡り御座して、愁へ給へば、聞き過ごし難く侍れど、一とせの輿振りの時、情け無く防がせ
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給ひしかば、衆徒己を恨みて、陣の辺に振り捨て侍りしかば、空しく馬牛の蹄に掛かりし事は、未だ恨めしく思ひ給ふるにより、此の度の御方人は、え仕り侍るまじ。七社の神殿を、黄金白銀に磨きなさんと承るも、もはら受け侍らぬなり」と罵りて、息も絶えぬる様にて臥しぬ。聞こし召す御心地、物に似ずあさましう思さるるに、只御涙のみぞ出で来る。過ぎにし方悔しう取り返さまほし。様々怠り畏まり申させ給ふ。山の御輿防き奉りけん事、必ずしも自ら思し寄るには有らざりけめど、「責め一人に」と言ふらん事にやと、あぢきなし。中の院(ゐん)は、あかで位をすべり給ひしより、言に出でてこそ物し給はねど、世のいと心やましき儘に、斯様の御騒ぎにも、殊にまじらひ給はざめり。新院は、同じ御心にて、万軍の事なども掟仰せられけり。いつの年よりも五月雨晴れ間無くて、富士川・天龍など、えも言はずみなぎり騒ぎて、如何なる龍馬も打ち渡し難ければ、攻め上る武士共も、怪しく悩めり。かかれども、遂に都近づく由、聞こゆれば、君の御武者も出で立つ。其の勢ひ、六万余騎とかや。宇治・勢多へ分かち遣はす。世の中響き罵る様、言の葉も及ばず学び難し。あるは、深き山へ逃げ籠り、遠き世界に落ち下り、すべて安げ無く騒ぎ満〔ち〕たり。「如何有らん」と君も御心乱れて思し惑ふ。予ては猛く見えし人々も、誠の際に成りぬれば、いと心あわただしく、色を失ひたる様共、頼もしげ無し。
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六月二十日余りにや、いくばくの戦ひだに無くて、遂に御方の軍敗れぬ。荒き磯に高潮などの差し来る様にて、泰時と時房と、乱れ入りぬれば、言はん方無くあきれて、上下只物にぞあたり惑ふ。東より言ひおこする儘に、彼の二人の大将軍計らひ掟てつつ、保元の例にや、院の上、都の外に移し奉るべしと聞こゆれば、女院・宮々、所々に思し惑ふ事更なり。本院は隠岐の国に御座しますべければ、先づ鳥羽殿へ、網代車の怪しげなるにて、七月六日入らせ給ふ。今日を限りの御歩き、あさましう哀れなり。「物にもがな」と思さるるも甲斐無し。其の日やがて御髪下ろす。御年四十に一二や余らせ給ふらん。まだいとほしかるべき御程なり。信実の朝臣召して、御姿写しかかせらる。七条院へ奉らせ給はんとなり。かくて、同じ十三日に御船に奉りて、給ふ。遙かなる波路をしのぎ御座します御心地、此の世の同じ御身とも思されず。〔古、〕如何なりける代々の報ひにかと恨めしく、新院も佐渡国に移らせ給ふ。誠や七月九日、御門をも下ろし奉りき。此の卯月かとよ、御譲位とてめでたかりしに、夢の様なる七十余日にて降り給へる例も、是や初めなるらん。唐土にぞ、四十五日とかや位に御座する例有りけると、唐の書読みし人の言ひし心地する。それも斯様の乱れや有りけん。さて上達部・殿上人、それより下はた残り無く、此の事に触れにし類は、重く軽く罪にあたる様、いみじげなり。中の院(ゐん)
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は初めより知し召さぬ事なれば、東にもとがめ申さねど、父の院、遙かに移らせ給ひぬるに、のどかにて都に有らん事、いと恐れ有りと思されて、御心もて、其の年閏十月十日、土佐国の幡多と言ふ所に渡らせ給ひぬ。去年の二月ばかりにや、若宮出で来給へり。承明門院の御兄に、通宗の宰相の中将とて、若くて失せ給ひにし人の娘の御腹なり。やがて、彼の宰相の弟に、通方と言ふ人の家に止め奉り給ひて、近く候ひける北面の下臈一人、召次などばかりぞ、御供仕りける。いと怪しき御手輿にて下らせ給ふ。道すがら雪かき暗し風吹き荒れ吹雪して、来し方行く先も見えず、いと堪へ難きに、御袖もいたく氷りて、わりなき事多かるに、
浮き世にはかかれとてこそ生まれけめ理知らぬ我が涙かな W
せめて近き程にも、東より奏したりければ、後には阿波の国に移らせ給ひにき。さても、此の度世の有様、げにいとうたて口惜しき業なり。あるは、父の王を失ふ例だに、一万八千人まで有りけりとこそ、仏も説き給ひたんめれ。まして、世下りて後、唐土にも〔日の本にも、〕国を争ひて戦ひをなす事、数へ尽くすべからず。それも皆、一節二節の寄せは有りけむ。もしは、筋異なる大臣、さらでも、公ともなるべききざみの、少しの違ひ目に、世に隔たりて、其の恨みの末などより、事起こるなりけり。今のやうに、むげの民と争ひて、君の亡び給へる例、
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此の国には、いと数多も聞こえざめる。然れば、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、いづれも皆猛かりけれども、宣旨には勝たざりき。保元に崇徳院の世を乱り給ひしだに、故院の、御位にて打ち勝ち給ひしかば、天照大神も、御裳濯川の同じ流れと申しながら、猶、時の国王を守り給はする事は、強きなめりとぞ、古き人々も聞こえし。又、信頼の衛門督、おほけなく二条院をおびやかし奉りしも、遂に、空しき屍をぞ、道の辺に捨てられける。かかれば、旧りにし事を思ふにも、猶さりとも、如何でか三皇今上数多御座します皇城の、徒らに亡ぶるやうは有らんと、頼もしくこそ覚えしに、かくいとあや無き業の出で来ぬるは、此の世一つの事にも有らざめども、迷ひの愚かなる前には、猶いと怪し。四つにて位につき給ひて、十五年御座しましき。降り給ひて後も、土佐院十二年・佐渡院十一年、猶天の下は同じ事なりしかば、すべて二十八年か程、此の国の主として、万機の政を御心一つにをさめ、百の官を従へ給へりし其の程、吹く風の草木を靡かすよりも優れる御有様にて、遠きを哀れみ、近きを撫で給ふ御恵み、雨の脚よりも繁ければ、津の国のこやの隙無き政を聞こし召すにも、難波の葦の乱れざらん事を思しき。藐姑射の山の峰の松も、漸う枝を連ねて、千世に八千世を重ね、霞の洞の御すまひ、幾春をへても、空行く月日の限り知らずのどけく御座しましぬべかりつる世を、ありありて、
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由無き一節に、今はかく花の都をさへ立ち別れ、おのがちりぢりにさすらへ、磯の苫屋に軒を並べて、自づから言問ふ者とては、浦に釣する海士小舟、塩焼く煙の靡く方をも、我が故郷のしるべかとばかり、眺め過ごさせ給ふ御住居共は、それまでと月日を限りたらんだに、明日知らぬ世の後ろめたさに、いと心細かるべし。まして、いつを果てとか、めぐりあふべき限りだに無く、雲の波煙の波の幾重とも知らぬさかひに、代を尽くし給ふべき御様共、口惜しと言ふもおろか也。此の御座します所は、人離れ里遠き島の中〔なり。海づら〕よりは少し引き入りて、山陰にかた添へて、大きやかなる巌のそばだてるを便りにて、松の柱に葦葺ける廊など、気色ばかり事そぎたり。誠に、「柴の庵の只しばし」と、仮初に見えたる御宿りなれど、然る方に艶めかしく故づきてしなさせ給へり。水無瀬殿思し出づるも夢のやうになん。遙々と見遣らるる海の眺望、二千里の外も残り無き心地する、今更めきたり。潮風のいとこちたく吹き来るを聞こし召して、
我こそは新島もりよ隠岐の海の荒き波風心して吹け W
同じ世に又すみの江の月や見ん今日こそ余所に隠岐の島守 W
年も返りぬ。所々浦々、哀れなる事をのみ思し歎く。佐渡院、明けくれ御行ひをのみし給ひつつ、猶、さりともと思さる。隠岐には、浦より遠の遙々と霞み渡れる空を眺め入り
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て、過ぎにし方、かき尽くし思ほし出づるに、行方無き御涙のみぞ止まらぬ。
羨まし長き日影の春にあひて潮汲む海士も袖やほすらん W
夏に成りて、茅葺きの軒端に、五月雨の滴いと所せきも、御覧じなれぬ御心地に、様変はりて珍しく思さる。
あやめ吹く茅が軒端に風過ぎてしどろに落つる村雨の露 W
初秋風の立ちて、世の中いとど物悲しく露けさ勝るに、言はん方無く思し乱る。
故郷を別れ路に生ふる葛の葉の秋はくれども帰る世も無し W
たとしへ無く眺めしをれさせ給へる夕暮れに、沖の方に、いと小さき木の葉の浮かべると見えて漕ぎ来るを、海士の釣舟と御覧ずる程に、都よりの御消息なりけり。墨染の御衣、夜の御ふすまなど、都の夜寒さに思ひ遣り聞こえさせ給ひて、七条院より参れる御文、引きあけさせ給ふより、いといみじく、御胸もせきあぐる心地すれば、ややためらひて見給ふに、「あさましく、かくて月日経にける事。今日明日とも知らぬ命の中に、今一度、如何で見奉りてしがな。かくながらは、死出の山路も越え遣るべうも侍らでなん」など、いと多く乱れ書き給へるを、御顔に押し当てて、
たらちねの消え遣らで待つ露の身を風より先に如何で問はまし W
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八百よろづ神も哀れもたらちねの我待ち得んと絶えぬ玉の緒 W
初雁の翼に付けつつ、此処彼処より哀れなる御消息のみ常は奉るを御覧ずるに〔付けても〕、あさましういみじき御涙の催しなり。家隆の二位は、新古今の撰者にも召し加へられ、大方、歌の道に付けて、睦まじく召し使ひし人なれば、夜昼恋ひ聞こゆる事限り無し。彼の伊勢より須磨に参りけんも、かくやと覚ほゆるまで、巻き重ねて書き連ね参らせたり。「和歌所の昔の面影、数々に忘れ難う」など申して、つらき命の今日まで侍る事の恨めしき由など、えも言はず哀れ多くて、
寝覚めして聞かぬを聞きてわびしきは荒磯波の暁の声 W
とあるを、法皇もいみじと思して、御袖いたく絞らせ給ふ。
波間無き隠岐の小島の浜庇久しく成りぬ都隔てて W
木枯の隠岐のそま山吹きしをり荒くしをれて物思ふ頃 W
折々詠ませ給へる御歌共を書き集めて、修明門院へ奉らせ給ふ。其の中に、
水無瀬山我が故郷は荒れぬらむ籬は野らと人も通はで W
かざし折る人も有らばや言問はん隠岐の深山に杉は見ゆれど W
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限りあればさても堪へける身のうさよ民のわら屋に軒を並べて W
斯様の類、すべて多く聞こゆれど、さのみは年の積もりにえなん。今又思ひ出でば、ついで求めてとて。
校註 増鏡
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第三 藤衣
其の頃、いと数まへられ給はぬ古宮御座しけり。守貞の親王とぞ聞えける。高倉院第三の御子也。隠岐の法皇の御兄なれば、思へばやむごとなけれど、昔、後白河の法皇、安徳院の筑紫へ御座しまして後に、見奉らせ給ひける御孫の宮たちえりの時、泣き給ひしによりて、位にも即かせ給はざりしかば、世の中物怨めしきやうにて過ごし給ふ。さびしく人目まれなれば、年を経て荒れまさりつつ、草深く八重むぐらのみさしかためたる宮の中に、いと心細くながめ御座するに、建保の頃、宮の内の女房の夢に、冠したる物あまた参りて、「剣璽を入れ奉るべきに、各用意して候はれよ」といふと見てければ、いと怪しう
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覚えて、宮に語り聞えけれど、「いかでかさ程の事あらん」と、思しもよらで、遂に御髪をさへおろし給ひて、此の世の御望みは絶ち果てぬる心地して物し給へるに、此の乱れ出で来て、一院の御族は、皆様々にさすらへ給ひぬれば、おのづから小さきなど残り給へるも、世にさし放たれて、さりぬべき君も御座しまさぬにより、東よりのおきてにて、彼の入道の親王の御子〈 後堀河院の御事 〉の、十になり給ふを、承久三年七月九日、にはかに御位に即け奉る。父の宮をば太上天皇になし奉りて、法皇と聞ゆ。いとめでたく、横さまの御幸ひ御座しける宮なり。
孫王にて位に即かせ給へる例、光仁天皇より後は絶えて久しかりつるに、珍しくめでたし。其の十二月一日に御即位、明くる年貞応元年正月三日、御元服し給ふ。御諱茂仁と申す。御かたちもなまめかしくあてにぞ御座します。御母、基家の中納言の女、北白河院と申しき。家実の大臣、又摂政になり返らせ給ひて、万おきて宣ふも、様々に引き返したる世なりかし。又の年五月の頃、法皇かくれさせ給ひぬれば、天下皆黒み渡りぬ。上
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も御服奉る。きびはなる御程に、いといみじうあはれなる御事なめり。
前の御門は、四にて廃せられ給ひて、尊号などの沙汰だに無し。御母后東一条院も、山里の御住居にて、いと心細くあはれなる世を、つきせず思し歎く。此の宮は故摂政殿後京極良経の姫君にて物し給へば、歌の道にもいと賢う渡らせ給へど、大方奥深うしめやかに重き御本性にて、はかなき事をも、たやすくもらさせ給はず。御琴なども、限りなき音を引きとり給へれど、をさをさかきたてさせ給ふ世もなく、余りなるまで埋もれたる御もてなしを、佐渡の院も、限りなき御志の中に、飽かずなん思ひ聞えさせ給ひける。彼の遠き御別れの後は、いみじう物をのみ思しくだけつつ、いよいよ沈み臥して御座しますに、古く仕うまつりける女房の、里に篭り居たりけるもとより、あはれなる御消息を聞えて、十月一日の頃、御衣がへの御衣を奉りたりける御返事に、
思ひ出づるころもはかなし我も人も見しにはあらずたどらるる世に
又、御手習ひのついでに、からうじて洩れけるにや、
消えかぬる命ぞつらき同じ世にあるも頼みはかけぬ契を
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さこそは、げに思し乱れけめ。おろかなる契りだに、かかる筋のあはれは浅くやは侍る。いかばかりの御心の中にて過し給ふらんと、いと忝なし。
はかなく明け暮れて、貞応もうち過ぎ、元仁・嘉禄・安貞などいふ年も程なく変はりて、寛喜元年になりぬ。此の程は光明峰寺殿道家又関白にて御座す。此の御娘女御に参り給ふ。世の中めでたく花やかなり。これより先に、三条の太政大臣公房の姫君参り給ひて后だちあり。いみじう時めき給ひしを、おしのけて、前の殿〔家実〕の御女、未だ幼くて御座する、参り給ひにき。これはいたく御覚えもなくて、三条の后の宮、浄土寺とかやに引き篭りて渡らせ給ふに、御消息のみ日に千度といふばかり通ひなどして、世の中すさまじく思されながら、さすがに后だちはありつるを、父の殿摂〓変はり給ひて、今の峰殿〈 道家、東山殿と申しき 〉、なり返り給ひぬれば、又此の姫君入内ありて、もとの中宮はまかで給ひぬ。珍しきが参り給へばとて、などかかうしもあながちならん。唐土には、三千人なども候ひ給ひけるとこそ、伝へ聞くにも、しなじなしからぬ心地すれど、いかなるにかあらん。後には各院号ありて、三条殿の后は安喜門院、中の度参り給ひ
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し殿の女御は、鷹司院とぞ聞えける。今の女御もやがて后だちあり。藤壺わたり今めかしく住みなし給へり。御はらからの姫君も、かたちよく御座するに、引きこめ難しとて、内侍のかみになし奉り給ふ。
同じき三年七月五日、関白をば御太郎教実の大臣に譲り聞え給ひて、我が御身は大殿とて、后の宮の御親なれば、思ひなしもやん事なきに、御子どもさへいみじう栄え給ふ様、例なき程なり。東の将軍、山の座主、三井寺の長吏、山階寺の別当、仁和寺の御室、皆此の殿の君達にて御座すれば、すべて、天下はさながらまじる人少なう見えたり。いとよそほしく重々しげにて、内の御宿直所などに、常はうちとけ候ひ給へば、関白殿、次々の御子どもも大臣などにて、立ち変はり御前に絶えず物し給ひて、世の政事など聞え給ふ。北の方は公経の大臣の御女なれば、まして世の重く靡き奉る様、いとやんごとなし。
誠や、其の年十一月十一日、阿波の院かくれさせ給ひぬ。いとあはれにはかなき御事かな。例ならず思されければ、御髪おろさせ給ひにけり。ここら物をのみ思して、今年は三十七にぞならせ給ひける。今一度、都をも御覧ぜ
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ずなりぬる、いみじう悲しきを、隠岐の小島にも聞こしめし歎く。承明門院は、様々のうき事を見尽して、猶ながらふる命のうとましきに、又かく、同じ世をだに去り給ひぬる御歎きの、いはん方なさに、「など先立たぬ」と、口惜しう思しこがるる様、ことわりにも過ぎたり。かしこにて召使ひける御調度、何くれ、はかなき御手箱やうの物を、都へ人の参らせたりける中に、たまさかに通ひける隠岐よりの御文、女院の御消息などを、一つにとりしたためられたる、いみじうあはれにて、御目もきりふたがる心地し給ふ。家隆の二位の女、小宰相と聞えしは、おのづからけぢかく御覧じなれけるにや、人よりことに思ひ沈みて、御服など黒う染めけり。
うしと見しありし別は藤衣やがて着るべき門出なりけり
今年もはかなく暮れて、貞永元年に成りぬ。定家の中納言承りて、撰集の沙汰ありつるを、此の程御門降りさせ給ふべき由聞ゆればにや、いととく十月二日奏せられける。一年の内に奏せられたる、いとありがたくこそ。新勅撰と聞ゆ。「元久に新古今出で来て後、程なく世の中も引きかへぬるに、又新
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の字うち続きたる、心よからぬ事」など、ささめく人も侍りけるとかや。
さて同じき四日、降り居させ給ふ。御悩み重きによりて也けり。去年の二月、后の宮の御腹に、一の御子出で来給へりしかば、やがて太子に立たせ給ひしぞかし。例の人の口さがなさは、彼の承久の廃帝の、生れさせ給ふとひとしく坊に居給へりしは、いと不用なりしを」などいふめり。上は降りさせ給ひて、其の七日やがて尊号あり。御悩み猶怠らず。大方、世も静かならず。此の三年ばかりは、天変しきり地震ふりなどして、さとししげく、御慎みおもきやうなれば、いかが御座しまさむと、御心ども騒ぐべし。今上は二歳にぞならせ給ふ。あさましき程の御いはけなさにて、いつくしき十善の主に定まり給ふ事、いとゆゆしきまで、前の世ゆかしき御有様なり。昔、近衛院三歳、六条院二歳にて、位につき給へりし、いづれもいと心ゆかぬ例なり。閑院殿の清涼殿にて、まづ御袴奉る。十二月五日、御即位はことなく果てぬれば、めでたくて年も変はりぬ。
中宮も御物の怪に悩ませ給ひて、常はあつしう御座しますを、院はいとど晴れ間なく
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思し歎く。卯月の頃、年号改まる。天福といふなるべし。其の同じ頃、中宮も位去り給ひて、藻璧門院とぞ聞ゆなる。今年も又例ならず悩ませ給へば、めでたき御事の数そはせ給ふべきにこそと、世の中めでたく聞ゆ。祭り祓へ、何くれとおびたたしく、まだきよりののしる。まして其の程近くなりては、天の下やすき空なく、山々寺々社々、御祈りひびき騒げども、御物のけこはくて、いみじうあさまし。遂に、九月十八日に、かくれさせ給ひぬ。其の程のいみじさ、推し量りぬべし。今年二十五にならせ給ふ。若く清らに美しげにて、盛りなる花の御姿、時の間の露と消え果て給ひぬる、いはん方なし。殿・上思し惑ふ様、悲しともいへば更なり。院に候ふ民部卿の典侍と聞ゆるは、定家の中納言の娘なり。此の宮の御方にも、け近う仕うまつる人なりけり。限りなく思ひ沈みて、頭おろしぬ。いみじうあはれなる事なり。人の問へる御返事に、
悲しさはうき世のとがとそむけども只恋しさのなぐさめぞなき
当代の御母后にて御座しつれば、天下皆一つ墨染めにやつれぬ。此の御歎き
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に、いよいよ院は沈みまさらせ給ひて、うち絶えて御湯などをだに御覧じいるる事なくて、月日つもらせ給へば、御修法どもいとこちたく、山々寺々残りなく勤めののしる。医師・陰陽師、祭り・祓へなど、天の下騒ぎ満ちたり。又年号変はりぬ。文暦元年といふ。承久の廃帝、十七になり給へるも、五月二十日に失せ給ひぬ。いと若き御程に、いといとほしうあたらしき御事なりかし。隠岐にも、うち続きあはれなる事どもを、聞こしめし歎くべし。佐渡には、まして心憂くあさましと思さる。此の御さしつぎの宮、猶御座しますは、修明門院養ひ奉らせ給ふめり。
かくいひしろふ程に、院の御悩み日々に重くならせ給ひて、八月六日、いとあさましうならせ給ひぬ。世のおもしにて御座しますべき事の、かくあへなき御有様、口惜しなど聞ゆるもなのめなり。大方、御本性も、なごやかにらうらうじく、御かたちもまほに美しうととのほりて、二十に三つばかりや余らせ給ふらん。若う盛りの御程に、御才なども、やまと・もろこしたどたどしからず、何事につけても、いとあたらしう御座しませば、世の人の惜しみ聞ゆる様限り無し。只くれ惑へる心地どもなり。後堀川院とぞ申しける。故宮の御果て
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だに過ぎず、又とり重ねて、諒闇の三年までにならん事を、いとまがまがしくゆゆしと、皆人思ふべし。御契りの程のあはれさも、いとありがたくなむ。御禊・大嘗会なども、いとど延びぬ。只ここもかしこも、高きも下れるも、都も遠きも、島々も、涙にうき沈みてぞ過し給ひける。
うち続き、かくのみ世の中騒がしく、天変もしきり、いとあはたたしきやうなれば、又年号変はりて、嘉禎元年といふ。誠や、三月の末つかたより、〔洞院の〕摂政殿〔教実〕重くわづらひ給ふ。故院の御位の程より、大殿の、御譲りにて、関白と聞えしが、御門幼く御座しませば、此の頃は摂政殿と申すなるべし。御かたちも御心ばへもめでたく御座しましつるに、いとあへなく失せ給ひぬれば、大殿の御歎きたとへん方無し。二十六にぞなり給ひける。いと悲しくし給ふ姫君・若君など物し給ふをも、今は峰殿のみひとへにはぐくみ聞え給ひけり。摂政にも、大殿立ちかへり成り給ひぬ。かくて三度政事ををさめ給ひぬるにや。北政所の御父は、公経の大臣なれば、彼の殿と一つにて、世は弥御心のままなるべし。今年ぞ御色ども改まりぬれば、冬になりて御禊・大嘗会行はる。
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様々めでたくもあはれにも色々なる都の事どもを、ほのかに伝へ聞こしめして、隠岐にはあさましの年のつもりやと、御齢に添へても、尽きせぬ御歎きぐさのみしげりそふ慰めには、思しなれにし事とて、敷島の道にのみぞ御心をのべける。都へも、たよりにつけつつ題を遣はし、歌を召せば、あはれに忘れがたく恋ひ聞ゆる昔の人々、我も我もと奉れるを、つれづれに思さるる余りに、自ら判じて御覧ぜられにけり。家隆の二位も、今まで生ける思ひ出でに、これをだにとあはれに忝なくて、こと人々の歌をも、ここよりぞとり集めて参らせける。昔の秀能は、ありし乱れの後、頭おろして深く篭り居たり。如願とぞいひける。それも此の度の御歌合に召せば、今更に、其のかみの事、さこそは思ひ出づらめ。例のかずかずはいかでか。只片端をだにとて、左、御製、
人心うつり果てぬる花の色に昔ながらの山の名もうし
右、家隆の二位、
なぞもかく思ひそめけん桜花山とし高く成りはつるまで
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秀能、
わたの原八十島かけてしるべせよ遙かに通ふおきの釣り船
山家といふ題にて、また、左、御製、
軒端あれて誰か水無瀬の宿の月すみこしままの色やさびしき
右、家隆、
さびしさはまだ見ぬ島の山里を思ひやるにもすむ心地して
法皇御自ら判の言葉を書かせ給へるに、「まだ見ぬ島を思ひやらんよりは、年久しく住みて思ひ出でんは、今少し志深くや」とて、我が御歌を勝とつけさせ給へる、いとあはれにやさしき御事なめり。かやうの〔事、〕はかなし事、又は阿弥陀仏の御勤めなどに、まぎらはしてぞ御座します。また、御手習のついでに、
我ながらうとみ果てぬる身の上に涙ばかりぞ面がはりせぬ。
故郷は入りぬる磯の草よ只夕潮満ちて見らく少なき
此の浦に住ませ給ひて、十九年ばかりにやありけむ、延応元年といふ二月二十二日、六十にてかくれさせ給ひぬ。今一度都へ帰らんの御志深かりしかど、遂に
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空しくてやみ給ひにし事、いと忝なく、あはれに情けなき世も、今更心うし。近き山にて例の作法になし奉るも、むげに人少なに、心細き御有様、いとあはれになん。御骨をば、能茂といひし北面の、入道して御供に候ひしぞ、首にかけ奉りて都に上りける。さて大原の法花堂とて、今も、昔の御庄の所々、三昧料に寄せられたるにて、勤め絶えず。彼の法花堂には、修明門院の御沙汰にて、故院わきて御心とどめたりし水無瀬殿を渡されけり。今はのきはまで持たせ給ひける桐の御数珠なども、かしこに未だ侍るこそ、あはれに忝なく、拝み奉るついでのありしか。始めは顕徳院と定め申されたりけれど、御座しましし世の御あらましなりけるとて、仁治の頃ぞ、後鳥羽院とは更に聞こえ直されけるとなむ。
増鏡 尾張徳川家本
第四 三神山
さても、源大納言通方の預かり奉られし阿波の院の宮は、おとなび給ふ儘に、御心ばへもいと警策に、御形もいとうるはしく、けだかく止む事無き御有様なれば、なべて世の人もいとあたらしき事に思ひ聞こえけり。大納言さへ、暦仁の頃失せにしかば、いよいよ真心に仕る人も無く、心細げにて、何を待つとしも無く、かかづらひて御座しますも、人悪くあぢきなう思さるべし。御母は、土御門の内大臣通親の御子に、宰相の中将通宗とて、若くて失せにし人の御娘なり。それさへ隠れ給ひにしかば、宰相のはらからの姫君ぞ、御乳母のやうにて、瞿曇弥の釈迦仏養ひ奉りけん心地して、御座しける。
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二つにて父御門には別れ奉り給ひしかば、御面影だに覚え給はねど、猶此の世の中に御座すと思されしまでは、自づから相見奉るやうもやなど、人知れず幼き御心に掛かりて思し渡りけるに、十二の御年かとよ、隠れさせ給ひぬと伝へ聞き給ひし後は、いよいよ世のうさを思しくんじつつ、いとまめだちてのみ御座しますを、承明門院は心苦しう悲しと見奉り給ふ。はかなく明け暮れて、仁治二年にも成りにけり。御門は今年は十一にて、正月五日、御元服し給ふ。御諱秀仁と聞こゆ。其の年の十二月に、洞院の故摂政殿教実の姫君、九つに成り給ふを、祖父の大殿、御伯父の殿原など居立ちて、いとよそほしく有らまほしき様に響きて、女御参り給へば、父の殿一人こそ物し給はねど、大方の儀式万飽かぬ事無くめでたし。上もきびはなる御程に、女御もまだかく小さう御座すれば、雛遊びのやうにぞ見えさせ給ひける。天の下はさながら大殿の御心の儘なれば、いとゆゆしくなん。土御門〔殿〕の宮〔は〕二十にも余り給ひぬれど、御冠の沙汰も無し。城興寺の宮僧正真性と聞こゆる、御弟子にと語らひ申し給ひければ、然様に〔もと〕思して、女院にもほのめかし申させ給ひけるを、いとあるまじき事とのみ諌め聞こえさせ給ふ。其の冬の頃、宮いたう忍びて、石清水の社に詣でさせ給ひ、御念誦のどかにし給ひて、少し微睡ませ給へるに、神殿の内に、「椿葉の影二度改まる」と、いとあざやかにけだかき声にて、打ち誦じ
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給ふと聞きて、御覧じ上げたれば、明けがたの空澄み渡れるに、星の光もけざやかにて、いと神さびたり。如何に見えつる御夢ならんと怪しく思さるれど、人にも宣はず。とまれかくもあれと、いよいよ御学問をぞせさせ給ふ。年も返りぬ。春の初めは、押しなべて、程々に付けたる家々の身の祝など、心行誇らしげなるに、正月の五日より、内の上例ならぬ事にて、七日の節会にも、御帳にもつかせ給はねば、いとさうざうしく人々思しあへるに、九日の暁、隠れさせ給ひぬとて、罵りあへる、いとあさましとも言ふばかり無し。皆人あきれ惑ひて、中々涙だに出でこず。女御も未だ童遊びの御様にて、何心無くむつれ聞こえさせ給へるに、いとうたていみじければ、打ちしめり屈じて居給へる、いと幼げにらうたし。大殿の御心の中、思ひ遣るべし。御兄の若君も殿上し給へる。只御門の同じ御程にて、騒がしきまでの御遊びのみにて明かし暮らさせ給ひけるに、かいひそみて群がり居つつ、鼻打ちかみ、打ち泣く人より外は無し。かくのみあさましき御事共の続きぬるは、如何にも、彼の遠き浦々にて沈み果てさせ給ひにし、御霊共にやとぞ、世の人もささめきける。御悩みの始めも、なべての筋には有らず、余りいはけたる御遊びより、損なはれ給ひにけるとぞ。未だ御次も御座しまさず、又御はらからの宮なども渡らせ給はねば、世の中如何に成りゆかんずるにかと、Xたどりあへる様なり。さてしもやはにて、東へぞ
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告げ遣りける。将軍は大殿の御子、今は大納言殿と聞こゆる。御後見は、承久に上り〔たり〕し泰時の朝臣なり。時房と一所にて、小弓射させ酒もりなどして、心とけたる程なりけるに、「京よりの走り馬」と言へば、何事ならんと驚きながら、使ひ召し寄せて聞くに、いとあさまし。さりとてあるべきならねば、其の席よりやがて神事始めて、若宮の社にて、くじをぞ取りける。其の程、都には、いとうかびたる事共、心のひきひき言ひしろふ。「佐渡院の宮達にや」など聞こえければ、修明門院にも、心時めきして、内々其の御用意などし給ふ。承明門院も、もしやなど、様々御祈りし給ふ。東の使ひ、都に入る由聞こえける日は、両女院より白河に人を立てて、何方へか参ると、見せられけるぞ理に、げに今見ゆべき事なれども、物の心許無きは、Xさ覚ゆる業ぞかしと、例の口すげみてほほゑむ。日ぐらし待たれて、城介義景と言ふ者、三条河原に打ち出でて、「承明門院の御座しますなる院は何処ぞ」と、彼の院より立てられたる青侍の、いと怪しげなるにしも問ひければ、聞く心地、うつつとも覚えず。しかじかと申す儘に、土御門殿へ参りたれど、門はむぐら強く固め、扉もさびつき柱根くちて、開かざりけるを、郎等共にとかくせさせて、内に参りて見まはせば、庭は草深く青き苔のみむして、松風より外は、こたふるもの無く、人の通へる跡も無し。故通宗宰相の中将の御弟を子にし給へりし定通の大臣ばかりぞ、何と無く、
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自づからの事もやと思ひて、なえばめる烏帽子直衣にて候ひ給ひけるが、中門に出でて対面し給ふ。義景は、切戸の脇に畏まりてぞ侍りける。「阿波の院の御子、御位に」と、申して出でぬ。院の中の人々、上下夢の心地して、物にぞあたり惑ひける。仁治三年正月十九日の事なり。世の人の心地、皆驚きあわてて、押し返し此方に参り集ふ馬車の響き騒ぐ世のおとなひを、四辻殿にはあさましう中々物思し勝るべし。又の日、やがて御元服せさせ給ふ。ひき入れに、左大臣良実参り給ふ。理髪、頭弁定嗣仕りけり。御諱邦仁、御年二十三、其の夜やがて冷泉万里小路殿へ移らせ給ひて、閑院殿より剣璽など渡さる。践祚の儀式、いと珍し。其の後こそ、閑院殿には追号の定め、御業の事など定め有りけれ。二十五日に東山の泉湧寺とかや言ふ辺にをさめ奉る。四条院と申すなるべし。やがて彼の寺へ御庄など寄せて、今に御菩提を祈り申し侍るも、前の世の故有りけるにや。此の御門、未だ物などはかばかしく宣はぬ程の御齢なりける時、誰とかや、「前の世は如何なる人にてか御座しましけん」と、只何と無く聞こえたりけるに、彼の泉湧寺の開山の聖の名をぞ、確かに仰せられたりける。又、人の夢にも、此の御門隠れさせ給ひて後、彼の上人、「我すみやかに成仏すべかりしを、由無き妄念を起こして、今一度人界の生をうけ、帝王の位に至りて、帰りて我が寺を助けんと思ひしに、果たして
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かくなん」とぞ見えける。誠に、其の余執の通りけるしるしにや、御庄共も、寄りけむとぞ覚え侍る。さて仁治三年三月十八日〔過ぎて〕御即位、万あるべき限りめでたく過ぎもて行く。嘉禎三年よりは、岡の屋の大臣兼経、摂政にていませしかば、其の儘に、今の御代の始めも関白と聞こえつれど、三月二十五日、左の大臣良実に渡りぬ。此の殿も、光明峰寺殿の御二郎君なり。神無月に成りぬれば、御禊とて世の中ひしめき立つも、思ひ寄りし事かはとめでたし。大嘗会の悠紀方の御屏風、三神山、菅宰相為長仕られける。
古に名をのみ聞きて求めけん三神の山は是ぞ其の山 W
主基方、風俗の歌、経光の中納言に召されたり。
末遠き千代の影こそ久しけれまだ二葉なる岩崎の松 W
当代かくめでたく御座しませば、通宗の宰相も左大臣従一位贈られ給ふ。御娘も后の位贈り申されし、いとめでたしや。誠や、此の頃、〔前の〕右大臣と聞こゆるは、実氏の大臣よ。其の御娘、十八に成り給ふを、女御に奉り給ふ。六月三日、入内の儀式有様、二無く清らを尽くさる。母北の方は、四条の大納言隆衡の娘なり。女御の君、いとささやかに、愛敬づきてめでたく物し給へば、御覚え、いとかひがひしく、万打ち合ひ、思ふ様なる世の気色、飽かぬ事無し。同じ年八月九日、后に立ち給ふ。其の程の
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めでたさ、言へば更なり。源大納言の家に、無品親王にて、〔怪しう心細げなりし御程には、たはぶれにも〕思ひ寄り聞こえ給はざりけんと、めでたきに付けても、人の口安からず、さはとかく聞こゆべし。
第五 内野の雪〔おほうち山とも〕
今后の御父は、先にも聞こえつる右大臣〈 実氏 〉の大臣、其の父殿〈 公経 〉の太政大臣、其のかみ夢見給へる事有りて、源氏の中将わらはやみまじなひ給ひし北山の辺に、世に知らずゆゆしき御堂を建てて、名をば西園寺と言ふめり。此の所は、伯の三位資仲の領なりしを、尾張国松枝と言ふ庄にかへ給ひてけり。もとは、田畠など多くて、ひたぶるに田舎めきたりしを、更に打ち返しくづして、艶ある園に造りなし、山のたたずまひ木深く、池の心ゆたかに、わたつ海をたたへ、峰より落つる滝の響きも、げに涙催しぬべく、心ばせ深き所の様なり。本堂は西園寺、本尊の如来誠に妙なる御姿、生身もかくやと、いつくしうあらはされ給へり。又、善積院は薬師、功徳蔵院は地蔵菩薩にて御座す。池の辺に妙音堂、滝のもとには不動尊。此の不動は、津の国より生身の明王、簔笠うち奉りて、差し歩みて御座したりき。其の簔笠、宝蔵に込めて、三十三年に一度出ださるとぞ承る。石橋の上には五大堂。成就心院と言ふは愛染王の座さまさぬ秘法取り行はせらる。供僧も紅梅の衣、袈裟数珠の糸まで、同じ色にぞ侍るめる。
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又、法水院・化水院、無量光院とかやとて、来迎の気色、弥陀如来・二十五の菩薩、虚空に現じ給へる御姿も侍るめり。北の寝殿にぞ大臣は住み給ふ。めぐれる山の常盤木共、いと旧りたるに、なつかしき程の若木の桜など植ゑ渡すとて、大臣うそぶき給ひける。
山桜峰にも尾にも植ゑ置かん見ぬ世の春を人や忍ぶと W
彼の法成寺をのみこそ、いみじき例に世継も言ひためれど、是は猶山の気色さへ面白く、都離れて眺望そひたれば、言はん方無くめでたし。峰殿の御舅、東の将軍の御祖父にて、万世の中御心の儘に、飽かぬ事無くゆゆしくなん御座しける。今の右の大臣、をさをさ劣り給はず、世の重しにて、いと止む事無く御座するに、女御さへ御覚えめでたく、いつしか只ならず御座すると聞こゆる、奥床しき御程なるべし。〔仁治三年〕九月十二日、佐渡院隠れさせ給ひぬ。世の中移り変はりしきざみ、もしやなど思されしも空しくて、いよいよ隔たり果てぬる世を、心細く思し歎きける積もりにや、〔いと〕さしも取り立てたる御悩みなどは無くて、失せさせ給ふ〔に〕、〔折〕哀れなる御事共なり。四十六にぞならせ給ひける。明くる年は、寛元元年なり。六月十日頃に、中宮今出川の大殿にて、其の御気色あれば、殿の内立ち騒ぐ。白き御装ひに改めて、母屋に移らせ給ふ程、いと面白し。大臣・北の方・御兄の殿原達、添ひかしづき聞こえ奉る
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様、限り無くめでたし。御修法の壇共数知らず。医師・陰陽師・かんなぎ、各かしがましきまで響き合ひたり。いと暑き程なれば、只ある人だに汗に押しひたしたるに、后の宮いと苦しげにし給ひて、色々の御物の怪共名乗り出でつつ、わりなく惑ひ給へば、大臣・北の方、いかさまにせんと御心を惑はし給ふ様、哀れに悲し。斯様のきざみ、高きも下れるも、おろかに思ふ人やは有らん。なべて皆かうのみこそあれど、げに差しあたりたる世の気色を取り具して、類無く思さるらんかし。内よりも、如何に如何にと御使ひ、雨の脚よりも繁う走り違ふ。〔内の〕御乳母大納言二位殿、大人大人しき内侍の典侍など、さるべき限り参り給へり。今日も猶心許無くて暮れぬれば、いと恐ろしう思す。伊勢の御てぐら使ひなど立てらる。諸社の神馬、所々の御誦経の使ひ、四位五位数を尽くして鞭をあぐる様、言はずとも推し量るべし。大臣とりわき春日の社へ拝して、御馬・宮の御衣など奉らる。内には更衣腹に若宮御座しませど、此の事を待ち聞こえ給ふとて、坊定まり給はぬ程なり。仮令平らかにし給へりとも、女宮にて御座しまさばと、まがまがしきあらましを思ふだに〔も〕、胸つぶれ口惜し。かつは、御身の宿世見ゆべき際ぞかしと思せば、いみじう念じ給ふに、既に事成りぬ。先づ何にかと心騒ぐに、御兄の大納言公相、「皇子御誕生ぞや」と、〔いと〕高らかに宣ふを、余りの事に皆あきれて、「誠か誠か」と大臣宣ふ儘に、
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喜びの御涙ぞ落ちぬる。哀れなる御気色、見る人も事忌み〔も〕しあへず。御修法の僧共を始め、道々の禄賜はる。したり顔に汗押し拭ひつつまかづる気色、今一際めでたく罵り立ちて、更に物も聞こえず。げに此の頃の響きに、女にて御座しまさましかば、如何にしほしほと口惜しからまし。きらきらしうもし出で給へるかし。然れば、大臣、年たけ給ふまでも、其の折の嬉しう忝かりしを思ひ出づれば、見奉るごとに涙ぐまるるとぞ、後深草院をば常に申されける。御湯殿の儀式は更にも言はず、人々の禄、何くれと、例の作法に事を添へて、いみじう世の例にもなるばかりと尽くし給ふ。御はかし参る。心許無かりつる儘に、二十八日、親王の宣旨有りて、八月十日、すがやかに、太子に立ち給ひぬ。大臣御心落ち居て、すずしうめでたう思す事限り無し。かくて、又の年、東の大納言頼経の君、悩み給ふ由聞こえて、御子の六つに成り給ふに譲りて、都へ御返りあれば、若君に其の日やがて将軍の宣旨下され、少将に成り給ふ。頼嗣と名乗り給ふべし。泰時の朝臣、一昨年入道して、孫の時頼に世を譲りにしかば、此の頃は天の下の御後見、此の相模の守時頼の朝臣仕る。いと心賢くめでたき聞こえ有りて、兵も靡き従ひ、大方、世も静かに治まりすましたり。かくて寛元も四年に成りぬ。正月二十八日、春宮に御位譲り申させ給ふ。此の御門も〔又〕四つにぞならせ給ふ。めでたき御例共なれば、行く末も
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推し量られ給ふ。光明峰寺殿の御三郎君左大臣〔実経〕の大臣、御年二十四にて摂政し給ふ。いとめでたし。御はらから三人まで摂録し給へる例、古くは謙徳公・忠義公・東三条の大入道殿兼家、其の又御子共中の関白殿・粟田殿・法成寺の入道殿これ二度なり。近くは、法性寺殿の御子共六条殿基実・松殿基房・月輪殿兼実、是ぞやがて今の峰殿の御祖父よ。斯様の事、いとたまたまあれど、粟田殿も宣旨被り給へりしばかりにて、七日にて失せ給へりしかば、天下執行し給ふに及ばず。松殿の御子師家の大臣、一代にてやみ給ひにき。いづれも御末までは御座せざりしに、此の三所、流れ絶えず、久しき藤波にて立ち栄え給へるこそ、類無き止む事無さなめれ。末の世にも有り難くや侍らん。今の摂政をば、後には円明寺殿と〔ぞ〕聞こゆめりし。一条殿の御家の始めなり。かくて御即位・御禊も過ぎぬ。大嘗会の頃、信実の朝臣と言ひし歌詠みの娘少将の内侍、大内の女工所に候ふに、雪いみじう日頃降りて、いかめしう積もりたる暁、太政大臣実氏宣ひ遣はしける。
九重の大内山の如何ならん限りも知らず積もる雪かな W
御返し、少将の内侍〔信実の朝臣娘〕、
九重の内野の雪に跡付けて遙かに千代の道を見るかな W
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〔院の〕上は、いつしか所々に御幸繁う、御遊びなどめでたく、今めかしき様に好ませ給ふ。中宮も位去り給ひて、大宮女院とぞ聞こゆる。安らかに、常は一つ御車などにて、只人のやうに花やかなる事共のみ隙無く、万有らまほしき御有様なり。院の上、石清水の社に詣でさせ給へば、世の人残り無く仕る。然るべき事とは言ひながら、猶いみじ。御心にも一年の事思し出でられて、殊に畏まり聞こえさせ給ふべし。
石清水木がくれたりし古を思ひ出づればすむ心かな W
宝治の頃、神無月二十日余りなりしにや、紅葉御覧じに、宇治に御幸し給ふ。上達部・殿上人、思ひ思ひ色々の狩衣、菊・紅葉の濃き薄き、縫物・織物・綾錦、すべて世に無き清らを尽くし騒ぐ、いみじき見物なり。殿上人の舟に楽器設けたり。橘の小島に御船差しとめて、物の音共吹き立てたる程、水の底も耳立てぬべく、そぞろ寒き程なるに、折知り顔に空さへ打ち時雨れて、真木の山風有らましきに、木の葉共の色々散りまがふ気色、言ひ知らず面白し。女房の船に、色々の袖口、わざとなくこぼれ出でたる、夕日に輝き合ひて、錦を洗ふ九の江かと見えたり。平等院に中一日渡らせ給ひて、様々の面白き事共数知らず。網代に氷魚の夜もさながら罵り明かして、帰らせ給ふ。鳥羽殿も近頃はいたう荒れて、池も水草がちに埋もれたりつるを、いみじう修理し磨かせ給ひて、はじめて御幸
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成りし時、「池の辺の松」と言ふ事講ぜられしに、太政大臣、序書き給へりき。
祝ひ置く始めと今日を松が枝の千年の影に澄める池水 W
院の御製、
影映す松にも千代の色見えて今日すみそむる宿の池水 W
大納言の典侍と聞こえしは、為家の民部卿の娘なりしにや。
色かへぬ常盤の松の影添へて千代に八千代に澄める池水 W
順流るめりしかど、例のうるさければなん。御前の御遊び始まる程、反橋のもとに、龍頭鷁首寄せて、いと面白く吹き合はせたり。斯様の事、常の御遊び、いと繁かりき。又、太政大臣の津の国吹田の山荘にも、いとしばしば御座しまさせて、様々の御遊び数を尽くし、如何にせむと持てはやし申さる。河に臨める家なれば、秋深き月の盛りなどは、殊に艶有りて、門田の稲の風に靡く気色、妻どふ鹿の声、衣うつ砧の音、峰の秋風、野辺の松虫、取り集め、哀れそひたる所の様に、鵜飼など下ろさせて、篝火共ともしたる川の面、いと珍しうをかしと御覧ず。日頃御座しまして、人々に十首歌召されしついでに、院の御製、
川舟のさして何処か我がならむ旅とは言はじ宿と定めて W
と講じ上げたる程、主の大臣いみじう興じ給ふ。「此の家の面目今日に侍る」とぞ
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宣はする。げに然る事と、聞く人皆誇らしくなん。降り居給へる太上天皇など聞こゆるは、思ひ遣りこそ、大人びさだ過ぎ給へる心地すれど、未だ三十にだに満たせ給はねば、万若う愛敬づき、めでたく御座するに、時のおとなにて重々しかるべき太政大臣さへ、何業をせんと、御心に適ふべき事をのみ思ひまはしつつ、如何で珍しからんと、持て騒ぎ聞こえ給へば、いみじうはえばえしき頃なり。御門、まして幼く御座しませば、はかなき御遊び業より外の営み無し。摂政殿さへ若く物し給へば、夜昼候ひ給ひて、女房の中にまじりつつ、乱碁・貝おほひ・手まり・へんつきなどやうの事共を、思ひ思ひにしつつ、日を暮らし給へば、候ふ人々も、打ち解けにくく心遣ひすめり。節会・臨時の祭り、何くれの公事共を、女房に学ばせて御覧ずれば、太政大臣興じ〔申し〕給ひて、ことさら、小さき笏など作らせて数多奉らせ給へば、上も喜び思す。入道太政大臣の御娘大納言の三位殿と言ふを関白になさる。按察の典侍隆衡の娘・大納言の典侍・中納言の典侍・勾当の内侍・弁の内侍・少将の内侍、斯様の人々、皆男の官にあてて、其の役を勤む。「いとからい事」とて、わびあへるもをかし。中納言の典侍を権大納言実雄の君になさるるに、「したうづはく事、如何にも適ふまじ」とて、曹司に下るるに、上もいみじう笑はせ給ふ。弁の内侍、葦の葉に書きて、彼の局に差し置かせける。
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津の国の葦の下根の如何なれば波にしをれて乱れ顔なる W
返し、
津の国の葦の下根の乱れわび心も波にうきてふるかな W
五月五日、所々より御兜の花・薬玉など、色々に多く参れり。朝餉にて、人々此彼引きまさぐりなどするに、三条の大納言公親の奉れる、根に露置きたる蓬の中に、深きと言ふ文字を結びたる、糸の様もなよびかに、いと艶有りて見ゆるを、上も御目止めて、「何とまれ、言へかし」と宣ふを、人々も、およすげて見奉る。弁の内侍、
〔あやめ草底知ら沼の長き根に深きと言ふや蓬生の露 W
と、有りつる使ひ、はや帰りにければ、蔵人を召して、殿上より遣はしつ。御返し、公親、〕
あやめ草底知ら沼の長き根を深き心に如何くらべん W
又其の頃、天王寺に院詣でさせ給ふついでに、住吉へも御幸有り。「神は嬉し」と、後三条院仰せられけん例、思ひ出でられ侍りき。大宮院も御参りなれば、出車共、色々の袖口共、春秋の花紅葉を、一度に並べて見る心地して、いと美しく、目も輝くばかりいどみ尽くされたり。上達部・若き殿上人などは、例の狩襖、裾濃の袴など、珍しき姿共を、心々に打ち混ぜたり。釣殿の簀子に、人々候ひて、数多聞こえしかど、さのみは如何でか。太政大臣実氏、
今日や又更に千年を契るらん昔にかへる住吉の松 W
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さても、院の第一の御子は、右中弁平の棟範の主の娘、四条院に兵衛の内侍とて候ひしが、剣璽につきて渡り参れりしを、忍び忍び御覧じける程に、其の御腹に出で物し給へりしかど、当代生まれさせ給ひにし後は、押し消たれて御座しますに、又建長元年、后腹に二の宮さへ差し続き光り出で給へれば、いよいよ今は思ひ絶えぬる御契りの程を、私物にいと哀れと思ひ聞こえさせ給ふ。源氏にやなし奉らましなど思すも、猶飽かねば、只御子にて、東の主になし聞こえてんと思して、建長四年正月八日、院の御前にて御冠し給ふ。御門の御元服にもほとほと劣らず。内蔵寮何くれ、清らを尽くし給ふ。やがて三品の加階賜はり給ふ。御年十一なるべし。中務の卿宗尊親王と申すめり。同じ二月十九日、都を出で給ふ。其の日将軍の宣旨被り給ふ。斯かる例は未だ侍らぬにや。上下、珍しく面白き事に言ひ騒ぐべし。御迎へに東の武士共数多上る。六波羅よりも名ある者十人、御送りに下る。上達部・殿上人・女房など、数多参るも、「院中の奉公にひとしかるべし。彼処に候ふとも、限り有らん官冠などは、障りあるまじ」とぞ仰せられける。何事も、只人柄によると見えたり。きはことによそほしげなり。誠に公と成り給はずば、是より勝る事、何か有らんと、にぎははしく花やかさは並ぶ方無し。院の上も、忍びて、粟田口の辺に御車
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立てて御覧じ送りけるこそ、哀れに忝く侍れ。きびはに美しげにて、遙々と御座しますを、御母の内侍も、哀れに忝しと思ひ聞こゆべし。かかれば、もとの将軍頼嗣三位の中将は、其の四月に都へ上り給ひぬ。いとほしげにぞ見え給ひける。さて、今下り給へるを、持て崇め奉る様、言はん方無し。宮中のしつらひ、御設けの事など限りあれば、善見天の殊妙の荘厳もかくやとぞ覚えける。斯様にて今年は暮れぬ。明くる年は建長五年なり。正月三日御門御冠し給ふ。御年十一、御諱久仁と申す。いとあてに御座しませど、余りささやかにて、又御腰などの怪しく渡らせ給ふぞ、口惜しかりける。いはけなかりし御程は、猶いとあさましう御座しましけるを、閑院の内裏焼けける紛れより、うるはしく立たせ給ひたりければ、内の焼けたるあさましさは何ならず、此の御腰の直りたる喜びをのみぞ、上下思しける。院の上、鳥羽殿に御座します頃、神無月の十日頃、朝覲の行幸し給ふ。世にある限りの上達部・殿上人仕る。色々の菊紅葉をこき混ぜて、いみじう面白し。女院も御座しませば、拝し奉り給ふを、太政大臣見奉り給ふに、喜びの涙ぞ人悪き程なる。
例無き我が身よ如何に年たけて斯かる御幸に今日仕へぬる W
げに、大方の世に付けてだに、めでたく有らまほしき事共を、我が御末と見給ふ大臣の
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心地、如何ばかりなりけむ。来し方も例無きまで、高麗・唐土の錦綾を立ち重ねたり。太政大臣ばかりぞねび給へれば、裏表白き綾の下襲を着給へるしも、いとめでたく艶めかし。池には、うるはしく唐の装ひしたる御船二艘漕ぎ寄せて、御遊び様々の事共めでたく罵りて、帰らせ給ふ響きのゆゆしきを、女院も御心行きて聞こし召す。其の頃ほひ、熊野の御幸侍りしにも、良き上達部数多仕らる。都出でさせ給ふ日、例の桟敷など、心殊にいどみかはすべし。車は立てぬ事なりしかども、大宮院ばかり、それも出車は無くて、只一両にて見奉り給ひしこそ、止む事無さも面白く侍りけれ。弁の内侍、
折りかざすなぎの葉風の賢さに一人道ある小車の跡 W
御幸、熊野の本宮につかせ給ひて、それより新宮の川舟に奉りて差し渡す程、川の面所狭きまで続きたるも、御覧じなれぬ様なれば、院の上、
熊野川瀬切りに渡す杉舟の辺波に袖のぬれにけるかな W
其の後も、又程無く御幸有りしかば、女院も参り給ひけり。皆人知ろし召したらん〔事〕、中々にこそ。
第六 おりゐる雲
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春過ぎ夏たけて、年去り年来たれば、康元元年にも成りにけり。太政大臣の第二の御娘〈 東二条院公子 〉女御に参り給ふ。女院の御はらからなれば、過ぐし給へる程なれど、斯かる例は数多侍るべし。十二月十七日、豊の明かりの頃なれば、内わたり花やかなるに、いとど打ち添へて今めかしうめでたく、其の日御消息を聞こえ給ふ。
夕暮をまつぞ久しき千年まで変はらぬ色の今日の例を W
関白書かせ給ひけり。紅の匂ひの箔も無きに、X重ねたるを、結びて包まれたり。時成りぬとて人々まう上り集まる。女御の君、裏濃き蘇芳七つ・濃き一重・蘇芳の表着・赤色の唐衣・〔濃き袴奉れり。准后添ひて参り給ふ。〕皆紅の八つ・萌黄の表着・赤色の唐衣着給ふ。出車十両、皆二人づつ乗るべし。一の車、左に一条殿大殿の娘、右に二条殿公俊の大納言の娘、二の左按察の君〈 □□の妹 〉、右に中納言の君実任の娘、三の左に民部卿殿、右別当殿、其の次々くだくだしければ止めつ。御童・下仕へ・御はした・御雑仕・御ひすましなど言ふ物まで、形良きを択り整へられたる、いみじう見所あるべし。御兄の殿原、右大臣公相・内大臣公基参り給ふ。限り無くよそほしげなり。院の御子にさへし奉らせ給へれば、いよいよいつかれ給ふ様、言はん方無し。侍賢門院の、白河院の御子とて、鳥羽院に参り給へりし例にやとぞ、心当てには覚え侍りし。御門の一つ御腹の姫宮、此の頃皇后宮とて、其の御方の内侍ぞ、御使ひに参り、まう上り
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給ふ程も、女御はいとはづかしく、似げ無き事に思いたれば、とみにえ動かれ給はぬを、人々そそのかし申し給ふ。御太刀一条殿、御几帳按察殿、御火取り中納言持たれたりけり。上は十四に成り給ふに、女御は二十五にぞ御座しける。御門、きびはなる御程を、中々、あなづらはしき方に思ひなし聞こえ給ひぬべかりつるに、いとざれて、つつましげならず聞こえ掛かり給ふを、准后は美しと見奉らせ給ふ。御衾は、紅のうち八四方なるに、上にはうはざしの組有り。糸の色など、清らにめでたし。例の事なれば、准后奉り給ふ。太政大臣も、三日が程は候ひ給ふ。上達部に勧盃有り。二十三日、又御消息参る。御使ひ頭の中将通世、こたみも殿書かせ給ふめり。此の頃、殿と聞こゆる太政大臣兼平の大臣、岡の屋殿の御弟ぞかし。後には照念院殿と申しけり。御手勝れてめでたく書かせ給ひしよ。鷹司殿の御家の始めなるべし。
朝日影今日よりしるき雲の上の空にぞ千代の色も見えける W
御返し、太政大臣聞こえ給ふ。
朝日影あらはれそむる雲の上に行く末遠き契りをぞしる W
女の装束、細長添へてかづけ給ふ。今日はじめて、内の上、女御の御方に渡らせ給ふ。御供には関白殿・右大臣公相・内大臣公基・四条の大納言隆親・権大納言実雄良教通成・
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右大将基平など、押しなべたらぬ人々参り給ふ。餅の使ひ、頭の中将隆顕仕る。太政大臣、夜の御殿より取り入れ給ふ。御心の中のいはひ、如何ばかりかはと推し量らる。人々の禄、紅梅の匂ひ・萌黄の表着・葡萄染めの唐衣・袿・細長・こしざしなど、しなじなに従ひて、けぢめあるべし。かくて今年は暮れぬ。正月、いつしか后に立ち給ふ。只人の御娘の、かく后・国母にて立ち続き候ひ給へる、例稀にや有らん。大臣の御栄えなめり。御子二人大臣にて御座す。公相・公基とて、大将にも左右に並びて御座せしぞかし。是も、例いと数多は聞こえぬ事なるべし。我が御身太政大臣にて、二人の大将を引き具して、最勝講なりしかとよ、参り給へりし御勢ひのめでたさは、珍かなる程にぞ侍りし。后・国母の御親、御門の御祖父にて、誠に其の器物に足らぬと見え給へり。昔後鳥羽院に候ひし下野の君は、然る世の古人(ひと)にて、大臣に聞こえける。
藤波の影差し並ぶ三笠山人にこえたる梢とぞ見る W
返し、大臣、
思ひ遣れ三笠の山の藤の花咲き並べつつ見つる心は W
斯かる御世の栄えを、自らも止む事無しと思し続けて詠み給ひける。
春雨は四方の草木をわかねども繁き恵みは我が身也けり W
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正嘉元年の春の頃より、承明門院御悩み重らせ給へば、院もいみじう驚かせ給ひて、御修法何かと聞こえつれど、遂に七月五日、御年八十七にて隠れさせ給ひぬ。理の御年の程なれど、昔の御名残と哀れにいとほしう、いたづき奉らせ給へるに、敢へ無くて、御法事など懇ろにおきて宣はする、いとめでたき御身なりかし。明くる年八月七日、二の御子〈 亀山の院 〉坊にゐ給ひぬ。御年十なり。万定まりぬる世の中、めでたく心のどかに思さるべし。其の又の年、〔正嘉三年〕三月二十日なりしにや、高野御幸こそ、又来し方行く末も例有らじと見ゆるまで、世の営み、天の下の騒ぎには侍りしか。関白殿・前の右大臣・内大臣・左右の大将・検非違使の別当を始めて、残りは少なし。馬・鞍、随身・舎人・雑色・童の、髪・形・たけ・姿まで、かたほなる無く択り整へ、心を尽くしたる装ひ共、数々は筆にも及び難し。斯かる色も有りけりと、珍しく驚かるる程になん。銀・黄金を延べ、二重三重の織物・うち物、唐・大和の綾錦、紅梅の直衣、桜の唐の木の紋・裾濃・浮線綾、色々様々の直衣・上の衣・狩衣、思ひ思ひの衣を出だせり。如何なる龍田姫の錦も、斯かる類は有り難くこそ見え侍りけれ。形見に語らふ人も有らざりけめど、同じ紋も色も侍らざりけるぞ、不思議なる。余りに珍しくて、某の中将とかや、紺村濃の指貫をさへ着たりける。それしも珍かにて、いやしくも見え
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侍らざりけるとかや。院の御様形、所がらはいとど光を添へて、めでたく見え給ふ。後土御門の内大臣定通の御子顕定の大納言、大将望み給ひしを、院もさりぬべく仰せられければ、除目の夜、殿の内の者共も心遣るを心許無く思ひあへるに、引き違へて、先に聞こえつる公基の大臣にて御座せしやらん、成り給へりしかば、恨みに堪えず、頭下ろして、此の高野に籠り居給へるを、いとほしく敢へ無しと思されければ、今日の御幸のついでに、彼の室を尋ねさせ給ひて、御対面あるべく仰せられ遣はしたるに、昨日まで御座しけるが、夜の間に、彼の庵をかき払ひ、跡も無くしなして、いと清げに、白き砂ばかりを、ことさらに散らしたりと見えて、人も無し。我が身は桂の葉室の山庄へ逃げ上り給ひにけり。其の由奏すれば、「今更に見えじとなり、いとからい心かな」とぞ、宣はせける。かくのみ所々に御幸繁う、心行く事隙無くて、いささかも思し結ぼるる事無く、めでたき御有様なれば、仕る人々までも、思ふ事無き世なり。吉田の院にても、常は御歌合などし給ふ。鳥羽殿には、いと久しく御座します折のみ有り。春の頃、行幸有りしには、御門も御鞠に立たせ給へり。二条の関白良実上鞠し給ひき。内の女房など召して、池の船に乗せて、物の音共吹き合はせ、様々の風流の破子・引き物など、こちたき事共も繁かりき。又嵯峨の亀山の麓、大井川の北の岸にあたりて、ゆゆしき院をぞ造らせ給へる。小倉の山の
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梢、戸無瀬の滝も、さながら御垣の内に見えて、〔わざと〕つくろはぬ前栽も、自づから情けを加へたる所がら、いみじき絵師と言ふとも、筆及び難し。寝殿の並びに、乾にあたりて、西に薬草院、東に如来寿量院など言ふも有り。橘の大后の昔建てられたりし壇林寺と言ひし、今は破壊して礎ばかりに成りたれば、其の跡に浄金剛院と言ふ御堂を建てさせ給へるに、道観上人を長老になされて、浄土宗を置かる。天王寺の金堂うつさせ給ひて、多宝院とかや建てられたり。川に臨みて桟敷殿造らる。大多勝院と聞こゆるは、寝殿の続き、御持仏すゑ奉らせ給へり。斯様の引き離れたる道は、廊・渡殿・反橋などを遙かにして、すべていかめしう三葉四葉に磨き立てられたる、いとめでたし。正元元年三月五日、西園寺の花盛りに、大宮院、一切経供養せさせ給ふ。年頃は、思しおきてけるを、いたく知ろし召さぬに、女の御願にて、いと賢く、有り難き御事なれば、院も同じ御心に居立ち宣ふ。楽屋の者共、地下も殿上も、なべてならぬを択り整へらる。其の日に成りて行幸有り。春宮も同じく行啓なる。大臣・上達部、皆上の衣にて、左右に別ちて、御階の間の勾欄に着き給ふ。法会の儀式、いみじさめでたき事共、学び難し。又の日、御前に御遊び始まる。御門〈 後深草院 〉御琵琶、春宮御笛、まだいと小さき御程に、みづら結ひて、御形まほに美しげにて、吹き立て給へる音の、雲井を響かして、余り恐ろしき
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程なれば、天つ乙女もかくやと覚えて、太政大臣実氏、事忌みもえし給はず、目押し拭ひつつためらひ兼ね給へるを、理に、老いしらへる大臣・上達部など、皆御袖共うるひ渡りぬ。女院の御心の内、まして置き所無く思さるらんかし。前の世も、如何ばかり功徳の御身にて、かく思す様にめでたき御栄えを見給ふらんと、思ひ遣り聞こゆるも、ゆゆしきまでぞ侍りし。御遊び果てて後、文台召さる。院の御製、
色々に袖を連ねて咲きにけり花も我が世も今盛りかも W
あたりを払ひて、際無くめでたく聞こえけるに、主の大臣の歌さへぞ、掛け合ひて侍りしや。
色々に重ねて匂へ桜花我が君々の千代のかざしに W
末まで多かりしかど、例のさのみはにて、止めつ。いかめしう響きて帰らせ給ひぬる又の朝、無量光院の花のもとにて、大臣、昨日の名残思し出づるもいみじうて、
此の春ぞ心の色は開けぬる六十余りの花は見しかど W
其の年の八月二十八日、春宮十一にて御元服し給ふ。御諱恒仁と聞こゆ。世の中に様々ほのめき聞こゆる事あれば、御門、飽かず心細う思されて、夜居の間の静かなる御物語のついでに、内侍所の御拝の数を数へられければ、五千七十四日なりけるを承り
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て、弁の内侍、
千代と言へば五つ重ねて七十に余る日数を神は忘れじ W
かくて、十一月二十六日、降り居させ給ふに、〔夜、〕空の気色さへ哀れに、雨打ちそそぎて、物悲しく見えければ、伊勢の御が、「あひも思はぬももしきを」と言ひけん古言さへ、今の心地して、心細く覚ゆ。上も思し設け給へれど、剣璽の出でさせ給ふ程、常の御幸に御身を離れざりつる習ひ、十三年の御名残、引きわかるるは、猶いと哀れに、忍び難き御気色を、悲しと見奉りて、弁の内侍、
今はとて降り居る雲の時雨るれば心の内ぞかき暗しける W
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増鏡 中巻
第七 北野の雪
正元元年十一月二十六日、譲位〈 後深草院 〉の儀式常の如し。十二月二十八日御即位、〈 亀山院 〉万めでたく、あるべき限りにて、年も返りぬ。おりゐの御門は、十二月の二日、太上天皇の尊号有りて新院と聞こゆ。本院と常は一つに渡らせ給ひて、御遊び繁う心遣りて、中々いとのどやかに目安き御有様に、思し慰むやうなり。中宮も、院号の後は、東二条院と聞こゆ。二条富小路にぞ渡らせ給ふ。太政大臣も入道し給ひぬ。常盤井とて、大炊御門京極なる所にぞ、折々住み給ふ。此の入道殿の御弟に、其の頃、右大臣実雄と聞こゆる、姫君数多持ち給へる中に、勝れたるをらうたき物に思しかしづく。今上の女御代に出で給ふべきを、やがて其のついで、文応元年、入内あるべく思しおきてたり。院にも御気色賜はり給ふ。入道殿の御孫の姫君も、参り給ふべき聞こえはあれど、さしもやはと、押し立ち給ふ。いと猛き御心なるべし。此の姫君の御兄数多物し給ふ中の兄にて、中納言公宗と聞こゆる、如何なる御心か有りけむ、下たく煙にくゆりわび給ふ
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ぞ、いとほしかりける。然るは、いとあるまじき事と思ひ放つにしも、従はぬ心の苦しさを、起き臥し葦の音泣きがちにて、御急ぎの近づくに付けても、我かの気色にてのみほれ過ぐし給ふを、大臣は又いかさまにかと苦しう思す。初秋風の気色立ちて、艶ある夕暮に、大臣渡り給ひて見給へば、姫君、薄色に女郎花など引き重ねて、几帳に少しはづれてゐ給へる様形、常よりも言ふ由無く、あてに匂ひ満ちて、らうたく見え給ふ。御髪いとこちたく、五重の扇とかやを広げたらん様して、少し色なる方にぞ見え給へど、筋こまやかに、額より裾までまがふ筋無く美し。只人には、げに惜しかりぬべき人柄にぞ御座する。几帳押し遣りて、わざとなく拍子打ちならして、御箏弾かせ奉り給ふ。折しも中納言参り給へり。「こち」と宣へば、打ち畏まりて、御簾の内に候ひ給ふ様形、此の君しもぞ又いとめでたく、あくまでしめやかに、心の底ゆかしう、そぞろに心遣ひせらるるやうにて、こまやかに艶めかしう、澄みたる様して、あてに美しう、いとど持て鎮めて、騒ぐ御胸を念じつつ、用意を加へ給へり。笛少し吹きなどし給へば、雲井に澄み上りて、いと面白し。御箏の音のほのかにらうたげなる、かき合はせの程、中々聞きもとめられず、涙浮きぬべきを、つれなくもてなし給ふ。撫子の露もさながらきらめきたる小袿に、御髪はこぼれ懸かりて、少し傾き掛かり給へる傍目、まめやかに、
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光を放つとは、斯かるをやと見え給ふ。よろしきをだに、人の親は如何は見なす。ましてかく類無き御有様共なめれば、世に知らぬ心の闇に迷ひ給ふも、理なるべし。十月二十二日、参り給ふ儀式、是もいとめでたし。出車十両、一の車左大宮殿二位の中将基輔の娘、三位の中将実平の娘とぞ聞こえし。二の左春日の新大納言、此の新大納言は、為家の大納言の娘とかや聞きしにや。それよりも下、ましてくだくだしければむつかし。御雑仕、青柳・梅が枝・高砂・貫川と言ひし。此の貫川を、御門忍びて御覧じて、姫宮一所出で物し給ひき。其の姫宮は、末に近衛の関白〈 家基 〉の北の政所に成り給ひにき。万の事よりも、女御の御様形、めでたく御座しませば、上も思ほし付きにたり。女御は十六にぞ成り給ふ。御門は十二の御年なれど、いと大人しくおよすげ給へれば、目安き御程なりけり。彼の下くゆる心地にも、いと嬉しき物から、心は心として、胸のみ苦しきさまなれば、忍びはつべき心地し給はぬぞ、遂に如何に成り給はんと、いとほしき。程無く后立ち有りしかば、大臣、心行きて思さるる事限り無し。西園寺の女御も、差し続きて参り給ふを、いかさまならんと御胸つぶれて思せど、さしも有らず。是も九つにぞ成り給ひける。冷泉の大臣公相の御娘なり。大宮院の御子にし給ふとぞ聞こえし。いづれも離れぬ御中に、いどみきしろひ給ふ程、いと聞きにくき事もあるべし。宮仕ひの習ひ、斯かるこそ昔の人は面白くはえある事にし給ひけれ
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ど、今の世の人の御心共も、余りすくよかにて、雅をかはす事の御座せぬなるべし。是も后に立ち給へば、もとの中宮は上がりて、皇后宮とぞ聞こえ給ふ。今后は遊びにのみ心入れ給ひて、しめやかにも見え奉らせ給はねば、御覚え劣り様に聞こゆるを、思はずなる事に、世の人も言ひ沙汰しける。父大臣も、心やましく思せど、さりともねび行き給はばと、只今は恨み所無く思しのどめ給ふ。かくて、弘長三年二月の頃、大方の世の気色もうららかに霞み渡るに、春風ぬるく吹きて、亀山殿の御前の桜ほころびそむる気色の、常より異なれば、行幸あるべく思しおきつ。関白二条殿良実、此の三年ばかり〔又〕返りなり給へば、御随身共花を折りて、行幸より先に参り設け給ふ。其の外の上達部は、例のきらきらしき限り、残るは少なし。新院も両女院も渡らせ給ふ。御前の汀に船共浮かべて、をかしき様なる童、四位の若きなど乗せて、花の木蔭より漕ぎ出でたる程、二無く面白し。舞楽様々曲など手を尽くされけり。御遊の後、人々歌奉る。「花に遐年を契る」と言ふ題なりしにや。内の上の御製、
尋ね来てあかぬ心に任せなば千年や花のかげに過ごさん W
斯様の方までも、いとめでたく御座しますとぞ、古き人々申すめりし。帰らせ給ふ日、御贈り物共、いと様々なる中に、延喜の御手本を、鴬のゐたる梅の造り枝に付けて、奉らせ給ふ
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とて、院〈 後嵯峨 〉の上、
梅が枝に代々の昔の春掛けて変はらず来居る鴬の声 W
御返事を忘れたるこそ、老いの積もり、うたて口惜しけれ。其の年にや、五月の頃、本院、亀山殿にて御如法経書かせ給ふ。いと有り難くめでたき御事ならんかし。後白河院こそ斯かる御事はせさせ給ひけれ。それも御髪下ろして後の事なり〔けり〕。いとかく思し立たせ給へる、いみじき御願なるべし。然るは、数多度侍りしぞかし。男は、花山院の中納言師継一人候ひ給ひける。止む事無き顕密の学士共を召しけり。昔、上東門院も行はせ給ひたりし例にや、大宮院、同じく書かせ御座しますとぞ承りし。十種供養果てて後は、浄金剛院へ御自ら納めさせ給へば、関白・大臣・上達部歩み続きて御供仕られけるも、様々珍しく面白くなん。其の年九月十三夜、亀山殿の桟敷殿にて、御歌合せさせ給ふ。斯様の事は、白河殿にても鳥羽殿にても、いと繁かりしかど、如何でかさのみはにて、皆もらしぬ。此の度は、心殊に磨かせ給ふ。右は関白殿にて歌共撰り整へらる。左は院の御前にて、歌御覧ぜられけり。此の程殿と申すは、円明寺殿の御事なり。新院の御位の初めつ方、摂政にていませしが、又此の二年ばかり、帰らせ給へり。前の関白殿は、院の御方に候はせ給ふ。其の外勝れたる限り、
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右は関白殿・今出川の太政大臣・皇后宮の御父左大臣殿よりも下、皆此の道の上手共なり。左は大殿よりかずだて作りて、風流の州浜、沈にて作れる上に、白金の舟二つに、色々の色紙を巻き重ねてつまれたり。数も沈にて作りて舟に入れらる。左右の読師、一度に御前に参りて読みあぐ。左具氏の中将、右行家なり。山紅葉、本院の御製、
外よりは時雨も如何染めざらん我が植ゑて見る山の紅葉葉 W
遂に、左御勝ちの数勝りぬ。披講果てて夜更け行く程、御遊び始まる。笛花山院の中納言長雅・茂道の中将、笙公秋の中将にて御座せしにや。篳篥忠輔の中将、琵琶は太政大臣〈 公相 〉、具氏の中将も弾きけるとぞ。御簾の内にも御箏共かき合はせらる。東の御方と聞こえしは、新院の若宮の御母君にや。刑部卿の君も弾かれけり。楽のひまひまに、太政大臣・土御門の大納言通成など朗詠し給ふ。忠輔・公秋、声加へたる程面白く、川波も更け行く儘にすごう、月は氷を敷ける心地するに、嵐の山の紅葉、夜の錦とは誰か言ひけん、吹き下ろす松風に類ひて、御前の簀子にて、御酒参る土器の中などに散り掛かる、わざと艶ある事のつまにしつべし。若き人々は、身にしむばかり思へり。打ち乱れたる様に、各御土器共数多度下る。明け行く空も名残多かるべし。誠や、此の年頃、前の内大臣〈 基家 〉、為家の大納言入道・〔侍従の二位〕行家・光俊の弁の入道など、承りて、撰歌の沙汰有りつる、只今日明日広まるべしと
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聞こゆる、面白うめでたし。彼の元久の例とて、一院自ら磨かせ給へば、心殊に、光そひたる玉共にぞ侍るべき。年月に添へては、いよいよ、外様に分くる方無く、栄えのみ勝らせ給ふ御有様のいみじきに、此の集の序にも、「やまと島根はこれ我が世なり、春風に徳を仰がんと願ひ、和歌の浦も又我が国也、秋の月に道をあきらめん」とかや書かせ給へる、げにぞめでたきや。金葉集ならでは、御子の御名のあらはれぬも侍らねど、此の度は、彼の東の中務の宮の御名乗りぞ書かれ給はざりける、いと止む事無し。新古今の時有りしかばにや、竟宴と言ふ事行はせ給ふ、いと面白かりき。此の集をば、続古今と申すなり。又の年、文永三東に心よからぬ事出で来て、中務の御子宮、うへ上らせ給ふ。何と無く、あわたたしきやうなり。御後見は、猶時頼の朝臣なれば、例のいと心賢うしたためなほしてければ、聞こえし程の面白き事などは無ければ、宮は御子の惟康の親王に将軍を譲りて、文永三年七月八日、上らせ給ひぬ。御下りの折、六波羅に建てたりし桧皮屋一つ有り。そこにぞ初めは渡らせ給ふ。いとしめやかに、引きかへたる御有様を、年月の習ひに、さうざうしく物心細う思されけるにや。
虎とのみ用ゐられしは昔にて今は鼠のあなう世の中 W
院にも、東の聞こえをつつませ給ひて、やがては御対面も無く、いと心苦しく思ひ聞こえさせ給ひけり。経任の大納言、未だ下臈なりし程、御使ひに下されて、何事かと仰せられなどし
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て後ぞ、苦しからぬ事になりて、宮も土御門−殿承明門院の御跡へ入らせ給ひけり。院へも常に御参りなど有りて、人々も仕る。御遊びなどもし給ふ。雪のいみじう降りたる朝明けに、右近の馬場のかた御覧じに御座して、御心の内に、
猶頼む北野の雪の朝ぼらけ跡無き事に埋もるる身も W
世を乱らむなど思ひ寄りける武士の、此の御子の御歌勝れて詠ませ給ふに、夜々[B 昼か ]いと睦ましく仕りける程に、自づから同じ心なる物など多くなりて、宮の御気色あるやうに言ひなしけるとかや。然様の事共の響きにより、かく御座しますを、思し歎き給ふなるにこそ。日頃なる雨降りて、少し晴れ間見ゆる程、空の気色しめやかなるに、二条富の小路殿に、本院・新院一つに渡らせ給ふ頃、ことごとしからぬ程の御遊び有り。大宮院・東二条院も、御几帳ばかり隔てて御座します。御前に、太政大臣−公相、常盤井の入道殿−実氏、〔前の〕左の大臣−実雄、久我の大納言雅忠など、睦ましき限り候ひ給ひて、御酒参る。数多下り流れて、上下少し打ち乱れ給へるに、太政大臣、本院の御杯賜はりて、持ちながら、とばかり休らひて、「公相、官位共に極め侍りぬ。中宮御座しませば、もし皇子降誕も有らば、家門の栄花いよいよ衰ふべからず。実兼もけしうは侍らぬ男なり。後ろめたくも思ひ侍らぬを、一つの憂へ心の底になん侍る」と申し給へば、人々、
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何事にかと覚束無く思ふ。左の大臣は、中宮の事、掛け給ふを、まだきよりもと耳止まりて、打ち思すにも、心の中安げ無し。一院は、「如何なる憂へにか」と宣ふに、「如何にも、入道相国に先立ちぬべき心地なんし侍る。「恨みの至りて恨めしきは、盛りにて親に先立つ恨み、悲しみの切に悲しきは、老いて子に後るる悲しみには過ぎず」などこそ、澄明に後れたる願文にも書きて侍りしか」など聞こえて、打ちしをれ給へば、皆いと哀れと思さる。入道殿はまいて、墨染めの御袖絞るばかりに見え給ふ。さて、其の後幾程無く悩み給ふ由聞こゆれど、さしもやはと覚えしに、いとあや無く失せ給ひぬ。冷泉の太政大臣と申し侍りし事也。入道殿の御心の中、さこそは御座しけめ。中宮も御服にてまかで給ひぬ。皇后宮は日に添へて御覚えめでたくなり給ひぬ。姫宮・若宮など出でもし給ひしかど、やがて失せさせ給へるを、御門を始め奉りて、誰も誰も思し歎きつるに、今年、又其の御気色あれば、いとど思し騒ぎ、山々寺々に御祈りこちたく罵る。こたびだに、実に又打ちはづしては、いかさまにせんと、大臣・母北の方も、安き寝も寝給はず、思し惑ふ事限り無し。程近くなり給ひぬとて、土御門殿の、承明門院の御跡へ移ろひ給ふ。世の中響きて、天下の人、高きも下れるも、官ある程のは、参りこみてひしめき立つに、殿の内の人々は、まして心も〔心ならず、〕あわたたし、大臣限り無き願共を立て、
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賀茂の社にも、彼の御調度共の中に、勝れて御宝と思さるる御手箱に、后の宮自ら書かせ給へる願文入れて、神殿に込められけり。それには、「仮令御末までは無くとも、皇子一人」とかや侍りけるとぞ承りし、誠にや侍りけん。かく言ふは、文永四年十二月一日なり。例の御物の怪共あらはれて、叫びとよむ様、いと恐ろし。然れども、御祈りのしるしにや、えも言はずめでたき玉の男御子生まれ給ひぬ。其の程の式、言はずとも推し量るべし。上も、限り無き御志に添へて、いよいよ思す様に嬉しと聞こし召す。大臣も今ぞ御胸あきて心落ち居給ひける。新院の若宮〈 伏見院 〉も、此の殿の御孫ながら、其は東二条院の御心の中推し量られ、大方も又うけばり止む事無き方には有らねば、万聞こし召し消つ様なりつれど、此の今宮は、本院も大宮院も、きはことに持てはやしかしづき奉らせ給ふ。是も中宮の御為、いとほしからぬには有らねど、如何でかさのみは有らんと、西園寺様にぞ、一方ならず思し結ぼほれ、すさまじう聞き給ひける。
第八 飛鳥川
隙行く駒の足に任せて、文永も五年に成りぬ。正月二十日、本院の御座します富の小路殿
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にて、今上の若宮、御五十日聞こし召す。いみじう清らを尽くさるべし。今年正月に閏有り。後の二十日余りの程に、冷泉院にて舞御覧有り。明けむ年、一院、五十に満たせ給ふべければ、御賀有るべしとて、今より世の急ぎに聞こゆ。楽所始めの儀式は、内裏にてぞ有りける。試楽、二十三日と聞こえしを、雨ふりて、明くるつとめて、人々参り集ふ。新院は予てより渡らせ給へり。寝殿の御階の間に、一院の御座設けたり。其の西に寄りて、新院の御座、東は大宮院・東二条院、皆白き御袴に、二つ御衣奉り、聖護院の法親王・円満院など参り給ふ。土御門の中務の宮も参り給ふ。上達部・殿上人、数多御供し給へり。仁和寺の御室・梶井の法親王なども、すべて残り無く集ひ給ふ。月花門院・花山院の准后などは、大宮院の御座します御座に御几帳押しのけて渡らせ給ふ。寝殿の第四の間に、袖口共心殊にて押し出ださる。大納言の二位殿・南の御方など、止む事無き上臈は、院の御座します御簾の中に、引きさがりて候ひ給ふ。いづれも、白き袴に二つ衣なり。東の隅の一間は、大宮院・月花門院の女房共参り集ふ。西の二間に、新准后候ひ給ふ。御前の簀子に、関白を始め右大臣〔基忠〕・内大臣〔家経〕・兵部卿隆親・二条の大納言良教・源大納言通成・花山院の大納言師継・右大将通雅・権大納言基具・一条の中納言公藤・花山院の中納言長雅・左衛門督通頼・中宮の権大夫隆顕・
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大炊御門の中納言信嗣・前の源宰相有資・衣笠宰相の中将経平・左大弁の宰相経俊・新宰相の中将具氏・別当公孝・堀川の三位の中将具守・富小路三位の中将公雄、皆御階の東に着き給ふ。西の第二の間より、又、〔前の〕左大臣実雄・二条の大納言経輔・前の源大納言雅家・中宮の大夫雅忠・藤大納言為氏・皇后宮の大夫定実・四条の大納言隆行・帥の中納言経任、此の外の上達部、西東の中門の廊、それより下様、透渡殿・打橋などまで着き余れり。皆、直衣に色々の衣重ね給へり。時なりて、舞人共参る。実冬の中将、唐織物の桜の狩衣、紫の濃き薄きにて梅を織れり。赤地の錦の表着・紅の匂ひの三つ衣・同じ単・しじらの薄色の指貫、人よりは少しねびたりしも、あな清げと見えたり。大炊御門の中将冬輔と言ひしにや、装束先のに変はらず。狩衣はから織物なり。花山院の中将家長〈 右大将の御子 〉魚綾の山吹の狩衣、柳桜を縫ひ物にしたり。紅の打衣を輝くばかりだみ返して、萌黄の匂ひの三つ衣・紅の三重の単、浮織物の紫の指貫に、桜を縫ひ物にしたり。珍しく美しく見ゆ。
花山院の少将忠季〈 師継の御子也 〉桜の結び狩衣、白き糸にて水を隙無く結びたる上に、桜柳を、それも結びて付けたる、艶めかしく艶なり。赤地の錦の表着、金の文を置く。紅の二つ衣・同じ単・紫の指貫、是も柳桜を縫ひ物に色々の糸にてしたり。中宮の権亮の少将公重〈 実藤の大納言の子 〉唐織物の桜萌黄の狩衣・紅の打衣の紫の匂ひの三つ衣・紅の単、指貫例の紫に桜を白く縫ひたり。堀川の少将基俊
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〔基具の大納言の子、〕唐織物、裏山吹、三重の狩衣の、柳だすきを青く織れる中に桜を色々に織れり。萌黄の打衣、桜をだみ付けにして、輪違へを細く金の文にして、色々の玉をつく。匂ひつくしの三つ衣、紅の三重の単、是も箔散らす。二条の中将経俊〈 良教の大納言の御子也 〉是も唐織物の桜萌黄・紅の衣・同じ単なり。皇后宮の権亮中将実守、是も同じ色の樺桜の三つ衣・紅梅の〔匂ひの〕三重の単、右馬頭隆良〈 隆親の子にや 〉緑苔の赤色の狩衣の玉のくくりを入れたる、青き魚綾の表着・紅梅の三つ衣・同じ二重の単・薄色の指貫、少将実継、松がさねの狩衣・紅の打衣・紫の二つ衣、是も色々の縫ひ物・置き物など、いとこまかに艶めかしくしなしたり。陵王の童に、四条の大納言の子、装束常の儘なれど、紫の緑苔の半尻、金の文、赤地の錦の狩衣、青き魚綾の袴、笏木のみなゑり骨、紅の紙にはりて持ちたる用意気色、いみじく持て付けて、めでたく見え侍りけり。笛茂通・隆康、笙公顕・宗実、篳篥兼行、太鼓教藤、鞨鼓あきなり、三の鼓のりより、左万歳楽、右地久、陵王、輪台、青海波、太平楽、入綾、実冬いみじく舞ひすまされたり。右落蹲、左春鴬囀、右古鳥蘇、後参、賀殿の入綾も実冬舞ひ給ひしにや。暮れ掛かる程〔にて〕、何のあやめも見えずなりき。御方々宮達、あかれ給ひぬ。同じ二月十七日に、又、新院富の小路殿にて舞御覧。其の朝、大宮院先づ忍びて渡らせ給ふ。一院の御幸は、日たけてなる。冷泉殿より只這ひ渡る程なれば、楽人・舞人、今日の装束にて、上達部など、
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皆歩み続く。庇の御車にて、御随身十二人、花を折り錦を立ち重ねて、声々、御先花やかに追ひ罵りて、近く候ひつる、二無く面白し。新院は、御烏帽子直衣・御袴際にて、中門にて待ち聞こえさせ給へる程、いと艶にめでたし。御車中門に寄せて、関白殿、御佩刀取りて、御匣殿に伝へ給ふ。二重織物の萌黄の御几帳のかたびらを出だされて、色々の平文の衣共、物の具は無くて押し出ださる。今日は正親町の院も御堂の隅の間より御覧ぜられる。大臣・上達部、有りしに変はらず。猶参り加はる人は多けれど、漏れたるは無し。実冬は、今日は、花田うら山吹の狩衣、二重うち萌黄裏など、思ひ思ひ心々に、前には皆引きかへて、様々尽くしたり。基俊の少将、此の度は、桜萌黄の五重の狩衣・紅の匂ひの五衣、打衣はやりつき、山吹の匂ひ、浮織物の三重単・紫の綾の指貫、中に勝れてけうらに見え給へり。此の度は、多く緑苔の衣を着たり。万歳楽を吹きて楽人・舞人参る。池の汀に桙を立つ。春鴬囀・古鳥蘇・後参・輪台・青海波・落蹲など有り。日暮らし面白く罵りて、帰らせ給ふ程に、赤地の錦の袋に御琵琶入れて奉らせ給ふ。刑部卿の君、御簾の中より出だす。右大将取りて、院の御前に気色ばみ給ふ。胡飲酒の舞は、実俊の中将と予ては聞こえしを、父大臣の事に止まりにしかば、近衛の前の関白殿の御子三位の中将と聞こゆる、未だ童にて舞ひ給ふ。別して、此の試楽より先なりしにや、内々白河殿にて
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試み有りしに、父の殿も御簾の内にて見給ふ。若君いと美しう舞ひ給へば、院めでさせ給ひて、舞の師忠茂、禄賜はりなどしける。斯様に聞こゆる程に、蒙古の軍と言ふ事起こりて、御賀止まりぬ。人々口惜しく本意無しと思す事限り無し。何事も打ちさましたるやうにて、御修法や何やと、公家・武家、只此の騒ぎなり。然れども、程無く鎮まりて、いとめでたし。かくて、今上の若宮、六月二十六日親王の宣旨有りて、同じき八月二十五日、坊に居給ひぬ。かく花やかなるに付けても、入道殿はめざましく思さる。故大臣の先立ち給ひし歎きに沈みてのみ物し給へど、「斯かる世の気色を、賢く見給はぬよ」と思し慰む。中宮は、御服の後も参り給はず。万引き返し物恨めしげなる世の中なり。一院は、御本意遂げん事を漸う思す。其の年の九月十三夜、白河殿にて月御覧ずるに、上達部・殿上人、例の多く参り集ふ。御歌合有りしかば、内の女房共召されて、色々の引き物、源氏五十四帖の心、様々の風流にして、上達部・殿上人までも分かち賜はす。院の御製、
我のみや影も変はらん飛鳥川同じ淵瀬に月はすむとも W
予てより袖も時雨れて墨染めの夕べ色ます峰の紅葉葉 W
此の御歌にてぞ、御本意の事思し定めけり〔と〕、〔皆人、袖を絞りて、声も変はりけり。〕哀れにこそ。民部卿入道為家、判ぜさせられける
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にも、「身をせめ心を砕きて、かき遣る方も侍らず」とかや奏しけり。かくて神無月の五日、亀山殿へ御幸なる。今日を限りの御旅なれば、心殊に整へさせ給ふ。新院も例の御座します。大宮・東二条、一つ御車にて、同じく渡らせ給ふ。大宮女院は白菊の御衣、東二条院は青紅葉の八つ、菊の御小袿奉る。先づ、北野・平野の社へ御参りあれば、御随身共花を織り尽くし、今日を限りと、様あしきまで装束きあへる。両社にて、馬上げさせられけり。神も如何に名残多く見給ひけん。空さへ打ち時雨れて、木の葉誘(さそ)ふ嵐も折知り顔に物悲しう、涙争ふ心地し給ふ人々多かるべし。中務の御子、「今日の袂さぞ時雨るらん」と宣ひし御返し、中将、
袖濡らす今日をいつかと思ふにも時雨れてつらき神無月かな W
やがて其の夜御髪下ろす。御戒の師には、青蓮院の法親王参り給ふ。其の頃やがて、御逆修始めさせ給へば、其の程、女院色々の御捧持共奉らせ給へり。今は弥法の道をのみもてなさせ給ひつつ、或る時は止観の談義、或る時は真言の深き沙汰・浄土の宗旨などを尋ねさせ給ひつつ、万に通ひ暗からず物し給へば、何事も、前の世より賢く御座しましける程現れて、今行く末も、げに頼もしく、めでたき御有様なり。かくて今年も暮れぬ。又の年三月の一日、月花門院、俄に隠れさせ給ひぬ。法皇
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も女院も、限り無く思ひ聞こえさせ給ひつるに、いとあさまし。然るは誠にや有らん、又、人違へにや、とかく聞こゆる御事共ぞ、いと口惜しき。四辻の彦仁の中将、忍びて参り給ひけるを、基顕の中将、彼の〔御〕まねをして、又参り加はりける程に、あさましき御事さへ有りて、それ故隠れさせ給へるなど、ささめく人も侍りけり。猶さまでは有らじとぞ思ひ給ふれど、如何有りけん。法皇は、又文永七年神無月の頃、御手づから書かせ給へる法華経一部、供養〔せ〕させ給ふ。御八講、名高く才勝れて賢き僧共を召したり。世の中の人残り無く仕る。新院予てより渡り給へり。然るべき御事とは申しながら、何に付けても、御心ばへのうるはしくなつかしう御座しまして、院の思いたる筋の事は、必ず同じ御心に仕り、いささかも、いでやと打ち思さるる一節も無く物し給ふを、法皇もいと美しう忝しと思されけり。第二日の夜に入りて行幸もなる。五の巻の日の御捧物共参り集ふ。様々学び尽くし難し。内の御捧物は、紙屋紙に黄金を包みて、柳箱に据ゑて、頭弁ぞ持ちたる。次に新院・女院達、宮々御方々、皆そなた様の宮司・殿上人など持て続きたり。関白・大臣などは座につき給ふ。大中納言・参議・四位五位などは、自らの捧物を持ちて渡る。各心々にいどみ尽くして、様々をかしき中に、兵部卿隆親は、糸鞋をはきて、鳩の杖をつきて出でたり。此の杖をやがて捧物に
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となりけり。銀にてひた打ちにして、先は黄金なり。結願の日は、舞楽などいみじく面白くて過ぎぬ。又の年正月に、忍びて新院と御方分かちの事し給ふ。初めは法皇御負けなれば、御勝ちむかひに、上達部皆五節のまねをして、色々の衣あつづまにて、「思ひの津に船の寄れかし」とはやして参る。新院引き繕ひて渡り給ふ。御酒幾返りと無く聞こし召さる。一番づつの御引出物、伊勢物語の心とぞ聞こえし。黄金の地盤に、銀の伏籠に、焚き物くゆらかして、「山は富士の嶺いつと無く」と、又、銀の船に麝香の臍にて、蓑着たる男作りて、「いざ言問はむ都鳥」など、様々いと艶めかしくをかしくせられけり。態とことごとしき様には有らざりけり。こたみは、新院よりこそねたみには、新院一年人のまねをして、「梵王は頸にのる。杯は花にのる」とかやはやして、法皇の御迎ひに参る。上達部の大人び給へるなどは、少し軽々にや見えけんと推し量らる。此の度は、源氏の物語の心にや有りけむ、唐めいたる箱に、金剛子の数珠入れて、五葉の枝に付けたり。又、斎院よりの黒方、梅の散り過ぎたる枝に付けなど、是もいとささやかなる事共になむ有りける。男・女房、乱りがはしく強ひ交はして、御琴共召して、拍子打ち鳴らしなどして明けぬ。斯様の事にのみ心遣りて明かし暮らさせ給ふ程に、又の年の秋になりぬ。東二条院、日頃只にも御座しまさざりつる、其の気色有りとて、世の中騒ぐ。
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院の内にてせさせ給へば、いよいよ人参り集ふ。大法・秘法、残り無く行はる。七仏薬師・五壇の御修法・普賢延命・金剛童子・如法愛染など、すべて数知らず。御験者には、常住院の僧正参り給ふ。八月二十日宵の事なり。既にかと見えさせ給ひつつも、二日・三日になりぬれば、ある限りの物覚ゆる人も無し。いと苦しげにし給へば、仁和寺の御室の、如法愛染の大阿闍梨にて候ひ給ふを、御枕上に近く入れ奉らせ給ひて、「いと弱う見え侍るは、如何なるべきにか」と、院も添ひ御座しまして、扱ひ聞こえ給ふ様、おろかならねば、哀れと見奉り給ひて、「さりとも、けしうは御座しまさじ。定業の亦能転は、菩薩の誓ひなり。今更妄語有らじ」とて、御心を致して念じ給ふに、験者の僧正も「一持秘密」とて、数珠押し揉みたる程、げに頼もしく聞こゆ。御誦経の物共、運び出で、女房の衣など、こちたきまで押し出だせば、奉行取りて、殿上人、北面の上下、あかれあかれに分かち遣はす。そこらの上達部は、階の間の左右に着きて、王子誕生を待つ気色なり。陰陽師・巫女立ちこみて、千度の御祓ひ勤む。御随身・北面の下臈などは、神馬をぞ引くめる。院拝し給ひて、二十一社に奉らせ給ふ。すべて上下・内外罵り満ちたるに、御気色只弱りに弱らせ給へば、今一入心惑ひして、さと時雨れ渡る袖の上とも、いとゆゆし。院もかき暗し悲しく思されて、御心の内には、石清水の方を念じ給ひつつ、御手をとらへて泣き給ふに、候ふ限りの人、皆え心強から
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ず。いみじき願共〔を〕立てさせ給ふ験にや、七仏の阿闍梨参りて、「見者歓喜」と打ち上げたる程に、辛うじて生まれ給ひぬ。何と言ふ事も聞こえぬは、姫宮なりけりと、いと口惜しけれど、むげに無き人と見え給へるに、平らかに御座するを喜びにて、如何はせむと思し慰む。人々の禄など常の如し。法皇も、中々、いたはしく止む事無き事に思して、いみじく持てはやし奉らせ給ふ。いでやと口惜しく思へる人々多かり。斯かるにしも、実雄の大臣の御宿世現れて、片つ方には、心落ち居給ふも、世の習ひなれば、理なるべし。五夜・七夜など、殊に花やかなる事共にて、過ぎもて行く。其の頃ほひより、法皇時々御悩み有り。世の大事なれば、御修法共いかめしく始まる。何くれと騒ぎ合ひたれど、怠らせ給はで、年も返りぬ。正月の始めも、院の内かいしめりて、いみじく物思ひ歎きあへり。十七日、亀山殿へ御幸なる。是や限りと、上下心細し。法皇も御輿なり。両女院は例の一つ御車に奉る。尻に御匣殿候ひ給ふ。道にて参るべき御煎じ物を、胤成・師成と言ふ医師共、御前にてしたためて、銀の水瓶に入れて、隆良の中納言承りて、北面の信友と言ふに持たせたりけるを、内野の程にて、参らせんとて召したるに、此の瓶に露程も無し。いと珍かなる業なり。さ程の大事の物を、悪しく持ちて、打ちこぼすやうは、如何でか有らん。法皇も、いとど御臆病そひて、
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心細く思されけり。新院は、大井川の方に御座しまして、隙無く、男・女房、上下と無く、「今の程如何に如何に」と聞こえさせ給ふ御使ひの、行き帰る程を、猶いぶせがらせ給ふに、正月も立ちぬ。いかさまに御座しますべきにかと、誰も誰も思し惑ふ事限り無し。予てより、斯様の為と思しおきてける寿量院へ、二月七日渡り給ふ。此処へは、おぼろけの人は参らず。南松院の僧正、浄金剛院の長老覚道上人などのみ、御前にて、法の道ならでは宣ふ事も無し。六波羅北南、御訪ひに参れり。西園寺の大納言実兼、例の奏し給ふ。十一日、行幸有り。中一日渡らせ給へば、泣く泣く万の事を聞こえ置かせ給ふ。新院も御対面有り。御門は、御本上いと花やかに賢く、御才なども昔に恥ぢず、何事も整ほりてめでたく御座します。世を治めさせ給はん事も、後ろめたからず思せば、聞こえ給ふ筋異なるべし。十七日の朝より、御気色変はるとて、善智識召さる。経海僧正・往生院の聖など参りて、ゆゆしき事共聞こえ知らつべし。遂に、其の日の酉の時に、御年五十三にて隠れさせ給ひぬ。後嵯峨院とぞ申すめる。今年は文永九年なり。院の中くれふたがりて、闇に迷ふ心地すべし。十八日に薬草院に送り奉り給ふ。仁和寺の御室・円満院・聖護院・菩堤院・梶青蓮院、皆御供仕らせ給ふ。内より頭の中将、御使ひに参る。三十年が程、世をしたためさせ給ひつるに、少しの誤り無く、思す儘に、新院・
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御門・春宮、動き無く、又外様に分かるべき事も無ければ、思し置くべき一節も無し。無き御跡まで、人の靡き仕れる様、来し方も例無き程なり。二十三日、御初七日に、大宮院御髪下ろす。其の程、いみじく悲しき事多かり。天の下、押しなべて黒み渡りぬ。万しめやかに哀れなる世の気色に、心有るも心無きも、涙催さぬは無し。院・内の御歎き〔は〕、然る事にて、朝夕睦ましく仕りし人々の、思ひ沈みあへる様、理にも過ぎたり。其の中に、経任の中納言は、人より殊に御覚え有りき。年も若からねば、定めて頭下ろしなんと、皆人思へるに、なよらかなる狩衣にて、御骨の御壺持ち参らせて参れるを、思ひの外にもと、見る人思へり。権中納言公雄と聞こゆる〔は〕、皇后宮の御兄なり。早うより、故院いみじくらうたがらせ給ひて、夜昼御傍ら去らず候ひて、明け暮れ仕られ給ひしかば、限り有る道にも後らかし給へる事を、若き程に、遣る方無く悲しと思ひ入り給へり。西の対の前なる紅梅の、いと美しきを折りて、具氏の宰相の中将、彼の中納言に消息聞こゆ。
梅の花春は春にも有らぬ世をいつと知りてか咲き匂ふらん W
返し、
心有らばころも浮き世の梅の花折忘れずば匂はざらまし W
「夜さり、対面に、何事も聞こえん」と言へるを、此の中将も、故院の御いとほしみの人にて、同じ心
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なる友に覚えければ、いと哀れにて、悲しき事も語り合はせんと、日ぐらし待ち居たるに、遂に見えず。怪しと思ふに、はや其の夜頭下ろしてけり。齢も盛りに、今も皇后宮の御兄、春宮の御伯父なれば、世の覚え劣るべくも有らず。思ひなしも頼もしく、誇りかなるべき身にて、かく捨て果つる程、いみじく哀れなれば、皆人、いとほしく悲しき事に言ひあつかふめり。経任の中納言にはこよなき心ばへにや。父大臣も、院の御事を尽きせず歎き給ふに打ち添へて、いみじと思す。公宗の中納言も、甲斐無き物思ひの積もりにや、はかなくなり給ひぬ。又此の中納言さへかく物し給ひぬるを、様々に付けて心細く思すに、幾程無く皇后宮さへ又失せ給ひぬ。いよいよ臥し沈みてのみ御座する程に、いと弱う成り増さり給ふ。春宮の御代をもえ待ち出づまじきなめりと、哀れに心細う思し続けて、
はかなくもおふの浦なし君が代にならばと身をも頼みけるかな W
歎きにたへず、遂に失せ給ひにけり。物思ふには、げに命も尽くる業なりけり。哀れに悲しと言ひつつも、止まらぬ月日なれば、故院の御日数も程なう過ぎ給ひぬ。世の中〔は〕、新院かくて御座しませば、法皇の御代はりに引きうつして、さぞ有らんと世の人も思ひ聞こえけるに、当代〔の〕御一つ筋にて有るべき様の御掟なりけり。長講堂領、又播磨の国、尾張
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の熱田の社などをぞ、御処分有りける。いづれの年なりしにか、新院、六条殿に渡らせ給ひし頃、祇園の神輿互ひの行幸有りし時、御対面のやうを、故院へ尋ね申されたりしにも、「我とひとしかるべき御事なれば、朝覲になぞらへらるべし」と申されける。一つ腹の御兄にても御座します。方々理なるべき世を、思ひの外にもと、思ふ人々も多かるべし。「いでや位に御座しますにつきて、差しあたりの御政などは理なり。新院にも若宮御座しませば、行く末の一節は、などかは」など、言ひしろふ。かかれば、いつしか、院方・内方と、人の心々も引き別るるやうに、うちつけ事共出で来けり。人一人御座しまさぬあとは、いみじき物にぞ有りける。朝の御守りとて、田村の将軍より伝はり〔参り〕ける御佩刀などをも、彼の御気色のしか御座しましけるにや、御隠れの後、やがて内裏へ奉らせ給ひにしかば、それなどをぞ、女院〔の〕恨めしき御事には、院も思ひ聞こえさせ給ひける。さてしもやはなれば、此の由をも関の東へぞ宣ひ遣はしける。内には、花山院の太政大臣、後院の別当になされて、世の中も自らしたためさせ給ふ。もとよりいと花やかに、今めかしき所御座する君にて、万かどかどしうなん。皇后宮隠れさせ給ひにし後は、尽きせぬ御歎きさめ難うて、所狭き御有様もよだけう、如何で本意をも遂げてばやなどまで思されけり。故院の御果ても過ぎさせ給へば、世の中、色改まりて、花やかに、
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人々の御歎きの色も薄らぎ行くしも、哀れなる習ひなりかし。其の夏、春宮例にも御座しまさで日頃ふれば、内の上、御胸つぶれて、御修法や何やと騒がせ給ふ。和気・丹波の医師〈 氏成・春成、 〉共、夜昼候ひて、御薬の事、色々に仕れど、只同じ様にのみ御座す。如何なるべき御事にかと、いとあさましうて、上も、つと此の御方に渡らせ給ひて見奉らせ給ふに、御目の内、大方、御身の色なども、事の外に黄に見えければ、いと怪しうて、御大壺を召し寄せて御覧ぜらる。紙をひたして見せらるるに、いみじう濃く出でたる黄皮の色なり。いとあさましく、などかばかりの事を知り聞こえざらんとて、御気色あしければ、医師共、いたう畏まり、色を失ふ。かばかりになりては、御灸無くては、まがまがしき事出で来べきと、各驚き騒ぐ。未だ例無き事は、如何有るべきと、定め兼ねらる。位にては、只一度例有りけり。春宮にては、未だ然る例無かりけれど、如何はせむとて、思し定む。七つにならせ給へば、さらでだに心苦しき御程なるに、まめやかにいみじと思す。医師と大夫定実の君一人召し入れて、又、人も参らず。御門の御前にて、五所ぞせさせ奉らせ給ひける。御乳母共、いと悲しと思ひて、いぶかしうすれど、をさをさ許させ給はず。宮いと熱くむつかしう思せど、大夫につと抱かれ給ひて、上の御手をとらへ、万に慰め聞こえさせ給ふ御気色の、哀れに忝さを、幼き御心に思し知るにや、いとおとなしく念じ給ふ。
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かくて後、程無く怠らせ給ひぬれば、めでたく御心落ち居給ひぬ。大方、今年は地震繁くふり、世の中騒がしきやうなれば、つつしみ思されて、十月十五日より、円満院の二品親王、内〈 万里小路殿 〉に候ひ給ひて、尊星王の御修法勤め給ふに、二十日の宵、二の対より火出で来たり。あさましとも言はむ方無し。上下立ち騒ぎ罵る様、思ひ遣るべし。大宮院も内々御座しましける頃にて、急ぎ出でさせ給ふ。御車の棟木にも、既に火燃え尽きけるを、又差し寄せて、春宮奉りけり。其の夜しも、勾当の内侍里へ出でたりければ、御塗籠の鍵をさへ求め失ひて、いみじき大事なりけるを、上聞こし召して、荒らかに踏ませ給ひたりければ、さばかり強き戸の、まろびて開きたりけるぞ恐ろしき。さ無くば、いとゆゆしき事〔共〕ぞ有るべかりける。故院の御処分の入りたる御小唐櫃、何くれの御宝、事故無く取り出だされぬ。それだにも、余り騒ぎて、御勘文・御産衣などの入りたる物は焼けにけり。上は、腰輿にて、押小路殿へ行幸なりぬ。法親王は、「修法の強き故に、斯かる事は有るなり」とぞ宣はせける。此の四月に、御わたまし有りつるに、幾程なく斯かるは、げにいみじき業なれど、昔も、三条院、位の御時かとよ、大内造り立てられて、御わたましの夜こそ、やがて火出で来て焼けにし事もあれば、是より重き大事も有るべかりけるに、変はりたらんは如何はせん。かくて今年も暮れぬ。上は、いよいよ世の中の〔心〕あわたたしう思されて、降り居
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なんの御心遣ひすめり。位に御座しましては、十五年ばかりにやなりぬらん。未だ三十にも遙かに足らぬ程の御齢なれば、今ぞ盛りに、若う清らなる御程なめる。
第九 草枕
文永十一年正月二十六日、春宮に位譲り申させ給ふ。二十五日の夜、先づ、内侍所・剣璽引き具して、押小路殿へ行幸なりて、又の日、ことさらに二条内裏へ渡されけり。九条の摂政殿〈 忠家 〉参り給ひて、蔵人召して、禁色仰せらる。上は八つにならせ給へば、いと小さく美しげにて、びづらゆひて、御引直衣・打御衣・はり袴奉れる御気色、おとなおとなしうめでたく御座するを、花山院の内大臣、扶持し申さるるを、故皇后の御兄公守の君などは、哀れに見給ひつつ、故大臣・宮などの御座せましかばと思し出づ。殿上に人々多く参り集まりて、御膳参る。其の後上達部の拝有り。女房は朝餉より行末まで、内大臣公親の娘を始めにて、三十余人並み居たり。いづれと無くとりどりにきよげなり。二十八日よりぞ、内侍所の御拝始められける。かくて新院、二月七日行幸始めせさせ給ふ。大宮院の御座します中御門京極実俊の中将の家へなる。御直衣、唐庇の御車、上達部・殿上人残り無く、上の衣にて仕る。同じ十日、やがて菊の網代庇
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の御車奉り始む。此の度は、御烏帽子・直衣、院へ参り給ふ。同二十日、布衣の御幸始め、北白河殿へ入らせ給ふ。八葉の御車、萌黄の御狩衣・山吹の二つ御衣・紅の御単・薄色の織物の御指貫奉る。本院は、故院の御第三年の事思し入りて、正月の末つ方より、六条殿の長講堂にて、哀れに尊く行はせ給ふ。御指の血を出だして、御手づから法華経など書かせ給ふ。僧衆も十余人が程召し置きて、懺法など読ませらる。御掟の思はずなりしつらさをも、思し知らぬには有らねど、それも然るべきにこそは有らめと、いよいよ御心を致して、懇ろに孝じ申させ給ふ様、いと哀れ也。新院もいかめしう御仏事嵯峨殿にて行はる。三月二十六日は御即位、めでたくて過ぎもて行く。十月二十二日御禊なり。十九日より官の庁へ行幸有り。女御代、花山院より出ださる。糸毛の車、寝殿の階の間に、左大臣殿・大納言長雅寄せらる。みな紅のX五衣、同じ単、車の尻より出ださる。十一月十九日、又官の庁へ行幸、二十日より五節始まるべく聞こえしを、蒙古起こるとて止まりぬ。二十二日、大嘗会、廻立殿の行幸、節会ばかり行はれて、清暑堂の御神楽も無し。新院は、世を知ろし召す事変はらねば、万御心の儘に、日頃ゆかしく思し召されし所々、いつしか御幸繁う、花やかにて過ぐさせ給ふ。いと有らまほしげなり。本院は、猶いと怪しかりける御身の宿世を、人の思ふらん事もすさまじう思し結ぼほれて、世を背かんの設けにて、
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尊号をも返し奉らせ給へば、兵仗をも止めて、御随身共召して、禄かけ、暇賜はる、いと心細しと思ひあへり。大方の有様、打ち思ひめぐらすもいと忍び難き事多くて、内外、人々、袖共うるひ渡る。院もいと哀れなる御気色にて、心強からず。今年三十三にて御座します。故院の、四十九にて御髪下ろし給ひしをだに、さこそは誰も誰も惜しみ聞こえしか。東の御方も、後れ聞こえじと御心遣ふ。さならぬ女房・上達部の中にも、とりわき睦ましう仕る人、三、四人ばかり、御供仕るべき用意すめれば、程々に付けて、私も物心細う思ひ歎く家々有るべし。斯かる事共、東にも驚き聞こえて、例の陣の定めなどやうに、此彼数多、東の武士共、寄り合ひ寄り合ひ評定しけり。此の頃は、有りし時頼の朝臣の子、時宗、X相模守と言ふぞ、世の中計らふ主なりける。故時頼の朝臣は、康元元年に頭下ろして後、忍びて諸国を修行し歩きけり。それも国々の有様、人の愁へなど、詳しくあなぐり見聞かんの謀にて有りける。怪しの宿りに立ち寄りては、其の家主が有様を問ひ聞き、理ある愁へなどの埋もれたるを聞き開きては、「我は怪しき身なれど、昔、よろしき主を、持ち奉りし、未だ世にや御座すると、消息奉らん。持て詣でて聞こえ給へ」など言へば、「なでう事無き修行者の、何ばかりかは」と思ひながら、言ひ合はせて、其の文を持ちて東へ行きて、しかじかと教へし儘に言ひて見れ
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ば、入道殿の御消息なりけり。「あなかまあなかま」とて、長く愁へ無きやうに、計らひつ。仏神〔など〕の現はれ給へるかとて、皆額をつきて喜びけり。斯様の事、すべて数知らず有りし程に、国々も心遣ひける。それが子なればにや、〔今の〕時宗の朝臣もいとめでたき者にて、「本院のかく世を思し捨てんずる、いと忝れなる御事なり。故院の御掟は、やうこそ有らめなれど、そこらの御兄にて、させる御誤も御座しまさざらん、如何でかは、忽ちに、名残無くは物し給ふべき。いと怠々しき業なり)とて、新院へも奏し、彼方此方宥め申して、東の御方の若宮〈 伏見院 〉を坊に奉りぬ。十月五日、節会行はれて、いとめでたし。かかれば、少し御心慰めて、此の際は、強ひて背かせ給ふべき御道心にも有らねば、思し止まりぬ。是ぞ有るべき事と、あいなう世の人も思ひ言ふべし。御門よりは、今二つばかりの御兄なり。儲けの君、御年勝れる例、遠き昔はさて置きぬ、近頃は三条院・小一条院・高倉院などや御座しましけん。高倉院の御末ぞ今もかく栄えさせ御座しませば、賢き例なめり。古の天智天皇と天武天皇とは、同じ御腹の御はらからなり。其の御末、しばしは、打ち変はり打ち変はり世を知ろし召しし例などをも、思ひや出でけむ。御二流れにて、位にも御座しまさなむと思ひ申しけり。新院は、御心行くとしも無くや有りけめど、大方の人目に
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は、御中いとよくなりて、御消息も常に通ひ、上達部なども、彼方此方参り仕れば、大宮院も目安く思さるべし。誠や、文永の初めつ方下り給ひし斎宮は、後嵯峨院の更衣腹の宮ぞかし。院隠れさせ給ひて後、御服にて降り給へれど、猶御暇許りざりければ、三年まで伊勢に御座しまししが、此の秋の末つ方御上りにて、仁和寺に衣笠と言ふ所に住み給ふ。月花門院の御次には、いと尊く思ひ聞こえ給へりし昔の御心掟を、哀れに思し出でて、大宮院、いと懇ろに訪ひ奉り給ふ。亀山殿に御座します。十月ばかり、斎宮をも渡し奉り給はんとて、本院をも入らせ給ふべき由御消息あれば、珍しくて御幸有り。其の夜は、女院の御前にて、昔今の物語など、のどやかに聞こえ給ふ。又の日夕づけて、衣笠殿へ御迎に、忍びたる様にて、殿上人一二人、御車二つばかり奉らせ給ふ。寝殿の南面に、御褥共引き繕ひて、御対面有り。とばかりして、院の御方へ御消息聞こえ給へれば、やがて渡り給ふ。女房に、御佩刀持たせて、御簾の内に入り給ふ。女院は香の薄にほひの御衣、香染めなど奉れば、斎宮、紅梅の匂ひに、葡萄染めの御小袿なり。御髪いとめでたく盛りにて二十に一、二つや余り給ふらんと見ゆ。花と言はば、霞の間の樺桜〔も〕、猶匂ひ劣りぬべく、言ひ知らずあてに美しう、あたりも薫る御様して、珍かに見えさせ給ふ。
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院は、われもかう乱れ織りたる枯野の御狩衣、薄色の御衣、紫苑色の御指貫、なつかしき程なるを、いたくたきしめて、えならず薫り満ちて渡り給へり。上臈だつ女房、紫の匂ひ五つに、裳ばかり引き掛けて、宮の御車に参り給へり。神世の御物語など良き程にて、故院の今はの頃の御事など、哀れに懐かしく聞こえ給へば、御いらへも慎ましげなる物から、〔いぶせからぬ程に、ほのかに物打ち宣へる御様なども、〕いとらうたげなり。をかしき様なる御酒・御果物・強飯などにて今宵は果てぬ。院も我が御方に帰りて、打ちやすませ給へれど、微睡まれ給はず。有りつる御面影、心に懸かりて覚え給ふぞいとわりなき。「差しはへて聞こえんも、人聞きよろしかるまじ。如何はせん」と思し乱る。御はらからと言へど、年月余所にて生ひ立ち給へれば、うとうとしく習ひ給へる儘に、慎ましき御思ひも薄くや有りけん、猶ひたぶるにいぶせくてやみなんは、あかず口惜しと思す。けしからぬ御本性なりや。某の大納言の娘、御身近く召し使ふ人、彼の斎宮にも、然るべき縁有りて睦ましく参りなるるを、召し寄せて、「馴れ馴れしきまでは思ひ寄らず。只少しけ近き程にて、思ふ心の片端を聞こえん。かく折良き事もいと難かるべし」と切にまめだちて宣へば、如何たばかりけむ、夢うつつとも無く近づき聞こえ給へれば、いと心憂しと思せど、あえかに消え惑ひなどはし給はず。らうたくなよなよとして、哀れなる御けはひなり。鳥もしばしば驚かすに、心あわたたしう、
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さすがに人の御名のいとほしければ、夜深く紛れいで給ひぬ。日たくる程に大殿籠り起きて、御文奉り給ふ。うはべは、只大方なるやうにて、「ならはぬ御旅寝も如何に」などやうに、すくよかに見せて、中に小さく、
夢とだにさだかにも無きかり臥しの草の枕に露ぞこぼるる W
いとつれなき御気色の、聞こえん方なさに」こそあめれ。悩ましとて、御覧じも入れず。強ひて聞こえんもうたてあれば、「なだらかに持てかくしてを、おこたらせ給へ」など、聞こえしらすべし。さて御方々御台など参りて、昼つ方又御対面共有り。宮はいと恥づかしうわりなく思されて、「如何で見え奉らんとすらん」と思し休らへど、女院などの御気色のいとなつかしさに、聞こえかへ給ふべきやうも無ければ、只おほどかにて御座す。今日は、院の御経営にて、善勝寺の大納言隆顕、桧破子やうの物、色々にいと清らに調じて参らせたり。三めぐりばかりは、各別に参る。其の後「余りあいなう侍れば忝けれど、昔様に思しなずらへ、許させ給ひてんや」と、御気色とり給へば、女院の御土器を斎宮参る。其の後、院聞こし召す。御几帳ばかりを隔てて、長押の下へ、西園寺の大納言実兼、善勝寺の大納言隆顕召さる。簀子に、長輔・為方・兼行〔・資行〕など候ふ。数多度流れ下りて、人々そぼれがちなり。「故院の御事の後は、斯様の事もかき絶えて侍りつる
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に、今宵は珍しくなん。心とけて遊ばせ給へ」など、打ち乱れ聞こえ給へば、女房召して、御箏共かき合はせらる。院の御前に御琵琶、西園寺もひき給ふ。兼行篳篥、神楽うたひなどして、ことごとしからぬしも面白し。こたみは、先づ斎宮の御前に、院自ら御銚子を取りて聞こえ給ふに、宮いと苦しう思されて、とみにもえ動き給はねば、女院「此の御土器の、いと心許無く見え侍るめるに、こゆるぎの磯ならぬ御さかなや有るべからん」と宣へば、「売炭翁は哀れなり。おのが衣は薄けれど」と言ふ今様をうたはせ給ふ。御声いと面白し。宮聞こし召して後、女院御杯を取り給ふとて、「天子には父母無しと申すなれど、十善の床を踏み給ふも、賎しき身の宮仕ひなりき。一言報ひ給ふべうや」と宣へば、「さらなる御事なりや」と、人々目をくはせつつ忍びてつきじろふ。「御前の池なる亀岡に、鶴こそ群れ居て遊ぶなれ」とうたひ給ふ。其の後、院聞こし召す。〔善勝寺〕[* 底本 空白]「せれうの里」を出だす。人々声加へなどして、らうがはしき程になりぬ。かくていたう更けぬれば、女院も我が御方に入らせ給ひぬ。其の儘のおましながら、仮初なるやうにて寄り臥し給へば、人々も少し退きて、苦しかりつる名残に程無く寝入りぬ。明日は宮も御帰りと聞こゆれば、今夜ばかりの草枕、猶結ばまほしき御心の鎮め難くて、いとささやかに御座する人の、御衣など、然る心して、なよらかなるを、まぎらはし過ぐし
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つつ、忍びやかに振舞ひ給へば、驚く人も無し。何やかやと、なつかしう語らひ聞こえ給ふに、靡くとは無けれども、只いみじうおほどかに、やはらかなる御様して、思しほれたる御気色を、余所なりつる程の御心惑ひまでは無けれど、らうたくいとほしと思ひ聞こえ給ひけり。長き夜なれど、更けにしかばにや、程なう明けぬる夢の名残は、いとあかぬ心地しながら、後朝になり給ふ程、女宮も心苦しげにぞ見え給ひける。其の後も、折々は聞こえ動かし給へど、差しはへて有るべき御事ならねば、いと間遠にのみなん。「負くる習ひ」までは有らずや御座しましけん。あさましとのみ尽きせず思し渡るに、西園寺の大納言、忍びて参り給ひけるを、人柄もきはめていと懇ろに思ひ聞こえ給へれば、御母代の人なども、如何はせんにて、漸う頼みかはし給へば、ある夕つ方、「内よりまかでんついでに、又必ず参りこん」と頼め聞こえ給へりければ、其の心して誰も待ち給ふ程に、二条の師忠の大臣、いと忍びて歩き給ふ道に、彼の大納言、扈従など数多して、いときらきらしげにて行き合ひ給ひけるに、〔むつかしと思して、此の斎宮の御門あきたりけるに、〕女宮の御もとなれば、ことごとしかるべき事も無しと思して、しばし、彼の大納言の車遣り過ごしてんに出でんよと思して、門の下に遣り寄せて、大臣、烏帽子直衣のなよらかなるにて降り給ひぬ。内には、大納言の参り給へると思して、例は、忍びたる事なれば、門の内へ車を引き入れて、対のつまより降りて参り給ふに、門
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参り給ふに、門より降り給ひぬ。怪しうとは思ひながら、たそかれ時のたどたどしき程、何のあやめも見えわかで、妻戸はづして人の気色見ゆれば、何と無くいぶかしき心地し〔給ひ〕て、中門の廊に上り給へれば、例のなれたる事にて、をかしき程の童歩み出でて、気色ばかりを聞こゆるを、大臣は覚え無き物から、をかしと思して、尻につきて入り給ふ程に、宮も〔待ち聞こえ給へと思して、御几帳にはづれて、〕何心無く打ち向ひ聞こえ給へるに、大臣もこは如何にとは思せど、何くれとつきづきしう、日頃の志有りつる由聞こえなし給ひて、いとあさましう、一方ならぬ御思ひ加はり給ひにけり。大納言は、此の宮をさしてかく参り給ひけるに、例ならず、男の車より降るる気色見えければ、あるやう有らんと思して、「御随身一人、其の渡りに、さりげなくてをあれ」とて、止めて帰り給ひにけり。男君は、いと思ひの外に心起こらぬ御旅寝なれど、人の御気色を見給ふも、有りつる大納言の車など思し合はせて、「如何にも此の宮にやう有るなめり」と心得給ふに、「いと好き好きしき業なり。由なし」と思せば、更かさで出で給ひにけり。〔彼の〕残し置き給へりし随身、此の様よく見てければ、しかじかと聞こえけるに、いと心憂しと思して、「日頃も斯かるにこそは有りけめ」と、いとをこがましう、「彼の大臣の心の中も如何にぞや」と、数々思し乱れて、かき絶え久しく訪れ給はぬをも、此の宮には、かう残り無く見現されけんとも知ろし召さねば、怪しながら過ぎもて行く程に、
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只ならぬ御気色〔に〕さへ悩み給ふをも、大納言殿は一筋にしも思されねば、いと心やましう思ひ聞こえ給ひけるぞわりなき。然れども、さすが思しわく事や有りけむ、其の程の事共も、いと懇ろに訪ひ聞こえさせ給ひけり。異御腹の姫宮をさへ、御子になどし給ふ。御処分も有りけるとぞ。幾程無くて、弘安七年二月十五日に、宮隠れさせ給ひにしをも、大納言殿、いみじう歎き給ひめるとや。〔誠や、〕新院には、一とせ、近衛〈 基平 〉の大殿の姫君、女御に参り給ひにしぞかし。女御と聞こえつるを、此の程院号有り、新陽明門院とぞ聞こゆめる。建治二年の冬の頃、近衛殿にて若宮生まれさせ給ひにしかば、めでたくきらきらしうて、三夜・五夜・七夜・九夜など、いかめしく聞こえて、御子もやがて親王の宣下など有りき。
第十 老いのなみ
建治三年正月三日、内の上御冠し給ふ。十一にぞならせ給ふらんかし。御諱、世仁と聞こゆ。引き入れの関白太政大臣〔照念院〕殿兼平、理髪頭の中将基顕、御総角大炊御門大納言信嗣の君仕られけり。御遊び始まる。琵琶玄象今出川の大納言実兼、和琴鈴鹿信嗣大納言、箏の琴殿の大納言兼忠の君にて御座せしなんめり。屯食・禄などの事、常の如し。二十二日、朝覲の行幸、亀山殿へなりしかば、上達部・殿上人、例の色々のえり、下襲・織物・打物、めでたくゆゆしかり
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き。御前の大井河に、龍頭鷁首浮かめらる。夜に入りて、鵜飼共召して、篝火ともして乗せらる。御前の御遊び・地下の舞など、様々の面白き事共、例の事なれば、うるさくて、さのみもえ書かず。同じ三月二十六日、石清水の社へ行幸、四月十九日、賀茂の社へ行幸、いづれもめでたかりき。人々定めて記しおき給ひつらんと、譲りてとめ侍りぬ。春宮〈 伏見院 〉の御元服、八月と聞こえしを、奈良の興福寺の火のXX事により、延びて十二月十九日にぞせさせ給ひける。十六日に、先づ内裏行啓なる。清涼殿の東の廂の倚子立てらる。御門も倚子につかせ給ふ。引き入れの左大臣師忠、理髪春宮の権大夫具守勤めらる。御諱煕仁と申しき。持明院殿より、女房、二無く清らにし立てて、十二人参り、東の御方〈 玄輝門院御事 〉も院の御車にて、殿上人・北面・召次など、いと美々しうて参り給へり。御門・春宮、いづれもいと美しき御上げ勝り也。新院は、尽きせず、皇后宮の御座しまさましかばとのみ、しほたれがちに、思し忘るる世無き御心や慰むと、此彼参らすれど、をさをさなずらへなるも無く、新陽明門院も、初めは御覚えあるやうなりしかど、次第にかれがれなる御事にて、御一人寝がちなり。故皇后宮の御はらからの中の君も、御面影や通ひたらんと、なつかしさに、忍びて懇ろに宣ひしかば、参らせ奉り給へれども、いとしも無くて、姫宮一所ばかり取り出で給へりし儘にてやみにき。姫宮をば、
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大宮院の御傍らにぞ、かしづき聞こえ給ふ。かくて弘安元年になりぬ。十月ばかり、又二条内裏に火出で来て、いみじうあさまし。万里小路殿は、有りし火の後又造られて、今年の八月に御わたましにて、新院住ませ給へれど、内裏焼けぬれば、此の院又内裏に成りぬ。打ち続き火の繁さいと恐ろし。其の頃、大宮院いと久しく悩ませ給ひつつ、本院も新院も常に渡り給ひて、夜なども御座しませば、異御腹の法親王、姫宮達なども、絶えず御訪ひに詣でさせ給ふ中に、故院の位の御時、勾当の内侍と言ひしが腹に出で物し給へりし姫宮、後には五条院と聞こえし、未だ宮の御程なりしにや、いと盛りに美しげにて、切に隠れ奉り給ふを、新院あながちに御心に掛けて、うかがひ聞こえ給ふ程に、此の御悩みの頃、如何有りけん、いみじう思ひの外にあさましと思し歎く。彼の草枕よりは誠しう、にがにがしき御事にて、姫宮まで出で来させ給ひにき。限り無く人目を包む事なれば、怪しう、誰が御腹と言ふ事も無くて、院の御乳母の按察の二位の里に渡し奉り給へり。幼き御心にも、如何心得給ひけん、「宮の御母君をば誰とか申す」と人の問ひ聞こゆれば、「言はぬ事」とのみぞ、いらへさせ給ひける。御心のあくがるる儘に、御覧じ過ぐす人無く、乱りがはしきまで、たはぶれさせ給ふ程に、腹々の宮達、数知らず出で来給ふ。大方、十三の御年より、宮は出で来初めさせ給ひしが、年々に多くのみなり給へば、いとらうがはしきまで
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ぞ有るべき。故皇后宮の御雑仕にて、貫川と言ひし、御霊とかや聞こゆる社の御子にてぞ有りける。先にも聞こえしやうに、位の御程に度々召されて、姫宮生まれ給へりしを、それも御乳母の按察の二位殿の里に、彼の五条院の御腹のと二所、同じ御かしづき草にて御座せし程に、近衛殿入らせ給ひぬれば、殿はもと御座せし北の政所をもすさめ給ひて、此の宮を類無く思ひ聞こえさせ給ふ程に、かひがひしく若君〈 左大臣経平 〉出で来給へるをも、いみじうかしづきいたはり給ひて、前の北の政所の御腹の太郎君、中将ばかりにて物し給ふをも、よくせずは、押しのけぬべうもてなし奉り給ひけるを、新院聞かせ給ひて、いといとほしき事なり。是は未だ稚児なり。もと大人しうなり給へるをば、如何でか引き違へるやうは有らん」と宣はせて、其の弟は、遂に御家も保たせ給へりしなり。又、北白河殿の女院に、大納言の君とて候ひし人の曹司に、下野と言ひし者は、田楽とかや言ふ事する怪しの法師の、名をば玄駒と言ふが娘なりき。彼の女院は、新院の御母代にて、常に御幸もなりしかば、自づから御覧じ初めけるにや、事の外に時めき出でて、此の院に召し渡されて、花山院の太政大臣の御子になされ、廊の御方とぞ付けさせ給ふ。其の御腹にも宮生まれ給ひぬ。大宮の女院に讚岐とて候ひし、西園寺の御家の者景房と言ひしが娘なり。いみじう思いて、是も召し取りて、西園寺の大臣の御子になし
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て、二品の加階賜はる。若宮生まれ給ひにき。帥の中納言為経の娘の帥の典侍殿と言ひしが御腹にも、数多生まれ給ふ。九条殿の北の政所、又梨本・青蓮院の法親王などは、大納言の典侍の御腹、昭慶門院中納言の典侍、十楽院の慈道法親王は帥の典侍殿の腹、斯様にすべて多く物し給ふ。昔の嵯峨天皇こそ、八十余人まで御子持給へりけると、承り伝へたるにも、ほとほと劣り給ふまじかめり。内には中々女御・更衣も候ひ給はず。いとさうざうしき雲の上なり。西園寺女御参り給ふべしと聞こえながら、如何なるにか、すがすがとも思し立たぬは、思ふ心御座するなめりとぞ、世の人もささめきける。新院の御位の時参り給へりし西園寺の中宮は、院号有りて、今出川の院と聞こゆなり。彼の御覚えなどのいと口惜しかりしより、此の院の御方様をつらく思ひ聞こえ給ふなめりなどぞ、言ひなす人も侍りけるとぞ。三月の末つ方、持明院殿の花盛りに、X新院渡り給ふ。鞠の掛かり御覧ぜんとなりければ、御前の花は梢も庭も盛りなるに、外の桜さへ召して、散らし添へられたり。いと深う積りたる花の白雪、跡つけ難う見ゆ。上達部・殿上人、いと多く参り集まる。御随身・北面の下臈など、いみじうきらめきて候ひあへり。態とならぬ袖口共押し出だされて、心殊に引き繕はる。寝殿の母屋に、御座対座に設けられたるを、新院入らせ給ひて、「故院の御時、定め置かれし上は、今更にやは」とて、長押の下
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へ引き下げさせ給ふ程に、本院〔は〕出で給ひて、「朱雀院の行幸には、主の座をこそ直され侍りけるに、今日の御幸には、御座下ろさるる、いと異様に侍り」など聞こえ給ふ程、いと面白し。うべうべしき御物語は少しにて、花の興に移りぬ。御土器など良き程の後、春宮〈 伏見院 〉御座しまして、掛かりの下に皆立ち出で給ふ。両院・春宮立たせ給ふ。半ば過ぐる程に、客人の院上り給ひて、御襪など直さるる程に、女房別当の君、又上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや、樺桜の七つ・紅のうち衣・山吹の表着・赤色の唐衣・すずしの袴にて、銀の御杯、柳箱に据ゑて、同じひさげにて、柿ひたし参らすれば、はかなき御たはぶれなど宣ふ。暮れ掛かる程、風少し打ち吹きて、花も乱りがはしく散りまがふに、御鞠数多く上がる。人々の心地いと艶有り。故有る木蔭に立ち休らひ給へる院の御形、いと清らにめでたし。春宮も若う美しげにて、濃き紫の浮き織物の御指貫、なよびかに、気色ばかり引き上げ給へれば、花のいと白く散り掛かりて、文のやうに見えたるもをかし。御覧じ上げて、一枝押し折り給へる程、絵にかかまほしき夕ばえ共なり。其の後も、御酒など、らうがはしきまで、聞こし召しさうどきつつ、夜更けて帰らせ給ふ。六条殿の長講堂も、焼けにしを造られて、其の頃、御わたましし給ふ。卯月の初めつ方より、院の上、庇の御車にて、上達部・殿上人・御随身、え
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も言はず清らなり。女院の御車に、姫宮も奉る。出車数多、皆白きあはせの五衣・濃き袴・同じ単にて、三日過ぎてぞ、色々の衣共、藤・躑躅・撫子など着かへられける。しばし此の院に渡らせ給へば、人々絶えず参り集ふ。西園寺の殿原なども、日ごとに参り給ふ。御壺分かたせ給ひて、前栽合はせ有りしにも、をかしう珍しき事共多かりき。某の朝臣の、槙の島の気色を造りて侍りけるを、平大納言経親、未だ下臈にて、兵衛佐など言ひける程にや、其の宇治川の橋を盗みて、我が繕ひたる方に渡して侍りける、いと恐ろしく心賢くぞ侍りける。例の五月の供花、やがて打ち続きければ、女院達宮々など、夜の御時に閼伽奉らせ給へば、御堂のかをり、名香の香も、外には多く勝りて、いとしみ深う艶めかしう面白し。大方、いづれも年に二度は昔よりの事にて、いみじう経営し給へば、世の人の靡き仕る様限り無し。日に二度院の出で居させ給ふに、関白・大臣ばかり、止む事無き人々絶えず候ひ給ふ。大中納言・二位三位・非参議・四位五位などは、まして数知らず。すべて前の司の人の、道なども参る事なれば、時ならず院の御前とも無く、いみじう花やかに面白う尊し。昔の後二条の関白師通と聞こえしは、「おりゐの御門の門に、車の立つべき事なし」と、そしり給ひけるに、今の世を見給はばと思ひ出でらる。九月の供花には、新院さへ渡り物し
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給へば、いよいよ女房の袖口心殊に用意加へ給ふ。御花果つれば、両院一つ御車にて、伏見殿へ御幸なる。秋山の気色御覧ぜさせんとなりけり。上達部・殿上人、彼方此方押し合はせて、色々の狩衣姿、菊紅葉こき混ぜて打ち群れたる、見所多かるべし。野山の気色色づき渡るに、伏見山、田の面に続く宇治の川波、遙々と見渡されたる程、いと艶有るを、若き人々などは、身にしむばかり思へり。鷹司殿の大殿も参り給ふべしと聞こえけるを、御物忌みとて止まり給ひければ、五葉の枝に付けて奏せられける。
伏見山幾万代も枝添へて栄へん松の末ぞ久しき W
御返し、
栄ふべき程ぞ久しき伏見山おひそふ松の枝を連ねて W
又の日は、伏見津に出でさせ給ひて、鵜舟御覧じ、白拍子御船に召し入れて、歌うたはせなどせさせ給ふ。二、三日御座しませば、両院の家司共、我劣らじといかめしき事共調じて参らせあへる中に、楊桃の二位兼行、桧破子共の、心ばせ有りて仕れるに、雲雀と言ふ小鳥を荻の枝に付けたり。源氏の松風の巻を思へるにや有りけん。為兼の朝臣を召して、本院「彼は如何と見る」と仰せらるれば、「いと心得侍らず」とぞ申しける。誠に、定家の中納言入道が書きて侍る源氏の本には、荻とは見え侍らぬとぞ承りし。斯様に御仲いとよくて、
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はかなき御遊び業など〔も〕、いどましき様に聞こえかはし給ふを、目安き事に、なべて世の人も思しけり。或る時は、御小弓射させ給ひて、「御負け業には、院の内に候ふ限りの女房を見せさせ給へ」と、新院宣ひければ、童の鞠蹴たる由を作りなして、女房共に水干〔を〕着せて出だされたる事も侍りけり。新院の御賭物には、亀山殿にて、五節のまねに、舞姫・童・下仕へまでぞなされけり。上達部、直衣に衣出だして、露台の乱舞・御前の召し・北の陣・推参まで尽くされ侍り〔ける〕とぞ承りし。此の御代にも、又勅撰の沙汰、一昨年ばかりより侍りし、為氏の大納言撰ばれつる、此の十二月にぞ奏せられける。続拾遺集と聞こゆ。「たましひある様にはいたく侍らざめれど、艶には見ゆる」と、時の人々申し侍りけり。続古今の引きうつし、おぼろけの事は、立ち並び難くぞ侍るべき。かくて年月変はりぬ。其の頃、新陽明門院、又只ならず御座しますと聞こえし、五月ばかり、御気色あれば、珍しう思す。内々、殿にてせさせ給ふに、天下の人々参り集ふ。前の度、生まれさせ給へる若宮は、隠れさせ給ひにしを、新院本意無しと思されけるに、又かく物し給へば、めでたう思ふ様なる御事も有らばと、今より思しかしづくに、いとかひがひしう若宮生まれさせ給へれば、限り無く思さる。八月、御子の御歩きぞめとて、万里小路殿に渡らせ給ふ。唐庇の御車に、後嵯峨院の更衣腹の姫宮、聖護院の法親王の一つ御腹とかや、御母代にて添ひ奉り給ふ。
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又、三条の内大臣公親の御娘、内の上の御乳母なりしも、めでたき御肖物とて、御車に二人乗り給ふ。女院は、院の上一つ御車に、菊の網代の庇に奉る。宮の御車に遣り続けて、よそほしくめでたき御事なり。其の頃、倹約行はるとかや聞こえし程にて、下簾短くなされ、小金物抜かれける。物見る車共のも、召次寄りて切りなどしけるをぞ、「時しもや、斯かるめでたき御事の折節」など、つぶやく人も有りけるとかや。此の宮も親王の宣旨有りて、いとめでたく聞こえし程に、明くる年九月、又隠れ〔させ〕給ひにし、いと口惜しかりし御事なり。弘安も四年になりぬ。夏の頃、後嵯峨〔院〕の姫宮、隠れさせ給ひぬ。後の堀川〔院〕の御娘にて神仙門院と聞こえし女院の御腹なれば、故院もいとおろかならずかしづき奉らせ給ひけり。御形も類無く美しう御座しまして、「人の国より女の本を尋ねんには、此の宮の似絵を遣らん」などぞ、父の御門仰せられけり。御乳母隆行の家に御座しましける程に、御乳母子隆康、忍びて参りける故に、あさましき御事さへ出で来て、是も御うみながら、俄に失せさせ給ひけりとぞ聞こえし。其の頃、蒙古起こるとかや言ひて、世の中騒ぎ立ちぬ。色々様々に恐ろしう聞こゆれば、「本院・新院は東へ御下り有るべし。内・春宮は京に渡らせ給ひて、東の武士共上りて候ふべし」など沙汰有りて、山々寺々〔に〕、御祈り、数知らず。伊勢の勅使に、経任の大納言
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参る。新院も八幡へ御幸なりて、西大寺の長老召されて、真読の大般若供養せらる。大神宮へ御願に、「我が御代にしも斯かる乱れ出で来て、誠に此の日本の損なはるべくは、御命を召すべき」由、御手づから書かせ給ひけるを、大宮院、「いとあさましき〔事〕なり」と、猶諌め聞こえさせ給ふぞ、理に哀れなる。東にも、言ひ知らぬ祈り共こちたく罵る。故院の御代にも、御賀の試楽の頃、斯かる事有りしかど、程無くこそ鎮まりにしを、此の度は、いとにがにがしう、牒状とかや持ちて参れる人など有りて、わづらはしう聞こゆれば、上下思ひ惑ふ事限り無し。然れども、七月一日、おびたたしき大風吹きて、異国の舟六万艘、兵乗りて筑紫へ寄りたる、皆吹き破られぬれば、或は水に沈み、自づから残れるも、泣く泣く本国へ帰りにけり。石清水の社にて、大般若供養のいみじかりける刻限に、晴れたる空に、黒雲一村俄に見えてたなびく。
彼の雲の中より、白き羽にてはげたる鏑矢の大なる、西をさして飛び出でて、鳴る音おびたたしかりければ、彼処には、大風の吹き来ると兵の耳には聞こえて、波荒く立ち海の上あさましくなりて、皆沈みにけるとぞ。猶我が国に神の御座します事、験に侍りけるにこそ。さて為氏の大納言、伊勢の勅使にて上る道より、申し送りける。
勅として祈る験の神風に寄せ来る波はかつ砕けつく W
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かくて静まりぬれば、京にも東にも、御心共落ち居て、めでたさ限り無し。彼の異国の御門、心憂しと思して、湯水をも召さず、「我如何して、此の度日本の帝王に生まれて、彼の国を滅ぼす身とならん」とぞ誓ひて死に給ひけると聞き侍りし、誠にや有りけむ。同じ六年正月六日、日吉の社の訴訟勅裁無しとて、御輿は都へ入らせ給ふ。六波羅の武士共、気色ばかり防き奉りけれど、まめやかに、神には向かひ奉りて弓射る者も無ければ、紫宸殿・清涼殿などに振り捨て参らせて、山法師は上りぬ。御門は急ぎ対の屋に出でさせ給ひて、腰輿にて近衛殿へ行幸なる。殿上人共柏挟みして仕りけり。七日の節会も、まほには行はれず。それより三条坊門万里小路の通成の大臣の家へ行幸なりて、しばし内裏になりし時、万里小路面の四足は建てられ侍りき。斯かりし程に、此の家に、石清水の若宮をいはひ参らせたる社御座しますに、狐多く侍りけるを、滝口の某とかや、過ちたりける御とがめにて、万わづらはしく、かうがうしき事共有りければ、万里小路殿へ帰らせ給ひにき。此の御門は、ねび給ふ儘に、いと賢く、御才なども勝れさせ給へれば、なべて世の人も目出き事に思ひ聞こゆ。はかばかしき女御・后なども候ひ給はで、いと徒然なるに、新陽明門院の御方に、堀川の大納言の御娘、東の御方とて候ひ給ふを、忍び忍び御覧じける程に、弘安八年二月ばかり、若宮出で物し給へり。いと止む事無き御宿世
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なるべし。今年、北山の准后、九十に満ち給へば、御賀の事、大宮院思し急ぐ。世の大事にて、天下かしがましく響き合ひたり。かく罵る人は、安元の御賀に青海波舞ひたりし隆房の大納言の孫なめり。鷲の尾の大納言隆衡の娘ぞかし〔な〕。大宮院・東二条院の御母なれば、両院の御祖母、太政大臣の北の方にて、天の下皆此の匂ひならぬ人は無し。いと止む事無かりける御幸なり。昔、御堂殿の北の方鷹司殿と聞こえしには劣り給はず。大方、此の大宮院の御宿世、いと有り難く御座します。すべて古より今まで、后・国母多く過ぎ給ひぬれど、かくばかり取り集めいみじき例は、未だ聞き及び侍らず。御位の初めより選まれ参り給ひて、争ひきしろふ人も無く、三千の寵愛一人にをさめ給ふ。両院打ち続き出で物し給へりし、いづれも平らかに、思ひの如く、二代の国母にて、今は既に御孫の位をさへ見給ふまで、いささかも御心にあはず思し結ぼるる一節も無く、めでたく御座します様、来し方も類無く、行く末にも稀にや有らん。古の基経の大臣の御娘、延喜の御代の大后宮、〔朱雀・村上の二代の国母にて御座せしも、初め出で来給ひて〕殊に悲しうし給ひし前坊に後れ聞こえ給ひて、御命の内は、絶えぬ御歎き尽きせざりき。九条の大臣の御娘、天暦の后にて御座せし、冷泉・円融、両代の御母なりしかど、めでたき御代をも見奉り給はず、御門にも先立ち給ひて失せ給ひにき。御堂
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の御娘上東門院、後一条・後朱雀の御母にて、御孫後冷泉・後三条まで見奉り給ひしかども、皆先立たせ給ひしかば、逆様の御歎き絶ゆる世無く、御命余り長くて中々人目を恥づる思ひ深く御座しましき。是も皆一の人にて、世の親と成り給へりしだに、やうをかへて様々の御身の愁へは有りき。只人には、大納言公実の御娘こそ、待賢門院とて、崇徳・後白河の御母にて御座せしかど、それも後白河の御世をば御覧ぜず、讚岐の院の御末も御座しまさず。然れば、今の程に、只人の御身にて、三代の国の重しといつかれ、両院とこしなへに仰ぎ捧げ奉らせ給へば、前の世も如何ばかりの功徳御座しまし、此の世にも、春日大明神を初め、万の神明仏陀の擁護あつく物し給ふにこそと、有り難くぞ推し量られ給ふ。かくて御賀は二月三十日頃なり。本院・新院・東二条院・遊義門院〈 未だ宮と申す、 〉皆予てより北山に渡らせ給ふ。新陽明門院も新院の一つ御車にて御座します。二十九日の夜、先づ行幸〈 後宇多 〉有り。雅楽寮楽を奏す。院司左衛門督公衡、事の由申して後、中門に寄せらる。其の後、春宮〈 伏見 〉行啓、中門より下りさせ給ふ。傅の大臣二条、御車に参り給へり。其の日に成りぬれば、寝殿の東面の母屋・廂まで取り払ひて、釈迦如来の絵像掛け奉る。道場の飾り、誠の浄土の荘厳〔も〕、かくこそと、めでたく清らを尽くされたり。御経の箱二合、金泥の寿命経九十巻・法華経入れ
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らる。名香、柳の織物に藤を縫ひたるにて包みて、御経の机に寄せかく。御簾の中に、西の一間に繧繝二帖、唐錦の褥敷きて、内の上の御座とす。同じ御座の北に、大文の高麗一帖敷きて、春宮渡らせ給ふ。西の廂に、是も屏風を添へて、繧繝二帖、錦の褥に、准后ゐ給へり。同じ廂に、東二条院渡らせ給ふ。遙々と、纐纈の几帳のかたびら出だして、色々の袖口共、御方々けぢめ別れて押し出でたる程、龍田姫も斯かる錦の色は如何でかと、いみじう好ましげなり。事なりぬるにや、両院・御門・春宮・大宮院・東二条院・今出川の院・春宮の大夫など打ち続く、誦経の鐘の響きも、耳驚くばかり所狭う聞こゆ。衆僧集会の鐘うちて後、上達部御前の座につく。階より東に、関白〔兼平公〕・左大臣〔師忠公〕・内大臣〔家基公〕・花山院の大納言長雅・源大納言通頼・大炊御門大納言信嗣・右大将通基・春宮の大夫実兼・左大将公守・三条の中納言実重・花山院の中納言家教・右衛門督公衡など候ひ給ふ。階より西に、四辻殿大納言隆親・春宮の権大夫具守・権中納言宗冬・四条の宰相隆保・右衛門の督為世など、祗候せられたり。内の上、御引直衣・すずしの御袴、本院御烏帽子直衣・青鈍の御指貫、新院、御直衣・綾の指貫、春宮、桜の御直衣・霰に〓の紫の御指貫、言ひ知らず艶めかしう見え給ふ。今日は皆御簾の中に御座します。大女院、白き綾の三御衣、東二条院、唐織物の柳桜
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の八つ・紅梅のひねりあはせの御単・樺桜の御小袿奉れり。姫宮〈 遊義門院 〉、紅の匂ひ十・紅梅の御小袿・萌黄の御単・赤色の御唐衣・生絹の御袴奉れる、常よりも殊に美しうぞ見え給ふ。御座しますらんと思ほす間のとほりに、内の上、常に御目じり只ならず、御心遣止め給ふ。楽人・舞人、鳥向楽を奏す。鶏婁を先だてて、乱声、左右桙を振る。其の後、壱越調の調子を吹きて、楽人・舞人、衆僧集会の所に向ひて、安楽塩を吹く。衆僧、左右に分かれて参る。階の間より昇りて座に着く。講師、法印憲実。読師、僧正守助。導師、高座に上りぬれば、堂童子、花籠を分かつ。杖とりの使ひ、公敦の朝臣、杖を退けて舞を奏する程、気色ばかり打ちそそぎたる春の雨、青柳の糸に玉ぬくかと見えたり。一の舞、久資と言ふ者、少しねびていとよしよししう、面もち足踏みかうさびて面白し。万歳楽・賀殿・陵王、右、地久・延喜楽・納曾利。久忠二の物にて、勅禄の手と言ふ事仕る時、右の大臣座を立ちて賞仰せらるれば、承りて拝し奉る程、いと艶なり。久資・正秋など言ふ者共も、賞承りて、笛を持ちながら起き伏し拝する様も、つきづきしう故有りて見ゆ。講讚の言葉めでたういみじ。今の世には富楼那尊者の如く言はるる者なれば、心止めて人々聞き給ふに、涙止め難き事共を言ひ続く。高座果てて後、楽人、酒胡子を奏す。其の程に僧の禄を給ふ。頭の中将公敦より始めて、思ひ思ひ
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の姿にて禄を取る。或は闕腋に平胡〓、縫腋の袍に革緒の剣など、心々なり。俊定・経継などは、巡方の帯をさしたり。衆僧まかりつる程に、廻忽・長慶子奏して、楽人・舞人も退きぬる後、大宮院・准后の御台参る。陪膳権中納言、役送実時・宗冬・実躬・信輔・俊光など仕る。かくて、又の日は三月の一日なり。寝殿の装ひ昨日の儘なり。舞台・楽屋ばかりを取りのけて、母屋の四方に壁代をかく。両院・内の上の御簾の役、関白候ひ給ふ。春宮のは、傅遅く参り給へば、大夫実兼勤め給ふ。内の上、今日は例の御直衣・紅〔の〕うちたる綿厚き御衣・織物の御指貫、いとめでたき御匂ひなり。本院、かた織物の薄色の御指貫・少し薄らかなる御直衣、新院、雲に鶴の浮織物の御直衣・同じ御指貫・紅の今少し色変はれるを奉る。有らまほしき程にねび整ほり、しうとくに、物々しき御様形、あなきよげ、今ぞ盛りに見え給ふ。春宮は色濃き御直衣・浮線綾の御指貫・紅のうちたるあはせを奉れり。とりどりにめでたく清らに御座します御形共の、いづれと無くあな美しと、打ち見奉る人の心地さへ、そぞろに笑まし。大宮院など〔は〕、〔まして〕何事をかは思すらむと推し量られ給ふ。彼方此方の御随身共、近く候ひつるを、院出でさせ給ひぬれば、退きて、御階の西に並み居たる装束共、色々の花をつけ、高麗・唐土の綾錦、黄金・銀を延べたる様、いと余りうたて
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ある程にぞ見ゆる。今日は、内・春宮・両院、御膳参る。陪膳花山院の大納言〔長雅、〕役送四条の宰相・三条の宰相の中将、本院の陪膳大炊御門大納言信嗣、新院のは春宮の大夫など勤めらる。其の後、御遊び始まる。内の上御笛、柯亭と言ふ物とかや。御箱に入れたるを、忠世持ちて参れるを、関白取りて御前に奉る。春宮、御琵琶玄象、宮の権亮親定持ちて参れるを、大夫御前に置かる。上達部の笛の箱別に有り。笛兵部卿良教・花山院の大納言〈 長雅 〉、笙源大納言通頼・左衛門督、篳篥兼行の朝臣、琵琶春宮の大夫、琴左大将・洞院の三位の中将実泰、和琴大炊御門大納言、拍子徳大寺の中納言公孝、末の拍子宗冬、皆人々、直衣に色々の衣を出だす。例の安名尊・席田・鳥破急・律青柳・万歳楽・三台急。御遊び果てぬれば、殿上の五位共参りて、管絃の具を分かつ。御方々、冠賜はり給ふ。道々の師共、加階賜はる。其の後、和歌の披講始まる。為道の朝臣、縫腋の袍に、壺負いて、弓に懐紙を取り具して、上達部の座の前を通りて、階の間より入りて、文台の上に置く。其の外の殿上人共の歌は、一つに取り集めて、信輔一度に文台に置く。文台の東に円座を敷きて、春宮披講の程渡らせ給ふ。内宴などと言ふ事にぞかくは有りけると、古き例も面白くこそ。上達部皆色々の衣を出だす。右大将通基、魚綾の山吹の衣着給へり。笏に歌を持ち具し給ふ。内の上の御歌は殿ぞ書き給ひける。
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行く末を猶長き代と契るかな弥生にうつる今日の春日に W
新院の御製は内大臣書き給ふ。
百色と今や鳴くらん鴬も九返りの君が春へて W
春宮のは、左大将に書かせらる。
限り無き齢は未だ九十猶千代遠き春にも有るかな W
製に応ずと、上文字載せられたるも、内宴の例とかや。次々、例の多けれど、むつかしくてもらしつ。春宮の大夫こそ、いとうけばりてめでたく侍りしか。
代々の跡に猶立ち上る老いの波寄りけん年は今日の為かも W
其の後、東向の鞠の掛かりある方へ渡らせ給ふ。御方々の女房、色々の衣、昨日には引きかへて、珍しき袖口を思々に押し出でたり。紫の匂ひ・山吹・青鈍・かうじ・紅梅・桜萌黄などは女院の御あかれ、内の御方は、内侍の典侍より下、皆松がさね・白格子・うら山吹、院の御方、葡萄染めに白筋・樺桜〔の〕青筋、春宮の女房、上〔の〕紫格子・柳など、様々に目もあやなる清らを尽くされたり。同じ文も色もまじらず、心々に変はりて、いみじうぞ侍りける。後嵯峨院、蓮花王院御幸有りし時、両貫首同じやうに、藤の下襲・山吹の上の袴なりしをば、いと念無き事に世の人も言ひ侍りしにや。御方々
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の女房共、八十余人押しこりて候はるる、いづれとも無く目うつりして、いみじう形も気色も目安く持て付けたり。後鳥羽院建仁の例とて、新院御上鞠三足ばかり立たせ給ひて、落とされぬ。内の上、御直衣・紺地の御袴、始めは御草鞋を奉りけれど、後には御沓、片足変はりの御襪、藍白地竹・紫白地桐の文、紫革の御結緒也。春宮、御直衣・紫の御指貫・同じ色革の御襪、新院、織物の御直衣・御指貫・文無き紫の御襪、関白文無きふすべ革、内の大臣紫革に菊を縫ひたり。藤大納言為氏無文のふすべ革、其の外色々〔の〕錦革・藍革・藍白地、各けぢめわかるべし。為兼紫革、為道は藍白地なりけり。為兼とは、為氏の大納言の弟兵衛督為教と言ひしが子なり。為道は大納言の孫、為世の太郎なり。離れぬ中にて、いといたくいどみかはしたり。内の上は、白骨の御扇、左の御手に持たせ給ひて、花のいみじく面白き木蔭に立ち休らひ給へる御形、いとゆゆしきまで清らに見え給ふ。飽かず名残多く思さるれど、春の司召し・御燈など言ふ事共あれば、行幸は今夜帰らせ給ふ。御贈り物に御本参る。明くる日、午の時ばかり、寝殿より西園寺まで筵道敷きて、両院御烏帽子直衣、春宮御括り上げて堂々拝ませ給ふ。左衛門督、新院の御はかせ持給へり。権亮親定、春宮の御はかし持たれたり。妙音堂に御参り有るに、遅き桜一木ほころび初めて、今日の御幸を待ち顔なり。仏の御前に、仮初の御座ながら、
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皆渡らせ給ふ。廂に上達部つきて、御遊の具召す。笛花山院の大納言、笙左衛門督、篳篥兼行、春宮御琵琶、大夫笙、大鼓具顕、鞨鼓範藤、盤渉調に調べ整へて、採桑老・蘇合・白柱・千秋楽など、いみじう面白し。うるはしき事よりも中々艶なり。兼行、「花は上苑に明らかなり」と、打ち出だしたるに、いとど物の音持てはやされて、えも言はず聞こゆ。具顕・範藤など「羅綺の重衣」と、二返りばかり言へるに、「情け無き事を機婦にねたみ」と本院加へ給へば、新院、御声助け給ふ程、そぞろ寒きまで艶なり。帰らせ給ひても、又、昨日の花の蔭にて、鞠御覧ぜられつつ、それよりやがて御船に奉りて押し出でたれば、遙かなる海づらに漕ぎ離れたらん心地して、いとをかし。小さき舟に上達部乗りて、橋に付けられたり。飽かざりつる妙音堂の調子をうつされて、有りつる同じ人々仕る。春宮又御琵琶。箏の琴は右衛門督と言ふ女房、御舟に参れるに弾かせらる。舟の中の調べはいと艶なり。蘇合の五帖・輪台・青海波・竹林楽・越殿楽など、幾返りとも無く面白し。兼行「山又山」など打ち誦じたるに、「変態繽紛たり」と両院遊ばしたるに、水の底も怪しきまで、身の毛立ちぬべく〔は〕聞こゆ。中島に御舟差しとめて見れば、旧苔年旧りたる松の枝差しかはせる岩のたたずまひ、いと暗がりたるに、池の水浪、心のどかに見えて、名も知らぬ小鳥共乱れ飛ぶ気色、何と無くをかし。遠きさかひに臨める心地するに、めぐれる山の滝つ岩根、
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遙かに霞みて見渡さるる程、仙の洞もかくやとぞ覚ゆる。「二千里の外の心地こそすれ」など宣ひて、新院、
雲の波煙の波を分けてけり
誰にか有らん、女房の中より、
行く末遠き君が御代とて W
春宮の大夫、
昔にも猶立ち越ゆる貢ぎ物
具顕の中将、
曇らぬ影も神のまにまに W
春宮、
九十に猶も重ぬる老いのなみ
本院、
たちゐ苦しき世の習ひかな W
暮れ果つる程に、釣殿へ御舟寄せて、降りさせ給ひぬ。春宮、今夜帰らせ給へば、御贈り物に、和琴一つ奉らせ給ふ。誠や、准后にも恵果和尚の三つ衣、紺地の錦に包みて、銀
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の箱に入れて参る。いづれも大宮院の御沙汰なり。掃部寮、火繁うともして、打ち群れつつゐたる様も、艶めかしう雅かなり。ここ彼処には、此の御賀の事共書きつけしるす人のみぞ多かめれば、片端だに、いとかたくなならんとあさまし。何と無く過ぎ行く程に、弘安も十年になりぬ。此の御門、位に即かせ給ひて、十三年ばかりに成りぬらん。本院、待ち遠に思さるらんと、いとほしく推し量り奉るにや、
例の東より奏する事有るべし。新院の御方様には、心細う聞こし召し悩むべし。去年の春、御乳母の按察の二位殿失せにしかば、一めぐりの仏事に亀山殿へ御座しまして、いかめしう八講行はせ給ふ日、雪いたう降りければ、九条の二位隆博、桧扇のつまを折りて、
跡とめて問はるる御代の光をや雪の内にも思ひ入るらん W
女房の中に聞こえたるを、院御覧じて、返しに宣ふ。
無き人の重ねし罪も消えねとて雪の中にも跡を問ふかな W
万飽かず思さるる程なれど、其の年の十月に降り居させ給ふ。もとの上は二十一にぞならせ給ひける。御本性もいとうるはしく、のどめたる様に思して、すくよかに、御才も賢うめでたく御座しませば、御政なども漸う譲りや聞こえましなど思されつるに、いと敢へ無く移ろひぬる世を、すげなく新院は思さるべし。春宮、位に
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即き給ひぬれば、天の下本院に推し移りぬ。世の中押し別れて、人の心共も、斯かる際にぞ現れける。今の御門も、故山階の大臣の御孫にて渡らせ給へば、彼の殿原のみぞ、何方にもすさめぬ人にて御座しける。
増鏡 尾張徳川家本
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増鏡 下巻
第十一 さしぐし
正応元年三月十五日、官庁にて御即位有り。此の程は、香園院の師忠左の大臣関白にて御座しき。其の後、近衛殿家基、又九条の左大臣殿忠教、其の後、又近衛殿かへりなり給ひき。猶後に、歓喜園院など、いと繁う変はり給ふ。おりゐの御門を、今は新院と聞こゆれば、太上天皇三人世に御座します頃なり。いと珍しく侍るにや。御門の御母〈 玄輝門院 〉三位し給ふ。其の御はらからの姫君、御傍らに候ひ給ふを、上いと忍びたる御むつび有るべし。東二条院の御例にやなどささめく人もあれど、さばかりうけばりては、えしもや御座せざらむ。三位殿の御兄の公守の大納言の姫君も、幼くよりかしづきて候ひ給ふ。それも余所ならぬ御契りなるべし。此の君をぞ、父の殿も、いとうるはしき様にても、参らせまほしう覚えつれど、西園寺の大納言実兼の姫君、いつしか参り給へば、きしろふべきにも有らず。其の年六月二日入内有り。其の夜先づ御裳着し給ふ。前の御代にもあらましは聞こえしかど、如何なるにか、さも御座せざりしに、
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いつしかかうも有りけるは、猶、思す心有りけるなめりとぞ、打ち付けにひがひがしう言ひなす人も侍りける。此の姫君の母北の方は、三条坊門通成の内の大臣の娘なり。候ふ人々も、押しなべたらぬ限り択り整へ、いみじう清らなるにと思し急ぐ。万、人の心も昨日に今日は勝り行くめれば、いや珍に好ましうめでたし。大方大宮の院の御参りの例を思しなずらふべし。院の御子に是も又なり給ふとて、東二条院御腰結はせ給ひて、時なりぬれば、唐庇の御車に奉りて、上達部十人・殿上人十余人・本所の前駆二十人、つい松ともして、御車の左右に候ふ。出車十両、一の左に母北の方の御妹一条殿、右に二条殿、実顕の宰相の中将の娘を、大納言の子にし給ふとぞ聞こえし。二の車の左に久我の大納言雅忠の娘、三条とつき給ふを、いとからい事に歎き給へど、皆人先立ちてつき給へれば、あきたる儘とぞ慰められ給ひける。右に近衛殿、源大納言雅家の娘。三の左に大納言の君、室町の宰相の中将公重の娘、右に新大納言、同じ三位兼行とかやの娘。四の左宰相の君、坊門の三位基輔の娘、右は治部卿兼倫の三位の娘也。それより下は例のむつかしくてなん。多くは本所の家司、何くれが娘共なるべし。童・下仕へ・御雑仕・端者に至るまで、髪形目安く親打ち具し、少しもかたほなる無く整へられたり。其の暮れつ方、頭の中将為兼の朝臣、御消息持て参れり。内の上、自ら遊ばし
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けり。
雲の上に千代をめぐらん初めとて今日の日影もかくや久しき W
紅の薄様に、同じ薄様にぞ包まれたんめる。関白殿、「包むやう知らず」とかや宣ひけるとて、花山に心得たると聞かせ給ひければ、遣はして包ませられけるとぞ承りしと語るに、又此の具したる女、「いつぞやは、御使ひ、実教の中将とこそは語り給ひしか」と言ふ。女御の御装ひは、蘇芳のはり一重がさね・濃きうらのひへぎ・濃き蘇芳の御表着・赤色の御唐衣・濃き御袴・地摺の御裳奉る。女房の装ひ、押しなべて皆蘇芳のはり一重がさね・紅のひへぎ・濃き袴・蘇芳の表着・青朽葉の唐衣・薄色の裳・三重だすき、上下同じ様也。参り給ひぬれば、蔵人左衛門権佐俊光承りて、手車の宣旨有り。殿上人参りて御車引き入れ、御兄の中納言公衡、別当兼ね給へり。上の御甥の左衛門督通重、御兄になずらうる由聞こゆれば、御屏風・御几帳立てらる。昼の御座へ御車寄せらる。御衾、二位殿参らせ給ふ。御台参りて、やがて夜の御殿へまう上り給ふ。此の御衾は、京極院のめでたかりし例とかや聞こえて、公守の大納言、沙汰し申されけるとかや承りしは、誠にや侍りけん。三夜の餅も、やがて彼の大納言沙汰し申さる。内の上の、夜の御殿へ召して入らせ給ひたる御草鞋をば、二位殿取りて出で給ひて、大納言殿と二人の御中
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に抱きて寝給ふと聞こえし。さきざきも然る事にてこそは侍りけめな。八日、御所現しとて、上渡らせ給へば、袖口共心殊にて、わざとなく押し出ださる。今日は、各紅の一重がさね・青朽葉の表着・二藍の唐衣なり。大納言殿も候はせ給ふ。上も御台参る。二位殿御陪膳、女御のは一条殿仕り給ふ。女御の君は、蘇芳のはり一重がさね・紅のひへぎ・青朽葉の表着・赤色の唐衣二重織物・唐の薄物の御裳・濃き綾の御袴、御髪いとうるはしくて盛りにねび整ほり給へる、いと見所多くめでたし。御共に参り給へる人々、右大臣・内大臣・大納言の左大将・花山院の中納言・権大夫・殿上人共、数多此処彼処の打橋・渡殿などに、気色ばみつつ群れ居たるも、艶なる心地すべし。上達部の勧盃果てて後、内の御方の御乳母を始めて、内侍・女官共、かなへ殿まで禄賜はる。十日の夕つ方、下大所の御覧有り。台盤所の北の御壺へ参る。同じそばの間にて、内の御方御覧ぜらる。やがて東面より女御も御覧ず。二位殿・一条殿・二条殿を始めて、上臈だつ人々、数多候ひ給ふ。御簾の外にも、上達部数多候はる。いとはればれし。十四日、又内の上入らせ給ひて、此方にて初めて御酒聞こし召せば、南面へ出でさせ給ふ。女御、蘇芳の御一重がさね・萩の経青の御表着・朽葉の御小袿、皆二重織物・綾の織物、生絹の御袴、御紋竹立涌を織る。上
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は、御引直衣・生絹の御袴、櫑子参る。御陪膳は一条殿、今日よりは打ちとけたる心地にて、女房共色々の一重がさね・唐衣、様々珍しき色共を尽くして、生絹の袴に着かへたる、今少し見所そひて、なつかしき様也。得選、櫑子を持て参る。次第に取りつぎて参らす。金の御ごき・銀の片口の御銚子、一条殿御陪膳、其の後、女御殿も御銚子に手掛けさせ給ふ事侍りけり。今宵二位殿、今出川へまかで給ひて、車の宣旨許り給ふ。御送りに御子の公衡の中納言。御甥の通重の左衛門の督など、殿上人共数多也。縫殿の陣より出で給ふ気色、いとよそほし。誠や、御入内の夜の御使ひ、勾当の内侍参れりし禄に、表着・唐衣を賜はる。御消息に御使ひに参れりし上人も、女の装束かづきながら帰り参りて、殿上の口に落とし捨つ。主殿寮ぞ取る習ひなりけり。後朝の御使ひには、実連の中将なりし。公衡の中納言対面して、勧盃の後、是も女の装束かづけらる。かくて八月二十日、后に立ち給ふ。予てより今出川の御家へまかで給ひて、節会の儀式、引き移し待ち取り給ふ様、いとめでたく、今更ならぬ事なれど、父の殿も遂の御位はさこそなれど、只今差しあたりては、未だ浅く御座するに、すがやかに后妃の位に定まり給ふ事、限り無き御世覚えと、めでたく見ゆ。大宮院・本院・東二条院、皆渡り御座しまして、見奉り給ふさへぞ止む事無き。今日は、紅のはり一重がさね・ひへぎ・女郎花の表着・二藍
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の唐衣・薄色の裳、すべて二十人、同じ色の装ひ也。此の外、威儀の女房八人、白きはり一重がさね、濃きひへぎ、同じ袴、女郎花の衣にて候ふ。いづれと無く、形共きよげに目安し。其の年の十一月八日ぞ、后の宮の御父、右大将になり給ひぬる。同じ二十五日、正二位し給ふ。此の程は、大嘗会・五節など罵る。前の御世には引きかへて、中宮〈 永福門院 〉、皇后〈 遊義門院 〉、宮、院達、あかれあかれ多く御座しませば、殿上人共推参の所多く、頭痛きまでめぐり歩く。其の年十二月に、御門の御母三位殿、院号有り。朝に准后の宣旨有りて、同じ日の夕べに玄輝門院と申す。めでたくいみじかりき。年返りて、正応も二年になりぬ。万めでたき事共多くて、三月二十三日、鳥羽殿へ朝覲の行幸なる。本院は、予てより鳥羽殿に御座しまして、池の水草かき払ひ、いみじう磨かれて、例のことごとしき唐の御船浮かめられて、二十四日〔に〕舞楽有りき。六日にぞ返らせ給ひける。さても、去年の三月三日かとよ、経氏の宰相の娘〈 中そのの准后 〉の御腹に、若宮出で来させ給へりしを、太子〈 後伏見 〉に立て奉らせ給ふ。いと賢き御宿世也。中宮の御子にぞなし奉らせ給ひける。同じうは、誠にて御座せしかばとぞ、大将殿など思しけんかし。おりゐの御門〈 後宇多 〉、御子数多御座しませば、坊になど思しけるを、引き避ぎぬる、いと本意無し。十月五日に、一院〈 後深草 〉の御所にて、真魚聞こし召す。いとめでたき事共、罵り過ぎもて行く。同じ
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三年三月四日五日の頃、紫宸殿の獅子・狛犬、中より割れたり。驚き思して御占有るに、「血流るべし」とかや申しければ、如何なる事の有るべき〔に〕かと、誰も誰も思し騒ぐに、其の九日の夜、衛門の陣より、恐ろしげなる武士三、四人、馬に乗りながら九重の中へ馳せ入りて、上に昇りて、女嬬が局の口に立ちて、「やや」と言ふ〔者〕を見上げたれば、丈高く恐ろしげなる男の、赤地の錦の鎧直垂に、緋をどしの鎧着て、只赤鬼などのやうなる面付にて、「御門は何処に御寝るぞ」と問ふ。「夜の御殿に」といらふれば、「何処ぞ」と又問ふ。「南殿より東北の隅」と教ふれば、南様へ歩み行く間に、女嬬、内より参りて、権大納言の典侍殿・新内侍殿などに語る。上は、中宮の御方に渡らせ給ひければ、対の屋へ忍びて逃げさせ給ひて、春日殿へ、女房のやうにて、いと怪しき様を作りて、入らせ給ふ。内侍、剣璽を取りて出づ。女嬬は玄象・鈴鹿取りて逃げけり。春宮をば、中宮の御方の按察殿抱き参らせて、常盤井殿へ徒歩にて逃ぐ。其の程の心の中共言はん方無し。此の男をば、浅原の某とか言ひけり。からくして、夜の御殿へ尋ね参りたれども、大方人も無し。中宮の御方の侍の長景政と言ふ者、名乗り参りて、いみじく戦ひ防きければ、疵被りなどしてひしめく。斯かる程に、二条京極の篝屋備後の守とかや、五十余騎にて馳せ参りて時を作るに、合はする声、はつかに聞こえければ、心安くて内に参る。御殿共の格子
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引きかなぐりて乱れ入るに、適はじと思ひて、夜の御殿の御褥の上にて、浅原自害しぬ。太郎なりける男は、南殿の御帳の内にて自害しぬ。弟の八郎と言ひて十九になりけるは、大床子の足の下にふして、寄る者の足を斬り斬りしけれども、さすが、数多して搦めんとすれば、適はで自害するとて、腸をば皆繰り出だして、手にぞ持たりける。其の儘ながら、いづれをも六波羅へ舁き続けて出だしけり。ほのぼのと明くる程に、内・春宮、御車にて忍びて帰らせ給ひて、昼つ方ぞ、又更に春日殿へなる。大方、雲の上汚れぬれば、如何にて、中宮の昼の御座へ腰輿寄せて、兵衛の陣より出でさせ給ふ。春宮は糸毛の御車にて、又常盤井殿へ渡らせ給ふ。中宮も春日殿へ行啓なる。世の中ゆすり騒ぐ様、言の葉も無し。此の事、次第に六波羅にて尋ね沙汰する程に、三条の宰相の中将実盛も召しとられぬ。三条の家に伝はりて、鯰尾とかや言ふ刀の有りけるを、此の中将、日頃持たれたりけるにて、彼の浅原自害したるなど言ふ事共出で来て、中の院(ゐん)〈 亀山、後宇多歟 〉も知ろし召したるなど言ふ聞こえ有りて、心憂くいみじきやうに言ひあつかふ、いとあさまし。中宮の御兄権大納言公衡、一院の御前にて、「此の事は、猶、禅林寺殿の御心合はせたるなるべし。後嵯峨院の御処分を引き違へ、東よりかく当代をも据ゑ奉り、世を知ろし召さする事を、心よからず思すによりて、世を傾け給はんの御本意なり。さてなだらかにも御座しまさば、勝る事や出で詣でこ
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ん。院を先づ六波羅に移し奉らるべきにこそ」など、彼の承久の例も引き出でつべく申し給へば、いといとほしうあさましと思して、「如何でか、さまでは有らん。実ならぬ事をも、人はよく言ひなす物也。故院の無き御影にも、思さん事こそいみじけれ」と涙ぐみて宣ふを、心弱く御座しますかなと、見奉り給ひて、猶内よりの仰せなど、厳しき事共聞こゆれば、中の院(ゐん)〈 亀山 〉も新院〈 後宇多 〉も思し驚く。いとあわたたしきやうになりぬれば、如何はせんにて、知ろし召さぬ由誓ひたる御消息など、東へ遣はされて後ぞ、事鎮まりにける。〔さて〕九月の初めつ方、中の院(ゐん)は御髪下ろさせ給ふ。いと哀れなる事共多かるべし。禅林寺殿にて、やがて御如法経など書かせ給ふ。一院の世の中恨み思されし時、既にと聞こえしは、さも御座しまさで、かくすがやかにせさせ給ひぬる、いと定め無し。しばしは禅僧にならせ給ふとて、緑衫の御衣に掛絡と言ふ袈裟掛けさせ給へり。四十一にぞ物し給ひける。御法名金剛覚と申すなり。新陽明門院を始め奉りて、色々の御召人共、廊の御方・讚岐の二位殿など、寂しき院に残りて、或は様かへ、或は里へまかでなど、様々散り散りになる程、いと心細し。中務の宮の御娘は、もとよりいとあざやかならぬ御覚えなりしかば、世を捨てさせ給ふ際とても、取りわきたる御名残も無かるべし。禅林寺の上の院の、人離れたる方に据ゑ聞こえさせ給へれば、殊に触れて、いと寂しく、
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心細き御有様なるを、自づから言問ひ聞こゆる人も無し。源氏の末の君に、中将ばかりなる人、院に親しく仕りなれて、家もやがて其の渡りにあれば、程近き儘に、折々此の宮の御宿直など心に掛けて仕るを、候ふ人々もいと有り難くもと思ふ。宮の御方は、此の頃いみじき御盛りの程にて、まほに美しう御座しますを、あたらしう見奉りはやす人の無き事と思ひあへり。七月ばかり、風あららかに吹き、稲妻けしからずひらめきて、神鳴り騒ぐ、常よりも恐ろしき夜、はかばかしき人も無ければ、上下いとあわたたしく、心細う思し惑ふ。法皇は、亀山殿に過ぎにし頃より御座しませば、近きあたりにだに人のけはひも聞こえず。哀れなる程の御有様にて、墨をすりたらむやうなる空の気色のうとましげなるを、眺めさせ給ふ程に、例の中将、そぼち参りて、侍めく者一、二人、弓をなど持たせて、「御宿直仕らせ侍るべし。某も、侍の方に侍らん」など申すにぞ、いささか頼もしくて、人々慰め給ふ。御座します母屋にあたれる廂の勾欄に押し掛かりて、香染めのなよらかなる狩衣に、薄色の指貫打ちふくだめたる気色にて、しめじめと物語しつつ、いたう更け行くまで、つくづくと候ひ給へば、御簾の中にも心遣こゆ。暁がたになりぬれば、御几帳引き寄せて、御殿ごもりぬる傍らに、いと馴れ顔に添ひふす男有り。夢かやと思して御覧じ上げたれば、「年月、思ひ聞こえ
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つる様、おほけなく有るまじき事と思ひかへさひ、ここら忍ぶるに余りぬる程、只少し、かくて胸をだに休め侍らんばかり」など、いみじげに聞こゆるは、早う有りつる中将なりけり。いとうたて、心憂の業やと思すに、御涙もこぼれぬ。近き手あたり御もてなしのなよびかさなど、まして思ひ沈むべうも無ければ、いといとほしう、ゆくりなき事とは思ひながら、残りなうなりぬ。身のうさの限りなうも有るかなと、前の世も恨めしう、言ふ甲斐無き事を思し続けて、よよと泣き給ふ様、いよいよらうたし。見るとしも無き夢のただぢを打ち驚かす鐘の声・鳥の音も、人遣りならぬ心づくしに、え出で遣らず。
起き別れ行く空も無き道芝の露より先に我や消なまし W
出でがてに休らひたる面影も、何の御目止まるふしも無し。さばかりいみじかりし院の御目うつりに、こよなの契りの程やと、思し知らるるもつらければ、いらへもし給はず。あさましうも心憂くも、様々思し乱るるに、御心地もまめやかに損なはれぬべし。按察の君と言ふ人、語らひとられけるなめり。忍びて御消息繁う聞こゆるをも、いとうたて、心づきなう思されながら、さてしも果てぬ習ひにや、いと又哀れなる事さへ物し給ひけり。斯かるに付けても、此の世一つには有らざりける御契りの程、浅からず推し量らる。中将も世と共にあくがれ勝りて、夢の通ひ路、足も休めず成り行く。此の御気色も漸うしるき程になり給へ
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ば、空恐ろしと、忍びて御乳母だつ人の家など言ひなして、白河わたり、かごやかにをかしき所用意して、率て渡し奉りつつ、猶自らは、さすがに世のつつましければ、忍びつつぞ御宿直しける。そこにてこそ御子も生み給ひけれ。此の中将、才賢くて、末の世には、事の外にもてなされて、先づ一品して、しばし御座せし頃、御百首の歌に、
位山上り果てても峰に生ふる松に心を猶残すかな W
さて遂に内大臣まで昇られき。さて元応の頃かとよ、百首歌奉りし中に、
集めこし窓の蛍の光もて思ひしよりも身をてらすかな W
と詠まれ侍りき。有房と聞こえしが、若くての世の異なるべし。新陽明門院も、禅林寺殿の下の放ち出でに、徒然として御座します程に、松殿宰相の中将兼嗣、如何したりけん、常に参り給ひし程に、果てには、其の宰相の中将の御子に、世を逃れたる人有りき。其の御房に思しうつりて、限り無く思したりし程に、御子をさへ生み給ふ。其の姫君は、始めは富の小路の中納言季雄の北の方にて御座せしが、後には歓喜園の摂政と聞こえ給ひし末の御子に、基教の三位の中将と聞こえし上になりて、失せ給ふまで御座しき。故女院いとほしくし給ひしかば、御処分など、いといと猛に有りき。「さのみ斯かる御事共をさへ聞こゆるこそ、物言ひさが無き罪去り所無けれど、よしや昔も然る事有りけりと、此の頃の人の御有様
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も、自づから軽き事有らば、思ひ許さるる例にもなりてん物をぞと思へば、遠き人の御事は、今は何の苦しからんぞとて、少しづつ申すなり」と、打ち笑ふもはしたなし。「いづら。此の頃は、誰か悪しく御座する」と問へば、「いないなそれは空恐ろし」とて、頭をふるもさすがをかし。さても、石清水の流れを分けて、関の東にも、若宮と聞こゆる社御座しますに、八月十五日、都の放生会を学びて行ふ。其の有様、誠にめでたし。将軍も詣で、位ある兵・諸国の受領共など、色々の狩衣、思ひ思ひの衣重ねて出で立ちたり。赤橋と言ふ所に、将軍御車止めて降り給ふ。上達部は、上の衣なるも有り。殿上人などいと多く仕る。此の将軍は、中務の宮の御子なり。此の頃権中納言にて、右大将兼ね給へれば、御随身共、花を折らせてさうぞきあへる様、都めきて面白し。法会の有様も、本社に変はらず。舞楽・田楽・獅子がしら・流鏑馬など、様々所にし付けたる事共面白し。十六日にも、猶斯様の事なり。桟敷共いかめしく造り並べて、色々の幔幕など引き続けて、将軍の御桟敷の前には、相模の守を初め、そこらの武士共並み居たる気色、様変はりて、好ましううけばりたる、心地よげに、所に付けては又無くは見えたり。其の後、幾程無く、鎌倉中騒がしき事出で来て、皆人肝をつぶし、つぶし、ささめくと言ふ程こそあれ、将軍都へ流され給ふとぞ聞こゆる。珍しき言の葉なりかし。近く仕る
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男女、いと心細く思く。例へば、御位などの変はる気色に異ならず。さて上らせ給ふ有様、いと怪しげなる網代の御輿を逆様に寄せて、乗せ奉るも、げにいとまがまがしき事の様也。打ち任せては、都へ御上りこそ、いと面白くもめでたかるべき業なれど、かく怪しきは珍か也。御母御息所は、近衛殿の大殿と聞こえし御娘也。父御子の、将軍にて御座しましし時の御息所也。先に聞こえつる禅林寺殿の宮の御方も、同じ御腹なるべし。文永三年より今年まで二十四年、将軍にて、天下 の固めといつかれ給へれば、日の本の兵を従へてぞ御座しましつるに、今日は彼等にくつ返されて、かくいとあさましき御有様にて上り給ふ。いといとほしう哀れなり。道すがらも思し乱るるにや、御たたう紙の音繁う漏れ聞こゆるに、猛き武士も涙落としけり。さて、此の代はりには、一院の御子、三条の内大臣公親の御娘、御匣殿とて候ひ給ひし御腹也。当代の御はらからにて、今少し寄せ重く止む事無き御有様なれば、〔只〕受禅の心地ぞする。もとの将軍御座せし宮をば造り改めて、いみじう磨きなす。兵の勝れたる七人、御迎へに上る中に、飯沼の判官と言ふ者、前の将軍上り給ひし道もまがまがしければ、あとをも越えじとて、足柄山をよぎて上るとぞ、余りなる事にや。御子は十月三日御元服し給ふ。久明の親王と聞こゆ。同じ十日、院よりやがて六波羅の北方、さきざきも宮の
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渡り給ひし所へ御座して、それよりぞ東に赴かせ給ふ。同じ二十五日、鎌倉へ着かせ給ふにも、御関迎へとて、ゆゆしき武士共打ちつれて参る。宮は菊のとれんじの御輿に御簾上げて、御覧じならはぬ夷共の打ち囲み奉れる、頼もしく見給ふ。しのぶを乱れ織りたる萌黄の御狩衣・紅の御衣・濃き紫の指貫奉りて、いと細やかに艶めかし。飯沼の判官、とくさの狩衣、青毛の馬に、黄金物の鞍置きて、随兵いかめしく〔召し具〕して、御輿の際にうちたるも、都に例へば、行幸に然るべき大臣などの仕り給へるによそへぬべし。三日が程は、椀飯と言ふ事、又馬御覧、何くれといかめしき事共、鎌倉中の経営也。宮の中の飾り御調度などは更にも言はず、帝釈の宮殿もかくやと、七宝を集めて磨きたる様、目も輝く心地す。いと有らまほしき御有様なるべし。関の東を都の外とて、おとしむべくも有らざりけり。都に御座しますなま宮達の、拠り所無くただよはしげなるには、こよなく勝りて、めでたくにぎははしく見えたり。時宗の朝臣と言ひしも、又頭下ろして、円覚寺の入道とて、いと尊く行ひて、世をもいろはず、貞時と言ふ太郎、相模の守にぞ、万言ひ付けける。上り給ひにし前の大将殿は、嵯峨の辺に御髪下ろし、いとかすかに寂しくて御座す。かくて年変はりぬれば、又の年二月の頃、一院御髪下ろす。年月の御本意なれど、たゆたい過ぐし給ひけるに、禅林寺殿、去年の秋思し立ちにしに、
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いとど驚かされ給ひぬるにや有りけん。二月十一日、亀山殿にて、御いむ事受けさせ給ふ。四十八にぞならせ給ふ。御法名素実と申す也。正月一日、節会など果てて、夕つ方、内の上、皇后宮の御方へ渡らせ給へれば、宮は〔中〕濃き紅梅の〔十二の〕御衣に、同じ色の御単・紅のうちたる・萌黄の御表着・葡萄染めの御小袿・花山吹の御唐衣、唐の薄物の御裳気色ばかり引き掛けて、御髪ぞ少し薄らぎ給へれど、いとなよびかに美しげにて、常よりも殊に匂ひ加はりて見え給ふ。御前に御匣殿、花山院の内大臣師継の娘、二藍の七つに紅の単・紅梅の表着・赤色の唐衣・地摺の裳、髪うるはしく上げて候ひ給ふ。かんざし・やうだい、是もけしうは有らず見ゆ。あたらしき年の御喜びなど少し聞こえ給ひて、例の只ならぬ御事共打ちささめきがちにて、是より公守の大納言の娘の曹司差しのぞかせ給へば、いとささやかにて、衣がちにて、花桜のあはひおかしきに、山吹の表着、裳引き掛けて、寄り臥し給へる、あてにらうたし。こまやかに打ち語らひ聞こえ給ふ。玄輝門院の御そばにかしづき聞こえ給ひし習ひにや、押しなべての上宮仕への様よりは、思ひ上がれる気色なり。今一所〈 顕親門院 〉の御曹司も近き程なれば、そなた様に歩み御座して、いと心静ならねど、此の君をば、押しなべての際ならず思すめり。此の御腹に、御子達数多御座しましき。かくめぐらせ給ふ程に、いたく更けてぞ、中宮上らせ給ふ。此の御代にも、いみじき行幸ども、
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ゆゆしき事多かりしかど、年の積もりに何事もさだかならず、月日などおぼろに侍れば、中々聞こえず。程無く明け暮れて、永仁も六年になりぬ。七月二十二日、春宮に位譲りて、降り給ひぬ。霜月になりて、五節の頃、去年を思し出でて、其の折に関白にて御座せし兼忠の大臣に、櫛遣はすとて、新院、
乙女子がさすや小櫛の其のかみに共に馴れこし時ぞ忘れぬ W
御返し、歓喜園の前の摂政殿、
いとど又こぞの今宵ぞ忍ばるるつげの小櫛を見るに付けても W
堀川の具守の大臣の娘の御腹に、前の新院の若宮〈 後二条 〉生まれ給へりし、六月二十七日に、御元服して、八月十日春宮に立ち給ひぬ。御諱邦治と聞こゆ。是も、内より〔は〕御年三つ勝り給へり。今の御門は十一になり給ふ。御諱胤仁と聞こゆ。あてに艶めかしう御座します。中宮の御腹には、大方、宮も物し給はねば、此の御門をぞ、御子にし奉らせ給ひける。譲位の後は、宮も降りさせ給ひて、永福門院と聞こゆめり。皇后宮も此の頃は遊義門院と申す。法皇の御傍らに御座しましつるを、中の院(ゐん)〈 後宇多 〉、如何なる便りにか、ほのかに見奉らせ給ひて、いと忍び難く思されければ、とかくたばかりて、盗み奉らせ給ひて、冷泉万里小路殿に御座します。又無く思ひ聞こえさせ給へる事限り無し。
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正安二年正月三日、御門、御元服し給ふ。今年十三にならせ給へば、御行く末遙かなる程也。又の年正月の頃、内侍所の御しめの下り給へるは、如何なるべき事にかなど、忍びてささめく程こそあれ、東より御使ひの上るとて、世の中騒ぎて、禅林寺殿見奉り給ふ世にとや、正月二十一日、春宮〈 後二条 〉位に即かせ給ひぬ。おりゐの御門十四にて、太上天皇の尊号有り。いときびはにいたはしき御事なるべし。僅かに三年にて降り居させ給へれば、何事のはえも無し。此の春は、春日の社に御幸など有るべしとて、世の中まだきより面白き事に言ひあへりつるも、かいしめりていとさうざうし。さて此の君を新院と申せば、父の院をば中の院(ゐん)と聞こゆ。御門の御父は一の院と申す。法皇も此の頃は一つに御座しますなめり。一の院、世の政聞こし召せば、天下の人、又押し返し、一方に靡きたる程も、さも目の前に移ろひ変はる世の中かなと、あぢきなし。土御門の前の内の大臣定実、六月に太政大臣になり給ふ、いとめでたし。故大納言入道顕定の、本意無かりし御面おこし給へる、いとどゆゆし。院の御覚えの人なる上、才も賢く御座すれば、世に用ゐられ給へり。御子の大納言雅房・中納言親定とて、いづれも才ある人にて御座しき。持明院殿には、世の中すさまじく思されて、伏見殿に籠り御座しますべく宣へれど、二の御子坊に定まり給へば、又めでたくて、なだらかにて御座しますべし。
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先に聞こえつる御母女院の御はらからの姫君、顕親門院と聞こえし御腹也。八月十五日、先づ親王になし奉らせ給ひて、同二十四日に春宮〈 花園院 〉に立ち給ひぬ。かくて新帝〈 後二条 〉は十七になり給へば、いと盛りに美しう、御心ばへもあてにけだかう澄みたる様して、しめやかに御座します。三月二十四日御即位、此の行幸の時、花山院の三位の中将家定、御剣の役を勤め給ふとて、逆様に内侍に渡されけるを、今出川の大臣御覧じとがめて、出仕止めらるべき由申されしかど、鷹司の大殿、「中々沙汰がましくてあしかりなん。只音無くてこそ」と申し止め給へりしこそ、情け深く侍りしか。後に思へば、げにあさましき事の験にや侍りけん。十月二十八日御禊、此の度の女御代にも、堀川の大臣の姫君いで給へり。今の上も、源氏の御腹にて物し給ふ。いと珍しく止む事無し。然れど、うけばりたる様には御座せぬぞ、心許無かめる。又の年は乾元元年、六月十六日亀山院へ行幸有り。法皇〈 亀山院 〉、いと珍しく美しと見奉らせ給ふ。暁帰らせ給ひぬる後、法皇より内に聞こえさせ給ふ。
したはるる名残に堪えず月を見れば雲の上にぞ影はなりぬる W
御返し、内の上、
君はよし千年の齢保てれば相見ん事の数も知られず W
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一院は、忠継の宰相の娘の中納言の典侍殿と言ふ腹にも、男女御子達数多物し給ふ中に、勝れ給へる内親王を、いと悲しき物にかしづき聞こえさせ給ふ。此の御世にも、又、為世の大納言承りて撰集有り。新後撰集と聞こゆ。嘉元元年披露せらる。かくて、又の年春の頃より、東二条院、御悩み日々におもり給ひて、今はと見えさせ給へば、伏見殿へ出でさせ給ひて、遂に失せさせ給ひぬ。七十に余らせ給へば、理の御事なり。法皇〈 後深草 〉も其の御歎きの後、をさをさ物聞こし召さずなど有りしを始めにて、打ち続き心よからず、御わらはやみなど聞こゆる程に、七月十六日、二条富の小路殿にて、隠れさせ給ひぬ。六十二にぞならせ給ひける。いと哀れに悲しき事共、言へば更也。御孫の春宮も一つに御座しましつれば、急ぎて外へ行啓なりぬ。御修法の壇共こぼこぼと毀ちて、くづれ出づる法師原の気色まで、今を限りと、とぢめ果つる世の有様、いと悲し。宵過ぐる程に、六波羅の貞顕・憲時二人、御訪ひに参れり。京極表の門の前に、床子に尻掛けて候ふ。従ふ者共左右に並み居たる様、いとよそほしげ也。又の日、夜に入りて、深草殿へ率て渡し奉る。御車差し寄せて、御棺に乗せ奉る程、内外とよみ合ひたる、いと理に、心をさむる人も無し。院〈 伏見殿 〉の御前・宮達など、藁履とかや言ふ物奉りて、門まで御送り仕らせ給ひて、とみにえ上らせ給はず、御直衣の袖を押し当てて、遙かに程経
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てぞ、御車に奉りて、伏見殿への御送りもせさせ給ひける。院の中ゆゆしきまで泣きあへり。後深草院とぞ聞こゆめる。御日数の程は、伏見殿に宮達・遊義門院など御座します。秋さへ深く成り行く儘に、夜とともの御涙、干る間無く思し惑ふ。遊義門院、
物をのみ思ひ寝覚めにつくづくと見るも悲しき燈し火の色 W
春きてし霞の衣ほさぬまに心もくるる秋霧の空 W
年返りぬれば、嘉元も三年になりぬ。万里小路殿の法皇、又御悩みとて、亀山殿へぞ移らせ給ふ。色々に、御修法や何くれ御祈り共、こちたくせさせ給へるも験無くて、九月十五日の曙に遂に隠れさせ給ひぬ。去年・今年の世のさがなさ、打ち続きたる人々の御歎き共、言はん方無し。世を背かせ給ひにし初めつ方は、いと際だけう聖だちて、女房など御前にだに参らぬ事なりしかど、後には有りしより猶たはれさせ給ひし程に、永福門院の御差次の姫君、はや御盛りも過ぐる程なりしを、此の法皇に参らせ奉らせ給へりしが、かひがひしく「水の白波」に若やがせ給ひて、やがて院号有りしかば、昭訓門院と聞こえつる、其の御腹に、一昨年ばかり、若宮生まれ給へるを、限り無く悲しき物に思されつるに、今少しだに見奉らせ給はずなりぬるを、いみじう
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思されけり。さてしも有らぬ習ひなれば、同じ十七日に、御業の事せさせ給ふ。理と言ひながら、いといかめしう人々仕り給ふ。網代庇の御車、前の右大臣殿寄せさせ給ふ。烏帽子直衣袴際にて参り給ふ。院の上も庭に下りさせ給ふ。法親王達三人、山の座主・聖護院、十楽院の法親王などは、わらうづをぞ奉る。上の山まで御供せさせ給ふ。上達部には、前の右の大臣公衡・西園寺の大納言公顕・万里小路大納言師重・源中納言有房・三条の前の中納言実躬・宗氏の二位・重経の二位・為雅の宰相・経守・為行・親氏など也。殿上人は頼俊の朝臣・忠氏・為藤・国房・経世・泰忠・光忠、皆、狩衣の袖を絞り絞り参る気色さへ、哀れを添へたり。院も御供にひきさがりて参り給ふ。花山院の権大納言・西園寺の中納言・土御門の大納言、御子親実の少将、御太刀持ちて御供せられたり。よそほしかりつる御有様も、いと程無く、只時の間の煙にて上り給ひぬれば、誰も誰も夢の心地して、ほのぼのと明け行く程に、各まかで給ふ。三条の大納言入道公実・万里小路大納言師重などは、とりわき御志深くて、御荼毘の果つるまで、墨染めの袖を顔に押し当てつつ候ひ給ふ。予てより山道作られて、木草切り払ひなどせられつれど、露けさぞ分けん方無き。涙の雨の添ふなるべし。内よりの御使ひに、始め長親の朝臣、雅行・有忠の朝臣など、三度参る。古き例なるべし。同じき二十六日、院の上、御素服奉る。御座します
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殿には、黒き草にて編みたる簾を掛けける。浅黄縁の御座に、上の御衣黒き、上の御袴、裏は柑子色、御下襲も黒し。同じひへぎ、浅黄の御桧扇、御台参る〔も〕、皆黒き御調度共なり。此の御ついでに、御方々も御素服奉る人数、昭訓門院、昭慶門院は御娘、近衛殿の北の政所、関白殿〈 九条殿 〉の北の政所、良助法親王、覚雲・順助・慈道・性恵・行仁・性融の法親王達、上達部も、御山の御供し給ふ人々皆漏れず。院の二の御子の御母も、近頃は法皇召し取りて、いと時めきて、准后など聞こえつるも、思ひ歎き給ふべし。昭訓門院、やがて御髪下ろす。法皇は五十七にぞならせ給ひける。御骨も、此の院に法華堂を建てさせ給へば、亀山の院とぞ申すべかめる。禅林寺殿をば、御座しましし時より禅院になされき。南禅院と言ふは是なめり。院の二の御子、忠継の宰相の娘、今は准后の御腹に御座します。此の頃帥宮と聞こゆるを、法皇とりわき御傍ら去らず馴らはし奉り給ひて、いみじうらうたがり聞こえさせ給ひしかば、人より殊に思し歎くべし。頃さへ時雨がちなる空の気色に、山の木の葉も涙争ふ心地して、いと悲し。所がらしもいとど哀れを添へたり。川波の響き、戸無瀬の滝の音までも、取り集めたる御心の中共なり。御日数の程は、帥の宮一つ御腹の内親王なども、此の院に御座します程、徒然なる儘に、はかなし事など聞こえかはして、花紅葉に付けて
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も、睦ましく馴れ聞こえ給ふべし。帥の御子は、大多勝院に、西の廂に渡らせ給ふ。御前の松の木に這ひかかれる蔦の、紅葉にいたう染めこがしたるを取りて、九月三十日の夕つ方、昭訓門院の御方へ奉らせ給ふ。
あすよりの時雨も待たで染めてけり袖の涙や蔦の紅葉葉 W
木の葉よりももろき御涙は、ましていとどせき兼ね給へり。御返し、
四方は皆涙の色に染めてけり空にはぬれぬ秋の紅葉葉 W
哀れに見奉らせ給ひつつ、名残もいみじく眺められて、勾欄に押し掛かり給へる夕ばえの御形、いとめでたし。有りつる紅葉を、西園寺の大納言公顕の宿直所へ遣はす。
雨と降る涙の色や是ならん袖より外に染むる紅葉葉 W
女院の御兄なれば、しめやかなる御山ずみの心苦しさに、候ひ給ふなりけり。御返し、
いくしほか涙の色に染めつらん今日を限りの秋の紅葉葉 W
時雨はしたなく、風あららかに吹きて暮れぬれば、宮、内に入り給ひて、御殿油近く召して、昼御覧じさしたる御経など読み給ふ程に、若殿上人共打ち連れて、此方の御宿直に参れり。昼の蔦の葉の散りぼひたるを、人々見るに、宮、「それに各歌書きて」と
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宣へば、中将為藤の朝臣、
紅葉葉になく音絶えずば空蝉のからくれなゐも涙とや見ん W
清忠の朝臣、
山姫の涙の色も此の頃はわきてや染むる蔦の紅葉葉 W
光忠の朝臣、
世の中の歎きの色を知らねばや去年に変はらぬ蔦の紅葉葉 W
此等を取り集めて、北殿の内親王の御方へ奉らせ給へれば、
さすが猶色は木の葉に残りける形見も悲し秋の別れ路 W
雨打ちそそきて、けはひ哀れなる夜、いたう更けて、帥の宮、例の北殿へ参り給へれば、姫君も御殿ごもりぬ。候ふ人々も皆静まりぬるにや、格子などたたかせ給へど、開くる人も無ければ、空しく帰らせ給ふとて、書きて挿ませ給ふ。
自づから眺めやすらむとばかりにあくがれ来つる有明の月 W
御返し、又の日、
徒らに待つ宵すぎし村雨は思ひぞ絶えし有明の月 W
月日程無く移り過ぎぬれば、院も宮々も、各ちりぢりにあかれ給ふ程、今少し、
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物悲しさ勝る御心のうち共は尽きせねど、世の習ひなれば、さのみしもは如何。昭慶門院は、数多の宮達の御中に、勝れて悲しき物に思ひ聞こえさせ給ひしかば、御処分などもいとこちたし。大井川に向かいて、離れたる院の有るをぞ奉らせ給へれば、そこに御座しましし程に、川端殿の女院など、人は申し侍りし。彼の所は臨川寺と言ふ。都にも土御門室町に有りし院、いづれも此の頃は寺に成りて侍るめりとぞ。めでたくも哀れなる。
第十二 浦千鳥
院の上は、御位に御座せし程は、中々然るべき女御・更衣も候ひ給はざりしかど、降りさせ給ひて後、心の儘にいとよく紛れさせ給ふ程に、此の程は、いどみ顔なる御方々数そひ給ひぬれど、猶遊義門院の御志に立ち並び給ふ人はをさをさ無し。中務の宮の御娘も、押しなべたらぬ様にもてなし聞こえ給ふ。勝れたる御覚えには有らねど、姉宮の、故院に渡らせ給ひしよりは、いと重々しう思しかしづきて、後には院号有りき。永嘉門院と申し侍りし御事也。又一条の摂政殿〈 実経公 〉の姫君も、当代堀川の大臣の家に渡らせ給ひし頃、上臈に、
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十六にて参り給ひて、はじめつ方は、基俊の大納言、うとからぬ御中にて御座せしかば、彼の大納言東下りの後、院に参り給ひし程に、事の外にめでたくて、内侍のかみになり給へり。昔覚えて面白し。加階し給へりし朝、院より
其のかみに頼めし事の変はらねばなべて昔の世にや帰らん W
御返し、内侍のかんの君。〓子とぞ聞こゆめりし。
契り置きし心の末は知らねども此の一言や変はらざるらむ W
露霜重なりて、程無く徳治二年にもなりぬ。遊義門院、そこはかとなく御悩みと聞こえしかば、院の思し騒ぐ事限り無く、万に御祈り・祭り・祓へと罵りしかど、甲斐無き御事にて、いとあさましく敢へ無し。院もそれ故御髪下ろして、ひたぶるに聖にぞならせ給ひぬる。其の程、様々の哀れ思ひ遣るべし。悲しき事共多かりしかど、皆見落しつ。明くる年の春、八幡の御幸の御帰るさより、東寺に三七日御座しまして、御潅頂の御加行とぞ聞こゆる。仁和寺の禅助僧正を御師範にて、彼の寛平の昔をや思すらん、密宗をぞ学せさせ給ひける。六月には亀山殿にて御如法経書かせ給ふ。御髪下ろして後は、〔大方、〕女房は仕らず。男、番に下りて、御台なども参らせ、万に仕る。いつも御持斎にて御座します。いと有り難き善知識にてぞ、故女院は御座しける。嵯峨の今林殿にて、御仏事共、
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日々に怠らずせさせ給ふ。此の今林は、北山の准后貞子の御座せし跡なり。遊義門院の御髪にて、梵字縫はせ給へり。彼の御手のうらに、法華経一字三礼に書かせ給ひて、摂取院にて供養せらる。大覚寺の僧正御導師なり。故女院の御骨も、今林に法華堂建てられて、置き奉らせ給へれば、月ごとに二十四日には必ず御幸有り。思し入りたる程は、いみじかりき。かくて八月の初めつ方より、内〈 後二条 〉の上例ならず御座しますとて、様々の御修法、五壇・薬師・愛染、色々の秘法共、諸社の奉幣神馬、何かと罵り騒ぎつれど、むげに不覚にならせ給ひて、二十三日御気色変はるとて、世の響き言はん方無く、馬・車走り違ひ、所も無きまで人々は参りこみたれど、いと甲斐無く、二十五日子の時ばかりに、果てさせ給ひぬ。火の消えぬる様にて、かき暗れたる雲の上の気色、言はずとも推し量られなん。誠や、中宮は、徳大寺の公孝の太政大臣の娘ぞかし。珍しく、あの御家に斯かる事のいたく無かりつるに、御覚えもめでたくて候ひ給へるに、あさましとも言はん方無し。二十八日にまかで給ふ。先帝も御業の沙汰有り。院号有りて後二条院とぞ聞こゆる。堀川の右大将具守、御車寄せらる。心の中如何ばかりか御座しけん。大将になり給へるも、此の御門の、西花門院睦ましうも仕り給へるに、いとほしき御事也。御素服を〔着〕給はざりしをぞ、思はずなる事に世の人も言ひ沙汰しける。内侍のかんの君も様変はり給ふ。中宮も院号有りて、
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長楽門院と聞こゆ。万哀れなる事のみ、書き尽くし難し。春宮は正親町殿へ行啓なりて、剣璽渡さる。八月二十六日践祚なり。十二にぞならせ給ふ。夢の内の心地しつつも、程無く過ぎうつる御日数さへ果てぬれば、尽きせぬ哀れはさむる世無けれど、人々もおのが散り散りになる程、今一入堪えがたげ也。持明院殿には、いつしかめでたき事共のみぞ聞こゆる。大覚寺殿には、遊義門院の御事に打ち添へて、御涙のひる世無く思さるべし。中務の御子の御事を、東へ宣ひ遣はしたる、「相違無し」とて、九月十九日、立太子の節会有りて、坊にゐ給ひぬ。今はと世をとぢむる心地しつる人々、少し慰みぬべし。其の年十月、大なりつるを、保元の例とかやとて、十一月一日に宣下せられたり。あたらしき御代にあたりて、月日さへ改まりにけり。十一月十二日御即位、摂政は、後照念院殿冬平、今日御悦申有りて、やがて行幸に参り給ふ。有るべき限りの事共、古きに変はらで、めでたく過ぎ行く。延慶二年十月二十一日御禊、同じ二十四日、大嘗会、応長元年正月三日、御年十五にて御冠し給ふ。御諱富仁と聞こゆ。引き入れ関白殿、理髪家平仕り給ふ。南殿の儀式果てて、御装ひ改めて、更に出でさせ給ふ。清涼殿にて御遊び始まる。摂政殿箏、ふしみと言ふ物、右大将公顕琵琶玄上、土御門の大納言通重笙きさぎえ、和琴大炊御門中納言冬氏、笛西園寺の中納言兼季、別当季衡も笙の笛吹き給ひけり。篳篥は公守の朝臣、拍子有時、めでたく様々面白くて明け
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ぬ。五日後宴とて、今少しなつかしう面白き事共有りき。此の御門をば、新院の御子になし奉らせ給ひてしかば、朝覲の行幸の御拝なども、此の御前にてぞ有りける。広義門院も、同じく国母の御心地にて、万めでたかりき。院(ゐん)の上、さばかり和歌の道に御名高く、いみじく御座しませば、如何ばかりかと思されしかども、正応に撰者共の事故に、わづらひ共有りて、撰集も無かりしかば、いとど口惜しう思されて、
我が世には集めぬ和歌の浦千鳥空しき名をやあとに残さむ W
など詠ませ御座しましたりしを、今だにと急ぎ立たせ給ひて、為兼の大納言承りて、万葉より此方の歌共集められき。正和元年三月二十八日奏せらる。玉葉集とぞ言ふなる。此の為兼の大納言は、為氏の大納言の弟に為教の兵衛督と言ひしが子也。限り無き院(ゐん)の御覚えの人にて、かく撰者にも定まりにけり。そねむ人々多かりしかど、さはらんやは。此の院(ゐん)の上、好み詠ませ給ふ御歌の姿は、前の藤大納言為世の心には、変はりてなん有りける。御手もいとめでたく、昔の行成の大納言にも勝り給へるなど、時の人申しけり。やさしうも強うも書かせ御座しましけるとかや。正和も二年になりぬ。今年御本意遂げなんと思さる。長月の暮れつ方、賀茂に忍びて御籠りの程、をかしき様の事共侍りけり。近く候ふ女房共も、打ちしほたれつつ、つごもりがたの空の気色、いと物哀れなるに、御製、
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長月や木の葉も未だつれなきに時雨れぬ袖の色や変はらん W
又、
我が身こそ有らずなるとも秋の名残惜しむ心はいつも変はらじ W
人々も、さと時雨れ渡り、袖の上、今日を限りの秋の名残よりも忍び難し。大納言の三位為子、撰者のはらからなり。
一筋に暮れ行く秋を惜しまばや有らぬ名残を思ひ添へずて W
又誰にか、
如何にこひ如何に惜しまん年々の秋には勝る秋の名残を W
十月十五日、伏見殿へ御幸、限りの旅と思せば、えも言はず引き繕はる。庇の御車也。上達部・殿上人、数知らず仕り給ふ。世の政なども、新院に譲り奉らせ給ひにしかば、心静かにのみ思されて、伏見殿がちにのみぞ御座しましし程に、そこはかと御悩み月日へて、文保元年九月三日、隠れさせ給ひにき。伏見院と申しき。御母玄輝門院、永福門院などの御歎き思ひ遣るべし。御門は御軽服の儀なれば、天下も色変はらず。此の院、姫宮数多御座しまししかど、院号は章義門院・延命門院ばかりにて御座します。二条富小路の昔の院(ゐん)のあとに、東より造りて奉る内裏、此の頃御わたまし
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有りしなど、いといと面白かりき。近き事は、人皆御覧ぜしかば、中々にて止めつ。
第十三 秋のみ山
文保二年二月二十六日、御門降り居させ給ふ。春宮は既に、三十に満たせ給へば、待ち遠なりつるに、めでたく思さるべし。法皇、都に出でさせ給ひて、世の中知ろし召す。亀山殿は然る事にて、近頃は、大覚寺の辺に御堂建てて籠り御座しましつつ、いよいよ密教の深き心ばへをのみ勤め学ばせ給へば、自づからも京に出でさせ給ふ事無く、又参り通ふ人も稀なるやうにて、神さび〔たり〕つるを、引きかへ事繁き世に、行ひも懈怠して、むつかしく思さる。三月二十九日御即位也。行幸の当日に、左大将内経・花山院の右大将家定、行列を争ひて、随身共わわしく罵れば、御輿を押さへて、職事奏し下しなどすめり。左大将の父君は、内実の大臣と聞こえし。嘉元の頃、俄に隠れ給ひにしかば、摂〓もしあへ給はざりしにより、今は只人にてこそいますべければとて、かく争ふとぞ聞こえし。神無月二十七日大嘗会、清暑堂の御神楽の拍子の為に、綾の小路の宰相有時と言ふ人、大内へ参るを、車より降るる程に、いとすくよかなる田舎侍めく物、太刀を抜きて走り寄る儘に、あや無く討ちてけり。さばかり立ちこみたる人の中にて、〔いと珍かに〕あさまし。さて拍子俄に異人承る。大事の事共
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果てて後、尋ね沙汰ある程に、紙屋川の三位顕香と言ふものの、此の拍子をいどみて、我こそ勤むべけれと思ひければ、斯かる事をせさせけり。道に好ける程はやさしけれども、いとむくつけし。さて彼の三位は流されぬ。かくて今年は暮れぬ。誠や、こたみの春宮には、後二条院の一の御子定まり給ひぬれば、御門坊にて御座しましし時の儘に、冷泉万里小路殿寝殿に移り住ませ給へるに、二月の頃、軒の桜盛りにをかしき夕ばえを御覧じて、内に奉らせ給ふ。彼の花に付けて、
なれにける花は心や移すらん同じ軒端の春にあへども W
御返しは、南殿の桜に差しかへ給ふ。
花はげに思ひ出づらん春をへてあかぬ色香に染めし心を W
おりゐの御門は、御兄の本院と一つ持明院殿に住ませ給ふ。もとより御子の由にて御座しませば、まいて、一つ院(ゐん)の内にて、いささかも隔て無く聞こえさせ給ふ。いと思ふやうなる御有様也。さべき御中と言へども、昔も今も御腹など変はりぬるは、如何にぞや、そばそばしき事も打ちまじり、くせある習ひにこそ有るを、此の院(ゐん)の御あはひ、まめやかに思ほしかはしたる、いと有り難うめでたし。本院は、広義門院の御腹の一の御子を、此の度の坊にやと思されしかど、引き過ぎぬれば、いと遙けかるべき世にこそと、さうざうしく
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思さるべし。御歌合のついでなりしにや、
色々に都は春の時にあへど我がすむ山は花も開けず W
大覚寺殿には、引きかへ、馬・車の立ち混みたるを御覧じて、法皇詠ませ給ひける。
我住めば寂しくも無し山里もあさまつりごと怠らずして W
今の上は、早うより、西園寺の入道大臣実兼の末の御娘、兼季の大納言の一つ御腹に物し給ふを、忍びて盗み給ひて、わく方無き御思ひ、年に添へて止む事無う御座しつれば、いつしか女御の宣旨など聞こゆ。程も無く、やがて八月に后だちあれば、入道殿も、齢の末にいと賢くめでたしと思す。北山にまかで給へる頃、行幸有り。八月十五日の夜、名をえたる月も殊に光を添へ、所がら折から面白く、めでたき事共花やかなるに、御姉の永福門院より、今の后の御方へ、御消息聞こえ給ふ。
今宵しも雲井の月も光そふ秋のみ山を思ひこそ遣れ W
御返しは、「まろ聞こえん」と宣はせて、内の上、
昔見し秋のみ山の月影を思ひ出でてや思ひ遣るらん W
御門の同じ御腹の前の斎宮も、皇后宮に立たせ給ふ。御母准后も院号有り
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て、談天門院とぞ聞こゆめる。万花やかにめでたき事共繁う聞こゆ。内には、万里小路〈 北畠と申す也、 〉大納言入道師重と言ひしが娘、大納言の典侍とて、いみじう時めく人有るを、堀川の春宮の権大夫具親の君、いと忍びて見初められけるにや、彼の女、かき消ち失せぬとて、求め尋ねさせ給ふ。二三日こそあれ、程無く其の人と現れぬれば、上いとめざましく憎しと思す。止む事無き際には有らねど、御覚えの時なれば、厳しく咎めさせ給ひて、げに須磨の浦へも遣はさまほしきまで思されけれども、さすがにて、官皆止めて、いみじう勘ぜさせ給へば、畏まりて、岩倉の山庄に籠り居ぬ。花の盛りに面白きを眺めて、
うき事も花にはしばし忘られて春の心ぞ昔なりける W
典侍の君は返り参れるを、つらしと思す物から、「うきに紛れぬ恋しさ」とや、いよいよらうたがらせ給ふを、さしもあかず正身は猶好き心ぞ絶えず有りけんかし。
絶え果つる契りを一人忘れぬも憂きも我が身の心なりけり W
とて、一人ごたれける。末様には、公泰の大納言、未だ若う御座せし頃、御心〔と〕許して給はせければ、思ひかはして住まれし程に、彼処にて失せにき。御門の御母女院、十一月失せ給ひにしかば、内の上御服奉る。天下一つに染め渡し
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て、葦簾とか、いとまがまがしき物共掛け渡したるも、哀れにいみじくぞ見ゆる。五節も止まりぬ。若き人々などさうざうしく思へり。当代も又敷島の道もてなさせ給へば、いつしかと勅撰の事仰せらる。前の藤大納言為世承る。玉葉のねたかりしふしも、今ぞ胸あきぬらんかし。此の大納言の娘、権大納言の君とて、坊の御時限り無く思されたりし御腹に、一の御子・女三の御子・法親王など、数多物し給ふ。彼の大納言の君も、早う隠れにしかば、此の頃三位贈らせ給ふ。贈従三位為子とて、集にもやさしき歌多く侍るべし。さて大納言は、人々に歌すすめて、玉津島の社に詣でられけり。大臣・上達部より始めて、歌詠むと思へる限り、此の大納言〔の〕風を伝へたるを、もるるも者無し。子共孫共などは、勢ひ殊に響きて下る。先づ住吉へ詣づ。逍遙しつつ罵りて、九月にぞ玉津島へ詣でける。歌共の中に、大納言為世、
今ぞ知る昔にかへる我が道の誠を神も守りけりとは W
かくて、元応二年四月十九日、勅撰は奏せられけり。続千載と言ふなり。新後撰集と同じ撰者の事なれば、多くは彼の集に変はらざるべし。為藤の中納言、父よりは少し思ふ所加へたる主にて、今少し、此の度は心憎き様也などぞ、時の人々沙汰しける。院(ゐん)にも内にも、朝政のひまひまには、御歌合のみ繁う聞こえし中に、元亨元年八月十五夜
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かとよ。常より殊に月面白かりしに、上、萩の戸に出でさせ給ひて、異なる御遊びなども有らまほしげなる夜なれど、春日の御榊、うつし殿に御座します頃にて、糸竹の調べは折あしければ、例の只内々御歌合有るべしとて、侍従の中納言為藤召されて、俄に題奉る。殿上に候ふ限り、左右同じ程の歌詠みを択らせ給ふ。左は、内の上・春宮の大夫公賢・左衛門佐公敏・侍従の中納言為藤・中宮の権大夫師賢・宰相維継・昭訓門院の春日為世の娘、右は藤大納言為世・富小路大納言実教・X洞院の中納言季雄・公修の宰相、実任の少将、内侍〈 為信の娘 〉、忠定の朝臣・為冬、忠守など言ふ医師も、此の道の好き物なりとて、召し加へらる。衛士のたく火も月の名だてにやとて、安福殿へ渡らせ給ふ。忠定の中将、昼の御座の御佩刀を取りて参る。殿上のかみの戸を出でさせ給ひて、無名門より右近の陣の前を過ぎさせ給へば、遣水に月のうつれる、いと面白し。安福殿の釣殿に床子立てて、東南に御座します。上達部は簀子の勾欄に背中押し当てつつ、殿上人は庭に候ひあへるもいと艶也。池の御船差し寄せて、左右の講師隆資・為冬乗せらる。御酒など参る様も、うるはしき事よりは、艶に艶めかし。人々の歌いたく気色ばみて、とみにも奉らず、いと心許無し。照る月波も、曇り無き池の鏡に、言はねどしるき秋のもなかは、げにいと異なる空の気色に、月も傾きぬ。明けがた近うなりにけり。上の御製、
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鐘の音もかたぶく月にかこたれて惜しと思ふ夜は今宵也けり W
と講じ上げたる程、景陽の鐘も響きを添へたる、折からいみじうなん。いづれもけしうは有らぬ歌共多く聞こえしかど、御製の鐘の音に勝れるは無かりしにや。かくて今年も又暮れぬ。明くる春元亨二正月三日、朝覲の行幸あり。法皇は御弟の式部卿の親王の御家大炊御門京極常盤井殿と言ふにぞ御座します。内裏は二条万里の小路なれば、陣の中にて、大臣以下かちより仕らる。関白内経・太政大臣通雄・左大臣実泰・右大将兼季・左大将冬教・中宮の大夫実衡、〔中納言には〕具親・公敏・為藤・顕実・経定、宰相実任・冬定・公明・光忠、公泰・資朝、殿上人は頭の中将為定・修理大夫冬方を始めて、残るは少なし。此の院(ゐん)は、池のすまひ、山の木立、もとより由あるさまなるに、時ならぬ花の梢をさへ造り添へられたれば、春の盛りに変はらず咲きこぼれたるに、雪さへいみじく降りて、残る常盤木も無し。州崎に立てる鶴の気色も、千代を込めたる霞の洞は、誠に仙人の宮もかくやと見えたり。京極表の棟門に御輿を抑へて、院司事の由を奏す。乱声の後、中門に御輿を寄す。中門の下より出づる遣り水に、小さく渡されたる反橋の左右に、両大将跪く。剣璽は権の亮宰相の中将公泰勤められしにや。関白、公卿の座の妻戸の御簾をもたげて入り奉らせ給ふ。とばかり有りて、寝殿の母屋の御簾皆上げ渡して、法皇出でさせ給へ
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り。香染めの御衣、同じ色の御袈裟なり。御袈裟の箱、御そばに置かる。内の上、公卿の座より勾欄を経給ふ。御供に関白候ひ給ふ。階の間より出で給ひて、廂に御座奉りたれば、御拝し給ふ程、西東の中門の廊に、上達部多く立ち重なりて見遣り奉る中に、内の御乳母の吉田の前の大納言定房、まみいたう時雨れたるぞ哀れに見ゆ。其のかみの事など思づるに、めでたき喜びの涙ならんかし。御拝終りぬれば、又もとの道を経給ひて、公卿の座に入らせ給ひぬ。法皇も内に入り給ひて、しばし有りて、左右の楽屋の調子整ほりて後、又御門入らせ給ふ。法皇も同じ間の内に、御褥ばかりにて御座します。末の廂に、内より参れる女房共候ふ。一の車に小大納言の君〈 師重の娘 〉、「うきも我が身の」と詠みし人の妹なり。帥典侍資茂の娘、讚岐・こいまとかや。二の左に新兵衛、中宮の内侍、後に准后と聞こえにき。しりに夏びき・いはねを。三の車に少将の内侍・尾張の内侍、しりに青柳・今参りなど聞こゆ。上達部、御前の座に着きて後、御台参る。役送公泰宰相の中将、陪膳右大将兼季、其の程、舞人跪く。地下の舞は目なれたる事なれど、折からにや、今日は殊に面もち足ぶみもめでたく見ゆ。院(ゐん)の御覚えにて、寿王と言ふ人、松殿の某とかやが子也。落蹲など舞ふと聞きしかど、夜も更け雪も事にかき暗して、何のあやめも見えざりき。其の後御前の御遊び始まる。頭の太夫冬方、御箱の蓋に御笛入れて持ちて参る。関白取り
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て御前に参らせ給ふ。右大将も笛、中宮の大夫琵琶、大宮大納言笙、春宮の大夫琴、右宰相の中将和琴、光忠宰相篳篥、兼高も吹きしにや。拍子は左大臣、末は冬忠の宰相なり。更け行く儘に、上の御笛の音すみ上りて、いみじくさえたり。左の大臣の安名尊・伊勢の海、限り無くめでたく聞こゆ。事共果てぬれば、御贈り物参る。錦の袋に入れたる御笛、箱の蓋に据ゑらる。左大臣取り次ぎて関白に奉る。御前に御覧ぜさせて、冬方を召して賜はす。次に唐の赤地の錦の袋に琵琶入れて参る。其の後、御馬、殿上人口を取りて、御前に引き出でたり。ほのぼのと明くる程にぞ帰らせ給ひぬる。法皇は、ややもすれば、大覚寺殿にのみ籠らせ御座します。人々、世の中の事共奏しに参り集ふ。今は一筋に御行ひにのみ御心入れ給へるに、いとうるさく思せば、其の夏の頃、定房の大納言、東へ遣はさる。御門に天の下の事、譲り申さむの御消息なるべし。大方は、いとあさましう成り果てたる世にこそあめれ。かばかりの事は、父御門の御心にいと安く任せぬべき物をと、めざまし。然れど、昨日今日始まりたるにも有らず、承久より此方は、かくのみ成り持て来にければなめり。内に近く候ふ上達部などの、なま腹ぎたなき、我が思ふ事のとどこほりなどするを、猶法皇をうれはしげに思ひ奉りて、此の事如何で東より許し申す業もがなと、祈りなどをさへぞしける。かくて、大納言
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程無く帰り上りぬ。御心の儘なるべく奏したりとて、院(ゐん)の文殿、議定所にうつされ、評定衆など、少々変はるも有り。さて世をしたためさせ給ふ事、いと賢う明らかに御座しませば、昔に恥ぢずいとめでたし。御才もいとはしたなう物し給へば、万の事曇りなかんめり。三史五経の御論議なども隙無し。六月の頃、中殿の作文せさせ給ふ。題は式部の大輔藤範奉る。久しかるべきは賢人の徳とかや聞こえしにや。女の学ぶべき事ならねばもらしつ。上達部・殿上人三十余人参れり。関白殿〔房実〕ばかり直衣にて御几帳の後ろに候はせ給ふ。上は御引直衣、御琵琶玄象ひかせ給ふ。右大将実衡琵琶、春宮の大夫箏、権大納言親房笙、権中納言氏忠和琴、左の宰相の中将公泰笙〔の笛、〕右衛門督嗣家笛、右の宰相の中将光忠篳篥、拍子は例の左の大臣実泰、末は冬定なりしにや。上の御琵琶の音、言ひ知らずめでたし。右大将は何にか有らん、心とけてもかき立てられざりき。御遊び果てて後、文台召さる。蔵人内記俊基、人々の文を取り集めて、一度に文台の上に置く。披講の終はる程に、短か夜もほのぼのと明け果てぬ。御製を左の大臣返す返す誦して、うるはしく朗詠にし給ふ。声いと美し。折節郭公の一声名乗り捨てて過ぎたるは、いみじく艶也。斯様の誠しき事は、予て人々も心遣かるべし。時に臨みて、俄に難き題を賜はせて、内々詩を作らせ歌を詠ませて、賢く愚かなると御覧じわくに、いとからい事多く、地ゆるび無き世なり。
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其の七月七日、乞巧奠、いつの年よりも御心止めて、予てより人々に歌〔も〕召され、ものの音共も試みさせ給ふ。其の夜は、例の玄象ひかせ給ふ。人々の所作、有りし作文に変はらず。笛・篳篥などは、殿上人共、鳴板の程に候ひて仕る。中宮も上の御局にまう上らせ給ふ。御簾の内にも琴・琵琶数多有りき。播磨の守長清の娘、今は左大臣の北の方にて三位殿と言ふも、箏ひかれけり。宮の御方の播磨の内侍も、同じく琴ひきけるとかや。琵琶は権大納言の三位殿師藤大納言の娘、いみじき上手に御座すれば、めでたう面白し。蘇香・万秋楽、残る手無く幾返りと無く尽くされたる明け方は、身にしむばかり若き人々めであへり。さらでだに、秋の初風は、げにそぞろ寒き習ひを、理にや。御遊び果てて文台召さる。此の度は和歌の披講なれば、其の道の人々、藤大納言為世、子共孫共引き連れて候へば、上の御製、
笛竹の声も雲井に聞こゆらし今宵手むくる秋の調べは W
順ながるめりしかど、いづれも只天の川、鵲の橋より外の珍しきふしは聞こえず。誠、実教の大納言なりしにや、
同じくは空まで送れ焚き物の匂ひを誘(さそ)ふ庭の秋風 W
げにえならぬ名香の香共ぞ、めでたくかうばしかりし。花も紅葉も散り果てて、雪積もれる日数
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の程なさに、又年変はりて正中元年と言ふ。三月の二十日余り、石清水の社に行幸し給ふ。上達部・殿上人いみじき清らをつくせり。関白殿〔房実〕は御車也。右大将実衡、松がさねの下襲、鶴の丸を織る。蘇芳の固紋の衣。左大将経忠、桜萌黄の二重織物の御下襲桜に蝶を色々に織る。花山吹の上の袴・紅のうちたる御衣、人より殊にめでたく見え給ふ。御形〔も〕、匂ひやかにけだかき様して、誠に、一の人とは斯かるをこそ聞こえめと、あかぬ事無く見え給ふ。土御門の中納言顕実、花桜の下襲なりき。花山院の中納言経定などぞ、上臈の若き上達部にて、如何にも珍しからんと、世の人も思へりしかど、家のやうとかや何とかやとて、只いつもの儘也。公泰宰相の中将剣璽の役勤めらる。桜萌黄の上の袴・樺桜の下襲・山吹の浮織物の衣・紅のうちたる単を重ねられたり。白くまろく肥えたる人の、眉いとふとくて、おひかけのはづれ、あなきよげと頼もしくぞ見えられし。頭亮藤房、樺桜の下襲・蘇芳の浮織物の衣、弟の職事季房も、山吹の下襲・紅の衣。衛府のすけ共は、打ちこみたれば見も別ず。別当左兵衛督資朝、はしり下部とかや言ふ物八人に、地は皆銀を延べたるにやと見ゆるに、鶴の丸を黄に磨きたる、好もしうきよげ也。舞人にも、良き家の子共を選び整へられたり。一の左に、中の院(ゐん)の前の大納言道顕の子通冬少将、まだいとちいさきに、童なども同じ程なるを、好み整へて、いと清らにいみじうし立て
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て、秦の久俊と言ふ御随身をぞ具せられたる。右に久我の少将通宣、いたく過ぐしたる程にて、ひげがちに、ねび給へる形して、ちいさきに立ち並ばれたる、いとたとしへ無くぞ見えし。それより次々は、むつかしさに忘れぬ。大将の随身共こそ、昔の事はげには見ねば知らず、いとゆゆしく、誠に花を折るとは是にやと、めでたう面白かりし。左大将殿の随身は、赤地の錦の色も文も目なれぬ様に好もしきを、情け無きまでさながらだみて、ませに山吹を、銀にてうち物にして、ひしと付けたり。花の色、重なりなどまで、こまかに美し。露を水晶の玉にて置きたる、朝日に輝きて、すべていみじうぞ見ゆる。西園寺の随身も、同じ錦なれど、松を結びて、鶴の丸を白と黄とにうちて付けたる、山吹よりは匂無く見えき。様々の神宝・神馬・御てぐらなど、夜もすがら罵りあかして、又の日の暮れつ方返らせ給ひぬ。同じ卯月十七日、賀茂の社に行幸なる。上達部など多くは先に同じ。衣がへの下襲共、けぢめ無くすずしげ也。別当の下部、此の度は十二人、かちんに雉の尾を白く打ち違へて付けたる、是も掲焉に好ましげ也。明くる日は祭なれば、神館の方、打ち続き花やかに面白し。今日の使ひは、徳大寺の中将公清也。春宮の大夫公賢の聟にて御座すればにや、左大臣の大炊御門富小路の御家よりぞ出で立たれける。人柄と言ひ、万めでたく見ゆ。萌黄の下襲、
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御家の紋のもかうを色々に織りたりしにや。近頃の使ひには似ず、いといみじくきらめき給へり。中宮の使ひは亮の藤房なり。此の頃、時にあひたる物なれば、いときよげに劣らぬ様也。其の二十七日に任大臣の節会行はる。左大将経忠、右大臣にならせ給ふ。内大臣冬教、左にうつり給へば、右大将実衡内大臣になさる。又の日やがて右大臣殿、大饗行はせ給へば、尊者に内大臣参り給ふ。近衛殿、近頃は御悩みがちにてのみ臥し給へれど、今日の御悦に珍しく出で居させ給へり。法皇は、今は大覚寺殿にのみ御座しませば、大炊御門の式部卿の親王の御家を、内大臣殿申し受けて、同じ日大饗し給ふ。尊者には右の大臣、やがて我が御家の大饗果つる儘に、引き連れて渡り給へり。主も客人も、大将兼ね給へれば、随身共えならず経営して、形見に気色取りかはしたる、いと面白し。主の大臣琵琶、右衛門督兼高篳篥、隆資の朝臣笙、室町三位の中将公春琴、教宗の朝臣笛、有頼宰相拍子取りて、遊び暮らし給ふ。御前の物共など、常の作法に事を添へて、こまかに清ら也。其の後幾程無く、右大臣殿の御父君前の関白殿家平、御悩み重くなり給ひて、御髪下ろす。俄なれば、殿の内の人々いみじう思ひ騒ぐ。大方、若くてぞ、少し女にも睦ましく御座しまして、此の右大臣殿なども出で来給ひける。中頃よりは、男をのみ御傍らに臥せ給ひて、法師のちごのやうに語らひ給ひつつ、ひと渡りづつ、いと花やか
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に時めかし給ふ事、けしからざりき。左兵衛督忠朝と言ふ人も、限り無く御覚えにて、七八年が程、いとめでたかりし。時過ぎて其の後は、成定と言ふ諸大夫いみじかりき。此の頃は〔又、〕隠岐の守頼基と言ふもの、童なりし程より、いたくまとはし給ひて、昨日今日までの召人なれば、御髪下ろすにも、やがて御供仕りけり。病おもらせ給ふ程も、夜昼御傍ら放たず遣はせ給ふ。既に限りになり給へる時、此の入道も御後ろに候ふに、寄り掛かりながら、きと御覧じ返して、「哀れ、諸共に出で行く道ならば、嬉しかりなん」と、宣ひも果てぬに、御息止まりぬ。右大臣殿も御前に候はせ給ふ。かくいみじき御気色にて果て給ひぬるを、心憂しと思されけり。さて其の後、彼の頼基入道も病づきて、あと枕も知らずまどいながら、常は人に畏まる気色にて、衣引き掛けなどしつつ、「やがて参り侍る参り侍る」と一人ごちつつ、程無く失せぬ。粟田の関白の隠れ給ひにし後、「夢見ず」と、歎きし者の心地ぞする。故殿のさばかり思されたりしかば、召し取りたるなめりとぞ、いみじがりあへり。
第十四 春の別れ
四月の末つ方より、法皇御悩み重くならせ給へば、天下の騒ぎ思ひ遣るべし。御門
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もいみじく思し歎く。御修法なども、いとこちたく、又々始め加へさせ給へど、験も無くて日々に重らせ給へば、夜昼と無く「如何に如何に」と訪ひ奉らせ給ふ。若き上達部などは、直衣に柏ばさみして、夜中暁と無く、遙けき嵯峨野を、寮の御馬にて馳せ歩き給ふめり。今はむげに頼み無き由聞こゆれば、大覚寺殿へ行幸、有りしこと思し出づ。万の事共聞こえさせ給ふ。上の一つ御腹の二品法親王性円と聞こゆるを、いと悲しき物に思ひ聞こえさせ給ひて、此の大覚寺に、そこらの御庄・御牧などを寄せ置かる。法の主として御座しますべく思し掟てけり。然様の事など、見給へざらんあと、後ろめたからぬ様などぞ聞こえさせ給ひける。其の後、御孫の春宮行啓有り。世を知ろし召さむ時の御心遣少し、こまやかに聞こえ知らせ給ふ。宮は先帝〈 故二条院 〉の御代はりにも、如何で心の限り仕らんと、あらまし思されつるに、あかず口惜しうて、いたうしほたれさせ給ふ。御門の御なからひ、上はいとよけれど、まめやかならぬを、いと心苦しと思さるれど、言に出で給ふべきならねば、只大方に付けて、世に有るべき事共、又此の頃少し世に恨みあるやうなる人々の、我が御心に〔は〕、哀れと思さるるなど数多有るをぞ、御心の儘なる世にもなりなん時は、必ず御用意有るべくなど、聞こえ給ひける。中御門の大納言経継・六条の中納言有忠・右衛門督教定・左衛門佐俊顕など聞こえし人々の事にや有りけん。さて
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其の夜は止まり給へるも知ろし召さで、夜打ち更けて、少し驚かせ給ひて、「春宮はいつ返り給ひぬるぞ」と宣ふに、打ち声づくりて、近く参り給へれば、「未だ御座しましけるな」とて、いとらうたしと思されたる御気色哀れ也。大方の気色、院(ゐん)の内のかいしめりたる有様など、万思しめぐらすに、いと悲しきこと多かれば、宮、打ち泣き給ひぬ。心細ういみじとのみ思さるるに、正中元年六月二十五日、遂に隠れさせ給ひぬ。御年五十八にぞならせ給ひける。後宇多院と申すなるべし。御門又御服奉る。あけくれ懇ろに孝じ奉り給ふ様、いと忝し。御娘の皇后宮と聞こえし、今は達智門院と申すも、まいて一所をのみ頼み聞こえさせ給へるに、心細ういみじと思し歎くこと限り無し。昔の内侍のかんの殿、近頃院号有りて万秋門院と聞こゆるも、故院(ゐん)の御影にてのみ過ぐし給へれば、拠り所無く哀れげ也。御四十九日は八月十日余りの程なれば、世の気色何と無く哀れ多かるに、女院・宮達の御心の中共、朝霧よりも晴れ間無し。十五夜の月さへかき曇れるに、故院(ゐん)の位の御時に、宰相の典侍とて候ひしは、雅有の宰相の娘也。其の世の古き友なれば、同じ心ならんと思し遣るも睦ましくて、万秋門院宣ひ遣はす。
仰ぎ見し月も隠るる秋なれば理知れと曇る空かな W
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いと哀れに悲しと見奉りて、御返し、宰相の典侍、
光無き世は理の秋の月涙添へてや猶曇るらむ W
永嘉門院・西花門院など、いづれも思し歎く人々多かり。春宮もいと恋しく哀れとのみ思ひ聞こえ給ふ儘に、御法事をぞまめやかに勤めさせ給ひける。大覚寺にては、性円法親王取り持ちて行はせ給ふ。御門・春宮の御法事は、亀山殿の大多勝院にて勤めらる。哀れ哀れと言ひつつも、過ぎやすき月日のみ移り変はりて、年も返りぬ。一昨年ばかりより、又重ねて撰集のこと仰せられしを、為世の大納言、二度になりぬればにや、為藤の中納言に譲りしを、幾程無く彼の中納言悩みて失せぬ。いといとほしう哀れなり。故為道の朝臣の失せにし、只年月ふれど、絶えぬ恨みなるに、又かく取り重ねたる歎き、大納言の心の中言はん方無し。春宮よりしばしば訪はせ給ふ御消息のついでに、
後れゐる鶴の心も如何ばかり先だつ和歌の恨みなるらん W
御返し、大納言為世、
思へ只和歌の浦には後れ居て老いたるたづの歎く心を W
世に歌詠むと思しき人の、哀れがり歎かぬは無し。「せめて勅撰の事撰び果つるまで、などかは」
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とぞ、一族の歎き、いとほしげ也。故為道の中将の二郎為定と言ふを、故中納言とりわき子にして、何事も言ひ付けしかば、撰歌の事もうけつぎて、沙汰すべきなどぞ聞こゆる。大納言は、末の子為冬少将と言ふをいたくらうたがりて、此の紛れに引きや越さましと思へる気色有りとて、為定も恨み歎きて、山伏姿に出で立ちて、修行に失せぬなど言ひ沙汰すれば、人々いとほしう哀れになど持てあつかへど、さすが求め出だして、もとのやうにおだしく定まりぬとなん。其の頃、長月ばかり、まだしののめの程に、世の中いみじく騒ぎ罵る。何事にかと聞けば、美濃の国の兵にて、土岐の十郎とかや、又多治見の蔵人など言ふ者共忍びて上りて、四条わたりに立ち宿りたる事有りて、人に隠れて居りけるを、早う又告げ知らする物有りければ、俄に其の所へ六波羅より〔押し〕寄せて、搦め捕る也けり。現れぬとや思ひけん、彼の物共は、やがて腹切りつ。又、別当資朝・蔵人の内記俊基、同じやうに武家へ捕られて、厳しく尋ね問ひ、守り騒ぐ。事の起こりは、御門世を乱り給はんとて、彼の武士共を召したる也とぞ、言ひあつかふめる。さて、其の宣旨なしたる人々とて、此の二人をも東へ下して、戒むべしとぞ聞こゆる。いかさまなる事の出で来べきにかと、いと恐ろしくむつかし。「故院御座しましし程は、世ものどかにめでたかりしを、いつしか、斯様の事も出で来ぬるよ」と、人の口安からざる
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べし。正応にも、浅原と言ひし騒ぎは、後嵯峨院の御処分を、東より引き違へし御恨みとこそは聞こえしか。今も其の御憤りの名残あるべし。過ぎにし頃、資朝も山伏のまねして、柿の衣にあやゐ笠と言ふ物着て、東の方へ忍びて下りしは、少しは怪しかりし事也。早う斯かる事共に付けて、あなたざまにも、宣旨を受くる者の有りけるなめり。俊基も紀伊国へ湯浴に下るなど言ひなして、田舎歩き繁かりしも、今ぞ皆人思ひ合はせける。然る儘には、言ひ知らず聞こゆる事共あれば、まだきに、いと口惜しう思されて、此の事を、事を、先づおだしく止めむと思せば、彼の正応に有りしやうなる誓ひの御消息を遣はす。宣房の中納言、御使ひにて東に下る。大方、古き御世より仕へきて、年もたけたる上、此の頃は、天の下にいさぎよくむべむべしき人に思はれたる頃なれば、此の事更に御門の知ろし召さぬ由など、けざやかに言ひなすに、荒き夷共の心にも、いと忝となごみて、無為なるべく奏しけり。此の御使ひの賞にや、宣房、大納言になされぬ。いといみじき幸ひ也。親は三位ばかりにて入道して、子共などさへいときよげにて、数多あめり。然れば、公は知ろし召さぬにても、彼の人々は逃るべき方無しとて、別当は佐渡の国へ流されぬ。俊基は、如何にして逃れぬるにか、都へ返りぬれど、有りしやうには出で仕へず、籠り居たる由なり。斯様にて、事無く静まりぬれば、いとめでたけれど、上の御心の中は、猶
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安からず、如何ならむ時とのみ思し渡るべし。月日程無く移り行きて、嘉暦元年になりぬ。三月の初めつ方より、春宮例ならず御座しまして、日々に重らせ給ふ。様々の御修法共始め、御祈り、何やかやと、伊勢にも御使ひ奉らせ給へど、甲斐無くて、三月二十日、遂にいとあさましくならせ給ひぬ。宮の内、火を消ちたる心地して、惑ひあへり。御乳母の対の君と言ふ人、夜昼御傍ら去らず候ひなれたるに、いみじき心惑ひ、誠にをさめがたげなり。限りと見え給ふ御顔に差し寄りて、「かく残りなき身を御覧じ捨てては、え御座しまし遣らじ。今一度、御声なりとも聞かせさせ給ひて、何方へも御供に率て御座しましてよ」と、声も惜しまず泣き入り給へる様、いと哀れ也。すべて、宮の内とよみ悲しむ様、言はん方無し。永嘉門院は御子も御座しまさねば、年月此の宮を故院聞こえ付けさせ給ひしかば、今も一つ院(ゐん)に御座します。御息所にも、やがて、故院(ゐん)の姫宮を女院の御傍らにかしづき聞こえ給ひしを、合はせ奉り給へれば、又なき様に思しかはして過ぐさせ給へるなど、いみじう沈み入り給へり。さて有るべきならねば、常の行啓の様にて、先帝の御座しましし北白河殿へぞ入れ奉らせ給ひぬる。土用の程にて、しばし彼処に御座しますさへいと悲し。院号などの沙汰も有るべくこそ。然れど、御座しましし時に、其の事は由無かるべく仰せられ置きしかば、内よりも聞こし召しすぐしけり。昼の御座の
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装ひ取り毀ち、火たき屋などかき払ふ程、猶うつつとも覚えず。堀川の女御の、「見えし思ひの」など宣ひけんは、此の世ながら御心との御あかれなれば、羨ましくさへ覚ゆ。差しあたりての哀れは差し置きて、先帝の位ながら失せ給ひにしだに有るを、又かく、半ばなるやうにて、あさましければ、世の人の思ふらん事も心憂く、一方ならぬ歎きに添へたる憂へ、言はん方無し。大方、我が身を限り果てぬると思ふ人のみ多かりき。有忠の中納言、先坊の御使ひにて東に下りにし、いつしかと思ふ様ならん事をのみ待ち聞こえつつ、践祚の御使ひの都に参らんと同じやうに上らんとて、未だ彼処にも乗せられつるに、かくあやなき事の出で来ぬれば、いみじとも更なり。三月三十日、やがて彼処にて頭下ろす。心のうちさこそはと悲し。
大方の春の別れの外に又我が世つきぬる今日のくれかな W
都にも、前の大納言経継・四条の三位隆久・山の井の少将敦季・五辻少将長俊・公風の少将・左衛門佐俊顕など、皆頭下ろしぬ。女房には、御息所の御方・対の君・帥君・兵衛督・内侍〔の君〕など、すべて男女、三十余人様変はりてけり。止む事無き君の御時も、かくばかりの事はいと有り難きを、仏などの現はれ給ひて、ことさらに迷ひ深き衆生を導き給ふかとまで見えたり。御本上のいとなごやかに御座しまししかば、近う仕る限りの人は、日頃の御名残
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を思ふも忍び難き上、大方の世にも差し放れて、身をえう無き物に思ひ捨つる類など、様々に付けて、厭ひ背くなるべし。若宮三所、姫宮なども御座しましけり。御息所の御腹には有らねど、いづれをも今は昔の御形見と哀れに見奉らせ給ふ。卯月の末つ方、夏木立心よげに茂り渡れるも、羨ましく眺めさせ給ふ。暁がた、ほととぎすの鳴き渡るも、「如何に知りてか」と、御涙の催しなり。
諸共に聞かまし物を郭公枕並べし昔なりせば W
誠や、例の先に聞こゆべき事を、時違へ侍りにけり。兵衛督為定、故中納言のあとを受けて撰びつる撰集の事、正中二年十二月の頃、先づ四季を奏する由聞こえし残り、此の程世に広まれる、〔いと〕面白し。御門、事の外にめでさせ給ひて、続後拾遺とぞ言ふなる。中宮の大夫師賢承りて、此の度の集のいみじき由、様々仰せ遣はしたる御返しに、為定、
今ぞ知る集むる玉の数々に身を照らすべき光有りとは W
御返し、内の御製
数々に集むる玉の曇らねば是も我が世の光とぞなる W
此の大夫は、もとより中良きどちにて、常に消息など遣はすに、かく世にほめらるるを、
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いとよしと思ひて、兵衛督のもとへ言ひ遣る。
和歌の浦の波も昔に帰りぬと人より先に聞くぞ嬉しき W
返し、
和歌の浦や昔に返る波ぞとも通ふ心に先づぞ聞くらむ W
此の為定のはらから、中宮に宣旨にて候ふも、上、例の時めかし給ひて、若宮出で物し給へり。其の宮の御乳母は、師賢の大納言承りて、いみじうかしづき奉らる。又宮の内侍の御腹にも、次々、いと数多御座します。一の御子は、藤大納言の御腹、吉田の大納言定房の家に渡らせ給ふ。二の御子も、いときらきらしうて、源大納言親房の御預かりなり。かく様々に御座しますを、此の度如何で坊にと思しつれど、予てより、催し仰せられし事なれば、東より人参りて、本院の一の宮を定め申しつ。いとけやけく聞こし召せど、如何はせむにて、七月二十四日、皇太子の節会行はる。陣の座より引き渡して、持明院殿に人共参る。院(ゐん)の殿上にて禄など賜はる。常の事なれど、俄にいとめでたし。八月になりて、陽徳門院の土御門東の洞院殿へ行啓始め有り。先坊の宮は鷹司なれば、間近き程に、世のおとなひ聞こし召す入道の宮〈 先坊御息所 〉・女院などの御心の中、今更にいと悲し。
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本院・新院一つ御車に奉りて、先立ちて入らせ給ふ。行啓は東の洞院面の棟門に御車止めて、中門まで筵道を敷きて歩み入らせ給ふ。御びんづら結いて、いときびはに美しげ也。十四ばかりにや御座しますらん。宮司共、院(ゐん)の殿上人など多く仕れり。花開けたる心地〔共〕すべし。哀れなる世の習ひなりかし。かくて今年も暮れぬれば、嘉暦も二年に成りぬ。一の宮御冠し給ひて、中務の卿尊良の親王と聞こゆ。去年より内に御宿直所して渡らせ給ふ。正月の十六日の節会に珍しく出で給ふ。御門も、徳治の頃、帥にて、七日の節に出でさせ給へりし例、思し出づるにや。大方、古くは、皆さこそ有りけれど、近頃は、いたく斯様には無かりつるを、御子達、御冠の後は、いづれも昔覚えて、然るべき折々出で仕へさせ給ふめり。今日の節会は、常より殊に引き繕はるるなるべし。親王は蘇芳の上の衣奉れり。左大臣冬教・右大臣経忠・内大臣基嗣・右大将公賢・権大納言顕実・藤中納言実任・別当充経・三条の中納言実忠・左衛門督公泰・権中納言藤房、宰相惟継・親賢・為定・冬信・国資など参れり。二の宮は西園寺の宰相の中将実俊の娘の御腹也。帥の御子世良の親王と聞こゆ。照慶門院、とりわき養ひ奉らせ給ふ。此の宮は、御乳母源大納言親房也。それも内々、上の御衣にて、御門南殿へ出でさせ給へば、御供に候はせ給ふ。又常盤井の式部卿の宮は、亀山院
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の御子なれど、当代といと懇ろなる御中にて、此の御子達と同じやうに、常は打ちつれ御宿直などせさせ給ふ。今日も御参り有りて、御子達歩み続かせ給へる、いと面白し。若き女房など〔は〕、心遣ひ異なる頃ならんかし。二月になれば、漸う故宮の御一めぐりの事共、永嘉門院には営ませ給ふも、哀れ尽きせず。鷹司の大殿も失せ給ひぬ。此の頃の世には、いと重く止む事無く物し給へるに、いとあたらし。北の政所は中の院(ゐん)の内の大臣通重の御はらからなり。それも様変はり給ひぬ。近頃、良き人々多く失せ給ふ様こそ、いと口惜しけれ。
第十五 むら時雨
竹の園生は繁けれど、秋の宮の御腹には、只一品内親王〈 宣政門院 〉ばかり物し給ふを、いとあかず思ほし渡るに、此の頃珍しき御悩みの由聞こゆれば、いとめでたく有らまほしき御事なるべきにやと、上もいみじく思されて、予てより御修法共こちたく始めらる。まして、其の程近くならせ給ひぬれば、式部卿の宮の常盤井殿へ出でさせ給ひて、上も二、三日隔てず通ひ御座します。陣の内なれば、上達部・殿上人、夜昼と無く袴のそば取りて参り違ふ。御兄の兼季の大臣も、絶えず候ひ給ふ。いみじき世の騒ぎ
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なり。故入道殿、今しばし御座せましかばと、思し出づる人々多かり。山・三井寺・山階寺・仁和寺、すべて大法・秘法・祭り・祓へ、数を尽くして罵る様、いと頼もし。七仏薬師の法は、青蓮院の二品法親王慈道勤めさせ給ふ。金剛童子は、常住院の道昭僧正、如意輪の法は、道意僧正、五壇の御修法の中壇は、座主の法親王行はせ給ふ。如法仏眼〔の法〕は、昭訓門院の御志にて、慈勝僧正承りぬ。一字金輪は、浄経僧正、如法尊勝は桓守僧正、愛染王は賢助僧正、六字法は聖尋僧正、准胝法は達智門院の御沙汰にて信耀僧正勤めらる。其の外、猶本坊にて様々の法共行はせらる。六月ばかりいみじう暑き程に、壇共軒をきしりて、護摩の煙満ち満ちたる様、いとおどろおどろしきまでけぶたし。社々の神馬は更にも言はず、医師・陰陽師・巫共立ち騒ぎ、世の響く様、めでたくゆゆしきにも、もし皇子にて御座しまさざらん折、如何にと思ふだに、胸つぶるるに、X如何なる御事にか、怪しう、然るべき程も打ち過ぎ行けば、猶しばしはさこそあれなど、待ち聞こゆれど、更につれなくて、十七八、二十、三十月にも余らせ給ふまで、ともかくも御座しまさねば、今はそらごとのやうにぞなりぬる。大方、上下の人の心地、あさましとも言ふべき際ならず。御産屋の儀式、有るべき事共など、こちたきまで催し置かれ、よろしき家の子共、二親打ち具したる選ばれしかど、ここらの月頃には、或は服になり、其の主も病して頭下ろしなどして、すべて
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万あいなく珍かなれば、言はん方無し。前坊のはじめつ方、中の院(ゐん)の内の大臣通重の御娘参り給ひて、十八月にて若宮生まれ給へりしかど、やがて御子も母御息所も失せ給ひにしかば、いみじうあさましき事に言ひ騒ぎし程に、又其の後、此の止まり給へる入道の宮参り給へりしも、十七月ばかりにや、只ならず御座しまして、既に御気色有りとて、宮の中立ち騒ぐ程に、只ゆくゆくと水のみ出でさせ給ひて、昔の弘徽殿の女御の、太秦にて有りけんやうにてやみき。折節、賀茂の祭の頃にて、春宮の使も止まりなどして、然様の折々、人の口さがなさ、せめても、先坊の御方様の事を、おとしめざまに言ひ悩みし人々も、此の頃ぞ、又かく勝る例も有りけりと、はしたなく思ひ合はせける。さのみやは、さてしも御座しますべきならねば、内へ返らせ給ふにも、いとあさましう珍かなる事を、思し歎くべし。御修法共も、有りしばかりこそ無けれど、猶少しづつは絶えず、いつを限りにかと見えたり。其の頃、左の大臣実泰も失せ給ひぬ。世の中いみじく歎きあへり。かくて元徳元年にもなりぬ。今年如何なるにか、しはぶきやみ流行りて、人多く失せ給ふ中に、伏見院の御母玄輝門院、前坊の御母代の永嘉門院、近衛殿の大北の政所〈 亀山院宮 〉など、止む事無き限り、打ち続き隠れ給ひぬれば、此処彼処の御法事繁くて、いと哀れなり。斯様の事共にて、今年も又暮れぬ。明くる春の頃、内には、
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中殿にて和歌の披講有り。序は源大納言親房書かれけり。予てよりいみじう書かせ給へば、人々心遣ひすべし。題は「花に万春を契る」とぞ聞こえし。御製、
時知らぬ花も常盤の色に咲け我が九重は万世の春 W
中務の卿尊良の親王、
のどかなる雲井の花の色にこそ万世ふべき春は見えけれ W
帥の御子世良、
百敷の御垣の桜咲きにけり万世までのX千代のかざしに W
次々多かれども、むつかし。三月の頃、春日の社に行幸し給ふ。例のいみじき見物なれば、桟敷共えも言はずいどみ尽くしたり。其の後、日吉の社にも参らせ給ひき。今年も人多くにわか病みして死ぬる中に、帥の御子〔も〕重く悩ませ給ひて、いと敢へ無く失せ給ひぬ。内の上、思し歎く事おろかならず。一の御子よりも御才などもいと賢く、万警策に物し給へれば、今より記録所へも御供にも出でさせ給ふ。議定など言ふ事にも参り給ふべしと聞こえつるに、いとあさまし。御乳母の源大納言親房、我が世尽きぬる心地して、取り敢へず頭下ろしぬ。此の人のかく世を捨てぬるを、親王の御事に打ち添へて、方々いみじく、御門も口惜しく思し歎く。世にもいとあたらしく惜しみあへり。同じ年の冬の頃、平野北野
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両社に一度に行幸なる。勧修寺の殿原、昔より近衛司などにはならぬ事にて有りつれど、内の御乳母吉田の大納言定房、過ぎにし頃従一位して、いと珍しくめでたければ、今は上臈とひとしきにや、幼き子の宗房と言ふも少将になさる。色許りなどして、此の平野の行幸の舞人に参る。土御門の大納言顕実の子に、通房の中将、堀川の大納言の子具雅の中将など、皆良き君達舞人にさされて、いづれも清らに美しう出で立ちて仕られたり。其の外は、くだくだしければ、例の止めつ。斯様のめでたき紛れにて過ぎもて行く。又の年の春、三月の初めつ方、花御覧じに北山に行幸なる。常より殊に面白かるべい度なれば、彼の殿にも心遣ふ。先づ中宮行啓、又の日行幸、前の右の大臣兼季参り給ひて、楽所の事などおきて宣ふ。康保の花の宴の例など聞こえしにや。北殿の桟敷にて、内々試楽めきて、家房の朝臣舞はせらる。御簾の内に大納言二位殿、播磨の内侍など、琴かき合はせて、いと面白し。六日の辰の時に事始まる。寝殿の階の間に御褥参りて、内の上御座します。第二の間に后の宮、其の次〔に〕永福門院・昭訓門院も渡らせ給ひけるにや。階の東に、二条の前の殿道平・堀川の大納言具親・春宮の大夫公宗・侍従の中納言公明・御子左中納言為定・中宮の権大夫公泰など候はる。右の大臣兼季琵琶、春宮の権大夫冬信笛、源中納言具行笙、治部卿篳篥、琴は室町宰相公春、琵琶は
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薗の宰相基氏など聞こえしにや。「其の日のこと見給へねば、さだかには無し。幼きわらはべなどの、しどけなく、語りし儘也。此の内に御覧じたる人も御座すらむ。承らまほしくこそ侍れ」と言ふ。御簾の内にも、大納言二位殿琵琶、播磨の内侍箏、女蔵人高砂と言ふも、琴ひくとぞ聞きし。誠にや有りけむ。中務の宮も参り給へり。兵仗賜はり給ひて、御直衣に太刀はき給へり。御随身共、いと清らにさうぞきて、所得たる様也。万歳楽より納蘇利まで十五帖手を尽くしたる、いと見所多し。青海波を地下ばかりにてやみぬるぞ、あかぬ心地しける。暮れ掛かる程、花の木の間に夕日花やかにうつろひて、山の鳥も声惜しまぬ程に、陵王の輝き出でたるは、〔えも言はず面白し。其の程、上も御引直衣にて、倚子に着かせ給ひて、御笛吹かせ給ふ。常より殊に雲井を響かす様也。宰相の中将顕家、陵王の入綾をいみじう尽くしてまかづるを、召し返して、前の関白殿御衣取りてかづけ給ふ。紅梅の表着・二色の衣なり。左の肩に掛けていささか一曲舞ひてまかでぬ。右の大臣大鼓打ち給ふ。其の後、源中納言具行採桑老を舞ふ。是も紅のうちたる、かづけ給ふ。又の日は、無量光院の前の花の木蔭に、上達部立ち続き給ふ。廂に倚子立てて、上は御座します。御遊始まる。拍子治部卿参る。上も桜人うたはせ給ふ。御声いと若く花やかにめでたし。去年の秋頃かとよ、資親の中納言に、此の曲は受けさせ給ひて、賞に正二位許させ給ひしも、今日の為とにや有りけんと、いと艶也。ものの音共整ほりて、いみじうめでたし。其の後歌共召さる。花を結びて文台にせられたるは、保安の例とぞ言ふめりし。春宮の大夫公宗序書かれけり。海内艾安之世、城北花開之春、我が君震臨を此の所に促し、調楽厥の中に懸れり、重ねて六義の言葉を課し、屡数柯の濃花を賞す、奉梢出雲の昔の雲再び懸れるかと疑ひ、満庭廻雪の昨日の雪の猶残れるかと省みる、小風情と言へども憖〕露詠を瀝す、其の詞に曰く、
時をえて御幸甲斐有る庭の面に花も盛りの色や久しき W
御製、
代々の御幸のあとと思へば W
此の上忘れ侍る。後にも見出だしてとぞ。
中務の御子、
代々をへて絶えじとぞ思ふ此の宿の花に御幸の跡を重ねて W
誰も誰も、此の筋にのみまとはれて、花の御幸の外は、珍しきふしも無ければ、さのみも記し難し。万あかず名残多かれど、さのみはにて、九日に返らせ給ひぬ。其の
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夏の頃、御門例ならず御座しまして、御薬の事など聞こゆ。いと重くのみならせ給ふとて、世の中あわてたる様なり。時しもあれや、彼の一年捕られたりし俊基を、又如何に聞こゆる事の出で来たるにか、搦めとらんとしければ、内へ逃げて参るを、追ひ騒ぎて、陣の辺まで武士共打ち囲みて罵れば、こは何事と聞きわくまでも無し。いと物騒がしく肝つぶれて、ある限り惑ひあへり。上も物覚え給はぬ御有様にて、おほとのごもれるに、斯かる由奏すれば、いみじう思さる。遂に、又の日、六波羅へ遣はしたれば、東へ率て下りぬ。上は御悩み怠らせ給ひて、いとど安からず思すこと勝れり。日頃も御心に掛けさせ給へる事なれば、すみやかに此のあらまし遂げてんと、ひたぶるに思し立ちて、忍びて此処彼処に、〔其の〕用意すべし。后の宮の御腹の一品内親王、御占に合はせ給ひて、去年の冬頃より、御きよまはり有りつる、今日明日、斎宮にゐ給ふ。八月二十日、先づ川原に出でさせ給ひて、やがて野の宮に入らせ給ふ。其の程の事共、いみじう清ら也。此の御急ぎ過ぎぬれば、先づ六波羅を御かうじ有るべしとて、予てより宣旨に従へりし兵共を忍びて召す。源中納言具行、取り持ちて事行ひけり。昔、亀山院に、御子など生み奉りて候ひし女房、此の頃は、后の宮の御方にて、民部卿三位と聞こゆる御腹に、当代の御子も出で物し給へりし、山の前の座主にて、今は大塔の二品法親王尊雲と聞こゆる、如何で
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習はせ給ひけるにか、弓ひく道にも猛く、大方御本上はやりかに御座して、此の事をも同じ御心におきて宣ふ。又、中務の御子の一つ御腹に、妙法院の法親王尊澄と聞こゆるは、今の座主にて物し給へば、方々、比叡の山の衆徒も、御門の御軍に加はるべき由奏しけり。包むとすれど、事広くなりにければ、武家にもはやう漏れ聞きて、さにこそ有れと用意す。先づ九重を厳しく固め申すべしなど定めけり。かく言ふは、元弘元年八月二十四日也。雑務の日なれば、記録所に御座しまして、人の争ひ愁ふる事共を行ひ暮らさせ給ひて、人々もまかで、君も本殿にしばし打ち休ませ給へるに、「今夜既に武士共競ひ参るべし」と、忍びて奏する人有りければ、取り敢へず雲の上を出でさせ給ふ。中宮の御方へ渡らせ給ひても、しめやかに〔も〕有らず、いとあわたたし。予て思し設けぬには有らねども、事の逆様なるやうになりぬれば、万うきうきと、我も人もあきれゐたり。内侍所・神璽・宝剣ばかりをぞ、忍びて率て渡させ給ふ。上はなよらかなる御直衣奉りて、北の対よりやつれたる女車の様にて、忍び出でさせ給ふ。彼の二条院の昔もかくやと思ひ出でらる。日頃の御本意には、先づ六波羅を攻められん紛れに、山へ行幸有りて、彼処へ兵共を召して、山の衆徒をも相具し、君の御固めとせらるべしと定められければ、彼の法親王達も其の御心して、坂本に待ち聞こえ給ひけれど、今は斯様にこと違いぬれ
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ば、あいなしとて、俄に道をかへて、奈良の京へぞおもむかせ給ふ。中務の宮も、御馬にて追いて参り給ふ。九条わたりまで御車にて、それより、御門もかりの御衣にやつれさせ給ひて、御馬に奉る程、こは如何にしつる事ぞと、夢の心地して思さる。御供に按察の大納言公敏・万里小路の中納言藤房・源中納言具行・四条の中納言隆資など参れり。いづれも怪しき姿にまぎらはして、暗き道をたどり御座する程に、げに「闇のうつつ」の心地して、我にも有らぬ様也し。丑三ばかりに、木幡山過ぎさせ給ふ。いとむくつけし。木津と言ふ渡りに御馬とめて、東南院の僧正のもとへ御消息遣はす。それより御輿を参らせたるに奉りて、奈良へ御座しまし着きぬ。此処に中一日有りて、二十七日、和束の鷲峰山へ行幸有りけれども、そこも然るべくや無かりけん、笠置寺と言ふ山寺へ入らせ給ひぬ。所の様、容易く人の通ひぬべきやうも無く、よろしかるべしとて、木の丸殿の構へを始めらる。是よりぞ人々少し心地取り静めて、近き国々の兵など召しに遣はす。さて都には、二十四日の夜、六波羅より常陸の守時知馳せ参りて、百敷の中をあさり騒ぐ。其の程、人の曹司などに、自づから落ち残りたる女房の心地、言はん方無し。御座します殿を見れば、近き御厨子・御調度共、何かれ、硯なども、さながら打ち散りて、只今まで御座しましけるあとと見えながら、宮人などだに一人も無し。女房の曹司曹司より、樋洗しめく女の童など、我先にと走り出で、調度共運び騒ぎ、
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くづれ出づる気色共、いとあさましく、目もあやなり。錦の几帳の内にいつかれ坐しましつる后の宮も、何の儀式も無く、忍びてあわて出でさせ給ひぬれば、あたりあたりかき払ひ、時の間にいとあさましく、御簾几帳など、踏みしだき引き落として、火の影もせず。此処も彼処も暗がりて、打ち荒れたる心地す。今朝まで、九重の深き宮の内に出で入り仕へつる男女、一人止まらず、えも言はぬ武士共打ち散り、あらあらしげなるけはひに、続松高く捧げて、細殿・渡殿、何くれ、まかげさして、あさりたる気色、けうとくあさまし。世は憂き物にこそと、時の間に、げに、心有らむ人は、やがて修行の門出でにもなりぬべくぞ覚ゆる。中宮は、忍びて野の宮殿の傍らにぞ御座しまし着きにける。宣房の大納言の二郎季房の宰相ばかり、御宿直に候ふ。二十五日の曙に、武士共満ち満ちて、御門の親しく召し使ひし人々の家々へ押し入り押し入り捕りもて行く様、獄卒とかやの現れたるかと、いと恐ろし。万里小路の大納言宣房・侍従の中納言公明・別当実世・平宰相成輔、一度に皆六波羅へ率て行きぬ。斯様の事を見るに、いとど肝心も失せて、自づから取り残されたる人も、心と皆かきけち行き隠るる程に、主無き宿のみぞ多かる。坂本には行幸を待ち聞こえ給ひけるに、引き違へ南様へ御座しましぬれば、其の由衆徒に聞かれなばあしかりぬべし。又とまれかくまれ、誠の御座しまし所を、左右なく武家へ知らせじのたばかりにや有りけん、
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花山院の大納言師賢を山へ遣はして、忍びて御門の御座します由にもてないて、彼の両法親王、事行ひ給ひつつ、六波羅の兵共の囲みをも防かせ給ふ。其の日は、大納言も、大塔の前の座主の宮も、うるはしき武士姿に出で立たせ給ふ。卯の花をどしの鎧に鍬形の兜奉りて、大矢負いてぞ御座する。妙法院の宮は、生絹の御衣の下に、萠黄の御腹巻とかや着給へり。大納言は、唐の香染めの薄物の狩衣に、けちえんに赤き腹巻をすかして、さすがに蒔絵の細太刀をぞはき給ひける。六波羅より、御門此処に御座しますと心得て、武士共海東とかや言ふ兵多く参り囲む。山法師も戦ひなどして、海東とかや言ふ兵討たれにけり。「事の初めに、東失せぬる、めでたし」などぞ言ふめる。かかれども、御門笠置に御座します由、程無く聞こえぬれば、計られ奉りにけりとて、山の衆徒もせうせう心変はりしぬ。宮々も逃げ出で給ひて笠置へぞ詣で給ひける。大納言は都へ紛れ御座すとて、夜深く志賀の浦を過ぎ給ふに、有明の月くま無く澄み渡りて、寄せ返す波の音も寂しきに、松吹く風の身にしみたるさへ、取り集め心細し。思ふこと無くてぞ見ましほのぼのと有明の月の志賀の浦波 W其の後、辛うじてぞ、笠置へはたどり参られける。斯様の事共も、例の早馬にて東へ告げ遣りぬ。只今の将軍は、昔式部卿久明親王とて下り給へりし将軍の御子也。守邦の親王
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とぞ聞こゆる。相模の守高時と言ふは、病によりて、未だ若けれど、一年入道して、今は世の中大事共いろはねど、鎌倉の主にてはあめり。心ばへなども如何にぞや、うつつ無くて、朝夕好む事とては、犬くひ・田楽などをぞ遊ばしける。是は最勝円寺入道貞時と言ひしが子なれば、承久の義時よりは八代にあたれり。此の頃、私の後見には、長崎入道円基とかや言ふ者有り。世の中の大小事、只皆此の円基が心の儘になれば、都の大事、かばかりになりぬるをも、彼の入道のみぞ取り持ちて、おきて計らひける。重き武士共多く上すべしと聞こゆ。大方、京も鎌倉も、騒ぎ罵る様、けしからず。承久の昔もかくやと、今更に思ひ遣らる。持明院殿には、春宮御座しませば、思ひの外にめでたかるべき事なれど、今日明日は、未だ軍の紛れにて、何の沙汰も無し。御宿直の物の、うべうべしきも無くて、離れ御座しますも、危なき心地すればにや、せめても六波羅近くとて、六条殿へ、本院・新院・春宮引き続きて移らせ給ひぬれど、日に添へて、天の下騒ぎ満ち、恐ろしき事をのみ聞こゆれば、猶是も危ふしとて、六波羅の北に、代々の将軍の御料とて造りおける桧皮屋一つ有るに、両院・春宮入らせ給ふ。大方は、いと物しきやうなれど、よろしき時こそあれ、かばかりの際には、何の儀式も無かるべし。笠置殿には、大和・河内・伊賀・伊勢などより、兵共参り集ふ中に、事の始めより頼み思されたりし楠の木兵衛正成と言ふ者
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有り。心猛くすくよかなる物にて、河内国に、おのが館のあたりをいかめしくしたためて、此の御座します所、もし危ふからん折は、行幸をもなし聞こえんなど、用意しけり。東の夷共も、漸う攻め上る由聞こゆ。もとより京にある武士共も、我先にと競ひ参る。木の丸殿には、さこそ言へ、むねむねしき物も無し。如何に成り行くべきにかと、いと心細く思し乱る。我が御心もての御事なれば、かこつかた無けれど、故郷の空も哀れに思し出でらる。秋も深く成り行く儘に、山の木の葉の打ち時雨れ、谷の嵐の訪るるも、あたの競ふかと、肝を消す消す御住居、いつしか御身をかへたる心地し給ふもあぢきなし。
憂かりける身を秋風に誘(さそ)はれて思はぬ山の紅葉をぞ見る W
既に、東の武士共、雲霞の勢ひをたなびかし上る由聞こゆれば、笠置にもいみじう思し騒ぐ。もとよりいと険しき山の深きつづらをりを、えも言はず木戸・逆茂木・石弓など言ふ事共したためらる。さりとも、容易くは破れじと頼ませ給へるに、後ろの山より、御敵くづれ参りて、木戸共焼き払ひ、御座しますあたり近く、既に煙も掛かりければ、今は如何せんにて、怪しき御姿にやつれて、たどり出でさせ給ふ。座主の法親王尊澄、御手をひき奉り給へるも、いとはかなげなる御有様也。中務の御子・大塔の宮などは、予てより此処を出でさせ給ひて、楠の木が館に御座しましけり。行幸もそなた様にやと思し志し
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て、藤房・具行両中納言、師賢の大納言入道、手を取りかはして、炎の中を免れ出づる程の心地共、夢とだに思れず、いとあさまし。少し延びさせ給ひてぞ、御馬尋ね出でて、君ばかり奉りぬれど、ならはぬ山路に御心地も損なはれて、誠に危ふく見えさせ給へば、高間の山と言ふ渡りに、しばし御心地をためらふ所に、山城の国の民にて、深栖の五郎入道とか言ふ物、参り掛かりて、案内聞こえたるしも、いとめざましう口惜し。上達部、思ひ遣るかた無くて、只目を見かはして、いかさまにせんとあきれたるに、東より上れる大将軍にて、陸奥国の守貞直と言ふ物、大勢にて参れり。今は只、ともかくも宣はすべきやう無ければ、遂に甲斐無くて、敵の為に御身を任せぬる様也。やがて宇治に行幸有るべき由奏すれば、御心にも有らで、ひかされ御座します程に、心憂しと言ふも斜なり。具行・藤房・忠顕の少将など、やがておのが手の物共に従へさせつ。大納言入道、御馬のしりに走り後れて、此処彼処の岩かげ、木のもとに休むみつつ、とかくためらふ程に、それも見付けられて捕られぬ。君をば宇治へ入れ奉りて、先づ事の由六波羅へ聞こゆる程、一、二日御逗留有り。かく言ふは九月三十日なれば、空の気色さへ時雨がちに、涙催し顔なり。平等院の紅葉御覧じ遣らるるも、かからぬ御幸ならばと、あいなし。後冷泉院かとよ、此処に行幸し給ひて、三、四日御座しましける、其の世の人の心地、上下何事かはと、羨ましく哀れに思さ
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る。十月三日、都へ入らせ給ふも、思ひしに変はりて、いとすさまじげなる武士共、衛府のすけの心地して、御輿近く打ち囲みたり。鳳輦には有らぬ網代輿の怪しきにぞ奉れる。六波羅の北なる桧皮屋には、もとより両院・春宮御座しませば、南の板屋のいと怪しきに、御しつらひなどして御座しまさするも、いとほしう忝し。間近き程に、万聞こし召し御覧じふるることごとに付けても、如何でか御心動かぬやうは有らん、口惜しう思し乱る。ならはぬ御宿りに、時雨の音さへはしたなくて、
まだなれぬ板屋の軒のむら時雨音を聞くにもぬるる袖かな W
中務の宮は、正成がもとに御座しましつれど、御門のかくならせ給ひぬれば、今は甲斐無しとて、それも都へ入らせ給ひて、佐佐木の判官時信と言ふ物の家に渡らせ給ひぬ。徒然と、物思し乱るるより外の事無し。
世のうさを空にも知るや神無月理すぎて降る時雨かな W
此の御子は、藤大納言為世の孫にて物し給へば、彼の家に常は住み給ひし程に、大納言の末の娘、大納言の典侍と聞こゆるに御覧じ付きて、其の御腹に姫宮など出で来給へり。又、中宮の御匣殿は、宮の御兄の右の大臣公顕と聞こえし御娘也。其の御腹にも男御子など御座します。思ふ儘なる世をも待ち出で給はばと、誰も行く末頼もしく思ひ聞こえつるに、かく
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思ひの外にあさましき事の出で来ぬるを、深う思ひ歎く人々数知らず。御匣殿は失せ給ひにしかば、此の頃は、只此の典侍の君をのみ又無き物に思しかはしつるに、吹き交ふ風も間近き程には御座すれど、御対面は思ひも寄らず、覚束無さの慰むばかりなる御消息などだに、通ふ事も適はぬ御有様を、哀れにいぶせう思し結ぼほれたり。一つ御腹の座主の法親王も、長井の高広とかや言ふ物、預かり奉りぬ。御門遠く移らせ給はん程、此の御子達も、おのが散り散りになり給ふべしなど聞こえけり。春宮は世をつつしみて、六波羅に渡らせ給ふ。先帝はあたの為に、同じ御宿り、葦垣ばかりを隔てにて、御座しませば、主無き院(ゐん)の内、いと寂しくて、衛士のたく火も影だに見えず。内には、いつしか怪しかる物など住み着きて、或る時は、紅の袴長やかに踏みたれて、火ともしたる女、見る儘に、丈は軒とひとしくなりて、後にはかき消ちて失するも有り。又いみじう光を放ちて、髪を前に乱し掛けたる童なども見えけり。鬼殿などはかくや有りけんと恐ろし。人住まで年経荒れぬる所などにこそ、斯かる事も自づから有りけれ。僅かに一月二月の中に、斯かるべきに有らぬを、此彼いと怪しき業なるべし。さて例の東より御使ひのぼれり。代々の例とかやとて、秋田の城の介高景、二階堂の出羽の入道道雲とかや言ふ物ぞ参れる。西園寺の大納言公宗に事の由申して、春宮御位
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に即き給ふ。然るべき御中と言ひながら、今日明日とは見えざりつるに、いとめでたし。さて六波羅より、此の度は世の常の行啓の儀式にて、持明院殿へ入らせ給ふ。両院も引き繕ひたる御幸の由なり。ひしめき立ちぬる世の音なひを聞こし召す先帝の御心地、たとしへ無くねたく人悪し。もとの内裏へ新帝移らせ給ふ。上達部残り無く仕る。院(ゐん)も常盤井殿へ御座しまいて、世の政聞こし召せば、後宇多院の昔思でられて哀れ也。いつしか十月十二日綸旨下されて、前の御代の人々大中納言・宰相すべて十人、宣房・公明・藤房・具行・隆資・実世・実治・季房・隆重・忠顕、官止めらるる由聞こゆるも、昨日まで時の花と見えし人々、つかの間の夢かと哀れ也。斯かるに付けては、一つ御族のみ、今はわく方無く定まり給ふべきかと、世の人も思ひ聞こゆる程に、亀山院の御流れ絶ゆべきには有らずとにや、先坊の一の宮を太子に立てまつる。御乳母の雅藤の宰相の法性寺の家に渡らせ給へるを、土御門高倉の先坊の御跡へ入れ奉りて、十一月八日坊に定まり給ふ。今は思ひ絶えぬる心地しつるに、いとめでたし。松が浦島に年経給ひぬる入道の宮も、御親の心地にて御座しますべければ、太上天皇になずらへて崇明門院と聞こゆ。万斧の柄の朽ちにし昔を改めたる宮の内也。有りし後、おのが様々まかで散りにし古女房・上達部・殿上人など、世の中屈じいたくて、此処彼処に籠り居たりしも、
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いつしかと参り集ふ様、谷の鴬の春待ち付けたる心地して、いと頼もしげ也。傅には、久我の右の大臣長通、大夫には中の院(ゐん)の大納言通顕なり給ふ。なべて世に年頃埋もれたりし人々、いつしかと官位様々に、思ふ儘なる気色共、目の前に移り変はる〔世の〕有様、今更ならねど、いとしるく掲焉なるもあぢきなし。かくて年も暮れぬ。
第十六 久米の佐良山
元弘二年の春にもなりぬ。あたらしき御代の年の始めは、思ひなしさへ、花やかなり。上も若う清らに御座しませば、万めでたく、百敷の内、何事も変はらず。然るべき公事の折々、さらでも、院・内同じ陣の内なれば、一つに立ち込みたる馬車、隙無くにぎははしけれど、見し世の人は一人もまじろはず、参りまかづる顔のみぞ変はれる。先帝は、未だ六波羅に御座します。二月の頃、空の気色のどやかに霞み渡りて、ゆるらかに吹く春風に、軒の梅なつかしく香りきて、鴬の声うららかなるも、うれはしき御心地には、物憂かる音にのみ聞こし召しなさる。異様なれど、彼の上陽人の宮の中思ひよそへらる。長き日影もいとど暮らし難き御慰めにとや聞こえ給ひけん、中宮より御琵琶奉らせ給ふついでに、いささかなるもののはしに、
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思れ塵のみ積もる四の緒に払ひも敢へず掛かる涙を W
げにと思し遣るに、いと悲しくて、玉水の流るるやうになん。御返し、
かき立てし音をたち果てて君恋ふる涙の玉の緒とぞなりける W
彼の承久の例にとや、東より御使ひには、長井の右馬の助高冬と言ふ者なるべし。是は、頼朝の大将の時より、鎌倉に重き武士にて、未だ若けれども、斯かる大事にも上せけるとぞ申しける。遂に隠岐の国へ移し奉るべしとて、三月の初めの七日に、都を出でさせ給ふ。今はと聞こし召す御心惑ひ共、言へば更也。所々の歎き、近う仕まつりし人々の心地共、置き所無く悲し。御門も限り無く御心悩むべし。いとかうしも人に見えじと、かつは思し沈むれど、あやにくにすすみ出づる御涙を、持てかくしつつ御座します。旧りにし事を思し出づるにも、立ち返り又世を安く思さん事のいとかたければ、万今をとぢめにこそと、思しめぐらすに、人遣りならず、口惜しき契り加はりける前の世のみぞ、尽きせず恨めしき。
遂にかく沈みはつべき報ひ有らば上無き身とは何生まれけん W
巳の時ばかりに出でさせ給ふ。網代の御車に、御前共などは、故院(ゐん)の御世より仕りなれにし物共、ある限り参れり。御車寄せに西園寺の中納言公宗候ひ給ふ。
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上は、御冠に世の常の御直衣・指貫・白綾の御衣一重ね奉れり。去年の今日は、北山にて花の宴せさせ給ひしも、哀れに思し出でられて、其の日の事、かき連ね恋しく思さる。人々の禄にこそは賜はせしを、今日は御旅衣に裁ち換ふるも、哀れに定め無き世の習ひ、今更心憂し。御車に奉るとて、日頃御座しましつる傍らの障子に、書き付けさせ給ふ。
いさ知らず猶憂き方の又も有らば此の宿とても忍ばれやせん W
御供には、内侍の三位殿・大納言〔の君〕、小宰相など、男には、行房の中将・忠顕の少将ばかり仕る。おのがじし、都の名残共言ひ尽くし難し。六波羅よりの御送りの武士、さならでも名有る兵共、千葉の介貞胤を始めとして、覚え異なる限り、十人選び奉る。色々の綾錦の水干・直垂など言ふもの、様々に織り尽くし染め尽くして、いみじき清らを好み整へたれば、かくてしも、世に珍しき見物なり。六波羅より、七条を西へ、大宮を南へ折れて、東寺の門の前に御車抑へらる。とばかり御念誦有るべし。物見車所狭き程なり。よろしき女房も壺装束などして、徒歩の物共も打ちまじれり。若きも、老いたるも、尼法師、怪しき山賎まで立ち込みたる様、竹の林に異ならず。各目押し拭ひ、鼻すすりあへる気色共、げに、浮き世の極めは、今に尽くしつる心地ぞする。崇徳院
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の讚岐に御座しましけん程の有様、後鳥羽院〔の〕、隠岐に移らせ給ひけむ時なども、さこそは有りけめなれど、つてにのみ聞きて、見ねば知らず。是を始めたる心地ぞする。日頃は、何の御匂ひにも触れず、数ならぬ人、及ばぬ身までも、今日の御別の哀れには、置き所無げにぞ惑ひあへるかし。君も御簾少しかき遣りて、此のも彼のも御覧じ渡しつつ、御目止まらぬ草木も有るまじかめり。岩木ならねば、武士の鎧の袖共も、しほれりとぞ見ゆる。都の梢を隠るるまで御覧じ送るも、猶夢かと覚ゆ。鳥羽殿に御座しまし着きて、御装ひ改め、破子など参らせけれど、気色ばかりにてまかづ。是より御輿に奉れば、止まるべき御前共の、空しき御車を、泣く泣く遣り返るとて、くれ惑ひたる気色、いと堪えがたげ也。かくて、君は遙かに赴かせ給ふ。淀の渡りにて、昔八幡の行幸有りし時、橋渡しの使ひなりし佐々木の佐渡の判官と言ふ物、今は入道して、今日の御送り仕れるに、其の世の事思し出でられて、いと忍びがたさに賜はせける。
しるべする道こそ有らずなりぬとも淀の渡りは忘れしもせじ W
又の日は、中務の御子、土佐国へ御座します。御供に為明の中将参る。日頃、かく怪しき御宿りに物し給ふを、忝ひ聞こえつるに、遙かなる世界にさへ出で御座しませば、ましていかさまなる業をして御覧ぜられんと、主時信、経営し騒ぐ。宮既に立た
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せ給ふとて、瓶にさしたる花を折りて、
花は猶止まる主に語らへよ我こそ旅に立ち別るとも W
同じ日、やがて妙法院の座主尊澄法親王も、讚岐の国へ御座します。先帝は今日津の国昆陽の宿と言ふ所に着かせ給ひて、夕づく夜ほのかにをかしきを、眺め御座します。
命あればこやの軒ばの月も見つ又如何ならん行く末の空 W
昆陽より出でさせ給ひて、武庫川・神崎・難波、住吉など過ぎさせ給ふとて、御心の内に思す筋有るべし。広田の宮の渡りにても、御輿止めて、拝み奉らせ給ふ。葦屋の松原・雀の松原・布引の滝など御覧じ遣らるるも、古き御幸共思し出でらる。生田の里をば訪はで過ぎさせ給ひぬめり。湊川の宿に着かせ給へるに、中務の宮は、昆陽野の宿に御座します程、間近く聞き奉らせ給ふも、いみじう哀れに悲し。宮、
いとせめてうき人遣りの道ながら同じ止まりと聞くぞ嬉しき W
福原の島より、宮は御舟に奉る。御門は、和田の岬・刈藻川を打ち渡して、須磨の関にかからせ給ふ。彼の行平の中納言、「関吹きこゆる」と言ひけんは、浦より遠なるべし。哀れに御覧じ渡さる。源氏の大将の、「泣く音にまがふ」と宣ひけん浦波、今もげに御袖に掛かる心地するも、様々御涙の催し也。播磨の国へ着かせ給ひて、塩屋、
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垂水と言ふ所をかしきを、問はせ給へば、「さなん」と奏するに、「名を聞くよりからき道にこそ」と宣はせて、差しのぞかせ給へる御様形、旧り難く艶めかし。けぢかき限りは、哀れにめでたうもと思ひ聞こゆべし。大倉谷と言ふ所少し過ぐる程にぞ、人丸の塚は有りける。明石の浦を過ぎさせ給ふに、「島がくれ行く舟」共、ほのかに見えて哀れ也。
水の泡の有りて浮き世を渡る身に羨ましきは海士の釣舟 W
野中の清水・ふたみの浦・高砂の松など、名有る所々御覧じ渡さるるも、かからぬ御幸ならば、をかしうも有りぬべけれど、万かき暗す御乱り心地に、御目止まらぬも、我ながらいたう屈しにけるかなと思さる。いと高き山の峰に、花面白く咲き続きて、白雲を分け行く心地するも艶なるに、都の事数々思し出でらる。
花は猶浮き世もわかず咲きにけり都も今や盛りなるらむ W
あと見ゆる道のしをりの桜花此の山人の情けをぞ知る W
十二日に、加古河の宿と言ふ所に御座します程に、妙法院の宮、讚岐へ渡らせ給ふとて、同じ道、少し違ひたれど、此の川の東、野口と言ふ所まで参り給へる由奏せさせ給へば、いと哀れに相見まほしう思さるれど、御送りの兵共許し聞こえねば、宮空しく帰ら
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せ給ふ御心の中、堪へ難く乱れ勝るべし。更なる事なれど、かばかりの事だに、御心に任せずなりぬる世の中、いへばえに、つらく恨めしからぬ人無し。十七日、美作の国に御座しまし着きぬ。御心地悩ましくて、此の国に二、三日休らはせ給ふ程、仮初の御宿りなれば、もの深からで、候ふ限りの武士共、自づからけぢかく見奉るを、哀れにめでたしと思ひ聞こゆ。君も思ほし続くる事有りて、
哀れとは汝も見るらん我が民と思ふ心は今も変はらず W
御座しますに続きたる軒のつまより、煙の立ち来れば、「庵にたける」と打ち誦ぜさせ給へるも艶なり。
余所にのみ思ひぞ遣りし思ひきや民のかまどをかくて見んとは W
二十一日、雲清寺と言ふ所にて、いと面白き花を折りて、忠顕少将奏しける。
変はらぬを形見となして咲く花の都は猶も忍ばれぞする W
御返し、
色も香も変はらぬしもぞ憂かりける都の外の花の梢は W
又、小山の五郎とかや言ふ武士に、同じ花を遣るとて、少将、
うき旅と思ひは果てじ一枝も花の情けの斯かる折には W
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かくて猶御座しませば、来し方はそこはかとなく霞み渡りて、「哀れに遠くも来にけるかな」と、日数に添へて、都のいとど隔たり果つるも、心細う思さる。ほのかに咲きそむと見えし花の梢さへ、日数も山も重なるに添へて、うつろひ勝りつつ、上り下るつづらをりに、いと白く散り積もりて、むら消えたる雪の心地す。
花の春又見ん事のかたきかな同じ道をば行き返るとも W
いとかたしとは思す物から、なほさりとも平らかにだに有らば、自づから御本意とぐるやうも有りなんなど、御心もて慰め思すもはかなし。久米の佐良山と言ふ所越えさせ給ふとて、
聞き置きし久米の佐良山越えゆかん道とは予て思ひやはせし W
逢坂と言ふは、東路ならでも有りけりと聞こし召して、
立ち返り越え行く関と思はばや都に聞きし逢坂の山 W
三日月の中山にて、昔後鳥羽院の仰せられけん事思し出づるさへ、げに憂かりける例なり。
伝へ聞く昔がたりぞうかりける其の名旧りぬる三日月の松 W
御道半ばになりぬれば、御送りの物共、上下、都出でしよりも猶花やかに、今めかしう装束きかへたり。大方は、怪しう様異なる御幸なれど、道すがらの御設け、国々に心遣ひし
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たる気色などは、〔かうざまの御歩きとは〕見えず、いと止む事無くなん。さは言へど、今まで国の主にて、世をもいみじう治めさせ給へりつる名残にや有らん、いと懇ろにのみ仕れり。古の御幸共には、かうは有らざりけりと〔ぞ〕、古き事知れる人々言ひ侍りける。四月一日の頃、百敷の宮の中思し出でられて、
さもこそは月日も知らぬ我ならめ衣がへせし今日にやは有らぬ W
出雲の国八杉の津と言ふ所より、御舟に奉る。大舟二十四艘、小舟共、はしに数知らず付けたり。遙かに押し出だす程、今一霞心細う哀れにて、誠に「二千里の外」の心地するも、今更めきたり。彼の島に御座しまし着きぬ。昔の御跡は、それとばかりの験だに無く、人の住処も稀に、自づから海士の塩やく里ばかり遙かにて、いと哀れなるを御覧ずるにも、御身の上は差し置かれて、先づ彼の古の事思し出づ。斯かる所に世を尽くし給ひけん御心の内、如何ばかりなりけんと、哀れに忝く思さるるにも、今はた、更にかくさすらへぬるも、何により思ひ立ちし事ぞ、彼の御心の末や果たし遂ぐると思ひし故也。苔の下にも哀れと思さるらんかしと、万にかき集め尽きせずなん。海づらよりは少し入りたる国分寺と言ふ寺を、よろしき様に取り払いて、御座しまし所に定む。今はさは、かくて有るべき御身ぞかしと、思し静まる程、猶夢の心地して、言はん方無し。そこら参り
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し兵共もまかづれば、かいしめりのどやかになりぬる、いとど心細し。昔こそ、受領共も、任の程其の国をしたため行ひしか。此の頃は只名ばかりにて、何処にも守護と言ふ物の、目代よりはおぞましきを据ゑたれば、武家の目びきにてのみ、公様の事は、万おろそかにぞしける。葛城の大君を、陸奥国へ遣はしたりけんも、かくやと哀れ也。中務の御子も、土佐に御座しまし着きて、御送りの武士に賜はせける。
思ひきや恨めしかりし武士の名残を今日は慕ふべしとは W
斯様の類、数多聞こえしかど、何かはさのみ。皆人もゆかしからず思さるらんとてなん。都には、三月二十二日御即位の行幸なれば、世の中めでたく罵る。本院・新院一つに奉りて、待賢門の辺に御車立てて見奉らせ給ふ。万有るべき様に、整ほりてめでたし。誠や、中宮は其の儘に御ぐしもたぐる時も無く、沈み給へる御有様、いと理に、遠き御別の悲しさに打ち添へて、御胸の安き隙無く思しこがる。后の位も止められ給ひて、院号の定めなど、人の上のやうにほのかに聞こし召すも、嬉しからぬ世也。礼成門院〈 後京極院の事也、 〉とかや申す也。年月は、御身の人わらへなる様にて、天下の騒がれなりしをこそ思し歎き、御門も苦しき殊に思し宣はせけるに、今は中々其の筋の事、掛けても思さず、様々なりし御修法の壇共
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も、あとかた無く毀ち果てて、かきさましぬ。ひたすらに、只斯かる世の憂さをのみ思し惑ふに、日頃経れど、御湯なども絶えて御覧じ入れねば、そこはかとなく、いとど損なはれ勝りて、ながらふべくも見え給はず。隠岐よりは、たまさかの御消息などの通ふばかりにて、覚束無くいぶせき事多く積もり行くも、いつをあふせの限りとも無く、定め無き世に、やがてかくてやとぢめんとすらんと、形見にいみじう思さる。彼処に参り給へる内侍の三位の御腹にも、御子達数多御座します。いづれも未だいはけなき御程にはあれど、物思し知りて、いみじう恋ひ聞こえ給ひつつ、折々は忍びて打ち泣きなどし給ふ。幼う物し給へば、遠き国までは移し奉らねど、もとの御後見をば改めて、西園寺の大納言公宗の家にぞ渡し奉る。八つになり給ふぞ御兄ならんかし。北山に御座する程、夕暮の空いと心すごう、山風あららかに吹きて、常よりも物悲しく思されければ、
庭松緑老いて秋風冷やかに蘭竹葉繁くして白雪埋む W
つくづくと眺め暮らして入相の鐘の音にも君ぞ恋しき W
幼き御心にも、はかなく打ちひそみ給へる、いと哀れなり。此処も彼処も尽きせず思し歎く様、言はずとも皆推し量るべし。宮の宣旨も、いたう時めきて、三位してき。其の御腹の若宮、花山院の大納言師賢御乳母にて、事の外にかしづか
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れ給ひしも、此の頃は、引き忍びて御座します。母君も世の憂さに堪えず、様かへて、心深く打ち行ひつつ、涙ばかりを友にて、明かし暮らすに、おば北の方さへ失せたるを聞きて、時々言ひかはしけるなま女房のもとより、程経て後なりければ、
うきに又重ぬる夢を聞きながら驚かさでも歎き来しかな W
返し、宣旨の三位殿、
うきに又重なる夢を聞きながら驚かさではなど歎きけん W
此の兄の為定の中納言も、前の御世には、覚え花やかにて、いと時なりしに引き返、しめやかに徒然と籠り居たれば、祖父の大納言為世、度々院(ゐん)の御気色賜はられけれど、いとふようなれば、心許無う思ひわびて、春宮の大夫通顕の君して、重ねて奏しける。
和歌の浦に八十余りの夜の鶴の子を思ふ声のなどか聞こえぬ W
大夫は、うけばりたる伝奏などにてはいませざりけれど、此の大納言、歌の弟子にて、去り難き上、事の様も故有る業なれば、直衣の懐に引き入れて参り給へりけるに、院(ゐん)の上のどやかに出で居させ給ひて、世の御物語など仰せらる。折よくて、思ひ歎く様など、懇ろに語り申して、有りつる文引き出でつつ、御気色とり給ふ。大方、いとなごやか
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に御座します君の、まいて何ばかり罪ある人ならねば、勘じ思すまでは無けれど、いささかも武家よりとり申さぬ事を、御心に任せ給はぬにより、かくとどこほるなるべし。「いと不便にこそ」と宣はせて、やがて御返し、
雲の上に聞こえざらめや和歌の浦に老いぬる鶴の子を思ふ声 W
今年は祭の御幸有るべければ、珍しさに、人々常よりも物見車心遣てより桟敷などもいみじう造れり。使共も、如何で人に勝らむと、形見にいどみかはすべし。本院・新院・広義門院・一品の宮も忍びて入らせ給ふなどぞ聞こえし。御車寄せには、菊亭の右の大臣の御子実尹の中納言参り給へり。殿上人も、良き家の君達共、色許りたる限り、いと清らに好ましう出で立ち仕れり。御随身なども、花を折れる様也。出だし車に、色々の藤・躑躅・卯の花・なでしこ・かきつばたなど、様々の袖口こぼれ出でたる、いと艶に艶めかし。祭など過ぎて、世の中のどやかになりぬる程に、先帝の御供なりし上達部共、罪重き限り、遠き国に遣はしけり。洞院の按察の大納言公敏、頭下ろして忍び過ぐされつるも、猶許り難きにや、小山の判官秀朝とかや言ふ物具して、下野国へと聞こゆ。花山院の大納言師賢は、千葉介貞胤後ろみにて、下総へ下る。五月十日余りに都出でられけり。思ひ掛けざりし有様共、いみじとも更也。
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別るとも何か歎かん君住までうき故郷となれる都を W
北の方は花山院の入道右の大臣家定の御娘なり。其の御腹にも、又異腹にも、君達数多あれど、それまでは流されず。上のいみじう思ひ歎き給へる様、哀れに悲しけれど、今は限りの対面だに許されねば、はるくるかた無く口惜し。万に思ひめぐらされて、いと人悪し。
今はとて命を限る別れ路は後の世ならでいつを頼まん W
源中納言具行も同じ頃東へ率て行く。数多の中に取りわきて重かるべく聞こゆるは、様異なる罪に当たるべきにや有らん。内に候ひし勾当の内侍は、経朝の三位の娘也き。早うは、御門睦ましく御座しまして、姫宮などとうで奉りしを、其の後、此の中納言未だ下臈なりし時より許し賜はせて、此の年頃、二つ無き物に思ひかはして過ぐしつるに、かく様々に付けてあさましき世を、なべてにやは。日に添へて歎き沈みながらも、同じ都に有りと聞く程は、吹き交ふ風の便りにも、さすが言問ふ慰めも有りつるを、遂に然るべき事とは、人の上を見聞くに付けても、思けながら、猶今はと聞く心地、例へん方無し。此の春、君の都別れ給ひしに、そこら尽きぬと思ひし涙も、げに残り有りけりと、今一入身も流れ出でぬべく覚ゆ。中納言は、「もの
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にもがなや」と悔しうはしたなき事のみぞ、そこには、千々に砕くめれど、めめしう人に見えじと忍び返しつつ、つれなく作りて、思ひ入りぬる様也。去年の冬の頃、数多聞こえし歌の中に、
ながらへて身は徒らに初霜の置くかた知らぬ世にもふるかな W
今ははや如何になりぬる憂き身ぞと同じ世にだに問ふ人も無し W
佐々木の佐渡の判官入道伴ひてぞ下りける。逢坂の関にて、
帰るべき時し無ければ是や此の行くを限りの逢坂の関 W
柏原と言ふ所にしばし休らひて、預かりの入道、先づ東へ人を遣はしたる返事待つなるべし。其の程、物語など情け情けしう打ち言ひかはして、「何事も然るべき前の世の報ひに侍るべし。御身一つにしも有らぬ身なれば、まして甲斐無き業にこそ。かく猛き家に生まれて、弓矢取る業にかかづらひ侍るのみ、うきものに侍りけれ」など、まほならねどほのめかすに、心得果てられぬ。隠岐の御送りをも仕りし者なれば、御道すがらの事など語り出でて、「忝りしかな。まして、朝夕近う仕り馴れ給ひけん御心共、さながらなん推し量り聞こえさせ侍りき。何事も昔に及び、めでたう御座しましし御事にて、世下り時衰へぬる末には、余りたる御有様にや、かくも御座しますらんとさへ、せめては思ひ
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給へよらるる」など、大方の世に付けても、げにと覚ゆる節々加へて、のどやかに言ひをるけはひ、おのが程には過ぎにたる、御酒など、所に付けてことそぎあらあらしけれど、然る方にしなして、良き程にて、下しつ。東よりの使ひ、帰り来たる気色、しるけれど、ことさらに言ひ出る事も無し。如何ならむと胸打ちつぶれて覚ゆるも、かつはいと心弱しかし。何処の島守となれらんもあぢきなく、誰も千年の松ならぬ世に、中々心づくしこそ勝らめ。遂に逃るまじき道は、とてもかくても同じ事、其の際の心乱れ無くだに有らば、すずしき方にも赴きなんと思ふ心は心として、都の方も恋しう哀れに、さすがなる事ぞ多かりける。万に付けて、事の気色を見るに、行く末遠くは有るまじかめりと悟りぬ。預かりがほのめかししも、情け有りて思ひ知らすれば、同じうはと思ひて、又の日「頭下ろさんとなん思ふ」と言へば、「いと哀れなる事にこそ。東の聞こえや如何と思ひ給ふれど、なんでふ事かは」とて、許しつ。かく言ふは、六月の十九日也。彼の事は今日なめりと、気色見知りぬ。思ひ設けながら〔も〕、猶例無かりける報ひの程、如何浅くは覚えん。
消えかかる露の命の果ては見つさても東の末ぞゆかしき W
猶〔も〕、思ふ心の有るなめりと、憎き口つきなりかし。其の日の暮れつ方、遂にそこにて失はれにけり。今はの際のさこそ心の中は有りけめど、いたく人悪うも無く、有るべき事と思へる様
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になん見えける。内侍の待ち聞く心地、如何ばかりかは有りけん。やがて様かへて、近江の国高島と言ふ渡りに、昔の縁の人々尊く行ひて住む寺にぞ、立ち入りぬる。万里小路の中納言藤房は、常陸の国に遣はさる。父の大納言、母〔の〕おもとなど、老いの末に引き別るる心地共、言へば更也。身にかへても止めまほしう思へど甲斐無し。弟の季房の宰相も、頭下ろしたりしかど、猶下野の国へ流さる。平宰相成輔は東へと聞こえしかど、それも駿河の国とかやにてぞ失はれける。又元亨の乱れの初めに流されし資朝の中納言をも、未だ佐渡の島に沈みつるを、此の程のついでに、彼処にて失ふべき由、預かりの武士に仰せければ、此の由を知らせけるに、思ひ設けたる由言ひて、都に止めける子のもとに、哀れなる文書きて、預けけり。既に斬られける時の頌とぞ聞き侍りし。
四大本主無く五蘊本来空なり頭(かしら)をもつて白刃に傾くれば但夏風を鑚るが如し W
いと哀れにぞ侍りける。俊基も同じやうにぞ聞こえし。かくのみ、皆様々に罪にあたり、遠き世界に放ち捨てらるる、各思ひ歎き共、筆も及び難し。大塔の尊雲法親王ばかりは、虎の口を逃れたる御様にて、此処彼処さすらへ御座しますも、安き空無く、如何で過ぐし果つべき御身ならんと、心苦しく見えたり。隠岐の小島には、月日ふる儘に、いと忍び難う思さるる事のみぞ数そひける。如何ばかりの怠りにて、斯かる憂目を見るらん
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と、前の世のみつらく思し知らるるにも、如何で其の罪をも報ひてんと思して、打ちたへ御精進にて、朝夕勤め行はせ給ふ。法の験をも試みがてらと、かつは思すなるべし。自ら護摩などもたかせ給ふに、いと頼もしき事、夢にもうつつにも多くなん有りける。徒然に思さるる折々は、廊めく所に立ち出でさせ給ひて、遙かに浦の方を御覧じ遣るに、海士の釣舟ほのかに見えて、秋の木の葉の浮かべる心地するも、哀れに、「何処をさしてか」と思さる。
志す方を問はばや浪の上に浮きてただよふ海士の釣舟 W
「浦漕ぐ船のかぢを絶え」と打ち誦して、御涙〔の〕こぼるるを、何と無くまぎらはし給へる、言ふ由無く心深げ也。ねび給ひにたれど、艶めかしうをかしき御様なれば、所に付けては、まして止む事無きあたらしさを、自らいと忝しと思さる。京には、十月になりて、御禊・大嘗会などの急ぎに、天の下物騒がしう、内蔵寮・内匠寮・打殿・染殿、何くれの道々に付けて、かしがましう響き合ひたるも、片つ方は涙の催し也。悠紀・主基の御屏風の歌、人々に召さる。書くべき者の無ければ、彼処へ参れる行房中将をや召し返されましなど、定め兼ね給ふを、まだきに伝へ聞こし召しければ、宵の間の静かなるに、御前に殊に人も無く、此の朝臣ばかり候ひて、昔今の御物語宣ふついでに、「都に言ふなる事は、如何有らんとすらん。さも有らば、いとこそ羨ましからめ」と、打ち仰せられて、火を
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つくづくと眺めさせ給へる御まみの、忍ぶとすれど、いたう時雨れさせ給へるを見奉るに、中将も心強からず、いと悲し。「如何ばかりの道ならば、斯かる御有様を見おき聞こえながら、憂き故郷には如何で帰らん」と思ふも、え聞こえ遣らず。後夜の御行ひに、さながら御座しませば、潮風いと高う吹き来るに、霰の音さへ堪え難く聞こえて、いみじう寒き夜〔の〕、氷を打ちたたきて、閼伽奉るも、山寺の小法師原などの心地ぞするや。少将、此の中将など、しきみ折りて参れるも、いつ習ひてかと、哀れに御覧ぜらる。「今一度、如何で世を御心に任する業もがな」と、人の心のけぢめ別るるに付けても、深う思し勝る事のみ数知らず。都には、十月二十五日御禊の行幸有り。女御代には大炊御門大納言冬信の娘出ださると聞こゆ。十一月十一日より五節始まる。前の御代には、談天門院の御忌月にて、止まりにしかば、さうざうしかりしに、珍しくて、若き上人共など、心殊に思へり。隠岐の御門の御乳母なりし吉田の一品宣房も、当代に仕へて、五節など奉る心の中ぞ哀れに推し量らるる。宣房の大納言も、然るべき雑務の事などには、出で仕へけり。春宮の大夫は内大臣になりて、大嘗会の時も、高御座の行幸に、前行とかや何とかや言ふ事など勤め給ふ。右の大臣兼季も太政大臣になりて、清暑堂の神楽に、琵琶仕りなど聞こえて、万めでたく有らまほしくて、年も暮れぬ。誠
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や、此の卯月の頃より、年の名変はり〔に〕しぞかし。正慶とぞ言ふなる。大塔の法親王・楠の木の正成などは、猶同じ心に、世を傾けん謀をのみめぐらすべし。正成は、金剛山千早と言ふ所に、いかめしき城をこしらへて、えも言はず猛き物共多く籠りにたり。さて大塔の宮の令旨とて、国々の兵を語らひければ、世に恨みある物など、此処彼処に隠ろへばみてをる限りは、集まり集ひけり。宮は熊野にも御座しましけるが、大峰を伝ひて、吉野にも高野にも御座しまし通ひつつ、さりぬべき隈々にはよく紛れ物し給ひて、猛き御有様をのみ現し給へば、いと賢き大将軍にておはすべしとて、付き従ひ聞こゆる物、いと多く成り行きければ、六波羅にも東にも、いと安からぬ事と、持て騒ぎて、猶彼の千早を攻めくづすべしと言へば、兵など上り重なると聞こゆ。正成は、聖徳太子の御堂の前を軍の園にして、出であひ駆けひき、寄せつ返しつ、潮の満ち引く如くにて、年は只暮れに暮れ果てぬれば、春になりて、事共有るべしなど言ひしろふも、いとむつかしう、心ゆるび無き世の有様なり。さても日野の大納言俊光と言ひしは、文保の頃、はじめて大納言になりにしを、いみじき事に時の人言ひ騒ぐめりしに、其の子、此の頃、院(ゐん)の執権にて資名と言ふ。又大納言になりぬ。めでたく度をさへ重ねぬる、いといみじかめり。前の御代にも、定房一品して、宣房大納言になされなどせしをば、かうざまにぞ人思ひ言ふめりし。内には女御
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も未だ候ひ給はぬに、西園寺の故内大臣殿の姫君、広義門院の御傍らに、今御方とかや聞こえて、かしづかれ給ふを、参らせ奉り給へれば、是や后がねと、世の人もまだきにめでたく思へれど、如何なるにか、御覚えいとあざやかならぬぞ口惜しき。三条の前の大納言公秀の娘、三条とて候はるる御腹にぞ、宮々数多出で物し給ひぬる、遂の儲けの君にてこそ御座しますめれ。
第十七 月草の花
彼の島には、春来ても、猶浦風さえて波あらく、渚の氷も解け難き世の気色に、いとど思し結ぼるる事尽きせず。かすかに心細き御住居に、年さへ隔たりぬるよと、あさましく思さる。候ふ人々も、しばしこそあれ、いみじく屈しわたる。今年は正慶二年と言ふ。閏二月有り。後の二月の初めつ方より、取りわきて密教の秘法を試みさせ給へば、夜も大殿ごもらぬ日数へて、さすがに、いたう困じ給ひにけり。心ならず微睡ませ給へる暁がた、夢うつつともわかぬ程に、後宇多院、有りしながらの御面影さやかに見え給ひて、聞こえ知らせ給ふ事多かりけり。打ち驚きて、夢なりけりと、思す程、言はん方無く名残悲し。御涙もせき敢へず、「さめざらましを」と思すも甲斐無し。源氏の大将、須磨の浦にて、父御門見奉りけん
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夢の心地し給ふも、いと哀れに頼もしう、いよいよ御心強さ勝りて、彼の新発意が御迎へのやうなる釣舟も、便り出で来なんやと、待たるる心地し給ふに、大塔の宮よりも、海人の便りに付けて、聞こえ給ふ事絶えず。都にも猶世の中静まり兼ねたる様に聞こゆれば、万に思し慰めて、関守の打ち寝る隙をのみ窺い給ふに、然るべき時の至れるにや、御垣守に候ふ兵共も、御気色をほの心得て、靡き仕らんと思ふ心つきにければ、然るべき限り語らひ合はせて、同じ月の二十四日の曙に、いみじくたばかりて、隠ろへ率て奉る。いと怪しげなる海士の釣舟の様に見せて、夜深き空の暗き紛れに押し出だす。折しも、霧いみじう降りて、行く先も見えず。いかさまならんと危ふけれど、御心を静めて念じ給ふに、思ふ方の風さへ吹きすすみて、其の日の申の時に、出雲国に着かせ給ひぬ。此処にてぞ、人々心地鎮めける。同じ二十五日、伯耆の国稲津の浦と言ふ所へ移らせ給へり。此の国に、名和の又太郎長年と言ひて、怪しき民なれど、いと猛に富めるが、類広く、心もさかさかしく、むねむねしき物有り。彼がもとへ宣旨を遣はしたるに、いと忝ひて、取り敢へず、五百余騎の勢ひにて、御迎へに参れり。又の日、賀茂の社と言ふ所に立ち入らせ給ふ。都の御社思し出でられて、いと頼もし。それより船上寺と言ふ所へ御座しまさせて、九重の宮になずらふ。是よりぞ、国々の兵共に、御敵
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を滅ぼすべき由の宣旨遣はしける。比叡の山へも上せられけり。かくて、隠岐には、出でさせ給ひにし昼つ方より騒ぎ合ひて、隠岐の前の守追いて参る由聞こゆれば、いとむくつけく思されつれど、此処にも其の心して、いみじう戦ひければ、引き返しにけり。京にも東にも、驚き騒ぐ様思ひ遣るべし。正成が城の囲みに、そこらの武士共、彼処に集ひをるに、斯かる事さへ添ひにたれば、いよいよ東よりも上り集ふめり。三月にもなりぬ。十日余りの程、俄に世の中いみじう罵る。何ぞと聞けば、播磨の国より、赤松の某入道円心とかや言ふ物、先帝の勅に従ひて攻め来るなりとて、都の中あわて惑ふ。例の六波羅へ行幸なる。両院も御幸とて、上下立ち騒ぎ、馬車走り違ひ、武士共の打ち込み罵りたる様、いと恐ろし。然れど六波羅の軍強くて、其の夜は、彼の物共引き返しぬとて、少し静まれるやうなれど、斯様に言ひ立ちぬれば、猶心ゆるび無きにや、其の儘〔に〕院(ゐん)も御門も御座しませば、春宮も離れ給へる、よろしからぬ事とて、二十六日六波羅へ行啓なる。内の大臣御車に参り給ふ。傅は久我の右の大臣にいますれど、大方の儀式ばかりにて、万、此の内大臣〔殿〕、後見仕り給へば、未だきびはなる御程を後ろめたがりて、宿直にもやがて候ひ給ふ。御修法の為に、法親王達も候はせ給へり。此処も彼処も軍とのみ聞こえて、日数
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ふるに、院(ゐん)よりの仰せとて、上達部・殿上人までも、程々に従ひて兵をめせば、弓ひく道もおぼおぼしき若侍などをさへぞ奉りける。げに臂も折りぬべき世の中也。斯様に言ひしろふ程に、三月も暮れぬ。四月の十日余り、又東より武士多く上る中に、一昨年笠置へも向かいたりし治部の大輔源高氏上れり。院(ゐん)にも頼もしく聞こし召して、彼の伯耆の船の上へ向かふべき由、院宣賜はせけり。東を立ちし時も、後ろめたく二心有るまじき由を、おろかならず誓言の文書、置きてけれども、底の心や如何有らむ、とかく聞こゆる筋も有りけり。此の高氏は、古の頼義の朝臣の名残なりければ、もとのねざしは止む事無き武士なれど、承久より此の方、頭差し出だす源氏も無くて、埋もれ過ぐしながら、類広く勢ひ四方に満ちて、国々に心寄せの物多かれば、斯様に国の危ふき折を得て、思ひ立つ道もや有らんなど、したにささめくもしるく、伯耆の国へ向かふべしと言ひなして、先づ西山大原わたりに一泊りして、五月七日、ほのぼのと明くる程より、大宮の木戸共〔を〕押し開きて、二条よりしも、七条の大路を東様に、七手に別れて、旗を差し続けて、六波羅をさして雲霞の如くたなびき入るに、更に面〔を〕向ふる物無し。此の治部の大輔、早うより先帝の勅を承け給ひてければ、逆様に都を滅ぼさむとする也けり。時作るとかや言ふ声は、雷の落ち掛かるやうに、地の底も響き、梵天の宮の中も聞き驚き給ふらんと思ふばかり、
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とよみ合ひたる様、来し方行く先くれて、物覚ゆる人も無し。御門・春宮・院(ゐん)の上・宮達など、まして一人さかしきも御座しまさず。糸竹の調べをのみ聞こし召しならいたる御心共に、珍かにうとましければ、只あきれ給へり。武士共も、半ばを分けて、金剛山へ向かひたれば、さならぬ残り、都にある限りは戦ひをなす。今を限りの軍なれば、手を尽くして罵る程、学び遣らんかた無し。雨の脚よりも繁く走り違ふ矢にあたりて、目の前に死を受くる物数を知らず。一日一夜いり揉みとよみあかすに、両六波羅、残る手無く防きつれど、遂に陣の内破れて、今はかくと見えたり。日頃候ひ籠り給へる上達部・殿上人なども、今日と思ひ設けたらんだに、君の御座しまさん限りは、如何でかまかでも散らん。まして、予てよりかく構へけるをも知ろし召さで、昨日かとよ、当代の宣旨を賜はりし物の、〔かく〕うら返りぬれば、誰か思ひ寄らん。すべて上下と無く一つに立ち込みて、あわて惑ひたり。日暮らし、八幡・山崎・竹田・宇治・勢多・深草・法性寺など、燃え上がる煙共、四方の空に満ち満ちて、日の光も見えず。墨をすりたるやうにて暮れぬ。此処にも火掛かりて、いとあさましければ、いみじう固めたりつる後ろの陣を辛うじて破りて、それより免れ出でさせ給ふ御心地共、夢路をたどるやうなり。内の上も、いと怪しき御姿にことさらやつし奉る、いとまがまがし。両院、御手を取りかはすと言ふ
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ばかりにて、人に助けられつつ出でさせ給ふ。上達部・大臣達〔は〕、袴のそば取りて、冠などの落ち行くも知らず、空を歩む心地して、或は川原を西へ東へ、様々散り散りになり給ふ。両六波羅仲時・時益、東をさして東へと心がけて落ちければ、御幸も同じ様になる。西園寺の大納言公宗は、北山へ御座しにけり。右衛門督経顕・左兵衛督隆蔭・資明の宰相などは、御幸の御共に参る。按察の大納言資名は、足を損なひて、東山わたりに止まりぬなど言ひしは、如何有りけん。内大臣殿は、御子の別当通冬伴ひ〔給ひ〕て、八日の曙の未だ暗き程に、我が御家の三条坊門万里小路に御座しまし着きたるに、歩み入り給ふ程も心許無くて、北の方、門へ走り出でて、平らかに帰り御座したると思ふ嬉しさに、急ぎて見れば、大臣は御直衣に指貫引き上げ給へれば、しるく見え給ふ。別当は、道の程のわりなさに、折烏帽子に布直垂と言ふ物打ち着て、細やかに若き人の、御前共に紛れたるは、とみにも見えず。火などもわざとなければ、暗き程のあやめ別れぬに、早う如何にもなり給へるにやと、心地惑ひて、「御方は如何に如何に」と、声もわななきて聞こえける、いと理に、いみじう哀れ也。さて御幸は近江の国に御座します程に、伊吹と言ふ辺にて、某の宮とかや、法師にていましけるが、先帝の御心寄せにて、斯様の方もほの心得侍りけるにや、待ち受けて矢を放ち給ふ。又京より〔も〕追手掛かるなど聞こえければ、六波羅の北と言ひ
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し仲時、内・春宮・両院具し奉り、番馬と言ふ所の山の内に入れ奉りけり。手の物共〔も〕、猶残りて従ひ付きけれども、戦ひも適はずや有りけん、遂に此の山にて腹切りにけり。同じき南時益と言ひしは、是までも参らず、守山の辺にて失せにけるとぞ聞こえし。あや無くいみじき事の様也。御所々の御供には、俊実の大納言・経顕の中納言・頼定の中納言・資名の大納言・資明の宰相、〔隆蔭〕などぞ残り候ひける。俊実・資名・頼定などは、やがてそこにて髻切りてけり。一院よりも、帰り入らせ給ふ。御門に御文を奉り給ひて、「面々に御出家有るべし」などまで申されけれども、思ひ寄らぬ由を、かたく申されけるとかや、とぞ聞こえし。伯耆の御所へは、人々参り集ふ。上達部・殿上人数知らず。然る程に、東にも予て心しけるにや、尊氏の末の一族なる新田の小四郎義貞と言ふ物、今の尊氏の子四つになりけるを大将軍にして、武蔵国より軍を起こしてけり。此の頃の東の将軍は、守邦の親王にて御座します。御後見仕る高時入道・貞顕入道・城介入道円明・長崎入道円喜など言ふ物共、驚き騒ぎて、高時の入道の弟に四郎左近大夫泰家と言ひし、今は入道したるをぞ、大将に下しける。五月十四日、鎌倉を立ちて向かふ。其の勢十万余騎、高時入道の一族、付き従ふ物そこら〔満ち〕広ごりて、鎌倉始まりし頼朝の世、時政より今に至るまで、多くの年月をつめり。僅かなる新田など言ふ国人に、容易く如何でかは滅ぼさるべきと覚えしに、程無く十五日
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に、敵既に鎌倉に近づく由聞こえて、家々を毀ち騒ぎ罵る。世の既に滅するにやと覚えしとぞ、人は語り侍りし。四郎左近大夫入道、軍に打ち負けけるにや、従ふ武士共、残り無く新田が方へ付きぬれば、えさらぬ物共ばかり五、六百騎にて、十六日の夜に入りて、鎌倉へ引き返り、僅かに中一日にて、かくなりぬる事、夢かとぞ覚えし。かくて日々に軍〔に〕打ち負けければ、同じき二十二日、高時以下、腹切りて失せにけり。さて都には、伯耆よりの還御とて、世の中ひしめく。先づ東寺へ入らせ給ひて、事共定めらる。二条の前の大臣道平召し有りて参り給へり。こたみ内裏へ入らせ給ふべき儀、重祚などにて有るべけれども、璽の箱を御身に添へられたれば、只遠き行幸の還御の式にて有るべき由定めらる。関白を置かるまじければ、二条の大臣、氏の長者を宣下せられて、都の事、管領有るべき由、承る。天の下只此の御計らひなるべしとて、此の一つ御あたり喜びあへり。六月六日、東寺より、常の行幸の様にて、内裏へぞ入らせ給ひける。めでたしとも、言の葉〔も〕無し。「去年の春いみじかりしはや」と思ひ出づるも、たとしへ無し。今も御供の武士共、有りしよりは、猶、幾重とも無く打ち囲み奉れるは、いとむくつけき様なれど、こたみは、うとましくも見えず。頼もしくめでたき御守りかなと覚ゆるも、うちつけ目なるべし。世の習ひ、時に付けて移る心なれば、皆さぞ有るらし。先陣は二条富の小路の内裏に着かせ給ひぬれど、後陣の兵は、猶、東寺の門まで続き
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ひかへたるとぞ聞こえしは、誠にや有りけん。正成も仕れり。彼の那波の又太郎、伯耆の守になりて、それも衛府の物共に打ち混じりたる、珍しく様変はりて、ゆすりみちたる世の気色、「かくも有りけるを、などあさましくは歎かせ奉りけるにか」と、めでたきに付けても、猶前の世のみゆかし。車などたち続きたる様、有りし御下りにはこよなく勝れり。物見ける人の中に、
昔だに沈む恨みを隠岐の海に波立ち返る今ぞ賢き W
昔の事など思ひあはするにや有りけん。金剛山なりし東武士共も、さながら頭を垂れて参り競ふ様、漢の初めもかくやと見えたり。礼成門院も又中宮と聞こえさす。六日の夜、やがて内裏へ入らせ給ふ。いにし年御髪下ろしにき。御悩み猶怠らねば、いつしか五壇の御修法始めらる。八日より議定行はせ給ふ。昔の人々残り無く参り集ふ。十三日、大塔の法親王、都に入り給ふ。此の月頃に、御髪おほして、えも言はず清らなる男になり給へり。唐の赤地の錦の御鎧直垂と言ふ物奉りて、御馬にて渡り給へば、御供にゆゆしげなる武士共打ち囲みて、御門の御供なりしにも、程々劣るまじかめり。すみやかに将軍の宣旨を被り給ひぬ。流されし人々、程無く競ひ上る様、枯れにし草木の春にあへる心地す。其の中に、季房の宰相入道のみぞ、預かりなりける物の、情け無き心ばへや有りけん、東
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のひしめきの紛れに失いてければ、兄の中納言藤房は返り上れるに付けても、父の大納言、母の尼上など歎き尽きせず、胸あかぬ心地してけり。四条の中納言隆資と言ふも、頭下ろしたりし、又髪おほしぬ。もとより塵を出づるには有らず、敵の為に身を隠さんとて、仮初に剃りしばかりなれば、今はた更に眉を開く時になりて、男になれらん、何の憚りか有らむとぞ、同じ心なるどち言ひ合はせける。天台座主にていませし法親王だにかく御座しませば、まいてとぞ。誰にか有りけん、其の頃聞きし。
墨染の色をもかへつ月草の移れば変はる花の衣に W
増鏡 終