源平闘諍録 一之下
一 天台座主明雲(めいうん)大僧正、公上(くじやう)を止(とど)めらるる事
二 宮、天台座主に成らせたまふ事
三 明雲(めいうん)、罪科に行はるべき宣旨の状
四 山門の大衆(だいしゆ)の奏聞の状 井びに入道(にふだう)相国の方に送り副(そ)ふる状
五 明雲(めいうん)罪過の軽重を定めらるる僉議(せんぎ)
六 明雲(めいうん)を還俗せしめて流さるる事
七 山の大衆(だいしゆ)僉義して、明雲(めいうん)僧正を奪ひ返す事
八 山の大衆(だいしゆ)、明雲(めいうん)を留め奉(たてまつ)るに依(よ)つて、法皇逆鱗(げきりん)有り、之(これ)に依(よ)つて大衆(だいしゆ)重ねて状を相国の方に遣(つか)はすこと
九 行綱(ゆきつな)仲言の事
十 相国謀叛を奏する事 井びに新大納言召し取らるる事
十一 西光(さいくわう)法師(ほふし)、召し捕らるる事
十二 重盛(しげもり)卿、父相国を諌(いさ)めらるる事
十三 法皇を流し奉(たてまつ)らんと欲する間、重ねて父を諌(いさ)め奉(たてまつ)る事
十四 重盛(しげもり)、兵者を召さるる事 井びに褒〓[女+以](ほうじ)の后の誓喩
十五 成親卿(なりちかのきやう)の郎等、宿所(しゆくしよ)へ返る事 井びに少将(せうしやう)捕はるる事
十六 門脇殿、成経(なりつね)を請ひ受けらるる事
十七 成親卿(なりちかのきやう)流さるる事
十八 成経(なりつね)・康頼(やすより)・俊寛(しゆんくわん)、鬼海が嶋へ流さるる事
    康頼(やすより)、嶋において千本の卒都婆を造ること
十九 讃岐院(さぬきのゐん)追号の事
二十 宇治の悪左府(あくさふ)、贈官の事  一之末 目録  終り
一 天台座主明雲(めいうん)大僧正、公上(くじやう)を止(とど)めらるる事
安元三年五月五日(いつか)、天台座主明雲(めいうん)大僧正、公上(くじやう)を止(とど)めらる。蔵人(くらんど)を遣(つか)はして、御本尊を召し返す。即(やが)て、神輿を振り奉(たてまつ)る大衆(だいしゆ)の張本を召さるべしと云云。「加賀国(かがのくに)に座主の御坊領在(あ)り、師高(モロたか)停廢(ちやうはい)の間、其の宿意に依り、門徒の大衆(だいしゆ)を語らひて訴詔を致されければ、既(すで)に朝家(てうか)の御大事に及ばんと欲(す)」と、西光(さいくわう)法師(ほふし)父子(ふし)共に讒奏(ざんそう)せしむる故(ゆゑ)に、法皇大きに逆鱗(げきりん)有つて、殊(こと)に座主を重罪に行はるべき由(よし)、思食(おぼしめ)されけり。
二 宮、天台座主に成らせたまふ事
 同じき七日、宮、天台座主に成らせたまふ。覚快(かくくわい)法親王(ほつしんわう)是(こ)れなり。鳥羽院の第七の皇子(わうじ)、故青蓮院(しやうれんゐん)の大僧正行玄(ぎやうげん)の御弟子なり。五十六代の座主に相(あ)ひ当たり給ふ。伝教大師(でんげうだいし)の記文に云はく、「王子(わうじ)、天台座主に成りたまはば、末世と思ふべし」と。「世既(すで)に臨めり」と人申し逢へり。
三 明雲(めいうん)、罪科に行はるべき宣旨の状
同じき日、明雲(めいうん)僧正を罪科に処すべき宣旨の状に称(いは)く、
 前(さき)の延暦寺の座主僧正明雲(めいうん)、条々(でうでう)犯さるる事
一 大僧正快秀(くわいしう)当山座主為(た)る間、悪僧等を相(あ)ひ語らひ、山門を追ひ払はしむる事
一 去ぬる嘉応(かおう)元年、美濃国比良野(ひらの)庄民等に就(つ)き訴詔を構へ、当山の悪徒を発(おこ)して官城へ乱入し、狼籍を致さしむる事
一 近日の大衆(だいしゆ)蜂起、事の次第は、彼(か)の嘉応(かおう)の狼籍に超過せり。先(まづ)〔一〕旦の意趣を以つて山塔の凶徒を催(もよほ)し、外には制止の詞を構へ、内には騒動の企てを成す。朝章を蔑爾(べつじ)し、欲滅仏法を滅ぼさむと欲(す)。或(あるい)は凶徒を以つて陣中に乱入し、数箇所に火を放し、或(あるい)は警固の輩(ともがら)に対(むか)ひ合戦し、又兵具を帯(たい)して下洛すべき由(よし)執奏せしむ。誠に是(こ)れ朝家(てうか)の怨敵(をんでき)、偏(ひとへ)に叡山の悪魔たる者か。
明法博士に仰せ下され、条々(でうでう)の所犯〔に就(つ)き〕、明雲(めいうん)所当の罪名を勘(かんが)へ申さしむべし。
  安元三年 五月十一日
     蔵人頭(くらうどのとう)右近衛(うこんゑの)中将(ちゆうじやう)藤原朝臣(あつそん)光能奉(うけたまは)る
四 山門の大衆(だいしゆ)の奏聞の状 并びに入道(にふだう)相国の方に送り副(そ)ふる状
 同じき十二日、前の座主明雲(めいうん)僧正〈 顕通大納言の御子也。 〉、所職(しよしよく)を止(とど)められ、検非違使(けんびゐし)二人を付けて水火(すいくわ)の責に及ばしむ。剰(あまつさ)へ十五日、死罪(しざい)一等を減じて遠流せらるべしと、法家に勘(かんが)へ申さしむる由(よし)、其の聞え有り。大衆(だいしゆ)、又奏状を捧げて天聴(てんちやう)を驚かす。其の奏聞の状に云はく、
   延暦寺三千の大衆(だいしゆ)・法師(ほふし)等 誠惶(せいくわう)誠恐(せいきよう)謹みて言(まう)す
  殊(こと)に 天恩を蒙(かうぶ)り、早(はや)く前の座主明雲(めいうん)の配流、并びに私領没官(もつくわん)を停止(ちやうじ)せられむことを請ふ子細の事
 右、座主は是(こ)れ法燈(ほつとう)を挑(かか)ぐるの職、戒光を伝ふるの仁(じん)なり。若(も)し重科に処し配流せられば、豈(あに)天台の円宗(ゑんじゆう)忽(たちま)ちに滅び、菩薩の大戒永く失はるるに非(あら)ずや。茲(これ)に因(よ)つて、我が山開闢(かいひやく)の後、貫主(くわんじゆ)草創より以来(このかた)、百王の理乱是(こ)れ異なりといへども、一山の安危時に随ふといへども、只(ただ)帰敬(ききやう)の礼のみ有りて都(すべ)て流罪(るざい)の例無(な)し。就中(なかんづく)、明雲(めいうん)は是(こ)れ顕密の棟梁、智行の賢徳なり。一山九院の陵遅、此(こ)の時に旧跡に復し、四教三密の紹隆、其の儀上代に恥ぢず。今忽(たちま)ちに遠方に赴(おもむ)き、永く当山を別れなば、衆徒の悲歎何事か之(これ)に如(し)かむ。何(いか)に況(いはん)や、前の座主は天朝においては是(こ)れ一乗教の師範なり。須(すべから)く千歳の供給(ぐきふ)を尽くすべし。仙院においては又菩薩戒の和尚(くわしやう)なり。盍(なん)ぞ三時の礼敬(らいきやう)を運ばざる。所知を没官(もつくわん)せしめ、更(さら)に重科に処せらるる、寧(むし)ろ大逆罪に非(あら)ずや。謹みて異域を〔尋ね〕、并びに旧例を訪(とぶら)ふに、未(いま)だ聞かず、一朝の国師故無(な)くして逆害を蒙(かうぶ)ることを。
 抑(そもそも)配流の科怠(くわたい)是(こ)れ何事ぞや。閭巷(りよかう)の説の如(ごと)くんば、或は人の讒言に、度々(どど)の山門の訴訟は皆是(こ)れ明雲(めいうん)の結構なり、或は快秀(くわいしう)僧正を追却(ついきやく)し、或は成親卿(なりちかのきやう)を訴へ申す、又当時師高(モロたか)の事等は偏(ひとへ)に是(こ)れ明雲(めいうん)が結構なり。者(テイレバ)此(こ)の讒達に依(よ)つて忽(たちま)ちに勅勘(ちよくかん)を蒙(かうぶ)ると云々。儻(もし)風聞(ふうぶん)の如(ごと)くんば、何ぞ浮言を用ゐむ。須(すべから)く彼是を対決して、真偽を糺明せらるべきなり。件等(くだん)の事に至(いた)りては、大衆(だいしゆ)欝憤し満山訴訟を致すの尅(きざみ)、前の座主においては毎度(まいど)之(これ)を禁制しき。盍(けだ)し山門の動揺を貫主(くわんじゆ)と為(し)て之(これ)を痛むが故なり。対決の処、其の隠れ無(な)きか。設(たと)ひ不慮の越度(をつど)有りといへども、何ぞ重科に及ばむや。衆徒等〓(つつし)みて天聴を驚かし、末寺の愚僧を救はむと欲(す)る処に、其の張本を召され、歎きを為(な)すの間、終(つひ)に本山の高僧を失ふ条、不慮の愁ひ、喩へを取るに物無(な)し。夫(それ)聖勅を蒙(かうぶ)らずして怨望を散ずることなかれ。是(こ)れ常の例なり。今天裁を戴くといへども、還(かへ)つて厳罰を蒙(かうぶ)る。未(いま)だ意(こころ)を得(え)ず。
 抑(そもそも)我が公(きみ)太上法皇は、偏(ひとへ)に医王山王の冥徳を仰ぎ、久しく台嶽の三宝(さんぽう)に皈(き)し、専ら山修山学の禅侶を愍(アハレ)み、忝(かたじけ)なくも興隆の叡慮を抽んでたまふ。而(しか)るに今、仁恩忽(たちま)ちに変じ、誅戮(ちゆうりく)俄(にはか)に来たる。数百歳(すひやくさい)の仏日云(ココ)に晩(く)れ、已(すで)に心神の所行(しよぎやう)に迷ひぬ。三千人の胸火熾燃(シネン)して、愚身の措く所を知らず。若(も)し明雲(めいうん)配流せられば、衆徒誰か跡(あと)を留めむ。鎮護国家の道場、眼前に魔滅せむと欲(す)。
 早(はや)く明雲(めいうん)配流を宥(なだ)め、私領没官を停止せられば、十二願王新たに玉体を護持し、三千の衆徒弥(いよいよ)宝算を祈り奉(たてまつ)らむ。誠惶誠恐謹みて言(まう)す。
  安元三年 五月十六日
                       延暦寺三千の大衆(だいしゆ)法師(ほふし)等
 抑(そもそも)、此(こ)の状を誰に就(つ)きて奏聞すべきかの由(よし)、僉義せしむる程に、福原の入道(にふだう)大相国に申すべしと、定め訖(をは)んぬ。此れに依(よ)つて十七日、又奏聞の状に私の状を副(そ)へて送らしむ。其の状に云はく、
    延暦寺の衆徒等謹みて言(まう)す
 早(はや)く、前の座主、指(さ)したる故無(な)く配流せられ、并びに門跡(もんぜき)相伝の私領を謂(いは)れ無(な)く停止せられしを、執り申されむことを欲する子細の状
 右、天台の円宗(ゑんじゆう)を本朝に弘め、菩薩の大戒を当山に興ししより来(このかた)、一天(いつてん)四海皆座主の法燈を伝へ、五畿七道悉(ことごと)く和尚(くわしやう)の光を稟(ウ)く。茲(こ)れに因(よ)つて賢王・聖主只(ただ)皈依(きえ)の儀のみ有つて、往古近代全(まつた)く配流の例無(な)し。然(しか)るに指(さ)したる科怠(くわたい)無(な)く、忽(たちま)ちに流罪(るざい)を蒙(かうぶ)る。豈(あに)円宗(ゑんじゆう)の魔滅、山門の没亡に非(あら)ずや。
 配流の罪科、抑(そもそも)何事ぞや。風聞(ふうぶん)の如(ごと)くんば、或は讒言に、度々(どど)の山門の訴訟は皆是(こ)れ明雲(めいうん)の結構なりと。所謂(いはゆる)、快秀(くわいしう)僧正を追却(ついきやく)し、成親(なりちか)細并びに師高(モロたか)を訴訟申す事是(こ)れなり。彼(か)の讒達に依(よ)つて此(こ)の重科を蒙(かうぶ)ると云々。是(こ)れ言語道断の事なり。大衆(だいしゆ)の蜂起は全(まつた)く貫主(くわんじゆ)の進退(しんだい)に非(あら)ず。彼(か)の快秀(くわいしう)僧正、修学者を殺害(せつがい)せしに依(よ)つて、山門を追却(ついきやく)す。又成親卿(なりちかのきやう)・師高(もろたか)朝臣等、座主何の遺恨(ゐこん)有つてか怨心(をんしん)を結ぶべきや。此れに依(よ)つて毎度(まいど)の訴訟、貫主(くわんじゆ)固く禁制を加ふ。勅宣を怖るるが故なり。然(しか)るに大衆(だいしゆ)、山門を思ひ、敢(あへ)て制法に拘(かかは)らず。叡岳の作法昔より斯(かく)の如(ごと)し。何ぞ衆徒の訴へを以つて、還(かへ)つて座主の罪に処せむや。若(も)し猶(なほ)未審有らば、対決せられむに厥(そ)の隠れ無(な)きか。
 俯(フシ)て事の情(こころ)を案ずるに、当山は是(こ)れ鎮護国家の道場と為(し)て、聖朝安穏の御願を修す。茲(こ)れに因(よ)つて所々(ところどころ)の訴訟、人々の愁緒(しうしよ)、威を神輿に仮り、欝(いきどほ)りを天聴に達す。其の中に、或は快く天裁を戴きて皈山し、或は聖断を蒙(かうぶ)らずして涙に咽(むせ)び以つて退出す。古今常の例なり。其れより来(このかた)久し。未(いま)だ謬(あやま)りを聞かず。大衆(だいしゆ)の訴訟に依(よ)つて貫首の流罪(るざい)に行はるる。矧(いはん)や前の座主は顕密の法将、智行の賢徳なり。是(こ)の故(ゆゑ)に、講論の莚には証義の者と為(し)て厳重の御願を資(たす)け、瑜伽(ゆが)の壇(だん)には阿闍梨(あじやり)と為(し)て、聖朝の安穏を祈り奉(たてまつ)る。加之(しかのみならず)明雲(めいうん)は苟(イヤシク)も鳳闕(ほうけつ)に祇候(しこう)し、久しく龍顔(りようがん)を擁護(おうご)す。聖主之(これ)に従ひて一乗経を受けたまひ、仙院之(これ)に就(つ)きて菩薩戒を伝へたまふ。則(すなは)ち是れ一朝の国師、法皇の和尚(くわしやう)なり。何ぞ人の讒達を以つて〓(たちまち)に厳罰を蒙(かうぶ)らむや。又彼(か)の私領は是(こ)れ承雲和尚(くわしやう)より以来(このかた)、門跡(もんぜき)相続して知行する所なり。慈覚大師の門徒其の数有りといへども、枝葉の繁昌は専ら梨本(なしもと)に在(あ)り。而(しか)るに之(これ)を停止せしめて佗人(たにん)に付くれば、寧(むし)ろ大師の遺流の乱れに非(あら)ずや。和尚(くわしやう)の一門忽(たちま)ちに失はむや。縦(たと)ひ佗職を停むといへども、私領を没収するに及ぶべからず。
 抑(そもそも)禅定(ぜんぢやう)大相国は已(すで)に一朝の固め為(た)り。又是(こ)れ万人の眼(まなこ)なり。天下の乱れ、山上の愁ひ、何ぞ其の成敗無からむ。就中(なかんづく)前の座主は是(こ)れ大相国の菩薩戒の和尚(くわしやう)なり。此(こ)の事においては争(いかで)か諌鼓(カンこ)を鳴らされざらむや。
 儻(もし)此(こ)の欝(いきどほ)りを散ぜずして、大戒の和尚(くわしやう)を還俗せしめ、猶(なほ)流罪(るざい)せられば、則(すなは)ち我が山の仏法破滅の時至(いた)るなり。門葉何(いづ)れの者か僧徒の儀有らむ。三千の学侶誰か身命を惜まむ。仍(よつ)て大講堂の前(まへ)において満山の仏神・伽藍(がらん)の護法を驚かし奉(たてまつ)り、泣(なくな)く起請して云はく、衆徒の欝憤散ぜずして固く流罪(るざい)せられば、大衆(だいしゆ)皆彼に従ひて同じく配流の罪を蒙(かうぶ)り、満山の学侶一人も留るべからずと云々。
 当山の存亡只(ただ)此(こ)の成敗に在(あ)り。宜(よろ)しく此(こ)の趣を察し、執り申さるべくは、三千人の涙泉忽(たちま)ちに乾(かは)き、数百歳(すひやくさい)の法燈再び挑(かか)ぐる者か。仍(よつ)て衆徒の僉儀の状、件(くだん)の如(ごと)し。
   安元三年 五月十七日
 左(と)此れを書き、所司等を以つて福原へ遣(つか)はす。其の上、大衆(だいしゆ)猶(なほ)参洛すべき由(よし)、風聞(ふうぶん)有りければ、内裏并びに院の御所法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に軍兵(ぐんびやう)等を召されける間、京中何と無(な)く騒ぎ逢へり。
五 明雲(めいうん)罪過の軽重を定めらるる僉議(せんぎ)
 同じき廿日、前の座主罪科の事を僉議(せんぎ)せられんが為(ため)に、太政(だいじやう)大臣(だいじん)・左右(さう)大臣已下(いげ)、公卿(くぎやう)十三人参内せしむ。陣の座に列して各(おのおの)定め申されけり。
 其の中に太政(だいじやう)大臣(だいじん)師長(もろなが)・右衛門督藤原朝臣忠親・左大弁宰相長方朝臣等、法家の勘文に任せて定め申されけるは、「早(はや)く死罪(しざい)一等を減じて遠流せらるべき条、彼(か)の明雲(めいうん)大僧正は兼学顕密、浄行持律の上、一乗妙経を以つて公家に授け奉(たてまつ)り、菩薩戒を以つて法皇〈 後白川是(こ)れなり。 〉に授け奉(たてまつ)る。而(しか)るに忽(たちま)ちに還俗せしめて流刑に処する条、頗(すこぶ)る猶預(いうよ)に及ぶべき議か。宜(よろ)しく勅定(ちよくぢやう)在るべし」と、憚る所無(な)く申されければ、当座の諸卿、悉(ことごと)く長方卿の儀に付き、同(どう)じ申されけれども、法皇の御欝(いきどほ)り深かりければ、遂(つひ)に流罪(るざい)に定められにけり。
 太政(だいじやう)入道(にふだう)も此(こ)の事を申し宥(なだ)めんが為(ため)に、山門の奏状并びに私の書状を帯(たい)して院参せられけれども、御風気(かざけ)の由(よし)仰せ有つて、御前にも召されざる間、入道(にふだう)欝(いきどほ)り深くして罷(まか)り出でられけり。
六 明雲(めいうん)を還俗せしめて流さるる事
 廿一日、前の座主明雲(めいうん)僧正を還俗せしめて、大納言大夫(だいなごんのだいぶ)藤井の松枝(まつえだ)と云ふ俗名を付けて、伊豆国に流さるべきに定まりぬ。其の時、京童部(きやうわらんべ)歌に読みて笑ひけるは、
 松枝皆逆面木〓終(コリハテ)山者〓首為物無
  松が枝は皆逆面木(さかもぎ)にこりはてて山にはざすにする物も無(な)し
と。人々傾き申しけれども、西光(さいくわう)法師(ほふし)が讒言に依(よ)つて、遂(つひ)に流罪(るざい)に定められけり。
 今夜都を出だし奉(たてまつ)れと、院宣〓(きび)しくて、重ねて追立ての検非違使(けんびゐし)、白川の御坊に参りて申しければ、粟田口(あはたぐち)の辺り、一切経の別所を出でさせ給ひぬ。衆徒此れを聞き、西光(さいくわう)父子(ふし)の名字を書いて、根本中堂(こんぼんちゆうだう)に立たせたまふ金毘羅大将の御足の下に踏ませ奉(たてまつ)り、「十二神将七千夜叉、時剋を回(めぐ)らさず、彼等二人が命を召し取り給へや」と咒咀しけるこそ懼(おそろ)(ヲソろ)しけれ。
 又三塔の大衆(だいしゆ)、大講堂の庭に会向して僉議(せんぎ)しけるは、「伝教(・)慈覚(・)智証(・)大師の御事は申すに及ばず、義真和尚(くわしやう)より以来(このかた)五十五代の間、未(いま)だ天台座主流罪(るざい)の例を聞かず。末代といへども、争(いかで)か我が山に疵をば著(つ)くべき。心憂(こころう)き事かな」と嘔(をめ)き号(さけ)ぶと聞こえけり。
七 山の大衆(だいしゆ)僉義して、明雲(めいうん)僧正を奪ひ返す事
 然(さ)る程に、廿三日に及びて、前の座主已(すで)に一切経の別所を出でて、配所の旅に趣き給ひけり。且(しばら)く国分寺の堂に立ち入りて躊躇(タチやすら)ひたまふ程に、満山の大衆(だいしゆ)残り留まる者も無(な)く、雲霞(うんか)の如(ごと)くに東坂本より粟津(あはづ)に至(いた)るまで次連(つづき)て、座主を止(とど)め奉(たてまつ)らんと擬する間、〓(きび)しげなりつる追立ての官人共、何路(いづち)にも一人も見えず。
 大衆(だいしゆ)之(これ)を止(とど)め奉(たてまつ)りけれども、座主は大きに恐れ思食(おぼしめ)して、仰せられけるは、「勅勘(ちよくかん)の者は日月の光にだにも当たらずとこそ申し伝へたれ。然(さ)れば則(すなは)ち、時尅(じごく)を回(めぐ)らさず追ひ下さるべき由(よし)、宣下せらるる上は、暫(しば)しも逗留すべからず。然(さ)れども、只今(ただいま)叡嶽(えいがく)の影重山(ちようざん)の雲に隠れぬる心細さに、人知れず涙溢(こぼ)れて行く前(さき)も見えず。此(こ)の堂に暫(しば)し立彳(たたず)む計(ばか)りなり。衆徒早々(ハヤハヤ)皈(かへ)り登るべし」とて、端(はし)近く立ち出でて言ひけるは、「我、三台槐門(くわいもん)の家を出でて四明(しめい)幽渓(いうけい)の窓(まど)に入りしより以来(このかた)、広く円宗(ゑんじゆう)の教法(けうぼふ)を学びて、只(ただ)我が山の興隆をのみ思ひ、国家を祈り奉(たてまつ)る事疎(おろそ)かならず。又門徒を羽覆(はぐく)む志(こころざし)是(こ)れ深し。身に取りて街(あやま)つこと無(な)し。両所三聖も定めて照覧を垂れたまふらん。無実(むじつ)の讒奏(ざんそう)に依(よ)つて遠流の重科を蒙(かうぶ)る。此れ先世(せんぜ)の宿業(しゆくごふ)にこそと欲(おも)へば、世をも人をも神をも仏をも、更(さら)に恨む所無(な)し。各(おのおの)慈悲の門を出でて嶮難(けんなん)の道を凌(シノ)ぎ、此れ至(マデ)訪(とぶら)ひ来たり給ふ衆徒の御芳志こそ申し磬(ツク)し難けれ」とて、涙に咽(むせ)び給ふ。香染(かうぞ)めの御袂も〓(しぼ)る計(ばか)りなり。見奉(たてまつ)る大衆(だいしゆ)も皆声も惜しまず叫ぶこと唱立(おびたた)し。
 爰(ここ)に快俊(くわいしゆん)竪者(りふしや)と申す悪僧、三枚冑に左右(さう)の〓(こて)指(さ)し、萌葱糸威(もえぎいとをどし)の腹巻の袖付きたるを著(き)て、大長刀(おほなぎなた)脇に挟(はさ)み、大衆(だいしゆ)の中に進み出でたり。彼(か)の竪者(りふしや)は、悪僧一道に秀でたるのみに非(あら)ず、倶舎(くしや)・成実(じやうじつ)の外、天台・真言に至(いた)るまで深く奥義(あうぎ)を窮(きは)め、詩謌管絃にも又達者(たつしや)為(た)り。然(さ)れば此(こ)の快俊(くわいしゆん)進み出でて言ひけるは、「倩(つらつら)事の情(こころ)を思ふに、当山創草より以来(このかた)、数百歳(すひやくさい)の星霜(せいざう)を送り、貫主(くわんじゆ)代々相続して、彼(か)の一の箱の中に其の名を注し置かる。敢(あへ)て人智の及ぶ所に非(あら)ず。偏(ひとへ)に山王大師の御(おん)計(ぱから)ひなり。忝(かたじけな)くも四明(しめい)の流れを汲み、三密の奥義(あうぎ)に達する程の人の、実否(じつぷ)を糺(ただ)さず、立所(たちどころ)に重科に行はれ給ふ事、末世の習ひとは云ひながら心憂(こころう)き次第に非(あら)ずや。且(かつ)うは朝家(てうか)の御師範為(た)り、且うは諸僧の長老為(た)り。誰人か歎かざらん、何(いか)なる類(たぐ)ひか訪(とぶら)はざらん。神明哀れみを垂れ、三宝(さんぽう)争(いかで)か照覧せざらんや。若(も)し今度(こんど)流罪(るざい)に沈み給はば、以後(いご)又悪しかるべし。詮ずる所、早(はや)く皈山有るべきなり」と言ひければ、衆徒皆涙を流し、異口同音に「尤(もつと)も」と皆同じけり。
 然(さ)れども座主、「今生(こんじやう)の再会、今日(けふ)永く隔つといへども、菩提(ぼだい)の芳契、必ず実報寂光(じちほうじやくくわう)の暁(あかつき)を期(ご)すべし。頓々(はやはや)皈(かへ)り登り給へ」と曰(のたま)ひけり。
 大衆(だいしゆ)既(すで)に急ぎ御輿(みこし)を寄せ、乗せ奉(たてまつ)らんと欲(し)ければ、「昔こそ三千人の貫主(くわんじゆ)為(タ)りしが、今は此(カカル)様と作(な)りたれば、争(いかで)か止事無(やんごとな)き修学者、智恵深き大徳(だいとこ)達には挑(かか)げ捧げられて、我が山には還(かへ)り登るべき。藁履(ワラグツ)なんど云ふ者履きて、同じ形勢(ありさま)にてこそ行かめ」と曰(のたま)ひければ、西塔の西谷に戒浄坊(かいじやうばう)の阿闍梨(あじやり)祐慶(いうけい)とて、三塔に聞えたる悪僧有りけり。黒革威(くろかはをどし)の鎧に、大荒目に鉄(くろがね)交(ま)じりたるを、草摺長(くさずりなが)に著(き)成(な)し、三枚〓(かぶと)を居頸(ゐくび)に著(き)成(な)し、大〓刀(おほなぎなた)杖に突き、座主の御前に進み向ひ、冑を解(ぬ)いで高紐(たかひも)に懸け、〓咤(ハツタ)と睚(にら)み奉(たてまつ)りて申しけるは、「袷(あ)れ程の云ひ甲斐(かひ)無(な)き御心弱さで渡らせ給へばこそ、一山に疵をも付け、心憂(こころう)き目にも蓬はせ給はめ。貫主(くわんじゆ)は三千の衆徒に代つて流罪(るざい)の宣旨を蒙(かうぶ)り給ふに、又三千の衆徒は貫主(くわんじゆ)に代(かは)り奉(たてまつ)つて命を失ひ候ふとも、何の愁ひか有るべき。疾々(とうとう)御輿(みこし)に召され候へ」と言ひければ、座主、祐慶(いうけい)の気色(けしき)に懼(おそ)れて、〓(あは)て騒ぎて怱(いそ)ぎ御輿(みこし)に乗り給ひぬ。大衆(だいしゆ)座主を取り得(え)奉(たてまつ)るこそ猗(あや)しけれ。
 下種(ゲス)法師(ほふし)原には挑(か)かせず、祐慶(いうけい)先の輿を挑(かか)く。後陣は東塔の法師(ほふし)、妙光坊の阿闍梨(あじやり)仙聖、挑(か)き奉(たてまつ)る。粟津(あはづ)より鳥の飛ぶが如(ごと)くに登山するに、祐慶(いうけい)・仙聖は一度も肩を替へず掻きたりけり。〓刀(なぎなた)の柄も輿の轅(ながえ)も摧(くだ)く計(ばか)りにぞ見えたりける。差(さ)しも嶮(けは)しき東坂を平地を歩むが如(ごと)し。
 大講堂の庭に掻き居(す)ゑ奉(たてまつ)り、面々に僉議(せんぎ)せしむ。「昔こそ一山の貫主(くわんじゆ)と仰ぎ奉(たてまつ)りつれども、今は勅勘(ちよくかん)の宣旨を蒙(かうぶ)り、遠流せられ給ふ人を取り留め奉(たてまつ)ること、何(いか)が有るべからん」と言ふ輩も有りければ、祐慶(いうけい)少しも刊(へ)らず、扇を開き操(つか)つて言(まう)しけるは、「我が山は是(こ)れ日本無雙(ぶさう)の霊地、鎮護国家の道場なり。山王の御威光盛んにして、仏法王法牛角(ごかく)なり。然(さ)れば則(すなは)ち、衆徒の欝(いきどほ)り猶(なほ)余山に勝(すぐ)れ、賤しき法師(ほふし)原までも世以つて此れを軽しめず。何(いか)に況(いはん)や、我が公(きみ)は智恵高貴にして三千人の貫主(くわんじゆ)為(た)り。徳行無雙(ぶさう)にして一山の和尚(くわしやう)なり。罪(つみ)無(な)くして以つて辜(つみ)を蒙(かうぶ)りたまふこと、山上・洛中の乱れ、興福(こうぶく)・園城(をんじやう)の嘲(あざけ)りか。悲しきかな、止観の窓(まど)の前(まへ)には蛍雪の勤め廃れ、三蜜の壇上には護摩の烟(けぶり)絶えなんこと、生々世々(しやうじやうせせ)までも心憂(こころう)かるべし。詮ずる所、祐慶(いうけい)、今度(こんど)三塔の張本に処せられて、骸(かばね)を山野(さんや)に曝(さら)し、頭を獄門の木に懸けらるるとも、少しも痛み存ぜず。今生(こんじやう)の面目(めんぼく)、冥途の思ひ出で、何事か此れに如(し)かん」とて、雙眼より涙を流しければ、満山の衆〔徒〕之(これ)を聞き、各(おのおの)袖を絞(しぼ)りつつ、「尤(もつと)も尤(もつと)も」と同じけり。尓(こ)れより祐慶(いうけい)をば巍坊(いかめばう)と名づけたり。
 然(さ)て座主をば東塔の南谷妙光坊に入れ奉(たてまつ)る。
[三重]時の横災(わうざい)をば権化(ごんげ)の人も遁(のが)れざりけるにや。大唐の一行(いちぎやう)阿闍梨(あじやり)は玄宗皇帝の御時、楊貴妃に名を立ちて、火羅国(くわらこく)へ流されけり。其の故は、一行(いちぎやう)、智行無雙(ぶさう)の上、絵師為(た)りける間、帝覚食(おぼしめ)す子細有るに依(よ)つて、楊貴妃の形を絵に書かしむ。筆を取り弛(はづ)して之(これ)を落とす。黶(ははくろ)の如(ごと)くに見えけり。皇帝恠(あや)しみ覚食(おぼしめ)されて大きに逆鱗(げきりん)有り。「一行(いちぎやう)、楊貴妃に懐(ナジミ)近づくより外には、争(いかで)か膚(はだへ)なる黶(ははくろ)をば識(し)るべき」とて、無実(むじつ)の罪科に依(よ)つて、火羅国(くわらこく)へ流されけり。彼(か)の火羅国(くわらこく)と言ふは、月日(つきひ)の光をも見ずして行く所なり。冥々(みやうみやう)として遥かなり。然(さ)れども神は非法を用ゐたまはず、天道(てんたう)無実(むじつ)の罪を哀れみたまふ故(ゆゑ)に、九曜(くえう)の形を現じて之(これ)を照らし護(まも)りたまふ間、敢(あへ)て以つて闇(くら)きこと無(な)し。其の時一行(いちぎやう)、右の指の端(はし)を喰ひ切つて血を綺(あや)し、左の袖に書き写し給ふ。九曜(くえう)の曼陀羅(まんだら)とて、今に至(いた)るまで世に流布する所是(こ)れなり。
八 山の大衆(だいしゆ)、明雲(めいうん)を留め奉(たてまつ)るに依(よ)つて、法皇逆鱗(げきりん)有り、之(これ)に依(よ)つて大衆(だいしゆ)重ねて状を相国の方に遣(つか)はすこと
 然(しか)るに、大衆(だいしゆ)、前の座主を取り留め奉(たてまつ)る由(よし)、法皇聞食(きこしめ)されて、太太(いとど)安からず思食(おぼしめ)されけり。茲(こ)れに因(よ)つて、大衆(だいしゆ)、福原の入道(にふだう)大相国の許(もと)に重ねて書状を遣(つか)はす。彼(か)の状に云はく、
   延暦寺の衆徒等重ねて言(まう)す
  重ねて奏達せられむことを請ふ。衆徒等暫(しばら)く前の座主明雲(めいうん)を惜しみ留めしこと、更(さら)に謀叛の儀に非(あら)ず、偏(ひとへ)に鎮護国家、興隆仏法の為(ため)に、配流の事を申し止め、菩薩戒の血脈(けちみやく)を継ぎ、将(まさ)に山王大師の素懐(そくわい)に叶はむとす。愁嘆悲哀、子細の事。
 右、当山は伝教大師、鎮護弘法(ぐほふ)の大願を発(おこ)し、伽藍(がらん)を台嶺(たいれい)の上に建て、桓武皇帝、褒寵(ほうちよう)随喜(ずいき)の叡情に依(よ)つて、芳契を草創の中に結びたまふ。延暦十三年に至(いた)りて都を平安宮に遷(うつ)せしより以降(このかた)、年序四百回に及ぶに、城宮更(さら)に動くこと無(な)し。聖主既(すで)に卅一代、扶持(ふち)全(まつた)く佗(た)に非ざる所以(ゆゑん)なり。
 嵯峨(さがの)天皇、先帝の遺迹(ゆいせき)を追ひ、円頓(ゑんどん)の教法(けうぼふ)を仰ぎ、菩薩の大戒を授くべき旨、詔勅を当寺に下し賜る。承和(じようわ)皇帝、惣持(そうぢ)の道場を建立し、鎮護の灌頂を修(しゆ)せしむ。自国に肇(はじめ)て、若(も)しは佗土(たど)に得(え)る所の法文等は、必ず大師の恩海を添へ、独立自慢(じマン)の計(はかりこと)を切断し、惣じて以つては山王護国の人功を荘厳(しやうごん)す。六条の式は平等を究存し、重科に潤ふこと莫(な)しと云々。
 職(しき)は鎮護灌頂の阿闍梨(あじやり)なり。菩薩大戒の和尚(くわしやう)なり。若(も)し配流の科(とが)に処し、忽(たちま)ちに還俗(げんぞく)の名を得(え)ば、明雲(めいうん)座主に補して以後(いご)十一年の間、得度(とくど)受戒の輩、尸羅(しら)の禀承(りんしよう)を失ひ、入壇(にふだん)灌頂の倫(ともがら)、悉地(しつち)の血脈(けちみやく)を亡ぼさむ。設(たと)ひ明雲(めいうん)過(とが)有る者にて死罪(しざい)の重きに行はるるとも、還俗配流の号に至(いた)りては、抂(ま)げて一山の為(ため)に免除を蒙(かうぶ)らむと欲す。仍(よつ)て暫(しばら)く帝都の外に之(これ)を留在するは、衆徒の懇望を至(いた)さむことを奏達せむが為なり。是(こ)れ則(すなは)ち、法を重くし生を軽んずる起請なり。何ぞ謀叛ならむや。何ぞ猛悪ならむや。
 而(しか)るに違勅の儀に准(なずら)へ、官兵の輩を催(もよほ)し仰せ、山上・坂本の堂塔・神社悉(ことごと)く焼失せらるべき由(よし)、風聞(ふうぶん)有り。愁歎(しうたん)の至(いた)り何事か之(これ)に如(し)かむ。但(ただ)し、衆徒の請ふ所は拠(よりどころ)非(あら)ずして回禄の誡(いまし)めを免れずといへども、入壇(にふだん)の惣持院に至(いた)りては、尚(なほ)朝家(てうか)の奉為(おんため)に之(これ)を駐(とど)め残さむと欲(おも)ふ。若(も)し明雲(めいうん)愆(アヤマチ)有りて全(まつた)く左遷の罪遁(のが)るべからずは、大衆(だいしゆ)代(かは)りて其の科(とが)を蒙(かうぶ)り、伝戒(でんかい)和上(わじやう)の還俗の号を削らむと欲(おも)ふ。彼(か)の会昌(ゑしやう)天子の仏法を滅(ほろぼ)すに、勅命を持(も)ち下して、慈覚大師の皈朝を優免す。矧(いはん)や、太上法皇の円宗(ゑんじゆう)に皈(かへ)したまふをや。盍(なん)ぞ罪過を宥(なだ)め、改めて座主の配流を止(とど)めざる。
 抑(そもそも)明雲(めいうん)の罪過、衆徒未(いま)だ之(これ)を知らず。竊(ヒソか)に下す所の法家の問状を視(ミ)るに、聊(いささ)か子細を披陳せむと欲す。
 先づ快秀(くわいしう)を追却(ついきやく)せしことは、住山修学者の首を斬り、破戒無慚(むざん)の器と成(な)し、偏(ひとへ)に怨心(をんしん)を含み、八十人の衆徒を注して使庁に付け誡(いまし)めしが故(ゆゑ)に、伝戒(でんかい)の和尚(くわしやう)に堪(た)へず、兼て大師の起請に背(そむ)く。仍(よつ)て三千の衆徒同心に座主職を停廢(ちやうはい)せり。嘉応元年の訴訟は、更(さら)に座主の結構に非(あら)ず。是(こ)れ平野の庄民等は年貢の御油を備へず、将(まさ)に諸堂の常燈絶えなむとす。然(さ)れば三塔の大衆(だいしゆ)、一旦天聴を驚かしたてまつりしなり。設(たと)ひ明雲(めいうん)の所為(しよゐ)為(た)りといへども、天間の大赦已前の所犯なり。已発覚・未発覚・已結正・末結正、皆悉(ことごと)く赦(ゆる)し除かれ畢(をは)んぬ。二事に付き何ぞ今日(けふ)の罪と成さむや。白山の訴訟に至(いた)りては、全(まつた)く座主の結構に非(あら)ず。参内の間の狼藉、又衆徒の本意に非(あら)ず。自然(しぜん)の不詳、臨時の横災(わうざい)なり。且(かつ)うは敬神の叡慮に依り、且(かつ)うは皈法の御願に任せて、衆徒の懇請に随ひ、配流の一事を止(とど)められむと欲す。
 凡(およ)そ我が山の奉公(ほうこう)忠節は昔に超えたり。日吉(ヒヨシ)の社壇(しやだん)に臨幸する間は、旬に渉(わた)り日を継ぎ、件(くだん)の陪侍(へイじ)を北面(ほくめん)の臣と号し、天台の戒壇(かいだん)に登り幸(いでま)す尅(みぎり)は、深きに付け浅きに寄せて、彼(か)の祝言を南山の響きと号す。然(さ)れば親(まのあたり)に叡感の綸旨を蒙(かうぶ)り、弥(いよいよ)勤労の微功を励まさむ。何ぞ違勅の心を発(おこ)し、謀叛の企てを成さむや。只(ただ)に伝戒(でんかい)血脈(けちみやく)の断絶を悲しみ、兼て顕密高徳の滅亡を痛むのみなり。倩(つらつら)事の情(こころ)を思ふに、禅定(ぜんぢやう)仙院御遁世(とんせい)の時は園城寺の前の大僧正を以つて戒師と為(な)し、御登壇の日には前の延暦寺の座主を和尚(くわしやう)と為せり。忝(かたじけな)くも三井の流れを酌み、四明(しめい)の風を扇(あふ)ぎたまふ。必ず智証の遺戒(ゆいかい)に任せて、慈覚の末葉(ばつえふ)を捨つることなかれ。且(かつ)うは一朝の国師配流の例を無(な)くし、且(かつ)うは三千の衆徒抂請(わうせい)の恩を免がれんこと。早(はや)く大衆(だいしゆ)の懇望に任せて流罪(るざい)の誡(いまし)めを改められば、我が山の仏法重ねて繁昌し、日吉(ひよし)の霊社再び光を添へむ。此(こ)の趣きを以つて奏達せらるべき状、件(くだん)の如(ごと)し。
  安元三年五月廿九日
左(か)書きたり。
法皇弥(いよいよ)逆鱗(げきりん)を深くしたまふ上、西光(さいくわう)法師(ほふし)内々(ないない)言(まう)しけるは、「山門の衆徒、昔より濫(ミダリ)に訴訟を致すといへども、此れ程の狼藉未(いま)だ承(うけたまは)り及ばず。若(も)し緩怠(くわんたい)の御沙汰有らんにおいては、世に有るまじく候ふ。能々(よくよく)御誡(いまし)め有るべき」由(よし)申しけり。我が身の只今(ただいま)に滅びんずることをも顧みず、山王の神慮にも憚らず、讒奏(ざんそう)を企て、太太(いとど)宸(神)襟を悩まし奉(たてまつ)る。「讒臣(ざんしん)は国を乱り、妬婦(とふ)は家を破る。叢蘭(そうらん)茂からむと欲すれども、秋風之(これ)を放る。王者明らかならむと欲すれども、讒臣(ざんしん)之(これ)を蔽(カク)す」とも云(い)へり。此(こ)の言実(まこと)なるかな。
 座主は妙光房に〔おはしましけるが〕、大衆(だいしゆ)弐心(ふたごころ)有りと聞食(きこしめ)されければ、「此(コ)は何と成るべき」と心細く覚(おぼ)されけり。
九 行綱(ゆきつな)仲言の事
 有右(かかる)程に、多田(ただ)の蔵人(くらんど)行綱(ゆきつな)、契り深く恃(たの)まれながら、此(こ)の事由(よし)無(な)しと思ひ返して、弓袋(ゆぶくろ)の料に給はつたりし白布卅端(たん)、下人(げにん)に持たせ、廿九日の夜、太政(だいじやう)入道(にふだう)の許(もと)に行きて、「言(まう)すべき大事の旨候ふ。人伝に申すべき事に非(あら)ず。見参(げんざん)に入つて申すべし」と云ひければ、入道(にふだう)中門(ちゆうもん)の廊に出で向はれけり。行綱(ゆきつな)、件(くだん)の布を取り出だして見参(げんざん)に入れ、近く居寄つて私語(ささや)きけるは、「平家の御一門を討たんが為(ため)に、此(こ)の頃日(ひごろ)成親卿(なりちかのきやう)を始めと為(し)て、俊寛(しゆんくわん)法師(ほふし)・平(へい)判官(はんぐわん)康頼(やすより)并びに北面(ほくめん)の下臈(げらふ)共(ども)与力して、謀叛を起こすべき由(よし)、其の支度(したく)有り」と語り申しければ、入道(にふだう)此れを聞き、大きに驚きて言ひける様は、「此(こ)の身、君の奉為(おんため)に命を捨てて朝敵を討ちしこと二箇度なり。保元の為義(ためよし)・平治の義朝是(こ)れなり。直饒(たとひ)讒言有りとも、君争(いかで)か入道(にふだう)を棄てたまはんや。今思ひ合はするに、先日山門の大衆(だいしゆ)を以つて入道(にふだう)を失せらるべき由(よし)聞えしは、実(まこと)なりけり」と、
 弥(いよいよ)安からず思はれけり。行綱(ゆきつな)、斯(かく)の如(ごと)く云ひ入れて皈(かへ)りにけり。
 入道(にふだう)大きに腹立(はらだ)ち、目を怒らし、奥歯を噛んで、筑後守(ちくごのかみ)貞能(さだよし)を召して、「謀叛の輩有りと聞きたるぞ。怱(いそ)ぎ一門の人人に触れ回り、軍兵(ぐんびやう)等(ども)を召し集むべし」と言ひければ、内大臣(ないだいじん)重盛(しげもり)より始めて、一門の所従(しよじゆう)等に至(いた)るまで、残る所無(な)く此れを触れ回る。
右大将(うだいしやう)宗盛(むねもり)・三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)知盛(とももり)・左馬頭(さまのかみ)重衡(しげひら)以下(いげ)の人々、甲冑(かつちう)を服(き)、弓箭(きゆうせん)を帯(たい)して馳せ来たる。其の外の軍兵(ぐんびやう)等雲霞(うんか)の如(ごと)し。一時の程に五千騎計(ばか)りぞ集まりける。
十 相国謀叛を奏する事 井びに新大納言召し取らるる事
 同じき六月一日の夜未明に、清盛入道(にふだう)、検非違使(けんびゐし)安倍(あべの)資成(すけなり)を召し寄せて言ひけるは、「汝、院の御所に参り向つて、信業(のぶなり)に就いて奏聞すべし。御近習(ごきんじゆ)の人々、恣(ほしいまま)に朝恩に誇り、世を乱るべき支度(したく)の由(よし)、其の聞え候ふ。御尋(おんたづ)ね有らんに、其の隠れ有るべからず候ふ」と。資成(すけなり)之(これ)を承(うけたまは)り、怱(いそ)ぎ院の御所に参り向ひ、信業(のぶなり)をして此(こ)の由(よし)を奏聞せしむ。信業(のぶなり)之(これ)を聞き了(をは)りて、色を変じ魂(きも)を失ひ、「此(こ)は浅猿(あさまし)き次第かな。何と成るべき世の中ぞや」と思ひながら、〓(をののく)々(をののく)御前に参り、奏聞せしむ。
 法皇聞食(きこしめ)して仰せ有りけるは、「朕(ちん)敢(あへ)て意得(こころえ)ず。是(こ)は然(さ)れば何と云ふ事ぞ」左(と)計(ばか)り仰せ下されけり。資成(すけなり)未(いま)だ返らざる前(さき)に、入道(にふだう)兼て此(こ)の事を推し量り、「何様(いかさま)、分明(ふんみやう)の御返事は有るべからず。院も定めて知食(しろしめ)されたるらん」と思ふより、太太(いとど)安からず荒立ちけり。
 軈(やが)て新大納言成親(なりちか)の許(もと)に、「聊(いささ)か申し合すべき事の候ふ。怱(いそ)ぎ立ち寄り給ふべし」と使者(ししや)を遣(つか)はされける間、成親卿(なりちかのきやう)此れを聞き、推し量りて云はれけるは、「此(こ)の使者(ししや)は、兼て山門の事を存知して、御所に奏聞せられんとや。此(こ)の事は、法皇御欝(いきどほ)り深く覚食(おぼしめ)されければ」と、我が身の上とは知らず、急ぎ前駈(せんぐ)一人、侍三人召し具して、入道(にふだう)の宿所(しゆくしよ)西八条へ行き向はれけり。然(さ)る程に、西八条に近づき、四方(しはう)を見回せば、五町計(ばか)りの間に軍兵(ぐんびやう)多く充満して雲霞(うんか)の如(ごと)し。此れを見て成親卿(なりちかのきやう)、「我等が支度(したく)漏(も)れ聞えぬるにや」と思ふより、胸打(う)ち騒ぎ、魂も失せぬ。門の内に立ち入り、遥かに庭を見ければ、兵仗(ひやうぢやう)を帯(たい)したる者共、所も無(な)く見えけり。中門(ちゆうもん)の左右(さう)の脇より鬼神(おにかみ)の如くなる兵共(つはものども)五六人計(ばか)り立ち出でて、成親卿(なりちかのきやう)の手を引き張り、中門(ちゆうもん)の内へ取り入れぬ。成親卿(なりちかのきやう)夢現(うつつ)とも弁(わきま)へず、正念を失ひ、東西も知らず。兵杖(ひやうぢやう)を帯(たい)したる武士十余人、前後左右(さう)に打(う)ち囲み、成親卿(なりちかのきやう)を板敷の上に引き上げ、一間なる所に楹(おしこ)めて、外より〓[禾+農](きび)しく之(これ)を閇(と)づ。然(さ)る間、成親卿(なりちかのきやう)の伴(トモ)の者、諸大夫(しよだいぶ)・侍共に至(いた)るまで立て隔てられ、前駈(せんぐ)・雑色(ざふしき)・牛飼等、散々に皆逃げ失せぬ。大納言は此(こ)の程の熱さ堪(た)へ難きに、一間なる所に楹(おしこ)められ、汗も涙も諍(あらそ)ひてぞ流れける。
 然(さ)る間、「袷(あはれ)、此(こ)の事夢成らば怱(いそ)ぎ覚(さ)めよ」と撰を成(な)して待たれけり。「抑(そもそも)、我等が日来(ひごろ)の支度(したく)を何(いか)なる者の泄(もら)しつらん。北面(ほくめん)の者共(ども)の中にや有るらん」と思ひながら、「袷(あはれ)、重盛(しげもり)卿の御坐(おはしま)せかし。然(さ)りとも思ひ離ちたまはじ」と思はれけれども、語り伝ふべき人も〔なければ〕、涙と云ひ汗と云ひ、袖も袂も朽(く)ちぬべし。
十一 西光(さいくわう)法師(ほふし)、召し捕らるる事
 入道(にふだう)の欝(いきどほ)り深くして、西光(さいくわう)法師(ほふし)を召し捕り、子細を尋ね問へども、散々に悪口(あくこう)を吐き、白状せず。「袷奴原(あやつばら)程の者を、院の近習に召し仕はれ、過分の官職を給ふ間、朝恩に誇る余りに、此(か)かる謀叛にも与(くみ)したり」と云はれければ、西光(さいくわう)少しも憚る所無く申しけるは、「和(わ)入道(にふだう)こそ過分の者とは見ゆれ。先祖より父忠盛に至(いた)るまで、敢(あへ)て昇殿をも赦(ゆる)されざりしに、太政(だいじやう)大臣(だいじん)に成り上がるは希代(きたい)未曾有の次第なり。然(しか)るに侍程の者の、受領・検非違使(けんびゐし)に成るは、努々(ゆめゆめ)過分に非(あら)ず」と、舌を動かし口を開き、左様の事を云はれ放言しければ、入道(にふだう)弥(いよいよ)腹立(はらだ)ち、勁(つよ)く糺問(きうもん)せしめけり。言(ことば)にも似ず、在(あ)りの任(まま)に白状す。白状は紙三枚に書き付けけり。
 入道(にふだう)自ら尺(と)りて懐中(くわいちゆう)し、成親卿(なりちかのきやう)の居たまふ所に行き向はれけり。足の音の高く来たるを「誰人にか」と恠(あや)しみて、成親卿(なりちかのきやう)聞き居たまふ程に、荒(あら)らかに障子を開けたる人を見れば清盛入道(にふだう)なり。入道(にふだう)立ち寄りながら、目を瞋(いか)らし、歯を齧(ハクワ)へ、顔を赤らめ、声を荒(あら)げて云はれけるは、「已(すで)に平治の合戦の時、信頼・義朝に語らはれて朝敵と為(な)り、誅(ちゆう)せらるべかりしに、小松の内府(だいふ)が申し状に因(よ)つて頸を継ぎし仁(じん)に非(あら)ずや。早晩(いつしか)の程に芳恩(はうおん)を忘れ、謀叛を企て、此(こ)の一門を亡さんと擬せらるるこそ大気(おほけ)無けれ。昔も今も心有るを以つて仁(じん)と為(な)し、恩を知らざるを非人と名づく。汝、内府(だいふ)が芳恩(はうおん)を蒙(かうぶ)りながら、還(かへ)つて阿儻(あた)を作(な)す。是(こ)れ即(すなは)ち人間の輩に非(あら)ず。偏(ひとへ)に犬・野干(やかん)の如(ごと)し」と、悪口(あくこう)を吐かれける間、成親卿(なりちかのきやう)の心中消え入るが如(ごと)し。耐へ難けれども座席を居直り、袖を挑(か)き合はせて、「此(こ)の事を聞食(きこしめ)さるる間、御欝(いきどほ)り候ふ条、尤(もつと)も御理(ことわり)なり。但(ただ)し成親(なりちか)が身においては、此(こ)の事、跡形(あとかた)も無(な)き無実(むじつ)に候ふ。此れ即(すなは)ち、成親(なりちか)を失はんと欲(す)る人の讒言と覚え候ふ」と云はれたりければ、入道(にふだう)〓(あざわら)ひながら、懐(ふところ)より西光(さいくわう)が白状を引き出し、「此(こ)は何如(いか)に」と、大納言の頬に抛げ掛けたり。成親(なりちか)、渋々(しぶしぶ)之(これ)を披見(ひけん)するに、頃日(ひごろ)我が身を大将軍と為(し)て支度(したく)せしめしこと、一事も落とさず白状に在(あ)り。成親(なりちか)、白状を押し巻き、前(まへ)に指(さ)し置き、打(う)ち俛(うつぶ)いて居たまひけり。
 入道(にふだう)弥(いよいよ)腹立(はらだ)ち、盛国(もりくに)・貞能(さだよし)・経遠(つねとほ)・保景(やすかげ)等を召しけり。鬼の王の如き侍共、四方(しはう)より出で来たる。入道(にふだう)云ひけるは、「其の男、縁の上より引き落とし、〓(さけ)び泣かせよ」と曰(のたま)へば、侍共此れを承(うけたまは)り、成親卿(なりちかのきやう)の手足を取つて坪の内に引き下す。盛国(もりくに)意得(こころえ)たる男にて、手を以つて成親卿(なりちかのきやう)の頸に打(う)ち係け、膝(ひざ)を胸に押し当て、小音(こごゑ)に秘語(ささや)きけるは、「入道(にふだう)殿の聞き給ふ様に、叫び泣きたまへ」と申しければ、成親卿(なりちかのきやう)意得(こころえ)て、〓々(いんいん)と高声(かうしやう)に二度(にど)謳(をめ)きけるを、入道(にふだう)聞きて心少し行きてぞ見えられける。
十二 重盛(しげもり)卿、父相国を諌(いさ)めらるる事
 長(やや)久しくして、小松の内府(だいふ)重盛(しげもり)、烏帽子・襴にて、子息(しそく)の少将、車の後(しり)に乗せて、衛府四五人・随身二三人計(ばか)り相(あ)ひ具して、皆布衣(ほうい)に、刀仗(たうぢやう)を帯(たい)したる者も無(な)く、謐々(のどのど)と西八条殿に参られけり。入道(にふだう)殿を始めと為(し)て、上下(じやうげ)の諸人(しよにん)、此(こ)の有様を見奉(たてまつ)りて、「此れ程の大事の出で来たるに、如何(いか)に此(か)く謐々(のどのど)と、物の具したる者を召し具せられずして、御遅参候ふぞ」と申しければ、内大臣(ないだいじん)此れを聞きたまひて、「何事かは有るベき」と、事も無(な)き様に言はれければ、面々に諌(いさ)め申しける侍共、白気(しらけ)還(かへ)つて音もせず。
 重盛(しげもり)四方(しはう)を睚(にら)み回して、並(な)み居たる武士共を見られければ、宗盛(むねもり)卿は、纐纈(かうけち)の鎧直垂(よろひびたたれ)に烏帽子を押し立て、小具足(こぐそく)計(ばか)りに箭(や)負ひて、身近き良等(らうどう)十余人前後に候ひて、渡殿に居られけり。知盛(とももり)卿は、赤地の錦の鎧直垂(ひたたれ)(よろひびたたれ)に、郎等共七八人計(ばか)り物の具して候ひけり。加様(かやう)に物騒がしき躰にて、贅(そそろき)沛艾(はや)りたり。内府(だいふ)、痛はしさに目も当てられず思はれける上、父入道(にふだう)殿、麁絹(そけん)の薄墨(うすずみ)染の衣の上に萌荵糸(もえぎいと)の腹巻著(き)て、故(ことさら)赤く〓(スカ)したる大口(おほくち)に、聖〓(ひじりづか)の刀を差(さ)し、秘蔵(ひさう)の手鉾を抵(つ)きて、何事耶覧(やらん)、高声(かうしやう)に下知(げぢ)して立たれたり。
 重盛(しげもり)此(こ)の有様を見奉(たてまつ)り、世にも浅猿(あさまし)く思はれければ、詞少なに、成親卿(なりちかのきやう)の居たまふ所に行き向ひたまふ。
 成親(なりちか)、内府(だいふ)を見付け奉(たてまつ)りて、業力(ごふりき)限り有りて阿鼻大城(あびだいじやう)に堕在(だざい)して、浮かぶ世無(な)き罪業(ざいごふ)深重(じんぢゆう)の罪人の、朝夕(てうじやく)苦悩隙(ひま)無(な)きが、六道能化(ろくだうのうけ)・抜苦与楽(ばつくよらく)の主、地蔵薩〓(ぢざうさつた)を見付け奉(たてまつ)りたらんも、此(こ)の猗(うれ)しさには過ぎじと、手を合せて歓(よろこ)びながら、曰(のたま)ひけるは、「此(こ)の事全(まつた)く成親(なりちか)知り存ぜず候ふ。且(かつ)うは知食(しろしめ)されたる如(ごと)く、此(こ)の身は武芸の道を知らねば、合戦を好むべきに非(あら)ず候ふ。又成親(なりちか)、本(もと)より入道(にふだう)殿を始め奉(たてまつ)り、君達(きんだち)御一門に至(いた)るまで、努々(ゆめゆめ)愚かに思ひ奉(たてまつ)らず」と云ひながら、波羅々々(はらはら)と泣きたまふ。
 之(これ)を見て、内大臣(ないだいじん)、石木(いはき)非(なら)ねば、世にも無慚(むざん)に思はれ、袖を顔に押し当てて、互ひに物も言(のたま)はず。良(やや)久しくして、内大臣(ないだいじん)「此(こ)の事、只(ただ)人の讒言にてぞ候はんずらん。御命計(ばか)りにおいては何(いか)にも申し助け奉(たてまつ)らばやと存じ候へども、其れも何(いか)が有るべく候はんずらん」と言ひければ、大納言弥(いよいよ)心細く思はれ、又泣(な)く泣(な)く申されけるは、「平治の逆乱の時、成親(なりちか)失はるべく候ひしを、併(しか)しながら御恩に依(よ)つて命を助けられ奉(たてまつ)り、位正二位に登り、官大納言に任じ、年既(すで)に四十余に及びぬ。生々世々(しやうじやうせせ)に争(いかで)か御恩を忘るべき。然(しか)るべくは今度(こんど)も命を助けられ奉(たてまつ)り、詮(せん)無(な)き髪を剃り除(のぞ)き、高野(かうや)・粉川(こかは)に籠(こも)り居て、只(ただ)一筋に後世(ごせ)の励みを為(な)すべく候ふ」と泣(なくな)く云ひけり。内大臣(ないだいじん)言ひけるは、「重盛(しげもり)右(かく)て候へば、恃(たの)もしく思食(おぼしめ)さるべく候へ。御命に代(かは)り奉(たてまつ)るべし」とて立たれたり。
 大納言は共(とも)の者等(ものども)一人も無ければ、誰にか物を云ひ合すべきと、悶(モダヘ)焦(コガレ)たまふも哀れなり。我が身の是(か)く成るに就(つ)けても、「少将も召しや取られぬらん」と〓(おぼつかな)く、「同じくは只(ただ)一所(いつしよ)にて、尓(と)にも此(か)くにも成らで、所々(ところどころ)に失はれん事の悲しさよ。」又曰(のたま)ひけるは、「今朝例ならず、椎(をさな)き者の門送りして中門(ちゆうもん)に立ち出で、暇申(いとままう)しを云ひて留め候ひし事、別れの限りなりけんや。北の方・女房共も御簾(みす)の際(きは)に並(な)み出でて、形勢(ありさま)を見えたりけり」と、彼と云ひ此れと云ひ思ひ連(つづ)くるに遣(や)る方も無(な)し。内大臣(ないだいじん)の在(おは)しつる程は、聊(いささ)か慰(なぐさ)む心も有りつるに、立ち還(かへ)りたまひし後は、猶(なほ)世間も物恐しく、荒(あら)き足音を聞くに就(つ)けても、我を失ひに来つるかと、度毎(たびごと)に魂(きも)を消されけり。
 重盛(しげもり)、大納言の事を申されん為(ため)に、父の御前に参りたまふ。入道(にふだう)此れを知らずして、今度(こんど)は猶(なほ)赤地の錦の直垂(ひたたれ)に、家に伝はる唐革(からかは)と云ふ鎧著(き)て、白星(しらほし)の兜〓(かぶと)に小烏(こがらす)と云ふ太刀(たち)帯(は)き、例の小長刀杖に抵(つ)き、「然有(さま)れ、安からぬ者かな。重恩を忘れ、謀叛を起こす成親(なりちか)を、由(よし)無(な)く内府(だいふ)の助け置きて、当家の怨(あた)と為(な)す。有何(ナニトマレ)、静海(じやうかい)が手に懸けて頸を切るべし」と狂はれける処に、源太夫(げんだいふ)判官(はんぐわん)季貞(すゑさだ)、入道(にふだう)殿の前(まへ)に走(は)せ参つて、「只今(ただいま)猶(なほ)小松殿の参られ候ふ」と申しければ、怱(いそ)ぎ障子の蔭に立ち寄り、皆物の具を脱ぎ捨て、長き数珠(じゆじゆ)を舁(か)き匝(めぐ)らせ、空念誦(そらねんじゆ)して居たまひけり。御前に候ふ人々も皆静まり返つてぞ侍ひける。
 内大臣(ないだいじん)、父の御前に近く参つて、衣文(えもん)を正し、〓(うるは)しく袴の側〓(か)き鋪(し)き、物気(ものけ)無(な)く申されけるは、「抑(そもそも)大納言を失はれんことは能々(よくよく)御(おん)計(ぱから)ひ有るべく候ふ。彼(か)の大納言は、先祖より朝家(てうか)に召し仕はれて年(とし)尚(ひさ)し。当時も君の御(おん)糸惜(いとほ)しみ世に超えたるを、忽(たちま)ちに首を切られん事、何(いか)が有るべく候ふやらん。只(ただ)理(り)を抂(ま)げて遠国(をんごく)に流さるべく候ふ。儻(もし)聞食(きこしめ)されし旨僻事(ひがこと)ならば、定めて御後悔有らんか。『北野の天神は時平大臣の讒言に困つて左遷せられ、西宮の左大臣は多田(ただ)の満中が讒奏(ざんそう)に就(つ)きて流罪(るざい)せられにき。是(こ)れ則(すなは)ち延喜の聖主・安和の御門の御僻事(ひがこと)なり』左(と)こそ語り伝へて候へ。上古(しやうこ)猶(なほ)斯(かく)の如(ごと)し、況(いはん)や末代においてをや。賢王又誤り有り、矧(いはん)や凡夫(ぼんぶ)においてをや。
 然(さ)れば、彼(か)の延喜の帝は賢王の名を得(え)たまふといへども、三つの罪に依(よ)つて地獄の中に堕ちたまふ。一(ひと)つには、久しく国を治め賢王の名を施さんとしたまひし名聞(みやうもん)の罪、二つには、父寛平(くわんびやう)法皇、菅大臣の罪を申し免(ゆる)さんが為(ため)に御幸有りけれども、高台より見下(お)ろし奉(たてまつ)つて、法皇に御詞を懸け奉(たてまつ)らざりし罪、三つには、無実(むしつ)を用(も)つて菅丞相(くわんしようじやう)を流されたる、是(こ)れなり。然(さ)れば則(すなは)ち、『前車の覆(くつが)へるを見ては、必ず後車の誡(いまし)めと為(な)すべし』と云(い)へり。既(すで)に召し置かれぬる上は、怱(いそ)ぎ失はれずとても何の苦しきことか有るべき。今夜頸を切られん事は、努々(ゆめゆめ)有るべからず候ふ」と申されけれども、入道(にふだう)、猶(なほ)心行かぬ気にて、「彼(か)の成親(なりちか)、此(こ)の一門を亡ぼし、世を擾(みだ)らんにおいては、入道(にふだう)一人に限らず、誰々も安穏にて有るべきか。入道(にふだう)、君の奉為(おんため)に露塵も不忠を存ぜず。度々(どど)の勲功(くんこう)佗(た)に異れり。然(しか)るに、成親(なりちか)が勧(すす)め申すに依(よ)つて、入道(にふだう)を失はるべき由(よし)の御結構こそ、遺恨(ゐこん)以つて散じ難けれ。耆(おとな)しき〓(ふるま)ひは事の宜(よろ)しからん時なるべし。此(こ)の事においては大臣の口入(こうじゆ)無益(むやく)に覚え候ふ」と世にも苦苦(にがにが)し気に言へば、内府(だいふ)重ねて申されけるは、「重盛(しげもり)、彼(か)の大納言の妹に相(あ)ひ具して候ふ。維盛冠者(くわんじや)又大納言の聟(むこ)にて候ふ。加様(かやう)に親しく成つて候ふ間申すとや思食(おぼしめ)され候ふらん。努々(ゆめゆめ)其の儀には非(あら)ず候ふ。只(ただ)世の為、人の為、御(きみ)の為、一門の為(ため)に申す所なり。」
 又言ひけるは、「小傑(こザカシ)く思食(おぼしめ)すべく候へども、保元の逆乱の時、本朝に絶えて行はれざりし死罪(しざい)を、少納言入道(にふだう)申し行ひし故(ゆゑ)に、中二年有つて平治に事出でて、信西生きながら埋められ、死骸(しがい)掘り出だして頸を剪(き)り、大路を渡し獄門の木に懸けられき。信西指(さ)したる朝敵には非(あら)ねども、左府の墓を実検せし其の〓(ムク)ひにやと覚えて、懼(おそろ)しき事なりき。但(ただ)し御身においては栄花(えいぐわ)残る所無ければ、何事をか思食(おぼしめ)すべき。然(さ)れども人は皆子々孫々までも繁昌こそ有り度(た)く覚え候へ。『積善(せきぜん)の家には余慶(よけい)有り。積悪の門には余殃(よあう)有り』とこそ申し伝へたれ」奈(な)んど様々(さまざま)に誘(こしら)へ申されければ、今夜大納言を切らるべきことは思ひ留り給ひにけり。
 内府(だいふ)立ち出でて、然(しか)るべき侍共に向ひ言ひけるは、「仰せなればとて、左右(さう)無(な)く大納言を失ふべからず。兼て重盛(しげもり)に知らしむべし。入道(にふだう)殿腹の立つ任(まま)に物騒がしき事有らば、必ず御後悔有るべし。各(おのおの)僻事(ひがこと)を引き出だして、重盛(しげもり)恨(ウラ)むべからず」と言ひければ、武士共皆舌を振つて慄(ヲソ)れ合へり。
 又言ひけるは、「難波(なんば)次郎・瀬尾(せのをの)太郎等が大納言に情け無(な)く中(あた)り奉(たてまつ)りたりけるは、返す返す奇恠(きつくわい)(キクワイ)なり。争(いかで)か重盛(しげもり)を憚らざるべき。片田舎の者共は何(いづ)れも心得(え)ず」と言ひければ、経遠(つねとほ)・保重生きたる心地(ここち)も為(せ)ず、恐れ入つてぞ候ひける。内府(だいふ)は加様(かやう)に言ひ置いて、小松殿に還(かへ)り給ひにけり。
十三 法皇を流し奉(たてまつ)らんと欲する間、重ねて父を諌(いさ)め奉(たてまつ)る事
 其の後、入道(にふだう)、倩(つらつら)又此(こ)の事を案じられけるに、「詮ずる所、法皇の御結構なり。放ち立て奉(たてまつ)りては叶ふまじ」と、流し奉(たてまつ)らんと欲(おも)ふ意(こころ)付かれにけり。脱ぎ置く所の物の具又取り出だし、今度(こんど)は鎧を服(き)ず、腹巻計(ばか)りなり。筑前守貞能(さだよし)、木蘭地(もくらんぢ)の直垂(ひたたれ)に、緋綴(ひをどし)の鎧著(き)て、打立たんとする躰(てい)なり。然(さ)る間、一門の人々・侍共、皆甲冑(かつちう)を鎧ひ、弓箭(きゆうせん)を帯(たい)して出で立ち、馬共に鞍置き、門外に立て並べ、「只今(ただいま)院の御所へ参り、恨み奉(たてまつ)るべし」とぞ〓(ののし)りける。
 大夫(たいふ)判官(はんぐわん)盛国(もりくに)、小松殿に馳せ参つて、「西八条殿、只今(ただいま)、院の御所法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へ寄せ奉(たてまつ)らんとて、御一門を始め奉(たてまつ)り、侍共皆鎧ひ、打(う)つ立たれ候ふ間、怱(いそ)ぎ御渡り有るベき由(よし)、申し候ふ。法皇鳥羽殿への御幸と承(うけたまは)り候へども、内々(ないない)は西国へとこそ聞き候ひつれ。奈(いか)に」と申しければ、内大臣(ないだいじん)「差(さ)しも耶(や)は」と思はれけれども、「入道(にふだう)殿、物狂はしき人にて、然(さ)る事もや有るらん」とて、八条殿に参られけり。車より下りて中門(ちゆうもん)を見ければ、内外に右大将(うだいしやう)宗盛(むねもり)・三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)知盛(とももり)・左馬頭(さまのかみ)重衡(しげひら)以下(いげ)、一門の雲客数十人(すじふにん)、諸大夫(しよだいぶ)・侍共に至(いた)るまで、縁にも坪にも比次(ひし)と並(な)み居たり。旗竿共引き側(そば)め引き側(そば)め、打(う)つ立たんと欲(す)る躰なり。
 内大臣(ないだいじん)謐々(ノドのど)と張衣(サヤメ)いて入られけり。入道(にふだう)、客殿より遥かに之(これ)を見付け、「例の内府(だいふ)が世を表(へう)するは」と思ひけれども、子ながらも又賢人(けんじん)なれば、袷(あ)の姿には此(こ)の形勢(ありさま)にて見えんも、流石(さすが)に顔緩(おもはゆ)くや思はれけん、腹巻脱ぐべき隙(ひま)も無かりければ、物の具の上に衣を取つて打(う)ち服(き)、荐(シキリ)に衣の胸を引き違へ引き違へ為(せ)られけれども、腹巻の胸板の金物、映徹(すきとほ)(スキトヲ)りて、雲母々々(きらきら)と見えけり。
 入道(にふだう)言ひけるは、「抑(そもそも)此(こ)の謀叛の次第を尋ね承(うけたまは)り候ふに、源(みなもと)は法皇の御叡慮より思食(おぼしめ)し立つ所なり。大方は近習の者共が、境(をり)に触れ時に随ひ、様々(さまざま)の事共を勧(すす)め申す間、御軽行の君にて、一定(いちぢやう)天下の煩ひ、当家の大事、出ださせたまひぬと覚え候ふ。法皇を迎へ取り奉(たてまつ)り、片辺(かたほと)りの程に押し罩(こ)め奉(たてまつ)らんと存ずることを、申し合はせんが為(ため)に、喚(よ)び奉(たてまつ)るなり」と言へば、内府(だいふ)「畏(かしこま)つて承(うけたまは)り候ふ」と計(ばか)りにて、襴の袖を顔に押し当て、左右(とかう)の返事も無(な)し。
入道(にふだう)浅猿(あさまし)ながら、「何(いか)に何(いか)に」と言(のたま)へば、良(やや)久しくして、内府(だいふ)涙を抑(おさ)へて申されけるは、「此(こ)は何と云ふ御事にて候ふぞや。只今(ただいま)此(こ)の仰せを承(うけたまは)り候ふに、御運末に臨めりと覚え候ふ。縦(たと)ひ人の讒言に依(よ)つて勅勘(ちよくかん)を蒙(かうぶ)り給ふとも、何度(いくたび)も過(あやま)たぬ由(よし)を陳じ申させ給へ。設(たと)ひ又死罪(しざい)に行はるるとも、何(いか)でか背(そむ)き御座(おはしま)すべき。保元より以来(このかた)廿余年の間、官位と云ひ俸禄と云ひ、飽くまでに朝恩を蒙(かうぶ)りたまふ。昔も今も様(ためし)少なき事共なり。重盛(しげもり)が様なる無才愚闇(ぐあん)の身に至(いた)るまで、三公の員(かず)に加はり、卿相(けいしやう)の位を盗む。生々世々(しやうじやうせせ)に争(いかで)か報じ奉(たてまつ)るべき。夫(それ)我が国日本秋津嶋は辺鄙粟散(へんぴそくさん)の境とは申しながら、神国にして道正し。争(いかで)か非礼を致すべけんや。然(さ)れば太政(だいじやう)大臣(だいじん)の官に昇り、何ぞ兵杖(へいぢやう)を帯(たい)せらるべき。御身は而(しか)も御出家なり。何ぞ解脱幢相(げだつどうさう)の法衣(ほふえ)を脱ぎ捨てて、修羅闘戦の甲冑(かつちう)を鎧ひ、邪見(じやけん)放逸(はういつ)の弓箭(きゆうせん)を横だへ御坐(おはしま)さん。内には破戒無慚(むざん)の罪を招き、外には仁儀礼智信の法にも泄(も)れぬらん。争(いかで)か神明仏陀の加護有らんや。仏神の恵み無(な)くは、則(すなは)ち叶ふべからずと存知御(おはしま)せ。謀叛の輩既(すで)に召し置かれ候ひぬる上は、何事か候ふべき。栄花(えいぐわ)と云ひ官職と云ひ、身に余ること先例無(な)し。院の思食(おぼしめ)す所、子細理(ことわり)無(な)きに非(あら)ず。然(さ)らんに取つては、君には弥(いよいよ)奉公(ほうこう)の忠節を存じ、民には故(ことさら)撫育(ぶいく)の慈悲を施し、先非を悔ひ、後の是(ぜ)を欣(ねが)ひ、裁断私無(な)く御坐(おはしま)さば、神明仏陀の加護を得(え)て、君臣上下(じやうげ)の愛礼有るべし。若(も)し然(しか)らば、逆臣忽(たちま)ちに滅亡し、凶徒則(すなは)ち旁(かたがた)へ退散せん。
 恐れ有る申し事にては候へども、且(しばら)く心地観経(しんぢくわんぎやう)を披(ひら)き見るに、世に四恩と云ふ事有り。一には天地の恩、二には国王の恩、三には父母の恩、四には衆生(しゆじやう)の恩〈 或は壇施の恩 〉なり。其の中に国王の恩、是(こ)れ重し。之(これ)を知る者を人倫(じんりん)と為(な)し、之(これ)を知らざる者を鬼畜と為(な)す。就中(なかんづく)、神国においては殊更(ことさら)非礼を行(おこな)ふべからず。八幡(はちまん)大菩薩の神慮にも乖(そむ)き、天照太神の冥慮(みやうりよ)をも蒙(かうぶ)るべからず候ふ。聖徳太子(たいし)の十七ヶ条の憲法にも、『人皆心有り。此(こ)の心執(しゆ)有り。我を是(ぜ)すれば彼を非す。彼を是(ぜ)すれば我を非す。然(さ)れば則(すなは)ち賢愚は環(たまき)の端(はし)無(な)きが如(ごと)し』と。能(よく)慮(ヲモンバカリ)有るべし。神国に住みながら無道(ぶたう)を行ふべからず候ふ。凡(およ)そ蒼天(さうてん)の下、率土(そつと)の上、誰か国王の恩莫(な)かるべき。然(さ)れば、国王の恩においては、此(こ)の一門殊に極(きは)まれり。実(げ)に官位所領諸人(しよにん)に超過す。其の重恩を忘れ奉(たてまつ)り、御院参有らんにおいては、日月星宿(せいしゆく)・堅牢地神(けんらうぢしん)までも御宥(ユルサレ)や有るべき。『朝敵と成る者は、近くは百日、遠くは三年を過ぎず』とこそ申し侍れ。然(さ)れば則(すなは)ち、重盛(しげもり)においては御院参の御伴全(まつた)く仕らず候ふ。
 厥(それ)君と臣とを対(くらぶ)るに、忠は君に有るべし。道理(だうり)と非拠(ひきよ)とを思ふに、何(いか)でか道理(だうり)に付かざらんや。彼(か)の前漢の〓何(せうか)は勲功(くんこう)有るに依(よ)つて、官大相国に至(いた)り、剣を帯(たい)し沓(くつ)を履きながら殿上に昇ることを赦(ゆる)されたり。然(さ)れども叡慮に背(そむ)くこと有りしかば、高祖嗔(いか)りて延尉(テイイ)に赴(おもむ)けて禁(きん)ぜられたり。論語と申す文の中には、『郡(くに)に道無ければ富貴は恥なり』と云ふ本文候ふ。痛ましきかな、進んで君の為(ため)に忠を致さんと欲すれば、不孝(ふかう)の罪業(ざいごふ)身に在るべし。悲しきかな、退いて父の為(ため)に孝を行はんと欲すれば、不忠の逆臣我に在(あ)りぬべし。進退(しんだい)惟(ココ)に谷(キハマ)れり。是非弁(わきま)へ難(がた)し。
 是(こ)れを以つて昔を思ふに、保元の逆乱に、六条判官(はんぐわん)為義(ためよし)、朝敵たるに依(よ)つて子息(しそく)義朝之(これ)を承つて、朱雀(しゆしやく)大路において頸を誅(ちゆう)したりしをこそ人の上と思ひしに、只今(ただいま)重盛(しげもり)が身の上に成り候ふ事こそ口惜しく覚え候へ。門々を差(さ)し固め防(ふせ)ぎ奉(たてまつ)り候はば、以つての外の御大事に非(あら)ずや。此(こ)の条奇恠(きつくわい)に思食(おぼしめ)され候はば、誰にても候へ、侍一人に仰せ付けて、御坪の内に引き下(お)ろし、只今(ただいま)重盛(しげもり)が頸を召さるべし。少しも痛く存ぜず候ふ。御〓(ふるま)ひを見奉(たてまつ)るに、御運は已(すで)に尽きぬと覚え候ふ。『根枯れなば則(すなは)ち枝葉全(また)からず。源(みなもと)尽くれば則(すなは)ち流派竭(つ)く』と云ふ本文有り。御運命尽き終(は)てて後、我等が子孫相続くべからず。此れを聞き給ふや、殿原(とのばら)」とて、波羅々々(はらはら)と泣きたまへば、人々皆各(おのおの)鎧の袖をぞ濡(ぬ)らされける。実(げ)に道理(だうり)至極(しごく)に聞えけり。
 入道(にふだう)興覚(きようざ)めして左右(トモカク)も物も言はず。内府(だいふ)は加様(かやう)に言ひ置きて、怱(いそ)ぎ小松殿にぞ還(かへ)りける。
十四 重盛(しげもり)、兵者を召さるる事 井びに褒〓[女+以](ほうじ)の后の誓喩
 使者(ししや)を以つて触れられけるは、「重盛(しげもり)をも重盛(しげもり)と欲(おも)はん者は、時を替へず我が方に参るべし。天下に大事を聞き出だしたり」と言ひければ、「少少(ヲボロケ)にては騒ぎたまはぬ人の右(か)く云(のたま)ふは」とて、我も我もと参りけり。程無(な)く一万余騎に成りにけり。
 然(さ)る間、西八条には只(ただ)貞能(さだよし)一人候ひけり。入道(にふだう)、貞能(さだよし)を召して、「只今(ただいま)誰か有る」と問はれければ、「誰も候はず」と申す。「此(こ)は不思議の事かな。然(サル)にても兵(つはもの)は無(な)きか。右大将(うだいしやう)は如何(いか)に。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)は若何(いか)に」と言へば、「君達(きんだち)も侍共も皆小松殿へ」と申せば、入道(にふだう)猶(なほ)不審気にて、大床(おほゆか)に立ち、嘯(うそ)打(う)ち吹きながら縁行道(えんぎやうだう)し、此れに人有るか、彼(かし)こに人有るかと、此(こ)この面道(めんだう)彼(かし)この面道(めんだう)を指臨(さしのぞ)き指臨(さしのぞ)き見回しけれども、兵(つはもの)一人も無(な)し。入道(にふだう)「内府(だいふ)と申違ひては叶はぬ事かな」と、大きに騒がれけり。
 又曰(のたま)ひけるは、「此(こ)の体(てい)の隙(ひま)に耶(や)、大納言の余党寄せ来たらば如何(いか)が為(す)べき」と言ひければ、貞能(さだよし)申しけるは、「然(さ)る事候はば、能(よ)き様に御(おん)計(ぱから)ひ有るべく候ふ。御子も御子に依り候ふ。小松殿に御中違ひ御坐(おはしま)しては悪しく覚え候ふ」と申しければ、「爾(サゾ)とよ。誰も然(さ)ぞ思ふ。然(さ)れば貞能(さだよし)、内府(だいふ)の許(もと)に罷(まか)り向つて云ふべき様は、『実(まこと)には争(いかで)か君を流し奉(たてまつ)るべき。一旦の恨みをこそ申し候へ。然(さ)れども右様(かやう)に諌(いさ)められし上は、争(いかで)か其の義有るべけんや。自今(じこん)以後(いご)は、左(と)も右(かう)も、内府(だいふ)が計ひを背(そむ)くべからず。善悪(ぜんあく)此れに御坐(おはしま)せば、能能(よくよく)申し合はすべき事侍り』」と云ひ遣(つか)はされ、腹巻を脱ぎ捨て、索絹(そけん)の衣に袈裟を打(う)ち掛け、持仏堂に指入(さしい)つて、心にも発(おこ)らぬ念誦(ねんじゆ)してぞ居たりける。
 貞能(さだよし)、小松殿に参つて此(こ)の由(よし)を申しければ、重盛(しげもり)又涙を波羅々々(はらはら)と流して言ひけるは、「我適(たまたま)人界(にんがい)に生を受けながら、彼(かか)る悪人(あくにん)の子と成りて、併(しか)しながら罪業(ざいごふ)を作る悲しさよ。子は親に逢ひてこそ対望すと申すべきに、我は子ながら親に対望せられん事、此れに過ぎたる逆罪何(いか)でか有らんや」とて、涙も掻き敢(あ)へず泣きたまへば、一門の人々并びに侍共、皆涙を流さずといふこと莫(な)し。「重盛(しげもり)、此(こ)の仰せを承(うけたまは)り、御返事畏(かしこま)つて承(うけたまは)り候ひ畢(をは)んぬ。左様に院参を思食(おぼしめ)し留まり候ふ上は、争(いかで)か仰せに乖(ソム)き奉(たてまつ)り候ふべき。又何事も明日、謐(のどやか)に参上せしめ申し承るべく候ふ」と申し給ひけり。入道(にふだう)此(こ)の事共に驚き、大納言の頸を剪(き)るべき事も打(う)ち置かれて、法皇を流し奉(たてまつ)るべき事も思ひ留まられたまひぬ。
 加様(かやう)に入道(にふだう)の静まり給ひければ、内大臣(ないだいじん)、武士共に対(むか)ひ言ひけるは、「重盛(しげもり)天下に大事を聞き出だしつるに依(よ)つて、召す所なり。各各(おのおの)の怱(いそ)ぎ参りたるこそ神妙(しんべう)なれ。然れども聞食(きこしめ)し直したれば、罷(まか)り皈(かへ)るべし。但(ただ)し向後(きやうこう)も重盛(しげもり)加様(かやう)に召さんには、参らぬこともや有る。
 異国に然(さ)る様(ためし)有るぞとよ。昔、周の幽王、褒〓(ほうじ)を寵愛したまふ。褒似(ほうじ)とは妃なり。彼(か)の妃の由来を尋ぬるに、並びの国に褒似国と云ふ国有り。幽王彼(か)の国を打(う)ち取らんと欲して此れを責めけるに、已(すで)に三分が一は打(う)ち取られにけり。爰(ここ)に、褒似国に謀(はかりこと)を回(めぐ)らされける程に、千歳を経たる狐を囚(とら)へて、有験(うげん)の僧十人を以つて、百日の間、之(これ)を行はしむるに、貌形(かほかたち)の厳(いつく)しき女と行ひ成(な)しぬ。帝王彼(か)の女に向かつて言ひけるは、『我、幽王の許(もと)へ遣(つか)はさば、汝幽王の心を誑(たぶらか)し、我に教へて討たせよ。其の後は必ず放(ハナ)つべし』と言へば、化女此れを承諾しけり。彼(か)の国の帝、化女に使者(ししや)を副(そ)へて、幽王の方に申されけるは、『君逼(せ)むるに我が国堪(た)へ難(がた)し。然(さ)る間、我が国第一(だいいち)の美女(びぢよ)を奉(たてまつ)らん。向後(きやうこう)は責むることを留めたまへ』と申されたり。幽王、件(くだん)の化女を見て、心則(すなは)ち蕩(とろ)けて、歓(よろこ)びを成(な)して此れを受け取り、貴むることを止むべき由(よし)、領状(りやうじやう)しけり。已(すで)に一妃を寵しながら、褒似国より出されたるに依(よ)つて、其の名を即(すなは)ち褒似(ほうじ)と号(なづ)く。妃数有りといへども、余(よそ)に心を遷(うつ)すことも無(な)く、偏(ひとへ)に褒〓(ほうじ)を鐘愛(しようあい)す。
 但(ただ)し此(こ)の妃都(すべ)て言(ものい)はず、笑ふこと無(な)し。幽王此れを歎く程に、其の国の習ひと為(し)て、烽火(ほうくわ)の大鼓と云ふ事有り。天下に事出で来たれば、則(すなは)ち大鼓の中に火を燃やして此れを飛ばす間、諸方の武士、悉(ことごと)く群集(くんじゆ)して朝敵を平らげ、天下を静む。或(あ)る時、都に事有るに依(よ)つて、烽火(ほうくわ)の大鼓を飛ばしたり。件(くだん)の妃、笑(ゑみ)を含んで、『穴(あな)面白や、大鼓の空に飛ぶことよ』と言ひけり。此(こ)の妃、一たび笑めば百(もも)の媚(こび)有り。故(ゆゑ)に幽王此れを悦(よろこ)び、見物させ奉(たてまつ)らんが為(ため)に、何事も無(な)きに常に此れを飛ばす。武士共来たれども怨(あた)無(な)し。怨(あた)無ければ即(すなは)ち皈(かへ)りぬ。此れに依(よ)つて其の後は参り集らず。然(さ)れども何ごとも無(な)きに常に此(こ)の事を致されける間、妃、帝の心を取り課(はた)し、褒似(ほうじ)国王に事の由(よし)を申す。王大きに悦(よろこ)び、数万騎の官兵に仰せて、幽王を逼(せ)めさす。時に幽王、烽火(ほうくわ)の大鼓を上ぐれども、例の妃の烽火(ほうくわ)ぞと意得(こころえ)、兵(つはもの)一人も参らざりける間、幽王遂(つひ)に殄(ホロボ)されにけり。其の時、件(くだん)の妃は尾三つの狐と作(な)つて、稲妻の如(ごと)くに失せぬ。尓(それ)より美女(びぢよ)を傾城(けいせい)と名(なづ)けたり。只(ただ)城を傾くるのみに非(あら)ず、人を殺し世を乱す媒(なかだ)ちと為(な)る。慎(つつし)まざるベからず、と云(い)へり。
 異国に此(カカル)様(ためし)有り。其の様に今度(こんど)各(おのおの)(ヲノヲノ)己(おのれ)を召しつるに、事無かりけり。後に召すこと有らば、参らぬこともや有る。幾度(いくたび)なりとも召しに随ふべし」と、返す返す此れを仰せ含めて返されけり。
 内大臣(ないだいじん)、実(まこと)には父に対(むか)ひ軍(いくさ)為(せ)んとには非(あら)ず、謀叛の心を宥(なだ)めんが為なり。「君君たらずといへども、臣以つて臣たらざるべからず。父父たらずといへども、子以つて子たらざるべからず」と云(い)へり。重盛(しげもり)此(こ)の旨を存知して、文宣公の言ひけるに違はず。公の為(ため)には忠有り、父の為(ため)には孝有り。旁(かたがた)如勇(ゆゆ)しかりける人かな。
 法皇、此(こ)の事を聞食(きこしめ)して、「丸(まる)偏(ひとへ)に重盛(しげもり)が恩を得(え)たり」と仰せ有りけり。「国に諌(いさ)むる臣有らば、則(すなは)ち其の国必ず安し。家に諌(いさ)むる子有らば、則(すなは)ち其の家必ず直し」と云(い)へり。斯(こ)の言実(まこと)なるかな。
十五 成親卿(なりちかのきやう)の郎等、宿所(しゆくしよ)へ返る事 井びに少将(せうしやう)捕はるる事
 然(さ)る程に、大納言の郎等共、大納言の宿所(しゆくしよ)に走り還(かへ)つて言ひけるは、「殿は西八条殿に召し籠(こ)められ御坐(おはしま)し候ひぬ。此(こ)の昏(クレ)失ひ奉(たてまつ)るべき由(よし)承(うけたまは)り候ふ」と申しければ、北(キタ)の方聞食(きこしめ)しも敢(あ)へず、打(う)ち臥(ふ)して、声も惜しまず喚(をめ)き叫びたまふこと斜(なの)めならず。
 又御共(とも)の者等(ものども)申しけるは、「少将殿を始め奉(たてまつ)り、少(をさな)き君達(きんだち)に至(いた)るまで、皆召し取られ御(おはしま)すべき由(よし)、承(うけたまは)り候ふ」と申しも終(は)てず、嗷(な)きければ、北の方「此れ程の事に成りては、残り留る身共、(一頁半の空白あり)安穏にても、恃(たの)む人も無(な)く、何の甲斐(かひ)かは有るべき。此(こ)の殿、今朝を限りとの余波(なごり)にや、早晩(いつしか)よりも懐(なつ)かし気(げ)にて、怱(いそ)ぎ出でも遣(や)らず、我と少(をさな)き者共・女房達を見たまひしは、是(こ)れを最後とや思はれけん。我丁〓(わがひと)能々(よくよく)見奉(たてまつ)り、見え奉(たてまつ)るべきなりけり」と、打(う)ち臥(ふ)して啼(な)きたまへば、外(よそ)の袂も汐(しぼ)る計(ばか)りなり。
 「既(すで)に武士共来なん」と人申しければ、右(かく)て恥益(はぢがマシ)き事を見えんも石流(さすが)なれば、何地(いづち)へも立ち忍ばんと、尻首(アトサキ)とも無(な)き少(をさな)き人々、一(ひと)つ車に取り乗せ、其(ソコ)と指(さ)し定めねども、遣(や)り出だし給ふぞ哀れなる。女房達・侍共、歩徙跣(カチハダシスアシ)にて、恥をも知らず迷ひ出でにけり。
 見苦しき物共を取り調ふるにも及ばず、門は押し立つる人も無(な)し。馬共は厩(うまや)に立ち並びたれども、草飼ふ者も無(な)し。蹉(アシカキ)を為(し)て舎人(とねり)を慕へども、舎人(とねり)独りも無ければ、口を空しくして嘶(いなな)く。頃日(ひごろ)は夜明くれば馬車門に立ち並び、賓客座に列す。舞ひ躍り遊び戯れ、世を世とも思はず。近き辺りの人は物をだにも高く言はず。門前を過ぐる者も悚(お)ぢ恐れてこそ昨(きのふ)までは有りつるに、夜の間に替る形勢(ありさま)、浅猿(あさまし)と言ふも癡(おろ)かなり。
 此(こ)の大納言は余りに掲沛〓(イチハヤク)、聊(いささ)かの戯れ事にも言ひ過ごす事も有りけり。後白川院の近習者(きんじゆしや)に、坊門(ばうもん)の中納言親信(ちかのぶ)と申す人有り。彼(か)の父右京大夫(だいぶ)信輔(のぶすけ)朝臣、武蔵守(むさしのかみ)為(た)りし時、彼(か)の国に下られたりしに、儲けられたる子なり。元服(げんぶく)叙爵(ジヨシヤク)の後、坂東太輔(ばんどうたいふ)とぞ申したりける。院中に候ひければ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)に成り、坂東兵衛佐(ひやうゑのすけ)と名(なの)りけり。新大納言成親卿(なりちかのきやう)、法皇の御前に参り合ひ、親信(ちかのぶ)に問ひける様は、「坂東には何事共か有るやらん。」親信(ちかのぶ)取りも敢(あ)へず、「縄目の色革こそ多く候へ」と云ひければ、大納言顔の気色(けしき)少し替つて、物も言はざりけり。按察(アンぜち)の大納言入道(にふだう)資賢(すけかた)も其の所に候はれけり。後に資賢(すけかた)云ひけるは、「兵衛佐(ひやうゑのすけ)は如勇(ゆゆ)しく返答したりつる者かな。成親(なりちか)事の外にこそ苦(にが)りて見えつれ」左(と)申されたりけるとかや。此れ則(すなは)ち、平治の逆乱の時、成親卿(なりちかのきやう)の事に遇はれしことなり。
 此(こ)の大納言の嫡子(ちやくし)、丹波の少将成経(なりつね)、今年(ことし)廿一歳なり。院の御所法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に上臥(うはぶ)しして、未(いま)だ罷(まか)り出でられぬ程に、大納言の御共に候ひつる侍一人、院の御所に参つて、「殿は既(すで)に西八条殿に召し籠(こ)められたまひぬ。今夜失はれ給ふべき由(よし)、承(うけたまは)り候ふ。君達(きんだち)も皆召し取られ御(おはしま)すべき旨聞え候ふ」と申しければ、法皇「此(こ)は何(いか)に」と仰せられて、中々(なかなか)澆(アハ)て御座(おはしま)す。少将「何(いか)に宰相の許(もと)より告げられざるらん」と、舅(しうと)を恨みける程に、急ぎ宰相の許(もと)より使ひ有り。「何事やらん、西八条殿より、『少将を具し奉(たてまつ)れ。承(うけたまは)るべき』由(よし)申されたり。疾々(とくとく)渡り給へ」と申しければ、此(こ)は何(いか)なる事にや、浅猿(あさまし)と云ふも愚かなり。
 院の御所に候ふ兵衛佐(ひやうゑのすけ)と申す女房を、少将尋ね出だされ、「彼(かか)る事こそ候ふなれ。夜部(よべ)より、世間物騒(ものさはが)しと承(うけたまは)れば、例の山の大衆(だいしゆ)の下洛すべきかと、徐(よそ)に思ひて候へば、身の上の事にて候ひけり。御所へも参りて、今一度君をも見奉(たてまつ)るべく候へども、彼(かか)る身と成りて候へば、憚り存じて罷(まか)り出でぬと、御披露有るべし」と申しながら、涙更(さら)に防(ふせ)ぎ敢(あ)へず。日来(ひごろ)見馴れ奉(たてまつ)りたる御所中の女房達、少将の袂を牽(ひか)へ、声も惜しまず啾(な)き逢へり。少将の言ひけるは、「成経(なりつね)八歳(はつさい)の時、始めて君の見参(げんざん)に入り、十二歳より夜昼御前を立ち去らず御所に候ひて、忝(かたじけな)くも君の御(おん)糸惜(いとほ)しみを蒙(かうぶ)り、楽しみに誇りて明かし晩(くら)し候ひつるに、何(いか)なる目を見るべきやらん。又大納言も失はるべき由(よし)承(うけたまは)りぬ。定めて我が身も同罪にこそ行はれ候はんずらめ。但(ただ)し父失はれん上は、世の中何事か心留まること有らん」と云ひ連(つづ)けて泣きたまふ。外(よそ)の袂も〓(しぼ)り敢(あ)へず。
 女房御前に参つて、此(こ)の由(よし)を申されければ、法皇大きに驚き思食(おぼしめ)して、「此等(これら)が内々(ないない)支度(したく)せし事共(ども)の泄(も)れ聞えける耶(よ)な」と、浅猿(あさまし)く思食(おぼしめ)されけり。「然(さ)るにても此れへ」との御気色(みけしき)にて有れば、少将は懼(おそろ)しけれども、今一度君の御容皃(かんバセ)を見奉(たてまつ)らんと思はれければ、御前に参り向かはれたりけれども、涙に咽(むせ)びて一言(ひとこと)も申し出ださず。法皇も御涙を抑(おさ)へ御坐(おはしま)して、曰(のたま)ひ遣(や)りたる御事も無(な)し。「上代には此(カカル)事やは有りし、末代こそ心憂(こころう)けれ」と計(ばか)りなり。少将は終(つひ)に申し遣(や)りたる旨も無(な)く、罷(まか)り出でたまひぬ。女房達遥かに送り奉(たてまつ)りて、皆袖をぞ〓りける。
 少将は舅(しうと)の宿所(しゆくしよ)六波羅へ罷(まか)り入りたれば、此(こ)の事を聞きたまふより、北の方は澆(あき)れ迷(マヨ)つて物も覚えぬ気色(けしき)なり。近く産したまふべき人にて、頃日(ひごろ)も何と無(な)く悩みたまひしが、故(ことさら)此(こ)の事を聞きたまへば、弥(いよいよ)臥(ふ)し淪(しづ)み給ふも哀れなり。少将は今朝より流るる泪尽きせぬに、北の方の御気色(ごきしよく)を見奉(たてまつ)るに就(つ)けても、太太(いとど)歎きは深かりけり。「責(せめ)て此(こ)の人の身(ミ)と子(み)と成らんを見て、何(いか)にも成らばや」と思はれけるぞ糸惜(いとほ)しき。
爰(ここ)に六条とて、頃年(としごろ)少将に属(つ)き奉(たてまつ)つたる女房有りけり。臥(ふ)し辷(まろ)び、嘔(をめ)き叫びて、嗷(な)く嗷(な)く申しけるは、「悲しや、我が君の胞〓(えな)の中に在(ましま)ししを洗ひ聞え奉(たてまつ)りて、糸惜(いとほ)し悲しと思ひ染め奉(たてまつ)りし日より今に至(いた)るまで、曙(あ)けても暮(く)れても此(こ)の御事より又外には更(さら)に営む事無(な)し。我が身の年(とし)の積るをば知らず、此(こ)の君の疾(と)く長(ひととな)り給へかしと欲(おも)ひしに、今年(ことし)は已(すで)に廿一歳なり。院内へ参りたまふにも、遅く出で給へば、〓(おぼつかな)く恋しくのみ此れを思ひ奉(たてまつ)りつるに、立ち離れ奉(たてまつ)りては、一日片時(いちにちへんし)も生きて在るべしとも覚えず」と申しながら、泣き悲しむこと唱立(おびたた)し。「誠に然(さ)こそ欲(おも)ふらめ」と少将思はれければ、涙を押へて言ひけるは、「然(サ)こそ思ふ所は埋りなり。然(さ)れども痛う歎くべからず。我が身においては少しも訛(アヤマ)ち無ければ、強(アなが)ちに罪科に行はるべしとも覚えず。其の上宰相然(サ)て御座(おはしま)せば、成経(なりつね)が命計(ばか)りは争(いかで)か申し請(う)けたまはざるべき」と、濃々(こまごま)と慰(なぐさ)めたまへども、涙更(さら)に留まらず。
 又少将言ひけるは、「今一度若君を見んと思ふ」とて、呼び寄せ奉(たてまつ)り、御髪(みぐし)を掻き撫でて、「七歳に成らば、元服(げんぶく)させて御所の見参(げんざん)に入ればや、とこそ思ひしに」と云ひも終(は)てず、泣きたまふ。又「我罪に沈まば、何(いか)なる事か有るらん。若(ワカ)よ聞け。長(ひととな)りて頭固くは、法師(ほふし)に成りて成経(なりつね)が菩提(ぼだい)を訪(と)ふべし」と言ひながら、泣きたまへば、北の方も乳母(めのと)も臥(ふ)し辷(まろ)びて叫ばれければ、若君世に浅猿(あさまし)げにぞ思食(おぼしめ)し居られける。「八条殿より御使ひ有り」と申しければ、「何様(いかさま)にも八条殿へ罷(まか)り向かつて、爾(と)も此(か)くも申すべし」とて、宰相に相(あ)ひ具せられて出でたまひぬ。此(こ)の世に無(な)き人を取り出す様に見送りてぞ泣き逢へる。保元・平治より以後(このかた)は、平家の人々は楽しみ栄えは有りとも、未(いま)だ歎きの声をば聞かざりつるに、宰相計(ばか)りこそ由(よし)無(な)き聟(むこ)故(ゆゑ)に、此(か)かる歎きに遇はれけるこそ糸惜(いとほ)しけれ。
十六 門脇殿、成経(なりつね)を請ひ受けらるる事
 已(すで)に西八条近く遣(や)り寄せて之(これ)を見れば、四五丁の程に武士充満して幾千万とも知らず。少将此れを見るに付けても、大納言の情け無(な)く武士共に寃(シエ)られ給ひけん事、思ひ遣(や)るこそ哀れなれ。車を門外に立てて、宰相参向の由(よし)、案内を申し入れければ、入道(にふだう)「成経(なりつね)は入るべからず」と言へば、少将をば其の辺(アたリ)近き侍の家に下し置かれて、宰相内に入りて見えたまはねば、最(いと)心細くぞ覚(おぼ)されける。
 宰相已(すで)に内に入つて、見参(げんざん)に入るべき由(よし)言へば、入道(にふだう)敢(あへ)て出で会はれず。然(さ)る間、宰相、季貞(すゑさだ)を呼び出だして申されけるは、「由(よし)無(な)き成経(なりつね)を聟(むこ)に取ること返す返す悔しく存じ候へども、今更(いまさら)力に及ばず。成経(なりつね)に相(あ)ひ具して候ふ娘の、痛く泣き悲しむこそ限り無けれ。恩愛(おんあい)の道は今に始めぬ事なれども、世に無慚(むざん)に覚え候ふ。而(しか)も近く産すべき者にて、此(こ)の程悩むと承(うけたまは)りしが、又此(こ)の歎きを打(う)ち副(そ)へなば、身子(みみ)と成らぬ以前(さき)に、命も絶えぬべく覚え候ふ。彼を助けんが為(ため)に、恐れながら申し為(な)して候ふ。成経(なりつね)計(ばか)りをば理(り)を曲げて申し預(あづか)りて、教盛(のりもり)此(カク)て候へば、努々(ゆめゆめ)僻事(ひがこと)発(おこ)させまじく候ふ」と泣く泣(な)く申されければ、季貞(すゑさだ)、立ち返つて此(こ)の旨を申す。入道(にふだう)世に意得(こころえ)ず思はれて、怱(いそ)ぎても御返事無(な)し。
 宰相、中門(ちゆうもん)に居て、今耶(や)今耶(や)と待たれける程に、入道(にふだう)良(やや)久しくして言ひけるは、「成親卿(なりちかのきやう)此(こ)の一門を亡して、国家を乱らんと欲(す)る企て有り。然(さ)れども一家の運未(いま)だ尽きざるに依(よ)つて、此(こ)の事今露顕す。少将は彼(か)の大納言の嫡子(ちやくし)なり。御身親しといへども全(まつた)く宥(なだ)め申すべからず。彼(か)の謀叛の企て遂げましかば、其れ御辺(ごへん)とても安穏にて在るべきか。御身の上をば何(いか)に右(かく)は仰せらるるぞ。聟(むこ)の事も子(こ)の事も、何(いか)に大事に思食(おぼしめ)すとも、争(いかで)か我が身には勝らん」と、入道(にふだう)佻(くつろ)ぐ気色(けしき)も無(な)く御坐(おはしま)す。
 季貞(すゑさだ)返り出でて、此(こ)の由(よし)を申しければ、宰相大きに本意無(な)く思ひて、「加様(かやう)に仰せらるるを、又重ねて申すは、其の恐れ深けれども、心中に思ふ事を殆(のこ)さんも口惜き事なり。保元・平治両度の合戦にも、身を捨てて御命に代(かは)り奉(たてまつ)らんとこそ存ぜしか、自今以後(いご)も、荒(あら)き風を先づ防(ふせ)がんとこそ思ひ奉(たてまつ)り候へ。敦盛(あつもり)年(とし)こそ老いたりといへども、若き者共多く候へば、自然(しぜん)の御大事も有らん時は、何(など)か一方(いつぱう)の御固めとも成らざるべき。成経(なりつね)を罷(まか)り預(あづか)らんと申すを〓(おぼつかな)く思食(おぼしめ)されて御免しの無(な)きか。是(カク)弐心(ふたごころ)有る者に思はれ奉(たてまつ)りて、世に在(あ)りても甘従(イカニセン)。世に在ればこそ望みも有れ。望みの叶はねばこそ恨みも有れ。詮ずる所、身の暇(いとま)を賜(たま)はつて出家入道(にふだう)して、片山寺にも籠(こも)り居て、後世(ごせ)菩提(ぼだい)の勤めを致すべき」由(よし)云ひければ、季貞(すゑさだ)苦々(ニガニガ)しき事に思ひて、此(こ)の様を委細に入道(にふだう)殿に申しければ、入道(にふだう)言ひけるは、「此(こ)の宰相は物に意得(こころえ)ぬ人かな」とて、返事も無(な)し。
 季貞(すゑさだ)申しけるは、「宰相殿は思ひ切られて候ふ御気色(ごきしよく)と覚え候ふ。一定(いちぢやう)御出家候はんずらん。御計らひ有るべし」と申しければ、入道(にふだう)言ひけるは、「其れ程に思はるる上は、尓(と)も此(か)くも子細を申すべきに及ばず。然(さ)れば少将をば暫(しばら)く御宿所(しゆくしよ)に置かるベし」と渋々(しぶしぶ)に言へば、季貞(すゑさだ)立ち返つて右(かく)と申しける間、宰相喜びて出でられけり。
 少将「一日(いちにち)なりとも、命を助けらるるこそ愚かならね」と、又泣きたまふも哀れなり。「『人の身に女子をば持つまじかりける者を』と云ひけるは、加様(かやう)の事を云ひけるにや」とぞ、宰相思ひ知られける。
 少将又「我が身の少し延び行くに付けても、父大納言殿、如何(いかが)御坐(おはしま)す覧(らん)。是(か)計(ばか)り熱き比(ころ)に、装束も佻(くつろ)げず、一間所に押し罩(こ)められて、何(いか)に耐へ〓(がた)く御坐(おはしま)す覧(らん)と、〓(おぼつかな)く思ひ奉(たてまつ)り候ふ。何様(いかやう)にか聞食(きこしめ)され候ふ」と、宰相に向かつて問ひければ、「異左(いさ)とよ、知らず。御事計(ばか)りを執り申し候ふ。大納言殿の御事までは思ひも寄らず」と言へば、少将此れを聞いて、「誠に〓(ウレシ)く思はるれども、大納言失はれんにおいては、成経(なりつね)命生きても甘従(いかにせん)。只(ただ)同じ途(みち)にと思ひ候ふ」と言へば、宰相言ひけるは、「大納言殿の御事は、内大臣(ないだいじん)垂伏(たりふし)申されけるとこそ承(うけたまは)り候へ。然(さ)りとも御命失はれん程の事は御坐(おはしま)すまじと覚え候ふ」と言へば、成経(なりつね)手を合せて悦(よろこ)びけり。宰相此れを見て、「無慚(むざん)やな、子に非ざらん者は、誰か此れ程に憶(おも)ふべき。人は又子をば持つべかりける者を」とぞ、程無(な)く思ひ返されける。
 少将の出でられける後、北の方を始め奉(たてまつ)り、母上・乳母(めのと)、臥(ふ)し沈みて起きも上らず、啾(な)き悲しむ有様、枕も床も朽(く)ちぬべし。何(いか)なる事をか聞かんずらんと、肝心(きもこころ)も有られず各(おのおの)思はれける程に、「宰相還(かへ)り入りたまふ」と云ひければ、「少将を打(う)ち捨てて御坐(おはしま)すにこそ。少将未(いま)だ命も失はれずは、恃(たのも)しき人に捨てられて、何(いか)計(ばか)り心弱く覚食(おぼしめ)すらん」と、各(おのおの)楹(モダ)へ焦(こが)れけるに、「少将殿も御返り候ふ」と、人先に走りて申せば、人々車寄せに出で向かつて、「実麼(まことかや)実麼(まことかや)」と声々に又泣き逢へり。宰相、少将と諸共(もろとも)に乗り具して還(かへ)り給へり。向後(きやうこう)は知らず、死したる人の生き還(かへ)りたる様に、歓(よろこ)び啾(な)きに泣き合ひけり。
 宰相の言ひけるは、「入道(にふだう)殿の欝(いきどほ)り、事も斜(なの)めならず深く、対面も為(せ)られず、如勇(ゆゆ)しく悪しき様なりけれども、季貞(すゑさだ)を呼び出だして、教盛(のりもり)遁世(とんせい)の由(よし)を申しつる程に、渋々(しぶしぶ) 『然(さ)らば且(しばら)く教盛(のりもり)に預け置く』 と言ひつれども、始終善(よ)かるべしとも覚えず」と言ひければ、「縦(たと)ひ一日(いちにち)たりとも延び給ふ事こそ猗(うれ)しけれ。今朝立ち出づるを限りなりとも、二度(にど)見奉(たてまつ)る事」と、皆各(おのおの)〓(よろこびな)き逢へり。
 此(こ)の平宰相の宿所(しゆくしよ)は、六波羅総門の故(ゆゑ)に、門腋(かどわき)の宰相と申しけり。西八条近き故(ゆゑ)に、世も猶(なほ)慎(つつま)しくて、門戸を閇(と)ぢ、蔀(しとみ)の上計(ばか)りを挙げて少将住まれけり。夜も漸(やうや)う深け行けば、「大納言殿父子(ふし)共に、今夜は延びけるに耶(や)」と、武士共皆悦(よろこ)び合へり。
 又左衛門入道(にふだう)西光(さいくわう)を、今夜松浦太郎重俊に仰せ付けて、水火の責めに及ぶ処、西光(さいくわう)申しけるは、「『身は恩の為(ため)に使はれ、命は義に依(よ)つて軽し』と云ふ本文なり。然(さ)れば則(すなは)ち、我が身は君の奉為(おんため)に召し仕はれ、命は謀叛に与(くみ)するに依(よ)つて失はるる間、全(まつた)く以つて惜しからず。一生は纔(わづか)に夢の如(ごと)し。草葉に宿れる露に似たり。万事(ばんじ)は皆染に似たり。水上に漂(ただよ)へる沫(あわ)の如(ごと)し。然(しか)るに平家の一門以つての外に過分にて、一天下(いちてんが)を掌(たなごころ)の内に握(にぎ)り、万事(ばんじ)政(まつりごと)を心の任(まま)に行(おこな)ふ間、仏法を滅ぼし、王法を軽んず。茲(こ)れに因(よ)つて、忠臣且(かつ)うは逆鱗(げきりん)を息(やす)め奉(たてまつ)り、且(かつ)うは仏法を守護し、彼(か)の一門を亡すべき由(よし)、互に与力する所なり。彼(か)の謀叛、全(まつた)く以つて私に非(あら)ず。直饒(たとひ)露顕に逮(ヲヨ)ぶとも、頸を延べて陳じ申すべし。勅命を恐るる所無(な)く、剰(あまつさ)へ数輩(すはい)の官軍を召し取り、頸を截(き)らんと擬する条、冥の照覧も憚り有り。只今(ただいま)に天の譴(せ)めを蒙(かうぶ)り、一門の輩片時(へんし)に亡びん事
ふびん                         およ
不便(ふびん)なり。阿弥陀仏(あみだぶつ)、阿弥陀仏(あみだぶつ)」と申して、鼻笛を吹き居たり。凡(およ)そ西光(さいくわう)が詞とも覚えず。「天に口無(な)し、人の囀(さへず)りを以つて云はせよ」とは此(こ)の事にや。恐ろし恐ろしと、聞く人申しけり。
 然(さ)る程に、西光(さいくわう)をば其の夜松浦太郎重俊此れを承つて、朱雀(しゆしやく)大路に引き出だして頸を誅(き)る。誅らるる所にても様々(さまざま)の悪口(あくこう)を吐くと聞えけり。走れ偏(ひとへ)に山王七社の御罸(ばつ)を蒙(かうぶ)りぬらんと恐ろしく覚えし。郎等三人誅られにけり。西光(さいくわう)が子共、加賀守(かがのかみ)師高(もろたか)・左衛門尉(さゑもんのじよう)師親・右衛門尉師平追討すべき由(よし)、入道(にふだう)静海(じやうかい)下知(げぢ)せられける間、武士共、尾張の配所に下つて、一一(いちいち)に切りにけり。
 彼(か)の西光(さいくわう)法師(ほふし)父子(ふし)、共に院中の近習者(きんじゆしや)にて、世を世とも思はず、人を人とも為(せ)ず、神慮をも憚らず、人望にも背(そむ)きしかば、立所(たちどころ)に彼(かか)る目に逢ひにけり。「然(さ)見つる事よ」と世以つて謳謌(おうか)(ヲウか)しけり。「凡(およ)そ女と下臈(げらふ)は、傑気(さかしげ)なる様なれども、思慮無(な)き者なり」と云ふ事、是(こ)れ法令の文なり。西光(さいくわう)も云ひ甲斐(かひ)無(な)き下臈(げらふ)にて、終(つひ)に十善の君に近く召し仕はれて、果報忽(たちま)ち磐(ツキ)、天下の大事を引き出だし、我が身子共同じく殄(ホロビ)にけり。
十七 成親卿(なりちかのきやう)流さるる事
 二日、大納言をば、夜漸(やうや)う曙(あ)くる程に、公卿(くぎやう)の座に出だし奉(たてまつ)り、物進(まゐ)らせ奉(たてまつ)る。胸押し塞(ふさ)がりて得(え)聞こし入れたまはず。既(すで)に車を指(さ)し寄せ、「怱々(とくとく)」と申しければ、意(こころ)ならず乗りたまひぬ。軍兵(ぐんびやう)多く打(う)ち囲みて、我が方の者は一人も無(な)し。我を何(いづ)ちへ具して行くやらんと告げ知らする人も無(な)し。小松殿に今一度会はば耶(や)と欲(おも)ひけれども、其れも叶はず。只(ただ)身に添ふ物とては涙計(ばか)りなり。
 七条を西へ廻(まは)り、朱雀(しゆしやか)を南へ行きければ、大内山を顧みても思食(おぼしめ)し出だす事共多かりけり。鳥羽殿を遣(や)り過ぎたまへば、頃年(としごろ)頃日(ひごろ)見馴れ奉(たてまつ)りし舎人(とねり)・牛飼共、遥かに見送り奉(たてまつ)り、各(おのおの)涙を流すめり。外(よそ)の袂の柵(しがらみ)だに〓(しぼ)り堰(せ)き敢(あ)へ難く見ゆるに、何(いか)に矧(いはん)や、都に残り留る北の方・少(をさな)き人・所従(しよじゆう)・眷属(けんぞく)の心の中、推し量られて遖(あはれ)なり。
大納言、言ひけるは、「我が召し仕ひし者共三千余人も有りけんに、独りだにも付き副(そ)ふ者も無(な)くて」と独言(ひとりごと)を言ひて、声も惜しまず泣きたまふ。車の前後に候ひける兵共(つはものども)、此れを聞きて、皆鎧の袖を潤(ぬら)しけり。已(すで)に南門(なんもん)の程を出で給へば、御船の装束を調へ、「早々(ハヤはや)召(メセ)」と申しければ、「此(こ)は何地(いづち)へ行くぞ。左(さ)て失はるべくは、只(ただ)此(こ)の辺りにて計らふべし」と言ひけるぞ、責(せめ)ての事にやと糸惜(いとほ)しき。御車(みくるま)近く候ひける武士を見たまひて、「是(こ)は誰と云ふ者ぞ」と問ひたまへば、経遠(つねとほ)之(これ)を承つて、「難波(なんば)の次郎と云(マウス)者にて候ふ」と申しければ、「此(こ)の程に定めて我が方様(かたざま)の者や有るらん。尋ねて進(まゐ)らせよ。船に乗らぬ前(さき)に、云ひ置くべき事の有るぞ」と言ひければ、経遠(つねとほ)「其の辺りを走り回つて尋ね問ひけれども、答ふる者更(さら)に無(な)し」と申しければ、成親卿(なりちかのきやう)言ひけるは、「思ふに、入道(にふだう)に恐れてこそ答ふる者の無かるらめ。何(いか)でか此(こ)の辺りに、我が方の類(ユカリ)の者無からん。成親(なりちか)が命にも替らんと契りし侍一二百人も有りけんを、早晩(いつしか)替る心こそ恨みなれ」とて、泪を流したまへば、武(たけ)き勇夫(モノノフ)も皆鎧の袖を濡(ぬら)しけり。
 又言ひけるは、「熊野と云ひ天王寺と云ひ、君の御参詣の時は、二つ甍葺(カハラぶ)き、三つ棟作りの船に御簾(みす)曳き、物の内に居たまひて、次の船には二三十艘計(ばか)り漕ぎ並べてこそ参りしに、此(こ)は猿(さる)体(てい)なる屋形船に、大幕計(ばか)り引き回して、我が方の者は一人も無(な)くて、未(いま)だ見も馴れぬ兵共(つはものども)と乗り連(つ)れて、何地(いづち)とも無(な)く漕ぎ出だされけり。然(さ)こそ悲しく思食(おぼしめ)しけめ。
 今夜は大物(だいもつ)と云ふ所に泊りぬ。三日、未(いま)だ晩(く)れざるに、京より御使ひ有りとて囂(ひしめ)きけり。既(すで)に大納言を失はるべきにやと聞きたまひし程に、然(さ)は無(な)くて、「備前国へ」と云ひて、船を出だすべき由(よし)〓〓(ののし)る。内大臣(ないだいじん)殿より御文有り。大納言取り上げて此れを見るに、「都近き山里那(ナンド)に遷(うつ)し置き奉(たてまつ)るべく、力の及ぶ程申し候へども、遂(つひ)に叶はざる事こそ、世に在る甲斐(かひ)も無(な)く覚え候へ。左右(とかう)して御命計(ばか)りは申し請ひて候ふ」と書かれたり。其の上、旅宿の御具足(ぐそく)調へて、(一頁半の空白あり)濃々(こまごま)と送られけり。又瀬尾(せのをの)太郎保重が許(計)(もと)へも、「穴(あな)賢(かしこ)々(あな)々(かしこ)、大納言殿に御宮仕へ申すべし。疎略に当り奉(たてまつ)るべからず」と懇ろに仰せ下されけるこそ情け深く聞えしか。
 夜も旋(ヤウヤク)明け行けば、「船疾(と)く出だせ」と〓(ののし)る。漫々たる大海に漕ぎ出だす。雲の浪(なみ)、煙の濤(ナミ)の上なれば、船の内にて身を焦(こが)す。近く召し仕ひし君をば別れ奉(たてまつ)り、眤じく馴れ来(コ)し雪上の其の類(ユカリ)も離(か)れ終(は)て、幼少(をさな)き人々を見捨てて、早晩(いつしか)皈(かへ)るべしとも無(な)き遠国(をんごく)、遥かなる堺へ赴(おもむ)きたまふぞ無慚(むざん)なる。
 烏の頭の白く成り、馬に角生ふる其の期(ご)も何(いつ)と知り難ければ、只(ただ)配所の露と消ゆらんのみにて終(は)てんこそ悲しけれ。船の中、波の上の襟、湯水も更(さら)に聞こしめし入れたまはねば、御命永らふべしとも見えたまはねども、露の命も石流(さすが)に消えたまはず。日数も漸(やうや)く過ぎ行きて、都の方のみ恋しくて、跡(あと)の事のみ〓(おぼつかな)し。備前国児島と云ふ所に著(つ)き、民家の恠(あや)し気なる柴の庵に入れ奉(たてまつ)る。彼(か)の所は後ろは山、前は磯、松吹く風の音、岸打(う)つ波の響き、何(いづ)れも哀れを催(もよほ)す媒(なかだ)ちなり。
 抑(そもそも)、此(こ)の大納言、一年(ひととせ)中納言なりし時、尾張国を知り給ひけるに、国司の代官に右衛門尉政知と申す者を下し遣(つか)はされけり。上洛(しやうらく)しけるに、山門の領美濃国平野の神人(じんにん)と事を出だしけり。其の故は、神人(じんにん)葛(くず)と云ふ物を持(も)ち来たりて売買為(せ)んと欲(し)けるを、直銭(ぢきせん)の多少を論じて、返さんとて筆を以つて葛(くず)に墨を付けたるを、神人(じんにん)、心得(え)ぬ事に云ふ程に、尤(とが)め揚りて、其れより神人(じんにん)、山門に訴へければ、山門又公家に奏す。国司成親(なりちか)を流罪(るざい)せられ、目代(もくだい)政知を禁獄せらるべき由(よし)、奏聞を経けり。然(さ)申す程こそ有りけれ、嘉応元年十二月廿四日、日吉(ひえ)七社の御輿(みこし)を洛中に振り奉(たてまつ)り、近衛の門を振り過ぎて、建礼門の前(まへ)に捨て置き奉(たてまつ)つて皈(かへ)りにけり。然(さ)る間、主上思食(おぼしめ)し駭(トドメ)られ、成親(なりちか)を備前国へ流罪(るざい)すべしとて、応(ヤガテ)其の日に西の朱雀(しゆしやか)に遷(うつ)されけり。目代(もくだい)政知をば即(すなは)ち禁獄せられけり。大衆(だいしゆ)軈(やが)て御成敗に預かる事悦(よろこ)びを成す。成親(なりちか)本より罪無(な)き者なり。召し返さるべしと申す間、五ヶ日を経て、同じき廿八日に西の朱雀(しゆしやか)より召し返され、同じき晦日(みそか)本位に補す。次の年正月五日(いつか)、左衛門督(さゑもんのかみ)を兼じて検非違使(けんびゐしの)別当(べつたう)に成る。従二位より正二位して大納言に成りたまふ。加様(かやう)に優(ゆゆ)しく栄え給へば、人見奉(たてまつ)りて、「大衆(だいしゆ)には呪咀(しゆそ)せらるべかりける物をや」とこそ申し敢(あ)ひしか。「神明の罰も人の呪咀(しゆそ)も、速遅の不同こそ有れ、今、有右(かかる)目(め)に逢ひたまへるは」と人々申しけり。所も備前国へと定まる事こそ不思議なれ。
 大納言曰(のたま)ひけるは、「一年(ひととせ)山の大衆(だいしゆ)の訴訟にて唱立(おびたた)しかりしをだに、西の朱雀(しゆしやか)まで遣(つか)はさること有りしが、軈(やが)て召し返されき。是(こ)れは大衆(だいしゆ)の訴訟にも非(あら)ず、君の御誡(いまし)めにても無(な)し。如何(いか)なりける事かな」と、天に仰ぎ地に臥(ふ)して、悲しみ給ふぞ無慙なる。
 然(さ)る程に、新大納言父子(ふし)のみにも限らず、禁(いまし)めらるる人々、其の数多かりけり。近江(あふみの)入道(にふだう)蓮浄(れんじやう)・法勝寺(ほつしようじ)の執行(しゆぎやう)俊寛(しゆんくわん)・山城守(やましろのかみ)基兼(もとかぬ)・式部大夫(しきぶのたいふ)章綱(まさつな)・平(へい)判官(はんぐわん)康頼(やすより)・宗(そう)判官(はんぐわん)信房(のぶふさ)・新平(しんぺい)判官(はんぐわん)資行(すけゆき)等(ら)なり。是(こ)れ皆八条殿より召し取られけり。
十八 成経(なりつね)・康頼(やすより)・俊寛(しゆんくわん)、鬼海が嶋へ流さるる事 康頼(やすより)、嶋において千本の卒都婆を造る事
 廿日、太政(だいじやう)入道(にふだう)、福原より平宰相の許(もと)へ申されけるは、「丹波の少将を此れへ渡し奉(たてまつ)り給へ。相(あ)ひ計ひて何方(いづかた)へも遣(つか)はすべし。都に置き奉(たてまつ)りては猶(なほ)悪しかるべし」と申し送られたりければ、宰相澆(あき)れて神(たましひ)を失ひ、「此(こ)の程日数を経れば、取り延ぶる心も有りつるに、又二度(ふたたび)物を思はする事の悲しさよ。中々(なかなか)尓(そ)の時、爾(と)も此(か)くも成るべかりけるものを」と思はれけるが、今度(こんど)は思ひ切りて、「疾(と)う疾(と)う」と云ふ。少将、又立ち出でながら言ひけるは、「成経(なりつね)、今日(けふ)に至(いた)るまでも有りつることこそ不思議なれ。」北の方も乳母(めのと)の六条も、今更(いまさら)に絶え入り泣き悲しみて、「猶々宰相殿の申し給へかし」と各(おのおの)思はれけり。少将は尚(なほ)四歳の若君を呼び寄せ、「先に言ひしが如(ごと)く、汝七歳に成らば、元服(げんぶく)させて御所に進(まゐ)らせんと思ひしかども、今は云ふに甲斐(かひ)無(な)し。首(かしら)堅(かた)く長(そだ)ちたらば、法師(ほふし)に作(な)りて、吾が後生(ごしやう)を訪(とぶら)へ」と言(のたま)へば、若公(わかぎみ)四つに成りたまふ間、何とは聞き分かねども、打(う)ち点頭(ウなヅ)き給ふぞ遖(あはれ)なる。宰相「今は詮ずる所、世を棄つるより外は算(ハカコト)は無(な)し。然(さ)れども御命を失はるる程の事は世も候はじ」とぞ言ひける。
 廿二日、少将福原へ御坐(おはしま)しけるを、瀬尾(せのを)の太郎兼康に仰せて、備中国へ遣(つか)はす。宰相の返り聞かんことを憚りて、様々(さまざま)に労(いた)はり奉(たてまつ)り、志(こころざし)有る体(てい)にこそ振舞ひけれ。然(さ)れども少将〓(ナぐさ)みたまはず、夜昼泣(な)くより外の事は無(な)し。大納言の御坐(おはしま)しける難波(なんば)と云ふ所と、少将の御在す瀬尾(せのを)と云ふ所は、其の間(アヒ)僅(わづ)かに卅余町なり。瀬尾(せのを)の太郎に「大納言の御在す所へは幾程有るぞ」と問ひたまへば、「片道十三日に罷(まか)り候ふ」とぞ申しける。少将之(これ)を聞きたまひて、「備中・備前両国の間遠しといへども、片道両三日には過ぎじ。近きを遠しと云ふは、知らせじが為なり」と思はれければ、其の後は曾(かさね)て問ひたまはず。
 廿三日、大納言は少しも佻(くつろ)ぎたまはず、太太(いとど)歎きぞ増されける。「少将も福原へ召し取られたる由(よし)聞えしに、今に至(いた)るまで形勢(さま)をも替へずして、面無(ツレな)く月日(つきひ)を過すことも恐れ有り。今は何事をか待つべき」とて、小松殿に申して、出家入道(にふだう)したまひけり。爰(ここ)に大納言の頃年(トシゴロ)糸惜(いとほ)しみ深かりける侍に、源左衛門尉(げんざゑもんのじよう)信俊(のぶとし)と云ふ者有りけり。或(あ)る暮れに、北の方、信俊(のぶとし)を召して言ひけるは、「殿は備前の難波(なんば)に流されたまふと聞けども、生躰(い)きてや御坐(おはしま)すらん、死にて耶(や)御坐(おはしま)すらん、厥(そ)の行栖(ゆくへ)も知らず。此方(こなた)の事も何(いか)計(ばか)りか聞かま慕(ホシ)く欲(おぼ)すらん。汝尋ねて参りなんや否や」と言へば、信俊(のぶとし)涙を抑(おさ)へて、「限りの御共をこそ仕るべく候へども、御方様(かたざま)の者(モノ)は一人も付き奉(たてまつ)らざる由(よし)を承つて、思ひながら留まり候ひぬ。然(しか)るに此(こ)の仰せを承(うけたまは)り候ふ上は、尤(もつと)も所望の次第なり。善悪(ぜんあく)、御文を賜(たま)はり、尋ね参るべし」と申しければ、北の方大きに悦(よろこ)び、御文を書きて給はつてんげり。若公(わかぎみ)・姫公も面々に色葉の字を拾ひ、文を書き、信俊(のぶとし)に取らせたまふ。
 信俊(のぶとし)泣(な)く泣(な)く難波(なんば)に下り、守護の者共に逢ひて、「此れは大納言殿に年来(としごろ)召し仕はれ候ひし源左衛門と申す者にて候ふ。余りに見奉(たてまつ)り度(た)く存ずるが故(ゆゑ)に、遥々と此れ至(まで)尋ね参つて候ふ」と申せば、「何(なに)か苦しかるべき」とて、之(これ)を赦(ゆる)す。信俊(のぶとし)近く参つて、墨染の御袂を見奉(たてまつ)るに、只(ただ)一目見奉(たてまつ)つて、御前に顛(たふ)れ臥(ふ)し、叫び喚(をめ)くこと限り無(な)し。大納言入道(にふだう)も涙に〓(むせ)び、物も言はず。良(やや)久(しばら)くあつて、大納言言ひけるは、「多くの者共(ども)の中に、汝独り尋ね来たる志(こころざし)こそ有り難けれ。北の方・少なき者共(ども)の形勢(ありさま)は如何(いか)に」と問ひたまへば、「北山の辺り雲林院(うりんゐん)と申す所に深く忍びて御坐(おはしま)し候ふ」とて、御歎きの浅からぬ御有様、若君・姫君の恋ひ慕(シタ)ひ奉(たてまつ)る御事を、濃(こま)かに語り申して、御文共を取り出だして之(これ)を奉(たてまつ)りけり。入道(にふだう)此れを披(ひら)いて見たまふに、涙の色に樒陰(かきく)れて、其の言(こと)の端(は)も見も分かず。然(さ)れども、涙の間(ヒマ)より此れを読みけるに、北の方の御心中、若君・姫君の筆の跡(あと)、主(ぬし)に対(むか)ふが如(ごと)くして、太太(いとど)涙を流しけり。
 信俊(のぶとし)、昔今の物語して、二三日候ひて、泣(な)く泣(な)く又申しけるは、「此(こ)の御形勢(ありさま)をも見奉(たてまつ)り度(た)くは存じ候へども、北の方、何(いか)計(ばか)りか御音信(おとづれ)を聞度(きかまほ)しく思食(おぼしめ)され候ふらん。怱(いそ)ぎ御返事を賜(たま)はつて、又こそ参り候はめ」と申せば、大納言「尤(もつと)も然(しか)るべし。我何(いか)にも成りぬと聞かば、後世(ごせ)をこそ訪(とぶら)へ」とて、御返事共濃(こま)かに書きたまふ。御返事共の中に、鬢髪を裹(つつ)み添へ、信俊(のぶとし)に給ふ。信俊(のぶとし)泣(な)く泣(な)く都に上り、此れを奉(たてまつ)りたりければ、北の方も少なき人々も、御文〈 并びに 〉御髪(みぐし)を見たまひて、謳(をめ)き叫び悶(もだ)へ焦(こが)れ給ふ事斜(なの)めならず。寔(マコト)に目も当てられぬ有様なり。
丹波の少将をば瀬尾(せのを)の太郎に預けて備中国へ遣(つか)はされたりける程に、法勝寺(ほつしようじ)の執行(しゆぎやう)俊寛(しゆんくわん)僧都(そうづ)・平(へい)判官(はんぐわん)康頼(やすより)等を、薩摩方(さつまがた)鬼海が嶋へ流されける間、同罪為(た)るに因(よ)つて、少将をも相(あ)ひ副(そ)へて遣(つか)はされけり。平(へい)判官(はんぐわん)康頼(やすより)は内外の達者(たつしや)、風月の才人なる上、内々(ないない)道心有りければ、摂津国にて形勢(さま)を替へてんげり。出家は本よりの望みなれば、斯(か)くぞ思ひ連(つづ)けける。
 「遂(つひ)に此(か)く背(そむ)き終(は)てけん世の中を 疾(と)く捨てざりし事ぞ悔しき
 彼(か)の嶋は、薩摩国より遥かに海上(かいしやう)を渡りて行く所なり。硫黄(いわう)と云ふ物多き故(ゆゑ)に硫黄(いわう)が嶋とは申すなり。波高く磯荒(あ)れ、船を覆(くつがへ)すこと雲南(うんなん)の濾水(ろすい)の如(ごと)し。然(さ)れば則(すなは)ち、邂逅(たまさか)にも渡る人無(な)し。彼(か)の嶋には人稀なり。自(おの)づから有る者は、此(こ)の土の人にも似ず、色極(きは)めて黒くして漆(ウルシ)を点(サ)すが如(ごと)し。身には毛多く生ひて肌(はだへ)も陰(かく)るべし。只(ただ)偏(ひとへ)に牛頭(ごづ)の如(ごと)く、馬頭(めづ)に似たり。云ふ詞をば人更(さら)に聞き知らず。服(き)る物無(な)く、腰には海雲(もづく)と云ふ物を纏(まと)ひ著(き)たれば落衣(たうさき)の如(ごと)し。男は烏帽子も著(き)ず、駻鬘(ハネカワ)と云ふ物を為(し)たり。女は髪も裹(つつ)まず、梳(くしけづ)ることも無(な)し。男女共に鬼神(おにかみ)の如(ごと)く、夜叉に似たり。園の桑葉を耨(す)かざれば、更(さら)に絹布の類(たぐひ)無(な)し。下賤(シヅ)が沢田を鋤(かへ)さねば、増して米穀の類(たぐ)ひ稀なり。昔は鬼が住みける間、又鬼海が嶋とも名(なづ)けたり。凡(およ)そ此(こ)の嶋には、常に黒雲天を覆(おほ)ひ、月日(つきひ)の光も更(さら)に見えず。鎮(とこしな)へに白浪(しらなみ)地を動かし、風水の響き共に弁(わきま)へ難(がた)し。嶋の中には高山有つて、早晩(いつしか)とも無(な)く火焔(かえん)劫(も)え立ち燎(も)え上がる。昼夜雷の音隙(ひま)無(な)く、電光荐(しきり)に閃々(ひらめ)いて、昼夜六時に肝を消す。寔(まこと)に一日片時(いちにちへんし)も命有るべき様も無(な)し。
 然(さ)れば則(すなは)ち、三人額(ひたひ)を合はせて、「此(こ)の流罪(るざい)は死罪(しざい)には増したり」と、泣(な)くより外(ほか)の事は無(な)し。
 康頼(やすより)出家の後は判官(はんぐわん)入道(にふだう)聖照(しやうせう)とぞ申しける。身の程才覚有りければ、常に詩を作り、歌を詠(えい)じて慰(なぐさ)む程に、少将も此れに引(ひ)かれて心を遣(や)りたまふ。然(さ)りながら、我等が身は先世(せんぜ)の業(ごふ)と思へば力及ばず。旧里(ふるさと)に残り留まる人々の歎き、思ひ遣(や)られて哀れなり。偶(タマタマ)の夜枯(よがれ)だにも心本(こころもと)無(な)く思はれし中共なるに、都の外、雲井の空、八重(やへ)の塩路を隔てけん、互ひの心ぞ糸惜(いとほ)しき。僧都(そうづ)は余りの歎きに疲れて、岩間の床に泣き居たり。判官(はんぐわん)入道(にふだう)は痛く泣き悲しみても由(よし)無(な)しとて、仏を念じて夜を明かし、神を恃(たの)みて皈京(ききやう)を祈りけり。
 康頼(やすより)入道(にふだう)責(せめ)ての悲しさの余りに、千本の率都婆(そとば)を作り、上には〓字(あじ)を書き、下には二首の歌を書き付けて、裏には年号月日付を為(し)て、毎日に三度海上(かいしやう)に此れを浮かべたり。其の二首の歌に曰(いは)く、
  薩摩方(さつまがた)澳(おき)の小嶋に吾有りと 親には告げよ八重(やへ)の塩風
  想像(おもひや)れ暫(しば)しと思ふ旅だにも 猶(なほ)旧郷(ふるさと)は恋しき物を
左(と)、二首の歌を書き付けて、墨は波に消ゆる事もや有るとて、文字(もじ)を彫(ゑ)りて墨を入れけるとか耶(や)。
 聖照(しやうせう)の思ひや風に成りけん、率兜婆一本は住吉の西の浦に吹き著(つ)けられ、一本は安芸国厳嶋の社の前の渚に寄りたりけるこそ不思議なれ。
 其の比(ころ)、康頼(やすより)が為(ため)に縁(ユカリ)なりける僧の、余りに母の歎きし間、其の行栖(ゆくへ)聞かばやとて、浦々を修行(しゆぎやう)して回りけるが、厳嶋の社にぞ参りける。「彼(か)の明神と申すは、娑竭羅龍王(しやかつらりゆうわう)第三の姫宮にて、本地(ほんぢ)は大日如来なり。八所の社は軒を衝(キシ)る。百八十間の回廊は甍(いらか)を並べたり。凡(およ)そ此(こ)の地の為体(ていたらく)や、後ろには青山峨々(がが)として瀧落ち、前(まへ)には滄海(さうかい)漫々として浪(なみ)静かなり。風松〓(しようぜん)の梢(こずゑ)を払へば妄想(まうざう)の眠りも覚(さ)めぬべし。月社壇(しやだん)の甍(いらか)を照らせば無明(むみやう)の闇も晴れんと欲(す)。潮満ち来たる時には瀾(なみ)の面に鳥居立ち、潮だに晞(ひ)れば白洲(シラス)にて、夏の夜なれども霜ぞ置く。実(まこと)に和光の利益(りやく)は何(いづ)れも区々(マチマチ)にて在(ましま)すといへども、何(いか)なる因縁を以ちてか、此(こ)の明神は殊に海〓(かいはん)の鱗(いろくづ)に縁を結び給ふらん」と、思ひ回(めぐ)らし奉(たてまつ)れば、太太(いとど)信仰(しんがう)深かりけり。
 七日当社に参籠して、「康頼(やすより)が事を聞かせたまへ」と祈りける程に、既(すで)に一七日(いちしちにち)に満ずる夜、月出でて塩の満つるに及び、其墓(そこはか)とも無(な)く海雲(もづく)の流れ寄りけるに、件(くだん)の率都婆を見付けたり。夜曙(あ)けて之(これ)を見るに、康頼(やすより)入道(にふだう)の手跡(しゆせき)なり。上には「平(へい)判官(はんぐわん)入道」と書き付けたり。此(こ)の僧怱(いそ)ぎ洛(みやこ)に上り、北山の紫野(むらさきの)に忍び入り、母の行柄(ゆくへ)を尋ねけるに、母も又思ひの余りに八幡(やはた)に籠(こも)り、「康頼(やすより)が行柄(ゆくへ)を聞かせ給へ」と祈りし程に、今日(けふ)已(すで)に七日に成りぬ。其の暁(アカツキ)、示現(じげん)を蒙(かうぶ)り、下向せんと欲(す)る処に、彼(か)の僧既(すで)に八幡(やはた)に参り、件(くだん)の率兜婆を見せたりければ、違はぬ康頼(やすより)が手にて、「平康頼(やすより)、今は法名聖照(しやうせう)」とぞ書いたりける。
 母此れを見て、「無慚(むざん)やな、『親には告げよ八重(やへ)の塩風』と書きぬらん我が子(こ)の心中こそ糸惜(いとほ)しけれ。三人が中にも故(ことさら)に歎くと聞きしかば、路(みち)にても死にやすらんと思ひしに、然(サテ)は嶋至(まで)著(つ)きぬるにや。別れし時の思ひより、此(こ)の率都婆(そとば)を見るに、中中肝塊(きもたましひ)も消えぬべし。責(せめ)ての思ひの余りにてこそ、率都婆(そとば)に歌をも書きつらめ。何(いか)に中々(なかなか)に率都婆(そとば)よ、漢家大国(だいこく)唐(モロコシ)の方へも行かずして、何しに此れ至(まで)漂(エラ)れ来て、老(おい)の尼に二度(ふたたび)憂(う)き目を見する悲しさよ」とて、率都婆(そとば)を額(ひたひ)に押し当て、天に仰ぎ地に俛(ふ)して、悶(もだ)へ焦(こが)れ給ひけり。
 然(さ)れば、法皇此(こ)の由(よし)を聞食(きこしめ)して、宮人を遣(つか)はし、率都婆(そとば)を召し寄せて叡覧(えいらん)有り、忝(かたじけな)くも御涙に〓(むせ)び給ひけり。内大臣(ないだいじん)重盛(しげもり)之(これ)を給はつて、父相国に見せければ、相国は都也々々(ツヤつや)之(これ)を用ゐず、「京中の奴原(やつばら)が作り事なり」とて、返つて嘲哢に及びける処に、今一本の率都〔婆〕住吉より洛(みやこ)に上りたり。彼此(かれこ)れ二本少しも違はぬ一筆の手跡(しゆせき)なり。尓(そ)の時にこそ、差(さ)しも横紙を破られし静海(じやうかい)も、少し哀れ気に思はれけるとか耶(や)。
 康頼(やすより)三年の夢覚(さ)めて都に還(かへ)り上る至(まで)、此(こ)の歌を口〓(くちずさ)み翫(もてあそ)ばぬ人は無(な)し。昔の蘇武(そぶ)は五言の詩を作り、母の恋しさを止(とど)め、今の康頼(やすより)は二首の歌を読み、親の思ひを慰(尉)(なぐさ)む。彼は雲の上、此れは濤(ナミ)の上、彼は唐朝、此れは我が朝。和漢境は異なれども、祖子(おやこ)の契りは是(こ)れ同じ。遠近所阻(ヘダ)つるといへども、配流の悲しみ是(こ)れなり。何(いづ)れも何(いづ)れも哀れなる事共なり。
 然(しか)るに、大納言入道(にふだう)殿は、配所の心憂(こころう)さ、都の恋しさ、遣(や)る方無(な)く思はれけるに耶(や)、七月十日比(ごろ)より、日に随つて弱られければ、露の命の消えぬ前(さき)に、今一度恋しき人々を見奉(たてまつ)り度(た)く思はれけれども、京都より「疾(と)く疾(と)く失ひ奉(たてまつ)るべし」とて使ひ有りければ、難波(なんば)の次郎之(これ)を承(うけたまは)り、二三日食事を断ち、酒に毒を入れて殺し奉(たてまつ)るとぞ聞えし。又谷底に菱(ヒシ)を殖(う)ゑて、高き所より突き懸けて失ひ奉(たてまつ)るとも云ひ伝へたり。又船に乗せ奉(たてまつ)り、澳(おき)に漕ぎ出でて罧禦(ふしづけ)に為(し)たりとも云(い)へり。三儀の中に、菱(ひし)に串(つらぬ)き給ふは一定(いちぢやう)なり。難波(なんば)が後見に智明と云ふ法師(ほふし)の沙汰と為(し)て、失ひ奉(たてまつ)るとぞ聞えし。彼(か)の法師(ほふし)が最愛(さいあい)の娘を三人持(も)ちけるが、始めは大き娘が物に狂ひ、野山に走り、大納言の詞を吐き、様々(さまざま)の事共を〓(ののし)り、終(はて)には宿所(しゆくしよ)の後ろの竹の内へ走り入り、竹の切り栓(くひ)に身を串(つらぬ)きて失せにけり。一人の右(かく)有るを不思議に思ひたれば、妹二人も又此(か)くの如(ごと)く少しも違はず、右(かく)串(つらぬ)かれて死ににけり。然(さ)てこそ、大納言の菱(ひし)に串(つらぬ)かれ給ふ議は一定(いちぢやう)なりと顕れにけれ。
 此れを伝へ聞きたまふ北の方の心中、推し量られて哀れなり。北の方は、若(も)し互に命有らば、替らぬ姿を今一度見え奉(たてまつ)らんと欲(おも)ひ、髪を付けたれども、今は何(いか)にか為(せ)んとて、雲林院(うりんゐん)の僧坊にて忍びて御髪(みぐし)を落としたまふ。君達(きんだち)も皆形勢(さま)を疲(ヤツ)し、滋(こ)き墨染に引き替へて、孝養(けうやう)報恩より外(ほか)は佗事(たじ)無(な)くぞ修(しゆ)せられける。哀れなりし事共なり。
十九 讃岐院(さぬきのゐん)追号の事
 廿九日、讃岐院(さぬきのゐん)御追号有つて、崇徳院(しゆとくゐん)と名づけ奉(たてまつ)る。是(こ)れは則(すなは)ち鳥羽天皇の一の宮にて、新院と云はれし時、謀叛を発(おこ)したまひし事なり。保元元年七月二日、本院鳥羽天皇〈 諱(いみな)を宗仁と云ふ。 〉崩御有り。同じき十一日卯の尅(こく)に、新院と当今後白川天皇〈 諱(いみな)を雅仁と云ふ。 〉と大極殿(だいこくでん)において御合戦有り。新院遂(つひ)に打(う)ち負けさせ給ひて、同じき十二日、御年廿一にて御餝りを落とさせたまひ、同じき廿三日、讃岐国(さぬきのくに)志度の道場に遷(うつ)されたまひぬ。
 年月を経させたまふ程に、強(あながち)に都を恋しく思食(おぼしめ)されける間、度々(たびたび)主上〈 高倉院か。 〉に申されけれども、御佻(くつろ)ぎ無かりければ、弥(いよい)よ御恨み深くして、我が身の御事は力及ばず思食(おぼしめ)されけれども、殊に著(ツ)き奉(たてまつ)る所の女房達の、斜(なの)めならず古京を恋ひ慕ひけるを、御心苦しく思食(おぼしめ)され、法性寺(ほつしやうじ)の関白忠通(ただみち)の許(もと)へ、「能(よ)き様に誼(はから)ひ申すべき」由(よし)、仰せられけれども、世の中に恐れを作(な)して、御披露も無かりければ、新院思食(おぼしめ)し切つて、御一筆にて五部の大乗経を書写(アソバ)し、都へ申させ給ひけるは、「人間界に生きたる効(シルシ)に、且(かつ)うは後生(ごしやう)菩提(ぼだい)を祈らんが為(ため)に、此(こ)の三年が程、五部の大乗経を書き集めて候ふを、貝鐘の音もせぬ遠国(をんごく)の山中に捨て置く事、浅猿(あさまし)く覚え候ふ。然(しか)るべくは、御経計(ばか)りを洛中・八幡(やはた)・鳥羽辺りに入れ奉(たてまつ)り、納め奉(たてまつ)るべき」由(よし)、申させ給ひける。其の状の奥に一首の御詠有り。
  浜千鳥跡(あと)は都に通(カよ)へども 身は松山に音(ネ)をのみぞ鳴く
 此(こ)の御書をば、今度(こんど)は小室(おむろ)へ申されければ、小室(おむろ)此れを御覧ぜられて、世に哀れに思ひ奉(たてまつ)り、此(こ)の由(よし)聊(いささ)か関白殿に申させ給ふ。大内にて御僉議(せんぎ)有りて云はく、「流人の御自筆の御経を争(いかで)か主も無(な)く洛(みやこ)に入れ給ふべき」とて、入れ奉(たてまつ)るに及ばざりける間、讃岐院(さぬきのゐん)此(こ)の由(よし)を聞食(きこしめ)して、「心憂(こころう)き事かな。百済・高麗(かうらい)・新羅、異朝に至(いた)るまで、兄弟国を諍(あらそ)ひ、伯父甥(をひ)官を論(あげつら)ひて、合戦を致す事は常の習ひなり。然(さ)れども果報の勝劣に依(よ)つて、兄は負け伯父は負けて、手を合はせて降(かう)を請へば、辣(から)き辜(ツミ)に行(おこな)ふこと無し。我悪行(あくぎやう)の心を起こすに非(あら)ず。此れを書くことは、今生(こんじやう)の名望を思ひ捨て、後世(ごせ)菩提の為(ため)に御経を書き奉(たてまつ)れば、置き所をだに免(ゆる)されず。只今(ただいま)生計(ばか)りの敵(かたき)に非(あら)ず、後生(ごしやう)至(まで)の敵(かたき)ごさんなれ」と仰せられて、御舌の端(はし)を喰ひ切り、其の血を以つて経の軸の本毎(もとごと)に御誓状を書(あそば)されけるは、「我が此(こ)の五部の大乗経を三悪道(さんあくだう)に投げ入れて、其の大善力を以つて日本国の大魔縁と成り、必ず此(こ)の怨(うら)みを酬(むく)いん」と誓ひ給ひて、件(くだん)の御経を千尋の底に沈められけり。御爪をも切らず、御髪(みぐし)をも剃らず、生きながら天狗の質(かたち)を現したまふ。
 然(さ)る程に、九ヶ年の星霜(せいざう)を経て、長寛二年〈 甲申(きのえさる) 〉八月廿二日、御歎きや疾(ヤマイ)と成りにけん、御年四十六の時、府中の堤(つつみ)の岡にて遂(つひ)に隠れさせ給ひにけり。白峯(しらみね)と申す山寺にて此れを茶毘(だび)にし奉(たてまつ)る。差(さ)しも思食(おぼしめ)しける執心の故(ゆゑ)に麼(ヤ)、茶毘(だび)の煙も外(よそ)へは散らず、都の方へぞ靡(なび)きける。「御骨をば必ず高野山(かうやさん)へ送るべき」由(よし)、御遺言(ごゆいごん)有りけるが、其れも何(いか)がなりにけん、御存知に耶(ヤ)と〓(おぼつかな)し。
 其の比(ころ)、或(あ)る者夢想を見る事有りけり。讃岐院(さぬきのゐん)の御輿(コシ)を仕つて、内裏の左衛門の陣より入れ奉(たてまつ)らんと欲(す)。供奉(ぐぶ)の輩は、保元の合戦の時亡びし為義(ためよし)・忠正・家弘等は皆悉(ことごと)く御共に候ふ。「此(こ)の内裏は八大明王の守護し奉(たてまつ)る間、入らせ給ふべき隙(ひま)無(な)く候ふ」と申しければ、「然(さ)らば清盛が宿所(しゆくしよ)へ仕れ」とて、太政(だいじやう)入道(にふだう)の西八条へ入れ奉(たてまつ)る、と見て後こそ、入道(にふだう)の悪行(あくぎやう)は日に随つて勧(すす)みけれ。
 去る仁安三年〈 戊子(つちのえね) 〉冬の比(ころ)、西行法師(ほふし)名を改めて円信聖人(しやうにん)と云はれけるが、国々を修行(しゆぎやう)しける次(つい)でに、讃岐(さぬき)の松山に来臨す。「抑(そもそ)も此れは新院の渡らせ給ひし所ぞかし」と思ひ出だし奉(たてまつ)り、見回しけれども、敢(あへ)て其の御跡形(あとかた)も無(な)し。哀れに覚えさせ給ひて、
 「松山に浪(なみ)に流れて来し船の 軈(やが)て空しく成りにけるかな
 御墓は白峯(しらみね)と云ふ所に有りと聞きて、彼(か)の所に詣でて見奉(たてまつ)るに、法花三昧(ほつけざんまい)を勤むる僧一人も無(な)し。恠(あや)しの国人の墓の如(ごと)くに、草深くして分け難(がた)し。「昔は九重の中に綾羅(りやうら)錦繍(きんしう)の御衣に纏(まと)はれて明し暮し給ひしが、今は八重(やへ)の葎(ムぐラ)の下に伏し給ふこそ悲しけれ」とて、聖人(しやうにん)御墓に向ひ居て、一一(つらつら)世間の無常(むじやう)を観じながら、斯(か)うぞ思ひ連(つづ)けける。
 「吉(よし)や君昔の玉の床尓(トテ)も 有右(かから)ん後は何(いか)にかは為(せ)ん
 負(おひ)を木の本に寄せ立て、柴の庵を結構し、七日七夜勤行(ごんぎやう)して、「過去(くわこ)聖霊(しやうりやう)出離(しゆつり)生死(しやうじ)」と祈り奉(たてまつ)り、然(サテ)有るべきに非ざれば、暇(いとま)を申して御墓より出るとて、二首の歌をぞ書き付けける。
 「此(こ)こを又我住み憂(う)くて浮(ウカレ)なば 松は独りに成らんと耶(や)為(す)る
 「引き替へて我が後の世を問へよ松 跡(あと)慕ふべき人も無(な)き身ぞ
二十 宇治の悪左府(あくさふ)、贈官の事
八月三日、宇治の左大臣の贈官贈位の御事有るべしとて、少納言将基御使ひと為(し)て、彼(か)の御墓所(ごむしよ)へ参り向ひ、宣命を捧げて、太政(だいじやう)大臣(だいじん)正一位(しやういちゐ)を贈り奉(たてまつ)る由(よし)、御墓所(ごむしよ)に読み懸け奉(たてまつ)る。彼(か)の御墓所(ごむしよ)は、大和国添上(ソウカミ)の郡(こほり)、河上の村般若野(はんにやの)の御三昧(ごさんまい)なり。昔死骸(しがい)を掘り起こして、棄てられし後は路(みち)の頭(ホトリ)の土と成り、年々に春の草のみ滋(しげ)く生ひて、其の迹(あと)更(さら)に見え分かず。朝家(てうか)の御使ひ尋ね入つて、勅命の旨を伝へけるに、亡魂如何(いか)が覚食(おぼしめ)すらんと、〓(おぼつかな)くぞ覚えし。
 思ひの外の事共出で来て、世を乱ること直也事(ただこと)ことに非(あら)ず、偏(ひとへ)に死霊の致す所とぞ、人々計らひ申されければ、加様(かやう)にも行はれけり。
 冷泉院(れいぜいゐん)の物狂はしく在(ましま)しけるも、死霊の故なり。三条院の御目の暗かりけるも、元方の民部卿(みんぶきやう)の怨霊とぞ承(うけたまは)る。昔も今も怨霊・死霊は恐しき事なれば、早良廃太子(サウラハイたいし)をば崇道(しゆだう)天皇と号して、井上(ゐがみ)内親王をば皇后の職位(しきゐ)に補すと云(い)へり。是(こ)れ皆怨霊を宥(なだ)められし謀(はかりこと)とぞ承(うけたまは)る。
 同じき四日、改元有つて、治承元年と申しけり。
源平闘諍〔録〕巻第一下
本に云はく、建武四年二月八日。又文和四年三月廿三日、之(これ)を書くなり。