『源平闘諍録』読み下し 漢字仮名交じり版
凡例
底本: 内閣文庫蔵『源平闘諍録』(五冊、一之上・一之下・五・八之上・八之下)
早川厚一・弓削繁・山下宏明『内閣文庫蔵 源平闘諍録』(和泉書院)
原本には各冊の冒頭に「目録」がありますので、それぞれの巻頭につけました。
本文中に、章段名は、有りませんが、該当個所に、入れました。
原本は真字本ですが、これを訓読文としました。訓読に際しては、原本の送り仮名・振り仮名・ヲコト点に従うことを原則としましたが、一部、他の『平家物語』諸本を参考にして定めました。
適宜振り仮名を附しましたが、原本の振り仮名は片仮名で残しました。
漢字は、原則として「常用漢字表」にある字体に従いました。異体字はおおむね通行の字体に直しましたが、一部に異体字、旧字を残しました。パソコンで入力出来ないコードの無い字(第一・第二水準以外)は、〓で表示し、一部、〓[ + ]で文字を示しました。
原本には多くの誤字・脱字があり、それらのいくつかには、正しいと思われる字や脱字が書き込まれています。適宜それらを採用し、他の諸本を参照しながら、訂正したり、補ったりしました。補った場合は〔 〕に入れて示しました。
当て字と判断されるものは、正しい文字に直し、元の字を ( ) に入れて示しましたが、一部に原本の文字を残しました (僉儀・僉義など)。
「大−太、小−少、被−任、彼−被、基−墓、息−恩、陳−陣、郡−群、墨−黒、幡−播、弟−第、牧−枚、任−仕、點−黙」などは、意味に従って正しい文字に直しました。
和歌は、多く漢字による音仮名で表記されています。それらの中には歴史的仮名遣いに合わないものがあるので、原本の漢字表記を残し、その読みを歴史的仮名遣いで記しました。
原本の割注は 〈 〉 に入れて示しました。
本書の訓読には、下記を、大いに参考に致しました。
『源平闘諍録 坂東で生まれた平家物語 上』(講談社学術文庫 1397) 1999.09
『源平闘諍録 坂東で生まれた平家物語 下』(講談社学術文庫 1398) 2000.03.
福田豊彦/服部幸造 全注釈 講談社
源平闘諍録 一之上
(表紙)源平闘諍録 一之上 共五冊
〔目録〕
一 桓武天皇より平家の一胤の事
二 備前守忠盛昇殿の事〈 天承元年三月十三日 〉
三 忠盛死去の後、清盛其の跡を継ぎて栄ゆる事〈 仁平二年 保元年〈 丙子(ひのえね) 〉七月 〉
四 内と院と御中不和の事〈 永暦(えいりやく)・応保の比(ころ) 〉
五 二条院、先朝の后の宮を恋ひ御(おはしま)す事〈 前朝の内 〉
六 二条院崩御(ほうぎよ)の事〈 永万元年八月 〉
七 延暦・興福寺(こうぶくじ)、額打論(がくうちろん)の事〈 前(まへ)/に同じ 〉
八 高倉天皇御即位の事〈 仁安三年三月廿日 〉
九 右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝、伊東の三女に嫁する事〈 仁安三年三月 〉
十 頼朝の子息(しそく)、千鶴(せんづる)御前失なはるる事〈 同じく十一月下旬十四日 〉
十一 頼朝、北条の嫡女に嫁する事〈 同じく十一月下旬の比(ころ) 〉
十二 藤九郎(とうくらう)盛長夢物語(ゆめものがたり)〈 同じく十二月二日 〉
十三 太政(だいじやう)-入道清盛、悪行(あくぎやう)始めの事〈 同じく二年十六日 〉
十四 太政(だいじやう)-入道の第二の御娘、入内(じゆだい)有る事〈 承安元年十二月十四日 〉
十五 新大納言成親(なりちか)、大将所望の為(ため)、様〔々〕の祈祷の事〈 同じ比(ころ) 〉
十六 成親(なりちか)・俊寛、平家追討の僉議の事〈 同じ比(ころ) 〉
十七 日代師高(もろたか)、白山の大衆(だいしゆ)と争ひを起こす事〈 安元二年十二月十九日(じふくにち) 〉
十八 山門の大衆(だいしゆ)、神〔輿〕を捧げて下洛する事〈 治承元〔年〕四月十三日 〉付けたり 頼政、変化(へんげ)の物を射る事
十九 平大納言時忠、清撰(せいせん)に預(あづ)かる事〈 同じく十四日 〉
廿 加賀守(かが/の−かみ)師高(もろたか)、尾張国へ流さるる事〈 同じく廿日 〉
廿一 禁中・洛中炎上(えんしやう)の事〈 同じく廿八日 〉
源平闘諍録巻第一上
一 桓武天皇より平家の一胤の事
祇園(ぎをん)精舎(しやうじや)の鐘の声、諸行(しよぎやう)無常(むじやう)の響き有り。沙羅雙樹(しやら-さうじゆ)の花の色は、盛者必衰(じやうしや-ひつすい)の理(ことわり)を顕せり。驕(おご)れる人も久しからず、只(ただ)春の夜の夢の如(ごと)し。武(たけ)き者も遂(つひ)には殄(ほろ)びぬ、偏(ひとへ)に風の前の塵に同じ。遠く異朝を訪(とぶら)へば、秦の趙高(てうかう)・漢の王莽(わうまう)・梁の周異(しうい)・唐の禄山(ろくさん)、此れ等は皆旧主(きうしゆ)先皇の政(まつりごと)にも随はず、楽しみを極め、諌(イサメ)を容(い)れず、天下の乱れをも覚らず、民間の愁ふる所をも知らざりしかば、久しからずして失せにし者なり。近くは本朝を尋ぬれば、承平(しようへい)の将門(まさかど)・天慶(てんぎやう)の純友(すみとも)・康和(かうわ)の義親(ぎしん)・平治の信頼(のぶより)、驕(おご)れる心も武(たけ)き事も取々(とりどり)にこそ有りしかども、親(まぢか)くは入道太政(だいじやう)-大臣(だいじん)平の清盛と申しける人の有様を伝へ聞くこそ、心も言(ことば)も及ばれね。
其(そ)の先祖(せんぞ)を尋(たづ)ぬれば、桓武(くわんむ)天〔皇〕(てんわう)〈 柏原天皇 〉第五(だいご)の王子(わうじ)、一品式部卿(いつぽんしきぶきやう)葛原(かづらはら)の親王(しんわう)九代(くだい)の後胤(こういん)、讃岐守(さぬきのかみ)正盛(まさもり)の孫(まご)、刑部卿(ぎやうぶきやう)忠盛(ただもりの)朝臣(あつそん)の嫡男(ちやくなん)なり。彼(か)の親王(しんわう)の御子(みこ)高見(たかみ)の王(わう)は、無官(むくわん)無位(むゐ)にて失せ給(たま)ひぬ。其(そ)の御子(みこ)に高望(たかもち)の王(わう)の時(とき)、淳和天皇の御宇(ぎよう)、天長年中の比(ころ)、忽(たちま)ちに王氏(わうし)を出(い)でて人臣(じんしん)に烈(つらな)り、始(はじ)めて平(たひら)の朝臣(あつそん)の姓(しやう)を賜(たま)はり、上総介(かづさのすけ)に任ず。
彼(か)の高望(たかもち)に十二人の子有り。嫡男(ちやくなん)国香(くにか)常陸(ひたちの)大掾(だいじよう)、将門(まさかど)が為(ため)に誅(ちゆう)せらる。次男良望(よしもち)鎮守府(ちんじゆふ)の将軍(しやうぐん)、是(こ)れ将門(まさかど)が父なり。三男良兼(よしかね)上総介(かづさのすけ)、将門(まさかど)と度々(どど)合戦を企て、終(つひ)に討たれ了(をは)んぬ。四男以下(いげ)は子無(な)くして、子孫を継がず。第十二の末子(ばつし)良文(よしふみ)村岡の五郎、将門(まさかど)が為(ため)には伯父為(た)りといへども、養子と成り、其の芸威を伝ふ。将門(まさかど)は八箇国を随へ、弥(いよいよ)凶悪の心を構へ、神慮にも憚らず、帝威にも恐れず、壇(ほしいまま)に仏物を侵し、飽くまで王財を奪ひしが故に、妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)、将門(まさかど)が家を出でて、良文(よしふみ)が許(モト)へ渡りたまふ。此れに因(よ)つて良文(よしふみ)、鎌倉の村岡に居住す。五箇国を領じて、子孫繁昌す。
彼(か)の良文(よしふみ)に四人の子有り。嫡男(ちやくなん)忠輔(ただすけ)、父に先立ちて死去し了(をはん)ぬ。二男忠頼村岡の三郎(さぶらう)、奥州介(あうしうのすけ)と号す。武蔵(むさしの)国の押領使(あふりやうし)と為(し)て、上総(かづさ)・下総(しもふさ)・武蔵(むさし)の三ヶ国を領す。下総(しもふさ)の秩父(ちちぶ)の先祖なり。三男忠光駿河守(するがのかみ)をば権中将(ごんのちゆうじやう)と云ふ。将門(まさかど)の乱に依(よ)つて常陸(ひたちの)国信太(シダ)の嶋へ配流せらる。仍(よつ)て常陸(ひたち)の中将(ちゆうじやう)と云ふ。赦免の後は、船に乗つて三浦へ著(つ)き、青雲介の娘に嫁し、三浦郡(みうらのこほり)・安房(あはの)国を押領す。三浦の先祖是(こ)れなり。四男忠道村岡の平大夫、村岡を屋敷と為(し)て、鎌倉・大庭(おほバ)・田村等を領知す。鎌倉の先祖是(こ)れなり。
又彼(か)の忠頼に三人の子有り。嫡男(ちやくなん)忠常、上総(かづさの)国上野の郷に居住せしかど、後には下総国(しもふさのくに)千葉の庄に移つて、下総(しもふさの)権介(ごんのすけ)と号し、両国を領す。其の時、妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)は長嫡に属(ツ)き、千葉の庄へ渡りたまふ。其の子に常将(つねまさ)、武蔵(むさし)の押領使(あふりやうし)と為(な)る。其の子に常長千葉介(ちばのすけ)大夫、十二年の合戦の時、官兵(くわんびやう)に駈られ、八幡殿(はちまんどの)の御共に有りしが、海道の大手の大将軍(たいしやうぐん)為(タ)り。其の子に常兼千葉の次郎大夫、舎弟(しやてい)常房(つねふさ)鴨根(かもね)の三郎(さぶらう)、千田(ちだ)の先祖是(こ)れなり。同じく常晴(つねハル)相馬(さうま)の小五郎(こごらう)、上総(かづさ)の先祖なり。其の子に常澄(つねずみ)上総(かづさの)大介(おほすけ)。其の子に広常権介(ごんのすけ)、頼朝の命(めい)に依(よ)つて、梶原(かぢはら)の平三景時が為(ため)に誅さる。(奥州(あうしう)御下向の時、広常、深雪成る事を痛く陳じ、引き破りて皈国す。故に広常を御退治す。余りに一二(つまびらか)なり。其の末常胤(つねたね)奥州(あうしう)御在陣の故に、千葉の御一族、奥州(あうしう)に多く御座(おはしま)す儀なり。上総(かづさの)国守護職、其の年以来(いらい)なり。)常兼が次男常重大権介(ごんのすけ)。舎弟(しやてい)常康白井の六郎。同じく舎弟(しやてい)匝瑳(さふさ)の八郎常綱。其の子に常胤(つねたね)千葉大介(おほすけ)、鎌倉殿の左の一の座を給はる。彼(か)の常胤(つねたね)の舎弟(しやてい)胤光椎名(しひな)の五郎、椎名(しひな)の先祖是(こ)れなり。
P1035
忠頼が次男忠尊、山中の悪禅師(あくぜんじ)と号す。大力(だいぢから)の角打(う)ちなり。其の子に常遠笠間(かさま)の押領使(あふりやうし)、景将(かげまさ)が為(ため)に誅(ちゆう)さる。其の子に常宗中村(なかむら)の太郎。其の子に宗平中村(なかむら)の庄司(しやうじ)。其の子に実平(さねひら)土肥(とひ)の次郎、土肥(とひ)の先祖是(こ)れなり。其の舎弟(しやてい)遠宗土屋の三郎(さぶらう)、土屋の先祖是(こ)れなり。
彼(か)の忠頼が三男将常(まさつね)武蔵(むさしの)権守(ごんのかみ)、秩父(ちちぶ)の先祖是(こ)れなり。其の子に武基(たけもと)秩父(ちちぶ)の別当(べつたう)大夫。其の子に武綱秩父(ちちぶ)の十郎。其の子に重綱権守(ごんのかみ)、秩父(ちちぶ)の冠者(くわんじや)と云ひて、十二年の合戦の時、先陣(せんぢん)の大将軍(たいしやうぐん)為(タ)り。其の子に重弘(しげヒロ)太郎大夫。其の子に重義畠山(はたけやま)の庄司(しやうじ)。同じく舎弟(しやてい)小山田(をやまだ)の別当(べつたう)有重。重義が子に重忠(しげただ)畠山(はたけやま)の次郎、鎌倉殿の先陣(せんぢん)の大将軍(たいしやうぐん)是(こ)れなり。
忠光村岡の四郎は三浦の先祖たり。其の子に為名三浦の平大夫。其の子に為次三浦の平太郎、十二年の合戦の時の高兵七人の其の一なり。其の子に義次六郎庄司(しやうじ)。其の子に義明三浦の大介(おほすけ)、重忠(しげただ)が為(ため)に討たれ畢(をは)んぬ。其の子に義宗椙本(すぎもと)の太郎。次男義澄(よしずみ)別当(べつたうの)介。其の子に義村駿河守(するがのかみ)。
忠道平大夫〈 鎌倉の先祖なり。 〉其の子に景道鎌倉の権大夫。其の子に景村鎌倉の太郎。舎弟(しやてい)景将(かげまさ)権五郎(ごんごらう)、貞任(さだたふ)を迫(せ)めし時の高兵七人の内、後陣の大将軍(たいしやうぐん)為(タ)り。其の子に景長〈 実(まこと)には景村が子なり。 〉、其の子に景時梶原(かぢはら)の平三、羽林(うりん)頼朝には後陣の大将軍(たいしやうぐん)為(タ)り。
又国香(くにか)、其の子に貞盛平将軍(へいしやうぐん)、嫡々の末、多気(たけノ)大掾(だいじよう)を始めと為(し)て、吉田・鹿嶋・東条・小栗・真壁、此(こ)の七人は鹿嶋の神事の使ひなり。伊豆の北条の先祖は平将軍(へいしやうぐん)。其の子に維衡(コレひら)常陸(ひたち/の)−守(かみ)。其の子に維度(これのり)越前守。其の子に維盛(これもり)筑後守。其の子に、貞盛・維衡・正度・正衡・正盛・忠盛、盛基美濃守。其の子に貞時兵衛大夫。其の子に時家、北条介の娘に嫁して、時色の四郎大夫を設(まう)けたり。其の子に時政北条の四郎、遠江(とほたふみ/の)−守(かみ)と号す。右大将頼朝の舅(しうと)為(タ)り。其の子に義時奥州(あうしう/の)−守(かみ)、右京権大夫と云ふ。彼(か)の義時は都を打(う)ち随へ、日本国を知行す。〈 序分 〉
二 備前守忠盛昇殿の事
高望(たかもち)の親王(しんわう)の末、日本国を打(う)ち靡(なび)かすこと、既(すで)に三ケ度に及べり。然(しか)るに、先祖貞盛、朝敵将門(まさかど)を誅(ちゆう)して鎮守府(ちんじゆふの)平将軍(へいしやうぐん)に任ず。平将軍(へいしやうぐん)より備前守忠盛に至るまで、六代の間は、諸国の受領(じゆりやう)為(タ)りといへども、未(いま)だ殿上の仙籍(跡)をば免(ゆる)されず。然(しか)るを忠盛備前守為(た)りし時、鳥羽院の御願(ごぐわん)得長寿院(とくちやうじゆゐん)を造進して、三十三間の御堂を立て、一千一躰の御仏を安置し奉る。其の功に依(よ)つて、天承元年〈 辛亥(かのとゐ) 〉三月十三日の供養の日、忠盛に勧賞(けんじやう)行はれて、闕国(けつこく)を賜(たま)はる由(よし)、仰せ下さるる上、禅定(ぜんぢやう)法皇、叡感の余りに、内の昇殿を容(ゆる)さるる間、雲の上人(うへびと)憤(いきどほ)り猜(そね)む。
同年十一月廿三日、五節豊明(ごせちとよのあかり)の節会(せちゑ)の夜、闇打(う)ちに為(せ)/んと欲(し)/ければ、忠盛が近親の郎等に、進(しん)の三郎(さぶらう)大夫季房(スヱふさ)が子、左兵衛尉(さひやうゑのじよう)家貞と云ふ者有り。此(こ)の事を聞き得(え)て、狩衣(かりぎぬ)の下に腹巻を著(き)、三尺の太刀を腋挟(わきばさ)んで、事有らば、只今(ただいま)走り立つべき躰(てい)にて、殿上の小庭に突い跪(ひざまづ)いてぞ候ひける。殿上人、貫首(くわんじゆ)已下(いげ)、此れを恠(あや)しみ、六位の蔵人(くらんど)を召して、「控柱(うつほぼしら)より内に、布衣(ほうい)の者の候ふは何者ぞ。狼藉なり。急ぎ罷(まか)り出でよ」と云はせければ、家貞、袖を押し合せ、畏(かしこま)つて申しけるは「仰せに随つて、尤(もつと)も罷(まか)り出で候ふべけれども、相伝の主(しゆ)備前守殿を、其の由(よし)も無きに、今夜(こよひ)、闇打(う)ちに為(せ)/らるべき由(よし)、承(うけたまは)り候へば、何(いか)にも成り給はん様(やう)を見ん為(ため)に、此(かく)て候ふ。得古曾(えこそ)罷(まか)り出づまじけれ」とて、候ひ居たり。其の上、弟の平九郎家季も、太刀を腋挟(わきばさ)んで、遥かに引き去りて居たりければ、蔵人(くらんど)立ち還(かへ)つて、委しく此(こ)の由(よし)を申しければ、各(おのおの)舌を巻いて懼(おそ)(ヲソ)れ逢へり。
然(さ)る程に、忠盛「此(こ)の事何(いか)が有るべき」と〓(ヤス)らひ、御遊(ぎよいう)も未(いま)だ終(は)てざるに、闇打(う)ちの事、兼日用意の間、燈影(ほかげ)に立ち倚(よ)つて、一尺三寸の打刀(うちがたな)の、氷の如(ごと)くなるを抜き出だし、鬚髪に引き当て、押し捫(のご)ひて、騒がずして静かに腰に差し、又障子の陰に立ち縁(よ)り、件(くだん)/の刀を抜き出だし、真手(まて)に取るに、人を窺ふ気色(けしき)、最(いと)露(あらは)に見えたり。良(やや)久しく、殿上の方を盻(み)て立ちければ、面(おもて)を対(む)くべき様(やう)も無(な)し。然(しか)る間、由(よし)無(な)しとや思はれけん、其の夜の闇打(う)ち止(とど)まりにけり。
抑(そもそも)、五節の淵酔(晏水)(えんすい)と申すは、是(こ)れ清見原(きよみはら)天皇の御時に始めてより以(このかた)、今の代に至るまで、「肩抜(かたぬき)には、白薄様(しろうすやう)の小禅師(こぜんじ)の紙、巻上の袖、友絵(ともゑ)書いたる筆の軸」と、此(か)く拍(はや)すに、拍子を易(か)へて、「伊勢平氏(いせへいじ)は酢瓶(スがめ)なりけり」とぞ拍(はや)しける。忠盛は伊勢国より生ひ立ちける上、片目の角〓(すがめ)を心憂(こころ−う)しとは思へども、所存の旨有るに依(よ)つて、夜深更(しんかう)に及んで、且(かつ)うは後日(ごにち)の訴訟の為(ため)に、紫震殿(ししんでん)の御後(ごご)にて、諸(かたへ)の殿上人の見らるるに、件(くだん)/の刀を取り出だして、主殿司(とのもづかさ)に預け置きてぞ出でられける。家貞待ち請(う)けて、「如何(いかが)候ひける」と尋ね申しければ、「別(べち)の事無(な)し」と答へけり。
上古(しやうこ)にも加様(かやう)の事有りけり。昔、季仲卿(すゑなか/の-きやう)は色の極めて黒かりければ、時の人「黒帥(こくそつ)」とぞ申しける。然(しか)るに蔵人頭(くらうどのとう)為(た)りし時、五節の宴に、「穴(あな)黒々し、瞻(くろ)き頭かな。誰か捕へて漆塗りけん」と拍(はや)しけり。季仲卿(すゑなか/の-きやう)の方人に、殿上人「穴(あな)白々し、素(しろ)き主かな。何(いか)なる人の帛(はく)を推(お)しけん」と此れを拍(はや)す。又、花山院(くわさんのゐん)の入道太政(だいじやう)-大臣(だいじん)、御年十歳の時、父忠家卿に後(ヲク)れ奉り、恂子(ミなしご)にて在(ましま)しけるを、中御門(なかのみかど)の中納言家成卿、播磨守為(た)りし時、聟に取り、声花(はなやか)に〓(もてな)されて、此れも五節に、「播磨米は木賊(とくさ)か、椋(ムク)の葉か。人の蔵規(きら)を属(つ)く」と早(はや)しけり。然(しか)るに、上代は敢(あへ)て事も出で来たらず。末代は何(いか)が有るべからん、知り難(がた)し。
五節も已(すで)に終(は)て、次の日に成つて、案の如(ごと)く、殿上人一同に訴へ申されけるは、「夫(それ)雄剣(ゆうけん)を帯(たい)して公宴(くえん)に烈(れつ)し、兵杖(ひやうぢやう)を賜(たま)はつて宮中を出入(しゆつにふ)することは、皆格式(きやくしき)の綸命(りんめい)を守る、先例由(よし)有る者なり。而(しか)るに忠盛、郎従をして兵具を帯(たい)さしめ、殿上の小庭に召し置きて、其の身又、腰刀を指(さ)して節会の座に烈(つら)なる。昔より未(いま)だ聞かず、殿上の衆に交はる輩の、腰刀を帯(たい)することを。両条共に先例に非(あら)ず、希代(きたい)未聞の狼藉なり。事既(すで)に重畳(ちやうでふ)す。罪科争(いかで)か遁(のが)るべけんや。早(はや)く御札(みふだ)を削つて、闕官(けつくわん)停任(ちやうにん)せらるべき」由(よし)、各(おのおの)訴へ申されければ、主上(しゆしやう)驚き思食(おぼしめ)されて、忠盛を召して、御尋ね有る処に、忠盛の申し状、誠に如勇(ゆゆ)しくぞ聞えし。「先づ郎従小庭に祗候(しこう)の条、忠盛之(これ)/を覚悟せず。但し、近日、人々相(あひ)−巧(たくま)まるる子細有る間、年来の家人(けにん)此(こ)の事を聞き、其の恥を雪(すす)がんが為(ため)に、忠盛に知られず、竊(ひそか)に参候の条、力及ばざる次第なり。若(も)し猶(なほ)科(とが)有るべくは、早(はや)く其の身を召し進(まゐ)らすべきか。次に刀を帯(たい)する事、既(すで)に露顕の上は勿論(もちろん)なり。但し、件(くだん)/の刀、主殿司(とのもづかさ)に預け置けり。早(はや)く彼を召し出だされて御披見の後、刀の実否(じつぷ)に就(つ)き、過(とが)の左右(さう)有るべきか」と、憚る所無(な)く申しければ、主上(しゆしやう)「然(しか)るべし」とて、彼(か)の刀を召し出だし、叡覧有りければ、実(まこと)の刀には非(あら)ず、一尺三寸の木刀(きがたな)を作り、上に黒漆を塗つたる鞠巻(さやまき)の、実(み)には銀帛(ぎんぱく)を推(お)したりけり。
主上(しゆしやう)〓(ゑつぼ)に入らせ御坐(おはしま)して、仰せ有りけるは、「各(おのおの)此れを承(うけたまは)れ。当座の難を遁れん為(ため)に、刀を帯(たい)する由(よし)を見せしむといへども、後日(ごにち)の訴訟を存知して、木刀(きがたな)を帯(たい)する用意の程こそ神妙(しんべう)なれ。弓箭(きゆうせん)の道に携(たづさ)はらん計(はかりこと)は、尤(もつと)も右(カウ)こそ有間欣(あらまほ)しけれ。兼ねては又郎従、主の恥を雪(すす)がん為(ため)に、密かに参候の条、且(かつ)うは武士の郎等の習ひなり。全く忠盛が科(とが)に非(あら)ず。『若(も)し猶(なほ)其の過有るべくは、其の身を召し進(まゐ)らすべきか』の申し様、寔(まこと)に政道の法なり。憐(あは)れ、理致を知つたる者かな」と、還(かへ)つて御感有る上は、敢(あへ)て罪科の沙汰も無かりけり。
又、忠盛、余の事の如勇(ゆゆ)しきのみに非(あら)ず、歌道に取つても艶(やさ)しかりけり。当初(そのかみ)播磨守為(タ)りし時、国より上洛(しやうらく)せられたりけるに、人々多く集つて、「明石の浦の月は何(いか)に」と問ひければ、忠盛此(か)くぞ答へける。
「有明月明石浦風 波計古曾夜見志賀
(有明の月も明石の浦風は 波ばかりこそよると見えしか)
加様(かやう)に読まれたりければ、人々優(いう)仁曾(にぞ)思はれける。
又、忠盛、祇園(ぎをん)の女御(にようご)に宮仕ひ申しける中臈(ちゆうらう)の女房の許(もと)へ、忍びて時々(ときどき)通ひけるに、諸(かたへ)の女房達、此れを猜(そね)み咲(わら)ひ合ひしに、彼(か)の女房、或(あ)る時、月の出でたる扇を持(も)ちたりければ、女房達此れを見て、「穴(あな)厳(いくつ)しの扇や。其の月の影は何(いづ)くより指(さ)し参りたるぞ。憐(あは)れ、出で所を知らばや」とて、咲(わら)ひければ、此(こ)の女房、真(まこと)に顔緩(おもはゆ)げに思ひながら、
雲間与利多々毛利来月 宇和空伊和志登曾思
(雲間よりただもり来たる月なれば うはの空にはいはじとぞ思ふ)
左(と)読みければ、咲(わら)ひける女房達も、興(きよう)覚(さ)めて恥ぢ合へり。
三 忠盛死去の後、清盛其の跡を継ぎて栄ゆる事
然(さ)る程に、忠盛の朝臣(あつそん)、仁平三年〈 癸酉(みづのととり) 〉正月十五日、年五十八にて失せたまひぬ。清盛嫡男為(た)りしかば其の跡を継ぐ。保元元年〈 丙子(ひのえね) 〉七月、左大臣頼長卿、世を乱し給ひし時、安芸守と為(し)て御方に候して勲功有りしかば、播磨守に遷(うつ)つて、同じき三年〈 戊寅(つちのえとら) 〉大宰大弐(だざいのだいに)に任じ、平治元年〈 己卯(つちのとう) 〉十二月、右衛門督(うゑもんのかみ)信頼(のぶより)・左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)朝臣(あつそん)、謀叛の時、又凶徒を打(う)ち平げて、重ねたる恩賞有るべき人とて、永暦(えいりやく)元年〈 庚辰(かのえたつ) 〉 正三位(しやうざんみ)に叙せらる。宰相・衛府督(ゑふのかみ)・検非違使(けんびゐし)の別当・中納言に任じ、剰(あまつさ)へ承相の位に至り、左右(さう)を経ずして内大臣より従一位に上がる。大将に非(あら)ねども、兵杖(ひやうぢやう)を賜つて、随身を召し具し、執政にあらねども、輦車(レンじや)に乗つて宮中を出入(しゆつにふ)す。
抑(そもそも)「太政(だいじやう)-大臣(だいじん)は一人(いちじん)を師範と為(し)て、四海に議形(ぎけい)せり。其の人に非(あら)ずは即(すなは)ち闕(か)けよ」と云(い)へり。其の人に非(あら)ずんば〓(けが)すべき官にても無かりけり。然(さ)れば則(すなは)ち「即闕(そくけつ)の官」と名づく。然(さ)れども、官位心に任せ、一天四海を掌(たなごころ)の内に奉(にぎ)る上は子細に及ばず。
繋(カか)りける程に、仁安三年〈 戊子(つちのえね) 〉十一月十一日、歳五十八にて病に侵され、存命の為(ため)に出家入道す。其の験(しるし)にや、宿病立所(たちどころ)に療(い)えて天命を全くす。人の随ひ著(つ)くこと、吹く風の草木を靡(なび)かすが如(ごと)し。世の普(あまね)く仰ぐこと、降る雨の国土を露(うるほ)すに似たり。六波羅殿の一家の君達(きんだち)とだに言へば、花族(くわそく)も栄雄(えいよう)も面を対(むか)へ肩を并ぶる人ぞ無き。平大納言時忠卿の申されけるは、「此(こ)の一門に非ざらん者は、男も女も尼も法師も、人非人(にんぴにん)なり」とぞ云ひける。然(しか)る間、何(いか)なる人も其の類(ゆかり)に結ぼほれんとぞ欲(おも)ひける。寔(まこと)に時に取つては理(ことわり)なり。凡(およ)そ衣文(えもん)の書き様(やう)、烏帽子(えぼし)の〓(た)め様(やう)より始めて、何事も六波羅様とだに云ひければ、天下の人此れを学ぶ。
又何(いか)なる賢王聖主の御政(おん−まつりごと)、摂政(せつしやう)・関白(くわんばく)の成敗なれども、人の聞かぬ所にては、何と無(な)く世に余されたる徒者(いたづらもの)などの、呰(ソシリ)傾申す事は常の習ひなり。然(しか)るに、此(こ)の入道の世盛りの間は、人の聞かぬ所なりとも、聊(いささ)かも忽緒(いるかせ)に申す者無(な)し。
其の故は、入道の計(はかりこと)に、十七八計(ばか)りの童部(わらはべ)の髪を僮(かぶろ)に殺(き)り廻し、直垂・小袴(こばかま)を著(き)せ、二三百人が程召し仕はるる間、此れ等京中に充満して、自(おのづから)六波羅殿の方様(かたざま)の上を悪様(あしざま)に言ふ者有らば、此れ等聞き出だすに随つて、毛を吹きて疵を覓(もと)め、三百余人在々処々に行き向かひ、即時に之(これ)/を磨滅す。怖(おそろ)しなんど申すも愚かなり。然(さ)れば則(すなは)ち、目に見、心に知るといへども、之(これ)/を詞に顕はして云ふ者無かりけり。六波羅殿の髪振(かぶろ)とだに言へば、上下皆恐(お)ぢ〓(おそ)れ、道を通る馬車(むまくるま)も退去(しさ)つて過ぎけり。禁門を出入(しゆつにふ)するといへども、名姓を尋ぬるに及ばず、京師(けいし)の長吏(ちやうり)此れが為(ため)に目を側(ソバダ)つるか、と見えたり。
抑(そもそも)、太政(だいじやう)-入道、僮童(カブロ)を多く仕はれける事は、敢(あへ)て子細無きに非(あら)ず。其の故は、異国の故事を尋ぬるに、漢の王莽(わうまう)、天下を奪ひ取らんと欲(し)/て、謀(はかりこと)に多くの銅(あかがね)の人形(にんぎやう)の馬形を作り、竹の間を破(やぶ)つて此れを籠(こ)め置き、亀を曳いて甲(コフ)に「勝」の字を書き、之(これ)/を海中に放つ。妊(はら)める女を二三百人集めて、朱き雀に薬を合せて服(ぶく)さしめ、深き山に此れを籠(こ)め置く。然(さ)れば則(すなは)ち、彼(か)の生みたりし子(こ)の色の赤きこと雙(なら)び無(な)し。漸(やうや)く其の年十三四五に成りければ、則(すなは)ち赤き衣を作りて此れを著(き)せ、歌(うた)を教へて謳(うた)はしむ。「竹の中に赤銅(あかがね)の人馬有り。王莽(わうまう)位に即(つ)く瑞相(ずいさう)なり。亀の甲に『勝』の字有り。王莽(わうまう)国を治むる表示なり」と。人皆奇(あや)しみを作(な)す間、竹の中を破りて見るに、寔(まこと)に銅(あかがね)の人馬有り。亀を曳きて此れを見るに、又是(こ)れ「勝」の字有り。天下の人此れを恐れ、即(すなは)ち王莽(わうまう)に随ひにけり。然(さ)れば、清盛入道も此(こ)の事に思ひ准(なぞら)へ、僮童(かぶろ)を仕はれけるにや。
我が身の栄花を極むるのみに非(あら)ず、嫡子(ちやくし)重盛内大臣の左大将、二男宗盛中納言の右大将、三男知盛(トモもり)三位中将(さんみのちゆうじやう)、四男重衡(しげヒラ)蔵人頭(くらうどのとう)、五男知度(とものり)三河守(みかはのかみ)、六男清房(きよふさ)淡路〔守〕(あはぢのかみ)〈 入道の末子(ばつし) 〉、嫡孫維盛(これもり)四位少将(しゐのせうしやう)、舎弟(しやてい)頼盛(よりもり)正二位大納言、同じく教盛(ノリもり)中納言、一門の公卿十余人、殿上人卅余人、諸国の受領(じゆりやう)・諸衛府・所司(しよし)、都合六十余人。世には亦人無(な)しとぞ見えたりける。
奈良の御門(みかど)の御時〈 諱(いみな)を勝宝(しようほう)聖武(しやうむ)天王と云ふ 〉、神亀(じんき)五年〈 戊辰(つちのえたつ) 〉近衛(こんゑ)の大将を始めて置かれてより以来(このかた)、兄弟左右(さう)に相(あ)ひ並ぶこと僅(わづ)かに三箇度なり。初めは文徳(もんどく)天皇の御宇(ぎよう)仁寿(にんじゆ)四年に、閑院(かんゐん)の贈(ぞう)太政(だいじやう)-大臣(だいじん)冬嗣(ふゆつぎ)の大臣の御息、染殿(そめどの)の関白(くわんばく)太政(だいじやう)-大臣(だいじん)忠仁公(ちゆうじんこう)〈 良房 〉八月に左大将に御任在(あ)つて、御弟の西三条の右大臣〈 良相公(よしあふ−こう) 〉同年の九月に右に並び御座(おはしま)す。次に朱雀院(しゆしやくゐん)の御宇(ぎよう)、天慶(てんぎやう)元年に、小一条(こいちでう)の関白(くわんばく)太政(だいじやう)-大臣(だいじん)〈 貞信公忠平 〉の御息、小野宮の関白(くわんばく)太政(だいじやう)-大臣(だいじん)〈 清慎公実清 〉十二月に左大将に御任在(あ)つて、御弟の九条の右大臣〈 師輔公(もろすけ−こう) 〉同じき二年十一月に右に並び御坐(おはしま)す。親(まぢかく)は二条院の御宇(ぎよう)、永暦(えいりやく)元年に、法性寺(ほふしやうじ)の関白(くわんばく)太政(だいじやう)-大臣(だいじん)〈 忠通公 〉の御息、松殿の関白(くわんばく)太政(だいじやう)-大臣(だいじん)〈 基房公 〉五月一日に左大将に御任在(あ)つて、御弟の九条の関白(くわんばく)太政(だいじやう)-大臣(だいじん)〈 兼実公、月輪殿 〉同じき九月に右に並び御座(おはしま)す。此れ皆摂録(せふろく)の臣の御子息(ご-しそく)なり。凡人(はんじん)に取つては其の例無(な)し。
殿上の交はりをだにも嫌はれし人の子孫の、襟色雑袍(きんじきざつぱう)を許(ゆる)され、綾羅(りやうら)錦繍(きんしう)を身に纏ひ、大臣の大将を兼ねて、子息(しそく)兄弟左右(さう)に並ぶ事、末代なりといへども是(こ)れ不思議(ふしぎ)の事なり。
御娘八人有り。其れも取々(とりどり)に幸ひたまへり。一は桜町(さくらまち)の中納言成範卿(しげのり/の−きやう)の北の方にて御座(おはしま)ししが、後には花山院(くわさんのゐん)の左大臣兼雅公(かねまさ−こう)の御台盤所(みだいばんどころ)にて、御子数(あまた)有りけるが、何(いか)なる者の所為(しわざ)なりけん、花山院(くわさんのゐん)殿の四足門(よつあしもん)に書き付けたり。
「花山高梢思 海子共布留免飛路雨
(花の山高き梢と思ひしが あまの子共かふるめひろふは)
登(と)。
一人は后に立ち給ひて、王子御誕生有つて、皇子太子に立ちたまひ、万乗(ばんじよう)の位に備はりたまひしかば、即(すなは)ち院号有つて建礼門院と申す。天下の国母(こくも)にて御座(おはしま)す上は子細に及ばず。一人は六条の摂政(せつしやう)〈 基実公 〉の北の政所(まんどころ)にて御座(おはしま)しけるが、高倉院の御即位の御時に、御母代(おんぱはしろ)にて、准三公(じゆさんごう)の宣旨を下され、重き人にて、白河殿とぞ号する。四は冷泉の大納言隆房卿(たかふさ/の−きやう)の御前にて、其れも御子数(あまた)有りけり。五は近衛(こんゑ)の入道殿下(てんが)〈 基通公、普賢寺殿 〉の北の政所(まんどころ)。六は七条の修理大夫(しゆり/の−だいぶ)信隆卿(のぶたかの−きやう)に相(あ)ひ具しけり。七は後白河院に召され女御(にようご)の如(ごと)し。厳島の内侍(ないし)が腹とぞ聞こえし。此(こ)の外、九条院の雑司(ざふし)常葉(ときは)が腹に一人有り。御台盤所(みだいばんどころ)に親しき人と号す。花山院(くわさんのゐん)の左大臣殿の御許(もと)に、上臈女房にて、廊の御方とぞ申しける。
此(か)くの如(ごと)く一門繁昌する間、公卿・殿上人も、仏に祈り神に言(のたま)ひても、清盛入道の子孫を以つて聟にも取り、婦にも成らんとぞ欣(ねが)ひける。然(しか)る間、時に在る執政基通・基実父子、共に追従(ついしよう)を致して、清盛入道の聟に成る。或(あ)る人、此れを悪(にく)んで簡(ふだ)を立てけり。
「平松波以加賀利多類若藤波 辺倶楚加津羅尓佐毛忍多留哉
〈平松にはひかかりたる若藤は へくそかづらにさもにたるかな〉
日本秋津嶋(あきづしま)は僅(わづ)かに六十六ケ国、平家知行の国は三十余箇国、既(すで)に半国に及べり。其の上、庄園田畠(でんばく)其の数を知らず。綺羅(きら)充満して堂上(たうしやう)花の如(ごと)し。軒騎(けんき)群集(くんじゆ)して門前市を成す。楊州の金、荊岫(けいしう)の玉、呉郡(ごきん)の綾、蜀江の錦、善車善馬、七珍万宝(しつちん−まんぼう)一つも欠けたる所無(な)し。歌堂(道)舞楽の基ゐ、魚龍雀馬(ぎよりようしやくば)の翫び物、帝闕(ていけつ)も仙洞も争(いかで)か此れには過ぐべきと、日出たくぞ見えし。
抑(そもそも)、太政(だいじやう)-入道の是(カク)成られけることは、偏(ひとへ)に熊野の御利生なり。後に悪心無(な)くは終(はて)までも栄ゆべしと覚えたり。其の故は、先年、清盛、伊勢路より熊野へ参られけるに、大きなる鱸(すずき)船中に飛び入り了(をは)んぬ。先達(せんだち)此れを占ひて、「吉事なり」と申しければ、清盛又言ひけるは、「昔、異国に、周の先公の船に白魚(はくぎよ)飛び入りて、思ひの如(ごと)くに高位に登りたまひぬ。此(こ)の人を吉例と為(す)べし」とて、左(さ)計(ばか)り十戒(じつかい)を持(も)ち、精進潔斉の道なるに、家の子・郎等に至るまで皆此れを養(か)はしむ。寔(マコト)に吉事為(た)る故にや、保元元年七月、御方に候して播磨守に遷(うつ)され、同じき三年大宰大弐(だざいのだいに)に成り、平治元年十二月、熊野参詣の時、切目宿(きりめのしゆく)より還(かへ)り、又御方に候し、次の年正三位(しやうざんみ)に至る。其の後の望みは、龍の雲に登るよりも猶(なほ)早(はや)し。官位俸録九代の孫(そん)に越えたり。
四 内と院と御中不和の事
昔より源平両氏、鳥の二つの翅(つばさ)の如(ごと)く、車の両(ふた)つの輪に似たり。互ひに朝家(てうか)に召し仕はれ、国家を護(まも)る棟梁(とうりやう)なり。然(しか)るを、若(も)し皇化(くわうくわ)に随はず、朝威を軽んずる者には、同じく之(これ)/を誅罰(ちゆうばつ)せしむる間、敢(あへ)て世の乱れも無かりしに、保元に為義剪(き)られ、平治に義朝(よしとも)打たれし後は、末々の源氏共、少々有りといへども、或(ある)いは流され或(ある)いは誅され、今は平家の一類のみ繁昌して、更(さら)に首(かしら)を〓(サシイダ)す者無(な)し。何(いか)なる末の世にも何事か有らんとぞ見えし。
然(さ)れども、過ぎぬる保元元年七月、鳥羽法〔皇〕〈 諱(いみな)を宗仁と云ふ。 〉晏駕(あんが)の後〈 七月二日。御年五十四 〉は、兵革(ひやうガク)打(う)ち次(つづ)き、死罪・流刑・解官(げくわん)・停任(ちやうにん)常に行はれて、海内(かいだい)も静かならず、世間も未(いま)だ落居せず。就中(なかんづく)永暦(えいりやく)・応保の比(ころ)より、内〈 諱(いみな)を守仁と云ふ。二条院なり。 〉と院〈 諱(いみな)を雅仁と云ふ。後白河院 〉と御(祖)父子の御中御不和の間、内の近習者(きんじゆしや)をば院の御方より之(これ)/を戒め、院の近習者(きんじゆしや)をば内の御方より御戒め有り。然(さ)れば則(すなは)ち、高きも賤しきも恐れ憚り、安き心も無(な)し。猶(なほ)深淵に臨んで薄氷を履むが如(ごと)し。主上(しゆしやう)・上皇(しやうくわう)〈 院なり。 〉父子の御中なれば、何事の御隔ての有るべきなれども、思ひの外なる事共有りけり。是(こ)れも世澆季(げうき)に及んで、人には凶悪を先と為(す)る故なり。
五 二条院、先朝の后の宮を恋ひ御(おはしま)す事
主上(しゆしやう)、法皇の仰せを申し還(かへ)させたまひける中に、人の耳目(じぼく)を驚かし、世以つて大きに傾け申しける御幸は、故近衛院の后太皇太后宮(たいくわうたいこうぐう)と申しけるは、左大臣経宗卿の御母、宇治の左大臣殿の養子なり。中宮より太皇太后宮(たいくわうたいこうぐう)にぞ上り給ひける。先帝に後(おく)れ奉り御座(おはしま)して後、九重(ここのへ)の外近衛河原の御所に、移り住ませ御座(おはしま)しけり。先朝の后の宮にて渡らせ御(おはしま)しければ、古目(ふるめ)かしく幽(かす)かに御(おはしま)す消息(ありさま)なり。承暦(しようりやく)・応保の比(ころ)は、御年廿二三に成らせ御(おはしま)しければ、少し過ぎたる御程なり。然(しか)るに、天下第一の美人の聞え有りければ、主上(しゆしやう)色に染める御心にて、竊(ひそか)に高力士(かうりよくし)に詔(ぜう)じて、外宮(ぐわいきゆう)に引き求めしむるに及び、忍びて彼(か)の宮に御消息(おん−せうそく)有り。然(さ)れども、宮敢(あへ)て聞食(きこしめ)し入れられず。忍び兼ねたる御思ひ、常連(ヒタスラ)早(はや)帆(ほ)に顕れて、入内(じゆだい)有るべき由(よし)、右大臣家に宣旨を下さる。
此(こ)の事、天下において殊に勝(すぐ)れたる事故(ことゆゑ)に、公卿(くぎやう)-僉議(せんぎ)有り。各(おのおの)意見に云はれけるは、「先づ異朝の先蹤(せんしよう)を尋ぬるに、則天皇后(そくてん−くわうごう)は太宗・高宗両帝の后に立ちたまへる事有り。彼(か)の后と申すは、唐の太宗皇帝の后、高宗皇帝の奉為(おんため)には継母なり。太宗崩御(ほうぎよ)の後、御髪(み−ぐし)を下し、盛業寺に籠(こも)り居たまへり。当帝高宗の曰(のたま)はく、『願はくは君宮室に入つて政(まつりごと)を助け給へ』と。天使五度来たるといへども、敢(あへ)て以つて随ひたまはず。爰(ここ)に帝(ミカド)自(みづか)ら盛業寺に臨幸あつて曰(のたま)はく、『朕(ちん)敢(あへ)て私の志を遂げんとには非(あら)ず。只(ただ)天下の為(ため)なり』と。然(さ)れども皇后靡(なび)く御心無(な)くして、御勅答に申されけるは、『先帝の他界を訪(とぶら)ひ奉らんが為(ため)に、適(たまたま)釈門に入れり。再び塵界に還(かへ)るべからず』と。爰(ここ)に皇帝内外の群籍を勘(かんが)へ合はせ、誣(しひ)て還幸を勧むといへども、皇后〓然(クわくぜん)として飄(ひるがへ)らず。然(さ)れども扈(尾)従(こしよう)の群公等、横(ヨコサマ)に取り奉るが如(ごと)くにして、宮に入れ奉る。高宗在位三十四年、国静かに民楽しめり。皇帝と皇后と二人して政(まつりごと)を治むる故に、彼(か)の御時をば二和(じくわ)の御宇とぞ申しける。高宗崩御(ほうぎよ)の後、皇后女帝と為(し)て天下を治め、年号を神功元年と改む。周の王孫たる故に、唐の名を改めて、大周の則天聖皇帝と号す。爰(ここ)に臣家、歎きて云はく、『先帝崩御(ほうぎよ)の後、太宗世を相(あ)ひ継ぎて経営せしむること、其の功績古今にも類ひ無(な)しと言つつべし。然(しか)るに天子無きにしも非(あら)ず。願はくは位を去つて太宗の功業を長からしめ給へ』と。仍(よつ)て御在位廿一年と申しけるに、太宗の太子中宗皇帝に御位を授け奉り給ふ。即(すなは)ち改元有つて大唐神亀(じんき)元年と称す。即(すなは)ち我が朝の文武天皇慶雲二年〈 乙巳(きのとみ) 〉の歳に当たれり。
此れは異朝の先規(せんぎ)為(た)る上は別段の事なり。我が朝においては、神(桓)武天皇より以来(このかた)人皇(にんわう)七十余代に至るまで、未(いま)だ二代の后に立ちたまふ例を聞かず」と、諸卿一同に申されければ、法皇も、此(こ)の事然(しか)るべからざる由(よし)、申さしめ給ひけれども、主上(しゆしやう)仰せ有りけるは、「天子に父母無(な)し。万乗の宝位を忝(かたじけな)くする上は、此れ程の事を叡慮に任せざるべき様や有る」とて、既(すで)に入内(じゆだい)の日時を宣下せられける上は、子細に及ばず。
宮、此(こ)の事を聞食(きこしめ)し、引き繦(カヅ)きて、御殿籠(おんとのごも)らせたまふ。寔(まこと)に御歎きの色深くぞ見えさせ御座(おはしま)しける。先帝近衛院に後(おく)れ奉りし久寿の秋の初めに、同じ草葉の露と消えたりせば、繋(かか)る憂き事をば聞かざらましと、口惜しき事にぞ思食(おぼしめ)されける。爰(ここ)に父の大臣、〓[无+心](ナグサ)め申されけるは、「『世に随はざるを以つて狂人と為(す)』と云(い)へり。既(すで)に詔命(ぜうめい)を下され畢(をは)んぬ。子細を申すに処(ところ)無(な)し。只(ただ)速かに入内(じゆだい)有るべきなり。是(こ)れ偏(ひとへ)に愚老を助け御座(おはしま)す孝行の御計(おんぱから)ひなり。又知らずや、此(こ)の御末に王子御誕生有らば、君は国母(こくも)と崇(アガ)められ御座(おはしま)さば、愚老は帝祖と云はるべし。家門の栄花にや有るべからん」と誘(こしら)へ申し給へども、御応(いら)へも無(な)し。
又其の比(ころ)、宮、何と無き御手習の次(ついで)に、斯(か)く書き〓[无+心](なぐさ)み給ひける。
「宇幾布志尓沈哉終河竹 世尓多免志奈起名於波流津
(うきふしに沈みやはてむ河竹の 世にためしなき名をば流しつ)
世には何として漏れ聞えけん、哀れに艶(やさ)しき様(ためし)にこそ謳哥しけれ。
入内(じゆだい)の日には、父の大臣・供奉(ぐぶ)の上達部(かんだちめ)の出車の儀式、心も言(ことば)も及ばれず。宮は物憂かるべき御出で立ち、疾(とみ)にも出で奉らず、遥かに夜深(ふ)けて半ばに向かひてぞ扶乗(カキノ)せ御坐(おはしま)しける。故(コトサラ)色有る御衣を召されず、只(ただ)白き御衣十五計(ばか)りぞ召されける。内に参らせ給ひしに、即(やが)て恩を承(かうぶ)らせたまひ、麗景殿(れいけいでん)に渡らせ御座(おはしま)す。常連(ヒタスラ)朝政(あさまつりごと)を勧め奉り御座(おはしま)す御有様なり。又清涼(冷)殿(せいりやうでん)の画図(ぐわと)の障子に、月を書きたる所有り。此れは近衛院の幼帝にて渡らせ御座(おはしま)しし当初(そのかみ)、何と無き御手間探(てマサグリ)に書き陰(クモラカ)し御座(おはしま)したりしが、有りしながらに少しも更(カハ)らず有りけるを御覧ぜられて、先帝の昔を思ひ出だし、恋しくや御座(おはしま)しけん、右(かく)こそ思食(おぼしめ)し連(つづ)けられける。
「思幾耶宇起身那賀良尓免具利記天 同雲井能月越美無登半
(思ひきやうき身ながらにめぐりきて 同じ雲ゐの月をみむとは)
此(こ)の間の御事共、哀れに艶(やさ)しき御有様なり。
六 二条院崩御(ほうぎよ)の事
繋(かか)る程に、永万元年〈 乙酉(きのととり) 〉の春の比(ころ)より、主上(しゆしやう)二条院、御悩(ご−なう)の由(よし)聞えし程に、其の夏の初めには事の外に御不予(ご−ふよ)に御(おはしま)す間、右大臣実能卿の御娘の腹に、今上の宮の二歳に成らせ給ふを、皇子に立て奉るべき由(よし)聞えし程に、六月廿五日、俄(にはか)に親王(しんわう)の宣旨を下されて、即(やが)て其の夜御位を譲り奉りき。何と無(な)く天下〓(あは)てたる有様なり。 我が朝の童帝(とうたい)を尋ぬるに、人王五十六代清和天皇〈 諱(いみな)を惟仁(これひと)と云ふ。 〉九歳にて文徳(もんどく)天皇の譲りを受け、天安元年〈 丁丑(ひのとうし) 〉十二月七日、大極殿(だいこくでん)にて御即位有り。是(こ)れは和国童帝(とうたい)の始めなり。振旦(しんだん)の周公旦(しうこうたん)の、成王に代り南面にして政(まつりごと)を行はれしに准(なぞら)へて、祖父(そぶ)忠仁公(ちゆうじんこう)、幼主を扶持し奉る。是(こ)れ摂政(せつしやう)の始めなり。陽成天皇〈 諱(いみな)を貞明と云ふ。 〉九歳、一条院七歳、後一条院九歳、是(こ)れは責(せめ)て善悪に付けて御心も長(たけ)く、分別の方も有りければ、最も然(しか)るべし。然(しか)るに、鳥羽院は五歳、近衛院は三歳にて御即位有りしを、早晩(いつしか)なりと人申し合へり。此(こ)の君は〈 諱(いみな)を順仁(のぶひと)と云ふ。 〉僅(わづ)かに二歳に成らせ給ふ。先例無(な)し、物騒がしとぞ人皆申しける。
繋(かか)りし程に、七月廿二日、新院〈 二条院 〉位を下りたまひて後、纔(わづか)に卅余日と申すに御隠れ有り。哀れなるかな、昨日は当帝、十善の宝位に昇りて声花(はなやか)なりしに、今日は新院、九重(ここのへ)の玉の棲(すみか)を出でて潦倒(ヲチぶ)る。父の御年は廿三、御子は後に二歳。老少前後と云ひながら、世に浅猿(あさまし)き御事なり。
同じき八月七日、香隆寺(かうりゆうじ)の艮(うしとら)蓮台野(れんだいの)の辺り、船岡山に送り奉る。労(いたは)しきかな、忝(かたじけな)きかな、玉台を棲(すみか)と為(し)て御座(おはしま)しける君の、草村を宿(やどり)と為(し)て御座(おはしま)す。寔(まこと)に益(やく)無き世界なり。本蔵の聖人、折節(をりふし)参会して、右(か)く思ひ次(つづ)けける。
「何有御行事今日問 今限聞悲
(いつも有るみゆきの事を今日問へば 今を限りと聞くぞ悲しき)
と読みつつ、墨染の袖を汐(しぼ)り会(あ)へり。理(ことわり)とぞ覚えける。舟岡山の御巓(いただき)と申すなり。労(いたは)しきかな、忝(かたじけな)きかな、玉台を棲(すみか)と為(し)て御座(おはしま)しける君の、草村を宿(やどり)と為(し)て御座(おはしま)す。寔(まこと)に益(やく)無き世界なり。
近衛(こんゑ)の大宮は、二代の后に立たせ給ひたりしかども、指(さ)したる御幸ひも御座(おはしま)さず。又早晩(いつしか)此(こ)の君にも後(おく)れ奉り給ひしかば、急(やが)て御髪(み−ぐし)を降ろし御座(おはしま)しけるとぞ聞えし。
七 延暦・興福寺(こうぶくじ)、額打論(がくうちろん)の事
然(さ)る程に、葬送の夜、延暦寺・興福寺(こうぶくじ)の衆徒等(しゆと−ら)、額打論(がくうちろん)を為(し)出だし、互に狼藉に及べり。国王の崩御(ほうぎよ)有つて、葬送の作法には、南北二京の僧徒等、悉(ことごと)く供奉(養)(ぐぶ)し奉つて、我が寺の験(しるし)には榔を立て額を打(う)つ。南都には東大寺・興福寺(こうぶくじ)を始めと為(し)て、末寺(まつじ)々々(まつじ)相(あ)ひ連なれり。東大寺は聖武(しやうむ)天王の御願、諍ふべき寺无(な)ければ、一番なり。二番には大職冠(たいしよくわん)・淡海公(たんかいこう)の氏寺、興福寺(こうぶくじ)の額を立てて、南都の末寺(まつじ)等、次第に立て並べたり。興福寺(こうぶくじ)の額に迎へて、北京(ほくきやう)には延暦寺の額、其の外山々寺々立て並べたるは先例なり。
而(しかる)に今度の御葬送に、延暦寺の僧徒、事を乱りて、東大寺の次ぎ、興福寺(こうぶくじ)の上に額を立つる間、山階寺(やましなでら)の方より、東門院の衆徒、西金堂(さいこんだう)の衆、観音房(くわんおんばう)・勢至房(せいしばう)両三人、三枚甲(さんまいかぶと)を著(き)、左右(さう)の〓(こて)差して、黒革鬼(くろかはをどし)の鎧に大〓〓[金+分](おほなぎなた)を用(も)つて走り出で、延暦寺の額を削り倒して、「喜(うれ)しや水、鳴るは瀧の水」と拍(はや)して、興福寺(こうぶくじ)の方へ走り入りにけり。延暦寺の僧徒、先例を背きて狼藉を致す程ならば、即(やが)て其の座にて手向ひすべきに、心に深く思ふ事や有りけん、一言(ひとことば)も出ださざるこそ怖(おそろ)しけれ。一天の君世を早(はや)く為(せ)させたまひしかば、情け無き草木までも憂ひたる色有るべきに、況(いはん)や人倫(輪)(じんりん)僧徒の法においてをや。浅猿(あさまし)き事出で来て、式作法〔散々にて〕、高きも賤しきも四方に退散し、喚(をめ)き叫ぶ。
同じき九日の子(ね)の時に、山門の大衆(だいしゆ)下洛の由(よし)聞えければ、武士・検非違使(けんびゐし)、西坂本へ馳せ向ひたりけれども、大衆(だいしゆ)推(お)し破(やぶ)つて乱入せんと欲(す)。貴賤上下騒ぎ〓(ののし)ること斜(なの)めならず。内蔵頭(くらのかみ)教盛(のりもりの)朝臣(あつそん)、布衣(ほうい)にて左衛門の陣に候ひけり。何(いか)なる者の云ひ出だしたるに耶(や)、「上皇、山門の大衆(だいしゆ)に仰せて、清盛を追討すべき」由(よし)、風聞(ふうぶん)有りしかば、平家の一門六波羅へ馳せ集まり、〓(あは)て合へり。右衛門督(うゑもんのかみ)重盛計(ばか)りは、「何故にや、只今(ただいま)左様の事は有るべき」とて、静められけり。上皇此れを聞食(きこしめ)し、驚き覚食(おぼしめ)されければ、俄(にはか)に六波羅御幸有り。中納言大きに恐れ騒がれけり。
山門の大衆(だいしゆ)、清水寺に推(お)し寄せて、仏閣・僧坊一宇も残さず焼き払ふ。此れは去る七日の額打論(がくうちろん)の故なり。清水寺は興福寺(こうぶくじ)の末寺(まつじ)為(た)る故に、之(これ)/を焼き払ふとぞ聞えし。然(しか)るに、清水寺炎上(えんしやう)の朝(あした)、「観音火坑(くわきやう)変成池(へんじやうち)は如何(いか)に」と云ふ札を書きて立てたりければ、次の日「歴劫(りやくごふ)不思議(ふしぎ)是(こ)れなり」と云ふ返札をぞ立てたりける。何(いか)なる安度無(あとな)し者の所為(しわざ)なるらんと、哽(ヲカ)しかりけり。
衆徒は皈山しければ、上皇は還御(くわんぎよ)成りにけり。重盛卿は御送りに参られたり。父の清盛は留まり給ふ。猶(なほ)用心の為(ため)とかや。中納言の曰(のたま)ひけるは、「法皇の入御(じゆぎよ)こそ実(まこと)に其の畏(おそ)れ有りけれども、尓(と)にも尓(かく)にも思食(おぼしめ)さるる旨の有ればこそ、加様(かやう)に風聞(ふうぶん)も有るらめ。然(しか)れば則(すなは)ち、法皇の御幸有ればとて、我等打解(うち−と)くべからず」とぞ言ひける。右衛門督舌を振ひ、面を赤くして申されけるは、「此(こ)の事、努々(ゆめゆめ)御詞にも御色にも出ださるべからず。人に心著(こころづ)け顔に、中々凶事(あしきこと)にて候ひなん。其れに就(つ)きては弥(いよいよ)叡慮にも背かず、世の為(ため)人の為(ため)、善き振舞(ふるまひ)有らば、定めて三宝仏神の加護も有るべし。然(さ)らずは御子孫の末、何事に就(つ)きても凶(あ)しかるべく候ふ」と申しながら、急ぎ立ち給ひにけり。「右衛門督(うゑもんのかみ)は以つての外に大様(おほやう)なる者かな」とぞ言ひける。
法皇還御(くわんぎよ)の後、疎(うと)からぬ近習者(きんじゆしや)共の中に、「抑(そもそも)不思議(ふしぎ)の事を申し出でたる者かな。〔いかなる者の〕云ひ出だしける」と仰せ有りければ、西光(さいくわう)法師、御前に候ひけるが、「天に口無(な)し、人(にん)を以つて言はす。余りに平家過分に成り行き候ふ間、天の御計(おもんぱから)ひにも有るらん」と申しければ、人々「此(こ)の事由(よし)無(な)し。壁に耳有り、石に口有りと云(い)へり。恐ろし恐ろし」とぞ、舌を振ひて申しける。
八 高倉天皇御即位の事
今年は天下諒闇為(タ)れば、御禊・大嘗会(だいじやうゑ)も無(な)し。同じき年十二月廿五日、建春門院の御腹の、法皇の第五の王子〈 高倉これなり。 〉在(ましま)ししが、親王(しんわう)の宣旨を蒙(かうぶ)らせ給ひにけり。法皇、年来は打(う)ち籠(こ)められて御坐(おはしま)しけるが、今は法皇の御計(おんぱから)ひに任せ奉る事こそ御目出(めで)たけれ。
仁安元年〈 丙戌(ひのえいぬ) 〉、今年は既(すで)に大嘗会有るべき由(よし)聞えければ、天下に其の営み有りけり。同じき年十月七日、親王の宣旨を蒙(かうぶ)り給ひし高倉院〈 諱(いみな)を憲仁(のりひと)と云ふ。 〉東三条にて春宮(とうぐう)に立ちたまふ。春宮(とうぐう)と申すは当帝の御子なり。是(こ)れを太子と号す。又御弟の儲けの君に備はり御坐(おはしま)すを太弟と申す。其れに是(こ)の春宮(とうぐう)は御叔父(をぢ)六歳、主上は御甥三歳なり。昭穆(ぜうもく)未(いま)だ相(あ)ひ-叶はず。但し、寛和二年〈 丙戌(ひのえいぬ) 〉六月廿一日、一条院〈 諱(いみな)を懐仁(やすひと)と云ふ。 〉七歳の御時、大極殿(だいこくでん)にて御即位有り。三条院〈 諱(いみな)を居(房)貞(いやさだ)と云ふ。 〉十一歳の御時、七月十六日、東宮に立ちたまふ。是(こ)れ又先例無きにしも非(あら)ず、とぞ申しける。
六条院二歳にて、永万元年六月廿五日に親王の宣旨を蒙(かうぶ)らせ給ひ、御位を受け取り御坐(おはしま)して後、纔(わづか)に三年をぞ治めたまひける。仁安元年〈 丁亥(ひのとゐ) 〉二月十九日(じふくにち)、東宮〈 高倉天王 〉御践詐(せんそ)有りしかば、六条院四歳にて御位を退き、新院と号せられ御(おはしま)す。未(いま)だ御元服(ご-げんぶく)も有らずといへども、太上天皇(だいじやうてんわう)の尊号有り。漢家にも本朝にも此れぞ童帝(とうたい)の始めなるらんと、珍重(めづら)しき事共なり。然(さ)れども遂(つひ)に安元二年七月十八日、御年十三にて隠れ給ひぬ。
仁安三年三月廿日、大極殿(だいこくでん)にて新帝〈 高倉院 〉御即位有り。此(こ)の君の位に即(つ)き給ひし御事は、弥(いよいよ)平家の栄花とぞ見えし。国母(こくも)建春門院と申すは平家の一門にて有る上、別(コト)に入道の北の方二位殿と申すは女院の御姉にて御坐(おはしま)しければ、相国の君達(きんだち)、二位殿の腹は、当今(たうぎん)の御従父子(いとこ)為(た)る間、最見(イミジ)き事共なり。平大納言時忠卿は女院の御〓(セうト)、主上の御外戚(ぐわいセキ)、内外に付け執権為(た)る間、叙位(じよゐ)除目(ぢもく)偏(ひとへ)に此(こ)の卿の沙汰なり。然(さ)れば則(すなは)ち、此(こ)の世には平関白(へいくわんばく)とぞ申しける。
九 右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝、伊東の三女に嫁する事
然(さ)る程に、同じき年の弥生(やよひ)の比(ころ)にも成りければ、「遠山に霞聳(たなび)きて、鴈北に皈(かへ)る。中林に花開きて、鶯客を呼ぶ」と打(う)ち思はれて物哀れなり。流人右兵衛佐頼朝、藤九郎(とうくらう)盛長・佐々木の太郎定綱を召して言(のたま)ひけるは、「頼朝十三の時、平治元年十二月廿八日、当国〈 伊豆国 〉に左遷せられてより以来(このかた)、縁友(ゆかり)も無(な)くて徒然(つれづれ)なれば、伊東の次郎祐親(すけちか)に娘四人有りと聞く。嫡女は三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)が妻女、二女は土肥(とひ)の弥太郎(やたらう)遠平(とほひら)が妻女、三四は未(いま)だ傍家を見ず、養ひて深窓に有りと聞く。而(しか)るに国中第一の美女と云々。〓(めと)り通はんと欲(おも)ふは如何(いかが)有るべきや。」盛長申しけるは、「伊東の次郎は当時大番役と為(し)て上洛(しやうらく)の跡なり。境柄(をりから)然(しか)るべしといへども、君は流人にて貧窶(ひんル)、世に無き御身なり。祐親(すけちか)は当国においては有徳(うとく)威勢の者なり。請(う)け引き奉らん事不定(ふぢやう)なり。能々(よくよく)御(おん)-計(ぱから)ひ有るべきか。」定綱申しけるは、「何(いか)に藤九郎(とうくらう)殿、御辺は三条の関白謙徳公の御末と聞く。定綱は苟(いやし)くも宇多天皇の後胤、近江(あふみ)源氏の最中(もなか)なり。設(たと)ひ我等聟に成らんと所望すとも嫌はれじ。況(いはん)や君は六孫王(ろくそんわう)の苗裔(べうえい)、八幡殿(はちまんどの)四代の末葉(ばつえふ)、東国の奴原(やつばら)が為(ため)には重代の主(しゆう)なり。設(たと)ひ世に無き御身為(た)りといへども、争(いかで)か仰せを軽んぜんや。然(さ)れば則(すなは)ち、内々仰せられんに、若(も)し用ゐずば、則(すなは)ち我等此れを抑(おさ)へて取るべし」と申しければ、頼朝此れを聞き、「定綱の只今(ただいま)の俗姓(ぞくしやう)の沙汰、無益(むやく)なり。計ふ所も荒義なり。和殿原(とのばら)と我が身とは時に依(よ)つて本秩なり。当時においては詮無(な)し。只(ただ)〓睡(クヒネム)つて世を待つべし。然(さ)れば則(すなは)ち、艶書を飛ばして心を〓(はか)るべし」と云ひながら、彼方(かなた)の身親しき女に附けて度々(たびたび)此れを遣はせども、敢(あへ)て以つて之(これ)/を用ゐず。
頼朝猶(なほ)思ひも止(や)まず、心尽しに成りにければ、人知れず又覚食(おぼしめ)しける様は、「昔、業平(なりひら)の中将、二条の后に心を通はして、何度(いくたび)か思ひ労(わづら)ひし。加之(しかのみならず)、『百夜(ももよ)の榻(しぢ)の端墻(はしがき)も、千束(ちつか)生(お)ふる錦木』と云ふ事有り。是(こ)れ先蹤(せんしよう)無きにしも非(あら)ず。頼朝も争(いかで)か黙止(もだ)すべき」とて、艶書の数も重なる間、岩木ならねば靡(なび)きにけり。兵衛佐は廿一、左馬頭の三男、容顔(ようがん)如勇(ゆゆ)しき男(をのこ)なり。伊東の三女は十六歳、国中第一の美女なり。互ひに契つて月日を経(へ)、一人の男子(なんし)を生み得(え)たり。容顔(ようがん)美麗(びれい)にして、潘岳(はんがく)玉山(ぎよくざん)に相(あ)ひ-同じ。形皃(けいばう)端正(たんじやう)にして、上界の天童に異ならず。
然(さ)る間、頼朝思はれけるは、「我当国に流罪せられて、田舎の塵に交はるといへども、此(こ)の子を設(まう)けたることは悦びなり」とて、千鶴(せんづる)と名づけられたり。頼朝言ひけるは、「此(こ)の子十五に成らん時、伊東・北条を相(あ)ひ-具して先陣(せんぢん)に打たせ、定綱・盛長を指(さ)し廻(めぐ)らし、東国の勢を招き、頼朝都に馳せ上つて、父の敵(かたき)清盛を打たん」と言ひながら、二所権現(にしよごんげん)・三嶋明神の御宝殿に秘(ひそか)に願書(ぐわんじよ)をぞ納められける。
仁安三年〈 戊子(つちのえね) 〉三月廿日、高倉院御践祚(ごせんそ)の後、法皇〈 後白河法皇 〉別(わ)く方無(な)く、四海の安危をば、掌(たなごころ)の内に照らし、百王の理乱をば心の中に懸け、万機(ばんき)の政務を聞食(きこしめ)されければ、法皇の近く召しつかはれける公卿・殿上人以下(いげ)、北面の輩(ともがら)に至るまで、皆程々に随つて、官位俸録身に余り、朝恩を蒙(かうぶ)るといへども、人の心の習ひなれば、猶(なほ)此れを不足に欲(おも)ひける間、此(こ)の入道の一類のみ多く国を塞(ふさ)ぎ、官を妨(さまた)ぐる事を、各(おのおの)目覚(めざま)しく思ひし程に、疎(ヲロソカ)の人も無き時は、則(すなは)ち寄り合ひ私語(ささや)きけるは、「此(こ)の入道の亡びたらば、其の国は明きなん、其の官には成りなん」とぞ申しける。
法皇、仰せ有りけるは、「昔、国常立尊(くにのとこたちのみこと)より第七代伊奘諾(いざなき)・伊奘冉(いざなみ)の尊の御子天照大神(あまてらすおほみかみ)、我が朝(てう)秋津嶋(あきづしま)を知食(しろしめ)ししより以来(このかた)、今に至るまで、忝(かたじけな)くも十善の尊号を受け、苟(いやしく)も万機(ばんき)の宝位に居す。末代といへども王法未(いま)だ絶えず。臣下争(いかで)か軽んずべけんや。就中(なかんづく)、古今にも朝敵を打(う)つ者之(これ)多し。田村麻呂(マろ)〈 嵯峨天皇の時の人 〉は高丸(たかまる)を誅(ちゆう)して権大納言(ごんのだいなごん)の位に登るといへども、未(いま)だ摂録(せふろく)の臣には補さず。貞盛・秀郷が承平(しようへい)の将門(まさかど)を打(う)ちし、源頼義(よりよし)が天喜(てんぎ)の貞任(さだたふ)を誅(ちゆう)せし、其の勧賞(けんじやう)、受領(じゆりやう)には過ぎず。然(しか)るに清盛入道、官位俸(捧)録其の身に過ぎ、一門の繁昌世に超えたり。故に永暦(えいりやく)・応保の比(ころ)より悪行(あくぎやう)倍増し、無道非礼なり。是(こ)れ王法の尽くるか、将又(はたまた)仏法の滅ぶるか」とぞ仰せ有りける。
十 頼朝の子息(しそく)、千鶴(せんづる)御前失なはるる事
嘉応(かおう)元年〈 己丑(つちのとうし) 〉七月十一日、伊東の次郎祐親(すけちか)、大番役も終(は)てければ、京より下向して、前栽(せんざい)の方を見ければ、三歳計(ばか)りの少(をさな)き者を、小さき女童(めのわらは)の之(これ)/を懐(いだ)きて遊びければ、祐親(すけちか)此れを見て、「袷(あ)の少(をさな)き者は誰(た)が子ぞ」と妻女に問ひければ、妻女対(こた)へけるは、「袷(あ)れこそ殿の秘蔵(ひさう)せらるる三の御方の、制するをも聞かず、流人右兵衛佐殿に相(あ)ひ-具して設(まう)けらるる御子、千鶴(せんづる)御前とは是(こ)れなり」と云はれければ、祐親(すけちか)此れを聞いて、大きに腹立(ふくりふ)して申しけるは、「娘なりとも親しむべからず、孫なりとも愛すべからず。親の命(めい)を背き、流人の子を生む。平家の聞え有らば、祐親(すけちか)定めて其の罪科を蒙(かうぶ)るべし。急ぎ急ぎ披露無き前(さき)/に彼(か)の者を失ふべし」とて、郎従二人・雑色(ざふしき)三人を召し寄せ、孫の千鶴(せんづる)を請(う)け取らす。五人の者共、此れを請(う)け取り、伊豆国松河の白瀧に将(ゐ)/て行き、河の縁(はた)に下り居(す)ゑ奉りければ、少(をさな)き人四方を見廻したまひて、「父御は何(いづ)くにぞ、母御は何(いづ)くにぞ」と言へば、「袷(あ)れ、袷(あ)の瀧の下に」と此れを申す。「去来(いざ)、然(さ)らば疾(と)く行かん」と言(のたま)ふ時、此(こ)の者共、情け無(な)く沈めを付け、罧〓(ふしつけ)にするこそ糸惜(いとほ)しけれ。
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爰(ここ)に祐親(すけちか)の娘、少(をさな)き人を失はれ、悶(もだ)へ焦(こが)れ悲しみて、「穴(あな)心憂(こころ−う)や。吾が子をば何(いか)/なる人の此れを請(う)け取りて、何(いか)/なる所へ此れを将(ゐ)/て行きけん。何様(いかさま)なる目を見せ、何様(いかさま)にか此れを失ふらん。哀れなるかな、母は此(こ)の土に留まり、子は冥界に趣きけり。我が身我が身に非(あら)ず、我が心我が心に非(あら)ず。仏神三宝、然(しか)るべくは、吾が命を召し取りたまへ。生きて物を思はんも堪(た)へ難(がた)し」と、天に仰ぎ地に覆(ふ)して、泣き悲しめども甲斐(かひ)こそ無けれ。
剰(あまつさ)へ、祐親(すけちか)、情け無(な)く頼朝の縁婦を引き去り、当国の住人江葉(えマ)の小次郎近末(ちかすゑ)を聟に取らんと相(あ)ひ-擬する処に、此(こ)の女房、夫婦の別れを悲しみ、若君の余波(なごり)を思ひしが故に、深く父母を恨み、近末(ちかすゑ)に迎へらるるといへども、敢(あへ)て以つて靡(なび)くこと無(な)し。秘(ひそか)に彼(か)の所を迯(に)げ出で、縁者の許(もと)に忍び籠(こも)りぬ。江葉の小次郎、力及ばず止みにけり。
右兵衛佐、愛子を失はれ縁婦を去られ、一方(ひとかた)ならず難(なや)みければ、生きて死せるが如(ごと)く思はれけり。定綱・盛長、右兵衛佐殿に申しけるは、「設(たと)ひ君世に在(ましま)さずといへども、我等、弓箭(きゆうせん)の家に生まれて候へば、名を惜しむ者なり。我等、君に付き添ひ奉ること、世に以つて隠れ無(な)し。重代の名を朽(くた)さんこと、実(げ)に以つて口惜しく候ふ。我等二人手を取り組んで、祐親(すけちか)男に行き向つて死ぬべく候ふ」と申しければ、右兵衛佐言ひけるは、「己等(おのれ-ら)が志、有り難(がた)し。重代の勇士の身為(た)る間、各(おのおの)寔(まこと)に然(さ)こそ思ふらめ。然(さ)れども頼朝、当国に流罪せられしより以来(このかた)、父の敵(かたき)清盛を討たんと欲(おも)ふ志、日夜朝暮に晴れ遣らず。然(しか)るに、何ぞ大事の敵(かたき)を閣(さしお)いて、小事に命を失ふべけんや。己等(おのれ-ら)が我も我もと思はば、此(こ)の事思ひ止むべし」と制せられける間、「袷(あは)れ、袷(あは)れ」と云ひながら、仰せに随ひて止みにけり。
彼(か)の女房の思ひを物に譬(たと)ふれば、異国に漢帝の御時、王昭君と申しける后は、〓(ゑびす)の手に渡され、北路の旅に向かひて、「翠黛(すいたい)−紅顔(こうがん)、錦繍(きんしう)の粧(よそほ)ひ、泣(なくな)く沙塞(ささい)を尋ねて、家郷(かきやう)を出づ」と歎かれけるが如(ごと)し。此(こ)の女房も、頼朝の館を出でたまひて、近末(ちかすゑ)の許へ渡りぬ。争(いかで)か彼に更(かは)らんや。亦頼朝が歎きを物に譬(たと)ふるに、唐の玄宗皇帝の楊貴妃を失ひたまひし思ひの如(ごと)し。其れは然(サレ)ども方士(はうじ)をして蓬莱宮に求めしめ、玉妃、鈿合(デンがふ)金釵(釼)(シヤ)を以つて方士(はうじ)に与へて形見に授け、「以つて天に在らば願はくは比翼の鳥と作(な)り、地に在らば又連理の枝と為(な)らむと、情けの詞を契りし験(しるし)と為(な)さむ」と云ひて遣はす。方士(はうじ)返つて之(これ)/を奏す。皇帝即(すなは)ち〓(なぐさ)みたまふ。
十一 頼朝、北条の嫡女に嫁する事
右兵衛佐は彼には似ず、伝へ語らふ人も無ければ、遣(や)る方も無き物思ひなり。加之(しかのみならず)、祐親(すけちか)入道、平家の尤(とが)めを恐れ、秘(ひそか)に夜討ちに為(せ)/んと欲(す)。然(しか)るに彼(か)の入道の子息(しそく)、伊東の九郎祐澄(すけずみ)、竊(ひそか)に頼朝に申しけるは、「祐澄(すけずみ)が父入道、俄(にはか)に天狗(てんぐ)其の身に詫(ツ)き候ひて、君を夜討ちに為(し)奉らんと相(あ)ひ-議(はか)り候ふ。設(たと)ひ非道を工(たく)むといへども、親の過(とが)を顕はすべきには非(あら)ねども、此(こ)の頃日(ひごろ)君に相(あ)ひ-馴れ奉つたる上、又指(さ)したる過も有(ましま)さず。此(こ)の事を言はずは冥の照覧恐れ有り。然(さ)れば只(ただ)、入道の思ひ立たざる前(さき)/に、君須(すべから)く此(こ)の所を立ち出でたまふべし。努々(ゆめゆめ)御披露有るべからず候ふ」と申しながら、波羅々々(はらはら)と泣きければ、右兵衛佐言ひけるは、「入道の為(ため)に、其れ程に思ひ籠められたる上は、頼朝此(こ)の所を立ち忍ぶといへども、来たるべき殃(わざはひ)をば遁(のが)るべからず。又我が身においては謬(あやま)り無ければ、自害を為(す)るには及ばず。汝が志、生々世々(しやうじやうせせ)にも忘れ難(がた)し」と言ひければ、九郎即(やが)て立ち去りぬ。
右兵衛佐、定綱・盛長を召して言(のたま)ひけるは、「祐親(すけちか)入道、頼朝を討つべき由(よし)、密(ひそか)に此れを聞き得(え)たり。設(たと)ひ頼朝一人こそ討たるとも、己等(おのれ-ら)は討たるべからず。己等(おのれ-ら)、食頃(しよくけい)此(こ)こに留まり、後日に頼朝を尋ぬべし」と言ひければ、盛長・定綱申しけるは、「所詮(しよせん)候(ざうら)ふ、彼(か)の入道思ひ立たざる前(さき)/に、還(かへ)つて此れを討ち候はん」とて、彼等二人思ひ切つて出で立ちければ、右兵衛佐言ひけるは、「兼ねて言ひしが如(ごと)く、未(いま)だ父の敵(かたき)清盛入道を討たざる間、何事の有りとも我と騒ぐべからず。相(あ)ひ-構へて、汝等抑(おさ)へ静むべし」とて、大黒鹿毛(おほくろかげ)と云ふ馬に乗り、鬼武(おにたけ)と云ふ舎人(とねり)を相(あ)ひ-具し、八月十七日の夜半計(ばか)りに、伊東の館を打(う)ち出でて、北条へ馳せ越えけり。夜も漸(やうや)く明けければ、定綱・盛長跡を追ひ、尋ね行きぬ。
右兵衛佐、祈念して申されけるは、「南無皈命頂礼(きみやうちやうらい)、八幡殿(はちまん)三所聞食(きこしめ)すべし。頼朝の先祖伊与守(いよのかみ)頼義(よりよし)朝臣、奥州の貞任(さだたふ)を迫(せ)めし時、嫡男義家を以つて八幡殿(はちまん)大菩薩の氏子と為(な)し、其の名を八幡殿(はちまん)太郎と号す。此れに依(よ)つて、大菩薩、氏子に至るまで護(まも)るべしと云ふ御誓ひ有り。然(しか)るに頼朝は是(こ)れ八幡殿(はちまんどの)より四代の氏子なり。然(しか)るべくは八幡殿(はちまん)大菩薩、日本国を頼朝に打(う)ち随はしめ給へ。頼朝の子(こ)の敵(かたき)、伊東入道を打(う)ち取らん」と言(のたま)ひ了(は)て、二所権現(にしよごんげん)に精誠(せいぜい)を致さる。
同じき十一月下旬の比(ころ)、右兵衛佐、伊東の娘に猶(なほ)懲(コ)りず、北条の四郎の最愛の嫡女に、秘かに忍びて通はれけり。此(こ)の世ならぬ契りにて有りけり。故に慇(ねんごろ)に偕老(かいらう)を結びぬ。時政は夢にも此(こ)の事を知らず。北条、大番を勤めて下りける程に、路より此(こ)の事を聞き、大きに驚きながら、平家の威を歎き恐れしが故に、同道(どうだう)して下向しける平家の侍、伊豆の目代(もくだい)和泉の判官(はんぐわん)兼隆に約束せしむ。然(さ)る間、同じき十二月二日、娘を取り還(かへ)し、目代(もくだい)兼隆が許へ渡す。然(さ)れども、女房都(すべ)て靡(なび)かず。未(いま)だ亥(ゐ)の尅(こく)に成らざる以前に、秘かに彼(か)の所を迯(のが)れ出でて、速やかに伊豆の御山の宿坊に致れり。使者を頼朝の許へ立てられければ、十日、右兵衛佐、鞭を上げて馳せ来たる。目代(もくだい)此れを聞き及ぶといへども、彼(か)の山は大衆(だいしゆ)強(こは)き所為(た)る間、輙(たやす)くも取り難(がた)し。兼隆は力及ばず止みにけり。北条此れを聞き、娘を勘当せしむ。
十二 藤九郎(とうくらう)盛長夢物語(ゆめものがたり)
然(さ)る程に、相模国(さがみ/の−くに)の住人、懐嶋(ふところじま)の平(へい)−権守(ごんのかみ)景能(かげよし)〈 大庭権守(ごんのかみ)景宗が男 〉此(こ)の由(よし)を聞き、「右兵衛佐殿、伊豆の御山に忍びて御坐(おはしま)しける。神仏と善人とは宮仕へ申すに空しき事無し。景能(かげよし)参つて一夜なりとも御殿居(おん−とのゐ)仕るべし」とて、伊豆の御山に馳せ上り、藤九郎(とうくらう)盛長と一所に御殿居(おん−とのゐ)仕る処に、其の暁、盛長、夢物語を申して云はく、「右兵衛佐殿、足柄(あしがら)の〓倉(やくら)が嵩(だけ)に居て、南に向かひ、左の足にて東国を踏(フ)み、右の足にて西国を踏み、一品坊(いつぽんばう)昌寛(しやうくわん)〈 観音品計(ばか)りを頼朝に教へし故に、号して一品坊(いつぽんばう)と云ふなり。 〉、琉璃(るり)の瓶子(へいじ)を懐(いだ)き、定綱は金の盞(さかづき)を捧げ、盛長は銀の銚子を取り、佐殿(すけどの)に向かひ奉る。佐殿(すけどの)三献既(すで)に訖(をは)つて後、左右(さう)の袖を以つて月日を懐(いだ)き奉る。又子(ね)の日の松を引き持(も)ち、三本頭に挿し、君は南に向かひて歩ませ御坐(おはしま)す処に、白鳩二羽天より飛び来たつて、君の御髪(み−ぐし)に巣(すく)ひ、三子を生むと見えたり」と云々。
景能(かげよし)聞きも敢(あ)へず、「藤九郎(とうくらう)が夢合せ、景能(かげよし)仕るべく候ふ。君、足柄(あしがら)の〓倉(やくら)が嵩(だけ)に居り御(おはしま)すと見えたるは、日本国を領知し御(おはしま)すべき表示なり。又酒盛と見えたるは無明(むみやう)の酒なり。其の故は、此(こ)の頃日(ひごろ)、君伊豆国に流され、田舎の塵に交はり御(おはしま)し、万(よろづ)に付けて猥(みだり)がはし。是(こ)れ洒に酔ひたる御心地なれば、疾(と)く酔ふべく御(おはしま)す瑞相なり。左の足にて東国を踏み御(おはしま)すと見えたるは、東より奥州に至つて知食(しろしめ)すべき表相なり。右の足にて西国を踏み御(おはしま)すと見えたるは、貴賀嶋(きかいがしま)を領掌(りやうじやう)有るべしとの先表なり。左右(さう)の袖を以つて月日を懐(いだ)き御(おはしま)すと見えたるは、君武士の大将軍と為(し)て、征夷将軍の宣旨を蒙(かうぶ)り御(おはしま)すべし。太上天皇(だいじやうてんわう)の御護(まも)りと成り給ふ好相なり。子(ね)の日の松三本を引き持(も)ち御(おはしま)すと見えたるは、君久しく日本国を治むべく御(おはしま)す瑞相なり。白鳩二羽飛び来たつて御髪(み−ぐし)の中に巣(すく)ひ、三子を生むと見えたるは、君に御子三人有るべき表示なり。南に向かひて歩みたまふと見えたるは、無明(むみやう)の酒醒めて、君思ふ所無(な)く振舞ひ御(おはしま)すべき表相なり」と、景能(かげよし)、委細に合せたり。右兵衛佐此れを聞いて言ひけるは、「頼朝若(も)し世に在らば、景能(かげよし)・盛長が夢と夢合せの纏東(てんとう)には、国を以つて宛(あ)て給ふべし」と、感歎身に余りて、喜悦したまふこと限り無(な)し。
然(さ)る程に、北条は然(しか)るべく催されける果報にや、漸(やうや)く心和(やはら)ぎ行き、娘の勘当を赦(ゆる)し畢(をは)んぬ。頼朝夫妻を呼び寄せ奉る。已(すで)に頼朝、伊豆の御山より又北条へ立ち皈(かへ)り、弥(いよいよ)比日(ひごろ)の約(ちぎ)りを結び、殊に芝蘭(しらん)の語らひを臻(イタ)し、漸(やうや)く年月を送る間、一人の女子を設(まう)け給へり。容顔(ようがん)美麗(びれい)にして殆(ほとん)ど吉祥天女(きちじやうてんによ)の如(ごと)し。然(さ)る間、頼朝、流罪の悲しみは夫婦の語らひに止み、孤窶(ころう)の思ひは女子の資(たす)けに宥(なご)む。或(あ)る時、頼朝、小間の酒盛の次(つ)いでに、女子を見て、
「竹子守山古曾楚多知希礼
(竹の子はもる山にこそそだちけれ)
左(と)言ひたまひければ、時政取り敢(あ)へず、右(かく)ぞ之(これ)に付けにける。
「末世満天〓千代経土伝
(末の世までに千代を経よとて)
此(こ)の連歌は、実(まこと)に頼朝父子共に栄え、北条繁昌すべき奇瑞なりと、此れを聞く人、由(よし)有るべきことと謳謌(おうか)せり。
十三 太政(だいじやう)-入道清盛、悪行(あくぎやう)始めの事
同じき嘉応(かおう)二年十月十六日、松殿の摂政(せつしやう)基房、主上〈 高倉天皇。御歳九歳 〉御元服(ご-げんぶく)の御定め有る為(ため)に、中御門(なかのみかど)の東洞院(ひがしのとうゐん)の御所より御参内有りける程に、小松の内大臣重盛卿の二男、新三位(しんざんみ/の)-中将資盛卿(すけもり/の−きやう)、其の時は越前守と申して十三に成られけるが、蓮台野(れんだいの)に出でて小鷹狩り為(し)て、鶉(うづら)・雲雀(ひばり)を追つ立てて、終日(ひねもす)に狩り暮らして、降る雪に枯野の景気憐(あは)れなりける間、夕べに及んで、大宮大路を下りに、大炊御門(おほひのみかど)大宮へ還(かへ)りけるに、殿下(てんが)の御出(ぎよしゆつ)に鼻付きに参り合はれたりけり。越前守の、誇り勇みて、世をも世と思はざりける上、召し具す所の侍共、礼儀骨法(こつぱふ)をも弁(わきま)へたること無ければ、殿下(てんが)の御出(ぎよしゆつ)とも云はず、一切(いつせつ)下馬の礼儀も無かりけり。然(さ)る間、前駆(ぜんぐ)・御随身(みずいじん)等、清盛入道の孫とも知らず、只(ただ)打(う)ち任せての人の、無礼に懸け通ると打(う)ち思ひて、奇(あや)しむ故に、「何ぞ、何(いか)/なる白者(しれもの)ぞ、狼藉に殿下(てんが)の御出(ぎよしゆつ)に乗り相(あ)ひ-し奉る。取つて引き下せ」と申しながら、御随身(みずいじん)共、馬より躍り下り、太刀を抜いて追つ散らす。資盛(すけもり)以下(いげ)の侍共五六人、馬より取つて之(これ)/を引き落とし、頗(すこぶ)る恥辱に及びけり。
資盛(すけもり)朝臣、六波羅の宿所へ馳せ還(かへ)つて、祖父(おほぢ)入道に対(むか)つて泣(な)く泣(な)く申されければ、入道最愛の孫たる間、大きに嗔(いか)り腹立(ふくりふ)して、「設(たと)ひ殿下(てんが)たりとも、争(いかで)か入道の辺りの事をば、其れ程には思食(おぼしめ)さるべき。生ひ先遥かの少(をさな)き者に、左右(さう)なく恥辱を与へらるるこそ違恨の次第なれ。此(こ)の事思ひ知らせ奉らずしては、得(え)こそ有るまじけれ。繋(かか)る事より人にも蔑如(あなづ)らるるぞ。殿下(てんが)を恨み奉らばや」と言ひければ、小松の内府(だいふ)は、「此(こ)の事、努々(ゆめゆめ)有るべからず。重盛が子共と申し候はんずる者は、殿下(てんが)の御出(ぎよしゆつ)に参り合ひて、下馬せざるこそ尾籠(びろう)なれ。左様に為(せ)/られ奉るは、人数(ひとかず)に思はれ奉るに依(よ)つてなり。此(こ)の事思へば面目(めんぼく)なり。頼政・時光が様(やう)の源氏なんどに哂(アザムカ)れて候はんは、実(まこと)に恥辱にても候ひなん。加様(かやう)の事に依(よ)つて大事を引き起こしてこそ、世の乱れとは成り候はん」と諌め申されければ、其の後には内大臣には言ひ合はせず、片田舎の侍共の強(こは)く貪生(ふくつけ)なきが、入道殿の仰せより外には重き事無(な)しと欲(おも)ひて、前後をも弁(わきま)へぬ者共を十四五人召し寄せて、「来たる廿一日に、主上御元服(ご-げんぶく)の定めの為(ため)に、殿下(てんが)参内有らんずる道にて待ち受け奉りて、随身・前駆(ぜんぐ)が髪を切れ」とぞ下知(げぢ)せられける。
爰(ここ)に殿下(てんが)は車に召し、中御門(なかのみかど)・東洞院(ひがしのとうゐん)の御所より、内の直廬(ちよくろ)に参入せらるる処に、大炊御門(おほひのみかど)・猪熊(ゐのくま)の辺りにて、六十余騎の軍兵(ぐんびやう)等、殿下(てんが)の御出(ぎよしゆつ)を待ち懸け奉る。殿下(てんが)は努々(ゆめゆめ)此(こ)の事をば思食(おぼしめ)さずして、打(う)ち任せての御出(ぎよしゆつ)よりも引き埋(ツク)ろひ御坐(おはしま)して、何心も無(な)く御出(ぎよしゆつ)成りけるを、射殺し切り殺さずとも、懸け散らし打(う)ち落とし擲(な)げ落とす。足に任せて迯(に)ぐるも有り、馬を捨てて隠るるも有り、前駆(ぜんぐ)六人の髪を剪(き)る。其の中に蔵人(くらんど/の)大輔(たいふ)高範(たかのり)の髪を剪(き)るとて、「是(こ)れは汝が髪を剪(き)るには非(あら)ず。己(おのれ)が主(しゆう)殿下(てんが)の髪を剪(き)るなり」と云ひけり。随身〔十〕人が内、右の府生(ふしやう)武光が髪も剪(き)られにけり。剰(あまつさ)へ御牛の鞦(しりがい)を剪(き)り放ち、弓を荒(あら)らかに御車(み-くるま)の内へ突き入れければ、殿下(てんが)も御車(み-くるま)より崩れ下りさせ給ひて、〓(あや)しの民の家へぞ立ち入らせ給ひにける。前駆(ぜんぐ)・御随身(みずいじん)も何(いづ)ちへか迯(に)げ失せけん、一人も無かりけり。供奉(ぐぶ)の殿上人、蜘(くも)の子を散らすが如(ごと)く走り失せぬ。六十余騎の軍兵(ぐんびやう)等、加様(かやう)に為(し)散らして、悦びの時を作り、六波羅へ還(かへ)りにけり。入道此れを聞き、「如勇(ゆゆ)しく為(し)たり」とぞ感ぜられける。
小松の内府(だいふ)大きに驚き歎かれけり。「景綱・家貞奇怪(きつくわい)なり。入道殿何(いか)/なる不思議を下知(げぢ)せらるとも、争(いかで)か重盛に夢をば見せざるべき」とて、行き向かひたりし侍共十余人勘当せられけり。「凡(およ)そ重盛が子共にて有らん者は、天下を恐れ、礼儀をも存じてこそ振舞ふべきに、云ふ甲斐(かひ)無き若者共を召し具し、加様(かやう)の尾籠(びろう)を現じて、入道殿に腹を立てさせ、此(かか)る大事をも引き出だし、父祖の悪名を立つる。不孝の至り、独(ひと)り汝に在り」とて、越前守をも諌められけり。凡(およ)そ此(こ)の大臣は何事に就(つ)けても吉(よ)き人なりと、世にも誉められ給ひけり。其の後、殿下(てんが)の御事を知り奉つたる人一人も無き程に、御車(み-くるま)副(ぞひ)に候ひける古老の者に、淀の住人因幡(いなば)の斉使(さいつかひ)国久丸(まる)と申しける者、下臈(げらふ)なりといへども貞潔なる者にて、「抑(そもそも)我が君は何(いか)に成らせ御坐(おはしま)す」とて、此(こ)こ彼(かし)こを尋ね奉りけるに、殿下(てんが)、〓(あや)しの民の家に立ち隠れ御座(おはしま)しけるを、「君は焉(ここ)に渡らせ給ひける」と思ひて、御車(み-くるま)の装束を取り調へて寄せければ、殿下(てんが)、御直衣(おん-なほし)の袖を御顔に押し当てて、泣(な)く泣(な)く御車(み-くるま)に召されけり。国久丸(まる)計(ばか)り只(ただ)一人御車(み-くるま)を仕つて還御成し奉りけり。還御の儀式の心憂(こころ−う)さは只(ただ)推量(おしはか)るべし。摂政(せつしやう)・関白の此(かか)る憂き目を御覧ずることは、昔も今も有り難き様(ためし)なるべし。此れぞ平家の悪行(あくぎやう)の始めとぞ聞えし。
殿下(てんが)は此(かか)る難に合はせ給ひける故に、今夜(こよひ)は主上(しゆしやう)御元服(ご-げんぶく)の定めも延びにけり。浅猿(あさまし)かりし事共なり。
十四 太政(だいじやう)-入道の第二の御娘、入内(じゆだい)有る事
然(しか)る間、同じき廿五日、院の御所にて主上(しゆしやう)御元服(ご-げんぶく)の定め有り。摂政(せつしやう)殿、同じき十二月九日、兼ねて宣旨を蒙(かうぶ)り給ひて、同じき十四日、太政(だいじやう)-大臣(だいじん)に任じたまふ。是(こ)れ則(すなは)ち、明年主上(しゆしやう)御元服(ご-げんぶく)加冠(かくわん)の為(ため)なり。同じき十七日(じふしちにち)、摂政(せつしやう)殿、御賀有れども如勇(ゆゆ)しく苦(にが)りてぞ見えける。
嘉応(かおう)三年正月一日、内裏には節会(せちゑ)行はれて、二日、淵酔(えんすい)有り。三日、御門(みかど)御元服(ご-げんぶく)有り。四日、加表。七日、戌(いぬ)の時に、院の御所法住寺殿(ほふぢゆうじ-どの)の南面に、車の輪計(ばか)りの光り物出で来たり。恐ろしとも言ふに及ばず。
十二日、朝勤の行幸とぞ聞えし。最珍(めづらし)く声花(はなやか)に、法皇も女院も取り申させ給ふ。初冠の御姿厳(いくつ)しく御(おはしま)しけり。春の始めの事なれば、人々殊(こと)に御祝ひ事共申し、悦び合へり。
同じき四月、改元有り、承安元年と号す。
同じき七月、相撲の節有るべき由(よし)聞こえけり。小松の内府(だいふ)は声花(はなやか)にて屋形に著(つ)かれたる有様、辺りを払つてぞ見えし。「宿報限り有れば、官位は思ふ様(やう)なりとも、皃形は心に叶ふべからねども、平家の人々は何(いづ)れも容顔(ようがん)勝(すぐ)れたり。中にも、此(こ)の重盛卿の、殊(こと)に皃事柄優(いう)に御(おはしま)す目出たさよ」とぞ申しける。子共達には神楽・催馬楽歌はせ、管絃舞妓を翫ばせ、情け有る事をば勧められけり。
承安元年〈 辛卯 〉十二月十四日、太政(だいじやう)-入道第二の娘、入内(じゆだい)有りしかば、十五にて、中宮の徳子とぞ聞え給ひし。同じき廿六日、女御(にようご)に為(な)り給ふ。
十五 新大納言成親(なりちか)、大将所望の為(ため)、様々(さまざま)の祈祷の事
其の比(ころ)、妙音院(めうおんゐん)の太政(だいじやう)-大臣(だいじん)師長卿(もろながのきやう)、内大臣の左大将にて御坐(おはしま)しけるが、大将を辞し申されける間、其の官をば、後徳大寺の左大臣、大将に成さるべきに、新大納言成親卿(なりちか/の-きやう)の、平(ひら)に望み申されけり。院の御気色(ご-きしよく)善(よ)かりし間、様々(さまざま)の祈祷をぞ始められける。
八幡(やはた)の宮に僧を籠め、信読(しんどく)の大般若(だいはんにや)を読ませられける程に、半部計(ばか)りに及び、河原(かはら)の大明神の前なる橘の木に、鴿(はと)二つ食ひ合ひて死ににけり。鳩は大菩薩の第一の使者なり。然(さ)る間、別当浄清(じやうせい)、此(こ)の由(よし)を奏聞しければ、御占(み-うら)ども有り。「天子の御慎(つつし)みには非(あら)ず、臣家の慎(つつし)み」とぞ申しける。又、賀茂の上の社に、武(たけ)き僧を込めて、外法(げほふ)を行はしむる程に、宝殿の後ろに有る椙(すぎ)の木に、火著(つ)きて燎(も)ゆる間、若宮の社を焼きにけり。非分の事を祈り申されける間、神は非礼を請(う)けたまはねば、加様(かやう)の事も出で来たるにや。
又、大納言、彼(か)の社へ大将所望の為(ため)に、百日詣での祈りを企てられけり。百日に満ずる時に、御宝殿の内より、声有つて、
「桜花賀茂河風恨那与 散於江古曾留佐里希連
(桜花賀茂の河風恨むなよ 散るをばえこそ留めざりけれ〉
左(と)詠(よ)み出だされたりければ、大納言、胸打(う)ち騒ぎ、身の毛堅(よだ)つてぞ思はれける。
十六 成親(なりちか)・俊寛、平家追討の僉議の事
然(さ)る程に、重盛は右大将にて在りけるが、左に遷(うつ)つて、宗盛は中納言にて在りけるが、右大将に成りたまふ。此れを見て、成親卿(なりちか/の-きやう)、太太(いとど)口惜く思はれける間、如何(いか)にもして平家の一門を亡(ホロボ)し、本望を遂げんと欲(おも)ふ意(こころ)著(つ)きにけり。成親(なりちか)の父の卿は中納言にて有りしに、其の末子(ばつし)と為(し)て、身の涯分をも知らず、正二位に登り上り、官大納言に任じ、年纔(わづか)に四十二なる間、多(あまた)の大国を給はり、家の内も楽しく、子息(しそく)・所従に至るまで朝恩に飽き満ち、何の不足有つて此(かか)る意(こころ)の著(つ)きにけん。偏(ひとへ)に天魔の所行(しよぎやう)なり。成親、親(まのあたり)に信頼卿の形勢(ありさま)を見し人ぞかし。其の時、重盛の重恩を蒙(かうぶ)つて頸を継がれし人に非(あら)ずや。然(しか)るに成親(なりちか)、外(うと)き人も無き所にて兵具を調へ集め、武(たけ)き兵共(つはもの-ども)を相(あ)ひ-語らひて、此(こ)の営みより外は敢(あへ)て他事も無(な)し。
東山の奥、鹿(しし)の谷と云ふ所は法勝寺(ほつしようじ)の執行(しゆぎやう)俊寛が所領なり。件(くだん)/の所は、後ろは三井寺に次(つづ)きて如勇(ゆゆ)しき城郭なり。彼(か)の所に、平家を討つて引き籠(こも)らんとぞ支度(したく)せしめける。法皇も時々(ときどき)忍びて御幸有り。有る時、故少納言入道の子息(しそく)、静憲(じやうけん)を召され、此(こ)の事を彼(か)の仁(じん)に仰せ合せられければ、「努々(ゆめゆめ)然(しか)るべからず候ふ。人々数(あまタ)此れを承(うけたまは)り候ひぬ。只今(ただいま)此(こ)の草聞えなば、天下の大事出で来なんず。浅猿(あさまし)き事なり」と大きに歎き申されければ、成親(なりちか)、気色(けしき)を違へて立たれけるが、御前なる瓶子(へいじ)を、狩衣(かりぎぬ)の袖に引き懸けて、引き倒されけるを、法皇「袷(あ)れは何(いか)に」と仰せられければ、「平氏(へいじ)の倒れて候ふ」と成親卿(なりちか/の-きやう)申されければ、法皇、〓(ゑつぼ)に入らせ御(おはしま)す。「康頼(やすより)参つて猿楽(さるがく)仕れ」と仰せ有る間、康頼(やすより)取り敢(あ)へず突い立つて、「近代は平氏(へいじ)余りに多う候ふに、酔ひて候ふ」と申しければ、成親卿(なりちか/の-きやう)「左手(さて)其れをば如何(いかが)すべき」と言へば、「其れをば頸を取り候はん」と言ひて、瓶子(へいじ)の頸を取つて入りにけり。静憲(じやうけん)此れを聞いて、浅猿(あさまし)く覚えて、敢(あへ)て物も申さず。
与力の輩、近江(あふみ)の中将入道蓮静(れんじやう)〈 俗名成雅 〉・法勝寺(ほつしようじ)の執行(しゆぎやう)法印俊寛・山城守(やましろのかみ)基兼(もとかぬ)・式部大夫(しきぶのたいふ)章綱(まさつな)・平(へい)-判官(はんぐわん)康頼(やすより)・宗(そう)-判官(はんぐわん)信房(のぶふさ)・新平(しん-ぺい)判官(はんぐわん)資行(すけゆき)・多田(ただ/の)-蔵人(くらんど)行綱(ゆきつな)・左衛門入道西光(さいくわう)、北面の下臈(げらふ)共、数(あまた)同意の由(よし)聞えけり。其の中に、法印俊寛は、京極の源大納言雅俊が孫、木寺(きでら)の法印俊雅が子なり。然(さ)れば俊寛は指(さ)して弓箭(きゆうせん)の家に非(あら)ねども、祖父大納言雅俊卿は、如勇(ゆゆ)しく心も武(たけ)く腹も悪しき人にて、京極の家の前をば人も安く通さず、常に奥歯を〓(クイ)縛りて、何言(なにごと)も無(な)く嗔(いか)り赤みて御坐(おはしま)しけり。彼(か)の人の孫子為(た)る間、俊寛も僧なりといへども、其の心武(たけ)き人にて、加様(かやう)の事にも与(くみ)せられけり。
十七 日代師高(もろたか)、白山の大衆(だいしゆ)と争ひを起こす事
北面は是(こ)れ上古(しやうこ)には無かりしを、白河院の御時より始めて置かれ、衛府共数(あまた)候ひけり。為俊・盛重と申す者、童(わらは)より召し仕はれ、千手丸(まる)・今犬丸(まる)とて近習者(きんじゆしや)為(た)り。鳥羽院の御時、季範(すゑのり)・季頼と申して、父子共に近く召し仕はれける程に、時々(をりをり)は伝奏(てんそう)する時も有りけり。然(さ)れども、彼等は皆身の程を知つて振舞ひたりしに、此(こ)の君の御時は、北面の者共、事の外に過分にて、公卿・殿上人を屑(もののかず)ともせず、礼儀も無かりけり。下北面より上北面に遷(うつ)り、剰(あまつさ)へは殿〔上〕を免(ゆる)さるる輩も有りけり。如此(かくのみ)行はるる間、騎り勇める者多し。
中にも、故少納言入道信西の許に、師光(もろみつ)・成景(なりかげ)と云ふ者有りけり。小舎人(ことねり)-童(わらは)か格勤者(かくごんしや)にて、下臈(げらふ)なりといへども、威(さか)しき者にて、院の御眸(まなじり)に係りて召し仕はれけり。師光(もろみつ)は左衛門尉(さゑもんのじよう)、成景(なりかげ)は右衛門尉とて、二人ながら一度に勒負尉(ゆげひのじよう)に成されける程に、少納言入道の事に遇ひし時、二人ながら出家して、左衛門入道西光(さいくわう)・右衛門入道西景(さいけい)と申して、二人共に御倉(みくら)預(あづか)りにて召し仕はれけり。西光(さいくわう)が子息(しそく)師高(もろたか)も、父が如(ごと)く近習者(きんじゆしや)にて、検非違使(けんびゐし)五位尉(ごゐのじよう)に成り上りにけり。
安元二年〈 丙申(ひのえさる) 〉十二月十九日、加賀守(かが/の−かみ)に任じ、国務を行ひし間、政務を背き、非法非例を張行(ちやうぎやう)せし程に、神社仏寺・権門勢家(せいか)の庄園とも云はず、皆此れを没倒(もつたう)して、散々に行(おこな)ふ。縦(たと)ひ邵(テイ)公が跡を経(ふ)とも、穏便の政(まつりごと)をこそ行(おこな)ふべかりしに、意(こころ)に任せて振舞ひし程に、同じき三年八月十三日、目代(もくだい)師高(もろたか)と白山の末寺温泉寺(うんせんじ)の僧徒と、事をし出だすに依(よ)つて、国方より師高(もろたか)推し寄せて、温泉寺(うんせんじ)の坊舎を焼き払ふ。
仍(よつ)て白山の衆徒、同年の冬の比(ころ)、神輿を捧げて上洛(しやうらく)し、山門に訴ふる間、我が山の末寺為(た)るに依(よ)つて、大衆(だいしゆ)蜂起す。
国司師高(もろたか)・目代(もくだい)師経を流罪・禁獄に行はるべき由(よし)、奏聞を経(ふ)といへども、御裁断遅かりければ、太政(だいじやう)-大臣(だいじん)・左大臣・右大臣以下(いげ)の公卿・殿上人、各(おのおの)歎き申されけるは、「遖(あはれ)、此(こ)の事疾々(とくとく)御裁許有るべき者を。山門の訴訟は昔より他に異なり。以つての外に弘き事共なり。其の故は、大蔵卿(おほくらのきやう)為房・大宰(寄)大弐(ださいのだいに)師李(もろすゑ)朝臣、彼等は皆朝家の奉為(おんため)に重臣為(タ)りといへども、大衆(だいしゆ)の訴訟に依(よ)つて流罪せられにき。師高(もろたか)が事は事の数にも有るべきか。御(おん)-計(ぱから)ひ有るべき者を」と、内々は談合すれども、詞に出だして奏聞せず。「大臣(たいしん)は録を重んじて諌めず、小臣は罪を恐れて言はず」といふ事なれば、各(おのおの)口を閉ぢ給へり。
実(まこと)に、身を忘れて君を諌め奉り、力を竭(つく)して国を治むべき人、其の数多(あまた)有りし上、武威を輝(かかや)かして天下を静めし入道の子息(しそく)、重盛・宗盛なんど、夙夜(しゆくや)の勤労を積んで催されけれども、師高(もろたか)一人に憚つて、詞に傾き申すとも、諌奏すること無かりけり。君に事(つか)へ世を治むる法、実(げ)に以つて然(しか)るべけんや。「覆(くつがへ)つて助けずは、豈(あに)其の賞を憑(たの)まむや」と、蕭何(せうか)をば大宗(たいそう)は仰せられけるとぞ聞えし。君も滞るべきに非(あら)ず、臣も諛(ココロヨ)かるべきに非ぬ御事共なり。何(いか)に況(いはん)や、君臣の国を乱らんにおいてをや。政道の枉(よこしま)なるにおいてをや。
白河院の勅定には、「賀茂河の水、雙六(すぐろく)の賽(さい)、山法師、此れぞ丸(まる)が心に叶はぬ者」と申し伝へられたり。鳥羽院の御時、平泉寺(へいせんじ)を以つて山門に付けられけるには、「御皈依(ご−きえ)浅からざるに依(よ)つて、非を以つて理(り)と為(な)す」とこそ宣下せられて、院宣をば下されけれ。昔、大蔵卿(おほくらのきやう)為房、流罪せらるべき由(よし)、山門の衆徒訴へ申しけるに、頭中納言申されけるは、「神輿を陣頭へ振り奉つて訴へ申さんに、此(こ)の時争(いかで)か御(おん)-計(ぱから)ひ無(な)くて有るべき」と申されけり。寔(まこと)に山門の訴訟は黙止難(もだしがた)き事なり。
堀河院〈 諱を善仁と云ふ。 〉の御時、嘉保二年〈 己亥(つちのとゐ) 〉、美濃守源義綱朝臣、当国新立(ミタチ)の庄を倒しける間、山の久住者(くぢゆうしや)円応を殺害(せつがい)す。此(こ)の事を訴へ申さんが為(ため)に、大衆(だいしゆ)参洛すべき由(よし)、風聞(ふうぶん)有りしかば、河原(かはら)へ武士を指(さ)し遣はして、之(これ)/を防がるる程に、日吉の社司・延暦寺の寺官、都合三十人計(ばか)り、申し状を捧げて陣頭に参上しけるに、後二条の関白師通の沙汰と為(し)て、中務丞(なかつかさのじよう)頼治(よりはる)に仰せて之(これ)/を防ぐといへども、猶(なほ)内裏へ入らんと欲(す)る間、頼治(よりはる)が郎等八騎押し寄せて之(これ)/を射る。矢に中(あた)りて死ぬる者二人、手を負ふ者一人。社司・所司共に四方へ散り失せぬ。門徒の僧綱(そうがう)-等(ら)、子細を奏聞の為(ため)に、猶(なほ)下洛せしむる処に、武士を西坂本へ指(さ)し遣はして入れられず。大衆(だいしゆ)、日吉の神輿を根本中堂(こんぼんちゆうだう)に振り上げ奉つて、関白師通を呪咀(しゆそ)し奉る。未(いま)だ昔より此(かく)の如き事をば聞かず。神輿を揺(うご)かし奉ること、是(こ)れぞ初めと承はる。
山王の御尤(とが)めにて、関白師通、御身に重病を受け、品々の御願を立てられ、様々(さまざま)の怠(おこた)りを申されけれども、御年三十八と言(まう)すに、康和(かうわ)元年〈 己卯(つちのとう) 〉六月廿八日、父大殿〈 師実(もろざね)、京極殿と云ふ。 〉に先立ち、終(つひ)に失せたまひにけり。御心も武(たけ)く、道理も勁(こは)く御坐(おはしま)しけれども、真(まこと)に事の急に成りし時、御寿(よはひ)を惜ませたまふ。誠に惜かるべし。未(いま)だ四十にも満たずして、父の大殿に先立ちたまふ事、口惜かりし事なり。時に取つては浅猿(あさまし)かりし事共かな。然(さ)れば則(すなは)ち、古今においては、山門の訴訟は恐ろしき事なりと申し伝へたり。老少(らうせう)-不定(ふぢやう)の境なれば、老いたる親を先立つべしと云ふ事は定まらず。生前の宿業(しゆくごふ)に随ふ習ひなれば、万徳果満の世尊も十地究竟(じふちくきやう)の大士(だいじ)達も、力及ばざる御事にて、慈悲具足の山王も、情け無(な)く降伏(がうぶく)したまふをや。和光利物(わくわう-りもつ)の方便なれば、折節(をりふし)尤(とが)め給ふも理(ことわり)ながら、恨めしく浅猿(あさまし)き事なり。
十八 山門の大衆(だいしゆ)、神輿を捧げて下洛する事 付けたり 頼政、変化(へんげ)の物を射る事
治承元年〈 丁酉(ひのととり) 〉四月、日吉の御祭にて有るべかりしを、大衆(だいしゆ)之(これ)/を打(う)ち留めて、同じき十三日辰(たつ)の尅(こく)に、衆徒日吉七社の御輿を捧げ奉り、陣頭に参向して、急ぎ師高(もろたか)を罪科に行はるべき由(よし)、訴へ申さんと欲(す)る間、内大臣重盛・源三位(げんざんみ)頼政以下(いげ)源平両家の大将軍、臨時(リンじ)の勅を承つて、四方の陣を固め、之(これ)/を防ぐ。重盛俄(にはか)に打(う)つ立たれけれども、其の勢三千余騎なれば、左衛門の陣并びに南面の美福(びふく)・朱雀(しゆしやく)・皇嘉門(くわうかもん)を固めけり。宗盛・知盛兄弟二人は西面の談天(だつてん)・藻壁(さうへき)・殷富門(いんぶもん)を固めけり。北面の安嘉(あんか)・偉鑒(イかん)・達〔智〕(たつち)已上九つの門をば閉ぢたり。其の中に源三位(げんざんみ)頼政は、纔(わづか)に三百余騎の兵を以つて北の陣を固めたり。大衆(だいしゆ)、便宜(びんぎ)為(た)るに依(よ)つて、御輿を縫殿(ぬひどの)の陣に廻(めぐ)らす。
頼政然(さ)る古兵(ふるつはもの)にて、急ぎ門を開き、甲(かぶと)を脱いで高紐(たかひも)に懸け、馬より下りて神輿を〓(ニナ)ひ奉る。家の子・郎等皆此(かく)の如(ごと)し。然(さ)る間、頼政〈 頼光の孫なり。 〉使者を立てて、大衆(だいしゆ)の中へ申し送る旨有り。其の使ひをば一の郎等、渡部(わたなべ)の丁七(ちやうしち)源(みなもと/の)-唱(となふ)と云ふ者なり。唱(となふ)の其の日の装束には、重目結(しげめゆひ)の直垂に、小桜を黄に返したる鎧を著(き)、黒羽の矢を負ひて、甲をば高紐(たかひも)に懸け、塗籠(ぬりごめ)の弓横に取り直し、大衆(だいしゆ)の前(まへ)/に突い跪(ひざまづ)き、「源三位(げんざんみ)殿の申せと申され候ふは、『今度山門の御訴訟、理運の条、勿論(もちろん)にこそ覚え候へ。御裁許の遅々(ちち)をこそ外(よそ)にも遺恨(ゐこん)に覚え候へ。但し、勅定に依(よ)つて此(こ)の門を固め候へども、頼政、山王に頭(かうべ)を傾け奉つて年尚(向)(ひさ)し。然(さ)る間、恐れを作(な)して退かんと欲(す)れば、違勅の科(とが)遁れ難(がた)し。詔命(ぜうめい)に随つて防がんと欲(す)れば、神慮又憚り有り。旁(かたがた)以つて難治の次第に候ふ。南の陣は重盛卿固めて候ふ。然(しか)るべくは衆徒南の陣へ向ひ、大勢の中に破(わ)つて入り給はば、山王の御威(いきほひ)も弥(いよいよ)重く、大衆(だいしゆ)の面目(めんぼく)為(た)るべき者か。而(しか)るに無勢にて此(こ)の陣を固めて候へば、決定(けつぢやう)破られ奉らん事疑ひ無(な)し。門をば開き候ひて此(こ)の陣より入り給はば、大衆(だいしゆ)目垂〓(めたりがほ)したりとかや申し候はん。然(さ)らんにおいては、後日の嘲(あざけ)りにこそと覚え候へ。左衛門の陣へ御輿を廻(めぐ)らさるべくや候ふ覧(らん)』」と云ひ送りけるに、若大衆(だいしゆ)共は、「何条(なんでふ)其の義有るべき。只(ただ)押し破(やぶ)つて入らん」と云ふ者も有り、「南の陣へ御輿を廻せ」と申す族(やから)も〔あり〕。
老僧共の中に又僉議しけるは、「此(こ)の事尤(もつと)も云はれたり。御輿を先立て奉りて、我等訴訟を致すならば、大手を打(う)ち破(やぶ)つてこそ後代(こうだい)の聞えも善けれ。就中(なかんづく)頼政は、山王に頭を傾け奉る上、六孫王(ろくそんわう)より以来(このかた)、弓箭(きゆうせん)の芸に携つて、未(いま)だ不覚の名を取らず。其れは武士の家なれば如何(いかが)はせん。風月の逸者(すきもの)、和漢の才人、優に艶(やさ)しき聞えあり。一年(ひととせ)故院の御時、当座の御会の有りしに、御前より『深山(みやま)の花』と云ふ題を出だされけるに、左中将有房朝臣、読み労(わづら)はれたりけるに、頼政卿、
「美山木其梢登毛和賀佐利志 桜花忍顕尓気利
(み山木のその梢ともわかざりし 桜は花に顕はれにけり)
左(と)云ふ名哥の作者、御感を動かし奉る艶男(やさをとこ)なり。此(こ)の頼政、一筋(ひとすぢ)に武(たけ)く甲(かふ)なるのみにも非(あら)ず、若きより艶(やさ)しき聞えもあり、甲なる聞えも有り。」
「二条院の幼帝にて渡らせ御(おはしま)しし時、夜々(よなよな)諤(おび)えさせ給ふ事有りけり。是(こ)れ只事に非ずとて、方便を付けて見せられければ、東三条の木村(こむら)より、夜半計(ばか)りに黒雲一村出づる毎(ごと)/に、内裏の上に懸りけり。毎度主上の御悩(ごなう)有るは、何様(いかさま)にも変化(へんげ)の者にやと覚えければ、頼政仕るべき由(よし)宣下せられけり。勅定を蒙(かうぶ)りける間、力及ばず、領状を申す。五月廿日余りの事なれば、目を指すとも知らぬ闇夜なり。深更(しんかう)に及び、漸(やうや)く其の時にも近づきければ、頼政が恃(たの)む所の郎等に、丁七(ちやうしち)唱(となふ)、黒糸威の腹巻に、左右(さう)の小手を指(さ)し、太刀計(ばか)りを帯(たい)し、射落とす物有らば之(これ)/を懐(いだ)くべき由(よし)、申し含めらる。御殿近くに候す。頼政は物の具もせず、〓(くまたか)の風切(かぎきり)にて作(は)いだる尖矢(とがりや)二筋抜き用(も)つて、少し指(さ)し除(の)きて待ち懸けたり。公卿・殿上人見物為(し)て門前市を成す。夜半に及び、例の黒雲、木村(こむら)の上より立ち出でて、紫震殿の棟に繋(かか)りけり。何(いづ)くを射つべしとも覚えず。且(しば)し瞻詰(みつ)めて、主上又諤(おび)え鳴き給ひけり。此れを射損ずる者ならば、長き恥たるべしと欲(おも)ひ、尖矢を損し矯(た)め、雲逸(くもすき)に覿(ミ)ければ、下輪の黒雲の中に、猶(なほ)一入(ひとしほ)黒き物の見えければ、憐(あはれ)(アワレ)、此れや覧(らん)と思ひ、能引(よつぴ)いて且(しば)し固めて兵(ひやう)ど射ければ、手本に対(こた)へ、都(ふつ)と切りぬ。『謳(おう)』と云ふ矢叫びに対(こた)へて、御殿の上より何物にてか有りけん、孤露々々(ころころ)と顛(まろ)び落つ。軒端に一聚(ひとむら)消えて、庭へ鼕(どう)ど落つ。
丁七(ちやうしち)、雨垂(あまだり)に待ち受けて、〓糸(みし)と懐(いだ)く。公卿・殿上人、手々(てんで)に脂燭(しそく)を指(さ)して之(これ)/を見るに、頭は猿、身は狸、尾は狐、足は猫、腹は蛇、鳴く声は〓(ぬえ)にてぞ有りける。主上の御悩(ごなう)、忽(たちま)ちに止(や)ませ御(おはしま)しけり。法皇御感の余りに、鳥羽院より伝へける師子王と云ふ御剣を自ら取り出だし、御衣に添へて、東三条の右大臣経宗卿に此れを賜(たま)はしむ。大臣此れを給はり、紫震殿の南の階(きぎはし)より下りらる。
比(ころ)は五月廿日余りの日数を経て、五月雨(さみだれ)の空未(いま)だ晴れざる折節(をりふし)に、郭公(ほととぎす)雲の外に音信(おとづ)れければ、大臣、階(きぎはし)に踟躇(たちやすら)ひて、鳴く方を打(う)ち詠(なが)め、
「郭公(ほととぎす)名於波雲井尓阿久類哉
(ほととぎす名をば雲ゐにあぐるかな)
左(と)頼政に云ひ懸け、御剣を給ふ。頼政、三の階(きぎはし)に突い跪(ひざまづ)きつつ、左右(さう)の袖を推し披(ヒラ)き、御剣を給はるとて、
「弓張月乃伊留尓末賀勢天
(弓はり月のいるにまかせて)
左(と)付けけるぞ如勇(ゆゆ)しく聞えし。
又未(いま)だ従四位にて、三位(さんみ)を所望しけれども叶はざりければ、
「上辺幾便乃無久天木下尓 志以越飛路以伝世於王多留哉
(のぼるべき便りのなくて木の下に しゐをひろひて世をわたるかな)
左(と)読みたりけるといへども、猶(なほ)殿上を免(ゆる)されざりしかば、頼政、心憂(こころ−う)き事に欲(おも)ひて、
「人志礼須大内山々守波 木隠帝能美月越見類哉
(人しれず大内山(おほうちやま)の山守は こがくれてのみ月を見るかな)
左(と)読みて、公家に進(まゐ)らしめければ、正三位(しやうざんみ)に上り、殿上を免(ゆる)されにけり。
内裏を罷(まか)り出でけるを、或(あ)る女房立ち〓[足+并]〓[足+令](やすら)ひて、云ひ懸けける、
「月々志久毛出伝行哉
(つきづきしくも出でて行くかな)
左(と)云ひ懸けければ、頼政、取りも敢(あ)へず、
「奈尓登那久雲井能上於履染天
(なにとなく雲ゐの上を履みそめて)
左(と)付けたりけり。時々(ときどき)は加様(かやう)に艶(やさ)しき事も有りける由(よし)を聞けり。加様(かやう)の者には、争(いかで)か時に臨んで恥辱をば与ふべき。就中(なかんづく)、下馬の為様(しやう)、使者の立て様、実(まこと)に思慮深し。然(さ)れば則(すなは)ち、内大臣の固めたる左衛門の陣へ御輿を廻せ」と僉儀せしむ。
仍(よつ)て御輿を左衛門の陣へ廻す。大衆(だいしゆ)御輿を前(サキ)と為(し)て押し入らんと欲(す)る間、狼藉忽(たちま)ちに出で来て、重盛が郎等矢を放ち、十禅師(じふぜんじ)の御輿に立つ。又神人(じんにん)一人、宮人一人、矢に中(あた)つて死に畢(をは)んぬ。其の外、疵を蒙(かうぶ)る者多かりけり。然(さ)る間、神輿を振り上げ奉り、大衆(だいしゆ)三千人声を上げて嘔(をめ)き喚(さけ)ぶ。梵天(ぼんでん)・帝釈宮(たいしやくぐう)をも驚かし奉り、龍神八部も騒ぐらんとぞ覚えける。貴蔑上下悉(ことごと)く身の毛堅(よだ)つて、神人(じんにん)(矢)神輿を棄て置き奉り、大衆(だいしゆ)泣(なくな)く本山に帰る。住持(ぢゆうぢ)の三宝、諸社の神祇も今は御坐(おはしま)さず、憑(たの)む方無(な)く、行く先目も昏(ク)れてぞ登りける。
蔵人(くらんど)の左少弁兼光、仰せを蒙(かうぶ)つて、先例を大外記(だいげき)に尋ね申されけり。又殿上に公卿僉議有り。保安四年の例に任せて、祇園(ぎをん)の別当に仰せて、彼(か)の社に入れ奉り、本山に送り奉るべき由(よし)、議定(ぎぢやう)有り。当社の新別当権大僧都(ごんのだいそうづ)澄憲(ちようけん)仰せを承(うけたまは)るに依(よ)つて、神輿を秉(〓)燭(ヘイしよく)に迎へ奉り、御輿に立つ所の矢を神人(じんにん)をして之(これ)/を抜かしむ。
大衆(だいしゆ)、山王の御輿を内裏に振り奉ること、昔より度々に及べり。永久元年〈 癸巳(みづのとみ) 〉より以来(このかた)、治承元年に至るまで六箇度なり。然(さ)れども、只(ただ)武士を以つて防がるることは毎度のことなり、神輿を射奉ることは先例無(な)し。浅猿(あさまし)とも申せば愚かなり。七社権現、何(いか)計(ばか)りの事をか思食(おぼしめ)されけん。「人の恨み、神の嗔(いか)りは必ず災害有り」と云(い)へば、只今(ただいま)天下の大事出で来なんと、人皆恐れ蓬(あ)へり。
十九 平大納言時忠、清撰(せいせん)に預(あづ)かる事
十四日、大衆(だいしゆ)猶(なほ)下洛すべき聞え之(これ)有りければ、夜の中に、主上〈 高倉帝なり。 〉腰輿(えうよ)を召して、院〈 後白河院なり。 〉の御所法住寺殿(ほふぢゆうじ-どの)へ行幸有り。内大臣重盛以下(いげ)供奉(ぐぶ)の人々、直衣(なほし)の上に矢を負ひて供奉(ぐぶ)せらる。軍兵(ぐんびやう)数万騎、雲霞(うんか)の如(ごと)く御輿の前後に打(う)ち囲む。中宮〈 建礼門の女御、高倉院の后 〉は御車(み-くるま)に召し、行啓(ぎやうけい)成る。仍(よつ)て禁中の上下、澆(あわ)て騒ぐこと斜(なの)めならず。京中の貴賤走り迷ふ。関白以下(いげ)大臣・諸卿・殿上の侍臣馳せ参る。
衆徒等、御裁断遅々(ちち)の上、神人(じんにん)・宮司(みやじ)矢に中(あた)りて死亡し、衆徒多く疵を蒙(かうぶ)りし間、大宮・二宮以下(いげ)の七社、講堂、上下の諸堂一宇も残さず焼き払ひて、山野に交はるべき由(よし)、三千人一同に僉議せしむ、と聞えしかば、山門の上綱(じやうかう)を召して、「衆徒の申す所、御成敗有るべき」由(よし)、仰せ下されける間、同じき十九日に、僧綱(そうがう)-等(ら)、勅宣の趣を門徒の大衆(だいしゆ)に触れんが為(ため)に登山せしむる処に、衆徒等嗔(いか)りを成して追ひ帰しければ、僧綱(そうがう)-等(ら)色を失ひて迯(に)げ下る。此れに依(よ)つて、「誰か山上に罷(まか)り向つて、勅宣の趣を申し含め、大衆(だいしゆ)を宥(なだ)むべき」と、公卿僉議有りければ、人々多き中に、平大納言時忠卿、清撰(せいせん)に預かつて上卿(しやうけい)に立つ。紺の葛袴(くずばかま)・立烏帽子(たてえぼし)にて、侍二三人計(ばか)り相(あ)ひ-具して登られけり。大衆(だいしゆ)此(こ)の事を聞いて、講堂の庭に三千人一同に会合して、「何条(なんでふ)其の義有るべき。時忠卿を待ち受けて、其の男を執つて引き張り、髻(もとどり)を剪(き)れ」と〓(ノノシ)る処に、時忠、騒がぬ躰にて、「衆徒の御中に申し入るべき事の候ふ。且(しばら)く静まり給へ」とて、小侍を招き寄せ、用(も)たせたる小硯取り出だし、畳紙(たたうがみ)を引き披(ひら)き、一句の詞を書いて大衆(だいしゆ)の中に送りたり。衆徒等此れを披(ひら)き見るに、
「衆徒の濫悪(らんあく)を致すは魔縁の所行(しよぎやう)
「明王(めいわう)の制止を加ふるは善政の加護
登古曾(とこそ)書いたりけれ。大衆(だいしゆ)此れを引き張るに及ばず、涙を流し袖を汐(しぼ)り、前非を悔ひて谷々坊々にぞ還(かへ)りける。一紙一句を以つて三塔三千の憤りを慰め、公私の恥を雪(すす)ぐ。時忠虎口を遁れ、急ぎ下洛す。山上・洛中の人皆耳目を驚かさざるは無(な)し。
凡(およ)そ此(こ)の人は何事に就(つ)きても貞潔にて、入道の心にも相(かな)へり。
治承泉元年正月廿四日の除目に、年五十六にて大納言に成さる。中御門(なかのみかど)の中納言宗家卿・花山院の中納言兼雅、官に成さるべかりけるを、此れを押し留めて郡綱(クニつな)卿の越えられける事、実(げ)に以つて有り難(がた)し。此れも太政(だいじやう)-入道の万事(ばんじ)心に任する故なり。此(こ)の大納言は、中納言兼輔(かねすけ)八代の孫、前の右馬助(うまのすけ)盛国(国盛)が子なり。二三代は蔵人(くらんど)にだにも成らず。郡綱をば進士(しんじ)の雑色と云ひし程に、近衛院の御時、去(いん)じ久安四年正月七日、法性寺殿(ほふしやうじどの)の推挙に依(よ)つて家を興す。故(ことさら)に太政(だいじやう)-入道に取り入り、大小の事、弐心(ふたごころ)無(な)く忠勤せしめ、何物にても毎日に一種を送られければ、現世の得意此れに過ぎたる人無(な)しとて、郡綱が子息(しそく)一人を乞ひ取りて入道の養子に為(し)、元服(げんぶく)せしめて、侍従清国と名づけらる。
治承四年の五節は福原(フクはら)にて行はれけり。殿上の淵酔(えんすい)の日は、雲客、前の宮の御方に参られけるに、或(あ)る公卿の「竹(たけ)湘浦(しやうほ)に斑(まだら)なり」と云ふ朗詠を出だされたりけるを、国綱卿聞き尤(トガメ)て、取りも敢(あ)へず、「穴(あな)浅猿(あさまし)、此れは禁忌とこそ承はれ。異耶々々(いやいや)、聞かじ」とて迯(に)げられけり。指(さ)して属文(しよくぶん)の家には非(あら)ねども、加様(かやう)成る事をも尤(とが)められけるとぞ承(うけたまは)る。
此(こ)の国綱の母は、賀茂の大明神に志を運びて参詣せしめ、「我が子(こ)の郡綱を一日の中に蔵人(くらんど)を歴(へ)させ給へ」と祈り申されたりけるに、御社人、檳榔(びらう)の車に将(ゐ)/て来り、我が家の車宿りに立つと夢を見て、意得(こころえ)ず覚えて人に語りければ、「公卿の北の方に成るべし」と合はせけり。「我が身、年長(た)けぬ。今更(いまさら)に男を設(まう)くべからず」と思ひけるに、蔵人(くらんど)は事も斜(なの)めにや、夕郎(せきらう)の貫主(くわんじゆ)を歴(へ)て正二位の大納言に至る。入道、此(こ)の人を避(サ)り難く思はれけるも、偏(ひとへ)に賀茂の大明神の御利生なり。
廿 加賀守(かが/の−かみ)師高(もろたか)、尾張国へ流さるる事
同じき廿日、権中納言忠親に仰せて、加賀守(かが/の−かみ)師高(もろたか)を解官(げくわん)して尾張国へ流罪せらる。又去んじ十三日、神輿を射奉りし武士六人禁獄せらる。内大臣重盛の郎等・随兵、平利家・同家兼・藤原久通・同成直・同俊行・同光景等なり。
廿一 禁中・洛中炎上(えんしやう)の事
同じき廿八日、亥(ゐ)の時計(ばか)りに、樋口・富小路(とみのこうぢ)より火出で来て、辰巳(たつみ)の風劇(はげ)しく吹きて、京中多く焼け失せにけり。名所も三十余ケ所、公卿の家十六ヶ所、殿上人・諸大夫(しよだいぶ)の家は数を知らず。終(はて)には大内(おほうち)に吹き著(つ)けて、朱雀門(しゆしやくもん)より始めて、応天門(おうでんもん)・会昌門(くわいしやうもん)・大極殿(だいこくでん)・豊楽院(ぶらくゐん)・諸司・八〔省〕・大学寮(カミ)・真言院も焼け失せにけり。樋口・富小路(とみのこうぢ)より角(スミ)違ひに戌亥(いぬゐ)の方を指(さ)して、車輪計(ばか)りの如(ごと)くなる燗(ほむら)飛び行きけり。恐ろしとも言ふ量(はか)り無(な)し。能有(よしあり)大臣の本院殿、.冬嗣(ふゆつぎ)の大臣の閑院(かんゐん)、維高御子(これたかのみこ)小野の宮の小野宮殿(をののみやどの)、若松殿、北野の天神の紅梅殿、橘逸勢(たちばなのはやなり)の高松殿、円融大臣の河原院、中務宮の千草殿(ちくさどの)、永頼(ながより)三位(さんみ)の山の井、五条の后の東五条、忠仁公(ちゆうじんこう)の染殿(そめどの)、貞仁公の小一条(こいちでう)、公任(きんたふの)大納言の四条宮、東三条、西三条、此れ等の名所も焼けにけり。家々の代々の文書(もんじよ)・資財雑具(ざふぐ)・七珍万宝(しつちん−まんぼう)、純(さなが)ら塵灰(ちり−はひ)と作(な)りぬ。其の外の費(つひ)え何(いか)計(ばか)りぞ。人の焼け死ぬること数万人、牛馬の類ひは数を知らず。都(すべ)て北の京は三分が一焼けにけり。
是(こ)れ只事に非(あら)ず、山王の御尤(とが)めとて、比叡山より猿共多(あま)た、松の葉に火を付けて用(も)ちて、焼き払ひて下るとぞ、人の夢には見えける。
大極殿(だいこくでん)は是(こ)れ清和天王の御時、貞観(元)(ぢやうぐわん)十八年〈 丙午(ひのえうま) 〉四月九日、始めて焼けたりしを、同じき十九年四月三日、陽成院、豊楽院(ぶらくゐん)において御即位有り。元慶(ぐわんぎやう)元年四月九日、事始め有つて、同じき二年十月八日、造り出だされしを、又後冷泉院の御宇(ぎよう)、天喜(てんぎ)五年二月廿一日、焼けにけり。治暦(ぢりやく)二年八月二日、事始め有つて、同じき十月十日、御棟上げ有りけれども造り出だされざりしを、後冷泉院隠れさせたまひて、後三条院の御時、延久(えんきう)四年十月十五日、造り立てられて、行幸成りつつ宴会行はれし。文人詩を献じ、楽人楽を奏す。今は末の世と成り、国の力衰弊して、又造り立てられんことも難(かた)からんと、欺き申す人も有りけり。然(さ)れども、少納言通憲入道、貞潔なる人にて、遂(つひ)に造り立てたりけり。
源平闘諍録巻第一上
源平闘諍録 一之下
一 天台座主明雲(めいうん)大僧正、公上(くじやう)を止(とど)めらるる事
二 宮、天台座主に成らせたまふ事
三 明雲(めいうん)、罪科に行はるべき宣旨の状
四 山門の大衆(だいしゆ)の奏聞の状 井びに入道(にふだう)相国の方に送り副(そ)ふる状
五 明雲(めいうん)罪過の軽重を定めらるる僉議(せんぎ)
六 明雲(めいうん)を還俗せしめて流さるる事
七 山の大衆(だいしゆ)僉義して、明雲(めいうん)僧正を奪ひ返す事
八 山の大衆(だいしゆ)、明雲(めいうん)を留め奉(たてまつ)るに依(よ)つて、法皇逆鱗(げきりん)有り、之(これ)に依(よ)つて大衆(だいしゆ)重ねて状を相国の方に遣(つか)はすこと
九 行綱(ゆきつな)仲言の事
十 相国謀叛を奏する事 井びに新大納言召し取らるる事
十一 西光(さいくわう)法師(ほふし)、召し捕らるる事
十二 重盛(しげもり)卿、父相国を諌(いさ)めらるる事
十三 法皇を流し奉(たてまつ)らんと欲する間、重ねて父を諌(いさ)め奉(たてまつ)る事
十四 重盛(しげもり)、兵者を召さるる事 井びに褒〓[女+以](ほうじ)の后の誓喩
十五 成親卿(なりちかのきやう)の郎等、宿所(しゆくしよ)へ返る事 井びに少将(せうしやう)捕はるる事
十六 門脇殿、成経(なりつね)を請ひ受けらるる事
十七 成親卿(なりちかのきやう)流さるる事
十八 成経(なりつね)・康頼(やすより)・俊寛(しゆんくわん)、鬼海が嶋へ流さるる事
康頼(やすより)、嶋において千本の卒都婆を造ること
十九 讃岐院(さぬきのゐん)追号の事
二十 宇治の悪左府(あくさふ)、贈官の事 一之末 目録 終り
一 天台座主明雲(めいうん)大僧正、公上(くじやう)を止(とど)めらるる事
安元三年五月五日(いつか)、天台座主明雲(めいうん)大僧正、公上(くじやう)を止(とど)めらる。蔵人(くらんど)を遣(つか)はして、御本尊を召し返す。即(やが)て、神輿を振り奉(たてまつ)る大衆(だいしゆ)の張本を召さるべしと云云。「加賀国(かがのくに)に座主の御坊領在(あ)り、師高(モロたか)停廢(ちやうはい)の間、其の宿意に依り、門徒の大衆(だいしゆ)を語らひて訴詔を致されければ、既(すで)に朝家(てうか)の御大事に及ばんと欲(す)」と、西光(さいくわう)法師(ほふし)父子(ふし)共に讒奏(ざんそう)せしむる故(ゆゑ)に、法皇大きに逆鱗(げきりん)有つて、殊(こと)に座主を重罪に行はるべき由(よし)、思食(おぼしめ)されけり。
二 宮、天台座主に成らせたまふ事
同じき七日、宮、天台座主に成らせたまふ。覚快(かくくわい)法親王(ほつしんわう)是(こ)れなり。鳥羽院の第七の皇子(わうじ)、故青蓮院(しやうれんゐん)の大僧正行玄(ぎやうげん)の御弟子なり。五十六代の座主に相(あ)ひ当たり給ふ。伝教大師(でんげうだいし)の記文に云はく、「王子(わうじ)、天台座主に成りたまはば、末世と思ふべし」と。「世既(すで)に臨めり」と人申し逢へり。
三 明雲(めいうん)、罪科に行はるべき宣旨の状
同じき日、明雲(めいうん)僧正を罪科に処すべき宣旨の状に称(いは)く、
前(さき)の延暦寺の座主僧正明雲(めいうん)、条々(でうでう)犯さるる事
一 大僧正快秀(くわいしう)当山座主為(た)る間、悪僧等を相(あ)ひ語らひ、山門を追ひ払はしむる事
一 去ぬる嘉応(かおう)元年、美濃国比良野(ひらの)庄民等に就(つ)き訴詔を構へ、当山の悪徒を発(おこ)して官城へ乱入し、狼籍を致さしむる事
一 近日の大衆(だいしゆ)蜂起、事の次第は、彼(か)の嘉応(かおう)の狼籍に超過せり。先(まづ)〔一〕旦の意趣を以つて山塔の凶徒を催(もよほ)し、外には制止の詞を構へ、内には騒動の企てを成す。朝章を蔑爾(べつじ)し、欲滅仏法を滅ぼさむと欲(す)。或(あるい)は凶徒を以つて陣中に乱入し、数箇所に火を放し、或(あるい)は警固の輩(ともがら)に対(むか)ひ合戦し、又兵具を帯(たい)して下洛すべき由(よし)執奏せしむ。誠に是(こ)れ朝家(てうか)の怨敵(をんでき)、偏(ひとへ)に叡山の悪魔たる者か。
明法博士に仰せ下され、条々(でうでう)の所犯〔に就(つ)き〕、明雲(めいうん)所当の罪名を勘(かんが)へ申さしむべし。
安元三年 五月十一日
蔵人頭(くらうどのとう)右近衛(うこんゑの)中将(ちゆうじやう)藤原朝臣(あつそん)光能奉(うけたまは)る
四 山門の大衆(だいしゆ)の奏聞の状 并びに入道(にふだう)相国の方に送り副(そ)ふる状
同じき十二日、前の座主明雲(めいうん)僧正〈 顕通大納言の御子也。 〉、所職(しよしよく)を止(とど)められ、検非違使(けんびゐし)二人を付けて水火(すいくわ)の責に及ばしむ。剰(あまつさ)へ十五日、死罪(しざい)一等を減じて遠流せらるべしと、法家に勘(かんが)へ申さしむる由(よし)、其の聞え有り。大衆(だいしゆ)、又奏状を捧げて天聴(てんちやう)を驚かす。其の奏聞の状に云はく、
延暦寺三千の大衆(だいしゆ)・法師(ほふし)等 誠惶(せいくわう)誠恐(せいきよう)謹みて言(まう)す
殊(こと)に 天恩を蒙(かうぶ)り、早(はや)く前の座主明雲(めいうん)の配流、并びに私領没官(もつくわん)を停止(ちやうじ)せられむことを請ふ子細の事
右、座主は是(こ)れ法燈(ほつとう)を挑(かか)ぐるの職、戒光を伝ふるの仁(じん)なり。若(も)し重科に処し配流せられば、豈(あに)天台の円宗(ゑんじゆう)忽(たちま)ちに滅び、菩薩の大戒永く失はるるに非(あら)ずや。茲(これ)に因(よ)つて、我が山開闢(かいひやく)の後、貫主(くわんじゆ)草創より以来(このかた)、百王の理乱是(こ)れ異なりといへども、一山の安危時に随ふといへども、只(ただ)帰敬(ききやう)の礼のみ有りて都(すべ)て流罪(るざい)の例無(な)し。就中(なかんづく)、明雲(めいうん)は是(こ)れ顕密の棟梁、智行の賢徳なり。一山九院の陵遅、此(こ)の時に旧跡に復し、四教三密の紹隆、其の儀上代に恥ぢず。今忽(たちま)ちに遠方に赴(おもむ)き、永く当山を別れなば、衆徒の悲歎何事か之(これ)に如(し)かむ。何(いか)に況(いはん)や、前の座主は天朝においては是(こ)れ一乗教の師範なり。須(すべから)く千歳の供給(ぐきふ)を尽くすべし。仙院においては又菩薩戒の和尚(くわしやう)なり。盍(なん)ぞ三時の礼敬(らいきやう)を運ばざる。所知を没官(もつくわん)せしめ、更(さら)に重科に処せらるる、寧(むし)ろ大逆罪に非(あら)ずや。謹みて異域を〔尋ね〕、并びに旧例を訪(とぶら)ふに、未(いま)だ聞かず、一朝の国師故無(な)くして逆害を蒙(かうぶ)ることを。
抑(そもそも)配流の科怠(くわたい)是(こ)れ何事ぞや。閭巷(りよかう)の説の如(ごと)くんば、或は人の讒言に、度々(どど)の山門の訴訟は皆是(こ)れ明雲(めいうん)の結構なり、或は快秀(くわいしう)僧正を追却(ついきやく)し、或は成親卿(なりちかのきやう)を訴へ申す、又当時師高(モロたか)の事等は偏(ひとへ)に是(こ)れ明雲(めいうん)が結構なり。者(テイレバ)此(こ)の讒達に依(よ)つて忽(たちま)ちに勅勘(ちよくかん)を蒙(かうぶ)ると云々。儻(もし)風聞(ふうぶん)の如(ごと)くんば、何ぞ浮言を用ゐむ。須(すべから)く彼是を対決して、真偽を糺明せらるべきなり。件等(くだん)の事に至(いた)りては、大衆(だいしゆ)欝憤し満山訴訟を致すの尅(きざみ)、前の座主においては毎度(まいど)之(これ)を禁制しき。盍(けだ)し山門の動揺を貫主(くわんじゆ)と為(し)て之(これ)を痛むが故なり。対決の処、其の隠れ無(な)きか。設(たと)ひ不慮の越度(をつど)有りといへども、何ぞ重科に及ばむや。衆徒等〓(つつし)みて天聴を驚かし、末寺の愚僧を救はむと欲(す)る処に、其の張本を召され、歎きを為(な)すの間、終(つひ)に本山の高僧を失ふ条、不慮の愁ひ、喩へを取るに物無(な)し。夫(それ)聖勅を蒙(かうぶ)らずして怨望を散ずることなかれ。是(こ)れ常の例なり。今天裁を戴くといへども、還(かへ)つて厳罰を蒙(かうぶ)る。未(いま)だ意(こころ)を得(え)ず。
抑(そもそも)我が公(きみ)太上法皇は、偏(ひとへ)に医王山王の冥徳を仰ぎ、久しく台嶽の三宝(さんぽう)に皈(き)し、専ら山修山学の禅侶を愍(アハレ)み、忝(かたじけ)なくも興隆の叡慮を抽んでたまふ。而(しか)るに今、仁恩忽(たちま)ちに変じ、誅戮(ちゆうりく)俄(にはか)に来たる。数百歳(すひやくさい)の仏日云(ココ)に晩(く)れ、已(すで)に心神の所行(しよぎやう)に迷ひぬ。三千人の胸火熾燃(シネン)して、愚身の措く所を知らず。若(も)し明雲(めいうん)配流せられば、衆徒誰か跡(あと)を留めむ。鎮護国家の道場、眼前に魔滅せむと欲(す)。
早(はや)く明雲(めいうん)配流を宥(なだ)め、私領没官を停止せられば、十二願王新たに玉体を護持し、三千の衆徒弥(いよいよ)宝算を祈り奉(たてまつ)らむ。誠惶誠恐謹みて言(まう)す。
安元三年 五月十六日
延暦寺三千の大衆(だいしゆ)法師(ほふし)等
抑(そもそも)、此(こ)の状を誰に就(つ)きて奏聞すべきかの由(よし)、僉義せしむる程に、福原の入道(にふだう)大相国に申すべしと、定め訖(をは)んぬ。此れに依(よ)つて十七日、又奏聞の状に私の状を副(そ)へて送らしむ。其の状に云はく、
延暦寺の衆徒等謹みて言(まう)す
早(はや)く、前の座主、指(さ)したる故無(な)く配流せられ、并びに門跡(もんぜき)相伝の私領を謂(いは)れ無(な)く停止せられしを、執り申されむことを欲する子細の状
右、天台の円宗(ゑんじゆう)を本朝に弘め、菩薩の大戒を当山に興ししより来(このかた)、一天(いつてん)四海皆座主の法燈を伝へ、五畿七道悉(ことごと)く和尚(くわしやう)の光を稟(ウ)く。茲(こ)れに因(よ)つて賢王・聖主只(ただ)皈依(きえ)の儀のみ有つて、往古近代全(まつた)く配流の例無(な)し。然(しか)るに指(さ)したる科怠(くわたい)無(な)く、忽(たちま)ちに流罪(るざい)を蒙(かうぶ)る。豈(あに)円宗(ゑんじゆう)の魔滅、山門の没亡に非(あら)ずや。
配流の罪科、抑(そもそも)何事ぞや。風聞(ふうぶん)の如(ごと)くんば、或は讒言に、度々(どど)の山門の訴訟は皆是(こ)れ明雲(めいうん)の結構なりと。所謂(いはゆる)、快秀(くわいしう)僧正を追却(ついきやく)し、成親(なりちか)細并びに師高(モロたか)を訴訟申す事是(こ)れなり。彼(か)の讒達に依(よ)つて此(こ)の重科を蒙(かうぶ)ると云々。是(こ)れ言語道断の事なり。大衆(だいしゆ)の蜂起は全(まつた)く貫主(くわんじゆ)の進退(しんだい)に非(あら)ず。彼(か)の快秀(くわいしう)僧正、修学者を殺害(せつがい)せしに依(よ)つて、山門を追却(ついきやく)す。又成親卿(なりちかのきやう)・師高(もろたか)朝臣等、座主何の遺恨(ゐこん)有つてか怨心(をんしん)を結ぶべきや。此れに依(よ)つて毎度(まいど)の訴訟、貫主(くわんじゆ)固く禁制を加ふ。勅宣を怖るるが故なり。然(しか)るに大衆(だいしゆ)、山門を思ひ、敢(あへ)て制法に拘(かかは)らず。叡岳の作法昔より斯(かく)の如(ごと)し。何ぞ衆徒の訴へを以つて、還(かへ)つて座主の罪に処せむや。若(も)し猶(なほ)未審有らば、対決せられむに厥(そ)の隠れ無(な)きか。
俯(フシ)て事の情(こころ)を案ずるに、当山は是(こ)れ鎮護国家の道場と為(し)て、聖朝安穏の御願を修す。茲(こ)れに因(よ)つて所々(ところどころ)の訴訟、人々の愁緒(しうしよ)、威を神輿に仮り、欝(いきどほ)りを天聴に達す。其の中に、或は快く天裁を戴きて皈山し、或は聖断を蒙(かうぶ)らずして涙に咽(むせ)び以つて退出す。古今常の例なり。其れより来(このかた)久し。未(いま)だ謬(あやま)りを聞かず。大衆(だいしゆ)の訴訟に依(よ)つて貫首の流罪(るざい)に行はるる。矧(いはん)や前の座主は顕密の法将、智行の賢徳なり。是(こ)の故(ゆゑ)に、講論の莚には証義の者と為(し)て厳重の御願を資(たす)け、瑜伽(ゆが)の壇(だん)には阿闍梨(あじやり)と為(し)て、聖朝の安穏を祈り奉(たてまつ)る。加之(しかのみならず)明雲(めいうん)は苟(イヤシク)も鳳闕(ほうけつ)に祇候(しこう)し、久しく龍顔(りようがん)を擁護(おうご)す。聖主之(これ)に従ひて一乗経を受けたまひ、仙院之(これ)に就(つ)きて菩薩戒を伝へたまふ。則(すなは)ち是れ一朝の国師、法皇の和尚(くわしやう)なり。何ぞ人の讒達を以つて〓(たちまち)に厳罰を蒙(かうぶ)らむや。又彼(か)の私領は是(こ)れ承雲和尚(くわしやう)より以来(このかた)、門跡(もんぜき)相続して知行する所なり。慈覚大師の門徒其の数有りといへども、枝葉の繁昌は専ら梨本(なしもと)に在(あ)り。而(しか)るに之(これ)を停止せしめて佗人(たにん)に付くれば、寧(むし)ろ大師の遺流の乱れに非(あら)ずや。和尚(くわしやう)の一門忽(たちま)ちに失はむや。縦(たと)ひ佗職を停むといへども、私領を没収するに及ぶべからず。
抑(そもそも)禅定(ぜんぢやう)大相国は已(すで)に一朝の固め為(た)り。又是(こ)れ万人の眼(まなこ)なり。天下の乱れ、山上の愁ひ、何ぞ其の成敗無からむ。就中(なかんづく)前の座主は是(こ)れ大相国の菩薩戒の和尚(くわしやう)なり。此(こ)の事においては争(いかで)か諌鼓(カンこ)を鳴らされざらむや。
儻(もし)此(こ)の欝(いきどほ)りを散ぜずして、大戒の和尚(くわしやう)を還俗せしめ、猶(なほ)流罪(るざい)せられば、則(すなは)ち我が山の仏法破滅の時至(いた)るなり。門葉何(いづ)れの者か僧徒の儀有らむ。三千の学侶誰か身命を惜まむ。仍(よつ)て大講堂の前(まへ)において満山の仏神・伽藍(がらん)の護法を驚かし奉(たてまつ)り、泣(なくな)く起請して云はく、衆徒の欝憤散ぜずして固く流罪(るざい)せられば、大衆(だいしゆ)皆彼に従ひて同じく配流の罪を蒙(かうぶ)り、満山の学侶一人も留るべからずと云々。
当山の存亡只(ただ)此(こ)の成敗に在(あ)り。宜(よろ)しく此(こ)の趣を察し、執り申さるべくは、三千人の涙泉忽(たちま)ちに乾(かは)き、数百歳(すひやくさい)の法燈再び挑(かか)ぐる者か。仍(よつ)て衆徒の僉儀の状、件(くだん)の如(ごと)し。
安元三年 五月十七日
左(と)此れを書き、所司等を以つて福原へ遣(つか)はす。其の上、大衆(だいしゆ)猶(なほ)参洛すべき由(よし)、風聞(ふうぶん)有りければ、内裏并びに院の御所法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に軍兵(ぐんびやう)等を召されける間、京中何と無(な)く騒ぎ逢へり。
五 明雲(めいうん)罪過の軽重を定めらるる僉議(せんぎ)
同じき廿日、前の座主罪科の事を僉議(せんぎ)せられんが為(ため)に、太政(だいじやう)大臣(だいじん)・左右(さう)大臣已下(いげ)、公卿(くぎやう)十三人参内せしむ。陣の座に列して各(おのおの)定め申されけり。
其の中に太政(だいじやう)大臣(だいじん)師長(もろなが)・右衛門督藤原朝臣忠親・左大弁宰相長方朝臣等、法家の勘文に任せて定め申されけるは、「早(はや)く死罪(しざい)一等を減じて遠流せらるべき条、彼(か)の明雲(めいうん)大僧正は兼学顕密、浄行持律の上、一乗妙経を以つて公家に授け奉(たてまつ)り、菩薩戒を以つて法皇〈 後白川是(こ)れなり。 〉に授け奉(たてまつ)る。而(しか)るに忽(たちま)ちに還俗せしめて流刑に処する条、頗(すこぶ)る猶預(いうよ)に及ぶべき議か。宜(よろ)しく勅定(ちよくぢやう)在るべし」と、憚る所無(な)く申されければ、当座の諸卿、悉(ことごと)く長方卿の儀に付き、同(どう)じ申されけれども、法皇の御欝(いきどほ)り深かりければ、遂(つひ)に流罪(るざい)に定められにけり。
太政(だいじやう)入道(にふだう)も此(こ)の事を申し宥(なだ)めんが為(ため)に、山門の奏状并びに私の書状を帯(たい)して院参せられけれども、御風気(かざけ)の由(よし)仰せ有つて、御前にも召されざる間、入道(にふだう)欝(いきどほ)り深くして罷(まか)り出でられけり。
六 明雲(めいうん)を還俗せしめて流さるる事
廿一日、前の座主明雲(めいうん)僧正を還俗せしめて、大納言大夫(だいなごんのだいぶ)藤井の松枝(まつえだ)と云ふ俗名を付けて、伊豆国に流さるべきに定まりぬ。其の時、京童部(きやうわらんべ)歌に読みて笑ひけるは、
松枝皆逆面木〓終(コリハテ)山者〓首為物無
松が枝は皆逆面木(さかもぎ)にこりはてて山にはざすにする物も無(な)し
と。人々傾き申しけれども、西光(さいくわう)法師(ほふし)が讒言に依(よ)つて、遂(つひ)に流罪(るざい)に定められけり。
今夜都を出だし奉(たてまつ)れと、院宣〓(きび)しくて、重ねて追立ての検非違使(けんびゐし)、白川の御坊に参りて申しければ、粟田口(あはたぐち)の辺り、一切経の別所を出でさせ給ひぬ。衆徒此れを聞き、西光(さいくわう)父子(ふし)の名字を書いて、根本中堂(こんぼんちゆうだう)に立たせたまふ金毘羅大将の御足の下に踏ませ奉(たてまつ)り、「十二神将七千夜叉、時剋を回(めぐ)らさず、彼等二人が命を召し取り給へや」と咒咀しけるこそ懼(おそろ)(ヲソろ)しけれ。
又三塔の大衆(だいしゆ)、大講堂の庭に会向して僉議(せんぎ)しけるは、「伝教(・)慈覚(・)智証(・)大師の御事は申すに及ばず、義真和尚(くわしやう)より以来(このかた)五十五代の間、未(いま)だ天台座主流罪(るざい)の例を聞かず。末代といへども、争(いかで)か我が山に疵をば著(つ)くべき。心憂(こころう)き事かな」と嘔(をめ)き号(さけ)ぶと聞こえけり。
七 山の大衆(だいしゆ)僉義して、明雲(めいうん)僧正を奪ひ返す事
然(さ)る程に、廿三日に及びて、前の座主已(すで)に一切経の別所を出でて、配所の旅に趣き給ひけり。且(しばら)く国分寺の堂に立ち入りて躊躇(タチやすら)ひたまふ程に、満山の大衆(だいしゆ)残り留まる者も無(な)く、雲霞(うんか)の如(ごと)くに東坂本より粟津(あはづ)に至(いた)るまで次連(つづき)て、座主を止(とど)め奉(たてまつ)らんと擬する間、〓(きび)しげなりつる追立ての官人共、何路(いづち)にも一人も見えず。
大衆(だいしゆ)之(これ)を止(とど)め奉(たてまつ)りけれども、座主は大きに恐れ思食(おぼしめ)して、仰せられけるは、「勅勘(ちよくかん)の者は日月の光にだにも当たらずとこそ申し伝へたれ。然(さ)れば則(すなは)ち、時尅(じごく)を回(めぐ)らさず追ひ下さるべき由(よし)、宣下せらるる上は、暫(しば)しも逗留すべからず。然(さ)れども、只今(ただいま)叡嶽(えいがく)の影重山(ちようざん)の雲に隠れぬる心細さに、人知れず涙溢(こぼ)れて行く前(さき)も見えず。此(こ)の堂に暫(しば)し立彳(たたず)む計(ばか)りなり。衆徒早々(ハヤハヤ)皈(かへ)り登るべし」とて、端(はし)近く立ち出でて言ひけるは、「我、三台槐門(くわいもん)の家を出でて四明(しめい)幽渓(いうけい)の窓(まど)に入りしより以来(このかた)、広く円宗(ゑんじゆう)の教法(けうぼふ)を学びて、只(ただ)我が山の興隆をのみ思ひ、国家を祈り奉(たてまつ)る事疎(おろそ)かならず。又門徒を羽覆(はぐく)む志(こころざし)是(こ)れ深し。身に取りて街(あやま)つこと無(な)し。両所三聖も定めて照覧を垂れたまふらん。無実(むじつ)の讒奏(ざんそう)に依(よ)つて遠流の重科を蒙(かうぶ)る。此れ先世(せんぜ)の宿業(しゆくごふ)にこそと欲(おも)へば、世をも人をも神をも仏をも、更(さら)に恨む所無(な)し。各(おのおの)慈悲の門を出でて嶮難(けんなん)の道を凌(シノ)ぎ、此れ至(マデ)訪(とぶら)ひ来たり給ふ衆徒の御芳志こそ申し磬(ツク)し難けれ」とて、涙に咽(むせ)び給ふ。香染(かうぞ)めの御袂も〓(しぼ)る計(ばか)りなり。見奉(たてまつ)る大衆(だいしゆ)も皆声も惜しまず叫ぶこと唱立(おびたた)し。
爰(ここ)に快俊(くわいしゆん)竪者(りふしや)と申す悪僧、三枚冑に左右(さう)の〓(こて)指(さ)し、萌葱糸威(もえぎいとをどし)の腹巻の袖付きたるを著(き)て、大長刀(おほなぎなた)脇に挟(はさ)み、大衆(だいしゆ)の中に進み出でたり。彼(か)の竪者(りふしや)は、悪僧一道に秀でたるのみに非(あら)ず、倶舎(くしや)・成実(じやうじつ)の外、天台・真言に至(いた)るまで深く奥義(あうぎ)を窮(きは)め、詩謌管絃にも又達者(たつしや)為(た)り。然(さ)れば此(こ)の快俊(くわいしゆん)進み出でて言ひけるは、「倩(つらつら)事の情(こころ)を思ふに、当山創草より以来(このかた)、数百歳(すひやくさい)の星霜(せいざう)を送り、貫主(くわんじゆ)代々相続して、彼(か)の一の箱の中に其の名を注し置かる。敢(あへ)て人智の及ぶ所に非(あら)ず。偏(ひとへ)に山王大師の御(おん)計(ぱから)ひなり。忝(かたじけな)くも四明(しめい)の流れを汲み、三密の奥義(あうぎ)に達する程の人の、実否(じつぷ)を糺(ただ)さず、立所(たちどころ)に重科に行はれ給ふ事、末世の習ひとは云ひながら心憂(こころう)き次第に非(あら)ずや。且(かつ)うは朝家(てうか)の御師範為(た)り、且うは諸僧の長老為(た)り。誰人か歎かざらん、何(いか)なる類(たぐ)ひか訪(とぶら)はざらん。神明哀れみを垂れ、三宝(さんぽう)争(いかで)か照覧せざらんや。若(も)し今度(こんど)流罪(るざい)に沈み給はば、以後(いご)又悪しかるべし。詮ずる所、早(はや)く皈山有るべきなり」と言ひければ、衆徒皆涙を流し、異口同音に「尤(もつと)も」と皆同じけり。
然(さ)れども座主、「今生(こんじやう)の再会、今日(けふ)永く隔つといへども、菩提(ぼだい)の芳契、必ず実報寂光(じちほうじやくくわう)の暁(あかつき)を期(ご)すべし。頓々(はやはや)皈(かへ)り登り給へ」と曰(のたま)ひけり。
大衆(だいしゆ)既(すで)に急ぎ御輿(みこし)を寄せ、乗せ奉(たてまつ)らんと欲(し)ければ、「昔こそ三千人の貫主(くわんじゆ)為(タ)りしが、今は此(カカル)様と作(な)りたれば、争(いかで)か止事無(やんごとな)き修学者、智恵深き大徳(だいとこ)達には挑(かか)げ捧げられて、我が山には還(かへ)り登るべき。藁履(ワラグツ)なんど云ふ者履きて、同じ形勢(ありさま)にてこそ行かめ」と曰(のたま)ひければ、西塔の西谷に戒浄坊(かいじやうばう)の阿闍梨(あじやり)祐慶(いうけい)とて、三塔に聞えたる悪僧有りけり。黒革威(くろかはをどし)の鎧に、大荒目に鉄(くろがね)交(ま)じりたるを、草摺長(くさずりなが)に著(き)成(な)し、三枚〓(かぶと)を居頸(ゐくび)に著(き)成(な)し、大〓刀(おほなぎなた)杖に突き、座主の御前に進み向ひ、冑を解(ぬ)いで高紐(たかひも)に懸け、〓咤(ハツタ)と睚(にら)み奉(たてまつ)りて申しけるは、「袷(あ)れ程の云ひ甲斐(かひ)無(な)き御心弱さで渡らせ給へばこそ、一山に疵をも付け、心憂(こころう)き目にも蓬はせ給はめ。貫主(くわんじゆ)は三千の衆徒に代つて流罪(るざい)の宣旨を蒙(かうぶ)り給ふに、又三千の衆徒は貫主(くわんじゆ)に代(かは)り奉(たてまつ)つて命を失ひ候ふとも、何の愁ひか有るべき。疾々(とうとう)御輿(みこし)に召され候へ」と言ひければ、座主、祐慶(いうけい)の気色(けしき)に懼(おそ)れて、〓(あは)て騒ぎて怱(いそ)ぎ御輿(みこし)に乗り給ひぬ。大衆(だいしゆ)座主を取り得(え)奉(たてまつ)るこそ猗(あや)しけれ。
下種(ゲス)法師(ほふし)原には挑(か)かせず、祐慶(いうけい)先の輿を挑(かか)く。後陣は東塔の法師(ほふし)、妙光坊の阿闍梨(あじやり)仙聖、挑(か)き奉(たてまつ)る。粟津(あはづ)より鳥の飛ぶが如(ごと)くに登山するに、祐慶(いうけい)・仙聖は一度も肩を替へず掻きたりけり。〓刀(なぎなた)の柄も輿の轅(ながえ)も摧(くだ)く計(ばか)りにぞ見えたりける。差(さ)しも嶮(けは)しき東坂を平地を歩むが如(ごと)し。
大講堂の庭に掻き居(す)ゑ奉(たてまつ)り、面々に僉議(せんぎ)せしむ。「昔こそ一山の貫主(くわんじゆ)と仰ぎ奉(たてまつ)りつれども、今は勅勘(ちよくかん)の宣旨を蒙(かうぶ)り、遠流せられ給ふ人を取り留め奉(たてまつ)ること、何(いか)が有るべからん」と言ふ輩も有りければ、祐慶(いうけい)少しも刊(へ)らず、扇を開き操(つか)つて言(まう)しけるは、「我が山は是(こ)れ日本無雙(ぶさう)の霊地、鎮護国家の道場なり。山王の御威光盛んにして、仏法王法牛角(ごかく)なり。然(さ)れば則(すなは)ち、衆徒の欝(いきどほ)り猶(なほ)余山に勝(すぐ)れ、賤しき法師(ほふし)原までも世以つて此れを軽しめず。何(いか)に況(いはん)や、我が公(きみ)は智恵高貴にして三千人の貫主(くわんじゆ)為(た)り。徳行無雙(ぶさう)にして一山の和尚(くわしやう)なり。罪(つみ)無(な)くして以つて辜(つみ)を蒙(かうぶ)りたまふこと、山上・洛中の乱れ、興福(こうぶく)・園城(をんじやう)の嘲(あざけ)りか。悲しきかな、止観の窓(まど)の前(まへ)には蛍雪の勤め廃れ、三蜜の壇上には護摩の烟(けぶり)絶えなんこと、生々世々(しやうじやうせせ)までも心憂(こころう)かるべし。詮ずる所、祐慶(いうけい)、今度(こんど)三塔の張本に処せられて、骸(かばね)を山野(さんや)に曝(さら)し、頭を獄門の木に懸けらるるとも、少しも痛み存ぜず。今生(こんじやう)の面目(めんぼく)、冥途の思ひ出で、何事か此れに如(し)かん」とて、雙眼より涙を流しければ、満山の衆〔徒〕之(これ)を聞き、各(おのおの)袖を絞(しぼ)りつつ、「尤(もつと)も尤(もつと)も」と同じけり。尓(こ)れより祐慶(いうけい)をば巍坊(いかめばう)と名づけたり。
然(さ)て座主をば東塔の南谷妙光坊に入れ奉(たてまつ)る。
[三重]時の横災(わうざい)をば権化(ごんげ)の人も遁(のが)れざりけるにや。大唐の一行(いちぎやう)阿闍梨(あじやり)は玄宗皇帝の御時、楊貴妃に名を立ちて、火羅国(くわらこく)へ流されけり。其の故は、一行(いちぎやう)、智行無雙(ぶさう)の上、絵師為(た)りける間、帝覚食(おぼしめ)す子細有るに依(よ)つて、楊貴妃の形を絵に書かしむ。筆を取り弛(はづ)して之(これ)を落とす。黶(ははくろ)の如(ごと)くに見えけり。皇帝恠(あや)しみ覚食(おぼしめ)されて大きに逆鱗(げきりん)有り。「一行(いちぎやう)、楊貴妃に懐(ナジミ)近づくより外には、争(いかで)か膚(はだへ)なる黶(ははくろ)をば識(し)るべき」とて、無実(むじつ)の罪科に依(よ)つて、火羅国(くわらこく)へ流されけり。彼(か)の火羅国(くわらこく)と言ふは、月日(つきひ)の光をも見ずして行く所なり。冥々(みやうみやう)として遥かなり。然(さ)れども神は非法を用ゐたまはず、天道(てんたう)無実(むじつ)の罪を哀れみたまふ故(ゆゑ)に、九曜(くえう)の形を現じて之(これ)を照らし護(まも)りたまふ間、敢(あへ)て以つて闇(くら)きこと無(な)し。其の時一行(いちぎやう)、右の指の端(はし)を喰ひ切つて血を綺(あや)し、左の袖に書き写し給ふ。九曜(くえう)の曼陀羅(まんだら)とて、今に至(いた)るまで世に流布する所是(こ)れなり。
八 山の大衆(だいしゆ)、明雲(めいうん)を留め奉(たてまつ)るに依(よ)つて、法皇逆鱗(げきりん)有り、之(これ)に依(よ)つて大衆(だいしゆ)重ねて状を相国の方に遣(つか)はすこと
然(しか)るに、大衆(だいしゆ)、前の座主を取り留め奉(たてまつ)る由(よし)、法皇聞食(きこしめ)されて、太太(いとど)安からず思食(おぼしめ)されけり。茲(こ)れに因(よ)つて、大衆(だいしゆ)、福原の入道(にふだう)大相国の許(もと)に重ねて書状を遣(つか)はす。彼(か)の状に云はく、
延暦寺の衆徒等重ねて言(まう)す
重ねて奏達せられむことを請ふ。衆徒等暫(しばら)く前の座主明雲(めいうん)を惜しみ留めしこと、更(さら)に謀叛の儀に非(あら)ず、偏(ひとへ)に鎮護国家、興隆仏法の為(ため)に、配流の事を申し止め、菩薩戒の血脈(けちみやく)を継ぎ、将(まさ)に山王大師の素懐(そくわい)に叶はむとす。愁嘆悲哀、子細の事。
右、当山は伝教大師、鎮護弘法(ぐほふ)の大願を発(おこ)し、伽藍(がらん)を台嶺(たいれい)の上に建て、桓武皇帝、褒寵(ほうちよう)随喜(ずいき)の叡情に依(よ)つて、芳契を草創の中に結びたまふ。延暦十三年に至(いた)りて都を平安宮に遷(うつ)せしより以降(このかた)、年序四百回に及ぶに、城宮更(さら)に動くこと無(な)し。聖主既(すで)に卅一代、扶持(ふち)全(まつた)く佗(た)に非ざる所以(ゆゑん)なり。
嵯峨(さがの)天皇、先帝の遺迹(ゆいせき)を追ひ、円頓(ゑんどん)の教法(けうぼふ)を仰ぎ、菩薩の大戒を授くべき旨、詔勅を当寺に下し賜る。承和(じようわ)皇帝、惣持(そうぢ)の道場を建立し、鎮護の灌頂を修(しゆ)せしむ。自国に肇(はじめ)て、若(も)しは佗土(たど)に得(え)る所の法文等は、必ず大師の恩海を添へ、独立自慢(じマン)の計(はかりこと)を切断し、惣じて以つては山王護国の人功を荘厳(しやうごん)す。六条の式は平等を究存し、重科に潤ふこと莫(な)しと云々。
職(しき)は鎮護灌頂の阿闍梨(あじやり)なり。菩薩大戒の和尚(くわしやう)なり。若(も)し配流の科(とが)に処し、忽(たちま)ちに還俗(げんぞく)の名を得(え)ば、明雲(めいうん)座主に補して以後(いご)十一年の間、得度(とくど)受戒の輩、尸羅(しら)の禀承(りんしよう)を失ひ、入壇(にふだん)灌頂の倫(ともがら)、悉地(しつち)の血脈(けちみやく)を亡ぼさむ。設(たと)ひ明雲(めいうん)過(とが)有る者にて死罪(しざい)の重きに行はるるとも、還俗配流の号に至(いた)りては、抂(ま)げて一山の為(ため)に免除を蒙(かうぶ)らむと欲す。仍(よつ)て暫(しばら)く帝都の外に之(これ)を留在するは、衆徒の懇望を至(いた)さむことを奏達せむが為なり。是(こ)れ則(すなは)ち、法を重くし生を軽んずる起請なり。何ぞ謀叛ならむや。何ぞ猛悪ならむや。
而(しか)るに違勅の儀に准(なずら)へ、官兵の輩を催(もよほ)し仰せ、山上・坂本の堂塔・神社悉(ことごと)く焼失せらるべき由(よし)、風聞(ふうぶん)有り。愁歎(しうたん)の至(いた)り何事か之(これ)に如(し)かむ。但(ただ)し、衆徒の請ふ所は拠(よりどころ)非(あら)ずして回禄の誡(いまし)めを免れずといへども、入壇(にふだん)の惣持院に至(いた)りては、尚(なほ)朝家(てうか)の奉為(おんため)に之(これ)を駐(とど)め残さむと欲(おも)ふ。若(も)し明雲(めいうん)愆(アヤマチ)有りて全(まつた)く左遷の罪遁(のが)るべからずは、大衆(だいしゆ)代(かは)りて其の科(とが)を蒙(かうぶ)り、伝戒(でんかい)和上(わじやう)の還俗の号を削らむと欲(おも)ふ。彼(か)の会昌(ゑしやう)天子の仏法を滅(ほろぼ)すに、勅命を持(も)ち下して、慈覚大師の皈朝を優免す。矧(いはん)や、太上法皇の円宗(ゑんじゆう)に皈(かへ)したまふをや。盍(なん)ぞ罪過を宥(なだ)め、改めて座主の配流を止(とど)めざる。
抑(そもそも)明雲(めいうん)の罪過、衆徒未(いま)だ之(これ)を知らず。竊(ヒソか)に下す所の法家の問状を視(ミ)るに、聊(いささ)か子細を披陳せむと欲す。
先づ快秀(くわいしう)を追却(ついきやく)せしことは、住山修学者の首を斬り、破戒無慚(むざん)の器と成(な)し、偏(ひとへ)に怨心(をんしん)を含み、八十人の衆徒を注して使庁に付け誡(いまし)めしが故(ゆゑ)に、伝戒(でんかい)の和尚(くわしやう)に堪(た)へず、兼て大師の起請に背(そむ)く。仍(よつ)て三千の衆徒同心に座主職を停廢(ちやうはい)せり。嘉応元年の訴訟は、更(さら)に座主の結構に非(あら)ず。是(こ)れ平野の庄民等は年貢の御油を備へず、将(まさ)に諸堂の常燈絶えなむとす。然(さ)れば三塔の大衆(だいしゆ)、一旦天聴を驚かしたてまつりしなり。設(たと)ひ明雲(めいうん)の所為(しよゐ)為(た)りといへども、天間の大赦已前の所犯なり。已発覚・未発覚・已結正・末結正、皆悉(ことごと)く赦(ゆる)し除かれ畢(をは)んぬ。二事に付き何ぞ今日(けふ)の罪と成さむや。白山の訴訟に至(いた)りては、全(まつた)く座主の結構に非(あら)ず。参内の間の狼藉、又衆徒の本意に非(あら)ず。自然(しぜん)の不詳、臨時の横災(わうざい)なり。且(かつ)うは敬神の叡慮に依り、且(かつ)うは皈法の御願に任せて、衆徒の懇請に随ひ、配流の一事を止(とど)められむと欲す。
凡(およ)そ我が山の奉公(ほうこう)忠節は昔に超えたり。日吉(ヒヨシ)の社壇(しやだん)に臨幸する間は、旬に渉(わた)り日を継ぎ、件(くだん)の陪侍(へイじ)を北面(ほくめん)の臣と号し、天台の戒壇(かいだん)に登り幸(いでま)す尅(みぎり)は、深きに付け浅きに寄せて、彼(か)の祝言を南山の響きと号す。然(さ)れば親(まのあたり)に叡感の綸旨を蒙(かうぶ)り、弥(いよいよ)勤労の微功を励まさむ。何ぞ違勅の心を発(おこ)し、謀叛の企てを成さむや。只(ただ)に伝戒(でんかい)血脈(けちみやく)の断絶を悲しみ、兼て顕密高徳の滅亡を痛むのみなり。倩(つらつら)事の情(こころ)を思ふに、禅定(ぜんぢやう)仙院御遁世(とんせい)の時は園城寺の前の大僧正を以つて戒師と為(な)し、御登壇の日には前の延暦寺の座主を和尚(くわしやう)と為せり。忝(かたじけな)くも三井の流れを酌み、四明(しめい)の風を扇(あふ)ぎたまふ。必ず智証の遺戒(ゆいかい)に任せて、慈覚の末葉(ばつえふ)を捨つることなかれ。且(かつ)うは一朝の国師配流の例を無(な)くし、且(かつ)うは三千の衆徒抂請(わうせい)の恩を免がれんこと。早(はや)く大衆(だいしゆ)の懇望に任せて流罪(るざい)の誡(いまし)めを改められば、我が山の仏法重ねて繁昌し、日吉(ひよし)の霊社再び光を添へむ。此(こ)の趣きを以つて奏達せらるべき状、件(くだん)の如(ごと)し。
安元三年五月廿九日
左(か)書きたり。
法皇弥(いよいよ)逆鱗(げきりん)を深くしたまふ上、西光(さいくわう)法師(ほふし)内々(ないない)言(まう)しけるは、「山門の衆徒、昔より濫(ミダリ)に訴訟を致すといへども、此れ程の狼藉未(いま)だ承(うけたまは)り及ばず。若(も)し緩怠(くわんたい)の御沙汰有らんにおいては、世に有るまじく候ふ。能々(よくよく)御誡(いまし)め有るべき」由(よし)申しけり。我が身の只今(ただいま)に滅びんずることをも顧みず、山王の神慮にも憚らず、讒奏(ざんそう)を企て、太太(いとど)宸(神)襟を悩まし奉(たてまつ)る。「讒臣(ざんしん)は国を乱り、妬婦(とふ)は家を破る。叢蘭(そうらん)茂からむと欲すれども、秋風之(これ)を放る。王者明らかならむと欲すれども、讒臣(ざんしん)之(これ)を蔽(カク)す」とも云(い)へり。此(こ)の言実(まこと)なるかな。
座主は妙光房に〔おはしましけるが〕、大衆(だいしゆ)弐心(ふたごころ)有りと聞食(きこしめ)されければ、「此(コ)は何と成るべき」と心細く覚(おぼ)されけり。
九 行綱(ゆきつな)仲言の事
有右(かかる)程に、多田(ただ)の蔵人(くらんど)行綱(ゆきつな)、契り深く恃(たの)まれながら、此(こ)の事由(よし)無(な)しと思ひ返して、弓袋(ゆぶくろ)の料に給はつたりし白布卅端(たん)、下人(げにん)に持たせ、廿九日の夜、太政(だいじやう)入道(にふだう)の許(もと)に行きて、「言(まう)すべき大事の旨候ふ。人伝に申すべき事に非(あら)ず。見参(げんざん)に入つて申すべし」と云ひければ、入道(にふだう)中門(ちゆうもん)の廊に出で向はれけり。行綱(ゆきつな)、件(くだん)の布を取り出だして見参(げんざん)に入れ、近く居寄つて私語(ささや)きけるは、「平家の御一門を討たんが為(ため)に、此(こ)の頃日(ひごろ)成親卿(なりちかのきやう)を始めと為(し)て、俊寛(しゆんくわん)法師(ほふし)・平(へい)判官(はんぐわん)康頼(やすより)并びに北面(ほくめん)の下臈(げらふ)共(ども)与力して、謀叛を起こすべき由(よし)、其の支度(したく)有り」と語り申しければ、入道(にふだう)此れを聞き、大きに驚きて言ひける様は、「此(こ)の身、君の奉為(おんため)に命を捨てて朝敵を討ちしこと二箇度なり。保元の為義(ためよし)・平治の義朝是(こ)れなり。直饒(たとひ)讒言有りとも、君争(いかで)か入道(にふだう)を棄てたまはんや。今思ひ合はするに、先日山門の大衆(だいしゆ)を以つて入道(にふだう)を失せらるべき由(よし)聞えしは、実(まこと)なりけり」と、
弥(いよいよ)安からず思はれけり。行綱(ゆきつな)、斯(かく)の如(ごと)く云ひ入れて皈(かへ)りにけり。
入道(にふだう)大きに腹立(はらだ)ち、目を怒らし、奥歯を噛んで、筑後守(ちくごのかみ)貞能(さだよし)を召して、「謀叛の輩有りと聞きたるぞ。怱(いそ)ぎ一門の人人に触れ回り、軍兵(ぐんびやう)等(ども)を召し集むべし」と言ひければ、内大臣(ないだいじん)重盛(しげもり)より始めて、一門の所従(しよじゆう)等に至(いた)るまで、残る所無(な)く此れを触れ回る。
右大将(うだいしやう)宗盛(むねもり)・三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)知盛(とももり)・左馬頭(さまのかみ)重衡(しげひら)以下(いげ)の人々、甲冑(かつちう)を服(き)、弓箭(きゆうせん)を帯(たい)して馳せ来たる。其の外の軍兵(ぐんびやう)等雲霞(うんか)の如(ごと)し。一時の程に五千騎計(ばか)りぞ集まりける。
十 相国謀叛を奏する事 井びに新大納言召し取らるる事
同じき六月一日の夜未明に、清盛入道(にふだう)、検非違使(けんびゐし)安倍(あべの)資成(すけなり)を召し寄せて言ひけるは、「汝、院の御所に参り向つて、信業(のぶなり)に就いて奏聞すべし。御近習(ごきんじゆ)の人々、恣(ほしいまま)に朝恩に誇り、世を乱るべき支度(したく)の由(よし)、其の聞え候ふ。御尋(おんたづ)ね有らんに、其の隠れ有るべからず候ふ」と。資成(すけなり)之(これ)を承(うけたまは)り、怱(いそ)ぎ院の御所に参り向ひ、信業(のぶなり)をして此(こ)の由(よし)を奏聞せしむ。信業(のぶなり)之(これ)を聞き了(をは)りて、色を変じ魂(きも)を失ひ、「此(こ)は浅猿(あさまし)き次第かな。何と成るべき世の中ぞや」と思ひながら、〓(をののく)々(をののく)御前に参り、奏聞せしむ。
法皇聞食(きこしめ)して仰せ有りけるは、「朕(ちん)敢(あへ)て意得(こころえ)ず。是(こ)は然(さ)れば何と云ふ事ぞ」左(と)計(ばか)り仰せ下されけり。資成(すけなり)未(いま)だ返らざる前(さき)に、入道(にふだう)兼て此(こ)の事を推し量り、「何様(いかさま)、分明(ふんみやう)の御返事は有るべからず。院も定めて知食(しろしめ)されたるらん」と思ふより、太太(いとど)安からず荒立ちけり。
軈(やが)て新大納言成親(なりちか)の許(もと)に、「聊(いささ)か申し合すべき事の候ふ。怱(いそ)ぎ立ち寄り給ふべし」と使者(ししや)を遣(つか)はされける間、成親卿(なりちかのきやう)此れを聞き、推し量りて云はれけるは、「此(こ)の使者(ししや)は、兼て山門の事を存知して、御所に奏聞せられんとや。此(こ)の事は、法皇御欝(いきどほ)り深く覚食(おぼしめ)されければ」と、我が身の上とは知らず、急ぎ前駈(せんぐ)一人、侍三人召し具して、入道(にふだう)の宿所(しゆくしよ)西八条へ行き向はれけり。然(さ)る程に、西八条に近づき、四方(しはう)を見回せば、五町計(ばか)りの間に軍兵(ぐんびやう)多く充満して雲霞(うんか)の如(ごと)し。此れを見て成親卿(なりちかのきやう)、「我等が支度(したく)漏(も)れ聞えぬるにや」と思ふより、胸打(う)ち騒ぎ、魂も失せぬ。門の内に立ち入り、遥かに庭を見ければ、兵仗(ひやうぢやう)を帯(たい)したる者共、所も無(な)く見えけり。中門(ちゆうもん)の左右(さう)の脇より鬼神(おにかみ)の如くなる兵共(つはものども)五六人計(ばか)り立ち出でて、成親卿(なりちかのきやう)の手を引き張り、中門(ちゆうもん)の内へ取り入れぬ。成親卿(なりちかのきやう)夢現(うつつ)とも弁(わきま)へず、正念を失ひ、東西も知らず。兵杖(ひやうぢやう)を帯(たい)したる武士十余人、前後左右(さう)に打(う)ち囲み、成親卿(なりちかのきやう)を板敷の上に引き上げ、一間なる所に楹(おしこ)めて、外より〓[禾+農](きび)しく之(これ)を閇(と)づ。然(さ)る間、成親卿(なりちかのきやう)の伴(トモ)の者、諸大夫(しよだいぶ)・侍共に至(いた)るまで立て隔てられ、前駈(せんぐ)・雑色(ざふしき)・牛飼等、散々に皆逃げ失せぬ。大納言は此(こ)の程の熱さ堪(た)へ難きに、一間なる所に楹(おしこ)められ、汗も涙も諍(あらそ)ひてぞ流れける。
然(さ)る間、「袷(あはれ)、此(こ)の事夢成らば怱(いそ)ぎ覚(さ)めよ」と撰を成(な)して待たれけり。「抑(そもそも)、我等が日来(ひごろ)の支度(したく)を何(いか)なる者の泄(もら)しつらん。北面(ほくめん)の者共(ども)の中にや有るらん」と思ひながら、「袷(あはれ)、重盛(しげもり)卿の御坐(おはしま)せかし。然(さ)りとも思ひ離ちたまはじ」と思はれけれども、語り伝ふべき人も〔なければ〕、涙と云ひ汗と云ひ、袖も袂も朽(く)ちぬべし。
十一 西光(さいくわう)法師(ほふし)、召し捕らるる事
入道(にふだう)の欝(いきどほ)り深くして、西光(さいくわう)法師(ほふし)を召し捕り、子細を尋ね問へども、散々に悪口(あくこう)を吐き、白状せず。「袷奴原(あやつばら)程の者を、院の近習に召し仕はれ、過分の官職を給ふ間、朝恩に誇る余りに、此(か)かる謀叛にも与(くみ)したり」と云はれければ、西光(さいくわう)少しも憚る所無く申しけるは、「和(わ)入道(にふだう)こそ過分の者とは見ゆれ。先祖より父忠盛に至(いた)るまで、敢(あへ)て昇殿をも赦(ゆる)されざりしに、太政(だいじやう)大臣(だいじん)に成り上がるは希代(きたい)未曾有の次第なり。然(しか)るに侍程の者の、受領・検非違使(けんびゐし)に成るは、努々(ゆめゆめ)過分に非(あら)ず」と、舌を動かし口を開き、左様の事を云はれ放言しければ、入道(にふだう)弥(いよいよ)腹立(はらだ)ち、勁(つよ)く糺問(きうもん)せしめけり。言(ことば)にも似ず、在(あ)りの任(まま)に白状す。白状は紙三枚に書き付けけり。
入道(にふだう)自ら尺(と)りて懐中(くわいちゆう)し、成親卿(なりちかのきやう)の居たまふ所に行き向はれけり。足の音の高く来たるを「誰人にか」と恠(あや)しみて、成親卿(なりちかのきやう)聞き居たまふ程に、荒(あら)らかに障子を開けたる人を見れば清盛入道(にふだう)なり。入道(にふだう)立ち寄りながら、目を瞋(いか)らし、歯を齧(ハクワ)へ、顔を赤らめ、声を荒(あら)げて云はれけるは、「已(すで)に平治の合戦の時、信頼・義朝に語らはれて朝敵と為(な)り、誅(ちゆう)せらるべかりしに、小松の内府(だいふ)が申し状に因(よ)つて頸を継ぎし仁(じん)に非(あら)ずや。早晩(いつしか)の程に芳恩(はうおん)を忘れ、謀叛を企て、此(こ)の一門を亡さんと擬せらるるこそ大気(おほけ)無けれ。昔も今も心有るを以つて仁(じん)と為(な)し、恩を知らざるを非人と名づく。汝、内府(だいふ)が芳恩(はうおん)を蒙(かうぶ)りながら、還(かへ)つて阿儻(あた)を作(な)す。是(こ)れ即(すなは)ち人間の輩に非(あら)ず。偏(ひとへ)に犬・野干(やかん)の如(ごと)し」と、悪口(あくこう)を吐かれける間、成親卿(なりちかのきやう)の心中消え入るが如(ごと)し。耐へ難けれども座席を居直り、袖を挑(か)き合はせて、「此(こ)の事を聞食(きこしめ)さるる間、御欝(いきどほ)り候ふ条、尤(もつと)も御理(ことわり)なり。但(ただ)し成親(なりちか)が身においては、此(こ)の事、跡形(あとかた)も無(な)き無実(むじつ)に候ふ。此れ即(すなは)ち、成親(なりちか)を失はんと欲(す)る人の讒言と覚え候ふ」と云はれたりければ、入道(にふだう)〓(あざわら)ひながら、懐(ふところ)より西光(さいくわう)が白状を引き出し、「此(こ)は何如(いか)に」と、大納言の頬に抛げ掛けたり。成親(なりちか)、渋々(しぶしぶ)之(これ)を披見(ひけん)するに、頃日(ひごろ)我が身を大将軍と為(し)て支度(したく)せしめしこと、一事も落とさず白状に在(あ)り。成親(なりちか)、白状を押し巻き、前(まへ)に指(さ)し置き、打(う)ち俛(うつぶ)いて居たまひけり。
入道(にふだう)弥(いよいよ)腹立(はらだ)ち、盛国(もりくに)・貞能(さだよし)・経遠(つねとほ)・保景(やすかげ)等を召しけり。鬼の王の如き侍共、四方(しはう)より出で来たる。入道(にふだう)云ひけるは、「其の男、縁の上より引き落とし、〓(さけ)び泣かせよ」と曰(のたま)へば、侍共此れを承(うけたまは)り、成親卿(なりちかのきやう)の手足を取つて坪の内に引き下す。盛国(もりくに)意得(こころえ)たる男にて、手を以つて成親卿(なりちかのきやう)の頸に打(う)ち係け、膝(ひざ)を胸に押し当て、小音(こごゑ)に秘語(ささや)きけるは、「入道(にふだう)殿の聞き給ふ様に、叫び泣きたまへ」と申しければ、成親卿(なりちかのきやう)意得(こころえ)て、〓々(いんいん)と高声(かうしやう)に二度(にど)謳(をめ)きけるを、入道(にふだう)聞きて心少し行きてぞ見えられける。
十二 重盛(しげもり)卿、父相国を諌(いさ)めらるる事
長(やや)久しくして、小松の内府(だいふ)重盛(しげもり)、烏帽子・襴にて、子息(しそく)の少将、車の後(しり)に乗せて、衛府四五人・随身二三人計(ばか)り相(あ)ひ具して、皆布衣(ほうい)に、刀仗(たうぢやう)を帯(たい)したる者も無(な)く、謐々(のどのど)と西八条殿に参られけり。入道(にふだう)殿を始めと為(し)て、上下(じやうげ)の諸人(しよにん)、此(こ)の有様を見奉(たてまつ)りて、「此れ程の大事の出で来たるに、如何(いか)に此(か)く謐々(のどのど)と、物の具したる者を召し具せられずして、御遅参候ふぞ」と申しければ、内大臣(ないだいじん)此れを聞きたまひて、「何事かは有るベき」と、事も無(な)き様に言はれければ、面々に諌(いさ)め申しける侍共、白気(しらけ)還(かへ)つて音もせず。
重盛(しげもり)四方(しはう)を睚(にら)み回して、並(な)み居たる武士共を見られければ、宗盛(むねもり)卿は、纐纈(かうけち)の鎧直垂(よろひびたたれ)に烏帽子を押し立て、小具足(こぐそく)計(ばか)りに箭(や)負ひて、身近き良等(らうどう)十余人前後に候ひて、渡殿に居られけり。知盛(とももり)卿は、赤地の錦の鎧直垂(ひたたれ)(よろひびたたれ)に、郎等共七八人計(ばか)り物の具して候ひけり。加様(かやう)に物騒がしき躰にて、贅(そそろき)沛艾(はや)りたり。内府(だいふ)、痛はしさに目も当てられず思はれける上、父入道(にふだう)殿、麁絹(そけん)の薄墨(うすずみ)染の衣の上に萌荵糸(もえぎいと)の腹巻著(き)て、故(ことさら)赤く〓(スカ)したる大口(おほくち)に、聖〓(ひじりづか)の刀を差(さ)し、秘蔵(ひさう)の手鉾を抵(つ)きて、何事耶覧(やらん)、高声(かうしやう)に下知(げぢ)して立たれたり。
重盛(しげもり)此(こ)の有様を見奉(たてまつ)り、世にも浅猿(あさまし)く思はれければ、詞少なに、成親卿(なりちかのきやう)の居たまふ所に行き向ひたまふ。
成親(なりちか)、内府(だいふ)を見付け奉(たてまつ)りて、業力(ごふりき)限り有りて阿鼻大城(あびだいじやう)に堕在(だざい)して、浮かぶ世無(な)き罪業(ざいごふ)深重(じんぢゆう)の罪人の、朝夕(てうじやく)苦悩隙(ひま)無(な)きが、六道能化(ろくだうのうけ)・抜苦与楽(ばつくよらく)の主、地蔵薩〓(ぢざうさつた)を見付け奉(たてまつ)りたらんも、此(こ)の猗(うれ)しさには過ぎじと、手を合せて歓(よろこ)びながら、曰(のたま)ひけるは、「此(こ)の事全(まつた)く成親(なりちか)知り存ぜず候ふ。且(かつ)うは知食(しろしめ)されたる如(ごと)く、此(こ)の身は武芸の道を知らねば、合戦を好むべきに非(あら)ず候ふ。又成親(なりちか)、本(もと)より入道(にふだう)殿を始め奉(たてまつ)り、君達(きんだち)御一門に至(いた)るまで、努々(ゆめゆめ)愚かに思ひ奉(たてまつ)らず」と云ひながら、波羅々々(はらはら)と泣きたまふ。
之(これ)を見て、内大臣(ないだいじん)、石木(いはき)非(なら)ねば、世にも無慚(むざん)に思はれ、袖を顔に押し当てて、互ひに物も言(のたま)はず。良(やや)久しくして、内大臣(ないだいじん)「此(こ)の事、只(ただ)人の讒言にてぞ候はんずらん。御命計(ばか)りにおいては何(いか)にも申し助け奉(たてまつ)らばやと存じ候へども、其れも何(いか)が有るべく候はんずらん」と言ひければ、大納言弥(いよいよ)心細く思はれ、又泣(な)く泣(な)く申されけるは、「平治の逆乱の時、成親(なりちか)失はるべく候ひしを、併(しか)しながら御恩に依(よ)つて命を助けられ奉(たてまつ)り、位正二位に登り、官大納言に任じ、年既(すで)に四十余に及びぬ。生々世々(しやうじやうせせ)に争(いかで)か御恩を忘るべき。然(しか)るべくは今度(こんど)も命を助けられ奉(たてまつ)り、詮(せん)無(な)き髪を剃り除(のぞ)き、高野(かうや)・粉川(こかは)に籠(こも)り居て、只(ただ)一筋に後世(ごせ)の励みを為(な)すべく候ふ」と泣(なくな)く云ひけり。内大臣(ないだいじん)言ひけるは、「重盛(しげもり)右(かく)て候へば、恃(たの)もしく思食(おぼしめ)さるべく候へ。御命に代(かは)り奉(たてまつ)るべし」とて立たれたり。
大納言は共(とも)の者等(ものども)一人も無ければ、誰にか物を云ひ合すべきと、悶(モダヘ)焦(コガレ)たまふも哀れなり。我が身の是(か)く成るに就(つ)けても、「少将も召しや取られぬらん」と〓(おぼつかな)く、「同じくは只(ただ)一所(いつしよ)にて、尓(と)にも此(か)くにも成らで、所々(ところどころ)に失はれん事の悲しさよ。」又曰(のたま)ひけるは、「今朝例ならず、椎(をさな)き者の門送りして中門(ちゆうもん)に立ち出で、暇申(いとままう)しを云ひて留め候ひし事、別れの限りなりけんや。北の方・女房共も御簾(みす)の際(きは)に並(な)み出でて、形勢(ありさま)を見えたりけり」と、彼と云ひ此れと云ひ思ひ連(つづ)くるに遣(や)る方も無(な)し。内大臣(ないだいじん)の在(おは)しつる程は、聊(いささ)か慰(なぐさ)む心も有りつるに、立ち還(かへ)りたまひし後は、猶(なほ)世間も物恐しく、荒(あら)き足音を聞くに就(つ)けても、我を失ひに来つるかと、度毎(たびごと)に魂(きも)を消されけり。
重盛(しげもり)、大納言の事を申されん為(ため)に、父の御前に参りたまふ。入道(にふだう)此れを知らずして、今度(こんど)は猶(なほ)赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、家に伝はる唐革(からかは)と云ふ鎧著(き)て、白星(しらほし)の兜〓(かぶと)に小烏(こがらす)と云ふ太刀(たち)帯(は)き、例の小長刀杖に抵(つ)き、「然有(さま)れ、安からぬ者かな。重恩を忘れ、謀叛を起こす成親(なりちか)を、由(よし)無(な)く内府(だいふ)の助け置きて、当家の怨(あた)と為(な)す。有何(ナニトマレ)、静海(じやうかい)が手に懸けて頸を切るべし」と狂はれける処に、源太夫(げんだいふ)判官(はんぐわん)季貞(すゑさだ)、入道(にふだう)殿の前(まへ)に走(は)せ参つて、「只今(ただいま)猶(なほ)小松殿の参られ候ふ」と申しければ、怱(いそ)ぎ障子の蔭に立ち寄り、皆物の具を脱ぎ捨て、長き数珠(じゆじゆ)を舁(か)き匝(めぐ)らせ、空念誦(そらねんじゆ)して居たまひけり。御前に候ふ人々も皆静まり返つてぞ侍ひける。
内大臣(ないだいじん)、父の御前に近く参つて、衣文(えもん)を正し、〓(うるは)しく袴の側〓(か)き鋪(し)き、物気(ものけ)無(な)く申されけるは、「抑(そもそも)大納言を失はれんことは能々(よくよく)御(おん)計(ぱから)ひ有るべく候ふ。彼(か)の大納言は、先祖より朝家(てうか)に召し仕はれて年(とし)尚(ひさ)し。当時も君の御(おん)糸惜(いとほ)しみ世に超えたるを、忽(たちま)ちに首を切られん事、何(いか)が有るべく候ふやらん。只(ただ)理(り)を抂(ま)げて遠国(をんごく)に流さるべく候ふ。儻(もし)聞食(きこしめ)されし旨僻事(ひがこと)ならば、定めて御後悔有らんか。『北野の天神は時平大臣の讒言に困つて左遷せられ、西宮の左大臣は多田(ただ)の満中が讒奏(ざんそう)に就(つ)きて流罪(るざい)せられにき。是(こ)れ則(すなは)ち延喜の聖主・安和の御門の御僻事(ひがこと)なり』左(と)こそ語り伝へて候へ。上古(しやうこ)猶(なほ)斯(かく)の如(ごと)し、況(いはん)や末代においてをや。賢王又誤り有り、矧(いはん)や凡夫(ぼんぶ)においてをや。
然(さ)れば、彼(か)の延喜の帝は賢王の名を得(え)たまふといへども、三つの罪に依(よ)つて地獄の中に堕ちたまふ。一(ひと)つには、久しく国を治め賢王の名を施さんとしたまひし名聞(みやうもん)の罪、二つには、父寛平(くわんびやう)法皇、菅大臣の罪を申し免(ゆる)さんが為(ため)に御幸有りけれども、高台より見下(お)ろし奉(たてまつ)つて、法皇に御詞を懸け奉(たてまつ)らざりし罪、三つには、無実(むしつ)を用(も)つて菅丞相(くわんしようじやう)を流されたる、是(こ)れなり。然(さ)れば則(すなは)ち、『前車の覆(くつが)へるを見ては、必ず後車の誡(いまし)めと為(な)すべし』と云(い)へり。既(すで)に召し置かれぬる上は、怱(いそ)ぎ失はれずとても何の苦しきことか有るべき。今夜頸を切られん事は、努々(ゆめゆめ)有るべからず候ふ」と申されけれども、入道(にふだう)、猶(なほ)心行かぬ気にて、「彼(か)の成親(なりちか)、此(こ)の一門を亡ぼし、世を擾(みだ)らんにおいては、入道(にふだう)一人に限らず、誰々も安穏にて有るべきか。入道(にふだう)、君の奉為(おんため)に露塵も不忠を存ぜず。度々(どど)の勲功(くんこう)佗(た)に異れり。然(しか)るに、成親(なりちか)が勧(すす)め申すに依(よ)つて、入道(にふだう)を失はるべき由(よし)の御結構こそ、遺恨(ゐこん)以つて散じ難けれ。耆(おとな)しき〓(ふるま)ひは事の宜(よろ)しからん時なるべし。此(こ)の事においては大臣の口入(こうじゆ)無益(むやく)に覚え候ふ」と世にも苦苦(にがにが)し気に言へば、内府(だいふ)重ねて申されけるは、「重盛(しげもり)、彼(か)の大納言の妹に相(あ)ひ具して候ふ。維盛冠者(くわんじや)又大納言の聟(むこ)にて候ふ。加様(かやう)に親しく成つて候ふ間申すとや思食(おぼしめ)され候ふらん。努々(ゆめゆめ)其の儀には非(あら)ず候ふ。只(ただ)世の為、人の為、御(きみ)の為、一門の為(ため)に申す所なり。」
又言ひけるは、「小傑(こザカシ)く思食(おぼしめ)すべく候へども、保元の逆乱の時、本朝に絶えて行はれざりし死罪(しざい)を、少納言入道(にふだう)申し行ひし故(ゆゑ)に、中二年有つて平治に事出でて、信西生きながら埋められ、死骸(しがい)掘り出だして頸を剪(き)り、大路を渡し獄門の木に懸けられき。信西指(さ)したる朝敵には非(あら)ねども、左府の墓を実検せし其の〓(ムク)ひにやと覚えて、懼(おそろ)しき事なりき。但(ただ)し御身においては栄花(えいぐわ)残る所無ければ、何事をか思食(おぼしめ)すべき。然(さ)れども人は皆子々孫々までも繁昌こそ有り度(た)く覚え候へ。『積善(せきぜん)の家には余慶(よけい)有り。積悪の門には余殃(よあう)有り』とこそ申し伝へたれ」奈(な)んど様々(さまざま)に誘(こしら)へ申されければ、今夜大納言を切らるべきことは思ひ留り給ひにけり。
内府(だいふ)立ち出でて、然(しか)るべき侍共に向ひ言ひけるは、「仰せなればとて、左右(さう)無(な)く大納言を失ふべからず。兼て重盛(しげもり)に知らしむべし。入道(にふだう)殿腹の立つ任(まま)に物騒がしき事有らば、必ず御後悔有るべし。各(おのおの)僻事(ひがこと)を引き出だして、重盛(しげもり)恨(ウラ)むべからず」と言ひければ、武士共皆舌を振つて慄(ヲソ)れ合へり。
又言ひけるは、「難波(なんば)次郎・瀬尾(せのをの)太郎等が大納言に情け無(な)く中(あた)り奉(たてまつ)りたりけるは、返す返す奇恠(きつくわい)(キクワイ)なり。争(いかで)か重盛(しげもり)を憚らざるべき。片田舎の者共は何(いづ)れも心得(え)ず」と言ひければ、経遠(つねとほ)・保重生きたる心地(ここち)も為(せ)ず、恐れ入つてぞ候ひける。内府(だいふ)は加様(かやう)に言ひ置いて、小松殿に還(かへ)り給ひにけり。
十三 法皇を流し奉(たてまつ)らんと欲する間、重ねて父を諌(いさ)め奉(たてまつ)る事
其の後、入道(にふだう)、倩(つらつら)又此(こ)の事を案じられけるに、「詮ずる所、法皇の御結構なり。放ち立て奉(たてまつ)りては叶ふまじ」と、流し奉(たてまつ)らんと欲(おも)ふ意(こころ)付かれにけり。脱ぎ置く所の物の具又取り出だし、今度(こんど)は鎧を服(き)ず、腹巻計(ばか)りなり。筑前守貞能(さだよし)、木蘭地(もくらんぢ)の直垂(ひたたれ)に、緋綴(ひをどし)の鎧著(き)て、打立たんとする躰(てい)なり。然(さ)る間、一門の人々・侍共、皆甲冑(かつちう)を鎧ひ、弓箭(きゆうせん)を帯(たい)して出で立ち、馬共に鞍置き、門外に立て並べ、「只今(ただいま)院の御所へ参り、恨み奉(たてまつ)るべし」とぞ〓(ののし)りける。
大夫(たいふ)判官(はんぐわん)盛国(もりくに)、小松殿に馳せ参つて、「西八条殿、只今(ただいま)、院の御所法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ寄せ奉(たてまつ)らんとて、御一門を始め奉(たてまつ)り、侍共皆鎧ひ、打(う)つ立たれ候ふ間、怱(いそ)ぎ御渡り有るベき由(よし)、申し候ふ。法皇鳥羽殿への御幸と承(うけたまは)り候へども、内々(ないない)は西国へとこそ聞き候ひつれ。奈(いか)に」と申しければ、内大臣(ないだいじん)「差(さ)しも耶(や)は」と思はれけれども、「入道(にふだう)殿、物狂はしき人にて、然(さ)る事もや有るらん」とて、八条殿に参られけり。車より下りて中門(ちゆうもん)を見ければ、内外に右大将(うだいしやう)宗盛(むねもり)・三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)知盛(とももり)・左馬頭(さまのかみ)重衡(しげひら)以下(いげ)、一門の雲客数十人(すじふにん)、諸大夫(しよだいぶ)・侍共に至(いた)るまで、縁にも坪にも比次(ひし)と並(な)み居たり。旗竿共引き側(そば)め引き側(そば)め、打(う)つ立たんと欲(す)る躰なり。
内大臣(ないだいじん)謐々(ノドのど)と張衣(サヤメ)いて入られけり。入道(にふだう)、客殿より遥かに之(これ)を見付け、「例の内府(だいふ)が世を表(へう)するは」と思ひけれども、子ながらも又賢人(けんじん)なれば、袷(あ)の姿には此(こ)の形勢(ありさま)にて見えんも、流石(さすが)に顔緩(おもはゆ)くや思はれけん、腹巻脱ぐべき隙(ひま)も無かりければ、物の具の上に衣を取つて打(う)ち服(き)、荐(シキリ)に衣の胸を引き違へ引き違へ為(せ)られけれども、腹巻の胸板の金物、映徹(すきとほ)(スキトヲ)りて、雲母々々(きらきら)と見えけり。
入道(にふだう)言ひけるは、「抑(そもそも)此(こ)の謀叛の次第を尋ね承(うけたまは)り候ふに、源(みなもと)は法皇の御叡慮より思食(おぼしめ)し立つ所なり。大方は近習の者共が、境(をり)に触れ時に随ひ、様々(さまざま)の事共を勧(すす)め申す間、御軽行の君にて、一定(いちぢやう)天下の煩ひ、当家の大事、出ださせたまひぬと覚え候ふ。法皇を迎へ取り奉(たてまつ)り、片辺(かたほと)りの程に押し罩(こ)め奉(たてまつ)らんと存ずることを、申し合はせんが為(ため)に、喚(よ)び奉(たてまつ)るなり」と言へば、内府(だいふ)「畏(かしこま)つて承(うけたまは)り候ふ」と計(ばか)りにて、襴の袖を顔に押し当て、左右(とかう)の返事も無(な)し。
入道(にふだう)浅猿(あさまし)ながら、「何(いか)に何(いか)に」と言(のたま)へば、良(やや)久しくして、内府(だいふ)涙を抑(おさ)へて申されけるは、「此(こ)は何と云ふ御事にて候ふぞや。只今(ただいま)此(こ)の仰せを承(うけたまは)り候ふに、御運末に臨めりと覚え候ふ。縦(たと)ひ人の讒言に依(よ)つて勅勘(ちよくかん)を蒙(かうぶ)り給ふとも、何度(いくたび)も過(あやま)たぬ由(よし)を陳じ申させ給へ。設(たと)ひ又死罪(しざい)に行はるるとも、何(いか)でか背(そむ)き御座(おはしま)すべき。保元より以来(このかた)廿余年の間、官位と云ひ俸禄と云ひ、飽くまでに朝恩を蒙(かうぶ)りたまふ。昔も今も様(ためし)少なき事共なり。重盛(しげもり)が様なる無才愚闇(ぐあん)の身に至(いた)るまで、三公の員(かず)に加はり、卿相(けいしやう)の位を盗む。生々世々(しやうじやうせせ)に争(いかで)か報じ奉(たてまつ)るべき。夫(それ)我が国日本秋津嶋は辺鄙粟散(へんぴそくさん)の境とは申しながら、神国にして道正し。争(いかで)か非礼を致すべけんや。然(さ)れば太政(だいじやう)大臣(だいじん)の官に昇り、何ぞ兵杖(へいぢやう)を帯(たい)せらるべき。御身は而(しか)も御出家なり。何ぞ解脱幢相(げだつどうさう)の法衣(ほふえ)を脱ぎ捨てて、修羅闘戦の甲冑(かつちう)を鎧ひ、邪見(じやけん)放逸(はういつ)の弓箭(きゆうせん)を横だへ御坐(おはしま)さん。内には破戒無慚(むざん)の罪を招き、外には仁儀礼智信の法にも泄(も)れぬらん。争(いかで)か神明仏陀の加護有らんや。仏神の恵み無(な)くは、則(すなは)ち叶ふべからずと存知御(おはしま)せ。謀叛の輩既(すで)に召し置かれ候ひぬる上は、何事か候ふべき。栄花(えいぐわ)と云ひ官職と云ひ、身に余ること先例無(な)し。院の思食(おぼしめ)す所、子細理(ことわり)無(な)きに非(あら)ず。然(さ)らんに取つては、君には弥(いよいよ)奉公(ほうこう)の忠節を存じ、民には故(ことさら)撫育(ぶいく)の慈悲を施し、先非を悔ひ、後の是(ぜ)を欣(ねが)ひ、裁断私無(な)く御坐(おはしま)さば、神明仏陀の加護を得(え)て、君臣上下(じやうげ)の愛礼有るべし。若(も)し然(しか)らば、逆臣忽(たちま)ちに滅亡し、凶徒則(すなは)ち旁(かたがた)へ退散せん。
恐れ有る申し事にては候へども、且(しばら)く心地観経(しんぢくわんぎやう)を披(ひら)き見るに、世に四恩と云ふ事有り。一には天地の恩、二には国王の恩、三には父母の恩、四には衆生(しゆじやう)の恩〈 或は壇施の恩 〉なり。其の中に国王の恩、是(こ)れ重し。之(これ)を知る者を人倫(じんりん)と為(な)し、之(これ)を知らざる者を鬼畜と為(な)す。就中(なかんづく)、神国においては殊更(ことさら)非礼を行(おこな)ふべからず。八幡(はちまん)大菩薩の神慮にも乖(そむ)き、天照太神の冥慮(みやうりよ)をも蒙(かうぶ)るべからず候ふ。聖徳太子(たいし)の十七ヶ条の憲法にも、『人皆心有り。此(こ)の心執(しゆ)有り。我を是(ぜ)すれば彼を非す。彼を是(ぜ)すれば我を非す。然(さ)れば則(すなは)ち賢愚は環(たまき)の端(はし)無(な)きが如(ごと)し』と。能(よく)慮(ヲモンバカリ)有るべし。神国に住みながら無道(ぶたう)を行ふべからず候ふ。凡(およ)そ蒼天(さうてん)の下、率土(そつと)の上、誰か国王の恩莫(な)かるべき。然(さ)れば、国王の恩においては、此(こ)の一門殊に極(きは)まれり。実(げ)に官位所領諸人(しよにん)に超過す。其の重恩を忘れ奉(たてまつ)り、御院参有らんにおいては、日月星宿(せいしゆく)・堅牢地神(けんらうぢしん)までも御宥(ユルサレ)や有るべき。『朝敵と成る者は、近くは百日、遠くは三年を過ぎず』とこそ申し侍れ。然(さ)れば則(すなは)ち、重盛(しげもり)においては御院参の御伴全(まつた)く仕らず候ふ。
厥(それ)君と臣とを対(くらぶ)るに、忠は君に有るべし。道理(だうり)と非拠(ひきよ)とを思ふに、何(いか)でか道理(だうり)に付かざらんや。彼(か)の前漢の〓何(せうか)は勲功(くんこう)有るに依(よ)つて、官大相国に至(いた)り、剣を帯(たい)し沓(くつ)を履きながら殿上に昇ることを赦(ゆる)されたり。然(さ)れども叡慮に背(そむ)くこと有りしかば、高祖嗔(いか)りて延尉(テイイ)に赴(おもむ)けて禁(きん)ぜられたり。論語と申す文の中には、『郡(くに)に道無ければ富貴は恥なり』と云ふ本文候ふ。痛ましきかな、進んで君の為(ため)に忠を致さんと欲すれば、不孝(ふかう)の罪業(ざいごふ)身に在るべし。悲しきかな、退いて父の為(ため)に孝を行はんと欲すれば、不忠の逆臣我に在(あ)りぬべし。進退(しんだい)惟(ココ)に谷(キハマ)れり。是非弁(わきま)へ難(がた)し。
是(こ)れを以つて昔を思ふに、保元の逆乱に、六条判官(はんぐわん)為義(ためよし)、朝敵たるに依(よ)つて子息(しそく)義朝之(これ)を承つて、朱雀(しゆしやく)大路において頸を誅(ちゆう)したりしをこそ人の上と思ひしに、只今(ただいま)重盛(しげもり)が身の上に成り候ふ事こそ口惜しく覚え候へ。門々を差(さ)し固め防(ふせ)ぎ奉(たてまつ)り候はば、以つての外の御大事に非(あら)ずや。此(こ)の条奇恠(きつくわい)に思食(おぼしめ)され候はば、誰にても候へ、侍一人に仰せ付けて、御坪の内に引き下(お)ろし、只今(ただいま)重盛(しげもり)が頸を召さるべし。少しも痛く存ぜず候ふ。御〓(ふるま)ひを見奉(たてまつ)るに、御運は已(すで)に尽きぬと覚え候ふ。『根枯れなば則(すなは)ち枝葉全(また)からず。源(みなもと)尽くれば則(すなは)ち流派竭(つ)く』と云ふ本文有り。御運命尽き終(は)てて後、我等が子孫相続くべからず。此れを聞き給ふや、殿原(とのばら)」とて、波羅々々(はらはら)と泣きたまへば、人々皆各(おのおの)鎧の袖をぞ濡(ぬ)らされける。実(げ)に道理(だうり)至極(しごく)に聞えけり。
入道(にふだう)興覚(きようざ)めして左右(トモカク)も物も言はず。内府(だいふ)は加様(かやう)に言ひ置きて、怱(いそ)ぎ小松殿にぞ還(かへ)りける。
十四 重盛(しげもり)、兵者を召さるる事 井びに褒〓[女+以](ほうじ)の后の誓喩
使者(ししや)を以つて触れられけるは、「重盛(しげもり)をも重盛(しげもり)と欲(おも)はん者は、時を替へず我が方に参るべし。天下に大事を聞き出だしたり」と言ひければ、「少少(ヲボロケ)にては騒ぎたまはぬ人の右(か)く云(のたま)ふは」とて、我も我もと参りけり。程無(な)く一万余騎に成りにけり。
然(さ)る間、西八条には只(ただ)貞能(さだよし)一人候ひけり。入道(にふだう)、貞能(さだよし)を召して、「只今(ただいま)誰か有る」と問はれければ、「誰も候はず」と申す。「此(こ)は不思議の事かな。然(サル)にても兵(つはもの)は無(な)きか。右大将(うだいしやう)は如何(いか)に。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)は若何(いか)に」と言へば、「君達(きんだち)も侍共も皆小松殿へ」と申せば、入道(にふだう)猶(なほ)不審気にて、大床(おほゆか)に立ち、嘯(うそ)打(う)ち吹きながら縁行道(えんぎやうだう)し、此れに人有るか、彼(かし)こに人有るかと、此(こ)この面道(めんだう)彼(かし)この面道(めんだう)を指臨(さしのぞ)き指臨(さしのぞ)き見回しけれども、兵(つはもの)一人も無(な)し。入道(にふだう)「内府(だいふ)と申違ひては叶はぬ事かな」と、大きに騒がれけり。
又曰(のたま)ひけるは、「此(こ)の体(てい)の隙(ひま)に耶(や)、大納言の余党寄せ来たらば如何(いか)が為(す)べき」と言ひければ、貞能(さだよし)申しけるは、「然(さ)る事候はば、能(よ)き様に御(おん)計(ぱから)ひ有るべく候ふ。御子も御子に依り候ふ。小松殿に御中違ひ御坐(おはしま)しては悪しく覚え候ふ」と申しければ、「爾(サゾ)とよ。誰も然(さ)ぞ思ふ。然(さ)れば貞能(さだよし)、内府(だいふ)の許(もと)に罷(まか)り向つて云ふべき様は、『実(まこと)には争(いかで)か君を流し奉(たてまつ)るべき。一旦の恨みをこそ申し候へ。然(さ)れども右様(かやう)に諌(いさ)められし上は、争(いかで)か其の義有るべけんや。自今(じこん)以後(いご)は、左(と)も右(かう)も、内府(だいふ)が計ひを背(そむ)くべからず。善悪(ぜんあく)此れに御坐(おはしま)せば、能能(よくよく)申し合はすべき事侍り』」と云ひ遣(つか)はされ、腹巻を脱ぎ捨て、索絹(そけん)の衣に袈裟を打(う)ち掛け、持仏堂に指入(さしい)つて、心にも発(おこ)らぬ念誦(ねんじゆ)してぞ居たりける。
貞能(さだよし)、小松殿に参つて此(こ)の由(よし)を申しければ、重盛(しげもり)又涙を波羅々々(はらはら)と流して言ひけるは、「我適(たまたま)人界(にんがい)に生を受けながら、彼(かか)る悪人(あくにん)の子と成りて、併(しか)しながら罪業(ざいごふ)を作る悲しさよ。子は親に逢ひてこそ対望すと申すべきに、我は子ながら親に対望せられん事、此れに過ぎたる逆罪何(いか)でか有らんや」とて、涙も掻き敢(あ)へず泣きたまへば、一門の人々并びに侍共、皆涙を流さずといふこと莫(な)し。「重盛(しげもり)、此(こ)の仰せを承(うけたまは)り、御返事畏(かしこま)つて承(うけたまは)り候ひ畢(をは)んぬ。左様に院参を思食(おぼしめ)し留まり候ふ上は、争(いかで)か仰せに乖(ソム)き奉(たてまつ)り候ふべき。又何事も明日、謐(のどやか)に参上せしめ申し承るべく候ふ」と申し給ひけり。入道(にふだう)此(こ)の事共に驚き、大納言の頸を剪(き)るべき事も打(う)ち置かれて、法皇を流し奉(たてまつ)るべき事も思ひ留まられたまひぬ。
加様(かやう)に入道(にふだう)の静まり給ひければ、内大臣(ないだいじん)、武士共に対(むか)ひ言ひけるは、「重盛(しげもり)天下に大事を聞き出だしつるに依(よ)つて、召す所なり。各各(おのおの)の怱(いそ)ぎ参りたるこそ神妙(しんべう)なれ。然れども聞食(きこしめ)し直したれば、罷(まか)り皈(かへ)るべし。但(ただ)し向後(きやうこう)も重盛(しげもり)加様(かやう)に召さんには、参らぬこともや有る。
異国に然(さ)る様(ためし)有るぞとよ。昔、周の幽王、褒〓(ほうじ)を寵愛したまふ。褒似(ほうじ)とは妃なり。彼(か)の妃の由来を尋ぬるに、並びの国に褒似国と云ふ国有り。幽王彼(か)の国を打(う)ち取らんと欲して此れを責めけるに、已(すで)に三分が一は打(う)ち取られにけり。爰(ここ)に、褒似国に謀(はかりこと)を回(めぐ)らされける程に、千歳を経たる狐を囚(とら)へて、有験(うげん)の僧十人を以つて、百日の間、之(これ)を行はしむるに、貌形(かほかたち)の厳(いつく)しき女と行ひ成(な)しぬ。帝王彼(か)の女に向かつて言ひけるは、『我、幽王の許(もと)へ遣(つか)はさば、汝幽王の心を誑(たぶらか)し、我に教へて討たせよ。其の後は必ず放(ハナ)つべし』と言へば、化女此れを承諾しけり。彼(か)の国の帝、化女に使者(ししや)を副(そ)へて、幽王の方に申されけるは、『君逼(せ)むるに我が国堪(た)へ難(がた)し。然(さ)る間、我が国第一(だいいち)の美女(びぢよ)を奉(たてまつ)らん。向後(きやうこう)は責むることを留めたまへ』と申されたり。幽王、件(くだん)の化女を見て、心則(すなは)ち蕩(とろ)けて、歓(よろこ)びを成(な)して此れを受け取り、貴むることを止むべき由(よし)、領状(りやうじやう)しけり。已(すで)に一妃を寵しながら、褒似国より出されたるに依(よ)つて、其の名を即(すなは)ち褒似(ほうじ)と号(なづ)く。妃数有りといへども、余(よそ)に心を遷(うつ)すことも無(な)く、偏(ひとへ)に褒〓(ほうじ)を鐘愛(しようあい)す。
但(ただ)し此(こ)の妃都(すべ)て言(ものい)はず、笑ふこと無(な)し。幽王此れを歎く程に、其の国の習ひと為(し)て、烽火(ほうくわ)の大鼓と云ふ事有り。天下に事出で来たれば、則(すなは)ち大鼓の中に火を燃やして此れを飛ばす間、諸方の武士、悉(ことごと)く群集(くんじゆ)して朝敵を平らげ、天下を静む。或(あ)る時、都に事有るに依(よ)つて、烽火(ほうくわ)の大鼓を飛ばしたり。件(くだん)の妃、笑(ゑみ)を含んで、『穴(あな)面白や、大鼓の空に飛ぶことよ』と言ひけり。此(こ)の妃、一たび笑めば百(もも)の媚(こび)有り。故(ゆゑ)に幽王此れを悦(よろこ)び、見物させ奉(たてまつ)らんが為(ため)に、何事も無(な)きに常に此れを飛ばす。武士共来たれども怨(あた)無(な)し。怨(あた)無ければ即(すなは)ち皈(かへ)りぬ。此れに依(よ)つて其の後は参り集らず。然(さ)れども何ごとも無(な)きに常に此(こ)の事を致されける間、妃、帝の心を取り課(はた)し、褒似(ほうじ)国王に事の由(よし)を申す。王大きに悦(よろこ)び、数万騎の官兵に仰せて、幽王を逼(せ)めさす。時に幽王、烽火(ほうくわ)の大鼓を上ぐれども、例の妃の烽火(ほうくわ)ぞと意得(こころえ)、兵(つはもの)一人も参らざりける間、幽王遂(つひ)に殄(ホロボ)されにけり。其の時、件(くだん)の妃は尾三つの狐と作(な)つて、稲妻の如(ごと)くに失せぬ。尓(それ)より美女(びぢよ)を傾城(けいせい)と名(なづ)けたり。只(ただ)城を傾くるのみに非(あら)ず、人を殺し世を乱す媒(なかだ)ちと為(な)る。慎(つつし)まざるベからず、と云(い)へり。
異国に此(カカル)様(ためし)有り。其の様に今度(こんど)各(おのおの)(ヲノヲノ)己(おのれ)を召しつるに、事無かりけり。後に召すこと有らば、参らぬこともや有る。幾度(いくたび)なりとも召しに随ふべし」と、返す返す此れを仰せ含めて返されけり。
内大臣(ないだいじん)、実(まこと)には父に対(むか)ひ軍(いくさ)為(せ)んとには非(あら)ず、謀叛の心を宥(なだ)めんが為なり。「君君たらずといへども、臣以つて臣たらざるべからず。父父たらずといへども、子以つて子たらざるべからず」と云(い)へり。重盛(しげもり)此(こ)の旨を存知して、文宣公の言ひけるに違はず。公の為(ため)には忠有り、父の為(ため)には孝有り。旁(かたがた)如勇(ゆゆ)しかりける人かな。
法皇、此(こ)の事を聞食(きこしめ)して、「丸(まる)偏(ひとへ)に重盛(しげもり)が恩を得(え)たり」と仰せ有りけり。「国に諌(いさ)むる臣有らば、則(すなは)ち其の国必ず安し。家に諌(いさ)むる子有らば、則(すなは)ち其の家必ず直し」と云(い)へり。斯(こ)の言実(まこと)なるかな。
十五 成親卿(なりちかのきやう)の郎等、宿所(しゆくしよ)へ返る事 井びに少将(せうしやう)捕はるる事
然(さ)る程に、大納言の郎等共、大納言の宿所(しゆくしよ)に走り還(かへ)つて言ひけるは、「殿は西八条殿に召し籠(こ)められ御坐(おはしま)し候ひぬ。此(こ)の昏(クレ)失ひ奉(たてまつ)るべき由(よし)承(うけたまは)り候ふ」と申しければ、北(キタ)の方聞食(きこしめ)しも敢(あ)へず、打(う)ち臥(ふ)して、声も惜しまず喚(をめ)き叫びたまふこと斜(なの)めならず。
又御共(とも)の者等(ものども)申しけるは、「少将殿を始め奉(たてまつ)り、少(をさな)き君達(きんだち)に至(いた)るまで、皆召し取られ御(おはしま)すべき由(よし)、承(うけたまは)り候ふ」と申しも終(は)てず、嗷(な)きければ、北の方「此れ程の事に成りては、残り留る身共、(一頁半の空白あり)安穏にても、恃(たの)む人も無(な)く、何の甲斐(かひ)かは有るべき。此(こ)の殿、今朝を限りとの余波(なごり)にや、早晩(いつしか)よりも懐(なつ)かし気(げ)にて、怱(いそ)ぎ出でも遣(や)らず、我と少(をさな)き者共・女房達を見たまひしは、是(こ)れを最後とや思はれけん。我丁〓(わがひと)能々(よくよく)見奉(たてまつ)り、見え奉(たてまつ)るべきなりけり」と、打(う)ち臥(ふ)して啼(な)きたまへば、外(よそ)の袂も汐(しぼ)る計(ばか)りなり。
「既(すで)に武士共来なん」と人申しければ、右(かく)て恥益(はぢがマシ)き事を見えんも石流(さすが)なれば、何地(いづち)へも立ち忍ばんと、尻首(アトサキ)とも無(な)き少(をさな)き人々、一(ひと)つ車に取り乗せ、其(ソコ)と指(さ)し定めねども、遣(や)り出だし給ふぞ哀れなる。女房達・侍共、歩徙跣(カチハダシスアシ)にて、恥をも知らず迷ひ出でにけり。
見苦しき物共を取り調ふるにも及ばず、門は押し立つる人も無(な)し。馬共は厩(うまや)に立ち並びたれども、草飼ふ者も無(な)し。蹉(アシカキ)を為(し)て舎人(とねり)を慕へども、舎人(とねり)独りも無ければ、口を空しくして嘶(いなな)く。頃日(ひごろ)は夜明くれば馬車門に立ち並び、賓客座に列す。舞ひ躍り遊び戯れ、世を世とも思はず。近き辺りの人は物をだにも高く言はず。門前を過ぐる者も悚(お)ぢ恐れてこそ昨(きのふ)までは有りつるに、夜の間に替る形勢(ありさま)、浅猿(あさまし)と言ふも癡(おろ)かなり。
此(こ)の大納言は余りに掲沛〓(イチハヤク)、聊(いささ)かの戯れ事にも言ひ過ごす事も有りけり。後白川院の近習者(きんじゆしや)に、坊門(ばうもん)の中納言親信(ちかのぶ)と申す人有り。彼(か)の父右京大夫(だいぶ)信輔(のぶすけ)朝臣、武蔵守(むさしのかみ)為(た)りし時、彼(か)の国に下られたりしに、儲けられたる子なり。元服(げんぶく)叙爵(ジヨシヤク)の後、坂東太輔(ばんどうたいふ)とぞ申したりける。院中に候ひければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)に成り、坂東兵衛佐(ひやうゑのすけ)と名(なの)りけり。新大納言成親卿(なりちかのきやう)、法皇の御前に参り合ひ、親信(ちかのぶ)に問ひける様は、「坂東には何事共か有るやらん。」親信(ちかのぶ)取りも敢(あ)へず、「縄目の色革こそ多く候へ」と云ひければ、大納言顔の気色(けしき)少し替つて、物も言はざりけり。按察(アンぜち)の大納言入道(にふだう)資賢(すけかた)も其の所に候はれけり。後に資賢(すけかた)云ひけるは、「兵衛佐(ひやうゑのすけ)は如勇(ゆゆ)しく返答したりつる者かな。成親(なりちか)事の外にこそ苦(にが)りて見えつれ」左(と)申されたりけるとかや。此れ則(すなは)ち、平治の逆乱の時、成親卿(なりちかのきやう)の事に遇はれしことなり。
此(こ)の大納言の嫡子(ちやくし)、丹波の少将成経(なりつね)、今年(ことし)廿一歳なり。院の御所法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に上臥(うはぶ)しして、未(いま)だ罷(まか)り出でられぬ程に、大納言の御共に候ひつる侍一人、院の御所に参つて、「殿は既(すで)に西八条殿に召し籠(こ)められたまひぬ。今夜失はれ給ふべき由(よし)、承(うけたまは)り候ふ。君達(きんだち)も皆召し取られ御(おはしま)すべき旨聞え候ふ」と申しければ、法皇「此(こ)は何(いか)に」と仰せられて、中々(なかなか)澆(アハ)て御座(おはしま)す。少将「何(いか)に宰相の許(もと)より告げられざるらん」と、舅(しうと)を恨みける程に、急ぎ宰相の許(もと)より使ひ有り。「何事やらん、西八条殿より、『少将を具し奉(たてまつ)れ。承(うけたまは)るべき』由(よし)申されたり。疾々(とくとく)渡り給へ」と申しければ、此(こ)は何(いか)なる事にや、浅猿(あさまし)と云ふも愚かなり。
院の御所に候ふ兵衛佐(ひやうゑのすけ)と申す女房を、少将尋ね出だされ、「彼(かか)る事こそ候ふなれ。夜部(よべ)より、世間物騒(ものさはが)しと承(うけたまは)れば、例の山の大衆(だいしゆ)の下洛すべきかと、徐(よそ)に思ひて候へば、身の上の事にて候ひけり。御所へも参りて、今一度君をも見奉(たてまつ)るべく候へども、彼(かか)る身と成りて候へば、憚り存じて罷(まか)り出でぬと、御披露有るべし」と申しながら、涙更(さら)に防(ふせ)ぎ敢(あ)へず。日来(ひごろ)見馴れ奉(たてまつ)りたる御所中の女房達、少将の袂を牽(ひか)へ、声も惜しまず啾(な)き逢へり。少将の言ひけるは、「成経(なりつね)八歳(はつさい)の時、始めて君の見参(げんざん)に入り、十二歳より夜昼御前を立ち去らず御所に候ひて、忝(かたじけな)くも君の御(おん)糸惜(いとほ)しみを蒙(かうぶ)り、楽しみに誇りて明かし晩(くら)し候ひつるに、何(いか)なる目を見るべきやらん。又大納言も失はるべき由(よし)承(うけたまは)りぬ。定めて我が身も同罪にこそ行はれ候はんずらめ。但(ただ)し父失はれん上は、世の中何事か心留まること有らん」と云ひ連(つづ)けて泣きたまふ。外(よそ)の袂も〓(しぼ)り敢(あ)へず。
女房御前に参つて、此(こ)の由(よし)を申されければ、法皇大きに驚き思食(おぼしめ)して、「此等(これら)が内々(ないない)支度(したく)せし事共(ども)の泄(も)れ聞えける耶(よ)な」と、浅猿(あさまし)く思食(おぼしめ)されけり。「然(さ)るにても此れへ」との御気色(みけしき)にて有れば、少将は懼(おそろ)しけれども、今一度君の御容皃(かんバセ)を見奉(たてまつ)らんと思はれければ、御前に参り向かはれたりけれども、涙に咽(むせ)びて一言(ひとこと)も申し出ださず。法皇も御涙を抑(おさ)へ御坐(おはしま)して、曰(のたま)ひ遣(や)りたる御事も無(な)し。「上代には此(カカル)事やは有りし、末代こそ心憂(こころう)けれ」と計(ばか)りなり。少将は終(つひ)に申し遣(や)りたる旨も無(な)く、罷(まか)り出でたまひぬ。女房達遥かに送り奉(たてまつ)りて、皆袖をぞ〓りける。
少将は舅(しうと)の宿所(しゆくしよ)六波羅へ罷(まか)り入りたれば、此(こ)の事を聞きたまふより、北の方は澆(あき)れ迷(マヨ)つて物も覚えぬ気色(けしき)なり。近く産したまふべき人にて、頃日(ひごろ)も何と無(な)く悩みたまひしが、故(ことさら)此(こ)の事を聞きたまへば、弥(いよいよ)臥(ふ)し淪(しづ)み給ふも哀れなり。少将は今朝より流るる泪尽きせぬに、北の方の御気色(ごきしよく)を見奉(たてまつ)るに就(つ)けても、太太(いとど)歎きは深かりけり。「責(せめ)て此(こ)の人の身(ミ)と子(み)と成らんを見て、何(いか)にも成らばや」と思はれけるぞ糸惜(いとほ)しき。
爰(ここ)に六条とて、頃年(としごろ)少将に属(つ)き奉(たてまつ)つたる女房有りけり。臥(ふ)し辷(まろ)び、嘔(をめ)き叫びて、嗷(な)く嗷(な)く申しけるは、「悲しや、我が君の胞〓(えな)の中に在(ましま)ししを洗ひ聞え奉(たてまつ)りて、糸惜(いとほ)し悲しと思ひ染め奉(たてまつ)りし日より今に至(いた)るまで、曙(あ)けても暮(く)れても此(こ)の御事より又外には更(さら)に営む事無(な)し。我が身の年(とし)の積るをば知らず、此(こ)の君の疾(と)く長(ひととな)り給へかしと欲(おも)ひしに、今年(ことし)は已(すで)に廿一歳なり。院内へ参りたまふにも、遅く出で給へば、〓(おぼつかな)く恋しくのみ此れを思ひ奉(たてまつ)りつるに、立ち離れ奉(たてまつ)りては、一日片時(いちにちへんし)も生きて在るべしとも覚えず」と申しながら、泣き悲しむこと唱立(おびたた)し。「誠に然(さ)こそ欲(おも)ふらめ」と少将思はれければ、涙を押へて言ひけるは、「然(サ)こそ思ふ所は埋りなり。然(さ)れども痛う歎くべからず。我が身においては少しも訛(アヤマ)ち無ければ、強(アなが)ちに罪科に行はるべしとも覚えず。其の上宰相然(サ)て御座(おはしま)せば、成経(なりつね)が命計(ばか)りは争(いかで)か申し請(う)けたまはざるべき」と、濃々(こまごま)と慰(なぐさ)めたまへども、涙更(さら)に留まらず。
又少将言ひけるは、「今一度若君を見んと思ふ」とて、呼び寄せ奉(たてまつ)り、御髪(みぐし)を掻き撫でて、「七歳に成らば、元服(げんぶく)させて御所の見参(げんざん)に入ればや、とこそ思ひしに」と云ひも終(は)てず、泣きたまふ。又「我罪に沈まば、何(いか)なる事か有るらん。若(ワカ)よ聞け。長(ひととな)りて頭固くは、法師(ほふし)に成りて成経(なりつね)が菩提(ぼだい)を訪(と)ふべし」と言ひながら、泣きたまへば、北の方も乳母(めのと)も臥(ふ)し辷(まろ)びて叫ばれければ、若君世に浅猿(あさまし)げにぞ思食(おぼしめ)し居られける。「八条殿より御使ひ有り」と申しければ、「何様(いかさま)にも八条殿へ罷(まか)り向かつて、爾(と)も此(か)くも申すべし」とて、宰相に相(あ)ひ具せられて出でたまひぬ。此(こ)の世に無(な)き人を取り出す様に見送りてぞ泣き逢へる。保元・平治より以後(このかた)は、平家の人々は楽しみ栄えは有りとも、未(いま)だ歎きの声をば聞かざりつるに、宰相計(ばか)りこそ由(よし)無(な)き聟(むこ)故(ゆゑ)に、此(か)かる歎きに遇はれけるこそ糸惜(いとほ)しけれ。
十六 門脇殿、成経(なりつね)を請ひ受けらるる事
已(すで)に西八条近く遣(や)り寄せて之(これ)を見れば、四五丁の程に武士充満して幾千万とも知らず。少将此れを見るに付けても、大納言の情け無(な)く武士共に寃(シエ)られ給ひけん事、思ひ遣(や)るこそ哀れなれ。車を門外に立てて、宰相参向の由(よし)、案内を申し入れければ、入道(にふだう)「成経(なりつね)は入るべからず」と言へば、少将をば其の辺(アたリ)近き侍の家に下し置かれて、宰相内に入りて見えたまはねば、最(いと)心細くぞ覚(おぼ)されける。
宰相已(すで)に内に入つて、見参(げんざん)に入るべき由(よし)言へば、入道(にふだう)敢(あへ)て出で会はれず。然(さ)る間、宰相、季貞(すゑさだ)を呼び出だして申されけるは、「由(よし)無(な)き成経(なりつね)を聟(むこ)に取ること返す返す悔しく存じ候へども、今更(いまさら)力に及ばず。成経(なりつね)に相(あ)ひ具して候ふ娘の、痛く泣き悲しむこそ限り無けれ。恩愛(おんあい)の道は今に始めぬ事なれども、世に無慚(むざん)に覚え候ふ。而(しか)も近く産すべき者にて、此(こ)の程悩むと承(うけたまは)りしが、又此(こ)の歎きを打(う)ち副(そ)へなば、身子(みみ)と成らぬ以前(さき)に、命も絶えぬべく覚え候ふ。彼を助けんが為(ため)に、恐れながら申し為(な)して候ふ。成経(なりつね)計(ばか)りをば理(り)を曲げて申し預(あづか)りて、教盛(のりもり)此(カク)て候へば、努々(ゆめゆめ)僻事(ひがこと)発(おこ)させまじく候ふ」と泣く泣(な)く申されければ、季貞(すゑさだ)、立ち返つて此(こ)の旨を申す。入道(にふだう)世に意得(こころえ)ず思はれて、怱(いそ)ぎても御返事無(な)し。
宰相、中門(ちゆうもん)に居て、今耶(や)今耶(や)と待たれける程に、入道(にふだう)良(やや)久しくして言ひけるは、「成親卿(なりちかのきやう)此(こ)の一門を亡して、国家を乱らんと欲(す)る企て有り。然(さ)れども一家の運未(いま)だ尽きざるに依(よ)つて、此(こ)の事今露顕す。少将は彼(か)の大納言の嫡子(ちやくし)なり。御身親しといへども全(まつた)く宥(なだ)め申すべからず。彼(か)の謀叛の企て遂げましかば、其れ御辺(ごへん)とても安穏にて在るべきか。御身の上をば何(いか)に右(かく)は仰せらるるぞ。聟(むこ)の事も子(こ)の事も、何(いか)に大事に思食(おぼしめ)すとも、争(いかで)か我が身には勝らん」と、入道(にふだう)佻(くつろ)ぐ気色(けしき)も無(な)く御坐(おはしま)す。
季貞(すゑさだ)返り出でて、此(こ)の由(よし)を申しければ、宰相大きに本意無(な)く思ひて、「加様(かやう)に仰せらるるを、又重ねて申すは、其の恐れ深けれども、心中に思ふ事を殆(のこ)さんも口惜き事なり。保元・平治両度の合戦にも、身を捨てて御命に代(かは)り奉(たてまつ)らんとこそ存ぜしか、自今以後(いご)も、荒(あら)き風を先づ防(ふせ)がんとこそ思ひ奉(たてまつ)り候へ。敦盛(あつもり)年(とし)こそ老いたりといへども、若き者共多く候へば、自然(しぜん)の御大事も有らん時は、何(など)か一方(いつぱう)の御固めとも成らざるべき。成経(なりつね)を罷(まか)り預(あづか)らんと申すを〓(おぼつかな)く思食(おぼしめ)されて御免しの無(な)きか。是(カク)弐心(ふたごころ)有る者に思はれ奉(たてまつ)りて、世に在(あ)りても甘従(イカニセン)。世に在ればこそ望みも有れ。望みの叶はねばこそ恨みも有れ。詮ずる所、身の暇(いとま)を賜(たま)はつて出家入道(にふだう)して、片山寺にも籠(こも)り居て、後世(ごせ)菩提(ぼだい)の勤めを致すべき」由(よし)云ひければ、季貞(すゑさだ)苦々(ニガニガ)しき事に思ひて、此(こ)の様を委細に入道(にふだう)殿に申しければ、入道(にふだう)言ひけるは、「此(こ)の宰相は物に意得(こころえ)ぬ人かな」とて、返事も無(な)し。
季貞(すゑさだ)申しけるは、「宰相殿は思ひ切られて候ふ御気色(ごきしよく)と覚え候ふ。一定(いちぢやう)御出家候はんずらん。御計らひ有るべし」と申しければ、入道(にふだう)言ひけるは、「其れ程に思はるる上は、尓(と)も此(か)くも子細を申すべきに及ばず。然(さ)れば少将をば暫(しばら)く御宿所(しゆくしよ)に置かるベし」と渋々(しぶしぶ)に言へば、季貞(すゑさだ)立ち返つて右(かく)と申しける間、宰相喜びて出でられけり。
少将「一日(いちにち)なりとも、命を助けらるるこそ愚かならね」と、又泣きたまふも哀れなり。「『人の身に女子をば持つまじかりける者を』と云ひけるは、加様(かやう)の事を云ひけるにや」とぞ、宰相思ひ知られける。
少将又「我が身の少し延び行くに付けても、父大納言殿、如何(いかが)御坐(おはしま)す覧(らん)。是(か)計(ばか)り熱き比(ころ)に、装束も佻(くつろ)げず、一間所に押し罩(こ)められて、何(いか)に耐へ〓(がた)く御坐(おはしま)す覧(らん)と、〓(おぼつかな)く思ひ奉(たてまつ)り候ふ。何様(いかやう)にか聞食(きこしめ)され候ふ」と、宰相に向かつて問ひければ、「異左(いさ)とよ、知らず。御事計(ばか)りを執り申し候ふ。大納言殿の御事までは思ひも寄らず」と言へば、少将此れを聞いて、「誠に〓(ウレシ)く思はるれども、大納言失はれんにおいては、成経(なりつね)命生きても甘従(いかにせん)。只(ただ)同じ途(みち)にと思ひ候ふ」と言へば、宰相言ひけるは、「大納言殿の御事は、内大臣(ないだいじん)垂伏(たりふし)申されけるとこそ承(うけたまは)り候へ。然(さ)りとも御命失はれん程の事は御坐(おはしま)すまじと覚え候ふ」と言へば、成経(なりつね)手を合せて悦(よろこ)びけり。宰相此れを見て、「無慚(むざん)やな、子に非ざらん者は、誰か此れ程に憶(おも)ふべき。人は又子をば持つべかりける者を」とぞ、程無(な)く思ひ返されける。
少将の出でられける後、北の方を始め奉(たてまつ)り、母上・乳母(めのと)、臥(ふ)し沈みて起きも上らず、啾(な)き悲しむ有様、枕も床も朽(く)ちぬべし。何(いか)なる事をか聞かんずらんと、肝心(きもこころ)も有られず各(おのおの)思はれける程に、「宰相還(かへ)り入りたまふ」と云ひければ、「少将を打(う)ち捨てて御坐(おはしま)すにこそ。少将未(いま)だ命も失はれずは、恃(たのも)しき人に捨てられて、何(いか)計(ばか)り心弱く覚食(おぼしめ)すらん」と、各(おのおの)楹(モダ)へ焦(こが)れけるに、「少将殿も御返り候ふ」と、人先に走りて申せば、人々車寄せに出で向かつて、「実麼(まことかや)実麼(まことかや)」と声々に又泣き逢へり。宰相、少将と諸共(もろとも)に乗り具して還(かへ)り給へり。向後(きやうこう)は知らず、死したる人の生き還(かへ)りたる様に、歓(よろこ)び啾(な)きに泣き合ひけり。
宰相の言ひけるは、「入道(にふだう)殿の欝(いきどほ)り、事も斜(なの)めならず深く、対面も為(せ)られず、如勇(ゆゆ)しく悪しき様なりけれども、季貞(すゑさだ)を呼び出だして、教盛(のりもり)遁世(とんせい)の由(よし)を申しつる程に、渋々(しぶしぶ) 『然(さ)らば且(しばら)く教盛(のりもり)に預け置く』 と言ひつれども、始終善(よ)かるべしとも覚えず」と言ひければ、「縦(たと)ひ一日(いちにち)たりとも延び給ふ事こそ猗(うれ)しけれ。今朝立ち出づるを限りなりとも、二度(にど)見奉(たてまつ)る事」と、皆各(おのおの)〓(よろこびな)き逢へり。
此(こ)の平宰相の宿所(しゆくしよ)は、六波羅総門の故(ゆゑ)に、門腋(かどわき)の宰相と申しけり。西八条近き故(ゆゑ)に、世も猶(なほ)慎(つつま)しくて、門戸を閇(と)ぢ、蔀(しとみ)の上計(ばか)りを挙げて少将住まれけり。夜も漸(やうや)う深け行けば、「大納言殿父子(ふし)共に、今夜は延びけるに耶(や)」と、武士共皆悦(よろこ)び合へり。
又左衛門入道(にふだう)西光(さいくわう)を、今夜松浦太郎重俊に仰せ付けて、水火の責めに及ぶ処、西光(さいくわう)申しけるは、「『身は恩の為(ため)に使はれ、命は義に依(よ)つて軽し』と云ふ本文なり。然(さ)れば則(すなは)ち、我が身は君の奉為(おんため)に召し仕はれ、命は謀叛に与(くみ)するに依(よ)つて失はるる間、全(まつた)く以つて惜しからず。一生は纔(わづか)に夢の如(ごと)し。草葉に宿れる露に似たり。万事(ばんじ)は皆染に似たり。水上に漂(ただよ)へる沫(あわ)の如(ごと)し。然(しか)るに平家の一門以つての外に過分にて、一天下(いちてんが)を掌(たなごころ)の内に握(にぎ)り、万事(ばんじ)政(まつりごと)を心の任(まま)に行(おこな)ふ間、仏法を滅ぼし、王法を軽んず。茲(こ)れに因(よ)つて、忠臣且(かつ)うは逆鱗(げきりん)を息(やす)め奉(たてまつ)り、且(かつ)うは仏法を守護し、彼(か)の一門を亡すべき由(よし)、互に与力する所なり。彼(か)の謀叛、全(まつた)く以つて私に非(あら)ず。直饒(たとひ)露顕に逮(ヲヨ)ぶとも、頸を延べて陳じ申すべし。勅命を恐るる所無(な)く、剰(あまつさ)へ数輩(すはい)の官軍を召し取り、頸を截(き)らんと擬する条、冥の照覧も憚り有り。只今(ただいま)に天の譴(せ)めを蒙(かうぶ)り、一門の輩片時(へんし)に亡びん事
ふびん およ
不便(ふびん)なり。阿弥陀仏(あみだぶつ)、阿弥陀仏(あみだぶつ)」と申して、鼻笛を吹き居たり。凡(およ)そ西光(さいくわう)が詞とも覚えず。「天に口無(な)し、人の囀(さへず)りを以つて云はせよ」とは此(こ)の事にや。恐ろし恐ろしと、聞く人申しけり。
然(さ)る程に、西光(さいくわう)をば其の夜松浦太郎重俊此れを承つて、朱雀(しゆしやく)大路に引き出だして頸を誅(き)る。誅らるる所にても様々(さまざま)の悪口(あくこう)を吐くと聞えけり。走れ偏(ひとへ)に山王七社の御罸(ばつ)を蒙(かうぶ)りぬらんと恐ろしく覚えし。郎等三人誅られにけり。西光(さいくわう)が子共、加賀守(かがのかみ)師高(もろたか)・左衛門尉(さゑもんのじよう)師親・右衛門尉師平追討すべき由(よし)、入道(にふだう)静海(じやうかい)下知(げぢ)せられける間、武士共、尾張の配所に下つて、一一(いちいち)に切りにけり。
彼(か)の西光(さいくわう)法師(ほふし)父子(ふし)、共に院中の近習者(きんじゆしや)にて、世を世とも思はず、人を人とも為(せ)ず、神慮をも憚らず、人望にも背(そむ)きしかば、立所(たちどころ)に彼(かか)る目に逢ひにけり。「然(さ)見つる事よ」と世以つて謳謌(おうか)(ヲウか)しけり。「凡(およ)そ女と下臈(げらふ)は、傑気(さかしげ)なる様なれども、思慮無(な)き者なり」と云ふ事、是(こ)れ法令の文なり。西光(さいくわう)も云ひ甲斐(かひ)無(な)き下臈(げらふ)にて、終(つひ)に十善の君に近く召し仕はれて、果報忽(たちま)ち磐(ツキ)、天下の大事を引き出だし、我が身子共同じく殄(ホロビ)にけり。
十七 成親卿(なりちかのきやう)流さるる事
二日、大納言をば、夜漸(やうや)う曙(あ)くる程に、公卿(くぎやう)の座に出だし奉(たてまつ)り、物進(まゐ)らせ奉(たてまつ)る。胸押し塞(ふさ)がりて得(え)聞こし入れたまはず。既(すで)に車を指(さ)し寄せ、「怱々(とくとく)」と申しければ、意(こころ)ならず乗りたまひぬ。軍兵(ぐんびやう)多く打(う)ち囲みて、我が方の者は一人も無(な)し。我を何(いづ)ちへ具して行くやらんと告げ知らする人も無(な)し。小松殿に今一度会はば耶(や)と欲(おも)ひけれども、其れも叶はず。只(ただ)身に添ふ物とては涙計(ばか)りなり。
七条を西へ廻(まは)り、朱雀(しゆしやか)を南へ行きければ、大内山を顧みても思食(おぼしめ)し出だす事共多かりけり。鳥羽殿を遣(や)り過ぎたまへば、頃年(としごろ)頃日(ひごろ)見馴れ奉(たてまつ)りし舎人(とねり)・牛飼共、遥かに見送り奉(たてまつ)り、各(おのおの)涙を流すめり。外(よそ)の袂の柵(しがらみ)だに〓(しぼ)り堰(せ)き敢(あ)へ難く見ゆるに、何(いか)に矧(いはん)や、都に残り留る北の方・少(をさな)き人・所従(しよじゆう)・眷属(けんぞく)の心の中、推し量られて遖(あはれ)なり。
大納言、言ひけるは、「我が召し仕ひし者共三千余人も有りけんに、独りだにも付き副(そ)ふ者も無(な)くて」と独言(ひとりごと)を言ひて、声も惜しまず泣きたまふ。車の前後に候ひける兵共(つはものども)、此れを聞きて、皆鎧の袖を潤(ぬら)しけり。已(すで)に南門(なんもん)の程を出で給へば、御船の装束を調へ、「早々(ハヤはや)召(メセ)」と申しければ、「此(こ)は何地(いづち)へ行くぞ。左(さ)て失はるべくは、只(ただ)此(こ)の辺りにて計らふべし」と言ひけるぞ、責(せめ)ての事にやと糸惜(いとほ)しき。御車(みくるま)近く候ひける武士を見たまひて、「是(こ)は誰と云ふ者ぞ」と問ひたまへば、経遠(つねとほ)之(これ)を承つて、「難波(なんば)の次郎と云(マウス)者にて候ふ」と申しければ、「此(こ)の程に定めて我が方様(かたざま)の者や有るらん。尋ねて進(まゐ)らせよ。船に乗らぬ前(さき)に、云ひ置くべき事の有るぞ」と言ひければ、経遠(つねとほ)「其の辺りを走り回つて尋ね問ひけれども、答ふる者更(さら)に無(な)し」と申しければ、成親卿(なりちかのきやう)言ひけるは、「思ふに、入道(にふだう)に恐れてこそ答ふる者の無かるらめ。何(いか)でか此(こ)の辺りに、我が方の類(ユカリ)の者無からん。成親(なりちか)が命にも替らんと契りし侍一二百人も有りけんを、早晩(いつしか)替る心こそ恨みなれ」とて、泪を流したまへば、武(たけ)き勇夫(モノノフ)も皆鎧の袖を濡(ぬら)しけり。
又言ひけるは、「熊野と云ひ天王寺と云ひ、君の御参詣の時は、二つ甍葺(カハラぶ)き、三つ棟作りの船に御簾(みす)曳き、物の内に居たまひて、次の船には二三十艘計(ばか)り漕ぎ並べてこそ参りしに、此(こ)は猿(さる)体(てい)なる屋形船に、大幕計(ばか)り引き回して、我が方の者は一人も無(な)くて、未(いま)だ見も馴れぬ兵共(つはものども)と乗り連(つ)れて、何地(いづち)とも無(な)く漕ぎ出だされけり。然(さ)こそ悲しく思食(おぼしめ)しけめ。
今夜は大物(だいもつ)と云ふ所に泊りぬ。三日、未(いま)だ晩(く)れざるに、京より御使ひ有りとて囂(ひしめ)きけり。既(すで)に大納言を失はるべきにやと聞きたまひし程に、然(さ)は無(な)くて、「備前国へ」と云ひて、船を出だすべき由(よし)〓〓(ののし)る。内大臣(ないだいじん)殿より御文有り。大納言取り上げて此れを見るに、「都近き山里那(ナンド)に遷(うつ)し置き奉(たてまつ)るべく、力の及ぶ程申し候へども、遂(つひ)に叶はざる事こそ、世に在る甲斐(かひ)も無(な)く覚え候へ。左右(とかう)して御命計(ばか)りは申し請ひて候ふ」と書かれたり。其の上、旅宿の御具足(ぐそく)調へて、(一頁半の空白あり)濃々(こまごま)と送られけり。又瀬尾(せのをの)太郎保重が許(計)(もと)へも、「穴(あな)賢(かしこ)々(あな)々(かしこ)、大納言殿に御宮仕へ申すべし。疎略に当り奉(たてまつ)るべからず」と懇ろに仰せ下されけるこそ情け深く聞えしか。
夜も旋(ヤウヤク)明け行けば、「船疾(と)く出だせ」と〓(ののし)る。漫々たる大海に漕ぎ出だす。雲の浪(なみ)、煙の濤(ナミ)の上なれば、船の内にて身を焦(こが)す。近く召し仕ひし君をば別れ奉(たてまつ)り、眤じく馴れ来(コ)し雪上の其の類(ユカリ)も離(か)れ終(は)て、幼少(をさな)き人々を見捨てて、早晩(いつしか)皈(かへ)るべしとも無(な)き遠国(をんごく)、遥かなる堺へ赴(おもむ)きたまふぞ無慚(むざん)なる。
烏の頭の白く成り、馬に角生ふる其の期(ご)も何(いつ)と知り難ければ、只(ただ)配所の露と消ゆらんのみにて終(は)てんこそ悲しけれ。船の中、波の上の襟、湯水も更(さら)に聞こしめし入れたまはねば、御命永らふべしとも見えたまはねども、露の命も石流(さすが)に消えたまはず。日数も漸(やうや)く過ぎ行きて、都の方のみ恋しくて、跡(あと)の事のみ〓(おぼつかな)し。備前国児島と云ふ所に著(つ)き、民家の恠(あや)し気なる柴の庵に入れ奉(たてまつ)る。彼(か)の所は後ろは山、前は磯、松吹く風の音、岸打(う)つ波の響き、何(いづ)れも哀れを催(もよほ)す媒(なかだ)ちなり。
抑(そもそも)、此(こ)の大納言、一年(ひととせ)中納言なりし時、尾張国を知り給ひけるに、国司の代官に右衛門尉政知と申す者を下し遣(つか)はされけり。上洛(しやうらく)しけるに、山門の領美濃国平野の神人(じんにん)と事を出だしけり。其の故は、神人(じんにん)葛(くず)と云ふ物を持(も)ち来たりて売買為(せ)んと欲(し)けるを、直銭(ぢきせん)の多少を論じて、返さんとて筆を以つて葛(くず)に墨を付けたるを、神人(じんにん)、心得(え)ぬ事に云ふ程に、尤(とが)め揚りて、其れより神人(じんにん)、山門に訴へければ、山門又公家に奏す。国司成親(なりちか)を流罪(るざい)せられ、目代(もくだい)政知を禁獄せらるべき由(よし)、奏聞を経けり。然(さ)申す程こそ有りけれ、嘉応元年十二月廿四日、日吉(ひえ)七社の御輿(みこし)を洛中に振り奉(たてまつ)り、近衛の門を振り過ぎて、建礼門の前(まへ)に捨て置き奉(たてまつ)つて皈(かへ)りにけり。然(さ)る間、主上思食(おぼしめ)し駭(トドメ)られ、成親(なりちか)を備前国へ流罪(るざい)すべしとて、応(ヤガテ)其の日に西の朱雀(しゆしやか)に遷(うつ)されけり。目代(もくだい)政知をば即(すなは)ち禁獄せられけり。大衆(だいしゆ)軈(やが)て御成敗に預かる事悦(よろこ)びを成す。成親(なりちか)本より罪無(な)き者なり。召し返さるべしと申す間、五ヶ日を経て、同じき廿八日に西の朱雀(しゆしやか)より召し返され、同じき晦日(みそか)本位に補す。次の年正月五日(いつか)、左衛門督(さゑもんのかみ)を兼じて検非違使(けんびゐしの)別当(べつたう)に成る。従二位より正二位して大納言に成りたまふ。加様(かやう)に優(ゆゆ)しく栄え給へば、人見奉(たてまつ)りて、「大衆(だいしゆ)には呪咀(しゆそ)せらるべかりける物をや」とこそ申し敢(あ)ひしか。「神明の罰も人の呪咀(しゆそ)も、速遅の不同こそ有れ、今、有右(かかる)目(め)に逢ひたまへるは」と人々申しけり。所も備前国へと定まる事こそ不思議なれ。
大納言曰(のたま)ひけるは、「一年(ひととせ)山の大衆(だいしゆ)の訴訟にて唱立(おびたた)しかりしをだに、西の朱雀(しゆしやか)まで遣(つか)はさること有りしが、軈(やが)て召し返されき。是(こ)れは大衆(だいしゆ)の訴訟にも非(あら)ず、君の御誡(いまし)めにても無(な)し。如何(いか)なりける事かな」と、天に仰ぎ地に臥(ふ)して、悲しみ給ふぞ無慙なる。
然(さ)る程に、新大納言父子(ふし)のみにも限らず、禁(いまし)めらるる人々、其の数多かりけり。近江(あふみの)入道(にふだう)蓮浄(れんじやう)・法勝寺(ほつしようじ)の執行(しゆぎやう)俊寛(しゆんくわん)・山城守(やましろのかみ)基兼(もとかぬ)・式部大夫(しきぶのたいふ)章綱(まさつな)・平(へい)判官(はんぐわん)康頼(やすより)・宗(そう)判官(はんぐわん)信房(のぶふさ)・新平(しんぺい)判官(はんぐわん)資行(すけゆき)等(ら)なり。是(こ)れ皆八条殿より召し取られけり。
十八 成経(なりつね)・康頼(やすより)・俊寛(しゆんくわん)、鬼海が嶋へ流さるる事 康頼(やすより)、嶋において千本の卒都婆を造る事
廿日、太政(だいじやう)入道(にふだう)、福原より平宰相の許(もと)へ申されけるは、「丹波の少将を此れへ渡し奉(たてまつ)り給へ。相(あ)ひ計ひて何方(いづかた)へも遣(つか)はすべし。都に置き奉(たてまつ)りては猶(なほ)悪しかるべし」と申し送られたりければ、宰相澆(あき)れて神(たましひ)を失ひ、「此(こ)の程日数を経れば、取り延ぶる心も有りつるに、又二度(ふたたび)物を思はする事の悲しさよ。中々(なかなか)尓(そ)の時、爾(と)も此(か)くも成るべかりけるものを」と思はれけるが、今度(こんど)は思ひ切りて、「疾(と)う疾(と)う」と云ふ。少将、又立ち出でながら言ひけるは、「成経(なりつね)、今日(けふ)に至(いた)るまでも有りつることこそ不思議なれ。」北の方も乳母(めのと)の六条も、今更(いまさら)に絶え入り泣き悲しみて、「猶々宰相殿の申し給へかし」と各(おのおの)思はれけり。少将は尚(なほ)四歳の若君を呼び寄せ、「先に言ひしが如(ごと)く、汝七歳に成らば、元服(げんぶく)させて御所に進(まゐ)らせんと思ひしかども、今は云ふに甲斐(かひ)無(な)し。首(かしら)堅(かた)く長(そだ)ちたらば、法師(ほふし)に作(な)りて、吾が後生(ごしやう)を訪(とぶら)へ」と言(のたま)へば、若公(わかぎみ)四つに成りたまふ間、何とは聞き分かねども、打(う)ち点頭(ウなヅ)き給ふぞ遖(あはれ)なる。宰相「今は詮ずる所、世を棄つるより外は算(ハカコト)は無(な)し。然(さ)れども御命を失はるる程の事は世も候はじ」とぞ言ひける。
廿二日、少将福原へ御坐(おはしま)しけるを、瀬尾(せのを)の太郎兼康に仰せて、備中国へ遣(つか)はす。宰相の返り聞かんことを憚りて、様々(さまざま)に労(いた)はり奉(たてまつ)り、志(こころざし)有る体(てい)にこそ振舞ひけれ。然(さ)れども少将〓(ナぐさ)みたまはず、夜昼泣(な)くより外の事は無(な)し。大納言の御坐(おはしま)しける難波(なんば)と云ふ所と、少将の御在す瀬尾(せのを)と云ふ所は、其の間(アヒ)僅(わづ)かに卅余町なり。瀬尾(せのを)の太郎に「大納言の御在す所へは幾程有るぞ」と問ひたまへば、「片道十三日に罷(まか)り候ふ」とぞ申しける。少将之(これ)を聞きたまひて、「備中・備前両国の間遠しといへども、片道両三日には過ぎじ。近きを遠しと云ふは、知らせじが為なり」と思はれければ、其の後は曾(かさね)て問ひたまはず。
廿三日、大納言は少しも佻(くつろ)ぎたまはず、太太(いとど)歎きぞ増されける。「少将も福原へ召し取られたる由(よし)聞えしに、今に至(いた)るまで形勢(さま)をも替へずして、面無(ツレな)く月日(つきひ)を過すことも恐れ有り。今は何事をか待つべき」とて、小松殿に申して、出家入道(にふだう)したまひけり。爰(ここ)に大納言の頃年(トシゴロ)糸惜(いとほ)しみ深かりける侍に、源左衛門尉(げんざゑもんのじよう)信俊(のぶとし)と云ふ者有りけり。或(あ)る暮れに、北の方、信俊(のぶとし)を召して言ひけるは、「殿は備前の難波(なんば)に流されたまふと聞けども、生躰(い)きてや御坐(おはしま)すらん、死にて耶(や)御坐(おはしま)すらん、厥(そ)の行栖(ゆくへ)も知らず。此方(こなた)の事も何(いか)計(ばか)りか聞かま慕(ホシ)く欲(おぼ)すらん。汝尋ねて参りなんや否や」と言へば、信俊(のぶとし)涙を抑(おさ)へて、「限りの御共をこそ仕るべく候へども、御方様(かたざま)の者(モノ)は一人も付き奉(たてまつ)らざる由(よし)を承つて、思ひながら留まり候ひぬ。然(しか)るに此(こ)の仰せを承(うけたまは)り候ふ上は、尤(もつと)も所望の次第なり。善悪(ぜんあく)、御文を賜(たま)はり、尋ね参るべし」と申しければ、北の方大きに悦(よろこ)び、御文を書きて給はつてんげり。若公(わかぎみ)・姫公も面々に色葉の字を拾ひ、文を書き、信俊(のぶとし)に取らせたまふ。
信俊(のぶとし)泣(な)く泣(な)く難波(なんば)に下り、守護の者共に逢ひて、「此れは大納言殿に年来(としごろ)召し仕はれ候ひし源左衛門と申す者にて候ふ。余りに見奉(たてまつ)り度(た)く存ずるが故(ゆゑ)に、遥々と此れ至(まで)尋ね参つて候ふ」と申せば、「何(なに)か苦しかるべき」とて、之(これ)を赦(ゆる)す。信俊(のぶとし)近く参つて、墨染の御袂を見奉(たてまつ)るに、只(ただ)一目見奉(たてまつ)つて、御前に顛(たふ)れ臥(ふ)し、叫び喚(をめ)くこと限り無(な)し。大納言入道(にふだう)も涙に〓(むせ)び、物も言はず。良(やや)久(しばら)くあつて、大納言言ひけるは、「多くの者共(ども)の中に、汝独り尋ね来たる志(こころざし)こそ有り難けれ。北の方・少なき者共(ども)の形勢(ありさま)は如何(いか)に」と問ひたまへば、「北山の辺り雲林院(うりんゐん)と申す所に深く忍びて御坐(おはしま)し候ふ」とて、御歎きの浅からぬ御有様、若君・姫君の恋ひ慕(シタ)ひ奉(たてまつ)る御事を、濃(こま)かに語り申して、御文共を取り出だして之(これ)を奉(たてまつ)りけり。入道(にふだう)此れを披(ひら)いて見たまふに、涙の色に樒陰(かきく)れて、其の言(こと)の端(は)も見も分かず。然(さ)れども、涙の間(ヒマ)より此れを読みけるに、北の方の御心中、若君・姫君の筆の跡(あと)、主(ぬし)に対(むか)ふが如(ごと)くして、太太(いとど)涙を流しけり。
信俊(のぶとし)、昔今の物語して、二三日候ひて、泣(な)く泣(な)く又申しけるは、「此(こ)の御形勢(ありさま)をも見奉(たてまつ)り度(た)くは存じ候へども、北の方、何(いか)計(ばか)りか御音信(おとづれ)を聞度(きかまほ)しく思食(おぼしめ)され候ふらん。怱(いそ)ぎ御返事を賜(たま)はつて、又こそ参り候はめ」と申せば、大納言「尤(もつと)も然(しか)るべし。我何(いか)にも成りぬと聞かば、後世(ごせ)をこそ訪(とぶら)へ」とて、御返事共濃(こま)かに書きたまふ。御返事共の中に、鬢髪を裹(つつ)み添へ、信俊(のぶとし)に給ふ。信俊(のぶとし)泣(な)く泣(な)く都に上り、此れを奉(たてまつ)りたりければ、北の方も少なき人々も、御文〈 并びに 〉御髪(みぐし)を見たまひて、謳(をめ)き叫び悶(もだ)へ焦(こが)れ給ふ事斜(なの)めならず。寔(マコト)に目も当てられぬ有様なり。
丹波の少将をば瀬尾(せのを)の太郎に預けて備中国へ遣(つか)はされたりける程に、法勝寺(ほつしようじ)の執行(しゆぎやう)俊寛(しゆんくわん)僧都(そうづ)・平(へい)判官(はんぐわん)康頼(やすより)等を、薩摩方(さつまがた)鬼海が嶋へ流されける間、同罪為(た)るに因(よ)つて、少将をも相(あ)ひ副(そ)へて遣(つか)はされけり。平(へい)判官(はんぐわん)康頼(やすより)は内外の達者(たつしや)、風月の才人なる上、内々(ないない)道心有りければ、摂津国にて形勢(さま)を替へてんげり。出家は本よりの望みなれば、斯(か)くぞ思ひ連(つづ)けける。
「遂(つひ)に此(か)く背(そむ)き終(は)てけん世の中を 疾(と)く捨てざりし事ぞ悔しき
彼(か)の嶋は、薩摩国より遥かに海上(かいしやう)を渡りて行く所なり。硫黄(いわう)と云ふ物多き故(ゆゑ)に硫黄(いわう)が嶋とは申すなり。波高く磯荒(あ)れ、船を覆(くつがへ)すこと雲南(うんなん)の濾水(ろすい)の如(ごと)し。然(さ)れば則(すなは)ち、邂逅(たまさか)にも渡る人無(な)し。彼(か)の嶋には人稀なり。自(おの)づから有る者は、此(こ)の土の人にも似ず、色極(きは)めて黒くして漆(ウルシ)を点(サ)すが如(ごと)し。身には毛多く生ひて肌(はだへ)も陰(かく)るべし。只(ただ)偏(ひとへ)に牛頭(ごづ)の如(ごと)く、馬頭(めづ)に似たり。云ふ詞をば人更(さら)に聞き知らず。服(き)る物無(な)く、腰には海雲(もづく)と云ふ物を纏(まと)ひ著(き)たれば落衣(たうさき)の如(ごと)し。男は烏帽子も著(き)ず、駻鬘(ハネカワ)と云ふ物を為(し)たり。女は髪も裹(つつ)まず、梳(くしけづ)ることも無(な)し。男女共に鬼神(おにかみ)の如(ごと)く、夜叉に似たり。園の桑葉を耨(す)かざれば、更(さら)に絹布の類(たぐひ)無(な)し。下賤(シヅ)が沢田を鋤(かへ)さねば、増して米穀の類(たぐ)ひ稀なり。昔は鬼が住みける間、又鬼海が嶋とも名(なづ)けたり。凡(およ)そ此(こ)の嶋には、常に黒雲天を覆(おほ)ひ、月日(つきひ)の光も更(さら)に見えず。鎮(とこしな)へに白浪(しらなみ)地を動かし、風水の響き共に弁(わきま)へ難(がた)し。嶋の中には高山有つて、早晩(いつしか)とも無(な)く火焔(かえん)劫(も)え立ち燎(も)え上がる。昼夜雷の音隙(ひま)無(な)く、電光荐(しきり)に閃々(ひらめ)いて、昼夜六時に肝を消す。寔(まこと)に一日片時(いちにちへんし)も命有るべき様も無(な)し。
然(さ)れば則(すなは)ち、三人額(ひたひ)を合はせて、「此(こ)の流罪(るざい)は死罪(しざい)には増したり」と、泣(な)くより外(ほか)の事は無(な)し。
康頼(やすより)出家の後は判官(はんぐわん)入道(にふだう)聖照(しやうせう)とぞ申しける。身の程才覚有りければ、常に詩を作り、歌を詠(えい)じて慰(なぐさ)む程に、少将も此れに引(ひ)かれて心を遣(や)りたまふ。然(さ)りながら、我等が身は先世(せんぜ)の業(ごふ)と思へば力及ばず。旧里(ふるさと)に残り留まる人々の歎き、思ひ遣(や)られて哀れなり。偶(タマタマ)の夜枯(よがれ)だにも心本(こころもと)無(な)く思はれし中共なるに、都の外、雲井の空、八重(やへ)の塩路を隔てけん、互ひの心ぞ糸惜(いとほ)しき。僧都(そうづ)は余りの歎きに疲れて、岩間の床に泣き居たり。判官(はんぐわん)入道(にふだう)は痛く泣き悲しみても由(よし)無(な)しとて、仏を念じて夜を明かし、神を恃(たの)みて皈京(ききやう)を祈りけり。
康頼(やすより)入道(にふだう)責(せめ)ての悲しさの余りに、千本の率都婆(そとば)を作り、上には〓字(あじ)を書き、下には二首の歌を書き付けて、裏には年号月日付を為(し)て、毎日に三度海上(かいしやう)に此れを浮かべたり。其の二首の歌に曰(いは)く、
薩摩方(さつまがた)澳(おき)の小嶋に吾有りと 親には告げよ八重(やへ)の塩風
想像(おもひや)れ暫(しば)しと思ふ旅だにも 猶(なほ)旧郷(ふるさと)は恋しき物を
左(と)、二首の歌を書き付けて、墨は波に消ゆる事もや有るとて、文字(もじ)を彫(ゑ)りて墨を入れけるとか耶(や)。
聖照(しやうせう)の思ひや風に成りけん、率兜婆一本は住吉の西の浦に吹き著(つ)けられ、一本は安芸国厳嶋の社の前の渚に寄りたりけるこそ不思議なれ。
其の比(ころ)、康頼(やすより)が為(ため)に縁(ユカリ)なりける僧の、余りに母の歎きし間、其の行栖(ゆくへ)聞かばやとて、浦々を修行(しゆぎやう)して回りけるが、厳嶋の社にぞ参りける。「彼(か)の明神と申すは、娑竭羅龍王(しやかつらりゆうわう)第三の姫宮にて、本地(ほんぢ)は大日如来なり。八所の社は軒を衝(キシ)る。百八十間の回廊は甍(いらか)を並べたり。凡(およ)そ此(こ)の地の為体(ていたらく)や、後ろには青山峨々(がが)として瀧落ち、前(まへ)には滄海(さうかい)漫々として浪(なみ)静かなり。風松〓(しようぜん)の梢(こずゑ)を払へば妄想(まうざう)の眠りも覚(さ)めぬべし。月社壇(しやだん)の甍(いらか)を照らせば無明(むみやう)の闇も晴れんと欲(す)。潮満ち来たる時には瀾(なみ)の面に鳥居立ち、潮だに晞(ひ)れば白洲(シラス)にて、夏の夜なれども霜ぞ置く。実(まこと)に和光の利益(りやく)は何(いづ)れも区々(マチマチ)にて在(ましま)すといへども、何(いか)なる因縁を以ちてか、此(こ)の明神は殊に海〓(かいはん)の鱗(いろくづ)に縁を結び給ふらん」と、思ひ回(めぐ)らし奉(たてまつ)れば、太太(いとど)信仰(しんがう)深かりけり。
七日当社に参籠して、「康頼(やすより)が事を聞かせたまへ」と祈りける程に、既(すで)に一七日(いちしちにち)に満ずる夜、月出でて塩の満つるに及び、其墓(そこはか)とも無(な)く海雲(もづく)の流れ寄りけるに、件(くだん)の率都婆を見付けたり。夜曙(あ)けて之(これ)を見るに、康頼(やすより)入道(にふだう)の手跡(しゆせき)なり。上には「平(へい)判官(はんぐわん)入道」と書き付けたり。此(こ)の僧怱(いそ)ぎ洛(みやこ)に上り、北山の紫野(むらさきの)に忍び入り、母の行柄(ゆくへ)を尋ねけるに、母も又思ひの余りに八幡(やはた)に籠(こも)り、「康頼(やすより)が行柄(ゆくへ)を聞かせ給へ」と祈りし程に、今日(けふ)已(すで)に七日に成りぬ。其の暁(アカツキ)、示現(じげん)を蒙(かうぶ)り、下向せんと欲(す)る処に、彼(か)の僧既(すで)に八幡(やはた)に参り、件(くだん)の率兜婆を見せたりければ、違はぬ康頼(やすより)が手にて、「平康頼(やすより)、今は法名聖照(しやうせう)」とぞ書いたりける。
母此れを見て、「無慚(むざん)やな、『親には告げよ八重(やへ)の塩風』と書きぬらん我が子(こ)の心中こそ糸惜(いとほ)しけれ。三人が中にも故(ことさら)に歎くと聞きしかば、路(みち)にても死にやすらんと思ひしに、然(サテ)は嶋至(まで)著(つ)きぬるにや。別れし時の思ひより、此(こ)の率都婆(そとば)を見るに、中中肝塊(きもたましひ)も消えぬべし。責(せめ)ての思ひの余りにてこそ、率都婆(そとば)に歌をも書きつらめ。何(いか)に中々(なかなか)に率都婆(そとば)よ、漢家大国(だいこく)唐(モロコシ)の方へも行かずして、何しに此れ至(まで)漂(エラ)れ来て、老(おい)の尼に二度(ふたたび)憂(う)き目を見する悲しさよ」とて、率都婆(そとば)を額(ひたひ)に押し当て、天に仰ぎ地に俛(ふ)して、悶(もだ)へ焦(こが)れ給ひけり。
然(さ)れば、法皇此(こ)の由(よし)を聞食(きこしめ)して、宮人を遣(つか)はし、率都婆(そとば)を召し寄せて叡覧(えいらん)有り、忝(かたじけな)くも御涙に〓(むせ)び給ひけり。内大臣(ないだいじん)重盛(しげもり)之(これ)を給はつて、父相国に見せければ、相国は都也々々(ツヤつや)之(これ)を用ゐず、「京中の奴原(やつばら)が作り事なり」とて、返つて嘲哢に及びける処に、今一本の率都〔婆〕住吉より洛(みやこ)に上りたり。彼此(かれこ)れ二本少しも違はぬ一筆の手跡(しゆせき)なり。尓(そ)の時にこそ、差(さ)しも横紙を破られし静海(じやうかい)も、少し哀れ気に思はれけるとか耶(や)。
康頼(やすより)三年の夢覚(さ)めて都に還(かへ)り上る至(まで)、此(こ)の歌を口〓(くちずさ)み翫(もてあそ)ばぬ人は無(な)し。昔の蘇武(そぶ)は五言の詩を作り、母の恋しさを止(とど)め、今の康頼(やすより)は二首の歌を読み、親の思ひを慰(尉)(なぐさ)む。彼は雲の上、此れは濤(ナミ)の上、彼は唐朝、此れは我が朝。和漢境は異なれども、祖子(おやこ)の契りは是(こ)れ同じ。遠近所阻(ヘダ)つるといへども、配流の悲しみ是(こ)れなり。何(いづ)れも何(いづ)れも哀れなる事共なり。
然(しか)るに、大納言入道(にふだう)殿は、配所の心憂(こころう)さ、都の恋しさ、遣(や)る方無(な)く思はれけるに耶(や)、七月十日比(ごろ)より、日に随つて弱られければ、露の命の消えぬ前(さき)に、今一度恋しき人々を見奉(たてまつ)り度(た)く思はれけれども、京都より「疾(と)く疾(と)く失ひ奉(たてまつ)るべし」とて使ひ有りければ、難波(なんば)の次郎之(これ)を承(うけたまは)り、二三日食事を断ち、酒に毒を入れて殺し奉(たてまつ)るとぞ聞えし。又谷底に菱(ヒシ)を殖(う)ゑて、高き所より突き懸けて失ひ奉(たてまつ)るとも云ひ伝へたり。又船に乗せ奉(たてまつ)り、澳(おき)に漕ぎ出でて罧禦(ふしづけ)に為(し)たりとも云(い)へり。三儀の中に、菱(ひし)に串(つらぬ)き給ふは一定(いちぢやう)なり。難波(なんば)が後見に智明と云ふ法師(ほふし)の沙汰と為(し)て、失ひ奉(たてまつ)るとぞ聞えし。彼(か)の法師(ほふし)が最愛(さいあい)の娘を三人持(も)ちけるが、始めは大き娘が物に狂ひ、野山に走り、大納言の詞を吐き、様々(さまざま)の事共を〓(ののし)り、終(はて)には宿所(しゆくしよ)の後ろの竹の内へ走り入り、竹の切り栓(くひ)に身を串(つらぬ)きて失せにけり。一人の右(かく)有るを不思議に思ひたれば、妹二人も又此(か)くの如(ごと)く少しも違はず、右(かく)串(つらぬ)かれて死ににけり。然(さ)てこそ、大納言の菱(ひし)に串(つらぬ)かれ給ふ議は一定(いちぢやう)なりと顕れにけれ。
此れを伝へ聞きたまふ北の方の心中、推し量られて哀れなり。北の方は、若(も)し互に命有らば、替らぬ姿を今一度見え奉(たてまつ)らんと欲(おも)ひ、髪を付けたれども、今は何(いか)にか為(せ)んとて、雲林院(うりんゐん)の僧坊にて忍びて御髪(みぐし)を落としたまふ。君達(きんだち)も皆形勢(さま)を疲(ヤツ)し、滋(こ)き墨染に引き替へて、孝養(けうやう)報恩より外(ほか)は佗事(たじ)無(な)くぞ修(しゆ)せられける。哀れなりし事共なり。
十九 讃岐院(さぬきのゐん)追号の事
廿九日、讃岐院(さぬきのゐん)御追号有つて、崇徳院(しゆとくゐん)と名づけ奉(たてまつ)る。是(こ)れは則(すなは)ち鳥羽天皇の一の宮にて、新院と云はれし時、謀叛を発(おこ)したまひし事なり。保元元年七月二日、本院鳥羽天皇〈 諱(いみな)を宗仁と云ふ。 〉崩御有り。同じき十一日卯の尅(こく)に、新院と当今後白川天皇〈 諱(いみな)を雅仁と云ふ。 〉と大極殿(だいこくでん)において御合戦有り。新院遂(つひ)に打(う)ち負けさせ給ひて、同じき十二日、御年廿一にて御餝りを落とさせたまひ、同じき廿三日、讃岐国(さぬきのくに)志度の道場に遷(うつ)されたまひぬ。
年月を経させたまふ程に、強(あながち)に都を恋しく思食(おぼしめ)されける間、度々(たびたび)主上〈 高倉院か。 〉に申されけれども、御佻(くつろ)ぎ無かりければ、弥(いよい)よ御恨み深くして、我が身の御事は力及ばず思食(おぼしめ)されけれども、殊に著(ツ)き奉(たてまつ)る所の女房達の、斜(なの)めならず古京を恋ひ慕ひけるを、御心苦しく思食(おぼしめ)され、法性寺(ほつしやうじ)の関白忠通(ただみち)の許(もと)へ、「能(よ)き様に誼(はから)ひ申すべき」由(よし)、仰せられけれども、世の中に恐れを作(な)して、御披露も無かりければ、新院思食(おぼしめ)し切つて、御一筆にて五部の大乗経を書写(アソバ)し、都へ申させ給ひけるは、「人間界に生きたる効(シルシ)に、且(かつ)うは後生(ごしやう)菩提(ぼだい)を祈らんが為(ため)に、此(こ)の三年が程、五部の大乗経を書き集めて候ふを、貝鐘の音もせぬ遠国(をんごく)の山中に捨て置く事、浅猿(あさまし)く覚え候ふ。然(しか)るべくは、御経計(ばか)りを洛中・八幡(やはた)・鳥羽辺りに入れ奉(たてまつ)り、納め奉(たてまつ)るべき」由(よし)、申させ給ひける。其の状の奥に一首の御詠有り。
浜千鳥跡(あと)は都に通(カよ)へども 身は松山に音(ネ)をのみぞ鳴く
此(こ)の御書をば、今度(こんど)は小室(おむろ)へ申されければ、小室(おむろ)此れを御覧ぜられて、世に哀れに思ひ奉(たてまつ)り、此(こ)の由(よし)聊(いささ)か関白殿に申させ給ふ。大内にて御僉議(せんぎ)有りて云はく、「流人の御自筆の御経を争(いかで)か主も無(な)く洛(みやこ)に入れ給ふべき」とて、入れ奉(たてまつ)るに及ばざりける間、讃岐院(さぬきのゐん)此(こ)の由(よし)を聞食(きこしめ)して、「心憂(こころう)き事かな。百済・高麗(かうらい)・新羅、異朝に至(いた)るまで、兄弟国を諍(あらそ)ひ、伯父甥(をひ)官を論(あげつら)ひて、合戦を致す事は常の習ひなり。然(さ)れども果報の勝劣に依(よ)つて、兄は負け伯父は負けて、手を合はせて降(かう)を請へば、辣(から)き辜(ツミ)に行(おこな)ふこと無し。我悪行(あくぎやう)の心を起こすに非(あら)ず。此れを書くことは、今生(こんじやう)の名望を思ひ捨て、後世(ごせ)菩提の為(ため)に御経を書き奉(たてまつ)れば、置き所をだに免(ゆる)されず。只今(ただいま)生計(ばか)りの敵(かたき)に非(あら)ず、後生(ごしやう)至(まで)の敵(かたき)ごさんなれ」と仰せられて、御舌の端(はし)を喰ひ切り、其の血を以つて経の軸の本毎(もとごと)に御誓状を書(あそば)されけるは、「我が此(こ)の五部の大乗経を三悪道(さんあくだう)に投げ入れて、其の大善力を以つて日本国の大魔縁と成り、必ず此(こ)の怨(うら)みを酬(むく)いん」と誓ひ給ひて、件(くだん)の御経を千尋の底に沈められけり。御爪をも切らず、御髪(みぐし)をも剃らず、生きながら天狗の質(かたち)を現したまふ。
然(さ)る程に、九ヶ年の星霜(せいざう)を経て、長寛二年〈 甲申(きのえさる) 〉八月廿二日、御歎きや疾(ヤマイ)と成りにけん、御年四十六の時、府中の堤(つつみ)の岡にて遂(つひ)に隠れさせ給ひにけり。白峯(しらみね)と申す山寺にて此れを茶毘(だび)にし奉(たてまつ)る。差(さ)しも思食(おぼしめ)しける執心の故(ゆゑ)に麼(ヤ)、茶毘(だび)の煙も外(よそ)へは散らず、都の方へぞ靡(なび)きける。「御骨をば必ず高野山(かうやさん)へ送るべき」由(よし)、御遺言(ごゆいごん)有りけるが、其れも何(いか)がなりにけん、御存知に耶(ヤ)と〓(おぼつかな)し。
其の比(ころ)、或(あ)る者夢想を見る事有りけり。讃岐院(さぬきのゐん)の御輿(コシ)を仕つて、内裏の左衛門の陣より入れ奉(たてまつ)らんと欲(す)。供奉(ぐぶ)の輩は、保元の合戦の時亡びし為義(ためよし)・忠正・家弘等は皆悉(ことごと)く御共に候ふ。「此(こ)の内裏は八大明王の守護し奉(たてまつ)る間、入らせ給ふべき隙(ひま)無(な)く候ふ」と申しければ、「然(さ)らば清盛が宿所(しゆくしよ)へ仕れ」とて、太政(だいじやう)入道(にふだう)の西八条へ入れ奉(たてまつ)る、と見て後こそ、入道(にふだう)の悪行(あくぎやう)は日に随つて勧(すす)みけれ。
去る仁安三年〈 戊子(つちのえね) 〉冬の比(ころ)、西行法師(ほふし)名を改めて円信聖人(しやうにん)と云はれけるが、国々を修行(しゆぎやう)しける次(つい)でに、讃岐(さぬき)の松山に来臨す。「抑(そもそ)も此れは新院の渡らせ給ひし所ぞかし」と思ひ出だし奉(たてまつ)り、見回しけれども、敢(あへ)て其の御跡形(あとかた)も無(な)し。哀れに覚えさせ給ひて、
「松山に浪(なみ)に流れて来し船の 軈(やが)て空しく成りにけるかな
御墓は白峯(しらみね)と云ふ所に有りと聞きて、彼(か)の所に詣でて見奉(たてまつ)るに、法花三昧(ほつけざんまい)を勤むる僧一人も無(な)し。恠(あや)しの国人の墓の如(ごと)くに、草深くして分け難(がた)し。「昔は九重の中に綾羅(りやうら)錦繍(きんしう)の御衣に纏(まと)はれて明し暮し給ひしが、今は八重(やへ)の葎(ムぐラ)の下に伏し給ふこそ悲しけれ」とて、聖人(しやうにん)御墓に向ひ居て、一一(つらつら)世間の無常(むじやう)を観じながら、斯(か)うぞ思ひ連(つづ)けける。
「吉(よし)や君昔の玉の床尓(トテ)も 有右(かから)ん後は何(いか)にかは為(せ)ん
負(おひ)を木の本に寄せ立て、柴の庵を結構し、七日七夜勤行(ごんぎやう)して、「過去(くわこ)聖霊(しやうりやう)出離(しゆつり)生死(しやうじ)」と祈り奉(たてまつ)り、然(サテ)有るべきに非ざれば、暇(いとま)を申して御墓より出るとて、二首の歌をぞ書き付けける。
「此(こ)こを又我住み憂(う)くて浮(ウカレ)なば 松は独りに成らんと耶(や)為(す)る
「引き替へて我が後の世を問へよ松 跡(あと)慕ふべき人も無(な)き身ぞ
二十 宇治の悪左府(あくさふ)、贈官の事
八月三日、宇治の左大臣の贈官贈位の御事有るべしとて、少納言将基御使ひと為(し)て、彼(か)の御墓所(ごむしよ)へ参り向ひ、宣命を捧げて、太政(だいじやう)大臣(だいじん)正一位(しやういちゐ)を贈り奉(たてまつ)る由(よし)、御墓所(ごむしよ)に読み懸け奉(たてまつ)る。彼(か)の御墓所(ごむしよ)は、大和国添上(ソウカミ)の郡(こほり)、河上の村般若野(はんにやの)の御三昧(ごさんまい)なり。昔死骸(しがい)を掘り起こして、棄てられし後は路(みち)の頭(ホトリ)の土と成り、年々に春の草のみ滋(しげ)く生ひて、其の迹(あと)更(さら)に見え分かず。朝家(てうか)の御使ひ尋ね入つて、勅命の旨を伝へけるに、亡魂如何(いか)が覚食(おぼしめ)すらんと、〓(おぼつかな)くぞ覚えし。
思ひの外の事共出で来て、世を乱ること直也事(ただこと)ことに非(あら)ず、偏(ひとへ)に死霊の致す所とぞ、人々計らひ申されければ、加様(かやう)にも行はれけり。
冷泉院(れいぜいゐん)の物狂はしく在(ましま)しけるも、死霊の故なり。三条院の御目の暗かりけるも、元方の民部卿(みんぶきやう)の怨霊とぞ承(うけたまは)る。昔も今も怨霊・死霊は恐しき事なれば、早良廃太子(サウラハイたいし)をば崇道(しゆだう)天皇と号して、井上(ゐがみ)内親王をば皇后の職位(しきゐ)に補すと云(い)へり。是(こ)れ皆怨霊を宥(なだ)められし謀(はかりこと)とぞ承(うけたまは)る。
同じき四日、改元有つて、治承元年と申しけり。
源平闘諍〔録〕巻第一下
本に云はく、建武四年二月八日。又文和四年三月廿三日、之(これ)を書くなり。
源平闘諍録 五
〔目録〕
源平闘諍録 巻第五
一、兵衛佐(ひやうゑのすけ)、坂東の勢を催(もよほ)す事
二、加曾利の冠者(くわんじや)、千田(ちだの)判官代(はんぐわんだい)親正と合戦する事
三、妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)の本地(ほんぢ)の事
四、頼朝、大勢を聳(たなび)かし、富士河の軍(いくさ)に向かふ事
五、権亮(ごんのすけ)維盛(これもり)、討手(うつて)の使ひとして東国へ下向する事
六、義経、浮嶋が原において副将軍(ふくしやうぐん)と成る事
七、佐竹太郎忠義、梶原(かぢはら)に生け取らるる事
八、上総介(かづさのすけ)、頼朝と中違ふ事
九、山門奏状の事
十、都遷(うつ)りの事
十一、近江源氏(あふみげんじ)、責め落とさるる事
十二、南都の牒状(てふじやう)の事
十三、南都の炎上(えんしやう)の事
十四、東大・興福(こうぶく)造営の沙汰の事
一 兵衛佐(ひやうゑのすけ)、坂東の勢を催(もよほ)す事
治承四年九月四日、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝、白旗差(サ)して五千余騎の兵(つはもの)を率して、上総(かづさの)国より下総国(しもふさのくに)へ発向す。爰(ここ)に上総(かづさの)権介(ごんのすけ)広常、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)の御前に跪(ひざまづ)きて申しけるは、「君は此(こ)の程の軍(いくさ)に疲れさせたまひしうへ、兵共(つはものども)も進み難くす。荒手(あらて)の随兵(ずいひやう)を以つて広常先陣(せんぢん)を仕らんと欲す。広常に相(あ)ひ随ふべき輩(ともがら)には、臼井の四郎成常・同じく五郎久常、相馬(さうま)の九郎常清・天羽(あまウ)の庄司(しやうじ)秀常・金田の小太郎康常・小権守(ごんのかみ)常顕・匝瑳(さふさ)の次郎助常・長南の太郎重常・印東(いんとう)の別当(べつたう)胤常・同じく四郎師常・伊北の庄司(しやうじ)常仲・同じく次郎常明・大夫(たいふ)太郎常信・同じく小大夫(たいふ)時常・佐是の四郎禅師等を始めと為(し)て、一千余騎の兵(つはもの)を率して発向すべき」由(よし)を申す処に、千葉介(ちばのすけ)常胤(つねたね)申しけるは、「権介(ごんのすけ)の所望謂(いは)れ無(な)し。他国は知らず、下総国(しもふさのくに)においては他人の綺(イロイ)有るまじ。常胤(つねたね)先陣(せんぢん)を仕るべし」とて、相(あ)ひ随ふ輩(ともがら)は、新介胤将・次男師常・同じく田辺田の四郎胤信・同じく国分の五郎胤通(たねミチ)・同じく千葉の六郎胤頼・同じく孫堺の平次(へいじ)常秀・武石(たけいし)の次郎胤重・能光(よしミツ)の禅師等を始めと為(し)て、三百余騎の兵(つはもの)を引率して、下総国(しもふさのくに)へ打(う)ち向かひけり。
二 加曾利の冠者(くわんじや)、千田(ちだの)判官代(はんぐわんだい)親正と合戦する事
然(さ)る程に、平家の方人(カタウド)千田(ちだ)の判官代(はんぐわんだい)藤原の親正、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)の謀叛を聞いて、「吾当国に在(あ)りながら、頼朝を射ずしては云ふに甲斐(かひ)無(な)し。京都の聞えも恐れ有り。且(かつ)うは身の恥なり」とて、赤旗(あかはた)を差(さ)して白馬に乗つて、匝瑳(さふさ)の北条の内山の館より、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)の方へ向はんと欲(す)。相(あ)ひ随ふ輩(ともがら)誰々ぞ。前千葉介(ちばのすけ)太夫常長の三男(さんなん)、鴨根(かもね)の三郎(さぶらう)常房(つねフサ)の孫、原の十郎太夫常継・同じく子息(しそく)平次(へいじ)常朝・同じく五郎太夫清常・同じく六郎常直・従父(をぢの)(ヲチノ)金原の庄司(しやうじ)常能・同じく子息(しそく)金原の五郎守常・粟飯原の細五郎家常・子息(しそく)権太(ごんだ)元常・同じく次郎顕常等を始めと為(し)て、一千余騎の軍兵(ぐんびやう)を相(あ)ひ具して、武射の横路を越え、白井の馬渡の端(はし)を渡つて、千葉の結城(ゆふき)へ罷(まか)り向ひけり。
時に加曾利の冠者(くわんじや)成胤(しげたね)、祖母死去(しきよ)の間、同じく孫為(たり)といへども養子為(タル)に依(よ)つて、父祖共に上総(かづさの)国へ参向すといへども、千葉の館に留つて葬送(さうそう)の営み有りけり。彼(か)の祖母は是(こ)れ秩父(チチぶ)の太郎太夫重弘の中の娘とぞ聞えし。然(さ)る程に、「親正の軍兵(ぐんびやう)、結城(ゆふき)の浜(ハマ)に出で来たる由(よし)」人申しければ、成胤(しげたね)此れを聞いて、急ぎ人を上総(かづさ)へ進(まゐ)らせて、「父祖を相(あ)ひ待つべけれども、敵(かたき)を目の前(まへ)に見て懸け出ださずは、我が身ながら人に非ず。豈(あに)勇士(ゆうし)の道為(た)らんや」とて、俄(にはか)に七騎を相(あ)ひ具し、一千余騎にぞ向ひける。
成胤(しげたね)進み出でて申しけるは、「柏原の天皇の后胤(こういん)、平親王(へいしんわう)将門(まさかど)には十代の末葉(ばつえふ)、千葉の小太郎成胤(しげたね)、生年(しやうねん)十七歳に罷(まか)り成る」とて、四角八方(はつぱう)を打(う)ち払ひ、跏手(クモで)・十文字(じふもんじ)に懸け破り、遥かなる澳(おき)(ヲキ)に馳せ出でたり。然(しか)れども親正は多勢なり、成胤(しげたね)は無勢(ぶぜい)なる間、両国の堺河に迫(せ)め著(つ)けられたり。
然(しか)れども僮(カブロ)なる童(わらは)有つて、敵(かたき)が射る箭(や)を中(チウ)にて受け取りしかば、成胤(しげたね)及び軍兵(ぐんびやう)等にも当たらずして、左右(さう)に違(チガ)へて時を移す程に、両国の介の軍兵(ぐんびやう)共(ども)、雲霞(うんか)の如(ごと)くに馳せ来たりけり。
上総介(かづさのすけ)、成胤(しげたね)が無勢(ぶぜい)を見て申しけるは、「袷(アレ)は何(いか)に、軍(いくさ)の門出(かどいで)には尤(もつと)も祝(いは)ふべき者をや。千葉の小太郎無勢(ぶぜい)を以つて多勢に向ふ条僻事(ヒガこと)なり」と云ひも終(ハテ)ず、広常早(はや)く馬を先を懸けんと欲(す)。成胤(しげたね)此れを見て、「上総介(かづさのすけ)悪(あ)しくも申されつる者かな。其の上父祖共に上総(かづさ)へ参り、成胤(しげたね)計(ばか)り残り留るにおいては、重代相伝の堀の内、必ず敵(かたき)に蹴(ケ)らるべし。吾が身討たれて後は左右(トマレカクマレ)、其(そ)を知るべからず」と云ふに任せて、急ぎ馬の口を引き還(かへ)し、先陣(せんぢん)に立つ。
此れを見て、次(ツヅ)く兵(つはもの)誰々ぞ。多部田の四郎胤信・国分の五郎胤通(たねみち)・千葉の六郎胤頼・堺の平次(へいじ)常秀・武石(たけいし)の次郎胤重・臼井の四郎成常・同じく五郎久常・天羽(あまう)の庄司(しやうじ)秀常・金田の小大夫(たいふ)康常・匝瑳(さふさ)の次郎助常・佐是の四郎禅師等なり。
此れを見て、原の平次(へいじ)常朝・同じく五郎顕常、互ひに劣らず進み出でて、命を捨てて闘ひけり。天羽(あまう)の庄司(しやうじ)が射ける矢に、原の六郎乗馬を射〓(タヲ)さる。六郎兼て手を負ひたれば、馬より下り立ち、太刀(たち)を杖につき、立つたりけり。此れを見て、原の平次(へいじ)・同じく五郎大夫(たいふ)馳せ寄つて、清常の馬に乗せんとすれども、六郎大事の手を負ひければ、魂を消して乗り得(え)ず。敵(かたき)は次第に近づく。「吾助かるべしとも覚えず。敵(かたき)已(すで)に近づき候ふ。各(おのおの)此(ココ)を罷(まか)り去りたまへ」と申しければ、二人の兄共打(う)ち捨てて去りにけり。粟飯原の権太(ごんだ)元常、金〓(カウ)を射させて失せにけり。彼此(かれこれ)入れ違(チガ)へて闘へども、親正無勢(ぶぜい)たるに依(よ)つて、千田(ちだ)の庄次浦(ツギうら)の館へ引き退きにけり。
三 妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)の本地(ほんぢ)の事
北条の四郎を始めと為(し)て、人々同じく僉議(センぎ)しける様(やう)は、「御定(ごぢやう)に依(よ)つて親正を追討せられんと欲(す)れども、親正は側事(ソバごと)なり。平家の大将軍(たいしやうぐん)大庭(ヲウバ)の三郎(さぶらう)景親(かげちか)、相模国(さがみのくに)に有り。畠山(はたけやま)の次郎重忠、武蔵国(むさしのくに)に有り。詮ずる所、急ぎ企てて彼等を討たん」と申しければ、「尤(もつと)も然(しか)るべし」とぞ仰せられける。
又右兵衛佐(うひやうゑのすけ)の言(のたま)ひけるは、「侍(さぶらひ)共承(うけたまは)るべし。今度(こんど)千葉の小太郎成胤(しげたね)の初軍(ウイいくさ)に先を懸けつる事有り難(がた)し。勲功(くんこう)の賞有るべし。頼朝若(も)し日本国を打(う)ち随へたらば、千葉には北南を以つて妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)に寄進し奉(たてまつ)るべし。抑(そもそも)妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)は、云何(イカ)にして千葉には崇敬(すうきやう)せられたまひけるにや。又御本躰は何(いづれ)の仏菩薩にて御座(おはしま)しけるにや」 と。
常胤(つねたね)畏(かしこま)つて申しけるは、「此(こ)の妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)と申すは、人王(にんわう)六十一代朱雀(しゆしやく)の御門(みかど)の御宇(ぎよう)、承平(しようへい)五年〈 乙未(きのとひつじ) 〉八月上旬の比(ころ)に、相馬の小次郎将門(まさかど)、上総介(かづさのすけ)良兼(よしかね)と伯父(ヲヂ)甥(をひ)(ヲイ)不快の間、常陸(ひたちの)国において合戦を企つる程に、良兼(よしかね)は多勢なり、将門(まさかど)は無勢(ぶぜい)なり。常陸(ひたちの)国より蚕飼河(こがひがは)の畔(ハタ)に迫(せ)め著(つ)けられて、将門(まさかど)河を渡さんと欲(す)るに、橋無(な)く船無(な)くして、思ひ労(わづら)ひける処に、俄(にはか)に小童(わらは)出で来たりて、『瀬を渡さん』と告ぐ。
将門(まさかど)此れを聞きて蚕飼河(こがひがは)を打(う)ち渡し、豊田郡へ打(う)ち越え、河を隔てて闘ふ程に、将門(まさかど)矢種(やだね)尽きける時は、彼(か)の童(わらは)、落ちたる矢を拾ひ取りて将門(まさかど)に与へ、之(これ)を射けり。亦(また)将門(まさかど)疲れに及ぶ時は、童(わらは)、将門(まさかど)の弓を捕(ト)つて十の矢を矯(ハ)げて敵(かたき)を射るに、一(ひと)つも空箭(アタヤ)無かりけり。此れを見て良兼(よしかね)、『只事にも非(あら)ず。天の御計(おんぱか)らひなり』と思ひながら、彼(か)の所を引き退く。
将門(まさかど)遂(つひ)に勝(かつこと)を得(え)て、童(わらは)の前(まへ)に突い跪(ひざまづ)き、袖を掻(カキ)合はせて申しけるは、『抑(そもそも)君は何(いか)なる人にて御坐(おはしま)すぞや』と問ひ奉(たてまつ)るに、彼(か)の童(わらは)答へて云はく、『吾は是(こ)れ妙見大菩薩なり。昔より今に至(いた)るまで、心武(たけ)く慈悲深重(じんぢゆう)にして正直なる者を守らんと云ふ誓ひ有り。汝は正しく直く武(たけ)く剛(かう)なるが故(ゆゑ)に、吾汝を護(まも)らんが為(ため)に来臨する所なり。自(みづか)らは則(すなは)ち上野(かうづけ)の花園(はなぞの)と云ふ寺に在(あ)り。汝若(も)し志(こころざし)有らば、速かに我を迎へ取るべし。吾は是(こ)れ十一面観音の垂迹(すいじやく)にして、五星の中には北辰三光天子の後身なり。汝東北(とうぼく)の角に向かひて、吾が名号(みやうがう)を唱(とな)ふべし。自今(じこん)以後(いご)、将門(まさかど)の笠験(かさじるし)には千九曜(せんくえう)の旗〈 今の世に月星と号するなり。 〉を差すべし』と云ひながら、何(いづ)ちとも無(な)く失せにけり。
仍(よつ)て将門(まさかど)使者(ししや)を花園(はなぞの)へ遣(つか)はして之(これ)を迎へ奉(たてまつ)り、信心を致し、崇敬(すうきやう)し奉(たてまつ)る。将門(まさかど)妙見の御利生を蒙(かうぶ)り、五ケ年の内に東八ケ国を打(う)ち随へ、下総国(しもふさのくに)相馬郡(さうまのこほり)に京を立て、将門(まさかど)の親王(しんわう)と号さる。然(さ)りながらも、正直〓侫(テンネイ)と還(かは)つて、万事(ばんじ)の政務を曲(マゲ)て行ひ、神慮をも恐れず、朝威にも憚(ハバカ)らず、仏神の田地を奪ひ取りぬ。
故(ゆゑ)に妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)、将門(まさかど)の家を出でて、村岡の五郎良文(よしふみ)の許(もと)へ渡りたまひぬ。良文(よしふみ)は伯父為(た)りといへども、甥(をひ)の将門(まさかど)が為(ため)には養子為(た)るに依(よ)つて、流石(サスガ)他門には附(ツ)かず、渡られたまひし所なり。
将門(まさかど)、妙見に棄(ス)てられ奉(たてまつ)るに依(よ)つて、天慶(てんぎやう)三年〈 庚子(かのえね) 〉正月廿二日、天台座主法性房(ほつしやうばう)の尊意(そんい)、横河(ヨかは)において大威徳の法を行ひて、将門(まさかど)の親王(しんわう)を調伏(てうぶく)せしむるに、紅の血法性房(ほつしやうばう)の行(おこな)ふ所の壇上に走り流れにけり。爰(ここ)に尊意(そんい)急(イソ)ぎ悉地(しつち)成就の由(よし)を奏聞せしかば、御門(みかど)御感(ぎよかん)の余りに、即(すなは)ち法務の大僧正に成されにけり。
然(サテ)妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)は、良文(よしふみ)より忠頼に渡りたまひ、嫡々相(あ)ひ伝へて常胤(つねたね)に至(いた)りては七代なり」と申しければ、
右兵衛佐(うひやうゑのすけ)此れを聞いて、「実(まこと)に目出たく覚え候ふ。然(さ)らば聊(いささ)か頼朝が許(もと)へも渡し奉(たてまつ)らんと欲(おも)ふ。云何(いか)が有るべきや」。千葉介(ちばのすけ)答へて申しけるは、「此(こ)の妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)は余の仏神にも似ず、天照大神(あまてらすおほみかみ)の三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)の、国王と同じく居たまひてこそ、代々の御門(みかど)を護(まも)りたまふが如(ごと)し。此(こ)の妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)も、将門(まさかど)より以来(このかた)滴々相(あ)ひ伝はり、寝殿の内に安置し奉(たてまつ)りて、未(いま)だ別家へ移し奉(たてまつ)らず。物恠(あや)しき不祥出で来らんときは、宮殿の内騒動して化異(けい)を示し、示現(じげん)し、氏子を護(まも)る霊神なり。一族為(た)りといへども本躰は永く末子(ばつし)の許(もと)へは渡られず。何(いか)に況(いは)んや、他人においてをや。詮ずる所、常胤(つねたね)、君の御方(おんかた)へ参り向かつて仕へたるを、偏(ひとへ)に妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)の御渡り有ると思食(おぼしめ)さるべく候ふ」と申しければ、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頭を傾けて渇仰を致したまひしかば、侍(さぶらひ)共身の毛堅(よだ)つてぞ思ひける。
四 頼朝、大勢を聳(たなび)かし、富士河の軍(いくさ)に向かふ事
然(さ)る程に、同じき五日(いつか)、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)七千余騎の兵(つはもの)を帯(たい)して、結城(ゆふき)の浜より八幡(はちまん)の社頭に馳せ入り、下馬(げば)有つて、願書(ぐわんじよ)を奉(たてまつ)りにけり。八幡(はちまん)の原を打(う)ち過ぐれば、業平(なりひら)・実方が心を留めて詠(えい)ぜられける真間(ママ)の継橋打(う)ち渡り、九箇日の程に当国の府中に御坐(おはしま)す。
国中の在庁を召せども、京都を恐れて一人も参らず。爰(ここ)に下種男一人を召し出だして、御厩(みうまや)を預(あづ)(アツ)けられにけり。彼(か)の男奉公(ほうこう)の忠に依(よ)つて、御厩(みうまや)の舎人兄部(とねりこのかうベ)に成され、上総(かづさの)国武射郡南郷の椎崎の村を給はる。今の小掾が先祖是(こ)れなり。
右兵衛佐(うひやうゑのすけ)、千葉介(ちばのすけ)を召して、常胤(つねたね)を奉行と為(し)て、葛西(かさい)の三郎(さぶらう)清重・江戸の太郎重長に仰せて、「急ぎ急ぎ太井(フトヰ)・澄田(すみだ)に浮橋を組んで参るべし」と仰せ下されければ、五ケ日の中に近辺の河海の船を集め、浮橋を組(ク)んで見参(げんざん)に入れにけり。
上総介(かづさのすけ)申しけるは、「君(キミ)は上野(かうづけ)・下野(しもつけ)を打(う)ち廻(まは)り、軍兵(ぐんびやう)等(ども)を引き具して都へ上らせ給へ」と申しければ、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)言(のたま)ひけるは、「吾聞く、先んずる則(とき)んば人を制し、後にする則(とき)んば人に制せらると。聞くが如(ごと)くんば、従三位(さんみの)右少将(うせうしやう)中宮(ちゆうぐうの)権亮(ごんのすけ)維盛卿(これもりのきやう)、討手(うつて)の使ひに関東(くわんとう)へ赴(おもむ)く由(よし)、其の聞え有り。官軍若(も)し足柄(あしがら)の東へ迫(せま)り来ては、我等の軍(いくさ)防(ふせ)ぎ難(がた)し。如(し)かじ、墨田河を渉(わた)り、足柄(あしがら)の関(セキ)を踰(コ)え、甲斐(かひの)国の源氏を率して、平家を襲(ヲソ)ひ討たんには」と。
同じき十二日、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)、府中を立つて、墨田河を渡り、武蔵国(むさしのくに)豊嶋(としま)の御庄(ミシヤウ)瀧の河に著(つ)きにけり。
爰(ここ)に相模国(さがみのくに)の住人梶原(かぢはら)の平三景時(かげとき)、勅勘(ちよくかん)〈 兵衛佐(ひやうゑのすけ)を隠し奉(たてまつ)りし故(ゆゑ)に、其の聞え有りて、召し上(のぼ)せらるるなり。 〉を蒙(かうぶ)つて、一両年の間京都に召し禁(きん)ぜられし程に、石橋の闘ひに負けて安房(あはの)国へ越ゆる由(よし)、伝へ聞きにけり。京都を迯(に)げ出でて罷(まか)り下る程に、路次(ろし)にて旅人申しけるは、「右兵衛佐(うひやうゑのすけ)殿は上総介(かづさのすけ)・千葉介(ちばのすけ)を相(あ)ひ具し、墨田河を渉(わた)り、武蔵国(むさしのくに)へ踰(コ)えたまふ」由(よし)、語りければ、景時(かげとき)此れを聞いて、相模国(さがみのくに)一宮の宿所(しゆくしよ)へは寄らず、足柄(あしガラ)山の根路(ネギシ)に懸かり、相模河の伊与瀬〈 伊与瀬は、奥州(あうしう)へ下る時に渡る故(ゆゑ)に、伊与瀬と名づくるなり。 〉を渡つて、瀧の河へ馳せ参りにけり。
右兵衛佐(うひやうゑのすけ)、景時(かげとき)を見たまひて、「頼朝は未(いま)だ忘れ遣(や)らず。汝勅勘(ちよくかん)を蒙(かうぶ)つて京都へ召し上(のぼ)せられし時、伊豆の北条に出で来たり、世の中の事共語り合ひし時、『頼朝当国に住しては叶ふべからず。奥州(あうしう)の秀衡(ひでひら)の許(もと)へ落ち行かんと欲(おも)ふ』と云ひしかば、汝の詞に『其の御計(おんぱから)ひ有るべからず候ふ。其の故は、君の御先祖八幡殿(はちまんどの)の御代官、権大夫(たいふ)常滑の男清衡(きよひら)、奥州(あうしう)の鎮守府(ちんじゆふの)将軍(しやうぐん)に補せられたりしより以来(このかた)、秀衡(ひでひら)は既(すで)に四代なり。然(しか)れども秀衡(ひでひら)、出羽・陸奥(むつ)を押領(あふりやう)して、威猛比(たぐ)ひ無(な)く、有徳(うとく)身に余れり。全(まつた)く君を主君と仰ぎ奉(たてまつ)るべからず。吾三ケ年の内に、何(いか)なる計(はか)りことを為(し)ても京都を逃げ下り、申し合はすべき事有らん。其の程は返す返す景時(かげとき)を相(あ)ひ待たるべく候ふ。死罪(しざい)に行はれざるより外は必ず馳せ下るべき』由(よし)約束(やくそく)せしが、契りを違へず罷(まか)り下れる志(こころざし)こそ有難けれ」と泣きたまへば、景時(かげとき)も共に泣(な)く。兵衛佐(ひやうゑのすけ)言はく、「自今(じこん)以後(いご)においては、軍(いくさ)の成敗をば景時(かげとき)承(うけたまは)るべし。」景時(かげとき)此(こ)の仰せを承(うけたまは)り、何(いか)計(ばか)りか慶(ウレ)しかりけん。
梶原(かぢはら)が逃げ下りけるを聞き、同じく召し置かれたりつる畠山(はたけやま)の庄司(しやうじ)重能・小山田(をやまだ)の別当(べつたう)有重以下(いげ)の輩(ともがら)も京都を逃げ出でて、東国を差(さ)してぞ下りける。人の乗馬を抑(おさ)へ取り、散々の事に及びけり。
爰(ここ)に武蔵国(むさしのくに)の住人畠山(はたけやま)の次郎重忠、白旗を差(さ)して、武蔵(むさし)七党を始めと為(し)て、雲霞(うんか)の如き勢を率して、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)に馳せ参りぬ。右兵衛佐(うひやうゑのすけ)、畠山(はたけやま)を睚(マチラカ)して仰せられけるは、「何(イカ)に畠山(はたけやま)、誰(タ)が赦(ゆる)しに白旗を差(さ)して参りたるぞ。自今(じこん)以後(いご)は然(しか)るべからず。又汝何の意趣有つて頼朝の方人(かたうど)三浦介(みうらのすけ)〈 義明 〉をば討ちけるぞ。汝は一代二代のみに非(あら)ず、頼朝が為(ため)には先祖重代の家人(けにん)なり」と仰せられければ、御前に候ひける梶原(かぢはら)申しけるは、「景時(かげとき)の口入(こうじゆ)に及ぶべきには非(あら)ねども、軍(いくさ)の成敗を承(うけたまは)る上は、三浦・鎌倉是(こ)れ一胤なり。詮ずる所、畠山(はたけやま)をば義澄(よしずみ)の手に請(う)け取らすべし。然(さ)らずは秩父と三浦と不和にして、世間常に騒がしかるべし」と言ひければ、畠山(はたけやま)御前に畏(かしこま)つて申しけるは、「重忠白旗を差(さ)して参上する条、此れ私の計らひにあらず。君の御先祖八幡殿(はちまんどの)、貞任(さだたふ)を迫(せ)めさせたまひし時、秩父の冠者(くわんじや)重綱、先陣(せんぢん)の大将軍(たいしやうぐん)と為(し)て、八幡殿(はちまんどの)より給はつたる所の旗なり。然(しか)る間、吉例為(た)る故(ゆゑ)に差(さ)して参る所なり。猶(なほ)以つて僻事(ひがこと)為(た)らば、左(トモ)右(かう)も御定(ごぢやう)に随ふべく候ふ。亦(また)梶原(かぢはら)の申し状、尤(もつと)も然(しか)るべけれども、重忠が志(こころざし)は君の御方(おんかた)に有りながら、親父(しんぶ)重能・伯父有重、勅勘(ちよくかん)を蒙(かうぶ)つて召し寵められたる間、二人が命を扶(たす)けんが為(ため)に、不慮の敵(かたき)対を示す者なり」と云々。
爰(ここ)に三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)涙を押へて申しけるは、「私の敵(かたき)を以つて公の敵(かたき)を妨(サマ)たぐる事、寔(まこと)に天地の照覧有らん。将又(はたまた)上下(じやうげ)の誹(ソシリ)を絶つべからず。君の御敵(かたき)は未(いま)だ打(う)ち随へられず。京都には清盛在(あ)り、奥州(あうしう)には秀衡(ひでひら)住し、常陸(ひたちの)国には三郎(さぶらう)先生(せんじやう)・佐竹の殿原(とのばら)、信濃国(しなののくに)には木曾の冠者(くわんじや)、甲斐(かひの)国の殿原(とのばら)も未(いま)だ君に相(あ)ひ随ひ奉(たてまつ)らず。就中(なかんづく)、金子の太郎、軍(いくさ)の庭より重忠の内を追ひ放ちける上は、争(いか)でか義澄(よしずみ)遺恨(ゐこん)を結ぶべきや。又君親の為(ため)に命を棄つるは往古の例、勝(あ)げ計(かぞ)ふべからず」と申しければ、頼朝此(コ)の由(よし)を聞食(きこしめ)して、「畠山(はたけやま)の申し状神妙(しんべう)なり。必ず勲功(くんこう)の賞有るべし。但(ただ)し白旗においては文(もん)一(ひと)つ計(ばか)り改むべし。又八幡殿(はちまんどの)、奥州(あうしう)合戦の時、秩父の冠者(くわんじや)重綱を以つて先陣(せんぢん)の大将軍(たいしやうぐん)と為(し)、鎌倉の権五郎景将(かげまさ)を以つて後陣の大将軍(たいしやうぐん)と為(し)たり。彼(か)の先蹤(せんしよう)を尋ぬれば、重忠は先陣(せんぢん)為(た)るべし、景時(かげとき)は後陣を打(う)つべし」と言(ノタマ)へり。
然(さ)る程に、馳せ参る人々は、豊嶋(としま)の次郎成重(なりしげ)・足立の右馬允(うまのじよう)遠基(とほもと)・河越(かはごえ)の太郎重頼(しげより)・稲毛(いなげ)の三郎(さぶらう)重成(しげなり)・同じく飯加谷(はんがえ)の四郎重朝(しげとも)・大田(おほた)の権守(ごんのかみ)行満(ゆきみつ)・下河辺(しもかふべ)の四郎政義(まさよし)、上野国(かうづけのくに)には、高(かう)の三郎(さぶらう)重遠(しげとほ)・熊野の別当(べつたう)湛増(たんぞう)等なり。時に兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝、十万余騎の兵(つはもの)を率して、豊嶋(としま)の御庄瀧の河より武蔵(むさし)の国府に著(つ)きたまへり。
爰(ここ)に大庭(おほば)の三郎(さぶらう)景親(かげちか)に与力の輩(ともがら)此れを聞き、皆各(おのおの)契りを変じ、或(あるい)は身を委(マカ)せて降(かう)を請ひ、或(あるい)は陣を背(そむ)いて走り参る人々は、糟屋(かすや)の権守(ごんのかみ)盛久(もりひさ)・渋谷(しぶや)の庄司(しやうじ)重国(しげくに)・海老名(えびな)の源八(げんぱち)権守(ごんのかみ)季貞(スヱさだ)・同じく子息(しそく)六人・本間(ほんマ)の五郎・森の太郎景行・羽田野(ハだの)の右馬允(うまのじよう)・曾我の太郎・長尾の新五郎為宗・梶原(かぢはら)の平次(へいじ)家景・八木下(やぎしタ)の五郎正常・矢部(ヤベ)の権三郎景国・大庭(おほば)の源三景行・山内(やまのうち)の瀧口(たきぐち)三郎(さぶらう)常俊・原の宗三郎・片平(カタひら)の矢五(やご)等なり。
右兵衛佐(うひやうゑのすけ)言ひけるは、「彼(か)の奴原(やつばら)は、石橋の合戦の時、頼朝に放言したりし者共なり。軽重に随ひ、日記に任せて、佐々木(ささき)の太郎を奉行と為(し)て、一々に頸を切るべし」と仰せ下さる。
〓野(ヲギの)の五郎季時(スエとき)、引き張られて庭上(ていしやう)に出で来たる。右兵衛佐(うひやうゑのすけ)此れを見て言ひけるは、「何(いか)に汝は石橋の合戦の時、二つ金物の鎧を着(キ)、黒き馬に乗り、『流人兵衛佐(ひやうゑのすけ)余すな、漏(も)らすな、打(う)ち取れ』と軍(いくさ)の成敗為(セ)しをば、己(おのれ)は如何(いか)に忘れたるか。」荻野(ヲギノ)の五郎季時、少しも色をも変ぜずして御返事を申しけるは、「勝負(しようぶ)の道は主君を嫌はず、合戦の習ひは上下(じやうげ)を論ぜず。設(たと)ひ季時頸をば召さるとも、舌をば返すべからず。詞を
二つに任さば憶病の源(みなもと)なり」と、少しも憚らずぞ申しける。
又「瀧口(たきぐち)の三郎(さぶらう)常俊は頼朝の乳母子(めのとご)なり。然(しか)れども廻文(くわいもん)の時、頼朝を悪口(あくこう)せし奴(ヤツ)なり。一番(いちばん)に瀧口(たきぐち)の三郎(さぶらう)、二番に荻野の五郎、三番に同じく曾我の太郎、四番に海老名(えびな)の源八(げんぱち)権守(ごんのかみ)、五番に同じく四郎、六番に同じく太郎、七番に同じく国分の三郎(さぶらう)、八番に羽田野の右馬允(うまのじよう)、九番に本間の五郎なり。大庭(おほば)の三郎(さぶらう)が与力の中に、罪過殊(こと)に重き輩(ともがら)を武蔵野(むさしの)に引き出だして斬らるべき」由(よし)、仰せ下されける処に、景時(かげとき)其の日の出仕を止(とど)めにけり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)言ひけるは、「梶原(かぢはら)の家の子、死罪(しざい)に行はるる間、恐れを成(な)して参上せず候ふ者か。兵衛佐(ひやうゑのすけ)此(こ)の由(よし)を聞きたり。源八(げんぱち)権守(ごんのかみ)季貞(すゑさだ)が一類の命は景時(かげとき)に免(ゆる)すべし」と言ひけり。
然(しか)れども、常俊より始めと為(し)て五人は先立つて切られにけり。彼(か)の所領共は景時(かげとき)之(これ)を給はる。哀(あは)れなるかな、先業(せんごふ)何(いか)なる事ぞや。頸を切らるる人も、命を助かる人も有り。残り留まる妻子の欺き、思ひ遣(や)られて哀(あは)れなり。
長尾の新五郎為宗も、真田(サナだ)の与一が討たれし時、与力為(し)たりし者なる間、已(すで)に誅(ちゆう)されんと欲(す)る処に、与一の父義実、与一の孝養(けうやう)の為(ため)に、此れを申し赦(ゆる)して助けにけり。
平家方の大将軍(たいしやうぐん)大庭(おほば)の三郎(さぶらう)景親(かげちか)、此(こ)の事を聞いて、為方(センかた)無(な)くて、手を束(つか)ねて降(かう)を請ひ、落ち参りければ、上総(かづさの)権介(ごんのすけ)広常に召し預(あづ)けられければ、上総(かづさの)国にて切られにけり。舎弟(しやてい)五郎景久申しけるは、「石橋にて矢を源家に射(イ)、今日(けふ)は此所(ここ)にして降を請ふは、敢(あへ)て忠臣の道に非(あら)ず。昔、蘇武(そぶ)は雪(ユキ)を喰ひて十九年、遂(つひ)に北狄(ほくてき)に降(くだ)らず。敵泉は霞を隔てて三千里、永く単于に仕ふること無(な)し。慕節の志(こころざし)、賢愚これ一(ひと)つなり。不肖なりといへども吾何(なじ)か降するに忍ばんや」と云ひながら、ひそかに都に赴(おもむ)き、遂(つひ)に平家に参りにけり。
然(さ)る程に、頼朝二十万騎の軍兵(ぐんびやう)を聳(そび)やかし、足柄山を馳せ越えて、駿河国浮嶋が原に打(う)ち出でにけり。爰(ここ)に甲斐(かひの)国の同意しける源氏、武田の太郎信義・信濃守(しなののかみ)遠光・安田の三郎(さぶらう)義定、二万騎にて先約を守りて、彼(か)の国より木瀬河(きせがは)の辺りに来会す。
五 権亮(ごんのすけ)維盛(これもり)、討手(うつて)の使ひとして東国へ下向する事
然(さ)る程に、太政(だいじやう)大臣(だいじん)清盛入道(にふだう)、此(こ)の由(よし)を伝へ聞いて、七社に幣帛(へいはく)を捧げ、三塔に珍財(チンざい)を投げたまふ。爰(ここ)に権亮(ごんのすけ)少将(せうしやう)維盛(これもり)朝臣(あつそん)を大将軍(たいしやうぐん)と為(し)て、討手(うつて)の使ひに下されけり。彼(か)の維盛(これもり)は貞盛より九代、正盛より五代、入道(にふだう)大相国の孫、小松の内大臣(ないだいじん)垂盛公の嫡男(ちやくなん)、平家嫡々の正統(しやうとう)なり。今凶徒を静めんが為(ため)に大将軍(たいしやうぐん)の撰に当たる、如勇(ユユシ)き事なり。薩摩守忠度(ただのり)〈 清盛舎弟(しやてい) 〉・三河守(みかはのかみ)知度(とものり)を次将と為(し)て、上総介(かづさのすけ)(カミ)忠清を末将と為(な)す。先陣(せんぢん)の押領使(あふりやうし)は、常陸(ひたちの)国の住人佐谷(サヤノ)次郎義幹(よしモト)・上総(かづさの)国の住人印東(いんとう)の次郎常茂(つねもち)なり。
昔より外土(グワイド)に向かふ大将軍(たいしやうぐん)は、先づ参内(サンダイ)して節刀(せつたう)を賜(たま)はる。宸(震)儀南殿に出御し、近衛(こんゑ)階下(かいか)に陣を引く。内弁(ないべん)・外弁(げべん)の公卿(くぎやう)参列(さんれつ)して、中儀(ちゆうぎ)の節会(せちゑ)を行はる。大将軍(たいしやうぐん)・副将軍(ふくしやうぐん)、各(おのおの)礼儀を正しくして此れを給はる。且(しば)し承平(しようへい)の将門(まさかど)・天慶(てんぎやう)の純友(スミトモ)の蹤跡(しようせき)なれば、年久しく成りて准(なず)らへ難(がた)し。今度(こんど)は、堀河院(ほりかはのゐん)の御時、嘉(壽)承(かしよう)二年〈 丁亥(ひのとゐ) 〉十二月、帝宣(ていせん)を蒙(かうぶ)つて対馬守(つしまのかみ)源義親(よしちか)を追討の為(ため)に、因幡守(いなばのかみ)平正盛が出雲国へ発向せし例とぞ聞えし。鈴(スズ)計(ばか)りを賜(たま)はつて皮の袋に入れて、人の頸に懸けさせたりけるとかや。
然(さ)る程に、権亮(ごんのすけ)少将(せうしやう)已下(いげ)の撃手(うつて)の使ひ、福原の新都を出でて、同じき廿八日に故郷に著(つ)き、是(こ)れより東国へ赴(おもむ)く。鎧・甲(かぶと)・弓箭(きゆうせん)・胡録(やなぐひ)・馬鞍までも輝(かかや)く計(ばか)りにぞ出で立たれたりければ、見る人目を驚かしけり。権亮(ごんのすけ)少将(せうしやう)は萌黄(もえぎ)の匂(ニホヒ)の糸威(いとをどし)の鎧に、赤地の錦の直垂(ひたたれ)の、大頸(おほクビ)・縁袖(エリそで)をば紺地の錦を以つて縫(ヌ)ひ飾りたり。連銭葦毛(れんぜんあしげ)の馬の太く逞(タクマ)しきに、黄伏輪(きんぶくりん)の鞍置いて乗つたりけり。年を云はば廿二歳、容顔(ようがん)人に勝(すぐ)れたりければ、絵に書くとも筆も及び難くぞ見えける。
薩摩守忠度(ただのり)、年来(としごろ)志(こころざし)浅からざりける女房の許(もと)より送りたりける小袖に、歌を一首読(ヨミ)付けたり。
東路能草葉越和久類袖与梨毛 多々怒袂和露曾古保留々
〈東路(あづまぢ)の草葉(くさば)をわくる袖よりも たたぬ袂は露ぞこぼるる〉
薩摩守之(これ)を見て、
和賀礼路越奈仁賀歎加武越天行 関遠昔濃跡登思者
〈わかれ路をなにか歎かむ越えて行く 関を昔の跡(あと)と思へば〉
左返したりけるは、昔平将軍(へいしやうぐん)貞盛が将門(まさかど)追討の為(ため)に下りし跡(あと)を思ひ出だされて、此(か)く読みけるにや。
海道に打(う)ち向かひ、路次(ろし)の兵(つはもの)を相(あ)ひ具して、三万余騎にぞ成りにける。大将軍(たいしやうぐん)維盛(これもり)朝臣(あつそん)、駿河国清見が関に陣を取り、先陣(せんぢん)上総介(かづさのすけ)忠清は蒲原(力ンばら)・富士河なんどに陣を取る。大将軍(たいしやうぐん)は、足柄(あしがら)を打(う)ち越えて、八ケ国にて軍(いくさ)を為(せ)んと早られけるを、忠清申しけるは、「八ケ国の兵共(つはものども)、皆右兵衛佐(うひやうゑのすけ)に随ふ由(よし)聞え候ふ。伊豆・駿河の者共(ども)の参るべきだにも未(いま)だ見えず候ふ。御勢三万余騎とは申し候へども、事に会ふ者二三百人には世(よ)も過ぎ候はじ。左右(さう)無う打(う)ち越えさせ候はば悪(あ)しかるべし。只(ただ)冨士河を前(まへ)に当てて防(ふせ)がせたまはんに、叶はずは都へ返り上らせ給へ」と申しければ、少将(せうしやう)は「大将軍(たいしやうぐん)の命(めい)を背(そむ)く様(やう)や有る」と云はれけれども、「其れも様(やう)に依る事にて候ふ上、福原を立たせ給ひし時も、入道(にふだう)殿の仰せには、『合戦の次第は、忠清が申さんに随はせたまふべき』由(よし)、正しく之(これ)を承(うけたまは)り候ふ。其の事は聞食(きこしめ)され候ふ者を」とて、進まざりければ、独(ひと)り懸けて打(う)ち出づるにも及ばず、敵(かたき)をぞ相(あ)ひ待たれける。
爰(ここ)に兵衛佐(ひやうゑのすけ)の先陣(せんぢん)畠山(はたけやま)の庄司(しやうじ)次郎重忠、陣を賀嶋(カシマ)に取る。明日卯の時の矢合(やあは)せなりければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)言ひけるは、「勁(シタタカ)ならん死生(ししやう)知らずの者を強いて、馬の引くとも還(かへ)らず之(これ)に乗り、大名一人の分に百騎宛(づつ)之(これ)を出で立ちて、平家の陣へ懸けさせなば、謳(をめ)いて懸け破(やぶ)つて通らん者は通れかし、死なん者は死ねかし。少しも通りたらば還(かへ)し合はせて中に取り籠(こ)めよ」と支度(したく)せられけり。平家の大将軍(たいしやうぐん)権亮(ごんのすけ)少将(せうしやう)維盛(これもり)、長井の斉藤(さいとう)別当(べつたう)真守(さねもり)を召して、軍(いくさ)の間の事を仰せ合はせられける次(つい)でに言ひけるは、「坂東に真守(さねもり)程の大矢を射る者幾程(イクバクホド)か有るらん」と申されければ、「真守(さねもり)だにも大矢を射る者と思食(おぼしめ)され候ふか。坂東には十二三束(じふにさんぞく)・十四五束(じふしごそく)を射る者のみこそ多う候へ。弓は二人張(ににんば)り・三人張りをのみ引き候ふ。鎧も甲(かぶと)も二三両(にさんりやう)なんどを重ねて、羽房(はブサ)まで射抜(ヌ)く者共、真守(さねもり)覚えてだにも六七十人もや候ふらん。馬には乗るより外には落つる事を知らず。只(ただ)死人(しにん)の上を歩み超え歩み超え、敵(かたき)共(ども)に掴(ツカ)み著(つ)かんとする者のみ候ふ。馬をば一人して究竟(くつきやう)の逸物(いちもつ)四五疋(しごひき)宛(ヅツ)乗替に具して候ふ。京の者と申し、西国の輩(ともがら)は、一人も手を負ひぬれば、其れを扶将(アツカフ)とて、七八人(しちはちにん)は引き退き候ふ。馬は善き人こそ逸物(いちもつ)にも召され候へ、以下(いげ)の輩(ともがら)の馬は終(つひ)に京出(きやういで)計(ばか)りこそ首(かしら)を持上(モチアゲ)候へ、其の後は芥々(クタクタ)として候はんずる。又坂東の者共十人にしてこそ京武者一二百人は向かひ候はんずれ。其れも猶(なほ)究竟(くつきやう)の逸物(いちもつ)を以つて一当(ひとあ)て当てられ候ひなば、何(ナニ)か候はんや。就中(なかんづく)源氏の勢は二十余万騎(にじふよまんぎ)と聞え候ふ。御方(みかた)は纔(わづか)に三万余騎なり。同じ様(やう)に候はんだに叶ひ難(がた)し。況(イハン)や〓弱(ワウジヤク)の勢にてこそ候へ。追つ立てられなば、彼等は案(安)内者共なり、各(おのおの)(ヲノヲノ)は無案内者(ぶあんないしや)なり。当時源氏方の者共(ども)の交名(ケウみやう)此れを承(うけたまは)れば、凡(およ)そ敵対も難く覚え候ふ。哀(あは)れ、『急ぎ武蔵(むさし)・相模(さがみ)へ入らせ給ひ、彼(か)の国の勢を付け、長井の渡しに陣を取つて敵(かたき)を待たせ給へ』と、再三申し候ひしを、聞かせたまはずして、可惜(アタラ)勢共(ども)の兵衛佐(ひやうゑのすけ)に付き候ふなれば、何(いか)にも何(いか)にも今度(こんど)の軍(いくさ)は叶ひ難く候ふ。大将殿の御恩、山の如(ごと)く罷(まか)り蒙(かうぶ)りたる身にて候へば、暇(いとま)を賜(たま)はつて、今一度拝み奉(たてまつ)らん。急ぎ急ぎ帰参(きさん)仕り、打死(うちじに)して見参(げんざん)に入るべく候ふ」とて、千騎の勢を引き分けて、京へ帰り上りにけり。大将軍(たいしやうぐん)此れを聞き、少し聞き憶(おく)して心弱く思はれけれども、上には 「真守(さねもり)が無(な)き所にては軍(いくさ)は為(せ)ぬか」とぞ云はれける。
然(さ)る程に、富士河の尻なんどに群がり居たる水鳥共、両方の勢、弓影、人音に驚いて立ち騒ぐ羽音の唱立(おびたたし)(ヲビタタシ)かりければ、「敵(かたき)河尻を渡して夜討に為(せ)んと欲(す)るぞ」と意得(こころえ)、取る物も取り敢(あ)へず、吾先にと引き退く。維盛(これもり)会稽山(くわいけいざん)の志(こころざし)を忘れて、夜半に及びて都へ迯(に)げぞ上りける。
抑(そもそも)昔より見迯(に)げと云ふ事は有れども、聞き迯(に)げと云ふ事は未(いま)だ伝へても聞かず。此れ只事に非(あら)ず。八幡(はちまん)大菩薩の御計(おんぱか)らひとぞ覚えける。其の故は、「水鳥の中に鳩数(アマタ)有りけり」とぞ、後に人申しける。
其の比(ころ)、海道の遊君(いうくん)共(ども)、口付けに申しけるは、
富士河乃瀬々濃岩越(コス)水与利毛 早ク毛落留伊勢平氏(へいし)哉
〈富士河の瀬々(せぜ)の岩越す水よりも 早(はや)くも落つる伊勢平氏(いせへいじ)かな〉
旧都の人々、此(こ)の事を伝へ聞いて、墓々(ハカばか)しかるまじき由(よし)をぞ申し合ひける。
六 義経、浮嶋が原において副将軍(ふくしやうぐん)と成る事
兵衛佐(ひやうゑのすけ)、且(シバラ)く浮嶋が原に永綏(ヤスラ)ひ御坐(おはし)(ヲハシ)けるに、年廿計(ばか)りなる若き武者、白き弓袋(ゆぶくろ)を差させ、清気(きよげ)なる乗代(のりかへ)二十騎(にじつき)計(ばか)り相(あ)ひ具して、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の陣に打(う)ち寄せ、「前近く見参(げんざん)に入れさせ給へ」と言ひたりければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)此れを聞き、「彼は何(いか)なる人ぞ」と問ひたまひけり。「此れは故下野(しもつけ)の左馬頭(さまのかみ)の子に牛若と申し候ひしが、奥州(あうしう)へ下向して男に罷(まか)り成つて後、九郎冠者(くわんじや)義経と申す者なり。御合戦の由(よし)を伝へ承(うけたまは)り、参向仕り候ふなり」と申されければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)此れを聞いて、涙を流し言ひけるは、「実(げ)に然(さ)る事候ふらん。合戦の由(よし)聞食(きこしめ)されて急ぎ御坐(おは)したる事、返す返す神妙(しんべう)なり」とて、対面して言ひけるは、「昔八幡殿(はちまんどの)、後三年の合戦の時、舎弟(しやてい)刑部丞(ぎやうぶのじよう)義光(よしみつ)、禁中(きんちゆう)に候ひけるが、合戦の由(よし)を聞き、御門(みかど)に暇(いとま)を申しけるに、御赦(ゆる)し無かりければ、花洛(くわらく)を出でて金沢(かねざは)の館(たて)へ来たりければ、八幡殿(はちまんどの)殊(こと)に悦(よろこ)びて、『故頼義(よりよし)朝臣(あつそん)の御坐(おは)したるにこそと覚ゆれ』とて涙を流し、是(こ)れに力を得(え)て、武衡(たけひら)を責め落としけり。只今(ただいま)殿の御坐(おは)したるに、故左馬頭(さまのかみ)殿の御坐(おは)したるにこそ」とて、共に涙を流されけり。
然(さ)る程に、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝言ひけるは、「吾、権亮(ごんのすけ)少将(せうしやう)維盛(これもり)を追討せんと欲(おも)ふ。云何(いか)が有るべき。」長(ヲトナ)しき大名等各(おのおの)諌(イサ)め申しけるは、「『縦(たと)ひ敵(かたき)迯(に)げ走るといへども、霞を別(わ)けて永く敵(かたき)人の陣へ入る勿(なか)れ』といふこと、是(こ)れ本文の意(こころ)なり。然(しか)れば、君は宇津谷(うツノヤ)・清見が関を超えさせたまふべからず。其の上、常陸(ひたちの)国の佐竹の太郎忠義は、君の境の内の豪傑(ガウケツ)なり。其の外の軍士猶(なほ)未(いま)だ服伏(まつろ)はざる族(やから)有り。夫(それ)『近きを先んじ、遠きを後にせよ』といへるは令典(れいてん)の定むる所なり。先づ東国を平らげて後、関西(くわんぜい)に及ぶべし」と申されければ、頼朝も諌(いさ)めに随ひにけり。然(しか)る間、武田の太郎信義を以つて駿河国を鎮(シヅ)め、安田の三郎(さぶらう)義定を以つては遠江(とほたふみの)国を平らげにけり。
右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝既(すで)に鎌倉に還(かへ)り入りて後、伊東の入道(にふだう)祐親(スケチカ)を搦捕(カラメト)つて、聟(ムコ)の三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)に預(あづ)け置かれけり。祐親(すけちか)法師(ほふし)、先日の罪科脱(マヌ)がれ難きに依(よ)つて、腰刀を抜いて自害す。
兵衛佐(ひやうゑのすけ)言ひけるは、「子息(しそく)伊東の九郎をば誅(ちゆう)すべしといへども、父の入道(にふだう)、頼朝を討たんと欲(せ)しに、秘かに告げて吾を助けたる者なり。恩を蒙(かうぶ)つて報はざるは畜生の如し、将又(はたまた)木石に異ならず。仍(よつ)て九郎冠者(くわんじや)においては命を助けんと欲(おも)ふ。」伊東の九郎畏(かしこま)つて申しけるは、「我聞く、范蠡(ハンレイ)、呉王を討つて、勾践(こうせん)王の為(ため)に忠臣の功有りといへども、五湖に入つて遂(つひ)に王に仕へず。咎范(キウはん)、君王に奉(ツカヘタテマツ)り、勾公(こうこう)の為(ため)に忠臣の事有りといへども、河上に巡(メグ)つて終(つひ)に東に帰らず。而(しか)るに吾、君の為(ため)に奉公(ほうこう)無(な)し。何を以つてか世に在(あ)るべきや。其の上父入道(にふだう)、御勘気(ごかんき)の故(ゆゑ)に自害す。然(しか)るべき御恩には、暇(いとま)を給はつて疾(トク)冥途の共を為(す)べく候ふ」と、再三申しける間、頼朝思ひ労(わづら)はれけり。
又九郎申しけるは、「此れ程申しつるに御用ひ無(な)くんば、早(はや)く平家方に参つて、君を射奉(たてまつ)るべきなり。」頼朝此れを聞食(きこしめ)して、「其の段(ダン)は任他(サモアラバアレ)。汝を失ふこと、深く頼朝不便(ふびん)に思食(おぼしめ)すなり」とて、遂(つひ)に之(これ)を赦(ゆる)されしかば、平家の方にぞ属(ツ)きにける。
又伊東の入道(にふだう)の三女は兵衛佐(ひやうゑのすけ)の本妻なり。父入道(にふだう)に引き去(サケ)らるといへども、互ひの余波(なごり)は忘れも遣(や)らず。偕老(かいらう)を改めんと思へども、北条が娘も志(こころざし)深く去り難ければ、弐心(ふたごころ)無(な)く思食(おぼしめ)して、伊東の娘を簾中に召し、「日比(ひごろ)の情け棄て難ければ、争(いかで)か迷ひ者と為(な)し奉(たてまつ)らん。此(こ)の侍(さぶらひ)に列坐(れつざ)したる大名の中に、誰を夫と為(せ)んと思食(おぼしめ)す。指(さ)して仰せ出だされよ」と言へば、伊東の三女、恥(ハヅカ)しながら満座(まんざ)を見廻して、申されけるは、「袷(あ)の左の一の座に候ふ人」と指(さ)しければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)言ひけるは、「袷(あ)れこそ侍(さぶらひ)其の数多しといへども、日の本の将軍(しやうぐん)と号する千葉介(ちばのすけ)常胤(つねたね)の次男、相馬の次郎師常とは是(こ)れなり」とて、師常が方へ御使ひを以つて、「加様(かやう)の次第なり。頼朝をば舅(シウト)と思はるべし。頼朝は聟(むこ)と思ふべし」と仰せられければ、師常畏(かしこま)つて申しけるは、「此(こ)の女房の思ひ取り、君の御定(ごぢやう)の上は左右(とかう)子細を申すに及ばず。是非然(サ)承(うけたまは)り候ふ」と申して、宿所(しゆくしよ)に罷(まか)り還(かへ)つて後、即(ヤガテ)此(こ)の女房を迎へ取り、偕老(かいらう)を東埋(とうテウ)に笑(アザケ)り、同穴(どうけつ)を南〓[倉+鳥](なんサウ)に理(り)す。
七 佐竹太郎忠義、梶原(かぢはら)に生け取らるる事
然(さ)る程に、常陸(ひたち)の源氏佐竹の太郎忠義を大将軍(たいしやうぐん)と為(し)て、与力の輩(ともがら)、下妻(シモツマ)の四郎広幹・同じく舎弟(しやてい)東条の五郎貞幹・鹿嶋の権守(ごんのかみ)成幹(なりもと)・小栗の十郎重成(しげなり)・豊田の太郎頼幹等を始めと為(し)て二万余騎、常陸(ひたちの)国より下野国(しもつけのくに)へ発向す。
佐竹の忠義、足利の太郎俊綱に語らひ、漆膠(しつかう)の契りを致しけり。忠義申しけるは、「兵衛佐(ひやうゑのすけ)既(すで)に平家を以つて敵(かたき)と為(し)、五ケ国を打(う)ち随へ畢(をは)んぬ。然(しか)るに平家の太政(だいじやう)大臣(だいじん)清盛入道(にふだう)は、其の身准后(じゆごう)の宣旨を蒙(かうぶ)り、世には関白(くわんばく)無(な)きが如(ごと)し。真(まこと)に是(こ)れ天の与ふる所の果報(くわほう)なり。而(しか)るに頼朝、流人の身と為(し)て猛悪(まうあく)の計(はか)りことを致すこと、蟷螂(たうらう)の斧(をの)を以つて竜車(りゆうしや)に向かひ、嬰児(エイじ)の貝を以つて巨海(きよかい)を干さんが如(ごと)し。俊綱、忠義と与力して頼朝を討たんに、平家の恩を蒙(かうぶ)らんこと疑ひ無(な)し」と申しければ、俊綱此れを聞いて思ひけるは、「頼朝と忠義は是(こ)れ骨肉(こつにく)の流れ同じなり。何ぞ根を断ちて其の葉を枯らすべき。甚だ以つて不当(ふたう)の人(じん)なり。況(いは)んや他人においてをや。何(いか)にも毒害(どくがひ)の心有るべし。彼(か)の人においては与力して同意せざらんには如(し)かじ」と。仍(よつ)て忠義、常陸(ひたちの)国佐竹の館へ還(かへ)り入りにけり。
同じき十月廿日、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝、佐竹の太郎忠義を討たんが為(ため)、鎌倉より常陸(ひたち)の国府へぞ下られける。然(しか)るべき人々此(こ)の事に与力して、「云何(いか)が有るべき」と僉議(せんぎ)せしむる処に、梶原(かぢはら)の平三景時(かげとき)畏(かしこま)つて申しけるは、「昔聞えけるは、項羽(カウう)、高祖と合戦の時、高祖打(う)ち負けて降(かう)を請ひ、項羽(かうう)の鴻臚(コウロ)の城に行きけり。伯父項羽(かうう)悦(よろこ)びて甥(をひ)(ヲイ)高祖の頸を剪(き)るべき由(よし)議する処を、項羽(かうう)が郎等に項伯(かうはく)と云ふ者、項羽(かうう)に向かつて申しけるは、『昔より今に至(いた)るまで、降人(かうにん)の人の頸を誅(ちゆう)する制無(な)し』と。故(ゆゑ)に遂(つひ)に剪(き)らざりけり。然(さ)る程に、高祖の郎等に張良(ちやうりやう)と云ふ者、項羽(かうう)の鴻臚(こうろ)の城に行き、門戸の板を踏み開き〈 彼(か)の門戸は百人に非ざれば開かず。然(しか)れども、張良(ちやうりやう)は一巻の書を習ひ、三略の術を究め、弓箭(きゆうせん)の道に長(た)けたり。故(ゆゑ)に君を助けたてまつる者なり。 〉、主君高祖を捕(トリ)出だして後、旗の横上に黄石(くわうせき)が三略の書を結び著(つ)け、項羽(かうう)が城に立ち還(かへ)り、項羽(かうう)を討つて、高祖位に即(つ)きにけり。古今異なるといへども忠貞(ちゆうてい)是(こ)れ同じ。何ぞ景時(かげとき)、忠義を討つて君を世に在せ奉(たてまつ)らざらんや」と申しながら、鎌倉の一胤三十余人を相(あ)ひ具し、物の具を脱ぎ棄てて、直垂(ひたたれ)計(ばか)りにて、佐竹の館へ打(う)ち入る。
忠義が郎等共、立ち騒ぎて闘はんと欲(し)ければ、梶原(かぢはら)少しも恐れず憚らず、忠義を諌(いさ)めけるは、「穴(あな)賢(かしこ)、各(おのおの)騒がるべからず。御覧候へ、景時(かげとき)兵杖(ひやうぢやう)をも帯(たい)せず、甲冑(かつちう)をも服(き)ず。意得(こころえ)らるべし。兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿は既(すで)に十余箇国を打(う)ち随へ、其の勢廿余万騎なり。寔(まこと)に雲の国土に覆(おほう)(ヲヲウ)が如(ごと)く、風の草木を靡(なび)かすが如(ごと)し。佐竹の館を押し囲(カコ)み、忠義を討ち奉(たてまつ)らんことは案の内に易(やす)かるべし。然(しか)れども努(ゆめゆめ)其の議には非(あら)ず。佐竹殿も能々(よくよく)之(これ)を聞食(きこしめ)せ。平家の世には源氏首を〓(サシイダ)さず。誰も皆云ひ甲斐(かひ)無(な)し。然(しか)るを今兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿、院宣を蒙(かうぶ)り、源家与力の間、十余ケ国を打(う)ち随へたり。然(しか)るに忠義は、清和天〔皇〕の御苗裔(べうエイ)なり。何ぞ一族を背(そむ)いて、与力せざらんや」と申しながら、三十余人の兵(つはもの)忠義を将込(ヰコ)めて後、兼ねて用意の間、景時(かげとき)の乗馬大庭(おほば)栗毛(くりげ)と云ふ馬を門脇より縁の際(きは)まで引き寄せ、忠義を打(う)ち乗せ、「別(べち)の事有らず候ふ。急ぎ参陣有るべきなり」とて、兵(つはもの)前後に押し巻きて打(う)ち出だす。
佐竹跡(あと)を顧みて、「郎従共聊(いささ)かも狽籍すべからず。今まで忠義参らざる条、以つての外の僻事(ひがこと)なり。是非所存の旨有れば、参つて之(これ)を陳じ申すべし」。処に、梶原(かぢはら)が後継(シツヅギ)の勢五百余騎にて之(これ)を待ち懸け、押し纏(マト)ひて行く程に、頼朝の前(まへ)に引き居(す)ゑたり。忠義俛(ウツフシ)ざまに成り、手を束(つか)ね、面を赤くして居たりけり。
右兵衛佐(うひやうゑのすけ)、忠義に対面して言ひけるは、「何ぞ御辺(ごへん)は同じ源家の身ながら、一族には与力せず、院宣をば背(そむ)かれしぞや。心の中に私曲(しきよく)を存じて、一往(いちわう)陳ぜんと思はるらん。何(いか)に才良(キララカ)に言(のたま)ふとも、頼朝皆推量(すいりやう)の上は、早(はや)く暇(いとま)を奉(たてまつ)るべし」とて、即(やが)て梶原(かぢはら)に仰せ付けて、大屋(おほヤ)の橋にて誅(ちゆう)されにけり。
八 上総介(かづさのすけ)、頼朝と中違ふ事
同じき廿五日、兵衛佐(ひやうゑのすけ)言ひけるは、「此(こ)の次(つ)いでに秀衡(ひでひら)を責めんと欲(おも)ふ。故は、頼朝の先祖、陸奥守(むつのかみ)兼行(ぎやう)鎮守府(ちんじゆふの)将軍(しやうぐん)従四位上(じゆしゐのじやう)源朝臣(あつそん)義家(よしいへ)、国務(こくむ)の時、降人(かうにん)と為(な)り、身命(しんみやう)を助け、一国(いつこく)を拝領(はいりやう)しけり。清衡(きよひら)より以来(このかた)秀衡(ひでひら)に至(いた)るまでは四代の末葉(ばつえふ)なり。清衡(きよひら)が跡(あと)を継(つ)いで今に鎮〔守〕府(ちんじゆふの)将軍(しやうぐん)と号するは、偏(ひとへ)に八幡殿(はちまんどの)の御恩なり。然(しか)れば頼朝は八幡殿(はちまんどの)には四代なり。何ぞ相伝の主君を忘れて、秀衡(ひでひら)今に参らざらんや。仍(よつ)て秀衡(ひでひら)を誅戮(ちゆうりく)せんと欲(おも)ふなり」と言ひければ、上総介(かづさのすけ)広常進み出でて申しけるは、「彼(か)の奥州(あうしう)は是(こ)れ雪降り積みて、寒さに迎へば、人馬更(さら)に通ひ難(がた)し。田村の将軍(しやうぐん)は権化(ごんげ)の人為(タ)りといへども、悪事(あくじ)の高丸(たかまる)を責めんが為(ため)に、十三年の春秋(しゆんじゆう)を送り、伊与守(いよのかみ)は神通(じんづう)の人為(た)りといへども、貞任(さだたふ)(さだタウ)を討たんが為(ため)に、重ねて両任(りやうたふ)を経(へ)て、八幡殿(はちまんどの)は三ケ年の間、治楯(マタテ)・金沢(かねざは)を陥(ヲト)し、武衡(たけひら)・家衡(いへひら)を打(う)ちしをや。而(しか)も兵(つはもの)の習ひは刀箭(たうせん)に当たつて死ぬるは素懐(そくわい)なり。雪に埋められては何の詮か有らんや。早(はや)く鎌倉へ還(かへ)るべし」と申しければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)言ひけるは、「凡(およ)そ『武勇の道に携(たづさ)はるは輙(たやす)からず。敵陣に赴(おもむ)きて嶮難(けんなん)を恐れず』と云(い)へば、是非を論ぜず向かふべからず。汝は寔(まこと)に武士には非(あら)ず。云ひ甲斐(かひ)無(な)し」と言ひければ、広常色を変じて腹立(ふくりふ)し、兵衛佐(ひやうゑのすけ)を悪口(あくこう)して、五千騎を引き具し、上総(かづさの)国に還(かへ)り入る。頼朝も欝憤(うつぷん)を含みながら鎌倉へぞ還(かへ)られける。
この由(よし)都へ聞えければ、平家方より権介(ごんのすけ)を招かんと擬す。又頼朝の謀叛西国に聞えければ、蒲(カマの)冠者(くわんじや)範頼(のりより)も尋ね下り、悪禅師(あくぜんじ)も出で来たる。
然(さ)る程に、藤九郎(とうくらう)盛長、石橋合戦の後、兵衛佐(ひやうゑのすけ)安房(あはの)国へ渡りたまひし剋(きザミ)、敵(かたき)に押し隔てられ、安房(あはの)国へ渡り得(え)ず、伊豆の奥に馳せ入り、忍び居たりけるが、盛長思ひけるは、「昔、蔡征虜(さいせいリヨ)、朝に仕(ツカ)へず、穎水(エイすい)に隠れ居けり。歴(レキ)将軍(しやうぐん)が武道(ぶだう)を悪(ニク)みしも、始めて論語を読みて、是(こ)れ即(すなは)ち武(つはもの)の芸の道、其の詮(せん)無(な)きが故か。我忠を主君に抽(ぬき)んでて既(すで)に廿余年なり。然(しか)るに運命の拙(つたな)きに依(よ)つて、主君に相(あ)ひ随ひて安房(あはの)国へ踰(コ)えずして当国に留まる。偏(ひとへ)に是(こ)れ数棄(すうき)の源なり。遮莫(サモアレ)我が涯分(がいぶん)を量るべし。如(し)かじ、只(ただ)憂(う)き世を厭(イト)ひ真(まこと)の道に入らんには」とて、山深く籠(こも)り居て、峯の菓(このみ)を拾ひ、谷の水を汲み、日月(じつげつ)を送りし程に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)、数国(すこく)を打(う)ち随へ、鎌倉に居住したまふ由(よし)を伝へ聞いて、伊豆の奥を罷(まか)り出で、鎌倉へ馳せ参じけり。
兵衛佐(ひやうゑのすけ)、盛長を見て言ひけるは、「謀叛を発(おこ)し世に在(あ)らんと欲(おも)ひしも、詮ずる所、定綱・盛長が恩に報はんが為(ため)なり。然(しか)るに先づ昔の汝が夢物語(ゆめものがたり)の纏頭(テンとう)には、上野国(かうづけのくに)の惣追捕(補)使(そうついぶし)を給ふ。景能(かげよし)が夢合はせの纏頭には、若宮の俗別当(べつたう)・鶴が岡の神人(じんにん)の惣官(そうくわん)并びに大庭(おほバ)の御厨(みクリヤ)を給ふ」と仰せ下されけり。
十一月、新院安芸国(あきのくに)より都に帰り入らせたまひければ、新御所を作つて、「御渡り有るべし」と入道(にふだう)相国申されけり。十一日、法皇御輿(みこし)に召して新御所へ御渡り有り。
同じき十五日、東国に下りし官兵(くわんびやう)共(ども)、大将軍(たいしやうぐん)権亮(ごんのすけ)少将(せうしやう)維盛(これもり)・薩摩守忠度(ただのり)・参河守(みかはのかみ)知度(とものり)以下(いげ)、上総(かづさの)守(かみ)忠清等を始めと為(し)て、皆各(おのおの)帰り上りける。矢一(ひと)つも射ず、敵(かたき)をも見ず、鳥の羽音に驚き、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の勢の多き由(よし)を聞きて、迯(に)げ上りたるこそ憶病なれ。権亮(ごんのすけ)少将(せうしやう)の落ちけるを、奈良法師(ほふし)歌に読みて立てたりけり。
平屋那留宗盛何左和具覧 柱登憑武亮歟於土志天
〈平屋(ひらや)なる宗盛(むねもり)いかにさわぐらん 柱と憑(たの)む亮(すけ)かおとして〉
先陣(せんぢん)上総介(かづさのすけ)忠清を読みたりけり。
富士河尓鎧波捨津墨染濃 衣忠清後乃世能多免
〈富士河に鎧は捨てつ墨染めの 衣ただきよ後の世のため〉
入道(にふだう)相国余りに腹を居(ス)ゑ兼ねて、「権亮(ごんのすけ)少将(せうしやう)を鬼海が嶋へ流せ。忠清やらんなんど頸を切るべし」と言へば、忠清「実(げ)に身の過(とが)遁(のが)れ難(がた)からん、云何(いか)に為(せ)ん」と思ひ煩ひける処に、主馬(シメノ)判官(はんぐわん)盛国(もりくに)以下(いげ)、人少なにて加様(かやう)の沙汰共有りける所へ、窺(ウカガ)ひ寄つて申しけるは、「忠清十八の年かと覚え候ふ。鳥羽殿に盗人(ぬすびと)の籠(こも)りしを、寄る者一人も無かりしに、築地(ついぢ)を上り越え、此れを搦め取つてより以来(このかた)、保元・平治の合戦を始めと為(し)て、大小の事に蓬(あ)へども、一度も君を離れ奉(たてまつ)らず。又未(いま)だ不覚を現さず。今度(こんど)東国に赴(おもむ)きて、始めて彼(かか)る不覚を仕りし。徒事(タダこと)とは覚えず候ふ。能々(よくよく)御祈り有るべく候ふ」と申しければ、入道(にふだう)相国見(ゲニ)もとや覚(おぼ)されけん、都(ツヤツヤ)物も言(ノタま)はず、忠清勘当(かんだう)に及ばざりけり。
九 山門奏状の事
又遷都(せんと)の事をば山門殊(こと)に欝(イキドほ)り申しければ、此(こ)の夏より三ヶ度(さんかど)まで奏状を捧げて、天聴(てんちやう)を驚かしたてまつる。第三度(だいさんど)の奏状に云はく、
右、謹んで案内を検(けみ)するに、尺尊(しやくそん)の遺教(ゆいけう)を以つて国王に付属(ふぞく)したまひしは、仏法皇徳(くわうとく)を護(まも)り奉(たてまつ)らむが故なり。就中(なかんづく)桓武天皇、伝教大師(でんげうだいし)と延暦年中に深く契約(けいやく)を結びたまひ、聖主は都を興(おこ)して、親しく一乗(いちじよう)円宗(ゑんじゆう)を崇(あが)め、大師は当山を開きて、遠く百王の御願(ごぐわん)に備ふ。其の後歳四百廻(しひやくくわい)に及ぶまで、仏日(ぶつじつ)久しく四明(しめい)の峯に輝(かかや)き、世三十代に過ぎたり。天朝各(おのおの)十善の徳を保ちたり。上代の宮城(きゆうじやう)此(かく)の如(ごと)くなる者は無(な)きをや。蓋(けだ)し山洛(さんらく)隣を点じ、彼此(かれこれ)相(あ)ひ助くるなり。而(しか)るに今、朝議忽(たちま)ちに変じて俄(にはか)に遷幸(せんかう)有り。是(こ)れ惣じては四海の愁へ、別(べつ)しては一山(いつさん)の歎きなり。
夫(それ)山僧(さんそう)等(ラ)、峯の嵐閑かなりといへども、花洛(くわらく)を恃(タノム)で、以つて日を送る。谷の雪烈(ハゲ)しといへども、王城を瞻(マボ)つて、以つて夜を継ぐ。若(も)し洛陽(らくよう)遠路(ゑんろ)を隔てて往還(わうかん)容易(タヤス)からずは、豈(あに)故山の月を辞し、辺鄙(へんぴ)の雲に交らむや。門徒の上綱(じやうかう)等(ら)各(おのおの)公請(くじやう)に従ひ、遠く旧居(きうきよ)を抛(なげう)ちて後、徳音(とくいん)通じ難く、恩言絶え易(やす)き時、一門の少学等(せうがくら)寧(むし)ろ山門に留まらむや。住山(ぢゆうざん)の者の為躰(ていたらく)、遥かに本郷(ほんがう)を去る輩(ともがら)は、帝京(ていきやう)を語(カタ)つて撫育(ぶいく)を蒙(かうぶ)り、家、王都に在(あ)る類(たぐひ)は、近隣(きんりん)を以つて便宜(びんぎ)と為(な)す。麓(フモト)変じて荒野(かうや)と為(ナ)らば、峯豈(あに)人跡(じんせき)を留めむや。
悲しいかな、数百歳(すひやくサイ)の法燈(ほつとう)今時(このとき)忽(たちま)ちに消え、千万(せんまん)輩(ともがら)の禅徒此(こ)の世に将(まさ)に滅びなむとす。況(いはん)や七社権現の宝前(ほうぜん)は是(こ)れ万人拝勤(はいキン)の霊場(れいじやう)なり。若(も)し王宮路遠くして社壇(しやだん)近からずは、瑞籬(ずいり)の月の前(まへ)に鳳輦(ほうレン)臨むこと勿(かた)く、叢祠(ソウシ)の雲の下に鳩隼(キウシユン)永く絶えむ。若し参詣是(こ)れ疎(うと)からば、礼費(れいひ)例に違(イ)せむ者なり。但(ただ)冥応(みやうおう)無(な)きのみに非(あら)ず、又神恨(しんこん)を残さむか。
彼(か)の月氏(げつし)の霊山(れいざん)は則(すなは)ち王城の東北(とうぼく)に在(あ)り、大聖の極崛(きよくくつ)なり。日域(じちゐき)の叡岳(えいがく)は亦(また)帝都の丑寅(うしとら)に峙(そばだ)つ護国の霊地(れいち)なり。既(すで)に天竺(てんぢく)の勝境(しやうけい)に同じくして、久しく鬼門(きもん)の凶害(きやうがい)を抑(ヲサ)ふ。況(いはん)や神社(じんじや)仏寺(ぶつじ)に大聖跡(あと)を垂れ、権者(ごんじや)地を占(シ)め、護国王の宗を建て、勝敵(しやうてき)勝軍(しやうぐん)の霊像を安んず。王城八方(はつぱう)を繞(メぐ)つて、洛中の万人を利し、貴賤の帰敬(ききやう)に往来(わうらい)市を為(な)す。仏神の利生、感応(かんおう)在(ましま)すが如(ごと)し。何ぞ霊応(れいおう)の砌(みぎり)を避(サ)り、忽(たちま)ちに無仏(むぶつ)の境に趣かむや。
設(たと)ひ新たに精舎(しやうじや)を建て、縦(たと)ひ更(さら)に神明を請ふとも、世濁乱(ぢよくらん)に及び、人権化(ごんげ)に非(あら)ず。大聖の感降(かんかう)、必ずしも之(これ)有らじ。昔は国豊(と)み、民厚(アツ)く、都を興(おこ)して傷つくること無(な)し。今は国乏(トモシ)くして、民窮(キハマ)つて、遷移(せんい)に煩ひ有り。是(こ)れ以つて或(あるい)は忽(たちま)ちに親属(しんぞく)を別(わか)れて、泣(ナクナク)旅宿(りよしゆく)を企つる者有り。或(あるい)は纔(わづか)に私宅(したく)を破れども、運載(うんさい)に堪(た)へざる者有り。悲歎の声既(すで)に大地を動かす。仁恩の至(いた)り、豈(あに)之(これ)を顧みざらむや。
七道(しちだう)諸国の調貢(テウコウ)、万物(ばんぶつ)運上(うんじやう)の便宜(びんぎ)、西河東津(とうシン)、便り有つて煩ひ無(な)し。若(も)し余所(よそ)に移りては、定めて後悔(こうくわい)有らむか。又大将軍(たいしやうぐん)西に在(あ)り、方角(はうがく)既(すで)に塞(ふさ)がる。何ぞ陰陽(いんやう)を背(そむ)き、忽(たちま)ちに東西を違へむ。山門の禅徒専ら玉躰(ぎよくたい)安穏を思ふ。愚慮(ぐりよ)の及ぶ所、争(いかで)か諌鼓(かんこ)を鳴らさざらむ。加之(しかのみならず)今度(こんど)の事においては、殊(こと)に愚忠を抽(ぬき)んづ。一門の園城(をんじやう)頻(しき)りに招くといへども、仰ぎて勅宣(ちよくせん)に従ふ。万人の誹謗(ひばう)巷(チマタ)に光(ミツ)といへども、伏して御願(ごぐわん)を祈る。
何(なに)に因(よ)つてか勤労(キンらう)を尽くし、還(かへ)つて此(こ)の処を滅ぼさむと欲する。功を運び、罸(ばつ)を蒙(かうぶ)る、豈(あに)然(しか)るべけむや。縦(たと)ひ別(べち)の勧賞(けんじやう)無(な)くとも、只(ただ)此(こ)の裁断(さいだん)を蒙(かうぶ)らむと欲す。当(まさ)に存亡(そんばう)只(ただ)此(こ)の左右(とかう)に在(あ)る而已(ノミ)。望み請ふらくは、天恩叡慮(えいりよ)を廻(めぐ)らさむことを。衆徒等(しゆとら)悲歎の至(いた)りに耐(タ)へず。誠惶(せいくわう)誠恐(せいきよう)謹みて言(まう)す。
治承四年 六月日
大衆(だいしゆ)法師(ほふし)等
十 都遷(うつ)りの事
此れに依(よ)つて、廿一日俄(にはか)に都還(がへ)り有るべしと聞えければ、貴賤上下(じやうげ)手を合はせて喜(よろこ)び蓬(ア)へり。
昔も山門の訴訟は空(アダ)なる事無(な)し。何(いか)なる非法(ひほふ)非例なりといへども、聖代(せいだい)も明時(めいじ)も御断(コトハリ)に有り。是(こ)れ則(すなは)ち仏法を恐るる故なり。何(いか)に況(いはん)や、王代三十余代(よだい)の都、此れ程の道理(だうり)を以つて再三加様(かやう)に申さんに、何(いか)に横紙を破らるる入道(にふだう)相国なりといへども、争(いかで)か靡(なび)かざるべき。此れを聞いて、故郷に残り留まり歎き居たる人々喜(よろこ)び合へり。
廿二日、一院〈 法王 〉・新院〈 高倉 〉福原を出御有つて、旧都に御幸成る。同じき日、摂津国の源氏豊嶋(てしま)の冠者(くわんじや)、平家の気色(けしき)を見て、東国を差(さ)して、源家を尋ね、落ち下る由(よし)聞えけり。廿六日、主上(しゆしやう)は五条の内裏へ入らせたまふ。両院は六波羅の池殿に在(ましま)しけり。平家の人々、太政(だいじやう)入道(にふだう)〔已下(いげ)〕皆古京へ上らる。何(いか)に況(いはん)や、他家の人々一人も留まらず。世にも有り、人にも計(カズ)へらるる輩(ともがら)は皆栖(すみか)を構へられたれば、人々の家々をば悉(ことごと)く運び下して、此(こ)の五六ヶ月(ごろくかげつ)の間に造り立てて之(これ)を移しつつ、資財雑具(ざふぐ)を運(ハコ)び寄(ヨ)せたりつるに、又物狂はしく程無(な)く都帰り有れば、家なんど運び返すまでは思ひも縁(ヨ)らず、資財雑具(ざふぐ)をば彼(かし)こ此(こ)こに打(う)ち捨て打(う)ち捨て、故京へ上りけり。故京へ帰る事は慶(うれ)しくて迷ひ上りたれども、何(いづ)くの所に落ち著(つ)くべしとも覚えず旅立ちけるぞ心細し。
十一 近江源氏(あふみげんじ)、責め落とさるる事
又討手(うつて)の使ひ権亮(ごんのすけ)少将(せうしやう)還(かへ)り上りて後、東国・北国の源氏共、弥(いよいよ)勝(かつ)に乗つて、国々(くにぐに)の兵(つはもの)日に随つて右兵衛佐(うひやうゑのすけ)に靡属(ナビキツ)く。近国(きんごく)近江源氏(あふみげんじ)に山本・柏木なんどと申す亭(アブレ)源氏さへ、平家を背(そむ)いて人をも通さずとぞ聞えし。
同じき十二日、左兵衛督(さひやうゑのカミ)知盛(とももり)・小松の少将(せうしやう)資盛(すけもり)・越前守通盛(みちもり)・左馬頭(さまのかみ)行盛・薩摩守忠度(ただのり)・左少将(させうしやう)清経・筑前守貞能(さだよし)以下(いげ)、近江国(あふみのくに)へ発向す。其の勢七千余騎、路次(ろし)の兵(つはもの)共(ども)、都合一万余騎計(ばか)りなり。山本・柏木、美濃・尾張の源氏共を追討せんが為(ため)なり。
同じき三日、山本の冠者(くわんじや)・柏木の判官代(はんぐわんだい)を責め落として、美濃・尾張を打(う)ち平らぐる由(よし)聞えければ、太政(だいじやう)入道(にふだう)少し気色(けしき)直りけり。
十二 南都の牒状(てふじやう)の事
又南都の大衆(だいしゆ)何(いか)にも静まり遣(や)らず、太々(いとど)以つて騒動す。公家より御使ひ頻波(シキナミ)に下されて、「此(こ)は然(さ)れば何事を憤(いきどほ)(イキドヲ)り申すぞ。存知の旨有らば、何度(いくたび)なりとも奏聞にこそ及ばめ」なんど仰せ下されければ、「別(べち)の子細には候はず。清盛入道(にふだう)に逢ひて死ぬべく候ふ」とぞ申しける。此れも只事には非(あら)ず。
入道(にふだう)相国と申すは、忝(かたじけな)くも当今(たうぎん)の御外祖父(おんぐわいそぶ)なり。其れに加様(かやう)に申しけるは、凡(およそ)は南都の大衆(だいしゆ)に天魔(てんま)属(つ)きにけるとぞ見えし。言(コト)の洩(モ)れ易(やす)きは禍(わざはひ)を招く媒(ナカダチ)なり。事の慎(つつし)まざるは敗(ヤブリ)を取る道なり。只今(ただいま)事に逢はんとぞ覚えし。
其の上、五月高倉宮の御幸に依(よ)つて、三井寺(みゐでら)より牒状(てふじやう)を遣(や)りたりける時、返牒(へんてふ)に書きける事こそ浅猿(あさまし)けれ。其の状に云はく、
玉泉・玉花(ぎよくくわ)を傑(ケツ)す。両家(りやうけ)の宗義(しゆうぎ)を立つといへども、金章(きんしやう)金句同じく一代の教文(けうもん)より出でたり。南京(なんきやう)・北京(ほくきやう)、但(ただ)し以つて如来の弟子為(た)り。自寺・他寺、互に調達(でうだつ)が三魔障(さんましやう)を伏すべし。
抑(そもそも)清盛入道(にふだう)は平氏(へいじ)の糟糠(さうかう)、武家(ぶけ)の塵芥(ちんガイ)なり。祖父(そぶ)正盛は蔵人(くらんど)五位の家に仕へて、諸国受領(じゆりやう)の鞭を執る。大蔵卿(おほくらのきやう)為房が賀州(かしう)の刺史(シし)為(た)りし古(いにしへ)、検非違使所(けびゐししよ)に補(フ)す。修理大夫(しゆりのだいぶ)顕季(あきすゑ)が播磨の国司為(た)りし昔、厩(ミマヤ)の別当職(べつたうしき)に任ず。親父(しんぶ)忠盛に曁(ヲヨ)んで昇殿を聴(ユル)されし時、都鄙(とひ)の老少皆蓬内裏壺(ホウダイリコ)の瑕瑾(カきん)を惜しみ、内外(ないげ)の英豪(えいかう)各(おのおの)馬台(ばたい)の籤(セン)に泣きぬ。父忠盛青雲(せいうん)の翅(ツバサ)を刷(カイツクロ)ふといへども、世人猶(なほ)白屋(はくヲク)の種名(しゆめい)を惜しむことを軽くし、青侍(せいし)其の家に臨むこと無かりき。
然(しか)る間、去んじ平治元〔年〕、太上天皇(だいじやうてんわう)一戦(いつせん)の功を感じて、不翅(ふシ)の賞を授けしより以降(このかた)、高く相国に昇り、而(しかう)して兵杖(ひやうぢやう)を賜(たま)はる。男子(なんし)は或(あるい)は台階(タイカイ)に忝(マジハ)り或(あるい)は羽林(うりん)に列し、女子(によし)は或(あるい)は中宮(ちゆうぐう)の職に備(ソナハ)り或(あるい)は准后(じゆごう)の宣を蒙(かうむ)り、群弟庶子(くんていそし)皆棘路(きよくろ)を歩み、其の孫彼(か)の甥(をひ)(ヲイ)悉(ことごと)く竹符(ちくふ)に列(ツラナ)る。加之(しかのみならず)九州(きうしう)を統領(ツウりやう)し、百司(はくし)を進退(しんだい)し、皆奴婢僕従(ぬびぼくじゆう)為(タ)り。一毛(いちまう)も心に違はば、則(すなは)ち王侯(わうコウ)と云(い)へども之(これ)を擒取(トリコ)にす。片言(ヘんげん)も耳に逆(サカ)へば、亦(また)公卿(くぎやう)とは云(い)へども之(これ)を〓(イサ)む。
是(こ)れ以つて若(も)しくは一旦の身命(しんみやう)を延べむが為(ため)、若(も)しくは片時(へんし)の陵辱(レウジヨク)を遁(のが)れむと欲(おも)ふ。万乗(ばんじよう)の聖主尚(なほ)面〓(めんイ)の嬌(コビ)を成(ナ)す。重代の家君(かくん)還(かへ)つて膝行(シツかう)の礼を致す。代々相伝の家領(けりやう)を奪ふといへども、掌(たなごころ)を上げて恐れて舌を巻く。家々相承(さうじよう)の庄園を取るといへども、権威(けんゐ)に憚りて言(イ)ふこと無(な)し。勝(かつ)に乗る余りに、去年(こぞ)冬十一月、太上皇(たいしやうくわう)の陬(スミカ)を追捕(ついふく)(ツイブ)し、博陸侯(ハクロクコウ)の身を押流(アウりう)す。叛逆(ほんぎやく)の甚だしきこと、誠に古今に絶えたり。
其の時、我等須(すべから)く賊首(ぞくシユ)に行き向かひ、以つて其の罪を問ふべきなりき。然(しか)れども或(あるい)は神慮を相(あ)ひ慮(ハばカ)り、或(あるい)は王言と称するに依(よ)つて、欝陶(ウツタウ)を抑(おさ)(ヲサ)へて光陰(くわういん)を送る間、重ねて軍兵(ぐんびやう)を発(おこ)して一院第三の親王(しんわう)の宮を打(う)ち囲む処に、八幡(はちまん)三所、春日の権現速やかに影向(やうがう)を垂れて、仙蹕(せんピツ)を〓[敬+手](ささ)げ奉(たてまつ)り、貴寺に送り附けて、新羅(しんら)の扉(とぼそ)に預(あづ)け奉(たてまつ)る。
王法(わうぼふ)尽くべからざる旨明(あきら)けし。随つて又貴寺身命(しんみやう)を捨てて守護し奉(たてまつ)る条、含識(がんじき)の類(たぐ)ひ、誰か随喜(ずいき)せざらむ。我等遠域(エンイキ)に在(あ)つて其の情を感ずる処に、清盛入道(にふだう)凶器(きようき)を起こして貴寺に入らむと欲する由(よし)、側(ホノカ)に以つて承(うけたまは)り及ぶ。兼ねて用意を致し、十二日に大衆(だいしゆ)を進発し、十三日に諸寺に牒送(てうソウ)す。末寺(まつじ)に下知(げぢ)して軍士を得(え)て後、案内を達せむと欲する処に、青鳥飛び来たつて芳織(はうシヨク)を投ず。数日(すじつ)の畜念(ちくねん)一時(いつとき)に解散(げさん)す。
彼(か)の唐家(たうけ)が清涼(しやうりやう)の〓蒭(葛)(ひつしゆ)すら猶(なほ)武宗の官兵(くわんびやう)に返る。況(いはん)や和国(わこく)の南北(なんぼく)両門(りやうもん)の衆徒、蓋(いづくん)ぞ謀臣の邪類(じやるい)を擺(ヤ)めざらむ。能(よ)く梁園(りやうゑん)左右(さう)の陣を固くして、宜(よろ)しく我等進発の告げを待つべし。者(てへれ)ば衆議(しゆうぎ)此(カ)くの如(ごと)し。仍(よつ)て牒送(てうそう)件(くだん)の如(ごと)し。乞(コウラク)は状を察して疑抬(ぎタイ)を成すこと勿(なか)れ。以つて牒す。
治承四年 五月日
十三 南都の炎上(えんしやう)の事
加様(かやう)の事共を聞くにも、入道(にふだう)争(いかで)か快(こころヨシ)と思はるべき。「是非は有るまじ。官兵(くわんびやう)を遣(つか)はして南都を責むべき」由(よし)沙汰有り。且(ツクヅ)く瀬尾(せのを)の太郎兼康(かねやす)を大将と為(し)て、三百余騎を差副(さしソ)へ、大和国の検非違使所(けびゐししよ)に補す。当国守護と為(し)て下らるる処に、大衆(だいしゆ)に赴(おもむ)(ヲモム)く。猿沢(さるさは)の池の縁(ハタ)にて兼康(かねやす)が余勢を散々に打(う)ち落として、郎等・家の子廿六人が頸を切つて、池の縁にぞ懸けたりける。兼康(かねやす)希有(けう)にして迯(に)げ登る。其の後、南都弥(いよいよ)騒動す。又大きなる毬打(ギツちやう)の玉を作つて、「是(こ)れは太政(だいじやう)入道(にふだう)が頸」と号して、之(これ)を打(う)ち張り、蹴履(ケフ)みけり。
入道(にふだう)相国此れを聞いて、安からぬ事に思はれければ、四男頭中将(とうのちゆうじやう)重衡(しげヒラ)を大将軍(たいしやうぐん)と為(し)て、数万騎の軍兵(ぐんびやう)を南都へ向けられけり。大衆(だいしゆ)又奈良坂・般若路(はんにやぢ)二つの通(みち)を打(う)ち塞(ふさ)ぎ、在々に城郭を構へ、老少を言はず、甲冑(かつちう)を鎧ひ、弓箭(きゆうせん)を帯(たい)して相(あ)ひ待つ処に、同じき十二月廿八日、重衡(しげひら)朝臣(あつそん)既(すで)に以つて発向したりけり。先づ三千余騎を二手(ふたて)に分けて、奈良坂・般若路(はんにやぢ)に向かふ。大衆(だいしゆ)謳(ヲメ)いて呼(ヨバ)はり、防(ふせ)ぎ戦ひけれども、奈良坂・般若路(はんにやぢ)破られにけり。
其の中に、坂の四郎房永覚(ヤウがく)と云ふ悪僧有り。打物(うちもの)に取つても弓箭(きゆうせん)に取つても、七大寺(しちだいじ)十五大寺(じふごだいじ)には更(さら)に肩を並ぶる者無(な)し。長(たけ)七尺計(ばか)りの大法師(だいほふし)の、骨太(フト)く逞(タクマ)しきが、胆(きも)も神(たましひ)も進疾(ススドキ)が、生得(しやうとく)天運の武者法師(ほふし)なり。黒褐(カチン)の直垂(ひたたれ)に萌黄糸摺(もえぎいとヲドシ)の腹巻の上に黒草摺(くろくさずり)の鎧を重ね、帽子甲(かぶと)の上に三枚甲(さんまいかぶと)を重ねて著(き)たりけり。三尺五寸の太刀(たち)を帯(は)き、大〓刀(おほナギなた)をば突いたりけり。又同宿(どうじゆく)十二人左右(さう)に立つて、手貝(テンがひ)の門より打(う)ち出でたり。此れのみぞ暫(しばら)く禦(フセ)ぎ闘ひける。寄(ヨセ)武者も此(こ)の永覚に多く打たれにけり。然(しか)れども大勢忽(たちま)ちに押し懸くれば、永覚一人武(タケ)く思へども其の甲斐(かひ)無(な)し。痛手を負ひしかば落ちにけり。
重衡(しげひら)朝〔臣〕は奈良の法華寺(ほつけじ)の鳥井の前(まへ)に打(う)つ立つて、次第に南都を亡(己)ぼしけり。両方の城郭を始めと為(し)て、寺中に打(う)ち入り、堂舎坊中に火を懸けて焼き払ふ。恥をも思ひ名をも惜しむ程の者は、奈良坂にて打(う)ち死にし、般若路(はんにやぢ)にて打たれにけり。行歩(ぎやうぶ)に叶ふ輩(ともがら)は吉野・戸津河(とツがは)の方へ落ち失せぬ。歩みをも得(え)ぬ老僧共・尋常なる修覚者(しゆがくしや)・児共(ちごども)・女房達なんどは、山階寺(やまシナでら)の天上に四五百計(ばか)り隠れ上りぬ。大仏殿の二階の楼門(らうもん)の上には一千人(いつせんにん)迯(に)げ昇りけるを、敵(テキ)を昇せじとて橋をば引きにけり。
折節(をりふし)風唱立(おびたた)(ヲビタタ)しく吹いたりければ、二ヶ所(にかしよ)の城に懸けられたる火、一(ひと)つに成つて多くの堂舎に吹き移りぬ。興福寺(こうぶくじ)・法花寺(ほつけじ)・薬師寺を始めと為(し)て、仏法最初の尺迦(しやか)の像は東金堂に御坐(おは)す。自然涌出(じねんゆじゆつ)の観音は西金堂(さいこんだう)に御坐(おは)す。彼(カカ)る霊像情けも無(な)く灰燼(ハイジン)と成るこそ悲しけれ。
東大寺は聖武(しやうむ)天皇の御願(ごぐわん)、天下第一(だいいち)の奇特(きどく)なり。烏瑟(うしつ)高く顕れて半天(はんてん)の雲に隠れ、白毫(びやくがう)新たに磨(ミガ)かれて万徳(まんどく)の尊容(そんよう)を讃(ほ)む。興福寺(こうぶくじ)は淡海公(たんかいこう)の御願(ごぐわん)、藤氏(とうじ)一流の氏寺なり。琉璃(るり)を並べし四面の廊、朱丹(しゆたん)を交へし二階の楼、九輪(くりん)高く輝(かかや)きし二基の塔も併(しか)しながら煙と成るこそ悲しけれ。瑜伽(ゆが)・唯識(ゆいしき)の両部(りやうぶ)を始めと為(し)て、法問(ほふもん)聖教(しやうげう)も一巻も残らず焼けにけり。大仏殿の上、山科寺(やまシナでら)の内に隠れ籠(こも)りたりける児共(ちごども)・修覚者(しゆがくしや)・尼公共、火の燎(も)え来(ク)るに随つて、謳(ヲメ)き号(サケ)び叫(ヨバハ)る声、山を響かし地を動かす。独(ひと)りも何(ナジ)かは残るべき、皆焼け死にたるこそ哀(あは)れなれ。無間地獄(むげんぢごく)の炎の底の罪人の焼くらんも、是(こ)れには争(いかで)か過ぐべきとぞ見えし。
昔聖武(しやうむ)皇帝(くわうてい)、常在不滅(じやうざいふめつ)実報寂光(じつぽうじやくくわう)の生身(しやうじん)の御仏と思食(おぼしめ)し准(なぞら)(唯)へて、手づから自(みづか)ら鋳顕(いあらは)したまひし金銅十六丈(じふろくぢやう)の盧舎那仏(るしやなぶつ)も、御〓(グシ)は焼け落ちて土に有り。御身は涌(踊)(わ)き上つて塚(ツカ)の如(ごと)し。親(まのあた)りに見奉(たてまつ)る者、更(さら)に目も当てられず。遥かに伝へ聞く人は、涙を流さずといふこと無(な)し。梵尺(ぼんじやく)四王(しわう)・龍神(りゆうじん)八部(はちぶ)・冥官(みやうくわん)・冥衆(みやうしゆ)に至(いた)るまで、定めて驚き騒ぎたまふらんとぞ覚えし。法相擁護(ほつさうおうご)の春日大明神、何(いか)なる事をか思食(おぼしめ)すらん、神慮も知り難(がた)し。然(さ)れば三笠山(みかさやま)の雹(アラシ)の声も恨むる様(やう)にぞ聞えける。春日野(かすがの)の露の色も今更(いまさラ)替れる風情(ふぜい)なり。
今度(こんど)焼く所の堂舎、東大寺には大仏殿・講堂・四面の迴廊(くわいらう)・三面の僧坊・戒壇(かいだん)・尊勝院・安楽院(あんらくゐん)・真言院・薬師堂(やくしだう)・東南院(とうなんゐん)・八幡宮(はちまんぐう)・気比(けイノ)社、興福寺(こうぶくじ)には金堂(こんだう)・講堂・南円堂(なんゑんだう)・東金堂・五重塔(ごぢゆうのたふ)・北円堂(ほくゑんだう)・東円堂(とうゑんだう)・四面の僧坊・観自在院(くわんじざいゐん)・西院(さいゐん)・大乗院(だいじようゐん)・中院(ちゆうゐん)・松楊院(しようやうゐん)・北院(ほくゐん)・東北院(とうぼくゐん)・東松院(とうしようゐん)・観禅院(くわんぜんゐん)・五大院(ごだいゐん)・北戒壇(きたかいだん)・唐院(からゐん)・松院(しようゐん)・伝法院(でんぽふゐん)・真言院・円成院(ゑんじやうゐん)・皇嘉門院(くわうかもんゐん)の御塔・惣宮・一言主(ヒトコトヌシ)社・瀧蔵社・住吉社・鐘〔楼〕(しようろう)一宇・大湯屋(おほユや)一宇・経蔵(きやうざう)一宇。但(ただ)し釜(金)は焼け破(ヤブ)れず、不思議(ふしぎ)其の一なり。此(こ)の外大小の諸門(しよもん)・寺外(じがい)の諸堂(しよだう)は注するに及ばず。菩提院(ぼだいゐん)・龍花院(りゆうげゐん)・同坊(どうばう)両三宇・禅定院(ぜんぢやうゐん)・新薬師寺・春日社(かすがのやしろ)〈 四所 〉・若宮社なんどぞ纔(わづか)に残りにける。日本我が朝は申すに及ばず、天竺(てんぢく)・晨旦(しんだん)にも此れ程の法滅(ほふめつ)は争(いかで)か有るべきとぞ覚えし。
抑(そもそも)此(こ)の大仏殿と申すは、人王(にんわう)四十五代の帝(ミカド)聖武(しやうむ)天皇〈 諱(いみな)は勝宝(しようほう)と云ふ 〉の御時、天平六年〈 甲申(きのえさる) 〉正月廿一日、東大寺の大仏を金銅を以つて鋳始め奉(たてまつ)り、孝謙(かうけん)天皇〈 諱(いみな)は阿倍(あべ)と云ふ 〉の御宇(ぎよう)、天平八年十月廿四日に功を終へ畢(をは)んぬ。始終(しぢゆう)三ヶ年(さんかねん)の間なり。〈 九度鋳奉(たてまつ)る 〉用ふる所の熟銅(じゆくどう)七十三万九千五百六十両、白鑞(びやくらふ)一万四千卅六両、水銀(すいぎん)五万八千六百卅両、炭は一万六千一百五十六石。大仏の寸法(すんぽふ)、高さは十五丈三尺五寸、面の長さ一丈六尺、広さ九尺五寸、完髻(かんび)の高さ三尺、眉の長さ五尺四寸、足下一丈三尺、膝(ヒザ)原七尺、螺〓(ラケ)は九百六ヶ、高(カウ)各(おのおの)一尺なり。聖武(しやうむ)天皇より安徳(あんとく)天皇に至(いた)るまで王孫卅七代に当たりたまふ。年の数は四百四十二年なり。自今(じこん)以後(いご)誰か造立(ざうりふ)すべけんや。
焼け死ぬる所の雑人等、〔大〕仏殿には千七百人余なり。山階寺(やましなでら)には五百余人。或(ある)御堂には三百人。凡(およ)そ後日(ごにち)に此れを計(カゾ)へければ、一万二千余人とぞ聞えし。軍庭(いくさバ)にて討たるる大衆(だいしゆ)七百余人の頸をば、法華寺(ほつけじ)の鳥居の前(まへ)に懸けてんげり。残る所の三百余人の首をば都へ登す。其の中に尼公の頸共も少々有りけり。
廿九日、蔵人頭(くらうどのとう)重衡(しげひら)朝臣(あつそん)南都を亡(己)ぼして、京へ帰り入らる。入道(にふだう)相国一人計(ばか)りぞ憤(いきどほ)りを散じて悦(よろこ)ばれける。一院・新院・摂政(せつしやう)殿下(てんが)・大臣・公卿(くぎやう)を始めと為(し)て、少しも前後を弁(わきま)へ、心有る人は、「此(コ)は何と為(シ)つる事ぞや。悪僧共をこそ失なはれぬとも、左(さ)計(ばか)りの伽藍(がらん)共(ども)を破滅(はめつ)すべしや。口惜しき事なり」とぞ悲しび合ひ給ひける。衆徒の頸共をば、大路を渡して獄門の木に懸けらるべきにて有りけるが、東大寺・興福寺(こうぶくじ)の焼けにけるが浅猿(あさまし)さに、沙汰に及ばず、此(こ)こ彼(かし)この堀溝に捨てられにけり。穀倉院(こくさうゐん)の南の堀に奈良大衆(だいしゆ)の頸を以つて〓[酉+斗](ウ)めたりけり。寔(まこと)に心憂(こころう)しとも云ふ計(はか)り無(な)し。
東大寺に書き置かれける聖武(しやうむ)天皇の御起請文(ごきしやうもん)に云はく、「我が寺興複(コウブク)せしめば天下も興複すべし。吾が寺衰微せば天下も衰微せん」と云々。然(しか)れば今塵灰(ちりはひ)と成りぬる上は、国土の滅亡(めつばう)疑ひ無(な)しとぞ悲しみたる。此れも然(しか)るべき期(ご)に相(あ)ひ当たり、神明も兼ねてより監(かんが)み給ふらん。
十四 東大・興福(こうぶく)造営の沙汰の事
左少弁(させうべん)行隆(ゆきたか)、先年八幡(はちまん)に参り、通夜(つや)しける夜の示現(じげん)に、「東大寺造営奉行の時、此れを持(恃)つべし」とて、笏(しやく)を賜(たま)はると見えければ、打(う)ち驚きて前を見るに、現(げ)に笏(しやく)有りけり。其れを取つて下向しけれども、「当時何事にか造り替へらるべし」と心中に思ひながら、年月を送る程に、此れ焼け失(共)せにし後、大仏殿造営の沙汰の有りし時、弁の中に彼(か)の行隆(ゆきたか)遮(えら)ばれて、奉行すべき由(よし)仰せ下さる。其の時、行隆(ゆきたか)言ひけるは、「勅勘(ちよくかん)を蒙(かうぶ)らずして次第の昇進(しようじん)有り応(ナバ)、今は弁官をば除かれなまし。多年(たねん)を隔てて二ヶ度弁官に成り還(かへ)つて、今奉行の仁(にん)に相(あ)ひ当たる。先世(せんぜ)の結縁(けちえん)浅からぬにこそ」と悦(よろこ)びて、一年(ひととせ)大菩薩より給はつたりし笏(しやく)を取り出だして、事始めの日より持(も)ちけるとぞ聞えし。
源平闘諍録 巻第五
源平闘諍録 八之上
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〈目 録〉
『源平闘諍録』巻第八之上
一 行家・義仲、宇治・瀬田より入洛の事
二 法皇、天台山より還御(くわんぎよ)成る事
三 義仲・行家任官の事
四 維高・維仁親王(しんわう)、位諍(あらそ)ひの事
五 平家の人々、筑紫に内裏を建てらるる事
六 使ひ康貞、頼朝に院宣を給ふ事
七 緒方三郎(さぶらう)維能(これよし)、筑紫を鎮むる事 附けたり 先祖の謂(いは)れ
八 主上(しゆしやう)を始め奉(たてまつ)り、平家、宇佐宮参詣の事
九 平家、緒方三郎(さぶらう)に筑紫を追ひ出だされ、四国へ渡り給ふ事
十 木曾、京都にて院参の出仕頑(かたくな)なる事
十一木曾、平家追討の為(ため)に院宣を申す事
十二 室山・水嶋合戦の事
十三 木曾、京都にて狼籍を致す事
十四 木曾追討の為(ため)に、義経・範頼(のりより)、瀬田・宇治に向かはるる事
十五 高綱、宇治河先陣(せんぢん)の事
十六 義経・畠山(はたけやま)院参の事
十七 木曾、瀬田にて討たるる事
P2184
一 行家・義仲、宇治・瀬田より入洛の事
寿永(じゆえい)二年七月廿六日、辰(たつ)の刻計(ばか)りに、十郎蔵人(くらんど)行家、伊賀国(いがのくに)より宇治・木幡を越えて京へ入る。未(ひつじ)の剋に、木曾の冠者(くわんじや)義仲、瀬田を渡つて京へ入る。其の外、甲斐(かひ)・信濃(しなの)・尾張の源氏共、此(こ)の両人(りやうにん)に相(あ)ひ随ふ。其の勢六万余騎に及べり。此(こ)の大勢京に入りしかば、在在所所(ざいざいしよしよ)を追捕(ついふく)し、衣裳を〓(は)ぎ取つて食物(しよくもつ)を奪ひ取りける間、洛中の狼籍斜(なの)めならず。
P2186
二 法皇、天台山より還御(くわんぎよ)成る事
廿七日、法皇天台山より還御(くわんぎよ)なる。錦服の冠者(くわんじや)旗を差(さ)して先陣(せんぢん)に候けり。平治より以来(このかた)、絶えて久しかりし白旗を、今日(コンにち)始めて法皇の御覧ぜらるるこそ珍(メづら)しけれ。公卿(くぎやう)・殿上人多く御共にて、蓮花王院(れんげわうゐん)の御所ヘ入らせ給ひにけり。
廿八日、義仲・行家を院の御所ヘ召して、「前の内大臣(ないだいじん)以下(いげ)平家の党類を追討すべき由(よし)、仰せ下さる。義仲は東より出でたれば、朝日の将軍(しやうぐん)と院宣を下されけり。行家は褐(かちん)の直垂(ひたたれ)小袴(こばかま)に、黒皮威の鎧著(き)て、右に候ひけり。義仲は赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、唐綾摺(からあやをどし)の鎧を著(き)て、左に候ふ。又前の右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝を感じて、御使ひを関東(くわんとう)へ下し遣(つか)はさる。
P2190
又高倉の院の御子は、先帝の外に三所御坐(おはしま)しけるを、二の宮をば、若(も)しもの事有らば儲けの君に為(せ)んとて、平家西国へ取り下し奉(たてまつ)りぬ。三・四の宮は都に留まり給ふ。然(しか)るに、三の宮、法皇を嫌ひ奉(たてまつ)りて、唱立(おびたた)しく泣(ムツ)からせ御坐(おは)しけり。四の宮を「此れへ」と召されければ、左右(さう)無(な)く御膝(おんひざ)の上に渡り御坐(おは)して、懐(ナつか)し気に思食(おぼしめ)されけり。
「〓(そぞろ)ならん者は、彼(カカ)る老法師(おいぼふし)をば、何とてか懐(なつ)かしく思ふべき。此(こ)の宮ぞ実(まこと)の孫なりける」とて、御髪(みぐし)を掻き摩でて、「故院の御坐(おは)せしに少しも違はざるものかな。今まで見ざりける事よ」とて御涙を流させ給ひけり。然(しか)る間、御位は此(こ)の宮にと定まらせ給ひけり。三の宮は五歳、四の宮は四歳にて御坐(おは)す。御母は七条の修理大夫(しゆりのだいぶ)信隆卿(のぶたかのきやう)の御娘なり。
P2192
三 義仲・行家任官の事
同(ヲナジク)八月十日、法皇、蓮花王院(れんげわうゐん)の御所より南殿に移らせ給ひて後、除目(ぢもく)行はれけり。木曾の冠者(くわんじや)義仲、左馬頭(さまのかみ)に成されて、十郎蔵人(くらんど)行家、備後守に成されけり。各(おのおの)国を嫌ひ申されければ、又十六日に除目(ぢもく)有つて、義仲は伊予守に成されて、行家は備前守に遷(うつ)されぬ。其の外の源氏十人、勲功(くんこう)の賞とて靱負(ユギヘ)の尉に成されけり。此(こ)の十余日の先までは、源氏を追討すべき由(よし)、宣旨を下されて、平家こそ加様(かやう)に勧賞(けんじやう)を蒙(かうぶ)りしが、今は平家を追討せよとて院宣を下されて、源氏ぞ朝恩に誇りける。
同じき八月十七日(じふしちにち)、平家は筑前の国三笠郡(みかさのこほり)太宰府と云ふ所に落ち著(つ)きたまへり。多くの海川(うみかは)を隔てて、都は雲井(くもゐ)の外に成りにけり。在原の業平(なりひら)が澄田河(すみだがは)の辺(ほと)りにて、都鳥に事問はんと太太(いとど)涙を流しけんも、右(かく)やと覚えて哀なり。菊地次郎高直等を始めと為(し)て、九国(くこく)の者共靡(なび)き順ひ、内裏を造るべき由(よし)申しければ、少し心落ち居て、人人安楽寺(あんらくじ)ヘ参りたまひけり。皇后宮亮(くわうごうぐうのすけ)、右(かく)ぞ詠(よ)みたまひける。
住馴志旧起都濃恋佐八 神茂(モ)昔遠不忘給
住み馴れし旧き都の恋しさは 神も昔を忘れ給はじ
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四 維高・維仁親王(しんわう)、位諍(あらそ)ひの事
廿四日、宮、閑院(かんゐん)殿に入らせたまひければ、公卿(くぎやう)・殿上人、宣命に依(よ)つて節会(せちゑ)を行はれけり。既(すで)に四の宮、位に定まらせ給ひければ、三の宮の御乳母人(おんめのと)、口惜しく本意無(な)き事に思はれけれども、力に及ばず。帝皇の御位は何(いか)にも凡夫(ぼんぶ)の左右(さう)思ふに依るべからず、皆天照大神(あまてらすおほみかみ)の御計(おんぱか)らひとぞ承(うけたまは)る。三の宮は後に以明親王(しんわう)とて謌読にてぞ在(ましま)しける。
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三日宇治の悪左府(あくさふ)、「天に二つの日無(な)し、地に二の主無(な)し」と云(い)へり。異国には加様(かやう)の例も有りけるにや。本朝には帝皇渡らせ給はで、或(ある)いは三年若(も)しくは一年何ど有りけれども、京・田舎(ゐなか)に二人の帝並び給ふ事は是(こ)れ始めなりけり。
P2199
昔文徳(もんどく)天皇、天安(てんあん)二年八月廿七日に崩御(ほうぎよ)有りけり。御子達位に望みを懸けたまひ、内内(ないない)御祈請有りけり。維高親王(しんわう)の御持僧は、柿本(かきのもと)の紀僧正真済とて、東寺の長者、弘法(こうぼふ)大師の御弟子也。維仁親王(しんわう)の御祈りは、外祖父(ぐわいそぶ)忠仁公(ちゆうじんこう)の御持僧、恵亮和尚(くわしやう)承はられけり。何事も劣らぬ高僧(かうそう)達なり。疾日に事行き難うや有らんずらんと思ふ程に、帝隠れさせ給ひにければ、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)有りけり。「何(いづ)れの御子か位に就(つ)き奉(たてまつ)るべき」と評定有りけり。或(ある)いは「競馬の勝負(しようぶ)有るべし」と申して、一議(いちぎ)に厥(そ)れを定め難(がた)し。両方の御験者(おんげんじや)達(たち)、何(いづ)れか踈略(そらく)を存ぜざらん。然(しか)るに、「恵亮は失せたまひぬと云ふ披露を作さば、信清少し絶む心もや有るらん」とて、「恵亮は失せたり」と披露して、弥(いよいよ)間断(まだん)無(な)く肝胆(かんたん)を摧(くだ)いて祈り申されける程に、相撲の節にぞ成りにける。上下(じやう
げ)市を成(な)して見物す。維高親王(しんわう)の御方(おんかた)よりは、奈土良(なとら)の右衛門督(うゑもんのかみ)とて、六十人が力を顕したる如勇(ゆゆ)しき人を出だされたり。維仁親王(しんわう)の御方(おんかた)よりは、吉烏(よしを)の少将(せうしやう)とて、勢少さくて云ひ甲斐(かひ)無(な)く、片手に合ふべしとも見えぬ人を申し請(う)けて出だしたりければ、奈土良(なとら)・吉烏(よしを)寄り合ひ寄り合ふ程に、奈土良(なとら)、吉烏(よしを)を攫んで指(さ)し上げ、一丈計(ばか)り投げければ、突順ち直つて少しも倒れず。吉烏(よしを)又寄り合ひて贔贔と声を上げて、奈土良(なとら)を執つて伏せんと欲(す)。奈土良(なとら)も共に声を合はせて、吉烏(よしを)を取つて伏せんと欲(す)。互ひに勝負(しようぶ)は無かりけり。見物の人耳目(じぼく)を驚かさざるは無かりけり。然(しか)れども武衛は重に廻(めぐ)り、羽林(うりん)は打手(うつて)に入つてぞ見えにける。
P2202
競馬同じく始まりければ、維高親王(しんわう)の御方(おんかた)には続いて三番勝たせたまふ。維仁親王(しんわう)の御方(おんかた)には続いて三番負けさせたまふ。親王家より御使ひ櫛の歯を並べたるが如(ごと)く走り連(つづ)いて、「御方(みかた)已(すで)に負色に見え候ふ。故は何(いか)が候ふべき」と、走り重つて申しければ、恵亮和尚(くわしやう)「心憂(こころう)き事哉」と欲(おも)ひ、智釼を持つて脳を摧(くだ)き、芥子に雑て護摩(ごま)を焼き、煙を薫じて一〓(モミ)〓(も)まれければ、大威徳明王(みやうわう)の乗りたまへる水牛(すいぎう)、一声〓[口+毛](もう)と〓[口+皐](ほ)えたりけり。此(こ)の時競馬連(つづ)いて六番勝ちにけり。少将(せうしやう)も相撲に勝ちにけり。親王(しんわう)位に即(つ)かせたまふ。清和の御門(みかど)是也。後には水雄の天皇とも申しき。爾より山門の訴状には、聊(いささ)かの事にも、「恵亮脳を摧(くだ)きしかば、二帝即位に即(つ)かせたまひ、尊意(そんい)釼を振りしかば、菅丞霊を失ひたまふ」とも伝へたり。是(こ)れ計(ばか)りや法力の致す所なる、其の外は天照大神(あまてらすおほみか
み)の御計(おんぱか)らひとこそ承(うけたまは)れ。
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四の宮こそ既(すで)に践祚(せんそ)有んなれと聞えければ、平家の人々は、「怜れ、三・四宮をも取り具し奉(たてまつ)るべき物を」と申し合はれければ、「然(さ)らずは高倉宮の御子、木曾が具し奉(たてまつ)りて北国より上りたるをこそ、位に即(つ)けたまふべけれ」と、人人申し合はれけり。
或(ある)人申しけるは、「出家の人の還俗し給へるは、争(いかで)か御即位有るべき」と申しければ、平大納言時忠・兵部少輔(ひやうぶのせう)正明何ど申されけるは、「天武(てんむ)天皇、東宮にて天智の御譲りを受けさせたまふべきに、天智の御子大友王子(わうじ)位を諍(あらそ)ひたまひて、東宮を討ち奉(たてまつ)るべき由(よし)聞えければ、東宮御悩(ごなう)と称して、辞し申させ給へども、御門(みかど)猶(なほ)誣(しひ)て申させ給ひければ、東宮仏殿の南面にして御髪(みぐし)を剃り落とし、吉野山(よしのやま)へ入らせ給ひたりけるが、伊賀(いが)・伊勢・尾張三箇国の兵(つはもの)を発(おこ)して、大友王子(わうじ)を討ちて、東宮位に即(つ)かせたまふ。斯(か)くの如(ごと)く、出家の人位に即(つ)く事なれば、木曾が宮、何(なに)か苦しかるべき」とぞ申されける。
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五 平家の人々、筑紫に内裏を建てらるる事
然(さ)る程に、筑紫には内裏を造り出だして主上(しゆしやう)を渡し奉(たてまつ)る。大臣以下(いげ)の人人も館共を卜(し)めにけり。三重(さんぢゆう) 彼(か)の大内(おほうち)は山の中なれば、木丸殿(コノまるどの)とも謂(い)つつべし。人人の家家は野中(のなか)田中(たなか)なりければ、麻(あさ)の衣は〓(う)たねども、遠路(ゑんろ)の里(さと)とも申しつべし。荻(をぎ)の葉向の朝嵐、独(ひと)り丸寝(まろね)の床の上、夜と与(とも)に弱りゆく虫の音、草の枕に答へて、片敷く袖も汐(しほ)れにけり。
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然(さ)る程に、九月中旬(ちゆうじゆん)にも早成りにけり。秋の哀(あは)れは何(いづ)くも同じと云ひながら、旅立つ空の物憂(う)さは、故(ことさら)忍び難ければ、河辺(かはべ)の泊りも心〓(スゴ)く、〓(そぞろ)に哀(あは)れぞ増りける。十三夜(じふさんや)は何(いつ)よりも名を得(え)たる月なれども、殊に今夜(こよひ)は〓(サヤケク)て都の恋しさも強(あながち)なれば、薩摩守忠度(ただのり)、右(かう)ぞ詠(えい)じ給ひける。
見月志去年乃今夜乃友乃美也 都尓我遠思出覧
月を見し去年(こぞ)の今夜(こよひ)の友のみや 都に我を思ひ出づらん
修理大夫(しゆりのだいぶ)経盛、此れを聞き給ひて、
都詠月諸共 旅空出気留哉
都にて詠(なが)めし月の諸共(もろとも)に 旅の空にも出でにけるかな
平大納言時忠卿、
君住此雲井月 尚恋都也
君住めば此れも雲井(くもゐ)の月なれど 尚(なほ)恋しきは都なりけり
各(おのおの)加様(かやう)に読み給ひければ、心有る人人は涙をぞ流しける。
修理大夫(しゆりのだいぶ)経盛又
恋去年今夜通夜 契事思出
恋しとよ去年(こぞ)の今夜(こよひ)の夜(よ)もすがら 契りし事の思ひ出られて
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六 使ひ康貞、頼朝に院宣を給ふ事
平家は西海(さいかい)の波に漂(ただよ)ひ、東国には源氏日に随つて繁昌す。右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝上洛(しやうらく)の事容易(タヤス)からじとて、居ながら征夷大将軍の院宣を下さる。御使ひは蔵人(くらんど)の右の府生(ふしやう)中原の康貞とぞ聞えし。
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九月四日、東国へ下着す。同じき廿六日、上洛(しやうらく)して、院の御所の御坪に、関東(くわんとう)の子細を具(つぶさ)に申し上げけるは、「康貞下向仕り候ひて、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)に院宣を付して候ひけるは、『頼朝流人の身と為(し)て、武勇の名誉(めいよ)長ぜるに依(よ)つてか、忝(かたじけな)くも居ながらに征夷将軍の院宣を賜(たま)はる。私の館にて請(う)け取り奉(たてまつ)る事、其の恐れ有り。若宮の社壇(しやだん)にて請(う)け取るべし』と申されける間、若宮の社壇(しやだん)へ罷(まか)り向かひぬ。家の子五人、郎等を相(あひ)具す。院宣をば蘿(コケ)の筥(はこ)に入れ、上を袋に入れ、雑色男(ざふしきをとこ)が頸に懸けさせて、若宮の社壇(しやだん)に参り向かひて見れば、鶴が岡(ヲカ)と云ふ所なりき。
地形(ちぎやう)石清水に同じ。宿院有り、廻廊有り、作り路(みち)十余町を見下(お)ろしたり。『抑(そもそも)此(こ)の院宣をば誰為(し)てか請(う)け取り奉(たてまつ)るべき』と云ふ所に、『三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)を以つて請(う)け取り奉(たてまつ)るべし』と定められにけり。『人数(ひとかず)有りといへども、義澄(よしずみ)は東八箇国に名を得(え)たる弓執りなり。其の上父義明、頼朝が為(ため)に先立つて命を捨てたる者なり。且(かつ)うは義明が黄泉(くわうせん)の冥闇を照らさんが為(ため)、義澄(よしずみ)然(しか)るべし』とて、用ゐられたり。
又家の子二人、郎等十人相(あひ)具したり。二人の家の子は和田(わだ)の三郎(さぶらう)宗実・比企(ひき)の藤四郎(とうしらう)能員(貞)、十人の郎等は我が家人(けにん)には非(あら)ず、十人の大名の、容儀事柄の吉(よ)き物を一人充(づつ)出だし立てたり。十三人共に常冑(ひたかぶと)なり。義澄(よしずみ)は赤威(あかをどし)の鎧を著(き)たり。康貞は院宣を蘿の筥(はこ)に入れ、庭上(ていしやう)に捧げて立つたり。
義澄(よしずみ)、十三人の中に歩を勧(すす)めて近付き、冑を脱いで弓を脇に挿(はさ)み、右の膝(ひざ)を突いて式第(しきだい)す。院宣を請(う)け取り候ひし時、『何(いか)ならん者ぞ』と問ひ候ひしかば、三浦介(みうらのすけ)とは称(なの)らずして、本名を『三浦の次郎義澄(よしずみ)』と称(なの)り候へり。
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〓(サテ)院宣(ゐんぜん)を請(う)け取つて候へば、暫(しばら)く有つて、院宣を入れたりつる蘿の筥(はこ)を返され候ふを開き見候へば、砂金(しやきん)十両を容(い)れられたり。拝殿に紫端(したん)の畳(たたみ)を敷いて康貞を居(す)ゑたり。酒を勧(すす)むるに、高器に肴を為(し)たり。五位一人役奏を勤む。馬を引くに葦毛(あしげ)の馬一疋、大宮の侍(さぶらひ)の一臈(いちらふ)したりし工藤(くどう)の一臈(いちらふ)祐経(すけつね)なり。其の日は右兵衛佐(うひやうゑのすけ)対面無(な)し。宿所(しゆくしよ)を執りて返さる。
盃飯(わうばん)豊かに為(し)て美麗(びれい)なり。厚網二両・小袖十重(とへ)、長持二合に入れて儲けたり。上絹六十疋・次絹百疋・紺藍摺・白布共に千端(せんたん)充(づつ)を積まれたり。次(つぎ)の日、馬十三疋を宿所(しゆくしよ)へ送られたり。内三疋(正)には鞍置きたり。皆目を驚かす程の馬共なり。
其の日、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の館へ罷(まか)り向かひき。内外(ないげ)に侍(さぶらひ)十六間なり。外侍(さぶらひ)には若き郎等共膝(ひざ)を重ねて並(な)み居たり。内の侍(さぶらひ)には長(おとな)しき郎等共肩を並べて充(み)ち満ちたり。其の上座に源氏共幾等(いくら)も有りき。源氏の座上に紫〓(べり)の畳(たたみ)を敷きて、康貞を居(す)ゑたり。暫(しばら)く有つて、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の命(めい)に随つて、寝殿へ向かひき。広廂(ひろびさし)に紫端(したん)の畳(たたみ)を敷き、康貞を居(す)ゑたり。内には高麗〓(かうらいべり)の畳(たたみ)を敷き、御簾(みす)を上げたり。
既(すで)に右兵衛佐(うひやうゑのすけ)出でたり。此(こ)の事柄を見たれば、顔大きにて長(たけ)卑(ひく)かりけり。容貌(ようメウ)美麗(びれい)にて優美なり。言語(げんぎよ)分明(ふんみやう)にて、子細を一事述べたり。『行家・義仲と申すは、頼朝が代官に指(さ)し登つてこそ候へ。彼等を以つて暫(しばら)く平家を責めらるべく候ふ。皆官加階は成されてこそ候ふなれども、十郎蔵人(くらんど)・木曾の冠者(くわんじや)とこそ書いて候へ。皆返事は為(し)て候へども、境節(をりふし)聞書到来して大きに心得(え)ず候ひし。永茂(ながもち)が越後守(ゑちごのかみ)に成され、高義が常陸介に成され、秀衡が陸奥守に成され候ふは、大きに心得(え)難く候ふ。是(こ)れ等を皆、頼朝が命に随ふべき由(よし)、仰せ下されよ』とこそ申し候ひしか。康貞『名簿(みやうぶ)こそ承(うけたまは)り度(た)く候へども、今度(こんど)は故(ことさら)に上洛(しやうらく)仕り候はん。弟にて候ふ史(リノ)大夫(たいふ)重義も、此(こ)の様を申せ、と申し候ひき』と申し候ひしに、『頼朝が身にては争(いかで)か各(おのおの)の名簿(みやうぶ)をば請(う)け取り奉(
たてまつ)るべき。然(しか)らずとても愚かの儀は有るまじき』由(よし)、問答してこそ候ひしか。京都も〓(おぼつかな)く候へば、急ぎ上洛(しやうらく)の由(よし)申し候へども、『今日(けふ)計(ばか)りは逗留(とうりう)有るべし』とて、猶(なほ)宿所(しゆくしよ)へ返され候ひき。
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又次(つぎ)の日、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の館へ向かひ候ひき。金鍔の太刀(たち)一振、九つ指(さ)したる征箭一腰、見も覚えぬ珍しきものなりき。其の上に駄卅疋ありき。郎等・家の子・雑色(ざふしき)に至(いた)るまで、直垂(ひたたれ)・小袖・馬鞍に及ばしめたり。鎌倉を出でしより、一宿に米五斛充(づつ)を始めて、宿の物共叮嚀(テイネイ)に儲けて、兵士・雑掌を付けて送られ候ひき。宅残豊かなるに依(よ)つて、然(さ)ながら施行にこそ引きて候ひつれ」と語り申しければ、法皇咲(ゑみ)を含ませたまひけり。
P2225
七 緒方三郎(さぶらう)維能(これよし)、筑紫を鎮むる事 附けたり 先祖の謂(いは)れ
豊後(ぶんご)の国は刑部卿(ぎやうぶきやう)三位(さんみ)頼輔の国なりければ、其の子息(しそく)頼経国司代と為(し)て下向の間、披露しけるは、「平家年来(としごろ)為朝敵と為(し)て、都を出で、落ち下る所に、九国(くこく)の輩悉(ことごと)く帰伏の条、既(すで)に甚しく二罪科を招く所行(しよぎやう)なり。須(すべから)く当国の輩においては、故(ゆゑ)に其の旨を存じて、聊(いささ)かも成敗に随ふべし。是(こ)れ全(まつた)く私の下知(げぢ)に非(あら)ず。併(しか)しながら一院の院宣なり。凡(およ)そ鎮西の輩、一味同心に九国(くこく)の中を追ひ出だし奉(たてまつ)るべし」とぞ申しける。
緒方の三郎(さぶらう)豊後(ぶんご)の国より始めて、九国(くこく)二嶋(じたう)に弓箭(きゆうせん)を取る輩に之(これ)を触れければ、臼木・辺津木・原田の四郎大夫(たいふ)・大蔵(おほくら)の種直(たねなほ)・菊地の次郎高直の一類のみ平家に属(つ)きたりけるが、其の外は皆維能(これよし)が下知(げぢ)に随ひけり。
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彼(か)の維能(これよし)は武(たけ)き者の末にて、国土を打(う)つ取らんと欲(す)る程の大気(おほけ)無(な)き者なりければ、九国(くこく)においては随はぬ輩も無かりけり。昔、豊後国に田村と云ふ所の主に、大夫(たいふ)と云ふ者の娘に、加志原の御(ヲモと)とて容皃(ようばう)雙(なら)び無(な)し。国中に同じ程の者、聟(むこ)に成らんと所望しけれども、敢(あへ)て此れを用ゐず。只(ただ)「吾(われ)より重(かサミ)上りたる者を」とは思へども、然(しか)るべき者無かりけり。秘蔵(ひさう)の娘にて、後園に一宇の屋を作りて、此(こ)の娘をぞ住ませける。高きも賤しきも男と云ふ者をば通はせず。
此(こ)の娘、秋の長き通夜(よもすがら)、徒然(つれづれ)の間(ママ)に詠(なが)め明かすに、何(いづ)くより来たるとも覚えぬ尋常なる男の、水色の水干(すいかん)著(き)たりたるが、此(こ)の所に差(さ)し寄つて、様々(さまざま)の物語有りけり。且(しばし)は韜(つつ)みけれども、夜々(よなよな)度(たび)重なり行きければ、此(こ)の女房打解(うちと)けてけり。其の後、夜枯(よが)れもせず通ひけるを、暫(しば)しは此れを隠しけれども、属(つ)き仕はれける女童部(めのわらは)、父母に此れを是(かく)と語りければ、此(こ)の女房の親大きに驚いて、急ぎ娘に事の由(よし)を問ひけるに、敢(あへ)て此(か)くとも言はざりければ、父母腹立(はらだ)ちける間、親の命(めい)の背(そむ)き難さに、「来るをば見れども此れを知らず」と、有りの任(まま)に語りければ、母之(これ)を恠(あや)しみて、「然(さ)らば彼(か)の人の来たりたらん時、験(しるし)を為(し)て其の行柄(ゆくへ)を尋ぬべし」と、懇(ねんご)ろに教へける間、或夜、彼(か)の男来たりけるに、水干(すいかん)の頸に糸途(しづ)の小環(をだまき)の端(はし)を針に付
けて指(さ)しにけり。
夜明けて後、親の方へ此(か)くと告げたりければ、真(まこと)に糸途(しづ)の小環(をだまき)を〓[糸+參](く)り引きて、千尋(ちひろ)百尋(ももひろ)に引き延べたり。大夫(たいふ)父子(ふし)三人、男女の家人四五十人、急ぎ彼(か)の行柄(ゆくへ)を尋ねける程に、日向国に深山有り。嫗(うば)が嶽(たけ)と云ふ嵩(たけ)の怖しき岩室が穴(あな)へぞ引き入りたりける。
彼(か)の穴(あな)の口にて聞くに、大きに痛み悲しむ声あり。人皆身の毛弥竪(よだ)つて、怖しさ限(カギリ)無(な)し。父の教へに依(よ)つて、娘糸を牽(ひか)へて、「此(こ)の穴(あな)の中に何(いか)なる者か有る」と問ひければ、大きに恐しき声にて、「吾(われ)は其れへ夜々(よなよな)通ひし者なり。去る夜、頸に疵を負ひて痛み限り無ければ、這(は)ひ出でて見たけれども、日来(ひごろ)の変化(へんげ)既(すで)に尽きたり。今は何をか隠すべき、吾(わ)が身は本体(ほんたい)大蛇なり。争(いかで)か見え奉(たてまつ)るべき。但(ただ)し其の腹の中に一人の男子(なんし)を宿せり。必ず安穏に長(そだ)つべし。草の影にても守るべし。人畜形は異なるといへども、子を思ふ道に替り目は無(な)し」と、是(こ)れを最後の語(ことば)と為(し)て、後は音もせず。大太太夫(だいたたいふ)を始めと為(し)て、怖しさ斜(なの)めならず。〓(あわ)て騒いで逃げ返りぬ。
然(さ)る程に、月日(つきひ)漸(やうや)く累(かさな)りて、此(こ)の娘徒(ただ)ならず、其の期(ご)に至(いた)つて一人の男子(なんし)を生みけり。成長するに随ひて、容顔人に勝(すぐ)れ、心様武(たけ)き者にてぞ侍(はべ)りける。博多(ハカタ)の祖父(そぶ)が片名を取つて、大太とぞ云ひける。足には〓(あかがり)常に破(わ)れたりければ、異名には〓(あかがり)大太とぞ申しける。
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今の維能(これよし)は大太が五代の孫なりければ、心武(たけ)く怖(おそろ)しき者なり。院宣を蒙(かうぶ)りぬる上は、興(きよう)に入つて数万騎の兵(つはもの)を引き将(ゐ)て太宰府へ発向す。然(さ)る間、九国(くこく)の者共皆随ひにけり。
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八 主上(しゆしやう)を始め奉(たてまつ)り、平家、宇佐宮参詣の事
十月十日、主上(しゆしやう)を始め奉(たてまつ)つて、女院・先の内府(だいふ)以下(いげ)の一門、皆宇佐宮へぞ参られける。社頭をば主上の皇居と成(な)し、廊をば月卿・雲客の居と卜(し)む。大鳥居をば五位・六位の官人等堅(かた)めたり。庭上(ていしやう)には四国・九国(くこく)の兵(つはもの)並(な)み居たり。祈請の趣は、只(ただ)主上(しゆしやう)旧都の還幸をぞ申されける。七日参籠の明方に、先の内府(だいふ)夢想の告げを承(うけたまは)る。大菩薩一首の御詠に云はく、
世中濃宇佐ニハ神モ無キ物ヲ 何祈覧心尽尓
世の中の宇佐には神も無(な)きものを 何祈るらん心尽くしに
思ひき耶(や)彼(か)の蓬壺(ホウコ)の月を此(こ)の海上(かいしやう)に写すべきとは。九重(ここのへ)の雲の上、久方の花月に交りし輩、今更(いまさら)に切に思ひ出だされて、声声に口〓(くちずさ)み給ひけり。
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九 平家、緒方三郎(さぶらう)に筑紫を追ひ出だされ、四国へ渡り給ふ事
十月五日(いつか)、緒方の三郎(さぶらう)維能(これよし)、子息(しそく)の野尻の次郎維村を使者(ししや)と為(し)て、平家へ申し遣(つか)はしけるは、「維能(これよし)御恩をも蒙(かうぶ)つて候ひき。相伝の君にて渡らせたまふ上、十善の帝王に御座(おはしま)せば、尤(もつと)も奉公(ほうこう)仕るべく候へども、早(はや)く九国(くこく)の内を出だし奉(たてまつ)るべき由(よし)、院宣を下され候ふ間、力及ばざる次第なり。疾疾(とうとう)出でさせ御座(おはしま)せ」と申したりければ、平大納言時忠卿、野尻の次郎に出で向かつて言ひけるは、「吾(わ)が君は天孫四十九世の正統(しやうとう)、人皇(にんわう)八十一代の御門(みかど)なり。忝(かたじけな)くも太上法皇(だいじやうほふわう)の御孫、高倉院の后腹(きさきばら)の第一(だいいち)の王子(わうじ)にて渡らせ給ふ。伊勢大神宮入れ代らせ給ふ覧(らん)。御裳裙河(みもスソがは)の流れ忝(かたじけな)き上、神の代より伝はれる三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)を帯(たい)して御坐(おはしま)す。正八幡宮(しやうはちまんぐう)も定めて守護せさせ給ふ覧(らん)。争(いかで)か輙(
たやす)く傾け奉(たてまつ)るべき。其の上当家は、平将軍貞盛、相馬の小次郎将門(まさかど)を追討せしより以降(このかた)、故入道(にふだう)相国、悪衛門督信頼を誅戮(ちゆうりく)せしに至(いた)るまで、代代朝家(てうか)の固めとして帝王の守りと成る。然(しか)るに頼朝・義仲が『吾(われ)軍(いくさ)に打(う)ち勝たば、国を知らせん、庄を取らせん』と云ふに賺(すか)されて、嗚呼(ヲコガマ)しき者共が、亶顔(シハツレナ)く官兵に向かつて軍(いく)さ為(す)るこそ不便(ふびん)なれ。就中(なかんづく)、筑前の者共は殊に重恩を蒙(かうぶ)れる奴原(やつばら)が、其の好(よし)みは忘れて当家を背(そむ)き、鼻豊後(はなぶんご)が下知(げぢ)に随はんことこそ然(しか)るべからね。能能(よくよく)計ふべし」と言へば、維村「此(こ)の由(よし)を披露仕り候はん」とて、急ぎ還(かへ)つて、父に此(こ)の由(よし)を云ひければ、「是(こ)は何(いか)に。昔は昔、今は今の世の中なり。院宣を下されける上は子細にや及ぶ」とて、博多へ押し寄せて時を作りたりければ、平家方には肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)を大将軍と為(し)て、菊地・
原田の一党禦(ふせ)ぎ闘ひけれども、三万余騎の大勢責め懸りければ、取る者(もの)も取り敢(あ)へず、太宰府をぞ落ちられける。
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彼(か)の憑(たのも)しかりし天満天神の注連(しめ)の辺りを心細くぞ立(た)ち離れ給ひける。下向の道の法施(ほつせ)にも、只(ただ)主上旧都の行幸とのみ申されけり。垂見山(たるみやま)を越えて、鷲の浜をぞ通りける。御輿(みこし)は有れども仕ふべき駕輿(かよ)も無ければ、主上は次(つぎ)の御輿(みこし)に奉(たてまつ)り、女房・男房(なんばう)・公卿(くぎやう)・殿上人は増(まし)て物に乗るにも及ばれず。或いは衣の妻を取り、或いは指貫の側(そば)を挿(はさ)み、歩行跣足(かちはだし)にて、涙と共に攪(カキ)暗(く)れて、筥崎(ハコザキ)の津へ迷ひ出でられける心の内こそ無慙なれ。
大宰府と、筥崎と申すは、其の間西国路三里(さんり)隔つたり。下臈(げらふ)は輙(たやす)く一日(いちにち)に度度(たびたび)行き返る所といへども、何(いつ)習(なら)はしの歩路(かちぢ)なれば、其の日一日(いちにち)に行き暮れて、夜深(ふ)け更(かう)蘭(たけなは)に至(いた)るまで猶(なほ)叶はず。比(コロ)は八月下旬の事なれば、闇黒くして、誠に天の譴(せめ)を蒙(かうぶ)れるか。境節(をりふし)降る雨は車軸の如(ごと)し。吹く風は砂(いさご)を〓(あぐ)るに似たり。落つる涙、過ぐる村雨、何(いづ)れと別(わ)きて見えざりけり。其の内に有りと在る貴賤男女、近きは手を取り組み、遠きは詞を通はす。声は聞けども姿は見えず。中有(ちゆうう)の衆生(しゆじやう)、地獄の罪人も此れには過ぎじとぞ覚えける。
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通夜(よもすがら)泣き明かし、暁(あかつき)に成りければ、船に混み乗り出でんと欲(し)たまひけれども、浪風冽(ハゲシ)くて叶ふべくも無(な)し。震旦(しんだん)・鬼海(きかい)・高麗(かうらい)・天竺(てんぢく)に至(いた)るまでも落ち行かばやとは思へども、叶ふべしとも覚えねば、涙と共に悲しむ処に、山賀(やまが)の兵藤次(ひやうどうじ)秀遠(ひでとほ)と云ふ男、「山賀(やまが)の城こそ閑所にて候へ。暫(しばら)く入り御坐(おはしま)して御覧ぜらるべく耶(や)候ふ覧(らん)」と申す。悦(よろこ)びの耳を聞く様に覚食(おぼしめ)されて、山賀(やまが)の城(じやう)へ移り入らせ給ふ。岩戸(いはと)の少卿(せうきやう)大蔵(おほくらの)種直(たねなほ)は、年来(としごろ)の同僚を始めて見上げん事も石流(さすが)に覚えて、「大地山の関上(あ)けて参らん」と申して、己(おの)が国へぞ返りける。
[中音]平家は山賀(やまが)の城(じやう)に遷(うつ)つて、暫(しばら)く此(こ)こに栖む。蕨(そ)れも始終有るべき様も無(な)くて、柳と申す所に移りけり。其れも僅に七箇日御坐(おはしま)して、柳の御所を出でたまふ。高瀬船と申す小船に混み乗り、何(いづ)くを指(さ)して行くとも無(な)く、海上(かいしやう)遥かに浮かび給ひけり。
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清経の左中将(さちゆうじやう)、「都をば源氏に追はれ、鎮西をば維能(これよし)に追ひ落とされ、運程に顕はれたり。何(いづ)くに行くとも遁(のが)るべきかは」とて、船の舳に立(た)ち出で、西に向かひ閑(のど)かに経を読み念仏申して、海に入りて失せられにけり。女院・二位殿・女房達袷(あれ)は何(いか)にと声を揚げて立(た)ち並び、嘔(をめ)き叫び給ふ。公卿(くぎやう)・殿上人「如何(いか)に為(せ)ん」と歎き合ひ給ひけり。然(さ)れども、二度(にど)とも見えたまはざりけり。
其の後、長門国は新中納言知行の分国なりければ、国司の代官に橘の民部(みんぶ)大夫(たいふ)道輔と云ふ者有りけり。安芸・周防・長門・三ヶ国の美物船卅艘を点停して、平家に奉(たてまつ)りたりければ、平家之(これ)に混み乗りけり。今少し都近くと漂(ただよ)ひ行き、四国の浦に浮かび給ひけり。
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阿波民部(みんぶ)大夫(たいふ)成良は四方(しはう)に遠見して立つたりけるが、浜の方を見遣(や)るに、海の面に誰とも知らず、篠の葉を切り浮かべたる如(ごと)くに船共数見えけり。成良思ひけるは、「源氏の討手(うつて)は未(いま)だ都を出でたりとも聞かず。平家の人人、一定(いちぢやう)鎮西を追ひ出だされ御坐(おはしま)すらん。参つて見奉(たてまつ)りて、平家にて御坐(おはしま)さば入れ奉(たてまつ)らん。敵(かたき)ならば恥有る矢一(ひと)つ射ん。用意為(せ)よ」と、一門・子共に云ひ置いて、我が身計(ばか)り船に乗り、押し出だして見奉(たてまつ)るに、平家にて御坐(おはしま)しける間、平家悦(よろこ)びを作(な)しけり。阿波の民部(みんぶ)大夫(たいふ)を先と為(し)て、四国へ渡り給ひ、讃岐国(さぬきのくに)八嶋(やしま)の浦に溥(コギ)付きにけり。民屋を皇居と為(す)るに足らざれば、御船を以つて内裏と為(な)す。大臣以下(いげ)月卿・雲客、下賤(シヅ)が臥屋(ふせや)に夜を重ね、海(あま)の苫屋に日を送る。草枕梶枕浪(なみ)に打たれ、露に汐(しほ)れてぞ明し暮し給ひける。
四国の者共、大略成良に靡(なび)きければ、御気色(ごきしよく)実(げ)に以つて如勇(ゆゆ)しかりけり。然(さ)てこそ阿波守には成されけれ。貞能(さだよし)は九国(くこく)をも随へず追ひ出だされたりければ、綺羅(きら)も無かりけり。
P2253
十 木曾、京都にて院参の出仕頑(かたくな)なる事
木曽伊予守義仲は、貌形(かほかたち)清気(きよげ)にて美男為(な)りけれども、立居(たちゐ)の振舞(ふるま)ひ、物なんど云ひたる言次(ことばつぎ)、堅固の田舎人(ゐなかびと)にて嗚呼(をこ)なりけり。信濃(しなの)の国木曽の山本一と云ふ所に、三歳より廿余年の間隠れ居たりければ、人には馴るること無(な)し。始めて都人に懐(な)れ染めんに、何(なじ)かは善(よ)かるべき。
猫間の中納言光高、木曾に申し合はすべき事有つて渡られけるに、雑色(ざふしき)をして参れる由(よし)を云ひ入れられたりければ、切者(きりもの)に根井(ねのゐ)と云ふ者、「猫殿の参つてこそ候へと仰せられて候ふ」と申したりければ、木曾心得(え)ず、「左(と)は何事ぞ。然(さ)れば、京の猫は人に見参(げんざん)する事か」と言ひければ、根井(ねのゐ)重ねて雑色(ざふしき)に尋ねければ、雑色(ざふしき)申しけるは、「七条坊城、壬〔生〕・櫛器(くしげ)の辺りをば北猫間・南猫間と申し候ふ。是(こ)れは北猫間の上臈(じやうらふ)に、猫間の中納言殿と申す御事なり」と委しく申しければ、其の時得意(こころえ)て、木曾、中納言殿を入れ奉(たてまつ)つて対面す。
木曾言ひけるは、「猫殿の適(たまたま)和往(ワイ)たるに、根井(ねのゐ)急(きつ)と物食はせよ」と云ひければ、中納言浅猿(あさまし)く覚えて、「只今(ただいま)有るべくも無(な)し」と云ひければ、「云何(いかが)芸時(ケどき)に和往(ワイ)たるに、物食はせでは有るべき。無塩(ぶえん)の平茸も有りつ。疾疾(とうとう)」といひければ、「由(よし)無(な)き所へ来て、今更(いまさら)還(かへ)らん事も流石(さすが)なり。此計(かばか)りの事こそ無けれ」と興(きよう)覚(さ)めて、流石(さすが)に対(むか)ひては居たり、立(た)ち去り得(え)でぞ御坐(おはしま)しける。暫(しばら)く有つて、深く大きなる田舎合子(ゐなかがふし)の荒塗(あらぬ)りなるに、毛打(う)つ立つて黒黒(くろぐろ)と有る飯(はん)を堆(イシケ)に盛り上げて、御菜(ごさい)三種(さんじゆ)、平茸の汁一(ひと)つ、折敷(をしき)に居(す)ゑて、根井(ねのゐ)此れを持(も)ちて、中納言の前(まへ)にぞ居(す)ゑたりける。大方(おほかた)左右(とかう)云ふ計(ばか)り無(な)し。木曾が前(まへ)にも同じく之(これ)をぞ居(す)ゑたりける。木曾先づ箸を取
り喰ひけり。中納言は興(きよう)覚(さ)めて、御箸も立てられず。木曾之(これ)を見て、「何(いか)でか召食(めしま)さぬぞ。無塩(ぶえん)の平茸も有り。猫殿掻々(カイ)たべ」と云ひければ、中納言、食はでも怖(おそろ)しければ、御箸を立てて召す様にし給へども、余りに合子の不審(イぶせ)さに、食ひも遣(や)らず、只(ただ)御箸の端(はし)を相(あひ)構(アイシラ)ひ、合子の縁に当てじとして、中を深深と劇(ムシ)り務め居たり。流石(さすが)に木曾も心得(え)たる耶覧(やらん)、「何と猫殿、合子は苦しからじ。其れは義仲が精進(しやうじん)の合子ぞ。只(ただ)食(め)せ」とぞ申しける。木曾大飯(おほめし)を残り少(すく)なに打(う)ち喰ひて、「猫殿は少食(せうじき)にて和往(ワイ)けるや」とぞ云ひける。中納言墓々(はかばか)しく言(もの)も曰(のたま)はで、返られたり。
P2259
其れのみならず、嗚呼(をこ)がましき事共多かりけり。
木曾、布衣(ホウイ)に取装束(とりしやうぞく)して、車にて院参(ゐんざん)しけるが、著(き)慣(なら)はぬ立烏帽子(たてえぼし)は著(き)たり、烏帽子(えぼし)の際より始めて、差貫(さしぬき)の裾に至(いた)るまで、頑(かたくな)なること云ふ計(ばか)り無(な)し。車・牛は平家の内大臣(ないだいじん)の召されたりけるを取つたりければ、牛飼童(うしかひわらは)も其れなりけり。下臈(げらふ)なれども、吾(わ)が主(しゆう)の敵(かたき)と、目覚(めざま)しく心憂(こころう)く欲(おも)ひければ、車に乗る有様の云ふ計(ばか)り無(な)く嗚呼(をか)しかりけり。甲を打(う)ち著(き)て馬に乗つたるには少しも似ず、実(まこと)に危ふく堕(ヲチ)ぬべしとは見えたりけり。木曾乗り終(は)て給ひければ、牛飼一杖(ずはえ)之(これ)を打(う)つ。飼ひ肥やしたる逸物(いちもつ)なり。何(なじ)かは滞り有るべき。飛ぶが如(ごと)くに走りける間、木曾仰(アふの)けに車の内に転(マロ)びけり。牛は鞠(ケ)上つて踊(ヲド)り行く。
木曾起き上がらんと欲(す)れども、何(なじ)かは起きらるべき。蝶の羽を放(ひろ)げたるが如(ごと)くにて、足を空に捧げて、名曲声(なマリごゑ)にて、「耶己(やおれ)小出居(こでい)、耶己(やおれ)特〔牛〕(こでい)、且(しば)し且(しば)し」と呼べば、牛飼空聞かずして、四五町計(ばか)り驟(アガカ)せたりければ、伴(とも)に有りける雑色(ざふしき)走り付きて、「且(しば)し御車(みくるま)留めよ」と申しければ、止(とど)めにけり。
「何(いか)に是(かく)は仕るぞ」と申しければ、「御車(みくるま)牛の鼻が強(こは)く候ふ」とぞ陳じける。然(さ)て起き上がりて後も尚(なほ)危ふかりければ、牛飼悪(にく)さは悪(にく)かりけれども、「其れに候ふ手形に手を懸けて取り付かせ給へ」と申しければ、「手形とは何ぞ」と問ひければ、「両方に立(た)ち候ふ板を方立(ホウだて)と申し候ふなり。其れに候ふ穴(あな)に御手を入れて取り付かせ給へ」と申しければ、其の時之(これ)を見付けて、左右(さう)の手形に張(ちやう)と取り付き、「袷(あはれ)支度(したく)耶(や)。然(さ)れば疾(と)くにも云はで。抑(そもそも)是(こ)れは和僮(ワウナイ)が支度(したく)か、殿の様か、木の成りか」と問ひ給ひけるこそ嗚呼(をか)しかりけれ。
院の御所にて、車懸け弛(はづ)したりけるに、車の後ろより下りんとす。「前よりこそ下りさせ給はめ」と雑色(ざふしき)申しければ、「如何(いか)に順通(スドほ)りに過ぐべき」と云ひて、車の後ろより下りけるこそ嗚呼(をか)しかりけれ。
御所に参つても、烏帽子(えぼし)の際より差貫(さしぬき)の裾まで、立居(たちゐ)の振舞(ふるま)ひ嗚呼(をか)しかりければ、若殿上人之(これ)を見て、其の事と無(な)く罟罟(シイしい)と笑ひ給ひけり。吾(われ)を笑ふとだに知りたらば、何人(なにびと)なりとも善(よ)かるまじきを、吾(わ)が身の上とは努(ゆめ)知らず、共に連(つ)れてぞ笑ける。
P2264
十一 木曾、平家追討の為(ため)に院宣を申す事
寿永(じゆえい)二年十月、平家は讃岐国(さぬきのくに)の八嶋(やしま)に有りながら、山陽道八箇国・南海道六箇国、合はせて十四箇国をぞ靡(なび)かしける。木曽伊予守義仲此れを聞き、院宣を申すに依(よ)つて、院庁の御下文を成(な)し下されけり。状に云はく、
院庁下す 山陽南海諸国の押領使(あふりやうし)等
早(はや)く源の義仲を大将軍一と為(し)て、彼(か)の三道諸国相(あ)ひ共に、前の内大臣(ないだいじん)平の宗盛(むねもり)以下(いげ)の党類を追討せしむべき事
右、件(くだん)の党類、奸心の余に叛逆(ほんぎやく)を恣(ほしいまま)にし、累代の宝物、神璽・宝剣・内侍所を具し奉(たてまつ)り、九重(ここのへ)の城都を出だす。之(これ)を政途に論ずるに、辞(コトニハ)前載に絶えたり。宜(よろ)しく彼(か)の道道諸国の押領使(あふりやうし)等に仰せて、謀逆の与力を速やかに追討せしめ、魁首(クハイしゆ)の輩を出だすべし。須(すべから)く不翅(ふシ)の賞に易(か)ふべし。者(てへ)れば、仰する所件(くだん)の如(ごと)し。宜(よろ)しく承知し、遅留すべからず。故(ことさら)に下す
寿永(じゆえい)二年十月廿一日 主典代(ツカサノカミ) 織部丞大江朝臣(あつそん)
左(と)ぞ書かれたる。
P2267
十二 室山・水嶋合戦の事
伊予の守此れを賜つて、足利の八田(はつた)の判官代(はんぐわんだい)義清・宇野の矢平四郎行広、是(こ)の二人を大将軍と為(し)て、五千余騎を指(さ)し遣(つか)はす。源氏は備中国水嶋と云ふ所に牽(ひか)へたり。平家は讃岐(さぬき)の〔屋〕嶋に在(あ)り。源平海を隔てて〓(ささ)へたり。
潤十月一日、水嶋が津より小船一艘出だしたり。漁人(あま)の釣船かと見る程に、然(さ)は無(な)くして、平家の方より牒の使ひの船なりけり。此れを見て、源氏は船千余艘、纜(トモツナ)を解(と)いて、兼(か)ねて船を維(ツナ)ぎ干し上げたりけるを、俄(にはか)に纜(ともづな)を切つて、謳(をめ)き楽楽(ザヽ)めきて下しけり。
P2269
源氏の大手の大将軍は八田(はつた)の判官代(はんぐわんだい)義清、搦手(からめで)の大将軍は宇野の矢平四郎行広なり。平家の大手の大将軍は新中納言知盛(とももり)・越前三位(さんみ)通盛(みちもり)、搦手(からめで)の大将軍は本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡(しげひら)・能登守教経(のりつね)なり。平家の船は五百余艘なりけるを、二百艘は澳(おき)に引(ひか)へたり。三百艘をば百艘充(づつ)三手(みて)に分け、水嶋の門(と)へ指(さ)し廻し、源氏の船を漏(も)らさじと押し捲きたり。
能登守言ひけるは、「何(いか)にか軍(いくさ)は緩(ユル)なるぞ耶(や)。東国の者共に虜(いけど)らるな。源氏の船は一千艘、吾(われ)等が船は五百艘、所所(ところどころ)に分けては叶はじ。御方(みかた)の船を組め」とて、五百艘を押し合はせ、纜(ともづな)・舳綱(へづな)を組み合はせ、処々(ところどころ)に歩(あゆ)みの板を渡しければ、平平(へいへい)として陸地(くがち)の如(ごと)し。加様(かやう)に支度(シたく)して、時を作り矢合せして戦ひけり。遠き者をば此れを射、近き者をば此れを截(き)り、熊手に係(か)けて取るも有り、取られ引つ組んで海に入るも有り。思ひ思ひ心々(こころごころ)にぞ勝負(しようぶ)を為(し)ける。
源氏の大手の大将軍八田(はつた)の判官代(はんぐわんだい)義清は、身計(ばか)り八人小船に乗つて落ちける程に、平家の方より究竟(くつきやう)の水練(すいれん)三人、船より下りて波の底を突(ツイ)括(くぐ)り、敵(かたき)の船の縁(へり)に手〓(タぐり)付きて手を捧げ、船の縁を引き返しければ、八人ながら沈みけり。此れを見て、搦手(からめで)の大将軍宇野の矢平四郎行広は、散々に戦ひ、討ち死にしてぞ失せにける。大将軍討たれにければ、残る所の兵共(つはものども)、渚に船共を押し寄せ、落ち支度(したく)をぞ為(し)たりける。此れを見て、平家の方には、船の内に鞍置馬を用意為(し)たりければ、打(う)ち乗り打(う)ち乗り、船共渚へ押し寄せて、乗り傾けて雑(ざつ)と落とし、嘔(をめ)いて懸けたりければ、源氏の軍兵(ぐんびやう)面も合はせず皆落ちにけり。其れよりしてこそ平家に大勢著(つ)きにけれ。
P2273
伊予守此れを聞いて太太(いとど)安からず、夜を日に継(つ)いで西国へ馳せ下る。
瀬尾(せのを)の太郎兼康は、去んぬる六月一日、加賀国(かがのくに)篠原の合戦の時、同国(どうこく)の住人蔵光(くらみつ)の三郎(さぶらう)成澄に虜(いけど)られ、其の後は木曾に随ひにけり。李子卿(リシケイ)が胡国に囚(とら)はれ、勇卿(ヨウけい)が漢朝に還(かへ)るが如(ごと)し。越王(ゑつわう)勾践(こうせん)の会稽山(くわいけいざん)の軍に負(やぶ)れて呉王夫差(ふさ)に仕へしは、是(こ)れ以つて同じ事なり。兼康は木曾に随ひ、夜は寝ず、昼は悲しみの涙を流し、弐心(ふたごころ)無(な)く仕へしも、是(こ)れ今一度故郷に皈(かへ)り、再び旧主(きうしゆ)を見奉(たてまつ)り、御方(みかた)の軍に交はり、源氏を射んとの謀(はかりこと)なり。
伊予守此れをば知らず、「汝は西国の者なれば、案内は知つたるらん。道知るべと為(し)て先に立て」とて、備前国船板山(ふなさかやま)にぞ下りける。「三日逗留(とうりう)有るべし」と云ひければ、兼康申しけるは、「其の儀ならば、兼康先立(さきだ)ち奉(たてまつ)つて、馬の草用意仕るべく候ふ」と申しければ、「神妙(しんべう)なり。疾疾(とくとく)先立(さきだ)ちて、其の用意を為(せ)よ」と言ひければ、小太郎兼信・郎等宗俊主従三人、暇(いとま)を賜つて下りけり。蔵光(くらみつ)に道にて云ひける様は、「御辺(ごへん)は兼康程の者を虜(いけど)りて、今まで勧賞(けんじやう)無(な)し。兼康が本領(ほんりやう)妹尾(セノを)は究竟(くつきやう)の所なり。所望申して見給ふ程ならば、此(こ)の次(つい)でに同道(どうだう)して為(し)居(す)ゑ奉(たてまつ)らん」と申しければ、蔵満(くらみつ)現(げ)にもと思ひて、所望の間、相違(さうゐ)無(な)く給はりたり。
急(やが)て兼康と打(う)ち連(つ)れ、備中の妹尾(セノを)に越えけるに、其の夜は漸(やうや)く此れを扶持(もてナシ)て、明くる日は湯屋を誘(コシら)へて、湯を立てて沐浴(もくよく)の由(よし)にて、物の具したる武者十人計(ばか)り湯屋に打(う)ち入り、此れを討つてんげり。其の後兼康申しけるは、「木曾既(すで)に備前の船坂山(ふなさかやま)に下る由(よし)聞ゆるに、平家に志(こころざし)を思ひ奉(たてまつ)る者は一矢(ひとや)射よ」とぞ触れにける。此れを聞いて、志(こころざし)有る者共、物の具は無ければ、〓(クサリ)腹巻を綴り著(き)、或(あるい)は布小袖に詰紐(つめひも)を結ひ、裸〓(シツコ)を掻き負ひ掻き負ひ、歩武者(かちむしや)こそ二三百人出で来たれ。兼康彼等を相(あひ)具し、備前・備中の堺福龍寺(ふくりゆうじ)に城郭を構へ、木曾を射んとぞ支度(したく)しける。
P2279
然(さ)れども、後ろの山路へ差(さ)し廻したる三千余騎、篠井(ささい)へ雑(ざつ)と落としければ、妹尾の太郎兼康を始めと為(し)て三百余人、思ひ切つて闘へども、大勢に逼(せ)め立てられて、遂(つひ)に叶はず破(やぶ)れにけり。妹尾の太郎は小太郎を捨てて落ちけれども、恩愛(おんあい)(ヲンあい)の道は力及ばぬ事なれば、行きも遣(や)らず覚えければ、一所(いつしよ)にて死なんとぞ思ひける。「屋嶋へ参つて、『北国の軍に木曾が為(ため)に破られて候へば、小太郎と一所(いつしよ)にて何(いか)にも成らんと存じ候へども、此(こ)の日来(ひごろ)朝夕(あさゆふ)祇候(しこう)仕りし事を申さんが為(ため)に参つて候ふ。』今は思ふ事無(な)し」とて、十余町馳せ返つて、小太郎が足を病みて居たる所に行き合ひけり。大木を木楯(きだて)にして待ち懸けたり。
木曾の方には根井(ねのゐ)の小矢太近行、三百余騎にて寄せ懸けたり。「瀬尾(せのを)の太郎兼康此(こ)こに在(あ)り」とて、指(さ)し詰め引き詰め散散に此れを射ければ、十三騎に手を負はせ、敵(かたき)七騎(しちき)を打(う)ち取りけり。矢種(やだね)已(すで)に尽きければ、自害(じがい)してぞ死ににける。子息(しそく)小太郎(こたらう)兼信(かねのぶ)も散散(さんざん)に闘(たたか)ひて、同(おな)じく自害(じがい)して失せにけり。
P2281
然(さ)る程に、京(きやう)の留守に置いたりける樋口(ひぐち)の次郎兼光、早馬を立てて申しけるは、「十郎蔵人(くらんど)殿こそ、院(ゐん)の切人(きりうど)と為(し)て、守殿(かうのとの)を討ち奉(たてまつ)らんと構(かま)へられ候へ」と申しければ、伊予守大きに驚き、平家を打(う)ち捨てて都へ馳せ上る。木曾登ると聞えければ、十郎蔵人(くらんど)、樋口を夜打(う)ちにして西国へ下り、木曾無勢(ぶぜい)にて軍(いくさ)為(シ)疲れたらん時、寄せ合せて此れを討たんと内議(ないぎ)したりけるが、兼光に覚られて、支度(したく)相違(さうゐ)したりしかば、夜深(ふ)けて都を打(うつ)立(た)ち、千余騎にて葛河(かつらがは)の縁(ハタ)に引(ひ)かへたり。木曾已(すで)に都へ打(う)ち入る由(よし)聞えければ、行家指(さ)し違へて、摂津国を通り、播磨へ趣きけり。
源氏帰洛(落)の間、平家勝ちに乗つて推(お)して上る処に、十郎蔵人(くらんど)、室坂に行き向かふと聞えければ、平家討手(うつて)を五手(ごて)に分けて、先陣(せんぢん)は越中の次郎兵衛(じらうびやうゑ)盛次(もりつぎ)千余騎なり、二陣(にぢん)は上総(かづさ)の五郎兵衛忠光一千騎、次は飛彈(ひだ)の三郎左衛門(さぶらうざゑもん)景経(かげつね)一千騎、次は本三位(ほんざんみの)中将(ちゆうじやう)重衡(しげひら)二千騎、又次は新中納言知盛(とももり)五千騎にて、室坂へ歩ませ向かふ。源氏の千騎は只(ただ)一手にて向かひけり。
平家の先陣(せんぢん)矢合せして戦ひけるに、盛次(もりつぎ)しばし支へて引き退く。行家二陣(にぢん)へ馳せ向かひけるに、忠光禦(ふせ)ぎ戦ひつつ、是(こ)れも支へて目手(めて)の麓へ馳せ下る。源氏此れを係(か)け破(やぶ)つて次(つぎ)の陣へ馳せ向かひ、散々に戦へども忍びず、ひき退きぬ。
平家は室山・水嶋二箇度(にかど)の軍に勝ちてこそ、会稽の恥をば雪(すす)ぎけれ。
新中納言福原に陣を取つて、屋嶋へ申されけるは、「源氏の両大将、行家をば責め伏せ候ひぬ。義仲は無勢(ぶぜい)にて候へば、都にて之(これ)を責め落とし、君を京へ皈(かへ)し入れ奉(たてまつ)らん」と、屋嶋へ申されければ、上下(じやうげ)の男女悦(よろこ)び合へり。
又僉議(せんぎ)有りけるは、「義仲・行家を打(う)ち落としたりとも、頼朝東国より差(さ)し代(か)へ代官共を登せんには、敵(かたき)尽くる期(ご)有るべしとも覚えず。一旦都へ責め入るとも臆治(ヲクジ)無し。只(ただ)勢を揃へ兵(つはもの)を労りて、後日(ごにち)の合戦を相(あ)ひ待つべし」と、大臣殿(おほいとの)返答(へんたふ)有つて、屋嶋へ漕ぎ還(かへ)り給ひぬ。
P2291
十三 木曾、京都にて狼籍を致す事
設(たと)ひ源氏の世に成(な)つたりとも、其の類(たぐ)ひならざらん者は何の悦(よろこ)びか有(あ)るべきに、人の心の所詮(しよせん)無さは、平家方の弱ると聞いては内内此れを悦(よろこ)び、源氏の勁(つよ)ると聞いては興に入(い)つて此れを悦(よろこ)びけり。
平家西国へ落ちしかば、其の騒ぎに引(ひ)かれて、安き心も無(な)し。況(いはん)や北国の夷(えびす)共(ども)京に入つて後は、少しも京中穏やかならず。家家を追捕(ついふく)し、資財雑具(ざふぐ)を奪ひ取りければ、院より壱岐判官(はんぐわん)朝安(ともやす)を御使ひと為(し)て、狽籍止(とど)むべき由(よし)、木曾が許(もと)へ仰せ下されけるに、其の御返事をば申さずして、「耶(や)給会(たまえ)、朝安、和殿(わとの)を京中に鼓判官(はんぐわん)と云ふは、人の為(ため)に撃たるるか、張らるるか」と云ひければ、朝安返事も無(な)くて苦笑ひしつつ、皈参して、「義仲は嗚呼(をこ)の者にて候ひけり。向かひ様(ざま)に右(と)こそ申して候ひつれ。勢を賜つて追討せん」とぞ申しける。此(こ)の朝安は、究竟(くつきやう)の鼓の上手にて雙(なら)び無ければ、世間の人「鼓の判官(はんぐわん)」とぞ申しける。木曾此れを聞いて、加様(かやう)に申しけるとか耶(や)。
P2293
凡(およ)そ木曾は遠国(をんごく)の者とは云ひながら、常偏(ひたすら)の夷(えびス)なりければ、院宣をも事ともせず、散々に振舞(ふるま)ひければ、平家には事の外に代(か)へ劣りしてぞ覚食(おぼしめ)されける。源氏は白験(しろじるし)なり、平家は赤旗(あかはた)赤験(あかじるし)なり。平氏(へいじ)を源氏に引き代(か)へて、法皇持労(モチアツカ)うて御坐(おはしま)しけるを、京童部(きやうわらんべ)歌に読みて立てたりけるは、
「赤裁出(サイイテ)白手(タナ)巾取代天 頭(カシラ)巻小入道(にふだう)哉
〈赤さいて白たなごひに取り代(か)へて 頭に巻ける小人道かな〉
木曾必ずしも下知(げぢ)するとも無けれども、〓(サヘ)行く冬の中の月の比(こロ)、下部(しもべ)の者共、山山寺寺に乱れ入り、堂社(だうしや)をも壊し焼き、仏をも破り焼きければ、弥(いよいよ)狼藉止(や)まざりけり。朝安頻(しき)りに之(これ)を訴へ申しける間、墓々(はかばか)しく人にも仰せ合はせられず、〓々(ひしひし)と事定りにけり。
然(しか)る間、宮寺(みやでら)の長吏(ちやうり)に仰せて、悪僧等を召し集めけり。日比(ひごろ)義仲に随ひたる源氏共、仰せを奉(うけたまは)つて、吾(われ)も吾(われ)もと参りけり。凡(およ)そ諸寺諸山(しよさん)の別当(べつたう)・長吏(ちやうり)に仰せて、兵共(つはものども)を召されけり。北面(ほくめん)の者共・若殿上人・諸大夫(しよだいぶ)何(ナンド)は、面白き事に思ひて、興(きよう)に入りたりけり。長(おとな)しき人々、物の理(ことわり)を弁(わきま)へたる輩は、「此(こ)は浅猿(あさまし)き事かな。天下の大事を出ださん」と歎き合へり。
法住寺殿(ほふぢゆうじどの)には城郭を構へ、兵共(つはものども)参りつつ、松の葉を以つて御方(みかた)の笠注(かさじるし)と為(す)。朝安は御方(みかた)の大将軍と為(し)て、門外(もんぐわい)に床子(しやうじ)に尻懸けて、赤地の錦の鎧直垂(よろひびたたれ)に、脇楯(わいだて)計(ばか)りを為(し)て、廿四差いたる征矢(そや)を一筋(ひとすぢ)抜き出だして、礫鏘(ザラリ)礫鏘と爪遣(や)りて、「哀(あは)れ、白物(しれもの)の頸の骨を、此(こ)の矢を以つて、只今(ただいま)射串(いぬ)かばや」とぞ〓(ののし)りける。又万(よろづ)の大師の御影(みえい)を書き集め、四方(しはう)の陣(ぢん)に放係(ヒロゲか)けけり。身方(みかた)に語(かた)らふ所の者は、堀川(ほりかは)の商人(あきんど)・町の冠者原(くわんじやばら)・向(む)かひ礫(ツブテ)・〓(インヂ)・乞食(こつじき)法師原共(ほふしばらども)の合戦(かつせん)の様(さま)も何(いつ)か為(し)習(なら)ふべき、動(ややもすれ)ば逃足(にげあし)をのみ履(ふ)む物共ぞ多(おほ)く参り籠もりたりける。物の要に立つべき者は一人も無(な)かりけり。
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木曾之(これ)を聞いて申しけるは、「平家謀叛を発(おこ)して、君を悩まし世を乱す。義仲之(これ)を責め落として、君の御代に成(な)し奉(たてまつ)る。豈(あに)奉公(ほうこう)に非(あら)ずや。然(しか)るに何の罪科に因(よ)つてか誅(ちゆう)さるべき。是(こ)れは只(ただ)鼓の判官(はんぐわん)女(め)が讒言なり。安からぬ者かな。叱耶(シヤ)鼓女(つづみめ)を打(う)ち破(やぶ)つて捨てん」と云ひければ、樋口の次郎兼光・今井の四郎兼平申しけるは、「十善の帝王に向かひ奉(たてまつ)つて、争(いかで)か弓を引きたまはん。只(ただ)何度(いくたび)なりとも誤たぬ由(よし)を陳じ申して、頸を延べて参り給ふべく耶(や)候ふ覧(らん)」と申しければ、「義仲、年来(としごろ)日比(ひごろ)度々(どど)の合戦に逢ふといへども、未(いま)だ一度も敵(かたき)に後ろを見せず。縦(たと)ひ十善の帝王にて御坐(おはしま)すとも、冑を抜ぎ弓を弛(はづ)いて降人に参るべしとも覚えず。敵人(かたき)鼓女(つづみめ)に頸を切られなば、悔ゆとも叶ふべからず。今度(こんど)においては最後の軍(いくさ)為(た)るべし」と申しければ、朝安此れを
聞いて、太太(いとど)瞋(いか)りを作(な)して、急ぎ追罸(ついばつ)の由(よし)を申す。
朝安は錦の鎧直垂(よろひびたたれ)に、鎧をば著(き)ず、冑計(ばか)りを著(き)て、四天王(してんわう)の像を絵に画きて冑に押し、左の手に鉾を突き、右の手には金剛(こんがう)の鈴(れい)を振り、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の四面の築垣(ついがき)の上に登りて、事を成敗しけり。時々(ときどき)は〓[イ+舞](まひ)何(ナンド)を〓[イ+舞](ま)ひけり。見る人皆「朝安には天狗(てんぐ)付きにける」とぞ申しける。又諸大師の御影(みえい)共(ども)を山寺(やまでら)より借り持(も)ち来て、築垣(ついがき)の上にぞ張り並べたりける。尾籠敷(をこガマしク)ぞ覚えし。
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然(さ)る程に、木曾が軍(いくさ)の吉例には、陣を七手に分けければ、末は一手に行き相(あ)ひけり。先づ今井の四郎を大将軍と為(し)て、三百騎を以つて御所の東、河原〔坂〕(かはらざか)の方へ押し廻し、残り六手(むて)は手々(てんで)に成るも、其の勢一千余騎には過ぎざりけり。
十一月十九日(じふくにち)辰(たつ)の尅(こく)に、木曾已(すで)に打(う)つ立つ由(よし)聞えければ、大将軍朝安騒ぎののしりける程に、軈(やが)て時の声を作り係(か)けて、四面の門際まで逼(せ)め寄せて戦ひけるに、朝安中しけるは、「汝等、忝(かたじけな)くも十善の帝王に向かひ奉(たてまつ)つて、争(いかで)か弓を挽(ひ)き矢を放つべき耶(や)。宣旨を読み懸けたらんには、枯れたる木草も花笑(さ)き実(み)成るなり。何(いか)に況(いはん)や人間(にんげん)において乎(ヲヤ)。汝等が放たん矢は、還(かへ)つて己等(おのれら)が躬(み)に中(あた)るべし。是(こ)れより放つ矢は、尖矢(とがりや)ならずとも、己等(おのれら)が躯(み)に中(あた)るべし。此(こ)の旨を心得(え)よ」と云ひければ、木曾〓(あざわら)つて、「然(さ)な言はせそ」とて、謳(をめ)いて係く。
然(しか)る間、御所の北の在家に火を懸けけり。境節(をりふし)北風冽(はげ)しくして、猛火(みやうくわ)を御所に吹き覆(おほ)ひて、黒煙(くろけぶり)唱立(おびたた)しく充(み)ち満ちたり。御所の後ろの新熊野(いまぐまの)の方より、今井の四郎三百余騎にて時を作つて寄せ係(か)けたりければ、参り籠(こも)られたりける公卿(くぎやう)・殿上人・山山寺寺の僧徒・駈武者(かりむしや)共(ども)、肝(キモ)魂も身に副(そ)はず、弓を彎(ひ)き箭(や)を放つ越(マデ)は思ひも寄らず。西には大手逼(せ)め向かふ、北よりは猛火(みやうくわ)来たる。後ろには搦手(からめで)廻(まは)りて待ち懸けければ、南面の門よりぞ人人多く迷ひ出でられける。西面八条坊門(はつでうばうもん)の主計(シユケノ)門をば、山法師(やまほふし)之(これ)を囲めたりけるが、楯(たて)の六郎親忠懸け破(やぶ)つて入りにければ、築地(ついぢ)の上にて金剛(こんがう)の鈴(れい)を振りつる朝安も、人より先に落ちにけり。
七条の末には、摂津国の源氏多田(ただ)の蔵人(くらんど)・豊嶋(てしま)の冠者(くわんじや)・太田の太郎固めたりけるが、其れも叶はで、七条を西へぞ落ちてける。天台座主明雲(めいうん)は、馬に乗らんと欲(おも)ひけるが、腰の骨を射居(す)ゑられて立(た)ちも挙(あが)りたまはず、死に給ひぬ。寺の長吏(ちやうり)八条の宮は、或(あ)る小屋(こや)に立(た)ち入らせたまひけるを、打(う)ち臥(ふ)し奉(たてまつ)り、御頸を取りけり。
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法皇は、御輿(みこし)に召して南面の門より出でさせ給ひけるを、武士共責め懸けければ、御力者(おんりきしや)御輿(みこし)を捨て奉(たてまつ)りて皆逃げ失せぬ。公卿(くぎやう)・殿上人も立(た)ち隔てられ、散散に成りにけり。
豊後(ぶんご)の少将(せうしやう)宗長計(ばか)りぞ候はれける。楯(たて)の六郎親忠が弟の屋嶋(やじま)の四郎行綱(ゆきつな)、法皇を取り奉(たてまつ)りて、五条の内裏へ渡し奉(たてまつ)る。
主上(しゆしやう)には七条の侍従信清・紀伊守範光(のりみつ)計(ばか)り付き奉(たてまつ)りて、南面の池なる御船に召して、指(さ)し除御(ノケ)坐したりけれども、武士共矢を放つこと雨の如(ごと)し。御船底に臥(ふ)せ奉(たてまつ)りて、夜に入りて坊城殿(ばうじやうどの)へ渡し奉(たてまつ)る。法住寺(ほふぢゆうじ)の御所より始めて、人人門門を並べ、軒を輾(キシ)りて造られたりける宿所(しゆくしよ)宿所(しゆくしよ)、一宇も残らず焼けにけり。
播磨の中将(ちゆうじやう)正方は、楯(たて)の六郎之(これ)を生け取りて誡(いまし)め置き奉(たてまつ)る。越前守正信は、後ろより射倒されて焼け死に給ふも無懺(むざん)なる。刑部卿(ぎやうぶきやう)の三位(さんみ)頼助(よりすけ)は、〓(あわ)て迷ひ逃げ出でけるが、七条河原にて上下(じやうげ)の衣裳を剥がれ、烏帽子(えぼし)剰(サヘ)打(う)ち落とされければ、本鳥(もとどり)放ちに真〓(まはだか)にて立たれけるを、越前の法橋(ほつけう)の縁に触れたる人の中間(ちゆうげん)法師(ほふし)、之(これ)に付き奉(たてまつ)りけるが、我が著(き)たる衣を脱いで著(き)せ奉(たてまつ)り、六条を西へ向いてぞ御坐(おはしま)しける。
凡(およ)そ男も女も衣裳皆剥ぎ取られて赤裸(あかはだか)なりけるを、心憂(こころう)しとも云ふ計(はか)り無(な)し。名を惜しみ恥をも知る程の人は、皆態(わざ)と打たれて失せにけり。甲斐(かひ)無(な)き命生きたる人人は、迯(に)げ隠れて都の外へ出で、山林(さんりん)にぞ交はりける。
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廿日卯の尅(こく)に、木曾、六条河原に出でて、昨日の軍に切る所の頸共、竹(タケ)を結(ユイ)渡して、之(これ)を懸け並べたり。一千余騎の馬の鼻を東へ向けて、三度時を作りけり。七重(ななへ)八重(やへ)に懸け雙(ナラ)べたりける首の数、三百四十とぞ聞えし。其の中に、明雲(めいうん)僧正の頸と八条の宮の御頸をば一所(いつしよ)にぞ懸けたりける。浅猿有(あさましカリ)し事共なり。木曾は昨日の軍に打(う)ち勝つて、今日(けふ)は頸共を懸け、六条河原より立(た)ち返りて、今は万事(ばんじ)意(こころ)の如(ごと)くにて、「内に成らんとも院に成らんとも我が進退(しんだい)なり。但(ただ)し内は童姿(わらはすがた)なり。院は法師(ほふし)なり。何(いづ)れも心に合はず。関白(くわんばく)に成らん」と云(い)へば、郎等共申しけるは、「藤原氏(ふぢはらうぢ)の者ならでは、関白(くわんばく)には成らぬ事にて候ふ」と申しければ、「然(さ)らば院の御厩(みうまや)の別当(べつたう)に成らん」とて、即(やが)て彼(か)の職に成りにけり。
廿一日、摂政(せつしやう)を止(とど)め奉(たてまつ)る。凡(およ)そ文官(ぶんくわん)・武官(ぶくわん)・諸国の受領(じゆりやう)、都合四十九人解官(げくわん)せられけり。実(まこと)に木曾が悪行(あくぎやう)は、平家の所行(しよぎやう)にも越えたりけり。
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平家都を落ちぬと聞きて、鎌倉殿より千人の兵(つはもの)を差(さ)し副(そ)へて上(のぼ)せられけり。弟二人は大将軍為(た)り。境節(をりふし)木曾軍(いくさ)為(し)て、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)を焼きける最中(もなか)なり。東国より勢登ると聞えければ、今井の四郎を差(さ)し遣(つか)はして、鈴賀(すずか)・不破(ふは)の二つの関を固むとぞ風聞(ふうぶん)しける。御曹司達は熱田の大宮〔司〕(だいぐうじ)の許(もと)に逗留(とうりう)して、鎌倉殿へ申されければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)大きに驚いて言ひけるは、「縦(たと)へば木曾奇怪(きつくわい)ならば、頼朝に仰せてこそ誅(ちゆう)せらるべきに、左右(さう)無(な)く朝安合戦を申し行(おこな)ふ条、意得(こころえ)ね」と、腹立(ふくりふ)せられけり。
然(しか)るに、壱岐の判官(はんぐわん)、木曾が悪行(あくぎやう)の事を申さんが為(ため)に、鎌倉へ下りて、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の許(もと)へ参りけり。人人御気色(ごきしよく)の程を知つて申しも入れざりければ、御侍(さぶらひ)に推参(すいさん)したりけるを、簾中(レンちゆう)より兵衛佐(ひやうゑのすけ)之(これ)を見出だして、子息(しそく)左衛門督(さゑもんのかみ)頼家(よりいへ)の未(いま)だ少(をさ)なく御坐(おはしま)しけるに、「良(やや)、恰(アノ)朝安は究竟(くつきやう)の比布(ひふ)の上手と聞く。是(こ)れを以つて比布(ひふ)を突くべしと云(い)へ」とて、砂金(しやきん)十二両若君に奉(たてまつ)り給ひければ、若公(わかぎみ)此れを持(も)ちて、「朝安、比布(ひふ)有るべし」と言へば、朝安此(こ)の砂金(しやきん)を賜つて、「砂金(しやきん)は天下の財(たから)の中には最上(さいじやう)なり。争(いかで)か輙(たやす)く玉には取るべき」とて、之(これ)をば懐中(くわいちゆう)し、石を三つ取り持(も)ちて、目より下に取り持(も)ちて、数百千(すひやくせん)比布(ひふ)を片手にて突き左右(さう)
の手にて突き、乱〓(らんぶ)しつつ、「応」と云ふ声を挙げて、一時計(ばか)り突きければ、参り合ひたる大名小名(せうみやう)、各(おのおの)興(きよう)に入つて見物す。其の時対面せられたり。朝安、木曾が合戦の次第を語りけり。然(さ)れども兵衛佐(ひやうゑのすけ)、先立(さきだ)ちて意得(こころえ)てんげれば、返事も無かりけり。朝安、身痿(スク)みて都へ登りけり。
人(ひと)は能(のう)は有るべかりけるものかな。朝安(ともやす)においては、指(さ)しも遺恨(いこん)深く覚(おぼ)されけるに、比布(ひふ)故(ゆゑ)にぞ兵衛佐(ひやうゑのすけ)対面(たいめん)せられたりける。
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十四 木曾追討の為(ため)に、義経・範頼(のりより)、瀬田・宇治に向はるる事
元暦元年正月一日、院の御所は六条西の洞院(とうゐん)の大膳大夫(だいぜんのだいぶ)業忠が宿所(しゆくしよ)なり。御所の躰(てい)然(しか)るべからざりける間、拝礼(はいれい)行はれず。院の拝礼(はいれい)無かりければ、殿下(てんが)の拝礼(はいれい)も行はれず。
平家は讃岐国(さぬきのくに)屋嶋の磯に春を迎へて、元日(ぐわんにち)元三(ぐわんざん)の儀式事宜(よろ)しからず。先帝〈 安徳(あんとく)天皇 〉渡らせ御座(おはしま)せば、主上(しゆしやう)と仰ぎ奉(たてまつ)る。然(さ)れども四方拝(しはうはい)も無(な)し、節会(せちゑ)も行はれず、〓(マナ)をも奏せず。世乱れたりしかども、洛(みやこ)にては石流(さすが)に右(かく)は無かりし者(モノ)をとて、太太(いとど)古郷(ふるさと)の恋しさぞ思ひ勝りける。青陽(せいやう)の春も来たり、浦吹く風も和(やは)らかに、日影閑(のど)かに成り行く。東岸(とうがん)西〔岸〕(せいがん)の柳遅速(ちそく)を待ち、南枝北枝の梅の開落(かいらく)を詠(よ)む比(ころ)なれども、此(こ)の人々は国に閉ぢ籠(こ)められて、雪山(せつせん)の寒苦鳥(かんくてう)の消えぬ雪に埋もれて歎く覧(らん)も、右(かく)やと覚えて哀れなり。然(さ)る間(ママ)に、洛(みやこ)には四季(しき)の境節(をりふし)に付けて、扇合せの興(きよう)、鞠(まり)・小弓の遊び様々(さまざま)なり。加様(かやう)の事共思食(おぼしめ)し出だしてぞ、長き日を最
々(いとど)暮らし兼(か)ね給ひける。
同じく十日、〈 木曾 〉左馬頭(さまのかみ)義仲、院の御所へ参つて、平家追討の為(ため)に西国へ発向すべき由(よし)奏聞す。之(これ)に依(よ)つて、「本朝に神の代より伝はりたる三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)有り。所謂(いはゆる)神璽(しんじ)・宝剣・内侍所なり。異故(コトゆゑ)無(な)く返し入れ奉(たてまつ)るべし」と仰せ下されければ、畏(かしこま)つて承(うけたまは)り、罷(まか)り出でぬ。
既(すで)に今日(けふ)門出(かどいで)とぞ聞えける。然(さ)れども、義仲が悪行(あくぎやう)身に余る由(よし)、北面(ほくめん)の下臈(げらふ)源判官(はんぐわん)季俊(すゑとし)を以つて、関東(くわんとう)の頼朝に仰せ下されければ、大きに驚いて、舎弟(しやてい)蒲の冠者(くわんじや)範頼(のりより)・九郎冠者(くわんじや)義経を大将と為(し)て、宗(むね)との兵(つはもの)三十人、其の勢六万余騎を打(う)ち登す。兵衛佐(ひやうゑのすけ)、兵(つはもの)一人充(づつ)に向かつて、「今度(こんど)は汝を恃(たの)むぞ」と曰(のたま)へば、各々(おのおの)吾(われ)一人して高名為(せ)んとぞ思ひける。
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然(さ)る程に、東国より蒲の御曹司範頼(のりより)・九郎御曹司義経二人を大将軍と為(し)て、数万騎の軍兵(ぐんびやう)を差(さ)し上(のぼ)せらるる由(よし)聞えけり。平家は西国より責め登る。木曾は東西に詰められて為方(せんかた)無(な)く、一(ひと)つに成つて源氏を責むべき由(よし)、讃岐(さぬき)の屋嶋へ申しけれども、頼朝が思はん事も恥かしければ、「御志(こころざし)有らば、弓を弛(はづ)して降人に参れ」とて、用ゐられず。平家は木曾が悪行(あくぎやう)を聞き伝へて、「君も臣も山も奈良も、此(こ)の一門を背(そむ)いて源氏の世に成(な)したれども、然(さ)も有るか」と、大臣殿(おほいとの)より始め奉(たてまつ)りて、興に入りてぞ笑はれける。
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然(さ)る程に、義仲が濫悪(らんあく)を聞いて、東国より兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝、木曾を追討すべき由(よし)、早馬を立てて、範頼(のりより)・義経の方へ云ひ遣(つか)はされけり。木曾又此(こ)の由(よし)を聞いて、郎等共を分け遣(つか)はして之(これ)を囲む。根井(ねのゐ)の小矢太(こヤた)親行(ゆきちか)・其の子楯(たて)の六郎親忠・方等(かたら)の三郎(さぶらう)先生(せんじやう)義弘、此れ等三人を大将軍と為(し)て、五百余騎にて宇治を固めに之(これ)を指(さ)し遣(つか)はす。今井の四郎兼平・屋嶋の四郎行綱(ゆきつな)・落合(おちあひ)の五郎信光等三人を大将軍と為(し)て、五百余騎にて瀬田を固めに之(これ)を指(さ)し遣(つか)はす。両方共に橋を引いて、向かふ敵(かたき)をぞ待ち懸けける。
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寿永(じゆえい)三年正月廿日寅卯(とらウノ)時に、東国の軍兵(ぐんびやう)両方より打(う)ち入りけり。
瀬田の大手の大将軍には蒲の冠者(くわんじや)範頼(のりより)・武田の太郎信義・加賀見(かがみ)の次郎遠光・子息(しそく)小笠原(をがさはら)の次郎長清・一条(いちでう)の次郎忠頼・板垣(いたがき)の二郎兼信・武田の兵衛有義・伊佐和(いさは)の五郎信光、侍(さぶらひ)大将軍には千葉介(ちばのすけ)常胤(つねたね)・嫡子(ちやくし)に太郎胤政・孫の小太郎成胤(しげたね)・同じく平次(へいじ)常秀・相馬の次郎師常・大須賀(おほすが)の四郎胤信・同じく五郎胤通・同じく六郎胤頼・舎弟(しやてい)椎名(しひな)の五郎胤光・子息(しそく)の次郎有胤・土肥(とひ)の次郎実平・稲毛(いなげ)の三郎(さぶらう)重成(しげなり)・飯谷(はんがへ)の四郎重朝(しげとも)・森の五郎行重(ゆきしげ)・小山(をやま)の小四郎(こしらう)朝正(ともまさ)・小野寺(をのでら)の太郎道綱・佐貫(さぬき)の四郎大夫(たいふ)弘綱(ひろつな)・猪股(ゐのまた)の金平六(こんぺいろく)範綱(のりつな)・中村(なかむら)の小三郎(こさぶらう)時綱・庄の三郎(さぶらう)忠家・同じく四郎高家・同じく五郎弘方(ひろかた)・山名(やまな)・薩見(さツミ)の輩
を始めと為(シ)て、三万五千余騎とぞ聞えし。
搦手(からめで)の宇治の大将軍には九郎冠者(くわんじや)義経・安田の三郎(さぶらう)義定・大内(おほうち)の太郎維義(これよし)・田代の冠者(くわんじや)信綱(のぶつな)、侍(さぶらひ)大将軍には三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)・佐原(さはら)の十郎義連(よしつら)・渋谷(しぶや)の庄司(しやうじ)重国(しげくに)・同じく右馬允(うまのじよう)重助・畠山(はたけやま)の次郎重忠・同じく長野(ながの)の三郎(さぶらう)重清(しげきよ)・熊替(くまがへ)の次郎直実(なほざね)・平山(ひらやま)の武者所季重・槽谷の藤太(とうだ)有季・梶原(かぢはら)の平三景時(かげとき)・子息(しそく)源太(げんだ)景季・佐佐木(ささき)の四郎高綱、此れ等を始めと為(し)て、二万五千余騎、伊賀(いが)・伊勢を経て宇治路へ向かふとぞ聞えし。
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十五 高綱、宇治河先陣(せんぢん)の事
然(さ)る程に、鎌倉殿に磨墨(スルスミ)・生逸(いけズキ)とて、秘蔵(ひさう)の御馬(おんうま)有り。中にも生逸(いけずき)は、墨栗毛なる馬の、八寸(やき)余りなるが、下尾(しタを)白く、人をも馬をも食ひける間、生食(いけズキ)とぞ申しける。雙(なら)び無(な)き馬なりければ、一の御厩(みうまや)に立てられて秘蔵(ひさう)せられけるを、蒲の御曹司申されけれども給はず。梶原(かぢはら)の源太(げんだ)申しければ、「然(しか)るべしといへども、自然(しぜん)の事も有らば、頼朝之(これ)に乗つて何(いづ)くへも向かはんと欲(おも)ふ。然(しか)る間献(たま)はぬぞ。是(こ)れとても劣らぬ馬ぞ。之(これ)に乗れ」とて、磨墨と云ふ馬の、太く逞(たくま)しきが、尾髪(をかみ)飽(アク)まで足(た)り、七寸(ななき)に余りけるを梶原(かぢはら)に給ふ。梶原(かぢはら)此れを給はつて、「何(いづ)れにても有れ、申す所空しからねば面目(めんぼく)なり」とて、罷(まか)り出でぬ。
又佐佐木(ささき)の四郎高綱、御前に参つて申しけるは、「今度(こんど)宇治橋定めて引(ひ)かれて候ふ覧(らん)。馬無(な)くて候へば、何(いか)に為(し)て先懸け仕るべしとも覚えず候ふ。生食(いけずき)を賜(たま)はつて、真先(まつさき)係(か)け候はばや」と申す。鎌倉殿言(のたま)ひけるは、「汝が父佐々木(ささき)の源三秀義(ひでよし)より奉公(ほうこう)他に異なれりと思食(おぼしめ)さるる旨有れば、是(こ)れは先に蒲の冠者(くわんじや)と梶原(かぢはら)の源太(げんだ)と申しつるに給はねども、汝が申せば給ふなり。定めて源太(げんだ)之(これ)を聞き、恨むる旨有りなんと覚えたり。其の旨存知すべし」とて、給はつてんげり。
佐佐木(ささき)の四郎高綱思ひけるは、「御舎弟(しやてい)蒲の御曹司と一の仁(じん)梶原(かぢはら)の源〔太〕にも給はぬを、高綱之(これ)を給はる事の有り難さよ。有彼(かからん)主の為(ため)に命を捨てんは、何(なじ)かは惜しかるべき」と欲(おも)ひければ、高綱申しけるは、「死にたりと聞食(きこしめ)され候はば、人に先んぜられたりと思食(おぼしめ)さるべく候ふ。生きたりと聞召(きこしめ)され候はば、先陣(せんぢん)仕りたりと思食(おぼしめ)さるべく候ふ」と、語(ことば)を放つて、鎌倉殿の御前を立(た)ちにけり。
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然(しか)るに、足柄(あしがら)を越ゆる程に、道極(きは)めて狭し。心は先にと早れども、馬次第に打(う)ちけるに、駿河国浮嶋が原に打(う)ち出でけり。南は海を限り、北は沼を限り、打(う)ち弥(ヒロ)げてぞ行きける。景季、三嶋(みしまの)大明神に詣で、「願はくは、今度(こんど)弓矢の名を揚げさせ給はば、七番の笠懸(かさがけ)を射ん」と祈念して、浮嶋が原に打(う)ち出で、佐殿(スケどの)より給はつたる摺墨(するすみ)に、小文貝(こあやがひ)の鞍に燃え立つ程の鞦(しりがい)懸け、舎人(とねり)六人に引(ひ)かせ、「吾(われ)より外に誰かは御馬(おんうま)を給はるべき」と思ふ処に、件(くだん)の馬を、佐々木(ささき)の四郎、舎人(とねり)八人に引(ひ)かせて、引つ懸け引つ懸け打(う)ち出でたり。梶原(かぢはら)此れを見て、「恰耶(アハや)、景季の申すには惜しませ給ひつる生食(いけずき)を、誰か賜つたる覧(らん)。是(こ)は安からず」と欲(おも)ひて、「誰(た)が御馬(おんうま)ぞ」と問ふに、「佐佐木(ささき)殿の御馬(おんうま)なり」と申す。「佐々木(ささき)とは何(いづ)れぞ。」「四郎殿の御馬(おんうま)なり」と
申す。源太(げんだ)之(これ)を聞いて欲(おも)ひけるは、「同じ侍(さぶらひ)に、景季が先に之(これ)を申すに給はらで、覚食(おぼしめ)し抜いて、佐々木(ささき)の四郎に給ひぬるこそ恨めしけれ。此れ程の弐心(ふたごころ)御坐(おはしま)さん主を憑(たの)み奉(たてまつ)つても甘従(いかんせん)。口惜しくも思食(おぼしめ)し落とされたり。平家に組んでこそ死ぬべけれども、思ひの外に、是(こ)こにて鎌倉殿の惜しみ思食(おぼしめ)されたる佐々木(ささき)の四郎と刺し違へて、一度に死んで、鎌倉殿に損取らせ申さん」とて、待ち懸けたり。然(さ)る程に、佐々木(ささき)の四郎程無(な)く打(う)ち出でたり。梶原(かぢはら)打(う)ち寄つて、「如何(いか)に佐々木(ささき)殿、其の御馬(おんうま)は給はられたるか」と云ひければ、「恰(あは)れ、鎌倉殿の『存知せよ』と仰せられつるは是(こ)こぞかし」と心中に案じ出だして、「左右(さう)無(な)く『給はつたり』と云ひては、奴(やつ)が気色(けしき)を見るに、何(いか)にも成りなん。此れ程の大事を前(まへ)に懸けながら、身方(みかた)打(う)ち為(し)ては詮(せん)無(な)し」と欲(
おも)ひければ、「耶(や)給へ、源太(げんだ)殿。此(こ)の馬を申しつる程に、叶ふまじき由(よし)、仰せ有りつれば、此(こ)の馬を盗んで頸を切られ奉(たてまつ)らんも、水に流されて死なんも、死にてん事は同じ事なり。同じくは善き馬に乗つてこそ、宇治河を渡して頸を切られ奉(たてまつ)らん、と思ひつる間、明日出でんとての夜、御厩(みうまや)の小平次(こへいじ)に酒を盛り、酔ひ臥(ふ)したる間に、綱を押し切つて、盗み出でたるぞ」と云ひければ、梶原(かぢはら)此れを聞いて、「妬(ネタイ)、景季も盗むべかりし者を」とぞ申しける。
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漸(やうやう)日数も経(ふ)る程に、其れより打(う)ち連(つ)れて二万五千余騎の大勢にて、宇治河の橋の爪にぞ打(う)ち寄せたる。向かひの縁(はた)を見れば、乱栓(らんぐひ)を打(う)ち綱を横(ハ)へ、逆面木(さかもぎ)を緤(ツナ)いで流し懸けたり。実(まこと)に渡すべき様無かりけり。
畠山(はたけやま)の庄司(しやうじ)次郎重忠、生年(しやうねん)廿一歳に成りけるが、火威(ひをどし)の鎧を著(き)、鍬形(くはがた)打(う)つたる冑に、白葦毛(しらあしげ)の馬の太う逞(たくま)しきに、金伏輪(きんぶくりん)の鞍置いて乗つたりけるが、河の縁に打(う)ち寄せて申しけるは、「鎌倉殿も、『定めて宇治・瀬田の橋をば引いたるらん』と、御沙汰の有りしぞかし。知食(しろしめ)さぬ海河の俄(にはか)に出で来たらばこそ、之(これ)に引(ひ)かへて右(かく)は申させ給はめ。是(こ)れは近江(あふみ)の湖の尻なれば、何(いか)に干(ホ)すとも乾(かはか)されず。堰(せ)くとも又堰(せ)かれず。当時は比良(ひら)の高根に雪消えて、水重(カサ)なつて太太(いとど)増すらん。水の心を見渡し候ふに、馬の足の立たぬ所は世(よ)も四五段(しごたん)際には過ぎじ。去んぬる治承四年に、足利の又太郎(またたらう)は鬼神(おにかみ)にて之(これ)をば渡しけるか。重忠瀬歩(せブミ)仕らん」とて、榛沢(はんざは)の六郎成清(なりきよ)・本田(ほんだ)の次郎親常・勢山(セヤマ)の次郎・堀戸(ほりど)の太郎・丹(たん)の党等を相(あ)ひ具し
て、河中へぞ打(う)ち入りける。
爰(ここ)に佐々木(ささき)の四郎高綱・梶原(かぢはら)の源太(げんだ)景季二人、心計(ばか)りは互ひに前陣(せんぢん)を諍(あらそ)ひけり。佐々木(ささき)の四郎、灘歩(せぶみ)の為(ため)に人を選ぶ処に、梶原(かぢはら)の源太(げんだ)景季、磨墨と云ふ逸物(いちもつ)には乗つたり、真先(まつさき)懸けて雑(ざつ)と落とす。佐々木(ささき)の四郎急(きつ)と見れば、源太(げんだ)三段(さんたん)計(ばか)り先に立つて謳(をめ)いて渡いて行く。高綱此れを見て、運や尽き終(は)てぬと欲(おも)ひて、言(ことば)をぞ懸けたりける。
「耶(や)殿(との)、梶原(かぢはら)殿。長馳せ為(し)たる馬なれば、具足(ぐそく)緩(ゆる)く見えたり。此れ程の大河(おほかは)を渡したまふに、鞍を歩(ふ)み返して、誤ちな為(し)たまひそ」とぞ申しける。現(げ)にもとや欲(おも)ひけん、突つ立(た)ち上がり、腹帯(はるび)を引つ詰め引つ詰めしけり。
然(しか)るに究竟(くつきやう)の馬なれば、腹帯(はるび)を固むと心得(え)て、河中に歩(ふ)ん張りてぞ立つたりける。其の時高綱、逸物(いちもつ)に乗つたりければ、押し違へて水の尾に付き、雑(ざつ)と急ぎ渡しければ、二段(にたん)計(ばか)り先立つて渡す。源太(げんだ)此れを見て、「佐々木(ささき)に出し抜かれぬよ」と、安からず思ひて、鞭鐙(むちあぶみ)を合はせて追ひけれども、高綱先に進みてんげれば、向かひの縁に付きにけり。綱の馬の頸に繋(かか)りけるをば、太刀(たち)を抜いて都(フツ)と切つて難無(な)く岡に挙(あが)りにけり。高綱、源太(げんだ)に言を懸けける時、思ひけるは、「言を懸くるに聞かぬ顔(カヲ)にて渡さば、押し並べて小引(こび)きに引いて、水際に指下(サシサ)げて馬の腹を射、之(これ)を射落とし、先を懸けん」とぞ欲(おも)ひける。是(こ)れも危(アヤウ)かりし事なり。源太(げんだ)は綱の馬の頭に懸かりけるを載らずして、押し流されてぞ漂(ただよ)ひける。
P2336
佐々木(ささき)の四郎・梶原(かぢはら)の源太(げんだ)が打(う)ち入つて渡すを見て、畠山(はたけやま)五百余騎にて打(う)ち入りけり。此れを見て、其の後大将軍九郎義経を始めと為(し)て二万五千余騎、吾(われ)も吾(われ)もと渡しければ、水は迫(セ)かれて上へ昇る、下様(しもさマ)は雑人共歩(かち)にて渡るに、膝(ひざ)より上をば濡(ぬ)らさず。弛(はづ)るる水こそ何(いか)にも聚(タマ)るべしとも見えざりけり。
畠山(はたけやま)、馬をば射させて歩(かち)にて渡すに、水は〓[金+額]を浸して唱立(おびたた)し。後ろを見れば、鎧著(き)たる武者一騎(いつき)、押し流されて漂(ただよ)ふ。畠山(はたけやま)是(こ)れを大串(おほくし)と見て、掻い〓(ツカ)んで投上げたれば、向かへの岸に突つ立(た)ち挙つて、「抑(ソモソモ)宇治河の一番(いちばん)に打(う)ち入る所は畠山(はたけやま)なり。向かへに付く所は大串(おほくし)先なり」と称(なの)りければ、此れを聞く人一同(いちどう)に〓(ドツ)とぞ笑ひける。
其の後、槽谷(カスや)の藤太(とうだ)有末(ありすゑ)・平山(ひらやま)の武者所季重・渋谷(しぶや)の庄司(しやうじ)重国(しげくに)・右馬允(うまのじよう)重資・熊替(くまがへ)の次郎直実(なほざね)、馬を履み放し、橋桁(はしげた)を弓杖(ゆんづゑ)突いてぞ渡しける。
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佐々木(ささき)の四郎一番(いちばん)に向かへの岸へ打(う)ち挙つて、「近江国(あふみのくに)の住人佐々木(ささき)の四郎高綱、今度(こんど)宇治河の先陣(せんぢん)に渡す」とぞ称(なの)りける。向かへの縁(はた)には五百余騎指(さ)し向かひ、矢鏃(やじり)を揃へて散散(〓〓)に射る。雨の降る様に中(あた)ると雖(いへど)も、鎧能(よ)ければ裏攪(か)かず、明間(あきま)を射ねば手も負はず。思ふ様に懸け廻す。
梶原(かぢはら)の源太(げんだ)・畠山(はたけやま)も連(つれ)て打(う)ち上がりけるが、佐々木(ささき)に先陣(せんぢん)と称(なの)られて、心地(ここち)悪しげにや思ひけん、二陣(にぢん)とも三陣(さんぢん)とも称(なの)ること無かりけり。力に及ばざる事なり。
大勢打(う)ち渡して責めければ、木曾が郎等、吾(われ)も吾(われ)もと禦(ふせ)ぎ闘へども、無勢(ぶぜい)なれば叶はずして、方等(かたら)の三郎(さぶらう)先生(せんじやう)討たれぬ、根井(ねのゐ)の小矢太手を負ひぬ。仁科(にしな)・高梨(たかなし)・楯(たて)の六郎近忠(ちかただ)落ちにけり。
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瀬田の手には、一条(いちでう)次郎忠頼、汀(みぎは)に打(う)ち寄せ申されけるは、「伊予守の方より、今日(けふ)の軍の大将軍は誰ぞや。称(なの)れや」と云はれければ、今井の四郎兼平、火摺(ひをどし)の鎧に、鹿毛(かげ)なる馬に乗つたりけるが、渚に打(う)ち寄せ、扇を開き操(ツか)ひて申しけるは、「木曾殿の御乳母子(おんめのとご)に、中三(ちゆうざう)権守(ごんのかみ)兼遠(かねとほ)が子、今井の四郎兼平。今日(けふ)の先陣(せんぢん)を給はつて固めて候ふなり」と申しければ、忠頼取り敢(あ)へず、「然(さ)れば今井が所為(しよゐ)とも覚えぬかな。橋の引き様の見苦しさよ」と言ひければ、兼平申しけるは、「昔より今に至(いた)るまで、敵(かたき)の寄すると聞いて、橋を懸け、路を作り、船を浮かべて迎ふる例は無(な)し。只(ただ)吾(われ)と思はん人人は懸けよ耶(や)、懸けよ」と招けども、一人も渡す者は無(な)し。只(ただ)上矢(うはや)計(ばか)りを射違へて、互ひに勝負(しようぶ)を決し難(がた)し。
然(さ)れども、武蔵国(むさしのくに)の住人稲毛(いなげ)の三郎(さぶらう)重成(しげなり)・同じく四郎重朝(しげとも)・森の五郎行重(ゆきしげ)、此れ等三騎を先と為(し)て、二百余騎にて、志(こころざし)する貢御(くご)の瀬を渡しければ、三万五千余騎の大勢皆聯(ツヅ)いて渡しけり。今井の四郎・屋嶋の四郎・落合(おちあひ)の五郎以下(いげ)の兵(つはもの)五百余騎、防(ふせ)ぎ戦へども、大勢に破られて、瀬田も宇治も全(また)からず。
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後に、合戦の日記鎌倉へ下りたりければ、鎌倉殿、先づ御使ひを召して仰せられけるは、「佐々木(ささき)の四郎と云ふ者有るか。」「候ふ」と申す。「然(さ)れば先懸け為(し)けるにこそ」とて、日記を御覧ずれば、「宇治河の先陣(せんぢん)佐々木(ささき)の四郎高綱」とぞ付けたりける。
然(しか)るに、〈 義仲が郎等共無勢(ぶぜい)なりければ、懸け散らされて散散(〓〓)に成りにけり。 〉義経は宇治を落として京に打(う)ち入る。
P2344
木曾左馬頭(さまのかみ)、宇治・瀬田両方へは打手(うつて)を指(さ)し向けつ、東国よりは兵(つはもの)雲霞(うんか)の如(ごと)く迫め上りければ、何(いづ)くへも迯(のが)るべき方(かた)無(な)く、今日(けふ)を限りと思はれければ、女房の余波(なごり)を惜しまんとて、六条京極(きやうごく)の宿所(しゆくしよ)へぞ入りにける。彼(か)の女房と申すは、松殿の入道(にふだう)殿下(てんが)の御娘なり。木曾遣(や)る方(かた)無(な)く名残(なごり)を惜しみて、打(う)つ立つべき気色(けしき)も無ければ、今参りに越後(ゑちご)の中太(ちゆうだ)家光(いへみつ)と云ふ者有り。御前へ参つて申しけるは、「宇治の手、已(すで)に落とされ候ひて、敵(かたき)多く西勝光院(さいしようくわうゐん)・柳原(やなぎはら)に打(う)ち入る由(よし)聞え候ふ。早打(う)つ立(た)ち給へ」と申しけれども、木曾女房の余波(なごり)惜しさに、早晩(いつしか)打(う)つ立つべき様も無(な)し。
家通重ねて申しけるは、「今参りの身為(タ)りといへども、弓矢取りの習ひは、年来(としごろ)片時(へんし)の情けに非(あら)ずといへども、命を捨つるは常の法なり。然(さ)れば則(すなは)ち、自然(しぜん)の御事候はば、矢面(やおもて)に立たんとこそ存じ候へども、大勢に懸け隔てられ候はば、善く死にたりとも落つとも御不審(ごふしん)残らん事が口惜しく候へば、世は今は更(かう)と覚え候ふ。御内(みうち)へ参りし日より、命においては君に奉(たてまつ)り候ふ。先に家通死んで見せ奉(たてまつ)らん」とて、腹掻き切つて臥(ふ)しにけり。木曾之(これ)を見て、「家通が自害は義仲を勧(すす)むるにこそ」とて、「尚(なほ)も余波(なごり)は惜しけれども、来世(らいせ)にて行き合ひ奉(たてまつ)らん」とて、冑の緒を卜(し)め、名波(なは)の太郎弘澄を先と為(し)て、一百騎(いつぴやくき)の勢にて打(う)つ立(た)ちけり。
高きも賤しきも、賢人(けんじん)も愚人(ぐじん)も、男女の道は力に及ばぬ事なり。倍(まし)て只今(ただいま)を限りに打(う)ち出でける心の中、さこそと推(お)し量られて哀れなり。
P2346
義仲先づ院の御所六条殿へ参つて申しけるは、「宇治・瀬田両方の手破られ候ひぬ。最後の見参(げんざん)に罷(まか)り入り候はん」とて、馬に乗りながら南庭(なんてい)に参りけり。義経京へ打(う)ち入る由(よし)聞えければ、指(さ)して申す旨も無(な)くて罷(まか)り出でければ、急ぎ門をぞ鍵(さ)されける。上下(じやうげ)手を握(にぎ)つて願を立てぬといふこと無かりけり。
験耶(げにや)義仲は百騎の勢にて六条河原へ馳せ向かふ。義経二百騎(にひやくき)の勢にて行き合ひぬ。義仲は此れを最後の合戦と思ひ切る。義経は是(ここ)にて打(う)ち留めんと早(ハヤ)る。義経・重忠・重頼(しげより)・高綱・景季・重国(しげくに)・重助等を先と為(し)て戦ひけり。
義仲既(すで)に討たれんとすること度々(どど)に及べども、係(か)け破り係(か)け破り通らんと欲(す)。「右(かく)有るべしと知りたらましかば、何しに今井を瀬田へ遣(や)りつらん。幼少(えうせう)より、若(も)しやの事有らば一所(いつしよ)に臥(ふ)さんとこそ契りしに、所々(ところどころ)に伏す事こそ悲しけれ。今井が行柄(ゆくへ)を見ん」と欲(おも)ひければ、河を上りに懸くる程に、大勢追つ懸けて責めければ、取つて返し取つて返し、六条河原と三条河原との間、七か処にて返し合はせ、散散(〓〓)に戦ひ、河を馳せ渡り、河原(かはら)を上りにぞ落ちられける。
義経、郎等を以つて之(これ)を追はせ、吾(わ)が身は御所へ馳せ参る。
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十六 義経・畠山(はたけやま)院参の事
大膳大夫(だいぜんのだいぶ)成忠、御所の東の築垣(ついがき)に上り之(これ)を見れば、六条西の洞院(とうゐん)の御所を差(さ)して、武士六騎(ろくき)馳せ参る。成忠悚(おそ)る悚(おそ)る御前に参つて、此(こ)の由(よし)を奏聞しければ、法皇を始め奉(たてまつ)り、公卿(くぎやう)・殿上人、北面(ほくめん)の輩に至(いた)るまで、「義仲が余党(よたう)返り参るにこそ有れ。今度(こんど)ぞ世の失せ終(は)てなんよ」とて躁(サワ)ぎ合へり。
又還(かへ)り上つて此れを見れば、六騎(ろくき)の武者、門の口にて申しけるは、「東国の頼朝の舎弟(しやてい)九郎冠者(くわんじや)義経、宇治の手を追ひ落として参つて候ふ。見参(げんざん)に入れ給ひ候へ」と申しければ、成忠余りの慶(うれ)しさに、築垣(ついがき)より急ぎ下りけるが、腰を突き損じけり。痛(イタサ)は慶(うれ)しさに忘れて、〓(は)ふ這(は)ふ御所に参つて、此(こ)の由(よし)を奏聞す。法皇を始め奉(たてまつ)り、上下(じやうげ)諸人(しよにん)安堵(あんど)の思ひを成されけり。
門を開かれければ、各々(おのおの)車宿(ヤどリ)の前(まへ)に参つて畏(かしこま)る。義経一人大床(おほゆか)の近くへ歩(あゆ)み寄つて跪(ひざまづ)く。赤地の錦の直垂(ひたたれ)に白唐綾を畳(たた)み、裾紅(すそクレナイ)に威したる鎧に、金作(こがねづく)りの太刀(たち)を帯(は)き、切文(きりふ)の矢を負ひ、塗籠籐(ぬりごめどう)の弓をぞ持つたりける。法皇中門(ちゆうもん)の櫺子(レイし)より叡覧(えいらん)有り。六人の者共(ども)の顔神(つらだましひ)・事柄、何(いづ)れも劣らずぞ見えける。
御感(ぎよかん)の余りに、「各各(おのおの)交名(けうみやう)(キウみやう)を称(なの)り申し候へ」と仰せ下されければ、「大将軍源九郎義経。」「生年(しやうねん)何(イツク)。」「廿六」と申す。一人は「武蔵国(むさしのくに)の住人畠山(はたけやま)の次郎重忠。」「生年(しやうねん)幾(いくばく)ぞ。」「廿一歳」と申す。一人は「同国(どうこく)の住人河越(かはごえ)の小太郎重房」、一人は「相模国(さがみのくに)の住人梶原(かぢはら)の源太(げんだ)景季」、一人は「同国(どうこく)の住人渋谷(しぶや)の右馬允(うまのじよう)重助」、一人は「近江国(あふみのくに)の住人佐々木(ささき)の四郎高綱」と申す。義経・重忠をば年まで御尋(おんたづ)ね有りけれども、残り四人(しにん)は交名(けうみやう)計(ばか)りをぞ問ひ召され、年までは御尋(おんたづ)ねも無かりけり。鎧は色色(いろいろ)に替りたれども、弓は皆塗籠籐(ぬりごめどう)にてぞ有りける。紙を広さ一寸計(ばか)りに剪(き)つて、弓の鳥打(とりうち)の所に左捲きに巻きたり。
法皇、成忠を以つて合戦の次第を叡聞(えいぶん)有り。義経畏(かしこま)つて申しけるは、「義仲、一門為(た)りといへども、朝家(てうか)を蔑如(べつじよ)し奉(たてまつ)るに依(よ)つて、追討の為(ため)に、兄頼朝、舎弟(しやてい)範頼(のりより)并びに義経を大将軍と為(し)て、東国の家人(けにん)三十人を選び付けられて候ふなり。其の勢既(すで)に六万騎に及べり。義経は宇治より罷(まか)り入つて候ふ。範頼(のりより)は瀬田を廻つて候ひつるが、今は近く候ひぬらん。義仲は河を下りに落ち候ひつるを、郎等共を以つて之(これ)を追はせ候ひつれば、定めて今は討ち取り候ひぬらん」と、事も無げに申しければ、「義仲が与党(よたう)又皈(かへ)り参つて狼藉仕る事もこそ有れ。此(こ)の御所能々(よくよく)守護し奉(たてまつ)るべし」と仰せ下されければ、各々(おのおの)門門をぞ固めける。
P2355
十七 木曾、瀬田にて討たるる事
然(さ)る程に、二万余騎の大勢六条河原に乱れ入る。木曾は纔(わづか)に無勢(ぶぜい)なり。樋口の次郎兼光は五百騎の勢を具足(ぐそく)して、十郎蔵人(くらんど)を責めんが為(ため)に、河内(かはち)の石河(いしかは)へ下りけり。今井の四郎兼平は五百余騎の勢を相(あ)ひ具して、瀬田を固めに向かひけり。根井(ねのゐ)の小矢太は五百余騎を引き具して、宇治を固めに向かひけり。然(しか)る間、義仲、勢少(すく)なくて叶ひ難さに、今井と一所(いつしよ)に臥(ふ)さんと契りたりければ、瀬田の方へ落つ。粟田口(あはたぐち)・関山(せきやま)にも成りければ、上下(じやうげ)七騎に成りにけり。
其の中に一騎(いつき)は女にて有りけり。名をば伴絵(ともゑ)とぞ云ひける。極(きは)めて貌(かほ)吉(よ)き美女(びぢよ)の、年卅に成りけるが、大力(だいぢから)の剛(かう)の者、勁弓(つよゆみ)の精兵(せいびやう)、箭継早(やつぎばや)の手聞き、究竟(くつきやう)の荒馬乗り、悪所(あくしよ)巌石(がんぜき)を馳すること、少しも木曾殿にも相(あ)ひ劣らず。度々(どど)の合戦に一度も敵(かたき)に後ろを見せず。毎度(まいど)の高名雙(なら)び無(な)き者なりけり。其の日は紺村濃(こんむらご)の直垂(ひたたれ)に、唐綾摺(からあやをどし)の鎧、白星(しらほし)の甲を著(き)て、長輻輪(ながふくりん)の太刀(たち)を帯(は)いたりけり。大中黒(おほなかぐろ)の箭(や)頭高(カシラだか)に取つて付け、重藤(しげどう)の弓の真中(まんなか)取つて、葦毛(あしげ)の馬にぞ乗つたりける。
木曾、大津(おほつ)の浜の此方(コナタ)なる打出(うちで)の浜と云ふ所にて、今井の四郎に行き合ひぬ。今井も木曾殿と見奉(たてまつ)り、木曾も今井と見て、互ひに其れと目を懸けて、駒(こま)を早めて打(う)ち寄せけり。「今井か」と言へば、「然(さん)候ふ。敵(かたき)に後ろを見すべきには候はず。瀬田にて如何(いか)にも成るべきにて候ひつるが、君を今一度見参らせ候ふかとて、都に上り候ふ。若し参り見ずて耶(や)候はんずらんと、心苦しく存じ候ひつるに、是(こ)れにて参り合ひ奉(たてまつ)り候ふは、返す返す慶(うれ)しく候ふ」と申しければ、木曾言ひけるは、「義仲も六条河原にて何(いか)にも成るべかりつれども、〓[イ+爾](なんぢ)と一所(いつしよ)にて死なんと契りぬれば、今まで腹をも切らずして、汝を尋ね行くなり。今は此(こ)の世に思ひ置く事無(な)し」とて、何方(いづかた)へも進み遣(や)らず、鎧の袖をぞ濡(ヌら)しける。
今井申しけるは、「此(こ)の辺りに御方(みかた)の者や候ふらん。御旗を挙げて御覧候へ」と申しければ、「六条河原にて旗指(さ)し棄てられたるなり」と曰(のたま)ひければ、今井「御旗用意仕り候ふ」とて、箙(えびら)の中より白旗一流れ取り出だして指(さ)し上げければ、「尤(もつと)も然(しか)るべし」とて、旗を差(さ)し上げたりければ、此(ココ)耶(や)彼(かし)こに隠れたる兵共(つはものども)、「御旗の見ゆるは、君にて渡らせ給ふにこそ」とて、二三十騎(にさんじつき)・十四五騎充(づつ)馳せ参る程に、又三百余騎に成りにけり。木曾少し力属(つ)きて、「最後の軍(いくさ)為(し)究(きは)めて死なん」とて、浜下りに打たれける程に、六七千騎計(ばか)りの勢出で来たる。「誰(た)が手」と問ひければ、「甲斐(かひ)の一条(いちでう)・武田・小笠原(をがさはら)の勢」と云ふ。「然(さ)ては能(よ)い敵(かたき)にこそ」とて打(う)ち向かふ。
爰(ここ)に鞆絵(ともゑ)申しけるは、「暫(しばら)く静かに物を御覧ぜよ。童(わらは)最後の戦仕つて見参(げんざん)に入れん」とて、弓を腋(わき)に攪(か)き挟(はさ)み、太刀(たち)を抜いて額(ひたひ)に当て、大勢の中に懸け入り、蜘手(くもで)・十文字(じふもんじ)に係(か)け破(やぶ)つて、大津(おほつ)の湖の端(はし)に通りければ、二騎の敵(かたき)有りけり。中に馳せ入り、二人の敵(かたき)を抓(つか)み、左右(さう)の腋(わき)に〓(はさ)んで、二人の冑の鉢(はち)を打(う)ち合はせ、微塵(みぢん)の如(ごと)くに打(う)ち破(やぶ)つて、湖に投げ入れ、又取つて返し、大勢の中に馳せ廻る。一条(いちでう)の次郎申しけるは、
「『木曾殿の内に大力(だいぢから)の女武者有り。相(あ)ひ構へて命を殺さず虜(いけど)りて参れ』と、蒲の御曹司の仰せられしなり。命を殺さず手取りに為(せ)よ」と下知(げぢ)せられければ、兵共(つはものども)射るに及ばず切るに及ばず、只(ただ)押し並べて組まん組まんと心は早れども、手にも堪(たま)らず馳せ廻(まは)りけり。
P2359
木曾殿は之(これ)を見て、「鞆絵(ともゑ)打たすな。連(つづ)け耶(や)、連(つづ)け耶(や)」と馳せ廻る。
木曾は赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、火威(ひをどし)の鎧に鍬形(くはがた)打(う)つたる冑、黒き馬に金輻輪(きんぶくりん)の鞍置いて乗つたりけるが、進み出でて称(なの)られけるは、「清和天皇十代の末葉(ばつえふ)、八幡(はちまん)太郎四代の孫、太刀帯(たてはきの)先生(せんじやう)義賢(よしかた)が子、木曾の冠者(くわんじや)、今は左馬頭(さまのかみ)兼(けん)伊予守、朝日の将軍源の義仲と呼ばるるぞ。打(う)ち取れ耶(や)者共、打(う)ち取れ者共」とて、三百余騎の兵共(つはものども)、尖矢形(トガリやがた)に立て成(な)し、吾(わ)が身は鋤(クシ)の端(サキ)の如(ごと)くに成つて、応(おう)と謳(をめ)いて、七千騎が真中(まんなか)へ懸け入りたり。一条(いちでう)の次郎申しけるは、「称(なの)る敵(かたき)を打(う)ち取れ、打(う)ち取れ耶(や)者共、余すな泄(もら)すな。中に取り罩(コ)めて戦へ」と下知(げぢ)しけれども、三百余騎奥義(あうぎ)を究(きは)めたる者なれば、手にも繋(タマ)らず馳せ廻つて、散々に懸け破(やぶ)つて、屈(くつ)と脱けて出づる勢、二百余騎にぞ成りにける。武蔵(むさし)・上野(か
うづけ)・信濃(しなの)の勢共、彼(かし)こ此(こ)こに合はせて五千騎出で来たる。木曾が二百余騎の兵共(つはものども)、〓(くつばみ)を並べて打(う)ち入りけり。
P2360
武蔵国(むさしのくに)の住人恩田(ヲンだ)の七郎宗春、大力(だいぢから)の剛(かう)の者、郎等に逢ひて云ひけるは、「木曾殿の御内(みうち)に伴絵(ともゑ)と云ふ女武者は、聞こうる大力(だいぢから)の剛(かう)の者なれば、女は何(いか)に勁(つよ)しといへども、何程の事か有るべき。打(う)ち過ごし通る様にて、何(ナド)組んで落とさざるべき。吾(われ)若(も)し与(クミ)〓(ふ)せられたらば、己等(おのれら)寄り合ふべし」とて、究竟(くつきやう)の郎等八騎(はつき)後ろに立て、謳(をめ)いて懸く。「女が世(よ)も鬚(ひげ)非じ。鬚(ひげ)の無からんを伴絵(ともゑ)と思ふべし」とて、内〓(うちかぶと)に目を懸けて見廻す程に、鬚(ひげ)無(な)き武者一騎(いつき)、内〓(うちかぶと)白白(しろじろ)として出で来たり。「此れこそ其れよ」と欲(おも)ひ、押し並べて無須(むず)と与(く)む。伴絵(ともゑ)、叱耶(しや)宗春が押付(おしつけ)の板を掴(つか)んで、鞍の前輪(まへわ)に押し著(つ)くると見れば、頸〓(ネヂ)切つてぞ抛(な)げ捨ててんげる。八騎(はつき)の郎等共、間(ひま)も無(な)くて寄り合はするにも及ばず。
此(こ)の伴絵(ともゑ)と申すは、是(こ)れは樋口の次郎が娘なり。母は挿頭(カザシ)とて、木曾殿の美女(びぢよ)に召し仕はれけるを、樋口が子とも言はねども、人皆其の子と知りてけり。
然(さ)る程に、二百騎(にひやくき)の兵(つはもの)尖矢形(とがりやがた)に立て成(な)して、五千騎の真中(まんなか)を二つに懸け破り、後ろへ屈(くつ)と擢(ヌケ)て透(とほ)る勢、七十騎にぞ成つたりける。其の後、土肥(とひ)の次郎真平(さねひら)を始めと為(し)て、相模国(さがみのくに)の家人(けにん)共(ども)一千余騎出で来たる。木曾又七十騎〓(くつばみ)を並べて謳(をめ)いて懸く。竪横(たてよこ)・蜘手(くもで)・十文字(じふもんじ)に懸け散らし、薄紅に戦ひ成(な)し、裏から表へ屈(くつ)と脱けて出づる勢、廿三騎に成りにけり。其の後、二三百騎、一二百騎(いちにひやくき)計(ばか)り、四五十騎、二三十騎(にさんじつき)充(づつ)、行き合ひ行き合ひ戦ひけるを、散々に懸け散らして透(とほ)りけり。然(さ)る程に、今は上下(じやうげ)五騎にぞ成りにける。鞆絵(ともゑ)は落ちやしぬ覧(らん)、見えざりけり。
手塚(てづか)の別当(べつたう)、子息(しそく)太郎を招いて申しけるは、「此(こ)の世の中、今は限りと見えたり。落ちんと思ふ。連(つづ)いて落ちよ」と言ひければ、太郎申しけるは、「人の親の習ひには、子(こ)の落ちんと申すとも、制し忌(いまし)めらるべきに、年来(としごろ)の重恩、何地(いづち)にか落つべき」とて、馳せ出でければ、手塚(てづか)の別当(べつたう)落ちにけり。太郎は打死(うちじ)にす。
鞆絵(ともゑ)は鎌倉へ落ち参る程に、和田(わだ)の左衛門申し預かりて、大力(だいぢから)の種を継がんと為念(おも)ひければ、一人の男子(なんし)を生ませけり。朝夷名(アサイナ)の三郎(さぶらう)義秀(よしひで)是(こ)れなり。
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楯(たて)の六郎親忠も討たれぬ。今は今井の四郎・木曾殿主従二騎に成りぬ。木曾、今井に打(う)ち並べて言ひけるは、「例ならず義仲、鎧の重く覚ゆるぞ。云何(いか)が為(せ)ん」と言へば、今井申しけるは、「未(いま)だ御疲れとも見えたまはず。御馬(おんうま)も弱らず候ふが、人の無(な)きに依(よ)つて、臆して然(サ)は覚食(おぼしめ)し候ふや覧(らん)。兼平一人をば余の者千騎と覚食(おぼしめ)せ。袷(あ)の松原は五段(ごたん)には世(よ)も過ぎ候はじ。松の中へ入らせ給ひて、静かに御念仏有つて、御自害有るべく候ふ。箭(や)七つ八つ射残して候へば、暫(しばら)く禦矢(ふせぎや)仕るべく候ふ。然(さ)りながら、兼平が行柄(ゆくへ)を御覧じ終(は)てて後に、御自害有るべし」と申しければ、木曾殿言ひけるは、「都にて討たるべかりしが、是(こ)れまで来たりつるは、汝と一所(いつしよ)に死なんと欲(おも)ふ故なり。只(ただ)二騎に成りて、二所(ふたところ)に臥(ふ)さん事こそ口惜しかるべけれ」とて、馬の鼻を並べて懸けんと欲(し)たまふ処に、今井申しけるは、「武者は死んで後が実(まこと)は固まり候ふ。年来(としごろ)日比(ひごろ)
何(いか)に高名は為(す)るとも、最後の時に不覚を為(し)つる者は、永き疵にて候ふぞ。心は何(いか)に武(たけ)き態(てい)に思食(おぼしめ)せども、無勢(ぶぜい)は叶はぬ事にて候ふ。云ひ甲斐(かひ)無(な)き奴原(やつばら)に組み落とされ給ひて、憂(う)き名ばし流させ給ふな。疾々(とうとう)松原に入らせ給へ」と申しければ、木曾然(さ)も耶(や)と思はれけん、後ろ合はせに懸けて行く。
然(さ)る程に、大勢は未(いま)だ追ひ付かざりけるが、瀬田の方より三十騎(さんじつき)計(ばか)りにて出で来たる。今井折り塞(ふさ)がつて申しけるは、「古くは音にも聞きつらん、今は目にも見よ。木曾殿の乳母子(めのとご)、木曾の中三(ちゆうざう)権守(ごんのかみ)兼遠(かねとほ)が次男、今井の四郎兼平、君と御同年(ごどうねん)にて三十三(さんじふさん)に罷(まか)り成る。鎌倉殿も然(さ)る者有りとは知食(しろしめ)されたり。打(う)ち取つて見参(げんざん)に入れよや、者共」とて、謳(をめ)いて中に懸け入りければ、聞こゆる大力(だいぢから)の剛(かう)の者、勁弓(つよゆみ)精兵(せいびやう)なりければ、雑(ざつ)と剖(わ)つてぞ除(ノ)きにける。今井、八筋(やすぢ)の矢を以つて追物射(おものい)(ヲモノイ)に敵(かたき)を射ければ、一(ひと)つも点矢(ムダや)無(な)し。死生(ししやう)は知らず、八人馬より射落としてんげり。其の後、太刀(たち)を抜いて謳(をめ)いて懸く。之(これ)を組まんと欲(す)る者更(さら)に無(な)し。「掻き開いて射よ耶(や)」とて、雨の降る様に射懸けけれども、鎧能(よ)ければ裏攪(か)
かず、明間(あきま)を射ねば手も負はず。戦ひ〓つてぞ狂ひける。
P2366
左馬頭(さまのかみ)、松原を指(さ)して落ちられけるに、荒手(あらて)の武者五騎馳せ来たる。大将軍は小桜(こざくら)を黄に返したる鎧に、鹿毛(かげ)なる馬に乗つて馳せ連(つづ)き、称(なの)りけるは、「相模国(さがみのくに)の住人海老名(えびな)の源八広季が孫、萩野(はぎの)の五郎季光なり。袷(あれ)は源氏の大将軍と見奉(たてまつ)る。敵(かたき)に後ろを見する事無(な)し。」義仲、射残したる中指(なかゆび)取つて番(つが)ひ、能(よ)つ弾(ぴ)いて放てば、季光が胸板撥咤(はつた)と射破り、後ろの押付(おしつけ)に矢前(やさき)見えて射出だしたり。大事の手なる間、請(う)けも合ヘず、〓(どう)ど落つ。「大将軍還(かへ)させ給へ」と申しければ、相模国(さがみのくに)の住人萩野(はぎの)の小五郎(こごらう)季光、取つて返し、称(なの)る敵(かたき)を弓手(ゆんで)に成(な)し、能(よ)く挽(ひ)き詰めて平(ひやう)ど射る。季光馬の腹を射られて駻(はね)落とさる。
正月廿日の事なれば、余寒(よかん)未(いま)だ尽きもせず。粟津(あはづ)の谷(ヤツ)の松原の中へ角違(スミチガ)へに、薄氷(うすごほり)の作(な)し渡りたる深田(ふかた)を知り給はず、馬を馳せ入らせたまへり。打てども張れども、跡(あと)へも前へも揺(うご)かざりけり。今井を見んと振り還(かへ)り給ふ内冑を、相模国(さがみのくに)の住人石田(いしだ)の小次郎為久(ためひさ)に射られ、大事の手なりければ、冑の真顔(まつかう)を馬の頭に当てて〓(フ)し給ひければ、石田(いしだ)が郎等二人〓(はだか)に成つて之(これ)に落ち合ひ、木曾殿の御頸をぞ取りにける。
木曾が信濃(しなの)を出でしには、相(あ)ひ具する勢三万余騎、北陸道(ほくろくだう)・路次(ろし)の兵(つはもの)打(う)ち具して、都へ入りしには五万余騎とぞ聞えしが、四の宮河原(がはら)・袖並(そでクラベ)・粟津(あはづ)の松原へ向かふ日は、伴なふ者一人も無(な)し。増(まし)て中有(ちゆうう)の旅の空、思ひ遣(や)るこそ哀れなれ。
P2368
今井の四郎此れを見て、「吾(わ)が君を打(う)ち奉(たてまつ)るは何者ぞ。称(なの)れ」といへども、称(なの)る者〔無かりければ〕、今井申しけるは、「今は軍(いくさ)為(シ)ても甘従(いかんせん)。君の死出(しで)の山の御共をば誰か申すべき。怱(いそ)ぎ参らん」とて、太刀(たち)を口に含み、「剛(かう)の者の自害する、見習へ乎(ヤ)」とて、馬より逆さまに落ちて、串(つらぬ)かれてぞ失せにける。太刀(たち)は鐔(つば)の留口(とめぐち)まで入る量(ばか)りなり。石田(いしだ)落ち合ひて頸を攪(か)くに、暫(しば)しは攪(か)かれず。太刀(たち)を抜いて棄てて後、頸を攪(か)き切りけり。
今井討たれて後、粟津(あはづ)の下の軍は無かりけり。木曾殿も討たれ、今井も自害して後は、粟津(あはづ)の軍も終(は)てにけり。
伴絵(ともゑ)は女なれば、討たれやしぬらん、落ち耶(や)しぬらん、行き方知らず失せにけり。
樋口の次郎兼光・楯(たて)の六郎親忠は、十郎蔵人(くらんど)を討たんが為(ため)に、河内国(かはちのくに)へ下(クダ)りたりけるが、十郎蔵人(くらんど)を打(う)ち洩(モ)らして、防(ふせ)ぎ矢射ける家の子・郎等共が頸、女房達も少々生け執つて登りけるが、京の淀の大渡りにて、今井が下人(げにん)走り向かつて、「木曾殿已(すで)に討たれさせ給ひぬ。今井殿も御自害」と申しければ、樋口天を仰いで、「世の中は今は更(かう)ぞ。耶(や)殿原(とのばら)、一所(いつしよ)にて左(と)も右(かう)も成るべかりつるに、所々(ところどころ)に伏さん事の悲しさよ。命の惜しからん人々は、何方(いづかた)へも落ちられよ。君に志(こころざし)を思ひ奉(たてまつ)らん人々は、乞食(こつじき)・頭陀(づだ)の行(ぎやう)をも為(し)て、後生(ごしやう)を訪(とぶら)ひ奉(たてまつ)れ。兼光においては、木曾殿の討たれさせ給ひし方、今井が骸(かばね)の方を枕と為(し)て、死なんと欲(おも)ふ」と申しければ、一騎(いつき)落ち二騎落ち、次第々々に落ち行きければ、五百余騎の勢は皆落ちて、五十余騎にぞ成りにける。鳥羽の南門(なんもん)にては三十余(
ヨ)騎に成りにけり。
P2370
「樋口の次郎今日(けふ)都に入る」と聞えければ、東国の党も高家も、七条朱雀(しゆしやか)・四塚(よつづか)の辺りへ馳せ向かふ。今日(けふ)の討手(うつて)の先陣(せんぢん)は、相模国(さがみのくに)の住人渋谷(しぶや)の庄司(しやうじ)重国(しげくに)之(これ)を承(うけたまは)りければ、渋谷(しぶや)の子息(しそく)共(ども)、吾(われ)も我もと勧(すす)む処に、児玉党(こだまたう)に庄の三郎(さぶらう)忠家、渋谷(しぶや)が為(ため)には聟(むこ)なりければ、先陣(せんぢん)を乞ひ請(う)けけり。其の故は舎弟(しやてい)を助けん為(ため)になり。
舎弟(しやてい)庄の四郎高家は、木曾殿に属(つ)き奉(たてまつ)り、北陸道(ほくろくだう)を打(う)つて都に入りにけり。法住寺(ほふぢゆうじ)合戦の後も木曾殿に付き奉(たてまつ)り奉公(ほうこう)仕りけるが、樋口の次郎兼光に相(あ)ひ具し、河内国(かはちのくに)へ下り、同じく都に入るべき由(よし)聞えければ、庄の三郎(さぶらう)兼(か)ねて使ひを下して申しけるは、「忠家、九郎御曹司に属(つ)き奉(たてまつ)りて上洛(しやうらく)す。木曾殿は朝敵と為(し)て討たれたまひぬ。樋口の次郎今日(けふ)又討たるべし。汝打(う)ち死に為(し)ては甘従(いかんせん)。降人に成つて参れよ。先陣(せんぢん)は忠家之(これ)を承(うけたまは)る。〓(かぶと)を脱いで弓を弛(はづ)し、忠家に向かひたらば、御曹司達に取り申し、助けんずるぞ」と申したりければ、一度は「然(サ)承(うけたまは)りぬ」と申しけれども、遅かりければ、重ねて使ひを走らし、「何と遅くは参るぞ。只今(ただいま)討手(うつて)の近づくに」と申しければ、庄の四郎申しけるは、「先には参るべき由(よし)申し候ひしかども、倩(つらつら)思へば、参るまじきにて候ふ。木曾殿を
憑(たの)み奉(たてまつ)り、一度に命を棄てなんずれば、返し取るべきにも候はず。善悪(ぜんあく)今日(けふ)は御曹司にても渡らせ給へ、寄り合はせ奉(たてまつ)らん」とて、真先(まつさき)に係(か)けて馳せ向かふ。庄の三郎(さぶらう)之(これ)を聞き、「何(いか)にも為(し)て下奴(しやつ)を助けん。定めて先をぞ懸くらん。忠家寄り合ひて之(これ)に組みたらば、四郎は力劣りなれば、下にぞ成らんずらん。忠家上に成つて乗り居たらば、若党(わかたう)数(あまタ)寄つて、疵も付くるな、生取りに為(せ)よ」 とぞ下知(げぢ)しける。
然(さ)る程に、渋谷(しぶや)が子共、「吾(われ)等が無からんにこそ聟(むこ)に先をば懸けめ」と各(おのおの)諍(あらそ)ひけれども、忠家は渋谷(しぶや)覚えの聟(むこ)なりければ、赦(ゆる)しけるとぞ聞えし。
然(さ)ても、庄の三郎(さぶらう)は打輪(うちわ)の旗を指(さ)して、真先(まつさき)懸けて謳(をめ)いて懸く。庄の四郎同じく打輪(うちわ)の旗指(さ)して、真先(まつさき)懸けて出で来たる。両方共に且(しば)しも息まず、責め寄せける間、三段(さんたん)計(ばか)りにて、庄の三郎(さぶらう)「袷(あれ)は四郎か、寄れ、組まん。」「然(さ)承(うけたまは)り候ふ」とて、謳(をめ)いて寄り合ひ、鎧の袖を引き違へて〓爾(ミンジ)と組んで、〓(どう)ど落つ。上に成り下に成り組みける程に、四郎案の如(ごと)く力劣りの者なれば下に成る。庄の三郎(さぶらう)は大力(だいぢから)なり、叱(しや)取つて抑(おさ)へたり。約束(やくそく)したる若党(わかたう)共、吾(われ)も吾(われ)もと走り寄つて、手取り足取りして之(これ)を虜(いけど)りにけり。
庄の三郎(さぶらう)、弟を生取つて打(う)つ立つたり。
P2373
然(さ)る程に、信濃国(しなののくに)の住人諏方(すは)の上宮千野(かみのみやちの)の大夫(たいふ)光家(みついへ)が子千野の太郎光広(みつひろ)、生年(しやうねん)三十三(さんじふさん)、打(う)ち向かつて云ひけるは、「一条(いちでう)殿の御手は何(いづ)れぞ乎(や)」と此れを尋ねければ、筑紫の御家人(ごけにん)に三原(サはら)の十郎高綱、指(さ)し迎へて申しけるは、「一条(いちでう)殿の手ならでは軍は為(せ)ぬか。何(いづ)れとも為(せ)よかし。」「子細にや及ぶ。汝を敵(かたき)に嫌ふ義には無(な)し。然(さ)らば手並(てナミ)見せん」とて、弓手(ゆんで)に引き折り立つて、能(よ)つ彎(ぴ)いて之(これ)をぞ射ける。三原(さはら)の十郎内冑を射させ、且(しば)しも聚(たま)らず落ちにけり。連(つづ)いて落ち合ひ、頸を取つて太刀(たち)に貫(つらぬ)き、指(さ)し上げて申しけるは、「白者(しれもの)をば右(かう)こそ習(なら)はせ。必ず一条(いちでう)殿の手を尋ぬることは、存ずる旨の有るぞ。弟の千野の七郎が前(まへ)にて打死(うちじに)・自害をも為(し)て、信濃(しなの)なる二人の子共に聞かれなば、『吾(
わ)が父は能(よ)うて死にたり』と悦(よろこ)び思はせん為(ため)にこそ、右(かう)も云ひつれ」とて、矢種射尽くしければ、疵丸(アザまる)と云ふ太刀(たち)を抜いて、袷(あれ)に馳せ合ひ此れに馳せ合ひ、敵(かたき)七人討ち、敵(かたき)と組んで落ち、指(さ)し違へてぞ失せにける。
P2374
樋口懸け出でて、「樋口の次郎兼光、打(う)ち取れや」とて、弥(いよいよ)早めて謳(をめ)いて懸けけるを、打輪(うちわ)の旗を差(さ)して三十騎(さんじつき)計(ばか)りなる中に、之(これ)を取り籠(こ)めて討たんとすると見るに、樋口の次郎は児玉党(こだまたう)の聟(むこ)たる間、「吾(われ)も人も弓矢を取る者の習ひは、広き中へ入らんと欲(す)るは、自然(しぜん)の事も有らば、一窓(ひとまど)も羽をも息(やす)め、且(しばら)く気をも休めんと欲(おも)ふ故なり。我等今度(こんど)の勲功(くんこう)には、樋口が命を申し請ふべし」とて、押つ取り罩(こ)めて、七条を上りに、院の御所へ参る。範頼(のりより)・義経に此(こ)の由(よし)を申しければ、「私の計らひに有るべからず。御所へ申せ」とて、此(こ)の由(よし)を申したりければ、已(すで)に死罪(しざい)を免(ゆる)されて流罪(るざい)に定めらる。但(ただ)し、「木曾四天(してん)の其の一なり。大路を渡せ」とて、渡されぬ。
御所の女房達申されけるは、「法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の軍に勝ちし時、兼光・兼平下奴原(しやつばら)、吾(われ)等に恥かしき目見せたりしか。此れ等を助けられなば、桂河(かつらがは)に身を抛(な)げん。」「童(わらは)は淀河に沈まん。」「尼に成らん。」「出家せん」何(ナン)ど、一同(いちどう)に申されければ、然(さ)らばとて又死罪(しざい)に定まりぬ。
新摂政(せつしやう)殿、所職(しよしよく)を停められて、本の関白(くわんばく)成りたまひぬ。「昔粟田(あはたの)関白(くわんばく)は悦(よろこ)び申しの後、七日こそ有りけれ。此れは六十日の間にて、除目(ぢもく)も二度(にど)行はれき。思ひ出で無(な)きにしも非(あら)ず」とぞ沙汰しけるとか耶(や)。
同じき廿六日、樋口の次郎、殊に沙汰有つて誅(ちゆう)せられけり。法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の闘ひの時、人の衣装を剥ぎ取る中に、誰とは知らず、上臈(じやうらふ)女房の衣裳を剥がれて立(た)ちたまへるを、樋口の次郎鎧の下より小袖を脱いで著(き)せ奉(たてまつ)りたりければ、「吾(われ)は院の御所に然々(しかしか)と云ふ者なり。還(かへ)らせよ」と仰せられけれども、四五日が程取り籠(こ)めて置き奉(たてまつ)りたりければ、口惜しき事に欲(おも)ひて、諸(かたへ)の女房達に心を合はせて訴へられければ、誅(ちゆう)せられけるとぞ聞えし。
源平闘諍録 巻第八上
『源平闘諍録』読み下し 漢字仮名交じり版
源平闘諍録 八之下
P2380
〈目 録〉
『源平闘諍録』巻第八下
一、義経、平家征伐の為(ため)に西国下向の事
二、一谷・生田(いくた)の森合戦の事
三、熊替(くまがへ)、大夫(たいふ)成盛(なりもり)を討つ事
四、備中守の船、清九郎兵衛踏み還(かへ)す事
五、後藤兵衛落つる事
六、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)、梶原(かぢはら)に生け取らるる事
七、越前三位(さんみ)通盛(みちもり)、討たるる事
八、小宰相(こざいしやうの)局(つぼね)、身を投げらるる事
九、卿相(けいしやう)の頸、獄門の木に懸けらるる事
十、〈 後 〉重衡(しげひら)、源空を請ひ、持戒せらるる事
十一、〈 前 〉重衡(しげひら)、内裏女房を呼び奉(たてまつ)る事
十二、重衡(しげひら)、関東(くわんとう)下向の事
十三、惟盛、熊野参詣の事 付けたり 那智の〓に身を投げらるる事
P2382
一、義経、平家征伐の為(ため)に西国下向の事
寿永(じゆえい)二年十二月廿九日、九郎義経、平家征伐の為(ため)、西国に下向すべき由(よし)風聞(ふうぶん)有り。仍(よつ)て六条殿に義経を召され、仰せ下されて称(い)へらく、「神の代より相(あ)ひ伝へて三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)有り。神璽(しんじ)・宝剣・内侍所是(こ)れなり。彼(か)の神璽(しんじ)とは、崇神天皇(しゆじんてんわう)の御時、大和国志城(しき)の上の郡(こほり)にて造り鋳奉(たてまつ)りたまへり。是(こ)れ則(すなは)ち帝王の印(しるし)なり。又王法伝(わうぼふでん)の箱とも云(い)へり。汝義経、相(あ)ひ構へて彼(か)の神器(しんぎ)事之由(ことゆゑ)無(な)く都へ入れ奉(たてまつ)るべし」とぞ、仰せ下されける。
P2385
二、一谷・生田(いくた)の森合戦の事
然(さ)る程に、平家は播磨国の室山、備中国の水嶋、二ケ度(にかど)の合戦に勝つことを得(え)しかば、山陽・南海十三ケ国の住人等、悉(ことごと)く靡(なび)き随ひて、其の勢既(すで)に十万余騎に及べり。
元暦元年〈 甲辰(きのえたつ) 〉正月十日、摂津国一の谷に城郭を構へ、後陣は即(すなは)ち播磨国の明石・高砂・室山に至(いた)るまで、軍兵(ぐんびやう)多く充(み)ち満ちたり。
二月四日、福原にて故太政(だいじやう)入道(にふだう)の忌日(きにち)とて仏事(ぶつじ)を行はる。其の次(つい)でに、叙位(じよゐ)・除目(ぢもく)・僧司(そうし)なんど行はれける間、僧俗倶(とも)に官を成す。大外記(だいげき)中原の師直の子息(しそく)周防介(すはうのすけ)師澄、大外記(だいげき)に成る。兵部少輔(ひやうぶのせう)尹明(まさあきら)は五位の蔵人(くらんど)に成され、蔵人允(くらうどのじよう)とぞ申しける。「昔将門(まさかど)、東八ヶ国(とうはつかこく)を随へ、下総国(しもふさのくに)相馬郡(さうまのこほり)に都を立て、吾(わ)が身は平親王(へいしんわう)と号されて、百官(ひやくくわん)を成(な)したりけるが、暦の博士計(ばか)りこそ置かれざりけれ。其れには似るべからず。三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)を帯(たい)し、君も此れに御坐(おはしま)せば、今は此れこそ都(みやこ)と為(し)、叙位(じよゐ)・除目(ぢもく)行はるる事、僻事(ひがこと)とも覚えず」とぞ申しける。
然(さ)る程に、権亮(ごんのすけ)三位中将(さんみのちゆうじやう)惟盛は、月日(つきひ)の漸(やうや)く重なる間(ママ)に、都に留め置いたる人々の事をのみ恋しく思食(おぼしめ)す処に、商人(あきんど)の便りに、北の方の御文有り。少(をさな)き者共も斜(なの)めならず恋しがり奉(たてまつ)る上、我が身にも尽きせぬ歎き止み難き由(よし)、書き遣(や)りたまひたる間、惟盛太々(いとど)為方(せんかた)無(な)く、涙も更(さら)に堰(せ)き敢(あ)へざりけり。
P2387
平家は、源氏の打手(うつて)迫(せ)め下る由(よし)一定(いちぢやう)と聞えしかば、摂津国と播磨との堺、一の谷と云ふ所に城郭を構へ、戦場を固め、岡には馬を〓(か)ひ、艟(いくさぶね)を浮かべてぞ相(あ)ひ待ちける。
同じき二月七日、大手は摂津国より寄せ懸けけり。
蒲の冠者(くわんじや)範頼(のりより)大将軍と為(し)て浜路(ハマぢ)に向かひけり。相(あ)ひ随ふ輩には、武田の太郎信義・加々見の次郎遠光・小笠原(をがさはら)の次郎長清・一条(いちでう)の次郎忠頼・板垣(いたがき)の三郎(さぶらう)兼信・武田の兵衛有義・伊沢(いさは)の五郎信光・梶原(かぢはら)の平三景時(かげとき)・嫡子(ちやくし)源太(げんだ)景季・同じく平次(へいじ)景高・武蔵国(むさしのくに)の住人畠山(はたけやま)の庄司(しやうじ)次郎重忠・舎弟(しやてい)中野(なかの)の三郎(さぶらう)重清(しげきよ)・従父(をぢ)稲毛(いなげ)の三郎(さぶらう)重成(しげなり)・同じく四郎重朝(しげとも)・同じく五郎行重(ゆきしげ)・山野(やまの)の小四郎(こしらう)義行・小野寺(をのでら)の太郎通綱・讃岐(さぬき)の四郎大夫(たいふ)弘綱(ひろつな)・村上(むらかみ)の次郎判官代(はんぐわんだい)幹国(もとくに)・海老名(えびな)の助(スケ)太郎季光・中条(ちゆうでう)の藤次(とうじ)家長・相馬の次郎師常・同じく国分の五郎胤通(たねみち)・千葉介(ちばのすけ)常胤(つねたね)・嫡子(ちやくし)太郎頼胤〈
将也(まさなり) 〉・孫の小太郎成胤(しげたね)・堺の平次(へいじ)常秀・椎名(しひな)の次郎胤平・庄の三郎(さぶらう)忠家・同じく四郎高家・同じく五郎弘方(ひろかた)・猪俣(ゐのまた)の小平六(こへいろく)則綱・勅使河原(てしがはら)の権三郎有直(ありなほ)・中村(なかむら)の小三郎(こさぶらう)時綱〈 経 〉・河原(かはら)の太郎高直・同じく次郎高家・秩父の武者四郎行綱(ゆきつな)・渋谷(しぶや)の庄司(しやうじ)重国(しげくに)・同じく馬允(うまのじよう)重資・安保(あんぼ)の次郎実光(さねみつ)・塩谷の五郎惟広・藤田(ふぢた)の三郎(さぶらう)大夫(たいふ)高重・小代(をしろ)の八郎(はちらう)行平・久下(くげ)の次郎重光、此れ等を始めと為(し)て五万余騎、同じく二月四日卯の時に都を立つて、同じき日申の尅(こく)に、摂津の小屋野(こやの)に陣を取る。
搦手(からめで)の大将軍九郎冠者(くわんじや)義経に相(あ)ひ随ひ、一の谷へ向かふ輩は、遠江(とほたふみの)守(かみ)義定・大内(おほうち)の太郎維義(これよし)・斎院(さいゐん)の次官(しくわん)親能・山名(やまな)の三郎(さぶらう)親則・田代の冠者(くわんじや)信綱(のぶつな)・土屋の三郎(さぶらう)宗遠・同じく男小次郎義清・三浦の介義澄(よしずみ)・和田(わだ)の小太郎義盛・佐原(さはら)の十郎義連(よしつら)・土肥(とひ)の次郎実平(さねひら)・嫡子(ちやくし)弥太郎(やたらう)遠平(とほひら)・山名(やまな)の三郎(さぶらう)義範(よしのり)・天輪(あまわ)の次郎直経(なほつね)・多々良(たたら)の五郎義春・同じく次郎光義(みつよし)・糟屋(かすや)の権守(ごんのかみ)守常・後藤兵衛実基(さねもと)・同じく男基清(もときよ)・平山(ひらやま)の武者所季重・河越(かはごえ)の太郎重頼(しげより)・同じく小太郎重房・熊谷の次郎直実(なほざね)・子息(しそく)小次郎直家・原の三郎(さぶらう)清益(きよます)・大河戸(おほかはど)の太郎弘行・小河(をがは)の小次郎助安(すけやす)・同じく三郎(さぶらう)助
義(すけよし)・山田(やまだ)の太郎重澄・金子の十郎家忠(いへただ)・同じく与一家貞〈 後に近則(ちかのり)と云ふ 〉・渡柳(わたりやなぎ)の弥五郎(いやごらう)清忠(きよただ)・別府(べつぷ)の太郎清高(きよたか)・源八弘綱(ひろつな)・片岡の小次郎親常・長井の小太郎吉兼・筒井(つつゐ)の次郎吉行・足名(あしな)の太郎清隆(きよたか)・枝の源三・熊井(くまゐ)の太郎・武蔵坊(むさしばう)弁慶(べんけい)・奥州(あうしう)の佐藤(さとう)三郎(さぶらう)次信・同じく四郎忠信(ただのぶ)・伊勢の三郎(さぶらう)義盛・成田(なりだ)の五郎を始めと為(し)て一万余騎、同じき日同じき時に都を立つて、二日路(ふつかぢ)を一日(いちにち)に打(う)つて行く。戌(いぬ)の時計(ばか)りに、丹波(たんば)と播磨との堺なる三草山(みくさのやま)の東の口に馳せ付く。
P2393
平家は数万騎の軍兵(ぐんびやう)を率して之(これ)を相(あ)ひ待つ間、源氏の兵(つはもの)十分之一にも及ばず。其の上、彼(か)の一の谷は口狭くして奥広し。南は海、北は山、〓(がけ)高くして屏風(びやうぶ)を立てたるが如(ごと)し。水深くして雲南(うんなん)に向かへるに似たり。寔(まこと)に人も馬も通ひ難き城郭なり。赤旗(あかはた)其の数を知らず立て並べたり。春の風に吹かれて飄〓(へうえう)として、火焔(かえん)の煙(も)え上がるかとぞ謬(あやま)ちける。城中には唱立(おびたた)(ヲビタタ)しく石弩(いしゆみ)を張り設(まう)けたりければ、実(まこと)に敵(かたき)も憶(おく)しぬべくぞ見えたりける。
平家の大将軍は、小松殿の二男(じなん)新三位(しんざんみ)の中将(ちゆうじやう)資盛(すけもり)・小松の少将(せうしやう)有盛・備中守師盛、侍(さぶらひ)大将軍には、平内兵衛(へいないびやうゑ)清家等を始めと為(し)て、其の勢惣じて七千余騎、三草山(みくさのやま)の西の山口(やまぐち)に陣を取る。三里(さんり)の山を中を隔てて、源平互ひに戦場を卜(シ)む。九郎義経は宵より宿りたりける山口(やまぐち)の在家に火を懸けたり。此れを始めと為(し)て、野にも山にも火を著(つ)け
たりければ、日中(につちゆう)にも劣らずぞ照らしける。源氏の軍兵(ぐんびやう)、夜半計(ばか)りに打(う)ち出で、三里(さんり)の山を夜と与(トモ)にぞ越えにける。平家は夜半に至(いた)るまで用心(ようじん)しけるが、「只今(ただいま)は世(よ)も寄せじ」とて、物の具脱いで臥(ふ)したる所に、上の山より謳(おう)と謳(ヲメ)いて寄せたりければ、平家俄(にはか)に驚き澆(あわ)て騒ぐこと、六趣(ろくしゆ)震動(しんどう)に異ならず。源氏は矢の一(ひと)つも射ずして、一千余騎を追ひ落とし、終夜(よもすがら)山を越えて、西の山口(やまぐち)に陣を取る。平家は三草山(みくさのやま)を責め落とされ、面目(めんぼく)無(な)き間、一の谷へは向かはれず、室山より船に乗り、讃岐(さぬき)の八嶋(やしま)に越えにけり。
P1398
平内兵衛(へいないびやうゑ)清家、一の谷に参り、右(かく)と申しければ、大臣殿(おほいとの)大きに驚きたまひ、使者(ししや)を以つて能登守の陣へ申されけるは、「一の谷へは盛国(もりくに)・貞能(さだよし)を遺し候ひぬれば、然(さ)りとも別(べち)の事は非じと覚え候ふ。生田(いくた)の森へは新中納言・本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)向かはれ候へば能(よ)かりぬべしと覚え候ふ。三草山(みくさのやま)は九郎冠者(くわんじや)此(こ)の暁(あかつき)落として有んなれば、進疾(ススドキ)男(をのこ)にて、今は此(こ)の陣へ近づき候ふらん。山の手へは盛俊向かふべき由(よし)申して候へば、君達(きんだち)一人副(そ)へらるべき旨申し候ふに、誰々も皆辞退し候ふ。然(サリトテ)は度々(どど)の合戦にこそ疲れて渡らせたまへども、向かはせ給ふべくや候ふらん。」能登守此(こ)の事を聞いて、「畏(かしこま)つて承(うけたまは)り候ふ。左様(さやう)に人々の悪(にく)み申され候ふこそ物躰無(もつたいな)く覚え候へ。軍と申すは、身一人の大事と為(スル)だにも、動(やや)もすれば叶ひ難(がた)し。彼へは向かはじ、此れへ向かはんと、身
を全(まつた)うせんと思はれば、墓々(はかばか)しからじと覚え候ふ。教経(のりつね)においては、何度(いくたび)なりとも強(こは)からん方へ向け給へ。命の候はん程は破るべく候ふ」と申されければ、大臣殿(おほいとの)斜(なの)めならず悦(よろこ)びて、「哀(あは)れ、世を立て直し、能登殿を世に有らせ奉(たてまつ)らばや」とぞ言(のたま)ひける。
五日(いつか)も暮れにけり。夜に入つて見渡せば、源氏は小屋野(こやの)方に陣を取りければ、所々(ところどころ)(前々)に陣の火を焼(た)きけり。生田(いくた)の森にも此れを見て、対(むか)へ火を焼けとて、形の如(ごと)くぞ明かしける。
P2400
越前三位(さんみ)通盛(みちもり)卿、弟能登守の仮屋(かりや)に物の具脱ぎ置き、女房を呼んでぞ御坐(おはしま)しける。能登守此れを見て言ひけるは、「恐れ有る申し事にて候へども、教経(のりつね)の不調(ふでう)をば仰せを蒙(かうぶ)るべきに、御事をば教経(のりつね)こそ申し候はんずれ。他人は目に余り心に余るとも、誰か一言(ひとこと)も口入(こうじゆ)申すべきや。此(こ)の手は強(こは)かるべしとて、教経(のりつね)を向けられ候ひ畢(をは)んぬ。身の如勇(ゆゆ)しきには非(あら)ず候ふ。人の辞し申すに依(よ)つてなり。実(まこと)に強(こは)かるべく候ふ。中にも坂東の奴原(やつばら)は馬上(ばしやう)には達者(たつしや)なり。上の重(カサ)より見理(みやり)て都(どつ)と落とし候はば、取る物も取り敢(あ)へず候ふ。善く善く御思慮(ごしりよ)有るべく候ふ」と申されければ、見(げ)にもとや思はれけん、怱(いそ)ぎ物の具して、女房をば還(かへ)されけり。上西門院(しやうさいもんゐん)に侍(さぶら)ひける小宰相(こざいしやう)殿の局(つぼね)是(こ)れなり。此(こ)の時夢の様に行き合はれ、互ひに其れぞ最後なりける。
然(さ)る程に、五日(いつか)の暮れに及びて、越中前司(せんじ)が楯(たて)の前を、男鹿(をじか)一(ひと)つ妻鹿(めじか)二つ連(つ)れて、西の方へ走り通りけり。人々「袷(あは)や袷(あは)や」と云ひければ、伊与国(いよのくに)の住人武市(たけチ)の武者清則(きよのり)、元より鹿の上手なり、射付けの馬には乗つたり、「殿原(とのばら)に鹿を射て見せ奉(たてまつ)らん」とて、上矢(うはや)の鏑(かぶら)を抜き出だして打(う)ち番(つが)ひ、鞭を当て鐙(あぶみ)を掻き合はせて、一二の矢にて妻鹿(めじか)二つ射倒したり。男鹿(をじか)は本の山へ還(かへ)り付きにけり。清則(きよのり)取つて還(かへ)して、「心ならず狩りをしたり」と申したりければ、人々「可惜(アタラ)矢で敵(かたき)をば射で」と云ひければ、「何物なりとも弓箭(きゆうせん)取りの前を生きて通らんずる者を、前を通す事無(な)し」とぞ申しける。越中前司(せんじ)此れを見て、「異左(いさ)とよ。殿原(とのばら)、此れこそ心得(え)ね。山の鹿の人に近づかざる事をば菩提(ぼだい)に譬(たと)へたり。此れにも人数(ひとかず)多く有り。音鳴りに恐れて太々(いとど)
山深くこそ入るべきに、此(こ)の鹿の走り出づる様こそ子細有るらめ。三草山(みくさのやま)破(やぶ)れたると聞えし。源九郎が近づきたると覚ゆるぞ。殿原(とのばら)、用心(ようじん)せらるべし」とて、馬の腹帯(はるび)を固め、甲の緒を卜(し)めけり。
源氏は東西の木戸口(きどぐち)に、矢合せは七日の卯の時と定めければ、更(さら)に以つて怱(いそ)がず。此(こ)こに陣を取り馬を息(やす)め、彼(かし)こに引(ひ)かへて人を休む。
時しも衣更着(キサラギ)の始めなれば、流石(サスガ)に春とは云ひながら、余寒(よかん)も未(いま)だ尽き遣(や)らず。嵩々(たけだけ)の下に残れる雪を花と見る処も有り。霞める野辺(のべ)を見渡せば、雪間を分けて萌(も)え出づる若草(わかくさ)の角組(ツノグム)所も有り。谷の鶯(うぐひす)音信(おとづ)れて一(ヲボロケ)に聞ゆる所も有り。何(いづ)れも何(いづ)れも取り取りに、艶(えん)ならざるは無かりけり。
P2403
六日(むゆか)、夜に入つて、九郎義経、鵯越(ひよどりごえ)と云ふ深き山路へ打(う)ち入つたれば、木々(きぎ)の梢(こずゑ)も森にけり。馬の足立(あしだ)ちも見えず。「哀(あは)れ、此(こ)の勢の中に案内者有るらん。参つて前打(う)ち仕れかし」と義経言ひければ、音する人も無(な)き処に、武蔵(むさし)の住人平山(ひらやま)の武者所季重進み出でて、「某(それがし)こそ知つて候へ。御前打(う)ち仕らん」と申しければ、義経此れを聞いて、「何(いか)に、平山(ひらやま)は武蔵国(むさしのくに)の者なり。而(しか)も初京上(うヒきやうじやう)ぞかし。始めて見る西国の山の案内をば、争(いかで)か知るべき」と言ひければ、諸人(しよにん)聞きも敢(あ)へず、抜(ばつ)と笑ひけり。平山(ひらやま)申しけるは、「敵(かたき)の籠(こも)つたる山の案内をば、剛(かう)の者こそ知つて候へ。指(さ)せる咒師(しゆし)か猿楽(さるがく)か、意得(こころえ)ぬ殿原(とのばら)の笑ひ様かな」と、少しも返事為(せ)ば組み落として勝負(しようぶ)しぬべき気色(けしき)にて、悪々(にくにく)と申しければ、一言(ひとこと)の返事為(す)る者更(さら
)に無(な)し。義経「尤(もつと)も然(しか)るべし」と言ひける上は、敢(あ)へて尤(とが)むる輩も無かりけり。
然(さ)る程に、或(あ)る山の洞(ホラ)に立(た)ち入り、小家(せうけ)より若き男を尋ね出だしたり。父と覚(おぼ)しきは七十有余の老翁(らうおう)なり。平山(ひらやま)、彼(か)の少冠(せうくわん)を囚(とら)へ、「先に立つて此(こ)の山の道知るべ為(せ)よ」とて打(う)ちけり。彼(か)の少冠(せうくわん)申しけるは、「明(アカ)う成り候ふとも御馬(おんうま)の鼻を向くまじく候ふ。」源九郎此れを聞いて、「此(カウ)云ふ者は何者ぞ」と言ひければ、「此(こ)の山の下に〓(カセキ)する者にて候ふ」と申しければ、「其れは何の為(ため)に是(こ)れまで参つたるぞ。」「三(サン)候(ザウロ)ふ。平山(ひらやま)殿とかや、山の道知るべ為(せ)よとて囚(とら)はれて参つて候ふ」と申しければ、其の時笑ひつる者共、「道理(だうり)にてこそ平山(ひらやま)は、知らぬ山の前打(う)ち為(せ)んと申しける。吾(われ)等加様(かやう)の計(はか)りことまでは思ひも寄らず。恐ろし恐ろし」とぞ申しける。
御曹司、彼(か)の男を近く召し、「此れより一の谷へは幾程遠き」と言ひければ、少冠(せうくわん)申しけるは、「此れより西国三里(さんり)計(ばか)り候ふらん」と申しけり。「道は悪所(あくしよ)か。」「三(さん)候(ざうら)ふ。此(こ)の山は鶴越(つるごえ)とて、屏風(びやうぶ)を立てたるが如き十五丈の谷、二十丈の岩懸け有り。人の通ふべき様無(な)し。増(まし)て馬なんどは思ひも寄るまじく候ふ。其の上、矢を立て菱(ひし)をも殖(う)ゑてぞ待ち奉(たてまつ)り候ふ覧(らん)」と申しければ、「耶礼(やれ)、此(こ)の山に鹿は無(な)きか。」「鹿は多く候ふ。青陽(せいやう)の春にも作(な)れば隙間(すま)・明石の浦風を慕ひつつ、丹波(たんば)の鹿は播磨へ越え、野分(のわき)臥(ふ)す秋には丹波(たんば)へ通ひ候ふ間、必ず通ひ路有つて候ふ」と申しければ、「此(こ)は何(いか)に、鹿の通はん路は馬の馬場(ばば)や。汝疾々(とうとう)道知るべ為(し)て指南(しなん)せよ」と言ひければ、「承(うけたまは)り候ひぬ」とぞ申しける。
此(こ)の少冠(せうくわん)を見れば、皃気(みメ)色肝際(きもぎは)善き男なり。御曹司目を懸けて思はれければ、「汝が親をば何(なン)と云ふぞ。汝が名をば誰と云ふぞ」と此れを問へば、「父をば猿尾(ましを)の庄司(しやうじ)と申し候ふ。某(それがし)は猿尾(ましを)の三郎(さぶらう)と申し候ふ」と答へけり。御曹司、彼を道の指南(しなん)に為(シ)て、鵯越(ひよどりごえ)へ向かはれけり。其れより猿尾(ましを)の三郎(さぶらう)、軈(やが)て御曹司に思ひ付き奉(たてまつ)り、陸奥(むつ)まで下り、最後の共仕りけるは、此(こ)の猿尾(ましを)の三郎(さぶらう)の事なり。
御曹司「例の大続松(おほついまつ)に火を付けよ」と言ひければ、「承(うけたまは)る」とて、土肥(とひ)の次郎実平(さねひら)、宿りたりける在家に火を懸く。此れを始めと為(し)て、野にも山にも草木にも付けたりければ、日中(につちゆう)にも相(あ)ひ劣らず。「此(こ)の明かりに老馬(らうば)こそ道を知るらめ」とて、葦毛(あしげ)なる馬二匹(にひき)に手綱(たづな)結ひ懸けて追はれければ、歩(あゆ)みも違はず、三里(さんり)の山を越えられけり。御曹司、或(あ)る塔の下に馬を引(ひ)かへ、「搦手(からめで)の勢は多からずとも苦しかるまじ。然(しか)も巌石(がんぜき)の山路なり。夜に入つては叶ふまじ」とて、一万余騎を引き分け、三千余騎は西の大手へ向けられ、七千騎をば相(あ)ひ具して打たれけり。
P2409
爰(ここ)に武蔵国(むさしのくに)の住人熊替(くまがへ)の次郎直実(なほざね)、近く子息(しそく)小次郎直家を呼んで、「耶己礼(やうれ)小次郎、軍(いくさ)は明日の卯の時の矢合せと聞く。明日の軍(いくさ)は打(う)ち籠(こ)みにて、誰前(さき)為(し)たりとも聞えじ。今度(こんど)一方(いつぱう)の前(さき)をも懸け、鎌倉殿に聞かれ奉(たてまつ)らんと思ひしに、搦手(からめで)の大将軍に属(つ)きたり。心早(せ)くとも馬次第にて、前(さき)為(せ)んとも覚えず。聞ゆる播磨路の渚へ打(う)ち下つて、一の谷へ前(さき)に寄せん」と申しければ、小次郎「左(さ)承(うけたまは)り候ひぬ。軍(いくさ)は此れを始めにて候ふ。広みにて思ふ様に懸け、心の剛憶(かうおく)をも羨さうとこそ存じ候ひしに、馬次第は口惜しく候ふ。然(サラ)ば疾々(とうとう)夜深(ふ)け候はぬに、思食(おぼしめ)し立(た)ち候へ」と進めければ、熊替(くまがへ)「去来也(いざや)、然(さ)らば平山(ひらやま)に前せられじ」とて、褐(かちん)の直垂(ひたたれ)小袴(こばかま)に、黒皮威の鎧、権太栗毛(ごんだくりげ)と云ふ馬にぞ乗つたりける。子息(しそく)
小次郎直家は、面高(おもだか)を一入(ひとしほ)摩(す)つたる直垂(ひたたれ)に、洗革(あらひがは)の腹巻鎧を著(き)、三枚甲(さんまいかぶと)の緒を卜(し)め、黄河原(きかはら)なる馬にぞ乗つたりける。旗差(はたさし)共(ども)に只(ただ)三騎、大勢の中より打(う)ち紛れ、一の谷へ打(う)ち下り、南を指(さ)して打(う)つて行く。熊替(くまがへ)は平山(ひらやま)に前を為(せ)られじと思ひ、平山(ひらやま)は熊替(くまがへ)に前を懸けられじと、互ひに目を懸けけり。
P2411
平山(ひらやま)、一の谷へ廻(めぐ)らばやと思ひし処に、熊谷親子私語(ささや)き合つて出でけるを見て、「袷(あは)れ、僕原(やつばら)は西の大手へ廻るごさんめれ」と目を懸け、此れも西へぞ廻(まは)りける。又同国(どうこく)の住人成田(なりだ)の五郎も、熊替(くまがへ)・平山(ひらやま)出で立(た)ちぬるを奇(アヤシ)うで、此れも一の谷へぞ向かひける。
平山(ひらやま)一の谷を打(う)ち下り、下早(シタハヤ)に打(う)つて行く程に、夜も深(ふ)け方に成りにけり。二月六日(むゆか)の夜なれば、余寒(よかん)も未(いま)だ余波(なごり)有り。馬の跡(あと)凹(くぼ)みにたりければ、薄氷(うすごほり)の、馬二三匹の跡(あと)と覚(おぼ)しくて、歩(あゆ)み破(やぶ)つてぞ通りたる。平山(ひらやま)此れを見て、「安からぬ。熊替(くまがへ)前(さき)に行きにけり」と思ひて、下早にこそ怱(いそ)ぎけれ。
深(ふ)け行く間(ママ)に、「小次郎、耶己(やうれ)、此(こ)の道は歩(あゆ)み違へてや有るらん。近くとこそ聞きつるに、今夜(こよひ)も既(すで)に明け方に成りぬらんに、渚も未(いま)だ見えず。搦手(からめで)をば離れ、大手には付かず。軍(いくさ)に落ちたりとか云はれん。」小次郎申しけるは、「此(こ)の道は違はじと覚え候ふ。枝道の有らばこそ歩(あゆ)み違ふる事も候へ。知らぬ山路なり。然(しか)も夜で候へばこそ、遠き様には候へ。千鳥の鳴いて候ひつるは、浦近く候ふにや」と云ひも終(は)てず、都(つ)と南の渚へ出でたり。熊替(くまがへ)「海と渚と分く方は無(な)し。如何(いかが)すべき。」小次郎「身方(みかた)も既(すで)に次(ツヅ)くらん。此(ココ)を通らば身方(みかた)騒ぎて世(よ)も通さじ。搦手(からめで)を棄てて此れへ向かひつるは、前を懸けんと欲(おも)ひてなり。此(こ)の義ならば何(ナジ)かは搦手(からめで)を棄てけん。」小次郎澳(おき)の方を瞻(まも)つて、「道は候ふ。浪(なみ)の織り様、之(これ)を見るに、此(こ)の海は遠浅と覚え候ふ。海へ打(う)ち下つて打たせ給へ。御方(みかた)は世(よ)も知り候
はじ。轡(くつばみ)の音を鳴らし候ふまじ」とて、馬より飛んで下り、渚の藻芥(もくづ)を取り、〓房を引き抜き、水付(みづつき)の閇金(とぢかね)に押し掻き押し掻き、之(これ)を結ひ付け、又馬に飛び乗り、轡(くつばみ)を掴(つか)み具し、小次郎前を為(し)て打(う)つて行く。案の如(ごと)く遠浅にて、馬の太腹(ふとばら)・烏頭(からすがしら)には過ぎず。思ひの如(ごと)く、熊替(くまがへ)敵(かたき)御方(みかた)の間に打(う)ち入り、人馬の気(いき)をぞ息(やす)むる。
熊替(くまがへ)云ひけるは、「敵(かたき)も御方(みかた)も只今(ただいま)静まりたり。明けに成つてこそ名乗らめ。且(かつ)うは御方(みかた)近づいたらん時こそ聞かれめ。」小次郎申しけるは、「只(ただ)称(なの)らせたまへ。敵(かたき)を証人(しようにん)に立てよと云ふ事は此れに候ふ。御方(みかた)近づいたらん時は、前(さき)に称(なの)つたる熊替(くまがへ)と、之(これ)を称(なの)らせたまひ候はば、特に善うこそ候はんずれ。」熊替(くまがへ)、子に教えられ、見(げ)にもとや思ひけん、敵(かたき)の木戸口(きどぐち)近く打(う)ち寄せ、「音にも聞くらん、今は目にも見よ。武蔵国(むさしのくに)の住人熊替(くまがへ)の次郎直実(なほざね)、同じく子息(しそく)小次郎直家。今日(けふ)の軍(いくさ)の一番(いちばん)なり」と称(なの)りけれども、敵(かたき)も御方(みかた)も音もせず。
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然(さ)る程に、明けに成つて之(これ)を見れば、渚の方に武者こそ、旗差共に二騎、打(う)ち連(つ)れて出でたれ。熊替(くまがへ)此れを見て、「哀(あは)れ、平山(ひらやま)は打籠(うちこみ)の軍(いくさ)をば好まぬ者なれば、其れにてぞ有るらん」と之(これ)を思ふ処に、近づくを見れば、其れなりけり。三つ重目結(シゲめゆひ)の直垂(ひたたれ)小袴(こばかま)に、萌木糸摺(もえぎいとをどし)の鎧を著(き)て、目糟毛(めかすげ)と云ふ射付けの馬にこそ乗つたりけれ。
熊替(くまがへ)此れを見て、「袷(あれ)は平山(ひらやま)殿か。」「季重よ。熊替(くまがへ)殿か。」「直実(なほざね)よ。」「何(いつ)より。」「宵より。」平山(ひらやま)此れを聞き、「耶(や)給へ、熊替(くまがへ)殿。然(さ)ればこそ疾(とう)に来るべかりつるを、成田(なりだ)の五郎妻(め)に誘(こしら)へ引(ひ)かれて、殿も見つらう、一の谷を打(う)ち下り、西の小坂(こざか)へ向かひ、吾(われ)一人と欲(おも)ひて打(う)ち登りつれば、後ろに物が小音(こごゑ)に『平山(ひらやま)殿、平山(ひらやま)殿』と呼びつる時、誰ぞと欲(おも)ひ、此れを引(ひ)かへて聞けば、成田(なりだ)の五郎が声と聞き成(な)して、『成田(なりだ)殿か。』『然(サ)ぞかし。』『何事ぞ。』『後継ぎをば待たで抜け懸けは詮(せん)無(な)し。命生きてこそ高名をも為(セ)め。大勢の中に取り籠(こ)められて討たれなば、努々(ゆめゆめ)人之(これ)を知るべからず。理(ことわり)を枉(マ)げて御方(みかた)を後ろに当てたまへ』と云ひつる時、尤(もつと)もと欲(おも)ひて、馬の頭を下に成(な)して此れを待つ程に、成田(なりだ)下早に打(う)ち上
りつる程に、並うで打(う)つべきかと欲(おも)ひければ、然(さ)は無(な)くて、文(アヤ)無(な)く打(う)ち通る。僕(きやつ)は出し抜くよと意得(こころえ)て、『和君(わぎみ)は吾(われ)を出し抜くか。其の儀ならば後ろ影は見ざる者を』とて、目糟毛(めかすげ)には乗つたり、四五町計(ばか)りは継(つづ)いて見えつるが、其の後は見えず。其れも今は近づくらん」と語りつつ、熊替(くまがへ)・平山(ひらやま)、旗差共に五騎に成つてぞ引(ひ)かへたる。
熊替(くまがへ)、敵(かたき)の城の構へを見れば、北は山、南は海、崖(がけ)高うして屏風(びやうぶ)を峙(そばだ)てたるが如(ごと)し。巌石(がんぜき)峨々(がが)として人跡(じんせき)久しく絶えたり。北の山際より南の海の遠浅まで、岩を崩して山を突(ツ)き、木戸口(きどぐち)一(ひと)つを開いて、大木を切つて逆茂木(さかもぎ)を塞(ふさ)ぐ。蚊(か)虻(あぶ)猶(なほ)通ひ難(がた)し、況んや馬の蹄(ひづめ)においてをや。聖人(しやうにん)殆(ほとん)ど越え難(がた)し、況んや凡夫(ぼんぶ)においてをや。木戸(きど)の上には高矢倉(たかやぐら)を掻き、兵(つはもの)比子(ひし)と並(な)み居たり。下には郎等眷属(けんぞく)〓(シコロ)を傾けて数を知らず。矢倉(やぐら)の後ろには鞍置馬を十重(とへ)廿重(はたへ)に引つ立てたり。海の深きには大船(おほぶね)を浮かべ、数千の船の中に矢倉(やぐら)を掻いてぞ守らせける。若(も)しの事も有らば用意の為(ため)なり。赤旗(あかはた)・赤験(あかじるし)数を知らず立て並べたり。春の風に吹かれて天に飄〓(へうえう)し、火焔(かえん)の焼(も)え上がるが如(ごと)し。寔(ま
こと)に唱立(おびたた)しくぞ覚えたる。敵(かたき)も此れを見て憶(おく)しぬ計(ばか)りにぞ覚えける。
熊替(くまがへ)、数数有る木戸口(きどぐち)近くに打(う)ち寄つて、大音声(だいおんじやう)を放つて申しけるは、「先に称(なの)つたりつる熊替(くまがへ)の次郎直実(なほざね)此れに有り。去歳(こぞ)の冬、相模国(さがみのくに)鎌倉を立(た)ちし日より、命をば兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿に奉(たてまつ)る。名をば後代(こうだい)に留め、骸(かばね)をば摂津国一の谷に曝(さら)し置くべし。平家方の大将軍は誰ぞや、称(なの)らせたまへ。音なきは懼(お)(ヲ)ぢたか。越中の次郎兵衛(じらうびやうゑ)・上総(かづさ)の五郎兵衛・弟七郎兵衛等、実(まコト)か、備中国水嶋・播磨国室山両度(りやうど)の合戦に高名為(し)たりと云(い)へども、何(いか)に、敵(かたき)に依(よ)つてこそ高名は為(ス)れ、人毎(ごと)に遭うては世(よ)も為(せ)じ者を。直実(なほざね)に遭うて高名為(し)たらんこそ実(まこと)の高名よ。能登守殿は在(ましま)さぬか。穴(あな)無慚(むざん)の殿原(とのばら)かな。阿弥陀仏(あみだぶつ)阿弥陀仏(あみだぶつ)」と恥(は)ぢしめられて、越中の前司(せんじ)盛俊、陣の口に立(た)ち出で、「成敗しけん
者を。〓(きび)しく城の戸口(とぐち)を固めよ。敵(かたき)の矢種(やだね)尽きさせて馬の足を臘(つから)かすべし」とぞ申しける。
熊替(くまがへ)親子を討たんとて、越中の次郎兵衛(じらうびやうゑ)盛次(もりつぎ)・上総(かづさ)の五郎兵衛忠光・同じく悪七兵衛忠家・飛彈(ひだ)の三郎左衛門(さぶらうざゑもん)景経(かげつね)・後藤兵衛定綱已下(いげ)廿三騎、城の戸口(とぐち)を開き懸け出でたり。中にも越中の次郎兵衛(じらうびやうゑ)は特に勝(すぐ)れて見分けたり。紺村濃(こんむらご)(こんむらゴ)の直垂(ひたたれ)に、赤摺(あかをどし)の鎧を著(き)、白葦毛(しらあしげ)の馬にぞ乗つたりける。熊替(くまがへ)間近く寄り遭へども落ち合はず。廿三騎左右(さう)無(な)く並べて組まざりけり。二段(にたん)計(ばか)りを隔て間(アヒ)、熊替(くまがへ)親子も破られじと尖矢形(とがりやがた)に立て成(な)して、〓(しころ)を傾けて引(ひ)かへたり。「何(いか)にや何(いか)に、懸けよや懸けよ」と熊替(くまがへ)云ひければ、悪七兵衛係(か)け出でんと欲(す)。盛次(もりつぎ)引(ひ)かへて申しけるは、「君の御大事此れに限るまじ。又も無(な)き命を捨てば、善き大将に遭うてこそ捨てめ。僧〓の様なる者に遭うて命を棄てて甘従(いかんせん)。鳴〓(をこ)の事
なり」と云ひながら、之(これ)を取り留めけり。
P2418
爰(ここ)に平山(ひらやま)、馬の腹帯(はるび)を固め、旗指共に二騎打(う)ち連(つ)れて、「武蔵国(むさしのくに)の住人平山(ひらやま)の武者季重」と称(なの)つて、木戸口(きどぐち)を開きたる間に、城の内へ懸け入る。城中の者共散々に係(か)け散らされ、或(ある)いは谷の奥へ迯(に)ぐるも有り、或(ある)いは大路を東へ迯(外)(に)ぐるも有り。各(おのおの)蜘(知)(くも)の子を散らすが如(ごと)し。矢倉(やぐら)の上の兵共(つはものドモ)、矢倉(やぐら)の下の郎等共、矢を放たんと進めども、敵(かたき)は二騎にて馳せ行く。敵(かたき)を射ば身方(みかた)を射つべき間、只(ただ)詞計(ばか)りにて「引き落とせや、殿原(とのばら)、押し並べて組めや組めや」と〓(ののし)りけれども、敢(あ)へて組む者無かりけり。
熊替(くまがへ)勝(かつ)に乗つて、「穢(きたな)し、耶(や)殿原(とのばら)、後ろ質(すがた)は見苦しや、還(かへ)せや還(かへ)せや」と云ひければ、飛彈(ひだ)の三郎左衛門尉(さぶらうざゑもんのじよう)、「還(かへ)さんに難(かた)かるべきか」とて、渚を西へ係く。五郎兵衛、三郎左衛門(さぶらうざゑもん)が手綱(たづな)を引(ひ)かへて、「詮(せん)無(な)し、耶(や)殿(との)、君の御大事今日(けふ)に限るべきに非(あら)ず」と制しければ、其れをば押さへても係(か)けず。廿三騎も、奥深(おくぶか)に打(う)ち入りたる平山(ひらやま)を左様(ひだりさま)に成(な)してぞ闘ひける。熊替(くまがへ)に打(う)ち合ふ者こそ無かりける。雨の降る様に射係くる矢に、熊替(くまがへ)馬を射させて歩武者(かちむしや)に成つて闘ひけり。
小次郎は親をば打(う)ち捨てて、楯際(たてギワ)近く打(う)ち寄つて、「熊替(くまがへ)の小次郎直家、生年(しやうねん)十六歳、軍(いくさ)は此れぞ始めなる。我と欲(おも)はん殿原(とのばら)は、直家に組めや」と称(なの)りけるが、右の小肱(こひぢ)を袖を加へて射付けられ、父直実(なほざね)が前(まへ)に並んでぞ立つたりける。「小次郎手を負ひたるか。」「三(さん)候(ざうら)ふ。右の小肱(こひぢ)を袖を加へて射付けられ、弓を引くべき様(やう)無(な)く候ふ。矢を抜いて給(タマ)へ。」「且(しばら)く待て。間(ひま)無(な)し。若武者は手を負ひて緋(あケ)を引きたればこそ皃(みメ)善けれ。〓(ヨロイ)を振り上げて物を見るな。矢倉(やぐら)の上より内甲を射さすな。鎧抵(よろひヅキ)を常に為(す)べし。余りに傾けて天変(てつぺん)射さすな。敵(かたき)は千万(せんまん)有りとも、人に討たせず吾(われ)一人して討たんと欲(おも)へ。係(か)けては死ぬとも、引(ひ)かへて資(たす)からんと思ふな。悪(あ)しくは人手(ひとで)には係(か)けじ、直実(なほざね)が手に係(か)けうずるぞ」と諌(いさ)められて、生まれ付きた
る剛(かう)の者なれば、少しも後ろ足を履まず、太々(いとど)金生(こんじやう)にてぞ見えたりける。
熊替(くまがへ)親子が射落とされけるを見て、又平山(ひらやま)入れ違へて闘ひけり。其の間に熊替(くまがへ)乗代(のりかへ)にて打(う)つ立つ。此(こ)の間に又平山(ひらやま)馬を息(やす)むる処に、平山(ひらやま)が旗指敵(かたき)に組み落とされ、頸を取られんと欲(し)ければ、平山(ひらやま)落ち合ひて敵(かたき)を討ち、旗差を資(たす)けて引き退く。平山(ひらやま)が二度(にど)の係(か)けとは是(こ)れなり。
其の後、成田(なりだ)の五郎卅騎計(ばか)りにて馳せ来たつて闘ひけり。
其の後、秩父・足利・三浦・鎌倉の輩、横山・児玉(こだま)・猪俣(ゐのまた)・野伊与(のいよ)・山口党(やまぐちタウ)の者共、吾(われ)も吾(われ)もと嘔(をめ)いて懸け入る。源平互ひに乱れ合ひて闘ひけり。暫(しばら)く時を遷(うつ)す程に、彼此(かれこれ)共(とも)に討たるる者、其の数を知らず。凡(およ)そ一の谷の奥の篠原は皆紅にぞ成りにける。
P2422
東の大手生田(いくた)の森は、卯の時の矢合せと定めたりければ、梶原(かぢはら)平三景時(かげとき)、前(さき)を係(か)けて寄せけり。梶原(かぢはら)が手に河原(かはら)の太郎高直・同じく次郎盛直、逆茂木(さかもぎ)を乗り越え、太刀(たち)を打(う)ち振ひ、大勢の中へ係(か)け入りけり。平家方に此れを見て、「穴(あな)勇(ゆゆ)し、中坂東の者の心の武(たけ)さや。只(ただ)二人して此(こ)の大勢の中へ入つたらば、何(いか)計(ばか)りの事の有るべき」と云ひ合ひけり。備中国の住人真名部(まなべ)の四郎・同じく五郎、何(いづ)れも精兵(せいびやう)の勇士(ゆうし)為(た)る間、兄をば一の谷、弟をば生田(イクた)の森に置かれたり。真名部(まなべ)の四郎、矢倉(やぐら)の上より之(これ)を射ければ、河原(かはら)の太郎が右の膝(ひざ)節を射られければ、矢を引き抜いて之(これ)を棄てける間に、太刀(たち)を杖(ツヘニツ)き立(た)ちけり。河原(かはら)の次郎走り寄つて、兄を肩に引つ係(か)け、逆茂木(さかもぎ)を乗り越えけり。真名部(まなべ)が二の矢に、弟の弓手(ゆんで)の股を射られければ、兄弟(きやうだい)一(ひと
)つ所に辷(まろ)びければ、真名部(まなべ)が郎等二人落ち合ひて、河原(かはら)兄弟(きやうだい)が頸を取りけり。
其の時、梶原(かぢはら)平三、五百余騎にて馳せ来たり、「疎(うた)て有る殿原(とのばら)かな。後次(あとつ)ぎ無(な)くて河原(かはら)兄弟(きやうだい)を討たせつ」とて、逆茂木(さかもぎ)を取り除け、五百余騎を尖矢形(とがりやがた)に立て成(な)し、嘔(をめ)いて係(か)け入る。新中納言知盛(とももり)・子息(しそく)武蔵(むさしの)守(かみ)知章(ともあきら)・本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡(しげひら)を大将軍と為(し)て二千余騎、梶原(かぢはら)の五百余騎を最中(まんなか)に取り籠(こ)め、「一騎(いつき)も漏(も)らさず打(う)ち取れ」とて、一時(いつとき)計(ばか)り闘ひけり。梶原(かぢはら)無勢(ぶぜい)なる間、叶はじとや欲(おも)ひけん、大勢の中を打(う)ち破(やぶ)つて出でけるが、「身を全(まつた)うして君に仕ふるは臣の一の忠なり」とて、引き退きけるが、跡(あと)を見還りて、「源太(げんだ)は何(いか)に」と問ひければ、「大勢の中に取り籠(こ)められて見えたまはず」と申しければ、「然(さ)らば討たれたるか。源太(げんだ)を討たせては、景時(かげとき)命生きても何(いか)にかは為(
せ)ん」とて、取つて還(かへ)して懸け入り、此れを見れば、源太(げんだ)卅騎計(ばか)りが中に取り籠(こ)められ、六人の敵(かたき)に打(う)ち合ひ、甲をば打(う)ち落とされ、我が身は受け太刀(たち)に成つて、今は更(かう)とぞ見えたりける。「源太(げんだ)未(いま)だ討たれず」とて、梶原(かぢはら)押し寄せて称(なの)りけるは、「八幡殿(はちまんどの)の後三年の闘ひに、出羽国金沢(かねざは)の城を責めし時、生年(しやうねん)十六歳、敵(かたき)に右の眼を射させ、其の矢を抜かずして答(たふ)の矢を射て名を上げ、今は御霊(ごりやう)の社と云はれたる、鎌倉の権五郎景政が末葉(ばつえふ)、相模国(さがみのくに)の住人梶原(かぢはら)の平三景時(かげとき)、一人当千の兵(つはもの)とは知らずや」とて、謳(をめ)いて係く。一人当千の名にや恐れけん、敵(かたき)左右(さう)へ引き退く。其の時、敵(かたき)と源太(げんだ)の中へ馳せ入り、源太(げんだ)を後ろに成(な)して三々(さんざん)に闘ひけり。且(しばら)く気(いき)を息(やす)め、「去来(いざ)源太(げんだ)」とて、引き具して出でにけり。
源太(げんだ)猶(なほ)甲の緒を卜(し)め、射向の袖を矢共に折懸けにし、吾(わ)が身は薄手(うすで)負ひ、「梶原(かぢはら)の源太(げんだ)此れに有り。此れに有り」とて、奥深(おくぶか)に馳せ入つて闘ひけり。大将軍範頼(のりより)此れを見て、父景時(かげとき)の許(もと)へ云ひ遣(や)られけるは、「余りに源太(げんだ)の早りたり。『謬(あやま)ちすな。人を下知(げぢ)せよ、吾(わ)が身は引(ひ)かへよ』と云ひ含むべき」由(よし)言ひければ、源太(げんだ)を招いて、「大将軍の仰せにて有るぞ。且(しばら)く馬の気(いき)を息(やす)めよ」と云ひければ、源太(げんだ)取り敢(あ)へず、右(かく)計(ばか)り、
「昔与梨取伝多留阿徒佐弓 引天和人能返須毛能加波
〈昔より取り伝へたるあづさ弓 引きては人の返すものかは〉
左古曾(とこそ)見参(げんざん)に入れ御坐(おはしま)し候へ」とて、又取つて返して謳(をめ)いて係く。
又梶原(かぢはら)、桜の面白かりけるを腰に差(さ)して馳せ行きけるを、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)此れを見て、
物武能桜狩古曾与志奈希礼
〈もののふの桜狩りこそよしなけれ〉
左(と)云ひ送られたりければ、景時(かげとき)取り敢(あ)へず、
生取土覧多免土思江波
〈生け取りとらんためと思へば〉
左楚(とゾ)申しける。
又武蔵国(むさしのくに)の住人畠山(はたけやま)の次郎重忠、五百余騎にて押し寄せて、一時計(ばか)り闘ひけり。射白(いしら)まされて引き退く。凡(およ)そ大手計(ばか)りは人種尽くとも破(やぶ)れ難くぞ見えたりける。
P2428
搦手(からめで)の大将軍九郎義経、鵯越(ヒヨどりごえ)の上壇(じやうだん)に打(う)ち上がり、東西の木戸口(きどぐち)を見たまへば、白旗赤旗(あかはた)相(あ)ひ交(ま)じりて、入り乱れてぞ闘ひける。義経言ひけるは、「武蔵坊(むさしばう)、袷(あれ)を見よ。此れ程の見物有りしや。」「類(たぐ)ひ候はず」とぞ申しける。御曹司「去来(いざ)、彼を落とさん」と云ひければ、武蔵坊(むさしばう)「尤(もつと)も然(しか)るべく候ふ」とて、大きなる石を谷の方へ向けて転(まろ)ばしけり。始めは見えて、落ち付く所を未(いま)だ知らず。御曹司「此れ計(ばか)りにては争(いかで)か知るべき。『老馬(らうば)は道を知る』と云ふ本文有り」とて、老馬(らうば)の瓦毛(かはらげ)なるを二疋尋ね出だして、手綱(たづな)結んで打(う)ち懸け、谷の方へ向けて之(これ)を追ひ落とす。半(なか)ば計(ばか)りは人に追はれて落ちけるが、其の後は谷の方にも馬嘶(いなな)きければ、声を合はせて走り下る。
御曹司言ひけるは、「袷(あは)れ、殿原(とのばら)、善(よ)かんずるは。瓦毛(かはらげ)は足を損じて立(た)ちも上がらず。一疋は難無(な)く落ち付いて、身振ひして立(た)ちたり。主乗つて落とさば世(よ)も損ぜじ。只(ただ)落とすべし。吾(わ)が身先に係(か)けん」とて、落とされければ、七千余騎皆連(つづ)いて落ちぬ。凡(およ)そ此(こ)の谷は、是(こ)れ小石(こいし)交(ま)じりの白砂に、苔(こけ)生ひ重なり、滑りければ、馬の足も砂も共に須琉璃(するり)須琉璃(するり)と流れけり。落とす程に少し畝村(うねむら)なる所に落ち付き、立つて引(ひ)かへたり。
底を見れば、巌(いはほ)聳(そび)えて屏風(びやうぶ)を立てたるが如(ごと)し。登るべき路も無(な)く、下るべき方も無し。「如何(いか)が為(せ)ん」と言ひければ、三浦大介(おほすけ)が末子(ばつし)に、佐原(さはら)の十郎善連(よしつら)進み出でて申しけるは、「此れ程の所を巌石(がんぜき)と申し、猿手(さて)止(とど)むべく候ふか。三浦の方にて、鹿一(ひと)つをも越し、鳥一(ひと)つをも立てたるは、此れに劣らぬ所を馳せ行くか。此れ等は三浦の馬場(ばば)かな。義連(よしつら)落として見参(げんざん)に入れん」とて、手勢(てぜい)五百余騎真先(マツサキ)に係(か)けて雑(ざつ)と落とす。御曹司次(つづ)いて落としたまへば、誰か独(ひと)りも憚るべき。七千余騎皆共に難無(な)く下へぞ落としける。
上(ウヘ)の山の木闇(こぐれ)の間(ひま)より、七千余騎一同(いちどう)に時を俄(にはか)に作りけり。嵩々(たけだけ)峯々に響く声、十万余騎とぞ聞えける。称(なの)りも終(は)てず、白旗卅流れ指(さ)し上げ、暇(いとま)も与へず係(か)け入りけり。
P2434
越中の前司(せんじ)三百余騎にて闘へども、源氏の大勢に蹴(け)散らされ引き退く。能登守範経(のりつね)、毎度(まいど)の高名人に勝(すぐ)れて御座(おはしま)しけれども、此(こ)の度(たび)は何(いか)が思はれけん、一軍(ひといくさ)も為(せ)ず、薄墨(うすずみ)と云ふ明馬(めいば)に乗り、陬間(すま)の関屋(せきや)に落ち、尓(それ)より小船に乗り、淡路(あはぢ)の岩屋へ渡られけり。
越中の前司(せんじ)計(ばか)りは、思ひ切つて闘ひけり。弓杖(ゆんづゑ)に係(スガ)り、仰甲(のけかぶと)に成つて引(ひ)かへたり。爰(ここ)に猪俣(ゐのまた)の小平六(こへいろく)則綱此れを見て、「縦(たと)ひ大将軍に非(あら)ずとも、平家の侍(さぶらひ)に然(しか)るべき者なり」とて、「武蔵国(むさしのくに)の住人猪俣(ゐのまた)の小平六(こへいろく)則綱」と称(なの)つて、押し並べて引き組んだり。何(いづ)れも共に大力(だいぢから)なれば、二疋の馬堪(た)へずして、膝(ヒザ)掻き折つて臥(ふ)しにけり。二人の者共、二疋の間(アヒ)に落ち立つたり。小平六(こへいろく)は勁(つよ)かりけれども十人計(ばか)りの所為(しよゐ)をこそ為(す)れ、盛俊は人目には廿人計(ばか)りが所為(しよゐ)を為(す)れども、内々(ないない)は六七十人が力とぞ聞えし。小平六(こへいろく)を取つて抑(おさ)へ、頸を掻き切らんと欲(す)。小平六(こへいろく)、刀は抜いたりといへども、大の男の大力(だいぢから)に敷き結(つ)められて間(ひま)無(な)し。
則綱下に臥(ふ)しながら、少しも騒がず申しけるは、「敵(かたき)を討つは仮名(けみやう)・実名(じつみやう)を聞いたればこそ善けれ。名も知らぬ頸を取つたりとも何(いか)にか為(せ)ん」と申しければ、安平(あんべい)に覚えて、「早(ハヤ)称(なの)れ」と云ひければ、「吾(われ)は是(こ)れ武蔵国(むさしのくに)の住人、猪俣(ゐのまた)の小平六(こへいろく)則綱とて、足(た)り上戸(じやうご)、名誉(めいよ)の者なり。和君(わぎみ)は誰ぞ。」「平家の侍(さぶらひ)に越中の前司(せんじ)盛俊と云ふ者なり。」「猿手(さて)は和殿(わとの)は落人(おちうど)にこそ。主の世に在(ましま)さばこそ、頸を取つて勲功(くんこう)も有らめ。平家の運命已に傾きぬ。日本国を敵(かたき)に受けて如何(いか)がしたまふべき。我を助けたまへ。殿の命計(ばか)りは、則綱が勲功(くんこう)に申し替へて、助け申すべし」と云ひければ、盛俊東西を見廻しけり。源氏の兵(つはもの)充(み)ち満ちて遁(のが)れ遣(や)るべき方(かた)無(な)き間、見(げに)もとや思ひけん、「一定(いちぢやう)か。」
「一定(いちぢやう)よ。吾(われ)を助けたらん人をば、争(いか)でか助け奉(たてまつ)らざるべき。」盛俊申しけるは、「殿も上戸(じやうご)なりと言ひたり。盛俊も平家の侍(さぶらひ)には一番(いちばん)の上戸(じやうご)よ。助けたまへ。呑(ノ)うで見せ奉(たてまつ)らん。子共・家の子廿余人有り。助けたまへ」とて、引き起こすに、後ろは泥(どろ)の深き田、前は畠(はたけ)の様なる畝(うね)に、一人足を指(さ)し下して、気(いき)を息(やす)めて居たり。
爰(ここ)に、横山党に人見の四郎と云ふ者、黒皮摺(くろかはをどし)の鎧に、葦毛(あしげ)の馬に乗つて出でたり。越中の前司(せんじ)、恠気(アヤシげ)に思ひて、「是(こ)れは誰(た)候ふぞ」と問ひければ、小平六(こへいろく)立(た)ち上(アガ)り、之(これ)を見て申しけるは、「苦(クルシ)う候はず。則綱が従父(をぢ)に人見の四郎と申す者にて候ふ。聞え候ふ大力(だいぢから)の精兵(せいびやう)よ。則綱が三十人の所為(しよゐ)を為(す)る者なり。〈 唐言(からごん)を構へて云(い)へるなり。 〉則綱討たれ候ふとも敵(かたき)を取るべき者にて候ふ。則綱の資(たす)け奉(たてまつ)る由(よし)聞く程にては、努々(ゆめゆめ)手を係け奉(たてまつ)るまじき者で候ふ。心安く思食(おぼしめ)されよ」と申しけり。然(さ)れども、猪俣(ゐのまた)には意(こころ)を打(う)ち与へ、今来(ク)る者を奇(アヤシゲ)に思ひて、目を放さず此れを見る。
盛俊は大の男の太(フトリ)極(きは)まりたるが、細き畝(うね)に尻を懸け、胸返りなる様にて居たり。「僕(キヤツ)が胸板を突いたらんに、何(なじ)か突き込まざるべき。殺さん」と思ひ、今来たる者を見る様にて、力足を立て課(おほ)せ、只(ただ)一刀(ひとかたな)に贔負(えい)と突く。案の如(ごと)く、後ろの深田(ふかた)に最逆(まさかさま)に突き入りけり。草摺(くさズリ)の返す所を掴(つか)み、〓(ツカ)も拳(こぶし)も徹(とほ)れ徹(とほ)れと三刀(みかたな)差(さ)して頸を取りけり。
P2438
山の手も早破(やぶ)れぬ、一の谷は熊替(くまがへ)・平山(ひらやま)に破られぬ。大勢次第に責め入れば、平家の軍兵(ぐんびやう)海へぞ馳せ入りける。渚々に設(まう)け船多けれども、一艘宛(ヅツ)には乗らずして、物の具為(シ)たる武者共、船一艘に一二千人込み乗りければ、何(なじ)かは沈(流)まざるべき、親(まのあたり)に大船(おほぶね)二三艘沈みて、底の藻塵(もクヅ)と成りぬ。先帝・二位殿以下(いげ)然(しか)るべき人々の召されたる船共に、澆(あわ)て迷ひ乗らんと欲(し)ければ、大臣殿(おほいとの)、越中の次郎兵衛(じらうびやうゑ)に仰せ付け、船縁(ふなばた)を〓(ナガ)せければ、或(ある)いは腕(うで)を打(う)ち落とされ、或(ある)いは肱(かひナ)を打(う)ち落とされ、渚々に倒れ臥(ふ)し、謳(をめ)き叫ぶぞ無慚(むざん)なる。
信濃国(しなののくに)の住人村上(むらかみ)の次郎判官代(はんぐわんだい)、西の大手より馳せ入り、陬間(すま)・板屋戸の在家・仮屋(かりや)に火を懸けたりければ、西の風劇(はげ)しく吹いて、黒煙(くろけぶり)東へ押し係(か)けたり。「袷(あ)れ見よや。西の手は破られぬ」と、取る物も取り敢(あ)へず、吾(われ)先にと落ち迷ひけり。大将軍も散々に成りければ、生田(いくた)の森も破(やぶ)れにけり。
P2439
下総国(しもふさのくに)の住人豊田が郎等、皆輪(みなわ)の次郎・同じく八郎(はちらう)、「善(よ)からん敵(かたき)もがな」と待つ所に、黒皮摺(くろかはをどし)の鎧著(き)たるが、甲を打(う)ち落とされたる武者一騎(いつき)、従類(じゆうるい)も無(な)くて出で来たり。皆輪(みなわ)の次郎、誰とは知らず、敵(かたき)に押し並べ、抜き儲けたる太刀(たち)なれば、踊(ヲド)り係つて支度(しと)と打(う)つ。皆輪(みなわ)の次郎打(う)ちも終(は)てず、髻(モトドリ)を掴(つか)んで鞍の前輪(まへわ)に引き付け、頸掻き切つてぞ取つたりける。
此(こ)の頸を鳥付(とりつけ)に付け、馬に打(う)ち乗つて、弟の八郎(はちらう)を見るに無(な)し。馳せ廻つて之(これ)を尋ぬる程に、古井(ふるゐ)の崩れて浅く成つたるに、武者二人組んで臥(ふ)したり。上なるを見れば上臈(じやうらふ)と覚えたり。朽葉(くちば)の綾(あや)の直垂(ひたたれ)に、萌木糸威(もえぎいとをどし)の鎧に、白星(しらほし)の甲を著(き)、長幅輪(輪輪)(ながフクリン)の太刀(たち)を帯(は)きたり。下なる武者は黒糸威(くろいとをどし)の鎧を著(き)たり。次郎「八郎(はちらう)か」と問へば、「然(サ)ぞかし」と云ふ。次郎馬より下り、上なる敵(かたき)を掴(つか)み引けども、実(げ)に以つて勁(つよ)かりけり。皆輪(みなわ)の次郎、左の手(テ)にて天変(てつぺん)の穴(あな)に手を入れ、右の手を以つて〓子(シこロ)を掴(つか)み、贔負声(えいやごゑ)を出だして此れを引いたりければ、敵(かたき)頭(かしラ)を一振り振る。次郎弓杖(ゆんづゑ)一枚(いちまい)計(ばか)り投(ナ)げられけるが、甲の緒を引き切り、飛びながら起き上がりて髻(もとどり)を掴(つか)みたりければ、引き上(アゲ)て頸を掻き
切つて取り、弟の八郎(はちらう)を引き起こす。後に此れを尋ぬれば、修理大夫(しゆりのだいぶ)常盛(つねもり)の末子(ばつし)、無官(むくわんの)大夫(たいふ)敦盛(あつもり)とぞ聞えける。
P2442
薩摩守忠度(ただのり)は岡部の六矢太(ろくやた)が為(ため)に討たれたまひぬ。陬磨(すま)の関屋(せきや)は忠度(ただのり)の知行所(ちぎやうしよ)なれば、行平中納言の跡(あと)を追ひ、常に彼(か)の所へ下られけり。或(あ)る辻堂(つじだう)の住持(ぢゆうぢ)の僧、形の如(ごと)く腰折を為(ス)る間、御会(ごくわい)毎(ごと)に召されつつ、情け有る言(ことば)を懸けたりしかば、此(こ)の御骸(かばね)を尋ね出だし、葬送(さうそう)・茶毘(ダび)の儀式を務(イトナ)み、様々(さまざま)の孝養(けうやう)を致す。然(さ)れば、人は世に在(あ)る時は、尤(もつと)も情け有る言を人に係くべき者をとぞ覚えし。
P2444
三 熊替(くまがへ)、大夫(たいふ)成盛(なりもり)を討つ事
熊替(くまがへ)の次郎直実(なほざね)は未(いま)だ分取りもせず、「袷(あは)れ、善(よ)からう敵(かたき)もがな。打(う)ち取らん」と欲(おも)ひ、陬間(すま)の関屋(せきや)へ打(う)ち寄せて、〓(おき)の方を見遣(や)れば、助け船共を漕(コギ)散らせり。「定めて落人(おちうど)此れへぞ来るらん」と欲(おも)ひ、引き上げたりける大船(おほぶね)の陰に、左(と)計(ばか)り有りて、轡(くつわ)の音聞ゆる間、船の弛(はづ)より指(さ)し望(のぞ)いて此れを見れば、紫地に練糸を以つて根篠(ねしの)を縫ひたる直垂(ひたたれ)に、紫下濃(スソゴ)の鎧を著(き)、上帯(うはおび)には漢竹(かんちく)の篳篥(ヒチリキ)を此(こ)の紫檀(しだん)の矢立(やたて)に入れて差(さ)したり。又小巻物(こまきもの)を差(さ)し具したり。後に此れを見れば、彼(カク)ぞ書いたりける。
桜梅桃李(あうばいたうり)の春の朝(あした)に成りぬれば、妻よ妻よと囀(さへず)る鶯(うぐひす)の、野辺(のべ)に阿娜(あだ)めく忍び音や、野辺(のべ)の霞に顕れて、外面(そとも)の桜何(いか)計(ばか)り、重ね開(サ)くらん八重(やへ)桜。九夏三伏(きうかさんぷく)の天にも成りぬれば、藤波(ふぢなみ)厭(いと)ふ郭公(ほととぎす)、夜々(よよ)の蚊遣火(かやりび)下燃えて、忍ぶる恋の心地(ここち)かな。黄菊紫蘭(きぎくしらん)の秋の暮れにも成りぬれば、壁に吟(スダ)く蟋蟀(きりぎりす)、尾上の鹿、龍田(たつた)の紅葉(もみぢ)哀(あは)れなり。玄冬素雪(けんとうそせつ)の夕(ゆふ)べにも成りぬれば、谷の小河(をがは)の通ひ路も、皆白妙(しろたへ)に成り渡る。差(さ)しも余波(なごり)の惜しかりし、旧里(ふるさと)の木々(きぎ)の梢(こずゑ)を見棄てつつ、一の谷の苔(こけ)の下に埋もれん悲しさよ。
とぞ書かれたる。
P2446
内甲は白々(しろじろ)として、渡りの船を瞻(マブ)つて、波の中へ打(う)ち入りけるを、熊谷此れを見て、「此許(ココもト)を懸くるは大将軍とこそ見奉(たてまつ)れ。大将軍程の人の、敵(かたき)に後ろを見する様や候ふ。穴(あな)見苦しや。返させ給へ」と申しければ、打(う)ち笑つて引き返しけるが、「善うこそ見けれ。和君(わぎみ)は誰そ」と言へば、「武蔵国(むさしのくに)の住人、熊替(くまがへ)の次郎直実(なほざね)」とぞ申しける。「汝に遭うては称(なの)るべからず。只(ただ)頸を取つて人に見せよ」と言ひければ、熊替(くまがへ)引つ組んで渚に落ちぬ。
熊替(くまがへ)引き仰(あふの)(アヲノ)けて此れを見れば、十六七(じふろくしち)の若殿上人の、太眉に作り、金黒(かねぐろ)なり。小次郎に見合はせて此れを見るに、境節(をりふし)小次郎見えざりければ、討たれてや有るらんと、覚塚無(おぼツカな)かりければ、「山野(さんや)の獣(けだもの)、江河(がうが)の鱗(うろくづ)までも、恩愛(おんあい)の道は切なり。況(いはん)や人倫(じんりん)においてをや。争(いか)でか思ひ知らざるべき。此(こ)の殿の親、此(こ)の殿を討たせて歎きたまはん事、直実(なほざね)が小次郎を討たせて歎かんも、何(いづ)れか勝劣(しようれつ)有るべき。放ち奉(たてまつ)らばや」と欲(おも)ひて、四方(しはう)を見れば、身方(みかた)の者共之(これ)多し。「縦(たと)ひ直実(なほざね)助け奉(たてまつ)るとも、余人は世(よ)も助け奉(たてまつ)らじ。人手(ひとで)に係(か)け奉(たてまつ)り、『熊替(くまがへ)の打(う)ち漏(も)らしぬるを打(う)つたり』と云はれなば、後代(こうだい)の恥辱(ちじよく)なり。詮ずる所、此(こ)の殿を打(う)ち、後世(ごせ)を訪(とぶら)ひ奉(たてまつ)らばや」
と思ふ間、「重ねて御名を承(うけたまは)らん」とて、申しけるは、「別(べち)の議にては候はず。鎌倉殿の仰せに、『平氏(へいじ)の大将軍を討つたらん者は、高下(かうげ)を言はず、国主(こくしゆ)に成すべき』由(よし)、張文(ハリぶみ)に押されて候ふ。君を討ち奉(たてまつ)らん勲功(くんこう)の故(ゆゑ)に、直実(なほざね)程の乏少(ぼくせう)愚闇(ぐあん)の身が国主(こくしゆ)と成り候はん事、莫太(ばくたい)の御恩に非(あら)ずや。其の報功(はうこう)には、善根(ぜんごん)を修(シユ)し僧を供養(くやう)し奉(たてまつ)るとも、誰(た)が為(ため)にも廻向(ゑかう)し奉(たてまつ)らざる事、無念(むねん)に覚え候へば、加様(かやう)には申し候ふなり」と申しければ、此(こ)の殿言ひけるは、「重代相伝の家人(けにん)にも非(あら)ず、日来(ひごろ)の好(よし)みも無(な)しといへども、此れ程に思ふことこそ神妙(しんべう)なれ。打(う)ち任せては汝に遭うて称(なの)るべきに非(あら)ずといへども、此(こ)の言(ことば)の有り難さに称(なの)るなり。我は是(こ)れ太政(だいじやう)入道(にふだう)の弟、門脇の平中納言
教盛(のりもり)の三男(さんなん)、蔵人(くらんど)の大夫(たいふ)成盛(なりもり)とて、自(みづか)らは今年(ことし)十六歳、早々頸を取れ」とぞ言ひける。
熊替(くまがへ)申しけるは、「君は御一門共に一業(葉)(いちごふ)所感(しよかん)の御身にて、疾(と)き遅きこそ候はんずれ、直実(なほざね)を恨みさせたまふな」とて、甲(カブト)を取つて之(これ)を引き仰(あふの)(アヲノ)けて見れば、翠(ミドリ)の黛(まゆずみ)汚(アセ)に匂ひ、暮気々々(ぼけぼけ)と見えけり。何(いづ)くに刀を当つべしとも覚えず、泣(な)く泣(な)く頸をぞ取りにける。
此(こ)の頸を鳥付(とりつけ)に付け、馬に打(う)ち乗り、身方(みかた)に逢ふ毎(ごと)に、「此れ御覧候へ、殿原(とのばら)。門脇殿の三男(さんなん)、蔵人(くらんど)の大夫(たいふ)とて、十六歳に成りたまふを討つたるぞや」とて、泣き行きけり。鎌倉殿世を取りたまひて後、幾程無(な)くて遂(つひ)に出家して、西山の聖人(しやうにん)法然坊(ほふねんばう)の弟子に成り、遂(つひ)に往生(わうじやう)の素(索)懐(そくわい)を遂げにけり。
P2451
四 備中守の船、清九郎兵衛踏み還(かへ)す事
新中納言の侍(さぶらひ)に、清九郎兵衛と申しける者、主には追ひ放れぬ、大の男の太く極(きは)めたるが、甲斐(かひ)無(な)き馬には乗つたり、跡(あと)より敵(かたき)は追つ係くる。〓(おき)の方を見れば、船一艘漕いで通る。備中守の船と見成(な)して、「此(こ)こを通らせたまふは備中守殿の御船とこそ見奉(たてまつ)り候へ。申され候ふは、新中納言殿の御内(みうち)に、清九郎兵衛家俊と申す者にて候ふ。助け御坐(おはしま)せ」と申しければ、人々口々(くちぐち)に「只(ただ)漕ぎ通らせ給へ」と申しければ、備中守言ひけるは、「敵(かたき)なりとも助けよと云はれなば助くべし。況(いはん)や御方(みかた)なり。然(しか)も新中納言の最愛(さいあい)の者なり。若(も)し千に一(ひと)つも助かりたらば、後に云はれんことこそ恥(はづ)かしけれ。只(ただ)此(こ)の船を指(さ)し寄せよ」とて、寄せられたり。家俊高き処に登り上がつて待ち係(か)けたり。間纔(わづ)かに三丈計(ばか)りなり。敵(かたき)は近づく、余りに早(はや)く見えければ、備中守言ひけるは、「家俊飛べかし。」「左承(うけたまは)り候ふ」と、憚りながら贔負(えい)と飛び
けるが、飛び弛(はづ)して、船縁(ふなばた)を履んで履み返す。此れを見て、馳せ寄つて、船をば熊手に係(か)けて引き寄せけり。備中守は討たれたまひぬ。家俊も失せにけり。
P2453
五 後藤兵衛落つる事
本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡(しげひら)卿は、黒褐(カチン)に白き糸を以つて村千鳥(むらちどり)を縫ひたる直垂(ひたたれ)に、萌木糸威(もえぎいとをどし)の鎧著(き)て、乗替共に二騎連(つ)れて、西に向かつて、助け船を志(こころざし)して落ちられける程に、梶原(かぢはら)の平三、大将軍と目を係(か)け、「袷(あれ)は何(いか)に。大将軍とこそ見奉(たてまつ)れ。御後ろ質(スガタ)見苦しう候ふ。返させたまへ」と申しければ、聞かぬが船と扶持(もてナシ)て落つる処に、梶原(かぢはら)が乗つたる馬は乗り疲れて追ひ付き難(がた)し、中差(なかざし)取つて番(つが)ひ、遠矢に射たりけり。重衡(しげひら)の召されたる童子鹿毛(どうじかげ)の三途(さんづ)の下に、箆(ノ)深うこそ射籠(コ)うだり。究竟(くつきやう)の明馬(めいば)なれども、矢を立てぬれば、事の外に弱りにけり。
重衡(しげひら)秘蔵(ひさう)の馬に夜目無月毛(よめなしつきげ)をば、乗代(のりかへ)の為(ため)に、乳子(めのとご)後藤兵衛を乗せられたり。「童子鹿毛(どうじかげ)に矢立(た)ちぬれば、此(こ)の馬定めて召されんずらん。言(ことば)の懸からぬ先に」と欲(おも)ひ、馬の鼻を北の方へ引き向けて落ち行きけり。三位中将(さんみのちゆうじやう)此れを見て、「耶己(やうれ)、盛長。其の馬参らせよ。重衡(しげひら)の馬、手を負ひたり。日来(ひごろ)は然(サ)は契らざりし者を。恨めしくも吾(われ)を棄つるかな」と仰せられけれども、虚(ソラ)聞かずして、射向けの袖なる赤験(あかじるし)を抜き捨て、鞭鐙(むちあぶみ)を合はせて馳せ迯(に)げぬ。
P2455
六 本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)、梶原(かぢはら)に生け取らるる事
重衡(しげひら)力及び給はず、海へ馳せ入りたまへど、其れも遠浅にて、沈みも得(え)たまはず。腰刀を抜いて上帯(うはおび)を切り捨てたまひけるは、自害を為(せ)んとや、又海に入らんとや見えし程に、梶原(かぢはら)程無(な)く馳せ来たり、馬より飛び下り、歩走(かちばし)りに持たせたる〓刀(なぎなた)を取つて、「君に渡らせたまふと見奉(たてまつ)る。相模国(さがみのくに)の住人、梶原(かぢはら)の平三景時(かげとき)、参つて候ふ。御共仕らん」とて、隙(ひま)無(な)く走り寄り、取り奉(たてまつ)つて吾(わ)が馬に乗せ奉(たてまつ)り、後輪(しづわ)前輪(まへわ)に警(いまし)め付け、吾(わ)が身は乗代(のりかへ)に乗つて引き具し奉(たてまつ)り、大手の方へぞ向かひける。
景時(かげとき)申しけるは、「何(いか)に袷躰(あレてい)の侍(さぶらひ)をば召し具せられ候ひけるぞ。景時(かげとき)が様に候はん者を召し具せられ候はんは、此れ程の事候はじ」と辱(はぢ)しめ奉(たてまつ)る。三位中将(さんみのちゆうじやう)後に人に語りたまひけるは、「景時(かげとき)に辱(はぢ)しめられし事、百千の鉾を以つて胸を指されんも、此れには過ぎじ」と言ひけり。
後藤兵衛は、後には熊野法師(ほふし)に尾中(をなかの)法橋(ほつけう)と申しける後家尼(ごけに)の許(もと)に、後見(うしろみ)を為(シ)たりけるが、訴訟の為(ため)に上洛(しやうらく)したりければ、京中の貴賤此れを見て、「穴(あな)無慚(むざん)や、三位中将(さんみのちゆうじやう)殿の差(さ)しも糸惜(いとほ)しく思食(おぼしめ)されたりし者(モノ)の、一所(いつしよ)にて左右(トモかう)も成らで、思ひも懸けぬ尼公の尻舞(しりまひ)して、晴(ハレ)振舞(ふるまひ)するこそ無慚(むざん)なれ」と、爪弾きを為(し)て悪(にく)み合ひければ、其の後隠れにけり。
新中納言知盛(とももり)・子息(しそく)武蔵(むさしの)守(かみ)知明(ともあきら)、侍(さぶらひ)には監物(けんもつ)の太郎頼賢(よりかた)、三騎連(つ)れて船に付かんと馳せられけるに、打輪(うちわ)の旗差(さ)したる児玉党(こだまたう)にや有りけん、五六騎(ごろくき)計(ばか)りにて嘔(をめ)いて懸く。此れを見て、監物(けんもつ)の太郎極(きは)めたる弓の上手なれば、旗差が頸の骨を射串(いぬ)く。旗差馬より逆さまに落ちにけり。
新中納言知盛(とももり)、弓長(ゆんだケ)の程近著(ちかづ)けども、子息(しそく)武蔵(むさしの)守(かみ)知章(ともあきら)、十七歳に成られけるが、父を敵(かたき)に組ませじと、中に隔てて与(く)んで落(おと)(ヲト)し、取つて押へて頸を切る。敵方の童(わらは)、落ち合ひて、武蔵(むさしの)守(かみ)をば差(さ)し殺す。監物(けんもつ)の太郎頼賢(よりかた)、膝(ヒザ)の節を射させて、立(た)ちも上がらざりければ、腹を掻き切つて死ににけり。
新中納言は、此(こ)の隙(すき)に逃げ延びにけり。井上黒(ゐのうへぐろ)といふ究竟(くきやう)の馬に乗り、海の面廿余町游(ヲヨガ)せて、船に著(つ)きたり。彼(か)の船には馬の立つべき様も無かりければ、阿波(あは)の民部(みんぶ)成能(しげよし)申しけるは、「可惜馬(アタラ)、敵(かたき)の物に成(ナンヌ)べし。射留め候はん」と申しければ、「任他(さもあらばあれ)、畜生といへども、吾(われ)を資(たす)けたらん馬をば、争(いか)でか殺すべき」とて、渚に向けて追ひ返す。
新中納言、此(こ)の馬の為(ため)に、月に一度泰山府君(たいざんぶくん)をぞ祭られける。其の故(ゆゑ)にや、彼(か)の馬に資(たす)けられ給ひにけり。九郎判官(はうぐわん)、彼(か)の馬を取つて院へ参らせたりければ、名の高き馬なれば、一の御厩(みうまや)に立てられけるが、黒き馬の太く唐皇(たくま)しければ、井上黒(ゐのうへぐろ)とも申しけり。河越(かはごえ)の太郎が取つたりければ、河越黒(かはごえぐろ)とも名づく。
P2460
知盛(とももり)卿、大臣殿(おほいとの)に向かひ奉(たてまつ)り、涙を流して申されけるは、「只(ただ)一人持(も)ちて候ふ武蔵(むさしの)守(かみ)にも後(おく)れ候ひぬ。監物(けんもつ)の太郎も討たれ畢(をは)んぬ。命は善く惜しい者で候ひけり。只(ただ)独(ひと)り持つたる子が、親の命に替らんと敵(かたき)に組みつるに、引きも返さざりけり。外の人の見る所こそ慙(はずか)しけれ」とて泣かせたまへば、大臣殿(おほいとの)仰せられけるは、「哀(あは)れなるかな。武蔵(むさしの)守(かみ)は手も聞き、心も武(たけ)く、善き大将にて御坐(おはしま)しつる者を」と云ひながら、御子右衛門督(うゑもんのかみ)の顔を見奉(たてまつ)り、讐眼(さうがん)より涙を浮けたまひけり。此れを見奉(たてまつ)る兵(つはもの)共(ども)も各(おのおの)袖をぞ絞(しぼ)りける。
武蔵(むさし)の三郎左衛門(さぶらうざゑもん)有国・伊賀(いが)の平内左衛門(へいないざゑもん)家長、此れ等二人は新中納言一二の者共にて、互ひに契り深(ふか)ければ、一所(いつしよ)に死なんとぞ欲(おも)ひける。
P2463
七 越前三位(さんみ)通盛(みちもり)、討たるる事
門脇平中納言教盛(のりもり)の嫡子(ちやくし)、越前三位(さんみ)通盛(みちもり)卿、湊縁(みなトはた)に就(つ)き落ちられけり。近江国(あふみのくに)の住人佐々木(ささき)の三郎(さぶらう)盛綱此れを見奉(たてまつ)り、七騎の勢にて追つ懸けて行く。勲太(くんだ)瀧口(たきぐちの)時員(ときかず)と云ふ侍(さぶらひ)、前(まへ)に塞(ふさ)がつて、「君は落ちさせたまへ。防(ふせ)ぎ矢仕り候はん」と申しければ、「何(いか)に、汝は日来(ひごろ)云ひつる契りをば違はんと欲(ス)るぞ。此(こ)の女房をば、吾(われ)左(と)も右(かう)も成らば、都へ送り奉(たてまつ)れ。其れぞ最後の共(とも)為(し)たると思ふべし」と言ひける間、流石(さすが)に命も惜しければ、薮(ヤブ)の中へぞ入りける。三位(さんみ)、運や尽きたまひにけん、馬逆さまに倒れければ、七騎が中に取り籠(こ)めて、討ち奉(たてまつ)る。頸をば太刀(たち)の切端(きつサキ)に差(さ)し連ぬき、「門脇平中納言の嫡子(ちやくし)、越前三位(さんみ)殿をば、近江国(あふみのくに)の住人佐々木(ささき)の三郎(さぶらう)盛綱討つたり」と、瀧口(たきぐち)が居たる前を
呼びて通る。時員(ときカズ)走り出でて取り付き度(タク)は欲(おも)へども、且(かつ)うは遺言(ゆいごん)をも違へじと、泣(な)く泣(な)く居たるぞ無慚(漸)(むざん)なる。瀧口(たきぐち)夜に入つて、北の方に参り、此(こ)の由(よし)を申しければ、「夢か現(うつつ)か、実(まこと)か耶(や)」とて、引き覆(かづ)いて臥(ふ)したまひぬ。
P2466
一の谷・生田(いくた)の森にて討たれし人々は幾千万(いくせんまん)といふことを知らず。湊河(みなとがは)東の浜路より、西は塩谷口(しほやぐち)に至(いた)るまで、五十余町の間に、比次(ひし)と頸をぞ切り係(か)けたる。加之(しかのみならず)、利刀(りたう)を含みて地に倒れ、流れ矢に当たつて死にたる類(たぐひ)、只(ただ)算を散らせるが如(ごと)し。其の外、水に沈み、山に隠れたる輩、幾千万(いくせんまん)か有るらんと、哀(あは)れなりし事共なり。
P2473
八 小宰相(こざいしやうの)局(つぼね)、身を投げらるる事
抑(そもそも)、此(こ)の度(たび)討たれぬる人々の北の方、皆、様をぞ替へられける。
本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡(しげひら)の北の方は、五条大納言郡綱(くにつな)の御娘、大納言の典(スケ)殿とぞ申しける。内の御母(おんめのと)にて御坐(おはしま)しければ、大臣殿(おほいとの)制しける間、尼にも成りたまはず。
越前三位(さんみ)通盛(みちもり)卿の北の方は、故藤刑部卿(とうぎやうぶきやう)憲方(ノリかた)の御娘、上西門院(しやうさいもんゐん)〈 鳥羽院の御娘、後白河(ごしらかはの)法王の后 〉の小宰相(こざいしやう)殿と申しける女房なり。通盛(みちもり)互ひに志(こころざし)深かりければ、古京を立(た)ち出で、八重(やへ)の塩路に越えたまひしより、波の上、船の内にても、一日片時(いちにちへんし)なれども相(あ)ひ離れず。明日打(う)ち出でんとての夜、弟の能登守の仮屋(かりや)に呼び、能登守に諌(いさ)められたまひしも、此(こ)の人の御事なり。一定(いちぢやう)討たれたまへりと聞きたまひしかば、引き覆(かづ)きて臥(ふ)したまふ。哀(あは)れなるかな、恋慕(暮)(れんぼ)の涙は枕の上の露を浮かべ、愁歎(しうたん)の炎は肝の中の朱(しゆ)を焦(コガ)す。
今度(こんど)討たれたまへる人々の北の方、何(いづ)れも歎きは浅からねども、此(こ)の北の方は理(ことわり)に過ぎて深かりけり。日数の経(ふ)る間(ママ)に深く思ひ入りたまひて、湯水をだにも聞召(きこしめ)し入れず。乳母子(めのとご)の女房只(ただ)一人付き添(そ)ひ奉(たてまつ)るも、同じく枕を並べ臥(ふ)し淪(しづ)むるが、「右(か)くて渡らせたまはんには、何と懸けてか露の命も永らへたまふべき」と思ひける間、此(こ)の女房泣(な)く泣(な)く誘引(こしら)へ申しけるは、「今は何(いか)に思食(おぼしめ)すとも叶ふまじ。御身子(みみ)と成らせたまひて後、少(をさな)き人をも長(そだ)て奉(たてまつ)り、故殿の忘れ形見(ガタミ)とも御覧ぜよ。其れ尚(なほ)御〓(なぐさ)め無(な)くは、御形勢(さま)を替へ、彼(か)の後生(ごしやう)をも訪(とぶら)ひ御坐(おはしま)せかし。生死(しやうじ)は常の習ひ、今始めて驚き思食(おぼしめ)すべきに非(あら)ず」と〓(なぐさ)め申せども、只(ただ)偏(ひと)へに泣(な)くより外の事は無(な)し。
十三日の夜、人静まり更(かう)深(ふ)けて、乳母子(めのとご)の女房を呼び起こして言ひけるは、「明日打(う)ち出でんとての夜、通夜(よもすがら)心細き事共語り次(つづ)けて、『明日の軍(いくさ)には討たれんと心細く覚ゆ』とて、涙を流したまひしかば、吾(わ)が身も『何(いか)に彼(カク)云ふやらん』と心〓(さはぎ)(サワギ)して思ひしかども、必ず然(しか)るべしとも思はざりき。又言ひし事の糸惜(いとほ)しさよ。『我若(も)し討たれなん後は、云何(いカン)為(し)て御(おは)すらん。世の習ひは然(サ)てしも非じ。何(いか)なる人に見えたまふとも、吾(われ)な忘るな』と云ひし事の無慚(むざん)なれば、水の底へも入らんと欲(おも)ふぞとよ。又世に永(ながら)へて有るならば、心ならぬ事もぞ有る。己(おのれ)が独(ひと)り歎かんことこそ糸惜(いとほ)しけれ。又日来(ひごろ)は恥(は)づかしさに云はざりしかども、今を限りと思ひしかば、『日来(ひごろ)悩む事の有りしを、人に問へば、徒(タダ)ならずとこそ聞け』と云ひたりしかば、斜(なの)めならず之(これ)を悦(よろこ)び、『已(すで)に卅に成りなんとするに、子と云ふ者無かり
つるに、始めて此れを見ん事の慶(うれ)しさよ』と云ひける事の益(やく)無さよ。愚かなりける兼言(かねごと)かな。何(いか)なる男なれば生きての別(わか)れを悲しみ、何(いか)なる女なれば男に後(おく)れて頬無(つれな)かるべき。此(こ)の者を人と生(そだ)てて、見(ミ)ん境々毎(ヲリヲリごと)には、昔の人のみ恋しくて、思ひの数は増るとも、忘るる事は世(よ)も有らじ。今は中々(なかなか)、見染め見え染めし雲の上の其の夜の契り悔しくて、彼(か)の源氏の大将の、朧月夜(おぼろづきよ)の内侍督(ないしのかみ)、弘徽殿(こキでん)の細殿も、吾(わ)が身の上と悲しきぞ」と、泣(な)く泣(な)く言ひけり。
乳母子(めのとご)の女房胸打(う)ち騒ぎ、霊(あやし)かりければ、「見(げに)も思食(おぼしめ)し立(た)ち候はば、千尋(ちひろ)の底へも引き具してこそ入らせたまへ。永くは後(おく)れ奉(たてまつ)らじ者を」と、泣(な)く泣(な)く申しければ、此(こ)の事悪(あ)しく聞かれたるかと覚(おぼ)されけん、言(ことば)を替へて言ひけるは、「凡(およ)そ人の別(わか)れの悲しさ、世の恨めしさを思ふには、身を投げんと云ふ事、尋常(よのつね)の習ひぞかし。然(さ)れども如何(いか)で正(まさ)しく身をば空しく為(す)すべき。縦(たと)ひ何(いか)なる事を思ひ立つとも、争(いか)でか其(ソコ)には知らせで有るべき。心安く思はれよ」と言ひければ、見(げニ)もとや思ひけん、少(スコ)し睡(マドロ)み入りけるに、竊(ひそか)に蜿(ハイ)出でて、最後の出で立(た)ちをぞ為(シ)たまひける。
三位(さんみ)殿の雙紙箱(さうしばこ)を開き、此れを見れば、鏡(かがみ)は隠(クモリ)無けれども、移りし人の陰も無(な)し。然(サル)間(ママ)に古き歌一首口〓(くちずさ)み給ふ。
古土和梨耶具母(毎)礼波古曾波末須鏡 宇津里志影毛美江須奈留良免
〈ことわりやくもればこそはます鏡(かがみ) うつりし影もみえずなるらめ〉
源氏六十帖の中に、常に手馴したまひける巻物(まきもの)五六巻(ごろくくわん)を取り、左右(さう)の脇に入れ、船縁(ふなばた)に望みたまひ、何(いづ)くか西なるらんと見たまへば、曼々(まんまん)たる海中(かいちゆう)にて、何(いづ)くを西とは知らねども、月の入る其(サノ)山の端(は)を、其方(そなた)の空と思ひ遣(や)り、〓(おき)の白洲(しらス)に鳴く千鳥、友迷(マドハ)すかと哀(あは)れなり。海人(あま)の遠(ト)渡る梶枕、幽(かす)かに聞ゆる贔負声(えいやごゑ)、涙を催(もよほ)す妻と作(な)る。西に向かひ言ひけるは、「縦(たと)ひ三位(さんみ)、闘諍(とうじやう)合戦の道に趣きて、命を捨つるは罪深き身なりとも、弥陀如来は悪業(あくごふ)の輩をも引接(いんぜふ)したまふなれば、吾(われ)等夫妻(ふさい)を迎へたまへ」とて、忍びて念仏(ねんぶつ)百遍(ひやつぺん)計(ばか)り唱(とな)へつつ、手を合はせて海へ飛び入りぬ。
P2479
夜半の事なれば、人寝入(ネイ)りて見奉(たてまつ)らず。梶取(かんどり)一人驚きて、「女房の海に入りたまひぬる」と〓(ののし)る間、乳母子(めのとご)の女房起き上がり、「穴(あな)心憂(こころう)や」とて、傍(かたは)らを探(さぐ)れども、見えたまはず。「穴(あな)無慚(むざん)や」とて謳(をめ)き叫ぶ。水手(すいしゆ)・梶取(かんどり)を下(お)ろし浸(ヒタ)して尋ね奉(たてまつ)れども、月は朧に幽(かす)かなり、鳴戸(ナルト)の〓(おき)の早塩なれば、波の花も白し、著(き)たまへる衣(きヌ)も白ければ、尋ぬれども尋ぬれども、急(とみ)にも見付け奉(たてまつ)らず。遥かに程を経て、取り上げ奉(たてまつ)れば、練緯(ねりぬき)の二つ衣(ぎぬ)に白き袴、長(たけ)なる髪を始めて塩々と湿(ヌ)れて、御気(いき)計(ばか)り通ふ間、御乳母(おんめのと)の女房此れを見て、伏し辷(まろ)び、啼(な)く泣(な)く御手を取つて、顔に当てて申しけるは、「吾(われ)老いたる親に離れ、少(をさな)き子を棄てて付き添(そ)ひ奉(たてまつ)る甲斐(かひ)も無(な)く、水底(みなそこ)へも引き具しては入りたまはずして、恨めしくも独(
ひと)り空しく成らせ給ひつる者かな。吾(わ)が君、今一度御声を聞かせたまへ」とて、臥(ふ)し辷(まろ)びて悲しめども、一言(ひとこと)の返事も無(な)し。夜も漸(やうや)う明け行けば、通ひし気(イキ)も絶え終(は)てぬ。
然(さ)る間(まま)に、残り留めたまひたりける越前三位(さんみ)の服背(きせなが)一領(いちりやう)、浮かびもぞ為(ス)るとて、押し纏(まと)ひ奉(たてまつ)り、海へ帰し入れにけり。乳母(めのと)の女房も、後(おく)れじと海へ飛び入らんと欲(し)けるを、人々多(あま)た取り留めければ、船中(せんちゆう)に臥(ふ)し辷(まろ)び、謳(をめ)き叫ぶこと限り無(な)し。自(みづか)ら髪をば〓(ハサミ)落ろしければ、門脇平中納言教盛(のりもり)の御子、中納言の律師(りつし)忠快(ちゆうくわい)、髪を剃り除(のぞ)き、大乗戒(だいじようかい)を授けたまひけり。
薩摩守忠度(ただのり)・但馬守経正の北の方、何(いづ)れも劣らぬ歎きなれども、更(さら)に吾(わ)が身をば失はず。昔も今も様(タメシ)少(すく)なかりし事なり。彼(か)の東天(とうてん)の節女(せつぢよ)が跡(あと)までも思ひ残す事無(な)し。
一歳(ひととせ)、保元の合戦の時、六条判官(はんぐわん)為義(ためよし)が女房、夫に後(おく)れ身を投げけるこそ有り難(がた)しと思ひしに、此れを聞く者袖を絞(しぼ)らぬは無かりけり。「賢人(けんじん)は二君(じくん)に仕へず、貞女(ていぢよ)は両夫(りやうふ)に嫁(トツ)がず」と云(い)へり。彼は是(こ)の文に違はず、実(まこと)なるかな。権亮(ごんのすけ)三位中将(さんみのちゆうじやう)惟盛卿、此(こ)の形勢(ありさま)を聞(キ)いて、「加様(かやう)に独(ひと)り明かし暗(くら)すは倦(ものう)けれども、賢(かしこ)うぞ此れ等を都に留め置きてける。親(まのあたり)に彼(かか)らまし」とぞ言ひける。
P2483
九 卿相(けいしやう)の頸、獄門の木に懸けらるる事
然(さ)る程に、元暦元年二月十日、一の谷にて打たれし平氏(へいじ)の頸共、京に入る由(よし)、〓(ののし)り会(あ)へり。其の類(たぐひ)の人々、都に隠れ居たりけるが、肝を消し心を迷はし会(あ)へり。同じき十三日、大夫(たいふ)判官(はんぐわん)仲頼(なかより)以下(いげ)の検非違使(けんびゐし)、六条河原に出で向かひ、平氏(へいじ)の頸を請(う)け取つて、東の洞院(とうゐん)大路を北へ渡し、左様(ひだりざま)の獄門の木に懸けてけり。
権亮(ごんのすけ)三位中将(さんみのちゆうじやう)維盛(これもり)の北の方は、源氏の討手(うつて)西国へ下る由(よし)聞く度毎(たびごと)に、肝を消し心を寒くしたまふ処に、一の谷にて平家残り少(すく)なく討たれたまへる上、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡(しげひら)も生きながら武士に取られて上洛(しやうらく)し、并びに平氏(へいじ)の頸共多く都へ召されける由(よし)聞えければ、北の方、「定めて吾(わ)が人も此(こ)の内には漏(も)れじ」と云ひながら泣きたまへば、若君・妃君(ひめぎみ)も共に泣きたまふこと限り無(な)し。
越前三位(さんみ)通盛(みちもり)・薩摩守忠度(ただのり)・但馬守経正・武蔵(むさしの)守(かみ)知章(ともあきら)。門腋(かどわき)の平中納言教盛(のりもり)の末子(ばつし)業盛(なりもり)・修理大夫(しゆりのだいぶ)経〔盛〕の子息(しそく)敦盛(あつもり)、此(こ)の二人は未(いま)だ無官(むくわん)にて、只(ただ)大夫(たいふ)とぞ申しける。侍(さぶらひ)には越中前司(せんじ)盛俊の頸も渡されけり。
此(こ)の頸共各(おのおの)大路を渡し、獄門の木に懸けらるべき由(よし)、範頼(のりより)・義経共に之(これ)を申しける間、法皇思食(おぼしめ)し煩ひて、蔵人(くらんど)の左衛門権佐(ごんのすけ)定長を以つて、太政(だいじやう)大臣(だいじん)・左大臣・右大臣・堀河の大納言に御尋(おんたづ)ね有りければ、各(おのおの)一同(いちどう)に申されけるは、「先帝の御時〈 安(五)徳(あんとく)天皇 〉、此(こ)の輩は爵〓(セキリ)の臣と為(し)て朝家(てうか)に仕へき。就中(なかんづく)、卿相(けいしやう)の頸を大路を渡し獄門の木に懸けらるること、未(いま)だ其の例を聞かず。其の上、範頼(のりより)・義経が申し状、強(アナガチ)に御許容(ごきよよう)有るべからず」と申されければ、渡さるまじかりけるを、範頼(のりより)・義経重ねて申しけるは、「父義朝(よしとも)の頸、大路を渡して獄門の木に懸けられたること顕然(けんぜん)なり。而(しかる)を父の恥(はぢ)を雪(すす)がんが為(ため)に、身命(しんみやう)を捨てて合戦せしむる所なり。且(かつ)うは朝敵なり、且(かつ)うは私敵なれば、申し請(う)くる所、御許(ゆる)し無
(な)きにおいては、自今(じこん)以後(いご)何の勇み有つてか朝敵を追討すべき」と、義経殊に之(これ)を憤(いきどほ)り申しければ、大路を渡し懸けられにけり。
彼(か)の義経は、二歳の時父義朝(よしとも)を討たれ、其の行柄(ゆくへ)を知らず、廿五年の星霜(せいざう)を送り、父の敵(かたき)を亡ぼしけること、父子(ふし)自然(しぜん)の理(ことわり)なり。
P2489
十 重衡(しげひら)、内裏女房を呼び奉(たてまつ)る事
十四日、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡(しげひら)卿、六条を東へ渡さる。藍摺(アイズリ)の直垂(ひたたれ)に、小八葉(こばちえふ)の車の前後の簾(スダレ)を巻き上げ、左右(さう)の物見を開きてぞ渡されける。痛はしく思ひ入りたる気色(けしき)なり。見えじとは為(せ)られけれども、涙更(さら)に留まらず。見る人其の数を知らず。只(ただ)夢の心地(ここち)ぞ為(せ)られける。
人々申しけるは、「糸惜(いとほ)しや、此(こ)の殿は、入道(にふだう)殿にも二位殿にも覚えの子にて御坐(おはせ)(ヲハセ)しかば、世(よ)も重んじ奉(たてまつ)り、親しき人々も所を置き、内へ参りたまふにも、老若(らうにやく)詞を懸け奉(たてまつ)り、吾(わ)が身も痛はし気(げ)に、口嗚呼(くちヲカシ)き事をも云ひ置き、人にも慕はれたまひし者を。此れは南都を亡ぼしたまひぬる伽藍(がらん)の罰にこそ」と申し逢へり。
六条河原まで渡して、八条堀河の御堂に入れ奉(たてまつ)る。土肥(とひ)の次郎真平(サネヒラ)、随兵(ずいひやう)卅騎計(ばか)りを相(あ)ひ具して之(これ)を守護し奉(たてまつ)る。
院の御所より、蔵人(くらんど)の左衛門権佐(ごんのすけ)定長を御使ひと為(し)て、重衡(しげひら)の許(もと)へ罷(まか)り向かふ。赤衣(せきい)に笏(しやく)をぞ持つたりける。三位中将(さんみのちゆうじやう)は練緯(ねりぬき)の二つ小袖に、紺村濃(こんむらご)(こむらゴ)の直垂(ひたたれ)、折烏帽子(をりえぼし)引き立ててぞ御坐(おはしま)しける。「昔は何とも思はざりし定長を、今は冥途にて冥官(みやうくわん)を見(ミ)んも此れには過ぎじ」とぞ思はれける。院宣の趣、条々(でうでう)此れを仰せ含む。「所詮(せんずるところ)、三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)都へ還(かへ)し入れ奉(たてまつ)らば、西国へ還(かへ)し遣(つか)はすべき勅定(ちよくぢやう)有り」と申しければ、三位中将(さんみのちゆうじやう)申されけるは、「今は此(かか)る身に成つて候へば、親しき者に面を合はすべしとも覚えず候ふ。其の上、主上(しゆしやう)都へ還御(くわんぎよ)無からんには、争(いか)でか神器(しんぎ)計(ばか)りを還(かへ)し入れらるべき。若(も)し女心(をんなごころ)にて候へば、母なんどや無慚(むざん)とも欲(おも)ひ候ふらん。然
(さ)りながら、若(も)しやと西国へ申して見候はん」とて、前の左衛門尉(さゑもんのじよう)重国(しげくに)を下し遣(つか)はしけり。
P2492
三位中将(さんみのちゆうじやう)の年来(としごろ)召し仕はれける木工(ムクの)馬允(うまのじよう)友則、土肥(とひ)の次郎が許(もと)へ来て申しけるは、「此(こ)の年来(としごろ)召し仕はれ候ひし木工馬允(うまのじよう)と申す者で候ふが、八条院(はつでうのゐん)へ兼参(けんざん)して、彼(かか)る身にて西国へも下り候はず。今日(けふ)大路を渡され給ひつるを見奉(たてまつ)り、哀(あは)れに悲しく候ふ。御免(ゆるされ)を蒙(かうぶ)つて、御心を〓(なぐさ)め奉(たてまつ)り候はん。此れ御覧候へ、腰の刀をだにも差さず候へば、努(ゆめ)僻事(ひがこと)すまじく候ふ」と、泣(な)く泣(な)く申しければ、土肥(とひ)の次郎情け有る者にて、速やかに此れを免してけり。
友則参つたれば、三位中将(さんみのちゆうじやう)斜(なの)めならず慶(うれし)げに覚食(おぼしめ)し、来し方行く末を物語したまひ、互ひに涙をぞ流したまひける。「抑(そもそも)、汝為(し)て時々(ときどき)文を遣(つか)はしたりし内裏の人は云何(いか)に」と言へば、「内裏に御渡り候ふが、『常に忘れ奉(たてまつ)らず』と仰せられ候ふとこそ承(うけたまは)り候へ」と申しければ、「西国へ下りし時も汝無(な)き間、文をも遣(や)らず、物をも云ひ置かざりしかば、日来(ひごろ)の契り詐(いつは)りに成りぬとこそ思ひけめ」とて、文を書いて遣(つか)はさる。武士共危(あや)しみ申しければ、此(こ)の文を見せければ、即(すなは)ち赦(ゆる)しけり。
朝時(アサどき)、内裏に持(も)ち参りて窺(うかが)へども、昼は人目の繁(しげ)ければ、日を暮らして後、内裏へ紛(マギ)れ入る。此(こ)の女房の御局(おんつぼね)辺りへ俳徊(たたず)み、立(た)ち聞きしければ、女房の声にて泣(な)く泣(な)く言ひけるは、「何の罪の報(ムクイ)に依(よ)つてか、三位中将(さんみのちゆうじやう)計(ばか)りしも生きながら取られ、大路を渡され、憂(う)き名を流すらん」とて、泣きたまへば、「穴(あな)無慚(むざん)や、此(こ)こにも思はれける者を」と欲(おも)ひて、近く立(た)ち寄り、「物申さん」と云ふ。女童(めのわらは)走り出でて、「何(いづ)くより」と問ひければ、「本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)殿より、先々参り候ひし木工馬允(うまのじよう)なり」と申しければ、「御文は有るか。」「候ふ」とて指(さ)し上げたり。
年来(としごろ)は恥(は)ぢて見えざりつる女房の、端(はし)近く指(さ)し出でて、文を取り上げ、此れを見たまへば、御文の奥に一首の歌を書かれたり。
涙河憂名於奈加須身奈札止毛 今一入毛合瀬登裳加那
〈涙河憂(う)き名をながす身なれども 今ひとしほも合ふ瀬ともがな〉
急ぎて御返事有りければ、三位中将(さんみのちゆうじやう)此れを披見(ひけん)しければ、此れも御文の奥に此(か)く計(ばか)り、
君遊恵尓我毛憂名於流勢土毛 底能美久津土成怒辺幾哉
〈君ゆゑに我も憂(う)き名を流せども 底のみくづと成りぬべきかな〉
此(こ)の文を手箱(てばこ)の中に取つて置き、常に見てこそ〓(なぐさ)まれけれ。
三位中将(さんみのちゆうじやう)、土肥(とひ)の次郎に言ひけるは、「彼(カカル)身にて旁(かたがた)其の憚り有れども、後世(ごせ)の礙(さはり)と成るべければ、申し候ふ所なり。一日(いちにち)の文の主を見候はばや」と言ひければ、「何(なに)か苦しく候ふべき」とて免し奉(たてまつ)る。
三位中将(さんみのちゆうじやう)悦(よろこ)びたまひて、友時(ともとき)為(し)て車を尋ね、内裏へ遣(つか)はされければ、女房急ぎ来たりけり。武士共蔵(かく)れて見奉(たてまつ)れば、憚りて、車宿りに遣(や)り寄せ、簾を打(う)ち覆(おほ)ひ、手を取り組んで、来し方行く末の事共互ひに言ひ次(つづ)けたまひ、袂を絞(しぼ)られけり。人目を取つて忍びたまへども、音は車の外(ヨソ)まで聞えけり。裏(つつ)むに堪(た)えぬ涙は文簾に懸かる露と成る。
中将(ちゆうじやう)言ひけるは、「幾月日(いくつきひ)をば重ぬとも、余波(なごり)は更(さら)に尽くし難(がた)し。当時は大路狼藉なり。夜も深(ふ)けなば悪(あ)しかりなん。疾々(とうとう)返らせ給へ」とて、御車(みくるま)を遣(や)り出だす。袖を引(ひ)かへて、三位中将(さんみのちゆうじやう)此(か)く計(ばか)り、
蓬事毛露命毛諸共 今夜計登思加奈志左
〈逢ふ事も露の命ももろともに 今夜(こよひ)計(ばか)りと思ふかなしさ〉
女房取り敢(あ)へず、
加幾梨登天立別那八露能身能 君与里左起忍消怒辺幾哉
〈かぎりとて立(た)ち別(わか)れなば露の身の 君よりさきに消えぬべきかな〉
左手(トて)、出で給ふ。
其の後は武士免し奉(たてまつ)らねば、対面も無かりけり。時々(ときどき)文計(ばか)りぞ通ひける。
P2497
十一 重衡(しげひら)、源空を請ひ、持戒せらるる事
然(さ)る程に、左衛門尉(さゑもんのじよう)平の重国(しげくに)、讃岐(さぬき)へ渡り、平家の人々に院宣を付け奉(たてまつ)る。同じく廿七日、重国(しげくに)帰洛して、内大臣(ないだいじん)の返状(へんじやう)を申す。定長、院の御所へ参つて此(こ)の由(よし)を奏聞す。内大臣(ないだいじん)の返状(へんじやう)に云はく、
勅定(ちよくぢやう)の上は、尤(もつと)も内侍所をば都へ入れ奉(たてまつ)るべしといへども、吾(わ)が君は高倉院の第一(だいいち)皇子(わうじ)、受禅(じゆぜん)有つて後已(スデ)に四ヶ年(しかねん)に及び給へり。而(しかる)に、謀臣の讒奏(ざんそう)に依(よ)つて、故清盛入道(にふだう)度々(どど)の奉公(ほうこう)を思食(おぼしめ)し忘れ、剰(あまつさ)へ当家を棄てさせ給ひ、源家を以つて責めらるべき由(よし)、風聞(ふうぶん)に及ぶ間、其の難を退かせたまふやとて、都を出でさせ給へり。若(も)し亡父(ばうふ)の奉公(ほうこう)を思食(おぼしめ)し忘れずは、御幸を西国へ成すべし。若(も)し然(さ)らば、西国の兵(つはもの)雲霞(うんか)の如(ごと)く集まつて、凶賊(きようぞく)を平らげん事疑ひ無(な)し。其の時、主上(しゆしやう)諸共(もろとも)に、三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)都へ入れ奉(たてまつ)る事安かるべし。若(も)し会稽の恥(はぢ)を雪(すす)がずは、鬼界・高麗(かうらい)に至(いた)るまで落ち行き、遂(つひ)に異国の財(たから)とは成すとも、争(いか)でか重衡(しげひら)が命には替へ奉(たてま
つ)るべき。
とぞ申されける。
P2499
三位中将(さんみのちゆうじやう)、出家の志(こころざし)を申されければ、「頼朝に見せて後に」と院宣を下されければ、重衡(しげひら)又土肥(とひ)の次郎に言ひけるは、「無心(むしん)の所望多く積もるといへども、最後の所望此(こ)の事のみに有り。善知識(ぜんぢしき)を請(しやう)じ奉(たてまつ)り、後世(ごせ)の事を申し誂(あつら)へばや」と云ひければ、「何(いか)なる聖人(しやうにん)ぞ」と問ひ奉(たてまつ)りければ、「法然房(ほふねんばう)」と仰せられければ、「安き事なり」とて、法然(ほふねん)上人(しやうにん)を呼び奉(たてまつ)る。
中将(ちゆうじやう)、上人(しやうにん)に申されけるは、「南都を亡ぼすこと、重衡(しげひら)が所行(しよぎやう)なりと申し合はせて候へば、上人(しやうにん)も然(サ)ぞ思食(おぼしめ)され候ふらん。全(まつた)く其の儀は無(な)く候ふ。悪党(あくたう)多き中に、何(いか)なる者や火を出だしぬらん、一宇に付けて多くの伽藍(がらん)殄(ほろ)びたまひぬ。責(セメ)一人(いちじん)に帰(き)すとかや申すなれば、重衡(しげひら)一人が罪に成り、無間(むげん)の業(ごふ)疑ひ無(な)し。就中(なかんづく)、世に在(あ)りし時は、楽しみに奢(ホコ)り、後世(ごせ)を知らず。都を出でて後は、朝夕(あさゆふ)軍(いくさ)の出で立(た)ちのみ有つて、人を滅ぼし我が身を生(たス)からんとのみ欲(おも)ひ、大〓慢(だいけうまん)の外(ほか)従(ヨリ)は他事(たじ)無(な)し。今生(こんじやう)の悪業(あくごふ)を欲(おも)へば、未来(みらい)の苦報(クほう)疑ひ無(な)し。皆人の生身(しやうじん)の如来と仰ぎ奉(たてまつ)り候ふ上人(しやうにん)に再び見参(げんざん)に入ること、此れ然(しか)るべき善縁(ぜんえん)なり。出家は許
(ゆる)され無ければ、剃刀(かみそり)計(ばか)りを頂(いただ)きに当てて、戒(かい)を持(たも)ち度(た)く候ふ」と申されければ、上人(しやうにん)泣(な)く泣(な)く言ひけるは、「有難くこそ思食(おぼしめ)したれ。此(こ)の程までは、阿弥陀仏(あみだぶつ)は罪深き者に慈悲殊に深くして、恃(たの)みを懸けぬれば往生(わうじやう)を遂ぐ。名を唱(トナウ)れば往くへ易(やす)し。然(さ)れば『極重(ごくぢゆう)悪人(あくにん)無他(むた)方便(はうべん)、唯称(ゆいしよう)念仏(ねんぶつ)得生(とくしやう)極楽(ごくらく)』とも云(い)へり。又『一声(いつしやう)称念(しようねん)罪(ざい)皆除(ざいかいぢよ)』とも見え、『専称(せんしよう)名号(みやうがう)至(し)西方(さいはう)』とも述べたり。今は日来(ひごろ)の悪心(あくしん)を翻(ひるがへ)し、懺悔(さんげ)念仏(ねんぶつ)したまはば、往生(わうじやう)何の疑ひか有らん。凡(およ)そ世間の無常(むじやう)を見るに、厭(いと)ふべきは此(こ)の世、欣(ねが)ふべきは浄土なり。此(こ)の世界(せかい)の習ひ、長命(ちやうめい)栄花(えいぐわ)を感ずといへど
も、限り有れば磨滅に帰す。極楽(ごくらく)浄土の有様、無苦無悩(むくむのう)の所にして、永く生死(しやうじ)を離れたり。只(ただ)偏(ひと)へに心に懸けて帰命(きみやう)を至(いた)し、念仏(ねんぶつ)したまふべし」と教化(けうげ)に時を遷(うつ)ししかば、御頂(いただ)きに剃刀(かみそり)を当て、戒(かい)を授け奉(たてまつ)る。
御布施(おんふせ)と覚(おぼ)しくて、如何(いかが)為(し)て取り落とされたりけるやらん、年来(としごろ)通ひたまひし侍(さぶらひ)の許(もと)に、雙紙箱(さうしばこ)の有りけるを、境節(をりふし)之(これ)を進(まゐ)らせたりければ、「早晩(いつしか)も御念仏(ねんぶつ)怠(おこた)らぬ御事なれども、此れを常に御目の前(まへ)に置きたまひ、御念仏(ねんぶつ)の次(つい)でには必ず思食(おぼしめ)し出ださるべし」とて、此れを奉(たてまつ)りければ、源空世にも哀(あは)れ気にて、墨染の袖をぞ絞(しぼ)り給ひける。「源空後生(ごしやう)をば訪(とぶら)ひ奉(たてまつ)らんずれば、雖然(さりとも)と思食(おぼしめ)すべし」とて、黒谷へぞ帰られける。
P2503
十二 重衡(しげひら)、関東(くわんとう)下向の事
又兵衛佐(ひやうゑのすけ)、重衡(しげひら)卿を申し請はれければ、三月十日、梶原(かぢはら)の平三景時(かげとき)奉(うけたまは)りて、此れを相(あ)ひ具して関東(くわんとう)へ下りけり。
賀茂(かも)の河原(かはら)を打(う)ち通り、王城の方を見たまへば、然(さら)ぬだに猶(なほ)霞む空の、弥生(やよひ)の上(かミ)の十日なれば、涙に暮れて見も分かず。朝夕(あさゆふ)龍顔(りようがん)に近づきしかば、雲上(うんしやう)の交りも流石(さすが)に思ひ出でられて、都は此れを限りなりと、立(た)ち離れ給ひける余波(なごり)、云何(いか)に惜しかりぬらんと、推(お)し量られて哀(あは)れなり。遠山の花をば路に残し、見捨てて行くこそ悲しけれ。
四の宮河原(がはら)の袖校(そでクラベ)・合坂山(あふさかやま)の真葛(サネかづラ)、人知らぬ路ならば、来ると誰かは思ふべき。大津(おほつ)・打出(うちで)を過ぎたまへば、友無(な)き千鳥の音信(おとづ)れけるを、吾(わ)が身の上と哀(あは)れなり。辛崎(からさき)の松・比叡(ひえ)の山、見るに付けても心細し。霞に陰(クモ)る鏡山、太々(いとど)涙に見えばこそ、比良(ひら)の高根に懸かる雲、伊吹(いぶき)の嵩(だけ)より下(おろ)(ヲロ)す風、吾(わ)が身に入つて思はれけり。美濃の中山(なかやま)・禁加(きんが)の里、身の行く末に有りと聞く、老薗(おいそ)の森にも近づきぬ。荒(あ)れて中々(なかなか)艶(やさ)しきは、不破(ふは)の関屋(せきや)の板日廂(いたびさし)、月の漏(も)るとは無けれども、間荒(まバラ)に今は成りにけり。玉の井の宿(しゆク)・黒田(くろだ)の宿、心の月の澄み渡り、思へば暗(ヤミ)の空なりけり。
吾(わ)が身の尾(毛)張(をはり)悲しくて、熱田(アツた)の宮に参りつつ、「願はくは大明神、鎌倉へ付かしめたまはずして、道にて命を召したまへ」と、祈念の袖を合はせ給ふこそ、責めての事にやと哀(あは)れなり。何(いか)に鳴見(なるミ)の塩干方(しほひがた)、渡りに袖は絞(しぼ)りつつ、在原の業平(なりひら)が、「唐衣(からころも)著(き)つつ懐(ナレニ)し」と詠(なが)めける、三河の八橋(やつはし)にも付きぬれば、蜘手(くもで)に物をぞ思はれける。浜名(はまな)の橋をも過ぎければ、池田(いけだ)の宿にぞ付きたまふ。
其の宿(しゆく)の長者に、侍従と云ふ遊君(いうくん)有り。元より情け有りまの遊女(いうぢよ)なりければ、三位中将(さんみのちゆうじやう)の御心中推(お)し量(はか)りける哀(あは)れさに、
旅空半臥乃小屋能伊布勢左忍 伊賀忍都野恋加留覧
〈旅の空はにふの小屋(こや)のいぶせさに いかに都の恋しかるらん〉
左(と)、此れを読み遣(つか)はしたりければ、中将(ちゆうじやう)「此(こ)は何者ぞ。艶(やさ)しき者かな」と仰せられければ、梶原(かぢはら)の平三申しけるは、「此(こ)の宿の長者に侍従と申す君にて候ふ。此(こ)の君の事候ふぞかし。一年(ひととセ)、花見の為(ため)に都へ上つて候ひけるが、聊(いささ)かの事有つて、弥生(やよひ)十日余りに、吾(わ)が宿所(しゆくしよ)に罷(まか)り下りけるに、或(あ)る人の方より、『何(いか)に都の春を残して御下り候ふぞや。花を見棄てて帰る事、鴈(かり)一(ひと)つにも限らざりけり』と云ひ懸けられて、
伊賀尓世無都乃春毛於志気礼土 奈礼志東乃華耶遅類羅無
〈いかにせむ都の春もをしけれど なれし東(あづま)の華(はな)やちるらむ〉
左(と)、読み候ひし者なり」と申しければ、三位中将(さんみのちゆうじやう)「然(さ)る事聞きしと覚えたり」とて、
御返事に此(か)く計(ばか)り、
旧里毛恋志久毛奈志旅空 何毛遂乃寿美加奈良祢波
〈ふるさとも恋しくもなし旅の空 いづくもつひのすみかならねば〉
左(と)、御返事有りければ、侍従、哀(あは)れに艶(やさ)しき事に思ひ、中将(ちゆうじやう)誅(ちゆう)されたまひて後、此(こ)の歌を見る毎(ごと)に、念仏(ねんぶつ)申し廻向(ゑかう)しけるとぞ聞えし。
夜も已(すで)に明けければ、天龍河(てんりゆうがは)も渡り過ぎ、名古曾(なこそ)の関をも越えにけり。佐谷(さや)の中山(なかやま)中々(なかなか)に、露の命も恃(たの)み無(な)し。宇津(うつ)の山辺(やまべ)の〓(つた)の道、心の中は晴れねども、月も清見が関を過ぎければ、富士の裙野(すその)に到(倒)(つ)きにけり。「時知らぬ山は富士の根」と口〓(くちずさ)みてぞ過ぎられける。「恋為(せ)ば疲(ヤせ)ぬべし」と明神の謌(うた)ひ始め給ひけん足柄(あしがら)の関をも過ぎければ、小振(こゆるぎ)の磯・相模河・八松(やツまツ)が原・十神(トがみ)が原、此れ等も漸(やうや)く過ぎければ、鎌倉へこそ入りたまひぬ。
梶原(かぢはら)参つて、「三位中将(さんみのちゆうじやう)已(すで)に入りたまひぬ」と申しければ、急ぎ対面有り。
右兵衛佐(うひやうゑのすけ)殿言ひけるは、「頼朝父の恥(はぢ)を雪(すす)がんが為(ため)、君の御憤(いきどほ)(墳)りを慰(なぐさ)め奉(たてまつ)らんが為(ため)に、運を天に任せて大事を思ひ立つ処に、親(まのあたり)に右(カク)見参(げんざん)に入り候ひぬる事、如勇(ゆゆ)しき高名とこそ存じ候へ。此(こ)の定(ぢやう)では、八嶋(やしま)の大臣殿(おほいとの)にも見参(げんざん)に入り候ひぬと覚え候ふ」と言へば、三位中将(さんみのちゆうじやう)言ひけるは、「一族の運尽き、都を迷ひ出でし後は、骸(かばね)を山野(さんや)に曝(さら)し、名を西海(さいかい)に流すべく存じ候ひしかども、此(か)く罷(まか)り下る事、敢(あ)へて思ひも寄らざりき。但(ただ)し、世に住む習ひ、敵(かたき)に囚(とら)はるる事、恥(はぢ)にて恥(はぢ)ならず。『殿王(でんわう)は夏台(かたい)に囚(とら)はれ、文皇(ぶんわう)は項利(カウり)に取らる』と云ふ本文有り。大国(だいこく)の上古(しやうこ)猶(なほ)斯(か)くの如(ごと)し。況んや吾(わ)が朝の愚庸(ぐよう)においてをや。詮ずる所、御芳恩(ごはうおん)には疾々(とうとう
)頸を切らるべし」と言ひけり。
右兵衛佐(うひやうゑのすけ)殿、道理(だうり)至極(しごく)の間、又打(う)ち返し言ひけるは、「御一門においては、私の意趣無(な)く候ふ。度々(たびたび)院宣を下されける上は、力無(な)き次第なり」と言ひけり。重衡(しげひら)卿其の後は、狩野介(かののすけ)宗茂(むねもち)にぞ預(あづ)け置かれける。
P2513
十三 惟盛、熊野参詣の事 付けたり 那智の〓に身を投げらるる事
然(さ)る程に、権亮(ごんのすけ)三位中将(さんみのちゆうじやう)維盛(これもり)は、与三兵衛(よさうびやうゑ)重景・石童丸(いしどうまる)、武里と云ふ舎人(とねり)を相(あ)ひ具して、讃岐(さぬき)の八嶋(やしま)を立(た)ち出でて、阿波国結城(ゆき)の浦より鳴戸の〓(おき)を漕ぎ渡り、和謌の浦・吹上の浜・玉津嶋(たまつしま)の明神・日前(にちぜん)・国玄(こくけん)の御前を思ひ遣(や)り、紀伊国由羅(ゆら)の湊(みなと)に著(つ)きたまふ。其れより古郷(ふるさと)へ還(かへ)り行き、恋しき人々をも見たく思食(おぼしめ)しけれども、本三位(ほんざんみの)中将(ちゆうじやう)の生きながら取らるるだにも心憂(こころう)きに、維盛(これもり)が身さへ憂(う)き名を流すべきかと、百度(ももたび)千度(ちたび)進めども、心に心を諌(いさ)められ、泣(な)く泣(な)く高野(詣)(かうや)へ参詣したまふ。
三条(さんでう)の斎藤(さいとう)左衛門大夫(たいふ)茂頼(モチより)の子息(しそく)、斎藤(さいとう)瀧口(たきぐちの)時頼は、故小松の内大臣(ないだいじん)殿の侍(さぶらひ)にて、如勇(ゆゆ)しき武士と聞えしが、父、世に在(あ)る人の聟(むこ)に成さんと欲しけるを、時頼、横笛(よこぶえ)と云ふ美女(びぢよ)を思ひ棄てざりければ、父大きに此れを制す。時頼計らひ遣(や)りたる方も無(な)く、心中に思ひけるは、「父の命を背(そむ)けば不孝(ふかう)の罪業(ざいごふ)遁(のが)れ難(がた)し。親の心に随はば二世(にせ)の契り朽(く)ちぬべし。不如(しかじ)、次(つ)いでに出家して憂(う)き世の中を厭(いと)はんには」と、念(おも)ひの余りに出家して、五六年より以後(このかた)、此(こ)の山に籠(こも)り居て行ひける所に、尋ね入り給ひけり。
P2515
時頼入道(にふだう)、維盛(これもり)を見奉(たてまつ)り、肝魂(きもたましひ)も身に添(そ)はず、〓(あわ)て騒ぎ申しけるは、「云何(いかん)と為(し)て此れまでは御渡り候ふぞや。夢か現(うつつ)か幻(まぼろし)か、弁(わきま)へ難(がた)し」と申しながら、墨染の袖絞(しぼ)る計(ばか)りに泣きければ、維盛(これもり)言ひけるは、「都にて左(と)も右(かう)も成らずして、憖(なまじひ)に西国へ落ち下り、終(はて)は此(カカル)身に罷(まか)り成る。旧里(ふるさと)に留め置きし人より外には、心に懸かる事も無(な)し。世の中何と無(な)く〓(アヂキナ)き程に、大臣殿(おほいとの)『池の大納言の如(ごと)く、維盛(これもり)存知の旨有り』と思食(おぼしめ)され、打(う)ち解けたまはざる間、弥(いよいよ)此(こ)の世に心を留めず、俄(にはか)に八嶋(やしま)を立(た)ち出でて、出家の為(ため)に尋ね来たれり。古郷(ふるさと)へ還(かへ)り、今一度替らぬ質(すがた)も見え度(た)く思ひけれども、本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)の生きながら武士に取られ、京・鎌倉に恥(はぢ)を曝(さら)すだに悲しきに、維盛(これも
り)さへ父の死骸(しがい)に血を〓(あや)さんこと、口惜しう思ふ故(ゆゑ)に、只(ただ)一筋(ひとすぢ)に思ひ切つて、此(こ)の山にて髪を剃り、水の底に入らんと欲(おも)ふ」と言ひながら、涙更(さら)に掻き敢(あ)へず。時頼入道(にふだう)諸共(もろとも)に泣(な)くより外の事は無(な)し。
P2517
[二重]\彼(か)の高野山(かうやさん)と申すは、是(こ)れ帝都を去つて二百里(じはくり)、青嵐(せいらん)梢(こずゑ)を鳴らし、音枕に響き、心〓(アヂキナ)し。京里(きやうり)を離れて無人声(むにんじやう)、白雲(はくうん)嶺(みね)に聳(そび)えける、色窓(まど)より見るに物静(サビ)し。
時頼入道(にふだう)を先立てて、維盛(これもり)堂々(だうだう)を巡礼(じゆんれい)し、奥の院へ参詣し、大師の御廟(ごべう)を礼し奉(たてまつ)る。抑(そもそも)、彼(か)の大師の御入定(ごにふぢやう)は、去(スギニ)し仁明(にんみやう)天皇の御時、承和(しようわ)二年三月廿一日、寅(トラ)の一天(いつてん)の尅(こく)なりければ〈 仁明(にんみやう)天皇は嵯峨(さがの)天皇第二の御子に御(おは)します。 〉、過ぎにし方は三百余年の星霜(せいざう)なり。今行く末も遥かにして、五十六億七千万歳(ごじふろくおくしちせんまんざい)を送りたまふべし。慈尊(じそん)の出世(しゆつせ)三会(さんゑ)の暁(あかつき)を待ちたまふらんこそ久しけれ。
P2520
「維盛(これもり)が身は雪山(せつせん)の鳥の鳴くが如(ごと)く、今日(けふ)か明日かと思ふこそ悲しけれ」と言ひながら、泣きたまふこそ糸惜(いとほ)しけれ。其の夜は時頼入道(にふだう)の庵室(あんじつ)に留り、通夜(よもすがら)物語為(し)て、泣(な)くより外の事ぞ無(な)き。
抑(そもそも)、聖(ひじり)の行儀(ぎやうぎ)を披見(ひけん)すれば、至極(しごく)甚深(じんじん)の床の上には真理(しんり)の珠(たま)をや磨くらん、夜と与(トモ)に聞く閼伽(あか)の音、聞くに心も澄み渡る。後夜(ごや)・晨朝(じんでう)の鐘(領)(かね)の声には、無明(むみやう)の睡(ねむ)りも覚(さ)めぬべし。遁(のが)れぬべくんば、右(かく)ても又有間慕(あらまホシ)くぞ覚(おぼ)されける。
P2521
明けにければ、戒(かい)の師を請(しやう)じて出家の務め有り。維盛(これもり)、与三兵衛(よさうびやうゑ)・石童丸(いしどうまる)を召し寄せて言ひけるは、「維盛(これもり)こそ思ひ切つたれば此(カク)成るとも、己等(おのれら)は都へ立(た)ち還(かへ)り、身命(しんみやう)計(ばか)りを助くべし。」
重景泣(な)く泣(な)く申しけるは、「父景康は平治の合戦の時、故大臣殿(おほいとの)の御供(おんとも)申し、義朝(よしとも)が郎等鎌田兵衛(かまだびやうゑ)に与(く)み合ひて、悪源太(げんだ)義平(よしひら)に討たれ候ひき。其の時に重景は二歳なり。母は七歳の年死去(しきよ)仕りぬ。然(しか)る間、哀(あは)れむべき人も無かりしを、故大臣殿(おほいとの)『吾(わ)が命に代る者の子なり』と仰せられて、殊に不便(ふびん)の事に思はれ奉(たてまつ)る。重景九歳の時、君御元服(ごげんぶく)の夜、忝(かたじけな)くも理髻(もとどり)を取り上げられ奉(たてまつ)り、『盛の字は平将軍貞盛より以来(このかた)、先祖重代の文字(もじ)なり。重の字は松王に給ふ』と仰せられて、重景と仰せを蒙(かうぶ)りき。又童名(わらはな)を松王と云はれしことは、『此(こ)の家をば小松と名づけたれば、祝(いは)ひて松王と云ふべし』とぞ仰せられき。彼(か)の御元服(ごげんぶく)の年より始めて君に召し仕はれ奉(たてまつ)り、今年(ことし)既(すで)に十七年に罷(まか)り成る。一日片時(いちにちへんし)も相(あ)ひ離れ奉(たてまつ)らず奉公(ほうこう)
仕りき。故大臣殿(おほいとの)の御遺(遣)言(ごゆいごん)にも『能々(よくよく)重景よ、宮仕へて少将(せうしやう)殿の御心に違ふこと勿(なか)れ』と仰せを蒙(かうぶ)りき。君に後(おく)れ奉(たてまつ)りて後は、重景争(いかで)か世に有るべき」と、自(みづか)ら理髻(もとどり)推(お)し切り、時頼入道(にふだう)に剃らせけり。
此れを見て、石童丸(いしどうまる)も髪を切つて剃りにけり。此(こ)の童(わらは)も八歳(はつさい)より中将(ちゆうじやう)殿に属(つ)き奉(たてまつ)り、今年(ことし)已(すで)に十一年なり。此れも不便(ふびん)の仰せを蒙(かうぶ)りしかば、重景が思ひにも相(あ)ひ劣らず。
此(こ)の者共が維盛(これもり)に先立つて髪を剃るを御覧じて、三位中将(さんみのちゆうじやう)涙も更(さら)に擺(か)き敢(あ)へず。戒(かい)の師已(すで)に三宝(さんぽう)を礼して、「流転三界中(るてんさんがいちゆう)、恩愛(おんあい)不能断(ふのうだん)、棄恩入無為(きおんにふむゐ)、真実報恩者(しんじつほうおんじや)」左(と)、三度唱(とな)へて、御髪(みグシ)を剃り除(おろ)す。三位中将(さんみのちゆうじやう)・与三兵衛(よさうびやうゑ)共に以つて二十七歳(にじふしちさい)、石童丸(いしどうまる)は十八なり。
維盛(これもり)、武里に仰せられけるは、「吾(われ)死去(しきよ)の後、汝は都へ行くべからず。維盛(これもり)失せぬる由(よし)、北の方此れを聞かば、思ひに絶えずして形(戒)勢(さま)を替へん事も糸惜(いとほ)し。少(をさな)き者共(ども)の恋ひ悲しまんことも不便(ふびん)なり」と言ひながら、涙を流したまひけり。又泣(な)く泣(な)く言ひけるは、「此れより八嶋(やしま)へ還(かへ)つて、新三位中将(しんざんみのちゆうじやう)資盛(すけもり)・左中将(さちゆうじやう)有盛に申すべし。抑(そもそも)、唐革(からかは)と云ふ鎧、小烏(こがらす)と云ふ太刀(たち)有り。当家には嫡々相(あ)ひ伝へて維盛(これもり)に至(いた)るまで八代なり。彼(か)の鎧・太刀(たち)をば肥後守(ひごのかみ)が許(もと)に預け置けり。此れを取り寄せて、三位中将(さんみのちゆうじやう)殿に奉(たてまつ)るべし。若(も)し世の中不思議(ふしぎ)にも立(た)ち直る事も有らば、六代に給ふべし」とぞ言ひける。
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維盛(これもり)泣(位)々(ナクナク)其れよりして熊野へ参られけり。時頼入道(にふだう)も諸共(もろとも)に山臥(やまぶし)修行(しゆぎやう)の有様為(し)て、紀伊国山頭(さんどう)と云ふ所へ出で、藤代(ふぢしろ)の王子(わうじ)より参詣有つて、千里(ちり)の浜の南、岩代(いはしろ)の王子(わうじ)の程にて、狩装束(かりしやうぞく)の者共七八騎(しちはつき)計(ばか)り行き合ひたり。搦め取らるべきかと思食(おぼしめ)しければ、腰の刀を抜いて腹を切らんと欲(す)。御共(とも)の人々も同じく刀に手を懸けけり。然(しか)るに、彼等下馬(げば)しながら深く恐れて通りければ、「吾(われ)を見知りたる者にこそ。誰人ならん」と、浅猿(あさまし)く思食(おぼしめ)しける処に、湯浅権守(ごんのかみ)入道(にふだう)宗重の子息(しそく)、湯浅の次郎兵衛(じらうびやうゑ)宗光なり。郎等共、「此(こ)の山臥(やまぶし)は何人(なにびと)にて候ふ」と問へば、宗光答へけるは、「此れこそ小松の大臣の御子、権亮(ごんのすけ)三位中将(さんみのちゆうじやう)殿よ。何と為(し)て八嶋(やしま)よりは漏(も)り出でさせ給ひぬらん。御前に参り見参
(げんざん)に入るべけれども、憚り思食(おぼしめ)すべしと存じつる間、知らぬ様にて罷(まか)り過ぎぬ」と語りながら、袖を顔に当てて泣(な)く。郎等共も泣き逢へり。
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漸(やうや)く日数を経(ふ)る間(ママ)に、岩田河にぞ著(つ)きたまふ。三位中将(さんみのちゆうじやう)言ひけるは、「抑(そもそも)、此(こ)の河を渡る者は、悪業(あくごふ)煩悩(ぼんなう)、無始(むし)の罪障(ざいしやう)消滅(しやうめつ)すと。此れを聞けば、只今(ただいま)渡るも恃(たのも)しきよ」とぞ言ひける。然(さ)る程に、本宮證誠殿(しやうじやうでん)に参り、御前に突い跪(ひざまづ)き、父大臣の「命を召して後生(ごしやう)を助けたまへ」と申されし事、思ひ出でては哀(あは)れなり。「證誠(しやうじやう)一所(いつしよ)は本地(ほんぢ)弥陀如来、本願(ほんぐわん)誤たず西方(さいはう)浄土へ引接(いんぜふ)し、旧里(ふるさと)に留め置きし妻子安穏に守らせ給へ」と祈るぞ哀(あは)れなる。誠に、生死(しやうじ)を厭(いと)ひ菩提(ぼだい)を欣(ねが)ふ人、尚(なほ)妄執(まうじふ)は尽きず。
既(すで)に本宮を出で、苔路を差(さ)して新宮へ伝ひ、雲取(くもとり)・鹿の峯と云ふ嶮(けは)しき山を外(よそ)に越えて見、那知(なち)の御山(おやま)へ参りたまふ。三所の参詣事由(ことゆゑ)無(な)く遂げられ畢(をは)んぬ。
三月廿八日、御船に召して遥かの〓(おき)に艚(こ)ぎ出だしければ、妻子の事共は思ひ切つたれども、恩愛(おんあい)の習ひ猶(なほ)心に懸かつて思食(おぼしめ)されけり。春の天既(すで)に暮れて、海の面に霞散
り、沽洗(こせん)時移り、風和(やは)らかなる比(ころ)(此)、〓(おき)漕ぐ釣船の波の底に入るかと見ゆるに付けても、吾(わ)が身の上かと思食(おぼしめ)して、弥(いよいよ)無常(むじやう)の思ひを作(な)し、此路(こしぢ)へ帰る鴈(かり)の音連(おとづ)れ渡るを聞いても、玉章(たまづさ)を事告(ことヅ)けたくぞ思食(おぼしめ)されける。
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良(やや)久しくあつて、思ひ直して西に向かひ、高声(かうしやう)に念仏(ねんぶつ)唱(とな)へたまへども、尚(なほ)旧里(ふるさと)の事を思ひ出だして、泣(な)く泣(な)く言ひけるは、「只今(ただいま)を維盛(これもり)が最後とも知らずして、音信(おとづれ)をこそ聞慕(きかまほ)しく欲(おも)ふらめ。糸惜(いとほ)し糸惜(いとほ)し。」又念仏(ねんぶつ)を留めて言ひけるは、「人の身に妻子をば持つまじかりける者かな。今生(こんじやう)に物を思は為(す)るのみに非(あら)ず、来世(らいせ)の菩提(ぼだい)の妨(さまた)げと成る。吾(われ)髪を剃り除(おろ)して菩提(ぼだい)の道に入れども、尚(なほ)(ナヲ)妄執(まうじふ)尽きざりければ、本宮證誠殿(しやうじやうでん)の御前にて、旧里(ふるさと)に留め置く妻子安穏にと祈り奉(たてまつ)る事、浅猿(あさまし)浅猿(あさまし)。思ふ事を身の内に込めて開かざれば、罪深き故(ゆゑ)に、此(か)くの如(ごと)く懺悔(さんげ)するなり。」
此れを聞いて、時頼入道(にふだう)涙を押へて申しけるは、「恩愛(おんあい)の道は上下(じやうげ)を論ぜず、貴賤を云はず、其の思ひ一(ひと)つなり。一夜(いちや)の枕を傾け契るだに、猶(なほ)是(こ)れ五百生(しやう)の宿縁なり。況んや一期(いちご)の眤(ムツビ)をや。凡(およ)そ夫と為(な)り妻と為(な)ること、今生(こんじやう)一世(いつせ)の事にも非(あら)ず。多生曠劫(たしやうくわうごふ)の約束(やくそく)なり。然(さ)れども、生者必滅(しやうじやひつめつ)は娑婆(しやば)の定まれる理(ことわり)、会者定離(ゑしやぢやうり)は閻浮(えんぶ)の常の習ひなり。縦(たと)ひ遅速(ちそく)有りとも遂(つひ)に一度は別(わか)るべし。詮ずる所、一仏(いちぶつ)浄土の縁を願ひ給ふべきなり。彼(か)の第六天(だいろくてん)の魔王(まわう)は欲界(よくかい)の六天(ろくてん)を領じて、其の中の衆生(しゆじやう)の、生死(しやうじ)を離れ、仏道(ぶつだう)を成さんことを惜しむ故(ゆゑ)に、諸方便(しよはうべん)を廻(めぐ)して此れを妨(さまた)ぐる。中にも妻子と云ふ外道(げだう)は、殊に生死(しやうじ)を離れぬ紲(きづ
な)なり。此れに依(よ)つて、仏も深く戒(いまし)め給へり。但(ただ)し、其の妄念(まうねん)絶えずといへども、御信心(ごしんじん)実(まこと)有らば、必ず生死(しやうじ)を離れ御座(おはしま)すべし。昔、伊与(いよ)入道(にふだう)頼義(よりよし)は、十二年の合戦に人の頭を剪(キ)ること一万五千人、山野(さんや)の禽獣(きんじう)・江河(がうが)の鱗(うろくづ)の命を絶つこと幾千万(いくせんまん)といふことを知らず。然(さ)れども、一度(ひとたび)菩提心(ぼだいしん)を発(おこ)し、弥陀の名号(みやうがう)を唱(とな)へ奉(たてまつ)るに依(よ)つて、往生(わうじやう)することを得(え)たりと申し伝へて候ふ。此れ躰(てい)の悪人(あくにん)尚(なほ)往生(わうじやう)を遂ぐるに、況んや君強(あながち)に罪業(ざいごふ)を造り給はず。其の上出家の功徳(くどく)有(まし)ます。争(いかで)か御往生(わうじやう)无(な)からんや。就中(なかんづく)、弥陀如来は十悪(じふあく)五逆(ごぎやく)を嫌はず、名号(みやうがう)を唱(とな)ふれば必ず引摂(いんぜふ)を垂れたまふ。然(さ)れば則(すなは)ち、只今(ただいま)
の御念仏(ねんぶつ)に依(よ)つて、弥陀如来、廿五の菩薩を引き具し、西方(さいはう)浄土より此(こ)の所へ来迎(らいかう)し、観音・勢至(せいし)も紫金台(しこんだい)を捧げ、君を乗せ奉(たてまつ)らんずれば、滄海(さうかい)の底に沈むと思食(おぼしめ)すとも、紫雲(しうん)の上に登り、遂(つひ)に浄土に往生(わうじやう)したまひ、娑婆(しやば)の旧里(ふるさと)に還来(げんらい)し、恋しき人々をも迎へ取り奉(たてまつ)るべし」と教化(けうげ)し奉(たてまつ)れば、維盛(これもり)入道(にふだう)忽(たちま)ちに妄心(まうしん)を翻(ひるがへ)し、高声(かうしやう)に念仏(ねんぶつ)したまひつつ、即(やが)て海に入りにけり。
与三兵衛(よさうびやうゑ)・石童丸(いしどうまる)も次(ツヅヒ)て海へぞ入りにける。
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舎人(とねり)武里も此れを見て、悲しさの余りに海に入らんと擬(ギ)しければ、時頼入道(にふだう)申しけるは、「何(いか)に御遺言(ごゆいごん)をば違ふるぞ。下臈(げらふ)の身計(ばか)り口惜しき事は無(な)し」と之(これ)を恥(はぢ)しむる間、泣(なくな)く思ひ留まつて、只(ただ)臥(ふ)し辷(まろ)びて泣き叫ぶ。是(こ)れを物に譬(たと)ふれば、悉達太子(しつだたいし)の王宮(わうぐう)を出でて檀徳山(だんどくせん)に入りたまひしに、舎〓(しやのク)舎人(とねり)が太子(たいし)に別(わか)れ奉(たてまつ)る歎きも、此れには過ぎじとぞ覚えける。
時頼入道(にふだう)も泣き悲しめば、墨染の袖も絞(しぼ)り敢(あ)へず。彼(か)の人々若(も)し浮き上がりたまふかと、しばし之(これ)を見る程に、三人ながら水の底に淪(しづ)み、遂(つひ)に見えたまはず。日も漸(やうや)く暮れければ、海の面も見えざりけり。時頼入道(にふだう)空しき船に棹(サヲサ)し、泣(な)く泣(な)く岸へぞ漕ぎ還(かへ)る。櫂(かい)の滴(シヅク)と袖の〓(シタタリ)と、何(いづ)れも劣らずぞ見えたりける。時頼入道(にふだう)は高野山(かうやさん)へ帰る。武里は御遺言(ごゆいごん)に任せて、八嶋(やしま)へ還(かへ)り、新三位中将(しんざんみのちゆうじやう)殿に申しければ、資盛(すけもり)「穴(あな)心憂(こころう)や。吾(われ)に知らせず、此(か)く成りたまひぬる事の恨めしさよ」と泣きたまふ事限り無(な)し。然(さ)る程に、源氏、八嶋(やしま)を迫(せ)めんと欲(し)けれども、船無ければ、土肥(とひ)の二郎実平(さねひら)・梶原(かぢはら)の平三景時(かげとき)を以つて、播磨・美作(みまさか)・備前・備中・備後(びんご)等を守護せしめ、山陽道を守る。平家は西国及び九国(くこく)二嶋(じ
たう)を管領(くわんりやう)す。
同じき三月廿九日、三河守(みかはのかみ)範頼(のりより)大将軍と為(し)て、数万騎の軍兵(ぐんびやう)を引率して、西国へ下向しける程に、室(むろ)・高砂に留まり居て、遊君(いうくん)・遊女(いうぢよ)を召し集め、遊戯(いうゲ)を宗(むね)と為(し)て日を送る間、国の費(つひ)え民の煩ひ限り無(な)し。
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同じき十一月廿八日、梶原(かぢはら)の平三景時(かげとき)、竊(ひそか)に九郎判官(はうぐわん)の許(もと)に参向して申しけるは、「三河守(みかはのかみ)殿大将軍と為(し)ては、年月を経(ふ)といへども、更(さら)に平家を迫(せ)め落とすべからず。君は次将、吾(われ)等は末将なり。数万騎の軍兵(ぐんびやう)を以つて八嶋(やしま)の館へ押し寄せ、怱(いそ)ぎ平家を打(う)ち落とさん」と申しければ、義経言ひけるは、「鎌倉殿より大将軍の仰せを蒙(かうぶ)らざれば、争(いか)でか兄三河守(みかはのかみ)を越えて八嶋(やしま)を迫(せ)むべきや。其の儀有らば、汝子息(しそく)一人関東(くわんとう)へ差(さ)し下し、事の子細を申さるべし」。
義経の命に依(よ)つて、景時(かげとき)の甥(をひ)生田(いくた)の次郎景幹(かげもと)、関東(くわんとう)へ下さる。鎌倉殿子細を聞食(きこしめ)されて言ひけるは、「範頼(のりより)合戦の道を延引(えんいん)せしめければ、自今(じこん)以後(いご)においては、九郎冠者(くわんじや)を大将軍と為(せ)よ。実平(さねひら)には頼朝が旗を差(さ)し、軍(いくさ)の成敗を加へ、平家を亡ぼすべし」。但(ただ)し、関東(くわんとう)守護の為(ため)、留め置く所の武士等、重ねて鎌倉より差(さ)し遣(つか)はす輩は、足利の蔵人(くらんど)義兼(よしかね)〈 源氏 〉・北条の小四郎(こしらう)義時(よしとき)・千葉介(ちばのすけ)常胤(つねたね)・同じく新介胤将(たねまさ)・同じく大須加(おほすが)の四郎胤信・嫡孫(ちやくそん)小太郎成胤(しげたね)・同じく堺の平次郎(へいじらう)常秀・武石(たけいし)の次郎胤重・三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)・同じく子息(しそく)平六(へいろく)義村(よしむら)・八田(はつた)の四郎武者朝家(ともいへ)・同じく太郎朝重・葛西(かさい)の三郎(さぶらう)清重・小山(をやま)の小四郎(
こしらう)兵衛朝政(ともまさ)・同じく長沼(治)(ながぬま)の五郎宗政・同じく結城(ゆふき)の七郎朝光(ともみつ)・比企(ひき)の藤四郎(とうしらう)能員(よしカズ)・和田(わだ)の小太郎義盛・同じく三郎(さぶらう)宗実・同じく四郎義胤・大多和(おほたわ)の次郎義成(よしなり)・安西(あんざい)の三郎(さぶらう)景益・小太郎明景・工藤(くどう)の一臈(いちらふ)祐経(すけつね)・同じく三郎(さぶらう)祐茂(すけもち)・伊豆の藤内(とうない)遠景・一品坊(いつぽんばう)昌寛(しやうくわん)・土佐坊(とさばう)昌俊(しやうしゆん)等是(こ)れなり。
源平闘諍録 巻第八下