平治物語 「校註 日本文学大系」本

凡例
底本:校註 日本文学大系 第十四巻 「保元物語 平治物語 平家物語」
昭和6年9月26日普及版発行(非売品) 誠文堂
流布本を基としています。
漢字、仮名の表記等を変更した箇所が有ります。
参考:岩波書店 日本古典文学大系 51 「保元物語 平治物語」昭和36年 付録 古活字本

章段の冒頭に@を付け、章段名の後にS+巻(2桁)+章段(2桁)で表記しました。
和歌の後に、W+国歌大観の番号(3桁)を付けました。
脱字等を他本で補った場合は、〔 〕に入れました。


平治物語
平治物語目次
  巻之一
信頼・信西不快の事
信頼卿信西を亡ぼさるる議の事
三條殿発並びに信西の宿所焼き払ふ事
信西が子息闕官の事付けたり除目の事並びに悪源太上洛の事
信西出家の由来並びに南都落ちの事付けたり最後の事
信西が首実検の事付けたり大路を渡し獄門にかけらるる事
唐僧来朝の事
叡山物語の事
六波羅より紀州へ早馬を立てらるる事
光頼卿参内の事並びに許由が事付けたり清盛六波羅上著の事

信西の子息遠流に宥めらるる事
院の御所仁和寺に御幸の事
主上六波羅へ行幸の事
源氏勢汰への事
  巻之二
待賢門の軍並びに信頼落つる事
義朝六波羅に寄せらるる事並びに頼政心替りの事付けたり漢楚戦ひの事
六波羅合戦の事
義朝敗北の事
信頼降参の事並びに最後の事
官軍除目を行はるる事付けたり謀叛人官職を止めらるる事
常葉註進並びに信西子息各遠流に処せらるる事
義朝青墓に落ち著く事

義朝野間下向の事付けたり忠宗心替りの事
頼朝青墓に下著の事
  巻之三
金王丸尾張より馳せ上る事
長田義朝を討ちて六波羅に馳せ参る事付けたり大路渡して獄門にかけらるる事
忠宗尾州に逃げる事
悪源太誅せらるる事
清盛出家の事並びに瀧詣で付けたり悪源太雷電となる事
頼朝生捕らるる事付けたり常葉落ちらるる事
頼朝遠流に宥めらるる事付けたり呉越戦ひの事
常葉六波羅に参る事
経宗・惟方遠流に処せらるる事同じく召し返さるる事

頼朝遠流の事付けたり盛安夢合はせの事
牛若奥州下りの事
頼朝義兵を挙げらるる事並びに平家退治の事

目次 終

平治物語
巻之一
  @『信頼・信西不快の事』 S0101
 ひそかにおもんみれば、三皇五帝の国をおさめ、・四岳八元の民をなづる、皆是うつはものをみて官に任じ、身をかへりみて禄をうくるゆへなり。君、臣をえらんで官をさづけ、臣、をのれをはか(っ)て職をうくるときは、任をくはしうし成をせむること、労せずして化すといへり。かるがゆへに舟航のふね海をわたる、必■■の功をかり、鴻鶴のつる雲をしのぐ、かならず羽■の用による。帝王の国をおさむ、かならず匡弼のたすけによると云々。国の匡輔はかならず忠良をまつ。任使其人をうるときは、天下をのづからおさまると見えたり。 いにしへより今にいた(っ)て、王者の人臣を賞する、和漢両朝、おなじく文武二道をも(っ)て先とす。文をも(っ)ては万機の政をたすけ、武をも(っ)ては四夷の乱をしづむ。天下をたもち国土をおさむるはかりこと、文を左にし、武を右にすとみえたり。たとへば人の二の手のごとし。一もかけてはかなひがたし。一両端も(っ)てかなふとき、四海風波の恐なく、八荒民庶のうれへなし。夫澆季に及びては、人おご(っ)て朝威を蔑如し、民たけくして野心をさしはさむ。よく用意すべし。尤抽賞せらるべきは勇士也。されば唐の太宗文皇帝は、ひげをやきて功臣にたまひ、血をふくみかさを吃て戦士をなでしかば、心は恩のためにつかへ、命は義によ(っ)てかろかりければ、身をころさんことをいたまず、たゞ死をいたさんことをのみおもへりけりとなん。みづから手をおろし、われとよくたゝかはねども、人にこゝろざしをほどこせば、人皆帰しけり。又讒侫の徒は、国の■賊なり。栄花を旦夕にあらそひ、勢利を市朝にきほふ。その■■のすがたをも(っ)て、忠賢の、をのがかみにある事をにくみ、其■邪の心ざしをいだひて、富貴のわれさきたらざる事をうらむ。是みな愚者のならひ也。用捨すべきは此事なり。 ここに近来権中納言兼中宮権大夫・右衛門督藤原朝臣信頼卿といふ人ありき。人臣の祖、天津児屋根の尊の御苗裔、中関白道隆の八代の後胤、幡磨三位季隆の孫、伊与三位仲隆が子なり。しかれども、文にもあらず、武にもあらず、能もなく芸もなし。只朝恩にのみほこ(っ)て、昇進にかゝはらず。父祖は諸国の受領をのみへて、としたけよはひかたぶけて後、わづかに従三位までこそいたりしか。これは近衛司・蔵人頭・后の宮の宮つかさ・宰相中将・衛府督・検非違使別当、これらをわづかに二三ヶ年間にへのぼ(っ)て、歳廿七にして、中納言右衛門督に至れり。一の人の家嫡などこそ、かやうの昇進はし給に、凡人にをひては、いまだかくのごとくの例をきかず。又官途のみにあらず、奉禄も猶心のまゝ也。かくのみ過分なりしかども、猶不足して、家にたえてひさしき大臣の大将に望をかけて、凡おほけなきふるまひをのみしけり。されば見る人目をふさぎ、きく者耳をおどろかす。微子瑕にもすぎ、安禄山にもこえたり。余桃の罪をもおそれず、たゞ栄花の恩にぞほこりける。其頃、少納言入道信西といふ者あり。山井の三位永頼卿八代の後胤、越後守季綱が孫、鳥羽院御宇、進士蔵人実兼が子也。儒胤をうけて、儒業をつたへずといへども、諸道を兼学して諸事にくらからず、九流百家にいたる、常世無双の宏才博覧也。後白河上皇の御乳母、紀伊二位の夫たるによ(っ)て、保元々年よりこのかたは、天下大小事を心のまゝにとりおこな(う)て、絶たるあとをつぎ、すたれたる道をおこし、延久の例にまかせて、大内に記録所ををき、訴訟を評議し、理非を勘決す。聖断わたくしなか(っ)しかば、人のうらみものこらず。世を淳素に帰し、君を尭舜にいたし奉る。延喜・天暦の二朝にもはぢず、義懐・惟成が三年にもこえたり。大内は久しく修造せられざりしかば、殿舎傾危し、楼閣荒廃して、牛馬のまき、雉兎のふしどゝ成たりしを、一両年の中に造畢して、遷幸なし奉る。外■重畳たる大極殿・豊楽院・諸司八省・大学寮・朝所にいたるまで、花の■・雲のかた、大■のかまへ・成風の功、としをへずして不日になりしか共、民のわづらひもなく、国のつゐへもなかりけり。内宴・相撲の節、久しく絶たる跡をおこし、詩歌管絃のあそび、おりにふれてあひもよほす。九重の儀式むかしをはぢず、万事の礼法ふるきがごとし。 去ぬる保元三年八月十一日、主上御位をすべらせ給て、御子の宮にゆづり申させ給へり。二条院これなり。しかれども、信西が権位もいよ<威をふるひて、飛鳥もおち、草木もなびくばかり也。又信頼卿の寵愛も、猶いやめづらかにして、かたをならぶる人もなし。されば両雄はかならずあらそふならひなるうへ、いかなる天魔が二人の心に入かはりけん、其中あしくして、事にふれて不快のよしきこえけり。信西は信頼を見て、何様にも此者天下をもあやふめ、国家をもみだらんずる仁よと思ひければ、いかにもしてうしなはゞやと思へども、当時無双の寵臣なるうへ、人の心もしりがたければ、うちとけて申あはすべき輩もなし、つゐであらばとためらひゐたり。信頼も又、何事も心のまゝなるに、此入道我をこばんで、うらみをむすばん者かれなるべしと思ひて(ん)げれば、いかなるはかりことをもめぐらして、うしなはんとぞたくみける。 或時信西にむか(っ)て、上皇仰なりけるは、「信頼が大将をのぞみ申はいかに。必しも重代清花の家にあらざれども、時によ(っ)てなさるゝ事もありけるとぞつたへきこしめす。」と仰られければ、信西、すは此世の中、いまはさてぞとなげかしくて申けるは、「信頼などが大将になりなば、たれかのぞみをかけ候はざらん。君の御政は、つかさめしをも(っ)てさきとす。叙位除目にひが事いできぬれば、かみ天のぎゞにそむき、しも人のそしりをうけて、世のみだるゝはしなり。其例漢家・本朝に磐多なり。さればにや、阿古丸大納言宗通卿を、白河院、大将になさんとおぼしめしたりしかども、寛治の聖主御ゆるされなかりき。故中御門藤中納言家成卿を、旧院、大納言になさばやと仰られしかども、諸大夫の大納言になる事は絶てひさしく候。中納言にいたり候だに、過分に候物をと、諸卿いさめ申されしかば、おぼしめしとまりぬ。せめての御心ざしにや、年の始の勅書の上書に、中御門新大納言殿へとぞあそばされたりける。是を拝見して、まことになされまいらせたるにも猶すぎたる面目かな、御心ざしのほどかたじけなしとて、老の涙をのごひかねけるとぞ承り候。いにしへは大納言猶も(っ)て君も執しおぼしめし、臣もゆるかせにせじとこそいさめ申しか。いはんや近衛の大将をや。三公には列すれども、大将をばへざる臣のみあり。執柄の息・英才の輩も、此職を先途とす。信頼などが身をも(っ)て大将をけがさ(ん)か、いよ<おごりをきはめて謀逆の臣となり、天のためにほろぼされ候はん事いかでか不便におぼしめされで候べき。」といさめ申けれども、げにもとおぼしめしたる御気色もなし。信西あまりの勿体なさに、唐の安禄山がおごれる昔を絵にかきて、巻物三巻を作りて、院へまいらせけれども、君はなをげにもと思食たる御事もなく、天気他にことなり。信頼卿は、通憲入道が散々に申ける事をもれ聞て、やすからぬ事におもひければ、つねに所労と号し、出仕もせず、伏見の源中納言師仲卿を相かたら(う)て、彼在所にこもりゐて、馬にのり、はせひき、早足、ちからもちなど、ひとへに武芸をぞ稽古せられける。是しかしながら、信西をうしなはんため也。
  @『信頼信西を亡ぼさるる議の事』 S0102
 子息新侍従信親を、大弐清盛の聟になして近づきより、平家の武威をも(っ)て本意をとげんと思ひけるが、清盛は大宰大弐たるうへ、大国あまたたまは(っ)て、一族みな朝恩をかうぶり、うらみ有まじければ、よも同意せじとおもひとゞまる。左馬頭義朝こそ、保元の乱以後、平家におぼえおと(っ)て、やすからず存ずる者と思はれ、近づきて懇に志をぞかよはしける。つねに見参の度には、「信頼かくて候へば、国をも庄をも望み、官加階をも申されんに、天気よも子細あらじ。」とのたまふ。「かやうに御意に懸られ候条、身に取て大慶なり。いかなる御大事をも承て、一方はかため申さん。」とぞの給ひける。しかのみならず、当帝の御外戚、新大納言経宗をもかたらひ、中御門藤中納言家成卿の三男、越後中将成親朝臣は、君の御けしきよき者也とかたらひ、御乳人の別当惟方をもたのまれけり。中にも此別当は母方の叔父なりしに、我弟尾張少将信俊を聟になして、ことさらふかくぞちぎられける。 かやうにしたゝめめぐらして、隙をうかゞはれける程に、平治元年十二月四日、大弐清盛宿願ありとて、嫡子左衛門佐重盛あひぐして、熊野参詣の事あり。其ひまをも(っ)て信頼卿義朝をまねき、「信西は紀伊の二位の夫たるによ(っ)て、天下大小事を心のまゝに申おこなひ、子どもには官加階ほしいまゝになしあたへ、信頼がかたさまの事をば、火をも水に申なす。讒侫至極のひがもの也。此入道久しく天下にあ(っ)ては、国もかたぶき世もみだるべきわざはひのもとひなり。君もさはおぼしめしたれども、させる次もなければ、御いましめもなし。いさとよ、御辺始終はいかゞあらん。大弐清盛もかれが縁となりて、源氏の人々をば申しづめんとするなどこそうけ給はれ。よきやうにはからはるべき物を。」とかたれば、義朝申されけるは、「六孫王より七代、弓箭の芸をも(っ)て、いまに叛逆の輩をいましめ、武略の術をつたへて、凶徒をしりぞけ候。しかるに去ぬる保元に、門葉の輩おほく朝敵と成て、親類みな■せられ、已上義朝一人にまかりなり候へば、清盛も内々はさぞはからひ候らん。これらはもとより覚悟の前にて侍れば、あながちおどろくべきにては候はね共、かやうにたのみ仰候うへは、便宜候はゞ、当家の浮沈をもこゝろむべしとこそ存候へ。」と申されければ、信頼大によろこんで、いか物づくりの太刀一腰みづからとりいだし、且は悦の始とてひかれたり。義朝謹で請取て出られけるに、しろくくろく、さる体なる馬二疋、鏡鞍をいて引(っ)たてたり。夜陰の事なれば、松明ふりあげさせて、此馬を見、「合戦の出立に、馬程の大事は候はず。近此の御馬にて、此龍蹄をも(っ)て、いかなる強陣なりとも、などかやぶらで候べき。合戦は勢にはよらず、はかりことをも(っ)てすといへ共、小をも(っ)て大に敵せず共申せば、頼政・光泰・光基・季実等をもめされ候へ。其うへこれらをはじめて、源氏共、内々申むねありと承り候。」と申して出られければ、信頼卿、月比日比こしらへをかれたる兵具なれば、おどし立たる鎧五十領、追様につかはされけり。
  @『三条殿へ発向付けたり信西の宿所焼き払ふ事』 S0103
 信頼やがて、此人々をよびて、頼むべきよしのたまへば、「一門の中の大将、すでにしたがひ奉るうへは、左右にあたはず。」とてかへりければ、大によろこんで、同九日の夜子刻ばかりに、信頼卿、左馬頭義朝を大将として、其勢五百余騎、院の御所三条殿へをしよせ、四方の門々をうちかため、右衛門督乗ながら、南庭にう(っ)た(っ)て、「年来御いとおしみをかうぶりつるに、信西が讒によ(っ)て、信頼うたれまいらすべき由承候間、しばしの命たすからんために、東国のかたへこそまかり下り候へ。」と申せば、上皇大きにおどろかせ給ひて、「なにものが信頼をばうしなふべか(ん)なるぞ。」とて、あきれさせ給へば、伏見源中納言師仲卿、御車をさしよせ、いそぎめさるべきよし申されければ、「早火をかけよ。」と声々にぞ申ける。 上皇あはてゝ御車にめさるれば、御妹の上西門院も、一つ御所にわたらせ給ひけるが、同御車にぞ奉りける。信頼・義朝・光泰・光基・季実等、前後左右にうちかこみて、大内へ入まいらせ、一品御書所にをしこめたてまつる。やがて佐渡式部大夫重成・周防判官季実、ちかく候じて君をば守護し奉る。さても此重成は、保元の乱の時も、讃岐院の仁和寺の寛遍法務が坊にわたらせ給ひしを、守護し奉て、讃州へ御配流ありし時も、鳥羽までまいりし者なり。いかなるゆへにや、二代の君を守護しまいらすらんと、人々申あへり。 三条殿のありさま申もをろか也。門々をば兵どもかためたるに、所々に火あげたり。猛火虚空にみちて、暴風煙雲をあぐ。公卿殿上人、つぼねの女房たちにいたるまで、是も信西が一族にてやあるらんとて、射ふせきりころせば、火にやけじといづれば矢にあたり、矢にあたらじとかへれば火にやけ、箭におそれ、火をはゞかるたぐひは、井にこそおほくとびいりけれ。それもしばらくの事にて、下なるは水におぼれ、中なるはともにをされて死し、うへは火にこそやけけれ。つくりかさねたる殿舎の、はげしき風にふきたてられて、灰燼地にほどばしりければ、いかなる物かたすかるべき。彼阿房の炎上には、后妃采女の身をほろぼす事なかりしに、此仙洞の回禄には、月卿雲客の命をおとすこそあさましけれ。左兵衛尉大江家仲・右衛門尉平康忠、こゝを最期とふせぎたゝかひけるが、つゐにうたれてければ、家仲・康忠両人が首をほこのさきにつらぬき、大内へはせまいり、待賢門にさしあげて、おめきさけびたる外は、しいだしたる事ぞなき。 同丑刻に信西が宿所、姉小路西洞院へをしよせて、火をかけたれば、女わらはべのあはてゝまよひ出けるをも、信西がすがたをかへてやにぐらんとて、おほくの者をきりふせけり。 保元の乱已後は、理世安楽にして、都鄙とざしをわすれ、歓娯遊宴して、上下屋をならべしに、火災の余煙に民屋おほくほろびしかば、こはいかに成ぬる世の中ぞ、此二三年は、洛中殊更しづかにして、甲冑をよろひ、弓箭を帯する者もなかりしかば、たま<もちありく人も、はゞかりなる体にこそありしに、今は兵ども京白河にみちみてり、行末いかゞあるべきと、なげかぬ人もなかりけり。
  @『信西の子息闕官の事付けたり除目の事並びに悪源太上洛の事』 S0104
 少納言入道信西が子息五人闕官せらる。嫡子新宰相俊憲・次男幡磨中将成憲・権右中弁貞憲・美濃少将長憲・信濃守雅憲也。上卿は花山院大納言忠雅、職事は蔵人右中弁成頼とぞきこえし。さる程に、太政大臣・左右の大臣・内大臣已下、公卿参内し給ひしかば、僉議あ(っ)て、信西が子ども尋らるゝに、幡磨中将成憲は、太宰大弐清盛のむこなれば、もしや命たすかるとて、六波羅へおちられたりけるを、宣旨とて、内裏よりしきなみにめされければ、力及ばでいでられけり。博士判官坂上兼成行むかひ、成憲をうけ取(っ)て、内裏へまいりければ、尋ぬべき子細ありとて、兼成にあづけをかる。権右中弁貞憲は、もとゞりきり、法師にな(っ)て、かたはらにしのびたりけるを、宗判官信澄、たづねいだして、別当に申たりしかば、これも信澄にあづけられけり。 やがて除目おこなはる。信頼卿は、もとよりのぞみを懸たりしかば、大臣大将をかねたりき。左馬頭義朝は、幡磨国をたまは(っ)て幡磨守になる。佐渡式部大夫は信濃守になる。多田蔵人大夫源頼範は摂津守になる。源兼経は左衛門尉に成。康忠は右衛門尉になる。足立四郎遠基は右馬允に成。鎌田次郎政清は兵衛尉に成て、政家と改名す。今度の合戦にうちかちなば、上総国を給べき由のたまひけり。 爰に義朝が嫡子、鎌倉悪源太義平、母方の祖父三浦介がもとにありけるが、都にさはぐ事ありときゝて、鞭をう(っ)てはせのぼりけるが、今度の除目にまいりあふ。信頼大によろこびて、「義平此除目にまいりあふこそ幸なれ。大国か小国か、官も加階も思ひのごとく進むべし。合戦も又よくつかまつれ。」と宣へば、義平申けるは、「保元に伯父鎮西八郎為朝を、宇治殿の御前にて蔵人になされければ、急々なる除目かなと、辞し申けるはことはりかな。義平に勢を給候へ。阿辺野辺にかけむかひ、清盛が下向をまたん程に、浄衣ばかりにてのぼらん所を、眞中にとりこめて一度にうつべし。もし命をたすからんと思はゞ、山林へぞにげこもり候はむずらん。しからば追(っ)つめ<とらへて、首をはね獄門にかけて、其後信西をほろぼし、世もしづまりてこそ、大国も小国も官も加階もすゝみ侍らめ。みえたる事もなきに、かねてなりて何かし候べき。たゞ義平は東国にて兵どもによび付られて候へば、もとの悪源太にて候はん。」とぞ申ける。信頼、「義平が申状荒議也。そのうへ阿辺野まで馬のあしつからかして何かせん。都へいれて、中に取こめうたんずるに、程やあるべき。」とのたまひければ、みな此義にしたがはれけり。ひとへに運のつきけるゆへにこそ。 大宮太政大臣伊通公、其比は左大将にておはしけるが、才学優長にして、御前にても、つねにおかしき事を申されければ、君も臣も大きにわらはせ給ひ、御あそびも興をもよほしけり。「内裏にこそ武士どもしいだしたることはなけれ共、思ひのごとく官加階をなる。人をおほくころしたるばかりにて、官位をならんには、三条殿の井こそおほくの人をころしたれ。など其井には官をなされぬぞ。」とぞわらはれける。
  @『信西出家の由来並びに南都落ちの事付けたり最後の事』 S0105
 さるほどに、通憲入道を尋られけれ共、行衛をさらにしらざりけり。彼信西と申は、南家の博士、長門守高階の経俊が猶子也。大業もとげず、儒官にも入られず、重代にあらざるなりとて、弁官にもならず、日向守通憲とて、何となく御前にてめしつかはれけるが、出家しけるゆへは、御所へまいらんとて、鬢をかきけるに、鬢水に面像をみれば、寸の首、剣の前にかゝ(っ)て、むなしくなるといふ面相あり。大におどろき思ひける比、宿願あるによ(っ)て、熊野へまいりけり。切部の王子の御前にて、相人にゆきあひたり。通憲をみて相じていはく、「御辺は諸道の才人かな。但、寸の首、剣のさきにかゝ(っ)て、露命を草上にさらすといふ相のあるはいかに。」といひて、一々に相じけるが、行末はしらず、こしかたは何事もたがはざりければ、「通憲もさ思ふぞ。」とて、歎きかなしみけるが、「それをばいかにしてかのがるべき。」といふに、「いさ、出家してやのがれむずらん。それも七旬にあまらばいかゞあらん。」とぞいふ。さてこそ下向して御前へまいり、「出家の志候が、日向の入道とよばれんは、無下にうたてしうおぼえ候。少納言を御ゆるしかうぶり候はゞや。」と申ければ、「少納言は一の人もなりなどして、左右なくとりおろさぬ官なり。いかがあらん。」と仰られけるを、様々に申して御ゆるされをかうぶり、やがて出家して、少納言入道信西とぞいひける。子ども或は中少将にいたり、或は七弁にあひならばせて、ゆゝしかりしが、つゐに墨染の袖に身をかへても、露の命を野辺の草葉にをきかねしは、昨日のたのしみ、けふのかなしみ、諸行無常はたゞ目の前にあらはれたり。吉凶はまつはれる縄のごとしといふぞことはりなる。 信西九日の午刻に、白虹日をつらぬくといふ天変をみて、今夜御所へ夜うち入べしとは、かねてしりたりけるにや、此様申いれんとて、院の御所へまいりたれば、折ふし御遊にて、子どもみな御前に祠候したりしかば、其興をさましまいらせんも無骨なれば、ある女房に子細を申をきてまかり出にけり。宿所にかへり、紀伊二位に、「かゝる事あり。子どもにもしらせたまへ。信西は思ふむねあ(っ)て、ならのかたへ行なり。」といひければ、尼公もおなじ道にとなげかるれ共、様々にこしらへとめて、侍四人相具し、秘蔵せられける月毛の馬に打乗て、舎人成澤をめし具し、南都のかたへおちられけるが、宇治路にかゝり、田原が奥、大道寺といふ所領にぞゆきにける。 石堂山のうしろ、しがらきの峯をすぎ、はる<”わけいるに、又天変あり。木星、寿命家にあり。大伯経典に侵す時は、忠臣君にかはり奉るといふ天変なり。信西大におどろき、もとより天文淵源をきはめたりければ、みづから是をかんがふるに、「つよき者よはく、よはき者はつよしといふ文あり。これ君おごる時は臣よはく、臣おごる時は君よはくなるといへり。今、臣おご(っ)て君よはくならせ給べし。忠臣君にかはるといふは、おそらく我なるべし。」とおもひて、あくる十日のあした、右衛門尉成景といふ侍をめして、「都のかたに何事かある。みてかへれ。」とてさしつかはす。成景馬にうち乗てはせゆくほどに、小幡たうげにて、入道の舎人武澤といふ者、院の御所に火かゝ(っ)て後、禅門ならへときゝしかば、此事申さんとてはしりけるに行あひ、しか<”の由をかたり、「あねが小路の御宿所もやきはらはれ候ぬ。是は右衛門督殿、左馬頭殿をかたらひ、入道殿の御一門をほろぼし給はんとのはかりことゝこそ承り候へ。其よしをつげまいらせむとて、奈良へまいり候。」と申せば、下臈におはし所しらせてはあしかりなんと思へば、「汝いしくまいりたり。春日山のおく、しか<”の所也。」とをしへて、成景は京へのぼるよしにて、田原のおくにかへり、入道に此由を申せば、「さればこそ、信西が見たらん事は、よもたがはじとおぼえつるぞ。忠臣君にかはりたてまつるとあれば、しかじ、命をうしな(う)て御恩を報じ奉らんには。但息のかよはん程は、仏の御名をとなへまいらせんと思へば、其用意せよ。」とて、穴をふかくほり、四方に板をたてならべ、入道をいれ奉り、四人の侍もとゞり切て、「最後の御恩には法名を給はらん。」と、をの<申せば、左衛門尉師光は西光、右衛門尉成景は西景、武者所師清は西清、修理進清実は西実とぞ付られける。其後大きなる竹のよをとをして、入道の口にあてゝ、もとどりを具してほりうづむ。四人の侍、墓の前にてなげきけれ共、叶べき事ならねば、なく<都へかへりけり。
  @『信西の首実検の事付けたり大路を渡し獄門にかけらるる事』 S0106
 舎人成澤も、おなじくみやこへのぼりけるが、「最後の乗馬なり。紀伊二位にみせ奉らん。」とて、むなしき馬をひいてかへる程に、出雲前司光泰五十余騎にて、信西がゆくゑをたづね来るに、木幡山にてゆきあふ。馬も舎人も見しりたれば、うちふせてとひけるに、はじめはしらずといひけれども、つゐにはありのまゝにぞ申ける。則此男をさきに追(っ)立てゆくほどに、あたらしく土をうがてる所あり。「あれこそそよ。」とをしゆれば、すなはちほりおこしてみれば、いまだめもはたらき息もかよひけるを、首を取てぞかへりける。 出雲前司光泰、信頼卿に此由申せば、同十四日に、別当惟方と同車して、光泰の宿所、神楽岡へゆきむか(っ)て、此首を実検す。必定なれば、やがて明る日大路をわたし、獄門にかけらるべしと定られければ、京の中の上下、河原に市をなして見物す。信頼・義朝も、車をたてゝこれを見る。十五日の午刻の事なるに、晴たる天俄にくれて星いでたり。是を不思議といふ所に、此首、信頼・義朝の車の前をわたる時、うちうなづいてぞとをりける。見る人みな、「只今かたきをほろぼしてんず。おそろし<。」とぞいひける。朝敵にあらざれば、勅定にもあらずして、首を獄門にかけらるゝも、前世の宿業とは申ながら、去ぬる保元に、たえて久しき死罪を申おこなひしむくひかとぞ人々申ける。 さて紀の二位の、おもひあさからず、偕老同穴のちぎりふかかりし入道にはをくれ給ひぬ、僧俗の子共、十二人ながらめしこめられて、死生もいまださだまらず、たのみまいらせつる君も、をしこめられさせ給ひて、月日の光さへはか<”しくは御覧ぜず、我身は女なれ共、信頼のかたへとりいだしてうしなはんと云なれば、つゐにはのがれがたしとぞなげかれける。
  @『唐僧来朝の事』 S0107
 彼紀二位と申は、紀伊守範元が孫、右馬頭範国が女也。八十嶋下に三位に叙し、やがて従二位して、紀伊二位とぞ申ける。信西が妻室と成て、ふしぎおほき中に、唐僧来て、生身の観音なりとて拝する事あり。 其故は、久寿二年の冬の比、鳥羽の禅定法皇、熊野山に御参詣ありしに、その此那智山に唐僧あり。名をば淡海沙門といふ。彼僧、異国にて、我此身をすてずして、生身の観音をおがみ奉らんといふ願をおこし、天にあふぎて一千日の間祈請をなす。千日に満じける夜、「汝生身の観音をおがまんと思はゞ、日域にわた(っ)て、那智山といふ所におもむけ。」と天の示現をかうぶり、渡海の本望をとげて、彼山に参籠せるなり。法皇此よしきこしめして、唐僧をめされければ、御前へ参て、「和尚、々々。」礼す。唐僧なれば、語をきゝしろしめす人なし。たゞ鳥のさへづるごとくなりしを、信西末座に候けるが、「禅加此法誤除浄精にて来れるか。」ととへば唐僧のいはく、「さにあらず弘誓破戒説除大精にて来たる也。」とこたふ。さて唐僧、・信西がことばをきいて、才覚の程をはからんとや思ひけん、異国の事をとひかけたり。「震旦の長安城より、天竺の舎耶大城へは何万里ぞ。」ととへば、「十萬余里。」とこたふ。「遺愛寺と云寺はいづくにかある。」「天台山より西へさる事七百里、白楽天の世をのがれし所ぞかし。」とこたふれば、唐僧難義をとはんとや思ひけん、「扁鵲が門には何かある。」といふ。「延命といふ草をうへたり。是れを見る人、善をまねき、悪をさけ、寿命ひさしくのぶといふ。」「女陽が門にはなにか有。」「乱樹といふ木あり。三十年に一度、片枝に花さき、かたえだには菓なる。これをと(っ)てくふ人、酔事百余日、そのあぢはひ西王母が桃ににたり。」「長良国とはいづくぞ。」「都城よりたつみへさる事二百里なり。梵王のたち給ふ三百余尺の馬脳の塔あり。かの塔のもとには、摩訶曼陀羅華・摩訶曼珠沙華、四種の天華ひらけたり。釈尊燃燈仏のみもとにして、かみをおろし給ひし所也。」「大雪山には。」「薬寿王と云木あり。彼木の葉をつゞみにぬりて、うつ声をきく人、不老不死の徳を得たり。」「西山には。」「波珍と云虫あり。首にもろ<の財を戴き、つねに仏を供養し奉るおもひあり。」「長山には。」「三重の瀧あり。彼瀧の水をのむ人、大きにいかるこゝろあり。されども竹馬に鞭う(っ)て道心をもよほすといへり。」「■火琴を弾ぜしかば。」「四方のうろくづ陸にあがり。」「鈴宗笛をふきしかば。」「天人袖をひるがへす。」「唐の太宗は。」「甕のほとりにして、天下をおさむる先相あり。」と、一々にこたへければ、唐僧、「わが国よりわたれる者か、此国より来(っ)て学せる者か。」ととへば、「もとよりわれ此国の素生なれ共、若遣唐使にやわたらんずらんとて、天竺・震旦・高麗・新羅・百済を始て、五六ヶ年の間に、上一人より下万民の申かへたることばまで学したる也。」とこたへければ、「われ生身の観音をおがみ奉らんと、天の示現をかうぶ(っ)て、是まで来れり。なんぢ則生身の観音たり。我願むなしからず。」とて、信西を三度礼し、種々の引出物をしてけり。其後、信西我国のことばをも(っ)て此趣を奏しければ、君をはじめまいらせて、供奉の人々、皆不思議の思ひをなされけり。
  @『叡山物語の事』 S0108
 又、保元々年の春のころ、比叡山へ御幸なる。山門には、大師修禅定の具足どもあり。名字を御尋ありけるに、大衆ども、公家の才学をはからむとやおもひけん、「我山の財にて候へ共、まさしく名字をしりたる者候はず。」と、一同に申ければ、法皇、先年熊野にて、信西不思議の才学をふるひしかば、もしこれをもや知たるらんとて、めし出されければ、御前にまい(っ)てかしこまる。 先「一の箱の修禅定の具足の中に、勢手鞠ばかりにして、音ある物あり。是はいかに。」と御尋あれば、「禅鞠と申候。止観の第四巻にみえたり。たとへば、大師禅定のとき、ねぶりあれば、是を頂上にをく。ねぶればをのづからおつ。落れば音あり。かるがゆへに眠のさむる也。」「又二尺四五寸ばかりなる木のさきに、勢大柑子ばかりにして、やはらかなる物あり。」「大師修禅定の時、御身くるしき事おはしませば、これをも(っ)てをさふ。をさふればやむ。是を禅杖といふ。」「二尺計ある木を、かせのごとくにちがへて、さきごとにきぬをかけてねりたる物あり。」「大師座禅に御むねいたむとき、これをも(っ)てをさふ。をさふればやむ。助老と是をいふ。」「又枕に似たる物あり。」「その名を頭子と云。くはしくは梵網経にみえたり。これらを四種の物といふなり。」「第十九の箱は。」「下野国字佐の宮の御殿におさめらる。乙護法使者たり。明神あながちにおしませ給へば、人はいかでかしるべきなれども、或は宇賀神の法をこめ、或は陀天の法をこめ、大師手印をも(っ)て封ぜらると云々。不空絹索人骨の念珠も、此箱にありとかや。凡延暦寺は、大師最初の伽藍なり。大講堂は、深草の天皇の御願、延命院・四王院は、文徳・朱雀の御願也。法華堂には、大師三代の御経もまします。五台山の香の火、清涼山の土もあり。前唐院には、大師の御脇息・香爐もあり。御影もおはします。其外、弘仁五年の春、大師九州宇佐の宮にまふで、法花の眞文を講じ給ひしかば、大菩薩みづから斉殿をひらき、手づから大師にさづけ給ひしむらさきの袈裟には、光明赫々として、八幡三所もおはします也。天竺の多羅葉、法全和尚の独鈷、焦熱地獄よりとり伝へたる■濱石も、当山にこそ候へ。しかのみならず、三十番神の守護し給ふ根本の椙の洞、飯室の五つ坊の谷までも、うちならす鐘のひゞきのしけるにこそ、人ありとはしられけれ。」と、三塔の秘事どもを、一々に申ければ、君を始まいらせて、三千衆徒、奇異のおもひをなしにけり。 還御の後も、卿上雲客、信西が宏才の程を感じ申されけるに付て、四方山の御物語ぞありける。「さても双六の■の目に、一が二おりたるをば畳一といひ、二が二おりたるをば重二といふ。五六をも畳五畳六と申す。これみなかさなる義なるに、四三ばかりを、朱三朱四といふこそ心得ね。これを御尋候へかし。」と申されければ、法皇げにもとて、信西をめされて、此よしを仰下されければ、「さん侯。むかしは同じく重三重四と申けるを、唐の玄宗皇帝と楊貴妃と双六をあそばしけるに、重三の目が御用にて、朕がおもふごとくに出たらば、五位になすべしとてあそばしければ、重三おりき。楊貴妃又、重四の目をこふて、我こゝろのごとくにおりたらば、ともに五位になすべしとてうち給ふに、重四出たりき。よ(っ)て天子に俗言なし、同じく五位になさんとてなされけるに何をかしるしにすべきといふに、五位は赤衣をきればとて、重三重四の目に朱をさゝれてより以来、朱三朱四とよぶとこそみえて候へ。」と奏しければ、諸卿みなことはりにやと感じあはれける。 されば凡人ならぬにや、死して後も、手には日記をさゝげ、口には筆をふくみ、炎魔の庁にても、第三の冥官につらなりけると、人の夢にも見たりけり。かゝりし人の今頸を獄門にかけらるゝも、保元の合戦に、宇治の悪左府の御墓所、大和国添上郡河上村、般若野の五三昧なりしを、信西の申状によ(っ)て、勅使をたてゝほりおこし、死骸をむなしくすてゝはづかしめられしが、中二年あ(っ)て、平治元年に我とうづみかくされしか共、つゐにほりおこされて、首をきられけるこそおそろしけれ。昨日の他州のうれへ、今日ほ我身のせめとも、かやうの事をや申べき。
  @『六波羅より紀州へ早馬を立てらるる事』 S0109
 さる程に、十日の暁、六波羅よりたちしはや馬、切部の宿にて追付たり。清盛、「いかにぞ。」ととひ給へば、「去ぬる九日の夜、三条殿へ夜討入(っ)て、御所みなやきはらひ候ぬ。少納言入道の宿所もやきはらはれ候。これはたゞ右衛門督殿、左馬頭殿をあひかたら(っ)て、当家をほろぼし奉らんとの、はかりことゝこそ承り候へ。」と申せば、清盛、「いそぎ下向すべきが、是までまい(っ)て参詣をとげざらんも無念也。いかゞすべき。」との給へば、左衛門佐重盛、「熊野参詣も現当安穏の御祈請にてこそ候らめ。其上、君逆臣にとりこめられさせ給へるなり。いかでか武臣として、是をすくひ奉らざらん。神は非礼をうけず。何のくるしみか候べき。いそぎ御下向あるべし。」と申されければ、みな此義にぞ同じける。「それに取て、敵に向(っ)て帰洛せんずる、物具の一領もなきをばいかゞすべき。」となげき給ふ所に、筑後守家貞、長櫃を五十合おもげにかゝせたりしを取よせて、五十領のよろひ、五十腰の矢、其外物具どもを取いだして奉る。「弓はいかに。」とのたまへば、大なる竹■の中に、ふしをついて入たりければ、則五十張の弓をとりいだせり。やがて家貞は、重目結のひたゝれに、洗革の鎧きて、太刀わきはさみ、「大将軍に仕る者はかうこそ用意すれ。」と申せば、侍共も、「あ(っ)ぱれ高名かな。」とぞ感じける。熊野別当湛増が田辺にありけるに、使をたて給へば、兵廿騎奉る。湯浅の権守宗重、卅余騎にてはせまいれば、彼是百余騎に成にけり。 こゝに悪源太三千余騎にて、安部野に待と聞えければ、清盛、「此無勢にて多勢にあふてうたれん事こそ無念なれ。先これより四国へわたり、勢をもよほして、後日に都へいらばや。」とのたまへば、重盛かさねて申されけるは、「それもさにて候へ共、事延引せば、定而当家対治のよし諸国へ院宣・綸旨をなしかくべし。かへ(っ)て朝敵となりなん後は、後悔すとも益あるまじ。多勢をも(っ)て無勢をうつ事、常の事也。あへて弓矢のきずならず。しかれば無勢なりとも、かけ向(っ)て即時にうち死したらんこそ、後代の名もまさるべけれ。何とか思ふ、家貞。」との給へば、筑後守、「六波羅の御一門も、さこそおぼつかなう思召らむ。いそがせ給へ。」と申せば、清盛も然るべしとて、都をさして引かへす。 大将已下、みな浄衣の上によろひを着、「敬礼熊野権現、今度の合戦ことゆへなくうちかたさせ給へ。」と祈請して、引(っ)懸々々うつほどに、和泉と紀伊国とのさかひなる鬼の中山にて、あしげなる馬に乗(っ)たる者、早馬とおぼしくて、もみにもふで出来たり。すは悪源太が使よと、皆人色をうしなふに、源氏の使にはあらずして、六波羅よりのはや馬なり。「さて六はらはいかに。」と問給へば、「きのふ夜半計に出候しまでは、何事も候はず。幡磨中将殿のたのみて御わたり候しを、内裏より宣旨とて、しきなみにめされ候し間、ちからなく十日のくれほどにいだしまいら(っ)させ給て候。」と申ければ、左衛門佐、「無下にいふかひなき事せられたる人々かな。当家をたのみて来れる人を、敵の手へわたすといふ事やある。かくては御方に勢つきなんや。」とぞいかられける。「さても悪源太が阿辺野にまつといふは、いかに。」ととひ給へば、「其儀はかつて候はず。伊勢国住人、伊藤の兵どもこそ、都へいらせ給はゞ、御供つかまつらんとて、三百余騎にて待まいらせ候つれ。」と申せば、「敵の悪源太にてはあらずして、よきみかたごさんなれ。うてや、者ども。」とて、みな人色をなをして、我さきにとすゝむほどに、和泉国大鳥の宮につきもふ。重盛秘蔵せられける飛鹿毛といふ馬に、白鞍をいて、神馬にひき給へば、清盛一首の歌あり。
  かひこぞよかへりはてなばとびかけりはごくみたてよ大鳥の神 W001
  @『光頼卿参内の事並びに許由が事付けたり清盛六波羅上著の事』 S0110
 内裏には、同十九日に、公卿僉議とて、もよほされけり。勧修寺の左衛門督光頼卿、此ほどは信頼卿振舞過分也とて、不参にておはしけるが、参内してうけたまはらんとて、ことにあざやかなる束帯ひきつくろひ、まきゑの細太刀をおとなしらかにはき給ひ、乳母子の桂の右馬允範能に、膚にはらまききせ、雑色の装束に出たゝせ、「自然の事もあらば、人手にかくな。汝が手にかけて、光頼が頸をばいそぎとれ。」とて、御身ちかくをき、其外きよげなる雑色四五人めし具して、大軍陣を張て、所々の門々をかたく守護しけるを事ともせず、さきたからかにおはせて入給へば、兵共も大きにおそれ奉り、弓をひらめ、矢をそばめてとをし奉る。 紫震殿のうしろをへて、殿上をめぐりて、み給へば、信頼卿一座して、其座の上臈達、皆下にぞつかれたる。光頼卿、「こは不思議の事かな。人はいかにふるまふとも、あれは右衛門督、われは左衛門督なれば、下にはつくまじき物を。」と思はれければ、左大弁宰相長方卿、末座の宰相にておはしけるに、「けふの御座席こそ、よにしどけなうみえ侯へ。」と色代して、しづ<とあゆみ、信頼卿の上にむずとつき給ふ。光頼卿は、信頼のためには母方の伯父なるうへ、大力の剛の人なれば、ことにおそれて見えられけり。右の袖のうへにゐかけられて、ふしめになりて色をうしなはれければ、着座の公卿、あなあさましと見給ふに、光頼卿は、下重のしりひきなをし、衣紋つくろひ、笏とりなをし、気色して、「けふは衛府督の一座するとみえて候。めすに参ぜざらむ者をば、死罪におこなはるべしとやらむ承て参内する所也。抑何事の御定ぞ。」と問けれ共、信頼物もの給はず。著座の公卿も一言の返答なかりければ、まして僉議の沙汰もなし。 程へて光頼卿つい立て、「あしうまい(っ)て候けり。」とて、しづ<とあゆみ出られけり。庭上に充満たる兵ども、是を見奉て、「あ(っ)ぱれ此殿は大剛の人かな。去ぬる十日より、おほくの人出仕し給つれども、右衛門督殿の座上につく人一人もおはしまさざりつるに、しいだしたる事よ。門を入給ふより、聊かも臆したる体もみえ給はず。あ(っ)ぱれ此人を大将として合戦せば、いか計かたのもしからむ。」と申せば、かたはらなる者、「むかし頼光・頼信とて、源氏の名将おはしき。其頼光をうちかへして、光頼と名のり給へば、これも剛にましますぞかし。」といへば、又かたはらより、「など其頼信を打返して、信頼とつき給ふ右衛門督殿は、あれほどに臆病にはおはするぞ。」といへば、「壁に耳、天に口といふ事あり。おそろし<。きかじ。」といひながら、みなしのびわらひにわらひけり。 光頼卿かやうにふるまひ給へ共、いそぎても出られず。殿上の小蔀の前、見参の板たからかにふみならしてたゝれたりけるが、荒海の障子の北、萩の戸のほとりに、弟の別当惟方のおはしけるを、まねきつゝの給ひけるは、「公卿僉議とて、もよほされつる間、参じたれども、承りさだめたる事もなし。誠やらん、光頼も死罪におこなはるべき人数にてあ(ん)なる。つたへうけ給はるごときは、其人みな当時の有職、しかるべき人ども也。其うちにいらん事、甚面目なるべし。さても先日右衛門督が車のしりに乗(っ)て、少納言入道が頸実検のために、神楽岡へむかはれける事はいかに。以外然るべからざる振舞かな。近衛大将・検非違使別当は、他にことなる重職なり。其職にゐながら、人の車のしりにのり給ふ事、先規も未きゝをよばず、当時も大きに恥辱なり。就中頸実検は甚穏便ならず。」との給へば、別当、「それは天気にて候しかば。」とて、赤面せられけり。 光頼卿重て、「こはいかに、勅定なればとて、いかでか存ずる旨を一義申さゞるべき。我らが曩祖勧修寺内大臣・三条右大臣、延喜の聖代につかへてよりこのかた、君すでに十九代、臣又十一代、承りおこなふ事は、皆是徳政なり。一度も悪事にしたがはず。当家はさせる英雄にはあらざれ共、ひとへに有道の臣に伴な(っ)て、讒侫の輩にくみせざりしゆへに、むかしより今にいたるまで、人にさしもどかるゝほどの事はなかりしに、御辺はじめて暴悪の臣にかたらはれて、累家の佳名をうしなはんこと、口おしかるべし。大弐清盛は、熊野参詣をとげずして、切目の宿よりはせのぼるなるが、和泉・紀伊国・伊賀・伊勢の家人等待うけて、はせくはゝり、大勢にてあ(ん)なる。信頼卿がかたらふ所の兵、いくばくならじ。平家の大勢をしよせてせめんには、時刻をやめぐらすべき。もし又火などをうけなば、君もいかでか安穏にわたらせ給ふべき。灰燼の地となりたらんだにも、朝家の御なげきなるべし。いかにいはんや、君臣ともに自然の事もあらば、天下の珍事、王道の滅亡、此時に有べし。右衛門督は、御辺に大小事を申あはするとこそきこゆれ。相構々々、ひまをうかがひ、はかりことをめぐらして、玉体つゝがなくおはしますやうに思案せらるべし。さて主上はいづくにおはしますぞ。」「黒戸の御所に。」「上皇は。」「一品御書所に。」「内侍所は。」「温明殿に。」「剣璽はいづくに。」「よるのおとゞに。」と左衛門督次第に尋給ひければ、別当かうぞこたへられける。又、「朝餉のかたに人音のし、櫛形のあなに人影のしつるは何者ぞ。」との給へば、「それには右衛門督すみ候へば、其かたざまの女房などぞ、かげろひ候らむ。」と申されければ、光頼卿、きゝもあへず、「世の中はいまはかうごさんなれ。主上のわたらせ給ふべき朝餉には、信頼すみ、君をば黒戸の御所にうつしまいらせた(ん)也。末代なれ共、さすが日月はいまだ地におち給はぬ物を、天照太神・正八幡宮は、王法をばいかにまもり給ひぬるぞ。異国にはか様のためしありといへども、我朝にはいまだかくのごときの先蹤をきかず。前代未聞の不思議かな。」とて、のろ<しげにはゞかる所もなくくどき給へば、惟方は人もやきくらんと、世にすさまじげにてたゝれたれ共、かつはかなしみて、「われいかなる宿業によ(っ)て、かゝる世にむまれ相、うき事をのみ見きくらん。むかしの許由にあらね共、今の内裏のあり様を見きかん輩は、耳をも目をもあらひぬべくこそ侍れ。」とて、上の衣の袖しぼるばかりなかれけり。信頼の座上に著せられし時は、さしもゆゝしくみえ給ひしが、君の御事をかなしみて、打しほれてぞ出給ひける。 誠に漢朝の許由は、富貴の事をきゝてだに、心にいとひ思ふが故に、あしき事をきゝたりとて耳をあらひき。いかにいはんや、此光頼は、朝家の諌臣として、悪逆無道の振舞を見聞給ひて、耳目をもあらひぬべく思ひ給ふぞことはりなる。たとへば、帝尭天子の位におはします事七十年、御としすでに老て、誰にか天下をゆづるべきとて、賢者を御尋ありけるに、大臣みなへつらひて、「皇子さいはひにおはします。丹朱にこそつがしめ給はめ。」と申せば、尭ののたまはく、「天下はこれ一人の天下にあらず。何をも(っ)てか太子なればとて、非機にさづけて朝民をくるしましむべき。丹朱をはじめて九人の皇子、ひとりとして其器にたらず。」とて、あまねく賢人をたづね給ふに、箕山の中に許由といふ者、身をおさめてかくれゐたりときこしめして、勅使をも(っ)て、御位をゆづるべき由を仰られたりけるに、許由つゐに勅答をだに申さず。剰富貴尊栄の事をきいて、けがれたりとて、頴川の水にて耳をあらふ所に、同じ山中に居山せる巣父と云賢人、牛をひいて此川に来り水をのまんとしけるが、耳をあらふをみてゆへをとふに、其趣をかたる。巣父がいはく、「賢人の世をのがるゝは、廻生木のごとしといへり。彼木はふかきたに、けはしき所に立たれば、下よりも道なし。上よりも便なし。されば大家の梁にもいたらず、工の是をはかる事なし。汝世をのがれんと思はゞ、猶深山にこそこもるべきに、なんぞ牛馬の栖にまじは(っ)て、例よりもにご(っ)て見えつるか、けがれにけり。然れば牛にもかはじ。」とて、むなしくひいてかへりけるなり。 信頼卿は、小袖にあかき大口、冠に巾子紙いれてき給へり。ひとへに天子の御振舞のごとくなり。大弐清盛は、まづ稲荷の社にまいり、各杉の枝をおりて、鎧の袖にさして、六波羅へぞつきにける。大内には、定て今夜やよせんずらんとて、かぶとの緒をしめてまちあかす。
  @『信西の子息遠流に宥めらるる事』 S0111
 明れば廿日、殿上にて公卿僉議あるべしとて、大殿・関白・太政大臣師賢・左大臣伊通公已下、各参内し給へり。是は少納言入道の子息、僧俗十二人の罪、各定申されんためなり。左大臣伊通公のなだめ申されけるによ(っ)て、死罪一等を減じて、遠流に処せらる。俗は位記をとゞめられ、僧は度縁を取て還俗せさせらる。 まづ新宰相俊憲は出雲国、幡磨中将成憲は下野国、右中弁貞憲隠岐国、美濃少将長憲阿波国、信濃守惟憲は安房国、法眼浄憲は丹波国、法橋寛敏は上総国、大法師勝憲は安芸国、澄憲は信濃国、憲耀は陸奥国、覚憲は伊与国、明遍は越後国とぞ定られける。 彼俊憲は、鳥羽院より、春生二青花中一と云勅題を賜は(っ)て、「悲二清濁を一駒は、■二十年の風に一、香れる上林の花、鳳成二肝心露一。」とかゝれたる手跡又妙にして、澆季に是をつたへけり。澄憲の説法には、龍神も感に乗じ、甘露の雨をふらし、明遍の菩提心をいのりし夢のまくらには、宝蓮華下てうつゝにあり。すべて此一門にむすぼらるゝ人は、あやしの女房にいたるまで、才智人にこえたり。
  @『院の御所仁和寺に御幸の事』 S0112
 同廿三日、又大内の兵ども、六はらよりよするとてさはぎけれ共、其義もなし。惣じて去ぬる十日より、日々夜々に、六波羅には内裏よりよするとて、ひしめき、大内には六波羅よりよするとて兵ども右往左往にはせちがひ、源平両家の軍兵等、京白河に往還す。としはすでに暮なんとすれ共、歳末年始のいとなみにも及ばず、たゞ合戦の評定ばかりなり。 廿六日の夜深て、蔵人右少弁成頼、一品の御書所へ参て、「君はいかゞおぼしめされ候。世間は今夜のあけぬさきにみだるべきにて候。経宗・惟方は申入る旨は候はずや。行幸も他所へならせ給ひぬ。いそぎいづ方へも御幸ならせおはしませ。」と奏せられければ、上皇おどろかせ給ひて、「仁和寺のかたへこそおぼしめしたゝめ。」とて、殿上人の体に御姿をやつさせ給て、まぎれ出させおはします。上西門の前にて、北野の方をふしおがませ給て、それより御馬にめされけり。供奉の卿相雲客一人なければ、御馬にまかせて御幸なる。未夜半の事なれば、ふしまちの月もさしいでず、北山おろしのおとさえて、そらかきくもりふる雪に、御幸の道もみえわかず。木草の風にそよぐを、きこしめしても、逆徒の追奉るかと、御肝をぞ消させ給ける。さてこそ一とせ讃岐院の如意山に御幸なりける事までも、おぼしめし出させ給ひけれ。それは敗軍なれども、家弘・光弘以下さぶらひて、供奉しければたのもしくぞおぼしめしける。これはしかるべき武士一人も候はねば、御心ぼそさのあまりに、一首はかうぞおぼしめしつゞけける。
  なげきにはいかなる花のさくやらん身になりてこそ思ひしらるれ W002
 はか<”しく仰合らるべき人もなきまゝに、御心中に様々の御願をぞたてさせ給ひける。世しづま(っ)て後、日吉社へ御幸なりたりしも、其時の御立願とぞきこえし。とかくして仁和寺につかせ給ふ。此由仰られしかば、御室大きに御よろこびあ(っ)て、御座しつらひ入まいらせて、供御御すゝめなど、かひ<”しくもてなしまいらせ給ひける。保元に崇徳院のいらせ給ひしをば、寛遍法務が坊にうつしまいらせて、さまでの御心ざしもなかりき。崇徳院は鳥羽第一の御子、此上皇は第四、御室は第五の宮にておはしませば、いづれもおなじ御兄の御事なれども、さばかりいつき申させ給ひ、聊かの御つゝがもわたらせ給はぬ御運のほどこそめでたけれと、人みな申けるとかや。
  @『主上六波羅へ行幸の事』 S0113
 主上は北の陣に御車をたてゝ、女房のかざりをめして、御かづらを奉る。同じく御宝物どもわたし奉らんとて、内侍所の御唐櫃も、大床迄出したりけるを、鎌田が郎等怪しめ奉て、とゞめまいらせけるを、伏見源中納言師仲卿に申あはせて、まづ坊門の局の坊城の宿所へぞうつし奉りける。中宮も主上と一御車にぞめされける。別当惟方・新大納言経宗、なをしに柏はさみして供奉し、藻壁門より行幸なし奉れば、此門をば金子・平山かためたり。家忠、「いかなる御車ぞ。」と申せば、別当、「上臈女房たちの出させ給ふなり。惟方があるぞ。別の子細あるまじ。」との給へ共、金子なをあやしみて、弓のはずにてすだれかきあげ、松明ふり入て見奉れば、二条院御在位のはじめ、御歳十七に成給ふうへ、龍顔もとよりうつくしくおはしますに、はなやかなる御衣はめされたり、まことにみめもまよふ計の女房にみえさせ給。中宮はおはします、いかでか見とがめ奉らむ。ゆへなくとをしまいらせけり。清盛の郎等、伊藤武者景綱、黒糸おどしの腹巻の上に、小張きて雑色になる。舘の太郎貞康は、黒革の腹巻のうへに、牛飼の装束して御車をつかまつる。 上東門をからりとやりいだす程こそあれ、土御門をとぶがごとくに行幸成。左衛門佐重盛・三河守頼盛・常陸守経盛、三百余騎にて、土御門東洞院にまちうけ奉り、御車の前後を守護して、六波羅へこそ入奉りけれ。事ゆへなく行幸なりてければ、平家の人々、いさみよろこぶ事かぎりなし。やがて蔵人右少弁成頼をも(っ)て、「六波羅を皇居となされたり。朝敵ならじと思はん輩は、いそぎはせ参ぜられよ。」とふれられければ、大殿・関白殿・太政大臣・左大臣・内大臣以下、公卿殿上人、われも<とまいられけり。内裏へと心ざして、はせまいる兵ども、此由をきゝて、我さきにといそぎまいりければ、六はらの門前には、馬車のたち所もなくせきあひたるに、色節の下部に、よろふたる兵あひまじは(っ)て、雲霞のごとくに河原おもてまでみち<たり。清盛はこれをみて、家門の繁昌弓箭の面目とよろこび給へば、信頼卿は夢にもしらず。
  @『源氏勢汰への事』 S0114
 いつもの沈酔なれば、かかる一大事を思ひたちながら、ゑひふして、女房どもに、「こゝうて。かしこさすれ。」とて、ね給ひけるに、越後中将成親、廿七日のあけぼのにはしり来り、「いかにかくてはおはするぞ。行幸は他所へなり候ぬ。今はのこりとゞまる卿相雲客一人も候はざ(ん)也。ひとへに御運のきはめとこそおぼえ候へ。」とつげられければ、信頼、「よもさはあらじ物を。経宗・惟方にかたく申ふくめたれば。」との給へば、「其人共のはからひとこそきこえ候へ。」と申されければ、いそぎ一品御書所へまいられたれども、上皇もおはしまさず。「まさしく暁まで御をとなひのありつる物を。」との給へども、おはしまさず。上皇御出のとき、北面の侍、平左衛門尉泰頼は、骨ある者なれば、めして御寝所にをかせ給ひけるが、御まなびをたがはず申ける也。はるかにのびさせ給ひぬらむとおぼえし時、御寝所を三度おがみて出ける也。「かゝる不思議なかりせば、泰頼ほどの下臈がいかでか御寝所へはまいるべき。」とぞ申ける。 黒戸の御所へ参られけれども、主上もわたらせ給はず。手を打てはしりかへり、「此事披露なし給ひそ。」と中将の耳にさゝやき給ふぞ哀なる。さて別当を尋らるゝもなく、新大納言もおはせねば、此者どもにだしぬかれにけりとて、大の男のふとりせめたるが、いかりにいかりて、おどりあがり<、陸梁せられけれども、板敷のみひゞきて、おどり出せる事もなし。 別当惟方は、元来信頼卿のしたしみにて、契約ふかかりしかども、一日舎兄左衛門督の諌言、きもにそみておもはれければ、かやうに主上をぬすみいだしまいらせられけり。此人は、生得勢ちいさくおはしければ、小別当とぞ人申ける。それに信頼卿にくみして、院・内ををしこめ奉る中媒をなし、今又ぬすみいだしまいらする中媒せられければ、時の人、中小別当とぞいひける。大宮左大臣伊通公は、「此中は、中媒の中にてはあらじ。忠臣の忠にてぞあるらん。光頼の諌によ(っ)て、たちまちにあやま(っ)てあらため、賢者の余薫をも(っ)て、忠臣のふるまひをなせば。」とぞの給ひける。 悪源太義平、賀茂へまいりけるが、道にてこのよしをきゝ、いそぎはせかへり、義朝にむか(っ)て、「行幸は六はらへ、御幸は仁和寺へと承候はいかに。」と申されければ、「されば只今此よしきゝつれども、右衛門督のかたよりも、未なに共つげしらせず。さりながら、源氏のならひ、心がはりやあるべき。こもる勢をしるせや。」とて、内裏の勢をぞしるされける。 大将軍には悪右衛門督信頼・子息新侍従信親・信頼の舎兄兵部権大輔基家・民部権少輔基通・弟の尾張少将信俊、その外、伏見源中納言師仲・越後中将成親・治部卿兼通・伊与前司信員・壱岐守貞知・但馬守有房・兵庫頭頼政・出雲前司光泰・伊賀守光基・河内守季実・子息左衛門尉季盛、一門には、まづ左馬頭義朝・嫡子鎌倉悪源太義平・次男中宮大夫進朝長・三男右兵衛佐頼朝・義朝の伯父陸奥六郎義隆・義朝の弟新五十郎義盛・従子佐渡式部大夫重盛・平賀四郎義宣、郎等には鎌田兵衛政清・後藤兵衛真基・佐々木源三季義、熱田大宮司太郎は、義朝にはこじうとなれば、我身はのぼらね共、家子・郎等さしのぼす。三河国住人には、重原兵衛父子、相模国には、波多野次郎義通・荒次郎義澄・山内須藤刑部尉俊通・其子瀧口俊綱、武蔵国には、長井斉藤別当実盛・岡部六弥大忠澄・猪俣小平六範綱・熊谷次郎真実・平山武者所末重・金子十郎家忠・足立右馬允遠元・上総介八郎弘常、常陸国には、関次郎時貞、上野国には、大胡・大室・大類太郎、信濃国には、片切小八郎大夫景重・木曾中太・弥中太・常葉井・■・強戸次郎、甲斐国には、井澤四郎信景をはじめとして、宗徒の兵二百人、あひしたがふ軍兵二千余騎とぞしるされける。 六波羅の官軍よすると聞えければ、人々物具せられけり。惑右衛門督信頼は、赤地のにしきのひたゝれに、むらさきすそごの鎧に、菊のすそ金物を打たるに、金作の太刀をはき、白星の甲の鍬形う(っ)たるを猪頸にきなし、紫震殿の額の間にしりをかけてぞゐ給ひける。生年廿七、大の男のみめよきが、美麗の武具はき給ひたり、其心こそしらね共、あ(っ)ぱれ大将やとぞみえたりける。馬は奥州の基衡が、六部一の馬とて秘蔵しけるを、院へまいらせけるなり。くろき馬のふとくたくましきが、八寸あまりなるに、いかけぢの金伏輪のくらをいて、左近の桜の木のもとに、東がしらに引(っ)立たり。越後中将成親は、紺地のにしきのひたゝれに、萌黄匂のよろひに、鴛のすそ金物打たるに、長伏輪の太刀をはき、龍頭の冑をぞきける。白蘆毛なる馬に、白伏輪の鞍をいて、信頼卿の馬の南に、同かしらにひ(っ)たてたり。成親今年廿四歳、容儀ことがら人にすぐれてぞ見えられける。 武士の大将左馬頭義朝は、赤地のにしきのひたゝれに、黒糸縅のよろひに、鍬形う(っ)たる五枚甲の緒をしめ、いか物作の太刀をはき、黒羽の失負、節巻の弓も(っ)て、黒■毛なる馬にくろ鞍をかせて、日花門にぞひ(っ)たてたる。年卅七、眼ざし・つらたましゐ、自余の人にはかはりたり。嫡子悪源太義平は、生年十九歳、練色の魚綾の直垂に、八龍とて、胸板に龍を八う(っ)て付たる鎧をきて、高角のかぶとのをゝしめ、石切と云太刀をはき、石打の矢負、滋藤の弓も(っ)て、鹿毛なる馬のはやり切(っ)たるに、鏡くらをかせて、父の馬と同かしらにひ(っ)たてたり。次男中宮大夫進朝長は十六歳、朽葉のひたゝれに、沢潟とて、沢おどしにしたる重代のよろひに、星白の甲を着、うすみどりといふたちをはき、しら篦に白鳥の羽にて作だる矢負、所藤の弓も(っ)て、あしげなる馬に白覆輪のくらをいて、兄の馬にひ(っ)そへてこそ立たりけれ。三男右兵衛佐頼朝は十三、紺の直垂に源太が産衣といふ鎧を着、星白の甲のをゝしめ、髭切といふ太刀をはき、十二さしたる染羽の失負、滋藤の弓も(っ)て、栗毛なる馬に柏みゝづくすりたる鞍をいて、是も一所にひ(っ)たてたり。 此産衣・髭切は、源氏の重代の武具の中に、ことに秘蔵の重宝なり。八幡殿のおさな名を源太とぞ申ける。二歳のとき、院より、「まいらせよ、御覧ぜん。」と仰を蒙り給て、わざと鎧をおどし、袖にすへてぞ見参に入られける。さてこそ源太が産衣とは付られけれ。胸板に、天照大神・正八幡大菩薩と鋳つけまいらせ、左右の袖には、藤の花のさきかゝりたる様をおどせる也。さて鬚切と申は、八幡殿、貞任・宗任をせめられし時、度々にいけどる者千人の首をうつに、みな髭ともにきれければ、髭切とは名付たり。奥州の住人に文寿といふ鍛冶の作也。昔より嫡々に相伝せしかば、悪源太こそつたへ給べきに、三男なれ共、頼朝さづかり給けるは、つゐに源氏の大将となり給ふべきしるし也。兵衛佐、父義朝・兄義平のかたをみまはして、「平家やはや向ひ候らん。人にさきをせられむより、先六波羅へよせ候はん。」と申されけるは、抜郡にぞきこえし。鳳凰は卵の中にして、超境のいきほひあり。龍の子はちいさしといへ共、よく雨をふらすとも、か様の事をや申べき。 比は平治元年十二月廿七日、辰の刻計の事なるに、昨日の雪きえのこり、庭上は玉をしくがごとくなるに、朝日の光映徹して、物具の金物かゝやきわたりて、殊に優にぞみえたりける。凡其事柄、天竺・震旦はそもしらず、日本我朝にをいては、義朝の一類にまさるべき武士は、あるべしとも見えざりけり。然に頼政・光泰・光基も、心がはりして見えければ、義朝うたばやと思はれけれども、大事の前の小事、敵に利をつくるはしなれば、思ひとゞまり給けり。義朝の給ひけるは、「今度の合戦若打負なば、東国へ馳下り、八ヶ国の家人をもよほしあつめて、重て都にせめ上り、平氏の一類をほろぼさん事、何の子細か有べき。」と申されしかば、此人々は皆、保元におほくの弟どもをほろぼすのみならず、正しく父の首をはねし人なれば、しらず是や運のきはめならんと、内々申されけるが、君六はらに行幸なりぬときこえし後は、朝敵と成なん事をかなしみて、つゐにはみな心がはりせられけるなり。されば頼政、平家にくはは(っ)て後、六はらよりあら手とてかけ出けるに、義朝、「名をば源兵庫頭とよばれながら、云かひなく、伊勢平氏につき給ふものかな。御辺が二心によ(っ)て、当家の弓矢の疵つきぬるこそ口おしけれ。」といひかけられし返事に、「累代弓矢の芸をうしなはじと十善の君につき奉る。全二心にあらず。御辺が信頼といふ日本一の不覚仁に同意して、あやまりをあらためぬこそ、まことに当家の恥辱なれ。」と申されける。


平治物語 「校註 日本文学大系」本

巻之二
  @『待賢門の軍の事付けたり信頼落つる事』 S0201
 六波羅の皇居には、公卿僉議あ(っ)て清盛をめされけり。紺の直垂に黒糸縅の腹巻に、左右の籠手をさして、おりゑぼし引(っ)たてゝ大床にかしこまる。頭中将実国をも(っ)て仰下されけるは、「王事脆事なければ、逆臣ほろびんことうたがひなし。但たま<新造の内裏也。もし回禄あらば、朝家の御大事たるべし。官軍いつは(っ)て引しりぞかば、凶徒さだめて進いでん歟。しからば官軍を入かへて、内裏を守護せさせ、火災なきやうに思慮あるべし。」と仰下されければ、清盛かしこま(っ)て、「朝敵たるうへは、逆徒の誅戮は掌の中に候間、時刻をめぐらすべからず。然らば定て狼籍出来せんか。火失なからん条こそ、難義の勅定にて候へ。さりながら、苑■が呉国をくつがへし、張艮が項羽をほろぼせしも、みな智謀のいたす所なれば、涯分武略をめぐらして、金闕無為なるやうに成敗仕るべし。」と奏していでられけり。 主上御座あれば、皇居の御かために清盛をばとゞめらる。大内へ向ふ人々には、大将軍は左衛門佐重盛・三河守頼盛・淡路守教盛、侍には筑後守家貞・子息左衛門尉貞能・主馬判官盛国・子息右衛門尉盛俊・与三左衛門尉景安・新藤左衛門家泰・難波次郎経遠・同三郎経房・妹尾太郎兼安・伊藤武者景綱・館太郎貞泰・同十郎貞景を始として、都合其勢三千余騎、六波羅をうち出て、賀茂河をはせわたし、西の河原にひかへたり。 左衛門佐重盛は生年廿三、今日のいくさの大将なれば、赤地のにしきの直垂に、櫨の匂ひの鎧に、蝶の裾金物打(っ)たるに、龍頭の冑の緒をしめて、小烏といふ太刀をはき、切府の失負、滋藤の弓も(っ)て、黄■毛なる馬に、柳桜摺(っ)たる貝鞍をかせて乗給へり。重盛の給ひけるは、「年号は平治なり、花洛は平安城なり、我らは平氏なれば、三事相應せり。敵をたいらげん事、何のうたがひかあるべき。誰か爰に■会・張良がいさみをなさざらん。」とて、三千余騎を三手にわけて、近衛・中御門・大炊御門より、大宮面へかけ出て、陽明・待賢・郁芳門へをしよせたり。 大内には、三方の門をばさしかため、東面の陽明・待賢・郁芳門をばひらかれたり。昭明・建礼の脇の小門をもともにひらきて、大庭には馬どもおほく引(っ)たてたり。梅坪・桐坪・竹のつぼ・籬がつぼ、紫震殿の前後、東光殿のわきのつぼまで、兵ひしとなみゐたり。これ皆源氏の勢なれば、白旗廿余流う(っ)たてたり。大宮面には、平家の赤旗卅余ながれさしあげて、いさみすゝめる三千余騎、一度に時をどつとつくりければ、大内もひゞきわた(っ)ておびたゝし。時の声におどろきて、只今までゆゝしくみえられつる信頼卿、顔色かは(っ)て草の葉のごとくにて、南階をおりられけるが、膝ふるひており兼たり。人なみ<に馬にのらんと引よせさせたれ共、ふとりせめたる大の男の、大鎧はきたり、馬は大きなり、乗わづらふうへ、主の心にも似もにず、はやり切(っ)たる逸物なれば、つと、いでん<としけるを、舎人七八人寄(っ)て馬をかゝへたり。はなたば天へもとびぬべし。穆王八疋の天馬の駒も、かくやと覚ゆる計にて、のりかね給ふ所を、侍二人つとより、「とくめし候へ。」とてをしあげたり。あまりにやをしたりけむ、弓手のかたへ乗こして、伏ざまにどうどおつ。いそぎ引おこしてみれば、顔にいさごひしとつき、鼻血ながれて見ぐるしかりけり。義朝此体をみて、日比は大将とておそれ給ひけるが、はたとにらみて、「あの信頼と云不覚仁は臆したるな。」とて、日花門を打出て、郁芳門へむかはれければ、信頼も鼻血をしのごひ、とかうして馬にかきのせられ、待賢門へむかはれけるが、物の用にあふべし共見えざりけり。 左衛門佐重盛、五百騎をば大宮面にのこしをき、五百騎にてをしよせて、よばゝり給ひけるは、「此門の大将軍は信頼卿と見るはひがめ歟。かう申は桓武天皇の苗裔、太宰大弐清盛が嫡子、左衛衛門佐重盛、生年廿三。」と名乗懸ければ、信頼返事にも及ばず、「それふせげ、侍共。」とて引しりぞく。大将の引給ふ間、防侍一人もなし。我さきにとにげければ、重盛弥いさみて、大庭の椋木の下迄せめ付たり。義朝是をみて、「悪源太はなきか。信頼といふ大臆病人が、待賢門をはや破られつるぞや。あの敵追出せ。」との給ければ、「承候。」とてかけられけり。つゞく兵には、鎌田兵衛・後藤兵衛・佐々木源三・波多野次郎・三浦荒次郎・須藤形部・長井斉藤別当・岡部六弥太・猪俣小平六・熊谷次郎・平山武者所・金子十郎・足立右馬允・上総介八郎・関次郎・片切小八郎大夫、已上十七騎、くつばみをならべて馳向ひ、大音声をあげて、「此手の大将は誰人ぞ。名のれきかん。かう申は清和天皇九代の後胤、左馬頭義朝が嫡子、鎌倉悪源太義平と申者也。生年十五のとし、武蔵国大蔵の軍の大将として、伯父太刀帯先生義賢をうちしより以来、度々の合戦に一度も不覚の名をとらず。とし積(っ)て十九歳、見参せん。」とて、五百騎の眞中へ破(っ)ていり、西より東へ追まくり、北より南へ追まはし、たてさま横さま十文字に、敵をさ(っ)とけちらして、「葉武者どもにめなかけそ。大将軍を組でうて。櫨のにほひの鎧に、蝶の裾金物打(っ)て、黄月毛の馬に乗(っ)たるこそ重盛よ。をしならべて組でおち、手取にせよ。」と下知すれば、大将をくませじと、ふせぐ平家の侍ども、与三左衛門・新藤左衛門を始として、百騎ばかりのうちにぞへだゝりける。悪源太を始として、十七騎の兵ども、大将軍に目をかけて、大庭の椋木を中にたてて、左近の櫻、右近の橘を七八度まで追まはして、くまん<とぞ揉だりける。十七騎に懸立られて、五百余騎かなはじとや思ひけん、大宮面へさ(っ)と引。大将左衛門佐は弓杖ついて、馬の息をつかせ給ふ所に、筑後守つと参て、「曩租平将軍の、ふたゝび生かはり給へる君かな。」と、向様にほめ奉れば、今一度かけて家貞にみせんとや思はれけん、前の五百騎をばとゞめをきて、荒手五百騎を相具して、又大庭の椋の木の本までせめよせたり。 又悪源太かけむかひ、見廻していひけるは、「只今向たるは、皆あら手の兵なり。但大将は、もとの大将重盛ぞ。已前こそもらすとも、今度にをひてはあますまじ。押ならべて組でとれ、兵共。」と下知すれば、いさみにいさみたる十七騎、われさきにと進ければ、今度は難波次郎・同三郎・妹尾太郎・伊藤武者を始として、百余騎、中にへだてたるに事ともせず。悪源太弓をば小脇にかいはさみ、鐙ふんばりつい立あがり、左右の手をあげ、「幸に義平源氏の嫡々なり。御辺も平家の嫡々也。敵にはたれかきらはん。よれや。くまん。」といふまゝに、さきのごとく大庭の椋の木のもとを追まはして、五六度までこそ揉だりけれ。重盛くみぬべうもなくやおもはれけん、又大宮面へひいていづ。悪源太二度まで敵を追まくり、弓杖ついて馬にいきをつかせけるに、義朝是をみて、須藤瀧口をも(っ)て、「汝が不覚にふせげばこそ、敵度々懸いるらめ。あれすみやかに追出せ。」といひつかはされければ、俊綱はせて此由をいふに、「承候。すゝめや、者共。」とて、色もかはらぬ十七騎、大宮面にかけ出て、敵五百余騎が中へ、面もふらず破(っ)ている。そびき立(っ)たる勢なれば、馬のあしをたてかねて、大宮をくだりに、二条を東へひきければ、「我子ながらも義平は、能かけたる者かな。あ(っ)かけたり。」とぞほめられける。 大将重盛・与三左衛門景安・新藤左衛門家泰・主従三騎は懸はなれ、二条を東へひかれければ、悪源太、鎌田にき(っ)と見合て、「爰におつるは大将とこそ見れ、返せやかへせ。」とて追懸たり。すでに堀川にて追(っ)つめけるが、弓手のかたに材木おほく充満たるに、悪源太の乗給へる馬、かたなつけの駒にて、材木にやおどろきけん、妻手のかたへけしとんで、小膝を折てどうどふす。鎌田兵衛延さじと、十三束取(っ)てつがひ、能引てひやうどいる。重盛の射向の袖に、はたとあた(っ)てとびかへる。やがて二の矢を射たりければ、をしつけにちやうど当(っ)て、のかつきくだけておどりかへれり。悪源太、「是はきこゆる唐皮といふ鎧ごさんなれ。馬を射ておちん所をうて。」と下知せられければ、又能引て追様を、はずのかくるゝ程いこうだり。馬は屏風をかへすごとくたふるれば、材木のうへにはねおとされ、冑もおちて大わらはになり給ふ。鎌田堀川をはせこして、重盛にくまんとおちあふたり。重盛近付てはかなはじとや思はれけん、弓のはずにて鎌田が甲の鉢をちやうどつく。つかれてゆらゆる間に、冑をと(っ)てうちきつゝ、緒をつよくこそしめられけれ。 与三左衛門馳よせて、中に隔てゝ申けるは、「漢の紀信は高租の命にかは(っ)て、栄陽のかこみを出だし、つゐに天下をたもたせき。主はづかしめらるゝ時、臣死すと云にあらずや。景安こゝにあり。よれや。くまむ。」といふまゝに、鎌田兵衛と引(っ)くんで、取(っ)てをさへける処に、悪源太馬引おこし、是も堀川をはせこして、重盛にくまんと飛でかゝりけるが、鎌田をやたすくる、大将をやうたむと思案しけれ共、大将には、又もよせあふべし、政家をうたせては叶はじと思ひ、与三左衛門におちあふて、三刀さして頸をとる。重盛は頼み切(っ)たる景安うたせて、命いきても何かせんとて、既に悪源太とくまんとせられけるを、新藤左衛門はせ来り、「家泰が候はざらん所にてこそ、大将の御いのちをば捨給ふべけれ。延させ給へ。」とて、我馬をひきむけ、中にへだてゝ悪源太とむずとくむ。政家は重盛にくまんとしけるが、主を打せては叶はじと思ひければ、新藤左衛門におちかさな(っ)て、取(っ)てをさへて、頸をかく。此ひまに、重盛は虎口をのがれて、六波羅迄ぞおちられける。二人の侍なからましかば、たすかりがたき命也。十二月廿七日の巳の刻計の事なるに、一村雨さ(っ)として、風ははげしく吹たりけり。物具氷てすべりけり。鎌田が鞍の前輪にも、つららゐたれば乗かねけり。悪源太是を見給ふて、「手がたを付てのれや。」との給ければ、打物ぬいて、つぶつぶと手形を切てぞ乗(っ)たりける。鞍に手がたをつくる事、此時よりぞはじまれる。 三河守頼盛は、郁芳門へ押よせて、「此陣の大将は誰人ぞ。名のられ候へ。」との給へば、「此手の大将は、清和天皇九代の後胤、左馬頭源朝臣義朝。」と名乗(っ)て、「悪源太は二度まで敵を追出すぞかし。すゝめや、若者。」との給へば、中宮大夫進・右兵衛佐・新宮十郎・平賀四郎・佐渡式部大夫重成を姶として、我も<と懸られけり。右兵衛佐頼朝は、「生年十三。」と名乗(っ)て、敵二騎射おとし、一騎に手負せて、殊にすゝんでかけられけり。左馬頭の給ひけるは、「何といへ共、わかもの共の軍するは、まばらにみゆるぞ。義朝かけてみせん。」とて、眞前にすゝまれければ、一人当千の兵共、うちかこみてぞたゝかひける。 頼盛しばしはさゝへられけるが、門より外へ追出さる。義朝つゞいてせめたゝかへば、大宮おもてへひきにけり。平家馬の気をつがせてかけ入ければ、源氏大内へ引こもり、源氏又馬の足をやすめて懸出れば、平家又大宮面へ引退く。平家は赤旗・赤じるし、日に映じてかゞやけり。源氏は大旗・腰小旗、みなをしなべて白かりけるが、はげしき風にふきみだされ、いさみすゝめるありさまは、まことにすさまじくこそおぼえけれ。源平の兵共、互に命をおしまねば、まのあたりうたるれどもかへり見ず、主のさきにすゝまんと、こゝを前途とたゝかふたり。 悪源太、左衛門佐をばうちもらし、鎌田に向(っ)ての給ひけるは、「郁芳門の軍はいかゞあらん。いざや頭殿の御さきつかまつらん。」とて、打具してはせ来り、又眞前にぞすゝまれける。爰に鎌田が下人に、八町次郎とて、大力の剛の者、早走の手きゝあり。「馬にてこそ具すべけれ共、中々かちだちよかるべし。高名せよ。」といひければ、一とせも腹巻に小具足さしかためて、眞前に進みたりけるが、敵の馬武者のはるかにさき立て落けるを、八町が内に追攻て、取て引おろして、頸を取たりければ、それよりして八町次郎とぞいひける。されば又此者、三河守のきこゆる早走の名馬に、両鐙をあはせて懸られけるに、すこしもおとらず追付て、冑の手返に熊手をうちかけん<と、つゞひてはしりければ、頼盛も甲を打かたぶけ<、あひしらはれければ、五六度はかけはづしけるが、つゐに手返にうちかけて、ゑいやとひけば、三河守既にひきおとされぬべう見えられけるが、帯たる太刀を引ぬいてしとゝきる。熊手の柄を手本二尺計をきて、つんど切(っ)ておとされければ、八町次郎のけにたふれてころびけり。京わらんべ是をみて、「あ(っ)ぱれ太刀や。あ(っ)、きれたり。三河殿もよ(っ)きりたり。八町次郎もよ(っ)懸たり。」とぞ感じける。頼盛は冑に熊手を切かけながら、とりもすてず、見もかへらず、三条を東へ、高倉を下りに、五条を東へ、六はらまで、からめかして落られけるは、中に、ゆうにぞみえたりける。名誉の抜丸なれば、よくきれけるはことはり也。 此太刀を抜丸といふゆへは、故刑部卿忠盛、池殿にひるねしておはしけるに、池より大蛇あがりて、忠盛をのまんとす。此太刀まくらのうへに立たりけるが、みづからするりとぬけて、蛇にかゝりければ、蛇おそれて池にしづむ。太刀もさやにかへりしかば、蛇又出てのまんとす。太刀又ぬけて大蛇を追て、他の汀に立て(ん)げり。忠盛是をみ給てこそ、抜丸とはつけられけれ。当腹の愛子によ(っ)て、頼盛是を相伝し給ふ故に、清盛と不快なりけるとぞきこえし。伯耆国大原の眞守が作と云々。 三河守をおとさんとふぜきたゝかふ侍には、大監物・小監物・藤左衛門尉助綱、兵藤内が子、藤内太郎家継を始として、われも<と戦けり。兵藤内家俊は、もとより大臆病のおぼえとりたる者也けるが、ちからなく大勢の中にけたてられて、心ならずはせゆきけるが、馬を射させて幸とや思ひけん、小屋の内へにげいりぬ。其子の家継は、父には似ず大剛の者にて、散々にたゝかひ、敵あまた討取て引けるが、父が馬は射られてふしぬ、主はなし、いけどられにけりと無念なれば、家継いきてなにかせんとて、只一人取(っ)て返し、おほくの敵をきりふせて後、ある兵と引(っ)組でおち、指ちがへて死けるを、家俊まのあたり小屋のうちにて見ゐたりければ、心うくかなしくて、はしりいでんとは思へども、戦場なればおそろしくて、子うたるゝを見つがざりけり。後日に六波羅へまいりけるをみて、にくまぬ者ぞなかりける。 平家は勅定にまかせて、みな六はらへ引返す。源氏は謀ともしらざりけるにや、大内をば打捨て、追懸々々、小路々々に攻たゝかふ。其間に官軍を入かへて、門々をかたくふせぎければ、源氏内裏へはいりえずして、そゞろに六波羅へぞよせたりける。斉藤別当と後藤兵衛とは、おほくの敵を追かへして、東三条辺にひかへたるに、武者二騎はせ来り。実盛まづ一騎の武者に懸あはせ、「わぎみ、たそ。」と問ば、「安芸国住人、東条の五郎。」と名のる所を、能引て射おとし、其首を取て、「これはいかに、後藤殿。」といへば、眞基も、一騎の武者にはせむかひ、「御辺は誰そ。」ととへば、「讃岐国の住人、大木戸の八郎。」と名のりもはてねば、しや頸のほね射ておとし、其首取て、「是見給へ、斉藤殿。頭殿の見参にやいるゝ、すてやする。」といひければ、「今朝より乗つからかしたる馬に、なま頸つけて何かせん。いざすてん。」といひけるが、二条堀川まではせ来る。材木のうへに二の首をさしをいて、軍みける在地の者どもにあづけて、「此頸うしなふべからず。」といひふくめて、かけいづれば、失ひてはあしかりなんとて、日くるゝまでふるひ<まもりける也。 右衛門督信頼は、今朝待賢門を破られて後は、いくさの事はおもひもよらず、ひまをもとめておちん<とぞせられける。義朝かけ出て後は、大裏にもしのびずして、御方の勢の跡に付て、おづ<河原まで出られけるが、六波羅へはよせずして、引ちがへて、河原をのぼりにおちられけり。金王丸是をみて、「右衛門督殿こそ落させ給へ。追懸まいらせん。」と申せば、義朝、「たゞをけ。あれ体の不覚人あれば、中々いくさがせられぬぞ。」とて、河原をくだりによせられけり。
  @『義朝六波羅に寄せらるる事並びに頼政心替りの事付けたり漢楚戦ひの事』 S0202
 六はらには、五条の橋をこぼちよせ、かいだてにかいてまつ所に、源氏則をしよせて、時を咄とつくりければ、清盛、時のこゑにおどろき、物具をせられけるが、甲を取てさかさまにき給へば、侍ども、 「御冑さかさまに候。」と申せば、臆してや見ゆらんと思はれければ、「主上わたらせ給へば、敵の方へむかはゞ、君をうしろになしまいらせんが恐なる間、さかさまにはきるぞかし。」との給へば、重盛は、「何とのたまへども、臆して見えられたるな。打立、者ども。」とて、五百余騎にてかけむかはる。 兵庫頭頼政は、三百余騎にて六条河原にひかへたり。悪源太、鎌田をめして、「あれにひかへたるは頼政か。」「さん候。」「にくい振舞かな。我らはうちまけば平家にくみせんと、時宜をはかるとおぼゆるぞ。いざけちらしてすてん。」とて、五十余騎にてはせむかひ、「御辺は兵庫頭か。源氏勝たらば、一門なれば内裏へ参らん、平家かたば、主上おはしませば、六波羅へまいらんと、軍の勝負うかゞふと見るはいかに。凡武士は二心有を恥とす。ことに源氏のならひはさはさうず。よれや、くんで勝負を見せん。」とて、眞十文字に懸破て、追立追立、せめたゝかふ。さしもいさめる渡辺党、日比は百騎にも向ひ、千騎にもあはんとこそのゝしりしかども、悪源太に手いたふ懸られ奉(っ)て、馬の足をたてかねたれば、くむ武者一騎もなかりけり。 頼政が郎等、下総国住人、下河辺藤三郎行吉がはなつ矢に、相模国住人、山内須藤瀧口俊綱が頸の骨を射られて、馬よりおちんとしければ、父形部丞是をみて、「矢一すぢにそれほどよはるか。」といさめられて、弓杖ついて乗なをらんとしけるを、悪源太み給て、「瀧口は急所を射られつるぞ。敵に頸とらすな。」と下知せられければ、斉藤別当太刀をぬいて馳寄たり。俊綱、「御辺は御方にてはなきか。」といへば、実盛、「御曹子の仰に、さしもの兵を敵に首とらすなと承る間、御方へとる也。」といへば、俊綱に(っ)ことわら(う)て、「わかき大将にておはしませば、是までの御心ばせ有べしとこそ存ぜぬに、かばかりの御情ふかくわたらせ給ふ者かな。心やすく臨終せん。」とて、西にむかひ手をあはせ、頸を延てぞうたせける。弓矢とる身のならひ程、哀なりける事はなし。生れは相模国、はては雍州都の外、河原の土とぞ成にける。父形部丞これをみて、「一命をかろんじて軍をするも、瀧口を世にあらせんため也。俊綱うたせて、命いきても何かせん。打死せん。」とて懸ければ、御曹子、「あたら兵形部うたすな、者共。」との給へば、御方の兵はせふさが(っ)て制しければ、ちからなくなみだとともに引(っ)かへす。 さても頼政は、あながちに義朝に敵せんとまでは思はざりしかども、悪源太に懸たてられて、このむ所のさいはひと、六波羅へこそくはゝりけれ。まことに悪源太わかげのいたす所也。兵庫頭、勝負を両端にうかゞふが故に、平家に心ざすといへども、源氏のためにはまことの敵にあらず。一人なりとも、平家にあふてこそ死たけれ、せんなき同士軍に、あたら兵共をうたせられけるぞ無念なると、人々申ける。異国にも其例あり。漢の高祖と楚の項羽と国をあらそふ事八ヶ年、戦をなす事七十二度、毎度項羽かつにのるといへ共、政道みだりがはしき故に、民服せず。高祖は、たゝかひつねによはしといへども、撫民の徳あるがゆへに、人これによる。爰に王陵といふ者あり。城をこしらへ、兵をあつめながら、両方の勝負をまつが故に、楚にもくみせず、漢にも敵せずしてあひさゝへたり。名将たる故に、項羽しきりにめすといへ共、虞氏の行跡をかへりみて参ぜざる間、則兵をつかはして是をせむるに、城かたうしてさらに落ず。かへ(っ)ておほくの御方の勢をそこなふ。よ(っ)て楚王大きにいか(っ)て、はかりことをめぐらし、「其母をとらへて、楯の面に引張てよせたらんに、王陵は孝行第一の者なれば、定て弓をひくにあたはずして、必降をこはんか。しからば其身をいけ取て、首をはねよ。」と議せられけるを、母これをもれきいて、まことに王陵は無双の孝子なれば、われをして楯の面にふせしめば、かならず楚にくだらむと思ひける志あらんずる間、ひそかに使をつかはして此由をつげ、「天下はつゐに漢王に服すべし。汝も必高祖の臣となり、あへても(っ)て楚に降する事なかれ。よ(っ)て我はやく死をかろくす。」とて、則剣にふしてむなしく成にき。是によ(っ)て、王陵あながちに項羽にうらみふかきがゆへに、忽に高祖の臣となり、命をかろくし身をうしな(う)てせむといへり。是も漢こそまことの正敵なれ。高祖をだにも討たらましかば、千万の傍敵ありといふとも、をのづから服せしむべし。誠に大事の前の小事也。されば大孝は小謹をかへりみずといへり。大底武の道つよきに敵して命をうしなふ。よはきをたすけて身をほろぼす。皆是つねの規ぞかし。悪源太も義をも(っ)て和したらましかば、頼政も名将なれば、定て見捨ざらんか。義平わが武略に達せるまゝに、うたば忽にくだり、せめば必伏せんと思ふがゆへに、人の不義を取(っ)て身のあたとし給へり。縦ひ勇力ありとも、人和せずはつゐにかつ事をえじ。兵書のことばにいはく、「天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかず。」といへり。尤思慮あるべき事共也。
  @『六波羅合戦の事』 S0203
 悪源太は、其まゝ六はらへ寄らるゝに、一人当千の兵ども、眞前にすゝんで戦ひけり。金子十郎家忠は、保元の合戦にも、為朝の陣に懸入、高間の三郎兄弟を組でうち、八郎御曹子の矢さきをのがれて名をあげけるが、今度もま(っ)さきかけてたゝかひけり。矢だねも皆射つくし、弓も引おり、たちをも打折ければ、折太刀をひ(っ)さげて、「あはれ太刀がな。今一合戦せん。」と思ひて、かけまはる所に、同国の住人足立右馬允遠元馳来れば、「是御覧候へ、足立殿。太刀を打折て候。御はきぞへ候はゞ、御恩にかうぶり候はん。」と申ければ、折節はきぞへなかりしか共、「御辺の乞がやさしきに。」とて、前をうたせける郎等の太刀を取て、金子にぞあたへける。家忠大きによろこんで、又かけ入て敵あまた討(っ)てけり。 足立が郎等申けるは、「日来より御前途にたつまじき者とおぼしめせばこそ、軍の中にて太刀を取て人には給はるらめ。此ほどは最後の御供とこそ存ぜしか共、是程に見かぎられ奉ては、さきだち申にしかじ。」とて、すでに腹をきらんと、上帯ををし切ければ、遠元馬よりとむでおり、「汝がうらむる所尤ことはり也。然れ共金子が所望のもだしがたさに、御辺が太刀を取つる也。軍をするも主のため、討死する傍輩に太刀をこはれて、あたへぬものや侍らん。漢朝の季札も除君に剣をこはれては、おしまずとこそうけたまはれ。しばらくまて。」といふ所に、敵三騎来て、足立をうたんとかけよせたり。遠元まづま(っ)さきに進たる武者を、よ(っ)ぴいてひやうどいる。其矢あやまたず内甲に立て、馬より眞倒におちければ、のこり二騎は馬をおしみて懸ざりけり。遠元やがてはしりよ(っ)て、帯たる太刀を引切(っ)ておつ取、「汝がうらみ眞中、くわ、たちとらするぞ。」とて、郎等にあたへ、うちつれてこそ又懸けれ。 悪源太のたまひけるは、「今日六波羅へよせて、門の中へいらざるこそ口おしけれ。すゝめや、者ども。」とて、究竟の兵五十余騎、しころをかたぶけてかけいれば、平家の侍ふせぎかね、ば(っ)と引てぞ入にける。義平まづ本意をとげぬとよろこんで、おめきさけんで懸入給へり。清盛は、北の台の西の妻戸の間に、軍下知してゐ給ひけるが、妻戸のとびらに、敵のいる矢雨のふるごとくにあたりければ、清盛いか(っ)ての給ひけるは、「ふせぐ兵に恥ある侍がなければこそ、是まで敵は近づくらめ。いで<、さらばかけん。」とて、紺のひたたれに黒糸縅のよろひき、黒漆の太刀をはき、くろほろの矢負、ぬりごめ藤の弓も(っ)て、くろき馬に黒鞍をかせて乗給へり。上より下までおとなしやかに、出たゝれけるが、鐙ふむばり大音あげて、「よせての大将軍は誰人ぞ。かう申は太宰大弐清盛也。見参せん。」とて、かけ出られければ、御曹子これをきゝ給ひ、「悪源太義平こゝにあり。えたりやおう。」とさけびてかく。平家の侍これをみて、筑後守父子・主馬判官、管親子・難波・妹尾をはじめとして、究竟の兵五百余騎、眞前にはせふさが(っ)て戦けり。 源平互に入みだれて、こゝを最後ともみあふたり。孫子が秘せし所、子房が伝所、互にしれる道なれば、平家の大勢、陽にひらいてかこまんとすれ共かこまれず、陰にとぢてうたんとすれどもうたれず、千変万化して、義平三方をまくりたて、おもてもふらず切(っ)てまはり給ひしか共、源氏は今朝よりのつかれ武者、いきをもつかずせめ戦、平家はあらてを入かへ<、城にかゝ(っ)て馬をやすめ、懸いで<たゝかひければ、源氏つゐにうちまけて、門より外へ引しりぞき、やがて河をかけわたし、河原を西へぞ引たりける。 義朝是をみ給て、「義平が河より西へ引つるは家のきずとおぼゆるぞ。今は何をか期すべき。討死せん。」とて懸られければ、鎌田馬よりとんでおり、水付に立て申けるは、「むかしより弓矢を取(っ)て、源平いづれも勝負なしと申せども、ことさら源家をばみな人たけき事と申侍り。たとへば栴檀の林に余木なく、崑崙山は土石こと<”く美玉なるがごとく、源氏に属する兵までも、弓矢を取ては名をえたり。それに今朝よりの合戦に、馬なづみ人つかれて、物具にすきまおほく、失種つき打物おれて、のこる御勢過半は疵をかうぶれり。今たとひ敵にかけあふといふとも、かひ<”しき事はなくて、雑人の手にかゝり、遠矢に射られてうたれん事、歎きのうへのかなしみ也。いかにいはんや、大将の御死骸を、敵軍の馬蹄にかけん事をや。しばらくいづくへも落させ給ひ、山林に身をかくしても、御名ばかりをのこしをき、敵に物をおもはさせ給はんこそ、謀の一にても候べけれ。只今爰にて打れさせ給ひなば、てきは弥々利を得、諸国の源氏はみな力をおとしはて、忽に敵に属し候なん。縦ひ、のがれがたうして、御自害候とも、ふかくかくしまいらせて、東国の御方のたのみある様にこそ御はからひ候はんずれ。死せる孔明、いける仲達をはしらかすとこそ申たるに、やみ<と敵に討とられ給はん事、誠に子孫の御恥辱たるべし。御曹司も、定て御所存あ(っ)てぞおはしますらん。はや落させ給へ。」と申せば、「あづまへゆかばあふさか山・不破の関、西海におもむかば、須磨・明石をやすぐべき。弓矢とる身は、死すべき所をのがれぬれば、中々最後の恥ある也。たゞこゝにてうち死せん。」とすゝみ給へば、政家かさねて申やう、「こは御定ともおぼえ候はぬ物哉。死を一途にさだむるは、ちかうしてやすく、謀を万代にのこすは、とをうしてかたしといへり。かなはぬ所にて御腹めされん事、なにの義か候べき。越王は会稽にくだり、漢祖は栄陽をのがるゝ、みな謀をなして、本意をとげしにあらずや。身を全して敵をほろぼすをこそ、良将とは申て候へ。とく<延させ給へ。」とて、御馬の口を北のかたへをしむけければ、鎌田が取付たるを力として、兵あまたおり立(っ)て懸させ奉らねば、ちからなく河原をのぼりにおちられけり。
  @『義朝敗北の事』 S0204
 平家追懸てせめければ、三条河原にて鎌田兵衛申けるは、「頭殿はおぼしめす旨あ(っ)て落させ給ふぞ。よく<ふせぎ矢つかまつれ。」といひければ、平賀四郎義宣、引返し散々にたゝかはれければ、義朝かへり見給て、「あ(っ)ぱれ、源氏は鞭さしまでも、をろかなる者はなき物かな。あたら兵、平賀うたすな。義宣打すな。」との給へば、佐々木の源三・須藤形部・井沢四郎を始として、われも<と眞前に馳ふさが(っ)てふせぎけるが、佐々木源三秀義は、敵二騎切(っ)ておとし、我身も手負ければ、近江をさして落にけり。須藤形部俊通も、六条河原にて、瀧口と共に討死せんとすゝみしを、とゞめ給ひしかども、こゝにて敵三騎討取て、つゐにうたれてけり。井澤四郎宣景は、廿四さしたる失をも(っ)て、今朝のたゝかひに敵十八騎討おとし、いまの合戦によき敵四騎射ころしたれば、ゑびらに二ぞ残たる。その後打物に成てふるまひけるが、いた手おふて引にけり。東近江におちて疵療治し、弓うちきり杖につき、山づたひに甲斐の井沢へぞゆきにける。 か様に面々たゝかふ間に、義朝おちのび給ひしかば、鎌田をめして、「汝にあづけしひめはいかに。」との給へば、「私の女に申をきまいらせて候。」と申せば、「いくさに負ておつるときゝ、いかばかり
の事か思らん。中中ころしてかへれ。」との給へば、鞭をあげて、六条堀川の宿所にはせ来てみければ、軍におそれて人ひとりもなきに、持仏堂の中に人音しければ、ゆきて見るに、姫君仏前に経うちよみておはしけるが、政家を御覚じて、「さてそも、軍はいかに。」と問給へば、「頭殿は打負させ給て、東国のかたへ御おち候が、姫君の御事をのみ、かなしみまいら(っ)させ給ひ候。」と申せば、「さては我らも只今敵にさがし出され、是こそ義朝のむすめよなどさたせられ、恥を見んこそ心うけれ。あはれ、たかきもいやしきも、女の身ほどかなしかりける事はなし。兵衛佐殿は十三になれども、男なればいくさに出て、御供申給ふぞかし。わらは十四になれども、女の身とてのこしをかれ、我身の恥を見るのみならず、父の骸をけがさん事こそかなしけれ。兵衛、まづ我をころして、頭殿の見参にいれよ。」とくどき給へば、「頭殿も此仰にて候。」と申せば、「さてはうれしき事かな。」とて、御経をまきおさめ、仏にむかひ手をあはせ、念仏申させ給へば、政家つとまいり、ころし奉らんとすれども、御産屋のうちよりいだきとり奉りし養君にて、今までおふしたてまいらせたれば、いかでか哀になかるべき。なみだにくれて、刀の立所もおぼえずして、なきゐたりければ、姫君、「敵やちかづくらん、とく<。」と進め給へば、力なく三刀さして御首をとり、御死骸をばふかく納めて馳かへり、頭殿の見参に入たりければ、たゞ一め御覧じて、涙にむせび給ひけるが、東山のほとりにしりたまへる僧の所へ、此御頸をつかはして、「とぶらひてたび給へ。」とてぞおちられける。 さる程に、平家の軍兵はせ散(っ)て、信頼・義朝の宿所を始て、謀叛の輩の家々に、をしよせ<火をかけて、やきはらひしかば、其妻子眷属、東西に逃まどひ、山野に身をぞかくしける。方々におち行人々は、我行前はしらね共、跡のけぶりをかへりみて、敵は今や近付らむ、いそげ<と身をもみけり。比叡山には、信頼・義朝うちまけて、大原口へおつるとさたしければ、西塔法師これをきゝて、「いざや落人打とゞめん。」とて、二三百人千束ががけに待かけたり。義朝此由きゝ及び、「都にてともかくも成べき身の、鎌田がよしなき申状によ(っ)て、是までおちて山徒の手にかゝり、かひなき死をせんずるこそ口おしけれ。」とのたまへば、斉藤別当申けるは、「こゝをば実盛とをしまいらせ候はん。」とて、馬よりおり、甲をぬいで手にひ(っ)さげ、みだれ髪を面にふりかけ、近付よ(っ)ていひけるは、「右衛門督、左馬頭殿已下、おもとの人々は、みな大内・六波羅にて討死し給ひぬ。是は諸国のかり武者どもが、恥をもしらず妻子を見んために、本国におち下り候なり。討留て、罪つくりに何かし給はん。具足をめされむためならば、物具をばまいらせ候はん。とをして給はれ。」と申ければ、「げにも大将達にてはなかりけり。葉武者はうちて何かせん。具足をだにぬぎすてば、とをされよかし。」と僉議しければ、実盛かさねて、「衆徒は大勢おはします。われらは小勢なり。草摺を切ても猶及びがたし。なげんにしたがひうばひ取給へ。」といへば、おもてにすゝめる若大衆、「尤しかるべし。」とてあひあつまる。後陣の老僧も、われおとらじと一所によ(っ)て、きほひあらそふ所に、実盛冑をかつぱとなげたりけり。われとらんとひしめきければ、あへて敵の体をも見つくろはざりける処に、卅二騎の兵、打物を抜て、冑のしころをかたぶけ、がはと懸入けちらしてとをりければ、大衆にはかに長刀をとりなをし、あますまじとて追懸ければ、実盛大わらはにて、大の中差取(っ)てつがひ、「敵も敵によるぞ。義朝の郎等に武蔵国住人、長井斉藤別当実盛ぞかし。留めんとおもはゞよれや。手がらの程みせん。」とて、取(っ)て返せば、大衆の中に弓取は少もなし、かなわじとや思ひけん、皆引てぞ帰りける。 義朝八瀬の松原を過られけるに、跡より、「やゝ。」と呼こゑしければ、何者やらんとみ給へば、はるかに前へぞ延ぬらんとおぼえつる信頼卿追付て、「もし軍にまけて東国へおちん時は、信頼をもつれて下らんとこそきこえしか。心がはりかや。」との給へば、義朝余りのにくさに腹をすへかねて、「日本一の不覚人、かかる大事を思ひ立(っ)て、一いくさだにせずして、我身もほろび人をもうしなふにこそ。おもてつれなふ物をのたまふ物かな。」とて、もたれたる鞭をも(っ)て、信頼の弓手の頬崎を、したゝかにうたれけり。信頼此返事をばし給はず、誠に臆したる体にて、しきりにむちめををしなで<ぞせられける。乳母子の式部大夫助吉これをみて、「何者なれば、督殿をばかうは申ぞ。わ人ども心の剛ならば、など軍にはかたずして、負ては国へ下るぞ。」といひければ、義朝、「あの男に物ないはせそ。討て捨よ。」との給ひければ、鎌田兵衛、「何条たゞいまさる事の候べき。敵やつゞき候らん。延させ給へ。」とてゆく所に、又横河法師上下四五百人、信頼・義朝のおつるなる、うちとめんとて、龍下越にさかもぎ引、掻楯かいてまち懸たり。 卅余騎の兵、各馬よりとびおり<、手々に逆茂木をば物ともせず、引ふせ<とをる所に、衆徒の中より、さしつめひきつめ散々に射たりければ、陸奥六郎義隆の頸の骨を射られて、馬よりさかさまにおちられてけり。中宮大夫進朝長も、弓手の股をしたゝかに射られて、鐙をふみかね給ひければ、義朝、「大夫は失にあたりつるな。つねに鎧づきをせよ。うらかゝすな。」とのたまへば、其矢ひつかなぐつてすて、「さも候はず、陸奥六郎殿こそいた手おはせ給ひ候つれ。」とて、さらぬ体にて馬をぞはやめられける。六郎殿うたれ給へば、頸をとらせて義朝のたまひけるは、「弓矢取身のならひ、軍に負ておつるは、つねの事ぞかし。それを僧徒の身として、たすくるまでこそなからめ、結句うちとめんとし、物具はがんなどするこそ奇怪なれ。にくいやつばら、後代のためしに一人も残さずうてや者ども。」と、下知せられければ、卅余騎くつばみをならべ「懸入わりつけ追まはし、せめつめ<切付られければ、山徒立所に卅余人うたれにければ、のこる大衆、大略手負て、はう<谷々へかへるとて、「此落人うちとゞめんといふ事は、誰がいひ出せる事ぞ。」とて、あれよこれよと論じける程に、同士軍をしいだして、又おほくぞ死にける。誠に出家の身として、落人うちとゞめ、物具うばひとらんなどして、わづかの落武者にかけたてられ、おほくの人をうたせ、又同士軍し出して、あまたの衆徒をうしなふ事、僧徒の法にも恥辱也、武芸のためにも瑕瑾なり。されば冥慮にもそむき、神明にもはなたれ奉りぬとぞおぼえし。 此敵をも追ちらしければ、龍下のふもとにみなおりゐて、馬をやすめられけるが、義朝、後藤兵衛眞基をめして、「汝にあづけをきし姫はいかに。」とのたまへば、「私の女によく<申ふくめて候へば、別の御事は候まじ。」と申けり。「さては心やすけれども、汝これより都へ帰りのぼり、ひめをそだてゝ尼にもなし、義朝が後世菩提とぶらはせよ。」との給へば、「先いづくまでも御供仕り、とも角もならせ給はん御有様を見とつけまいらせてこそ帰りのぼり候はんずれ。」と申せども、「存ずるむねあり。とく<。」との給へば、力及ばずみやこへ帰り、姫君につき奉り、こゝかしこにかくしをきまいらせて、源氏の御代になりしかば、一条二位中将能保卿の北方になし奉りける也。眞基も鎌倉殿の御時に世に出けるとぞきこえし。
  @『信頼降参の事並びに最後の事』 S0205
 去ほどに信頼卿は、すてられて、八瀬の松原より取(っ)て返されけり。それまでは侍ども五十騎ばかり有けるが、「此殿は人に頬をうたれて、返事をだにもし給はねば、侍の主には叶ひがたし。行末もさこそおはせめ。」とて、ちり<”に落ゆきしかば、乳母子の式部大夫ばかりにぞ成にける。余りにつかれてみえ給へば、ある谷川にて馬よりいだきおろし、干飯あらひてまいらせけれども、今朝の時のこゑにおどろきて後は、胸ふたがりて、つをだにもはか<”しくのみ入給はねば、まして一口もえめさゞりけり。又馬にかきのせて、「いづくへかいらせ給はん。」と問奉れば、「仁和寺殿へ。」との給ふ間、連台野へぞ出にける。爰に山法師の死したるを葬して帰る者どもにぞゆきあひける。法師原是をみて、「此夜中にしのびてとをるは、落人の帰り来るにてぞ有らん。討とゞめ物具はげ。」とのゝしりければ、式部大夫とりあへず、「是は六はらより落人を追て長坂へ向ふて候が、敵ははやおちのびて候間、帰りまいるに、くらさはくらし、御方の勢に追をくれて侍なり。」とこたへければ、さもあるらんとや思ひけん、すでにとをすべかりけるに、法師一人笠じるしを見んとや思ひけん、「まことしからず、野伏もなくて。」とて、続松ふりあげて近づけば、信頼さきにうたれけるが、あはやとおどろきて、おつるともなく馬よりおり、物具ぬぎ捨て、鎧直垂より小具足・太刀・刀・馬鞍までとりやかな(う)て、「命ばかりをばたすけ給へ。」とて、手を合られければ、式部大夫もはがれてけり。それより大白衣にて、はうはう仁和寺殿へまいり、昔の御めぐみの名残なれば、御助ぞあらんずらんとて、頸をのべて参たる由申入られたり。しかのみならず伏見源中納言師仲卿もまいり、越後中将成親も参られけり。 上皇もとよりふびんにおぼしめさるゝ人々なれば、かたはらにかくしをかれて、先主上へ、「信頼をば助させたまへ。」と御書をまいら(っ)させ給ひしか共、あへて御返事もなかりければ、重て、「愚老をたのみてまいりたる者どもなれば、まげてたすけをかせ給へ。」と申させ給ふ。御使も未かへらざるに、三河守頼盛・淡路守敦盛、両大将にて三百余騎仁和寺にをしよせて、信頼をはじめて、上皇をたのみまいらせてまいりあつまりたる謀叛の輩、五十余人めしと(っ)てかへられけり。越後中将成親朝臣は、嶋摺の直垂のうへに縄付て、六波羅の馬屋の前に引すへられておはしけり。既に死罪にさだまりたりしを、重盛今度の勲功の賞に申かへて、あづかり給ひける也。此中将、院の御気色よき人にて、院中の事申さたせられけるが、重盛出仕のたびごとに、芳心せられけるゆへ也となん。されば人はなさけ有べき事にや。 信頼卿をば、門前に引すへ、左衛門佐して謀叛の子細を尋らる。一事の陳答にも及ばず、たゞ、「天魔のすゝめ也。」とぞなげかれける。我身の重科をもしらず、「今度ばかり、いかにも申たすけさせ給へ。」と、たりふし申されければ、重盛、「あれほどの不覚人、助をかせ給ひたりとも、何ほどの事候べき。」と申されしかども、清盛、「今度の謀叛の本人なり。上皇の申させ給へども、君もきこしめし入ず、いかでか私にはゆるすべき。はやく死罪にさだまりぬ。とう<きれ。」との給へば、左衛門佐、此上は力及ばずとてたゝれけり。 やがて六条河原にして、すでに敷皮のうへに引居たれども、おもひもきらず、「あはれ、重盛はさばかりの慈悲者とこそきゝつるに、などや頼信をば申助給はぬやらん。」とて、起ぬふしぬなげきて、もだへこがれ給へば、松浦太郎重俊切手にてありしが、太刀のあてどもおぼえねば、をさへて掻頸にぞしてける。見ぐるしかりし有様なり。年来院のきり人にて、諸人の追従をかうぶり、去 十日より内裏に侍て、さま<”のひが事をなし給ひしかば、百官龍蛇の毒をおそれ、万民虎狼の害をなげきしに、今日のありさまは、乞食・非人にも猶おとりたりとぞ、見物の諸人申あへる。彼左納言右大史、朝に恩をうけてゆふべに死をたまはると、白居易のかきしも、ことはりかなとぞおぼえし。 こゝに齢七十ばかりなる入道の、柿の直垂に文書ぶくろ頸にかけたるが、平足駄はき、鹿杖つき、市のごとく立こみたるおほくの人を、かきわけ<ゆきければ、右衛門督のとしごろの下人、主の死骸をおさめんとするにやと見る所に、さはなくて、むくろをはたとにらみ、「をのれは。」とて、持たる杖にて二打三うち打ければ、見物の諸人、「こはいかに。」といふに、此入道がいはく、「相伝の所領を無理にをのれに押領せられ、おほくの所従をうしなひ、我身をはじめて子孫どもに飢寒の苦痛みせつるは、をのれが所行にあらずや。かゝるひが事の積りによ(っ)て、いますでに首をきられ、入道が目の前に恥をさらすぞ。われいきて汝が死骸をうつ。わが杖は死してよもいたまじ。獄卒のしもとは今こそあたるらめ。魂魄もしあらば、たしかに此詞をきけ。大弐殿の御嫡子左衛門佐殿は、有道のきこえましませば、此文書見参にいれて、本領安堵して、をのれが草の陰にて見んずるぞ。思へば猶にくきぞ。」とて又一枚うちてぞ帰りける。 温野に骨を礼せし天人は、平生の善をよろこび、寒林に骸をうちし霊鬼は、前世の悪をかなしむとも、かやうの事をや申べき。彼老者は、丹波国の在庁、監物入道なにがしといふ者なり。無念におもひけん事はさる事なれ共、あまりなるふるまひかなとて、にくまぬ者ぞなかりける。切手帰りければ、人々信頼の最後のさま尋らるゝに、「哀なる中にもをかしかりしは、軍の日、馬よりおちて、鼻のさきをつきかきし跡、八瀬にて義朝にうたれし鞭目、左のほうさきにうるみてありしぞ、見ぐるしかりし。」など面々沙汰しけるを、大宮の左大臣伊通公きゝ給ひて、「一日の猿楽に鼻をかくといふ世俗のことばこそあるに、信頼は一日の軍に鼻をかきけり。」との給しかば、みな人興にぞ入られける。
  @『官軍除目行はるる事付けたり謀叛入賞職を止めらるる事』 S0206
 伏見源中納言師仲は、「勧賞をかうぶるべき身にてこそ侯へ。信頼卿内侍所を取(っ)て、東国へ下しまいらせんとせられ候しを、女、坊門局の宿所、姉小路東洞院にかくしをきまいらせて候へば、朝敵にくみせざる支証分明に候。但信頼、時時伏見へ来りしも権勢におそれて、心ならぬまじはりにて候き。叛逆のくはたてにをひては、かつて存ぜず。よく<きこしめしひらかるべし。」と陳じ申されけり。河内守季実、其子左衛門尉季守は、のがるゝ所なくして、父子ともに誅せらる。 やがて叙位除目おこなはれて、大弐清盛は正三位に叙し、嫡子左衛門佐は伊与守に任じ、次男大夫判官基盛は大和守、三男宗盛は遠江守になる。清盛舎弟三河守頼盛は尾張守になる。伊藤武者景綱は伊勢守に補す。上卿は花山院大納言忠雅卿、職事は蔵人朝方とぞきこえし。 信頼卿の舎兄兵部権大輔基家・民部権少輔基通・舎弟尾張守少将信俊・子息新侍従信親・幡磨守義朝・中宮大夫進朝長・兵衛佐頼朝・佐渡式部大夫重成・但馬守有房・鎌田兵衛政家已下、七十三人の官職をとゞめらる。此内両人やがて尋出されて、民部権少輔基通は陸奥の国へ、尾張少将信俊は越後国へぞながされける。其外或は誅せらるゝ者、後日にもおほかりけり。 昨日まで朝恩にほこ(っ)て、余薫一門に及びしかども、今日は誅戮をかうぶ(っ)て、愁歎を九族にほどこす。朝につかへて、楽を春花の前にひらき、いましめをかうぶ(っ)ては、なげきを秋の霜のもとにあらはす。夢の富は、おぼえてのかなしみ也。一夜の月はやく有漏不定の雲にかくれ、朝の咲は暮の涙なり。片時のはな、むなしく無常転変の風に随ふ。盛衰のことはり、眼の前にあり。生界の中に、誰人か此難をのがるべき。さても堀川天皇嘉承二年に、対馬守源義親誅伐せられしよりこのかた、近衛院の御代、久寿二年にいたるまで、すでに卅余年、天下風静にして、民、唐尭・虞舜の仁恵にほこり、海内なみおさま(っ)て、国、延喜・天暦の徳政をたのしみしに、保元に合戦あ(っ)て、洛中はじめてさはぎしをこそ、あさましき事と思ひしに、いくほどの年月をもをくらざるに、又此みだれ出来て、人おほくほろびしかば、世すでに末に成(っ)て、国ほろぶべき時節にやあるらんと、心ある人はなげきあへり。同廿九日公卿僉議あ(っ)て、此ほど大内に兇徒殿舎に宿して、狼籍繁多也。きよめられずして、還幸ならん事然るべからざるよし、議定ありき。
  @『常葉註進並びに信西子息各遠流に処せらるる事』 S0207
 こゝに左馬頭義朝の末子ども、九条院雑仕常葉が腹に三人あり。兄は今若とて七ツに成、中は乙若とて五ツ、末は牛若とて今年むまれたり。義朝これらが事心ぐるしく思はれければ、金王丸を道より返して、「合戦にうちまけて、いづちともなくおちゆけども、心はあとをかへり見て、行さき更におもほえず。いづくにありとも、心やすき事あらば、むかへ取べき也。其程は深山にも身をかくして、我音づれをまち給へ。」と申つかはされければ、常葉きゝもあへず、引かづきてふししづめり。おさなき人人は声々に、「父は何くにましますぞ。頭殿は。」と問給ふ。やゝあ(っ)てときはなく<、「さてもいづ方へときゝつる。」ととひければ、「譜代の御家人達を御頼み候て、あづまの方へとぞ仰候し。しばしも御行末おぼつかなく存候へば、いとま申て。」とて出にけり。 少納言入道の子ども、僧俗十二人流罪せられけり。「君の御ためあへて不義を存ぜざりし忠臣の子どもなれば、縦信頼・義朝に流されて配所にありとも、今は赦免あ(っ)てめしこそ返さるべきに、結句流罪に処せらるゝ科の条何事ぞ。心得がたし。」といへば、此人々もとのごとくめしつかはれば、信頼同心の時の事ども、天聴にや達せんずらんと恐怖して、新大納言経宗・別当惟方の申すゝめなるを、天下の擾乱にまぎれて、君も臣もおぼしめしあやま(っ)てけりと、心ある人は申けるが、虚名は立せぬものなれば、いくほどなくてめし返され、経宗・惟方の謀計はあらはれけるにや、つゐに左遷のうれへにしづみけり。信西の子どもみな内外の智、人にすぐれ、和漢の才、身にそなはりしかば、配所におもむく其日までも、こゝかしこによりあひ<、歌をよみ詩を作て、互に名残をぞおしまれける。西海におもむく人は、八重の塩路をわかれてゆき、東国へくだる輩は、千里の山川を隔たる心のうちぞ哀なる。中にも幡磨中将成憲は、老たる母とおさなき子とをふりすてゝ、遼遠のさかひにおもむきける。せめての都の名残おしさに、所々にやすらひて、ゆきもやり給はざりけるが、粟田口の辺に馬をとゞめて、
  道の辺の草のあを葉に駒とめて猶古郷をかへり見るかな W003 
かくて近江の国をもすぎゆけば、いかになるみの塩ひがた、二むら山・宮路山・高師山・濱名の橋をうちわたり、さやの中山・うつの山をもみてゆけば、都にて名にのみきゝし物をと、それに心をなぐさめて、富士の高根をうちながめ、足柄山をも越ぬれば、いづくかぎりともしらぬ武蔵野や、ほりかねの井も尋みてゆけば、下野の国府につきて、我すむべか(ん)なる室の八嶋とて見やり給へば、けぶり心ぼそくのぼりて、おりから感涙留めがたく思はれしかば、なくなくかうぞきこえける。
  我ためにありける物を下野やむろの八嶋にたへぬ思ひは W004
 こゝをば夢にだに見んとはおもはざりしかども、今はすみかと跡をしめ、ならはぬ草のいほり、たとへん方もさらになし。
  @『義朝青墓に落ち著く事』 S0208
 さるほどに、左馬頭は堅田の浦へうち出て、義隆の頸を見給ふ。「八幡殿の御子の名残には、此人ばかりこそおはしつるに、をくれ奉(っ)ては、いよ<力なくこそおぼゆれ。」とて、なく<念仏申とぶらひて、みづうみへ馬の太腹ひたるまで打入、此首をふかくしづめられけり。やがて舟を尋てわたらんとせられけれ共、おりふし浪風はげしくしてかなはざりしかば、それより引かへし、勢多をさしておちられけるが、「此勢一所にてはかなふまじ、道をかへておつべし。志あらば東国にて必参会すべし。いとまとらする。兵ども。」との給へば、各、「いづくまでも御供つかま(っっ)てこそ、何共成候はめ。」と申せども、「存ずる旨あり。とく<。」との給へば、力及ばずして、波多野次郎義通・三浦荒次郎義澄・斉藤別当・岡部六弥太・猪俣小平六・熊谷次郎・平山武者所・足立右馬允・金子十郎・上総介八郎を始として、廿余人いとま給はり、思ひ<に国々へ下りけり。 義朝の一所におちられけるは、嫡子悪源太義平・次男中宮大夫進朝長・三男右兵衛佐頼朝・佐渡式部大夫重成・平賀四郎義宣・義朝乳母子鎌田兵衛政家・金王丸、わづかに八騎なり。兵衛佐頼朝、心はたけしといへども、今年十三、物具して終日の軍につかれ給ければ、馬眠をし、野路の遽よりうちをくれ給へり。頭殿、篠原堤まて、「若者どもはさがりぬるか。」とのたまへば、各、「これに候。」とこたへられしに、兵衛佐おはしまさず。義朝、「むざんやな。さがりにけり。若敵にやいけどらるらん。」との給へば、鎌田、「尋まいらせ候はん。」とて引返し、「佐殿やまします。」とよばゝり奉れども、さらにこたふる人もなし。 頼朝やゝあ(っ)てうちおどろき見給ふに、前後に人もなかりけり。十二月廿七日の夜深方の事なれば、くらさはくらし、さきも見えねども、馬にまかせてたゞ一騎心ぼそく落給ふ。森山の宿にいり給へば、宿の者どもいひけるは、「今夜馬の足音しげくきこゆるは、落人にやあるらん、いざとゞめん。」とて、沙汰人あまた出ける中に、源内兵衛眞弘といふ者、腹巻取(っ)て打かけ、長太刀も(っ)てはしり出けるが、佐殿を見付奉り、馬の口にとりつき、「おちうどをばとゞめ申せと、六はらより仰下され候。」とて、すでにいだきおろし奉らんとしければ、髭切をも(っ)て、ぬきうちにしとゝうたれければ、眞弘がまつかう二に打わられて、のけにたふれて死にけり。つゞひて出ける男、「しれ者かな。」とて、馬の口に取付所を、同様にきり給へば、籠手の手覆よりうで打おとされてのきにけり。其後近付者もなければ、則宿をはせ過て、野州河原へ出給へば、政家にこそあひ給へ。それよりうちつれいそぎ給へば、程なく頭殿に追つき奉り給ふ。「など今までさがるぞ。」とのたまへば、しか<”のよし申されければ、「たとひおとななりとも、いかでか只今かうはふるまふべき。いしうしたり。」とぞ感じ給ふ。鏡の宿をもすぎしかば、不破の関は敵かためたりとて、小関にかゝ(っ)て、小野の宿より海道をば妻手になして落給へば、雪は次第にふかくなる、馬にかなはねば、物具しては中々あしかりなんとて、みな鎧共をぬぎ捨らる。佐殿は馬上にてこそおとり給はね共、かち立に成てはつねにさがり給ひしが、つゐに追をくれまいらせられけり。 義朝はとかくして、美濃国青墓の宿につき給ふ。彼宿の長者大炊がむすめ、延寿と申は、頭殿御志あさからずして、女子一人おはしけり。夜叉御前とて十歳になり給ふ。年来の御宿なれば、それに入給へば、なのめならずもてなし奉る。 義朝こゝにての給ひけるは、「義平は山道をせめてのぼれ。朝長は信州へ下り、甲斐・信濃の源氏どもをもよほして上洛せよ。われは海道をせめのぼるべし。」と有しかば、悪源太、「さ、うけ給はる。」とて、未しらぬ飛騨の国のかたへ、山の根に付ておちゆかれければ、中宮大夫は、信濃をさして下り給ふが、龍下にて手は負給ふ、伊吹のすその雪はしのがれたり、疵大事に成て、かなひがたかりしかば、かへりまいられけり。頭殿、此由をきゝ給ひて、「あわれ、おさなく共頼朝はかうはあらじ。」とぞのたまひける。「さらば汝しばらくとゞまれ。」ときこゆれば、朝長畏(っ)て、「これに候はゞ、定て敵にいけどられ候なん。御手にかけさせ給て、心やすくおぼしめされ候へ。」と申されしかば、「汝は不覚の者と思たれば、誠に義朝が子なりけり。さらば念仏申せ。」とて太刀をぬき、すでに首をうたんとし給ひしを、延寿・大炊、太刀にとり付て、「いかに目の前にうきめを見せさせ給ふぞ。」とて、なきくどけば、「あまりにをくれたれば、いさむる也。」とて、太刀をさゝれぬ。朝長帳台へ入給へば、女も内へぞ帰りける。其後、「大夫はいかに。」との給へば、「待申候。」とて、掌をあはせ念仏し給へば、心もとを三刀さして首をかき、むくろにさしつぎ、衣引かけてをき給ふ。都にて江口腹の御むすめ、鎌田に仰て害せらる。頼朝はみえ給はず、朝長をもわが手にかけてうしなひ給へば、一方ならぬかなしさに、さすが涙もせきあへず。
  @『義朝野間下向の事付けたり忠宗心替りの事』 S0209
 かくてもあるべきならねば、やがて立出給ふ。大炊は、「是にて御としを送り、静に御下り候へ。」と申けれ共、「こゝは海道なればあしかりぬべし。朝長をば見つぎ給へ。」とて、いでんとし給ふ所に、宿の者どもきゝつけて、二三百人をしよせたり。佐渡式部大夫これをみて、「こゝをば重成打死して、とをしまいらせ候はん。」とて、或家にはしり入、馬ひきいだし打乗て、「狼籍也。雑人ども。」とて、散々にけちらして子安の森にはせ入、向敵十余人射ころし、「左馬頭義朝自害するぞ。我手にかけたりなど論ずべからず。」とて、まづ面の皮をけづり、腹十文字に掻切(っ)て、廿九と申に、つゐにむなしくなり給ふ。みな是を大将とおもひてかへりてければ、夜に入て宿を出給ふ。 中宮大夫は、夜あくるまで出られざれば、大炊参(っ)て見奉れば、むなしく成給へるに、小袖引かけてをかれたりしかば、「見つぎまいらせよとは、御孝養申せとにてありけり。」とて、なく<うしろの竹原の中におさめ奉りけり。 其後、平賀四郎にもいとまたびて、勢を付てせめのぼり給ふべきよしの給へば、「さていづくをさして御下り候ぞ。」と申されければ、「まづ尾張の野間にゆき、忠宗に馬・物具こひてとをらんずる。」とのたまへば、平賀、「長田は大徳人にて世をうかゞふ者なれば、落人をかくし奉らん事いかゞ。」と申けれども、「さりとも鎌田がしうとなれば、何事かあらん。」との給へば、「さては義宣は御のぼりに参りあひ奉らん。」とて別けり。 義朝、鎌田をめして、「海道は宿々とをり得がたか(ん)なる。是より海上を内海へつかばやと思ふはいかに。」とのたまへば、「鷲の栖の玄光と申は、大炊が弟也。かくれなき強盗名誉の大剛の者にて候。たのみて御覧候へ。」と申せば、然るべしとて、此由を仰らるゝに、玄光よろこんで、「是ならずは何事か頭殿の御用あるべき。」とて、小船にて下る所に、府津に関すへて舟をもさがしければ、此船をもよせよとて、「何船ぞ。」ととがむれば、「玄光ぞかし。」といふ。「玄光ならんには、いかに夜は行ぞ。」といへば、「今日明日ばかりの年の内なれば、夜もえやすまぬぞ。」とてこぎとをる。同廿九日には、尾張国智多郡野間の内海につき給ふ。長田庄司忠宗うけ取奉り、様々にもてなし申せども、「御馬をまいらせよ。いそぎ御とをり有べし。」との給ければ、「せめて三日の御いはひすぎてこそ御たち候べけれ。」とて、しきりにとゞめ奉れば、力なく逗留し給ふ。 さる程に、長田庄司、子息先生景宗を近付て、「さても此殿をばとをしや奉る、これにて討申べきか、いかに。」といふに、景宗申けるは、「東国へ下り給ふとも、人よも助まいらせん。人の高名になさんよりも、これにてうち奉(っ)て、平家の見参に入、義朝の知行分をも申たまはらば、子孫繁昌にてこそ候はんずれ。」といひければ、「尤然るべし。但名将の御事なれば、小勢なりとも、討奉らん事大事也。」と申せば、「御湯ひかせ給へとて、浜殿へすかし入奉て、橘七五郎は、近国にならびなき大力なれば、組手なるべし。弥七兵衛・濱田三郎は手きゝなれば、指ころしまいらすべし。鎌田をば内へめされて、酒をしゐふせ、軍のやうをとひ給へ。頭殿打れ給ひぬときゝてはしり出ば、妻戸の陰にまちうけて、景宗きりふせ候はん。金王丸と玄光法師をば、外侍にて、若者共の中にとりこめ、引張てさしころし候はんに、何の子細候べき。」とはからへば、湯殿しつらひて、正月三日に庄司御前にまいり、「都の御合戦、道すがらの御辛労に、御湯めされ候へ。」と申せば、然るべしとて、やがて湯殿へいり給へば、三人の者隙をうかゞふに、金王丸御剣を持て、御あかにまいりければ、すべてうつべきやうぞなき。程へて、「御かたびらまいらせよ。」といへども、人もなき間、金王丸腹を立はしり出ける其ひまに、三人の者どもはしりちがひてつと入、橘七五郎むずとくみ奉れば、心得たりとて取(っ)て引よせ、をしふせ給ふ所を、二人の者ども左右より寄て、脇の下を二刀づゝさし奉れば、心はたけしと申せども、「鎌田はなきか、金王丸は。」とて、つゐにむなしくなり給ふ。金王丸はしり帰て、是をみて、「にくゐやつばら、一人もあますまじ。」とて、三人ながら湯殿の口にきりふせたり。 鎌田兵衛は、忠宗に向て酒をのみけるが、此よしをきゝてつい立所を、酌取ける男、刀をぬいてとびかゝる。政家と(っ)て引よせ、其かたなをも(っ)て二刀さす所を、うしろより景宗本頸をう(っ)てうちおとす。鎌田も今年卅八、頭殿と同年にてうせにけり。玄光法師は、頭殿うたれ給ひぬときいて、「是は鎌田がわざにてぞ有らむ。先政家をうたん。」とて、長太刀持てはしりまはりけるが、鎌田もはやうたれぬときゝて、「さらば長田めを討ばや。」とて、金王丸と二人、面もふらず切(っ)てまはり、あまたの敵切ふせて、塗籠の口までせめ入けれども、美濃・尾張のならひ、用心きびしき故に、帳台のかまへしたゝかにこしらへたれば、力なく長田父子をば討えずして、馬屋にはしり入て馬引出し、うちのり<、「とゞめむと思はゞとゞめよ。」とよばゝりけれ共、遠矢少々射かけたる計にて、近付者なかりしかば、玄光はわしのすにとゞまり、金王は都へのぼりけり。 鎌田が妻女これをきゝ、うたれし所に尋ゆき、むなしき死骸にいだき付、「われは女の身なれ共、全二心はなき物を、いかにうらめしく思ひ給ふらん。親子の中と申せども、我もさこそ思ひ侍れ。あかぬ中にはけふすでにわかれぬ。情なき親にそふならば、又もうきめや見んずらん。おなじ道にぐし給へ。」とて、しばしはなきゐたりけるが、夫の刀をぬくまゝに、心もとにさしあて、うつぶさまにふしければ、つらぬかれてぞうせにける。忠宗、左馬頭をうち奉る事は、よろこびなれども、最愛のむすめをころして、なげきにこそしづみけれ。景宗、頭殿の御頸、并に鎌田が頸をとり、死骸共をばひとつ穴にほりうづむ。いかに勲功をのぞめばとて、相伝の主をうち、現在のむこを害しける忠宗が所存をば、にくまぬ者もなかりけり。 安禄山が主君玄宗をかたぶけて、養母楊貴妃をころし、天下を宰どりしか共、其子安慶緒にころされ、安慶緒は又、父をころしたるによ(っ)て、史師明に害されて、程なく禄山が跡たえぬ。忠宗も行末いかゞあらんと、人みな申侍き。譜代の家人なる上、鎌田兵衛もむこなれば、義朝のたのみ給ふもことはり也。情なかりし所存かな。しらぬは人のこゝろ也。されば白氏文集、「天をも度つべく、地をもはかりつべし。たゞ人のみ防べからず。海底の魚も、天上の鳥も、高けれども射つべく、深けれども釣つべし。ひとり人の心のあひむかへる時、咫尺の間もはかる事あたはず。陰陽神変みなはかりつべし。人間のゑみは是いかりなりといふ事を。」と書も、今こそ思ひしられたれ。
  @『頼朝青墓に下着の事』 S0210
 さても兵衛佐のありさまこそいたはしけれ。十二月廿八日の夜、父にも兄にも追をくれて、雪の中にたゞひとりさまよひ給ひけるが、小関のかたへゆきもせで、小平といふ山寺のふもとの里へまよひいで給ふ。あけぼのゝ事なるに、とある小屋に立より給へば、男のこゑして、「あはれ此山にも落人などやこもるらん、此雪にはいかでかはたらき給べき。一人なりともめし取て、六はらへまいらせたらば、勧賞にあづからぬことはよもあらじ。」といへば、こゝにあ(っ)てはあしかりなんと思ひ給て、足にまかせてぬけ給ふ程に、浅井の北の郡にやすらひ給けるを、老尼見付奉り、家に具して行ければ、老夫おなじくいたはりまいらせて、正月中はかくしをき侍りけり。 やうやく雪もきえしかば、又足にまかせて出給へるが、始の小平のあたりをとをり給けるが、人目をつつむ身なりしかば、道にもあらぬ谷川に付てたどり給ふ所に、或鵜飼見あひ奉り、思ひの外に情ありて、「人めをしのぶ御事にこそおはしませ、有のまゝに仰侯へ。いづくへも御志の所へをくり付まいらせん。」と申ければ、有のまゝにかた(っ)て、「あふはかへゆかばやとこそ思へ。」との給へば、「さては此御姿にては叶ひがたく候。」とて、女のかたちに出たゝせ奉り、もち給へる太刀をば、すげにてつゝみて我持て、男の、女を具したる体にて、あふはかへこそ下りけれ。大炊がもとへゆき給ひて、「頼朝なり。」との給へば、延寿もなのめならずよろこんで、夜叉御前の御方にをきまいらせて、様々にもてなし奉りけれども、東国へ御下あるべしとて、いそぎ出給ふが、髭切をば大炊にあづけをきてぞくだり給ふ。


平治物語 「校註 日本文学大系」本

巻之三
  @『金王丸尾張より馳せ上る事』 S0301
 隙■つなぎがたうして、喜にも易ふうつり、なげくにも又とゞまらざれば、浅ましかりし年も暮、平治二年に成にけり。正月朔日、あらたまのとし立帰りたれ共、内裏には元日元三の儀式ことよろしからず、天慶の例とて朝拝もとゞめらる。院も仁和寺にわたらせ給へば、拝礼もなかりけり。 かゝ(っ)し所に、正月五日、いまだ朝の事なるに、左馬頭のわらは金王丸、常葉がもとに来て、馬より飛でおり、しばしが程は涙にしづみ、やゝ有て、「此三日のあかつき、尾張国野間と申所にて、長田四郎がために、うたれさせ給ひ候ぬ。」と申せば、きゝもあへず、ときはを始ておさなき人々、声々になき悲しみ給ふぞあはれなる。其後道すがらの事どもくはしくかたり申しゝにぞ、朝長のうせ給ひ、毛利の六郎のうたれ給をもきゝ給ひける。陸奥六郎義隆は、相模の毛利を知行せられければ、毛利の冠者とも申けり。 常葉かやうの事どもをきいて、「さばかりの軍の中よりも、汝をも(っ)ておさなき者どもの事を、心ぐるしげに仰られしに、すでにむなしく成給ひぬ。それに付ても、あの公達をばいかゞすべき。」とて、ふししづみければ、金王もなく<申けるは、「わらはも御供仕(っ)て、いかにも成べく候しかども、道すがらもきんだちの御事のみ、心ぐるしき御事に仰候しかば、か様の事をも誰かはまいりてしらせまいらすべきと存じて、かひなき命いきて参り侍也。御子息たちもみな散々になり給ひぬ。鎌倉の御曹司も兵衛佐殿も、さだめて敵にこそとらはれ給らめ。おさなきは猶たのみなし。然れば御菩提をば、たれかはとぶらひまいらすべきなれば、年来の御なじみに、それがしなりとも僧法師にもまかりなり、なき御跡を問奉らむ。」と申て、やがてはしり出けるが、或寺に入て出家し、諸国七道修行して、義朝の後世をとぶらひ申けるぞ有がたき。
  @『長田、義朝を討ち六波羅に馳せ参る事付けたり大路渡して獄門にかけらるる事』 S0302
 同六日、一院仁和寺殿より出させおはしましたれ共、三条殿は去年やけぬ。御所になるべき所もなければ、八条堀川の皇后宮大夫顕長卿の宿所を御所になしていらせ給ふ。翌日七日尾張国住人、長田四郎忠宗・子息先生景宗上洛し、前左馬頭義朝并に鎌田兵衛政家が頸を持参して、不次の賞をかうぶるべき由望申けり。これは昔の平大夫知頼が末葉、賀茂次郎行房が孫、平三郎宗房が子孫なり。義朝重代の家人とし、鎌田兵衛がしうと也。然れば平大夫判官兼行・五位の出納康道、二条京極の千手堂にゆき向(っ)て二の頸をうけ取て則実検せらる。今日は重日とてわたされず。 同九日平大夫兼行・惣判官信房・青侍義守・忠目範守・善府生朝忠・清府生季道、これらを始て、検非違使八人ゆきむか(っ)て、頸をうけとり、西洞院を上りにわたし、左の獄門の樗の木にぞかけたりける。いかなる者かしたりけん、左馬頭、もとは下野守たりしかば、一首の歌を書付たり。
  下野は紀伊守にこそ成にけれよしともみえぬあげつかさかな W005
或者此落書をみて申けるは、「昔将門が頸を獄門に懸られたりけるを、藤六左近といふ数奇の者がみて、
  将門は米かみよりぞきられけるたはら藤太がはかりことにて W006
とよみたりければ、しい、とわらひける也。」 将門は桓武の御子、葛原親王より五代、上総介高望の孫、良将が子なり。朱雀院御宇、承平五年二月に謀叛をおこし、伯父常陸大■国香を討(っ)てより、東国をしたがへ、下総国相馬郡に都を立て、平親王と自称せしが、六年にあた(っ)て、天慶三年二月に藤原秀郷にうたれし頸、四月の末に京着し、五月三日にわらひしぞかし。義朝も名将なれば、此頸も咲やせん。秀郷、国香が子貞盛と共に向(っ)てせめしかども、城こはうして落がたかりければ、秀郷身をやつしてねらひけるが、将門容■あひ似たる兵七人伴(っ)て、更に主従の儀なき間、すべてわきまへがたかりしに、或時秀郷、新米を出したりける
時、将門を見知て、つゐに是をうつといへり。仍(っ)てかくよむなる
べし。 同十日改元あ(っ)て、永暦といふ。此兵乱によ(っ)て也。去年四月に保元を改て、平治定し、「平氏繁昌して、天下をおさむべき年号か。」と申しが、はたして源氏ほろびて平家世をとれり。共時、大宮左大臣伊通公は、「此年号甘心せられず。平治とは山もなく河もなくして、平地也。高卑なからんか。」とわ咲らひ給ひしが、つゐに皇居は武士の住家となり、主上は凡人の亭にやどらせ給けるこそ不思議なれ。人の口ほどおそろしかりける事はなし。
  @『忠宗尾州に逃げ下る事』 S0303
 さる程に永暦元年正月廿三日、除目おこなはれて、長田四郎忠宗は壱岐守に成、先生景宗は、兵衛尉になされけるを、父子共にきらひ申す。「義朝・政家はむかしの将門・純友にもおとらぬ勇士なり。就中東国に下着し給なば、いにしへの貞任・宗任、十二年さゝへたりしよりは、猶つきしたがふ兵おほかるべし。然らばゆゝしき御大事なるべきを、事ゆへなく討しとゞめんは、抜郡の戦功也。その上彼人々をう(っ)てまいらせん者をば、不次の賞におこなはるべしとこそ仰下されしか。せめては彼所帯なれば、幡磨国をも給はり、左馬頭にもなされんこそ面目ならめ。然らずは本国なれば、美濃・尾張を給てこそ、勧賞とも存ぜめ。」と申せば、筑後守家貞、「あはれきやつを、二十の指を廿日にきり、首をばのこぎりにて引ぎりにし候はゞや。相伝の主と、まさしきむこを害して、過分を望申、余にくゝおぼえ候。後代のためしに承てさたし候はん。」と申ければ、清盛、「まことにかれが所行放逸なり。われもかうこそ思へども、未朝敵の余党もおほく、義朝が子どもあるに、今かれを罪科せば、自余の凶徒を誰か誅戮せん。よ(っ)て先かたのごとく恩賞を申おこなふ也。それを不足に存ずとも、許容なせそ。」との給ひけり。重盛もにくまるゝよし、内々きこえければ、すでに討せらるべしなど風聞ありけるにや、面目うしなふのみならず、進退あやうかりしかば、いそぎ尾張へ逃下りけり。其あした、宿に狂歌をよみて捨けり。
  おちゆけば命ばかりは壱岐の守そのおはりこそきかまほしけれ W007
  @『悪源太誅せらるる事』 S0304
 同廿五日、鎌倉の悪源太、近江国石山寺の辺にしのびてゐ給けるを、難波三郎経房が郎等いけどり奉て、六はらへゐてまいる。去ぬる十八日、三条烏丸なる所に、やつれおはしけるを、平家の大勢とりこめけれ共、打破て落られける也。其故は、悪源太、父のをしへに任て、山道をせめのぼらんとて、飛騨国に下り給ふに、勢のつく事なのめならず。然るに、義朝うたれ給ぬときこえしかば、みな心がはりして、我身ひとりに成ぬれば、自害をせんとし給ひしが、いたづらに死なんよりは、親の敵の清盛父子が間、一人なりとも討(っ)て、無念を散ぜんと思ひ返して、都にのぼり六はらにのぞみてうかゞひ給ふ所に、左馬頭の郎等、丹波国住人、志内六郎景澄といふ者に行あひ、「いかに汝、日来の契約は。」との給へば、「いかでか忘奉り候べき。去ながら身不肖にして、見知人もなければ、敵をはか(っ)て命をつがんと存じて、しる者に付て、やがて平家の被官となり侍。御めにかゝるぞ幸なる。何が思食。」といひければ、則景澄をたのみてかれを主とし、義平下人に成て、太刀はき物を持て六はらに入、敵に近付てうかゞひみられけり。 景澄つねにしたゝめしけるに、下人と一所に有て、あへて人にみせざりしかば、家主心もとなくや思ひけん、なにとなく障子の隙より見ゐれば、景澄が膳をば下人にすへ、下人の飯をば景澄くゐしかば、「あはれ、此人は源氏の郎等ときこえしが、うたがひなき悪源太とやらんをかくしをいて、六はらをうかゞひ申にこそ。余所よりきこえてはあしかりなむ。」とて、いそぎ平家に此よしつげたりしかば、取物もとりあへず、十八日の酉刻ばかりに、難波次郎経遠、三百余騎にてをしよせ、四方をとりまきて、「鎌倉悪源太のおはしますか。六はらより難波次郎経遠が御むかへにまいり候。」とよばゝりければ、御曹司、はかまのそばたかくはさみ、石切をぬくまゝに、「源義平こゝにあり。よれや、手がらのほど見せむ。」とてはしり出、其前にすゝみたる兵四五人きりふせて、小屋の軒に手うちかけ、ひらりとのぼりて、家つゞきにいづく共なくうせ給へるが、石山の辺におはしける也。 悪源太六波羅にての給けるは、「我、敵にうかゞひよらんとて、或時は馬をひかへて門にたゝずみ、或時は履をさゝげて線にいた(っ)て、相近づかんとせしが、運つきぬれば、本意を達せずして、生ながらとらはるゝ事力なき次第なり。義平ほどの大事の敵を、しばしもをく事然るべからず。すみやかに誅せられよ。」とて、其後は物もの給はず。やがて難波三郎に仰て、六条河原にをひて誅せられけるに、敷皮の上になを(っ)て、ち(っ)とも臆せず申されけるは、「敵ながらも義平ほどの者を、自昼に河原にてきらるゝ事こそ遺恨なれ。去ぬる保元に、おほくの源平の兵ども誅せられしかども、ひるは西山・東山のかたほとりにてきり、たま<川原にてきらるゝをも、夜に入てこそきられけるなれ。弓矢とる身の習は、今日は人の上、明日は身のうへにてある物を。平家の奴原は、上下ともにすべて情なく、物もしらぬ者ども也。去年熊野詣のとき、路次に馳向(っ)てうたんといひしを、すかしよせて一度にほろぼさんと、信頼といふ不覚人がいひしに付て、今日かゝる恥を見るこそ口惜けれ。湯浅・藤代の辺にて、とりこめてうつか、阿部野のかたに待うけて、一人も残さず打とるべかりし物を。」との給へば、難波三郎、「これは何の後言をいはせ申候ぞ。」と申せば、悪源太あざ咲(わらひ)て、「いしういふたり。げにわが為にはあらそはぬ後言ぞ。やれ、をのれは義平が頸うつほどの者か。はれの所作ぞ。ようきれ。あしうきるならば、しやつらにくいつかむずるぞ。」との給へば、「おこの事仰らるゝ物かな。何条わが手に懸奉らん頸の、いかでかつらにはくい付給はん。」と申せば、「誠に只今くいつかんずるにはあらず。つゐには必雷と成て、けころさんずるぞ。」とて、殊更頸たからかにさしあげ給へば、経房太刀をぬき、うしろへまはれば、「ようきれ。」とて見かへりて、にらまれける眼ざしは、げに凡人とはみえざりけり。さればにやつゐにはいふにたがはず、いかづちと成て、難波三郎をばけころし給ひける也。
  @『清盛出家の事並びに瀧詣で付けたり悪源太雷電となる事』 S0305
 仁安二年十一月、清盛やまひにおかされ、とし五十一にして出家し、法名浄海とぞ申ける。出家のゆへにや、宿病次第に本復して、翌年の夏の比、一門の人々面面によろこび事をなしける。同七月七日、摂津国布引の瀧見んとて、入道を始て平氏の人々下られけるに、難波三郎ばかり、夢見あしき事ありとて、供せざりしかば、傍輩ども、「弓矢とる身の、何条夢見・物忌など云、さるおめたる事やある。」とわらひければ、経房も、げにもと思ひてはしり下り、夢さめて参たるよし申せば、中々興にて、諸人瀧をながめて感をもよほすおりふし、天にはかにくもり、おびたゝしくはたゝがみ鳴(っ)て、人々興をさます所に、難波三郎申けるは、「我恐怖する事是なり。先年悪源太最後のことばに、つゐには雷と成(っ)てけころさんずるぞとて、にらみし眼つねにみえて六かしきに、彼人いかづちと成たりと夢に見しぞとよ。只今、手鞠ばかりの物の、辰巳の方より飛つるは、面々は見給はぬか。それこそ義平の■魂よ。一定かへりさまに経房にかゝらんとおぼゆるぞ。さりとも太刀はぬきてん物を。」と、いひもはてねば、霹靂おびたゝしくして、経房が上に黒雲おほふとぞ見えし、微塵に成(っ)て死にけり。太刀は抜たりけるが、鐸本までそり返りたりしを、結縁のために、寺造の釘によせられぬ。おそろしなどもをろか也。入道は、弘法大師の御筆をまもりにかけられたりしを、おそろしさのあまりに頸にかけながら、しきりに打ふるひ<ぞせられける。誠にまもりの徳にや、近付やうにみえしが、つゐに空へぞ上りける。 悪源太は、十三の年鎌倉に下り、去年十九にて都にのぼり、殊なる思出もなくして、生年廿にして、永暦元年正月廿五日に、つゐにむなしく成にけり。
  @『頼朝生捕らるる事付けたり常葉落ちらるる事』 S0306
 同二月九日、義朝の三男前右兵衛佐頼朝、尾張守の手より生捕て、六波羅につき給ふ。同次男中宮大夫進朝長の頸をも奉らる。その故は、彼尾張守の家人、弥平兵衛宗清尾州より上洛しけるが、不破の関のあなた、関が原といふ所にて、なまめいたる小冠者、宗清が大勢におそれて、薮の陰へ立しのびければ、あやしみてさがすほどに、かくれ所なくしてとらはれ給ふに、宗清みれば、兵衛佐殿也しかば、よろこぶ事かぎりなし。やがて具足し奉(っ)てのぼるほどに、あふはかの大炊がもとにぞ宿しける。いさゝかきくかへり事ありければ、何となく後苑にいでゝ見まはすに、あたらしく壇つきたる所に、そとばを一本たてたり。則其下をほらせければ、おさなき人の頸とむくろとをさしあはせてうづみたり。是を取て事の子細をたづぬれば、力なく大炊ありのまゝにぞ申ける。宗清喜て、同じく持参しける也。よ(っ)て頼朝をば、先宗清にぞあづけをきける。 其時、延寿腹の姫君、兵衛佐のめしとられ給て、都へ上られければ、「我も義朝の子なれば、女子なりとも、つゐにはよも助けられじ。ひとり<うしなはれんよりは、佐殿とおなじ道にこそせめてならめ。」とて、ふししづみ給ひけるを、大炊・延寿色々になぐさめてとりとゞめ奉りけり。其瀬過ければ、さりともと思ひて心ゆるししけるにや、二月十一日の夜、々叉御前たゞひとりあふはかの宿を出、はるかにへだゝりたる杭瀬河に身をなげてこそうせ給へ。十一歳とぞきこえし。物の夫の子はなどかおさなき女子もたけかるらんとて、哀をもよほさぬ者もなかりけり。母の延寿は、志ふかかりし頭殿にもをくれ奉り、其かたみとも思ひなぐさみし姫君にも別にければ、一方ならぬ物おもひに、同じ流に身をしづめんと歎きけるを、大炊様々にこしらへければ、母の心もやぶりがたくて、せめてのかなしさに尼になり、亡夫并に姫君の後の世を他事なくとぶらひけると也。 六はらより左馬頭の子ども尋られけるに、すでに三人出来たり。兄二人ははや頸をかけられぬ。頼朝もやがて誅せらるべし。此外、九条院の雑仕常葉が腹に三人あり。みな男子にてあ(ん)なりとて尋られければ、常葉これをきゝて、「われ、故頭殿にをくれ奉(っ)て、せんかたなきにも、此わすれがたみにこそ、今日までもなぐさむに、もし敵にもとられなば、片時もたへて有べき心ちもせず。さればとて、はか<”しく立忍ぶべき便もなし。身一つだにもかくしがたきに、三人の子を引具しては、たれかはしばしもやどすべき。」となきかなしみけるが、あまりに思ひうる方もなきまゝに、「年来たのみ奉りたる観音にこそなげき申さめ。」とて、二月九日の夜に入て、三人のおさなひ人を引具して、清水へこそ参りけれ。母にもしらせじと思ひければ、女の童のひとりをも具せずして、八になる今若をばさきにたてゝ、六歳の乙若をば手をひき、牛若は二になれば、ふところにいだきつゝ、たそがれ時に宿をいで、足に任てたどりゆく心の中こそ哀なれ。仏前に参(っ)ても、二人の子供をわきにすへ、只さめ<”となきゐたり。夜もすがらの祈請にも、「童、九の歳より月詣を始て、十五になるまでは、十八日ごとに卅三巻の普門品をよみ奉り、其年より毎月法華経三部、十九のとしより、日ごとに此卅三体の聖容をうつし奉る。かくのごとき志、大慈大悲の御ちかひにて、てらししろしめすならば、わらはが事はともかくも、たゞ三人の子共のかひなき命を助させ給へ。」とくどきけり。誠に三十三身の春の花、にほはぬ袖もあらじかし。十九説法の秋の月、照さぬむねもなかるべければ、さすがに千手千眼も、哀とはみそなはし給ふらんとぞおぼえける。 やうやう暁にもなりゆけば、師の坊へ入けるに、日来は左馬頭の最愛の妻なりしかば、参詣の折々には、供の人にいたるまで、きよげにこそありしか、今は引かへて、身をやつせるのみならず、つきせぬなげきになきしほれたるすがた、めもあてられねば、師の僧あまりのかなしさに、「年来の御なさけ、いかでかわすれまいらせん。おさなひ人もいたはしければ、しばしはしのびてましませかし。」と申せば、「御志はうれしく侍れども、六波羅ちかき所なれば、しばしもいかゞさぶらはむ。まことに忘給はずは、仏神の御あはれみよりほかは、たのむ方も侍らねば、観音に能能祈り申てたび給へ。」とて、まだ夜の中に出ければ、坊主なく<、「唐の太宗は仏像を礼して、労花を一生の春の風にひらき、漢の明帝は経典を信じて、寿命を秋の月に延と申せば、三宝の御助むなしかるまじく候。」となぐさめけり。宇多郡を心ざせば、大和大路を尋つゝ、南をさしてあゆめども、ならはぬ旅の朝立に、露とあらそふ我涙、たもともすそもしほれけり。衣更着十日の事なれば、余寒猶はげしく、嵐にこほる道芝の、こほりに足はやぶれつゝ、血にそむ衣のすそご故、よその袖さへしほれけり。はう<伏見の叔母を尋ゆきたれども、いにしへ源氏の大将軍の北方などいひし時こそ、むつびもしたしみしか、いまほ謀叛人の妻子となれば、うるさしとや思ひけん、物まふでしたりとて、情なかりしか共、もしやとしばしは待居つゝ、待期もすぎて立かへれば、日もはややがて暮にけり。又立よるべき所もなければ、あやしげなる柴の戸にたゝずみしに、内より女たち出て、なさけありてぞやどしける。世にたゝぬ身の旅ねとて、うきふししげき竹のはしら、あるかひもなき命もて、ひとりなげきぞ、すがの七■と思ふ人はなし。されど今夜も三■にたゞ伏見の里に夜をあかし、出ればやがて小幡山、馬はあらばやかちにても、君をおもへばゆくぞとよと、おさなき人にかたりつゝ、いざなひゆけば、此人々あゆみつかれてひれふし給ふ。常葉、ひとりをいだきける上に、ふたりの人の手をひき、こしををさへて、ゆきなやみたるありさま、めもあてられず。王鉾の道行人もあやしめば、是も敵のかたさまの人にやと肝をけす所に、旅も哀れにおもひければ、見る者ごとにおひいだきて助けゆくほどに、なく<大和国字多郡龍門といふ所に尋いたり、伯父をたのみてかくれゐにけり。
  @『頼朝遠流に宥めらるる事付けたり呉越戦ひの事』 S0307
 未兵衛佐は宗清がもとにおはしければ、尾張守より丹波藤三国弘といふ小侍一人付られけり。すでに今日明日誅せられ給ふべしときこえしかば、宗清、「御命たすからんとは思食候はずや。」と申ければ、佐殿、「去ぬる保元におほくの伯父親類をうしなひ、今度の合戦ゆへ、父うたれ兄弟皆うせぬれば、僧法師にも成て、父祖の後世をとぶらはゞやと思へば、命はおしきぞとよ。」との給へば、宗清もあはれにおぼえて、「尾張守の母、他の禅尼と申は、清盛のためには継母にておはしませども、おもく執し給へば、彼方などに付て申させ給はゞ、もし御命はたすかりおはします事も候べき物を。彼尼は、わかくより慈悲ふかき人にて御わたり候。そのうへ一日参て候時、をのがもとに頼朝があ(ん)なるは、いかなるものぞととはせ給ひしかば、御年のほどより事の外おとなしやかに候、其姿右馬助殿にいたく似まいら(っ)させ給て候と申しかば、世にゆかしげに思食たる御気色にてこそ候しか。」とかたり申ければ、「それも誰人か申てたぶべき。」との給へば、「さもおぼしめし候はゞ、叶はぬ迄もそれがし申て見候はん。」とて、池殿へまいり、「何者が申て候やらん、上の大慈悲者にておはしますとて、哀頼朝が命を申たすけさせ給へかし、父の後世とぶらはんと申され候しが、いたはしく候。然べき様に御はからひも候へかし。」と申せば、「そも頼朝に、尼を慈悲者とは誰かしらせける。いさとよ、故形部卿の時はおほくの者を申ゆるしゝか共、当時はいかゞ侍らん。さても右馬助にいたく似たるらむ無慙さよ。家盛だにあらば、鳥に成て雲をしのぎ、魚に成て水にもいり、誠に来世にてもあふべくは、只今死してもゆかんと思ふぞとよ。さて、いつきらるべきにさだまりたるぞ。」との給へば、「十三日とこそきこえ候へ。」と申せば、「かなはぬまでも申てこそみめ。」とて、小松殿、其時の勲功に、伊与守になり給しが、正月より左馬頭に転じ給へるを呼び奉て、「頼朝が尼に付て、命を申たすけよ、父の後世とはん、と申なるが、余りに不便にさぶらふ。よきやうに申てたべ。ことに家盛がおさなおひにすこしもたがはずときけば、なつかしうこそ侍れ。右馬助は、それの御為にも伯父ぞかし。頼朝を申たすけて、家盛が形見に尼にみせ給へ。」との給ければ、重盛参て、父に此よし申されけり。 清盛きいて、「池殿の御事は、故殿のわたらせ給ふと思ひ奉れば、いかなるあまさかさまの仰なりとも、たがへじとこそ存ずれ共、此事はゆゝしき重事也。伏見中納言・越後中将などがやうなる者をば、何十人助をいたりとも大事あるまじ。大底弓矢とる者の子孫は、それには異なるべきうへ、義朝などが子どもは、おさなく共子細あるべき物を。ことに頼朝は官加階も兄にこゆるは、ゆゝしき所があるにや。父も見かとめ侍ればこそ、重代の中にも取分秘蔵の物具などあたへけめ。かた<”助けをきがたき物を。」とて、以外の気色なり。 左馬頭帰り参て、かなひがたき題目なる由申されければ、池殿泪をながして、「あはれ、こひしきむかしかな。忠盛の時ならば、是ほどにかろくは思はれ奉らじ。一門の源氏皆ほろび侍り。あのおさなき者ひとりたすけをかれたりとも、何ばかりの事か侍らん。さきの世に頼朝に助られける故やらん、きくよりいたはしくふびんに侍ぞとよ。御身ををろそかとはおもひ奉らねども、一は使がらと申事の侍れば。」などまめやかに打くどきて、「猶かなはずしてつゐにうしなはれば、尼がかひなき命いきても何かせん。其うへ右馬助がおも影に似たりときくより、いつしか家盛が事思はれて、はたとむねふたがり、湯水も心よくのまれねば、をのづからひさしかるべしともおぼえ侍らず。哀尼が命をいかさんとおぼしめさば、兵衛佐をたすけ給へかし。」となげき給へば、重盛も迷惑せられけるが、涙ををさへて、「さ候はゞ今一度御定の趣を申てこそ見候はめ。同尾張殿をもそへ申され候へ。もろともに仰のよしくはしくかたり侍らん。」とて、頼盛と共にかさねて此よしを申されければ、清盛もさすが石木ならねば、案じわづらはれけるに、重盛、「女姓のいはけなき御心におもひしづみて、申させ給ふ事を、さのみはいかゞ仰候べき。然るべき御はからひも候はずは、御うらみふかく侍べし。あの頼朝一人誅せられ候とも、つきん御果報の長久なるべきにあらず。当家の運すゑにならば、諸国の源氏いづれか敵ならざらん。又たすけをかれたりとも、栄雄後輩に及べくは、何の恐か候べき。」と、理をつくして申されければ、まづ十三日をば延られて、慥の返事はなかりけり。然れば、けふきらるゝ、あすうしなはるゝなどきこえしかども、其日も延ければ、兵衛佐、これはひとへに氏神八幡大菩薩の御助なりと、弥心中に祈念ふかくぞおはしける。かく一日も命いきたらば、念仏をも申経をもよみて、父の後世をとぶらはんとて、卒都婆をつくらむとし給へ共、人、刀をゆるし奉らねば、丹波藤三をかたら(う)て、小刀并に木のきれを乞給へば、国弘、「何事の御手すさみぞや。頭殿を始まいらせて、御兄弟おほくうせさせ給ふに、御経をもあそばさで。」と申せば、兵衛佐、「天下に物おもふ者、われにまさる人あらじとこそ思へ。去年の三月に母にをくれ、今年の正月に父うたれ給。義平・朝長にもわかれ奉る。されば此人々の菩提をもとはんと思ひて、そとばをなりともつくらばやと思ふ故也。就中、故頭殿の六七日もけふあす也。四十九日も近づけば、ことなる供仏施僧の儀こそ叶はずとも、それをせめての志にせんと思へば、刀をたづぬる也。」との給ければ、国弘も哀におぼえて、弥平兵衛に此よしをかたれば、宗清感じ奉て、ちいさき卒都婆百本作て奉る。みづからも造立書写して、或僧にあつらへて、かたのごとく供養の義をぞとげられける。池殿かやうの事どもをきゝ給ひて、弥いたはしく思食ければ、やう<に申されて流罪にぞさだまりける。 其時人申けるは、「大草香親王の御子眉輸王は、七歳のとき、父の敵、継父安康天皇を害し奉り、栗屋川次郎貞任が子千代童子は、十二のとし甲冑を帯し、父と一所に討死す。頼朝はすでに十四歳ぞかし。父うたれぬときかば、自害をもせで、尼公に属して、かひなき命いきんと欺くこそ無下なれ。」と申せば、又或人、「いや<おそろし。義朝不義の謀叛にくみして、運命をうしなふ事はさる事なれども、つら<事の心を思ふに、保元の忠節抜郡なれ共、恩賞これをろそかにして、大かたの清盛にはをとれり。よ(っ)て勲功のうすき事をうらみて、おこす所の叛逆なれば、君の御政のたゞしからざりしよりおこす所なれ共、下として上をしのぐがゆへに、身をほろぼし畢。然りといへども、大忠の余薫は家にとゞまれり。これをも(っ)て氏族の中に、必門葉をさかやかす輩あるべき也。頼朝おさなしといへども、父が子なれば、かやうの事を心にこめてや命をおしむらん。いかなる名将勇士も命あ(っ)ての事なり。されば越王の会稽の恥をきよめしも、命をま(っ)たうせしゆへ也。 たとへば呉国に越王勾践、呉王夫差とて、両国の王、互に国を合せんとあらそふが故に、呉は越の宿世の敵なり。よ(っ)て越王十一年二月上旬に、臣范蠡に向(っ)て、『夫差はこれ我父租の敵也。討ずして年を送る事、人のあざけりをとる所也。今我向(っ)て呉をせむべし。汝はわれにかは(っ)て国をおさめよ。』との給ふに、范蠡が申さく、『越は十万騎、呉は廿萬騎なり。小をも(っ)て大に敵せず。又春夏は陽の刻にて、忠賞をおこなひ、秋冬は陰の時にて刑罰を専とす。今年春の始也、征罰を致すべからず。隣国に賢人あるは敵国のうれへといへり。いはんや彼臣伍子胥は智ふかうして人をなづけ、慮とをうして主をいさむ。是三の不可なり。』といさめければ、勾践かさねていはく、『礼にいはく、父のあたには共に天をいたゞかず。軍の勝負必勢の多少によらず。時の運にしたがひ、時のはかりことにある者也。是汝が武略のたらざるゆへ也。もし時をも(っ)て勝負をはからば、天下の人みな時をしる。誰かいくさにかたざらん。これ汝が智慮のあさき所也。伍子胥があらんほどは、うつこと叶はじといはば、かれと我と死生しりがたし。いつをか期すべき。汝が愚三也。』とて、つひに呉に向ふ所に、越王うちまけて会稽山に引こもるといへども、かなひがたきがゆへに、降人と成て、面縛せられ、呉の姑蘇城に入て、手かせあしかせ入られて、獄中にくるしみ給ひけるに、范蠡きゝて、肺肝をくだきけるあまりに、あじかに魚をいれて、商人のまねをして、姑蘇城に至て、一喉の魚を獄中になげ入けるに、腹の中に一句を納たり。其ことばにいはく、『西伯囚二姜里一、重耳奔二于雉一、皆以為二覇王一。莫二死於許一レ敵。』勾践此一句をみて、弥命をおもんじ、石林をなめて本国にかへる時、行路に蟇のおどり出来るを下馬して拝す。国の人これをあやしみけるを知て、范蠡むかへにまいりけるが、『此君はいさめる者を賞じ給ふぞ。』と申ければ、近国の勇士つきしたが(う)て、つゐに呉王をほろぼして、国をあはせ畢ぬ。されば俗のことわざには、『石淋の味をなめて、会稽の恥をきよむ』といへり。頼朝も命ま(っ)たくはと思へば、尼公にもつき、入道にもいへ、たすかるこそ肝要なれ。」とぞ申ける。
  @『常葉六波羅に参る事』 S0308
 さる程に清盛は、義朝が子ども常葉が腹に三人ありときいて、「しかも男子也。尋よ。」とありしかば、常葉が母をめし出してとはれける程に、「左馬頭殿うたれ給ひぬときこえし日より、子ども引具して、いづちともなくまよひ出侍りぬ。いかでかしり侍らん。」と申ければ、「何条、其母をからめ取(っ)て尋よ。」とて、六はらへめし出して、様々にいましめとはれけり。母なく<申けるは、「われ六十にあまる身の命、けふあすともしらぬ老の身をおしみて、末はるかなる孫どもの命をば、いかでかうしなひ侍るべきなれば、しりたりとも申まじ。ましてしらぬ行すゑ、何とか申さぶらはん。」とくどきければ、水火のせめにも及べかりしを、常葉宇多郡にて、此よしつたへきゝ、母のためにうきめにあはんはいかゞせん、我故、母の苦を見給ふらんこそかなしけれ、仏神三宝もさこそにくしとおぼしめすらめ、子どもは僻事の人の子なれば、つゐにはうしなはれこそせんずらめ、かくしもはてぬ子ども故、咎なき母の命をうしなはん事のかなしさよと思へば、三人の子ども引具して、都へのぼり、もとのすみかに行てみれば、人もなし。こはいかにとたづぬれば、あたりの人、「一日六波羅へめされ給しが、いまだ帰り給はず。」とぞこたへける。 常葉まづ御所へ参て申けるは、「女の心のはかなさは、もし片時も身にそへて見ると、此おさなき者ども引具し、かたゐなかに立忍びて侍つるが、童ゆへ行衛もしらぬ老たる母の、六はらへめされてうきめにあひ給ふと、うけ給はれば、余にかなしくて、恥をも忘て参りたり。はや<おさなき者ともろともに、六はらへつかはさせおはしまして、母のくるしみをやめて給りさぶらへ。」と申せば、女院を始まいらせて、有とある人々、「世のつねは、老たる母をばうしなふとも、後世をこそとぶらはめ。おさなき子どもをばいかゞころさんと思ふべきに、こどもをばうしなふとも、母をたすけんと思ふらむ有がたさよ。仏神もさだめてあはれみおぼしめすらん。年来此御所へ参るとは、皆人しれり。」とて、尋常に出たゝせて、親子四人きよげなる車にて、六はらへぞつかはされける。 見なれし宮の中も、けふをかぎりと思ふには、涙もさらにとゞまらず。名をのみきゝし六波羅へも近づけば、屠所の羊のあゆみとは、我身一にしられたり。常葉すでにまいりしかば、伊勢守景綱申次にて、「女の心のはかなさは、しばしももしや身にそへ侍と、おさなき者あひ具して、かた辺土へ忍びて侍つるに、行ゑもしらぬ母をめしをかせおはしますと承(っ)て、御尋の子どもめし具して参りさぶらふ。母をばとく<助おはしませ。」とかきくどけば、きく人まづ涙をぞながしける。清盛此よしきゝ給て、先、「子ども相具して参たる条、神妙なり。」とて、やがて対面し給へば、二人の子は左右のわきにあり、おさなきをばいだきけり。涙ををさへて申けるは、「母はもとよりとがなき身にてさぶらへば、御ゆるし侍べし。子どもの命をたすけ給はんとも申候はず。一樹のもとにすみ、同じ流をわたるも、此世一の事ならず。たかきもいやしきも、親の子を思ふならひ、皆さこそさぶらへ。量此子どもをうしなひては、かひなき命、片時もたへて有べし共覚えさぶらはねば、まづわらはをうしなはせ給ひて後、子どもをばともかくも御はからひさぶらはゞ、此世の御なさけ、後の世までの御利益、これに過たる御事さぶらはじ。ながらへてよるひる歎き悲しまん事も、罪ふかくおぼえ侍。」とくどきければ、六子、母の顔を見あげて、「なかで。よく申させ給へ。」といへば、母は弥涙にぞむせびける。さしも心つよげにおはしつる清盛も、しきりになみだのすゝみければ、をしのごひ<して、さらぬ体にもてなし給へば、さばかりたけき兵共、みな袖をぞしぼりける。しのびあへぬ輩は、おほく座席を立けるとかや。 常葉は今年廿三、こずゑの花はかつちりて、すこしさかりはすぐれ共、中々見所あるにことならず。もとよりみめかたち人にすぐれたるのみならず、おさなきより宮づかへして物なれたるうへ、口きゝなりしかば、ことはりたゞしう思ふ心をつゞけたり。緑のまゆずみ、くれなゐの涙にみだれて、物思ふ日数へにければ、そのむかしにはあらねども、打しほれたるさま、なほよのつねにはすぐれたりければ、「此事なくは、いかでかかゝる美人をば見べき。」と皆人申せば、或人語りけるは、「よきこそげにもことはりよ。伊通大臣の、中宮の御かたへ人のみめよからんをまいらせんとて、九重に名を得たる美人を、千人めされて百人えらび、百人が中より十人えらび、十人の中の一とて、此常葉をまいらせられたりしかば、唐の楊貴妃、漢の李夫人も、これにはすぎじ物を。」といへば、「見れども<、いやめづらかなるもことはりかな。」とぞ申ける。 去ほどに母はゆるされけるに、「此孫どもをうしなひて、あすをもしらぬ老の身の、たすかりてもなにかせん。うたての常葉や、此老の命を助けんとてや、あの子どもをば何しに具してまいりけん。四人の子孫の事を思はんより、たゞ老の身をまづうしなはせ給へ。」とて、なきかなしみけるもことはり也。あし音のあららかなるをも、今やうしなはるゝ使なるらんと肝をけし、こはだかに物いふをも、はや其事よとたましゐをうしなひけるに、大弐のたまひけるは、「義朝が子共の事、清盛がわたくしのはからひにあらず、君の仰をうけ給は(っ)て、とりおこなふ計也。うかゞひ申て、朝儀にこそしたがはめ。」との給へば、一門の人々并に侍ども、「いかに、か様に御心よはき仰にて候やらん。此三四人成長候はんは、只今の事なるべし。君達の御ため、末の世おそろしくこそ候へ。」と申せば、清盛、「誰もさこそ思へども、おとなしき頼朝を、池殿の仰によ(っ)て、助をくうへは、兄をばたすけ、おさなきを誅すべきならねば、力なき次第也。」との給けり。常葉は、子どもの命けふにのぶるも、ひとへに観音の御はからひと思ひければ、弥信心をいたして、普門品をよみ奉り、子どもには名号をぞとなへさせける。かくて露の命もきえやらで、春もなかばくれけるに、兵衛佐殿は伊豆国へながさるときこえしかば、我子どもはいづくへかながされんと、肝をけしふししづみけるが、おさなければとて、さしをかれて、流罪の義にも及ばざりけり。
  @『経宗・惟方遠流に処せらるる事同じく召し返さるる事』 S0309
 院は顕長卿の宿所に御座ありけるが、つねは御桟敷に出させ給て、行人の往来を御覧ぜられて、なぐさませ給けるに、二月廿日の比、内裏よりの御使とて打付てけり。上皇御いきどをりふかふして、清盛をめされ、「主上はおさなくましませば、是程の御はからひあるべし共覚えず。是しかしながら経宗・惟方がしわざと思食。いましめてまいらせよ。」と仰られければ、畏(っ)て、「一とせ保元の乱に、親類をはなれて、御方に参て忠をいたし候き。去年又一力をも(っ)て凶徒を誅戮つかまつり、一命をかろんじて君を位につけまいらせ候。いく度なりとも、院宣・勅定にこそしたがひ候はんずれ。」とて、やがて官軍をさしつかはし、経宗・惟方の宿所にをしよせたれば、新大納言のもとには、雅楽助通信・前武者所信安といふ者、二人討死してけり。されども両人ともに別の事なくめしと(っ)て、御坪の内に引すへたり。 既に死罪にさだまりけるを、法性寺の大殿、「むかし嵯峨天皇弘仁元年九月に、右兵衛督藤原仲成を課せられしより、去ぬる保元々年まで、御門廿五代、年記三百四十七年、かの間、死せる者ふたゝび帰らず、ふびんなりとて死罪をとゞめられたりしを、後白河院の御宇に、少納言入道信西執権のとき、始て申おこなひたりしが、中二とせをへて去年大乱おこり、その身やがて誅せられぬ。おそろしくこそ侍れ。公卿の死罪いかゞあるべかるらむ。其上、国に死罪をおこなへば、海内に謀叛の者たえずと申せば、かた<”も(っ)て死罪一等をなだめて、遠流にや処せられん。」と申させ給へば、「尤大殿の仰然るべし。」と諸卿同じく申されしかば、新大納言経宗をば阿波国、別当惟方をば長門国へぞながされける。官外記の記録には、令三左近将監を射二殺させ仲成於禁所一としるしたれば、まさしく頸をはねられけん事は、猶ひさしくやなりぬらん。 去ほどに、彼人々の隠謀次第にあらはれて、君も罪なきよしきこしめされければ、信西が子共みなも(っ)てめし返さる。御政に付て、仰合せらるゝかたなきまゝに、彼禅門をぞしのばせ給ひける。師仲卿もつゐにのがるゝ所なくして、幡磨中将成憲の配所、室の八嶋へぞつかはされける。伏見源中納言卿、三河の八橋をわたるとて、
  夢にだにかくて三河の八はしをわたるべしとは思はざりしを W009
とよまれたりしを、上皇きこしめして、哀におぼしめされければ、めし返せとぞ仰なりける。まことに詠歌の徳なるべし。 其後、新大納言経宗も、阿波国よりめしかへされて、右大臣になる。人、阿波の大臣とぞ申ける。又、大宮左大臣伊通公、「世にすめば興ある事をきく物かな。昔こそ吉備の大臣ありけんなれ。今、粟の大臣出来たり。いつか又、稗の大臣出こんずらん。」とわらはれけり。大饗おこなはるべかりけるに、尊者に此左大臣請じ奉り給ければ、使者のきくをもはゞからず、「粟の大臣ののぼ(っ)て、はたごふるひせらるゝな。伊通はえまいらじ。」とぞ申されける。別当入道は、御いきどをりふかくして、めしかへされまじきよしきこえければ、心ぼそくや思はれけん、故郷へ一首の歌をぞをくられける。
  此瀬にもしづむときけば涙川ながれしよりもぬるゝ袖かな W010
とよみたりしを、きく人も哀をもよほし、君も感じおぼしめされければ、つゐに赦免を蒙て、上洛せられけり。
  @『頼朝遠流の事付けたり盛安夢合せの事』 S0310
 さて頼朝は、伊豆国へながされければ、池殿、兵衛佐をめされて、なく<の給けるは、「昨日までも御事ゆへに心をくだきつるが、配所さだまりてながされ給ふべき也。尼はわかくより慈悲ふかき者にて、おほくの者ども申たすけたりしかども、今はかゝる老尼の申事、叶べしとも覚ざりしが、左馬頭のよく申されて、すでに命のたすかり給ふ事のうれしさよ。今生のよろこび是に過たる事なし。」とくどき給へば、頼朝、「御恩によ(っ)て、かひなき命をたすけられまいらせ候事、生々世々にも報じつくしまいらせがたくこそ候へ。それについて、はる<”とまかり下り侍らん道すがら、我かたさまの者一人も候はねば、いかゞ仕るべき。」と申されければ、「まことにそれもいたはしゝ。親祖父の時よりめしつかはるゝ者も、世におそれてこそかくれゐてさぶらふらめ。いまはなだめられぬと披露をなして御覧ぜよかし。」とはからはれしかば、やがて其由風聞するに、侍少少出来たり。彼侍ども同心に申けるは、「今は御出家の事を申されて、御下向候はゞ、御心やすく候なん。池殿もよくおぼしめし、平家の人々も然るべくこそ存ぜられ候はめ。」と申すゝめけるに、■■の源五盛安ばかりぞ、みゝにさゝやき申けるは、「人はいかに申候とも、御ぐしをおしませおはしませ。君のたすからせ給ふ事たゞ事にあらず。八幡大菩薩の御はからひとおぼえ候。」と申せば、うちうなづき給けり。御出家あれといふにも、な成給ひそといふにも、共に音もし給はぬ心の中こそおそろしけれ。 永暦元年三月廿日、すでに伊豆国へ下られければ、池の禅尼へいとま申に参られけり。禅尼つら<御覧じて、「不思議の命を助け奉る志、思ひしり給はゞ、尼がことのはの末をすこしもたがへず、弓箭・太刀・刀、狩・すなどりなどいふ事、耳にもきゝ入給ふべからず。人の口はさがなき物なれば、御身も二度事にあひ、尼にもかさねてうき耳きかせ給ふな。」など、こま<”との給へば、頼朝は今年十四なれば、いはゞ幼稚のほどなれども、人の志の眞実なるを思ひしりて涙にむせび、袖もしほる計にておはしけるが、やゝあ(っ)て、「父母にをくれ候て後は、あはれをかくべき人も侍らぬに、ねんごろの御こゝろざし有がたくこそ候へ。」とて、しきりになきしづみ給へば、禅尼もまことにさこそと心の中をしはかられて、「人はよき親の孝養、心ざしふかきが冥加もあり、命もながき事にてあるぞとよ。経をもよみ、念仏をも申て、父母の後生をとぶらひ給べし。尼は子とおもひて、かやうにも申なり。其ゆへは、尼が子に右馬助家盛とて候しぞとよ。それが面影によくに給ひたれば、いとおしく思ふ也。すべてみめかたち心ざま人にすぐれて、鳥羽院にめしつかへて御おぼえよかりしが、此大弐殿いまだ中務少輔と申し時、祇園の社にて事を出し、社人のう(っ)たへありしかば、山門の大衆あげて流罪せられよと公家に申しかども、君かゝへ仰られしを、弟家盛さゝへなりとて、呪咀するときこえしが、まことに山王の御たゝりにや、廿三のとしうせさぶらひし也。かひなき命たへてあるべしともおぼえざりしが、はや十一年になり侍りけるぞや。何事に付ても思ひ出さぬ時もなきに、御事さへ打そへて、涙をながし心をつくしつるに、まづうれ敷こそさぶらへ。御身は行末はるか也。尼はあすをもしらぬ身なれば、名残こそおしくさぶらへ。」と、心くるしげにうちなげき給へば、佐殿もまめやかなる志のほどを思ふにも、いかにして此恩を報ぜんともおぼえず、夜もすがら、なきこそあかされけれ。 三月廿日の暁、池殿をいでゝ、東路はるかに下られけり。郎等少々ありしも、みなとゞめられて、わづかに三四人こそ具したりしか。盛安も大津までとて、馬鞍尋常にして供したりけるに、佐殿、「凡人のながさるゝは大きなる歎きなるが、頼朝が流罪は希代の悦也。」とぞのたまひける。され共内の蔵人にてもありしかば、雲上のまじはりも忘がたく、后の宮の宮つかさにても侍りしかば、其御名残もおしかりき。親にもあらぬ池の禅尼の、情をかけ給ふにも別奉れば、袂のかはくひまぞなき。越鳥南枝に巣をかけ、胡馬北風にいばへけるも、生土を思ふ故ぞかし。東平王といふ者、旅の空にてうせけるが、墓の上なる草も木も、故郷のかたへぞなびきける。生をかへての後迄も、生土はわすれぬならひなるに、追立の検使青侍季通、粟田口より次第に、路次にもちあふ物をうばひ取て、狼籍殊に甚し。盛安は大津までと申たりしが、人々とゞまりぬるうへ、勢田には橋もなくて、船にてむかひの地へわたり給へば、かた<”心ぐるしくて打送り奉る所に、社のみえけるを、「いかなる神ぞ。」と問給へば、「健部明神。」と申す。佐殿、「さらば今夜は此御前に通夜して、行路のいのりをも申さん。」とて、社壇にぞとゞまり給ひける。 夜ふけ人しづま(っ)て、盛安申けるは、「都にて御出家然るべからざるよし申候しは、不思議の夢想をかうぶりたりし故也。君御浄衣にて、八幡へ御参り候て、大床にまします。盛安御供にてあまたの石畳のうへに祇候したりしに、十二三ばかりなる童子の、弓箭をいだきて大床にたゝせ給ふ。『義朝が弓・■めして参て候。』と申されしかば、御宝殿の中より、け高き御声にて、『ふかくおさめをけ。つゐには頼朝にたばんずるぞ。是頼朝にくはせよ。』と仰らるれば、天童物を持て御前にさしをかせ給ふ。なにやらんと見奉れば、打鮑といふ物也。君おそれて左右なくまいらざりしを、『それたべよ。』と仰らる。かぞへて御覧ぜしかば、六十六本あり。彼鮑を両方の御手にてをしにぎ(っ)て、ふとき所を三口まいりて、ほそき所を盛安になげ給ひしを、取て、懐中するとみて、打おどろき存じ候しは、故殿こそ一旦朝敵とならせ給へ共、御弓・■、八幡の御宝殿におさめをかれ、つゐには君に奉らせ給はんずる也。又、打鮑六十六本まいりしは、六十六ヶ国をうちめされ候はんずると、合申て候つ。」と申せば、其の返事をばし給はで、「いざ、せめて鏡まで。」との給へば、「いづくまでも御供仕らんと存候へ共、八旬にあまる老母あひいたはる事候へば、今日明日をもしりがたく候。いかにもみなし候はゞ、やがてまいらん。」と申て候へ共、「人のなさにこそ、かうは仰候らめ。母の事はともかくも侍れ。伊豆まで御供つかまつらむ。」と申せば、「それは思ひもよらず。志はさる事なれども、汝が母のなげかん事、しかしながらわがひが事なるべし。母いかにも成なん後はまいるべし。」とて、再三とゞめ給へば、ちからなく、なく<都へ上りけり。 兵衛佐殿は、尾張国熱田大宮司季範がむすめの腹也。男子二人女子一人ぞおはしける。女子は後藤兵衛実基、養君にして、都にかくしをきけり。今一人の男子は、駿河国に香貫といふ者、「からめ出て、平家へ奉れば、希義といふ名を付て、土佐国気良といふ所へながされておはしければ、気良の冠者とぞ申ける。兵衛佐は伊豆国、兄弟東西へわかれゆく宿業の程こそかなしけれ。
  @『牛若奥州下りの事』 S0311
 さても常葉をば清盛最愛して、ちかき所にとりすへて、かよはせけるとぞきこえし。されば其腹の男子三人は、流罪をものがれて、兄今若は、醍醐にのぼり出家して、禅師公全済とぞ申ける。希代の荒者にて、悪禅師といひけり。中乙若は、八条の宮に候て、卿公円済と名揚て、坊官法師にてぞおはしける。弟牛若は、鞍馬寺の東光坊阿闍梨蓮忍が弟子、禅林坊阿闍梨覚日が弟子に成て、遮那王とぞ申ける。十一の年とかや、母の申しし事を思ひ出して、諸家の系図を見けるに、げにも清和天皇より十代の御苗裔、六孫王より八代、多田の満中が末葉、伊与入道頼義が子孫、八幡太郎義家が孫、六条判官為義が嫡男、前左馬頭義朝が末子にて侍けり。いかにもして平家をほろぼし、父の本望を達せむと思はれけるこそおそろしけれ。ひるは終日に学問を事とし、夜は終夜武芸を稽古せられたり。僧正が谷にて、天狗と夜々兵法をならふと云々。されば早足・飛越、人間のわざとは覚えず。 母の常葉、清盛に思はれて、姫君一人まふけたりしが、すさめられて後は、一条の大蔵卿長成卿の北の方になりて、子どもあまた出来たり。此遮那王をば蓮忍も覚日も、「出家し給へ。」といへば、「兄ふたりが法師になりたるだに無念なるに、左右なくはならじ。兵衛佐に申あはせて。」など申されけり。しゐていへば、つきころさん、さしちがへんなど、内々もいはれければ、師匠も常葉も、継父の大蔵卿も力及ばす。たゞ平家のきゝをのみぞなげかれける。 或時、奥州の金商人吉次といふ者、京上の次には、必鞍馬へまいりけるにあひ給ひて、「此童を陸奥国へ具して下れ。ゆゝしき人をしりたれば、其悦には、金を乞て得させんずる。」との給へば、「御供つかまつらん事はやすき事にて候へども、大衆の御とがめや候はんずらん。」と申せば、「此わらはうせて候共、誰か尋候べき。只、土用の死人を盗人のとりたるにこそ候はんずれ。」との給へば、「其上は子細候はじ。」と約束しけるが、「但定日は、同道の人のはからひにて候べし。」と申所に、其人又参詣せり。遮那王かたらひよ(っ)て、「御辺は、何の国の人、何氏にてましますぞ。」とこま<”と問給へば、「下総国の者にて候。深栖の三郎光量が子、陵助重頼と申て、源氏にて候。」とこたへければ、「さては左右なき人ごさんなれ。誰にかむつび給ふ。」「源三位頼政とこそ申むつび候へ。」と申せば、「今は何をかかくしまいらせ侍るべき。前左馬頭義朝の末子にて候。母も師匠も法師になれと申され候へども、存ずる旨侍て、今までまかり過候へども、始終都の栖居難治におぼえ候。御辺具して、まづ下総まで下り給へ。それより吉次を具して、奥へとをり侍らん。」と委細にかたり給へば、「子細なし。」と約諾して、生年十六と申、承安四年三月三日の暁、鞍馬を出て、東路はるかに思ひたつ、心のほどこそかなしけれ。 其夜鏡の宿につき、夜ふけて後、手づからもとどり取上て、ふところよりゑぼし取いだし、ひたときてあかつき打出給へば、陵助、「はや御元服候けるや。御名はいかに。」と問奉れば、「烏帽子親もなければ、手づから源九郎義経とこそ名乗り侍れ。」と答て、うちつれ給て、きせ川につきて、北条へよらむとの給ひしを、「父にて候深栖は、見参に入て候へども、重頼はいまだ御めにかゝり候はず。後日に御文にてや仰候はん。」と申せば、すぐにとをり給ひけり。 こゝに一年ばかりしのびておはしけるが、武勇人にすぐれて、山立・強盗をいましめ給ふ事、凡夫の態共見えざりしかば、「錐ふくろに達すといへば、始終は平家にやきこえなん。」と深栖三郎も申せば、「さらば奥へとをらん。」とて、まづ伊豆にこえて、兵衛佐殿に対面し、此よしを申て、「もし平家きゝなば、御ためしかるべからず。されば奥へ下り侍らん。」との給ふに、佐殿、「上野国大窪太郎がむすめ、十三のとし、熊野まいりのつゐでに、故殿の見参にいりくだりしが、父にをくれて後、人の妻とならば、平氏の者にはちぎらじ。同じくは秀衡が妻とならんとて、女、夜にげにして、おくへ下りける程に、秀衡が郎等、信夫小大夫といふ者、道にてゆきあひ、よこ取して、二人の子をまふけた(ん)なり。今も後家分を得て、ともしからであ(ん)なるぞ。それを尋て行給へ。」とて、文を書てまいらせらる。 則おくへとをり給ふて、御文をつけ給へば、夜に入(っ)て対面申し、尼は、「佐藤三郎次信、佐藤四郎忠信とて、二人の子を持て侍る。次信は御用には立まいらすべき者なれ共、上戸にて、酒に酔ぬれば、すこし口あらなる者也。忠信は下戸にて、天性極信の者なり。」とて奉りけり。多賀の国府にこえて、吉次に尋あひ、「秀衡がもとへ具してゆけ。」との給へば、平泉にこえて、女房に付て申たりしかば、則入奉て、「もてなしかしづき奉らば、平家にきこえてせめあるべし。出し奉らば、弓矢のながき疵なるべし。おしみまいらせば、天下の乱なるべし。両国の間には、国司・目代の外みな秀衡が進退なり。しばらくしのびておはしませ。みめよき冠者殿なれば、姫もたらむ者は、むこにも取奉り、子なからん人は、子にもしまいらすべし。」と申せば、「義経もかうこそ存じ候へ。但金商人をすかして、めし具して下り侍り。何にてもたびたく候。」との給ひければ、金卅両とりいだして、商人にこそとらせけれ。其時、上野国松井田といふ所に、一宿せられたりけるに、家主の男を見たまふに、大剛の者とおぼえければ、後平家をせめにのぼられける時、かたらひ具し給へり。伊勢国の目代につれて、上野へ下りけるが、女に付てとゞまれる者なれば、伊勢三郎とめされ、「我烏帽子々の始なれば、義の字をさかりにせん。」とて、義盛とは付給へり。堀弥太郎と申は、金商人也。
  @『頼朝義兵を挙げらるる事並びに平家退治の事』 S0312
 兵衛佐殿は、配所にて廿一年の春秋を送られけるが、文覚上人の勧によ(っ)て、後白河法皇の院宣をたまはり、治承四年八月十七日に、和泉判官兼高を夜うちにしてより後、石橋山・小坪・絹笠、所々の合戦に身を全して、安房・上総の勢をも(っ)て、下総国うちなびけ、武蔵国へ出給ひぬれば、八ヶ国になびかぬ草木もなかりけり。 醍醐の悪禅師全済、八条卿公円済も、此よしきゝて、関かためぬさきにと、いそぎはせ下られければ、平家やがて土佐へながしゝ希義うてと、当国の住人、蓮池次郎権守家光に仰付られしかば、家光参て、「兵衛佐殿、坂東にて謀叛おこさせ給ふとて、君を打まいらせよと、飛脚下着候。」と申せば、「いしうつげたり。」我毎日父のために、法華経を読誦す。今日いまだよみおはらず。しばらく相まて。」とて、持仏堂に入、御経二巻よみ終て、腹かき切(っ)てうせ給ふ。 九郎御曹子は、秀衡がもとにおはしけるが、佐殿すでに義兵をあげ給ふときこえしかば、打立給ふに、秀衡、紺地の錦の直垂に、くれなゐすそごの鎧、金作の太刀をそへて奉る。「馬は御用にしたが(っ)てめさるべし。」とぞ申ける。やがて信夫に越給へば、佐藤三郎は、「公私、取したゝめてまいらん。」とてとゞまり、弟の四郎は則御供す。はや白川の関かためて(ん)げれば、那須の湯詣の料とてとおり給ひ、兵衛佐殿は、大庭野に十万騎にて、陣取ておはしける所へ、究竟の兵百騎ばかりにて参り給ふ。佐殿、「何者ぞ。」と問給へば、「源九郎義経。」と名乗ましませば、「むかし八幡殿、後三年の合戦のとき、弟の義光形部■にておはしけるが、弦袋を陳の座にとゞめて、金澤の城へはせ下り給ひけるをこそ、『故入道殿のふたゝびいきかへり給ひたるやうにおぼゆる。』とて、鎧の袖をぬらされけるとこそ承れ。」としきりに喜給ひけり。 甲斐源氏、武田・一条・小笠原・逸見・板垣・加々見次郎・秋山・浅利・伊澤等、駿河目代広政を討て(ん)げれば、平家の大将、小松権亮少将惟盛、其勢五万余騎にて、富士川のはたに陳をとる。頼朝は足柄・箱根をうちこえて、きせ河につき給ふ。其勢廿万騎也。平家の兵の中に、斉藤別当実盛、「源氏夜討にやし候はむずらん。」と申ける夜、富士川の沼におりゐける水島ども、軍勢におそれて飛立ける羽音におどろきて、矢の一も射ずして、都へにげて上りけり。養和元年三月に、平家又墨俣にてさゝへたり。卿公円済、義円と改名したりけるが、深入してうたれて(ん)げり。醍醐悪禅師は後に、有職に任て、駿河阿闍梨といひしが、僧綱に転じて、阿野法橋とぞよばれける。寿永二年七月廿五日、北陸道をせめのぼりける木曾義仲、まづ都へ入と聞えしかば、平家は西海におもむき給ふ。されども池殿のきんだちはみな都にとゞまり給ふ。其ゆへは、兵衛佐鎌倉より、「故尼御前をみ奉ると存じ候べし。」と、度々申されければ、落とゞまり給ひけり。本領すこしも相違なく、安堵せられければ、むかしの芳志を報じ給ふとぞおぼえし。 さるほどに長田の四郎忠宗は、平家の侍どもにもにくまれしかば、西国へもまいらず。かくてはやがて国人どもにうたれんとや思ひけん、父子十騎ばかり羽をたれて、鎌倉殿へぞまいりける。「いしう参じたり。」とて、土肥次郎にあづけられけるが、範頼・義経の二人の舎弟を指のぼせられけるとき、長田父子をも相そへ給ふとて、「身を全して合戦の忠節をいたせ。毒薬変じて甘露となるといふ事あれば、勲功あらば、大なる恩賞をおこなふべし。」とぞ約束し給ける。しかれば木曾を対治し、平家の城摂州一の谷をせめおとす。注進の度ごとに、「忠宗・景宗はいくさするか。」と問給ふに、「又なき剛の者にて候。向敵をうち、あたる所を破らずといふ事なし。」と申せば、八嶋城落たりと聞えしとき、「今は、しやつ親子にいくさせさせそ。うたせんとて。」との給ひけるが、軍はてて土肥に具してかへりまいりければ、「今度の振舞神妙也ときく。約束の勧賞とらするぞ。あひかまへて頭殿の御孝養よく<申せ。成綱に仰ふくめたるぞ。」とありしかば、悦てまかり出たるを、弥三小次郎をしよせて、長田父子をからめとり、八付にこそせられけれ。八付にもたゞにはあらず、頭殿の御墓の前に、左右の手足をも(っ)て竿をひろがせ、土に板をしきて、土八付といふ物にして、なぶりごろしにぞせられける。「平家の方へも落ゆかず、さらば城にも引こもり、矢の一をも射ずして、身命をすてて軍して、ほしからぬ恩賞かな。是も只不義のいたす所、業報の果すゆへ也。」とぞ人々申ける。又何者かしたりけん、
  きらへども命の程は壱岐のかみ美の尾張をば今ぞ給はる W011
  かりとりし鎌田が頸のむくひにやかゝるうきめを今は見るらん W012
とよみて、作者に、鎌田政家と書たる高札をこそ立たりけれ。是をみる者ごとに、哀とはいはずして、くちびるを返してにくまぬ者ぞなかりける。されば武の道に、血気の勇者、仁義の勇者と云事あり。いかにも仁義の勇者を本とす。忠宗・景宗も、随分血気の勇者にて、抜郡の者なりしか共、仁義なきがゆへに、譜代の主君を討奉て、つゐにわが身をほろぼしけり。 こゝに池殿の侍、丹波藤三国弘と名乗て、鎌倉へまいりたりしかば、「我も尋たく思つれども、公私の怱劇に思ひわすれ、今も無沙汰なり。」とて、則対面し、「只今納殿にあらん物、みな取出よ。」と下知し給ひければ、金銀・絹布色々の物どもを、山のごとくにつみあげたり。「是は先時にと(っ)ての引出物、訴訟はなきか。」と問たまへば、丹波国細野と申所は、相伝の私領にて侍るよし申せば、やがて御下文給て(ん)げり。財宝をなみ次にをくれとて、都までぞ持をくりける。其時、かゝる運をひらくべき人とは思はざりしかども、あまりにいたはしくて、なさけありて奉行しけるゆへ也。兵衛佐のたまひけるは、「頸は故池殿につがれ奉る。其報謝には、大納言殿を世にあらせ申侍り。本どりは■■源五につがれたり。但盛安は、双六の上手にて、院中の御局の双六につねにめされ、院も御覧ぜらるゝなれば、君の召つかはせ給はん者をば、いかでか呼下すべきと思て、斟酌する也。」とかたり給へば、此由源五につげたりしか共、天性双六にすきたるうへ、院中の参入を思出とや存じけん、つゐに鎌倉へは下らざりけり。 九郎判官は、梶原平三が讒言によ(っ)て、都の住居難儀なりしかば、又奥州に下り、秀衡をたのみてすごされけるが、秀衡一期の後、鎌倉殿より泰衡をすかして判官をうたせ、後に泰衡をもほろぼされけるこそおそろしけれ。かくて日本国のこる所なく打したがへ給ふて、建久元年十一月七日、始て京のぼりせられけるに、近江国千の松原といふ所につかせ給、浅井の北郡の老翁を尋らるゝに、二人の老者をゐてまいる。土瓶二を持参せり。「あれはいかに。」と問給へば、「君のむかしきこしめされしにごり酒なり。」と申せば、「まことにさる事あり。」とて、三度かたぶけて、「汝、子はなきか。」と仰ければ、「候。」とて奉る。則めし具せられけるが、足立が子になされて、足立新三郎清恒とて、近習の者にてありけるなり。さて、「此翁に引出物せよ。」と仰ありしかば、白鞍をきたる馬二匹、色々の重宝入たる長持二合ぞたうだりける。又むかしの鵜飼をめし出して、小平をやがて給てけり。 入洛ありしかば、則院参し給たるに、法皇も往事おぼしめし出て、ことにあはれげにこそ見えさせおはしましけれ。髭切といふ太刀、清盛がもとにありしを、御まもりのためとて、院にめしをかれたりしを、今度頼朝にたまはりけり。青地の錦の袋にいれられたり。三度拝して給はりけるとなん。 此太刀に付てあまたの説あり。頼朝の卿、関が原にてとらはれ給ひし時、随身せられたりしかば、清盛の手にわた(っ)て、院へまいりけりと云々。又或説には、いまのはまことの髭切にはあらず。まことの太刀は已前より青墓の大炊がもとよりまいらせける也。其ゆへは、兵衛佐、大炊にあづけられけるを、頼朝囚人と成給ひし時、此太刀を尋られけるに、今はかくしても何かせんとや思はれけん、ありのまゝに申されけり。則大炊がもとへ尋られけるに、「源氏の重代を、平家の方へ渡さんずる事こそ悲しけれ。兵衛佐こそきられ給ふとも、義朝の君だちおほければ、よも跡はたえ給はじ。まづかくして見んと思ひければ、泉水とて、同程なる太刀ありけるを、抜かへてまいらする。髭切は、柄鞘円作り也。定て佐殿にみせまいらせらるべし。佐殿、童とひとつ心になりて、子細なしとの給はゞ、もとよりの事なり。もしこれにはあらずと申されば、女の事にてさぶらへば、取ちがへ候けりと申さんに、くるしからじ。」と思案して、泉水をのぼせける也。難波六郎経家、うけ取てのぼりけるを、やがて頼朝にみせ奉りて、「これか。」ととはれけるに、あらぬ太刀とは思はれけれども、長者が心を推量して、そなるよしをぞ申されける。清盛大きに喜て、秘蔵せられけるを、院へめされけるなり。まことの髭切は、先年大炊が方よりまいらせけると云々。 其京のぼりの度、盛安をめして、様々の重宝を給はり、「いかに今まで下らざりけるぞ。大庄をもたびたけれ共、折ふし関所なし。然るべき所あらば、給べし。」とぞの給ける。「誠に、いままで参ぜざる条、私ならぬ儀とは申ながら、不義のいたり、併 微運の至極なり。」とぞ盛安も申ける。 建久三年三月十三日、後白河院崩御なりしかば、やがて盛安鎌倉へぞまいりける。頼朝対面し給て、「最前も下向したりせば、然るべき所をもたばんずるに、今までの遅参こそ力なき次第なれ。小所なれ共、先馬かへ。」とて、多起の庄年分をぞ給ける。由緒のよし申けるにや。美濃国上の中村といふ所をも、同じく給て(ん)げり。建久九年十二月に、貢馬の次に、「明年正月十五日すぎは、いそぎくだるべし。多喜の庄をば、一円に給はるべし。」と仰つかはされけるに、明る正治元年正月十三日、鎌倉殿、御とし五十三にてうせ給ひけり。源五これをもしらず、十六日に京を立てはせ下るほどに、三河国にて、はや此事をきゝしかども、わざとも下るべき身なれば、鎌倉に下着して、身の不運なるよし語けるほどに、昔の夢想の不思議など申ければ、斉院次官親能「其鮑の尾を則くふとだにみたらば、猶めでたからまし。給て懐中せしばかりなればにや、残る所ある。」とぞ申されける。 さても清盛公、兵衛佐を助けをかれしとき、よも只今富家をくつがへさん人とは思ひ給はじ。同じく九郎判官の二歳にて、母のふところにいだかれけるを、わが子孫をほろぼすべきあたと思ひなば、いかでかなだめ給ふべき。是しかしながら、八幡大菩薩、伊勢太神宮の御はからひとぞおぼゆる。趙の孤児は袴の中にかくれてなかず、秦の遺孫は壷の内にやしなはれて、人と成と申せば、人の子孫の絶まじきには、かゝる不思議も有ける也。義朝は、鳥羽院の御宇、保安四年癸卯のとし生れ、卅四歳にして、保元々年に忠節をいたし、勲功をかうぶり、朝恩に浴しける。今度の謀叛にくみして身をほろぼしき。然ども又頼朝・義経二人の子あ(っ)て、兵衛佐卅四、判官廿二歳にして、治承四年に義兵をあげ、会稽の恥をきよめ、ふたゝび家をさかやかし給へり。頼朝は、近衛院久安三年丁卯のとし誕生す。義経は二条院平治元年巳卯のとしむまれたれば、三人ともに、単閉のとしの人なり。中にも頼朝、平家をほろぼし、天下をおさめて、文治の始、諸国に守護をすへ、あらゆる所の庄園、郷保に地頭を補して、武士の輩をいさめ、すたれたる家をおこし、絶たる跡をつぎて、武家の棟梁となり、征夷将軍の院宣をかうぶれり。卯は是東方三支の中の正方として、仲春をつかさどる。柳は卯の木也。三春の陽気を得て、天道めぐみの眉をひらき、いとなみしげくさかふれば、柳営の職には、卯の歳の人は、げに便有ける者かな。
 平治物語 終