義経記
T035
義経記巻第一目録
義朝(よしとも)都落(みやこおち)の事
常盤(ときは)都(みやこ)落の事
牛若(うしわか)鞍馬入(くらまいり)の事
正門坊(しやうもんばう)の事
牛若(うしわか)貴船詣(きふねまうで)の事
吉次が惧州物語(あふしうものがたり)の事
遮那王殿(しやなわうどの)鞍馬出(くらまいで)の事
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新訂義経記 大町桂月 校訂
義経記巻第一
一 義朝(よしとも)都落(みやこおち)の事
S0101
本朝(ほんてう)の昔(むかし)を尋(たづ)ぬれば、田村(たむら)、利仁(としひと)、将門(まさかど)、純友(すみとも)、保昌(ほうしやう)、頼光(らいくわう)、漢(かん)の樊●(クチヘン+「會」)(はんくわい)、張良(ちやうりやう)は武勇(ぶよう)といへども名をのみ聞(き)きて目には見(み)ず。目(ま)のあたりに芸(げい)を世にほどこし、万事の、目(め)をおどろかし給(たま)ひしは、下野(しもつけ)の左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)の末(すゑ)の子、源(げん)九郎義経(よしつね)とて、我(わが)朝(てう)にならびなき名将軍(めいしやうぐん)にておはしけり。父(ちち)義朝(よしとも)は平治(へいぢ)元年十二月二十七日に衛門督(ゑもんのかみ)藤原信頼卿(ふぢはらののぶよりのきやう)に与(くみ)して、京の軍(いくさ)にうち負(ま)けぬ。重代(ぢゆうだい)の郎等(らうどう)どもみな討(う)たれしかば、その勢(せい)二十余騎になりて、東国のかたへぞ落(お)ち給(たま)ひける。成人(せいじん)の子供(こども)をばひき具して、幼(をさあ)いをば都(みやこ)に棄(す)ててぞ落(お)ちられける。嫡子(ちやくし)鎌倉(かまくら)の悪源太義平(あくげんだよしひら)、次男(じなん)中宮(ちゆうぐう)の大夫進(だいぶのしん)朝長(ともなが)十六、三男(さんなん)右兵衛佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)十二になる。悪源太(あくげんだ)をば北国の勢を具せ〔よ〕とて越前(ゑちぜん)へ下(くだ)す。それも叶(かな)はざるにや、近江(あふみ)の石山寺(いしやまでら)にこもりけるを、平家聞(き)きつけ、難波(なんば)・妹尾(せのを)をさしつかはしT037て、生け捕り都(みやこ)へのぼり、六条河原(ろくでうかはら)
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にて斬(き)られけり。弟(おとと)の朝長(ともなが)も山賊(せんぞく)が射(い)ける矢に弓手(ゆんで)の膝(ひざ)の口(くち)をしたたかに射(い)られて、美濃国(みののくに)青墓(あふはか)といふ宿(しゆく)にて死(し)ににけり。そのほか子供(こども)方々(はうばう)に数多(あまた)ありけり。尾張国(をはりのくに)熱田(あつた)の大宮司(だいぐうじ)の娘(むすめ)の腹(はら)にも一人ありけり。遠江国(とほたうみのくに)蒲(かば)といふ所(ところ)にて成人(せいじん)し給(たま)ひて、蒲(かば)の御曹司(おんざうし)とぞ申(まう)しける。後(のち)には三河守(みかはのかみ)と名のり給(たま)ふ。九条院(くでうのゐん)の常盤(ときは)が腹(はら)にも三人あり。今若(いまわか)七(ななつ)、乙若(おとわか)五(いつつ)、牛若(うしわか)当歳(たうざい)子なり。清盛(きよもり)是を取(とつ)て斬(き)るべきよしをぞ申(まう)しける。
二 常盤(ときは)都落(みやこおち)の事
S0102
永暦(えいりやく)元年正月十七日の暁(あかつき)、常盤(ときは)三人の子供(こども)〔を〕ひき具して、大和国(やまとのくに)宇陀郡(うだのこほり)岸(きし)の岡(をか)といふ所(ところ)にけいやくの親(した)しき者(もの)あり。これを頼(たの)み尋(たづ)ねてゆきけれども、世間の乱(みだ)るゝ折節(をりふし)なれば、頼(たの)まれず。その国(くに)の大東寺(だいとうじ)といふ所(ところ)に隠(かく)れゐたりける。常盤(ときは)が母関屋(せきや)と申(まう)す者(もの)、楊梅町(やまももちやう)にありけるを、六条(ろくでう)より取いだし、拷問(がうもん)せらるゝよし聞(きこ)えければ、常盤(ときは)は是をかなしみ、母(はは)のいのちを助(たす)けんとすれば、三人の子供(こども)を斬(き)らるべし。子供(こども)を助(たす)けんとすれば、老たる母(はは)を失(うしな)ふべし。子に親(おや)をば如何(いかゞ)思(おも)ひかへ候(さふら)ふべき。親の孝養(けうやう)する者をば、T038堅牢地神(けんらうぢじん)も納受(なうじゆ)あるとなれば、子供(こども)の為(ため)にもありなんと思(おも)ひつゞけ、
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三人の子(こ)をひき具して泣(な)く/\京(きやう)へぞ出(い)でにける。六条(ろくでう)へこの事聞(きこ)えければ、悪七兵衛(あくしちびやうゑ)景清(かげきよ)、堅物(けんもつ)太郎に仰(おほ)せつけ、子供(こども)を具して、六条(ろくでう)へ〔ぞ〕参(まゐ)りける。清盛(きよもり)常盤(ときは)を見給(たま)ひて、日頃(ひごろ)は火にも水(みづ)にもと思(おも)はれけるが、今怒(いか)れる心(こころ)も和(やはら)ぎけり。常盤(ときは)と申(まう)すは日本一(につぽんいち)の美人(びぢん)なり。九条院(くでうのゐん)は色好みにておはしましければ、洛中(らくちゆう)より容顔(ようがん)美麗(びれい)なる女房を千人召(め)されて、その中よりも百人選び、〔又〕百人の中より十人すぐり、〔又〕十人の中より一人撰(えら)びいだされたる美人(びぢん)なり。誠に漢の李夫人・楊貴妃も、是には過ぎじと覚えける。清盛(きよもり)御心(おんこころ)を移され、われにだに〔も〕従(した)がふ物(もの)ならば、末(すゑ)の世にはこの者共の子孫(しそん)の如何(いか)なる敵(かたき)ともならばなれ。三人の子供(こども)をも助(たす)けばやと思(おも)はれける。頼方(よりかた)・景清(かげきよ)に仰(おほ)せつけて、七条朱雀(しゆしやか)にぞ置(お)かれける。日番(ひばん)をも頼方(よりかた)はからひにして守護(しゆご)しける。清盛(きよもり)つねは常盤(ときは)がもとへ文(ふみ)を遣(つか)はされけれどT039も、取(と)りてだに〔も〕見ず。され共(ども)文の数も重なりければ、貞女両夫に見えずといふ言葉にもはづれ、又世の人の誹りをも思(おも)はれけれども、唯三人の子供(こども)を助(たす)けん〔が〕ために、慣れぬ襖の下に、新枕を並べ〔終(つひ)には従(したが)ひ〕給(たま)ひけり。さてこそ常盤(ときは)は三人の子供(こども)をば所々(ところどころ)にて成人(せいじん)させ給(たま)ひけり。今若(いまわか)八歳(はつさい)と申(まう)す春(はる)の頃(ころ)より観音寺(くわんおんじ)にのぼせ学問(がくもん)させて、十八の年(とし)受戒(しやうかい)、禅師(ぜんじ)の君(きみ)とぞ申(まう)しける。後(のち)には駿河国(するがのくに)富士(ふじ)の裾野(すその)におはしけるが悪襌師(あくぜんじ)と申(まう)しけり。八条(はちでう)におはしけるは、そしにておはし
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けれども、腹(はら)あしく恐(おそ)ろしき人にて、賀茂(かも)、春日(かすが)、稲荷(いなり)、祇園(ぎをん)の御祭(おんまつり)ごとに平家を狙(ねら)ふ。後(のち)には紀伊国(きいのくに)にありける新宮(しんぐうの)十郎(じふらう)義盛(よしもり)世(よ)を乱(みだ)りし時、東海道(とうかいだう)の墨俣河(すのまたがは)にて討(う)たれけり。牛若(うしわか)は四つの年(とし)まで母(はは)のもとにありけるが、世(よ)の幼(をさあ)い者よりも心(こころ)ざま振舞(ふるまひ)人にすぐれしかば、清盛(きよもり)つねは心にかけて宣(のたま)ひけるは、「敵(かたき)の子を一所にて育(そだ)てては、終(つひ)には如何(いかゞ)あるべき」と思し召しければ、京より東(ひがし)、山科(やましな)といふ所(ところ)に源氏(げんじ)相伝(さうでん)の、遁世(とんせい)して幽(かすか)なる住居(すまひ)にてありける所に七歳(しちさい)まで〔置(お)きて〕育(そだ)て給(たま)ひけり。
三 牛若(うしわか)鞍馬入(くらまいり)の事
S0103
常盤(ときは)が子供(こども)成人(せいじん)するに随(したが)ひて、中々心(こころ)ぐるしく、初(はじ)めて人に従(したが)はせんも由(よし)なし。習(なら)はねば殿上にも交(まじ)はるべくもなし。たゞ法師になして、跡(あと)をも弔(とぶら)ひT040てなんど思(おも)ひて、鞍馬(くらま)の別当(べつたう)東光坊(とうくわうばう)の阿闍梨(あじやり)は義朝(よしとも)の祈(いの)りの師(し)にておはしける程に、御使(おんつかひ)を遣(つかは)して仰(おほ)せけるは、「義朝(よしとも)の末(すゑ)の子、牛若殿(うしわかどの)と申(まう)し候(さふら)ふを且(かつう)は知召(しろしめ)してこそ候(さふら)ふらめ。平家(へいけ)世ざかりにて候(さふら)ふに、女(をんな)の身として持(も)ちたるも心ぐるしく候へば、鞍馬(くらま)へ参(まゐ)らせ候べし。猛(たけ)くともおだしき心(こころ)もつけ、書(ふみ)の一巻をも読(よ)ませ、経(きやう)の一字(いちじ)をも覚(おぼ)えさせて賜はり候へ」と申されければ、東光坊(とうくわうばう)の御返事には、
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「故頭殿(こかうのとの)の君達(きんだち)にてわたらせ給(たま)ひ候(さふら)ふこそ殊(こと)によろこび入(い)りて候へ」とて、山科(やましな)へいそぎ御迎(おんむか)へに人をぞ参(まゐ)らせける。七歳(しちさい)と申(まう)す二月(きさらぎ)はじめに鞍馬(くらま)へとてぞのぼられける。其後ひるは終日(ひめもす)に師の御坊(ごばう)の御前(おんまへ)にて経(きやう)を誦(よ)み、書(ふみ)学して、夕日(ゆふひ)西にかたぶけば、夜の更(ふ)けゆくに仏(ほとけ)の御燈(みあかし)の消(き)ゆるまではともに物(もの)を読(よ)み、五更(ごかう)の天(てん)にもなれ共(ども)あまもよひもすぐまで、学問(がくもん)に心(こころ)T041をのみぞ尽(つく)しける。東光坊(とうくわうばう)も山・三井寺(みゐでら)にも是ほどの稚児(ちご)あるべしとも覚(おぼ)えず、学問(がくもん)の性と申(まう)し、心(こころ)様(ざま)眉目(みめ)形(かたち)類(るい)なくおはしければ、量智坊(りやうちばう)の阿闍梨(あじやり)、覚日坊(かくにちばう)の律師(りつし)も「かくて廿歳(はたち)ばかりまでも学問(がくもん)し給(たま)ひ候はば、鞍馬(くらま)の東光坊(とうくわうばう)より後(のち)も仏法の種(たね)をつぎ、多聞(たもん)の御宝(おんたから)にもなり給(たま)はんずる人」とぞ申されける。母(はは)もこれを聞(き)き「牛若(うしわか)学問(がくもん)の性よく候(さふら)ふとも、里(さと)につねにありなんとし候はば、心(こころ)も不用(ふよう)になり、学問(がくもん)をも怠(おこた)りなんず。恋(こひ)しく見(み)たけれと申(まう)し候はば、わざと人を賜(たまは)り候ひて、母(はは)はそれまで参(まゐ)り、見もし、人に見えられて返(かへ)し候はん」と申されける。「さなくとも稚児(ちご)を里(さと)へ下(くだ)す事おぼろげならぬにて候(さふら)ふ」〔とて〕、一年に一度、二年に一度も下(くだ)さる。かゝる学問(がくもん)の性いみじき人の如何成(いかなる)天魔(てんま)のすゝめにやありけん、十五と申(まう)す秋(あき)の頃(ころ)より学問(がくもん)の心(こころ)以(もつ)ての外(ほか)に変(かは)りけり。その故(ゆゑ)は古(ふる)き郎等(らうどう)の謀反(むほん)をすゝむるにてぞありける。
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四 正門坊(しやうもんばう)の事 S0104
四条(しでう)室町(むろまち)に古(ふ)りたる郎等(らうどう)のありける。すり法師(ほふし)なりけるが、これは恐(おそ)ろしき者(もの)の子孫(しそん)なり。左馬頭殿(さまのかうのとの)の御乳母子(おんめのとご)鎌田(かまだ)の次郎(じらう)正清(まさきよ)が子なり。平治(へいぢ)の乱(らん)のときT042は十一歳(じふいつさい)になりけるを、長田(をさだ)の庄司(しやうじ)これを斬(き)るべきよし聞(きこ)えければ、外戚(げしやく)〔の〕親(した)しき者(もの)ありけるが、やう/\に隠(かく)し置(お)き〔て〕、十九にて男(をとこ)になして、鎌田(かまだの)三郎正近(まさちか)とぞ申(まう)しける。正近(まさちか)二十一の年(とし)思(おも)ひけるは保元(ほうげん)に為義(ためよし)討(う)たれ給(たま)ひぬ。平治(へいぢ)に義朝(よしとも)討(う)たれ給(たま)ひて後(のち)は、子孫(しそん)絶(た)え果(は)てて、弓馬(きうば)の名を埋(うづ)んで、星霜(せいざう)を送(おく)り給(たま)ふ。そのとき清盛(きよもり)に亡(ほろ)ぼされし者(もの)なれば、出家して諸国(しよこく)を修業(しゆぎやう)して、主(しう)の御菩提(ごぼだひ)をもとぶらひ、親の後世をもとぶらひ候はばやと思(おも)ひければ、鎮西(ちんぜい)の方へぞ修行(しゆぎやう)しける。筑前国(ちくぜんのくに)御笠(みさか)の郡(こほり)大宰府(ださいふ)の安楽寺(あんらくじ)といふ所(ところ)に学問(がくもん)してありけるが、故郷(ふるさと)の事を思(おも)ひいだして、都(みやこ)に上りて、四条(しでう)の御堂(みだう)に行(おこな)ひ澄(す)ましてゐたりけり。法名(ほうみよう)をば正門坊(しやうもんばう)とぞ申(まう)しける。又四条(しでう)の聖(ひじり)とも申(まう)しけり。勤行(つとめ)のひまには平家の繁昌(はんじやう)しけるをみて、めざましくぞ思(おも)ひける。如何(いか)なれば平家の大政(だいじやう)大臣(だいじん)の官(くわん)に上(あが)り、末(すゑ)までも臣下(しんか)卿相(けいしやう)になり給(たま)ふらん。源氏(げんじ)は保元(ほうげん)、平治(へいぢ)の合戦(がつせん)にみなほろぼされて、大人(おとな)しきは斬(き)られ、幼(をさあ)いはこゝかしこに押篭(おしこ)められ
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て、今まで頭を〔も〕差(さし)出(い)だし給(たま)はず。果報(くわほう)も生(う)まれ変(かは)り、心(こころ)も剛(かう)にあらんずる源氏(げんじ)の、あはれ思召(おぼしめ)したち給(たま)へかし。何方(いづかた)へなりとも御供(おんとも)して世を乱(みだ)し、本意(ほんい)を遂(と)げばやとぞ思(おも)ひける。勤行(つとめ)の隙々(ひまびま)には指(ゆび)を折(を)りて、国々の源氏(げんじ)をぞ数(かぞ)へける。紀伊国(きいのくに)には新宮(しんぐうの)十郎(じふらう)義盛(よしもり)、河内国(かはちのくに)には石川(いしかはの)判官義通(よしみち)、T043 摂津国(つのくに)には多田(たゞの)蔵人行綱(ゆきつな)、都には源三位頼政(よりまさの)卿、京君(きやうのきみ)円信(ゑんしん)、近江国(あふみのくに)には佐々木(ささきの)源三(げんざう)秀義(ひでよし)、尾張国(をはりのくに)には蒲(かば)の冠者(くわんじや)、駿河国(するがのくに)には阿野禅師(あののぜんじ)、伊豆国(いづのくに)には兵衛佐頼朝(ひやうゑのすけよりとも)、常陸国(ひたちのくに)には志太(しだの)三郎先生(せんじやう)義範(よしのり)、佐竹別当昌義(さたけのべつたうまさよし)、上野国(かうづけのくに)には利根(とね)、吾妻(あがつま)、これは国(くに)をへだてて遠(とほ)ければ、力(ちから)及(およ)ばず。都(みやこ)近(ちか)き所(ところ)には鞍馬(くらま)にこそ頭殿(かうのとの)の末(すゑ)の御子、牛若殿(うしわかどの)とておはする者(もの)を、参(まゐ)りて見奉り心(こころ)がらげにげにしくおはしまさば、文(ふみ)賜(たま)はりて、伊豆国(いづのくに)へ下(くだ)り、兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)の御方(おんかた)に参(まゐ)り、国(くに)を催(もよ)ほして、世(よ)を乱(みだ)さばやと思(おも)ひければ、折節(をりふし)その頃(ころ)四条(しでう)の御堂(みだう)も夏(げ)の時分にてありけるを打捨(うちす)てて、やがて鞍馬(くらま)へとぞ上りける。別当(べつたう)の縁(えん)にたゝずみけるほどに、「四条の聖(ひじり)おはしたり」と申(まう)しければ、「承(うけたまはり)候」と申し、さらばとて東光坊(とうくわうばう)のもとにぞ置(お)かれける。内々には悪心(あくしん)をさしはさみ、T044謀反(むほん)を起(おこ)して来(きた)れるとも知(し)らざりけり。ある夜のつれづれに、人靜(しづ)まつて、牛若殿(うしわかどの)のおはする所へ参(まゐ)りて、御耳(おんみみ)に口(くち)をあてて申(まう)しけるは、「知召(しろしめ)されず候や、今(いま)まで思召(おぼしめ)し立(た)ち候はぬ。君(きみ)は清和
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天皇(せいわてんわう)十代の御末(おんすゑ)、左馬頭(さまのかうの)殿の御子、かく申(まう)すは頭殿(かうのとの)の御乳母子(おんめのとご)に鎌田(かまたの)次郎(じらう)兵衛(ひやうゑ)が子にて候(さふら)ふ。御一門の源氏(げんじ)国々(くにぐに)に打篭(うちこ)められておはするをば、心憂(こころう)しとは思召(おぼしめ)されず候(さふら)ふや」と申(まう)しければ、その頃(ころ)平家(へいけ)の世を取(と)りて盛(さかり)なれば、たばかりて云ふやらんと打解(うちと)け給(たま)はざりければ、源氏(げんじ)重代(ぢゆうだい)の事を委(くわ)しく申(まう)しける。身こそ知(し)り給(たま)はねども、かねて左様(さやう)の者(もの)有りと聞(き)きしかば、さては一所にては叶(かな)ふまじ。所々にてとて正門坊(しやうもんばう)をば返(かへ)されけり。
五 牛若(うしわか)貴船詣(きぶねまうで)の事
S0105
正門(しやうもん)に逢(あ)ひ〔て〕給(たま)ひて後(のち)は、学問(がくもん)の事〔は〕跡形(あとかた)なく忘(わす)れはてて、明暮(あけくれ)謀反(むほん)の事をのみぞ思召(おぼしめ)しける。謀反(むほん)を起(おこ)す程(ほど)ならば、早業(はやわざ)をせでは叶(かな)ふまじ。まづ早業(はやわざ)を習(なら)はんとて、この坊(ぼう)は諸人(しよじん)の寄合所(よりあひどころ)なり。如何(いか)にも叶(かな)ひがたきとて、鞍馬(くらま)の奥(おく)に僧正(そうじやう)が谷(たに)といふ所(ところ)あり。昔(むかし)は如何(いか)なる人の崇(あが)め奉(たてまつ)りけん、貴船(きぶね)T045の明神とて霊験(れいげん)殊勝(しゆせう)にわたらせ給(たま)ひける。智恵(ちゑ)ある上人(しやうにん)もおこなひ〔給(たま)ひ〕けり。鈴(れい)の声(こゑ)もおこたらず。神主(かんぬし)も有(あり)けるが、御神楽(みかぐら)の鼓(つゞみ)の音(おと)も絶(た)えず、あらたにわたらせ給(たま)ひしかども、世末(すゑ)になれば、仏(ほとけ)の方便(ほうべん)も神(かみ)の験徳(けんとく)も劣(おと)らせ給(たま)ひて、人住(す)み荒(あら)し、偏(ひと)へに天狗(てんぐ)の住家(すみか)と
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なりて、夕日(ゆふひ)西(にし)にかたぶけば、物怪(ものゝけ)をめきさけぶ。されば参(まゐ)りよる人をも取りなやます間(あひだ)、参篭(さんろう)する人もなかりけり。されども牛若(うしわか)かゝる所(ところ)のあるよしを聞(き)き給(たま)ひ、昼(ひる)は学問(がくもん)をし給(たま)ふ体(てい)にもてなし、夜(よる)は日頃(ひごろ)一所(いつしよ)にてともかくもなり参(まゐ)らせんと申(まう)しつる大衆(だいしゆ)にも知(し)らせずして、別当(べつたう)の御護(おんまも)りに参(まゐ)らせたる敷妙(しきたい)といふ腹巻(はらまき)に黄金作(こがねづく)りの太刀(たち)帯(は)きて、たゞ一人貴船(きぶね)の明神(みやうじん)へ参(まゐ)り給(たま)ひ、念誦(ねんじゆ)申させ給(たま)ひけるは、「南無大慈〔大悲〕の明神(みやうじん)、八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)」〔と〕掌(たなごゝろ)を合(あは)せて、源氏(げんじ)を守(まぼ)らせ給(たま)へ。宿願(しゆくぐわん)誠(まこと)〔に〕成就(じやうじゆ)あらば、玉(たま)の御宝殿(ごほうでん)〔を〕造(つく)り、千町(ちやう)の所領(しよりやう)を寄進(きしん)し奉(たてまつ)らん」と祈誓(きせい)し〔て〕、正面(しやうめん)より未申(ひつじさる)にむかひて立(た)ち給(たま)ふ。四方(しはう)の草木(くさき)をば平家の一類(いちるい)と名づけ、大木二本ありけるを一本(いつぽん)をば清盛(きよもり)と名づけ、太刀(たち)を抜(ぬ)きて、散々(さんざん)に切(き)り、ふところより毬杖(ぎつちやう)の玉(たま)の様(やう)なる物をとり出(い)だし、木の枝(えだ)にかけ〔て〕、一つをば重盛(しげもり)が首(くび)と名づけ、一つをば清盛(きよもり)が首とて懸(か)けられけるが、かくて暁(あかつき)にもなれば、我方(わがかた)に帰(かへ)り、衣(きぬ)引(ひき)かづきて臥(ふ)し給(たま)ふ。〔人〕これを知(し)らず。和泉(いづみ)と申(まう)す法師(ほふし)の御介錯(おんかいしやく)申(まう)しけるが、此御有様(おんありさま)T046只事(たゞごと)にはあらじと思(おも)ひて、目を放(はな)さず、ある夜御跡(おんあと)を慕(した)ひて隠(かく)れて叢(くさむら)の蔭(かげ)に忍(しの)び〔ゐ〕て見ければ、斯様(かやう)に振舞(ふるま)ひ給(たま)ふ間(あひだ)、いそぎ鞍馬(くらま)に帰りて、東光坊(とうくわうばう)に此よし申(まう)しければ、阿闍梨(あじやり)大(おほ)きに驚(おどろ)き、量智坊(りやうちばう)の阿闍梨(あじやり)に告げ、寺(てら)に触(ふ)れて、「牛若殿(うしわかどの)の御髪(みぐし)剃(そ)り奉(たてまつ)れ」
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とぞ申されける。量智坊(りやうちばう)此事を聞(き)き給(たま)ひて、「幼(をさな)き人も様(やう)にこそよれ。容顔(ようがん)世に越(こ)えておはすれば、今年(ことし)の受戒(じゆかい)いたはしくこそおはすれ。明年(みようねん)の春(はる)の頃(ころ)剃(そ)り参(まゐ)ら〔さ〕せ給ヘ」と申(まう)しければ、「誰(たれ)も御名残(おんなごり)はさこそと思(おも)ひ候へ共(ども)、斯様(かやう)に御心(おんこころ)不用(ふよう)になりて御わたり候へば、我がため、御身のため然(しか)るべからず候(さふら)ふ。たゞ剃(そ)り奉れ」と宣(のたま)ひければ、牛若殿(うしわかどの)何(なに)ともあれ、寄(よ)りて剃(そ)らんとする者(もの)をば、突(つ)かんずる物(もの)をと、刀(かたな)の柄(つか)に手を掛(か)けておはしましければ、左右(さう)なく寄(よ)りて剃(そ)るべし共(とも)見えず。覚日坊(かくにちばう)T047の律師(りつし)申されけるは、「これは諸国の寄合所(よりあひどころ)にて靜(しづ)かならぬ間(あひだ)、学問(がくもん)も御心(おんこころ)に入(い)らず候へば、それがしが処(ところ)は傍(かたはら)にて候へば、御心(おんこころ)靜(しづ)かにも御学問(ごがくもん)候へかし」と申されければ、東光坊(とうくわうばう)もさすが〔に〕いたはしく思(おも)はれけん、さらばとて覚日坊(かくにちばう)へ入(い)れ奉(たてまつ)り給(たま)ひけり、御名をば変(か)へられて遮那王殿(しやなわうどの)とぞ申(まう)しける。それより後(のち)には貴船(きぶね)〔の〕詣(まうで)も止(とゞ)まりぬ。日々に多聞(たもん)に日参して、謀反(むほん)の事をぞ祈(いの)られける。
六 吉次が奥州(あふしう)物語(ものがたり)の事
S0106
かくて年(とし)も暮(く)れぬれば、御年十六にぞなり給(たま)ふ。〔正月(むつき)の末(すゑ)二月(きさらぎ)の初(はじ)めの事なるに、〕多聞(たもん)の御前(おまへ)に参(まゐ)りて所作(しよさ)しておはしける所(ところ)に、
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その頃(ころ)三条(さんでう)に大福長者(だいふくちやうじや)あり。其の名を〔ば〕吉次信高(きちじのぶたか)とぞ申(まう)しける。毎年(まいねん)奥州(あふしう)に下(くだ)る金商人(こがねあきんど)なりけるが、鞍馬(くらま)を信(しん)じ奉りける間(あひだ)、それも多聞(たもん)に参(まゐ)りて念誦(ねんじゆ)してゐたりけるが、この幼(をさあ)い人を見奉(たてまつ)りて、あらうつくしの御児(おんちご)や、如何(いか)なる人の君達(きんだち)やらん。然(しか)るべき人にてましまさば、大衆(だいしゆ)も数多(あまた)付(つ)き参(まゐ)らすべきに、度々(たびたび)見申(まう)すに、たゞ一人おはしますこそ怪(あや)しけれ。此山に左馬頭殿(さまのかうのとの)の君達(きんだち)のおはする物(もの)を。「誠(まこと)やT048らん、秀衡(ひでひら)も「鞍馬(くらま)と申(まう)す山寺(やまでら)に左馬頭(さまのかうの)殿(との)の君達(きんだち)おはしますなれば、太宰(ださいの)大弐〔位〕清盛(きよもり)の、日本(につぽん)六十六ケ国を従(したが)へんと、つねは宣(のたま)ふなるに、源氏(げんじ)の御君達(ごきんだち)を一人下(くだ)し参(まゐ)らせ、磐井郡(いはいのこほり)に京(きやう)を建(た)て、二人の子供(こども)を両国(りやうごく)の領主(りやうしゆ)させて、秀衡(ひでひら)生(い)きたらんほどは、大炊介(おほいのすけ)になりて、源氏(げんじ)を君(きみ)とかしづき奉り、上(うえ)見ぬ鷲(わし)のごとくにてあらばや」と宣(のたま)ひ候(さふら)ふ物(もの)を」と言(い)ひ奉(たてまつ)り、拐(かどはか)し参(まゐ)らせ、御供(おんとも)して秀衡(ひでひら)の見参(げんざん)に入(い)れ、引出物(ひきでもの)取(と)りて徳(とく)付(つ)けばやと思(おも)ひ、御前(おまえ)に畏(かしこま)つて申(まう)しけるは、「君(きみ)は都(みやこ)には如何(いか)なる人の君達(きんだち)にておはしますやらん、これは京の者(もの)にて候(さふら)ふが、金(こがね)を商(あきな)ひて毎年(まいねん)奥州へ下(くだ)る者にて候(さふら)ふが、奥方(おくがた)に知召(しろしめ)したる人や御入(おんいり)候(さふら)ふ」と申(まう)しければ、「片(かた)ほとりの者(もの)なり」と仰(おほ)せられて、返事もし給(たま)はず。これこそは、聞(きこ)ゆる黄金商人(こがねあきんど)吉次(きちじ)といふ〔者(もの)〕なり。奥州(あふしう)の案内者(あんないしや)やらん、彼(かれ)に問(と)はばやと思(おぼ)し召(め)して「陸奥(みちのくに)と云(いふ)は、如何(いか)ほどのひろき国(くに)ぞ」と問(と)ひ
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給(たま)へば、「大過の国(くに)にて候(さふら)ふ。常陸国(ひたちのくに)と陸奥国(みちのくに)との堺(さかひ)、菊田(きくた)」の関(せき)と申(まう)して、出羽(では)と奥州(あふしう)との堺(さかひ)をばなん関(ぜき)と申(まう)す。その中五十四郡(ごじふしぐん)と申(まう)しければ、「その中に源平(げんぺい)の乱(らん)出で来(き)たらんに、用(よう)に立(た)つべき者(もの)如何(いか)ほどあるべき」と問(と)ひ給(たま)へば、国の案内(あんない)は知(し)りたり。吉次暗(くら)からずぞ申(まう)しける。「昔(むかし)両国(りやうごく)の大将軍をばをかの大夫(たいふ)とぞ申(まう)しける。かれ〔ら〕が一人の子あり。〔安倍権守(あべのごんのかみ)とぞ申(まう)しける。T049子供(こども)あまたあり。〕嫡子(ちやくし)厨川(くりやがはの)次郎(じらう)貞任(さだたう)、二男(じなん)鳥の海(うみの)三郎宗任(むねたう)、家任(いへたう)、盛任(もりたう)、重任(しげたう)とて六人の末(すゑ)の子に境(さかひ)の冠者(くわんじや)りやうぞうとて、霧(きり)をおこし霞(かすみ)〔を〕立(た)て、敵(てき)起(おこ)るときは水(みづ)の底(そこ)海(うみ)の中にて日を送(おく)りなどする曲者(くせもの)なり。かれら兄弟(きやうだい)たけの高(たか)さ唐人にも越(こ)えたり。貞任(さだたう)が丈(たけ)は九尺(きうしやく)五寸、宗任(むねたう)が丈(たけ)は八尺(はつしやく)五寸(ごすん)、何(いづ)れも八尺(はつしやく)に劣(おと)るはなし。中にも境(さかひ)の冠者(くわんじや)は一丈(いちぢやう)三寸(さんずん)候ひける。安倍権守(あべのごんのかみ)の世までは宣旨(せんじ)院宣(ゐんぜん)にも畏(おそ)れて、毎年(まいねん)上洛(しやうらく)して逆鱗(げきりん)を休(やす)め奉る。安倍権守(あべのごんのかみ)死去(しきよ)の後(のち)は宣旨(せんじ)を背(そむ)き、偶々(たま/\)院宣(ゐんぜん)なる時(とき)は、北陸道(ほくろくだう)七箇国(しちかこく)の片道(かたみち)を賜(たま)はりて上洛仕るべきよし申され候ひければ、片道(かたみち)賜(たまは)るべきとて下(くだ)さるべかりしを、公卿(くぎやう)僉議(せんぎ)ありて、「これ天命(てんめい)を背(そむ)くにこそ候へ。源平の大将(たいしやう)を下(くだ)し、追討(ついたう)せさせ給(たま)へ」と申されければ、源(みなもと)の頼義(よりよし)勅宣(ちよくせん)を承(うけたまは)りて、十一万騎の軍兵(ぐんびやう)を率(そつ)して、安倍(あべ)を追討(ついたう)の為(ため)に陸奥国(みちのくに)へ下(くだ)り給(たま)ふ。駿河国(するがのくに)の住人高橋(たかはし)大蔵(おほくら)大夫(たいふ)に先陣(せんぢん)をさせて、下野国(しもつけのくに)いもうといふ所(ところ)に著(つ)き、貞任(さだたう)これを聞(き)きて、厨川(くりやがは)の城(じやう)を去(さ)つて阿津賀志(あづかしゑ)
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の中山(なかやま)を後(うしろ)にあてて、安達(あだち)の郡(こほり)に木戸を立(た)て、行方(ゆきがた)の原(はら)に馳(は)せ向(むか)ひて、源氏(げんじ)を待(ま)つ。大蔵(おほくら)の大夫(たゆふ)大将(たいしやう)として五百余騎白川関(しらかはのせき)うち越(こ)えて行方(ゆきがた)の原(はら)に馳(は)せつき、貞任(さだたう)を攻(せ)む。其日のいくさにうち負(ま)けて、浅香(あさか)の沼(ぬま)へひきしりぞく。伊達郡(だてのこほり)阿津賀志(あづかしゑ)の中山(なかやま)にたて篭(こも)り、源氏(げんじ)は信夫(しのぶ)の里(さと)摺上河(するかみがは)の端(はた)、はやしろとT050いふ所(ところ)に陣(ぢん)を取(と)つて、七年よるひる戦(たゝか)ひくらすに、源氏(げんじ)の十一万騎(じふいちまんぎ)みな討(う)たれて、叶(かな)はじとや思(おも)ひけん、頼義(よりよし)京(きやう)へ上(のぼ)りて、内裏(だいり)に参(まゐ)り、頼義(よりよし)叶(かな)ふまじきよしを申されければ、「汝(なんじ)叶(かな)はずは、代官(だいくはん)を下(くだ)し、いそぎ追討(ついたう)せよ」と重(かさ)ねて宣旨(せんじ)下(くだ)されければ、いそぎ六条堀河(ろくでうほりかは)の宿所(しゆくしよ)へ帰(かへ)り、十三になる子息(しそく)を内裏(だいり)に参(まゐ)らせけり。「汝(なんじ)が名をばなにといふぞ」と御尋(おんたづ)ねありけるに、「辰(たつ)の年(とし)の辰(たつ)の日の辰(たつ)の時にうまれ〔て〕候」とて、「名をば源太(ぐわんだ)と申(まう)し候ふ」と申(まう)しければ、無官(むくわん)の者(もの)に合戦(かつせん)の大将(たいしやう)さする例(れい)なしとて、元服(げんぷく)せさせよとて、後藤内(ごとうない)範明(のりあきら)をさし添(そ)へられて、八幡宮(はちまんぐう)にて元服(げんぷく)させて、八幡(はちまん)太郎義家(よしいへ)と号(かう)す。その時(とき)御門より賜はりたる鎧(よろひ)をこそ源太(ぐはんだ)が産衣(うぶきぬ)と申(まう)しけり。秩父(ちちぶの)十郎(じふらう)重国(しげくに)先陣(せんぢん)を承(うけたまは)りて、奥州(あふしう)へ打ち下る。阿津賀志(あづかしゑ)の城(じやう)を攻(せ)めけるに、猶(なほ)も源氏(げんじ)うち負(ま)けて、事(こと)T051悪(あ)しかりなんとて、いそぎ都へ早馬(はやむま)を立(た)て、このよしを申(まう)しければ、年号(ねんがう)が悪(あ)しければとて、康平(かうへい)元年とあらためられ、同(おなじ)き年四月二十一日阿津賀志(あづかしゑ)の城(じやう)を追落(おひおと)す。しからざるにかゝりて伊奈関(いさむぜき)を攻(せ)め越(こ)えて、最上郡(もがみのこほり)に篭(こも)る。源氏(げんじ)つゞい
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て攻(せ)め給(たま)ひしかば、雄勝(おから)の中山(なかやま)をうち越(こ)えて、仙北(せんぶく)金沢(かなざは)の城(じやう)にひき篭(こも)り。それにて一両年を送(おく)りたゝかひつれども、鎌倉(かまくらの)権五郎(ごんごらう)景政(かげまさ)、三浦平大夫為継(みうらのへいだゆふためつぎ)、大蔵大夫(おほくらのたゆふ)光任(みつたふ)、これらは命(いのち)をすてて攻(せ)めける程に、金沢(かなざは)の城(じやう)をも落(おと)されて、白木山(しろきやま)にかゝりて、衣川(ころもがは)の城(じやう)に篭(こも)る。為継(ためつぎ)、景政(かげまさ)重(かさ)ねて攻(せ)めかゝる。康平(かうへい)三年(さんねん)六月二十一日に貞任(さだたう)は大事の手(て)を負(お)ひ、梔子色(くちなしいろ)の衣(きぬ)を着(き)て、磐手(いはで)の野辺にぞ伏(ふ)しにける。弟(おとと)の宗任(むねたう)は降人(かうじん)となる。境(さかひ)の冠者(くわんじや)、後藤内(ごとうない)生捕(いけどり)にしてやがて斬(き)られぬ。義家(よしいえ)都(みやこ)に馳(は)せのぼり、内裏(うち)の見参(げんざん)に入(い)れて、末代(まつだい)までの名をあげ給(たま)ふ。そのとき、奥州(あふしう)へ御伴(おんとも)申(まう)し候ひし三つうの少将(せうしやう)に十一代の末(すゑ)淡海(たんかい)の後胤(こうゐん)、藤原清衡(ふぢはらのきよひら)と申(まう)す者(もの)国の警護(けいご)に留(と)められて候ひけるが、わだの郡(こほり)にありければ、わだの清衡(きよひら)と申(まう)し候ひし、両国(りやうごく)を手ににぎつて候ひし、十四道の弓とり五十万騎、秀衡(ひでひら)が伺候(しこう)の郎等(らうどう)十八万騎(じふはちまんぎ)もちて候(さふら)ふ。これこそ源平(げんぺい)の乱(らん)出(い)で来(きた)らば、御方人(おんかたうど)ともなりぬべき者(もの)にて候へ」と申(まう)しける。T052
七 遮那王殿(しやなわうどの)鞍馬出(くらまいで)の事
S0107
遮那王殿(しやなわうどの)これを聞(き)き給(たま)ひて、かねて聞(き)きしにすこしも違(たが)はず、世にある者(もの)ごさんなれ。あはれ下(くだ)らばや。左右(さう)なく頼(たの)まれたらば、十八万騎(じふはちまんぎ)の勢(せい)を十万騎(じふまんぎ)をば国にとゞめ、八万騎(はちまんぎ)をば率(そつ)して、坂東(ばんどう)
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にうち出(い)で、八ケ国は源氏(げんじ)にこゝろざしある国なり。下野殿(しもつけどの)の国なり。これをはじめとして十二万騎(じふにまんぎ)を催(もよほ)し〔て〕二十万騎(にじふまんぎ)になして、十万騎(じふまんぎ)をば伊豆国(いづのくに)兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)に奉り、十万騎(じふまんぎ)をば木曾殿につけて、我(わが)身は越後国(ゑちごのくに)にうち越(こ)え、鵜川(うかは)、佐橋(さはし)、金津(かなづ)、奥山(おくやま)の勢(せい)を催(もよほ)して、越中(ゑつちゆう)、能登(のと)、加賀(かゞ)、越前(ゑちぜん)の軍兵(ぐんびやう)を靡(なび)けて、十万騎(じふまんぎ)になして、荒乳(あらち)の中山(なかやま)を馳(は)せ越(こ)えて、西近江(にしあふみ)にかゝりて、大津(おほつ)の浦(うら)に著(つ)きて、坂東(ばんどう)の二十万騎(にじふまんぎ)を待(ち)得(え)て、逢坂(あふさか)の関(せき)をうち越(こ)えて、都(みやこ)にせめ上り。十万騎(じふまんぎ)をば天下の御所に参(まゐ)らせて、源氏(げんじ)すごさんよしを申さんに平家猶(なほ)も都に繁昌(はんじやう)して空(むな)しかるべくば、名をば後(のち)の世にとゞめ、屍(かばね)をば都(みやこ)に曝(さら)さん事身に取(と)つては何(なに)の不足(ふそく)かあるべきと思(おも)ひたち給(たま)ふも十六の盛(さかり)には恐(おそ)ろしく〔ぞ〕覚(おぼ)えける。この男奴(をとこめ)に知(し)らせばやと思(おぼ)し召(め)し〔て〕、近く召して仰(おほ)せられけるは、「なんぢなれば知(し)らするぞ。人に披露(ひろう)あるべからず。われこそT053左馬頭義朝(さまのかみよしとも)が子にてあれ、秀衡(ひでひら)がもとへ文(ふみ)一つ言伝(ことづて)ばや。何時(いつ)の頃(ころ)返事を取(と)りてくれんずるぞと仰(おほ)せられければ、吉次座敷(ざしき)をすべりおり、烏帽子(ゑぼし)の先(さき)を地につけて申(まう)しけるは、「御事(おんこと)をば秀衡(ひでひら)以前(いぜん)に申され候(さふら)ふ。御文よりもたゞ御下(くだ)り候へ、道(みち)のほど御宿直(おんとのゐ)仕り候はんずる」と申(まう)しければ、文の返(かへ)り事待(ま)たんも心(こころ)もとなし。さらば連(つ)れて下(くだ)らばやと思召(おぼしめ)しける。「何時(いつ)の頃(ころ)下(くだ)り候はんずるぞ」と宣(のたま)へば、「明日吉日にて候あひだ、形(かた)の如(ごと)くの門出(かどいで)つかまつり候はんずる」と申(まう)しけれ
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ば、「さらば粟田口(あはたぐち)十禅師(じふぜんじ)の御前(おまえ)にて待(ま)たんずるぞ」と宣(のたま)ひければ、吉次(きちじ)〔は〕「さ承(うけたまは)り候」とて下向(げかう)してけり。遮那王殿(しやなわうどの)別当(べつたう)の坊(ばう)に帰(かへ)りて心(こころ)の中(うち)ばかりに出立(いでた)ち給(たま)ふ。七歳(しちさい)の春の頃(ころ)より十六のいまに至(いた)るまで、朝(あした)にはけうくんの霧(きり)を払(はら)ひ、夕(ゆうべ)には三光(さんくわう)の星(ほし)をいたゞき、日夜朝暮(てうぼ)なれし馴染(なじみ)の師匠(ししやう)の御名残(おんなごり)もいまばかりと思(おも)はれければ、しきりに忍(しの)ぶとし給(たま)へ共(ども)、涙(なむだ)にむせび給(たま)ひけり。されども〔心(こころ)〕弱(よは)くては叶(かな)ふべきにあらざれば、承安(じようあん)四年二月二日の曙(あけぼの)に鞍馬(くらま)をぞ出(い)で給(たま)ふ。白(しろ)き小袖一かさねに唐綾(からあや)を着(き)かさね、播磨浅葱(はりまあさぎ)の帷子(かたびら)をうへに召(め)し、白(しろ)き大口(おほくち)に唐織物(からおりもの)の直垂(ひたゝれ)めし、敷妙(しきたへ)といふ腹巻(はらまき)着篭(きご)めにして、紺地(こんぢ)の錦(にしき)にて柄鞘(つかさや)つゝみたる守刀(まぼりがたな)、黄金作(こがねづくり)の太刀(たち)帯(は)いて、薄化粧(うすげしやう)に眉(まゆ)細(ほそ)くつくりて、髪(かみ)たかく結(ゆ)ひあげ、心(こころ)ぼそげにて壁(かべ)をT054隔(へだ)てて出(い)でたち給(たま)ふが、われならぬ人の訪(おとづ)れて通(とほ)らん度(たび)にさる者(もの)これにありしぞと思(おも)ひ出(い)でて、あとをも弔(とぶら)ひ給(たま)へかしとおもはれければ、漢竹(かんちく)の横笛(やうでう)をとり出(い)だし、半時(はんじ)ばかり吹(ふ)きて、音(ね)をだにあとの形見(かたみ)とて、泣(な)く/\鞍馬(くらま)を出(い)で給(たま)ひ、その夜は四条(しでう)の正門坊(しやうもんばう)の宿(やど)へ出(い)で〔させ〕給(たま)ひて、奥州(あふしう)へ下(くだ)るよし仰(おほ)せられければ、善悪(ぜんあく)御伴(おんとも)申(まう)し候はんと出(い)で立(た)ちけり。遮那王殿(しやなわうどの)宣(のたま)ひけるは、「御辺(ごへん)は都(みやこ)にとゞまりて、平家(へいけ)のなりゆく様(さま)を見(み)て知(し)らせよ」とて、京(きやう)にぞとゞめられける。さて遮那王殿(しやなわうどの)粟田口(あはたぐち)まで出(い)で給(たま)ふ。正門坊(しやうもんばう)もそれまで送(おく)り奉(たてまつ)り、十禅師(じふぜんじ)の御前(おまへ)にて、吉次を待(ま)ち
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給(たま)へば、吉次(きちじ)いまだ夜深(よふか)に京(きやう)を出(い)でて、粟田口(あはたぐち)に出(い)で来(きた)る。種々(しゆじゆ)の宝(たから)を二十余疋(よひき)〔の馬(むま)〕に負(おほ)せて先(さき)に立(た)て、我(わが)身は京(きやう)を尋常(じんじやう)にぞ出(い)で立(た)ちける。あひ/\【間々】引柿(ひきがき)したる摺尽(すりづく)しの直垂(ひたゝれ)に秋毛(あきげ)T055の行縢(むかばき)はいて、黒栗毛(くろくりげ)なる馬に角覆輪(つのぶくりん)の鞍(くら)置(お)きてぞ乗(の)りたりける。稚児(ちご)を乗(の)せ奉(たてまつ)らんとて、月毛(つきげ)なる馬(むま)に沃懸地(いかけぢ)の鞍(くら)を置(お)きて、大斑(おほまだら)の行縢(むかばき)、鞍覆(くらおほひ)にしてぞ出(い)で来(きた)る。遮那王殿(しやなわうどの)「如何(いか)に、約束(やくそく)せばや」と宣(のたま)へば、馬(むま)より急(いそ)ぎ飛(と)んで下(お)り、馬(むま)引(ひ)き寄(よ)せ乗(の)せ奉(たてまつ)り、かゝる縁(えん)に会(あ)ひけるよと世に嬉(うれ)しくぞ思(おも)はせ給(たま)ひける。吉次を招(まね)きて宣(のたま)ひけるは、「宿の馬の腹筋(はらすぢ)馳(は)せ切(き)つて、雑人(ざふにん)めらが追着(おひつ)かん。かへりみるに駆足(かけあし)になつて下(くだ)らんと覚(おぼ)ゆるなり。鞍馬(くらま)になしと言(い)はば、都に尋(たづ)ぬべし。都(みやこ)になしと言(い)はば、大衆(だいしゆ)共(ども)定(さだ)めて東海道(とうかいだう)へぞ下(くだ)らんずらんとて、摺針山(すりばりやま)よりこなたにて追掛(おつか)けられて、帰(かへ)れと言(い)はんずる者(もの)なり。帰(かへ)らざらんも仁義礼智信(じんぎれいちしん)にもはづれなん。都(みやこ)は敵(てき)の辺(へん)也。足柄山(あしがらやま)を越(こ)えんまでこそ大事なれ。坂東(ばんどう)といふは源氏(げんじ)にこゝろざしのある国(くに)なり、言葉(ことば)の末(すゑ)を以(もつ)て、宿々(しゆくじゆく)の馬(むま)取(と)りて下(くだ)るべし、白川(しらかは)の関(せき)をだにも越(こ)えば、秀衡(ひでひら)が知行(ちぎやう)の所(ところ)なれば、雨のふるやらん、風のふくやらんも知(し)るまじきぞ」と宣(のたま)へば吉次是を聞(き)きてかゝる恐(おそ)ろしき事あらじ。毛(け)のなだらかならん馬(むま)一疋(いつぴき)をだにも乗(のり)給(たま)はずして、恥(はぢ)ある郎等の一騎をだにも具し給(たま)はで、現在(げんざい)の敵(かたき)の知行(ちぎやう)
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する国の馬を取(と)りて下(くだ)らんと宣(のたま)ふこそ恐(おそ)ろしけれとぞ思(おも)ひける。されども命(めい)に従(したが)ひ、駒(こま)を早(はや)めて下(くだ)る程に松坂(まつさか)をも越(こ)えて、四(し)の宮(みや)河原(かはら)を見(み)て過(す)ぎ、逢坂(あふさか)の関(せき)うち越(こ)えて大津(おほつ)の浜(はま)T056をも通(とほ)りつゝ勢田(せた)の唐橋(からはし)うち渡(わた)り、鏡(かゞみ)の宿(しゆく)に著(つ)き給(たま)ふ。長者(ちやうじや)は吉次が年頃(としごろ)の知る人なりければ、女房(にようばう)あまた出(い)だし〔つゝ〕、色々(いろいろ)にこそもてなしけれ。