保元物語 「校註 日本文学大系」本
凡例
底本:校註 日本文学大系 第十四巻 「保元物語」昭和6年9月26日普及版発行(非売品) 誠文堂
流布本を基としています。漢字、仮名の表記等を変更した箇所が有ります。
参考:岩波書店 日本古典文学大系 51 「保元物語」昭和36年 付録 古活字本
章段の冒頭に@を付け、章段名の後にS+巻(2桁)+章段(2桁)で表記しました。
和歌の後に、W+国歌大観の番号(3桁)を付けました。
脱字等を他本で補った場合は、〔 〕に入れました。
保元物語
保元合戦記 序 (漢文を書き下しにしました。)
夫易にいはく、「天文をみて時変を察し、人文を見て天下を化成す。」といへり。こゝをも(っ)て政道、理にあたる時は、風雨、時にしたが(っ)て、国家豊饒なり。君臣合体するときは、四海太平にして、凶賊おこる事なし。君、上にあ(っ)て、まつりごとたがふ時は、国みだれ民くるしむ。臣、下として礼に背ときは、家をうしなひ身をほろぼす。あるひは、ほしひまゝに国位をうばゝんがために、天下をみだる。黎民これによ(っ)て愁。あるひはみだりがはしく官職をあらそふによ(っ)て、国家をかたぶく。群臣これが為にかなしむ。つゐに旗を戦場に上といへども、天道のゆるしをかうぶらず、はかりことを軍旅にめぐらすといへ共、王法のせめをまぬかれず。かるがゆへにかばねを外土のちりにさらし、みな名を後代のあざけりに残す。いにしへより今にいた(っ)て、誰か一人として、しからずといふ事あらむ。
保元物語 目次
巻之一
後白河院御即位の事
法皇熊野御参詣并びに御託宣の事
法皇崩御の事
新院御謀叛思し召し立つ事
官軍方々手分けの事
親治等生捕らるる事
新院御謀叛露顕并びに調伏の事付けたり内府意見の事
新院為義を召さるる事付けたり鵜丸の事
左大臣殿上洛の事付けたり著到の事
官軍召し集めらるる事
新院御所各門々固めの事付けたり軍評定の事
将軍塚鳴動并びに彗星出づる事
主上三条保殿に御幸の事付けたり官軍勢汰への事
巻之二
白河殿へ義朝夜討ちに寄せらるる事
白河殿攻め落す事
新院・左大臣殿落ち給ふ事
新院御出家の事
朝敵の宿所焼き払ふ事
関白殿本官に帰復し給ふ事付けたり武士に勧賞を行はるる事
左府御最後付けたり大相国御歎きの事
勅を奉じて重成新院を守護し奉る事
謀叛人各召し捕らるる事
重仁親王の御事
為義降参の事
忠正・家弘等誅せらるる事
為義最後の事
義朝の弟ども誅せらるる事
巻之三
義朝幼少の弟悉く失はるる事
為義の北の方身を投げ給ふ事
左大臣殿の御死骸実検の事
新院讃州に御遷幸の事并びに重仁親王の御事
無塩君の事
左府の君達并びに謀叛人各遠流の事
大相国御上洛の事
新院御経沈めの事付けたり崩御の事
為朝生捕り遠流に処せらるる事
為朝鬼が島に渡る事并びに最後の事
目次 終
保元物語
巻之一
@『後白河院御即位の事』 S0101
爰に鳥羽の禅定法皇と申し奉るは、天照大神四十六世の御末、神武天皇より七十四代の御門也。堀川天皇第一の皇子、御母は贈皇太后宮藤茨子、閑院の大納言実季卿の御むすめなり。康和五年正月十六日に御誕生、同年の八月十六日、皇太子にたゝせ給ふ。嘉永二年七月十九日、堀川院かくれさせ給ひしかば、太子五歳にて践祚あり。御在位十六ケ年が間、海内静にして天下おだやか也。寒暑も節をあやまたず、民屋もまことにゆたか也。保安四年正月廿八日、御年廿一にして御位をのがれて、第一の宮崇徳院にゆづり奉り給。大治四年七月七日、白河院かくれさせ給てより後は、鳥羽院天下の事をしろしめして、まつりごとをおこなひ給ふ。忠ある者を賞じおはします事、聖代・聖主の先規にたがはず、罪ある者をもなだめ給事、大慈・大悲の本誓に叶ひまします。されば恩光にてらされ、徳沢にうるほひて、国も富民もやすかりき。
保延五年五月十八日、美福門院の御腹に王子御誕生ありしかば、上皇ことによろこびおぼしめして、いつしか同八月十七日、春宮に立給。永治元年十二月七日、三歳にて御即位あり。よ(っ)て先帝をば新院と申、上皇をば一院とぞ申ける。先帝、ことなる御つゝがもわたらせ給はぬに、をしおろし給ひけるこそあさましけれ。よ(っ)て一院・新院父子の御中、心よからずとぞきこえし。誠に御心ならず御位をさらせ給へり。返りつかせ給べき御志にや、又一の宮重仁親王を位につけ奉らんとやおぼしけん、叡慮はかりがたし。永治元年七月十日、鳥羽院御かざりおろさせ給ふ。御歳三十九、御よはひも未さかりに、玉体もつゝがなくおはしませども、宿善内にもよほし善縁外にあらはれて、眞実報恩の道にいらせ給ぞめでたき。
しかるに久寿二年の夏の比より、近衛院御悩ましまししが、七月下旬には、はやたのみすくなき御事にて、すでに清涼殿のひさしの間にうつし奉る。されば御心ぼそくやおぼしめしけん、御製かく、
虫のねのよはるのみかはすぐる秋を惜む我身ぞまづきえぬべき W001
終に七月廿三日に隠させ給ふ。御歳十七、近衛院是也。尤惜き御齢なり。法皇・女院の御なげき、ことはりにも過たり。
新院此時を得て、我身こそ位にかへりつかずとも、重仁親王は、一定今度は位につかせ給はんと、待うけさせおはしませり。天下の諸人も皆かく存じける処に、思ひの外に美福門院の御はからひにて、後白河院、其時は四宮とて、打こめられておはせしを、御位につけ奉り給ひしかば、たかきもいやしきも、思ひの外の事に思ひけり。此四宮も、故待賢門院の御腹にて、新院と御一腹なれば、女院の御為にはともに御継子なれども、美福門院の御心には、重仁親王の位につかせ給はんことを、なをそねみ奉らせ給て、此宮を女院もてなしまいらせ給て、法皇にも内々申させ給ける也。其故は、近衛院世をはやうせさせ給事は、新院呪咀し奉給となんおぼしめしけり。是によ(っ)て新院の御うらみ、一しほまさらせ給も理り也。
@『法皇熊野御参詣并びに御託宣の事』 S0102
こゝに久寿二年の冬の比、法皇熊野へ御参詣あり。本宮證誠殿の御前にて、現当二世の御祈念ありしに、夢うつゝともあらず、御宝殿の内より、童子の御手をさし出して、打返し<せさせ給。法皇、大におどろきおぼしめして、先達并に供奉の人々を召て、ふしぎの瑞相あり、権現を勧請し奉らばやと思食、「正しきかんなぎやある。」と仰ければ、山中無双の巫をめし出す。「御不審の事あり。うらなひ申せ。」と仰ければ、朝より権現をおろしまいらするに、午時までおりさせ給はねば、古老の山臥八十余人、般若妙典を読誦して、祈請やゝ久し。巫も五体を地になげ、肝膽をくだきければ、諸人目をすまして見る処に、権現すでにおりさせ給けるにや、種々の神変を現じて後、巫、法皇に向ひまいらせて、右の手を指あげて、打返し<して、「是はいかに。」と申す。まことに権現の御託宣也とおぼしめして、いそぎ御座をすべらせ給て、御手をあはせ、「申所是也。さていかゞ候べき。」と申させ給へば、「明年の秋の此、必崩御成べし。其後、世の中手の裏を返すごとくならんずる。」と御託宜有ければ、法皇を始まいらせ、供奉の人々皆涙をながして、「さていかなる事あ(っ)てか、御命延させ給べき。」ととひ奉れば、「定業かぎりあれば力及ばず。」とて、権現はあがらせ給ぬ。参あつまりたる貴賎上下、各頭を地につけておがみ奉けり。法皇の御心の中、いかばかりか御心ぼそく思食けん。日比の御参詣には、天長地久に事よせて、切目の王子の南木の葉を、百度千度かざゝんとこそおぼしめししに、今は三の山の御奉幣も、是をかぎりと御心ぼそく、眞言妙典の御法楽にも、臨終正念・往生極楽とのみぞ御祈念ありける。すべて還御の体、哀なりし御ありさまなり。
@『法皇崩御の事』 S0103
かくて今年は暮にけり。あくる四月廿七日に改元あ(っ)て、保元とぞ申ける。此比より法皇御不予の事あり。ひとへに去年の秋、近衛院先だゝせ給し御歎のつもりにやと、世の人申けれども、業病を受させ給けるなり。日にしたが(っ)ておもらせ給へば、月を追て頼みすくなく見えさせおはしませば、同六月十三日、美福門院、鳥羽の成菩提院の御所にて、御飾をおろさせ給ふ。現世・後生をたのみまいら(っ)させ給ふ。近衛院も先立給ぬ、又、僧老同穴の御契り浅からざりし法皇も、御悩おもらせ給御歎のあまりに、思食たつとぞ聞えし。御戒の師には、三瀧の上人観空ぞ参られける。哀なりし事どもなり。
法皇は権現御託宣の事なれば、御祈もなく御療治もなし。只一向御菩提の御つとめのみなり。七月二日遂に一院隠させ給ぬ。御とし五十四、未六十にもみたせ給はねば、猶惜かるべき御命なり。有為無常の習、生者必滅の掟、始ておどろくべきにあらねども、一天暮て月日の光をうしなへるがごとく、万人歎て父母の喪にあふに過たり。釈迦如来、生者必滅の理をしめさんとて、娑羅双樹の本にて、かりに滅度をとなへ給しかば、人天共にかなしみき。彼二月中の五日の入滅には、五十二類愁の色を顕し、此七月初の二日の崩御には、九重の上下、悲を含めり。心なき草木も愁たる色あり。況や年来ちかく召仕はれし人々、いかばかりの事をか思ひけん。まして女院の御歎、申も中々をろかなり。玉簾の中に龍顔に向ひ奉り、金台の上に玉体にならび給ひしに、今は燈のもとには、伴ふ影もおはしまさず、枕の下には、いにしへを恋る御涙のみぞ積りける。古き御ふすまは、むなしき床に残て、御心をくだく種と成、いにしへのおも影は常に御身に立そひて、忘給へる御事ぞなき。有待の御身は、貴賤も高卑も異なる事なく、無常の境界は、刹利も須陀もかはらねば、妙覚の如来、猶因果の理をしめし、大智の舎利弗、又先業をあらはす事なれば、凡下の驚べきにあらねども、去年の御歎に、今年の御しみ悲のかさなりけるを、いかゞせんとぞおぼしめしける。
@『新院御謀叛思し召し立つ事』 S0104
かゝる御うれへの折節、新院の御心中おぼつかなしとぞ人申ける。されば仙洞もさはがしく、禁裏も静ならざるに、新院の御方の武士、東三条に籠りゐて、或は山の上にのぽり、木の枝にゐて、姉少路西洞院の内裏、高松殿を伺ひ見る由きこえしかば、保元々年七月三日、下野守源義朝に仰て、東三条の留主に候少監物藤原光貞并に武士二人を召取て子細をとはる。一院御不予の間、去ぬる比より、御謀叛の聞え有のみならず、軍兵東西より参集り、兵具を馬におふせ、車に積で持はこび、其外あやしき事おほかりけり。新院日ごろ思食けるは、「昔より位をつぎ、ゆづりをうくること、必嫡孫にはよらね共、其器をえらび、外戚の安否をも尋らるゝにてこそあれ。是は只当腹の寵愛といふ計をも(っ)て、近衛院に位を押とられて、恨ふかくて過し処に、先帝体仁親王隠給ぬる上は、重仁親王こそ帝位に備り給べきに、おもひのほかに、又四の宮にこえられぬるこそ口惜けれ。」と御憤ありければ、御心のゆかせ給事とては、近習の人々に、「いかがせんずるぞ。」と常に御談合ありけり。
宇治の左大臣頼長と申は、知足院の禅閤殿下忠実公の三男にておはします。入道殿の公達の御中に、ことさら愛子にてまし<けり。人がらも左右に及ばぬ上、和漢ともに人にすぐれ、礼義を調へ、自他の記録にくらからず。文才世にしられ、諸道に浅深をさぐる。朝家の重臣・摂禄の器量也。されば御兄の法性寺殿の詩歌に巧にて、御手跡のうつくしくおはしますをば誹申させ給て、「詩歌は楽の中の翫也。朝家の要事に非ず。手跡は一旦の興也。賢臣必しも是を好むべからず。」とて、我身は宗と全経を学び、信西を師として、鎮に学窓に籠て、仁義礼智信をたゞしくし、賞罰・勲功をわかち給、政務きりとをしにして、上下の善悪を糺されければ、時の人、悪左大臣とぞ申ける。諸人か様に恐奉りしかども、眞実の御心むけは、きはめてうるはしくおはしまして、あやしの舎人・牛飼なれども、御勘当を蒙るとき、道理をたて申せば、こま<”と聞召て、罪なければ御後悔ありき。又禁中・陣頭にて、公事をおこなはせ給時、外記・官史等いさめさせ給ふに、あやまたぬ次第を弁へ申せば、我僻事とおぼしめす時は、忽におれさせ給て、御怠状をあそばして、かれらにたぶ。恐をなして給はらざる時は、「我よく思召怠状也。只給り候へ。一の上の怠状を、已下臣下取伝ふる事、家の面目に非ずや。」と仰られければ、畏(っ)て給けるとかや。誠に是非明察に、善悪無二におはします故なり。世も是をもてなし奉り、禅定殿下も大切の人に思食けり。
久安六年九月廿六日、氏の長者に補し、同七年正月十九日、内覧の宣旨をかうぶらせ給。「摂政・関白を閣て、三公内覧の宣旨、是ぞ始なる。」と、人々かたぶき申されけれ共、父の殿下の御はからひの上は、君もあながちに仰らるゝ子細もなし。此大臣とても、必しも世を知食まじきにもなければ、諸臣も是をゆるし給けり。
法性寺殿は、たゞ関白の御名計にて、よその事のごとく、天下の事にをきて、いろはせ給ふ事もなかりしかば、殊に御憤深くて、「当今位につかせ給ひて、世淳素にかへるべくは、関白の辞表おさまるか、又内覧・氏の長者、関白に付らるゝか、両様ともに天裁に有。」と、頻に申させ給ひけり。此関白殿は、万なだらかにおはしませば、人皆ほめもちひ奉れり。
関白殿と左大臣殿とは、御兄弟の上、父子の御契約にて、礼義深くおはしましけれども、後には御中あしくぞ聞えし。されば左大臣殿思食けるは、「一院穏させ給ぬ。今、新院の一の宮重仁親王を位につけ奉て、天下を我まゝに執おこなはばや。」と思ひ立給ひければ、常に新院参り、御宿夜ありければ、上皇も此大臣を深く御頼み有て、仰合らるゝ事懇也。
或夜新院、左大臣殿におほせられけるは、「抑、昔をも(っ)て今を思に、天智は舒明の太子なり。孝徳天皇の王子、其数おはししかども、位につき給き。仁明は嵯峨の第二の王子、淳和天皇の御子達を閣て、祚をふみ給き。花山は一条に先立、三条は後朱雀にすゝみ給き。先蹤是おほし。我身徳行ししといへども、十善の余薫にこたへて、先帝の太子と生れ、世澆薄なりといへども、高来の宝位をかたじけなくす。上皇の尊号につらなるべくは、重仁こそ人数に入べき所に、文にも非ず、武にもあらぬ四宮に、位を越られて、父子共に愁にしづむ。しかりといへ共、故院おはしましつるほどは、力なく二年の春秋ををくれり。今、旧院登霞の後は、我天下をうばゝん事、何の憚かあるべき。定て神慮にもかなひ、人望にも背かじ物を。」と仰られければ、左府、もとより此君世をとらせ給はば、わが身摂禄にをひてはうたがひなしとよろこびて、「尤思食立所、しかるべし。」とぞ勤め申されける。
新院、此御企なりければ、鳥羽の田中殿を出させ給べき由を仰られけるに、なにと聞わけたる事はなけれども、「何様、ことの出来たるべきにこそ。」とて、京中の貴賤・上下、資財・雑具を東西へはこび隠す。家々には門戸をとぢ、人々は兵具を集めければ、「こはいかに。たとひ新院国をうばはせ給共、仙院晏駕の後、纔に十ケ日の内に、此御企、宗の御計ひもはかりがたく、凡慮のをす処然るべからず。このほどは、雲の上には、星の位静に、境の中には、波風も治まりつる御代に、かく切(っ)て継だる様に、さはぎ乱るゝ事のかなしさよ。」と人々歎あへり。
@『官軍方々手分けの事』 S0105
内裏にも此よし聞えければ、同五日、めされて参る武士は誰々ぞ。まづ下野守義朝・陸奥新判官義康・安芸判官基盛・周防判官季実・隠岐判官惟重・平判官実俊・新藤判官助経、軍兵雲霞のごとく召具して、高松殿に参じけり。彼等を南庭にめされて、少納言入道をも(っ)て、去二日、一院崩御の後、武士ども兵具を調て、東西より都へ入集る事、道も去あへず、以外の狼籍也。弓箭を帯せん輩をば、一々に召取(っ)て参上すべき由仰下さる。各庭上に■て是を承る。「義朝・義康は、内裏に侯て、君を守護し奉れ。其外の検非違使は、皆関々へ向ふべし。」とて、宇治路へは安芸判官基盛、淀路へは周防判官季実、粟田口へは隠岐判官惟重、久々目路へは平判官実俊、大江山へは新藤判官助経承(っ)て向ひけり。今夜関白殿、并に大宮大納言伊通卿已下、公卿参じて、議定有て、謀叛の輩皆めしとつて、流罪すべきよし宣下せらる。春宮大夫宗能卿は、鳥羽殿に候はれけるをめされければ、風気とて参内せられず。
明れば六日、検非違使ども、関々へ越けるに、基盛宇治路へ向ふに、白襖の狩衣に、浅黄糸の鎧に、うはおりしたる烏帽子の上に、白星の冑をき、切符の矢に、二所藤の弓もち、黒馬に黒鞍をきてぞ乗(っ)たりける。其勢百騎計にて、基盛、大和路を南へ発向するに、法性寺の一の橋の辺にて、馬上十騎ばかり、ひたかぶとにて、物の具したる兵廿余人、上下卅余人、都へ打(っ)てぞ上りける。基盛、「是は何の国よりどなたへ参ずる人ぞ。」と問せければ、「此程京中物忽のよしうけたまはる間、その子細を承らむとて、近国に候者の上洛仕にて候。」と答。基盛打むかひて申けるは、「一院崩御の後、武士ども上洛の由叡聞に及間、関々をかために罷むかふ也。内裏へ参る人ならば、宣旨の御使にうち列て参じ給へ。然らずはえこそ通し申まじけれ。かう申は、桓武天皇十代の御末、刑部卿忠盛が孫、安芸守清盛が次男、安芸判官基盛、生年十七歳。」とぞ名乗(っ)たる。大将とおぼしき者、かちん(の)直垂に藍白地を黄に返したる鎧きて、黒羽の矢負、塗籠藤の弓を持、黄川原毛なる馬に、貝鞍をいて乗(っ)たりけるが、すゝみ出て、「身不肖に候へども、形のごとく系図なきにしも候はず。清和天皇九代の御末、六孫王七代の末孫、摂津守頼光が舎弟、大和守頼信が四代の後胤、中務丞頼治が孫、下野権守親弘が子に、宇野七郎源の親治とて、大和国奥郡に久住して、未武勇の名をおとさず。左大臣殿の召によ(っ)て、新院の御方に参るなり。源氏は二人の主取事なければ、宣旨なりともえこそ内裏へは参まじけれ。」とて打過ければ、基盛百余騎の中にとりこめてうたんとしけるを、親治ち(っ)ともさはがす、弓とりなをして、散々に射るに、平氏の郎等矢庭に二人射落されて、ひるむところを、えたりやおうとて、十騎の兵轡をならべて懸たりければ、平家の兵叶はじとや思けん、法性寺の北のはづれまでぞひきたりける。
@『親治等生捕らるる事』 S0106
去程に高松殿には、基盛すでに凶徒と合戦すと聞えければ、兵、我も<と馳来る。基盛、たかき所にうち上りて下知せられけるは、「敵はたゞ其勢にてつゞくものもなし。御方多勢なれば、をの<組で一々に搦取(っ)て見参に入よ、伊賀・伊勢の者ども。」と申されければ、伊藤・斉藤、弓手・妻子より馳よりて、一騎が上に五六騎七八騎落かさなれば、親治たけく思へ共、力なく自害にも及ばず生捕られにけり。誠に王事もろい事なき謂にや、宗徒のもの共十六人からめ取(っ)て、基盛、射向の袖に立たる矢どもおりかけ、郎等あまた手負せ、わが身もあけに成(っ)て参内し、此由を奏聞して、又宇治へぞ向はれける。親治をば北の陣を渡して、西の獄にぞ入られける。主上御感の余に、其夜臨時の除目おこなはれて、正下四位になされけり。聞書には、「宇野七郎親治己下、十六人の凶徒、搦まいらする賞なり。」とぞ記されける。
@『新院御謀叛露顕并びに調伏の事付けたり内府意見の事』 S0107
同八日、関白殿下、大宮大納言伊通卿、春宮大夫宗能卿参内して、来十一日左大臣流罪のよし定申さる。謀叛の事既に露顕によ(っ)て也。其故は、左府、東三条に或僧をこめて秘法をおこなはせ、内裏を呪咀し奉らるゝよしきこえて、下野守義朝に仰て、其身をめされければ、東三条殿に行向(っ)て見るに、門戸をとぢて、たゝけどもあけず。よ(っ)て西面の南の小門を打破(っ)て入ぬ。角振・隼の社の前を過て、十巻の泉の前に壇を立ておこなふ僧あり。相模阿闍梨勝尊とて、三井寺の住侶なり。「宣旨ぞ、参れ。」といへ共音もせず。兵二人よりて、左右の手を取て引(っ)たつれ共、肘をかゞめてのべず、宛か力士のごとく也。「其儀ならば法に任よ。」といふ程こそあれ、兵あまたより、取(っ)てふせて、是を弱、本尊并に左大臣の書状等、相具してゐてまいる。
蔵人治部大夫雅頼、一廊判官俊成承つて子細をとふに、「別の義なし。関白殿と左大臣殿との御中、和平の由を祈祷申。」と云々。されども左府の書状顕然なり。其状にいはく、
御撫物事、承候畢。撰レ天感レ地、應二曜宿良辰一、於二賞罰厳重冥衆影向地一、被レ修二無双深秘之法一事、尤以神妙之由、神気色所レ候也。我聞、恵亮砕二頭脳一、備二清和帝祚一、尊意振二智剣一、加二刑罰将門一。不レ及二人力一処、冥顕之擁護如レ斯、然者発二猛利誠心一致二丁寧懇志一、何不レ成二就素意一哉。爰以帰二伏怨敵一、相二従群臣謀一、奈何背二礼法一乎。早慰二欝念一此時也。再耀二映光禅房一事、更不レ可レ有レ疑者也。恐々謹言。
七月二日 頼長
明王院相模阿闍梨御房 御返事
件の法は烏■娑摩、金剛童子、聖天供とぞきこえし。さてこそ新院御謀叛の事顕れけれ。其上、平馬助忠正、故美濃前司家憲が子、田多蔵人大夫頼憲等を、軍の大将軍の為に、左府かたらはるゝよし聞えければ、主上、治部大夫雅頼に仰て、かれらをめされければ、則大夫史師経に仰つけらる。師経やがて忠正・頼憲がもとに行向(っ)てめすに、「此程は宇治殿に候。」とて参らず。
鳥羽殿には、今日故院の七日に当り給ければ、大夫史師経に仰つけて、田中殿にて御仏事おこなはる。新院は、一所にわたらせ給ながら、御幸もなければ、人弥あやしみをなす所に、剰、都へ御出あるべき由仰下されければ、左京大夫孝長卿申されけるは、「旧院晏駕の御中陰をだにもすぎさせ給はで、御出の条、世も(っ)てあやしみをなすべし。且は冥の照覧をもいかゞ御憚なかるべき。」と諌申されけれども、叶まじき御けしきなりしかば、孝長卿、思計なくて、兄徳大寺の内大臣実能卿のもとに行、「かゝる御はからひこそ候へ。」と聞えしかば、内府大きに驚かせ給て、「左府の申すゝめらるゝよし、内々きこえしかども、まことしからず侍しに、哀詮なき御企かな。末代といひながら、さすが天子の御運は、凡夫の思慮にあらず。天照大神・正八幡宮の御はからひなり。我国、辺地粟散の境といへども、神国たるによ(っ)て、惣じては七千余座の神、殊には三十番神、朝家を守奉り給ふ。歴代の先朝、皆弟・甥をいやしとおぼしめせども、位を越られ、世をとられ給事、今に始ぬためし也。御運をば天に任て御覧ぜんに、猶御心ゆかせ給はずは、をそらくは御出家などもありてこそ、傍に引こもらせ給はめ。就中、一院崩御の御中陰をだにも過させ給はずして、出御ならん事、素意及がたし。定て御後悔あるべし。」と、内々御気色を伺ひて、洩し奏聞せらるべきよし申されければ、孝長帰参して、此旨を披露有ければ、院、「それはさる事なれども、我此ところにあつては、事にあふべき由、女房兵衛佐がつげしらする子細ある間、其難をのがれんためにいづるなり。全別の意趣にあらず。」とて、敢て御承引もなければ、重て申に及ばず。
七月十日、大夫史師経、平忠正・源頼憲二人召進ずべき由の院宣を官使にもたせて、宇治へ行向(っ)て、左大臣殿に付奉れば、即時に召具して参べきよし、御返事申させ給けり。新院は、十一日の如法夜深て、田中殿より白川の先の斉院の御所へ御幸なる。よ(っ)て斉院の行啓とぞ披露ありける。御供には、左京大夫孝長卿・右馬権守実清・山城前司頼輔・左衛門大夫平家弘、其子光弘などぞ侯ける。
@『新院為義を召さるる事付けたり鵜丸の事』 S0108
其比、六条判官為義と申は、六孫王より五代の後胤、伊与入道頼義が孫、八幡太郎義家が四男也。内裏よりめされけれども、いかゞ思ひけん参ぜざりしかば、上皇の召にもしたがはずしてありしが、余に白河殿より度々めされければ、まいるべき由申ながら、いまだ参らず。仍而孝長卿、六条堀川の家に行向(っ)て、院宣の趣の給ひければ、忽に変改して申けるは、「為義、義家が跡を続で朝家の御まもりにて候へば、君心にくゝおぼしめさるゝは理にて侍れども、我と手下したる合戦未仕らず。但十四のとし、舅、美濃前司義綱が謀叛をおこし、近江国甲賀山にたてこもり候しを、承(っ)て登向し侍しかば、子共は皆自害し、郎等どもは落うせて、義綱は出家仕りしをからめ進じ候き。又十八歳の時、南都の大衆朝家をうらみ奉る事有て、都へ責上る由きこえしかば、罷向(っ)て防げと仰下さるゝ間、俄事にて侍る上、おりふし無勢にて、わづかに十七騎にて粟粉山にはせむか(っ)て、数萬の大衆を追返し候き。其後は自然の事出来る時も、冠者原をさしつかはしてしづめ候き。是為義が高名に非ず。されば合戦の道無調練なる上、齢ひ七旬に及び候間、物の用にも立がたく侯。よ(っ)て此程、内裏よりしきりにめされ候つれ共、所労の由をいつはり申て参ぜず。すべて今度の大将軍、いたみ存ずる子細おほく侍り。聊宿願の事有て、八幡に参籠仕て候に、さとし侍き。又すぐる夜の夢に、重代相伝仕(っ)て候月数・日数・源太が生衣・八龍・澤潟・薄金・楯無・膝丸と申て、八領の鎧候が、辻風にふかれて四方へ散と見て侍る間、かた<”憚存候。まげて今度の大将をば、余人に仰付られ候へ。」とぞ申されける。
孝長重ねてのたまひけるは、「如夢幻泡影は、金剛般若の名文なれば、夢ははかなき事也。其上、武将の身として、夢見・物忌など余にをめたり。披露に付ても、憚あり、いかでか参られざらん。」と申されければ、「さ候はゞ為義が子どもの中には、義朝こそ坂東そだちの者にて合戦に調練仕り、其道かしこく候上、付したがふ所の兵共、皆然べき者共にて候へ共、それは内裏へ召れて参り候。其外のやつ原は、勢なども候はぬ上、大将など仰付らるべき者とも覚候はず。但八郎為朝冠者こそ、力も人にすぐれ、弓も普通にこえて、余に不用に候しかば、幼少より西国の方へ追下して候が、おりふし罷上て侯。是をめされて、軍の様をも仰下され侯へ。」と申されけるを、「其様をも、参てこそ申上らるべけれ。ゐながら院宣の御返事はいかゞあらん。然るべからず。」との給ひければ、「誠に其義あり。」とて打立ければ、四郎左衛門頼賢・五郎掃部助頼仲・賀茂六郎為宗・七郎為成・鎮西八郎為朝・源九郎為仲以下、六人の子ども相具して、白河殿へぞ参りける。新院御感の余に、近江国伊庭庄・美濃国青柳庄、二ケ所を給て、即判官代に補して、上北面に候べき由、能登守家長して仰られ、鵜丸と云御剣をぞ下されける。
此御帯太刀を鵜丸と名付らるゝ事は、白河院、神泉苑に御幸成(っ)て、御遊の次に、鵜をつかはせて御らんじけるに、ことに逸物と聞えし鵜が、二三尺計なるものを、かづきあげては落しおとし、度々しければ、人々あやしみをなしけるに、四五度に終にくふてあがりたるを見れば、長覆輪の太刀也。諸人奇異の思ひを成、上皇もふしぎにおぼしめし、「定て霊剣なるべし。これ天下の珍宝たるべし。」とて、鵜丸と付られて御秘蔵ありけり。鳥羽院伝させ給けるを、故院又新院へ参せられたりしを、今、為義にぞ給ける。誠に面目の至也。
為義、今度は最後の合戦と思ひければ、重代の鎧を一領づゝ五人の子どもにきせ、我身は薄金をぞきたりける。源太が初衣と膝丸とは、嫡々につたはる事なれば、雑色花澤して、下野守のもとへぞつかはしける。為朝冠者は器量人にすぐれて、常の鎧は身に合ざりければ着ざりけり。此膝丸と申は、牛千頭が膝の皮を取り、おどしたりければ、牛の精や入たりけん、常に現じて主を嫌けるなり。されば塵などをはらはんとても、精進潔斉して取出しけるとなり。かゝる希代の重宝を、敵となる子のもとへつかはしける親の心ぞ哀なる。
@『左大臣殿上洛の事付けたり著到の事』 S0109
去程に、左大臣殿は御輿にて、醍醐路をへて白河殿へいらせ給ふ。御供には、式部太夫盛憲・弟蔵人大夫経憲・前の瀧口秦の助安等也。御車には、山城前司重綱・管旧料業宣二人をのせられて、御出の体にて宇治より入給へば、夜半計に基盛が陣の前をぞやりとをしける。重綱・業宣、白川殿に参着して、「あなおそろし。鬼の打飼に成たりつる。」とて、わななひてぞおりたりける。「漢の紀臣が葦車に乗(っ)て、敵陣へ入たりし心には似もにざりけり。」とぞ人々申ける。
去ぬる九日、田中殿より内裏へ御書あり。御使は武者所近尚也。是は伶人の近方が子也。其御文にいはく、
御晏駕之後者、■二萬事一、致二追善孝志一、改二旧儀陵■一、可レ有二政道一之処、路次■々闘戦、洛陽■々争競。彼併似レ不レ顧二存■一。猶歎三■巣二幕上一。如何早翻二折伏摂取之新義一、被レ致二仁徳一。天下之静謐而無為無事、就二冥顕一可レ有二加護一歟。不宣謹言。
七月九日
則内裏より御返事あり。
禅札以令二拝見一之所、尋二事之濫■一、侫人不敵之結構歟。古人云、徳尊時者治二天下一、乱時者取レ之。侫者亡二国利一也。如何非二筆所一レ宣。謹言。
七月九日
此御返事を、此夜左大臣殿にみせ申給云々。
新院の御方へ参ける人々には、左大臣長公・左京大夫孝長卿・近江中将成雅・四位少納言成高・山城前司頼資・美濃前司泰成・備後権守俊通・皇后宮権大夫師光・右馬権頭実清・式部太夫成憲・蔵人太輔経憲・皇后宮亮憲親・能登守家長・信濃守行通・左衛門佐宗康・勘解由次官助憲・桃園蔵人頼綱・下野判官代正弘・其子左衛門大輔家弘・右衛門太夫頼弘・大炊助度弘・右兵衛尉時弘・文童生康弘・中宮侍長光弘・左衛門尉盛弘・平馬助忠正・其子院蔵人長盛・次男皇后宮侍長忠綱・三男左大臣勾当正綱・四男平九郎通正・村上判官代基国・六条判官為義・左衛門尉頼賢を始として、父子七人、都合其勢一千余騎とぞしるしたる。
@『官軍召し集めらるる事』 S0110
去程に、内裏より左大将公教卿・藤宰相光頼卿、二人御使にて、八条烏丸の美福門院へ参り、権右少弁惟方をも(っ)て、故院の御遺誡を申出さる。此兵乱の出来たらんずる事をば、かねてしろしめしけるにや、内裏へめさるべき武士の交名をしるしをかせ給へるなり。義朝・義康・頼政・季実・重成・維繁・実俊・資経・信兼・光信等なり。安芸守清盛は、多勢の者なれば、尤めさるべけれども、一宮重仁親王は、故刑部卿忠盛の養君にてましませば、清盛は御乳母子なれば、故院御心ををかせ給ひて、御遺誡にもいれさせ給はざりしを、女院御謀をも(っ)て、「故院の御遺誡にまかせて、内裏を守護し奉るべし。」と御使ありければ、清盛、舎弟・子共引具して参けり。諸国の宰吏・諸衛官人・六府の判官、各兵杖を帯して候けり。公家には、関白殿下・内大臣実能・左衛門督基実・伏見源中将師仲などぞ参られける。
@『新院御所各門々固めの事付けたり軍評定の事』 S0111
新院は、斉院の御所より北殿へうつらせ給ふ。左府は車にて参給。白河殿より北、川原より東、春日の末に有ければ、北殿とぞ申ける。南の大炊御門面に、東西に門二あり。東の門をば平馬助忠政承(っ)て、父子五人、并に多田蔵人太夫頼憲、都合二百余騎にてかためたり。西の門をば六条判官為義承(っ)て、父子六人してかためたり。其勢百騎計には過ざりけり。是こそ猛勢なるべきが、嫡子義朝に付て、多分は内裏へ参けり。爰に鎮西の八郎為朝は、「我は親にもつれまじ。兄にも具すまじ。高名不覚もまぎれぬやうに、只一人いかにも強からん方へさしむけ給へ。たとひ千騎もあれ、万騎もあれ、一方は射はらはんずる也。」とぞ申ける。よ(っ)て西川原面の門をぞかためける。北の春日面の門をば、左衛門太夫家弘承(っ)て、子共具してかためたり。其勢百五十騎とぞきこえし。
抑、為朝一人として、殊更大事の門をかためたる事、武勇天下にゆるされし故なり。件の男、器量人にこえ、心飽まで剛にして、大力の強弓、失続早の手聞なり。弓手のかひな、馬手に四寸のびて、矢づかを引事世に越たり。幼少より不敵にして、兄にも所ををかず、傍若無人なりしかば、身にそへて都にをきなばあしかりなんとて、父不孝して、十三のとしより鎮西の方へ追下すに、豊後国に居住し、尾張権守家遠を乳母とし、肥後の阿曾の平四郎忠景が子、三郎忠国が聟に成て、君よりも給らぬ九国の惣追補使と号して、筑紫をしたがへんとしければ、菊地・原田を始として、所々に城をかまへてたてこもれば、「其儀ならば、いでおといて見せん」とて、未勢もつかざるに、忠国計を案内者として、十三の年の三月の末より、十五の年の十月まで、大事の軍をする事廿余度、城をおとす事数十ヶ処也。城をせむるはかりこと、敵をうつ手だて人にすぐれて、三年が間に九国を皆せめおとして、をのづから惣追補使に推成(っ)て、悪行おほかりけるにや、香椎の宮の神人等、都に上りう(っ)たへ申間、去じ久寿元年十一月廿六日、徳大寺中納言公能卿を上卿として、外記に仰て宣旨を下さる。
源為朝久住二宰府一、忽二緒朝憲一、咸背二綸言一、梟悪頻聞、狼籍尤甚。早可レ令レ禁二進其身一。依二宣旨一執達如レ件云々。
然れ共、為朝猶参洛せざりければ、同二年四月三日、父為義を解官せられて、前検非違使になされにけり。為朝是をきいて、「親の咎にあたり給ふらむこそあさましけれ。其義ならば、我こそいかなる罪科にもおこなはれんず。」とて、いそぎ上りければ、国人共も上洛すべきよし申けれ共、「大勢にて罷上らん事、上聞穏便ならず。」とて、かたのごとくに付したがふ兵ばかりめしぐしけり。乳母子の箭前払の須藤九郎家季・其兄あきまかぞへの悪七別当・手取の与次・同与三郎・三町礫の紀平次太夫・大の矢新三郎・越矢の源太・松浦の次郎・左中次・吉田の兵衛太郎・打手の紀八・高間の三郎・同四郎をはじめとして、廿八騎ぞ具したりける。よ(っ)て去年より在京したりしを、父不孝をゆるして、此御大事にめし具しけるなり。
為朝は七尺計なる男の、目角二つ切たるが、かちに色々の糸をも(っ)て、師子の丸をぬふたる直垂に、八龍といふ鎧をにせて、しろき唐綾をも(っ)てをどしたる大荒目の鎧、同獅子の金物打(っ)たるをきるまゝに、三尺五寸の太刀に、熊の皮の尻ざや入、五人張の弓、長さ八尺五寸にて、つく打(っ)たるに、卅六さしたる黒羽の矢負、甲をば郎等にもたせてあゆみ出たる体、■会もかくやとおぼえてゆゝしかりき。謀は張良にもおとらず。されば堅陣をやぶる事、呉子・孫子がかたしとする所を得、弓は養由をも恥ざれば、天をかける島、地をはしる獣の、おそれずと云事なし。上皇を始まいらせて、あらゆる人々、音にきこゆる為朝見んとてこぞり給ふ。左府則、「合戦の趣はからひ申せ。」との給ひければ、畏而、「為朝久しく鎮西に居住仕(っ)て、九国の者どもしたがへ候に付て、大小の合戦数をしらず。中にも折角の合戦廿余ヶ度なり。或は敵にかこまれて強陣を破り、あるひは城を責て敵をほろぼすにも、みな利をうる事夜討にしく事侍らず。然れば只今高松殿に押よせ、三方に火をかけ、一方にてさゝへ候はんに、火をのがれん者は矢をまぬかるべからず、矢をおそれむ者は、火をのがるべからず。主上の御方心にくゝも覚候はず。但兄にて候義朝などこそ懸いでんずらめ。それも真中さして射おとし候なん。まして清盛などがへろ<矢、何程の事か候べき。鎧の袖にて払ひ、けちらしてすてなん。行幸他所へならば、御ゆるされを蒙(っ)て、御供の者、少々射ふする程ならば、定而駕輿丁も御輿をすてて逃去候はんずらん。其時、為朝参向ひ、行幸を此御所へなし奉り、君を御位につけまいらせん事、掌を返すがごとくに候べし。主上を向へまいらせん事、為朝矢二三をはなたんずる計にて、未天の明ざらむ前に、勝負を決せむ条、何の疑か候べき。」と憚る所もなく申たりければ、左府、「為朝が申様、以外の荒義なり。年のわかきが致す所歟。夜討などいふ事、汝等が同士軍、十騎廿騎の私事也。さすが主上・上皇の御国あらそひに、源平数をつくして、両方に有(っ)て勝負を決せんに、むげに然るべからず。其上、南都の衆徒をめさるゝ事あり。興福寺の信実・玄実等、吉野・十津川の指矢三町・遠矢八町と云者どもを召具して、千余騎にてまいるが、今夜は宇治につき、富家殿の見参に入、暁是へまいるべし。かれらを待調て合戦をばいたすべし。又明日、院司の公卿・殿上人を催さんに、参ぜざらん者共をば死罪におこなふべし。首をはぬる事両三人に及ばゞ、残りはなどか参らざるべき。」と仰られければ、為朝、上には承伏申て、御前を罷立てつぶやきけるは、「和漢の先蹤、朝庭の礼節には似もにぬ事なれば、合戦の道をば、武士にこそまかせらるべきに、道にもあらぬ御はからひ、いかゞあらむ。義朝は武略の道には奥義をきはめたる者なれば、定て今夜よせんとぞ仕候覧。明日までも延ばこそ、吉野法師も奈良大衆も入べけれ。只今押よせて、風上に火を懸た覧には、戦とも争利あらんや。敵勝にのる程ならば、誰か一人安穏なるべき。口おしき事かな。」とぞ申ける。
@『将軍塚鳴動并びに彗星出づる事』 S0112
去程に、鳥羽殿には、故院の旧臣、左大将公教卿・藤宰相光頼卿・右大弁顕時朝臣など籠居し給けるが、「去ぬる八日より彗星東方に出、将軍塚頻に鳴動す。天変地夭、占文のさす所、つゝしみ更にかろからず。新院の御所には、軍兵数千騎まいり集て、公卿殿上人をめすに、まいらざらん者をば死罪におこなふべしと、左府議せらるなれば、我らとても、其難をのがるべからず。其上、京中を焼はらひ、内裏にも火をかけてせめんに、若行幸他所へならば、御輿に矢をまいらせんなどゝ、為朝とかやが申なれば、君とても安穏にわたらせ給はんや。一院かくれさせ給て、十ヶ日の内に、かゝるふしぎの出来ぬるこそあさましけれ。内裏にも仙洞にも、御追善のいとなみの外は他事おはしますまじきに、こはいかになりぬる世の中ぞや。天照大神は、百王をまもらんとの御ちかひも、つきぬるやらん。」と申されければ、光頼卿、「つら<事の心を思ふに、日本は是神国也。されば御裳濯川の流絶ずして、既に七十四代の天津日次を受給ふ。昔、崇神天皇の御時、天津社・国津社を定をかれてより此かた、神わざ事しげき国のいとなみ、只宝祚長久のため也。七千余座の神祇、夜のまもり、昼の守り、なじかはおこたり給べき。就中、推古天皇の御時、上宮太子世に出て、守屋の逆臣をほろぼして仏法をひろめ、四天王寺を立て国家をいのり、聖武天皇、東大寺を立て、大神宮の御本地をあらはして、帝運を祈請し給。行基菩薩は、河州石川の郡に四十九院を立始給ひて宝祚を鎮護し給ひしより、伝教大師は、此叡山を開基して一乗妙典をあがめ、弘法大師は、高野山を建立して眞言の秘法を修行して専に天下の護持をいたす。殊に白河・鳥羽の南院、仏法に帰しおはしまして、国郡数神に裁たり。田園おほく仏聖に寄らる。よ(っ)て三宝も国家をまもり給ふべし。神明も帝祚をすて給はんや。其上此京は、桓武天皇の御宇、延暦十三年十月廿一日、長岡の京より移されて後、弘仁元年九月十日、平城の先帝世をみだり給ひしかども、此京は無為也。其後帝王廿五代、星霜三百四十七年の春秋ををくれり。其間にも、朱雀院の御宇には、将門・純友東西に乱逆を成、御冷泉の御世には、貞任・宗任兄弟謀叛を企、或は八ヶ国をしたがへて八箇年合戦し、或は奥州に支て、十二年までふせぎ戦しかども、あへて都の乱にならず、つゐに皇化にしたがひき。されば今も誰人か此京をほろぼし、何者か我君をかたぶけん。南には八幡大菩薩、男山に跡をたれて帝都をまもり、北には賀茂大明神・天満天神、東西には稲荷・祇園・松尾・大原野等、光をならべて日夜に結番し、禁囲をまもり給ふ。縦逆臣乱をなすとも、争か霊神のたすけなかるべき。」とたのもしげにぞのたまひける。
@『主上三条殿に御幸の事付けたり官軍勢汰への事』 S0113
去程に、内裏は高松殿なりしが、分内せばくて便宜あしかりなんとて、俄に東三条殿へ行幸なる。主上は御引直衣にて、腰輿にめさる。神璽・宝剣を取て、御輿に入まいらせらる。御供の人々には、関白殿・内大臣実能・左衛門督基実・右衛門督公能・頭中将公親朝臣・左中将光忠・蔵人少将忠親・蔵人右少弁資長・右少将実宣・少納言入道信西・春宮学士俊憲・蔵人治部太輔雅頼・大外記師季等也。武士の名字はしるすに及ばず。
其時義朝を御前にめさる。赤地の錦の直垂に折烏帽子引立て、脇立ばかりに太刀帯たり。少納言入道をも(っ)て軍の様をめしとはる。義朝畏而申けるは、「合戦の手だて様々に候へ共、即時に敵をしへたげ、たち所に利をうる事、夜討に過たる事候はず。就中南都より衆徒大勢にて、吉野・十津川の者共めし具して、千余騎にて今夜宇治につく。明朝入洛仕る由きこえ候。敵に勢のつかぬさきに推寄候はん。内裏をば清盛などに守護せさせられ候へ。義朝は罷向(っ)て、忽に勝負を決し候はん。」とぞすゝみける。
信西御前の簀子に候けるが、殿下の御気色を承(っ)て申けるは、「此の儀尤然るべし。詩歌管絃は臣家の翫所也といへ共、それ猶くらし。いはんや武芸の道にをひてをや。一向汝がはからひたるべし。誠に先ずる時は人を制す、後するときは人に制せらるといへば、今夜の発向尤也。然らば清盛をとゞめん事もしかるべからず。武士は皆々罷向べし。朝威をかろしめ奉る者、豈天命にそむかざらむや。はやく凶徒を追討して、逆鱗をやすめ奉らば、先日ごろ申す所の昇殿にをひては、うたがひあるべからず。」と申されければ、義朝、「合戦の庭に罷出て、なんぞ余命を存せん。只今昇殿仕(っ)て、冥途の思出にせん。」とて、をして階上へのぼりければ、信西、「こはいかに。」と制しけり。主上是を御覧じて、御入興ありけるとなり。
十一日の寅刻に、官軍既に御所へをしよす。折節東国より軍勢上り合て、義朝にあひしたがふ兵多かりけり。先鎌田の次郎正清をはじめとして、後藤兵衛実基、近江国には佐々木の源三・八嶋冠者、美濃国には平野大夫・吉野太郎、尾張国には舅熱田大宮司が奉る家子郎等、三河の国には志多良・中条、遠江国には横地・勝俣・井の八郎、駿河国には入江の右馬允・高階十郎・息津四郎・神原五郎、伊豆には狩野宮藤四郎親光・同五郎親成、相模には大庭平太景吉・同三郎景親・山内須藤刑部丞俊通・其子瀧口俊綱・海老名の源八季定・秦野二郎延景・荻野四郎忠義、安房には安西・金余・沼の平太・丸の太郎、武蔵に豊嶋四郎・中条新五・新六・成田太郎・箱田次郎・河上三郎・別府次郎・奈良三郎・玉井四郎・長井斉藤別当実盛・同三郎実員、横山に悪次・悪五、平山に相原、児玉に庄の太郎・同次郎、猪俣に岡部六弥太、村山に金子十郎家忠・山口十郎・仙波七郎、高家に河越・師岡・秩父武者、上総には介の八郎弘経、下総には千葉介経胤、上野には瀬下太郎・物射五郎・岡本の介・名波太郎、下野には八田四郎・足利太郎、常陸には中宮三郎・関次郎、甲斐には塩見五郎・同六郎、信濃には海野・望月・諏方・蒔・桑原・安藤・木曾中太・弥中太・根井の大矢太・根津神平・静妻小次郎・方切小八郎大夫・熊坂四郎を始として、三百余騎とぞしるしたる。
清盛にあひしたがふ人々には、弟の常陸守頼盛・淡路守敦盛・大夫経盛・嫡子中務少輔重盛・次男安芸判官基盛、郎等には、筑後の左衛門家貞・其子左兵衛尉貞能・与三兵衛景安・民部太夫為長・其子太郎為憲、河内国には草苅部十郎太夫定直・瀧口家綱・同瀧口太郎家次、伊勢国には古市伊藤武者景綱・同伊藤五忠清・伊藤六忠直、伊賀国には山田小三郎惟之、備前国住人難波三郎経房、備中国住人瀬尾太郎兼康を始として、六百余騎とぞしるしたる。
兵庫頭頼政に相随兵誰々ぞ。先渡辺党に省播磨次郎・授薩摩兵衛・連源太・与右馬允・競瀧口・丁七唱を始として、二百騎計也。
佐渡式部太夫重成百騎、陸奥新判官義康百騎、出羽判官光信百騎、周防判官季員五十騎、隠岐判官惟重七十余騎、平判官実俊六十余騎、進藤判官助経五十余騎、和泉左衛門尉信兼八十余騎、都合一千七百余騎とぞしるしたる。
保元物語 「校註 日本文学大系」本
巻之二
@『白河殿へ義朝夜討ちに寄せらるる事』 S0201
白河殿には、かくともしろしめさゞりしかば、左大臣殿、武者所の親久をめされて、「内裏の様みてまいれ。」と仰けれど、親久即はせかへり、「官軍既によせ候。」と申もはてねば、先陣すでに馳来る。其時鎮西の八郎申けるは、「為朝が千度申つるは、爰候、<。」といかりけれ共、力及ばず。為朝をいさませんためにや、俄に除目おこなはれて、安弘蔵人たるべき由仰けり。八郎、「是は何と云事ぞ。敵すでに寄来るに、方々の手分をこそせられんずれ、只今の除目、物怱也。人々は何にも成給へ、為朝は今日の蔵人とよばれても何かせん。只もとの鎮西の八郎にて候はん。」とぞ申ける。
去程に下野守義朝は、二条を東へ発向す。安芸守清盛も、同じくつゞひてよせけるが、明れば十一日、東塞なる上、朝日に向(っ)て弓引かん事恐ありとて、三条へ打下り、河原を馳わたして、東の堤を北へ向(っ)てぞあゆませける。下野守は、大炊御門河原に、前に馬の懸場を残して、川より西に、東頭にひかへたり。
新院の御所にも、敵すでに西南の川原に時を作(っ)て責来れば、為義已下の武士、各かためたる門々より懸出けり。判官が手には、四郎左衛門頼賢と八郎為朝と、先陣をあらそひて、すでに珍事に及ばんとす。頼賢思ひけるは、「今子共の中には、我こそ兄なれば、今日の先陣をば誰かはかけん。」といふ。為朝は又、「おそらくは弓矢取(っ)ても、打物取(っ)ても、我こそあらめ。其上判官も軍の奉行を仕らせらるゝ上は、我こそ先陣を懸め。」と論じけるが、暫思案して、兄達をもないがしろにするえせものとて、親に不孝せられしが、適勘当ゆりたる身の、父の前にて兄と先を論ぜん事、あしかりなんと思ひければ、「所詮誰々も懸させ給へ。強からん所をば、幾度も承(っ)て支へ奉らん。」とぞ申ける。
四郎左衛門是をきゝもとがめず、則西の河原へ出向ふ。紺村子の直垂に、月数と云鎧の、朽葉色の唐綾にておどしたるをき、廿四差たる大中黒の矢、頭高に負なし、重藤の弓真中取(っ)て、月毛なる馬に鏡鞍をいてぞ乗(っ)たりける。大炊御門を西へ向(っ)て防けるが、「爰をよするは源氏歟平家か、名のれきかん。角申は、六条判官為義が四男、前左衛門尉頼賢。」とぞ名乗ける。川向に答ていはく、「下野守殿の郎等に、相模国の住人、山内の須藤刑部丞俊通子息、瀧口俊綱、先陣を承(っ)て候。」と申せば、「さては一家の郎等ごさんなれ。汝を射るにあらず大将軍を射る也。」とて、河越に矢二はなつ。夜中なれば誰とはしらず、矢面に進だる者二騎射おとされぬ。四郎左衛門も、内甲を射させて引退く。下野守は、矢合に郎等を射させて、やすからず思はれければ、既にかけんとし給へば、鎌田次郎正清、轡に取付て、「爰は大将軍の懸させ給ふ所にて候はず。千騎が百騎、々々が十騎に成てこそ、打も出させ給はめ。」と申けれども、猶かけんとし給ふ間、歩立の兵、八十余人有けるをまねきよせて、此由をいひふくめ、大将を守護せさせ、正清馬に打乗(っ)て真先にこそすゝみけれ。
安芸守は、二条河原の川より東、堤の西に、北へ向(っ)てひかへたり。その勢の中より、五十騎計先陣にすゝんで推よせたり。「爰をかため給ふは誰人ぞ、名のらせ給へ。かう申は、安芸守殿の郎等に、伊勢国の住人、古市伊藤武者景綱、同伊藤五・伊藤六。」とぞ名乗ける。八郎是をきゝ、「汝が主の清盛をだにあはぬ敵と思ふなり。平家は柏原の天皇の御末なれども、時代久しく成下れり。源氏は誰かはしらぬ。清和天皇より為朝までは九代也。六孫より七代、八幡殿の孫、六条の判官為義が八男、鎮西八郎為朝ぞ。景綱ならば引しりぞけ。」とぞの給ひける。景綱、「昔より源平両家天下の武将として、違勅の輩を討に、両家の郎等、大将射る事、互に是あり。同郎等ながら、公家にもしられまいらせたる身也。其故は、伊勢国鈴鹿山の強盗の張本、小野の七郎をからめて奉り、副将軍の宣旨をかうぶりし景綱ぞかし。下臈の射矢、立歟たゝぬか御覧ぜよ。」とて、能引ていたれども、為朝是を事ともせず、「あはぬ敵と思へ共、汝が詞のやさしさに、箭一つたばん。請て見よ。且は今生の面目、又は後生の思出にもせよ。」とて、三年竹の節近なるを少をしみがきて、山鳥の尾をも(っ)て作だるに、七寸五分の円根の、箆中過て、箆代のあるを打くはせ、しばしたも(っ)て兵ど射る。眞前に進だる伊藤六が、胸板・押付かけず射とをし、余る矢が、伊藤五が射向の袖にうらかひてぞ立(っ)たりける。六郎は矢場に落て死にけり。
伊藤五、此矢を折かけて、大将軍の前に参(っ)て、「八郎御曹司の矢御覧候へ。凡夫の所為とも覚候はず。六郎すでに死候ぬ。」と申せば、安芸守を始て、此矢を見る兵ども皆舌を振(っ)てぞおそれける。景綱申けるは、「彼先祖八幡殿、後三年の合戦の時、出羽国金沢の城にて、武則が申けるは君の御矢に当る者、鎧・冑を射とをされずと云事なし、抑、君の御弓勢を、たしかにおがみ奉らばやと望ければ、義家革よき鎧三領重て、木の枝に懸て、裏表六重を射とをし給ひければ、鬼神の変化とぞ恐ける。是より弥兵共帰伏しけりと、申つたへてきく計なり。眼前にかゝる弓勢も侍るにや。あなおそろし。」とぞおぢあへる。
かく口々にいはれて、大将のたまひけるは、「必清盛が此門を承(っ)て向ふたるにもあらず、何となく押よせたるにてこそあれ。いづ方へもよせよかし。さらば東の門か。」とあれば、兵皆、「それも此門ちかく候へば、もし同人やかためて候らむ。只北の門へむかはせ給へ。」といへば、「さもいはれたり。今は程なく夜も明なんず。然ば小勢に大勢が懸立られんもみぐるしかりなん。」とて引退く所に、嫡子中務少輔重盛、生年十九歳、赤地の錦の直垂に、澤潟威の鎧に、白星の冑を著、廿四指たる中黒の矢負、二所藤の弓持(っ)て、黄河原なる馬に乗、進出て、「勅命を蒙(っ)て罷向たる者が、敵陣こはしとて、引返すやうや有べき。つゞけや、若者共。」とて、又懸出られけるを、清盛是をみて、「有べうもなし。あれ制せよ、者ども。為朝が弓勢はめに見えたる事ぞ。あやまちすな。」と宣ひければ、兵共前に馳ふさがりければ、力なく京極をのぼりに、春日面の門へぞよせられける。
爰に安芸守の郎等に、伊賀国の住人、山田小三郎伊行と云は、又なき剛の者、片皮破の猪武者なるが、大将軍の引給ふをみて、「さればとて、矢一筋におそれて、向たる陣を引事や有。縦筑紫の八郎殿の矢なりとも、伊行が鎧はよもとをらじ。五代伝へて軍にあふ事十五ヶ度、我手に取(っ)ても度々おほく矢共を請しかど、未裏をばかゝぬ物を。人々見給へ、八郎殿の矢一つ請て、物語にせん。」とて懸出れば、「おこの高名はせぬにはしかず。無益なり。」と同僚ども制すれ共、本よりいひつる詞をかへさぬ男にて、「夜明て後に傍輩の、八郎の、いで矢目見んといはんには、何とか其時答べき。然ば日来の高名も、消なん事の無念なれば、よし<人はつゞかずとも、をのれ証人に立べし。」とて、下人独相具して、黒皮威の鎧に、同毛の五枚冑を猪頸に着、十八さいたる染羽の矢負、塗籠藤の弓持て、鹿毛なる馬に黒鞍をいてぞ乗(っ)たりける。門前に馬を懸すへ、「物其者にはあらね共、安芸守の郎等、伊賀国の住人、山田小三郎伊行、生年廿八、堀河院の御宇、嘉承三年正月廿六日、対馬守義親追討の時、故備前守殿の眞前懸て、公家にもしられ奉(っ)たりし山田の庄司行末が孫なり。山賊・強盗をからめとる事は数をしらず、合戦の場にも度々に及で、高名仕(っ)たる者ぞかし。承及八郎御曹司を一目見奉らばや。」と申ければ、為朝、「一定きやつは、引まふけてぞ云らん。一の矢をば射させんず。二の矢をつがはん所を射落さんず。同くは矢のたまらん所を、わが弓勢を敵にみせん。」と宣ひて、白蘆毛なる馬に、黄覆輪の鞍をいて乗(っ)たりけるが、かけ出て、「鎮西の八郎是にあり。」と名乗給ふ所を、本より引まふけたる矢なれば、絃音たかく切(っ)て放つ。御曹司の弓手の草摺を、ぬいざまにぞ射切(っ)たる。一の矢を射損じて、二の矢をつがふ所を、為朝能引て兵どいる。山田小三郎が鞍の前輪より、鎧の前後の草摺を尻輪懸て、矢先三寸余ぞ射通したる。しばしは矢にかせがれて、たまるやうにぞ見えし。則弓手の方へ眞倒に落れば、矢尻は鞍にとゞま(っ)て、馬は河原へはせ行ば、下人つとはしりより、主を肩に引(っ)懸て、御方の陣へぞ帰りける。寄手の兵是を見て、弥、此門へむかふ者こそなかりけれ。
@『白河殿攻め落す事』 S0202
さる程に夜もやう<明行に、主もなきはなれ馬、源氏の陣へ懸入たり。鎌田次郎是をとらせてみるに、鞍つぼに血たまり、前輪は破て、尻輪に鑿のごとくなる矢尻とまれり。是を大将軍にみせ奉(っ)て、「今夜筑紫の御曹司の、あそばされて有げに候。あないかめしの御弓勢や。」と申ければ、義朝、「八郎は今年十八九の者にてこそあれ。未力もかたまらじ。それは敵をおどさんとて、作りてこそはなしけめ。それには臆すべからず。汝向(っ)て一当あてて見よ。」と宣へば、「さ承候。」とて、正清百騎計にて推よせて、「下野守の郎等、相模国の住人、鎌田次郎正清。」と名乗ければ、「さては一家の郎従ごさんなれ。大将軍の失おもてをば引しりぞけ。」との給へば、「本は一家の主君なれども、今は八逆の凶徒なり。違勅の人々射取(っ)て、高名せよや、者共。」といひもはてず、能引て放つ失が、御曹司の半頭にからりと当(っ)て、甲のしころに射つけたり。為朝余に腹をたてゝ、此矢を、かいかなぐつてなげ捨て、「をのれ程の者をば、矢だうなに、手取にせん。」とて懸給へば、須藤九郎家末・悪七別当已下、例の廿八騎ぞ続きたる。正清叶はじとや思けん、百騎の勢を引具して、河原を下りに二町ばかり、ふるひ<逃たりける。御曹司は弓をば脇にかいはさみ、大手をひろげて、「どこまで<。」とおはれけるが、「さのみ長追なせそ。判官殿は、心こそたけくおはすとも、年老給ぬ。残の人々は口はきゝ給へども、さのみ心にくからず。小勢にて門やぶらるな。かへせや。」とて引返す。
鎌田は、河原を西へひかば、大将の陣の前、敵の追かけんもあしかりなんと思ひて、眞下りに逃たりけるが、敵引(っ)返すと見てければ、河をすぢかへに馳わたして、「のがれ参(っ)て侯。坂東にて多の軍にあひて侯共、これ程軍立はげしき敵にいまだあはず侯。いかづちなどの落かゝらんは、事の数にも候はじ。」と申ければ、義朝、「それは聞ゆる者と思て、おづればこそはさあるらめ。八郎は筑紫そだちにて、船の中にて遠矢を射、歩立などはしらず、馬上の態は、坂東武者には、争か及ばん。馳ならべてくめや、者共。」と下知せられければ、相模国の住人、須藤刑部丞俊通・其子瀧口俊綱・海老名源八季定・秦野次郎延景等を始として、二百余騎にて迫(っ)懸たり。為朝、法庄厳院の西裏にて返し合て、火出る程ぞ戦たる。
大将は、赤地の錦の直垂に、黒糸威の鎧に、鍬形打(っ)たる冑を着、黒馬に黒鞍置て乗(っ)たりけり。鐙ふんばり、つ(っ)立上り、大音あげて、「清和天皇九代の後胤、下野守源義朝、大将軍の勅命を蒙(っ)て罷向。もし一家の氏族たらば、すみやかに陣を開て退散すべし。」とぞ宣ひける。為朝きゝもあへず、「厳親判官殿、院宣を蒙給て、御方の大将軍たる其御代官として、鎮西八郎為朝、一陣を承(っ)てかためたり。」とぞ答ける。義朝重て、「さてははるかの弟ごさんなれ。汝、兄に向(っ)て弓ひかん事冥加なきにあらずや。且は宣旨の御使なり。礼儀を存ぜば、弓をふせて降参仕れ。」とぞ申されける。為朝又、「兄に向(っ)て弓をひかんが冥加なきとは埋り也。正しく院宣を蒙(っ)たる父に向(っ)て弓引給ふはいかに。」と申されければ、義朝道理にやつめられけん、其後は音もせず。武蔵・相模のはやりおの物どもが、ま(っ)しぐらに打(っ)てかゝるを、為朝しばし支て防けるが、敵は大勢なり、懸隔られては判官のためあしかりなんと思て、門の中へ引退く。敵是をみて、防かねて引とや思ひけん、勝に乗(っ)て門のきはまで責付て、入かへ<もみたりけり。爰に為朝、敵の勢越に見れば、大将義朝、大の男の大きなる馬には乗(っ)たり、人にすぐれて軍下知せんとて、つ(っ)立上りたる内冑、まことに射よげに見えければ、ねがふ所の幸得たりとよろこびて、件の大矢を打くはせ、只一矢に射落さんと打上けるが、まてしばし、弓箭取の謀、「汝は内の御方へ参れ。我は院方へ参らん。汝まけばたのめ。助けん。我負なば、なんぢをたのまん。」など約束して、父子立わかれてかおはすらむと思案して、はげたる矢をさしはづす、遠慮の程こそ神妙なれ。すべて八郎の矢にあたる者、たすかる者ぞなかりける。されば罪つくりとや思はれけん、名乗て出る者ならでは、左右なく射給はざりけり。
長井斉藤別当実盛・弟の三郎実員・片切小八郎太夫景重・須藤瀧口已下宗徒の兵、責入々々戦ひければ、悪七別当・手取の与次・高間三郎・同四郎・吉田太郎已下、爰を前途と防ぎけり。片切八郎太夫に、手取与次ぞ懸合ける間、与次は若武者也、景重は老武者なる上、戦ひつかれて既にあぶなう見えける所を、秩父行成馳あはせて、能引てはなつ失に、与次が妻手の草摺のはづれを射させて引退けば、景重勝に乗(っ)てぞ懸入ける。御曹司、須藤九郎をめして、「敵は大勢也。若矢種つきて打物にならば、一騎が百騎に向ふ共、つゐには叶まじ。坂東武者の習、大将軍の前にては、親死に子うたるれどもかへりみず、いやが上に死重てたゝかふとぞきく。いざさらば、大将に矢風をおほせて引しりぞかせんと思ふはいかに。」とのたまへば、家末、「然べう候。但御あやまちや候はん。」と申ければ、「何条さる事有べき。為朝が手本はおぼゆる物を。」とて、例の大矢を打くはせ、しばしかためて兵ど射る。思ふ矢つぼをあやまたず、下野守の冑の星を射けづりて、余る矢が法庄厳院の門の方立に、箆中せめてぞ立(っ)たりける。其時義朝、手綱かいくり打向ひ、「汝は聞及にも似ず、無下に手こそあらけれ。」との給へば、為朝、「兄にてわたらせ給ふ上、存ずる旨有てかうは仕(っ)たれ共、まことに御ゆるしを蒙らば、二の矢を仕らん。眞向・内冑は恐も候。障子の板歟、栴檀、弦走歟、胸板の眞中か、草摺ならば、一の板とも二の板共、矢つぼを慥に承(っ)て、二の矢を仕らん。」とて、既に箭取(っ)てつがはれける所に、上野国住人、深巣の七郎清国、つと懸よせければ、為朝是を弓手に相請てはたと射る。清国が冑の三の板よりすぢかへに、左の小耳の根へ、箆中計射こまれたれば、しばしもたまらず死にけり。須藤九郎落合て、深巣が頸をば取(っ)てけり。
是をも事ともせず、我さきにと懸ける中に、相模国住人、大庭平太景能・同三郎景親、眞前に進で申けるは、「八幡殿、後三年の合戦に、出羽国金澤の城を責給し時、十六歳にして軍の眞前懸、鳥の海の三郎に左の眼を冑の鉢付の板に射付られながら、当の矢を射返して、其敵をとりし、鎌倉の権五郎景正が末葉、大庭平太景能、同三郎景親。」とぞ名乗(っ)たる。御曹子是をきゝ給ひ、「西国の者共には、皆手なみの程を見せたれども、東国の兵にはけふはじめの軍也。征矢をば度々に射たりしが、鏑矢にて射ばや。」と思ひて、目九つさしたる鏑の、目桂にはかどをたて、風かへしあつくくらせて、金巻に朱さしたるが、普通の蟇目程なるに、手前六寸しのぎをたてゝ、前一寸には、峯にも刃をぞ付たりける。鏑より上、十五束有けるを取(っ)てつがひ、ぐつさと引て放されたれば、御所中にひゞきて長なりし、五六段計にひかへたる大庭平太が左の膝を、かた手切に力革懸てふつと射きり、馬の太腹かけずとをれば、かぶらはくだけてちりにけり。馬は屏風をたをすごとく、がはとたふるれば、主は前へぞあまされける。敵に首をとられじと、弟の三郎馬より飛おりて、兄を肩に引(っ)かけて、四五町ばかりぞ引たりける。
武蔵国住人、豊嶋四郎も、須藤九郎に弓手の太股を射させ、安房国住人、丸太郎も、鬼田与三に脇立ゐさせて引しりぞく。中条新五・新六・成田太郎・箱田次郎・奈良三郎・岩上太郎・別府次郎・玉井三郎以下、入替<責戦。各分取し、皆手負て引退処に、黒革威の鎧、高角打(っ)たる甲を着、糟毛なる馬に乗、悪七別当と名乗(っ)て懸出たり。海老名源八馳合てたたかひけるが、草摺のはづれを射させてひるむ所を、斉藤別当すきまもなく懸よせたれば、悪七別当、太刀を抜て、斉藤が冑の鉢を丁どうつ。うたれながら実盛、内冑へ切前上りに打こみければ、あやまたず悪七別当が頸は前にぞ落たりける。実盛此頸を取(っ)て、太刀のさきにつらぬきさしあげて、「利仁将軍十七代後胤、武蔵国住人、斉藤別当実盛、生年卅一、軍をばかうこそすれ。我と思はん人々は、寄合や<。」とぞよばゝりける。
金子十郎は、重目結の直垂に、■縄目の鎧きて、鹿毛なる馬に黒鞍置て乗(っ)たるが、失種は皆射尽して、太刀を抜て眞向にあて、「武蔵国住人、金子十郎家忠、十九歳、軍は今日ぞ始なる。御曹司の御内に、我と思はん兵は、出合や。」とぞ名乗(っ)たる。八郎のたまひけるは、「にくゐ剛の者哉。我矢頃に寄てひかへたり。只一矢に射おとさんと思へ共、余にやさしければ、誰か有、あれ引(っ)さげてこよ。一目見ん。」とありしかば、木蘭地の直垂に、紫革の腹巻き、栗毛なる馬に乗、「高間四郎。」と名乗(っ)て懸出で、をしならべて組でおつ。高間は兄弟共にきこゆる大力なるを、家忠上に成(っ)て、をさへて首をかゝんとする所に、高間三郎落重(っ)て、弟をうたせじと、金子が冑を引あふのけ、首をかゝんとしけるを、下なる敵の左右の手を膝にてしきつめ、上なる敵の弓手の草摺引上より返て、柄もこぶしもとをれ<と、三刀さしてひるむ所に、下なる敵の首を取、太刀のさきにさし上て、「此比、鬼神と聞え給ふ筑紫の御曹司の御前にて、高間四郎兄弟をば、家忠討取(っ)たり。」とぞよばゝりける。家末是をみて、安からず思ひければ、射おとさんとて迫懸ける所を、八郎、「いかに須藤、あたら兵を、たすけてをけ。今度の軍に討勝なば、為朝が郎等にせんずるぞ。」とこそ宣ひけれ。金子余に剛なれば、軍神にや守られけん、又なき高名し、きはめて不思議の命助かりて、大将までぞほめられける。
常陸国住人中宮三郎、同国住人関次郎、村山党には山口六郎・仙波七郎、轡をならべてかけ入ば、三町礫紀平次大夫・大矢新三郎已下防ぎ戦けるが、新三郎は仙波七郎に弓手の肩きられ、紀平次大夫は、山口六郎に右のうで打落されて引(っ)返す。美濃国住人平野平太、同国住人吉野太郎と名乗(っ)て懸入ける所を、御曹司件の大鏑をも(っ)て兵ど射給ふが、高■(ひも)に弦やせかれけん、思ふ矢つぼに下りつつ、平野平太が左の臑当を射切られて、馬の太腹あなたへつとゐとをさるれば、眞倒にたうれたり。甲斐国住人塩見五郎も射ころされ奉りければ、大将もこれらをみ給ひて、少せめあぐんでぞ思はれける。其時、信濃国住人根井大弥太、藍摺の直垂に、卯花綴の鎧に、星白の甲をき、駁なる馬に乗(っ)たるが、進出申けるは、「軍に人のうたるゝとて、敵に息をつがせんには、いつか勝負を決すべき。其上我らは■をもとむる鷹のごとし。凶徒は鷹におそるゝ■にあらずや。いざやかけん殿原。」とて、眞前に進めば、つゞく兵誰々ぞ。同国の住人、宇野太郎・望月三郎・諏方平五・進藤武者・桑原安藤次・安藤三・木曾中太・弥中太・根津神平・志妻小次郎・熊坂四郎を始として、廿七騎ぞ懸たりける。門の内へ責入(っ)て、さん<”に戦ければ、手取の与次・鬼田与三・松浦小次郎もうたれにけり。すべて為朝のたのみ思はれたる廿八騎の兵、廿三人うたれて、大略手をぞ負たりける。寄手も究竟の兵五十三騎討れて、七十余人手負たり。敵魚鱗に懸破らんとすれば、御方鶴翼につらな(っ)て射しらまかす。御方陽に開きてかこまんとすれ共、敵陰にとぢてかこまれず。黄石公がつたふる所、呉子・孫子が秘する所、互に知(っ)たる道なれば、敵もちらず御方もひかず。されば千騎が十騎に成までも、はてつべき軍とは見えざりけり。
兵庫頭頼政の手にも、渡辺党に、省・授・連の源太・競瀧口を始として、東の門へ押よせて、もみにもうでせめ入ば、平馬助忠正・多田蔵人大夫頼憲、爰を先途と防ぎ戦ふ。西門をば、六条判官為義、張絹の直垂に、薄金と云緋威の鎧に、鍬形打(っ)たる冑をき、連銭蘆毛なる馬に、白覆輪の鞍置てぞのられたる。五人の子共前後に立(っ)て懸出たる体、あ(っ)ぱれ大将軍やとぞ見えたりける。其外自余の陣々にも、互に入みだれ、追つ返ひてたゝかひけれ共、未勝負ぞなかりける。其時義朝、使者を内裏へまいらせて、「夜中に勝負を決せんと、もみにもうで貴候へども、敵もかたくふせいで破がたく候。今は火を懸ざらん外は利有べし共覚え候はず。但法勝寺なども風下にて候へば、伽藍の滅亡にや及候はんずらん。其段勅定に随べし。」と申上られたりしかば、少納言入道承(っ)て、「義朝誠に神妙也。但、君のきみにてわたらせ給はゞ、法勝寺程の伽藍をば則時に建立せらるべし。ゆめ<それにおそるべからず。只急速に凶徒誅戮の謀をめぐらすべし。」と仰下されければ、御所より西なる藤中納言家成卿の宿所に火を懸しかば、西風はげしき境節にてはあり、即院の御所へ猛火おびたゝしく吹かけたれば、院中の上臈女房・女童、方角をうしな(っ)て、よばゝりさけんでまにひあへるに、武士も是が足手まとひにて、進退さらに自在ならず、落行人の有様は、嶺の嵐にさそはるゝ冬の木葉にことならず。
@『新院・左大臣殿落ち給ふ事』 S0203
さる程に右衛門大夫家弘、其子中宮長光、馬に乗ながら、春日面の小門より馳参、「官軍雲霞のごとく責来り候上、猛火既に御所におほひ候。今は叶はせ給べからず。いそぎいづ方へも御ひらき候べし。」と申せば、只今出来たる事のやうに、上皇は東西を失て御仰天あれば、左府は前後に迷て、「只汝、今度の命を助よ。」と計ぞ宣ける。則四位少将をめして、御剣を給る。成隆朝臣是を給(っ)てはかれたり。上皇もはや御馬にめされたりけるが、余にあやうく見えさせ給へば、蔵人信実、御馬の尻に乗(っ)ていだきまいらす。左大臣殿の御馬のしりには、四位少将成隆の(っ)ていだき奉けり。東の門より御出有(っ)て、北白川をさして落させ給ふ所に、いづくよりか射たりけん、流矢一筋来(っ)て、左大臣殿の御頸の骨にたつ。成隆是を抜て捨たりけれども、血のはしる事、水はじきにて水をはじくにことならず。然れば鐙をもふみえず、手綱をも取え給はずして、眞倒に落給へば、成隆朝臣も落てけり。式部太夫盛憲、左府の御頸を膝にかきのせ、袖を御面におほひて泣ゐたり。蔵人太夫経憲も馳来(っ)て、抱付奉けれ共、かひもなし。延頼は松が崎の方へ落行けるが、是を見奉(っ)て、甲冑をぬぎすて、経憲と共に、小家の有けるにかき入まいらせて、先疵の口を灸し奉りけれ共叶はず、次第によはり給けり。矢目を見れば、右の御喉の下自、左の御耳の上へぞとをりける。さかさまに矢の立けるこそ不思議なれ。神箭なるかとぞ覚し。血もさらにとまらずして、白襖の御狩衣、あけにそめる計也。御目は未はたらけども、物をも更にの給はず。さらばしばらくやすめ奉らんと思へども、判官の領、円覚寺へ発向する由聞えければ、かくてはいかゞとて、経憲が車を取よせてかきのせまいらせ、嵯峨の方へぞ赴きける。やう<嵯峨に至(っ)て、経憲が墓所の住僧尋ぬれども、なかりければ、あれたる坊に入奉て、此夜はこゝにぞあかしける。
@『新院御出家の事』 S0204
さる程に新院は、為義を始として、家弘・光弘・武者所季能等を御供にて、如意山へいらせ給ふ。山路けはしくして難所おほければ、御馬をとゞめて、御歩行にてぞのぼらせ給ける。御供の人々、御手を引、御腰ををし奉りけれ共、いつならはしの御事なれば、御足よりは血ながれてあゆみわづらひ給けり。只夢路をたどる御心ちして、即絶いらせ給けり。人々なみゐて守り奉けるに、はや御目くれけるにや、「人やある。」とめされければ、皆声々に名乗けり。「水やある、参らせよ。」と仰ければ、我もわれもともとむれ共なかりけり。然るに法師の水瓶をもちて、寺の方へとをりけるを、家弘乞取てまいらせけり。是にすこし御気色なをりてみえさせ給へば、各、「官軍定ておそひ来り候らん。いかにもいそがせ給へ。」と申せば、「武士共は皆いづちへも落行べし。丸はいかにもかなはねば、先こゝにてやすむべし。もし兵追来らば、手を合て降を乞ても、命計はたすかりなん。」と仰せ成(なり)けれども、判官を始として、各、「命を君にまいらせぬる上は、いづ方へかまかり候べき。東国などへ御ひらき侯はゞ、いづくまでも御供仕り、御行衛を見はてまいらせん。」と申ければ、「我もさこそは思ひしかども、今は何とも叶がたし。汝等はとく<退散して、命をたすかるべし。各かくて侍らば、中々御いのちをも敵にうばゝれなん。」と、再三しゐて仰ければ、「此上は還而恐あり。」とて、諸将みな鎧の袖をぞぬらしける。角てかなふべきならねば、皆ちり<”に成にけり。為義・忠正は、三井寺の方へぞ落行ける。家弘・光弘計残とゞま(っ)て、谷のかたへ引下しまいらせて、御上に柴折かけ奉り、日のくるゝをぞあひまちける。御出家有たき由仰なりけれども、此山中にては叶ひがたき由を申しあぐれば、御涙にむすばせ給ひけるぞかたじけなき。
日暮ければ、家弘父子して肩に引懸まいらせて、法勝寺の北を過、東光寺の辺にて、年来知たる所に行て、輿をかりてのせ奉り、「いづくへ仕べき。」と申ければ、「阿波の局のもとへ。」と仰ありしかば、家弘習はぬわざに、二条を西へ大宮まで入奉れども、門戸をとぢて人もなし。「さらば左京太夫のもとへ。」と仰らるれば、大宮を下りに、三条坊門までかき奉れば、教長卿は、此暁白河殿の煙の中をまよひ出給て後は、其行方をしらざりければ、残りとゞまる者どもも、みな逃失て人もなし。「さらば少輔内侍がもとへ。」とて、入まいらせけれども、それもきのふけふの世間なれば、諸事にむつかしくや有けん、たゝけども<音もせず。世界ひろしといへども、立いらせ給べき所もなし。五畿七道もみちせばくて御身をよすべき陰もなく、東西南北ふたがりて、御幸成べき所もなし。光弘等も習はぬ身に、夜もすがら御輿仕り、明なばとらへからめられて、いかなるうき目をか見んずらんと、心ぼそく思へ共、山中にて水きこしめしつる計なれば、とかくして知足院の方へ御幸なし奉り、あやしげなる僧坊に入まいらせて、おもゆなどをぞすゝめ奉りける。上皇是にてやがて御ぐしおろさせ給ければ、家弘ももとゞり切てけり。「角てはつゐにあしかりなん。いづくへか渡御有べき。」と申せば、「仁和寺へこそゆかめ。それもよも入られじ。只をさへて輿をかきいれよ。」とありしかば、御室へこそなし奉れ。門主は故院の御仏事のために、鳥羽殿へ御出ありけり。家弘はこれより御暇申して、北山の方へまかりける。道にて修行者に行合しかば、是を語ひ、戒たもちなどして、出家のかたちにぞなりにける。
@『朝敵の宿所焼き払ふ事』 S0205
さる程に七月十一日寅刻に合戦はじまり、辰の時に白河殿やぶれて、新院も左大臣殿も、行方しらず落させ給ひければ、未の刻に義朝・清盛内裏へ帰り人参(っ)て、此よしを奏聞す。其体ゆゝしかりけり。蔵人右少弁資長をも(っ)て、朝敵追討早速に其功を致す由、叡感ねんごろ也。即周防判官承(っ)て、三条烏丸の新院の御所へ馳向(っ)て焼はらふ。左府の五条壬生の亭をば、助経判官承(っ)て、発向して火を懸けり。同謀叛人の宿所共十二ヶ所、各検非使共行向(っ)て追捕して焼はらふ。南都の方様いまだしづまらざれば、狼籍もやあるとて、申刻に宇治橋守護のために、周防判官季実をさしつかはさる。
今度の御合戦に、事故なくうちかたせ給ふ事、すべては伊勢太神宮・石清水八幡大菩薩の御加護とぞおぼえし。殊には日吉の社に祈申させ給けり。されば宸筆の御願書を、七条の座主の宮へまいら(っ)させましましければ、座主此御願書を、大宮の神殿にこめて、肝膽を砕て祈り申させ給しかば、御門徒の大衆は申に及ばず、満山の諸徳、皆、宝祚長久・凶徒退散のよしの所請をぞいたしける。されば山王七社も、官軍の方に立かけらせ給けるにや、頼賢・為朝・忠正・家弘已下の軍兵、こゝを前途と防ぎ戦ひしかども、程なく責落されて、朝敵は風の前の塵のごとく、聖運は月と共にぞ開けける。
昔、朱雀院の御宇、承平年中に、平の将門八ヶ国を打なびかして、下総国相馬の郡に都をたてゝ、我身を平新王と号し、百官をなし、諸司を召仕けるが、剰都へ責のぼり、朝家をかたぶけ奉らんとする由きこえければ、防戦に力つき、追討に謀なし。よ(っ)て仏神の擁護をたのみて、諸寺諸社に仰て、冥鑑の政をぞあふがれける。殊に山門すべて其精誠を抽でけり。其時の天台座主尊意僧正は、不動の法を修せられけるに、将門、弓箭を帯して壇上に現じけるが、程なくうたれける也。権僧正は其勧賞とぞきこえし。惣持院をば、鎮護国家の道場と号して、不退に天下の護持を致す。されば、今も法験なんぞ昔にかはるべきとぞ覚ゆる。
@『関白殿本官に帰復し給ふ事付けたり武士に勧賞を行はるる事』 S0206
かゝる所に宇治の入道大相国は、新院うちまけ給ふと聞えければ、橋をひかせ、左府の公達三人相具し給て、南都へおち、禅定院の僧都尋範・東北院の律師千覚・興福寺の上座信実・同権寺主玄実・かれらが兄加賀冠者源頼憲に仰て、寺中の悪僧并に国民等をあひかたら(っ)て、「官軍をふせぐべし。忠あらん者には、不次の賞をおこなはるべし。」と披露せらる。剰興福寺の権別当忠信法師は、関白殿の御息なりしを、討奉らんなど議せられければ、しのびつゝ都へ逃て上り給ふ。「是はいかなる御企ぞや。此入道殿をば君もおもき事に思召、世もて心にくゝ執し奉る所に、年来関白に付たる内覧・氏の長者をばをさへて、末子の左府に付奉(っ)て、法性寺殿御中違、天下の大乱引出給へども、関白殿さておはしまさば、御身にをひては何の御怖畏か有べきに、君に立合奉らんと御支度、以外の御あやまり也。其上今度源平両家の氏族、院宣を承(っ)て、身命を捨てはげみ戦といへども、十善の戎行おもきによ(っ)て討勝給ふ所に、すこしもたがはぬ二の舞かな。天魔のたぶらかし奉る歟、しらず、社の御とがめを蒙り給ふか。」と、皆人唇を返して、そしりまいらせけり。
同十一日夜に入(っ)て、関白殿、もとのごとく氏の長者にならせ給ふ。去ぬる久安の此、父富家殿の御はからひとして、左大臣の成給しが、今、本に復せしぞめでたかりし。子刻計に及で、武士の勧賞しおこなはる。安芸守清盛は播磨守に任じ、下野守義朝は左馬権頭に成。陸奥新判官義康は蔵人になされて、則昇殿をゆるさる。義朝申けるは、「此官は先祖多田満中法師始て成たりしかば、其跡かうばしくは存知候へ共、もとは左馬助也。今権頭に任ずる条、莫太の勲功賞に、さらに面目ともおぼえず。朝敵をうつ者は半国を給はる、其功世々に絶ずとこそ承れ。其上、今度厳親をそむき、兄弟を捨て、一身御方に参じて合戦いたす事、自余の輩に越たり。是勅命おもきによ(っ)て、そむきがたき父に向(っ)て、弓をひき矢をはなつ、全希代の珍事也。然れども身の不義を忘て、君命にしたがふ上は、人にすぐるゝ恩賞、なんぞなからんや。」とぞ申ける。此条尤道理也とて、中御門藤中納言家成卿子息高李朝臣、左馬頭たりしを、左京大夫に移されて、義朝を左馬頭にぞなされける。
@『左府御最後付けたり大相国御欺きの事』 S0207
さる程に明れば十二日、左大臣未目のはたらき給ければ、富家殿に見せ奉らんとて、奈良へ下しまいらせんとて、梅津の方へ赴き、小船を借(っ)て、柴木を上に取おほひ、桂川を下りに落しまいらす。日暮ければ、其夜は鴨河尻にとゞまりて、明る十三日に木津へ入給ふ。御心ちも次第によはりて、今は限りに見え給へば、■の森の辺より、国書允俊成をも(っ)て、興福寺の禅定院におはします入道殿に、此由申たりければ、則むかへまいらせたくは思食けれ共、余の御心うさにやありけん、「何とか入道おも見んと思ふべき。我も見えん共思はず。やうれ俊成よ、思ふても見よ、氏の長者たる程の者の、兵杖の前に懸る事やある。左様に不運の者に、対面せん事由なし。音にもきかず、ましてめにもみざらん方へゆけと云べし。」と仰もはてず、御涙にむせばせ給ひけるこそ、御心の中をしはかられて、誠にさこそは思食らめと哀なれ。図書允帰り参(っ)て、此由申ければ、左府うちうなづかせ給て、軈て御気色かはらせ給ふが、御舌の前を食切てはき出させおはしましけり。いかなる事とも心得がたし。角てはいかゞし奉らんと覚ければ、玄顕得業の輿にかきのせまいらせて、十四日に奈良へ入申けれ共、我坊は寺中にて、人目もつゝましとて、近きあたりの小屋にやすめ奉り、様々にいたはりまいらせけれ共、つゐに其日の午刻計に御こときれにけり。其夜やがて般若野の五三昧に納奉る。
蔵人大夫経憲、最後の御宮仕ねんごろにつかまつりて、則出家しつ。入道殿のわたらせ給ふ禅定院に参て、有つる御行跡ども、くはしく語申ければ、北政所・公達、みななき悲しみ給ふ事なのめならず。殿下は御手をかほにをしあてゝ、良久しくなき給ひけるが、「さるにてもいひをきつる事はなかりつるか。いかに此世に執のとまる事おほかりけん。我身のはかなく成につけても、子共の行末さこそ覚束なく思ひけめ。摂政・関白をもせさせて、今一度天下の事とりおこなはんを見ばやとこそ思ひつるに、命ながらへてかゝる事をみるも、先世の宿業歟。戦場に出て命をおしまぬ兵も、必しも疵をかうぶる事なし。其上今度は源平両氏の輩も、然るべき者は一人もうたれずとこそきけ。其外、月卿雲客北面まで、参りこもれる者おほかりけるに、いかなれば左府一人、流失にあた(っ)て命を失らん。何なる者の放たりけん矢にかあたるらむ、うたてさよ。但漢高祖は、三尺の剣を提て天下を治しかども、淮南の黥布を討し時、ながれ矢にあた(っ)て命をうしなふ。かれをも(っ)て是を思ふに、定て今生一世の事にあらじ、先世の宿業なるべし。ひそかに国史をかむがふるに、大臣誅をうくる事、其例おほし。天竺・震旦をばしばらくをく。日本吾朝には、円大臣より始て其数あり。円大臣、雄略天皇にうたれ奉てより以来、眞鳥大臣・守屋大臣・豊浦大臣・入鹿大臣・長野大臣・金村大臣・恵美大臣にいたる迄、既に八人に及べり。され共氏の長者たる者、弓箭の前に懸る様、未きかず。哀取もかふる物ならば、忠実が命にかへてまし。悲しきかなや、蘇武が胡国に趣きしも、二度漢家万里の月に来り、院君が仙洞に入しも、秦室七世の風に帰りき。頼長一たび去(っ)て、再会いづれの時をかまたん。かひなき命だにあらば、縦不返の流罪におこなはるとも、忽に命をうしなはるゝまではよもあらじ。若東国に謫居せば、津軽や夷のおくまでも、遠路をしのぎて駒に鞭をもうちてまし。もし西海に左遷せられば、鬼界が嶋のはてまでも、舟に棹をもさすべきに、逝て帰らぬ別程、悲しき事はなきぞとよ。はからざりき、是程老の心をなやますべしとは。」とて、御涙せきあへさせ給はぬを見奉るも哀也。
左大臣殿うせ給ひて後は、職事・弁官も故実をうしなひ、帝闕も仙洞も朝儀すたれなんとす。世も(っ)て惜み奉る。誠に累代摂禄の家に生て、万機内覧の宣旨を蒙り、器量人にこえ、才芸世に聞え給しが、いかゞ有けん、氏の長者たりながら、神事をろそかにして威勢をつのれば、我ともなはざるよし、春日大明神の御託宣あり。神慮の末こそおそろしけれ。
此左府未弱冠の御時、仙洞にて通憲入道と御物語の次に、入道、摂家の御身は、朝家の鏡にておはしませば、御学文有べき由すゝめ申けり。よ(っ)て信西を師として読書ありて、螢雪の功をぞはげまし給ける。其後、左府御病気のよし聞えしかば、入道とぶらひのために、宇治殿へぞ参たりける。聊か御ここち宜くおはしませしかば、ふしながら文談し給けるに、亀の卜と易の卜との浅深を論じ給けり。左府亀の卜深しと宣へば、通憲は易の卜ふかしと申す。よ(っ)て御問答事ひろく成てやゝ久し。互におほくの文をひき、あまたの文をひらき給及べり。入道つゐに負奉て、「今は御才学すでに朝にあまらせおはします。此上は御学文あるべからず。若猶せさせ給はゞ、定て御身の崇と成べし。」と申て出にけり。御心にも此事いみじうと思食けるにや、みづから御日記にあそばしたる言ばに云く、「先年於レ院可二学文一由誂事、予廿歳也。今病席論、廿四歳也。中僅四年中、才智既蒙二彼許可一。都四年学文間、書巻毎レ聞、彼諾無二忘事一。今拭二感涙一記二此事一。」と侍り。誠に信西の申されける詞は、掌をさすがごとし。才におごる御心ましませばこそ、御兄法性寺殿を、「詩歌は楽の中の翫、能書は賢才のこのむ所にあらず。」などとて、直下とおぼしめされけめ。弟子を見る事師にしかずといふ事、まことにあきらけし。是御学文をとめ申にあらじ。才智におごり給所をぞいましめまいらせけん。先御心誠信有て、うるはしき御心ばせの上の御学文こそ然るべけれ。何かすべて内外の鑽仰、たゞ一心のため也。調達が八万蔵をそらんずる、つゐに奈落の底に堕す。隋の煬帝の才能人にすぐれたりし、国をほろぼす基たり。学者の用心たゞ此所にあるべし。されば孔子の詞にも、「古の学は己が為にす、今の学は人の為にす。」との給へり。夏■、殷紂は、儒道ににくむ輩、文書にそしる所也。しかれ共、能芸優長にして、才智人にすぐれたり。よ(っ)て是をいましむることばに、「智は能諌めて防ぐにたれり。辞は則非を飾るにたれり。人臣に誇るに能をも(っ)てし、天下に尊びらるゝに名をも(っ)てす。」といへり。かやうの先言を思ふに、俊才におはしましゝかども、其心根にたがふ所のあればこそ、祖神の冥慮にも違て、身をほろぼし給ひけめ。
@『勅を奉じて重成新院を守護し奉る事』 S0208
さる程に新院は御室をたのみまいらせられて、いらせ給ひしかども、門跡にはをき申されず、寛遍法務が坊へぞ入まいらせられける。御室は五の宮にてわたらせ給へば、主上にも仙洞にも、御弟にておはしましけり。此よし五の宮より内裏へ申されたりければ、佐渡式部太夫重成をまいらせられて院を守護し奉られけり。余の御心うさにや、御心のとゞまる事はましますまじけれども、角ぞおぼしめしつゞけける。
思ひきや身をうき雲となしはてゝあらしの風にまかすべしとは W002
うき事のまどろむ程はわすられてさむれば夢のこゝちこそすれ W003
@『謀叛人各召し捕らるる事』 S0209
新院近習の人々、或は遠国へ落行、或は深山に逃かくれて、其行方をしらざれば、謀にや、少納言入道信西、陣頭にをひて、「其人は其国、彼人は彼国。」とさだめらるゝ由、披露有ければ、さては命計は助からんとや思ひけん、皆出家の姿に成て、これかれより出来る。左京大夫教長卿と、近江中将成雅と二人は、広隆なる所に出家して有ければ、周防判官季実をさしつかはしてめしとらる。四位少納言成高と左馬権頭実清と二人は、天台山浄土寺にて様替て、座主の宮へぞまいりける。是らを始として、心もおごらぬ僧法師になりつゞひて、我をとらじと出にけるこそはかなけれ。
皇后宮権大夫師光入道・備後守俊通入道・能登守家長入道・式部太夫盛憲入道・弟、蔵人大夫経憲入道をば、東三条にて推問せらる。内裏より蔵人右少弁資長・権右少弁惟方・大外記師業、三人承(っ)て奉行せり。中にも盛憲兄弟、先瀧口秦助安等をば、靭負庁にて拷問せられけり。是等は左大臣の外戚にて有ければ、事の起知たるらん。又近衛院并に美福門院を呪咀し奉り、徳大寺をやき払(っ)たるゆへをとはるゝに、下部先衣裳をはぎ取て、頸に縄をつけければ、盛憲下部に向(っ)て手をあはせ、「こは何事ぞや。吾をたすけよ。」といひければ、座につらなる官人共、目もあてられず覚けり。然れども刑法限ある事なれば、七十五度の拷訊をいたすに、始は声をあげてさけびけれども、後には息絶て物いはず。日こそおほきに、七月十五日、けふしもかゝる罪におこなはるゝ事こそむざんなれ。其上、五位已上の者、拷器によせらるゝ事、先例まれなり。水尾天皇の御時、貞観十八年閏三月十日の夜、應天門のやけたりけるを、大納言伴善男卿、造意の嫌疑ありければ、使庁にて拷訊せられける例とぞ聞ゆる。彼大納言は実犯にて、同九月廿二日に、終に伊豆国へながされけり。それは昔の事也。近き世にはためしなし、情なしとぞ申ける。
@『重仁親王の御事』 S0210
さる程に、新院の一宮重仁親王のおはしまし所きこえずして、人々承(っ)て、かなたこなた尋まいらする所に、今日十五日、女房車に乗(っ)て、朱雀門の前を西へ過させ給ふを、平判官実俊、見付奉(っ)てとゞめ申せば、御出家あるべきにて仁和寺の方様へわたらせ給ふとぞ御供の人申ける。よ(っ)て此よし奏問しければ、たゞ素懐をとげさせまいらすべき由仰下されけり。花蔵院僧正定尭、参(っ)て申さるゝ子細有(っ)て、中御門東洞院なる御所へぞうつし奉ける。則実俊承(っ)て守護しまいらせけり。
@『為義降参の事』 S0211
さる程に六条判官、并に子共尋まいらすべきよし、幡磨守に仰付らる。十六日清盛三百余騎にて、如意山を越て、三井寺をもとむれどもなし。東坂本にある由聞えて、大和庄泉辻と云所を追捕す。これは無動寺領なれば、大衆おこ(っ)て、「寺領を追捕の条無念也。子細あらば山門にあひふれてこそ沙汰をいたすべきに、さうなく乱入の条狼籍也。」とて、軍勢に向(っ)て散々に相戦ふ。官軍神威に恐て引退間、大衆勝に乗(っ)て、清盛が郎等両三人からめ取。又大津の東浦を焼はらふ。是は山門領たるうへ、昨日為義を舟にて東近江へ付たりとて、してけれ共、跡かたなき虚説也けり。
為義は直河といふ所より、木工神主がもとにかくれてゐたりけるが、官軍むかふときいて、三河尻の三郎大夫近末と云者の家に行て、それより東国へ下らんとしけるが、運やつきけん、忽に重病をうけて、身心苦痛せられければ、氏神八幡大菩薩にも放たれ給けりとて、郎等共も落うせて、子共の外わづかに十八人計ぞ残りける。とかうして馬にいたはり乗て、簑浦の方へ行て、船にのらんとする所に、誰とはしらず兵三十騎計追来り、うたんとしければ、頼賢已下身命をすてゝ、防戦て追ちらしてけり。其時のこる兵も行方をしらず成にけり。それより弥単己無頼になりはてゝ心ぼそきのみならず、判官は重病にわづらひ給ふ、其上、海道もふたがり、関々もかたくまもると聞えければ、中々東国へ下らん事も叶がたしとて、又三郎太夫が家に立帰て、日くれしかば山上にのぼり、其夜は中堂に通夜して、ことに衆病悉除の悲願をたのみて、夜もすがら祈請せられたり。明れば十七日、西塔の北谷黒谷と云所に、廿五三昧おこなふ所に行て、出家をとげ、法名を義法房とぞつかれける。月輪房の竪者のもとより、墨染の衣袈裟を奉て、沙弥の形に成給ふ。
此為義は、十四歳にて、伯父美濃前司義綱、その子美濃三郎義明を討(っ)て、其時の勧賞に左兵衛尉になされけり。もとは陸奥四郎とぞ申ける。十八歳、永久元年四月に清水寺の別当の事に付て、南都の大衆朝家をうらみ奉て、国民をもよほし、春日の神木を先として、粟子山まで来りたりしを、馳向て追返しき。其勧賞に、左衛門尉に成。廿八歳にて検非違使五位尉になる。日比中御門中納言家成卿に付て、陸奥守を望申けるに、「祖父伊与入道頼義、此受領に任じて、貞任・宗任が乱によ(っ)て前九年の合戦ありき。八幡太郎義家、又彼国守に成て、武衡・家衡をせむるとて、後三年の兵乱ありき。然れば猶意趣残る国なれば、今、為義陸奥守に成たらましかば、定て基衡を亡さんと云志有べきか。かた<”不吉の例也。」とて、御ゆるされなかりしかば、為義、「しからば自余の国守に任じてなにかはせん。」とて、今年六十三まで終に受領もせざりけり。日比より地下の検非違使にてありけるが、よしなき新院の御謀叛にくみし奉り、年来の本望をも達せずして、出家入道してけるこそ無念なれ。
義法房、子どもに向(っ)ての給けるは、「我身が合期したらばこそ、各引具して山林にも立かくれめ。我は只義朝をたのみて都へいでんと思ふ也。さても今度の勲功に申替ても、命ばかりは助けこそせんずらめ。但ほしいまゝに院方の大将軍を承りたれば、勅命重してたすかりがたからん歟。それ又力なき事也。よはひ既に七旬に及び、おしむべき身にあらず。萬一かひなき命たすかりたらば、いかにもして汝等をもたすくべし。面々は先いかならん木の陰、岩のはざまにもかくれゐて、事しづまらん程を相待べし。」とのたまへば、為朝きゝもあへず、「此義然るべからず候。縦ひ下野守殿こそ親子の間なれば、たすけ申さんとし給とも、天気よも御ゆるし候はじ。其故は、新院は正しく主上の御兄にてわたらせ給はずや。左府又関白殿の御弟ぞかし。豈、親とて罪科なからんや。義朝いかに申さるとも、立がたくこそ覚侍れ。御所労なおりおはしまさば、只何ともして関東におもむき、今度の合戦にのぼりあはぬ三浦介義明・畠山庄司重能・小山田別当有重等をあひかたらつて、東八ヶ国を管領して、しばしもましますべし。若京都より打手下らば、為朝一方承(っ)て、思まゝに合戦して、かなはずは其時討死すべし。などかしばらく支ざらん。」と申ければ、「それも東国へ下着ての事ぞかし。落人と成ぬれば、何事に付ても思ふに叶はぬ物なれば、頸を延て降参せん。」と宣ひて、既に山より出給へば、子共もなく<供しつゝ、西坂本・さがり松をおりしかば、篠目やうやく明行て、鳥の声々告わたり、嶺の横雲晴ければ、入道、「各は、とく<いづ方へもおちゆくべし。」との給ひて、都のかたへ趣き給ふを、「暫御とまり候へ。申べき事候。」と、こゑ<”に申せば、「なに事。」とて、立かへり給へば、前後左右に立かこみて、なくよりほかの事ぞなき。誠に只今を限りにて、又あふべき事ならねば、名残を惜むもことわり也。
入道、「今度老のかうべに冑をいたゞきて合戦を致す事、全我身の栄花を期するにあらず。若討勝(っ)て運を開かば、汝等を世にあらせんと思ふ為なり。今義朝をたのみて出るも、我もし安穏ならば、其影にて各をも助けばやと思ふ故也。汝等をすてゝ、我ひとりたすからんとや思ふらん。齢既に致士に余れば、身のいくばく後栄をか期せん。いかならん所にもふかくかくれて侍べし。とく<。」とて下られけるが、角て心づよくは宣ひしかども、さすが名残やおしかりけん、又立返て、「頼賢よ頼仲よ、いふべき事あり、かへれ。」とのたまへば、各よばれて立帰る。誠にはことなる事もなけれ共、あかぬ別の悲しさに、又よび下し給ひける恩愛のほどこそ哀なれ。かくのごとく互に別をしたへども、さてあるべきにもあらざれば、面々散々にこそわかれゆけ。おつる涙にみちくれて、行前さらに冥々たり。かなしき哉、人界に生をうけながら、鳥にあらねども、四鳥の別をいたし、あはれなる哉、広劫のちぎりむなしうして、魚にはなけれども、釣魚の恨をふくむ。涙欄干として、魂飛揚すと見えて、あはれなりし有様なり。
子どもは、大原・志津原・芹生の里・鞍馬の奥・貴船の方様へ、思<心々に落行ば、深山がくれの秋の空、露も時雨もあらそひて、我袖のなみだもさらに眞柴とる、山路のおくをたどりつゝ、人里とおく分入ば、嶺の巴猿一呼、行人の裳をうるほせば、谷のを鹿の妻恋に、旅客の夢もさめぬべし。さて入道は、賀茂河をわたり、糺の森より、雑色花澤を義朝のもとへつかはして、是までのがれ来れるよしを申されければ、左馬頭夜に入(っ)て輿を奉り、ひそかに判官殿をむかへとり給ひけり。
@『忠正・家弘等誅せらるる事』 S0212
さる程に平馬助忠正は、浄土の谷と云所にて出家し、深くかくれてありけるが、為義入道も降参したりとや聞えてける、子ども四人相具して、ひそかに甥の幡磨守を頼みてぞ出来りける。左衛門大夫正弘・其子右衛門大夫家弘・其子文章生安弘・次男右兵衛尉頼弘・三男光弘、已上五人、蔵人判官義康搦め取て、則大江山にて是をきる。家弘が弟、大炊助度弘をば、和泉左衛門尉信兼承(っ)て、六条河原にて切(っ)てけり。平馬助忠正・嫡子新院蔵人長盛・次男皇后宮の侍長忠綱・三男左大臣勾当正綱・四男平九郎通正、五人をば、清盛朝臣承(っ)て、申刻ばかりに六条河原にて是をきる。平馬助をば、其時の別当花山院中納言忠雅と、同名あしかりなんとて、忠員と改名せられてけり。此忠員と申は、桓武天皇十一代の御末、平将軍貞盛が六代の孫、讃岐守正盛が次男なり。此人軍散じて後、出家入道し、ふかく隠てありけるが、清盛をたのみてゆきたらんに、さりとも命ばかりを申たすけぬ事はよもあらじと思ふて降参せられたりけり。誠にたすけんと思はば、さこそあるべきに、舅甥内々不快なりけるうへ、我忠正を切たらば、定て義朝に父をきらせらるべし。たとひ優恕の儀あり共、此旨をも(っ)て支へ申さんと、腹黒におもはれけるこそおそろしけれ。
@『為義最後の事』 S0213
さる程に、為義法師が首をはぬべき由、左馬頭に宣ひくだされければ、なだめをくべきむね、様々に両度まで奏聞せられけれども、主上逆鱗有て、清盛既に伯父を誅す、何ぞ緩怠せしめん、甥猶し子のごとしといへり、伯父豈父にことならんや、すみやかに誅致すべし、若猶違背せしめば、清盛已下の武士に仰付らるべき由、勅定重かりしかば、力なく涙ををさへて、鎌田次郎に宣ひけるは、「綸言かくのごとし。是によ(っ)て判官殿を討奉らば、五逆罪の其一を犯すべし。罪に恐て宣旨をそむかば、忽に違勅の者となりぬべし。いかゞすべき。」とありしかば、正清畏(っ)て、「申に恐候へ共、をろかなる事を御定候者かな。私の合戦にうち奉らせ給はんこそ、其咎も候はんずれ。其上観経には、劫初より以来、父を殺す悪王一萬八千人なりといへども、未母をころす者なしととかれて候。それは諸の悪王の、国位をうばはんとての為也。是は朝敵となり給へば、つゐにはのがるまじき御身なり。縦御承にて候はずとも、時日をめぐらすべき御命ならぬに取(っ)ては、御方に候はせ給ひながら、人手に懸て御覧候はんより、同くは御手にかけまいらせて、後の御孝養をこそ能々せさせ給はんずれ。なにかくるしく候べき。」と申せば、「さらば汝はからへ。」とて、なく<内へ入給ふ。
則鎌田、入道の方に参り、「当時都には平氏の輩、権威を取(っ)て、守殿は、石の中の蛛とやらんのやうにておはしませば、東国へ下らせ給ひ候也。判官殿は先立奉らんとて、御迎にまいらせられて候。」とて、車さしよせたれば、「さらば今一度八幡へ参(っ)て御暇乞申べかりし物を。」とて、南の方をおがみて、やがてくるまに乗給ふ。七条朱雀に白木の輿をかきすへたり。是は車よりのりうつり給はん所を討奉らむ支度也。其時秦野次郎延景、鎌田に向(っ)て申けるは、「御辺のはからひあやまれり。人の身には一期の終をも(っ)て一大事とせり。それをやみ<と殺し奉らん事、情なく侍り。只ありのまゝにしらせ奉(っ)て、最後の御念仏をもすゝめ申され、又仰をかるべき御事もなどかはなかるべき。」といへば、正清、「尤然るべし。物を思はせまいらせじと存じて、かやうにはからひたれ共、誠にわが誤なり。」と申ければ、延景参て、「実には関東御下向にては候はず。守殿宣旨を承(っ)て、正清太刀取にて、うしなひまいらすべきにて候。再三なげき御申候しかども、勅定おもく候間、力なく申付られ候。心しづかに御念仏候べし。」と申たりしかば、「口惜き哉。為義ほどの者を、たばからず共討せよかし。縦綸言重くして、助くる事こそ叶はず共、など有のまゝにはしらせぬぞ。又誠にたすけんと思はゞ、我身に替てもなどか申なだめざるべき。義朝が入道をたのみて来りたらんをば、為義が命にかへてもたすけてん。されば諸仏念衆生、衆生不念仏、父母常念子、々不念父母と説たれば、親のやうに子は思はぬ習なれば、義朝ひとりが咎にあらず。只うらめしきは此事を、始よりなどしらせぬぞ。」とて、念仏百返計となへつゝ、さらにいのちをおしむ気色もなく、「程へば定て為義首きる見んとて、雑人なども立こむべし。とく<きれ。」とのたまへば、鎌田次郎、太刀を抜てうしろへめぐりけるが、相伝の主の頸をきらん事心うくて、涙にくれて太刀のあてどもおぼえねば、もちたる太刀を人にあたふ。其時、「願諸同法者、臨終正念仏、見弥陀来迎、往生安楽国。」ととなへて、高声に念仏数遍申して、つゐにきられ給ひにけり。首実検の後、義朝に給(っ)て、孝養すべきよし仰下されければ、正清是を請取て、円覚寺におさめ、墓をたて壇をつき、卒都婆などを造立せられて、様々の孝養をぞ致されける。此為義は思ひ者おほかりければ、腹々に男女の子ども四十二人ぞありける。或は熊野の別当のよめになし、あるひは住吉の神主にやしなはせなどして、これかれにぞをきける。
昨日、官使能景に仰て、多田蔵人大夫頼憲、正親町富小路の家を追捕せられけるに、頼憲が郎等四五人、未家に有しかば、命も惜まず散々に戦ひける間、能景が兵おほくうたれ、疵を蒙て引退く。其ひまに屋に火をかけ、煙の中にて皆自害してけり。今日十九日、源平七十余人、首をきられけるこそあさましけれ。
中院左大臣雅定入道、大宮大納言伊通卿、東宮大夫宗能卿、左大弁宰相顕時卿など申されけるは、「昔、嵯峨天皇の御時、左兵衛督仲成を誅せられしよりこのかた、久しく死罪をとゞめらる。よ(っ)て一条院の御宇、長徳に内大臣伊周公并に権中納言高家卿の、花山院を討奉りしかば、罪既に斬刑にあたる由、法家の輩かんがへ申しかども、死罪一等を減じて、遠流の罪になだめらる。今改て死刑をおこなはるべきにあらず。就中、故院御中陰也。旁なだめらればよろしかるべき。」よし、各一同に申されけれ共、少納言入道信西、内々申けるは、「此義然るべからず。おほくの凶徒を諸国へわけつかはされば、定而猶兵乱の基なるべし。其上非常の断は、人主専にせよと云文有。世の中につねにあらざる事は、人主の命に随と見えたり。若重てひがごと出来りなば、後悔なんぞ益あらん。」と申ければ、みなきられにけり。
誠に国に死罪をおこなへば、海内に謀叛の者絶ずとこそ申に、おほくの人を誅せられけるこそあさましけれ。正しく弘仁元年に、仲成を誅せられてより、帝皇廿六代、年記三百四十七年、絶たる死刑を申おこなひけるこそうたてけれ。中にも義朝に父をきらせられし事、前代未聞の儀にあらずや。且は朝家の御あやまり、且は其身の不覚也。勅命そむきがたきによ(っ)て、是を誅せば忠とやせん、信とやせん、若忠なりといはゞ、「忠臣をば孝子の門にもとむ。」といへり。若又信といはゞ、「信をば義にちかくせよ。」といへり。義を背て何ぞ忠信にしたがはん。されば本文にいはく、「君は至(っ)て尊けれども、至(っ)てちかゝらず。母はいた(っ)てしたしけれ共、いた(っ)てた(っ)とからず。父のみ尊親の義をかねたり。」と。知ぬ、母よりも貴く、君よりもしたしきは只父也。いかゞ是を殺さんや。孝をば父にとり、忠をば君にとる。若忠を面にして父をころさんは、不孝の大逆、不義の至極也。されば、「百行の中には孝行をも(っ)て先とす。」といひ、又、「三千の刑は不孝より大なるはなし。」といへり。其上、大賢の孟、喩を取(っ)ていはく、「虞舜の天子た(っ)し時、其父瞽■人を殺害する事あらんに、時の大理なれば、皐陶是をとらへて罪を奏せん時、舜はいかがし給ふべき。孝行無双なるをも(っ)て天下をたもてり。政道正直なるを舜の徳といふ。然るに正しく大犯をいたせる者を、父とて助けば政道をけがさん。天下は是一人の天下にあらず。もし政道をたゞしくして刑をおこなはゞ、又忽に孝行の道に背かん。明王は孝をも(っ)て天下をおさむ。しかれば、只父を置て位をすてゝさらまし。」とぞ判ぜる。況や義朝の身にをひてをや。誠にたすけんと思はんに、などか其道なかるべき。恩賞に申替るとも、縦我身をすつるとも、争かこれをすくはざらん。他人に仰付られんには、力なき次第也。まことに義にそむける故にや、無双の大忠なりしかども、ことなる勧賞もなく、結句いく程なくして、身をほろぼしけるこそあさましけれ。
@『義朝の弟ども誅せらるる事』 S0214
さる程に左馬頭に重て宣旨下りけるは、「汝が弟どもみな尋て進すべし。殊に為朝とやらんは、鸞輦に矢を放たんなど申ける寄怪の者なり。からめ取(っ)て誅すべし。」となり。義朝畏(っ)て、方々へ兵をさしつかはして尋られければ、爰かしこよりたづね出してけり。為朝は敵よすると見ければ、打破て、いづちともなくうせにけり。「四郎左衛門頼賢・掃部助頼仲・六郎鳥宗・七郎烏成・九郎為仲、已上五人の人々、都の中へは入べからず。」と仰下されければ、すぐに舟岡山へぞゐて行ける。五人ながら馬よりおりてなみゐたり。最後の水をあたふるに、各たゝう紙にて是をうけける其中に、掃部助頼仲、此水を取(っ)て唇ををしのごひて申けるは、「我おさなくよりして、人の首をきる事数おほし。さやうの罪のむくひにや、今日既にわが身の上に成にけり。兄にておはしませば、左衛門尉殿こそ先だゝせ給て、御供仕るべけれども、軍門に君の命なく、戦場に兄の礼なしと申せば、死をさきにする道、しゐて礼を守らざるにや、其上存ずる子細候。日比、皇后宮の御内に、申かよはす女あり。夜前も来(っ)て見参すべき由申侍しを、叶まじき由、心づよく申て返し候き。定て只今も尋来らんとおぼえ侍り。最後の有様をみえても詮なく、又不覚の涙の先だゝんもほいなく思ひ侍れば、先立申候。六道の巷にては必参りあひ奉るべく候。」とて、直垂の紐をときて、首を延てぞきられける。其後四人ながらきられけり。皆なく見えたりける。次の日陣頭へもたせてまいる。左衛門尉信忠是を実検す。獄門には懸られず、穀倉院の南なる池のはたへぞすてられける。是は故院の御中陰たる故とぞ、皆人申しける。
保元物語 「校註 日本文学大系」本
(保元物語巻下)
@『義朝幼少の弟悉く失はるる事』 S0301
内裏より則義朝をめされ、蔵人右少弁助長朝臣をも(っ)て仰下されけるは、「汝が弟共の未おほくあ(ん)なる、縦おさなくとも、女子の外は皆尋てうしなふべし。」と也。宿所に帰(っ)て、秦野次郎をめして宣けるは、「余に不便なれ共、勅定なれば力なし。母かめのとがいだひて、山林に逃かくれたらんはいかゞせん。六条堀川の宿所にある当腹の四人をば、すかし出して、あひかまへて道の程わびしめずして、舟岡にて失へ。」とぞ聞えける。延景難儀の御使かなと心うく思へども、主命なれば力なし。涙を袖におさめつゝ、泣々輿をかゝせて、彼宿所へぞ趣きける。
母上は折節物詣の間也。君達はみなおはしけり。兄をば乙若とて十三、次は亀若とて十一、鶴若は九、天王は七也。此人々延景を見付て、うれしげにこそありけれ。秦野次郎、「入道殿の御使に参て候。殿は十七日に、比叡の山にて御さまかへさせ給て、守殿の御許へいらせ給しを、世間も未つゝましとて、北山雲林院と申所に忍びてわたらせ給ひ候が、君達の御事覚束なく思食候間、御見参にいれ奉らん為に、ぐし奉(っ)てまいらんとて、御迎に参(っ)て候。」と申せば、乙若出合て、「誠にさまかへておはしますとはきゝたれ共、軍の後は未御姿を見奉らねば、誰々も皆恋しくこそ思ひ侍れ。」とて、我先にと、こしにあらそひのられけるこそ哀なれ。是を冥途の使ともしらずして、各こし共に向ひつゝ、「いそげやいそげ。」とすゝみける。ひつじのあゆみ近付をしらざりけるこそはかなけれ。
大宮をのぼりに、船岡山へぞ行たりける。峯より東なる所に輿かきすへて、いかゞせましと思ふ処に、七に成天王はしり出て、「父はいづくにおはしますぞ。」ととひ給へば、延景涙をながして、しばしは物も申さゞりしが、良ありて、「今は何をかかくしまいらすべき。大殿は守殿の御承にて、昨日の暁きられさせ給ひ候き。御舎兄達も、八郎御曹子の外は、四郎左衛門殿より九郎殿まで、五人ながら、夜部此面にみえ候山本にて切奉り候ぬ。君達をもうしなひ申べきにて候。相かまへてすかし出しまいらせて、わびしめ奉らぬ様にと仰付られ候間、入道殿の御使とは申侍なり。思食事候はゞ、延景に仰をかせ給ひて、みな御念仏候べし。」と申せば、四人の人々是をきゝ、皆こしよりおり給ふ。
九になる鶴若殿、「下野殿へ使をつかはして、いかに我等をば失ひ給ふぞ。四人を助け置給はゞ、郎等百騎にもまさりなんずる物を、此よし申さばや。」とのたまへば、十一歳に成亀若殿、「誠に今一度人をつかはして、たしかにきかばや。」と申されける所に、乙若殿生年十三なるが、「あな心うの者どもの云がひなさや。我らが家にむまるゝ者は、おさなけれども心はたけしとこそ申に、かく不覚なる事をの給物哉。世のことはりをもわきまへ、身の行末をも思ひ給はゞ、七十に成給ふ父の、病気によ(っ)て、出家遁世して頼て来り給ふをだにきる程の不当人の、まして我々をたすけ給ふ事あらじ。哀はかなき事し給ふ守殿哉。是は清盛が和讒にてぞあるらむ物を。おほくのおとゞいをうしなひはてゝ、只一人に成て後、事の次に亡さんとぞはからふらんをさとらず、只今我身もうせ給はんこそかなしけれ。二三年をも過し給はじ。おさなかりしかども、乙若が舟岡にてよくいひし物をと、汝等も思ひあはせんずるぞとよ。さても下野殿うたれ給ふて後、忽に源氏の世絶なん事こそ口おしけれ。」とて、三人の弟達に、「な歎き給ひそ。父もうたれ給ひぬ。誰かは助けおはしまさん。兄達も皆きられ給ひぬ。情をもかけ給ふべき守殿は敵なれば、今は定て一所懸命の領地もよもあらじ。然ば命たすかりたり共、乞食流浪の身と成て、こゝかしこまよひありかば、あれこそ為義入道の子どもよと、人々に指をさゝれんは、家の為にも恥辱なり。父恋しくは、只西に向(っ)て南無阿弥陀仏と唱て、西方極楽に往生し、父御前と一蓮に生れあひ奉らんと思ふべし。」とおとなしやかに宣へば、三人のきんだち、各西にむか(っ)て手を合せ、礼拝しけるぞ哀なる。是をみて五十余人の兵も、皆袖をぞぬらしける。
此君達に各一人づゝめのと共付たりけり。内記平太は天王殿の乳母、青田次郎は亀若、佐野源八は鶴若、原後藤次は乙若殿のめのと也。さしよ(っ)て髪ゆひあげ汗のごひなどしけるが、年比日来宮づかひ、旦暮になではだけ奉て、只今を限りと思ける心共こそ悲しけれ。されば声をあげて、おめく計にありけれども、おさなき人々をなかせじと、をさふる袖の下よりも、あまる涙の色ふかく、つゝむけしきもあらはれて、思ひやるさへ哀なり。乙若、延景に向(っ)て、「我こそ先にと思へども、あれらがおさな心に、おぢおそれんも無慙也。又いふべき事も侍れば、かれらをさきにたてばや。」と宣ひければ、秦野次郎太刀を抜てうしろへまはりければ、乳母ども、「御目をふさがせ給へ。」と申して皆のきにけり。則三人の首、前にぞ落にける。乙若是を見給て、すこしもさはがず、「いしうも仕りつる物哉。我をもさこそきらんずらめ。さてあれはいかに。」との給へば、ほかひをもたせて参りたり。手づから此首共の血の付たるををしのごひ、かみかきなで、「あはれ無慙の者どもや。かほどに果報すくなくむまれけん。只今死ぬる命より、母御前のきこしめしなげき給はん其事を、かねて思ふぞたとへなき。乙若はいのちをおしみてや、後にきられけると人いはんずらん、全其義にてはなし。かやうの事をいはんに付ても、又わがきらるゝを見んに付ても、とゞまりたるおさなき者の、又なかんも心ぐるしくていはぬ也。母御前の今朝八幡へまふで給ふに、我もまいらんと申せば、皆参らんといへば、具せば皆こそ具せめ、具せずは一人も具せじ、かたうらみにとて、我等が寝入たる間に詣給しが、今は下向にてこそ尋給らめ。われらかゝるべしともしらざりしかば、思ふ事をも申をかず、かた見をもまいらせず、只入道殿のよび給ふときゝつるうれしさに、いそぎ輿に乗つる計なり。されば是を形見に奉れ。」とて、弟共のひたひ髪を切つゝ、わがかみをも取具して、もしたがひもやするとて、別々につゝみ分、各其名を書付て、秦野次郎にたびにけり。「又詞にて申さんずる様よな。今朝御供にまいりなば、終にはきられ候とも、最後の有様をば、互にみもし見えまいらせ候はんずれ共、中々たがひに心ぐるしき方も侍らむ。御留主に別奉るも、一の幸にてこそ侍れ。此十年余の間は、かりそめに立はなれまいらする事もはべらぬに、最後の時しも御見参にいらねば、さぞ御心にかゝりはべるらふらめなれども、且は八幡の御はからひかとおぼしめして、いたくななげかせおはしまし候そ。親子は一世の契と申せども、来世は必ひとつ蓮にまいり会やうに御念仏候べし。」とて、「今はこれらが待遠なるらん、とく<。」とて、三人の死骸の中へ分入て、西に向ひ念仏卅遍計ぞ申されければ、首は前へぞ落にける。四人の乳母共いそぎ走寄、頸もなき身をいだきつゝ、天にあふぎ地にふして、おめきさけぶもことはり也。誠に涙と血と相和して、ながるゝを見る悲しみなり。
内記の平太は直垂の紐をとき、天王殿の身をわがはだへにあてゝ申けるは、「此君を手なれ奉りしより後、一日片時もはなれまいらする事なし。我身の年のつもる事をば思はず、はやく人とならせ給へかしと、明暮思ひてそだてまいらせ、月日のごとくにあふぎつるに、只今かかるめを見る事の心うさよ。常は我ひざの上にゐ給ひて、ひげをなでゝ、いつかひとゝなりて、国をも庄をも儲て、汝にしらせんずらんと宣ひし物を。うたゝねのねざめにも、内記々々とよぶ御声、耳のそこにとゞまり、只今の御姿、まぼろしにかげろへば、さらにわするべしともおぼえず。是より帰て命いきたらば、千萬年ふべきかや。死出の山、三途の河をば、誰かは介錯申べき。おそろしくおぼしめさんに付ても、先我をこそ尋ね給はめ。いきて思ふもくるしきに、主の御供仕らん。」といひもはてず、腰の刀をぬくまゝに、腹かき切(っ)て死にけり。残りのめのと共是をみて、我おとらじと、皆腹き(っ)てぞ失にける。恪勤の二人ありけるも、「おさなくおはしましゝかども、情ふかくおはしつる物を、今は誰をか主にたのむべき。」とて、さしちがへて二人ながら死にけり。これら六人が志、たぐひなしとぞ申ける。同く死する道なれども、合戦の場に出て、主君と共に討死をし、腹をきるは常の習なれども、かゝるためしは未なしとて、ほめぬ人こそなかりけれ。此首共わたすに及ばず。あまりに父をこひしがりければとて、円覚寺へ送て、入道の墓のかたはらにぞうづみける。
@『為義の北の方身を投げ給ふ事』 S0302
秦野次郎は、則六条堀川へ参りたれば、母はいまだ下向もなし。よ(っ)て八幡の方へ馳行に、赤井河原の辺にてまいりあひたり。延景馬より飛おりて、奥の長柄に取付ば、軈而こしをぞかきすへける。「判官殿は比叡山にて御出家候て、十七日の暁、守殿の御もとへわたらせ給ひ候しを、かくしをきまいらせて、様々に申させ給ひ候しか共、天気つゐにゆるさせ給はで、昨日のあかつき、七条朱雀にてうしなひまいらせ候ぬ。五人の御曹子達をも、昨日の暮ほどに、北山船岡と申所にてみなきり奉り候ぬ。六条殿にわたらせ給つる四人のきんだちをも、舟岡山にて只今うしなひ申候。是は乙若御前の、最後の御形見どもをまいらせられ候。」とて、件の髪を取出し、其有様をくはしくかたり申しかば、母上是をきゝ給ひ、「夢かうつゝかいかゞせん。」とて、則きえ入給ひしが、良しばらくあ(っ)てすこし心ち出来て、「今朝八幡へ参りつるも、判官や子共の為ぞかし。氏神にておはしませばよもすて給はじと、頼をかけてぞまいりしに、はや皆々うせぬらん。神ならぬ身の悲しさよ。かゝるべしと思ひなば、なじかは物へまいるべき。けさしもかれらにそはずして、最後の姿を今一目、見ざりし事のくやしさよ。夜部これらが面々に、我もまいらんといひしを、様々にすかしてね入たるまに、かしこがほに詣たれば、定而下向したらば、口々にうらみんをいかゞこたへましと、今までも案じたるに、いかに大菩薩のおかしく思食つらん。責てはひとりなりとも具したらば、終には縦うしなはる共、今までは身にそへてまし。夢にも角としるならば、なにしに八幡へまいるべき。わらは子共に打つれて、船岡とかやへゆき、うせにし一つ所にて、とにもかくにも成ならば、か程に物は思はじ。」と、あこがれ給ふぞいたはしき。其まゝ既にたえいり給ひしが、定業ならぬ命にて、又いき出給ひけり。「今は屋形へかへりても、誰を友にか侍らん。只わらはをも、判官殿のきられ給し所へ具してゆき、同じ野原の草の露とも消えはてさせよ。」とかこち給ひ、すでに輿よりはしり出、身をなげんとこそし給けれ。
延景并に介錯の女房など、様々に申けるは、「御欺きはさる御事にて候へ共、御身ひとりの事ならず、大殿并に君たちの御事おぼしめさんに付ても、御さまなどかへさせ給て、一筋になき御跡をとぶらひまいらせらるべきなり。御身をさへうしなはせ給ひなば、なき人の御ため弥罪ふかゝるべき御事也。されば左大臣殿の北の方も、御さまをかへさせ給ふ。平馬助殿の女房も、五人の子どもにをくれて、さこそは心うく思食けめ共、それもさまをかへてこそおはしませ。縦ひ今御命をうしなふとも、六道四生の間に、入道殿にもきんだちにも、あひまいらせらるゝ事有がたかるべし。香のけぶりにかたちを見、まぼろしのたよりに馨をきゝしも、皆身を全くしたりし故也。」などなぐさめ奉れば、「わらはもさこそは思へ共、今日明日さまをかへんには、誰かは落人のかたさまの者と思はぬ人はあらじ。しからば名のらずは左右なくゆるすまじ。あかさんにつけては、為義入道の妻の、とありてかくありてといはれん事もはづかし。其上、人は一日一夜をふるにも、八億四千の思ひありといふ。事なるおもひなき人も、さ程の罪のあ(ん)なるに、たとひ出家と成たりとも、月日のたゝんにしたがひて、年老たる人を見ん時は、入道殿もあの齢にあらんと思ひ、おさなき者を見ん折は、我子どもも是ほどには成なんとおもはんつゐでの度ごとに、きらせん人もうらめしく、きりけん者も情なく思はん事も心うし。然れば凡夫のならひにて、わが身の物をおもふやうに、人もなげきのあれかしと思はん心も罪ふかし。かゝるうれへに沈みては、念仏もさらに申されじ。只おなじ道に。」となげき給ふを、色々になぐさめ奉れば、「さらばせめて七条朱雀を見ばや。」と宣へば、各よろこびてかれに輿をかきすへたれ共、何の名残もみえわかず。「さらば舟岡へ。」とて、桂河を上りに北山をさして行程に、五条が末のほどに、岸たかく水ふかげなる所にて、輿をたてさせ、石にて塔をくみ、入道より始、四人のきんだちのためと廻向して、ふところたもとに石をいれ、さらぬ体にもてなし、「入道のうせ給し所へ行たれ共、声する事もなく、目にみゆる物なし。又船岡へゆきたりとも、同じことにてこそあらんずれ。童、年来観音を頼みまいらせて、毎日普門品三十三巻、弥陀の名号一萬遍となへ申が、今日物詣に、未おはらず。屋形にかへりたらば、おさなき者どものもてあそび物を見んに付ても、こゝにてはとありしかうありしなどおもはんに、心みだれて勤もせらるまじければ、こゝにて満じて、聖霊たちにも廻向せん。」とて、なお石塔をくみ給ふかとこそ思ひしに、岸より下へ身をなげて、つゐにはかなく成給ふ。めのとの女房是をみて、つれて河へぞ入にける。供の者ども、是をみて、あはてさわぎはしり入(っ)て尋ぬれ共、石をおほく袂にいれ給ひける故にや、やがてしづみて見え給はず。程へてはるかの下より取あげて、二人ながら、則其夜、鳥部山の煙となし奉りて、遺骨をば円覚寺にぞおさめける。今朝舟岡にて主従十人あしたの露ときえゆけば、今夜は桂河にて、二人の女房暮べの煙とたちのぼる。生死無常のことはり、哀なりし事共なり。
@『左大臣殿の御死骸実検の事』 S0303
さる程に、廿一日午の刻ばかりに、瀧口三人、官使一人、南都へ趣き、左府の死骸を実検す。瀧口は資俊・師光・能盛也。官使は左史生中原師信也。其所は、大和国添上郡河上の村般若野の五三昧なり。道より東へ一町計入て、実成得業が墓の東にあたらしきはかありけるを、ほりおこしてみれば、骨は未相つらな(っ)て、しゝむらすこし有けれども、其形ともみえわかず。其まゝ道のほとりにうちすてゝかへりにけり。
廿二日左大臣の公達四人、嫡男右大将兼長・次男中納言師長、同年にてともに十九歳也。三男左中将隆長十六歳、四男範長禅師十五にぞ成給ふ。各心を一にして、祖父富家殿に申されけるは、「おとゞもおはせず、何の頼みあ(っ)てか、角ても侍らん。今度の罪聊かも、なだめらるべからずと承る。殊におとゞは罪ふかくましませば、其子共は皆死罪にこそおこなはれんずらめ。命のあらん事も、いつをかぎりともしらねども、身の暇を給(っ)て出家をとげ、もし露の命きえやらずは、一向にまことの道に入(っ)て、先考の御菩提をもとぶらひ奉らん。昨日勅使、大臣の御墓に向(っ)て、死骸をほりおこして路頭に捨をくと云々。心うしとも申ばかりなし。亡父是ほどのめをみ給ふに、其子、男として、ふたゝび人に面をあはすべしとも覚ず。」と宣へば、入道殿は、「明日の事をばしらね共、只今までもかくておはすれば、それを頼みてこそ侍るに、みな<さやうに成給はゞ、何に心をなぐさめん。世には不思議の事もこそあれ、いかなるありさまにても、今一度朝庭につかへて、父の跡をつがんとはおぼさぬか。なのめならず此世に執深かりし人なれば、なき跡までもさこそは思はめ。さすが死罪まではよもあらじ。縦ひとおき国遙かの嶋にうつされたり共、運命あらばはからざるほかの事もありなん。漢の孝宣皇帝は禁獄せられしかども、帝運あれば、獄より出て位につきにけり。右大臣豊成、太宰帥にうつされたりけれども、帰京をゆるされてふたゝび摂政の位にいたれり。かゝるためしもあるぞかし。春日大明神すてさせ給はずは、などか頼みもなからん。」と、仰られもあへずなき給ふこそあはれなれ。然れば此御心をやぶらんも不孝とやおぼしけん、左右なく出家もし給はず。
@『新院讃州に御遷幸の事并びに重仁親王の御事』 S0304
今日、蔵人左少弁資長、綸言を承(っ)て仁和寺へ参り、明日廿三日、新院を讃岐国へうつし奉るべきよしを奏聞す。院も都を出させ給ふべき由をば、内々きこしめしけれ共、けふあすとはおぼしめさゞる所に、まさしく勅使参て事さだまりしかば、御心ぼそく思食けるあまりに、かくぞ口ずさび給ける。
都にはこよひばかりぞすみの江のきしみちおりぬいかでつみ見ん W004
夜に入て新院の一の宮を、「父のおはします時、何様にも成奉れ」とて、花蔵院の僧正寛暁が坊へわたしたてまつる。御供には右衛門大史章盛・左兵衛尉光重也。僧正しきりに辞し申されけれども、勅定そむきがたくして請取奉らる。既に御出家ありしかば、年来日比、春宮にも立、位にもつかせ給はんとこそ待奉るに、角思ひの外に御飾りををろす事のかなしさよと、付まいらせたる女房達、なきかなしむぞあはれなる。此宮は、故刑部卿忠盛朝臣、御乳人にてありしかば、清盛・頼盛はみはなち奉るまじけれども、余所になるこそあはれなれ。明れば廿三日、未夜深に、仁和寺を出させ給ふ。美濃前司保成朝臣の車をめさる。佐渡式部太夫重成が郎等ども、御車をさしよせて、先女房たち三人を御車にのせ奉る。其後、仙院めされければ、女房達、声をとゝのへて泣かなしみ給ふ。誠に日比の御幸には、ひさしの車を庁官などのよせしかば、公卿・殿上人、庭上におりたち、御随身左右につらなり、官人・番長、前後にあゆみしたがひしに、これはあやしげなる男、或は甲冑をよろふたる兵なれば、めもくれ心もまよひて、なきかなしむもことはり也。夜もほの<”とあけゆけば、鳥羽殿を過させ給とて重成をめされて、「田中殿へ参て、故院の御墓所をおがみ、今を限のいとまをも申さんと思ふはいかに。」と仰下されければ、重成かしこま(っ)て、「やすき御事にては候へ共、宣旨の刻限うつり候なば後勘いかゞ。」と恐申ければ、「まことに汝がいたみ申もことはり也。さらば安楽寿院の方へ御車を向て、かけはづすべし。」と仰ければ、則牛をはづし、西の方へをしむけ奉れば、只御涙にむせばせ給ふよそほひのみぞきこえける。是を承る警固の武士共も、みな鎧の袖をぞぬらしける。暫有(っ)て、鳥羽の南の門へやりいだす。国司季頼朝臣、御船并に武士両三人をまふけて、草津にて御舟にのせ奉る。重成も讃岐まで御供つかまつるべかりしを、かたく辞し申してまかりかへれば、「汝が此ほどなさけありつるに、則罷りとゞまれば、けふより弥御心ぼそくこそおぼしめせ。光弘法師いまだあらば、事のよしを申て、追而参るべしと申せ。返々此程のなさけこそ忘がたくおぼしめせ。」と御定ありけるこそかたじけなけれ。勅定なればにや、御船にめされて後、御屋形の戸には、そとよりじやうさしてけり。是を見奉る者は申に及ばず、きき及ぶあやしのしづのめ、たけきものゝふまでも、袖をしぼらぬはなかり
けり。
道すがらも、はか<”しく御膳もまいらず、うちとけて御寝もならず、御歎きにしづみ給へば、御命をたもたせ給ふべしともおぼえず。月日の光をも御覧ぜず、たゞはげしき風、あらき浪の音ばかりぞ、御耳のそこにとゞまりける。こゝは須磨の関と申せば、行平中納言近流せられて、もしほたれつゝとながめけん所にこそとおぼしめす。かしこは淡路国ときこしめせば、大炊廃帝のうつされて、思ひにたへず、いく程なくうせ給ひけん嶋にこそと、昔よそにきこしめしゝかども、今は御身の上におぼしめすこそ哀なれ。いそがぬ日数のつもるにも、都の遠ざかり行程もおぼしめししられて、一の宮の御ゆくゑもいかゞ有らんとおぼつかなく、又合戦の日、白河殿のけぶりの中よりまよひ出しに、女房達もいづくにありともきこしめさねば、只いきて生をへだてたりとは是なるらんとぞおぼしめす。異朝をきけば、昌邑王賀は故国にかへり、玄宗皇帝は蜀山にうつされ、吾国をおもへば、安康天皇は継子にころされ、崇神天皇は逆臣におかされ給ひき。十善の君万乗のあるじ、先世の宿業をばのがれ給はずと、思食なぐさむはしとぞ成にける。
讃岐につかせ給しかども、国司いまだ御所をつくり出されざれば、当国の在庁、散位高季といふ者のつくりたる一字の堂、松山といふ所にあるにぞ入まいらせける。されば事にふれて都をこひしく思食ければかくなん。
濱ちどり跡はみやこにかよへども身は松山にねをのみぞなく W005
新院仁和寺をいでさせ給ふ御跡に、不思議の事ありけり。清盛・義朝洛中にて合戦すべしとて、源平両家の郎等、白旗・赤旗をさして、東西南北へはせちがふ。今度の合戦、思ひのほか早速に落居して、諸人安堵のおもひをなして、かくしをける物ども、はこびかへす所に、又此物怱出来れば、今日こそ、まことに世のうせはてんよとて、上下あはてさはぐ。大臣・公卿、馬・車にて内裏へはせまいり給へば、主上おどろきおぼしめして、南方へ勅使をたてられていはく、「各存ずる所あらば、奏聞をへて聖断をあふぐべき所に、両人忽に合戦に及ばんずる条、天聴にをよぶ。子細何事ぞ。はやく狼籍を止べし。」と云々。両人ともに、跡かたなき由をぞ勅答申さる。
其日、新院の中御門東洞院の御所にたてられたる文庫共を、出納知兼をも(っ)て検知せらる。或御文庫の中に、手箱一合あり。御封を付られてよく御秘蔵とおぼえたり。仍而知兼是をもちて参内す。即叡覧あるに、御夢想の記也。其中に度々重祚の告あり。其度ごとに御立願あり。惣じて甚深奇異の事どもをしるしをかせ給へり。然るを今披露あり。いか計口おしくおぼしめすらんとおぼえたり。
重祚の御事は、吾朝には斉明・称徳二代の先蹤ある歟。朱雀・白河の両院も、つゐに御素意をとげ給はず。御意にふかくかけられたればにや、御夢にもつねに御覧じけん。朱雀院は、母后の御すゝめによ(っ)て、御弟、天暦の御門にゆづり奉られしが、御後悔あ(っ)て、かへりつかせ給はん由、方々へ御祈りどもありけり。伊勢へ公卿勅使などたてられけり。白河院も、其御志まし<て、御出家はありしか共、法名をばつかせ給はず。清見原の天皇の先蹤などを思食けるにや。白河院、重詐の御心ざし深かりける故、院中の御政務は一向此御代よりはじまれり。後三条の御時までは、護国の後、院中にて正しく御政務はなかりし也。されば院中のふるきためしには、白河・鳥羽を申也。脱■とすでに申上は、ふるきわらぐつの足にかゝりて、捨まほしきをすつるごとくにおぼしめすべきに、結句、新帝にゆづり給ふて後、又重祚の御望あり。それかなはねば、院中にて御政務ある事、すべて道理にもそむき、王者の法にもたがへり。かやうに朝儀すたるれば、かゝるみだれも出来るなり。
すべて今度の合戦は、前代未聞と申にや。主上・々皇御連枝なり。関白・左府も御兄弟、武士の大将為義・々朝も父子なり。此兵乱のみなもとも、只故院、后の御すゝめによ(っ)て、不儀の御受禅共ありし故也。先脱■の後、猶其末まで御はからひあらんには、当今は誰にゆづりましまさん。帝王と申に付ても、白虎通にほ天地にかなふ人をば帝と称し、仁義にかなふひとをば王と称すといへり。正法念経には、はじめ胎中にやどり給時より諸天これを守護す。卅三天、其徳をわかちてあたへ給ふ故に、天子と称すといへり。彼経には、三十七法具足せるを国王とす。いはく、「常に恵施をおこなひて惜まず。柔和にしていからず。正直にことはりて偏頗なく、ふるき道をたゞして捨ず。よく人の好悪をしり、よく世の理乱をか(ん)ゞみ、貪欲なく、邪見なく、一切をあはれみ十善を行ず。」等の説あり。されば聊かも御わたくしなく天下をおさめ給べきに、愛子におぼれて庶をたて、后妃に迷ひて弟をもちゐる、国のみだるゝもとひなり。爰をも(っ)て書にいはく、「聖人の礼をなす、其嫡を貴みて世をつがしむるにあり。太子いやしくして庶子をたつとむは乱のはじめなり。必危亡にいたる。」と。又伝にいはく、「后ならんで嫡を等するは、国のみだるゝもとひなり。」と云々。されば后おほうして、同年の太子あまたおはしまさば、天下必みだるべきにや。詩には艶女をそしり、書には哲婦をいさめたり。王者の后を立給ふ道、故あるべき也。后と申は、位を宮囲にたゞしくして、体を君王にひとしくす。されば三夫人・九嬪・廿七世婦・八十一女御ありて、内、君をたすけ奉る。よ(っ)て詩にいはく、「関々たる■鳩、君子の徳をたすく。」と。声やはらかなる■鳩の河の洲にあ(っ)てたのしめる体、幽深として其器あるがごとし。后妃をの<関■の徳あ(っ)て、幽閑貞専なる、君子のよきたぐひ也。爰をも(っ)て天下を化し、夫婦をわかち、父子をしたしんじ、君臣に礼ありて、朝庭たゞしといへり。
@『無塩君の事』 S0305
斉の国に婦人有。無塩と名づく。かたちみにくゝして色くろし。喉結をれ項肥たり。腰はおれたるがごとく、胸はつき出せるがごとし。蓬乱の髪は登徒が妻にすぐれ、檻楼のうへのきぬ、董威が輩に越たり。折■とはなびせに、高匡とまかぶらだかに、■■とをとがひぼそに、隅目とますがみたり。されば卅に及まで、あへて妻取者なし。或時宣王の宮へ詣て申さく、「妾、君王の聖徳ます事をきくに、后宮の数につらならん事をねがふてまふで来れり。」宣帝則漸台に酒肴をまふけて是をめす。時に左右の見人、口をおほひ目をひきわらふ。帝いまだ言をいだし給はず、婦人■■とめみは(っ)て、胸をう(っ)て、「危哉、々々。」と四度申せり。宣帝、「何事をのたまへる。わがねがはくは其ゆへをきかん。」と。女こたへていはく、「大王はいま天下に君たれ共、西に衛・秦のうれへあり。南に強楚の敵あり。外には三国の難あり、内には姦臣あつまれり。すでに今春秋四十七にいたるまで、太子立給はず、只継嗣をわすれて婦人をのみあつむ。このむ所をほしいまゝにして、たのむべき所をゆるくせり。もし一旦に、事出来らば、社稜しづまらじ、是一。五重の漸台を造て、金をしき玉をちりばめて、国中のたからをつくし、万民こと<”くつかれたり、是二。賢者は山林にかくれ、侫臣は左右にあり、いつはりまがる者のみすゝみて、いさめさとす者なし、是三。酒をたしみ女におぼれ、夙夜に思ひをとらかし、志をほしいまゝにして、前には国家の治を思はず、しりへには諸侯礼をおさめず、是四。危哉、々々。」と申せば、宣王ききて、「今、寡人がいふ所、是いたれることはり也。誠に我あやまりのはなはだしき也。身の全からざらん事ちかきにあり。」とて、立所に漸台をこぼちすて、彫琢をとゞめ、へつらへる臣をしりぞけ、賢者をまねき、女楽をさけ、沈酔を禁じ、つゐに太子をえらび、此無塩君を拝して后とさだめしかば、斉の国大にやすし。是醜女の功なりといへり。
しかるを今はたゞ顔色にふけり、寵愛を先として後宮おほき故に国みだるゝなり。されば周の幽王は褒■を愛して、本の后・申后并に其腹の太子をすて、褒■を后として、当腹の伯服をも(っ)て太子とせしかば、申后いかりをなして、絵綵を西夷犬戎にあたへて、幽王の都をせめしかば、蜂火をあぐれ共兵も参せずして、幽王うたれ給て周国ほろびてけり。
すべて天下のみだれ政道のたがふ事、后宮より出る也。よ(っ)て詩にいはく、「婦人長舌ある、是禍のはじめ也。天よりくだすにあらず、婦人よりなる。」といへり。長舌とは、いふ事おほくしてわざはひをなす也。是しゐて君ををしへて悪をなさしむるにもあらず、乱の道をかたるにもあらざれども、婦人を近づけ、其詞を用れば必禍乱おこる也。されば婦人は政にまじはる事なし。政にまじはれば乱是よりなるといへり。史記には、「牝鶏朝する時は、其里必滅。」といへり。めどりのときをつくるは、所の怪異にて、其さとほろぶるごとく、婦人まつりごとをいろふ事あれば、国必みだるといへり。しかるを鳥羽院、美福門院の御はからひにまかせて、御つゝがもましまさぬ崇徳院を、をしおろしまいらせて、近衛院を御位につけ奉り、又嫡孫をさしをいて、第四の宮、当今御受禅ある故に、此みだれ出来せり。嫡々をさしをきおはしますは、故院の御あやまりにや。しかれ共、天の日嗣は、かけまくもかたじけなく天照太神よりはじめて、今に絶ざる御事なれば、昔より此御望ありし君、ひとりも御本意をとげられたる事なし。され共、御はからひたがふ故にや、是より世みだれはじめて、公家たちまちにおとろへ、朝儀弥すたれたり。洛中の兵乱は、是を始と申なり。
@『左府の君達并びに謀叛人各遠流の事』 S0306
廿五日、人々遠流のよし宣下せらる。左京大夫入道は常陸国、近江中将雅成は越後国、盛憲入道は佐渡の国、正弘入道は陸奥国とぞきこえける。左大臣の二男中納言師長、日数あればさりともと思食ける所に、配流の事一定ときゝ給ひて、今はかぎりのよし、入道殿へ御消息をまいらせられけり。
一日乍レ抑二別涙一、罷二出御所一之後、不審端多雖レ有レ余、実如二蒙レ■向一レ壁。殿下及二八旬之暮年一、猶留二九重之花洛一。師長提二一面之琵琶一、遥去二万里之雲路一。近二厳顔一事、又何日。非二暗夢一不レ知二其期一候。倩毎レ思二此事一、落涙空千行。縦椿葉之陰再雖レ改、恋慕之情難レ休。手振心迷、不レ能レ述レ懐而己。師長自二幼少一至レ于レ今、携二絃歌文筆之芸一、是奉レ仕二帝辺一、為レ致二忠節一也。而逢二此殃一、長断二其思一畢。雖レ知二宿運令一レ然、不レ耐二愁涙難一レ抑。悲哉、更難レ尽二紙上一。只可下令レ垂二賢察一御上候。又去二雲外淵底一之後、無二不審一之程、可二仰給一之由、可下令二言上一給上。書状狼籍、莫レ及二高覧一。私一見之後、早破々々、不レ可レ及二外見一。恐惶謹言。
七月卅日 山寺隠士師長
進上 蔵人大夫殿へ
とぞかゝれける。
八月二日、左大臣殿の息、右大将兼長を始として、四人南都を出て、山城国稲八間といふ所へうつ(っ)て、是より各配所へおもむかる。死罪をなだめられて、遠流に成ぬるはよろこびなれ共、猶行末もおぼつかなかりけり。検非違使惟繁・資能二人追立の使にて、兄弟四人、各重服の装束にて、御馬をば下部取てければ、押取にしたる鞍なども、うたてげなるにぞ乗給ひける。見る人目もあてられざりけり。
太政官符 左京職
應レ追二位記一事
正二位藤原朝臣兼長 出雲国
従二位藤原朝臣師長 土佐国
正三位藤原朝臣教長 常陸国
右正二位行権中納言兼左兵衛督藤原朝臣忠雅宣。奉レ勅、件等
人坐レ事、配二流件国々一。宜下仰二彼職一令上レ追二位記一。者、職宜二
承知一。依レ宣行レ之。府到奉行。
保元々年八月三日
修理左宮城使正五位下行左大史兼算博士
左弁官下正五位下藤原朝臣 判
太政官府
應レ令レ還二俗大法師範長一事
右正三位行権中納言左兵衛督藤原朝臣忠雅宣。奉レ勅、件範長坐レ事、配二流安芸国一。 宜下仰二彼省一先令中還俗上。省宜二承知一。依レ宣行レ之。府到奉行。
保元々年八月三日
修理左宮城使正五位下行左大史兼竿博士
左弁官正五位下藤原朝臣 判
此範長禅師は、配所安芸国とぞきこえし。各故郷をば、けふをかぎりと立わかれ、東西南北へ左遷におもむき給ふ、心の中こそあはれなれ。師長は大物といふ所にとまり給ふに、源惟守と云者、此程琵琶をならひ奉て、常にまいりけるが、最後の御送りとて、是まで参(つ)て、夜もすがら秘曲をしらべ、「いづくの浦までも参るべく候ヘども、武士ゆるし侍らねば、まかりかへり候。御名残おしく候。」しかども「汝情ありて、是まで来る事こそ有がたけれ。」とて、青海波の秘曲をさづけ給ひて、其譜の奥にかうこそあそばされけれ。
をしへをく其言の葉をわするなよ身はあをうみの浪としづむと W006
惟守袖をひろげて、これを給はりつゝ、なみだにむせびて立にけり。
此外、国々へながさるゝ人、十四人とぞきこえし。禅閤は、左府の御かたみのきんだちにも、みな<わかれ給へば、別涙をさへがたくて、かゝる物思ひに、きえやらぬ露の御命も中々うらめしく、「いきて物を思はんよりは、たゞ春日の大明神、命をめせ。」と申させ給ふぞ、せめての御事とあはれなる。
@『大相国御上洛の事』 S0307
八月八日、宇治の大相国、富家殿に帰りすませ給べきよし、内々申させ給へ共、天気ゆりず。あま(っ)さへ南都にて悪党をもよほし給ひけるとて、配所へつかはさるべきよし宣下せられければ、信西、関白殿へ参て此よし申せば、殿下、父を配所へつかはして、其子摂禄をつかまつらん事、面目なきよし仰ければ、信西此よしを奏問す。「関白さやうに申されば、さながらこそあらめ。」と仰なりければ、禅閤この由をきこしめして、「関白、入道が事をこれほどに思ひける物を、何のゆへに日比こゝろよからずおもひつらん。」とて、御後悔ありけり。しかれども猶世をおそれさせ給て、内裏へ申させ給けるは、「もし朝家の御ために野心を存せば、現世には天神・地祇の冥罰をかうぶり、当来には三世の諸仏の利益にもるべし。」とぞかゝせ給ひける。南都に御座ありてはあしかりなんとて、関白殿より御迎に人をまいらせられければ、御所労とて出給はず。猶世をあやぶませ給ふ故なり。仍而殿下より、御子左衛門督基実を御使として、くはしく申させ給ければ、其時入道殿南都を出給て、知足院にすませ給ふ。御とし八十四とぞきこえし。
@『新院御経沈めの事付けたり崩御の事』 S0308
新院、八月十日に御下着のよし、国より請文到来す。此ほどは松山に御座ありけるが、国司すでに直嶋と云所に、御配所をつくり出されければ、それにうつらせおはします。四方についがきつき、たゞ口一つあけて、日に三度の供御まいらする外は、事とひ奉る人も
なし。さらでだにならはぬひなの御すまゐはかなしきに、秋もやう<ふけゆくまゝに、松をはらふあらしの音、草むらによはるむしのこゑも心ぼそく、夜の鴈のはるかに海をすぐるも、故郷に言伝せまほしく、あかつきの千どりのすざきにさはぐも、御心をくだくたねとなる。わが身の御なげきよりは、わづかに付奉り給へる女房たちのふししづみ給ふに、弥御心ぐるしかりけり。
「我はるかに神裔をうけて天子のくらゐをふみ、太上天皇の尊号をかうぶりて、枌楡の居をしめき。先院御在世の間なりしかば、万機の政を心にまかせずといへ共、久しく仙洞のたのしみにほこりき。思出なきにあらず。或は金谷の花をもてあそび、或は南楼の月に吟じ、すでに卅八年を送れり。過にしかたをおもへば、昨日の夢のごとし。いかなる前世の宿業にか、かゝるなげきにしづむらん。たとひ烏のかしらしろくなるとも帰京の期をしらず。さだめて亡郷の鬼とぞならんずらん。ひとへに後世の御ため。」とて、五部の大乗経を三年がほどに御自筆にあそばして、貝鐘の音もきこえぬ所に、をき奉らんもふびんなり、八幡山か高野山歟、もし御ゆるしあらば、鳥羽の安楽寿院故院の御墓にをき奉り度よし、平治元年の春の此、仁和寺の御室へ申させ給しかば、五の宮よりも、関白殿へ此由つたへ申させ給ふ。殿下よりよきやうにとり申させ給へども、主上つゐに御ゆるされなくして、彼御経を則かへしつかはされ、御室より、「御とがめおもくおはしますゆへ、御手跡なりとも、都ちかくはをかれがたきよし承候間、力をよばず。」と御返事ありければ、法皇此よしきこしめして、「口おしき事かな。我朝にかぎらず、天竺・震旦にも、国を論じ位をあらそひて、舅・甥謀叛をおこし、兄弟合戦をいたす事なきにあらず。我此事をくゐおもひ、悪心懺悔のために此経をかき奉る所也。しかるに筆跡をだに、都にをかざる程の儀に至(っ)ては、ちからなく、此経を魔道に廻向して、魔縁と成(っ)て、遺恨を散ぜん。」と仰ければ、此由都へきこえて、「御ありさまみてまいれ。」とて、康頼を御使に下されけるが、参てみ奉れば、柿の御衣のすすけたるに、長頭巾をまきて、御身の血をいだして、大乗経の奥に御誓状をあそばして、千尋の底へしづめ給ふ。其後は御つめをもはやさず、御髪をもそらせ給はで、御姿をやつし、悪念にしづみ給ひけるこそおそろしけれ。
かくて八年御おはしまして、長寛二年八月廿六日に、御とし四十六にて、志戸といふ所にてかくれさせ給けるを、白峯と云所にて煙になし奉る。此君、怨念によ(っ)て、いきながら天狗のすがたにならせ給けるが、其故にや、中二とせあ(っ)て、平治元年十二月九日、信頼卿にかたらはれて、義朝大内にたてこもり、三条殿をやきはらひ、院・内をもをしこめ奉り、信西入道の一類をほろぼし、掘うづまれし信西が死骸をほりおこし、首をば大路をわたしけり。たえて久しき死罪を申おこなひ、左府の死骸をはづかしめなど、あまりなる事申おこなひしがはたす所也。
去ぬる保元三年八月廿三日に、御位、春宮にゆづり給ふ。二条院これ也。院と申は、先帝後白河の御事なり。信頼もたちまちにほろびぬ。義朝も平氏にうちまけて落ゆきけるが、尾張の国にて、相伝の家人、長田庄司忠宗にうたれて、子どもみな死罪流刑におこなはる。誠に乙若のたまひけるごとくなり。栴檀は二葉よりかうばしく、迦陵頻は卵の中に妙なる音あるごとく、乙若おさなけれ共、武士の家にむまれて、兵の道をしりける事こそあはれなれ。此乱は讃岐院いまだ御在世の間に、まのあたり御怨念のいたす所と、人申けり。
仁安三年の冬の比、西行法師、諸国修行のつゐでに、白峯の御墓にまいりて、つく<”と見まいらせ、昔の御事思ひ出奉て、かうぞよみ侍ける。
よしや君むかしの玉の床とてもかゝらむ後はなにゝかはせん W007
治承元年六月廿九日、追号ありて崇徳院とぞ申ける。かやうになだめまいらせられけれども、猶御いきどおり散ぜざりけるにや、同三年十一月十四日に、清盛、朝家をうらみ奉り、太上天皇を鳥羽の離宮にをしこめ奉り、太政大臣已下四十三人の官職をとゞめ、関白殿を太宰権帥にうつしまいらす。これたゞ事にあらず、崇徳院の御たゝりとぞ申ける。
其後人の夢に、讃岐院を御輿にのせ奉り、為義判官、子共相具して、先陣仕り、平馬助忠正後陣にて、法住寺殿へ渡御あるに、西の門より入奉らんとするに、為義申けるは、「門々をば不動明王・大威徳のかため給ふて入がたし。」と申せば、「さらば清盛がもとへいれ
まいらせよ。」と仰ければ、西八条へなし奉るに、左右なくうちへ御行なりぬとぞ見たりける。誠にいく程なくて、清盛公物ぐるはしくなり給ふ。是讃岐院の御霊なりとて、なだめまいらせんために、むかし合戦ありし大炊御門がすゑの御所の跡に社をつく(っ)て、崇徳院といはひ奉り、并に左大臣の贈官贈位おこなはる。少納言経基勅使にて、彼御墓所にむか(っ)て、太政大臣正一位の位記をよみかけけり。亡魂もさこそうれしとおぼしけめ。
@『為朝生捕り遠流に処せらるる事』 S0309
さるほどに、「為朝をからめてまいりたらん者には、不次の賞あるべし。」と宣旨下りけるに、八郎、近江国輪田と云所にかくれゐて、郎等一人法師になして、乞食させて日を送りけり。筑紫へくだるべき支度をしけるが、平家の侍筑後守家貞、大勢にてのぼるときこえければ、其程ひるはふかき山に入て身をかくし、よるは里に出て食事をいとなみけるが、有漏の身なればやみいだして、灸治などおほくして、温室大切の間、ふるき湯屋を借て、常におりゆをぞしける。爰に佐渡兵衛重貞といふ者、宣旨をかうぶ(っ)て、国中を尋もとめける所に、ある者申けるは、「此程このゆやに入者こそあやしき人なれ。大男のおそろしげなるが、さすがに尋常気なり。としは廿ばかりなるがひたひに疵あり、ゆゝしく人にしのぶとおぼえたり。」とかたれば、九月二日湯屋におりたる時、卅余騎にてをしよせてけり。為朝まはだかにて、合木をも(っ)てあまたの者をばうちふせたれども、大勢にとりこめられて、云がひなくからめられにけり。季実判官請取て、二条を西へわたす。しろき水干・はかまに、あかきかたびらをきせ、本どりに白櫛をぞさしたりける。北陣にて叡覧あり。公卿・殿上人は申に及ばず、見物の者市をなしけり。おもての疵は合戦の日、正清に射られたりとぞきこえける。すでに誅せらるべかりしが、「已前の事は合戦の時節なれば力なし。事すでに違期せり。未御覧ぜられぬ者の体なり。且は末代にありがたき勇士なり。しばらく命をたすけて遠流せらるべし。」と議定ありしかば、流罪にさだまりぬ。但息災にては後あしかりなんとて、かひなをぬきて伊豆の大嶋へながされけり。かくて五十余日して、かたつくろひて後は、すこしよはく成たれども、失づかをひく事、今二つぶせひきましたれば、物のきるゝ事むかしにをとらず。
為朝のたまひけるは、「我清和天皇の後胤として、八幡太郎の孫なり。いかでか先祖をうしなふべき。是こそ公家より給(っ)たる領なれ。」とて、大嶋を管領するのみならず、すべて五嶋をうちしたがへたり。是は伊豆国住人、鹿野介茂光が領なれども、聊かも年貢をも出さず、嶋の代官三郎大夫忠重といふ者のむこに成(っ)てけり。茂光は、「上臈聟取(っ)て我をわれ共せず。」と忠光をうらみければ、かくして運送をなすを、為朝きゝ付て、舅忠光をよびよせて、「此条奇怪なり。」といふうへ、勇士なれば始終わがためあしかりなんとや思ひけん、左右の手のゆびを三づゝき(っ)てすてゝけり。其ほか弓矢を取てやきすつ。すべて嶋中に我郎等の外、弓箭ををかざりけり。
@『為朝鬼が島に渡る事并びに最後の事』 S0310
むかしの兵どもたづね下てつきしたがひしかば、威勢やうやくさかりにして、すぎゆくほどに十年にあたる永万元年の三月に磯にいでゝあそびけるに、白鷺・青鷺二つつれて、おきのかたへとびゆくをみて、「わしだに一羽に千里をこそとぶといふに、いはんやさぎは一二里にはよもすぎじ。此鳥のとびやうはさだめて嶋ぞあるらん、追て見ん。」といふまゝに、はや舟に乗(っ)てはせてゆくに、日もくれ夜にもなりければ、月をかゞりにこぎゆけば、あけぼのにすでに嶋かげ見えければ、こぎよせたれ共、あら磯にて波たかく、いはほさかしくて、船をよすべきやうもなし。をしまはして見給ふに、戌亥の方より小川ぞながれ出たりける。御曹子は西国にて船には能調練せられたり、舟をも損ぜずをしあげてみ給へば、たけ一丈あまりある大量の、かみはそらざまにとりあげたるが、身には毛ひしとおひて、色くろく牛のごとくなるが、刀を右にさしておほく出たり。おそろしなどもいふばかりなし。申言ばもきゝしらざれば、大かた推してあひしらふ。「日本の人こゝに嶋ありとしらねば、わざとはよもわたらじ。風にはなたれたるらん。むかしより悪風にあふて、此嶋に来る者いきてかへる事なし。あら磯なればをのづからきたる舟は浪にうちくだかる。此嶋には舟もなければ、乗てかへる事なし。食物なければたちまちに命つきぬ。もし舟あらば、糧つきざるさきに早く本国にかへるべし。」とぞ申ける。郎等どもはみな興をさまして思ひけれども、為朝はすこしもさはがず、「磯に舟ををきたればこそ波にもくだかるれ。たかくひき上よ。」とて、はるかの上へぞ引上ける。
さて嶋をめぐりてみ給ふに、田もなし、畠もなし。菓子もなく、絹綿もなし。「なんぢら、何をも(っ)て食事とする。」ととへば、「魚鳥。」と答。「あみひく体みえず、釣する舟もなし、又はがもたてず、もちなはもひかず。いかにして魚鳥をばとるぞ。」ととへば、「われらが果報にや、魚は自然とうちよせらるゝをひろひとる。鳥をばあなをほりて、領知分て其あなに入、身をかくし、こゑをまなびてよべば、其声についてとりおほくとびいるを、あなの口をふさぎて、やみとりにする也。」といふ。げにも見れば鳥あなおほし。其鳥のせいは、ひえどりほどなり。為朝是を見給ひて、件の大鏑にて、木にあるを射おとし、空をかけるを射ころしなどし給へば、しまの者ども、したを振ておぢおそる。「汝らもわれにしたがはずは、かくのごとく射ころすべし。」とのたまへば、みな平伏して随がひけり。身にきる物は、あみのごとくなる太布也。此布を面々の家々よりおほくもち出て前につみをきけり。嶋の名をとひ給へば、鬼が嶋と申。「しかれば、なんぢらは鬼の子孫歟。」「さん侯。」「さてはきこゆるたからあらば、とりいだせよ。見ん。」とのたまへば、「昔まさしく鬼神なりし時は、かくれみの・かくれがさ・うかびぐつ・しづみぐつ・剣などいふ宝ありけり。其比は船なけれ共、他国へもわたりて、日食人の生贄をもとりけり。今は果報つきて、たからもうせ、かたちも人になりて、他国に行事もかなはず。」といふ。「さらば嶋の名をあらためん。」とて、ふときあしおほく生たれば、蘆嶋とぞ名付ける。此嶋具して七島知行す。是を八丈嶋のわきしまと定めて、年貢を運送すべきよしを申に、船なくしていかゞすべきとなげく間、毎年一度舟をつかはすべき由約束してけり。但今わたりたるしるしにとて、件の大童一人具してかへり給ふ。
大嶋の者、あまりに物あらくふるまひ給へば、龍神八部にとられてうすらんとよろこびおもふ所に、事ゆへなくかへり給ふのみならず、あま(っ)さへ、おそろしげなる鬼童をあひ具して来りたれば、国人弥おぢおそる。此鬼童のけしきを人に見せんとや、つねに伊豆の国府へ其事となくつかはしけり。しかれば国人、「鬼神の嶋へわたり、おにをとらへて郎等として、人をくいころさせらるべし。」と、おぢあへる事なのめならず。されば為朝も猶おごる心やいできけん。しかれば国人も、「かくてはいかなる謀叛をかおこし給はんずらん。」など申けるを、鹿野介つたへきゝて、高倉院の御宇、嘉應二年の春のころ、京のぼりして此よしを奏問し、茂光が領地をこと<”く押領し、剰鬼がしまへわたり、鬼神をやつことしてめしつかひ、人民をしへたぐる由をう(っ)たへ申ければ、後白河院おどろき聞召て、当国并に武蔵・相模の勢をもよほして、発向すべきよし院宣をなされければ、茂光にあひしたがふ兵たれ<”ぞ、伊藤・北条・宇佐美平太・同平次・加藤太・同加藤次・最六郎・新田四郎・藤内遠景をはじめとして五百余騎、兵船廿余艘にて、嘉應二年四月下旬に、大嶋の館へをしよせたり。
御曹子は、「おもひもよらず、沖のかたに舟の音のしけるは、なに舟ぞ。見てまいれ。」とのたまふ。「商人舟やらん、おほくつれ候。」と申せば、「よもさはあらじ。われに討手のむかふやらん。」とのたまへば、案のごとく兵船也。「さてはさだめて大勢なるらん。たとひ一萬騎なりとも、うち破(っ)ておちんと思はゞ、一まどは鬼神がむかひたりとも射はらふべけれども、おほくの軍兵を損じ、人民をなやまさんも不便なり。勅命をそむきてつゐには何の詮かあらん。去ぬる保元に勅勘をかうぶ(っ)て流罪の身となりしかども、此十余年は当所の主となりて、心ばかりはたのしめり。それ已前も九国を管領しき。思出なきにあらず。筑紫にては菊池・原田の兵をはじめて、西国の者どもは、みなわが手がらの程はしりぬらん。都にては源平の軍兵、ことに武蔵・相模の郎等ども、わが弓勢をばしりぬらん物を。其外の者ども甲冑をよろひ、弓箭を帯したる計にてこそあらんずれ。為朝にむか(っ)て弓ひかん者はおぼえぬ物を。いま都よりの大将ならば、ゆがみ平氏などこそ下るらめ。一々に射ころして、海にはめむと思へども、つゐにかなはぬ身に無益の罪つく(っ)てなにかせん。今まで命をおしむも、自然世もたてなをらば、父の意趣をもとげ、わが本望をも達せばやと思へばこそあれ。又そのかみ説法をきゝしに、欲知過去因、見其現在果、欲知未来果、見其現在因といへり。されば罪をつくらば、必悪道におつべし。しかれども、武士たる者殺業なくては叶はず。それに取(っ)ては、武の道、非分の物をころさず。仍為朝合戦する事廿余度、人の命をたつ事数をしらず。されども分の敵を討(っ)て非分の物をうたず。かせぎをころさず、鱗をすなどらず、一心に地蔵菩薩を念じ奉る事廿余年也。過去の業因によ(っ)て今かやうの悪身をうけ、今生の悪業によ(っ)て来世の苦果おもひしられたり。されば今、此罪こと<”くさんげしつ。ひとへに仏道をねがひて念仏を申なり。此うへは兵一人ものこるべからず、みな落ゆくべし。物具も皆龍神に奉れ。」とて、落行者共にをの<かたみをあたへ、嶋の冠者為頼とて、九歳になりけるをよびよせてさしころす。これをみて、五になる男子、二になる女子をば、母いだきてうせにければ力なし。「さりながら、矢一射てこそ腹をもきらめ。」とて、たちむかひ給ふが、最後の矢を手あさく射たらむも無念なりと思案し給ふ所に、一陣の舟に、究竟の兵三百余人射向の袖をさしかざし、船を乗かたぶけて、三町ばかり渚ちかくをしよせたり。御曹子は矢比すこしとをけれども、件の大鏑を取(っ)てつがひ、こひぢのまはるほど引つめて兵どはなつ。水ぎは五寸ばかりをいて、大舟のはらをあなたへつと射とをせば、両方の矢目より水入て、舟はそこへぞまひ入ける。水心ある兵は、楯・掻楯にの(っ)てたゞよふ所を、櫓・械・弓のはずにとりつきて、ならびの舟へのりうつりてぞたすかりける。為朝これを見給て、「保元のいにしへは、矢一すぢにて二人の武者を射ころしき。嘉應のいまは一矢におほくの兵をころし畢。南無阿弥陀仏。」とぞ申されける。今はおもふ事なしとて、内にいり、家のはしらをうしろにあてゝ、腹かきき(っ)てぞゐ給ひける。
其後は、舟どもはるかにこぎもどして申けるは、「八郎殿の弓勢は、今にはじめぬ事なれ共、いかゞはすべき。我らがよろひをぬぎて、船にやきする。」など、色々の支度にて程ふれ共、さしいづる敵もなければ、又おづおづ船をこぎよせけれども、あへて手向する者もなし。是に付ても、たばか(っ)て陸にあげてぞうたんずらんと、心に鬼をつく(っ)て、左右なくちかづかず。されども波のうへに日をゝくるべきかとて、思ひ切(っ)て、馬のあしたつほどにもなりしかば、馬どもみな追おろして、ひた<と打乗ておめいてかけいれ共、たてあふ者のやうにみえ、なけれども太刀をもつやうにおぼえ、眼勢・ことがら、敵のうちいるらむをさしのぞく体にぞありける。されば、かねて我ま(っ)さきかけて討とらんと申せし兵ども、これをみてうち入者一人もなし。全官軍の臆病なるにもあらず、たゞ日比、人ごとにおぢならひたるいはれ也。かやうに随分の勇士共も、わろびれてすゝみえず、たゞ外■をとりまはせるばかり也。こゝに加藤次景廉、自害したりとみおふせてやありけん、長刀をも(っ)てうしろよりねらひよりて、御曹子の頸をぞうちおとしける。よ(っ)て其日の高名の一の筆にぞ付たりける。首をば同五月に都へのぼせければ、院は二条京極に御車をたてゝ叡覧あり。京中の貴賤道俗、郡集す。
此為朝は、十三にて筑紫へ下り、九国を三年にうちしたがへて、六年おさめて十八歳にて都へのぼり、保元の合戦に名をあらはし、廿九歳にて鬼が嶋へわたり、鬼神をと(っ)てやつことし、一国の者おぢおそるといへども、勅勘の身なれば、つゐに本意をとげず、卅三にして自害して、名を一天にひろめけり。いにしへよりいまにいたるまで、此為朝ほどの血気の勇者なしとぞ諸人申ける。
保元物語巻下