『源平闘諍録』読み下し 漢字仮名交じり版
源平闘諍録 八之上
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〈目 録〉
『源平闘諍録』巻第八之上
一 行家・義仲、宇治・瀬田より入洛の事
二 法皇、天台山より還御(くわんぎよ)成る事
三 義仲・行家任官の事
四 維高・維仁親王(しんわう)、位諍(あらそ)ひの事
五 平家の人々、筑紫に内裏を建てらるる事
六 使ひ康貞、頼朝に院宣を給ふ事
七 緒方三郎(さぶらう)維能(これよし)、筑紫を鎮むる事 附けたり 先祖の謂(いは)れ
八 主上(しゆしやう)を始め奉(たてまつ)り、平家、宇佐宮参詣の事
九 平家、緒方三郎(さぶらう)に筑紫を追ひ出だされ、四国へ渡り給ふ事
十 木曾、京都にて院参の出仕頑(かたくな)なる事
十一木曾、平家追討の為(ため)に院宣を申す事
十二 室山・水嶋合戦の事
十三 木曾、京都にて狼籍を致す事
十四 木曾追討の為(ため)に、義経・範頼(のりより)、瀬田・宇治に向かはるる事
十五 高綱、宇治河先陣(せんぢん)の事
十六 義経・畠山(はたけやま)院参の事
十七 木曾、瀬田にて討たるる事
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一 行家・義仲、宇治・瀬田より入洛の事
寿永(じゆえい)二年七月廿六日、辰(たつ)の刻計(ばか)りに、十郎蔵人(くらんど)行家、伊賀国(いがのくに)より宇治・木幡を越えて京へ入る。未(ひつじ)の剋に、木曾の冠者(くわんじや)義仲、瀬田を渡つて京へ入る。其の外、甲斐(かひ)・信濃(しなの)・尾張の源氏共、此(こ)の両人(りやうにん)に相(あ)ひ随ふ。其の勢六万余騎に及べり。此(こ)の大勢京に入りしかば、在在所所(ざいざいしよしよ)を追捕(ついふく)し、衣裳を〓(は)ぎ取つて食物(しよくもつ)を奪ひ取りける間、洛中の狼籍斜(なの)めならず。
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二 法皇、天台山より還御(くわんぎよ)成る事
廿七日、法皇天台山より還御(くわんぎよ)なる。錦服の冠者(くわんじや)旗を差(さ)して先陣(せんぢん)に候けり。平治より以来(このかた)、絶えて久しかりし白旗を、今日(コンにち)始めて法皇の御覧ぜらるるこそ珍(メづら)しけれ。公卿(くぎやう)・殿上人多く御共にて、蓮花王院(れんげわうゐん)の御所ヘ入らせ給ひにけり。
廿八日、義仲・行家を院の御所ヘ召して、「前の内大臣(ないだいじん)以下(いげ)平家の党類を追討すべき由(よし)、仰せ下さる。義仲は東より出でたれば、朝日の将軍(しやうぐん)と院宣を下されけり。行家は褐(かちん)の直垂(ひたたれ)小袴(こばかま)に、黒皮威の鎧著(き)て、右に候ひけり。義仲は赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、唐綾摺(からあやをどし)の鎧を著(き)て、左に候ふ。又前の右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝を感じて、御使ひを関東(くわんとう)へ下し遣(つか)はさる。
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又高倉の院の御子は、先帝の外に三所御坐(おはしま)しけるを、二の宮をば、若(も)しもの事有らば儲けの君に為(せ)んとて、平家西国へ取り下し奉(たてまつ)りぬ。三・四の宮は都に留まり給ふ。然(しか)るに、三の宮、法皇を嫌ひ奉(たてまつ)りて、唱立(おびたた)しく泣(ムツ)からせ御坐(おは)しけり。四の宮を「此れへ」と召されければ、左右(さう)無(な)く御膝(おんひざ)の上に渡り御坐(おは)して、懐(ナつか)し気に思食(おぼしめ)されけり。
「〓(そぞろ)ならん者は、彼(カカ)る老法師(おいぼふし)をば、何とてか懐(なつ)かしく思ふべき。此(こ)の宮ぞ実(まこと)の孫なりける」とて、御髪(みぐし)を掻き摩でて、「故院の御坐(おは)せしに少しも違はざるものかな。今まで見ざりける事よ」とて御涙を流させ給ひけり。然(しか)る間、御位は此(こ)の宮にと定まらせ給ひけり。三の宮は五歳、四の宮は四歳にて御坐(おは)す。御母は七条の修理大夫(しゆりのだいぶ)信隆卿(のぶたかのきやう)の御娘なり。
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三 義仲・行家任官の事
同(ヲナジク)八月十日、法皇、蓮花王院(れんげわうゐん)の御所より南殿に移らせ給ひて後、除目(ぢもく)行はれけり。木曾の冠者(くわんじや)義仲、左馬頭(さまのかみ)に成されて、十郎蔵人(くらんど)行家、備後守に成されけり。各(おのおの)国を嫌ひ申されければ、又十六日に除目(ぢもく)有つて、義仲は伊予守に成されて、行家は備前守に遷(うつ)されぬ。其の外の源氏十人、勲功(くんこう)の賞とて靱負(ユギヘ)の尉に成されけり。此(こ)の十余日の先までは、源氏を追討すべき由(よし)、宣旨を下されて、平家こそ加様(かやう)に勧賞(けんじやう)を蒙(かうぶ)りしが、今は平家を追討せよとて院宣を下されて、源氏ぞ朝恩に誇りける。
同じき八月十七日(じふしちにち)、平家は筑前の国三笠郡(みかさのこほり)太宰府と云ふ所に落ち著(つ)きたまへり。多くの海川(うみかは)を隔てて、都は雲井(くもゐ)の外に成りにけり。在原の業平(なりひら)が澄田河(すみだがは)の辺(ほと)りにて、都鳥に事問はんと太太(いとど)涙を流しけんも、右(かく)やと覚えて哀なり。菊地次郎高直等を始めと為(し)て、九国(くこく)の者共靡(なび)き順ひ、内裏を造るべき由(よし)申しければ、少し心落ち居て、人人安楽寺(あんらくじ)ヘ参りたまひけり。皇后宮亮(くわうごうぐうのすけ)、右(かく)ぞ詠(よ)みたまひける。
住馴志旧起都濃恋佐八 神茂(モ)昔遠不忘給
住み馴れし旧き都の恋しさは 神も昔を忘れ給はじ
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四 維高・維仁親王(しんわう)、位諍(あらそ)ひの事
廿四日、宮、閑院(かんゐん)殿に入らせたまひければ、公卿(くぎやう)・殿上人、宣命に依(よ)つて節会(せちゑ)を行はれけり。既(すで)に四の宮、位に定まらせ給ひければ、三の宮の御乳母人(おんめのと)、口惜しく本意無(な)き事に思はれけれども、力に及ばず。帝皇の御位は何(いか)にも凡夫(ぼんぶ)の左右(さう)思ふに依るべからず、皆天照大神(あまてらすおほみかみ)の御計(おんぱか)らひとぞ承(うけたまは)る。三の宮は後に以明親王(しんわう)とて謌読にてぞ在(ましま)しける。
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三日宇治の悪左府(あくさふ)、「天に二つの日無(な)し、地に二の主無(な)し」と云(い)へり。異国には加様(かやう)の例も有りけるにや。本朝には帝皇渡らせ給はで、或(ある)いは三年若(も)しくは一年何ど有りけれども、京・田舎(ゐなか)に二人の帝並び給ふ事は是(こ)れ始めなりけり。
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昔文徳(もんどく)天皇、天安(てんあん)二年八月廿七日に崩御(ほうぎよ)有りけり。御子達位に望みを懸けたまひ、内内(ないない)御祈請有りけり。維高親王(しんわう)の御持僧は、柿本(かきのもと)の紀僧正真済とて、東寺の長者、弘法(こうぼふ)大師の御弟子也。維仁親王(しんわう)の御祈りは、外祖父(ぐわいそぶ)忠仁公(ちゆうじんこう)の御持僧、恵亮和尚(くわしやう)承はられけり。何事も劣らぬ高僧(かうそう)達なり。疾日に事行き難うや有らんずらんと思ふ程に、帝隠れさせ給ひにければ、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)有りけり。「何(いづ)れの御子か位に就(つ)き奉(たてまつ)るべき」と評定有りけり。或(ある)いは「競馬の勝負(しようぶ)有るべし」と申して、一議(いちぎ)に厥(そ)れを定め難(がた)し。両方の御験者(おんげんじや)達(たち)、何(いづ)れか踈略(そらく)を存ぜざらん。然(しか)るに、「恵亮は失せたまひぬと云ふ披露を作さば、信清少し絶む心もや有るらん」とて、「恵亮は失せたり」と披露して、弥(いよいよ)間断(まだん)無(な)く肝胆(かんたん)を摧(くだ)いて祈り申されける程に、相撲の節にぞ成りにける。上下(じやう
げ)市を成(な)して見物す。維高親王(しんわう)の御方(おんかた)よりは、奈土良(なとら)の右衛門督(うゑもんのかみ)とて、六十人が力を顕したる如勇(ゆゆ)しき人を出だされたり。維仁親王(しんわう)の御方(おんかた)よりは、吉烏(よしを)の少将(せうしやう)とて、勢少さくて云ひ甲斐(かひ)無(な)く、片手に合ふべしとも見えぬ人を申し請(う)けて出だしたりければ、奈土良(なとら)・吉烏(よしを)寄り合ひ寄り合ふ程に、奈土良(なとら)、吉烏(よしを)を攫んで指(さ)し上げ、一丈計(ばか)り投げければ、突順ち直つて少しも倒れず。吉烏(よしを)又寄り合ひて贔贔と声を上げて、奈土良(なとら)を執つて伏せんと欲(す)。奈土良(なとら)も共に声を合はせて、吉烏(よしを)を取つて伏せんと欲(す)。互ひに勝負(しようぶ)は無かりけり。見物の人耳目(じぼく)を驚かさざるは無かりけり。然(しか)れども武衛は重に廻(めぐ)り、羽林(うりん)は打手(うつて)に入つてぞ見えにける。
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競馬同じく始まりければ、維高親王(しんわう)の御方(おんかた)には続いて三番勝たせたまふ。維仁親王(しんわう)の御方(おんかた)には続いて三番負けさせたまふ。親王家より御使ひ櫛の歯を並べたるが如(ごと)く走り連(つづ)いて、「御方(みかた)已(すで)に負色に見え候ふ。故は何(いか)が候ふべき」と、走り重つて申しければ、恵亮和尚(くわしやう)「心憂(こころう)き事哉」と欲(おも)ひ、智釼を持つて脳を摧(くだ)き、芥子に雑て護摩(ごま)を焼き、煙を薫じて一〓(モミ)〓(も)まれければ、大威徳明王(みやうわう)の乗りたまへる水牛(すいぎう)、一声〓[口+毛](もう)と〓[口+皐](ほ)えたりけり。此(こ)の時競馬連(つづ)いて六番勝ちにけり。少将(せうしやう)も相撲に勝ちにけり。親王(しんわう)位に即(つ)かせたまふ。清和の御門(みかど)是也。後には水雄の天皇とも申しき。爾より山門の訴状には、聊(いささ)かの事にも、「恵亮脳を摧(くだ)きしかば、二帝即位に即(つ)かせたまひ、尊意(そんい)釼を振りしかば、菅丞霊を失ひたまふ」とも伝へたり。是(こ)れ計(ばか)りや法力の致す所なる、其の外は天照大神(あまてらすおほみか
み)の御計(おんぱか)らひとこそ承(うけたまは)れ。
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四の宮こそ既(すで)に践祚(せんそ)有んなれと聞えければ、平家の人々は、「怜れ、三・四宮をも取り具し奉(たてまつ)るべき物を」と申し合はれければ、「然(さ)らずは高倉宮の御子、木曾が具し奉(たてまつ)りて北国より上りたるをこそ、位に即(つ)けたまふべけれ」と、人人申し合はれけり。
或(ある)人申しけるは、「出家の人の還俗し給へるは、争(いかで)か御即位有るべき」と申しければ、平大納言時忠・兵部少輔(ひやうぶのせう)正明何ど申されけるは、「天武(てんむ)天皇、東宮にて天智の御譲りを受けさせたまふべきに、天智の御子大友王子(わうじ)位を諍(あらそ)ひたまひて、東宮を討ち奉(たてまつ)るべき由(よし)聞えければ、東宮御悩(ごなう)と称して、辞し申させ給へども、御門(みかど)猶(なほ)誣(しひ)て申させ給ひければ、東宮仏殿の南面にして御髪(みぐし)を剃り落とし、吉野山(よしのやま)へ入らせ給ひたりけるが、伊賀(いが)・伊勢・尾張三箇国の兵(つはもの)を発(おこ)して、大友王子(わうじ)を討ちて、東宮位に即(つ)かせたまふ。斯(か)くの如(ごと)く、出家の人位に即(つ)く事なれば、木曾が宮、何(なに)か苦しかるべき」とぞ申されける。
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五 平家の人々、筑紫に内裏を建てらるる事
然(さ)る程に、筑紫には内裏を造り出だして主上(しゆしやう)を渡し奉(たてまつ)る。大臣以下(いげ)の人人も館共を卜(し)めにけり。三重(さんぢゆう) 彼(か)の大内(おほうち)は山の中なれば、木丸殿(コノまるどの)とも謂(い)つつべし。人人の家家は野中(のなか)田中(たなか)なりければ、麻(あさ)の衣は〓(う)たねども、遠路(ゑんろ)の里(さと)とも申しつべし。荻(をぎ)の葉向の朝嵐、独(ひと)り丸寝(まろね)の床の上、夜と与(とも)に弱りゆく虫の音、草の枕に答へて、片敷く袖も汐(しほ)れにけり。
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然(さ)る程に、九月中旬(ちゆうじゆん)にも早成りにけり。秋の哀(あは)れは何(いづ)くも同じと云ひながら、旅立つ空の物憂(う)さは、故(ことさら)忍び難ければ、河辺(かはべ)の泊りも心〓(スゴ)く、〓(そぞろ)に哀(あは)れぞ増りける。十三夜(じふさんや)は何(いつ)よりも名を得(え)たる月なれども、殊に今夜(こよひ)は〓(サヤケク)て都の恋しさも強(あながち)なれば、薩摩守忠度(ただのり)、右(かう)ぞ詠(えい)じ給ひける。
見月志去年乃今夜乃友乃美也 都尓我遠思出覧
月を見し去年(こぞ)の今夜(こよひ)の友のみや 都に我を思ひ出づらん
修理大夫(しゆりのだいぶ)経盛、此れを聞き給ひて、
都詠月諸共 旅空出気留哉
都にて詠(なが)めし月の諸共(もろとも)に 旅の空にも出でにけるかな
平大納言時忠卿、
君住此雲井月 尚恋都也
君住めば此れも雲井(くもゐ)の月なれど 尚(なほ)恋しきは都なりけり
各(おのおの)加様(かやう)に読み給ひければ、心有る人人は涙をぞ流しける。
修理大夫(しゆりのだいぶ)経盛又
恋去年今夜通夜 契事思出
恋しとよ去年(こぞ)の今夜(こよひ)の夜(よ)もすがら 契りし事の思ひ出られて
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六 使ひ康貞、頼朝に院宣を給ふ事
平家は西海(さいかい)の波に漂(ただよ)ひ、東国には源氏日に随つて繁昌す。右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝上洛(しやうらく)の事容易(タヤス)からじとて、居ながら征夷大将軍の院宣を下さる。御使ひは蔵人(くらんど)の右の府生(ふしやう)中原の康貞とぞ聞えし。
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九月四日、東国へ下着す。同じき廿六日、上洛(しやうらく)して、院の御所の御坪に、関東(くわんとう)の子細を具(つぶさ)に申し上げけるは、「康貞下向仕り候ひて、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)に院宣を付して候ひけるは、『頼朝流人の身と為(し)て、武勇の名誉(めいよ)長ぜるに依(よ)つてか、忝(かたじけな)くも居ながらに征夷将軍の院宣を賜(たま)はる。私の館にて請(う)け取り奉(たてまつ)る事、其の恐れ有り。若宮の社壇(しやだん)にて請(う)け取るべし』と申されける間、若宮の社壇(しやだん)へ罷(まか)り向かひぬ。家の子五人、郎等を相(あひ)具す。院宣をば蘿(コケ)の筥(はこ)に入れ、上を袋に入れ、雑色男(ざふしきをとこ)が頸に懸けさせて、若宮の社壇(しやだん)に参り向かひて見れば、鶴が岡(ヲカ)と云ふ所なりき。
地形(ちぎやう)石清水に同じ。宿院有り、廻廊有り、作り路(みち)十余町を見下(お)ろしたり。『抑(そもそも)此(こ)の院宣をば誰為(し)てか請(う)け取り奉(たてまつ)るべき』と云ふ所に、『三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)を以つて請(う)け取り奉(たてまつ)るべし』と定められにけり。『人数(ひとかず)有りといへども、義澄(よしずみ)は東八箇国に名を得(え)たる弓執りなり。其の上父義明、頼朝が為(ため)に先立つて命を捨てたる者なり。且(かつ)うは義明が黄泉(くわうせん)の冥闇を照らさんが為(ため)、義澄(よしずみ)然(しか)るべし』とて、用ゐられたり。
又家の子二人、郎等十人相(あひ)具したり。二人の家の子は和田(わだ)の三郎(さぶらう)宗実・比企(ひき)の藤四郎(とうしらう)能員(貞)、十人の郎等は我が家人(けにん)には非(あら)ず、十人の大名の、容儀事柄の吉(よ)き物を一人充(づつ)出だし立てたり。十三人共に常冑(ひたかぶと)なり。義澄(よしずみ)は赤威(あかをどし)の鎧を著(き)たり。康貞は院宣を蘿の筥(はこ)に入れ、庭上(ていしやう)に捧げて立つたり。
義澄(よしずみ)、十三人の中に歩を勧(すす)めて近付き、冑を脱いで弓を脇に挿(はさ)み、右の膝(ひざ)を突いて式第(しきだい)す。院宣を請(う)け取り候ひし時、『何(いか)ならん者ぞ』と問ひ候ひしかば、三浦介(みうらのすけ)とは称(なの)らずして、本名を『三浦の次郎義澄(よしずみ)』と称(なの)り候へり。
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〓(サテ)院宣(ゐんぜん)を請(う)け取つて候へば、暫(しばら)く有つて、院宣を入れたりつる蘿の筥(はこ)を返され候ふを開き見候へば、砂金(しやきん)十両を容(い)れられたり。拝殿に紫端(したん)の畳(たたみ)を敷いて康貞を居(す)ゑたり。酒を勧(すす)むるに、高器に肴を為(し)たり。五位一人役奏を勤む。馬を引くに葦毛(あしげ)の馬一疋、大宮の侍(さぶらひ)の一臈(いちらふ)したりし工藤(くどう)の一臈(いちらふ)祐経(すけつね)なり。其の日は右兵衛佐(うひやうゑのすけ)対面無(な)し。宿所(しゆくしよ)を執りて返さる。
盃飯(わうばん)豊かに為(し)て美麗(びれい)なり。厚網二両・小袖十重(とへ)、長持二合に入れて儲けたり。上絹六十疋・次絹百疋・紺藍摺・白布共に千端(せんたん)充(づつ)を積まれたり。次(つぎ)の日、馬十三疋を宿所(しゆくしよ)へ送られたり。内三疋(正)には鞍置きたり。皆目を驚かす程の馬共なり。
其の日、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の館へ罷(まか)り向かひき。内外(ないげ)に侍(さぶらひ)十六間なり。外侍(さぶらひ)には若き郎等共膝(ひざ)を重ねて並(な)み居たり。内の侍(さぶらひ)には長(おとな)しき郎等共肩を並べて充(み)ち満ちたり。其の上座に源氏共幾等(いくら)も有りき。源氏の座上に紫〓(べり)の畳(たたみ)を敷きて、康貞を居(す)ゑたり。暫(しばら)く有つて、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の命(めい)に随つて、寝殿へ向かひき。広廂(ひろびさし)に紫端(したん)の畳(たたみ)を敷き、康貞を居(す)ゑたり。内には高麗〓(かうらいべり)の畳(たたみ)を敷き、御簾(みす)を上げたり。
既(すで)に右兵衛佐(うひやうゑのすけ)出でたり。此(こ)の事柄を見たれば、顔大きにて長(たけ)卑(ひく)かりけり。容貌(ようメウ)美麗(びれい)にて優美なり。言語(げんぎよ)分明(ふんみやう)にて、子細を一事述べたり。『行家・義仲と申すは、頼朝が代官に指(さ)し登つてこそ候へ。彼等を以つて暫(しばら)く平家を責めらるべく候ふ。皆官加階は成されてこそ候ふなれども、十郎蔵人(くらんど)・木曾の冠者(くわんじや)とこそ書いて候へ。皆返事は為(し)て候へども、境節(をりふし)聞書到来して大きに心得(え)ず候ひし。永茂(ながもち)が越後守(ゑちごのかみ)に成され、高義が常陸介に成され、秀衡が陸奥守に成され候ふは、大きに心得(え)難く候ふ。是(こ)れ等を皆、頼朝が命に随ふべき由(よし)、仰せ下されよ』とこそ申し候ひしか。康貞『名簿(みやうぶ)こそ承(うけたまは)り度(た)く候へども、今度(こんど)は故(ことさら)に上洛(しやうらく)仕り候はん。弟にて候ふ史(リノ)大夫(たいふ)重義も、此(こ)の様を申せ、と申し候ひき』と申し候ひしに、『頼朝が身にては争(いかで)か各(おのおの)の名簿(みやうぶ)をば請(う)け取り奉(
たてまつ)るべき。然(しか)らずとても愚かの儀は有るまじき』由(よし)、問答してこそ候ひしか。京都も〓(おぼつかな)く候へば、急ぎ上洛(しやうらく)の由(よし)申し候へども、『今日(けふ)計(ばか)りは逗留(とうりう)有るべし』とて、猶(なほ)宿所(しゆくしよ)へ返され候ひき。
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又次(つぎ)の日、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の館へ向かひ候ひき。金鍔の太刀(たち)一振、九つ指(さ)したる征箭一腰、見も覚えぬ珍しきものなりき。其の上に駄卅疋ありき。郎等・家の子・雑色(ざふしき)に至(いた)るまで、直垂(ひたたれ)・小袖・馬鞍に及ばしめたり。鎌倉を出でしより、一宿に米五斛充(づつ)を始めて、宿の物共叮嚀(テイネイ)に儲けて、兵士・雑掌を付けて送られ候ひき。宅残豊かなるに依(よ)つて、然(さ)ながら施行にこそ引きて候ひつれ」と語り申しければ、法皇咲(ゑみ)を含ませたまひけり。
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七 緒方三郎(さぶらう)維能(これよし)、筑紫を鎮むる事 附けたり 先祖の謂(いは)れ
豊後(ぶんご)の国は刑部卿(ぎやうぶきやう)三位(さんみ)頼輔の国なりければ、其の子息(しそく)頼経国司代と為(し)て下向の間、披露しけるは、「平家年来(としごろ)為朝敵と為(し)て、都を出で、落ち下る所に、九国(くこく)の輩悉(ことごと)く帰伏の条、既(すで)に甚しく二罪科を招く所行(しよぎやう)なり。須(すべから)く当国の輩においては、故(ゆゑ)に其の旨を存じて、聊(いささ)かも成敗に随ふべし。是(こ)れ全(まつた)く私の下知(げぢ)に非(あら)ず。併(しか)しながら一院の院宣なり。凡(およ)そ鎮西の輩、一味同心に九国(くこく)の中を追ひ出だし奉(たてまつ)るべし」とぞ申しける。
緒方の三郎(さぶらう)豊後(ぶんご)の国より始めて、九国(くこく)二嶋(じたう)に弓箭(きゆうせん)を取る輩に之(これ)を触れければ、臼木・辺津木・原田の四郎大夫(たいふ)・大蔵(おほくら)の種直(たねなほ)・菊地の次郎高直の一類のみ平家に属(つ)きたりけるが、其の外は皆維能(これよし)が下知(げぢ)に随ひけり。
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彼(か)の維能(これよし)は武(たけ)き者の末にて、国土を打(う)つ取らんと欲(す)る程の大気(おほけ)無(な)き者なりければ、九国(くこく)においては随はぬ輩も無かりけり。昔、豊後国に田村と云ふ所の主に、大夫(たいふ)と云ふ者の娘に、加志原の御(ヲモと)とて容皃(ようばう)雙(なら)び無(な)し。国中に同じ程の者、聟(むこ)に成らんと所望しけれども、敢(あへ)て此れを用ゐず。只(ただ)「吾(われ)より重(かサミ)上りたる者を」とは思へども、然(しか)るべき者無かりけり。秘蔵(ひさう)の娘にて、後園に一宇の屋を作りて、此(こ)の娘をぞ住ませける。高きも賤しきも男と云ふ者をば通はせず。
此(こ)の娘、秋の長き通夜(よもすがら)、徒然(つれづれ)の間(ママ)に詠(なが)め明かすに、何(いづ)くより来たるとも覚えぬ尋常なる男の、水色の水干(すいかん)著(き)たりたるが、此(こ)の所に差(さ)し寄つて、様々(さまざま)の物語有りけり。且(しばし)は韜(つつ)みけれども、夜々(よなよな)度(たび)重なり行きければ、此(こ)の女房打解(うちと)けてけり。其の後、夜枯(よが)れもせず通ひけるを、暫(しば)しは此れを隠しけれども、属(つ)き仕はれける女童部(めのわらは)、父母に此れを是(かく)と語りければ、此(こ)の女房の親大きに驚いて、急ぎ娘に事の由(よし)を問ひけるに、敢(あへ)て此(か)くとも言はざりければ、父母腹立(はらだ)ちける間、親の命(めい)の背(そむ)き難さに、「来るをば見れども此れを知らず」と、有りの任(まま)に語りければ、母之(これ)を恠(あや)しみて、「然(さ)らば彼(か)の人の来たりたらん時、験(しるし)を為(し)て其の行柄(ゆくへ)を尋ぬべし」と、懇(ねんご)ろに教へける間、或夜、彼(か)の男来たりけるに、水干(すいかん)の頸に糸途(しづ)の小環(をだまき)の端(はし)を針に付
けて指(さ)しにけり。
夜明けて後、親の方へ此(か)くと告げたりければ、真(まこと)に糸途(しづ)の小環(をだまき)を〓[糸+參](く)り引きて、千尋(ちひろ)百尋(ももひろ)に引き延べたり。大夫(たいふ)父子(ふし)三人、男女の家人四五十人、急ぎ彼(か)の行柄(ゆくへ)を尋ねける程に、日向国に深山有り。嫗(うば)が嶽(たけ)と云ふ嵩(たけ)の怖しき岩室が穴(あな)へぞ引き入りたりける。
彼(か)の穴(あな)の口にて聞くに、大きに痛み悲しむ声あり。人皆身の毛弥竪(よだ)つて、怖しさ限(カギリ)無(な)し。父の教へに依(よ)つて、娘糸を牽(ひか)へて、「此(こ)の穴(あな)の中に何(いか)なる者か有る」と問ひければ、大きに恐しき声にて、「吾(われ)は其れへ夜々(よなよな)通ひし者なり。去る夜、頸に疵を負ひて痛み限り無ければ、這(は)ひ出でて見たけれども、日来(ひごろ)の変化(へんげ)既(すで)に尽きたり。今は何をか隠すべき、吾(わ)が身は本体(ほんたい)大蛇なり。争(いかで)か見え奉(たてまつ)るべき。但(ただ)し其の腹の中に一人の男子(なんし)を宿せり。必ず安穏に長(そだ)つべし。草の影にても守るべし。人畜形は異なるといへども、子を思ふ道に替り目は無(な)し」と、是(こ)れを最後の語(ことば)と為(し)て、後は音もせず。大太太夫(だいたたいふ)を始めと為(し)て、怖しさ斜(なの)めならず。〓(あわ)て騒いで逃げ返りぬ。
然(さ)る程に、月日(つきひ)漸(やうや)く累(かさな)りて、此(こ)の娘徒(ただ)ならず、其の期(ご)に至(いた)つて一人の男子(なんし)を生みけり。成長するに随ひて、容顔人に勝(すぐ)れ、心様武(たけ)き者にてぞ侍(はべ)りける。博多(ハカタ)の祖父(そぶ)が片名を取つて、大太とぞ云ひける。足には〓(あかがり)常に破(わ)れたりければ、異名には〓(あかがり)大太とぞ申しける。
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今の維能(これよし)は大太が五代の孫なりければ、心武(たけ)く怖(おそろ)しき者なり。院宣を蒙(かうぶ)りぬる上は、興(きよう)に入つて数万騎の兵(つはもの)を引き将(ゐ)て太宰府へ発向す。然(さ)る間、九国(くこく)の者共皆随ひにけり。
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八 主上(しゆしやう)を始め奉(たてまつ)り、平家、宇佐宮参詣の事
十月十日、主上(しゆしやう)を始め奉(たてまつ)つて、女院・先の内府(だいふ)以下(いげ)の一門、皆宇佐宮へぞ参られける。社頭をば主上の皇居と成(な)し、廊をば月卿・雲客の居と卜(し)む。大鳥居をば五位・六位の官人等堅(かた)めたり。庭上(ていしやう)には四国・九国(くこく)の兵(つはもの)並(な)み居たり。祈請の趣は、只(ただ)主上(しゆしやう)旧都の還幸をぞ申されける。七日参籠の明方に、先の内府(だいふ)夢想の告げを承(うけたまは)る。大菩薩一首の御詠に云はく、
世中濃宇佐ニハ神モ無キ物ヲ 何祈覧心尽尓
世の中の宇佐には神も無(な)きものを 何祈るらん心尽くしに
思ひき耶(や)彼(か)の蓬壺(ホウコ)の月を此(こ)の海上(かいしやう)に写すべきとは。九重(ここのへ)の雲の上、久方の花月に交りし輩、今更(いまさら)に切に思ひ出だされて、声声に口〓(くちずさ)み給ひけり。
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九 平家、緒方三郎(さぶらう)に筑紫を追ひ出だされ、四国へ渡り給ふ事
十月五日(いつか)、緒方の三郎(さぶらう)維能(これよし)、子息(しそく)の野尻の次郎維村を使者(ししや)と為(し)て、平家へ申し遣(つか)はしけるは、「維能(これよし)御恩をも蒙(かうぶ)つて候ひき。相伝の君にて渡らせたまふ上、十善の帝王に御座(おはしま)せば、尤(もつと)も奉公(ほうこう)仕るべく候へども、早(はや)く九国(くこく)の内を出だし奉(たてまつ)るべき由(よし)、院宣を下され候ふ間、力及ばざる次第なり。疾疾(とうとう)出でさせ御座(おはしま)せ」と申したりければ、平大納言時忠卿、野尻の次郎に出で向かつて言ひけるは、「吾(わ)が君は天孫四十九世の正統(しやうとう)、人皇(にんわう)八十一代の御門(みかど)なり。忝(かたじけな)くも太上法皇(だいじやうほふわう)の御孫、高倉院の后腹(きさきばら)の第一(だいいち)の王子(わうじ)にて渡らせ給ふ。伊勢大神宮入れ代らせ給ふ覧(らん)。御裳裙河(みもスソがは)の流れ忝(かたじけな)き上、神の代より伝はれる三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)を帯(たい)して御坐(おはしま)す。正八幡宮(しやうはちまんぐう)も定めて守護せさせ給ふ覧(らん)。争(いかで)か輙(
たやす)く傾け奉(たてまつ)るべき。其の上当家は、平将軍貞盛、相馬の小次郎将門(まさかど)を追討せしより以降(このかた)、故入道(にふだう)相国、悪衛門督信頼を誅戮(ちゆうりく)せしに至(いた)るまで、代代朝家(てうか)の固めとして帝王の守りと成る。然(しか)るに頼朝・義仲が『吾(われ)軍(いくさ)に打(う)ち勝たば、国を知らせん、庄を取らせん』と云ふに賺(すか)されて、嗚呼(ヲコガマ)しき者共が、亶顔(シハツレナ)く官兵に向かつて軍(いく)さ為(す)るこそ不便(ふびん)なれ。就中(なかんづく)、筑前の者共は殊に重恩を蒙(かうぶ)れる奴原(やつばら)が、其の好(よし)みは忘れて当家を背(そむ)き、鼻豊後(はなぶんご)が下知(げぢ)に随はんことこそ然(しか)るべからね。能能(よくよく)計ふべし」と言へば、維村「此(こ)の由(よし)を披露仕り候はん」とて、急ぎ還(かへ)つて、父に此(こ)の由(よし)を云ひければ、「是(こ)は何(いか)に。昔は昔、今は今の世の中なり。院宣を下されける上は子細にや及ぶ」とて、博多へ押し寄せて時を作りたりければ、平家方には肥後守(ひごのかみ)貞能(さだよし)を大将軍と為(し)て、菊地・
原田の一党禦(ふせ)ぎ闘ひけれども、三万余騎の大勢責め懸りければ、取る者(もの)も取り敢(あ)へず、太宰府をぞ落ちられける。
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彼(か)の憑(たのも)しかりし天満天神の注連(しめ)の辺りを心細くぞ立(た)ち離れ給ひける。下向の道の法施(ほつせ)にも、只(ただ)主上旧都の行幸とのみ申されけり。垂見山(たるみやま)を越えて、鷲の浜をぞ通りける。御輿(みこし)は有れども仕ふべき駕輿(かよ)も無ければ、主上は次(つぎ)の御輿(みこし)に奉(たてまつ)り、女房・男房(なんばう)・公卿(くぎやう)・殿上人は増(まし)て物に乗るにも及ばれず。或いは衣の妻を取り、或いは指貫の側(そば)を挿(はさ)み、歩行跣足(かちはだし)にて、涙と共に攪(カキ)暗(く)れて、筥崎(ハコザキ)の津へ迷ひ出でられける心の内こそ無慙なれ。
大宰府と、筥崎と申すは、其の間西国路三里(さんり)隔つたり。下臈(げらふ)は輙(たやす)く一日(いちにち)に度度(たびたび)行き返る所といへども、何(いつ)習(なら)はしの歩路(かちぢ)なれば、其の日一日(いちにち)に行き暮れて、夜深(ふ)け更(かう)蘭(たけなは)に至(いた)るまで猶(なほ)叶はず。比(コロ)は八月下旬の事なれば、闇黒くして、誠に天の譴(せめ)を蒙(かうぶ)れるか。境節(をりふし)降る雨は車軸の如(ごと)し。吹く風は砂(いさご)を〓(あぐ)るに似たり。落つる涙、過ぐる村雨、何(いづ)れと別(わ)きて見えざりけり。其の内に有りと在る貴賤男女、近きは手を取り組み、遠きは詞を通はす。声は聞けども姿は見えず。中有(ちゆうう)の衆生(しゆじやう)、地獄の罪人も此れには過ぎじとぞ覚えける。
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通夜(よもすがら)泣き明かし、暁(あかつき)に成りければ、船に混み乗り出でんと欲(し)たまひけれども、浪風冽(ハゲシ)くて叶ふべくも無(な)し。震旦(しんだん)・鬼海(きかい)・高麗(かうらい)・天竺(てんぢく)に至(いた)るまでも落ち行かばやとは思へども、叶ふべしとも覚えねば、涙と共に悲しむ処に、山賀(やまが)の兵藤次(ひやうどうじ)秀遠(ひでとほ)と云ふ男、「山賀(やまが)の城こそ閑所にて候へ。暫(しばら)く入り御坐(おはしま)して御覧ぜらるべく耶(や)候ふ覧(らん)」と申す。悦(よろこ)びの耳を聞く様に覚食(おぼしめ)されて、山賀(やまが)の城(じやう)へ移り入らせ給ふ。岩戸(いはと)の少卿(せうきやう)大蔵(おほくらの)種直(たねなほ)は、年来(としごろ)の同僚を始めて見上げん事も石流(さすが)に覚えて、「大地山の関上(あ)けて参らん」と申して、己(おの)が国へぞ返りける。
[中音]平家は山賀(やまが)の城(じやう)に遷(うつ)つて、暫(しばら)く此(こ)こに栖む。蕨(そ)れも始終有るべき様も無(な)くて、柳と申す所に移りけり。其れも僅に七箇日御坐(おはしま)して、柳の御所を出でたまふ。高瀬船と申す小船に混み乗り、何(いづ)くを指(さ)して行くとも無(な)く、海上(かいしやう)遥かに浮かび給ひけり。
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清経の左中将(さちゆうじやう)、「都をば源氏に追はれ、鎮西をば維能(これよし)に追ひ落とされ、運程に顕はれたり。何(いづ)くに行くとも遁(のが)るべきかは」とて、船の舳に立(た)ち出で、西に向かひ閑(のど)かに経を読み念仏申して、海に入りて失せられにけり。女院・二位殿・女房達袷(あれ)は何(いか)にと声を揚げて立(た)ち並び、嘔(をめ)き叫び給ふ。公卿(くぎやう)・殿上人「如何(いか)に為(せ)ん」と歎き合ひ給ひけり。然(さ)れども、二度(にど)とも見えたまはざりけり。
其の後、長門国は新中納言知行の分国なりければ、国司の代官に橘の民部(みんぶ)大夫(たいふ)道輔と云ふ者有りけり。安芸・周防・長門・三ヶ国の美物船卅艘を点停して、平家に奉(たてまつ)りたりければ、平家之(これ)に混み乗りけり。今少し都近くと漂(ただよ)ひ行き、四国の浦に浮かび給ひけり。
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阿波民部(みんぶ)大夫(たいふ)成良は四方(しはう)に遠見して立つたりけるが、浜の方を見遣(や)るに、海の面に誰とも知らず、篠の葉を切り浮かべたる如(ごと)くに船共数見えけり。成良思ひけるは、「源氏の討手(うつて)は未(いま)だ都を出でたりとも聞かず。平家の人人、一定(いちぢやう)鎮西を追ひ出だされ御坐(おはしま)すらん。参つて見奉(たてまつ)りて、平家にて御坐(おはしま)さば入れ奉(たてまつ)らん。敵(かたき)ならば恥有る矢一(ひと)つ射ん。用意為(せ)よ」と、一門・子共に云ひ置いて、我が身計(ばか)り船に乗り、押し出だして見奉(たてまつ)るに、平家にて御坐(おはしま)しける間、平家悦(よろこ)びを作(な)しけり。阿波の民部(みんぶ)大夫(たいふ)を先と為(し)て、四国へ渡り給ひ、讃岐国(さぬきのくに)八嶋(やしま)の浦に溥(コギ)付きにけり。民屋を皇居と為(す)るに足らざれば、御船を以つて内裏と為(な)す。大臣以下(いげ)月卿・雲客、下賤(シヅ)が臥屋(ふせや)に夜を重ね、海(あま)の苫屋に日を送る。草枕梶枕浪(なみ)に打たれ、露に汐(しほ)れてぞ明し暮し給ひける。
四国の者共、大略成良に靡(なび)きければ、御気色(ごきしよく)実(げ)に以つて如勇(ゆゆ)しかりけり。然(さ)てこそ阿波守には成されけれ。貞能(さだよし)は九国(くこく)をも随へず追ひ出だされたりければ、綺羅(きら)も無かりけり。
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十 木曾、京都にて院参の出仕頑(かたくな)なる事
木曽伊予守義仲は、貌形(かほかたち)清気(きよげ)にて美男為(な)りけれども、立居(たちゐ)の振舞(ふるま)ひ、物なんど云ひたる言次(ことばつぎ)、堅固の田舎人(ゐなかびと)にて嗚呼(をこ)なりけり。信濃(しなの)の国木曽の山本一と云ふ所に、三歳より廿余年の間隠れ居たりければ、人には馴るること無(な)し。始めて都人に懐(な)れ染めんに、何(なじ)かは善(よ)かるべき。
猫間の中納言光高、木曾に申し合はすべき事有つて渡られけるに、雑色(ざふしき)をして参れる由(よし)を云ひ入れられたりければ、切者(きりもの)に根井(ねのゐ)と云ふ者、「猫殿の参つてこそ候へと仰せられて候ふ」と申したりければ、木曾心得(え)ず、「左(と)は何事ぞ。然(さ)れば、京の猫は人に見参(げんざん)する事か」と言ひければ、根井(ねのゐ)重ねて雑色(ざふしき)に尋ねければ、雑色(ざふしき)申しけるは、「七条坊城、壬〔生〕・櫛器(くしげ)の辺りをば北猫間・南猫間と申し候ふ。是(こ)れは北猫間の上臈(じやうらふ)に、猫間の中納言殿と申す御事なり」と委しく申しければ、其の時得意(こころえ)て、木曾、中納言殿を入れ奉(たてまつ)つて対面す。
木曾言ひけるは、「猫殿の適(たまたま)和往(ワイ)たるに、根井(ねのゐ)急(きつ)と物食はせよ」と云ひければ、中納言浅猿(あさまし)く覚えて、「只今(ただいま)有るべくも無(な)し」と云ひければ、「云何(いかが)芸時(ケどき)に和往(ワイ)たるに、物食はせでは有るべき。無塩(ぶえん)の平茸も有りつ。疾疾(とうとう)」といひければ、「由(よし)無(な)き所へ来て、今更(いまさら)還(かへ)らん事も流石(さすが)なり。此計(かばか)りの事こそ無けれ」と興(きよう)覚(さ)めて、流石(さすが)に対(むか)ひては居たり、立(た)ち去り得(え)でぞ御坐(おはしま)しける。暫(しばら)く有つて、深く大きなる田舎合子(ゐなかがふし)の荒塗(あらぬ)りなるに、毛打(う)つ立つて黒黒(くろぐろ)と有る飯(はん)を堆(イシケ)に盛り上げて、御菜(ごさい)三種(さんじゆ)、平茸の汁一(ひと)つ、折敷(をしき)に居(す)ゑて、根井(ねのゐ)此れを持(も)ちて、中納言の前(まへ)にぞ居(す)ゑたりける。大方(おほかた)左右(とかう)云ふ計(ばか)り無(な)し。木曾が前(まへ)にも同じく之(これ)をぞ居(す)ゑたりける。木曾先づ箸を取
り喰ひけり。中納言は興(きよう)覚(さ)めて、御箸も立てられず。木曾之(これ)を見て、「何(いか)でか召食(めしま)さぬぞ。無塩(ぶえん)の平茸も有り。猫殿掻々(カイ)たべ」と云ひければ、中納言、食はでも怖(おそろ)しければ、御箸を立てて召す様にし給へども、余りに合子の不審(イぶせ)さに、食ひも遣(や)らず、只(ただ)御箸の端(はし)を相(あひ)構(アイシラ)ひ、合子の縁に当てじとして、中を深深と劇(ムシ)り務め居たり。流石(さすが)に木曾も心得(え)たる耶覧(やらん)、「何と猫殿、合子は苦しからじ。其れは義仲が精進(しやうじん)の合子ぞ。只(ただ)食(め)せ」とぞ申しける。木曾大飯(おほめし)を残り少(すく)なに打(う)ち喰ひて、「猫殿は少食(せうじき)にて和往(ワイ)けるや」とぞ云ひける。中納言墓々(はかばか)しく言(もの)も曰(のたま)はで、返られたり。
P2259
其れのみならず、嗚呼(をこ)がましき事共多かりけり。
木曾、布衣(ホウイ)に取装束(とりしやうぞく)して、車にて院参(ゐんざん)しけるが、著(き)慣(なら)はぬ立烏帽子(たてえぼし)は著(き)たり、烏帽子(えぼし)の際より始めて、差貫(さしぬき)の裾に至(いた)るまで、頑(かたくな)なること云ふ計(ばか)り無(な)し。車・牛は平家の内大臣(ないだいじん)の召されたりけるを取つたりければ、牛飼童(うしかひわらは)も其れなりけり。下臈(げらふ)なれども、吾(わ)が主(しゆう)の敵(かたき)と、目覚(めざま)しく心憂(こころう)く欲(おも)ひければ、車に乗る有様の云ふ計(ばか)り無(な)く嗚呼(をか)しかりけり。甲を打(う)ち著(き)て馬に乗つたるには少しも似ず、実(まこと)に危ふく堕(ヲチ)ぬべしとは見えたりけり。木曾乗り終(は)て給ひければ、牛飼一杖(ずはえ)之(これ)を打(う)つ。飼ひ肥やしたる逸物(いちもつ)なり。何(なじ)かは滞り有るべき。飛ぶが如(ごと)くに走りける間、木曾仰(アふの)けに車の内に転(マロ)びけり。牛は鞠(ケ)上つて踊(ヲド)り行く。
木曾起き上がらんと欲(す)れども、何(なじ)かは起きらるべき。蝶の羽を放(ひろ)げたるが如(ごと)くにて、足を空に捧げて、名曲声(なマリごゑ)にて、「耶己(やおれ)小出居(こでい)、耶己(やおれ)特〔牛〕(こでい)、且(しば)し且(しば)し」と呼べば、牛飼空聞かずして、四五町計(ばか)り驟(アガカ)せたりければ、伴(とも)に有りける雑色(ざふしき)走り付きて、「且(しば)し御車(みくるま)留めよ」と申しければ、止(とど)めにけり。
「何(いか)に是(かく)は仕るぞ」と申しければ、「御車(みくるま)牛の鼻が強(こは)く候ふ」とぞ陳じける。然(さ)て起き上がりて後も尚(なほ)危ふかりければ、牛飼悪(にく)さは悪(にく)かりけれども、「其れに候ふ手形に手を懸けて取り付かせ給へ」と申しければ、「手形とは何ぞ」と問ひければ、「両方に立(た)ち候ふ板を方立(ホウだて)と申し候ふなり。其れに候ふ穴(あな)に御手を入れて取り付かせ給へ」と申しければ、其の時之(これ)を見付けて、左右(さう)の手形に張(ちやう)と取り付き、「袷(あはれ)支度(したく)耶(や)。然(さ)れば疾(と)くにも云はで。抑(そもそも)是(こ)れは和僮(ワウナイ)が支度(したく)か、殿の様か、木の成りか」と問ひ給ひけるこそ嗚呼(をか)しかりけれ。
院の御所にて、車懸け弛(はづ)したりけるに、車の後ろより下りんとす。「前よりこそ下りさせ給はめ」と雑色(ざふしき)申しければ、「如何(いか)に順通(スドほ)りに過ぐべき」と云ひて、車の後ろより下りけるこそ嗚呼(をか)しかりけれ。
御所に参つても、烏帽子(えぼし)の際より差貫(さしぬき)の裾まで、立居(たちゐ)の振舞(ふるま)ひ嗚呼(をか)しかりければ、若殿上人之(これ)を見て、其の事と無(な)く罟罟(シイしい)と笑ひ給ひけり。吾(われ)を笑ふとだに知りたらば、何人(なにびと)なりとも善(よ)かるまじきを、吾(わ)が身の上とは努(ゆめ)知らず、共に連(つ)れてぞ笑ける。
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十一 木曾、平家追討の為(ため)に院宣を申す事
寿永(じゆえい)二年十月、平家は讃岐国(さぬきのくに)の八嶋(やしま)に有りながら、山陽道八箇国・南海道六箇国、合はせて十四箇国をぞ靡(なび)かしける。木曽伊予守義仲此れを聞き、院宣を申すに依(よ)つて、院庁の御下文を成(な)し下されけり。状に云はく、
院庁下す 山陽南海諸国の押領使(あふりやうし)等
早(はや)く源の義仲を大将軍一と為(し)て、彼(か)の三道諸国相(あ)ひ共に、前の内大臣(ないだいじん)平の宗盛(むねもり)以下(いげ)の党類を追討せしむべき事
右、件(くだん)の党類、奸心の余に叛逆(ほんぎやく)を恣(ほしいまま)にし、累代の宝物、神璽・宝剣・内侍所を具し奉(たてまつ)り、九重(ここのへ)の城都を出だす。之(これ)を政途に論ずるに、辞(コトニハ)前載に絶えたり。宜(よろ)しく彼(か)の道道諸国の押領使(あふりやうし)等に仰せて、謀逆の与力を速やかに追討せしめ、魁首(クハイしゆ)の輩を出だすべし。須(すべから)く不翅(ふシ)の賞に易(か)ふべし。者(てへ)れば、仰する所件(くだん)の如(ごと)し。宜(よろ)しく承知し、遅留すべからず。故(ことさら)に下す
寿永(じゆえい)二年十月廿一日 主典代(ツカサノカミ) 織部丞大江朝臣(あつそん)
左(と)ぞ書かれたる。
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十二 室山・水嶋合戦の事
伊予の守此れを賜つて、足利の八田(はつた)の判官代(はんぐわんだい)義清・宇野の矢平四郎行広、是(こ)の二人を大将軍と為(し)て、五千余騎を指(さ)し遣(つか)はす。源氏は備中国水嶋と云ふ所に牽(ひか)へたり。平家は讃岐(さぬき)の〔屋〕嶋に在(あ)り。源平海を隔てて〓(ささ)へたり。
潤十月一日、水嶋が津より小船一艘出だしたり。漁人(あま)の釣船かと見る程に、然(さ)は無(な)くして、平家の方より牒の使ひの船なりけり。此れを見て、源氏は船千余艘、纜(トモツナ)を解(と)いて、兼(か)ねて船を維(ツナ)ぎ干し上げたりけるを、俄(にはか)に纜(ともづな)を切つて、謳(をめ)き楽楽(ザヽ)めきて下しけり。
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源氏の大手の大将軍は八田(はつた)の判官代(はんぐわんだい)義清、搦手(からめで)の大将軍は宇野の矢平四郎行広なり。平家の大手の大将軍は新中納言知盛(とももり)・越前三位(さんみ)通盛(みちもり)、搦手(からめで)の大将軍は本三位中将(ほんざんみのちゆうじやう)重衡(しげひら)・能登守教経(のりつね)なり。平家の船は五百余艘なりけるを、二百艘は澳(おき)に引(ひか)へたり。三百艘をば百艘充(づつ)三手(みて)に分け、水嶋の門(と)へ指(さ)し廻し、源氏の船を漏(も)らさじと押し捲きたり。
能登守言ひけるは、「何(いか)にか軍(いくさ)は緩(ユル)なるぞ耶(や)。東国の者共に虜(いけど)らるな。源氏の船は一千艘、吾(われ)等が船は五百艘、所所(ところどころ)に分けては叶はじ。御方(みかた)の船を組め」とて、五百艘を押し合はせ、纜(ともづな)・舳綱(へづな)を組み合はせ、処々(ところどころ)に歩(あゆ)みの板を渡しければ、平平(へいへい)として陸地(くがち)の如(ごと)し。加様(かやう)に支度(シたく)して、時を作り矢合せして戦ひけり。遠き者をば此れを射、近き者をば此れを截(き)り、熊手に係(か)けて取るも有り、取られ引つ組んで海に入るも有り。思ひ思ひ心々(こころごころ)にぞ勝負(しようぶ)を為(し)ける。
源氏の大手の大将軍八田(はつた)の判官代(はんぐわんだい)義清は、身計(ばか)り八人小船に乗つて落ちける程に、平家の方より究竟(くつきやう)の水練(すいれん)三人、船より下りて波の底を突(ツイ)括(くぐ)り、敵(かたき)の船の縁(へり)に手〓(タぐり)付きて手を捧げ、船の縁を引き返しければ、八人ながら沈みけり。此れを見て、搦手(からめで)の大将軍宇野の矢平四郎行広は、散々に戦ひ、討ち死にしてぞ失せにける。大将軍討たれにければ、残る所の兵共(つはものども)、渚に船共を押し寄せ、落ち支度(したく)をぞ為(し)たりける。此れを見て、平家の方には、船の内に鞍置馬を用意為(し)たりければ、打(う)ち乗り打(う)ち乗り、船共渚へ押し寄せて、乗り傾けて雑(ざつ)と落とし、嘔(をめ)いて懸けたりければ、源氏の軍兵(ぐんびやう)面も合はせず皆落ちにけり。其れよりしてこそ平家に大勢著(つ)きにけれ。
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伊予守此れを聞いて太太(いとど)安からず、夜を日に継(つ)いで西国へ馳せ下る。
瀬尾(せのを)の太郎兼康は、去んぬる六月一日、加賀国(かがのくに)篠原の合戦の時、同国(どうこく)の住人蔵光(くらみつ)の三郎(さぶらう)成澄に虜(いけど)られ、其の後は木曾に随ひにけり。李子卿(リシケイ)が胡国に囚(とら)はれ、勇卿(ヨウけい)が漢朝に還(かへ)るが如(ごと)し。越王(ゑつわう)勾践(こうせん)の会稽山(くわいけいざん)の軍に負(やぶ)れて呉王夫差(ふさ)に仕へしは、是(こ)れ以つて同じ事なり。兼康は木曾に随ひ、夜は寝ず、昼は悲しみの涙を流し、弐心(ふたごころ)無(な)く仕へしも、是(こ)れ今一度故郷に皈(かへ)り、再び旧主(きうしゆ)を見奉(たてまつ)り、御方(みかた)の軍に交はり、源氏を射んとの謀(はかりこと)なり。
伊予守此れをば知らず、「汝は西国の者なれば、案内は知つたるらん。道知るべと為(し)て先に立て」とて、備前国船板山(ふなさかやま)にぞ下りける。「三日逗留(とうりう)有るべし」と云ひければ、兼康申しけるは、「其の儀ならば、兼康先立(さきだ)ち奉(たてまつ)つて、馬の草用意仕るべく候ふ」と申しければ、「神妙(しんべう)なり。疾疾(とくとく)先立(さきだ)ちて、其の用意を為(せ)よ」と言ひければ、小太郎兼信・郎等宗俊主従三人、暇(いとま)を賜つて下りけり。蔵光(くらみつ)に道にて云ひける様は、「御辺(ごへん)は兼康程の者を虜(いけど)りて、今まで勧賞(けんじやう)無(な)し。兼康が本領(ほんりやう)妹尾(セノを)は究竟(くつきやう)の所なり。所望申して見給ふ程ならば、此(こ)の次(つい)でに同道(どうだう)して為(し)居(す)ゑ奉(たてまつ)らん」と申しければ、蔵満(くらみつ)現(げ)にもと思ひて、所望の間、相違(さうゐ)無(な)く給はりたり。
急(やが)て兼康と打(う)ち連(つ)れ、備中の妹尾(セノを)に越えけるに、其の夜は漸(やうや)く此れを扶持(もてナシ)て、明くる日は湯屋を誘(コシら)へて、湯を立てて沐浴(もくよく)の由(よし)にて、物の具したる武者十人計(ばか)り湯屋に打(う)ち入り、此れを討つてんげり。其の後兼康申しけるは、「木曾既(すで)に備前の船坂山(ふなさかやま)に下る由(よし)聞ゆるに、平家に志(こころざし)を思ひ奉(たてまつ)る者は一矢(ひとや)射よ」とぞ触れにける。此れを聞いて、志(こころざし)有る者共、物の具は無ければ、〓(クサリ)腹巻を綴り著(き)、或(あるい)は布小袖に詰紐(つめひも)を結ひ、裸〓(シツコ)を掻き負ひ掻き負ひ、歩武者(かちむしや)こそ二三百人出で来たれ。兼康彼等を相(あひ)具し、備前・備中の堺福龍寺(ふくりゆうじ)に城郭を構へ、木曾を射んとぞ支度(したく)しける。
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然(さ)れども、後ろの山路へ差(さ)し廻したる三千余騎、篠井(ささい)へ雑(ざつ)と落としければ、妹尾の太郎兼康を始めと為(し)て三百余人、思ひ切つて闘へども、大勢に逼(せ)め立てられて、遂(つひ)に叶はず破(やぶ)れにけり。妹尾の太郎は小太郎を捨てて落ちけれども、恩愛(おんあい)(ヲンあい)の道は力及ばぬ事なれば、行きも遣(や)らず覚えければ、一所(いつしよ)にて死なんとぞ思ひける。「屋嶋へ参つて、『北国の軍に木曾が為(ため)に破られて候へば、小太郎と一所(いつしよ)にて何(いか)にも成らんと存じ候へども、此(こ)の日来(ひごろ)朝夕(あさゆふ)祇候(しこう)仕りし事を申さんが為(ため)に参つて候ふ。』今は思ふ事無(な)し」とて、十余町馳せ返つて、小太郎が足を病みて居たる所に行き合ひけり。大木を木楯(きだて)にして待ち懸けたり。
木曾の方には根井(ねのゐ)の小矢太近行、三百余騎にて寄せ懸けたり。「瀬尾(せのを)の太郎兼康此(こ)こに在(あ)り」とて、指(さ)し詰め引き詰め散散に此れを射ければ、十三騎に手を負はせ、敵(かたき)七騎(しちき)を打(う)ち取りけり。矢種(やだね)已(すで)に尽きければ、自害(じがい)してぞ死ににける。子息(しそく)小太郎(こたらう)兼信(かねのぶ)も散散(さんざん)に闘(たたか)ひて、同(おな)じく自害(じがい)して失せにけり。
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然(さ)る程に、京(きやう)の留守に置いたりける樋口(ひぐち)の次郎兼光、早馬を立てて申しけるは、「十郎蔵人(くらんど)殿こそ、院(ゐん)の切人(きりうど)と為(し)て、守殿(かうのとの)を討ち奉(たてまつ)らんと構(かま)へられ候へ」と申しければ、伊予守大きに驚き、平家を打(う)ち捨てて都へ馳せ上る。木曾登ると聞えければ、十郎蔵人(くらんど)、樋口を夜打(う)ちにして西国へ下り、木曾無勢(ぶぜい)にて軍(いくさ)為(シ)疲れたらん時、寄せ合せて此れを討たんと内議(ないぎ)したりけるが、兼光に覚られて、支度(したく)相違(さうゐ)したりしかば、夜深(ふ)けて都を打(うつ)立(た)ち、千余騎にて葛河(かつらがは)の縁(ハタ)に引(ひ)かへたり。木曾已(すで)に都へ打(う)ち入る由(よし)聞えければ、行家指(さ)し違へて、摂津国を通り、播磨へ趣きけり。
源氏帰洛(落)の間、平家勝ちに乗つて推(お)して上る処に、十郎蔵人(くらんど)、室坂に行き向かふと聞えければ、平家討手(うつて)を五手(ごて)に分けて、先陣(せんぢん)は越中の次郎兵衛(じらうびやうゑ)盛次(もりつぎ)千余騎なり、二陣(にぢん)は上総(かづさ)の五郎兵衛忠光一千騎、次は飛彈(ひだ)の三郎左衛門(さぶらうざゑもん)景経(かげつね)一千騎、次は本三位(ほんざんみの)中将(ちゆうじやう)重衡(しげひら)二千騎、又次は新中納言知盛(とももり)五千騎にて、室坂へ歩ませ向かふ。源氏の千騎は只(ただ)一手にて向かひけり。
平家の先陣(せんぢん)矢合せして戦ひけるに、盛次(もりつぎ)しばし支へて引き退く。行家二陣(にぢん)へ馳せ向かひけるに、忠光禦(ふせ)ぎ戦ひつつ、是(こ)れも支へて目手(めて)の麓へ馳せ下る。源氏此れを係(か)け破(やぶ)つて次(つぎ)の陣へ馳せ向かひ、散々に戦へども忍びず、ひき退きぬ。
平家は室山・水嶋二箇度(にかど)の軍に勝ちてこそ、会稽の恥をば雪(すす)ぎけれ。
新中納言福原に陣を取つて、屋嶋へ申されけるは、「源氏の両大将、行家をば責め伏せ候ひぬ。義仲は無勢(ぶぜい)にて候へば、都にて之(これ)を責め落とし、君を京へ皈(かへ)し入れ奉(たてまつ)らん」と、屋嶋へ申されければ、上下(じやうげ)の男女悦(よろこ)び合へり。
又僉議(せんぎ)有りけるは、「義仲・行家を打(う)ち落としたりとも、頼朝東国より差(さ)し代(か)へ代官共を登せんには、敵(かたき)尽くる期(ご)有るべしとも覚えず。一旦都へ責め入るとも臆治(ヲクジ)無し。只(ただ)勢を揃へ兵(つはもの)を労りて、後日(ごにち)の合戦を相(あ)ひ待つべし」と、大臣殿(おほいとの)返答(へんたふ)有つて、屋嶋へ漕ぎ還(かへ)り給ひぬ。
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十三 木曾、京都にて狼籍を致す事
設(たと)ひ源氏の世に成(な)つたりとも、其の類(たぐ)ひならざらん者は何の悦(よろこ)びか有(あ)るべきに、人の心の所詮(しよせん)無さは、平家方の弱ると聞いては内内此れを悦(よろこ)び、源氏の勁(つよ)ると聞いては興に入(い)つて此れを悦(よろこ)びけり。
平家西国へ落ちしかば、其の騒ぎに引(ひ)かれて、安き心も無(な)し。況(いはん)や北国の夷(えびす)共(ども)京に入つて後は、少しも京中穏やかならず。家家を追捕(ついふく)し、資財雑具(ざふぐ)を奪ひ取りければ、院より壱岐判官(はんぐわん)朝安(ともやす)を御使ひと為(し)て、狽籍止(とど)むべき由(よし)、木曾が許(もと)へ仰せ下されけるに、其の御返事をば申さずして、「耶(や)給会(たまえ)、朝安、和殿(わとの)を京中に鼓判官(はんぐわん)と云ふは、人の為(ため)に撃たるるか、張らるるか」と云ひければ、朝安返事も無(な)くて苦笑ひしつつ、皈参して、「義仲は嗚呼(をこ)の者にて候ひけり。向かひ様(ざま)に右(と)こそ申して候ひつれ。勢を賜つて追討せん」とぞ申しける。此(こ)の朝安は、究竟(くつきやう)の鼓の上手にて雙(なら)び無ければ、世間の人「鼓の判官(はんぐわん)」とぞ申しける。木曾此れを聞いて、加様(かやう)に申しけるとか耶(や)。
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凡(およ)そ木曾は遠国(をんごく)の者とは云ひながら、常偏(ひたすら)の夷(えびス)なりければ、院宣をも事ともせず、散々に振舞(ふるま)ひければ、平家には事の外に代(か)へ劣りしてぞ覚食(おぼしめ)されける。源氏は白験(しろじるし)なり、平家は赤旗(あかはた)赤験(あかじるし)なり。平氏(へいじ)を源氏に引き代(か)へて、法皇持労(モチアツカ)うて御坐(おはしま)しけるを、京童部(きやうわらんべ)歌に読みて立てたりけるは、
「赤裁出(サイイテ)白手(タナ)巾取代天 頭(カシラ)巻小入道(にふだう)哉
〈赤さいて白たなごひに取り代(か)へて 頭に巻ける小人道かな〉
木曾必ずしも下知(げぢ)するとも無けれども、〓(サヘ)行く冬の中の月の比(こロ)、下部(しもべ)の者共、山山寺寺に乱れ入り、堂社(だうしや)をも壊し焼き、仏をも破り焼きければ、弥(いよいよ)狼藉止(や)まざりけり。朝安頻(しき)りに之(これ)を訴へ申しける間、墓々(はかばか)しく人にも仰せ合はせられず、〓々(ひしひし)と事定りにけり。
然(しか)る間、宮寺(みやでら)の長吏(ちやうり)に仰せて、悪僧等を召し集めけり。日比(ひごろ)義仲に随ひたる源氏共、仰せを奉(うけたまは)つて、吾(われ)も吾(われ)もと参りけり。凡(およ)そ諸寺諸山(しよさん)の別当(べつたう)・長吏(ちやうり)に仰せて、兵共(つはものども)を召されけり。北面(ほくめん)の者共・若殿上人・諸大夫(しよだいぶ)何(ナンド)は、面白き事に思ひて、興(きよう)に入りたりけり。長(おとな)しき人々、物の理(ことわり)を弁(わきま)へたる輩は、「此(こ)は浅猿(あさまし)き事かな。天下の大事を出ださん」と歎き合へり。
法住寺殿(ほふぢゆうじどの)には城郭を構へ、兵共(つはものども)参りつつ、松の葉を以つて御方(みかた)の笠注(かさじるし)と為(す)。朝安は御方(みかた)の大将軍と為(し)て、門外(もんぐわい)に床子(しやうじ)に尻懸けて、赤地の錦の鎧直垂(よろひびたたれ)に、脇楯(わいだて)計(ばか)りを為(し)て、廿四差いたる征矢(そや)を一筋(ひとすぢ)抜き出だして、礫鏘(ザラリ)礫鏘と爪遣(や)りて、「哀(あは)れ、白物(しれもの)の頸の骨を、此(こ)の矢を以つて、只今(ただいま)射串(いぬ)かばや」とぞ〓(ののし)りける。又万(よろづ)の大師の御影(みえい)を書き集め、四方(しはう)の陣(ぢん)に放係(ヒロゲか)けけり。身方(みかた)に語(かた)らふ所の者は、堀川(ほりかは)の商人(あきんど)・町の冠者原(くわんじやばら)・向(む)かひ礫(ツブテ)・〓(インヂ)・乞食(こつじき)法師原共(ほふしばらども)の合戦(かつせん)の様(さま)も何(いつ)か為(し)習(なら)ふべき、動(ややもすれ)ば逃足(にげあし)をのみ履(ふ)む物共ぞ多(おほ)く参り籠もりたりける。物の要に立つべき者は一人も無(な)かりけり。
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木曾之(これ)を聞いて申しけるは、「平家謀叛を発(おこ)して、君を悩まし世を乱す。義仲之(これ)を責め落として、君の御代に成(な)し奉(たてまつ)る。豈(あに)奉公(ほうこう)に非(あら)ずや。然(しか)るに何の罪科に因(よ)つてか誅(ちゆう)さるべき。是(こ)れは只(ただ)鼓の判官(はんぐわん)女(め)が讒言なり。安からぬ者かな。叱耶(シヤ)鼓女(つづみめ)を打(う)ち破(やぶ)つて捨てん」と云ひければ、樋口の次郎兼光・今井の四郎兼平申しけるは、「十善の帝王に向かひ奉(たてまつ)つて、争(いかで)か弓を引きたまはん。只(ただ)何度(いくたび)なりとも誤たぬ由(よし)を陳じ申して、頸を延べて参り給ふべく耶(や)候ふ覧(らん)」と申しければ、「義仲、年来(としごろ)日比(ひごろ)度々(どど)の合戦に逢ふといへども、未(いま)だ一度も敵(かたき)に後ろを見せず。縦(たと)ひ十善の帝王にて御坐(おはしま)すとも、冑を抜ぎ弓を弛(はづ)いて降人に参るべしとも覚えず。敵人(かたき)鼓女(つづみめ)に頸を切られなば、悔ゆとも叶ふべからず。今度(こんど)においては最後の軍(いくさ)為(た)るべし」と申しければ、朝安此れを
聞いて、太太(いとど)瞋(いか)りを作(な)して、急ぎ追罸(ついばつ)の由(よし)を申す。
朝安は錦の鎧直垂(よろひびたたれ)に、鎧をば著(き)ず、冑計(ばか)りを著(き)て、四天王(してんわう)の像を絵に画きて冑に押し、左の手に鉾を突き、右の手には金剛(こんがう)の鈴(れい)を振り、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の四面の築垣(ついがき)の上に登りて、事を成敗しけり。時々(ときどき)は〓[イ+舞](まひ)何(ナンド)を〓[イ+舞](ま)ひけり。見る人皆「朝安には天狗(てんぐ)付きにける」とぞ申しける。又諸大師の御影(みえい)共(ども)を山寺(やまでら)より借り持(も)ち来て、築垣(ついがき)の上にぞ張り並べたりける。尾籠敷(をこガマしク)ぞ覚えし。
P2300
然(さ)る程に、木曾が軍(いくさ)の吉例には、陣を七手に分けければ、末は一手に行き相(あ)ひけり。先づ今井の四郎を大将軍と為(し)て、三百騎を以つて御所の東、河原〔坂〕(かはらざか)の方へ押し廻し、残り六手(むて)は手々(てんで)に成るも、其の勢一千余騎には過ぎざりけり。
十一月十九日(じふくにち)辰(たつ)の尅(こく)に、木曾已(すで)に打(う)つ立つ由(よし)聞えければ、大将軍朝安騒ぎののしりける程に、軈(やが)て時の声を作り係(か)けて、四面の門際まで逼(せ)め寄せて戦ひけるに、朝安中しけるは、「汝等、忝(かたじけな)くも十善の帝王に向かひ奉(たてまつ)つて、争(いかで)か弓を挽(ひ)き矢を放つべき耶(や)。宣旨を読み懸けたらんには、枯れたる木草も花笑(さ)き実(み)成るなり。何(いか)に況(いはん)や人間(にんげん)において乎(ヲヤ)。汝等が放たん矢は、還(かへ)つて己等(おのれら)が躬(み)に中(あた)るべし。是(こ)れより放つ矢は、尖矢(とがりや)ならずとも、己等(おのれら)が躯(み)に中(あた)るべし。此(こ)の旨を心得(え)よ」と云ひければ、木曾〓(あざわら)つて、「然(さ)な言はせそ」とて、謳(をめ)いて係く。
然(しか)る間、御所の北の在家に火を懸けけり。境節(をりふし)北風冽(はげ)しくして、猛火(みやうくわ)を御所に吹き覆(おほ)ひて、黒煙(くろけぶり)唱立(おびたた)しく充(み)ち満ちたり。御所の後ろの新熊野(いまぐまの)の方より、今井の四郎三百余騎にて時を作つて寄せ係(か)けたりければ、参り籠(こも)られたりける公卿(くぎやう)・殿上人・山山寺寺の僧徒・駈武者(かりむしや)共(ども)、肝(キモ)魂も身に副(そ)はず、弓を彎(ひ)き箭(や)を放つ越(マデ)は思ひも寄らず。西には大手逼(せ)め向かふ、北よりは猛火(みやうくわ)来たる。後ろには搦手(からめで)廻(まは)りて待ち懸けければ、南面の門よりぞ人人多く迷ひ出でられける。西面八条坊門(はつでうばうもん)の主計(シユケノ)門をば、山法師(やまほふし)之(これ)を囲めたりけるが、楯(たて)の六郎親忠懸け破(やぶ)つて入りにければ、築地(ついぢ)の上にて金剛(こんがう)の鈴(れい)を振りつる朝安も、人より先に落ちにけり。
七条の末には、摂津国の源氏多田(ただ)の蔵人(くらんど)・豊嶋(てしま)の冠者(くわんじや)・太田の太郎固めたりけるが、其れも叶はで、七条を西へぞ落ちてける。天台座主明雲(めいうん)は、馬に乗らんと欲(おも)ひけるが、腰の骨を射居(す)ゑられて立(た)ちも挙(あが)りたまはず、死に給ひぬ。寺の長吏(ちやうり)八条の宮は、或(あ)る小屋(こや)に立(た)ち入らせたまひけるを、打(う)ち臥(ふ)し奉(たてまつ)り、御頸を取りけり。
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法皇は、御輿(みこし)に召して南面の門より出でさせ給ひけるを、武士共責め懸けければ、御力者(おんりきしや)御輿(みこし)を捨て奉(たてまつ)りて皆逃げ失せぬ。公卿(くぎやう)・殿上人も立(た)ち隔てられ、散散に成りにけり。
豊後(ぶんご)の少将(せうしやう)宗長計(ばか)りぞ候はれける。楯(たて)の六郎親忠が弟の屋嶋(やじま)の四郎行綱(ゆきつな)、法皇を取り奉(たてまつ)りて、五条の内裏へ渡し奉(たてまつ)る。
主上(しゆしやう)には七条の侍従信清・紀伊守範光(のりみつ)計(ばか)り付き奉(たてまつ)りて、南面の池なる御船に召して、指(さ)し除御(ノケ)坐したりけれども、武士共矢を放つこと雨の如(ごと)し。御船底に臥(ふ)せ奉(たてまつ)りて、夜に入りて坊城殿(ばうじやうどの)へ渡し奉(たてまつ)る。法住寺(ほふぢゆうじ)の御所より始めて、人人門門を並べ、軒を輾(キシ)りて造られたりける宿所(しゆくしよ)宿所(しゆくしよ)、一宇も残らず焼けにけり。
播磨の中将(ちゆうじやう)正方は、楯(たて)の六郎之(これ)を生け取りて誡(いまし)め置き奉(たてまつ)る。越前守正信は、後ろより射倒されて焼け死に給ふも無懺(むざん)なる。刑部卿(ぎやうぶきやう)の三位(さんみ)頼助(よりすけ)は、〓(あわ)て迷ひ逃げ出でけるが、七条河原にて上下(じやうげ)の衣裳を剥がれ、烏帽子(えぼし)剰(サヘ)打(う)ち落とされければ、本鳥(もとどり)放ちに真〓(まはだか)にて立たれけるを、越前の法橋(ほつけう)の縁に触れたる人の中間(ちゆうげん)法師(ほふし)、之(これ)に付き奉(たてまつ)りけるが、我が著(き)たる衣を脱いで著(き)せ奉(たてまつ)り、六条を西へ向いてぞ御坐(おはしま)しける。
凡(およ)そ男も女も衣裳皆剥ぎ取られて赤裸(あかはだか)なりけるを、心憂(こころう)しとも云ふ計(はか)り無(な)し。名を惜しみ恥をも知る程の人は、皆態(わざ)と打たれて失せにけり。甲斐(かひ)無(な)き命生きたる人人は、迯(に)げ隠れて都の外へ出で、山林(さんりん)にぞ交はりける。
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廿日卯の尅(こく)に、木曾、六条河原に出でて、昨日の軍に切る所の頸共、竹(タケ)を結(ユイ)渡して、之(これ)を懸け並べたり。一千余騎の馬の鼻を東へ向けて、三度時を作りけり。七重(ななへ)八重(やへ)に懸け雙(ナラ)べたりける首の数、三百四十とぞ聞えし。其の中に、明雲(めいうん)僧正の頸と八条の宮の御頸をば一所(いつしよ)にぞ懸けたりける。浅猿有(あさましカリ)し事共なり。木曾は昨日の軍に打(う)ち勝つて、今日(けふ)は頸共を懸け、六条河原より立(た)ち返りて、今は万事(ばんじ)意(こころ)の如(ごと)くにて、「内に成らんとも院に成らんとも我が進退(しんだい)なり。但(ただ)し内は童姿(わらはすがた)なり。院は法師(ほふし)なり。何(いづ)れも心に合はず。関白(くわんばく)に成らん」と云(い)へば、郎等共申しけるは、「藤原氏(ふぢはらうぢ)の者ならでは、関白(くわんばく)には成らぬ事にて候ふ」と申しければ、「然(さ)らば院の御厩(みうまや)の別当(べつたう)に成らん」とて、即(やが)て彼(か)の職に成りにけり。
廿一日、摂政(せつしやう)を止(とど)め奉(たてまつ)る。凡(およ)そ文官(ぶんくわん)・武官(ぶくわん)・諸国の受領(じゆりやう)、都合四十九人解官(げくわん)せられけり。実(まこと)に木曾が悪行(あくぎやう)は、平家の所行(しよぎやう)にも越えたりけり。
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平家都を落ちぬと聞きて、鎌倉殿より千人の兵(つはもの)を差(さ)し副(そ)へて上(のぼ)せられけり。弟二人は大将軍為(た)り。境節(をりふし)木曾軍(いくさ)為(し)て、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)を焼きける最中(もなか)なり。東国より勢登ると聞えければ、今井の四郎を差(さ)し遣(つか)はして、鈴賀(すずか)・不破(ふは)の二つの関を固むとぞ風聞(ふうぶん)しける。御曹司達は熱田の大宮〔司〕(だいぐうじ)の許(もと)に逗留(とうりう)して、鎌倉殿へ申されければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)大きに驚いて言ひけるは、「縦(たと)へば木曾奇怪(きつくわい)ならば、頼朝に仰せてこそ誅(ちゆう)せらるべきに、左右(さう)無(な)く朝安合戦を申し行(おこな)ふ条、意得(こころえ)ね」と、腹立(ふくりふ)せられけり。
然(しか)るに、壱岐の判官(はんぐわん)、木曾が悪行(あくぎやう)の事を申さんが為(ため)に、鎌倉へ下りて、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の許(もと)へ参りけり。人人御気色(ごきしよく)の程を知つて申しも入れざりければ、御侍(さぶらひ)に推参(すいさん)したりけるを、簾中(レンちゆう)より兵衛佐(ひやうゑのすけ)之(これ)を見出だして、子息(しそく)左衛門督(さゑもんのかみ)頼家(よりいへ)の未(いま)だ少(をさ)なく御坐(おはしま)しけるに、「良(やや)、恰(アノ)朝安は究竟(くつきやう)の比布(ひふ)の上手と聞く。是(こ)れを以つて比布(ひふ)を突くべしと云(い)へ」とて、砂金(しやきん)十二両若君に奉(たてまつ)り給ひければ、若公(わかぎみ)此れを持(も)ちて、「朝安、比布(ひふ)有るべし」と言へば、朝安此(こ)の砂金(しやきん)を賜つて、「砂金(しやきん)は天下の財(たから)の中には最上(さいじやう)なり。争(いかで)か輙(たやす)く玉には取るべき」とて、之(これ)をば懐中(くわいちゆう)し、石を三つ取り持(も)ちて、目より下に取り持(も)ちて、数百千(すひやくせん)比布(ひふ)を片手にて突き左右(さう)
の手にて突き、乱〓(らんぶ)しつつ、「応」と云ふ声を挙げて、一時計(ばか)り突きければ、参り合ひたる大名小名(せうみやう)、各(おのおの)興(きよう)に入つて見物す。其の時対面せられたり。朝安、木曾が合戦の次第を語りけり。然(さ)れども兵衛佐(ひやうゑのすけ)、先立(さきだ)ちて意得(こころえ)てんげれば、返事も無かりけり。朝安、身痿(スク)みて都へ登りけり。
人(ひと)は能(のう)は有るべかりけるものかな。朝安(ともやす)においては、指(さ)しも遺恨(いこん)深く覚(おぼ)されけるに、比布(ひふ)故(ゆゑ)にぞ兵衛佐(ひやうゑのすけ)対面(たいめん)せられたりける。
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十四 木曾追討の為(ため)に、義経・範頼(のりより)、瀬田・宇治に向はるる事
元暦元年正月一日、院の御所は六条西の洞院(とうゐん)の大膳大夫(だいぜんのだいぶ)業忠が宿所(しゆくしよ)なり。御所の躰(てい)然(しか)るべからざりける間、拝礼(はいれい)行はれず。院の拝礼(はいれい)無かりければ、殿下(てんが)の拝礼(はいれい)も行はれず。
平家は讃岐国(さぬきのくに)屋嶋の磯に春を迎へて、元日(ぐわんにち)元三(ぐわんざん)の儀式事宜(よろ)しからず。先帝〈 安徳(あんとく)天皇 〉渡らせ御座(おはしま)せば、主上(しゆしやう)と仰ぎ奉(たてまつ)る。然(さ)れども四方拝(しはうはい)も無(な)し、節会(せちゑ)も行はれず、〓(マナ)をも奏せず。世乱れたりしかども、洛(みやこ)にては石流(さすが)に右(かく)は無かりし者(モノ)をとて、太太(いとど)古郷(ふるさと)の恋しさぞ思ひ勝りける。青陽(せいやう)の春も来たり、浦吹く風も和(やは)らかに、日影閑(のど)かに成り行く。東岸(とうがん)西〔岸〕(せいがん)の柳遅速(ちそく)を待ち、南枝北枝の梅の開落(かいらく)を詠(よ)む比(ころ)なれども、此(こ)の人々は国に閉ぢ籠(こ)められて、雪山(せつせん)の寒苦鳥(かんくてう)の消えぬ雪に埋もれて歎く覧(らん)も、右(かく)やと覚えて哀れなり。然(さ)る間(ママ)に、洛(みやこ)には四季(しき)の境節(をりふし)に付けて、扇合せの興(きよう)、鞠(まり)・小弓の遊び様々(さまざま)なり。加様(かやう)の事共思食(おぼしめ)し出だしてぞ、長き日を最
々(いとど)暮らし兼(か)ね給ひける。
同じく十日、〈 木曾 〉左馬頭(さまのかみ)義仲、院の御所へ参つて、平家追討の為(ため)に西国へ発向すべき由(よし)奏聞す。之(これ)に依(よ)つて、「本朝に神の代より伝はりたる三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)有り。所謂(いはゆる)神璽(しんじ)・宝剣・内侍所なり。異故(コトゆゑ)無(な)く返し入れ奉(たてまつ)るべし」と仰せ下されければ、畏(かしこま)つて承(うけたまは)り、罷(まか)り出でぬ。
既(すで)に今日(けふ)門出(かどいで)とぞ聞えける。然(さ)れども、義仲が悪行(あくぎやう)身に余る由(よし)、北面(ほくめん)の下臈(げらふ)源判官(はんぐわん)季俊(すゑとし)を以つて、関東(くわんとう)の頼朝に仰せ下されければ、大きに驚いて、舎弟(しやてい)蒲の冠者(くわんじや)範頼(のりより)・九郎冠者(くわんじや)義経を大将と為(し)て、宗(むね)との兵(つはもの)三十人、其の勢六万余騎を打(う)ち登す。兵衛佐(ひやうゑのすけ)、兵(つはもの)一人充(づつ)に向かつて、「今度(こんど)は汝を恃(たの)むぞ」と曰(のたま)へば、各々(おのおの)吾(われ)一人して高名為(せ)んとぞ思ひける。
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然(さ)る程に、東国より蒲の御曹司範頼(のりより)・九郎御曹司義経二人を大将軍と為(し)て、数万騎の軍兵(ぐんびやう)を差(さ)し上(のぼ)せらるる由(よし)聞えけり。平家は西国より責め登る。木曾は東西に詰められて為方(せんかた)無(な)く、一(ひと)つに成つて源氏を責むべき由(よし)、讃岐(さぬき)の屋嶋へ申しけれども、頼朝が思はん事も恥かしければ、「御志(こころざし)有らば、弓を弛(はづ)して降人に参れ」とて、用ゐられず。平家は木曾が悪行(あくぎやう)を聞き伝へて、「君も臣も山も奈良も、此(こ)の一門を背(そむ)いて源氏の世に成(な)したれども、然(さ)も有るか」と、大臣殿(おほいとの)より始め奉(たてまつ)りて、興に入りてぞ笑はれける。
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然(さ)る程に、義仲が濫悪(らんあく)を聞いて、東国より兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝、木曾を追討すべき由(よし)、早馬を立てて、範頼(のりより)・義経の方へ云ひ遣(つか)はされけり。木曾又此(こ)の由(よし)を聞いて、郎等共を分け遣(つか)はして之(これ)を囲む。根井(ねのゐ)の小矢太(こヤた)親行(ゆきちか)・其の子楯(たて)の六郎親忠・方等(かたら)の三郎(さぶらう)先生(せんじやう)義弘、此れ等三人を大将軍と為(し)て、五百余騎にて宇治を固めに之(これ)を指(さ)し遣(つか)はす。今井の四郎兼平・屋嶋の四郎行綱(ゆきつな)・落合(おちあひ)の五郎信光等三人を大将軍と為(し)て、五百余騎にて瀬田を固めに之(これ)を指(さ)し遣(つか)はす。両方共に橋を引いて、向かふ敵(かたき)をぞ待ち懸けける。
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寿永(じゆえい)三年正月廿日寅卯(とらウノ)時に、東国の軍兵(ぐんびやう)両方より打(う)ち入りけり。
瀬田の大手の大将軍には蒲の冠者(くわんじや)範頼(のりより)・武田の太郎信義・加賀見(かがみ)の次郎遠光・子息(しそく)小笠原(をがさはら)の次郎長清・一条(いちでう)の次郎忠頼・板垣(いたがき)の二郎兼信・武田の兵衛有義・伊佐和(いさは)の五郎信光、侍(さぶらひ)大将軍には千葉介(ちばのすけ)常胤(つねたね)・嫡子(ちやくし)に太郎胤政・孫の小太郎成胤(しげたね)・同じく平次(へいじ)常秀・相馬の次郎師常・大須賀(おほすが)の四郎胤信・同じく五郎胤通・同じく六郎胤頼・舎弟(しやてい)椎名(しひな)の五郎胤光・子息(しそく)の次郎有胤・土肥(とひ)の次郎実平・稲毛(いなげ)の三郎(さぶらう)重成(しげなり)・飯谷(はんがへ)の四郎重朝(しげとも)・森の五郎行重(ゆきしげ)・小山(をやま)の小四郎(こしらう)朝正(ともまさ)・小野寺(をのでら)の太郎道綱・佐貫(さぬき)の四郎大夫(たいふ)弘綱(ひろつな)・猪股(ゐのまた)の金平六(こんぺいろく)範綱(のりつな)・中村(なかむら)の小三郎(こさぶらう)時綱・庄の三郎(さぶらう)忠家・同じく四郎高家・同じく五郎弘方(ひろかた)・山名(やまな)・薩見(さツミ)の輩
を始めと為(シ)て、三万五千余騎とぞ聞えし。
搦手(からめで)の宇治の大将軍には九郎冠者(くわんじや)義経・安田の三郎(さぶらう)義定・大内(おほうち)の太郎維義(これよし)・田代の冠者(くわんじや)信綱(のぶつな)、侍(さぶらひ)大将軍には三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)・佐原(さはら)の十郎義連(よしつら)・渋谷(しぶや)の庄司(しやうじ)重国(しげくに)・同じく右馬允(うまのじよう)重助・畠山(はたけやま)の次郎重忠・同じく長野(ながの)の三郎(さぶらう)重清(しげきよ)・熊替(くまがへ)の次郎直実(なほざね)・平山(ひらやま)の武者所季重・槽谷の藤太(とうだ)有季・梶原(かぢはら)の平三景時(かげとき)・子息(しそく)源太(げんだ)景季・佐佐木(ささき)の四郎高綱、此れ等を始めと為(し)て、二万五千余騎、伊賀(いが)・伊勢を経て宇治路へ向かふとぞ聞えし。
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十五 高綱、宇治河先陣(せんぢん)の事
然(さ)る程に、鎌倉殿に磨墨(スルスミ)・生逸(いけズキ)とて、秘蔵(ひさう)の御馬(おんうま)有り。中にも生逸(いけずき)は、墨栗毛なる馬の、八寸(やき)余りなるが、下尾(しタを)白く、人をも馬をも食ひける間、生食(いけズキ)とぞ申しける。雙(なら)び無(な)き馬なりければ、一の御厩(みうまや)に立てられて秘蔵(ひさう)せられけるを、蒲の御曹司申されけれども給はず。梶原(かぢはら)の源太(げんだ)申しければ、「然(しか)るべしといへども、自然(しぜん)の事も有らば、頼朝之(これ)に乗つて何(いづ)くへも向かはんと欲(おも)ふ。然(しか)る間献(たま)はぬぞ。是(こ)れとても劣らぬ馬ぞ。之(これ)に乗れ」とて、磨墨と云ふ馬の、太く逞(たくま)しきが、尾髪(をかみ)飽(アク)まで足(た)り、七寸(ななき)に余りけるを梶原(かぢはら)に給ふ。梶原(かぢはら)此れを給はつて、「何(いづ)れにても有れ、申す所空しからねば面目(めんぼく)なり」とて、罷(まか)り出でぬ。
又佐佐木(ささき)の四郎高綱、御前に参つて申しけるは、「今度(こんど)宇治橋定めて引(ひ)かれて候ふ覧(らん)。馬無(な)くて候へば、何(いか)に為(し)て先懸け仕るべしとも覚えず候ふ。生食(いけずき)を賜(たま)はつて、真先(まつさき)係(か)け候はばや」と申す。鎌倉殿言(のたま)ひけるは、「汝が父佐々木(ささき)の源三秀義(ひでよし)より奉公(ほうこう)他に異なれりと思食(おぼしめ)さるる旨有れば、是(こ)れは先に蒲の冠者(くわんじや)と梶原(かぢはら)の源太(げんだ)と申しつるに給はねども、汝が申せば給ふなり。定めて源太(げんだ)之(これ)を聞き、恨むる旨有りなんと覚えたり。其の旨存知すべし」とて、給はつてんげり。
佐佐木(ささき)の四郎高綱思ひけるは、「御舎弟(しやてい)蒲の御曹司と一の仁(じん)梶原(かぢはら)の源〔太〕にも給はぬを、高綱之(これ)を給はる事の有り難さよ。有彼(かからん)主の為(ため)に命を捨てんは、何(なじ)かは惜しかるべき」と欲(おも)ひければ、高綱申しけるは、「死にたりと聞食(きこしめ)され候はば、人に先んぜられたりと思食(おぼしめ)さるべく候ふ。生きたりと聞召(きこしめ)され候はば、先陣(せんぢん)仕りたりと思食(おぼしめ)さるべく候ふ」と、語(ことば)を放つて、鎌倉殿の御前を立(た)ちにけり。
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然(しか)るに、足柄(あしがら)を越ゆる程に、道極(きは)めて狭し。心は先にと早れども、馬次第に打(う)ちけるに、駿河国浮嶋が原に打(う)ち出でけり。南は海を限り、北は沼を限り、打(う)ち弥(ヒロ)げてぞ行きける。景季、三嶋(みしまの)大明神に詣で、「願はくは、今度(こんど)弓矢の名を揚げさせ給はば、七番の笠懸(かさがけ)を射ん」と祈念して、浮嶋が原に打(う)ち出で、佐殿(スケどの)より給はつたる摺墨(するすみ)に、小文貝(こあやがひ)の鞍に燃え立つ程の鞦(しりがい)懸け、舎人(とねり)六人に引(ひ)かせ、「吾(われ)より外に誰かは御馬(おんうま)を給はるべき」と思ふ処に、件(くだん)の馬を、佐々木(ささき)の四郎、舎人(とねり)八人に引(ひ)かせて、引つ懸け引つ懸け打(う)ち出でたり。梶原(かぢはら)此れを見て、「恰耶(アハや)、景季の申すには惜しませ給ひつる生食(いけずき)を、誰か賜つたる覧(らん)。是(こ)は安からず」と欲(おも)ひて、「誰(た)が御馬(おんうま)ぞ」と問ふに、「佐佐木(ささき)殿の御馬(おんうま)なり」と申す。「佐々木(ささき)とは何(いづ)れぞ。」「四郎殿の御馬(おんうま)なり」と
申す。源太(げんだ)之(これ)を聞いて欲(おも)ひけるは、「同じ侍(さぶらひ)に、景季が先に之(これ)を申すに給はらで、覚食(おぼしめ)し抜いて、佐々木(ささき)の四郎に給ひぬるこそ恨めしけれ。此れ程の弐心(ふたごころ)御坐(おはしま)さん主を憑(たの)み奉(たてまつ)つても甘従(いかんせん)。口惜しくも思食(おぼしめ)し落とされたり。平家に組んでこそ死ぬべけれども、思ひの外に、是(こ)こにて鎌倉殿の惜しみ思食(おぼしめ)されたる佐々木(ささき)の四郎と刺し違へて、一度に死んで、鎌倉殿に損取らせ申さん」とて、待ち懸けたり。然(さ)る程に、佐々木(ささき)の四郎程無(な)く打(う)ち出でたり。梶原(かぢはら)打(う)ち寄つて、「如何(いか)に佐々木(ささき)殿、其の御馬(おんうま)は給はられたるか」と云ひければ、「恰(あは)れ、鎌倉殿の『存知せよ』と仰せられつるは是(こ)こぞかし」と心中に案じ出だして、「左右(さう)無(な)く『給はつたり』と云ひては、奴(やつ)が気色(けしき)を見るに、何(いか)にも成りなん。此れ程の大事を前(まへ)に懸けながら、身方(みかた)打(う)ち為(し)ては詮(せん)無(な)し」と欲(
おも)ひければ、「耶(や)給へ、源太(げんだ)殿。此(こ)の馬を申しつる程に、叶ふまじき由(よし)、仰せ有りつれば、此(こ)の馬を盗んで頸を切られ奉(たてまつ)らんも、水に流されて死なんも、死にてん事は同じ事なり。同じくは善き馬に乗つてこそ、宇治河を渡して頸を切られ奉(たてまつ)らん、と思ひつる間、明日出でんとての夜、御厩(みうまや)の小平次(こへいじ)に酒を盛り、酔ひ臥(ふ)したる間に、綱を押し切つて、盗み出でたるぞ」と云ひければ、梶原(かぢはら)此れを聞いて、「妬(ネタイ)、景季も盗むべかりし者を」とぞ申しける。
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漸(やうやう)日数も経(ふ)る程に、其れより打(う)ち連(つ)れて二万五千余騎の大勢にて、宇治河の橋の爪にぞ打(う)ち寄せたる。向かひの縁(はた)を見れば、乱栓(らんぐひ)を打(う)ち綱を横(ハ)へ、逆面木(さかもぎ)を緤(ツナ)いで流し懸けたり。実(まこと)に渡すべき様無かりけり。
畠山(はたけやま)の庄司(しやうじ)次郎重忠、生年(しやうねん)廿一歳に成りけるが、火威(ひをどし)の鎧を著(き)、鍬形(くはがた)打(う)つたる冑に、白葦毛(しらあしげ)の馬の太う逞(たくま)しきに、金伏輪(きんぶくりん)の鞍置いて乗つたりけるが、河の縁に打(う)ち寄せて申しけるは、「鎌倉殿も、『定めて宇治・瀬田の橋をば引いたるらん』と、御沙汰の有りしぞかし。知食(しろしめ)さぬ海河の俄(にはか)に出で来たらばこそ、之(これ)に引(ひ)かへて右(かく)は申させ給はめ。是(こ)れは近江(あふみ)の湖の尻なれば、何(いか)に干(ホ)すとも乾(かはか)されず。堰(せ)くとも又堰(せ)かれず。当時は比良(ひら)の高根に雪消えて、水重(カサ)なつて太太(いとど)増すらん。水の心を見渡し候ふに、馬の足の立たぬ所は世(よ)も四五段(しごたん)際には過ぎじ。去んぬる治承四年に、足利の又太郎(またたらう)は鬼神(おにかみ)にて之(これ)をば渡しけるか。重忠瀬歩(せブミ)仕らん」とて、榛沢(はんざは)の六郎成清(なりきよ)・本田(ほんだ)の次郎親常・勢山(セヤマ)の次郎・堀戸(ほりど)の太郎・丹(たん)の党等を相(あ)ひ具し
て、河中へぞ打(う)ち入りける。
爰(ここ)に佐々木(ささき)の四郎高綱・梶原(かぢはら)の源太(げんだ)景季二人、心計(ばか)りは互ひに前陣(せんぢん)を諍(あらそ)ひけり。佐々木(ささき)の四郎、灘歩(せぶみ)の為(ため)に人を選ぶ処に、梶原(かぢはら)の源太(げんだ)景季、磨墨と云ふ逸物(いちもつ)には乗つたり、真先(まつさき)懸けて雑(ざつ)と落とす。佐々木(ささき)の四郎急(きつ)と見れば、源太(げんだ)三段(さんたん)計(ばか)り先に立つて謳(をめ)いて渡いて行く。高綱此れを見て、運や尽き終(は)てぬと欲(おも)ひて、言(ことば)をぞ懸けたりける。
「耶(や)殿(との)、梶原(かぢはら)殿。長馳せ為(し)たる馬なれば、具足(ぐそく)緩(ゆる)く見えたり。此れ程の大河(おほかは)を渡したまふに、鞍を歩(ふ)み返して、誤ちな為(し)たまひそ」とぞ申しける。現(げ)にもとや欲(おも)ひけん、突つ立(た)ち上がり、腹帯(はるび)を引つ詰め引つ詰めしけり。
然(しか)るに究竟(くつきやう)の馬なれば、腹帯(はるび)を固むと心得(え)て、河中に歩(ふ)ん張りてぞ立つたりける。其の時高綱、逸物(いちもつ)に乗つたりければ、押し違へて水の尾に付き、雑(ざつ)と急ぎ渡しければ、二段(にたん)計(ばか)り先立つて渡す。源太(げんだ)此れを見て、「佐々木(ささき)に出し抜かれぬよ」と、安からず思ひて、鞭鐙(むちあぶみ)を合はせて追ひけれども、高綱先に進みてんげれば、向かひの縁に付きにけり。綱の馬の頸に繋(かか)りけるをば、太刀(たち)を抜いて都(フツ)と切つて難無(な)く岡に挙(あが)りにけり。高綱、源太(げんだ)に言を懸けける時、思ひけるは、「言を懸くるに聞かぬ顔(カヲ)にて渡さば、押し並べて小引(こび)きに引いて、水際に指下(サシサ)げて馬の腹を射、之(これ)を射落とし、先を懸けん」とぞ欲(おも)ひける。是(こ)れも危(アヤウ)かりし事なり。源太(げんだ)は綱の馬の頭に懸かりけるを載らずして、押し流されてぞ漂(ただよ)ひける。
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佐々木(ささき)の四郎・梶原(かぢはら)の源太(げんだ)が打(う)ち入つて渡すを見て、畠山(はたけやま)五百余騎にて打(う)ち入りけり。此れを見て、其の後大将軍九郎義経を始めと為(し)て二万五千余騎、吾(われ)も吾(われ)もと渡しければ、水は迫(セ)かれて上へ昇る、下様(しもさマ)は雑人共歩(かち)にて渡るに、膝(ひざ)より上をば濡(ぬ)らさず。弛(はづ)るる水こそ何(いか)にも聚(タマ)るべしとも見えざりけり。
畠山(はたけやま)、馬をば射させて歩(かち)にて渡すに、水は〓[金+額]を浸して唱立(おびたた)し。後ろを見れば、鎧著(き)たる武者一騎(いつき)、押し流されて漂(ただよ)ふ。畠山(はたけやま)是(こ)れを大串(おほくし)と見て、掻い〓(ツカ)んで投上げたれば、向かへの岸に突つ立(た)ち挙つて、「抑(ソモソモ)宇治河の一番(いちばん)に打(う)ち入る所は畠山(はたけやま)なり。向かへに付く所は大串(おほくし)先なり」と称(なの)りければ、此れを聞く人一同(いちどう)に〓(ドツ)とぞ笑ひける。
其の後、槽谷(カスや)の藤太(とうだ)有末(ありすゑ)・平山(ひらやま)の武者所季重・渋谷(しぶや)の庄司(しやうじ)重国(しげくに)・右馬允(うまのじよう)重資・熊替(くまがへ)の次郎直実(なほざね)、馬を履み放し、橋桁(はしげた)を弓杖(ゆんづゑ)突いてぞ渡しける。
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佐々木(ささき)の四郎一番(いちばん)に向かへの岸へ打(う)ち挙つて、「近江国(あふみのくに)の住人佐々木(ささき)の四郎高綱、今度(こんど)宇治河の先陣(せんぢん)に渡す」とぞ称(なの)りける。向かへの縁(はた)には五百余騎指(さ)し向かひ、矢鏃(やじり)を揃へて散散(〓〓)に射る。雨の降る様に中(あた)ると雖(いへど)も、鎧能(よ)ければ裏攪(か)かず、明間(あきま)を射ねば手も負はず。思ふ様に懸け廻す。
梶原(かぢはら)の源太(げんだ)・畠山(はたけやま)も連(つれ)て打(う)ち上がりけるが、佐々木(ささき)に先陣(せんぢん)と称(なの)られて、心地(ここち)悪しげにや思ひけん、二陣(にぢん)とも三陣(さんぢん)とも称(なの)ること無かりけり。力に及ばざる事なり。
大勢打(う)ち渡して責めければ、木曾が郎等、吾(われ)も吾(われ)もと禦(ふせ)ぎ闘へども、無勢(ぶぜい)なれば叶はずして、方等(かたら)の三郎(さぶらう)先生(せんじやう)討たれぬ、根井(ねのゐ)の小矢太手を負ひぬ。仁科(にしな)・高梨(たかなし)・楯(たて)の六郎近忠(ちかただ)落ちにけり。
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瀬田の手には、一条(いちでう)次郎忠頼、汀(みぎは)に打(う)ち寄せ申されけるは、「伊予守の方より、今日(けふ)の軍の大将軍は誰ぞや。称(なの)れや」と云はれければ、今井の四郎兼平、火摺(ひをどし)の鎧に、鹿毛(かげ)なる馬に乗つたりけるが、渚に打(う)ち寄せ、扇を開き操(ツか)ひて申しけるは、「木曾殿の御乳母子(おんめのとご)に、中三(ちゆうざう)権守(ごんのかみ)兼遠(かねとほ)が子、今井の四郎兼平。今日(けふ)の先陣(せんぢん)を給はつて固めて候ふなり」と申しければ、忠頼取り敢(あ)へず、「然(さ)れば今井が所為(しよゐ)とも覚えぬかな。橋の引き様の見苦しさよ」と言ひければ、兼平申しけるは、「昔より今に至(いた)るまで、敵(かたき)の寄すると聞いて、橋を懸け、路を作り、船を浮かべて迎ふる例は無(な)し。只(ただ)吾(われ)と思はん人人は懸けよ耶(や)、懸けよ」と招けども、一人も渡す者は無(な)し。只(ただ)上矢(うはや)計(ばか)りを射違へて、互ひに勝負(しようぶ)を決し難(がた)し。
然(さ)れども、武蔵国(むさしのくに)の住人稲毛(いなげ)の三郎(さぶらう)重成(しげなり)・同じく四郎重朝(しげとも)・森の五郎行重(ゆきしげ)、此れ等三騎を先と為(し)て、二百余騎にて、志(こころざし)する貢御(くご)の瀬を渡しければ、三万五千余騎の大勢皆聯(ツヅ)いて渡しけり。今井の四郎・屋嶋の四郎・落合(おちあひ)の五郎以下(いげ)の兵(つはもの)五百余騎、防(ふせ)ぎ戦へども、大勢に破られて、瀬田も宇治も全(また)からず。
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後に、合戦の日記鎌倉へ下りたりければ、鎌倉殿、先づ御使ひを召して仰せられけるは、「佐々木(ささき)の四郎と云ふ者有るか。」「候ふ」と申す。「然(さ)れば先懸け為(し)けるにこそ」とて、日記を御覧ずれば、「宇治河の先陣(せんぢん)佐々木(ささき)の四郎高綱」とぞ付けたりける。
然(しか)るに、〈 義仲が郎等共無勢(ぶぜい)なりければ、懸け散らされて散散(〓〓)に成りにけり。 〉義経は宇治を落として京に打(う)ち入る。
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木曾左馬頭(さまのかみ)、宇治・瀬田両方へは打手(うつて)を指(さ)し向けつ、東国よりは兵(つはもの)雲霞(うんか)の如(ごと)く迫め上りければ、何(いづ)くへも迯(のが)るべき方(かた)無(な)く、今日(けふ)を限りと思はれければ、女房の余波(なごり)を惜しまんとて、六条京極(きやうごく)の宿所(しゆくしよ)へぞ入りにける。彼(か)の女房と申すは、松殿の入道(にふだう)殿下(てんが)の御娘なり。木曾遣(や)る方(かた)無(な)く名残(なごり)を惜しみて、打(う)つ立つべき気色(けしき)も無ければ、今参りに越後(ゑちご)の中太(ちゆうだ)家光(いへみつ)と云ふ者有り。御前へ参つて申しけるは、「宇治の手、已(すで)に落とされ候ひて、敵(かたき)多く西勝光院(さいしようくわうゐん)・柳原(やなぎはら)に打(う)ち入る由(よし)聞え候ふ。早打(う)つ立(た)ち給へ」と申しけれども、木曾女房の余波(なごり)惜しさに、早晩(いつしか)打(う)つ立つべき様も無(な)し。
家通重ねて申しけるは、「今参りの身為(タ)りといへども、弓矢取りの習ひは、年来(としごろ)片時(へんし)の情けに非(あら)ずといへども、命を捨つるは常の法なり。然(さ)れば則(すなは)ち、自然(しぜん)の御事候はば、矢面(やおもて)に立たんとこそ存じ候へども、大勢に懸け隔てられ候はば、善く死にたりとも落つとも御不審(ごふしん)残らん事が口惜しく候へば、世は今は更(かう)と覚え候ふ。御内(みうち)へ参りし日より、命においては君に奉(たてまつ)り候ふ。先に家通死んで見せ奉(たてまつ)らん」とて、腹掻き切つて臥(ふ)しにけり。木曾之(これ)を見て、「家通が自害は義仲を勧(すす)むるにこそ」とて、「尚(なほ)も余波(なごり)は惜しけれども、来世(らいせ)にて行き合ひ奉(たてまつ)らん」とて、冑の緒を卜(し)め、名波(なは)の太郎弘澄を先と為(し)て、一百騎(いつぴやくき)の勢にて打(う)つ立(た)ちけり。
高きも賤しきも、賢人(けんじん)も愚人(ぐじん)も、男女の道は力に及ばぬ事なり。倍(まし)て只今(ただいま)を限りに打(う)ち出でける心の中、さこそと推(お)し量られて哀れなり。
P2346
義仲先づ院の御所六条殿へ参つて申しけるは、「宇治・瀬田両方の手破られ候ひぬ。最後の見参(げんざん)に罷(まか)り入り候はん」とて、馬に乗りながら南庭(なんてい)に参りけり。義経京へ打(う)ち入る由(よし)聞えければ、指(さ)して申す旨も無(な)くて罷(まか)り出でければ、急ぎ門をぞ鍵(さ)されける。上下(じやうげ)手を握(にぎ)つて願を立てぬといふこと無かりけり。
験耶(げにや)義仲は百騎の勢にて六条河原へ馳せ向かふ。義経二百騎(にひやくき)の勢にて行き合ひぬ。義仲は此れを最後の合戦と思ひ切る。義経は是(ここ)にて打(う)ち留めんと早(ハヤ)る。義経・重忠・重頼(しげより)・高綱・景季・重国(しげくに)・重助等を先と為(し)て戦ひけり。
義仲既(すで)に討たれんとすること度々(どど)に及べども、係(か)け破り係(か)け破り通らんと欲(す)。「右(かく)有るべしと知りたらましかば、何しに今井を瀬田へ遣(や)りつらん。幼少(えうせう)より、若(も)しやの事有らば一所(いつしよ)に臥(ふ)さんとこそ契りしに、所々(ところどころ)に伏す事こそ悲しけれ。今井が行柄(ゆくへ)を見ん」と欲(おも)ひければ、河を上りに懸くる程に、大勢追つ懸けて責めければ、取つて返し取つて返し、六条河原と三条河原との間、七か処にて返し合はせ、散散(〓〓)に戦ひ、河を馳せ渡り、河原(かはら)を上りにぞ落ちられける。
義経、郎等を以つて之(これ)を追はせ、吾(わ)が身は御所へ馳せ参る。
P2350
十六 義経・畠山(はたけやま)院参の事
大膳大夫(だいぜんのだいぶ)成忠、御所の東の築垣(ついがき)に上り之(これ)を見れば、六条西の洞院(とうゐん)の御所を差(さ)して、武士六騎(ろくき)馳せ参る。成忠悚(おそ)る悚(おそ)る御前に参つて、此(こ)の由(よし)を奏聞しければ、法皇を始め奉(たてまつ)り、公卿(くぎやう)・殿上人、北面(ほくめん)の輩に至(いた)るまで、「義仲が余党(よたう)返り参るにこそ有れ。今度(こんど)ぞ世の失せ終(は)てなんよ」とて躁(サワ)ぎ合へり。
又還(かへ)り上つて此れを見れば、六騎(ろくき)の武者、門の口にて申しけるは、「東国の頼朝の舎弟(しやてい)九郎冠者(くわんじや)義経、宇治の手を追ひ落として参つて候ふ。見参(げんざん)に入れ給ひ候へ」と申しければ、成忠余りの慶(うれ)しさに、築垣(ついがき)より急ぎ下りけるが、腰を突き損じけり。痛(イタサ)は慶(うれ)しさに忘れて、〓(は)ふ這(は)ふ御所に参つて、此(こ)の由(よし)を奏聞す。法皇を始め奉(たてまつ)り、上下(じやうげ)諸人(しよにん)安堵(あんど)の思ひを成されけり。
門を開かれければ、各々(おのおの)車宿(ヤどリ)の前(まへ)に参つて畏(かしこま)る。義経一人大床(おほゆか)の近くへ歩(あゆ)み寄つて跪(ひざまづ)く。赤地の錦の直垂(ひたたれ)に白唐綾を畳(たた)み、裾紅(すそクレナイ)に威したる鎧に、金作(こがねづく)りの太刀(たち)を帯(は)き、切文(きりふ)の矢を負ひ、塗籠籐(ぬりごめどう)の弓をぞ持つたりける。法皇中門(ちゆうもん)の櫺子(レイし)より叡覧(えいらん)有り。六人の者共(ども)の顔神(つらだましひ)・事柄、何(いづ)れも劣らずぞ見えける。
御感(ぎよかん)の余りに、「各各(おのおの)交名(けうみやう)(キウみやう)を称(なの)り申し候へ」と仰せ下されければ、「大将軍源九郎義経。」「生年(しやうねん)何(イツク)。」「廿六」と申す。一人は「武蔵国(むさしのくに)の住人畠山(はたけやま)の次郎重忠。」「生年(しやうねん)幾(いくばく)ぞ。」「廿一歳」と申す。一人は「同国(どうこく)の住人河越(かはごえ)の小太郎重房」、一人は「相模国(さがみのくに)の住人梶原(かぢはら)の源太(げんだ)景季」、一人は「同国(どうこく)の住人渋谷(しぶや)の右馬允(うまのじよう)重助」、一人は「近江国(あふみのくに)の住人佐々木(ささき)の四郎高綱」と申す。義経・重忠をば年まで御尋(おんたづ)ね有りけれども、残り四人(しにん)は交名(けうみやう)計(ばか)りをぞ問ひ召され、年までは御尋(おんたづ)ねも無かりけり。鎧は色色(いろいろ)に替りたれども、弓は皆塗籠籐(ぬりごめどう)にてぞ有りける。紙を広さ一寸計(ばか)りに剪(き)つて、弓の鳥打(とりうち)の所に左捲きに巻きたり。
法皇、成忠を以つて合戦の次第を叡聞(えいぶん)有り。義経畏(かしこま)つて申しけるは、「義仲、一門為(た)りといへども、朝家(てうか)を蔑如(べつじよ)し奉(たてまつ)るに依(よ)つて、追討の為(ため)に、兄頼朝、舎弟(しやてい)範頼(のりより)并びに義経を大将軍と為(し)て、東国の家人(けにん)三十人を選び付けられて候ふなり。其の勢既(すで)に六万騎に及べり。義経は宇治より罷(まか)り入つて候ふ。範頼(のりより)は瀬田を廻つて候ひつるが、今は近く候ひぬらん。義仲は河を下りに落ち候ひつるを、郎等共を以つて之(これ)を追はせ候ひつれば、定めて今は討ち取り候ひぬらん」と、事も無げに申しければ、「義仲が与党(よたう)又皈(かへ)り参つて狼藉仕る事もこそ有れ。此(こ)の御所能々(よくよく)守護し奉(たてまつ)るべし」と仰せ下されければ、各々(おのおの)門門をぞ固めける。
P2355
十七 木曾、瀬田にて討たるる事
然(さ)る程に、二万余騎の大勢六条河原に乱れ入る。木曾は纔(わづか)に無勢(ぶぜい)なり。樋口の次郎兼光は五百騎の勢を具足(ぐそく)して、十郎蔵人(くらんど)を責めんが為(ため)に、河内(かはち)の石河(いしかは)へ下りけり。今井の四郎兼平は五百余騎の勢を相(あ)ひ具して、瀬田を固めに向かひけり。根井(ねのゐ)の小矢太は五百余騎を引き具して、宇治を固めに向かひけり。然(しか)る間、義仲、勢少(すく)なくて叶ひ難さに、今井と一所(いつしよ)に臥(ふ)さんと契りたりければ、瀬田の方へ落つ。粟田口(あはたぐち)・関山(せきやま)にも成りければ、上下(じやうげ)七騎に成りにけり。
其の中に一騎(いつき)は女にて有りけり。名をば伴絵(ともゑ)とぞ云ひける。極(きは)めて貌(かほ)吉(よ)き美女(びぢよ)の、年卅に成りけるが、大力(だいぢから)の剛(かう)の者、勁弓(つよゆみ)の精兵(せいびやう)、箭継早(やつぎばや)の手聞き、究竟(くつきやう)の荒馬乗り、悪所(あくしよ)巌石(がんぜき)を馳すること、少しも木曾殿にも相(あ)ひ劣らず。度々(どど)の合戦に一度も敵(かたき)に後ろを見せず。毎度(まいど)の高名雙(なら)び無(な)き者なりけり。其の日は紺村濃(こんむらご)の直垂(ひたたれ)に、唐綾摺(からあやをどし)の鎧、白星(しらほし)の甲を著(き)て、長輻輪(ながふくりん)の太刀(たち)を帯(は)いたりけり。大中黒(おほなかぐろ)の箭(や)頭高(カシラだか)に取つて付け、重藤(しげどう)の弓の真中(まんなか)取つて、葦毛(あしげ)の馬にぞ乗つたりける。
木曾、大津(おほつ)の浜の此方(コナタ)なる打出(うちで)の浜と云ふ所にて、今井の四郎に行き合ひぬ。今井も木曾殿と見奉(たてまつ)り、木曾も今井と見て、互ひに其れと目を懸けて、駒(こま)を早めて打(う)ち寄せけり。「今井か」と言へば、「然(さん)候ふ。敵(かたき)に後ろを見すべきには候はず。瀬田にて如何(いか)にも成るべきにて候ひつるが、君を今一度見参らせ候ふかとて、都に上り候ふ。若し参り見ずて耶(や)候はんずらんと、心苦しく存じ候ひつるに、是(こ)れにて参り合ひ奉(たてまつ)り候ふは、返す返す慶(うれ)しく候ふ」と申しければ、木曾言ひけるは、「義仲も六条河原にて何(いか)にも成るべかりつれども、〓[イ+爾](なんぢ)と一所(いつしよ)にて死なんと契りぬれば、今まで腹をも切らずして、汝を尋ね行くなり。今は此(こ)の世に思ひ置く事無(な)し」とて、何方(いづかた)へも進み遣(や)らず、鎧の袖をぞ濡(ヌら)しける。
今井申しけるは、「此(こ)の辺りに御方(みかた)の者や候ふらん。御旗を挙げて御覧候へ」と申しければ、「六条河原にて旗指(さ)し棄てられたるなり」と曰(のたま)ひければ、今井「御旗用意仕り候ふ」とて、箙(えびら)の中より白旗一流れ取り出だして指(さ)し上げければ、「尤(もつと)も然(しか)るべし」とて、旗を差(さ)し上げたりければ、此(ココ)耶(や)彼(かし)こに隠れたる兵共(つはものども)、「御旗の見ゆるは、君にて渡らせ給ふにこそ」とて、二三十騎(にさんじつき)・十四五騎充(づつ)馳せ参る程に、又三百余騎に成りにけり。木曾少し力属(つ)きて、「最後の軍(いくさ)為(し)究(きは)めて死なん」とて、浜下りに打たれける程に、六七千騎計(ばか)りの勢出で来たる。「誰(た)が手」と問ひければ、「甲斐(かひ)の一条(いちでう)・武田・小笠原(をがさはら)の勢」と云ふ。「然(さ)ては能(よ)い敵(かたき)にこそ」とて打(う)ち向かふ。
爰(ここ)に鞆絵(ともゑ)申しけるは、「暫(しばら)く静かに物を御覧ぜよ。童(わらは)最後の戦仕つて見参(げんざん)に入れん」とて、弓を腋(わき)に攪(か)き挟(はさ)み、太刀(たち)を抜いて額(ひたひ)に当て、大勢の中に懸け入り、蜘手(くもで)・十文字(じふもんじ)に係(か)け破(やぶ)つて、大津(おほつ)の湖の端(はし)に通りければ、二騎の敵(かたき)有りけり。中に馳せ入り、二人の敵(かたき)を抓(つか)み、左右(さう)の腋(わき)に〓(はさ)んで、二人の冑の鉢(はち)を打(う)ち合はせ、微塵(みぢん)の如(ごと)くに打(う)ち破(やぶ)つて、湖に投げ入れ、又取つて返し、大勢の中に馳せ廻る。一条(いちでう)の次郎申しけるは、
「『木曾殿の内に大力(だいぢから)の女武者有り。相(あ)ひ構へて命を殺さず虜(いけど)りて参れ』と、蒲の御曹司の仰せられしなり。命を殺さず手取りに為(せ)よ」と下知(げぢ)せられければ、兵共(つはものども)射るに及ばず切るに及ばず、只(ただ)押し並べて組まん組まんと心は早れども、手にも堪(たま)らず馳せ廻(まは)りけり。
P2359
木曾殿は之(これ)を見て、「鞆絵(ともゑ)打たすな。連(つづ)け耶(や)、連(つづ)け耶(や)」と馳せ廻る。
木曾は赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、火威(ひをどし)の鎧に鍬形(くはがた)打(う)つたる冑、黒き馬に金輻輪(きんぶくりん)の鞍置いて乗つたりけるが、進み出でて称(なの)られけるは、「清和天皇十代の末葉(ばつえふ)、八幡(はちまん)太郎四代の孫、太刀帯(たてはきの)先生(せんじやう)義賢(よしかた)が子、木曾の冠者(くわんじや)、今は左馬頭(さまのかみ)兼(けん)伊予守、朝日の将軍源の義仲と呼ばるるぞ。打(う)ち取れ耶(や)者共、打(う)ち取れ者共」とて、三百余騎の兵共(つはものども)、尖矢形(トガリやがた)に立て成(な)し、吾(わ)が身は鋤(クシ)の端(サキ)の如(ごと)くに成つて、応(おう)と謳(をめ)いて、七千騎が真中(まんなか)へ懸け入りたり。一条(いちでう)の次郎申しけるは、「称(なの)る敵(かたき)を打(う)ち取れ、打(う)ち取れ耶(や)者共、余すな泄(もら)すな。中に取り罩(コ)めて戦へ」と下知(げぢ)しけれども、三百余騎奥義(あうぎ)を究(きは)めたる者なれば、手にも繋(タマ)らず馳せ廻つて、散々に懸け破(やぶ)つて、屈(くつ)と脱けて出づる勢、二百余騎にぞ成りにける。武蔵(むさし)・上野(か
うづけ)・信濃(しなの)の勢共、彼(かし)こ此(こ)こに合はせて五千騎出で来たる。木曾が二百余騎の兵共(つはものども)、〓(くつばみ)を並べて打(う)ち入りけり。
P2360
武蔵国(むさしのくに)の住人恩田(ヲンだ)の七郎宗春、大力(だいぢから)の剛(かう)の者、郎等に逢ひて云ひけるは、「木曾殿の御内(みうち)に伴絵(ともゑ)と云ふ女武者は、聞こうる大力(だいぢから)の剛(かう)の者なれば、女は何(いか)に勁(つよ)しといへども、何程の事か有るべき。打(う)ち過ごし通る様にて、何(ナド)組んで落とさざるべき。吾(われ)若(も)し与(クミ)〓(ふ)せられたらば、己等(おのれら)寄り合ふべし」とて、究竟(くつきやう)の郎等八騎(はつき)後ろに立て、謳(をめ)いて懸く。「女が世(よ)も鬚(ひげ)非じ。鬚(ひげ)の無からんを伴絵(ともゑ)と思ふべし」とて、内〓(うちかぶと)に目を懸けて見廻す程に、鬚(ひげ)無(な)き武者一騎(いつき)、内〓(うちかぶと)白白(しろじろ)として出で来たり。「此れこそ其れよ」と欲(おも)ひ、押し並べて無須(むず)と与(く)む。伴絵(ともゑ)、叱耶(しや)宗春が押付(おしつけ)の板を掴(つか)んで、鞍の前輪(まへわ)に押し著(つ)くると見れば、頸〓(ネヂ)切つてぞ抛(な)げ捨ててんげる。八騎(はつき)の郎等共、間(ひま)も無(な)くて寄り合はするにも及ばず。
此(こ)の伴絵(ともゑ)と申すは、是(こ)れは樋口の次郎が娘なり。母は挿頭(カザシ)とて、木曾殿の美女(びぢよ)に召し仕はれけるを、樋口が子とも言はねども、人皆其の子と知りてけり。
然(さ)る程に、二百騎(にひやくき)の兵(つはもの)尖矢形(とがりやがた)に立て成(な)して、五千騎の真中(まんなか)を二つに懸け破り、後ろへ屈(くつ)と擢(ヌケ)て透(とほ)る勢、七十騎にぞ成つたりける。其の後、土肥(とひ)の次郎真平(さねひら)を始めと為(し)て、相模国(さがみのくに)の家人(けにん)共(ども)一千余騎出で来たる。木曾又七十騎〓(くつばみ)を並べて謳(をめ)いて懸く。竪横(たてよこ)・蜘手(くもで)・十文字(じふもんじ)に懸け散らし、薄紅に戦ひ成(な)し、裏から表へ屈(くつ)と脱けて出づる勢、廿三騎に成りにけり。其の後、二三百騎、一二百騎(いちにひやくき)計(ばか)り、四五十騎、二三十騎(にさんじつき)充(づつ)、行き合ひ行き合ひ戦ひけるを、散々に懸け散らして透(とほ)りけり。然(さ)る程に、今は上下(じやうげ)五騎にぞ成りにける。鞆絵(ともゑ)は落ちやしぬ覧(らん)、見えざりけり。
手塚(てづか)の別当(べつたう)、子息(しそく)太郎を招いて申しけるは、「此(こ)の世の中、今は限りと見えたり。落ちんと思ふ。連(つづ)いて落ちよ」と言ひければ、太郎申しけるは、「人の親の習ひには、子(こ)の落ちんと申すとも、制し忌(いまし)めらるべきに、年来(としごろ)の重恩、何地(いづち)にか落つべき」とて、馳せ出でければ、手塚(てづか)の別当(べつたう)落ちにけり。太郎は打死(うちじ)にす。
鞆絵(ともゑ)は鎌倉へ落ち参る程に、和田(わだ)の左衛門申し預かりて、大力(だいぢから)の種を継がんと為念(おも)ひければ、一人の男子(なんし)を生ませけり。朝夷名(アサイナ)の三郎(さぶらう)義秀(よしひで)是(こ)れなり。
P2363
楯(たて)の六郎親忠も討たれぬ。今は今井の四郎・木曾殿主従二騎に成りぬ。木曾、今井に打(う)ち並べて言ひけるは、「例ならず義仲、鎧の重く覚ゆるぞ。云何(いか)が為(せ)ん」と言へば、今井申しけるは、「未(いま)だ御疲れとも見えたまはず。御馬(おんうま)も弱らず候ふが、人の無(な)きに依(よ)つて、臆して然(サ)は覚食(おぼしめ)し候ふや覧(らん)。兼平一人をば余の者千騎と覚食(おぼしめ)せ。袷(あ)の松原は五段(ごたん)には世(よ)も過ぎ候はじ。松の中へ入らせ給ひて、静かに御念仏有つて、御自害有るべく候ふ。箭(や)七つ八つ射残して候へば、暫(しばら)く禦矢(ふせぎや)仕るべく候ふ。然(さ)りながら、兼平が行柄(ゆくへ)を御覧じ終(は)てて後に、御自害有るべし」と申しければ、木曾殿言ひけるは、「都にて討たるべかりしが、是(こ)れまで来たりつるは、汝と一所(いつしよ)に死なんと欲(おも)ふ故なり。只(ただ)二騎に成りて、二所(ふたところ)に臥(ふ)さん事こそ口惜しかるべけれ」とて、馬の鼻を並べて懸けんと欲(し)たまふ処に、今井申しけるは、「武者は死んで後が実(まこと)は固まり候ふ。年来(としごろ)日比(ひごろ)
何(いか)に高名は為(す)るとも、最後の時に不覚を為(し)つる者は、永き疵にて候ふぞ。心は何(いか)に武(たけ)き態(てい)に思食(おぼしめ)せども、無勢(ぶぜい)は叶はぬ事にて候ふ。云ひ甲斐(かひ)無(な)き奴原(やつばら)に組み落とされ給ひて、憂(う)き名ばし流させ給ふな。疾々(とうとう)松原に入らせ給へ」と申しければ、木曾然(さ)も耶(や)と思はれけん、後ろ合はせに懸けて行く。
然(さ)る程に、大勢は未(いま)だ追ひ付かざりけるが、瀬田の方より三十騎(さんじつき)計(ばか)りにて出で来たる。今井折り塞(ふさ)がつて申しけるは、「古くは音にも聞きつらん、今は目にも見よ。木曾殿の乳母子(めのとご)、木曾の中三(ちゆうざう)権守(ごんのかみ)兼遠(かねとほ)が次男、今井の四郎兼平、君と御同年(ごどうねん)にて三十三(さんじふさん)に罷(まか)り成る。鎌倉殿も然(さ)る者有りとは知食(しろしめ)されたり。打(う)ち取つて見参(げんざん)に入れよや、者共」とて、謳(をめ)いて中に懸け入りければ、聞こゆる大力(だいぢから)の剛(かう)の者、勁弓(つよゆみ)精兵(せいびやう)なりければ、雑(ざつ)と剖(わ)つてぞ除(ノ)きにける。今井、八筋(やすぢ)の矢を以つて追物射(おものい)(ヲモノイ)に敵(かたき)を射ければ、一(ひと)つも点矢(ムダや)無(な)し。死生(ししやう)は知らず、八人馬より射落としてんげり。其の後、太刀(たち)を抜いて謳(をめ)いて懸く。之(これ)を組まんと欲(す)る者更(さら)に無(な)し。「掻き開いて射よ耶(や)」とて、雨の降る様に射懸けけれども、鎧能(よ)ければ裏攪(か)
かず、明間(あきま)を射ねば手も負はず。戦ひ〓つてぞ狂ひける。
P2366
左馬頭(さまのかみ)、松原を指(さ)して落ちられけるに、荒手(あらて)の武者五騎馳せ来たる。大将軍は小桜(こざくら)を黄に返したる鎧に、鹿毛(かげ)なる馬に乗つて馳せ連(つづ)き、称(なの)りけるは、「相模国(さがみのくに)の住人海老名(えびな)の源八広季が孫、萩野(はぎの)の五郎季光なり。袷(あれ)は源氏の大将軍と見奉(たてまつ)る。敵(かたき)に後ろを見する事無(な)し。」義仲、射残したる中指(なかゆび)取つて番(つが)ひ、能(よ)つ弾(ぴ)いて放てば、季光が胸板撥咤(はつた)と射破り、後ろの押付(おしつけ)に矢前(やさき)見えて射出だしたり。大事の手なる間、請(う)けも合ヘず、〓(どう)ど落つ。「大将軍還(かへ)させ給へ」と申しければ、相模国(さがみのくに)の住人萩野(はぎの)の小五郎(こごらう)季光、取つて返し、称(なの)る敵(かたき)を弓手(ゆんで)に成(な)し、能(よ)く挽(ひ)き詰めて平(ひやう)ど射る。季光馬の腹を射られて駻(はね)落とさる。
正月廿日の事なれば、余寒(よかん)未(いま)だ尽きもせず。粟津(あはづ)の谷(ヤツ)の松原の中へ角違(スミチガ)へに、薄氷(うすごほり)の作(な)し渡りたる深田(ふかた)を知り給はず、馬を馳せ入らせたまへり。打てども張れども、跡(あと)へも前へも揺(うご)かざりけり。今井を見んと振り還(かへ)り給ふ内冑を、相模国(さがみのくに)の住人石田(いしだ)の小次郎為久(ためひさ)に射られ、大事の手なりければ、冑の真顔(まつかう)を馬の頭に当てて〓(フ)し給ひければ、石田(いしだ)が郎等二人〓(はだか)に成つて之(これ)に落ち合ひ、木曾殿の御頸をぞ取りにける。
木曾が信濃(しなの)を出でしには、相(あ)ひ具する勢三万余騎、北陸道(ほくろくだう)・路次(ろし)の兵(つはもの)打(う)ち具して、都へ入りしには五万余騎とぞ聞えしが、四の宮河原(がはら)・袖並(そでクラベ)・粟津(あはづ)の松原へ向かふ日は、伴なふ者一人も無(な)し。増(まし)て中有(ちゆうう)の旅の空、思ひ遣(や)るこそ哀れなれ。
P2368
今井の四郎此れを見て、「吾(わ)が君を打(う)ち奉(たてまつ)るは何者ぞ。称(なの)れ」といへども、称(なの)る者〔無かりければ〕、今井申しけるは、「今は軍(いくさ)為(シ)ても甘従(いかんせん)。君の死出(しで)の山の御共をば誰か申すべき。怱(いそ)ぎ参らん」とて、太刀(たち)を口に含み、「剛(かう)の者の自害する、見習へ乎(ヤ)」とて、馬より逆さまに落ちて、串(つらぬ)かれてぞ失せにける。太刀(たち)は鐔(つば)の留口(とめぐち)まで入る量(ばか)りなり。石田(いしだ)落ち合ひて頸を攪(か)くに、暫(しば)しは攪(か)かれず。太刀(たち)を抜いて棄てて後、頸を攪(か)き切りけり。
今井討たれて後、粟津(あはづ)の下の軍は無かりけり。木曾殿も討たれ、今井も自害して後は、粟津(あはづ)の軍も終(は)てにけり。
伴絵(ともゑ)は女なれば、討たれやしぬらん、落ち耶(や)しぬらん、行き方知らず失せにけり。
樋口の次郎兼光・楯(たて)の六郎親忠は、十郎蔵人(くらんど)を討たんが為(ため)に、河内国(かはちのくに)へ下(クダ)りたりけるが、十郎蔵人(くらんど)を打(う)ち洩(モ)らして、防(ふせ)ぎ矢射ける家の子・郎等共が頸、女房達も少々生け執つて登りけるが、京の淀の大渡りにて、今井が下人(げにん)走り向かつて、「木曾殿已(すで)に討たれさせ給ひぬ。今井殿も御自害」と申しければ、樋口天を仰いで、「世の中は今は更(かう)ぞ。耶(や)殿原(とのばら)、一所(いつしよ)にて左(と)も右(かう)も成るべかりつるに、所々(ところどころ)に伏さん事の悲しさよ。命の惜しからん人々は、何方(いづかた)へも落ちられよ。君に志(こころざし)を思ひ奉(たてまつ)らん人々は、乞食(こつじき)・頭陀(づだ)の行(ぎやう)をも為(し)て、後生(ごしやう)を訪(とぶら)ひ奉(たてまつ)れ。兼光においては、木曾殿の討たれさせ給ひし方、今井が骸(かばね)の方を枕と為(し)て、死なんと欲(おも)ふ」と申しければ、一騎(いつき)落ち二騎落ち、次第々々に落ち行きければ、五百余騎の勢は皆落ちて、五十余騎にぞ成りにける。鳥羽の南門(なんもん)にては三十余(
ヨ)騎に成りにけり。
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「樋口の次郎今日(けふ)都に入る」と聞えければ、東国の党も高家も、七条朱雀(しゆしやか)・四塚(よつづか)の辺りへ馳せ向かふ。今日(けふ)の討手(うつて)の先陣(せんぢん)は、相模国(さがみのくに)の住人渋谷(しぶや)の庄司(しやうじ)重国(しげくに)之(これ)を承(うけたまは)りければ、渋谷(しぶや)の子息(しそく)共(ども)、吾(われ)も我もと勧(すす)む処に、児玉党(こだまたう)に庄の三郎(さぶらう)忠家、渋谷(しぶや)が為(ため)には聟(むこ)なりければ、先陣(せんぢん)を乞ひ請(う)けけり。其の故は舎弟(しやてい)を助けん為(ため)になり。
舎弟(しやてい)庄の四郎高家は、木曾殿に属(つ)き奉(たてまつ)り、北陸道(ほくろくだう)を打(う)つて都に入りにけり。法住寺(ほふぢゆうじ)合戦の後も木曾殿に付き奉(たてまつ)り奉公(ほうこう)仕りけるが、樋口の次郎兼光に相(あ)ひ具し、河内国(かはちのくに)へ下り、同じく都に入るべき由(よし)聞えければ、庄の三郎(さぶらう)兼(か)ねて使ひを下して申しけるは、「忠家、九郎御曹司に属(つ)き奉(たてまつ)りて上洛(しやうらく)す。木曾殿は朝敵と為(し)て討たれたまひぬ。樋口の次郎今日(けふ)又討たるべし。汝打(う)ち死に為(し)ては甘従(いかんせん)。降人に成つて参れよ。先陣(せんぢん)は忠家之(これ)を承(うけたまは)る。〓(かぶと)を脱いで弓を弛(はづ)し、忠家に向かひたらば、御曹司達に取り申し、助けんずるぞ」と申したりければ、一度は「然(サ)承(うけたまは)りぬ」と申しけれども、遅かりければ、重ねて使ひを走らし、「何と遅くは参るぞ。只今(ただいま)討手(うつて)の近づくに」と申しければ、庄の四郎申しけるは、「先には参るべき由(よし)申し候ひしかども、倩(つらつら)思へば、参るまじきにて候ふ。木曾殿を
憑(たの)み奉(たてまつ)り、一度に命を棄てなんずれば、返し取るべきにも候はず。善悪(ぜんあく)今日(けふ)は御曹司にても渡らせ給へ、寄り合はせ奉(たてまつ)らん」とて、真先(まつさき)に係(か)けて馳せ向かふ。庄の三郎(さぶらう)之(これ)を聞き、「何(いか)にも為(し)て下奴(しやつ)を助けん。定めて先をぞ懸くらん。忠家寄り合ひて之(これ)に組みたらば、四郎は力劣りなれば、下にぞ成らんずらん。忠家上に成つて乗り居たらば、若党(わかたう)数(あまタ)寄つて、疵も付くるな、生取りに為(せ)よ」 とぞ下知(げぢ)しける。
然(さ)る程に、渋谷(しぶや)が子共、「吾(われ)等が無からんにこそ聟(むこ)に先をば懸けめ」と各(おのおの)諍(あらそ)ひけれども、忠家は渋谷(しぶや)覚えの聟(むこ)なりければ、赦(ゆる)しけるとぞ聞えし。
然(さ)ても、庄の三郎(さぶらう)は打輪(うちわ)の旗を指(さ)して、真先(まつさき)懸けて謳(をめ)いて懸く。庄の四郎同じく打輪(うちわ)の旗指(さ)して、真先(まつさき)懸けて出で来たる。両方共に且(しば)しも息まず、責め寄せける間、三段(さんたん)計(ばか)りにて、庄の三郎(さぶらう)「袷(あれ)は四郎か、寄れ、組まん。」「然(さ)承(うけたまは)り候ふ」とて、謳(をめ)いて寄り合ひ、鎧の袖を引き違へて〓爾(ミンジ)と組んで、〓(どう)ど落つ。上に成り下に成り組みける程に、四郎案の如(ごと)く力劣りの者なれば下に成る。庄の三郎(さぶらう)は大力(だいぢから)なり、叱(しや)取つて抑(おさ)へたり。約束(やくそく)したる若党(わかたう)共、吾(われ)も吾(われ)もと走り寄つて、手取り足取りして之(これ)を虜(いけど)りにけり。
庄の三郎(さぶらう)、弟を生取つて打(う)つ立つたり。
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然(さ)る程に、信濃国(しなののくに)の住人諏方(すは)の上宮千野(かみのみやちの)の大夫(たいふ)光家(みついへ)が子千野の太郎光広(みつひろ)、生年(しやうねん)三十三(さんじふさん)、打(う)ち向かつて云ひけるは、「一条(いちでう)殿の御手は何(いづ)れぞ乎(や)」と此れを尋ねければ、筑紫の御家人(ごけにん)に三原(サはら)の十郎高綱、指(さ)し迎へて申しけるは、「一条(いちでう)殿の手ならでは軍は為(せ)ぬか。何(いづ)れとも為(せ)よかし。」「子細にや及ぶ。汝を敵(かたき)に嫌ふ義には無(な)し。然(さ)らば手並(てナミ)見せん」とて、弓手(ゆんで)に引き折り立つて、能(よ)つ彎(ぴ)いて之(これ)をぞ射ける。三原(さはら)の十郎内冑を射させ、且(しば)しも聚(たま)らず落ちにけり。連(つづ)いて落ち合ひ、頸を取つて太刀(たち)に貫(つらぬ)き、指(さ)し上げて申しけるは、「白者(しれもの)をば右(かう)こそ習(なら)はせ。必ず一条(いちでう)殿の手を尋ぬることは、存ずる旨の有るぞ。弟の千野の七郎が前(まへ)にて打死(うちじに)・自害をも為(し)て、信濃(しなの)なる二人の子共に聞かれなば、『吾(
わ)が父は能(よ)うて死にたり』と悦(よろこ)び思はせん為(ため)にこそ、右(かう)も云ひつれ」とて、矢種射尽くしければ、疵丸(アザまる)と云ふ太刀(たち)を抜いて、袷(あれ)に馳せ合ひ此れに馳せ合ひ、敵(かたき)七人討ち、敵(かたき)と組んで落ち、指(さ)し違へてぞ失せにける。
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樋口懸け出でて、「樋口の次郎兼光、打(う)ち取れや」とて、弥(いよいよ)早めて謳(をめ)いて懸けけるを、打輪(うちわ)の旗を差(さ)して三十騎(さんじつき)計(ばか)りなる中に、之(これ)を取り籠(こ)めて討たんとすると見るに、樋口の次郎は児玉党(こだまたう)の聟(むこ)たる間、「吾(われ)も人も弓矢を取る者の習ひは、広き中へ入らんと欲(す)るは、自然(しぜん)の事も有らば、一窓(ひとまど)も羽をも息(やす)め、且(しばら)く気をも休めんと欲(おも)ふ故なり。我等今度(こんど)の勲功(くんこう)には、樋口が命を申し請ふべし」とて、押つ取り罩(こ)めて、七条を上りに、院の御所へ参る。範頼(のりより)・義経に此(こ)の由(よし)を申しければ、「私の計らひに有るべからず。御所へ申せ」とて、此(こ)の由(よし)を申したりければ、已(すで)に死罪(しざい)を免(ゆる)されて流罪(るざい)に定めらる。但(ただ)し、「木曾四天(してん)の其の一なり。大路を渡せ」とて、渡されぬ。
御所の女房達申されけるは、「法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の軍に勝ちし時、兼光・兼平下奴原(しやつばら)、吾(われ)等に恥かしき目見せたりしか。此れ等を助けられなば、桂河(かつらがは)に身を抛(な)げん。」「童(わらは)は淀河に沈まん。」「尼に成らん。」「出家せん」何(ナン)ど、一同(いちどう)に申されければ、然(さ)らばとて又死罪(しざい)に定まりぬ。
新摂政(せつしやう)殿、所職(しよしよく)を停められて、本の関白(くわんばく)成りたまひぬ。「昔粟田(あはたの)関白(くわんばく)は悦(よろこ)び申しの後、七日こそ有りけれ。此れは六十日の間にて、除目(ぢもく)も二度(にど)行はれき。思ひ出で無(な)きにしも非(あら)ず」とぞ沙汰しけるとか耶(や)。
同じき廿六日、樋口の次郎、殊に沙汰有つて誅(ちゆう)せられけり。法住寺殿(ほふぢゆうじどの)の闘ひの時、人の衣装を剥ぎ取る中に、誰とは知らず、上臈(じやうらふ)女房の衣裳を剥がれて立(た)ちたまへるを、樋口の次郎鎧の下より小袖を脱いで著(き)せ奉(たてまつ)りたりければ、「吾(われ)は院の御所に然々(しかしか)と云ふ者なり。還(かへ)らせよ」と仰せられけれども、四五日が程取り籠(こ)めて置き奉(たてまつ)りたりければ、口惜しき事に欲(おも)ひて、諸(かたへ)の女房達に心を合はせて訴へられければ、誅(ちゆう)せられけるとぞ聞えし。
源平闘諍録 巻第八上