『源平闘諍録』読み下し 漢字仮名交じり版
源平闘諍録 五
〔目録〕
源平闘諍録 巻第五
一、兵衛佐(ひやうゑのすけ)、坂東の勢を催(もよほ)す事
二、加曾利の冠者(くわんじや)、千田(ちだの)判官代(はんぐわんだい)親正と合戦する事
三、妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)の本地(ほんぢ)の事
四、頼朝、大勢を聳(たなび)かし、富士河の軍(いくさ)に向かふ事
五、権亮(ごんのすけ)維盛(これもり)、討手(うつて)の使ひとして東国へ下向する事
六、義経、浮嶋が原において副将軍(ふくしやうぐん)と成る事
七、佐竹太郎忠義、梶原(かぢはら)に生け取らるる事
八、上総介(かづさのすけ)、頼朝と中違ふ事
九、山門奏状の事
十、都遷(うつ)りの事
十一、近江源氏(あふみげんじ)、責め落とさるる事
十二、南都の牒状(てふじやう)の事
十三、南都の炎上(えんしやう)の事
十四、東大・興福(こうぶく)造営の沙汰の事
一 兵衛佐(ひやうゑのすけ)、坂東の勢を催(もよほ)す事
治承四年九月四日、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝、白旗差(サ)して五千余騎の兵(つはもの)を率して、上総(かづさの)国より下総国(しもふさのくに)へ発向す。爰(ここ)に上総(かづさの)権介(ごんのすけ)広常、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)の御前に跪(ひざまづ)きて申しけるは、「君は此(こ)の程の軍(いくさ)に疲れさせたまひしうへ、兵共(つはものども)も進み難くす。荒手(あらて)の随兵(ずいひやう)を以つて広常先陣(せんぢん)を仕らんと欲す。広常に相(あ)ひ随ふべき輩(ともがら)には、臼井の四郎成常・同じく五郎久常、相馬(さうま)の九郎常清・天羽(あまウ)の庄司(しやうじ)秀常・金田の小太郎康常・小権守(ごんのかみ)常顕・匝瑳(さふさ)の次郎助常・長南の太郎重常・印東(いんとう)の別当(べつたう)胤常・同じく四郎師常・伊北の庄司(しやうじ)常仲・同じく次郎常明・大夫(たいふ)太郎常信・同じく小大夫(たいふ)時常・佐是の四郎禅師等を始めと為(し)て、一千余騎の兵(つはもの)を率して発向すべき」由(よし)を申す処に、千葉介(ちばのすけ)常胤(つねたね)申しけるは、「権介(ごんのすけ)の所望謂(いは)れ無(な)し。他国は知らず、下総国(しもふさのくに)においては他人の綺(イロイ)有るまじ。常胤(つねたね)先陣(せんぢん)を仕るべし」とて、相(あ)ひ随ふ輩(ともがら)は、新介胤将・次男師常・同じく田辺田の四郎胤信・同じく国分の五郎胤通(たねミチ)・同じく千葉の六郎胤頼・同じく孫堺の平次(へいじ)常秀・武石(たけいし)の次郎胤重・能光(よしミツ)の禅師等を始めと為(し)て、三百余騎の兵(つはもの)を引率して、下総国(しもふさのくに)へ打(う)ち向かひけり。
二 加曾利の冠者(くわんじや)、千田(ちだの)判官代(はんぐわんだい)親正と合戦する事
然(さ)る程に、平家の方人(カタウド)千田(ちだ)の判官代(はんぐわんだい)藤原の親正、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)の謀叛を聞いて、「吾当国に在(あ)りながら、頼朝を射ずしては云ふに甲斐(かひ)無(な)し。京都の聞えも恐れ有り。且(かつ)うは身の恥なり」とて、赤旗(あかはた)を差(さ)して白馬に乗つて、匝瑳(さふさ)の北条の内山の館より、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)の方へ向はんと欲(す)。相(あ)ひ随ふ輩(ともがら)誰々ぞ。前千葉介(ちばのすけ)太夫常長の三男(さんなん)、鴨根(かもね)の三郎(さぶらう)常房(つねフサ)の孫、原の十郎太夫常継・同じく子息(しそく)平次(へいじ)常朝・同じく五郎太夫清常・同じく六郎常直・従父(をぢの)(ヲチノ)金原の庄司(しやうじ)常能・同じく子息(しそく)金原の五郎守常・粟飯原の細五郎家常・子息(しそく)権太(ごんだ)元常・同じく次郎顕常等を始めと為(し)て、一千余騎の軍兵(ぐんびやう)を相(あ)ひ具して、武射の横路を越え、白井の馬渡の端(はし)を渡つて、千葉の結城(ゆふき)へ罷(まか)り向ひけり。
時に加曾利の冠者(くわんじや)成胤(しげたね)、祖母死去(しきよ)の間、同じく孫為(たり)といへども養子為(タル)に依(よ)つて、父祖共に上総(かづさの)国へ参向すといへども、千葉の館に留つて葬送(さうそう)の営み有りけり。彼(か)の祖母は是(こ)れ秩父(チチぶ)の太郎太夫重弘の中の娘とぞ聞えし。然(さ)る程に、「親正の軍兵(ぐんびやう)、結城(ゆふき)の浜(ハマ)に出で来たる由(よし)」人申しければ、成胤(しげたね)此れを聞いて、急ぎ人を上総(かづさ)へ進(まゐ)らせて、「父祖を相(あ)ひ待つべけれども、敵(かたき)を目の前(まへ)に見て懸け出ださずは、我が身ながら人に非ず。豈(あに)勇士(ゆうし)の道為(た)らんや」とて、俄(にはか)に七騎を相(あ)ひ具し、一千余騎にぞ向ひける。
成胤(しげたね)進み出でて申しけるは、「柏原の天皇の后胤(こういん)、平親王(へいしんわう)将門(まさかど)には十代の末葉(ばつえふ)、千葉の小太郎成胤(しげたね)、生年(しやうねん)十七歳に罷(まか)り成る」とて、四角八方(はつぱう)を打(う)ち払ひ、跏手(クモで)・十文字(じふもんじ)に懸け破り、遥かなる澳(おき)(ヲキ)に馳せ出でたり。然(しか)れども親正は多勢なり、成胤(しげたね)は無勢(ぶぜい)なる間、両国の堺河に迫(せ)め著(つ)けられたり。
然(しか)れども僮(カブロ)なる童(わらは)有つて、敵(かたき)が射る箭(や)を中(チウ)にて受け取りしかば、成胤(しげたね)及び軍兵(ぐんびやう)等にも当たらずして、左右(さう)に違(チガ)へて時を移す程に、両国の介の軍兵(ぐんびやう)共(ども)、雲霞(うんか)の如(ごと)くに馳せ来たりけり。
上総介(かづさのすけ)、成胤(しげたね)が無勢(ぶぜい)を見て申しけるは、「袷(アレ)は何(いか)に、軍(いくさ)の門出(かどいで)には尤(もつと)も祝(いは)ふべき者をや。千葉の小太郎無勢(ぶぜい)を以つて多勢に向ふ条僻事(ヒガこと)なり」と云ひも終(ハテ)ず、広常早(はや)く馬を先を懸けんと欲(す)。成胤(しげたね)此れを見て、「上総介(かづさのすけ)悪(あ)しくも申されつる者かな。其の上父祖共に上総(かづさ)へ参り、成胤(しげたね)計(ばか)り残り留るにおいては、重代相伝の堀の内、必ず敵(かたき)に蹴(ケ)らるべし。吾が身討たれて後は左右(トマレカクマレ)、其(そ)を知るべからず」と云ふに任せて、急ぎ馬の口を引き還(かへ)し、先陣(せんぢん)に立つ。
此れを見て、次(ツヅ)く兵(つはもの)誰々ぞ。多部田の四郎胤信・国分の五郎胤通(たねみち)・千葉の六郎胤頼・堺の平次(へいじ)常秀・武石(たけいし)の次郎胤重・臼井の四郎成常・同じく五郎久常・天羽(あまう)の庄司(しやうじ)秀常・金田の小大夫(たいふ)康常・匝瑳(さふさ)の次郎助常・佐是の四郎禅師等なり。
此れを見て、原の平次(へいじ)常朝・同じく五郎顕常、互ひに劣らず進み出でて、命を捨てて闘ひけり。天羽(あまう)の庄司(しやうじ)が射ける矢に、原の六郎乗馬を射〓(タヲ)さる。六郎兼て手を負ひたれば、馬より下り立ち、太刀(たち)を杖につき、立つたりけり。此れを見て、原の平次(へいじ)・同じく五郎大夫(たいふ)馳せ寄つて、清常の馬に乗せんとすれども、六郎大事の手を負ひければ、魂を消して乗り得(え)ず。敵(かたき)は次第に近づく。「吾助かるべしとも覚えず。敵(かたき)已(すで)に近づき候ふ。各(おのおの)此(ココ)を罷(まか)り去りたまへ」と申しければ、二人の兄共打(う)ち捨てて去りにけり。粟飯原の権太(ごんだ)元常、金〓(カウ)を射させて失せにけり。彼此(かれこれ)入れ違(チガ)へて闘へども、親正無勢(ぶぜい)たるに依(よ)つて、千田(ちだ)の庄次浦(ツギうら)の館へ引き退きにけり。
三 妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)の本地(ほんぢ)の事
北条の四郎を始めと為(し)て、人々同じく僉議(センぎ)しける様(やう)は、「御定(ごぢやう)に依(よ)つて親正を追討せられんと欲(す)れども、親正は側事(ソバごと)なり。平家の大将軍(たいしやうぐん)大庭(ヲウバ)の三郎(さぶらう)景親(かげちか)、相模国(さがみのくに)に有り。畠山(はたけやま)の次郎重忠、武蔵国(むさしのくに)に有り。詮ずる所、急ぎ企てて彼等を討たん」と申しければ、「尤(もつと)も然(しか)るべし」とぞ仰せられける。
又右兵衛佐(うひやうゑのすけ)の言(のたま)ひけるは、「侍(さぶらひ)共承(うけたまは)るべし。今度(こんど)千葉の小太郎成胤(しげたね)の初軍(ウイいくさ)に先を懸けつる事有り難(がた)し。勲功(くんこう)の賞有るべし。頼朝若(も)し日本国を打(う)ち随へたらば、千葉には北南を以つて妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)に寄進し奉(たてまつ)るべし。抑(そもそも)妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)は、云何(イカ)にして千葉には崇敬(すうきやう)せられたまひけるにや。又御本躰は何(いづれ)の仏菩薩にて御座(おはしま)しけるにや」 と。
常胤(つねたね)畏(かしこま)つて申しけるは、「此(こ)の妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)と申すは、人王(にんわう)六十一代朱雀(しゆしやく)の御門(みかど)の御宇(ぎよう)、承平(しようへい)五年〈 乙未(きのとひつじ) 〉八月上旬の比(ころ)に、相馬の小次郎将門(まさかど)、上総介(かづさのすけ)良兼(よしかね)と伯父(ヲヂ)甥(をひ)(ヲイ)不快の間、常陸(ひたちの)国において合戦を企つる程に、良兼(よしかね)は多勢なり、将門(まさかど)は無勢(ぶぜい)なり。常陸(ひたちの)国より蚕飼河(こがひがは)の畔(ハタ)に迫(せ)め著(つ)けられて、将門(まさかど)河を渡さんと欲(す)るに、橋無(な)く船無(な)くして、思ひ労(わづら)ひける処に、俄(にはか)に小童(わらは)出で来たりて、『瀬を渡さん』と告ぐ。
将門(まさかど)此れを聞きて蚕飼河(こがひがは)を打(う)ち渡し、豊田郡へ打(う)ち越え、河を隔てて闘ふ程に、将門(まさかど)矢種(やだね)尽きける時は、彼(か)の童(わらは)、落ちたる矢を拾ひ取りて将門(まさかど)に与へ、之(これ)を射けり。亦(また)将門(まさかど)疲れに及ぶ時は、童(わらは)、将門(まさかど)の弓を捕(ト)つて十の矢を矯(ハ)げて敵(かたき)を射るに、一(ひと)つも空箭(アタヤ)無かりけり。此れを見て良兼(よしかね)、『只事にも非(あら)ず。天の御計(おんぱか)らひなり』と思ひながら、彼(か)の所を引き退く。
将門(まさかど)遂(つひ)に勝(かつこと)を得(え)て、童(わらは)の前(まへ)に突い跪(ひざまづ)き、袖を掻(カキ)合はせて申しけるは、『抑(そもそも)君は何(いか)なる人にて御坐(おはしま)すぞや』と問ひ奉(たてまつ)るに、彼(か)の童(わらは)答へて云はく、『吾は是(こ)れ妙見大菩薩なり。昔より今に至(いた)るまで、心武(たけ)く慈悲深重(じんぢゆう)にして正直なる者を守らんと云ふ誓ひ有り。汝は正しく直く武(たけ)く剛(かう)なるが故(ゆゑ)に、吾汝を護(まも)らんが為(ため)に来臨する所なり。自(みづか)らは則(すなは)ち上野(かうづけ)の花園(はなぞの)と云ふ寺に在(あ)り。汝若(も)し志(こころざし)有らば、速かに我を迎へ取るべし。吾は是(こ)れ十一面観音の垂迹(すいじやく)にして、五星の中には北辰三光天子の後身なり。汝東北(とうぼく)の角に向かひて、吾が名号(みやうがう)を唱(とな)ふべし。自今(じこん)以後(いご)、将門(まさかど)の笠験(かさじるし)には千九曜(せんくえう)の旗〈 今の世に月星と号するなり。 〉を差すべし』と云ひながら、何(いづ)ちとも無(な)く失せにけり。
仍(よつ)て将門(まさかど)使者(ししや)を花園(はなぞの)へ遣(つか)はして之(これ)を迎へ奉(たてまつ)り、信心を致し、崇敬(すうきやう)し奉(たてまつ)る。将門(まさかど)妙見の御利生を蒙(かうぶ)り、五ケ年の内に東八ケ国を打(う)ち随へ、下総国(しもふさのくに)相馬郡(さうまのこほり)に京を立て、将門(まさかど)の親王(しんわう)と号さる。然(さ)りながらも、正直〓侫(テンネイ)と還(かは)つて、万事(ばんじ)の政務を曲(マゲ)て行ひ、神慮をも恐れず、朝威にも憚(ハバカ)らず、仏神の田地を奪ひ取りぬ。
故(ゆゑ)に妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)、将門(まさかど)の家を出でて、村岡の五郎良文(よしふみ)の許(もと)へ渡りたまひぬ。良文(よしふみ)は伯父為(た)りといへども、甥(をひ)の将門(まさかど)が為(ため)には養子為(た)るに依(よ)つて、流石(サスガ)他門には附(ツ)かず、渡られたまひし所なり。
将門(まさかど)、妙見に棄(ス)てられ奉(たてまつ)るに依(よ)つて、天慶(てんぎやう)三年〈 庚子(かのえね) 〉正月廿二日、天台座主法性房(ほつしやうばう)の尊意(そんい)、横河(ヨかは)において大威徳の法を行ひて、将門(まさかど)の親王(しんわう)を調伏(てうぶく)せしむるに、紅の血法性房(ほつしやうばう)の行(おこな)ふ所の壇上に走り流れにけり。爰(ここ)に尊意(そんい)急(イソ)ぎ悉地(しつち)成就の由(よし)を奏聞せしかば、御門(みかど)御感(ぎよかん)の余りに、即(すなは)ち法務の大僧正に成されにけり。
然(サテ)妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)は、良文(よしふみ)より忠頼に渡りたまひ、嫡々相(あ)ひ伝へて常胤(つねたね)に至(いた)りては七代なり」と申しければ、
右兵衛佐(うひやうゑのすけ)此れを聞いて、「実(まこと)に目出たく覚え候ふ。然(さ)らば聊(いささ)か頼朝が許(もと)へも渡し奉(たてまつ)らんと欲(おも)ふ。云何(いか)が有るべきや」。千葉介(ちばのすけ)答へて申しけるは、「此(こ)の妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)は余の仏神にも似ず、天照大神(あまてらすおほみかみ)の三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)の、国王と同じく居たまひてこそ、代々の御門(みかど)を護(まも)りたまふが如(ごと)し。此(こ)の妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)も、将門(まさかど)より以来(このかた)滴々相(あ)ひ伝はり、寝殿の内に安置し奉(たてまつ)りて、未(いま)だ別家へ移し奉(たてまつ)らず。物恠(あや)しき不祥出で来らんときは、宮殿の内騒動して化異(けい)を示し、示現(じげん)し、氏子を護(まも)る霊神なり。一族為(た)りといへども本躰は永く末子(ばつし)の許(もと)へは渡られず。何(いか)に況(いは)んや、他人においてをや。詮ずる所、常胤(つねたね)、君の御方(おんかた)へ参り向かつて仕へたるを、偏(ひとへ)に妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)の御渡り有ると思食(おぼしめ)さるべく候ふ」と申しければ、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頭を傾けて渇仰を致したまひしかば、侍(さぶらひ)共身の毛堅(よだ)つてぞ思ひける。
四 頼朝、大勢を聳(たなび)かし、富士河の軍(いくさ)に向かふ事
然(さ)る程に、同じき五日(いつか)、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)七千余騎の兵(つはもの)を帯(たい)して、結城(ゆふき)の浜より八幡(はちまん)の社頭に馳せ入り、下馬(げば)有つて、願書(ぐわんじよ)を奉(たてまつ)りにけり。八幡(はちまん)の原を打(う)ち過ぐれば、業平(なりひら)・実方が心を留めて詠(えい)ぜられける真間(ママ)の継橋打(う)ち渡り、九箇日の程に当国の府中に御坐(おはしま)す。
国中の在庁を召せども、京都を恐れて一人も参らず。爰(ここ)に下種男一人を召し出だして、御厩(みうまや)を預(あづ)(アツ)けられにけり。彼(か)の男奉公(ほうこう)の忠に依(よ)つて、御厩(みうまや)の舎人兄部(とねりこのかうベ)に成され、上総(かづさの)国武射郡南郷の椎崎の村を給はる。今の小掾が先祖是(こ)れなり。
右兵衛佐(うひやうゑのすけ)、千葉介(ちばのすけ)を召して、常胤(つねたね)を奉行と為(し)て、葛西(かさい)の三郎(さぶらう)清重・江戸の太郎重長に仰せて、「急ぎ急ぎ太井(フトヰ)・澄田(すみだ)に浮橋を組んで参るべし」と仰せ下されければ、五ケ日の中に近辺の河海の船を集め、浮橋を組(ク)んで見参(げんざん)に入れにけり。
上総介(かづさのすけ)申しけるは、「君(キミ)は上野(かうづけ)・下野(しもつけ)を打(う)ち廻(まは)り、軍兵(ぐんびやう)等(ども)を引き具して都へ上らせ給へ」と申しければ、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)言(のたま)ひけるは、「吾聞く、先んずる則(とき)んば人を制し、後にする則(とき)んば人に制せらると。聞くが如(ごと)くんば、従三位(さんみの)右少将(うせうしやう)中宮(ちゆうぐうの)権亮(ごんのすけ)維盛卿(これもりのきやう)、討手(うつて)の使ひに関東(くわんとう)へ赴(おもむ)く由(よし)、其の聞え有り。官軍若(も)し足柄(あしがら)の東へ迫(せま)り来ては、我等の軍(いくさ)防(ふせ)ぎ難(がた)し。如(し)かじ、墨田河を渉(わた)り、足柄(あしがら)の関(セキ)を踰(コ)え、甲斐(かひの)国の源氏を率して、平家を襲(ヲソ)ひ討たんには」と。
同じき十二日、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)、府中を立つて、墨田河を渡り、武蔵国(むさしのくに)豊嶋(としま)の御庄(ミシヤウ)瀧の河に著(つ)きにけり。
爰(ここ)に相模国(さがみのくに)の住人梶原(かぢはら)の平三景時(かげとき)、勅勘(ちよくかん)〈 兵衛佐(ひやうゑのすけ)を隠し奉(たてまつ)りし故(ゆゑ)に、其の聞え有りて、召し上(のぼ)せらるるなり。 〉を蒙(かうぶ)つて、一両年の間京都に召し禁(きん)ぜられし程に、石橋の闘ひに負けて安房(あはの)国へ越ゆる由(よし)、伝へ聞きにけり。京都を迯(に)げ出でて罷(まか)り下る程に、路次(ろし)にて旅人申しけるは、「右兵衛佐(うひやうゑのすけ)殿は上総介(かづさのすけ)・千葉介(ちばのすけ)を相(あ)ひ具し、墨田河を渉(わた)り、武蔵国(むさしのくに)へ踰(コ)えたまふ」由(よし)、語りければ、景時(かげとき)此れを聞いて、相模国(さがみのくに)一宮の宿所(しゆくしよ)へは寄らず、足柄(あしガラ)山の根路(ネギシ)に懸かり、相模河の伊与瀬〈 伊与瀬は、奥州(あうしう)へ下る時に渡る故(ゆゑ)に、伊与瀬と名づくるなり。 〉を渡つて、瀧の河へ馳せ参りにけり。
右兵衛佐(うひやうゑのすけ)、景時(かげとき)を見たまひて、「頼朝は未(いま)だ忘れ遣(や)らず。汝勅勘(ちよくかん)を蒙(かうぶ)つて京都へ召し上(のぼ)せられし時、伊豆の北条に出で来たり、世の中の事共語り合ひし時、『頼朝当国に住しては叶ふべからず。奥州(あうしう)の秀衡(ひでひら)の許(もと)へ落ち行かんと欲(おも)ふ』と云ひしかば、汝の詞に『其の御計(おんぱから)ひ有るべからず候ふ。其の故は、君の御先祖八幡殿(はちまんどの)の御代官、権大夫(たいふ)常滑の男清衡(きよひら)、奥州(あうしう)の鎮守府(ちんじゆふの)将軍(しやうぐん)に補せられたりしより以来(このかた)、秀衡(ひでひら)は既(すで)に四代なり。然(しか)れども秀衡(ひでひら)、出羽・陸奥(むつ)を押領(あふりやう)して、威猛比(たぐ)ひ無(な)く、有徳(うとく)身に余れり。全(まつた)く君を主君と仰ぎ奉(たてまつ)るべからず。吾三ケ年の内に、何(いか)なる計(はか)りことを為(し)ても京都を逃げ下り、申し合はすべき事有らん。其の程は返す返す景時(かげとき)を相(あ)ひ待たるべく候ふ。死罪(しざい)に行はれざるより外は必ず馳せ下るべき』由(よし)約束(やくそく)せしが、契りを違へず罷(まか)り下れる志(こころざし)こそ有難けれ」と泣きたまへば、景時(かげとき)も共に泣(な)く。兵衛佐(ひやうゑのすけ)言はく、「自今(じこん)以後(いご)においては、軍(いくさ)の成敗をば景時(かげとき)承(うけたまは)るべし。」景時(かげとき)此(こ)の仰せを承(うけたまは)り、何(いか)計(ばか)りか慶(ウレ)しかりけん。
梶原(かぢはら)が逃げ下りけるを聞き、同じく召し置かれたりつる畠山(はたけやま)の庄司(しやうじ)重能・小山田(をやまだ)の別当(べつたう)有重以下(いげ)の輩(ともがら)も京都を逃げ出でて、東国を差(さ)してぞ下りける。人の乗馬を抑(おさ)へ取り、散々の事に及びけり。
爰(ここ)に武蔵国(むさしのくに)の住人畠山(はたけやま)の次郎重忠、白旗を差(さ)して、武蔵(むさし)七党を始めと為(し)て、雲霞(うんか)の如き勢を率して、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)に馳せ参りぬ。右兵衛佐(うひやうゑのすけ)、畠山(はたけやま)を睚(マチラカ)して仰せられけるは、「何(イカ)に畠山(はたけやま)、誰(タ)が赦(ゆる)しに白旗を差(さ)して参りたるぞ。自今(じこん)以後(いご)は然(しか)るべからず。又汝何の意趣有つて頼朝の方人(かたうど)三浦介(みうらのすけ)〈 義明 〉をば討ちけるぞ。汝は一代二代のみに非(あら)ず、頼朝が為(ため)には先祖重代の家人(けにん)なり」と仰せられければ、御前に候ひける梶原(かぢはら)申しけるは、「景時(かげとき)の口入(こうじゆ)に及ぶべきには非(あら)ねども、軍(いくさ)の成敗を承(うけたまは)る上は、三浦・鎌倉是(こ)れ一胤なり。詮ずる所、畠山(はたけやま)をば義澄(よしずみ)の手に請(う)け取らすべし。然(さ)らずは秩父と三浦と不和にして、世間常に騒がしかるべし」と言ひければ、畠山(はたけやま)御前に畏(かしこま)つて申しけるは、「重忠白旗を差(さ)して参上する条、此れ私の計らひにあらず。君の御先祖八幡殿(はちまんどの)、貞任(さだたふ)を迫(せ)めさせたまひし時、秩父の冠者(くわんじや)重綱、先陣(せんぢん)の大将軍(たいしやうぐん)と為(し)て、八幡殿(はちまんどの)より給はつたる所の旗なり。然(しか)る間、吉例為(た)る故(ゆゑ)に差(さ)して参る所なり。猶(なほ)以つて僻事(ひがこと)為(た)らば、左(トモ)右(かう)も御定(ごぢやう)に随ふべく候ふ。亦(また)梶原(かぢはら)の申し状、尤(もつと)も然(しか)るべけれども、重忠が志(こころざし)は君の御方(おんかた)に有りながら、親父(しんぶ)重能・伯父有重、勅勘(ちよくかん)を蒙(かうぶ)つて召し寵められたる間、二人が命を扶(たす)けんが為(ため)に、不慮の敵(かたき)対を示す者なり」と云々。
爰(ここ)に三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)涙を押へて申しけるは、「私の敵(かたき)を以つて公の敵(かたき)を妨(サマ)たぐる事、寔(まこと)に天地の照覧有らん。将又(はたまた)上下(じやうげ)の誹(ソシリ)を絶つべからず。君の御敵(かたき)は未(いま)だ打(う)ち随へられず。京都には清盛在(あ)り、奥州(あうしう)には秀衡(ひでひら)住し、常陸(ひたちの)国には三郎(さぶらう)先生(せんじやう)・佐竹の殿原(とのばら)、信濃国(しなののくに)には木曾の冠者(くわんじや)、甲斐(かひの)国の殿原(とのばら)も未(いま)だ君に相(あ)ひ随ひ奉(たてまつ)らず。就中(なかんづく)、金子の太郎、軍(いくさ)の庭より重忠の内を追ひ放ちける上は、争(いか)でか義澄(よしずみ)遺恨(ゐこん)を結ぶべきや。又君親の為(ため)に命を棄つるは往古の例、勝(あ)げ計(かぞ)ふべからず」と申しければ、頼朝此(コ)の由(よし)を聞食(きこしめ)して、「畠山(はたけやま)の申し状神妙(しんべう)なり。必ず勲功(くんこう)の賞有るべし。但(ただ)し白旗においては文(もん)一(ひと)つ計(ばか)り改むべし。又八幡殿(はちまんどの)、奥州(あうしう)合戦の時、秩父の冠者(くわんじや)重綱を以つて先陣(せんぢん)の大将軍(たいしやうぐん)と為(し)、鎌倉の権五郎景将(かげまさ)を以つて後陣の大将軍(たいしやうぐん)と為(し)たり。彼(か)の先蹤(せんしよう)を尋ぬれば、重忠は先陣(せんぢん)為(た)るべし、景時(かげとき)は後陣を打(う)つべし」と言(ノタマ)へり。
然(さ)る程に、馳せ参る人々は、豊嶋(としま)の次郎成重(なりしげ)・足立の右馬允(うまのじよう)遠基(とほもと)・河越(かはごえ)の太郎重頼(しげより)・稲毛(いなげ)の三郎(さぶらう)重成(しげなり)・同じく飯加谷(はんがえ)の四郎重朝(しげとも)・大田(おほた)の権守(ごんのかみ)行満(ゆきみつ)・下河辺(しもかふべ)の四郎政義(まさよし)、上野国(かうづけのくに)には、高(かう)の三郎(さぶらう)重遠(しげとほ)・熊野の別当(べつたう)湛増(たんぞう)等なり。時に兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝、十万余騎の兵(つはもの)を率して、豊嶋(としま)の御庄瀧の河より武蔵(むさし)の国府に著(つ)きたまへり。
爰(ここ)に大庭(おほば)の三郎(さぶらう)景親(かげちか)に与力の輩(ともがら)此れを聞き、皆各(おのおの)契りを変じ、或(あるい)は身を委(マカ)せて降(かう)を請ひ、或(あるい)は陣を背(そむ)いて走り参る人々は、糟屋(かすや)の権守(ごんのかみ)盛久(もりひさ)・渋谷(しぶや)の庄司(しやうじ)重国(しげくに)・海老名(えびな)の源八(げんぱち)権守(ごんのかみ)季貞(スヱさだ)・同じく子息(しそく)六人・本間(ほんマ)の五郎・森の太郎景行・羽田野(ハだの)の右馬允(うまのじよう)・曾我の太郎・長尾の新五郎為宗・梶原(かぢはら)の平次(へいじ)家景・八木下(やぎしタ)の五郎正常・矢部(ヤベ)の権三郎景国・大庭(おほば)の源三景行・山内(やまのうち)の瀧口(たきぐち)三郎(さぶらう)常俊・原の宗三郎・片平(カタひら)の矢五(やご)等なり。
右兵衛佐(うひやうゑのすけ)言ひけるは、「彼(か)の奴原(やつばら)は、石橋の合戦の時、頼朝に放言したりし者共なり。軽重に随ひ、日記に任せて、佐々木(ささき)の太郎を奉行と為(し)て、一々に頸を切るべし」と仰せ下さる。
〓野(ヲギの)の五郎季時(スエとき)、引き張られて庭上(ていしやう)に出で来たる。右兵衛佐(うひやうゑのすけ)此れを見て言ひけるは、「何(いか)に汝は石橋の合戦の時、二つ金物の鎧を着(キ)、黒き馬に乗り、『流人兵衛佐(ひやうゑのすけ)余すな、漏(も)らすな、打(う)ち取れ』と軍(いくさ)の成敗為(セ)しをば、己(おのれ)は如何(いか)に忘れたるか。」荻野(ヲギノ)の五郎季時、少しも色をも変ぜずして御返事を申しけるは、「勝負(しようぶ)の道は主君を嫌はず、合戦の習ひは上下(じやうげ)を論ぜず。設(たと)ひ季時頸をば召さるとも、舌をば返すべからず。詞を
二つに任さば憶病の源(みなもと)なり」と、少しも憚らずぞ申しける。
又「瀧口(たきぐち)の三郎(さぶらう)常俊は頼朝の乳母子(めのとご)なり。然(しか)れども廻文(くわいもん)の時、頼朝を悪口(あくこう)せし奴(ヤツ)なり。一番(いちばん)に瀧口(たきぐち)の三郎(さぶらう)、二番に荻野の五郎、三番に同じく曾我の太郎、四番に海老名(えびな)の源八(げんぱち)権守(ごんのかみ)、五番に同じく四郎、六番に同じく太郎、七番に同じく国分の三郎(さぶらう)、八番に羽田野の右馬允(うまのじよう)、九番に本間の五郎なり。大庭(おほば)の三郎(さぶらう)が与力の中に、罪過殊(こと)に重き輩(ともがら)を武蔵野(むさしの)に引き出だして斬らるべき」由(よし)、仰せ下されける処に、景時(かげとき)其の日の出仕を止(とど)めにけり。兵衛佐(ひやうゑのすけ)言ひけるは、「梶原(かぢはら)の家の子、死罪(しざい)に行はるる間、恐れを成(な)して参上せず候ふ者か。兵衛佐(ひやうゑのすけ)此(こ)の由(よし)を聞きたり。源八(げんぱち)権守(ごんのかみ)季貞(すゑさだ)が一類の命は景時(かげとき)に免(ゆる)すべし」と言ひけり。
然(しか)れども、常俊より始めと為(し)て五人は先立つて切られにけり。彼(か)の所領共は景時(かげとき)之(これ)を給はる。哀(あは)れなるかな、先業(せんごふ)何(いか)なる事ぞや。頸を切らるる人も、命を助かる人も有り。残り留まる妻子の欺き、思ひ遣(や)られて哀(あは)れなり。
長尾の新五郎為宗も、真田(サナだ)の与一が討たれし時、与力為(し)たりし者なる間、已(すで)に誅(ちゆう)されんと欲(す)る処に、与一の父義実、与一の孝養(けうやう)の為(ため)に、此れを申し赦(ゆる)して助けにけり。
平家方の大将軍(たいしやうぐん)大庭(おほば)の三郎(さぶらう)景親(かげちか)、此(こ)の事を聞いて、為方(センかた)無(な)くて、手を束(つか)ねて降(かう)を請ひ、落ち参りければ、上総(かづさの)権介(ごんのすけ)広常に召し預(あづ)けられければ、上総(かづさの)国にて切られにけり。舎弟(しやてい)五郎景久申しけるは、「石橋にて矢を源家に射(イ)、今日(けふ)は此所(ここ)にして降を請ふは、敢(あへ)て忠臣の道に非(あら)ず。昔、蘇武(そぶ)は雪(ユキ)を喰ひて十九年、遂(つひ)に北狄(ほくてき)に降(くだ)らず。敵泉は霞を隔てて三千里、永く単于に仕ふること無(な)し。慕節の志(こころざし)、賢愚これ一(ひと)つなり。不肖なりといへども吾何(なじ)か降するに忍ばんや」と云ひながら、ひそかに都に赴(おもむ)き、遂(つひ)に平家に参りにけり。
然(さ)る程に、頼朝二十万騎の軍兵(ぐんびやう)を聳(そび)やかし、足柄山を馳せ越えて、駿河国浮嶋が原に打(う)ち出でにけり。爰(ここ)に甲斐(かひの)国の同意しける源氏、武田の太郎信義・信濃守(しなののかみ)遠光・安田の三郎(さぶらう)義定、二万騎にて先約を守りて、彼(か)の国より木瀬河(きせがは)の辺りに来会す。
五 権亮(ごんのすけ)維盛(これもり)、討手(うつて)の使ひとして東国へ下向する事
然(さ)る程に、太政(だいじやう)大臣(だいじん)清盛入道(にふだう)、此(こ)の由(よし)を伝へ聞いて、七社に幣帛(へいはく)を捧げ、三塔に珍財(チンざい)を投げたまふ。爰(ここ)に権亮(ごんのすけ)少将(せうしやう)維盛(これもり)朝臣(あつそん)を大将軍(たいしやうぐん)と為(し)て、討手(うつて)の使ひに下されけり。彼(か)の維盛(これもり)は貞盛より九代、正盛より五代、入道(にふだう)大相国の孫、小松の内大臣(ないだいじん)垂盛公の嫡男(ちやくなん)、平家嫡々の正統(しやうとう)なり。今凶徒を静めんが為(ため)に大将軍(たいしやうぐん)の撰に当たる、如勇(ユユシ)き事なり。薩摩守忠度(ただのり)〈 清盛舎弟(しやてい) 〉・三河守(みかはのかみ)知度(とものり)を次将と為(し)て、上総介(かづさのすけ)(カミ)忠清を末将と為(な)す。先陣(せんぢん)の押領使(あふりやうし)は、常陸(ひたちの)国の住人佐谷(サヤノ)次郎義幹(よしモト)・上総(かづさの)国の住人印東(いんとう)の次郎常茂(つねもち)なり。
昔より外土(グワイド)に向かふ大将軍(たいしやうぐん)は、先づ参内(サンダイ)して節刀(せつたう)を賜(たま)はる。宸(震)儀南殿に出御し、近衛(こんゑ)階下(かいか)に陣を引く。内弁(ないべん)・外弁(げべん)の公卿(くぎやう)参列(さんれつ)して、中儀(ちゆうぎ)の節会(せちゑ)を行はる。大将軍(たいしやうぐん)・副将軍(ふくしやうぐん)、各(おのおの)礼儀を正しくして此れを給はる。且(しば)し承平(しようへい)の将門(まさかど)・天慶(てんぎやう)の純友(スミトモ)の蹤跡(しようせき)なれば、年久しく成りて准(なず)らへ難(がた)し。今度(こんど)は、堀河院(ほりかはのゐん)の御時、嘉(壽)承(かしよう)二年〈 丁亥(ひのとゐ) 〉十二月、帝宣(ていせん)を蒙(かうぶ)つて対馬守(つしまのかみ)源義親(よしちか)を追討の為(ため)に、因幡守(いなばのかみ)平正盛が出雲国へ発向せし例とぞ聞えし。鈴(スズ)計(ばか)りを賜(たま)はつて皮の袋に入れて、人の頸に懸けさせたりけるとかや。
然(さ)る程に、権亮(ごんのすけ)少将(せうしやう)已下(いげ)の撃手(うつて)の使ひ、福原の新都を出でて、同じき廿八日に故郷に著(つ)き、是(こ)れより東国へ赴(おもむ)く。鎧・甲(かぶと)・弓箭(きゆうせん)・胡録(やなぐひ)・馬鞍までも輝(かかや)く計(ばか)りにぞ出で立たれたりければ、見る人目を驚かしけり。権亮(ごんのすけ)少将(せうしやう)は萌黄(もえぎ)の匂(ニホヒ)の糸威(いとをどし)の鎧に、赤地の錦の直垂(ひたたれ)の、大頸(おほクビ)・縁袖(エリそで)をば紺地の錦を以つて縫(ヌ)ひ飾りたり。連銭葦毛(れんぜんあしげ)の馬の太く逞(タクマ)しきに、黄伏輪(きんぶくりん)の鞍置いて乗つたりけり。年を云はば廿二歳、容顔(ようがん)人に勝(すぐ)れたりければ、絵に書くとも筆も及び難くぞ見えける。
薩摩守忠度(ただのり)、年来(としごろ)志(こころざし)浅からざりける女房の許(もと)より送りたりける小袖に、歌を一首読(ヨミ)付けたり。
東路能草葉越和久類袖与梨毛 多々怒袂和露曾古保留々
〈東路(あづまぢ)の草葉(くさば)をわくる袖よりも たたぬ袂は露ぞこぼるる〉
薩摩守之(これ)を見て、
和賀礼路越奈仁賀歎加武越天行 関遠昔濃跡登思者
〈わかれ路をなにか歎かむ越えて行く 関を昔の跡(あと)と思へば〉
左返したりけるは、昔平将軍(へいしやうぐん)貞盛が将門(まさかど)追討の為(ため)に下りし跡(あと)を思ひ出だされて、此(か)く読みけるにや。
海道に打(う)ち向かひ、路次(ろし)の兵(つはもの)を相(あ)ひ具して、三万余騎にぞ成りにける。大将軍(たいしやうぐん)維盛(これもり)朝臣(あつそん)、駿河国清見が関に陣を取り、先陣(せんぢん)上総介(かづさのすけ)忠清は蒲原(力ンばら)・富士河なんどに陣を取る。大将軍(たいしやうぐん)は、足柄(あしがら)を打(う)ち越えて、八ケ国にて軍(いくさ)を為(せ)んと早られけるを、忠清申しけるは、「八ケ国の兵共(つはものども)、皆右兵衛佐(うひやうゑのすけ)に随ふ由(よし)聞え候ふ。伊豆・駿河の者共(ども)の参るべきだにも未(いま)だ見えず候ふ。御勢三万余騎とは申し候へども、事に会ふ者二三百人には世(よ)も過ぎ候はじ。左右(さう)無う打(う)ち越えさせ候はば悪(あ)しかるべし。只(ただ)冨士河を前(まへ)に当てて防(ふせ)がせたまはんに、叶はずは都へ返り上らせ給へ」と申しければ、少将(せうしやう)は「大将軍(たいしやうぐん)の命(めい)を背(そむ)く様(やう)や有る」と云はれけれども、「其れも様(やう)に依る事にて候ふ上、福原を立たせ給ひし時も、入道(にふだう)殿の仰せには、『合戦の次第は、忠清が申さんに随はせたまふべき』由(よし)、正しく之(これ)を承(うけたまは)り候ふ。其の事は聞食(きこしめ)され候ふ者を」とて、進まざりければ、独(ひと)り懸けて打(う)ち出づるにも及ばず、敵(かたき)をぞ相(あ)ひ待たれける。
爰(ここ)に兵衛佐(ひやうゑのすけ)の先陣(せんぢん)畠山(はたけやま)の庄司(しやうじ)次郎重忠、陣を賀嶋(カシマ)に取る。明日卯の時の矢合(やあは)せなりければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)言ひけるは、「勁(シタタカ)ならん死生(ししやう)知らずの者を強いて、馬の引くとも還(かへ)らず之(これ)に乗り、大名一人の分に百騎宛(づつ)之(これ)を出で立ちて、平家の陣へ懸けさせなば、謳(をめ)いて懸け破(やぶ)つて通らん者は通れかし、死なん者は死ねかし。少しも通りたらば還(かへ)し合はせて中に取り籠(こ)めよ」と支度(したく)せられけり。平家の大将軍(たいしやうぐん)権亮(ごんのすけ)少将(せうしやう)維盛(これもり)、長井の斉藤(さいとう)別当(べつたう)真守(さねもり)を召して、軍(いくさ)の間の事を仰せ合はせられける次(つい)でに言ひけるは、「坂東に真守(さねもり)程の大矢を射る者幾程(イクバクホド)か有るらん」と申されければ、「真守(さねもり)だにも大矢を射る者と思食(おぼしめ)され候ふか。坂東には十二三束(じふにさんぞく)・十四五束(じふしごそく)を射る者のみこそ多う候へ。弓は二人張(ににんば)り・三人張りをのみ引き候ふ。鎧も甲(かぶと)も二三両(にさんりやう)なんどを重ねて、羽房(はブサ)まで射抜(ヌ)く者共、真守(さねもり)覚えてだにも六七十人もや候ふらん。馬には乗るより外には落つる事を知らず。只(ただ)死人(しにん)の上を歩み超え歩み超え、敵(かたき)共(ども)に掴(ツカ)み著(つ)かんとする者のみ候ふ。馬をば一人して究竟(くつきやう)の逸物(いちもつ)四五疋(しごひき)宛(ヅツ)乗替に具して候ふ。京の者と申し、西国の輩(ともがら)は、一人も手を負ひぬれば、其れを扶将(アツカフ)とて、七八人(しちはちにん)は引き退き候ふ。馬は善き人こそ逸物(いちもつ)にも召され候へ、以下(いげ)の輩(ともがら)の馬は終(つひ)に京出(きやういで)計(ばか)りこそ首(かしら)を持上(モチアゲ)候へ、其の後は芥々(クタクタ)として候はんずる。又坂東の者共十人にしてこそ京武者一二百人は向かひ候はんずれ。其れも猶(なほ)究竟(くつきやう)の逸物(いちもつ)を以つて一当(ひとあ)て当てられ候ひなば、何(ナニ)か候はんや。就中(なかんづく)源氏の勢は二十余万騎(にじふよまんぎ)と聞え候ふ。御方(みかた)は纔(わづか)に三万余騎なり。同じ様(やう)に候はんだに叶ひ難(がた)し。況(イハン)や〓弱(ワウジヤク)の勢にてこそ候へ。追つ立てられなば、彼等は案(安)内者共なり、各(おのおの)(ヲノヲノ)は無案内者(ぶあんないしや)なり。当時源氏方の者共(ども)の交名(ケウみやう)此れを承(うけたまは)れば、凡(およ)そ敵対も難く覚え候ふ。哀(あは)れ、『急ぎ武蔵(むさし)・相模(さがみ)へ入らせ給ひ、彼(か)の国の勢を付け、長井の渡しに陣を取つて敵(かたき)を待たせ給へ』と、再三申し候ひしを、聞かせたまはずして、可惜(アタラ)勢共(ども)の兵衛佐(ひやうゑのすけ)に付き候ふなれば、何(いか)にも何(いか)にも今度(こんど)の軍(いくさ)は叶ひ難く候ふ。大将殿の御恩、山の如(ごと)く罷(まか)り蒙(かうぶ)りたる身にて候へば、暇(いとま)を賜(たま)はつて、今一度拝み奉(たてまつ)らん。急ぎ急ぎ帰参(きさん)仕り、打死(うちじに)して見参(げんざん)に入るべく候ふ」とて、千騎の勢を引き分けて、京へ帰り上りにけり。大将軍(たいしやうぐん)此れを聞き、少し聞き憶(おく)して心弱く思はれけれども、上には 「真守(さねもり)が無(な)き所にては軍(いくさ)は為(せ)ぬか」とぞ云はれける。
然(さ)る程に、富士河の尻なんどに群がり居たる水鳥共、両方の勢、弓影、人音に驚いて立ち騒ぐ羽音の唱立(おびたたし)(ヲビタタシ)かりければ、「敵(かたき)河尻を渡して夜討に為(せ)んと欲(す)るぞ」と意得(こころえ)、取る物も取り敢(あ)へず、吾先にと引き退く。維盛(これもり)会稽山(くわいけいざん)の志(こころざし)を忘れて、夜半に及びて都へ迯(に)げぞ上りける。
抑(そもそも)昔より見迯(に)げと云ふ事は有れども、聞き迯(に)げと云ふ事は未(いま)だ伝へても聞かず。此れ只事に非(あら)ず。八幡(はちまん)大菩薩の御計(おんぱか)らひとぞ覚えける。其の故は、「水鳥の中に鳩数(アマタ)有りけり」とぞ、後に人申しける。
其の比(ころ)、海道の遊君(いうくん)共(ども)、口付けに申しけるは、
富士河乃瀬々濃岩越(コス)水与利毛 早ク毛落留伊勢平氏(へいし)哉
〈富士河の瀬々(せぜ)の岩越す水よりも 早(はや)くも落つる伊勢平氏(いせへいじ)かな〉
旧都の人々、此(こ)の事を伝へ聞いて、墓々(ハカばか)しかるまじき由(よし)をぞ申し合ひける。
六 義経、浮嶋が原において副将軍(ふくしやうぐん)と成る事
兵衛佐(ひやうゑのすけ)、且(シバラ)く浮嶋が原に永綏(ヤスラ)ひ御坐(おはし)(ヲハシ)けるに、年廿計(ばか)りなる若き武者、白き弓袋(ゆぶくろ)を差させ、清気(きよげ)なる乗代(のりかへ)二十騎(にじつき)計(ばか)り相(あ)ひ具して、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の陣に打(う)ち寄せ、「前近く見参(げんざん)に入れさせ給へ」と言ひたりければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)此れを聞き、「彼は何(いか)なる人ぞ」と問ひたまひけり。「此れは故下野(しもつけ)の左馬頭(さまのかみ)の子に牛若と申し候ひしが、奥州(あうしう)へ下向して男に罷(まか)り成つて後、九郎冠者(くわんじや)義経と申す者なり。御合戦の由(よし)を伝へ承(うけたまは)り、参向仕り候ふなり」と申されければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)此れを聞いて、涙を流し言ひけるは、「実(げ)に然(さ)る事候ふらん。合戦の由(よし)聞食(きこしめ)されて急ぎ御坐(おは)したる事、返す返す神妙(しんべう)なり」とて、対面して言ひけるは、「昔八幡殿(はちまんどの)、後三年の合戦の時、舎弟(しやてい)刑部丞(ぎやうぶのじよう)義光(よしみつ)、禁中(きんちゆう)に候ひけるが、合戦の由(よし)を聞き、御門(みかど)に暇(いとま)を申しけるに、御赦(ゆる)し無かりければ、花洛(くわらく)を出でて金沢(かねざは)の館(たて)へ来たりければ、八幡殿(はちまんどの)殊(こと)に悦(よろこ)びて、『故頼義(よりよし)朝臣(あつそん)の御坐(おは)したるにこそと覚ゆれ』とて涙を流し、是(こ)れに力を得(え)て、武衡(たけひら)を責め落としけり。只今(ただいま)殿の御坐(おは)したるに、故左馬頭(さまのかみ)殿の御坐(おは)したるにこそ」とて、共に涙を流されけり。
然(さ)る程に、右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝言ひけるは、「吾、権亮(ごんのすけ)少将(せうしやう)維盛(これもり)を追討せんと欲(おも)ふ。云何(いか)が有るべき。」長(ヲトナ)しき大名等各(おのおの)諌(イサ)め申しけるは、「『縦(たと)ひ敵(かたき)迯(に)げ走るといへども、霞を別(わ)けて永く敵(かたき)人の陣へ入る勿(なか)れ』といふこと、是(こ)れ本文の意(こころ)なり。然(しか)れば、君は宇津谷(うツノヤ)・清見が関を超えさせたまふべからず。其の上、常陸(ひたちの)国の佐竹の太郎忠義は、君の境の内の豪傑(ガウケツ)なり。其の外の軍士猶(なほ)未(いま)だ服伏(まつろ)はざる族(やから)有り。夫(それ)『近きを先んじ、遠きを後にせよ』といへるは令典(れいてん)の定むる所なり。先づ東国を平らげて後、関西(くわんぜい)に及ぶべし」と申されければ、頼朝も諌(いさ)めに随ひにけり。然(しか)る間、武田の太郎信義を以つて駿河国を鎮(シヅ)め、安田の三郎(さぶらう)義定を以つては遠江(とほたふみの)国を平らげにけり。
右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝既(すで)に鎌倉に還(かへ)り入りて後、伊東の入道(にふだう)祐親(スケチカ)を搦捕(カラメト)つて、聟(ムコ)の三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)に預(あづ)け置かれけり。祐親(すけちか)法師(ほふし)、先日の罪科脱(マヌ)がれ難きに依(よ)つて、腰刀を抜いて自害す。
兵衛佐(ひやうゑのすけ)言ひけるは、「子息(しそく)伊東の九郎をば誅(ちゆう)すべしといへども、父の入道(にふだう)、頼朝を討たんと欲(せ)しに、秘かに告げて吾を助けたる者なり。恩を蒙(かうぶ)つて報はざるは畜生の如し、将又(はたまた)木石に異ならず。仍(よつ)て九郎冠者(くわんじや)においては命を助けんと欲(おも)ふ。」伊東の九郎畏(かしこま)つて申しけるは、「我聞く、范蠡(ハンレイ)、呉王を討つて、勾践(こうせん)王の為(ため)に忠臣の功有りといへども、五湖に入つて遂(つひ)に王に仕へず。咎范(キウはん)、君王に奉(ツカヘタテマツ)り、勾公(こうこう)の為(ため)に忠臣の事有りといへども、河上に巡(メグ)つて終(つひ)に東に帰らず。而(しか)るに吾、君の為(ため)に奉公(ほうこう)無(な)し。何を以つてか世に在(あ)るべきや。其の上父入道(にふだう)、御勘気(ごかんき)の故(ゆゑ)に自害す。然(しか)るべき御恩には、暇(いとま)を給はつて疾(トク)冥途の共を為(す)べく候ふ」と、再三申しける間、頼朝思ひ労(わづら)はれけり。
又九郎申しけるは、「此れ程申しつるに御用ひ無(な)くんば、早(はや)く平家方に参つて、君を射奉(たてまつ)るべきなり。」頼朝此れを聞食(きこしめ)して、「其の段(ダン)は任他(サモアラバアレ)。汝を失ふこと、深く頼朝不便(ふびん)に思食(おぼしめ)すなり」とて、遂(つひ)に之(これ)を赦(ゆる)されしかば、平家の方にぞ属(ツ)きにける。
又伊東の入道(にふだう)の三女は兵衛佐(ひやうゑのすけ)の本妻なり。父入道(にふだう)に引き去(サケ)らるといへども、互ひの余波(なごり)は忘れも遣(や)らず。偕老(かいらう)を改めんと思へども、北条が娘も志(こころざし)深く去り難ければ、弐心(ふたごころ)無(な)く思食(おぼしめ)して、伊東の娘を簾中に召し、「日比(ひごろ)の情け棄て難ければ、争(いかで)か迷ひ者と為(な)し奉(たてまつ)らん。此(こ)の侍(さぶらひ)に列坐(れつざ)したる大名の中に、誰を夫と為(せ)んと思食(おぼしめ)す。指(さ)して仰せ出だされよ」と言へば、伊東の三女、恥(ハヅカ)しながら満座(まんざ)を見廻して、申されけるは、「袷(あ)の左の一の座に候ふ人」と指(さ)しければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)言ひけるは、「袷(あ)れこそ侍(さぶらひ)其の数多しといへども、日の本の将軍(しやうぐん)と号する千葉介(ちばのすけ)常胤(つねたね)の次男、相馬の次郎師常とは是(こ)れなり」とて、師常が方へ御使ひを以つて、「加様(かやう)の次第なり。頼朝をば舅(シウト)と思はるべし。頼朝は聟(むこ)と思ふべし」と仰せられければ、師常畏(かしこま)つて申しけるは、「此(こ)の女房の思ひ取り、君の御定(ごぢやう)の上は左右(とかう)子細を申すに及ばず。是非然(サ)承(うけたまは)り候ふ」と申して、宿所(しゆくしよ)に罷(まか)り還(かへ)つて後、即(ヤガテ)此(こ)の女房を迎へ取り、偕老(かいらう)を東埋(とうテウ)に笑(アザケ)り、同穴(どうけつ)を南〓[倉+鳥](なんサウ)に理(り)す。
七 佐竹太郎忠義、梶原(かぢはら)に生け取らるる事
然(さ)る程に、常陸(ひたち)の源氏佐竹の太郎忠義を大将軍(たいしやうぐん)と為(し)て、与力の輩(ともがら)、下妻(シモツマ)の四郎広幹・同じく舎弟(しやてい)東条の五郎貞幹・鹿嶋の権守(ごんのかみ)成幹(なりもと)・小栗の十郎重成(しげなり)・豊田の太郎頼幹等を始めと為(し)て二万余騎、常陸(ひたちの)国より下野国(しもつけのくに)へ発向す。
佐竹の忠義、足利の太郎俊綱に語らひ、漆膠(しつかう)の契りを致しけり。忠義申しけるは、「兵衛佐(ひやうゑのすけ)既(すで)に平家を以つて敵(かたき)と為(し)、五ケ国を打(う)ち随へ畢(をは)んぬ。然(しか)るに平家の太政(だいじやう)大臣(だいじん)清盛入道(にふだう)は、其の身准后(じゆごう)の宣旨を蒙(かうぶ)り、世には関白(くわんばく)無(な)きが如(ごと)し。真(まこと)に是(こ)れ天の与ふる所の果報(くわほう)なり。而(しか)るに頼朝、流人の身と為(し)て猛悪(まうあく)の計(はか)りことを致すこと、蟷螂(たうらう)の斧(をの)を以つて竜車(りゆうしや)に向かひ、嬰児(エイじ)の貝を以つて巨海(きよかい)を干さんが如(ごと)し。俊綱、忠義と与力して頼朝を討たんに、平家の恩を蒙(かうぶ)らんこと疑ひ無(な)し」と申しければ、俊綱此れを聞いて思ひけるは、「頼朝と忠義は是(こ)れ骨肉(こつにく)の流れ同じなり。何ぞ根を断ちて其の葉を枯らすべき。甚だ以つて不当(ふたう)の人(じん)なり。況(いは)んや他人においてをや。何(いか)にも毒害(どくがひ)の心有るべし。彼(か)の人においては与力して同意せざらんには如(し)かじ」と。仍(よつ)て忠義、常陸(ひたちの)国佐竹の館へ還(かへ)り入りにけり。
同じき十月廿日、兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝、佐竹の太郎忠義を討たんが為(ため)、鎌倉より常陸(ひたち)の国府へぞ下られける。然(しか)るべき人々此(こ)の事に与力して、「云何(いか)が有るべき」と僉議(せんぎ)せしむる処に、梶原(かぢはら)の平三景時(かげとき)畏(かしこま)つて申しけるは、「昔聞えけるは、項羽(カウう)、高祖と合戦の時、高祖打(う)ち負けて降(かう)を請ひ、項羽(かうう)の鴻臚(コウロ)の城に行きけり。伯父項羽(かうう)悦(よろこ)びて甥(をひ)(ヲイ)高祖の頸を剪(き)るべき由(よし)議する処を、項羽(かうう)が郎等に項伯(かうはく)と云ふ者、項羽(かうう)に向かつて申しけるは、『昔より今に至(いた)るまで、降人(かうにん)の人の頸を誅(ちゆう)する制無(な)し』と。故(ゆゑ)に遂(つひ)に剪(き)らざりけり。然(さ)る程に、高祖の郎等に張良(ちやうりやう)と云ふ者、項羽(かうう)の鴻臚(こうろ)の城に行き、門戸の板を踏み開き〈 彼(か)の門戸は百人に非ざれば開かず。然(しか)れども、張良(ちやうりやう)は一巻の書を習ひ、三略の術を究め、弓箭(きゆうせん)の道に長(た)けたり。故(ゆゑ)に君を助けたてまつる者なり。 〉、主君高祖を捕(トリ)出だして後、旗の横上に黄石(くわうせき)が三略の書を結び著(つ)け、項羽(かうう)が城に立ち還(かへ)り、項羽(かうう)を討つて、高祖位に即(つ)きにけり。古今異なるといへども忠貞(ちゆうてい)是(こ)れ同じ。何ぞ景時(かげとき)、忠義を討つて君を世に在せ奉(たてまつ)らざらんや」と申しながら、鎌倉の一胤三十余人を相(あ)ひ具し、物の具を脱ぎ棄てて、直垂(ひたたれ)計(ばか)りにて、佐竹の館へ打(う)ち入る。
忠義が郎等共、立ち騒ぎて闘はんと欲(し)ければ、梶原(かぢはら)少しも恐れず憚らず、忠義を諌(いさ)めけるは、「穴(あな)賢(かしこ)、各(おのおの)騒がるべからず。御覧候へ、景時(かげとき)兵杖(ひやうぢやう)をも帯(たい)せず、甲冑(かつちう)をも服(き)ず。意得(こころえ)らるべし。兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿は既(すで)に十余箇国を打(う)ち随へ、其の勢廿余万騎なり。寔(まこと)に雲の国土に覆(おほう)(ヲヲウ)が如(ごと)く、風の草木を靡(なび)かすが如(ごと)し。佐竹の館を押し囲(カコ)み、忠義を討ち奉(たてまつ)らんことは案の内に易(やす)かるべし。然(しか)れども努(ゆめゆめ)其の議には非(あら)ず。佐竹殿も能々(よくよく)之(これ)を聞食(きこしめ)せ。平家の世には源氏首を〓(サシイダ)さず。誰も皆云ひ甲斐(かひ)無(な)し。然(しか)るを今兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿、院宣を蒙(かうぶ)り、源家与力の間、十余ケ国を打(う)ち随へたり。然(しか)るに忠義は、清和天〔皇〕の御苗裔(べうエイ)なり。何ぞ一族を背(そむ)いて、与力せざらんや」と申しながら、三十余人の兵(つはもの)忠義を将込(ヰコ)めて後、兼ねて用意の間、景時(かげとき)の乗馬大庭(おほば)栗毛(くりげ)と云ふ馬を門脇より縁の際(きは)まで引き寄せ、忠義を打(う)ち乗せ、「別(べち)の事有らず候ふ。急ぎ参陣有るべきなり」とて、兵(つはもの)前後に押し巻きて打(う)ち出だす。
佐竹跡(あと)を顧みて、「郎従共聊(いささ)かも狽籍すべからず。今まで忠義参らざる条、以つての外の僻事(ひがこと)なり。是非所存の旨有れば、参つて之(これ)を陳じ申すべし」。処に、梶原(かぢはら)が後継(シツヅギ)の勢五百余騎にて之(これ)を待ち懸け、押し纏(マト)ひて行く程に、頼朝の前(まへ)に引き居(す)ゑたり。忠義俛(ウツフシ)ざまに成り、手を束(つか)ね、面を赤くして居たりけり。
右兵衛佐(うひやうゑのすけ)、忠義に対面して言ひけるは、「何ぞ御辺(ごへん)は同じ源家の身ながら、一族には与力せず、院宣をば背(そむ)かれしぞや。心の中に私曲(しきよく)を存じて、一往(いちわう)陳ぜんと思はるらん。何(いか)に才良(キララカ)に言(のたま)ふとも、頼朝皆推量(すいりやう)の上は、早(はや)く暇(いとま)を奉(たてまつ)るべし」とて、即(やが)て梶原(かぢはら)に仰せ付けて、大屋(おほヤ)の橋にて誅(ちゆう)されにけり。
八 上総介(かづさのすけ)、頼朝と中違ふ事
同じき廿五日、兵衛佐(ひやうゑのすけ)言ひけるは、「此(こ)の次(つ)いでに秀衡(ひでひら)を責めんと欲(おも)ふ。故は、頼朝の先祖、陸奥守(むつのかみ)兼行(ぎやう)鎮守府(ちんじゆふの)将軍(しやうぐん)従四位上(じゆしゐのじやう)源朝臣(あつそん)義家(よしいへ)、国務(こくむ)の時、降人(かうにん)と為(な)り、身命(しんみやう)を助け、一国(いつこく)を拝領(はいりやう)しけり。清衡(きよひら)より以来(このかた)秀衡(ひでひら)に至(いた)るまでは四代の末葉(ばつえふ)なり。清衡(きよひら)が跡(あと)を継(つ)いで今に鎮〔守〕府(ちんじゆふの)将軍(しやうぐん)と号するは、偏(ひとへ)に八幡殿(はちまんどの)の御恩なり。然(しか)れば頼朝は八幡殿(はちまんどの)には四代なり。何ぞ相伝の主君を忘れて、秀衡(ひでひら)今に参らざらんや。仍(よつ)て秀衡(ひでひら)を誅戮(ちゆうりく)せんと欲(おも)ふなり」と言ひければ、上総介(かづさのすけ)広常進み出でて申しけるは、「彼(か)の奥州(あうしう)は是(こ)れ雪降り積みて、寒さに迎へば、人馬更(さら)に通ひ難(がた)し。田村の将軍(しやうぐん)は権化(ごんげ)の人為(タ)りといへども、悪事(あくじ)の高丸(たかまる)を責めんが為(ため)に、十三年の春秋(しゆんじゆう)を送り、伊与守(いよのかみ)は神通(じんづう)の人為(た)りといへども、貞任(さだたふ)(さだタウ)を討たんが為(ため)に、重ねて両任(りやうたふ)を経(へ)て、八幡殿(はちまんどの)は三ケ年の間、治楯(マタテ)・金沢(かねざは)を陥(ヲト)し、武衡(たけひら)・家衡(いへひら)を打(う)ちしをや。而(しか)も兵(つはもの)の習ひは刀箭(たうせん)に当たつて死ぬるは素懐(そくわい)なり。雪に埋められては何の詮か有らんや。早(はや)く鎌倉へ還(かへ)るべし」と申しければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)言ひけるは、「凡(およ)そ『武勇の道に携(たづさ)はるは輙(たやす)からず。敵陣に赴(おもむ)きて嶮難(けんなん)を恐れず』と云(い)へば、是非を論ぜず向かふべからず。汝は寔(まこと)に武士には非(あら)ず。云ひ甲斐(かひ)無(な)し」と言ひければ、広常色を変じて腹立(ふくりふ)し、兵衛佐(ひやうゑのすけ)を悪口(あくこう)して、五千騎を引き具し、上総(かづさの)国に還(かへ)り入る。頼朝も欝憤(うつぷん)を含みながら鎌倉へぞ還(かへ)られける。
この由(よし)都へ聞えければ、平家方より権介(ごんのすけ)を招かんと擬す。又頼朝の謀叛西国に聞えければ、蒲(カマの)冠者(くわんじや)範頼(のりより)も尋ね下り、悪禅師(あくぜんじ)も出で来たる。
然(さ)る程に、藤九郎(とうくらう)盛長、石橋合戦の後、兵衛佐(ひやうゑのすけ)安房(あはの)国へ渡りたまひし剋(きザミ)、敵(かたき)に押し隔てられ、安房(あはの)国へ渡り得(え)ず、伊豆の奥に馳せ入り、忍び居たりけるが、盛長思ひけるは、「昔、蔡征虜(さいせいリヨ)、朝に仕(ツカ)へず、穎水(エイすい)に隠れ居けり。歴(レキ)将軍(しやうぐん)が武道(ぶだう)を悪(ニク)みしも、始めて論語を読みて、是(こ)れ即(すなは)ち武(つはもの)の芸の道、其の詮(せん)無(な)きが故か。我忠を主君に抽(ぬき)んでて既(すで)に廿余年なり。然(しか)るに運命の拙(つたな)きに依(よ)つて、主君に相(あ)ひ随ひて安房(あはの)国へ踰(コ)えずして当国に留まる。偏(ひとへ)に是(こ)れ数棄(すうき)の源なり。遮莫(サモアレ)我が涯分(がいぶん)を量るべし。如(し)かじ、只(ただ)憂(う)き世を厭(イト)ひ真(まこと)の道に入らんには」とて、山深く籠(こも)り居て、峯の菓(このみ)を拾ひ、谷の水を汲み、日月(じつげつ)を送りし程に、兵衛佐(ひやうゑのすけ)、数国(すこく)を打(う)ち随へ、鎌倉に居住したまふ由(よし)を伝へ聞いて、伊豆の奥を罷(まか)り出で、鎌倉へ馳せ参じけり。
兵衛佐(ひやうゑのすけ)、盛長を見て言ひけるは、「謀叛を発(おこ)し世に在(あ)らんと欲(おも)ひしも、詮ずる所、定綱・盛長が恩に報はんが為(ため)なり。然(しか)るに先づ昔の汝が夢物語(ゆめものがたり)の纏頭(テンとう)には、上野国(かうづけのくに)の惣追捕(補)使(そうついぶし)を給ふ。景能(かげよし)が夢合はせの纏頭には、若宮の俗別当(べつたう)・鶴が岡の神人(じんにん)の惣官(そうくわん)并びに大庭(おほバ)の御厨(みクリヤ)を給ふ」と仰せ下されけり。
十一月、新院安芸国(あきのくに)より都に帰り入らせたまひければ、新御所を作つて、「御渡り有るべし」と入道(にふだう)相国申されけり。十一日、法皇御輿(みこし)に召して新御所へ御渡り有り。
同じき十五日、東国に下りし官兵(くわんびやう)共(ども)、大将軍(たいしやうぐん)権亮(ごんのすけ)少将(せうしやう)維盛(これもり)・薩摩守忠度(ただのり)・参河守(みかはのかみ)知度(とものり)以下(いげ)、上総(かづさの)守(かみ)忠清等を始めと為(し)て、皆各(おのおの)帰り上りける。矢一(ひと)つも射ず、敵(かたき)をも見ず、鳥の羽音に驚き、兵衛佐(ひやうゑのすけ)の勢の多き由(よし)を聞きて、迯(に)げ上りたるこそ憶病なれ。権亮(ごんのすけ)少将(せうしやう)の落ちけるを、奈良法師(ほふし)歌に読みて立てたりけり。
平屋那留宗盛何左和具覧 柱登憑武亮歟於土志天
〈平屋(ひらや)なる宗盛(むねもり)いかにさわぐらん 柱と憑(たの)む亮(すけ)かおとして〉
先陣(せんぢん)上総介(かづさのすけ)忠清を読みたりけり。
富士河尓鎧波捨津墨染濃 衣忠清後乃世能多免
〈富士河に鎧は捨てつ墨染めの 衣ただきよ後の世のため〉
入道(にふだう)相国余りに腹を居(ス)ゑ兼ねて、「権亮(ごんのすけ)少将(せうしやう)を鬼海が嶋へ流せ。忠清やらんなんど頸を切るべし」と言へば、忠清「実(げ)に身の過(とが)遁(のが)れ難(がた)からん、云何(いか)に為(せ)ん」と思ひ煩ひける処に、主馬(シメノ)判官(はんぐわん)盛国(もりくに)以下(いげ)、人少なにて加様(かやう)の沙汰共有りける所へ、窺(ウカガ)ひ寄つて申しけるは、「忠清十八の年かと覚え候ふ。鳥羽殿に盗人(ぬすびと)の籠(こも)りしを、寄る者一人も無かりしに、築地(ついぢ)を上り越え、此れを搦め取つてより以来(このかた)、保元・平治の合戦を始めと為(し)て、大小の事に蓬(あ)へども、一度も君を離れ奉(たてまつ)らず。又未(いま)だ不覚を現さず。今度(こんど)東国に赴(おもむ)きて、始めて彼(かか)る不覚を仕りし。徒事(タダこと)とは覚えず候ふ。能々(よくよく)御祈り有るべく候ふ」と申しければ、入道(にふだう)相国見(ゲニ)もとや覚(おぼ)されけん、都(ツヤツヤ)物も言(ノタま)はず、忠清勘当(かんだう)に及ばざりけり。
九 山門奏状の事
又遷都(せんと)の事をば山門殊(こと)に欝(イキドほ)り申しければ、此(こ)の夏より三ヶ度(さんかど)まで奏状を捧げて、天聴(てんちやう)を驚かしたてまつる。第三度(だいさんど)の奏状に云はく、
右、謹んで案内を検(けみ)するに、尺尊(しやくそん)の遺教(ゆいけう)を以つて国王に付属(ふぞく)したまひしは、仏法皇徳(くわうとく)を護(まも)り奉(たてまつ)らむが故なり。就中(なかんづく)桓武天皇、伝教大師(でんげうだいし)と延暦年中に深く契約(けいやく)を結びたまひ、聖主は都を興(おこ)して、親しく一乗(いちじよう)円宗(ゑんじゆう)を崇(あが)め、大師は当山を開きて、遠く百王の御願(ごぐわん)に備ふ。其の後歳四百廻(しひやくくわい)に及ぶまで、仏日(ぶつじつ)久しく四明(しめい)の峯に輝(かかや)き、世三十代に過ぎたり。天朝各(おのおの)十善の徳を保ちたり。上代の宮城(きゆうじやう)此(かく)の如(ごと)くなる者は無(な)きをや。蓋(けだ)し山洛(さんらく)隣を点じ、彼此(かれこれ)相(あ)ひ助くるなり。而(しか)るに今、朝議忽(たちま)ちに変じて俄(にはか)に遷幸(せんかう)有り。是(こ)れ惣じては四海の愁へ、別(べつ)しては一山(いつさん)の歎きなり。
夫(それ)山僧(さんそう)等(ラ)、峯の嵐閑かなりといへども、花洛(くわらく)を恃(タノム)で、以つて日を送る。谷の雪烈(ハゲ)しといへども、王城を瞻(マボ)つて、以つて夜を継ぐ。若(も)し洛陽(らくよう)遠路(ゑんろ)を隔てて往還(わうかん)容易(タヤス)からずは、豈(あに)故山の月を辞し、辺鄙(へんぴ)の雲に交らむや。門徒の上綱(じやうかう)等(ら)各(おのおの)公請(くじやう)に従ひ、遠く旧居(きうきよ)を抛(なげう)ちて後、徳音(とくいん)通じ難く、恩言絶え易(やす)き時、一門の少学等(せうがくら)寧(むし)ろ山門に留まらむや。住山(ぢゆうざん)の者の為躰(ていたらく)、遥かに本郷(ほんがう)を去る輩(ともがら)は、帝京(ていきやう)を語(カタ)つて撫育(ぶいく)を蒙(かうぶ)り、家、王都に在(あ)る類(たぐひ)は、近隣(きんりん)を以つて便宜(びんぎ)と為(な)す。麓(フモト)変じて荒野(かうや)と為(ナ)らば、峯豈(あに)人跡(じんせき)を留めむや。
悲しいかな、数百歳(すひやくサイ)の法燈(ほつとう)今時(このとき)忽(たちま)ちに消え、千万(せんまん)輩(ともがら)の禅徒此(こ)の世に将(まさ)に滅びなむとす。況(いはん)や七社権現の宝前(ほうぜん)は是(こ)れ万人拝勤(はいキン)の霊場(れいじやう)なり。若(も)し王宮路遠くして社壇(しやだん)近からずは、瑞籬(ずいり)の月の前(まへ)に鳳輦(ほうレン)臨むこと勿(かた)く、叢祠(ソウシ)の雲の下に鳩隼(キウシユン)永く絶えむ。若し参詣是(こ)れ疎(うと)からば、礼費(れいひ)例に違(イ)せむ者なり。但(ただ)冥応(みやうおう)無(な)きのみに非(あら)ず、又神恨(しんこん)を残さむか。
彼(か)の月氏(げつし)の霊山(れいざん)は則(すなは)ち王城の東北(とうぼく)に在(あ)り、大聖の極崛(きよくくつ)なり。日域(じちゐき)の叡岳(えいがく)は亦(また)帝都の丑寅(うしとら)に峙(そばだ)つ護国の霊地(れいち)なり。既(すで)に天竺(てんぢく)の勝境(しやうけい)に同じくして、久しく鬼門(きもん)の凶害(きやうがい)を抑(ヲサ)ふ。況(いはん)や神社(じんじや)仏寺(ぶつじ)に大聖跡(あと)を垂れ、権者(ごんじや)地を占(シ)め、護国王の宗を建て、勝敵(しやうてき)勝軍(しやうぐん)の霊像を安んず。王城八方(はつぱう)を繞(メぐ)つて、洛中の万人を利し、貴賤の帰敬(ききやう)に往来(わうらい)市を為(な)す。仏神の利生、感応(かんおう)在(ましま)すが如(ごと)し。何ぞ霊応(れいおう)の砌(みぎり)を避(サ)り、忽(たちま)ちに無仏(むぶつ)の境に趣かむや。
設(たと)ひ新たに精舎(しやうじや)を建て、縦(たと)ひ更(さら)に神明を請ふとも、世濁乱(ぢよくらん)に及び、人権化(ごんげ)に非(あら)ず。大聖の感降(かんかう)、必ずしも之(これ)有らじ。昔は国豊(と)み、民厚(アツ)く、都を興(おこ)して傷つくること無(な)し。今は国乏(トモシ)くして、民窮(キハマ)つて、遷移(せんい)に煩ひ有り。是(こ)れ以つて或(あるい)は忽(たちま)ちに親属(しんぞく)を別(わか)れて、泣(ナクナク)旅宿(りよしゆく)を企つる者有り。或(あるい)は纔(わづか)に私宅(したく)を破れども、運載(うんさい)に堪(た)へざる者有り。悲歎の声既(すで)に大地を動かす。仁恩の至(いた)り、豈(あに)之(これ)を顧みざらむや。
七道(しちだう)諸国の調貢(テウコウ)、万物(ばんぶつ)運上(うんじやう)の便宜(びんぎ)、西河東津(とうシン)、便り有つて煩ひ無(な)し。若(も)し余所(よそ)に移りては、定めて後悔(こうくわい)有らむか。又大将軍(たいしやうぐん)西に在(あ)り、方角(はうがく)既(すで)に塞(ふさ)がる。何ぞ陰陽(いんやう)を背(そむ)き、忽(たちま)ちに東西を違へむ。山門の禅徒専ら玉躰(ぎよくたい)安穏を思ふ。愚慮(ぐりよ)の及ぶ所、争(いかで)か諌鼓(かんこ)を鳴らさざらむ。加之(しかのみならず)今度(こんど)の事においては、殊(こと)に愚忠を抽(ぬき)んづ。一門の園城(をんじやう)頻(しき)りに招くといへども、仰ぎて勅宣(ちよくせん)に従ふ。万人の誹謗(ひばう)巷(チマタ)に光(ミツ)といへども、伏して御願(ごぐわん)を祈る。
何(なに)に因(よ)つてか勤労(キンらう)を尽くし、還(かへ)つて此(こ)の処を滅ぼさむと欲する。功を運び、罸(ばつ)を蒙(かうぶ)る、豈(あに)然(しか)るべけむや。縦(たと)ひ別(べち)の勧賞(けんじやう)無(な)くとも、只(ただ)此(こ)の裁断(さいだん)を蒙(かうぶ)らむと欲す。当(まさ)に存亡(そんばう)只(ただ)此(こ)の左右(とかう)に在(あ)る而已(ノミ)。望み請ふらくは、天恩叡慮(えいりよ)を廻(めぐ)らさむことを。衆徒等(しゆとら)悲歎の至(いた)りに耐(タ)へず。誠惶(せいくわう)誠恐(せいきよう)謹みて言(まう)す。
治承四年 六月日
大衆(だいしゆ)法師(ほふし)等
十 都遷(うつ)りの事
此れに依(よ)つて、廿一日俄(にはか)に都還(がへ)り有るべしと聞えければ、貴賤上下(じやうげ)手を合はせて喜(よろこ)び蓬(ア)へり。
昔も山門の訴訟は空(アダ)なる事無(な)し。何(いか)なる非法(ひほふ)非例なりといへども、聖代(せいだい)も明時(めいじ)も御断(コトハリ)に有り。是(こ)れ則(すなは)ち仏法を恐るる故なり。何(いか)に況(いはん)や、王代三十余代(よだい)の都、此れ程の道理(だうり)を以つて再三加様(かやう)に申さんに、何(いか)に横紙を破らるる入道(にふだう)相国なりといへども、争(いかで)か靡(なび)かざるべき。此れを聞いて、故郷に残り留まり歎き居たる人々喜(よろこ)び合へり。
廿二日、一院〈 法王 〉・新院〈 高倉 〉福原を出御有つて、旧都に御幸成る。同じき日、摂津国の源氏豊嶋(てしま)の冠者(くわんじや)、平家の気色(けしき)を見て、東国を差(さ)して、源家を尋ね、落ち下る由(よし)聞えけり。廿六日、主上(しゆしやう)は五条の内裏へ入らせたまふ。両院は六波羅の池殿に在(ましま)しけり。平家の人々、太政(だいじやう)入道(にふだう)〔已下(いげ)〕皆古京へ上らる。何(いか)に況(いはん)や、他家の人々一人も留まらず。世にも有り、人にも計(カズ)へらるる輩(ともがら)は皆栖(すみか)を構へられたれば、人々の家々をば悉(ことごと)く運び下して、此(こ)の五六ヶ月(ごろくかげつ)の間に造り立てて之(これ)を移しつつ、資財雑具(ざふぐ)を運(ハコ)び寄(ヨ)せたりつるに、又物狂はしく程無(な)く都帰り有れば、家なんど運び返すまでは思ひも縁(ヨ)らず、資財雑具(ざふぐ)をば彼(かし)こ此(こ)こに打(う)ち捨て打(う)ち捨て、故京へ上りけり。故京へ帰る事は慶(うれ)しくて迷ひ上りたれども、何(いづ)くの所に落ち著(つ)くべしとも覚えず旅立ちけるぞ心細し。
十一 近江源氏(あふみげんじ)、責め落とさるる事
又討手(うつて)の使ひ権亮(ごんのすけ)少将(せうしやう)還(かへ)り上りて後、東国・北国の源氏共、弥(いよいよ)勝(かつ)に乗つて、国々(くにぐに)の兵(つはもの)日に随つて右兵衛佐(うひやうゑのすけ)に靡属(ナビキツ)く。近国(きんごく)近江源氏(あふみげんじ)に山本・柏木なんどと申す亭(アブレ)源氏さへ、平家を背(そむ)いて人をも通さずとぞ聞えし。
同じき十二日、左兵衛督(さひやうゑのカミ)知盛(とももり)・小松の少将(せうしやう)資盛(すけもり)・越前守通盛(みちもり)・左馬頭(さまのかみ)行盛・薩摩守忠度(ただのり)・左少将(させうしやう)清経・筑前守貞能(さだよし)以下(いげ)、近江国(あふみのくに)へ発向す。其の勢七千余騎、路次(ろし)の兵(つはもの)共(ども)、都合一万余騎計(ばか)りなり。山本・柏木、美濃・尾張の源氏共を追討せんが為(ため)なり。
同じき三日、山本の冠者(くわんじや)・柏木の判官代(はんぐわんだい)を責め落として、美濃・尾張を打(う)ち平らぐる由(よし)聞えければ、太政(だいじやう)入道(にふだう)少し気色(けしき)直りけり。
十二 南都の牒状(てふじやう)の事
又南都の大衆(だいしゆ)何(いか)にも静まり遣(や)らず、太々(いとど)以つて騒動す。公家より御使ひ頻波(シキナミ)に下されて、「此(こ)は然(さ)れば何事を憤(いきどほ)(イキドヲ)り申すぞ。存知の旨有らば、何度(いくたび)なりとも奏聞にこそ及ばめ」なんど仰せ下されければ、「別(べち)の子細には候はず。清盛入道(にふだう)に逢ひて死ぬべく候ふ」とぞ申しける。此れも只事には非(あら)ず。
入道(にふだう)相国と申すは、忝(かたじけな)くも当今(たうぎん)の御外祖父(おんぐわいそぶ)なり。其れに加様(かやう)に申しけるは、凡(およそ)は南都の大衆(だいしゆ)に天魔(てんま)属(つ)きにけるとぞ見えし。言(コト)の洩(モ)れ易(やす)きは禍(わざはひ)を招く媒(ナカダチ)なり。事の慎(つつし)まざるは敗(ヤブリ)を取る道なり。只今(ただいま)事に逢はんとぞ覚えし。
其の上、五月高倉宮の御幸に依(よ)つて、三井寺(みゐでら)より牒状(てふじやう)を遣(や)りたりける時、返牒(へんてふ)に書きける事こそ浅猿(あさまし)けれ。其の状に云はく、
玉泉・玉花(ぎよくくわ)を傑(ケツ)す。両家(りやうけ)の宗義(しゆうぎ)を立つといへども、金章(きんしやう)金句同じく一代の教文(けうもん)より出でたり。南京(なんきやう)・北京(ほくきやう)、但(ただ)し以つて如来の弟子為(た)り。自寺・他寺、互に調達(でうだつ)が三魔障(さんましやう)を伏すべし。
抑(そもそも)清盛入道(にふだう)は平氏(へいじ)の糟糠(さうかう)、武家(ぶけ)の塵芥(ちんガイ)なり。祖父(そぶ)正盛は蔵人(くらんど)五位の家に仕へて、諸国受領(じゆりやう)の鞭を執る。大蔵卿(おほくらのきやう)為房が賀州(かしう)の刺史(シし)為(た)りし古(いにしへ)、検非違使所(けびゐししよ)に補(フ)す。修理大夫(しゆりのだいぶ)顕季(あきすゑ)が播磨の国司為(た)りし昔、厩(ミマヤ)の別当職(べつたうしき)に任ず。親父(しんぶ)忠盛に曁(ヲヨ)んで昇殿を聴(ユル)されし時、都鄙(とひ)の老少皆蓬内裏壺(ホウダイリコ)の瑕瑾(カきん)を惜しみ、内外(ないげ)の英豪(えいかう)各(おのおの)馬台(ばたい)の籤(セン)に泣きぬ。父忠盛青雲(せいうん)の翅(ツバサ)を刷(カイツクロ)ふといへども、世人猶(なほ)白屋(はくヲク)の種名(しゆめい)を惜しむことを軽くし、青侍(せいし)其の家に臨むこと無かりき。
然(しか)る間、去んじ平治元〔年〕、太上天皇(だいじやうてんわう)一戦(いつせん)の功を感じて、不翅(ふシ)の賞を授けしより以降(このかた)、高く相国に昇り、而(しかう)して兵杖(ひやうぢやう)を賜(たま)はる。男子(なんし)は或(あるい)は台階(タイカイ)に忝(マジハ)り或(あるい)は羽林(うりん)に列し、女子(によし)は或(あるい)は中宮(ちゆうぐう)の職に備(ソナハ)り或(あるい)は准后(じゆごう)の宣を蒙(かうむ)り、群弟庶子(くんていそし)皆棘路(きよくろ)を歩み、其の孫彼(か)の甥(をひ)(ヲイ)悉(ことごと)く竹符(ちくふ)に列(ツラナ)る。加之(しかのみならず)九州(きうしう)を統領(ツウりやう)し、百司(はくし)を進退(しんだい)し、皆奴婢僕従(ぬびぼくじゆう)為(タ)り。一毛(いちまう)も心に違はば、則(すなは)ち王侯(わうコウ)と云(い)へども之(これ)を擒取(トリコ)にす。片言(ヘんげん)も耳に逆(サカ)へば、亦(また)公卿(くぎやう)とは云(い)へども之(これ)を〓(イサ)む。
是(こ)れ以つて若(も)しくは一旦の身命(しんみやう)を延べむが為(ため)、若(も)しくは片時(へんし)の陵辱(レウジヨク)を遁(のが)れむと欲(おも)ふ。万乗(ばんじよう)の聖主尚(なほ)面〓(めんイ)の嬌(コビ)を成(ナ)す。重代の家君(かくん)還(かへ)つて膝行(シツかう)の礼を致す。代々相伝の家領(けりやう)を奪ふといへども、掌(たなごころ)を上げて恐れて舌を巻く。家々相承(さうじよう)の庄園を取るといへども、権威(けんゐ)に憚りて言(イ)ふこと無(な)し。勝(かつ)に乗る余りに、去年(こぞ)冬十一月、太上皇(たいしやうくわう)の陬(スミカ)を追捕(ついふく)(ツイブ)し、博陸侯(ハクロクコウ)の身を押流(アウりう)す。叛逆(ほんぎやく)の甚だしきこと、誠に古今に絶えたり。
其の時、我等須(すべから)く賊首(ぞくシユ)に行き向かひ、以つて其の罪を問ふべきなりき。然(しか)れども或(あるい)は神慮を相(あ)ひ慮(ハばカ)り、或(あるい)は王言と称するに依(よ)つて、欝陶(ウツタウ)を抑(おさ)(ヲサ)へて光陰(くわういん)を送る間、重ねて軍兵(ぐんびやう)を発(おこ)して一院第三の親王(しんわう)の宮を打(う)ち囲む処に、八幡(はちまん)三所、春日の権現速やかに影向(やうがう)を垂れて、仙蹕(せんピツ)を〓[敬+手](ささ)げ奉(たてまつ)り、貴寺に送り附けて、新羅(しんら)の扉(とぼそ)に預(あづ)け奉(たてまつ)る。
王法(わうぼふ)尽くべからざる旨明(あきら)けし。随つて又貴寺身命(しんみやう)を捨てて守護し奉(たてまつ)る条、含識(がんじき)の類(たぐ)ひ、誰か随喜(ずいき)せざらむ。我等遠域(エンイキ)に在(あ)つて其の情を感ずる処に、清盛入道(にふだう)凶器(きようき)を起こして貴寺に入らむと欲する由(よし)、側(ホノカ)に以つて承(うけたまは)り及ぶ。兼ねて用意を致し、十二日に大衆(だいしゆ)を進発し、十三日に諸寺に牒送(てうソウ)す。末寺(まつじ)に下知(げぢ)して軍士を得(え)て後、案内を達せむと欲する処に、青鳥飛び来たつて芳織(はうシヨク)を投ず。数日(すじつ)の畜念(ちくねん)一時(いつとき)に解散(げさん)す。
彼(か)の唐家(たうけ)が清涼(しやうりやう)の〓蒭(葛)(ひつしゆ)すら猶(なほ)武宗の官兵(くわんびやう)に返る。況(いはん)や和国(わこく)の南北(なんぼく)両門(りやうもん)の衆徒、蓋(いづくん)ぞ謀臣の邪類(じやるい)を擺(ヤ)めざらむ。能(よ)く梁園(りやうゑん)左右(さう)の陣を固くして、宜(よろ)しく我等進発の告げを待つべし。者(てへれ)ば衆議(しゆうぎ)此(カ)くの如(ごと)し。仍(よつ)て牒送(てうそう)件(くだん)の如(ごと)し。乞(コウラク)は状を察して疑抬(ぎタイ)を成すこと勿(なか)れ。以つて牒す。
治承四年 五月日
十三 南都の炎上(えんしやう)の事
加様(かやう)の事共を聞くにも、入道(にふだう)争(いかで)か快(こころヨシ)と思はるべき。「是非は有るまじ。官兵(くわんびやう)を遣(つか)はして南都を責むべき」由(よし)沙汰有り。且(ツクヅ)く瀬尾(せのを)の太郎兼康(かねやす)を大将と為(し)て、三百余騎を差副(さしソ)へ、大和国の検非違使所(けびゐししよ)に補す。当国守護と為(し)て下らるる処に、大衆(だいしゆ)に赴(おもむ)(ヲモム)く。猿沢(さるさは)の池の縁(ハタ)にて兼康(かねやす)が余勢を散々に打(う)ち落として、郎等・家の子廿六人が頸を切つて、池の縁にぞ懸けたりける。兼康(かねやす)希有(けう)にして迯(に)げ登る。其の後、南都弥(いよいよ)騒動す。又大きなる毬打(ギツちやう)の玉を作つて、「是(こ)れは太政(だいじやう)入道(にふだう)が頸」と号して、之(これ)を打(う)ち張り、蹴履(ケフ)みけり。
入道(にふだう)相国此れを聞いて、安からぬ事に思はれければ、四男頭中将(とうのちゆうじやう)重衡(しげヒラ)を大将軍(たいしやうぐん)と為(し)て、数万騎の軍兵(ぐんびやう)を南都へ向けられけり。大衆(だいしゆ)又奈良坂・般若路(はんにやぢ)二つの通(みち)を打(う)ち塞(ふさ)ぎ、在々に城郭を構へ、老少を言はず、甲冑(かつちう)を鎧ひ、弓箭(きゆうせん)を帯(たい)して相(あ)ひ待つ処に、同じき十二月廿八日、重衡(しげひら)朝臣(あつそん)既(すで)に以つて発向したりけり。先づ三千余騎を二手(ふたて)に分けて、奈良坂・般若路(はんにやぢ)に向かふ。大衆(だいしゆ)謳(ヲメ)いて呼(ヨバ)はり、防(ふせ)ぎ戦ひけれども、奈良坂・般若路(はんにやぢ)破られにけり。
其の中に、坂の四郎房永覚(ヤウがく)と云ふ悪僧有り。打物(うちもの)に取つても弓箭(きゆうせん)に取つても、七大寺(しちだいじ)十五大寺(じふごだいじ)には更(さら)に肩を並ぶる者無(な)し。長(たけ)七尺計(ばか)りの大法師(だいほふし)の、骨太(フト)く逞(タクマ)しきが、胆(きも)も神(たましひ)も進疾(ススドキ)が、生得(しやうとく)天運の武者法師(ほふし)なり。黒褐(カチン)の直垂(ひたたれ)に萌黄糸摺(もえぎいとヲドシ)の腹巻の上に黒草摺(くろくさずり)の鎧を重ね、帽子甲(かぶと)の上に三枚甲(さんまいかぶと)を重ねて著(き)たりけり。三尺五寸の太刀(たち)を帯(は)き、大〓刀(おほナギなた)をば突いたりけり。又同宿(どうじゆく)十二人左右(さう)に立つて、手貝(テンがひ)の門より打(う)ち出でたり。此れのみぞ暫(しばら)く禦(フセ)ぎ闘ひける。寄(ヨセ)武者も此(こ)の永覚に多く打たれにけり。然(しか)れども大勢忽(たちま)ちに押し懸くれば、永覚一人武(タケ)く思へども其の甲斐(かひ)無(な)し。痛手を負ひしかば落ちにけり。
重衡(しげひら)朝〔臣〕は奈良の法華寺(ほつけじ)の鳥井の前(まへ)に打(う)つ立つて、次第に南都を亡(己)ぼしけり。両方の城郭を始めと為(し)て、寺中に打(う)ち入り、堂舎坊中に火を懸けて焼き払ふ。恥をも思ひ名をも惜しむ程の者は、奈良坂にて打(う)ち死にし、般若路(はんにやぢ)にて打たれにけり。行歩(ぎやうぶ)に叶ふ輩(ともがら)は吉野・戸津河(とツがは)の方へ落ち失せぬ。歩みをも得(え)ぬ老僧共・尋常なる修覚者(しゆがくしや)・児共(ちごども)・女房達なんどは、山階寺(やまシナでら)の天上に四五百計(ばか)り隠れ上りぬ。大仏殿の二階の楼門(らうもん)の上には一千人(いつせんにん)迯(に)げ昇りけるを、敵(テキ)を昇せじとて橋をば引きにけり。
折節(をりふし)風唱立(おびたた)(ヲビタタ)しく吹いたりければ、二ヶ所(にかしよ)の城に懸けられたる火、一(ひと)つに成つて多くの堂舎に吹き移りぬ。興福寺(こうぶくじ)・法花寺(ほつけじ)・薬師寺を始めと為(し)て、仏法最初の尺迦(しやか)の像は東金堂に御坐(おは)す。自然涌出(じねんゆじゆつ)の観音は西金堂(さいこんだう)に御坐(おは)す。彼(カカ)る霊像情けも無(な)く灰燼(ハイジン)と成るこそ悲しけれ。
東大寺は聖武(しやうむ)天皇の御願(ごぐわん)、天下第一(だいいち)の奇特(きどく)なり。烏瑟(うしつ)高く顕れて半天(はんてん)の雲に隠れ、白毫(びやくがう)新たに磨(ミガ)かれて万徳(まんどく)の尊容(そんよう)を讃(ほ)む。興福寺(こうぶくじ)は淡海公(たんかいこう)の御願(ごぐわん)、藤氏(とうじ)一流の氏寺なり。琉璃(るり)を並べし四面の廊、朱丹(しゆたん)を交へし二階の楼、九輪(くりん)高く輝(かかや)きし二基の塔も併(しか)しながら煙と成るこそ悲しけれ。瑜伽(ゆが)・唯識(ゆいしき)の両部(りやうぶ)を始めと為(し)て、法問(ほふもん)聖教(しやうげう)も一巻も残らず焼けにけり。大仏殿の上、山科寺(やまシナでら)の内に隠れ籠(こも)りたりける児共(ちごども)・修覚者(しゆがくしや)・尼公共、火の燎(も)え来(ク)るに随つて、謳(ヲメ)き号(サケ)び叫(ヨバハ)る声、山を響かし地を動かす。独(ひと)りも何(ナジ)かは残るべき、皆焼け死にたるこそ哀(あは)れなれ。無間地獄(むげんぢごく)の炎の底の罪人の焼くらんも、是(こ)れには争(いかで)か過ぐべきとぞ見えし。
昔聖武(しやうむ)皇帝(くわうてい)、常在不滅(じやうざいふめつ)実報寂光(じつぽうじやくくわう)の生身(しやうじん)の御仏と思食(おぼしめ)し准(なぞら)(唯)へて、手づから自(みづか)ら鋳顕(いあらは)したまひし金銅十六丈(じふろくぢやう)の盧舎那仏(るしやなぶつ)も、御〓(グシ)は焼け落ちて土に有り。御身は涌(踊)(わ)き上つて塚(ツカ)の如(ごと)し。親(まのあた)りに見奉(たてまつ)る者、更(さら)に目も当てられず。遥かに伝へ聞く人は、涙を流さずといふこと無(な)し。梵尺(ぼんじやく)四王(しわう)・龍神(りゆうじん)八部(はちぶ)・冥官(みやうくわん)・冥衆(みやうしゆ)に至(いた)るまで、定めて驚き騒ぎたまふらんとぞ覚えし。法相擁護(ほつさうおうご)の春日大明神、何(いか)なる事をか思食(おぼしめ)すらん、神慮も知り難(がた)し。然(さ)れば三笠山(みかさやま)の雹(アラシ)の声も恨むる様(やう)にぞ聞えける。春日野(かすがの)の露の色も今更(いまさラ)替れる風情(ふぜい)なり。
今度(こんど)焼く所の堂舎、東大寺には大仏殿・講堂・四面の迴廊(くわいらう)・三面の僧坊・戒壇(かいだん)・尊勝院・安楽院(あんらくゐん)・真言院・薬師堂(やくしだう)・東南院(とうなんゐん)・八幡宮(はちまんぐう)・気比(けイノ)社、興福寺(こうぶくじ)には金堂(こんだう)・講堂・南円堂(なんゑんだう)・東金堂・五重塔(ごぢゆうのたふ)・北円堂(ほくゑんだう)・東円堂(とうゑんだう)・四面の僧坊・観自在院(くわんじざいゐん)・西院(さいゐん)・大乗院(だいじようゐん)・中院(ちゆうゐん)・松楊院(しようやうゐん)・北院(ほくゐん)・東北院(とうぼくゐん)・東松院(とうしようゐん)・観禅院(くわんぜんゐん)・五大院(ごだいゐん)・北戒壇(きたかいだん)・唐院(からゐん)・松院(しようゐん)・伝法院(でんぽふゐん)・真言院・円成院(ゑんじやうゐん)・皇嘉門院(くわうかもんゐん)の御塔・惣宮・一言主(ヒトコトヌシ)社・瀧蔵社・住吉社・鐘〔楼〕(しようろう)一宇・大湯屋(おほユや)一宇・経蔵(きやうざう)一宇。但(ただ)し釜(金)は焼け破(ヤブ)れず、不思議(ふしぎ)其の一なり。此(こ)の外大小の諸門(しよもん)・寺外(じがい)の諸堂(しよだう)は注するに及ばず。菩提院(ぼだいゐん)・龍花院(りゆうげゐん)・同坊(どうばう)両三宇・禅定院(ぜんぢやうゐん)・新薬師寺・春日社(かすがのやしろ)〈 四所 〉・若宮社なんどぞ纔(わづか)に残りにける。日本我が朝は申すに及ばず、天竺(てんぢく)・晨旦(しんだん)にも此れ程の法滅(ほふめつ)は争(いかで)か有るべきとぞ覚えし。
抑(そもそも)此(こ)の大仏殿と申すは、人王(にんわう)四十五代の帝(ミカド)聖武(しやうむ)天皇〈 諱(いみな)は勝宝(しようほう)と云ふ 〉の御時、天平六年〈 甲申(きのえさる) 〉正月廿一日、東大寺の大仏を金銅を以つて鋳始め奉(たてまつ)り、孝謙(かうけん)天皇〈 諱(いみな)は阿倍(あべ)と云ふ 〉の御宇(ぎよう)、天平八年十月廿四日に功を終へ畢(をは)んぬ。始終(しぢゆう)三ヶ年(さんかねん)の間なり。〈 九度鋳奉(たてまつ)る 〉用ふる所の熟銅(じゆくどう)七十三万九千五百六十両、白鑞(びやくらふ)一万四千卅六両、水銀(すいぎん)五万八千六百卅両、炭は一万六千一百五十六石。大仏の寸法(すんぽふ)、高さは十五丈三尺五寸、面の長さ一丈六尺、広さ九尺五寸、完髻(かんび)の高さ三尺、眉の長さ五尺四寸、足下一丈三尺、膝(ヒザ)原七尺、螺〓(ラケ)は九百六ヶ、高(カウ)各(おのおの)一尺なり。聖武(しやうむ)天皇より安徳(あんとく)天皇に至(いた)るまで王孫卅七代に当たりたまふ。年の数は四百四十二年なり。自今(じこん)以後(いご)誰か造立(ざうりふ)すべけんや。
焼け死ぬる所の雑人等、〔大〕仏殿には千七百人余なり。山階寺(やましなでら)には五百余人。或(ある)御堂には三百人。凡(およ)そ後日(ごにち)に此れを計(カゾ)へければ、一万二千余人とぞ聞えし。軍庭(いくさバ)にて討たるる大衆(だいしゆ)七百余人の頸をば、法華寺(ほつけじ)の鳥居の前(まへ)に懸けてんげり。残る所の三百余人の首をば都へ登す。其の中に尼公の頸共も少々有りけり。
廿九日、蔵人頭(くらうどのとう)重衡(しげひら)朝臣(あつそん)南都を亡(己)ぼして、京へ帰り入らる。入道(にふだう)相国一人計(ばか)りぞ憤(いきどほ)りを散じて悦(よろこ)ばれける。一院・新院・摂政(せつしやう)殿下(てんが)・大臣・公卿(くぎやう)を始めと為(し)て、少しも前後を弁(わきま)へ、心有る人は、「此(コ)は何と為(シ)つる事ぞや。悪僧共をこそ失なはれぬとも、左(さ)計(ばか)りの伽藍(がらん)共(ども)を破滅(はめつ)すべしや。口惜しき事なり」とぞ悲しび合ひ給ひける。衆徒の頸共をば、大路を渡して獄門の木に懸けらるべきにて有りけるが、東大寺・興福寺(こうぶくじ)の焼けにけるが浅猿(あさまし)さに、沙汰に及ばず、此(こ)こ彼(かし)この堀溝に捨てられにけり。穀倉院(こくさうゐん)の南の堀に奈良大衆(だいしゆ)の頸を以つて〓[酉+斗](ウ)めたりけり。寔(まこと)に心憂(こころう)しとも云ふ計(はか)り無(な)し。
東大寺に書き置かれける聖武(しやうむ)天皇の御起請文(ごきしやうもん)に云はく、「我が寺興複(コウブク)せしめば天下も興複すべし。吾が寺衰微せば天下も衰微せん」と云々。然(しか)れば今塵灰(ちりはひ)と成りぬる上は、国土の滅亡(めつばう)疑ひ無(な)しとぞ悲しみたる。此れも然(しか)るべき期(ご)に相(あ)ひ当たり、神明も兼ねてより監(かんが)み給ふらん。
十四 東大・興福(こうぶく)造営の沙汰の事
左少弁(させうべん)行隆(ゆきたか)、先年八幡(はちまん)に参り、通夜(つや)しける夜の示現(じげん)に、「東大寺造営奉行の時、此れを持(恃)つべし」とて、笏(しやく)を賜(たま)はると見えければ、打(う)ち驚きて前を見るに、現(げ)に笏(しやく)有りけり。其れを取つて下向しけれども、「当時何事にか造り替へらるべし」と心中に思ひながら、年月を送る程に、此れ焼け失(共)せにし後、大仏殿造営の沙汰の有りし時、弁の中に彼(か)の行隆(ゆきたか)遮(えら)ばれて、奉行すべき由(よし)仰せ下さる。其の時、行隆(ゆきたか)言ひけるは、「勅勘(ちよくかん)を蒙(かうぶ)らずして次第の昇進(しようじん)有り応(ナバ)、今は弁官をば除かれなまし。多年(たねん)を隔てて二ヶ度弁官に成り還(かへ)つて、今奉行の仁(にん)に相(あ)ひ当たる。先世(せんぜ)の結縁(けちえん)浅からぬにこそ」と悦(よろこ)びて、一年(ひととせ)大菩薩より給はつたりし笏(しやく)を取り出だして、事始めの日より持(も)ちけるとぞ聞えし。
源平闘諍録 巻第五