奥州後三年記 群書類従本

凡例
底本: 群書類従 第二十 東京 続群書類従完成会

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奥州後三年記 序
朝家に文武の二道あり。たがひに政理を扶く。山門に顕密の両宗あり。をのをの(<)護持を致す。是聖代明時の洪業より出て、神明仏陀の余化にあらずといふことなし。しかるに本朝神武天皇五十六代清和天皇の御子、貞純親王六代の後胤、伊豫守源頼義朝臣の嫡男、陸奥守義家朝臣八幡殿と号す。堀川院御宇永保三年に奥州の任に赴く。爰にみちのくに奥六郡を領せし鎮守府将軍清原武則が孫、荒河太郎武貞が子眞衡が富有の奢過分の行跡より起りて、一族ながら郎等となれりし秀武ふかきうらみをふくみて合戦をいたす。其余殃広に及で、つゐに武衡、家衡をせめられしに、大軍ちからをつくし勇士名をあぐる戦ひそのかずをしらず。此間に大将軍陸奥守の武徳威勢上代にもO[BH ためしすくなく、漢家にも イ]又稀
なり。所謂雪の中に人をあたゝむる仁心は陽和の気膚にふくみ、雲の外に雁をしる智略は天性の才智に蓄ふ。或は士卒剛臆の座、はかりごとをもて人をはげまし、あるひは凶徒没落の期、掌をさしてこれをしめす。仍て寛治五年十一月十四夜、大敵すでに滅亡して残党ことごとく誅に伏す。其後解状を勒して奏聞、叡感尤はなはだし。俗呼でこれを八幡殿の後三年の軍と称す。星霜はおほくあらたまれども、彼佳名は朽ることなし。源流広く施して今にいたりて又弥新なり。古来の美歎、誰か其威徳を仰がざらん。世上のしるところ猶ゆくすゑにつたへ示さん事を思ふ。後漢の二十八将其形を凌雲台に写す。本朝賢聖障子名士を紫宸殿に図せらる。故に今此絵を調をかしむる所なり。O[BH 就中に清和御代殊に吾山の仏法を崇とす。其徳好を思ふに流を斟では必ず源を尋ぬべきことはりあり。況や又当時天下の静謐し海内の安全、しかしながら源氏の威光山王の擁護也。]これらの来由につきて、此畫図東塔南谷の衆議として其功を終ふ。狂言戯論の端といふ
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ことなかれ。児童幼学の心をすゝめて鑚仰の窓中時々是を披て、永日閑夜の寂寛をなぐさめ、家郷の望の外より<これをもてあそびて、嘯風哢月の吟詠にまじへんとなり。後素精微のうるはしき、丹青の花春常にとゞまり、能筆絶妙の姿、金石の銘古に恥べからず。彼此共に益あり。老少おなじく感ぜざらめや。于時貞和三年、法印権大僧都玄慧、一谷の衆命に〔応〕じて大綱の小序を記すといふことしかり。

奥州後三年記 上
永保のころ奥六郡がうちに清原眞衡といふものあり。荒河太郎武貞が子、鎮守府将軍武則が孫なり。眞衡が一家はもと出羽国山北の住人なり。康平のころほひ、源頼義貞任をうちし時、武則一万余人の勢を具して御方にくははれるによりて、貞任、宗任をうちたいらげたり。
これによりて武則が子孫六郡の主となれり。それよりさきには貞任、宗任が先祖六郡の主にてはありけるなり。眞ひら威勢父祖にすぐれて国中に肩をならぶるものなし。心うるはしくしてひがごとををこなはず。国宣を重くし朝威をかたじけなくす。これによりて堺のうちをだやかにして兵おさまれり。眞ひら子なきによりて海道小太郎成衡といふものを子とせり。年いまだわかくて妻なかりければ、眞衡、成衡が妻をもとむ。当国のうちの人はみな従者となれり。隣国にこれをもとむるに、常陸国に多気権守宗基といふ猛者あり。そのむすめをのづから頼義朝臣の子をうめることあり。頼義むかし貞任をうたんとてみちの国へくだりし時、旅のかり屋のうちにて彼女にあひてけり。すなわちはじめて女子一人をうめり。祖父宗基これをかしづきやしなふ事かぎり
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なし。眞ひらこの女をむかへて成衡が妻とす。あたらしきよめを饗せんとて、当国、隣国のそこばくの郎等ども日ごとに事をせさす。陸奥のならひ地火爐ついてとなんいふなり。もろもろのくひ物をあつむるのみにあらず、金銀、絹布、馬鞍をもちはこぶ。出羽国の住人吉彦秀武といふ者あり。これ武則がはゝかたのをい又むこなり。昔頼義貞任をせめし時、武則一家をふるひて当国へ越来て、桑原郡営の岡にして諸陣の押領使をさだめて軍をとゝのへし時、この秀武は三陣の頭にさだめたりし人なり。しかるを眞衡が威徳父祖にすぐれて一家のともがらおほく従者となれり。秀武おなじく家人のうちにもよほされてこの事をいとなむ。さまざま(<“)のことどもしたる中に、朱の盤に金をうづたかくつみて、目上に身づからささげて庭にあゆみいで、たか庭にひざまづき
て盤を頭のうへにさゝげてゐたるを、眞衡、護持僧にて五そうのきみといひける奈良法師と囲碁をうちいりてやゝひさしくなりて、秀武老のちから疲てくるしくなりて心におもふやう、われまさしき一家の者なり。果報の勝劣によりて主従のふるまひをす。さらむからに、老の身をかゞめて庭にひざまづきたるを、久しく見いれぬなさけなく、やすからぬことなりとおもひて、金をば庭になげちらして、にはかにたちはしりて門のほかに出で、そこばくもちきたる飯酒をみな従者どもにくれて、長櫃などをばかどのまへにうちすて、きせながとりきて、郎等どもにみな物の具せさせて出羽国へにげていにけり。眞衡囲碁うちはてゝ秀武をたづぬるに、かうかうしてなんまかりぬるといふを聞て、眞衡おほきにいかりて、たちまちに諸郡の兵を催して秀武をせめんと
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す。兵雲霞のごとく集れり。日来をだやかに目出たかりつる六郡、たちまちにさはぎのゝしる。眞衡すでに出羽国へ行向ぬ。爰に秀武思ふ様、われは勢こよなくをとりたり。せめおとされんこと程をふべからずと思ひて支度をめぐらすやう、みちの国に清衡、家衡といふものあり。清衡はわたりの権大夫経清が子なり。経清貞任に相ぐしてうたれにし後、武則が太郎武貞経清が妻をよびて家衡をばうませたるなり。しかれば清ひらと家ひらとは父かはりて母ひとつの兄弟なり。秀武この二人がもとへ使をはせていひをくるやう、眞衡にかく従者のごとくしてあるは、そこたちはやすからずはおぼさずや。思はざる外のこといできて、せいをふるひて既に我もとへよする也。そのあとに、そこたちいりかはりてかの妻子をとり家をやきはらひ給へ。さて眞衡をやうやくかたぶく
べきなり。そのひまをもとめんに、此時は天道のあたへ給ふ時なり。眞衡妻子をとられ住宅をやきはらはれぬときかば、われ雪の首を眞衡にえられん事、さらさら(<)憂にあらずといひをくれり。こゝに清衡、家衡よろこびをなして、せいをおこして眞衡がたちへをそひゆくみちにて、伊沢の郡白鳥の村の在家四百余家をかつかつ焼はらふ。眞衡是をきゝて道よりまどひかへり、まづきよひら、家ひらとたゝかはんとてはせかへる。清ひら、家ひら又聞て勢あたるべからずとてまたかへりぬ。さねひら両方のたゝかひをしえずしていよいよ(<)いかりて、なをかさねて兵を集てわが本所をもかため、又秀武がもとへもゆかんとていくさだちすることはかりなし。永保三年の秋、源義家朝臣陸奥守になりてにはかにくだれり。眞ひらまづたゝかひのことをわすれて新司を饗応せんこと
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をいとなむ。三日厨といふ事あり。日ごとに上馬五十疋なん引ける。其ほか金羽、あざらし、絹布のたぐひ、数しらずもてまいれり。眞衡国司を饗応しをはりて奥へかへりて、なを本意をとげんために秀武をせめんとす。いくさをわかちてわが舘をかためて、我身はさきのごとく出羽の国へゆきむかひぬ。眞衡出羽へ越ぬるよしをきゝて、きよひら、家ひら又さきのごとくをそひきたりて眞ひらが舘をせむ。其時国司の郎等に参河国の住人兵藤大夫正経、伴次郎兼仗助兼といふ者あり。むこしうとにてあひぐしてこの郡の検問をして、さねひらがたちちかくありけるを、眞衡が妻つかひをやりていふやう、さねひら秀武がもとへゆきむかへるあひだに、清ひら、家ひらをそひきたりてたゝかふ。しかあれども、兵多くありてふせぎたゝかふにをそれなし。たゞし女人の身大将軍のうつはもの
にあらず。きたり給ひて、大将軍として、かつはたゝかひのありさまをも国司に申さるべきよしをいひやれり。正経、助兼等これを聞て事とはず、さねひらがたちへきたりぬ。清ひら、家ひらよせきたり。すでにたゝかふ。(空白)
武ひらは国司追かへされにけりときゝて、みちのくにより勢をふるひて出羽へこえて家衡がもとに来ていふやう、きみ独身の人にてかばかりの人をかたきにえて一日といふとも追かへしたりといふ名をあぐる事、君一人の高名にあらず、すでにこれ武ひらが面目なり。このこくし世[B よイ]のおぼえ、むかしの源氏、平氏にすぎたり。しかるをかくをひ帰し給へる事、すべて申すかぎりにあらず。いまにおい[B きイ]てはわれもともに同じ心にて屍をさらすべしといふ。家衡これをうけよろこぶ事かぎりなし。郎等ともに[B もイ]いさみよろこぶ。たけひらがいふやう、
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金沢の柵といふ所あり。それはこれにはまさりたるところなりといひて、二人相具して沼柵をすてゝかなざはにうつりぬ。O[BH イ此間絵アリ]将軍の舎弟左[B イ無]兵衛尉義光、おもはざるに陣に来れり。将軍にむかひていはく、ほのかに戦のよしをうけたまはりて、院に暇を申侍りていはく、義家夷にせめられてあぶなく侍るよしうけ給る。身の暇を給ふてまかりくだりて死生を見候はんと申上る[B しイ]を、いとまO[BH をイ]たまはらざりしかば、兵衛尉を辞し申O[BH てイ]、まかりくだりてなんはべるといふ。義家これをきゝてよろこびの涙ををさへていはく、今日の足下の来りたまへるは、故入道の生かへりておはしたるとこそおぼえ侍れ。君すでに副[B そひのイ]将軍となり給はゞ[B 「はゞ」に「るはイ」と傍書]、武ひら、家ひらがくびをえん事たなごゝろにありといふ。前陣の軍すでにせめよりてたゝかふ。城中よばひ振て矢の下る事雨のごとし。将軍のつはもの
疵をかう[B イ無]ぶるものはなはだし。相模の国の住人鎌倉の権五郎景正といふ者あり。先祖より聞えたかきつはものなり。年わづかに十六歳にして大軍の前にありて命をすてゝたゝかふ間に、征矢にて右の目を射させつ。首を射つらぬきてかぶとの鉢付の板に射付られぬ。矢をおりかけて当の矢を射て敵を射とりつ。さてのちしりぞき帰りてかぶとをぬぎて、景正手負O[BH にイ]たりとてのけざまにふしぬ。同国のつはもの三浦の平太郎為次といふものあり。これも聞えたかき者なり。つらぬきをはきながら景正が顔をふまへて矢をぬかんとす。景正ふしながら刀をぬきて、為次がくさずりをとらへてあげざまにつかんとす。為次おどろきて、こはいかに、などかくはするぞといふ。景正が[B イ無]いふやう、弓箭にあたりて死す[B イ無]るはつはものののぞむところなり。いかでか生ながら
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足にてつらをふまるゝ事O[BH にイ]あらん。しかじ汝をかたきとしてわれ爰にて死なんといふ。為次舌をまきていふ事なし。膝をかゞめ顔ををさへて矢をぬきつ。おほくの人是を見聞、景正がかうみやういよいよ(<)ならびなし。ちからをつくしてせめたゝかふといへども、城おつべきやうなし。岸たかくして壁のそばだてるがごとし。遠きものをば矢をもつ[B ちイ]てこれを射、近きものをば石弓をはづして是をうつ。死す[B ぬイ]るもの数を[B イ無]しらず。伴次郎兼仗助兼といふ者あり。きはなきつはものなり。つねに軍の先にたつ。将軍これをかんじて薄金といふ鎧をなんきせたりける。岸ちかくせめよせたりけるを、石弓をはづしかけたりけるに、すでにあたりなんとしたり[B イ無]けるを、首をふりて身をたはめたりければ、かぶとばかりを[B イ無]うちおとされにけり。甲おちける時、本鳥きれにけり。かぶとはやがて
うせにけり。薄金の甲は此ときうせたり。助兼ふかくいたみとしけり。O[BH イ此間絵アリ]国司、武衡あひくはゝりぬと聞ていよいよ(<)いかる事かぎりなし。国の政事をとゞめてひとへにつはものをとゝのふ。春夏他事なく出立して、秋九月に数万騎の勢をひきゐて、金沢の館へ趣き、すでに出立日、大三大夫光任年八十にして、相具せずして国府にとゞまる。腰はふたへにして将軍の馬の轡にとりつきて涙をのごひO[BH てイ]いふやう、年のよるといふ事は口惜[B かなしイ]くも侍るかな。生ながら今日我君所作し給はんを見るまじき事よといひければ、きく人みなあはれがり泣にけり。O[BH イ此間絵アリ]将軍のいくさすでに金沢の柵にいたりつきぬ。雲霞のごとくして野山をかくせり。一行の斜雁O[BH のイ]雲上をわたるあり。雁陣たちまちにやぶれて四方にちりてとぶ。将軍はるかにこれをみてあやしみおどろきて、兵をして野辺をふましむ。
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あんのごとく、草むらの中より三十余騎のつはものをたづねえたり。これO[BH 武衡イ]かくしをけるなり。将ぐんのつはものこれを射るに、数をつくして得られぬ。義家の朝臣先年宇治殿へ参じて貞任をせめん[B しイ]事など申けるを江帥匡房卿たち聞て、器量はよき武士の合戦の道をしらぬよとひとりごち給ひけるを、よし家の[B がイ]郎等聞て、わが主ほどの兵をけやけき事いふおきなかなとおもひつゝ、よし家に此よしをかたる。義家これを聞てさる事もあるらんとて、江帥の出られけるところによりてことさら会釈しつゝ、その後彼卿にあひて文をよみけり。よし家O[BH はイ]われ文の道をうかゞはずば爰にて武ひらがためにやぶられなましとぞいひける。兵野に伏時はO[BH にイ]雁つらをやぶると云事侍るとかや。O[BH イ此間絵アリ]柵をせむる事数日にをよぶといへども、いまだおとしえず。将軍O[BH のイ]つはものどもの[B イ無]心をはげまさ
んとて日ごとに剛臆[B 甲乙イ]の座をなんさだめける。日にとりて剛[B 甲イ]に見ゆる者どもを一座にすへ、臆病にみゆるものを一座にすへけり。をのをの臆病の座につかじとはげみたゝかふといへども、日ごとに剛[B 甲イ]の座につく者はかたかりけり。腰瀧口季方なん一度も臆の座につかざりけり。かたへもこれをほめかんぜずといふ事なし。季方は義光が郎等なり。将軍の郎等どもの中に名をえたる兵どもの中に、今度殊に臆病なりときこゆるものすべて五人ありけり。これを略頌につくりけり。鏑の音きかじとO[BH てイ]耳をふさぐ剛[B 甲イ]のもの、紀七、高七、宮藤王[B 三イ]、腰瀧口、末四郎。〔末四郎〕といふは末割四郎惟弘が事なり。O[BH イ此間絵アリ]
〔詞仲直朝臣〕
中巻
吉彦秀武、将軍に申やう、城の中かたくまもり
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て御方の軍すでになづみ侍にけ[B たイ]り。そこばくのちからをつくすともやくあるまじ。しかじたゝかひをとゞめてたゞまきてまもりおとさん。粮食つきなば、さだめてをの[B 身イ]づからおちなんといふ。軍をまきて陣をはりてたてをまく。二方は将軍これをまく。一方は義光これをまく。一はうは清衡、重宗これをまく。かくて日数ををくるほどに、武衡がもとに亀次、并[B 竝イ]次と云二人の打手あり。ならびなきつはものなり。是をこはうちと名付たり。武衡使を将軍の陣へつかはして消息していはく、たゝかひやめられて徒然かぎりなし。亀次といふこはうちなん侍る。めして御覧ずべし。そなたよりもしかるべき撃手一人出してめしあはせO[BH てイ]たがひに徒然をなぐさめられ侍るべきかといひをくれり。将軍出すべき討手をもとむるに、次任が舎人鬼武といふものあり。心たけく身のちから
ゆゝしかりけり。これをえらびていだす。亀次城の中よりおりくだるO[BH にイ]、二人闘の庭によりあへり。両方の軍目もたゝかずこれを見る。両方すでによりあひてうちあふ事半時なり。たがひにいづれすきまありともみえず。さるほどに、亀次が長刀のさきしきりにあがるやうにみゆるほどに、亀次[B が頭冑イ]兜きながら鬼武がなぎなたのさきにかゝりておちぬ。O[BH イ此間絵アリ]将軍のいくさ、よろこびの時をつくり、のゝしる声天をひゞかす。これを見て、城中のつはもの亀次が首をとられじとうちよりくつばみをならべてかけ出、将軍のつはもの、又亀次が首をとらんとておなじくかけ合ぬ。両方みだれまじりて大きにたゝかふ。将軍のつはもの数多して城より下るところのつはものことごと(<“)くうちとり[B られイ]ぬ。末割四郎これ弘臆病の略頌に入たる事をふかくはぢとして、今日我剛[B 甲イ]臆はさだまるべし
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といひて飯さけおほくくひて出、こと葉[B 「こと葉」に「詞イ」と傍書]のまゝにさきをかくる間に、かぶら矢頸の骨にあたりて死す[B イ無]。射きられたる頸のきりめより喰たる飯すがたもかはらずしてこぼれ出たり。見るもの慚愧せずといふ事なし。将軍これを聞てかなしみていはく、もとよりきりとを[B ほイ]しにあらざる人、一旦はげみてさきをかくる。かならず死ぬる事かくのごとし。くらふところのもの、はらの中[B 「の中」に「イ無」と傍書]に入ずして喉にとゞまる。臆病のものなりとぞいひける。O[BH イ此間絵アリ]家ひらが乳母千任といふものやぐらの上に立て声をはなちて将軍にいふやう、なんぢが父頼義、貞任、宗任をうちえずして、名簿をさゝげて故清将軍をかたらひたてまつO[BH れイ]り。ひとへにそのちからにてたまたま(<)貞任らをうちえたり。恩をになひ徳をいたゞきていづれの世にかむくひたてまつるべき。しかるを汝すでに相伝の家人として、
かたじけなくも重恩の君をせめたてまつる不忠不義のつみ、さだめて天道のせめをかう[B イ無]ぶらんかといふ。おほくのつはものをのをの(<)くちさきO[BH らイ]をとぎてこたへんとするを、将軍制してものいはせず。将ぐんのいふやう、もし千任を生捕にしたらんものあらば、かれがためにいのちをすてん事[B イ無]、ちりあくたよりもかろからんといへり[B 「へり」に「ふイ」と傍書]。O[BH イ此間絵アリ]舘のうち食つきて男女みななげきかなしむ。武ひら、よし光につきて降をこふ。よし光このよしを将軍にかたる。将軍あへてゆるさず。たけひらなをねんごろなること葉[B 「こと葉」に「詞イ」と傍書]をもちてよし光をかたらひていはく、我君かたじけなく城の中へきりたまへ。その御供にまいりなば、さりともたすかりなんといふ。義光ゆくべきよしをいふと聞て、将軍よし光をよびていふやう、昔より今にいたるまで、大将次将の敵[B かたきイ]によばれて敵の軍[B 陣イ]にゆく事はいまだ
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聞をよばざる事也。君もし武ひら、家ひらにとりこめられなば、我百般くゐ[B ひイ]千般くふとも何のかひかあらん。そしりを万代の後に残し、あざけりを千里の外にまねかんといひて口説[B 「口説」に「くどきイ」と傍書]はぢしむる事かぎりなし。これによつ[B りイ]てゆるさ[B 「ゆるさ」に「いかイ」と傍書]ず。武ひらかさねてよし光にいふやう、御身わたり給ふ事有べからずばしかるべき御つかひ一人を給ておもふ事よくよく(<)申ひらかんといふ。よし光らうどうどもの中に誰かゆかんずるとえらぶ。みな季方こそまからめとさだむる[B イ無]によりて季かたをやる。あか色のかりあをに無もんのはかまを着て太刀ばかりをはきたり。城O[BH のイ]戸はじめてひらきてわづかに人ひとりをいれ、城中のつはものかきのごとくにたち竝[B なみてイ]、弓箭、太刀、かたな林のごとくしげくして道をはさめり。季方わづかに身をそばだてゝあゆみ入、家の中にのぼりてゐぬ。武ひら
出合て[B つイ]かつかつ(<)よろこぶ。季かたちかく居よりてあり。家ひらはかくし[B れイ]て出ず。武衡なをまげてたすけさせ給へと兵衛殿に申さるべきよしをいひて、金おほくとり出し[B 「出し」に「いでイ」と傍書]てとらす。季かたがいふやう、城中の財物今日給はらずとも殿原おち給ひなば、われらが物にてこそあらんずれといひてとらず。武ひらうちより大なる矢をとり出て、これは誰人の矢にて侍るにか。此矢の来るごとにかならずあたる。射らるるもの皆たえなんといふ。すゑかた見ていはく、是なんをのれが矢なりといふ。又立とて云やう、もし我をしちにとらんとおぼさば、只今爰にてみづからいかにもし給へ。まかり出んに、そこばくのつはものの中にてともかくもせられんは、きはめてわろく侍りなんといふ。武ひらがいふやう、大かた有べき事にもあらず。たゞとくとく(<)帰給ふてよくよく(<)申給へと
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云てやりつ。季方さきのごとくに兵の中をわけてかへる時、太刀のつかに手をかけてうちゑみて、すこしも気色かはりたる事なくてあゆみ出にけり。季方が世の[B イ無]おぼへ是より後いよいよのゝしりけり。O[BH イ此間絵アリ]城をまきて秋より冬にをよびぬ。又[B イ無]さむくつめたくなりてみなこゞへて、を[B おイ]のをの(<)かなしみていふやう、去年のごとくに大雪ふらん事、すでに今日明日の事なり。雪にあひなば、こゞへ死なん事うたがふべからず。妻子どもみな国府にあり。をのをの(<)いかでか京へのぼるべきといひて泣々文ども書て、われらは一ぢやう雪にをぼれて死なんとす。是をうりて粮料として、いかにもして京へかへり上るべしと云て、我きたるきせながをぬぎ、乗馬[B 「乗馬」に「のり馬イ」と傍書]どもを国府へやる。城中飢にのぞみて、先下女、小童部など城戸をひらきて出来る。軍兵[B イ無]共みな[B 「みな」に「イ無」と傍書]道をあけてこれを通しやる。是を
見てよろこびて、又おほくむらがりくだる。すゑ武、将軍に申やう、このくだるところのげす女童部、みな頸をきらんといふ。将軍その故をとふ。すゑ武がいふやう、目の前にころさるゝを見ば、のこる所の雑人さだめて降らじ。しからば城中の粮疾[B 「粮疾」に「かてイ」と傍書]盡べきなり。すでに雪の期になりたる事を夜昼おそれとす。かたときなりともとく落んと[B 事をイ]ねがふ。此くだる所の稚[B 雑イ]女童部は、城中のつはもの共の愛妻子どもなり。城中におらば夫ひとりくひて、妻子に物くはせぬ事あるまじ。おなじく一所[B 時イ]にこそ餓死なんずれ。しからば城中の粮今すこしとく盡べきなりといふ。将軍是を聞て尤しかるべしといひて、降る所のやつどもみな目の前にころす。これをみて永く城O[BH のイ]戸をとぢてかさねてくだる者なし。O[BH イ此間絵アリ]
〔詞左少将保脩〕
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下巻
藤原の資道は将軍のことに身したしき郎等なり。年わづかに十三にして将ぐんの陣中にあり。よるひる身をはなるゝ事なし。夜中ばかりに将ぐん資みちをおこしていふやう、武ひら、家ひらこん夜[B 「こん夜」に「こよひイ」と傍書]落べし。こゞへたる軍どもをのをのすへしたるかり屋どもに火をつけて手をあぶるべしといふ。資みちこのよしを奉行す。人あやしく思へども、将軍のをきてのまゝに、かりやどもに火をつけて、をのをの(<)手をあぶるに、まことにそのあかつきなんおちけり。人是を神なりとおもへり。すでに寒のころほ[B をイ]ひに及ぶといへども、天道将軍の心ざしをたすけ給ひけるにや。雪あへてふらず。武ひら、O[BH イ此間絵アリ]家衡食物ことごと(<“)くつきて、寛治五年十一月十四日の[B イ無]夜、つゐに落をはりぬ。城中の家どもみな火をつけつ。烟の中にをめきのゝしる事地獄の
ごとし。四方にみだれて蜘蛛の子をちらすに似たり[B 「に似たり」に「がごとしイ」と傍書]。将軍のつはもの、これをあらそひかけて城の下にてO[BH 悉イ]殺す。又城中へ乱れ入て殺す。にぐる者は千万が一人也。武衡にげて城のうちに池のありけるに飛入て、水にしづみてかほを叢にかくしてをる。つはものども入みだれてこれをもとむ。つゐに見つけて池よりひきいだしていけどりつ[B 「どりつ」に「らへにしイ」と傍書]。又千任おなじく生虜にせられぬ。家衡は花柑子といふ馬をなん持たりける。六郡第一の馬なり。これを愛する事妻子にすぎたり。にげんとて此馬敵のとりてのらん事ねたしといひてつなぎ付て、みづから射ころしつ。さてあやしのげすのまねをしてしばらくにげのびて[B にイ]けり。城中の美女ども、つはものあらそひ取て陣のうちへゐて来る。おとこの首は鉾にさゝれて先にゆく。此は妻[B めは此イ]はなみだO[BH をイ]ながしてしりに行。O[BH イ此間絵アリ]将軍武ひらをめし
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O[BH てイ]出てみづから責ていはく、軍の道、勢をかりて敵をうつはむかしもいまもさだまれるならひなり。武則且は官符の旨にまかせO[BH てイ]、かつは将軍のかたらひによりて御方にまいり加れり。然るを先日僕従千任丸に[B イ無]をしへて名簿[B 符イ]あるよし申しは、くだんの名簿[B 符イ]さだめてなんぢ伝へたるならん。すみやかにとり出べし。武則えびすのいやしき名をもちて、かたじけなくも[B イ無]鎮守府将軍の名をけがせり。これ将軍の申をこなはるゝによりてなり。是すでに功労をむくふにあらずや。いはんやなむぢらは其身にいさゝかのこうらうなくしてむほんを事とす。何事によりてかいさゝかのたすけをかう[B イ無]ぶるべき。しかるをみだりがはしく重恩の主となのり申その心如何。たしかにわきまへ申せとせむ。武衡はかうべを地につけて敢て目をもたげず。なくなく(<)たゞ一日のいのちをたまへと
云。兼仗大宅光房におほせてその頸を斬しむ。武衡いできらんとする時に義光に目を見あはせて、兵衛殿たすけさせ給へといふ。爰に[B イ無]よし光将軍に申て[B イ無]曰、つはものの道、降人をなだむるは古今の[B イ無]例なり。しかるを武ひら一人あながちに頸をきらるゝ事、その心[B 意イ]いかゞといふ。よし家、よし光に爪はじきをしかけていふやう、降人といふは、戦の場[B 庭イ]をのがれて人の手にかゝらずして後に咎をくひて首[B 頸イ]をのべてまいるなり。所謂宗任等なり。武衡はたゝかひの場[B 庭イ]にいけどり[B らへイ]にせられてみだりがはしく片時のいのちをおしむ。か[B こイ]れをば降人といふべしや。君この礼法をしらず。はなはだつたなしといひてつゐに斬つ。次に千任丸をめし出して先日矢倉の上にていひし事、たゞ今申てんやといふ。千任かうべをたれてものいはず。その舌をきるべきよしをい[B きつイ]ふ。源直といふもの
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あり。[B 「あり」に「イ無」と傍書]寄て手を持て舌を引出さんとす。将軍大きにいかりていはく、虎の口に手をいれんとす。はなはだをろかなりとて追立O[BH つイ]。ことつはものいできてえびらより金ばしをとり出し[B 「出し」に「いでてイ」と傍書]、舌をはさまんとするに、千任歯をくひあはせてあかず。かなばしにて歯をつきやぶりてその舌を引いだして是を斬つ。千任が舌をきりをはりて、しばりかゞめて木の枝につりかけて、足を地につけずして、足の下に武衡がくびをを[B おイ]けり。千任なくなく(<)あしをかゞめて是をふまず。しばらくありて、ちから盡て足をさげてつゐに主の首をふみつ。将軍これをみてらうどうどもにいふやう。二年の愁眉けふすでにひらけぬ。但なをうらむるところは家ひらが首をみざる事をといふ。城中の宅ども一時にやけほろびぬ。戦の場[B 庭イ]城の中にふしたる人馬、麻をみだせるがごとし。O[BH イ此間絵アリ]縣O[BH のイ]小次郎次任といふもの
あり。当国に名を得たるつはものなり。城中の者のにげさらむとする道をしO[BH きイ]りて、遠くのきて道をかためたり。戦の場をにげてのがるるもの、みな次任にえられぬ。其中に家ひら、あやしのげすのまねをしてにげんとて出来たるを、次任これを見て打ころしつ。そのくびをきりて将軍の前に持来れり。将軍これを見てよろこびの心骨に徹る。自くれなゐのきぬとりて次任にかづく。又上馬一疋に鞍をきてひく。家ひらが首もてまいるとのゝしるO[BH にイ]、義家あまりのうれしさに、たれがもてまいるぞといそぎとふ。次任が郎等、家衡が首を鉾にさしてひざまづきて、縣殿の手づくりに候となんいひける。いみじかりけり[B るイ]。陸奥国にはてづからしたる事をば手作となんいふなり[B るイ]。武衡、家衡が郎等どもの中にむねとあるともがら四十八人がくびをきりて将軍の前にかけたり。O[BH イ此間絵アリ]将軍国解
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を奉て申やう、武衡、家衡が謀反すでに貞任、宗任に過たり。わたくしの力をもつてたまたまうちたいらぐる事を得たり。はやく追討の官符をたまはりて首を京へたてまつらんと申す。然れどもわたくしの敵たるよし聞ゆ。官符を給はら[B せイ]ば勧賞をこなはるべし。仍て官符なるべからざるよしさだまりぬと聞て、首を道に捨てむなしく京へのぼりにけり。O[BH イ此間絵アリ]
〔詞 従三位行忠卿
畫工 飛騨守惟久
右後三年記。書畫三巻者。播磨宰相輝政卿。北方〈 源普宇子東照神君之御女号良正院。 〉之所持。而彼家変世之珍蔵也。玄孫右衛門督吉明朝臣恐其久而敗壊也。今茲元禄十四年辛巳冬十月。就京師而修補焉。有故許供 天覧聖感不〓。〓可謂希世之勝宝矣。修補功成請于余欲録其事以遺後裔。余不獲辞。遂書以贈之。
元禄十四辛巳冬十月下旬
 特進藤基時誌〕
右以東京帝室博物館所蔵古写本補訂畢