義経記 国民文庫本
凡例
底本:国民文庫「義経記」 明治44年
章段名の後にS+巻(上2桁)+章段(下2桁)で表記しました。
参考としまして岩波大系本のページ数を表示しました。P+ページ数(3桁)。前後で改行しています。
語句を他本を参照して改めた箇所があります。
仮名を漢字に改め、漢字の表記を改めた箇所が有ります。
漢字を仮名に改めたものも有ります。
義経記(国民文庫本)
P035
義経記巻第一(だいいち)目録
義朝(よしとも)都落(みやこおち)の事(こと)
常盤(ときは)都落(みやこおち)の事(こと)
牛若(うしわか)鞍馬入(くらまいり)の事(こと)
聖門(しやうもん)坊(ばう)の事(こと)
牛若(うしわか)貴船詣(きふねまうで)の事(こと)
吉次(きちじ)が奥州物語(あうしうものがたり)の事(こと)
遮那王殿(しやなわうどの)鞍馬出(くらまいで)の事(こと)
P036
義経記巻第一(だいいち)
義朝(よしとも)都落(みやこおち)の事(こと) S0101
本朝(ほんてう)の昔(むかし)を尋(たづ)ぬれば、田村(たむら)、利仁(としひと)、将門(まさかど)、純友(すみとも)、保昌(ほうしやう)、頼光(らいくわう)、漢(かん)の樊■(はんくわい)、張良(ちやうりやう)は武勇(ぶよう)と雖(いへど)も名をのみ聞(き)きて目(め)には見(み)ず。目(ま)のあたりに芸(げい)を世にほどこし、万事の、目(め)を驚(おどろ)かし給(たま)ひしは、下野(しもつけ)の左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)の末(すゑ)の子、九郎義経(よしつね)とて、我(わ)が朝(てう)にならびなき名将軍(めいしやうぐん)にておはしけり。父(ちち)義朝(よしとも)は平治(へいぢ)元年+十二月+二十七日に衛門督(ゑもんのかみ)藤原(ふぢはらの)信頼卿(のぶよりのきやう)に与(くみ)して、京の軍(いくさ)に打(う)ち負(ま)けぬ。重代(ぢゆうだい)の郎等(らうどう)共(ども)皆(みな)討(う)たれしかば、其(そ)の勢(せい)二十余騎(よき)になりて、東国の方(かた)へぞ落(お)ち給(たま)ひける。成人(せいじん)の子供(こども)をば引(ひ)き具(ぐ)して、幼(をさな)ひ達(たち)をば都(みやこ)に棄(す)ててぞ落(お)ちられける。嫡子(ちやくし)鎌倉(かまくら)の悪源太(あくげんだ)義平(よしひら)、次男(じなん)中宮(ちゆうぐうの)大夫進(だいぶのしん)朝長(ともなが)十六、三男(さんなん)右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)十二になる。悪源太(あくげんだ)をば北国の勢を具せよとて越前(ゑちぜん)へ下(くだ)す。それも叶(かな)はざるにや、近江(あふみ)の石山寺(いしやまでら)に篭(こも)りけるを、平家(へいけ)聞(き)きつけ、妹尾(せのを)、難波(なんば)を差(さ)し遣(つか)はし
P037
て、都(みやこ)へ上(のぼ)り、六条河原(ろくでうかはら)にて斬(き)られけり。弟(おとと)の朝長(ともなが)も山賊(せんぞく)が射(い)ける矢に弓手(ゆんで)の膝口(ひざぐち)を射(い)られて、美濃国(みののくに)青墓(あふはか)と言(い)ふ宿(しゆく)にて死(し)にけり。其(そ)の外(ほか)子供(こども)方々(はうばう)に数多(あまた)有(あ)りけり。尾張国(をはりのくに)熱田(あつた)の大宮司(だいぐうじ)の娘(むすめ)の腹(はら)にも一人有(あ)りけり。遠江国(とほたうみのくに)蒲(かば)と言(い)ふ所(ところ)にて成人(せいじん)し給(たま)ひて、蒲(かば)の御曹司(おんざうし)とぞ申(まう)しける。後(のち)には三河守(みかはのかみ)と名乗(なの)り給(たま)ふ。九条院(くでうのゐん)の常盤(ときは)が腹(はら)にも三人有(あ)り。今若(いまわか)七歳(しちさい)、乙若(おとわか)五歳(ごさい)、牛若(うしわか)当歳子(たうざいご)なり。清盛(きよもり)是(これ)を取(と)つて斬(き)るべき由(よし)をぞ申(まう)しける。
常盤(ときは)都落(みやこおち)の事(こと) S0102
永暦(えいりやく)元年+正月十七日の暁(あかつき)、常盤(ときは)三人の子供(こども)を引(ひ)き具(ぐ)して、大和国(やまとのくに)宇陀郡(うだのこほり)岸岡(きしのをか)と言(い)ふ所(ところ)に契約(けいやく)の親(した)しき者(もの)有(あ)り。是(これ)を頼(たの)みたづねて行(ゆ)きけれども、世間(せけん)の乱(みだ)るる折節(をりふし)なれば、頼(たの)まれず。其(そ)の国(くに)のたいとうじと言(い)ふ所(ところ)に隠(かく)れ居(ゐ)たりける。常盤(ときは)が母(はは)関屋(せきや)と申(まう)す者(もの)、楊梅町(やまももちやう)に有(あ)りけるを、六波羅(ろくはら)より取(と)り出(い)だし、糺問(きうもん)せらるる由(よし)聞(き)こえければ、常盤(ときは)是(これ)を悲(かな)しみ、母(はは)の命(いのち)を助(たす)けんとすれば、三人の子供(こども)を斬(き)らるべし。子供(こども)を助(たす)けんとすれば、老いたる親(おや)を失(うしな)ふべし。親(おや)には子をば如何(いかが)思(おも)ひかへ候(さうら)ふべき。親の孝養(けうやう)する者(もの)をば、
P038
堅牢地神(けんらうぢじん)も納受(なふじゆ)有(あ)るとなれば、子供(こども)の為(ため)にも有(あ)りなんと思(おも)ひ続(つづ)け、三人の子供(こども)引(ひ)き具(ぐ)して泣(な)く泣(な)く京(きやう)へぞ出(い)でにける。六条(ろくでう)への事(こと)聞(き)こえければ、悪七兵衛(あくしちびやうゑ)景清(かげきよ)、堅物(けんもつ)太郎に仰(おほ)せつ、子供(こども)具(ぐ)し、六条(ろくでう)へぞ具足(ぐそく)す。清盛(きよもり)常盤(ときは)を見(み)給(たま)ひて、日頃(ひごろ)は火にも水(みづ)にもと思(おも)はれけるが、怒(いか)れる心(こころ)も和(やはら)ぎけり。常盤(ときは)と申(まう)すは日本一(につぽんいち)の美人(びぢん)なり。九条院(くでうのゐん)は事(こと)を好(この)ませ給(たま)ひければ、洛中(らくちゆう)より容顔(ようがん)美麗(びれい)なる女(をんな)を千人召(め)されて、其(そ)の中より百人、又(また)百人の中より十人、又(また)十人の中より一人撰(えら)び出(い)だされたる美女(びぢよ)なり。清盛(きよもり)我(われ)にだにも従(した)がはば、末(すゑ)の世には子孫(しそん)の如何(いか)なる敵(かたき)ともならばなれ。三人の子供(こども)をも助(たす)けばやと思(おも)はれける。頼方(よりかた)景清(かげきよ)に仰(おほ)せつけて、七条(しちでう)朱雀(しゆしやか)にぞ置(お)かれける。日番(ひばん)をも頼方(よりかた)はからひにして守護(しゆご)しける。清盛(きよもり)常(つね)は常盤(ときは)がもとへ文(ふみ)を遣(つか)はされけれども、
P039
取(と)りてだにも見(み)ず。され共(ども)子供(こども)を助(たす)けんが為(ため)に遂(つひ)には従(したが)ひ給(たま)ひけり。さてこそ常盤(ときは)三人の子供(こども)をば所々(ところどころ)にて成人(せいじん)させ給(たま)ひけり。今若(いまわか)八歳(はつさい)と申(まう)す春(はる)の頃(ころ)より観音寺(くわんおんじ)に上(のぼ)せ学問(がくもん)させて、十八の年(とし)受戒(じゆかい)、禅師(ぜんじ)の君(きみ)とぞ申(まう)しける。後(のち)には駿河国(するがのくに)富士(ふじ)の裾(すそ)におはしけるが悪襌師殿(あくぜんじどの)と申(まう)しけり。八条(はちでう)におはしけるは、そしにておはしけれども、腹(はら)悪(あ)しく恐(おそ)ろしき人にて、賀茂(かも)、春日(かすが)、稲荷(いなり)、祇園(ぎをん)の御祭(おんまつり)ごとに平家(へいけ)を狙(ねら)ふ。後(のち)には紀伊国(きいのくに)に有(あ)りける新宮(しんぐうの)十郎(じふらう)義盛(よしもり)世(よ)を乱(みだ)りし時、東海道(とうかいだう)の墨俣河(すのまたがは)にて討(う)たれけり。牛若(うしわか)は四つの年(とし)まで母(はは)のもとに有(あ)りけるが、世(よ)の幼(をさな)ひ者(もの)よりも心様(こころざま)振舞(ふるまひ)人に越(こ)えたりしかば、清盛(きよもり)常(つね)は心にかけて宣(のたま)ひけるは、「敵(かたき)の子を一所にて育(そだ)てては、遂(つひ)には如何(いかが)有(あ)るべき」と仰(おほ)せられければ、京より東(ひがし)、山科(やましな)と言(い)ふ所(ところ)に源氏(げんじ)相伝(さうでん)の、遁世(とんせい)して幽(かすか)なる住居(すまひ)にて有(あ)りける所に七歳(しちさい)まで置(お)きて育(そだ)て給(たま)ひけり。
牛若(うしわか)鞍馬入(くらまいり)の事(こと) S0103
常盤(ときは)が子供(こども)成人(せいじん)するに従(したが)ひて、中々(なかなか)心(こころ)苦(ぐる)しく、初(はじ)めて人に従(したが)はせんも由(よし)なし。習(なら)はねば殿上(てんしやう)にも交(まじ)はるべくもなし。只(ただ)法師(ほふし)になして、跡(あと)をも弔(とぶら)ひ
P040
てなんど思(おも)ひて、鞍馬(くらま)の別当(べつたう)東光坊(とうくわうばう)の阿闍梨(あじやり)は義朝(よしとも)の祈(いの)りの師(し)にておはしける程(ほど)に、御使(おんつかひ)を遣(つか)はして仰(おほ)せけるは、「義朝(よしとも)の御末(おんすゑ)の子牛若殿(うしわかどの)と申(まう)し候(さうら)ふを且(かつう)は知召(しろしめ)してこそ候(さうら)ふらめ。平家(へいけ)世ざかりにて候(さうら)ふに、女(をんな)の身として持(も)ちたるも心(こころ)苦(ぐる)しく候(さうら)へば、鞍馬(くらま)へ参(まゐ)らせ候(さうら)ふべし。猛(たけ)くともなだしき心(こころ)もつけ、書(ふみ)の一巻をも読(よ)ませ、経(きやう)の一字(いちじ)をも覚(おぼ)えさせて賜(たま)はり候(さうら)へ」と申(まう)されければ、東光坊(とうくわうばう)の御返事(ごへんじ)には、「故(こ)頭殿(かうのとの)の君達(きんだち)にて渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)ふこそ殊(こと)に悦(よろこ)入(い)り候(さうら)へ」とて、山科(やましな)へ急(いそ)ぎ御迎(おんむか)ひに人をぞ参(まゐ)らせける。七歳(しちさい)と申(まう)す二月(きさらぎ)はじめに鞍馬(くらま)へとぞ上(のぼ)られける。其(そ)の後昼(ひる)は終日(ひめもす)に師の御坊(ごばう)の御前(おまへ)にて経(きやう)を誦(よ)み、書(ふみ)学(まな)びて、夕日(ゆふひ)西に傾(かたぶ)けば、夜の更(ふ)け行(ゆ)くに仏(ほとけ)の御燈(みあかし)の消(き)ゆるまではともに物(もの)を読(よ)み、五更(ごかう)の天(てん)にもなれ共(ども)あまも宵(よひ)もすぐまで、学問(がくもん)に心(こころ)
P041
をのみぞ尽(つく)しける。東光坊(とうくわうばう)も山(やま)三井寺(みゐでら)にも是程(ほど)の児(ちご)有(あ)るべしとも覚(おぼ)えず、学問(がくもん)の精(せい)と申(まう)し、心様(こころざま)眉目(みめ)形(かたち)類(るい)なくおはしければ、良智(れうち)坊(ばう)の阿闍梨(あじやり)、覚日坊(かくにちばう)の律師(りつし)も「かくて廿歳(はたち)ばかりまでも学問(がくもん)し給(たま)ひ候(さうら)はば、鞍馬(くらま)の東光坊(とうくわうばう)より後(のち)も仏法(ぶつぽふ)の種(たね)をつぎ、多聞(たもん)の御宝(おんたから)にもなり給(たま)はんずる人」とぞ申(まう)されける。母(はは)も是(これ)を聞(き)き、「牛若(うしわか)学問(がくもん)の精(せい)よく候(さうら)ふとも、里(さと)に常(つね)に有(あ)りなんとし候(さうら)はば、心(こころ)も不用(ふよう)になり、学問(がくもん)をも怠(おこた)りなんず。恋(こひ)しく見(み)たけれと申(まう)し候(さうら)はば、人を賜(たま)はり候(さうらひ)て、母(はは)はそれまで参(まゐ)り、見(み)もし、人に見(み)えられて返(かへ)し候(さうら)はん」と申(まう)されける。「さなくとも児(ちご)を里(さと)へ下(くだ)す事(こと)おぼろげならぬにて候(さうら)ふ」とて、一年に一度、二年に一度も下(くだ)さず。かかる学問(がくもん)の精(せい)いみじき人の如何(いか)なる天魔(てんま)のすすめにや有(あ)りけん、十五と申(まう)す秋(あき)の頃(ころ)より学問(がくもん)の心(こころ)以(もつ)ての外(ほか)に変(かは)りけり。其(そ)の故(ゆゑ)は古(ふる)き郎等(らうどう)の謀反(むほん)をすすむるにてぞ有(あ)りける。
聖門(しやうもん)坊(ばう)の事(こと) S0104
四条(しでう)室町(むろまち)に古(ふ)りたる郎等(らうどう)の有(あ)りける。すり法師(ほふし)なりけるが、是(これ)は恐(おそ)ろしき者(もの)の子孫(しそん)なり。左馬頭殿(さまのかうのとの)の御乳母子(おんめのとご)鎌田(かまだ)次郎(じらう)正清(まさきよ)が子なり。平治(へいぢ)の乱(らん)の時(とき)
P042
は十一歳(じふいつさい)になりけるを、長田(おさだ)の庄司(しやうじ)是(これ)を斬(き)るべき由(よし)聞(き)こえければ、外戚(げしやく)の親(した)しき者(もの)有(あ)りけるが、やうやうに隠(かく)し置(お)きて、十九にて男(をとこ)になして、鎌田(かまだの)三郎正近(まさちか)とぞ申(まう)しける。正近(まさちか)二十一の年(とし)思(おも)ひけるは保元(ほうげん)に為義(ためよし)討(う)たれ給(たま)ひぬ。平治(へいぢ)に義朝(よしとも)討(う)たれ給(たま)ひて後(のち)は、子孫(しそん)絶(た)え果(は)てて、弓馬(きゆうば)の名を埋(うづ)んで、星霜(せいざう)を送(おく)り給(たま)ふ。其(そ)の時(とき)清盛(きよもり)に亡(ほろ)ぼされし者(もの)なれば、出家(しゆつけ)して諸国(しよこく)修業(しゆぎやう)して、主(しう)の御菩提(ごぼだい)をも弔(とぶら)ひ、親の後世(ごせ)をも弔(とぶら)ひ候(さうら)はばやと思(おも)ひければ、鎮西(ちんぜい)の方へぞ修行(しゆぎやう)しける。筑前国(ちくぜんのくに)御笠(みかさ)の郡(こほり)大宰府(ださいふ)の安楽寺(あんらくじ)と言(い)ふ所(ところ)に学問(がくもん)して有(あ)りけるが、故郷(ふるさと)の事(こと)思(おも)ひ出(い)だして、都(みやこ)に帰(かへ)りて、四条(しでう)の御堂(みだう)に行(おこな)ひ澄(す)ましてゐたりけり。法名(ほふみやう)をば聖門(しやうもん)坊(ばう)とぞ申(まう)しける。又(また)四条(しでう)の聖(ひじり)とも申(まう)しけり。勤行(つとめ)の隙(ひま)には平家(へいけ)の繁昌(はんじやう)しけるを見(み)て、めざましく思(おも)ひける。如何(いか)なれば平家(へいけ)の大政大臣(だいじやうだいじん)の官(くわん)に上(あが)り、末(すゑ)までも臣下(しんか)卿相(けいしやう)になり給(たま)ふらん。源氏(げんじ)は保元(ほうげん)、平治(へいぢ)の合戦(かつせん)に皆(みな)滅(ほろ)ぼされて、大人(おとな)しきは斬(き)られ、幼(をさな)ひは此処(ここ)彼処(かしこ)に押(お)し篭(こ)められて、今までかたちをも差(さ)し出(い)だし給(たま)はず。果報(くわほう)も生(う)まれ変(かは)り、心(こころ)も剛(かう)にあらんずる源氏(げんじ)の、あはれ思召(おぼしめ)し立(た)ち給(たま)へかし。何方(いづかた)へなりとも御使(おんつかひ)して世を乱(みだ)し、本意(ほんい)を遂(と)げばやとぞ思(おも)ひける。勤行(つとめ)の隙々(ひまひま)には指(ゆび)を折(を)りて、国々の源氏(げんじ)をぞ数(かぞ)へける。紀伊国(きいのくに)には新宮(しんぐうの)十郎(じふらう)義盛(よしもり)、河内国(かはちのくに)には石川(いしかはの)判官(はうぐわん)義兼(よしかね)、
P043
津国(つのくに)には多田(ただの)蔵人行綱(ゆきつな)、都には源三位頼政卿(よりまさのきやう)、卿君(きやうのきみ)円(ゑん)しん、近江国(あふみのくに)には佐々木(ささきの)源三(げんざう)秀義(ひでよし)、尾張国(をはりのくに)には蒲(かば)の冠者(くわんじや)、駿河国(するがのくに)には阿野(あのの)禅師(ぜんじ)、伊豆国(いづのくに)には兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)、常陸国(ひたちのくに)には志田(しだの)三郎先生(せんじやう)義教(よしのり)、佐竹(さたけの)別当(べつたう)昌義(まさよし)、上野国(かうづけのくに)には利根(とね)、吾妻(あがつま)、是(これ)は国(くに)を隔(へだ)てて遠(とほ)ければ、力(ちから)及(およ)ばず。都(みやこ)近(ちか)き所(ところ)には鞍馬(くらま)にこそ頭殿(かうのとの)の末(すゑ)の御子、牛若殿(うしわかどの)とておはする者(もの)を、参(まゐ)りて見(み)奉(たてまつ)り心(こころ)がらげにげにしくおはしまさば、文(ふみ)賜(たま)はりて、伊豆国(いづのくに)へ下(くだ)り、兵衛督殿(ひやうゑのすけどの)の御方(おんかた)に参(まゐ)り、国(くに)を催(もよ)ほして、世(よ)を乱(みだ)さばやと思(おも)ひければ、折節(をりふし)其(そ)の頃(ころ)四条(しでう)の御堂(みだう)も夏(げ)の時分にて有(あ)りけるを打(う)ち捨(す)てて、やがて鞍馬(くらま)へとぞ上りける。別当(べつたう)の縁(えん)にたたずみける程(ほど)に、「四条(しでう)の聖(ひじり)おはしたり」と申(まう)しければ、「承(うけたまは)り候(さうら)ふ」と申(まう)されければ、さらばとて東光坊(とうくわうばう)のもとにぞ置(お)かれける。内々には悪心(あくしん)を差(さ)しはさみ、
P044
謀反(むほん)を起(おこ)して来(きた)れるとも知(し)らざりけり。ある夜の徒然(つれづれ)に、人静(しづ)まりて、牛若殿(うしわかどの)のおはする所へ参(まゐ)りて、御耳(おんみみ)に口(くち)をあてて申(まう)しけるは、「知召(しろしめ)されず候(さうら)ふや、今(いま)まで思召(おぼしめ)し立(た)ち候(さうら)はぬ。君(きみ)は清和天皇(せいわてんわう)十代の御末(おんすゑ)、左馬頭殿(さまのかうのとの)の御子、かく申(まう)すは頭殿(かうのとの)の御乳母子(おんめのとご)に鎌田(かまたの)次郎(じらう)兵衛(ひやうゑ)が子にて候(さうら)ふ。御一門(いちもん)の源氏(げんじ)国々(くにぐに)に打(う)ち篭(こ)められておはするをば、心憂(こころう)しとは思召(おぼしめ)されず候(さうら)ふや」と申(まう)しければ、其(そ)の頃(ころ)平家(へいけ)の世を取(と)りて盛(さかり)なれば、たばかりてすかすやらんと打(う)ち解(と)け給(たま)はざりければ、源氏(げんじ)重代(ぢゆうだい)の事(こと)を委(くわ)しく申(まう)しける。身こそ知(し)り給(たま)はねども、かねて左様(さやう)の者(もの)有(あ)ると聞(き)きしかば、さては一所にてはかなふまじ。所々にはとて聖門(しやうもん)をば返(かへ)されけり。
牛若(うしわか)貴船詣(きぶねまうで)の事(こと) S0105
聖門(しやうもん)に逢(あ)ひて給(たま)ひて後(のち)は、学問(がくもん)の事(こと)は跡形(あとかた)なく忘(わす)れはてて、明暮(あけくれ)謀反(むほん)の事(こと)をのみぞ思召(おぼしめ)しける。謀反(むほん)起(おこ)す程(ほど)ならば、早業(はやわざ)をせでは叶(かな)ふまじ。まづ早業(はやわざ)を習(なら)はんとて、此(こ)の坊(ばう)は諸人(しよじん)の寄合所(よりあひどころ)なり。如何(いか)に叶(かな)ひ難(がた)きとて、鞍馬(くらま)の奥(おく)に僧正(そうじやう)が谷(たに)と言(い)ふ所(ところ)有(あ)り。昔(むかし)は如何(いか)なる人が崇(あが)め奉(たてまつ)りけん、貴船(きぶね)の明神
P045
とて霊験(れいげん)殊勝(しゆせう)に渡(わた)らせ給(たま)ひければ、智恵(ちゑ)有(あ)る上人(しやうにん)も行(おこな)ひ給(たま)ひけり。鈴(れい)の声(こゑ)も怠(おこた)らず。神主(かんぬし)も有(あ)りけるが、御神楽(みかぐら)の鼓(つづみ)の音(おと)も絶(た)えず、あらたに渡(わた)らせ給(たま)ひしかども、世末(すゑ)にならば、仏(ほとけ)の方便(ほうべん)も神(かみ)の験徳(けんとく)も劣(おと)らせ給(たま)ひて、人住(す)み荒(あら)し、偏(ひと)へに天狗(てんぐ)の住家(すみか)となりて、夕日(ゆふひ)西(にし)に傾(かたぶ)けば、物怪(もののけ)喚(おめ)き叫(さけ)ぶ。されば参(まゐ)りよる人をも取(と)り悩(なや)ます間(あひだ)、参篭(さんろう)する人もなかりけり。されども牛若(うしわか)かかる所(ところ)の有(あ)る由(よし)を聞(き)き給(たま)ひ、昼(ひる)は学問(がくもん)をし給(たま)ふ体(てい)にもてなし、夜(よる)は日頃(ひごろ)一所(いつしよ)にてともかくもなり参(まゐ)らせんと申(まう)しつる大衆(だいしゆ)にも知(し)らせずして、別当(べつたう)の御護(おんまぼ)りに参(まゐ)らせたる敷妙(しきたへ)と言(い)ふ腹巻(はらまき)に黄金作(こがねづく)りの太刀(たち)帯(は)きて、只(ただ)一人貴船(きぶね)の明神(みやうじん)に参(まゐ)り給(たま)ひ、念誦(ねんじゆ)申(まう)させ給(たま)ひけるは、「南無(なむ)大慈(だいじ)大悲(だいひ)の明神(みやうじん)、八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)」と掌(たなごころ)を合(あは)せて、源氏(げんじ)を守(まぼ)らせ給(たま)へ。宿願(しゆくぐわん)誠(まこと)に成就(じやうじゆ)あらば、玉(たま)の御宝殿(ごほうでん)を造(つく)り、千町(せんちやう)の所領(しよりやう)を寄進(きしん)し奉(たてまつ)らん」と祈誓(きせい)して、正面(しやうめん)より未申(ひつじさる)にむかひて立(た)ち給(たま)ふ。四方(しはう)の草木(くさき)をば平家(へいけ)の一類(いちるい)と名づけ、大木二本有(あ)りけるを一本(いつぽん)をば清盛(きよもり)と名づけ、太刀(たち)を抜(ぬ)きて、散々(さんざん)に切(き)り、懐(ふところ)より毬杖(ぎつちやう)の玉(たま)の様(やう)なる物を取(と)り出(い)だし、木の枝(えだ)にかけて、一(ひと)つをば重盛(しげもり)が首(くび)と名づけ、一(ひと)つをば清盛(きよもり)が首とを懸(か)けられける。かくて暁(あかつき)にもなれば、我(わ)が方(かた)に帰(かへ)り、衣(きぬ)引(ひき)かづきて臥(ふ)し給(たま)ふ。人是(これ)を知(し)らず。和泉(いづみ)と申(まう)す法師(ほふし)の御介錯(ごかいしやく)しけるが、此(こ)の御有様(おんありさま)
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只事(ただごと)にはあらじと思(おも)ひて、目(め)を放(はな)さず、ある夜御跡(おんあと)を慕(した)ひて隠(かく)れて叢(くさむら)の蔭(かげ)に忍(しの)び居(ゐ)て見(み)ければ、斯様(かやう)に振舞(ふるま)ひ給(たま)ふ間(あひだ)、急(いそ)ぎ鞍馬(くらま)に帰(かへ)りて、東光坊(とうくわうばう)に此(こ)の由(よし)申(まう)しければ、阿闍梨(あじやり)大(おほ)きに驚(おどろ)き、良智(れうち)坊(ばう)の阿闍梨(あじやり)に告げ、寺(てら)に触(ふ)れて、「牛若殿(うしわかどの)の御髪(みぐし)剃(そ)り奉(たてまつ)れ」とぞ申(まう)されける。良智(れうち)坊(ばう)此(こ)の事(こと)を聞(き)き給(たま)ひて、「幼(をさな)き人も様(やう)にこそよれ。容顔(ようがん)世に越(こ)えておはすれば、今年(ことし)の受戒(じゆかい)いたはしくこそおはすれ。明年(みやうねん)の春(はる)の頃(ころ)剃(そ)り参(まゐ)らさせ給(たま)へ」と申(まう)しければ、「誰(たれ)も御名残(おんなごり)はさこそ思(おも)ひ候(さうら)へ共(ども)、斯様(かやう)に御心(おんこころ)不用(ふよう)になりて御わたり候(さうら)へば、我(わ)が為(ため)、御身(おんみ)の為(ため)然(しか)るべからず候(さうら)ふ。只(ただ)剃(そ)り奉(たてまつ)れ」と宣(のたま)ひければ、牛若殿(うしわかどの)何(なに)ともあれ、寄(よ)りて剃(そ)らんとする者(もの)をば、突(つ)かんずるものをと、刀(かたな)の柄(つか)に手を掛(か)けておはしましければ、左右(さう)なく寄(よ)りて剃(そ)るべし共(とも)見(み)えず。覚日坊(かくにちばう)
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の律師(りつし)申(まう)されけるは、「是(これ)は諸人の寄合所(よりあひどころ)にて静(しづ)かならぬ間(あひだ)、学問(がくもん)も御心(おんこころ)に入(い)らず候(さうら)へば、それがしが所(ところ)は傍(かたはら)にて候(さうら)へば、御心(おんこころ)静(しづか)にも御学問(ごがくもん)候(さうら)へかし」と申(まう)されければ、東光坊(とうくわうばう)もさすがにいたはしく思(おも)はれけん、さらばとて覚日坊(かくにちばう)へ入(い)れ奉(たてまつ)り給(たま)ひけり、御名をば変(か)へられて遮那王殿(しやなわうどの)とぞ申(まう)しける。それより後(のち)には貴船(きぶね)の詣(まうで)も止(とど)まりぬ。日々に多聞(たもん)に入堂(にふだう)して、謀反(むほん)の事(こと)をぞ祈(いの)られける。
吉次(きちじ)が奥州物語(あうしうものがたり)の事(こと) S0106
かくて年(とし)も暮(く)れぬれば、御年十六にぞなり給(たま)ふ。正月(むつき)の末(すゑ)二月(きさらぎ)の初(はじ)めの事(こと)なるに、多聞(たもん)の御前(おまへ)に参(まゐ)りて所作(しよさ)しておはしける所(ところ)に、其(そ)の頃(ころ)三条(さんでう)に大福長者(だいふくちやうじや)有(あ)り。名をば吉次(きちじ)信高(のぶたか)とぞ申(まう)しける。毎年(まいねん)奥州(あうしう)に下(くだ)る金商人(こがねあきんど)なりけるが、鞍馬(くらま)を信(しん)じ奉(たてまつ)りける間(あひだ)、それも多聞(たもん)に参(まゐ)りて念誦(ねんじゆ)してゐたりけるが、此(こ)の幼(をさな)ひ人を見(み)奉(たてまつ)りて、あら美(うつく)しの御児(おんちご)や、如何(いか)なる人の君達(きんだち)やらん。然(しか)るべき人にてましまさば、大衆(だいしゆ)も数多(あまた)付(つ)き参(まゐ)らすべきに、度々(たびたび)見(み)申(まう)すに、只(ただ)一人おはしますこそ怪(あや)しけれ。此(こ)の山に左馬頭殿(さまのかうのとの)の君達(きんだち)のおはする物(もの)を。「誠(まこと)やらん、
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秀衡(ひでひら)も「鞍馬(くらま)と申(まう)す山寺(やまでら)に左馬頭殿(さまのかうのとの)の君達(きんだち)おはしますなれば、太宰(ださいの)大弐位(だいにゐ)清盛(きよもり)の、日本(につぽん)六十六ケ国を従(したが)へんと、常(つね)は宣(のたま)ふなるに、源氏(げんじ)の君達(きんだち)を一人下(くだ)し参(まゐ)らせ、磐井(いはゐの)郡(こほり)に京(きやう)を建(た)て、二人の子供(こども)両国(りやうごく)の受領(じゆりやう)させて、秀衡(ひでひら)生(い)きたらん程(ほど)は、大炊介(おほいのすけ)になりて、源氏(げんじ)を君(きみ)とかしづき奉(たてまつ)り、上(うえ)見(み)ぬ鷲(わし)のごとくにてあらばや」と宣(のたま)ひ候(さうら)ふものを」と言(い)ひ奉(たてまつ)り、拐(かどはか)し参(まゐ)らせ、御供(おんとも)して秀衡(ひでひら)の見参(げんざん)に入(い)れ、引出物(ひきでもの)取(と)りて徳(とく)付(つ)かばやと思(おも)ひ、御前(おまえ)に畏(かしこ)まつて申(まう)しけるは、「君(きみ)は都(みやこ)には如何(いか)なる人の御君達(ごきんだち)にておはしますやらん、是(これ)は京の者(もの)にて候(さうら)ふが、金(こがね)を商(あきな)ひて毎年(まいねん)奥州(あうしう)へ下(くだ)る者(もの)にて候(さうら)ふが、奥方(おくがた)に知召(しろしめ)したる人や御入(おんいり)候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「片(かた)ほとりの者(もの)なり」と仰(おほ)せられて、返事(へんじ)もし給(たま)はず。是(これ)ごさんなれ、聞(き)こゆる黄金商人(こがねあきんど)吉次(きちじ)と言(い)ふ者(もの)なり。奥州(あうしう)の案内者(あんないしや)やらん、彼(かれ)に問(と)はばやと思(おぼ)し召(め)して「陸奥(みちのく)と言(い)ふは、如何(いか)程(ほど)の広(ひろ)き国(くに)ぞ」と問(と)ひ給(たま)へば、「大過の国(くに)にて候(さうら)ふ。常陸国(ひたちのくに)と陸奥(みちのく)との堺(さかひ)、菊田(きくた)」の関(せき)と申(まう)して、出羽(では)と奥州(あうしう)との堺(さかひ)をば伊奈(いな)の関(せき)と申(まう)す。其(そ)の中五十四郡(ごじふしぐん)と申(まう)しければ、「其(そ)の中に源平(げんぺい)の乱(らん)来(き)たらん用(よう)に立(た)つべき者(もの)如何(いか)程(ほど)有(あ)るべき」と問(と)ひ給(たま)へば、国の案内(あんない)は知(し)りたり。吉次(きちじ)暗(くら)からずぞ申(まう)しける。「昔(むかし)両国(りやうごく)の大将軍(だいしやうぐん)をばおかの大夫(たいふ)とぞ申(まう)しける。彼等(かれら)が一人の子有(あ)り。安倍(あべの)権守(ごんのかみ)とぞ申(まう)しける。
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子供(こども)数多(あまた)有(あ)り。嫡子(ちやくし)厨川(くりやがはの)次郎(じらう)貞任(さだたふ)、二男(じなん)鳥海(とりのみの)三郎宗任(むねたふ)、家任(いへたう)、盛任(もりたう)、重任(しげたう)とて六人の末(すゑ)の子に境(さかひ)の冠者(くわんじや)良増(りやうぞう)とて、霧(きり)を残(のこ)し霞(かすみ)を立(た)て、敵(てき)起(おこ)る時(とき)は水(みづ)の底(そこ)海(うみ)の中にて日を送(おく)りなどする曲者(くせもの)なり。是(これ)等(ら)兄弟(きやうだい)丈(たけ)の高(たか)さ唐人にも越(こ)えたり。貞任(さだたふ)が丈(たけ)は九尺(きうしやく)五寸(ごすん)、宗任(むねたふ)が丈(たけ)は八尺(はつしやく)五寸(ごすん)、何(いづ)れも八尺(はつしやく)に劣(おと)るはなし。中にも境(さかひ)の冠者(くわんじや)は一丈(いちぢやう)+三寸(さんずん)候(さうらひ)ける。安倍(あべの)権守(ごんのかみ)の世までは宣旨(せんじ)院宣(ゐんぜん)にも畏(おそ)れて、毎年(まいねん)上洛(しやうらく)して逆鱗(げきりん)を休(やす)め奉(たてまつ)る。安倍(あべの)権守(ごんのかみ)死去(しきよ)の後(のち)は宣旨(せんじ)を背(そむ)き、偶々(たまたま)院宣(ゐんぜん)なる時(とき)は、北陸道(ほくろくだう)七箇国(しちかこく)の片道(かたみち)を賜(たま)はりて上洛仕るべき由(よし)申(まう)され候(さうら)ひければ、片道(かたみち)賜(たま)はり候(さうら)ふべきとて下(くだ)さるべかりしを、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)有(あ)りて、「是(これ)天命(てんめい)を背(そむ)くにこそ候(さうら)へ。源平の大将(たいしやう)を下(くだ)し、追討(ついたう)せさせ給(たま)へ」と申(まう)されければ、源(みなもと)の頼義(よりよし)勅宣(ちよくせん)を承(うけたまは)つて、十六万騎の軍兵(ぐんびやう)を率(そつ)して、安倍(あべ)を追討(ついたう)の為(ため)に陸奥(みちのく)へ下(くだ)し給(たま)ふ。駿河国(するがのくに)の住人(ぢゆうにん)高橋(たかはし)大蔵(おほくら)大夫(たいふ)に先陣(せんぢん)をさせて、下野国(しもつけのくに)いもうと言(い)ふ所(ところ)に著(つ)く。貞任(さだたふ)是(これ)を聞(き)きて、厨川(くりやがは)の城(じやう)を去(さ)つて阿津賀志(あづかしゑ)の中山(なかやま)を後(うしろ)にあてて、安達(あだち)の郡(こほり)に木戸を立(た)て、行方(ゆきがた)の原(はら)に馳(は)せ向(むか)ひて、源氏(げんじ)を待(ま)つ。大蔵(おほくら)の大夫(たいふ)大将(たいしやう)として五百余騎(よき)白川関(しらかはのせき)打(う)ち越(こ)えて行方(ゆきがた)の原(はら)に馳(は)せつき、貞任(さだたふ)を攻(せ)む。其(そ)の日の軍(いくさ)に打(う)ち負(ま)けて、浅香(あさか)の沼(ぬま)へ引(ひ)き退(しりぞ)く。伊達郡(だてのこほり)阿津賀志(あづかしゑ)の中山(なかやま)にたて篭(こも)り、源氏(げんじ)は信夫(しのぶ)の里(さと)摺上河(するかみがは)の端(はた)、はやしろと
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言(い)ふ所(ところ)に陣(ぢん)取(ど)つて、七年夜(よる)昼(ひる)戦(たたか)ひ暮(く)らすに、源氏(げんじ)の十一万騎(じふいちまんぎ)皆(みな)討(う)たれて、叶(かな)はじとや思(おも)ひけん、頼義(よりよし)京(きやう)へ上(のぼ)りて、内裏(だいり)に参(まゐ)り、頼義(よりよし)叶(かな)ふまじき由(よし)を申(まう)されければ、「汝(なんじ)叶(かな)はずは、代官(だいくわん)を下(くだ)し、急(いそ)ぎ追討(ついたう)せよ」と重(かさ)ねて宣旨(せんじ)下(くだ)されければ、急(いそ)ぎ六条(ろくでう)堀河(ほりかは)の宿所(しゆくしよ)へ帰(かへ)り、十三になる子息(しそく)を内裏(だいり)に参(まゐ)らせけり。「汝(なんじ)が名をば何(なに)と言(い)ふぞ」と御尋(おんたづ)ね有(あ)りけるに、「辰(たつ)の年(とし)の辰(たつ)の日の辰(たつ)の時に生(うま)れて候(さうら)ふ」とて、「名をば源太(ぐわんだ)と申(まう)し候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、無官(むくわん)の者(もの)に合戦(かつせん)の大将(たいしやう)さする例(れい)なしとて、元服(げんぷく)せさせよとて、後藤内(ごとうない)範明(のりあきら)を差(さ)し添(そ)へられて、八幡宮(はちまんぐう)に元服(げんぷく)させて、八幡(はちまん)太郎義家(よしいへ)と号(かう)す。其(そ)の時(とき)御門より賜(たま)はりたる鎧(よろひ)をこそ源太(ぐわんだ)が産衣(うぶきぬ)と申(まう)しけり。秩父(ちちぶの)十郎(じふらう)重国(しげくに)先陣(せんぢん)を賜(たま)はりて、奥州(あうしう)へ下る。阿津賀志(あづかしゑ)の城(じやう)を攻(せ)めけるに、猶(なほ)も源氏(げんじ)打(う)ち負(ま)けて、事(こと)
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悪(あ)しかりなんとて、急(いそ)ぎ都へ早馬(はやむま)を立(た)て、此(こ)の由(よし)を申(まう)しければ、年号(ねんがう)が悪(あ)しければとて、康平(かうへい)元年に改(あらた)められ、同(おなじ)き年四月二十一日阿津賀志(あづかしゑ)の城(じやう)を追(お)ひ落(おと)す。しからざるにかかりて伊奈(いな)の関(せき)を攻(せ)め越(こ)えて、最上郡(もがみのこほり)に篭(こも)る。源氏(げんじ)続(つづ)いて攻(せ)め給(たま)ひしかば、雄勝(をかち)の中山(なかやま)を打(う)ち越(こ)えて、仙北(せんぶく)金沢(かなざは)の城(じやう)に引(ひ)き篭(こも)り。それにて一両年(いちりやうねん)を送(おく)り戦(たたか)ひつれども、鎌倉(かまくらの)権五郎(ごんごらう)景政(かげまさ)、三浦(みうらの)平大夫(へいだいふ)為継(ためつぎ)、大蔵(おほくらの)大夫(たいふ)光任(みつたふ)、是(これ)等(ら)が命(いのち)を捨(す)てて攻(せ)めける程(ほど)に、金沢(かなざは)の城(じやう)をも落(おと)されて、白木山(しろきやま)にかかりて、衣川(ころもがは)の城(じやう)に篭(こも)る。為継(ためつぎ)、景政(かげまさ)重(かさ)ねて攻(せ)めかかる。康平(かうへい)+三年(さんねん)六月二十一日に貞任(さだたふ)大事(だいじ)の手(て)負(お)ひて梔子色(くちなしいろ)の衣(きぬ)を着(き)て、磐手(いはで)の野辺にぞ伏(ふ)しにける。弟(おとと)の宗任(むねたふ)は降人(かうじん)となる。境(さかひ)の冠者(くわんじや)、後藤内(ごとうない)生捕(いけどり)にしてやがて斬(き)られぬ。義家(よしいへ)都(みやこ)に馳(は)せ上(のぼ)り。内裏(うち)の見参(げんざん)に入(い)れて、末代(まつだい)までの名をあげ給(たま)ふ。其(そ)の時(とき)、奥州(あうしう)へ御伴(おんとも)申(まう)し候(さうら)ひし三つうの少将(せうしやう)に十一代の末(すゑ)淡海(たんかい)の後胤(こうゐん)、藤原(ふぢはらの)清衡(きよひら)と申(まう)す者(もの)国(くに)の警護(けいご)に留(と)められて候(さうら)ひけるが、亘理(わたり)の郡(こほり)に有(あ)りければ、亘理(わたり)の清衡(きよひら)と申(まう)し候(さうら)ひし、両国(りやうごく)を手に握(にぎ)つて候(さうら)ひし、十四道の弓取(ゆみとり)五十万騎、秀衡(ひでひら)が伺候(しこう)の郎等(らうどう)十八万騎(じふはちまんぎ)もちて候(さうら)ふ。是(これ)こそ源平(げんぺい)の乱(らん)出(い)で来(きた)らば、御方人(おんかたうど)ともなりぬべき者(もの)にて候(さうら)へ」と申(まう)しける。
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遮那王殿(しやなわうどの)鞍馬出(くらまいで)の事(こと) S0107
遮那王殿(しやなわうどの)是(これ)を聞(き)き給(たま)ひて、かねて聞(き)きしに少(すこ)しも違(たが)はず、世に有(あ)る者(もの)ごさんなれ。あはれ下(くだ)らばや。左右(さう)なく頼(たの)まれたらば、十八万騎(じふはちまんぎ)の勢(せい)を十万騎(じふまんぎ)をば国にとどめ、八万騎(はちまんぎ)をば率(そつ)して、坂東(ばんどう)に打(う)ち出(い)で、八ケ国(はつかこく)は源氏(げんじ)に志(こころざし)有(あ)る国なり。下野殿(しもつけどの)の国なり。是(これ)をはじめとして十二万騎(じふにまんぎ)を催(もよほ)して二十万騎(にじふまんぎ)になつて、十万騎(じふまんぎ)をば伊豆(いづ)の兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)に奉(たてまつ)り、十万騎(じふまんぎ)をば木曾殿(どの)につけて、我(わ)が身は越後国(ゑちごのくに)に打(う)ち越(こ)え、鵜川(うかは)、佐橋(さはし)、金津(かなづ)、奥山(おくやま)の勢(せい)を催(もよほ)して、越中(ゑつちゆう)、能登(のと)、加賀(かが)、越前(ゑちぜん)の軍兵(ぐんびやう)を靡(なび)けて、十万騎(じふまんぎ)になりて、荒乳(あらち)の中山(なかやま)を馳(は)せ越(こ)えて、西近江(にしあふみ)にかかりて、大津(おほつ)の浦(うら)に著(つ)きて、坂東(ばんどう)の二十万騎(にじふまんぎ)を待(まち)得(え)て、逢坂(あふさか)の関(せき)を打(う)ち越(こ)えて、都(みやこ)に攻(せ)め上り、十万騎(じふまんぎ)をば天下の御所に参(まゐ)らせて、源氏(げんじ)すごさん由(よし)を申(まう)さんに平家(へいけ)猶(なほ)も都に繁昌(はんじやう)して空(むな)しかるべくば、名をば後(のち)の世にとどめ、屍(かばね)をば都(みやこ)に曝(さら)さん事(こと)身に取(と)りては何(なに)の不足(ふそく)か有(あ)るべきと思(おも)ひ立(た)ち給(たま)ふも十六の盛(さかり)には恐(おそ)ろしくぞ覚(おぼ)えける。此(こ)の男奴(をとこめ)に知(し)らせばやと思(おぼ)し召(め)して仰(おほ)せられけるは、「汝(なんぢ)なれば知(し)らするぞ。人に披露(ひろう)有(あ)るべからず。我(われ)こそ
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左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)が子にてあれ、秀衡(ひでひら)がもとへ文(ふみ)一(ひと)つ言伝(ことづて)ばや。何時(いつ)の頃(ころ)返事(へんじ)を取(と)りてくれんずるぞと仰(おほ)せられければ、吉次(きちじ)座敷(ざしき)をすべりおり、烏帽子(えぼし)の先(さき)を地につけて申(まう)しけるは、「御事(おんこと)をば秀衡(ひでひら)以前(いぜん)に申(まう)され候(さうら)ふ。御文よりも只(ただ)御下(おんくだ)り候(さうら)へ、道(みち)の程(ほど)御宿直(おんとのゐ)仕(つか)まつり候(さうら)はんずる」と申(まう)しければ、文の返(かへ)り事(ごと)待(ま)たんも心(こころ)もとなし。さらば連(つ)れて下(くだ)らばやと思召(おぼしめ)しける。「何時(いつ)+ごろ下(くだ)り候(さうら)はんずるぞ」と宣(のたま)へば、「明日吉日にて候(さうら)ふ間(あひだ)、形(かた)の如(ごと)くの門出(かどいで)仕(つか)まつり候(さうら)はんずる」と申(まう)しければ、「さらば粟田口(あはたぐち)十禅師(じふぜんじ)の御前(おまえ)にて待(ま)たんずるぞ」と宣(のたま)ひければ、吉次(きちじ)は「承(うけたまは)り候(さうら)ふ」とて下向(げかう)してんげり。遮那王殿(しやなわうどの)別当(べつたう)の坊(ばう)に帰(かへ)りて心(こころ)の中(うち)ばかりに出(い)で立(た)ち給(たま)ふ。七歳(しちさい)の春の頃(ころ)より十六の今(いま)に至(いた)るまで、朝(あした)にはけうくんの霧(きり)を払(はら)ひ、夕(ゆうべ)には三光(さんくわう)の星(ほし)をいただき、日夜朝暮(てうぼ)なれし馴染(なじみ)の師匠(ししやう)の御名残(おんなごり)も今(いま)ばかりと思(おも)はれければ、しきりに忍(しの)ぶとし給(たま)へ共(ども)、涙(なみだ)にむせび給(たま)ひけり。されども心(こころ)弱(よわ)くては叶(かな)ふべきにあらざれば、承安(じようあん)+四年(しねん)二月二日の曙(あけぼの)に鞍馬(くらま)をぞ出(い)で給(たま)ふ。白(しろ)き小袖(こそで)一かさねに唐綾(からあや)を着(き)かさね、播磨浅葱(はりまあさぎ)の帷子(かたびら)をうへに召(め)し、白(しろ)き大口(おほくち)に唐織物(からおりもの)の直垂(ひたたれ)めし、敷妙(しきたへ)と言(い)ふ腹巻(はらまき)着篭(きご)めにして、紺地(こんぢ)の錦(にしき)にて柄鞘(つかさや)包(つつ)みたる守刀(まぼりがたな)、黄金作(こがねづくり)の太刀(たち)帯(は)いて、薄化粧(うすげしやう)に眉(まゆ)細(ほそ)くつくりて、髪(かみ)高(たか)く結(ゆ)ひあげ、心(こころ)細(ぼそ)げにて壁(かべ)を
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隔(へだ)てて出(い)で立(た)ち給(たま)ふが、我(われ)ならぬ人の訪(おとづ)れて通(とほ)らん度(たび)にさる者(もの)是(これ)に有(あ)りしぞと思(おも)ひ出(い)でて、あとをも弔(とぶら)へかしと思(おも)はれければ、漢竹(かんちく)の横笛(やうでう)取(と)り出(い)だし、半時(はんじ)ばかり吹(ふ)きて、音(ね)をだにあとの形見(かたみ)とて、泣(な)く泣(な)く鞍馬(くらま)を出(い)で給(たま)ひ、其(そ)の夜は四条(しでう)の聖門(しやうもん)坊(ばう)の宿(やど)へ出(い)でさせ給(たま)ひて、奥州(あうしう)へ下(くだ)る由(よし)仰(おほ)せられければ、善悪(ぜんあく)御伴(おんとも)申(まう)し候(さうら)はんと出(い)で立(た)ちけり。遮那王殿(しやなわうどの)宣(のたま)ひけるは、「御辺(ごへん)は都(みやこ)にとどまりて、平家(へいけ)のなり行(ゆ)く様(さま)を見(み)て知(し)らせよ」とて、京(きやう)にぞとどめられける。さて遮那王殿(しやなわうどの)粟田口(あはたぐち)まで出(い)で給(たま)ふ。聖門(しやうもん)坊(ばう)もそれまで送(おく)り奉(たてまつ)り、十禅師(じふぜんじ)の御前(おまへ)にて、吉次(きちじ)を待(ま)ち給(たま)へば、吉次(きちじ)未(いま)だ夜深(よぶか)に京(きやう)を出(い)で、粟田口(あはたぐち)に出(い)で来(きた)る。種々(しゆじゆ)の宝(たから)を二十余疋(よひき)の馬(うま)に負(おほ)せて先(さき)に立(た)て、我(わ)が身は京(きやう)を尋常(じんじやう)にぞ出(い)で立(た)ちける。間々(あひあひ)引柿(ひきがき)したる摺尽(すりづく)しの直垂(ひたたれ)に秋毛(あきげ)
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の行縢(むかばき)はいて、黒栗毛(くろくりげ)なる馬(うま)に角覆輪(つのぶくりん)の鞍(くら)置(お)いてぞ乗(の)りたりける。児(ちご)乗(の)せ奉(たてまつ)らんとて、月毛(つきげ)なる馬(うま)に沃懸地(いかけぢ)の鞍(くら)置(お)きて、大斑(おほまだら)の行縢(むかばき)、鞍覆(くらおほひ)にしてぞ出(い)で来(きた)る。遮那王殿(しやなわうどの)「如何(いか)に、約束(やくそく)せばや」と宣(のたま)へば、馬(うま)より急(いそ)ぎ飛(と)んで下(お)り、馬(うま)引(ひ)き寄(よ)せ乗(の)せ奉(たてまつ)り、かかる縁(えん)に会(あ)ひけるよと世に嬉(うれ)しくぞ思(おも)ひける。吉次(きちじ)を招(まね)きて宣(のたま)ひけるは、「や、殿(との)、馬(うま)の腹筋(はらすぢ)馳(は)せ切(き)つて、雑人(ざふにん)奴(め)等(ら)が追(お)ひ着(つ)かん。かへりみるに駆足(かけあし)になりて下(くだ)らんと覚(おぼ)ゆるなり。鞍馬(くらま)になしと言(い)はば、都に尋(たづ)ぬべし。都(みやこ)になしと言(い)はば、大衆(だいしゆ)共(ども)定(さだ)めて東海道(とうかいだう)へぞ下(くだ)らんずらんとて、摺針山(すりばりやま)よりこなたにて追(おつ)掛(か)けられて、帰(かへ)れと言(い)はんずる者(もの)なり。帰(かへ)らざらんは仁(じん)義(ぎ)礼(れい)智(ち)にもはづれなん。都(みやこ)は敵(てき)の辺(へん)也(なり)。足柄山(あしがらやま)を越(こ)えんまでこそ大事(だいじ)なれ。坂東(ばんどう)と言(い)ふは源氏(げんじ)に志(こころざし)の有(あ)る国(くに)なり、言葉(ことば)の末(すゑ)を以(もつ)て、宿々(しゆくじゆく)の馬(うま)取(と)りて下(くだ)るべし、白川(しらかは)の関(せき)をだにも越(こ)えば、秀衡(ひでひら)が知行(ちぎやう)の所(ところ)なれば、雨のふるやらん、風のふくやらんも知(し)るまじきぞ」と宣(のたま)へば吉次(きちじ)是(これ)を聞(き)きてかかる恐(おそ)ろしき事(こと)あらじ。毛(け)のなだらかならん馬(うま)一匹(いつぴき)をだにも乗(の)り給(たま)はずして、恥(はぢ)有(あ)る郎等の一騎をだにも具(ぐ)し給(たま)はで、現在(げんざい)の敵(かたき)の知行(ちぎやう)する国の馬(うま)を取(と)りて下(くだ)らんと宣(のたま)ふこそ恐(おそ)ろしけれとぞ思(おも)ひける。されども命(めい)に従(したが)ひ、駒(こま)を早(はや)めて下(くだ)る程(ほど)に松坂(まつざか)をも越(こ)えて、四(し)の宮(みや)河原(かはら)を見(み)て過(す)ぎ、逢坂(あふさか)の関(せき)打(う)ち越(こ)えて大津(おほつ)の浜(はま)
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をも通(とほ)りつつ瀬田(せた)の唐橋(からはし)打(う)ち渡(わた)り、鏡(かがみ)の宿(しゆく)に著(つ)き給(たま)ふ。長者(ちやうじや)は吉次(きちじ)が年(とし)頃(ごろ)の知る人なりければ、女房(にようばう)数多(あまた)出(い)だしつつ色々(いろいろ)にこそもてなしけれ。
義経記巻第一(だいいち)
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義経記 国民文庫本
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義経記巻第二目録
鏡(かがみ)の宿(しゆく)吉次(きちじ)が宿に強盗(がうだう)の入(い)る事
遮那王殿(しやなわうどの)元服(げんぶく)の事(こと)
阿濃(あの)の禅師(ぜんじ)に御対面(ごたいめん)の事(こと)
義経(よしつね)陵(みささぎ)が館(たち)焼(や)き給(たま)ふ事
伊勢(いせの)三郎はじめて臣下(しんか)になる事
義経(よしつね)はじめて秀衡(ひでひら)対面(たいめん)の事(こと)
鬼一(おにいち)法眼(ほふげん)の事(こと)
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義経記巻第二
鏡(かがみ)の宿(しゆく)吉次(きちじ)が宿に強盗(がうだう)の入(い)る事 S0201
抑(そもそも)都(みやこ)近(ちか)き所(ところ)なれば、人目(ひとめ)もつつましくて、女房(にようばう)共(ども)の遙(はる)かの末座(すゑざ)に遮那王殿(しやなわうどの)を直(なほ)しける。恐(おそ)れ入(い)りてぞ覚(おぼ)えける。酒(さけ)三献(さんごん)過(す)ぎて、長者(ちやうじや)吉次(きちじ)が袖に取(と)り付(つ)きて申(まう)しけるは、「抑(そもそも)御辺(ごへん)は一年に一度、二年に一度此(こ)の道(みち)を通(とほ)らぬ事(こと)なし。されども是(これ)程(ほど)美(いつく)しき子具(ぐ)し奉(たてまつ)りたる事、是(これ)ぞ初(はじ)めなる。御身(おんみ)の為(ため)には親(した)しき人か他人(たにん)か」とぞ問(と)ひける。「親(した)しくはなし。又他人(たにん)にてもなし」とぞ申(まう)しける。長者(ちやうじや)はらはらと涙(なみだ)を流(なが)して、「あはれなる事共(ども)かな。何(なに)しに生(い)きて初(はじ)めて憂(う)き事(こと)を見(み)るらん。只(ただ)昔(むかし)の御事(おんこと)今(いま)の心地(ここち)して覚(おぼ)ゆるぞや。此(こ)の殿(との)の立居(たちゐ)振舞(ふるまひ)身様(みざま)の頭殿(かうのとの)の二男(じなん)朝長(ともなが)殿(どの)に少(すこ)しも違(たが)ひ給(たま)はぬものかな。言葉(ことば)の末(すゑ)を以(もつ)ても具(ぐ)し奉(たてまつ)りたるかや。保元(ほうげん)、平治(へいじ)より此(こ)のかた、源氏(げんじ)の子孫(しそん)、此処(ここ)や彼処(かしこ)に打(う)ち篭(こ)められておはするぞかし。成人(せいじん)し
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て思(おも)ひ立(た)ち給(たま)ふ事(こと)有(あ)らば、よくよくこしらへ奉(たてまつ)りて渡(わた)し参(まゐ)らせ給(たま)へ。壁(かべ)に耳(みみ)、岩(いは)に口(くち)と言(い)ふ事(こと)有(あ)り。紅(くれなゐ)は園生(そのう)に植(う)ゑても隠(かく)れなし」と申(まう)しければ、吉次(きちじ)「何それにては候(さうら)はず。身が親(した)しき者(もの)にて候(さうら)ふ」と申(まう)しけれども、長者(ちやうじや)「人は何(なに)とも言(い)はば言(い)へ」とて、座敷(ざしき)を立(た)ちて、少(をさな)き人の袖を引(ひ)き、上座敷(かみざしき)に直(なほ)し奉(たてまつ)り、酒(さけ)すすめて夜更(ふ)けければ、我(わ)が方(かた)へぞ入(い)れ奉(たてまつ)る。吉次(きちじ)も酒(さけ)に酔(ゑ)ひて臥(ふ)しにけり。其(そ)の夜鏡(かがみ)の宿(しゆく)に思(おも)はざる事(こと)こそ有(あ)りけれ。其(そ)の年(とし)は世の中飢饉(ききん)なりければ、出羽(ではの)国(くに)に聞(き)こえける窃盗(せつたう)の大将(たいしやう)、由利(ゆりの)太郎と申(まう)す者(もの)、越後(ゑちごの)国(くに)に名を得(え)たる頚城郡(くびきのこほり)の住人(ぢゆうにん)藤沢(ふぢさは)入道(にふだう)と申(まう)す者(もの)二人(ふたり)語(かた)らひ、信濃(しなのの)国(くに)に越(こ)えて、佐久(さく)の権守(ごんのかみ)の子息(しそく)太郎、遠江国(とほたうみのくに)に蒲(がまの)与一(よいち)、駿河国(するがのくに)に興津(おきつの)十郎(じふらう)、上野国(かうづけのくに)に豊岡(とよをかの)源八以下の者共(ども)、何(いづ)れも聞(き)こゆる盗人(ぬすびと)、宗徒(むねと)の者二十五人、其(そ)の勢(せい)七十人連(つ)れて、「東海道(とうかいだう)は衰微(すいび)す。少(すこ)しよからん山家(やまが)山家(やまが)に至(いた)り、下種徳人(げすとくびと)有(あ)らば追(お)ひ落(おと)して、若党(わかたう)共(ども)に興(きよう)有(あ)る酒(さけ)を飲(の)ませて都(みやこ)に上(のぼ)り、夏(なつ)過(す)ぎ秋風(あきかぜ)立(た)たば、北国(ほつこく)にかかり国(くに)へ下(くだ)らん」とて、宿々(やどやど)山家(やまが)山家(やまが)に押(お)し入(い)り、押(お)し取(と)りして上(のぼ)りける。其(そ)の夜しも鏡(かがみ)の宿(しゆく)に長者(ちやうじや)の軒(のき)を並(なら)べて宿(やど)しける。由利(ゆりの)太郎藤沢(ふぢさは)に申(まう)しけるは、「都(みやこ)に聞(き)こえたる吉次(きちじ)と言(い)ふ黄金商人(こがねあきんど)奥州(あうしう)へ下(くだ)るとて、おほくの売物(うりもの)持(も)ち、
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今宵(こよひ)長者(ちやうじや)の許(もと)に宿(やど)りたり。如何(いかが)すべき」と言(い)ひければ、藤沢(ふぢさは)入道(にふだう)、「順風(じゆんぷう)に帆(ほ)を上(あ)げ、棹(さほ)さし押(お)し寄(よ)せて、しやつが商物(あきなひもの)取(と)りて若党(わかたう)共(ども)に酒(さけ)飲(の)ませて通(とほ)れ」とぞ出(い)で立(た)ちける。究強(くつきやう)の足軽(あしがる)共(ども)五六人腹巻(はらまき)著(き)せて、油(あぶら)さしたる車松明(くるまたいまつ)五六台(ごろくだい)に火を付(つ)けて、天に差(さ)し上(あ)げければ、外はくらけれども、内(うち)は日中の様(やう)に有(あ)りけり。由利(ゆりの)太郎と藤沢(ふぢさは)入道(にふだう)とは大将(たいしやう)として、其(そ)の勢(せい)八人連(つ)れて出(い)で立(た)ち、由利(ゆり)は唐萌黄(からもえぎ)の直垂(ひたたれ)に萌黄威(もよぎをどし)の腹巻(はらまき)著(き)て、折烏帽子(をりえぼし)に懸(かけ)して、三尺(さんじやく)+五寸(ごすん)の太刀(たち)はきて出(い)づる。藤沢(ふぢさは)褐(かちん)の直垂(ひたたれ)に黒革威(くろかはをどし)の鎧(よろひ)著(き)て、兜(かぶと)の緒(を)を締(し)め、黒塗(くろぬり)の太刀(たち)に熊(くま)の革(かは)の尻鞘(しりざや)入(い)れ、大長刀(おほなぎなた)杖(つゑ)につき、夜半(やはん)ばかりに長者(ちやうじや)の許(もと)へ討(う)ち入(い)りたり。つと入(い)りて見(み)れども人もなし。中の間(ま)に入(い)りて見れども人もなし。こは如何(いか)なる事(こと)ぞとて簾中(れんちゆう)深(ふか)く切(き)り入(い)りて、障子(しやうじ)五六間(ごろつけん)切(き)り倒(たふ)す。吉次(きちじ)是(これ)に驚(おどろ)き、がばと起(お)きて見れば、鬼王の如(ごと)くにて出(い)で来(き)たる。是(これ)は信高(のぶたか)が財宝(ざいほう)に目をかけて出(い)で来(く)るを知らず、源氏(げんじ)を具(ぐ)し奉(たてまつ)り、奥州(あうしう)へ下(くだ)る事、六波羅(ろくはら)へ聞(き)こえて討手(うつて)向(むか)ひたると心得(こころえ)て、取(と)る物も取(と)り敢(あ)へず、かいふいてぞ逃(に)げにける。遮那王殿(しやなわうどの)是(これ)を見(み)給(たま)ひて、すべて人の頼(たの)むまじきものは次(つぎ)の者(もの)にて有(あ)りけるぞや。形(かた)の如(ごと)くも侍(さぶらひ)ならば、かくは有(あ)るまじき物(もの)を、とてもかくても都(みやこ)を出(い)でし日よりして命(いのち)をば宝(たから)故(ゆゑ)に奉(たてまつ)る。屍(かばね)をば鏡(かがみ)の宿(しゆく)にさらすべしとて、大口(おほくち)
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の上(うへ)に腹巻(はらまき)とつて引(ひ)き着(き)て、太刀(たち)とり脇(わき)にはさみ、唐綾(からあや)の小袖(こそで)取(と)りて打(う)ちかづき、一間(ひとま)なる障子(しやうじ)の中(うち)をするりと出(い)で、屏風(びやうぶ)一よろひに引(ひ)きたたみ、前(まへ)に押(お)し寄(よ)する。八人の盗人(ぬすびと)を今(いま)やと待(ま)ち給(たま)ふ。「吉次(きちじ)奴(め)に目ばし放(はな)すな」とて喚(おめ)いてかかる。屏風(びやうぶ)のかげに人有(あ)りとは知(し)らで、松明(たいまつ)ふつて差(さ)し上(あ)げ見れば、いつくしきとも斜(なのめ)ならず。南都(なんと)山門に聞(き)こえたる児(ちご)鞍馬(くらま)を出(い)で給(たま)へる事(こと)なれば、きはめて色(いろ)白(しろ)く、鉄漿黒(かねぐろ)に眉(まゆ)細(ほそ)くつくりて、衣(きぬ)打(う)ちかづき給(たま)ひけるを見(み)れば、松浦佐用姫(まつらさよひめ)領巾(ひれ)振(ふ)る野辺(のべ)に年(とし)を経(へ)し、寝(ね)乱(みだ)れて見ゆる黛(まゆずみ)の、鴬(うぐひす)の羽(は)風に乱(みだ)れぬべくぞ見(み)え給(たま)ふ。玄宗(げんそう)皇帝(くわうてい)の代なりせば楊貴妃(やうきひ)とも謂(い)ひつべし。漢(かん)の武帝(ぶてい)の時(とき)ならば李夫人(りふじん)かとも疑(うたが)ふべし。傾城(けいせい)と心得(こころえ)て、屏風(びやうぶ)に押(お)し纏(まと)ひてぞ通(とほ)りける。人も無(な)き様(やう)に思(おも)はれて、生(い)きては何(なに)の益(えき)有(あ)るべき。末(すゑ)の世に如何(いかが)しければ、義朝(よしとも)の子牛若(うしわか)と言(い)ふもの謀反(むほん)をおこし、奥州(あうしう)へ下(くだ)るとて、鏡(かがみ)の宿(しゆく)にて強盗(がうだう)に会(あ)ひて、甲斐(かひ)無(な)き命(いのち)生(い)きて、今(いま)また忝(かたじけな)くも太政大臣(だいじやうだいじん)に心(こころ)を懸(か)けたりなどと言(い)はれん事(こと)こそ悲(かな)しけれ。とてもかくてものがるまじと思召(おぼしめ)して、太刀(たち)を抜(ぬ)き、多勢(たぜい)の中へ走(はし)り入(い)り給(たま)ふ。八人は左右(さう)へざつと散(ち)る。由利(ゆりの)太郎是(これ)を見(み)て、「女かと思(おも)ひたれば、世に剛(かう)なる人にて有(あ)りけるものを」とて、散々(さんざん)に斬(き)りあふ。一太刀(ひとたち)にと思(おも)ひて、以(もつ)て開(ひら)いてむずとうつ。大(だい)の男(をとこ)の太刀(たち)の寸(すん)は延(の)び
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たり。天井(てんじやう)の縁(ふち)に太刀(たち)打(う)ち貫(つらぬ)き、引(ひ)きかぬる所(ところ)を小太刀(こだち)を以(もつ)てむずと受(う)け止(と)め、弓手(ゆんで)の腕(かひな)に袖を添(そ)へてふつと打(う)ち落(おと)し、返(かへ)す太刀(たち)に首(くび)を打(う)ち落(おと)す。藤沢(ふぢさは)入道(にふだう)は是(これ)を見(み)て、「ああ切(き)つたり。そこを引(ひ)くな」とて大長刀(おほなぎなた)打(う)ち振(ふ)りて走(はし)りかかる。是(これ)に懸(か)かり合(あ)ひて散々(さんざん)に斬(き)り合(あ)ひ給(たま)ふ。藤沢(ふぢさは)入道(にふだう)長刀(なぎなた)を茎長(くきなが)に取(と)りてするりと差(さ)し出(い)だす。走(はし)り懸(か)かり切(き)り給(たま)ふ。太刀(たち)は聞(き)こゆる宝物(たからもの)なりければ、長刀(なぎなた)の柄(つか)づんど切(き)りてぞ落(おと)されける。やがて太刀(たち)抜(ぬ)き合(あ)はせけるを抜(ぬ)きも果(は)てさせず、切(き)り付(つ)け給(たま)へば、兜(かぶと)の真向(まつかう)しや面(つら)かけて切(き)り付(つ)け給(たま)ひけり。吉次(きちじ)はものの陰(かげ)にて是(これ)を見(み)て、恐(おそ)ろしき殿(との)の振舞(ふるまひ)かな。如何(いか)に我(われ)を穢(きたな)しと思召(おぼしめ)すらんと思(おも)ひ、臥(ふ)したりける帳台(ちやうだい)へつつと入(い)り、腹巻(はらまき)取(と)つて著(き)、髻(もとどり)解(と)き乱(みだ)し、太刀(たち)を抜(ぬ)き、敵(てき)の棄(す)てたる松明(たいまつ)打(う)ち振(ふ)り、大庭(おほには)に走(はし)り出(い)でて、遮那王殿(しやなわうどの)と一(ひと)つになり
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て、追(お)うつ捲(ま)くつつ散々(さんざん)に戦(たたか)ひ、究竟(くつきやう)の者共(ども)五六人やにはに切(き)り給(たま)ふ。二人(ふたり)は手(て)負(お)ひて北へ行(ゆ)く。一人追(お)ひにがす。残(のこ)る盗人(ぬすびと)残(のこ)らず落(お)ち失(う)せにけり。明(あ)くれば宿(やど)の東のはづれに五人が首(くび)をかけ、札(ふだ)を書(か)きてぞ添(そ)へられける。「音(おと)にも聞(き)くらん、目にも見よ。出羽(ではの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、由利(ゆりの)太郎、越後(ゑちごの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、藤沢(ふぢさは)入道(にふだう)以下の首(くび)五人斬(き)りて通(とほ)る者、何者(なにもの)とか思(おも)ふらん。黄金商人(こがねあきんど)三条(さんでう)の吉次(きちじ)が為(ため)には縁(ゆかり)有(あ)り。是(これ)を十六にての初業(うひわざ)よ。委(くわ)しき旨(むね)を聞(き)きたくば、鞍馬(くらま)の東光坊(とうくわうばう)の許(もと)にて聞(き)け、承安(じようあん)+四年(しねん)二月四日」とぞ書(か)きて立(た)てられける。さてこそ後(のち)には源氏(げんじ)の門出しすましたりとぞ舌(した)を巻(ま)いて怖(お)ぢ合(あ)ひける。其(そ)の日鏡(かがみ)を発(た)ち給(たま)ひけり。吉次(きちじ)はいとどかしづき奉(たてまつ)りてぞ下(くだ)りける。小野(をの)の摺針(すりばり)打(う)ち過(す)ぎて、番場(ばんば)、醒井(さめがい)過(す)ぎければ、今日(けふ)も程(ほど)無(な)く行(ゆ)き暮(く)れて、美濃国(みののくに)青墓(あふはか)の宿(しゆく)にぞ著(つ)き給(たま)ふ。是(これ)は義朝(よしとも)浅(あさ)からず思(おも)ひ給(たま)ひける長者(ちやうじや)が跡(あと)なり。兄(あに)の中宮大夫(だいぶ)の墓所(はかどころ)を尋(たづ)ね給(たま)ひて、御出(おい)で有(あ)り。夜とともに法華経(ほけきやう)読誦(どくじゆ)して、明(あ)くれば率都婆(そとば)を作り、自(みづか)ら梵字(ぼんじ)を書(か)きて、供養(くやう)してぞ通(とほ)られける。児安(こやす)の森(もり)を外処(よそ)に見(み)て、久世河(くぜがは)を打(う)ち渡(わた)り、墨俣川(すのまたがは)を曙(あけぼの)に眺(なが)めて通(とほ)りつつ、今日(けふ)も三日に成(な)りければ、尾張国(をはりのくに)熱田(あつた)の宮(みや)に著(つ)き給(たま)ひけり。
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遮那王殿(しやなわうどの)元服(げんぷく)の事(こと) S0202
熱田(あつた)の前(さき)の大宮司(だいぐうじ)は義朝(よしとも)の舅(しうと)なり。今(いま)の大宮司(だいぐうじ)は小舅(こじうと)なり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)の母(はは)御前(ごぜん)も熱田(あつた)のそとのはまと言(い)ふ所(ところ)にぞおはします。父の御形見(おんかたみ)と思召(おぼしめ)して、吉次(きちじ)を以(もつ)て申(まう)されければ、大宮司(だいぐうじ)急(いそ)ぎ御迎(おんむか)ひに人を参(まゐ)らせ入(い)れ奉(たてまつ)り、やうやうに労(いたは)り奉(たてまつ)りける。やがて次(つぎ)の日立(た)たんとし給(たま)へば、様々(さまざま)諌言(いさめごと)に参(まゐ)り、とかくする程(ほど)に、三日まで熱田(あつた)にぞおはします。遮那王殿(しやなわうどの)吉次(きちじ)に仰(おほ)せられけるは、「児(ちご)にて下(くだ)らんは悪(わろ)し。かり烏帽子(えぼし)なりとも著(き)て下(くだ)らばやと思(おも)ふは、如何(いか)にすべき」。吉次(きちじ)「如何様(いかやう)にも御計(おんはから)ひ候(さうら)へ」とぞ申(まう)しける。大宮司(だいぐうじ)烏帽子(えぼし)奉(たてまつ)り、取(と)り上(あ)げ、烏帽子(えぼし)をぞ召(め)されける。「かくて下り、秀衡(ひでひら)が名をば何(なに)と言(い)ふぞと問はんに、遮那王(しやなわう)と言うて、男(をとこ)になりたる甲斐(かひ)なし。是(これ)にて名を改(か)へもせで行(ゆ)かば、定(さだ)めて元服(げんぷく)せよと言(い)はれんずらん。秀衡(ひでひら)は我々(われわれ)が為(ため)には相伝(さうでん)の者(もの)なり。他の謗(そしり)も有(あ)るぞかし。是(これ)は熱田(あつた)の明神(みやうじん)の御前(おまへ)、しかも兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)の母(はは)御前(ごぜん)も是(これ)におはします。是(これ)にて思(おも)ひ立(た)たん」とて、精進(しやうじん)潔斎(けつさい)して大明神(だいみやうじん)に御参(おまゐ)り有(あ)り。大宮司(だいぐうじ)、吉次(きちじ)も御伴(おんとも)仕(つかまつ)り、二人(ふたり)に仰(おほ)せけるは、「左馬頭殿(さまのかうのとの)の子供(こども)、
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嫡子(ちやくし)悪源太(あくげんだ)、二男朝長(ともなが)、三男(さんなん)兵衛佐(ひやうゑのすけ)、四郎蒲殿(かばどの)、五郎禅師の君、六郎(ろくらう)は卿(きやう)の君(きみ)、七郎は悪禅師(あくぜんじ)の君(きみ)、我(われ)は左馬(さまの)八郎とこそ言(い)はるべきに、保元(ほうげん)の合戦に叔父(をぢ)鎮西(ちんぜいの)八郎名を流(なが)し給(たま)ひし事(こと)なれば、其(そ)の跡(あと)をつがん事(こと)よしなし。末(すゑ)になる共(とも)苦(くる)しかるまじ。我(われ)は左馬(さまの)九郎(くらう)と言(い)はるべし。実名(じちみやう)は祖父(おほぢ)は為義(ためよし)、父(ちち)は義朝(よしとも)、兄は義平(よしひら)と申(まう)しける。我(われ)は義経(よしつね)と言(い)はれん」とて、昨日(きのふ)までは遮那王殿(しやなわうどの)、今日(けふ)は左馬(さまの)九郎(くらう)義経(よしつね)と名を変(か)へて、熱田(あつた)の宮(みや)を打(う)ち過(す)ぎ、何(なに)と鳴海(なるみ)の塩干潟(しほひがた)、三河(みかはの)国(くに)八橋(やつはし)を打(う)ち越(こ)えて、遠江国(とほたうみのくに)の浜名(はまな)の橋(はし)を眺(なが)めて通(とほ)らせ給(たま)ひけり。日頃(ひごろ)は業平(なりひら)、山蔭(やまかげ)中将(ちゆうじやう)などの眺(なが)めける名所(めいしよ)名所(めいしよ)多(おほ)けれども、牛若殿(うしわかどの)打(う)ち解(と)けたる時(とき)こそ面白(おもしろ)けれ、思(おも)ひ有(あ)る時(とき)は名所も何(なに)ならずとて、打(う)ち過(す)ぎ給(たま)へば、宇津(うつ)の山(やま)打(う)ち過(す)ぎて、駿河(するが)なる浮島(うきしま)が原(はら)にぞ著(つ)き給(たま)ひける。
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阿濃(あのの)禅師(ぜんじ)に御対面(ごたいめん)の事(こと) S0203
是(これ)より阿濃(あのの)禅師(ぜんじ)の御(おん)許(もと)へ御使(おんつか)ひ参(まゐ)らせ給(たま)ひける。禅師(ぜんじ)大(おほ)きに悦(よろこ)び給(たま)ひて、御曹司(おんざうし)を入(い)れ奉(たてまつ)り、互(たがひ)に御目を見(み)合(あ)はせて、過(す)ぎにし方(かた)の事(こと)共(ども)語(かた)り続(つづ)け給(たま)ひて、御涙(おんなみだ)に咽(むせ)び給(たま)ひける。「不思議(ふしぎ)の御事(おんこと)かな。離(はな)れし時(とき)は二歳(にさい)になり給(たま)ふ。此(こ)の日頃(ひごろ)は何処(いづく)におはするとも知(し)り奉(たてまつ)らず。是(これ)程(ほど)に成人(せいじん)してかかる大事(だいじ)を思(おも)ひ立(た)ち給(たま)ふ嬉(うれ)しさよ。我(われ)もともに打(う)ち出(い)で、一所にてともかくもなりたく候(さうら)へども、偶々(たまたま)釈尊(しやくそん)の教法(けうぼふ)を学(まな)んで、師匠(ししやう)の閑室(かんしつ)に入(い)りしより此(こ)のかた、三衣(さんゑ)を墨(すみ)に染(そ)めぬれば、甲冑(かつちう)をよろひ、弓箭(きゆうせん)を帯(たい)する事如何(いか)にぞやと思(おも)へば、打(う)ち連(つ)れ奉(たてまつ)らず。且(かつう)は頭殿(かうのとの)の御菩提(ごぼだい)をも誰(たれ)かは弔(とぶら)ひ奉(たてまつ)らん。且(かつう)は一門(いちもん)の人々(ひとびと)の祈(いのり)をこそ仕(つかまつ)り候(さうら)はんずれ。一ケ月をだにも添(そ)ひ奉(たてまつ)らず、離(はな)れ奉(たてまつ)らん事(こと)こそ悲(かな)しけれ。兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)も伊豆(いづ)の北条(ほうでう)におはしませ共(ども)、警固(けいご)のもの共(ども)きびしく守護(しゆご)し奉(たてまつ)ると申(まう)せば、文(ふみ)をだに参(まゐ)らせず。近(ちか)き所(ところ)を頼(たの)みにて音信(おとづれ)もなし。御身(おんみ)とても此(こ)の度(たび)見参し給(たま)はん事(こと)不定(ふでう)なれば、文書(か)き置(お)き給(たま)へ。其(そ)の様(やう)を申(まう)すべし」と仰(おほ)せられければ、文書(か)きて跡(あと)に留(とど)め置(お)き、其(そ)の日は伊豆(いづ)の国府(こくふ)
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に著(つ)き給(たま)ふ。夜もすがら祈念(きねん)申(まう)されけるは、「南無(なむ)三島(みたう)大明神(だいみやうじん)、走湯(そうたう)権現(ごんげん)、吉祥駒形(きちしやうこまがた)、願(ねが)はくは義経(よしつね)を三十万騎の大将軍(だいしやうぐん)となし給(たま)へ。さらぬ外(ほか)は此(こ)の山(やま)より西へ越(こ)えさせ給(たま)ふな」と、精誠(せいぜい)をつくし、祈誓(きせい)し給(たま)ひけるこそ、十六のさかりには恐(おそ)ろしき。足柄(あしがら)の宿打(う)ち過(す)ぎて、武蔵野(むさしの)の堀兼(ほりかね)の井を外処(よそ)に見(み)て、在五(ざいご)中将(ちゆうじやう)の眺(なが)めける深(ふか)き好(よしみ)を思(おも)ひて、下総国(しもつさのくに)庄高野(しやうたかの)と言(い)ふ所(ところ)に著(つ)き給(たま)ふ。日数(ひかず)経(ふ)るに従(したが)ひて、都(みやこ)は遠(とほ)く、東(ひがし)は近(ちか)くなる儘(まま)に、其(そ)の夜は都(みやこ)の事(こと)思召(おぼしめ)し出(い)だされける。宿(やど)の主(あるじ)を召(め)して、「是(これ)は何処(いづく)の国ぞ」と御問(おんと)ひ有(あ)りければ、「下野(しもつけの)国(くに)」と申(まう)しける。「此(こ)の所(ところ)は郡(こほり)か庄(しやう)か」「下野(しもつけ)の庄(しやう)」とぞ申(まう)しける。「此(こ)の庄(しやう)の領主(りやうぬし)は誰(たれ)と言(い)ふぞ」。「少納言(せうなごん)信西と申(まう)しし人の母(はは)方(かた)の伯父(をぢ)、陵介(みささぎのすけ)と申(まう)す人の嫡子(ちやくし)、陵(みささぎ)の兵衛」とぞ申(まう)しける。
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義経(よしつね)陵(みささぎ)が館(たち)焼(や)き給(たま)ふ事 S0204
きつと思召(おぼしめ)し出(い)だされけるは、義経(よしつね)が九つの年、鞍馬(くらま)に有(あ)りて東光房(とうくわうばう)の膝(ひざ)の上(うへ)に寝(ゐ)ねたりし時(とき)、「あはれ幼(をさな)き人の御目の気色(けしき)や。如何(いか)なる人の君達(きんだち)にて渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)ふやらん」と言(い)ひしかば、「是(これ)こそ左馬頭(さまのかみ)殿(どの)の君達(きんだち)」と宣(のたま)ひしかば、「あはれ、末(すゑ)の世に平家(へいけ)の為(ため)には大事(だいじ)かな。此(こ)の人々(ひとびと)を助(たす)け奉(たてまつ)りて、日本(につぽん)に置(お)かれん事(こと)こそ獅子(しし)虎(とら)を千里の野辺(のべ)に放(はな)つにてあれ。成人(せいじん)し給(たま)ひ候(さうら)はば、決定(けつぢやう)の謀反(むほん)にて有(あ)るべし。聞(き)きも置(お)かせ給(たま)へ。自然(しぜん)の事(こと)候(さうら)はん時(とき)、御尋(おんたづ)ね候(さうら)へ。下総国(しもつさのくに)に下河辺の庄と申(まう)す所(ところ)に候(さうら)ふ」と言(い)ひしなり。遙々(はるばる)と奥州(あうしう)へ下(くだ)らんよりも陵(みささぎ)が許(もと)へ行(ゆ)かばやと思召(おぼしめ)し、吉次(きちじ)をば「下野(しもつけ)の室八嶋(むろのやしま)にて待(ま)て。義経(よしつね)は人を尋(たづ)ねてやがて追(お)ひつかんずるぞ」とて、陵(みささぎ)が許(もと)へぞおはしける。吉次(きちじ)は心(こころ)ならず、先立(さきだ)ち参(まゐ)らせんと奥州(あうしう)へぞ下りける。御曹司(おんざうし)は陵(みささぎ)が宿所(しゆくしよ)へぞ尋(たづ)ねて御覧(ごらん)ずるに、世に有(あ)りしと覚(おぼ)しくて、門には鞍(くら)置(お)き馬共(ども)、其(そ)の数(かず)引(ひ)き立(た)てたり。差(さ)しのぞきて見(み)給(たま)へば、遠侍(とほさぶらひ)には大人(おとな)、若(わか)きもの五十人ばかり居(ゐ)流(なが)れたり。御曹司(おんざうし)人を招(まね)きて「御内に案内(あんない)申(まう)さん」と
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宣(のたま)ひければ、「何処(いづく)よりぞ」と申(まう)す。「京の方(かた)よりかねて見参(げんざん)に入(い)りて候(さうら)ふものにて候(さうら)ふ」と仰(おほ)せける。主(しゆう)に此(こ)の事(こと)を申(まう)しければ、「如何様(いかやう)なる人」と申(まう)す。「尋常(じんじやう)なる人にて候(さうら)ふ」と言(い)へば、「さらば是(これ)へと申(まう)せ」とて入(い)れ奉(たてまつ)る。陵(みささぎ)「如何(いか)なる人にて渡(わた)らせ給(たま)ふぞ」と申(まう)しければ、「幼少(えうせう)にて見参(げんざん)に入(い)りて候(さうら)ひし、御覧(ごらん)じ忘(わす)れ候(さうら)ふや。鞍馬(くらま)の東光坊(とうくわうばう)の許(もと)にて何事(なにごと)も有(あ)らん時尋(たづ)ねよと候(さうら)ひし程(ほど)に、万事頼(たの)み奉(たてまつ)りて下(くだ)り候(さうら)ふ」と仰(おほ)せられければ、陵(みささぎ)此(こ)の事(こと)を聞(き)きて、「かかる事(こと)こそ無(な)けれ。成人(せいじん)したる子供(こども)は皆(みな)京に上(のぼ)りて小松殿(どの)の御内(みうち)に有(あ)り。我々(われわれ)が源氏(げんじ)に与(くみ)せば、二人(ふたり)の子供(こども)徒(いたづら)になるべし」と思(おも)ひ煩(わづら)ひて、しばらく打(う)ち案(あん)じ申(まう)しけるは、「さ承(うけたまは)り候(さうら)ふ。思召(おぼしめ)し立(た)たせ給(たま)ひ候(さうら)ふ。畏(かしこ)まつて候(さうら)へども、平治の乱(らん)の時、既(すで)に兄弟(きやうだい)誅(ちゆう)せられ
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給(たま)ふべく候(さうら)へしを、七条(しちでう)朱雀(しゆしやか)の方(かた)に清盛(きよもり)近(ちか)づかせ給(たま)ひて、其(そ)の芳志(はうし)により、命(いのち)助(たす)からせ給(たま)ひぬ。老少(らうせう)不定(ふぢやう)の境(さかひ)、定(さだめ)無(な)き事(こと)にて候(さうら)へども、清盛(きよもり)如何(いか)にもなり給(たま)ひて後(のち)、思召(おぼしめ)し立(た)たせ給(たま)へかし」と申(まう)しければ、御曹司(おんざうし)聞召(きこしめし)て、あはれ彼奴(きやつ)は日本一(につぽんいち)の不覚人(ふかくじん)にて有(あ)りけるや。あはれとは思召(おぼしめ)しけれども、力(ちから)及(およ)ばず、其(そ)の日は暮(くら)し給(たま)ひけり。頼(たの)まれざらんもの故(ゆゑ)に執心(しうしん)も有(あ)るべからずとて、其(そ)の夜(よ)の夜半(やはん)ばかりに陵(みささぎ)が家(いへ)に火をかけて残(のこ)る所無(な)く散々(さんざん)に焼(や)き払(はら)ひて、掻(か)き消(け)す様(やう)に失(う)せ給(たま)ひけり。かくて行(ゆ)くには、下野(しもつけ)の横山(よこやま)の原(はら)、室(むろ)の八嶋(やしま)、白河(しらかは)の関山に人を付(つ)けられて叶(かな)ふまじと思召(おぼしめ)して、墨田河(すみだがは)辺(へん)を馬(うま)に任(まか)せて歩(あゆ)ませ給(たま)ひける程に、馬(うま)の足(あし)早(はや)くて二日に通(とほ)りける所を一日に、上野(かうづけの)国(くに)板鼻(いたはな)と言(い)ふ所(ところ)に著き給(たま)ひけり。
伊勢(いせの)三郎義経(よしつね)の臣下(しんか)にはじめて成(な)る事 S0205
日も既(すで)に暮方(くれがた)になりぬ。賎(しづ)が庵(いほり)は軒(のき)を並(なら)べ有(あ)りけれ共(ども)、一夜(いちや)を明(あ)かし給(たま)ふべき所(ところ)もなし。引(ひ)き入(い)りてま屋(や)一(ひと)つ有(あ)り。情(なさけ)有(あ)る住家(すみか)と覚(おぼ)しくて竹(たけ)の透垣(すいがき)に槙(まき)の板戸(いたど)を立(た)てたり。池(いけ)を掘(ほ)り、汀(みぎは)に群(む)れ居(ゐ)る鳥(とり)を見(み)給(たま)ふに付(つ)けても、情(なさけ)
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有(あ)りて御覧(ごらん)ずれば、庭(には)に打(う)ち入(い)り縁(えん)の際(きは)に寄(よ)り給(たま)ひて、「御内(みうち)に物申(まう)さん」と仰(おほ)せければ、十二三ばかりなる端者(はしたのもの)出(い)でて、「何事(なにごと)」と申(まう)しければ、「此(こ)の家(いへ)には汝(おのれ)より外(ほか)に大人(おとな)しき者(もの)は無(な)きか。人有(あ)らば出(い)でよ。言(い)ふべき事(こと)有(あ)り」とて返(かへ)されければ、主(しゆう)に此(こ)の様(やう)を語(かた)る。やや有(あ)りて年頃(としごろ)十八九ばかりなる女(め)の童(わらは)の優(いう)なるが、一間(ひとま)の障子(しやうじ)の陰(かげ)より「何事(なにごと)候(さうら)ふぞ」と申(まう)しければ、「京の者(もの)にて候(さうら)ふが、当国(たうごく)の多胡(たこ)と申(まう)す所(ところ)へ人を尋(たづ)ねて下(くだ)り候(さうら)ふが、此(こ)の辺(へん)の案内(あんない)知(し)らず候(さうら)ふ。日ははや暮(く)れぬ。一夜(いちや)の宿(やど)を貸(か)させ給(たま)へ」と仰(おほ)せられければ、女申(まう)しけるは、「易(やす)き程(ほど)の事(こと)にて候(さうら)へ共(ども)、主(あるじ)にて候(さうら)ふ者(もの)歩(あり)きて候(さうら)ふが、今宵(こよひ)夜更(ふ)けてこそ来(き)たり候(さうら)はんずれ。人に違(たが)ひて情(なさけ)無(な)き者(もの)にて候(さうら)ふ。如何(いか)なる事(こと)をか申(まう)し候(さうら)はんずらん。それこそ御為(おんため)いたはしく候(さうら)へ。如何(いかが)すべき。余(よ)の方(かた)へも御入(おんいり)候(さうら)へかし」と申(まう)しければ、「殿(との)の入(い)らせ給(たま)ひて無念(むねん)の事(こと)候(さうら)はば、其(そ)の時(とき)こそ虎(とら)臥(ふ)す野辺(のべ)罷(まか)り出(い)で候(さうら)はめ」と仰(おほ)せられければ、女思(おも)ひ乱(みだ)したり。御曹司(おんざうし)「今宵(こよひ)一夜(いちや)は只(ただ)貸(か)させ給(たま)へ。色(いろ)をも香(か)をも知(し)る人ぞ知(し)る」とて、遠侍(とほさぶらひ)へするりと入(い)りてぞおはしける。女力(ちから)及(およ)ばず、内(うち)に入(い)りて大人(おとな)しき人に「如何(いか)にせんずるぞ」と言(い)ひければ、「一河(いちが)の流(なが)れを汲(く)むも皆(みな)是(これ)他生(たしやう)の契(ちぎり)なり。何か苦(くる)しく候(さうら)ふべき。遠侍(とほさぶらひ)には叶(かな)ふまじ。二間所(ふたまどころ)へ入(い)れ奉(たてまつ)り給(たま)へとて」、様々(さまざま)の菓子(くわし)共(ども)
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取(と)り出(い)だし、御酒(おんさけ)勧(すす)め奉(たてまつ)れども、少(すこ)しも聞(き)き入(い)れ給(たま)はず。女申(まう)しけるは、「此(こ)の家の主(あるじ)は世に聞(き)こえたるえせ者(もの)にて候(さうら)ふ。構(かま)へて構(かま)へて見(み)えさせ給(たま)ふな。御燈火(おんともしび)を消(け)し、障子(しやうじ)を引(ひ)き立(た)てて御休(おんやす)み候(さうら)へ。八声(こゑ)の鳥(とり)も鳴(な)き候(さうら)はば、御志(おんこころざし)の方(かた)へ急(いそ)ぎ急(いそ)ぎ御出(おい)で候(さうら)へ」と申(まう)しければ、「承(うけたまは)り候(さうら)ひぬ」と仰(おほ)せける。如何(いか)なる男(をとこ)を持(も)ちて是(これ)程(ほど)には怖(お)づらん。汝(おのれ)が男(をとこ)に越(こ)えたる陵(みささぎ)が家にだに火(ひ)を懸(か)け、散々(さんざん)に焼(や)き払(はら)ひて、是(これ)まで来(き)たりつるぞかし。況(まし)てや言(い)はん、女(をんな)の情(なさけ)有(あ)りて止(とど)めたらんに、男(をとこ)来(き)たりて、憎(にく)げなる事(こと)言(い)はば、何時(いつ)の為(ため)に持(も)ちたる太刀(たち)ぞ。是(これ)ごさんなれと思召(おぼしめ)し、太刀(たち)抜(ぬ)きかけて、膝(ひざ)の下(した)に敷(し)き、直垂(ひたたれ)の袖を顔(かほ)にかけて、虚寝入(そらねいり)してぞ待(ま)ち給(たま)ふ。立(た)て給(たま)へと申(まう)しつる障子(しやうじ)をば殊(こと)に広(ひろ)く開(あ)け、消(け)し給(たま)へと申(まう)しつる燈(ひ)をばいとど高(たか)く掻(か)き立(た)てて、夜の更(ふ)くるに従(したが)つて、今(いま)や今(いま)やと待(ま)ち給(たま)ふ。子(ね)の刻(こく)ばかりになりぬれば、主(あるじ)の男(をとこ)帰(かへ)り、槙(まき)の板戸(いたど)を押(お)し開(ひら)き、内(うち)へ通(とほ)るを見(み)給(たま)へば、年(とし)廿四五ばかりなる男(をとこ)の、葦(あし)の落葉(おちば)付(つ)けたる浅黄(あさぎ)の直垂(ひたたれ)に萌黄威(もよぎをどし)の腹巻(はらまき)に太刀(たち)帯(は)いて、大(だい)の手鉾(てぼこ)杖(つゑ)につき、劣(おと)らぬ若党(わかたう)四五人、猪(ゐ)の目(め)彫(ほ)りたる鉞(まさかり)、焼刃(やきば)の薙鎌(ないかま)、長刀(なぎなた)、乳切木(ちぎりき)、材棒(さいぼう)、手々(てで)に取(と)り持(も)ちて、只今(ただいま)事(こと)に会(あ)うたる気色(けしき)なり。四天王(してんわう)の如(ごと)くにして出(い)で来(き)たり、女の身にて怖(お)ぢつるも理(ことわり)かな。
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や、彼奴(きやつ)は雄猛(けなげ)なるものかなとぞ御覧(ごらん)じける。彼(か)の男二間(ふたま)に人有(あ)りと見(み)て、沓脱(くつぬぎ)に登(のぼ)り上(あ)がりける。大(だい)の眼(まなこ)見(み)開(ひら)きて、太刀(たち)取(と)り直(なほ)し、「是(これ)へ」とぞ仰(おほ)せられける。男は怪(け)しからぬ人かなと思(おも)ひて返事(へんじ)も申(まう)さず、障子(しやうじ)引(ひ)き立(た)てて、足早(あしばや)に内(うち)に入(い)る。如何様(いかさま)にも女に逢(あ)うて憎(にく)げなる事(こと)言(い)はれんずらんと思召(おぼしめ)して、壁(かべ)に耳(みみ)を当(あ)てて聞(き)き給(たま)へば、「や御前(ごぜん)御前(ごぜん)」と押(お)し驚(おどろ)かせば、暫(しば)しは音(おと)もせず。遙(はる)かにして寝覚(ねざ)めたる風情(ふぜい)して、「如何(いか)に」と言(い)ふ。「二間(ふたま)に寝(ね)たる人は誰(たれ)」と言(い)ふ。「我(われ)も知(し)らぬ人なり」とぞ申(まう)しける。されども「知(し)られず、知(し)らぬ人をば男(をとこ)の無(な)き跡(あと)に誰(たれ)が計(はか)らひに置(お)きたるぞ」と世(よ)に悪(あ)しげに申(まう)しければ、あは事(こと)出(い)で来(き)たるぞと聞召(きこしめ)しける程(ほど)に、女申(まう)しけるは、「知(し)られず知(し)らぬ人なれども「日は暮(く)れぬ。行方(ゆきかた)は遠(とほ)し」と打(う)ち佗(わ)び給(たま)ひつれども、人のおはしまさぬ跡(あと)に泊(と)め参(まゐ)らせては、御言葉(おんことば)の末(すゑ)も
知(し)り難(がた)ければ、「叶(かな)はじ」と申(まう)しつれ共(ども)、「色(いろ)をも香(か)をも知(し)る人ぞ知(し)る」と仰(おほ)せられつる御言葉(おんことば)に恥(は)ぢて今宵(こよひ)の宿(やど)を参(まゐ)らせつるなり。如何(いか)なる事(こと)有(あ)りとも今宵(こよひ)ばかりは何(なに)か苦(くる)しかるべき」と申(まう)しければ、男(をとこ)、「さてもさても和御前(わごぜん)をば志賀(しが)の都(みやこ)の梟(ふくろ)、心(こころ)は東(あづま)の奥(おく)のものにこそ思(おも)ひつるに、「色(いろ)をも香(か)をも知(し)る人ぞ知(し)る」と仰(おほ)せられける言葉(ことば)の末(すゑ)を弁(わきま)へて、貸(か)しぬるこそ優(やさ)しけれ。何事(なにごと)有(あ)りとも苦(くる)しかるまじきぞ。今宵(こよひ)一夜(いちや)は明(あ)かさせ参(まゐ)らせよ」
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とぞ申(まう)しける。御曹司(おんざうし)、あはれ然(しか)るべき仏神(ぶつしん)の御恵(おんめぐ)みかな。憎(にく)げなる事(こと)をだにも言(い)はば、ゆゆしき大事(だいじ)は出(い)で来(こ)んと思召(おぼしめ)しけるに、主人(あるじ)言(い)ひけるは、「何様(なにさま)にも此(こ)の殿(との)は只人(ただひと)にてはなし。近(ちか)くは三日、遠(とほ)くは七日の内(うち)に事(こと)に逢(あ)うたる人にてぞ有(あ)るらん。我(われ)も人も世になしものの、珍事(ちんじ)中夭(ちゆうえう)に逢(あ)ふ事(こと)常(つね)の事(こと)なり。御酒(おんさけ)を申(まう)さばや」とて、様々(さまざま)の菓子(くわし)共(ども)調(ととの)へて、端者(はしたもの)に瓶子(へいじ)抱(いだ)かせて、女先(さき)に立(た)てて、二間(ふたま)に参(まゐ)り、御酒(おんさけ)勧(すす)め奉(たてまつ)れども、敢(あへ)て聞召(きこしめ)し給(たま)はず。主(あるじ)申(まう)しけるは、「御酒(おんさけ)聞召(きこしめ)し候(さうら)へ。如何様(いかさま)御用心(ごようじん)と覚(おぼ)え候(さうら)ふ。姿(すがた)こそ賎(あや)しの民(たみ)にて候(さうら)ふとも、此(こ)の身が候(さうら)はんずる程(ほど)は御宿直(おんとのゐ)仕(つかまつ)り候(さうら)ふべし。人は無(な)きか」と呼(よ)びければ、四天の如(ごと)くなる男五六人出(い)で来(き)たる。「御客人(ごきやくじん)を設(まう)け奉(たてまつ)るぞ。御用心(ごようじん)と覚(おぼ)え候(さうら)ふ。今宵(こよひ)は寝(ね)られ候(さうら)ふな。御宿直(おんとのゐ)仕(つかまつ)れ」と言(い)ひければ、「承(うけたまは)り
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候(さうら)ふ」と言(い)ひて、蟇目(ひきめ)の音(おと)、弓(ゆみ)の絃(つる)押(お)し張(は)りなんどして御宿直(おんとのゐ)仕(つかまつ)る。我(わ)が身も出居(でい)の蔀(しとみ)上(あ)げて、燈台(とうだい)二所に立(た)てて腹巻(はらまき)取(と)つて側(そば)に置(お)き、弓(ゆみ)押(お)し張(は)り、矢束(やたばね)解(と)いて押(お)し寛(くつろ)げて、太刀(たち)刀(かたな)取(と)りて膝(ひざ)の下(した)に置(お)き、あたりに犬(いぬ)吠(ほ)え、風の木末(こずゑ)を鳴(な)らすをも、「誰(たれ)、あれ斬(き)れ」とぞ申(まう)しける。其(そ)の夜は寝(ね)もせで明(あ)かしける。御曹司(おんざうし)、あはれ彼奴(きやつ)は雄猛者(けなげもの)かなと思召(おぼしめ)しけり。明(あ)くれば御立(おんたち)有(あ)らんとし給(たま)ふを、様々(さまざま)に止(と)め奉(たてまつ)り、仮初(かりそめ)の様(やう)なりつれども、此処(ここ)に二三日留(とど)まり給(たま)ひけり。主(あるじ)の男申(まう)しけるは、「抑(そもそも)都(みやこ)にては如何(いか)なる人にて渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)ふぞ。我(われ)等(ら)も知(し)る人も候(さうら)はねば、自然(しぜん)の時(とき)は尋(たづ)ね参(まゐ)るべし。今(いま)一両日御逗留(ごとうりう)候(さうら)へかし」と申(まう)す。「東山道(とうせんだう)へかからせ給(たま)ひ候(さうら)はば碓氷(うすい)の峠(たうげ)海道にかからば足柄(あしがら)まで送(おく)り参(まゐ)らすべし」と申(まう)すを都(みやこ)に無(な)からん
もの故(ゆゑ)に、尋(たづ)ねられんと言(い)はんも詮(せん)なし。此(こ)のものを見(み)るに二心なんどはよも有(あ)らじ、知(し)らせばやと思召(おぼしめ)し、「是(これ)は奥州(あうしう)の方(かた)へ下(くだ)る者(もの)なり。平治(へいぢ)の乱(らん)に亡(ほろ)びし下野(しもつけ)の左馬頭(さまのかみ)が末(すゑ)の子牛若(うしわか)とて、鞍馬(くらま)に学問(がくもん)して候(さうら)ひしが、今(いま)男(をとこ)になりて、左馬(さまの)九郎義経(よしつね)と申(まう)す也(なり)。奥州(あうしう)へ秀衡(ひでひら)を頼(たの)みて下(くだ)り候(さうら)ふ。今(いま)自然(しぜん)として知(し)る人になり奉(たてまつ)らめ」と仰(おほ)せけるを、聞(き)きも敢(あ)へず、つと御前に参(まゐ)りて、御袂(おんたもと)に取(と)り付(つ)き、はらはらと泣(な)き、「あら無慙(むざん)や、問(と)ひ奉(たてまつ)らずは、争(いか)でか
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知(し)り奉(たてまつ)るべきぞ。我々(われわれ)が為(ため)には重代(ぢゆうだい)の君(きみ)にて渡(わた)らせ給(たま)ひけるものをや。かく申(まう)せば、如何(いか)なる者(もの)ぞと思(おぼ)すらん。親にて候(さうら)ひし者(もの)は、伊勢(いせ)の国二見(ふたみ)の者(もの)にて候(さうら)ふ。伊勢(いせ)のかんらひ義連(よしつら)と申(まう)して、大神宮の神主(かんぬし)にて候(さうら)ひけるが、清水(きよみづ)へ詣(まう)で下向(げかう)しける、九条(くでう)の上人(しやうにん)と申(まう)すに乗合(のりあひ)して、是(これ)を罪科(ざいくわ)にて上野国(かうづけのくに)なりしまと申(まう)す所(ところ)に流(なが)され参らせて、年月を送(おく)り候(さうら)ひけるに、故郷(こきやう)忘(わす)れんが為(ため)に、妻子(さいし)を儲(まう)けて候(さうら)ひけるが、懐妊(くわいにん)して七月になり候(さうら)ふに、かんらひ遂(つひ)に御赦免(ごしやめん)も無(な)くて、此(こ)の所(ところ)にて失(うしな)ひ候(さうら)ひぬ。其(そ)の後産(さん)して候(さうら)ふを、母(はは)にて候(さうら)ふ者(もの)、胎内(たいない)に宿(やど)りながら、父に別(わか)れて果報(くわほう)つたなきものなりとて捨(す)て置(お)き候(さうら)ふを、母(はは)方(かた)の伯父(をぢ)不便(ふびん)に思(おも)ひ、取(と)り上(あ)げて育(そだ)て成人(せいじん)して、十三と候(さうら)ふに元服(げんぷく)せよと申(まう)し候(さうら)ひしに、「我(わ)が父(ちち)と言(い)ふ者(もの)如何(いか)なる人にて有(あ)りけるぞや」と申(まう)して候(さうら)へば、母涙(なみだ)に咽(むせ)び、とかくの返事(へんじ)も申(まう)さず。「汝(なんぢ)が父(ちち)は伊勢(いせの)国(くに)二見(ふたみ)の浦(うら)の者(もの)とかや。遠国(をんごく)の人にて有(あ)りしが、伊勢(いせ)のかんらひ義連(よしつら)と言(い)ひしなり。左馬頭殿(さまのかうのとの)の御不便(ごふびん)にせられ参(まゐ)らせたりけるが、思(おも)ひの外(ほか)の事(こと)有(あ)りて、此(こ)の国に有(あ)りし時(とき)、汝(おのれ)を妊(にん)して、七月と言(い)ひしに、遂(つひ)に空(むな)しく成(な)りしなり」と申(まう)ししかば、父(ちち)は伊勢(いせ)のかんらひと言(い)ひければ、我(われ)をば伊勢(いせ)の三郎と申(まう)す。父が義連(よしつら)と名告(なの)れば、我(われ)は義盛(よしもり)と名告(なの)り候(さうら)ふ。此(こ)の年頃(としごろ)平家(へいけ)の世になり、源氏(げんじ)は皆(みな)亡(ほろ)び果(は)てて、偶々(たまたま)残(のこ)り止(とどま)り
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給(たま)ひしも押(お)し篭(こ)められ、散(ち)り散(ぢ)りに渡(わた)らせ給(たま)ふと、承(うけたまは)りし程(ほど)に、便(たよ)りも知(し)らず、まして尋(たづ)ねて参(まゐ)る事(こと)もなし。心に物を思(おも)ひて候(さうら)ひつるに、今(いま)君(きみ)を見(み)参(まゐ)らせ、御目にかかり申(まう)す事(こと)三世の契(ちぎり)と存(ぞん)じながら、八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)の御引合(おんひきあはせ)とこそ存(ぞん)じ候(さうら)へ」とて、来(こ)し方(かた)行末(ゆくすゑ)の物語(ものがたり)互(たがひ)に申(まう)し開(ひら)き、只(ただ)仮初(かりそめ)の様(やう)に有(あ)りしかども、其(そ)の時(とき)御目にかかり始(はじ)めて、又心(またこころ)無(な)くして、奥州(あうしう)に御供(おんとも)して、治承(ぢしよう)四年(しねん)源平(げんぺい)の乱(らん)出(い)で来(き)しかば、御身(おんみ)に添(そ)ふ影(かげ)の如(ごと)くにて、鎌倉(かまくら)殿(どの)御仲(おんなか)不快(ふくわい)にならせ給(たま)ひし時(とき)までも、奥州(あうしう)に御供(おんとも)して、名を後(のち)の世に上(あ)げたりし、伊勢(いせ)の三郎義盛(よしもり)とは、其(そ)の時(とき)の宿(やど)の主(あるじ)なり。義盛(よしもり)内(うち)に入(い)りて、女房(にようばう)に向(むか)ひ、「如何(いか)なる人ぞと思(おも)ひつるに、我(わ)が為(ため)には相伝(さうでん)の御主(おんしゆう)にて渡(わた)らせ給(たま)ひける物(もの)を、されば御伴(おんとも)して奥州(あうしう)へ下(くだ)るべし。和御前(わごぜん)は是(これ)にて明年の春の頃(ころ)を待(ま)ち給(たま)へ。もし其(そ)の頃(ころ)も上(のぼ)らずは、はじめて人に見(み)え給(たま)へ。見(み)え給(たま)ふとも義盛(よしもり)が事(こと)忘(わす)れ給(たま)ふな」と申(まう)しければ、女泣(な)くより外の事(こと)ぞ無(な)き。「仮初(かりそめ)の旅(たび)だにも在(あ)りきの跡(あと)は恋(こひ)しきに、飽(あ)かで別(わか)るる面影(おもかげ)を何時(いつ)の世(よ)にかは忘(わす)るべき」と歎(なげ)きても甲斐(かひ)ぞ無(な)き。剛(かう)の者(もの)の癖(くせ)なれば、一筋(ひとすぢ)に思(おも)ひきつて、やがて御供(おんとも)してぞ下(くだ)りける。下野(しもつけ)の室(むろ)の八嶋(やしま)をよそに見(み)て、宇都宮(うつのみや)の大明神(だいみやうじん)を伏(ふ)し拝(おが)み行方(ゆきがた)の原(はら)に差(さ)しかかり、実方(さねかた)の中将(ちゆうじやう)の安達(あだち)の野辺(のべ)の白真弓(しらまゆみ)、
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押(お)し張(は)り素引(すひき)し肩(かた)にかけ、馴(な)れぬ程(ほど)は何(なに)おそれん、馴(な)れての後(のち)はおそるぞ悔(くや)しきと詠(なが)めけん、安達(あだち)の野辺(のべ)を見(み)て過(す)ぎ、浅香(あさか)の沼(ぬま)の菖蒲草(あやめぐさ)、影(かげ)さへ見ゆる浅香山(あさかやま)、着つつ馴(な)れにし忍(しの)ぶの里(さと)の摺衣(すりごろも)、など申(まう)しける名所(めいしよ)名所(めいしよ)を見(み)給(たま)ひて、伊達(だて)の郡(こほり)阿津賀志(あつかし)の中山(なかやま)越(こ)え給(たま)ひて、まだ曙(あけぼの)の事(こと)なるに、道(みち)行(ゆ)き通(とほ)るを聞(き)き給(たま)ひて、いさ追(お)ひ著(つ)いて物(もの)問(と)はん。此(こ)の山(やま)は当国(たうごく)の名山にて有(あ)るなるにとて、追(お)つ著(つ)いて見(み)給(たま)へば、御先(おんさき)に立(た)ちたる吉次(きちじ)にてぞ有(あ)りける。商人(あきんど)のならひにて、此処(ここ)彼処(かしこ)にて日を送(おく)りける程(ほど)に、九日先(さき)に発(た)ち参(まゐ)らせたるが、今(いま)追(お)ひ著(つ)き給(たま)ひける。吉次(きちじ)御曹司(おんざうし)を見(み)付(つ)け参(まゐ)らせて、世に嬉(うれ)しくぞ思(おも)ひける。御曹司(おんざうし)も御覧(ごらん)じて、嬉(うれ)しくぞ思召(おぼしめ)す。「陵(みささぎ)が事(こと)は如何(いか)に」と申(まう)しければ、「頼(たの)まれず候(さうら)ふ間(あひだ)、家に火をかけて散々(さんざん)に焼(や)き払(はら)ひ、是(これ)まで来(き)たるなり」と仰(おほ)せられければ、吉次(きちじ)今(いま)の心地(ここち)して、恐(おそ)ろしくぞ思(おも)ひける。「御供(おんとも)の人は如何(いか)なる人ぞ」と申(まう)せば、「上野(かうづけ)の足柄(あしがら)のものぞ」と仰(おほ)せられける。「今(いま)は御供(おんとも)要(い)るまじ。君(きみ)御著(おんつ)き候(さうら)ひて後(のち)、尋(たづ)ねて下(くだ)り給(たま)へ。後(あと)に妻女(さいぢよ)の嘆(なげ)き給(たま)ふべきも痛(いた)はしくこそ候(さうら)へ。自然(しぜん)の事(こと)候(さうら)はん時(とき)こそ御伴(おんとも)候(さうら)はめ」とてやうやうに止(とど)めければ、伊勢(いせ)の三郎をば上野(かうづけ)へぞ返(かへ)されける。それよりして治承(ぢしよう)+四年(しねん)を
待(ま)たれけるこそ久(ひさ)しけれ。かくて夜を日についで下(くだ)り給(たま)ふ程(ほど)に武隈(たけくま)の松(まつ)、阿武隈(あぶくま)と申(まう)す名所(めいしよ)名所(めいしよ)過(す)ぎて宮城野(みやぎの)の原(はら)、
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躑躅(つつじ)の岡(をか)を眺(なが)めて、千賀(ちが)の塩竃(しほかま)へ詣(まう)でし給(たま)ふ。あたりの松、籬(まがき)の島(しま)を見(み)て、見仏(けんぶつ)上人(しやうにん)の旧蹟(きうせき)松島(まつしま)を拝(おが)ませ給(たま)ひて、紫(むらさき)の大明神(だいみやうじん)の御前にて祈誓(きせい)申(まう)させ給(たま)ひて、姉歯(あねは)の松(まつ)を見(み)て、栗原(くりはら)にも著(つ)き給(たま)ふ。吉次(きちじ)は栗原(くりはら)の別当(べつたう)の坊(ばう)に入(い)れ奉(たてまつ)りて、我(わ)が身は平泉(ひらいづみ)へぞ下(くだ)りける。
義経(よしつね)秀衡(ひでひら)にはじめて対面(たいめん)の事(こと) S0206
吉次(きちじ)急(いそ)ぎ秀衡(ひでひら)に此(こ)の由(よし)申(まう)しければ、折節(をりふし)風の心地(ここち)し臥(ふ)したりけるが、嫡子(ちやくし)本吉(もとよし)の冠者(くわんじや)泰衡(やすひら)、二男泉(いづみ)の冠者(くわんじや)忠衡(ただひら)を呼(よ)びて申(まう)しけるは、「さればこそ過(す)ぎにし頃黄(き)なる鳩(はと)来(き)たつて秀衡(ひでひら)が家の上(うへ)に飛(と)び入(い)ると夢(ゆめ)に見(み)たりしかば、如何様(いかさま)源氏の音信(おとづれ)承(うけたまは)らんとするやらむと思(おも)ひつるに、頭殿(かうのとの)の君達(きんだち)御下(おんくだ)り有(あ)るこそ嬉(うれ)しけれ。掻(か)き起(お)こせ」とて、人の肩(かた)を押(おさ)へて、烏帽子(えぼし)取(と)りて引(ひ)つこみ、直垂(ひたたれ)取(と)つて打(う)ち掛(か)け申(まう)しけるは、「此(こ)の殿(との)は幼(をさな)くおはするとも、狂言(きやうげん)綺語(きぎよ)の戯(たはぶ)れも、仁(じん)義(ぎ)礼(れい)智(ち)信(しん)も正(ただ)しくぞおはすらん。此(こ)の程(ほど)の労(いたはり)に家のうちも見(み)苦(ぐる)しかるらん。庭の草払(はら)はせよ。すけひら、もとひら早々(はやはや)出(い)で立(た)ちて御迎(おんむかひ)に参(まゐ)れ。事々(ことごと)しからぬ様(やう)にて参(まゐ)れ」と申(まう)されければ、畏(かしこ)まつて承(うけたまは)り、其(そ)の勢(せい)三百五十余騎(よき)
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栗原寺(くりはらでら)へぞ馳(は)せ参(まゐ)る。御曹司(おんざうし)の御目にかかる。栗原(くりはら)の大衆(だいしゆ)五十人送(おく)り参(まゐ)らする。秀衡(ひでひら)申(まう)しけるは、「是(これ)まで遥々(はるばる)御入(おいり)候(さうら)ふ事(こと)返(かへ)す返(がへ)す畏(かしこ)まり入(い)り存(ぞん)じ候(さうら)ふ。両国(りやうごく)を手(て)に握(にぎ)りて候(さうら)へども思(おも)ふ様(やう)にも振舞(ふるま)はれず候(さうら)へ共(ども)、今(いま)は何(なに)の憚(はばかり)か候(さうら)ふべき」とて、泰衡(やすひら)を呼(よ)びて申(まう)しけるは、「両国(りやうごく)の大名(だいみやう)三百六十人を択(すぐ)りて、日々■飯(わうばん)を参(まゐ)らせて、君(きみ)を守護(しゆご)し奉(たてまつ)れ。御引出物(おんひきでもの)には十八万騎持(も)ちて候(さうら)ふ郎等(らうどう)を十万をば二人(ふたり)の子供(こども)に賜(たま)はり候(さうら)へ。今(いま)八万をば君(きみ)に奉(たてまつ)る。君(きみ)御事(おんこと)はさて置(お)きぬ。吉次(きちじ)が御供(おんとも)申(まう)さでは、争(いかで)か御下(おんくだ)り候(さうら)ふべき。秀衡(ひでひら)を秀衡(ひでひら)と思(おも)はん者(もの)は吉次(きちじ)に引手物(ひきでもの)せよ」と申(まう)しければ、嫡子(ちやくし)泰衡(やすひら)白皮(しろかは)百枚(ひやくまい)、鷲(わし)の羽(は)百尻(ひやくしり)、良(よ)き馬(うま)三疋(さんびき)、白鞍(しろくら)置(お)きて取(と)らせける。二男(じなん)忠衡(ただひら)も是(これ)に劣(おと)らず、引出物(ひきでもの)しけり。其(そ)の外(ほか)家の子郎等(らうどう)我(われ)劣(おと)らじと取(と)らせけり。秀衡(ひでひら)是(これ)を見(み)て、「獣(しし)の皮(かは)
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も鷲(わし)の尾(を)も、今(いま)はよも不足(ふそく)有(あ)らじ。御辺(ごへん)の好(この)む物なれば」とて、貝(かひ)摺(す)りたる唐櫃(からひつ)の蓋(ふた)に砂金(しやきん)一蓋(ひとふた)入(い)れて取(と)らせけり。吉次(きちじ)此(こ)の君(きみ)の御供(おんとも)し、道々(みちみち)の命(いのち)生(い)きたるのみならず、徳(とく)付(つ)きてかかる事(こと)にも逢(あ)ひけるものよ。多聞(たもん)の御利生(ごりしやう)とぞ思(おも)ひける。かくて商(あきな)ひせずとも、元手(もとで)儲(まう)けたり。不足(ふそく)有(あ)らじと思(おも)ひ、京へ急(いそ)ぎ上(のぼ)りけり。かくて今年(ことし)も暮(く)れければ、御年(おんとし)十七にぞなり給(たま)ふ。さても年月を送(おく)り給(たま)へども、秀衡(ひでひら)も申(まう)す旨(むね)もなし。御曹司(おんざうし)も「如何(いかが)有(あ)るべき」とも仰(おほ)せ出(い)だされず。中々(なかなか)都(みやこ)にだにも有(あ)るならば、学問(がくもん)をもし、見(み)たき事(こと)をも見(み)るべきに、かくても叶(かな)ふまじ、都(みやこ)へ上(のぼ)らばやとぞ思(おも)ひける。泰衡(やすひら)に言(い)ふとも叶(かな)ふまじ、知(し)らせずして行(ゆ)かばやと思食(おぼしめ)し、仮初(かりそめ)の歩(あり)きの様(やう)にて、京へ上(のぼ)らせ給(たま)ふとて、伊勢(いせ)の三郎が許(もと)におはして、しばらく休(やす)らひて、東山道(とうせんだう)にかかり、木曾(きそ)の冠者(くわんじや)の許(もと)におはして、謀反(むほん)の次第(しだい)仰(おほ)せあはされて都(みやこ)に上(のぼ)り、片(かた)ほとりの山科(やましな)に知(し)る人有(あ)りける所に渡(わた)らせ給(たま)ひて、京(きやう)の機嫌(きげん)をぞ窺(うかが)ひける。
義経(よしつね)鬼一(おにいち)法眼(ほふげん)が所へ御出(おいで)の事(こと) S0207
此処(ここ)に代々の御門(みかど)の御宝(おんたから)、天下に秘蔵(ひさう)せられたる十六巻(じふろつくわん)の書(しよ)有(あ)り。異朝(いてう)にも
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我(わ)が朝(てう)にも伝(つた)へし人一人として愚(おろ)かなる事(こと)なし。異朝(いてう)には太公望(たいこうばう)是(これ)を読(よ)みて、八尺(はつしやく)の壁(かべ)に上(のぼ)り、天に上(のぼ)る徳(とく)を得(え)たり。張良(ちやうりやう)は一巻の書と名付(なづ)け、是(これ)を読(よ)みて、三尺(さんじやく)の竹(たけ)に上(のぼ)りて、虚空(こくう)を翔(か)ける。樊■(はんくわい)是(これ)を伝(つた)へて甲胄(かつちう)をよろひ、弓箭(きゆうせん)を取(と)つて、敵(かたき)に向(むか)ひて怒(いか)れば、頭(かしら)の兜(かぶと)の鉢(はち)を通(とほ)す。本朝(ほんてう)の武士(ぶし)には、坂上(さかのうへの)田村丸(たむらまろ)、是(これ)を読(よ)み伝(つた)へて、悪事(あくじ)の高丸(たかまろ)を取(と)り、藤原(ふじはらの)利仁(としひと)是(これ)を読(よ)みて、赤頭(あかがしら)の四郎将軍(しやうぐん)を取(と)る。それより後(のち)は絶(た)えて久(ひさ)しかりけるを、下野(しもつけ)の住人(ぢゆうにん)相馬(さうま)の小次郎(こじらう)将門(まさかど)是(これ)を読(よ)み伝(つた)へて、我(わ)が身のせいたんむしやなるによつて朝敵(てうてき)となる。されども天命(てんめい)を背(そむ)く者(もの)の、ややもすれば世を保(たも)つ者(もの)少(すく)なし。当国(たうごく)の住人(ぢゆうにん)田原(たはらの)藤太(とうだ)秀郷(ひでさと)は勅宣(ちよくせん)を先(さき)として将門(まさかど)を追討(ついたう)の為(ため)に東国に下(くだ)る。相馬(さうま)の小二郎(こじらう)防(ふせ)ぎ戦(たたか)ふと雖(いへど)も、四年(しねん)に味方(みかた)滅(ほろ)びにけり。最後(さいご)の時(とき)威力(いりよく)を修(しゆ)してこそ一張(いつちやう)の弓(ゆみ)に八の矢(や)を矧(は)げて、一度に是(これ)を放(はな)つに八人の敵(かたき)をば射(い)たりけり。それより後(のち)は又(また)絶(た)えて久しく読(よ)む人もなし。只(ただ)徒(いたづら)に代々の帝(みかど)の宝蔵(ほうざう)に篭(こ)め置(お)かれたりけるを、其(そ)の頃(ころ)一条(いちでう)堀河(ほりかは)に陰陽師(おんやうじ)法師(ほふし)に鬼一(おにいち)法眼(ほふげん)とて文武(ぶんぶ)二道(にだう)の達者(たつしや)有(あ)り。天下(てんが)の御祈祷(ごきたう)して有(あ)りけるが、是(これ)を賜(たま)はりて秘蔵(ひさう)してぞ持(も)ちたりける。御曹司(おんざうし)是(これ)を聞(き)き給(たま)ひて、やがて山科(やましな)を出(い)でて、法眼(ほふげん)が許(もと)に佇(たたず)みて見(み)給(たま)へば、京(きやう)中(ぢゆう)なれども居(ゐ)たる所(ところ)もしたたかに拵(こしら)へ、四方(しはう)に堀(ほり)を掘(ほ)りて水をたたへ、
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八の櫓(やぐら)を上(あ)げて、夕(ゆふべ)には申(さる)の刻(こく)、酉(とり)の時(とき)になれば、橋(はし)を外(はづ)し、朝(あした)には巳午(みむま)の時(とき)まで門(もん)を開(ひら)かず。人の言(い)ふ事(こと)耳(みみ)の外処(よそ)になしてゐたる大華飾(だいくわしよく)の者(もの)なり。御曹司(おんざうし)差(さ)し入(い)りて見(み)給(たま)へば、侍(さぶらひ)の縁(えん)の際(きは)に、十七八ばかりなる童(わらは)一人佇(たたず)みて有(あ)り。扇(あふぎ)差(さ)し上(あ)げて招(まね)き給(たま)へば、「何事(なにごと)ぞ」と申(まう)しける。「汝(おのれ)は内(うち)のものか」と仰(おほ)せられければ、「さん候(ざうらふ)」と申(まう)す。「法眼(ほふげん)は是(これ)にか」と仰(おほ)せられければ、「是(これ)に」と申(まう)す。「さらば汝(おのれ)に頼(たの)むべき事(こと)有(あ)り。法眼(ほふげん)に言(い)はんずる様(やう)は、門に見(み)も知(し)らぬ冠者(くわんじや)物申(まう)さんと言(い)ふと急(いそ)ぎ言(い)ひて帰(かへ)れ」と仰(おほ)せられける。童(わらは)申(まう)しけるは、「法眼(ほふげん)は華飾(くわしよく)世に越(こ)えたる人にて、然(しか)るべき人達(たち)の御入の時(とき)だにも子供(こども)を代官(だいくわん)に出(い)だし、我(われ)は出(い)で合(あ)ひ参(まゐ)らせぬくせ人にて候(さうら)ふ。まして各々(おのおの)の様(やう)なる人の御出(おいで)を賞翫(しやうくわん)候(さうら)ひて対面(たいめん)有(あ)る事(こと)候(さうら)ふまじ」と申(まう)しければ、御曹司(おんざうし)、「彼奴(きやつ)は不思議(ふしぎ)の者(もの)の言(い)ひ様(やう)かな。主(ぬし)も言(い)はぬ先(さき)に人の返事(へんじ)をする事(こと)は如何(いか)に。入(い)りて此(こ)の様(やう)を言(い)ひて帰(かへ)れ」とぞ仰(おほ)せける。「申(まう)す共(とも)御用(ごもち)ゐ有(あ)るべしとも覚(おぼ)えず候(さうら)へ共(ども)、申(まう)して見(み)候(さうら)はん」とて、内(うち)に入(い)り、主(しゆう)の前(まへ)に跪(ひざまづ)き、「かかる事(こと)こそ候(さうら)はね。門に年頃(としごろ)十七八かと覚(おぼ)え候(さうら)ふ小冠者(こくわんじや)一人佇(たたず)み候(さうら)ふが、「法眼(ほふげん)はおはするか」と問(と)ひ奉(たてまつ)り候(さうら)ふ程(ほど)に、「御渡(おんわた)り候(さうら)ふ」と申(まう)して候(さうら)へば、御対面(ごたいめん)有(あ)るべきやらん」と申(まう)しける。「法眼(ほふげん)を洛中(らくちゆう)にて見(み)下(さ)げて、さ様(やう)に
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言(い)ふべき人こそ覚(おぼ)えね。人の使(つか)ひか、己(おのれ)が詞(ことば)か、よく聞(き)き返(かへ)せ」と申(まう)しける。童(わらは)、「此(こ)の人の気色(けしき)を見(み)候(さうら)ふに、主(しゆう)など持(も)つべき人にてはなし。又(また)郎等(らうどう)かと見(み)候(さうら)へば、折節(をりふし)に直垂(ひたたれ)を召(め)して候(さうら)ふが、皃達(ちごたち)かと覚(おぼ)え候(さうら)ふ。鉄漿黒(かねぐろ)に眉(まゆ)取(と)りて候(さうら)ふが、良(よ)き腹巻(はらまき)に黄金作(こがねづく)りの太刀(たち)を帯(は)かれて候(さうら)ふ。あはれ、此(こ)の人は源氏(げんじ)の大将軍(だいしやうぐん)にておはしますらん。此(こ)の程(ほど)世を乱(みだ)さんと承(うけたまは)り候(さうら)ふが、法眼(ほふげん)は世に越(こ)えたる人にて御渡(おんわた)り候(さうら)へば、一方(いつぱう)の大将軍(だいしやうぐん)とも頼(たの)み奉(たてまつ)らんずる為(ため)に御入候(さうら)ふやらん。御対面(ごたいめん)候(さうら)はん時(とき)も世になし者(もの)など仰(おほ)せられ候(さうら)ひて、持(も)ち給(たま)へる太刀(たち)の脊(むね)にて一打(ひとうち)も当(あ)てられさせ給(たま)ふな」と申(まう)しける。法眼(ほふげん)是(これ)を聞(き)きて、「雄猛者(けなげもの)ならば行(ゆ)きて対面(たいめん)せん」とて出(い)で立(た)つ。生絹(すずし)の直垂(ひたたれ)に緋威(ひをどし)の腹巻(はらまき)著(き)て、金剛(こんごう)履(は)いて、頭巾(づきん)耳(みみ)の際(きは)まで引(ひ)つこうで、大手鉾(おほてぼこ)杖(つゑ)に突(つ)きて、縁(えん)とうとうと踏(ふ)みならし、
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暫(しばら)く守(まぼ)りて、「抑(そもそも)法眼(ほふげん)に物(もの)言(い)はんと言(い)ふなる人は侍(さぶらひ)か、凡下(ぼんげ)か」とぞ言(い)ひける。御曹司(おんざうし)門の際(きは)よりするりと出(い)でて、「某(それがし)申(まう)し候(さうら)ふぞ」とて縁(えん)の上(うへ)に上(のぼ)り給(たま)ひける。法限(ほふげん)是(これ)を見(み)て、縁(えん)より下に出(い)でてこそ畏(かしこ)まらんずるに、思(おも)ひの外(ほか)に法眼(ほふげん)にむずと膝(ひざ)をきしりてぞ居(ゐ)たりける。「御辺(ごへん)は法眼(ほふげん)に物(もの)言(い)はんと仰(おほ)せられける人か」と申(まう)しければ、「さん候(ざうらふ)」「何事(なにごと)仰(おほ)せ候(さうら)ふべき。弓(ゆみ)一張(いつちやう)、矢(や)の一筋(ひとすぢ)などの御所望(ごしよまう)か」と申(まう)しければ、「やあ御坊(ごばう)、それ程(ほど)の事(こと)企(くわだ)てて、是(これ)まで来(き)たらんや。誠(まこと)か御坊(ごばう)は異朝(いてう)の書、将門(まさかど)が伝(つた)へし六韜(りくたう)兵法(ひやうほふ)と言(い)ふ文、殿上(てんしやう)より賜(たま)はりて秘蔵(ひさう)して持(も)ち給(たま)ふとな。其(そ)の文私(わたくし)ならぬものぞ。御坊(ごばう)持(も)ちたればとて読(よ)み知(し)らずは、教(をし)へ伝(つた)へべき事(こと)も有(あ)るまじ。理を抂(ま)げて某(それがし)に其(そ)の文見(み)せ給(たま)へ。一日のうちに読(よ)みて、御辺(ごへん)にも知(し)らせ教(をし)へて返(かへ)さんぞ」と仰(おほ)せ有(あ)りければ、法眼(ほふげん)歯噛(はがみ)をして申(まう)しけるは、「洛中(らくちゆう)に是(これ)程(ほど)の狼籍者(らうぜきもの)を誰(たれ)が計(はか)らひとして門より内(うち)へ入れけるぞ。」と言(い)ふ。御曹司(おんざうし)思召(おぼしめ)しけるは、「憎(にく)い奴(やつ)かな。望(のぞみ)をかくる六韜(りくたう)こそ見(み)せざらめ。剰(あまつさ)へ荒言葉(あらことば)を言(い)ふこそ不思議(ふしぎ)なれ。何(なに)の用(よう)に帯(は)きたる太刀(たち)ぞ。しやつ切(き)つてくればや」と思召(おぼしめ)しけるが、よしよし、しかじか、一字(いちじ)をも読(よ)まず共(とも)、法眼(ほふげん)は師(し)なり、義経(よしつね)は弟子なり。それを背(そむ)きたらば、堅牢地神(けんらうぢじん)の恐(おそれ)もこそあれ。法眼(ほふげん)を助(たす)けてこそ六韜(りくたう)兵法(ひやうほふ)の在所(ありどころ)も知(し)らんずれ
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と思召(おぼしめ)し直(なほ)し、法眼(ほふげん)を助(たす)けてこそ居(ゐ)られけるは、継(つ)ぎたる首(くび)かなと見(み)えし。其(そ)の儘(まま)人(ひと)知(し)れず法眼(ほふげん)が許(もと)にて明(あ)かし暮(くら)し給(たま)ひける。出(い)でてより飯(いひ)をしたため給(たま)はねども、痩(や)せ衰(おとろ)へもし給(たま)はず。日に従(したが)ひて美(いつく)しき衣がへなんど召(め)されけり。何処(いづく)へおはしましけるやらんとぞ人々(ひとびと)怪(あや)しみをなす。夜は四条(しでう)の聖(ひじり)の許(もと)にぞおはしける。かくて法眼(ほふげん)が内(うち)に幸寿前(かうじゆのまへ)とて女有(あ)り。次の者(もの)ながら情(なさけ)有(あ)る者(もの)にて、常(つね)は訪(とぶら)ひ奉(たてまつ)りけり。自然(しぜん)知(し)る人(ひと)になる儘(まま)、御曹司(おんざうし)物語(ものがたり)の序(ついで)に、「抑(そもそも)法眼(ほふげん)は何(なに)と言(い)ふ」と仰(おほ)せられければ、「何とも仰(おほ)せ候(さうら)はぬ」と申(まう)す。「さりながらも」と問(と)はせ給(たま)へば、「過(す)ぎし頃(ころ)は「有(あ)らば有(あ)ると見よ。無(な)くば無(な)きと見(み)て、人々(ひとびと)物な言(い)ひそ」とこそ仰(おほ)せ候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「義経(よしつね)に心(こころ)許(ゆる)しもせざりけるごさんなれ。誠(まこと)は法眼(ほふげん)に子は幾人(いくたり)有(あ)る」と問(と)ひ給(たま)へば、「男子二人(ふたり)女子三人」「男(をとこ)二人(ふたり)家(いへ)に有(あ)るか」「はやと申(まう)す所(ところ)に、印地(いんぢ)の大将(たいしやう)して御入(おい)り候(さうら)ふ」「又三人の女子は何処(いづく)に有(あ)るぞ」「所々に幸(さいは)ひて、皆(みな)上臈婿(じやうらうむこ)を取(と)りて渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)ふ」と申(まう)せば、「婿(むこ)は誰(た)そ」「嫡女(ちやくによ)は平宰相(へいざいしやう)信業卿(のぶなりのきやう)の方(かた)、一人は鳥養(とりかひ)中将(ちゆうじやう)に幸(さいは)ひ給(たま)へる」と申(まう)せば、「何条(なんでう)法眼(ほふげん)が身として上臈婿(じやうらうむこ)取(と)る事(こと)過分(くわぶん)なり。法眼(ほふげん)世に超(こ)えて、痴(し)れ事をするなれば、人々(ひとびと)に面(つら)打(う)たれん時(とき)、方人(かたうど)して家の恥(はぢ)をも清(きよ)め
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んとは、よも思(おも)はじ。それよりも我々(われわれ)斯様(かやう)に有(あ)る程(ほど)に婿(むこ)に取(と)りたらば、舅(しうと)の恥(はぢ)を雪(すす)がんものを。舅(しうと)に言(い)へ」と仰(おほ)せられければ、幸寿(かうじゆ)此(こ)の事(こと)を承(うけたまは)りて、「女にて候(さうら)ふとも、然様(さやう)に申(まう)して候(さうら)はんずるには、首(くび)を切(き)られ候(さうら)はんずる人にて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「斯様(かやう)に知(し)る人になるも、此(こ)の世ならぬ契(ちぎり)にてぞ有(あ)るらめ。隠(かく)して詮(せん)なし。人々(ひとびと)に知(し)らすなよ。我(われ)は左馬頭(さまのかみ)の子、源九郎と言(い)ふ者(もの)なり。六韜(りくたう)兵法(ひやうほふ)と言(い)ふものに望(のぞ)みをなすに依(よ)りて、法眼(ほふげん)も心(こころ)よからねども、斯様(かやう)にて有(あ)るなり。其(そ)の文の在所(ありどころ)知(し)らせよ」とぞ仰(おほ)せける。「如何(いか)でか知(し)り候(さうら)ふべき。それは法眼(ほふげん)の斜(なのめ)ならず重宝(ちようほう)とこそ承(うけたまは)りて候(さうら)へ」と申(まう)せば、「扨(さて)は如何(いかが)せん」とぞ仰(おほ)せける。「さ候(さうら)はば、文を遊(あそ)ばし給(たま)ひ候(さうら)へ。法眼(ほふげん)の斜(なのめ)ならず、いつきの姫君(ひめぎみ)の末(すゑ)の、人にも見(み)えさせ給(たま)はぬを、賺(すか)して御返事(ごへんじ)取(と)りて参(まゐ)らせ候(さうら)はん」と申(まう)す。「女性(によしやう)の習(なら)ひなれば、近(ちか)づかせ給(たま)ひ候(さうら)はば、などか此(こ)の文(ふみ)御覧(ごらん)ぜで候(さうら)ふべき」と申(まう)せば、次(つぎ)の者(もの)ながらも、斯様(かやう)に情(なさけ)有(あ)る者(もの)も有(あ)りけるかやと、文(ふみ)遊(あそ)ばして賜(たま)はる。我(わ)が主の方(かた)に行(ゆ)き、やうやうに賺(すか)して、御返事(ごへんじ)取(と)りて参(まゐ)らする。御曹司(おんざうし)それよりして法眼(ほふげん)の方(かた)へは差(さ)し出(い)で給(たま)はず。只(ただ)大方(おほかた)に引(ひ)き篭(こも)りてぞおはしける。法眼(ほふげん)が申(まう)しけるは、「斯(か)かる心地(ここち)良(よ)き事(こと)こそ無(な)けれ。目にも見(み)えず、音(おと)にも聞(き)こえざらん方(かた)に行(ゆ)き失(う)せよかしと思(おも)ひつるに、
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失(うしな)ひたるこそ嬉(うれ)しけれ」とぞ宣(のたま)ひける。御曹司(おんざうし)、「人にしのぶ程(ほど)げに心(こころ)苦(ぐる)しきものはなし。何時(いつ)まで斯(か)くて有(あ)るべきならねば、法眼(ほふげん)に斯(か)くと知(し)らせばや」とぞ宣(のたま)ひける。姫君(ひめぎみ)は御袂(おんたもと)にすがり悲(かな)しみ給(たま)へども、「我(われ)は六韜(りくたう)に望(のぞみ)有(あ)り。さらばそれを見(み)せ給(たま)ひ候(さうら)はんにや」と宣(のたま)ひければ、明日(あす)聞(き)こえて、父(ちち)に亡(うしな)はれん事(こと)力(ちから)なしと思(おも)ひけれども、幸寿(かうじゆ)を具(ぐ)して、父(ちち)の秘蔵(ひさう)しける宝蔵(ほうざう)に入(い)りて、重々(ぢゆうぢゆう)の巻物(まきもの)の中に鉄巻(かねまき)したる唐櫃(からひつ)に入(い)りたる六韜(りくたう)兵法(ひやうほふ)一巻の書(しよ)を取(と)り出(い)だして奉(たてまつ)る。御曹司(おんざうし)悦(よろこ)び給(たま)ひて、引(ひ)き拡(ひろ)げて御覧(ごらん)じて、昼(ひる)は終日(ひねもす)に書(か)き給(たま)ふ。夜は夜(よ)もすがら是(これ)を服(ふく)し給(たま)ひ、七月上旬(じやうじゆん)の頃(ころ)より是(これ)を読(よ)み始(はじ)めて、十一月十日頃(ころ)になりければ、十六巻(じふろくまき)を一字(いちじ)も残(のこ)さず、覚(おぼ)えさせ給(たま)ひての後は、此処(ここ)に有(あ)り、彼処(かしこ)に有(あ)るとぞ振舞(ふるま)はれける程(ほど)に、法眼(ほふげん)も早(はや)心得(こころえ)て、「さもあれ、其(そ)の男は何故(なにゆゑ)に姫(ひめ)が方(かた)には有(あ)るぞ」と怒(いか)りける。或(あ)る人申(まう)しけるは、御方(おんかた)におはします人は、左馬頭(さまのかみ)の君達(きんだち)と承(うけたまは)り候(さうら)ふ由(よし)申(まう)せば、法眼(ほふげん)聞(き)きて、世になし者(もの)の源氏(げんじ)入(い)り立(た)ちて、すべて六波羅(ろくはら)へ聞(き)こえなば、よかるべき。今生(こんじやう)は子なれ共(ども)、後(のち)の世の敵(かたき)にて有(あ)りけりや。切(き)つて捨(す)てばやと思(おも)へ共(ども)、子を害(がい)せん事(こと)五逆罪(ごぎやくざい)のがれ難(がた)し。異姓(いしやう)他人(たにん)なれば、是(これ)を切(き)つて平家(へいけ)の御見参に入(い)つて、勲功(くんこう)に預(あづ)からばやと思(おも)ひて伺(うかが)ひけれども、我(わ)が身は行にて叶(かな)はず。あはれ、心も剛(かう)ならん者(もの)もがな、
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斬(き)らせばやと思(おも)ふ。其(そ)の頃(ころ)北白河(きたしらかは)に世に越(こ)えたる者有(あ)り。法眼(ほふげん)には妹婿(いもうとむこ)なり。しかも弟子なり。名をば湛海(たんかい)坊(ばう)とぞ申(まう)しける。彼(かれ)が許(もと)へ使(つか)ひを遣(つか)はしければ、程(ほど)無(な)く湛海(たんかい)来(き)たり、四間なる所(ところ)へ入(い)れて様々(さまざま)にもてなして申(まう)しけるは、「御辺(ごへん)を呼(よ)び奉(たてまつ)る事(こと)別(べち)の子細(しさい)に有(あ)らず。去(さ)んぬる春(はる)の頃(ころ)より法眼(ほふげん)が許(もと)に然(さ)る体(てい)なる冠者(くわんじや)一人、下野(しもつけ)の左馬頭(さまのかみ)の君達(きんだち)など申(まう)す。助(たす)け置(お)き悪(あ)しかるべし。御辺(ごへん)より外(ほか)頼(たの)むべく候(さうら)ふ人なし。夕(ゆふ)さり五条(ごでう)の天神へ参(まゐ)り、此(こ)の人を賺(すか)し出(い)だすべし。首(くび)を切(き)つて見(み)せ給(たま)へ。さも有(あ)らば五六年望(のぞ)み給(たま)ひし六韜(りくたう)兵法(ひやうほふ)をも御辺(ごへん)に奉(たてまつ)らん」と言(い)ひければ、「さ承(うけたまは)りぬ。善悪(ぜんあく)罷(まか)り向(むか)ひてこそ見(み)候(さうら)はめ。抑(そもそも)如何様(いかやう)なる人にておはしまし候(さうら)ふぞ」と申(まう)しければ、「未(いま)だ堅固(けんご)若(わか)き者(もの)、十七八かと覚(おぼ)え候(さうら)ふ。良(よ)き腹巻(はらまき)に黄金造(こがねづく)りの太刀(たち)の心(こころ)も及(およ)ばぬを持(も)ちたるぞ。心(こころ)許(ゆる)し給(たま)ふな」と言(い)ひければ、湛海(たんかい)是(これ)を聞(き)きて申(まう)しけるは、「何条(なんでう)それ程(ほど)の男(をとこ)の分(ぶん)に過(す)ぎたる太刀(たち)帯(は)いて候(さうら)ふとも何事(なにごと)か有(あ)るべき。一太刀(ひとたち)にはよも足(た)り候(さうら)はじ。ことごとし」と呟(つぶや)きて、法眼(ほふげん)が許(もと)を出(い)でにけり。法眼(ほふげん)賺(すか)しおほせたりと世に嬉(うれ)しげにて、日頃(ひごろ)は音(おと)にも聞(き)かじとしける御曹司(おんざうし)の方(かた)へ申(まう)しけるは、見参(げんざん)に入(い)り候(さうら)ふべき由(よし)を申(まう)しければ、出(い)でて何(なに)にかせんと思召(おぼしめ)しけれども、呼(よ)ぶ
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に出(い)でずは臆(おく)したるにこそと思召(おぼしめ)し、「やがて参(まゐ)り候(さうら)ふべき」とて使(つかひ)を返(かへ)し給(たま)ひける。此(こ)の由(よし)を申(まう)しければ、世に心地(ここち)よげにて、日頃(ひごろ)の見参所(けんざんどころ)へ入(い)れ奉(たてまつ)り、尊(たつと)げに見(み)えんが為(ため)に、素絹(そけん)の衣に袈裟(けさ)懸(か)けて、机(つくえ)に法華経(ほけきやう)一部置(お)いて一の巻の紐(ひも)を解(と)き、妙法蓮華経(めうほうれんげきやう)と読(よ)み上(あ)ぐる所へ、はばかる所無(な)くつつと入(い)り給(たま)へば、法眼(ほふげん)片膝(かたひざ)をたて、「是(これ)へ是(これ)へ」と申(まう)しける。即(すなは)ち法眼(ほふげん)と対座(たいざ)に直(なほ)らせ給(たま)ふ。法眼(ほふげん)が申(まう)しけるは、「去(さ)んぬる春(はる)の頃(ころ)より御入(おんいり)候(さうら)ふとは見(み)参(まゐ)らせ候(さうら)へども、如何(いか)なる跡(あと)なし人にて渡(わた)らせ給(たま)ふやらんと思(おも)ひ参(まゐ)らせ候(さうら)へば、忝(かたじけな)くも左馬頭殿(さまのかうのとの)の君達(きんだち)にて渡(わた)らせ給(たま)ふこそ忝(かたじけな)き事(こと)にて候(さうら)へ。此(こ)の僧(そう)程(ほど)の浅(あさ)ましき次(つぎ)の者(もの)などを親子(おやこ)の御契(おんちぎ)りの由(よし)承(うけたまは)り候(さうら)ふ。まことしからぬ事(こと)にて候(さうら)へども、誠(まこと)に京にも御入(おい)り候(さうら)はば、万事頼(たの)み奉(たてまつ)り存(ぞん)じ候(さうら)ふ。さても北白河(きたしらかは)に湛海(たんかい)と申(まう)す奴(やつ)御入(おい)り候(さうら)ふが、何故(なにゆゑ)共(とも)無(な)く法眼(ほふげん)が為(ため)に仇(あた)を結(むす)び候(さうら)ふ。あはれ失(うしな)はせて給(たま)はり候(さうら)へ。今宵(こよひ)五条(ごでう)の天神に参(まゐ)り候(さうら)ふなれば、君(きみ)も御参(おまゐ)り候(さうら)ひて、彼奴(きやつ)を切(き)つて首(くび)を取(と)つて賜(たま)はり候(さうら)はば、今生(こんじやう)の面目(めんぼく)申(まう)し尽(つ)くし難(がた)く候(さうら)ふ」とぞ申(まう)されける。あはれ人の心(こころ)も計(はか)り難(がた)く思召(おぼしめ)しけれども、「さ承(うけたまは)り候(さうら)ふ。身において叶(かな)ひ難(がた)く候(さうら)へども、罷(まか)り向(むか)ひて見(み)候(さうら)はめ。何程(ほど)の事(こと)か候(さうら)ふべき。しやつも印地(いんぢ)をこそ為(し)習(なら)うて候(さうら)ふらめ。義経(よしつね)は先(さき)に天神(てんじん)に参(まゐ)り、下向(げかう)し様(ざま)にしやつが首(くび)切(き)りて参(まゐ)らせ
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候(さうら)はん事、風の塵(ちり)払(はら)ふ如(ごと)くにてこそ有(あ)らめ」と言葉(ことば)を放(はな)つて仰(おほ)せければ、法眼(ほふげん)、何(なに)と和君(わぎみ)が支度(したく)するとも、先(さき)に人をやりて待(ま)たすればと、世に痴(をこ)がましくぞ思(おも)ひける。「然(さ)候(さうら)はば、やがて帰(かへ)り参(まゐ)らん」とて出(い)で給(たま)ひ、其(そ)の儘(まま)天神(てんじん)にと思(おぼ)しけれども、法眼(ほふげん)が娘(むすめ)に御志(おんこころざし)深(ふか)かりければ、御方(おかた)へ入(い)らせ給(たま)ひて、「只今(ただいま)天神(てんじん)にこそ参(まゐ)り候(さうら)へ」と宣(のたま)へば、「それは何故(なにゆゑ)ぞ」と申(まう)しければ、「法眼(ほふげん)の「湛海(たんかい)切(き)れ」と宣(のたま)ひてによつてなり」と仰(おほ)せられければ、聞(き)きも敢(あ)へず、さめざめと泣(な)きて、「悲(かな)しきかなや。父(ちち)の心を知(し)りたれば、人の最後(さいご)も今(いま)を限(かぎ)りなり。是(これ)を知(し)らせんとすれば、父(ちち)に不孝(ふけう)の子なり。知(し)らせじと思(おも)へば、契(ちぎ)り置(お)きつる言(こと)の葉(は)、皆(みな)偽(いつはり)となり果(は)てて、夫妻(ふさい)の恨(うらみ)、後(のち)の世(よ)まで残(のこ)るべき。つくづく思(おも)ひ続(つづ)くるに、親子は一世(いつせ)、男(をとこ)は二世(にせ)の契(ちぎ)りなり。とても人に別(わか)れて、片時(かたとき)も世(よ)に永(なが)らへて有(あ)らばこそ、憂(う)きも辛(つら)きも忍(しの)ばれめ。親(おや)の命を思(おも)ひ棄(す)てて、斯(か)くと知(し)らせ奉(たてまつ)る。只(ただ)是(これ)より何方(いづかた)へも落(お)ちさせ給(たま)へ。昨日(きのふ)昼(ひる)程(ほど)に湛海(たんかい)を呼(よ)びて、酒(さけ)を勧(すす)められしに、怪(あや)しき言葉(ことば)の候(さうら)ひつるぞ。「堅固(けんご)の若者(わかもの)ぞ」と仰(おほ)せ候(さうら)ひつる。湛海(たんかい)「一刀(ひとかたな)には足(た)らじ」と言(い)ひしは、思(おも)へば御身(おんみ)の上。かく申(まう)せば、女の心(こころ)の中(うち)却(かへ)りて景迹(きやうしやく)せさせ給(たま)ふべきなれども、「賢臣(けんじん)二君(じくん)に仕(つか)へず。貞女(ていじよ)両夫(りやうぶ)に見(まみ)えず」と申(まう)す事(こと)の候(さうら)へば、知(し)らせ奉(たてまつ)るなり」とて、
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袖を顔(かほ)に押(お)し当(あ)てて、忍(しの)びも敢(あ)へず泣(な)き居(ゐ)たり。御曹司(おんざうし)是(これ)を聞召(きこしめ)し、「もとより、打(う)ち解(と)け思(おも)はず知(し)らず候(さうら)ふこそ迷(まよ)ひもすれ。知(し)りたりせば、しやつ奴(め)には斬(き)られまじ。疾(と)くこそ参(まゐ)り候(さうら)はん」とて出(い)で給(たま)ふ。頃(ころ)は十二月廿七日の夜ふけがたの事(こと)なれば、御装束(おんしやうぞく)は白小袖(しろこそで)一重(ひとかさね)、藍摺(あひずり)引(ひ)き重(かさ)ね、精好(せいがう)の大口(おほくち)に唐織物(からおりもの)の直垂(ひたたれ)着篭(きご)めにして、太刀(たち)脇挟(わきばさ)み、暇(いとま)申(まう)して出(い)で給(たま)へば、姫君(ひめぎみ)は是(これ)や限(かぎ)りの別(わか)れなるらんと悲(かな)しみ給(たま)へり。妻戸(つまど)に衣(きぬ)被(かづ)きてひれ臥(ふ)し給(たま)ひけり。御曹司(おんざうし)は天神に跪(ひざまづ)き、祈念(きねん)申(まう)させ給(たま)ひけるは、「南無(なむ)大慈(だいじ)大悲(だいひ)の天神(てんじん)、利生(りしやう)の霊地(れいち)、即(すなはち)機縁(きえん)の福(ふく)を蒙(かうぶ)り、礼拝(らいはい)の輩(ともがら)は千万の諸願(しよぐわん)成就(じやうじゆ)す。此処(ここ)に社壇(しやだん)ましますと、名付(なづ)けて、天神(てんじん)と号(かう)し奉(たてまつ)る。願(ねが)はくは湛海(たんかい)を義経(よしつね)に相違(さうゐ)無(な)く手(て)にかけさせて賜(た)べ」と祈念(きねん)し、御前(おまえ)を発(た)つて南(みなみ)へ向(む)いて、四五段(しごたん)ばかり歩(あゆ)ませ給(たま)へば、大木一本(いつぽん)有(あ)り。下(もと)の仄暗(ほのくら)き所(ところ)五六人程(ほど)隠るべき所(ところ)を御覧(ごらん)じて、あはれ所や、此処(ここ)に待(ま)ちて切(き)つてくればやと思召(おぼしめ)し、太刀(たち)を抜(ぬ)き待(ま)ち給(たま)ふ所(ところ)に湛海(たんかい)こそ出(い)で来(き)たれ。究竟(くつきやう)の者(もの)五六人に服巻(はらまき)着(き)せて、前後(ぜんご)に歩(あゆ)ませて、我(わ)が身は聞(き)こゆる印地(いんぢ)の大将(たいしやう)なり、人には一様(いちやう)変(か)はりて出(い)で立(た)ちけり。褐(かちん)の直垂(ひたたれ)に節縄目(ふしなはめ)の腹巻(はらまき)着て、赤銅造(しやくどうづく)りの太刀(たち)帯(は)いて、一尺(いつしやく)+三寸(さんずん)有(あ)りける刀(かたな)に、御免様(ごめんやう)革(なめし)にて、表鞘(おもてざや)を包(つつ)みてむずとさし、大長刀(おほなぎなた)の鞘(さや)をはづし、杖(つゑ)
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に突(つ)き、法師(ほふし)なれども常(つね)に頭(かしら)を剃(そ)らざりければ、をつつかみ頭(かしら)に生(お)ひたるに、出張(しゆつちやう)頭巾(ときん)ひつ囲(かこ)み、鬼の如(ごと)くに見(み)えける。差(さ)し屈(くぐ)みて御覧(ごらん)ずれば、首(くび)のまはりにかかる物(もの)も無(な)く世に切(き)りよげなり。如何(いか)に切(き)り損(そん)ずべきと待(ま)ち給(たま)ふも知(し)らずして、御曹司(おんざうし)の立(た)ち給(たま)へる方(かた)へ向(むか)いて、「大慈(だいじ)大悲(だいひ)の天神(てんじん)、願(ねが)はくは聞(き)こゆる男、湛海(たんかい)が手(て)にかけて賜(た)べ」とぞ祈誓(きせい)しける。御曹司(おんざうし)是(これ)を御覧(ごらん)じて、如何(いか)なる剛(かう)の者(もの)も只今(ただいま)死(し)なんずる事(こと)は知(し)らずや、直(ぢき)に斬(き)らばやと思召(おぼしめ)しけるが、暫(しばら)く我(わ)が頼(たの)む天神(てんじん)を大慈(だいじ)大悲(だいひ)と祈念(きねん)するに、義経(よしつね)は悦(よろこ)びの道(だう)なり。彼奴(きやつ)は参(まゐ)りの道(だう)ぞかし。未(いま)だ所作(しよさ)も果(は)てざらんに切(き)りて社壇(しやだん)に血(ち)をあえさんも、神慮(しんりよ)の恐(おそれ)有(あ)り。下向きの道をと思召(おぼしめ)し、現在(げんざい)の敵(かたき)を通(とほ)し、下向(げかう)をぞ待(ま)ち給(たま)ふ。摂津国(つのくに)の二葉(ふたば)の松の根(ね)ざしはじめて、千代(ちよ)を待(ま)つよりも猶(なほ)久し。湛海(たんかい)天神(てんじん)に参(まゐ)りて見(み)れども、人もなし。聖(ひじり)に会(あ)うて、あからさまなる様(やう)にて、「さる体(てい)の冠者(くわんじや)などや参(まゐ)りて候(さうら)ひつる」と問(と)ひければ、「然様(さやう)の人は、疾(と)く参(まゐ)り下向(げかう)せられぬ」と申(まう)しける。湛海(たんかい)安(やす)からず、「疾(と)くより参(まゐ)りなば、逃(のが)すまじきを。定(さだ)めて法眼(ほふげん)が家に有(あ)らん。行(ゆ)きて責(せ)め出(い)だして切(き)つて棄(す)てん」」とぞ申(まう)しける。「尤(もつと)も然(さ)有(あ)るべし」とて、七人連(つ)れて天神を出(い)づる。あはやと思召(おぼしめ)し、先(さき)の所(ところ)に待(ま)ち給(たま)ふ。其(そ)の間(あひだ)二段(にたん)ばかり近(ちか)づきたるが、湛海(たんかい)が弟子禅師(ぜんじ)と申(まう)す法師(ほふし)申(まう)し
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けるは、「左馬頭殿(さまのかうのとの)の君達(きんだち)、鞍馬(くらま)に有(あ)りし牛若殿(うしわかどの)、男(をとこ)になりて、源九郎と申(まう)し候(さうら)ふは、法眼(ほふげん)が娘(むすめ)に近(ちか)づきけるなれば、女は男に会(あ)へば、正体(しやうたい)無(な)き物なり。もし此(こ)の事(こと)を聞(き)き、男(をとこ)に斯(か)くと知(し)らせなば、斯様(かやう)の木蔭(こかげ)にも待(ま)つらん。あたりに目な放(はな)しそ」と申(まう)しける。湛海(たんかい)「音(おと)なしそ」と申(まう)しける。「いざ此(こ)の者(もの)呼(よ)びて見(み)ん。剛(かう)の者(もの)ならば、よも隠(かく)れじ。臆病者(おくびやうもの)ならば、我(われ)等(ら)が気色(けしき)に怖(お)ぢて出(い)でまじき物を」と言(い)ひける。あはれ只(ただ)出(い)でたらんよりも、有(あ)るかと言(い)ふ声(こゑ)に付(つ)きて出(い)でばやと思(おも)はれけるに、憎(にく)げなる声色(こはいろ)して、「今出河の辺より世(よ)になし源氏(げんじ)参(まゐ)るや」と言(い)ひも果(は)てぬに、太刀(たち)打(う)ち振(ふ)り、わつと喚(おめ)いて出(い)で給(たま)ふ。「湛海(たんかい)と見(み)るは僻目(ひがめ)か。斯(か)う言(い)ふこそ義経(よしつね)よ」とて、追(お)つかけ給(たま)ふ。「今(いま)まではとこそ攻(せ)め、かくこそ攻(せ)め」と言(い)ひけれども、其(そ)の時
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には三方(さんぱう)へざつと散(ち)る。湛海(たんかい)も二段(にたん)ばかりぞ逃(に)げける。「生(い)きても死(し)しても弓矢(ゆみや)取(と)る者(もの)の臆病(おくびやう)程(ほど)の恥(はぢ)や有(あ)る」とて、長刀(なぎなた)を取(と)り直(なほ)し、返(かへ)し合(あ)はせ、御曹司(おんざうし)は小太刀(こだち)にて走(はし)り合(あ)ひ、散々(さんざん)に打(う)ち合(あ)ひ給(たま)ふ。もとよりの事(こと)なれば、斬(き)り立(た)てられ、今(いま)は叶(かな)はじとや思(おも)ひけん、大長刀(おほなぎなた)取(と)り直(なほ)し、散々(さんざん)に打(う)ち合(あ)ひけるが、少(すこ)しひるむ所(ところ)を長刀(なぎなた)の柄(え)を打(う)ち給(たま)ふ。長刀(なぎなた)からりと投(な)げかけたる時(とき)、小太刀(こだち)打(う)ち振(ふ)り、走(はし)りかかりて、ちやうど切(き)り給(たま)へば、切先(きつさき)頚(くび)の上(うへ)にかかるとぞ見(み)えしが、首(くび)は前(まへ)にぞ落(お)ちにける。年(とし)三十八にて失(う)せにけり。酒(さけ)を好(この)む猩々(しやうじやう)は樽(もたい)のほとりに繋(つな)がれ、悪(あく)を好(この)みし湛海(たんかい)は由(よし)無(な)き者(もの)に与(くみ)して失(う)せにけり。五人の者共(ども)是(これ)を見(み)て、さしもいしかりつる湛海(たんかい)だにも斯(か)くなりたり。まして我々叶(かな)ふまじと皆(みな)散(ち)り散(ぢ)りにぞ成(な)りにける。御曹司(おんざうし)是(これ)を御覧(ごらん)じて、「憎(にく)し。一人も余(あま)すまじ。湛海(たんかい)と連(つ)れて出(い)づる時(とき)は、一所とこそ言(い)ひつらむ。きたなし、返(かへ)し合(あ)はせよ」と仰(おほ)せ有(あ)りければ、いとど足早(あしばや)にぞ逃(に)げにける。彼処(かしこ)に追(お)ひつめ、はたと切(き)り此処(ここ)に追(お)ひつめ、はたと切(き)り、枕(まくら)を並(なら)べて二人(ふたり)切(き)り給(たま)へば、残りは方々へ逃(に)げけり。三つの首(くび)を取(と)りて、天神の御前(おまへ)に杉(すぎ)の有(あ)る下(もと)に念仏(ねんぶつ)申(まう)しおはしけるが、此(こ)の首(くび)を棄(す)てやせん、持(も)ちてや行(ゆ)かんと思召(おぼしめ)すが、法眼(ほふげん)が構(かま)へて構(かま)へて首(くび)取(と)りて見(み)せよとあつらへつるに、持(も)ちて行(ゆ)きて、胆(きも)をつぶさせんと
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思召(おぼしめ)し、三つの首(くび)を太刀(たち)の先(さき)に差(さ)し貫(つらぬ)き帰(かへ)り給(たま)ひ、法眼(ほふげん)が許(もと)におはして御覧(ごらん)ずれば、門を閉(さ)して、橋(はし)引(ひ)きたれば、今(いま)叩(たた)きて義経(よしつね)と言(い)はばよも開(あ)けじ。是程(ほど)の所(ところ)は跳(は)ね越(こ)し入(い)らばやと思召(おぼしめ)し、口一丈(いちぢやう)の堀(ほり)、八尺(はつしやく)の築地(ついぢ)に飛(と)び上(あ)がり給(たま)ふ。木末(こずゑ)に鳥(とり)の飛(と)ぶが如(ごと)し。内(うち)に入(い)り、御覧(ごらん)ずれば、非番(ひばん)当番(たうばん)の者共(ども)臥(ふ)したり。縁(えん)に上(あ)がり見(み)給(たま)へば、火ほのぼのと挑(か)き立て、法華経(ほけきやう)の二巻目(にくわんめ)半巻(はんぐわん)ばかり読(よ)みて居(ゐ)たりけるが、天井(てんじやう)を見(み)上(あ)げて、世間(せけん)の無常(むじやう)をこそ観(くわん)じけれ。「六韜(りくたう)兵法(ひやうほふ)を読(よ)まんとて、一字(いちじ)をだにも読(よ)まずして、今(いま)湛海(たんかい)が手(て)にかからん。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と独言(ひとりごと)に申(まう)しける。あら憎(にく)の面(つら)や。太刀(たち)の脊(むね)にて打(う)たばやと思召(おぼしめ)しけるが、女が嘆(なげ)かん事、不便(ふびん)に思召(おぼしめ)して、法眼(ほふげん)が命(いのち)をば助(たす)け給(たま)ひけり。やがて内(うち)へ入(い)らんと思召(おぼしめ)すが、弓矢(ゆみや)取(と)りの、立聞(たちぎき)などしたるかと思(おも)はれんとて、首(くび)を又(また)引(ひ)きさげて門の方(かた)へ出(い)で給(たま)ふ。門(もん)の脇(わき)に花(はな)の木有(あ)りける下に、仄暗(ほのぐら)き所有(あ)り。此処(ここ)に立(た)ち給(たま)ひて、「内(うち)に人や有(あ)る」と仰(おほ)せければ、内(うち)よりも、「誰(た)そ」と申(まう)す。「義経(よしつね)なり。此処(ここ)開(あ)けよ」と仰(おほ)せければ、是(これ)を聞(き)き、「湛海(たんかい)を待(ま)つ所におはしたるは、良(よ)き事(こと)よも有(あ)らじ。開(あ)けて入(い)れ参(まゐ)らせんか」と言(い)ひければ、門(もん)開(あ)けんとする者(もの)も有(あ)り。橋(はし)渡(わた)さんとする者(もの)も有(あ)り。走(はし)り舞(ま)ふ
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所に、何処(いづく)よりか越(こ)えられけん、築地(ついぢ)の上(うへ)に首(くび)三つ引(ひ)きさげて来(き)たり会(あ)ふ。各々(おのおの)胆(きも)を消(け)し見(み)る所(ところ)に人より先(さき)に内に差(さ)し入(い)り、「大方(かた)身に叶(かな)はぬ事(こと)にて候(さうら)ひつれ共(ども)、「構(かま)へて構(かま)へて首(くび)取(と)りて見(み)せよ」と仰(おほ)せ候(さうら)ひつる間(あひだ)、湛海(たんかい)が首(くび)取(と)つて参(まゐ)りたる」とて、法眼(ほふげん)が膝(ひざ)の上(うへ)に投(な)げられければ、興(きよう)ざめてこそ思(おも)へども、会釈(ゑしやく)せでは叶(かな)はじとや思(おも)ひけん、さらぬ様(やう)にて「忝(かたじけな)き」とは、申(まう)せども、世に苦々(にがにが)しくぞ見(み)えける。「悦(よろこ)び入(い)りて候(さうら)ふ」とて、内(うち)に急(いそ)ぎ逃(に)げ入(い)り、御曹司(おんざうし)今宵(こよひ)は此処(ここ)に止(とど)まらばやと思召(おぼしめ)しけれども、女に暇(いとま)乞(こ)はせ給(たま)ひて、山科(やましな)へとて出(い)で給(たま)ふ。飽(あ)かぬ名残(なごり)も惜(を)しければ、涙に袖を濡(ぬ)らし給(たま)ふ。法眼(ほふげん)が娘(むすめ)、後(あと)にひれ伏(ふ)し、泣(な)き悲(かな)しめども甲斐(かひ)ぞ無(な)き。忘(わす)れんとすれ共(ども)、忘(わす)られず、微睡(まどろ)めば夢(ゆめ)に見(み)え、覚(さ)むれば面影(おもかげ)に沿(そ)ふ。思(おも)へば弥増(いやまさ)りして遣(や)る方(かた)もなし。冬も末(すゑ)になりければ、思(おも)ひの数(かず)や積(つも)りけん、物怪(もののけ)などと言(い)ひしが、祈(いの)れども叶(かな)はず、薬(くすり)にも助(たす)からず、十六と申(まう)す年(とし)、遂(つひ)に嘆(なげ)き死(じに)に死(し)にけり。法眼(ほふげん)は重(かさ)ねて物をぞ思(おも)ひける。如何(いか)なるらん世にも有(あ)らばやとかしづきける娘(むすめ)には別(わか)れ、頼(たの)みつる弟子をば斬(き)られぬ。自然(しぜん)の事(こと)有(あ)らば、一方(いつぱう)の大将(たいしやう)にもなり給(たま)ふべき義経(よしつね)には仲をたがひ奉(たてまつ)りぬ。彼(かれ)と言(い)ひ、是(これ)と言(い)ひ、一方(ひとかた)ならぬ嘆(なげ)き思(おも)ひ入(い)りてぞ有(あ)りける。
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後悔(こうくわい)底(そこ)に絶(た)えずとは此(こ)の事、只人(ただひと)は幾度(いくたび)も情(なさけ)有(あ)るべきは浮世(うきよ)なり。義経記巻第二
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義経記巻第三目録
熊野の別当(べつたう)乱行の事(こと)
弁慶(べんけい)生(う)まるる事
弁慶(べんけい)山門(さんもん)を出(い)づる事
書写(しよしや)炎上(えんじやう)の事(こと)
弁慶(べんけい)洛中(らくちゆう)において人の太刀を取(と)る事
義経(よしつね)弁慶(べんけい)君臣の契約(けいやく)の事(こと)
頼朝(よりとも)謀反(むほん)の事(こと)
義経(よしつね)謀反(むほん)の事(こと)
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義経記巻第三
熊野の別当(べつたう)乱行の事(こと) S0301
義経(よしつね)の御内に聞(き)こえたる一人当千(たうぜん)の剛(かう)の者(もの)有(あ)り。俗姓(ぞくしやう)を尋(たづ)ぬるに、天児屋根(あまつこやね)の御苗裔(ごべうえい)、中の関白(くわんばく)道隆(たうりう)の後胤(こうゐん)、熊野(くまの)の別当(べつたう)弁(べん)せうが嫡子(ちやくし)、西塔(さいたふ)の武蔵坊(むさしばう)弁慶(べんけい)とぞ申(まう)しける。彼(かれ)が出(い)で来(く)る由来(ゆらい)を尋(たづ)ぬるに、二位(にゐ)の大納言(だいなごん)と申(まう)す人は君達(きんだち)数多(あまた)持(も)ち給(たま)ひたりけれども、親(おや)に先立(さきだ)ち、皆(みな)失(う)せ給(たま)ふ。年長(た)け、齢(よはひ)傾(かたぶ)きて、一人の姫君(ひめぎめ)を設(まう)け給(たま)ひたり。天下第一(だいいち)の美人にておはしければ、雲の上人(うへびと)我(われ)も我(われ)もと望(のぞ)みをかけ給(たま)ひけれども、更に用(もち)ゐ給(たま)はず。大臣(だいじん)師長(もろなが)懇(ねんご)ろに申(まう)し給(たま)ひければ、さるべき由(よし)申(まう)されけれども、今年(ことし)は忌(い)むべき事(こと)有(あ)り。東の方は叶(かな)はじ。明年の春(はる)の頃(ころ)と約束(やくそく)せられけり。御年(おんとし)十五と申(まう)す夏の頃(ころ)如何(いか)なる宿願(しゆくぐわん)にか、五条(ごでう)の天神に参(まゐ)り給(たま)ひて、御通夜(おんつや)し給(たま)ひたりけるに、辰巳(たつみ)の方より俄に風吹(ふ)き来(き)たりて、御身(おんみ)にあたると思(おも)ひ給(たま)ひければ、物(もの)狂(ぐる)はしく
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労(いたはり)ぞ出(い)で来給(たま)ひたる。大納言(だいなごん)、師長(もろなが)、熊野(くまの)を信じ参(まゐ)らせ給(たま)ひける程(ほど)に、「今度(こんど)の病たすけさせ給(たま)へ。明年の春の頃(ころ)は参詣(さんけい)を遂(と)げ、王子(わうじ)王子(わうじ)の御前にて宿願(しゆくぐわん)を解(ほど)き候(さうら)ふべし」と祈(いの)られければ、程(ほど)無(な)く平癒(へいゆ)し給(たま)ひぬ。斯(か)くて次の年の春、宿願(しゆくぐわん)を晴(は)らさせ給(たま)はん為(ため)に参詣(さんけい)有(あ)り。師長(もろなが)、大納言(だいなごん)殿(どの)よりして、百人道者(だうしや)付(つ)け奉(たてまつ)りて、三(みつ)の山(やま)の御参詣(ごさんけい)を事故(ことゆゑ)無(な)く遂(と)げ給(たま)ふ。本宮証誠殿(しようじやうどの)に御通夜(おんつや)有(あ)りけるに別当(べつたう)も入堂したりけり。遙(はる)かに夜更(ふ)けて、内陣にひそめきたり。何事(なにごと)なるらんと姫君(ひめぎみ)御覧(ごらん)ずる処に、「別当(べつたう)の参(まゐ)り給(たま)ひたる」とぞ申(まう)したり。別当(べつたう)幽(かすか)なる燈火(ともしび)の影(かげ)より此(こ)の姫君(ひめぎみ)を見(み)奉(たてまつ)り給(たま)ひて、さしも然(しか)るべき行人にておはしけるが、未(いま)だ懺法(せんぽふ)だにも過(す)ぎざるに、急(いそ)ぎ下向(げかう)して、大衆(だいしゆ)を呼(よ)びて、「如何(いか)なる人ぞ」と問(と)はれければ、「是(これ)は二位(にゐ)の大納言(だいなごん)殿(どの)の姫君(ひめぎみ)、右大臣(うだいじん)殿(どの)の北(きた)の方(かた)」とぞ申(まう)しける。別当(べつたう)、「それは約束(やくそく)ばかりにてこそあんなれ。未(いま)だ近(ちか)づき給(たま)はず候(さうら)ふと聞(き)くぞ。先々(さきさき)大衆(だいしゆ)の、あはれ熊野に何事(なにごと)も出(い)で来(き)よかしと人の心(こころ)をも我(わ)が心をも見(み)んと言(い)ひしは今(いま)ぞかし。出(い)で立(た)ちてあしきの無(な)からん所(ところ)に、道者(だうしや)追(お)ひ散(ち)らして、此(こ)の人を取(と)つてくれよかし。別当(べつたう)が児(ちご)にせん」とぞ宣(のたま)ひける。大衆(だいしゆ)是(これ)を聞(き)きて、「さては仏法(ぶつぽふ)の仇(あた)、王法(わうぼふ)の敵(てき)とやなり給(たま)はんずらん」と申(まう)しければ、「臆病(おくびやう)の致(いた)す所(ところ)にてこそあれ。斯(か)かる事(こと)を企(くわだ)つる習(なら)ひ、
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大納言(だいなごん)殿(どの)、師長(もろなが)、院(ゐん)の御所へ参(まゐ)り、訴訟(そしよう)申(まう)し給(たま)はば、大納言(だいなごん)を大将(たいしやう)として畿内(きない)の兵(つはもの)こそ向(むか)はんずらめ。それは思(おも)ひ設(まう)けたる事なれ。新宮(しんぐう)熊野の地へ敵(てき)に足(あし)を踏(ふ)ませばこそ」とぞ宣(のたま)ひける。先々(さきさき)の僻事(ひがこと)と申(まう)すは大衆(だいしゆ)の赴(おもむ)きを別当(べつたう)の鎮(しづ)め給(たま)ふだにも、ややもすれば衆徒(しゆと)逸(はや)りき。況(いは)んや、是(これ)は別当(べつたう)起(お)こし給(たま)ふ事なれば、衆徒(しゆと)も兵(つはもの)を進(すす)めけり。我(われ)も我(われ)もと甲冑(かつちう)をよろひ、先様(さきさま)に走(はし)り下(くだ)りて、道者(だうしや)を待(ま)つ所(ところ)に又(また)後(あと)より大勢(おほぜい)鬨(とき)を作りて追(お)つかけたり。恥(はぢ)を恥(は)づべき侍共(さぶらひども)皆(みな)逃(に)げける。衆徒(しゆと)輿(こし)を取(と)つて帰(かへ)り、別当(べつたう)に奉(たてまつ)る。我(わ)が許(もと)は上下の経所(きやうどころ)なりければ、若(も)し京方(きやうがた)の者(もの)有(あ)るやとて、政所(まんどころ)に置(お)き奉(たてまつ)り、諸共(もろとも)に明暮(あけくれ)引(ひ)き篭(こも)りてぞおはしける。若(も)し京より返(かへ)し合(あ)はする事(こと)もやと用心きびしくしたりけり。されども私(わたくし)の計(はか)らひにて有(あ)らざれば、急(いそ)ぎ都(みやこ)へ馳(は)せ上(のぼ)りて、此(こ)の由(よし)を
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申(まう)したりければ右大臣(うだいじん)殿(どの)大(おほ)きに憤(いきどほ)り給(たま)ひて、院(ゐん)の御所に参(まゐ)り給(たま)ひて訴(うつた)へ申(まう)されたりければ、やがて院宣(ゐんぜん)を下(くだ)して、和泉(いづみ)、河内、伊賀、伊勢(いせ)の住人(ぢゆうにん)共(ども)を催(もよほ)して、師長(もろなが)、大納言(だいなごん)殿(どの)を両大将(りやうだいしやう)として、七千余騎(よき)にて、「熊野(くまの)の別当(べつたう)を追(お)ひ出(い)だして、俗別当(ぞくべつたう)になせ」とて、熊野に押(お)し寄(よ)せ給(たま)ひて攻(せ)め給(たま)へば、衆徒(しゆと)身を捨(す)てて防(ふせ)ぐ。京方(きやうがた)叶(かな)はじとや思(おも)ひけん、切目(きりべ)の王子(わうじ)に陣(ぢん)取(どつ)て、京都(きやうと)へ早馬(はやむま)を立(た)て申(まう)されければ、「合戦遅々(ちち)する仔細(しさい)有(あ)り。其(そ)の故(ゆゑ)は公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)有(あ)りて、平宰相(へいざいしやう)信業(のぶなり)の御娘(おんむすめ)、美人にておはしまししかば、内(うち)へ召(め)されさせ給(たま)ひしを、今(いま)此(こ)の事(こと)に依(よ)つて熊野山(くまのさん)滅亡(めつぼう)せられん事、本朝の大事(だいじ)なり。右大臣(うだいじん)には此(こ)の姫君(ひめぎみ)を内より返(かへ)し奉(たてまつ)り給(たま)はば、何(なに)の御憤(おんいきどほ)りか有(あ)るべき。又(また)二位(にゐ)の大納言(だいなごん)の御婿(おんむこ)、熊野の別当(べつたう)、何(なに)か苦(くる)しかるべきか。年長(た)けたるばかりにてこそあれ、天児屋根(あまつこやね)の御苗裔(ごべうえい)、中の関白(くわんばく)道隆(たうりう)の御子孫なり。苦(くる)しかるまじ」とぞ僉議事(せんぎごと)畢(をは)りて、切目(きりべ)の王子(わうじ)に早馬(はやむま)を立(た)て、此(こ)の由(よし)を申(まう)されければ、右大臣(うだいじん)公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)の上(うへ)は申(まう)すに及(およ)ばずとて、打(う)ち捨(す)てて帰(かへ)り上(のぼ)り給(たま)ふ。二位(にゐ)の大納言(だいなごん)は又(また)我(われ)一人(ひとり)して憤(いきどほ)るべきならずとて、打(う)ち連(つ)れ奉(たてまつ)りて上洛(しやうらく)有(あ)りければ、熊野(くまの)も都(みやこ)も静(しづか)なりと雖(いへど)も、ややもすれば兵(つはもの)共(ども)我(われ)等(ら)がする事(こと)は宣旨(せんじ)院宣(ゐんぜん)にも従(したが)はばこそと自嘆(じたん)して、いよいよ代を世ともせざりけり。扨(さて)姫君(ひめぎみ)は別当(べつたう)に従(したが)ひて年月を経(へ)る程(ほど)に、別当(べつたう)は六十一、
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姫君(ひめぎみ)に馴(な)れて子を儲(まう)けんずるこそ嬉(うれ)しけれ。男ならば仏法(ぶつぽふ)の種(たね)を継(つ)がせて、熊野をも譲(ゆづ)るべしとて、斯(か)くして月日(つきひ)を待(ま)つ程(ほど)に、限(かぎ)り有(あ)る月に生(う)まれず、十八月にて生(う)まれける。
弁慶(べんけい)生(う)まるる事 S0302
別当(べつたう)此(こ)の子の遅(おそ)く生(う)まるる事(こと)不思議(ふしぎ)に思(おも)はれければ、産所(さんじよ)に人を遣(つか)はして、「如何様(いかやう)なる者(もの)ぞ」と問(と)はれければ、生(う)まれ落(お)ちたる気色(けしき)は世(よ)の常(つね)の二三歳(にさんさい)ばかりにて、髪は肩(かた)の隠(かく)るる程(ほど)に生(お)ひて、奥歯(おくば)も向歯(むかば)も殊(こと)に大(おほ)きに生(お)ひてぞ生(う)まれけれ。別当(べつたう)に此(こ)の由(よし)を申(まう)しければ、「さては鬼神ごさんなれ。しやつを置(お)いては仏法(ぶつぽふ)の仇(あた)となりなんず。水の底(そこ)に紫漬(ふしづけ)にもし、深山(しんざん)に磔(はつけ)にもせよ」とぞ宣(のたま)ひける。母(はは)是(これ)を聞(き)き、「それは然(さ)る事(こと)なれ共(ども)、親となり、子と成りし、此(こ)の世一(ひと)つならぬ事(こと)ぞと承(うけたまは)る。忽(たちま)ちに如何(いかが)失(うしな)はん」と嘆(なげ)き入(い)りてぞおはしける所(ところ)に、山の井の三位と言(い)ひける人の北(きた)の方(かた)は、別当(べつたう)の妹(いもうと)なり。別当(べつたう)におはして幼(をさな)き人の御不審(ふしん)を問(と)ひ給(たま)へば、「人の生(う)まるると申(まう)すは九月十月にてこそ極(きは)めて候(さうら)へ。彼奴(きやつ)は十八月に生(う)まれて候(さうら)へば、助(たす)け置(お)きても親(おや)の仇(あた)と
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もなるべく候(さうら)へば、助(たす)け置(お)く事(こと)候(さうら)ふまじ」と宣(のたま)ひける。叔母(をば)御前(ごぜん)聞(き)き給(たま)ひて、「腹(はら)の内(うち)にて久(ひさ)しくして生(う)まれたる者(もの)、親(おや)の為(ため)に悪(あ)しからんには、大唐(だいたう)の黄石が子は腹の内(うち)にて八十年の歯(よはひ)を送(おく)り、白髪(しらが)生(お)ひて生(う)まれける。年(とし)は二百八十歳(にひやくはちじつさい)、丈(たけ)低(ひき)く色(いろ)黒(くろ)くして、世の人には似(に)ず。されども八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)の御使者(ししや)現人神(あらひとがみ)と斎(いは)はれ給(たま)ふ。理(り)をまげて、我(われ)等(ら)に賜(たま)はり候(さうら)へ。京へ具(ぐ)して上(のぼ)り、善(よ)くは男になして、三位殿(どの)へ奉(たてまつ)るべし。悪(わろ)くは法師(ほふし)になして、経(きやう)の一巻(くわん)も読(よ)ませたらば、僧党(そうたう)の身として罪作(つく)らんより勝(まさ)るべし」と申(まう)されければ、さらばとて叔母(をば)に取(と)らせける。産所(さんじよ)に行(ゆ)きて産湯(うぶゆ)を浴(あ)びせて、鬼若と名を付(つ)けて、五十一日過(す)ぎければ、具(ぐ)して京(きやう)へ上(のぼ)り、乳母(めのと)を付(つ)けてもてなし伝(かしづ)きける。鬼若五つにては、世(よ)の人十二三程(ほど)に見(み)えける。六歳(ろくさい)の時疱瘡(もがさ)と言(い)ふものをして、いとど色(いろ)も黒(くろ)く、髪(かみ)は生(う)まれたる儘(まま)なれば、肩(かた)より下へ生(お)ひ下(さが)り、髪(かみ)の風情(ふぜい)も男になして叶(かな)ふまじ、法師(ほふし)になさんとて、比叡(ひえ)の山(やま)の学頭(がくたう)西塔(さいたふ)桜本(さくらもと)の僧正の許(もと)に申(まう)されけるは、「三位殿(どの)の為(ため)には養子にて候(さうら)ふ。学問(がくもん)の為(ため)に奉(たてまつ)り候(さうら)ふ。眉目(みめ)容貌(かたち)は参(まゐ)らするに付(つ)けて恥(は)ぢ入(い)り候(さうら)へども、心(こころ)は賢々(さかさか)しく候(さうら)ふ。書(ふみ)の一巻も読(よ)ませて賜(た)び候(さうら)へ。心の不調(ふぢやう)に候(さうら)はんは直(なほ)させ給(たま)ひ候(さうら)ひて、如何様(いかやう)にも御計(はか)らひにまかせ候(さうら)ふぞ」とて上(のぼ)せけり。桜本(さくらもと)にて学問(がくもん)する程(ほど)に、精(せい)は月日(つきひ)の重(かさ)なる
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に随(したが)ひて、人に勝(すぐ)れてはかばかし。学問(がくもん)世に越(こ)えて器用(きよう)なり。されば衆徒(しゆと)も、「容貌(かたち)は如何(いか)にも悪(わろ)かれ。学問(がくもん)こそ大切(たいせつ)なり」と宣(のたま)ひぬ。学問(がくもん)に心をだにも入(い)れなば、さてよかるべきに、力(ちから)も強(つよ)く骨太(ほねぶと)なり。児(ちご)、法師(ほふし)原(ばら)を語(かた)らひて、人も行(ゆ)かぬ御堂の後(うし)ろ、山(やま)の奥(おく)などへ篭(こも)り居(ゐ)て、腕取(うでどり)、腕押(うでおし)、相撲(すまふ)などぞ好(この)みける。衆徒(しゆと)此(こ)の事(こと)を聞(き)きて、「我(わ)が身こそ、徒者(いたづらもの)にならめ、人の所(ところ)に学問(がくもん)する者(もの)をだに賺(すか)し出(い)だして、不調(ふでう)になす事(こと)不思議(ふしぎ)なり」とて、僧正の許(もと)に訴訟(そしよう)の絶(た)ゆる事(こと)なし。斯(か)く訴(うつた)へける者(もの)をば敵(かたき)の様(やう)に思(おも)ひて、其(そ)の人の方(かた)へ走(はし)り入(い)りて、蔀(しとみ)、妻戸(つまど)を散々(さんざん)に打(う)ち破(やぶ)りけれども、悪事(あくじ)も武用(ぶよう)も鎮(しづ)むべき様(やう)ぞ無(な)き。其(そ)の故(ゆゑ)は父(ちち)は熊野(くまの)の別当(べつたう)なり。養父は山の井殿(どの)、祖父(おほぢ)は二位(にゐ)の大納言(だいなごん)、師匠(ししやう)は三千(さんぜん)坊(ばう)の学頭(がくとう)の児(ちご)にて有(あ)る間(あひだ)、手(て)をも指(さ)して良(よ)き事(こと)有(あ)るまじとて、只(ただ)打(う)ち任(まか)せてぞ狂(くる)は
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せける。されば相手(あひて)は変(か)はれども鬼若(おにわか)は変(か)はらず、諍(いさかひ)の絶(た)ゆる事(こと)なし。拳(こぶし)を握(にぎ)り、人を締(し)めければ、人々(ひとびと)道(みち)をも直(すぐ)に行(き)得(え)ず。偶々(たまたま)逢(あ)ふ者(もの)も道を避(よ)けなどしければ、其(そ)の時(とき)は相違(さうゐ)無(な)く通(とほ)して後、会(あ)うたる時取(と)つて抑(おさ)へて、「さもあれ、過(す)ぎし頃(ころ)は行(ゆ)き逢(あ)ひ参(まゐ)らせて候(さうら)ふに、道(みち)を避(よ)けられしは、何の遺恨(いこん)にて候(さうら)ひけるぞ」と問(と)ひければ、恐(おそ)ろしさに膝(ひざ)ふるひなどする物を、肱(かひな)捩(ね)ぢ損(そん)じ、拳(こぶし)を以(もつ)てこは胸(むね)を押(お)し損(そん)じなどする間(あひだ)、逢(あ)ふ者(もの)の不祥(ふせう)にてぞ有(あ)りける。衆徒(しゆと)僉議(せんぎ)して、僧正の児(ちご)なり共(とも)、山(やま)の大事(だいじ)にて有(あ)るぞとて、大衆(だいしゆ)三百人院(ゐん)の御所へ参(まゐ)りて申(まう)しければ、「それ程(ほど)の僻事(ひがこと)の者(もの)をば急(いそ)ぎ追(お)ひ失(うしな)へ」と院宣(ゐんぜん)有(あ)りければ、大衆(だいしゆ)悦(よろこ)び、山上へ帰所(きしよ)に公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)有(あ)りて、古(ふる)き日記見(み)給(たま)へば、「六十一年に山上にかかる不思議(ふしぎ)の者(もの)出(い)で来(き)ければ、朝家の祇祷(きたう)になる事(こと)有(あ)り。院宣(ゐんぜん)にて是(これ)を鎮(しづ)めつれば、一日が中(うち)に天下無双(ぶさう)の願所五十四ケ所ぞと言(い)ふ事(こと)有(あ)り。今年(ことし)六十一年に相(あひ)当(あ)たる。只(ただ)棄(す)て置(お)け」とぞ仰(おほ)せける。衆徒(しゆと)憤(いきどほ)り申(まう)しけるは、「鬼若一人に三千人の衆徒(しゆと)と思召(おぼしめ)しかへられ候(さうら)ふこそ遺恨(いこん)なれ。さらば山王(さんわう)の御輿(こし)を振(ふ)り奉(たてまつ)らん」と申(まう)しければ、神には御料(れう)を参(まゐ)らせ給(たま)ひければ、衆徒(しゆと)此(こ)の上はとて鎮(しづ)まりけり。此(こ)の事(こと)鬼若に聞(き)かすなとて隠(かく)し置(お)きたりしを、如何(いか)なる痴(をこ)の者(もの)か知(し)らせけん、「是(これ)は遺恨(いこん)なり」とて、いとど散々(さんざん)に振舞(ふるま)ひける。僧正もて扱(あつか)ひ
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て、「有(あ)らば有(あ)ると見よ。無(な)くは無(な)しと見よ」とて、目(め)も見(み)せ給(たま)はざりけり。
弁慶(べんけい)山門を出(い)づる事 S0303
鬼若(おにわか)僧正(そうじやう)の憎(にく)み給(たま)へる由(よし)を聞(き)きて、頼(たの)みたる師(し)の御坊(ごばう)にも斯様(かやう)に思(おも)はれんに、山(やま)に有(あ)りても詮(せん)なし。目にも見(み)えざらん方(かた)へ行(ゆ)かんと思(おも)ひ立(た)つて出(い)でけるが、斯(か)くては何処(いづく)にても山門の鬼若とぞ言(い)はれんずらん。学問(がくもん)に不足(ふそく)なし。法師(ほふし)になりてこそ行(ゆ)かめと思(おも)ひて、髪(かみ)剃(そ)り、衣を取(と)り添(そ)へて、美作(みまさか)の治部卿(ぢぶきやう)と言(い)ふ者(もの)の湯殿(ゆどの)に走(はし)り入(い)りて、盥(たらひ)の水にて手づから髪(かみ)を洗(あら)ひ、所々(ところどころ)を自剃(じぞり)にしたりける。彼(か)の水に影(かげ)を写(うつ)して見(み)れば、頭(かしら)は円(まる)くぞ見(み)えける。斯(か)くては叶(かな)はじとて、戒名(かいみやう)をば何(なに)とか言(い)はましと思(おも)ひけるが、昔(むかし)此(こ)の山(やま)に悪(あく)を好(この)む者(もの)有(あ)り。西塔(さいたふ)の武蔵坊(むさしばう)とぞ申(まう)しける。廿一にて悪(あく)をし初(そ)めて、六十一にて死にけるが、旦座(たんざ)合掌(がつしやう)して往生(わうじやう)を遂(と)げたると聞(き)く。我(われ)等(ら)も名を継(つ)いで呼(よ)ばれたらば、剛(かう)になる事(こと)も有(あ)らめ。西塔(さいたふ)の武蔵坊(むさしばう)と言(い)ふべし。実名(じつみやう)は父の別当(べつたう)は弁(べん)せうと名乗(なの)り、其(そ)の師匠(ししやう)はくわん慶(けい)なれば、弁(べん)せうの弁(べん)とくわん慶(けい)の慶(けい)とを取(と)つて、弁慶(べんけい)とぞ
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名乗(なの)りける。昨日(きのふ)までは鬼若、今日(けふ)は何時(いつ)しか武蔵坊(むさしばう)弁慶(べんけい)とぞ申(まう)しける。山上を出(い)でて、小原の別所と申(まう)す所(ところ)に山法師(やまぼふし)の住(す)み荒(あ)らしたる坊(ばう)に誰(たれ)留(と)むると無(な)けれども、暫(しばら)くは尊(たつ)とげにてぞ居(ゐ)たりける。されども児(ちご)なりし時(とき)だにも眉目(みめ)悪(わろ)く、心(こころ)異相(いさう)なれば、人もてなさず、まして訪(と)ひ来(く)る人も無(な)ければ、是(これ)をも幾程(いくほど)無(な)くあくがれ出(い)でて、諸国修行(しゆぎやう)にとて又(また)出(い)でて、津(つ)の国(くに)河尻(かはしり)に下(くだ)り、難波潟(なにはかた)を眺(なが)めて、兵庫(ひやうご)の嶋など言(い)ふ所を通(とほ)りて、明石(あかし)の浦(うら)より船(ふね)に乗(の)つて、阿波(あは)の国に著(つ)きて、焼山(やけやま)、つるが峰(みね)を拝(おが)みて、讚岐(さぬき)の志度(しど)の道場、伊予(いよ)の菅生(すがう)に出(い)でて、土佐の幡多(はた)まで拝(おが)みけり。かくて正月(むつき)も末(すゑ)になりければ、又(また)阿波(あはの)国(くに)へ帰(かへ)りける。
書写山(しよしやざん)炎上(えんじやう)の事(こと) S0304
弁慶(べんけい)阿波国(あはのくに)より播磨(はりまの)国(くに)に渡(わた)り、書写山(しよしやざん)に参(まゐ)り、性空(しやうぐう)上人(しやうにん)の御影(みえい)を拝(おが)み奉(たてまつ)り、既(すで)に下向(げかう)せんとしたるが、同(おな)じくは一夏(いちげ)篭(こも)らばやと思(おも)ひける。此(こ)の夏(け)と申(まう)すは諸国の修行者(しゆぎやうじや)充満(じゆうまん)して、余念(よねん)も無(な)く勤(つと)めける。大衆(だいしゆ)は学頭(がくたう)の坊(ばう)に集会(しゆゑ)し、修行者(しゆぎやうじや)経所(きやうどころ)に著く。夏僧は虚空蔵(こくうざう)の御堂にて、人に付(つ)いて夏中の様(やう)を聞(き)きて、
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学頭(がくたう)の坊(ばう)に入(い)りけるに、弁慶(べんけい)は推参(すいさん)して、長押(なげし)の上(うへ)に憎気(にくげ)なる風情(ふぜい)して、学頭(がくたう)の座敷(ざしき)を暫(しばら)く睨(にら)みて居(ゐ)たりけり。学頭(がくたう)共(ども)是(これ)を見(み)て、「一昨日(をととひ)昨日(きのふ)の座敷(ざしき)にも有(あ)り共(とも)覚(おぼ)えぬ法師(ほふし)の推参(すいさん)せられ候(さうら)ふは、何処(いづく)よりの修行者(しゆぎやうじや)ぞ」と問(と)ひければ、「比叡(ひえ)の山(やま)の者(もの)にて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「比叡(ひえ)の山(やま)はどれより」「桜本(さくらもと)より」と申(まう)す。「僧正の御弟子か」と申(まう)せば、「さん候(ざうらふ)」「御俗姓(ぞくしやう)は」と問(と)はれて、事(ことごと)しげなる声(こゑ)して、「天児屋根(あまつこやね)の苗裔(べうえい)、中の関白(くわんばく)道隆(たうりう)の末(すゑ)、熊野の別当(べつたう)の子にて候(さうら)ふ」と申(まう)しけるが、一夏の間(あひだ)は如何(いか)にも心(こころ)に入(い)れて勤(つと)め、退転(たいてん)無(な)く行(おこな)ひて居(ゐ)たりける。衆徒(しゆと)も「初(はじ)めの景気(けいき)今(いま)の風情(ふぜい)相違(さうゐ)して見(み)えたり。されば人には馴(な)れて見(み)えたり。隠便(おんびん)の者(もの)にて有(あ)りけるや」とぞ褒(ほ)めける。弁慶(べんけい)思(おも)ひけるは、斯(か)くて一夏も過(す)ぎ、秋の初(はじ)めにもなりなば、又(また)国々に修行(しゆぎやう)せんとぞ思(おも)ひける。されども名残(なごり)を惜(を)しみて出(い)でもやらで居(ゐ)たり。さてしも有(あ)るべき事(こと)ならねば、七月下旬(げじゆん)に学頭(がくたう)に暇(いとま)乞(こ)はんとて行(ゆ)きたりければ、児(ちご)大衆(だいしゆ)酒盛(さかもり)してぞ有(あ)りける。弁慶(べんけい)参(さん)じては詮(せん)無(な)しと思(おも)ひて出(い)でけるが、新(あたら)しき障子(しやうじ)一間(けん)立(たて)たる所有(あ)り。此処(ここ)に昼寝(ひるね)せばやと思(おも)ひて、暫(しばら)く臥(ふ)しけるに、其(そ)の頃(ころ)書写(しよしや)に相手(あひて)嫌(きら)はぬ諍(いさかひ)好(この)む者有(あ)り。信濃坊(しなのばう)戒円(かいゑん)とぞ申(まう)しける。弁慶(べんけい)が寝(ね)たるを見(み)て、多(おほ)くの修行者(しゆぎやうじや)見(み)つれども、彼奴(きやつ)程(ほど)の広言(くわうげん)して憎気(にくげ)なる者(もの)こそ無(な)けれ。彼奴(きやつ)に恥(はぢ)をかか
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せて、寺中(じちゆう)を追(お)ひ出(い)ださんと思(おも)ひて、硯(すずり)の墨(すみ)摺(す)り流(なが)し、武蔵坊(むさしばう)が面(つら)に二行(ふたくだり)物(もの)を書(か)いたりけり。片面(かたつら)には「足駄(あしだ)」と書(か)き、片面(かたつら)には「書写(しよしや)法師(ほふし)の足駄(あしだ)に履(は)く」と書(か)きて、
弁慶(べんけい)は平足駄(ひらあしだ)とぞなりにけり面(つら)を踏(ふ)めども起(お)きも上(あ)がらず W001
と書(か)き付(つ)けて、小法師(こぼふし)原(ばら)を二三十人集(あつ)めて、板壁(いたかべ)を敲(たた)いて同音(どうおん)に笑(わら)はせける。武蔵坊(むさしばう)悪(あ)しき所に推参(すいさん)したりけるやと思(おも)ひて、衣の袂(たもと)引(ひ)き繕(つくろ)ひて衆徒(しゆと)の中(なか)へぞ出(い)でにける。衆徒(しゆと)是(これ)を見(み)て、目引(ひ)き鼻(はな)引(ひ)き笑(わら)ひけり。人は感(かん)に堪(た)へで笑(わら)へども、我(われ)は知(し)らねばをかしからず。人の笑(わら)ふに笑(わら)はずは、弁慶(べんけい)遍執(へんしゆ)に似(に)ると思(おも)ひ、共(とも)に笑(わら)ひの顔(かほ)してぞ笑(わら)ひける。されども座敷(ざしき)の体(てい)隠(かく)しげに見(み)えければ、弁慶(べんけい)我(わ)が身の上(うへ)と思(おも)ひて、拳(こぶし)を握(にぎ)り、膝(ひざ)を抑(おさ)へて、「何(なに)の可笑(をか)しきぞ」と叱(しか)りける。学頭(がくたう)是(これ)を見(み)給(たま)ひて、「あはや此(こ)の者座(ざ)こそ損(そん)じて見(み)え候(さうら)へ。如何様(いかさま)寺(てら)の大事(だいじ)となりなんず」と宣(のたま)ひて、「詮(せん)無(な)き事(こと)に候(さうら)ふ。御身(おんみ)の事(こと)にては候(さうら)はぬ。外処(よそ)の事(こと)を笑(わら)ひて候(さうら)ふ。何(なに)の詮(せん)かおはすべき」と宣(のたま)へば、座敷(ざしき)を立つて、但島(たじま)の阿闍梨(あじやり)と言(い)ふ者(もの)の坊、其(そ)の間(あひだ)一町ばかり有(あ)り、是(これ)も修行者(しゆぎやうじや)の寄合所(よりあひどころ)にて有(あ)りければ、何処(かしこ)へ行(ゆ)き会(あ)ふ人々(ひとびと)も弁慶(べんけい)を笑(わら)はぬ人はなし。怪(あや)しと思(おも)ひて、水に影(かげ)を写(うつ)して見(み)れば、面(つら)に物(もの)をぞ書(か)かれたる。さればこそ、是(これ)程(ほど)の恥(はぢ)に当(あ)たつて、
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一時なりとも有(あ)りて詮(せん)なし。何方(いづかた)へも行(ゆ)かんと思(おも)ひけるが、又(また)打(う)ち返(かへ)し思(おも)ひけるは、我(われ)一人が故(ゆゑ)に山(やま)の名をくたさん事(こと)こそ心(こころ)憂(う)けれ。諸人を散々(さんざん)に悪口(あつかう)して咎(とが)むる者(もの)をならはして、恥(はぢ)をすすぎて出(い)でばやと思(おも)ひて、人々(ひとびと)の坊(ばう)中へめぐり、散々(さんざん)に悪口(あつかう)す。学頭(がくたう)此(こ)の事(こと)を聞(き)きて、「何ともあれ。書写(しよしや)法師(ほふし)面(つら)を張(は)り伏(ふ)せられぬと覚(おぼ)ゆる。此(こ)の事(こと)僉議(せんぎ)して、此(こ)の中に僻事(ひがこと)の者(もの)有(あ)らば、それを取(と)つて修行者(しゆぎやうじや)に取(と)らせて、大事(だいじ)を止(や)めん」とて衆徒(しゆと)催(もよほ)して、講堂(かうだう)にして学頭(がくたう)僉議(せんぎ)す。されども弁慶(べんけい)は無(な)かりけり。学頭(がくたう)使者(ししや)を立(た)てけれども、老僧(らうそう)の使(つかひ)の有(あ)るにも出(い)でざりけり。重(かさ)ねて使(つか)ひ有(あ)るに、東坂(ひがしざか)の上に差(さ)し覗(のぞ)きて、後(うし)ろの方(かた)を見(み)たりければ、廿二三ばかりなる法師(ほふし)の、衣(ころも)の下に伏縄目(ふしなはめ)の鎧(よろひ)腹巻(はらまき)著(き)てぞ出(い)で来(き)たる。弁慶(べんけい)是(これ)を見(み)て、こは如何(いか)に、今日(けふ)は隠便(おんびん)の僉議(せんぎ)とこそ聞(き)きつるに、
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彼奴(きやつ)が風情(ふぜい)こそ怪(け)しからね、内々(ないない)聞(き)くに、衆徒(しゆと)僻事(ひがこと)をしたらば拷(かう)を乞(こ)へ、修行者(しゆぎやうじや)僻事(ひがこと)有(あ)らば小法師(こぼふし)原(ばら)に放(はな)ち合(あ)はせよと言(い)ふなるに、かくて出(い)で、大勢の中に取(と)り篭(こ)められ叶(かな)ふまじ。我(われ)もさらば行(ゆ)きて出(い)で立(た)たばやと思(おも)ひて、学頭(がくたう)の坊に走(はし)り入(い)りて「こは如何(いかが)」と人の問(と)ふ返事(へんじ)をもせず、人も許(ゆる)さざりけるに、何時(いつ)案内は知(し)らねども、納(おさめ)殿(どの)につと走(はし)り入(い)りて、唐櫃(からひつ)一合(いちがふ)取(と)つて出(い)で、褐(かちん)の直垂(ひたたれ)に黒糸威(くろいとをどし)の腹巻(はらまき)著(き)て、九十日剃(そ)らぬ頭(かしら)に、揉烏帽子(もみえぼし)に鉢巻(はちまき)し、石■(いちゐ)の木を以(もつ)て削(けづ)りたる棒(ばう)の、八角(かく)に角(かど)を立(た)てて、本(もと)を一尺(いつしやく)ばかり丸(まろ)くしたるを引杖(ひきづゑ)にして、高足駄(あしだ)を履(は)いて、御堂の前にぞ出(い)で来(く)る。大衆(だいしゆ)是(これ)を見(み)て、「此処(ここ)に出(い)で来(く)る者(もの)は何者(なにもの)ぞ」と言(い)ひければ、「是(これ)こそ聞(き)こゆる修行者(しゆぎやうじや)よ」「あら怪(け)しからぬ有様(ありさま)かな。此(こ)の方へ呼(よ)びてよかるべきか、捨(す)てて置(お)きてよかるべきか」「捨(す)て置(お)いても、呼(よ)びてもよかるまじ」「さらば目(め)な見(み)せそ」と申(まう)しける。弁慶(べんけい)是(これ)を見(み)て、如何(いか)にとも言(い)はんかと思(おも)ひつるに、衆徒(しゆと)の伏目(ふしめ)になりたるこそ心得(こころえ)ね。善悪(ぜんあく)を外処(よそ)にて聞(き)けば大事(だいじ)なり。近(ちか)づきて聞(き)かばやと思(おも)ひ、走(はし)り寄(よ)つて見(み)ければ、講堂(かうだう)には老僧(らうそう)児(ちご)共(ども)打(う)ち交(まじ)りて三百人ばかり居(ゐ)流(なが)れたり。縁(えん)の上(うへ)には中居(なかゐ)の者(もの)共(ども)、小法師(こぼふし)原(ばら)一人も残(のこ)らず催(もよほ)したり。残(のこ)る所(ところ)無(な)く寺中(じちゆう)上(うへ)を下(した)に返(かへ)して出(い)で来(く)る事(こと)なれば、千人ばかりぞ有(あ)りける。其(そ)の中(なか)に悪(あ)しく候(さうら)ふとも言(い)はず、
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足駄(あしだ)踏(ふ)みならし、肩(かた)をも膝(ひざ)をも踏(ふ)み付(つ)けて通(とほ)りけり。あともそとも言(い)はば、一定(いちぢやう)事(こと)も出(い)で来なんと思(おも)ふ。皆(みな)肩(かた)を踏(ふ)まれて通(とほ)しけり。階(きだはし)の許(もと)に行(ゆ)きて見れば、履物(はきもの)共(ども)ひしと脱(ぬ)ぎたり。我(われ)も脱(ぬ)ぎ置(お)かばやと思(おも)ひけるが、脱(ぬ)げば災(わざはひ)を除(のぞ)くに似(に)ると思(おも)ひ、履(は)きながらがらめかしてぞ上(のぼ)りけり。衆徒(しゆと)咎(とが)めんとすれば事(こと)乱(みだ)れぬべし。詮(せん)ずる所(ところ)、取(と)り合(あ)ひて詮(せん)なしとて、皆(みな)小門(こもん)の方(かた)へぞ隠(かく)れける。弁慶(べんけい)は長押(なげし)の際(きは)を足駄(あしだ)履(は)きながら彼方(かなた)此方(こなた)へぞ歩(あり)きける。学頭(がくたう)「見(み)苦(ぐる)しきものかな、さすが此(こ)の山(やま)と申(まう)すは、性空(しやうぐう)上人(しやうにん)の建立(こんりゆう)せられし寺なり。然(しか)るべき人おはする上(うへ)、幼(をさな)き人の腰(こし)もとを足駄(あしだ)履(は)いて通(とほ)る様(やう)こそ奇怪(きくわい)なれ」と咎(とが)められて弁慶(べんけい)つい退(しざ)つて申(まう)しけるは、「学頭(がくたう)の仰(おほ)せは勿論(もちろん)に候(さうら)ふ。然様(さやう)に縁(えん)の上(うへ)に足駄(あしだ)履(は)いて候(さうら)ふだにも狼藉(らうぜき)なりと咎(とが)め給(たま)ふ程(ほど)の衆徒(しゆと)の、何(なに)の緩怠(くわんたい)に修行者(しゆぎやうじや)の面(つら)をば足駄(あしだ)にしては履(は)かれけるぞ」と申(まう)しければ、道理(だうり)なれば衆徒(しゆと)音(おと)もせず。中々(なかなか)放(はな)ち合(あ)はせて置(お)きたらば、学頭(がくたう)の計(はか)らひに如何様(いかやう)にも賺(すか)して出(い)づべかりしを、禍(わざはひ)起(お)こりたりける。信濃(しなの)是(これ)を聞(き)きて、「興(きよう)なる修行(しゆぎやう)法師(ほふし)奴(め)が面(つら)や」と居丈高(ゐだけだか)になりて申(まう)しける。「余(あま)りに此(こ)の山(やま)の衆徒(しゆと)は驍傲(ぎやうがう)が過(す)ぎて、修行者奴(しゆうぎやうじやめ)等(ら)に目を見(み)せて、既(すで)に後悔(こうくわい)し給(たま)ふらんものを、いで習(なら)はさん」とて、つと立つ。あは、事(こと)出(い)で来(き)たりとて犇(ひし)めく。弁慶(べんけい)是(これ)を見(み)て、「面白(おもしろ)し、彼奴(きやつ)こそ
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相手(あひて)嫌(きら)はずのえせ者(もの)よ。己(おの)れが腕(かひな)の抜(ぬ)くるか、弁慶(べんけい)が脳(なづき)の砕(くだ)くるか。思(おも)へば弁慶(べんけい)が面(つら)に物を書(か)きたる奴(やつ)か、憎(にく)い奴(やつ)かな」とて、棒(ばう)を取(と)り直(なほ)し、待(ま)ち懸(か)けたり。戒円(かいゑん)が寺(てら)の法師(ほふし)原(ばら)五六人、座敷(ざしき)に有(あ)りけるが、是(これ)を見(み)て、「見(み)苦(ぐる)しく候(さうら)ふ。あれ程(ほど)の法師(ほふし)、縁(えん)より下(した)に掴(つか)み落(おと)して、首(くび)の骨(ほね)踏(ふ)み折(を)つて捨(す)てん」とて、衣の袖取(と)りて結(むす)び、肩(かた)にかけ、喚(おめ)き叫(さけ)んで懸(か)かるを見(み)て、弁慶(べんけい)えいやと立(た)ち上(あ)がり、棒(ばう)を取(と)つて直(なほ)し、薙打(なぎうち)に一度(いちど)に縁(えん)より下へ払(はら)ひ落(おと)しける。戒円(かいゑん)是(これ)を見(み)て走(はし)り立(た)ちて、あたりを見(み)れども打(う)つべき杖(つゑ)なし。末座(ばつざ)を見れば、檪(くのぎ)を打(う)ち切(き)り打(う)ち切(き)りくべたる燃(も)えさしを追(お)つ取(と)り、炭櫃(すびつ)押(お)しにじりて、「一定(いちぢやう)か和法師(わほふし)」とて走(はし)り懸(か)かる。弁慶(べんけい)しきりに腹(はら)を立(た)て、以(もつ)て開(ひら)いてちやうど打(う)つ。戒円(かいゑん)走(はし)り違(ちが)ひてむずと打(う)つ。弁慶(べんけい)、がしと合(あ)はせて、潛(くぐ)り入(い)りて、弓手(ゆんで)の腕(かひな)を差(さ)しのべ、かうを掴(つか)んでむずと引(ひ)き寄(よ)せ、右手(めて)の腕(かひな)を以(もつ)て戒円(かいゑん)が股(もも)を掴(つか)みそへて、目より高く引(ひ)つさげて、講堂(かうだう)の大庭(おほには)の方(かた)へ提(さ)げもて行(ゆ)く。衆徒(しゆと)是(これ)を見(み)て、「修行者(しゆぎやうじや)御免(ごめん)候(さうら)へ。それは地体(ぢたい)酒狂(さかぐる)ひするものにて候(さうら)ふぞ」と申(まう)しければ、弁慶(べんけい)見(み)苦(ぐる)しく見(み)えさせ給(たま)ふものかな。日頃(ひごろ)の約束(やくそく)には修行者(しゆぎやうじや)の酒狂(さかぐる)ひは大衆(だいしゆ)鎮(しづ)め、衆徒(しゆと)の酒狂(さかぐる)ひをば修行者(しゆぎやうじや)鎮(しづ)めよとの御約束(ごやくそく)と承(うけたまは)りしかば、命(いのち)をば殺(ころ)すまじ」と言(い)うて、一振(ふり)振(ふ)つて「えいや」と言(い)ひて、講堂(かうだう)の軒(のき)の高(たか)さ一丈(いちぢやう)一尺(いつしやく)有(あ)り
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ける上に、投(な)げ上(あ)げたれば、一たまりもたまらず、ころころと転(ころ)び落(お)ち、雨落(あまお)ちの石たたきにどうど落(お)つ。取(と)つて押(おさ)ヘて、骨(ほね)は砕(くだ)けよ、脛(すね)は拉(ひし)げよと踏(ふ)んだり。弓手(ゆんで)の小腕(こかひな)踏(ふ)み折(を)り、馬手(めて)の肋骨(あばらぼね)二枚損(そん)ず。中々(なかなか)言(い)ふに甲斐(かひ)なしとて、言(い)ふばかりもなし。戒円(かいゑん)が持(も)ちたる燃(も)えさしを、さらば捨(す)てもせで、持(も)ちながら投(な)げ上(あ)げられて、講堂(かうだう)の軒(のき)に打(う)ち挟(はさ)む。折節(をりふし)風は谷より吹(ふ)き上(あ)げたり。講堂(かうだう)の軒(のき)に吹(ふ)き付(つ)けて、焼(や)け上(あ)がりたり。九間の講堂(かうだう)七間の廊下(らうか)多宝(たほう)の塔(たふ)、文殊堂(もんじゆだう)、五重の塔(たふ)に吹(ふ)き付(つ)けて、一宇(いちう)も残(のこ)さず、性空(しやうぐう)上人(しやうにん)の御影堂(みえいだう)、是(これ)を始(はじ)めて、堂塔(だうたふ)社々(やしろやしろ)の数(かず)、五十四ケ所ぞ焼(や)けたりける。武蔵坊(むさしばう)是(これ)を見(み)て、現在(げんざい)仏法(ぶつぽふ)の仇(あた)となるべし、咎(とが)をだに犯(おか)しつる上(うへ)は、まして大衆(だいしゆ)の坊々(ばうばう)は助(たす)け置(お)きて、何にかせんと思(おも)ひて、西坂本(にしざかもと)に走(はし)り下(くだ)り、松明(たいまつ)に火を付(つ)けて、軒(のき)を並(なら)べたる
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坊々(ばうばう)に一々に火をぞ付(つ)けたりける。谷(たに)より峰(みね)へぞ焼(や)けて行く。山(やま)を切(き)りて懸造(かけつくり)にしたる坊(ばう)なれば、何(なに)かは一(ひと)つも残(のこ)らず、残(のこ)るものとては礎(いしずへ)のみ残(のこ)りつつ、廿一日の巳(み)の時(とき)ばかりに武蔵坊(むさしばう)は書写(しよしや)を出(い)でて、京(きやう)へぞ行(い)きける。其(そ)の日一日歩(あゆ)み、其(そ)の夜も歩(あゆ)みて、二十二日の朝に京へぞ着(つ)きにける。其(そ)の日は都大雨大風吹(ふ)きて、人の行来も無(な)かりけるに、弁慶(べんけい)装束(しやうぞく)をぞしたりける、長直垂(ながひたたれ)に袴(はかま)をば赤(あか)きをぞ著(き)たりける。如何(いか)にしてか上(のぼ)りけん、さ夜(よ)更(ふ)け、人静(しづ)まりて後(のち)、院(ゐん)の御所の築地(ついぢ)に上(のぼ)り、手(て)を拡(ひろ)げて火をともし、大(だい)の声(こゑ)にてわつと喚(おめ)きて、東(ひがし)の方(かた)へぞ走(はし)りける。又(また)取(と)つて返(かへ)し、門(もん)の上につい立(た)ちて、恐(おそ)ろしげなる声(こゑ)にて、「あらあさまし。如何(いか)なる不思議(ふしぎ)にてか候(さうら)ふやらん、性空(しやうぐう)上人(しやうにん)の手づから自(みづか)ら建(た)て給(たま)ひし書写(しよしや)の山、昨日(きのふ)の朝(あした)、大衆(だいしゆ)と修行者(しゆぎやうじや)との口論(こうろん)によつて、堂塔(だうたふ)五十四ヶ所(しよ)、三百坊(ばう)一時に煙(けぶり)となりぬ」と呼(よ)ばはつて、掻(か)き消(け)す様(やう)に失(う)せにけり。院(ゐん)の御所(ごしよ)には是(これ)を聞召(きこしめ)し、何故(なにゆゑ)、書写(しよしや)は焼(や)けたると、早馬(はやむま)を立てて御尋(おんたづ)ね有(あ)り。「誠(まこと)に焼(や)けたらば学頭(がくとう)を始(はじ)めとして衆徒(しゆと)を追(お)ひ出(い)だせ」との院宣(ゐんぜん)なり。寺中(じちゆう)の下部(しもべ)向(むか)ひて見(み)れば、一宇(いちう)も残(のこ)らず焼(や)けければ、全(まつた)く時(とき)を移(うつ)さず、参(まゐ)りて陳(ちん)じ申(まう)さんとて、馳(は)せ上(のぼ)り、院(ゐん)の御所(ごしよ)に参(さん)じて陳(ちん)じ申(まう)しければ、「さらば罪科(ざいくわ)の者(もの)を申(まう)せ」と仰(おほ)せ下(くだ)さる。「修行者(しゆぎやうじや)には武蔵坊(むさしばう)、衆徒(しゆと)には戒円(かいゑん)」と申(まう)す。
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公卿(くぎやう)是(これ)を聞(き)き給(たま)ひて、「さては山門なりし鬼若(おにわか)が事(こと)ごさんなれば、是(これ)が悪事(あくじ)は山上の大事(だいじ)にならぬ先(さき)に、鎮(しづ)めたらんこそ君(きみ)ならめ。戒円(かいゑん)が悪事(あくじ)是非(ぜひ)なし。詮(せん)ずる所(ところ)戒円(かいゑん)を召(め)せ。戒円(かいゑん)こそ仏法(ぶつぽふ)王法(わうぼふ)の怨敵(をんでき)なれ。しやつを取(と)りて、糾問(きうもん)せよ」とて、摂津国(つのくに)の住人(ぢゆうにん)昆陽野(こやのの)太郎承(うけたまは)つて、百騎(ひやつき)の勢(せい)にて馳(は)せ向(むか)ひ、戒円(かいゑん)を召(め)して、院(ゐん)の御所(ごしよ)に参(まゐ)る。御前に召(め)されて、「汝(なんじ)一人が計(はか)らひか、与(くみ)したる者(もの)の有(あ)りけるか」と尋(たづ)ねらる。糾問(きうもん)厳(きび)しかりければ、とても生(い)きて帰(かへ)らん事(こと)不定(ふぢやう)なれば、日頃(ひごろ)憎(にく)かりしものを入(い)ればやと思(おも)ひて、与(くみ)したる衆徒(しゆと)とては十一人までぞ白状(はくじやう)に入(い)れたりける。又(また)昆陽野(こんやのの)太郎馳(は)せ向(むか)ふ所(ところ)に、かねて聞(き)こえければ、先(き)立(だ)て十一人参(まゐ)り向(むか)ふ。されども白状(はくじやう)に載(の)せたりとて召(め)し置(お)かる。陳(ちん)ずるに及(およ)ばず、戒円(かいゑん)は遂(つひ)に責(せ)め殺(ころ)さる。死(し)しける時(とき)も「我(われ)一人(ひとり)の咎(とが)ならぬに、残りを失(うしな)はれずは、死(し)するとも悪霊(あくりやう)とならん」とぞ言(い)ひける。かく言(い)はざるだにも有(あ)るべし。さらば斬(き)れとて、十一人も皆(みな)斬(き)られにけり。武蔵坊(むさしばう)都(みやこ)に有(あ)りけるが、是(これ)を聞(き)きて、「かかる心地(ここち)良(よ)き事(こと)こそ無(な)けれ。居(ゐ)ながら敵(かたき)思(おも)ふ様(やう)にあたりたる事(こと)こそ無(な)けれ。弁慶(べんけい)が悪事(あくじ)は朝(てう)の御祈(いの)りになりけり」とて、いとど悪事(あくじ)をぞしたりける。
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弁慶(べんけい)洛中(らくちゆう)にて人の太刀(たち)を奪(うば)ひ取(と)る事 S0305
弁慶(べんけい)思(おも)ひけるは、人の重宝(ちようほう)は千揃(そろ)へて持(も)つぞ。奥州(あうしう)の秀衡(ひでひら)は名馬千疋(せんびき)、鎧(よろひ)千領(せんりやう)、松浦(まつら)の太夫は胡■(やなぐい)千腰(せんこし)、弓(ゆみ)千張(せんちやう)、斯様(かやう)に重宝(ちようほう)を揃(そろ)へて持(も)つに、我々(われわれ)は代(か)はりの無(な)ければ、買(か)ひて持(も)つべき様(やう)なし。詮(せん)ずる所(ところ)、夜に入(い)りて、京(きやう)中(ぢゆう)に佇(たたず)みて、人の帯(は)きたる太刀(たち)千振(せんふり)取(と)りて、我(わ)が重宝(ちようほう)にせばやと思(おも)ひ、夜(よ)な夜(よ)な人の太刀(たち)を奪(うば)ひ取(と)る。暫(しば)しこそ有(あ)りけれ、「当時(とうじ)洛中(らくちゆう)に丈(たけ)一丈(いちぢやう)ばかり有(あ)る天狗(てんぐ)法師(ほふし)の歩(あり)きて、人の太刀(たち)を取(と)る」とぞ申(まう)しける。かくて今年(ことし)も暮(く)れければ、次(つぎ)の年の五月(さつき)の末(すゑ)、六月(みなつき)の初(はじ)めまでに多(おほ)くの太刀(たち)を取(と)りたり。樋口(ひぐち)烏丸(からすま)の御堂(みだう)の天井(てんじやう)に置(お)く。数(かぞ)へ見(み)たりければ、九百九十九こそ取(と)りたりける。六月十七日五条(ごでう)の天神(てんじん)に参(まゐ)りて、夜(よ)と共(とも)に祈念(きねん)申(まう)しけるは、「今夜の御利生(ごりしやう)によからん太刀(たち)与(あた)へて賜(た)び給(たま)へ」と祈誓(きせい)し、夜更(ふ)くれば、天神(てんじん)の御前に出(い)で、南(みなみ)へ向(むか)ひて行(ゆ)きければ、人の家(いへ)の築地(ついぢ)の際(きは)に佇(たたず)みて、天神(てんじん)へ参(まゐ)る人の中(なか)に良(よ)き太刀(たち)持(も)ちたる人をぞ待(ま)ち懸(か)けたり。暁方(あかつきがた)になりて、堀河(ほりかは)を下(くだ)りに行(ゆ)きければ、面白(おもしろ)く笛(ふえ)の音こそ聞(き)こえけれ。弁慶(べんけい)是(これ)を聞(き)きて、面白(おもしろ)や、さ夜(よ)更(ふ)けて、天神(てんじん)へ参(まゐ)る人の吹(ふ)く笛(ふえ)か、法師(ほふし)やらん男(をとこ)やらん、よからん太刀(たち)を持(も)ち
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たらば、取(と)らんと思(おも)ひて、笛(ふえ)の音(ね)の近(ちか)づきければ、差(さ)し屈(くぐ)みて見れば、未(いま)だ若人のしろき直垂(ひたたれ)に胸板(むないた)を白(しろ)くしたる腹巻(はらまき)に、黄金造(こがねづく)りの太刀(たち)の心(こころ)も及(およ)ばぬを帯(は)かれたり。弁慶(べんけい)是(これ)を見(み)て、あはれ太刀(たち)や、何(なに)ともあれ、取(と)らんずるものをと思(おも)ひて待(ま)つ所(ところ)に、後(のち)に聞(き)けば恐(おそ)ろしき人にてぞ有(あ)りける。弁慶(べんけい)は如何(いか)でか知(し)るべき。御曹司(おんざうし)は見(み)給(たま)ひて、四辺(あたり)に目(め)をも放(はな)たれず、むくの木の下を見(み)給(たま)ひければ、怪(け)しからぬ法師(ほふし)の太刀(たち)脇挟(わきばさ)みて立(た)ちたるを見(み)給(たま)へば、彼奴(きやつ)は只者(ただもの)ならず、此(こ)の頃(ごろ)都(みやこ)に人の太刀(たち)奪(うば)ひ取(と)る者(もの)は彼奴(きやつ)にて有(あ)るよと思(おも)はれて、少(すこ)しもひるまずかかり給(たま)ふ。弁慶(べんけい)さしも雄猛(けなげ)なる人(ひと)の太刀(たち)をだにも奪(うば)ひ取(と)る、まして是(これ)等(ら)程(ほど)なる優男(やさおとこ)、寄(よ)りて乞(こ)はば、姿(すがた)にも声(こゑ)にも怖(お)ぢて出(い)ださんずらん。げに呉(く)れずは、突(つき)倒(たふ)し奪(うば)ひ取(と)らんと支度(したく)して、弁慶(べんけい)現(あらは)れ出(い)で、申(まう)しける
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は、「只今(ただいま)静(しづ)まりて敵(てき)を待(ま)つ所(ところ)に怪(け)しからぬ人の物具(もののぐ)して通(とほ)り給(たま)ふこそ怪(あや)しく在(ぞん)じ候(さうら)へ。左右(さう)無(な)くえこそ通(とほ)すまじけれ。然(しか)らずは其(そ)の太刀(たち)此方(こなた)へ賜(たま)はりて通(とほ)られ候(さうら)へ」と申(まう)しければ、御曹司(おんざうし)是(これ)を聞(き)き給(たま)ひて、「此(こ)の程(ほど)さる痴(をこ)の者(もの)有(あ)りとは聞(き)き及(およ)びたり。左右(さう)無(な)くえこそ取(と)らすまじけれ。欲(ほ)しくは寄(よ)りて取(と)れ」とぞ仰(おほ)せられける。「さては見参に参(まゐ)らん」とて、太刀(たち)を抜(ぬ)いで飛(と)んでかかる。御曹司(おんざうし)も小太刀を抜(ぬ)いで築地(ついぢ)の許(もと)に走(はし)り寄(よ)り給(たま)ふ。武蔵坊(むさしばう)是(これ)を見(み)て、「鬼神とも言(い)へ、当時(たうじ)我(われ)を相手(あひて)にすべき者(もの)こそ覚(おぼ)えね」とて以(もつ)て開(ひら)いてちやうど打(う)つ。御曹司(おんざうし)「彼奴(きやつ)は雄猛者(けなげもの)かな」とて、稲夫(いなづま)の如(ごと)く弓手(ゆんで)の脇(わき)へづと入(い)り給(たま)へば、打(う)ち開(ひら)く太刀(たち)にて築地(ついぢ)の腹(はら)に切先(きつさき)打(う)ち立(た)てて、抜(ぬ)かんとしける暇(ひま)に、御曹司(おんざうし)走(はし)り寄(よ)りて、弓手(ゆんで)の足(あし)を差(さ)し出(い)だして、弁慶(べんけい)が胸(むね)をしたたかに踏(ふ)み給(たま)へば、持(も)ちたる太刀(たち)をからりと棄(す)てたるを取(と)つて、えいやと言(い)ふ声(こゑ)の内に九尺(きうしやく)ばかり有(あ)りける築地(ついぢ)にゆらりと飛(と)び上(あ)がり給(たま)ふ。弁慶(べんけい)胸(むね)はいたく踏(ふ)まれぬ。鬼神に太刀(たち)取(と)られたる心地(ここち)して、あきれてぞ立(た)ちたりける。御曹司(おんざうし)「是(これ)より後(のち)にかかる狼藉(らうぜき)すな。さる痴(をこ)の者(もの)有(あ)りかとかねて聞きつるぞ。太刀(たち)も取(と)りてゆかんと思(おも)へども、欲(ほ)しさに取(と)りたりと思(おも)はんずる程(ほど)に取(と)らするぞ」とて築地(ついぢ)の覆(おほ)ひに押(お)し当(あ)てて、踏(ふ)みゆがめてぞ投(な)げかけ給(たま)ふ。太刀(たち)取(と)つて押(お)し直(なほ)し、御曹司(おんざうし)の方(かた)をつらげに
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見(み)遣(や)りて、「念(ねん)無(な)く御辺(ごへん)はせられて候(さうら)ふ物(もの)かな。常(つね)に此(こ)の辺(へん)におはする人と見(み)るぞ。今宵(こよひ)こそ仕(し)損(そん)ずるとも是(これ)より後(のち)においては心(こころ)許(ゆる)すまじき物(もの)を」とつぶやきつぶやきぞ行(ゆ)きける。御曹司(おんざうし)是(これ)を見(み)給(たま)ひて、何(なに)ともあれ、彼奴(きやつ)は山法師(やまぼふし)にてぞ有(あ)るらんと思召(おぼしめ)しければ、「山法師(やまぼふし)人の器量(きりやう)に似(に)ざりけり」と宣(のたま)へども、返事(へんじ)もせず。何(なに)ともあれ、築地(ついぢ)より下(お)り給(たま)はん所(ところ)を切(き)らんずるものをと思(おも)ひて待(ま)ちかけたり。築地(ついぢ)よりゆらりと飛(と)び下(お)り給(たま)へば、弁慶(べんけい)太刀(たち)打(う)ち振(ふ)りてづと寄(よ)る。九尺(きうしやく)の築地(ついぢ)より下(お)り給(たま)ひしが、下に三尺(さんじやく)ばかり落(お)ちつかで、又(また)取(と)つて返(かへ)し上(うへ)にゆらりと飛(と)び返(かへ)り給(たま)ふ。大国(たいこく)の穆王(ぼくわう)は六韜(りくたう)を読(よ)み、八尺(はつしやく)の壁(かべ)を踏(ふ)んで天に上(あ)がりしをこそ上古(しやうこ)の不思議(ふしぎ)と思(おも)ひしに、末代(まつだい)と雖(いへど)も、九郎御曹司(おんざうし)は六韜(りくたう)を読(よ)みて、九尺(きうしやく)の築地(ついぢ)を一飛(と)びの中(うち)に宙(ちう)より飛(と)び返(かへ)り給(たま)ふ。弁慶(べんけい)は今宵(こよひ)は空(むな)しく帰(かへ)りけり。
弁慶(べんけい)義経(よしつね)に君臣の契約(けいやく)申(まう)す事 S0306
頃(ころ)は六月十八日の事(こと)なるに、清水(きよみづ)の観音(くわんおん)に上下参篭(さんろう)す。弁慶(べんけい)も何(なに)ともあれ、昨夕(ゆふべ)の男(をとこ)清水(きよみづ)にこそ有(あ)るらんに、参(まゐ)りて見(み)ばやと思(おも)ひて参(まゐ)りける。白地(あからさま)に清水(きよみづ)
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の惣門(そうもん)に佇(たたず)みて待(ま)てども見(み)え給(たま)はず。今宵(こよひ)もかくて帰(かへ)らんとする所(ところ)に何時(いつ)もの癖(くせ)なれば、夜更(ふ)けて清水坂(きよみづざか)の辺に例(れい)の笛(ふえ)こそ聞(き)こえけれ。弁慶(べんけい)「あら面白(おもしろ)の笛(ふえ)の音(ね)や、あれをこそ待(ま)ちつれ。此(こ)の観音(くわんおん)と申(まう)すは、坂上(さかのうへの)田村丸(たむらまろ)の建立(こんりう)し奉(たてまつ)りし御仏なり。我(われ)三十三身(じん)に身を変(へん)じて衆生(しゆじやう)の願(ねが)ひを満(み)てずは、祇園精舎(ぎをんしやうじや)の雲(くも)に交(まじは)り、永(なが)く正覚(しやうがく)を取(と)らじと誓(ちか)ひ、我(われ)地に入(い)らん者(もの)には福徳(ふくとく)を授(さづ)けんと誓(ちか)ひ給(たま)ふ御仏なり。されども弁慶(べんけい)は福徳(ふくとく)も欲(ほ)しからず、只(ただ)此(こ)の男の持(も)ちたる太刀(たち)を取(と)らせて賜(た)べ」と祈誓(きせい)して、門前(もんぜん)にて待(ま)ちかけたり。御曹司(おんざうし)ともすればいぶせく思召(おぼしめ)しければ、坂(さか)の上(うへ)を見(み)上(あ)げ給(たま)ふに、彼(か)の法師(ほふし)こそ昨日(きのふ)に引(ひ)き替(か)へて、腹巻(はらまき)著(き)て、太刀(たち)脇挟(わきばさ)み、長刀(なぎなた)杖(つゑ)に突(つ)き待(ま)ちかけたり。御曹司(おんざうし)見(み)給(たま)ひて、曲者(くせもの)かな、又(また)今宵(こよひ)も是(これ)に有(あ)りけるやと思(おも)ひ給(たま)ひて、少(すこ)しも退(しりぞ)かで門を指(さ)して上(のぼ)り給(たま)へば、弁慶(べんけい)「只今(ただいま)参(まゐ)り給(たま)ふ人は、昨日(きのふ)の夜天神(てんじん)にて見参(げんざん)に入(い)りて候(さうら)ふ御方(おんかた)にや」と申(まう)しければ、御曹司(おんざうし)「さる事(こと)もや」と宣(のたま)へば、「さて持(も)ち給(たま)へる太刀(たち)をば賜(た)び候(さうら)ふまじきか」とぞ申(まう)しける。御曹司(おんざうし)「幾度(いくたび)も只は取(と)らすまじ。欲(ほ)しくは寄(よ)りて取(と)れ」と宣(のたま)へば、「何時(いつ)も強言(こはごと)は変(か)はらざり」とて、長刀(なぎなた)打(う)ち振(ふ)り、真下(まくだ)りに喚(おめ)いて懸(か)かる、御曹司(おんざうし)太刀(たち)抜(ぬ)き合(あ)はせて懸(か)かり給(たま)ふ。弁慶(べんけい)が大長刀(おほなぎなた)を打(う)ち流(なが)して、手並(てなみ)の程(ほど)は見(み)しかば、あやと肝(きも)を消(け)す。さもあれ、手(て)にもたまらぬ人かな
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と思(おも)ひけり。御曹司(おんざうし)「終夜(よもすがら)、斯(か)くて遊(あそ)びたくあれども、観音(くわんおん)に宿願(しゆくぐわん)有(あ)り」とて打(う)ち行(ゆ)き給(たま)ひぬ。弁慶(べんけい)独言(ひとりごと)に、「手(て)に取(と)りたるものを失(うしな)ひたる心地(ここち)する」とぞ申(まう)しける。御曹司(おんざうし)、何(なに)ともあれ、彼奴(きやつ)は雄猛(けなげ)なる者(もの)なり。あはれ、暁(あかつき)まであれかし。持(も)ちたる太刀(たち)長刀(なぎなた)打(う)ち落(おと)して、薄手(うすで)負(おほ)せて生捕(いけどり)にして、独(ひと)り歩(あり)くは徒然(つれづれ)なるに、相伝(さうでん)にして召(め)し使(つか)はばやとぞ思召(おぼしめ)しける。弁慶(べんけい)此(こ)の企(たくみ)を知(し)らず、太刀(たち)に目を懸(か)けて、跡(あと)につきてぞ参(まゐ)りける。清水(きよみづ)の正面(しやうめん)に参(まゐ)りて、御堂(みだう)の中(うち)を拝(おが)み奉(たてまつ)れば、人の勤(つとめ)の声(こゑ)はとりどりなりと申(まう)せば、殊(こと)に正面(しやうめん)の内の格子(かうし)の際(きは)に、法華経(ほけきやう)の一の巻(まき)の始(はじ)めを尊(たつと)く読(よ)み給(たま)ふ声(こゑ)を聞(き)きて、弁慶(べんけい)思(おも)ひけるは、あら不思議(ふしぎ)やな、此(こ)の経(きやう)読(よ)みたる声(こゑ)は有(あ)りつる男(をとこ)の「憎(にく)い奴(やつ)」と言(い)ひつる声(こゑ)に、さも似(に)たるものかなと、寄(よ)りて見(み)んと思(おも)ひて持(も)ちたる長刀(なぎなた)をば正面(しやうめん)の長押(なげし)の上(うへ)に差(さ)し上(あ)げて、帯(は)きたる太刀(たち)ばかり持(も)ちて、大勢(おほぜい)の居(ゐ)たる中に、「御堂(みだう)の役人(やくにん)にて候(さうら)ふ。通(とほ)させ給(たま)へ」とて人の肩(かた)をも嫌(きら)はず、押(おさ)へて通(とほ)りけり。御曹司(おんざうし)御経(おきやう)遊(あそ)ばして居(ゐ)給(たま)へる後(うし)ろに踏(ふ)みはたかりて立(た)ち上(あ)がりけり。御燈火(みあかし)の影(かげ)より人是(これ)を見(み)て、「あらいかめしの法師(ほふし)や、丈(たけ)の高(たか)さよ」とぞ申(まう)しける。何(なに)として知(し)りて是(これ)まで来(き)たるらんと、御曹司(おんざうし)は見(み)給(たま)へども、弁慶(べんけい)は見(み)付(つ)けず。只今(ただいま)までは男(をとこ)にておはしつるが、女の装束(しやうぞく)にて衣(きぬ)打(う)ち被(かづ)き居(ゐ)給(たま)ひたり。武蔵坊(むさしばう)思(おも)ひわづらひてぞ有(あ)り
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ける。中々(なかなか)是非(ぜひ)無(な)く推参(すいさん)せばやと思(おも)ひ、太刀(たち)の尻鞘(しんざや)にて、脇(わき)の下(した)をしたたかに突(つ)き動(うご)かして、「児(ちご)か女房(にようばう)か、是(これ)も参(まゐ)りにて候(さうら)ふぞ。彼方(あなた)へ寄(よ)らせ給(たま)へ」と申(まう)しけれども返事(へんじ)もし給(たま)はず。弁慶(ベんけい)さればこそ、只者(ただもの)にては有(あ)らず。有(あ)りつる人ぞと思(おも)ひ、又(また)したたかにこそ突(つ)いたりけれ。其(そ)の時(とき)御曹司(おんざうし)仰(おほ)せられけるは、「不思議(ふしぎ)の奴(やつ)かな。己(おの)れが様(やう)なる乞食(こつじき)は木のした、萱(かや)の下(もと)にて申(まう)す共(とも)、仏の方便(はうべん)にてましませば、聞召(きこしめ)し入(い)れられんぞ。方々(かたがた)おはします所にて狼籍(らうぜき)なり。其処(そこ)退(の)き候(さうら)へ」と仰(おほ)せられけれども、弁慶(べんけい)「情(なさけ)無(な)くも宣(のたま)ふものかな。昨日(きのふ)の夜より見参(げんざん)に入(い)りて候(さうら)ふ甲斐(かひ)も無(な)く、其方(そなた)へ参(まゐ)り候(さうら)はん」と申(まう)しもはたさず、二畳(にでう)の畳(たたみ)を乗(の)り越(こ)え、御傍(おんそば)へ参(まゐ)る。人推参(すいさん)尾篭(びろう)なりと憎(にく)みける。斯(か)かりける所(ところ)に、御曹子(おんざうし)の持(も)ち給(たま)へる御経(おきやう)を追(お)つ取(と)つて、ざつと開(ひら)いて、「あはれ御経(おきやう)や、御辺(ごへん)の経(きやう)か、人の経(きやう)か」と申(まう)しける。されども返事(へんじ)もし給(たま)はず、「御辺(ごへん)も読(よ)み給(たま)へ。我(われ)も読(よ)み候(さうら)はん」と言(い)ひて読(よ)みけり。弁慶(べんけい)は西塔(さいたふ)に聞(き)こえたる持経者(ぢきやうざ)なり。御曹司(おんざうし)は鞍馬(くらま)の児(ちご)にて習(なら)ひ給(たま)ひたれば、弁慶(べんけい)が甲(かう)の声(こゑ)、御曹司(おんざうし)の乙(おつ)の声(こゑ)、入(い)り違(ちが)へて二の巻(まき)半巻(はんぐわん)ばかりぞ読(よ)まれたる。参(まゐ)り人(うと)のえいやづきもはたはたと鎮(しづ)まり、行人の鈴(すず)の声(こゑ)も止(と)めて、是(これ)を聴聞(ちやうもん)しけり。万々世間(せけん)澄(す)み渡(わた)りて尊(たつと)く心(こころ)及(およ)ばず、暫(しばら)く有(あ)りて、「知(し)る人の有(あ)るに立(た)ち寄(よ)り
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て、又こそ見参(げんざん)せめ」とて立(た)ち給(たま)ふ。弁慶(べんけい)是(これ)を聞(き)きて、「現在(げんざい)目の前(まへ)におはする時(とき)だにもたまらぬ人の、何時(いつ)をか待(ま)ち奉(たてまつ)るべき。御出(おいで)候(さうら)へ」とて、御手(て)を取(と)りて引(ひ)き立(た)て、南面(おもて)の扉(とびら)の下(もと)に行(ゆ)きて申(まう)しけるは、「持(も)ち給(たま)へる太刀(たち)の真実(しんじつ)欲(ほ)しく候(さうら)ふに、それ賜(た)び候(さうら)へ」と申(まう)しければ「是(これ)は重代(ぢゆうだい)の太刀(たち)にて叶(かな)ふまじ」「さ候(さうら)はば、いざさせ給(たま)へ。武芸(ぶげい)に付(つ)けて、勝負(しようぶ)次第(しだい)に賜(たま)はり候(さうら)はん」と申(まう)しければ、「それならば参(まゐ)りあふべし」と宣(のたま)へば、弁慶(べんけい)やがて太刀(たち)を抜(ぬ)く。御曹司(おんざうし)も抜(ぬ)き合(あ)はせ、散々(さんざん)に打(う)ち合(あ)ふ。人是(これ)を見(み)て、「こは如何(いか)に。御坊(ごばう)の、是(これ)程(ほど)分内(ぶんない)もせばき所(ところ)にて、しかも幼(をさな)き人と戯(たはぶ)れは何事(なにごと)ぞ。其(そ)の太刀(たち)差(さ)し給(たま)へ」と雖(いへど)も、聞(き)きも入(い)れず、御曹司(おんざうし)上(うへ)なる衣(きぬ)を脱(ぬ)ぎて捨(す)て給(たま)へば、下(した)は直垂腹巻(ひたたれはらまき)をぞ著(き)給(たま)へる。此(こ)の人も只人(ただひと)にはおはせざりけりとて、
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人目(め)をさます。女や尼童(あまわらべ)共(ども)、周章(あはて)狼狽(ふため)き、縁(えん)より落(お)つるものも有(あ)り、御堂(みだう)の戸(と)を立(た)て、入(い)れじとするものも有(あ)り。されども二人(ふたり)の者(もの)はやがて舞台(ぶたい)へ引(ひ)いて、下(お)り合(あ)うて、戦(たたか)ひける。引(ひ)いつ進(すす)んづ討(う)ち合(あ)ひける間(あひだ)、始(はじ)めは人も懼(お)ぢて寄(よ)らざりけるが、後(のち)には面白(おもしろ)さに行道(ぎやうだう)をする様(やう)に付(つ)きてめぐり、是(これ)を見(み)る。他人(よそひと)言(い)ひけるは、「抑(そもそも)児(ちご)が勝(まさ)るか、法師(ほふし)が勝(まさ)るか」「いや児(ちご)こそ勝(まさ)るよ。法師(ほふし)は物(もの)にても無(な)きぞ。早(はや)弱(よわ)りて見ゆるぞ」と申(まう)しければ、弁慶(べんけい)是(これ)を聞(き)きて、「さては早(はや)我(われ)は下(した)になるごさんなれ」とて、心細(ぼそ)く思(おも)ひける。御曹司(おんざうし)も思(おも)ひきり給(たま)ふ。弁慶(べんけい)も思(おも)ひきつてぞ討(う)ち合(あ)ひける。弁慶(べんけい)少(すこ)し討(う)ちはづす所(ところ)を御曹司(おんざうし)走(はし)りかかつて切(き)り給(たま)へば、弁慶(べんけい)が弓手(ゆんで)の脇(わき)の下(した)に切先(きつさき)を打(う)ち込(こ)まれて、ひるむ所(ところ)を太刀(たち)の脊(むね)にて、散々(さんざん)に討(う)ちひしぎ、東枕(まくら)に打(う)ち伏(ふ)して上(うえ)に打(う)ち乗(の)り居(ゐ)て、「さて従(したが)ふや否(いな)や」と仰(おほ)せられければ、「是(これ)も前世の事(こと)にてこそ候(さうら)ふらん。さらば従(したが)ひ参(まゐ)らせん」と申(まう)しければ、著(き)たる腹巻(はらまき)を御曹司(おんざうし)重(かさ)ねて著(き)給(たま)ひ、二振(ふり)の太刀を取(と)り、弁慶(べんけい)を先(さき)に立(た)てて、其(そ)の夜(よ)の中(うち)に山科(やましな)へ具(ぐ)しておはしまし、傷(きず)を癒(いや)して、其(そ)の後連(つ)れて京へおはして、弁慶(べんけい)と二人(ふたり)して平家(へいけ)を狙(ねら)ひ給(たま)ひける。其(そ)の時(とき)見参(げんざん)に入(い)り始(はじ)めてより、志(こころざし)又(また)二つ無(な)く身に添(そ)ひ、影(かげ)の如(ごと)く、平家(へいけ)を三年に攻(せ)め落(おと)し給(たま)ひしにも度々の高名(かうみやう)を極(きは)めぬ。奥州(あうしう)衣川(ころもがは)の最後(さいご)の合戦(かつせん)まで
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御供(おんとも)して、遂(つひ)に討死(うちじに)してんげる武蔵坊(むさしばう)弁慶(べんけい)是(これ)なり。斯(か)くて都(みやこ)には九郎義経(よしつね)、武蔵坊(むさしばう)と言(い)ふ兵(つはもの)を語(かた)らひて、平家(へいけ)を狙(ねら)ふと聞(き)こえ有(あ)りけり。おはしける所(ところ)は四条(しでう)の上人(しやうにん)が許(もと)におはする由(よし)、六波羅(ろくはら)へこそ訴(うつた)へたり。六波羅(ろくはら)より大勢(おほぜい)押(お)し寄(よ)せて、上人(しやうにん)を捕(と)る。其(そ)の時(とき)御曹司(おんざうし)おはしけれども、手(て)にもたまらず失(うしな)ひ給(たま)ひけり。御曹司(おんざうし)「此(こ)の事(こと)洩(も)れぬ程(ほど)にてあれ、いざや奥(おく)へ下(くだ)らん」とて、都(みやこ)を出(い)で給(たま)ひ、東山道(とうせんだう)にかかりて木曾(きそ)が許(もと)におはして、「都(みやこ)の住居(すまひ)適(かな)はぬ間(あひだ)、奥州(あうしう)へ下(くだ)り候(さうら)へ。斯(か)くて御渡(おんわた)り候(さうら)へば、万事は頼もしくこそ思(おも)ひ奉(たてまつ)れ。東国(とうごく)北国(ほつこく)の兵(つはもの)を催(もよほ)し給(たま)へ。義経(よしつね)も奥州(あうしう)より差(さ)し合(あ)はせて、疾(と)く疾(と)く本意(ほんい)を遂(と)げ候(さうら)はんとこそ思(おも)ひ候(さうら)へ。是(これ)は伊豆国(いづのくに)近(ちか)く候(さうら)へば常(つね)に兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)の御方(おんかた)へも御(おん)訪(おとづ)れ候(さうら)へ」とて木曾(きそ)が許(もと)より送(おく)られて、上野の伊勢(いせの)三郎が許(もと)までおはしけれ。是(これ)より義盛(よしもり)御供(おんとも)して、平泉(ひらいづみ)へ下(くだ)りけり。
頼朝(よりとも)謀反(むほん)の事(こと) S0307
治承(ぢしよう)四年(しねん)八月十七日に頼朝(よりとも)謀反(むほん)起(お)こし給(たま)ひて、和泉(いづみ)の判官(はうぐわん)兼隆(かねたか)を夜討(よう)ちにして、同十九日相模(さがみの)国(くに)小早川(こばやがは)の合戦(かつせん)に打(う)ち負(ま)けて、土肥(とひ)の杉山(すぎやま)に引(ひ)き篭(こも)り給(たま)ふ。大庭(おほばの)三郎、
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股野(またのの)五郎、土肥(とひ)の杉山(すぎやま)を攻(せ)むる。廿六日の曙(あけぼの)に伊豆国(いづのくに)真名鶴崎(まなづるがさき)より舟(ふね)に乗(の)りて、三浦(みうら)を志(こころざ)して押(お)し出(い)だす。折節(をりふし)風(かぜ)はげしくて、岬(みさき)へ船を寄(よ)せ兼(か)ねて、二十八日の夕暮(ゆふぐれ)に安房国(あはのくに)州(す)の崎(さき)と言(い)ふ所(ところ)に御舟(ふね)を馳(は)せ上(あ)げて、其(そ)の夜は、滝口(たきのぐち)の大明神(だいみやうじん)に通夜(つや)有(あ)りて、夜(よ)と共(とも)に祈誓(きせい)をぞ申(まう)されけるに、明神(みやうじん)の示(しめ)し給(たま)ふぞと覚(おぼ)しくて、御宝殿(ごほうでん)の御戸を美(いつく)しき御手(て)にて押(お)し開(ひら)き、一首(しゆ)の歌をぞ遊(あそ)ばしける。
源(みなもと)は同(おな)じ流(なが)れぞ石清水(いはしみづ)たれ堰(せ)き上(あ)げよ雲(くも)の上(うえ)まで W002
兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)夢(ゆめ)打(う)ち覚(さ)めて、明神(みやうじん)を三度拝(はい)し奉(たてまつ)りて、
源(みなもと)は同(おな)じ流(なが)れぞ石清水(いはしみづ)堰(せ)き上(あ)げて賜(た)べ雲の上(うえ)まで W003
と申(まう)して、明(あ)くれば州(す)の崎(さき)を立(た)ちて、坂東(ばんどう)、坂西(ばんざい)にかかり、真野(まの)の館(たち)を出(い)で、
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小湊(こみなと)の渡(わたり)して、那古(なこ)の観音(くわんおん)を拝(はい)して、雀島(すずめしま)の大明神(だいみやうじん)の御前にて形(かた)の如(ごと)くの御神楽(みかぐら)を参(まゐ)らせて、猟島(りやうしま)に著(つ)き給(たま)ひぬ。加藤次申(まう)しけるは、「悲(かな)しきかなや。保元(ほうげん)に為義(ためよし)切(き)られ給(たま)ふ。平治(へいぢ)に義朝(よしとも)討(う)たれ給(たま)ひて後(のち)は、源氏(げんじ)の子孫(しそん)皆(みな)絶(た)え果(は)てて弓馬(きゆうば)の名(な)を埋(うづ)んで星霜(せいざう)を送(おく)り給(たま)ふ。偶々(たまたま)も源氏(げんじ)思(おも)ひ立(た)ち給(たま)へば、不運(ふうん)の宮(みや)に与(くみ)し参(まゐ)らせて、世を損(そん)じ給(たま)ふこそ悲(かな)しけれ」と申(まう)しければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)仰(おほ)せられけるは、「斯(か)く心(こころ)弱(よわ)くな思(おも)ひそ。八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)如何(いか)でか思召(おぼしめ)し捨(す)てさせ給(たま)ふべき」と諌(いさ)め給(たま)ひけるこそ頼(たの)もしく覚(おぼ)ゆれ。さる程(ほど)に三浦(みうら)の和田(わだの)小太郎(こたらう)、佐原(さはらの)十郎(じふらう)、久里浜(くりはま)の浦(うら)より小船に取(と)り乗(の)りて、宗徒(むねと)の輩(ともがら)三百余人猟島(りやうしま)へ参(まゐ)りて源氏(げんじ)に属(つ)く。安房(あはの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)丸(まろの)太郎、安西(あんざい)の太夫、是(これ)等(ら)二人(ふたり)大将(たいしやう)として五百余騎(よき)馳(は)せ来(き)たり源氏(げんじ)に属(つ)く。源氏(げんじ)八百余騎(よき)になり、いとど力(ちから)付(つ)きて、鞭(むち)を上(あ)げて打(う)つ程(ほど)に、安房(あは)と上総(かづさ)の堺(さかひ)なる造海(つくりうみ)の渡(わたり)をして、上総(かづさの)国(くに)讚岐(さぬき)の枝浜(えだはま)を馳(は)せ急(いそ)がせ給(たま)ひて、磯(いそ)が崎(さき)を打(う)ち通(とほ)りて、篠部(しのべ)、いかひしりと言(い)ふ所(ところ)に著(つ)き給(たま)ふ。上総(かづさの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)伊北(いほう)、伊南(いなん)、庁北(ちやうほく)、庁南(ちやうなん)、武射(むさ)、山辺(やまのべ)、畔隷(あひる)、くはのかみの勢(せい)、都合(つがう)一千余騎(よき)周淮川(すへかは)と言(い)ふ所(ところ)に馳(は)せ来(き)たつて、源氏(げんじ)に加(くは)はる。され共(ども)介(すけ)の八郎は未(いま)だに見(み)えず。私(わたくし)に広常(ひろつね)申(まう)しけるは、「抑(そもそも)兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)の安房(あは)、上総(かづさ)に渡(わた)りて二ケ国の軍兵(ぐんびやう)を揃(そろ)へ給(たま)ふなるに、未(いま)だ広常(ひろつね)
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が許(もと)へ御使(おんつか)ひを賜(たま)はらぬこそ心得(こころえ)ね。今日(けふ)待(ま)ち奉(たてまつ)りて仰(おほ)せ蒙(かうぶ)らずは、千葉(ちば)、葛西(かさい)を催(もよほ)して、きさうとの浜(はま)に押(お)し向(むか)ひて、源氏(げんじ)を引き立(た)て奉(たてまつ)らん」と議(ぎ)する処に、藤九郎盛長(もりなが)、褐(かちん)の直垂(ひたたれ)に黒革威(くろかはをどし)の腹巻(はらまき)に黒津羽(くろつば)の矢負(お)ひ、塗篭藤(ぬりごめどう)の弓(ゆみ)持(も)ちて、介(すけ)の八郎の許(もと)にぞ来(き)たりける。「上総介(かづさのすけ)殿(どの)に見参(げんざん)」と申(まう)しければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)の御使(おんつか)ひと申(まう)せば、嬉(うれ)しさに、急(いそ)ぎ出(い)で合(あ)ひて対面(たいめん)す。御教書(げうしよ)賜(たま)はり、拝見(はいけん)す。家(いへ)の子郎等(らうどう)も差(さ)し遣(つか)はせよと仰(おほ)せられんとこそ思(おも)ひつるに、「今(いま)まで広常(ひろつね)が遅(おそ)く参(まゐ)るこそ奇怪(きくわい)なれ」と書(か)き給(たま)ひたるを打(う)ち見(み)て、「あはれ、殿(との)の御書(しよ)かな。斯(か)くこそ有(あ)らまほしけれ」とて、則(すなは)ち千葉介(ちばのすけ)の許(もと)へ送(おく)る。葛西(かさい)、豊田(とよた)、うらのかみ、上総介(かづさのすけ)の許(もと)へ馳(は)せ寄(よ)りて、千葉(ちば)、上総介(かづさのすけ)を大将軍(だいしやうぐん)として、三千(さんぜん)余騎(よき)開発(かいほつ)の浜(はま)に馳(は)せ来(き)たり源氏(げんじ)につく。兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)四万余騎(よき)になりて、上総(かづさ)の館(やかた)に著(つ)き給(たま)ふ。斯(か)くする程(ほど)にこそ久(ひさ)しけれ。されども八ケ国(はつかこく)は源氏(げんじ)に心(こころ)有(あ)る国なりければ、我(われ)も我(われ)もと馳(は)せ参(まゐ)る。常陸国(ひたちのくに)には宍戸(しらと)、行方(なめかた)、志田(しだ)、東条(とうでう)、佐竹(さたけの)別当(べつたう)秀義(ひでよし)、高市(たけち)の平武者(へいむしやの)太郎、小野寺(をのでらの)禅師(ぜんじ)道綱(みちつな)、上野(かうづけの)国(くに)には大胡(おほごの)太郎、山上(やまかみ)さゑよりの信高(のぶたか)武蔵国には河越(かはごえの)太郎重頼、小太郎(こたらう)重房(しげふさ)同(おな)じき三郎重義(しげよし)、党(たう)には丹(たん)、横山(よこやま)、猪俣(いのまた)馳(は)せ参(まゐ)る。畠山(はたけやま)、稲毛(いなげ)は未だ参(まゐ)らず。秩父(ちちぶの)庄司(しやうじ)に小山田(をやまだの)別当(べつたう)は在京(ざいきやう)によりて参(まゐ)らず。相模(さがみの)国(くに)には本間(ほんま)、渋谷(しぶや)馳(は)せ参(まゐ)る。大庭(おほば)、股野(またの)、山内は参(まゐ)らず。治承(ぢしよう)四年(しねん)九月十一日武蔵(むさし)と下野(しもつけ)の境(さかひ)なる松戸(まつどの)庄(しやう)
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市河(いちかは)と言(い)ふ所(ところ)に著(つ)き給(たま)ふ。御勢(ぜい)八万九千とぞ聞(き)こえける。此処(ここ)に坂東(ばんどう)に名を得(え)たる大河一(ひと)つ有(あ)り。此(こ)の河(かは)の水上(みなかみ)は、上野(かうづけの)国(くに)刀根庄(とねのしやう)、藤原(ふぢはら)と言(い)ふ所(ところ)より落(お)ちて水上(みなかみ)遠(とほ)し。末(すゑ)に下(くだ)りては在五(ざいご)中将(ちゆうじやう)の墨田河(すみだがは)とぞ名付けたる。海(うみ)より潮(しほ)差(さ)し上(あ)げて、水上(みなかみ)には雨降(ふ)り、洪水(こうずい)岸(きし)を浸(ひた)し流(なが)れたり。偏(ひと)へに海(うみ)を見(み)る如(ごと)く、水(みづ)に堰(せ)かれて五日逗留(とうりう)し給(たま)ひ、墨田(すむだ)の渡(わたり)両所(りやうしよ)に陣(ぢん)を取(と)つて、櫓(やぐら)をかき、櫓(やぐら)の柱(はしら)には馬(うま)を繋(つない)で、源氏(げんじ)を待(ま)ち懸(か)けたり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)は是(これ)を御覧(ごらん)じて、「彼奴(きやつ)首(くび)取(と)れ」と宣(のたま)へば、急(いそ)ぎ櫓(やぐら)の柱(はしら)を切(き)り落(おと)して、筏(いかだ)にし、市河(いちかは)へ参(まゐ)り、葛西(かさいの)兵衛(ひやうゑ)について、見参(げんざん)に入(い)るべき由(よし)申(まう)したりけれども用(もち)ゐ給(たま)はず。重(かさ)ねて申(まう)しければ、「如何様(いかさま)にも頼朝(よりとも)を猜(そね)むと思(おも)ふぞ。伊勢(いせの)加藤次(かとうじ)心(こころ)許(ゆる)すな」と仰(おほ)せられける。江戸(えどの)太郎色(いろ)を失(うしな)ひける所(ところ)に千葉介(ちばのすけ)近所に有(あ)りながら如何(いかが)有(あ)るべき。成胤(なりたね)申(まう)さんとて、御前に畏(かしこ)まつて、不便(ふびん)の事(こと)を申(まう)しければ、佐(すけ)殿(どの)仰(おほ)せられけるは、「江戸(えどの)太郎八ケ国(はつかこく)の大福長者(だいふくちやうじや)と聞(き)くに、頼朝(よりとも)が多勢(たせい)此(こ)の二三日水に堰(せ)かれて渡(わた)し兼(か)ねたるに、水(みづ)の渡(わたり)に浮橋(うきはし)を組(く)んで、頼朝が勢武蔵国(むさしのくに)王子(わうじ)板橋(いたはし)に付(つ)けよ」とぞ宣(のたま)ひける。江戸(えどの)太郎承(うけたまは)りて「首(くび)を召(め)さるるとも如何(いか)でか渡すべき」と申(まう)す所(ところ)に千葉介(ちばのすけ)葛西(かさいの)兵衛(ひやうゑ)を招(まね)きて申(まう)しけるは、「いざや江戸(えどの)太郎助(たす)けん」とて、両人(りやうにん)が知行所(ちぎやうしよ)、今井(いまひ)、栗川(くりかは)、亀無(かめなし)、牛島(うしじま)と申(まう)す
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所より、海人(あま)の釣舟(つりぶね)を数千艘(すせんさう)上(のぼ)せて、石浜(いしはま)と申(まう)す所(ところ)は江戸(えどの)太郎が知行所(ちぎやうしよ)なり。折節(をりふし)西国船(さいこくぶね)の著(つ)きたるを数千艘(すせんさう)取(と)り寄(よ)せ、三日がうちに浮橋(うきはし)を組(く)んで、江戸(えどの)太郎に合力(かうりよく)す。佐(すけ)殿(どの)神妙(しんべう)なる由(よし)仰(おほ)せられ、さてこそ太日(ふとひ)、墨田(すんだ)打(う)ち越(こ)えて、板橋(いたはし)に著(つ)き給(たま)ひけり。
頼朝謀反(むほん)により義経(よしつね)奥州(あうしう)より出(い)で給(たま)ふ事 S0308
さる程(ほど)に佐(すけ)殿(どの)の謀反(むほん)奥州(あうしう)に聞(き)こえければ、御弟(おとと)九郎義経(よしつね)、本吉(もとよしの)冠者(くわんじや)泰衡(やすひら)を召(め)して秀衡(ひでひら)に仰(おほ)せけるは、「兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)こそ謀反(むほん)起(お)こして、八ケ国(はつかこく)を打(う)ち従(したが)へて、平家(へいけ)を攻(せ)めんとて都(みやこ)へ上(のぼ)り給(たま)ふと承(うけたまは)りて候(さうら)へ。義経(よしつね)かくて候(さうら)ふこそ心(こころ)苦(ぐる)しく候(さうら)へ。追(お)ひ付(つ)き奉(たてまつ)りて、一方(いつぱう)の大将軍(だいしやうぐん)をも望(のぞ)まばや」とぞ仰(おほ)せられける。秀衡(ひでひら)申(まう)しけるは、「今(いま)まで、君(きみ)の思召(おぼしめ)し立(た)たぬ御事(おんこと)こそ僻事(ひがこと)にて候(さうら)へ」とて、泉(いづみの)冠者(くわんじや)を呼(よ)びて、「関東(くわんとう)に事(こと)出(い)で来(き)、源氏(げんじ)打(う)ち出(い)で給(たま)ふなり。両国(りやうごく)の兵(つはもの)共(ども)催(もよほ)せ」とぞ申(まう)しける。御曹司(おんざうし)仰(おほ)せられけるは、「千騎万騎(ぎ)も具足(ぐそく)したく候(さうら)へども、事(こと)延(の)びては叶(かな)ふまじ」とて打(う)ち出(い)で給(たま)ふ。取(と)り敢(あ)へざりければ、先(ま)づかつがつ三百余騎(よき)を奉(たてまつ)りける。
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御曹司(おんざうし)の郎等(らうどう)には西塔(さいたふ)の武蔵坊(むさしばう)、又(また)園城寺(をんじやうじ)法師(ほふし)の、尋(たづ)ねて参(まゐ)りたる常陸房(ひたちばう)、伊勢(いせの)三郎、佐藤(さとう)三郎継信(つぎのぶ)、同(おな)じく四郎忠信(ただのぶ)是(これ)等(ら)を先(さき)として三百余騎(よき)馬(うま)の腹筋(はらすぢ)馳(は)せ切(き)り、脛(すね)の砕(くだ)くるをも知(し)らず、揉(も)みに揉(も)うで馳(は)せ上(のぼ)る。阿津賀志(あづかし)の中山(なかやま)馳(は)せ越(こ)え、安達(あだち)の大城戸(おほきど)打(う)ち通(とほ)り、行方(ゆきがた)の原(はら)、ししちを見(み)給(たま)へば、「勢(せい)こそ疎(まばら)になりたるぞ」と仰(おほ)せられけるに、「或(ある)いは馬(うま)の爪(つめ)欠(か)かせ、或(ある)いは脛(すね)を馳(は)せ砕(くだ)きて、少々(せうせう)道(みち)に止(とど)まり、是(これ)までは百五十騎(き)御座(ござ)候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「百騎(ひやつき)が十騎(き)にならんまでも、打(う)てや者(もの)共(ども)、後(あと)を顧(かへりみ)るべからず」とて、とどろ馳(か)けにて歩(あゆ)ませける。きづかはを打(う)ち過(す)ぎて、下橋(さげはし)の宿(しゆく)に著(つ)いて、馬(うま)を休(やす)ませて、絹河(きぬがは)の渡(わたり)して、宇都宮(うつのみや)の大明神(だいみやうじん)伏(ふ)し拝(おが)み参(まゐ)らせ、室(むろ)の八嶋(やしま)を外(よそ)に見(み)て、武蔵(むさしの)国(くに)足立郡(あだちのこほり)、小川口(こかはぐち)に著(つ)き給(たま)ふ。御曹司(おんざうし)の御勢(ぜい)八十五騎(き)にぞなりにける。板橋(いたはし)に馳(は)せ著(つ)きて、「兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)は」と問(と)ひ給(たま)へば、「一昨日(をととひ)是(これ)を発(た)たせ給(たま)ひて候(さうら)ふ」と申(まう)す。武蔵(むさし)の国府(こふ)の六所の町(まち)に著(つ)いて、「佐(すけ)殿(どの)は」と仰(おほ)せければ、「一昨日(をととひ)通(とほ)らせ給(たま)ひて候(さうら)ふ。相模(さがみ)の平塚(ひらづか)に」とぞ申(まう)しける。平塚(ひらづか)に著(つ)いて聞(き)き給(たま)へば、「早(はや)足柄(あしがら)を越(こ)え給(たま)ひぬ」とぞ聞(き)こえける。いとど心(こころ)許(もと)無(な)くて、駒(こま)を早(はや)めて打(う)ち給(たま)ひける程(ほど)に、足柄山(あしがらやま)を打(う)ち越(こ)えて、伊豆(いづ)の国府(こくふ)に著(つ)き給(たま)ふ。「佐(すけ)殿(どの)は昨日(きのふ)此処(ここ)を発(た)ち給(たま)ひて、駿河(するがの)国千本(せんぼん)の松原(まつばら)、浮島(うきしま)が原(はら)に」と申(まう)しければ、さては程(ほど)近(ちか)しとて、駒(こま)を早(はや)め、
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急(いそ)がれける。
義経記巻第三
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義経記 国民文庫本
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\義経記巻第四目録
\頼朝(よりとも)\義経(よしつね)\対面(たいめん)/の\事(こと)
\義経(よしつね)\平家(へいけ)/の\討手(うつて)/に\上(のぼ)り\給(たま)ふ\事
\腰越(こしごえ)/の=状/の\事(こと)
\土佐坊(とさ-ばう)\上洛/の\事(こと)
\義経(よしつね)\都落(みやこおち)/の\事(こと)
\大物(だいもつ)=合戦(かつせん)/の\事(こと)
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\義経記巻第四
\頼朝(よりとも)\義経(よしつね)\対面(たいめん)/の\事(こと) S0401
\九郎-御曹司(おんざうし)\浮島(うきしま)/が-原(はら)/に\著(つ)き\給(たま)ひ、\兵衛佐(ひやうゑ/の-すけ)-殿(どの)/の\陣/の\前(まへ)\三町/ばかり\引(ひ)き-退(しりぞ)い/て、\陣(ぢん)/を\とり、\暫(しばら)く\息(いき)/を/ぞ\休(やす)め/られ/ける。\佐(すけ)-殿(どの)\是(これ)/を\御覧(ごらん)じ/て\「此処(ここ)/に\白旗(しらはた)\白印(しろじるし)/にて\清(きよ)-げ/なる\武者\五六十騎(ごろくじつ-き)/ばかり\見(み)え/たる/は、\誰(たれ)/なる/らん、\覚束(おぼつか)-なし。\信濃(しなの)/の\人々(ひとびと)/は\木曾(きそ)/に\随(したが)ひ/て\止(とど)まり/ぬ。\甲斐(かひ)/の\殿原(との-ばら)/は\二陣(にぢん)/なり。\如何(いか)/なる\人/ぞ。\本名\実名(じつみやう)/を\尋(たづ)ね/て\参(まゐ)れ」/とて\堀(ほり/の)-弥太郎(やたらう)\御使(おん-つか)ひ/に\遣(つか)はさ/れ、\家の子\郎等\数多(あまた)\引(ひ)き-具(ぐ)し/て\参(まゐ)る。\間(あひ)/を\隔(へだ)て\弥太郎(やたらう)\一騎(き)\進(すす)み-出(い)で\申(まう)し/ける/は、\「是(これ)/に\白印(しろじるし)/にて\おはしまし\候(さうら)ふ/は\誰/にて\渡(わた)ら/せ\給(たま)ひ\候(さうら)ふ/ぞ。\本名\実名(じつみやう)/を\確(たし)か/に\承(うけたまは)り\候(さうら)へ/と\鎌倉(かまくら)-殿(どの)/の\仰(おほ)せ/にて\候(さうら)ふ」/と\申(まう)し/けれ/ば、\其(そ)/の\中/に\廿四五/ばかり/なる\男/の\色(いろ)\白(しろ)く、\尋常(じんじやう)/なる/が、\赤地(あかぢ)/の=錦(にしき)/の=直垂(ひたたれ)/に\紫裾濃(むらさきすそご)/の=鎧(よろひ)/の\裾金物(すそかなもの)\打(う)ち/たる/を\著(き)、\白星(しろぼし)/の\五枚兜(ごまいかぶと)/に\鍬形(くはがた)\打(う)つ/て\猪頚(ゐくび)/に\著(き)、\大中黒(おほなかぐろ)/の=矢\負(お)ひ、\重藤/の=弓\持(も)ち/て、\黒(くろ)き\馬(うま)/の\太(ふと)く\逞(たくま)しき/に\乗(の)り
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/たる/が\歩(あゆ)ませ-出(い)で/て、\「鎌倉(かまくら)-殿(どの)/も\知召(しろしめ)さ/れ/て\候(さうら)ふ。\童(わらは)/が\名\牛若(うしわか)/と\申(まう)し\候(さうら)ひ/し/が、\近年\奥州(あうしう)/に\下向(げかう)\仕(つかまつ)り\候(さうら)ひ/て\居(ゐ)\候(さうら)ひ/つる/が、\御謀反(むほん)/の\様(やう)\承(うけたまは)り、\夜/を\日/に\継(つ)ぎ/て\馳(は)せ-参じ/て\候(さうら)ふ。\見参(げんざん)/に\入(い)れ/て\賜(た)び\候(さうら)へ」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\堀(ほり/の)-弥太郎(やたらう)、\さて/は\御兄弟/にて\ましまし/けり/と\馬(うま)/より\飛(と)ん/で\下(お)り、\御曹司(おんざうし)/の\乳母子(めのとご)\佐藤(さとう)-三郎/を\呼(よ)び-出(い)だし/て、\色代(しきだい)\有(あ)り。\弥太郎(やたらう)\一町/ばかり\馬(うま)/を\引(ひ)か/せ/けり。\かく/て\佐(すけ)-殿(どの)/の\御前/に\参(まゐ)り、\此(こ)/の\由(よし)/を\申(まう)し/けれ/ば、\佐(すけ)-殿(どの)/は\善悪(ぜんあく)/に\騒(さわ)が/ぬ\人/にて\おはし/ける/が、\今度(こんど)/は\殊(こと)/の-外(ほか)/に\嬉(うれ)し-げ/にて、\「さら/ば\是(これ)/へ\おはしまし\候(さうら)へ。\見参(げんざん)=せ/ん」/と\宣(のたま)へ/ば、\弥太郎(やたらう)\やがて\参(まゐ)り、\御曹司(おんざうし)/に\此(こ)/の\由(よし)/を\申(まう)す。\御曹司(おんざうし)/も\大(おほ)き/に\悦(よろこ)び、\急(いそ)ぎ\参(まゐ)り\給(たま)ふ。\佐藤(さとう)-三郎、\同=四郎\伊勢(いせ/の)-三郎\是(これ)-等(ら)\三騎(さんぎ)\召(め)し-連(つ)れ/て\参(まゐ)ら/るる。\佐(すけ)-殿(どの)\御陣(ご-ぢん)/と\申(まう)す/は、\大幕(おほまく)\百八十町(ひやくはちじつ-ちやう)\引(ひ)き/たり/けれ/ば、\其(そ)/の\内(うち)/は\八ケ国(はつ-か-こく)/の
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\大名(だいみやう)\小名(せうみやう)\なみ−居(ゐ)/たり。\各々(おのおの)\敷皮(しきがは)/にて/ぞ\有(あ)り/ける。\佐(すけ)-殿(どの)\御座敷(ざしき)/に/は\畳(たたみ)\一畳(いち-でふ)\敷(し)き/たれ/共(ども)、\佐(すけ)-殿(どの)/も\敷皮(しきがは)/に/ぞ\おはし/ける。\御曹司(おんざうし)/は\兜(かぶと)/を\脱(ぬ)ぎ/て\童/に\著(き)せ、\弓(ゆみ)\取(と)り-直(なほ)し/て、\幕(まく)/の\際(きは)/に\畏(かしこ)まつ/て/ぞ\おはし/ける。\其(そ)/の-時(とき)\佐(すけ)-殿(どの)\敷皮(しきがは)/を\去(さ)り、\我(わ)/が-身/は\畳(たたみ)/に/ぞ\直(なほ)ら/れ/ける。\「それ/へ=それ/へ」/と/ぞ\仰(おほ)せ/らるる。\御曹司(おんざうし)\しばらく\辞退(じたい)=し/て\敷皮(しきがは)/に/ぞ\直(なほ)ら/れ/ける。\佐(すけ)-殿(どの)\御曹司(おんざうし)/を\つくづく/と\御覧(ごらん)じ/て\先(ま)づ\涙/に/ぞ\咽(むせ)ば/れ/ける。\御曹司(おんざうし)/も\其(そ)/の\色(いろ)/は\知(し)ら/ね/共(ども)、\共(とも)/に\涙(なみだ)/に\咽(むせ)び\給(たま)ふ。\互(たがひ)/に\心(こころ)/の\行(ゆ)く\程(ほど)\泣(な)き/て\後(のち)、\佐(すけ)-殿(どの)\涙(なみだ)/を\抑(おさ)へ/て、\「扨(さて)/も\頭殿(かう/の-との)/に\後(おく)れ\奉(たてまつ)り/て、\其(そ)/の=後(のち)/は\御行方(おん-ゆくへ)/を\承(うけたまは)り\候(さうら)は/ず。\幼少(えうせう)/に\おはし\候(さうら)ふ\時、\見(み)\奉(たてまつ)り/し/ばかり/也(なり)。\頼朝\池(いけ)/の-尼(あま)/の\宥(なだ)め/られ/し/に\より/て、\伊豆/の\配所(はいしよ)/にて\伊東(いとう)、\北条(ほうでう)/に\守護(しゆご)=せ/られ、\心(こころ)/に\任(まか)せ/ぬ\身/にて\候(さうら)ひ/し\程(ほど)/に\奥州(あうしう)/へ\御下向(ご-げかう)/の\由(よし)/は\かすか/に\承(うけたまは)つ/て\候(さうら)ひ/しか/ども、\音信(おとづれ)/だに/も\申(まう)さ/ず\候(さうら)ふ。\兄弟(きやうだい)\有(あ)り/と\思召(おぼしめ)し-忘(わす)れ\候(さうら)は/で、\取(と)り-敢(あ)へ/ず\御上(のぼ)り\候(さうら)ふ\事、\申(まう)し-尽(つ)くし-難(がた)く\悦(よろこ)び-入(い)り\候(さうら)ふ。\是(これ)\御覧(ごらん)\候(さうら)へ。\斯(か)かる\大功(たいこう)/を/こそ\思(おも)ひ-企(くはだ)て/て\候(さうら)へ、\八ケ国(はつ-か-こく)/の\人々(ひとびと)/を\始(はじ)め/と/して\候(さうら)へ/ども、\皆(みな)\他人(たにん)/なれ/ば\身/の\一大事(だいじ)/を\申(まう)し-合(あ)はする\人/も\なし。\皆(みな)\平家(へいけ)/に\相(あひ)-従(したが)ひ/たる\人々(ひとびと)/なれ/ば、\頼朝(よりとも)/が\弱(よわ)-げ/を\守(まぼ)り\給(たま)ふ/らん/と\思(おも)へ/ば、\夜(よる)/も\夜(よ)/も-すがら\平家(へいけ)/の\事(こと)/のみ\思(おも)ひ、\又(また)\ある-時(とき)/は、\平家(へいけ)/の\討手(うつて)\上(のぼ)せ/ばや/と\思(おも)へ/ども、\身/は\一人/なり。\頼朝(よりとも)\自身\進(すす)み\候(さうら)へ/ば、\東国\覚束(おぼつか)-なし。\代官(だいくわん)\上(のぼ)せ/ん/と\すれ/ば、\心(こころ)-安(やす)き\兄弟/も\なし。\
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他人(たにん)/を\上(のぼ)せ/ん/と\すれ/ば、\平家(へいけ)/と\一(ひと)つ/に\成(な)り/て、\返(かへ)つ/て\東国(とうごく)/を/や\攻(せ)め/ん/と\存(ぞん)ずる\間(あひだ)、\それ/も\叶(かな)ひ-難(がた)し。\今(いま)\御辺(ごへん)/を\待(ま)ち-付(つ)け/て\候(さうら)へ/ば、\故(こ)-左馬頭(さま/の-かみ)-殿(どの)\生(い)き-返(かへ)ら/せ\給(たま)ひ/たる\様(やう)/に/こそ\存(ぞん)じ\候(さうら)へ。\我(われ)-等(ら)/が\先祖(せんぞ)\八幡(はちまん)-殿(どの)/の\後三年(ごさんねん)/の=合戦(かつせん)/に\むなう/の\城/を\攻(せ)め/られ/し/に、\多勢(たせい)\皆(みな)\亡(ほろ)ぼさ/れ/て、\無勢(ぶせい)/に\なり/て、\厨河(くりやがは)/の\はた/に\下(お)り-下(くだ)り/て、\幣帛(へいはく)/を\俸(ささ)げ/て\王城(わうじやう)/を\伏(ふ)し-拝(おが)み、\「南無(なむ)-八幡(はちまん)-大菩薩(だいぼさつ)\御覚(おぼ)え/を\改(あらた)め/ず、\今度(こんど)/の\寿命(じゆめう)/を\助(たす)け/て\本意(ほんい)/を\遂(と)げ/させ/て\給(た)べ」/と\祈誓(きせい)=せ/られ/けれ/ば、\誠(まこと)/に\八幡(はちまん)-大菩薩(だいぼさつ)/の\感応(かんおう)/に/や\有(あ)り/けん、\都(みやこ)/に\おはする\御弟(おとと)\刑部丞(ぎやうぶ/の-じよう)\内裏(だいり)/に\候(さうら)ひ/ける/が、\俄/に\内裏(だいり)/を\紛(まぎ)れ-出(い)で、\奥州(あうしう)/の\覚束(おぼつか)-無(な)き/とて、\二百-余騎(よ-き)/にて\下ら/れ/ける。\路次(ろし)/にて\勢\打(う)ち-加(くは)はり、\三千(さんぜん)-余騎(よ-き)/にて\厨河(くりやがは)/に\馳(は)せ-来(き)たつ/て、\八幡(はちまん)-殿(どの)/と\一(ひと)つ/に\なり/て\遂(つひ)/に\奥州(あうしう)/を\従(したが)へ\給(たま)ひ/ける。\其(そ)/の-時(とき)/の\御(おん)-心(こころ)/も、\頼朝(よりとも)\御辺(ごへん)/を\待(ま)ち-得(え)\参(まゐ)らせ/たる\心/も、\如何(いか)で/か\是(これ)/に\勝(まさ)る/べき。\今日(けふ)/より\後(のち)/は\魚/と\水/と/の/如(ごと)く/に/して、\先祖(せんぞ)/の\恥(はぢ)/を\すすぎ、\亡魂(ぼうこん)/の\憤(いきどほ)り/を\休(やす)め/ん/と/は\思召(おぼしめ)さ/れ/ず/や。\御同心/も\候(さうら)は/ば、\尤(もつと)も\然(しか)る/べし」/と\宣(のたま)ひ/も\敢(あ)へ/ず、\涙(なみだ)/を\流(なが)し\給(たま)ひ/けり。\御曹司(おんざうし)\兎角(とかく)/の\御返事(ご-へんじ)/も\無(な)く/して、\袂(たもと)/を/ぞ\絞(しぼ)ら/れ/ける。\是(これ)/を\見(み)/て\大名(だいみやう)\小名(せうみやう)\互(たが)ひ/の\心/の=中(うち)\推(おし)-量(はか)ら/れ/て、\皆(みな)\袖/を/ぞ\濡(ぬ)らさ/れ/ける。\暫(しばら)く\有(あ)り/て、\御曹司(おんざうし)\申(まう)さ/れ/ける/は、\「仰(おほ)せ/の/如(ごと)く、\幼少(えうせう)/の\時\御目/に\かかり/て\候(さうら)ひ/ける/やらん。\配所(はいしよ)/へ\御下(くだ)り
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/の\後/は、\義経(よしつね)/も\山科(やましな)/に\候(さうら)ひ/し/が、\七歳(しちさい)/の\時(とき)\鞍馬(くらま)/へ\参(まゐ)り、\十六/まで\形(かた)/の/如(ごと)く\学問(がくもん)/を\仕(つかまつ)り、\さて/は\都(みやこ)/に\候(さうら)ひ/し/が、\内々\平家(へいけ)\方便(はうべん)/を\作(つく)る\由(よし)\承(うけたまは)り\候(さうら)ひ/し\間(あひだ)、\奥州(あうしう)/へ\下向(げかう)\仕(つかまつ)り/て、\秀衡(ひでひら)/を\頼(たの)み\候(さうら)ひ/つる/が、\御謀反(むほん)/の\由(よし)\承(うけたまは)り/て、\取(と)り-敢(あへ)/ず\馳(は)せ-参る。\今(いま)/は\君/を\見(み)\奉(たてまつ)り\候(さうら)へ/ば、\故(こ)-頭殿(かう/の-との)/の\御見参(げんざん)/に\入(い)り\候(さうら)ふ\心地(ここち)-し/て/こそ\存(ぞん)じ\候(さうら)へ。\命(いのち)/を/ば\故(こ)-頭殿(かう/の-との)/に\参(まゐ)らせ\候(さうら)ふ。\身/を/ば\君(きみ)/に\参(まゐ)らする\上(うへ)/は、\如何(いかが)\仰(おほ)せ/に\従(したが)ひ\参(まゐ)らせ/で/は\候(さうら)ふ/べき」/と\申(まう)し/も\敢(あ)へ/ず、\又(また)\涙(なみだ)/を\流(なが)し\給(たま)ひ/ける/こそ\哀(あは)れ/なれ。\さて/こそ\此(こ)/の\御曹司(おんざうし)/を\大将軍(だいしやうぐん)/にて\上(のぼ)せ\給(たま)ひ/けり。\
義経(よしつね)\平家(へいけ)/の\討手(うつて)/に\上(のぼ)り\給(たま)ふ\事 S0402
\御曹司(おんざうし)\寿永(じゆえい)+三年/に\上洛(しやうらく)=し/て\平家(へいけ)/を\追(お)ひ-落(おと)し、\一谷(いちのたに)、\八嶋(やしま)、\壇浦(だん/の-うら)、\所々/の\忠(ちゆう)/を\致(いた)し、\先駆(さきが)け\身/を\くだき、\遂(つひ)/に\平家(へいけ)/を\攻(せ)め-亡(ほろ)ぼし/て、\大将軍(だいしやうぐん)\前(さき)/の-内大臣=宗盛(むねもり)=父子(ふし)/を\生捕(いけど)り、\三十人\具足(ぐそく)=し/て\上洛=し、\院(ゐん)=内(うち)/の\見参(げんざん)/に\入(い)つ/て\後、\去ぬる\元暦(げんりやく)+元年(ぐわんねん)/に\検非違使(けんびいし)=五位尉(ごゐ/の-じよう)/に\なり\給(たま)ふ。\大夫-判官(はうぐわん)、\宗盛(むねもり)=親子\具足(ぐそく)=し/て、\腰越(こしごえ)/に\著(つ)き\給(たま)ひ/し\時(とき)、\梶原(かぢはら)\申(まう)し/ける/は、\「判官(はうぐわん)-殿(どの)/こそ\大臣殿=父子(ふし)\具足(ぐそく)=し/て、\腰越(こしごえ)/に\著(つ)かせ\給(たま)ひ/て\候(さうら)ふ/なれ。\君(きみ)/は\如何(いかが)\御計(はか)らひ\候(さうら)ふ。\判官(はうぐわん)-殿(どの)/は\身/に\野心/を\挟(さしはさ)み/たる\御事(おん-こと)/にて
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\候(さうら)ふ。\其(そ)/の\儀\如何(いか)/に/と\申(まう)す/に\一谷(いちのたに)/の=合戦/に\庄(しやうの)-三郎-高家、\本(ほん)-三位(ざんみ)/の-中将(ちゆうじやう)\生捕(いけど)り\奉(たてまつ)り、\三河(みかは)-殿(どの)/の\御手(て)/に\渡(わた)り/て\候(さうら)ふ/を、\判官(はうぐわん)\大(おほ)き/に\怒(いか)り\給(たま)ひ/て、\三河(みかは)-殿(どの)/は\大方/の\事(こと)/にて/こそ\あれ、\義経(よしつね)/が\手(て)/に/こそ\渡(わた)す/べき\もの/を、\奇怪(きくわい)/の\者(もの)/の\振舞(ふるまひ)/かな。\寄(よせ)/て\討(う)た/ん/と\候(さうら)ひ/し/を、\景時(かげとき)/が\計(はか)らひ/に\土肥(といの)-次郎(じらう)/が\手(て)/に\渡(わた)し/て/こそ\判官(はうぐわん)/は\静(しづ)まり\給(たま)ひ/しか。\其(そ)/の-上(うへ)\「平家(へいけ)/を\打(う)ち-取(と)り/て/は、\関/より\西/を/ば\義経(よしつね)\賜(たま)はら/ん。\天/に\二つ/の\日\なし。\地/に\二人(ふたり)/の\王\なし/と\雖(いへ/ど)も、\此(こ)/の=後(のち)/は\二人(ふたり)/の\将軍(しやうぐん)/や\有(あ)ら/んず/らん」/と\仰(おほ)せ\候(さうら)ひ/し/ぞ/かし。\かく/て\武功(ぶかう)/の\達者\一度/も\慣(な)れ/ぬ\船軍(いくさ)/に/も\風波/の\難(なん)/を\恐(おそ)れ/ず、\舟端(ふなばた)/を\走(はし)り\給(たま)ふ\事(こと)\鳥/の/如(ごと)し。\一谷(いちのたに)/の=合戦/に/も\城/は\無双(ぶさう)/の\城/なり。\平家(へいけ)/は\十万-余騎(よ-き)/なり。\味方(みかた)/は\六万五千-余騎(よ-き)/なり。\城は\無勢(ぶせい)/にて\寄手(よせて)/は\多勢/こそ、\軍(いくさ)/の\勝負(しようぶ)/は\決(けつ)し\候(さうら)ふ/に、\是(これ)/は\城(じやう)/は\多勢(たせい)、\案内者\寄手(よせて)/は\無勢(ぶせい)、\
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不案内(ぶあんない)/の\者(もの)-共(ども)/なり。\容易(たやす)く\落(お)つ/べき/とも\見(み)え\候(さうら)は/ざり/し/を、\鵯鳥越(ひゑどりごえ)/とて\鳥(とり)=獣(けだもの)/も\通(かよ)ひ-難(がた)き\巌石(がんせき)/を\無勢(ぶぜい)/にて\落(おと)し、\平家(へいけ)/を\遂(つひ)/に\追(お)ひ-落(おと)し\給(たま)ふ\事(こと)/は\凡夫(ぼんぶ)/の\業(わざ)/なら/ず。\今度(こんど)\八嶋(やしま)/の\軍(いくさ)/に\大風/にて\浪(なみ)\おびたたしく/て、\船(ふね)/の\通(かよ)ふ/べき\様(やう)/も\無(な)かり/しを、\只(ただ)\船\五艘(さう)/にて\馳(は)せ-渡(わた)し、\僅(わづか)/に\五十-余騎(よ-き)/にて、\憚(はばか)る\所(ところ)\無(な)く\八嶋(やしま)/の=城/へ\押(お)し-寄(よ)せ/て、\平家(へいけ)\数万騎(ぎ)/を\追(お)ひ-落(おと)し、\壇浦(だん/の-うら)/の\詰軍(つめいくさ)/まで/も\遂(つひ)/に\弱(よわ)-げ/を\見(み)せ\給(たま)は/ず。\漢家(かんか)\本朝/に/も\是(これ)=程/の\大将軍(だいしやうぐん)\如何(いか)で\ある/べき/とて、\東国\西国(さいこく)/の\兵(つはもの)-共(ども)\一同(どう)/に\仰(あふ)ぎ\奉(たてまつ)る。\野心/を\挿(さしはさ)み/たる\人/にて\おはすれ/ば、\人ごと/に\情(なさけ)/を\かけ、\侍(さぶらひ)/まで/も\目/を\かけ/られ/し\間(あひだ)、\侍(さぶらひ)-共(ども)\「あはれ\侍(さぶらひ)/の\主/かな。\此(こ)/の\殿に\命/を\奉(たてまつ)る\事(こと)/は\塵(ちり)/より/も\惜(を)しから/じ」/と\申(まう)し/て、\心(こころ)/を\かけ\奉(たてまつ)り/て\候(さうら)ふ。\それ/に\左右(さう)-無(な)く\鎌倉(かまくら)-中/へ\入(い)れ\参(まゐ)らせ\給(たま)ひ/て\御座(ご-ざ)-候(さうら)は/ん\事(こと)\いぶせく\候(さうら)ふ。\御一期(いちご)/の\程(ほど)/は\君(きみ)/の\御果報(くわほう)/なれば、\さり/共(とも)/と\存(ぞん)じ\候(さうら)ふ。\御子孫/の\世/に/は\如何(いかが)\候(さうら)は/んず/らん。\又(また)\御一期(いちご)/と\申(まう)し/て/も\何/と/か\御座(ご-ざ)-候(さうら)は/ん」/と\申(まう)し/けれ/ば、\君\此(こ)/の\由(よし)/を\聞召(きこしめ)し/て、\「梶原(かぢはら)/が\申(まう)す\事(こと)/は\偽(いつはり)/など/は\有(あ)ら/じ/なれ/ども、\一方(いつぱう)/を\聞(き)き/て\相(あひ)-計(はか)らは/ん\事(こと)/は\政道(せいとう)/の\けがるる\所(ところ)/也(なり)。\九郎/が\著(つ)き/たる/なれ/ば、\明日\是(これ)/にて\梶原(かぢはら)/に\問答(もんだふ)=せ/させ\候(さうら)ふ/べし」/と/ぞ\仰(おほ)せ/られ/ける。\大名(だいみやう)\小名(せうみやう)\是(これ)/を\聞(き)き/て、\「今(いま)/の\御諚(ご-ぢやう)/の/如(ごと)く/にて/は、\判官(はうぐわん)\もと/より\誤(あやま)り\給(たま)は/ね/ば、\若(も)し\助(たす)かり\給(たま)ふ\事(こと)/も\有(あ)り/なん。\され/ども\景時(かげとき)/が\逆櫓(さかろ)\立(た)て/ん/と
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/の\論(ろん)/の\止(や)ま/ざる\所(ところ)/に\壇浦(だん/の-うら)/にて\互(たがひ)/に\先駆(さきが)け\争(あらそ)ひ/て、\矢筈(やはず)/を\取(と)り\給(たま)ひ/し、\其(そ)/の\遺恨(いこん)に\斯様(かやう)/に\讒言(ざんげん)\申(まう)せ/ば、\遂(つひ)/に/は\如何(いかが)\有(あ)ら/んず/らん」/と\申(まう)し/ける。\召(め)し-合(あ)はせ/ん/と\仰(おほ)せ/られ、\言(い)ふ\時(とき)/に\梶原(かぢはら)\甘縄(あまなふ)/の\宿所/に\帰(かへ)り/て、\偽(いつはり)\申(まう)さ/ぬ\由(よし)\起請(きしやう)/を\書(か)き/て\参(まゐ)らせ/けれ/ば、\此(こ)/の=上(うへ)/は/とて\大臣殿(おほい-どの)/を/ば\腰越(こしごえ)/より\鎌倉(かまくら)/に\受(う)け-取(と)り、\判官(はうぐわん)/を/ば\腰越(こしごえ)/に\止(とど)め/らるる。\判官(はうぐわん)\「先祖(せんぞ)/の\恥(はぢ)/を\清(きよ)め、\亡魂(ぼうこん)/の\憤(いきどほ)り/を\休(やす)め\奉(たてまつ)る\事(こと)/は\本意/なれ/ども、\随分(ずいぶん)\二位(にゐ)-殿(どの)/の\気色(けしき)/に\相(あひ)-適(かな)ひ\奉(たてまつ)ら/ん/とて/こそ\身/を\砕(くだ)き/て/は\振舞(ふるま)ひ/しか、\恩賞(おんしやう)/に\行(おこな)は/れ/んずる/か/と\思(おも)ひ/つる/に、\向顔(こうがん)/を/だに/も\遂(と)げ/られ/ざる\上(うへ)/は\日頃(ひごろ)/の\忠(ちゆう)/も\益(えき)\なし。\あはれ、\是(これ)/は\梶原(かぢはら)-奴(め)/が\讒言(ざんげん)\ごさんなれ。\西国(さいこく)/にて\切(き)り/て\捨(す)つ/べき\奴(やつ)/を、\哀憐(あいれん)/を\垂(た)れ\助(たす)け-置(お)き/て、\敵(てき)/と\なし/ぬる/よ」/と\後悔(こうくわい)=し\給(たま)へ/ども、\甲斐(かひ)/ぞ\無(な)き。\鎌倉(かまくら)/に/は\二位(にゐ)-殿(どの)、\河越(かはごえ/の)-太郎/を\召(め)し/て、\「九郎/が\院(ゐん)/の\気色(きしよく)\良(よ)き\儘(まま)/に、\世/を\乱(みだ)さ/ん/と\内々\企(たく)む/なり。\西国(さいこく)/の\侍(さぶらひ)-共(ども)\付(つ)か/ぬ\先(さき)/に、\腰越(こしごえ)/に\馳(は)せ-向(むか)ひ\候(さうら)へ」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\河越(かはごえ)\申(まう)さ/れ/ける/は、\「何事(なにごと)/にて/も\候(さうら)へ、\君(きみ)/の\御諚(ご-ぢやう)/を\背(そむ)き\申(まう)す/べき/にて/は\候(さうら)は/ず\候(さうら)へ/共(ども)、\且(かつう)/は\知召(しろしめ)し/て\候(さうら)ふ\様(やう)/に\女/にて\候(さうら)ふ\者(もの)/を\判官(はうぐわん)-殿(どの)/の\召(め)し-置(お)か/れ/て\候(さうら)ふ\間(あひだ)、\身/に\取(と)り/て/は\痛(いた)はしく\候(さうら)ふ。\他人(たにん)/に\仰(おほ)せ-付(つ)け/られ\候(さうら)へ」/と\申(まう)し-捨(す)て/て/ぞ\立(た)た/れ/ける。\理/なれ/ば\重(かさ)ね/て/も\仰(おほ)せ-出(い)ださ/れ/ず、\又(また)\畠山(はたけやま)/を\召(め)し/て\仰(おほ)せ/られ/ける/は、\「河越(かはごえ)/に\申(まう)し\候(さうら)へ/ば、\親(した)しく\なり\候(さうら)ふ/とて、\叶(かな)は/じ/と\申(まう)す。\
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され/ば/とて\世(よ)/を\乱(みだ)さ/ん/と\振舞(ふるま)ひ\候(さうら)ふ\九郎/を、\其(そ)/の-儘(まま)\置(お)く/べき\様(やう)\なし。\御辺(ごへん)\打(う)ち-向(むか)ひ\給(たま)ひ\候(さうら)ふ/べし。\吉例(きちれい)/なり。\さ/も\候(さうら)は/ば\伊豆(いづ)\駿河\両国(りやうごく)/を\奉(たてまつ)ら/ん」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\畠山(はたけやま)\万(よろず)/に\憚(はばか)ら/ぬ\人/にて\申(まう)さ/れ/ける/は、\「御諚(ご-ぢやう)\背(そむ)き-難(がた)く\候(さうら)へ/共(ども)、\八幡(はちまん)-大菩薩(だいぼさつ)/の\御誓/に/も、\人/の\国/より\我(わ)/が\国、\他/の\人/より/も\我(わ)/が\人/を/こそ\守(まぼ)ら/ん/と/こそ\承(うけたまは)り\候(さうら)へ。\他人(たにん)/と\親(したし)き/と/を\比(くら)ぶれ/ば、\譬(たと)ふる\方(かた)\なし。\梶原(かぢはら)/と\申(まう)す/は\一旦(いつたん)の\便/に\より/て\召(め)し-使(つか)は/るる\者(もの)/なり。\彼(かれ)/が\讒言(ざんげん)/に\より、\年来/の\忠(ちゆう)/と\申(まう)し、\御兄弟/の\御仲(おん-なか)/と\申(まう)し、\たとひ\御恨(うら)み\候(さうら)ふ/共(とも)、\九国(くこく)/にて/も\参(まゐ)ら/させ\給(たま)ひ/て、\見参(げんざん)/とて、\重忠(しげただ)/に\賜(たま)はり\候(さうら)は/んずる\伊豆(いづ)\駿河(するが)\両国(りやうごく)/を\勧賞(けんじやう)/の\引手物(ひきでもの)/に\参(まゐ)らせ\給(たま)ひ/て、\京都(きやうと)/の\守護(しゆご)/に\置(お)き\参(まゐ)らせ\給(たま)ひ\候(さうら)ひ/て、\御後(うし)ろ/を\守(まも)ら/させ\給(たま)ひ/て\候(さうら)は/ん\程(ほど)/の\御(おん)-心(こころ)-安(やす)き\事(こと)/は\何事(なにごと)/か\候(さうら)ふ/べき」/と\憚(はばか)る\所(ところ)\無(な)く\申(まう)し-捨(す)て/て\立(た)た/れ/ける。\二位(にゐ)-殿(どの)\理(ことわり)/と\思召(おぼしめ)し/ける/に/や、\其(そ)/の-後/は\仰(おほ)せ-出(い)ださ/るる\事(こと)/も\なし。\腰越(こしごえ)/に/は\此(こ)/の\事(こと)/を\聞(き)き\給(たま)ひ/て、\野心(やしん)/を\挿(さしはさ)ま/ざる\旨(むね)\数通/の\起請文(きしやうもん)/を\書(か)き-進(しん)じ/られ/けれ/共(ども)、\猶(なほ)\御承引(しやうゐん)\無(な)かり/けれ/ば\重(かさ)ね/て\申状/を/ぞ\参(まゐ)らせ/られ/ける。\
腰越(こしごえ)/の\申状/の\事(こと) S0403
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\源(みなもと/の)-義経(よしつね)\恐(おそ)れ/乍(なが)ら\申(まう)し-上(あ)げ\候(さうら)ふ\意趣(いしゆ)/は、\御代官(お-だいくわん)/の\其(そ)/の\一(ひと)つ/に\撰(えら)ば/れ、\勅宣(ちよくせん)/の\御使(おん-つかひ)/と/して\朝敵(てうてき)/を\傾(かたぶ)け、\会稽(くわいけい)/の=恥辱(ちじよく)/を\雪(すす)ぐ。\勲賞(くんしやう)\行(おこな)はる/べき\所(ところ)/に、\思(おも)ひ/の=外(ほか)/に\虎口(こくう)/の\讒言(ざんげん)に\依(よ)つ/て\莫大(ばくだい)/の\勲功(くんこう)/を\黙止(もだ)せ/らる。\義経(よしつね)\犯(おか)す\事(こと)\なう/して、\咎(とが)/を\蒙(かうぶ)り、\誤(あやま)り\なし/と\雖(いへ/ど)も、\功(こう)\有(あ)り/て\御勘気(かんき)/を\蒙(かうぶ)るの\間(あひだ)、\空(むな)しく\紅涙(こうるい)/に\沈(しづ)む。\讒者(ざんしや)/の\実否(じつぶ)/を\糾(ただ)さ/れ/ず、\鎌倉(かまくら)-中/へ/だに\入(い)れ/られ/ざる\間(あひだ)、\素意(そい)/を\述(の)ぶる/に\能(あた)は/ず。\徒(いたづ)ら/に\数日/を\送(おく)る。\此(こ)/の=時(とき)/に\当(あ)たつ/て\永(なが)く\恩顔(おんがん)/を\拝(はい)し\奉(たてまつ)ら/ず、\骨肉(こつにく)\同胞(どうばう)/の\儀\既(すで)/に\絶(た)え、\宿運(しゆくうん)\極(きは)めて\空(むな)しき/に\似(に)/たる/か、\将又(はたまた)\先世(せんぜ)/の\業因(ごうゐん)/を\感(かん)ずる/か。\悲(かな)しき哉(かな)、\此(こ)/の\条(でう)、\故(こ)-亡父(ばうふ)\尊霊(そんりやう)\再誕(さいたん)=し\給(たま)は/ずむば、\誰(たれ)/の\人/か\愚意(ぐい)/の\悲嘆(ひたん)/を\申(まう)し-披(ひら)か/ん、\何(いづ)れ/の\人/か\哀憐(あいれん)/を\垂(た)れ/ん/や。\事(こと)=新(あたら)しき\申状、\述懐(じゆつくわい)/に\似(に)/たり/と\雖(いへ/ど)も、\義経(よしつね)\身体(しんたい)\髪膚(はつぷ)/を\父母(ぶも)/に\受(う)け、\幾(いくばく)/の\時節/を\経(へ)/ず/して、\故(こ)-頭殿(かう/の-との)\御他界(ご-たかい)/の\間(あひだ)、\孤子(みなしご)/と\なつ/て、\母(はは)/の\懐(ふところ)/の\中(うち)/に\抱(いだ)か/れ/て、\大和国(やまと/の-くに)\宇陀郡(うだ/の-こほり)/に\赴(おもむ)き/し/より\以来(こ/の-かた)、\一日(いちにち)=片時(へんし)/も\安堵(あんど)/の\思(おも)ひ/に\住(ぢゆう)せ/ず、\甲斐(かひ)-無(な)き\命(いのち)/は\存(ぞん)ず/と\雖(いへ/ど)も、\京都(きやうと)/の\経廻(けいぐわい)\難治(なんぢ)/の\間(あひだ)、\身/を\在々(ざいざい)=所々(しよしよ)/に\隠(かく)し、\辺土(へんど)\遠国(をんごく)/を\栖(すみか)/と/して、\土民(どみん)\百姓等(ひやくしやう-ら)/に\服仕(ぶくじ)=せ/らる。\然(しか)れ/ども\幸慶(かうけい)\忽(たちま)ち/に\純熟(じゆんじゆく)=し/て、\平家(へいけ)/の\一族(いちぞく)\追討(ついたう)/の\為(ため)/に\上洛(しやうらく)=せ/しむる。\先(ま)づ\木曾(きそ)-義仲(よしなか)/を\誅戮(ちゆうりく)/の\後\平家(へいけ)/を\攻(せ)め-傾(かたぶ)け/ん/が\為(ため)/に、\或(あ)る=時(とき)/は\峨々(がが)/たる\巌石(がんせき)/に\駿馬(しゆんめ)/に\策(むちう)つ/て、\敵(かたき)/の\為(ため)/に\命(いのち)/を\亡(ほろ)ぼさ/ん\事(こと)/を\顧(かへり)み/ず。\或(あ)る=時(とき)/は\漫々(まんまん)/たる\大海(たいかい)/に\風波/の\難(なん)/を\凌(しの)ぎ、\身/を\海底(かいてい)/に\沈(しづ)め/ん\事(こと)/を\痛(いた)ま/ず/して、\
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屍(かばね)/を\鯨鯢(けいげい)/の\腮(あぎと)/に\懸(か)く。\加之(しか/のみ/なら/ず)\甲冑(かつちう)/を\枕(まくら)/とし、\弓箭(きゆうせん)/を\業(げう)/と\する\本意、\併(しかしなが)ら\亡魂(ばうこん)の\憤(いきどほり)/を\休(やす)め\奉(たてまつ)り、\年来/の\宿望(しゆくばう)/を\遂(と)げ/ん/と\欲(ほつ)する\外/は\他事\なし。\剰(あまつさ)へ\義経(よしつね)\五位尉(ごゐ/の-じよう)/に\補任(ふにん)/の\条、\当家/の\重職(ちようじよく)、\何事(なにごと)/か\是(これ)/に\如(し)か/ん。\然(しか)り/と-雖(いへ/ど)も\今(いま)/の\愁(うれへ)\深(ふか)く\歎(なげき)\切(せつ)/なり。\仏神(ぶつしん)/の\御助(たすけ)/に\非(あら)/ず/は、\争(いかで)/か\愁訴(しうそ)/を\達(たつ)せ/ん。\是(これ)/に=因(よ)つ/て、\諸寺\諸社(しよしや)/の\牛王宝印(ごわうほうゐん)/の\御裏(うら)/を\以(もつ)て\全(まつた)く\野心/を\挿(さしはさ)ま/ざる\旨(むね)、\日本国(につぽんごく)-中(ぢゆう)/の\大小/の\神祇(じんぎ)\冥道(みやうだう)/を\請(しやう)じ、\驚(おどろ)かし\奉つ/て、\数通/の\起請文(きしやうもん)/を\書(か)き-進(しん)ず/と\雖(いへ/ど)も、\猶(なほ)\以(もつ)て\御宥免(ご-ゆうめん)\なし。\夫(それ)\我(わ)/が=国(くに)/は\神国/なり。\神/は\非礼(ひれい)/を\享(う)け\給(たま)ふ/べから/ず。\憑(たの)む\所(ところ)\他/に\有(あ)ら/ず。\偏(ひと)へ/に\貴殿(きでん)\広大(くわうだい)/の=御慈悲(じひ)/を\仰(あふ)ぎ、\便宜(びんぎ)/を\伺(うかが)ひ\高聞(こうぶん)/に\達(たつ)せ/しめ、\秘計(ひけい)/を\廻(めぐ)らし/て、\誤(あやまり)\無(な)き\旨(むね)/を\宥(ゆう)ぜ/られ、\芳免(ほうめん)/に\預(あづ)から/ば、\積善(しやくぜん)/の\余慶(よけい)\家門/に\及(およ)び、\栄華(えいぐわ)/を\永(なが)く\子孫/に\伝(つた)へ、\仍(よ)つ/て\年来/の\愁眉(しうび)/を\開(ひら)き、\一期(いちご)/の\安寧(あんねい)/を\得(え)/ん。\書紙(しよし)/に\尽(つ)くさ/ず、\併(しかしなが)ら\省略(せいりやく)=せ
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/しめ\候(さうら)ひ\畢(をは)ん/ぬ。\義経(よしつね)\恐惶\謹言。\元暦+二年-六月-五日\源(みなもと/の)-義経(よしつね)\進上(しんじやう)\因幡(いなば/の)-守(かう/の)-殿(との)/へ/と/ぞ\書(か)か/れ/たる。\是(これ)/を\聞召(きこしめ)し/て、\二位(にゐ)-殿/を\始(はじ)め\奉(たてまつ)り/て\御前/の\女房(にようばう)-達(たち)/に\至(いた)る/まで、\涙(なみだ)/を/ぞ\流(なが)さ/れ/ける。\扨(さて)/こそ\暫(しばら)く\差(さ)し-置(お)か/れ/けれ。\判官(はうぐわん)/は\都(みやこ)/に\院(ゐん)/の\御気色(み-けしき)\よく/て、\京都(きやうと)/の\守護(しゆご)/に/は\義経(ぎけい)/に\過(す)ぎ/たる\者(もの)\有(あ)ら/じ/と\言(い)ふ\御気色(ご-きしよく)/なり。\万事\仰(あふ)ぎ\奉(たてまつ)る。\かく/て\秋/も\暮(く)れ、\冬/の\初(はじ)め/に/も\なり/しか/ば、\梶原(かぢはら)/が\憤(いきどほり)\安(やす)から/ず/して、\頻(しきり)/に\讒言(ざんげん)\申(まう)し/けれ/ば、\二位(にゐ)-殿(どの)\さ/も/と/や\思(おも)は/れ/ける。\
土佐坊(とさ-ばう)\義経(よしつね)/の\討手(うつて)/に\上(のぼ)る\事 S0404
\二階堂(にかいだう)/の\土佐坊(とさ-ばう)\召(め)せ/とて\召(め)さ/れ/ける。\鎌倉(かまくら)-殿(どの)\四間所(よまどころ)/に\おはしまし/て、\土佐坊(とさ-ばう)\召(め)さ/れ\参(まゐ)る。\梶原(かぢはら)\「土佐坊(とさ-ばう)\参(まゐ)り/て\候(さうら)ふ」/と\申(まう)し/けれ/ば、\鎌倉(かまくら)-殿(どの)\「是(これ)/へ」/と\召(め)す。\御前(お-まへ)/に\畏(かしこ)まる。\源太(げんだ)/を\召(め)し/て、\「土佐(とさ)/に\酒(さけ)」/と/ぞ\仰(おほ)せ/られ/ける。\梶原(かぢはら)\殊(こと)/の-外(ほか)/に\もてなし/けり。\鎌倉(かまくら)-殿(どの)\仰(おほ)せ/られ/ける/は、\「和田(わだ)\畠山(はたけやま)/に\仰(おほ)せ/けれ/ども、\敢(あへ)/て\是(これ)/を\用(もち)ゐ/ず。\九郎/が\都(みやこ)/に\居(ゐ)/て\院(ゐん)/の\御気色(ご-きしよく)\良(よ)き/に\より、\世/を\乱(みだ)さ/ん/と\する\間(あひだ)、\
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河越(かはごえ/の)-太郎/に\仰(おほ)せ/けれ/ども、\縁(えん)\あれ/ば/とて\用(もち)ゐ/ず。\土佐(とさ)/より\外/に\頼(たの)む/べき\者(もの)\なし。\しかも\都(みやこ)/の\案内者(あんないしや)/なり。\上(のぼ)り/て\九郎\打(う)ち/て\参(まゐ)らせよ。\其(そ)/の\勲功(くんこう)/に/は\安房(あは)\上総(かづさ)\賜(た)ぶ」/と/ぞ\仰(おほ)せ/られ/ける。\土佐(とさ)\申(まう)し/ける/は、\「畏(かしこ)まり=承(うけたまは)り\候(さうら)ふ。\御一門(いちもん)/を\亡(ほろ)ぼし\奉(たてまつ)れ/と\仰(おほ)せ\蒙(かうぶ)り\候(さうら)ふ/こそ\嘆(なげ)き-入(い)り\存(ぞん)じ\候(さうら)ふ」/と\申(まう)し/けれ/ば、\鎌倉(かまくら)-殿(どの)\気色(きしよく)\大(おほ)き/に\変(か)はり、\悪(あ)しく\見(み)え/させ\給(たま)へ/ば、\土佐(とさ)\謹(つつし)ん/で/こそ\候(さうら)ひ/ける。\重(かさ)ね/て\仰(おほ)せ/られ/ける/は、\「さて/は\九郎/に\約束(やくそく)=し/たる\事(こと)/に/や」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\土佐(とさ)\思(おも)ひ/ける/は、\詮(せん)ずる=所(ところ)、\親/の\首(くび)/を\斬(き)る/も\君(きみ)/の\命(めい)/なり。\上/と\上(うへ)/と/の\合戦/に/は\侍(さぶらひ)/の\命/を\捨(す)て/ず/して/は\打(う)つ/べき/に\有(あ)ら/ず/と\思(おも)ひ、\「さ\候(さうら)は/ば\仰(おほ)せ/に\従(したが)ひ\候(さうら)は/ん。\恐(おそれ)/にて\候(さうら)へ/ば、\色代(しきだい)/ばかり」/と\申(まう)す。\鎌倉(かまくら)-殿(どの)\「され/ば/こそ、\土佐/より\外(ほか)/に\誰(たれ)/か\向(むか)ふ/べき/と\思(おも)ひ/つる/に\少(すこ)し/も\違(ちが)は/ず。\源太\是(これ)/へ\参(まゐ)り\候(さうら)へ」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば\畏(かしこ)まつ/て/ぞ\居(ゐ)/たり/ける。\「有(あ)り/つる\物(もの)/は\如何(いか)/に」/と\仰(おほ)せ\有(あ)り/けれ/ば、\納(おさめ)-殿(どの)/の\方/より/して、\身/は\一尺(いつしやく)+二寸(すん)\有(あ)り/ける\手鉾(てぼこ)/の\蛭巻(ひるまき)\白(しろ)く\し/たる/を\細貝(ほそかひ)/を\目貫(めぬき)/に\し/たる/を\持(も)つ/て\参(まゐ)る。\「土佐(とさ)/が\膝(ひざ)/の\上(うえ)/に\置(お)け」/と/ぞ\宣(のたま)ひ/ける。\「是(これ)/は\大和/の\千手院(せんじゆゐん)/に\作(つく)ら/せ/て\秘蔵(ひさう)=し/て\持(も)ち/たれ/ども、\頼朝(よりとも)/が\敵(てき)\討(う)つ/に/は\柄(つか)\長(なが)き\もの/を\先(さき)/と\す。\和泉(いづみ)-判官(はうぐわん)/を\討(う)ち/し\時(とき)/に、\容易(たやす)く\首(くび)/を\取(と)つ/て\参(まゐ)らせ/たり/し/なり。\是(これ)/を\持(も)ち/て\上(のぼ)り、\九郎/が\首(くび)/を\刺(さ)し-貫(つらぬ)き\参(まゐ)らせよ」/と\仰(おほ)せ/られ/ける/は、\情(なさけ)-無(な)く/ぞ\聞(き)こえ/ける。\梶原(かぢはら)/を\召(め)し
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/て、\「安房(あは)、\上総(かづさ)/の\者-共(ども)、\土佐(とさ)/が\供(とも)=せよ」/と/ぞ\仰(おほ)せ/られ/ける。\承(うけたまは)り/て、\詮(せん)-無(な)き\多勢(たせい)/かな、\させる\寄合(よせあわせ)/の\楯(たて)つき軍(いくさ)/は\すまじい、\狙(ねら)ひ-寄(よ)り/て\夜討(ようち)/に\せ/ん/と\思(おも)ひ/けれ/ば、\「大勢/は\詮(せん)-無(な)く\候(さうら)ふ。\土佐(とさ)/が\手勢(てぜい)/ばかり/にて\上(のぼ)り\候(さうら)は/ん」/と\申(まう)す。\「手勢(てぜい)/は\如何程(いか-ほど)\ある/ぞ」/と\宣(のたま)へ/ば、\「百人/ばかり/は\候(さうら)ふ/らん」\「さて/は\不足(ふそく)\なし」/と/ぞ\仰(おほ)せ/られ/ける。\土佐(とさ)\思(おも)ひ/ける/は、\大勢/を\連(つ)れ-上(のぼ)り/な/ば、\若(も)し\為(し)-果(おふ)せ/たら/ん\時(とき)、\勲功(くんこう)/を\配分(はいぶん)=せ/ざら/ん/も\悪(わろ)し。\為(せ)/ん/と\すれ/ば\安房(あは)、\上総(かずさ)、\畠(はたけ)\多(おほ)く\田(た)/は\少(すく)なし、\徳分(とくぶん)\少(すく)なく/て\不足(ふそく)/なり/と、\酒(さけ)\飲(の)む\片口(かたくち)/に\案(あん)じ/つつ、\御引出物(おん-ひきでもの)\賜(たま)はり/て、\二階堂(にかいだう)/に\帰(かへ)り、\家の子\郎等(らうどう)\呼(よ)び/て\申(まう)し/ける/は、\「鎌倉(かまくら)-殿(どの)/より\勲功(くんこう)/を/こそ\賜(たま)はつ/て\候(さうら)へ。\急(いそ)ぎ\京上(のぼ)り=し/て\所知入(しよちいり)=せ/ん。\疾(と)く\下(くだ)り/て\用意(ようい)=せよ」/と/ぞ\申(まう)し/ける。\「それ/は\常々(つねづね)/の\奉公(ほうこう)/か。\又(また)\何(なに)/に\より/て/の\勲功(くんこう)\候(ざふらふ)/ぞ」/と\申(まう)せ/ば、\「判官(はうぐわん)-殿(どの)/の\討(う)ち/て\参(まゐ)らせよ/と/の\仰(おほ)せ\承(うけたまは)り/て\候(さうら)ふ」/と\言(い)ひ/けれ/ば、\物(もの)/に\心得(こころえ)/たる\者(もの)/は、\「安房(あは)、\上総(かづさ)/も\命(いのち)\有(あ)り/て/こそ\取(と)ら/んずれ。\生(い)き/て\二度(ふたたび)\帰(かへ)ら/ば/こそ」/と\申(まう)す\者(もの)/も\有(あ)り。\或(ある)いは\「主/の\世/に\おはせ/ば、\我(われ)-等(ら)/も\など/か\世/に\なら/ざる/らん」/と\勇(いさ)む\者(もの)/も\有(あ)り。\され/ば\人/の\心(こころ)/は\様々(さまざま)/なり。\土佐(とさ)/は\もと/より\賢(かしこ)き\者(もの)/なれ/ば、\打(う)ち-任(まか)せ/て/の\京上(のぼ)り/の\体(てい)/にて/は\叶(かな)ふ/まじ/とて、\白布(しろぬの)/を\以(もつ)て、\皆(みな)\浄衣(じやうゑ)/を\拵(こしら)へ/て、\烏帽子(えぼし)/に\四手(しで)/を\付(つ)け/させ、\法師(ほふし)/に/は\頭巾(ときん)/に\四手(しで)
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/を\付け、\引(ひ)か/せ/たる\馬(うま)/に/も\尾髪(をかみ)/に\四手(しで)\付(つ)け、\神馬(じんめ)/と\名づけ\引(ひ)き/ける。\鎧(よろひ)=腹巻(はらまき)\唐櫃(からひつ)/に\入(い)れ、\粗薦(あらこも)/に\包(つつ)み、\注連(しめ)\引(ひ)き\熊野(くまの)/の\初穂物(はつほもの)/と\言(い)ふ\札(ふだ)/を\付(つ)け/たり。\鎌倉(かまくら)-殿(どの)/の\吉日、\判官(はうぐわん)-殿(どの)/の\悪日(あくび)/を\選(えら)び/て、\九十三騎(きうじふさんぎ)/にて\鎌倉(かまくら)/を\立(た)ち、\其(そ)/の-日/は\酒匂(さかう)/の宿(しゆく)/に/ぞ\著(つ)き/たり/ける。\当国(たうごく)/の\一/の-宮(みや)/と\申(まう)す/は、\梶原(かぢはら)/が\知行(ちぎやう)/の\所/なり。\嫡子(ちやくし)/の\源太(げんた)/を\下(くだ)し/て、\白栗毛(しろくりげ)/なる\馬(うま)\白葦毛(あしげ)/なる\馬(うま)\二疋(ひき)/に、\白鞍(しろくら)\置(お)か/せ/て/ぞ\引(ひ)き/たる。\是(これ)/に/も\四手(しで)/を\付(つ)け、\神馬(じんめ)/と\名づけ/たり。\夜/を\日/に\継(つ)ぎ/て\打(う)つ\程(ほど)/に、\九日/と\申(まう)す/に\京(きやう)/へ\著(つ)く。\未(いま)だ\日\高(たか)し/とて、\四(し)/の-宮(みや)-河原(かはら)/など/にて\日/を\暮(くら)し、\九十三騎(きうじふさんぎ)\三手(て)/に\分(わ)け/て、\白地(あからさま)/なる\様(やう)/に\もてなし、\五十六騎(ごじふろつ-き)/にて\我(わ)/が-身/は\京(きやう)/へ\入(い)り、\残り/は\引(ひ)き-下(さが)り/て/ぞ\入(い)り/に/ける。\祇園大路(ぎをん-おほぢ)/を\通(とほ)り/て、\河原(かはら)/を\打(う)ち-渡(わた)り/て、\東洞院(ひがし/の-とうゐん)/を\下(くだ)り/に\打(う)つ\程(ほど)/に、\判官(はうぐわん)-殿(どの)/の\御内(み-うち)/に\信濃(しなの/の)-国(くに)/の\住人(ぢゆうにん)/に\江田(えだ/の)-源三(げんざう)/と\言(い)ふ\者\有(あ)り。\三条(さんでう)-京極(きやうごく)/に\女(をんな)/の\許(もと)/に\通(かよ)ひ/ける/が、\堀河(ほりかは)-殿(どの)/を\出(い)で/て\行(ゆ)く\程(ほど)/に、\五条(ごでう)/の-東洞院(ひがし/の-とうゐん)/にて\鼻突(はなつき)/に/こそ\行(ゆ)き-会(あ)ひ/たれ。\人/の\屋陰(やかげ)/の\仄暗(ほのぐら)き\所(ところ)/にて\見(み)/けれ/ば、\熊野詣(くまのまうで)/と\見(み)-なし/て、\何処(いづく)/の\道者(だうしや)/やらん/と、\先陣(せんぢん)/を\通(とほ)し/て\後陣(ごぢん)/を\見(み)れ/ば、\二階堂(にかいだう)/の\土佐/と\見(み)-なし/て、\土佐(とさ)/が\此(こ)/の-頃(ごろ)\大勢(おほぜい)/にて\熊野詣(くまのまうで)=す/べし/と/こそ\覚(おぼ)え/ね/と\思(おも)ひ-案(あん)ずる/に、\我(われ)-等(ら)/が\殿/と\鎌倉(かまくら)-殿(どの)/と\下心(したごころ)\よく/も\おはせ/ざる\間(あひだ)、\寄(よ)り/て\問(と)は/ばや/と\思(おも)ひ/けれ/ども、\有(あ)り/の=儘(まま)/に/は\よも\言(い)は/じ。\中々(なかなか)
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\知(し)ら/ぬ\顔(かほ)/にて、\夫奴(ぶめ)/を\賺(すか)し/て\問(と)は/ばや/と\思(おも)ひ/て\待(ま)つ\所(ところ)/に、\案(あん)/の/如(ごと)く\後(おく)れ馳(ば)せ/の\者(もの)-共(ども)、\「六条(ろくでう)/の-坊門(ばうもん)\油小路(あぶら/の-こうぢ)/へ/は\何方(いづかた)/へ\行(ゆ)く/ぞ」/と\問(と)ひ/けれ/ば、\云々(しかしか)/に\教(をし)へ/けり。\江田(えだ)\追(お)ひ-著(つ)き/て、\「何(ど)/の\国/に\誰(たれ)/と\申(まう)す\人/ぞ」/と\問(と)ひ/けれ/ば、\「相模国(さがみ/の-くに)\二階堂(にかいだう)/の\土佐殿(とさ-どの)」/と/ぞ\申(まう)し/ける。\後(あと)/に\来(く)る\奴原(やつ-ばら)/の\佗(わ)び/ける/は、\「さ/も\あれ、\只(ただ)\身/の\一期(いちご)/の\見物/は\京(きやう)/と/こそ\言へ、\何(なん)/ぞ\日中/に\京入(きやういり)/は\せ/で、\道(みち)/にて\日/の\暮(くら)し-様(やう)/ぞ。\我(われ)-等(ら)-共(ども)\物(もの)/は\持(も)ち/たり、\道(みち)/は\暗(くら)し」/と\呟(つぶや)き/けれ/ば、\今\一人/が\言(い)ひ/ける/は、\「心(こころ)\短(みじか)き\人/の\言(い)ひ様(やう)/かな。\一日/も\有(あ)ら/ば\見(み)/んず/らん」/と\言(い)ひ/けれ/ば、\今(いま)\一人/の\夫(おつと)/が\言(い)ひ/ける/は、\「和殿原(わ-との-ばら)/も\今宵(こよひ)/ばかり/こそ\静(しづか)/なら/んずれ。\明日/は\都(みやこ)/は\件(くだん)/の\事(こと)/にて\大乱(らん)/にて\有(あ)ら/んずれ。\され/ば\我々(われわれ)/まで/も\如何(いかが)\有(あ)ら/んず/らん/と\恐(おそ)ろしき/ぞ」/も\申(まう)し/けれ/ば、\源三(げんざう)\是(これ)/を\聞(き)き/て、\是(これ)-等(ら)/が\後(あと)/に
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\付(つ)き/て\物語(ものがたり)/を/ぞ\し/たり/けれ。\「是(これ)/も\地体(ぢたい)\相模(さがみ/の)-国(くに)/の\者(もの)/にて\候(さうら)ふ/が、\主/に\付(つ)き/て\在京(ざいきやう)=し/て\候(さうら)ふ/が、\我(わ)/が-国(くに)/の\人/と\聞(き)け/ば\いとど\なつかしき/ぞ/や」/なんど/と\賺(すか)さ/れ/て、\「同国/の\人/と\聞(き)け/ば\申(まう)し\候(さうら)ふ/ぞ。\げ/に\鎌倉(かまくら)-殿(どの)/の\御弟(おとと)\九郎-判官(はうぐわん)-殿(どの)/を\討(う)ち\参(まゐ)らせよ/と/の\討手(うつて)/の\使(つか)ひ/を\賜(たま)はつ/て\上(のぼ)ら/れ\候(さうら)ふ。\披露(ひろう)/は\詮(せん)-無(な)く\候(さうら)ふ」/と\申(まう)し/ける。\江田(えだ)\是(これ)/を\聞(き)き/て、\我(わ)/が\宿所(しゆくしよ)/へ\行(ゆ)く/に\及(およ)ば/ず、\走(はし)り-帰(かへ)り/て、\堀河(ほりかは)/にて\此(こ)/の\由(よし)/を\申(まう)す。\判官(はうぐわん)\少(すこ)し/も\騒(さわ)が/ず、\「遂(つひ)/に/して/は\さ/こそ\有(あ)ら/んず/らん。\さり/ながら\御辺(ごへん)\行(ゆ)き-向(むか)ひ/て、\土佐(とさ)/に\言(い)は/んずる\様(やう)/は、\「是(これ)/より\関東(くわんとう)/に\下(くだ)し/たる\者(もの)/は、\京都(きやうと)/の\仔細(しさい)/を\先(せん)/に\鎌倉(かまくら)-殿(どの)/へ\申(まう)す/べし。\又(また)\関東(くわんとう)/より\上(のぼ)ら/ん\者(もの)/は、\最前(さいぜん)/に\義経(よしつね)/が\許(もと)/に\来(き)たり/て、\事(こと)/の\仔細(しさい)/を\申(まう)す/べき\所(ところ)/に、\今(いま)/まで\遅(おそ)く\参(まゐ)る\尾篭(びろう)/なり。\急度(きつと)\参(まゐ)る/べき」/と、\時刻(じこく)/を\移(うつ)さ/ず\召(め)し/て\参(まゐ)れ」/と\仰(おほ)せ/られ/ける。\江田(えだ)\承(うけたまは)り/て、\土佐(とさ)/が\宿所(しゆくしよ)、\油小路(あぶら/の-こうぢ)/に\行(ゆ)き/て\見れ/ば、\皆(みな)\馬-共(ども)\鞍(くら)\下(おろ)し、\すそ\洗(あら)ひ/など\し/ける。\兵(つはもの)\五六十人\並(なみ)-居(ゐ)/て、\何(なに)/と/は\知(し)ら/ず\評定(ひやうぢやう)=し/ける。\土佐坊(とさ-ばう)\脇息(けうそく)/に\かかり/て/ぞ\居(ゐ)/ける。\江田(えだ)\行(ゆ)き/て、\仰(おほ)せ-含(ふく)め/らるる\旨(むね)/を\言(い)ひ/けれ/ば、\土佐(とさ)\陳(ちん)じ-申(まう)し/ける\様(やう)/は、\「鎌倉(かまくら)-殿(どの)/の\代官(だいくわん)/に\熊野(くまの)-参詣(さんけい)\仕(つかまつ)り\候(さうら)ふ。\さし/たる\事(こと)/は\候(さうら)は/ね/ども、\最前(さいぜん)/に\参(さん)じ\候(さうら)は/ん/と\存(ぞん)じ\候(さうら)ふ\所(ところ)/に、\途(みち)/より\風/の\心地(ここち)/にて\候(さうら)ふ\間(あひだ)、\今夜\少(すこ)し\労(いたは)り、\明日\参(さん)じ/て\御目(め)/に\かかり\候(さうら)ふ/べき\旨(むね)、\只今(ただいま)\子/にて\候(さうら)ふ\者(もの)/を\進(しん)じ\候(さうら)は/ん/と\仕(つかまつ)り\候(さうら)ふ。\折節(をりふし)\御使(おん-つかひ)
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\畏(かしこ)まり-入(い)り\候(さうら)ふ\由(よし)\申(まう)さ/せ\給(たま)へ」/と\申(まう)し/けれ/ば、\江田(えだ)\帰(かへ)り/て\此(こ)/の\由(よし)/を\申(まう)す。\判官(はうぐわん)\日頃(ひごろ)/は\侍(さぶらひ)-共(ども)/に\向(むか)ひ/て/は、\荒言葉(あらことば)/を/も\宣(のたま)は/ざり/し/が、\今(いま)/は\大(おほ)き/に\怒(いか)つ/て、\「事(こと)/も\事(こと)/に/こそ\依(よ)れ、\異議(いぎ)/を\言(い)は/する\事(こと)/は、\御辺(ごへん)/の\臆(お)め/たる/に\依(よ)つ/て/なり。\あれ=程(ほど)/の\不覚人(ふかくじん)/の\弓矢(ゆみや)\取(と)る\奉公(ほうこう)/を\する/か。\其処(そこ)\罷(まか)り-立(た)ち\候(さうら)へ。\向後(きやうこう)\義経(よしつね)/が\目(め)/に\かかる/な」/と/ぞ\仰(おほ)せ/られ/ける。\宿所/に\帰(かへ)り\候(さうら)は/ん/と\し/ける/が、\此(こ)/の\事(こと)/を\聞(き)き/ながら\帰(かへ)り/て/は、\臆(お)め/たる/べし/と\帰(かへ)ら/ざり/けり。\武蔵(むさし)、\御酒盛(さかもり)\半(なかば)/に、\宿所(しゆくしよ)/へ\帰(かへ)り/ける/が、\御内(み-うち)/に\人/も\無(な)く/や\ある/らん/と\思(おも)ひ/て\参(まゐ)り/たり。\判官(はうぐわん)\御覧(ごらん)じ/て、\「いしう\おはし/たり。\只今(ただいま)\かかる\不思議(ふしぎ)/こそ\あれ。\源三(げんざう)/と\言(い)ふ\のさ者(もの)/を\遺(つか)はし/たれ/ば、\あれ/が\返事(へんじ)/に\従(したが)ひ/て\帰(かへ)り-来(き)たれ/る\間(あひだ)、\鼻(はな)/を\突(つ)か/せ/て\行方(ゆきかた)/を\知(し)ら/ず、\御辺(ごへん)\向(むか)ひ/て、\土佐(とさ)/を\召(め)し/て\参(まゐ)れ」/と\仰(おほ)せ\有(あ)り/けれ/ば、\畏(かしこ)まつ/て、\「承(うけたまは)り\候(さうら)ふ。\もと/より\弁慶(べんけい)/に\仰(おほ)せ\蒙(かうぶ)り\候(さうら)は/ん\事(こと)/を」/とて、\やがて\出(い)で-立つ。\「侍(さぶらひ)-共(ども)\数多(あまた)\召(め)し-具す/べき/か」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\弁慶(べんけい)\「人\数多(あまた)/にて/は\敵(てき)/が\心(こころ)-づけ\候(さうら)は/ん」/と\出仕(しゆつし)-直垂(ひたたれ)/の\上(うへ)/に\黒革威(くろかはをどし)/の=鎧(よろひ)、\五枚兜(ごまいかぶと)/の\緒(を)/を\締(し)め、\四尺(ししやく)+五寸(ごすん)/の\太刀(たち)\帯(は)い/て、\判官(はうぐわん)/の\秘蔵(ひさう)=せ/られ/たり/ける\大黒(おほぐろ)/と\言(い)ふ\馬(うま)/に\乗(の)り、\雑色(ざふしき)\一人/ばかり\召(め)し-具(ぐ)し/て、\土佐(とさ)/が\宿(やど)/へ/ぞ\打(う)ち-入(い)り/ける。\壷(つぼ)/の\中縁(うちえん)/の\際(きは)/まで\打(う)ち-寄(よ)せ/て、\縁(えん)/に\ゆらり/と\下(お)り、\簾(すだれ)/を\ざつ/と\打(う)ち-上(あ)げ/て\見(み)れ/ば、\郎等(らうどう)-共(ども)\七八十人\座敷(ざしき)
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/に\列(つらな)り/て、\夜討(ようち)/の\評定(ひやうぢやう)=する\所(ところ)/に、\弁慶(べんけい)\多(おほ)く/の\兵(つはもの)-共(ども)/の\中/を\色代(しきだい)/に\及(およ)ば/ず\踏(ふ)み-越(こ)え/て、\土佐(とさ)/が\居(ゐ)/たる\横座(よこざ)/に\むず/と\鎧(よろひ)/の\草摺(くさずり)/を\居(ゐ)-懸(か)け/て、\座敷(ざしき)/の\体(てい)/を\睨(にら)み-廻(まは)し、\其(そ)/の=後(のち)\土佐(とさ)/を\はた/と\睨(にら)み、\「如何(いか)/に\御辺(ごへん)/は\如何(いか)/なる\御代官(お-だいくわん)/なり/とも、\先(ま)づ\堀河(ほりかは)-殿/へ\参(まゐ)り/て、\関東(くわんとう)/の\仔細(しさい)/を\申(まう)さ/る/べき/に、\今(いま)/まで\遅(おそ)く\参(まゐ)る、\尾篭(びろう)/の\致(いた)る\所(ところ)/ぞ」/と\言(い)ひ/けれ/ば、\土佐(とさ)\仔細(しさい)/を\述(の)べ/ん/と\する\所(ところ)/に、\弁慶(べんけい)\言(い)は/せ/も\果(は)て/ず、\「君(きみ)/の\御酒け/にて\ある/ぞ。\鼻突(はなつ)き\給(たま)ふ/な。\いざ\させ\給(たま)へ」/と\手(て)/を\取(と)つ/て\引(ひ)つ-立つる。\兵(つはもの)-共(ども)\色(いろ)/を\失(うしな)ひ/て、\土佐(とさ)\思(おも)ひ-切(き)ら/ば、\打(う)ち-合(あ)は/んずる\体(てい)/なれ/共(ども)、\土佐(とさ)/が\色(いろ)\損(そん)じ/て\返答(へんたう)/に\及(およ)ば/ず、\「やがて\参(まゐ)り\候(さうら)は/ん」/と\申(まう)し/ける\上(うへ)/は、\侍(さぶらひ)-共(ども)\力(ちから)\及(およ)ば/ず、\「暫(しばら)く。\馬(うま)/に\鞍(くら)\置(お)か/せ/ん」/と\言(い)ひ/ける/を、\「弁慶(べんけい)/が\馬(うま)/の\有(あ)る\上(うへ)、\今(いま)/まで\乗(の)り/つる\馬(うま)/に\鞍(くら)\置(お)き/て\何(なに)/に\せ/ん。\早(はや)\乗(の)り\給(たま)へ」/とて、\土佐/も\大力(ぢから)/なれ
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/ども、\弁慶(べんけい)/に\引(ひ)き-立(た)て/られ/て、\縁(えん)/の\際(きは)/まで\出(い)で/に/けり。\弁慶(べんけい)/が\下部(しもべ)\心得(こころえ)/て、\縁(えん)/の\際(きは)/に\馬(うま)\引(ひ)き-寄(よ)せ/たり。\弁慶(べんけい)\土佐(とさ)/を\掻(か)き-抱(いだ)き、\鞍壷(くらつぼ)/に\がは/と\投(な)げ-乗(の)せ、\我(わ)/が-身/も\馬(うま)/の\尻(しり)/に\むず/と\乗(の)り、\手綱(たづな)\土佐(とさ)/に\取(と)らせ/て\叶(かな)は/じ/と\思(おも)ひ、\後(うし)ろ/より\取(と)り、\鞭(むち)/に\鐙(あぶみ)/を\合(あ)はせ/て、\六条(ろくでう)-堀川(ほりかは)/に\馳(は)せ-著(つ)き、\此(こ)/の\由(よし)\申(まう)し-上(あ)げ/たり/けれ/ば、\判官(はうぐわん)\南向(みなみむき)/の\広廂(ひろひさし)/に\出(い)で-向(むか)ひ\給(たま)ひ/て、\土佐(とさ)/を\近(ちか)く\召(め)し/て、\事(こと)/の\仔細(しさい)/を\尋(たづ)ね/らる。\土佐(とさ)\陳(ちん)じ-申(まう)し/ける\様(やう)/は、\「鎌倉(かまくら)-殿(どの)/の\御代官(お-だいくわん)/に\熊野(くまの)/へ\参(まゐ)り\候(さうら)ふ。\明日\払暁(ふきやう)/に\参(まゐ)り\候(さうら)は/ん/とて、\今宵(こよひ)\風(かぜ)/の\心地(ここち)/にて\候(さうら)ふ\間(あひだ)、\参(まゐ)ら/ず\候(さうら)ふ\所(ところ)/に、\御使(おん-つかひ)\重(かさ)なり\候(さうら)ふ\程(ほど)/に、\恐(おそ)れ-存(ぞん)じ\候(さうら)ひ/て\参り/て\候(さうら)ふ/なり」。\判官(はうぐわん)、\「汝(おのれ)/は\義経(よしつね)\追討(ついたう)/の\使(つかひ)/と/こそ\聞(き)く。\争(いかで)/か\争(あらそ)ふ/べき」。\土佐(とさ)、\「努々(ゆめゆめ)\存(ぞん)じ-寄(よ)ら/ざる\事(こと)/に\候(さうら)ふ。\人/の\讒言(ざんげん)/にて/ぞ\候(さうら)ふ/らん。\何(いづ)れ/か\君(きみ)/にて\渡(わた)ら/せ\給(たま)は/ぬ。\権現(ごんげん)\定(さだ)めて\知見(ちけん)=し\坐(ましま)し\候(さうら)は/ん」/と\申(まう)せ/ば、\「西国(さいこく)/の\合戦(かつせん)/に\疵(きず)/を\蒙(かうぶ)り、\未(いま)だ\其(そ)/の\疵(きず)\癒(い)え/ぬ\輩(ともがら)/が、\生疵(なまきず)\持(も)ち/ながら\熊野(くまの)-参詣(さんけい)/に\苦(くる)しから/ぬ/か」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\「然様(さやう)/の\人\一人/も\召(め)し-具せ/ず\候(さうら)ふ。\熊野(くまの)/の\みつ/の-御山(お-やま)/の\間(あひだ)、\山賊(さんぞく)\満(み)ち満(み)ち/て\候(さうら)ふ\間(あひだ)、\若き\奴原(やつ-ばら)\少々(せうせう)\召(め)し-具(ぐ)し/て\候(さうら)ふ。\それ/を/ぞ\人/の\申(まう)し\候(さうら)は/ん。」\判官(はうぐわん)、\「汝(なんぢ)/が\下部(しもべ)-共(ども)/の\「明日\京都(きやうと)/は\大戦(いくさ)/にて\有(あ)ら/んずる/ぞ」/と\言(い)ひ/ける/ぞ。\其(それ)/は\やは\争(あらそ)ふ」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\土佐(とさ)、\「斯様(かやう)/に\人/の\無実(むしつ)/を\申(まう)し-付(つ)け\候(さうら)は/ん/に\於(おい)て/は、\私(わたくし)/に/は\陳(ちん)じ-開(ひら)き-難(がた)く\候(さうら)ふ。\御免(ごめん)\蒙(かうぶ)り\候(さうら)ひ/て、\起請(きしやう)/を\書(か)き\候(さうら)は/ん」/と\申(まう)し/けれ/ば、\
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判官(はうぐわん)\「神/は\非礼(ひれい)/を\享(う)け\給(たま)は/ず/と\言(い)へ/ば、\よくよく\起請(きしやう)/を\書(か)け」/とて、\熊野/の\牛王(ごわう)/に\書(か)か/せ、\「三枚(まい)/は\八幡宮(はちまんぐう)/に\収(おさ)め、\一枚(まい)/は\熊野(くまの)/に\収(おさ)め、\今(いま)\三枚/は\土佐(とさ)/が\六根(こん)/に\収(おさ)めよ」/とて\焼(や)い/て\飲(の)ま/せ、\此(こ)/の=上(うへ)/は/とて\許(ゆる)さ/れ/ぬ。\土佐(とさ)\許(ゆる)さ/れ/て\出(い)でざま/に、\「時刻(じこく)\移(うつ)し/て/こそ\冥罰(みやうばつ)/も\神罰(しんばつ)/も\蒙(かうぶ)ら/め。\今宵(こよひ)/を/ば\過(す)ぐす/まじき\物(もの)/を」/と\思(おも)ひ/ける。\宿(やど)/へ\帰(かへ)り/て、\「今宵(こよひ)\寄(よ)せ/ず/は、\叶(かな)ふ/まじき/ぞ/や」/とて、\各々(おのおの)\犇(ひし)めき/ける。\判官(はうぐわん)/の\御宿(やど)/に/は、\武蔵/を\初(はじ)め/と/して\侍(さぶらひ)-共(ども)\申(まう)し/ける/は、\「起請(きしやう)/と\申(まう)す/は、\小事(せうじ)/に/こそ\書(か)か/すれ、\是(これ)=程(ほど)/の\事(こと)/に\今宵(こよひ)/は\御用心(ご-ようじん)\ある/べく\候(さうら)ふ」/と\申(まう)せ/ば、\判官(はうぐわん)、\さら/ぬ\体(てい)/にて、\「何事(なにごと)か\有(あ)ら/ん」/と、\事(こと)/も=な-げ/に/ぞ\仰(おほ)せ/られ/ける。\「さり/ながら、\今宵(こよひ)\打(う)ち-解(と)くる\事(こと)\候(さうら)ふ/まじ」/と\申(まう)せ/ば、\判官(はうぐわん)、\「今宵(こよひ)\何事(なにごと)/も\有(あ)ら/ば、\只(ただ)\義経(よしつね)/に\任(まか)せよ。\侍(さぶらひ)-共(ども)\皆々(みなみな)\帰(かへ)れ」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\各々(おのおの)\宿所(しゆくしよ)/へ/ぞ\帰(かへ)り/ける。\判官(はうぐわん)/は\宵(よひ)/の\酒盛(さかもり)/に\酔(ゑ)ひ\給(たま)ひ/て、\前後(ぜんご)/も\知(し)ら/ず\臥(ふ)し\給(たま)ふ。\其(そ)/の-頃(ころ)\判官(はうぐわん)/は\静(しずか)/と\言(い)ふ\遊女(あそびもの)/を\置(お)か/れ/たり。\賢々(さかさか)しき\者(もの)/にて、\「是(これ)=程(ほど)/の\大事(だいじ)/を\聞(き)き/ながら、\斯様(かやう)/に\打(う)ち-解(と)け\給(たま)ふ/も、\只事(ただごと)/なら/ぬ\事(こと)/ぞ」/とて、\端者(はしたもの)/を\土佐(とさ)/が\宿所(しゆくしよ)/へ\遣(つか)はし/て、\景気(けいき)/を\見する。\端者(はしたもの)\行(ゆ)き/て\見(み)る/に、\只今(ただいま)\兜(かぶと)/の\緒(を)/を\締(し)め、\馬(うま)\引(ひ)つ-立(た)て、\既(すで)/に\出(い)で/ん/と\す。\猶(なほ)\立(た)ち-入(い)り/て\奥(おく)/にて\見(み)-すまし/て\申(まう)さ/ん/とて、\震(ふる)ひ=震(ふる)ひ\入(い)る\程(ほど)/に、\土佐(とさ)/が\下部(しもべ)\是(これ)/を\見(み)/て、\「此処(ここ)/なる\女(をんな)/は\只者(ただもの)/なら/ず」/と\申(まう)し/けれ/ば、\「さ/も\ある/らん、\召(め)し-捕(と)れ」
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/とて、\彼(か)/の\「女(をんな)/を\捕(とら)へ、\上(あ)げ/つ\下(おろ)し/つ\拷問(がうもん)=す。\暫(しばら)く/は\落(お)ち/ざり/けれ/ども、\余(あま)り/に\強(つよ)く\攻(せ)め/られ/て、\有(あ)り/の=儘(まま)/に\落(お)ち/に/ける。\斯様(かやう)/の\者(もの)/を\許(ゆる)し/て/は\悪(あ)しかる/べし/とて、\斬(き)り/に/けり。\土佐(とさ)/が\勢(せい)\百騎(ひやつ-き)、\白川(しらかは)/の\印地(いんぢ)\五十人\相(あひ)-語(かた)らひ、\京(きやう)/の\案内者(あんないしや)/と/して、\十月-十七日/の\丑(うし)/の-刻(こく)/許(ばか)り/に\六条(ろくでう)-堀河(ほりかは)/に\押(お)し-寄(よ)せ/たり。\判官(はうぐわん)/の\御宿所(しゆくしよ)/に/は、\今宵(こよひ)/は\夜/も\更(ふ)け、\何事(なにごと)/も\ある/まじき/と\各々(おのおの)\宿(やど)/へ\帰(かへ)る。\武蔵坊(むさし-ばう)、\片岡(かたをか)\六条(ろくでう)/なる\宿(やど)/へ\行(ゆ)き/て\なし。\佐藤(さとう)-四郎、\伊勢(いせ/の)-三郎\室町(むろまち)/なる\女(をんな)/の\許(もと)/へ\行(ゆ)き/て\なし。\根尾(ねのを)、\鷲尾(わしのを)\堀川(ほりかは)/の=宿(やど)/へ\行(ゆ)き/て\なし。\其(そ)/の=夜/は\下部(しもべ)/に\喜三太(きさんだ)/ばかり/ぞ\候(さうら)ひ/ける。\判官(はうぐわん)/も\其(そ)/の=夜/は\更(ふ)くる/まで\酒盛(さかもり)=し/て、\東西/を/も\知(し)ら/ず\臥(ふ)し\給(たま)ひ/ける。\斯(か)かる\所(ところ)/に\押(お)し-寄(よ)せ、\鬨(とき)/を\つくる。\され/共(ども)\御内(み-うち)/に/は\人\音(おと)/も\せ/ず。\静(しずか)\敵(てき)/の\鯨波(げいは)/の\声(こゑ)/に\驚(おどろ)き、\判官(はうぐわん)-殿(どの)/を\引(ひ)き-動(うご)かし\奉(たてまつ)り、\「敵(てき)/の\寄(よ)せ/たる」/と\申(まう)せ/ども、\前後(ぜんご)/も\知(し)り\給(たま)は/ず。\唐櫃(からひつ)/の\蓋(ふた)/を\開(あ)け/て、\著長(きせなが)\引(ひ)き-出(い)だし、\御上(うへ)/に\投(な)げ-掛(か)け/たり/けれ/ば、\がは/と\起(お)き、\「何事(なにごと)/ぞ」/と\宣(のたま)へ/ば、\「敵(てき)\寄(よ)せ/て\候(さうら)ふ」/ぞ/と\申(まう)せ/ば、\「あはれ\女/の\心(こころ)\程(ほど)\けしから/ぬ\物/は\なし。\思(おも)ふ/に\土佐/こそ\寄(よ)せ/たる/らめ。\人/は\無(な)き/か、\あれ\斬(き)れ」/と/ぞ\仰(おほ)せ/られ/ける。\「侍(さぶらひ)\一人/も\なし。\宵(よひ)/に\暇(いとま)\賜(たま)はつ/て、\皆々(みなみな)\宿(やど)/へ\帰(かへ)り\候(さうら)ひ/ぬ」/と\申(まう)せ/ば、\「さる=事\有(あ)ら/ん。\さる/にて/も\男(をとこ)/は\無(な)き/か」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\女房(にようばう)-達(たち)\走(はし)り-廻(めぐ)り/て、\下部(しもべ)/に\喜三太(きさんだ)/ばかり/なり。\喜三太(きさんだ)\参(まゐ)れ/と\召(め)さ/れ/けれ/ば、\南面(なんめん)/の\沓脱(くつぬぎ)/に\畏(かしこ)まつ/て/ぞ\候(さうら)ひ
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/ける。\「近(ちか)ふ\参(まゐ)れ」/と\召し/けれ/共(ども)、\日頃(ひごろ)\参(まゐ)ら/ぬ\所(ところ)/なれ/ば、\左右(さう)-無(な)く\参(まゐ)り-得(え)/ず。\「彼奴(きやつ)/は\時(とき)/も\時(とき)/に/こそ\よれ」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\蔀(しとみ)/の\際(きは)/まで\参(まゐ)り/たり。\「義経(ぎけい)/が\風/の\心地(ここち)/にて、\惘然(ばうぜん)/と\ある/に、\鎧(よろひ)\著(き)/て\馬(うま)/に\乗(の)り/て\出(い)で/ん\程(ほど)、\出(い)で-向(むか)ひ/て、\義経(よしつね)/を\待(ま)ち-付(つ)けよ」/と\仰(おほ)せ/られ/ける。\「承(うけたまは)り\候(さうら)ふ」/とて、\喜三太(きさんだ)\走(はし)り-向(むか)ひ、\大引両(おほびきりやう)/の=直垂(ひたたれ)/に、\逆沢瀉(さかおもだか)/の\腹巻(はらまき)\著(き)/て、\長刀(なぎなた)/ばかり/を\おつ-取(と)り、\縁(えん)/より\下/へ\飛(と)ん/で\下(お)り/ける/が、\「あはれ\御出居(でい)/の\方(かた)/に、\人/の\張替(はりがへ)/の\弓(ゆみ)/や\候(さうら)ふ/らん」/と\申(まう)せ/ば、\「入(い)り/て\見よ」/と\仰(おほ)せ/ける。\走(はし)り-入(い)り/て\見(み)/けれ/ば、\白箆(しらの)/に\鵠(くぐゐ)/の\羽(は)/を\以(もつ)て\矧(は)ぎ/たる、\沓巻(くつまき)/の\上\十四束(じふし-そく)/に\拵(こしら)へ/て、\白木(しらき)/の=弓/の\握太(にぎりふと)/なる/を\添(そ)へ/て/ぞ\置(お)き/たる。\あはれ、\物(もの)/や/と\思(おも)ひ/て、\出居(でい)/の\柱(はしら)/に\押(お)し-当(あ)て、\えいや/と\張(は)り、\鐘(かね)/を\撞(つ)く\様(やう)/に、\弦打(つるうち)\ちやうちやう/ど\し/て、\大庭(おほには)/に/ぞ\走(はし)り-出(い)で/けり。\下/も\無(な)き\下郎(げらう)/なり/けれ/ども、\純友(すみとも)、\将門(まさかど)/に/も\劣(おと)ら/ず、\弓矢(ゆみや)/を\取(と)る\事、\養由(やうゆう)/を\欺(あざむ)く\程(ほど)/の\上手(じやうず)/なり。\四人張(よにんば)り/に\十四束(じふし-そく)/を/ぞ\射(い)/ける。\我(わ)/が\為(ため)/に/は\よし/と\悦(よろこ)び/て、\門外(もんぐわい)/に\向(むか)ひ-出(い)で/て、\閂(かん)/の−木/を\外(はづ)し、\扉(とびら)/の\片方(かたかた)\押(お)し-開(ひら)き、\見(み)/けれ/ば、\星月夜(ほしづきよ)/の\きらめき/たる/に、\兜(かぶと)/の\星(ほし)/も\きらきら/と/して、\内冑(うち-かぶと)\透(す)き/て\射(い)-よ-げ/に/ぞ\見(み)え/たり/ける。\片膝(かたひざ)\付(つ)い/て、\矢継早(やつぎばや)/に\指(さ)し-詰(つ)め-引(ひ)き-詰(つ)め\散々(さんざん)/に\射る。\土佐(とさ)/が\真先(まつさき)\駆(か)け/たる\郎等(らうどう)\五六騎(ごろつ-き)\射(い)-落(おと)し、\矢場(やには)/に\二人(ふたり)\失(う)せ/に/けり。\土佐\叶(かな)は/じ/と/や\思(おも)ひ/けん、\ざつ/と\引(ひ)き/に/けり。\「土佐(とさ)\穢(きたな)し。\かく/て
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\鎌倉(かまくら)-殿(どの)/の\御代官(お-だいくわん)/は\する/か」/とて、\扉(とびら)/の\蔭(かげ)/に\歩(あゆ)ませ-寄(よせ)/て\申(まう)し/ける/は、\「今宵(こよひ)/の\大将軍(だいしやうぐん)/は\誰(たれ)がし/が\承(うけたまは)り/たる/ぞ。\名告(なの)り\給(たま)へ。\闇討(やみう)ち\無益(むやく)/なり。\かく\申(まう)す/は\鈴木党(すずきたう)/に、\土佐坊(とさ-ばう)-昌俊(しやうしゆん)/なり。\鎌倉(かまくら)-殿(どの)/の\御代官(お-だいくわん)」/と\名告(なの)り/けれ/ども、\敵(てき)/の\嫌(きら)ふ\事(こと)/も\有(あ)り/と\思(おも)ひ、\音(おと)/も\せ/ず。\判官(はうぐわん)\大黒(おほぐろ)/と\言(い)ふ\馬(うま)/に\金覆輪(きんぷくりん)/の\鞍(くら)\置(お)か/せ/て、\赤地(あかぢ)/の=錦(にしき)/の=直垂(ひたたれ)/に、\緋威(ひをどし)/の=鎧(よろひ)、\鍬形(くはがた)\打(う)つ/たる\白星(しらぼし)/の=兜(かぶと)/の\緒(を)/を\締(し)め、\金作(こがねづく)り/の=太刀(たち)\帯(は)い/て、\切斑(きりう)/の=征矢(そや)\負(お)ひ/て、\滋籐(しげどう)/の=弓/の\真中(まんなか)\握(にぎ)り、\馬(うま)\引(ひ)き-寄(よ)せ、\召(め)し/て、\大庭(おほには)/に\駆(か)け-出(い)で、\鞠(まり)/の\懸(かかり)/にて、\「喜三太(きさんだ)/と\召(め)し/けれ/ば、\喜三太(きさんだ)\申(まう)し/ける/は、\「下(しも)\無(な)き\下郎(げらう)、\心(こころ)\剛(かう)/なる/に\よつ/て、\今夜/の\先駆(さきがけ)\承(うけたまは)つ/て\候(さうら)ふ。\喜三太(きさんだ)/と\申(まう)す\者(もの)/なり。\生年(しやうねん)\廿三、\我(われ)/と\思(おも)は/ん\者(もの)/は\寄(よ)り/て\組(く)め」/と/ぞ\申(まう)し/ける。\土佐(とさ)\是(これ)/を\聞(き)き/て、\安(やす)から/ず\思(おも)ひ/けれ/ば\扉(とびら)/の\隙(すき)/より\狙(ねら)ひ-寄(よ)り/て、\十三束(ぞく)\よつ-引(ぴ)い
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/て\ひやう/ど\射(い)る。\喜三太(きさんだ)/が\弓手(ゆんで)/の\太刀打(たちうち)/を\羽(は)ぶくら\せめ/て\つと\射(い)-通(とほ)す。\かい-かなぐり/て\捨(す)て、\喜三太(きさんだ)\弓(ゆみ)/を\がは/と\投(な)げ-棄(す)て、\大長刀(おほなぎなた)/の\真中(まんなか)\取(と)つ/て、\扉(とびら)\左右(さう)/へ\押(お)し-開(ひら)き、\敷居(しきゐ)/を\蹈(ふ)まへ/て\待(ま)つ\所(ところ)/に\敵(てき)\轡(くつばみ)/を\並(なら)べ/て\喚(おめ)い/て\駆(か)け-入(い)る。\以(もつ)て\開(ひら)い/て\散々(さんざん)/に\斬(き)る。\馬(うま)/の\平首(ひらくび)、\胸板(むないた)、\前(まへ)/の\膝(ひざ)/を\散々(さんざん)/に\斬(き)ら/れ/て、\馬(うま)\倒(たふ)れ/けれ/ば、\主/は\倒(さかさ)ま/に\落(お)つる\所(ところ)/を\長刀(なぎなた)/にて\刺(さ)し-殺(ころ)し、\薙(な)ぎ-殺(ころ)す。\斯(か)かり/けれ/ば、\それ/にて\多(おほ)く\討(う)た/れ/たり。\され/ども\大勢(おほぜい)/にて\攻(せ)め/けれ/ば、\走(はし)り-帰(かへ)つ/て\御馬(うま)/の\口(くち)/に\縋(すが)る。\差(さ)し-覗(のぞ)き、\御覧(ごらん)ずれ/ば、\胸板(むないた)/より\下(しも)/は\血(ち)/に/ぞ\なり/たる。\「汝(おのれ)/は\手(て)/を\負(お)う/たる/か」\「さん=候(ざうらふ)」/と\申す。\「大事(だいじ)/の\手(て)/なら/ば\退(ひ)け」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\「合戦(かつせん)/の\場(には)/に\出(い)で/て\死ぬる/は\法(ほふ)」/と\申(まう)せ/ば、\「彼奴(きやつ)/は\雄猛者(けなげもの)」/と/ぞ\宣(のたま)ひ/ける。\「何(なに)/とも\あれ、\汝(おのれ)/と\義経(よしつね)/と/だに\有(あ)ら/ば」/と/ぞ\仰(おほ)せ/られ/ける。\され/共(ども)\判官(はうぐわん)/も\駆(か)け-出(い)で\給(たま)は/ず。\土佐/も\左右(さう)-無(な)く\駆(か)け/も\入ら/ず。\両方(りやうばう)\軍(いくさ)/は\しらけ/たる\所(ところ)/に\武蔵坊(むさし-ばう)\六条(ろくでう)/の\宿所(しゆくしよ)/に\臥(ふ)し/たり/ける/が、\今宵(こよひ)/は\何/と/やらん、\夜/が\寝(ね)ら/れ/ぬ/ぞ/や。\さて/も\土佐(とさ)/が\京/に\ある/ぞ/かし。\殿(との)/の\方(かた)\覚束(おぼつか)-なし。\廻(めぐ)り/て\帰(かへ)ら/ばや/と\思(おも)ひ/けれ/ば、\草摺(くさずり)/の\しどろ/なる、\兵土鎧(ひやうじよろひ)/の\札(さね)\良(よ)き/に\大太刀(おほたち)\帯(は)き、\棒(ばう)\打(う)ち-突(つ)き/て、\高足駄(たかあしだ)\履(は)き/て、\殿(との)/の\方(かた)/へ\からり=からり/と/して/ぞ\参(まゐ)り/ける。\大門(だいもん)/は\閂(かん)/の−木/を\鎖(さ)さ/れ/たる/らん/と\思(おも)ひ/て、\小門/より\差(さ)し-入(い)り、\御馬屋(おん-うまや)/の\後(うし)ろ/にて\聞(き)き/けれ/ば、\
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大庭(おほには)/に\馬(うま)/の\足音(あしおと)\六種(ろくしゆ)\震動(しんどう)/の/如(ごと)し。\あら\心憂(こころう)/や、\早(はや)\敵(てき)/の\寄(よ)せ/たり/ける\物(もの)/を/と\思(おも)ひ/て、\御馬屋(おん-うまや)/に\差(さ)し-入(い)り/て\見(み)れ/ば、\大黒(おほぐろ)/は\なし。\今宵(こよひ)/の\軍(いくさ)/に\召(め)さ/れ/ける/と\思(おも)へ/ば、\東/の\中門(ちゆうもん)/に\つと\上(のぼ)り/て\見れ/ば、\判官(はうぐわん)\喜三太(きさんだ)/ばかり\御馬副(おん-うまぞひ)/にて、\只(ただ)\一騎\控(ひか)へ\給(たま)へ/り。\弁慶(べんけい)\是(これ)/を\見(み)/て、\「あら\心(こころ)-安(やす)/や、\さり/ながら\憎(にく)さ/も\憎(にく)し。\さ/しも\人/の\申(まう)し/つる/を\聞(き)き\給(たま)は/で、\胆(きも)\潰(つぶ)し\給(たま)ひ\候(さうら)は/ん」/と\呟(つぶや)き言(ごと)=し/て、\縁(えん)/の\板(いた)\踏(ふ)み-ならし、\西(にし)/へ\向(む)き/て\どうどう/と\行(ゆ)き/ける。\判官(はうぐわん)\あはや/と\思召(おぼしめ)し/て、\差(さ)し-覗(のぞ)き\見(み)\給(たま)へ/ば、\大(だい)/の=法師(ほふし)/の\鎧(よろひ)\著(き)/たる/にて/ぞ\有(あ)り/ける。\土佐(とさ)-奴(め)/が\後(うし)ろ/より\入(い)り/ける/か/とて、\矢\差(さ)し-矧(は)げ/て\馬(うま)\打(う)ち-寄(よ)せ、\「あれ/に\通(とほ)る\法師(ほふし)/は\誰(たれ)/か。\名告(なの)れ。\名告(なの)ら/で\誤(あやま)ち=せ/られ\候(さうら)ふ/な」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/共(ども)、\札(さね)\良(よ)き\鎧(よろひ)/なり/けれ/ば、\左右(さう)-無(な)く\裏(うら)/は\掻(か)か/じ/など/と\思(おも)ひ/て、\音(おと)/も\せ/ず。\射(い)-損(そん)ずる\事(こと)/も\有(あ)り/と\思召(おぼしめ)し、\矢(や)/を/ば\箙(えびら)/に\差(さ)し、\太刀(たち)/の\柄(つか)/に\手(て)/を\掛(か)け、\すは/と\抜(ぬ)い/で、\「誰(たれ)/ぞ、\名告(なの)ら/で\斬(き)ら/る/な」/とて\やがて\近(ちか)づき\給(たま)へ/ば、「此(こ)/の\殿(との)/は\打物(うちもの)\取(と)り/て/は\樊■(はんくわい)、\張良(ちやうりやう)/に/も\劣(おと)ら/ぬ\人/ぞ」/と\思(おも)ひ/て、\「遠(とほ)く/は\音/に/も\聞(き)き\給(たま)へ。\今(いま)/は\近(ちか)し、\目/に/も\見(み)\給(たま)へ。\天児屋根(あまつこやね)/の\御苗裔(ご-べうえい)、\熊野(くまの)/の=別当(べつたう)=弁(べん)せう/が\嫡子(ちやくし)、\西塔(さいたふ)/の=武蔵坊(むさし-ばう)-弁慶(べんけい)/とて、\判官(はうぐわん)/と\御内/に\一人-当千の\者(もの)/にて\候(さうら)ふ」/と/ぞ\申(まう)し/ける。\判官(はうぐわん)\「興(きよう)\ある\法師(ほふし)/の\戯(たはぶれ)/かな、\時(とき)/に/こそ\よれ」/と/ぞ\仰(おほ)せ/られ/ける。\「さ/は\候(さうら)へ/ども、\仰(おほ)せ\蒙(かうぶ)り\候(さうら)へ/ば、\此処(ここ)/にて\名告(なの)り\申(まう)す/べき」/と\猶(なほ)/も
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\戯(たはぶれ)/を/ぞ\申(まう)し/ける。\判官(はうぐわん)、\「され/ば\土佐(とさ)-奴(め)/に\寄(よ)せ/られ/たる/ぞ」。\弁慶(べんけい)、\「さ/しも\申(まう)し/つる\事(こと)/を\聞召(きこしめ)し-入(い)れ\候(さうら)は/で、\御用心(ご-ようじん)/など/も\候(さうら)は/で、\左右(さう)-無(な)く\彼奴(きやつ)-原(ばら)/を\門外(もんぐわい)/まで、\馬(うま)/の\蹄(ひづめ)/を\向(む)け/させ/ぬる/こそ\安(やす)から/ず\候(さうら)へ」/と\申(まう)し/けれ/ば、\「如何(いか)/に/も=し/て\彼奴(きやつ)/を\生捕(いけど)つ/て\見(み)/んずる」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\「只(ただ)\置(お)か/せ\給(たま)へ。\しやつ/が\有(あ)ら/ん\方/に\弁慶(べんけい)\向(むか)ひ/て、\掴(つか)ん/で\見参(けんざん)/に\入(い)れ\候(さうら)は/ん」/と\申(まう)し/けれ/ば、\「人/を\見(み)/て、\人/を\見(み)る/に/も\弁慶(べんけい)/が\様(やう)/なる\人/こそ\無(な)けれ。\喜三太(きさんだ)-奴(め)/に\軍(いくさ)=せ/させ/たる\事/は\無(な)けれ/ども、\軍(いくさ)/に/は\誰(たれ)/に/も\劣(おと)ら/じ。\大将軍(だいしやうぐん)/は\御辺(ごへん)/に\奉(たてまつ)る/ぞ。\軍(いくさ)/は\喜三太(きさんだ)-奴(め)/に\せ/させよ」/と\仰(おほ)せ/られ/ける。\喜三太(きさんだ)\櫓(やぐら)/に\上(あ)がり/て、\大音(だいおん)\上(あ)げ/て\申(まう)し/ける/は、\「六条殿(ろくでう-どの)/に\夜\討(う)ち-入(い)り/たり。\御内(み-うち)/の\人々(ひとびと)/は\無(な)き/か。\在京(ざいきやう)/の\人/は\無(な)き/か。\今夜\参ら/ぬ\輩(ともがら)/は、\明日/は\謀反(むほん)/の\与党(よたう)/たる/べし」/と\呼(よ)ばはり
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/ける。\此処(ここ)/に\聞(き)き-付(つ)け、\彼処(かしこ)/に\聞(き)き-付(つ)け\京(きやう)\白川(しらかは)\一(ひと)つ/に\なり/て\騒動(さうどう)=す。\判官(はうぐわん)-殿(どの)/の\侍-共(ども)/を\始(はじ)め/と/して、\此処(ここ)-彼処(かしこ)/より\馳(は)せ-来(き)たる。\土佐(とさ)/が\勢(せい)/を\中/に\取(と)り-篭(こ)め/て\散々(さんざん)/に\攻(せ)む。\片岡(かたをか/の)-八郎、\土佐/が\勢(せい)/の\中/に\駆(か)け-入(い)り/て、\首(くび)\二つ、\生捕(いけど)り\三人/して\見参(げんざん)/に\入(い)る。\伊勢(いせ/の)-三郎、\生捕(いけど)り\二人(ふたり)、\首(くび)\三つ\取(と)り/て\参(まゐ)らする。\亀井(かめゐ/の)-六郎(ろくらう)、\備前(びぜん/の)-平四郎\二人(ふたり)\討(う)ち/て\参(まゐ)る。\彼等(かれ-ら)/を\始(はじ)め/と/して、\生捕(いけど)り\分捕(ぶんどり)\思(おも)ひ=思(おも)ひ/に/ぞ\しける。\其(そ)/の\中/に/も\軍(いくさ)/の\哀(あは)れ/なり/し/は、\江田(えだ/の)-源三(げんざう)/にて\止(とど)め/たり。\宵(よひ)/に/は\御不審(ふしん)/にて\京極(きやうごく)/に\有(あ)り/ける/が、\堀河殿(ほりかはどの)/に\軍(いくさ)\有(あ)り/と\聞(き)き/て、\馳(は)せ-参(まゐ)り、\敵(てき)\二人(ふたり)/が\首(くび)\取(と)り/て、\「武蔵坊(むさし-ばう)、\明日\見参(げんざん)/に\入(い)れ/て\賜(た)び\候(さうら)へ」/と\言(い)ひ/て、\又(また)\軍(いくさ)/の\陣(ぢん)/に\出(い)で/ける/が、\土佐(とさ)/が\射(い)/ける\矢(や)/に\首(くび)/の\骨(ほね)\箆中(のなか)\責(せ)め/て/ぞ\射(い)/られ/ける。\矧(は)げ/たる\矢/を\打(う)ち-上(あ)げ/て、\引(ひ)か/ん=引(ひ)か/ん/と\し/ける/が、\只(ただ)\弱(よわ)り/に/ぞ\弱(よわ)り/ける。\太刀(たち)/を\抜(ぬ)き、\杖(つゑ)/に\突(つ)き、\はうはう\参(まゐ)り、\縁(えん)/へ\上(あ)がら/ん/と\し/けれ/ども、\上(あ)がり-兼(か)ね/て、\「誰(たれ)/か\御渡(おん-わた)り\候(さうら)ふ」/と\申(まう)し/けれ/ば、\御前/なる\女房(にようばう)\立(た)ち-出(い)で/て、\「何事(なにごと)/ぞ」/と\答(こた)へ/けれ/ば、\「江田(えだ/の)-源三(げんざう)/にて\候(さうら)ふ。\大事(だいじ)/の\手(て)-負(お)う/て、\今(いま)/を\限(かぎ)り/と\存(ぞん)じ\候(さうら)ふ。\見参(げんざん)/に\入(い)れ/て\賜(た)び\候(さうら)へ」/と\申(まう)し/けれ/ば、\判官(はうぐわん)\是(これ)/を\聞(き)き\給(たま)ひ/て、\浅(あさ)まし-げ/に\思召(おぼしめ)し/て、\火/を\点(とも)し\差(さ)し-上(あ)げ/て\御覧(ごらん)ずれ/ば、\黒津羽(くろつば)/の=矢(や)/の\夥(おびたた)しかり/ける/を、\射(い)-立(た)て/られ/て/ぞ\伏(ふ)し/たり/ける。\判官(はうぐわん)、\「如何(いか)/に\人々(ひとびと)」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\息(いき)/の\下(した)/にて\申(まう)す\様(やう)、\「御不審(ふしん)\蒙(かうぶ)り/て\候(さうら)へ/共(ども)、\
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今(いま)/は\最後(さいご)/にて\候(さうら)ふ。\御赦免(ごしやめん)/を\蒙(かうぶ)り、\黄泉(よみぢ)/を\心(こころ)-安(やす)く\参(まゐ)り\候(さうら)は/ばや」/と\申(まう)し/けれ/ば、\「もと/より\汝(なんぢ)\久(ひさ)しく\勘当(かんだう)=す/べき/や。\只(ただ)\一旦(いつたん)/の\事(こと)/を/こそ\言(い)ひ/つる/に」/と\仰(おほ)せ/られ/て、\御涙(おん-なみだ)/に\咽(むせ)び\給(たま)へ/ば、\源三(げんざう)\世/に\嬉(うれ)し-げ/に\打(う)ち-頷(うなづ)き/たり。\鷲尾(わしのを/の)-七郎\近(ちか)く\有(あ)り/ける/が、\「如何(いか)/に\源三(げんざう)、\弓矢(ゆみや)\取(と)る\者(もの)/の\矢(や)\一(ひと)つ/にて\死(し)する/は\無下(むげ)/なる\事(こと)/ぞ。\故郷(こきやう)/へ\何事(なにごと)/も\申(まう)し-遺(つか)はさ/ぬ/ぞ」/と\言(い)ひ/けれ/ども、\返事(へんじ)/も\せ/ず。\「和殿(わどの)/の\枕(まくら)/に\し\給(たま)ふ/は\君/の\御膝(ひざ)/ぞ」、\源三(げんざう)\「御膝(ひざ)/の\上(うへ)/にて\死(し)に\候(さうら)へ/ば、\何事(なにごと)/を/か\思(おも)ひ-置(お)き\候(さうら)ふ/べき/なれ/ども、\過(す)ぎ/に/し\春(はる)/の\頃(ころ)\親(おや)/にて\候(さうら)ふ\者(もの)/の、\信濃(しなの)/へ\下(くだ)り/し/に、\「構(かま)へ/て\暇(いとま)\申(まう)し/て、\冬/の=頃(ころ)/は\下(くだ)れ」/と\申(まう)し/し\間(あひだ)、\「承(うけたまは)る」/と\申(まう)し/て\候(さうら)ひ/し/に、\下人(げにん)/が\空(むな)しき\死骸(しがい)/を\持(も)ち/て\下(くだ)り、\母/に\見(み)せ/て\候(さうら)は/ば、\悲(かな)しみ\候(さうら)は/んずる\事(こと)/こそ、\罪(つみ)-深(ぶか)く\覚(おぼ)え/て\候(さうら)へ。\君(きみ)\都(みやこ)/に\おはしまさ/ん\程/は、\常(つね)/の\仰(おほ)せ/を\蒙(かうぶ)り/たく\候(さうら)へ」/と\申(まう)せ/ば、\「それ/は\心(こころ)-安(やす)く\思(おも)へ。\常々(つねづね)\問(と)は/する/ぞ」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\世(よ)/に\嬉(うれ)し-げ/にて\涙(なみだ)/を\流(なが)し/ける。\限(かぎ)り/と\見(み)え/しか/ば、\鷲尾(わしのを)\寄(よ)り/て\念仏(ねんぶつ)/を\進(すす)め/けれ/ば、\高声(かうしやう)/に\申(まう)し、\御膝(ひざ)/の\上(うへ)/に/して、\二十五/にて\亡(う)せ/に/けり。\判官(はうぐわん)、\弁慶(べんけい)、\喜三太(きさんだ)/を\召(め)し/て\「軍(いくさ)/は\如何様(いかやう)/に\し-なし/たる/ぞ」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\「土佐/が\勢(せい)/は\二三十騎/ばかり/こそ」/と\申(まう)せ/ば、\「江田(えだ)/を\討(う)た/せ/たる/が\安(やす)から/ぬ/に、\土佐(とさ)-奴(め)/が\一類(いちるい)\一人/も\漏(も)らさ/ず、\命(いのち)\な\殺(ころ)し/そ。\生捕(いけど)り/て\参(まゐ)らせよ」/と\仰(おほ)せ
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/られ/ける。\喜三太(きさんだ)\申(まう)し/ける/は、\「敵(てき)\射(い)-殺(ころ)す/こそ\安(やす)けれ。\生(い)き/ながら\取(と)れ/と\仰(おほ)せ\蒙(かうぶ)り\候(さうら)ふ/こそ、\以(もつ)て/の-外(ほか)/の\大事(だいじ)/なれ。\さり/ながら/も」/とて、\大長刀(おほなぎなた)\持(も)つ/て\走(はし)り-出(い)で/けれ/ば、\弁慶(べんけい)\「あはや、\彼奴(きやつ)/に\先(さき)\せ/られ/て\叶(かな)は/じ」/と\鉞(まさかり)\引提(ひつさ)げ/て\飛(と)ん/で\出(い)で、\喜三太(きさんだ)/は\卯(う)/の\花垣(はながき)/の\先(さき)/を\つい-通(とほ)り/て、\泉殿(いづみ-どの)/の\縁(えん)/の\際(きは)/を\西/を\指(さ)し/て/ぞ\出(い)で/ける。\此処(ここ)/に\黄■毛(きつきげ)/なる\馬(うま)/に\乗(の)り/たる\者(もの)、\馬(うま)/に\息(いき)-つが/せ/て、\弓杖(ゆんづゑ)/に\すがり/て\控(ひか)へ/たり。\喜三太(きさんだ)\走(はし)り-寄(よ)つ/て、\「此処(ここ)/に\控(ひか)へ/たる/は\誰(た)/そ」/と\問(と)ひ/けれ/ば、\「土佐(とさ)/が\嫡子(ちやくし)、\土佐(とさ/の)-太郎\生年(しやうねん)\十九」/と\名乗(なの)つ/て\歩(あゆ)ませ-向(むか)ふ。\「是(これ)/こそ\喜三太(きさんだ)/よ」/とて、\づ/と\寄(よ)る。\叶(かな)は/じ/と/や\思(おも)ひ/けん、\馬(うま)/の\鼻(はな)/を\返(かへ)し/て\落(お)ち/ける/を、\余(あま)す/まじ/とて\追(お)つ-掛(か)け/たり。\早打(はやうち)/の\長馳(ながはせ)=し/たる\馬(うま)/の、\終夜(よ/も-すがら)\軍(いくさ)/に/は\責(せ)め/たり/けり。\揉(も)め/共(ども)\揉(も)め/共(ども)\一所/にて\躍(をど)る\様(やう)/なり。\大長刀(おほなぎなた)/を\以(もつ)て\開(ひら)い/て\ちやうど\斬(き)り、\左右(さう)/の\烏頭(からすがしら)\づ/と\斬(き)る。\馬(うま)\倒(さかさ)ま/に\転(まろ)び/けれ/ば、\主(ぬし)/は\馬(うま)/より\下(した)/に/ぞ\敷(し)か/れ/ける。\取(と)つ/て\押(おさ)へ/て、\鎧(よろひ)/の\上帯(うはおび)\解(と)き/て、\疵(きず)\一(ひと)つ/も\付(つ)け/ず、\搦(から)め/て\参(まゐ)り/けり。\下部(しもべ)/に\仰(おほ)せ-付(つ)け、\御馬屋(みまや)/の\柱(はしら)/に\立(た)ち/ながら、\結(ゆ)ひ-付(つ)け/させ/られ/ける。\弁慶(べんけい)\喜三太(きさんだ)/に\先(さき)/を\せ/られ/て、\安(やす)から/ず\思(おも)ひ/て、\走(はし)り-廻(まは)る\所(ところ)/に、\南(みなみ)/の\御門(もん)/に\節縄目(ふしなはめ)/の=鎧(よろひ)\著(き)/たる\者(もの)\一騎(き)\控(ひか)へ/たり。\弁慶(べんけい)\走(はし)り-寄(よ)つ/て、\「誰(た)/そ」/と\問(と)ふ。\「土佐/が\従兄弟(いとこ)、\伊北(いほう/の)-五郎-盛直(もりなほ)」/と/ぞ\申(まう)し/ける。\「是(これ)/こそ\弁慶(べんけい)/よ」/とて、\づ/と\寄(よ)る。\叶(かな)は/じ/と/や\思(おも)ひ/けん、\鞭(むち)/を\当(あ)て/て
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/ぞ\落ち/ける。\「穢(きたな)し、\余(あま)す/まじ」/とて\追(お)つ-掛(か)け/て、\大鉞(まさかり)/を\以(もつ)て\開(ひら)い/て\むず/と\打(う)つ。\馬(うま)/の\三頭(さんず)/に\猪(ゐ)/の-目(め)/の\隠(かく)るる\程(ほど)\打(う)ち-貫(つらぬ)き、\えい/と\言(い)う/て/ぞ\引(ひ)き/たり/ける。\馬(うま)\こらへ/ず/して\どう/ど\伏(ふ)す。\主/を\取(と)つ/て\押(おさ)へ/て、\上帯(うはおび)/にて\搦(から)め/て\参(まゐ)り/ける。\土佐(とさ/の)-太郎/と\一所/に\繋(つな)ぎ-置(お)く。\昌俊(しやうしゆん)/は\味方(みかた)/の\討(う)た/れ、\或(ある)い/は\落(お)ち-行(ゆ)く/を\見(み)/て、\我(われ)/は\太郎、\五郎/を\捕(と)ら/れ/て、\生(い)き/て\何(なに)/か\せ/ん/と/や\思(おも)ひ/けん、\其(そ)/の\勢(せい)\十七騎(き)/にて\思(おも)ひ-切(き)つ/て\戦(たたか)ひ/ける/が、\叶(かな)は/じ/と/や\思(おも)ひ/けん、\徒武者(かちむしや)\駆(か)け-散(ち)らし/て、\六条河原(ろくでうかはら)/まで\打(う)つ/て\出(い)で、\十七騎(き)/が\十騎(き)/は\落(お)ち/て、\七騎(き)/に\なる。\賀茂河(かもがは)/を\上(のぼ)り/に\鞍馬(くらま)/を\指(さ)し/て\落(お)ち-行(ゆ)く。\別当(べつたう)/は\判官(はうぐわん)-殿(どの)/の\御師匠(ご-ししやう)、\衆徒(しゆと)/は\契(ちぎり)\深(ふか)く\おはし/けれ/ば、\後(のち)/は\知ら/ず、\判官(はうぐわん)/の\思召(おぼしめ)す\所(ところ)/も\あれ/とて、\鞍馬(くらま)\百坊(ひやくばう)\起(お)こつ/て、\追手(おひて)/と\一(ひと)つ/に\なり/て\尋(たづ)ね/けり。\判官(はうぐわん)\「無下(むげ)/なる\者-共(ども)/かな。\土佐(とさ)-奴(め)\程(ほど)/の\者(もの)/を\逃(にが)し/ける\無念(むねん)-さ/よ。\しやつ\逃(にが)す/な」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\堀河(ほりかは)-殿(どの)/を/ば\在京(ざいきやう)/の\者-共(ども)/に\預(あづ)け/て\判官(はうぐわん)/の\侍(さぶらひ)\一人/も\残(のこ)ら/ず\追(お)つ-掛(か)け/ける。\土佐/は\鞍馬(くらま)/を/も\追(お)ひ-出(い)ださ/れ/て、\僧正(そうじやう)/が-谷/に/ぞ\篭(こも)り/ける。\大勢\続(つづ)い/て\攻(せ)め/けれ/ば、\鎧(よろひ)/を/ば\貴船(きぶね)/の-大明神(だいみやうじん)/に\脱(ぬ)ぎ/て\参(まゐ)らせ、\或(あ)る\大木/の\空洞(うつろ)/に/ぞ\逃(に)げ-入(い)り/ける。\弁慶(べんけい)\片岡(かたをか)/は\土佐(とさ)/を\失(うしな)ひ/て、\「何(なに)/とも\あれ、\是(これ)/を\逃(にが)し/て/は\良(よ)き\仰(おほ)せ/は\ある/まじ」/とて、\此処(ここ)、=彼処(かしこ)\尋(たづ)ね-歩(あり)く\程(ほど)/に、\喜三太(きさんだ)\向(むか)ひ/なる\伏木(ふしき)/に\上(のぼ)り/て\立(た)ち/たり。\「鷲尾(わしのを)-殿(どの)/の\立(た)ち\給(たま)へ/る\後(うし)ろ/の\木(き)/の\空洞(うつろ)/に、\物(もの)/の\働(はたら)く\様(やう)/なる\事(こと)/こそ\怪(あや)しけれ」
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/と\申(まう)せ/ば、\太刀(たち)\打(う)ち-振(ふ)り/て\づ/と\寄(よ)り/て\見(み)れ/ば、\土佐(とさ)\叶(かな)は/じ/と/や\思(おも)ひ/けん、\木(き)/の\空洞(うつろ)/より\づ/と\出(い)で/て、\真下(まくだ)り/に\下(くだ)る。\弁慶(べんけい)\喜(よろこ)び/て、\大手(おほて)/を\拡(ひろ)げ/て、\「憎(にく)い\奴(やつ)/が\何処(いづく)/まで」/とて\追(お)つ-掛(か)く。\聞(き)こゆる\足早(あしばや)/なり/けれ/ば、\弁慶(べんけい)/より\三段(だん)/ばかり\先立(さきだ)つ。\遥(はる)か/なる\谷(たに)/の\底(そこ)/にて、\片岡(かたをか)\「此処(ここ)/に\待(ま)つ/ぞ。\只(ただ)\遺(お)こせよ」/と/ぞ\申(まう)し/ける。\此(こ)/の\声(こゑ)/を\聞(き)き/て、\叶(かな)は/じ/と/や\思(おも)ひ/けん、\岨(そば)/を\かい-廻(まわ)り/て\上(のぼ)り/ける/を、\忠信(ただのぶ)/が\大雁股(おほかりまた)/を\差(さ)し-矧(は)げ/て、\余(あま)す/まじ/とて、\下(くだ)り矢先(やさき)/に\小引(こびき)/に\引(ひ)き/て\差(さ)し-当(あ)て/たる。\土佐/は\腹(はら)/を/も\切(き)ら/で、\武蔵坊(むさし-ばう)/に\のさのさ/と\捕(と)ら/れ/ける。\さて\鞍馬(くらま)/へ\具(ぐ)し/て\行(ゆ)き、\東光坊(とうくわう-ばう)/より\大衆(だいしゆ)\五十人\付(つ)け/て/ぞ\送(おく)ら/れ/ける。\「土佐(とさ)\具(ぐ)し/て\参(まゐ)り/て\候(さうら)ふ」/と\申(まう)し/けれ/ば、\大庭(おほには)/に\据(す)ゑ/させ、\縁(えん)/に\出(い)で/させ\給(たま)ひ/て、\「如何(いか)/に\昌俊(しやうしゆん)、\起請(きしやう)/は\書(か)く/より/して\験(しるし)\ある\もの/を、\何(なに)\し/に\書(か)き/たる/ぞ。\生(い)き/て\帰(かへ)り/たく/は\返(かへ)さ
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/んずる、\如何(いかが)」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\頭(かうべ)/を\地/に\付(つ)け/て、\「猩々(しやうじやう)/は\血(ち)/を\惜(を)しむ。\犀(さい)/は\角(つの)/を\惜(を)しむ。\日本/の\武士(ぶし)/は\名/を\惜(を)しむ」/と\申(まう)す\事(こと)/の\候(さうら)ふ。\生(い)き/て\帰(かへ)り/て\侍(さぶらひ)-共(ども)/に\面(おもて)/を\見(み)え/て\何/に/か\し\候(さうら)ふ/べき。\只(ただ)\御恩(ご-おん)/に/は\疾(と)く疾(と)く\首(くび)/を\召(め)さ/れ\候(さうら)へ」/と/ぞ\申(まう)し/ける。\判官(はうぐわん)\聞召(きこしめ)し/て、\「土佐/は\剛(かう)の-者(もの)/にて\有(あ)り/ける/や。\さて/こそ\鎌倉(かまくら)-殿(どの)/の\頼(たの)み\給(たま)ふ/らめ。\大事(だいじ)/の\召人(めしうと)/を\切(き)る/べき/やらん、\斬(き)る/まじき/やらん、\それ\武蔵(むさし)\計(はか)らへ」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\「大力(だいぢから)/を\獄屋(ごくや)/に\篭(こ)め/て、\獄屋(ごくや)\踏(ふ)み-破(やぶ)ら/れ/て\詮(せん)-なし。\やがて\斬(き)れ」/とて、\喜三太(きさんだ)/に\尻綱(しんづな)\取(と)らせ/て、\六条河原(ろくでうかはら)/に\引(ひ)き-出(い)だし、\駿河-次郎(じらう)/が\斬手(きりて)/にて\斬(き)ら/せ/けり。\相模(さがみ/の)-八郎、\同=太郎/は\十九、\伊北(いほう/の)-五郎/は\三十三/にて\斬(き)ら/れ/けり。\討(う)ち-漏(も)らさ/れ/たる\者(もの)-共(ども)、\下(くだ)り/て\鎌倉(かまくら)-殿(どの)/に\参(まゐ)り/て、\「土佐(とさ)/は\仕(し)-損(そん)じ/て、\判官(はうぐわん)-殿(どの)/に\斬(き)ら/れ\参(まゐ)らせ\候(さうら)ひ/ぬ」/と\申(まう)せ/ば、\「頼朝(よりとも)/が\代官(だいくわん)/に\参(まゐ)らせ/たる\者(もの)/を、\押(おさ)へ/て\斬(き)る\事(こと)/こそ\遺恨(いこん)/なれ」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\侍(さぶらひ)-共(ども)\「斬(き)り\給(たま)ふ/こそ\理(ことわり)/よ、\現在(げんざい)/の\討手(うつて)/なれ/ば」/と/ぞ\申(まう)し/ける。\
義経(よしつね)\都落(みやこおち)/の\事(こと) S0405
\と/に/も=かく/に/も\討手(うつて)/を\上(のぼ)せよ/とて、\北条(ほうでう/の)-四郎-時政(ときまさ)\大将(たいしやう)/にて\都(みやこ)/へ\上(のぼ)る。\畠山(はたけやま)/は
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\辞退(じたい)\申(まう)し/たり/けれ/共(ども)、\重(かさ)ね/て\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\武蔵(むさし)−七党(しちたう)\相(あひ)-具(ぐ)し/て、\尾張国(をはり/の-くに)\熱田(あつた/の)-宮/に\馳(は)せ-向(むか)ふ。\後陣(ごぢん)/は\山田(やまだ/の)-四郎-朝政(ともまさ)、\一千-余騎(よ-き)/にて\関東(くわんとう)/を\門出(かどいで)=する/と\聞(き)こえ/けり。\十一月-一日\大夫-判官(はうぐわん)、\三位/を\以(もつ)て\院(ゐん)/へ\奏聞(そうもん)=せ/られ/ける/は、\「義経(よしつね)\命/を\捨(す)て/て\朝敵(てうてき)/を\平(たひら)げ\候(さうら)ひ/し/は、\先祖(せんぞ)/の\恥(はぢ)/を\清(きよ)め/んずる\事(こと)/にて/は\候(さうら)へ/ども、\逆鱗(げきりん)/を\止(や)め\奉(たてまつ)ら/んが\為(ため)/なり。\然(しか)れ/ば\朝恩(てうおん)/と/して\別賞(べつしやう)/を/も\行(おこな)は/る/べき\所(ところ)/に、\鎌倉(かまくら)/の=源(げん)-二位(にゐ)、\義経(よしつね)/に\野心(やしん)/を\存(ぞん)する/に\依(よ)つ/て、\追討(ついたう)/の\為(ため)/に\官軍(くわんぐん)/を\放(はな)ち-遣(つか)はす\由(よし)\承(うけたまは)り\候(さうら)ふ。\所詮(しよせん)\逢坂関(あふさか/の-せき)/より\西(にし)/を\賜(たま)はる/べき\由(よし)/を/こそ\存(ぞん)じ\候(さうら)へ/ども、\四国\九国(くこく)/ばかり/を\賜(たま)はつ/て\罷(まか)り-下(くだ)り\候(さうら)は/ばや」/と/ぞ\申(まう)さ/れ/ける。\是(これ)/に=依(よ)つ/て\理(ことわり)/なる\朝旨(てうし)/なる/べき\間(あひだ)、\公卿(くぎやう)-僉議(せんぎ)\有(あ)り。\各々(おのおの)\申(まう)さ/れ/ける/は、\「義経(よしつね)/が\申(まう)す\処/も\不便(ふびん)/なれ/ども、\是(これ)/に\宣旨(せんじ)/を\下(くだ)さ/れ/ば、\源(げん)-二位(にゐ)/の\憤(いきどほり)\深(ふか)かる/べし。\又(また)\宣旨(せんじ)/を\下さ/れ/ず/は、\木曾(きそ)/が\都(みやこ)/にて\振舞(ふるまひ)/し/如(ごと)く、\義経(よしつね)/が\振舞(ふるま)は/ば、\世/は\世/にて/も\候(さうら)ふ/べから/ず。\所詮(しよせん)/とて/も\源(げん)-二位(にゐ)\討手(うつて)/を\上(のぼ)せ\候(さうら)ふ/なる\上(うへ)/は、\義経(ぎけい)/に\宣旨(せんじ)/を\賜(た)び-下(くだ)し/て、\近国(きんごく)/の\源氏(げんじ)-共(ども)/に\仰(おほ)せ-付(つ)け/て、\大物(だいもつ)/にて\討(う)た/せ/らる/べく\候(さうら)ふ/や」/と\各々(おのおの)\申(まう)さ/れ/けれ/ば、\宣旨(せんじ)/を\下さ/れ/けり。\斯(か)かり/けれ/ば、\判官(はうぐわん)/は\西国(さいこく)/へ\下(くだ)ら/ん/とて\出(い)で-立(た)ち\給(たま)ふ。\折節(をりふし)\西国(さいこく)/の\兵(つはもの)-共(ども)、\其(そ)/の\数\多(おほ)く\上(のぼ)り/たり/ける\中/に/も、\緒方(をかた/の)-三郎-維義(これよし)/が\上(のぼ)り/ける/を\召(め)し/て\「九国(くこく)/を
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\賜(たま)はり/て\下(くだ)る/ぞ、\汝(なんぢ)\頼(たの)ま/れ/て/や」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\維義(これよし)\申(まう)し/ける/は、\「菊池(きくち/の)-次郎(じらう)/が\折節(をりふし)\上洛(しやうらく)\仕(つかまつ)り/て\候(さうら)ふ/なれ/ば、\定(さだ)め/て\召(め)さ/れ\候(さうら)は/んず/らん。\菊池(きくち)/を\誅(ちゆう)せ/られ/ば、\仰(おほ)せ/に\従(したが)ひ\候(さうら)ふ/べき\由(よし)\申(まう)す。\判官(はうぐわん)/は\弁慶(べんけい)、\伊勢(いせ/の)-三郎/を\召(め)し/て、\「菊池(きくち)/と\緒方(をかた)/と\何(いづ)れ/にて\ある/らん」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\「とりどり/に/こそ\候(さうら)へ/ども、\菊池(きくち)/こそ\猶(なほ)/も\頼(たの)もしき\者(もの)/にて\候(さうら)へ。\但(ただ)し\猛勢(まうぜい)/なる\事(こと)/は、\緒方(をかた)\勝(まさ)り/て\候(さうら)ふ/らん」/と\申(まう)し/けれ/ば、\「菊池(きくち)\頼(たの)ま/れよ」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\菊池(きくち/の)-次郎(じらう)\申(まう)し/ける/は、\「尤(もつと)も\仰(おほ)せ/に\従(したが)ひ\参(まゐ)らせ/たく\候(さうら)へ/ども、\子/にて\候(さうら)ふ\もの/を\関東(くわんとう)/へ\参(まゐ)らせ/て\候(さうら)ふ\間(あひだ)、\父子(ふし)\両方(りやうばう)/へ\参(まゐ)り\候(さうら)は/ん\事(こと)\如何(いかが)\候(さうら)ふ/べき/や」/と\申(まう)し/たり/けれ/ば、\「さら/ば\討(う)て」/とて、\武蔵坊(むさし-ばう)、\伊勢(いせ/の)-三郎/を\大将軍(だいしやうぐん)/にて、\菊池(きくち)/が\宿(やど)/へ\向(む)け/られ/ける。\菊池(きくち)\矢種(やだね)\ある\程(ほど)\射(い)-尽(つ)くし/て、\家/に\火/を\かけ/て\自害(じがい)=し/てんげり。\さて/こそ\緒方(をかた)-三郎\参(まゐ)り/けり。\判官(はうぐわん)/は\叔父(をぢ)\備前守(びぜん/の-かみ)/を\伴(ともな)ひ/て、\十一月-三日/に\都(みやこ)/を\出(い)で\給(たま)ふ。\「義経(よしつね)/が\国入/の\初(はじ)め/なれ/ば、\引(ひ)き-繕(つくろ)へ」/とて、\尋常(じんじやう)/に/ぞ\出(い)で-立(た)た/れ/ける。\其(そ)/の-頃(ころ)\世(よ)/に\もてなし/ける\磯(いそ)/の-禅師(ぜんじ)/が\娘(むすめ)、\静(しずか)/と\言(い)ふ\白拍子(しらびやうし)/を\狩装束(かりしやうぞく)=せ/させ/て/ぞ\召(め)し-具せ/られ/ける。\我(わ)/が-身/は\赤地(あかぢ)/の=錦(にしき)/の=直垂(ひたたれ)/に\小具足(こぐそく)/ばかり/にて、\黒(くろ)き\馬(うま)/の\太(ふと)く\逞(たくま)しき/が、\尾髪(をかみ)\飽(あ)く/まで\足(た)らひ/たる/に、\白覆輪(しろぶくりん)/の\鞍(くら)\置(お)い/て/ぞ\乗(の)り\給(たま)ふ。\黒糸威(くろいとをどし)/の=鎧(よろひ)\著(き)/て、\黒(くろ)き\馬(うま)/に
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\白覆輪(しろぶくりん)/の\鞍(くら)\置(お)き/て\乗(の)り/たる\者\五十騎、\萌黄威(もよぎをどし)/の=鎧(よろひ)/に\鹿毛(かげ)/なる\馬(うま)/に\乗(の)り/たる\者\五十騎、\毛(け)つるべ/に\其(そ)/の\数(かず)\打(う)た/せ/て、\其(そ)/の-後/は\打込(うちご)み/に\百騎(ひやつ-き)、\二百騎(にひやつ-き)\打(う)ち/ける。\以上\其(そ)/の\勢(せい)\一万五千-余騎(よ-き)/なり。\西国(さいこく)/に\聞(き)こえ/たる\月丸(つきまる)/と\言(い)ふ\大船/に、\五百人/の\勢(せい)/を\取(と)り-乗(の)せ/て、\財宝(ざいほう)/を\積(つ)み、\二五疋(にじふご−ひき)の\馬(うま)-共(ども)\立(た)て/て、\四国路/を\志(こころざ)す。\船(ふね)/の\中、\波(なみ)/の\上(うへ)/の\住(すまひ)/こそ\悲(かな)しけれ。\伊勢(いせ)/を/の\海士(あま)/の\濡衣(ぬれころも)、\乾(ほ)す\隙(ひま)/も\無(な)き\便(たより)/かな。\入江(いりえ)\入江(いりえ)/の\葦(あし)/の=葉(は)/に、\繋(つな)ぎ-置(お)き/たる\藻苅舟(もかりぶね)、\荒磯(あらいそ)\かけ/て\漕(こ)ぐ\時(とき)/は、\渚々(なぎさなぎさ)/に\島千鳥(しまちどり)、\折知(をりし)り顔(がほ)/に/ぞ\聞(き)こえ/ける。\霞(かすみ)\隔(へだ)て/て\漕(こ)ぐ\時(とき)/は\沖(おき)/に\鴎(かもめ)/の\鳴(な)く\声(こゑ)/も\敵(てき)/の\鬨(とき)/か/と\思(おも)ひ/ける。\風(かぜ)/に\任(まか)せ、\潮(しほ)/に\従(したが)ひ/て\行(ゆ)く\程(ほど)/に、\伏(ふ)し-拝(おが)み\奉(たてまつ)れ/ば、\住吉(すみよし)、\右手(めて)/を\見(み)れ/ば、\西宮(にしのみや)\蘆屋(あしや)/の-浦(うら)、\生田(いくた)/の-森(もり)/を\外処(よそ)/に\なし、\和田(わだ)/の-岬(みさき)/を\漕(こ)ぎ-過(す)ぎ/て、\淡路(あはぢ)/の-瀬戸(せと)/も\近(ちか)く\なる。\絵島(えしま)/が-磯(いそ)/を\右手(めて)/に\なし/て\漕(こ)ぎ-行(ゆ)く\程(ほど)/に、\時雨(しぐれ)/の\隙(ひま)/より\見(み)\給(たま)へ/ば、\高(たか)き\山(やま)/の\かすか/に\見(み)え/けれ/ば、\船(ふね)/の\中/にて\是(これ)/を\見(み)/て、\「此(こ)/の\山(やま)/は\どの\国/の\何処(いづく)/の\山(やま)/ぞ」/と\申(まう)し/けれ/ば、\「そんぢやう、\其(そ)/の\国(くに)/の\山」/と\申(まう)せ/ども、\何処(いづく)/を\見(み)-分(わ)け/たる\人/も\なし。\武蔵坊(むさし-ばう)/は\船端(ふなばた)/を\枕(まくら)/に/して\臥(ふ)し/たり/ける/が、\がは/と\起(お)き/て、\せがい/の\平板(ひらいた)/に\つい-立(た)ち/て\申(まう)し/ける/は、\「遠(とほ)く/も\無(な)かり/ける\もの/を、\遠(とほ)き\様(やう)/に\見(み)-なし\給(たま)ひ/たり/ける。\播磨(はりま/の)-国(くに)\書写(しよしや)/の-岳(だけ)/の\見ゆる/や」/と/ぞ\申(まう)し/ける。\「山(やま)/は\書写(しよしや)/の-山(やま)/なれ/ども、\義経(よしつね)\心(こころ)/に\かかる\事(こと)\ある/は、\此(こ)/の\山(やま)/の\西/の\方(かた)/より、\黒雲(くろくも)
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/の\俄(には)か/に\禅定(ぜんぢやう)/へ\切(き)れ/て、\かかる\日/だに/も\西(にし)/へ\傾(かたむ)け/ば、\定(さだ)めて\大風/と\覚(おぼ)ゆる/ぞ。\自然(しぜん)/に\風(かぜ)\落(お)ち-来(き)たら/ば、\如何(いか)/なる\島蔭(しまかげ)\荒磯(あらいそ)/に/も\船(ふね)/を\馳(は)せ-上(あ)げ/て、\人/の\命/を\助(たす)けよ/や」/と/ぞ\仰(おほ)せ/られ/ける。\弁慶(べんけい)\申(まう)し/ける/は、\「此(こ)/の\雲(くも)/の\景気(けいき)/を\見(み)/て\候(さうら)ふ/に、\よも\風雲(かざぐも)/にて/は\候(さうら)は/じ。\君(きみ)/は\何時(いつ)/の\程(ほど)/に\思召(おぼしめ)し-忘(わす)れ\給(たま)ひ/て\候(さうら)ふ/ぞ。\平家(へいけ)/を\攻(せ)め/させ\給(たま)ひ/し\時(とき)、\平家(へいけ)/の\君達(きんだち)\多(おほ)く\波(なみ)/の\底(そこ)/に\屍(かばね)/を\沈(しず)め、\苔(こけ)/の\下(した)/に\骨(ほね)/を\埋(うづ)み\給(たま)ひ/し\時(とき)\仰(おほ)せ/られ\候(さうら)ひ/し\事(こと)/は、\今(いま)/の\様(やう)/に/こそ\候(さうら)へ。\「源氏(げんじ)/は\八幡(はちまん)/の\護(まぼ)り\給(たま)へ/ば、\事(こと)/に\重(かさ)ね/て\日/に\添(そ)へ、\安穏(あんをん)/なら/ん」/と\仰(おほ)せ/られ\候(さうら)ひ/し。\如何様(いかさま)/にて/も\候(さうら)へ、\是(これ)/は\君/の\御為(おん-ため)\悪風(あくふう)/と/こそ\覚(おぼ)え\候(さうら)へ。\あ/の\雲(くも)\砕(くだ)け/て\御船(ふね)/に\かから/ば、\君(きみ)/も\渡(わた)ら/せ\給(たま)ふ/まじ、\我(われ)-等(ら)/も\二度(ふたたび)\故郷(こきやう)/へ\帰(かへ)ら/ん\事(こと)\不定(ふぢやう)/なり」/と/ぞ\申(まう)し/ける。\判官(はうぐわん)\是(これ)/を\聞召(きこしめ)し/て、\「何(なに)/か\さる=事(こと)\有(あ)ら/ん」/と/ぞ\仰(おほ)せ/られ/ける。\弁慶(べんけい)\申(まう)し/ける/は、\「君(きみ)/は\度々(たびたび)\弁慶(べんけい)/が\申(まう)す\事(こと)/を\御用(ご-もち)ゐ\候(さうら)は/で/こそ、\御後悔(こうくわい)/は\候(さうら)へ。\さ\候(さうら)は/ば、\見参(げんざん)/に\入(い)り\候(さうら)は/ん」/とて、\揉烏帽子(もみえぼし)\引(ひ)つ-こう/で\太刀(たち)\長刀(なぎなた)/は\持(も)た/ざり/けり。\白箆(しらの)/に\鵠(くぐゐ)/の\羽(は)/にて\矧(は)ぎ/たる\矢(や)/に\白木(しらき)/の=弓(ゆみ)\取(と)り-添(そ)へ、\舳(へさき)/に\つつ-立(た)ち/て、\人/に\向(むか)ひ/て\物/を\言(い)ふ\様(やう)/に、\掻(か)き-口説(くど)き/て\申(まう)す\様(やう)、\「天神(てんじん)\七代\地神(ぢじん)\五代(だい)/は\神/の\御代(よ)、\神武天皇(じんむてんわう)/より\四十一代(だい)/の\帝(みかど)\以来、\保元(ほうげん)、\平治(へいぢ)/とて\両度(りやうど)/の\合戦/に\如(し)か/ず。\是(これ)-等(ら)\両度(りやうど)/に/も\鎮西(ちんぜいの)-八郎-御曹司(おんざうし)/こそ\五人張(ばり)/に\十五束(そく)/を\射(い)\給(たま)ひ、\名/を\揚(あ)げ\給(たま)ひ/し。\それ/より\後(のち)/は\絶(た)え/て\久(ひさ)しく\なり/たり。\さて/は
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\源氏(げんじ)/の\郎等(らうどう)-等(ら)/の\中/に、\弁慶(べんけい)/こそ\形(かた)/の/如(ごと)く/も、\弓矢(ゆみや)\取(と)つ/て\人数/に\言(い)は/れ/たれ。\風雲(かざぐも)/の\方(かた)/へ\支(ささ)へ/て\射(い)/んずる\程(ほど)/に、\風雲(かざぐも)/なら/ば\射(い)る/とも\消(き)え-失(う)せ/じ。\天/の\待(ま)つ/如(ごと)く/にて\ある\間(あひだ)、\平家(へいけ)/の\死霊(しりやう)/なら/ば\よも\たまら/じ。\それ/に\験(しるし)\無(な)く/は、\神(かみ)/を\崇(あが)め\奉(たてまつ)り、\仏(ほとけ)/を\尊(たつと)み\参(まゐ)らせ/て、\祈(いの)り\祭(まつり)/も\よも\有(あ)ら/じ。\源氏(げんじ)/の\郎等(らうどう)/ながら、\俗姓(ぞくしやう)\正(ただ)しき\侍(さぶらひ)/ぞ/かし。\天津児屋根(あまつこやね)/の\御苗裔(ご-べうえい)、\熊野(くまの)/の=別当(べつたう)=弁(べん)せう/が\子、\西塔(さいたふ)/の=武蔵坊(むさし-ばう)-弁慶(べんけい)」/と\名告(なの)つ/て、\矢継早(やつぎばや)/に\散々(さんざん)/に\射(い)/たり/けれ/ば、\冬(ふゆ)/の\空(そら)/の\夕日(ゆふひ)-明(あか)り/の\事(こと)/なれ/ば、\潮(うしほ)/も\輝(かかや)き/て、\中差(なかざし)\何処(いづく)/に\落(お)ち-著(つ)く/と/は\見(み)え/ね/ども、\死霊(しりやう)/なり/けれ/ば、\掻(か)き-消(け)す\様/に\失(う)せ/に/けり。\船(ふね)/の\中/に/は\是(これ)/を\見(み)/て、\「あら\恐(おそ)ろし/や\武蔵坊(むさし-ばう)/だに\無(な)かり/せ/ば、\大事(だいじ)\出(い)で-来/て/まし」/と/ぞ\申(まう)し-合(あ)ひ/ける。\「押(お)せ/や、\者(もの)-共(ども)」/とて\漕(こ)ぐ\程(ほど)/に、\淡路(あはぢ/の)-国(くに)\水島(みづしま)/の\東(ひがし)/を\幽(かすか)/に\見(み)/て\行(ゆ)く\程(ほど)/に、\先(さき)/の\山(やま)/の\北(きた)/の\腰(こし)/に、\又(また)\黒雲(くろくも)/の\車輪(しやりん)/の\様(やう)/なる/が\出(い)で-来(き)たる。\判官(はうぐわん)\「あれ/は\如何(いか)/に」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\弁慶(べんけい)\「是(これ)/こそ\風雲(かざぐも)/よ」/と\申(まう)し/も\果(は)て/ね/ば、\大風\落(お)ち-来(き)たる。\頃(ころ)/は\十一月\上旬(じやうじゆん)/の\事(こと)/なれ/ば、\霰(あられ)\交(まじ)り/て\降(ふ)り/けれ/ば、\東西/の\磯(いそ)/も\見(み)え-分(わ)か/ず。\麓(ふもと)/に/は、\風(かぜ)\烈(はげ)しく、\摂津国(つ/の-くに)\武庫山颪(むこやまおろし)、\日/の\暮(く)るる/に\随(したが)ひ/て、\いとど\烈(はげ)しく\なり/に/けり。\判官(はうぐわん)\■取(かんどり)\水手(すいしゆ)/に\仰(おほ)せ/られ/ける/は、\「風/の\強(つよ)き/に\帆(ほ)/を\気長(きなが)/に\引(ひ)けよ」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\帆(ほ)/を\下(おろ)さ/ん/と\すれ/共(ども)、\雨(あめ)/に\濡(ぬ)れ/て\蝉本(せみもと)
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\つまり/て\下(さが)ら/ず。\弁慶(べんけい)\片岡(かたをか)/に\申(まう)し/ける/は、\「西国(さいこく)/の\合戦(かつせん)/の\時\度々(たびたび)\大風(おほかぜ)/に\会(あ)ひ/し/ぞ/かし。\綱手(つなで)/を\下(さ)げ/て\引(ひ)か/せよ。\苫(とま)/を\捲(ま)き/て\付(つ)けよ」/と\下知(げち)=し/けれ/ば、\綱(つな)/を\下(さ)げ、\苫(とま)/を\付(つ)け/けれ/ども、\少(すこ)し/も\効(しるし)\なし。\河尻(かはしり)/を\出(い)で/し\時、\西国船(さいこくぶね)/の\石(いし)\多(おほ)く\取(と)り-入(い)れ/たり/けれ/ば、\葛(かづら)/を\以(もつ)て\中(なか)/を\結(ゆ)ひ、\投(な)げ-入(い)れ/たり/けれ/ども、\綱(つな)/も\石(いし)/も\底(そこ)/へ/は\沈(しづ)み-兼(か)ね/て、\上/に\引(ひ)か/れ/て\行(ゆ)く\程(ほど)/の\大風(おほかぜ)/にて/ぞ\有(あ)り/ける。\船腹(ふなばら)/を\叩(たた)く\波/の\音(おと)/に\驚(おどろ)き、\馬(うま)-共(ども)/の\叫(さけ)ぶ/こそ\夥(おびたた)しき。\今朝(けさ)/まで/は\さり/とも/と\思(おも)ひ/ける\人、\船底(ふなそこ)/に\ひれ-伏(ふ)し/て、\黄水(わうずゐ)/を\嘔(つ)く/こそ\悲(かな)しけれ。\是(これ)/を\御覧(ごらん)じ/て、\「只(ただ)\帆(ほ)/の\中/を\破(やぶ)つ/て、\風/を\通(とほ)せ」/とて、\薙鎌(ないかま)/を\以(もつ)て\帆(ほ)/の\中/を\散々(さんざん)/に\破(やぶ)つ/て\風(かぜ)/を\通(とほ)せ/ども、\舳(へさき)/に/は\白波(しらなみ)\立(た)て/て、\千(せん)/の\鉾(ほこ)/を\突(つ)く/が/如(ごと)し。\さる=程(ほど)/に\日/も\暮(く)れ/ぬ。\先(さき)/に/も\船(ふね)/が\行(ゆ)か/ね/ば、\篝火(かがりび)/も\焚(た)か/ず。\後(あと)/に/も\船\続(つづ)か/ね/ば、\海士(あま)/の\焚(た)く\火/も
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\見(み)え/ざり/けり。\空(そら)/さへ\曇(くも)り/たれ/ば、\四三/の\星(ほし)/も\見(み)え/ず。\只(ただ)\長夜(ぢやうや)/の\闇(やみ)/に\迷(まよ)ひ/ける。\せめて\我(わ)/が-身\一人(ひとり)/の\御身(おん-み)/なら/ば、\如何(いかが)\せ/ん。\都(みやこ)/に\おはしまし/ける\時、\人(ひと)-知(し)れ/ず\情(なさけ)=深(ふか)き\人/にて\おはしまし/しか/ば、\忍(しの)び/て\通(かよ)ひ\給(たま)ひ/ける\女房(にようばう)\廿四人/と/ぞ\聞(き)こえ/し。\其(そ)/の\中(なか)/に/も\御志(おん-こころざし)\深(ふか)かり/し/は、\平(へい)-大納言(だいなごん)/の\御娘(おん-むすめ)、\大臣殿(おほい-どの)/の\姫君(ひめぎみ)、\唐橋(からはし)/の-大納言(だいなごん)、\鳥養(とりかひ)/の-中納言(ちゆうなごん)/の\御娘(おん-むすめ)、\此(こ)/の\人々(ひとびと)/は\皆(みな)\流石(さすが)/に\優(いう)/なる\御事(おん-こと)/にて/ぞ\おはし/ける。\其(そ)/の=外(ほか)\静(しづか)/など/を\始(はじ)め/と/して、\白拍子(しらびやうし)\五人、\惣(そう)じ/て\十一人、\一(ひと)つ船(ふね)/に\乗(の)り\給(たま)へ/る。\都(みやこ)/にて/は\皆(みな)\心々(こころごころ)/に\おはし/けれ/共(ども)、\一所(いつしよ)/に\差(さ)し-集(つど)ひ、\中々(なかなか)\都(みやこ)/にて、\と/に/も=かく/に/も\なる/べかり/し\もの/を/と\悲(かな)しみ\給(たま)ひ/けり。\判官(はうぐわん)\心(こころ)-許(もと)-な-さ/に\立(た)ち-出(い)で\給(たま)ひ/て、\「今宵(こよひ)/は\何時(なんとき)/に/か\なり/ぬ/らん」/と\宣(のたま)へ/ば、\「子(ね)/の-時(とき)/の\終(をはり)/に/は\なり/ぬ/らん」/と\申(まう)せ/ば、\「あはれ\疾(と)く/して\夜/の\明(あ)けよ/かし。\雲/を\一目(ひとめ)\見(み)/て\と/に/も=かく/に/も\なら/ん」/など/と\仰(おほ)せ/られ/ける。\「抑(そもそも)\侍(さぶらひ)/の\中/に/も\下部(しもべ)/の\中(なか)/に/も、\器量/の\者(もの)/や\ある。\あ/の\帆柱(ほばしら)/に\上(のぼ)り/て、\薙鎌(ないかま)/にて\蝉(せみ)/の\綱(つな)/を\切(き)れ」/と/ぞ\仰(おほ)せ/られ/ける。\弁慶(べんけい)、\「人/は\運(うん)/の\極(きはめ)/に\なり/ぬれ/ば、\日来(ひごろ)\おはせ/ぬ\心/の\著(つ)か/せ\給(たま)へ/る」/と\呟(つぶや)き/ける。\判官(はうぐわん)、\「それ/は\必(かな)らず\御辺(ごへん)/を\上(のぼ)れ/と\言(い)は/ば/こそ。\御辺(ごへん)/は\比叡(ひえ)/の\山育(やまそだち)/の\者(もの)/にて\叶(かな)ふ/まじ。\常陸坊(ひたち-ばう)/は\近江(あふみ)/の\湖(みづうみ)/にて、\小舟(こぶね)/など/に/こそ\調練(てうれん)=し/たり/とも、\大船/に/は\叶(かな)ふ/まじ。\伊勢(いせ/の)-三郎/は\上野(かうづけ)/の\者、\四郎兵衛(しらうびやうゑ)/は\奥州(あうしう)/の\者(もの)/なり。\片岡(かたをか)/こそ\常陸国(ひたち/の-くに)
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\鹿島(かしま)\行方(なめがた)/と\言(い)ふ\荒磯(あらいそ)/に\素生(そせい)=し/たる\者(もの)/なり。\志田(しだ/の)-三郎-先生(せんじやう)/の\浮島(うきしま)/に\有(あ)り/ける\時(とき)/も、\常(つね)/に\行(ゆ)き/て\遊(あそ)び/ける/に、\「源平(げんぺい)/の\乱(みだれ)\出(い)で-来\候(さうら)は/ば、\葦(あし)/の=葉(は)/を\舟(ふね)/に\し/たり/とも\異朝(いてう)/へ/も\渡(わた)り/なん」/と\嘆(たん)じ/ける。\片岡(かたをか)\上(のぼ)れ」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\承(うけたまは)つ/て、\やがて\御前/を\立(た)ち/て、\小袖(こそで)\直垂(ひたたれ)\脱(ぬ)ぎ、\手綱(たづな)\二筋(ふたすぢ)\撚(よ)り/て\胴(どう)/に\巻(ま)き、\髻(もとどり)\引(ひ)き-崩(くづ)し/て\押(お)し-入(い)れ、\烏帽子(えぼし)/に\額(ひたひ)\結(ゆ)ひ/て、\刀(やいば)/の\薙鎌(ないかま)\取(と)つ/て\手綱(たづな)/に\差(さ)し、\大勢(おほぜい)/の\中/を\掻(か)き-分(わ)け/て、\柱寄(はしらよ)せ/に\上(のぼ)り、\手(て)/を\掛(か)け/て\見(み)/けれ/ば、\大(だい)/の=男(をとこ)/の\合(あ)はせ/て\抱(いだ)く/に、\指(さ)し/も\合(あ)は/ぬ\程(ほど)/の\柱(はしら)/の\高-さ/は、\四五丈(しご-ぢやう)/も\ある/らん/と\思(おも)ふ\程(ほど)/なり。\武庫山(むこやま)/より\おろす\嵐(あらし)/に\詰(つ)め/られ/て、\雪(ゆき)/と\雨/と/に\濡(ぬ)れ/て\氷(こほ)り、\只(ただ)\銀箔(ぎんぱく)/を\伸(の)べ/たる/に/ぞ\似(に)/ける。\如何(いか)/に/も/して\登(のぼ)る/べき/とも\覚(おぼ)え/ず。\判官(はうぐわん)\是(これ)/を\見(み)\給(たま)ひ/て、\「あ、\し/たり\片岡(かたをか)」/と\力(ちから)/を\添(そ)へ/られ/て、\えい/と\声(こゑ)/を\出(い)だし\登(のぼ)り-上(あ)がれ/ば、\するり/と\落(お)ち=落(お)ち、\二三度\し/ける/が、\命(いのち)/を\棄(す)て/て\上(のぼ)り/ける。\二丈(に-ぢやう)/ばかり\上(のぼ)り-上(あ)がり/て\聞(き)き/けれ/ば、\物(もの)/の\音(おと)\船(ふね)/の\中(うち)/に\答(こた)へ/て、\地震(ぢしん)/の\様(やう)/に\なり/て\聞(き)こえ/けり。\あはや\何(なに)/やらん/と\聞(き)く\所(ところ)/に、\浜浦(はまうら)/より\立(た)ち/たる\風/の、\時雨(しぐれ)/に\つれ/て\来(き)たる。\「それ\聞(き)く/や\■取(かんどり)、\後(うし)ろ/より\風(かぜ)/の\来(く)る/ぞ。\波(なみ)/を\よく\見よ、\風(かぜ)/を\切(き)ら/せよ」/と\言(い)ひ/も\果(は)て/ざり/けれ/ば、\吹(ふ)き=もて=来(き)/て、\帆(ほ)/に\ひしひし/と\当(あ)つる/か/と\すれ/ば、\風(かぜ)/に\つき/て\ざざめかし\走(はし)り/ける/が、\何処(いづく)/と/は\知(し)ら/ず、\二所(ふたところ)/に\物(もの)/の\はたはた/と\なき/けれ/ば、\船(ふね)/の\中(うち)/に\同音(どうおん)/に\わつ/と/ぞ\喚(おめ)き/ける。\
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帆柱(ほばしら)/は\蝉(せみ)/の\本(もと)/より\二丈(に-ぢやう)/ばかり\置(お)き/て、\ふつ/と\折(を)れ/に/けり。\柱(はしら)\海(うみ)/に\入(い)り/けれ/ば、\船(ふね)/は\浮き、\先/に\づ/と\馳(は)せ-延(の)び/ける。\片岡(かたをか)\するり/と\下(お)り/て、\船(ふな)ばり/を\踏(ふ)まへ、\薙鎌(ないかま)/を\八/の\綱(つな)/に\引(ひ)つ-かけ/て、\かなぐり-落(お)ち/たり/けれ/ば、\折(を)れ/たる\柱(はしら)/を\風(かぜ)/に\吹(ふ)か/せ/て、\終夜(よ/も-すがら)\波(なみ)/に\揺(ゆ)ら/れ/ける。\さる=程(ほど)/に\暁(あかつき)/に/も\なり/けれ/ば、\宵(よひ)/の\風(かぜ)/は\鎮(しづ)まり/たる/に、\又(また)\風(かぜ)\吹(ふ)き-来(き)たる。\弁慶(べんけい)\「是(これ)/は\何処(いづく)/より\吹(ふ)き/たる\風(かぜ)/やらん」/と\言(い)へ/ば、\五十/ばかり/なる\■取(かんどり)\出(い)で/て、\「是(これ)/は\又(また)\昨日(きのふ)/の\風/よ」/と\申(まう)せ/ば、\片岡(かたをか)\申(まう)し/ける/は、\「あは男(をとこ)、\よく\見(み)/て\申(まう)せ。\昨日(きのふ)/は\北(きた)/の\風(かぜ)\吹(ふ)き-かはす。\風(かぜ)/なら/ば\巽(たつみ)/か\南(みなみ)/にて/ぞ\ある/らん。\風下/は\摂津国(つ/の-くに)/にて/や\ある/らん」/と\申(まう)せ/ば、\判官(はうぐわん)\仰(おほ)せ/られ/ける/は、\「御辺(ごへん)-達(たち)/は\案内(あんない)/を\知(し)ら/ぬ\者(もの)/なり。\彼等(かれ-ら)/は\案内者(あんないしや)/なれ/ば、\只(ただ)\帆(ほ)/を\引(ひ)き/て\吹(ふ)か/せよ」/とて、\弥帆(やほ)/の\柱(はしら)/を\立(た)て/て、\弥帆(やほ)/を\引(ひ)き/て\走(はし)らかす。\暁(あかつき)/に\なり/て、\知ら/ぬ\干潟(ひかた)/に\御船(ふね)/を\馳(は)せ-据(す)ゑ/たり。\「潮(しほ)/は\満(み)つる/か、\引(ひ)く/か」\「引(ひ)き\候(さうら)ふ」/と\申(まう)せ/ば、\「さら/ば\潮(しほ)/の\満(み)つる/を\待(ま)て」/とて、\船腹(ふなばら)\波(なみ)/に\叩(たた)か/せ/て、\夜/の\明(あ)くる/を\待(ま)ち\給(たま)へ/ば、\陸(くが)/の\方(かた)/に\大鐘(おほがね)/の\声(こゑ)/こそ\聞(き)こえ/けれ。\判官(はうぐわん)\「鐘(かね)/の\声(こゑ)/の\聞(き)こゆる/は、\渚(なぎさ)/の\近(ちか)き/と\覚(おぼ)ゆる/ぞ。\誰/か\ある。\船(ふね)/に\乗(の)り/て\行(ゆ)き/て\見よ」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\如何(いか)/なる\人/に/か\承(うけたまは)る/べき/と、\固唾(かたづ)/を\呑(の)む\所(ところ)/に、\「幾度(いくたび)/なり/とも、\器量(きりやう)/の\者(もの)/こそ\行(ゆ)か/んずれ。\片岡(かたをか)\行(ゆ)き/て\見よ」/と\仰(おほ)せ/られ/ける。\
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承(うけたまは)り/て\逆沢瀉(さかおもだか)/の=腹巻(はらまき)\著(き)/て、\太刀(たち)/ばかり\帯(は)い/て、\究竟(くつきやう)/の\船乗(ふなのり)/なり/けれ/ば、\端舟(はしふね)/に\乗(の)り、\相違(さうゐ)-無(な)く\磯(いそ)/に\押(お)し-著(つ)け/て\上(あ)がり/て\見(み)れ/ば、\海士(あま)/の\塩(しほ)\焼(や)く\苫屋(とまや)/の\軒(のき)/を\並(なら)べ/たり。\片岡(かたをか)\寄(よ)り/て\問(と)は/ばや/と\思(おも)ひ/けれ/ども、\我(わ)/が-身/は\心(こころ)\打(う)ち-解(と)け/ね/ば、\苫屋(とまや)/の\前(まへ)/を\打(う)ち-過(す)ぎ、\一町/ばかり\上(あ)がり/て\見れ/ば、\大き/なる\鳥居(とりゐ)\有(あ)り。\鳥居(とりゐ)/に\付(つ)き/て\行(ゆ)き/て\見れ/ば、\古(ふ)り/たる\神/を\斎(いは)ひ\参(まゐ)らせ/たる\所/なり。\片岡(かたをか)\近付(ちかづき)/て\拝(おが)み\奉(たてまつ)れば、\齢(よはひ)\八旬(じゆん)/に\長(た)け/たる\老人、\只(ただ)\一人\佇(たたず)み/に/けり。\「是(これ)/は\どの\国/の\何処(いづく)/の\所(ところ)/ぞ」/と\問ひ/けれ/ば、\「此処(ここ)/に\迷(まよ)ふ/は\常(つね)/の\事(こと)、\国/に\迷(まよ)ふ/こそ\怪(あや)しけれ。\さら/ぬ/だに\此(こ)/の\所(ところ)/は\二三日\騒動(さうどう)=する\事(こと)/の\有(あ)る/に、\判官(はうぐわん)/の、\昨日(きのふ)\是(これ)/を\出(い)で/て、\四国/へ/とて\下(くだ)り\給(たま)ひ/し/が、\夜/の\間(ま)/に\風\変(か)はり/たり。\此(こ)/の\浦(うら)/に/ぞ\著(つ)き\給(たま)ふ/らん/とて、\当国/の\住人(ぢゆうにん)\豊島(てしま)/の-蔵人、\上野-判官(はうぐわん)、\小溝(こみぞ/の)-太郎\承(うけたまは)り/て、\陸(くが)/に\五百疋(ひき)/の\名馬/に\鞍(くら)\皆具(かひぐ)\置(お)き/て、\磯(いそ)/に/は\三十艘(さう)/の\杉舟(すぎぶね)/に\掻楯(かひだて)/を\かき、\判官(はうぐわん)/を\待(ま)ち-懸(か)け/たる/ぞ。\若(も)し\其(そ)/の\方様(かたさま)/の\人/なら/ば、\急(いそ)ぎ\一先(ひとま)づ\落(お)ち/て\遁(のが)れ\給(たま)へ」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\片岡(かたをか)\さら/ぬ\体(てい)/にて\申(まう)し/ける/は、\「是(これ)/は\淡路国(あはぢ/の-くに)/の\者(もの)/にて\候(さうら)ふ/が、\一昨日(をととひ)/の\釣(つり)/に\罷(まか)り-出(い)で、\大風/に\放(はな)さ/れ/て、\只今(ただいま)\是(これ)/に\著(つ)き/て\候(さうら)ふ/なり。\有(あ)り/の=儘(まま)/に\知(し)らせ\給(たま)へ」/と\申(まう)し/けれ/ば、\古歌(こか)/を/ぞ\詠(えい)じ\給(たま)ひ/ける。\
漁火(いさりび)/の\昔(むかし)/の\光(ひかり)\仄(ほの)-見(み)え/て\蘆屋(あしや)/の-里(さと)/に\飛(と)ぶ\蛍(ほたる)/かな W004
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/と\詠(えい)じ/て\掻(か)き-消(け)す\様(やう)/に\失(う)せ/に/けり。\後(のち)/に\聞(き)き/けれ/ば、\住吉(すみよし)/の-明神(みやうじん)/を\斎(いは)ひ\奉(たてまつ)り/たる\所(ところ)/なり。\憐(あはれ)み/を\垂(た)れ\給(たま)ひ/ける/と/ぞ\覚(おぼ)え/ける。\片岡(かたをか)\やがて\帰(かへ)り\参(まゐ)り/て、\此(こ)/の\由(よし)\申(まう)し/けれ/ば、\「さて/は\船(ふね)/を\押(お)し-出(い)だせ」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ども、\潮(しほ)/は\干(ひ)/たり、\御船/を\出(い)だし-兼(か)ね/て、\心(こころ)/なら/ず\夜/を/ぞ\明(あ)かし/ける。\
住吉(すみよし)\大物(だいもつ)\二-ケ-所\合戦(かつせん)/の\事(こと) S0406
\「天(てん)/に\口(くち)\無(な)し、\人/を\以(もつ)て\言(い)は/せよ」/と、\大物浦(だいもつ/の-うら)/に/も\騒動(さうどう)=す。\宵(よひ)/に/は\見(み)え/ぬ\船(ふね)/の\夜/の\中(うち)/に\著(つ)き/て、\苫(とま)/を\取らせ/ず、\是(これ)/ぞ\怪(あや)しけれ。\何舟(なにぶね)/にて\ある、\引(ひ)き-寄(よ)せ/て\見(み)/ん/とて、\五百-余騎(よ-き)\三十艘(さう)/の\舟(ふね)/に\取(と)り-乗(の)り、\押(お)し-出(い)だす。\潮干(しほひ)/なれ/共(ども)\小船(せうせん)/なり、\足(あし)/は
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\浅(あさ)し、\究竟(くつきやう)/の\■取(かんどり)/は\乗(の)せ/たり、\思(おも)ふ\様(やう)/に\漕(こ)ぎ-かけ/て、\大船(だいせん)/を\中/に\取(と)り-篭(こ)め、\漏(も)らす/な/と/ぞ\罵(ののし)り/ける。\判官(はうぐわん)\御覧(ごらん)じ/て、\「敵(てき)/が\進(すす)め/ば/とて、\味方(みかた)/は\周章(あは)つ/な。\義経(よしつね)/が\船(ふね)/と\見(み)/ば\左右(さう)-無(な)く\よも\近(ちか)づか/じ。\狼藉(らうぜき)=せ/ば\武者(むしや)/に\目\な\かけ/そ。\柄(え)\長(なが)き\熊手(くまで)/を\拵(こしら)へ/て、\大将(たいしやう)/と\覚(おぼ)しから/ん\奴(やつ)/を\手捕(どり)/に\せよ」/と/ぞ\宣(のたま)ひ/ける。\武蔵坊(むさし-ばう)\申(まう)し/ける/は、\「仰(おほ)せ/は\さる=事(こと)/にて\候(さうら)へ/共(ども)、\船(ふね)/の\中(うち)/の\軍(いくさ)/は\大事(だいじ)/の\もの/にて\候(さうら)ふ。\今日/の\矢合(やあはせ)/は\余(よ)/の\人/は\望(のぞみ)\ある/べから/ず。\弁慶(べんけい)\仕(つかまつ)り\候(さうら)は/ん」/と\申(まう)し/けれ/ば、\片岡(かたをか)\是(これ)/を\聞(き)き/て、\「僧党(そうたう)/の\法(ほふ)/に/は、\無縁(むえん)/の\人/を\弔(とぶら)ひ、\結縁(けちえん)/の\者(もの)/を\導(みちび)く/こそ\法師(ほふし)/と/は\申(まう)せ。\軍(いくさ)/と/だに\言(い)へ/ば、\御辺(ごへん)/の\先立(さきだ)つ\事(こと)/は\如何(いかが)/ぞ。\退(の)き\給(たま)へ、\経春(つねはる)\矢(や)\一(ひと)つ\射(い)/ん」/と/ぞ\申(まう)し/ける。\弁慶(べんけい)\是(これ)/を\聞(き)き/て、\「御辺(ごへん)/より\外(ほか)/は、\此(こ)/の\殿(との)/の\御内(み-うち)/に\弓矢(ゆみや)\取(と)る\者(もの)/は\無(な)き/か」/と/ぞ\申(まう)し/ける。\佐藤(さとう)-四郎兵衛(しらうびやうゑ)\是(これ)/を\聞(き)き/て、\御前/に\畏(かしこ)まつ/て\申(まう)し/ける/は、\「かかる\事(こと)/こそ\御座(ご-ざ)-候(さうら)へ。\此(こ)/の\人-共(ども)/が\先駆(さきがけ)\論(ろん)ずる\間(ま)/に、\敵(てき)/は\近(ちか)づき/ぬ。\あはれ、\仰(おほ)せ/を\蒙(かうぶ)り/て、\忠信(ただのぶ)\先(さき)/を\仕(つかまつ)り\候(さうら)は/ばや」/と\申(まう)し/けれ/ば、\判官(はうぐわん)、\「いしう\申(まう)し/たる\者(もの)/かな。\望(のぞ)め/かし/と\思(おも)ひ/つる\所(ところ)/に」/とて、\やがて\忠信(ただのぶ)/に\先駆(さきがけ)/を\賜(たま)はつ/て、\三滋目結(みつしげめゆい)/の=直垂(ひたたれ)/に、\萌黄威(もよぎをどし)/の=鎧(よろひ)/に、\三枚兜(さんまいかぶと)/の\緒(を)/を\締(し)め、\怒物作(いかものづくり)/の=太刀(たち)\帯(は)き、\鷹護田鳥尾(たかうすべう)/の=矢(や)\廿四\指(さ)し/たる/を\頭高(かしらだか)/に\負(お)ひ-なし/て、\上矢(うはや)/に\大(だい)/の=鏑(かぶら)\二つ\指(さ)し/たり/ける、\節巻(ふしまき)/の=弓\持(も)ち/て、\舳(へさき)/に\打(う)ち-渡(わた)り/て\出(い)で-合(あ)ひ/たり。\
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豊島(てしま)/の-冠者(くわんじや)、\上野(かうづけ/の)-判官(はうぐわん)、\両(りやう)-大将軍(だいしやうぐん)/と/して、\掻楯(かいだて)\かい/たる\小船/に\取(と)り-乗(の)り/て、\矢比(やごろ)/に\漕(こ)ぎ-寄(よ)せ/て\申(まう)し/ける/は、\「抑(そもそも)\此(こ)/の\御船(ふね)/は\判官(はうぐわん)-殿(どの)/の\御船(ふね)/と\見(み)\参(まゐ)らせ/て\候(さうら)ふ。\かく\申(まう)す/は\豊島(てしま/の)-冠者(くわんじや)/と\上野(かうづけ/の)-判官(はうぐわん)/と\申(まう)す\もの/にて\候(さうら)ふ。\鎌倉(かまくら)-殿(どの)/の\御使(おん-つかひ)/と\申(まう)し、\此(こ)/の\所(ところ)/に\左右(さう)-無(な)く\落人(おちうと)/の\入(い)ら/せ\給(たま)ひ\候(さうら)ふ/を、\漏(も)らし\参(まゐ)らせ\候(さうら)は/ん\事、\弓矢(ゆみや)/の\恥辱(ちじよく)/にて\候(さうら)ふ/と\存(ぞん)ずる\間、\参(まゐ)り/て\候(さうら)ふ」/と\申(まう)し/けれ/ば、\「四郎兵衛(しらうびやうゑ)-忠信(ただのぶ)/と\申(まう)す\者(もの)/にて\候(さうら)ふ/ぞ」/と、\言(い)ひ/も\果(は)て/ず、\つい-立(た)ち-上(あ)がる。\豊島(てしま/の)-冠者(くわんじや)\言(い)ひ/ける/は、\「代官(だいくわん)/は\自身/に\同(おな)じ」/とて、\大(だい)/の=鏑(かぶら)/を\打(う)ち-はめ/て、\よく\引(ひ)き/て\ひやう/ど\射(い)る。\鏑(かぶら)/は\遠鳴(とほなり)=し/て\船端(ふなばた)/に\どう/ど\立(た)つ。\四郎兵衛(しらうびやうゑ)\是(これ)/を\見(み)/て、\「とき/の\つくり/と\日/の\敵(かたき)/は、\真中(まんなか)/を\ふつ/と\射(い)-ちぎり/たる/こそ\面白(おもしろ)けれ。\忠信(ただのぶ)\程(ほど)/の\源氏(げんじ)/の\郎等(らうどう)/を\戯笑(けしやう)=せ/らるる\武士(ぶし)/と/こそ\覚(おぼ)え/ね。\手並(てなみ)/を\見(み)\給(たま)へ」/とて\三人張(ばり)/に\十三束(そく)\三つがけ\取(と)つ/て\交(つが)ひ、\よく\引(ひ)き/て\ひやう/ど\射(い)る。\鏑(かぶら)/は\遠鳴(とほなり)=し/て、\大雁股(おほかりまた)/の\手先(てさき)、\内冑(うち-かぶと)/に\入(い)る/と/ぞ\見(み)え/し、\首(くび)/の\骨(ほね)/を\かけ/ず、\ふつ/と\射(い)-ちぎり/て、\雁股(かりまた)/は\鉢付(はちつけ)/に\立(た)つ。\首(くび)/は\兜(かぶと)/の\鉢(はち)/に\つれ/て、\海(うみ)/へ\たぶ/と/ぞ\入(い)り/に/ける。\上野(かうづけ/の)-判官(はうぐわん)\是(これ)/を\見(み)/て、\「さ\な\言(い)は/せ/そ」/とて、\押(お)し-違(ちが)へ/て、\箙(えびら)/の\中指(なかざし)\取(と)つ/て、\よつ-引(ぴ)い/て\ひやう/ど\射(い)る。\忠信(ただのぶ)/が\矢(や)\差(さ)し-矧(は)げ/て\立(た)ち/たる\弓手(ゆんで)/の\兜(かぶと)/の\鉢(はち)/を\射(い)-削(けづ)り/て、\鏑(かぶら)/は\海(うみ)/へ\入(い)る。\忠信(ただのぶ)\是(これ)/を\見(み)/て、\「地体(ぢたい)\此(こ)/の\国(くに)/の\住人(ぢゆうにん)/は\敵(てき)\射(い)る\様(やう)/を/ば\知(し)ら/ざり/ける。\奴(やつ)/に\手並(てなみ)/の\程(ほど)/を\見(み)せ/ん」
P184
/とて、\尖矢(とがりや)/を\差(さ)し-矧(は)げ/て、\小引(こび)き/に\引(ひ)き/て\待(ま)つ。\敵(てき)\一/の-矢(や)\射(い)-損(そん)じ/て、\念(ねん)/も\無(な)げ/に\思(おも)ひ-なし/て、\二/の-矢(や)/を\取(と)つ/て\交(つが)ひ、\打(う)ち-上(あ)ぐる\所(ところ)/を、\よつ-引(ぴ)き/て\ひやう/ど\射(い)る。\弓手(ゆんで)/の\脇(わき)/の\下(した)/より\右手(めて)/の\脇(わき)/に\五寸(ごすん)/許(ばか)り\射(い)-出(い)だす。\即(すなは)ち\海(うみ)/へ\たぶ/と\入(い)る。\忠信(ただのぶ)\次(つぎ)/の\矢(や)/を/ば\矧(は)げ/ながら\御前/に\参(まゐ)り/ける。\不覚(ふかく)/とも\高名(かうみやう)/とも\沙汰(さた)/の\限(かぎ)り/とて、\一/の-筆/に/ぞ\付(つ)け/られ/ける。\豊島(てしま/の)-冠者(くわんじや)/と\上野(かうづけ/の)-判官(はうぐわん)\討(う)た/れ/けれ/ば、\郎等(らうどう)-共(ども)\矢比(やごろ)/より\遠(とほ)く\漕(こ)ぎ-退(の)け/たり。\片岡(かたをか)、\「如何(いか)/に\四郎兵衛(しらうびやうゑ)-殿(どの)、\軍(いくさ)/は\何(なに)/と\し\給(たま)ひ/たり」/と\言(い)へ/ば、\「手(て)/の\上手(じやうず)/が\仕(つかまつ)り/て\候(さうら)ふ」/と\申(まう)し/けれ/ば、\「退(の)き\給(たま)へ。\さら/ば\経春(つねはる)/も\矢(や)\一(ひと)つ\射(い)/て\見(み)/ん」/と\言(い)ひ/けれ/ば、\さら/ば/とて\退(の)き/に/けり。\片岡(かたをか)\白(しろ)き\直垂(ひたたれ)/に\黄白地(きしらぢ)/の=鎧(よろひ)\著(き)/て、\わざ/と\兜(かぶと)/は\著(き)/ざり/けり。\折烏帽子(をりえぼし)/に\烏帽子懸(えぼしがけ)=し/て、\白木(しらき)/の=弓(ゆみ)\脇(わき)/に\挟(はさ)み、\矢櫃(やびつ)\一合(いち-がふ)\せがい/の\上/に\から/と\置(お)き/て、\蓋(ふた)/を\取(と)り/て\除(の)け/けれ/ば、\箆(の)/を/ば\揉(た)め/で\節(ふし)/の\上(うへ)/を\掻(か)き-刮(こそ)げ/て、\羽(は)/を/ば\樺矧(かばはぎ)/に\矧(は)ぎ/たる\矢(や)/の、\石■(いちゐ)/と\黒樫(くろかし)/と\強(つよ)-げ/なる\所(ところ)/を\拵(こしら)へ/て、\周(まは)り\四寸、\長さ\六寸(ろくすん)/に\拵(こしら)へ/て、\角木割(つのぎはり)/を\五六寸(ごろくすん)/ぞ\入(い)れ/たり/ける。\「何/とも\あれ、\是(これ)/を=以(もつ)て、\主/を\射(い)/ば/こそ、\鎧(よろひ)/の\裏(うら)\かか/ぬ/共(とも)\言(い)は/れ/め、\四国/の\かた\杉舟(すぎぶね)/の\端(はた)\薄(うす)/なる/に、\大勢(おほぜい)/は\込(こ)み-乗(の)り/て、\船足(ふなあし)/は\入(い)り/たり、\水際(みづぎは)/を\五寸(ごすん)/ばかり\下(さ)げ/て、\矢目近(やめちか)/に\ひやう/ど\射(い)る/なら/ば、\鑿(のみ)/を\以(もつ)て\割(わ)る\様(やう)/に/こそ\有(あ)ら/んず/らめ。\水(みづ)\舟(ふね)/に\入(い)ら/ば、\
P185
ふみ-沈(しづ)め=ふみ-沈(しづ)め/て、\皆(みな)\失(う)せ/ん/と\する\もの/を。\助舟(たすけぶね)\寄(よ)ら/ば、\精兵(せいびやう)\小兵(こひやう)/を/ば\嫌(きら)ふ/べから/ず。\釣瓶矢(つるべや)/に\射(い)/て\くれよ」/と/ぞ\申(まう)し/ける。\兵(つはもの)-共(ども)\「承(うけたまは)る」/と\申(まう)し/ける。\片岡(かたをか)\せがい/の\上(うへ)/に\片膝(かたひざ)\突(つ)い/て、\差(さ)し-詰(つ)め-引(ひ)き-詰(つ)め、\散々(さんざん)/に/こそ\射(い)/たり/けれ。\船腹(ふなばら)/に\石■(いちゐ)/の\木割(きわり)/を\十四五\射(い)-立(た)て/て\置(お)き/たり/けれ/ば、\水\一はた\入(い)る。\周章(あはて)-狼狽(ふため)き/て、\踏(ふ)み-返(かへ)し、\目/の=前(まへ)/にて\杉舟(すぎぶね)\三艘(さん-ざう)/まで\失(う)せ/に/けり。\豊島(てしま/の)-冠者(くわんじや)\亡(う)せ/に/けれ/ば、\大物浦(だいもつ/の-うら)/に\船(ふね)/を\漕(こ)ぎ-寄(よ)せ/て、\空(むな)しき\体(からだ)/を\舁(か)き/て、\泣(な)く泣(な)く\宿所(しゆくしよ)/へ/ぞ\帰(かへ)り/ける。\武蔵坊(むさし-ばう)/は\常陸坊(ひたち-ばう)/を\呼(よ)び/て\申(まう)し/ける/は、\「安(やす)から/ぬ\事(こと)/かな。\軍(いくさ)=す/べかり/つる\もの/を。\かく/て\日/を\暮(くら)さ/ん\事(こと)/は\宝(たから)/の-山(やま)/に\入(い)り/て、\手(て)/を\空(むな)しく\し/たる/にて/こそ\あれ」/と\後悔(こうくわい)=する\所(ところ)/に、\小溝(こみぞ/の)-太郎/は\大物(だいもつ)/に\軍(いくさ)\有(あ)り/と\聞(き)き/て、\百騎(ひやつ-き)/の\勢/にて\大物浦(だいもつ/の-うら)
P186
/に\馳(は)せ-下(くだ)り/て、\陸(くが)/に\上(あ)げ/たり/ける\船(ふね)/を\五艘(さう)\押(お)し-下(おろ)し、\百騎(ひやつ-き)/を\五手(て)/に\分(わ)け/て、\我(われ)-先(さき)/に/と\押(お)し-出(い)だす。\是(これ)/を\見(み)/て、\弁慶(べんけい)/は\黒革威(くろかはをどし)、\海尊(かいぞん)/は\黒糸威(くろいとをどし)/の=鎧(よろひ)\著(き)/たり。\常陸坊(ひたち-ばう)/は\元(もと)/より\究竟(くつきやう)/の\■取(かんどり)/なり/けれ/ば、\小船(せうせん)/に\取(と)り-乗(の)り、\武蔵坊(むさし-ばう)/は\わざ/と\弓矢(ゆみや)/を/ば\持(も)た/ざり/けり。\四尺(ししやく)+二寸\有(あ)り/ける\柄装束(つかしやうぞく)/の=太刀(たち)\帯(は)い/て、\岩透(いはとをし)/と\言(い)ふ\刀(かたな)/を\さし、\猪(ゐ)/の-目\彫(ほ)り/たる\鉞(まさかり)、\薙鎌(ないかま)、\熊手(くまで)\舟(ふね)/に\からり=ひしり/と\取(と)り-入(い)れ/て、\身/を\放(はな)さ/ず\持(も)ち/ける\物(もの)/は、\石■(いちゐ)/の\木/の\棒(ばう)/の\一丈(いちぢやう)+二尺(にしやく)\有(あ)り/ける/に、\鉄(くろがね)\伏(ふ)せ/て\上(うへ)/に\蛭巻(ひるまき)=し/たる/に、\石突(いしづき)=し/たる/を\脇(わき)/に\挟(はさ)み/て、\小舟(こぶね)/の\舳(へさき)/に\飛(と)び-乗(の)る。\「様(やう)/も\無(な)き\事、\此(こ)/の\舟(ふね)/を\あ/の\中/に\するり/と\漕(こ)ぎ-入(い)れよ。\其(そ)/の-時(とき)\熊手(くまで)\取(と)り/て\敵(てき)/の\舟端(ふなばた)/に\引(ひ)つ-かけ、\するり/と\引(ひ)き-寄(よ)せ/て\がは/と\乗(の)り-移(うつ)り、\兜(かぶと)/の\真向(まつかう)、\篭手(こて)/の\番(つがい)、\膝(ひざ)/の\節(ふし)、\腰骨(こしぼね)、\薙打(なぎう)ち/に\散々(さんざん)/に\打(う)た/んずる\程(ほど)/に、\兜(かぶと)/の\鉢(はち)/だに/も\割(わ)れ/ば、\主(ぬし)-奴(め)/が\頭(かしら)/も\たまる/まじ。\只(ただ)\置(お)い/て\物(もの)/を\見よ」/と\呟(つぶや)き言(ごと)=し/て、\疫神(やくじん)/の\渡(わた)る\様(やう)/にて\押(お)し-出(い)だす。\味方(みかた)/は\目/を\すまし/て\是(これ)/を\見(み)る。\小溝(こみぞ/の)-太郎\申(まう)し/ける/は、\「抑(そもそも)\是(これ)=程(ほど)/の\大勢(おほぜい)/の\中/に、\只(ただ)\二人(ふたり)\乗(の)つ/て\寄(よ)る\者(もの)/は、\何者(なにもの)/にて/か\ある/らん」/と\言(い)へ/ば、\或(あ)る\者(もの)\是(これ)/を\見(み)/て、\「一人/は\武蔵坊(むさし-ばう)、\一人/は\常陸坊(ひたち-ばう)」/と/ぞ\申(まう)し/ける。\小溝(こみぞ)\是(これ)/を\聞(き)き/て、\「それ/なら/ば\手(て)/に/も\たまる/まじ/ぞ」/とて、\船/を\大物(だいもつ)/へ/ぞ\向(む)け/させ/ける。\弁慶(べんけい)\是(これ)/を\見(み)/て\声(こゑ)/を\上(あ)げ/て、\「穢(きたな)し/や、\小溝(こみぞ/の)-太郎/と/こそ\見(み)れ。\返(かへ)し-合(あ)はせよ/や」/と\言(い)ひ/けれ/共(ども)、\聞(き)き/も
P187
\入(い)れ/ず\引(ひ)き/ける/を、\「漕(こ)げ/や\海尊(かいぞん)」/と\言(い)ひ/けれ/ば、\舟端(ふなばた)/を\踏(ふ)まへ/て、\ぎしめかし/て/ぞ\漕(こ)ぎ/たり/ける。\五艘(さう)/の\真中(まんなか)/へ\するり/と\漕(こ)ぎ-入(い)れ/けれ/ば、\熊手(くまで)/を\取(と)つ/て\敵(かたき)/の\舟(ふね)/に\打(う)ち-貫(つらぬ)き、\引(ひ)き-寄(よ)せ\ゆらり/と\乗(の)り-移(うつ)り、\艫(とも)/より\舳(へさき)/に\向(む)き/て、\薙打(なぎう)ち/に\むずめかし/て、\拉(ひし)ぎ-付(つ)け/て/ぞ\通(とほ)り/ける。\手(て)/に\当(あ)たる\者(もの)/は\申(まう)す/に\及(およ)ば/ず、\当(あ)たら/ぬ\者(もの)/も\覚(おぼ)え/ず\知(し)ら/ず\海(うみ)/へ\飛(と)び-入(い)り=飛(と)び-入(い)り\亡(う)せ/に/けり。\判官(はうぐわん)\是(これ)/を\見(み)\給(たま)ひ/て、\「片岡(かたをか)\あれ\制(せい)せよ。\さ/のみ\罪(つみ)\な\作(つく)り/そ」/と\仰(おほ)せ/られ/けれ/ば、\「御諚(ご-ぢやう)/にて\候(さうら)ふ。\さ/のみ=さ/のみ\罪(つみ)\な\作(つく)ら/れ/そ」/と\言(い)ひ/けれ/ば、\弁慶(べんけい)\是(これ)/を\聞(き)き/て、\「それ/を\申(まう)す/ぞ/よ、\末(すゑ)/も\通(とほ)ら/ぬ\青道心(あをだうしん)、\御諚(ご-ぢやう)/を\耳(みみ)/に\な\入(い)れ/そ。\八方/を\攻(せ)めよ」/とて\散々(さんざん)/に\攻(せ)む。\杉船(すぎぶね)\二艘(さう)/は\失(う)せ/て、\三艘(さん-ざう)/は\助(たす)かり、\大物浦(だいもつ/の-うら)/へ/ぞ\逃(に)げ-上(あ)がり/ける。\其(そ)/の-日\判官(はうぐわん)\軍(いくさ)/に\勝(か)ち-すまし\給(たま)ひ/けり。\御舟(ふね)/の\中(うち)/に/も\手(て)-負(お)ふ\者(もの)\十六人、\死ぬる/は\八人/ぞ\有(あ)り/ける。\死(し)し/たる\者(もの)/を/ば、\敵(てき)/に\首(くび)/を\取(と)ら/れ/じ/と、\大物(だいもつ)/の\沖(おき)/に/ぞ\沈(しづ)め/ける。其(そ)/の-日/は\御舟(ふね)/にて\日/を\暮(くら)し\給(たま)ふ。\夜/に\入(い)り/けれ/ば、\人々(ひとびと)\皆(みな)\陸(くが)/に\上(あ)げ\奉(たてまつ)り\給(たま)ひ/て、\志(こころざし)/は\切(せつ)なけれ/ども、\斯(か)く/て/は\叶(かな)ふ/まじ/とて、\皆(みな)\方々(はうばう)/へ/ぞ\送(おく)ら/れ/ける。\二位(にゐ/の)-大納言(だいなごん)/の\姫君(ひめぎみ)/は、\駿河(するが)/の-次郎(じらう)\承(うけたまは)つ/て\送(おく)り\奉(たてまつ)る。\久我(こが/の)-大臣殿(おほい-どの)/の\姫君(ひめぎみ)/を/ば\喜三太(きさんだ)/が\送(おく)り\奉(たてまつ)る。\其(そ)/の=外(ほか)\残(のこ)り/の\人々(ひとびと)/は、\皆(みな)\縁々(えんえん)/に\付(つ)け/て/ぞ\送(おく)り\給(たま)ひ/ける。\中(なか)/に/も\静(しづか)/を/ば\志(こころざし)\深(ふか)く/や\思(おも)は/れ/けん、\具(ぐ)し\給(たま)ひ/て、\大物浦(だいもつ/の-うら)/を/ば\立(た)ち\給(たま)ひ/て、\渡辺(わたなべ)/に\著(つ)い
P188
/て、\明(あ)くれ/ば、\住吉(すみよし)/の=神主(かんぬし)=長盛(ながもり)/が\許(もと)/に\著(つ)き\給(たま)ひ/て、\一夜(いちや)/を\明(あ)かし\給(たま)ひ/て、\大和国(やまと/の-くに)\宇陀郡(うだ/の-こほり)\岸岡(きしのをか)/と\申(まう)す\所(ところ)/に\著(つ)き\給(たま)ひ/て、\外戚(げしやく)/に\付(つ)け/て、\御親(した)しき\人/の\許(もと)/に\暫(しば)し\おはし/けり。\北条(ほうでう/の)-四郎-時政(ときまさ)、\伊賀(いが)\伊勢(いせ)/の-国/を\越(こ)え/て、\宇陀(うだ)/へ\寄(よ)する/と\聞(き)こえ/けれ/ば、\我(われ)\故(ゆゑ)\人/に\大事(だいじ)/を\かけ/じ/とて、\文治(ぶんぢ)+元年(ぐわんねん)-十二月-十四日/の\曙(あけぼの)/に、\麓(ふもと)/に\馬(うま)/を\乗(の)り-捨(す)て/て、\春(はる)/は\花(はな)/の\名山/と\名/を\得(え)/たる\吉野(よしの)/の-山(やま)/に/ぞ\篭(こも)ら/れ/ける。\
義経記巻第四
義経記 国民文庫本
P189
義経記巻第五目録
判官(はうぐわん)吉野山(よしのやま)に入(い)り給(たま)ふ事
静(しづか)吉野山(よしのやま)に捨(す)てらるる事
義経(よしつね)吉野山(よしのやま)を落(お)ち給(たま)ふ事
忠信(ただのぶ)吉野(よしの)に止(とど)まる事
忠信(ただのぶ)吉野山(よしのやま)の合戦(かつせん)の事(こと)
吉野(よしの)法師(ほふし)判官(はうぐわん)を追(お)ひかけ奉(たてまつ)る事
P190
義経記巻第五
判官(はうぐわん)吉野山(よしのやま)に入(い)り給(たま)ふ事 S0501
都(みやこ)に春は来(き)たれども、吉野(よしの)は未(いま)だ冬篭(ごも)る。況(いはん)や年の暮(く)れなれば、谷(たに)の小河も氷柱(つらら)ゐて、一方(ひとかた)ならぬ山(やま)なれども、判官(はうぐわん)飽(あ)かぬ名残(なごり)を棄(す)て兼(か)ねて、静(しづか)を是(これ)まで具せられたりける。様々(さまざま)の難所(なんじよ)を経(へ)て、一二の迫(はざま)、三四の峠(たうげ)、杉(すぎ)の壇(だん)と言(い)ふ所(ところ)迄(まで)分(わ)け入(い)り給(たま)ひけり。武蔵坊(むさしばう)申(まう)しけるは、「此(こ)の君(きみ)の御伴(おんとも)申(まう)し、不足(ふそく)無(な)く見するものは面倒(めんだう)なり。四国の供(とも)も一船に十余人取(と)り乗(の)り奉(たてまつ)り給(たま)ひて、心(こころ)安(やす)くも無(な)かりしに、此(こ)の深山(しんざん)まで具足(ぐそく)し給(たま)ふこそ心得(こころえ)ね。斯(か)く御伴(おんとも)して歩(あり)き、麓(ふもと)の里(さと)へ聞(き)こえなば、賎(いや)しき奴原(やつばら)が手(て)に懸(か)かりなどして、射(い)殺(ころ)されて名を流(なが)さん事(こと)は、口惜(くちを)しかるべし。如何(いかが)計(はか)らふ、片岡(かたをか)。いざや一先(ひとま)づ落(お)ちて身をも助(たす)からん」と申(まう)しければ、「それも流石(さすが)あるべき。如何(いかが)ぞ、只(ただ)目な見(み)合(あ)はせそ」とこそ申(まう)しける。判官(はうぐわん)聞(き)き給(たま)ひ、苦(くる)しき事(こと)にぞ思召(おぼしめ)しける。静(しづか)が名残(なごり)を棄(す)てじとすれ
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ば、彼等(かれら)とは仲(なか)を違(たが)ひぬ。又(また)彼等(かれら)が仲(なか)を違(たが)はじとすれば、静(しづか)が名残(なごり)棄(す)て難(がた)く、とにかくに心(こころ)を砕(くだ)き給(たま)ひつつ、涙(なみだ)に咽(むせ)び給(たま)ひけり。判官(はうぐわん)武蔵(むさし)を召(め)して仰(おほ)せられけるは、「人々(ひとびと)の心中(しんちゆう)を義経(よしつね)知(し)らぬ事(こと)は無(な)けれども、僅(わづか)の契(ちぎり)を捨(す)て兼(か)ねて、是(これ)まで女を具(ぐ)しつるこそ、身ながらも実(げ)に心得(こころえ)ね。是(これ)より静(しづか)を都(みやこ)へ帰(かへ)さばやと思(おも)ふは如何(いかが)あるべき」。武蔵坊(むさしばう)畏(かしこ)まつて申(まう)しけるは、「是(これ)こそゆゆしき御計(はか)らひ候(ざふらふ)よ。弁慶(べんけい)もかくこそ申(まう)したく候(さうら)ひつれども、畏(おそれ)をなし参(まゐ)らせてこそ候(さうら)へ。斯様(かやう)に思召(おぼしめ)し立(た)ちて、日の暮(く)れ候(さうら)はぬ先(さき)に、疾(と)く疾(と)く御急(いそ)ぎ候(さうら)へ」と申(まう)せば、何(なに)しに返(かへ)さんと言(い)ひて、又(また)思(おも)ひ返(かへ)さじと言(い)はん事(こと)も侍(さぶらひ)共(ども)の心中(しんちゆう)如何(いか)にぞやと思(おも)はれければ、力(ちから)及(およ)ばず「静(しづか)を京(きやう)へ帰さばや」と仰(おほ)せられければ、侍(さぶらひ)二人(ふたり)雑色(ざふしき)三人御伴(おんとも)申(まう)すべき由(よし)を申(まう)しければ、「偏(ひと)へに義経(よしつね)に命(いのち)を呉(く)れたるとこそ思(おも)はんずれ。道の程(ほど)よくよく労(いたは)りて、都(みやこ)へ帰(かへ)りて、各々(おのおの)はそれよりして何方(いづかた)へも心(こころ)に任(まか)すべし」と仰(おほ)せ蒙(かうぶ)つて、静(しづか)を召(め)して仰(おほ)せけるは、「志(こころざし)尽(つ)きて、都(みやこ)へ帰(かへ)すには有(あ)らず。是(これ)迄(まで)引(ひ)き具足(ぐそく)したりつるも志(こころざし)愚(おろ)かならぬ故(ゆゑ)、心(こころ)苦(ぐる)しかるべき旅(たび)の空(そら)にも人目(ひとめ)をも顧(かへり)みず、具足(ぐそく)しつれども、よくよく聞(き)けば、此(こ)の山(やま)は役(えん)の行者(ぎやうじや)の踏(ふ)み初(そ)め給(たま)ひし菩提(ぼだい)の峰(みね)なれば、精進(しやうじん)潔斎(けつさい)せでは、如何(いか)でか叶(かな)ふまじき峰(みね)なるを、我(わ)が身の業(ごふ)に犯(おか)されて、是(これ)まで具(ぐ)し
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奉(たてまつ)る事、神慮(しんりよ)の恐(おそ)れ有(あ)り。是(これ)より帰(かへ)りて、禅師(ぜんじ)の許(もと)に忍(しの)びて、明年の春(はる)を待(ま)ち給(たま)へ。義経(よしつね)も明年も実(げ)に叶(かな)ふまじくは、出家(しゆつけ)をせんずれば、人も志(こころざし)有(あ)らば、共(とも)に様(さま)をも変(か)へ、経(きやう)をも誦(よ)み、念仏(ねんぶつ)をも申(まう)さば、今生(こんじやう)後生(ごしやう)などか一所(いつしよ)に有(あ)らざらん」と仰(おほ)せられければ、静(しづか)聞(き)きもあへず、衣(きぬ)の袖を顔(かほ)にあてて、泣(な)くより外(ほか)の事(こと)ぞ無(な)き。「御志(おんこころざし)尽(つ)きせざりし程(ほど)は、四国の波(なみ)の上(うへ)までも具足(ぐそく)せられ奉(たてまつ)る。契(ちぎり)尽(つ)きぬれば、力(ちから)及(およ)ばず、只(ただ)憂(う)き身(み)の程(ほど)こそ思(おも)ひ知(し)りて悲(かな)しけれ。申(まう)すに付(つ)けても如何(いか)にぞや、過(す)ぎにし夏(なつ)の頃(ころ)よりも唯(ただ)ならぬ事とかや申(まう)すは、産(さん)すべきものにも早(はや)定(さだ)めぬ。世に隠(かく)れも無(な)き事(こと)にて候(さうら)へば、六波羅(ろくはら)へも鎌倉(かまくら)へも聞(き)こえんずらん。東の人は情(なさけ)無(な)きと聞(き)けば、今(いま)に取(と)り下(くだ)されて、如何(いか)なる憂(う)き目(め)をか見(み)んずらん。只(ただ)思召(おぼしめ)し切(き)りて、是(これ)にて如何(いか)にもなし給(たま)へ。御為(おんため)にも自(みづか)らが為(ため)にも、中々(なかなか)生(い)きて物思(おも)はんよりも」と掻(か)き口説(くど)き申(まう)しければ、「只(ただ)理(り)をまげて都(みやこ)へ帰(かへ)り給(たま)へ」と仰(おほ)せられけれども、御膝(ひざ)の上(うへ)に顔(かほ)をあて、声(こゑ)を立(た)ててぞ泣(な)き伏(ふ)しける。侍(さぶらひ)共(ども)も是(これ)を見(み)て、皆(みな)袂(たもと)をぞ濡(ぬ)らしける。判官(はうぐわん)鬢(びん)の鏡(かがみ)を取(と)り出(い)だして、「是(これ)こそ朝夕(あさゆふ)顔(かほ)を写(うつ)しつれ。見(み)ん度(たび)に義経(よしつね)見(み)ると思(おも)ひて見(み)給(たま)へ」とて賜(た)びにけり。是(これ)を賜(たま)はりて、今(いま)亡(な)き人の様(やう)に胸(むね)に当(あ)ててぞ焦(こが)れける。涙(なみだ)の隙(ひま)よりかくぞ詠(えい)じける。
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見(み)るとても嬉(うれ)しくもなし増鏡(ますかがみ)恋(こひ)しき人の影(かげ)を止(と)めねば W005
と詠(よ)みたれば、判官(はうぐわん)枕(まくら)を取(と)り出(い)だして、「身を離(はな)さで是(これ)を見(み)給(たま)へ」とて、かくなん。
急(いそ)げども行(ゆ)きもやられず草枕(くさまくら)静(しづか)に馴(な)れし心(こころ)慣(ならひ)に W006
それのみならず、財宝(ざいほう)を其(そ)の数取(と)り出(い)だして賜(た)びけり。其(そ)の中に殊(こと)に秘蔵(ひさう)せられたりける、紫檀(したん)の胴(だう)に羊(ひつじ)の革(かは)にて張(は)りたりける啄木(たくぼく)の調(しらべ)の鼓(つづみ)を賜(たま)はりて、仰(おほ)せられけるは、「此(こ)の鼓(つづみ)は義経(よしつね)秘蔵(ひさう)して持(も)ちつるなり。白川(しらかは)の院(ゐん)の御時(とき)、法住寺の長老(ちやうらう)の入唐(につたう)の時(とき)、二つの重宝(ちようほう)を渡(わた)されけり。めいぎよくと言(い)ふ琵琶(びは)、初音と言(い)ふ鼓(つづみ)是(これ)なり。めいぎよくは内裏(だいり)に有(あ)りけるが、保元(ほうげん)の合戦(かつせん)の時、新院(しんゐん)の御前にて焼(や)けてなし。初音(はつね)は讚岐(さぬき)の守(かみ)正盛(まさもり)賜(たま)はりて秘蔵(ひさう)して持(も)ちたりけるが、正盛(まさもり)
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死去(しきよ)の後、忠盛(ただもり)是(これ)を伝(つた)へて持(も)ちたりけるを、清盛(きよもり)の後(のち)は誰(たれ)か持(も)ちたりけん、屋嶋(やしま)の合戦(かつせん)の時(とき)わざとや海へ入(い)れられけん、又(また)取(と)り落(おと)してや有(あ)りけん、浪(なみ)に揺(ゆ)られて有(あ)りけるを、伊勢(いせ)の三郎熊手(くまで)に懸(か)けて取(と)り上(あ)げたりしを、義経(よしつね)取(と)つて鎌倉(かまくら)殿(どの)に奉(たてまつ)る」とぞ宣(のたま)ひける。静(しづか)泣(な)く泣(な)く是(これ)を賜(たま)はりて持(も)ちけり。今(いま)は何(なに)と思(おも)ふ共(とも)、止(とど)まるべきに有(あ)らずとて、勢(せい)を二つに分(わ)けけり。判官(はうぐわん)思(おも)ひ切(き)り給(たま)ふ時(とき)は、静(しづか)思(おも)ひ切(き)らず、静(しづか)思(おも)ひける時(とき)は、判官(はうぐわん)思(おも)ひ切(き)り給(たま)はず、互(たがひ)に行(ゆ)きもやらず、帰(かへ)りては行(ゆ)き、行(ゆ)きては帰(かへ)りし給(たま)ひけり。嶺(みね)に上(のぼ)り、谷(たに)に下(くだ)り行(ゆ)きけり。影(かげ)の見ゆるまでは、静(しづか)遙々(はるばる)と見(み)送(おく)りけり。互(たがひ)に姿(すがた)見(み)えぬ程(ほど)に隔(へだ)てば、山彦(やまびこ)の響(ひび)く程(ほど)にぞ喚(おめ)きける。五人の者(もの)共(ども)やうやうに慰(なぐさ)めて、三四の峠(たうげ)までは下(くだ)りけり。二人(ふたり)の侍(さぶらひ)、三人の雑色(ざふしき)を呼(よ)びて語(かた)りけるは、「各々(おのおの)如何(いかが)計(はか)らふ。判官(はうぐわん)も御志(おんこころざし)は深(ふか)く思(おも)ひ給(たま)ひつれ共(ども)、御身(おんみ)の置所(おきどころ)無(な)く思召(おぼしめ)して行方(ゆきがた)知(し)らず失(う)せさせ給(たま)ふ。我(われ)等(ら)とても麓(ふもと)に下(くだ)り、落人(おちうと)の供(とも)し歩(あり)きては如何(いか)でか此(こ)の難所(なんじよ)をば遁(のが)るべき。是(これ)は麓(ふもと)近(ちか)き所(ところ)なれば、棄(す)て置(お)き奉(たてまつ)りたりとても、如何(いか)にもして麓(ふもと)に返(かへ)り給(たま)はぬ事(こと)はよも有(あ)らじ。いざや一先(ひとま)づ落(お)ちて身を助(たす)けん」とぞ言(い)ひける。恥(はぢ)をも恥(はぢ)と知(し)り、又(また)情(なさけ)をも棄(す)てまじき侍(さぶらひ)だにも、斯様(かやう)に言(い)ひければ、まして次(つぎ)の者(もの)共(ども)は、「如何様(いかやう)にも御計(はか)らひ候(さうら)へかし」と言(い)ひけれ
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ば、或(あ)る古木(こぼく)の下(もと)に敷皮(しきかは)敷(し)き、「是(これ)に暫(しばら)く御休(おんやす)み候(さうら)へ」とて申(まう)しけるは、「此(こ)の山(やま)の麓(ふもと)に十一面観音(じふいちめんくわんおん)の立(た)たせ給(たま)ひて候(さうら)ふ所(ところ)有(あ)り。親(した)しく候(さうら)ふ者(もの)の別当(べつたう)にて候(さうら)へば、尋(たづ)ねて下(くだ)り候(さうら)ひて、御身(おんみ)の様(やう)を申(まう)し合(あ)はせて、苦(くる)しかるまじきに候(さうら)はば、入(い)れ参(まゐ)らせて暫(しばら)く御身(おんみ)をもいたはり参(まゐ)らせて、山伝(やまづた)ひに都(みやこ)へ送(おく)り参(まゐ)らせたくこそ候(さうら)へ」と申(まう)しければ、「ともかくも良(よ)き様(やう)に各(おのおの)計(はか)らひ給(たま)へ」とぞ宣(のたま)ひける。
静(しづか)吉野山(よしのやま)に棄(す)てらるる事 S0502
供(とも)したる者共(ども)、判官(はうぐわん)の賜(た)びたる財宝(ざいほう)を取(と)りて、掻(か)き消(け)す様(やう)にぞ失(う)せにける。静(しづか)は日の暮(く)るるに随(したが)ひて、今(いま)や今(いま)やと待(ま)ちけれども、帰(かへ)りて事(こと)問(と)ふ人もなし。せめて思(おも)ひの余(あま)りに、泣(な)く泣(な)く古木(こぼく)の下(もと)を立(た)ち出(い)でて、足(あし)に任(まか)せてぞ迷(まよ)ひける。耳(みみ)に聞(き)こゆるものとては、杉(すぎ)の枯葉(かれば)を渡(わた)る風(かぜ)、眼(まなこ)に遮(さへぎ)るものとては、梢(こずゑ)まばらに照(てら)す月、そぞろに物悲(かな)しくて、足(あし)をはかりに行(ゆ)く程(ほど)に、高(たか)き峰(みね)に上(のぼ)りて、声(こゑ)を立(た)てて喚(おめ)きければ、谷(たに)の底(そこ)に木魂(こだま)の響(ひび)きければ、我(われ)を言(こと)問(と)ふ人のあるかとて、泣(な)く泣(な)く谷に下(くだ)りて見(み)れば、雪深(ふか)き道(みち)なれば、跡(あと)踏(ふ)みつくる人もなし。又(また)谷(たに)にて
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悲(かな)しむ声(こゑ)の、峰(みね)の嵐(あらし)にたぐへて聞(き)こえけるに、耳(みみ)を欹(そばだ)てて聞(き)きければ、幽(かすか)に聞(き)こゆるものとては、雪(ゆき)の下(した)行(ゆ)く細谷河(ほそたにがは)の水(みづ)の音(おと)、聞(き)くに辛(つら)さぞ勝(まさ)りける。泣(な)く泣(な)く嶺(みね)に帰(かへ)り、上(あ)がりて見(み)ければ、我(わ)が歩(あゆ)みたる後(あと)より外に雪(ゆき)踏(ふ)み分(わ)くる人もなし。かくて谷(たに)へ下(くだ)り、峰(みね)へ上(のぼ)りせし程(ほど)に、履(は)きたる靴(くつ)も雪(ゆき)に取(と)られ、著(き)たる笠(かさ)も風に取(と)らる。足(あし)は皆(みな)踏(ふ)み損(そん)じ、流(なが)るる血(ち)は紅(くれなゐ)をそそくが如(ごと)し。吉野(よしの)の山(やま)の白雪(しらゆき)も、染(そ)めぬ所(ところ)ぞ無(な)かりける。袖は涙(なみだ)に萎(しほ)れて、袂(たもと)に垂氷(たるひ)ぞ流(なが)れける。裾(すそ)は氷桂(つらら)に閉(と)ぢられて、鏡(かがみ)を見(み)るが如(ごと)くなり。然(さ)れば身もたゆくして働(はたら)かされず。其(そ)の夜は夜(よ)もすがら山路(やまぢ)に迷(まよ)ひ明(あ)かしけり。十六日の昼(ひる)程(ほど)に判官(はうぐわん)には離(はな)れ奉(たてまつ)りぬ。今日(けふ)十七日の暮(くれ)まで独(ひと)り山路(やまぢ)に迷(まよ)ひける、心(こころ)の中(うち)こそ悲(かな)しけれ。雪(ゆき)踏(ふ)み分(わ)けたる道を見(み)て、判官(はうぐわん)の近所にや御座(おは)すらん。又(また)我(われ)を棄(す)てし者共(ども)の、此(こ)の辺(へん)にやあるらんと思(おも)ひつつ、足(あし)を計(はか)りに行(ゆ)く程(ほど)に、やうやう大道(だいだう)にぞ出(い)でにけり。是(これ)は何方(いづかた)へ行(ゆ)く道(みち)やらんと思(おも)ひて、暫(しばら)く立(た)ち休(やす)らひけるが、後(のち)に聞(き)けば宇陀(うだ)へ通(かよ)ふ道(みち)なり。西(にし)を指(さ)して行(ゆ)く程(ほど)に、遙(はる)かなる深(ふか)き谷(たに)に燈火(ともしび)幽(かすか)に見(み)えければ、如何(いか)なる里(さと)やらん、売炭(ばいたん)の翁(おきな)も通(かよ)はじなれば、唯(ただ)炭竈(すみがま)の火にても有(あ)らじ。秋(あき)の暮(くれ)ならば、沢辺(さはべ)の蛍(ほたる)かとも疑(うたが)ふべき。斯(か)くて様々(やうやう)近(ちか)づきて見(み)ければ、蔵王権現(ざわうごんげん)の御前(おまえ)の燈篭(とうろ)の火(ひ)にてぞ有(あ)りける。差(さ)し入(い)り
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見(み)たりければ、寺中(じちゆう)には道者(だうしや)大門(だいもん)に満(み)ち満(み)ちたり。静(しづか)是(これ)を見(み)て、如何(いか)なる所(ところ)にて渡(わた)らせ給(たま)ふらんと思(おも)ひて、或(あ)る御堂(だう)の側(かたはら)に暫(しば)らく休(やす)み、「是(これ)は何処(いづく)ぞ」と人に問(と)ひければ、「吉野(よしの)の御岳(みたけ)」とぞ申(まう)しける。静(しづか)嬉(うれ)しさ限(かぎ)りなし。月日(つきひ)こそ多(おほ)けれ、今日(けふ)は十七日、此(こ)の御縁日(ごえんにち)ぞかし。尊(たうと)く思(おも)ひければ、道者(だうしや)に紛(まぎ)れ、御正面(ごしやうめん)に近(ちか)づきて拝(おが)み参(まゐ)らせければ、内陣外陣の貴賎(きせん)中々(なかなか)数知(し)らず。大衆(だいしゆ)の所作(しよさ)の間(あひだ)は苦(くる)しみの余(あま)りに衣(きぬ)引(ひ)き被(かつ)ぎ伏(ふ)したりけり。務(つと)めも果(は)てしかば、静(しづか)も起(お)きて念誦(ねんじゆ)してぞ居(ゐ)たりける。芸(げい)に従(したが)ひて思(おも)ひ思(おも)ひの馴子舞(なれこまひ)する中(なか)にも面白(おもしろ)かりし事(こと)は、近江国(あふみのくに)より参(まゐ)りける猿楽(さるがく)、伊勢(いせ)の国(くに)より参(まゐ)りける白拍子(しらびやうし)も、一番(いちばん)舞(ま)うてぞ入(い)りにける。静(しづか)是(これ)を見(み)て、「あはれ、我(われ)も打(う)ち解(と)けたりせば、などか丹誠(たんぜい)を運(はこ)ばざら
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ん、願(ねが)はくは権現(ごんげん)、此(こ)の度(たび)安穏(あんをん)に都(みやこ)へ帰(かへ)し給(たま)へ、また飽(あ)かで別(わか)れし判官(はうぐわん)、事故(ことゆゑ)無(な)く今(いま)一度引(ひ)き合(あ)はせさせ給(たま)へ。さも有(あ)らば母(はは)の禅師(せんじ)とわざと参(まゐ)らん」とぞ祈(いの)り申(まう)しける。道者(だうしや)皆(みな)下向(げかう)して後(のち)、静(しづか)正面(しやうめん)に参(まゐ)りて念誦(ねんじゆ)して居(ゐ)たりける所(ところ)に、若(わか)大衆(だいしゆ)の申(まう)しけるは、「あら美(うつく)しの女の姿(すがた)や、只人(ただひと)共(とも)覚(おぼ)えず、如何(いか)なる人にて御座(おは)すらん。あの様(やう)なる人の中にこそ面白(おもしろ)き事(こと)もあれ。いざや勧(すす)めて見(み)ん」とて、正面(しやうめん)に近(ちか)づきしに、素絹(そけん)の衣(ころも)を著(き)たりける老僧(らうそう)の、半装束(はんしやうぞく)の数珠(じゆず)持(も)ちて立(た)ちしが、「あはれ権現(ごんげん)の御前にて、何事(なにごと)にても候(さうら)へ、御法楽(ほふらく)候(さうら)へかし」と有(あ)りしかば、静(しづか)是(これ)を聞(き)きて、「何事(なにごと)を申(まう)すべきとも覚(おぼ)えず候(さうら)ふ。近(ちか)き程(ほど)の者(もの)にて候(さうら)ふ。毎月(まいつき)に参篭(さんろう)申(まう)すなり。させる芸能(げいのう)ある身(み)にても候(さうら)はばこそ」と申(まう)しければ、「あはれ此(こ)の権現(ごんげん)は霊験(れいげん)無双(ぶさう)に渡(わた)らせ給(たま)ふ物(もの)を。且(かつう)は罪障(ざいしやう)懺悔(さんげ)の為(ため)にてこそ候(さうら)へ。此(こ)の垂跡(すいしやく)は芸(げい)有(あ)る人の、御前にて丹誠(たんぜい)運(はこ)ばぬは、思(おも)ひに思(おも)ひを重(かさ)ね給(たま)ふ。面白(おもしろ)からぬ事(こと)なりとも、我(わ)が身(み)に知(し)る事(こと)の程(ほど)を丹誠(たんぜい)を運(はこ)びぬれば、悦(よろこ)びに又(また)悦(よろこ)びを重(かさ)ね給(たま)ふ権現(ごんげん)にて渡(わた)らせ給(たま)ふ。是(これ)私(わたくし)に申(まう)すには有(あ)らず、偏(ひと)へに権現(ごんげん)の託宣(たくせん)にて渡(わた)らせ給(たま)ふ」と申(まう)されければ、静(しづか)是(これ)を聞(き)きて、恐(おそ)ろしや、我(われ)は此(こ)の世の中に名を得(え)たる者(もの)ぞかし。神は正直(しやうぢき)の頭(かうべ)に宿(やど)り給(たま)ふなれば、斯(か)くて空(むな)しからん事(こと)も恐(おそ)れ有(あ)り。舞(まひ)までこそ無(な)く共(とも)、法楽(ほふらく)の事(こと)は苦(くる)しかるまじ。我
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を見(み)知(し)りたる人はよも有(あ)らじと思(おも)ひければ、物(もの)は多(おほ)く習(なら)ひ知(し)りたりけれども、別(べつ)して白拍子(しらびやうし)の上手(じやうず)にて有(あ)りければ、音曲(おんぎよく)文字(もじ)うつり心(こころ)も言葉(ことば)も及(およ)ばず、聞(き)く人涙(なみだ)を流(なが)し、袖を絞(しぼ)らぬは無(な)かりけり。遂(つひ)に斯(か)くぞ謡(うた)ひける。
在(あ)りのすさみの憎(にく)きだに在(あ)りきの後(あと)は恋(こひ)しきに、飽(あ)かで離(はな)れし面影(おもかげ)を何時(いつ)の世にかは忘(わす)るべき。別(わか)れの殊(こと)に悲(かな)しきは親(おや)の別(わか)れ、子の別(わか)れ、勝(すぐ)れてげに悲(かな)しきは夫妻(ふさい)の別(わか)れなりけり W007
と、涙(なみだ)の頻(しき)りに進(すす)みければ、衣(きぬ)引(ひ)き被(かづ)きて臥(ふ)しにけり。人々(ひとびと)是(これ)を聞(き)き、「音声(おんじやう)の聞事(ききごと)かな。何様(なにさま)只人(ただひと)にてはなし。殊(こと)に夫(つま)を恋(こ)ふる人と覚(おぼ)ゆるぞ。如何(いか)なる人の此(こ)の人の夫(つま)となり、是(これ)程(ほど)心(こころ)を焦(こが)すらん」とぞ申(まう)しける。治部(ぢぶ)の法眼(ほふげん)と申(まう)す人是(これ)を聞(き)きて、「面白(おもしろ)きこそ理(ことわり)よ。誰(た)そと思(おも)ふたれば、是(これ)こそ音(おと)に聞(き)こえし静(しづか)よ」と申(まう)しければ、同宿(どうじゆく)聞(き)きて、「如何(いか)にして見(み)知(し)りたるぞ」と言(い)へば、「一年(ひととせ)都(みやこ)に百日の日照(ひでり)の有(あ)りしに、院(ゐん)の御幸(みゆき)有(あ)りて、百人の白拍子(しらびやうし)の中(なか)にも、静(しづか)が舞(ま)ひたりしこそ三日の洪水(こうずい)流(なが)れたり。さてこそ日本一(につぽんいち)と言(い)ふ宣旨(せんじ)を下(くだ)されたりしか、其(そ)の時(とき)見(み)たりしなり」と申(まう)しければ、若(わか)大衆(だいしゆ)共(ども)申(まう)しけるは、「さては判官(はうぐわん)殿(どの)の御行方(おんゆくへ)をば、此(こ)の人こそ知(し)りたるらめ。いざや止(とど)めて聞(き)かん」と申(まう)しければ、同心に尤(もつと)も然(しか)るべしとて、執行(しゆぎやう)の坊(ばう)の前(まへ)に関(せき)を据(す)ゑ
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て、道者(だうしや)の下向(げかう)を待(ま)つ処に、人に紛(まぎ)れて下向(げかう)しけるを、大衆(だいしゆ)止(とど)めて、「静(しづか)と見(み)奉(たてまつ)る、判官(はうぐわん)は何処(いづく)に御座(おは)しますぞ」と問(と)ひければ、「御行方(おんゆくへ)知(し)らず候(さうら)ふ」とぞ申(まう)しける。小法師(こぼふし)原(ばら)共(ども)荒(あら)らかに言(い)ひけるは、「女なりとも、所(ところ)にな置(お)きそ。唯(ただ)放逸(はういつ)に当(あ)たれ」と罵(ののし)りければ、静(しづか)如何(いか)にもして隠(かく)さばやと思(おも)へども、女の心(こころ)のはかなさは、我(わ)が身憂(う)き目(め)に逢(あ)はん事(こと)の恐(おそ)ろしさに、泣(な)く泣(な)く有(あ)りの儘(まま)にぞ語(かた)りける。然(さ)ればこそ情(なさけ)有(あ)りける人にて有(あ)りける物(もの)をとて、執行(しゆぎやう)の坊(ばう)に取(と)り入(い)れて、やうやうに労(いたは)り、其(そ)の日は一日止(とど)めて、明(あ)けければ馬(うま)に乗(の)せて人を付(つ)け、北白川(きたしらかは)へぞ送(おく)りける。是(これ)は衆徒(しゆと)の情(なさけ)とぞ申(まう)しける。
義経(よしつね)吉野山(よしのやま)を落(お)ち給(たま)ふ事 S0503
さて明(あ)けければ、衆徒(しゆと)講堂(かうだう)の庭に集会(しゆゑ)して、九郎判官(はうぐわん)殿(どの)は中院谷(ちゆうゐんだに)に御座(おは)すなり。いざや寄(よ)せて討(う)ち取(と)りて、鎌倉(かまくら)殿(どの)の見参(げんざん)に入(い)らんとぞ申(まう)しける。老僧(らうそう)是(これ)を聞(き)きて、「あはれ詮(せん)無(な)き大衆(だいしゆ)の僉議(せんぎ)かな。我(わ)が為(ため)の敵(てき)にも有(あ)らず。然(さ)ればとて朝敵(てうてき)にてもなし。只(ただ)兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)の為(ため)にこそ不和(ふわ)なれ。三衣(さんゑ)を墨(すみ)に染(そ)めながら、甲冑(かつちう)をよろひ、弓煎(きゆうせん)を取(と)りて、殺生(せつしやう)を犯(おか)さん事、且(かつう)は隠便(おんびん)ならず」と諌(いさ)めけれ
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ば、若(わか)大衆(だいしゆ)是(これ)を聞(き)きて、「それはさる事(こと)にて候(さうら)へども、古(いにしへ)治承(ぢしよう)の事(こと)を聞(き)き給(たま)へ。高倉(たかくら)の宮御謀反(むほん)に、三井寺(みゐでら)など与(くみ)し参(まゐ)らせ候(さうら)ひしかども、山(やま)は心(こころ)変(か)はり仕(つかまつ)り、三井寺(みゐでら)法師(ほふし)は忠(ちゆう)を致(いた)し、南都(なんと)は未(いま)だ参(まゐ)らず、宮(みや)は奈良(なら)へ落(お)ちさせ給(たま)ひけるが、光明山(くわうみやうせん)の鳥居(とりゐ)の前(まえ)にて流矢(ながれや)に中(あた)つて薨(かく)れさせ給(たま)ひぬ。南都(なんと)は未(いま)だ参(まゐ)らずと雖(いへど)も、宮(みや)に与(くみ)し参(まゐ)らせたる咎(とが)によつて、太政(だいじやう)の入道殿(どの)伽藍(がらん)を滅(ほろ)ぼし奉(たてまつ)りし事(こと)を、人の上(うへ)と思(おも)ふべきに有(あ)らず、判官(はうぐわん)此(こ)の山(やま)に御座(おは)する由(よし)関東(くわんとう)に聞(き)こえなば、東国(とうごく)の武士(ぶし)共(ども)承(うけたまは)りて、我(わ)が山(やま)に押(お)し寄(よ)せて、欽明天皇(きんめいてんわう)の自(みづか)ら末代(まつだい)までと建(た)て給(たま)ひし所(ところ)、刹那(せつな)に焼(や)き亡(ほろ)ぼさん事、口惜(くちを)しき事(こと)には有(あ)らずや」と申(まう)しければ、老僧(らうそう)達(たち)も「此(こ)の上(うへ)はともかくも」と言(い)ひければ、其(そ)の日を待(ま)ち暮(くら)し、明(あ)くれば廿日の暁(あかつき)、大衆(だいしゆ)僉議(せんぎ)の大鐘(おほがね)をぞ撞(つ)きにける。判官(はうぐわん)は中院谷(ちゆうゐんだに)と言(い)ふ所(ところ)に御座(おは)しけるが、雪空山(くうざん)に降(ふ)り積(つ)みて、谷(たに)の小河もひそかなり。駒(こま)の蹄(ひづめ)も通(かよ)はねば、鞍(くら)皆具(かいぐ)も付(つ)けず、下人(げにん)共(ども)を具せざれば、兵糧米(ひやうらうまい)も持(も)たれず、皆人(みなひと)労(つか)れに臨(のぞ)みて、前後(ぜんご)も知(し)らず臥(ふ)しにけり。未(いま)だ曙(あけぼの)の事(こと)なるに、遥(はる)かの麓(ふもと)に鐘(かね)の声(こゑ)聞(き)こえければ、判官(はうぐわん)怪(あや)しく思召(おぼしめ)して、侍(さぶらひ)共(ども)を召(め)して仰(おほ)せられけるは、「晨朝(じんでう)の鐘(かね)過(す)ぎて、又(また)鐘(かね)鳴(な)るこそ怪(あや)しけれ。此(こ)の山(やま)の麓(ふもと)と申(まう)すは欽明天皇(きんめいてんわう)の御建立(こんりう)の吉野(よしの)の御岳(みだけ)、蔵王権現(ざわうごんげん)とて霊験(れいげん)無双(ぶさう)の霊社(れいしや)にて
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渡(わた)らせ給(たま)ふ。並(なら)びに吉祥(きちじやう)、駒形(こまかた)の八大(はつだい)金剛童子(こんがうどうじ)、勝手(かつて)ひめぐり、しき王子(わうじ)、さうけこさうけの明神(みやうじん)とて、甍(いらか)を並(なら)べ給(たま)へる山上なり。然(さ)ればにや執行(しゆぎやう)を始(はじ)めとして、衆徒(しゆと)華飾(くわしよく)世に越(こ)えて、公家にも武家にも従(したが)はず、必(かなら)ず宣旨(せんじ)院宣(ゐんぜん)は無(な)くとも、関東(くわんとう)へ忠節(ちゆうせつ)の為(ため)に甲冒(かつちう)をよろひ、大衆(だいしゆ)の僉議(せんぎ)するかや」とぞ宣(のたま)ひける。備前(びぜん)の平四郎は「自然(しぜん)の事(こと)候(さうら)はんずるに、一先(ひとま)づ落(お)つべきかや。又(また)返(かへ)して討死(うちじに)するか、腹(はら)を切(き)るか其(そ)の時(とき)に臨(のぞ)んで周章(あはて)狼狽(ふため)きて叶(かな)はじ。良(よ)き様(やう)に人々(ひとびと)計(はか)らひ申(まう)され候(さうら)へや」と申(まう)しければ、伊勢(いせ)の三郎「申(まう)すに付(つ)けて臆病(おくびやう)の致(いた)す所(ところ)に候(さうら)へども、見(み)えたる験(しるし)も無(な)くて、自害(じがい)無役(むやく)なり。衆徒(しゆと)に逢(あ)うて討死(うちじに)詮(せん)なし。唯(ただ)幾度(いくたび)もあしきのよからん方(かた)へ、一先(ひとま)づ落(お)ちさせ給(たま)へや」と申(まう)しければ、常陸坊(ひたちばう)是(これ)を聞(き)きて、「いしくも申(まう)され候(さうら)ふものかな。誰(たれ)も斯(か)くこそ存(ぞん)じ候(さうら)へ。尤(もつと)も」と申(まう)しければ、武蔵坊(むさしばう)申(まう)しけるは、「曲事(くせごと)を仰(おほ)せられ候(さうら)ふぞとよ。寺中(じちゆう)近所に居(ゐ)て、麓(ふもと)に鐘(かね)の音聞(き)こゆるを、敵(てき)の寄(よ)するとて落(お)ち行(ゆ)かんには、敵(てき)寄(よ)せぬ山々(やまやま)はよも有(あ)らじ。只(ただ)君(きみ)は暫(しば)し是(これ)に渡(わた)らせ御座(おは)しませ。弁慶(べんけい)麓(ふもと)に罷(まか)り下(くだ)り、寺中(じちゆう)の騒動(さうどう)を見(み)て参(まゐ)り候(さうら)はん」と申(まう)しければ、「尤(もつと)もさこそ有(あ)りたけれども、御辺(ごへん)は比叡(ひえ)の山(やま)にて素生(そせい)したりし人なり。吉野(よしの)十津川(とづかは)の者(もの)共(ども)にも見(み)知(し)られてやあるらん」と仰(おほ)せられければ、武蔵坊(むさしばう)畏(かしこ)まつて申(まう)しけるは、「桜本(さくらもと)に久(ひさ)しく
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候(さうら)ひしかども、彼奴(きやつ)原(ばら)には見(み)知(し)られたる事(こと)も候(さうら)はず」と申(まう)しも敢(あ)へず、やがて御前を立(た)ち、褐(かちん)の直垂(ひたたれ)に、黒糸威(くろいとをどし)の鎧(よろひ)著(き)て、法師(ほふし)なれども、常(つね)に頭(かしら)を剃(そ)らざりければ、三寸(さんずん)許(ばか)り生(お)ひたる頭(かしら)に、揉鳥帽子(もみえぼし)に結頭(ゆひがしら)して、四尺(ししやく)二寸有(あ)りける黒漆(こくしつ)の太刀(たち)を、鴨尻(かもめじり)にぞ帯(は)きなしたり。三日月(みかづき)の如(ごと)くにそりたる長刀(ながなた)杖(つゑ)につき、熊(くま)の皮(かは)の頬貫(つらぬき)帯(は)きて、咋日(きのふ)降(ふ)りたる雪(ゆき)を時(とき)の落花(らつくわ)の如(ごと)く蹴(け)散(ち)らし、山下(さんげ)を指(さ)して下(くだ)りけり。弥勒堂(みろくだう)の東、大日堂(だいにちだう)の上より見(み)渡(わた)せば、寺中(じちゆう)騒動(さうどう)して、大衆(だいしゆ)南大門(なんだいもん)に僉議(せんぎ)し、上(うへ)を下(した)へ返(かへ)したる。宿老(しゆくらう)は講堂(かうだう)に有(あ)り、小法師(こぼふし)原(ばら)は僉議(せんぎ)の中(なか)を退(しざ)つて逸(はや)りける。若大衆(わかだいしゆ)の鉄漿黒(かねぐろ)なるが、腹(はらまき)に袖付(つ)けて、兜(かぶと)の緒(を)を締(し)め、尻篭(しこ)の矢(や)、筈下(はずさが)りに負(お)ひなして、弓杖(ゆんづゑ)に突(つ)き、長刀(なぎなた)手々(てで)に提(ひつさ)げて、宿老(しゆくらう)より先(さき)に立(た)ち、百人ばかり山口(やまぐち)にこそ臨(のぞ)みけれ。弁慶(べんけい)是(これ)を見(み)て、あはや
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と思(おも)ひ、取(と)つて返(かへ)して、中院谷(ちゆうゐんのたに)に参(まゐ)りて、「騒(さわ)ぐまでこそ難(かた)からめ。敵(てき)こそ矢比(やごろ)になりて候(さうら)へ」と申(まう)しければ、判官(はうぐわん)是(これ)を聞(き)き給(たま)ひて、「東国の武士(ぶし)か吉野(よしの)法師(ほふし)か」と仰(おほ)せられければ、「麓(ふもと)の衆徒(しゆと)にて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「扨(さて)は適(かな)ふまじ。それ等(ら)は所(ところ)の案内者(あんないしや)なり。健者(すくやかもの)を先(さき)に立(たて)て、悪所(あくしよ)に向(むか)ひて追(お)ひ掛(か)けられて叶(かな)ふまじ。誰(たれ)か此(こ)の山(やま)の案内(あんない)を知(し)りたる者(もの)有(あ)らば、先立(さきだ)て一先(ひとま)づ落(お)ちん」と仰(おほ)せられける。武蔵坊(むさしばう)申(まう)しけるは、「此(こ)の山(やま)の案内(あんない)知(し)る者(もの)朧(おぼろ)げにても候(さうら)はず、異朝(いてう)を訪(とぶら)ふに、育王山(いわうぜん)、香風山(かうふさん)、嵩高山(しゆこうせん)とて三つの山(やま)有(あ)り。一乗(いちじよう)とは葛城(かつらぎ)、菩提(ぼだい)とは此(こ)の山(やま)の事(こと)なり。役(えん)の行者(ぎやうじや)と申(まう)し奉(たてまつ)りし貴僧(きそう)精進(しやうじん)潔斎(けつさい)し給(たま)ひて、優婆塞(うばそく)の、宮の移(うつろ)ひをも見(み)し、鳥音(とりね)を立(た)てしかば、かはせの浪(なみ)にや妙智剣(めうちけん)と崇(あが)め奉(たてまつ)りし、生身(しやうじん)の不動(ふどう)立(た)ち給(たま)へり。さる間(あひだ)此(こ)の山(やま)は不浄にてはおぼろげにても人の入(い)る山(やま)ならず。それも立(た)ち入(い)りて見(み)る事(こと)は候(さうら)はねども、粗々(あらあら)承(うけたまは)り候(さうら)ふ。三方(さんぱう)は難所(なんじよ)にて候(さうら)ふ。一方(いつぱう)は敵(てき)の矢先(やさき)、西は深(ふか)き谷にて、鳥(とり)の音も幽(かすか)なり。北は龍(りゆう)返(がへ)しとて、落(お)ちとまる所(ところ)は山河の滾(たぎ)りて流(なが)るるなり。東(ひがし)は大和(やまと)の国宇陀(うだ)へ続(つづ)きて候(さうら)ふ。其方(そなた)へ落(お)ちさせ給(たま)へや」とぞ申(まう)しける。
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忠信(ただのぶ)吉野(よしの)に留(とど)まる事 S0504
十六人思(おも)ひ思(おも)ひに落(お)ちかかる所(ところ)に、音(おと)に聞(き)こえたる剛(かう)の者(もの)有(あ)り。先祖(せんぞ)を委(くは)しく尋(たづ)ぬるに、鎌足(かまたり)の大臣(だいじん)の御末(おんすゑ)、淡海公(たんかいこう)の後胤(こうゐん)、佐藤(さとう)憲高(のりたか)が孫(まご)、信夫(しのぶ)の佐藤(さとう)庄司(しやうじ)が二男、四郎兵衛(しらうびやうゑ)藤原(ふぢはら)の忠信(ただのぶ)と言(い)ふ侍(さぶらひ)有(あ)り。人も多(おほ)く候(さうら)ふに、御前(おまへ)に進(すす)み出(い)で、雪(ゆき)の上(うへ)に跪(ひざまづ)きて申(まう)しけるは、「君(きみ)の御有様(おんありさま)と我(われ)等(ら)が身を物によくよく譬(たと)ふれば、屠所(としよ)に赴(おもむ)く羊(ひつじ)歩々(ぶぶ)の思(おも)ひも如何(いか)でか是(これ)には勝(まさ)るべき。君は御(おん)心(こころ)安(やす)く落(お)ちさせ給(たま)ひ候(さうら)へ。忠信(ただのぶ)は是(これ)に止(とど)まり候(さうら)ひて、麓(ふもと)の大衆(だいしゆ)を待(ま)ち得(え)て、一方(いつぱう)の防矢(ふせぎや)仕(つかまつ)り、一先(ひとま)づ落(おと)し参(まゐ)らせ候(さうら)はばや」と申(まう)しければ、「尤(もつと)も志(こころざし)は嬉(うれ)しけれども、御辺(ごへん)の兄(あに)継信(つぎのぶ)が、屋嶋(やしま)の軍(いくさ)の時(とき)、義経(よしつね)が為(ため)に命(いのち)を棄(す)て、能登(のと)殿(どの)の矢先(やさき)に中(あた)つて失(う)せしかども、是(これ)まで御辺(ごへん)の付(つ)き給(たま)ひたれば、継信(つぎのぶ)も兄弟(きやうだい)ながら未(いま)だある心地(ここち)してこそ思(おも)ひつれ。年の内(うち)は思(おも)へば幾程(いくほど)もなし。人も命(いのち)有(あ)り、我(われ)も存命(ながら)へたらば、明年の正月(むつき)の末(すゑ)、二月(きさらぎ)の初(はじ)めには陸奥(みちのく)へ下(くだ)らんずれば、御辺(ごへん)も下(くだ)りて、秀衡(ひでひら)をも見よかし。又(また)信夫(しのぶ)の里(さと)に留(とど)め置(お)きし妻子(さいし)をも、今(いま)一度見(み)給(たま)へかし」と仰(おほ)せられければ、「さ承(うけたまは)り候(さうら)ひぬ。治承(ぢしよう)三年の秋の頃(ころ)、陸奥(みちのく)を罷(まか)り出(い)で候(さうら)ひし時(とき)も、「今日(けふ)よりして君(きみ)に命(いのち)を奉(たてまつ)りて、名を後代に上(あ)げよ。矢にも
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中(あた)り死(し)にけると聞(き)かば、孝養(けうやう)は秀衡(ひでひら)が忠(ちゆう)を致(いた)すべし。高名度々に及(およ)ばば、勲功(くんこう)は君(きみ)の御計(はか)らひ」とこそ申(まう)し含(ふく)められしか。命を生(い)きて故郷(こきやう)へ帰(かへ)れと申(まう)したる事(こと)も候(さうら)はず。信夫(しのぶ)に留(とど)め候(さうら)ひし母(はは)一人候(さうら)ふも、其(そ)の時(とき)を最期(さいご)とばかりこそ申(まう)し切(き)りて候(さうら)ひしか。弓矢(ゆみや)取(と)る身の習(なら)ひ、今日(けふ)は人の上(うへ)、明日(あす)は御身(おんみ)の上(うへ)、皆(みな)かくこそ候(さうら)はん。君(きみ)こそ御(おん)心(こころ)弱(よわ)く渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)ふ共(とも)、人々(ひとびと)それ良(よ)き様(やう)に申(まう)させ給(たま)ひ候(さうら)へや」とぞ申(まう)しける。武蔵坊(むさしばう)是(これ)を聞(き)きて申(まう)しけるは、「弓矢(ゆみや)取(と)る者(もの)の言葉(ことば)は綸言(りんげん)に同(おな)じ。言葉(ことば)に出(い)だしつる事(こと)を翻(ひるがへ)す事(こと)は候(さうら)はじ。唯(ただ)心(こころ)安(やす)く御暇(おんいとま)を賜(たま)はりたし」とぞ申(まう)しける。判官(はうぐわん)暫(しばら)く物(もの)も仰(おほ)せられざりけるが、やや有(あ)りて、「惜(を)しむとも適(かな)ふまじ。さらば心に任(まか)せよ」とぞ仰(おほ)せられける。忠信(ただのぶ)承(うけたまは)りて嬉(うれ)しげに思(おも)ひて、只(ただ)一人吉野(よしの)の奥(おく)にぞ止(とど)まりける。然(さ)れば夕(ゆふべ)には三光(さんくわう)の星(ほし)を戴(いただ)き、朝(あした)にはけうくんの霧(きり)を払(はら)い、玄冬(げんとう)素雪(そせつ)の冬の夜も、九夏(きうか)三伏(さんぶく)の夏(なつ)の朝(あした)にも、日夜(にちや)朝暮(てうぼ)片時(かたとき)も離(はな)れ奉(たてまつ)らず仕(つか)へ奉(たてまつ)りし御主の、御名残(おんなごり)も今(いま)ばかりなりければ、日頃(ひごろ)は坂上(さかのうへ)の田村丸(たむらまろ)、藤原(ふぢはら)の利仁(としひと)にも劣(おと)らじと思(おも)ひしが、流石(さすが)に今(いま)は心(こころ)細(ぼそ)くぞ思(おも)ひける。十六人の人々(ひとびと)も、面々(めんめん)に暇乞(いとまごひ)して、前後(ぜんご)不覚(ふかく)にぞなりにける。又(また)判官(はうぐわん)、忠信(ただのぶ)を近(ちか)く召(め)して仰(おほ)せられけるは、「御辺(ごへん)が帯(は)きたる太刀(たち)は、寸の
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長(なが)き太刀(たち)なれば、流(なが)れに臨(のぞ)んでは叶(かな)ふまじ。身(み)疲(つか)れたる時(とき)、太刀(たち)の延(の)びたるは悪(あ)しかりなん。是(これ)を以(もつ)て最後(さいご)の軍(いくさ)せよ」とて、金作(こがねづくり)の太刀の二尺(にしやく)七寸(ななすん)有(あ)りけるに、剣(けん)の樋(ひ)かきて、地膚(ぢはだ)心(こころ)も及(およ)ばざるを取(と)り出(い)だして賜(たま)はりけり。「此(こ)の太刀(たち)寸(すん)こそ短(みじか)けれども、身(み)に於(おい)ては一物(いちぶつ)にてあるぞ、義経(よしつね)も身(み)に変(か)へて思(おも)ふ太刀(たち)なり。それを如可(いか)にと言(い)ふに、平家(へいけ)の兵(つはもの)、兵船(ひやうせん)を揃(そろ)へし時(とき)に、熊野(くまの)の別当(べつたう)の、権現(ごんげん)の御剣(けん)を申(まう)し下(おろ)して賜(たま)はりしを、信心を致(いた)したりしに依(よ)りてや、三年(みとせ)に朝敵(てうてき)を平(たひ)らげて、義朝(よしとも)の会稽(くわいけい)の恥(はぢ)をも雪(すす)ぎたりき。命(いのち)に代(か)へて思(おも)へども、御辺(ごへん)も身に代(か)へれば取(と)らするぞ。義経(よしつね)に添(そ)うたりと思(おも)へ」とぞ仰(おほ)せられける。四郎兵衛(しらうびやうゑ)是(これ)を賜(たま)はりて戴(いただ)き、「あはれ御帯刀(おんばかせ)や。是(これ)御覧(ごらん)候(さうら)へ。兄にて候(さうら)ひし継信(つぎのぶ)は、屋嶋(やしま)の合戦(かつせん)の時、君(きみ)の御命(おんいのち)に代(か)はり参(まゐ)らせて候(さうら)ひしかば、奥州(あうしう)の秀衡(ひでひら)が参らせて候(さうら)ひし、大夫黒(たいふぐろ)賜(たま)はりて、黄泉(よみぢ)にても乗(の)り候(さうら)ひぬ。忠信(ただのぶ)忠(ちゆう)を致(いた)し候(さうら)へば、御秘蔵(ひさう)の御帯刀(おんばかせ)賜(たま)はり候(さうら)ひぬ。是(これ)を人の上(うへ)と思召(おぼしめ)すべからず。誰(たれ)も誰(たれ)も皆(みな)かくこそ候(さうら)はんずれ」と申(まう)しければ、各(おのおの)涙(なみだ)をぞ流(なが)しける。判官(はうぐわん)仰(おほ)せられけるは、「何事(なにごと)か思(おも)ひ置(お)く事(こと)のある」「御暇(おんいとま)賜(たま)はり候(さうら)ひぬ。何事(なにごと)を思(おも)ひ置(お)くべしとも覚(おぼ)え候(さうら)はず。但(ただ)し末代(まつだい)までも弓矢(ゆみや)の瑕瑾(かきん)なるべし。少(すこ)し申(まう)し上(あ)げたき事(こと)の候(さうら)へ共(ども)、恐(おそ)れをなして申(まう)さず候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「最後(さいご)にてあるに、何事(なにごと)
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ぞ、申(まう)せかし」と仰(おほ)せを蒙(かうぶ)り、跪(ひざまづ)きて申(まう)しけるは、「君(きみ)は大勢(おほぜい)にて落(お)ちさせ給(たま)はば、身は是(これ)に一人止(とど)まり候(さうら)ふべし。吉野(よしの)の執行(しゆぎやう)押(お)し寄(よ)せ候(さうら)ひて、「是(これ)に九郎判官(はうぐわん)殿(どの)の渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)ふか」と申(まう)し候(さうら)はんに、「忠信(ただのぶ)」と名乗(なの)り候(さうら)はば、大衆(だいしゆ)は極(きは)めたる華飾(くわしよく)の者(もの)にて候(さうら)へば、大将軍(たいしやうぐん)も御座(おは)しまさざらん所(ところ)にて、私軍(わたくしいくさ)益(えき)なしとて帰(かへ)り候(さうら)はん事こそ、末代(まつだい)まで恥辱(ちじよく)になりぬべく候(さうら)へ。今日(けふ)ばかり清和天皇(せいわてんわう)の御号(おんがう)を預(あづ)かるべくや候(さうら)ふらん」とぞ申(まう)しける。「尤(もつと)もさるべき事(こと)なれども、純友(すみとも)将門(まさかど)も天命(てんめい)を背(そむ)き参(まゐ)らせしかば、遂(つひ)に亡(ほろ)びぬ。況(ま)してや言(い)はん、「義経(よしつね)は院宣(ゐんぜん)にも叶(かな)はず、日頃(ひごろ)好(よしみ)有(あ)りつる者(もの)共(ども)心(こころ)変(か)はりしつる上(うへ)、力(ちから)及(およ)ばず、今日(けふ)を暮(くら)し夕(ゆふべ)を明(あ)かすべき身(み)にても無(な)ければ、遂(つひ)に遁(のが)れ無(な)からんもの故(ゆゑ)に、清和(せいわ)の名を許(ゆる)しけり」と言(い)はれん事(こと)は、他の謗(そしり)をば、如何(いかが)すべき」と仰(おほ)せられければ、忠信(ただのぶ)申(まう)しけるは、「様(やう)にこそより候(さうら)はんずれ。大衆(だいしゆ)押(お)し寄(よ)せて候(さうら)はば、箙(えびら)の矢(や)を散々(さんざん)に射(い)尽(つ)くし、矢種(やだね)尽(つ)きて、太刀(たち)を抜(ぬ)き、大勢の中へ乱(みだ)れ入(い)り切(き)りて後(のち)に、刀(かたな)を抜(ぬ)き、腹(はら)を切(き)り候(さうら)はん時(とき)、「誠(まこと)に是(これ)は九郎判官(はうぐわん)と思(おも)ひ参(まゐ)らせ候(さうら)はんずるなり。実(げ)には御内(みうち)に佐藤(さとう)四郎兵衛(しらうびやうゑ)と言(い)ふ者(もの)なり。君(きみ)の御号(おんがう)を借(か)り参(まゐ)らせて、合戦(かつせん)に忠(ちゆう)を致(いた)しつるなり。首(くび)を持(も)つて鎌倉(かまくら)殿(どの)の見参(げんざん)に入(い)れよ」とて、腹(はら)掻(か)き切(き)り死(し)なん後(のち)は、君(きみ)の御号(おんがう)も何(なに)か苦(くる)しく候(さうら)はん」とぞ申(まう)しける。「尤(もつと)も最後(さいご)の時(とき)、
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斯様(かやう)にだに申(まう)し分(わ)けて死(し)に候(さうら)ひなば、何か苦(くる)しかるべき、殿原(とのばら)」と仰(おほ)せられて、清和天皇(せいわてんわう)の御号(おんがう)を預(あづ)かる。是(これ)を現世(げんぜ)の名聞(みやうもん)、後世(ごせ)の訴(うつたへ)とも思(おも)ひける。「御辺(ごへん)が著(き)たる鎧(よろひ)は如何(いか)なる鎧(よろひ)ぞ」と仰(おほ)せ有(あ)りければ、「是(これ)は継信(つぎのぶ)が最後(さいご)の時(とき)著(き)て候(さうら)ひし」と申(まう)せば、「それは能登守(のとのかみ)の矢(や)にたまらず透(とほ)りたりし鎧(よろひ)ぞ、頼(たの)む所(ところ)なし。衆徒(しゆと)の中にも聞(き)こゆる精兵(せいびやう)の有(あ)りけるぞ。是(これ)を著(き)よ」とて、緋威(ひをどし)の鎧(よろひ)に白星(しらほし)の兜(かぶと)添(そ)へて賜(たま)はりけり。著(き)たりける鎧(よろひ)脱(ぬ)ぎて、雪(ゆき)の上(うへ)に差(さ)し置(お)き、「雑色(ざふしき)共(ども)に賜(た)び候(さうら)へ」と申(まう)しければ、「義経(よしつね)も著(き)替(か)へべき鎧(よろひ)もなし」とて、召(め)しぞ替(か)へられける。実(まこと)に例(ためし)無(な)き御事(おんこと)にぞ有(あ)りける。「さて故郷(こきやう)に思(おも)ひ置(お)く事(こと)は無(な)きか」と仰(おほ)せられければ、「我(われ)も人も衆生界(しゆじやうかい)の習(なら)ひにて、などか故郷(こきやう)の事(こと)思(おも)ひ置(お)かぬ事(こと)候(さうら)ふべき。国を出(い)でし時、三歳(さんさい)になり候(さうら)ふ子を、一人留(とど)め置(お)きて候(さうら)ひしぞ。彼(か)の者(もの)心(こころ)付(つ)きて、父(ちち)は何処(いづく)にやらんと尋(たづ)ね候(さうら)ふべきなれば、聞(き)かまほしくこそ候(さうら)へ。平泉(ひらいづみ)を出(い)でし時、君ははや御(おん)たち候(さうら)ひしかば、鳥(とり)の鳴(な)いて通(とほ)る様(やう)に、信夫(しのぶ)を打(う)ち通(とほ)り候(さうら)ひしに、母(はは)の御所(ごしよ)に立(た)ち寄(よ)り、暇乞(いとまご)ひ候(さうら)ひしかば、齢(よはひ)衰(おとろ)へて、二人(ふたり)の子供(こども)の袖にすがりて悲(かな)しみ候(さうら)ひし事、今(いま)の様(やう)に覚(おぼ)へ候(さうら)へ。「老(おい)の末(すゑ)になりて、我(われ)ばかり物(もの)を思(おも)ふ、子供(こども)に縁(えん)の無(な)き身なりけり。信夫(しのぶ)の庄司(しやうじ)に過(す)ぎ別(わか)れ、偶々(たまたま)近(ちか)づきて不便(ふびん)にあたられし伊達(だて)の娘(むすめ)に
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も過(す)ぎ分(わか)れ、一方(ひとかた)ならぬ嘆(なげ)きなれども、和殿原(わとのばら)を成人(せいじん)させて、一所(いつしよ)にこそ無(な)けれども、国の内(うち)に有(あ)りと思(おも)へば、頼(たの)もしくこそ思(おも)ひつるに、秀衡(ひでひら)何(なに)と思召(おぼしめ)し候(さうら)ふやらん、二人(ふたり)の子供(こども)を皆(みな)御供(おんとも)せさせ給(たま)へば、一旦(いつたん)の恨(うら)みはさる事(こと)なれども、子供(こども)を成人(せいじん)せさせて、人数に思(おも)はれ奉(たてまつ)るこそ嬉(うれ)しけれ。隙(ひま)無(な)く合戦(かつせん)に会(あ)ふとも、臆病(おくびやう)の振舞(ふるまひ)して、父(ちち)の屍(かばね)に血(ち)をあえし給(たま)ふなよ。高名(かうみやう)して、四国西国(さいこく)の果(はて)に在(おは)すとも、一年二年に一度も命(いのち)の有(あ)らん程(ほど)は、下(くだ)りて見(み)もし、見(み)えられよ。一人止(とど)まりて、一人絶(た)えたるだに悲(かな)しきに、二人(ふたり)ながら遙々(はるばる)と別(わか)れては、如何(いかが)せん」と申(まう)す声(こゑ)をも惜(を)しまず泣(な)き候(さうら)ひしを振(ふ)り捨(す)てて、「さ承(うけたまは)り候(さうら)ふ」とばかり申(まう)して打(う)ち出(い)で候(さうら)ふより此(こ)のかた、三四年(さんしねん)遂(つひ)に音信(おとづれ)も仕(つかまつ)らず。去年の春(はる)の頃(ころ)、わざと人を下(くだ)して、「継信(つぎのぶ)討(う)たれ候(さうら)ひぬ」と告(つ)げて候(さうら)ひしかば、斜(なのめ)ならず
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悲(かな)しみ候(さうら)ひけるが、「継信(つぎのぶ)が事(こと)はさて力(ちから)及(およ)ばず、明年の春の頃(ころ)にもなりなば、忠信(ただのぶ)が下(くだ)らんと言(い)ふ嬉(うれ)しさよ。早(はや)今年(ことし)の過(す)ぎよかし」なんど待(ま)ち候(さうら)ふなるに、君(きみ)の御下(おんくだ)り候(さうら)はば、母にて候(さうら)ふ者(もの)、急(いそ)ぎ平泉(ひらいづみ)へ参(まゐ)り、「忠信(ただのぶ)は何処(いづく)に候(さうら)ふぞ」と申(まう)さば、継信(つぎのぶ)は屋嶋(やしま)、忠信(ただのぶ)は吉野(よしの)にて討(う)たれけると承(うけたまは)りて、如何(いか)ばかり歎(なげ)き候(さうら)はんずらん。それこそ罪(つみ)深(ぶか)く覚(おぼ)えて候(さうら)へ。君(きみ)の御下(おんくだ)り候(さうら)ひて、御(おん)心(こころ)安(やす)く渡(わた)らせ御座(おは)しまし候(さうら)はば、継信(つぎのぶ)忠信(ただのぶ)が孝養(けうやう)は候(さうら)はずとも、母(はは)一人不便(ふびん)の仰(おほ)せをこそ預(あづ)かりたく候(さうら)へ」と申(まう)しも果(は)てず、袖を顔(かほ)に押(お)し当(あ)てて泣(な)きければ、判官(はうぐわん)も涙(なみだ)を流(なが)し給(たま)ふ。十六人の人々(ひとびと)も皆(みな)鎧(よろひ)の袖をぞ濡(ぬ)らしける。「さて一人留(とど)まるか」と仰(おほ)せられければ、「奥州(あうしう)より連(つ)れ候(さうら)ひし若党(わかたう)五十四人候(さうら)ひしが、或(ある)いは死(し)に或(ある)いは故郷(こきやう)へ返(かへ)し候(さうら)ひぬ。今(いま)五六人候(さうら)ふこそ死(し)なんと申(まう)すげに候(さうら)へ」「さて義経(よしつね)が者(もの)は留(とど)まらぬか」と仰(おほ)せられければ、「備前(びぜん)、鷲尾(わしのを)こそ留(とど)まらんと申(まう)し候(さうら)へども、君を見(み)つぎ参(まゐ)らせよとて留(とど)め申(まう)さず候(さうら)ふ。御内(みうち)の雑色(ざふしき)二人(ふたり)も「何事(なにごと)も有(あ)らば一所(いつしよ)にて候(さうら)ふ」と申(まう)し候(さうら)ふ間(あひだ)、留(とど)まるげに候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、判官(はうぐわん)聞召(きこしめ)して、「彼等(かれら)が心(こころ)こそ神妙(しんべう)なれ」とぞ仰(おほ)せける。
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忠信(ただのぶ)吉野山(よしのやま)の合戦(かつせん)の事(こと) S0505
それ師(し)の命(めい)に代(か)はりしは、内供智興(ないこうちこう)の弟子証空(しようくう)阿闍梨(あじやり)、夫(おつと)の命(いのち)に代(か)はりしは、薫豊(とうふ)が節女(せつぢよ)なりけり。今(いま)命(いのち)を捨(す)て身を捨(す)てて、主の命(いのち)に代(か)はり、名をば後代に残(のこ)すべき事、源氏(げんじ)の郎等(らうどう)に如(し)くはなし。上古(しやうこ)は知(し)らず、末代(まつだい)に例(ためし)有(あ)り難(がた)し。義経(よしつね)今(いま)は遙(はる)かにのびさせ給(たま)ふらんと思(おも)ひ、忠信(ただのぶ)は三滋目結(みつしげめゆひ)の直垂(ひたたれ)に、緋威(ひをどし)の鎧(よろひ)、白星(しらぼし)の兜(かぶと)の緒(を)を締(し)め、淡海公(たんかいこう)より伝(つた)はりたるつつらいと言(い)ふ太刀(たち)三尺(さんじやく)五寸(ごすん)有(あ)りけるを帯(は)き、判官(はうぐわん)より賜(たま)はりたる黄金造(こがねづく)りの太刀(たち)を帯副(はきぞへ)にし、大中黒(おほなかぐろ)の廿四さしたる、上矢には青保呂(あをほろ)、鏑(かぶら)の目(め)より下六寸(ろくすん)ばかりあるに、大(だい)の雁股(かりまた)すげて、佐藤(さとう)の家(いへ)に伝(つた)へて差(さ)す事(こと)なれば、蜂食(はちばみ)の羽(は)を以(もつ)て矧(は)いだる一(ひと)つ中差(なかざし)を何(いづ)れの矢(や)よりも一寸(いつすん)筈(はず)を出(い)だして指(さ)したりけるを、頭高(かしらだか)に負(お)ひなし、節木(ふしき)の弓(ゆみ)の戈(ほこ)短(みじか)く射(い)よげなるを持(も)ち手勢(てぜい)七人、中院(ちゆうゐん)の東谷(ひがしだに)に留(とど)まりて、雪(ゆき)の山(やま)を高(たか)く築(つ)きて、譲葉(ゆづりは)榊葉(さかきば)を散々(さんざん)に切(き)り差(さ)して、前(まへ)には大木を五六本楯(たて)に取(と)りて、麓(ふもと)の大衆(だいしゆ)二三百人を今(いま)や今(いま)やとぞ待(ま)ちたりける。未(ひつじ)の終(をはり)申(さる)の刻(こく)の始(はじ)めになりけるまで待(ま)ちけれ共(ども)、敵(てき)は寄(よ)せざりけり。かくて日を暮(くら)すべき様(やう)もなし。「いざや追(お)ひ著(つ)き参(まゐ)らせて、判官(はうぐわん)の御伴(おんとも)申(まう)さん」と陣(ぢん)
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を去(さ)りて二町ばかり尋(たづ)ね行(ゆ)きけれども、風(かぜ)烈(はげ)しくて雪(ゆき)深(ふか)ければ、其(そ)の跡(あと)も皆(みな)白妙(しろたへ)になりにければ、力(ちから)及(およ)ばず、前(まへ)の所(ところ)へ帰(かへ)りにけり。酉(とり)の時(とき)ばかりに大衆(だいしゆ)三百人ばかり谷(たに)を隔(へだ)てて押(お)し寄(よ)せて、同音(どうおん)に鬨(とき)をぞつくりける。七人も向(むか)ひの杉山(すぎやま)の中より幽(かすか)に鬨(とき)を合(あ)はせけり。さてこそ敵(てき)此処(ここ)に有(あ)りとは知(し)られけれ。其(そ)の日は執行(しゆぎやう)の代官(だいくわん)に川(かは)つら法眼と申(まう)して悪僧(あくそう)有(あ)り。寄足(よせあし)の先陣(せんぢん)をぞしたりける。法師(ほふし)なれども尋常(じんじやう)に出(い)で立(た)ちけり。萌黄(もよぎ)の直垂(ひたたれ)に紫糸(むらさきいと)の鎧(よろひ)著(き)て、三枚兜(さんまいかぶと)の緒(を)締(し)めて、しんせい作(づく)りの太刀(たち)帯(は)き、石打(いしうち)の征矢(そや)の二十四差(さ)したるを頭高(かしらだか)に負(お)ひなして、二所籐(ふたどころふじ)の弓の真中(まんなか)取(と)りて、我(われ)に劣(おと)らぬ悪僧(あくそう)五六人前後に歩(あゆ)ませて、真先(まつさき)に見(み)えたる法師(ほふし)は四十ばかりに見(み)えけるが、褐(かちん)の直垂(ひたたれ)に黒革威(くろかはをどし)の腹巻(はらまき)、黒漆(こくしつ)の太刀(たち)を帯(は)き、椎(しゐ)の木の四枚楯(しまいたて)突(つ)かせ、矢比(やごろ)にぞ寄(よ)せたりける。川(かは)つらの法眼(ほふげん)楯(たて)の面(おもて)に進(すす)み出(い)でて、大音(だいおん)揚(あ)げて申(まう)しけるは、「抑(そもそも)此(こ)の山(やま)には鎌倉(かまくら)殿(どの)の御弟判官(はうぐわん)殿(どの)の渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)ふ由(よし)承(うけたまは)りて、吉野(よしの)の執行(しゆぎやう)こそ罷(まか)り向(むか)ひ候(さうら)へ。私(わたくし)等(ら)は、何(なに)の遺恨(いこん)候(さうら)はねば、一先(ひとま)づ落(お)ちさせ給(たま)ふべく候(さうら)ふか、又(また)討死(うちじに)遊(あそ)ばし候(さうら)はんか。御前(おまえ)に誰(たれ)がしが御渡(おんわた)り候(さうら)ふ。良(よ)き様(やう)に申(まう)され候(さうら)へや」と賢々(さかさか)しげに申(まう)したりければ、四郎兵衛(しらうびやうゑ)是(これ)を聞(き)きて、「あら事(こと)も愚(おろか)や、清和天皇(せいわてんわう)の御末(おんすゑ)、九郎判官(はうぐわん)殿(どの)の御渡(おんわた)り候(さうら)ふとは、今(いま)まで御辺(ごへん)達(たち)は知(し)らざりけるか。日頃(ひごろ)好(よし)みあるは、訪(とぶら)ひ参(まゐ)らせ
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たらんは、何(なに)の苦(くる)しきぞ。人の讒言(ざんげん)に依(よ)つて鎌倉(かまくら)殿(どの)御仲(おんなか)当時(たうじ)不和(ふわ)に御座(おは)しますとも、■(むしつ)なれば、などか思召(おぼしめ)し直(なほ)し給(たま)はざらん、あはれ末(すゑ)の大事(だいじ)かな。仔細(しさい)を向(むか)うて聞(き)けと言(い)ふ御使(おんつかひ)、何者(なにもの)とか思(おも)ふらん。鎌足(かまたり)の内大臣の御末(おんすゑ)、淡海公(たんかいこう)の後胤(こうゐん)、佐藤(さとう)左衛門(さゑもん)憲(のり)たかには孫(まご)、信夫(しのぶ)の庄司(しやうじ)が二男、四郎兵衛(しらうびやうゑ)の尉(じよう)藤原(ふぢはら)の忠信(ただのぶ)と言(い)ふ者(もの)なり。後(のち)に論(ろん)ずるな、慥(たしか)に聞(き)け、吉野(よしの)の小法師(こぼふし)原(ばら)」とぞ言(い)ひける。川(かは)つらの法眼(ほふげん)是(これ)を聞(き)きて、賎(いや)しげに言(い)はれたりと思(おも)ひて、悪所(あくしよ)も嫌(きら)はず、谷越(たにごし)に喚(おめ)いてぞかかる。忠信(ただのぶ)是(これ)を見(み)て、六人の者(もの)共(ども)に逢(あ)ひて申(まう)しけるは、「是(これ)等(ら)を近(ちか)づけては悪(あ)しかるべし。御辺(ごへん)達(たち)は是(これ)にて敵(てき)の問答(もんだふ)をせよ。某(それがし)は中差(なかざし)二(ふたつ)三つに弓(ゆみ)持(も)ちて、細谷河(ほそたにがは)の水上(みなかみ)を渡(わた)り、敵(てき)の後(うし)ろに狙(ねら)ひ寄(よ)り、鏑(かぶら)一(ひと)つぞ限(かぎり)にて有(あ)らん。楯(たて)突(つ)いて居(ゐ)たる悪僧(あくそう)奴(め)が、首(くび)の骨(ほね)か押付(おしつけ)かを一矢(ひとや)射(い)て、
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残(のこり)の奴原(やつばら)追(お)ひ散(ち)らし、楯(たて)取(と)りて打(う)ち被(かづ)き、中院(ちゆうゐん)の峰(みね)に上(のぼ)りて、突(つ)き迎(むか)へて、敵(てき)に矢(や)を尽(つ)くさせ、味方(みかた)も矢種(やだね)の尽(つ)きば、小太刀(こだち)抜(ぬ)き、大勢(おほぜい)の中(なか)へ走(はし)り入(い)りて、切(き)り死(しに)に死(し)ねや」とぞ申(まう)しける。大将軍(だいしやうぐん)がよかりければ、付(つ)き添(そ)ふ若党(わかとう)も一人として悪(わろ)きはなし。残りの者(もの)共(ども)申(まう)しけるは、「敵(てき)は大勢(おほぜい)にて候(さうら)ふに、仕(し)損(そん)じ給(たま)ふなよ」と申(まう)しければ、「置(お)いて物(もの)を見よ」とて、中差(なかざし)、鏑矢(かぶらや)一(ひとつ)おつ取(と)り添(そ)へて、弓杖(ゆんづゑ)突(つ)き、一番(いちばん)の谷(たに)を走(はし)り上(あ)がりて、細谷河(ほそたにがは)の水上(みなかみ)を渡(わた)り、敵(てき)の後(うし)ろの小暗(こぐら)き所(ところ)より狙(ねら)ひ寄(よ)りて見(み)れば、枝(えだ)は夜叉(やしや)の頭(かしら)の如(ごと)くなる臥木(ふしき)有(あ)り。づと登(のぼ)り上(あ)がりて見れば、左手(ゆんで)に相(あひ)付(つ)けて、矢先(やさき)に射(い)よげにぞ見(み)えたりける。三人張(ばり)に十三束(ぞく)三つ伏(ぶせ)取(と)つて矧(は)げ、思(おも)ふ様(さま)に打(う)ち引(ひ)きて、鏑元(かぶらもと)へからりと引(ひ)き掛(か)けて、暫(しば)し固(かた)めてひやうど射(い)る。末強(すゑづよ)に遠鳴(とほなり)して、楯(たて)突(つ)きたる悪僧(あくそう)の弓手(ゆんで)の小腕(こかひな)を、楯(たて)の板(いた)を添(そ)へてづと射(い)切(き)り、雁股(かりまた)は手楯(てだて)に立(た)つ。矢(や)の下にがはとぞ射(い)倒(たふ)したる。大衆(だいしゆ)大(おほ)いに呆(あき)れたる所(ところ)に、忠信(ただのぶ)弓(ゆみ)の下(もと)を叩(たた)いて喚(おめ)くやう、「よしや者共(ども)、勝(かつ)に乗(の)りて、大手(おほて)は進(すす)め、搦手(からめて)は廻(めぐ)れや。伊勢(いせ)の三郎、熊井(くまゐ)太郎鷲尾(わしのを)、備前(びぜん)は無(な)きか。片岡(かたをか)の八郎よ、西塔(さいたふ)の武蔵坊(むさしばう)は無(な)きか。しやつ原(ばら)逃(にが)すな」と喚(おめ)きければ、川(かは)つらの法眼(ほふげん)是(これ)を聞(き)きて、「真(まこと)や判官(はうぐわん)の御内(みうち)には、是(これ)等(ら)こそ手(て)にもたまらぬ者(もの)共(ども)なれ。矢比(やごろ)に近(ちか)づきては適(かな)ふまじ」とて、三方(さんぱう)へ向(む)いてざつと散(ち)る。
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物に譬(たと)ふれば、龍田(たつた)、初瀬(はつせ)の紅葉葉(もみぢば)の嵐(あらし)に散(ち)るに異(こと)ならず。敵(かたき)追(お)ひ散(ち)らして、楯(たて)取(と)つて打(う)ち披(かづ)き、味方(みかた)の陣(ぢん)へ突(つ)き迎(むか)へて、七人は手楯(てだて)の陰(かげ)に並(な)み居(ゐ)たり。敵(てき)に矢(や)をぞ尽(つ)くさせける。大衆(だいしゆ)手楯(てだて)を取(と)られ、安(やす)からぬ事(こと)に思(おも)ひ、精兵(せいびやう)を選(すぐ)つて矢面(やおもて)に立ち、散々(さんざん)に射(い)る。弓(ゆみ)の弦(つる)の音、杉山(すぎやま)に響(ひび)く事(こと)夥(おびたた)し。楯(たて)の面(おもて)に当(あ)たる事、板屋(いたや)の上(うへ)に降(ふ)る霰(あられ)、砂子(いさご)を散(ち)らす如(ごと)くなり。半時(はんじ)ばかり射(い)けれ共(ども)、矢(や)をば射(い)ざりけり。六人の者共(ども)思(おも)ひ切(き)りたる事(こと)なれば、「何時(いつ)の為(ため)に命(いのち)をば惜(を)しむべきぞ。いざや軍(いくさ)せん」とぞ申(まう)しける。四郎兵衛(しらうびやうゑ)是(これ)を聞(き)きて申(まう)しけるは、「只(ただ)置(お)ひて矢種(やだね)を尽(つ)くさせよ。吉野(よしの)法師(ほふし)は今日(けふ)こそ軍(いくさ)の始(はじ)めなれ、やがて矢(や)も無(な)き弓(ゆみ)を持(も)ち、其(そ)の門弟(もんてい)と渦巻(うずま)いたらんずる隙(すき)を守(まぼ)りて、散々(さんざん)に射(い)払(はら)ひて、味方(みかた)の矢種(やだね)尽(つ)きば、打物(うちもの)の鞘(さや)を外(はづ)し、乱(みだ)れ入(い)りて討死(うちじに)せよ」と言(い)ひも果(は)てざりけるに、大衆(だいしゆ)所々(ところどころ)に佇(たたず)まひて立(た)ちたり。「あはれ隙(ひま)や、いざや軍(いくさ)せん」とて、射向(いむけ)の袖(そで)を楯(たて)として、散々(さんざん)にこそ射(い)たりけれ。暫(しばら)く有(あ)りて後(うし)ろへぱつとのいて見れば、六人の郎等(らうどう)も四人は打(う)たれて二人(ふたり)になる。二人(ふたり)も思(おも)ひ切(き)りたる事(こと)なれば、忠信(ただのぶ)を射(い)させじとや思(おも)ひけん。面(おもて)に立(た)ちてぞ防(ふせ)ぎける。一人は医王(いわう)禅師(ぜんじ)が射(い)ける矢に、首(くび)の骨(ほね)を射(い)られて死(し)ぬ。一人は治部(ぢぶ)の法眼(ほふげん)が射(い)ける矢(や)に脇壷(わきつぼ)射(い)られて失(う)せにけり。六人の郎等(らうどう)皆(みな)討(う)たれければ、忠信(ただのぶ)一人になりて、
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「中々(なかなか)えせ方人(かたうど)有(あ)りつるは、足(あし)に紛(まぎ)れて悪(わろ)かりつるに」と言(い)ひて、箙(えびら)を探(さぐ)りて見(み)ければ、尖矢(とがりや)一(ひと)つ、雁股(かりまた)一(ひと)つぞ射(い)残(のこ)して有(あ)りける。あはれよからん敵(かたき)出(い)で来(こ)よかし。尋常(じんじやう)なる矢(や)一(ひと)つ射(い)て、腹(はら)切(き)らんとぞ思(おも)ひける。河つらの法眼(ほふげん)は其(そ)の日の矢合(やあはせ)に仕(し)損(そん)じて、何(なに)の用(よう)にも合(あ)はせで、其(そ)の門弟(もんてい)三十人ばかり、疎(まばら)に渦巻(うずま)いて立(た)ちたる、後(うし)ろより其(そ)の丈(たけ)六尺(ろくしやく)許(ばか)りなる法師(ほふし)の、極(きは)めて色(いろ)黒(くろ)かりけるが、装束(しやうぞく)も真黒(まつくろ)にぞしたりけるが、褐(かちん)の直垂(ひたたれ)に、黒革(くろかは)を二寸(すん)に切(き)つて一寸(いつすん)は畳(たた)みて威(おど)したる鎧(よろひ)に五枚兜(ごまいかぶと)のためしたるを猪頚(ゐくび)に著なして、三尺(さんじやく)九寸(すん)有(あ)りける黒漆(こくしつ)の太刀(たち)に、熊(くま)の皮(かは)の尻鞘(しりざや)入(い)れてぞ帯(は)きたりける。逆頬箙(さかづらえびら)矢配(やくばり)尋常(じんじやう)なるに、塗箆(ぬりの)に黒羽(くろは)を以(もつ)て矧(は)ぎたる矢(や)の箆(の)の太(ふと)さは笛竹(ふえだけ)などの様(やう)なるが、箆巻(のまき)より上(かみ)十四束(じふしそく)にたぶたぶと切(き)りたるを、掴差(つかみざ)しに差(さ)して頭高(かしらだか)に負(お)ひなし、糸包(いとづつみ)の弓(ゆみ)の九尺(きうしやく)ばかり有(あ)りける四人張(よにんばり)を杖(つゑ)に突(つ)き、臥木(ふしき)に登(のぼ)りて申(まう)しけるは、「抑(そもそも)此(こ)の度(たび)衆徒(しゆと)の軍(いくさ)拝見(はいけん)して候(さうら)ふに、誠(まこと)に憶持(おくぢ)も無(な)くしなされて候(さうら)ふ物(もの)かな。源氏(げんじ)を小勢なればとて、欺(あざむ)きて仕(し)損(そん)ぜられて候(さうら)ふかや。九郎判官(はうぐわん)と申(まう)すは、世に超(こ)えたる大将軍(だいしやうぐん)なり。召(め)し使(つか)はるる者(もの)一人当千(たうぜん)ならぬはなし。源氏(げんじ)の郎等(らうどう)も皆(みな)討(う)たれ候(さうら)ひぬ。味方(みかた)の衆徒(しゆと)大勢死(し)に候(さうら)ひぬ。源氏(げんじ)の大将軍(だいしやうぐん)と大衆(だいしゆ)の大将軍(だいしやうぐん)と運比(うんくら)べの軍(いくさ)仕(つかまつ)り候(さうら)はん。かく申(まう)すは何者(なにもの)ぞやと思召(おぼしめ)す、紀伊国(きいのくに)
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の住人(ぢゆうにん)鈴木党(すずきたう)の中に、さる者有(あ)りとは、予(かね)て聞召(きこしめ)してもや候(さうら)ふらん。以前(いぜん)に候(さうら)ひつる河つらの法眼(ほふげん)と申(まう)す不覚人(ふかくじん)には似(に)候(さうら)ふまじ。幼少(えうせう)の時(とき)よりして腹(はら)悪(あ)しきえせものの名を得(え)候(さうら)ひて、紀伊国(きいのくに)を追(お)ひ出(い)だされて、奈良(なら)の都(みやこ)東大寺(とうだいじ)に候(さうら)ひし、悪僧(あくそう)立(た)つる曲者(くせもの)にて東大寺(とうだいじ)も追(お)ひ出(い)だされて、横川(よかわ)と申(まう)す所(ところ)に候(さうら)ひしが、それも寺中(じちゆう)を追(お)ひ出(い)だされて、川つらの法眼(ほふげん)と申(まう)す者(もの)を頼(たの)みて、此(こ)の二年こそ吉野(よしの)には候(さうら)へ。然(さ)ればとて横川(よかわ)より出(い)で来(き)たり候(さうら)ふとて、其(そ)の異名(いみやう)を横河(よかは)の禅師(ぜんじ)覚範(かくはん)と申(まう)す者(もの)にて候(さうら)ふが、中差(なかざし)参(まゐ)らせて現世(げんぜ)の名聞(みやうもん)と存(ぞん)ぜうずるに、御調度(みてうづ)給(たま)ひては、後世(ごせ)の訴(うつた)へとこそ存(ぞん)じ候(さうら)はんずれ」と申(まう)して、四人張(よにんば)りに十四束(じふしそく)を取(と)つて矧(は)げ、かなぐり引(び)きによつ引(ぴ)きてひやうど放(はな)つ。忠信(ただのぶ)弓杖(ゆんづゑ)突(つ)きて立(た)ちたるを、弓手(ゆんで)の太刀打(たちうち)をば射(い)て射(い)越(こ)し、後(うし)ろの椎(しゐ)の木に沓巻(くつまき)せめて立(た)つ。四郎兵衛(しらうびやうゑ)是(これ)を見(み)て、はしたなく射(い)たる物(もの)かな、保元(ほうげん)の合戦(かつせん)に鎮西(ちんぜい)の八郎御曹司(おんざうし)の、七人張(ば)りに十五束(そく)を以(もつ)て遊(あそ)ばしたりしに、鎧(よろひ)著(き)たるものを射(い)貫(ぬ)き給(たま)ひしが、それは上古(しやうこ)の事(こと)末代(まつだい)には如何(いか)でか是(これ)程の弓勢(ゆんぜい)あるべしとも覚(おぼ)えず、一の矢(や)射(い)損(そん)じて、二の矢(や)をば直中(ただなか)を射(い)んとや思(おも)ふらん。胴中(どうなか)射(い)られて叶(かな)はじと思(おも)ひければ、尖矢(とがりや)を差(さ)し矧(は)げてあてては、差(さ)し許(ゆる)し差(さ)し許(ゆる)し二三度しけるが、矢比(やごろ)は少(すこ)し遠(とほ)し、風(かぜ)は谷(たに)より吹(ふ)き上(あ)ぐる、思(おも)ふ所へはよも行(ゆ)かじ、仮令(たとひ)射(い)中(あ)てたりとも、大力(だいぢから)にて有(あ)る
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なれば、鎧(よろひ)の下(した)に札(さね)良(よ)き腹巻(はらまき)などや著(き)たるらん、裏(うら)掻(か)かせずしては、弓矢(ゆみや)の疵(きず)になりなん、主(ぬし)を射(い)ば射(い)損(そん)ずる事(こと)もあるべし、弓(ゆみ)を射(い)ばやとぞ思(おも)ひける。大唐(だいたう)の養由(やうゆう)は、柳(やなぎ)の葉(は)を百歩(ひやくほ)に立(たて)て、百矢(ももや)を射(い)けるに百矢(ももや)は中(あた)りけるとかや。我(わ)が朝(てう)の忠信(ただのぶ)は、こうがいを五段(たん)に立(た)てて射(い)外(はづ)さず。まして弓手(ゆんで)のものをや。矢比(やごろ)は少(すこ)し遠(とほ)けれども、何(なに)射(い)外(はづ)すべきとぞ思(おも)ひける。矧(は)げたる矢(や)をば雪(ゆき)の上(うへ)に立(た)て、小雁股(こかりまた)を差(さ)し矧(は)げて、小引(こびき)に引(ひ)きて待(ま)つ所(ところ)に覚範(かくはん)一の矢を射(い)損(そん)じて、念(ねん)無(な)く思(おも)ひなして、二の矢(や)を取(と)つて番(つが)ひ、そぞろ引(び)く所(ところ)をよつ引(ぴ)いてひやうど射(い)る。覚範(かくはん)が弓(ゆみ)の鳥打(とりうち)をはたと射(い)切(き)られて、弓手(ゆんで)へ棄(な)げ捨(す)て、腰(こし)なる箙(えびら)かなぐり棄(す)て、「我(われ)も人も運(うん)の極(きは)めは、前業(ぜんごふ)限(かぎ)り有(あ)り。さらば見参(げんざん)せん」とて、三尺(さんじやく)九寸(すん)の太刀(たち)抜(ぬ)き、稲妻(いなづま)の様(やう)に振(ふ)りて、真向(まつかう)に当(あ)てて喚(おめ)いて懸(か)かる。四郎兵衛(しらうびやうゑ)も思(おも)ひ設(まう)けたる事(こと)なれば、弓(ゆみ)と箙(えびら)を投(な)げ棄(す)てて、三尺(さんじやく)五寸(ごすん)のつつらいと言(い)ふ太刀(たち)抜(ぬ)きて待(ま)ち懸(か)けたり。覚範(かくはん)は象(ざう)の牙(きば)を磨(みが)くが如(ごと)く喚(おめ)いて懸(か)かる。四郎兵衛(しらうびやうゑ)も獅子(しし)の怒(いかり)をなして待(ま)ち懸(か)けたり。近(ちか)づくかとすれば、逸(はや)りきつたる太刀(たち)の左手(ゆんで)も右手(めて)も嫌(きら)はず、■打(なぎう)ちに散々(さんざん)に打(う)つてかかる。忠信(ただのぶ)も入(い)れ交(ちが)へてぞ斬(き)り合(あ)ひける。打(う)ち合(あ)はする音(おと)のはためく事、御神楽(みかぐら)の銅拍子(とびやうし)を打(う)つが如(ごと)し。敵(てき)は大太刀(おほたち)を持(も)つて開(ひら)いたる、脇(わき)の下(した)よりづと寄(よ)りて、新鷹(あらたか)の鳥屋(とや)を潛(くぐ)ら
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んとする様(やう)に、錏(しころ)を傾(かたぶ)け乱(みだ)れ入(い)りてぞ切(き)つたりける。大(だい)の法師(ほふし)攻(せ)め立(た)てられて、額(ひたひ)に汗(あせ)を流(なが)し、今(いま)は斯(か)うとぞ思(おも)ひける。忠信(ただのぶ)は酒(さけ)も飯(めし)もしたためずして、今日(けふ)三日になりければ、打(う)つ太刀(たち)も弱(よわ)りける。大衆(だいしゆ)は是(これ)を見(み)て、「よしや覚範(かくはん)勝(かつ)に乗(の)れ、源氏(げんじ)は受太刀(うけかたな)に見(み)え給(たま)ふぞ。隙(すき)な有(あ)らせそ」と、力(ちから)を添(そ)へてぞ切(き)らせける。暫(しば)しは進(すす)みて切(き)りけるが、如何(いかが)したりけん、是(これ)も受刀(うけかたな)にぞなりにける。大衆(だいしゆ)是(これ)を見(み)て、「覚範(かくはん)こそ受刀(うけがたな)に見ゆれ。いざや下(お)り合(あ)ひて助(たす)けん」と言(い)ひければ、「尤(もつと)もさあるべし」とて、落(お)ち合(あ)ふ大衆(だいしゆ)誰々(たれたれ)ぞ。医王(いわう)禅師(ぜんじ)、常陸(ひたち)の禅師(ぜんじ)、主殿助(とのものすけ)、薬院(やくい)の頭(かみ)、かへりさかの小聖(こひじり)、治部(ぢぶ)の法眼(ほふげん)、山科(やましな)の法眼(ほふげん)とて、究竟(くつきやう)の者(もの)七人喚(おめ)きて懸(か)かる。忠信(ただのぶ)是(これ)を見(み)て、夢(ゆめ)を見(み)る様(やう)に思(おも)ふ所(ところ)に、覚範(かくはん)叱(しか)つて申(まう)しけるは、「こは如何(いか)に衆徒(しゆと)、狼藉(らうぜき)に見(み)え候(さうら)ふぞや、大将軍(だいしやうぐん)の軍(いくさ)をば、放(はな)ち合(あ)はせてこそ物(もの)を見(み)れ。落(お)ち合(あ)ひては末代(まつだい)の瑕瑾(かきん)に言(い)はんずる為(ため)かや。末(すゑ)の世の敵(てき)と思(おも)はんずるぞや」と申(まう)す間(あひだ)「落(お)ち合(あ)ひたりとても、嬉(うれ)しとも言(い)はざらんもの故(ゆゑ)に、只(ただ)放(はな)ち合(あ)はせて物を見よ」とて、一人も落(お)ち合(あ)はず。忠信(ただのぶ)は憎(にく)し、彼奴(きやつ)一引(ひ)き引(ひ)きて見(み)ばやとぞ思(おも)ひける。持(も)ちたる太刀(たち)を打(う)ち振(ふ)りて、兜(かぶと)の鉢(はち)の上(うへ)にからりと投(な)げ懸(か)けて、少(すこ)しひるむ所(ところ)を帯副(はきぞへ)の太刀(たち)を抜(ぬ)きて走(はし)りかかりて、ちやうど打(う)つ。内胄(うちかぶと)へ太刀(たち)の切先(きつさき)を入(い)れたりけり。あはやと見ゆる所(ところ)に、
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錏(しころ)を傾(かたぶ)けてちやうど突(つ)く。鉢付(はちつけ)をしたたかに突(つ)かれけれ共(ども)、頚(くび)には仔細(しさい)なし。忠信(ただのぶ)は三四段(たん)ばかり引(ひ)いて行(ゆ)く。大(だい)の臥木(ふしき)有(あ)り。たまらずゆらりとぞ越(こ)えにける。覚範(かくはん)追(お)ひ掛(か)けてむずと打(う)つ。打(う)ち外(はづ)して臥木(ふしき)に太刀(たち)を打(う)ち貫(つらぬ)きて、抜(ぬ)かん抜(ぬ)かんとする隙(ひま)に、忠信(ただのぶ)三段(たん)ばかりするすると引(ひ)く。差(さ)し覗(のぞ)きて見れば、下は四十丈(ぢやう)許(ばか)りなる磐石(ばんじやく)なり。是(これ)ぞ龍(りゆう)返(がへ)しとて、人も向(むか)はぬ難所(なんじよ)なる。左手(ゆんで)も右手(めて)も、足(あし)の立(た)て所(ど)も無(な)き深(ふか)き谷(たに)の、面(おもて)を向(む)くべき様(やう)もなし。敵(てき)は後(うし)ろに雲霞(うんか)の如(ごと)くに続(つづ)きたり。此処(ここ)にて切(き)られたらば、敢(あへ)無(な)く討(う)たれたるとぞ言(い)はれんずる。彼処(かしこ)にて死(し)にたらば、自害(じがい)したりと言(い)はれんと思(おも)ひて、草摺(くさずり)掴(つか)んで、磐石(ばんじやく)へ向(むか)ひて、えいや声(こゑ)を出(い)だして跳(は)ねたりけり。二丈(にぢやう)許(ばか)り飛(と)び落(お)ちて、岩(いは)の間(はざま)に足(あし)踏(ふ)み直(なほ)し、兜(かぶと)の錏(しころ)押(お)しのけて見れば、覚範(かくはん)も谷(たに)を覗(のぞ)きてぞ立(た)ちたりける。「正(まさ)無(な)く見(み)えさせ給(たま)ふかや。返(かへ)し合(あ)はせ給(たま)へや。君(きみ)の御供(おんとも)とだに思(おも)ひ参(まゐ)らせ候(さうら)はば、西(にし)は西海(さいかい)の博多(はかた)の津(つ)、北は北山(ほくさん)、佐渡(さど)の島(しま)、東(ひがし)は蝦夷(えぞ)の千島(ちしま)までも御伴(おんとも)申(まう)さんずるぞ」と申(まう)しも果(は)てず、えい声(ごゑ)を出(い)だして跳(は)ねたりけり。如何(いかが)したりけん、運(うん)の極(きは)めの悲(かな)しさは、草摺(くさずり)を臥木(ふしき)の角(つの)に引(ひ)き掛(か)けて、真逆様(まつさかさま)にどうど転(ころ)び、忠信(ただのぶ)が打物(うちもの)提(ひつさ)げて待(ま)つ所(ところ)へ、のさのさと転(ころ)びてぞ来(き)たりける。起(おき)上(あ)がる所(ところ)を、以(もつ)て開(ひら)いてちやうど打(う)つ。太刀(たち)は聞(き)こゆる宝物(ほうぶつ)なり。腕(うで)は強(つよ)かりけり。兜(かぶと)の真向(まつかう)
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はたと打(う)ち割(わ)り、しや面(つら)を半(なから)ばかりぞ切(き)り付(つ)けける。太刀(たち)を引(ひ)けば、がはと伏(ふ)す。起(お)きん起(お)きんとしけれども、只(ただ)弱(よわ)りに弱(よわ)りて、膝(ひざ)を抑(おさ)へて唯(ただ)一声(ひとこゑ)、うんとばかりを後言(のちごと)にして、四十一にてぞ死(し)ににける。思(おも)ふ所に斬(き)り伏(ふ)せて、忠信(ただのぶ)は斬(しば)し休(やす)みて、抑(おさ)へて首(くび)を掻(か)き、太刀(たち)の先(さき)に貫(つらぬ)きて、中院(ちゆうゐん)の峰(みね)に上(のぼ)りて、大(だい)の声(こゑ)を以(もつ)て、「大衆(だいしゆ)の中に此(こ)の首(くび)見(み)知(し)りたる者(もの)やある。音(おと)に聞(き)こえたる覚範(かくはん)が首(くび)をば義経(よしつね)が取(と)りたるぞ。門弟(もんてい)有(あ)らば取(と)りて孝養(けうやう)せよ」とて雪(ゆき)の中へぞ投(な)げ入(い)れたる。大衆(だいしゆ)是(これ)を見(み)て、「覚範(かくはん)さへも叶(かな)はず、まして我(われ)等(ら)さこそ有(あ)らんず。いざや麓(ふもと)に帰(かへ)りて、後日の僉議(せんぎ)にせん」と申(まう)しければ、穢(きたな)し、共(とも)に死(し)なんと申(まう)す者(もの)も無(な)くて、「此(こ)の儀に同(どう)ず」と申(まう)して、大衆(だいしゆ)は麓(ふもと)に帰(かへ)りければ、忠信(ただのぶ)独(ひと)り吉野(よしの)に捨(す)てられて、東西(とうざい)を聞(き)きければ、甲斐(かひ)無(な)き命(いのち)生(い)きて、「我(われ)を助(たす)けよ」と言(い)ふ者(もの)も有(あ)り。空(むな)しき輩(やから)も有(あ)り。忠信(ただのぶ)郎等(らうどう)共(ども)を見(み)けれども、一人も息(いき)の通(かよ)ふ者(もの)なし。頃(ころ)は廿日の事(こと)なれば、暁(あかつき)かけて出(い)づる月宵(よひ)は未(いま)だ暗(くら)かりけり。忠信(ただのぶ)は必(かな)らず死(し)なれざらん命(いのち)を死(し)なんとせんも詮(せん)なし。大衆(だいしゆ)と寺中(じちゆう)の方(かた)へ行(ゆ)かんとぞ思(おも)ひける。兜(かぶと)をば脱(ぬ)いで高紐(たかひも)に掛(か)け、乱(みだ)したる髪(かみ)取(と)り上(あ)げ、血(ち)の付(つ)きたる太刀(たち)拭(のご)ひて打(う)ちかつぎ、大衆(だいしゆ)より先(さき)に寺中(じちゆう)の方(かた)へぞ行(ゆ)きける。大衆(だいしゆ)是(これ)を見(み)て、声々(こゑごゑ)に喚(おめ)きける。「寺中(じちゆう)の者(もの)共(ども)は聞(き)かぬかや。判官(はうぐわん)殿(どの)
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は山(やま)の軍(いくさ)に負(ま)け給(たま)ひて、寺中(じちゆう)へ落(お)ち給(たま)ふぞ。それ逃(に)がし奉(たてまつ)るな」とぞ喚(おめ)きける。風(かぜ)は吹(ふ)く、雪(ゆき)は降(ふ)る。人々(ひとびと)是(これ)を聞(き)き付(つ)けず。忠信(ただのぶ)は大門(だいもん)に差(さ)し入(い)りて、御在所(ございしよ)の方(かた)を伏(ふ)し拝(おが)み、南大門(なんだいもん)を真下(まくだ)りに行(ゆ)きけるが、左(ひだり)の方(かた)に大(だい)なる家有(あ)り。是(これ)は山科(やましな)の法眼(ほふげん)と申(まう)す者(もの)の坊(ばう)なり。差(さ)し入(い)りて見(み)れば、方丈(ほうじやう)には人一人もなし。庫裡(くり)の傍(かたは)らに法師(ほふし)二人(ふたり)児(ちご)三人居(ゐ)たり。様々(さまざま)の菓子(くわし)共(ども)積(つ)みて、瓶子(へいじ)の口(くち)包(つつ)ませ立(た)てたりけり。四郎兵衛(しらうびやうゑ)是(これ)を見(み)て、「是(これ)こそ良(よ)き所(ところ)なれ。何ともあれ、汝(おのれ)が酒盛(さかもり)の銚子(てうし)はそれんずらん」と、太刀(たち)打(う)ちかたげて縁(えん)の板(いた)をがはと踏(ふ)みて、荒(あ)ららかにづと入(い)る。児(ちご)も法師(ほふし)も如何(いか)でか驚(おどろ)かであるべき。腰(こし)や抜(ぬ)けたりけん、高這(たかばい)にして三方(さんぱう)へ逃(に)げ散(ち)る。忠信(ただのぶ)思(おも)ふ座敷(ざしき)にむずと居(ゐ)直(なほ)り、菓子(くわし)共(ども)引(ひ)き寄(よ)せて、思(おも)ふ様(さま)にしたためて居(ゐ)たる所(ところ)に、敵(てき)の声(こゑ)こそ喚(おめ)きけれ。忠信(ただのぶ)是(これ)を聞(き)きて、提子(ひさげ)盃(さかづき)取(と)り廻(まは)らん程(ほど)に、時刻(じこく)移(うつ)しては叶(かな)はずと思(おも)ひ、酒(さけ)に長じたる男(をとこ)にて、瓶子(へいじ)の口(くち)に手(て)を入(い)れて、傍(かたは)らを引(ひ)きこぼして打(う)ち飲(の)みて、兜(かぶと)は膝(ひざ)の下(した)に差(さ)し置(お)き、小(すこ)しも騒(さわ)がず、火にて額(ひたひ)焙(あぶ)りけるが、重(おも)き鎧(よろひ)は著(き)たり、雪をば深(ふか)く漕(こ)ぎたり。軍疲(いくさつか)れに酒(さけ)は飲みつ、火にはあたる、敵(てき)の寄手(よせて)喚(おめ)くをば、夢(ゆめ)に見(み)て眠(ねぶ)り居(ゐ)たりけり。大衆(だいしゆ)此処(ここ)に押(お)し奇(よ)せて、「九郎判官(はうぐわん)是(これ)に御渡(おんわた)り候(さうら)ふか、出(い)でさせ給(たま)へ」と
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言(い)ひける声(こゑ)に驚(おどろ)いて、兜(かぶと)を著(き)、火(ひ)を打(う)ち消(け)して、「何(なに)に憚(はばか)りをなすぞや。志(こころざし)のある者(もの)は此方(こなた)へ参(まゐ)れや」と申(まう)しけれども、命(いのち)を二つ持(も)ちたらばこそ、左右(さう)無(な)くも入(い)らめ、只(ただ)外(そと)に渦巻(うずま)いゐたり。山科(やましな)の法眼(ほふげん)申(まう)しけるは、「落人(おちうと)を入(い)れて、夜を明(あ)かさん事(こと)も心得(こころえ)ず、我(われ)等(ら)世にだにも有(あ)らば、是(これ)程(ほど)の家(いへ)一日に一(ひと)つづつも造(つく)りけん。只(ただ)焼(や)き出(い)だして射(い)殺(ころ)せ」とこそ申(まう)しける。忠信(ただのぶ)是(これ)を聞(き)きて、敵(てき)に焼(や)き殺(ころ)されて有(あ)りと言(い)はれんずるは、念(ねん)も無(な)き事(こと)なり。手づから焼(や)け死(し)にけると言(い)はれんと思(おも)ひて、屏風(びやうぶ)一具(ひとよろひ)に火を付(つ)けて、天井(てんじやう)へなげ上(あ)げたり。大衆(だいしゆ)是(これ)を見(み)て、「あはや内(うち)より火を出(い)だしたるは。出(い)で給(たま)はん所(ところ)を射(い)殺(ころ)せ」とて、矢を矧(は)げ太刀(たち)長刀(なぎなた)を構(かま)へて待(ま)ちかけたり。焼(や)き上(あ)げて忠信(ただのぶ)、広縁(ひろえん)に立(た)ちて申(まう)しけるは、「大衆(だいしゆ)共(ども)万事(ばんじ)を鎮(しづ)めて是(これ)を聞(き)け。真(まこと)に
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判官(はうぐわん)殿(どの)と思(おも)ひ奉(たてまつ)るかや。君(きみ)は何時(いつ)か落(お)ちさせ給(たま)ひけん。是(これ)は九郎判官(はうぐわん)殿(どの)にては、渡(わた)らせ給(たま)はぬぞ。御内(みうち)に佐藤(さとう)四郎兵衛(しらうびやうゑ)藤原(ふぢはら)の忠信(ただのぶ)と言(い)ふ者(もの)なり。我(わ)が討(う)ち取(と)る人の、討(う)ち取(と)りたりと言(い)ふべからず。腹(はら)切(き)るぞ。首(くび)を取(と)りて、鎌倉(かまくら)殿(どの)の見参(げんざん)に入(い)れよや」とて、刀(かたな)を抜(ぬ)き、左(ひだり)の脇(わき)に刺(さ)し貫(つらぬ)く様(やう)にして、刀(かたな)をば鞘(さや)にさして、内(うち)へ飛(と)んで帰(かへ)り、走(はし)り入(い)り、内殿(ないでん)の引橋(ひきはし)取(と)つて、天井(てんじやう)へ上(のぼ)りて見(み)ければ、東の鵄尾(とびのを)は未(いま)だ焼(や)けざりけり。関板(せきいた)をがはと踏(ふ)み放(はな)し、飛(と)んで出(い)で見(み)ければ、山(やま)を切(き)りて、かけ作(づく)りにしたる楼(らう)なれば、山(やま)と坊との間(あひだ)一丈(いちぢやう)余(あま)りには過(す)ぎざりけり。是(これ)程(ほど)の所(ところ)を跳(は)ね損(そん)じて、死(し)ぬる程(ほど)の業(ごふ)になりては力(ちから)及(およ)ばず。八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)、知見(ちけん)を垂(た)れ給(たま)へと祈誓(きせい)して、えい声(ごゑ)を出(い)だして跳(は)ねたりければ、後(うし)ろの山(やま)へ相違(さうゐ)無(な)く飛(と)び付(つ)きて、上(うへ)の山(やま)に差(さ)し上(あ)がり、松(まつ)の一叢(ひとむら)有(あ)りける所(ところ)に鎧(よろひ)脱(ぬ)ぎ、打(う)ち敷(し)きて、兜(かぶと)の鉢(はち)枕(まくら)にして、敵(かたき)の周章(あはて)狼狽(ふため)く有様(ありさま)を見(み)てぞ居(ゐ)たりける。大衆(だいしゆ)申(まう)しけるは、「あら恐(おそ)ろしや。判官(はうぐわん)殿(どの)かと思(おも)ひつれば、佐藤(さとう)四郎兵衛(しらうびやうゑ)にて有(あ)りけるものを。欺(たばか)られ多(おほ)くの人を討(う)たせつるこそ安(やす)からね。大将軍(だいしやうぐん)ならばこそ首(くび)を取(と)つて鎌倉(かまくら)殿(どの)の見参(げんざん)にも入(い)れめ。憎(にく)し、只(ただ)置(お)きて焼(や)き殺(ころ)せや」とぞ言(い)ひける。火(ひ)も消(き)え、炎(ほのほ)も鎮(しづ)まりて後(のち)、焼(や)けたる首(くび)をなりとも、御坊(ごばう)の見参(げんざん)に入(い)れよとて、手々(てで)に探(さが)せ共(ども)、自害(じがい)もせざりければ、焼(や)けたる首(くび)もなし。さて
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こそ大衆(だいしゆ)は、「人の心(こころ)は剛(かう)にても剛(かう)なるべき者(もの)なり。死(し)して後(のち)までも屍(かばね)の上(うへ)の恥(はぢ)を見(み)えじとて、塵(ちり)灰(はひ)に焼(や)け失(う)せたるらめ」と申(まう)して、寺中(じちゆう)にぞ帰(かへ)りける。忠信(ただのぶ)、其(そ)の夜は蔵王権現(ざわうごんげん)の御前にて夜を明(あ)かし、鎧(よろひ)をば権現(ごんげん)の御前(おまへ)に差(さ)し置(お)きて、廿一日の曙(あけぼの)に御岳(みたけ)を出(い)でて、二十三日の暮(くれ)程(ほど)に、危(あやう)き命(いのち)生(い)きて、二度(ふたたび)都(みやこ)へぞ入(い)りにける。
吉野(よしの)法師(ほふし)判官(はうぐわん)を追(お)ひかけ奉(たてまつ)る事 S0506
さても義経(よしつね)、十二月廿三日にくうしやうのしやう、しいの嶺(みね)、譲葉(ゆづりは)の峠(たうげ)と言(い)ふ難所(なんじよ)を越(こ)えて、こうしうが谷にかかりて、桜谷(さくらだに)と言(い)ふ所(ところ)にぞ御座(おは)しける。雪(ゆき)降(ふ)り埋(うづ)み氷(つらら)凍(ゐ)て、一方(ひとかた)ならぬ山路(やまぢ)なれば、皆人(みなひと)疲(つか)れに臨(のぞ)みて、太刀(たち)を枕(まくら)にしなどして臥(ふ)したりけり。判官(はうぐわん)心(こころ)許(もと)無(な)く思召(おぼしめ)して、武蔵坊(むさしばう)を召(め)して仰(おほ)せられけるは、「抑(そもそも)此(こ)の山(やま)の麓(ふもと)に義経(よしつね)に頼(たの)まれぬべきものやある。酒(さけ)を乞(こ)ひて疲(つか)れを休(やす)めて、一先(ひとま)づ落(お)ちばや」とぞ仰(おほ)せける。弁慶(べんけい)申(まう)しけるは、「誰(たれ)か心(こころ)安(やす)く頼(たの)まれ参(まゐ)らせ候(さうら)はんとも覚(おぼ)えず候(さうら)ふ。但(ただ)し此(こ)の山(やま)の麓(ふもと)に弥勒堂(みろくだう)の立(た)たせ御座(おは)しまし候(さうら)ふ。聖武(しやうむ)天皇(てんわう)の御建立(こんりう)の所(ところ)にて、南都(なんと)の勧修坊(くわんじゆばう)の別当(べつたう)にて渡(わた)ら
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せ給(たま)ひ候(さうら)へば、其(そ)の代官(だいくわん)に御岳(みたけ)左衛門(さゑもん)と申(まう)し候(さうら)ふ者(もの)、俗別当(ぞくべつたう)にて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「頼(たの)む方(かた)は有(あ)りけるごさんなれ」と仰(おほ)せられて、御文遊(あそ)ばして、武蔵坊(むさしばう)に賜(た)ぶ。麓(ふもと)に下(くだ)りて、左衛門(さゑもん)に此(こ)の由(よし)言(い)ひければ、「程近(ちか)く御座(おは)しましけるに、今(いま)まで仰(おほ)せ蒙(かうぶ)らざりけるよ」とて、身に親(した)しき者五六人呼(よ)びて、様々(さまざま)の菓子(くわし)積(つ)み、酒(さけ)、飯(はん)共(とも)に長櫃(ながびつ)二合(にがふ)、桜谷(さくらだに)へぞ参(まゐ)らせける。是程(ほど)心(こころ)安(やす)かりける事(こと)をと仰(おほ)せられて、十六人の中に二合(にがふ)の長櫃(ながひつ)掻(か)き据(す)ゑて、酒(さけ)に望(のぞ)みをなす人も有(あ)り、飯(はん)をしたためんとする人も有(あ)り。思(おも)ふげに取(と)り散(ち)らして行(おこな)はんとし給(たま)ふ所(ところ)に東(ひがし)の杉山(すぎやま)の方(かた)に人の声(こゑ)幽(かすか)に聞(き)こえけるを怪(あや)しとや思召(おぼしめ)されけん、「売炭(ばいたん)の翁(おきな)も通(かよ)はねば、炭焼(すみやき)とも覚(おぼ)えず。峰(みね)の細道(ほそみち)遠(とほ)ければ、賎(しづ)が爪木(つまぎ)の斧(をの)の音共(とも)思(おも)はれず」と後(うし)ろをきつと見(み)給(たま)へば、一昨日(をととひ)中院(ちゆうゐん)の谷にて四郎兵衛(しらうびやうゑ)に打(う)ち洩(も)らされたる吉野(よしの)法師(ぼふし)、未(いま)だ憤(いきどほ)り忘(わす)れずして、甲冑(かつちう)をよろひて、百五十ぞ出(い)で来(き)たる。「すはや、敵(てき)よ」と宣(のたま)ひければ、骸(かばね)の上(うへ)の恥(はぢ)をも顧(かへり)みず、皆(みな)散(ち)り散(ぢ)りにぞなりにける。常陸坊(ひたちばう)は人より先(さき)に落(お)ちにけり。跡(あと)を顧(かへり)みければ、武蔵坊(むさしばう)も君(きみ)も未(いま)だ元(もと)の所(ところ)に働(はたら)かずして居(ゐ)給(たま)ふ。「我(われ)等(ら)が是(これ)まで落(お)つるに、此(こ)の人々(ひとびと)留(とど)まり給(たま)ふは如何(いか)なる事(こと)をか思召(おぼしめ)すやらん」と申(まう)しも果(は)てざりけるに、二合(にがふ)の長櫃(ながひつ)を一合(いちがふ)づつ取(と)りて、東(ひがし)の磐石(ばんじやく)へ向(む)けて投(な)げ落(お)とし、積(つ)みたる菓子(くわし)を
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ば雪(ゆき)の外(そと)に心(こころ)静(しづ)かに掘(ほ)り埋(うづ)みてぞ落(お)ち給(たま)ひける。弁慶(べんけい)は遙(はる)かの先(さき)に延(の)びたる常陸坊(ひたちばう)に追(お)ひ著(つ)き、「各々(おのおの)跡(あと)を見(み)るに、曇(くもり)無(な)き鏡(かがみ)を見(み)るが如(ごと)し。誰(たれ)も命(いのち)惜(を)しくは、履(くつ)を逆(さか)さまに履(は)きて落(お)ち給(たま)へや」とぞ申(まう)しける。判官(はうぐわん)是(これ)を聞(き)き給(たま)ひて、「武蔵坊(むさしばう)は奇異(きい)の事(こと)を常(つね)に申(まう)すぞとよ。如何様(いかやう)に履(くつ)をば逆様(さかさま)に履(は)くべきぞ」と仰(おほ)せ有(あ)りければ、武蔵坊(むさしばう)申(まう)しけるは、「さてこそ君は梶原(かぢはら)が船(ふね)に逆櫓(さかろ)と言(い)ふ事(こと)を申(まう)しつるに、御笑(わら)ひ候(さうら)ひつる」と申(まう)せば、「真(まこと)に逆櫓(さかろ)と言(い)ふ事(こと)も知(し)らず。まして履(くつ)を逆(さか)さまに履(は)くと言(い)ふ事(こと)は、今(いま)こそ初(はじ)めて聞(き)け。さらば善悪(ぜんあく)履(は)きて、末代(まつだい)の瑕瑾(かきん)にもなるまじくは履(は)くべし」とぞ宣(のたま)ひける。弁慶(べんけい)「さらば語(かた)り申(まう)さん」とて、十六の大国(たいこく)、五百の中国、無量(むりやう)の粟散国(ぞくさんこく)までの代々の帝(みかど)の次第(しだい)次第(しだい)其(そ)の合戦(かつせん)の様(やう)を語(かた)り居(ゐ)たれば、敵(てき)は矢比(やごろ)に近(ちか)づけども、真円(まんまる)に立(た)ち並(なら)びて、静々(しづしづ)とぞ語(かた)らせて聞(き)き給(たま)ふ。「十六の大国(たいこく)の内(うち)に、西天竺(さいてんじく)と覚(おぼ)えて候(さうら)ふ、しらない国(こく)、波羅奈国(はらないこく)と申(まう)す国(くに)有(あ)り。彼(か)の国(くに)の境(さかひ)に香風山(かうふさん)と申(まう)す山(やま)有(あ)り。麓(ふもと)に千里の広野(ひろの)有(あ)り。此(こ)の香風山(かうふさん)は宝(たから)の山(やま)とて、容易(たやす)く人をも入(い)れざりしを、波羅奈国(はらないこく)の王(わう)、此(こ)の山(やま)を取(と)らんと思召(おぼしめ)して、五十一万騎の軍兵(ぐんびやう)を具(ぐ)して、しらない国(こく)へ打(う)ち入(い)り給(たま)ふ。彼(か)の国(くに)の王(わう)も賢王(けんわう)にて渡(わた)らせ給(たま)ひける間(あひだ)、予(かね)て是(これ)を知(し)り給(たま)ふ事(こと)有(あ)り。香風山(かうふさん)の北(きた)の腰(こし)に千(せん)の洞(ほら)と言(い)ふ所有(あ)り。
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是(これ)に千頭(せんず)の象(ざう)有(あ)り。中に一の大象(おほざう)有(あ)り。国王(こくわう)此(こ)の象(ざう)を取(と)りて飼(か)ひ給(たま)ふに、一日に四百石を食(は)む。公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)有(あ)りて、「此(こ)の象(ざう)を飼(か)ひ給(たま)ひては、何の益(えき)かましまさん」と申(まう)されければ、帝(みかど)の仰(おほ)せには、「勝合戦(かちかつせん)に遭(あ)ふ事(こと)無(な)からんや」と宣旨(せんじ)を下(くだ)し給(たま)ひしに、思(おも)ひの外(ほか)に此(こ)の戦(いくさ)出(い)で来(き)にければ、武士(ぶし)を向(む)けられず、此(こ)の象(ざう)を召(め)して御口(くち)を耳(みみ)にあてて、「朕(ちん)が恩(おん)を忘(わす)るるな」と宣旨(せんじ)を含(ふく)めて、敵(かたき)の陣(ぢん)へ放(はな)ち給(たま)ふ。大象(おほざう)怒(いかり)をなして、悪象(あくざう)なれば、天(てん)に向(むか)ひて一声(ひとこゑ)吼(ほ)えければ、大(だい)なる法螺貝(ほらがひ)千(せん)揃(そろ)へて吹(ふ)くが如(ごと)し其(そ)の声(こゑ)骨髄(こつずい)に通(とほ)りて堪(た)え難(がた)し。左(ひだり)の足(あし)を差(さ)し出(い)だして、其方(そなた)を踏(ふ)みければ、一度に五十人の武者(むしや)を踏(ふ)み殺(ころ)す。七日(なぬか)七夜(ななや)の合戦(かつせん)に五十一万騎(ぎ)皆(みな)討(う)たれぬ。供奉(ぐぶ)の公卿(くぎやう)侍(さぶらひ)三人上下十騎(き)に討(う)ちなされ、香風山(かうふさん)の北(きた)の腰(こし)へ逃(に)げ篭(こも)り給(たま)ふ。頃(ころ)は神無月(かんなづき)廿日余(あま)りの事(こと)なれば、紅葉(もみぢ)麓(ふもと)に散(ち)り敷(し)きて、むらむら雪(ゆき)の曙(あけぼの)を踏(ふ)みしだきて落(お)ち行(ゆ)く。国王(こくわう)御身(おんみ)を助(たす)けん為(ため)にや、履(くつ)を逆(さか)さまに履(は)きて落(お)ち給(たま)ふ。先(さき)は後(あと)、後(あと)は先(さき)にぞなりにける。追手(おひて)是(これ)を見(み)て、「是(これ)は異朝(いてう)の賢王(けんわう)にてましませば、如何(いか)なる謀(はかりこと)にてやあるらん。此(こ)の山(やま)は虎(とら)臥(ふ)す山(やま)なれば、夕日(ゆふひ)西(にし)へ傾(かたぶ)きては、我(われ)等(ら)が命(いのち)も測(はか)り難(かた)し」とて、麓(ふもと)の里(さと)にぞ帰(かへ)りける。国王(こくわう)御命(おんいのち)を助(たす)かり給(たま)ひて、我(わ)が国(くに)へ帰(かへ)りて、五十六万騎(ぎ)の勢(せい)を揃(そろ)へて、今度(こんど)の合戦(かつせん)に打(う)ち勝(か)つて、悦(よろこ)び重(かさ)ね給(たま)ひしも、履(くつ)を逆(さか)さまに履(は)き給(たま)ひし
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謂(い)はれなり。異朝(いてう)の賢王(けんわう)もかくこそましませしか、君(きみ)は本朝(ほんてう)の武士(ぶし)の大将軍(だいしやうぐん)、清和天皇(せいわてんわう)の十代(だい)の御末(おんすゑ)になり給(たま)へり。「敵(てき)奢(おご)らば我(われ)奢らざれ。敵(てき)奢(おご)らざる。我(われ)奢(おご)れ」と申(まう)す本文(ほんもん)有(あ)り、人をば知(し)るべからず、弁慶(べんけい)に於(おい)ては」とて、真先(まつさき)に履(は)いてぞ進(すす)みける。判官(はうぐわん)是(これ)を見(み)給(たま)ひて、「奇異(きい)の事(こと)を見(み)知(し)りたるや。何処(いづく)にて是(これ)をば習(なら)ひけるぞ」と仰(おほ)せられければ、「桜本(さくらもと)の僧正(そうじやう)の許(もと)に候(さうら)ひし時、法相(ほつさう)三論(さんろん)の遺教(ゆいけう)の中(なか)に書(か)きて候(さうら)ふ」と申(まう)しけり。「あはれ文武(ぶんぶ)二道(にだう)の碩学(せきがく)や」とぞ讚(ほ)めさせ給(たま)ふ。武蔵坊(むさしばう)「我(われ)より外に心(こころ)も剛(かう)に案(あん)も深(ふか)き者(もの)有(あ)らじ」と自称(じしよう)して、心(こころ)静(しづ)かに落(お)ちけるに、大衆(だいしゆ)程(ほど)無(な)くぞ続(つづ)きける。其(そ)の日の先陣(せんぢん)は治部(ぢぶ)の法限(ほふげん)ぞしたりける。衆徒(しゆと)に会(あ)うて申(まう)しけるは、「此処(ここ)に不思議(ふしぎ)のあるは如何(いか)に。今(いま)までは谷(たに)へ下(くだ)りてある跡(あと)の、今(いま)は又(また)谷(たに)より此方(こなた)へ来(き)たる、如何(いかが)」と申(まう)しければ、後陣(ごぢん)に医王(いわう)禅師(ぜんじ)と言(い)ふ者(もの)走(はし)り寄(よ)りて、是(これ)を見(み)て、「さる事(こと)あるらん。九郎判官(はうぐわん)と申(まう)すは、鞍馬育(くらまそだち)の人なり、文武(ぶんぶ)二道(にだう)に越(こ)えたり、付(つ)き添(そ)ふ郎等(らうどう)共(ども)も一人当千(たうぜん)ならぬはなし。其(そ)の中に法師(ほふし)二人(ふたり)有(あ)り。一人は園城寺(をんじやうじ)の法師(ほふし)に常陸坊(ひたちばう)海尊(かいぞん)とて修学者(しゆがくしや)なり。一人は桜本(さくらもと)の僧正(そうじやう)の弟子、武蔵坊(むさしばう)と申(まう)すは、異朝(いてう)我(わ)が朝(てう)の合戦(かつせん)の次第(しだい)を明々(めいめい)に存(ぞん)じたる者(もの)にてある間(あひだ)、香風山(かうふさん)の北の腰(こし)にて、一頭(いちづ)の象(ざう)に攻(せ)め立(た)てられて、履(くつ)を逆(さか)さまに履(は)き落(お)ちたる、波羅奈国(はらないこく)の帝(みかど)の先例(せんれい)を引(ひ)きたる事
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もあるらん。隙(すき)な有(あ)らせそ、只(ただ)追(お)ひ掛(か)けよや」と申(まう)しけり。矢比(やごろ)になるまでは音(おと)もせで、近(ちか)づきて同音(どうおん)に鬨(とき)をどつと作(つく)りければ、十六人一同に驚(おどろ)く所(ところ)に、判官(はうぐわん)「もとより言(い)ふ事(こと)を聞(き)かで」と宣(のたま)ひければ、聞(き)かぬ由(よし)にて錏(しころ)を傾(かたぶ)けて、揉(も)みに揉(も)うでぞ落(お)ち行(ゆ)きける。此処(ここ)に難所(なんじよ)一(ひと)つ有(あ)り。吉野河(よしのかは)の水上(みなかみ)白糸(しらいと)の滝(たき)とぞ申(まう)しける。上(かみ)を見(み)れば五丈(ぢやう)ばかりなる滝(たき)の、糸(いと)を乱(みだ)したるが如(ごと)し。下を見れば三丈(ぢやう)歴々(れきれき)とある紅蓮(ぐれん)の淵(ふち)、水上(みなかみ)は遠(とほ)し、雪汁水(ゆきしるみづ)に増(まさ)りて、瀬々(せぜ)の岩間(いはま)を叩(たた)く波(なみ)、蓬莱(ほうらい)を崩(くづ)すが如(ごと)し。此方(こなた)も向(むか)ひも水(みづ)の上(うへ)は二丈(にぢやう)ばかりなる磐石(ばんじやく)の屏風(びやうぶ)を立(た)てたるが如(ごと)し。秋の末(すゑ)より冬の今(いま)まで、降(ふ)り積(つ)む雪(ゆき)は消(き)えもせで、雪(ゆき)も氷(こほり)も等(ひと)しく、偏(ひと)へに銀箔(ぎんぱく)を延(の)べたるが如(ごと)し。武蔵坊(むさしばう)は人より先(さき)に川(かは)の端(はた)に行(ゆ)きて見(み)ければ、如何(いか)にして行(ゆ)くべき共(とも)見(み)えず。然(さ)れども人をいためんとや思(おも)ひけん、又(また)例(れい)の事(こと)なれば、「是(これ)程の山河(やまがは)を遅参(ちさん)し給(たま)ふか。是(これ)越(こ)し給(たま)へや」とぞ申(まう)しける。判官(はうぐわん)宣(のたま)ひけるは、「何として是(これ)をば越(こ)すべきぞ。只(ただ)思(おも)ひ切(き)つて腹(はら)切(き)れや」とぞ宣(のたま)ひける。弁慶(べんけい)申(まう)しけるは、「人をば知(し)るべからず、武蔵(むさし)は」とて川(かは)の端(はた)へ寄(よ)りけるが、双眼(さうがん)を塞(ふさ)ぎ祈誓(きせい)申(まう)しける。「源氏(げんじ)の誓(ちかひ)まします八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)は、何時(いつ)の程(ほど)に我(わ)が君(きみ)をば忘(わす)れ参(まゐ)らせ給(たま)ふぞ。安穏(あんをん)に守(まぼ)り納受(なふじゆ)し給(たま)へ」と申(まう)す。目を開(ひら)き、見(み)
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たりければ、四五段(しごたん)許(ばか)り下(した)に興(きよう)ある節所(せつしよ)有(あ)り。走(はし)り寄(よ)りて見れば、両方(りやうばう)差(さ)し出(い)でたる山(やま)先(さき)の如(ごと)くに水(みづ)は深(ふか)くたぎりて落(お)ちたるが、向(むか)ひを見れば岸(きし)の崩(くづ)れたる所に、竹(たけ)の一叢(ひとむら)生(お)ひたる中に、殊(こと)に高(たか)く生(お)ひたる竹(たけ)三本(さんぼん)、末(すゑ)は一(ひと)つにむつれて、日頃(ひごろ)降(ふ)りたる雪(ゆき)に押(お)されて、河中へ撓(たは)みかかりたるが、竹(たけ)の葉(は)には瓔珞(やうらく)を下(さ)げたるに似(に)たる垂氷(たるひ)ぞ下(さが)りける。判官(はうぐわん)も是(これ)を見(み)給(たま)ひて、「義経(よしつね)とても越(こ)えつべしとは覚(おぼ)えねども、いでや瀬踏(せぶ)みして見(み)ん。越(こ)し損(そん)じて川(かは)へ入(い)らば、誰(たれ)も続(つづ)きて入(い)れよ」と仰(おほ)せければ、「さ承(うけたまは)り候(さうら)ひぬ」とぞ申(まう)しける。判官(はうぐわん)其(そ)の日の装束(しやうぞく)は赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に紅裾濃(くれなゐすそご)の鎧(よろひ)に白星(しろぼし)の兜(かぶと)の緒(を)をしめ、黄金造(こがねづく)りの太刀(たち)帯(は)き、大中黒(おほなかぐろ)の矢頭高(かしらだか)に負(お)ひなし、弓に熊手(くまで)を取(と)り添(そ)へ、左手(ゆんで)の脇(わき)にかい挟(ばさ)み、川の端(はた)に歩(あゆ)み寄(よ)りて、草摺(くさずり)搦(から)んで錏(しころ)を傾(かたぶ)け、えい声(ごゑ)を出(い)だして跳(は)ね給(たま)ふ。竹(たけ)の末(すゑ)にがはと飛(と)び付(つ)きて、相違(さうゐ)無(な)くするりと渡(わた)り給(たま)ふ。草摺(くさずり)の濡(ぬ)れたりけるを、さつさつと打(う)ち払(はら)ひ、「其方(そなた)より見(み)つるよりは、物(もの)にては無(な)かりけり。続(つづ)けや殿原(とのばら)」と仰(おほ)せを蒙(かうぶ)り、越(こ)す者(もの)は誰々(たれたれ)ぞ。片岡(かたをか)、伊勢(いせ)、熊井(くまゐ)、備前(びぜん)、鷲尾(わしのを)、常陸坊(ひたちばう)、雑色(ざふしき)駿河(するが)次郎(じらう)、下部(しもべ)には喜三太(きさんだ)、是(これ)等(ら)を始(はじ)めて十六人が十四人は越(こ)えぬ。今(いま)二人(ふたり)は向(むか)ひに有(あ)り、一人は根尾(ねのを)の十郎(じふらう)、一人は武蔵坊(むさしばう)なり。根尾(ねのを)越(こ)えんとする所(ところ)に、武蔵坊(むさしばう)射向(いむけ)の袖(そで)を控(ひか)へて申(まう)しけるは、「御辺(ごへん)の膝(ひざ)の顫(ふる)ひ様(やう)を見(み)る
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に、堅固(けんご)叶(かな)ふまじ。鎧(よろひ)脱(ぬ)ぎて越(こ)せよや」と申(まう)しける。「皆人(みなひと)の著(き)て越(こ)ゆる鎧(よろひ)を、某(それがし)一人脱(ぬ)ぐべき様(やう)は如何(いか)に」と言(い)ひければ、判官(はうぐわん)是(これ)を聞(き)き給(たま)ひて、「何事(なにごと)を申(まう)すぞ。弁慶(べんけい)」と問(と)ひ給(たま)へば、「根尾(ねのを)に鎧(よろひ)脱(ぬ)ぎて渡(わた)れと申(まう)し候(さうら)ひし」と申(まう)せば、「和君(わぎみ)が計(はか)らひにひらに脱(ぬ)がせよ」とぞ仰(おほ)せける。皆人(みなひと)は三十にも足(た)らぬ健者(すくやかもの)共(ども)なり。根尾(ねのを)は其(そ)の中に老体(らうたい)なり。五十六にぞなりにける。「理を枉(ま)げて都(みやこ)に留(とど)まれ」と、度々仰(おほ)せけれ共(ども)、「君(きみ)にて渡(わた)らせ給(たま)ひし程(ほど)は、御恩(ごおん)にて妻子(さいし)を助(たす)け、君(きみ)又(また)斯(か)くならせ給(たま)へば、我(われ)都(みやこ)に留(とど)まりて、初(はじ)めて人に追従(ついせう)せん事(こと)詮(せん)なし」とて、思(おも)ひ切(き)りてぞ、是(これ)まで参(まゐ)りける。仰(おほ)せに従(したが)ひて、鎧(よろひ)に具足(ぐそく)を脱(ぬ)ぎ置(お)き、かくても叶(かな)ふべしとも覚(おぼ)えねば、弓(ゆみ)の弦(つる)を外(はづ)し集(あつ)めて、一(ひと)つに結(むす)び、端(はし)を向(むか)ひに投(な)げ越(こ)して、「其方(そなた)へ引(ひ)け。強(つよ)く控(ひか)へよ。ちやうど取(と)り付(つ)け」とて、下(した)のもろき淵(ふち)を水(みづ)に付(つ)けてぞ引(ひ)き越(こ)しける。弁慶(べんけい)一人(ひとり)残(のこ)りて、判官(はうぐわん)の越(こ)え給(たま)ひつる所(ところ)をば越(こ)さず、川上(かはかみ)へ一町ばかり上(のぼ)りて、岩角(いはかど)に降(ふ)り積(つ)みたる雪(ゆき)を、長刀(なぎなた)の柄(え)にて打(う)ち払(はら)ひて申(まう)しけるは、「是(これ)程(ほど)の山河を越(こ)え兼(か)ねて、あの竹(たけ)に取(と)り付(つ)き、がたりびしりとし給(たま)ふこそ見(み)苦(ぐる)しけれ。其処(そこ)退(の)き給(たま)へ。此(こ)の川(かは)相違(さうゐ)無(な)く跳(は)ね越(こ)えて見参(げんざん)に入(い)らん」と申(まう)しければ、判官(はうぐわん)是(これ)を聞(き)き給(たま)ひて、「義経(よしつね)を偏執(へんじゆ)するぞ。目な見(み)遣(や)りそ」と仰(おほ)せられて、頬貫(つらぬき)の緒(を)の解(と)けたるを
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結(むす)ばんとて、兜(かぶと)の錏(しころ)を傾(かたぶ)けて御座(おは)しける時(とき)、えいやえいやと言(い)ふ声(こゑ)ぞ聞(き)こえける。水(みづ)は早(はや)く岩波(いはなみ)に叩(たた)きかけられ、只(ただ)流(なが)れに流(なが)れ行(ゆ)く。判官(はうぐわん)是(これ)を御覧(ごらん)じて、「あはや仕(し)損(そん)じたるは」と仰(おほ)せられて、熊手(くまで)を取(と)り直(なほ)し、河端(かはばた)に走(はし)り寄(よ)り、たぎりて通(とほ)る総角(あげまき)に引(ひ)つ掛(か)け、「是(これ)見よや」と仰(おほ)せられければ、伊勢(いせ)の三郎づと寄(よ)りて、熊手(くまで)の柄(え)をむずと取(と)る。判官(はうぐわん)差(さ)し覗(のぞ)きて見(み)給(たま)へば、鎧(よろひ)著(き)て人に勝(すぐ)れたる大(だい)の法師(ほふし)を熊手(くまで)に掛(か)けて宙(ちう)に提(ひつさ)げたりければ、水(みづ)たぶたぶとしてぞ引(ひ)き上(あ)げける。今日(けふ)の命(いのち)生(い)きて、御前(おまへ)に苦笑(にがわらひ)してぞ出(い)で来(き)ける。判官(はうぐわん)是(これ)を御覧(ごらん)じて、余(あま)りに憎(にく)さに、「如何(いか)に、口(くち)の利(き)きたるには似(に)ざりけり」と仰(おほ)せられければ、「過(あやまち)は常(つね)の事(こと)、孔子(くじ)のたはれと申(まう)す事(こと)候(さうら)はずや」と狂言(きやうげん)をぞ申(まう)しける。皆人(みなひと)は思(おも)ひ思(おも)ひに落(お)ち行(ゆ)け共(ども)、武蔵坊(むさしばう)は落(お)ちもせず、一叢(ひとむら)有(あ)りける竹(たけ)の中に分(わ)け入(い)りて、三本(さんぼん)生(お)ひたる竹(たけ)の本(もと)に、物(もの)を言(い)ふ様(やう)に、掻(か)き口説(くど)き申(まう)しけるは、「竹(たけ)も生(しやう)ある物(もの)、我(われ)も生(しやう)ある人間(にんげん)、竹(たけ)は根(ね)ある物(もの)なれば、青陽(せいやう)の春も来(き)たらば、また子をも差(さ)し代(か)へて見(み)るべし。我(われ)等(ら)は此(こ)の度死(し)しては、二度(ふたたび)帰(かへ)らぬ習(なら)ひなれば、竹(たけ)を伐(き)るぞ。我(われ)等(ら)が命(いのち)に代(か)はれ」とて、三本(さんぼん)の竹(たけ)を切(き)り、本(もと)には雪(ゆき)をかけ、末(すゑ)をば水にかけてぞ出(い)だしたりける。判官(はうぐわん)に追(お)ひ著(つ)き参(まゐ)らせて、「跡(あと)を斯様(かやう)にしたためたる」と申(まう)しける。判官(はうぐわん)跡(あと)を顧(かへり)み給(たま)へば、山河なればたぎりて
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落(お)つる。昔(むかし)の事(こと)を思召(おぼしめ)し出(い)でて感(かん)じ給(たま)ひけるは、「歌(うた)を好(この)みしきよちよくは舟(ふね)に乗(の)りて翻(ひるがへ)し、笛(ふえ)を好(この)みしほうちよは竹(たけ)に乗(の)りてくつがへす。大国(たいこく)の穆王(ぼくわう)は壁(かべ)に上(のぼ)りて天に上(あ)がる。張博望(ちやうはくばう)は浮木(うきき)に乗(の)りて巨海(こかい)を渡(わた)る。義経(よしつね)は竹(たけ)の葉(は)に乗(の)りて今(いま)の山川を渡(わた)る」とぞ宣(のたま)ひて、上(うへ)の山(やま)にぞ上(あ)がり給(たま)ふ。ある谷(たに)の洞(ほら)に風少(すこ)しのどけき所(ところ)有(あ)り。「敵(てき)河を越(こ)えば、下(くだり)矢先(やさき)に一矢(ひとや)射(い)て、矢種(やだね)尽(つ)きば腹(はら)を切(き)れ、彼奴(きやつ)原(ばら)渡(わた)り得(え)ずは、嘲弄(てうろう)して返(かへ)せや」とぞ仰(おほ)せける。大衆(だいしゆ)程無(な)く押(お)し寄(よ)せ、「賢(かしこ)うぞ越(こ)え給(たま)ひたり。此処(ここ)や越(こ)ゆる、彼処(かしこ)や越(こ)ゆ」と口々(くちぐち)に罵(ののし)りけり。治部(ぢぶ)の法眼(ほふげん)申(まう)しけるは、「判官(はうぐわん)なればとて、鬼神(おにかみ)にてもよも有(あ)らじ。越(こ)えたる所(ところ)はあるらん」と向(むか)ひを見(み)れば、靡(なび)きたる竹(たけ)を見(み)付(つ)けて、「然(さ)ればこそ是(これ)に取(と)り付(つ)きて越(こ)えんには、誰(たれ)か越(こ)さざらん。寄(よ)れや者(もの)共(ども)」とぞ申(まう)しける。鉄漿黒(かねぐろ)なる法師(ほふし)、腹巻(はらまき)に袖付(つ)けて著(き)たるが、手鉾(てぼこ)長刀(なぎなた)脇(わき)に挟(はさ)みて、三人手(て)に手(て)を取(と)り組(く)みて、えい声(ごゑ)を出(い)だしてぞ跳(は)ねたりける。竹(たけ)の末(すゑ)に取(と)り付(つ)きて、えいやと引(ひ)きたりければ、武蔵(むさし)が只今(ただいま)本(もと)を切(き)つて刺(さ)したる竹(たけ)なれば、引(ひ)きかつぐとぞ見(み)えし。岩波(いはなみ)に叩(たた)きこめられて、二度(にど)とも見(み)えず、底(そこ)の水屑(みくづ)となりにけり。向(むか)ひには上(うへ)の山(やま)にて十六人、同音(どうおん)にどつと笑(わら)ひ給(たま)へば、大衆(だいしゆ)余(あま)り安(やす)からずして、音(おと)もせず、日高(ひたか)の禅師(ぜんじ)申(まう)しけるは、「是(これ)は武蔵坊(むさしばう)と言(い)ふ
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痴(をこ)の者奴(め)が所為(しよゐ)にてあるぞ。暫(しばら)く居(ゐ)ては中々(なかなか)痴(をこ)の者(もの)がまし。又(また)水上(みなかみ)をめぐらんずるは日数(ひかず)を経(へ)てこそめぐらんずれ。いざや帰(かへ)りて僉議(せんぎ)せん」とぞ申(まう)しける。「穢(きたな)し、ついでに跳(は)ね入(い)りて死(し)なん」と言(い)ふ者(もの)一人もなし。「尤(もつと)も此(こ)の義(ぎ)に付(つ)けや」とて、元(もと)の跡(あと)へぞ帰(かへ)りける。判官(はうぐわん)是(これ)を御覧(ごらん)じて、片岡(かたをか)を召(め)して仰(おほ)せけるは、「吉野(よしの)法師(ほふし)に逢(あ)うて言(い)はんずる様(やう)は、「義経(よしつね)が此(こ)の河(かは)越(こ)し兼(か)ねて有(あ)りつるに、是(これ)まで送(おく)り越(こ)えたるこそ嬉(うれ)しけれ」と言(い)ひ聞(き)かせよ。後(のち)の為(ため)もこそあれ」と仰(おほ)せければ、片岡(かたをか)白木(しらき)の弓(ゆみ)に大(だい)の鏑(かぶら)取(と)りて交(つが)ひ、谷越(たにご)しに一矢(ひとや)射(い)かけて、「御諚(ごぢやう)ぞ御諚(ごぢやう)ぞ」と言(い)ひかけけれども、聞(き)かぬ様(やう)にしてぞ行(ゆ)きける。弁慶(べんけい)は濡(ぬ)れたる鎧(よろひ)著(き)て、大(だい)なる臥木(ふしき)に上(のぼ)りて、大衆(だいしゆ)を呼(よ)びて申(まう)しけるは、情(なさけ)ある大衆(だいしゆ)有(あ)らば、西塔(さいたふ)に聞(き)こえたる武蔵(むさし)が乱拍子(らんびやうし)見よぞと申(まう)しける。大衆(だいしゆ)是(これ)を聞(き)き入(い)るる者(もの)も有(あ)り。「片岡(かたをか)囃(はや)せや」と申(まう)しければ、誠(まこと)や中差(なかざし)にて弓(ゆみ)の本を叩(たた)いて、万歳楽(まんざいらく)とぞ囃(はや)しける。弁慶(べんけい)折節(をりふし)舞(ま)ふたりければ、大衆(だいしゆ)も行(ゆ)き兼(か)ねて、是(これ)を見(み)る。舞(まひ)は面白(おもしろ)く有(あ)りけれども、笑事(わらひこと)をぞ歌(うた)ひける。
春(はる)は桜(さくら)の流(なが)るれば、吉野川(よしのかは)とも名付(なづ)けたり。秋は、紅葉(もみぢ)の流(なが)るるなれば、龍田河(たつたがは)とも言(い)ひつべし。冬も末(すゑ)になりぬれば、法師(ほふし)も紅葉(もみぢ)て流(なが)れたり W008
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と折(を)り返(かへ)し折(を)り返(かへ)し舞(ま)ふたれば、誰(たれ)とは知(し)らず衆徒(しゆと)の中(なか)より、「痴(をこ)の奴(やつ)にてあるぞや」とぞ言(い)ひける。「汝(おのれ)共(ども)、何(なに)とも言(い)はば言(い)へ」とて、其(そ)の日は其処(そこ)にて暮(くら)しけり。黄昏時(たそがれどき)にもなりしかば、判官(はうぐわん)侍(さぶらひ)共(ども)に仰(おほ)せけるは、「そも御岳(みたけ)左衛門(さゑもん)はいしう志(こころざし)有(あ)りて参(まゐ)らせつる酒肴(しゆかう)を、念(ねん)無(な)く追(お)ひ散(ち)らされたるこそ本意(ほい)無(な)けれ。誰か其(そ)の用意(ようい)相(あひ)構(かま)へたる者(もの)有(あ)らば参(まゐ)らせよ。疲(つか)れ休(やす)めて一先(ま)づ落(お)ちん」とぞ仰(おほ)せける。皆人(みなひと)は「敵(てき)の近(ちか)づき候(さうら)ふ間(あひだ)、先(さき)にと急(いそ)ぎ候(さうら)ひつる程(ほど)に、相(あひ)構(かま)へたる者(もの)も候(さうら)はず」と申(まう)しければ、「人々(ひとびと)は唯(ただ)後(のち)を期(ご)せぬぞとよ。義経(よしつね)は我(わ)が身ばかりは構(かま)へて持(も)ちたるぞ」とて、間(ま)同(おな)じ様(やう)に立(た)ち給(たま)ふぞと見(み)えしに、何時(いつ)の程(ほど)にか取(と)り給(たま)ひけん、橘(たちばな)餅(もちひ)を廿ばかり檀紙(だんじ)に包(つつ)みて、引合(ひきあはせ)より取(と)り出(い)ださせ給(たま)ひけり。弁慶(べんけい)を召(め)して、「是(これ)一(ひと)つづつ」と仰(おほ)せければ、直垂(ひたたれ)の袖の上(うへ)に置(お)き
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て、譲葉(ゆづりは)を折(を)りて敷(し)き、「一(ひと)つをば一乗(いちじよう)の仏に奉(たてまつ)る、一(ひと)つをば菩提(ぼだい)の仏に奉る。一(ひと)つをば道租神(だうそじん)に奉(たてまつ)る。一(ひと)つをば山神護法(さんじんごわう)に」とて置(お)きたりけり。餅(もちひ)を見れば十六有(あ)り、人も十六人、君(きみ)の御前(おまへ)に一差(ひとさ)し置(お)き、残りをば面々(めんめん)にぞ配(くば)りける。「今(いま)一(ひと)つ残(のこ)るに仏(ほとけ)の餅(もちひ)とて四つ置(お)きたるに、取(と)り具(ぐ)して、五つをば某(それがし)が得分(とくぶん)にせん」と申(まう)す。皆(みな)人々(ひとびと)是(これ)を賜(たま)はつて、手々(てで)に持(も)ちてぞ泣(な)きける。「哀(あはれ)なりける世の習(なら)ひかな、君(きみ)の君にて渡(わた)らせ給(たま)はば、是(これ)程(ほど)に志(こころざし)を思(おも)ひ参(まゐ)らせば、毛良(よ)き鎧(よろひ)、骨強(ほねづよ)き馬(うま)などを賜(たま)はつてこそ、御恩(ごおん)の様(やう)にも思(おも)ひ参(まゐ)らせ候(さうら)ふべきに、是(これ)を賜(たま)はつて、然(しか)るべき御恩(ごおん)の様(やう)に思(おも)ひなし、悦(よろこ)ぶこそ悲(かな)しけれ」とて、鬼神を欺(あざむ)き、妻子(さいし)をも顧(かへり)みず、命をも塵(ちり)芥(あくた)とも思(おも)はぬ武士(もののふ)共(ども)、皆(みな)鎧(よろひ)の袖をぞ濡(ぬ)らしける、心の中(うち)こそ申(まう)すばかりはなし。判官(はうぐわん)も御涙を流(なが)し給(たま)ふ。弁慶(べんけい)も頻(しき)りに涙(なみだ)はこぼるれ共(ども)、さらぬ体(てい)にもてなし、「此(こ)の殿原(とのばら)の様(やう)に人の参(まゐ)らせたる物を、持(も)ちて賜(た)べばとて泣(な)かれぬものを、泣(な)かんとするは、痴(をこ)の者(もの)にてこそあれ。戒力(かいりき)は力(ちから)に及(およ)ばざる事(こと)なり。身を助(たす)け候(さうら)はんばかりに、我(われ)も持(も)ちたり。殿原(とのばら)も手々(てで)に取(と)りて持(も)たぬこそ不覚(ふかく)なれ。異(こと)ならねども是(これ)に持(も)ちて候(さうら)ふ」とて、餅(もちひ)廿ばかりぞ取(と)り出(い)だしける。君(きみ)もいしうしたりと思召(おぼしめ)しけるに、御前に跪(ひざまづ)きて、左の脇(わき)の下より黒(くろ)かりける物(もの)の大(だい)なるを取(と)り出(い)だし、雪の上にぞ置(お)きたりける。片岡(かたをか)
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何なるらんと思(おも)ひて、差(さ)し寄(よ)りて見れば、刳形(くりかた)打(う)ちたる小筒(こづつ)に酒(さけ)を入(い)れて持(も)ちたりけり。懐(ふところ)より土器(かはらけ)二つ取(と)り出(い)だし、一(ひと)つをば君(きみ)の御前に差(さ)し置(お)きて、三度参らせて、筒(つつ)打(う)ち振(ふ)りて申(まう)す様(やう)、「飲手(のみて)は多し、酒(さけ)は筒(つつ)にて小(ちひ)さし。思(おも)ふ程(ほど)有(あ)らばこそ。少(すこ)しづつも」とて飲(の)ませ、残(のこ)る酒(さけ)をば持(も)ちたる土器(かはらけ)にて差(さ)し受(う)け差(さ)し受(う)け三度飲(の)みて、「雨も降(ふ)れ、風(かぜ)も吹(ふ)け、今夜は思(おも)ふ事(こと)なし」とて、其(そ)の夜はそれにて夜を明(あ)かす。明(あ)くれば十二月二十三日也(なり)。「さのみ山路(やまぢ)は物(もの)憂(う)し、いざや麓(ふもと)へ」と宣(のたま)ひて、麓(ふもと)を指(さ)して下り、北の岡(をか)、しげみが谷と言(い)ふ所までは出(い)で給(たま)ひたりけるが、里(さと)近(ちか)かりければ、賎(しづ)の男(を)賎(しづ)の女(め)も軒(のき)を並(なら)べたり。「落人の習(なら)ひは鎧(よろひ)を著(き)ては叶(かな)ふまじ。我(われ)等(ら)世にだにも有(あ)らば、鎧(よろひ)も心に任(まか)せぬべし。命(いのち)に過(す)ぎたる物(もの)有(あ)らじ」とて、しげみが谷(たに)の古木の下(もと)に鎧(よろひ)腹巻(はらまき)十六領(りやう)脱(ぬ)ぎ棄(す)てて、方々にぞ落(お)ち給(たま)ふ。「明年の正月(むつき)の末(すゑ)、二月(きさらぎ)の初(はじ)めには奥州(あうしう)へ下(くだ)らんずれば、其(そ)の時(とき)必(かな)らず一条(いちでう)今出川の辺にて行(ゆ)き合(あ)ふべし」と仰(おほ)せければ、承(うけたまは)りて各々(おのおの)泣(な)く泣(な)く立(た)ち別(わか)れ、或(ある)いは木幡(こわた)、櫃河(ひつかは)、醍醐(だいご)、山科(やましな)へ行(ゆ)く人も有(あ)り。鞍馬(くらま)の奥(おく)へ行(ゆ)くも有(あ)り。洛中(らくちゆう)に忍(しの)ぶ人も有(あ)り。判官(はうぐわん)は侍(さぶらひ)一人も具(ぐ)し給(たま)はず、雑色(ざふしき)をも連(つ)れ給(たま)はず、しきたへと申(まう)す腹巻(はらまき)召(め)し、太刀(たち)脇挟(わきばさ)み、十二月二十三日の夜打(う)ち更(ふ)け
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て、南都(なんと)の勧修坊(くわんじゆばう)の許(もと)へぞ御座(おは)しける。
義経記巻第五
義経記 国民文庫本
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義経記巻第六目録
忠信(ただのぶ)都(みやこ)へ忍(しの)び上(のぼ)る事
忠信(ただのぶ)最期(さいご)の事(こと)
忠信(ただのぶ)が首(くび)鎌倉(かまくら)へ下(くだ)る事
判官(はうぐわん)南都(なんと)へ忍(しの)び御出(おい)である事
関東(くわんとう)より勧修坊(くわんじゆばう)を召(め)さるる事
静(しづか)鎌倉(かまくら)へ下(くだ)る事
静(しづか)若宮(わかみや)八幡宮(はちまんぐう)へ参詣(さんけい)の事(こと)
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義経記巻第六
忠信(ただのぶ)都(みやこ)へ忍(しの)び上(のぼ)る事 S0601
さても佐藤(さとう)四郎兵衛(しらうびやうゑ)は、十二月二十三日に都(みやこ)へ帰(かへ)りて、昼(ひる)は片辺(かたほとり)に忍(しの)び、夜(よる)は洛中(らくちゆう)に入(い)り、判官(はうぐわん)の御行方(おんゆくへ)を尋(たづ)ねけり。然(さ)れども人まちまちに申(まう)しければ、一定(いちぢやう)を知(し)らず、或(ある)いは吉野河(よしのかは)に身を投(な)げ給(たま)ひけるとも聞(き)こゆる。或(ある)いは北国(ほつこく)へかかりて、陸奥(みちのく)へ下(くだ)り給(たま)ひける共(とも)申(まう)し、聞(き)きも定(さだ)めざりければ、都(みやこ)にて日を送(おく)る。兎角(とかう)する程(ほど)に、十二月二十九日になりにけり。一日(いちにち)片時(へんし)も心(こころ)安(やす)く暮(くら)すべき方(かた)も無(な)くて、年の内(うち)も今日(けふ)ばかりなり。明日にならば、新玉(あらたま)の年(とし)立(た)ち返(かへ)る春(はる)の初(はじ)めにて、元三(ぐわんざん)の儀式(ぎしき)ならば、事(こと)宜(よろ)しからず、何処(いづく)に一夜(いちや)をだにも明(あ)かすべき共(とも)覚(おぼ)えず、其(そ)の頃(ころ)忠信(ただのぶ)他事(たじ)無(な)く思(おも)ふ女(をんな)一人四条(しでう)室町(むろまち)に小柴(こしば)の入道(にふだう)と申(まう)す者(もの)の娘(むすめ)に、かやと申(まう)す女(をんな)なり。判官(はうぐわん)都(みやこ)に在(おは)せし時(とき)より見(み)始(はじ)めて浅(あさ)からぬ志(こころざし)にて有(あ)りければ、判官(はうぐわん)都(みやこ)を出(い)で給(たま)ひし時(とき)も、摂津国(つのくに)河尻(かはしり)まで慕(した)ひて、如何(いか)ならん船(ふね)の
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中浪(うちなみ)の上(うへ)までもと慕(した)ひしかども、判官(はうぐわん)の北(きた)の御方(おんかた)数多(あまた)一(ひと)つ船に乗(の)せ奉(たてまつ)り給(たま)ひたるも、あはれ詮(せん)無(な)き事(こと)かなと思(おも)ふに、我(われ)さへ女(をんな)を具足(ぐそく)せん事(こと)も如何(いかが)ぞやと思(おも)ひしかば、飽(あ)かぬ名残(なごり)を振(ふ)り捨(す)てて、独(ひと)り四国へ下(くだ)りしが、其(そ)の志(こころざし)未(いま)だ忘(わす)れざりければ、二十九日の夜打(う)ち更(ふ)けて、女(をんな)を尋(たづ)ね行(ゆ)きけり。女(をんな)出(い)で逢(あ)ひて、斜(なのめ)ならず悦(よろこ)びて我(わ)が方(かた)に隠(かく)し置(お)き、様々(やうやう)に労(いたは)り、父の入道(にふだう)に此(こ)の事(こと)知(し)らせたりければ、忠信(ただのぶ)を一間なる所(ところ)に呼(よ)びて申(まう)しけるは、「仮初(かりそめ)に出(い)でさせ給(たま)ひしより以来(このかた)は何処(いづく)にとも御行方(おんゆくへ)を承(うけたまは)らず候(さうら)ひつるに、物(もの)ならぬ入道(にふだう)を頼(たの)みて、是(これ)まで御座(おは)しましたる事こそ嬉(うれ)しく候(さうら)へ」とて、其処(そこ)にて年をぞ送(おく)らせけり。青陽(せいやう)の春(はる)も来(き)て、岳々(たけだけ)の雪(ゆき)むら消(き)え、裾野(すその)も青葉(あをば)交(まじ)りになりたらば、陸奥(みちのく)へ下(くだ)らんとぞ思(おも)ひける。斯(か)かりし程(ほど)に、「天(てん)に口(くち)なし、人を以(もつ)て言(い)はせよ」と、誰(た)が披露(ひろう)するとも無(な)けれども、忠信(ただのぶ)が都(みやこ)に在(あ)る由(よし)聞(き)こえければ、六波羅(ろくはら)より探(さが)すべき由(よし)披露(ひろう)す。忠信(ただのぶ)是(これ)を聞(き)きて、「我(われ)故(ゆゑ)に人に恥(はぢ)を見(み)せじ」とて、正月四日京(きやう)を出(い)でんとしけるが、今日(けふ)は日も忌(い)む事(こと)有(あ)りとて、立(た)たざりけり。五日は女に名残(なごり)を惜(を)しまれて立(た)たず、六日の暁(あかつき)は一定(いちぢやう)出(い)でんとぞしける。すべて男(をとこ)の頼むまじきは、女(をんな)也(なり)。昨日(きのふ)までは連理(れんり)の契(ちぎ)り、比翼(ひよく)の語(かた)らひ浅(あさ)からず、如何(いか)なる天魔(てんま)の勧(すすめ)にてや有(あ)りけん、
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夜の程(ほど)に女心(こころ)変(がは)りをぞしたりける。忠信(ただのぶ)京を出(い)でて後(のち)、東国の住人(ぢゆうにん)梶原(かぢはら)三郎と申(まう)す者(もの)在京(ざいきやう)したりけるに、始(はじ)めて見(み)え初(そ)めてんげり。今(いま)の男(をとこ)と申(まう)すは、世にある者(もの)なり。忠信(ただのぶ)は落人(おちうと)なり。世にある者(もの)と思(おも)ひ代(か)ゆべしと思(おも)ひ、此(こ)の事(こと)を梶原(かぢはら)に知(し)らせて、討(う)つか搦(から)むるかして鎌倉(かまくら)殿(どの)の見参(げんざん)に入(い)れたらば、勲功(くんこう)疑(うたがひ)あるべからずなど思(おも)ひ知(し)らせんと思(おも)ひけり。斯(か)かりければ、五条(ごでう)西洞院(にしのとうゐん)に有(あ)りける梶原(かぢはら)が許(もと)へ使(つかひ)をぞやりける。急(いそ)ぎ梶原(かぢはら)女(をんな)の許(もと)へぞ行(ゆ)きける。忠信(ただのぶ)をば一間(ひとま)なる所(ところ)に隠(かく)し置(お)き、梶原(かぢはら)三郎をぞもてなしける。其(そ)の後耳(みみ)に口(くち)を当(あ)てて囁(ささや)きけるは、「呼(よ)び立(た)て申(まう)す事(こと)は、別(べち)の仔細(しさい)になし。判官(はうぐわん)殿(どの)の郎等(らうどう)佐藤(さとう)四郎兵衛(しらうびやうゑ)と申(まう)す者有(あ)り。吉野(よしの)の軍(いくさ)に討(う)ち洩(も)らされて、過(す)ぎぬる廿九日の暮方(くれがた)より是(これ)に有(あ)り。明日(あす)は陸奥(みちのく)へ下(くだ)らんと出(い)で立(た)つ。下(くだ)りて後(のち)に知(し)らせ
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奉(たてまつ)らぬとて、恨(うら)み給(たま)ふな。我(われ)と手(て)を砕(くだ)かず共(とも)、足軽共(あしがるども)差(さ)し遣(つか)はし、討(う)つか、搦(から)むるかして、鎌倉(かまくら)殿(どの)の見参(げんざん)に入(い)れて、勲功(くんこう)をも望(のぞ)み給(たま)へ」とぞ申(まう)しける。梶原(かぢはら)三郎是(これ)を聞(き)きて、余(あま)りの事(こと)なれば、中々(なかなか)兎角(とかく)物(もの)も言(い)はず。唯(ただ)疎(うと)ましきものの哀(あは)れに理(わり)無(な)きを尋(たづ)ぬるに、稲妻(いなづま)陽炎(かげろふ)、水(みづ)の上に降(ふ)る雪(ゆき)、それよりも猶(なほ)あたなるは、女(をんな)の心(こころ)なりけるや。是(これ)をば夢(ゆめ)にも知(し)らずして是(これ)を頼(たのみ)て、身を徒(いたづ)らになす忠信(ただのぶ)こそ無慙(むざん)なれ。梶原(かぢはら)三郎申(まう)しけるは、「承(うけたまは)り候(さうら)ひぬ。景久(かげひさ)は一門(いちもん)の大事(だいじ)を身にあてて、三年(みとせ)在京(ざいきやう)仕(つかまつ)るべく候(さうら)ふが、今年は二年になり候(さうら)ふ。在京(ざいきやう)の者(もの)の両役(りやうやく)は叶(かな)はぬ事(こと)にて候(さうら)ふ。然(さ)ればとて忠信(ただのぶ)追討(ついたう)せよと言(い)ふ宣旨(せんじ)院宣(ゐんぜん)もなし。欲(よく)に耽(ふけ)つて合戦(かつせん)に忠(ちゆう)を致(いた)したりとても、御諚(ごぢやう)ならねば、御恩(ごおん)もあるべからず。仕(し)損(そん)じては一門(いちもん)の瑕瑾(かきん)になるべく候(さうら)ふ間(あひだ)、景久(かげひさ)叶(かな)ふまじ。猶(なほ)も御志(おんこころざし)切(せつ)なからん人に仰(おほ)せられ候(さうら)へ」と言(い)ひ捨(す)て、急(いそ)ぎ宿(やど)へ帰(かへ)りつつ、色(いろ)をも香(か)をも知(し)らぬ無道(ぶたう)の女と思(おも)ひ知(し)り、遂(つひ)に是(これ)をば問(と)はざりけり。斯様(かやう)に梶原(かぢはら)に疎(うと)まれ、腹(はら)を据(す)ゑ兼(か)ねて、六波羅(ろくはら)へ申(まう)さんと思(おも)ひつつ、五日の夜に入(い)りて、半物(はしたもの)一人召(め)し具(ぐ)して、六波羅(ろくはら)へ参(まゐ)り、江馬(えま)の小四郎を呼(よ)び出(い)だして、此(こ)の由(よし)伝(つた)へければ、北条(ほうでう)にかくと申(まう)されたり。「時刻(じこく)を移(うつ)さず寄(よ)せて捕(と)れ」とて、二百騎(にひやつき)の勢(せい)にて四条(しでう)室町(むろまち)にぞ押(お)し寄(よ)せたり。昨日(きのふ)一日今宵(こよひ)終夜(よもすがら)、名残(なごり)の酒(さけ)とて強(し)ひたりければ、前後(ぜんご)も
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知(し)らず臥(ふ)したりけり。頼(たの)む女(をんな)は心(こころ)変(がは)りして失(う)せぬ。常(つね)に髪(かみ)梳(けづ)りなどしける半物(はしたもの)の有(あ)りけるが、忠信(ただのぶ)が臥(ふ)したる所(ところ)へ走(はし)り入(い)りて、荒(あら)らかに起(お)こして、「敵(かたき)寄(よ)せて候(さうら)ふぞ」と告(つ)げたりける。
忠信(ただのぶ)最期(さいご)の事(こと) S0602
忠信(ただのぶ)敵(てき)の声(こゑ)に驚(おどろ)き起(おき)上(あ)がり、太刀(たち)取(と)り直(なほ)し、差(さ)し屈(くぐ)みて見(み)ければ、四方(しはう)に敵(てき)満(み)ち満(み)ちたり。遁(のが)れて出(い)づべき方(かた)もなし。内(うち)にて独言(ひとりごと)に言(い)ひけるは、「始(はじ)めある物は終(をはり)有(あ)り。生(しやう)ある者(もの)必(かなら)ず滅(めつ)す。其(そ)の期(ご)は力(ちから)及(およ)ばずや。屋嶋(やしま)、摂津国(つのくに)、長門(ながと)の壇浦(だんのうら)、吉野(よしの)の奥(おく)の合戦(かつせん)まで、随分(ずいぶん)身をば亡(な)き物(もの)とこそ思(おも)ひつれども、其(そ)の期(ご)ならねば今日(けふ)まで延(の)びぬ。然(しか)りとは雖(いへど)も、只今(ただいま)が最期(さいご)にて有(あ)りけるを、驚(おどろ)くこそ愚(おろか)なれ。然(さ)ればとて犬死(いぬじに)すべき様(やう)なし」とて、ひしひしとぞ出(い)で立(た)ちける。白(しろ)き小袖(こそで)に黄(き)なる大口(おほくち)、直垂(ひたたれ)の袖を結(むす)びて肩(かた)に打(う)ち越(こ)し、咋日(きのふ)乱(みだ)したる髪(かみ)を未(いま)だ梳(けづ)りもせず、取(と)り上(あ)げ、一所(ところ)に結(ゆ)ひ、烏帽子(えぼし)引(ひ)き立(た)て押(お)し揉(も)うで、盆(ぼん)の窪(くぼ)に引(ひ)き入(い)れ、烏帽子懸(えぼしがけ)を以(もつ)て額(ひたひ)にむずと結(ゆ)ひて、太刀(たち)を取(と)り差(さ)し、俯(うつぶ)きて見れば、未(いま)だ仄暗(ほのぐら)くて、物の具の色(いろ)は見(み)えず、敵(かたき)はむらむらに控(ひか)へたり。中々(なかなか)中(なか)を通(とほ)りて、紛(まぎ)れ行(ゆ)かばやと
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ぞ思(おも)ひける。され共(ども)敵(かたき)甲胃(かつちう)をよろひ、矢を矧(は)げて、駒(こま)に鞭(むち)を進(すす)めたり。追(お)ひ掛(か)けて散々(さんざん)に射(い)られんず。薄手(うすで)負(お)うて死(し)にもやらず、生(い)けながら六波羅(ろくはら)へ取(と)られなんず。判官(はうぐわん)の御座(おは)する所(ところ)知(し)らんずらんと問(と)はば、知(し)らずと申(まう)さば、さらば放逸(はういつ)に当(あ)たれとて糾問(きうもん)せられ、一旦(いつたん)知(し)らずと申(まう)すとも、次第(しだい)に性根(しやうね)乱(みだ)れなん後(のち)は有(あ)りの儘(まま)に白状(はくじやう)したらば、吉野(よしの)の奥(おく)に留(とど)まりて、君に命(いのち)を参(まゐ)らせたる志(こころざし)無(む)になりなん事こそ悲(かな)しけれ。如何(いか)にもして此処(ここ)を逃(のが)ればやとぞ思(おも)ひける。中門(ちゆうもん)の縁(えん)に差(さ)し入(い)りて見(み)ければ、上に古(ふ)りたる座敷(ざしき)有(あ)り。直(ひた)と上(のぼ)りて見(み)ければ、上薄(うす)く、京(きやう)の板屋(いたや)の癖(くせ)として、月は洩(も)り、星(ほし)は溜(たま)れど葺(ふ)きければ、所々(ところどころ)は疎(まばら)なり。健者(すくやかもの)にてある間(あひだ)、左右(さう)の腕(かひな)を挙(あ)げて、家(いへ)を引(ひ)き上(あ)げつと出(い)でて、梢(こずゑ)を鳥(とり)の飛(と)ぶが如(ごと)くに散(ち)り散(ち)つてぞ落(お)ちて行(ゆ)く。江馬(えま)の小四郎是(これ)を見(み)て、「すはや敵(てき)は落(お)つるぞ。只(ただ)射(い)殺(ころ)せ」とて精兵(せいびやう)共(ども)に散々(さんざん)に射(い)さす。手(て)にもたまらざりければ、矢比(やごろ)遠(とほ)くぞなりにける。また夜の曙(あけぼの)なれば、町里小路(まちさとこうぢ)に外(はづ)し置(お)きたる雑車(ざふぐるま)、駒(こま)の蹄(ひづめ)しどろにして、思(おも)ふ様(やう)にも駈(か)けざりければ、かくて忠信(ただのぶ)をぞ失(うしな)ひける。其(そ)の儘(まま)落(お)ち行(ゆ)かば、中々(なかなか)し果(おふ)すべかりつるに、我(わ)が行方(ゆくへ)を案(あん)じ思(おも)うて、片辺(かたほとり)は在京(ざいきやう)の者(もの)に下知(げち)して差(さ)し塞(ふさ)がれなん。洛中(らくちゆう)は北条(ほうでう)殿(どの)父子(ふし)の勢(せい)を以(もつ)て探(さが)されん。とても遁(のが)れぬもの故(ゆゑ)に、末々(すゑずゑ)の奴原(やつばら)の手(て)にかけて、射(い)殺(ころ)されんこそ悲(かな)しけれ。
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一両年(いちりやうねん)も判官(はうぐわん)の住(す)み給(たま)ひし六条(ろくでう)堀河(ほりかは)の宿所(しゆくしよ)に参(まゐ)りて、君(きみ)を見(み)参(まゐ)らすると思(おも)ひて、其処(そこ)にてともかくもならばやと思(おも)ひて、六条(ろくでう)堀川(ほりかは)の方(かた)へぞ行(ゆ)きける。去年まで住(す)み馴(な)れ給(たま)ひし跡(あと)を帰(かへ)り来(き)て見(み)れば、今年は何時(いつ)しか引(ひ)きかへて、門押(お)し立(た)つる者(もの)も無(な)く、縁(えん)と等(ひと)しく塵(ちり)積(つも)り、蔀(しとみ)、遣戸(やりと)皆(みな)崩(くづ)れたり。御簾(みす)をば常(つね)に風(かぜ)ぞ捲(ま)く。一間(ひとま)の障子(しやうじ)の内(うち)に分(わ)け入(い)りて見れば、蜘蛛(ささがに)の糸(いと)を乱(みだ)したり。是(これ)を見(み)るに付(つ)けても、日頃(ひごろ)はかくは無(な)かりしものをと思(おも)ひければ、猛(たけ)き心(こころ)も前後(ぜんご)不覚(ふかく)にこそなりにけれ。見(み)たき所(ところ)を見(み)廻(めぐ)りて、扨(さて)出居(でい)に差(さ)し出(い)でて、簾(すだれ)所々(ところどころ)に切(き)りて落(おと)し、蔀(しとみ)上(あ)げて太刀(たち)取(と)り直(なほ)し、衣(きぬ)の袖にて押(お)し拭(のご)ひ、「何にてもあれ」と独言(ひとりごと)言(い)ひて北条(ほうでう)の二百余騎(よき)を只(ただ)一人(ひとり)して待(ま)ちかけたり。あはれ敵(かたき)や、良(よ)き敵(かたき)かな。関東(くわんとう)にては鎌倉(かまくら)殿(どの)の御舅(しうと)、都(みやこ)にては六波羅(ろくはら)殿(どの)、我(わ)が身に取(と)りては過分(くわぶん)の敵(てき)ぞかし。あたら敵(かたき)に犬死(いぬじに)せんずるこそ悲(かな)しけれ。よからん鎧(よろひ)一両(いちりやう)、胡■(やなぐひ)一腰(こし)もがな、最後(さいご)の軍(いくさ)して腹(はら)切(き)りなんと思(おも)ひ居(ゐ)たりけるが、誠(まこと)に是(これ)は鎧(よろひ)一両(いちりやう)残(のこ)されし事(こと)の有(あ)りしぞかし。去年(きよねん)の十一月十三日に都(みやこ)を出(い)でて、四国の方(かた)へ下(くだ)り給(たま)ひし時、都(みやこ)の名残(なごり)を捨(す)て兼(か)ねて、其(そ)の夜は鳥羽(とば)の湊(みなと)に一夜(いちや)宿(しゆく)し給(たま)ひたりし時(とき)に、常陸坊(ひたちばう)を召(め)して「義経(よしつね)が住(す)みたる六条(ろくでう)堀河(ほりかは)には、如何(いか)なる者(もの)の住(す)まんずらん」と仰(おほ)せければ、常陸坊(ひたちばう)申(まう)しけるは、「誰(たれ)か住(す)み候(さうら)はん。自(おのづか)ら天魔(てんま)の
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住処(すみか)とこそなり候(さうら)はん」と申(まう)しければ、「義経(よしつね)が住(す)み馴(な)らしたる所(ところ)に天魔(てんま)の住処(すみか)とならん事(こと)憂(う)かるべし。主の為(ため)に重(おも)き甲冑(かつちう)を置(お)きつれば、守(まもり)となりて悪魔(あくま)を寄(よ)せぬ事(こと)のあるなるぞ」とて、小桜威(こざくらをどし)の鎧(よろひ)四方白(しはうじろ)の兜(かぶと)、山鳥(やまどり)の羽(は)の矢(や)十六差(さ)して、丸木(まるき)の弓一張(いつちやう)添(そ)へて置(お)かれたりしぞかし。未(いま)だ有(あ)りもやすらんと思(おも)ひて、天井(てんじやう)にひたひたと上(あ)がりて差(さ)し覗(のぞ)きて見れば、巳(み)の時(とき)許(ばか)りの事(こと)なれば、東の山(やま)より日の光(ひかり)射(さ)したる、隙間(すきま)より入(い)りて輝(かかや)きたるに、兜(かぶと)の星金物(ほしかなもの)ぎがとして見(み)えたり。取(と)り下(くだ)して草摺長(くさずりなが)に著(き)下(くだ)し、矢(や)掻(か)き負(お)ひ、弓(ゆみ)押(お)し張(は)り、素引打(すびきうち)して、北条(ほうでう)殿(どの)の二百余騎(よき)遅(おそ)しと待(ま)つ所(ところ)に、間(あひ)もすかさず押(お)し寄(よ)せたり。先陣(せんぢん)は大庭(おほには)に込(こ)み入(い)りて、後陣(ごぢん)は門外(もんぐわい)に控(ひか)へたり。江馬(えま)の小四郎(こしらう)義時(よしとき)鞠(まり)の懸(かかり)を小楯(こだて)に取(と)りて宣(のたま)ひけるは、「穢(きたな)し四郎兵衛(しらうびやうゑ)。とても逃(のが)るまじきぞ。顕(あらは)に出(い)で給(たま)へ。大将軍(だいしやうぐん)は北条(ほうでう)殿(どの)、斯(か)く申(まう)すは江間(えま)の小四郎(こしらう)義時(よしとき)と言(い)ふ者(もの)なり。はやはや出(い)で給(たま)へ」と言(い)へば、忠信(ただのぶ)是(これ)を聞(き)きて、縁(えん)の上(うへ)に立(た)ちたる蔀(しとみ)の下(もと)がはと突(つ)き落(おと)し、手矢(てや)取(と)りて差(さ)し矧(は)げ申(まう)しけるは、「江馬(えま)の小四郎に申(まう)すべき事(こと)有(あ)り。あはれ御辺(ごへん)達(たち)は法(ほふ)を知(し)り給(たま)はぬものかな。保元(ほうげん)平治(へいじ)の合戦(かつせん)と申(まう)すは、上(うへ)と上(うへ)との御事(おんこと)なれば、内裏(だいり)にも御所(ごしよ)にも恐(おそれ)をなし、思(おも)ふ様(さま)にこそ振舞(ふるま)ひしか。是(これ)はそれに似(に)るべくもなし。某(それがし)と御辺(ごへん)とは私軍(わたくしいくさ)にてこそあれ、鎌倉(かまくら)殿(どの)と左馬頭(さまのかみ)殿(どの)の御君達(ごきんだち)、
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我(われ)等(ら)が殿(との)も御兄弟(きやうだい)ぞかし。例(たと)へば人の讒言(ざんげん)によりて、御仲(おんなか)不和(ふわ)になり給(たま)ふとも、是(これ)ぞ讒言(ざんげん)寃(むしつ)なれば、思(おぼ)し召(め)し直(なほ)したらん時(とき)は、あはれ一(ひと)つの煩(わづら)ひかな」と言(い)ひも果(は)てず、縁(えん)より下(しも)へ飛(と)んで降(お)り、雨落(あまおち)に立(た)ちて、差(さし)詰(づ)め差(さし)詰(づ)め散々(さんざん)に射(い)る。江間(えま)の小四郎(こしらう)が真先(まつさき)かけたる郎等(らうどう)三騎(さんぎ)、同(おな)じ枕(まくら)に射(い)伏(ふ)せたり。二騎(き)に手(て)負(おほ)せければ、池(いけ)の東(ひがし)の端(はた)を門外(もんぐわい)へ向(む)けて嵐(あらし)に木(こ)の葉(は)の散(ち)る如(ごと)く、群(むら)めかしてぞ引(ひ)きにける。後陣(ごぢん)是(これ)を見(み)て、「穢(きたな)し江馬(えま)殿(どの)、敵(かたき)五騎(き)十騎(き)も有(あ)らばこそ、敵(てき)は一人也(なり)。返(かへ)し合(あ)はせ給(たま)へや」と言(い)はれて、馬(うま)の鼻(はな)を取(と)つて返(かへ)し、忠信(ただのぶ)を中に取(と)り込(こ)めて散々(さんざん)に攻(せ)むる。四郎兵衛(しらうびやうゑ)も十六差(さ)したる矢(や)なれば、程(ほど)無(な)く射(い)尽(つ)くして、箙(えびら)をかなぐり捨(す)てて、太刀(たち)を抜(ぬ)きて、大勢の中(なか)へ乱(みだ)れ入(い)りて、手(て)にもたまらず散々(さんざん)に斬(き)り廻(めぐ)る。馬(うま)人の嫌(きら)ひ無(な)く、大勢(おほぜい)其処(そこ)にて斬(き)られけり。さて鎧(よろひ)づきして身を的(まと)にかけて射(い)させけり。精兵(せいびやう)の射(い)る矢(や)は裏(うら)を掻(か)く。小兵(こひやう)の射(い)る矢(や)は筈(はず)を返(かへ)して立(た)たざりけり。然(さ)れども隙間(すきま)に立(た)つも多(おほ)ければ、夢(ゆめ)を見(み)る様(やう)にぞ有(あ)り。とてもかくても遁(のが)れぬもの故(ゆゑ)に、弱(よわ)りて後(のち)押(おさ)へて首(くび)を取(と)られんも詮(せん)なし。今(いま)は腹(はら)切(き)らばやと思(おも)ひて、太刀(たち)を打(う)ち振(ふ)りて縁(えん)につつと上(あ)がり、西向(にしむき)に立(た)ち、合掌(がつしやう)して申(まう)しけるは、「小四郎殿(どの)へ申(まう)し候(さうら)ふ。伊豆(いづ)、駿河の若党(わかたう)の、殊(こと)の外(ほか)の狼藉(らうぜき)に見(み)え候(さうら)ふを、万事を鎮(しづ)めて剛(かう)の者(もの)の腹(はら)切(き)る様(やう)を御覧(ごらん)ぜよや。東国の方(かた)へも主に
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志(こころざし)も有(あ)り、珍事(ちんじ)中夭(ちゆうえう)にも会(あ)ひ、又(また)敵(てき)に首(くび)を取(と)らせじとて自害(じがい)する者(もの)の為(ため)に、是(これ)こそ末代(まつだい)の手本(てほん)よ、鎌倉(かまくら)殿(どの)にも自害(じがい)の様(やう)をも、最期(さいご)の言葉(ことば)をも見参(げんざん)に入(い)れて賜(た)べ」と申(まう)しければ、「さらば静(しづか)に腹(はら)を切(き)らせて首(くび)を取(と)れ」とて、手綱(たづな)を打(う)ち捨(す)て是(これ)を見(み)る。心(こころ)安(やす)げに思(おも)ひて、念仏(ねんぶつ)高声(かうしやう)に三十遍(ぺん)ばかり申(まう)して、願以此功徳(ぐわんいしくどく)と廻向(ゑかう)して、大(だい)の刀(かたな)を抜(ぬ)きて、引合(ひきあはせ)をふつと切(き)つて、膝(ひざ)をつい立(た)て居丈高(ゐだけだか)になりて、刀を取(と)り直(なほ)し、左の脇(わき)の下(した)にがはと刺(さ)し貫(つらぬ)きて、右の肩(かた)の下(した)へするりと引(ひ)き廻(まは)し、心(こころ)先(さき)に貫(つらぬ)きて、臍(へそ)の下(もと)まで掻(か)き落(おと)し、刀(かたな)を押(お)し拭(のご)ひて打(う)ち見(み)て、「あはれ刀(かたな)や、舞房(まうふさ)に誂(あつら)へて、よくよく作(つく)ると言(い)ひたりし効(しるし)有(あ)り。腹(はら)を切(き)るに少(すこ)しも物の障(さは)る様(やう)にも無(な)きものかな。此(こ)の刀(かたな)を捨(す)てたらば、屍(かばね)に添(そ)へて東国まで取(と)られんず。若(わか)き者(もの)共(ども)に良(よ)き刀(かたな)、悪(あ)しき刀(かたな)など言(い)はれん事(こと)も由(よし)なし。
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黄泉(よみじ)まで持(も)つべき」とて、押(お)し拭(のご)ひて鞘(さや)にさして、膝(ひざ)の下(した)に押(お)しかいて、疵(きず)の口(くち)を掴(つか)みて引(ひ)き開(あ)け、拳(こぶし)を握(にぎ)りて腹(はら)の中に入(い)れて、腸(はらわた)縁(えん)の上(うへ)に散々(さんざん)に掴(つか)み出(い)だして、「黄泉(よみぢ)まで持(も)つ刀(かたな)をばかくするぞ」とて、柄(つか)を心(こころ)先(さき)へ、鞘(さや)は折骨(をりぼね)の下(した)へ突(つ)き入(い)れて、手(て)をむずと組(く)み、死(し)にげも無(な)くて息(いき)強(つよ)げに念仏(ねんぶつ)申(まう)して居(ゐ)たり。さても命(いのち)死(し)に兼(か)ねて、世間(せけん)の無常(むじやう)を観(くわん)じて申(まう)しけるは、「あはれなりける娑婆(しやば)世界(せかい)の習(なら)ひかな。老少(らうせう)不定(ふぢやう)の境(さかひ)、げに定(さだめ)は無(な)かりけり。如何(いか)なる者(もの)の、矢(や)一(ひとつ)に死(しに)をして、後(あと)までも妻子(さいし)に憂(う)き目(め)を見(み)すらん。忠信(ただのぶ)如何(いか)なる身を持(も)ちて、身を殺(ころ)すに、死(し)に兼(か)ねたる業(ごふ)の程(ほど)こそ悲(かな)しけれ。是(これ)も只(ただ)余(あま)りに判官(はうぐわん)を恋(こひ)しと思(おも)ひ奉(たてまつ)る故に、是(これ)まで命(いのち)は長(なが)きかや。是(これ)ぞ判官(はうぐわん)の賜(た)びたりし御帯刀(おんばかせ)、是(これ)を御形見(おんかたみ)に見(み)て、黄泉(よみぢ)も心(こころ)安(やす)かれ」とて、抜(ぬ)いて、置(お)きたる太刀(たち)を取(と)りて、先(さき)を口(くち)に含(ふく)みて、膝(ひざ)を押(おさ)へて立(た)ち上(あ)がり、手(て)を放(はな)つて俯伏(うつぶし)に、がはと倒(たふ)れけり。鍔(つば)は口(くち)に止(とど)まり、切先(きつさき)は鬢(びん)の髪(かみ)を分(わ)けて、後(うし)ろにするりとぞ通(とほ)りける。惜(を)しかるべき命(いのち)かな。文治(ぶんぢ)二年正月六日の辰(たつ)の刻(こく)に、遂(つひ)に人手(ひとで)にかからず、生年(しやうねん)廿八にて失(う)せにけり。
忠信(ただのぶ)が首(くび)鎌倉(かまくら)へ下る事 S0603
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北条(ほうでう)殿(どの)の郎等(らうどう)、伊豆(いづ)の住人(ぢゆうにん)、みまの弥太郎(やたらう)と申(まう)す者(もの)、四郎兵衛(しらうびやうゑ)が死骸(しがい)のあたり立(た)ち寄(よ)りて、首(くび)を掻(か)き持(も)ちて、六波羅(ろくはら)へ行(ゆ)き、大路(おほぢ)を渡(わた)して、東国へ下(くだ)るべきとぞ聞(き)こえける。然(さ)れども朝敵(てうてき)の者(もの)の獄門(ごくもん)に懸(か)けらるべきこそ大路を渡せ、是(これ)は頼朝(よりとも)が敵(かたき)義経(よしつね)が郎等(らうどう)をや。別(べつし)て渡(わた)さるべき首(くび)ならずと、公卿(くぎやう)より仰(おほ)せられければ、北条(ほうでう)理(ことわり)とて渡さず。小四郎(こしらう)五十騎の勢(せい)を具(ぐ)して、首(くび)を持(も)たせて関東(くわんとう)へ下(くだ)る。正月廿日に下著(げちやく)し、二十一日に鎌倉(かまくら)殿(どの)の見参(げんざん)に入(い)れて、「謀反(むほん)の者(もの)の首(くび)取(と)りて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「何処(いづく)の国(くに)の、誰がしと申(まう)す者(もの)ぞ」と御尋(おんたづ)ねある。「判官(はうぐわん)殿(どの)の郎等(らうどう)佐藤(さとう)四郎兵衛(しらうびやうゑ)と申(まう)す者(もの)にて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「討手(うつて)は誰(たれ)」と仰(おほ)せければ、北条(ほうでう)とぞ申(まう)しける。始(はじ)めたる事(こと)にては無(な)けれ共(ども)、いしうし給(たま)ひつるとの御気色(ごきしよく)なり。自害(じがい)の体(てい)、最後(さいご)の時(とき)の
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言葉(ことば)、細々(こまごま)と申(まう)されければ、鎌倉(かまくら)殿(どの)「あはれ剛(かう)の者(もの)かな。人毎(ごと)に此(こ)の心(こころ)を持(も)たばや。九郎につきたる若党(わかたう)一人として愚(おろ)かなる者(もの)無(な)けれ。秀衡(ひでひら)も見(み)る所(ところ)有(あ)りてこそ多(おほ)くの侍(さぶらひ)共(ども)の中に、是(これ)等(ら)兄弟(きやうだい)をば付(つ)けつらめ。如何(いか)なれば、東国に是(これ)程(ほど)の者無(な)かるらん。余(よ)の者(もの)百人を召(め)し使(つか)はんよりも九郎が志(こころざし)をふつと忘(わす)れて、頼朝(よりとも)に仕(つか)へば、大国(たいこく)小国(せうごく)は知(し)らず、八ケ国(はつかこく)に於(おい)ては何(いづ)れの国にても一国は」とぞ仰(おほ)せける。千葉(ちば)、葛西(かさい)是(これ)を承(うけたまは)り、「あはれ由(よし)無(な)き者(もの)の有様(ありさま)かな。生きてだにも候(さうら)ふ物(もの)ならば」とぞ申(まう)しける。畠山(はたけやま)申(まう)されけるは、「心(こころ)及(およ)ばず、よくこそ死(し)に候(さうら)へばこそ君(きみ)も御気色(ごきしよく)にて候(さうら)へ。生(い)きて取(と)り下(くだ)り参(まゐ)らせ候(さうら)はんずるに、判官(はうぐわん)殿(どの)の御行衛(ゆくへ)知(し)らぬ事(こと)はよも有(あ)らじとて、糾問(きうもん)強(つよ)くせられ参(まゐ)らせなば、生(い)きたる甲斐(かひ)も候(さうら)ふまじ。遂(つひ)に死(し)ぬべき者(もの)の、余(よ)の侍(さぶらひ)共(ども)に顔(かほ)を守(まぼ)られんも心(こころ)憂(う)かるべし。忠信(ただのぶ)程(ほど)の剛(かう)の者(もの)の日本を賜(た)ぶとも、判官(はうぐわん)殿(どの)の御志(おんこころざし)を忘(わす)れ参(まゐ)らせて、君(きみ)に堅固(けんご)使(つか)はれ参(まゐ)らせ候(さうら)ふまじき物(もの)をや」と、残(のこ)る所(ところ)無(な)くぞ申(まう)されける。大井宇都宮(うつのみや)のは袖を引(ひ)き、膝(ひざ)をさして、「よくよく申(まう)し給(たま)へる物(もの)かな。初(はじ)めたる事(こと)にては無(な)けれども」とぞ囁(ささや)きける。「後代の例(ためし)に首(くび)をば懸(か)けよ」とて、堀(ほり)の弥太郎(やたらう)承(うけたまは)りて、座敷(ざしき)より立(た)ちて、由井(ゆゐ)の浜(はま)八幡(はちまん)の鳥居(とりゐ)の東(ひがし)にぞ懸(か)けける。三日過(す)ぎて御尋(おんたづ)ね有(あ)りければ、「未(いま)だ浜(はま)に候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、
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「不便(ふびん)なり。国(くに)遠(とほ)ければ、親(した)しき者(もの)知(し)らで取(と)らざるらめ。剛(かう)の者(もの)の首(くび)を久(ひさ)しく晒(さら)しては、所(ところ)の悪魔(あくま)となる事(こと)有(あ)り。首(くび)を召(め)し返(かへ)せ」とて、只(ただ)も捨(す)てられず、左馬頭殿(さまのかみどの)の御孝養(けうやう)に作られたる勝長寿院(しようぢやうじゆゐん)の後(うし)ろに埋(うづ)めらる。猶(なほ)も不便(ふびん)にや思(おぼ)し召(め)されけん、別当(べつたう)の方(かた)へ仰(おほ)せ有(あ)りて、一百三十六部の経(きやう)を書(か)きて供養(くやう)せられけり。昔(むかし)も今(いま)も是(これ)程(ほど)の弓取(ゆみとり)有(あ)らじとぞ申(まう)しける。
判官(はうぐわん)南都(なんと)へ忍(しの)び御出(おいで)ある事 S0604
さても判官(はうぐわん)は南都(なんと)勧修坊(くわんじゆばう)の許(もと)へ御座(おは)しましたりける程(ほど)に、勧修坊(くわんじゆばう)是(これ)を見(み)奉(たてまつ)りて、大(おほ)きに悦(よろこ)び、幼少(えうせう)の時(とき)より崇(あが)め奉(たてまつ)りける普賢(ふげん)、虚空蔵(こくうざう)の渡(わた)らせ給(たま)ひける仏殿(ぶつでん)に入(い)れ奉(たてまつ)りて、様々(さまざま)に労(いたは)り奉(たてまつ)る。折々(をりをり)毎(ごと)に申(まう)されけるは、「御身(おんみ)は三年(みとせ)に平家(へいけ)を亡(ほろ)ぼし給(たま)ひ、多(おほ)くの人の命を失(うしな)ひ給(たま)ひしかば、其(そ)の罪(つみ)如何(いか)でか逃(のが)れ給(たま)ふべき。一心に御菩提心(ごぼだいしん)を起(お)こさせ給(たま)ひて、高野(かうや)粉河(こかは)に閉(と)ぢ籠(こも)り、仏(ほとけ)の御名を唱(とな)へさせ給(たま)ひて、今生(こんじやう)幾程(いくほど)ならぬ来世(らいせ)を助(たす)からんと思(おぼ)し召(め)されずや」と勧(すす)め奉(たてまつ)り給(たま)ひければ、判官(はうぐわん)申(まう)させ給(たま)ひけるは、「度々仰(おほ)せ蒙(かうぶ)り候(さうら)へども、今(いま)一両年(いちりやうねん)もつれなき髻(もとどり)付(つ)けてこそつらつら世の有様(ありさま)も見(み)ん」とこそ宣(のたま)ひけれ。然(さ)れども
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若(も)しや出家(しゆつけ)の心(こころ)も出(い)で来給(たま)ふと尊(たつと)き法文(ほふもん)などを常(つね)には説(と)き聞(き)かせ奉(たてまつ)り給(たま)ひけれども、出家(しゆつけ)の御(おん)心(こころ)は無(な)かりけり。夜は御徒然(おんつれづれ)なる儘(まま)に、勧修坊(くわんじゆばう)の門外(もんぐわい)に佇(たたず)み、笛(ふえ)を吹(ふ)き鳴(な)らし、慰(なぐさ)ませ給(たま)ひける程(ほど)に、其(そ)の頃(ころ)奈良(なら)法師(ほふし)の中に、但馬(たじま)の阿闍梨(あじやり)と言(い)ふ者(もの)有(あ)り。同宿(だうじゆく)に和泉(いづみ)、美作(みまさか)、弁君(べんのきみ)、是(これ)等(ら)六人与(くみ)して申(まう)しけるは、「我(われ)等(ら)南都(なんと)にて悪行(あくぎやう)無道(ぶたう)なる名を取(と)りたれども、別に為(し)出(い)だしたる事(こと)もなし。いざや、夜々佇(たたず)みて、人の持(も)ちたる太刀(たち)奪(うば)ひて、我(われ)等(ら)が重宝(ちようほう)にせん」とぞ言(い)ひける。「尤(もつと)も然(しか)るべし」とて、夜々(よるよる)人の太刀(たち)を奪(と)り歩(あり)く。樊■(はんくわい)が謀(はかりこと)をなすも斯(か)くやらん。但馬(たじま)の阿闍梨(あじやり)申(まう)しけるは、「日頃(ひごろ)は有(あ)りとも覚(おぼ)えぬ冠者(くわんじや)極(きは)めて色(いろ)白(しろ)く、背(せい)も小(ちひ)さきが、良(よ)き腹巻(はらまき)著(き)て、黄金造(こがねづく)りの太刀(たち)の心(こころ)も及(およ)ばぬを帯(は)き、勧修坊(くわんじゆばう)の門外(もんぐわい)に夜(よ)な夜(よ)な佇(たたず)むが、己(おのれ)が太刀やらん、主(しゆう)の太刀(たち)やらん、主(ぬし)には過分(くわぶん)したる太刀(たち)なり。いざ寄(よ)りて奪(と)らん」とぞ申(まう)しける。美作(みまさか)申(まう)しけるは、「あはれ詮(せん)無(な)き事(こと)を宣(のたま)ふものかな。此(こ)の程(ほど)の九郎判官(はうぐわん)殿(どの)の吉野(よしの)の執行(しゆぎやう)に攻(せ)められて、勧修坊(くわんじゆばう)を頼みて御座(おは)すると聞(き)く。只(ただ)置(お)かせ給(たま)へ」と申(まう)せば、「それは臆病(おくびやう)の至(いた)る所(ところ)ぞ。など奪(と)らざらん」と言(い)へば、「それはさる事(こと)にて便宜(びんぎ)悪(あ)しくては如何(いかが)あるべからん」と申(まう)しければ、「然(さ)ればこそ毛(け)を吹(ふ)いて疵(きず)を求(もと)むるにてあれ。人の横紙(よこがみ)を破(やぶ)るになれば、さこそあれ」とて勧修坊(くわんじゆばう)
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の辺(ほとり)を狙(ねら)ふ。「各々(おのおの)六人、築地(ついぢ)の蔭(かげ)の仄暗(ほのくら)き所(ところ)に立(た)ちて、太刀(たち)の鞘(さや)に腹巻(はらまき)の草摺(くさずり)を投(な)げかけて、「此処(ここ)なる男(をとこ)の人を打(う)つぞや」と言(い)はば、各々(おのおの)声(こゑ)に付(つ)きて走(はし)り出(い)で、「如何(いか)なる痴者(しれもの)ぞ。仏法(ぶつぽふ)興隆(こうりう)の所(ところ)に度々(たびたび)慮外(りよぐわい)して罪(つみ)作(つく)るこそ心得(こころえ)ね。命(いのち)な殺(ころ)しそ。侍(さぶらひ)ならば髻(もとどり)を切(き)つて寺中(じちゆう)を追(お)へ。凡下(ぼんげ)ならば耳(みみ)鼻(はな)を削(けづ)りて追(お)ひ出(い)だせ」とて、奪(と)らぬは不覚人(ふかくじん)共」とて、ひしひしと出(い)で立(た)ち進(すす)みけり。判官(はうぐわん)は何時(いつ)もの事(こと)なれば、心(こころ)を澄(す)まして、笛(ふえ)を吹(ふ)き給(たま)ひて御座(おは)しけり。興(きよう)がる風情(ふぜい)にて通(とほ)らんとする者(もの)有(あ)り。判官(はうぐわん)の太刀(たち)の尻鞘(しりざや)に腹巻(はらまき)の草摺(くさずり)をからりとあてて、「此処(ここ)なる男(をとこ)の人を打(う)つぞや」と言(い)ひければ、残りの法師(ほふし)共(ども)「さな言(い)はせそ」とて三方(さんぱう)より追(お)ひかかりたり。斯(か)かる難(なん)こそ無(な)けれと思(おぼ)し召(め)し、太刀(たち)抜(ぬ)いて、築地(ついぢ)を後(うし)ろに宛(あ)てて待(ま)ち懸(か)け給(たま)ふ所(ところ)に長刀(なぎなた)差(さ)し出(い)だせば、ふつと
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切(き)り、長刀(なぎなた)小刃刀(こぞりは)の間(あひだ)に四つ切(き)り落(おと)し給(たま)へり。斯様(かやう)に散々(さんざん)に切(き)り給(たま)へば、五人をば同(おな)じ枕(まくら)に切(き)り伏(ふ)せ給(たま)ふ。但馬(たじま)手(て)負(お)うて逃(に)げて行(ゆ)くを、切所(せつしよ)に追(お)つかけ、太刀(たち)の脊(むね)にて叩(たた)き伏(ふ)せ、生(い)けながら掴(つか)んで捕(と)り給(たま)ふ。「汝(おのれ)は南都(なんと)にては誰(たれ)と言(い)ふ者(もの)ぞ」と問(と)ひ給(たま)へば、「但馬(たじま)の阿闍梨(あじやり)」と申(まう)しければ、「命は惜(を)しきか」と宣(のたま)へば、「生(しやう)を受(う)けたる者(もの)の、命惜(を)しからぬ者(もの)や御座(ござ)候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「さては聞(き)くには似(に)ず、汝(おのれ)は不覚人(ふかくじん)なりけるや。首(かうべ)を切(き)つて捨(す)てばやと思(おも)へども、汝(おのれ)は法師(ほふし)なり。某(それがし)は俗(ぞく)なり。俗(ぞく)の身として僧(そう)を切(き)らん事(こと)仏(ほとけ)を害(がい)し奉(たてまつ)るに似(に)たれば、汝(おのれ)をば助(たす)くるなり。此(こ)の後斯様(かやう)の狼藉(らうぜき)すべからず。明日南都(なんと)にて披露(ひろう)すべき様(やう)は、「某(それがし)こそ源九郎と組(く)むだりつれ」と言(い)はば、さては剛(かう)の者(もの)と言(い)はれんずるぞ。印(しるし)は如何(いか)にと人問(と)はば、無(な)しと答(こた)へては、人用(もち)ゐべからず。是(これ)を印(しるし)にせよ」とて、大(だい)の法師(ほふし)を取(と)つて仰(あふの)け、胸(むね)を踏(ふ)まへ、刀(かたな)を抜(ぬ)きて、耳(みみ)と鼻(はな)を削(けづ)りて放(はな)されけり。中々(なかなか)死(し)したらばよかるべしと、歎(なげ)きけれども甲斐(かひ)ぞ無(な)き。其(そ)の夜南都(なんと)をば掻(か)き消(け)す様(やう)にぞ失(う)せにける。判官(はうぐわん)は此(こ)の中夭(ちゆうえう)に会(あ)はせ給(たま)ひて、勧修坊(くわんじゆばう)に帰(かへ)りて、持仏堂(ぢぶつだう)に得業(とくご)を呼(よ)び奉(たてまつ)りて、暇(いとま)申(まう)して、「是(これ)にて年を送(おく)りたく候(さうら)へども、存ずる旨(むね)候(さうら)ふ間(あひだ)、都(みやこ)へ罷(まか)り出(い)で候(さうら)ふ。此(こ)の程(ほど)の御名残(おんなごり)尽(つ)くし難(がた)く候(さうら)ふ。若(も)し憂(う)き世にながらへ候(さうら)はば、申(まう)すに及(およ)ばず。
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又(また)死(し)して候(さうら)ふと聞召(きこしめ)し候(さうら)はば、後世(ごせ)を頼(たの)み奉(たてまつ)る。師弟(してい)は三世の契(ちぎ)りと申(まう)し候(さうら)へば、来世(らいせ)にて必(かなら)ず参会(さんくわい)し奉(たてまつ)り候(さうら)ふべし」とて、出(い)でんとし給(たま)へば、得業(とくご)は「如何(いか)なる事(こと)ぞや。暫(しばら)く是(これ)に御座(おは)しまし候(さうら)ふべきかと存(ぞん)じ候(さうら)ひつるに、思(おも)ひの外(ほか)御出(おい)で候(さうら)はんずるこそ心(こころ)得(え)難(がた)く候(さうら)へ。如何様(いかさま)人の中言(ちゆうげん)について候(さうら)ふと覚(おぼ)え候(さうら)ふ。たとひ如何(いか)なる事(こと)を人申(まう)し候(さうら)ふ共(とも)、身として用(もち)ゐべからず。暫(しば)し是(これ)に御座(おは)しまして、明年の春(はる)の頃(ころ)、何方(いづかた)へも渡(わた)らせ給(たま)へ。努々(ゆめゆめ)叶(かな)ひ候(さうら)ふまじ」と、御名残(おんなごり)惜(を)しき儘(まま)留(と)め奉(たてまつ)り給(たま)へば、判官(はうぐわん)申(まう)されけるは、「今宵(こよひ)こそ名残(なごり)惜(を)しく思(おぼ)し召(め)され候(さうら)ふとも、明日門外(もんぐわい)に候(さうら)ふ事(こと)御覧(ごらん)じ候(さうら)ひなば、義経(よしつね)が愛想(あいさう)も尽(つ)きて思(おぼ)し召(め)されんずる」と仰(おほ)せられければ、勧修坊(くわんじゆばう)是(これ)を聞(き)きて、「如何様(いかやう)にも今宵(こよひ)中夭(ちゆうえう)に会(あ)はせ給(たま)ふと覚(おぼ)えて候(さうら)ふ。此(こ)の程(ほど)若(わか)大衆(だいしゆ)共(ども)朝恩(てうおん)の余(あま)りに夜(よ)な夜(よ)な人の太刀(たち)を奪(うば)ひ取(と)る由(よし)承(うけたまは)りつるが、御帯刀(おんばかせ)世(よ)に超(こ)えたる御太刀(たち)なれば、取(と)り奉(たてまつ)らんとて、し奴(やつ)原(ばら)が切(き)られ参(まゐ)らせて候(さうら)ふらん。それに付(つ)けては何事(なにごと)の御大事(だいじ)か候(さうら)ふべき。聊爾(れうじ)に聞こえ候(さうら)はば、得業(とくご)が為(ため)に節々(ふしふし)なる様(やう)も候(さうら)ふらん。定(さだ)めて関東(くわんとう)へも訴(うつた)へ、都(みやこ)に北条(ほうでう)御座(おは)しまし候(さうら)へば、時政(ときまさ)私(わたくし)には適(かな)ふまじとて、関東(くわんとう)へ仔細(しさい)を申(まう)されんずらん。鎌倉(かまくら)殿(どの)も左右(さう)無(な)く宣旨(せんじ)院宣(ゐんぜん)無(な)くては、南都(なんと)へ大勢(おほぜい)をばよも向(む)けられ候(さうら)はじ。其(そ)の程の儀にて候(さうら)はば、御身(おんみ)平家(へいけ)追討(ついたう)の後(のち)は都(みやこ)に御座(おは)しまして、一天(いつてん)の君(きみ)
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の御覚(おぼ)えもめでたく、院(ゐん)の御感(ぎよかん)にも入(い)り給(たま)ひしかば、宣旨(せんじ)院宣(ゐんぜん)も申(まう)させ給(たま)はんに、誰(たれ)か劣(おと)るべき。御身(おんみ)は都(みやこ)に在京(ざいきやう)して、四国九国(くこく)の軍兵(ぐんびやう)を召(め)さんに、などか参(まゐ)らで候(さうら)ふべき。畿内(きない)中国の軍兵(ぐんびやう)も一(ひと)つになりて参(まゐ)るべし。鎮西(ちんぜい)の菊地(きくち)、原田(はらた)、松浦(まつら)、臼杵(うすき)、戸次(へつぎ)の者共(ども)召(め)されんずに参(まゐ)らずは、片岡(かたをか)、武蔵(むさし)などの荒者(あらもの)共(ども)を差(さ)し遣(つか)はし、少々追討(ついたう)し給(たま)へ。他所は乱(みだ)るる事(こと)も候(さうら)ひなん。半国(はんごく)一(ひと)つになり、荒乳(あらち)の中山(なかやま)、伊勢(いせ)の鈴鹿山(すずかやま)を切(き)り塞(ふさ)ぎ、逢坂(あふさか)の関(せき)を一(ひと)つにして、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)の代官(だいくわん)関(せき)より西(にし)へ入(い)れん事(こと)あるべからず。得業(とくご)も斯(か)くて候(さうら)へば、興福寺(こうぶくじ)、東大寺(とうだいじ)、山(やま)、三井寺(みゐでら)、吉野(よしの)、十津川(とづかは)、鞍馬(くらま)、清水(きよみづ)一(ひと)つにして参(まゐ)らせん事(こと)は安(やす)き事(こと)にてこそ候(さうら)へ。それも適(かな)ふまじく候(さうら)はば、得業(とくご)が一度の恩(おん)をも忘(わす)れじと思(おも)ふ者(もの)二三百人、彼等(かれら)を召(め)して城郭(じやうくわく)を構(かま)へ、櫓(やぐら)をかき、御内(みうち)に候(さうら)ふ一人当千(たうぜん)の兵(つはもの)共(ども)を召(め)し具(ぐ)して、櫓(やぐら)へ上(あ)がりて弓(ゆみ)取(と)りて候(さうら)はば、心(こころ)剛(かう)なる者(もの)共(ども)に軍(いくさ)せさせて、余所(よそ)にて物(もの)を見(み)候(さうら)ふべし。自然(しぜん)味方(みかた)亡(ほろ)び候(さうら)はば、幼少(えうせう)の時(とき)より頼(たの)み奉(たてまつ)る本尊(ほんぞん)の御前にて、得業(とくご)持経(ぢきやう)せば、御身(おんみ)は念仏(ねんぶつ)申(まう)させ給(たま)ひて、腹(はら)を切(き)らせ給(たま)へ。得業(とくご)も剣(けん)を身(み)に立(た)てて、後生(ごしやう)まで連(つ)れ参(まゐ)らせん。今生(こんじやう)は御祈(いの)りの師、来世(らいせ)は善智識(ぜんちしき)にてこそ候(さうら)はんずれ」と世(よ)に頼(たの)もしげにぞ申(まう)されける。是(これ)に付(つ)けても暫(しばら)く有(あ)らまほしく思(おも)はれけれども、世の人の心(こころ)も知(し)り難(がた)く、我(わ)が朝(てう)には義経(よしつね)より外はと思(おも)ひつるに、此(こ)の
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得業(とくご)は世に超(こ)えたる人にて御座(おは)しけると思(おぼ)し召(め)されければ、やがて其(そ)の夜の内(うち)に南都(なんと)を出(い)でさせ給(たま)ひけり。争(いか)でか独(ひと)りは出(い)だし参(まゐ)らせんなれば、我(わ)が為(ため)心(こころ)安(やす)き御弟子六人を付(つ)け奉(たてまつ)り、京へぞ送(おく)り奉(たてまつ)りける。「六条(ろくでう)堀河(ほりかは)なる所(ところ)に暫(しばら)く待(ま)ち給(たま)へ」とて、行方(ゆきかた)知(し)らず失(う)せ給(たま)ひぬ。六人の人々(ひとびと)空(むな)しくぞ帰(かへ)りける。それより後(のち)は勧修坊(くわんじゆばう)も判官(はうぐわん)の御行方(おんゆくへ)をば知(し)り奉(たてまつ)らず。され共(ども)奈良(なら)には人多(おほ)く死(し)にぬ。但馬(たじま)や披露(ひろう)したりけん、判官(はうぐわん)殿(どの)勧修坊(くわんじゆばう)の許(もと)にて謀反(むほん)起(お)こして、語(かた)らふ所(ところ)の大衆(だいしゆ)従(したが)はぬをば、得業(とくご)判官(はうぐわん)に放(はな)ち合(あ)はせ奉(たてまつ)るとぞ風聞しける。
関東(くわんとう)より勧修坊(くわんじゆばう)を召(め)さるる事 S0605
南都(なんと)に判官(はうぐわん)殿(どの)在(おは)します由(よし)六波羅(ろくはら)に聞(き)こえければ、北条(ほうでう)大(おほ)きに驚(おどろ)き、急(いそ)ぎ鎌倉(かまくら)へ申(まう)されけり。頼朝(よりとも)梶原(かぢはら)を召(め)して仰(おほ)せられけるは、「南都(なんと)の勧修坊(くわんじゆばう)と言(い)ふ者(もの)の、九郎に与(くみ)して世を乱(みだ)するなるが、奈良(なら)法師(ほふし)も大勢討(う)たれてあるなり。和泉(いづみ)、河内(かはち)の者(もの)共(ども)九郎に思(おも)ひつかぬ先(さき)に、これ計(はか)らへ」と仰(おほ)せられければ、梶原(かぢはら)申(まう)しけるは、「それこそゆゆしき御大事(だいじ)にて候(さうら)へ。僧徒(そうと)の身(み)として、然様(さやう)の事(こと)思(おぼ)し召(め)し立(た)ち候(さうら)はんこそ不思議(ふしぎ)に候(さうら)へ」と申(まう)す所(ところ)に、又(また)北条(ほうでう)より飛脚(ひきやく)到来(とうらい)し
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て、判官(はうぐわん)南都(なんと)には在(おは)せず、得業(とくご)の計(はか)らひにて隠(かく)し奉(たてまつ)る由(よし)申(まう)されければ、梶原(かじはら)申(まう)しけるは、「さらば宣旨(せんじ)院宣(ゐんぜん)をも御申(まう)し候(さうら)ひて、勧修坊(くわんじゆばう)を是(これ)へ下(くだ)し奉(たてまつ)りて、判官(はうぐわん)の御行方(おんゆくへ)を御尋(おんたづ)ね候(さうら)へ。陳状(ちんじやう)に随(したが)ひて、死罪(しざい)流罪(るざい)にも」と申(まう)しければ、急ぎ堀(ほり)の藤次(とうじ)親家(ちかいへ)に仰(おほ)せ付(つ)けられ、五十余騎(よき)にて馳(は)せ上(のぼ)り、六波羅(ろくはら)に著(つ)きて、此(こ)の由(よし)を申(まう)しければ、北条(ほうでう)殿(どの)親家(ちかいへ)を召(め)し具(ぐ)して、院(ゐん)の御所に参(さん)じて、仔細(しさい)を申(まう)されければ、院宣(ゐんぜん)には「まろが計(はか)らひにあるべからず。勧修坊(くわんじゆばう)と言(い)ふは、当帝(たうだい)の御祈(いの)りの師、仏法(ぶつぽふ)興隆(こうりう)の有験(うげん)、広大(くわうだい)慈悲(じひ)の智識(ちしき)なり。内裏(だいり)へ巨細(こさい)を申(まう)さでは叶(かな)ふまじ」とて、内裏(だいり)へ仰(おほ)せられければ、「仏法(ぶつぽふ)興隆(こうりう)の験(げん)たる人にても、然様(さやう)に僻事(ひがこと)などを企(くはだ)てんに於(おい)ては、朕(ちん)も叶(かな)はせ給(たま)ふべからず。頼朝(よりとも)が憤(いきどほ)る所(ところ)理(ことわり)ならずと言(い)ふ事(こと)なし。義経(よしつね)も本朝(ほんてう)の敵(てき)たる上(うへ)は、勧修坊(くわんじゆばう)を渡すべし」と宣旨(せんじ)下(くだ)りければ、時政(ときまさ)悦(よろこ)びをなして、三百余騎(よき)にて南都(なんと)に馳(は)せ下(くだ)りて、勧修坊(くわんじゆばう)にして宣旨(せんじ)の趣(おもむき)披露(ひろう)せられたり。得業(とくご)是(これ)を聞(き)きて、「世(よ)は末代(まつだい)と言(い)ひながら、王法(わうぼふ)の尽(つ)きぬるこそ悲(かな)しけれ。上古(しやうこ)は宣旨(せんじ)と申(まう)しければ、枯(か)れたる草木も花(はな)咲(さ)き実(み)を結(むす)び、空(そら)飛(と)ぶ翼(つばさ)も落(お)ちけるとこそ承(うけたまは)り伝(つた)へしに、然(さ)れば今(いま)は世(よ)も斯様(かやう)なれば、末(すゑ)の代(よ)も如何(いかが)有(あ)らんずらん」とて、涙(なみだ)に咽(むせ)び給(たま)ひけり。「仮令(たとひ)宣旨(せんじ)院宣(ゐんぜん)なりとも、南都(なんと)にてこそ屍(かばね)を捨(す)つべけれども、それも僧徒(そうと)の身として穏便(おんびん)ならねば、
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東国(とうごく)の兵衛佐(ひやうゑのすけ)は諸法も知(し)らぬ人にてあるなるに、次(ついで)もがな関東(くわんとう)へ下(くだ)りて兵衛佐(ひやうゑのすけ)を教化(けうけ)せばやと思(おも)ひつるに、下(くだ)れと仰(おほ)せらるるこそ嬉(うれ)しけれ」とて、やがて出(い)で立(た)ち給(たま)ひけり。公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)の君達(きんだち)学問(がくもん)の志(こころざし)御座(おは)しましければ、師弟(してい)の別(わか)れを悲(かな)しみ、東国まで御供(おんとも)申(まう)すべき由(よし)を申(まう)し給(たま)へども、得業(とくご)仰(おほ)せられけるは、「努々(ゆめゆめ)あるべからず。身罪過(ざいくわ)の者(もの)にて召(め)し下(くだ)され候(さうら)ふ間(あひだ)、咎(とが)とて其(そ)の難(なん)をば争(いかで)か遁(のが)れさせ給(たま)ふべき」と諌(いさ)め給(たま)へば、泣(な)く泣(な)く後(あと)に止(とど)まり給(たま)ふ。「ともかくもなりぬと聞召(きこしめ)されば、跡(あと)を弔(とぶら)はせ給(たま)へ。若し存命(ながら)へて如何(いか)なる野の末(すゑ)、山(やま)の奥(おく)にも有(あ)りと聞(き)き給(たま)はば、訪(とぶら)ひ渡(わた)らせ給(たま)へ」と、泣(な)く泣(な)く思(おも)ひ切(き)りて出(い)で給(たま)ふ。此(こ)の別(わか)れを物(もの)に譬(たと)ふれば、釈尊(しやくそん)入滅(にふめつ)の時(とき)十六羅漢(らかん)、五百人の御弟子、五十二類(るい)に至(いた)るまで悲(かな)しみ奉(たてまつ)りしも、争(いかで)か是(これ)には勝(まさ)るべき。かくて得業(とくご)北条(ほうでう)に具せられて、平(たひら)の京へ入(い)り給(たま)ふ。六条(ろくでう)の持仏堂(ぢぶつだう)に入(い)れ奉(たてまつ)りて、様々(やうやう)にぞ労(いたは)り奉(たてまつ)る。江馬(えま)の小四郎申(まう)されけるは、「何事(なにごと)をも思(おぼ)し召(め)し候(さうら)はば、承(うけたまは)り候(さうら)ひて、南都(なんと)へ申(まう)すべく候(さうら)ふ」と申(まう)されければ、何事(なにごと)をか申(まう)すべき。但(ただ)し此(こ)の辺(へん)に年来知(し)りたる方(かた)候(さうら)ふ。是(これ)へ参(まゐ)り候(さうら)ふを聞(き)きては尋(たづ)ぬべき人に候(さうら)ふが、来(き)たられ候(さうら)はぬは、如何様(いかさま)にも世に憚(はばか)りをなし候(さうら)ひてと覚(おぼ)え候(さうら)ふ。苦(くる)しかるまじく候(さうら)はば、此(こ)の人に見参(げんざん)し下(くだ)らばや」と仰(おほ)せられければ、義時(よしとき)「御名をば何(なに)
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と申(まう)すぞ。元(もと)は黒谷(くろだに)に居(ゐ)られ候(さうら)ふ。此(こ)の程(ほど)は東山(ひがしやま)に法然房(ほうねんばう)」と仰(おほ)せられければ、「さては近(ちか)き所(ところ)に御座(おは)しまし候(さうら)ふ上人(しやうにん)の御事(おんこと)候(ざふらふ)」とて、やがて御使(おんつかひ)を奉(たてまつ)る。上人(しやうにん)大(おほ)きに悦(よろこ)びて急(いそ)ぎ来(き)たり給(たま)ふ。二人(ふたり)の智識(ちしき)御目を見(み)合(あ)はせ、互(たが)ひに涙(なみだ)に咽(むせ)び給(たま)ひけり。勧修坊(くわんじゆばう)仰(おほ)せられけるは、「見参(げんざん)に入(い)りて候(さうら)ふ事(こと)は悦(よろこ)び入(い)りて候(さうら)へども、面目(めんぼく)無(な)き事(こと)の候(さうら)ふぞ。僧徒(そうと)の法(ほふ)として謀反(むほん)の人に与(くみ)したりとて、東国まで取(と)り下(くだ)され候(さうら)ふ。其(そ)の難(なん)を逃(のが)れて帰(かへ)らん事(こと)も不定(ふぢやう)なり。然(さ)れば往昔(いにしへ)より「先(さき)に立(た)ち参(まゐ)らせば、弔(とぶら)はれ参(まゐ)らせん。先(さき)に立(た)たせ給(たま)ひ候(さうら)はば、御菩提(ぼだい)を訪(とぶら)ひ参(まゐ)らせん」と契(ちぎ)り申(まう)して候(さうら)ひしに、先立(さきだ)ち参(まゐ)らせて訪(とぶら)はれ参(まゐ)らせんこそ悦(よろこ)び入(い)りて候(さうら)へ。是(これ)を持仏堂(ぢぶつだう)の前(まへ)に置(お)かせ給(たま)ひ、御目(め)にかかり候(さうら)はん度毎(たびごと)に思(おも)ひ出(い)で、後世(ごせ)を訪(とぶら)ひて賜(たま)はり候(さうら)へ」とて、九条(くでう)の袈裟(けさ)を外(はず)して奉(たてまつ)り給(たま)へば、東山(ひがしやま)の上人(しやうにん)泣(な)く泣(な)く受(う)け取(と)り給(たま)ひけり。東山の上人(しやうにん)紺地(こんぢ)の錦(にしき)の経袋(きやうぶくろ)より一巻の法華経(ほけきやう)を取(と)り出(い)だし、勧修坊(くわんじゆばう)に参(まゐ)らせ給(たま)ふ。互(たが)ひに形見(かたみ)取(と)り違(ちが)へて、上人(しやうにん)帰(かへ)り給(たま)ひければ、得業(とくご)六条(ろくでう)に留(とど)まりて、いとど涙(なみだ)に咽(むせ)び給(たま)ひけり。此(こ)の勧修坊(くわんじゆばう)と申(まう)すは、本朝大会(だいゑ)の大伽藍(だいがらん)、東大寺(とうだいじ)の院主(ゐんじゆ)、当帝(たうだい)の御師となり、広大(くわうだい)慈悲(じひ)の智識(ちしき)なり。院参(ゐんざん)し給(たま)ふ時(とき)、腰輿(えうよ)牛車(ぎうしや)に召(め)されて、鮮(あざ)やかなる中童子(ちゆうどうじ)、大童子(だいどうじ)、然(しか)るべき大衆(だいしゆ)数多(あまた)御供(おんとも)して参(まゐ)られし時(とき)は、左右の大臣も各々(おのおの)渇仰(かつがう)し給(たま)ひ
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しぞかし。今(いま)は何時(いつ)しか引(ひ)き替(か)へて、日来(ひごろ)著給(たま)ひし素絹(そけん)の御衣(ころも)をば召(め)されず、麻(あさ)の衣(ころも)の賎(いや)しきに、剃(そ)らで久(ひさ)しき御髪(みぐし)、護摩(ごま)の煙(けぶり)にふすぶる御気色(みけしき)、中々(なかなか)尊(たつと)くぞ見(み)奉(たてまつ)る。六波羅(ろくはら)を出(い)だし奉(たてまつ)りて、見(み)馴(な)れぬ武士(ぶし)を御覧(ごらん)じけるだに悲(かな)しきに、浅(あさ)ましげなる伝馬(てんま)に乗(の)せ奉(たてまつ)る。所々(ところどころ)の落馬は目(め)も当(あ)てられず覚(おぼ)えたり。粟田口(あはたぐち)打(う)ち過(す)ぎて、松坂(まつざか)越(こ)えて、是(これ)や逢坂(あふさか)の蝉丸(せみまる)の住(す)み給(たま)ひし、四宮河原(しのみやかはら)を打(う)ち過(す)ぎて、逢坂(あふさか)の関(せき)越(こ)えければ、小野(をの)の小町(こまち)が住(す)み馴(な)れし関寺(せきでら)を伏(ふ)し拝(おが)み、園城寺(をんじやうじ)を弓手(ゆんで)になし、大津(おほつ)、打出(うちで)の浜(はま)過(す)ぎて、勢多(せた)の唐橋(からはし)踏(ふ)みならし、野路(のぢ)篠原(しのはら)も近(ちか)くなり忘(わす)れんとすれど忘(わす)れず、常(つね)に都(みやこ)の方(かた)を顧(かへり)みて行(ゆ)けば、様々(やうやう)都(みやこ)は遠(とほ)くなりにけり。音(おと)には聞(き)きて、目(め)には見(み)ぬ小野(をの)の摺針(すりばり)、霞(かすみ)に曇(くも)る鏡山(かがみやま)、伊吹(いぶき)の岳(だけ)も近(ちか)くなる。其(そ)の日は堀(ほり)の藤次(とうじ)鏡(かがみ)の宿(しゆく)に留(と)まり、次(つぎ)の日は痛(いた)はしくや思(おも)ひけん、長者(ちやうじや)
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に輿(こし)を借(か)りて乗(の)せ奉(たてまつ)る。「都(みやこ)を御出(おいで)の時、かくこそ召(め)させ参(まゐ)らすべく候(さうら)ひしかども、鎌倉(かまくら)の聞(き)こえ其(そ)の憚(はばか)りにて御馬(うま)を参(まゐ)らせ候(さうら)はんずるにて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、得業(とくご)、「道(みち)の程(ほど)の御情(なさけ)こそ悦(よろこ)び入(い)りて候(さうら)へ」と仰(おほ)せられけるこそ哀(あは)れなれ。夜を日に継(つ)ぎて下(くだ)りける程(ほど)に、十四日に鎌倉(かまくら)に著(つ)き給(たま)ふ。堀(ほり)の藤次(とうじ)の宿所(しゆくしよ)に入(い)れ奉(たてまつ)りて、四五日は鎌倉(かまくら)殿(どの)にも申(まう)し入(い)れず。或(あ)る時(とき)得業(とくご)に申(まう)しけるは、「御(おん)痛(いた)はしく候(さうら)ひて、鎌倉(かまくら)殿(どの)にも申(まう)し入(い)れず候(さうら)ひつれども何時(いつ)まで申(まう)さでは候(さうら)ふべきなれば、只今(ただいま)出仕(しゆつし)仕(つかまつ)り候(さうら)ふ。今日御見参(げんざん)あるべきとこそ覚(おぼ)え候(さうら)ひぬ」と申(まう)しければ、「思(おも)ふも中々(なかなか)心(こころ)苦(ぐる)し。疾(と)くして見参(げんざん)に入(い)り、御問状(おんとひじやう)をも承(うけたまは)り候(さうら)ひて、愚存(ぐぞん)の旨(むね)を申(まう)し度(たく)こそ候(さうら)へ」と仰(おほ)せられければ、藤次(とうじ)頼朝(よりとも)へ参り、此(こ)の由(よし)申(まう)し入(い)る。梶原(かぢはら)を召(め)して、「今日中に得業(とくご)に尋(たづ)ね聞(き)くべき事(こと)有(あ)り。侍(さぶらひ)共(ども)召(め)せ」と仰(おほ)せられければ、承(うけたまは)りて召(め)しける侍(さぶらひ)は誰々(たれたれ)ぞ。和田(わだ)の小太郎(こたらう)義盛(よしもり)、佐原(さはら)の十郎(じふらう)、千葉介(ちばのすけ)、葛西(かさい)の兵衛(ひやうゑ)、豊田(とよた)の太郎、宇都宮(うつのみや)の弥三郎、海上(うなかみ)の次郎(じらう)、小山(をやま)の四郎、長沼(ながぬま)の五郎、小野寺(をのでら)の前司(ぜんじ)太郎(たらう)、河越(かはごえ)の小太郎(こたらう)、同(おな)じく小次郎(こじらう)、畠山(はたけやま)の二郎(じらう)、稲毛(いなげの)三郎(さぶらう)、梶原(かぢはら)平三(へいざう)父子(ふし)ぞ召(め)されける。鎌倉(かまくら)殿(どの)仰(おほ)せられけるは、「勧修坊(くわんじゆばう)に尋(たづ)ね問(と)はんずる座敷(ざしき)には、何処(いづく)の程(ほど)かよかるべき」。梶原(かじはら)申(まう)しけるは、「御中門(ちゆうもん)の
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下口(しもくち)辺(へん)こそよく候(さうら)はん」と申(まう)しければ畠山(はたけやま)御前(おまへ)に畏(かしこ)まり申(まう)されけるは、「勧修坊(くわんじゆばう)の御座敷(ざしき)の事(こと)承(うけたまは)り候(さうら)ふに、梶原(かぢはら)は中門(ちゆうもん)の下口(しもくち)と申(まう)し上(あ)げ候(さうら)ふ。是(これ)は判官(はうぐわん)殿(どの)に与(くみ)し奉(たてまつ)りたりと言(い)ふ、其(そ)の故(ゆゑ)と覚え候(さうら)ふ。さすがに勧修坊(くわんじゆばう)と申(まう)すは、御俗姓(ぞくしやう)と申(まう)し、天子の御師匠(ごししやう)申(まう)し、東大寺(とうだいじ)の院主(ゐんじゆ)にて御座(おは)しまし候(さうら)ふ。御気色(みけしき)渡(わた)らせ給(たま)ふによつてこそ、是(これ)までも申(まう)し下(くだ)し参(まゐ)らせ御座(おは)しまして候(さうら)へ。さこそ遠国(をんごく)にて候(さうら)ふとも、座敷(ざしき)しどろにては、外処(よそ)の聞(き)こえ悪(あ)しく存(ぞん)じ候(さうら)ふ。下口(しもくち)などにての御尋(おんたづ)ねには一言(ひとこと)も御返事(ごへんじ)は申(まう)され候(さうら)はじ。只(ただ)同座(どうざ)の御対面(ごたいめん)や候(さうら)ふべからん」と申(まう)されたりければ、「頼朝(よりとも)もかくこそ思(おも)ひつれ」とて、御簾(みす)を日頃(ひごろ)より高(たか)く捲(ま)かせて、御座敷(ざしき)には紫端(むらさきべり)の畳(たたみ)、水干(すいかん)に立烏帽子(たてえぼし)にて御見参(げんざん)有(あ)り。堀(ほり)の藤次(とうじ)勧修坊(くわんじゆばう)を入(い)れ奉(たてまつ)る。鎌倉(かまくら)殿(どの)思(おぼ)し召(め)しけるは、何(なに)ともあれ、僧徒(そうと)なれば、糾問(きうもん)は叶(かな)ふまじ。言葉(ことば)を以(もつ)て責(せ)め伏(ふ)せて問(と)はんずる物(もの)をと思(おぼ)し召(め)しけり。得業(とくご)御座敷(ざしき)に居(ゐ)直(なほ)り給(たま)ひけれども、兎角(とかく)仰(おほ)せ出(い)だされたる事(こと)は無(な)くて、笑(わら)ひて、大(だい)の御眼(まなこ)にてはたと睨(にら)ませてぞ御座(おは)しける。得業(とくご)是(これ)を見(み)給(たま)ひて、あはれ、人の心(こころ)の中(うち)もさこそ有(あ)るらめと思(おも)はれければ、手(て)を握(にぎ)りて膝(ひざ)の上(うへ)に置(お)きて、鎌倉(かまくら)殿(どの)をつくづくと守(まぼ)りて、御問状(おんとひじやう)も陳状(ちんじやう)もさこそ有(あ)らんずらんと覚(おぼ)えて、人々(ひとびと)固唾(かたづ)を呑(の)みて居(ゐ)たりけり。頼朝(よりとも)堀(ほり)の藤次(とうじ)を召(め)して、「是(これ)が勧修坊(くわんじゆばう)か」
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と仰(おほ)せられければ、親家(ちかいへ)畏(かしこ)まつてぞ候(さうら)ひける。暫(しばら)く有(あ)りて、鎌倉(かまくら)殿(どの)仰(おほ)せられけるは、「抑(そもそも)僧徒(そうと)と申(まう)すは、釈尊(しやくそん)の教法(けうぼふ)を学(まな)んで、師匠(ししやう)の閑室(かんしつ)に入(い)つしより此(こ)の方(かた)、意楽(いぎやう)を正(ただ)しく、三衣(さんゑ)を墨(すみ)に染(そ)めて、仏法(ぶつぽふ)を興隆(こうりう)し経論(きやうろん)諸経の前に眼(まなこ)をさらし、無縁(むえん)の人を弔(とぶら)ひ、結縁(けちえん)の者(もの)を導(みちび)くこそ、僧徒(そうと)の法(ほふ)とはして候(さうら)へ。何ぞ謀反(むほん)の者(もの)に与(くみ)して、世を乱(みだ)さんとの謀(はかりこと)世に隠(かく)れなし。九郎天下の大事(だいじ)になり、国土の乱を赴(おもむ)く者(もの)を入(い)れ立(た)てて、剰(あまつさ)へ奈良(なら)法師(ほふし)を我(われ)に与(くみ)せよと宣(のたま)ふに、用(もちゐざる)者(もの)をば九郎に放(はな)ち合(あ)はせて切(き)らせ給(たま)ふ条(でう)、甚(はなは)だ隠(おだ)しからず、それを不思議(ふしぎ)と思(おも)ふ所(ところ)に、猶(なほ)以(もつ)て「四国西国(さいこく)の軍兵(ぐんびやう)を一(ひと)つになし、中国畿内(きない)の者(もの)共(ども)を召(め)して、召(め)されんに参(まゐ)らざる者(もの)をば、片岡(かたをか)、武蔵(むさし)など申(まう)す荒者(あらもの)共(ども)を差(さ)し遣(つか)はし、追討(ついたう)して御覧(ごらん)ぜよ。他所は知(し)らず、東大寺(とうだいじ)興福寺(こうぶくじ)は得業(とくご)が計(はか)らひなれば、叶(かな)へざらん時(とき)は討死(うちじに)せよ」なんどと勧(すす)め給(たま)ひたる事(こと)以(もつ)ての外(ほか)に覚(おぼ)え候(さうら)ふに、人を付(つ)けて都(みやこ)まで送(おく)られ候(さうら)ひけるは、九郎が有所(ありどころ)に於(おい)ては、知(し)りたるらん。虚言(きよごん)を構(かま)へず、正直(しやうじき)に申(まう)され候(さうら)へ。其(そ)の旨(むね)無(な)くば、健(すくや)かならん小舎人(ことねり)奴(め)等(ら)に仰(おほ)せ付(つ)けて、糾問(きゆうもん)を以(もつ)て尋(たづ)ねん時、頼朝(よりとも)こそ全(まつた)く僻事(ひがこと)の者(もの)には有(あ)るまじけれ」と、強(したた)かに問(と)はれ、勧修坊(くわんじゆばう)兎角(とかく)の返事(へんじ)は無(な)くて、はらはらと涙(なみだ)を流(なが)し、手(て)を握(にぎ)りて膝(ひざ)の上(うへ)に置(お)き、「万事を静(しづ)めて人々(ひとびと)聞(き)き給(たま)へ。抑(そもそも)聞(き)きも習(なら)はぬ
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言葉(ことば)かな。和(わ)僧(そう)は如何(いか)に得業(とくご)と名字(みやうじ)を呼(よ)びたり共(とも)、不覚人(ふかくじん)にてはよも有(あ)らじ。和(わ)僧(そう)と宣(のたま)ひたればとて、高名(かうみやう)も有(あ)るまじ。都(みやこ)にて聞(き)きしには、国(くに)の将軍(しやうぐん)となりて、斯(か)かる果報(くわほう)にも生(む)まれけり、情(なさけ)も御座(おは)すると聞(き)きしに、果報(くわほう)は生(む)まれつきの物なり。殿(との)の為(ため)にもいやいやの弟、九郎判官(はうぐわん)には遙(はる)かに劣(おと)り給(たま)ひたる人にて有(あ)りけるや。申(まう)すに付(つ)けて詮(せん)無(な)き事(こと)にては候(さうら)へども、平治(へいぢ)に御辺(ごへん)の父(ちち)下野(しもつけ)の左馬頭(さまのかみ)、衛門督(ゑもんのかみ)に与(くみ)して、京(きやう)の軍(いくさ)に打(う)ち負(ま)けて、東国の方(かた)へ落(お)ち給(たま)ひし時、義平(よしひら)も斬(き)られぬ、朝長(ともなが)も死(し)にぬ、明(あ)くる正月(むつき)の初(はじ)めには、父(ちち)も討(う)たれしに、御辺(ごへん)の命死(し)し兼(か)ねて、美濃国(みののくに)伊吹山(いぶきやま)の辺(へん)を迷(まよ)ひ歩(あり)き、麓(ふもと)の者(もの)共(ども)に生捕(いけど)られ、都(みやこ)まで引(ひ)き上(のぼ)せ、源氏(げんじ)の名を流(なが)し、既(すで)に誅(ちゆう)せられ給(たま)ふべかりしが、池殿(いけどの)の憐(あはれ)み深(ふか)くして、死罪(しざい)流罪(るざい)に申(まう)し行(おこな)ひて、弥平兵衛(やひやうびやうゑ)に預(あづ)け、永暦(えいりやく)の八月の頃(ころ)かとよ、伊豆の北条(ほうでう)奈古谷(なごや)の蛭(ひる)が島(しま)と言(い)ふ所(ところ)に流(なが)され、廿一年の星霜(せいざう)を経(へ)て、田舎人(いなかうど)となりて、さこそ頑(かたくな)はしくおはらすらめと思(おも)ひしに、少(すこ)しも違(たが)はざりけり。あら無慙(むざん)や、九郎判官(はうぐわん)と向背(きやうはい)し給(たま)ふ事(こと)理(ことわり)かな。判官(はうぐわん)と申(まう)すは情(なさけ)も有(あ)り、心(こころ)も剛(かう)なり。慈悲(じひ)も深(ふか)かりき。治承(ぢしよう)四年(しねん)の秋(あき)の頃(ころ)、奥州(あうしう)より馬(うま)の腹筋(はらすじ)馳(は)せ切(き)り、駿河(するが)の国浮島(うきしま)が原(はら)に下(お)り居(ゐ)て、一方(いつぱう)の大将軍(だいしやうぐん)請(う)け取(と)りて、一張(いつちやう)の弓(ゆみ)を脇(わき)に挟(はさ)み、三尺(さんじやく)の剣(けん)を帯(は)きて、西海(さいかい)の波(なみ)に漂(ただよ)ひ、野山を家(いへ)とし、命(いのち)を捨(す)て、身を忘(わす)れ、
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何時(いつ)しか、平家(へいけ)を討(う)ち落(おと)して、御身(おんみ)をせめて一両年(いちりやうねん)世(よ)に有(あ)らせ奉(たてまつ)らばやと骨髄(こつずい)を砕(くだ)き給(たま)ひしに、人の讒言(ざんげん)今(いま)に始(はじ)めたる事(こと)にては候(さうら)はね共(ども)、深(ふか)き志(こころざし)を忘(わす)れて、兄弟(きやうだい)の仲(なか)不和(ふわ)になり給(たま)ひし事(こと)のみこそ、甚(はなは)だ以(もつ)て愚(おろか)なれ。親(おや)は一世(いつせ)の契(ちぎ)り、主は三世(ぜ)の契(ちぎ)りと申(まう)せども、是(これ)が始(はじ)めやらん、中やらん、終(をはり)やらん、我(われ)も知(し)らず、兄弟(きやうだい)は後生(ごしやう)までの契(ちぎ)りとこそ承(うけたまは)り候(さうら)へ。其(そ)の仲(なか)を違(たが)ひ給(たま)ふとて、殿(との)をば人の数(かず)にては御座(おは)せぬ人と、世(よ)には申(まう)すげにこそ候(さうら)へ。去年十二月廿四日の夜打(う)ち更(ふ)けて、日来(ひごろ)は千騎万騎(ぎ)を引(ひ)き具(ぐ)してこそ御座(おは)しまし候(さうら)ひしが、侍(さぶらひ)一人をだにも具せず、腹巻(はらまき)ばかりに太刀(たち)帯(は)きて、編笠(あみがさ)と言(い)ふ物(もの)打(う)ち著(き)、万事頼(たの)むとて御座(おは)したりしかば、古(いにしへ)見(み)ず知(し)らぬ人なり共(とも)、争(いかで)か一度の慈悲(じひ)を垂(た)れざらん、一度は勲功(くんこう)を望(のぞ)み、如何(いか)なる時(とき)は祈(いの)りしぞ、如何(いか)なる時(とき)は討(う)ち奉(たてまつ)るべき。是(これ)を以(もつ)て校量(こうりやう)し給(たま)へ。有(あ)らぬ様(さま)に人申(まう)したりし事(こと)の漏(も)れ候(さうら)ふげにこそ。去年(きよねん)の冬の暮(くれ)に出家(しゆつけ)し給(たま)へと度々(たびたび)申(まう)ししかども、其(そ)の梶原(かぢはら)奴(め)が為(ため)に出家(しゆつけ)はしたくもなしと宣(のたま)ひ候(さうら)ひつる、其(そ)の頃(ころ)判官(はうぐわん)殿(どの)帯(は)き給(たま)ひし太刀(たち)を奮(うば)ひ取(と)り奉(たてまつ)らんとて、悪僧(あくそう)共(ども)切(き)られ参(まゐ)らせて候(さうら)ひしを、人の和讒(わざん)を構(かま)へて申(まう)し候(さうら)ひつらん。全(まつた)く奈良(なら)法師(ほふし)与(くみ)せよと申(まう)したる事(こと)なし。其(そ)の中夭(ちゆうえう)に南都(なんと)を落(お)ちられし間(あひだ)、心(こころ)の中(うち)如何(いか)ばかり遣(や)る方(かた)も無(な)く御座(おは)しますらんと存(ぞん)じ候(さうら)ひて、諌(いさ)めたる事(こと)候(さうら)ひし。「四国九国の
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者(もの)を召(め)し候(さうら)へ。東大寺(とうだいじ)、興福寺(こうぶくじ)は得業(とくご)が計(はか)らひなり。君(きみ)は天下(てんが)に御覚(おぼ)えもいみじくて、院(ゐん)の御感(ぎよかん)にも入(い)らせて候(さうら)へば、在京(ざいきやう)して日本を半国(はんごく)づつ知行(ちぎやう)し給(たま)へ」と勧(すす)め申(まう)せしかども、得業(とくご)が心(こころ)を景迹(きやうしやく)して出(い)で給(たま)へば、中々(なかなか)恥(はづ)かしくこそ思(おも)ひ奉(たてまつ)り候(さうら)ひしか。君(きみ)にも知(し)られぬ宮仕(みやづかひ)にては候(さうら)へ共(ども)、殿(との)の御為(おんため)にも祈(いの)りの師ぞかし。平家(へいけ)追討(ついたう)の為(ため)に西国(さいこく)へ赴(おもむ)き給(たま)ひしに、渡辺(わたなべ)にて源氏(げんじ)の祈(いの)りしつべき者(もの)やあると尋(たづ)ねられ候(さうら)ひけるに、如何(いか)なる痴(をこ)の者(もの)か見参(げんざん)に入(い)りて候(さうら)ふらん、得業(とくご)を見参(けんざん)に入(い)れて候(さうら)ひければ、平家(へいけ)を呪咀(しゆそ)して源氏(げんじ)を祈(いの)れと仰(おほ)せられ候(さうら)ひしに、其(そ)の罪(つみ)遁(のが)れなんと度々(たびたび)辞退(じたい)申(まう)ししかば、「御坊(ごばう)も平家(へいけ)と一(ひと)つになるか」と、仰(おほ)せられ候(さうら)ひし恐(おそ)ろしさに、源氏(げんじ)を祈(いの)り奉(たてまつ)りし時(とき)も、「天(てん)に二つの日照(てら)し給(たま)はず、二人(ふたり)の国王(こくわう)なし」とこそ申(まう)し候(さうら)へども、我(わ)が朝(てう)を御兄弟(きやうだい)
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手(て)に握(にぎ)り給(たま)へとこそ祈(いの)り参(まゐ)らせしに、判官(はうぐわん)は生れつきふえの人なれば、遂(つひ)に世にも立(た)ち給(たま)はず、日本国(につぽんごく)残(のこ)る所(ところ)無(な)く、殿(との)一人して知行(ちぎやう)し給(たま)ふ事、是(これ)は得業(とくご)が祈(いの)りの感応(かんおう)する所(ところ)に有(あ)らずや。是(これ)により外は、如何(いか)に糾問(きうもん)せらるる共(とも)、申(まう)すべき事(こと)候(さうら)はず。形(かた)の如(ごと)くも智慧(ちゑ)ある者(もの)に、物を思(おも)はするは、何(なに)の益(えき)有(あ)るべき。如何(いか)なる人承(うけたまは)りにて候(さうら)ふぞ、疾(と)く疾(と)く首(くび)を刎(は)ねて、鎌倉(かまくら)殿(どの)の憤(いきどほり)を休(やす)め奉(ためまつ)り給(たま)へや」と残(のこ)る所(ところ)無(な)く宣(のたま)ひて、はらはらと泣(な)き給(たま)へば、心(こころ)ある侍(さぶらひ)共(ども)、袖を濡(ぬ)らさぬはなし。頼朝(よりとも)も御簾(みす)をざと打(う)ち下(おろ)し給(たま)ひて、万事御前(おまへ)静(しづ)まりぬ。やや有(あ)りて、「人や候(さうら)ふ」と仰(おほ)せられければ、佐原(さはら)の十郎(じふらう)、和田(わだ)の小太郎(こたらう)、畠山(はたけやま)三人御前に畏(かしこ)まつてぞ候(さうら)ひける。鎌倉(かまくら)殿(どの)、高(たか)らかに仰(おほ)せられけるは、「かかる事こそ無(な)けれ。六波羅(ろくはら)にて尋(たづ)ねきくべかりし事(こと)を、梶原(かじはら)申(まう)すに付(つ)けて、御坊(ごばう)を是(これ)まで呼(よ)び下(くだ)し奉(たてまつ)りて、散々(さんざん)に悪口(あくこう)せられ奉(たてまつ)りたるに、頼朝(よりとも)こそ返事(へんじ)に及(およ)ばず、身の置所(おきどころ)無(な)けれ。あはれ人の陳状(ちんじやう)や、尤(もつと)もかくこそ陳(ちん)じたくはあれ、誠(まこと)の上人(しやうにん)にて御座(おは)しましける人かな。理(ことわり)にてこそ日本第一(だいいち)の大伽藍(だいがらん)の院主(ゐんじゆ)ともなり給(たま)ひけれ、朝家(てうか)の御祈(いの)りにも召(め)されける、理(ことわり)」とぞ感(かん)ぜられける。「此(こ)の人をせめて鎌倉(かまくら)に三年留(とど)め奉(たてまつ)りて、此(こ)の所(ところ)を仏法(ぶつぽふ)の地(ぢ)となさばや」と仰(おほ)せければ、和田(わだ)の小太郎(こたらう)、
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佐原(さはら)の十郎(じふらう)承(うけたまは)り、勧修坊(くわんじゆばう)に申(まう)しけるは、「東大寺(とうだいじ)と申(まう)すは、星霜(せいざう)久(ひさ)しくなりて利益(りやく)候(さうら)ふ所(ところ)なり。今(いま)の鎌倉(かまくら)と申(まう)すは、治承(ぢしよう)四年(しねん)の冬の頃(ころ)始(はじ)めて建(た)てし所なり。十悪(じふあく)五逆(ごぎやく)、破戒(はかい)無慙(むざん)の輩(ともがら)のみ多(おほ)く候(さうら)へば、是(これ)にせめて三年(みとせ)渡(わた)らせ御座(おは)しまして、御利益(りやく)候(さうら)へと申(まう)せと候(さうら)ふ」と申(まう)したりければ、得業(とくご)「仰(おほ)せはさる事(こと)にて候(さうら)へども、一両年(いちりやうねん)も鎌倉(かまくら)に在(あ)りたくも候(さうら)はず」とぞ仰(おほ)せられける。重(かさ)ねて仏法(ぶつぽふ)興隆(こうりう)の為(ため)にて候(さうら)ふと申(まう)されければ、「さらば三年(みとせ)は是(これ)にこそ候(さうら)はめ」と仰(おほ)せられけり。鎌倉(かまくら)殿(どの)大(おほ)きに悦(よろこ)び給(たま)ひて、「何処(いづく)にか置(お)き奉(たてまつ)るべき」と仰(おほ)せられしかば、佐原(さはら)の十郎(じふらう)申(まう)しけるは、「あはれ、良(よ)き次(ついで)にて候(さうら)ふものかな。大御堂(みだう)の別当(べつたう)になし参(まゐ)らせ給(たま)へかし」と申(まう)されたりければ、「いしく申(まう)したり」とて、佐原(さはら)の十郎(じふらう)初(はじ)めて奉行(ぶぎやう)を承(うけたまは)りて、大御堂(みだう)の造営(ざうゑい)を仕(つかまつ)り、勝長寿院(しようぢやうじゆゐん)の後(うし)ろに桧皮(ひはだ)の御山荘(さんざう)を造(つく)りて入(い)れ奉(たてまつ)り、鎌倉(かまくら)殿(どの)も日々の御出仕(しゆつし)にてぞ有(あ)りける。門外(もんぐわい)に鞍置(くらお)き馬(うま)、立(た)ち止(や)む暇(ひま)なし。鎌倉(かまくら)は是(これ)ぞ仏法(ぶつぽふ)の始(はじ)めなり。折々(をりをり)毎(ごと)に「判官(はうぐわん)殿(どの)との御仲(おんなか)直(なほ)り給(たま)へ」と仰(おほ)せられければ、「易(やす)き事(こと)に候(さうら)ふ」とは申(まう)し給(たま)ひけれども、梶原(かじはら)平三(へいざう)八箇国(はつかこく)の侍(さぶらひ)の所司(しよし)なりければ、景時(かげとき)父子(ふし)が命(めい)に従(したが)ふ者(もの)、風(かぜ)に草木の靡(なび)く風情(ふぜい)なれば、鎌倉(かまくら)殿(どの)も御(おん)心(こころ)に任(まか)せ給(たま)はず、斯(か)くて秀衡(ひでひら)存生(そんじやう)の程(ほど)はさて過(す)ぎぬ。他界(たかい)の後(のち)嫡子(ちやくし)本吉(もとよし)の冠者(くわんじや)が計(はか)らひと申(まう)して、文治(ぶんぢ)五年四月廿四日
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に判官(はうぐわん)討(う)たれ給(たま)ひぬと聞召(きこしめ)しければ、「誰(たれ)故(ゆゑ)に今(いま)まで鎌倉(かまくら)に存命(ながら)へけるぞ。斯程(かほど)憂(う)き鎌倉(かまくら)殿(どの)に暇乞(いとまご)ひも要(い)らず」とて、急(いそ)ぎ上洛(しやうらく)有(あ)り。院(ゐん)も猶(なほ)御尊(たつと)み深(ふか)くして、東大寺(とうだいじ)に帰(かへ)りて、此(こ)の程(ほど)廃(すた)れたる所(ところ)共(ども)造営(ざうゑい)し給(たま)ひ、人の訪(と)ひ来(く)るも物(もの)憂(う)しとて、閉門(へいもん)して御座(おは)しけるが、自筆に二百二十六部の経を書(か)き供養(くやう)じて、判官(はうぐわん)の御菩提(ごぼだい)を弔(とぶら)ひて、我(わ)が御身(おんみ)をば水食(すいじき)を止(と)めて、七十余にて往生(わうじやう)を遂(と)げられける。
静(しづか)鎌倉(かまくら)へ下(くだ)る事 S0606
大夫判官(はうぐわん)四国へ赴(おもむ)き給(たま)ひし時、六人の女房(にようばう)達(たち)、白拍子(しらびようし)五人、総(そう)じて十一人の中に、殊(こと)に御志(おんこころざし)深(ふか)かりしは、北白川(きたしらかは)の静(しづか)と言(い)ふ白拍子(しらびやうし)、吉野(よしの)の奥(おく)まで具せられたりけり。都(みやこ)へ返(かへ)されて、母(はは)の禅師(ぜんじ)が許(もと)にぞ候(さうら)ひける。判官(はうぐわん)殿(どの)の御子を妊(にん)じて、近(ちか)き程(ほど)に産(さん)をすべきにて有(あ)りしを、六波羅(ろくはら)に此(こ)の事(こと)聞(き)こえて、北条(ほうでう)殿(どの)江間(えま)の小四郎(こしらう)を召(め)して仰(おほ)せ合(あ)はせられければ、「関東(くわんとう)へ申(まう)させ給(たま)はでは適(かな)ふまじ」とて、早馬(はやむま)を以(もつ)て申(まう)されければ、鎌倉(かまくら)殿(どの)梶原(かぢはら)を召(め)して、「九郎が思(おも)ふ者(もの)に静(しづか)と言(い)ふ白拍子(しらびやうし)近(ちか)き程(ほど)に産(さん)すべき由(よし)なり。如何(いかが)あるべき」と仰(おほ)せられければ、景時(かげとき)申(まう)し
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けるは、「異朝(いてう)を訪(とぶら)ひ候(さうら)ふにも、敵(かたき)の子を妊(にん)じて候(さうら)ふ女をば頭(かうべ)を砕(くだ)き、骨(ほね)を拉(ひし)ぎ、髄(ずい)を抜(ぬ)かるる程の罪科(ざいくわ)にて候(さうら)ふなれば、若(も)し若君(わかぎみ)にて御座(おは)しまし候(さうら)はば、判官(はうぐわん)殿(どの)に似(に)参(まゐ)らせ候(さうら)ふとも、又(また)御一門(いちもん)に似(に)参(まゐ)らせ給(たま)ふとも、愚(おろか)なる人にてはよも御座(おは)しまし候(さうら)ふまじ。君(きみ)の御代の間(あひだ)は何事(なにごと)か候(さうら)ふべき。公達(きんだち)の御行方(おんゆくへ)こそ覚束(おぼつか)無(な)く思(おも)ひ参らせ候(さうら)へ。都(みやこ)にて宣旨(せんじ)院宣(ゐんぜん)を御申(まう)し候(さうら)ひてこそ下(くだ)し給(たま)ひて、御座(おんざ)近(ちか)く置(お)き参(まゐ)らせさせ給(たま)ひ、御産(おさん)の体(てい)御覧(ごらん)じて、若君(わかぎみ)にて渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)はば、君の御計(はか)らひにて候(さうら)ふべし。姫君(ひめぎみ)にて候(さうら)はば、御前に参(まゐ)らせさせ給(たま)ふべし」と申(まう)したりければ、さらばとて堀(ほり)の藤次(とうじ)を御使(おんつかひ)にて都(みやこ)へ上(のぼ)られけり。藤次(とうじ)北条(ほうでう)殿(どの)打(う)ち連(つ)れ、院(ゐん)の御所に参(まゐ)りて、此(こ)の由(よし)を申(まう)しければ、院宣(ゐんぜん)には、「先(さき)の勧修坊(くわんじゆばう)の如(ごと)くにはあるべからず。時政(ときまさ)が計(はか)らひに尋(たづ)ね出(い)だし、関東(くわんとう)へ下(くだ)すべき」と仰(おほ)せ下(くだ)されければ、北白河(きたしらかは)にて尋(たづ)ねけれ共(ども)、遂(つひ)に遁(のが)るべきには有(あ)らねども、一旦(いつたん)の悲(かな)しさに法勝寺(ほつしやうじ)と言(い)ふ所に隠(かく)れ居(ゐ)たりしを尋(たづ)ね出(い)だして、母の禅師(ぜんじ)共(とも)に具足(ぐそく)して、六波羅(ろくはら)へ行(ゆ)き、堀(ほり)の藤次(とうじ)受(う)け取(と)りて下(くだ)らんとぞしける。磯(いそ)の禅師(ぜんじ)が心(こころ)の中(うち)こそ無慙(むざん)なれ。共(とも)に下らんとすれば、目前(まのあたり)憂(う)き目(め)を見(み)んずらんと悲(かな)しき、又(また)止(とど)まらんとすれば、只(ただ)一人(ひとり)差(さ)し放(はな)つて、遥々(はるばる)下(くだ)さん事(こと)も痛(いた)はしく、人の子五人十人持(も)ちたるも、一人欠(か)くれば歎(なげ)くぞかし。唯(ただ)一人(ひとり)持(も)ちたる子なれば、止(とど)まりて悶(もだ)えてあるべきとも
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覚(おぼ)えず、去(さ)りとても愚(おろか)なる子かや、姿(すがた)は王城(わうじやう)に聞(き)こえたり、能(のう)は天下第一(だいいち)の事(こと)なり。唯(ただ)一人下さん事(こと)の悲(かな)しさに、預(あづかり)の武士(ぶし)の命(めい)をも背(そむ)きて、徒跣(かちはだし)にてぞ下(くだ)りける。幼少(えうせう)より召(め)し使(つか)ひし催馬楽(さいばら)、其駒(そのこま)と申(まう)しける二人(ふたり)の美女(びぢよ)も主(しゆう)の名残(なごり)を惜(を)しみ、泣(な)く泣(な)く連(つ)れてぞ下(くだ)りける。親家(ちかいへ)も道(みち)すがら様々(さまざま)に労(いたは)りてぞ下(くだ)りける。兎角(とかく)して都(みやこ)を出(い)で、十四日に鎌倉(かまくら)に著(つ)きたり。此(こ)の由(よし)申(まう)し上(あ)げければ、静(しづか)を召(め)して尋(たづ)ぬべき事(こと)有(あ)りとて、大名(だいみやう)小名(せうみやう)をぞ召(め)されける。和田(わだ)、畠山(はたけやま)、宇都宮(うつのみや)、千葉(ちば)、葛西(かさい)、江戸(えど)、河越(かはごえ)を始(はじ)めとして、其(そ)の数を尽(つ)くして参(まゐ)る。鎌倉(かまくら)殿(どの)には門前(もんぜん)に市(いち)を為(な)して夥(おびたた)し。二位(にゐ)殿も静(しづか)を御覧(ごらん)ぜられんとて、幔幕(まんまく)を引(ひ)き、女房(にようばう)其(そ)の数(かず)参(まゐ)り集(あつま)り給(たま)ひけり。藤次(とうじ)ばかりこそ静(しづか)を具(ぐ)して参(まゐ)りたれ。鎌倉(かまくら)殿(どの)是(これ)を御覧(ごらん)じて、優(いう)なりけり、現在(げんざい)弟(おとと)の九郎だにも愛(あい)せざりせばとぞ思(おぼ)し召(め)しける。禅師(ぜんじ)も二人(ふたり)の女も連(つ)れたりけれども、門前(もんぜん)に泣(な)き居(ゐ)たり。鎌倉(かまくら)殿(どの)是(これ)を聞召(きこしめ)して、「門に女(をんな)の声(こゑ)として泣(な)くは、何者(なにもの)ぞ」と御尋(たづ)ね有(あ)りければ、藤次(とうじ)「静(しづか)が母(はは)と二人(ふたり)の下女にて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、鎌倉(かまくら)殿(どの)、「女は苦(くる)しかるまじ、召(め)せ」とて召(め)されけり。鎌倉(かまくら)殿(どの)仰(おほ)せられけるは、「殿上人(てんじやうびと)には見(み)せ奉(たてまつ)らずして、何故(など)九郎には見(み)せけるぞ。其(そ)の上(うへ)天下(てんが)の敵(てき)になり参(まゐ)らせたる者(もの)にてあるに」と仰(おほ)せければ、禅師(ぜんじ)申(まう)しけるは、「静(しづか)十五の年までは、多(おほ)くの人仰(おほ)せられしかども、靡(なび)く
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心(こころ)も候(さうら)はざりしかども、院(ゐん)の御幸(ぎよかう)に召(め)し具せられ参(まゐ)られて、神泉苑(しんぜんえん)の池(いけ)にて雨(あめ)の祈(いの)りの舞(まひ)の時(とき)、判官(はうぐわん)殿(どの)に見(み)え初(そ)められ参らせて、堀川(ほりかは)の御所へ召(め)され参(まゐ)らせしかば、唯(ただ)仮初(かりそめ)の御遊(あそび)の為(ため)と思(おも)ひ候(さうら)ひしに、わりなき御志(おんこころざし)にて、人々(ひとびと)数多(あまた)渡(わた)らせ給(たま)ひしかども、所々(ところどころ)の御住居(おんすまひ)にてこそ渡(わた)らせ給(たま)ひしに、堀川(ほりかは)殿(どの)に取(と)り置(お)かれ参(まゐ)らせしかば、清和天皇(せいわてんわう)の御末(おんすゑ)、鎌倉(かまくら)殿(どの)の御弟(おとと)にて渡(わた)らせ給(たま)へば、是(これ)こそ身に取(と)りては、面目(めんぼく)と思(おも)ひしに、今(いま)斯(か)かるべしと、予(かね)ては夢(ゆめ)にも争(いかで)か知(し)り候(さうら)ふべき」と申(まう)しければ、人々(ひとびと)是(これ)を聞(き)きて、「「勧学院(くわんがくゐん)の雀(すずめ)は蒙求(もうぎう)を囀(さへづ)る」といしう申(まう)したるものかな」とぞ讚(ほ)められける。「さて九郎が子を妊(にん)じたる事(こと)は如何(いか)に」「それは世に隠(かく)れ無(な)き事(こと)にて候(さうら)へば、陣(ちん)じ申(まう)すに及(およ)ばず、来月は産(さん)すべきにて候(さうら)ふ」とぞ申(まう)しける。鎌倉(かまくら)殿(どの)梶原(かぢはら)を召(め)して、「あら恐(おそ)ろし、
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それ聞(き)け景時(かげとき)、既(すで)にえせ者(もの)の種(たね)を継(つ)がぬ先(さき)に、静(しずか)が胎内(たいない)を開(あ)けさせて、子を取(と)つて亡(うしな)へ」とぞ仰(おほ)せける。静(しづか)も母(はは)も是(これ)を聞(き)きて、手(て)に手(て)を取(と)り組(く)みて、顔(かほ)に顔(かほ)を合(あ)はせて、声(こゑ)も惜(を)しまず悲(かな)しみけり。二位(にゐ)殿も聞召(きこしめ)して、静(しづか)が心(こころ)の中、さこそと思(おも)ひ遣(や)られて、御涙(おんなみだ)に咽(むせ)び給(たま)ふ。幔膜(まんまく)の中に落涙の体(てい)夥(おびたた)し。忌々(いまいま)しくぞ聞(き)こえける。侍共(さぶらひども)承(うけたまは)りて「斯(か)かる情(なさけ)無(な)き事こそ無(な)けれ。さらぬだに関東(くわんとう)は遠国(をんごく)とて恐(おそ)ろしき事(こと)に言(い)はるるに、さしも静(しづか)を失(うしな)ひて、名を流(なが)し給(たま)はん事こそ浅(あさ)ましけれ」とぞ呟(つぶや)きける。此処(ここ)に梶原(かぢはら)此(こ)の事(こと)を聞(き)きて、つい立(た)ち御前に参(まゐ)り、畏(かしこ)まつてぞ居(ゐ)たりける。人々(ひとびと)是(これ)を見(み)て、「あな心(こころ)憂(う)や、又(また)如何(いか)なる事(こと)をか申(まう)さんずらん」と耳を欹(そばだ)ててぞ聞(き)きけるに、「静(しづか)の事(こと)承(うけたまは)り候(さうら)ふ。少人(せうじん)こそ限(かぎ)り候(さうら)はんずれ。母(はは)御前(ごぜん)をさへ亡(うしな)ひ参(まゐ)らせ給(たま)はん、其(そ)の御罪(つみ)争(いかで)か遁(のが)れさせ給(たま)ふべき。胎内(たいない)に宿(やど)る十月を待(ま)つこそ久(ひさ)しく候(さうら)へ。是(これ)は来月御産(おさん)あるべきにて候(さうら)へば、源太(げんだ)が宿所(しゆくしよ)を御産所(おさんじよ)と定(さだ)めて、若君(わかぎみ)姫君(ひめぎみ)の左右(さう)を申(まう)し上(あぐ)べき」と申(まう)したりければ、御前(おまへ)なる人々(ひとびと)袖を引(ひ)き、膝(ひざ)を差(さ)し、「此(こ)の世の中は如何様(いかさま)、末代(まつだい)と言(い)ひながら徒事(ただごと)は有(あ)らじ、是(これ)程(ほど)に梶原(かぢはら)が人の為(ため)に良(よ)き事(こと)申(まう)したる事(こと)はなし」とぞ申(まう)しあへり。静(しづか)是(これ)を聞(き)き、「都(みやこ)を出(い)でし時(とき)よりして梶原(かぢはら)と言(い)ふ名を聞(き)くだにも心(こころ)憂(う)かりしに、まして景時(かげとき)が宿所に有(あ)りて、産(さん)の時(とき)自然(しぜん)の事(こと)あら
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ば、黄泉(よみぢ)の障(さはり)ともなるべし。あはれ同(おな)じくは堀殿(ほりどの)の承(うけたまは)りならば、如何(いか)に嬉(うれ)しかりなん」と、工藤(くどう)左衛門(ざゑもん)して申(まう)したりければ、鎌倉(かまくら)殿(どの)に申(まう)し入(い)れければ、「理(ことわり)なれば易(やす)き事(こと)なり」と仰(おほ)せられて、堀(ほり)の藤次(とうじ)に返(かへ)し賜(た)ぶ。「時(とき)に取(と)つて親家(ちかいへ)が面目(めんぼく)」とぞ申(まう)しける。藤次(とうじ)は急(いそ)ぎ宿所(しゆくしよ)へ帰(かへ)りて、妻女(さいぢよ)に会(あ)ひて言(い)ひけるは、「梶原(かぢはら)既(すで)に申(まう)し賜(たま)はつて候(さうら)ひつるに、静(しづか)の訴訟(そしよう)にて親家(ちかいへ)に返(かへ)し預(あづ)かり参(まゐ)らせ候(さうら)ひぬ。判官(はうぐわん)殿(どの)聞召(きこしめ)さるる所(ところ)も有(あ)り。是(これ)によくよく労(いたは)り参(まゐ)らせよ」とて、我(われ)は傍(かたはら)に候(さうら)ひて、館(やかた)をば御産所(おさんじよ)と名付(なづ)けて、心(こころ)ある女房(にようばう)達(たち)十余人付(つ)け奉(たてまつ)りてぞもてなしける。磯(いそ)の禅師(ぜんじ)は都(みやこ)の神(かみ)仏(ほとけ)にぞ祈(いの)り申(まう)しける。「稲荷(いなり)、祇園(ぎをん)、賀茂(かも)、春日(かすが)、日吉(ひよし)山王(さんわう)七社(しちしや)、八幡(やはた)大菩薩(だいぼさつ)、静(しづか)が胎内(たいない)にある子を、仮令(たとひ)男子なりとも女子になして給(た)べ」とぞ申(まう)しける。かくて月日(つきひ)重(かさ)なれば、其(そ)の月にもなりにけり。静(しづか)思(おも)ひの外(ほか)に堅牢地神(けんらうぢじん)も憐(あはれ)み給(たま)ひけるにや、痛(いた)む事(こと)も無(な)く、其(そ)の心(こころ)付(つ)くと聞(き)きて、藤次(とうじ)の妻女(さいぢよ)、禅師(ぜんじ)諸(もろ)共(とも)に扱(あつか)ひけり。殊(こと)に易(やす)くしたりけり。少人(せうじん)泣(な)き給(たま)ふ声(こゑ)を聞(き)きて、禅師(ぜんじ)余(あま)りの嬉(うれ)しさに、白(しろ)き絹(きぬ)に押(お)し巻(ま)きて見(み)れば、祈(いの)る祈(いの)りは空(むな)しくて、三身(さんじん)相応(さうおう)したる若君(わかぎみ)にてぞ御座(おは)しける。唯(ただ)一目(ひとめ)見(み)て「あな心(こころ)憂(う)や」とて打(う)ち臥(ふ)しけり。静(しづか)是(これ)を見(み)て、いとど心も消(き)えて思(おも)ひけり。「男子か、女子かや」と問(と)へども答(こた)へねば、禅師(ぜんじ)
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の抱(いだ)きたる子を見れば、男子(なんし)なり。一目(ひとめ)見(み)て、「あら心憂(こころう)や」とて衣(きぬ)を被(かづ)きて臥(ふ)しぬ。やや有(あ)りて、「如何(いか)なる十悪(じふあく)五逆(ごぎやく)の者(もの)の、偶々(たまたま)人界(にんがい)に生(しやう)を受(う)けながら、月日(つきひ)の光(ひかり)をだにも定(さだ)かに見(み)奉(たてまつ)らずして、生(むま)れて一日一夜(いちや)をだにも過(すご)さで、やがて冥途(めいど)に帰(かへ)らんこそ無慙(むざん)なれ。前業(ぜんごふ)限(かぎ)りある事(こと)なれば、世をも人をも恨(うら)むべからずと思(おも)へども、今(いま)の名残(なご)り別(わか)れの悲(かな)しきぞや」とて、袖を顔(かほ)に押(お)し当(あ)ててぞ泣(な)き居(ゐ)たり。藤次(とうじ)御産所(おさんじよ)に畏(かしこ)まつて申(まう)しけるは、「御産(おさん)の左右(さう)を申(まう)せと仰(おほ)せ蒙(かうぶ)つて候(さうら)ふ間(あひだ)、只今(ただいま)参(まゐ)りて申(まう)し候(さうら)はんずる」と申(まう)しければ、「とても逃(のが)るべきならねば、疾(と)く疾(と)く」とぞ言(い)ひける。親家(ちかいへ)参(まゐ)りて此(こ)の由(よし)を申(まう)したりければ、安達(あだち)の新三郎(しんざぶらう)を召(め)して、「藤次(とうじ)が宿所(しゆくしよ)に静(しづか)が産(さん)したり、頼朝(よりとも)が鹿毛(かげ)の馬(うま)に乗(の)りて行(ゆ)き、由井(ゆゐ)の浜(はま)にて亡(うしな)ふべき」と仰(おほ)せられければ、清経(きよつね)御馬(うま)賜(たま)はつて打(う)ち出(い)で、藤次(とうじ)の宿所(しゆくしよ)へ入(い)りて、禅師(ぜんじ)に向(むか)ひて、「鎌倉(かまくら)殿(どの)の御使(おんつかひ)に参(まゐ)りて候(さうら)ふ。少人(せうじん)若君(わかぎみ)にて渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)ふ由(よし)聞召(きこしめ)して、抱(いだ)き初(そ)め参(まゐ)らせよと御諚(ごぢやう)にて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「あはれ、はかなき清経(きよつね)かな。賺(すか)さば実(まこと)と思(おも)ふべきかや。親(おや)をさへ失(うしな)へと仰(おほ)せられし敵(てき)の子、殊(こと)に男子(なんし)なれば疾(と)く失(うしな)へとこそ有(あ)るらめ。暫(しば)し最後(さいご)の出立(いでたち)せさせん」と申(まう)されければ、新三郎(しんざぶらう)岩木(いはき)ならねば、流石(さすが)哀(あは)れに、思(おも)ひけるが、心(こころ)弱(よわ)く待(ま)ちけるが、斯(か)くて心(こころ)弱(よわ)くて叶(かな)ふまじと思(おも)ひ、
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「事々(ことごと)しく候(さうら)ふ。御出立(いでたち)も要(い)り候(さうら)ふまじ」とて、禅師(ぜんじ)が抱(いだ)きたるを奪(うば)ひ取(と)り、脇(わき)に挟(はさ)み馬(うま)に打(う)ち乗(の)り、由井(ゆゐ)の浜(はま)に馳(は)せ出(い)でけり。禅師(ぜんじ)悲(かな)しみけるは、「存命(ながら)へて見(み)せ給(たま)へと申(まう)さばこそ僻事(ひがこと)ならめ、今(いま)一度幼(いとけな)き顔(かほ)を見(み)せ給(たま)へ」と悲(かな)しみければ、「御覧(ごらん)じては中々(なかなか)思(おも)ひ重(かさ)なり給(たま)ひなん」と情(なさけ)無(な)き気色(けしき)にもてなして、霞(かすみ)を隔(へだ)て遠(とほ)ざかる。禅師(ぜんじ)は裏無(うらなし)をだにも履(は)き敢(あ)へず、薄衣(うすぎぬ)も被(かづ)かず、其駒(そのこま)ばかり具(ぐ)して、浜(はま)の方(かた)へぞ下(くだ)りける。堀(ほり)の藤次(とうじ)も禅師(ぜんじ)を訪(とぶら)ひて、後(あと)に付(つ)きてぞ下(くだ)りける。静(しづか)も共(とも)に慕(した)ひけれ共(ども)、堀(ほり)が妻女(さいぢよ)申(まう)しけるは、「産(さん)の則なり」とて、様々(さまざま)に諌(いさ)め取(と)り止(とど)めければ、出(い)でつる妻戸(つまど)の口(くち)に倒(たふ)れ臥(ふ)してぞ悲(かな)しみける。禅師(ぜんじ)は浜(はま)に尋(たづ)ね、馬(うま)の跡(あと)を尋ぬれども、少人(せうじん)の死骸(しがい)もなし、今生(こんじやう)の契(ちぎ)りこそ少(すく)なからめ、空(むな)しき姿(すがた)を今(いま)一度(いちど)見(み)せ給(たま)へと悲(かな)しみつつ、渚(なぎさ)を西へ歩(あゆ)みける所(ところ)に、稲瀬河(いなせがは)の端(はた)に、浜砂(はまいさご)に戯(たはぶ)れて、子供(こども)数多(あまた)遊(あそ)びけるに逢(あ)うて、「馬(うま)に乗(の)つたる男(をとこ)の、くかと泣(な)きたる子や棄(す)てつる」と問(と)へば、「何(なに)も見(み)分(わ)け候(さうら)はねども、あの水際(みぎは)の材木(ざいもく)の上(うへ)にこそ投(な)げ入(い)れ候(さうら)ひつれ」と言(い)ひける。藤次(とうじ)が下人(げにん)下(お)りて見(み)ければ、只今(ただいま)までは蕾(つぼ)む花(はな)の様(やう)なりつる少人(せうじん)の、何時(いつ)しか今(いま)は引(ひ)きかへて、空(むな)しき姿(すがた)尋(たづ)ね出(い)だして、磯(いそ)の禅師(ぜんじ)に見(み)せければ、押(お)し巻(ま)きたる衣(きぬ)の色(いろ)は変(か)はらねども、跡(あと)無(な)き姿(すがた)となり果(は)てけるこそ悲(かな)しけれ。「若(も)しや若(も)しやと浜(はま)の砂(いさご)の暖(あたた)かなる上に、
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衣(きぬ)の端(つま)を打(う)ち敷(し)きて置(お)きたりけれども、事(こと)切(き)れ果(は)てて見(み)えしかば、取(と)りて帰(かへ)りて、母(はは)に見(み)せて悲(かな)しませんも中々(なかなか)罪(つみ)深(ふか)しと思(おも)ひて、此処(ここ)に埋(うづ)まんとては、浜(はま)の砂(いさご)を手(て)にて掘(ほ)りたれども、此処(ここ)もあさましき牛馬(ぎうば)の蹄(ひづめ)の通(かよ)ふ所とて痛(いた)はしければ、さしも広(ひろ)き浜(はま)なれども、捨(す)て置(お)くべき所(ところ)もなし。唯(ただ)空(むな)しき姿(すがた)を抱(いだ)きて宿所(しゆくしよ)にぞ帰(かへ)りける。静(しづか)是(これ)を受(う)け取(と)り、生(しやう)を変(か)へたるものを、隔(へだ)て無(な)く身に添(そ)へて悲(かな)しみけり。「哀傷(あいしやう)とて、親の歎(なげ)きは殊(こと)に罪(つみ)深(ふか)き事(こと)にて候(さうら)ふなる物(もの)を」とて、藤次(とうじ)が計(はか)らひにて、少人(せうじん)の葬送(さうさう)、故(こ)左馬頭殿(さまのかみどの)の為(ため)に作(つく)られたりける勝長寿院(しようぢやうじゆゐん)の後(うし)ろに埋(うづ)みて帰(かへ)りけり。「かかる物(もの)憂(う)き鎌倉(かまくら)に一日にてもあるべき様(やう)なし」とて、急(いそ)ぎ都(みやこ)へ上らんとぞ出(い)で立(た)ちける。
静(しづか)若宮(わかみや)八幡宮(はちまんぐう)へ参詣(さんけい)の事(こと) S0607
磯(いそ)の禅師(ぜんじ)申(まう)しけるは、「少人(せうじん)の事(こと)は、思(おも)ひ設(まう)けたる事(こと)なればさて置(お)きぬ。御身(おんみ)安穏(あんをん)ならば若宮(わかみや)へ参(まゐ)らんと、予(かね)ての宿願(しゆくぐわん)なれば、争(いかで)か只(ただ)は上(のぼ)り給(たま)ふべき。八幡(はちまん)はあら血(ち)を五十一日忌(い)ませ給(たま)ふなれば、精進(しやうじん)潔斎(けつさい)してこそ参(まゐ)り給(たま)はめ。其(そ)の程(ほど)は是(これ)にて日数(ひかず)を待(ま)ち候(さうら)へ」とて、一日(いちにち)一日(いちにち)と逗留(とうりゆう)す。さる程(ほど)に鎌倉(かまくら)殿(どの)三島(みしま)
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の御社参(しやさん)とぞ聞(き)こえける。八箇国(はつかこく)の侍(さぶらひ)共(ども)御供(おんとも)申(まう)しける。御社参(しやさん)の徒然(つれづれ)に、人々(ひとびと)様々(さまざま)の物語(ものがたり)をぞ申(まう)しける。其(そ)の中に河越(かはごえ)の太郎静(しづか)が事(こと)を申(まう)し出(い)だしたりければ、各々(おのおの)「斯様(かやう)の次(ついで)ならでは争(いかで)か下(くだ)り給(たま)ふべき。あはれ音に聞(き)こゆる舞(まひ)を一番(いちばん)御覧(ごらん)ぜられざらんは無念(むねん)に候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、鎌倉(かまくら)殿(どの)仰(おほ)せられけるは、「静(しづか)は九郎に思(おも)はれて、身を華飾(くわしよく)にするなる上(うへ)、思(おも)ふ仲(なか)を妨(さまた)げられ、其(そ)の形見(かたみ)にも見(み)るべき子を亡(うしな)はれ、何(なに)のいみじさに頼朝が前(まへ)にて舞(ま)ふべき」と仰(おほ)せられければ、人々(ひとびと)「是(これ)は尤(もつと)も御諚(ごぢやう)なり。さりながら如何(いかが)して見(み)んずるぞ」と申(まう)しける。抑(そもそも)如何程(いかほど)の舞(まひ)なれば、斯程(かほど)に人々(ひとびと)念(ねん)を懸(か)けらるるぞ」と仰(おほ)せられければ、梶原(かぢはら)「舞(まひ)に於(おい)ては日本一(につぽんいち)にて候(さうら)ふ」とぞ申(まう)しける。鎌倉(かまくら)殿(どの)「事々(ことごと)しや、何処(いづく)にて舞(ま)うて、日本一(につぽんいち)とは申(まう)しけるぞ」、梶原(かぢはら)申(まう)しけるは、「一年(ひととせ)百日の旱(ひでり)の候(さうら)ひけるに、賀茂河(かもがは)、桂川(かつらがは)皆(みな)瀬(せ)切(き)れて流(なが)れず、筒井(つつゐ)の水も絶(た)えて、国土(こくど)の悩(なや)みにて候(さうら)ひけるに、次第(しだい)久(ひさ)しき例文(れいもん)、「比叡(ひえ)の山、三井寺(みゐでら)、東大寺(とうだいじ)、興福寺(こうぶくじ)などの有験(うげん)の高僧(かうそう)貴僧(きそう)百人、神泉苑(しんぜんえん)の池(いけ)にて仁王経(にんわうぎやう)を講(かう)じ奉(たてまつ)らば、八大龍王(はつだいりゆうわう)も知見(ちけん)納受(なふじゆ)垂(た)れ給(たま)ふべし」と申(まう)しければ、百人の高僧(かうそう)貴僧(きそう)仁王経(にんわうぎやう)を講(かう)ぜられしかども、其(そ)の験(しるし)も無(な)かりけり。又(また)或(あ)る人申(まう)しけるは、「容顔(ようがん)美麗(びれい)なる白拍子(しらびやうし)を百人召(め)して、院(ゐん)御幸(ぎよかう)なりて、神泉苑(しんぜんえん)の池(いけ)にて舞(ま)はせられば、龍神(りゆうじん)納受(なふじゆ)し給(たま)はん」と言(い)へ
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ば、さらばとて御幸(ぎよかう)有(あ)りて、百人の白拍子(しらびやうし)を召(め)して舞(ま)はせられしに、九十九人(くじふくにん)舞(ま)ひたりしに、其(そ)の験(しるし)も無(な)かりけり。「静(しづか)一人舞(ま)ひたりとても、龍神(りゆうじん)知見(ちけん)あるべきか。而(しか)も内侍所(ないしどころ)に召(め)されて、禄(ろく)重(おも)き者(もの)にて候(さうら)ふに」と申(まう)したりけれども、「とても人数(にんじゆ)なれば、唯(ただ)舞(ま)はせよ」と仰(おほ)せ下(くだ)されければ、静(しづか)が舞(ま)ひたりけるに、しんむじやうの曲(きよく)と言(い)ふ白拍子(しらびやうし)を半(なか)らばかり舞(ま)ひたりしに、みこしの岳(たけ)、愛宕山(あたごさん)の方(かた)より黒雲(くろくも)俄に出(い)で来て、洛中(らくちゆう)にかかると見(み)えければ、八大龍王(はつだいりゆうわう)鳴(な)り渡(わた)りて、稲妻(いなづま)ひかめきしに、諸人目を驚(おどろ)かし、三日の洪水(こうずい)を出(い)だし、国土安穏(あんをん)なりしかば、さてこそ静(しづか)が舞(まひ)に知見(ちけん)有(あ)りけるとて、「日本一(につぽんいち)」と宣旨(せんじ)を賜(たま)はりけると承(うけたまは)りし」と申(まう)しければ、鎌倉(かまくら)殿(どの)是(これ)を聞召(きこしめ)して、さては一番(いちばん)見(み)たしとぞ仰(おほ)せられける。誰(たれ)にか言(い)はせんずると仰(おほ)せられければ、梶原(かぢはら)申(まう)しけるは、「景時(かげとき)が計(はか)らひにて舞(ま)はせん」とぞ申(まう)しける。鎌倉(かまくら)殿(どの)「如何(いかが)あるべき」とぞ仰(おほ)せられける。梶原(かぢはら)申(まう)しけるは、「我(わ)が朝(てう)に住(すまひ)せん程(ほど)の人の、君(きみ)の仰(おほ)せを争(いかで)か背(そむ)き参(まゐ)らせ候(さうら)ふべき。其(そ)の上(うへ)既(すで)に死罪(しざい)に定(さだ)まりて候(さうら)ひしを景時(かげとき)申(まう)してこそ宥(なだ)め奉(たてまつ)りて候(さうら)ひしか。善悪(ぜんあく)舞(ま)はせ参(まゐ)らせ候(さうら)はんずる」と申(まう)しければ、「さらば行(ゆ)きて賺(すか)せ」と仰(おほ)せられけり。梶原(かぢはら)行(ゆ)きて、磯(いそ)の禅師(ぜんじ)を呼(よ)び出(い)だして、「鎌倉(かまくら)殿(どの)の御酒気(さかけ)にこそ御渡(おんわた)り候(さうら)へ。斯(か)かる所(ところ)に川越(かはごえ)の太郎御事(おんこと)を申(まう)し出(い)だされ候(さうら)ひつるに、
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あはれ音に聞(き)こえ給(たま)ふ御舞(まひ)、一番(いちばん)見(み)参(まゐ)らせばやとの御気色(ごきしよく)にて候(さうら)ふ。何(なに)か苦(くる)しく候(さうら)ふべき。一番(いちばん)見(み)せ奉(たてまつ)り給(たま)へかし」と申(まう)したりければ、此(こ)の由(よし)を静(しづか)に語(かた)れば、「あら心(こころ)憂(う)や」とばかりにて、衣(きぬ)引(ひ)き被(かづ)きて臥(ふ)し給(たま)ひけるが、「すべて人の斯様(かやう)の道(みち)を立(た)てける程(ほど)の、口惜(くちを)しき事(こと)は無(な)かりけり。此(こ)の道(みち)ならざらんには、斯(か)かる一方(ひとかた)ならぬ嘆(なげ)きの絶(た)えぬ身に、さりとて憂(う)き人の前(まへ)にて、舞(ま)へなどと、容易(たやす)く言(い)はれつるこそ安(やす)からね。中々(なかなか)伝(つた)へ給(たま)ふ母(はは)の心(こころ)こそ恨(うら)めしけれ。然(さ)れば舞(ま)はば舞(ま)はせんと思(おぼ)し召(め)しけるか」とて、梶原(かぢはら)には返事(へんじ)にも及(およ)ばず。禅師(ぜんじ)梶原(かぢはら)に此(こ)の由(よし)を言(い)ひければ、相違(さうゐ)して帰(かへ)りけり。御所には今(いま)や今(いま)やと待(ま)ち給(たま)ひける所(ところ)に、景時(かげとき)参(まゐ)りたり。二位殿(どの)の御方(おんかた)より「如何(いか)に返事(へんじ)は」と御使有(あ)り。「御諚(ごぢやう)と申(まう)しつれども、返事(へんじ)をだにも申(まう)され候(さうら)はぬ」と申(まう)しければ、
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鎌倉(かまくら)殿(どの)も「もとより思(おも)ひつる事(こと)を。都(みやこ)に帰(かへ)りて有(あ)らん時、内裏(だいり)、院(ゐん)の御所にて、兵衛佐(ひやうゑのすけ)は舞(まひ)舞(ま)へとは言(い)はざりけるかと御尋(おんたづ)ね有(あ)らん時(とき)、梶原(かぢはら)を使(つかひ)にて舞(ま)へと申(まう)し候(さうら)ひしかども、何(なに)のいみじさに舞(ま)ひ候(さうら)ふべきとて、遂(つひ)に舞(ま)はずと申(まう)さば、頼朝(よりとも)が威(ゐ)の無(な)きに似(に)たり。如何(いかが)あるべき。誰(たれ)にてか言(い)はすべき」と仰(おほ)せられければ、梶原(かぢはら)申(まう)しけるは、「工藤(くどう)左衛門(ざゑもん)こそ都(みやこ)に候(さうら)ひし時(とき)も、判官(はうぐわん)殿(どの)常(つね)に御目に懸(か)けられし者(もの)にて候(さうら)へ。而(しか)も京童(きやうわらは)にて口利(くちきき)にて候(さうら)ふ。彼(かれ)に仰(おほ)せ付(つ)けらるべく候(さうら)はん」と申(まう)しければ、「祐経(すけつね)召(め)せ」とて召(め)されけり。其(そ)の頃(ころ)左衛門(さゑもん)塔(たふ)の辻(つじ)に候(さうら)ひけるを、梶原(かぢはら)連(つ)れてぞ参(まゐ)りける。鎌倉(かまくら)殿(どの)仰(おほ)せられけるは、「梶原(かぢはら)以(もつ)て言(い)はすれども、返事(へんじ)をだにもせず。御辺(ごへん)行(ゆ)きて賺(すか)して舞(ま)はせてんや」と仰(おほ)せられければ、斯(か)かるゆゆしき大事(だいじ)こそ無(な)けれ。御諚(ごぢやう)にてだにも従(したが)はぬ人を、賺(すか)せよとの御諚(ごぢやう)こそ大事(だいじ)なれと思(おも)ひて、思(おも)ひ煩(わづら)ひ、急(いそ)ぎ宿(やど)に帰(かへ)り、妻女(さいぢよ)に申(まう)しけるは、「鎌倉(かまくら)殿(どの)よりいみじき大事(だいじ)を承(うけたまは)りてこそ候(さうら)へ。梶原(かぢはら)を御使(おんつかひ)にて仰(おほ)せられつるにだに用(もち)ゐ給(たま)はぬ静(しづか)を賺(すか)して舞(ま)はせよと仰(おほ)せ蒙(かうぶ)りたるこそ、祐経(すけつね)が為(ため)には大事(だいじ)に候(さうら)へ」と言(い)ひければ、女房(にようばう)、「それは梶原(かぢはら)にもよるべからず。左衛門(さゑもん)にもよるべからず。情(なさけ)は人の為(ため)にも有(あ)らばこそ。景時(かげとき)が田舎男(いなかをとこ)にて、骨(こつ)無(な)き様(さま)の風情(ふぜい)にて、舞(まひ)を舞(ま)ひ給(たま)へとこそ申(まう)しつらめ。御身(おんみ)とてもさこそ御座(おは)せんずらめ。
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只(ただ)様々(さまざま)の菓子(くわし)を用意(ようい)して、堀殿(ほりどの)の許(もと)へ行(ゆ)きて、訪(とぶら)ひ奉(たてまつ)る様(やう)にて、内々(ないない)こしらへ賺(すか)し奉(たてまつ)らんに、などか叶(かな)はざるべき」と、世に易(やす)げに言(い)ひける。祐経(すけつね)が妻女(さいぢよ)と申(まう)すは、千葉介(ちばのすけ)が在京(ざいきやう)の時儲(まう)けたりける京童(きやうわらは)の娘(むすめ)、小松(こまつ)殿(どの)の御内(みうち)に冷泉(れいぜん)殿(どの)の御局(つぼね)とて、大人(おとな)しき人にてぞ有(あ)りける。叔父(おほぢ)伊東(いとう)の次郎(じらう)に仲(なか)を違(たが)ひて、本領(ほんりやう)を取(と)らるるのみならず、飽(あ)かぬ中を引(ひ)き分(わ)けられて、其(そ)の本意(ほんい)を遂(と)げんが為(ため)に、伊豆(いづ)へ下(くだ)らんとしけるを、小松(こまつ)殿(どの)祐経(すけつね)に名残(なご)りを惜(を)しませ給(たま)ひて、年こそ少(すこ)し大人(おとな)しけれども、是(これ)を見よとて祐経(すけつね)に見(み)え初(そ)めて、互(たが)ひの志(こころざし)深(ふか)かりけり。治承に小松殿(どの)薨(かく)れさせ給(たま)ひて後(のち)は、頼(たの)む方(かた)無(な)かりければ、祐経(すけつね)に具足(ぐそく)せられて、東国へ下(くだ)りけり。年(とし)久(ひさ)しくなりたれ共(ども)、流石(さすが)に狂言(きやうげん)綺語(きぎよ)の戯(たはぶ)れも未(いま)だ忘(わす)れざりければ、賺(すか)さん事(こと)も易(やす)しとや思(おも)ひけん、急(いそ)ぎ出(い)で立(た)ち、藤次(とうじ)が宿所(しゆくしよ)へ行(ゆ)きけり。祐経(すけつね)先(ま)づ先(さき)に行(ゆ)きて、磯(いそ)の禅師(ぜんじ)に言(い)ひけるは、「此(こ)の程(ほど)何(なに)と無(な)く打(う)ち紛(まぎ)れ候(さうら)へば、疎(おろか)なりとぞ思(おぼ)し召(め)され候(さうら)ふらん。三島(みしま)の御参詣(ごさんけい)にて渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)ひつる程(ほど)に、是(これ)も召(め)し具(ぐ)せられ、日々の御社参(しやさん)にて渡(わた)らせ給(たま)へば、精進(しやうじん)無(な)くては叶(かな)ひ難(がた)く候(さうら)ふ間(あひだ)、打(う)ち絶(た)え参(まゐ)り候(さうら)はねば、返(かへ)す返(がへ)す恐(おそれ)入(い)りて候(さうら)ふ。祐経(すけつね)が妻女(さいぢよ)も都(みやこ)の者(もの)にて候(さうら)ふ。堀殿(ほりどの)の宿所(しゆくしよ)まで参(まゐ)りて候(さうら)ふ。それそれ禅師(ぜんじ)、良(よ)き様(やう)に申(まう)させ給(たま)へ」と申(まう)して、我(わ)が身は帰(かへ)る体(てい)にもてなして、傍(かたは)らに隠(かく)れてぞ候(さうら)ひける。磯(いそ)の禅師(ぜんじ)静(しづか)に此(こ)の由(よし)
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を語(かた)れば、「左衛門(さゑもん)の常(つね)に訪(とぶら)ひ給(たま)ふだに有(あ)り難(がた)く思(おも)ひ参(まゐ)らせつるに、女房(にようばう)の御入(おいり)までは思(おも)ひも寄(よ)らざる嬉(うれ)しさにて候(さうら)ふ」とて、我(わ)が方(かた)をこしらへてぞ入(い)れける。藤次(とうじ)が妻女(さいぢよ)諸共(もろとも)に行(ゆ)きてぞもてなしける。人を賺(すか)さんとする事(こと)なれば、酒宴(しゆえん)始(はじ)めて幾(いく)程(ほど)も無(な)かりけるに、祐経(すけつね)が女房(にようばう)今様(いまやう)をぞ歌(うた)ひける。藤次(とうじ)が妻女(さいぢよ)も催馬楽(さいばら)をぞ歌(うた)ひける。磯(いそ)の禅師(ぜんじ)珍(めづら)しからぬ身(み)なれどもとて、貴賎(きせん)と言(い)ふ白拍子(しらびやうし)をぞ数(かぞ)へける。催馬楽(さいばら)、其駒(そのこま)も主に劣(おと)らぬ上手(じやうず)共(ども)なりければ、共(とも)に歌(うた)ひて遊(あそ)びけり。春(はる)の夜(よ)の朧(おぼろ)の空(そら)に雨降(ふ)りて、殊更(ことさら)世間(せけん)閑(しづか)也(なり)。壁(かべ)に立(た)ち添(そ)ふ人も聞(き)け、終日(しゆうじつ)の狂言(きやうげん)は千年(ちとせ)の命(いのち)延(の)ぶなれば、我(われ)も歌(うた)ひ遊(あそ)ばんとて、別(わかれ)の白拍子(しらびようし)をぞ数(かぞ)へける。音声(おんじやう)文字(もじ)うつり、心(こころ)も言葉(ことば)も及(およ)ばれず。左衛門(さゑもん)の尉(じよう)、藤次(とうじ)、壁(かべ)を隔(へだ)てて是(これ)を聞(き)きて、「あはれ打(う)ち任(まか)せの座敷(ざしき)ならば、などか推参(すいさん)せざるべき」とて、心(こころ)も空(そら)に憧(あこが)るるばかりなり。白拍子(しらびやうし)過(す)ぎければ、錦(にしき)の袋(ふくろ)に入(い)れたる琵琶(びは)一面(めん)、纐纈(かうけつ)の袋(ふくろ)に入(い)りたる琴(こと)一張(いつちやう)取(と)り出(い)だして、琵琶(びは)をば其駒(そのこま)袋(ふくろ)より取(と)り出(い)だして、緒(を)合(あ)はせて、左衛門(さゑもん)の尉(じよう)の女房(にようばう)の前(まへ)に置(お)く。琴(こと)をば催馬楽(さいばら)取(と)り出(い)だし琴柱(ことぢ)立(た)て、静(しづか)が前(まへ)にぞ置(お)きたりける。管絃(くわんげん)過(す)ぎければ、又(また)左衛門(さゑもん)の妻女(さいぢよ)心(こころ)ある様(さま)の物語(ものがたり)などせられつつ、今(いま)や言(い)はまし言(い)はましとぞ思(おも)ひける。「昔(むかし)の京をば難波(なんば)の京(きやう)とぞ申(まう)しけるに、愛宕郡(おたぎのこほり)に都(みやこ)を立(た)てられしより此(こ)の方(かた)、東海道を遙(はる)かにして、
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由比(ゆひ)の、足利(あしかが)より東、相模(さがみ)の国(くに)をさか上(のぼ)り、由比(ゆひ)の浦(うら)、ひつめの小林(こばやし)、鶴岡(つるがをか)の麓(ふもと)に今(いま)八幡(はちまん)を斎(いは)ひ奉(たてまつ)る。鎌倉(かまくら)殿(どの)にも氏神(うぢがみ)なれば、判官(はうぐわん)殿(どの)をなどか守(まも)り奉(たてまつ)り給(たま)はざらん、和光(わくわう)同塵(どうじん)は結縁(けちえん)の始(はじ)め、八相成道(はつさうじやうだう)は利物(りもつ)の終(をはり)、何事(なにごと)か御祈(いの)りの感応(かんおう)無(な)からんや、当国一(たうごくいち)の無双(ぶさう)にて渡(わた)らせ給(たま)へば、夕(ゆふべ)は参籠(さんろう)の輩(ともがら)門前(もんぜん)市(いち)をなす。朝(あした)には参詣(さんけい)の輩(ともがら)肩(かた)を並(なら)べて踵(くびす)を継(つ)ぐ。然(しか)れば日中には適(かな)ひ候(さうら)ふまじ。堀(ほり)殿(どの)の妻女(さいぢよ)、若宮(わかみや)の案内者(あんないしや)にて御座(おは)します。妾(わらは)も此(こ)の所(ところ)巨細(こさい)の者(もの)にて候(さうら)へば、明日又(また)夜をこめて御参詣(ごさんけい)候(さうら)ひて思(おぼ)し召(め)す御宿願(しゆくぐわん)も遂(と)げさせ御座(おは)しまし、其(そ)の次(ついで)に御腕差(かひなざし)法楽(ほふらく)し参(まゐ)らさせ給(たま)ひ候(さうら)ひなば、鎌倉(かまくら)殿(どの)と判官(はうぐわん)殿(どの)と御仲(おんなか)も直(なほ)らせ御座(おは)しまし候(さうら)ひて思(おぼ)し召(め)す儘(まま)なるべし。奥州(あうしう)に渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)ふ判官(はうぐわん)殿(どの)も聞召(きこしめ)し伝(つた)へさせ給(たま)はば、我(わ)が為(ため)に丹誠(たんぜい)を致(いた)し参(まゐ)らせ給(たま)ふと聞召(きこしめ)しては、如何(いか)ばかり嬉(うれ)しとこそ思(おぼ)し召(め)し候(さうら)はんずれ。偶々(たまたま)斯(か)かる次(ついで)ならでは、争(いか)でかさる事(こと)候(さうら)ふべき。理(り)を枉(ま)げて御参詣(ごさんけい)候(さうら)へ。余(あま)りに見(み)奉(たてまつ)りてよりいとど愚(おろ)かに思(おも)ひ参(まゐ)らせず候(さうら)へば、せめての事(こと)に申(まう)し候(さうら)ふなり。御参詣(ごさんけい)候(さうら)はば、御供(おんとも)申(まう)し候(さうら)はん」とぞ賺(すか)しける。静(しづか)是(これ)を聞(き)きて、実(げ)にもとや思(おも)ひけん、磯(いそ)の禅師(ぜんじ)を呼(よ)びて、「如何(いかが)あるべき」と言(い)ひければ、禅師(ぜんじ)もあはれさも有(あ)らまほしく思(おも)ひければ、「八幡(はちまん)の御託宣(ごたくせん)にてこそ候(さうら)へ。是(これ)程(ほど)深(ふか)く思(おぼ)しける嬉(うれ)しさよ、疾(と)く疾(と)く参(まゐ)らせ給(たま)へ」と言(い)ひければ、「さらば
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昼(ひる)は適(かな)ふまじ。寅(とら)の時(とき)に参(まゐ)りて、辰(たつ)の時(とき)に形(かた)の如(ごと)く舞(ま)ひて帰(かへ)らばや」とぞ申(まう)しける。左衛門(さゑもん)の女房(にようばう)、祐経(すけつね)にはや聞(き)かせたくて、かくと言(い)はせければ、祐経(すけつね)壁(かべ)を隔(へだ)てて聞(き)く事(こと)なれば、使(つかひ)の出(い)でぬ間(ま)に、馬(うま)に打(う)ち乗(の)り、急(いそ)ぎ鎌倉(かまくら)殿(どの)へ参りて、侍(さぶらひ)につと入(い)れば、君を初(はじ)め参(まゐ)らせて、侍(さぶらひ)共(ども)「如何(いか)にや如何(いか)にや」と問(と)ひ給(たま)へば、「寅(とら)の時(とき)の参詣(さんけい)、辰(たつ)の時(とき)の御腕差(かひなざし)」と高(たか)らかに申(まう)したりければ、鎌倉(かまくら)殿(どの)やがて御参詣(ごさんけい)有(あ)りけり。静(しづか)舞(ま)ひぬると聞(き)きて、若宮(わかみや)には門前(もんぜん)市(いち)をなす。「拝殿(はいでん)廻廊(くわいらう)の前(まへ)、雑人(ざふにん)奴(め)等(ら)がえいやづきをして、物(もの)の差別(しやべつ)も聞(き)こえ候(さうら)はず」と申(まう)しければ、小舎人(ことねり)を召(め)して、「放逸(はういつ)に当(あ)たり、追(お)ひ出(い)だせ」と仰(おほ)せける。源太(げんだ)承(うけたまは)りて、「御諚(ごぢやう)ぞ」と言(い)ひけれども用(もち)ゐず。小舎人(ことねり)原(ばら)放逸(はういつ)に散々(さんざん)に打(う)つ。男(をとこ)は烏帽子(えぼし)を打(う)ち落(おと)し、法師(ほふし)は笠(かさ)を打(う)ち落(おと)さる。疵(きづ)をつく者(もの)其(そ)の数(かず)有(あ)りけれども、「是(これ)程(ほど)の物見(ものみ)を一期(いちご)に一度の大事(だいじ)ぞ。傷(きず)はつくとも入(い)らんず」とて身(み)の成(な)り行(ゆ)く末代(まつだい)知(し)らずして、潛(くぐ)り入(い)る間(あひだ)、中々(なかなか)騒動(さうどう)する事(こと)夥(おびたた)し。佐原(さはら)の十郎(じふらう)申(まう)しけるは、「あはれ予(かね)て知(し)り候(さうら)はば、廻廊(くわいらう)の真中(まんなか)に舞台(ぶたい)を張(は)りて参(まゐ)らせ奉(たてまつ)り候(さうら)はんずるものを」と申(まう)しけり。鎌倉(かまくら)殿(どの)聞召(きこしめ)して、「あはれ是(これ)は誰(たれ)が申(まう)しつるぞ」と御尋(おんたづね)有(あ)りければ、「佐原(さはら)の十郎(じふらう)申(まう)して候(さうら)ふ」と申(まう)す。「佐原(さはら)故実(こしつ)の者(もの)なり。尤(もつと)もさるべし。やがて支度(したく)して参(まゐ)らせよ」と仰(おほ)せられけり。十郎(じふらう)承(うけたまは)りて、急(いそ)ぎの事(こと)
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なりければ、若宮(わかみや)修理(しゆり)の為(ため)に積(つ)み置(お)かれたる材木(ざいもく)を一時に運(はこ)ばせて、高(たか)さ三尺(さんじやく)に舞台(ぶたい)を張(は)りて、唐綾(からあや)、絞紗(もんじや)を以(もつ)てぞ包(つつ)みたる。鎌倉(かまくら)殿(どの)御感(ぎよかん)有(あ)りける。静(しづか)を待(ま)つに、日(ひ)は既(すで)に巳(み)の時(とき)ばかりになるまで参詣(さんけい)なし。「如何(いか)なる静(しづか)なれば、是(これ)程(ほど)に人の心(こころ)を尽(つ)くすらん」などぞ申(まう)しける。遙(はる)かに日闌(た)けて、輿(こし)を舁(か)きてぞ出(い)で来(き)たる。左衛門(さゑもん)の尉(じよう)、藤次(とうじ)が女房(にようばう)諸共(もろとも)に打(う)ち連(つ)れて廻廊(くわいらう)にぞ詣(まう)でたりける。禅師(ぜんじ)、催馬楽(さいばら)、其駒(そのこま)其(そ)の日の役人(やくにん)也(なり)ければ、静(しづか)と連(つ)れて廻廊(くわいらう)の舞台(ぶたい)へ直(なほ)る。左衛門(さゑもん)の女房(にようばう)は同(おな)じ姿(すがた)なる女房(にようばう)達(たち)三十余人引(ひ)き具(ぐ)して、桟敷(さじき)に入(い)りける。静(しづか)は神前(しんぜん)に向(むか)ひて念誦(ねんじゆ)してぞ居(ゐ)たりける。先(ま)づ磯(いそ)の禅師(ぜんじ)、珍(めづら)しからねども、法楽(ほふらく)の為(ため)なれば、催馬楽(さいばら)に鼓(つづみ)打(う)たせて、すきもののせうしやと言(い)ふ白拍子(しらびやうし)を数(かぞ)へてぞ舞(ま)ひたりける。心(こころ)も言葉(ことば)も及(およ)ばれず。「さしも聞(き)こえぬ
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禅師(ぜんじ)が舞(まひ)だにも、是(これ)程(ほど)に面白(おもしろ)きに、まして静(しづか)が舞(ま)はん時(とき)、如何(いか)に面白(おもしろ)からん」とぞ申(まう)し合(あ)ひける。静(しづか)、人の振舞(ふるまひ)、幕(まく)の引様(ひきやう)、如何様(いかさま)にも鎌倉(かまくら)殿(どの)の御参詣(ごさんけい)と覚(おぼ)えたり。祐経(すけつね)が女房(にようばう)賺(すか)して、鎌倉(かまくら)殿(どの)の御前(おまえ)にて舞(ま)はすると覚(おぼ)ゆる。あはれ何(なに)ともして、今日(けふ)の舞(まひ)を舞(ま)はで帰(かへ)らばやとぞ千種(ちくさ)に案(あん)じ居(ゐ)たりける。左衛門(さゑもん)の尉(じよう)を呼(よ)びて申(まう)しけるは、「今日は鎌倉(かまくら)殿(どの)の御参詣(ごさんけい)と覚(おぼ)え候(さうら)ふ。都(みやこ)にて内侍所(ないしどころ)に召(め)されし時(とき)は、内蔵頭(くらのかみ)信光(のぶみつ)に囃(はや)されて舞(ま)ひたりしぞかし。神泉苑(しんぜんえん)の池(いけ)の雨乞(あまこひ)の時(とき)は、四条(しでう)のきすはらに囃(はや)されてこそ舞(ま)ひて候(さうら)ひしか。此(こ)の度(たび)は御不審(ふしん)の身にて召(め)し下(くだ)され候(さうら)ひしかば、鼓打(つづみう)ちなどをも連(つ)れても下(くだ)り候(さうら)はず。母(はは)にて候(さうら)ふ人の形(かた)の如(ごと)くの腕差(かひなざし)を法楽(ほふらく)せられ候(さうら)はば、我々(われわれ)は都(みやこ)へ上(のぼ)り、又こそ鼓打(つづみうち)用意(ようい)して、わざと下(くだ)りて法楽(ほふらく)に舞(ま)ひ候(さうら)はめ」とて、やがて立(た)つ気色(けしき)に見(み)えければ、大名(だいみやう)小名(せうみやう)是(これ)を見(み)て、興(きよう)醒(ざ)めてぞ有(あ)りける。鎌倉(かまくら)殿(どの)も聞召(きこしめ)して、「世間(せけん)狭(せば)き事(こと)かな。鎌倉(かまくら)にて舞(ま)はせんとしけるに、鼓打(つづみう)ちが無(な)くて、遂(つひ)に舞(ま)はざりけりと聞(き)こえん事こそ恥(はづ)かしけれ。梶原(かぢはら)、侍(さぶらひ)共(ども)の中に鼓(つづみ)打(う)つべき者(もの)やある。尋(たづ)ねて打(う)たせよ」と仰(おほ)せられければ、景時(かげとき)申(まう)しけるは、「左衛門(さゑもん)の尉(じよう)こそ小松(こまつ)殿(どの)の御時(とき)、内裏(うち)の御神楽(みかぐら)に召(め)されて候(さうら)ひけるに、殿上(てんしやう)に名を得(え)たる小鼓(こつづみ)の上手(じやうず)にて候(さうら)ふなれと申(まう)したりければ、さらば祐経(すけつね)打(う)ちて舞(ま)はせよ」と仰(おほ)せ蒙(かうぶ)りて申(まう)しけるは、
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「余(あま)りに久(ひさ)しく仕(つかまつ)らで鼓(つづみ)の手色(ていろ)などこそ思(おも)ふ程(ほど)に候(さうら)ふまじけれども、御諚(ごぢやう)にて候(さうら)へば仕(つかまつ)りてこそ見(み)候(さうら)はめ。但(ただ)し鼓(つづみ)一ちやうにては叶(かな)ふまじ、鉦(かね)の役(やく)を召(め)され候(さうら)へ」と申(まう)したり。鉦(かね)は誰(たれ)かあるべきと仰(おほ)せられける。「長沼(ながぬま)の五郎こそ候(さうら)へ」と申(まう)しければ、「尋(たづ)ね打(う)たせよ」と仰(おほ)せければ、「眼病(がんびよう)に身を損(そん)じて、出仕(しゆつし)仕(つかまつ)らず」と申(まう)しければ、「さ候(さうら)はば、景時(かげとき)仕(つかまつ)りて見(み)候(さうら)はばや」と申(まう)せば、「なんぼうの、梶原(かぢはら)は銅拍子(とびやうし)ぞ」と左衛門(さゑもん)に御尋(おんたづ)ね有(あ)り。「長沼(ながぬま)に次(つ)いでは梶原(かぢはら)こそ」と申(まう)したりければ、「さては苦(くる)しかるまじ」とて、鉦(かね)の役(やく)とぞ聞(き)こえける。佐原(さはら)の十郎(じふらう)申(まう)しけるは、「時(とき)の調子(てうし)は大事(だいじ)の物(もの)にて候(さうら)ふに、誰(たれ)にか音取(ねとり)を吹(ふ)かせばや」と申(まう)せば、鎌倉(かまくら)殿(どの)「誰(たれ)か笛(ふえ)吹(ふ)きぬべき者(もの)やある」と仰(おほ)せられければ、和田(わだ)の小太郎(こたらう)申(まう)しけるは、「畠山(はたけやま)こそ院(ゐん)の御感(ぎよかん)に入(い)りたりし笛(ふえ)にて候(さうら)へ」と申(まう)しければ、「如何(いか)でか畠山(はたけやま)の賢人(けんじん)第一(だいいち)の、異様(いやう)の楽党(がくたう)にならんは、仮初(かりそめ)なりともよも言(い)はじ」と仰(おほ)せられければ、「御諚(ごぢやう)と申(まう)して見(み)候(さうら)はん」とて、畠山(はたけやま)の桟敷(さじき)へ行(ゆ)きけり。畠山(はたけやま)に此(こ)の仔細(しさい)を「御諚(ごぢやう)にて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、畠山(はたけやま)、「君(きみ)の御内(みうち)きりせめたる工藤(くどう)左衛門(ざゑもん)鼓(つづみ)打(う)ちて、八箇国(はつかこく)の侍(さぶらひ)の所司(しよし)梶原(かぢはら)が銅拍子(とびやうし)合(あ)はせて、重忠(しげただ)が笛(ふえ)吹(ふ)きたらんずるは、俗姓(ぞくしやう)正(ただ)しき楽党(がくたう)にてぞ有(あ)らんずらむ」と打(う)ち笑(わら)ひ、仰(おほ)せに従(したが)ひ参(まゐ)らすべき由(よし)を申(まう)し給(たま)ひつつ、二人(ふたり)の楽党(がくたう)は所々(ところどころ)
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より思(おも)ひ思(おも)ひに出(い)で立(た)ち出(い)でられけり。左衛門(さゑもん)の尉(じよう)は、紺葛(こんくず)の袴(はかま)に、木賊色(とくさいろ)の水干(すいかん)に、立烏帽子(たてえぼし)、紫檀(したん)の胴(どう)に羊(ひつじ)の皮(かわ)にて張(は)りたる鼓(つづみ)の、六(むつ)の緒(を)の調(しら)を掻(か)き合(あ)はせて、左の脇(わき)にかい挟(はさ)みて、袴(はかま)の稜(そば)高(たか)らかに差(さ)し挟(はさ)み、上(うへ)の松山(まつやま)廻廊(くわいらう)の天井(てんじやう)に響(ひび)かせ、手色(ていろ)打(う)ち鳴(な)らして、残(のこり)の楽党(がくたう)を待(ま)ちかけたり。梶原(かぢはら)は紺葛(こんくず)の袴(はかま)に山鳩色(やまばといろ)の水干(すいかん)、立烏帽子(たてえぼし)、南鐐(なんりやう)を以(もつ)て作(つく)りたる金(こがね)の菊形(きくがた)打(う)ちたる銅拍子(とびやうし)に、啄木(たんぼく)の緒(を)を入(い)れて、祐経(すけつね)が右の座敷(ざしき)に直(なほ)りて、鼓(つづみ)の手色(ていろ)に従(したが)ひて、鈴虫(すずむし)などの鳴(な)く様(やう)に合(あ)はせて、畠山(はたけやま)を待(ま)ちけり。畠山(はたけやま)は幕(まく)の綻(ほころび)より座敷(ざしき)の体(てい)を差(さ)し覗(のぞ)きて、別して色々(いろいろ)しくも出(い)で立(た)たず、白(しろ)き大口(おほくち)に、白き直垂(ひたたれ)に紫革(むらさきかは)の紐(ひも)付(つ)けて、折烏帽子(をりえぼし)の片々(かたかた)をきつと引(ひ)き立(た)てて、松風(まつかぜ)と名づけたる漢竹(かんちく)の横笛(やうでう)を持(も)ち、袴(はかま)の稜(そば)高(たか)らかに引(ひ)き上(あ)げて、幕(まく)ざと引(ひ)き上(あ)げ、づと出(い)でたれば、大(だい)の男(をとこ)の重(おも)らかに歩(あゆ)みなして舞台(ぶたい)に上(のぼ)り、祐経(すけつね)が左の方にぞ居(ゐ)直(なほ)りける。名を得(え)たる美男(びなん)なりければ、あはれやとぞ見(み)えける。其(そ)の年(とし)廿三にぞなりける。鎌倉(かまくら)殿(どの)是(これ)を御覧(ごらん)じて、御簾(みす)の内(うち)より「あはれ楽党(がくたう)や」とぞ讚(ほ)めさせ給(たま)ひける。時(とき)に取(と)りては、おくゆかしくぞ見(み)えける。静(しづか)是(これ)を見(み)て、よくぞ辞退(じたい)したりける。同(おな)じくは舞(ま)ふ共(とも)、斯(か)かる楽党(がくたう)にてこそ舞(ま)ふべけれ、心(こころ)軽(かる)くも舞(ま)ひたりせば、如何(いか)に軽々(かるがる)しく有(あ)らんとぞ思(おも)ひける。禅師(ぜんじ)を呼(よ)びて、舞(まひ)の装束(しやうぞく)をぞしたりける。松(まつ)に懸(か)かれる藤(ふじ)の花、池(いけ)の
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汀(みぎは)に咲(さ)き乱(みだ)れ、空(そら)吹(ふ)く風は山霞(やまがすみ)、初音(はつね)ゆかしき時鳥(ほととぎす)の声(こゑ)も、折知(をりし)り顔(かほ)にぞ覚(おぼ)えける。静(しづか)が其(そ)の日の装束(しやうぞく)には、白(しろ)き小袖(こそで)一襲(ひとかさね)、唐綾(からあや)を上(うへ)に引(ひ)き重(かさ)ねて、白(しろ)き袴(はかま)踏(ふ)みしだき、割菱(わりひし)縫(ぬ)ひたる水干(すいかん)に、丈(たけ)なる髪(かみ)高(たか)らかに結(ゆ)ひなして、此(こ)の程(ほど)の歎(なげ)きに面(おも)瘠(や)せて、薄化粧(うすげしやう)眉(まゆ)ほそやかに作(つく)りなし、皆紅(みなぐれなゐ)の扇(あふぎ)を開(ひら)き、宝殿(ほうでん)に向(むか)ひて立(た)ちたりける。さすが鎌倉(かまくら)殿(どの)の御前にての舞(まひ)なれば、面映(おもは)ゆくや思(おも)ひけん、舞(ま)ひ兼(か)ねてぞ躊躇(やすら)ひける。二位(にゐ)殿は是(これ)を御覧(ごらん)じて、「去年の冬、四国の波(なみ)の上(うへ)にて揺(ゆ)られ、吉野(よしの)の雪(ゆき)に迷(まよ)ひ、今年(ことし)は海道(かいだう)の長旅(ながたび)にて、瘠(や)せ衰(おとろ)へ見(み)えたれども、静(しづか)を見(み)るに、我(わ)が朝(てう)に女有(あ)り共(とも)知(し)られたり」とぞ仰(おほ)せられける。静(しづか)其(そ)の日は、白拍子(しらびようし)多(おほ)く知(し)りたれども、殊(こと)に心(こころ)に染(そ)むものなれば、しんむじやうの曲(きよく)と言(い)ふ白拍子(しらびやうし)の上手(じやうず)なれば、心(こころ)も及(およ)ばぬ声色(こはいろ)にて、はたと上(あ)げて
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ぞ歌(うた)ひける。上下あと感(かん)ずる声(こゑ)雲にも響(ひび)くばかりなり。近(ちか)きは聞(き)きて感(かん)じけり。声(こゑ)も聞(き)こえぬもさこそあるらめとてぞ感(かん)じける。しんむしやうの曲(きよく)半(なから)ばかり数(かぞ)へたりける所に祐経(すけつね)心(こころ)なしとや思(おも)ひけん、水干(すいかん)の袖(そで)を外(はづ)して、せめをぞ打(う)ちたりける。静(しづか)「君(きみ)が代の」と上(あ)げたりければ、人々(ひとびと)是(これ)を聞(き)きて、「情(なさけ)無(な)き祐経(すけつね)かな、今(いま)一折舞(ま)はせよかし」とぞ申(まう)しける。詮(せん)ずる所(ところ)敵(てき)の前(まへ)の舞(まひ)ぞかし。思(おも)ふ事(こと)を歌(うた)はばやと思(おも)ひて、
しづやしづ賎(しづ)のをだまき繰(く)り返(かへ)し昔(むかし)を今(いま)になすよしもがな W009
吉野山(よしのやま)嶺(みね)の白雪踏(ふ)み分(わ)けて入(い)りにし人の跡(あと)ぞ恋(こひ)しき W010
と歌(うた)ひたりければ、鎌倉(かまくら)殿(どの)御簾(みす)をざと下(おろ)し給(たま)ひけり。鎌倉(かまくら)殿(どの)、「白拍子(しらびやうし)は興(きよう)醒(さ)めたるものにて有(あ)りけるや。今(いま)の舞(ま)ひ様(やう)、歌(うた)の歌(うた)ひ様(やう)、怪(け)しからず。頼朝(よりとも)田舎人(ゐなかうど)なれば、聞(き)き知(し)らじとて歌(うた)ひける。賎(しづ)のをだまき繰(く)り返(かへ)し」とは、頼朝(よりとも)が世尽(つ)きて九郎が世になれとや。あはれおほけなく覚(おぼ)えし人の跡(あと)絶(た)えにけりと歌(うた)ひたりければ、御簾(みす)を高(たか)らかに上(あ)げさせ給(たま)ひて、軽々(かるがる)しくも讚(ほ)めさせ給(たま)ふものかな。二位(にゐ)殿(どの)より御引出物(おんひきいでもの)色々(いろいろ)賜(たま)はりしを、判官(はうぐわん)殿(どの)御祈(いの)りの為(ため)に若宮(わかみや)の別当(べつたう)に参(まゐ)りて、堀(ほり)の藤次(とうじ)が女房(にようばう)諸共(もろとも)に打(う)ち連(つ)れてぞ帰(かへ)りける。明(あ)くれば都(みやこ)にとて上(のぼ)り、北白川(きたしらかは)の宿所(しゆくしよ)に帰(かへ)りてあれども、物(もの)をもはかばかしく
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見(み)入(い)れず、憂(う)かりし事(こと)の忘(わす)れ難(がた)ければ、問(と)ひくる人も物(もの)憂(う)しとて、只(ただ)思(おも)ひ入(い)りてぞ有(あ)りける。母(はは)の禅師(ぜんじ)も慰(なぐさ)め兼(か)ねて、いとど思(おも)ひ深(ふか)かりけり。明暮(あけくれ)持仏堂(ぢぶつだう)に引(ひ)き籠(こも)り、経(きやう)を読(よ)み、仏(ほとけ)の御名を唱(とな)へて有(あ)りけるが、かかる憂世(うきよ)にながらへても何(なに)かせんとや思(おも)ひけん、母(はは)にも知(し)らせず、髪(かみ)を切(き)りて、剃(そ)りこぼし、天龍寺(てんりゆうじ)の麓(ふもと)に草(くさ)の庵(いほり)を結(むす)び、禅師(ぜんじ)諸共(もろとも)に行(おこな)ひ澄(す)ましてぞ有(あ)りける。姿(すがた)心(こころ)、人に勝(すぐ)れたり、惜(を)しかるべき年ぞかし、十九にて様(さま)を変(か)へ、次(つぎ)の年の秋(あき)の暮(くれ)には思(おも)ひや胸(むね)に積(つも)りけん、念仏(ねんぶつ)申(まう)し、往生(わうじやう)をぞ遂(と)げにける。聞(き)く人貞女(ていじよ)の志(こころざし)を感(かん)じけるとぞ聞(き)こえける。
義経記巻第六
義経記 国民文庫本
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義経記巻第七目録
判官(はうぐわん)北国落(ほつこくおち)の事(こと)
大津(おほつ)次郎(じらう)の事(こと)
愛発山(あらちやま)の事(こと)
三(みつ)の口(くち)の関(せき)通(とほ)り給(たま)ふ事
平泉寺(へいせんじ)御見物(けんぶつ)の事(こと)
如意(によい)の渡(わたり)にて義経(よしつね)を弁慶(べんけい)打(う)ち奉(たてまつ)る事
直江(なほえ)の津(つ)にて笈(おひ)探(さが)されし事
亀割山(かめわりやま)にて御産(おさん)の事(こと)
判官(はうぐわん)平泉(ひらいづみ)へ御著(おんつき)の事(こと)
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義経記巻第七
判官(はうぐわん)北国落(ほつこくおち)の事(こと) S0701
文治(ぶんぢ)二年正月の末(すゑ)になりぬれば、大夫判官(はうぐわん)は、六条(ろくでう)堀河(ほりかは)に忍(しの)びて御座(おは)しける時(とき)も有(あ)り、又(また)嵯峨(さが)の片辺(かたほとり)に忍(しの)びて御座(おは)しける時(とき)も有(あ)りけるが、都(みやこ)には判官(はうぐわん)殿(どの)の御故(ゆゑ)に、人々(ひとびと)多(おほ)く損(そん)じければ、義経(よしつね)故(ゆゑ)民(たみ)の煩(わづら)ひとなり、人数多(あまた)損(そん)ずるなれば、如何(いか)なる所(ところ)にも有(あ)りと聞(き)き、見(み)ばやと思(おも)はれければ、今(いま)は奥州(あうしう)へ下(くだ)らばやとて、別々になりける侍(さぶらひ)共(ども)をぞ召(め)されける。十六人は一人も心(こころ)変(か)はり無(な)くてぞ参りける。「奥州(あうしう)へ下(くだ)らんと思(おも)ふに何(いづ)れの道(みち)にかかりてかよからんずるぞ」と仰(おほ)せられければ、各々(おのおの)申(まう)しけるは、「東海道(とうかいだう)こそ名所にて候(さうら)へ、東山道(とうせんだう)は切所(せつしよ)なれば、自然(しぜん)の事(こと)有(あ)らんずる時(とき)は、避(よ)けて行(ゆ)くべき方(かた)もなし。北陸道(ほくろくだう)は越前(ゑちぜん)の国敦賀(つるが)の津(つ)に下(くだ)りて、出羽国(ではのくに)の方(かた)へ行(ゆ)かんずる船(ふね)に便船(びんせん)してよかるべし」とて道(みち)は定(さだ)め、「さて姿(すがた)をば如何様(いかやう)にしてか下るべき」と様々(さまざま)に申(まう)しける中に、
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増尾(ましを)の七郎申(まう)しけるは、「御心(おんこころ)やすく御下(おんくだ)りあるべきにて候(さうら)はば、御出家(しゆつけ)候(さうら)ひて、御下(おんくだ)り候(さうら)へ」と申(まう)しければ、「遂(つひ)にはさこそ有(あ)らんずらめども、南都(なんと)の勧修坊(くわんじゆばう)の千度出家(しゆつけ)せよと教化(けうけ)せられしを背(そむ)いて、今(いま)身の置所(おきどころ)無(な)き儘(まま)に、出家(しゆつけ)しけると聞(き)こえんも恥(はず)かしければ、此(こ)の度(たび)は如何(いか)にもして、様(さま)を変(か)へもせで下(くだ)らばや」と宣(のたま)ひければ、片岡(かたをか)申(まう)しけるは、「さらば山伏(やまぶし)の御姿(おんすがた)にて御下(おんくだ)り候(さうら)へ」と申(まう)しければ、「いさとよ、それも如何(いかが)有(あ)らんずらん、都(みやこ)を出(い)でん日よりして、日吉(ひゑ)山王(さんわう)、越前(ゑちぜん)の国(くに)に気比の社(やしろ)、平泉寺(へいせんじ)、加賀(かが)の国(くに)下白山(しもしらやま)、越中国(ゑつちゆうのくに)に蘆峅(あしくら)、岩峅(いはくら)、越後(ゑちご)の国(くに)にはをき、国上(くがみ)、出羽(では)の国(くに)には羽黒山(はぐろさん)とて、山社(さんしや)多(おほ)き所(ところ)なれば、山伏(やまぶし)の行(ゆ)き逢(あ)ひて、一乗(いちじよう)菩提(ぼだい)の峰(みね)、釈迦岳(しやかのだけ)の有様(ありさま)、八大(はつだい)金剛童子(こんがうどうじ)の護身(ごしん)さし、富士(ふじ)の峰(みね)、山伏(やまぶし)の礼義(れいぎ)などを問(と)ふ時(とき)は、誰(たれ)かきらきらしく答(こた)へて通(とほ)るべき」と仰(おほ)せければ、武蔵坊(むさしばう)申(まう)しけるは、「それ程の事(こと)安(やす)き事(こと)候(さうら)ふ。君(きみ)は鞍馬(くらま)に御座(おは)しまししかば、山伏(やまぶし)の事(こと)は粗々(あらあら)御存(ぞん)じ候(さうら)ふらん。常陸坊(ひたちばう)は園城寺(をんじやうじ)に候(さうら)ひしかば、申(まう)すに及(およ)ばず、弁慶(べんけい)は西塔(さいたふ)に候(さうら)ひしかば、一乗(いちじよう)菩提(ぼだい)の事(こと)粗々(あらあら)存(ぞん)じ仕(つかまつ)りて候(さうら)へば、などか陳(ちん)ぜで候(さうら)ふべき。山伏(やまぶし)の勤(つとめ)には、懺法(せんぽふ)阿弥陀経(あみだきやう)をだにも、詳(つまびら)かに読(よ)み候(さうら)ひぬれば、堅固(けんご)苦(くる)しくも候(さうら)ふまじ。只(ただ)思(おぼ)し召(め)し立(た)たせ給(たま)へ」とぞ申(まう)しける。「どこ山伏(やまぶし)と問(と)はんずる時(とき)はどこ山伏(やまぶし)とか言(い)はんずる」「越後国(ゑちごのくに)直江(なほえ)の津(つ)は
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北陸道(ほくろくだう)の中途(ちゆうと)にて候(さうら)へば、それより此方(こなた)にては、羽黒(はぐろ)山伏(やまぶし)の熊野(くまの)へ参(まゐ)り、下向(げかう)するぞと申(まう)すべき。それより彼方(あなた)にては、熊野(くまの)山伏(やまぶし)の羽黒(はぐろ)に参(まゐ)ると申(まう)すべき」と申(まう)しければ、「羽黒(はぐろ)の案内(あんない)知(し)りたらん者(もの)や有(あ)る。羽黒(はぐろ)にはどの坊(ばう)に誰(たれ)がしと言(い)ふ者(もの)ぞと問(と)はんずる時(とき)は如何(いかが)せんずる」。弁慶(べんけい)申(まう)しけるは、「西塔(さいたふ)に候(さうら)ひし時、羽黒(はぐろ)の者(もの)とて、御上(おうへ)の坊(ばう)に候(さうら)ふ者(もの)申(まう)し候(さうら)ひしは、大黒堂(だいこくだう)の別当(べつたう)の坊(ばう)に荒讚岐(あらさぬき)と申(まう)す法師(ほふし)に弁慶(べんけい)は少(すこ)しも違(たが)はぬ由(よし)申(まう)し候(さうら)ひしかば、弁慶(べんけい)をば荒讚岐(あらさぬき)と申(まう)し候(さうら)ふべし。常陸坊(ひたちばう)をば小先達(こせんだち)として筑前坊(ちくぜんばう)」とぞ申(まう)しける。判官(はうぐわん)仰(おほ)せられけるは、「もとより法師(ほふし)なれば、御辺(ごへん)達(たち)は戒名(かいみやう)せずとも苦(くる)しかるまじ。何(なん)ぞ男の頭巾(ときん)篠県(すずかけ)笈(おひ)掛(か)けたらんずるが、片岡(かたをか)或(ある)いは、伊勢(いせ)の三郎、増尾(ましを)などと言(い)ひたらんずるは、似(に)ぬ事(こと)にて有(あ)らんずるは如何(いか)に」「さらば皆(みな)坊号(ばうがう)をせよ」とて、思(おも)ひ思(おも)ひに名をぞ付(つ)きける。片岡(かたをか)は京(きやう)の君(きみ)、伊勢(いせ)の三郎をば宣旨(せんじ)の君(きみ)、熊井(くまゐ)太郎は治部(ぢぶ)の君(きみ)とぞ申(まう)しける。さては上野坊(かうづけばう)、上総坊(かづさばう)、下野坊(しもつけばう)などと言(い)ふ名を付(つ)きてぞ呼(よ)びける。判官(はうぐわん)殿(どの)は殊(こと)に知(し)る人御座(おは)しければ、垢(あか)の付(つ)きたる白(しろ)き小袖(こそで)二つに矢筈(やはず)付(つ)けたる地白(ぢしろ)の帷子(かたびら)に、葛(くず)大口(おほくち)村千鳥(むらちどり)を摺(すり)にしたる柿(かき)の衣(ころも)に、古(ふ)りたる頭巾(ときん)、目(め)の際(きは)までひつこうで、戒名(かいみやう)をば、大和坊(やまとばう)とぞ申(まう)しける。思(おも)ひ思(おも)ひの出立(いでたち)をぞしける。弁慶(べんけい)は大先達(おほせんだち)にて有(あ)りければ、袖短(みじ)かなる浄衣(じやうゑ)に、褐(かちん)
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の脛巾(はばき)にごんづ履(は)いて、袴(はかま)の括(くくり)高(たか)らかに結(ゆ)ひて、新宮様(しんぐうやう)の長頭巾(ながときん)をぞ県(か)けたりける。岩透(いはとをし)と言(い)ふ太刀(たち)あひぢかに差(さ)しなして、法螺貝(ほらがひ)をぞ下(さ)げたりける。武蔵坊(むさしばう)は喜三太(きさんだ)と言(い)ふ下部(しもべ)を強力(がうりき)になして、県(か)けさせたる笈(おひ)の足(あし)に、猪(ゐ)の目(め)彫(ほ)りたる鉞(まさかり)に八寸(はつすん)ばかり有(あ)りけるをぞ結(ゆ)ひ添(そ)へたる。天頂(てんじやう)には四尺(ししやく)五寸(ごすん)の大太刀(おほたち)を真横様(まよこさま)にぞ置(お)きたりける。心(こころ)つきも出立(いでたち)も、あはれ先達(せんだち)やとぞ見(み)えける。総(そう)じて勢(せい)は十六人、笈(おひ)十挺(じつちやう)有(あ)り。一挺(いつちやう)の笈(おひ)には鈴(れい)、独鈷(どつこ)、花皿(はなさら)、火舎(くわしや)、閼伽坏(あかつき)、金剛童子(こんがうどうじ)の本尊(ほんぞん)を入(い)れたりけり。一挺(いつちやう)の笈(おひ)には、折(を)らぬ鳥帽子(えぼし)十頭(かしら)、直垂(ひたたれ)大口(おほくち)などをぞ入(い)れたりける。残り八挺(ちやう)の笈(おひ)には、皆(みな)鎧(よろひ)腹巻(はらまき)をぞ入(い)れたりける。斯様(かやう)に出(い)で立(た)ち給(たま)ふ事(こと)は正月の末(すゑ)、御吉日は二月二日なり。判官(はうぐわん)殿(どの)の奥州(あうしう)
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へ下(くだ)らんとて、侍共(さぶらひども)を召(め)して、「斯様(かやう)に出(い)で立(た)つと雖(いへど)も、猶(なほ)も都(みやこ)に思(おも)ひ置(お)く事(こと)のみ多(おほ)し。中にも一条(いちでう)今出川(いまでがは)の辺(あたり)に有(あ)りし人は、未(いま)だ有(あ)りもやすらん。連(つ)れて下(くだ)らんなど言(い)ひしに、知(し)らせずして下(くだ)りなば、さこそ名残(なごり)も深(ふか)く候(さうら)はんずらめ。苦(くる)しかるまじくは、連(つ)れて下(くだ)らばや」と宣(のたま)ひければ、片岡(かたをか)武蔵坊(むさしばう)申(まう)しけるは、「御供(おんとも)申(まう)すべき者(もの)は、皆(みな)是(これ)に候(さうら)ふ。今出河(いまでがは)には誰(たれ)か御渡(おんわた)り候(さうら)ふやらん。北(きた)の方(かた)の御事(おんこと)候(さうら)ふやらむ」と申(まう)しければ、此(こ)の頃(ごろ)の御身(おんみ)にては、流石(さすが)にそよとも仰(おほ)せられかねて、つくづくと打(う)ち案(あん)じ思(おも)ひてぞ御座(おは)しける。弁慶(べんけい)申(まう)しけるは、「事(こと)も事(こと)にこそより候(さうら)はんずれ、山伏(やまぶし)の頭巾(ときん)篠県(すずかけ)に笈(おひ)掛(か)けて、女房(にようばう)を先(さき)に立(た)てたらんずるは、さしも尊(たつと)き行者(ぎやうじや)にも有(あ)らじ。又(また)敵(かたき)に追(お)ひ掛(か)けられん時(とき)は、女房(にようばう)を静(しづか)に歩(あゆ)ませ奉(たてまつ)り、先(さき)に立(た)てたらんはよかるまじく候(さうら)ふ」と申(まう)しけるが、思(おも)へばいとほしや、此(こ)の人は久我(こが)の大臣殿(おほいどの)の姫君(ひめぎみ)、九つにて父(ちち)大臣殿(おほいどの)には後(おく)れ参(まゐ)らせ給(たま)ひぬ。十三にて母(はは)北(きた)の方(かた)に後(おく)れ参(まゐ)らせ給(たま)ひぬ。其(そ)の後は乳母(めのと)の十郎(じふらう)権頭(ごんのかみ)より外(ほか)に頼(たの)む方(かた)ましまさず。容顔(ようがん)美(いつく)しく、御情(なさけ)深(ふか)く渡(わた)らせ給(たま)ひけれども、十六の御年(おんとし)までは幽(かすか)なる御住(おんすまひ)なりしを、如何(いか)なる風(かぜ)の便(たより)にか此(こ)の君(きみ)に見(み)え初(そ)められ参(まゐ)らせ給(たま)ひしより此(こ)の方(かた)、君(きみ)より外にまた知(し)る人も渡(わた)らせ給(たま)はぬぞかし。惆悵(ちうちやう)の藤は松(まつ)に離(はな)れて、便(たより)なし。三従(さんじゆう)の女(をんな)は男に離(はな)れて力(ちから)なし。また奥州(あうしう)へ下り給(たま)ひ
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たるとても、情(なさけ)も知(し)らぬ東(あづま)女(をんな)を見(み)せ奉(たてまつ)らんも痛(いた)はしく、御心(おんこころ)の中も推量(すいりやう)に朧(おぼろ)けならではよも仰(おほ)せられ出(い)ださじ。さらば具(ぐ)し奉(たてまつ)りて下(くだ)らばやと思(おも)ひければ、「あはれ、人の御心(おんこころ)としては、上下(しやうか)の分別(ふんべつ)は候(さうら)はず。移(うつ)れば変(か)はる習(なら)ひの候(さうら)ふに、さらば入(い)らせ御座(おは)しまして、事(こと)の体(てい)をも御覧(ごらん)じて、誠(まこと)にも下(くだ)らせ御座(おは)しますべきにても候(さうら)はば、具足(ぐそく)し参(まゐ)らせ給(たま)ひ候(さうら)へかし」と申(まう)しければ、判官(はうぐわん)世に嬉(うれ)しげにて、「いざさらば」とて、柿(かき)の衣(ころも)の上(うへ)に薄衣(うすぎぬ)被(かづ)き給(たま)ひ御出(おいで)ある。武蔵(むさし)も浄衣(じやうゑ)に衣被(きぬかづ)きして、一条(いちでう)今出河(いまでがは)の久我(こが)の大臣殿(おほいどの)の古(ふる)御所(ごしよ)へぞ御座(おは)しましける。荒(あ)れたる宿(やど)のくせなれば、軒(のき)の忍(しのぶ)に露(つゆ)置(お)きて、籬(まがき)の梅(むめ)も匂(にほひ)有(あ)り。彼(か)の源氏(げんじ)の大将(だいしやう)の荒(あ)れたる宿(やど)を尋(たづ)ねつつ、露(つゆ)分(わ)け入(い)り給(たま)ひける古き好(よしみ)も今(いま)こそ思(おも)ひ知(し)られける。判官(はうぐわん)をば中門(ちゆうもん)の廊下(らうか)に隠(かく)し奉(たてまつ)りて、弁慶(べんけい)は御妻戸(つまど)の際(きは)に参(まゐ)り、「人や御渡(おんわた)り候(さうら)ふ」と問(と)ひければ、「何処(いづく)より」と答(こた)ふる。「堀河(ほりかは)の方(かた)より」と申(まう)しければ、御妻戸(つまど)を開(あ)けて見(み)給(たま)へば、弁慶(べんけい)にてぞ有(あ)りける。日頃(ひごろ)は人伝(づて)にこそ聞(き)き給(たま)ひしに、余(あま)りの御嬉(うれ)しさに北(きた)の方(かた)簾(みす)の際(きは)に寄(よ)り給(たま)ひて、「人は何処(いづく)にぞ」と問(と)ひ給(たま)へば、「堀河(ほりかは)に渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)ふが、「明日は陸奥(みちのく)へ御下(おんくだ)り候(さうら)ふ」と申(まう)せと仰(おほ)せの候(さうら)ひつるは、「日頃(ひごろ)の御約束(ごやくそく)には如何(いか)なる有様(ありさま)もしてこそ具足(ぐそく)し参(まゐ)らせ候(さうら)はんと申(まう)しては候(さうら)へども、道々(みちみち)も差(さ)し塞(ふさ)がれて候(さうら)ふなれば、人をさへ具足(ぐそく)し参(まゐ)らせ
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て、憂(う)き目(め)を見(み)せ参(まゐ)らせ候(さうら)はん事(こと)いたはしく思(おも)ひ参(まゐ)らせ候(さうら)へば、義経(よしつね)御先(おんさき)に下(くだ)り候(さうら)ひて、若(も)し存命(ながら)へて候(さうら)はば、春(はる)の頃(ころ)は必ず必ず御迎(おんむか)ひに人を参(まゐ)らせ候(さうら)ふべし。それまでは御(おん)心(こころ)長(なが)く待(ま)たせ御座(おは)しまし候(さうら)へと申(まう)せ」とこそ仰(おほ)せられ候(さうら)ひつれ」と申(まう)しければ、「此(こ)の度(たび)だにも具(ぐ)して下(くだ)り給(たま)はぬ人の、何(なに)の故(ゆゑ)にかわざと迎(むか)ひには賜(たま)はるべき。あはれ下(くだ)り著(つ)き給(たま)はざらん先(さき)に、老少(らうせう)不定(ふぢやう)の習(なら)ひなれば、ともかくもなりたらば、とても遁(のが)れざりけるもの故(ゆゑ)に、など具(ぐ)して下(くだ)らざりけんと後悔(こうくわい)し給(たま)ひ候(さうら)ふ共(とも)、甲斐(かひ)有(あ)らじ。御志(おんこころざし)有(あ)りし程(ほど)は、四国西国(さいこく)の波の上(うへ)までも具足(ぐそく)せられしぞかし。然(さ)れば何時(いつ)しか変(か)はる心(こころ)のうらめしさよ。大物浦(だいもつのうら)とかやより、都(みやこ)へ帰(かへ)されし其(そ)の後(のち)は思(おも)ひ絶(た)えたる言(こと)の葉(は)を、又(また)廻(めぐ)り来(き)たるとかく慰(なぐさ)め給(たま)ひしかば、心(こころ)弱(よわ)くも打(う)ち解(と)けて、二度(ふたたび)憂(う)き言(こと)の葉(は)にかかりぬるこそ悲(かな)しけれ。申(まう)すに付(つ)けて如何(いか)にぞやと覚(おぼ)ゆれども、知(し)られず知(し)られで、我(われ)如何(いか)にもなりなば、後世(ごせ)までも実(げ)に残(のこ)すは、罪(つみ)深(ふか)き事と聞(き)く程(ほど)に申(まう)し候(さうら)ふぞ。過(す)ぎぬる夏(なつ)の頃(ころ)より、心(こころ)乱(みだ)れて苦(くる)しく候(さうら)ひしを、只(ただ)ならぬとぞや人の申(まう)し候(さうら)ひしか、月日(つきひ)に添(そ)へて夕(ゆふべ)も苦(くる)しくなりまされば、其(そ)の隠(かく)れあるまじ。六波羅(ろくはら)へも聞(き)こえて、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)は情(なさけ)無(な)き人と聞(き)けば、捕(と)りも下されざらん。北白川(きたしらかは)の静(しづか)は、歌(うた)を歌(うた)ひ、舞(まひ)も舞(ま)へばこそ、一の咎(とが)は遁(のが)れけれ。我々はそれにも似(に)るべからず。只今(ただいま)憂(う)き名(な)を
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流(なが)さん事こそ悲(かな)しけれ。何(なに)と言(い)うても、人の心(こころ)強(つよ)さなれば力(ちから)なし」と打(う)ち口説(くど)き、涙(なみだ)も堰(せ)き敢(あ)へず覚(おぼ)えければ、武蔵坊(むさしばう)も涙に咽(むせ)びけり。燈火(ともしび)の明(あかり)にて、常(つね)に住(す)み馴(な)れ給(たま)ひつる御障子(しやうじ)の引手(ひきて)の元(もと)を見(み)ければ、御手跡(せき)と覚(おぼ)えて、
つらからば我(われ)も心(こころ)の変(か)はれかしなど憂(う)き人(ひと)の恋(こひ)しかるらん W011
とぞ遊(あそ)ばされたりけるを、弁慶(べんけい)見(み)て、未(いま)だ御事(おんこと)をば忘(わす)れ参(まゐ)らせさせ給(たま)はざりけると哀(あは)れにて、急(いそ)ぎ判官(はうぐわん)にかくと申(まう)せば、判官(はうぐわん)さらばとて御座(おは)して、「御(おん)心(こころ)短(みじか)の御怨(うらみ)かな。義経(よしつね)も御迎(おんむか)ひに参(まゐ)りて候(さうら)へ」とて、つと入(い)り給(たま)ひたりければ、夢(ゆめ)の心地(ここち)して、問(と)ふにつらさの御涙(おんなみだ)いとど堰(せ)き敢(あ)へ給(たま)はず。判官(はうぐわん)「さても義経(よしつね)が今(いま)の姿(すがた)を御覧(ごらん)ぜられば、日来(ひごろ)の御志(おんこころざし)も興(きよう)醒(ざ)めてこそ思(おぼ)し召(め)され候(さうら)はめ有(あ)らぬ姿(すがた)にて候(さうら)ふものを」と仰(おほ)せられければ、「予(あらま)しに聞(き)きし御姿(おんすがた)の、様(さま)の変(か)はりたるやらん」と仰(おほ)せられければ、「これ御覧(ごらん)じ候(さうら)へ」とて、上の衣(きぬ)を押(お)し除(の)け給(たま)ひたれば、柿(かき)の衣(ころも)に小袴(こばかま)、頭巾(ときん)をぞ著給(たま)ひける。北(きた)の方(かた)見(み)習(なら)はせ給(たま)はぬ御心(おんこころ)には、げに疎(うと)からば恐(おそ)ろしくも覚(おぼ)えぬべけれども、「扨(さて)我(われ)をば如何様(いかやう)に出(い)で立(た)たせて具(ぐ)し給(たま)ふべきぞや」と仰(おほ)せられければ、武蔵坊(むさしばう)「山伏(やまぶし)の同道(どうだう)には、少人(せうじん)の様(やう)にこそ作(つく)りなし参(まゐ)らせ候(さうら)はんずれ。容顔(ようがん)も御(おん)つくろひ候(さうら)はば、苦(くる)しく御(おん)わたらせ候(さうら)ふまじく候(さうら)ふ。御年の程(ほど)も良(よ)き程(ほど)に見(み)えさせ御座(おは)しまし候(さうら)へば、つくろひ
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申(まう)すべく候(さうら)ふが、只(ただ)御振舞(ふるまひ)こそ御大事(だいじ)にて候(さうら)はんずれ。北陸道(ほくろくだう)と申(まう)すは、山伏(やまぶし)の多き国にて候(さうら)へば、花(はな)の枝(えだ)などを、「これ少人(せうじん)へ」と参(まゐ)らせ言(い)はん時(とき)は、男子(をのこご)の言葉(ことば)を習(なら)はせ給(たま)ひて、衣紋(えもん)掻(か)き繕(つくろ)ひ、姿(すがた)を男(をとこ)の如(ごと)く御振舞(ふるまひ)候(さうら)へ、此(こ)の年月の様(やう)に、たをやかに物(もの)恥(はづ)かしき御(おん)心(こころ)つき御振舞(ふるまひ)にては、堅固(けんご)叶(かな)はせ給(たま)ひ候(さうら)ふまじく候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「然(さ)れば人の御徳(とく)に、習(なら)はぬ振舞(ふるまひ)をさへして下(くだ)らんずると思(おも)ふ也(なり)。はや夜も更(ふ)くるに、疾(と)く疾(と)く」と仰(おほ)せられければ、弁慶(べんけい)御介錯(ごかいしやく)にぞ参(まゐ)りける。岩透(いはすき)と言(い)ふ刀(かたな)を抜(ぬ)きて、清水(しみづ)を流(なが)したる御髪(みぐし)の丈(たけ)にあまるを御腰(こし)に比(くら)べて情(なさけ)無(な)くもふつと切(き)る。末(すそ)をば細(ほそ)く刈(か)りなして、高く結(ゆ)ひ上(あ)げて、薄化粧(うすげしやう)に御眉(まゆ)細(ほそ)く作(つく)り、御装束(おんしやうぞく)は匂(にほ)ふ色(いろ)に花(はな)やうを引(ひ)き重(かさ)ねて、裏(うら)山吹(ぶき)一襲(ひとかさね)、唐綾(からあや)の御小袖(おんこそで)、播磨浅黄(はりまあさぎ)の帷(かたびら)を上(うへ)にぞ著(き)せ奉(たてまつ)る。白(しろ)き大口(おほくち)顕紋紗(けんもんじや)
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の直垂(ひたたれ)を著(き)せ奉(たてまつ)り、綾(あや)の脛巾(はばき)に草鞋(わらんづ)履(は)かせ奉(たてまつ)り、袴(はかま)の括(くくり)高(たか)く結(ゆ)ひ、白打出(しらうちで)の笠(かさ)をぞ著(き)せ奉(たてまつ)る。赤木(あかぎ)の柄(つか)の刀(かたな)にだみたる扇(あふぎ)差(さ)し添(そ)へ、遊(あそ)ばさねども漢竹(かんちく)の横笛(やうでう)を持(も)ち奉(たてまつ)る。紺地(こんぢ)の錦(にしき)の経袋(きやうぶくろ)に法華経(ほけきやう)の五(いつつ)の巻(まき)を入(い)れて懸(か)けさせ奉(たてまつ)る。我(わ)が身一(ひと)つだにも苦(くる)しかるべきに万(よろづ)の物を取(と)り付(つ)け奉(たてまつ)りたれば、しどけなげにぞ見(み)え給(たま)ふ。是(これ)や此(こ)の王昭君(わうぜうくん)が胡国(ここく)の夷(えびす)に具せられて下(くだ)りけん心の中(うち)も、今(いま)こそ思(おも)ひ知(し)られける。斯様(かやう)に出(い)で立(た)ち給(たま)ひて、四間(よま)の御出居(でい)に燈火(ともしび)数多(あまた)かき立(た)てて、武蔵坊(むさしばう)を側(かたは)らに置(お)きて、北(きた)の方(かた)を引(ひ)き立(た)て、御手(て)を取(と)りて彼方(かなた)此方(こなた)へ歩(あゆ)ませ奉(たてまつ)り、「義経(よしつね)山伏(やまぶし)に似(に)るや、人は児(ちご)に似(に)たるぞ」と仰(おほ)せける。弁慶(べんけい)申(まう)しけるは、「君は鞍馬(くらま)に渡(わた)らせ給(たま)ひしかば、山伏(やまぶし)にも馴(な)れさせ給(たま)ひ候(さうら)ひつれば、申(まう)すに及(およ)ばず候(さうら)ふ。北(きた)の方(かた)は何時(いつ)習(なら)はせ御座(おは)しまさねども、御姿(おんすがた)少(すこ)しも児(ちご)にたがはせ御座(おは)しまし候(さうら)はず。何事(なにごと)も戒力(かいりき)と申(まう)す御事(おんこと)にて渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)ひける」と申(まう)す中にも、哀(あは)れを催(もよほ)す涙(なみだ)の頻(しき)りに零(こぼ)れけれども、さらぬ体(てい)にてぞ有(あ)りける。さる程(ほど)に二月二日まだ夜深(よぶか)に、今出川(いまでがは)を出(い)でんとし給(たま)ふ。西の妻戸(つまど)に人の音しける、如何(いか)なる者(もの)なるらんと御覧(ごらん)ずれば、北(きた)の方(かた)の御乳母(めのと)に十郎(じふらう)権頭(ごんのかみ)兼房(かねふさ)、白(しろ)き直垂(ひたたれ)に褐(かちん)の袴(はかま)著(き)て、白髪交(しらがまじ)りの髻(もとどり)引(ひ)き乱(みだ)し、頭巾(ときん)打(う)ち著(き)、「年(とし)寄(よ)り候(さうら)ふとも、是非(ぜひ)とも御伴(おんとも)申(まう)し候(さうら)はん」とて参(まゐ)りたり。北(きた)の方(かた)「妻子(さいし)をば誰(たれ)に預(あづ)け置(お)きて参(まゐ)る
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べき」と宣(のたま)へば、「相伝(さうでん)の御主を妻子(さいし)に思(おも)ひ代(か)へ参(まゐ)らすべきか」と申(まう)しも敢(あ)へず、涙(なみだ)に咽(むせ)びけり。六十三になりける儘(まま)に、良(よ)き丈(たけ)な山伏(やまぶし)にてぞ有(あ)りける。兼房(かねふさ)涙(なみだ)を仰(おさ)へて申(まう)しけるは、「君(きみ)は清和天皇(せいわてんわう)の御末(おんすゑ)、北(きた)の方(かた)は久我(こが)殿(どの)の姫君(ひめぎみ)ぞかし。只(ただ)仮初(かりそめ)に花紅葉(はなもみぢ)の御遊(あそび)、御物詣(ものまうで)なりとも、ようの御車(くるま)などこそ召(め)さるべきに、遙々(はるばる)東(あづま)の路(みち)に徒跣(かちはだし)にて出(い)で立(た)ち給(たま)ふ御果報(くわほう)の程(ほど)こそ、目も当(あ)てられず悲(かな)しけれ」とて、涙(なみだ)を流(なが)しければ、残りの山伏(やまぶし)共(ども)も、「理(ことわり)なり、誠(まこと)に世には神も仏(ほとけ)もましまさぬか」とて各々(おのおの)浄衣(じやうゑ)の袖をぞ絞(しぼ)りける。さて御手(て)に手(て)を取(と)り組(く)みて歩(あゆ)ませ奉(たてまつ)れども、何時(いつ)か習(なら)はせ給(たま)はねば、只(ただ)一所にぞ御座(おは)しける。をかしき事(こと)を語(かた)り出(い)だして、慰(なぐさ)め奉(たてまつ)りて進(すす)め給(たま)ひけり。まだ夜深(よぶか)に今出川(いまでがは)をば出(い)でさせ給(たま)ひけれども、八声(はちこゑ)の鳥(とり)もしどろに鳴(な)きて、寺々(てらでら)の鐘(かね)の声(こゑ)早(はや)打(う)ち鳴(な)らす程(ほど)に明(あ)けけれども、漸々(やうやう)粟田口(あはたぐち)まで出(い)で給(たま)ふ。武蔵坊(むさしばう)片岡(かたをか)に申(まう)しけるは、「如何(いかが)せん、いざや北(きた)の方(かた)の御足(あし)早(はや)くなし奉(たてまつ)るべし。片岡(かたをか)に申(まう)せ」と言(い)ひければ、御前(おまへ)に参(まゐ)りて申(まう)しける様(やう)は、「斯様(かやう)に御渡(おんわた)り候(さうら)はば、道(みち)行(ゆ)くべしとも存(ぞん)じ候(さうら)はず。君(きみ)は御心(おんこころ)静(しづ)かに御下(おんくだ)り候(さうら)へ。我(われ)等(ら)は御先(おんさき)に下(くだ)り候(さうら)ひて、秀衡(ひでひら)に御所(ごしよ)造(つく)らせて、御迎(おんむか)ひに参(まゐ)り候(さうら)はん」と申(まう)して、御先(おんさき)に立(た)ちければ、判官(はうぐわん)の仰(おほ)せには、「如何(いか)に人の御名残(おんなごり)惜(を)しく思(おも)ひ参(まゐ)らせ候(さうら)へ共(ども)、是(これ)等(ら)に棄(す)てられ
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ては叶(かな)ふまじ。都(みやこ)の遠(とほ)くならぬ先(さき)に、兼房(かねふさ)御伴(おんとも)して帰(かへ)れ」と仰(おほ)せられて、棄(す)て置(お)きて進(すす)み給(たま)へば、さしも忍(しの)び給(たま)ひし御人の御声(こゑ)を立(た)てて仰(おほ)せられけるは、「今(いま)より後(のち)は道(みち)遠(とほ)しとも悲(かな)しむまじ。誰(たれ)に預(あづ)け置(お)きて、何処(いづく)へ行(ゆ)けとて捨(す)て給(たま)ふぞ」とて、声(こゑ)を立(た)てて悲(かな)しみ給(たま)へば、武蔵(むさし)又(また)立(た)ち帰(かへ)り、具足(ぐそく)し奉(たてまつ)りける。粟田口(あはたぐち)を過(す)ぎて、松坂(まつざか)近(ちか)く成(な)りければ、春の空(そら)の曙(あけぼの)に霞(かすみ)に紛(まが)ふ雁(かりがね)の、微(かすか)に鳴(な)きて通(とほ)りけるを聞(き)き給(たま)ひて、判官(はうぐわん)かくぞ続(つづ)け給(たま)ふ。
み越路(こしぢ)の八重(やへ)の白雲(しらくも)かき分(わ)けて羨(うらや)ましくも帰(かへ)るかりがね W012
北(きた)の方(かた)もかくぞ続(つづ)け給(たま)ふ。
春(はる)をだに見(み)捨(す)てて帰(かへ)るかりがねのなにの情(なさけ)に音(ね)をば鳴(な)くらん W013
所々(ところどころ)打(う)ち過(す)ぎければ、逢坂(あふさか)の蝉丸(せみまる)の住(すみ)給(たま)ふ藁屋(わらや)の床(とこ)を来(き)て見れば、垣根(かきね)に忍交(しのぶまじ)りの忘草(わすれぐさ)打(う)ち交(まじ)り、荒(あ)れたる宿(やど)の事(こと)なれば、月の影(かげ)のみ昔(むかし)に変(か)はらじと、思(おも)ひ知(し)られて哀(あはれ)なり。軒(のき)の忍(しのぶ)を取(と)り給(たま)ひて奉(たてまつ)り給(たま)へば、北(きた)の方(かた)都(みやこ)にて見(み)しよりも、忍(しの)ぶ哀(あは)れの打(う)ち添(そ)ひて、いとど哀(あは)れに思(おぼ)し召(め)して、かくぞ続(つづ)け給(たま)ふ。
住(す)み馴(な)れし都(みやこ)を出(い)でて忍草(しのぶくさ)置(お)く白露(しらつゆ)は涙(なみだ)なりけり W014
かくて大津(おほつ)の浦(うら)も近(ちか)くなる。春の日の長(なが)きに歩(あゆ)む歩(あゆ)むとし給(たま)へども、関寺(せきでら)の入相(いりあひ)の鐘(かね)今日(けふ)も暮(く)れぬと打(う)ち鳴(な)らし、怪(あや)しの民(たみ)の宿(やど)借(か)る程(ほど)になりぬれば、大津(おほつ)の浦(うら)
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にぞかかり給(たま)ひける。
大津(おほつ)次郎(じらう)の事(こと) S0702
此処(ここ)に憂(う)き事(こと)ぞ出(い)で来たる。天(てん)に口(くち)なし、人を以(もつ)て言(い)はせよと誰披露(ひろう)するとしも無(な)けれ共(ども)、判官(はうぐわん)山伏(やまぶし)になりて、其(そ)の勢(せい)十余人(よにん)にて、都(みやこ)を出(い)で給(たま)ふと聞(き)こえしかば、大津(おほつ)の領主(りやうじゆ)山科(やましな)左衛門(さゑもん)、園城寺(をんじやうじ)の法師(ほふし)を語(かた)らひて、城郭(じやうくわく)を構(かま)へて相(あひ)待(ま)つ。然(さ)れども判官(はうぐわん)は、大津(おほつ)の渚(なぎさ)に大(だい)なる家(いへ)有(あ)り。是(これ)は塩津(しほづ)、海津(かいづ)、山田(やまだ)、矢橋(やばせ)、粟津(あはづ)、松本(まつもと)に聞(き)こえたる商人(あきんど)の宗徒(むねと)の者(もの)、大津(おほつ)次郎(じらう)と申(まう)す者(もの)の家(いへ)なり。弁慶(べんけい)宿(やど)を借(か)らせけるは、「羽黒(はぐろ)山伏(やまぶし)の熊野(くまの)に年籠(ごも)りして下向(げかう)し候(さうら)ふ。宿(やど)を賜(た)び候(さうら)へ」と借(か)らせたりければ、宿(しゆく)伝(つた)ふ習(なら)ひなれば、相違(さうゐ)無(な)く宿(やど)を参(まゐ)らせたり。さよ打(う)ち更(ふ)けて、懺法(せんぽふ)阿弥陀経(あみだきやう)を同音(どうおん)にぞ誦(よ)み給(たま)ひける。是(これ)ぞ勤(つと)めの始(はじ)めなる。大津(おほつ)二郎(じらう)は左衛門(さゑもん)の召(め)しにて城に有(あ)り。大津(おほつ)二郎(じらう)が女、物越(ものごし)に見(み)奉(たてまつ)りて、あら美(いつく)しの山伏(やまぶし)児(ちご)や、遠国(をんごく)の道者(だうしや)とは宣(のたま)へども、衣裳(いしやう)の美(いつく)しさは、如何(いか)にも只人(ただひと)には有(あ)らず、但(ただ)し判官(はうぐわん)殿(どの)の山伏(やまぶし)になりて下(くだ)り給(たま)ふなるに、山伏(やまぶし)大勢(おほぜい)留(とど)めて、城に聞(き)こえては身の為(ため)も大事(だいじ)なり。次郎(じらう)を呼(よ)びて此(こ)の事(こと)を知(し)らせて、判官(はうぐわん)にてましまさば、城まで
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申(まう)さずとも、私(わたくし)にも討(う)つても、搦(から)めても、鎌倉(かまくら)殿(どの)の見参(げんざん)に入(い)れて、勲功(くんこう)に与(あづか)りたらば、然(しか)るべきと思(おも)ひければ、城へ使(つかひ)を遣(つか)はして、男(をとこ)を呼(よ)びよせて、一間(ひとま)なる所へ招(まね)き入(い)れて言(い)ひけるは、「時(とき)しもこそ多(おほ)けれ。今夜しも我々(われわれ)判官(はうぐわん)殿(どの)に宿(やど)を借(か)し参(まゐ)らせて候(さうら)ふは、如何(いかが)せんずる。御辺(ごへん)の親類(しんるい)我(わ)が兄弟(きやうだい)を集(あつ)めて搦(から)めばや」とぞ申(まう)しける。男(をとこ)申(まう)しけるは、「「壁(かべ)に耳(みみ)、石(いし)に口(くち)」と言(い)ふ事(こと)有(あ)り。判官(はうぐわん)殿(どの)にて御座(おは)すればとて、何(なに)か苦(くる)しかるべき。搦(から)め参(まゐ)らせたればとて、勲功(くんこう)も有(あ)るまじ。実(まこと)の山伏(やまぶし)にて渡(わた)らせ給(たま)ふに付(つ)けては、金剛童子(こんがうどうじ)の恐(おそ)れ有(あ)り、実(げ)に又(また)判官(はうぐわん)殿(どの)にて御座(おは)しませばとても、忝(かたじけな)くも鎌倉(かまくら)殿(どの)の御弟にてましませば恐(おそれ)有(あ)り。我(われ)思(おも)ひかかり奉(たてまつ)りても、容易(たやす)かるべき事(こと)ならず。かしがましかしがまし」とぞ言(い)ひける。女(をんな)是(これ)を聞(き)きて、「地体(ぢたい)が和男(わをとこ)は妻子(めこ)に甲斐々々(かひがひ)しくあたるばかりを本(ほん)とする男なり。女の申(まう)す事(こと)は上つ方(かた)の御耳に入(い)らぬ事(こと)やある。城(じやう)へ、いでさらば参(まゐ)りて申(まう)さん」とて、小袖(こそで)取(と)りて打(う)ち被(かづ)き、やがて走(はし)り出(い)でてぞ行(ゆ)きける。大津(おほつ)次郎(じらう)是(これ)を見(み)て、彼奴(きやつ)を放(はな)し立(た)てては悪(あ)しかりなんとや思(おも)ひけん、門の外(ほか)に追(お)ひ著(つ)きて、「汝(なんぢ)、今(いま)に始(はじ)めたる事か、風になびく苅萱(かるかや)、男(をとこ)に従(したが)ふ女」とて、引(ひ)き伏(ふ)せて、心(こころ)の行(ゆ)く行(ゆ)くぞさやなみける。彼(か)の女は極(きは)めたるえせ者(もの)なりければ、大路に倒(たふ)れて喚(おめ)きけるは、「大津(おほつ)二郎(じらう)は極(きは)めたる僻事(ひがこと)の奴(やつ)にて候(さうら)ふ
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ぞ。判官(はうぐわん)の方人(かたうど)するぞ」とぞ申(まう)しける。所(ところ)の者(もの)是(これ)を聞(き)きて申(まう)しけるは、「大津(おほつ)二郎(じらう)が女(をんな)こそ例(れい)の酔狂(ゑひぐるひ)して、男(をとこ)に打(う)たるるとて喚(おめ)くは。又(また)多(おほ)くの法師(ほふし)の嘆(なげ)きともならんや。只(ただ)放(なは)し合(あ)はせて、打(う)たせよ」とて、取(と)りさゆる者無(な)ければ、ふすふす打(う)たれて臥(ふ)しにけり。大津(おほつ)二郎(じらう)は直垂(ひたたれ)取(と)りて著(き)て、御前(おまへ)に参(まゐ)りて、火打(う)ち消(け)して申(まう)しけるは、「かかる口惜(くちを)しき事こそ御座(ござ)候(さうら)はね。女(をんな)奴(め)が物(もの)に狂(くる)ひ候(さうら)ふ。是(これ)聞召(きこしめ)され候(さうら)へ。何(なに)とも御語(かた)り候(さうら)へ。今夜は是(これ)にて明(あ)かさせ給(たま)ひて、明日の御難(なん)をば何(なに)として逃(のが)れさせ給(たま)ひ候(さうら)ふべき。是(これ)に山科(やましな)左衛門(さゑもん)と申(まう)す人城郭(じやうくわく)を構(かま)へて判官(はうぐわん)殿(どの)を待(ま)ち申(まう)し候(さうら)ふ。急(いそ)ぎ御出(おいで)候(さうら)へ。是(これ)に小船を一艘(いつさう)持(も)ちて候(さうら)ふに、召(め)され候(さうら)ひて、客僧達(きやくそうたち)の御中に船(ふね)に心得(こころえ)させ給(たま)ひて候(さうら)はば、急(いそ)ぎ御出(おいで)候(さうら)へ」と申(まう)しける。弁慶(べんけい)申(まう)しけるは、「身に誤(あやま)りたる事(こと)は候(さうら)はねども、
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左様(さやう)に所(ところ)に煩(わづら)ひ候(さうら)はんずるには、取(と)り置(お)かれ候(さうら)ひては、日数(ひかず)も延(の)び候(さうら)はんず。さ候(さうら)はば暇(いとま)申(まう)して」とて出(い)で給(たま)ひければ、「船(ふね)をば海津(かいづ)の浦(うら)に召(め)し棄(す)てて、疾(と)く愛発(あらち)の山(やま)を越(こ)えて、越前(ゑちぜん)の国へ入(い)らせ給(たま)へ」と申(まう)しける。判官(はうぐわん)出(い)でさせ給(たま)へば、大津(おほつ)二郎(じらう)も船津(ふなつ)に参(まゐ)り、御船(ふね)こしらへてぞ参(まゐ)らせける。かくて大津(おほつ)次郎(じらう)山科(やましな)左衛門(さゑもん)の許(もと)に走(はし)り帰(かへ)りて申(まう)しけるは、「海津(かいづ)の浦(うら)に弟(おとと)にて候(さうら)ふ者(もの)中夭(ちゆうえう)に逢(あ)ひて、傷(きず)を蒙(かうぶ)りて候(さうら)ふと承(うけたま)はり候(さうら)ふ間(あひだ)、暇(いとま)申(まう)して、別(べち)の事(こと)候(さうら)はずは、やがてこそ参(まゐ)り候(さうら)はん」と申(まう)しければ、「それ程(ほど)の大事(だいじ)は疾(と)く疾(と)く」とぞ申(まう)しける。大津(おほつ)二郎(じらう)家に帰(かへ)りて、太刀(たち)取(と)つて脇(わき)に挟(はさ)み、征矢(そや)掻(か)き負(お)ひ、弓押(お)し張(は)り、御船(ふね)に躍(をど)り入(い)りて、「御供(おんとも)申(まう)し候(さうら)はん」とて、大津(おほつ)の浦(うら)をば押(お)し出(い)だす。瀬田(せた)の川風(かはかぜ)劇(はげ)しくて、船(ふね)に帆(ほ)をぞ掛(か)けたりける。大津(おほつ)二郎(じらう)申(まう)しけるは、「此方(こなた)は粟津(あはづ)大王(だいわう)の建(た)て給(たま)ふ石(いし)の塔山(たうさん)、此処(ここ)に見(み)え候(さうら)ふは唐崎(からさき)の松(まつ)、あれは此叡山(ひえいざん)」と申(まう)す。山王(さんわう)の御宝殿(ごほうでん)を顧(かへり)み給(たま)へば、其(そ)の行先(ゆくさき)は竹生島(ちくぶしま)と申(まう)して拝(おが)ませ奉る。風(かぜ)に任(まか)せて行(ゆ)く程(ほど)に、夜半(やはん)ばかりに西近江(にしあふみ)、何処(いづく)とも知(し)らぬ浦(うら)を過(す)ぎ行(ゆ)けば、磯浪(いそなみ)の聞(き)こえければ、此処(ここ)は何処(いづく)ぞと問(と)ひ給(たま)へば、「近江(あふみ)の国(くに)堅田(かただ)の浦(うら)」とぞ申(まう)しける。北(きた)の方(かた)是(これ)を聞召(きこしめ)して、かくぞ続(つづ)け給(たま)ひける。
しぎが臥(ふ)すいさはの水(みづ)の積(つも)り居(ゐ)て堅田(かただ)を波の打(う)つぞやさしき W015
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白鬢(しらひげ)の明神(みやうじん)をよそにて拝(おが)み奉(たてまつ)り、三河(みかは)の入道(にふだう)寂照(じやくせう)が、
鶉(うづら)鳴(な)く真野(まの)の入江(いりえ)の浦風(うらかぜ)に尾花浪(をばななみ)寄(よ)る秋の夕暮(ゆふぐれ) W016
と言(い)ひけん古(ふる)き心(こころ)も今(いま)こそ思(おも)ひ知(し)られけれ。今津(いまづ)の浦(うら)を漕(こ)ぎ過(す)ぎて、海津(かいづ)の浦(うら)にぞ著(つ)きにける。十余人(よにん)の人々(ひとびと)を上(あ)げ奉(たてまつ)りて、大津(おほつ)二郎(じらう)は御暇(おんいとま)申(まう)すなり。此処(ここ)に不思議(ふしぎ)なる事(こと)有(あ)り。南より北へ吹(ふ)きつる風(かぜ)の、今(いま)又(また)北(きた)より南(みなみ)へぞ吹(ふ)きける。判官(はうぐわん)仰(おほ)せられけるは、「彼奴(きやつ)は同(おな)じ次(つぎ)の者(もの)ながらも情(なさけ)ある者(もの)かな。知(し)らせばや」と思(おぼ)し召(め)し、武蔵坊(むさしばう)を召(め)して、「知(し)らせて下(くだ)らば、後(のち)に聞(き)きてあはれとも思(おも)ふべし。知(し)らせばや」と宣(のたま)へば、弁慶(べんけい)大津(おほつ)次郎(じらう)を招(まね)きて、「和君(わぎみ)なれば知(し)らするぞ。君にて渡(わた)らせ給(たま)ふなり。道(みち)にてともかくもならせ給(たま)はば、子孫(しそん)の守(まぼ)りともせよ」とて、笈(おひ)の中より、萌黄(もよぎ)の腹巻(はらまき)に小覆輪(こぶくりん)の太刀(たち)取(と)り添(そ)へてぞ賜(た)びにける。大津(おほつ)二郎(じらう)是(これ)を賜(たま)はつて、「何時(いつ)までも御伴(おんとも)申(まう)したく候(さうら)へ共(ども)、中々(なかなか)君(きみ)の御為(ため)悪(あ)しく候(さうら)はんずれば、暇(いとま)申(まう)して、何処(いづく)にも君(きみ)の渡(わた)らせ御座(おは)しまさん所(ところ)を承(うけたまは)りて、参(まゐ)りて見(み)参(まゐ)らせ候(さうら)はん」とて帰(かへ)りけり。下郎(げらう)なれども情(なさけ)有(あ)りてぞ覚(おぼ)えける。大津(おほつ)二郎(じらう)家(いへ)に帰(かへ)りて見(み)ければ、女は一昨日(をととひ)の腹(はら)を据(す)ゑ兼(か)ねて、未(いま)だ臥(ふ)してぞ有(あ)りける。大津(おほつ)次郎(じらう)、「や御前(ごぜ)御前(ごぜ)」と言(い)ひけれ共(ども)、音(おと)もせず、「あはれ、わ女は詮(せん)無(な)き事(こと)を思(おも)ふなり。山伏(やまぶし)留(とど)めて判官(はうぐわん)殿(どの)と号(かう)して、
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既(すで)に憂(う)き目(め)を見(み)んとせしよな。船(ふね)に乗(の)せて海津(かいづ)の浦(うら)まで送(おく)り、船賃(ふなちん)など責(せ)めたれば、法(ほふ)も無(な)く物(もの)を言(い)ひつる間(あひだ)、憎(にく)さにかなぐり奪(と)りたる物を見よ」とて、太刀(たち)と腹巻(はらまき)とを取(と)り出(い)だして、がはと置(お)きければ、寝(ね)乱(みだ)れ髪(がみ)の隙(ひま)より、恐(おそ)ろしげなる眼(まなこ)しばたたき、流石(さすが)に今(いま)は心地(ここち)取(と)り直(なほ)したる気色(けしき)にて、「それも妾(わらは)が徳(とく)にてこそあれ」とて、大笑(おほゑ)みに笑(ゑ)みたる面(つら)を見(み)れば、余(あま)りに疎(うと)ましくぞ有(あ)りける。男(をとこ)言(い)ふとも、女の身にては如何(いかが)など制(せい)しこそすべきに、思(おも)ひ立(た)ちぬるこそ恐(おそ)ろしけれ。
愛発山(あらちやま)の事(こと) S0703
判官(はうぐわん)は海津(かいづ)の浦(うら)を立(た)ち給(たま)ひて、近江国(あふみのくに)と越前(ゑちぜん)の境(さかひ)なる愛発(あらち)の山(やま)へぞかかり給(たま)ふ。一昨日(をととひ)都(みやこ)を出(い)で給(たま)ひて、大津(おほつ)の浦(うら)に着(つ)き、昨日(きのふ)は御船に召(め)され、船心(ふなごころ)に損(そん)じ給(たま)ひて、歩(あゆ)み給(たま)ふべき様(やう)ぞ無(な)き。愛発(あらち)の山(やま)と申(まう)すは、人跡(ひとあと)絶(た)えて古木立(た)ち枯(が)れ、巌石(がんせき)峨々(がが)として、道(みち)すなほならぬ山(やま)なれば、岩角(いはかど)を欹(そばだ)てて、木(き)の根(ね)は枕(まくら)を並(なら)べたり。何時(いつ)踏(ふ)み習(なら)はせ給(たま)はねば、左右(さう)の御足(あし)より流(なが)るる血(ち)は紅(くれなゐ)を注(そそ)くが如(ごと)くにて、愛発(あらち)の山(やま)の岩角(いはかど)染(そ)めぬ所(ところ)は無(な)かりける。少々の事(こと)こそ柿(かき)の衣(ころも)にも恐(おそ)れけれ。見(み)奉(たてまつ)る山伏(やまぶし)共(ども)余(あま)りの御痛(いた)はしさに、時々(ときどき)代(か)はり代(が)はりに負(お)ひ奉(たてまつ)りける。
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かくて山(やま)深(ふか)く分(わ)け入(い)り給(たま)ふ程(ほど)に、日も既(すで)に暮(く)れにけり。道(みち)の傍(ほとり)二町(ちやう)ばかり分(わ)け入(い)りて、大木の下(もと)に敷皮(しきがは)を敷(し)き、笈(おひ)をそばだてて、北(きた)の方(かた)を休(やす)め奉(たてまつ)る。北(きた)の方(かた)「恐(おそ)ろしの山(やま)や、是(これ)をば何山(なにやま)と言(い)ふやらん」と問(と)ひ給(たま)へば、判官(はうぐわん)、「是(これ)は昔(むかし)はあらしいの山(やま)と申(まう)しけるが、当時は愛発(あらち)の山(やま)と申(まう)す」と仰(おほ)せければ、「面白(おもしろ)や、昔(むかし)はあらしいの山(やま)と言(い)ひけるを、何(なに)とて愛発(あらち)の山(やま)とは名づけけん」と宣(のたま)へば、「此(こ)の山(やま)は余(あま)りに巌石(がんせき)にて候(さうら)ふ程(ほど)に、東(あづま)より都(みやこ)へ上(のぼ)り、京(きやう)より東(あづま)へ下(くだ)る者(もの)の、足(あし)を踏(ふ)み損(そん)じて血(ち)を流(なが)す間(あひだ)、あら血(ち)の山(やま)とは申(まう)しけるなり」と宣(のたま)へば、武蔵坊(むさしばう)是(これ)を聞(き)きて、「あはれ是(これ)程(ほど)跡方(あとかた)無(な)き事(こと)を仰(おほ)せ候(さうら)ふ御事(おんこと)は候(さうら)はず、人の足(あし)より血(ち)を踏(ふ)み垂(た)らせばとて、あら血(ち)の山(やま)と申(まう)し候(さうら)はんには、日本国(につぽんごく)の巌石(がんせき)ならん山(やま)の、あら血山(ちやま)ならぬ事(こと)は候(さうら)は
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じ。此(こ)の山(やま)の仔細(しさい)は弁慶(べんけい)こそよく知(し)りて候(さうら)ふ」と申(まう)せば、判官(はうぐわん)、「それ程(ほど)知(し)りたらば、知(し)らぬ義経(よしつね)に言(い)はせんよりも、など疾(と)くよりは申(まう)さぬぞ」と仰(おほ)せければ、弁慶(べんけい)、「申(まう)し候(さうら)はんとする所(ところ)を、君(きみ)の遮(さいぎ)りて仰(おほ)せ候(さうら)へば、如何(いか)でか弁慶(べんけい)申(まう)すべき、此(こ)の山(やま)をあら血(ち)の山(やま)と申(まう)す事(こと)は、加賀(かが)の国(くに)に下白山(しもしらやま)と申(まう)すに、女体后(によたいこう)の、龍宮(りゆうぐう)の宮(みや)とて御座(おは)しましけるが、志賀(しが)の都(みやこ)にして、唐崎(からさき)の明神(みやうじん)に見(み)え初(そ)められ参(まゐ)らせ給(たま)ひて、年月を送(おく)り給(たま)ひける程(ほど)に、懐妊(くわいにん)既(すで)に其(そ)の月近(ちか)くなり給(たま)ひしかば、同(おな)じくは我(わ)が国にて誕生(たんじやう)あるべしとて、加賀(かが)の国(くに)へ下(くだ)り給(たま)ひける程(ほど)に、此(こ)の山(やま)の禅定(ぜんぢやう)にて、俄に御腹(はら)の気(け)付(つ)き給(たま)ひけるを、明神(みやうじん)「御産(おさん)近(ちか)づきたるにこそ」とて、御腰(こし)を抱(いだ)き参(まゐ)らせ給(たま)ひたりければ、即(すなは)ち御産(おさん)なりてんげり。其(そ)の時産(さん)のあら血(ち)をこぼさせ給(たま)ひけるによりて、あら血(ち)の山(やま)とは申(まう)し候(さうら)へ。さてこそあらしいの山、あら血(ち)の山(やま)の謂(いは)れ知(し)られ候(さうら)へ」と申(まう)しければ、判官(はうぐわん)、「義経(よしつね)もかくこそ知(し)りたれ」とて笑(わら)ひ給(たま)ひけり。
三(みつ)の口(くち)の関通(とほ)り給(たま)ふ事 S0704
夜も既(すで)に明(あ)けければ、あら血(ち)の山(やま)を出(い)でて、越前(ゑちぜん)の国(くに)へ入(い)り給(たま)ふ。愛発(あらち)の山(やま)
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の北(きた)の腰(こし)に若狭(わかさ)へ通(かよ)ふ道有(あ)り。能美山(のうみやま)に行(ゆ)く道(みち)も有(あ)り。そこを三(みつ)の口(くち)とぞ申(まう)しける。越前国(ゑちぜんのくに)の住人(ぢゆうにん)敦賀(つるが)の兵衛、加賀国(かがのくに)の住人(ぢゆうにん)井上(ゐのうへ)左衛門(さゑもん)両人(りやうにん)承(うけたまは)りて、愛発(あらち)の山(やま)の関屋(せきや)を拵(こしら)へて、夜三百人、昼三百人の関守(せきもり)を据(すゑ)て、関屋(せきや)の前(まえ)に乱杭(らんぐい)を打(う)ちて、色(いろ)も白(しろ)く、向歯(むかば)の反(そ)りたるなどしたる者(もの)をば、道(みち)をも直(すぐ)にやらず、判官(はうぐわん)殿(どの)とて搦(から)め置(お)きて、糾問(きうもん)してぞひしめきける。道行(みちゆ)き人(びと)の判官(はうぐわん)殿(どの)を見(み)奉(たてまつ)りては、「此(こ)の山伏(やまぶし)達(たち)も此(こ)の難(なん)をばよも逃(のが)れ給(たま)はじ」とぞ申(まう)しける。聞(き)くに付(つ)けても、いとど行先(ゆくさき)も物(もの)憂(う)く思(おぼ)し召(め)しける所(ところ)に、越前(ゑちぜん)の方(かた)より浅黄(あさぎ)の直垂(ひたたれ)著(き)たる男(をとこ)の、立文(たてぶみ)持(も)ちて忙(いそが)はしげにてぞ行(ゆ)き逢(あ)ひける。判官(はうぐわん)是(これ)を見(み)給(たま)ひて、「何(なに)ともあれ、彼奴(きやつ)は仔細(しさい)有(あ)りて通(とほ)る奴(やつ)にてあるぞ」と宣(のたま)ひけるに、笠(かさ)の端(は)にて顔(かほ)隠(かく)して通(とほ)さんとし給(たま)ふ所(ところ)に十余人(よにん)の中を分(わ)け入(い)りて、判官(はうぐわん)の御前に跪(ひぎまづ)きて、「斯(か)かる事こそ候(さうら)はね。君(きみ)は何処(いづく)へとて御下(おんくだ)り候(さうら)ふぞ」と申(まう)しければ、片岡(かたをか)、「君とは誰(た)そ。此(こ)の中に汝(なんぢ)に君(きみ)と傅(かしづ)かるべき者(もの)こそ覚(おぼ)えね」と言(い)ひければ、武蔵坊(むさしばう)是(これ)を聞(き)きて、「京(きやう)の君(きみ)の事(こと)か、宣旨(せんじ)の君(きみ)の事(こと)か」と言(い)ひければ、彼(か)の男(をとこ)、「何(なに)しに斯(か)くは仰(おほ)せ候(さうら)ふぞ。君(きみ)をば見(み)知(し)り参(まゐ)らせて候(さうら)ふ間(あひだ)、斯(か)くは申(まう)し候(さうら)ふぞ。是(これ)は越後(ゑちご)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)上田(うえだ)左衛門(さゑもん)と申(まう)す人の内(うち)に候(さうら)ひしが、平家(へいけ)追討(ついたう)の時(とき)も御伴(おんとも)仕(つかまつ)りて候(さうら)ひし間(あひだ)、見(み)知(し)り奉(たてまつ)り候(さうら)ふ。壇(だん)の浦(うら)の合戦(かつせん)の時(とき)、越前(ゑちぜん)と能登(のと)、加賀(かが)三箇国(さんかこく)
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の人数著到(ちやくたつ)付(つ)け給(たま)ひし武蔵坊(むさしばう)と見(み)奉(たてまつ)るは僻事(ひがこと)か」と申(まう)せば、如何(いか)に口(くち)の利(き)きたる弁慶(べんけい)も力(ちから)無(な)くて伏目(ふしめ)になりにけり。「詮(せん)無(な)き御事(おんこと)かな。此(こ)の道の末(すゑ)には君(きみ)を待(ま)ち参(まゐ)らせ候(さうら)ふものを。只(ただ)是(これ)より御帰(かへ)り候(さうら)へかし。此(こ)の山(やま)の峠(たうげ)より東(ひがし)へ向(むか)うて、能美越(のうみごえ)にかかりて、燧(ひうち)が城(じやう)へ出(い)でて、越前(ゑちぜん)の国(くに)国府(こふ)にかかりて、平泉寺(へいせんじ)を拝(おが)み給(たま)ひて、熊坂(くまさか)へ出(い)でて、菅生(すかう)の宮(みや)を外処(よそ)に見(み)て、金津(かなづ)の上野(うはの)へ出(い)でて、篠原(しのはら)、安宅(あだか)の渡(わたり)をせさせ給(たま)ひて、根上(ねあがり)の松(まつ)を眺(なが)めて、白山(しらやま)の権現(ごんげん)を外処(よそ)にて礼(らい)し給(たま)ひ、加賀国(かがのくに)宮越(みやのこし)に出(い)でて、大野(おほの)の渡(わた)りし給(たま)ひて、阿尾(あを)が崎(さき)の端(はし)を越(こ)えて、たけの、倶利伽羅山(くりからやま)を経(へ)て、黒坂口(くろさかくち)の麓(ふもと)を五位庄(ごゐしやう)にかかりて、六動寺(ろくどうじ)の渡(わたり)して、奈呉(なご)の林(はやし)を眺(なが)めて、岩瀬(いはせ)の渡(わたり)、四十八箇瀬(しじふはつかせ)を越(こ)え、宮崎郡(みやざきのこほり)を市振(いちふり)にかかりて、寒原(かんばら)なかいしかと申(まう)す難所(なんじよ)を経(へ)て、能(のう)の山(やま)を外処(よそ)に伏(ふ)し拝(おが)み給(たま)ひて、越後国(ゑちごのくに)国府(こふ)に著(つ)きて、直江(なほえ)の津(つ)より船(ふね)に召(め)して、米山(よなやま)を冲懸(おきがけ)に三十三里のかりやはまかつき、しらさきを漕(こ)ぎ過(す)ぎて、寺お泊(とまり)に船(ふね)を著(つ)け、国上(くがみ)弥彦(やひこ)を拝(おが)みて、九十九里(くじふくり)の浜(はま)にかかりて、乗足(のりたり)、蒲原(かんばら)、八十里(はちじふり)の浜(はま)、瀬波(せなみ)、荒川(あらかは)、岩船(いはふね)と言(い)ふ所(ところ)に著(つ)きて、須戸(すと)うと道(みち)は雪白水(ゆきしろみづ)に、山河増(ま)さりて叶(かな)ふまじ。いはひが崎(さき)にかかりて、おちむつやなかざか、念珠(ねんじゆ)の関(せき)、大泉(おほいづみ)の庄(しやう)、大梵字(だいぼんじ)を通(とほ)らせ給(たま)ひて、羽黒(はぐろ)権現(ごんげん)を伏(ふ)し拝(おが)み参(まゐ)らせ、清河(きよかは)と言(い)ふ所(ところ)に著(つ)きて、すぎのをか船(ぶね)に棹(さほ)さして、あいかはの津(つ)
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に著(つ)かせ給(たま)ひて、道(みち)は又(また)二つ候(さうら)ふ。最上郡(もかみのこほり)にかかりて、伊奈(いな)の関(せき)を越(こ)えて、宮城野(みやぎの)の原(はら)、榴(つつじ)の岡(をか)、千賀(ちが)の塩竃(しほかま)、松島(まつしま)など申(まう)す名所(めいしよ)名所(めいしよ)を見(み)給(たま)ひては、三日、横道(よこみち)にて候(さうら)ふ。それより後(のち)さうたう、亀割山(かめわりやま)を越(こ)えては、昔(むかし)出羽(では)の郡司(ぐんじ)が娘(むすめ)小野(をの)の小町(こまち)と申(まう)す者(もの)の住(す)み候(さうら)ひける玉造(たまつくり)、室(むろ)の里(さと)と申(まう)す所(ところ)、又(また)小町(こまち)が関寺(せきでら)に候(さうら)ひける時、業平(なりひら)の中将(ちゆうじやう)東(あづま)へ下(くだ)り給(たま)ひけるに、妹(いもうと)の姉歯(あねは)が許(もと)へ文(ふみ)書(か)きて言伝(ことづて)しに、中将(ちゆうじやう)下(くだ)り給(たま)ひて、姉歯(あねは)を尋(たづ)ね給(たま)へば、空(むな)しくなりて、年(とし)久(ひさ)しくなりぬと申(まう)せば、「姉歯(あねは)が標(しるし)は無(な)きか」と仰(おほ)せられければ、ある人「墓(はか)に植(う)ゑたる松をこそ姉歯(あねは)の松(まつ)とは申(まう)し候(さうら)へ」と申(まう)しければ、中将(ちゆうじやう)姉歯(あねは)が墓(はか)に行(ゆ)きて、松(まつ)の下(した)に文を埋(うづ)めて読(よ)み給(たま)ひける歌、
栗原(くりはら)や姉歯(あねは)の松(まつ)の人(ひと)ならば都(みやこ)の土産(つと)にいざと言(い)はましものを W017
と詠(よ)み給(たま)ひける名木を御覧(ごらん)じては、松山(まつやま)一(ひと)つだにも超(こ)えつれば、秀衡(ひでひら)の館(たち)は近(ちか)く候(さうら)ふ。理(り)に枉(ま)げて此(こ)の道(みち)にかからせ給(たま)ふべし」と申(まう)しければ、判官(はうぐわん)是(これ)を聞(き)き給(たま)ひて、「是(これ)は只者(ただもの)にてはなし。八幡(はちまん)の御計(はか)らひと覚(おぼ)ゆるぞ。いざや此(こ)の道(みち)にかかりて行(ゆ)かん」と仰(おほ)せられければ、弁慶(べんけい)申(まう)しけるは、「かからせ給(たま)ふべき。わざと憂(う)き目(め)を御覧(ごらん)ぜんと思(おぼ)し召(め)されば、かからせ給(たま)ふべし。彼奴(きやつ)は君(きみ)を見(み)知(し)り参(まゐ)らせ候(さうら)ふに於(おい)ては、疑(うたがひ)も無(な)き作事(つくりこと)をして、君を欺(たばか)り参(まゐ)らせんとこそすると覚(おぼ)え
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候(さうら)ふ。先(さき)へ遣(や)りても、後(あと)へ返(かへ)しても、良(よ)き事(こと)はあるまじ」と申(まう)しければ、「良(よ)き様(やう)に計(はか)らへ」とぞ仰(おほ)せられける。武蔵坊(むさしばう)立(た)ち添(そ)ひて、「どの山(やま)をどの迫(はざま)にかかりて行(ゆ)かんずるぞ」と問(と)ふ様(やう)にもてなし、弓手(ゆんで)の腕(かひな)を差(さ)し伸(の)べて、頚(たてくび)をつかみ、逆様(さかさま)に取(と)つて伏(ふ)せ、強胸(こはむね)を踏(ふ)まへて、刀(かたな)を抜(ぬ)きて、心(こころ)先(さき)に差(さ)し当(あ)てて、「汝(おのれ)有(あ)りの儘(まま)に申(まう)せ」と責(せ)めければ、顫(ふる)ひ顫(ふる)ひ申(まう)しけるは、「誠(まこと)には上田(うえだ)左衛門(さゑもん)が内に候(さうら)ひしが、恨(うら)むる事(こと)候(さうら)ひて、加賀国(かがのくに)井上(ゐのうへ)左衛門(さゑもん)が内(うち)に候(さうら)ふ。「君(きみ)を見(み)知(し)り参(まゐ)らせて候(さうら)ふ」と申(まう)して候(さうら)へば、「罷(まか)り向(むか)ひ参(まゐ)らせて賺(すか)し参(まゐ)らせ、候(さうら)へ」と仰(おほ)せられ候(さうら)へ共(ども)、如何(いか)でか君(きみ)をば疎(おろか)に存(ぞん)じ参(まゐ)らすべき」と申(まう)しければ、「それこそ己(おのれ)が後言(のちごと)よ」とて、真中(まんなか)二刀(ふたかたな)刺(さ)し貫(つらぬ)き、頚(くび)掻(か)き離(はな)し、雪(ゆき)の中に踏(ふ)み込(こ)うで、さらぬ体(てい)にてぞ通(とほ)り給(たま)ふ。井上(ゐのうへ)が下人(げにん)平三郎と言(い)ふ男(をとこ)にてぞ有(あ)りける。余(あま)りに下郎(げらう)の口(くち)の利(き)きたるは、却(かへ)つて身を食(は)むとは是(これ)なり。さて十余人の人々(ひとびと)、とてもかくてもと打(う)ちふてて、関屋(せきや)をさしてぞ御座(おは)しける。十町(ちやう)ばかり近(ちか)づきて、勢(せい)を二手に分(わ)けたりけり。判官(はうぐわん)殿(どの)の御供(おんとも)には武蔵坊(むさしばう)、片岡(かたをか)、伊勢(いせ)の三郎、常陸坊(ひたちばう)、是(これ)を始(はじ)めとして七人、今(いま)一手(いつて)には北(きた)の方(かた)の御供(おんとも)として、十郎(じふらう)権頭(ごんのかみ)、根尾(ねのを)、熊井(くまゐ)亀井(かめゐ)、駿河(するが)、喜三太(きさんだ)御供(おんとも)にて、間(あひ)五町(ちやう)ばかりぞ隔(へだ)てける。先(さき)の勢(せい)は木戸口(きどぐち)に行(ゆ)き向(むか)ひたりければ、関守(せきもり)是(これ)を見(み)て、「すはや」
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と言(い)ふこそ久(ひさ)しけれ、百人ばかり七人を中に取(と)り籠(こ)めて、「是(これ)こそ判官(はうぐわん)殿(どの)よ」と申(まう)しければ、繋(つな)ぎ置(お)かれたる者(もの)共(ども)、「行方(ゆくへ)も知(し)らぬ我(われ)等(ら)に憂(う)き目(め)を見(み)せ給(たま)ふ。是(これ)こそ判官(はうぐわん)の正身(しやうじん)よ」と喚(おめ)きければ、身(み)の毛(け)もよだつばかりなり。判官(はうぐわん)進(すす)み出(い)でて仰(おほ)せられけるは、「抑(そもそも)羽黒(はぐろ)山伏(やまぶし)の、何事(なにごと)をして候(さうら)へば、是(これ)程に騒動(さうどう)せられ候(さうら)ふやらん」と宣(のたま)へば、「何条(なんでう)羽黒(はぐろ)山伏(やまぶし)。判官(はうぐわん)殿(どの)にてこそ御座(おは)しませ」と申(まう)しければ、「此(こ)の関屋(せきや)の大将軍(だいしやうぐん)は誰殿(との)と申(まう)すぞ」と問(と)ひ給(たま)へば、「当国(たうごく)の住人(ぢゆうにん)敦賀(つるが)の兵衛(ひやうゑ)、加賀(かが)の国(くに)の井上(ゐのうへ)左衛門(さゑもん)と申(まう)す人にて候(さうら)へ。兵衛(ひやうゑ)は今朝(けさ)下(くだ)り候(さうら)ひぬ。井上(ゐのうへ)は金津(かなづ)に御座(おは)する」と申(まう)しければ、「主も御座(おは)せざらん所(ところ)にて、羽黒(はぐろ)山伏(やまぶし)に手(て)かけて、主(しゆう)に禍(わざはひ)かくな。其(そ)の儀(ぎ)ならば此(こ)の笈(おひ)の中(なか)に羽黒(はぐろ)の権現(ごんげん)の御正体(みしやうだい)、観音(くわんおん)の御座(おは)しますに、此(こ)の関屋(せきや)を御室(むろ)殿(どの)と定(さだ)めて、八重(やへ)の注連(しめ)を引(ひ)きて、御榊(さかき)を振(ふ)れ」とぞ仰(おほ)せられける。関守(せきもり)共(ども)申(まう)しけるは、「げにも判官(はうぐわん)にて御座(おは)しまさずは、其(そ)の様(やう)をこそ仰(おほ)せらるべく候(さうら)ふに、主(ぬし)に禍(わざはひ)をかくべからん様(やう)は如何(いか)にぞ」と咎(とが)めける。弁慶(べんけい)是(これ)を聞(き)きて、「形(かた)の如(ごと)く先達(せんだち)候(さうら)はんずる上(うへ)は、山法師(やまぼふし)原(ばら)が申(まう)す事(こと)を御咎(とが)め候(さうら)ひては詮(せん)なし。やあ大和坊(やまとばう)其処(そこ)退(の)き候(さうら)へ」とぞ申(まう)しける。言(い)はれて関屋(せきや)の縁(えん)にぞ居(ゐ)給(たま)へる。是(これ)こそ判官(はうぐわん)にて御座(おは)しましけれ。弁慶(べんけい)申(まう)しけるは、「是(これ)は羽黒山(はぐろさん)の讚岐坊(さぬきばう)と申(まう)す山伏(やまぶし)
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にて候(さうら)ふが、熊野(くまの)に参(まゐ)りて、年籠(としごも)りにして、下向(げかう)申(まう)し候(さうら)ふ。判官(はうぐわん)殿(どの)とかやをば、美濃国(みののくに)とやらん尾張国(をはりのくに)とやらんより生捕(いけど)りて、都(みやこ)へ上(のぼ)るとやらん。下(くだ)るとやらむ承(うけたまは)り候(さうら)ひしが、羽黒(はぐろ)山伏(やまぶし)が判官(はうぐわん)と言(い)はるべき様(やう)こそなかれ」と言(い)ひけれども、何と陣(ちん)じ給(たま)へ共(ども)、弓(ゆみ)に矢を矧(は)げ、太刀(たち)長刀(なぎなた)の鞘(さや)を外(はづ)してぞ居(ゐ)たりける。後(あと)の人々(ひとびと)も七人連(つ)れてぞ来(き)たりける。いとど関守(せきもり)共(ども)然(さ)ればこそとて、大勢の中(なか)に取(と)り籠(こ)めて、「只(ただ)射(い)殺(ころ)せ」とぞ喚(おめ)きければ、北(きた)の方(かた)消(き)え入(い)る心地(ここち)し給(たま)ひけり。或(あ)る関守(せきもり)申(まう)しけるは、「しばらく鎮(しづ)まり給(たま)へ。判官(はうぐわん)ならぬ山伏(やまぶし)殺(ころ)して後(あと)の大事(だいじ)なり。関手(せきて)を乞(こ)うて見よ。昔(むかし)より今(いま)に至(いた)るまで、羽黒(はぐろ)山伏(やまぶし)の渡賃(わたしちん)関手(せきて)なす事は無(な)きぞ。判官(はうぐわん)ならば仔細(しさい)を知(し)らずして関手(せきて)をなして通(とほ)らんと急(いそ)ぐべし。現(げん)の山伏(やまぶし)ならば、よも関手(せきて)をばなさじ。是(これ)を以(もつ)て知(し)るべき」とて、賢々(さかさか)しげなる男(をとこ)進(すす)み出(い)でて申(まう)しけるは、「所詮(しよせん)山伏(やまぶし)なりとても、五人三人こそ有(あ)らめ、十六七人の人々(ひとびと)に争(いかで)か関手(せきて)を取(と)らではあるべき。関手(せきて)なして通(とほ)り給(たま)へ。鎌倉(かまくら)殿(どの)の御教書(みげうしよ)にも乙家(おつけ)甲家(かうけ)を嫌(きら)はず、関手(せきて)取(と)りて兵糧米(ひやうらうまい)にせよと候(さうら)ふ間(あひだ)、関手(せきて)を賜(たま)はり候(さうら)はん」とぞ申(まう)しける。弁慶(べんけい)言(い)ひけるは、「事(こと)あたらしき事(こと)を言(い)はるるものかな。何時(いつ)の習(なら)ひに羽黒(はぐろ)山伏(やまぶし)の関手(せきて)なす法(ほふ)やある。例(れい)無(な)き事(こと)は適(かな)ふまじき」と言(い)ひければ、関守(せきもり)共(ども)是(これ)を聞(き)きて、「判官(はうぐわん)にては御座(おは)せぬ」と言(い)ふも有(あ)り、
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或(ある)ひは「判官(はうぐわん)なれども、世に超(こ)えたる人にて御座(おは)しませば、武蔵坊(むさしばう)などと言(い)ふ者(もの)こそ斯様(かやう)には陳(ちん)ずらめ」など申(まう)す。又(また)或(あ)る者(もの)出(い)でて申(まう)しけるは、「さ候(さうら)はば、関東(くわんとう)へ人(ひと)を参(まゐ)らせて、左右(さう)を承り候(さうら)はん程(ほど)、是(これ)に留(とど)め奉(たてまつ)り候(さうら)はん」と申(まう)しければ、弁慶(べんけい)、「是(これ)は金剛童子(こんがうどうじ)の御計(おんはからひ)にてこそ。関東(くわんとう)の御使(おんつかひ)上下の程(ほど)、関屋(せきや)の兵糧米(ひやうらうまい)にて道(だう)せん食(く)はで、御祈祷(きたう)申(まう)して、心(こころ)安(やす)く暫(しばら)く休(やす)みて下(くだ)さるべし」とて、ちつとも騒(さわ)がず十挺(じつちやう)の笈(おひ)は関屋(せきや)の内へ取(と)り入(い)れて、十余人(よにん)の人々(ひとびと)、むらむらと内(うち)へ入(い)りて、つつとしてぞ居(ゐ)たる。猶(なほ)も関守(せきもり)怪(あや)しく思(おも)ひけり。弁慶(べんけい)関守(せきもり)に向(むか)つて問(と)はず語(がた)りをぞし居(ゐ)たる。「此(こ)の少人(せうじん)は出羽国(ではのくに)の酒田(さかた)の次郎(じらう)殿(どの)と申(まう)す人の君達(きんだち)、羽黒山(はぐろさん)にて金王(こんわう)殿(どの)と申(まう)す少人(せうじん)なり。熊野(くまの)にて年籠(ごも)りして、都(みやこ)にて日数(ひかず)を経(へ)て、北陸道(ほくろくだう)の雪(ゆき)消(き)えて、山家(やまが)山家(やまが)に伝(つた)ひて、粟(あは)の斎料(ときりやう)など尋(たづ)ねて、斎食(さいじき)などなりとも取(と)りて下(くだ)るべく候(さうら)ひつるに、余(あま)りに此(こ)の少人(せうじん)故郷(ふるさと)の事(こと)をのみ仰(おほ)せられ候(さうら)ふ間(あひだ)、未(いま)だ雪も消(き)え候(さうら)はねども、此(こ)の道(みち)に思(おも)ひ立(た)ち候(さうら)ひて、如何(いかが)せんずると歎(なげ)き候(さうら)ひつるに、是(これ)にて暫(しばらく)日数(ひかず)を経(へ)候(さうら)はん事こそ嬉(うれ)しく候(さうら)へ」と物語(ものがたり)共(ども)して、草鞋(わらんず)脱(ぬ)ぎ足(あし)洗(あら)ひ、思(おも)ひ思(おも)ひに寝(ね)ぬ起(お)きぬなど、したり顔(かほ)に振舞(ふるま)ひければ、関守(せきもり)共(ども)、「是(これ)は判官(はうぐわん)にては御座(おは)せぬげなり。只(ただ)通(とほ)せや」とて、関(せき)の戸を開(ひら)きたれ共(ども)、急(いそ)がぬ
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体(てい)にて一度には出(い)でずして、一人二人(ふたり)づつ、静(しづ)かに立(た)ち休(やす)らひ立(た)ち休(やす)らひぞ出(い)で給(たま)ふ。常陸坊(ひたちばう)は人より先(さき)に出(い)でたりけるが、後(あと)を顧(かへり)みければ、判官(はうぐわん)と武蔵坊(むさしばう)と未(いま)だ関(せき)の縁(えん)にぞ居(ゐ)給(たま)へり。弁慶(べんけい)申(まう)しけるは、「関手(せきて)御免(ごめん)候(さうら)ふ上(うへ)、判官(はうぐわん)にてはなしと言(い)ふ仰(おほ)せ蒙(かうぶ)り候(さうら)ひぬ。旁々(かたがた)以(もつ)て悦(よろこ)び入(い)りて候(さうら)へども、此(こ)の二三日少人(せうじん)に物(もの)を参(まゐ)らせ候(さうら)はず候(さうら)へば、心(こころ)苦(ぐる)しく候(さうら)ふ。関屋(せきや)の兵糧米(ひやうらうまい)少(すこ)し賜(たま)はり候(さうら)ひて、少人(せうじん)に参(まゐ)らせて、通(とほ)り候(さうら)はばや。且(かつう)は御祈祷(ごきたう)、且(かつう)は御情(なさけ)にてこそ候(さうら)へ」と言(い)ひければ、関守(せきもり)共(ども)、「物(もの)も覚(おぼ)えぬ山伏(やまぶし)かな。判官(はうぐわん)かと申(まう)せば、口強(くちごは)に返事(へんじ)し給(たま)ふ。又(また)斎料(ときりやう)乞(こ)ひ給(たま)ふ事(こと)は如何(いかが)」と申(まう)しければ、賢(さか)しき者(もの)、「実(まこと)は御祈祷(ごきたう)にてこそあれ。それ参(まゐ)らせよ」と言(い)ひければ、唐櫃(からひつ)の蓋(ふた)に白米(はくまい)一蓋(ひとふた)入(い)れて参(まゐ)らせける。弁慶(べんけい)是(これ)を取(と)りて、「大和坊(やまとばう)、是(これ)を取(と)れ」と言(い)ひければ、傍(かたは)らより
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差(さ)し出(い)でて、受(う)け取(と)り給(たま)ひけり。弁慶(べんけい)長押(なげし)の上(うへ)につい居(ゐ)て、腰(こし)なる法螺(ほら)の貝(かひ)取(と)り出(い)だし、夥(おびたた)しく吹(ふ)き鳴(な)らし、首(くび)に懸(か)けたる大苛高(いらたか)の数珠(じゆず)取(と)つて押(お)し揉(も)みて、尊(たつと)げにぞ祈(いの)りける。「日本第一(だいいち)大霊(だいりやう)権現(ごんげん)、熊野(くまの)は三所(さんじよ)権現(ごんげん)、大嶺(おほみね)八大(はつだい)金剛童子(こんがうどうじ)、葛城(かづらぎ)は十万の満山(まんざん)の護法神(ごほふじん)、奈良(なら)は七堂(しちだう)の大伽藍(だいがらん)、初瀬(はせ)は十一面観音(じふいちめんくわんおん)、稲荷(いなり)、祇園(ぎをん)、住吉(すみよし)、賀茂(かも)、春日(かすが)大明神(だいみやうじん)、比叡(ひえい)山王(さんわう)七社(しちしや)の宮(みや)、願(ねが)はくは判官(はうぐわん)此(こ)の道(みち)にかけ参(まゐ)らせて愛発(あらち)の関守(せきもり)の手(て)にかけて留(とど)めさせ奉(たてまつ)り、名を後代に揚(あ)げて、勲功(くんこう)たいくわいならば、羽黒山(はぐろさん)の讚岐坊(さぬきばう)が験徳(けんとく)の程(ほど)を見(み)せ給(たま)へ」とぞ祈(いの)りける。関守(せきもり)共(ども)頼(たの)もしげにぞ思(おも)ひける。心中(しんちゆう)には「八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)願(ねが)はくは送護法(おくりこう)迎護法(むかひこう)となりて、奥州(あうしう)まで相違(さうゐ)無(な)く届(とど)け奉(たてまつ)り給(たま)へ」と祈(いの)りける心(こころ)こそ哀れなる祈(いの)りとは覚(おぼ)ゆれ。夢(ゆめ)に道(みち)行(ゆ)く心地(ここち)して、愛発(あらち)の関(せき)をも通(とほ)り給(たま)ふ。其(そ)の日は敦賀(つるが)の津(つ)に下(くだ)りて、せいたい菩薩(ぼさつ)の御前(おまへ)にて一夜(いちや)御通夜(おんつや)有(あ)りて、出羽(では)へ下(くだ)る舟(ふね)を尋(たづ)ね給(たま)へども、未(いま)だ二月の初(はじ)めの事(こと)なれば、風はげしくて、行(ゆ)き通(かよ)ふ舟(ふね)も無(な)かりけり。力(ちから)及(およ)ばず夜を明(あ)かして、木芽(きのめ)と言(い)ふ山(やま)を越(こ)えて、日数(ひかず)も経(ふ)れば越前(ゑちぜん)の国(くに)の国府(こふ)にぞ著(つ)き給(たま)ふ。それにて三日御逗留(ごとうりう)有(あ)りけり。
平泉寺(へいせんじ)御見物(ごけんぶつ)の事(こと) S0705
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「横道(わうだう)なれども、いざや当国(たうごく)に聞(き)こえたる平泉寺(へいせんじ)を拝(おが)まん」と仰(おほ)せける。各々(おのおの)心得(こころえ)ず思(おも)ひけれ共(ども)、仰(おほ)せなればさらばとて、平泉寺(へいせんじ)へぞかかられける。其(そ)の日は雨降(ふ)り、風(かぜ)吹(ふ)きて世間(せけん)もいとど物(もの)憂(う)く、夢(ゆめ)に道(みち)行(ゆ)く心地(ここち)して、平泉寺(へいせんじ)の観音堂(くわんおんだう)にぞ著(つ)き給(たま)ふ。大衆(だいしゆ)共(ども)是(これ)を聞(き)きて、長吏(ちやうり)の許(もと)へぞ告(つ)げたりける。政所(まんどころ)の勢を催(もよほ)して、寺中(じちゆう)と一(ひと)つになりて、僉議(せんぎ)しけるは、「当時(たうじ)関東(くわんとう)は山伏(やまぶし)禁制(きんぜい)にて候(さうら)ふに、此(こ)の山伏(やまぶし)は只人(ただひと)とも見(み)えず、判官(はうぐわん)は大津(おほつ)坂本(さかもと)愛発(あらち)の山(やま)をも通(とほ)られて候(さうら)ふなる。寄(よ)せて見(み)ばや、如何様(いかさま)にも是(これ)を判官(はうぐわん)にて御座(おは)すると覚(おぼ)え候(さうら)ふ」と僉議(せんぎ)す。尤(もつと)もとて大衆(だいしゆ)出(い)で発(た)つ。彼(か)の平泉寺(へいせんじ)と申(まう)すは山門(さんもん)の末寺(まつじ)なり。然(さ)れば衆徒(しゆと)の規則(きそく)も山上に劣(おと)らず、大衆(だいしゆ)二百人、政所(まんどころ)の勢も百人、直兜(ひたかぶと)にて夜半(やはん)ばかりに観音堂(くわんおんだう)にぞ押(お)し懸(か)けたる。十余人(よにん)は東(ひがし)の廊下(らうか)にぞ居(ゐ)たりける。判官(はうぐわん)と北(きた)の方(かた)は西(にし)の廊下(らうか)にぞ御座(おは)したる。弁慶(べんけい)参(まゐ)りて、「今(いま)はこそと覚(おぼ)え候(さうら)ふ。是(これ)は余(よ)の所(ところ)には似(に)るべくも候(さうら)はず。如何(いかが)御計(はか)らひ候(さうら)ふ。さりながら叶(かな)はざるまでは、弁慶(べんけい)陳(ちん)じて見(み)候(さうら)はん間(あひだ)、叶(かな)ふまじげに候(さうら)はば、太刀(たち)を抜(ぬ)き、「憎(にく)い奴原(やつばら)」など申(まう)して飛(と)んで下(お)り候(さうら)はば、君(きみ)は御自害(ごじがい)候(さうら)へ」とぞ申(まう)して出(い)でける。大衆(だいしゆ)に問答(もんだふ)の間(あひだ)、「憎(にく)い奴原(やつばら)」と言(い)ふ声(こゑ)やすると耳(みみ)を立(た)ててぞ聞(き)き給(たま)ふ。心(こころ)細(ほそ)くぞ有(あ)りける。衆徒(しゆと)申(まう)しけるは、「抑(そもそも)是(これ)は何処山伏(どこやまぶし)にて候(さうら)ふぞ。打(う)ち任(まか)せて
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は留(とど)まらぬ所にて候(さうら)ふぞ」と申(まう)しければ、弁慶(べんけい)申(まう)しけるは、「出羽(では)の国(くに)羽黒山(はぐろさん)の山伏(やまぶし)にて候(さうら)ふ」「羽黒(はぐろ)には誰と申(まう)す人ぞ」「大黒堂(だいこくだう)の別当(べつたう)に讚岐(さぬき)の阿闍梨(あじやり)と申(まう)す者(もの)にて候(さうら)ふ」と答(こた)へけり。「少人(せうじん)をば誰(たれ)と申(まう)すぞ」「酒田(さかた)の次郎(じらう)殿(どの)と申(まう)す人の御子息(しそく)金王殿(こんわうどの)とて、羽黒山(はぐろさん)にはかくれ無(な)き少人(せうじん)にて候(さうら)ふぞ」と言(い)ひければ、衆徒(しゆと)是(これ)を聞(き)きて、「此(こ)の者(もの)共(ども)は判官(はうぐわん)にては無(な)き者(もの)ぞ。判官(はうぐわん)にて御座(おは)しまさんには、争(いかで)か是(これ)程(ほど)に羽黒(はぐろ)の案内(あんない)をば知(し)り給(たま)ふべき。金王(こんわう)と申(まう)すは、羽黒(はぐろ)には名誉(めいよ)の児(ちご)にて候(さうら)ふなるぞ」。長吏(ちやうり)事(こと)を聞(き)きて、座敷(ざしき)に居(ゐ)直(なほ)りて、武蔵坊(むさしばう)を呼(よ)びて、「先達(せんだち)の坊(ばう)に申(まう)すべき事(こと)候(さうら)ふ」と言(い)へば、弁慶(べんけい)も長吏(ちやうり)に膝(ひざ)を組(く)みかけてぞ居(ゐ)たりける。長吏(ちやうり)申(まう)されけるは、「少人(せうじん)の事(こと)承(うけたまは)り候(さうら)ふこそ心(こころ)も言葉(ことば)も及(およ)ばず御座(おは)しまし候(さうら)ふなれ。学問(がくもん)の精(せい)は如何様(いかやう)に御座(おは)しまし候(さうら)ふぞ」と言(い)ひければ、「学問(がくもん)に於(おい)ては羽黒(はぐろ)には並(ならび)も御座(おは)しまし候(さうら)はず。申(まう)すに付(つ)けても、過言(くわごん)にて候(さうら)へ共(ども)、容顔(ようがん)に於(おい)ては山(やま)三井寺(みゐでら)にも御座(おは)しまし候(さうら)ふべき」と誉(ほ)めたりけり。「学問(がくもん)のみにも候(さうら)はず、横笛(やうでう)に於(おい)ては日本一(につぽんいち)とも申(まう)すべし」と言(い)ひければ、長吏(ちやうり)の弟子に和泉(いづみ)美作(みまさか)と申(まう)しける法師(ほふし)は極(きは)めて案(あん)深(ふか)き寺中(じちゆう)一(いち)のえせ者(もの)なり。長吏(ちやうり)に申(まう)しけるは、「女ならばこそ琵琶(びは)弾(ひ)く事(こと)は常(つね)の事(こと)にて候(さうら)ふ。是(これ)は女ぞと疑(うたが)ふ所(ところ)に、笛(ふえ)の上手(じやうず)と申(まう)すこそ怪(あや)しく候(さうら)へ。げに児(ちご)か笛(ふえ)吹(ふ)かせて見(み)候(さうら)は
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ん」と申(まう)す。長吏(ちやうり)げにもとて、「あはれ、さ候(さうら)はば音(おと)に聞(き)こえさせ給(たま)ふ御笛(ふえ)を承(うけたまは)り候(さうら)ひて、世(よ)の末(すゑ)の物語(ものがたり)にも伝(つた)へ候(さうら)はばや」とぞ申(まう)されける。弁慶(べんけい)是(これ)を聞(き)きて、「安(やす)き事や」と返事(へんじ)はしたれども、両眼(りやうがん)真暗(まつくら)になる様(やう)にぞ覚(おぼ)えける。さてしもあるべき事(こと)ならねば、其(そ)の様(やう)を少人(せうじん)に申(まう)し候(さうら)はんとて、西(にし)の廊下(らうか)に参りて、「かかる事こそ候(さうら)はね。有(あ)りても有(あ)らぬ事(こと)を申(まう)して候(さうら)ふ程(ほど)に、御笛(ふえ)を遊(あそ)ばさせ参(まゐ)らせて、承(うけたまは)るべき由(よし)申(まう)し候(さうら)ふ。如何(いかが)仕(つかまつ)るべく候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「さりとては吹(ふ)かずとも出(い)で給(たま)へ」と判官(はうぐわん)仰(おほ)せられければ、「あら心(こころ)憂(う)や」とて、衣(きぬ)引(ひ)き被(かづ)き臥(ふ)し給(たま)ふ。衆徒(しゆと)は頻(しき)りに「少人(せうじん)の御出(おい)で遅(おそ)く候(さうら)ふ」と申(まう)せば、弁慶(べんけい)「只今(ただいま)只今(ただいま)」と答(こた)へて居(ゐ)たりけり。和泉(いづみ)と申(まう)す法師(ほふし)言(い)ひけるは、「流石(さすが)に我(わ)が朝(てう)には熊野(くまの)羽黒(はぐろ)とて、大所にて候(さうら)ふぞかし。それに左右(さう)無(な)く名誉(めいよ)の児(ちご)を平泉寺(へいせんじ)にて呼(よ)び出(い)だして、散々(さんざん)に嘲哢(てうろう)したりけると聞(き)こえん事、此(こ)の寺(てら)の恥(はぢ)に有(あ)らずや。少人(せうじん)を出(い)だし奉(たてまつ)りもてなす様(やう)にて、其(そ)の序(つい)でに吹(ふ)かせたらんは苦(くる)しからじ」と申(まう)しければ、「尤(もつと)も然(しか)るべし」とて、長吏(ちやうり)の許(もと)に念一(ねんいち)、弥陀王(みだわう)とて名誉(めいよ)の児(ちご)有(あ)り。花(はな)折(を)りて出(い)で立(た)たせ、若(わか)大衆(だいしゆ)の肩頚(かたくび)に乗(の)りてぞ来(き)たりける。正面(しやうめん)の座敷(ざしき)長吏(ちやうり)、東(ひがし)は政所(まんどころ)、西は山伏(やまぶし)、本尊(ほんぞん)を後(うし)ろにし奉(たてまつ)りて、仏壇(ぶつだん)の際(きは)に南(みなみ)へ向(む)けて、少人(せうじん)
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の座敷(ざしき)をぞしたりける。二人(ふたり)の児(ちご)座敷(ざしき)に直(なほ)りければ、弁慶(べんけい)参(まゐ)りて「御出(おいで)候(さうら)へ」と申(まう)しければ、北(きた)の方(かた)只(ただ)暗(やみ)に迷(まよ)ひたる心地(ここち)して出(い)で立(た)ち給(たま)ふ。昨日(きのふ)の雨(あめ)にしほれたる顕紋紗(けんもんじや)の直垂(ひたたれ)に下(した)には白なへ色(いろ)を召(め)したりければ、猶(なほ)も美(うつく)しくぞ見(み)え給(たま)ひける。御髪(みぐし)尋常(じんじやう)に結(ゆ)ひなして、赤木(あかぎ)の柄(つか)の刀(かたな)に彩(だ)みたる扇(あふぎ)差(さ)し添(そ)へて、御手(て)に横笛(やうでう)持(も)ちて御出(おい)である。御伴(おんとも)には十郎(じふらう)権頭(ごんのかみ)、片岡(かたをか)、伊勢(いせ)の三郎、判官(はうぐわん)殿(どの)は殊(こと)に近(ちか)くぞ御座(おは)しける。自然(しぜん)の事(こと)有(あ)らば、人手(ひとで)には掛(か)くまじきものをとぞ思(おぼ)し召(め)しける。正面(しやうめん)に出(い)で給(たま)へば、殊(こと)に其(そ)の時(とき)は燈火(ともしび)を高(たか)く挑(かか)げたり。北(きた)の方(かた)扇(あふぎ)取(と)り直(なほ)し、衣紋(えもん)掻(か)き繕(つくろ)ひ、座敷(ざしき)に直(なほ)り給(たま)ふ。今(いま)までは頑(かたくな)はしき所(ところ)も御座(おは)しまさず。武蔵坊(むさしばう)心(こころ)安(やす)く思(おも)ひけり。何(なに)ともあれ、仕(し)損(そん)ずる程(ほど)ならば、差(さ)し違(ちが)へてこそ如何(いか)にもならめと思(おも)ひければ、長吏(ちやうり)に膝(ひざ)をきしりてぞ居(ゐ)たりける。弁慶(べんけい)申(まう)しけるは、「詞(ことば)候(さうら)はぬ事、笛(ふえ)に於(おい)ては日本一(につぽんいち)ぞかし。但(ただ)し仔細(しさい)一(ひと)つ候(さうら)ふ。此(こ)の少人(せうじん)羽黒(はぐろ)に御座(おは)しまし候(さうら)ふ時(とき)も明暮(あけくれ)笛(ふえ)に心(こころ)を入(い)れて、学問(がくもん)の御(おん)心(こころ)も空々(そらそら)に御渡(おんわた)り候(さうら)ひし程(ほど)に、去年(きよねん)の八月に羽黒(はぐろ)を出(い)でし時、師の御坊(ごばう)、今度(こんど)の道中上下向(しやうけかう)の間(あひだ)、笛(ふえ)を吹(ふ)かじと言(い)ふ誓事(せいじ)をなし給(たま)へとて、権現(ごんげん)の御前にて金(かね)を打(う)たせ奉(たてまつ)りて候(さうら)へば、少人(せうじん)の御笛(ふえ)をば御免(ごめん)候(さうら)へかし。是(これ)に大和坊(やまとばう)と申(まう)す山伏(やまぶし)候(さうら)ふが、笛(ふえ)は上手(じやうず)にて候(さうら)ふ。常(つね)に少人(せうじん)も是(これ)にこそ御習(なら)ひ候(さうら)へ。御代官(おだいくわん)に是(これ)
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を参(まゐ)らせ候(さうら)はばや」と申(まう)しければ、長吏(ちやうり)是(これ)を聞(き)きて感(かん)じ申(まう)しけるは、「あはれ人の親の子を思(おも)ふ道有(あ)り。師匠(ししやう)の弟子を思(おも)ふ志(こころざし)是(これ)なり。如何(いか)でか御(おん)いたはしく、それ程(ほど)の御誓(ちかひ)をば是(これ)にて破(やぶ)り参(まゐ)らせ候(さうら)ふべき。疾(と)く疾(と)く御代官(おだいくわん)にても候(さうら)へ」と申(まう)しければ、武蔵坊(むさしばう)余(あま)りの嬉(うれ)しさに腰(こし)を抑(おさ)へ、空(そら)へ向(むか)ひて溜息(ためいき)ついてぞ居(ゐ)たりける。「早々(さうさう)参(まゐ)りて、大和坊(やまとばう)、御代官(おだいくわん)に笛(ふえ)を仕(つかまつ)れ」と言(い)はれて、判官(はうぐわん)仏壇(ぶつだん)の蔭(かげ)のほの暗(くら)き所(ところ)より出(い)で給(たま)ひて、少人(せうじん)の末座(ばつざ)にぞ居(ゐ)給(たま)ひける。大衆(だいしゆ)「さらば管絃(くわんげん)の具足(ぐそく)参(まゐ)らせよ」と申(まう)しければ、長吏(ちやうり)の許(もと)よりくさきのこうの琴(こと)一張(いつちやう)、錦(にしき)の袋(ふくろ)に入(い)れたる琵琶(びは)一面(めん)取(と)り寄(よ)せ、琴(こと)をば御客人(おんまれびと)にとて北(きた)の方(かた)に参(まゐ)らせける。琵琶(びは)をば念一(ねんいち)殿(どの)の前(まへ)に置(お)き、笙(しやう)の笛(ふえ)をば弥陀王(みだわう)殿(どの)の前(まへ)に置(お)き、横笛(やうでう)は判官(はうぐわん)の御前(おまへ)に置(お)き、かくて管絃(くわんげん)一切(ひとき)れ有(あ)りければ、
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面白(おもしろ)しとも言(い)ふも愚(おろ)か也(なり)。只今(ただいま)までは合戦(かつせん)の道(みち)にてあるべかりつるに、如何(いか)なる仏神(ぶつしん)の御納受(ごなふじゆ)にてや、不思議(ふしぎ)にぞ覚(おぼ)えし。衆徒(しゆと)も是(これ)を見(み)て、「あはれ児(ちご)や、あはれ笛(ふえ)の音(ね)や。念一(ねんいち)、弥陀王殿(みだわうどの)をこそ、良(よ)き児(ちご)と有(あ)り難(がた)く思(おも)ひつるに、今(いま)此(こ)の児(ちご)と見(み)比(くら)ぶれば、同(おな)じ口(くち)にも言(い)ふべくもなし」などと若(わか)大衆(だいしゆ)共(ども)口々(くちぐち)にぞささやきける。長吏(ちやうり)寺中(じちゆう)に帰(かへ)りけり。小夜(さよ)更(ふ)けて長吏(ちやうり)の本より様々(やうやう)に菓子(くわし)積(つ)みなどして、瓶子(へいじ)添(そ)へて、観音堂(くわんおんだう)に送(おく)りけり。皆人(みなひと)疲(つか)れにのぞみつ。「いざや酒(さけ)飲(の)まん」ととりどりに申(まう)しけるを、武蔵坊(むさしばう)、「あはれ詮(せん)無(な)き殿原(とのばら)かな。欲(ほ)しさの儘(まま)に誰も飲(の)まんずる程(ほど)に、程(ほど)無(な)く酒気(さかけ)には本性(ほんしやう)を正(ただ)すものなれば、しばらく「少人(せうじん)に参(まゐ)らせよ」「先達(せんだち)の御坊(ごばう)、京(きやう)の君(きみ)」などと言(い)ふとも、後(のち)は味気(あぢき)無(な)き娑婆(しやば)世界(せかい)の習(なら)ひ、「北(きた)の方(かた)に今(いま)一(ひと)つ申(まう)せ」「熊井(くまゐ)や片岡(かたをか)に思(おも)ひざしせん」「伊勢(いせ)の三郎持(も)ちて来(こ)よ」「いで飲(の)まん弁慶(べんけい)」などと言(い)はん程(ほど)に、焼野(やけの)の雉子(きぎす)の頭(かしら)を隠(かく)して、尾(を)を出(い)だしたる様(やう)なるべし」「酒(さけ)は上下向(しやうけかう)の間(あひだ)断酒(だんじゆ)にて候(さうら)ふ」とて、長吏(ちやうり)の許(もと)へぞ返(かへ)しける。「希有(けう)なる山伏(やまぶし)達(たち)にて有(あ)りけるよ」とて、急(いそ)ぎ僧膳(そうぜん)仕立(した)て、御堂(みだう)へ送(おく)りけり。各々(おのおの)僧膳(そうぜん)したためて、夜も曙(あけぼの)になりければ、今夜の懺法(せんぽふ)をぞ読(よ)みける。伊勢(いせ)の三郎を使(つかひ)にて、長吏(ちやうり)に暇(いとま)をぞ乞(こ)はれける。心(こころ)ある大衆(だいしゆ)達(たち)、徒歩(かち)にてむらむら消(き)え残(のこ)る雪(ゆき)を踏(ふ)み分(わ)けて、二三町(にさんちやう)ぞ送(おく)りける。恐(おそ)ろしく
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思(おも)はれし平泉寺(へいせんじ)をも、鰐(わに)の口(くち)を逃(のが)れたる心地(ここち)して、足早(あしばや)に通(とほ)られける。かくて菅生(すかう)の宮(みや)を拝(おが)みて、金津(かなづ)の上野(うはの)へ著(つ)き給(たま)ふ。唐櫃(からひつ)数多(あまた)舁(か)かせて、引馬(ひきうま)其(そ)の数有(あ)り。ゆゆしげなる大名(だいみやう)五十騎ばかりにぞ逢(あ)ふたりける。「是(これ)は如何(いか)なる人ぞ」と問(と)ひければ、「加賀(かが)の国(くに)井上(ゐのうへ)左衛門(さゑもん)と申(まう)す人なり。愛発関(あらちのせき)へ行(ゆ)くぞ」と申(まう)しける。判官(はうぐわん)是(これ)を聞(き)き給(たま)ひ、「あはれ遁(のが)れんとすれども遁(のが)れぬものかな。今(いま)はかくぞ」と宣(のたま)ひて、刀(かたな)の柄(つか)に手(て)を打(う)ち掛(か)け給(たま)ひて、北(きた)の方(かた)の後(うし)ろに後(うし)ろを差(さ)し合(あ)はせて、笠(かさ)の端(は)にて顔(かほ)を隠(かく)して通(とほ)さんとし給(たま)ふ所(ところ)に、折節(をりふし)風(かぜ)烈(はげ)しく吹(ふ)きたりけり。笠(かさ)の端(は)を吹(ふ)き上(あ)げたりければ、井上(ゐのうへ)一目(ひとめ)見(み)参(まゐ)らせて、判官(はうぐわん)と御目を見(み)合(あ)はせ奉(たてまつ)り、馬(うま)より飛(と)んで下(お)り、大道(だいだう)に畏(かしこ)まつて申(まう)しけるは、「かかる事こそ候(さうら)はね。途中(とちゆう)にて参(まゐ)り合(あ)ひ参(まゐ)らせ候(さうら)ふこそ無念(むねん)に存(ぞん)じ候(さうら)へ、候(さぶら)ふ所(ところ)は井上(ゐのうへ)と申(まう)して、程遠(とほ)き所(ところ)にて候(さうら)ふ間(あひだ)、彼方(あなた)へとも申(まう)さず候(さうら)ふ。山伏(やまぶし)の色代(しきだい)は恐(おそ)れにて候(さうら)ふ。疾(と)く疾(と)く」と申(まう)して、我(わ)が身馬(うま)引(ひ)き寄(よ)せて、左右(さう)無(な)くも乗(の)らず、遙(はる)かに見(み)送(おく)り奉(たてまつ)り、御(おん)後(うし)ろ遠(とほ)ざかる程(ほど)にもなりぬれば、各々(おのおの)馬(うま)にぞ乗(の)りたりける。判官(はうぐわん)は余(あま)りの事(こと)に行(ゆ)きもやり給(たま)はず、しきりに見(み)顧(かへ)り給(たま)ひつつ、「七代まで弓矢(ゆみや)の冥加(みやうが)あれ」とぞ、面々(めんめん)に申(まう)しけるぞあはれなる。其(そ)の日は細呂木(ほそろき)と言(い)ふ所(ところ)に井上(ゐのうへ)著(つ)きて、家(いへ)の子郎等(らうどう)共(ども)を呼(よ)びて申(まう)しけるは、「今日(けふ)行(ゆ)き合(あ)ひ
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参(まゐ)らする山伏(やまぶし)をば誰(たれ)とか見(み)奉(たてまつ)る。是(これ)こそ鎌倉(かまくら)殿(どの)の御弟(おとと)判官(はうぐわん)殿(どの)よ。あはれ日頃(ひごろ)の様(やう)におはさんには、国の騒動(さうどう)、道路の大事(だいじ)とこそなるべきに、此(こ)の御有様(おんありさま)になり給(たま)へる御事(おんこと)のいとほしさよ。討(う)ち奉(たてまつ)りたらば、千年万年過(す)ぐべきか。余(あま)りの痛(いた)はしさに難(なん)無(な)く通(とほ)し奉(たてまつ)りてこそ」と言(い)ひければ、家(いへ)の子郎等(らうどう)共(ども)是(これ)を聞(き)きて、井上(ゐのうへ)の心(こころ)の中(うち)、あはれ情(なさけ)も慈悲(じひ)も深(ふか)かりける人やと頼(たの)もしくぞ覚(おぼ)えける。判官(はうぐわん)其(そ)の日篠原(しのはら)に泊(とま)り給(たま)ひけり。明(あ)けければ、斉藤(さいとう)別当(べつたう)実盛(さねもり)が手塚(てづか)の太郎光盛(みつもり)に討(う)たれけるあいの池(いけ)を見(み)て、安宅(あだか)の渡(わた)りを越(こ)えて、根上(ねあがり)の松(まつ)に著(つ)き給(たま)ふ。是(これ)は白山(しらやま)の権現(ごんげん)に法施(ほつせ)を手向(たむ)くる所(ところ)なり。いざや白山(しらやま)を拝(おが)まんとて、岩本(いはもと)の十一面観音(じふいちめんくわんおん)に御通夜(おんつや)有(あ)り。明(あ)くれば白山(しらやま)に参(まゐ)りて、女体后(によたいこう)の宮(みや)を拝(おが)み参(まゐ)らせて、其(そ)の日は剣(つるぎ)の権現(ごんげん)の御前(おまへ)に参(まゐ)り給(たま)ひて、御通夜(おんつや)有(あ)りて、終夜(よもすがら)御神楽(みかぐら)参(まゐ)らせて、明(あ)くれば林(はやし)の六郎(ろくらう)光明(みつあきら)が背戸(せと)を通(とほ)り給(たま)ひて、加賀(かが)の国(くに)富樫(とがし)と言(い)ふ所(ところ)も近(ちか)くなる。富樫介(とがしのすけ)と申(まう)すは、当国(たうごく)の大名(だいみやう)也(なり)。鎌倉(かまくら)殿(どの)より仰(おほ)せは蒙(かうぶ)らねども、内々(ないない)用心(ようじん)して判官(はうぐわん)を待(ま)ち奉(たてまつ)るとぞ聞(き)こえける。武蔵坊(むさしばう)申(まう)しけるは、「君(きみ)は是(これ)より宮腰(みやのこし)へ渡(わた)らせ御座(おは)しませ、弁慶(べんけい)は富樫(とがし)が館(たち)の様(やう)を見(み)て参(まゐ)り候(さうら)はん」と申(まう)しければ、「偶々(たまたま)有(あ)るとも知(し)られで通(とほ)る道(みち)のあるに、寄(よ)りては何(なに)の詮(せん)ぞ」
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と仰(おほ)せられければ、弁慶(べんけい)申(まう)しけるは、「中々(なかなか)行(ゆ)きてこそよく候(さうら)へ。山伏(やまぶし)大勢(おほぜい)にて通(とほ)ると聞(き)こえ、大勢(おほぜい)にて追(お)ひ掛(か)けられては悪(あ)しく候(さうら)はんずれば、弁慶(べんけい)ばかり罷(まか)り候(さうら)はん」とて、笈(おひ)取(と)つて引(ひ)つ掛(か)けて、只(ただ)一人(ひとり)行(ゆ)きける。富樫(とがし)が城を見(み)れば、三月三日の事(こと)なれば、傍(かたはら)には鞠(まり)小弓の遊(あそ)び、傍(かたはら)には闘鶏(とりあはせ)、又(また)管絃(くわんげん)、酒盛(さかもり)にぞ見(み)えける。酒(さけ)に酔(ゑ)ひたる所(ところ)も有(あ)り。武蔵坊(むさしばう)相違(さうゐ)無(な)く館(たち)の内(うち)に入(い)りて、侍(さぶらひ)の縁(えん)の際(きは)を通(とほ)りて、内(うち)を差(さ)しのぞき見れば、管絃(くわんげん)只今(ただいま)盛(さかり)なり。武蔵坊(むさしばう)大(だい)の声(こゑ)を上(あ)げて、「修行者(しゆぎやうじや)の候(さうら)ふ」と申(まう)しける。管絃(くわんげん)の調子(てうし)も外(そ)れにけり。「御内(みうち)只今(ただいま)機嫌(きげん)悪(あ)しく候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「上(かみ)つ方(かた)こそ候(さうら)ふとも、御後見(こうけん)の御方(おんかた)にそれ申(まう)して賜(た)び候(さうら)へや」とて、強(し)ひて近(ちか)くぞ寄(よ)りたりける。仲間(ちゆうげん)雑色(ざふしき)二三人出(い)でて、「罷(まか)り出(い)でられ候(さうら)へ」と言(い)ひけれ共(ども)、聞(き)きも入(い)れず。「狼籍(らうぜき)なり。さらば掴(つか)んで出(い)だせ」とて、左右(さう)の腕(かひな)に取(と)り付(つ)きて、押(お)せども圧(へ)せども、少(すこ)しも働(はた)らかず。「さらば所(ところ)にな置(お)いそ。放逸(はういつ)に当(あ)たりて出(い)だせ」とて、大勢近(ちか)づきければ、拳(こぶし)を握(にぎ)りて、散々(さんざん)に張(は)りければ、或(ある)いは烏帽子(えぼし)打(う)ち落(おと)され、髻(もとどり)かかへて間所(かんしよ)へ入(い)るも有(あ)り。「此処(ここ)なる法師(ほふし)の狼籍(らうぜき)するぞ」とて騒動(さうどう)す。富樫介(とがしのすけ)も大口(おほくち)に押(お)し入(い)れ烏帽子(えぼし)著(き)て、手鉾(てぼこ)杖(つゑ)に突(つ)きて、侍(さぶらひ)にぞ出(い)でにける。弁慶(べんけい)是(これ)を見(み)て、「これ御覧(ごらん)ぜられ候(さうら)へ、御内(みうち)の者(もの)共(ども)狼籍(らうぜき)し候(さうら)ふ」とて、やがて縁(えん)にぞ上(あ)がりける。富樫(とがし)これ
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を見(み)て、「如何(いか)なる山伏(やまぶし)ぞ」と言(い)へば、「是(これ)は東大寺(とうだいじ)勧進(くわんじん)の山伏(やまぶし)にて候(さうら)ふ」「如何(いか)に御身(おんみ)一人は御座(おは)するぞ」「同行の山伏(やまぶし)多(おほ)く候(さうら)へども、先様(さきさま)に宮腰(みやのこし)へやり候(さうら)ひぬ。是(これ)は御内(みうち)勧進(くわんじん)の為(ため)に参(まゐ)りて候(さうら)ふ。伯父(をぢ)にて候(さうら)ふ美作(みまさか)の阿闍梨(あじやり)と申(まう)すは、東山道(とうせんだう)を経(へ)て、信濃国(しなののくに)へ下(くだ)り候(さうら)ふ。此(こ)の僧(そう)は讚岐(さぬき)の阿闍梨(あじやり)と申(まう)し候(さうら)ふが、北陸道(ほくろくどう)にかかり、越後(ゑちご)に下(くだ)り候(さうら)ふ。御内(みうち)の勧進(くわんじん)は如何様(いかやう)に候(さうら)ふべき」と申(まう)しければ、富樫(とがし)「よくこそ御出(おいで)候(さうら)へ」とて、加賀(かが)の上品(じやうぼん)五十疋(ごじつぴき)女房(にようばう)の方(かた)より罪障(ざいしやう)懺悔(さんげ)の為(ため)にとて、白袴(しろはかま)一腰(こし)、八花形(はながた)に鋳(い)たる鏡(かがみ)、さては家の子郎等(らうどう)女房(にようばう)達(たち)下女に至(いた)るまで、思(おも)ひ思(おも)ひに勧進(くわんじん)に入(い)り、惣(そう)じて名帳(みやうちやう)につく百五十人、「勧進(くわんじん)の物(もの)は、只今(ただいま)賜(たま)はるべく候(さうら)へども、来月中旬(ちゆうじゆん)に上(のぼ)り候(さうら)はんずれば、其(そ)の時賜(たま)はり候(さうら)はん」とて、預(あづ)け置(お)きてぞ出(い)でにける。馬(うま)に乗(の)せられて、宮腰(みやのこし)まで送(おく)られけり。行(ゆ)きて判官(はうぐわん)を尋(たづ)ね奉(たてまつ)れども見(み)え給(たま)はず。それより大野(おほの)の湊(みなと)にて参(まゐ)り逢(あ)ひけり。「如何(いか)に今(いま)まで久しく、如何(いか)に」と仰(おほ)せられければ、「様々(さまざま)にもてなされて、経(きやう)を誦(よ)みなどして、馬(うま)にて是(これ)まで送(おく)られて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、武蔵(むさし)を人々(ひとびと)上(あ)げつ、下(おろ)しつ、守(まぼ)りける。其(そ)の日は竹橋(たけのはし)に泊(とま)り給(たま)ひて、明(あ)くれば倶利伽羅山(くりからやま)を越(こ)えて、馳籠(はせこみ)が谷(たに)を見(み)給(たま)ひて、是(これ)は平家(へいけ)の多(おほ)く亡(ほろ)びし所(ところ)にてあるなるにとて、各々(おのおの)阿弥陀経(あみだきやう)を読(よ)み、念仏(ねんぶつ)申(まう)し、彼(か)の亡魂(ばうこん)を弔(とぶら)ひてぞ通(とほ)られける。兎角(とかく)
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し給(たま)ふ程(ほど)に、夕日(ゆふひ)西へかかりて、黄昏時(たそがれどき)にもなりぬれば、松永(まつなが)の八幡(はちまん)の御前(おまへ)にして、夜を明(あ)かし給(たま)ひけり。
如意(によい)の渡(わたり)にて義経(よしつね)を弁慶(べんけい)打(う)ち奉(たてまつ)る事 S0706
夜も明(あ)けければ、如意(によい)の城を船(ふね)に召(め)して、渡(わたり)をせんとし給(たま)ふに、渡守(わたしもり)をば平(へい)権守(ごんのかみ)とぞ申(まう)しける。彼(かれ)が申(まう)しけるは、「暫(しばら)く申(まう)すべき事(こと)候(さうら)ふ。是(これ)は越中(ゑつちゆう)の守護(しゆご)近(ちか)き所(ところ)にて候(さうら)へば、予(かね)て仰(おほ)せ蒙(かうぶ)りて候(さうら)ひし間(あひだ)、山伏(やまぶし)五人三人は言(い)ふに及(およ)ばず、十人にならば、所(ところ)へ仔細(しさい)を申(まう)さで、渡(わた)したらんは僻事(ひがごと)ぞと仰(おほ)せ付(つ)けられて候(さうら)ふ。既(すで)に十七八人御渡(おんわた)り候(さうら)へば、怪(あや)しく思(おも)ひ参(まゐ)らせ候(さうら)ふ。守護(しゆご)へ其(そ)の様(やう)を申(まう)し候(さうら)ひて渡(わた)し参(まゐ)らせん」と申(まう)しければ、武蔵坊(むさしばう)是(これ)を聞(き)きて、妬(ねた)げに思(おも)ひて、「や殿(との)、さりとも此(こ)の北陸道(ほくろくだう)に羽黒(はぐろ)の讚岐(さぬき)見(み)知(し)らぬ者(もの)やあるべき」と申(まう)しければ、中乗(なかのり)に乗(の)つたる男(をとこ)、弁慶(べんけい)をつくづくと見(み)て、「実(げ)に実(げ)に見(み)参(まゐ)らせたる様(やう)に候(さうら)ふ。一昨年(をととし)も一昨々年(さをととし)も、上下向(しやうけかう)毎(ごと)に御幣(へい)とて申(まう)し下(くだ)し賜(たま)はりし御坊(ごばう)や」と申(まう)しければ、弁慶(べんけい)嬉(うれ)しさに、「あ、よく見(み)られたり見(み)られたり」とぞ申(まう)しける。権守(ごんのかみ)申(まう)しけるは、「小賢(こざか)しき男(をとこ)の言(い)ひ様(やう)かな。見(み)知(し)り奉(たてまつ)りたらば、
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和男(わをとこ)が計(はか)らひに渡(わた)し奉(たてまつ)れ」と申(まう)しければ、弁慶(べんけい)是(これ)を聞(き)きて、「抑(そもそも)此(こ)の中にこそ九郎判官(はうぐわん)よと、名を指(さ)して宣(のたま)へ」と申(まう)しければ、「あの舳(へさき)に村千鳥(むらちどり)の摺(すり)の衣(ころも)召(め)したるこそ怪(あや)しく思(おも)ひ奉(たてまつ)れ」と申(まう)しければ、弁慶(べんけい)「あれは加賀(かが)の白山(しらやま)より連(つ)れたりし御坊(ごばう)なり。あの御坊故(ゆゑ)に所々(ところどころ)にて人々(ひとびと)に怪(あや)しめらるるこそ詮(せん)無(な)けれ」と言(い)ひけれども、返事(へんじ)もせで打(う)ち俯(うつぶ)きて居(ゐ)給(たま)ひたり。弁慶(べんけい)腹立(はらだ)ちたる姿(すがた)になりて、走(はし)り寄(よ)りて舟端(ふなばた)を踏(ふ)まへて、御腕(かひな)を掴(つか)んで肩(かた)に引(ひ)つ懸(か)けて、浜(はま)へ走(はし)り上(あ)がり、砂(いさご)の上(うへ)にがはと投(な)げ棄(す)てて、腰(こし)なる扇(あふぎ)抜(ぬ)き出(い)だし、労(いた)はしげも無(な)く、続(つづ)け打(う)ちに散々(さんざん)にぞ打(う)ちたりける。見(み)る人目もあてられざりけり。北(きた)の方(かた)は余(あま)りの御(おん)心(こころ)憂(う)さに声(こゑ)を立(た)てても悲(かな)しむばかりに思(おぼ)し召(め)しけれども、流石(さすが)人目(ひとめ)の繁(しげ)ければ、さらぬ様(やう)にて御座(おは)しけり。平(へい)権守(ごんのかみ)
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是(これ)を見(み)て、「すべて羽黒(はぐろ)山伏(やまぶし)程(ほど)情(なさけ)無(な)き者(もの)は無(な)かりけり。「判官(はうぐわん)にてはなし」と仰(おほ)せらるれば、さてこそ候(さうら)はんずるに、あれ程(ほど)痛(いた)はしく情(なさけ)無(な)く打(う)ち給(たま)へるこそ心(こころ)憂(う)けれ。詮(せん)ずる所(ところ)、是(これ)は某(それがし)が打(う)ち参(まゐ)らせたる杖(つゑ)にてこそ候(さうら)へ。かかる御労(おんいた)はしき事こそ候(さうら)はね。是(これ)に召(め)し候(さうら)へ」とて、船(ふね)を差(さ)し寄(よ)する。■取(かんどり)乗(の)せ奉(たてまつ)りて申(まう)しけるは、「さらばはや船賃(ふなちん)なして越(こ)し給(たま)へ」と言(い)へば、「何時(いつ)の習(なら)ひに羽黒(はぐろ)山伏(やまぶし)の船賃(ふなちん)なしけるぞ」と言(い)ひければ、「日頃(ひごろ)取(と)りたる事(こと)は無(な)けれども、御坊(ごばう)の余(あま)りに放逸(はういつ)に御座(おは)すれば、取(と)りてこそ渡(わた)さんずれ。疾(と)く船賃(ふなちん)なし給(たま)へ」とて船(ふね)を渡(わた)さず。弁慶(べんけい)、「和殿(わどの)斯様(かやう)に我(われ)等(ら)に当(あ)たらば、出羽(では)の国(くに)へ一年二年のうちに来(き)たらぬ事(こと)はよも有(あ)らじ。酒田(さかた)の湊(みなと)は此(こ)の少人(せうじん)の父、酒田(さかた)次郎(じらう)殿(どの)の領(りやう)なり。只今(ただいま)当(あ)たり返(かへ)さんずるものを」とぞ威(おど)しけり。然(さ)れども権守(ごんのかみ)、「何(なに)とも宣(のたま)へ、船賃(ふなちん)取(と)らで、えこそ渡すまじけれ」とて渡(わた)さず。弁慶(べんけい)、「古(いにし)へ取(と)られたる例(れい)は無(な)けれ共(ども)、此(こ)の僻事(ひがごと)したるによつて取(と)らるるなり」とて、「さらばそれ賜(た)び候(さうら)へ」とて、北(きた)の方(かた)の著給(たま)へる帷(かたびら)の尋常(じんじやう)なるを脱(ぬ)がせ奉(たてまつ)りて、渡守(わたしもり)に取(と)らせけり。権守(ごんのかみ)是(これ)を取(と)りて申(まう)しけるは、「法(ほふ)に任(まか)せて取(と)りては候(さうら)へども、あの御坊(ごばう)のいとほしければ参(まゐ)らせん」とて、判官(はうぐわん)殿(どの)にこそ奉(たてまつ)りける。武蔵坊(むさしばう)是(これ)を見(み)て、片岡(かたをか)が袖を控(ひか)へて、「痴(をこ)がましや、只(ただ)あれもそれも同(おな)じ事(こと)ぞ」と囁(ささや)き
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ける。かくて六動寺(ろくだうじ)を越(こ)えて、奈呉(なご)の林(はやし)をさして歩(あゆ)み給(たま)ひける。武蔵(むさし)忘(わす)れんとすれ共(ども)、忘(わす)られず。走(はし)り寄(よ)りて判官(はうぐわん)の御袂(おんたもと)に取(と)り付(つ)きて、声(こゑ)を立(た)てて泣(な)く泣(な)く申(まう)しけるは、「何時(いつ)まで君(きみ)を庇(かば)ひ参(まゐ)らせんとて、現在(げんざい)の主(しゆう)を打(う)ち奉(たてまつ)るぞ。冥顕(みやうけん)の恐(おそれ)も恐(おそ)ろしや。八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)も許(ゆる)し給(たま)へ。浅(あさ)ましき世の中かな」とて、さしも猛(たけ)き弁慶(べんけい)が伏(ふ)し転(ころ)び泣(な)きければ、侍(さぶらひ)共(ども)一(ひと)つ所(ところ)に顔(かほ)を並(なら)べて、消(き)え入(い)る様(やう)に泣(な)き居(ゐ)たり。判官(はうぐわん)「是(これ)も人の為(ため)ならず。斯程(かほど)まで果報(くわほう)拙(つたな)き義経(よしつね)に、斯様(かやう)に志(こころざし)深(ふか)き面々(めんめん)の、行末(ゆくすゑ)までも如何(いかが)と思(おも)へば、涙(なみだ)の零(こぼ)るるぞ」とて、御袖を濡(ぬ)らし給(たま)ふ。各々(おのおの)此(こ)の御言葉(おんことば)を聞(き)きて、猶(なほ)も袂(たもと)を絞(しぼ)りけり。かくする程(ほど)に日も暮(く)れければ、泣(な)く泣(な)く辿(たど)り給(たま)ひけり。やや有(あ)りて北(きた)の方(かた)、「三途(さんづ)の河をわたるこそ、著(き)たる物を剥(は)がるるなれ。少(すこ)しも違(たが)はぬ風情(ふぜい)かな」とて、岩瀬(いはせ)の森(もり)に著(つ)き給(たま)ふ。其(そ)の日は此処(ここ)に泊(とま)り給(たま)ひけり。明(あ)くれば黒部(くろべ)の宿(やど)に少(すこ)し休(やす)ませ給(たま)ひ、黒部(くろべ)四十八箇瀬(しじふはつかせ)の渡(わたり)を越(こ)え、市振(いちふり)、浄土(じやうど)、歌(うた)の脇(わき)、寒原(かんばら)、なかはしと言(い)ふ所(ところ)を通(とほ)りて、岩戸(いはと)の崎(さき)と言(い)ふ所(ところ)に著(つ)きて、海人(あま)の苫屋(とまや)に宿(やど)を借(か)りて、夜と共(とも)に御物語(ものがたり)有(あ)りけるに、浦(うら)の者(もの)共(ども)、搗布(かちめ)と言(い)ふものを潛(かづ)きけるを見(み)給(たま)ひて、北(きた)の方(かた)かくぞ続(つづ)け給(たま)ひける。
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四方(よも)の海(うみ)浪(なみ)の寄(よ)る寄(よ)る来(き)つれどもいまぞ初(はじ)めて憂(う)き目(め)をば見(み)る W018
弁慶(べんけい)是(これ)を聞(き)きて、忌々(いまいま)しくぞ思(おも)ひければ、かくぞ続(つづ)け申(まう)しける。
浦(うら)の道(みち)浪(なみ)の寄(よ)る寄(よ)る来(き)つれども今(いま)ぞ初(はじ)めて良(よ)き目(め)をば見(み)る W019
かくて岩戸(いはと)の崎(さき)をも出(い)で給(たま)ひて、越後(ゑちご)の国(くに)の府(ふ)、直江津(なほえのつ)花園(はなぞの)の観音堂(くわんおんだう)と言(い)ふ所(ところ)に著(つ)き給(たま)ふ。此(こ)の本尊(ほんぞん)と申(まう)すは、八幡(はちまん)殿(どの)安倍(あべ)の貞任(さだたふ)を攻(せ)め給(たま)ひし時(とき)、本国の御祈祷(ごきたう)の為(ため)に直江(なほえ)の次郎(じらう)と申(まう)しける有徳(うとく)の者(もの)に仰(おほ)せ付(つ)けて、三十領(りやう)の鎧(よろひ)を賜(た)びて、建立(こんりう)し給(たま)ひし源氏(げんじ)重代(ぢゆうだい)の御本尊(ほんぞん)なりければ、其(そ)の夜はそれにて夜もすがら御祈念(きねん)有(あ)りけり。
直江(なほえ)の津(つ)にて笈(おひ)探(さが)されし事 S0707
此処(ここ)に越後(ゑちご)の国府(こくふ)の守護(しゆご)鎌倉(かまくら)へ上(のぼ)りてなし。浦(うら)の代官(だいくわん)はらう権守(ごんのかみ)と言(い)ふ者(もの)有(あ)り。山伏(やまぶし)著(つ)き給(たま)ふと聞(き)きて、浦(うら)の者共(ども)を催(もよほ)して、櫓(ろ)櫂(かい)などを乳切木(ちぎりき)材棒(さいぼう)にして、網人(あみびと)共(ども)を先(さき)として、理非(りひ)も弁(わきま)へぬ奴原(やつばら)が二百余人観音堂(くわんおんだう)を押(お)し巻(ま)きたり。折節(をりふし)侍(さぶらひ)共(ども)、方々(はうばう)へ斎料(ときりやう)尋(たづ)ねに行(ゆ)きければ、判官(はうぐわん)只(ただ)一人(ひとり)御座(おは)しける所(ところ)に押(お)し寄(よ)す。直江(なほえ)の御堂(みだう)に騒動(さうどう)する事(こと)聞(き)こえければ、弁慶(べんけい)走(はし)り合(あ)はんと急(いそ)ぐ。判官(はうぐわん)
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問答(もんだふ)し給(たま)ひけるは、昨日(きのふ)までは羽黒(はぐろ)山伏(やまぶし)と宣(のたま)ひしが、今(いま)は羽黒(はぐろ)近(ちか)ければ、引(ひ)き代(か)へて、「熊野(くまの)より羽黒(はぐろ)へ参(まゐ)り候(さうら)ふが、船(ふね)を尋(たづ)ねて是(これ)に候(さうら)ふ。先達(せんだち)の御坊(ごばう)は旦那(だんな)尋(たづ)ねに御座(おは)しまして候(さうら)ふ。是(これ)は御留守(るす)に候(さうら)ふ。何事(なにごと)ぞ」などと問答(もんだふ)し給(たま)ふ所(ところ)に武蔵坊(むさしばう)物(もの)の翔(かけ)りたる様(やう)にてぞ出(い)で来(き)たり申(まう)しけるは、「あの笈(おひ)の中には三十三体(だい)の聖観音(しやうくわんおん)京(きやう)より下(くだ)し参(まゐ)らせ候(さうら)ふが、来月四日の頃(ころ)には御宝殿(ごほうでん)に入(い)れ参(まゐ)らせ候(さうら)はんずるぞ。各々(おのおの)身不浄(ふじやう)なる様(やう)にて、左右(さう)無(な)く近(ちか)づきて権現(ごんげん)の御本地(ほんぢ)汚(けが)し給(たま)ふな。仰(おほ)せらるべき事(こと)有(あ)らば、外処(よそ)にて仰(おほ)せられ候(さうら)へ。権現(ごんげん)を汚(けが)し参(まゐ)らせ給(たま)ふ程(ほど)ならば、笈(おひ)を滌(すす)がざらんより外(ほか)はあるまじ」と威(おど)しけれ共(ども)、少(すこ)しも用(もち)ゐずして、口々(くちぐち)に罵(ののし)りけり。権守(ごんのかみ)申(まう)しけるは、「判官(はうぐわん)殿(どの)、道々(みちみち)も陳(ちん)じて通(とほ)り給(たま)ふ事、其(そ)の隠(かく)れなし。是(これ)には今程(ほど)守護(しゆご)こそ留守(るす)にて候(さうら)へども、形(かた)の如(ごと)くも此(こ)の尉(じよう)が承(うけたまは)つて候(さうら)ふ間(あひだ)、上(かみ)つ方(がた)まで聞召(きこしめ)し候(さうら)はんずる事(こと)にて候(さうら)ふ間(あひだ)、斯様(かやう)に申(まう)し候(さうら)ふ。さ候(さうら)はば、心(こころ)休(やす)めに笈(おひ)を一挺(いつちやう)賜(たま)はつて見(み)参(まゐ)らせ候(さうら)はん」と申(まう)しければ、「是(これ)は御本尊(ほんぞん)の渡(わた)らせ御座(おは)しまし候(さうら)ふ笈(おひ)を、不浄(ふぢやう)なる者(もの)に左右(さう)無(な)く探(さが)させん事(こと)恐(おそ)れにてはあれども、和殿原(わとのばら)が疑(うたがひ)をなし、好(この)む禍(わざはひ)なれば、罪(つみ)を蒙(かうぶ)らんは汝等(おのれら)次第(しだい)よ。すは見よ」とて手(て)に当(あ)たる笈(おひ)一挺(いつちやう)取(と)つて投(な)げ出(い)だす。何(なに)と無(な)く取(と)りて出(い)だしたるが、判官(はうぐわん)の笈(おひ)にてぞ有(あ)りける。武蔵坊(むさしばう)是(これ)を見(み)て、あはやと思(おも)ひける所(ところ)
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に三十三枚(まい)の櫛(くし)を取(と)り出(い)だして、「是(これ)は如何(いかが)」と申(まう)しければ、弁慶(べんけい)あざ笑(わら)ひて、「えいえい、何(なに)も知(し)り給(たま)はずや、児(ちご)の髪(かみ)をば梳(けづ)らぬか」と言(い)ひければ、権守(ごんのかみ)理(ことわり)と思(おも)ひければ、傍(かたは)らに差(さ)し置(お)きて、唐(から)の鏡(かがみ)取(と)り出(い)だし、「是(これ)は如何(いかが)」と言(い)へば、「児(ちご)を具(ぐ)したる旅(たび)なれば、化粧(けはい)の具足(ぐそく)を持(も)つまじき謂(いは)れが有(あ)らばこそ」と言(い)ひければ、「理(ことわり)」とて八尺(はつしやく)の掛帯(かけおび)、五尺(しやく)の鬘(かつら)、紅(くれなゐ)の袴(はかま)、重(かさね)の衣(きぬ)を取(と)り出(い)だして、「是(これ)は如何(いか)に。児(ちご)の具足(ぐそく)にも是(これ)が要(い)るか」と申(まう)しければ、「法師(ほふし)が伯母(をば)にて候(さうら)ふ者、羽黒(はぐろ)の権現(ごんげん)の惣(そう)の巫(いち)にて候(さうら)ふが、鬘(かつら)袴(はかま)色(いろ)良(よ)き掛帯(かけおび)買(か)うて下(くだ)せ」と申(まう)し候(さうら)ふ程(ほど)に、「今度(こんど)の下(くだ)りに持(も)ちて下(くだ)り、喜(よろこ)ばせんが為(ため)にて候(さうら)ふぞ」と言(い)ひければ、「それはさもさうず」と申(まう)す。「さ候(さうら)はば、今(いま)一挺(いつちやう)の笈(おひ)御出(おいだ)し候(さうら)へ。見(み)候(さうら)はばや」と申(まう)す。「何挺(なんちやう)にてもあれ、心(こころ)に任(まか)す」とて、又
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一挺(いつちやう)投(な)げ出(い)だす。片岡(かたをか)が笈(おひ)にてぞ有(あ)りける。此(こ)の笈(おひ)の中には兜(かぶと)籠手(こて)臑当(すねあて)、柄(え)も無(な)き鉞(まさかり)をぞ入(い)れたりける。兎角(とかく)すれども強(つよ)くからげたり。暗(くら)さは暗(くら)し。解(と)き兼(か)ねてぞ有(あ)りける。弁慶(べんけい)は手(て)を合(あ)はせて、南無(なむ)八幡(はちまん)と祈念(きねん)して、「其(そ)の笈(おひ)には権現(ごんげん)の渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)ふぞ。返(かへ)す返(がへ)す不浄(ふぢやう)にして罰(ばち)当(あ)たり給(たま)ふな」と申(まう)しければ、「御正体(みしやうだい)にて渡(わた)らせ給(たま)はば、必(かなら)ず開(あ)けずとも知(し)るべき」とて、笈(おひ)の掛緒(かけを)を取(と)つて引(ひ)き上(あ)げて振(ふ)りたりければ、籠手(こて)臑当(すねあて)鉞(まさかり)がからりひしりと鳴(な)りければ、権守(ごんのかみ)胸(むね)打(う)ち騒(さわ)ぎ、「斯(か)かる事こそ候(さうら)はね。実(げ)に御正体(みしやうだい)にて渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)ひけるを」とて、「是(これ)受(う)け取(と)り給(たま)へ」と申(まう)しければ、弁慶(べんけい)、「然(さ)ればこそさしも言(い)ひつる事(こと)を。笈(おひ)滌(すす)がざらんには、左右(さう)無(な)く受(う)け取(と)り給(たま)ふな、御坊(ごばう)達(たち)」と言(い)ひければ、左右(さう)無(な)く人受(う)け取(と)らず。「予(かね)て言(い)はぬ事か、滌(すす)がずは祈(いの)れ。清(きよ)めには物が多(おほ)く要(い)らんずるぞ」と言(い)ひければ、権守(ごんのかみ)、「理(り)を枉(ま)げて、受(う)け取(と)り給(たま)へ」と言(い)へば、「笈(おひ)滌(すす)がずは、権守(ごんのかみ)が許(もと)に御正体(みしやうだい)を振(ふ)り棄(す)て奉(たてまつ)りて、我(われ)等(ら)は羽黒(はぐろ)に参(まゐ)りて、大衆(だいしゆ)を催(もよほ)して、御迎(おんむか)ひに参(まゐ)らんずるなり」と威(おど)されて、寄(よ)せたりける者(もの)も一人一人(ひとりひとり)散(ち)り散(ぢ)りにぞなりける。権守(ごんのかみ)一人は大事(だいじ)になりて、「笈(おひ)を滌(すす)ぎ候(さうら)はんには、幾(いく)ら程(ほど)物(もの)の要(い)り候(さうら)ふぞ」と言(い)ひければ、「権現(ごんげん)も衆生(しゆじやう)利益(りやく)の御慈悲(じひ)なれば、形(かた)の如(ごと)くにてこそ有(あ)らんずれ。先(ま)づ御幣紙(へいかみ)の料(れう)に檀紙(だんじ)百帖(ひやくでう)、白米(はくまい)三石(さんごく)三斗(さんと)、黒米(くろよね)三石(さんごく)三斗(さんと)、白布(しろぬの)
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百反(ひやくたん)、紺(こん)の布(ぬの)百反(ひやくたん)、鷲(わし)の羽(は)百尻(ひやくしり)、黄金(こがね)五十両(りやう)、毛(け)揃(そろ)へたる馬(うま)七疋(ひき)、粗薦(あらこも)百枚、これ敷(し)きて積(つ)みて参(まゐ)らせば、形(かた)の如(ごと)くなりとも、滌(すす)ぎて奉(たてまつ)らん」とぞ申(まう)しける。権守(ごんのかみ)「如何(いか)に思(おも)ひ候(さうら)ふとも極(きは)めて貧(ひん)なる者(もの)にて候(さうら)ふ。叶(かな)ひ難(がた)く候(さうら)へ」とて米(こめ)三石(さんごく)、白布(しろぬの)三十反(たん)、鷲(わし)の羽(は)七尻(しり)、黄金(こがね)十両(りやう)、毛(け)揃(そろ)へたる神馬(じんめ)三疋(さんびき)、「是(これ)より外(ほか)は持(も)ちたるものも候(さうら)はず。然るべく候(さうら)はば、申(まう)し上(あ)げて賜(たま)はり候(さうら)へ」と詫(わ)びければ、「いでさらば権現(ごんげん)の御腹(はら)なぐさめ参(まゐ)らせん」とて兜(かぶと)、籠手(こて)、臑当(すねあて)の入(い)りたる笈(おひ)に向(むか)ひて、何事(なにごと)をか申(まう)し、「むつむつかんかんらんらん蘇波訶(そわか)蘇波訶(そわか)」と申(まう)して、「おんころおんころ般若心経(はんにやしんぎやう)」などぞ祈(いの)りける。笈(おひ)を突(つ)き働(はたら)かして、「権現(ごんげん)に其(そ)の旨(むね)申(まう)し上(あ)げ候(さうら)ひぬ。世の例(ためし)なれば、かくは執(と)り行(おこな)ひ候(さうら)ひぬ。是(これ)等(ら)は御辺(ごへん)の計(はか)らひにて、羽黒(はぐろ)へ届(とど)けて参(まゐ)らせて賜(た)び候(さうら)へ」とて、権守(ごんのかみ)が許(もと)にぞ預(あづ)けける。さて夜も更(ふ)けければ、片岡(かたをか)直江(なほえ)の湊(みなと)へ下(くだ)りて見(み)れば、佐渡(さど)より渡(わた)したりける船(ふね)に、苫(とま)をも葺(ふ)かず主(ぬし)も無(な)く、櫓(ろ)櫂(かい)■(かぢ)なども有(あ)りながら、波(なみ)に引(ひ)かれ揺(ゆ)られゐたり。片岡(かたをか)是(これ)を見(み)て、「あはれ物(もの)やな、此(こ)の船を取(と)つて乗(の)らばや」と思(おも)ひて、観音堂(くわんおんだう)に参(まゐ)りて、弁慶(べんけい)にかくと言(い)ひければ、「いざさらば此(こ)の船(ふね)取(と)りて、今朝(けさ)の嵐(あらし)に出(い)ださん」とて、湊(みなと)に下(くだ)り、十余人(よにん)取(と)り乗(の)りて押(お)し出(い)だす。妙観音(めうくわんおん)の岳(たけ)より
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下(おろ)したる嵐(あらし)に帆(ほ)引(ひ)き掛(か)けて、米山(よなやま)を過(す)ぎて、角田山(かくたやま)を見(み)付(つ)けて、「あれ見(み)給(たま)へや、風(かぜ)は未(いま)だ嵐(あらし)風弱(よわ)くならば、櫓(ろ)を添(そ)へて押(お)せや」とぞ申(まう)しける。青島(あをしま)の北(きた)を見(み)給(たま)へば、白雲(しらくも)の山腰(やまこし)を離(はな)れて、宙(ちう)に吹(ふ)かれて出(い)で来(く)るを、片岡(かたをか)申(まう)しけるは、「国の習(なら)ひは知(し)らず、此(こ)の雲こそ風雲(かざぐも)と覚(おぼ)ゆれ。如何(いかが)すべき」と言(い)ひも果(は)てねば、北風吹(ふ)き来(き)たりて、陸(くが)には砂(いさご)を上(あ)げ、沖(おき)には潮(しほ)を巻(ま)いてぞ吹(ふ)きたりける。蜑(あま)の釣舟(つりぶね)の浮(う)きぬ沈(しづ)みぬを見(み)給(たま)ふにも、「我(わ)が船(ふね)もかくぞ有(あ)らめ」と思(おも)ひ給(たま)ふに、心(こころ)細(ぼそ)くして、遙(はる)かの沖(おき)に漂(ただよ)ひ給(たま)ひけり。「とても叶(かな)ふまじくは、只(ただ)風に任(まか)せよ」とて、御舟(ふね)をば佐渡(さど)の島(しま)へ馳(は)せ付(つ)けて、まほろし加茂潟(かもがた)へ船(ふね)を寄(よ)せんとしけれども、浪(なみ)高(たか)くして寄(よ)せ兼(か)ねて、松(まつ)かげが浦(うら)へ馳(は)せもて行(ゆ)く。それも白山(しらやま)の岳(たけ)より下(おろ)したる風(かぜ)はげしくて、佐渡(さど)の島を離(はな)れて、能登(のと)の国(くに)珠州(すず)が岬(みさき)へぞ向(む)けたりける。さる程(ほど)に日も暮方(くれがた)になりければ、いとど心(こころ)ぞ違(ちが)ひける。御幣(へい)を接(は)いで、笈(おひ)の足(あし)に挟(はさ)みて祈(いの)られけるは、「天(てん)を祭(まつ)る事(こと)はさる事(こと)にて候(さうら)へ、此(こ)の風(かぜ)を和(やは)らげて、今(いま)一度陸(くが)に著(つ)けて、ともかくもなさせ給(たま)へ」とて笈(おひ)の中より白鞘巻(しろさやまき)を取(と)り出(い)だして、「八大龍王(はつだいりゆうわう)に参(まゐ)らせ候(さうら)ふ」とて、海(うみ)へ入(い)れ給(たま)ふ。北(きた)の方(かた)も紅(くれなゐ)の袴(はかま)に唐(から)の鏡(かがみ)取(と)り添(そ)へて、「龍王(りゆうわう)に奉(たてまつ)る」とて海(うみ)に入(い)れさせ給(たま)ひけり。然(さ)れども風(かぜ)は止(や)む事(こと)なし。さる程(ほど)に日も既(すで)に暮(く)れぬれば、黄昏時(たそがれどき)にもなりにけり。いとど
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心(こころ)細(ぼそ)くぞ覚(おぼ)えける。能登国(のとのくに)石動(ゆするぎ)の岳(たけ)より又(また)西風(にしかぜ)吹(ふ)きて船(ふね)を東(ひがし)へぞ向(む)けたりける。あはれ順風(じゆんぷう)やとて、風(かぜ)に任(まか)せて行(ゆ)く程(ほど)に、夜も夜半(やはん)ばかりになれば、風(かぜ)も静(しづ)まり、波(なみ)も和(やは)らぎければ、少(すこ)し人々(ひとびと)心(こころ)安(やす)くて、風(かぜ)をはかりに行(ゆ)く程(ほど)に、暁方(あかつきがた)に其処(そこ)とも知(し)らぬ所に御舟(ふね)を馳(は)せ上(あ)げて、陸(くが)に上(あ)がりて、苫屋(とまや)に立(た)ち寄(よ)りて、「是(これ)をば何処(いづく)と言(い)ふぞ」と問(と)ひければ、「越後(ゑちご)の国(くに)寺泊(てらどまり)」とぞ申(まう)しける。「思(おも)ふ所(ところ)に著(つ)きたるや」と悦(よろこ)びて、其(そ)の夜の中(うち)に国上(くがみ)と言(い)ふ所(ところ)に上(あ)がりて、みくら町(まち)に宿(やど)を借(か)り、明(あ)くれば弥彦(やひこ)の大明神(だいみやうじん)を拝(おが)み奉(たてまつ)りて、九十九里(くじふくり)の浜(はま)にかかりて、蒲原(かんばら)の館(たち)を越(こ)えて、八十八里(はちじふはちり)の浜(はま)などと言(い)ふ所(ところ)を行(ゆ)き過(す)ぎて、荒川(あらかい)の松原(まつばら)、岩船(いはふね)を通(とほ)りて、瀬波(せなみ)と言(い)ふ所(ところ)に左胡■(ひだりやなぐひ)、右靭(みぎうつほ)、せんが桟(かけはし)などと言(い)ふ名所(めいしよ)名所(めいしよ)を通(とほ)り給(たま)ひて、念珠(ねんじゆ)の関守(せきもり)厳(きび)しくて通(とほ)るべき
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様(やう)も無(な)ければ、「如何(いかが)せん」と仰(おほ)せられければ、武蔵坊(むさしばう)申(まう)しけるは、「多(おほ)くの難所(なんじよ)をのがれて、是(これ)まで御座(おは)しましたれば、今(いま)は何事(なにごと)か候(さうら)ふべき。さりながら用心(ようじん)はせめ」とて、判官(はうぐわん)をば下種(げす)山伏(やまぶし)に作(つく)りなし、二挺(ちやう)の笈(おひ)を嵩高(かさだか)に持(も)たせ奉(たてまつ)り、弁慶(べんけい)大(だい)の■(しもと)杖(つゑ)に突(つ)き、「あゆめや法師(ほふし)」とて、しとと打(う)ちて行(ゆ)きければ、関守(せきもり)共(ども)是(これ)を見(み)て、「何事(なにごと)の咎(とが)にて、それ程(ほど)苛(さいな)み給(たま)ふ」と申(まう)しければ弁慶(べんけい)答(こた)へけるは、「是(これ)は熊野(くまの)の山伏(やまぶし)にて候(さうら)ふが、是(これ)に候(さうら)ふ山伏(やまぶし)は、子々(しし)相伝(さうでん)の者(もの)にて候(さうら)ふが、彼奴(きやつ)を失(うしな)ふて候(さうら)ひつるに、此(こ)の程(ほど)見(み)付(つ)けて候(さうら)ふ間(あひだ)、如何(いか)なる咎(とが)をも当(あ)ててくれうず候(さうら)ふ。誰(たれ)か咎(とが)め給(たま)ふべき」とて、いよいよ隙(ひま)無(な)く打(う)ちてぞ通(とほ)りける。関守(せきもり)共(ども)是(これ)を見(み)て、難(なん)無(な)く木戸を開(あ)けて通(とほ)しけり。程(ほど)無(な)く出羽(では)の国(くに)へ入(い)り給(たま)ふ。其(そ)の日ははらかいと言(い)ふ所(ところ)に著(つ)き給(たま)ひて、明(あ)くれば笠取山(かさとりやま)などと言(い)ふ所(ところ)を過(す)ぎ給(たま)ひて、田川郡(たかはのこほり)三瀬(さんぜ)の薬師堂(やくしだう)に著(つ)き給(たま)ふ。是(これ)にて雨(あめ)降(ふ)り、水増(ま)さりければ、二三日御逗留(ごとうりう)有(あ)りけり。此処(ここ)に田川郡(たかはのこほり)の領主(りやうじゆ)田川(たかは)の太郎実房(さねふさ)と言(い)ふ者(もの)有(あ)り。若(わか)かりし時(とき)より数多(あまた)子を持(も)ちたりけるが、皆(みな)先立(さきだ)てて十三になる子一人持(も)ちたりけるが、瘧病(ぎやへい)をして、万事限(かぎ)りになりにけり。羽黒(はぐろ)近(ちか)き所(ところ)なれば、然(しか)るべき山伏(やまぶし)など請(しやう)じて祈(いの)られけれども、其(そ)の験(しるし)もなし。此(こ)の山伏(やまぶし)達(たち)御座(おは)する由(よし)を伝(つた)へ聞(き)きて、郎等(らうどう)共(ども)に申(まう)しけるは、「熊野
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羽黒(はぐろ)とて、何(いづ)れも威光(いくわう)は劣(おと)らせ給(たま)はぬ事(こと)なれども、熊野(くまの)権現(ごんげん)と申(まう)すは、いま一入(ひとしほ)尊(たうと)き御事(おんこと)なれば、行者(ぎやうじや)達(たち)もさこそ御座(おは)すらん。請(う)け奉(たてまつ)りて、験者(げんじや)一座せさせ奉(たてまつ)りて見(み)ばや」とぞ申(まう)しける。妻女(さいぢよ)も子の痛(いた)はしさに、「急(いそ)ぎ御使(おんつかひ)参(まゐ)らせ給(たま)へ」とて、実房(さねふさ)が代官(だいくわん)に大内三郎と言(い)ふ者(もの)を三瀬(さんぜ)の薬師堂(やくしだう)へ参(まゐ)らする。客僧達(きやくそうたち)へ斯(か)くと申(まう)しければ、判官(はうぐわん)仰(おほ)せられけるは、「請用(しやうよう)は得(え)たけれども、我(われ)等(ら)が不浄(ふぢやう)の身にては何(なに)を祈(いの)りても其(そ)の験(しるし)やあるべき。詮(せん)も無(な)からぬもの故(ゆゑ)に、行(ゆ)きても何(なに)かせん」と仰(おほ)せられければ、武蔵坊(むさしばう)申(まう)しけるは、「君(きみ)こそ不浄(ふぢやう)に渡(わた)らせ給(たま)へ。我(われ)等(ら)は都(みやこ)を出(い)でしより、精進(しやうじん)潔斎(けつさい)もよく候(さうら)へば、たとひ験徳(けんとく)の程(ほど)は無(な)く共(とも)、我(われ)等(ら)が祈(いの)り候(さうら)はん景気(けいき)の、恐(おそ)ろしさになどか悪霊(あくりやう)も死霊(しりやう)もあらはれざるべき。偶々(たまたま)の請用(しやうよう)にて候(さうら)ふに、只(ただ)御出(おい)で候(さうら)へかし」と申(まう)して、各々(おのおの)寄(より)合(あ)ひ笑(わら)ひ戯(たはぶ)れ奉(たてまつ)りければ、「是(これ)は秀衡(ひでひら)が知行(ちぎやう)の所にて候(さうら)へば、定(さだ)めて是(これ)も伺候(しこう)の者(もの)にて候(さうら)はめ。何(なに)か苦(くる)しく候(さうら)はん、知(し)らせさせ給(たま)へ」と申(まう)しければ、弁慶(べんけい)聞(き)きて、「あはれや殿(との)、親(おや)の心(こころ)を子知(し)らずとて、人の心(こころ)は知(し)り難(がた)し。自然(しぜん)の事(こと)有(あ)らば、後悔(こうくわい)先(さき)に立(た)つべからず。君(きみ)の御下著(ごげちやく)の後、実房(さねふさ)参(まゐ)らぬ事(こと)は有(あ)らじ。其(そ)の時(とき)の物笑にも知(し)らすべからず」とぞ申(まう)しける。「さて祈手(いのりて)は誰(たれ)をかすべき。護身(ごしん)は君(きみ)、数珠(じゆず)押(お)し揉(も)みて候(さうら)はん為(ため)には、弁慶(べんけい)に過(す)ぎ候(さうら)ふ
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まじ」とて、出(い)で立(た)ち給(たま)ひけり。御供(おんとも)には武蔵坊(むさしばう)、常陸坊(ひたちばう)、片岡(かたをか)、十郎(じふらう)権頭(ごんのかみ)四人田川(たかは)が許(もと)へ入(い)らせ給(たま)ふ。持仏堂(ぢぶつだう)に入(い)れ奉(たてまつ)る。田川(たかは)見参(げんざん)に入(い)り、子をば乳母(めのと)に介錯(かいしやく)せさせて、具(ぐ)してぞ出(い)で来たる。験者(げんじや)始(はじ)め給(たま)ふに、よりまはしに十二三ばかりなる童(わらは)をぞ召(め)されける。判官(はうぐわん)護身(ごしん)し給(たま)へば、弁慶(べんけい)数珠(じゆず)をぞ揉(も)みける。此(こ)の人々(ひとびと)祈(いの)り給(たま)ひける景気(けいき)心中(しんちゆう)の恐(おそ)ろしさにや、口走(くちばし)る。幣帛(へいはく)静(しづ)まりければ、悪霊(あくりやう)も死霊(しりやう)も立(た)ち去(さ)り、病人(びやうにん)即(すなは)ち平癒(へいゆう)す。験者(けんじや)いよいよ尊(たつと)くぞ見(み)え給(たま)ふ。其(そ)の日は止(とど)め奉(たてまつ)りけり。日々に発(お)こりける瘧病(ぎやへい)今(いま)は相違(さうゐ)なし。いとど信心増(ま)さり、喜悦(きえつ)斜(なのめ)ならず、仮初(かりそめ)なれども、権現(ごんげん)の御威光(いくわう)の程(ほど)も思(おも)ひ知(し)られて、尊(たつと)く思(おぼ)し召(め)しけり。御祈(いの)りの布施(ふせ)とて、鹿毛(かげ)なる馬(うま)に黒鞍(くろくら)置(お)きて参(まゐ)らせける。砂金(しやきん)百両(ひやくりやう)、「国の習(なら)ひにて候(さうら)ふ」とて、鷲(わし)の羽(は)百尻(ひやくしり)、残(のこ)る四人の山伏(やまぶし)に小袖(こそで)一重(ひとかさ)ねづつ参(まゐ)らせて、三瀬(さんぜ)の薬師堂(やくしだう)へ送(おく)り奉(たてまつ)る。使(つかひ)帰(かへ)りけるに、「御布施(ふせ)賜(たま)はり候(さうら)ふ事、さる事(こと)に候(さうら)へども、是(これ)も道(たう)の習(なら)ひにて候(さうら)へば、羽黒山(はぐろさん)にしばらく参籠(さんろう)し候(さうら)はんずれば、下向(げかう)の時(とき)賜(たま)はるべく候(さうら)ふ。其(そ)の間(あひだ)預(あづ)け申(まう)し候(さうら)ふべし」とて返(かへ)されけり。かくて田川(たかは)をも発(た)ち給(たま)ひ、大泉(おほいづみ)の庄(しやう)大梵字(だいぼんじ)を通(とほ)らせ給(たま)ひ、羽黒(はぐろ)の御山(おやま)を外処(よそ)にて、拝(おが)み給(たま)ふにも、御参籠(さんろう)の御志(おんこころざし)は御座(おは)しましけれども、御産(おさん)の月既(すで)に
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此(こ)の月に当(あ)たらせ給(たま)ふに、万(よろづ)恐(おそ)れをなして、弁慶(べんけい)ばかり御代官(おだいくわん)に参(まゐ)らせらる。残りの人々(ひとびと)はにつけのたかうらへかかりて、清河(きよかは)に著(つ)き給(たま)ふ。弁慶(べんけい)はあげなみ山(さん)にかかりて、よかはへ参(まゐ)り会(あ)ふ。其(そ)の夜は五所の王子(わうじ)の御前(おまへ)に一夜(いちや)の御通夜(おんつや)有(あ)り。此(こ)の清川(きよかは)と申(まう)すは、「羽黒(はぐろ)権現(ごんげん)の御手洗(みたらし)なり。月山の禅定(ぜんぢやう)より北(きた)の腰(こし)に流(なが)れ落(お)ちけり。熊野(くまの)には岩田河(いはたがは)、羽黒(はぐろ)には清川(きよかは)とて流(なが)れ清(きよ)き名水なり。是(これ)にて垢離(こり)をかき、権現(ごんげん)を伏(ふ)し拝(おが)み奉(たてまつ)る。無始(むし)の罪障(ざいしやう)も消滅(せうめつ)するなれば、此処(ここ)にては王子(わうじ)王子(わうじ)の御前(おまへ)にて御神楽(みかぐら)など参(まゐ)らせて、思(おも)ひ思(おも)ひの馴子舞(なれこまひ)し給(たま)へば、夜もほのぼのと明(あ)けにけり。やがて御船(ふね)に乗(の)り給(たま)ひて、清川(きよかは)の船頭(せんどう)をばいや権守(ごんのかみ)とぞ申(まう)す。御船支度(したく)して参(まゐ)らせけり。水上(みなかみ)は雪白水(ゆきしろみづ)増(ま)さりて、御船(ふね)を上(のぼ)せ兼(か)ねてぞ有(あ)りける。是(これ)や此(こ)のはからうさの少将(せうしやう)庄(しやう)の皿島(さらしま)と言(い)ふ所(ところ)に流(なが)されて、「月影(かげ)のみ寄(よ)するはたなかい河の水上(みなかみ)、稲舟(いなぶね)のわづらふは最上川(もがみがは)の早(はや)き瀬(せ)、其処(そこ)とも知(し)らぬ琵琶(びは)の声(こゑ)、霞(かすみ)の隙(ひま)に紛(まぎ)れる」と謡(うた)ひしも今(いま)こそ思(おも)ひ知(し)られけれ。かくて御船(ふね)を上(のぼ)する程(ほど)に、禅定(ぜんぢやう)より落(お)ちたぎる滝(たき)有(あ)り。北(きた)の方(かた)、「是(これ)をば何の滝(たき)と言(い)ふぞ」と問(と)ひ給(たま)へば、白糸(しらいと)の滝(たき)と申(まう)しければ、北(きた)の方(かた)かくぞ続(つづ)け給(たま)ふ。
最上川(もがみがは)瀬々(せぜ)の岩波(いはなみ)堰(せ)き止(と)めよ寄(よ)らでぞ通(とほ)る白糸(しらいと)の滝(たき) W020
最上川(もがみがは)岩(いは)越(こ)す波(なみ)に月冴(さ)えて夜(よる)面白(おもしろ)き白糸(しらいと)の滝(たき) W021
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とすさみつつ、鎧(よろひ)の明神(みやうじん)、冑(かぶと)の明神(みやうじん)伏(ふ)し拝(おが)み参(まゐ)らせて、たかやりの瀬(せ)と申(まう)す難所(なんじよ)を上(のぼ)らせ、煩(わづら)ひて御座(おは)する所(ところ)に、上(うへ)の山(やま)の端(は)に猿(ましら)の声(こゑ)のしければ、北(きた)の方(かた)かくぞ続(つづ)け給(たま)ひける。
引(ひ)きまはすかちはは弓(ゆみ)に有(あ)らねどもたが矢(や)で猿(さる)を射(い)て見(み)つるかな W022
かくて差(さ)し上(のぼ)らせ給(たま)ふ程(ほど)に、見(み)るたから、たけ比(くら)べの杉(すぎ)などと言(い)ふ所(ところ)を見(み)給(たま)ひて、矢向(やむけ)の大明神(だいみやうじん)を伏(ふ)し拝(おが)み奉(たてまつ)り、会津(あいづ)の津(つ)に著(つ)き給(たま)ふ。判官(はうぐわん)、「寄道(よりみち)は二日なるが、湊(みなと)にかかりては、宮城野(みやぎの)の原(はら)、榴(つつじ)が岡(をか)、千賀(ちか)の塩亀(しほがま)など申(まう)して、三日に廻(まは)る道(みち)にて候(さうら)ふに、亀割山(かめわりやま)を越(こ)えて、へむらの里(さと)、姉歯(あねは)の松(まつ)へ出(い)でては直(すぐ)に候(さうら)ふ。何(いづ)れをか御覧(ごらん)じて通(とほ)らせ給(たま)ふべき」と仰(おほ)せられければ、「名所(めいしよ)名所(めいしよ)を見(み)たけれども、一日も近(ちか)く候(さうら)ふなれば、亀割山(かめわりやま)とやらんにかかりてこそ行(ゆ)かめ」とて、亀割山(かめはりやま)へぞかかり給(たま)ひける。
亀割山(かめわりやま)にて御産(おさん)の事(こと) S0708
各々(おのおの)亀割山(かめわりやま)を越(こ)え給(たま)ふに、北(きた)の方(かた)御身(おんみ)を労(いたは)り給(たま)ふ事(こと)有(あ)り。御産(おさん)近(ちか)くなりければ、兼房(かねふさ)心(こころ)苦(ぐる)しくぞ思(おも)ひける。山(やま)深(ふか)くなる儘(まま)に、いとど絶(た)え入(い)り
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給(たま)へば、時々(ときどき)は傅(も)り奉(たてまつ)りて行(ゆ)く。麓(ふもと)の里(さと)遠(とほ)ければ、一夜(いちや)の宿(やど)を取(と)るべき所(ところ)もなし。山(やま)の峠(たうげ)にて道(みち)の辺(ほとり)二町ばかり分(わ)け入(い)りて、或(あ)る大木の下(もと)に敷皮(しきがは)を敷(し)き、木(こ)の下(もと)を御産所(おさんじよ)と定(さだ)めて宿(やど)し参(まゐ)らせけり。いよいよ御苦痛(くつう)を責(せ)めければ、恥(は)づかしさもはや忘(わす)れて、息(いき)吹(ふ)き出(い)だして、「人々(ひとびと)近(ちか)くて叶(かな)ふまじ。遠(とほ)く退(の)けよ」と仰(おほ)せられければ、侍(さぶらひ)共(ども)皆(みな)此処(ここ)彼処(かしこ)へ立(た)ち退(の)きけり。御身(おんみ)近(ちか)くは十郎権頭(ごんのかみ)、判官(はうぐわん)殿(どの)ばかりぞ御座(おは)しける。北(きた)の方(かた)「是(これ)とても心(こころ)安(やす)かるべきには有(あ)らね共(ども)、せめては力(ちから)及(およ)ばず」とて、又(また)絶(た)え入(い)り給(たま)ひけり。判官(はうぐわん)も今(いま)はかくぞとぞ思(おぼ)し召(め)しける。猛(たけ)き心(こころ)も失(うしな)ひ果(は)てて、「斯(か)かるべしとは予(かね)て知(し)りながら、是(これ)まで具足(ぐそく)し奉(たてまつ)り、京(きやう)をば離(はな)れ、思(おも)ふ所(ところ)へは行(ゆ)き著(つ)かず、道中にて空(むな)しくなし奉(たてまつ)らん事(こと)の悲(かな)しさよ。誰(たれ)を頼(たの)みて、是(これ)まで遙々(はるばる)有(あ)らぬ里(さと)に御身(おんみ)をやつし、義経(よしつね)一人(ひとり)を慕(した)ひ給(たま)ひて、かかる憂(う)き旅(たび)の空(そら)に迷(まよ)ひつつ、片時(かたとき)も心(こころ)安(やす)き事(こと)を見(み)せ聞(き)かせ奉(たてまつ)らず、失(うしな)ひ奉(たてまつ)らん事こそ悲(かな)しけれ。人に別れては片時(かたとき)もあるべしとも覚(おぼ)えず、只(ただ)同(おな)じ道に」と掻(か)き口説(くど)き涙(なみだ)も堰(せ)き敢(あ)へず悲(かな)しみ給(たま)へば、侍(さぶらひ)共(ども)も、「軍(いくさ)の陣(ぢん)にては、かくは御座(おは)せざりしものを」と皆(みな)袂(たもと)をぞ絞(しぼ)りける。しばらく有(あ)りて息(いき)吹(ふ)き出(い)だして、「水(みづ)を」と仰(おほ)せられければ、武蔵坊(むさしばう)水瓶(みづがめ)を取(と)りて出(い)でたりけれども、雨(あめ)は降(ふ)る、暗(くら)さは暗(くら)し、何方(いづかた)へ尋(たづ)ね行(ゆ)くべき
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とは覚(おぼ)えねども、足(あし)に任(まか)せて谷(たに)を指(さ)してぞ下(くだ)りける。耳を欹(そばだ)てて谷川(たにがは)の水(みづ)や流(なが)るると聞(き)きけれ共(ども)、此(こ)の程(ほど)久(ひさ)しく照(て)りたる空(そら)なれば、谷(たに)の小川も絶(た)え果(は)てて、流(なが)るる水も無(な)かりければ、武蔵(むさし)只(ただ)掻(か)き口説(くど)き、独言(ひとりごと)に申(まう)しけるは、「御果報(くわほう)こそ少(すく)なく御座(おは)するとも、斯様(かやう)に易(やす)き水(みづ)をだにも、尋(たづ)ね兼(か)ねたる悲(かな)しさよ」とて、泣(な)く泣(な)く谷に下(くだ)る程(ほど)に、山河の流(なが)るる音を聞(き)き付(つ)けて悦(よろこ)び、水を取(と)りて嶺(みね)に上(のぼ)らんとすれども、山(やま)は霧(きり)深(ふか)くして、帰(かへ)るべき方(かた)を失(うしな)ひけり。貝(かひ)を吹(ふ)かんとすれども、麓(ふもと)の里近(ちか)かるらんと思(おも)ひて、左右(さう)無(な)く吹(ふ)かず。然(さ)れども時刻(じこく)移(うつ)りては叶(かな)ふまじと思(おも)ひて、貝(かひ)をぞ吹(ふ)きたりける。嶺(みね)にも貝(かひ)を合(あ)はせたる。弁慶(べんけい)とかくして水(みづ)を持(も)ちて、御枕(まくら)に参(まゐ)りて参(まゐ)らせんとしければ、判官(はうぐわん)涙(なみだ)に咽(むせ)びて仰(おほ)せられけるは、「尋(たづ)ねて参(まゐ)りたる甲斐(かひ)もなし。はや言(こと)切(き)れ果(は)て給(たま)ひぬ。誰(たれ)に参(まゐ)らせんとて、是(これ)まではたしなみけるぞや」とて泣(な)き給(たま)へば、兼房(かねふさ)も御枕(まくら)にひれ伏(ふ)してぞ泣(な)き居(ゐ)たり。弁慶(べんけい)も涙(なみだ)を抑(おさ)へて、御枕(まくら)に寄(よ)りて、御頭(ぐし)を動(うご)かして申(まう)しけるは、「よくよく都(みやこ)に留(とど)め奉(たてまつ)らんと申(まう)し候(さうら)ひしに、心(こころ)弱(よわ)くて是(これ)まで具足(ぐそく)し参(まゐ)らせて、いま憂(う)き目(め)を見(み)せ給(たま)ふこそ悲(かな)しけれ。仮令(たとひ)定業(ぢやうごふ)にて渡(わた)らせ給(たま)ふとも、是(これ)程(ほど)に弁慶(べんけい)が丹誠(たんぜい)を出(い)だして尋(たづ)ね参(まゐ)りて候(さうら)ふ水(みづ)を、聞召(きこしめ)し入(い)りてこそ如何(いか)にもならせ給(たま)ひ
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候(さうら)はめ」とて、水を御口(くち)に入(い)れ奉(たてまつ)りければ、受(う)け給(たま)ふと覚(おぼ)しくて、判官(はうぐわん)の御手(て)に取(と)り付(つ)き給(たま)ひて、又(また)消(き)え入(い)り給(たま)へば、判官(はうぐわん)も共(とも)に消(き)え入(い)る心地(ここち)して御座(おは)しけるを、弁慶(べんけい)、「心(こころ)弱(よわ)き御事(おんこと)候(さうら)ふや。事(こと)も事(こと)にこそより候(さうら)へ。そこ退(の)き給(たま)へ、権頭(ごんのかみ)」とて、押(お)し起(お)こし奉(たてまつ)り、御腰(こし)を抱(いだ)き奉(たてまつ)り、「南無(なむ)八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)、願(ねが)はくは御産(おさん)平安(へいあん)になし給(たま)へ。さて我(わ)が君(きみ)をば捨(す)て給(たま)ひ候(さうら)ふや」と祈念(きねん)しければ、常陸坊(ひたちばう)も掌(たなごころ)を合(あ)はせてぞ祈(いの)りける。権頭(ごんのかみ)は声(こゑ)を立(た)ててぞ悲(かな)しみける。判官(はうぐわん)も今(いま)は掻(か)き昏(く)れたる心地(ここち)して、御頭(ぐし)を並(なら)べて、ひれふし給(たま)ひけり。北(きた)の方(かた)御心地(ここち)つきて、「あら心(こころ)憂(う)や」とて、判官(はうぐわん)に取(と)り付(つ)き給(たま)へば、弁慶(べんけい)御腰(こし)を抱(いだ)き上(あ)げ奉(たてまつ)れば、御産(おさん)やすやすとぞし給(たま)ひける。武蔵(むさし)少人(せうじん)のむづかる御声(こゑ)を聞(き)きて、篠懸(すずかけ)に押(お)し巻(ま)きて抱(いだ)き奉(たてまつ)る。何(なに)とは知(し)らねども、御臍(おんへそ)の緒(を)切(き)り参(まゐ)らせて、浴(ゆあび)せ
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奉(たてまつ)らんとて、水瓶(みづがめ)に有(あ)りける水(みづ)にて洗(あら)ひ奉(たてまつ)り、「やがて御名を付(つ)け参(まゐ)らせん。是(これ)は亀割山(かめわりやま)、亀(かめ)の万劫(まんごふ)を取(と)りて、鶴(つる)の千歳(せんざい)になぞらへて、亀鶴(かめつる)御前(ごぜん)」とぞ付(つ)け奉(たてまつ)る。判官(はうぐわん)是(これ)を御覧(ごらん)じて、「あら幼(いとけ)なの者(もの)の有(あ)りさまやな。何時(いつ)人となりぬとも見(み)えぬ者(もの)かな。義経(よしつね)が心(こころ)安(やす)からばこそ、又(また)行末(ゆくすゑ)も静(しづ)かならめ。物の心(こころ)を知らぬ先に、疾(と)く疾(と)く此(こ)の山(やま)の巣守(すもり)になせ」と宣(のたま)ひけり。北(きた)の方(かた)聞召(きこしめ)して、今(いま)まで御身(おんみ)を悩(なや)まし奉(たてまつ)りたるとも思(おぼ)し召(め)されず、「怨(うら)めしくも承(うけたまは)り候(さうら)ふものかな。偶々(たまたま)人界(にんがい)に生(しやう)を受(う)けたるものを、月日(つきひ)の光(ひかり)をも見(み)せずして、むなしくなさん事、如何(いか)にぞや。御不審(ふしん)蒙(かうぶ)らば、それ権頭(ごんのかみ)取(と)り上(あ)げよ。是(これ)より都(みやこ)へは上(のぼ)るとも、如何(いか)でかむなしく為(な)すべき」と悲(かな)しみ給(たま)へば、武蔵(むさし)是(これ)を承(うけたまは)つて、「君(きみ)一人を頼(たの)み参(まゐ)らせて候(さうら)へば、自然(しぜん)の事(こと)も候(さうら)はば、また頼(たの)み奉(たてまつ)るべき方(かた)も候(さうら)ふまじきに、此(こ)の若君(わかぎみ)を見(み)上(あ)げ参(まゐ)らせんこそ頼(たの)もしく候(さうら)へ。是(これ)程(ほど)美(いつく)しく渡(わた)らせ給(たま)ふ若君(わかぎみ)を、争(いかで)か失(うしな)ひ参(まゐ)らせ候(さうら)ふべき」とて、「果報(くわほう)は伯父(をぢ)鎌倉(かまくら)殿(どの)に似(に)参(まゐ)らせ給(たま)ふべし。力(ちから)は甲斐々々(かひがひ)しくは候(さうら)はねども、弁慶(べんけい)に似(に)給(たま)へ。御命(おんいのち)は千歳(せんざい)万歳(まんざい)を保(たも)ち給(たま)へ」とて、是(これ)より平泉は又(また)さすがに程遠(とほ)く候(さうら)ふに、道行人(みちゆきびと)に行(ゆ)き会(あ)うて候(さうら)はんに、はかなとはしむづかりて、弁慶(べんけい)恨(うら)み給(たま)ふな」とて、篠懸(すずかけ)に掻(か)い巻(ま)きて、帯(おび)の中にぞ入(い)れたりける。其(そ)の間(あひだ)三日に下(くだ)り著(つ)き給(たま)ひけるに、一度も泣(な)き給(たま)は
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ざりけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。其(そ)の日はせひの内と言(い)ふ所にて、一両日御身(おんみ)労(いた)はり、明(あ)くれば馬(うま)を尋(たづ)ねて乗(の)せ奉(たてまつ)り、其(そ)の日は栗原寺(くりはらでら)に著(つ)き給(たま)ふ。それよりして亀井(かめゐ)の六郎(ろくらう)、伊勢(いせ)の三郎御使(おんつかひ)にて、平泉(ひらいづみ)へぞ遣(つか)はされける。
判官(はうぐわん)平泉(ひらいづみ)へ御著(おんつ)きの事(こと) S0709
秀衡(ひでひら)判官(はうぐわん)の御使(おんつかひ)と聞(き)き、急(いそ)ぎ対面(たいめん)す。「此(こ)の程(ほど)北陸道(ほくろくだう)にかかりて、御下(おんくだ)りとは略(ほぼ)承(うけたまは)り候(さうら)ひつれども、一定(いちぢやう)を承(うけたまは)らず候(さうら)ひつるに依(よ)つて、御迎(おんむか)ひ参(まゐ)らせず。越後(ゑちご)、越中(ゑつちゆう)こそ恨(うら)み有(あ)らめ、出羽(では)の国(くに)は秀衡(ひでひら)が知行(ちぎやう)の所(ところ)にて候(さうら)へば、各々(おのおの)何故(など)御披露(ひろう)候(さうら)ひて、国の者(もの)共(ども)に送(おく)られさせ御座(おは)しまし候(さうら)はざりけるぞ。急(いそ)ぎ御迎(おんむか)ひに人を参(まゐ)らせよ」とて、嫡子(ちやくし)泰衡(やすひら)の冠者(くわんじや)を呼(よ)びて、「判官(はうぐわん)殿(どの)の御迎(むか)ひに参(まゐ)れ」と申(まう)しければ、泰衡(やすひら)百五十騎にてぞ参(まゐ)りける。北(きた)の方(かた)の御迎(おんむか)ひには御輿(こし)をぞ参(まゐ)らせける。「かくも有(あ)りける物(もの)を」と仰(おほ)せられて、磐井(いはゐ)の郡(こほり)に御座(おは)しましたりければ、秀衡(ひでひら)左右(さう)無(な)く我(わ)が許(もと)へ入(い)れ参(まゐ)らせず、月見殿とて常(つね)に人も通(かよ)はぬ所(ところ)に据(す)ゑ奉(たてまつ)り、日々の■飯(わうばん)をもてなし奉(たてまつ)る。北(きた)の方(かた)には容顔(ようがん)美麗(びれい)に心(こころ)優(いう)なる女房(にようばう)達(たち)十二人、其(そ)の外下女半物(はしたもの)に至(いた)るまで、整(ととの)へてぞ
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付(つ)け奉(たてまつ)る。判官(はうぐわん)と予(かね)ての約束(やくそく)なりければ、名馬百疋(ひやつぴき)、鎧(よろひ)五十両、征矢(そや)五十腰(こし)、弓五十張(ちやう)、御手所には桃生郡(ものおのこほり)、牡鹿郡(ほしかのこほり)、志太郡(しだのこほり)、玉造(たまつくり)、遠田郡(とほたこほり)とて、国の内(うち)にて良(よ)き郡(こほり)、一郡(こほり)には三千八百町(さんぜんはつぴやくちやう)づつ有(あ)りけるを、五郡(こほり)ぞ参(まゐ)らせける。侍(さぶらひ)共(ども)には勝(すぐ)れたる胆沢(いさは)、江刺(えざし)、はましの庄(しやう)とて、此(こ)の中(うち)分々(ぶんぶん)に配分(はいぶん)せられけり。「時々(ときどき)は何処(いづく)へも出(い)で、なぐさみ給(たま)へ」とて、骨(ほね)強(つよ)き馬(うま)十疋(ぴき)づつ、沓行縢(くつむかばき)に至(いた)るまで、志(こころざし)をぞ運(はこ)びける。「所詮(しよせん)今(いま)は何に憚(はばか)るべき、只(ただ)思(おも)ふ様(やう)に遊(あそ)ばせ参(まゐ)らせよ」とて、泉(いづみ)の冠者(くわんじや)に申(まう)し付(つ)けて、両国(りやうごく)の大名(だいみやう)三百六十人を選(すぐ)つて、日々の■飯(わうばん)を供(そな)へたる。やがて御所つくれとて、秀衡(ひでひら)が屋敷(やしき)より西にあたりて、衣川(ころもがは)とて地を引(ひ)き、御所(ごしよ)つくりて入(い)れ奉(たてまつ)る。城の体(てい)を見(み)るに、前(まへ)には衣川(ころもがは)、東は秀衡(ひでひら)が館(たち)なり。西はたうくが窟(いはや)とて、然(しか)るべき山(やま)に続(つづ)きたり。斯様(かやう)に城郭(じやうくわく)を構(かま)へて、上(うへ)見(み)ぬ鷲(わし)の如(ごと)くにて御座(おは)しけり。昨日(きのふ)までは空(そら)山伏(やまぶし)、今日(けふ)は何時(いつ)しか男になりて、栄華(えいぐわ)開(ひら)いてぞ御座(おは)しける。折々(をりをり)毎(ごと)に北陸道(ほくろくだう)の御物語、北(きた)の方の御振舞(ふるまひ)など仰(おほ)せられ、各々(おのおの)申(まう)し出(い)だし、笑草(わらひぐさ)にぞなりける。かくて年も暮(く)れければ、文治(ぶんぢ)三年になりにけり。
義経記巻第七
義経記 国民文庫本
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義経記巻第八目録
継信(つぎのぶ)兄弟(きやうだい)御弔(とぶら)ひの事(こと)
秀衡(ひでひら)死去(しきよ)の事(こと)
秀衡(ひでひら)が子供(こども)判官(はうぐわん)殿(どの)に謀反(むほん)の事(こと)
鈴木(すずき)の三郎重家(しげいへ)高館(たかだち)へ参(まゐ)る事
衣河(ころもがは)合戦(かつせん)の事(こと)
判官(はうぐわん)御自害(ごじがい)の事(こと)
兼房(かねふさ)が最期(さいご)の事(こと)
秀衡(ひでひら)が子供(こども)御追討(ついたう)の事(こと)
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義経記巻第八
継信(つぎのぶ)兄弟(きやうだい)御弔(おんとぶらひ)の事(こと) S0801
さる程(ほど)に判官(はうぐわん)殿(どの)高館(たかだち)に移(うつ)らせ給(たま)ひて後、佐藤(さとう)庄司(しやうじ)が後家の許(もと)へも折々(をりをり)御使(おんつかひ)遣(つか)はされ、憐(あはれ)み給(たま)ふ。人々(ひとびと)奇異(きい)の思(おも)ひをなす。或(あ)る時武蔵(むさし)を召(め)して仰(おほ)せられけるは、継信(つぎのぶ)忠信(ただのぶ)兄弟(きやうだい)が跡(あと)を弔(とぶら)はせ給(たま)ふべき由(よし)仰(おほ)せられける。「其(そ)の次(ついで)に四国西国(さいこく)にて討死(うちじに)したる者(もの)共(ども)、忠(ちゆう)の浅深(せんじん)にはよるべからず。死後なれば名張(みやうちやう)に入(い)れて弔(とぶら)へ」と仰(おほ)せくださるる。弁慶(べんけい)涙(なみだ)を流(なが)し、「尤(もつと)も忝(かたじけな)き御事(おんこと)候(さうら)ふ。上(かみ)として斯様(かやう)に思(おぼ)し召(め)さるる事、誠(まこと)に延喜(えんぎ)天暦(てんりやく)の帝(みかど)と申(まう)すとも、如何(いか)でか斯様(かやう)には渡(わた)らせ御座(おは)しまし候(さうら)はん。急(いそ)ぎ思(おぼ)し召(め)し立(た)ち給(たま)へ」と申(まう)しければ、さらば貴僧達(きそうたち)を請(しやう)じ、仏事(ぶつじ)執(と)り行(おこな)ふべき由(よし)仰(おほ)せ付(つ)けらる。武蔵(むさし)此(こ)の事(こと)秀衡(ひでひら)に申(まう)しければ、入道(にふだう)も且(かつう)は御志(おんこころざし)の程を感(かん)じ、且(かつう)は彼等(かれら)が事(こと)を今(いま)一入(ひとしほ)不便(ふびん)に思(おも)ひ、しきりに涙(なみだ)にぞ咽(むせ)びける。
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兄弟(きやうだい)の母(はは)尼公(にこう)の方(かた)へも御使(おんつかひ)有(あ)りけり。孫(まご)共(ども)後家(ごけ)共(ども)引(ひ)き具(ぐ)して参(まゐ)る。御志(おんこころざし)の余(あま)りに御自筆にも法華経(ほけきやう)遊(あそ)ばされ、弔(とぶら)はせ給(たま)ふ。有(あ)り難(がた)き例(ためし)には人々(ひとびと)申(まう)しあへり。尼公(にこう)申(まう)されけるは、「兄弟(きやうだい)の者(もの)の孝養(けうやう)、誠(まこと)に身においては有(あ)り難(がた)き御志(おんこころざし)、又は死後の名何事(なにごと)か是(これ)に越(こ)え申(まう)すべし。是(これ)程(ほど)の御志(おんこころざし)を、此(こ)の世に存命(ながら)へて候(さうら)はば、如何(いか)ばかりか忝(かたじけな)く思(おも)ひ参(まゐ)らせ候(さうら)はんといよいよ涙(なみだ)つくし難(がた)く候(さうら)ふ。然(さ)れども今(いま)は思(おも)ひ切(き)り参(まゐ)らせ候(さうら)ふ。幼(をさな)き者(もの)共(ども)を相(あひ)続(つづ)き君へ参(まゐ)らせ候(さうら)はん、未(いま)だ童名(わらはな)にて候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、判官(はうぐわん)、「それは秀衡(ひでひら)が名をも付(つ)くべけれども、兄弟(きやうだい)の者(もの)共(ども)の名残(なごり)形見(かたみ)なれば、義経(よしつね)名を付(つ)けべし。さりながらも秀衡(ひでひら)に聞(き)かせよ」と仰(おほ)せられて、御使有(あ)りければ、入道(にふだう)承(うけたまは)り、「内々(ないない)申(まう)し上(あ)げたき折節(をりふし)候(さうら)ふ。恐(おそ)れ入(い)るばかりに候(さうら)ふ」と申(まう)しければ、「さらば秀衡(ひでひら)計(はか)らひて」と宣(のたま)へば、秀衡(ひでひら)、「承(うけたまは)る」と申(まう)して、髪(かみ)取(と)り上(あ)げ、烏帽子(えぼし)著(き)せ、御前に畏(かしこ)まる。判官(はうぐわん)御覧(ごらん)じて、継信(つぎのぶ)が若(わか)をば佐藤(さとう)三郎吉信(よしのぶ)、忠信(ただのぶ)が子をば佐藤(さとう)四郎義忠(よしただ)と付(つ)け給(たま)ふ。尼公(にこう)斜(なのめ)ならず悦(よろこ)び、「如何(いか)に和泉(いづみ)の三郎、予(かね)て申(まう)せし物、我(わ)が君(きみ)へ奉(たてまつ)れ」と申(まう)しければ、佐藤(さとう)の家(いへ)に伝(つた)はれる重代(ぢゆうだい)の太刀を進上(しんじやう)す。北(きた)の方(かた)へは唐綾(からあや)の御小袖(おんこそで)、巻絹(まきぎぬ)など取(と)り添(そ)へて奉(たてまつ)る。其(そ)の外(ほか)侍(さぶらひ)達(たち)にもそれぞれに参(まゐ)らせける。尼公(にこう)いとど涙(なみだ)に咽(むせ)び、「あはれ同(おな)じくは兄弟の者(もの)共(ども)
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御供(おんとも)して下(くだ)り、御前(おまへ)にて孫共(ども)に烏帽子(えぼし)を著(き)せなば、如何(いか)ばかり嬉(うれ)しからまし」と流涕(りうてい)焦(こが)れければ、二人(ふたり)の嫁(よめ)も亡(な)き人の事(こと)を一入(ひとしほ)思(おも)ひ出(い)だし、別(わか)れし時(とき)の様(やう)に、声(こゑ)も惜(を)しまず悲(かな)しみけり。君(きみ)も哀(あは)れに思(おぼ)し召(め)し、御涙(おんなみだ)を流(なが)させ給(たま)ふ。御前(おまへ)なりし人々(ひとびと)、秀衡(ひでひら)は申(まう)すに及(およ)ばず、袂(たもと)を顔(かほ)に押(お)し当(あ)てて、各々(おのおの)涙(なみだ)をぞ流(なが)しける。判官(はうぐわん)盃(さかづき)取(と)り上(あ)げ給(たま)ひ、吉信(よしのぶ)に下(くだ)さる。盃(さかづき)のけうはい、当座の会釈(ゑしやく)、誠(まこと)に大人(おとな)しく見(み)えければ、「さても継信(つぎのぶ)によくも似(に)たるものかな。汝(なんぢ)が父(ちち)屋嶋(やしま)にて義経(よしつね)が命にかはりしをこそ源平両家の目の前、諸人(しよじん)目を驚(おどろ)かし、類(たぐひ)有(あ)らじと言(い)ひしが、実(まこと)に我(わ)が朝(てう)の事(こと)は言(い)ふに及(およ)ばず、唐土天竺(てんぢく)にも主君(しゆくん)に志(こころざし)深(ふか)き者(もの)多(おほ)しと雖(いへど)も、かかる例(ためし)なしとて、三国(さんごく)一の剛(かう)の者(もの)と言(い)はれしぞかし。今日(けふ)よりしては、義経(よしつね)を父と思(おも)へ」と仰(おほ)せられて、御座(おんざ)近(ちか)く召(め)されて、後(おくれ)の髪(かみ)を撫(な)でさせ給(たま)ひ、御涙(おんなみだ)堰(せ)き敢(あ)へ給(たま)はず。其(そ)の時(とき)亀井(かめゐ)、片岡(かたをか)、伊勢(いせ)、鷲尾(わしのを)、増尾(ましを)の十郎(じふらう)、権守(ごんのかみ)、荒(あら)き弁慶(べんけい)を始(はじ)めとして、声(こゑ)を立(た)ててぞ泣(な)きにける。暫(しばら)く有(あ)りて御涙を止(とど)め、義忠(よしただ)に御盃(さかづき)下(くだ)され、「汝(なんじ)が父(ちち)、吉野山(よしのやま)にて大衆(だいしゆ)追(お)つ掛(か)けたりしに、義経(よしつね)を庇(かば)ひ、一人峰(みね)に留(とど)まらんと言(い)ひしを、義経(よしつね)も留(とど)めん事を悲(かな)しみ、一所にと千度百度言(い)ひしに、侍(さぶらひ)の言葉(ことば)は綸言(りんげん)にも同(おな)じ。猶(なほ)し汗(あせ)の如(ごと)しとて、既(すで)に自害(じがい)せんとせし儘(まま)に、力(ちから)及(およ)ばず、一人峰(みね)に残(のこ)し置(お)きたりしに、
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数百人の敵(かたき)を六七騎にて防(ふせ)ぎ、剰(あまつさ)へ鬼神の様(やう)に言(い)はれし横川(よかは)の覚範(かくはん)を討(う)ち取(と)り、都(みやこ)に上(のぼ)り、江馬(えま)の小四郎を引(ひ)き受(う)け、其(そ)の所をも切(き)り抜(ぬ)けしに、普通(ふつう)の者(もの)ならば、それより是(これ)へ下(くだ)るべきに、義経(よしつね)を慕(した)ひ、在所(ありどころ)を知(し)らずして、六条(ろくでう)堀河(ほりかは)の古(ふる)き宿所に帰(かへ)り来(き)て、義経(よしつね)を見(み)ると思(おも)ひて、是(これ)にて腹(はら)を切(き)らんとて、自害(じがい)したりし志(こころざし)、何時(いつ)の世に忘(わす)るべき。例(ためし)無(な)き志(こころざし)、剛(かう)の者(もの)とて鎌倉(かまくら)殿(どの)も惜(を)しみ給(たま)ひ、孝養(けうやう)し給(たま)ふと聞(き)く。汝(なんぢ)も忠信(ただのぶ)に劣(おと)るまじき者(もの)かな」とて、又(また)御落涙(らくるい)有(あ)りけり。判官(はうぐわん)伊勢(いせ)の三郎を召(め)して、小桜威(こざくらをどし)、卯花威(うのはなをどし)の鎧(よろひ)を二人(ふたり)に下(くだ)されけり。尼公(にこう)涙(なみだ)を止(とど)めて、「あら有(あ)りがたの御諚(ごぢやう)や。侍(さぶらひ)程(ほど)剛(かう)にても剛(かう)なるべき者(もの)はなし。我(わ)が子ながらも剛(かう)ならずは、斯程(かほど)までは御諚(ごぢやう)もあるまじ。汝等(なんぢら)も成人(せいじん)仕(つかまつ)り、父共(ども)が如(ごと)く、君(きみ)の御用(よう)に立(た)ち、名を後代に上(あ)げよ。不忠(ふちゆう)を仕(つかまつ)ら
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ば、父に劣(おと)れる者(もの)とて傍輩(はうばい)達(たち)に笑(わら)はれんぞ。後指(うしろゆび)を指(さ)されば、家の傷(きず)なるべし。御前にて申(まう)すぞ。よく承(うけたまは)り止(とど)めよ」とぞ申(まう)しける。各々(おのおの)是(これ)を聞(き)きて、「兄弟(きやうだい)が剛(かう)なりしも道理(だうり)かな。只今(ただいま)尼公(にこう)の申(まう)す様(やう)、奇特(きどく)なり」とぞ感(かん)じける。
秀衡(ひでひら)死去(しきよ)の事(こと) S0802
文治(ぶんぢ)四年(しねん)十二月十日(とをか)頃(ごろ)より入道(にふだう)重病を受(う)けて、日数(ひかず)重(かさ)なりて弱(よわ)り行(ゆ)けば、耆婆(ぎば)、扁鵲(へんじやく)が術(じゆつ)だにも敢(あへ)て叶(かな)ふべきと見(み)えざれば、秀衡(ひでひら)娘(むすめ)子息(しそく)其(そ)の外(ほか)所従(しよじゆう)をあつめて、泣(な)く泣(な)く申(まう)されけるは、「限(かぎ)りある業病(ごふびやう)を受(う)け、命(いのち)を惜(を)しむなど聞(き)きし事、極(きは)めて人の上(うへ)にてだにも言(い)ふ甲斐(かひ)無(な)き事(こと)に思(おも)ひつるに、身の上(うへ)になりて思(おも)ひ知(し)られたるなり。其(そ)の故(ゆゑ)は入道(にふだう)此(こ)の度(たび)命(いのち)を惜(を)しく存(ぞん)ずる事(こと)は、判官(はうぐわん)殿(どの)入道(にふだう)を頼(たの)みに思(おぼ)し召(め)して、遙(はる)かの道(みち)を妻子(さいし)具(ぐ)して御座(おは)したるに、せめて十年心(こころ)安(やす)く振舞(ふるま)はせ奉(たてまつ)らで、今日(けふ)明日(あす)に入道(にふだう)死(し)しぬるならば、闇(やみ)の夜に燈火(ともしび)を消(け)したる如(ごと)くに、山野に迷(まよ)ひ給(たま)はん事こそ口惜(くちを)しく存(ぞん)ずれ。是(これ)ばかりこそ今生(こんじやう)に思(おも)ひ置(お)く事、冥途(めいど)の障(さはり)と覚(おぼ)ゆれ。然(さ)れども叶(かな)はぬ習(なら)ひなれば、力(ちから)なし。判官(はうぐわん)殿(どの)
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に参(まゐ)り、最期(さいご)の見参(げんざん)申(まう)したく存(ぞん)ずれども、余(あま)りに苦(くる)しく、合期(かふご)ならず。是(これ)へ申(まう)さんは恐(おそれ)有(あ)り。此(こ)の旨(むね)を御耳(おんみみ)に入(い)れよ。又(また)各々(おのおの)此(こ)の遺言(ゆいごん)を用(もち)ゆべきか。用(もち)ゆべきに有(あ)らば、言(い)ふべき事(こと)を静(しづ)かに聞(き)くべし」と宣(のたま)へば、各々(おのおの)「争(いかで)か背(そむ)き申(まう)すべき」と申(まう)されければ、苦(くる)しげなる声(こゑ)にて、「定(さだ)めて秀衡(ひでひら)死(し)したらば、鎌倉(かまくら)殿(どの)より判官(はうぐわん)殿(どの)討(う)ち奉(たてまつ)れと宣旨(せんじ)院宣(ゐんぜん)下(くだ)るべし。勲功(くんこう)には常陸(ひたち)を賜(たま)はるべきと有(あ)らんずるぞ。相(あひ)構(かま)へてそれを用(もち)うべからず。入道(にふだう)が身には出羽(では)奥州(あうしう)は過分(くわぶん)の所(ところ)にてあるぞ。況(いは)んや親(おや)に勝(まさ)る子有(あ)らんや、各々(おのおの)が身を以(もつ)て他国を賜(たま)はらん事(こと)叶(かな)ふべからず。鎌倉(かまくら)よりの御使(おんつかひ)なり共(とも)首(くび)を斬(き)れ。両(りやう)三度に及(およ)びて御使(おんつかひ)を斬(き)るならば、其(そ)の後はよも下(くだ)されじ。仮令(たとひ)下(くだ)さるとも、大事(だいじ)にてぞ有(あ)らんずらん。其(そ)の用意(ようい)をせよ。念珠(ねんじゆ)、白河(しらかは)両関(りやうぜき)をば西木戸(にしきど)に防(ふせ)がせて、
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判官(はうぐわん)殿(どの)を愚(おろか)になし奉(たてまつ)るべからず。過分(くわぶん)の振舞(ふるまひ)あるべからず。此(こ)の遺言(ゆいごん)をだにも違(たが)へずは、末世(まつせ)と言(い)ふとも汝(なんじ)等(ら)が末(すゑ)の世は安穏(あんをん)なるべしと心(こころ)得(え)よ、生(しやう)を隔(へだ)つ共(とも)」と言(い)ひ置(お)きて、是(これ)を最期(さいご)の言葉(ことば)にて十二月廿一日の曙(あけぼの)に遂(つひ)にはかなくなりぬ。妻子(さいし)眷属(けんぞく)泣き悲(かな)しむと雖(いへど)も、甲斐(かひ)ぞ無(な)き。判官(はうぐわん)殿(どの)へ此(こ)の由(よし)申(まう)されければ、馬(うま)に鞭(むち)を打(う)ち御座(おは)したり。むなしき体(からだ)に向(むか)ひて歎(なげ)き給(たま)ひけるは、「境(さかひ)遙(はる)かの道(みち)を是(これ)まで下る事(こと)も、入道(にふだう)を頼(たの)み奉(たてまつ)りてこそ下(くだ)り候(さうら)へ。父義朝(よしとも)には二歳(にさい)にて別(わか)れ奉(たてまつ)りぬ。母(はは)は都(みやこ)に御座(おは)すれども、平家に渡(わた)らせ給(たま)へば、互(たが)ひに快(こころよ)からず。兄弟(きやうだい)有(あ)りと雖(いへども)、幼少(えうせう)より方々(はうばう)に有(あ)りて、寄(より)合(あ)ふ事(こと)も無(な)く、剰(あまつさ)へ頼朝(よりとも)には不和(ふわ)なり。如何(いか)なる親(おや)の歎(なげ)き、子の別(わか)れと言(い)ふとも、是(これ)には過(す)ぎじ」と悲(かな)しみ給(たま)ふ事(こと)限(かぎり)なし。只(ただ)義経(よしつね)が運(うん)の窮(きは)むる所(ところ)とて、さしも猛(たけ)き心(こころ)を引(ひ)きかへて歎(なげ)き給(たま)ひけり。亀割山(かめわりやま)にて産(むま)れ給(たま)へる若君(わかぎみ)も、判官(はうぐわん)殿(どの)と同(おな)じ様(やう)に白衣(しろぎぬ)を召(め)して、野辺(のべ)の送(おく)りをし給(たま)へり。見(み)奉(たてまつ)るにいとど哀(あは)れぞ勝(まさ)りける。同(おな)じ道(みち)にと悲(かな)しみ給(たま)へども、むなしき野辺(のべ)は只(ただ)独(ひと)り、送(おく)り捨(す)ててぞ帰(かへ)り給(たま)ひぬ。あはれなりし事共(ども)なり。
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秀衡(ひでひら)が子供(こども)判官(はうぐわん)殿(どの)に謀反(むほん)の事(こと) S0803
かくて入道(にふだう)死(し)しけれども変(か)はる事(こと)も無(な)く、兄弟の子供(こども)打(う)ち替(か)へ打(う)ち替(か)へ、判官(はうぐわん)殿(どの)へ出仕(しゆつし)して、其(そ)の年も暮(く)れにけり。明(あ)くる二月の頃(ころ)、泰衡(やすひら)が郎等(らうどう)何事(なにごと)をか聞(き)きたりけん、夜更(ふ)け、人静(しづ)まりてひそかに来(き)たり、泰衡(やすひら)に言(い)ひけるは、「判官(はうぐわん)殿(どの)泉(いづみ)の御曹司(おんざうし)と一(ひと)つにならせ給(たま)ひ、御内(みうち)を討(う)ち奉(たてまつ)らんと用意(ようい)にて候(さうら)ふ。合戦(かつせん)の習(なら)ひ、人に先(さき)を取(と)られぬれば、悪(あ)しき御事(おんこと)にて候(さうら)ふなり。急(いそ)ぎ御用意(ようい)あるべし」と語(かた)りける程(ほど)に、泰衡(やすひら)安(やす)からぬ事(こと)に思(おも)ひ、「さらば用意(ようい)あるべし」とて、二月廿一日入道(にふだう)の孝養(けうやう)仏事(ぶつじ)を営(いとな)まんと用意(ようい)しけるが、仏事(ぶつじ)をば差(さ)し置(お)き、一腹の舎弟(しやてい)泉(いづみ)の冠者(くわんじや)を夜討(ようち)にしけるこそうたてけれ。それを見(み)て、兄の西木戸(にしきど)、比爪(ひづめ)の五郎、弟(おとと)のともとしの冠者(くわんじや)、此(こ)の事(こと)人の上ならずとて、各々(おのおの)心々(こころごころ)になりにけり。六親不和(ふわ)にして、三宝(さんぽう)の加護(かご)なしとは是(これ)なり。判官(はうぐわん)も、さては義経(よしつね)にも思(おも)ひかからんとて、武蔵(むさし)を召(め)して、廻文(めぐらしぶみ)を書(か)かせらる。九州には菊地(きくち)、原田(はらだ)、臼杵(うすき)、緒方(をかた)、急(いそ)ぎ参(まゐ)るべき由(よし)を仰(おほ)せ下(くだ)されて、雑色(ざふしき)駿河(するがの)次郎(じらう)に賜(た)びぬ。夜を日に継(つ)ぎて、京に上(のぼ)り、筑紫(つくし)へ下(くだ)らんとす。如何(いか)なる者(もの)か言(い)ひけん、此(こ)の由(よし)六波羅(ろくはら)に聞(き)きて、駿河(するが)を召(め)し捕(と)りて、下部(しもべ)廿四人差(さ)し添(そ)へて、関東(くわんとう)へ下(くだ)されけり。鎌倉(かまくら)殿(どの)廻文(めぐらしぶみ)を
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御覧(ごらん)じて、大(おほ)きに怒(いか)り、「九郎は不思議(ふしぎ)の者(もの)かな。同(おな)じ兄弟(きやうだい)と言(い)ひながら、頼朝(よりとも)を度々(たびたび)思(おも)ひ替(か)へるこそ不思議(ふしぎ)なれ。秀衡(ひでひら)も他界(たかい)しつ。奥も傾(かたぶ)きぬ。攻(せ)めんに何程(なにほど)の事(こと)あるべき」と仰(おほ)せ有(あ)りければ、梶原(かじはら)御前(おまへ)に候(さうら)ひけるが、仰(おほ)せにて候(さうら)へども、愚(おろか)の御計(はか)らひにて候(さうら)ふや。宣旨(せんじ)なりて秀衡(ひでひら)を召(め)されけるに、昔(むかし)将門(まさかど)八万余騎(よき)、今(いま)の秀衡(ひでひら)十万八千余騎(よき)にて、片道(かたみち)を賜(たま)はらば参(まゐ)るべき由(よし)申(まう)しけるに、さては叶(かな)はずとて止(とど)められ、遂(つひ)に京(きやう)を見(み)ずとこそ承(うけたまは)りて候(さうら)へ。秀衡(ひでひら)一人にても妨(さまた)げ候(さうら)はば、念珠(ねんじゆ)、白川(しらかは)両関(りやうぜき)をかため、判官(はうぐわん)殿(どの)の御下知(げち)に従(したが)ひて、軍(いくさ)を仕(つかまつ)り候(さうら)はば、日本国(につぽんごく)の勢(せい)を以(もつ)て、百年二百年戦(たたか)ひ候(さうら)ふとも、一天(いつてん)四海(しかい)民(たみ)の煩(わづらひ)とはなり候(さうら)ふとも、打(う)ち従(したが)へん事(こと)叶(かな)ひ候(さうら)ふまじ。只(ただ)泰衡(やすひら)を御賺(すか)し候(さうら)ひて、御曹司(おんざうし)を討(う)ち参(まゐ)らさせ給(たま)ひ、其(そ)の後御攻(せ)め候(さうら)はば、然(しか)るべく候(さうら)はんずる由(よし)を申(まう)しければ、「尤(もつと)も然(しか)るべし」とて、頼朝「私(わたくし)の下知(げち)ばかりにて適(かな)ふまじ」とて、院宣(ゐんぜん)を申(まう)されけり。泰衡(やすひら)が義経(よしつね)を討(う)ちたらば、本領(ほんりやう)に常隆(ひたち)を添(そ)へて、子々(しし)孫々に至(いた)るまで賜(たま)はるべき由(よし)なり。鎌倉(かまくら)殿(どの)御下知(げち)を添(そ)へて遣(つか)はさる。泰衡(やすひら)何時(いつ)しか故(こ)入道(にふだう)の遺言(ゆいごん)を背(そむ)いて、領承(りやうじやう)申(まう)しぬ。但(ただ)し御宣旨(せんじ)を賜(たま)はりて討(う)ち奉(たてまつ)るべき由(よし)申(まう)しければ、さらばとて、安達(あだち)の四郎清忠(きよただ)を召(め)して、此(こ)の二三年知行(ちぎやう)をいくまみたるらん。検見(けんみ)に罷(まか)り下(くだ)るべき由(よし)仰(おほ)せ出(い)ださるる。承(うけたまは)り候(さうら)ひて、清忠(きよただ)奥(おく)へ
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ぞ下(くだ)りける。さる程(ほど)に泰衡(やすひら)俄に狩(かり)をぞ始(はじ)めける。判官(はうぐわん)も出(い)でて狩(かり)し給(たま)ふ。清忠(きよただ)粉(まぎ)れ歩(あり)きて見(み)奉(たてまつ)るに、疑(うたがひ)無(な)き判官(はうぐわん)殿(どの)にて御座(おは)します。軍(いくさ)は文治(ぶんぢ)五年四月廿九日巳(み)の時(とき)と定(さだ)めけり。此(こ)の事(こと)義経(よしつね)は夢(ゆめ)にも知(し)り給(たま)はず。斯(か)かりし所(ところ)に民部(みんぶ)の権少輔(ごんのぜう)基成(もとなり)と言(い)ふ人有(あ)り。平治(へいぢ)の合戦(かつせん)の時(とき)、失(う)せ給(たま)ひし悪衛門督(あくゑもんのかみ)信頼(のぶより)の兄(あに)にて御座(おは)します。謀反(むほん)の者(もの)の一門(いちもん)なればとて、東国に下(くだ)られたりけるを、故(こ)入道(にふだう)情(なさけ)をかけ給(たま)へり。其(そ)の上(うへ)秀衡(ひでひら)が基成(もとなり)の娘(むすめ)に具足(ぐそく)して、子供(こども)数多(あまた)有(あ)り。嫡子(ちやくし)二男泰衡(やすひら)、三男(さんなん)和泉(いづみ)の三郎忠致(ただむね)、是(これ)等(ら)三人が外祖父(おほぢ)なり。然(さ)れば人重(おも)くし奉(たてまつ)り、少輔(じよう)の御寮(れう)とぞ申(まう)す。此(こ)の子供(こども)より先(さき)に嫡子(ちやくし)西木戸(にしきど)太郎頼衡(よりひら)とて、極(きは)めて丈(たけ)高(たか)く、ゆゆしく芸能(げいのう)もすぐれ、大(だい)の男(をとこ)の剛(かう)の者(もの)、強弓(つよゆみ)精兵(せいびやう)にて、謀(はかりこと)賢(かしこ)くあるを、嫡子(ちやくし)に立(た)てたりせばよかるべきに、男の十五
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より内(うち)に儲(まう)けたる子をば、嫡子(ちやくし)に立(た)てぬ事(こと)なりとて、当腹(たうばら)二男(じなん)を嫡子(ちやくし)に立(た)てける。入道(にふだう)思(おも)へば敢(あへ)無(な)かりけり。此(こ)の基成(もとなり)は判官(はうぐわん)殿(どの)に浅(あさ)からず申(まう)し承(うけたまは)り候(さうら)はれけり。此(こ)の事(こと)ほのかに聞(き)きて、あさましく思(おも)ひて、孫共(まごども)を制(せい)せばやと思(おも)はれけれ共(ども)、恥(は)づかしくも所領(しよりやう)を譲(ゆづ)りたる事(こと)もなし。我(われ)さへ彼等(かれら)に預(あづ)けられたる身ながら勅勘(ちよくかん)の身なり。院宣(ゐんぜん)下(くだ)る上(うへ)、何(なに)と制(せい)するとも適(かな)ふまじ。余(あま)り思(おも)へば悲(かな)しくて、判官(はうぐわん)殿(どの)へ消息(せうそく)を奉(たてまつ)る。「殿(との)を関東(くわんとう)より討(う)ち奉(たてまつ)れとて院宣(ゐんぜん)下(くだ)りぬ。此(こ)の間(あひだ)の狩(かり)をば栄耀(ええう)の狩(かり)と思(おぼ)し召(め)すや。命(いのち)こそ大切(たいせつ)に候(さうら)へ、一先(ひとま)づ落(お)ちさせ給(たま)ふべくもや候(さうら)ふらん。殿(との)の親父(しんぷ)義朝(よしとも)は、舎弟(しやてい)信頼(のぶより)に与(くみ)せられ、謀反(むほん)の為(ため)にひくはの死罪(しざい)に行(おこな)はれ給(たま)ひぬ。又(また)基成(もとなり)東国に遠流(をんる)の身となり、御辺(ごへん)も是(これ)に御渡(おんわた)り候(さうら)へば、ちしの縁(えん)深(ふか)かりけると思(おも)ひ知(し)られて候(さうら)ひつるに、又(また)後(おく)れ参(まゐ)らせて、歎(なげ)き候(さうら)はん事こそ口惜(くちを)しく候(さうら)へ。同道(どうだう)に御供(おんとも)申(まう)し候(さうら)はんこそ本意にて候(さうら)ふべきに、年(とし)老(お)ひ、身(み)甲斐々々(かひがひ)しく候(さうら)はで、甲斐(かひ)無(な)き御孝養(けうやう)を申(まう)さん事(こと)行(ゆ)くも止(とま)るも同(おな)じ道(みち)」と掻(か)き口説(くど)き、泣(な)く泣(な)く遣(つか)はされけり。判官(はうぐわん)此(こ)の文(ふみ)御覧(ごらん)じて、御返事(ごへんじ)には、「文悦(よろこ)び入(い)り候(さうら)ふ。仰(おほ)せの如(ごと)く、何方(いづかた)へも落(お)ち行(ゆ)くべきにて候(さうら)へ共(ども)、勅勘(ちよくかん)の身として空(そら)を飛(と)び、地を潛(くぐ)るとも適(かな)ひ難(がた)し。此処(ここ)にて自害(じがい)の用意(ようい)仕(つかまつ)るべし。然(さ)ればとて錆矢(さびや)の一(ひと)つも放(はな)つべきにても候(さうら)はず。此(こ)の御恩(ごおん)今生(こんじやう)にて
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はむなしくなりぬ。来世(らいせ)にては必(かなら)ず一仏(いちぶつ)浄土(じやうど)の縁(えん)となり奉(たてまつ)るべし。是(これ)は一期(いちご)の秘記(ひき)にて候(さうら)ふ。御身(おんみ)を放(はな)さず、御覧(ごらん)候(さうら)へ」と唐櫃(からひつ)一合(いちがふ)御返事(ごへんじ)にそへて遣(つか)はされけり。其(そ)の後(のち)も文有(あ)りけれども、自害(じがい)の用意(ようい)仕(つかまつ)るとて、御返事(ごへんじ)にも及(およ)ばず。然(さ)れば産(さん)して七日になり給(たま)ふ北(きた)の方(かた)を呼(よ)び出(い)だし参(まゐ)らせて、「義経(よしつね)は関東(くわんとう)より院宣(ゐんぜん)下(くだ)りて失(うしな)はるべく候(さうら)ふ。昔(むかし)より女の罪科(ざいくわ)と言(い)ふ事(こと)なし。他所へ渡(わた)らせ給(たま)ひ候(さうら)へ。義経(よしつね)は心(こころ)静(しづ)かに自害(じがい)の用意(ようい)仕(つかまつ)るべし」と宣(のたま)へば、北(きた)の方(かた)聞召(きこしめ)しもあへず、袖を顔(かほ)に押(お)し当(あ)てて、「幼(いとけな)きより片時(かたとき)も放(はな)れじと慕(した)ひし乳母(めのと)の名残(なごり)を振(ふ)り捨(す)てて付(つ)き奉(たてまつ)りて下(くだ)りけるは、斯様(かよう)に隔(へだ)て奉(たてまつ)らん為(ため)かや。女の習(なら)ひ片思(かたおも)ひこそ恥(は)づかしくも候(さうら)へども、人の手(て)に懸(か)けさせ給(たま)ふな」と御傍(おんそば)をはなれじとし給(たま)へば、判官(はうぐわん)も涙(なみだ)ながら持仏堂(ぢぶつだう)の東(ひがし)の正面(しやうめん)をしつらひて、入(い)れ奉(たてまつ)り給(たま)ひけり。
鈴木(すずき)の三郎重家(しげいへ)高館(たかだち)へ参(まゐ)る事 S0804
重家(しげいへ)を御前(おまへ)に召(め)され、「抑(そもそも)和殿(わどの)は鎌倉(かまくら)殿(どの)より御恩(ごおん)賜(たま)はるに、世に無(な)き義経(よしつね)が許(もと)に来(き)たり、幾(いく)程無(な)く斯様(かよう)の事(こと)出(い)で来(き)たるこそ不便(ふびん)なれ」と宣(のたま)へば、鈴木(すずき)
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申(まう)しけるは、「さん候(ざうらふ)。鎌倉(かまくら)殿(どの)より甲斐(かひ)の国(くに)にて所領(しよりやう)一所賜(たま)はりて候(さうら)ひしが、寝(ね)ても寤(さ)めても君(きみ)の御事(おんこと)片時(かたとき)も忘(わす)れ参(まゐ)らせず。余(あま)りに御面影(おもかげ)身にしみて参(まゐ)りたく存(ぞん)じ候(さうら)ひし間(あひだ)、年来の妻子(さいし)など熊野(くまの)の者(もの)にて候(さうら)ひしを、送(おく)り遣(つか)はし候(さうら)ひて、今(いま)は今生(こんじやう)に思(おも)ひ置(お)く事(こと)いささかも候(さうら)はず。但(ただ)し心にかかる事(こと)候(さうら)ふは、一昨日(をととひ)著(つ)き申(まう)す道(みち)にて、馬(うま)の足(あし)を損(そん)ざし候(さうら)ひて傷(いた)み候(さうら)へ共(ども)、御内(みうち)の案内(あんない)如何(いかが)と存(ぞん)じ、申(まう)し入(い)れず候(さうら)ふ。今(いま)斯(か)く候(さうら)へば、然(しか)るべき、是(これ)こそ期(ご)したる弓矢(ゆみや)にて候(さうら)へ。仮令(たとひ)是(これ)に参(まゐ)り会(あ)ひ候(さうら)はずとも、遠(とほ)き近(ちか)きの差別(しやべつ)にてこそ候(さうら)はんずれ、君討(う)たれさせ給(たま)ひぬと承(うけたまは)り候(さうら)はば、何(なに)の為(ため)に命(いのち)をかばひ候(さうら)ふべき。所々(ところどころ)にて死(し)候(さうら)はば、死出(しで)の山路(やまぢ)も遙(はる)かに離(さか)り奉(たてまつ)るべきに、心(こころ)安(やす)く御供(おんとも)仕(つかまつ)り候(さうら)はん」とて、世に心地(ここち)よげに申(まう)しければ、判官(はうぐわん)も御涙(おんなみだ)に咽(むせ)び、
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打(う)ち頷(うなづ)き給(たま)ひけり。さて鈴木(すずき)申(まう)し上(あ)げけるは、「下人(げにん)に腹巻(はらまき)ばかりこそ著(き)せて参(さん)じて候(さうら)へ。討死(うちじに)の上(うは)具足(ぐそく)の善悪(よしあし)は要(い)るまじく候(さうら)へども、後(のち)に聞(き)こえ候(さうら)はん事(こと)無下(むげ)に候(さうら)はんか」と申(まう)しければ、鎧(よろひ)は数多(あまた)させたるとて、敷目(しきめ)に巻(ま)きたる赤糸威(あかいとをどし)の究竟(くつきやう)の鎧(よろひ)を取(と)り出(い)だし、御馬(うま)に添(そ)へ下さる。腹巻(はらまき)は舎弟(しやてい)亀井(かめゐ)に取(と)らせけり。
衣河(ころもがは)合戦(かつせん)の事(こと) S0805
さる程(ほど)に、寄手(よせて)長崎(ながさき)の大夫(たいふ)のすけを初(はじ)めとして、二万余騎(よき)一手(いつて)になりて押(お)し寄(よ)せたり。「今日(けふ)の討手(うつて)は如何(いか)なる者(もの)ぞ」「秀衡(ひでひら)が家の子、長崎(ながさき)太郎大夫(たいふ)」と申(まう)す。せめて泰衡(やすひら)、西木戸(にしきど)などにても有(あ)らばこそ最期(さいご)の軍(いくさ)をも為(せ)め、東(あづま)の方(かた)の奴原(やつばら)が郎等(らうどう)に向(むか)ひて、弓(ゆみ)を引(ひ)き矢を放(はな)さん事(こと)あるべからずとて、「自害(じがい)せん」と宣(のたま)ひけり。此処(ここ)に北(きた)の方(かた)の乳母親(めのとおや)に十郎(じふらう)権頭(ごんのかみ)、喜三太(きさんだ)二人(ふたり)は家の上(うへ)に上(のぼ)りて、遣戸(やりと)格子(かうし)を小楯(こだて)にして散々(さんざん)に射(い)る。大手(おほて)には武蔵坊(むさしばう)、片岡(かたをか)、鈴木(すずき)兄弟(きやうだい)、鷲尾(わしのを)、増尾(ましを)、伊勢(いせ)の三郎、備前(びぜん)の平四郎、以上人々(ひとびと)八騎なり。常陸坊(ひたちばう)を初(はじ)めとして残り十一人の者(もの)共(ども)、今朝(けさ)より近(ちか)きあたりの山寺を拝(おが)みに出(い)でけるが、其(そ)の儘(まま)帰(かへ)らずして
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失(う)せにけり。言(い)ふばかり無(な)き事共(ども)なり。弁慶(べんけい)其(そ)の日の装束(しやうぞく)には黒革威(くろかはをどし)の鎧(よろひ)の裾金物(すそかなもの)平(ひら)く打(う)ちたるに、黄(き)なる蝶(てう)を二つ三つ打(う)ちたりけるを著(き)て、大薙刀(おほなぎなた)の真中(まんなか)握(にぎ)り、打板(うちいた)の上(うへ)に立(た)ちけり。「囃(はや)せや殿原(とのばら)達(たち)、東(あづま)の方(かた)の奴原(やつばら)に物見(み)せん。若(わか)かりし時(とき)は叡山(えいざん)にて由(よし)ある方(かた)には、詩歌(しいか)管絃(くわんげん)の方(かた)にも許(ゆる)され、武勇(ぶゆう)の道(みち)には悪僧(あくそう)の名を取(と)りき。一手(いつて)舞(ま)うて東(あづま)の方(かた)の賎(いや)しき奴原(やつばら)に見(み)せん」とて、鈴木(すずき)兄弟(きやうだい)に囃(はや)させて、
嬉(うれ)しや滝(たき)の水(みづ)、鳴(な)るは滝(たき)の水、日は照(て)るとも絶(た)えずと二人(ふたり)、東(あづま)の奴原(やつばら)が鎧(よろひ)冑(かぶと)を首(くび)諸共(もろとも)に衣河(ころもがは)に斬(き)り付(つ)け流(なが)しつるかな W023
とぞ舞(ま)ふたりける。寄手(よせて)是(これ)を聞(き)きて、「判官(はうぐわん)殿(どの)の御内(みうち)の人々(ひとびと)程(ほど)剛(かう)なる事(こと)はなし。寄手(よせて)三万騎(さんまんぎ)に、城の内(うち)は僅(わづか)十騎(き)ばかりにて、何程(なにほど)の立合(たてあひ)せんとて舞(まひ)舞(ま)ふらん」とぞ申(まう)しける。寄手(よせて)の申(まう)しけるは、「如何(いか)に思(おぼ)し召(め)し候(さうら)ふとも、三万(さんまん)余騎(よき)ぞかし。舞(まひ)も置(お)き給(たま)へ」と申(まう)せば、「三万(さんまん)も三万(さんまん)によるべし。十騎(き)も十騎(き)によるぞ。汝等(おのれら)が軍(いくさ)せんと企(くわだ)つる様(やう)の可笑(をか)しければ笑(わら)ふぞ。叡山(えいざん)、春日山(かすがやま)の麓(ふもと)にて、五月会(さつきゑ)に競馬(くらべうま)をするに、少(すこ)しも違(たが)はず。可笑(をか)しや鈴木(すずき)、東(あづま)の方(かた)の奴原(やつばら)に手並(てなみ)の程(ほど)を見(み)せてくれうぞ」とて、打物(うちもの)抜(ぬ)きて鈴木(すずき)兄弟(きやうだい)、弁慶(べんけい)轡(くつばみ)を並(なら)べて、錏(しころ)を傾(かた)ぶけて、太刀(たち)を兜(かぶと)の真向(まつかう)に当(あ)てて、どつと喚(おめ)きて駆(か)けたれば、秋風(あきかぜ)に木の葉(は)
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を散(ち)らすに異(こと)ならず。寄手(よせて)の者(もの)共(ども)元(もと)の陣(ぢん)へぞ引(ひ)き退(しりぞ)く。「口(くち)には似(に)ざる物や。勢(せい)にこそよれ。不覚人(ふかくじん)共(ども)かな、返(かへ)せや返(かへ)せや」と喚(おめ)きけれども、返(かへ)し合(あ)はする者(もの)もなし。斯(か)かりける所(ところ)に鈴木(すずき)の三郎、照井(てるゐ)の太郎と組(く)まんと、「和君(わぎみ)は誰(た)そ」「御内(みうち)の侍(さぶらひ)に照井(てるゐ)の太郎高治(たかはる)」「さて和君(わぎみ)が主こそ鎌倉(かまくら)殿(どの)の郎等(らうどう)よ。和君(わぎみ)が主(しゆう)の祖父(おほぢ)清衡(きよひら)後三年の戦(たたかひ)の時(とき)、郎等(らうどう)たりけるとこそ聞(き)け、其(そ)の子に武衡(たけひら)、其(そ)の子に秀衡(ひでひら)、其(そ)の子に泰衡(やすひら)、然(さ)れば我(われ)等(ら)が殿(との)には五代の相伝(さうでん)の郎等(らうどう)ぞかし。重家(しげいへ)は鎌倉(かまくら)殿(どの)には重代(ぢゆうだい)の侍(さぶらひ)なり。然(さ)れば重家(しげいへ)が為(ため)には合(あ)はぬ敵(かたき)なり。然(さ)れども弓矢(ゆみや)取(と)る身は逢(あ)ふを敵(かたき)、面白(おもしろ)し、泰衡(やすひら)が内(うち)に恥(はぢ)ある者(もの)とこそ聞(き)け。それが恥(はぢ)ある武士(ぶし)に後(うし)ろ見する事(こと)やある。穢(きたな)しや、止(とど)まれ止(とど)まれ」と言(い)はれて返(かへ)し合(あ)はせ、右の肩(かた)切(き)られて、引(ひ)きて退(の)く。鈴木(すずき)既(すで)に弓手(ゆんで)に二騎(き)、右手(めて)に三騎(さんぎ)切(き)り伏(ふ)せ、
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七八騎(き)に手(て)負(お)ほせて、我(わ)が身も痛手(いたで)負(お)ひ、「亀井(かめゐ)の六郎(ろくらう)犬死(いぬじに)すな。重家(しげいへ)は今(いま)は斯(か)うぞ」と是(これ)を最期(さいご)の言葉(ことば)にて、腹(はら)掻(か)き切(き)つて伏(ふ)しにけり。「紀伊国(きいのくに)鈴木(すずき)を出(い)でし日より、命(いのち)をば君に奉(たてまつ)る。今(いま)思(おも)はず一所にて死(し)し候(さうら)はんこそ嬉(うれ)しく候(さうら)へ。死出(しで)の山(やま)にては必(かなら)ず待(ま)ち給(たま)へ」とて、鎧(よろひ)の草摺(くさずり)かなぐり捨(す)てて、「音(おと)にも聞(き)くらん、目にも見よ、鈴木(すずき)の三郎が弟に亀井(かめゐ)の六郎(ろくらう)生年(しやうねん)廿三、弓矢(ゆみや)の手並(てなみ)日頃(ひごろ)人に知(し)られたれども、東(あづま)の方(かた)の奴原(やつばら)は未(いま)だ知(し)らじ。初(はじ)めて物見(ものみ)せん」と言(い)ひも果(は)てず、大勢(おほぜい)の中へ割(わ)つて入(い)り、弓手(ゆんで)あひ付(つ)け、右手(めて)に攻(せ)め付(つ)け、切(き)りけるに、面(おもて)を向(むか)ふる者(もの)ぞ無(な)き。敵(かたき)三騎(さんぎ)打(う)ち取(と)り、六騎(ろつき)に手(て)を負(おほ)せて、我(わ)が身も大事(だいじ)の傷(きず)数多(あまた)負(お)ひければ、鎧(よろひ)の上帯(うはおび)押(お)しくつろげ、腹(はら)掻(か)き切(き)つて、兄(あに)の伏(ふ)したる所(ところ)に同じ枕(まくら)に伏(ふ)しにけり。さても武蔵(むさし)は、彼(かれ)に打(う)ち合(あ)ひ、是(これ)に打(う)ち合(あひ)する程(ほど)に、喉笛(のどぶえ)打(う)ち裂(さ)かれ、血(ち)出(い)づる事は限(かぎ)りなし。世(よ)の常(つね)の人などは、血酔(ちゑい)などするぞかし。弁慶(べんけい)は血(ち)の出(い)づればいとど血(ち)そばへして、人をも人とも思(おも)はず、前へ流(なが)るる血(ち)は鎧(よろひ)の働(はたら)くに従(したが)ひて、朱血(あけち)になりて流(なが)れける程(ほど)に、敵(かたき)申(まう)しけるは、「此処(ここ)なる法師(ほふし)、余(あま)りのもの狂(くる)はしさに前(まへ)にも母衣(ほろ)かけたるぞ」と申(まう)しけり。「あれ程(ほど)のふて者(もの)に寄(より)合(あ)ふべからず」とて、手綱(たづな)を控(ひか)へて寄(よ)せず。弁慶(べんけい)度々の戦(いくさ)に慣(な)れたる事(こと)なれば、倒(たふ)るる
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様(やう)にては、起(おき)上(あ)がり起(おき)上(あ)がり、河原(かはら)を走(はし)り歩(ある)くに、面(おもて)を向(むか)ふる人ぞ無(な)き。さる程(ほど)に増尾(ましを)の十郎(じふらう)も討死(うちじに)す。備前(びぜん)の平四郎も敵(てき)数多(あまた)討(う)ち取(と)り、我(わ)が身も傷(きず)数多(あまた)負(お)ひければ、自害(じがい)して失(う)せぬ。片岡(かたをか)と鷲尾(わしのを)一(ひと)つになりて軍(いくさ)しけるが、鷲尾(わしのを)は敵(かたき)五騎(き)討(う)ち取(と)りて死(し)にぬ。片岡(かたをか)一方(いつぱう)隙(す)きければ、武蔵坊(むさしばう)伊勢(いせ)の三郎と一所にかかる。伊勢(いせ)の三郎敵(かたき)六騎(ろつき)討(う)ち取(と)り、三騎(さんぎ)に手(て)負(おほ)せて、思(おも)ふ様(やう)に軍(いくさ)して深手(ふかで)負(お)ひければ、暇乞(いとまごひ)して、「死出(しで)の山(やま)にて待(ま)つぞ」とて自害(じがい)してんげり。弁慶(べんけい)敵(てき)追(お)ひ払(はら)うて、御前(おまへ)に参(まゐ)りて、「弁慶(べんけい)こそ参(まゐ)りて候(さうら)へ」と申(まう)しければ、君(きみ)は法華経(ほけきやう)の八(はち)の巻(まき)を遊(あそ)ばして御座(おは)しましけるが、「如何(いか)に」と宣(のたま)へば、「軍(いくさ)は限(かぎり)になりて候(さうら)ふ。備前(びぜん)、鷲尾(わしのを)、増尾(ましほ)、鈴木(すずき)兄弟(きやうだい)、伊勢(いせ)の三郎、各々(おのおの)軍(いくさ)思(おも)ひの儘(まま)に仕(つかまつ)り、討死(うちじに)仕(つかまつ)りて候(さうら)ふ。今(いま)は弁慶(べんけい)と片岡(かたをか)ばかりになりて候(さうら)ふ。限(かぎり)にて候(さうら)ふ程(ほど)に、君(きみ)の御目に今(いま)一度かかり候(さうら)はんずる為(ため)に参(まゐ)りて候(さうら)ふ。君(きみ)御先立(さきだ)ち候(さうら)はば、死出(しで)の山(やま)にて御待(ま)ち候(さうら)へ。弁慶(べんけい)先立(さきだ)ち参(まゐ)らせ候(さうら)はば、三途(さんづ)の川にて待(ま)ち参(まゐ)らせん」と申(まう)せば判官(はうぐわん)、「今(いま)一入(ひとしほ)名残(なごり)の惜(を)しきぞよ。死(し)なば一所とこそ契(ちぎ)りしに、我(われ)も諸共(もろとも)に打(う)ち出(い)でんとすれば、不足(ふそく)なる敵(てき)なり。弁慶(べんけい)を内に止(とど)めんとすれば、味方(みかた)の各々(おのおの)討死(うちじに)する。自害(じがい)の所(ところ)へ雑人(ざふにん)を入(い)れたらば、弓矢(ゆみや)の疵(きず)なるべし。今(いま)は力(ちから)及(およ)ばず、仮令(たとひ)我(われ)先立(さきだ)ちたりとも、死出(しで)の山(やま)にて待(ま)つべし。先立(さきだ)ちたらば実(まこと)
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に三途(さんづ)の河にて待(ま)ち候(さうら)へ。御経(おきやう)もいま少(すこ)しなり。読(よ)み果(は)つる程(ほど)は、死(し)したりとも、我(われ)を守護(しゆご)せよ」と仰(おほ)せられければ、「さん候(ざうらふ)」と申(まう)して、御簾(みす)を引(ひ)き上(あ)げ、君(きみ)をつくづくと見(み)参(まゐ)らせて、御名残(おんなごり)惜(を)しげに涙に咽(むせ)びけるが、敵(てき)の近(ちか)づく声(こゑ)を聞(き)き、御暇(おんいとま)申(まう)し立(た)ち出(い)づるとて、又(また)立(た)ち返(かへ)り、かくぞ申(まう)し上(あ)げける。
六道(だう)の道(みち)の衢(ちまた)に待(ま)てよ君(きみ)後(おく)れ先立(さきだ)つ習(なら)ひ有(あ)りとも W024
かく忙(いそが)はしき中(うち)にも、未来(みらい)をかけて申(まう)しければ、御返事(ごへんじ)に、
後(のち)の世も又(また)後(のち)の世も廻(めぐ)り会(あ)へ染(そ)む紫(むらさき)の雲(くも)の上(うへ)まで W025
と仰(おほ)せられければ、声(こゑ)を立(た)ててぞ泣(な)きにける。さて片岡(かたをか)と後合(うしろあはせ)に差(さ)し合(あ)はせ、一ちやう町(ちやう)を二手(て)に分(わ)けて駆(か)けたりければ、二人(ふたり)に駆(か)け立(た)てられて、寄手(よせて)の兵共(つはものども)むらめかして引(ひ)き退(しりぞ)く。片岡(かたをか)七騎が中に走(はし)り入(い)りて戦(たたか)ふ程(ほど)に、
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肩(かた)も腕(かひな)もこらへずして、疵(きず)多(おほ)く負(お)ひければ、叶(かな)はじとや思(おも)ひけん、腹(はら)掻(か)き切(き)り亡(う)せにけり。弁慶(べんけい)今(いま)は一人なり。長刀(なぎなた)の柄(え)一尺(いつしやく)踏(ふみ)折(を)りてがはと捨(す)て、「あはれ中々(なかなか)良(よ)き物や、えせ片人(かたうど)の足手(あしで)にまぎれて、悪(わろ)かりつるに」とて、きつと踏張(ふんば)り立(た)つて、敵(かたき)入(い)れば寄(よ)せ合(あ)はせて、はたとは斬(き)り、ふつとは斬(き)り、馬(うま)の太腹(ふとはら)前膝(まへひざ)はらりはらりと切(き)り付(つ)け、馬(うま)より落(お)つる所(ところ)は長刀(なぎなた)の先(さき)にて首(くび)を刎(は)ね落(おと)し、脊(むね)にて叩(たた)きおろしなどして狂(くる)ふ程(ほど)に、一人に斬(き)り立(た)てられて、面(おもて)を向(む)くる者(もの)ぞ無(な)き。鎧(よろひ)に矢の立(た)つ事(こと)数を知(し)らず。折(を)り掛(か)け折(を)り掛(か)けしたりければ、簔(みの)を逆様(さかさま)に著(き)たる様にぞ有(あ)りける。黒羽(くろは)、白羽(しらは)、染羽(そめば)、色々(いろいろ)の矢(や)共(ども)風に吹(ふ)かれて見(み)えければ、武蔵野(むさしの)の尾花(をばな)の秋風(あきかぜ)に吹(ふ)きなびかるるに異(こと)ならず。八方(ぱう)を走(はし)り廻(まは)りて狂(くる)ひけるを、寄手(よせて)の者共(ども)申(まう)しけるは、「敵(てき)も味方(みかた)も討死(うちじに)すれども、弁慶(べんけい)ばかり如何(いか)に狂(くる)へ共(ども)、死(し)なぬは不思議(ふしぎ)なり。音(おと)に聞(き)こえしにも勝(まさ)りたり。我(われ)等(ら)が手(て)にこそかけずとも、鎮守(ちんじゆ)大明神(だいみやうじん)立(た)ち寄(よ)りて蹴(け)殺(ころ)し給(たま)へ」と呪(のろ)ひけるこそ痴(をこ)がましけれ。武蔵(むさし)は敵(かたき)を打(う)ち払(はら)ひて、長刀(なぎなた)を逆様(さかさま)に杖(つゑ)に突(つ)きて、二王立(にわうだち)に立(た)ちにけり。偏(ひとへ)に力士(りきしゆ)の如(ごと)くなり。一口(ひとくち)笑(わら)ひて立(た)ちたれば、「あれ見(み)給(たま)へあの法師(ほふし)、我(われ)等(ら)を討(う)たんとて此方(こなた)を守(まぼ)らへ、痴笑(しれわら)ひしてあるは只事(ただごと)ならず。近く寄(よ)りて討(う)たるな」とて近(ちか)づく者(もの)もなし。然(さ)る者(もの)申(まう)しけるは、「剛(かう)の者(もの)は立(た)ちながら死する
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事(こと)あると言(い)ふぞ。殿原(とのばら)あたりて見(み)給(たま)へ」と申(まう)しければ、「我(われ)あたらん」と言(い)ふ者(もの)もなし。或(あ)る武者(むしや)馬(うま)にて辺(あたり)を馳(は)せければ、疾(と)くより死(し)したる者(もの)なれば、馬(うま)にあたりて倒(たふ)れけり。長刀を握(にぎ)りすくみてあれば、倒(たふ)れ様(さま)に先(さき)へ打(う)ち越(こ)す様(やう)に見(み)えければ、「すはすは又(また)狂(くる)ふは」とて馳(は)せ退(の)き馳(は)せ退(の)き控(ひか)へたり。され共(ども)倒(たふ)れたる儘(まま)にて動(うご)かず。其(そ)の時(とき)我(われ)も我(われ)もと寄(よ)りけるこそ痴(をこ)がましく見(み)えたりけれ。立ちながらすくみたる事(こと)は、君(きみ)の御自害(ごじがい)の程(ほど)、人を寄(よ)せじとて守護(しゆご)の為(ため)かと覚(おぼ)えて、人々(ひとびと)いよいよ感(かん)じけり。
判官(はうぐわん)御自害(ごじがい)の事(こと) S0806
十郎(じふらう)権頭(ごんのかみ)、喜三太(きさんだ)は、家の上(うへ)より飛(と)び下(お)りけるが、喜三太(きさんだ)は首(くび)の骨(ほね)を射(い)られて失(う)せにける。兼房(かねふさ)は楯(たて)を後(うし)ろにあてて、主殿(しゆでん)の垂木(たるき)に取(と)り付(つ)きて、持仏堂(ぢぶつだう)の広庇(ひろひさし)に飛(と)び入(い)る。此処(ここ)にしやさうと申(まう)す雑色(ざふしき)、故(こ)入道(にふだう)判官(はうぐわん)殿(どの)へ参(まゐ)らせたる下郎(げらう)なれども「彼奴(きやつ)原(ばら)は自然(しぜん)の御用(よう)に立(た)つべき者(もの)にて候(さうら)ふ。御(おん)召(め)し使(つか)ひ候(さうら)へ」と強(あがな)ちに申(まう)しければ、別の雑色(ざふしき)嫌(きら)ひけれども、馬(うま)の上を許(ゆる)され申(まう)したりけるが、此(こ)の度(たび)人々(ひとびと)多(おほ)く落(お)ち行(ゆ)けども、彼(かれ)ばかり留(とど)まりてんげり。兼房(かねふさ)に申(まう)しける
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は、「それ見参(げんざん)に入(い)れて給(たま)はるべきや。しやさうは御内にて防矢(ふせぎや)仕(つかまつ)り候(さうら)ふなり。故(こ)入道(にふだう)申(まう)されし旨(むね)の上(うへ)は、下郎(げらう)にて候(さうら)へども、死出(しで)の山(やま)の御伴(おんとも)仕(つかまつ)り候(さうら)ふべし」とて散々(さんざん)に戦(たたか)ふ程(ほど)に、面(おもて)を向(む)かふる者(もの)なし。下郎(げらう)なれども彼(かれ)ばかりこそ、故(こ)入道(にふだう)申(まう)せし言葉(ことば)を違(たが)へずして留(とど)まりけるこそ不便(ふびん)なれ。「さて自害(じがい)の刻限(こくげん)になりたるやらん、又(また)自害(じがい)は如何様(いかやう)にしたるを良(よ)きと言(い)ふやらん」と宣(のたま)へば、「佐藤(さとう)兵衛(ひやうゑ)が京(きやう)にて仕(つかまつ)りたるをこそ、後(のち)まで人々(ひとびと)讚(ほ)め候(さうら)へ」と申(まう)しければ、「仔細(しさい)なし。さては疵(きず)の口(くち)の広(ひろ)きこそよからめ」とて、三条(さんでう)小鍛治(こかぢ)が宿願(しゆくぐわん)有(あ)りて、鞍馬(くらま)へ打(う)ちて参(まゐ)らせたる刀(かたな)の六寸(ろくすん)五分有(あ)りけるを、別当(べつたう)申(まう)し下(おろ)して今(いま)の剣(つるぎ)と名付(なづ)けて秘蔵(ひさう)しけるを、判官(はうぐわん)幼(をさな)くて鞍馬(くらま)へ御出(おいで)の時(とき)、守刀(まぼりがたな)に奉(たてまつ)りしぞかし。義経(よしつね)幼少(えうせう)より秘蔵(ひさう)して身を放(はな)さずして、西国(さいこく)の合戦(かつせん)にも鎧(よろひ)の下(した)にさされける。彼(か)の刀(かたな)を以(もつ)て左の乳(ち)の下(した)より刀(かたな)を立(た)て、後(うし)ろへ透(とほ)れと掻(か)き切(き)つて、疵(きず)の口(くち)を三方(さんぱう)へ掻(か)き破(やぶ)り、腸(はらわた)を繰(く)り出(い)だし、刀(かたな)を衣(きぬ)の袖にて押(お)し拭(ぬぐ)ひ、衣(きぬ)引(ひ)き掛(か)け、脇息(けうそく)してぞ御座(おは)しましける。北(きた)の方(かた)を呼(よ)び出(い)だし奉(たてまつ)りて宣(のたま)ひけるは、「今(いま)は故(こ)入道(にふだう)の後家の方(かた)にても兄人(せうと)の方(かた)にても渡(わた)らせ給(たま)へ。皆(みな)都(みやこ)の者(もの)にて候(さうら)へば、情(なさけ)無(な)くはあたり申(まう)し候(さうら)はじ。故郷(こきやう)へも送(おく)り申(まう)すべし。今(いま)より後、さこそ便(たより)を失(うしな)ひ、御歎(なげ)き候(さうら)はんとこそ、後(のち)の世までも心(こころ)に
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かかり候(さうら)はんずれども、何事(なにごと)も前世(ぜんぜ)の事(こと)と思(おぼ)し召(め)して、強(あなが)ちに御歎(なげ)きあるべからず」と申(まう)させ給(たま)へば、北(きた)の方(かた)、「都(みやこ)を連(つ)れられ参(まゐ)らせて出(い)でしより、今(いま)まで存命(ながら)へてあるべしとも覚(おぼ)えず、道(みち)にてこそ自然(しぜん)の事(こと)も有(あ)らば先(ま)づ自(みづか)らを亡(うしな)はれんずらんと思(おも)ひしに、今更(いまさら)驚(おどろ)くに有(あ)らず。早々(はやはや)自(みづか)らをば御手(て)にかけさせ給(たま)へ」とて、取(と)り付(つ)き給(たま)へば、義経(よしつね)、「自害(じがい)より先(さき)にこそ申(まう)したく候(さうら)ひつれ共(ども)、余(あま)りの痛(いた)はしさに申(まう)し得(え)ず候(さうら)ふ。今(いま)は兼房(かねふさ)に仰(おほ)せ付(つ)けられ候(さうら)へ。兼房(かねふさ)近(ちか)く参(まゐ)れ」と有(あ)りけれども、何処(いづく)に刀(かたな)を立(た)て参(まゐ)らすべしとも覚(おぼ)えずして、ひれ伏(ふ)しければ、北(きた)の方(かた)仰(おほ)せられけるは、「人の親(おや)の御目程(ほど)賢(かしこ)かりけり。あれ程(ほど)の不覚人(ふかくじん)と御覧(ごらん)じ入(い)りて、多(おほ)くの者(もの)の中に女にてある自(みづか)らに付(つ)け給(たま)ひたれ。我(われ)に言(い)はるるまでもあるまじきぞ。言(い)はぬ先(さき)に失(うしな)ふべきに暫(しばら)くも生(い)けて置(お)き、
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恥(はぢ)を見(み)せんとするうたてさよ。さらば刀(かたな)を参(まゐ)らせよ」と有(あ)りしかば、兼房(かねふさ)申(まう)しけるは、「是(これ)ばかりこそ不覚(ふかく)なるが理(ことわり)にて候(さうら)へ。君(きみ)御産(おさん)ならせ給(たま)ひて三日と申(まう)すに、兼房(かねふさ)を召(め)されて、「此(こ)の君(きみ)をば汝(なんぢ)が計(はか)らひなり」と仰(おほ)せ蒙(かうぶ)りて候(さうら)ひしかば、やがて御産所(おさんじよ)に参(まゐ)り、抱(いだ)き初(そ)め参(まゐ)らせてより、其(そ)の後は出仕(しゆつし)の隙(ひま)だにも覚束(おぼつか)無(な)く思(おも)ひ参(まゐ)らせ、御成人(せいじん)候(さうら)へば、女御后(きさき)にもせばやとこそ存(ぞん)じて候(さうら)ひつるに、北(きた)の政所(まんどころ)打(う)ち続(つづ)きかくれさせ給(たま)へば、思(おも)ふに甲斐(かひ)無(な)き歎(なげ)きのみ、神や仏(ほとけ)に祈(いの)る祈(いの)りはむなしくて、斯様(かやう)に見(み)なし奉(たてまつ)らんとは、露(つゆ)思(おも)はざりしものを」とて、鎧(よろひ)の袖を顔(かほ)に押(お)し当(あ)てて、さめざめと泣(な)きければ、「よしや嘆(なげ)くとも、今(いま)は甲斐(かひ)有(あ)らじ。敵(てき)の近(ちか)づくに」と有(あ)りしかば、兼房(かねふさ)目(め)も昏(く)れ心(こころ)も消(き)えて覚えしかども、「かくては叶(かな)はじ」と、腰(こし)の刀を抜(ぬ)き出(い)だし、御肩(かた)を押(おさ)へ奉(たてまつ)り、右の御脇(わき)より左へつと刺(さ)し透(とほ)しければ、御息(おんいき)の下に念仏(ねんぶつ)して、やがてはかなくなり給(たま)ひぬ。御衣(きぬ)引(ひ)き披(かづ)け参(まゐ)らせて、君の御傍(おんそば)に置(お)き奉(たてまつ)りて、五つにならせ給(たま)ふ若君(わかぎみ)、御乳母(めのと)の抱(いだ)き参(まゐ)らせたる所(ところ)につと参(まゐ)り、「御館(たち)も上様(かみさま)も、死出(しで)の山(やま)と申(まう)す道(みち)越(こ)えさせ給(たま)ひて、黄泉(くわうせん)の遙(はる)かの界(さかひ)に御座(おは)しまし候(さうら)ふなり。若君(わかぎみ)もやがて入(い)らせ給(たま)へ」と仰(おほ)せ候(さうら)ひつると申(まう)しければ、害(がい)し奉(たてまつ)るべき兼房(かねふさ)が首(くび)に抱(いだ)き付(つ)き給(たま)ひて、「死出(しで)の山(やま)とかやに早々(はやはや)参(まゐ)らん。兼房(かねふさ)急(いそ)ぎ連(つ)れて参(まゐ)れ」と責(せ)め給(たま)へば、いとど
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詮方(せんかた)無(な)く、前後(ぜんご)覚(おぼ)えずになりて、落涙に堰(せ)き敢(あ)へず、「あはれ前(さき)の世の罪業(ざいごふ)こそ無念(むねん)なれ。若君(わかぎみ)様(さま)御館(たち)の御子と産(むま)れさせ給(たま)ふも、かくあるべき契(ちぎ)りかや。「亀割山(かめわりやま)にて巣守(すもり)になせ」と宣(のたま)ひし御言葉(おんことば)の末(すゑ)、実(まこと)に今(いま)まで耳(みみ)にある様(やう)に覚(おぼ)ゆるぞ」とて、又(また)さめざめと泣(な)きけるが、敵(てき)はしきりに近(ちか)づく。かくては叶(かな)はじと思(おも)ひ、二刀(ふたかたな)刺(さ)し貫(つらぬ)き、わつとばかり宣(のたま)ひて、御息(おんいき)止(と)まりければ、判官(はうぐわん)殿(どの)の衣(きぬ)の下(した)に押(お)し入(い)れ奉(たてまつ)る。さて生(う)まれて七日にならせ給(たま)ふ姫君(ひめぎみ)同(おな)じく刺(さ)し殺(ころ)し奉(たてまつ)り、北(きた)の方(かた)の衣(きぬ)の下(した)に押(お)し入(い)れ奉(たてまつ)り、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と申(まう)して我(わ)が身を抱(いだ)きて立(た)ちたりけり。判官(はうぐわん)殿(どの)未(いま)だ御息(おんいき)通(かよ)ひけるにや、御目を御覧(ごらん)じ開(あ)けさせ給(たま)ひて、「北(きた)の方(かた)は如何(いか)に」と宣(のたま)へば、「早(はや)御自害(ごじがい)有(あ)りて御側(おんそば)に御入(おい)り候(さうら)ふ」と申(まう)せば、御側(おんそば)を探(さぐ)らせ給(たま)ひて、「是(これ)は誰(たれ)、若君(わかぎみ)にて渡(わた)らせ給(たま)ふか」と御手(て)を差(さ)し渡(わた)させ給(たま)ひて、北(きた)の方(かた)に取(と)り付(つ)き給(たま)ひぬ。兼房(かねふさ)いとど哀(あは)れぞ勝(まさ)りける。「早々(はやはや)宿所(しゆくしよ)に火をかけよ」とばかり最期(さいご)の御言葉(おんことば)にて、こと切(き)れ果(は)てさせ給(たま)ひけり。
兼房(かねふさ)が最期(さいご)の事(こと) S0807
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十郎(じふらう)権頭(ごんのかみ)、「今(いま)は中々(なかなか)心(こころ)に懸(か)かる事なし」と独言(ひとりごと)し、予(かね)てこしらへたる事(こと)なれば、走(はし)りまはりて火をかけたり。折節(をりふし)西の風吹(ふ)き、猛火(みやうくわ)は程(ほど)無(な)く御殿(てん)につきけり。御死骸(ごしがい)の御上には遣戸(やりと)格子(かうし)を外(はづ)し置(お)き、御跡(おんあと)の見(み)えぬ様(やう)にぞこしらへける。兼房(かねふさ)は焔(ほのほ)に咽(むせ)び、東西(とうざい)昏(く)れて有(あ)りけるが、君(きみ)を守護(しゆご)し申(まう)さんとて、最期(さいご)の軍(いくさ)少(すく)なくしたりとや思(おも)ひけん、鎧(よろひ)を脱(ぬ)ぎ捨(す)て、腹巻(はらまき)の上帯(うはおび)締(し)め固(かた)め、妻戸(つまど)よりづと出(い)で見(み)れば、其(そ)の日の大将(たいしやう)長崎(ながさき)太郎兄弟、壷(つぼ)の内(うち)に控(ひか)へたり。敵(てき)自害(じがい)の上(うへ)は何事(なにごと)かあるべきとてゐたりけるを、兼房(かねふさ)言(い)ひけるは、「唐土天竺(てんぢく)は知(し)らず、我(わ)が朝(てう)に於(おい)て、御内(みうち)の御座所(どころ)に馬(うま)に乗(の)りながら控(ひか)ゆべきものこそ覚(おぼ)えね。かく言(い)ふ者(もの)をば誰(たれ)かと思(おも)ふ、清和天皇(せいわてんわう)十代の御末(おんすゑ)、八幡(はちまん)殿(どの)には四代(だい)の孫(まご)、鎌倉(かまくら)殿(どの)の御舎弟(しやてい)九郎大夫判官(はうぐわん)殿(どの)の御内に、十郎(じふらう)権頭(ごんのかみ)兼房(かねふさ)、もとは久我(こが)の大臣殿(おほいどの)の侍(さぶらひ)なり。今(いま)は源氏(げんじ)の郎等(らうどう)なり。樊■(はんくわい)を欺(あざむ)く程(ほど)の剛(かう)の者、いざや手並(てなみ)を見(み)せてくれん。法(ほふ)も知(し)らぬ奴原(やつばら)かな」と言(い)ふこそ久(ひさ)しけれ。長崎(ながさき)太郎が右手(めて)の鎧(よろひ)の草摺(くさずり)半枚(はんまい)かけて、膝(ひざ)の口(くち)、鎧(あぶみ)の鐙靼金(みつをかね)、馬(うま)の折骨(をりぼね)五枚(まい)かけて斬(き)り付(つ)けたり。主も馬(うま)も足(あし)を立(た)て返(かへ)さず倒(たふ)れけり。押(お)し懸(か)かり首(くび)をかかんとせし処に、兄(あに)を討(う)たせじと弟(おとと)の次郎(じらう)兼房(かねふさ)に打(う)つてかかる。兼房(かねふさ)走(はし)り違(ちが)ふ様(やう)にして、馬(うま)より引(ひ)き落(おと)し、左の脇(わき)に掻(か)い挟(ばさ)みて、「独(ひと)り越(こ)ゆべき死出(しで)の山、供(とも)して越(こ)えよや」とて、
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炎(ほのほ)の中に飛(と)び入(い)りけり。兼房(かねふさ)思(おも)へば恐(おそ)ろしや、偏(ひとへ)に鬼神の振舞(ふるまひ)なり。是(これ)は元(もと)より期(ご)したる事(こと)なり。長崎(ながさき)二郎(じらう)は勧賞(けんじやう)に与(あづか)り、御恩(ごおん)蒙(かうぶ)り、朝恩(てうおん)に驕(おご)るべきと思(おも)ひしに、心ならず捕(とら)はれて、焼(や)け死(じに)するこそ無慙(むざん)なれ。
秀衡(ひでひら)が子供(こども)御追討(ごついたう)の事(こと) S0808
かくて泰衡(やすひら)は判官(はうぐわん)殿(どの)の御首(くび)持(も)たせ、鎌倉(かまくら)へ奉(たてまつ)る。頼朝(よりとも)仰(おほ)せけるは、「抑(そもそも)是(これ)等(ら)は不思議(ふしぎ)の者(もの)共(ども)かな。頼(たの)みて下(くだ)りつる義経(よしつね)を討(う)つのみならず、是(これ)は現在(げんざい)頼朝(よりとも)が兄弟(きやうだい)と知(し)りながら、院宣(ゐんぜん)なればとて、左右(さう)無(な)く討(う)ちぬるこそ奇怪(きくわい)なれ」とて、泰衡(やすひら)が添(そ)へて参(まゐ)らせたる宗徒(むねと)の侍(さぶらひ)二人(ふたり)、其(そ)の外(ほか)雑色(ざふしき)、下部(しもべ)に至(いた)るまで、一人も残(のこ)さず首(くび)を斬(き)りてぞ懸(か)けられける。やがて軍兵(ぐんびやう)差(さ)し遣(つか)はし、泰衡(やすひら)討(う)たるべき僉議(せんぎ)有(あ)りければ、先陣(せんぢん)望(のぞ)み申(まう)す人々(ひとびと)、千葉介(ちばのすけ)、三浦介(みうらのすけ)、左馬介(さまのすけ)、大学頭(がくのかみ)、大炊介(おほいのすけ)、梶原(かぢはら)を初(はじ)めとして望(のぞ)み申(まう)しけれども、「善悪(ぜんあく)頼朝(よりとも)私(わたくし)には計(はか)らひ難(がた)し」とて、若宮(わかみや)に参詣(さんけい)有(あ)りけるに、畠山(はたけやま)夢想(むさう)の事(こと)有(あ)りとて、重忠(しげただ)を初(はじ)めとして、都合其(そ)の勢(せい)七万余騎(よき)奥州(あうしう)へ発向(はつかう)す。昔(むかし)は十二年まで戦(たたか)ひける所(ところ)ぞかし、今度(こんど)は僅(わづか)に九十日の内(うち)に攻(せ)め落されけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。錦戸(にしきど)、比爪(ひづめ)
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泰衡(やすひら)、大将(たいしやう)以下三百人が首(くび)を、畠山(はたけやま)が手(て)に取(と)られける。残(のこ)る所(ところ)、雑人(ざふにん)等(ら)に至(いた)るまで、皆(みな)首(くび)を取(と)りければ数(かず)を知(し)らざる所(ところ)なり。故(こ)入道(にふだう)が遺言(ゆいごん)の如(ごと)く、錦戸(にしきど)、比爪(ひづめ)両人(りやうにん)両関(りやうぜき)をふさぎ、泰衡(やすひら)、泉(いづみ)、判官(はうぐわん)殿(どの)の御下知(げち)に従(したが)ひて軍(いくさ)をしたりせば、争(いかで)か斯様(かやう)になり果(は)つべき。親(おや)の遺言(ゆいごん)と言(い)ひ、君(きみ)に不忠(ふちゆう)と言(い)ひ、悪逆(あくぎやく)無道(ぶたう)を存(ぞん)じ立(た)ちて、命(いのち)も滅(ほろ)び、子孫絶(た)えて、代々の所領(しよりやう)他人(たにん)の宝(たから)となるこそ悲(かな)しけれ。侍(さぶらひ)たらん者(もの)は、忠孝(ちゆうかう)を専(もつぱら)とせずんばあるべからず。口惜(くちを)しかりしものなり。
義経記巻第八