太平記(国民文庫)
太平記巻第四十

○中殿(ちゆうでん)御会(ごくわいの)事(こと) S4001
貞治(ぢやうぢ)六年三月十八日、長講堂(ちやうかうだう)へ行幸あり。是(これ)は後白河法皇の御遠忌(ごゑんき)追賁(つゐひ)之(の)御為に、三日まで御逗留(ごとうりう)有て法花御読経(みどきやう)あり。安居院(あぐゐ)の良憲(りやうけん)法印・竹中(たけのうちの)僧正(そうじやう)慈照(じせう)、導師にぞ被参ける。難有法会(ほふゑ)なれば、聴聞の緇素(しそ)不随喜云(いふ)者なし。惣(そう)じて此(この)君御治天(ちてん)の間、万(よろ)づ継絶、興廃御坐(おはしま)す叡慮也(なり)しかば、諸事の御遊(ぎよいう)に於(おい)て、不尽云(いふ)事不御座。故(ゆゑ)に中殿(ちゆうでんの)御会(ごくわい)は、累世(るゐせ)の規摸(きぼ)也(なり)。然(しか)るを此(この)御世に未(いまだ)無其沙汰。仍連々に思食(おぼしめし)立(たち)しかば、関白殿(くわんばくどの)其(その)外の近臣内々被仰合、中殿の宸宴(しんえん)は大儀なる上、毎度天下の凶事(きようじ)にて先規不快(せんきふくわいの)由(よし)、面々一同に被申ければ、重(かさね)て有勅定(ちよくぢやう)けるは、聖人有謂、詩三百一言(さんぱくいちげん)思無邪と。されば治(をさま)れる代の音(こゑ)は安(やすく)して楽(たのし)む。乱れたる代の音(こゑ)は恨(うらみ)て忿(いか)るといへり。日本哥(やまとうた)も可如此。政(まつりこと)を正(ただ)して邪正(じやせい)を教へ、王道の興廃を知(しる)は此(この)道也(なり)。されば昔の代々(だいだい)の帝も、春(はる)の花の朝(あした)・秋の月の夜、事に付(つけ)つゝ哥を合(あは)せて奉らん人の慧(めぐ)み、賢愚(さかしくおろか)なるをも知食(しろしめし)けるにや。神代(じんだい)の風俗(ならはし)也(なり)。何(いづ)れの君か是(これ)を捨(すて)給(たまは)ん。聖代の教誡(けうかい)也(なり)。誰人か不哢之。抑中殿の宸宴(しんえん)と申侍るは、後冷泉院天喜四年三月画工(ぐわこう)の桜花(さくらばな)を叡覧有て土御門大納言師房(もろふさ)卿(きやう)に勅して、「新成桜花。」と云(いふ)題を令献、清涼殿に召群臣(ぐんしん)御製を被加、同(おなじく)糸竹(しちく)の宴会あり。自爾以来(このかた)、白河(しらかはの)院(ゐん)応徳元年三月左大弁(さだいべん)匡房(ただふさ)に勅して「花契多春。」と云(いふ)題を令献、於中殿被講之。又堀河(ほりかはの)院(ゐんの)御代(みよ)永長元年三月権大納言(ごんだいなごん)匡房(ただふさ)卿(きやう)に課(おほせ)て、「花契千年。」と云(いふ)題を令献、宴遊を被伸。又崇徳(しゆとく)院(ゐんの)御宇(ぎよう)天承元年十月、権中納言師頼(もろより)に勅して、「松樹緑久。」と云(いふ)題を令献、宸宴(しんえん)有(あり)き。其(その)後建保六年八月順徳院光明峯寺(くわうみやうぶじ)の関白に勅して、「池月久澄。」と云(いふ)題を令献被講き。次(つぎに)後醍醐(ごだいごの)院(ゐんの)御宇(ぎよう)元徳二年二月、権中納言為定(ためさだ)卿(きやう)に勅して、「花契万春。」と云(いふ)題にて、中殿の御会を被行之。此(この)外承保二年四月・長治二年三月・嘉承二年三月・建武二年正月、清涼殿にして和哥の宴雖在之、非一二度(にど)、中殿の御会(ごくわいの)先規(せんき)には不加侍にや。加様(かやう)の先蹤(せんしよう)皆聖代(せいだいの)洪化(こうくわ)なり。何ぞ不快の例(れい)といはんや。然(しかる)に今年の春は九城の裏(うち)の花香(かうばし)く、八島の外に風治(をさま)れる時至れり。早く尋建保芳躅、題並(ならびに)序の事。関白可被献之(の)由(よし)強(しひ)て有勅定(ちよくぢやう)しかば、中殿の御会の事内々已(すで)に定りにけり。征夷将軍も、此(この)道に数奇(すき)給ふ事なれば、勅撰なんど被申行上、近比(ちかごろ)は建武の宸宴(しんえん)、贈(ぞう)左府の嘉躅(かしよく)非無由緒、被仰出しかば、不及子細領掌被申けり。因此蔵人左少弁(くらんどのさせうべん)仲光を奉行にて、三月二十九日を被定。勅喚(ちよくくわん)の人々に賦題。「花多春友。」と云(いふ)題を、任建保例兼日(けんじつ)に関白被出けるとかや。既(すで)に其(その)日(ひ)に成(なり)しかば、母屋(もや)の廂(ひさし)の御簾(みす)を捲(まい)て、階(はし)の西の間(ま)より三間(さんげん)北にして、二間(ふたま)に各(おのおの)菅(すげ)の円座(ゑんざ)を布(しき)て公卿の座とす。長治元年には雖為二行、今度は関白殿(くわんばくどの)の加様(かやう)に座を被設。御帳(みちやう)の東西には三尺(さんじやく)の几帳(きちやう)を被立、昼の御座の上には、御剣(ぎよけん)・御硯箱(すずりばこ)を被措たり。大臣の座(ざの)末(すゑ)、参議の坐の前には、各(おのおの)高灯台(たかとうだい)を被立たり。関白直廬(ちよくろ)より御参あれば、内大臣(ないだいじん)已下相随(あひしたが)ひ給ふ。任保安例今日既(すで)に直衣(なほし)始(はじめ)の事あり。前駆(せんく)・布衣(ほい)・随身(ずゐじん)の褐衣(かつい)如常なれば、差(さし)たる見事は無(なか)りけり。丑刻(うしのこく)許(ばかり)に将軍已(すで)に参内あり。其行妝(そのぎやうさう)見物の貴賎皆(みな)目を驚かせり。公家家礼(けらい)の人々には、為秀(ためひで)・行忠(ゆきだだ)・実綱(さねつな)卿(きやう)・為邦(ためくに)朝臣(あつそん)なんど庭上に下(おり)て礼あり。左衛門の陣の四脚(よつあし)に、将軍即(すなはち)参入あり。先(まづ)帯刀(たてはき)十人(じふにん)左右に相番(あひつがう)て曳列。左は佐々木(ささきの)佐渡(さどの)四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)時秀、地白(ぢしろ)の直垂(ひたたれ)に金銀の薄(はく)にて四日結(よつめゆひ)を挫(おし)たる紅(くれなゐ)の腰に、鰄(かひらぎ)の金作(こがねづくり)の太刀を帯(は)く。右は小串(こくし)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)詮行(のりゆき)、地緇(ぢぐろ)の直垂(ひたたれ)に、銀薄(ぎんばく)にて二雁(ふたつかり)を挫(おし)白太刀を佩(は)く。次(つぎに)伊勢七郎左衛門(しちらうざゑもん)貞行(さだゆき)、地白(ぢしろ)の直垂に、金薄(きんばく)にて村蝶(むらてふ)を押(おし)て白太刀を佩(はい)て左に歩(あゆ)む。右は斉藤三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)清永(きよなが)、地香(ぢかう)の直垂に、二筋違(ふたつすぢちがへ)の中に、銀薄にて■菱(なでしこ)を押(おし)たる黄腰(きごし)に、鰄(かひらぎ)の太刀を佩(はい)たり。次に大内(おほち)修理(しゆりの)亮(すけ)、直垂に金薄にて大菱(おほびし)を押す。打鰄(うちざめ)に金作(こがねづくり)の太刀を帯(は)く。右は海老名(えびな)七郎左衛門(しちらうざゑもんの)尉(じよう)詮季(のりすゑ)、地黒(ぢぐろ)に茶染(ちやぞめの)直垂に、金薄にて大笳篭(おほかご)を押して、黄なる腰に白太刀帯(はい)たり。次(つぎに)本間左衛門太郎義景、地白紫の片身易(かたみがはり)の直垂に金銀の薄(はく)にて十六(じふろく)目結(めゆひ)を押(おし)、紅(くれなゐ)の腰に白太刀を佩(は)く。右に山城四郎左衛門(しらうざゑもんの)尉(じよう)師政(もろまさ)、地白に金泥(こんでい)にて州流(すながれ)を書(かき)たる直垂に、白太刀佩(はい)て相随ふ。次に粟飯原(あいはら)弾正左衛門(だんじやうざゑもんの)尉(じよう)詮胤(のりたね)、地黄■(かりやす)に銀泥(ぎんでい)にて水を書(かき)、金泥にて鶏冠木(かへで)を書(かき)たる直垂に、帷(かたびら)は黄なる腰に白太刀を帯(はい)たり。由々敷(ゆゆしく)ぞ見へたりける。此(この)次に征夷大将軍正二位(しやうにゐの)大納言源(みなもとの)朝臣(あつそん)義詮卿、薄色(うすいろ)の立紋(たてもん)の織物(おりもの)の指貫(さしぬき)に、紅(くれなゐ)の打衣を出し、常の直垂也(なり)。左の傍(わき)に山名民部少輔(みんぶのせう)氏清(うぢきよ)、濃(こき)紫の指貫に款冬(やまぶき)色の狩衣著(ちやく)して帯剣(たいけん)の役に随(したが)へり。右は摂津掃部(かもんの)頭(かみ)能直(よしなほ)、薄色の指貫、白青(あさぎの)織物(おりもの)の狩衣著て沓(くつ)の役に候(こう)す。佐々木(ささきの)備前五郎左衛門(ごらうざゑもんの)尉(じよう)高久、二重(ふたへ)狩衣にて御調度(おんてうど)の役に候(こう)す。本郷左近(さこんの)大夫(たいふ)将監(しやうげん)詮泰(のりやす)は、香(かう)の狩衣にて笠の役に随(したが)ふ。今河伊予(いよの)守(かみ)貞世は侍所にて、爽(さはや)かに胄(よろう)たる随兵、百騎(ひやくき)許(ばかり)召具して、轅門(ゑんもん)の警固に相随(あひしたがふ)。此(この)外土岐伊予(いよの)守(かみ)直氏・山城中務少輔(なかつかさのせう)行元・赤松大夫判官(たいふのはうぐわん)光範・佐々木(ささきの)尾張(をはりの)守(かみ)高信・安東信濃(しなのの)守(かみ)高泰・曾我美濃(みのの)守(かみ)氏助・小島掃部(かもんの)助(すけ)詮重・朝倉小次郎詮繁・同又四郎高繁・彦部(ひこべ)新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)秀光。藤民部五郎左衛門(ごらうざゑもん)盛時・八代(やしろ)新蔵人師国・佐脇(さわき)右京(うきやうの)亮(すけ)明秀・藁科(わらしな)新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)家治・中島弥次郎(やじらう)家信・後藤伊勢(いせの)守(かみ)・久下(くげ)筑前(ちくぜんの)守(かみ)・荻野(をぎの)出羽(ではの)守(かみ)・横地(よこち)山城(やましろの)守(かみ)・波多野出雲(いづもの)守(かみ)・浜名左京(さきやうの)亮(すけ)・長次郎、是等(これら)の人々思々(おもひおもひ)の直垂にて、飼(かう)たる馬に厚総(あつぶさ)係(かけ)て、折花尽美。将軍堂上(だうじやう)の後、帯刀の役人は、皆申門の外に敷皮(しきかは)を布(しい)て列居す。先(まづ)依別勅御前(おんまへ)の召あり。関白殿(くわんばくどの)御前(おんまへ)に被参。其(その)後刻限に至て、人々殿上に著座あり。右大臣・内大臣(ないだいじん)・按察使実次(さねつぐ)・藤中納言時光・冷泉中納言為秀・別当忠光・侍従(じじゆう)宰相(さいしやう)行忠・小倉前宰相実名(さねな)・二条(にでうの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)為忠・富小路(とみのこうじ)前(さきの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)実遠なんどぞ被参ける。関白殿(くわんばくどの)奉行(ぶぎやうの)職事(しきじ)仲光を召(めし)て、事の具否(ぐふ)を尋(たづね)らる。軈(やが)て被伺出御。御衣は黄(きの)直衣・打の御袴也(なり)。関白殿(くわんばくどの)著座(ちやくざ)有て後、頭(とうの)左中弁嗣房(つぎふさ)朝臣(あつそん)を召(めし)て、公卿可著坐由を仰(おほ)す。嗣房於殿上諸卿を召す。右大臣・内大臣(ないだいじん)以下、次第に著座有(あり)しかば、将軍は殿上には著座し給はで、直(ぢき)に御前(おんまへ)に進著せらる。爾後(そののち)嗣房朝臣(あつそん)・仲光・懐国(やすくに)・五位(ごゐの)殿上人(てんじやうびと)伊顕(これあき)なんど、面々の役に随(したがつ)て、灯台(とうだい)・円座(ゑんざ)・懐紙(くわいし)等(ら)を措(お)く。為敦(ためあつ)・為有・為邦朝臣(あつそん)・為重(ためしげ)・行輔(ゆきすけ)なんど迄著座ありしか共、右兵衛(うひやうゑの)督(かみ)為遠は御前(おんまへ)には不著、殿上の辺(ほとり)に徘徊(はいくわい)す。是(これ)は建保に定家卿如此の行迹(かうせき)たりし其例(そのれい)とぞ申合(まうしあひ)ける。富小路(とみのこうぢ)前(さきの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)・冷泉院(れんぜいゐん)中納言(ちゆうなごん)・藤中納言・鎌倉(かまくらの)大納言(だいなごん)・内大臣(ないだいじん)・右大臣・関白なんど懐紙の名、膝行(しつかう)皆思々(おもひおもひ)也(なり)。関白は依建保之例雖為序者、任位次置之。又直衣蹈哺(ふみくくみ)て膝行あり。故太閤(たいかう)元徳の中殿の御会に被参しに此(この)作法侍(はんべ)りけるとかや。右大臣依為読師、直(ぢき)に御前(おんまへ)の円座(ゑんざ)に著し給て、講師仲光を召す。又序(じよ)を為講、由別勅時光卿を被召。右大弁為重を召て懐紙を令重。序より次第に是(これ)を読(よみ)上(あげ)たり。春日侍中殿同詠花多春友応製和歌一首(いつしゆ)並(ならびに)序関白従(じゆ)一位(いちゐ)臣(しん)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)良基上。夫天之仁者春也(なり)。地之和者花也(なり)。則天地悠久之道、而施於不仁之仁、玩煙霞明媚之景、而布大和之和。黄鴬呼友、遷万年之枝、粉蝶作舞、戯百里之囿。鑠乎聖徳、時哉宸宴。爰騰哥詠於五雲之間、忽興治世之風。奏簫韶於九天之上、再聞大古之調。況又玉笙之操、高引紫鸞之声焉。奎章之巧、新■(つぐ)素鵝之詞矣。盛乱之世、未必弄雅楽、兼之者此時也(なり)。好文之主、未必携和語、兼之者我君也(なり)。一場偉観千載(せんざい)之(の)徽猷者耶。小臣久奉謁竜顔、忝佐万機之政。親奏鳳詔、聊記一日之遊。其辞曰、つかへつゝ齢(よはい)は老(おい)ぬ行末の千年も花になをや契(ちぎ)らん此(この)次に右大臣正二位(しやうにゐ)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)実俊(さねとし)・内大臣(ないだいじん)正二位(しやうにゐ)臣(しん)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)師良(もろよし)・正二位(しやうにゐ)行(ぎやう)陸奥出羽按察使(あぜちし)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)実継(さねつぐ)、此(この)次は征夷大将軍正二位(しやうにゐ)臣(しん)源(みなもとの)朝臣(あつそん)義詮(よしあきら)・正二位(しやうにゐ)行(ぎやう)権中納言臣藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)時光・正二位(しやうにゐ)行(ぎやう)権中納言藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)為秀(ためひで)・権中納言従三位(じゆさんみ)兼行(けんぎやう)左衛門(さゑもんの)督(かみ)臣(しん)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)忠光、此(この)次(つぎに)参議従三位(じゆさんみ)兼行(けんぎやう)侍従(じじゆう)兼(けん)備中(びつちゆうの)権(ごんの)守(かみ)臣(しん)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)行忠・従三位(じゆさんみ)兼(けん)右兵衛(うひやうゑの)督(かみ)臣(しん)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)為遠(ためとほ)・蔵人内舎人六位上行(ぎやう)式部(しきぶの)大丞(だいじやう)臣(しん)藤原(ふぢはらの)朝臣(あつそん)懐国等(やすくにら)に至(いたる)迄、披講(ひかう)事終て、講師皆(みな)退(しりぞき)給(たまひ)ければ、講誦(かうじゆ)の人々、猶(なほ)可祗候由(よし)、依天気関白読師(どくし)の円座(ゑんざ)に著(つき)給(たまひ)しかば、別勅にて権中納言時光卿を被召、御製の講師として、開匂(さきにほ)ふ雲居の花の本つ枝(え)に百代(ももよ)の春を尚(なほ)や契覧(ちぎらん)講誦(かうじゆ)十返許(ばかり)に及(および)しかば、日已(すで)に内樋(うちひ)に耀(かかや)く程也(なり)。されば物(もの)の色合さだかに、花の薫(にほひ)も懐(なつか)しく、霞(かすみ)立(たつ)気幸(けはひ)も最(いと)艶(えん)なるに、面々の詠哥の声も雲居に通る心地して、身に入許(しむばかり)ぞ聞へける。御製の披講(ひかう)終て、各(おのおの)本坐に退(しりぞ)けば、伶人(れいじん)にあらざる人々も座を退(しりぞ)く。其(その)後軈(やが)て御遊(ぎよいう)始(はじま)り、笛は三条(さんでうの)大納言(だいなごん)実知(さねとも)卿(きやう)、和琴(わごん)は左(ひだんの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)実綱、篳篥(ひちりき)は前(さきの)兵部卿(ひやうぶきやう)兼親(かねちか)、笙(しやう)は前(さきの)右衛門(うゑもんの)督(かみ)刑時(のりとき)、拍子は綾小路(あやのこうぢ)三位(さんみ)成方(なりかた)、琴は公全(きんまさ)朝臣(あつそん)、付歌(つけうた)者(は)宗泰(むねやす)朝臣(あつそん)也(なり)。呂(りよ)には此殿(このとの)・鳥(とり)の破(は)・席田(むしろだ)・鳥(とり)の急(きふ)、律(りつ)には万歳楽(まんざいらく)・伊勢海(いせのうみ)・三台急(さんだいのきう)也(なり)けり。玉笙(ぎよくしやう)の声の中には鳳鳥(ほうてう)も来儀(らいぎ)し、和琴の調(しらべ)の間には鬼神も感動するかとぞ覚(おぼえ)し。此(この)宸宴に有御所作事邂逅(たまさか)也(なり)。建保には御琵琶にて有(あり)ける也(なり)。爾後(そののち)は稀(まれ)なる御事(おんこと)なるを、今此(この)御宇(ぎよう)に詩哥両度の宸宴(しんえん)に、毎度の御所作難有事とぞ聞へし。懸(かか)る大会(たいゑ)は聊(いささか)の故障(こしやう)もある事なるに、一事(いちじ)の違乱煩(わづらひ)なく無為(ぶゐ)に被遂行ぬれば、万邦磯城島(しきしま)の政道に帰(き)し、四海(しかい)難波津(なにはづ)の古風を仰(あふぎ)て、人皆柿本(かきのもと)の遺愛(ゐあい)を恋(こふ)るのみならず、世挙(こぞつ)て柳営(りうえい)の数奇(すき)を感嘆し、翌日午刻(むまのこく)許(ばかり)に人々被退出しかば、目出(めでたし)なんど云ふ許(ばか)りなし。さても中殿の御会と云(いふ)事は、吾朝(わがてうに)不相応宸宴(しんえん)たるに依て、毎度天下に重事(ちようじ)起ると人皆申慣(ならは)せる上、近臣悉(ことごとく)眉(まゆ)を顰(ひそめ)て諌言を上(たてまつり)たりしか共、一切(つやつや)無御承引終(つひ)に被遂行けり。さるに合(あは)せて、同三月二十八日(にじふはちにち)丑刻(うしのこく)に、夥敷(おびたたしく)大変西より東を差(さし)て飛(とび)行(ゆく)と見へしが、翌日(よくじつ)二十九日申刻(さるのこく)に天竜寺(てんりゆうじ)新造の大廈(たいか)、土木の功未終(いまだをへざるに)、失火忽(たちまち)に燃(もえ)出て一時の灰燼(くわいじん)と成(なり)にけり。故(ことさら)に此(この)寺は、公家武家尊崇(そんそう)異于他して、五山第二(だいに)の招提(せうだい)なれば、聊爾(れうじ)にも攘災集福(じやうさいしゆふく)の懇祈(こんき)を専(もつぱら)にする大伽藍(がらん)なるに、時節こそあれ、不思議(ふしぎ)の表示(へうじ)哉(かな)と、貴賎唇(くちびる)をぞ翻(ひるがへ)しける。因慈将軍御参内(ごさんだい)の事は可有斟酌由(よし)、再三被経奏聞しか共、是(この)寺已(すで)に勅願寺たる上者(は)、最(もつとも)天聴を驚(おどろか)す所なれ共(ども)、如此の拠災殃、臨期宸宴を被止事無先規。早(はやく)諸卿に被仰下しかば、此(この)問答に時遷(うつり)て、御参内(ごさんだい)も夜深(よふけ)過(すぐ)る程になり、御遊(ぎよいう)も翌日に及びけるとかや。浅猿(あさまし)かりし事共(ことども)なり。
○左馬(さまの)頭(かみ)基氏逝去(せいきよの)事(こと) S4002
角(かく)ては天下も如何(いか)んと危(あや)ぶめる処に、今年の春(はる)の比(ころ)より、鎌倉(かまくらの)左馬(さまの)頭(かみ)基氏(もとうぢ)、聊(いささか)不例の事有(あり)と聞へしかば、貞治六年四月二十六日(にじふろくにち)、生年二十八歳(にじふはつさい)にて忽(たちまち)に逝去(せいきよ)し給(たまひ)けり。連枝(れんし)の鍾愛(しようあい)は多けれ共(ども)、此(この)別(わかれ)に至ては争(いかで)か可不悲。矧(いはん)や是(これ)は唯二人(ににん)、二翼両輪(によくりやうりん)の如くに華夷(くわい)の鎮憮(ちんぶ)と成(なり)給(たまひ)しかば、さらぬ別(わかれ)の悲(かなし)さもさる事ながら、関東(くわんとう)の柱石(ちゆうせき)摧(くだけ)ぬれば、柳営(りうえい)の力衰(おとろへ)ぬと、愁歎(しうたん)特(こと)に不浅。就之京都大に怖慎(おそれつつしみ)て、祈祷(きたう)なども可有と沙汰ありけり。
○南禅寺(なんぜんじと)与三井寺(みゐでら)確執(かくしつの)事(こと) S4003
同六月十八日、園城寺の衆徒蜂起(ほうき)して、公武(くぶ)に致列訴事あり。其謂(そのいはれ)を何事ぞと尋ぬれば、南禅寺(なんぜんじ)為造営此比(このころ)被建たる於新関、三井寺(みゐでら)帰院の児(ちご)を関務(くわんむ)の禅僧是(これ)を殺害(せつがい)す。是(これ)希代(きたい)の珍事(ちんじ)とて寺門の衆徒鬱憤(うつふん)を散ぜんと、大勢を卒し、不日に推(おし)寄(よせ)て、当務の僧共・人工(にんぐ)・行者(あんじや)に至(いたる)迄、打殺すのみならず、猶(なほ)も憤(いきどほり)を不休、南禅寺(なんぜんじ)を令破却、達磨宗(だるましゆう)の蹤跡(しようせき)を削(けづり)て、為令達宿訴、忽(たちまち)に嗷訴(がうそ)にぞ及(および)ける。即(すなはち)山門・南都へ牒送(てふそう)して、四箇(しか)の大寺の安否を可定由(よし)、已(すで)に往日(わうじつ)の堅約(けんやく)也(なり)。何(なん)の余儀(よぎ)にか可及。一国に触訴(ふれうつたへ)て、事令遅々、神輿(しんよ)・神木・神坐の本尊、共に可有入洛罵(ののし)りければ、■(すは)や天下の重事(ちようじ)出来ぬるはと、有才人は潜(ひそか)に是(これ)を危(あやぶ)みける。され共事大儀なれば、山門も南都も急には不思立。結句(けつく)山門には、東西両塔に様々(さまざま)の異儀(いぎ)有て、三塔(さんたふ)の事書、鳥使(てうし)翅(つばさ)を費許(つひやすばかり)也(なり)。然(しかれ)ば無左右可事行共不覚(おぼえず)、公方の御沙汰(ごさた)は、載許(さいきよ)無其期しかば、園城寺は款状(くわんじやう)徒(いたづら)に被抛て、忿(いかり)の中に日数をぞ送りける。
○最勝講(さいしようかう)之(の)時(とき)及闘諍事(こと) S4004
去(さる)程(ほど)に同八月十八日、最勝講可被行とて、南都・北嶺(ほくれい)に課(おほせ)て、所作の人数をぞ被召(めされ)ける。興福寺(こうぶくじ)より十人(じふにん)、東大寺(とうだいじ)より二人(ににん)、延暦寺(えんりやくじ)より八人(はちにん)也(なり)。園城寺は今度の訴詔に、是非の左右に不及間、不可随公請由所存(しよぞんを)申(まうす)に依て、四箇(しか)の一寺は被除畢(をはんぬ)。証義(しようぎ)は前(さきの)大僧正(だいそうじやう)懐雅(くわいが)・山門の慈能(じのう)僧正(そうじやう)をぞ被召(めされ)ける。講演論場(ろんぢやう)の砌(みぎり)には、学海智水を涌(わか)し、慧剣(ゑけん)を令闘事なるに、南都・北嶺の衆徒等(しゆとら)、於南庭不慮(ふりよ)に喧嘩を引出して、散々の合戦にぞ及(および)ける。紫宸殿(ししんでん)の東、薬殿(くすどの)の前には南都の大衆、西の長階(ながはし)の前には山門の衆徒、列立したりけるが、南都の衆徒は、面々に脇差(わきざし)の太刀なんど用意(ようい)の事なれば、抜連(ぬきつれ)て切て懸(かか)る。山門の大衆は、太刀・長刀も不持ければ争(いかで)か可叶。一歩(いつほ)も不践止、紫宸殿(ししんでん)の大床(おほゆか)の上へ被捲上、足手にも不係けるに、光円坊良覚(りやうかく)・一心坊の越後(ゑちごの)注記(ちゆうき)覚存(かくそん)・行泉坊の宗運・明静(みやうじやう)房の学運・月輪房の同宿円光房・十乗房を始(はじめ)として、宗徒(むねと)の大衆腰刀許(こしがたなばかり)にて取て返し、勇(いさみ)誇(ほこつ)たる南都の衆徒の中へ、面(おもて)も不振切て入る。中にも一心坊の越後(ゑちごの)注記は、南都若大衆の持たる四尺(ししやく)八寸(はつすん)の太刀を引(ひき)奪(うばう)て、我一人の大事(だいじ)と切て廻(まはり)けるに、奈良法師被切立、村雲(むらくも)立て見へける処に、手掻(てんがい)の侍従(じじゆう)房只一人蹈止(ふみとどまり)て、一足(ひとあし)も不退、喚叫(をめきさけん)で切合たり。追ひ廻(まは)し追(おひ)靡(なび)け、時移る程闘(たたかひ)けるに、山門の衆徒、始(はじめ)は小勢にて而(しか)も無(ぶ)用意(ようい)也(なり)ける間、叶(かなふ)べくも不見けるが、山徒の召仕ふ中方(ちゆうはう)の者共(ものども)、太刀・長刀の鋒(きつさき)を調(そろ)へ、四脚(よつあし)の門より込(こみ)入て、縦横無碍(じゆうわうむげ)に切て廻(まはり)しかば、南都の大衆は大勢也(なり)といへ共、怺兼(こらへかね)て、北(きた)の門より一条大路(いちでうのおほぢ)へ、白雲の風に雲珠巻(うずまく)が如(ごとく)にぞ、靉(たなびき)出たりける。されば南庭の白砂(しらすの)上には、手蓋(てんがい)の侍従(じじゆう)を始(はじめ)として、宗(むね)との衆徒八人(はちにん)まで、尸(かばね)を双(ならべ)て切(きり)臥(ふせ)らる。山門方にも手負(ておひ)数(あま)た有(あり)けり。半死半生の者共(ものども)を、戸板・楯(たて)なんどに乗(の)せて、舁連(かきつらね)たる有様、前代未聞(ぜんだいみもん)の事共(ことども)也(なり)。浅猿(あさましい)哉(かな)、紫宸北闕(ししんほくけつ)の雲の上、玄圃茨山(げんほしざん)の月の前には、霜剣(さうけん)の光冷(すさまじく)して、干戈(かんくわ)の場(には)と成(なり)しかば、御溝(ぎよこう)の水も紅(くれなゐ)を流し、著座の公卿大臣も束帯悉(ことごと)く緋(あけ)の色に染成(そめな)して、呆(あきれ)給(たまふ)許(ばかり)也(なり)。さしも是(これ)程の騒動なりしか共、主上(しゆしやう)は是(これ)にも騒がせ給(たまふ)御事(おんこと)もなく、手負(ておひ)・死人共を取捨(とりすて)させ、血を濯(あらひ)清めさせ、席を改(あらため)させられて、最勝講をば無子細被遂行けるとかや。是(これ)則(すなはち)厳重(げんぢゆう)の御願、天下の大会(だいゑ)たるに、斯(かか)る不思議(ふしぎ)出来ぬれば、就公私不吉の前相(ぜんさう)哉と、人皆物を待(まつ)心地ぞせられける。
○将軍薨逝(こうせいの)事(こと) S4005
斯(かか)る処に、同九月下旬の比(ころ)より、征夷将軍義詮身心例ならずして、寝食不快しかば、和気(わけ)・丹波の両流は不及申、医療に其(その)名を被知程の者共(ものども)を召して、様々の治術(ぢじゆつ)に及(および)しか共、彼大聖(かのたいしやう)釈尊(しやくそん)、双林(さうりん)の必滅(ひつめつ)に、耆婆(ぎば)が霊薬も其験(そのしるし)無(なか)りしは、寔(まこと)に浮世の無常を、予(あらかじ)め示し置(おか)れし事也(なり)。何(いづれ)の薬か定業(ぢやうごふ)の病をば愈(いや)すべき。是(これ)明らけき有待転変(うだいてんべん)の理(ことわり)なれば、同(おなじき)十二月七日子刻(ねのこく)に、御年三十八にて忽(たちまち)に薨逝(こうせい)し給(たまひ)にけり。天下久(ひさし)く武将の掌(たなごころ)に入て、戴恩慕徳者幾千万(いくせんまん)と云(いふ)事を不知(しらず)。歎き悲(かなし)みけれ共(ども)、其(その)甲斐更(さら)に無(なか)りけり。さて非可有とて、泣々(なくなく)薨礼の儀式を取営(いとなみ)て、衣笠山(きぬがさやま)の麓(ふもと)等持院(とうぢゐん)に奉遷。同(おなじき)十二日午刻(むまのこく)に、荼毘(だび)の規則(きそく)を調(ととのへ)て、仏事の次第厳重(げんぢゆう)也(なり)。鎖龕(さがん)は東福寺(とうふくじの)長老信義堂(しんぎだう)、起龕(きがん)は建仁寺(けんにんじ)沢竜湫(たくりゆうしう)、奠湯(てんたうは)万寿寺(まんじゆじの)桂岩(けいがん)、奠茶(てんちやは)真如寺(しんによじの)清■(せいぎん)西堂、念誦(ねんじゆは)天竜寺(てんりゆうじの)春屋(しゆんをく)、下火(あこ)は南禅寺(なんぜんじの)定山和尚にてぞをはしける。文々(もんもん)に悲涙(ひるゐ)の玉詞(ぎよくし)を瑩(みが)き、句々に真理の法義を被宣しかば、尊儀速(すみやか)に出三界苦輪、直(ぢきに)到四徳楽邦給(たまひ)けんと哀なりし事共(ことども)也(なり)。去(さる)程(ほど)に今年は何(いか)なる年なれば、京都と鎌倉(かまくら)と相同(おなじ)く、柳営(りうえい)の連枝忽(たちまち)に同根空(むなし)く枯(かれ)給ひぬれば、誰か武将に備(そなは)り、四海(しかい)の乱をも可治と、危(あやふ)き中に愁(うれへ)有て、世上今はさてとぞ見へたりける。
○細河右馬(うまの)頭(かみ)自西国上洛(しやうらくの)事(こと) S4006
爰(ここ)に細河右馬(うまの)頭(かみ)頼之(よりゆき)、其比(そのころ)西国の成敗を司(つかさどつ)て、敵を亡(ほろぼ)し人をなつけ、諸事の沙汰の途轍(とてつ)、少し先代貞永(ぢやうえい)・貞応(ぢやうおう)の旧規(きうき)に相似たりと聞へける間、則(すなはち)天下の管領職(くわんれいしよく)に令居、御幼稚の若君を可奉輔佐と、群議同赴(おなじおもむき)に定りしかば、右馬(うまの)頭(かみ)頼之を武蔵守(むさしのかみ)に補任(ふにん)して、執事職を司(つかさど)る。外相内徳(げさうないとく)げにも人の云(いふ)に不違しかば、氏族も是(これ)を重(おも)んじ、外様(とざま)も彼命(かのめい)を不背して、中夏無為(ちゆうかぶゐ)の代に成て、目出(めでた)かりし事共(ことども)也(なり)。