『源平闘諍録』読み下し 漢字仮名交じり版
凡例
底本: 内閣文庫蔵『源平闘諍録』(五冊、一之上・一之下・五・八之上・八之下)
 早川厚一・弓削繁・山下宏明『内閣文庫蔵 源平闘諍録』(和泉書院)
 原本には各冊の冒頭に「目録」がありますので、それぞれの巻頭につけました。
 本文中に、章段名は、有りませんが、該当個所に、入れました。
 原本は真字本ですが、これを訓読文としました。訓読に際しては、原本の送り仮名・振り仮名・ヲコト点に従うことを原則としましたが、一部、他の『平家物語』諸本を参考にして定めました。
 適宜振り仮名を附しましたが、原本の振り仮名は片仮名で残しました。
 漢字は、原則として「常用漢字表」にある字体に従いました。異体字はおおむね通行の字体に直しましたが、一部に異体字、旧字を残しました。パソコンで入力出来ないコードの無い字(第一・第二水準以外)は、〓で表示し、一部、〓[ + ]で文字を示しました。
 原本には多くの誤字・脱字があり、それらのいくつかには、正しいと思われる字や脱字が書き込まれています。適宜それらを採用し、他の諸本を参照しながら、訂正したり、補ったりしました。補った場合は〔 〕に入れて示しました。
 当て字と判断されるものは、正しい文字に直し、元の字を ( ) に入れて示しましたが、一部に原本の文字を残しました (僉儀・僉義など)。
「大−太、小−少、被−任、彼−被、基−墓、息−恩、陳−陣、郡−群、墨−黒、幡−播、弟−第、牧−枚、任−仕、點−黙」などは、意味に従って正しい文字に直しました。
 和歌は、多く漢字による音仮名で表記されています。それらの中には歴史的仮名遣いに合わないものがあるので、原本の漢字表記を残し、その読みを歴史的仮名遣いで記しました。
 原本の割注は 〈  〉 に入れて示しました。
 本書の訓読には、下記を、大いに参考に致しました。
『源平闘諍録 坂東で生まれた平家物語 上』(講談社学術文庫 1397) 1999.09
『源平闘諍録 坂東で生まれた平家物語 下』(講談社学術文庫 1398) 2000.03.
福田豊彦/服部幸造 全注釈 講談社

源平闘諍録 一之上
(表紙)源平闘諍録 一之上 共五冊
  〔目録〕
 一 桓武天皇より平家の一胤の事
 二 備前守忠盛昇殿の事〈 天承元年三月十三日 〉
 三 忠盛死去の後、清盛其の跡を継ぎて栄ゆる事〈 仁平二年 保元年〈 丙子(ひのえね) 〉七月 〉
 四 内と院と御中不和の事〈 永暦(えいりやく)・応保の比(ころ) 〉
 五 二条院、先朝の后の宮を恋ひ御(おはしま)す事〈 前朝の内 〉
 六 二条院崩御(ほうぎよ)の事〈 永万元年八月 〉
 七 延暦・興福寺(こうぶくじ)、額打論(がくうちろん)の事〈 前(まへ)/に同じ 〉
 八 高倉天皇御即位の事〈 仁安三年三月廿日 〉
 九 右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝、伊東の三女に嫁する事〈 仁安三年三月 〉
 十 頼朝の子息(しそく)、千鶴(せんづる)御前失なはるる事〈 同じく十一月下旬十四日 〉
十一 頼朝、北条の嫡女に嫁する事〈 同じく十一月下旬の比(ころ) 〉
十二 藤九郎(とうくらう)盛長夢物語(ゆめものがたり)〈 同じく十二月二日 〉
十三 太政(だいじやう)-入道清盛、悪行(あくぎやう)始めの事〈 同じく二年十六日 〉
十四 太政(だいじやう)-入道の第二の御娘、入内(じゆだい)有る事〈 承安元年十二月十四日 〉
十五 新大納言成親(なりちか)、大将所望の為(ため)、様〔々〕の祈祷の事〈 同じ比(ころ) 〉
十六 成親(なりちか)・俊寛、平家追討の僉議の事〈 同じ比(ころ) 〉
十七 日代師高(もろたか)、白山の大衆(だいしゆ)と争ひを起こす事〈 安元二年十二月十九日(じふくにち) 〉
十八 山門の大衆(だいしゆ)、神〔輿〕を捧げて下洛する事〈 治承元〔年〕四月十三日 〉付けたり 頼政、変化(へんげ)の物を射る事
十九 平大納言時忠、清撰(せいせん)に預(あづ)かる事〈 同じく十四日 〉
 廿 加賀守(かが/の−かみ)師高(もろたか)、尾張国へ流さるる事〈 同じく廿日 〉
廿一 禁中・洛中炎上(えんしやう)の事〈 同じく廿八日 〉
源平闘諍録巻第一上
 一 桓武天皇より平家の一胤の事
 祇園(ぎをん)精舎(しやうじや)の鐘の声、諸行(しよぎやう)無常(むじやう)の響き有り。沙羅雙樹(しやら-さうじゆ)の花の色は、盛者必衰(じやうしや-ひつすい)の理(ことわり)を顕せり。驕(おご)れる人も久しからず、只(ただ)春の夜の夢の如(ごと)し。武(たけ)き者も遂(つひ)には殄(ほろ)びぬ、偏(ひとへ)に風の前の塵に同じ。遠く異朝を訪(とぶら)へば、秦の趙高(てうかう)・漢の王莽(わうまう)・梁の周異(しうい)・唐の禄山(ろくさん)、此れ等は皆旧主(きうしゆ)先皇の政(まつりごと)にも随はず、楽しみを極め、諌(イサメ)を容(い)れず、天下の乱れをも覚らず、民間の愁ふる所をも知らざりしかば、久しからずして失せにし者なり。近くは本朝を尋ぬれば、承平(しようへい)の将門(まさかど)・天慶(てんぎやう)の純友(すみとも)・康和(かうわ)の義親(ぎしん)・平治の信頼(のぶより)、驕(おご)れる心も武(たけ)き事も取々(とりどり)にこそ有りしかども、親(まぢか)くは入道太政(だいじやう)-大臣(だいじん)平の清盛と申しける人の有様を伝へ聞くこそ、心も言(ことば)も及ばれね。
 其(そ)の先祖(せんぞ)を尋(たづ)ぬれば、桓武(くわんむ)天〔皇〕(てんわう)〈 柏原天皇 〉第五(だいご)の王子(わうじ)、一品式部卿(いつぽんしきぶきやう)葛原(かづらはら)の親王(しんわう)九代(くだい)の後胤(こういん)、讃岐守(さぬきのかみ)正盛(まさもり)の孫(まご)、刑部卿(ぎやうぶきやう)忠盛(ただもりの)朝臣(あつそん)の嫡男(ちやくなん)なり。彼(か)の親王(しんわう)の御子(みこ)高見(たかみ)の王(わう)は、無官(むくわん)無位(むゐ)にて失せ給(たま)ひぬ。其(そ)の御子(みこ)に高望(たかもち)の王(わう)の時(とき)、淳和天皇の御宇(ぎよう)、天長年中の比(ころ)、忽(たちま)ちに王氏(わうし)を出(い)でて人臣(じんしん)に烈(つらな)り、始(はじ)めて平(たひら)の朝臣(あつそん)の姓(しやう)を賜(たま)はり、上総介(かづさのすけ)に任ず。
 彼(か)の高望(たかもち)に十二人の子有り。嫡男(ちやくなん)国香(くにか)常陸(ひたちの)大掾(だいじよう)、将門(まさかど)が為(ため)に誅(ちゆう)せらる。次男良望(よしもち)鎮守府(ちんじゆふ)の将軍(しやうぐん)、是(こ)れ将門(まさかど)が父なり。三男良兼(よしかね)上総介(かづさのすけ)、将門(まさかど)と度々(どど)合戦を企て、終(つひ)に討たれ了(をは)んぬ。四男以下(いげ)は子無(な)くして、子孫を継がず。第十二の末子(ばつし)良文(よしふみ)村岡の五郎、将門(まさかど)が為(ため)には伯父為(た)りといへども、養子と成り、其の芸威を伝ふ。将門(まさかど)は八箇国を随へ、弥(いよいよ)凶悪の心を構へ、神慮にも憚らず、帝威にも恐れず、壇(ほしいまま)に仏物を侵し、飽くまで王財を奪ひしが故に、妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)、将門(まさかど)が家を出でて、良文(よしふみ)が許(モト)へ渡りたまふ。此れに因(よ)つて良文(よしふみ)、鎌倉の村岡に居住す。五箇国を領じて、子孫繁昌す。
 彼(か)の良文(よしふみ)に四人の子有り。嫡男(ちやくなん)忠輔(ただすけ)、父に先立ちて死去し了(をはん)ぬ。二男忠頼村岡の三郎(さぶらう)、奥州介(あうしうのすけ)と号す。武蔵(むさしの)国の押領使(あふりやうし)と為(し)て、上総(かづさ)・下総(しもふさ)・武蔵(むさし)の三ヶ国を領す。下総(しもふさ)の秩父(ちちぶ)の先祖なり。三男忠光駿河守(するがのかみ)をば権中将(ごんのちゆうじやう)と云ふ。将門(まさかど)の乱に依(よ)つて常陸(ひたちの)国信太(シダ)の嶋へ配流せらる。仍(よつ)て常陸(ひたち)の中将(ちゆうじやう)と云ふ。赦免の後は、船に乗つて三浦へ著(つ)き、青雲介の娘に嫁し、三浦郡(みうらのこほり)・安房(あはの)国を押領す。三浦の先祖是(こ)れなり。四男忠道村岡の平大夫、村岡を屋敷と為(し)て、鎌倉・大庭(おほバ)・田村等を領知す。鎌倉の先祖是(こ)れなり。
 又彼(か)の忠頼に三人の子有り。嫡男(ちやくなん)忠常、上総(かづさの)国上野の郷に居住せしかど、後には下総国(しもふさのくに)千葉の庄に移つて、下総(しもふさの)権介(ごんのすけ)と号し、両国を領す。其の時、妙見大菩薩(めうけんだいぼさつ)は長嫡に属(ツ)き、千葉の庄へ渡りたまふ。其の子に常将(つねまさ)、武蔵(むさし)の押領使(あふりやうし)と為(な)る。其の子に常長千葉介(ちばのすけ)大夫、十二年の合戦の時、官兵(くわんびやう)に駈られ、八幡殿(はちまんどの)の御共に有りしが、海道の大手の大将軍(たいしやうぐん)為(タ)り。其の子に常兼千葉の次郎大夫、舎弟(しやてい)常房(つねふさ)鴨根(かもね)の三郎(さぶらう)、千田(ちだ)の先祖是(こ)れなり。同じく常晴(つねハル)相馬(さうま)の小五郎(こごらう)、上総(かづさ)の先祖なり。其の子に常澄(つねずみ)上総(かづさの)大介(おほすけ)。其の子に広常権介(ごんのすけ)、頼朝の命(めい)に依(よ)つて、梶原(かぢはら)の平三景時が為(ため)に誅さる。(奥州(あうしう)御下向の時、広常、深雪成る事を痛く陳じ、引き破りて皈国す。故に広常を御退治す。余りに一二(つまびらか)なり。其の末常胤(つねたね)奥州(あうしう)御在陣の故に、千葉の御一族、奥州(あうしう)に多く御座(おはしま)す儀なり。上総(かづさの)国守護職、其の年以来(いらい)なり。)常兼が次男常重大権介(ごんのすけ)。舎弟(しやてい)常康白井の六郎。同じく舎弟(しやてい)匝瑳(さふさ)の八郎常綱。其の子に常胤(つねたね)千葉大介(おほすけ)、鎌倉殿の左の一の座を給はる。彼(か)の常胤(つねたね)の舎弟(しやてい)胤光椎名(しひな)の五郎、椎名(しひな)の先祖是(こ)れなり。
P1035
 忠頼が次男忠尊、山中の悪禅師(あくぜんじ)と号す。大力(だいぢから)の角打(う)ちなり。其の子に常遠笠間(かさま)の押領使(あふりやうし)、景将(かげまさ)が為(ため)に誅(ちゆう)さる。其の子に常宗中村(なかむら)の太郎。其の子に宗平中村(なかむら)の庄司(しやうじ)。其の子に実平(さねひら)土肥(とひ)の次郎、土肥(とひ)の先祖是(こ)れなり。其の舎弟(しやてい)遠宗土屋の三郎(さぶらう)、土屋の先祖是(こ)れなり。
 彼(か)の忠頼が三男将常(まさつね)武蔵(むさしの)権守(ごんのかみ)、秩父(ちちぶ)の先祖是(こ)れなり。其の子に武基(たけもと)秩父(ちちぶ)の別当(べつたう)大夫。其の子に武綱秩父(ちちぶ)の十郎。其の子に重綱権守(ごんのかみ)、秩父(ちちぶ)の冠者(くわんじや)と云ひて、十二年の合戦の時、先陣(せんぢん)の大将軍(たいしやうぐん)為(タ)り。其の子に重弘(しげヒロ)太郎大夫。其の子に重義畠山(はたけやま)の庄司(しやうじ)。同じく舎弟(しやてい)小山田(をやまだ)の別当(べつたう)有重。重義が子に重忠(しげただ)畠山(はたけやま)の次郎、鎌倉殿の先陣(せんぢん)の大将軍(たいしやうぐん)是(こ)れなり。
 忠光村岡の四郎は三浦の先祖たり。其の子に為名三浦の平大夫。其の子に為次三浦の平太郎、十二年の合戦の時の高兵七人の其の一なり。其の子に義次六郎庄司(しやうじ)。其の子に義明三浦の大介(おほすけ)、重忠(しげただ)が為(ため)に討たれ畢(をは)んぬ。其の子に義宗椙本(すぎもと)の太郎。次男義澄(よしずみ)別当(べつたうの)介。其の子に義村駿河守(するがのかみ)。
 忠道平大夫〈 鎌倉の先祖なり。 〉其の子に景道鎌倉の権大夫。其の子に景村鎌倉の太郎。舎弟(しやてい)景将(かげまさ)権五郎(ごんごらう)、貞任(さだたふ)を迫(せ)めし時の高兵七人の内、後陣の大将軍(たいしやうぐん)為(タ)り。其の子に景長〈 実(まこと)には景村が子なり。 〉、其の子に景時梶原(かぢはら)の平三、羽林(うりん)頼朝には後陣の大将軍(たいしやうぐん)為(タ)り。
 又国香(くにか)、其の子に貞盛平将軍(へいしやうぐん)、嫡々の末、多気(たけノ)大掾(だいじよう)を始めと為(し)て、吉田・鹿嶋・東条・小栗・真壁、此(こ)の七人は鹿嶋の神事の使ひなり。伊豆の北条の先祖は平将軍(へいしやうぐん)。其の子に維衡(コレひら)常陸(ひたち/の)−守(かみ)。其の子に維度(これのり)越前守。其の子に維盛(これもり)筑後守。其の子に、貞盛・維衡・正度・正衡・正盛・忠盛、盛基美濃守。其の子に貞時兵衛大夫。其の子に時家、北条介の娘に嫁して、時色の四郎大夫を設(まう)けたり。其の子に時政北条の四郎、遠江(とほたふみ/の)−守(かみ)と号す。右大将頼朝の舅(しうと)為(タ)り。其の子に義時奥州(あうしう/の)−守(かみ)、右京権大夫と云ふ。彼(か)の義時は都を打(う)ち随へ、日本国を知行す。〈 序分 〉
二 備前守忠盛昇殿の事
 高望(たかもち)の親王(しんわう)の末、日本国を打(う)ち靡(なび)かすこと、既(すで)に三ケ度に及べり。然(しか)るに、先祖貞盛、朝敵将門(まさかど)を誅(ちゆう)して鎮守府(ちんじゆふの)平将軍(へいしやうぐん)に任ず。平将軍(へいしやうぐん)より備前守忠盛に至るまで、六代の間は、諸国の受領(じゆりやう)為(タ)りといへども、未(いま)だ殿上の仙籍(跡)をば免(ゆる)されず。然(しか)るを忠盛備前守為(た)りし時、鳥羽院の御願(ごぐわん)得長寿院(とくちやうじゆゐん)を造進して、三十三間の御堂を立て、一千一躰の御仏を安置し奉る。其の功に依(よ)つて、天承元年〈 辛亥(かのとゐ) 〉三月十三日の供養の日、忠盛に勧賞(けんじやう)行はれて、闕国(けつこく)を賜(たま)はる由(よし)、仰せ下さるる上、禅定(ぜんぢやう)法皇、叡感の余りに、内の昇殿を容(ゆる)さるる間、雲の上人(うへびと)憤(いきどほ)り猜(そね)む。
 同年十一月廿三日、五節豊明(ごせちとよのあかり)の節会(せちゑ)の夜、闇打(う)ちに為(せ)/んと欲(し)/ければ、忠盛が近親の郎等に、進(しん)の三郎(さぶらう)大夫季房(スヱふさ)が子、左兵衛尉(さひやうゑのじよう)家貞と云ふ者有り。此(こ)の事を聞き得(え)て、狩衣(かりぎぬ)の下に腹巻を著(き)、三尺の太刀を腋挟(わきばさ)んで、事有らば、只今(ただいま)走り立つべき躰(てい)にて、殿上の小庭に突い跪(ひざまづ)いてぞ候ひける。殿上人、貫首(くわんじゆ)已下(いげ)、此れを恠(あや)しみ、六位の蔵人(くらんど)を召して、「控柱(うつほぼしら)より内に、布衣(ほうい)の者の候ふは何者ぞ。狼藉なり。急ぎ罷(まか)り出でよ」と云はせければ、家貞、袖を押し合せ、畏(かしこま)つて申しけるは「仰せに随つて、尤(もつと)も罷(まか)り出で候ふべけれども、相伝の主(しゆ)備前守殿を、其の由(よし)も無きに、今夜(こよひ)、闇打(う)ちに為(せ)/らるべき由(よし)、承(うけたまは)り候へば、何(いか)にも成り給はん様(やう)を見ん為(ため)に、此(かく)て候ふ。得古曾(えこそ)罷(まか)り出づまじけれ」とて、候ひ居たり。其の上、弟の平九郎家季も、太刀を腋挟(わきばさ)んで、遥かに引き去りて居たりければ、蔵人(くらんど)立ち還(かへ)つて、委しく此(こ)の由(よし)を申しければ、各(おのおの)舌を巻いて懼(おそ)(ヲソ)れ逢へり。
 然(さ)る程に、忠盛「此(こ)の事何(いか)が有るべき」と〓(ヤス)らひ、御遊(ぎよいう)も未(いま)だ終(は)てざるに、闇打(う)ちの事、兼日用意の間、燈影(ほかげ)に立ち倚(よ)つて、一尺三寸の打刀(うちがたな)の、氷の如(ごと)くなるを抜き出だし、鬚髪に引き当て、押し捫(のご)ひて、騒がずして静かに腰に差し、又障子の陰に立ち縁(よ)り、件(くだん)/の刀を抜き出だし、真手(まて)に取るに、人を窺ふ気色(けしき)、最(いと)露(あらは)に見えたり。良(やや)久しく、殿上の方を盻(み)て立ちければ、面(おもて)を対(む)くべき様(やう)も無(な)し。然(しか)る間、由(よし)無(な)しとや思はれけん、其の夜の闇打(う)ち止(とど)まりにけり。
 抑(そもそも)、五節の淵酔(晏水)(えんすい)と申すは、是(こ)れ清見原(きよみはら)天皇の御時に始めてより以(このかた)、今の代に至るまで、「肩抜(かたぬき)には、白薄様(しろうすやう)の小禅師(こぜんじ)の紙、巻上の袖、友絵(ともゑ)書いたる筆の軸」と、此(か)く拍(はや)すに、拍子を易(か)へて、「伊勢平氏(いせへいじ)は酢瓶(スがめ)なりけり」とぞ拍(はや)しける。忠盛は伊勢国より生ひ立ちける上、片目の角〓(すがめ)を心憂(こころ−う)しとは思へども、所存の旨有るに依(よ)つて、夜深更(しんかう)に及んで、且(かつ)うは後日(ごにち)の訴訟の為(ため)に、紫震殿(ししんでん)の御後(ごご)にて、諸(かたへ)の殿上人の見らるるに、件(くだん)/の刀を取り出だして、主殿司(とのもづかさ)に預け置きてぞ出でられける。家貞待ち請(う)けて、「如何(いかが)候ひける」と尋ね申しければ、「別(べち)の事無(な)し」と答へけり。
 上古(しやうこ)にも加様(かやう)の事有りけり。昔、季仲卿(すゑなか/の-きやう)は色の極めて黒かりければ、時の人「黒帥(こくそつ)」とぞ申しける。然(しか)るに蔵人頭(くらうどのとう)為(た)りし時、五節の宴に、「穴(あな)黒々し、瞻(くろ)き頭かな。誰か捕へて漆塗りけん」と拍(はや)しけり。季仲卿(すゑなか/の-きやう)の方人に、殿上人「穴(あな)白々し、素(しろ)き主かな。何(いか)なる人の帛(はく)を推(お)しけん」と此れを拍(はや)す。又、花山院(くわさんのゐん)の入道太政(だいじやう)-大臣(だいじん)、御年十歳の時、父忠家卿に後(ヲク)れ奉り、恂子(ミなしご)にて在(ましま)しけるを、中御門(なかのみかど)の中納言家成卿、播磨守為(た)りし時、聟に取り、声花(はなやか)に〓(もてな)されて、此れも五節に、「播磨米は木賊(とくさ)か、椋(ムク)の葉か。人の蔵規(きら)を属(つ)く」と早(はや)しけり。然(しか)るに、上代は敢(あへ)て事も出で来たらず。末代は何(いか)が有るべからん、知り難(がた)し。
 五節も已(すで)に終(は)て、次の日に成つて、案の如(ごと)く、殿上人一同に訴へ申されけるは、「夫(それ)雄剣(ゆうけん)を帯(たい)して公宴(くえん)に烈(れつ)し、兵杖(ひやうぢやう)を賜(たま)はつて宮中を出入(しゆつにふ)することは、皆格式(きやくしき)の綸命(りんめい)を守る、先例由(よし)有る者なり。而(しか)るに忠盛、郎従をして兵具を帯(たい)さしめ、殿上の小庭に召し置きて、其の身又、腰刀を指(さ)して節会の座に烈(つら)なる。昔より未(いま)だ聞かず、殿上の衆に交はる輩の、腰刀を帯(たい)することを。両条共に先例に非(あら)ず、希代(きたい)未聞の狼藉なり。事既(すで)に重畳(ちやうでふ)す。罪科争(いかで)か遁(のが)るべけんや。早(はや)く御札(みふだ)を削つて、闕官(けつくわん)停任(ちやうにん)せらるべき」由(よし)、各(おのおの)訴へ申されければ、主上(しゆしやう)驚き思食(おぼしめ)されて、忠盛を召して、御尋ね有る処に、忠盛の申し状、誠に如勇(ゆゆ)しくぞ聞えし。「先づ郎従小庭に祗候(しこう)の条、忠盛之(これ)/を覚悟せず。但し、近日、人々相(あひ)−巧(たくま)まるる子細有る間、年来の家人(けにん)此(こ)の事を聞き、其の恥を雪(すす)がんが為(ため)に、忠盛に知られず、竊(ひそか)に参候の条、力及ばざる次第なり。若(も)し猶(なほ)科(とが)有るべくは、早(はや)く其の身を召し進(まゐ)らすべきか。次に刀を帯(たい)する事、既(すで)に露顕の上は勿論(もちろん)なり。但し、件(くだん)/の刀、主殿司(とのもづかさ)に預け置けり。早(はや)く彼を召し出だされて御披見の後、刀の実否(じつぷ)に就(つ)き、過(とが)の左右(さう)有るべきか」と、憚る所無(な)く申しければ、主上(しゆしやう)「然(しか)るべし」とて、彼(か)の刀を召し出だし、叡覧有りければ、実(まこと)の刀には非(あら)ず、一尺三寸の木刀(きがたな)を作り、上に黒漆を塗つたる鞠巻(さやまき)の、実(み)には銀帛(ぎんぱく)を推(お)したりけり。
 主上(しゆしやう)〓(ゑつぼ)に入らせ御坐(おはしま)して、仰せ有りけるは、「各(おのおの)此れを承(うけたまは)れ。当座の難を遁れん為(ため)に、刀を帯(たい)する由(よし)を見せしむといへども、後日(ごにち)の訴訟を存知して、木刀(きがたな)を帯(たい)する用意の程こそ神妙(しんべう)なれ。弓箭(きゆうせん)の道に携(たづさ)はらん計(はかりこと)は、尤(もつと)も右(カウ)こそ有間欣(あらまほ)しけれ。兼ねては又郎従、主の恥を雪(すす)がん為(ため)に、密かに参候の条、且(かつ)うは武士の郎等の習ひなり。全く忠盛が科(とが)に非(あら)ず。『若(も)し猶(なほ)其の過有るべくは、其の身を召し進(まゐ)らすべきか』の申し様、寔(まこと)に政道の法なり。憐(あは)れ、理致を知つたる者かな」と、還(かへ)つて御感有る上は、敢(あへ)て罪科の沙汰も無かりけり。
 又、忠盛、余の事の如勇(ゆゆ)しきのみに非(あら)ず、歌道に取つても艶(やさ)しかりけり。当初(そのかみ)播磨守為(タ)りし時、国より上洛(しやうらく)せられたりけるに、人々多く集つて、「明石の浦の月は何(いか)に」と問ひければ、忠盛此(か)くぞ答へける。
 「有明月明石浦風 波計古曾夜見志賀
   (有明の月も明石の浦風は 波ばかりこそよると見えしか)
加様(かやう)に読まれたりければ、人々優(いう)仁曾(にぞ)思はれける。
 又、忠盛、祇園(ぎをん)の女御(にようご)に宮仕ひ申しける中臈(ちゆうらう)の女房の許(もと)へ、忍びて時々(ときどき)通ひけるに、諸(かたへ)の女房達、此れを猜(そね)み咲(わら)ひ合ひしに、彼(か)の女房、或(あ)る時、月の出でたる扇を持(も)ちたりければ、女房達此れを見て、「穴(あな)厳(いくつ)しの扇や。其の月の影は何(いづ)くより指(さ)し参りたるぞ。憐(あは)れ、出で所を知らばや」とて、咲(わら)ひければ、此(こ)の女房、真(まこと)に顔緩(おもはゆ)げに思ひながら、
  雲間与利多々毛利来月 宇和空伊和志登曾思
   (雲間よりただもり来たる月なれば うはの空にはいはじとぞ思ふ)
左(と)読みければ、咲(わら)ひける女房達も、興(きよう)覚(さ)めて恥ぢ合へり。
三 忠盛死去の後、清盛其の跡を継ぎて栄ゆる事
 然(さ)る程に、忠盛の朝臣(あつそん)、仁平三年〈 癸酉(みづのととり) 〉正月十五日、年五十八にて失せたまひぬ。清盛嫡男為(た)りしかば其の跡を継ぐ。保元元年〈 丙子(ひのえね) 〉七月、左大臣頼長卿、世を乱し給ひし時、安芸守と為(し)て御方に候して勲功有りしかば、播磨守に遷(うつ)つて、同じき三年〈 戊寅(つちのえとら) 〉大宰大弐(だざいのだいに)に任じ、平治元年〈 己卯(つちのとう) 〉十二月、右衛門督(うゑもんのかみ)信頼(のぶより)・左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)朝臣(あつそん)、謀叛の時、又凶徒を打(う)ち平げて、重ねたる恩賞有るべき人とて、永暦(えいりやく)元年〈 庚辰(かのえたつ) 〉 正三位(しやうざんみ)に叙せらる。宰相・衛府督(ゑふのかみ)・検非違使(けんびゐし)の別当・中納言に任じ、剰(あまつさ)へ承相の位に至り、左右(さう)を経ずして内大臣より従一位に上がる。大将に非(あら)ねども、兵杖(ひやうぢやう)を賜つて、随身を召し具し、執政にあらねども、輦車(レンじや)に乗つて宮中を出入(しゆつにふ)す。
 抑(そもそも)「太政(だいじやう)-大臣(だいじん)は一人(いちじん)を師範と為(し)て、四海に議形(ぎけい)せり。其の人に非(あら)ずは即(すなは)ち闕(か)けよ」と云(い)へり。其の人に非(あら)ずんば〓(けが)すべき官にても無かりけり。然(さ)れば則(すなは)ち「即闕(そくけつ)の官」と名づく。然(さ)れども、官位心に任せ、一天四海を掌(たなごころ)の内に奉(にぎ)る上は子細に及ばず。
 繋(カか)りける程に、仁安三年〈 戊子(つちのえね) 〉十一月十一日、歳五十八にて病に侵され、存命の為(ため)に出家入道す。其の験(しるし)にや、宿病立所(たちどころ)に療(い)えて天命を全くす。人の随ひ著(つ)くこと、吹く風の草木を靡(なび)かすが如(ごと)し。世の普(あまね)く仰ぐこと、降る雨の国土を露(うるほ)すに似たり。六波羅殿の一家の君達(きんだち)とだに言へば、花族(くわそく)も栄雄(えいよう)も面を対(むか)へ肩を并ぶる人ぞ無き。平大納言時忠卿の申されけるは、「此(こ)の一門に非ざらん者は、男も女も尼も法師も、人非人(にんぴにん)なり」とぞ云ひける。然(しか)る間、何(いか)なる人も其の類(ゆかり)に結ぼほれんとぞ欲(おも)ひける。寔(まこと)に時に取つては理(ことわり)なり。凡(およ)そ衣文(えもん)の書き様(やう)、烏帽子(えぼし)の〓(た)め様(やう)より始めて、何事も六波羅様とだに云ひければ、天下の人此れを学ぶ。
 又何(いか)なる賢王聖主の御政(おん−まつりごと)、摂政(せつしやう)・関白(くわんばく)の成敗なれども、人の聞かぬ所にては、何と無(な)く世に余されたる徒者(いたづらもの)などの、呰(ソシリ)傾申す事は常の習ひなり。然(しか)るに、此(こ)の入道の世盛りの間は、人の聞かぬ所なりとも、聊(いささ)かも忽緒(いるかせ)に申す者無(な)し。
 其の故は、入道の計(はかりこと)に、十七八計(ばか)りの童部(わらはべ)の髪を僮(かぶろ)に殺(き)り廻し、直垂・小袴(こばかま)を著(き)せ、二三百人が程召し仕はるる間、此れ等京中に充満して、自(おのづから)六波羅殿の方様(かたざま)の上を悪様(あしざま)に言ふ者有らば、此れ等聞き出だすに随つて、毛を吹きて疵を覓(もと)め、三百余人在々処々に行き向かひ、即時に之(これ)/を磨滅す。怖(おそろ)しなんど申すも愚かなり。然(さ)れば則(すなは)ち、目に見、心に知るといへども、之(これ)/を詞に顕はして云ふ者無かりけり。六波羅殿の髪振(かぶろ)とだに言へば、上下皆恐(お)ぢ〓(おそ)れ、道を通る馬車(むまくるま)も退去(しさ)つて過ぎけり。禁門を出入(しゆつにふ)するといへども、名姓を尋ぬるに及ばず、京師(けいし)の長吏(ちやうり)此れが為(ため)に目を側(ソバダ)つるか、と見えたり。
 抑(そもそも)、太政(だいじやう)-入道、僮童(カブロ)を多く仕はれける事は、敢(あへ)て子細無きに非(あら)ず。其の故は、異国の故事を尋ぬるに、漢の王莽(わうまう)、天下を奪ひ取らんと欲(し)/て、謀(はかりこと)に多くの銅(あかがね)の人形(にんぎやう)の馬形を作り、竹の間を破(やぶ)つて此れを籠(こ)め置き、亀を曳いて甲(コフ)に「勝」の字を書き、之(これ)/を海中に放つ。妊(はら)める女を二三百人集めて、朱き雀に薬を合せて服(ぶく)さしめ、深き山に此れを籠(こ)め置く。然(さ)れば則(すなは)ち、彼(か)の生みたりし子(こ)の色の赤きこと雙(なら)び無(な)し。漸(やうや)く其の年十三四五に成りければ、則(すなは)ち赤き衣を作りて此れを著(き)せ、歌(うた)を教へて謳(うた)はしむ。「竹の中に赤銅(あかがね)の人馬有り。王莽(わうまう)位に即(つ)く瑞相(ずいさう)なり。亀の甲に『勝』の字有り。王莽(わうまう)国を治むる表示なり」と。人皆奇(あや)しみを作(な)す間、竹の中を破りて見るに、寔(まこと)に銅(あかがね)の人馬有り。亀を曳きて此れを見るに、又是(こ)れ「勝」の字有り。天下の人此れを恐れ、即(すなは)ち王莽(わうまう)に随ひにけり。然(さ)れば、清盛入道も此(こ)の事に思ひ准(なぞら)へ、僮童(かぶろ)を仕はれけるにや。
 我が身の栄花を極むるのみに非(あら)ず、嫡子(ちやくし)重盛内大臣の左大将、二男宗盛中納言の右大将、三男知盛(トモもり)三位中将(さんみのちゆうじやう)、四男重衡(しげヒラ)蔵人頭(くらうどのとう)、五男知度(とものり)三河守(みかはのかみ)、六男清房(きよふさ)淡路〔守〕(あはぢのかみ)〈 入道の末子(ばつし) 〉、嫡孫維盛(これもり)四位少将(しゐのせうしやう)、舎弟(しやてい)頼盛(よりもり)正二位大納言、同じく教盛(ノリもり)中納言、一門の公卿十余人、殿上人卅余人、諸国の受領(じゆりやう)・諸衛府・所司(しよし)、都合六十余人。世には亦人無(な)しとぞ見えたりける。
 奈良の御門(みかど)の御時〈 諱(いみな)を勝宝(しようほう)聖武(しやうむ)天王と云ふ 〉、神亀(じんき)五年〈 戊辰(つちのえたつ) 〉近衛(こんゑ)の大将を始めて置かれてより以来(このかた)、兄弟左右(さう)に相(あ)ひ並ぶこと僅(わづ)かに三箇度なり。初めは文徳(もんどく)天皇の御宇(ぎよう)仁寿(にんじゆ)四年に、閑院(かんゐん)の贈(ぞう)太政(だいじやう)-大臣(だいじん)冬嗣(ふゆつぎ)の大臣の御息、染殿(そめどの)の関白(くわんばく)太政(だいじやう)-大臣(だいじん)忠仁公(ちゆうじんこう)〈 良房 〉八月に左大将に御任在(あ)つて、御弟の西三条の右大臣〈 良相公(よしあふ−こう) 〉同年の九月に右に並び御座(おはしま)す。次に朱雀院(しゆしやくゐん)の御宇(ぎよう)、天慶(てんぎやう)元年に、小一条(こいちでう)の関白(くわんばく)太政(だいじやう)-大臣(だいじん)〈 貞信公忠平 〉の御息、小野宮の関白(くわんばく)太政(だいじやう)-大臣(だいじん)〈 清慎公実清 〉十二月に左大将に御任在(あ)つて、御弟の九条の右大臣〈 師輔公(もろすけ−こう) 〉同じき二年十一月に右に並び御坐(おはしま)す。親(まぢかく)は二条院の御宇(ぎよう)、永暦(えいりやく)元年に、法性寺(ほふしやうじ)の関白(くわんばく)太政(だいじやう)-大臣(だいじん)〈 忠通公 〉の御息、松殿の関白(くわんばく)太政(だいじやう)-大臣(だいじん)〈 基房公 〉五月一日に左大将に御任在(あ)つて、御弟の九条の関白(くわんばく)太政(だいじやう)-大臣(だいじん)〈 兼実公、月輪殿 〉同じき九月に右に並び御座(おはしま)す。此れ皆摂録(せふろく)の臣の御子息(ご-しそく)なり。凡人(はんじん)に取つては其の例無(な)し。
 殿上の交はりをだにも嫌はれし人の子孫の、襟色雑袍(きんじきざつぱう)を許(ゆる)され、綾羅(りやうら)錦繍(きんしう)を身に纏ひ、大臣の大将を兼ねて、子息(しそく)兄弟左右(さう)に並ぶ事、末代なりといへども是(こ)れ不思議(ふしぎ)の事なり。
 御娘八人有り。其れも取々(とりどり)に幸ひたまへり。一は桜町(さくらまち)の中納言成範卿(しげのり/の−きやう)の北の方にて御座(おはしま)ししが、後には花山院(くわさんのゐん)の左大臣兼雅公(かねまさ−こう)の御台盤所(みだいばんどころ)にて、御子数(あまた)有りけるが、何(いか)なる者の所為(しわざ)なりけん、花山院(くわさんのゐん)殿の四足門(よつあしもん)に書き付けたり。
 「花山高梢思 海子共布留免飛路雨
   (花の山高き梢と思ひしが あまの子共かふるめひろふは)
登(と)。
 一人は后に立ち給ひて、王子御誕生有つて、皇子太子に立ちたまひ、万乗(ばんじよう)の位に備はりたまひしかば、即(すなは)ち院号有つて建礼門院と申す。天下の国母(こくも)にて御座(おはしま)す上は子細に及ばず。一人は六条の摂政(せつしやう)〈 基実公 〉の北の政所(まんどころ)にて御座(おはしま)しけるが、高倉院の御即位の御時に、御母代(おんぱはしろ)にて、准三公(じゆさんごう)の宣旨を下され、重き人にて、白河殿とぞ号する。四は冷泉の大納言隆房卿(たかふさ/の−きやう)の御前にて、其れも御子数(あまた)有りけり。五は近衛(こんゑ)の入道殿下(てんが)〈 基通公、普賢寺殿 〉の北の政所(まんどころ)。六は七条の修理大夫(しゆり/の−だいぶ)信隆卿(のぶたかの−きやう)に相(あ)ひ具しけり。七は後白河院に召され女御(にようご)の如(ごと)し。厳島の内侍(ないし)が腹とぞ聞こえし。此(こ)の外、九条院の雑司(ざふし)常葉(ときは)が腹に一人有り。御台盤所(みだいばんどころ)に親しき人と号す。花山院(くわさんのゐん)の左大臣殿の御許(もと)に、上臈女房にて、廊の御方とぞ申しける。
 此(か)くの如(ごと)く一門繁昌する間、公卿・殿上人も、仏に祈り神に言(のたま)ひても、清盛入道の子孫を以つて聟にも取り、婦にも成らんとぞ欣(ねが)ひける。然(しか)る間、時に在る執政基通・基実父子、共に追従(ついしよう)を致して、清盛入道の聟に成る。或(あ)る人、此れを悪(にく)んで簡(ふだ)を立てけり。
 「平松波以加賀利多類若藤波 辺倶楚加津羅尓佐毛忍多留哉
  〈平松にはひかかりたる若藤は へくそかづらにさもにたるかな〉
 日本秋津嶋(あきづしま)は僅(わづ)かに六十六ケ国、平家知行の国は三十余箇国、既(すで)に半国に及べり。其の上、庄園田畠(でんばく)其の数を知らず。綺羅(きら)充満して堂上(たうしやう)花の如(ごと)し。軒騎(けんき)群集(くんじゆ)して門前市を成す。楊州の金、荊岫(けいしう)の玉、呉郡(ごきん)の綾、蜀江の錦、善車善馬、七珍万宝(しつちん−まんぼう)一つも欠けたる所無(な)し。歌堂(道)舞楽の基ゐ、魚龍雀馬(ぎよりようしやくば)の翫び物、帝闕(ていけつ)も仙洞も争(いかで)か此れには過ぐべきと、日出たくぞ見えし。
 抑(そもそも)、太政(だいじやう)-入道の是(カク)成られけることは、偏(ひとへ)に熊野の御利生なり。後に悪心無(な)くは終(はて)までも栄ゆべしと覚えたり。其の故は、先年、清盛、伊勢路より熊野へ参られけるに、大きなる鱸(すずき)船中に飛び入り了(をは)んぬ。先達(せんだち)此れを占ひて、「吉事なり」と申しければ、清盛又言ひけるは、「昔、異国に、周の先公の船に白魚(はくぎよ)飛び入りて、思ひの如(ごと)くに高位に登りたまひぬ。此(こ)の人を吉例と為(す)べし」とて、左(さ)計(ばか)り十戒(じつかい)を持(も)ち、精進潔斉の道なるに、家の子・郎等に至るまで皆此れを養(か)はしむ。寔(マコト)に吉事為(た)る故にや、保元元年七月、御方に候して播磨守に遷(うつ)され、同じき三年大宰大弐(だざいのだいに)に成り、平治元年十二月、熊野参詣の時、切目宿(きりめのしゆく)より還(かへ)り、又御方に候し、次の年正三位(しやうざんみ)に至る。其の後の望みは、龍の雲に登るよりも猶(なほ)早(はや)し。官位俸録九代の孫(そん)に越えたり。
四 内と院と御中不和の事
 昔より源平両氏、鳥の二つの翅(つばさ)の如(ごと)く、車の両(ふた)つの輪に似たり。互ひに朝家(てうか)に召し仕はれ、国家を護(まも)る棟梁(とうりやう)なり。然(しか)るを、若(も)し皇化(くわうくわ)に随はず、朝威を軽んずる者には、同じく之(これ)/を誅罰(ちゆうばつ)せしむる間、敢(あへ)て世の乱れも無かりしに、保元に為義剪(き)られ、平治に義朝(よしとも)打たれし後は、末々の源氏共、少々有りといへども、或(ある)いは流され或(ある)いは誅され、今は平家の一類のみ繁昌して、更(さら)に首(かしら)を〓(サシイダ)す者無(な)し。何(いか)なる末の世にも何事か有らんとぞ見えし。
 然(さ)れども、過ぎぬる保元元年七月、鳥羽法〔皇〕〈 諱(いみな)を宗仁と云ふ。 〉晏駕(あんが)の後〈 七月二日。御年五十四 〉は、兵革(ひやうガク)打(う)ち次(つづ)き、死罪・流刑・解官(げくわん)・停任(ちやうにん)常に行はれて、海内(かいだい)も静かならず、世間も未(いま)だ落居せず。就中(なかんづく)永暦(えいりやく)・応保の比(ころ)より、内〈 諱(いみな)を守仁と云ふ。二条院なり。 〉と院〈 諱(いみな)を雅仁と云ふ。後白河院 〉と御(祖)父子の御中御不和の間、内の近習者(きんじゆしや)をば院の御方より之(これ)/を戒め、院の近習者(きんじゆしや)をば内の御方より御戒め有り。然(さ)れば則(すなは)ち、高きも賤しきも恐れ憚り、安き心も無(な)し。猶(なほ)深淵に臨んで薄氷を履むが如(ごと)し。主上(しゆしやう)・上皇(しやうくわう)〈 院なり。 〉父子の御中なれば、何事の御隔ての有るべきなれども、思ひの外なる事共有りけり。是(こ)れも世澆季(げうき)に及んで、人には凶悪を先と為(す)る故なり。
五 二条院、先朝の后の宮を恋ひ御(おはしま)す事
 主上(しゆしやう)、法皇の仰せを申し還(かへ)させたまひける中に、人の耳目(じぼく)を驚かし、世以つて大きに傾け申しける御幸は、故近衛院の后太皇太后宮(たいくわうたいこうぐう)と申しけるは、左大臣経宗卿の御母、宇治の左大臣殿の養子なり。中宮より太皇太后宮(たいくわうたいこうぐう)にぞ上り給ひける。先帝に後(おく)れ奉り御座(おはしま)して後、九重(ここのへ)の外近衛河原の御所に、移り住ませ御座(おはしま)しけり。先朝の后の宮にて渡らせ御(おはしま)しければ、古目(ふるめ)かしく幽(かす)かに御(おはしま)す消息(ありさま)なり。承暦(しようりやく)・応保の比(ころ)は、御年廿二三に成らせ御(おはしま)しければ、少し過ぎたる御程なり。然(しか)るに、天下第一の美人の聞え有りければ、主上(しゆしやう)色に染める御心にて、竊(ひそか)に高力士(かうりよくし)に詔(ぜう)じて、外宮(ぐわいきゆう)に引き求めしむるに及び、忍びて彼(か)の宮に御消息(おん−せうそく)有り。然(さ)れども、宮敢(あへ)て聞食(きこしめ)し入れられず。忍び兼ねたる御思ひ、常連(ヒタスラ)早(はや)帆(ほ)に顕れて、入内(じゆだい)有るべき由(よし)、右大臣家に宣旨を下さる。
 此(こ)の事、天下において殊に勝(すぐ)れたる事故(ことゆゑ)に、公卿(くぎやう)-僉議(せんぎ)有り。各(おのおの)意見に云はれけるは、「先づ異朝の先蹤(せんしよう)を尋ぬるに、則天皇后(そくてん−くわうごう)は太宗・高宗両帝の后に立ちたまへる事有り。彼(か)の后と申すは、唐の太宗皇帝の后、高宗皇帝の奉為(おんため)には継母なり。太宗崩御(ほうぎよ)の後、御髪(み−ぐし)を下し、盛業寺に籠(こも)り居たまへり。当帝高宗の曰(のたま)はく、『願はくは君宮室に入つて政(まつりごと)を助け給へ』と。天使五度来たるといへども、敢(あへ)て以つて随ひたまはず。爰(ここ)に帝(ミカド)自(みづか)ら盛業寺に臨幸あつて曰(のたま)はく、『朕(ちん)敢(あへ)て私の志を遂げんとには非(あら)ず。只(ただ)天下の為(ため)なり』と。然(さ)れども皇后靡(なび)く御心無(な)くして、御勅答に申されけるは、『先帝の他界を訪(とぶら)ひ奉らんが為(ため)に、適(たまたま)釈門に入れり。再び塵界に還(かへ)るべからず』と。爰(ここ)に皇帝内外の群籍を勘(かんが)へ合はせ、誣(しひ)て還幸を勧むといへども、皇后〓然(クわくぜん)として飄(ひるがへ)らず。然(さ)れども扈(尾)従(こしよう)の群公等、横(ヨコサマ)に取り奉るが如(ごと)くにして、宮に入れ奉る。高宗在位三十四年、国静かに民楽しめり。皇帝と皇后と二人して政(まつりごと)を治むる故に、彼(か)の御時をば二和(じくわ)の御宇とぞ申しける。高宗崩御(ほうぎよ)の後、皇后女帝と為(し)て天下を治め、年号を神功元年と改む。周の王孫たる故に、唐の名を改めて、大周の則天聖皇帝と号す。爰(ここ)に臣家、歎きて云はく、『先帝崩御(ほうぎよ)の後、太宗世を相(あ)ひ継ぎて経営せしむること、其の功績古今にも類ひ無(な)しと言つつべし。然(しか)るに天子無きにしも非(あら)ず。願はくは位を去つて太宗の功業を長からしめ給へ』と。仍(よつ)て御在位廿一年と申しけるに、太宗の太子中宗皇帝に御位を授け奉り給ふ。即(すなは)ち改元有つて大唐神亀(じんき)元年と称す。即(すなは)ち我が朝の文武天皇慶雲二年〈 乙巳(きのとみ) 〉の歳に当たれり。
 此れは異朝の先規(せんぎ)為(た)る上は別段の事なり。我が朝においては、神(桓)武天皇より以来(このかた)人皇(にんわう)七十余代に至るまで、未(いま)だ二代の后に立ちたまふ例を聞かず」と、諸卿一同に申されければ、法皇も、此(こ)の事然(しか)るべからざる由(よし)、申さしめ給ひけれども、主上(しゆしやう)仰せ有りけるは、「天子に父母無(な)し。万乗の宝位を忝(かたじけな)くする上は、此れ程の事を叡慮に任せざるべき様や有る」とて、既(すで)に入内(じゆだい)の日時を宣下せられける上は、子細に及ばず。
 宮、此(こ)の事を聞食(きこしめ)し、引き繦(カヅ)きて、御殿籠(おんとのごも)らせたまふ。寔(まこと)に御歎きの色深くぞ見えさせ御座(おはしま)しける。先帝近衛院に後(おく)れ奉りし久寿の秋の初めに、同じ草葉の露と消えたりせば、繋(かか)る憂き事をば聞かざらましと、口惜しき事にぞ思食(おぼしめ)されける。爰(ここ)に父の大臣、〓[无+心](ナグサ)め申されけるは、「『世に随はざるを以つて狂人と為(す)』と云(い)へり。既(すで)に詔命(ぜうめい)を下され畢(をは)んぬ。子細を申すに処(ところ)無(な)し。只(ただ)速かに入内(じゆだい)有るべきなり。是(こ)れ偏(ひとへ)に愚老を助け御座(おはしま)す孝行の御計(おんぱから)ひなり。又知らずや、此(こ)の御末に王子御誕生有らば、君は国母(こくも)と崇(アガ)められ御座(おはしま)さば、愚老は帝祖と云はるべし。家門の栄花にや有るべからん」と誘(こしら)へ申し給へども、御応(いら)へも無(な)し。
 又其の比(ころ)、宮、何と無き御手習の次(ついで)に、斯(か)く書き〓[无+心](なぐさ)み給ひける。
 「宇幾布志尓沈哉終河竹 世尓多免志奈起名於波流津
   (うきふしに沈みやはてむ河竹の 世にためしなき名をば流しつ)
世には何として漏れ聞えけん、哀れに艶(やさ)しき様(ためし)にこそ謳哥しけれ。
 入内(じゆだい)の日には、父の大臣・供奉(ぐぶ)の上達部(かんだちめ)の出車の儀式、心も言(ことば)も及ばれず。宮は物憂かるべき御出で立ち、疾(とみ)にも出で奉らず、遥かに夜深(ふ)けて半ばに向かひてぞ扶乗(カキノ)せ御坐(おはしま)しける。故(コトサラ)色有る御衣を召されず、只(ただ)白き御衣十五計(ばか)りぞ召されける。内に参らせ給ひしに、即(やが)て恩を承(かうぶ)らせたまひ、麗景殿(れいけいでん)に渡らせ御座(おはしま)す。常連(ヒタスラ)朝政(あさまつりごと)を勧め奉り御座(おはしま)す御有様なり。又清涼(冷)殿(せいりやうでん)の画図(ぐわと)の障子に、月を書きたる所有り。此れは近衛院の幼帝にて渡らせ御座(おはしま)しし当初(そのかみ)、何と無き御手間探(てマサグリ)に書き陰(クモラカ)し御座(おはしま)したりしが、有りしながらに少しも更(カハ)らず有りけるを御覧ぜられて、先帝の昔を思ひ出だし、恋しくや御座(おはしま)しけん、右(かく)こそ思食(おぼしめ)し連(つづ)けられける。
 「思幾耶宇起身那賀良尓免具利記天 同雲井能月越美無登半
   (思ひきやうき身ながらにめぐりきて 同じ雲ゐの月をみむとは)
 此(こ)の間の御事共、哀れに艶(やさ)しき御有様なり。
六 二条院崩御(ほうぎよ)の事
 繋(かか)る程に、永万元年〈 乙酉(きのととり) 〉の春の比(ころ)より、主上(しゆしやう)二条院、御悩(ご−なう)の由(よし)聞えし程に、其の夏の初めには事の外に御不予(ご−ふよ)に御(おはしま)す間、右大臣実能卿の御娘の腹に、今上の宮の二歳に成らせ給ふを、皇子に立て奉るべき由(よし)聞えし程に、六月廿五日、俄(にはか)に親王(しんわう)の宣旨を下されて、即(やが)て其の夜御位を譲り奉りき。何と無(な)く天下〓(あは)てたる有様なり。 我が朝の童帝(とうたい)を尋ぬるに、人王五十六代清和天皇〈 諱(いみな)を惟仁(これひと)と云ふ。 〉九歳にて文徳(もんどく)天皇の譲りを受け、天安元年〈 丁丑(ひのとうし) 〉十二月七日、大極殿(だいこくでん)にて御即位有り。是(こ)れは和国童帝(とうたい)の始めなり。振旦(しんだん)の周公旦(しうこうたん)の、成王に代り南面にして政(まつりごと)を行はれしに准(なぞら)へて、祖父(そぶ)忠仁公(ちゆうじんこう)、幼主を扶持し奉る。是(こ)れ摂政(せつしやう)の始めなり。陽成天皇〈 諱(いみな)を貞明と云ふ。 〉九歳、一条院七歳、後一条院九歳、是(こ)れは責(せめ)て善悪に付けて御心も長(たけ)く、分別の方も有りければ、最も然(しか)るべし。然(しか)るに、鳥羽院は五歳、近衛院は三歳にて御即位有りしを、早晩(いつしか)なりと人申し合へり。此(こ)の君は〈 諱(いみな)を順仁(のぶひと)と云ふ。 〉僅(わづ)かに二歳に成らせ給ふ。先例無(な)し、物騒がしとぞ人皆申しける。
 繋(かか)りし程に、七月廿二日、新院〈 二条院 〉位を下りたまひて後、纔(わづか)に卅余日と申すに御隠れ有り。哀れなるかな、昨日は当帝、十善の宝位に昇りて声花(はなやか)なりしに、今日は新院、九重(ここのへ)の玉の棲(すみか)を出でて潦倒(ヲチぶ)る。父の御年は廿三、御子は後に二歳。老少前後と云ひながら、世に浅猿(あさまし)き御事なり。
 同じき八月七日、香隆寺(かうりゆうじ)の艮(うしとら)蓮台野(れんだいの)の辺り、船岡山に送り奉る。労(いたは)しきかな、忝(かたじけな)きかな、玉台を棲(すみか)と為(し)て御座(おはしま)しける君の、草村を宿(やどり)と為(し)て御座(おはしま)す。寔(まこと)に益(やく)無き世界なり。本蔵の聖人、折節(をりふし)参会して、右(か)く思ひ次(つづ)けける。
 「何有御行事今日問 今限聞悲
  (いつも有るみゆきの事を今日問へば 今を限りと聞くぞ悲しき)
と読みつつ、墨染の袖を汐(しぼ)り会(あ)へり。理(ことわり)とぞ覚えける。舟岡山の御巓(いただき)と申すなり。労(いたは)しきかな、忝(かたじけな)きかな、玉台を棲(すみか)と為(し)て御座(おはしま)しける君の、草村を宿(やどり)と為(し)て御座(おはしま)す。寔(まこと)に益(やく)無き世界なり。
 近衛(こんゑ)の大宮は、二代の后に立たせ給ひたりしかども、指(さ)したる御幸ひも御座(おはしま)さず。又早晩(いつしか)此(こ)の君にも後(おく)れ奉り給ひしかば、急(やが)て御髪(み−ぐし)を降ろし御座(おはしま)しけるとぞ聞えし。
七 延暦・興福寺(こうぶくじ)、額打論(がくうちろん)の事
 然(さ)る程に、葬送の夜、延暦寺・興福寺(こうぶくじ)の衆徒等(しゆと−ら)、額打論(がくうちろん)を為(し)出だし、互に狼藉に及べり。国王の崩御(ほうぎよ)有つて、葬送の作法には、南北二京の僧徒等、悉(ことごと)く供奉(養)(ぐぶ)し奉つて、我が寺の験(しるし)には榔を立て額を打(う)つ。南都には東大寺・興福寺(こうぶくじ)を始めと為(し)て、末寺(まつじ)々々(まつじ)相(あ)ひ連なれり。東大寺は聖武(しやうむ)天王の御願、諍ふべき寺无(な)ければ、一番なり。二番には大職冠(たいしよくわん)・淡海公(たんかいこう)の氏寺、興福寺(こうぶくじ)の額を立てて、南都の末寺(まつじ)等、次第に立て並べたり。興福寺(こうぶくじ)の額に迎へて、北京(ほくきやう)には延暦寺の額、其の外山々寺々立て並べたるは先例なり。
 而(しかる)に今度の御葬送に、延暦寺の僧徒、事を乱りて、東大寺の次ぎ、興福寺(こうぶくじ)の上に額を立つる間、山階寺(やましなでら)の方より、東門院の衆徒、西金堂(さいこんだう)の衆、観音房(くわんおんばう)・勢至房(せいしばう)両三人、三枚甲(さんまいかぶと)を著(き)、左右(さう)の〓(こて)差して、黒革鬼(くろかはをどし)の鎧に大〓〓[金+分](おほなぎなた)を用(も)つて走り出で、延暦寺の額を削り倒して、「喜(うれ)しや水、鳴るは瀧の水」と拍(はや)して、興福寺(こうぶくじ)の方へ走り入りにけり。延暦寺の僧徒、先例を背きて狼藉を致す程ならば、即(やが)て其の座にて手向ひすべきに、心に深く思ふ事や有りけん、一言(ひとことば)も出ださざるこそ怖(おそろ)しけれ。一天の君世を早(はや)く為(せ)させたまひしかば、情け無き草木までも憂ひたる色有るべきに、況(いはん)や人倫(輪)(じんりん)僧徒の法においてをや。浅猿(あさまし)き事出で来て、式作法〔散々にて〕、高きも賤しきも四方に退散し、喚(をめ)き叫ぶ。
 同じき九日の子(ね)の時に、山門の大衆(だいしゆ)下洛の由(よし)聞えければ、武士・検非違使(けんびゐし)、西坂本へ馳せ向ひたりけれども、大衆(だいしゆ)推(お)し破(やぶ)つて乱入せんと欲(す)。貴賤上下騒ぎ〓(ののし)ること斜(なの)めならず。内蔵頭(くらのかみ)教盛(のりもりの)朝臣(あつそん)、布衣(ほうい)にて左衛門の陣に候ひけり。何(いか)なる者の云ひ出だしたるに耶(や)、「上皇、山門の大衆(だいしゆ)に仰せて、清盛を追討すべき」由(よし)、風聞(ふうぶん)有りしかば、平家の一門六波羅へ馳せ集まり、〓(あは)て合へり。右衛門督(うゑもんのかみ)重盛計(ばか)りは、「何故にや、只今(ただいま)左様の事は有るべき」とて、静められけり。上皇此れを聞食(きこしめ)し、驚き覚食(おぼしめ)されければ、俄(にはか)に六波羅御幸有り。中納言大きに恐れ騒がれけり。
 山門の大衆(だいしゆ)、清水寺に推(お)し寄せて、仏閣・僧坊一宇も残さず焼き払ふ。此れは去る七日の額打論(がくうちろん)の故なり。清水寺は興福寺(こうぶくじ)の末寺(まつじ)為(た)る故に、之(これ)/を焼き払ふとぞ聞えし。然(しか)るに、清水寺炎上(えんしやう)の朝(あした)、「観音火坑(くわきやう)変成池(へんじやうち)は如何(いか)に」と云ふ札を書きて立てたりければ、次の日「歴劫(りやくごふ)不思議(ふしぎ)是(こ)れなり」と云ふ返札をぞ立てたりける。何(いか)なる安度無(あとな)し者の所為(しわざ)なるらんと、哽(ヲカ)しかりけり。
 衆徒は皈山しければ、上皇は還御(くわんぎよ)成りにけり。重盛卿は御送りに参られたり。父の清盛は留まり給ふ。猶(なほ)用心の為(ため)とかや。中納言の曰(のたま)ひけるは、「法皇の入御(じゆぎよ)こそ実(まこと)に其の畏(おそ)れ有りけれども、尓(と)にも尓(かく)にも思食(おぼしめ)さるる旨の有ればこそ、加様(かやう)に風聞(ふうぶん)も有るらめ。然(しか)れば則(すなは)ち、法皇の御幸有ればとて、我等打解(うち−と)くべからず」とぞ言ひける。右衛門督舌を振ひ、面を赤くして申されけるは、「此(こ)の事、努々(ゆめゆめ)御詞にも御色にも出ださるべからず。人に心著(こころづ)け顔に、中々凶事(あしきこと)にて候ひなん。其れに就(つ)きては弥(いよいよ)叡慮にも背かず、世の為(ため)人の為(ため)、善き振舞(ふるまひ)有らば、定めて三宝仏神の加護も有るべし。然(さ)らずは御子孫の末、何事に就(つ)きても凶(あ)しかるべく候ふ」と申しながら、急ぎ立ち給ひにけり。「右衛門督(うゑもんのかみ)は以つての外に大様(おほやう)なる者かな」とぞ言ひける。
 法皇還御(くわんぎよ)の後、疎(うと)からぬ近習者(きんじゆしや)共の中に、「抑(そもそも)不思議(ふしぎ)の事を申し出でたる者かな。〔いかなる者の〕云ひ出だしける」と仰せ有りければ、西光(さいくわう)法師、御前に候ひけるが、「天に口無(な)し、人(にん)を以つて言はす。余りに平家過分に成り行き候ふ間、天の御計(おもんぱから)ひにも有るらん」と申しければ、人々「此(こ)の事由(よし)無(な)し。壁に耳有り、石に口有りと云(い)へり。恐ろし恐ろし」とぞ、舌を振ひて申しける。
八 高倉天皇御即位の事
今年は天下諒闇為(タ)れば、御禊・大嘗会(だいじやうゑ)も無(な)し。同じき年十二月廿五日、建春門院の御腹の、法皇の第五の王子〈 高倉これなり。 〉在(ましま)ししが、親王(しんわう)の宣旨を蒙(かうぶ)らせ給ひにけり。法皇、年来は打(う)ち籠(こ)められて御坐(おはしま)しけるが、今は法皇の御計(おんぱから)ひに任せ奉る事こそ御目出(めで)たけれ。
 仁安元年〈  丙戌(ひのえいぬ) 〉、今年は既(すで)に大嘗会有るべき由(よし)聞えければ、天下に其の営み有りけり。同じき年十月七日、親王の宣旨を蒙(かうぶ)り給ひし高倉院〈  諱(いみな)を憲仁(のりひと)と云ふ。 〉東三条にて春宮(とうぐう)に立ちたまふ。春宮(とうぐう)と申すは当帝の御子なり。是(こ)れを太子と号す。又御弟の儲けの君に備はり御坐(おはしま)すを太弟と申す。其れに是(こ)の春宮(とうぐう)は御叔父(をぢ)六歳、主上は御甥三歳なり。昭穆(ぜうもく)未(いま)だ相(あ)ひ-叶はず。但し、寛和二年〈  丙戌(ひのえいぬ) 〉六月廿一日、一条院〈  諱(いみな)を懐仁(やすひと)と云ふ。 〉七歳の御時、大極殿(だいこくでん)にて御即位有り。三条院〈 諱(いみな)を居(房)貞(いやさだ)と云ふ。 〉十一歳の御時、七月十六日、東宮に立ちたまふ。是(こ)れ又先例無きにしも非(あら)ず、とぞ申しける。
 六条院二歳にて、永万元年六月廿五日に親王の宣旨を蒙(かうぶ)らせ給ひ、御位を受け取り御坐(おはしま)して後、纔(わづか)に三年をぞ治めたまひける。仁安元年〈 丁亥(ひのとゐ) 〉二月十九日(じふくにち)、東宮〈 高倉天王 〉御践詐(せんそ)有りしかば、六条院四歳にて御位を退き、新院と号せられ御(おはしま)す。未(いま)だ御元服(ご-げんぶく)も有らずといへども、太上天皇(だいじやうてんわう)の尊号有り。漢家にも本朝にも此れぞ童帝(とうたい)の始めなるらんと、珍重(めづら)しき事共なり。然(さ)れども遂(つひ)に安元二年七月十八日、御年十三にて隠れ給ひぬ。
 仁安三年三月廿日、大極殿(だいこくでん)にて新帝〈 高倉院 〉御即位有り。此(こ)の君の位に即(つ)き給ひし御事は、弥(いよいよ)平家の栄花とぞ見えし。国母(こくも)建春門院と申すは平家の一門にて有る上、別(コト)に入道の北の方二位殿と申すは女院の御姉にて御坐(おはしま)しければ、相国の君達(きんだち)、二位殿の腹は、当今(たうぎん)の御従父子(いとこ)為(た)る間、最見(イミジ)き事共なり。平大納言時忠卿は女院の御〓(セうト)、主上の御外戚(ぐわいセキ)、内外に付け執権為(た)る間、叙位(じよゐ)除目(ぢもく)偏(ひとへ)に此(こ)の卿の沙汰なり。然(さ)れば則(すなは)ち、此(こ)の世には平関白(へいくわんばく)とぞ申しける。
九 右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝、伊東の三女に嫁する事
 然(さ)る程に、同じき年の弥生(やよひ)の比(ころ)にも成りければ、「遠山に霞聳(たなび)きて、鴈北に皈(かへ)る。中林に花開きて、鶯客を呼ぶ」と打(う)ち思はれて物哀れなり。流人右兵衛佐頼朝、藤九郎(とうくらう)盛長・佐々木の太郎定綱を召して言(のたま)ひけるは、「頼朝十三の時、平治元年十二月廿八日、当国〈 伊豆国 〉に左遷せられてより以来(このかた)、縁友(ゆかり)も無(な)くて徒然(つれづれ)なれば、伊東の次郎祐親(すけちか)に娘四人有りと聞く。嫡女は三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)が妻女、二女は土肥(とひ)の弥太郎(やたらう)遠平(とほひら)が妻女、三四は未(いま)だ傍家を見ず、養ひて深窓に有りと聞く。而(しか)るに国中第一の美女と云々。〓(めと)り通はんと欲(おも)ふは如何(いかが)有るべきや。」盛長申しけるは、「伊東の次郎は当時大番役と為(し)て上洛(しやうらく)の跡なり。境柄(をりから)然(しか)るべしといへども、君は流人にて貧窶(ひんル)、世に無き御身なり。祐親(すけちか)は当国においては有徳(うとく)威勢の者なり。請(う)け引き奉らん事不定(ふぢやう)なり。能々(よくよく)御(おん)-計(ぱから)ひ有るべきか。」定綱申しけるは、「何(いか)に藤九郎(とうくらう)殿、御辺は三条の関白謙徳公の御末と聞く。定綱は苟(いやし)くも宇多天皇の後胤、近江(あふみ)源氏の最中(もなか)なり。設(たと)ひ我等聟に成らんと所望すとも嫌はれじ。況(いはん)や君は六孫王(ろくそんわう)の苗裔(べうえい)、八幡殿(はちまんどの)四代の末葉(ばつえふ)、東国の奴原(やつばら)が為(ため)には重代の主(しゆう)なり。設(たと)ひ世に無き御身為(た)りといへども、争(いかで)か仰せを軽んぜんや。然(さ)れば則(すなは)ち、内々仰せられんに、若(も)し用ゐずば、則(すなは)ち我等此れを抑(おさ)へて取るべし」と申しければ、頼朝此れを聞き、「定綱の只今(ただいま)の俗姓(ぞくしやう)の沙汰、無益(むやく)なり。計ふ所も荒義なり。和殿原(とのばら)と我が身とは時に依(よ)つて本秩なり。当時においては詮無(な)し。只(ただ)〓睡(クヒネム)つて世を待つべし。然(さ)れば則(すなは)ち、艶書を飛ばして心を〓(はか)るべし」と云ひながら、彼方(かなた)の身親しき女に附けて度々(たびたび)此れを遣はせども、敢(あへ)て以つて之(これ)/を用ゐず。
 頼朝猶(なほ)思ひも止(や)まず、心尽しに成りにければ、人知れず又覚食(おぼしめ)しける様は、「昔、業平(なりひら)の中将、二条の后に心を通はして、何度(いくたび)か思ひ労(わづら)ひし。加之(しかのみならず)、『百夜(ももよ)の榻(しぢ)の端墻(はしがき)も、千束(ちつか)生(お)ふる錦木』と云ふ事有り。是(こ)れ先蹤(せんしよう)無きにしも非(あら)ず。頼朝も争(いかで)か黙止(もだ)すべき」とて、艶書の数も重なる間、岩木ならねば靡(なび)きにけり。兵衛佐は廿一、左馬頭の三男、容顔(ようがん)如勇(ゆゆ)しき男(をのこ)なり。伊東の三女は十六歳、国中第一の美女なり。互ひに契つて月日を経(へ)、一人の男子(なんし)を生み得(え)たり。容顔(ようがん)美麗(びれい)にして、潘岳(はんがく)玉山(ぎよくざん)に相(あ)ひ-同じ。形皃(けいばう)端正(たんじやう)にして、上界の天童に異ならず。
 然(さ)る間、頼朝思はれけるは、「我当国に流罪せられて、田舎の塵に交はるといへども、此(こ)の子を設(まう)けたることは悦びなり」とて、千鶴(せんづる)と名づけられたり。頼朝言ひけるは、「此(こ)の子十五に成らん時、伊東・北条を相(あ)ひ-具して先陣(せんぢん)に打たせ、定綱・盛長を指(さ)し廻(めぐ)らし、東国の勢を招き、頼朝都に馳せ上つて、父の敵(かたき)清盛を打たん」と言ひながら、二所権現(にしよごんげん)・三嶋明神の御宝殿に秘(ひそか)に願書(ぐわんじよ)をぞ納められける。
仁安三年〈 戊子(つちのえね) 〉三月廿日、高倉院御践祚(ごせんそ)の後、法皇〈 後白河法皇 〉別(わ)く方無(な)く、四海の安危をば、掌(たなごころ)の内に照らし、百王の理乱をば心の中に懸け、万機(ばんき)の政務を聞食(きこしめ)されければ、法皇の近く召しつかはれける公卿・殿上人以下(いげ)、北面の輩(ともがら)に至るまで、皆程々に随つて、官位俸録身に余り、朝恩を蒙(かうぶ)るといへども、人の心の習ひなれば、猶(なほ)此れを不足に欲(おも)ひける間、此(こ)の入道の一類のみ多く国を塞(ふさ)ぎ、官を妨(さまた)ぐる事を、各(おのおの)目覚(めざま)しく思ひし程に、疎(ヲロソカ)の人も無き時は、則(すなは)ち寄り合ひ私語(ささや)きけるは、「此(こ)の入道の亡びたらば、其の国は明きなん、其の官には成りなん」とぞ申しける。
 法皇、仰せ有りけるは、「昔、国常立尊(くにのとこたちのみこと)より第七代伊奘諾(いざなき)・伊奘冉(いざなみ)の尊の御子天照大神(あまてらすおほみかみ)、我が朝(てう)秋津嶋(あきづしま)を知食(しろしめ)ししより以来(このかた)、今に至るまで、忝(かたじけな)くも十善の尊号を受け、苟(いやしく)も万機(ばんき)の宝位に居す。末代といへども王法未(いま)だ絶えず。臣下争(いかで)か軽んずべけんや。就中(なかんづく)、古今にも朝敵を打(う)つ者之(これ)多し。田村麻呂(マろ)〈 嵯峨天皇の時の人 〉は高丸(たかまる)を誅(ちゆう)して権大納言(ごんのだいなごん)の位に登るといへども、未(いま)だ摂録(せふろく)の臣には補さず。貞盛・秀郷が承平(しようへい)の将門(まさかど)を打(う)ちし、源頼義(よりよし)が天喜(てんぎ)の貞任(さだたふ)を誅(ちゆう)せし、其の勧賞(けんじやう)、受領(じゆりやう)には過ぎず。然(しか)るに清盛入道、官位俸(捧)録其の身に過ぎ、一門の繁昌世に超えたり。故に永暦(えいりやく)・応保の比(ころ)より悪行(あくぎやう)倍増し、無道非礼なり。是(こ)れ王法の尽くるか、将又(はたまた)仏法の滅ぶるか」とぞ仰せ有りける。
十 頼朝の子息(しそく)、千鶴(せんづる)御前失なはるる事
 嘉応(かおう)元年〈 己丑(つちのとうし) 〉七月十一日、伊東の次郎祐親(すけちか)、大番役も終(は)てければ、京より下向して、前栽(せんざい)の方を見ければ、三歳計(ばか)りの少(をさな)き者を、小さき女童(めのわらは)の之(これ)/を懐(いだ)きて遊びければ、祐親(すけちか)此れを見て、「袷(あ)の少(をさな)き者は誰(た)が子ぞ」と妻女に問ひければ、妻女対(こた)へけるは、「袷(あ)れこそ殿の秘蔵(ひさう)せらるる三の御方の、制するをも聞かず、流人右兵衛佐殿に相(あ)ひ-具して設(まう)けらるる御子、千鶴(せんづる)御前とは是(こ)れなり」と云はれければ、祐親(すけちか)此れを聞いて、大きに腹立(ふくりふ)して申しけるは、「娘なりとも親しむべからず、孫なりとも愛すべからず。親の命(めい)を背き、流人の子を生む。平家の聞え有らば、祐親(すけちか)定めて其の罪科を蒙(かうぶ)るべし。急ぎ急ぎ披露無き前(さき)/に彼(か)の者を失ふべし」とて、郎従二人・雑色(ざふしき)三人を召し寄せ、孫の千鶴(せんづる)を請(う)け取らす。五人の者共、此れを請(う)け取り、伊豆国松河の白瀧に将(ゐ)/て行き、河の縁(はた)に下り居(す)ゑ奉りければ、少(をさな)き人四方を見廻したまひて、「父御は何(いづ)くにぞ、母御は何(いづ)くにぞ」と言へば、「袷(あ)れ、袷(あ)の瀧の下に」と此れを申す。「去来(いざ)、然(さ)らば疾(と)く行かん」と言(のたま)ふ時、此(こ)の者共、情け無(な)く沈めを付け、罧〓(ふしつけ)にするこそ糸惜(いとほ)しけれ。
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 爰(ここ)に祐親(すけちか)の娘、少(をさな)き人を失はれ、悶(もだ)へ焦(こが)れ悲しみて、「穴(あな)心憂(こころ−う)や。吾が子をば何(いか)/なる人の此れを請(う)け取りて、何(いか)/なる所へ此れを将(ゐ)/て行きけん。何様(いかさま)なる目を見せ、何様(いかさま)にか此れを失ふらん。哀れなるかな、母は此(こ)の土に留まり、子は冥界に趣きけり。我が身我が身に非(あら)ず、我が心我が心に非(あら)ず。仏神三宝、然(しか)るべくは、吾が命を召し取りたまへ。生きて物を思はんも堪(た)へ難(がた)し」と、天に仰ぎ地に覆(ふ)して、泣き悲しめども甲斐(かひ)こそ無けれ。
 剰(あまつさ)へ、祐親(すけちか)、情け無(な)く頼朝の縁婦を引き去り、当国の住人江葉(えマ)の小次郎近末(ちかすゑ)を聟に取らんと相(あ)ひ-擬する処に、此(こ)の女房、夫婦の別れを悲しみ、若君の余波(なごり)を思ひしが故に、深く父母を恨み、近末(ちかすゑ)に迎へらるるといへども、敢(あへ)て以つて靡(なび)くこと無(な)し。秘(ひそか)に彼(か)の所を迯(に)げ出で、縁者の許(もと)に忍び籠(こも)りぬ。江葉の小次郎、力及ばず止みにけり。
右兵衛佐、愛子を失はれ縁婦を去られ、一方(ひとかた)ならず難(なや)みければ、生きて死せるが如(ごと)く思はれけり。定綱・盛長、右兵衛佐殿に申しけるは、「設(たと)ひ君世に在(ましま)さずといへども、我等、弓箭(きゆうせん)の家に生まれて候へば、名を惜しむ者なり。我等、君に付き添ひ奉ること、世に以つて隠れ無(な)し。重代の名を朽(くた)さんこと、実(げ)に以つて口惜しく候ふ。我等二人手を取り組んで、祐親(すけちか)男に行き向つて死ぬべく候ふ」と申しければ、右兵衛佐言ひけるは、「己等(おのれ-ら)が志、有り難(がた)し。重代の勇士の身為(た)る間、各(おのおの)寔(まこと)に然(さ)こそ思ふらめ。然(さ)れども頼朝、当国に流罪せられしより以来(このかた)、父の敵(かたき)清盛を討たんと欲(おも)ふ志、日夜朝暮に晴れ遣らず。然(しか)るに、何ぞ大事の敵(かたき)を閣(さしお)いて、小事に命を失ふべけんや。己等(おのれ-ら)が我も我もと思はば、此(こ)の事思ひ止むべし」と制せられける間、「袷(あは)れ、袷(あは)れ」と云ひながら、仰せに随ひて止みにけり。
 彼(か)の女房の思ひを物に譬(たと)ふれば、異国に漢帝の御時、王昭君と申しける后は、〓(ゑびす)の手に渡され、北路の旅に向かひて、「翠黛(すいたい)−紅顔(こうがん)、錦繍(きんしう)の粧(よそほ)ひ、泣(なくな)く沙塞(ささい)を尋ねて、家郷(かきやう)を出づ」と歎かれけるが如(ごと)し。此(こ)の女房も、頼朝の館を出でたまひて、近末(ちかすゑ)の許へ渡りぬ。争(いかで)か彼に更(かは)らんや。亦頼朝が歎きを物に譬(たと)ふるに、唐の玄宗皇帝の楊貴妃を失ひたまひし思ひの如(ごと)し。其れは然(サレ)ども方士(はうじ)をして蓬莱宮に求めしめ、玉妃、鈿合(デンがふ)金釵(釼)(シヤ)を以つて方士(はうじ)に与へて形見に授け、「以つて天に在らば願はくは比翼の鳥と作(な)り、地に在らば又連理の枝と為(な)らむと、情けの詞を契りし験(しるし)と為(な)さむ」と云ひて遣はす。方士(はうじ)返つて之(これ)/を奏す。皇帝即(すなは)ち〓(なぐさ)みたまふ。
十一 頼朝、北条の嫡女に嫁する事
 右兵衛佐は彼には似ず、伝へ語らふ人も無ければ、遣(や)る方も無き物思ひなり。加之(しかのみならず)、祐親(すけちか)入道、平家の尤(とが)めを恐れ、秘(ひそか)に夜討ちに為(せ)/んと欲(す)。然(しか)るに彼(か)の入道の子息(しそく)、伊東の九郎祐澄(すけずみ)、竊(ひそか)に頼朝に申しけるは、「祐澄(すけずみ)が父入道、俄(にはか)に天狗(てんぐ)其の身に詫(ツ)き候ひて、君を夜討ちに為(し)奉らんと相(あ)ひ-議(はか)り候ふ。設(たと)ひ非道を工(たく)むといへども、親の過(とが)を顕はすべきには非(あら)ねども、此(こ)の頃日(ひごろ)君に相(あ)ひ-馴れ奉つたる上、又指(さ)したる過も有(ましま)さず。此(こ)の事を言はずは冥の照覧恐れ有り。然(さ)れば只(ただ)、入道の思ひ立たざる前(さき)/に、君須(すべから)く此(こ)の所を立ち出でたまふべし。努々(ゆめゆめ)御披露有るべからず候ふ」と申しながら、波羅々々(はらはら)と泣きければ、右兵衛佐言ひけるは、「入道の為(ため)に、其れ程に思ひ籠められたる上は、頼朝此(こ)の所を立ち忍ぶといへども、来たるべき殃(わざはひ)をば遁(のが)るべからず。又我が身においては謬(あやま)り無ければ、自害を為(す)るには及ばず。汝が志、生々世々(しやうじやうせせ)にも忘れ難(がた)し」と言ひければ、九郎即(やが)て立ち去りぬ。
 右兵衛佐、定綱・盛長を召して言(のたま)ひけるは、「祐親(すけちか)入道、頼朝を討つべき由(よし)、密(ひそか)に此れを聞き得(え)たり。設(たと)ひ頼朝一人こそ討たるとも、己等(おのれ-ら)は討たるべからず。己等(おのれ-ら)、食頃(しよくけい)此(こ)こに留まり、後日に頼朝を尋ぬべし」と言ひければ、盛長・定綱申しけるは、「所詮(しよせん)候(ざうら)ふ、彼(か)の入道思ひ立たざる前(さき)/に、還(かへ)つて此れを討ち候はん」とて、彼等二人思ひ切つて出で立ちければ、右兵衛佐言ひけるは、「兼ねて言ひしが如(ごと)く、未(いま)だ父の敵(かたき)清盛入道を討たざる間、何事の有りとも我と騒ぐべからず。相(あ)ひ-構へて、汝等抑(おさ)へ静むべし」とて、大黒鹿毛(おほくろかげ)と云ふ馬に乗り、鬼武(おにたけ)と云ふ舎人(とねり)を相(あ)ひ-具し、八月十七日の夜半計(ばか)りに、伊東の館を打(う)ち出でて、北条へ馳せ越えけり。夜も漸(やうや)く明けければ、定綱・盛長跡を追ひ、尋ね行きぬ。
 右兵衛佐、祈念して申されけるは、「南無皈命頂礼(きみやうちやうらい)、八幡殿(はちまん)三所聞食(きこしめ)すべし。頼朝の先祖伊与守(いよのかみ)頼義(よりよし)朝臣、奥州の貞任(さだたふ)を迫(せ)めし時、嫡男義家を以つて八幡殿(はちまん)大菩薩の氏子と為(な)し、其の名を八幡殿(はちまん)太郎と号す。此れに依(よ)つて、大菩薩、氏子に至るまで護(まも)るべしと云ふ御誓ひ有り。然(しか)るに頼朝は是(こ)れ八幡殿(はちまんどの)より四代の氏子なり。然(しか)るべくは八幡殿(はちまん)大菩薩、日本国を頼朝に打(う)ち随はしめ給へ。頼朝の子(こ)の敵(かたき)、伊東入道を打(う)ち取らん」と言(のたま)ひ了(は)て、二所権現(にしよごんげん)に精誠(せいぜい)を致さる。
 同じき十一月下旬の比(ころ)、右兵衛佐、伊東の娘に猶(なほ)懲(コ)りず、北条の四郎の最愛の嫡女に、秘かに忍びて通はれけり。此(こ)の世ならぬ契りにて有りけり。故に慇(ねんごろ)に偕老(かいらう)を結びぬ。時政は夢にも此(こ)の事を知らず。北条、大番を勤めて下りける程に、路より此(こ)の事を聞き、大きに驚きながら、平家の威を歎き恐れしが故に、同道(どうだう)して下向しける平家の侍、伊豆の目代(もくだい)和泉の判官(はんぐわん)兼隆に約束せしむ。然(さ)る間、同じき十二月二日、娘を取り還(かへ)し、目代(もくだい)兼隆が許へ渡す。然(さ)れども、女房都(すべ)て靡(なび)かず。未(いま)だ亥(ゐ)の尅(こく)に成らざる以前に、秘かに彼(か)の所を迯(のが)れ出でて、速やかに伊豆の御山の宿坊に致れり。使者を頼朝の許へ立てられければ、十日、右兵衛佐、鞭を上げて馳せ来たる。目代(もくだい)此れを聞き及ぶといへども、彼(か)の山は大衆(だいしゆ)強(こは)き所為(た)る間、輙(たやす)くも取り難(がた)し。兼隆は力及ばず止みにけり。北条此れを聞き、娘を勘当せしむ。
十二 藤九郎(とうくらう)盛長夢物語(ゆめものがたり)
 然(さ)る程に、相模国(さがみ/の−くに)の住人、懐嶋(ふところじま)の平(へい)−権守(ごんのかみ)景能(かげよし)〈 大庭権守(ごんのかみ)景宗が男 〉此(こ)の由(よし)を聞き、「右兵衛佐殿、伊豆の御山に忍びて御坐(おはしま)しける。神仏と善人とは宮仕へ申すに空しき事無し。景能(かげよし)参つて一夜なりとも御殿居(おん−とのゐ)仕るべし」とて、伊豆の御山に馳せ上り、藤九郎(とうくらう)盛長と一所に御殿居(おん−とのゐ)仕る処に、其の暁、盛長、夢物語を申して云はく、「右兵衛佐殿、足柄(あしがら)の〓倉(やくら)が嵩(だけ)に居て、南に向かひ、左の足にて東国を踏(フ)み、右の足にて西国を踏み、一品坊(いつぽんばう)昌寛(しやうくわん)〈 観音品計(ばか)りを頼朝に教へし故に、号して一品坊(いつぽんばう)と云ふなり。 〉、琉璃(るり)の瓶子(へいじ)を懐(いだ)き、定綱は金の盞(さかづき)を捧げ、盛長は銀の銚子を取り、佐殿(すけどの)に向かひ奉る。佐殿(すけどの)三献既(すで)に訖(をは)つて後、左右(さう)の袖を以つて月日を懐(いだ)き奉る。又子(ね)の日の松を引き持(も)ち、三本頭に挿し、君は南に向かひて歩ませ御坐(おはしま)す処に、白鳩二羽天より飛び来たつて、君の御髪(み−ぐし)に巣(すく)ひ、三子を生むと見えたり」と云々。
 景能(かげよし)聞きも敢(あ)へず、「藤九郎(とうくらう)が夢合せ、景能(かげよし)仕るべく候ふ。君、足柄(あしがら)の〓倉(やくら)が嵩(だけ)に居り御(おはしま)すと見えたるは、日本国を領知し御(おはしま)すべき表示なり。又酒盛と見えたるは無明(むみやう)の酒なり。其の故は、此(こ)の頃日(ひごろ)、君伊豆国に流され、田舎の塵に交はり御(おはしま)し、万(よろづ)に付けて猥(みだり)がはし。是(こ)れ洒に酔ひたる御心地なれば、疾(と)く酔ふべく御(おはしま)す瑞相なり。左の足にて東国を踏み御(おはしま)すと見えたるは、東より奥州に至つて知食(しろしめ)すべき表相なり。右の足にて西国を踏み御(おはしま)すと見えたるは、貴賀嶋(きかいがしま)を領掌(りやうじやう)有るべしとの先表なり。左右(さう)の袖を以つて月日を懐(いだ)き御(おはしま)すと見えたるは、君武士の大将軍と為(し)て、征夷将軍の宣旨を蒙(かうぶ)り御(おはしま)すべし。太上天皇(だいじやうてんわう)の御護(まも)りと成り給ふ好相なり。子(ね)の日の松三本を引き持(も)ち御(おはしま)すと見えたるは、君久しく日本国を治むべく御(おはしま)す瑞相なり。白鳩二羽飛び来たつて御髪(み−ぐし)の中に巣(すく)ひ、三子を生むと見えたるは、君に御子三人有るべき表示なり。南に向かひて歩みたまふと見えたるは、無明(むみやう)の酒醒めて、君思ふ所無(な)く振舞ひ御(おはしま)すべき表相なり」と、景能(かげよし)、委細に合せたり。右兵衛佐此れを聞いて言ひけるは、「頼朝若(も)し世に在らば、景能(かげよし)・盛長が夢と夢合せの纏東(てんとう)には、国を以つて宛(あ)て給ふべし」と、感歎身に余りて、喜悦したまふこと限り無(な)し。
 然(さ)る程に、北条は然(しか)るべく催されける果報にや、漸(やうや)く心和(やはら)ぎ行き、娘の勘当を赦(ゆる)し畢(をは)んぬ。頼朝夫妻を呼び寄せ奉る。已(すで)に頼朝、伊豆の御山より又北条へ立ち皈(かへ)り、弥(いよいよ)比日(ひごろ)の約(ちぎ)りを結び、殊に芝蘭(しらん)の語らひを臻(イタ)し、漸(やうや)く年月を送る間、一人の女子を設(まう)け給へり。容顔(ようがん)美麗(びれい)にして殆(ほとん)ど吉祥天女(きちじやうてんによ)の如(ごと)し。然(さ)る間、頼朝、流罪の悲しみは夫婦の語らひに止み、孤窶(ころう)の思ひは女子の資(たす)けに宥(なご)む。或(あ)る時、頼朝、小間の酒盛の次(つ)いでに、女子を見て、
 「竹子守山古曾楚多知希礼
   (竹の子はもる山にこそそだちけれ)
左(と)言ひたまひければ、時政取り敢(あ)へず、右(かく)ぞ之(これ)に付けにける。
 「末世満天〓千代経土伝
   (末の世までに千代を経よとて)
此(こ)の連歌は、実(まこと)に頼朝父子共に栄え、北条繁昌すべき奇瑞なりと、此れを聞く人、由(よし)有るべきことと謳謌(おうか)せり。
十三 太政(だいじやう)-入道清盛、悪行(あくぎやう)始めの事
 同じき嘉応(かおう)二年十月十六日、松殿の摂政(せつしやう)基房、主上〈 高倉天皇。御歳九歳 〉御元服(ご-げんぶく)の御定め有る為(ため)に、中御門(なかのみかど)の東洞院(ひがしのとうゐん)の御所より御参内有りける程に、小松の内大臣重盛卿の二男、新三位(しんざんみ/の)-中将資盛卿(すけもり/の−きやう)、其の時は越前守と申して十三に成られけるが、蓮台野(れんだいの)に出でて小鷹狩り為(し)て、鶉(うづら)・雲雀(ひばり)を追つ立てて、終日(ひねもす)に狩り暮らして、降る雪に枯野の景気憐(あは)れなりける間、夕べに及んで、大宮大路を下りに、大炊御門(おほひのみかど)大宮へ還(かへ)りけるに、殿下(てんが)の御出(ぎよしゆつ)に鼻付きに参り合はれたりけり。越前守の、誇り勇みて、世をも世と思はざりける上、召し具す所の侍共、礼儀骨法(こつぱふ)をも弁(わきま)へたること無ければ、殿下(てんが)の御出(ぎよしゆつ)とも云はず、一切(いつせつ)下馬の礼儀も無かりけり。然(さ)る間、前駆(ぜんぐ)・御随身(みずいじん)等、清盛入道の孫とも知らず、只(ただ)打(う)ち任せての人の、無礼に懸け通ると打(う)ち思ひて、奇(あや)しむ故に、「何ぞ、何(いか)/なる白者(しれもの)ぞ、狼藉に殿下(てんが)の御出(ぎよしゆつ)に乗り相(あ)ひ-し奉る。取つて引き下せ」と申しながら、御随身(みずいじん)共、馬より躍り下り、太刀を抜いて追つ散らす。資盛(すけもり)以下(いげ)の侍共五六人、馬より取つて之(これ)/を引き落とし、頗(すこぶ)る恥辱に及びけり。
 資盛(すけもり)朝臣、六波羅の宿所へ馳せ還(かへ)つて、祖父(おほぢ)入道に対(むか)つて泣(な)く泣(な)く申されければ、入道最愛の孫たる間、大きに嗔(いか)り腹立(ふくりふ)して、「設(たと)ひ殿下(てんが)たりとも、争(いかで)か入道の辺りの事をば、其れ程には思食(おぼしめ)さるべき。生ひ先遥かの少(をさな)き者に、左右(さう)なく恥辱を与へらるるこそ違恨の次第なれ。此(こ)の事思ひ知らせ奉らずしては、得(え)こそ有るまじけれ。繋(かか)る事より人にも蔑如(あなづ)らるるぞ。殿下(てんが)を恨み奉らばや」と言ひければ、小松の内府(だいふ)は、「此(こ)の事、努々(ゆめゆめ)有るべからず。重盛が子共と申し候はんずる者は、殿下(てんが)の御出(ぎよしゆつ)に参り合ひて、下馬せざるこそ尾籠(びろう)なれ。左様に為(せ)/られ奉るは、人数(ひとかず)に思はれ奉るに依(よ)つてなり。此(こ)の事思へば面目(めんぼく)なり。頼政・時光が様(やう)の源氏なんどに哂(アザムカ)れて候はんは、実(まこと)に恥辱にても候ひなん。加様(かやう)の事に依(よ)つて大事を引き起こしてこそ、世の乱れとは成り候はん」と諌め申されければ、其の後には内大臣には言ひ合はせず、片田舎の侍共の強(こは)く貪生(ふくつけ)なきが、入道殿の仰せより外には重き事無(な)しと欲(おも)ひて、前後をも弁(わきま)へぬ者共を十四五人召し寄せて、「来たる廿一日に、主上御元服(ご-げんぶく)の定めの為(ため)に、殿下(てんが)参内有らんずる道にて待ち受け奉りて、随身・前駆(ぜんぐ)が髪を切れ」とぞ下知(げぢ)せられける。
 爰(ここ)に殿下(てんが)は車に召し、中御門(なかのみかど)・東洞院(ひがしのとうゐん)の御所より、内の直廬(ちよくろ)に参入せらるる処に、大炊御門(おほひのみかど)・猪熊(ゐのくま)の辺りにて、六十余騎の軍兵(ぐんびやう)等、殿下(てんが)の御出(ぎよしゆつ)を待ち懸け奉る。殿下(てんが)は努々(ゆめゆめ)此(こ)の事をば思食(おぼしめ)さずして、打(う)ち任せての御出(ぎよしゆつ)よりも引き埋(ツク)ろひ御坐(おはしま)して、何心も無(な)く御出(ぎよしゆつ)成りけるを、射殺し切り殺さずとも、懸け散らし打(う)ち落とし擲(な)げ落とす。足に任せて迯(に)ぐるも有り、馬を捨てて隠るるも有り、前駆(ぜんぐ)六人の髪を剪(き)る。其の中に蔵人(くらんど/の)大輔(たいふ)高範(たかのり)の髪を剪(き)るとて、「是(こ)れは汝が髪を剪(き)るには非(あら)ず。己(おのれ)が主(しゆう)殿下(てんが)の髪を剪(き)るなり」と云ひけり。随身〔十〕人が内、右の府生(ふしやう)武光が髪も剪(き)られにけり。剰(あまつさ)へ御牛の鞦(しりがい)を剪(き)り放ち、弓を荒(あら)らかに御車(み-くるま)の内へ突き入れければ、殿下(てんが)も御車(み-くるま)より崩れ下りさせ給ひて、〓(あや)しの民の家へぞ立ち入らせ給ひにける。前駆(ぜんぐ)・御随身(みずいじん)も何(いづ)ちへか迯(に)げ失せけん、一人も無かりけり。供奉(ぐぶ)の殿上人、蜘(くも)の子を散らすが如(ごと)く走り失せぬ。六十余騎の軍兵(ぐんびやう)等、加様(かやう)に為(し)散らして、悦びの時を作り、六波羅へ還(かへ)りにけり。入道此れを聞き、「如勇(ゆゆ)しく為(し)たり」とぞ感ぜられける。
 小松の内府(だいふ)大きに驚き歎かれけり。「景綱・家貞奇怪(きつくわい)なり。入道殿何(いか)/なる不思議を下知(げぢ)せらるとも、争(いかで)か重盛に夢をば見せざるべき」とて、行き向かひたりし侍共十余人勘当せられけり。「凡(およ)そ重盛が子共にて有らん者は、天下を恐れ、礼儀をも存じてこそ振舞ふべきに、云ふ甲斐(かひ)無き若者共を召し具し、加様(かやう)の尾籠(びろう)を現じて、入道殿に腹を立てさせ、此(かか)る大事をも引き出だし、父祖の悪名を立つる。不孝の至り、独(ひと)り汝に在り」とて、越前守をも諌められけり。凡(およ)そ此(こ)の大臣は何事に就(つ)けても吉(よ)き人なりと、世にも誉められ給ひけり。其の後、殿下(てんが)の御事を知り奉つたる人一人も無き程に、御車(み-くるま)副(ぞひ)に候ひける古老の者に、淀の住人因幡(いなば)の斉使(さいつかひ)国久丸(まる)と申しける者、下臈(げらふ)なりといへども貞潔なる者にて、「抑(そもそも)我が君は何(いか)に成らせ御坐(おはしま)す」とて、此(こ)こ彼(かし)こを尋ね奉りけるに、殿下(てんが)、〓(あや)しの民の家に立ち隠れ御座(おはしま)しけるを、「君は焉(ここ)に渡らせ給ひける」と思ひて、御車(み-くるま)の装束を取り調へて寄せければ、殿下(てんが)、御直衣(おん-なほし)の袖を御顔に押し当てて、泣(な)く泣(な)く御車(み-くるま)に召されけり。国久丸(まる)計(ばか)り只(ただ)一人御車(み-くるま)を仕つて還御成し奉りけり。還御の儀式の心憂(こころ−う)さは只(ただ)推量(おしはか)るべし。摂政(せつしやう)・関白の此(かか)る憂き目を御覧ずることは、昔も今も有り難き様(ためし)なるべし。此れぞ平家の悪行(あくぎやう)の始めとぞ聞えし。
 殿下(てんが)は此(かか)る難に合はせ給ひける故に、今夜(こよひ)は主上(しゆしやう)御元服(ご-げんぶく)の定めも延びにけり。浅猿(あさまし)かりし事共なり。
十四 太政(だいじやう)-入道の第二の御娘、入内(じゆだい)有る事
 然(しか)る間、同じき廿五日、院の御所にて主上(しゆしやう)御元服(ご-げんぶく)の定め有り。摂政(せつしやう)殿、同じき十二月九日、兼ねて宣旨を蒙(かうぶ)り給ひて、同じき十四日、太政(だいじやう)-大臣(だいじん)に任じたまふ。是(こ)れ則(すなは)ち、明年主上(しゆしやう)御元服(ご-げんぶく)加冠(かくわん)の為(ため)なり。同じき十七日(じふしちにち)、摂政(せつしやう)殿、御賀有れども如勇(ゆゆ)しく苦(にが)りてぞ見えける。
 嘉応(かおう)三年正月一日、内裏には節会(せちゑ)行はれて、二日、淵酔(えんすい)有り。三日、御門(みかど)御元服(ご-げんぶく)有り。四日、加表。七日、戌(いぬ)の時に、院の御所法住寺殿(ほふぢゆうじ-どの)の南面に、車の輪計(ばか)りの光り物出で来たり。恐ろしとも言ふに及ばず。
 十二日、朝勤の行幸とぞ聞えし。最珍(めづらし)く声花(はなやか)に、法皇も女院も取り申させ給ふ。初冠の御姿厳(いくつ)しく御(おはしま)しけり。春の始めの事なれば、人々殊(こと)に御祝ひ事共申し、悦び合へり。
 同じき四月、改元有り、承安元年と号す。
 同じき七月、相撲の節有るべき由(よし)聞こえけり。小松の内府(だいふ)は声花(はなやか)にて屋形に著(つ)かれたる有様、辺りを払つてぞ見えし。「宿報限り有れば、官位は思ふ様(やう)なりとも、皃形は心に叶ふべからねども、平家の人々は何(いづ)れも容顔(ようがん)勝(すぐ)れたり。中にも、此(こ)の重盛卿の、殊(こと)に皃事柄優(いう)に御(おはしま)す目出たさよ」とぞ申しける。子共達には神楽・催馬楽歌はせ、管絃舞妓を翫ばせ、情け有る事をば勧められけり。
 承安元年〈 辛卯 〉十二月十四日、太政(だいじやう)-入道第二の娘、入内(じゆだい)有りしかば、十五にて、中宮の徳子とぞ聞え給ひし。同じき廿六日、女御(にようご)に為(な)り給ふ。
十五 新大納言成親(なりちか)、大将所望の為(ため)、様々(さまざま)の祈祷の事
 其の比(ころ)、妙音院(めうおんゐん)の太政(だいじやう)-大臣(だいじん)師長卿(もろながのきやう)、内大臣の左大将にて御坐(おはしま)しけるが、大将を辞し申されける間、其の官をば、後徳大寺の左大臣、大将に成さるべきに、新大納言成親卿(なりちか/の-きやう)の、平(ひら)に望み申されけり。院の御気色(ご-きしよく)善(よ)かりし間、様々(さまざま)の祈祷をぞ始められける。
 八幡(やはた)の宮に僧を籠め、信読(しんどく)の大般若(だいはんにや)を読ませられける程に、半部計(ばか)りに及び、河原(かはら)の大明神の前なる橘の木に、鴿(はと)二つ食ひ合ひて死ににけり。鳩は大菩薩の第一の使者なり。然(さ)る間、別当浄清(じやうせい)、此(こ)の由(よし)を奏聞しければ、御占(み-うら)ども有り。「天子の御慎(つつし)みには非(あら)ず、臣家の慎(つつし)み」とぞ申しける。又、賀茂の上の社に、武(たけ)き僧を込めて、外法(げほふ)を行はしむる程に、宝殿の後ろに有る椙(すぎ)の木に、火著(つ)きて燎(も)ゆる間、若宮の社を焼きにけり。非分の事を祈り申されける間、神は非礼を請(う)けたまはねば、加様(かやう)の事も出で来たるにや。
 又、大納言、彼(か)の社へ大将所望の為(ため)に、百日詣での祈りを企てられけり。百日に満ずる時に、御宝殿の内より、声有つて、
 「桜花賀茂河風恨那与 散於江古曾留佐里希連
  (桜花賀茂の河風恨むなよ 散るをばえこそ留めざりけれ〉
左(と)詠(よ)み出だされたりければ、大納言、胸打(う)ち騒ぎ、身の毛堅(よだ)つてぞ思はれける。
十六 成親(なりちか)・俊寛、平家追討の僉議の事
 然(さ)る程に、重盛は右大将にて在りけるが、左に遷(うつ)つて、宗盛は中納言にて在りけるが、右大将に成りたまふ。此れを見て、成親卿(なりちか/の-きやう)、太太(いとど)口惜く思はれける間、如何(いか)にもして平家の一門を亡(ホロボ)し、本望を遂げんと欲(おも)ふ意(こころ)著(つ)きにけり。成親(なりちか)の父の卿は中納言にて有りしに、其の末子(ばつし)と為(し)て、身の涯分をも知らず、正二位に登り上り、官大納言に任じ、年纔(わづか)に四十二なる間、多(あまた)の大国を給はり、家の内も楽しく、子息(しそく)・所従に至るまで朝恩に飽き満ち、何の不足有つて此(かか)る意(こころ)の著(つ)きにけん。偏(ひとへ)に天魔の所行(しよぎやう)なり。成親、親(まのあたり)に信頼卿の形勢(ありさま)を見し人ぞかし。其の時、重盛の重恩を蒙(かうぶ)つて頸を継がれし人に非(あら)ずや。然(しか)るに成親(なりちか)、外(うと)き人も無き所にて兵具を調へ集め、武(たけ)き兵共(つはもの-ども)を相(あ)ひ-語らひて、此(こ)の営みより外は敢(あへ)て他事も無(な)し。
 東山の奥、鹿(しし)の谷と云ふ所は法勝寺(ほつしようじ)の執行(しゆぎやう)俊寛が所領なり。件(くだん)/の所は、後ろは三井寺に次(つづ)きて如勇(ゆゆ)しき城郭なり。彼(か)の所に、平家を討つて引き籠(こも)らんとぞ支度(したく)せしめける。法皇も時々(ときどき)忍びて御幸有り。有る時、故少納言入道の子息(しそく)、静憲(じやうけん)を召され、此(こ)の事を彼(か)の仁(じん)に仰せ合せられければ、「努々(ゆめゆめ)然(しか)るべからず候ふ。人々数(あまタ)此れを承(うけたまは)り候ひぬ。只今(ただいま)此(こ)の草聞えなば、天下の大事出で来なんず。浅猿(あさまし)き事なり」と大きに歎き申されければ、成親(なりちか)、気色(けしき)を違へて立たれけるが、御前なる瓶子(へいじ)を、狩衣(かりぎぬ)の袖に引き懸けて、引き倒されけるを、法皇「袷(あ)れは何(いか)に」と仰せられければ、「平氏(へいじ)の倒れて候ふ」と成親卿(なりちか/の-きやう)申されければ、法皇、〓(ゑつぼ)に入らせ御(おはしま)す。「康頼(やすより)参つて猿楽(さるがく)仕れ」と仰せ有る間、康頼(やすより)取り敢(あ)へず突い立つて、「近代は平氏(へいじ)余りに多う候ふに、酔ひて候ふ」と申しければ、成親卿(なりちか/の-きやう)「左手(さて)其れをば如何(いかが)すべき」と言へば、「其れをば頸を取り候はん」と言ひて、瓶子(へいじ)の頸を取つて入りにけり。静憲(じやうけん)此れを聞いて、浅猿(あさまし)く覚えて、敢(あへ)て物も申さず。
 与力の輩、近江(あふみ)の中将入道蓮静(れんじやう)〈 俗名成雅 〉・法勝寺(ほつしようじ)の執行(しゆぎやう)法印俊寛・山城守(やましろのかみ)基兼(もとかぬ)・式部大夫(しきぶのたいふ)章綱(まさつな)・平(へい)-判官(はんぐわん)康頼(やすより)・宗(そう)-判官(はんぐわん)信房(のぶふさ)・新平(しん-ぺい)判官(はんぐわん)資行(すけゆき)・多田(ただ/の)-蔵人(くらんど)行綱(ゆきつな)・左衛門入道西光(さいくわう)、北面の下臈(げらふ)共、数(あまた)同意の由(よし)聞えけり。其の中に、法印俊寛は、京極の源大納言雅俊が孫、木寺(きでら)の法印俊雅が子なり。然(さ)れば俊寛は指(さ)して弓箭(きゆうせん)の家に非(あら)ねども、祖父大納言雅俊卿は、如勇(ゆゆ)しく心も武(たけ)く腹も悪しき人にて、京極の家の前をば人も安く通さず、常に奥歯を〓(クイ)縛りて、何言(なにごと)も無(な)く嗔(いか)り赤みて御坐(おはしま)しけり。彼(か)の人の孫子為(た)る間、俊寛も僧なりといへども、其の心武(たけ)き人にて、加様(かやう)の事にも与(くみ)せられけり。
十七 日代師高(もろたか)、白山の大衆(だいしゆ)と争ひを起こす事
 北面は是(こ)れ上古(しやうこ)には無かりしを、白河院の御時より始めて置かれ、衛府共数(あまた)候ひけり。為俊・盛重と申す者、童(わらは)より召し仕はれ、千手丸(まる)・今犬丸(まる)とて近習者(きんじゆしや)為(た)り。鳥羽院の御時、季範(すゑのり)・季頼と申して、父子共に近く召し仕はれける程に、時々(をりをり)は伝奏(てんそう)する時も有りけり。然(さ)れども、彼等は皆身の程を知つて振舞ひたりしに、此(こ)の君の御時は、北面の者共、事の外に過分にて、公卿・殿上人を屑(もののかず)ともせず、礼儀も無かりけり。下北面より上北面に遷(うつ)り、剰(あまつさ)へは殿〔上〕を免(ゆる)さるる輩も有りけり。如此(かくのみ)行はるる間、騎り勇める者多し。
 中にも、故少納言入道信西の許に、師光(もろみつ)・成景(なりかげ)と云ふ者有りけり。小舎人(ことねり)-童(わらは)か格勤者(かくごんしや)にて、下臈(げらふ)なりといへども、威(さか)しき者にて、院の御眸(まなじり)に係りて召し仕はれけり。師光(もろみつ)は左衛門尉(さゑもんのじよう)、成景(なりかげ)は右衛門尉とて、二人ながら一度に勒負尉(ゆげひのじよう)に成されける程に、少納言入道の事に遇ひし時、二人ながら出家して、左衛門入道西光(さいくわう)・右衛門入道西景(さいけい)と申して、二人共に御倉(みくら)預(あづか)りにて召し仕はれけり。西光(さいくわう)が子息(しそく)師高(もろたか)も、父が如(ごと)く近習者(きんじゆしや)にて、検非違使(けんびゐし)五位尉(ごゐのじよう)に成り上りにけり。
 安元二年〈 丙申(ひのえさる) 〉十二月十九日、加賀守(かが/の−かみ)に任じ、国務を行ひし間、政務を背き、非法非例を張行(ちやうぎやう)せし程に、神社仏寺・権門勢家(せいか)の庄園とも云はず、皆此れを没倒(もつたう)して、散々に行(おこな)ふ。縦(たと)ひ邵(テイ)公が跡を経(ふ)とも、穏便の政(まつりごと)をこそ行(おこな)ふべかりしに、意(こころ)に任せて振舞ひし程に、同じき三年八月十三日、目代(もくだい)師高(もろたか)と白山の末寺温泉寺(うんせんじ)の僧徒と、事をし出だすに依(よ)つて、国方より師高(もろたか)推し寄せて、温泉寺(うんせんじ)の坊舎を焼き払ふ。
 仍(よつ)て白山の衆徒、同年の冬の比(ころ)、神輿を捧げて上洛(しやうらく)し、山門に訴ふる間、我が山の末寺為(た)るに依(よ)つて、大衆(だいしゆ)蜂起す。
 国司師高(もろたか)・目代(もくだい)師経を流罪・禁獄に行はるべき由(よし)、奏聞を経(ふ)といへども、御裁断遅かりければ、太政(だいじやう)-大臣(だいじん)・左大臣・右大臣以下(いげ)の公卿・殿上人、各(おのおの)歎き申されけるは、「遖(あはれ)、此(こ)の事疾々(とくとく)御裁許有るべき者を。山門の訴訟は昔より他に異なり。以つての外に弘き事共なり。其の故は、大蔵卿(おほくらのきやう)為房・大宰(寄)大弐(ださいのだいに)師李(もろすゑ)朝臣、彼等は皆朝家の奉為(おんため)に重臣為(タ)りといへども、大衆(だいしゆ)の訴訟に依(よ)つて流罪せられにき。師高(もろたか)が事は事の数にも有るべきか。御(おん)-計(ぱから)ひ有るべき者を」と、内々は談合すれども、詞に出だして奏聞せず。「大臣(たいしん)は録を重んじて諌めず、小臣は罪を恐れて言はず」といふ事なれば、各(おのおの)口を閉ぢ給へり。
 実(まこと)に、身を忘れて君を諌め奉り、力を竭(つく)して国を治むべき人、其の数多(あまた)有りし上、武威を輝(かかや)かして天下を静めし入道の子息(しそく)、重盛・宗盛なんど、夙夜(しゆくや)の勤労を積んで催されけれども、師高(もろたか)一人に憚つて、詞に傾き申すとも、諌奏すること無かりけり。君に事(つか)へ世を治むる法、実(げ)に以つて然(しか)るべけんや。「覆(くつがへ)つて助けずは、豈(あに)其の賞を憑(たの)まむや」と、蕭何(せうか)をば大宗(たいそう)は仰せられけるとぞ聞えし。君も滞るべきに非(あら)ず、臣も諛(ココロヨ)かるべきに非ぬ御事共なり。何(いか)に況(いはん)や、君臣の国を乱らんにおいてをや。政道の枉(よこしま)なるにおいてをや。
 白河院の勅定には、「賀茂河の水、雙六(すぐろく)の賽(さい)、山法師、此れぞ丸(まる)が心に叶はぬ者」と申し伝へられたり。鳥羽院の御時、平泉寺(へいせんじ)を以つて山門に付けられけるには、「御皈依(ご−きえ)浅からざるに依(よ)つて、非を以つて理(り)と為(な)す」とこそ宣下せられて、院宣をば下されけれ。昔、大蔵卿(おほくらのきやう)為房、流罪せらるべき由(よし)、山門の衆徒訴へ申しけるに、頭中納言申されけるは、「神輿を陣頭へ振り奉つて訴へ申さんに、此(こ)の時争(いかで)か御(おん)-計(ぱから)ひ無(な)くて有るべき」と申されけり。寔(まこと)に山門の訴訟は黙止難(もだしがた)き事なり。
 堀河院〈 諱を善仁と云ふ。 〉の御時、嘉保二年〈 己亥(つちのとゐ) 〉、美濃守源義綱朝臣、当国新立(ミタチ)の庄を倒しける間、山の久住者(くぢゆうしや)円応を殺害(せつがい)す。此(こ)の事を訴へ申さんが為(ため)に、大衆(だいしゆ)参洛すべき由(よし)、風聞(ふうぶん)有りしかば、河原(かはら)へ武士を指(さ)し遣はして、之(これ)/を防がるる程に、日吉の社司・延暦寺の寺官、都合三十人計(ばか)り、申し状を捧げて陣頭に参上しけるに、後二条の関白師通の沙汰と為(し)て、中務丞(なかつかさのじよう)頼治(よりはる)に仰せて之(これ)/を防ぐといへども、猶(なほ)内裏へ入らんと欲(す)る間、頼治(よりはる)が郎等八騎押し寄せて之(これ)/を射る。矢に中(あた)りて死ぬる者二人、手を負ふ者一人。社司・所司共に四方へ散り失せぬ。門徒の僧綱(そうがう)-等(ら)、子細を奏聞の為(ため)に、猶(なほ)下洛せしむる処に、武士を西坂本へ指(さ)し遣はして入れられず。大衆(だいしゆ)、日吉の神輿を根本中堂(こんぼんちゆうだう)に振り上げ奉つて、関白師通を呪咀(しゆそ)し奉る。未(いま)だ昔より此(かく)の如き事をば聞かず。神輿を揺(うご)かし奉ること、是(こ)れぞ初めと承はる。
 山王の御尤(とが)めにて、関白師通、御身に重病を受け、品々の御願を立てられ、様々(さまざま)の怠(おこた)りを申されけれども、御年三十八と言(まう)すに、康和(かうわ)元年〈 己卯(つちのとう) 〉六月廿八日、父大殿〈 師実(もろざね)、京極殿と云ふ。 〉に先立ち、終(つひ)に失せたまひにけり。御心も武(たけ)く、道理も勁(こは)く御坐(おはしま)しけれども、真(まこと)に事の急に成りし時、御寿(よはひ)を惜ませたまふ。誠に惜かるべし。未(いま)だ四十にも満たずして、父の大殿に先立ちたまふ事、口惜かりし事なり。時に取つては浅猿(あさまし)かりし事共かな。然(さ)れば則(すなは)ち、古今においては、山門の訴訟は恐ろしき事なりと申し伝へたり。老少(らうせう)-不定(ふぢやう)の境なれば、老いたる親を先立つべしと云ふ事は定まらず。生前の宿業(しゆくごふ)に随ふ習ひなれば、万徳果満の世尊も十地究竟(じふちくきやう)の大士(だいじ)達も、力及ばざる御事にて、慈悲具足の山王も、情け無(な)く降伏(がうぶく)したまふをや。和光利物(わくわう-りもつ)の方便なれば、折節(をりふし)尤(とが)め給ふも理(ことわり)ながら、恨めしく浅猿(あさまし)き事なり。
十八 山門の大衆(だいしゆ)、神輿を捧げて下洛する事 付けたり 頼政、変化(へんげ)の物を射る事
 治承元年〈 丁酉(ひのととり) 〉四月、日吉の御祭にて有るべかりしを、大衆(だいしゆ)之(これ)/を打(う)ち留めて、同じき十三日辰(たつ)の尅(こく)に、衆徒日吉七社の御輿を捧げ奉り、陣頭に参向して、急ぎ師高(もろたか)を罪科に行はるべき由(よし)、訴へ申さんと欲(す)る間、内大臣重盛・源三位(げんざんみ)頼政以下(いげ)源平両家の大将軍、臨時(リンじ)の勅を承つて、四方の陣を固め、之(これ)/を防ぐ。重盛俄(にはか)に打(う)つ立たれけれども、其の勢三千余騎なれば、左衛門の陣并びに南面の美福(びふく)・朱雀(しゆしやく)・皇嘉門(くわうかもん)を固めけり。宗盛・知盛兄弟二人は西面の談天(だつてん)・藻壁(さうへき)・殷富門(いんぶもん)を固めけり。北面の安嘉(あんか)・偉鑒(イかん)・達〔智〕(たつち)已上九つの門をば閉ぢたり。其の中に源三位(げんざんみ)頼政は、纔(わづか)に三百余騎の兵を以つて北の陣を固めたり。大衆(だいしゆ)、便宜(びんぎ)為(た)るに依(よ)つて、御輿を縫殿(ぬひどの)の陣に廻(めぐ)らす。
 頼政然(さ)る古兵(ふるつはもの)にて、急ぎ門を開き、甲(かぶと)を脱いで高紐(たかひも)に懸け、馬より下りて神輿を〓(ニナ)ひ奉る。家の子・郎等皆此(かく)の如(ごと)し。然(さ)る間、頼政〈 頼光の孫なり。 〉使者を立てて、大衆(だいしゆ)の中へ申し送る旨有り。其の使ひをば一の郎等、渡部(わたなべ)の丁七(ちやうしち)源(みなもと/の)-唱(となふ)と云ふ者なり。唱(となふ)の其の日の装束には、重目結(しげめゆひ)の直垂に、小桜を黄に返したる鎧を著(き)、黒羽の矢を負ひて、甲をば高紐(たかひも)に懸け、塗籠(ぬりごめ)の弓横に取り直し、大衆(だいしゆ)の前(まへ)/に突い跪(ひざまづ)き、「源三位(げんざんみ)殿の申せと申され候ふは、『今度山門の御訴訟、理運の条、勿論(もちろん)にこそ覚え候へ。御裁許の遅々(ちち)をこそ外(よそ)にも遺恨(ゐこん)に覚え候へ。但し、勅定に依(よ)つて此(こ)の門を固め候へども、頼政、山王に頭(かうべ)を傾け奉つて年尚(向)(ひさ)し。然(さ)る間、恐れを作(な)して退かんと欲(す)れば、違勅の科(とが)遁れ難(がた)し。詔命(ぜうめい)に随つて防がんと欲(す)れば、神慮又憚り有り。旁(かたがた)以つて難治の次第に候ふ。南の陣は重盛卿固めて候ふ。然(しか)るべくは衆徒南の陣へ向ひ、大勢の中に破(わ)つて入り給はば、山王の御威(いきほひ)も弥(いよいよ)重く、大衆(だいしゆ)の面目(めんぼく)為(た)るべき者か。而(しか)るに無勢にて此(こ)の陣を固めて候へば、決定(けつぢやう)破られ奉らん事疑ひ無(な)し。門をば開き候ひて此(こ)の陣より入り給はば、大衆(だいしゆ)目垂〓(めたりがほ)したりとかや申し候はん。然(さ)らんにおいては、後日の嘲(あざけ)りにこそと覚え候へ。左衛門の陣へ御輿を廻(めぐ)らさるべくや候ふ覧(らん)』」と云ひ送りけるに、若大衆(だいしゆ)共は、「何条(なんでふ)其の義有るべき。只(ただ)押し破(やぶ)つて入らん」と云ふ者も有り、「南の陣へ御輿を廻せ」と申す族(やから)も〔あり〕。
 老僧共の中に又僉議しけるは、「此(こ)の事尤(もつと)も云はれたり。御輿を先立て奉りて、我等訴訟を致すならば、大手を打(う)ち破(やぶ)つてこそ後代(こうだい)の聞えも善けれ。就中(なかんづく)頼政は、山王に頭を傾け奉る上、六孫王(ろくそんわう)より以来(このかた)、弓箭(きゆうせん)の芸に携つて、未(いま)だ不覚の名を取らず。其れは武士の家なれば如何(いかが)はせん。風月の逸者(すきもの)、和漢の才人、優に艶(やさ)しき聞えあり。一年(ひととせ)故院の御時、当座の御会の有りしに、御前より『深山(みやま)の花』と云ふ題を出だされけるに、左中将有房朝臣、読み労(わづら)はれたりけるに、頼政卿、
 「美山木其梢登毛和賀佐利志 桜花忍顕尓気利
   (み山木のその梢ともわかざりし 桜は花に顕はれにけり)
左(と)云ふ名哥の作者、御感を動かし奉る艶男(やさをとこ)なり。此(こ)の頼政、一筋(ひとすぢ)に武(たけ)く甲(かふ)なるのみにも非(あら)ず、若きより艶(やさ)しき聞えもあり、甲なる聞えも有り。」
「二条院の幼帝にて渡らせ御(おはしま)しし時、夜々(よなよな)諤(おび)えさせ給ふ事有りけり。是(こ)れ只事に非ずとて、方便を付けて見せられければ、東三条の木村(こむら)より、夜半計(ばか)りに黒雲一村出づる毎(ごと)/に、内裏の上に懸りけり。毎度主上の御悩(ごなう)有るは、何様(いかさま)にも変化(へんげ)の者にやと覚えければ、頼政仕るべき由(よし)宣下せられけり。勅定を蒙(かうぶ)りける間、力及ばず、領状を申す。五月廿日余りの事なれば、目を指すとも知らぬ闇夜なり。深更(しんかう)に及び、漸(やうや)く其の時にも近づきければ、頼政が恃(たの)む所の郎等に、丁七(ちやうしち)唱(となふ)、黒糸威の腹巻に、左右(さう)の小手を指(さ)し、太刀計(ばか)りを帯(たい)し、射落とす物有らば之(これ)/を懐(いだ)くべき由(よし)、申し含めらる。御殿近くに候す。頼政は物の具もせず、〓(くまたか)の風切(かぎきり)にて作(は)いだる尖矢(とがりや)二筋抜き用(も)つて、少し指(さ)し除(の)きて待ち懸けたり。公卿・殿上人見物為(し)て門前市を成す。夜半に及び、例の黒雲、木村(こむら)の上より立ち出でて、紫震殿の棟に繋(かか)りけり。何(いづ)くを射つべしとも覚えず。且(しば)し瞻詰(みつ)めて、主上又諤(おび)え鳴き給ひけり。此れを射損ずる者ならば、長き恥たるべしと欲(おも)ひ、尖矢を損し矯(た)め、雲逸(くもすき)に覿(ミ)ければ、下輪の黒雲の中に、猶(なほ)一入(ひとしほ)黒き物の見えければ、憐(あはれ)(アワレ)、此れや覧(らん)と思ひ、能引(よつぴ)いて且(しば)し固めて兵(ひやう)ど射ければ、手本に対(こた)へ、都(ふつ)と切りぬ。『謳(おう)』と云ふ矢叫びに対(こた)へて、御殿の上より何物にてか有りけん、孤露々々(ころころ)と顛(まろ)び落つ。軒端に一聚(ひとむら)消えて、庭へ鼕(どう)ど落つ。
 丁七(ちやうしち)、雨垂(あまだり)に待ち受けて、〓糸(みし)と懐(いだ)く。公卿・殿上人、手々(てんで)に脂燭(しそく)を指(さ)して之(これ)/を見るに、頭は猿、身は狸、尾は狐、足は猫、腹は蛇、鳴く声は〓(ぬえ)にてぞ有りける。主上の御悩(ごなう)、忽(たちま)ちに止(や)ませ御(おはしま)しけり。法皇御感の余りに、鳥羽院より伝へける師子王と云ふ御剣を自ら取り出だし、御衣に添へて、東三条の右大臣経宗卿に此れを賜(たま)はしむ。大臣此れを給はり、紫震殿の南の階(きぎはし)より下りらる。
 比(ころ)は五月廿日余りの日数を経て、五月雨(さみだれ)の空未(いま)だ晴れざる折節(をりふし)に、郭公(ほととぎす)雲の外に音信(おとづ)れければ、大臣、階(きぎはし)に踟躇(たちやすら)ひて、鳴く方を打(う)ち詠(なが)め、
 「郭公(ほととぎす)名於波雲井尓阿久類哉
   (ほととぎす名をば雲ゐにあぐるかな)
左(と)頼政に云ひ懸け、御剣を給ふ。頼政、三の階(きぎはし)に突い跪(ひざまづ)きつつ、左右(さう)の袖を推し披(ヒラ)き、御剣を給はるとて、
 「弓張月乃伊留尓末賀勢天
   (弓はり月のいるにまかせて)
左(と)付けけるぞ如勇(ゆゆ)しく聞えし。
 又未(いま)だ従四位にて、三位(さんみ)を所望しけれども叶はざりければ、
 「上辺幾便乃無久天木下尓 志以越飛路以伝世於王多留哉
  (のぼるべき便りのなくて木の下に しゐをひろひて世をわたるかな)
左(と)読みたりけるといへども、猶(なほ)殿上を免(ゆる)されざりしかば、頼政、心憂(こころ−う)き事に欲(おも)ひて、
 「人志礼須大内山々守波 木隠帝能美月越見類哉
  (人しれず大内山(おほうちやま)の山守は こがくれてのみ月を見るかな)
左(と)読みて、公家に進(まゐ)らしめければ、正三位(しやうざんみ)に上り、殿上を免(ゆる)されにけり。
 内裏を罷(まか)り出でけるを、或(あ)る女房立ち〓[足+并]〓[足+令](やすら)ひて、云ひ懸けける、
 「月々志久毛出伝行哉
   (つきづきしくも出でて行くかな)
左(と)云ひ懸けければ、頼政、取りも敢(あ)へず、
 「奈尓登那久雲井能上於履染天
   (なにとなく雲ゐの上を履みそめて)
左(と)付けたりけり。時々(ときどき)は加様(かやう)に艶(やさ)しき事も有りける由(よし)を聞けり。加様(かやう)の者には、争(いかで)か時に臨んで恥辱をば与ふべき。就中(なかんづく)、下馬の為様(しやう)、使者の立て様、実(まこと)に思慮深し。然(さ)れば則(すなは)ち、内大臣の固めたる左衛門の陣へ御輿を廻せ」と僉儀せしむ。
仍(よつ)て御輿を左衛門の陣へ廻す。大衆(だいしゆ)御輿を前(サキ)と為(し)て押し入らんと欲(す)る間、狼藉忽(たちま)ちに出で来て、重盛が郎等矢を放ち、十禅師(じふぜんじ)の御輿に立つ。又神人(じんにん)一人、宮人一人、矢に中(あた)つて死に畢(をは)んぬ。其の外、疵を蒙(かうぶ)る者多かりけり。然(さ)る間、神輿を振り上げ奉り、大衆(だいしゆ)三千人声を上げて嘔(をめ)き喚(さけ)ぶ。梵天(ぼんでん)・帝釈宮(たいしやくぐう)をも驚かし奉り、龍神八部も騒ぐらんとぞ覚えける。貴蔑上下悉(ことごと)く身の毛堅(よだ)つて、神人(じんにん)(矢)神輿を棄て置き奉り、大衆(だいしゆ)泣(なくな)く本山に帰る。住持(ぢゆうぢ)の三宝、諸社の神祇も今は御坐(おはしま)さず、憑(たの)む方無(な)く、行く先目も昏(ク)れてぞ登りける。
 蔵人(くらんど)の左少弁兼光、仰せを蒙(かうぶ)つて、先例を大外記(だいげき)に尋ね申されけり。又殿上に公卿僉議有り。保安四年の例に任せて、祇園(ぎをん)の別当に仰せて、彼(か)の社に入れ奉り、本山に送り奉るべき由(よし)、議定(ぎぢやう)有り。当社の新別当権大僧都(ごんのだいそうづ)澄憲(ちようけん)仰せを承(うけたまは)るに依(よ)つて、神輿を秉(〓)燭(ヘイしよく)に迎へ奉り、御輿に立つ所の矢を神人(じんにん)をして之(これ)/を抜かしむ。
 大衆(だいしゆ)、山王の御輿を内裏に振り奉ること、昔より度々に及べり。永久元年〈 癸巳(みづのとみ) 〉より以来(このかた)、治承元年に至るまで六箇度なり。然(さ)れども、只(ただ)武士を以つて防がるることは毎度のことなり、神輿を射奉ることは先例無(な)し。浅猿(あさまし)とも申せば愚かなり。七社権現、何(いか)計(ばか)りの事をか思食(おぼしめ)されけん。「人の恨み、神の嗔(いか)りは必ず災害有り」と云(い)へば、只今(ただいま)天下の大事出で来なんと、人皆恐れ蓬(あ)へり。
十九 平大納言時忠、清撰(せいせん)に預(あづ)かる事
 十四日、大衆(だいしゆ)猶(なほ)下洛すべき聞え之(これ)有りければ、夜の中に、主上〈 高倉帝なり。 〉腰輿(えうよ)を召して、院〈 後白河院なり。 〉の御所法住寺殿(ほふぢゆうじ-どの)へ行幸有り。内大臣重盛以下(いげ)供奉(ぐぶ)の人々、直衣(なほし)の上に矢を負ひて供奉(ぐぶ)せらる。軍兵(ぐんびやう)数万騎、雲霞(うんか)の如(ごと)く御輿の前後に打(う)ち囲む。中宮〈 建礼門の女御、高倉院の后 〉は御車(み-くるま)に召し、行啓(ぎやうけい)成る。仍(よつ)て禁中の上下、澆(あわ)て騒ぐこと斜(なの)めならず。京中の貴賤走り迷ふ。関白以下(いげ)大臣・諸卿・殿上の侍臣馳せ参る。
 衆徒等、御裁断遅々(ちち)の上、神人(じんにん)・宮司(みやじ)矢に中(あた)りて死亡し、衆徒多く疵を蒙(かうぶ)りし間、大宮・二宮以下(いげ)の七社、講堂、上下の諸堂一宇も残さず焼き払ひて、山野に交はるべき由(よし)、三千人一同に僉議せしむ、と聞えしかば、山門の上綱(じやうかう)を召して、「衆徒の申す所、御成敗有るべき」由(よし)、仰せ下されける間、同じき十九日に、僧綱(そうがう)-等(ら)、勅宣の趣を門徒の大衆(だいしゆ)に触れんが為(ため)に登山せしむる処に、衆徒等嗔(いか)りを成して追ひ帰しければ、僧綱(そうがう)-等(ら)色を失ひて迯(に)げ下る。此れに依(よ)つて、「誰か山上に罷(まか)り向つて、勅宣の趣を申し含め、大衆(だいしゆ)を宥(なだ)むべき」と、公卿僉議有りければ、人々多き中に、平大納言時忠卿、清撰(せいせん)に預かつて上卿(しやうけい)に立つ。紺の葛袴(くずばかま)・立烏帽子(たてえぼし)にて、侍二三人計(ばか)り相(あ)ひ-具して登られけり。大衆(だいしゆ)此(こ)の事を聞いて、講堂の庭に三千人一同に会合して、「何条(なんでふ)其の義有るべき。時忠卿を待ち受けて、其の男を執つて引き張り、髻(もとどり)を剪(き)れ」と〓(ノノシ)る処に、時忠、騒がぬ躰にて、「衆徒の御中に申し入るべき事の候ふ。且(しばら)く静まり給へ」とて、小侍を招き寄せ、用(も)たせたる小硯取り出だし、畳紙(たたうがみ)を引き披(ひら)き、一句の詞を書いて大衆(だいしゆ)の中に送りたり。衆徒等此れを披(ひら)き見るに、
 「衆徒の濫悪(らんあく)を致すは魔縁の所行(しよぎやう)
 「明王(めいわう)の制止を加ふるは善政の加護
登古曾(とこそ)書いたりけれ。大衆(だいしゆ)此れを引き張るに及ばず、涙を流し袖を汐(しぼ)り、前非を悔ひて谷々坊々にぞ還(かへ)りける。一紙一句を以つて三塔三千の憤りを慰め、公私の恥を雪(すす)ぐ。時忠虎口を遁れ、急ぎ下洛す。山上・洛中の人皆耳目を驚かさざるは無(な)し。
 凡(およ)そ此(こ)の人は何事に就(つ)きても貞潔にて、入道の心にも相(かな)へり。
 治承泉元年正月廿四日の除目に、年五十六にて大納言に成さる。中御門(なかのみかど)の中納言宗家卿・花山院の中納言兼雅、官に成さるべかりけるを、此れを押し留めて郡綱(クニつな)卿の越えられける事、実(げ)に以つて有り難(がた)し。此れも太政(だいじやう)-入道の万事(ばんじ)心に任する故なり。此(こ)の大納言は、中納言兼輔(かねすけ)八代の孫、前の右馬助(うまのすけ)盛国(国盛)が子なり。二三代は蔵人(くらんど)にだにも成らず。郡綱をば進士(しんじ)の雑色と云ひし程に、近衛院の御時、去(いん)じ久安四年正月七日、法性寺殿(ほふしやうじどの)の推挙に依(よ)つて家を興す。故(ことさら)に太政(だいじやう)-入道に取り入り、大小の事、弐心(ふたごころ)無(な)く忠勤せしめ、何物にても毎日に一種を送られければ、現世の得意此れに過ぎたる人無(な)しとて、郡綱が子息(しそく)一人を乞ひ取りて入道の養子に為(し)、元服(げんぶく)せしめて、侍従清国と名づけらる。
 治承四年の五節は福原(フクはら)にて行はれけり。殿上の淵酔(えんすい)の日は、雲客、前の宮の御方に参られけるに、或(あ)る公卿の「竹(たけ)湘浦(しやうほ)に斑(まだら)なり」と云ふ朗詠を出だされたりけるを、国綱卿聞き尤(トガメ)て、取りも敢(あ)へず、「穴(あな)浅猿(あさまし)、此れは禁忌とこそ承はれ。異耶々々(いやいや)、聞かじ」とて迯(に)げられけり。指(さ)して属文(しよくぶん)の家には非(あら)ねども、加様(かやう)成る事をも尤(とが)められけるとぞ承(うけたまは)る。
 此(こ)の国綱の母は、賀茂の大明神に志を運びて参詣せしめ、「我が子(こ)の郡綱を一日の中に蔵人(くらんど)を歴(へ)させ給へ」と祈り申されたりけるに、御社人、檳榔(びらう)の車に将(ゐ)/て来り、我が家の車宿りに立つと夢を見て、意得(こころえ)ず覚えて人に語りければ、「公卿の北の方に成るべし」と合はせけり。「我が身、年長(た)けぬ。今更(いまさら)に男を設(まう)くべからず」と思ひけるに、蔵人(くらんど)は事も斜(なの)めにや、夕郎(せきらう)の貫主(くわんじゆ)を歴(へ)て正二位の大納言に至る。入道、此(こ)の人を避(サ)り難く思はれけるも、偏(ひとへ)に賀茂の大明神の御利生なり。
廿 加賀守(かが/の−かみ)師高(もろたか)、尾張国へ流さるる事
 同じき廿日、権中納言忠親に仰せて、加賀守(かが/の−かみ)師高(もろたか)を解官(げくわん)して尾張国へ流罪せらる。又去んじ十三日、神輿を射奉りし武士六人禁獄せらる。内大臣重盛の郎等・随兵、平利家・同家兼・藤原久通・同成直・同俊行・同光景等なり。
廿一 禁中・洛中炎上(えんしやう)の事
 同じき廿八日、亥(ゐ)の時計(ばか)りに、樋口・富小路(とみのこうぢ)より火出で来て、辰巳(たつみ)の風劇(はげ)しく吹きて、京中多く焼け失せにけり。名所も三十余ケ所、公卿の家十六ヶ所、殿上人・諸大夫(しよだいぶ)の家は数を知らず。終(はて)には大内(おほうち)に吹き著(つ)けて、朱雀門(しゆしやくもん)より始めて、応天門(おうでんもん)・会昌門(くわいしやうもん)・大極殿(だいこくでん)・豊楽院(ぶらくゐん)・諸司・八〔省〕・大学寮(カミ)・真言院も焼け失せにけり。樋口・富小路(とみのこうぢ)より角(スミ)違ひに戌亥(いぬゐ)の方を指(さ)して、車輪計(ばか)りの如(ごと)くなる燗(ほむら)飛び行きけり。恐ろしとも言ふ量(はか)り無(な)し。能有(よしあり)大臣の本院殿、.冬嗣(ふゆつぎ)の大臣の閑院(かんゐん)、維高御子(これたかのみこ)小野の宮の小野宮殿(をののみやどの)、若松殿、北野の天神の紅梅殿、橘逸勢(たちばなのはやなり)の高松殿、円融大臣の河原院、中務宮の千草殿(ちくさどの)、永頼(ながより)三位(さんみ)の山の井、五条の后の東五条、忠仁公(ちゆうじんこう)の染殿(そめどの)、貞仁公の小一条(こいちでう)、公任(きんたふの)大納言の四条宮、東三条、西三条、此れ等の名所も焼けにけり。家々の代々の文書(もんじよ)・資財雑具(ざふぐ)・七珍万宝(しつちん−まんぼう)、純(さなが)ら塵灰(ちり−はひ)と作(な)りぬ。其の外の費(つひ)え何(いか)計(ばか)りぞ。人の焼け死ぬること数万人、牛馬の類ひは数を知らず。都(すべ)て北の京は三分が一焼けにけり。
 是(こ)れ只事に非(あら)ず、山王の御尤(とが)めとて、比叡山より猿共多(あま)た、松の葉に火を付けて用(も)ちて、焼き払ひて下るとぞ、人の夢には見えける。
 大極殿(だいこくでん)は是(こ)れ清和天王の御時、貞観(元)(ぢやうぐわん)十八年〈 丙午(ひのえうま) 〉四月九日、始めて焼けたりしを、同じき十九年四月三日、陽成院、豊楽院(ぶらくゐん)において御即位有り。元慶(ぐわんぎやう)元年四月九日、事始め有つて、同じき二年十月八日、造り出だされしを、又後冷泉院の御宇(ぎよう)、天喜(てんぎ)五年二月廿一日、焼けにけり。治暦(ぢりやく)二年八月二日、事始め有つて、同じき十月十日、御棟上げ有りけれども造り出だされざりしを、後冷泉院隠れさせたまひて、後三条院の御時、延久(えんきう)四年十月十五日、造り立てられて、行幸成りつつ宴会行はれし。文人詩を献じ、楽人楽を奏す。今は末の世と成り、国の力衰弊して、又造り立てられんことも難(かた)からんと、欺き申す人も有りけり。然(さ)れども、少納言通憲入道、貞潔なる人にて、遂(つひ)に造り立てたりけり。
源平闘諍録巻第一上