義経記
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義経記巻第一目録
義朝都落の事
常盤都落の事
牛若鞍馬入の事
正門坊の事
牛若貴船詣の事
吉次が惧州物語の事
遮那王殿鞍馬出の事
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新訂義経記 大町桂月 校訂
義経記巻第一
一 義朝都落の事 S0101
本朝の昔を尋ぬれば、田村、利仁、将門、純友、保昌、頼光、漢の樊●、張良は武勇といへども名をのみ聞きて目には見ず。目のあたりに芸を世にほどこし、万事の、目をおどろかし給ひしは、下野の左馬頭義朝の末の子、源九郎義経とて、我朝にならびなき名将軍にておはしけり。父義朝は平治元年十二月二十七日に衛門督藤原信頼卿に与して、京の軍にうち負けぬ。重代の郎等どもみな討たれしかば、その勢二十余騎になりて、東国のかたへぞ落ち給ひける。成人の子供をばひき具して、幼いをば都に棄ててぞ落ちられける。嫡子鎌倉の悪源太義平、次男中宮の大夫進朝長十六、三男右兵衛佐頼朝十二になる。悪源太をば北国の勢を具せ〔よ〕とて越前へ下す。それも叶はざるにや、近江の石山寺にこもりけるを、平家聞きつけ、難波・妹尾をさしつかはしT037て、生け捕り都へのぼり、六条河原
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にて斬られけり。弟の朝長も山賊が射ける矢に弓手の膝の口をしたたかに射られて、美濃国青墓といふ宿にて死ににけり。そのほか子供方々に数多ありけり。尾張国熱田の大宮司の娘の腹にも一人ありけり。遠江国蒲といふ所にて成人し給ひて、蒲の御曹司とぞ申しける。後には三河守と名のり給ふ。九条院の常盤が腹にも三人あり。今若七、乙若五、牛若当歳子なり。清盛是を取て斬るべきよしをぞ申しける。
二 常盤都落の事 S0102
永暦元年正月十七日の暁、常盤三人の子供〔を〕ひき具して、大和国宇陀郡岸の岡といふ所にけいやくの親しき者あり。これを頼み尋ねてゆきけれども、世間の乱るゝ折節なれば、頼まれず。その国の大東寺といふ所に隠れゐたりける。常盤が母関屋と申す者、楊梅町にありけるを、六条より取いだし、拷問せらるゝよし聞えければ、常盤は是をかなしみ、母のいのちを助けんとすれば、三人の子供を斬らるべし。子供を助けんとすれば、老たる母を失ふべし。子に親をば如何思ひかへ候ふべき。親の孝養する者をば、T038堅牢地神も納受あるとなれば、子供の為にもありなんと思ひつゞけ、
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三人の子をひき具して泣く/\京へぞ出でにける。六条へこの事聞えければ、悪七兵衛景清、堅物太郎に仰せつけ、子供を具して、六条へ〔ぞ〕参りける。清盛常盤を見給ひて、日頃は火にも水にもと思はれけるが、今怒れる心も和ぎけり。常盤と申すは日本一の美人なり。九条院は色好みにておはしましければ、洛中より容顔美麗なる女房を千人召されて、その中よりも百人選び、〔又〕百人の中より十人すぐり、〔又〕十人の中より一人撰びいだされたる美人なり。誠に漢の李夫人・楊貴妃も、是には過ぎじと覚えける。清盛御心を移され、われにだに〔も〕従がふ物ならば、末の世にはこの者共の子孫の如何なる敵ともならばなれ。三人の子供をも助けばやと思はれける。頼方・景清に仰せつけて、七条朱雀にぞ置かれける。日番をも頼方はからひにして守護しける。清盛つねは常盤がもとへ文を遣はされけれどT039も、取りてだに〔も〕見ず。され共文の数も重なりければ、貞女両夫に見えずといふ言葉にもはづれ、又世の人の誹りをも思はれけれども、唯三人の子供を助けん〔が〕ために、慣れぬ襖の下に、新枕を並べ〔終には従ひ〕給ひけり。さてこそ常盤は三人の子供をば所々にて成人させ給ひけり。今若八歳と申す春の頃より観音寺にのぼせ学問させて、十八の年受戒、禅師の君とぞ申しける。後には駿河国富士の裾野におはしけるが悪襌師と申しけり。八条におはしけるは、そしにておはし
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けれども、腹あしく恐ろしき人にて、賀茂、春日、稲荷、祇園の御祭ごとに平家を狙ふ。後には紀伊国にありける新宮十郎義盛世を乱りし時、東海道の墨俣河にて討たれけり。牛若は四つの年まで母のもとにありけるが、世の幼い者よりも心ざま振舞人にすぐれしかば、清盛つねは心にかけて宣ひけるは、「敵の子を一所にて育てては、終には如何あるべき」と思し召しければ、京より東、山科といふ所に源氏相伝の、遁世して幽なる住居にてありける所に七歳まで〔置きて〕育て給ひけり。
三 牛若鞍馬入の事 S0103
常盤が子供成人するに随ひて、中々心ぐるしく、初めて人に従はせんも由なし。習はねば殿上にも交はるべくもなし。たゞ法師になして、跡をも弔ひT040てなんど思ひて、鞍馬の別当東光坊の阿闍梨は義朝の祈りの師にておはしける程に、御使を遣して仰せけるは、「義朝の末の子、牛若殿と申し候ふを且は知召してこそ候ふらめ。平家世ざかりにて候ふに、女の身として持ちたるも心ぐるしく候へば、鞍馬へ参らせ候べし。猛くともおだしき心もつけ、書の一巻をも読ませ、経の一字をも覚えさせて賜はり候へ」と申されければ、東光坊の御返事には、
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「故頭殿の君達にてわたらせ給ひ候ふこそ殊によろこび入りて候へ」とて、山科へいそぎ御迎へに人をぞ参らせける。七歳と申す二月はじめに鞍馬へとてぞのぼられける。其後ひるは終日に師の御坊の御前にて経を誦み、書学して、夕日西にかたぶけば、夜の更けゆくに仏の御燈の消ゆるまではともに物を読み、五更の天にもなれ共あまもよひもすぐまで、学問に心T041をのみぞ尽しける。東光坊も山・三井寺にも是ほどの稚児あるべしとも覚えず、学問の性と申し、心様眉目形類なくおはしければ、量智坊の阿闍梨、覚日坊の律師も「かくて廿歳ばかりまでも学問し給ひ候はば、鞍馬の東光坊より後も仏法の種をつぎ、多聞の御宝にもなり給はんずる人」とぞ申されける。母もこれを聞き「牛若学問の性よく候ふとも、里につねにありなんとし候はば、心も不用になり、学問をも怠りなんず。恋しく見たけれと申し候はば、わざと人を賜り候ひて、母はそれまで参り、見もし、人に見えられて返し候はん」と申されける。「さなくとも稚児を里へ下す事おぼろげならぬにて候ふ」〔とて〕、一年に一度、二年に一度も下さる。かゝる学問の性いみじき人の如何成天魔のすゝめにやありけん、十五と申す秋の頃より学問の心以ての外に変りけり。その故は古き郎等の謀反をすゝむるにてぞありける。
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四 正門坊の事 S0104
四条室町に古りたる郎等のありける。すり法師なりけるが、これは恐ろしき者の子孫なり。左馬頭殿の御乳母子鎌田の次郎正清が子なり。平治の乱のときT042は十一歳になりけるを、長田の庄司これを斬るべきよし聞えければ、外戚〔の〕親しき者ありけるが、やう/\に隠し置き〔て〕、十九にて男になして、鎌田三郎正近とぞ申しける。正近二十一の年思ひけるは保元に為義討たれ給ひぬ。平治に義朝討たれ給ひて後は、子孫絶え果てて、弓馬の名を埋んで、星霜を送り給ふ。そのとき清盛に亡ぼされし者なれば、出家して諸国を修業して、主の御菩提をもとぶらひ、親の後世をもとぶらひ候はばやと思ひければ、鎮西の方へぞ修行しける。筑前国御笠の郡大宰府の安楽寺といふ所に学問してありけるが、故郷の事を思ひいだして、都に上りて、四条の御堂に行ひ澄ましてゐたりけり。法名をば正門坊とぞ申しける。又四条の聖とも申しけり。勤行のひまには平家の繁昌しけるをみて、めざましくぞ思ひける。如何なれば平家の大政大臣の官に上り、末までも臣下卿相になり給ふらん。源氏は保元、平治の合戦にみなほろぼされて、大人しきは斬られ、幼いはこゝかしこに押篭められ
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て、今まで頭を〔も〕差出だし給はず。果報も生まれ変り、心も剛にあらんずる源氏の、あはれ思召したち給へかし。何方へなりとも御供して世を乱し、本意を遂げばやとぞ思ひける。勤行の隙々には指を折りて、国々の源氏をぞ数へける。紀伊国には新宮十郎義盛、河内国には石川判官義通、T043 摂津国には多田蔵人行綱、都には源三位頼政卿、京君円信、近江国には佐々木源三秀義、尾張国には蒲の冠者、駿河国には阿野禅師、伊豆国には兵衛佐頼朝、常陸国には志太三郎先生義範、佐竹別当昌義、上野国には利根、吾妻、これは国をへだてて遠ければ、力及ばず。都近き所には鞍馬にこそ頭殿の末の御子、牛若殿とておはする者を、参りて見奉り心がらげにげにしくおはしまさば、文賜はりて、伊豆国へ下り、兵衛佐殿の御方に参り、国を催ほして、世を乱さばやと思ひければ、折節その頃四条の御堂も夏の時分にてありけるを打捨てて、やがて鞍馬へとぞ上りける。別当の縁にたゝずみけるほどに、「四条の聖おはしたり」と申しければ、「承候」と申し、さらばとて東光坊のもとにぞ置かれける。内々には悪心をさしはさみ、T044謀反を起して来れるとも知らざりけり。ある夜のつれづれに、人靜まつて、牛若殿のおはする所へ参りて、御耳に口をあてて申しけるは、「知召されず候や、今まで思召し立ち候はぬ。君は清和
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天皇十代の御末、左馬頭殿の御子、かく申すは頭殿の御乳母子に鎌田次郎兵衛が子にて候ふ。御一門の源氏国々に打篭められておはするをば、心憂しとは思召されず候ふや」と申しければ、その頃平家の世を取りて盛なれば、たばかりて云ふやらんと打解け給はざりければ、源氏重代の事を委しく申しける。身こそ知り給はねども、かねて左様の者有りと聞きしかば、さては一所にては叶ふまじ。所々にてとて正門坊をば返されけり。
五 牛若貴船詣の事 S0105
正門に逢ひ〔て〕給ひて後は、学問の事〔は〕跡形なく忘れはてて、明暮謀反の事をのみぞ思召しける。謀反を起す程ならば、早業をせでは叶ふまじ。まづ早業を習はんとて、この坊は諸人の寄合所なり。如何にも叶ひがたきとて、鞍馬の奥に僧正が谷といふ所あり。昔は如何なる人の崇め奉りけん、貴船T045の明神とて霊験殊勝にわたらせ給ひける。智恵ある上人もおこなひ〔給ひ〕けり。鈴の声もおこたらず。神主も有けるが、御神楽の鼓の音も絶えず、あらたにわたらせ給ひしかども、世末になれば、仏の方便も神の験徳も劣らせ給ひて、人住み荒し、偏へに天狗の住家と
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なりて、夕日西にかたぶけば、物怪をめきさけぶ。されば参りよる人をも取りなやます間、参篭する人もなかりけり。されども牛若かゝる所のあるよしを聞き給ひ、昼は学問をし給ふ体にもてなし、夜は日頃一所にてともかくもなり参らせんと申しつる大衆にも知らせずして、別当の御護りに参らせたる敷妙といふ腹巻に黄金作りの太刀帯きて、たゞ一人貴船の明神へ参り給ひ、念誦申させ給ひけるは、「南無大慈〔大悲〕の明神、八幡大菩薩」〔と〕掌を合せて、源氏を守らせ給へ。宿願誠〔に〕成就あらば、玉の御宝殿〔を〕造り、千町の所領を寄進し奉らん」と祈誓し〔て〕、正面より未申にむかひて立ち給ふ。四方の草木をば平家の一類と名づけ、大木二本ありけるを一本をば清盛と名づけ、太刀を抜きて、散々に切り、ふところより毬杖の玉の様なる物をとり出だし、木の枝にかけ〔て〕、一つをば重盛が首と名づけ、一つをば清盛が首とて懸けられけるが、かくて暁にもなれば、我方に帰り、衣引かづきて臥し給ふ。〔人〕これを知らず。和泉と申す法師の御介錯申しけるが、此御有様T046只事にはあらじと思ひて、目を放さず、ある夜御跡を慕ひて隠れて叢の蔭に忍び〔ゐ〕て見ければ、斯様に振舞ひ給ふ間、いそぎ鞍馬に帰りて、東光坊に此よし申しければ、阿闍梨大きに驚き、量智坊の阿闍梨に告げ、寺に触れて、「牛若殿の御髪剃り奉れ」
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とぞ申されける。量智坊此事を聞き給ひて、「幼き人も様にこそよれ。容顔世に越えておはすれば、今年の受戒いたはしくこそおはすれ。明年の春の頃剃り参ら〔さ〕せ給ヘ」と申しければ、「誰も御名残はさこそと思ひ候へ共、斯様に御心不用になりて御わたり候へば、我がため、御身のため然るべからず候ふ。たゞ剃り奉れ」と宣ひければ、牛若殿何ともあれ、寄りて剃らんとする者をば、突かんずる物をと、刀の柄に手を掛けておはしましければ、左右なく寄りて剃るべし共見えず。覚日坊T047の律師申されけるは、「これは諸国の寄合所にて靜かならぬ間、学問も御心に入らず候へば、それがしが処は傍にて候へば、御心靜かにも御学問候へかし」と申されければ、東光坊もさすが〔に〕いたはしく思はれけん、さらばとて覚日坊へ入れ奉り給ひけり、御名をば変へられて遮那王殿とぞ申しける。それより後には貴船〔の〕詣も止まりぬ。日々に多聞に日参して、謀反の事をぞ祈られける。
六 吉次が奥州物語の事 S0106
かくて年も暮れぬれば、御年十六にぞなり給ふ。〔正月の末二月の初めの事なるに、〕多聞の御前に参りて所作しておはしける所に、
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その頃三条に大福長者あり。其の名を〔ば〕吉次信高とぞ申しける。毎年奥州に下る金商人なりけるが、鞍馬を信じ奉りける間、それも多聞に参りて念誦してゐたりけるが、この幼い人を見奉りて、あらうつくしの御児や、如何なる人の君達やらん。然るべき人にてましまさば、大衆も数多付き参らすべきに、度々見申すに、たゞ一人おはしますこそ怪しけれ。此山に左馬頭殿の君達のおはする物を。「誠やT048らん、秀衡も「鞍馬と申す山寺に左馬頭殿の君達おはしますなれば、太宰大弐〔位〕清盛の、日本六十六ケ国を従へんと、つねは宣ふなるに、源氏の御君達を一人下し参らせ、磐井郡に京を建て、二人の子供を両国の領主させて、秀衡生きたらんほどは、大炊介になりて、源氏を君とかしづき奉り、上見ぬ鷲のごとくにてあらばや」と宣ひ候ふ物を」と言ひ奉り、拐し参らせ、御供して秀衡の見参に入れ、引出物取りて徳付けばやと思ひ、御前に畏つて申しけるは、「君は都には如何なる人の君達にておはしますやらん、これは京の者にて候ふが、金を商ひて毎年奥州へ下る者にて候ふが、奥方に知召したる人や御入候ふ」と申しければ、「片ほとりの者なり」と仰せられて、返事もし給はず。これこそは、聞ゆる黄金商人吉次といふ〔者〕なり。奥州の案内者やらん、彼に問はばやと思し召して「陸奥と云は、如何ほどのひろき国ぞ」と問ひ
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給へば、「大過の国にて候ふ。常陸国と陸奥国との堺、菊田」の関と申して、出羽と奥州との堺をばなん関と申す。その中五十四郡と申しければ、「その中に源平の乱出で来たらんに、用に立つべき者如何ほどあるべき」と問ひ給へば、国の案内は知りたり。吉次暗からずぞ申しける。「昔両国の大将軍をばをかの大夫とぞ申しける。かれ〔ら〕が一人の子あり。〔安倍権守とぞ申しける。T049子供あまたあり。〕嫡子厨川次郎貞任、二男鳥の海三郎宗任、家任、盛任、重任とて六人の末の子に境の冠者りやうぞうとて、霧をおこし霞〔を〕立て、敵起るときは水の底海の中にて日を送りなどする曲者なり。かれら兄弟たけの高さ唐人にも越えたり。貞任が丈は九尺五寸、宗任が丈は八尺五寸、何れも八尺に劣るはなし。中にも境の冠者は一丈三寸候ひける。安倍権守の世までは宣旨院宣にも畏れて、毎年上洛して逆鱗を休め奉る。安倍権守死去の後は宣旨を背き、偶々院宣なる時は、北陸道七箇国の片道を賜はりて上洛仕るべきよし申され候ひければ、片道賜るべきとて下さるべかりしを、公卿僉議ありて、「これ天命を背くにこそ候へ。源平の大将を下し、追討せさせ給へ」と申されければ、源の頼義勅宣を承りて、十一万騎の軍兵を率して、安倍を追討の為に陸奥国へ下り給ふ。駿河国の住人高橋大蔵大夫に先陣をさせて、下野国いもうといふ所に著き、貞任これを聞きて、厨川の城を去つて阿津賀志
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の中山を後にあてて、安達の郡に木戸を立て、行方の原に馳せ向ひて、源氏を待つ。大蔵の大夫大将として五百余騎白川関うち越えて行方の原に馳せつき、貞任を攻む。其日のいくさにうち負けて、浅香の沼へひきしりぞく。伊達郡阿津賀志の中山にたて篭り、源氏は信夫の里摺上河の端、はやしろとT050いふ所に陣を取つて、七年よるひる戦ひくらすに、源氏の十一万騎みな討たれて、叶はじとや思ひけん、頼義京へ上りて、内裏に参り、頼義叶ふまじきよしを申されければ、「汝叶はずは、代官を下し、いそぎ追討せよ」と重ねて宣旨下されければ、いそぎ六条堀河の宿所へ帰り、十三になる子息を内裏に参らせけり。「汝が名をばなにといふぞ」と御尋ねありけるに、「辰の年の辰の日の辰の時にうまれ〔て〕候」とて、「名をば源太と申し候ふ」と申しければ、無官の者に合戦の大将さする例なしとて、元服せさせよとて、後藤内範明をさし添へられて、八幡宮にて元服させて、八幡太郎義家と号す。その時御門より賜はりたる鎧をこそ源太が産衣と申しけり。秩父十郎重国先陣を承りて、奥州へ打ち下る。阿津賀志の城を攻めけるに、猶も源氏うち負けて、事T051悪しかりなんとて、いそぎ都へ早馬を立て、このよしを申しければ、年号が悪しければとて、康平元年とあらためられ、同き年四月二十一日阿津賀志の城を追落す。しからざるにかゝりて伊奈関を攻め越えて、最上郡に篭る。源氏つゞい
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て攻め給ひしかば、雄勝の中山をうち越えて、仙北金沢の城にひき篭り。それにて一両年を送りたゝかひつれども、鎌倉権五郎景政、三浦平大夫為継、大蔵大夫光任、これらは命をすてて攻めける程に、金沢の城をも落されて、白木山にかゝりて、衣川の城に篭る。為継、景政重ねて攻めかゝる。康平三年六月二十一日に貞任は大事の手を負ひ、梔子色の衣を着て、磐手の野辺にぞ伏しにける。弟の宗任は降人となる。境の冠者、後藤内生捕にしてやがて斬られぬ。義家都に馳せのぼり、内裏の見参に入れて、末代までの名をあげ給ふ。そのとき、奥州へ御伴申し候ひし三つうの少将に十一代の末淡海の後胤、藤原清衡と申す者国の警護に留められて候ひけるが、わだの郡にありければ、わだの清衡と申し候ひし、両国を手ににぎつて候ひし、十四道の弓とり五十万騎、秀衡が伺候の郎等十八万騎もちて候ふ。これこそ源平の乱出で来らば、御方人ともなりぬべき者にて候へ」と申しける。T052
七 遮那王殿鞍馬出の事 S0107
遮那王殿これを聞き給ひて、かねて聞きしにすこしも違はず、世にある者ごさんなれ。あはれ下らばや。左右なく頼まれたらば、十八万騎の勢を十万騎をば国にとゞめ、八万騎をば率して、坂東
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にうち出で、八ケ国は源氏にこゝろざしある国なり。下野殿の国なり。これをはじめとして十二万騎を催し〔て〕二十万騎になして、十万騎をば伊豆国兵衛佐殿に奉り、十万騎をば木曾殿につけて、我身は越後国にうち越え、鵜川、佐橋、金津、奥山の勢を催して、越中、能登、加賀、越前の軍兵を靡けて、十万騎になして、荒乳の中山を馳せ越えて、西近江にかゝりて、大津の浦に著きて、坂東の二十万騎を待得て、逢坂の関をうち越えて、都にせめ上り。十万騎をば天下の御所に参らせて、源氏すごさんよしを申さんに平家猶も都に繁昌して空しかるべくば、名をば後の世にとゞめ、屍をば都に曝さん事身に取つては何の不足かあるべきと思ひたち給ふも十六の盛には恐ろしく〔ぞ〕覚えける。この男奴に知らせばやと思し召し〔て〕、近く召して仰せられけるは、「なんぢなれば知らするぞ。人に披露あるべからず。われこそT053左馬頭義朝が子にてあれ、秀衡がもとへ文一つ言伝ばや。何時の頃返事を取りてくれんずるぞと仰せられければ、吉次座敷をすべりおり、烏帽子の先を地につけて申しけるは、「御事をば秀衡以前に申され候ふ。御文よりもたゞ御下り候へ、道のほど御宿直仕り候はんずる」と申しければ、文の返り事待たんも心もとなし。さらば連れて下らばやと思召しける。「何時の頃下り候はんずるぞ」と宣へば、「明日吉日にて候あひだ、形の如くの門出つかまつり候はんずる」と申しけれ
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ば、「さらば粟田口十禅師の御前にて待たんずるぞ」と宣ひければ、吉次〔は〕「さ承り候」とて下向してけり。遮那王殿別当の坊に帰りて心の中ばかりに出立ち給ふ。七歳の春の頃より十六のいまに至るまで、朝にはけうくんの霧を払ひ、夕には三光の星をいたゞき、日夜朝暮なれし馴染の師匠の御名残もいまばかりと思はれければ、しきりに忍ぶとし給へ共、涙にむせび給ひけり。されども〔心〕弱くては叶ふべきにあらざれば、承安四年二月二日の曙に鞍馬をぞ出で給ふ。白き小袖一かさねに唐綾を着かさね、播磨浅葱の帷子をうへに召し、白き大口に唐織物の直垂めし、敷妙といふ腹巻着篭めにして、紺地の錦にて柄鞘つゝみたる守刀、黄金作の太刀帯いて、薄化粧に眉細くつくりて、髪たかく結ひあげ、心ぼそげにて壁をT054隔てて出でたち給ふが、われならぬ人の訪れて通らん度にさる者これにありしぞと思ひ出でて、あとをも弔ひ給へかしとおもはれければ、漢竹の横笛をとり出だし、半時ばかり吹きて、音をだにあとの形見とて、泣く/\鞍馬を出で給ひ、その夜は四条の正門坊の宿へ出で〔させ〕給ひて、奥州へ下るよし仰せられければ、善悪御伴申し候はんと出で立ちけり。遮那王殿宣ひけるは、「御辺は都にとゞまりて、平家のなりゆく様を見て知らせよ」とて、京にぞとゞめられける。さて遮那王殿粟田口まで出で給ふ。正門坊もそれまで送り奉り、十禅師の御前にて、吉次を待ち
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給へば、吉次いまだ夜深に京を出でて、粟田口に出で来る。種々の宝を二十余疋〔の馬〕に負せて先に立て、我身は京を尋常にぞ出で立ちける。あひ/\【間々】引柿したる摺尽しの直垂に秋毛T055の行縢はいて、黒栗毛なる馬に角覆輪の鞍置きてぞ乗りたりける。稚児を乗せ奉らんとて、月毛なる馬に沃懸地の鞍を置きて、大斑の行縢、鞍覆にしてぞ出で来る。遮那王殿「如何に、約束せばや」と宣へば、馬より急ぎ飛んで下り、馬引き寄せ乗せ奉り、かゝる縁に会ひけるよと世に嬉しくぞ思はせ給ひける。吉次を招きて宣ひけるは、「宿の馬の腹筋馳せ切つて、雑人めらが追着かん。かへりみるに駆足になつて下らんと覚ゆるなり。鞍馬になしと言はば、都に尋ぬべし。都になしと言はば、大衆共定めて東海道へぞ下らんずらんとて、摺針山よりこなたにて追掛けられて、帰れと言はんずる者なり。帰らざらんも仁義礼智信にもはづれなん。都は敵の辺也。足柄山を越えんまでこそ大事なれ。坂東といふは源氏にこゝろざしのある国なり、言葉の末を以て、宿々の馬取りて下るべし、白川の関をだにも越えば、秀衡が知行の所なれば、雨のふるやらん、風のふくやらんも知るまじきぞ」と宣へば吉次是を聞きてかゝる恐ろしき事あらじ。毛のなだらかならん馬一疋をだにも乗給はずして、恥ある郎等の一騎をだにも具し給はで、現在の敵の知行
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する国の馬を取りて下らんと宣ふこそ恐ろしけれとぞ思ひける。されども命に従ひ、駒を早めて下る程に松坂をも越えて、四の宮河原を見て過ぎ、逢坂の関うち越えて大津の浜T056をも通りつゝ勢田の唐橋うち渡り、鏡の宿に著き給ふ。長者は吉次が年頃の知る人なりければ、女房あまた出だし〔つゝ〕、色々にこそもてなしけれ。