太平記(国民文庫)
太平記巻第三十九

○大内介(おほうちのすけ)降参(かうさんの)事(こと) S3901
聖人世に出て義を教へ道を正す時だにも、上智は少く下愚(かぐ)は多ければ、人の心都(すべ)て不一致。肆(かるがゆゑ)に尭(げう)の代にすら四凶の族(ぞく)あり。魯国(ろこく)に小星卯(せうせいばう)あり。況(いはんや)時(とき)今澆季(げうき)也(なり)。国又卑賎(ひせん)也(なり)。因何に仁義を知(しる)人有(ある)べきなれ共(ども)、近年我朝(わがてう)の人の有様程うたてしき事をば不承。先(まづ)弓矢取(ゆみやとり)とならば、死を善道に守り名を義路に不失こそ可被思、僅(わづか)に欲心を含(ふくみ)ぬれば、御方に成るも早く、聊(いささか)も有恨、敵になるも易(やす)し。されば今誰をか始終の御方と可憑思。変じ安き心は鴻毛(こうまう)より軽く、不撓志は麟角(りんかく)よりも稀也(なり)。人数(ひとかず)ならぬ小者(こもの)共(ども)の中に、適(たまたま)一度(いちど)も翻(ひるがへ)らぬ人一両人有(あり)といへ共、其(そ)れも若(もし)禄(ろく)を与へ利を含めて呼(よび)出す方あらば、一日も足を不可留。只五十歩に止(とどま)る者、百歩に走るを如咲。見所(けんじよ)の高懸(たかがけ)とかやの風情(ふぜい)して、加様(かやう)の事を申(まうす)共(とも)、書伝の片端(かたはし)を聞たる人は古へを引て、さても百里奚(はくりけい)は虞(ぐ)の君を棄(すて)て、秦の穆(ぼく)公(こう)に不仕、管夷吾(くわんいご)は桓(くわん)公(こう)に降(くだつ)て公子糾(こうしきう)と不死しは如何に、とぞ思(おもひ)給(たまふ)らん。それは誠(まこと)に似たる事は似たれ共(ども)、是(ぜ)なる事は是(ぜ)ならず。彼(かの)百里奚は、虞公の、垂棘(すゐきよく)の玉、屈産(くつさん)の乗(じよう)の賄(まひなひ)に耽(ふけつ)て路を晉(しん)に開(ひらき)しかば、諌(いさめ)けれ共叶(かなふ)まじき程を知て、秦の穆公に仕(つか)へき。管夷吾(くわんいご)は召忽(せうこつ)と共に不死、子路非仁譏(そし)りしかば、豈如匹夫匹婦自経溝壑無知乎と、文宣王(ぶんせんわう)是(これ)を塞(ふさ)ぎ給へり。されば古賢の世を治(をさ)めん為に二君に仕(つかへ)しと、今の人の欲を先として降人(かうにん)に成(なる)とは、雲泥(うんでい)万里の隔(へだて)其(その)中に有(あり)と云つべし。爰(ここ)に大内(おほうちの)介(すけ)は多年宮方(みやがた)にて周防・長門両国を打(うち)平(たひら)げて、無恐方居たりけるが、如何(いか)が思ひけん、貞治(ぢやうぢ)三年の春(はる)の比(ころ)より俄(にはか)に心変(へん)じて、此(この)間押(おさ)へて領知する処の両国を給(たまは)らば、御方に可参由を、将軍羽林の方へ申たりければ、西国静謐(せいひつ)の基(もとゐ)たるべしとて、軈(やが)て所望の国を被恩補。依之(これによつて)今迄弐(ふたごころ)無(なか)りける厚東(こうとう)駿河(するがの)守(かみ)、長門(ながとの)国(くに)の守護職(しゆごしよく)を被召放含恨ければ、則(すなはち)長門(ながとの)国(くに)を落て筑紫へ押渡り、菊池(きくち)と一に成て、却(かへつ)て大内(おほうちの)介(すけ)を攻(せめ)んとす。大内(おほうちの)介(すけ)遮(さへぎつ)て、三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して豊後(ぶんごの)国(くに)に押寄せ、菊池(きくち)と戦(たたかひ)けるが、第二度(だいにど)の軍に負(まけ)て菊池(きくち)が勢に囲(かこま)れければ、降(かう)を乞(こう)て命を助(たすか)り、己(おのれ)が国へ帰(かへつ)て後、京都へぞ上りける。在京の間数万貫の銭貨(せんくわ)・新渡(しんと)の唐物(からもの)等(ら)、美(び)を尽(つく)して、奉行・頭人・評定衆・傾城(けいせい)・田楽(でんがく)・猿楽(さるがく)・遁世者(とんせいしや)まで是(これ)を引(ひき)与へける間、此(この)人に勝(まさ)る御用人有(ある)まじと、未(いまだ)見へたる事もなき先に、誉(ほめ)ぬ人こそ無(なか)りけれ。世上の毀誉(きよは)非善悪、人間の用捨(ようしや)は在貧福とは、今の時をや申すべき。
○山名京兆(けいてう)被参御方事(こと) S3902
山名左京(さきやうの)大夫(たいふ)時氏・子息右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏(もろうぢ)は、近年御敵(おんてき)に成て、南方と引合て、両度まで都を傾(かたむけ)しかば、将軍の御為には上なき御敵(おんてき)なりしか共、内々属縁、「両度の不義全(まつた)く将軍の御世を危(あやぶ)め奉らんとには非(あら)ず。只(ただ)道誉(だうよ)が余(あまり)に本意無(なか)りし振舞(ふるまひ)を思(おもひ)知(しら)せん為許(ばかり)にて候(さうらひ)き。其(その)罪科を御宥免(いうめん)有て、此(この)間領知の国々をだにも被恩補候はゞ、御方に参て忠を致すべき。」由をぞ申たりける。げにも此(この)人御方に成(なる)ならば、国々の宮方(みやがた)力を落すのみならず、西国も又可無為とて、近年押へて被領知つる因幡・伯耆の外、丹波・丹後(たんご)・美作、五箇国(ごかこく)の守護職(しゆごしよく)を被充行ければ、元来多年旧功(きうこう)の人々、皆手を空(むなしく)して、時氏父子の栄花(えいぐわ)、時ならぬ春を得たり。是(これ)を猜(そねみ)て述懐(じゆつくわい)する者共(ものども)、多く所領を持(もた)んと思はゞ、只御敵(おんてき)にこそ成(なる)べかりけれと、口を顰(ひそめ)けれ共甲斐(かひ)なし。「人物競紛花、麗駒逐鈿車。此時松与柏、不及道傍花。」と、詩人の賦(ふ)せし風諭(ふうゆ)の詞(ことば)、げにもと思(おもひ)知(しら)れたり。
○仁木京兆(につきけいてう)降参(かうさんの)事(こと) S3903
仁木左京(さきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)は、差(さし)たる不義は無(なか)りしか共、行迹(ぎやうせき)余(あま)りに思ふ様也(なり)とて、諸人に依被悪、心ならず御敵(おんてき)になり、伊勢(いせの)国(くに)に逃(にげ)下て、長野の城(じやう)に楯篭(たてこも)りたりしを、初めは佐々木(ささきの)六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永(そうえい)・土岐大膳(だいぜんの)大夫入道(たいふにふだう)善忠両人討手を承(うけたまはり)、是(これ)を攻(せめ)けるが、佐々木(ささき)は他事に被召(めされ)て上洛(しやうらく)しぬ。土岐一人国に留て攻(せめ)戦(たたかひ)けれども、義長(よしなが)敢(あへ)て城を不被落。此(この)時(とき)又当国の国司北畠源(げん)中納言(ぢゆうなごん)顕信(あきのぶ)卿(きやう)、雲出川(くもでがは)より西を管領(くわんりやう)して、兵を出し隙(ひま)を伺(うかがう)て戦ひ挑(いどみ)し間、一国三(みつ)に分れて、片時も軍の絶(たゆ)る日もなし。角(かく)て五六年を経て後、義長(よしなが)日来(ひごろ)の咎(とが)を悔(くい)て降参すべき由を被申ければ、「此(この)人元来(もとより)忠功異于他。今又降参せば、伊賀・伊勢両国も静(しづま)るべし。」とて、義長(よしなが)を京都へ返し入られける。是(これ)は勢已(すで)に衰(おとろへ)たる後の降参なりしかば、領知の国もなく、相従(あひしたがひ)し兵も身に不添、李陵(りりよう)が如在胡にして、旧交(きうかう)の友さへ来らねば、省(み)る人遠き庭上(ていじやう)の花、春(はるは)独(ひとり)春(はる)の色なり。鞍馬(あんば)稀(まれ)なる門前の柳、秋(あきは)独(ひとり)秋(あき)の風なり。
○芳賀(はが)兵衛入道(ひやうゑにふだう)軍(いくさの)事(こと) S3904
如斯近年は、敵に成(なり)たりつる人々は皆降参して、貞治改元(かいげん)の後より洛中(らくちゆう)西国静也(なり)といへ共、東国に又不慮の同士軍(どしいくさ)出来して里民(りみん)樵蘇(せうそ)を不楽。其(その)事の起りを尋(たづぬ)れば、此(この)三四年が先に、将軍兄弟の御中悪(あし)く成(なり)給(たまひ)て、合戦に及(および)し刻(きざみ)、上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)、故高倉禅門の方にて、始(はじめ)は上野(かうづけの)国(くに)板鼻(いたばな)の合戦に宇都宮(うつのみや)に打負(うちまけ)て、後には薩■山(さつたやま)の軍に御方(みかた)の負(まけ)をしたりしが、兔角(とかく)して信濃(しなのの)国(くに)へ逃(にげ)下り、宮方(みやがた)に成(なり)て猶(なほ)此(この)所存を遂(とげ)ばやと、時を待てぞ居たりける。上杉斯(かか)る不義を致しけれども、鎌倉(かまくら)左馬(さまの)頭(かみ)基氏、幼少より上杉に懐(いだ)きそだてられたりし旧好(きうかう)難捨思はれければ、以別儀先(まづ)越後国(ゑちごのくに)守護職(しゆごしよく)を与(あたへ)て上杉をぞ被呼出ける。此(この)時(とき)芳賀(はが)兵衛入道(ひやうゑにふだう)禅可(ぜんか)は、越後国(ゑちごのくに)の守護(しゆご)にて有(あり)けるが、「降参不忠の上杉に被思替奉て、忠賞恩補(おんぽ)の国を可被召放様やある。」とて、上杉と芳賀(はが)と越後国(ゑちごのくに)にて及合戦事数月(すげつ)也(なり)。禅可遂(つひ)に打負(うちまけ)しかば当国を上杉に被奪のみならず、一族(いちぞく)若党(わかたう)其(その)数を不知落様(おちさま)に皆討(うた)れにけり。禅可是(これ)を忿(いかつ)て、「哀(あはれ)不思議(ふしぎ)も有て世中(よのなか)乱(みだれ)よかし。上杉と一合戦(ひとかつせん)して此(この)恨(うらみ)を散ぜん。」と憤(いきどほり)けり。斯(かか)る処、上杉已(すで)に左馬(さまの)頭(かみ)の執事に成て鎌倉(かまくら)へ越(こゆ)ると聞へければ、禅可道に馳(はせ)向て戦はんとて、上野の板鼻(いたばな)に陣を取てぞ待(また)せける。然共(しかれども)上杉、上野(かうづけの)国(くに)へも不入先(さき)に、左馬(さまの)頭(かみ)宣(のたま)ひけるは、「何ぞ任雅意加様(かやう)の狼籍(らうぜき)を可致。所存あらば逐(おつ)て可致訴詔処に、合戦の企(くはたて)奇怪(きくわい)の至(いたり)也(なり)。所詮(しよせん)可加退治(たいぢ)。」とて、自(みづから)大勢を卒(そつ)して宇都宮(うつのみや)へぞ被寄ける。禅可此(この)事を聞て、「さらば鎌倉殿(かまくらどの)と先(まづ)戦はん。」とて、我(わが)身は宇都宮(うつのみや)に有(あり)ながら、嫡子伊賀(いがの)守(かみ)高貞・次男駿河(するがの)守(かみ)八百(はつぴやく)余騎(よき)を差副(さしそへ)て、武蔵(むさしの)国(くに)へぞ遣(つかは)しける。此(この)勢坂東路(ばんどうみち)八十里(はちじふり)を一夜(いちや)に打て、六月十七日(じふしちにちの)辰刻(たつのこく)に、苦林野(にがはやしの)にぞ著(つき)にける。小塚(こつか)の上に打(うち)上(あがり)て鎌倉殿(かまくらどの)の御陣を見渡せば、東には白旗一揆(しらはたいつき)の勢五千(ごせん)余騎(よき)、甲胄の光を耀(かかやか)して、明残(あけのこ)る夜の星の如くに陣を張る。西には平一揆(たひらいつき)の勢三千(さんぜん)余騎(よき)、戟矛(げきぼう)勢(いきほ)ひ冷(すさましく)して、陰森(いんしん)たる冬枯(ふゆがれ)の林を見(みる)に不異。中の手は左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)と覚(おぼえ)て、二引両(ふたつひきりやう)の旗一流(ひとながれ)朝日に映じて飛揚(ひやう)せる其陰(そのかげ)に、左輔(さふ)右弼(いうひつ)密(きびし)く、騎射馳突(きしやちとつ)の兵共(つはものども)三千(さんぜん)余騎(よき)にて控(ひか)へたり。上より見越(みこせ)ば数百里に列(つらなり)て、坂東(ばんどう)八箇国(はちかこく)の勢共(せいども)、只今(ただいま)馳(はせ)参ると覚(おぼえ)て如雲霞見へたり。雲鳥(うんてう)の陣堅(かたく)して、逞卒(ていそつ)機(き)尖(するど)なれば、何(いか)なる孫呉(そんご)が術(じゆつ)を得たり共、千騎(せんぎ)に足(たら)ぬ小勢にて懸(かけ)合(あは)すべしと不覚(おぼえず)。芳賀伊賀(いがの)守(かみ)馬に打(うち)乗て、母衣(ほろ)を引繕(ひきつくろ)ひて申けるは、「平一揆(たひらいつき)・白旗一揆(しらはたいつき)は、兼て通ずる子細有(あり)しかば、軍の勝負(しようぶ)に付(つい)て、或(あるひ)は敵ともなり或(あるひ)は御方とも成(なる)べし。跡(あと)にさがりて只今(ただいま)馳(はせ)参る勢(せい)は、縦(たと)ひ何百万騎(なんびやくまんぎ)有(あり)と云(いふ)共(とも)、物(もの)の用に不可立。家の安否(あんぷ)身の浮沈(ふちん)、只一軍(ひといくさ)の中に定むべし。」と高声(かうしやう)に呼(よばはつ)て、前後に人なく東西に敵有(あり)とも思はぬ気色にて、真前(まつさき)にこそ進(すすん)だれ。舎弟(しやてい)駿河(するがの)守(かみ)是(これ)を見て、「軍門に君(きみ)の命なし。戦場に兄(あに)の礼(れい)なし。今日の軍の先懸(さきがけ)は、我ならでは覚(おぼえ)ぬ者を。」と、嗚呼(をこ)がましげに広言(くわうげん)吐(はい)て、兄より先につと懸(かけ)抜(ぬけ)て懸(かけ)入(いる)上は、相従ふ兵共(つはものども)八百(はつぴやく)余騎(よき)誰(たれ)かは是(これ)に可劣、我(われ)先に戦はんと、魚鱗(ぎよりん)に成てぞ懸りける。左馬(さまの)頭(かみ)の基氏、参然(さんぜん)たる敵の勇鋭(ゆうえい)を見ながら機を撓(たわ)め給はず、相懸(あひがか)りに馬を閑々(しづしづ)と歩(あゆ)ませ事もなげに進まれたり。敵時の声三度(さんど)作て些(ちと)擬議(ぎぎ)したる処に、天も落ち地も裂(さく)るかと覚(おぼゆ)る許(ばかり)に、只一声時を作て左右に颯(さつ)と分る。芳賀(はが)が八百(はつぴやく)余騎(よき)を東西より引裹(ひつつつみ)て、弓手(ゆんで)に相付(あひつ)け馬手(めて)に背(そむ)けて、切ては落され、まく(ッ)つまくられつ半時許(はんじばかり)戦て、両陣互に地を易(かへ)、南北に分れて其(その)迹を顧(かへりみ)れば、原野(げんや)血に染(そみ)て草はさながら緑(みどり)をかへ、人馬汗を流(ながして)、堀(ほり)かねの池も血となる。左馬(さまの)頭(かみ)は芳賀が元の陣に取(とり)上(あが)り、芳賀は左馬(さまの)頭(かみ)の始の陣に打上て、共に其(その)兵を見るに、討(うた)れたる者百(ひやく)余人(よにん)、被疵者数を不知(しらず)。「さても宗(むね)との者共(ものども)の中に、誰か討(うた)れたる。」と尋(たづぬ)る処に、「駿河(するがの)守(かみ)殿(どの)こそ、鎌倉殿(かまくらどの)に切(きり)落され給ふと見へつるが、召(めさ)れて候(さうらひ)し御馬(おんむま)の放(はな)れて候(さうらひ)つる。如何様(いかさま)討(うた)れさせ給(たまひ)てや候らん。」と申ければ、兄の伊賀(いがの)守(かみ)流るゝ涙を汗と共に推拭(おしのごひ)て云(いひ)けるは、「只(ただ)二人(ににん)如影随(したが)ふて、死(しな)ば共にと思(おもひ)つる弟を、目の前にて被討、其(その)死骸何(いづ)くに有(あり)共(とも)不見、さてあると云(いふ)事や可有。」とて、切(きり)散(ちら)されたる母衣(ほろ)結継(むすびつい)で鎧ゆり直し、喚(をめ)ひてぞ懸(かけ)入(いり)ける。鎌倉殿(かまくらどの)方(がた)にも、軍兵七十(しちじふ)余人(よにん)討(うた)れたるのみならず、木戸(きど)兵庫(ひやうごの)助(すけ)、両方引(ひき)分(わかれ)つる時、近付(ちかづく)敵に引組(ひつくみ)て、落(おち)重(かさな)る敵に被討ければ、是(これ)を聞(きき)給(たまひ)て、鎌倉殿(かまくらどの)御眼(おんまなこ)血をときたる如くに成て宣(のたま)ひけるは、「此(この)合戦に必(かならず)死なば諸共(もろとも)に死し、生(いき)ば同(おなじく)生(いき)んと、深く契(ちぎり)し事なれば、命を惜(をしむ)べきに非(あら)ず。」とて、如編木子叩(たた)きなしたる太刀の歯本(はもと)を小刀にて削(けづ)り直(なほ)し、打(うち)振(ふつ)て懸足(かけあし)を出し給へば、左右の兵共(つはものども)三千(さんぜん)余騎(よき)、大将の先に馳抜(はせぬけ)て、一度(いちど)に颯(さつ)と蒐(かか)り逢(あ)ひ、追廻(おひまはし)懸違(かけちが)へ、喚(をめ)き叫(さけん)で戦ふ声、さしも広き武蔵野に余る許(ばかり)ぞ聞へける。大将左馬(さまの)頭(かみ)、余(あま)りに手繁(しげ)く懸立(かけたて)々々(かけたて)戦(たたかひ)ける程に、乗(のり)給へる馬の三頭(さんづ)・平頚(ひらくび)三太刀斬(きら)れて、犬居(いぬゐ)にどうとぞ臥(ふし)たりける。是(これ)を大将と見知(みしり)たる敵多かりければ、懸寄(かけよせ)々々(かけよせ)胄を打(うち)落さんと、後(うしろ)より廻(まは)る者あり、飛(とび)下(おり)々々(とびおり)徒立(かちだち)に成(なり)、太刀を打背(そむ)けて組討にせんと、左右より懸る敵あり。され共左馬(さまの)頭(かみ)元来(もとより)力人に勝(すぐ)れ、心飽(あく)まで早(はやく)して、膚(はだへ)撓(たわ)まず目(め)逃(のが)れず、黄石公(くわうせきこう)が伝へし処、李道翁(りだうおう)が授(さづけ)し道、機に膺(あたつ)て心とせし太刀きゝなれば、或(あるひ)は胄の鉢を真二(まつふたつ)に打(うち)破(わ)り、引(ひく)太刀に廻(まは)る敵を斬(きり)居(すゑ)、或(あるひ)は鎧のどう中を不懸打(うち)切て、余る太刀にては、左に懸る敵を払はる。其刃(そのやいば)に胸を冷(ひや)して敵敢(あへ)て不近付。東西開(ひら)け前後晴(はれ)て、弥(いよいよ)大将馬に放(はな)れぬと、見知(みしら)ぬ敵も無(なか)りけり。大高(たいかう)左馬(さまの)助(すけ)重成(しげなり)遥(はるか)に是(これ)を見て、急(いそぎ)馳(はせ)寄り弓手(ゆんで)に下(おり)立て、「穴(あな)夥(おびたたし)の只今(ただいま)の御挙動(おんふるまひ)候や。昔の和泉(いづみ)・朝比奈(あさひな)も是(これ)まではよも候はじ。」と、覿面(てきめん)に奉褒、「早(はや)此(この)馬に召(めさ)れ候へ。」と申せば、左馬(さまの)頭(かみ)悦て、馬の内跨(うちまた)にゆらりと飛(とび)乗て、鞍坪(くらつぼ)に直(なほ)り様(ざま)に、「平家の侍(さむらひ)後藤兵衛が主の馬に乗て逃(にげ)たりしには、遥(はるか)に替(かは)りたる御振舞(おんふるまひ)哉(かな)。」と、「只今(ただいま)こそ誠(まこと)に大高(たいかう)の名は相応(さうおう)したれ。」と、互にぞ褒(ほめ)返されける。其(その)後左馬(さまの)助(すけ)は、放(はな)れ馬の有(あり)けるを取て打乗(うちのり)、所々に村立(むらだち)たる御方(みかた)の勢を相招き、又敵の中へ懸(かけ)入て、時移るまでぞ戦(たたかひ)ける。互に人馬を休めて、両方へ颯(さつ)と引(ひき)分(わかれ)たれば、又鎌倉殿(かまくらどの)の御陣は芳賀(はが)が陣となり、芳賀が陣は二度(ふたたび)鎌倉殿(かまくらどの)の御陣となる。芳賀伊賀(いがの)守(かみ)御方の勢を見巡(みめぐら)して、「八郎(はちらう)がみへぬは、討(うた)れたるやらん。」と親の身なれば心元(こころもと)なげに申けるを、馬の前なる中間(ちゆうげん)、「放(はな)れ馬の数百(すひやく)疋走散(わしりちり)たる中に、毛色(けいろ)・鞍具足(くらぐそく)を委(くはし)く見て候へば、黒鴾毛(くろつきげ)なる馬に連蒻(れんじやく)の鞦(しりがい)懸(かけ)たるは、慥(たし)かに八郎殿(はちらうどの)召(めさ)れたりつる御馬(おんむま)にて候。早(はや)討(うた)れさせ給ひぬとこそ覚へ候へ。」と申ければ、「さて其(その)馬に血や付(つき)たる。」と問ふに、「いや馬の頭(かしら)に矢一筋(ひとすぢ)立て見へ候へ共鞍(くら)に血は候はず。」とぞ答へける。是(これ)を聞てさしも勇(いさ)める伊賀(いがの)守(かみ)、涙を一目に浮(うか)めて、「さては此(この)者幼稚(えうち)なれば被生捕けり。軍暫(しばら)くも隙(ひま)あらば、八郎(はちらう)如何様(いかさま)切られぬと覚ゆ。いさ今一軍(ひといくさ)せん。」と云(いひ)ければ、岡本(をかもとの)信濃(しなのの)守(かみ)富高(とみたか)聞(きき)も敢(あへ)ず莞爾(につこ)とうち笑(わらう)て、「子細候はじ。敵の大将を見知(みしら)ぬ程こそ、葉武者に逢(あう)て組(くん)で勝負はせじと、軍はしにくかりし。今は見知りたり。先に白糸の鎧著て、下(おり)立たりつる若武者(わかむしや)は、慥(たしか)に鎌倉殿(かまくらどの)と見澄(みすま)したり。鎧の毛をしるしにして、組討(くみうち)に討(うち)奉らんずる事、何よりも可安る。」とて、敵に心安(こころやす)く紛(まぎ)れんと、笠符(かさじるし)を取て投(なげ)捨(すて)、時衆(じしゆう)に最期(さいご)の十念を受(うけ)て、思(おもひ)切たる機をぞ顕(あらは)しける。左馬(さまの)頭(かみ)の御方(みかた)に、岩松治部(ぢぶの)大輔(たいふ)はよく慮(おもんばかり)有て軍の変(へん)を計(はか)る人なりければ、大将左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)の鎧の毛を、敵何様(いかさま)見知(みしり)ぬらんと推量して、御大事(おんだいじ)に替(かは)らんと思はれければ、我(わが)今まで著給へる紺糸(こんいと)の鎧に、鎌倉殿(かまくらどの)の白糸の鎧を俄(にはか)に著替(きかへ)奉りてぞ控(ひか)へたる。暫(しばらく)有て両陣又乱(みだれ)合(あう)て入替(いれかへ)々々(いれかへ)戦(たたかひ)ける。岡本(をかもとの)信濃(しなのの)守(かみ)白糸の鎧著たる岩松を左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)ぞと目に懸(かけ)て、組(くん)で討(うた)んと相近付く。岩松は又元来左馬(さまの)頭(かみ)の命に代(かは)らんと鎧を著替(きかへ)し上は、なじかは命を可惜。二人(ににん)共(とも)に閑々(しづしづ)と馬を歩(あゆ)ませ寄(よつ)て、あはひ已(すで)に草鹿(くさじし)のあづち長(たけ)に成(なり)ける時、岩松が郎等(らうどう)金井(かなゐ)新左衛門(しんざゑもん)、岩松が馬の前に馳塞(はせふさがつ)て、岡本(をかもと)と引組(ひつくみ)馬よりどうと落けるが、互に中(ちう)にて差違(さしちが)へて、共に命を止(とどめ)てけり。岩松は左馬(さまの)頭(かみ)の命に代(かは)らんと鎧を著かへ、金井(かなゐ)は岩松が命に代(かはつ)て討死す。主従共に義を守(まもり)て節を重んずる忠貞(ちゆうてい)、難有かるべき人々也(なり)。其(その)外命を軽(かろん)じ義を重んじて、爰(ここ)にて勝負を決せんと、相互(あひたがひ)にぞ戦(たたかひ)ける。さて芳賀八郎(はちらう)は被生捕たりけれども、幼稚の上垂髪(たれかみ)なりければ、軍(いくさ)散じて後に、人を付(つけ)て被帰けるとかや。優(いう)にやさしとぞ申ける。去(さる)程(ほど)に芳賀が八百(はつぴやく)余騎(よき)の兵、昨日は二日路(ふつかぢ)を一夜(いちや)に打(うち)しかば馬皆疲れぬ。今日は又入替る勢も無(なく)て終日(ひねもす)戦ひくらしければ、兵息を不継敢。所存今は是(これ)までとや思(おもひ)けん、日已(すで)に夕陽(せきやう)に成(なり)ければ、被討残たる兵纔(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)を助(たすけ)て、宇都宮(うつのみや)へぞ帰(かへり)ける。是(これ)を見て今まで戦を外(よそ)に見て、勝方に付(つか)んと伺(うかがひ)つる白旗一揆(しらはたいつき)、弊(つひえ)に乗て疲(つかれ)を攻(せめ)て、何(いづ)くまでも追攻(おつつめ)て打(うち)止(とめ)んと、高名がほに追たりける。是(これ)のみならず芳賀が勢打負(うちまけ)て引(ひく)と聞へしかば、後(おく)れ馳(ばせ)に御陣へ参りける兵共(つはものども)、橋を引(ひき)、路を塞(ふさい)で落さじとしける程に、道にても百(ひやく)余騎(よき)被討けり。辛(から)き命を助(たすかり)て、故郷に帰(かへり)ける者も、大略皆髪を切り遁世(とんせい)して、無きが如くに成(なり)にけり。軍散じければ、軈(やが)て宇都宮(うつのみや)を退治(たいぢ)せらるべしとて、左馬(さまの)頭(かみ)八十万騎(はちじふまんぎ)の勢にて先(まづ)小山(をやま)が館(たち)へ打越給ふ。斯(かか)る処に、宇都宮(うつのみや)急ぎ参じて申けるは、「禅可が此(この)間の挙動(ふるまひ)、全く我同意したる事候はず。主従向背(きやうはい)の自科(じくわ)依難遁、其(その)身已(すでに)逐電(ちくてん)仕(つかまつり)ぬる上は、御勢(おんせい)を被向までも候まじ。」と申ければ、左馬(さまの)頭(かみ)も深き慮(おもんばかり)やをはしけん、翌日(よくじつ)軈(やが)て鎌倉(かまくら)へ打帰(うちかへり)給(たまひ)にけり。されば「君無諌臣則君失其国矣、父無諌子則父亡其家矣。」と云(いへ)り。禅可縦(たとひ)老僻(おいひがみ)て斯(かか)る悪行を企(くはた)つ共、子共若(もし)義を知て制(せい)し止(とどむ)る事あらば、豈(あに)若干(そこばく)の一族共(いちぞくども)を討(うた)せて、諸人に被嘲哢乎。無思慮禅可が合戦故(ゆゑ)に、鎌倉殿(かまくらどの)の威勢弥(いよいよ)重く成(なり)しかば、大名一揆(いつき)の嗷儀(がうぎ)共(ども)、是(これ)より些(ちと)止(やみ)にけり。
○神木(しんぼく)入洛(じゆらくの)事(こと)付(つけたり)洛中(らくちゆう)変異(へんいの)事(こと) S3905
尾張(をはりの)修理(しゆりの)大夫入道(たいふにふだう)々朝(だうてう)は、将軍御兄弟(ごきやうだい)合戦(かつせんの)時(とき)、慧源(ゑげん)禅門の方に属(しよく)して打負(うちまけ)しかば、鬱陶(うつたう)を不散、暫くは宮方(みやがた)に身を寄(よせ)けるが、若(わか)将軍(しやうぐん)義詮朝臣(よしあきらあつそん)より様々弊礼(へいれい)を尽(つく)して頻(しきり)に招請(せうしやう)し給(たまひ)ける間、又御方(みかた)に成て、三男(さんなん)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)義将(よしまさ)を面に立て執事の職に居(すゑ)、武家の成敗をぞ意に任(まかせ)られける。去(さる)程(ほど)に越前国(ゑちぜんのくに)は多年の守護(しゆご)にて、一国の寺社本所領(ほんじよのりやう)を半済(はんせい)して家人共(けにんども)にぞ分行(わけおこなひ)ける。其(その)中に南都の所領河口庄(かはぐちのしやう)をば、一円に家中の料所(れうしよ)にぞ成(なし)たりける。此(この)所は毎年維摩会(ゆゐまゑ)の要脚(えうきやく)たるのみに非(あら)ず、一寺の学徒是(これ)を以て、朝三(てうさん)の資(たすけ)を得て、僅に餐霞(ざんか)の飢(うゑ)を止(やめ)、夜窓(やさう)の燈(とぼしびを)挑(かかげ)て聚蛍(しゆけい)の光に易(か)ふ。而(しか)るを近年は彼(かの)依押領諸事の要脚悉(ことごとく)闕如(けつじよ)しぬれば、維摩の会場(ゑぢやう)には、柳条(りうでう)乱(みだれ)て垂手(すゐしゆ)の舞を列(つら)ね、講問(かうもん)の床(ゆか)の前には、鴬舌(あうぜつ)代(かはつ)て緩声(くわんしやう)の哥を唱(とな)ふ。是(これ)一寺滅亡の基(もとゐ)、又は四海(しかい)擾乱(ぜうらん)の端(はし)たるべし。早く当社押領の儀を止(やめ)て、大会(たいゑ)再興の礼に令復給(たまふ)べしと、公家(くげ)に奏聞し武家に触訴(ふれうつた)ふ。然(しかれ)共(ども)公家の勅裁(ちよくさい)はなれ共人不用、武家の奉書(ほうしよ)は憚(はばかつ)て渡す人なし。依之(これによつて)嗷儀(がうぎ)の若輩(じやくはい)・氏人(うぢつと)の国民(くにたみ)等(ら)、春日(かすが)の神木を奉餝、大夫入道(たいふにふだう)々朝が宿所の前に奉振捨。其(その)日(ひ)軈(やが)て勅使(ちよくし)参迎(さんかう)して、神木をば長講堂へぞ奉入ける。天子自(みづから)玉■(ぎよくい)を下(おり)させ給(たまひ)て、常の御膳(ごぜん)を降(く)ださる。摂家皆高門を掩(おほう)て、日(ひ)の御供(みく)を奉り給ふ。今澆末(げうまつ)の風(ふう)に向て大本(たいほん)の遠(とほき)を見るに、政道は棄(すた)れて無(なき)に似たりといへ共、神慮は明にして如在。哀(あはれ)とく裁許(さいきよ)あれかしと人々申合(まうしあはれ)けれども、時の権威に憚(はばかつ)て是(これ)をと申沙汰する人も無(なか)りけり。禰宜(ねぎ)が鈴振る袖の上に、託宣(たくせん)の涙せきあへず、社人(みやうど)の夙夜(しゆくや)する枕の上に、夢想の告止(つげやむ)時(とき)なし。同五月十七日(じふしちにち)、何(いづ)くの山より出たり共知(しら)ず、大鹿(おほしか)二頭(ふたかしら)京中(きやうぢゆう)に走(わしり)出たりけるが、家の棟(むね)・築地(ついぢ)の覆(おほひ)の上を走渡(わしりわたつ)て、長講堂の南の門前にて四声(よこゑ)鳴(ない)て、何(いづく)の山へ帰る共見へずして失(うせ)にけり。是(これ)をこそ不思議(ふしぎ)の事と云(いひ)沙汰しける処に、同(おなじき)二十一日月額(さかやき)の迹(あと)有て、目も鼻も無(なく)て、髪長々と生(おひ)たる、なましき入道(にふだうの)頚(くび)一つ、七条東洞院(ひがしのとうゐん)を北へ転(まろび)ありくと見へて、書消(かきけ)す様に失(うせ)にけり。又同(おなじき)二十八日(にじふはちにち)長講堂の大庭(おほには)に、こま廻(まは)して遊(あそび)ける童(わらは)の内に、年の程十許(ばかり)なるが、俄(にはか)に物に狂(くるう)て、二三丈飛(とび)上(あがり)々々(とびあがり)、跳(をど)る事三日三夜也(なり)。参詣の人怪(あやしみ)て、何(いか)なる神の託(つか)せ給(たまひ)たるぞと問(とふ)に、物づき口うち噤(つぐみ)て、其(その)返事をばせで、人や勝つ神や負(まく)ると暫(しば)しまて三笠の山のあらん限(かぎり)はと、数万人(すまんにん)の聞(きく)所にて、高らかに三反(さんべん)詠じて物付は則(すなはち)醒(さめ)にけり。見るも懼(おそろ)しく、聞(きく)に身の毛も竪(よだつ)神託共なれば、是(これ)に驚て、神訴(しんそ)を忽(たちまち)に裁許有(あり)ぬと覚へけれ共(ども)、混(ひたす)ら耳の外に処(しよ)して、三年まで閣(さしおか)れければ、朱(あけ)の玉垣徒(いたづら)に、引(ひく)人もなき御注連縄(みしめなは)、其(その)名も長く朽(くち)はてゝ、霜の白幣(しらゆふ)かけまくも、賢(かしこ)き神の榊葉(さかきば)も、落(おち)てや塵(ちり)に交(まじる)らんと、今更神慮の程被計、行末如何(いかが)と空(そら)をそろし。今程国々の守護(しゆご)、所々の大名共(だいみやうども)、独(ひとり)として寺社本所領(ほんじよのりやう)を押へて、不領知云(いふ)者なし。然共叶はぬ訴詔(そしやう)に退屈して、乍歎徒(いたづら)に黙止(もだし)ぬれば、国々の政(まつりこと)に僻事(ひがこと)多けれ共(ども)、其(その)人無咎に似たり。然るに此(この)人独(ひとり)斯(かか)る大社の訴詔に取合ふて、神訴を得、呪咀(じゆそ)を負(おひ)けるも、只其(その)身の不祥(ふしやう)とぞ見へたりける処に、同(おなじき)十月三日道朝が宿所、七条東洞院(ひがしのとうゐん)より俄(にはか)に失火(しつくわ)出来(いでき)て、財宝一(ひとつ)も不残、内厩(うちむまや)の馬共までも多(おほく)焼(やけ)失(うせ)ぬ。是(これ)こそ春日(かすが)明神の御祟(たたり)よと、云(いひ)沙汰せぬ人も無(なか)りけり。されども道朝やがて三条高倉(さんでうたかくら)に屋形を立て、大樹(たいじゆ)に咫尺(しせき)し給へば、門前に鞍置馬(くらおきうま)の立(たち)止(やむ)隙(ひま)もなく、庭上に酒肴(さけさかな)を舁列(かきつら)ねぬ時もなし。夫(それ)さらぬだにも、富貴(ふつき)の家をば鬼(き)睨之云(いへ)り。何(いかに)況(いはん)や神訴を負へる人也(なり)。是(これ)とても行末如何(いか)が有(あら)んずらんと、才ある人は怪しめり。
○諸大名讒道朝事(こと)付(つけたり)道誉(だうよ)大原野(おほはらの)花会(はなのくわいの)事(こと) S3906
抑此管領職(このくわんれいしよく)と申(まうす)は、将軍家にも宗(むね)との一族(いちぞく)也(なり)ければ、誰かは其(その)職を猜(そね)む人も可有。又関東(くわんとう)の盛(さかん)なりし世をも見給(たまひ)たりし人なれば、礼儀法度(はつと)もさすがに今の人の様にはあるまじければ、是(これ)ぞ誠(まこと)に武家の世をも治(をさ)めんずる人よと覚(おぼえ)けるに、諸人の心に違(たが)ふ事のみ有(あり)て、終(つひ)に身を被失けるも、只(ただ)春日大明神(かすがだいみやうじん)の冥慮(みやうりよ)也(なり)と覚へたり。諸人の心に違(たがひ)ける事は、一には近年日本国の地頭・御家人の所領に、五十分(ごじふぶんの)一(いち)の武家役(ぶけやく)を毎年被懸けるを、此管領(このくわんれい)の時に二十分(にじふぶんの)一(いち)になさる。是(これ)天下の先例に非(あら)ずと憤(いきどほり)を含む処也(なり)。次に将軍三条(さんでう)の坊門(ばうもん)万里小路(までのこうぢ)に御所を立(たて)られける時、一殿一閣を大名一人づゝに課(おほせ)て被造。赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)も其(その)人数たりけるが、作事(さくじ)遅(おそく)して期日(ごにち)纔(わづか)に過(すぎ)ければ、法を犯(をか)す咎(とが)有(あり)とて新恩の地、大庄一所没収(もつしゆ)せらる。是(これ)又赤松が恨(うらみ)を含む随一(ずゐいち)也(なり)。次には佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)、五条(ごでう)の橋を可渡奉行を承(うけたまはり)て京中(きやうぢゆう)の棟別(むねべつ)を乍取、事大営(たいえい)なれば少し延引(えんいん)しけるを励(はげま)さんとて、道朝他の力をも不仮、民の煩(わづらひ)をも不成、厳密(げんみつ)に五条(ごでう)の橋を数日(すじつ)の間にぞ渡(わたし)にける。是(これ)又道誉(だうよ)面目を失ふ事なれば、是(これ)程の返礼をば致さんずる也(なり)とて、便宜(びんぎ)を目に懸(かけ)てぞ相待(あひまち)ける。懸(かかる)処に、柳営(りうえい)庭前(ていぜん)の花、紅紫(こうし)の色を交(まじへ)て、其(その)興無類ければ、道朝種々の酒肴(さけさかな)を用意(ようい)して、貞治(ぢやうぢ)五年三月四日を点(てん)じ、将軍の御所にて、花(はなの)下(もと)の遊宴あるべしと被催。殊更道誉(だうよ)にぞ相触(あひふれ)ける。道誉(だうよ)兼(かね)ては可参由領状(りやうじやう)したりけるが、態(わざ)と引(ひき)違(ちが)へて、京中(きやうぢゆう)の道々の物(もの)の上手共、独(ひとり)も不残皆引具(ひきぐ)して、大原野(おほはらの)の花の本(もと)に宴(えん)を設(まう)け席を妝(よそほう)て、世に無類遊(あそび)をぞしたりける。已(すで)に其(その)日(ひ)に成(なり)しかば、軽裘肥馬(けいきうひば)の家を伴(ともな)ひ、大原や小塩(をしほ)の山にぞ趣(おもむ)きける。麓に車を駐(とどめ)て、手を採(とつ)て碧蘿(へきら)を攀(よぢのぼ)るに、曲径(きよくけい)幽(かすかなる)処に通じ、禅房花木(くわぼく)深し。寺門に当て湾渓(わんけい)のせゞらきを渉(わた)れば、路(みち)羊腸(やうちやう)を遶(めぐつ)て、橋雁歯(がんし)の危(あやふき)をなせり。此(ここ)に高欄を金襴にて裹(つつみ)て、ぎぼうしに金薄(きんばく)を押し、橋板に太唐氈(たいたうのせん)・呉郡(ごぐん)の綾・蜀江(しよくかう)の錦(にしき)、色々に布展(しきの)べたれば、落花上に積(つもつ)て朝陽不到渓陰処、留得横橋一板雪相似たり。踏(ふむ)に足冷(すさまじ)く歩(あゆ)むに履(くつ)香(かうば)し。遥(はるか)に風磴(ふうとう)を登れば、竹筧(ちくけん)に甘泉(かんせん)を分て、石鼎(せきてい)に茶の湯を立(たて)置(おき)たり。松籟(しようらい)声を譲(ゆづり)て芳甘(はうかん)春濃(こまやか)なれば、一椀(いちわん)の中に天仙をも得つべし。紫藤(しとう)の屈曲(くつきよく)せる枝毎(ごと)に高く平江帯(ひんごうたい)を掛(かけ)て、■頭(ちとう)の香炉に鶏舌(けいぜつ)の沈水(ぢんずゐ)を薫(くん)じたれば、春風香暖(だん)にして不覚栴檀(せんだんの)林に入(いる)かと怪(あやし)まる。眸(まなじり)を千里に供(くう)じ首(かうべ)を四山に廻(めぐらし)、烟霞(えんか)重畳(ちようでふ)として山川雑(まじ)り峙(そばだち)たれば、筆を不仮丹青、十日一水の精神云(ここ)に聚(あつま)り、足を不移寸歩、四海(しかい)五湖(ごこ)の風景立(たちどころ)に得たり。一歩(いつほ)三嘆(さんたん)して遥(はるか)に躋(のぼれ)ば、本堂の庭に十囲(じふゐ)の花木(くわぼく)四本あり。此(この)下に一丈(いちぢやう)余(あま)りの鍮石(ちゆうじやく)の花瓶(くわひん)を鋳懸(いかけ)て、一双(いつさう)の華に作り成(な)し、其交(そのあはひ)に両囲(りやうゐ)の香炉を両机に並べて、一斤(いつきん)の名香を一度(いちど)に焚上(たきあげ)たれば、香風四方(しはう)に散じて、人皆浮香(ふかう)世界の中に在(ある)が如し。其陰(そのかげ)に幔(まん)を引(ひき)曲■(きよくろく)を立(たて)双(ならべ)て、百味の珍膳(ちんぜん)を調(ととの)へ百服の本非(ほんぴ)を飲(のみ)て、懸物(かけもの)如山積(つみ)上(あげ)たり。猿楽優士(いうし)一たび回(めぐり)て鸞(らん)の翅(つばさ)を翻(ひるがへ)し、白拍子倡家(しやうか)濃(こまやか)に春鴬(しゆんあう)の舌を暢(のぶ)れば、坐中の人人大口(おほぐち)・小袖を解(とい)て抛与(なげあた)ふ。興(きよう)闌(たけなは)に酔(ゑひ)に和(くわ)して、帰路(きろ)に月無(なけ)れば、松明(たいまつ)天を耀(かかやか)す。鈿車(でんしやの)軸(ぢく)轟(とどろ)き、細馬(さいば)轡(くつばみ)を鳴(なら)して、馳散(はせち)り喚(をめ)き叫びたる有様、只三尸(さんし)百鬼(ひやくきの)夜深(ふけ)て衢(ちまた)を過(すぐ)るに不異。華(はな)開(ひらき)花落(おつ)る事二十日、一城(いちじやう)の人皆狂(きやう)ぜるが如しと、牡丹(ぼたん)妖艶(えうえん)の色を風せしも、げにさこそは有(あり)つらめと思(おもひ)知(しら)るゝ許(ばかり)也(なり)。此遊(このあそび)洛中(らくちゆう)の口遊(くちずさみ)と成て管領(くわんれい)の方へ聞へければ、「是(これ)は只(ただ)我申沙汰する将軍家の華下(はなのもと)の会(くわい)を、かはゆ気(げ)なる遊(あそび)哉(かな)と欺(あざむき)ける者也(なり)。」と、安からぬ事にぞ被思ける。乍去是は心中の憤(いきどほり)にて公儀に可出咎(とが)にもあらず。「哀(あはれ)道誉(だうよ)、何事にても就公事犯法事あれかし。辛(から)く沙汰を致さん。」と心を付て被待ける処(ところに)、二十分(にじふぶんの)一(いち)の武家役を、道誉(だうよ)両年まで不沙汰間、管領すはや究竟(くつきやう)の罪科出来(しゆつらい)すと悦て、道誉(だうよ)が近年給(たまは)りたりける摂州の守護職(しゆごしよく)を改め、同国の旧領多田(ただの)庄(しやう)を没収(もつしゆ)して政所料所(まんどころれうしよ)にぞ成(なし)たりける。依之(これによつて)道誉(だうよ)が鬱憤(うつぷん)不安。如何(いか)にもして此(この)管領を失(うしなは)ばやと思(おもひ)て、諸大名を語(かたら)ふに、六角入道(ろくかくにふだう)は当家の惣領(そうりやう)なれば無子細。赤松は聟也(なり)。なじかは可及異儀。此(この)外の太名共も大略は道誉(だうよ)に不諛云(いふ)者無(なか)りければ、事に触(ふれ)此(この)管領天下の世務に叶(かなふ)まじき由を、将軍家へぞ讒(ざん)し申ける。魯叟(ろそう)有言、曰(いはく)、衆悪之必察焉、衆好之必察焉。或(あるひ)は其(その)衆阿党比周(あたうひしう)して好(よみん)ずる事あり。或(あるひ)は其(その)人特立不詳(とくりつふしやう)にして悪(にくま)るゝ事あり。毀誉(きよ)共(とも)に不察あるべからず。諸人の讒言遂(つひ)に真偽を不糾しかば、道朝無咎して忽(たちまち)に可討に定けり。此(この)事内々佐々木(ささきの)六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永に被仰て、江州(がうしう)の勢をぞ被召(めされ)ける。道朝此(この)由を伝(つたへ)聞て、貞治四年八月四日晩景(ばんげい)に、将軍の御前(おんまへ)に参じて被申けるは、「蒙御不審(ごふしん)由内々告(つげ)知(しら)する人の候(さうらひ)つれ共(ども)、於身不忠不儀の事候はねば、申(まうす)人の謬(あやまり)にてぞ候らんと、愚意(ぐい)を遣(やり)候(さうらひ)つるに、昨日江州(がうしう)の勢共(せいども)、合戦の用意(ようい)にて、罷(まかり)上り候(さうらひ)ける由承(うけたまはり)及(および)候へば、風聞の説早(はや)実(まこと)にて候(さうらひ)けりと信(しん)を取て候。抑道朝以無才庸愚身、大任重器(ちようき)の職を汚(けが)し候(さうらひ)ぬれば、讒言も多く候覧(らん)と覚(おぼえ)候。然(しか)るを讒者の御糺明(ごきうめい)までも無(なく)て、御不審(ごふしん)を可蒙にて候はゞ、国々の勢を被召までも候まじ。侍一人に被仰付て、忠諌の下に死を賜て、衰老(すゐらう)の後に尸(かばね)を曝(さら)さん事何の子細か候べき。」と、恨(うらみ)の面に涙を拭(のごひ)て被申ければ、将軍も理に服したる体(てい)にて、差(さし)たる御言(おんことば)なし。良(やや)久(ひさしく)黙然(もくねん)として涙を一目に浮べ給ふ。暫(しばらく)有て道朝已(すで)に退出せんとせられける時、将軍席を近付(ちかづけ)給(たまひ)て、「条々(でうでう)の趣げにもさる事にて候へ共、今の世中(よのなか)我(わが)心にも任たる事にても無ければ、暫(しばら)く越前の方へ下向有て、諸人の申(まうす)処をも被宥候へかし。」と宣へば、道朝、「畏て承ぬ。」とて軈(やがて)被退出ぬ。去(さる)程(ほど)に崇永兼(かね)て用意(ようい)したる事なれば、稠(きびし)くよろひたる兵八百(はつぴやく)余騎(よき)を卒して将軍の御屋形へ馳(はせ)参り、四門を警固仕る。是(これ)より京中(きやうぢゆう)ひしめき渡て、将軍へと馳(はせ)参る武者もあり、管領へと馳(はす)る人もあり。柳営(りうえい)家臣の両陣のあはひ僅(わづか)に半町許(ばかり)あれば、何(いづ)れを敵何(いづ)れを御方共不見分。道朝始(はじめ)は一箭(ひとや)射て腹を切らんと企(くはたて)けるが、将軍より三宝院(さんぼうゐんの)覚済(かくせい)僧正(そうじやう)を御使(おんつかひ)にて、度々被宥仰ける間、さらばとて北国下向の儀に定(さだま)りぬ。乍去をめ/\と都を出て下る体ならば悪(あし)かりなん。敵共(てきども)に被追懸事もこそあれとて、八月八日の夜半許(ばかり)に、二宮(にのみや)信濃(しなのの)守(かみ)五百(ごひやく)余騎(よき)、高倉面の門より、将軍家に押寄(おしよす)る体を見せて、鬨をぞ揚(あげ)たりける。是(これ)を聞て、将軍家へ馳(はせ)参りたる大勢共、内へ入(いら)んとするもあり、外へ出んとするもあり。何と云(いふ)事もなくせき合ふ程に、鎧の袖・胄(かぶと)を奪(うばは)れ、太刀・長刀を取られ、馬・物具を失ふ者数を不知(しらず)。未戦先(さき)に、禍(わざはひ)蕭墻(せうしやう)の中より出たりとぞ見へたりける。此(この)ひしめきの紛(まぎ)れに、道朝は三百(さんびやく)余騎(よき)の勢を卒し、長坂(ながさか)を経て越前へぞ被落ける。先陣今は一里許(ばかり)も落延(おちのび)ぬらんと覚(おぼゆ)る程に成て、二宮は迹を追て落行く。諸大名の勢共(せいども)、疲れに乗て打止(うちと)めんと追懸(おひかけ)たり。二宮長坂峠に控(ひかへ)て少も漂(ただよ)へる機(き)を不見、馬に道草かふて嘲(あざわらう)たる声(こわ)ざしにて申けるは、「都にて軍をせざりつるは敵を恐るゝにはあらず、只将軍に所を置(おき)奉る故(ゆゑ)也(なり)。今は都をも離れぬ。夜も明(あけ)ぬ。敵も御方も只今(ただいま)まで知り知られたる人々也(なり)。爰(ここ)にては我(われ)人の剛臆(がうおく)の程を呈(あらは)さでは何(いづ)れの時をか可期。馬の腹帯(はるび)の延(のび)ぬ先に早(はや)是(これ)へ御入(おんいり)候へ。我等(われら)が頚(くび)を御引出物(おんひきでもの)に進(まゐら)するか、御頚共(おんくびども)を餞(はなむけ)に給(たまは)るか、其(その)二の間に自他の運否(うんぴ)を定め候(さうらは)ばや。」と高声に呼(よばはり)て、馬の上にて鎧の上帯(うはおび)縮直(しめなほ)して、東頭(ひがしがしら)に引(ひか)へたり。其(その)勇気誠(まこと)に節に中(あたつ)て、死を軽(かろん)ずる義有て、前に可恐敵なしと見へければ、数万騎の寄手共(よせてども)、よしや今は是(これ)までぞとて、長坂の麓より引返しぬ。道朝、二宮を待(まち)付(つけ)て、越前へ下著(げちやく)し、軈(やが)て我(わが)身は杣山(そまやま)の城(じやう)に篭(こも)り、子息治部(ぢぶの)大輔(たいふ)義将(よしまさ)を栗屋(くりや)の城(じやう)に篭(こめ)て、北国を打(うち)随(したが)へんと被議ける間、将軍、「さらば討手を下(くだ)せ。」とて、畠山尾張(をはりの)守(かみ)義深(よしふか)・山名中務(なかつかさの)大輔(たいふ)・佐々木(ささきの)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)高秀・土岐左馬(さまの)助(すけ)・佐々木(ささきの)判官入道(はうぐわんにふだう)崇永(そうえい)・舎弟(しやてい)山内(やまのうち)判官入道(はうぐわんにふだう)崇誉(そうよ)・赤松大夫判官(たいふのはうぐわん)・同兵庫(ひやうごの)助(すけ)範顕(のりあき)、能登・加賀・若狭・越前・美濃・近江の国(くにの)勢、相共(あひとも)に七千(しちせん)余騎(よき)、同年の十月より二(ふたつ)の城(じやう)を囲(かこみ)て、日夜朝暮に攻(せめ)けれ共(ども)、此(この)城(じやう)可被落とも不見けり。斯(かか)る処に翌年(よくねん)七月に道朝俄(にはか)に病に被侵逝去(せいきよ)しければ、子息治部(ぢぶの)大輔(たいふ)義将(よしまさ)様様(さまざま)に歎(なげき)申されけるに依て、同九月に宥免安堵(いうめんあんど)の御教書(みげうしよ)を被成、京都へ被召返。無幾程越中(ゑつちゆう)の討手を承(うけたまはり)て、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常を退治(たいぢ)したりしかば、軈(やがて)越中(ゑつちゆう)の守護職(しゆごしよく)に被補。是(これ)より北国は無為(ぶゐ)に成(なり)にけり。此濫觴(このらんしやう)抑道朝が僻事(ひがこと)は何ぞや。唯(ただ)依諸人讒言失身給(たまひ)し者也(なり)。されば楚の屈原(くつげん)が泪羅(べきら)の沢(さは)に吟(さまよう)て、「衆人皆酔(ゑへり)、我独(ひとり)醒(さめ)たり。」と、世を憤(いきどほり)しを、漁父笑(わらつ)て、「衆人皆酔(ゑへ)らば、何(なん)ぞ其糟(そのかす)を喰(くらつ)て其(その)汁(しる)をすゝらざる。」と哥(うたう)て、滄浪(さうらう)の舟に棹(さをさし)しも、げにさる事も有(あり)けりと、被思知世と成(なり)にけり。
○神木御帰座(ごきざの)事(こと) S3907
大夫入道(たいふにふだう)々朝都を落(おち)て後、越前国(ゑちぜんのくに)河口(かはぐちの)庄(しやう)南都被返付しかば、神訴忽(たちまち)に落居(らくきよ)して、八月十二日神木御帰坐(ごきざ)あり。刻限卯(うの)時(とき)と被定(さだめられ)たるに、其(その)暁より雨闇(くら)く風暴(あら)かりしかば、天の忿(いかり)猶(なほ)何事にか残(のこる)らんと怪(あやし)かりしに、其期(そのご)に臨(のぞん)で雨晴(はれ)風定(しづま)りて、天気殊(こと)に麗(うるはし)かりしかば、是(これ)さへ人の意を感ぜしめたり。先(まづ)南曹弁(なんさうべんの)嗣房(つぎふさ)参て諸事を奉行す。午刻(むまのこく)許(ばかり)に鷹司(たかつかさの)左大臣殿(さだいじんどの)・九条殿・一条殿、大中納言(だいちゆうなごん)・大理以下次第に参り給ふ。関白殿(くわんばくどの)御著座あれば、数輩(すはい)の僧綱(そうがう)以下、御座の前にして其(その)礼を致す。是(これ)時(とき)の長者の験(しるし)也(なり)。出御(しゆつぎよ)の程に成(なり)ぬれば、数万人(すまんにん)立(たち)双(ならび)たる大衆の中より、一人進(すすみ)出て有僉議。音声雲に響き、言語玉を連(つら)ねたり。僉議終(をはれ)ば幄屋(あくや)に乱声(らんじやう)を奏す。翕如(きふじよ)たる声の中に、布留(ふる)の神宝を出し奉るに、関白殿(くわんばくどの)以下、卿相(けいしやう)雲客(うんかく)席を避(さけ)て皆跪(ひざまつ)き給ふ。其(その)次に本社の御榊・四所の御正体(みしやうだい)、光明(くわうみやう)赫奕(かくやく)としてゆすり出させ給へば、数千(すせん)の神官(じんくわん)共(ども)、覆面(ふくめん)をして各捧(ささ)げ奉る。両列(りやうれつ)の伶倫(れいりん)、道々還城楽(げんじやうらく)を奏して、正始(せいし)の声を調(しら)べ、神人警蹕(けいひつ)の声を揚(あげ)て非常を禁(いま)しむ。赤衣仕丁(せきえのじちやう)白杖(はくぢやう)を持て御前(おんまへ)に立(たち)、黄衣(くわうえの)神人神宝を頂戴(ちやうだい)して次々に順(したが)ふ。其(その)外の神司(かんつかさ)束帯を著して列(れつ)を引(ひく)。白衣(はくえの)神人、数千人(すせんにん)の国民等(こくみんら)歩列(あゆみつらな)る。時の関白良基(よしもと)公(こう)は、柳の下重(したがさね)に糸鞋(いとぐつ)を召(めし)、当(あた)りも耀(かかや)く許(ばかり)に歩み出させ給へば、前駆(ぜんく)四人左右に順(したが)ひ、殿上人(てんじやうびと)二人(ににん)御裾(おんきよ)をもつ。随身(ずゐじん)十人(じふにん)有(あり)といへ共態(わざと)御先(おんさき)をばをはず。神幸に恐(おそれ)を成し奉る故(ゆゑ)也(なり)。其(その)次には鷹司(たかつかさの)左大臣・今出河大納言・花山(くわざんの)院(ゐん)大納言(だいなごん)・九条(くでうの)大納言(だいなごん)・一条(いちでうの)大納言(だいなごん)・坊城(ばうじやうの)中納言(ちゆうなごん)・四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)・西園寺中納言・四条(しでうの)宰相(さいしやう)・洞院(とうゐんの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)、殿上人(てんじやうびと)には、左中将(さちゆうじやう)忠頼(ただより)・右中将(うちゆうじやう)季村(すゑむら)・新中将(しんちゆうじやう)親忠(ちかただ)・左中弁嗣房(つぎふさ)・新中将(しんちゆうじやう)基信(もとのぶ)・蔵人(くらうど)右中弁(うちゆうべん)宣房(のぶふさ)・権右中弁(ごんのうちゆうべん)資康(すけやす)・蔵人左中弁仲光・右小弁宗顕(むねあき)・左少将為有(ためあり)・右少将兼時(かねとき)、行妝(ぎやうさう)を整(ととの)へ、威儀を正(ただし)くして、閑(しづか)に列(れつ)をなし給へば、供奉(ぐぶ)の大衆二万人、各(おのおの)貝(かひ)を吹(ふき)連(つらね)て、前後三十(さんじふ)余町(よちやう)に支(ささへ)たり。盛(さかんなる)哉(かな)朝廷無事の化(くわ)、遠く天児屋根(あまのこやね)の昔に立(たち)返り、博陸具瞻(はくりくぐせん)の徳、再(ふたた)び高彦霊尊(たかみむすびのみこと)の勅を新(あらた)にし給へり。誠(まこと)に利物(りもつ)の垂迹(すゐじやく)、順逆の縁に和光(わくわう)し不給、今斯(かか)る神幸を拝し奉るべしやと、岐(ちまた)に満(みつ)る見物衆の、神徳を貴ばぬは無(なか)りけり。
○高麗人(かうらいじん)来朝(らいてうの)事(こと) S3908
四十(しじふ)余年(よねん)が間本朝大に乱(みだれ)て外国(ぐわいこく)暫(しばらく)も不静。此(この)動乱に事を寄せて、山路には山賊有て旅客(りよかく)緑林(りよくりん)の陰(かげ)を不過得、海上には海賊多(おほく)して、舟人白浪(はくらう)の難を去兼(さりかね)たり。欲心(よくしん)強盛(がうせい)の溢物(あぶれもの)共(ども)以類集りしかば、浦々島々多く盜賊(たうぞく)に被押取て、駅路(えきろ)に駅屋(えきや)の長(ちやう)もなく関屋(せきや)に関守(せきもる)人を替(かへ)たり。結句此賊徒(このぞくと)数千艘の舟をそろへて、元朝(げんてう)・高麗(かうらい)の津々泊々(とまりとまり)に押(おし)寄(よせ)て、明州(みやうしう)・福州(ふくしう)の財宝を奪(うばひ)取る。官舎・寺院を焼(やき)払ひける間、元朝・三韓(さんかん)の吏民(りみん)是(これ)を防兼(ふせぎかね)て、浦近き国々数十箇国(すじつかこく)皆栖(すむ)人もなく荒(あれ)にけり。依之(これによつて)高麗国の王より、元朝皇帝(くわうてい)の勅宣(ちよくせん)を受(うけ)て、牒使(てふし)十七人(じふしちにん)吾(わが)国(くに)に来朝す。此(この)使異国の至正(しせい)二十三年八月十三日(じふさんにち)に高麗を立て、日本国貞治(ぢやうぢ)五年九月二十三日(にじふさんにち)出雲に著岸(ちやくがん)す。道駅を重(かさね)て無程京都に著(つき)しかば、洛中(らくちゆう)へは不被入して、天竜寺(てんりゆうじ)にぞ被置ける。此(この)時(とき)の長老春屋和尚(しゆんをくをしやう)覚普明国師、牒状を進奏せらる。其詞(そのことばに)云(いはく)、皇帝(くわうてい)聖旨寰、征東行中書省、照得日本(につぽん)与本省所轄高麗地境水路相接。凡遇貴国飄風人物、往往依理護送。不期自至正十年(じふねん)庚寅、有賊船数多、出自貴国地面、前来本省合浦等処、焼毀官廨、掻擾百姓甚至殺害。経及一十(じふ)余年(よねん)、海舶不通、辺界居民不能寧処。蓋是島嶼居民不懼官法、専務貪婪。潜地出海劫奪。尚慮貴国之広、豈能周知。若使発兵勣捕、恐非交隣之道。徐已移文日本国照験。頗為行下概管地面海島、厳加禁治、毋使如前出境作耗。本省府今差本職等一同馳駅、恭詣国主前啓稟。仍守取日本国回文還省。閣下仰照験。依上施行、須議箚付者。一実起右、箚付差去、万戸金乙貴、千戸金龍等准之。とぞ書たりける。賊船の異国を犯奪(をかしうばふ)事は、皆四国九州の海賊共がする所なれば、帝都より厳刑(げんけい)を加(くはふ)るに拠(よんどころ)なしとて、返牒をば不被送。只来献(らいけん)の報酬とて、鞍(くら)馬十疋(じつぴき)・鎧二領(にりやう)・白太刀三振(ふり)・御綾(あや)十段・綵絹(さいけん)百段・扇子(せんす)三百本、国々の奉送使(ほうそうし)を副(そへ)て、高麗へぞ送り被著ける。
○自太元(たいげんより)攻日本(につぽんをせむる)事(こと) S3909
倩(つらつら)三余(さんよ)の暇(いとま)に寄(よせ)て千古の記する処を看(み)るに、異国より吾朝(わがてう)を攻(せめ)し事、開闢以来(かいびやくよりこのかた)已(すで)に七箇度(しちかど)に及べり。殊更(ことさら)文永・弘安両度の戦は、太元国の老皇帝(らうくわうてい)支那四百州を討取て勢(いきほ)ひ天地を凌(しの)ぐ時なりしかば、小国の力にて難退治(たいぢ)かりしか共、輙(たやす)く太元の兵を亡(ほろぼ)して吾(わが)国(くに)無為(ぶゐ)なりし事は、只是(これ)尊神霊神(そんしんれいしん)の冥助(みやうじよ)に依(より)し者也(なり)。其(その)征伐の法を聞けば、先(まづ)太元の大将万(まん)将軍(しやうぐん)、日本王畿五箇国(ごかこく)を四方(しはう)三千七百(さんぜんしちひやく)里(り)に勘(かんが)へて、其(その)地に兵を無透間立双(たちならべ)て是(これ)を数(かぞふ)るに、三百七十万騎(さんびやくしちじふまんぎ)に当れり。此(この)勢を大船七万(しちまん)余艘(よさう)に乗て、津々浦々(つつうらうら)より推(おし)出す。此企(このくはたて)兼(かね)てより吾朝に聞へしかば、其(その)用意(ようい)を致せとて、四国・九州の兵は筑紫の博多に馳(はせ)集り、山陽・山陰の勢(せい)は帝都に馳参る。東山道(とうせんだう)・北陸道(ほくろくだう)の兵は、越前敦賀(つるが)の津をぞ堅(かた)めける。去(さる)程(ほど)に文永二年八月十三日(じふさんにち)、太元七万(しちまん)余艘(よさう)の兵船、同時に博多の津に押寄(おしよせ)たり。大舶(たいはく)舳艫(ともへ)を双(ならべ)て、もやいを入(いれ)て歩(あゆみ)の板を渡して、陣々に油幕(ゆばく)を引き干戈(かんくわ)を立双(たちなら)べたれば、五島(ごたう)より東、博多の浦に至るまで、海上の四囲(しゐ)三百(さんびやく)余里(より)俄(にはか)に陸地(くがち)に成(なり)て、蜃気(しんき)爰(ここ)に乾闥婆城(けんだつばじやう)を吐(はき)出せるかと被怪。日本(につぽん)の陣の構(かまへ)は、博多の浜端(はまばた)十三里に石の堤(つつみ)を高く築(きづい)て、前は敵の為に切立たるが如く、後(うしろ)は為御方平々(へいへい)として懸引(かけひき)自在也(なり)。其陰(そのかげ)に屏(へい)を塗り陣屋を作て、数万の兵並居(なみゐ)たれば、敵に勢の多少をば見透(みすか)されじと思ふ処に、敵の舟の舳前(へさき)に、桔槹(はねつるべ)の如くなる柱を数十丈(すじふぢやう)高く立て、横なる木の端(はし)に坐を構(かまへ)て人を登せたれば、日本(につぽん)の陣内目の下に直下(みおろ)されて、秋毫(しうがう)の先をも数(かぞへ)つべし。又面の四五丈広き板を、筏(いかだの)如(ごとく)に畳鎖(たたみくさり)て水上に敷双(しきならべ)たれば、波の上に平なる路数(あま)た作(つくり)出されて、恰(あたかも)三条(さんでう)の広路(ひろみち)、十二の街衢(かいく)の如く也(なり)。此(この)路より敵軍数万の兵馬を懸出し、死をも不顧戦ふに、御方(みかた)の軍勢(ぐんぜい)の鉾(ほこ)たゆみて、多くは退屈してぞ覚(おぼえ)ける。皷を打て兵刃(へいじん)既(すで)に交(まじは)る時、鉄炮(てつぱう)とて鞠(まり)の勢なる鉄丸(てつぐわん)の迸(ほとばし)る事下坂輪(くだりざかりん)の如く、霹靂(へきれき)する事閃電光の如くなるを、一度(いちど)に二三千(にさんぜん)抛(なげ)出したるに、日本(につぽんの)兵多(おほく)焼(やき)殺され、関櫓(きどやぐら)に火燃(もえ)付(つき)て、可打消隙も無(なか)りけり。上松浦(かみまつら)・下松浦(しもまつら)の者共(ものども)此(この)軍を見て、尋常(よのつね)の如(ごとく)にしては叶はじと思(おもひ)ければ、外(よそ)の浦より廻(まはつ)て、僅(わづか)に千(せん)余人(よにん)の勢にて夜討にぞしたりける。志の程は武(たけ)けれ共(ども)、九牛(きうぎう)が一毛(いちまう)、大倉(たいさう)の一粒(いちりふ)にも当らぬ程の小勢にて寄せたれば、敵を討(うつ)事は二三万人なりしか共、終(つひ)には皆被生捕、身を縲紲(るゐせつ)の下に苦しめて、掌(たなごころ)を連索(れんさく)の舷(ふなばた)に貫(つらぬか)れたり。懸(かか)りし後は重(かさね)て可戦様も無(なか)りしかば、筑紫九国の者共(ものども)一人も不残四国・中国へぞ落(おち)たりける。日本(につぽん)一州の貴賎上下如何(いか)がせんと周章騒(あわてさわ)ぐ事不斜(なのめならず)。諸社の行幸御幸(ぎやうがうごかう)・諸寺の大法秘法、宸襟(しんきん)を傾(かたぶけ)て肝胆(かんたん)を砕(くだ)かる。都(すべ)て六十(ろくじふ)余州(よしう)大小(だいせう)の神祇、霊験(れいけん)の仏閣に勅使(ちよくし)を被下、奉幣を不被捧云(いふ)所なし。如此御祈祷(ごきたう)已(すで)に七日満(まん)じける日、諏訪(すは)の湖(みづうみ)の上より、五色の雲西に聳(たなび)き、大蛇の形に見へたり。八幡(やはたの)御宝殿の扉(とびら)啓(ひら)けて、馬の馳(はせ)ちる音、轡(くつばみ)の鳴(なる)音、虚空(こくう)に充満(みちみち)たり。日吉の社二十一社(にじふいつしや)の錦帳(きんちやう)の鏡動(うご)き、神宝刃(やいば)とがれて、御沓皆西に向へり。住吉(すみよし)四所の神馬(じんめ)鞍の下に汗流れ、小守(こもり)・勝手(かつて)の鉄(くろがね)の楯(たて)己(おのれ)と立て敵の方につき双(なら)べたり。凡(およそ)上中下二十二社の震動奇瑞(しんどうきずゐ)は不及申、神名帳に載(のす)る所の三千七百五十(さんぜんしちひやくごじふ)余社(よしや)乃至(ないし)山家村里(さんかそんり)の小社(ほこら)・櫟社(れきしや)・道祖(だうそ)の小神迄(まで)も、御戸(みと)の開(ひらか)ぬは無(なか)りけり。此(この)外春日野(ひの)の神鹿(しんろく)・熊野山(くまのさん)の霊烏(れいう)・気比(けひの)宮(みや)の白鷺(しらさぎ)・稲荷山の名婦(みやうぶ)・比叡山(ひえいさん)の猿、社々の仕者(ししや)、悉(ことごとく)虚空を西へ飛(とび)去ると、人毎(ひとごと)の夢に見へたりければ、さり共此(この)神々の助(たすけ)にて、異賊(いぞく)を退(しりぞ)け給はぬ事はあらじと思ふ許(ばかり)を憑(たのみ)にて、幣帛(へいはく)捧(ささげ)ぬ人もなし。浩(かか)る処に弘安四年七月七日、皇太神宮の禰宜(ねぎ)荒木田尚良(あらきたのひさよし)・豊受(とようけ)太神宮の禰宜度会貞尚等(わたらゑのさだひさら)十二人(じふににん)起請(きしやう)の連署(れんしよ)を捧(ささげ)て上奏しけるは、「二宮(にぐう)の末社(まつしや)風の社(みや)の宝殿の鳴動する事良(やや)久し。六日の暁天(げうてん)に及(および)て、神殿より赤(あかき)雲一村(ひとむら)立(たち)出て天地を耀(かかやか)し山川を照す。其(その)光の中より、夜叉羅刹(やしやらせつ)の如くなる青色の鬼神顕(あらは)れ出て土嚢(どなう)の結目(ゆひめ)をとく。火風其(その)口(くち)より出て、沙漁(しやぎよ)を揚(あ)げ大木(たいぼく)を吹(ふき)抜く。測(はかり)ぬ、九州の異狄等(いてきら)、此(この)日(ひ)即(すなはち)可滅と云(いふ)事を。事若(もし)誠有て、奇瑞(きずゐ)変(へん)に応ぜば、年来(としごろ)申請(まうしうく)る処の宮号(みやがう)、被叡感儀可火宣下。」とぞ奏し申ける。去(さる)程(ほど)に大元(たいげん)の万(まん)将軍(しやうぐん)、七万(しちまん)余艘(よさう)のもやひをとき、八月十七日(じふしちにち)辰刻(たつのこく)に、門司・赤間が関を経て、長門・周防へ押渡る。兵已(すで)に渡中(となか)をさしゝし時、さしも風止(や)み雲閑(しづか)なりつる天気俄(にはか)に替(かはつ)て、黒雲一村艮(うしとら)の方より立覆(おほ)ふとぞ見へし。風烈(はげし)く吹(ふい)て逆浪(さかなみ)大に漲(みなぎ)り、雷(いかづち)鳴霆(なりはためい)て電光地に激烈す。大山も忽(たちまち)に崩れ、高天も地に落(おつ)るかとをびたゝし。異賊七万(しちまん)余艘(よさう)の兵船共或(あるひ)は荒磯の岩に当て、微塵(みぢん)に打砕かれ、或(あるひ)は逆巻(さかまく)浪に打返されて、一人も不残失(うせ)にけり。斯(かか)りけれ共(ども)、万将軍一人は大風にも放たれず、浪にも不沈、窈冥(えうめい)たる空中に飛(とび)揚(あが)りてぞ立たりける。爰(ここ)に呂洞賓(りよとうひん)と云(いふ)仙人、西天の方より飛来て、万将軍に占(しめ)しけるは、「日本(につぽん)一州の天神地祇三千七百(さんぜんしちひやく)余社(よしや)来て、此(この)悪風を起し逆浪(げきらう)を漲(みなぎら)しむ。人力の可及処に非(あら)ず。汝(なんぢ)早く一箇の破船に乗て本国へ可帰。」とぞ申ける。万将軍此(この)言を信じて、一箇の破船有(あり)けるに乗て、只一人大洋万里の波を凌(しのぎ)て、無程明州の津にぞ著(つき)にける。舟より上り、帝都へ参らんとする処に、又呂洞賓忽然(こつぜん)として来て申けるは、「汝日本(につぽん)の軍に打負(うちまけ)たる罪に依て、天子忿(いかつ)て親類骨肉、皆(みな)三族の罪に行(おこな)はれぬ。汝帝都に帰らば必(かならず)共(とも)に可被刑。早く是(これ)より剣閣(けんかく)を経て、蜀(しよく)の国へ行去れ。蜀王以汝大将として、雍州(ようしう)を攻(せめ)ばやと、羨念(うらやみおも)ふ事切(せつ)なり。至らば必(かならず)大功を建(たつ)べしと云て別れたるが、我汝が餞送(はなむけ)の為に嚢(なう)中を探(さぐ)るに、此(この)一物の外は無他。」とて、膏薬(かうやく)を一付与へける。其(その)銘に至雍発(しようはつ)とぞ書(かき)付(つけ)たりける。万将軍呂洞賓(りよとうひん)が言に任(まかせ)て、蜀へ行(ゆき)たるに、蜀王是(これ)を悦(よろこび)給ふ事無限。軈(やが)て万将軍に上将(じやうしやう)の位を授け、雍州をぞ攻(せめ)させける。万将軍兵を卒し旅(りよ)を屯(たむろし)て雍州に至るに、敵山隘(さんあい)の高く峙(そばだち)たるに、石の門を閉(とぢ)てぞ待(まち)たりける。誠(まこと)に一夫(いつぶ)忿(いかつ)て臨関に、万夫(ばんぷ)も不可傍と見へたり。此(この)時(とき)に万将軍、呂洞賓が我に与(あたへ)し膏薬の銘(めい)に至雍発(はつ)せよと書(かき)たりしは、此(この)雍州の石門に付(つけ)よと教へけるにこそと心得(こころえ)て、密(ひそか)に人をして、一付有(あり)ける膏薬を、石門の柱にぞ付(つけ)させたりける。付(つく)ると斉(ひとし)く石門の柱も戸も如雪霜とけて、山崩(くづ)れ道平になりければ、雍州の敵数万騎、可防便(たより)を失(うしなひ)て、皆蜀王にぞ降(くだ)りける。此(この)功然(しかしながら)万将軍が徳也(なり)とて、軈(やが)て公侯の位に登せられける。居(を)る事三十日有て、万将軍背(せなか)に癰瘡(ようさう)出たりけるが、日を不経して忽(たちまち)に死(しに)にけり。雍州の雍の字と癰瘡(ようさう)の癰字と■声(いんせい)通ぜり。呂洞賓が膏薬の銘に至癰発と書(かき)けるは、雍州の石門に付(つけ)よと教(をしへ)けるか、又癰瘡(ようさう)の出たらんに付(つけ)よと占(しめ)しけるか、其(その)二の間を知(しり)難し。功は高(たかく)して命は短し。何をか捨(すて)何をか取(とら)ん。若(もし)休(やむ)事を不得して其(その)一を捨(すて)ば、命は在天、我は必(かならず)功を取(とら)ん。抑太元三百万騎の蒙古(もうこ)共(ども)一時に亡(ほろび)し事、全(まつたく)吾国の武勇(ぶよう)に非(あら)ず。只(ただ)三千七百五十(さんぜんしちひやくごじふ)余社(よしや)の大小(だいせう)神祇、宗廟(そうべう)の冥助(みやうじよ)に依るに非(あら)ずや。
○神功皇后(じんぐうくわうごう)攻新羅給(たまふ)事(こと) S3910
昔(むか)し仲哀天皇(てんわう)、聖文神武(せいぶんしんむ)の徳を以て、高麗(かうらい)の三韓を攻(せめ)させ給ひけるが、戦(たたかひ)利無(なく)して帰らせ給ひたりしを、神功皇后(じんぐうくわうごう)、是(これ)智謀武備(ぶび)の足(たら)ぬ所也(なり)とて、唐朝(たうてう)へ師(いくさ)の束脩(そくしゆ)の為(ため)に、沙金(しやきん)三万両を被遣、履道翁(りだうおう)が一巻(いつくわん)の秘書を伝(つたへ)らる。是(これ)は黄石(くわうせき)公(こう)が第五日の鶏鳴(けいめい)に、渭水(ゐすい)の土橋(つちはし)の上にて張良に授(さづけ)し書なり。さて事已(すで)に定て後、軍評定の為に、皇后諸(もろもろ)の天神地祇を請(しやう)じ給ふに、日本(につぽん)一万(いちまん)の大小(だいせう)の神祇冥道(みやうだう)、皆勅請(ちよくしやう)に随て常陸(ひたち)の鹿島(かしま)に来(きたり)給ふ。雖然、海底に迹(あと)を垂(たれ)給(たまふ)阿度部(あとべ)の磯良(いそら)一人不応召。是(これ)如何様(いかさま)故(ゆゑ)あらんとて、諸の神達(かみたち)燎火(にはび)を焼(た)き、榊の枝に白和幣(しらにぎて)・青和幣取(あをにぎて)取(とり)懸(かけ)て、風俗(ふうぞく)・催馬楽(さいばら)、梅枝(むめがえ)・桜人(さくらひと)・石河(いしかは)・葦垣(あしがき)・此殿(このとの)・夏引(なつひき)・貫河(ぬきかは)・飛鳥井(あすかゐ)・真金吹(まかねふく)・差櫛(さしくし)・浅水(あさうづ)の橋、呂律(りよりつ)を調べ、本末を返(かへし)て数反(すへん)哥はせ給(たまひ)たりしかば、磯良(いそら)感に堪兼(たへかね)て、神遊(かみあそび)の庭にぞ参たる。其貌(そのかたち)を御覧ずるに、細螺(したたみ)・石花貝(かき)・藻(も)に棲(すむ)虫、手足五体(ごたい)に取付て、更(さら)に人の形にては無(なか)りけり。神達(かみたち)怪(あやし)み御覧じて、「何故(なにゆゑに)懸(かか)る貌(かたち)には成(なり)けるぞ。」と御尋(おんたづね)有(あり)ければ、磯良答(こたへ)て曰く、「我滄海(さうかい)の鱗(うろくづ)に交(まじはり)て、是(これ)を利(り)せん為に、久(ひさし)く海底に住(すみ)侍りぬる間、此(この)貌に成(なり)て候也(なり)。浩(かか)る形にて無止事御神前に参らんずる辱(はづか)しさに、今までは参り兼(かね)て候つるを、曳々融々(えいえいゆうゆう)たる律雅(りつが)の御声(みこゑ)に、恥をも忘れ身をも不顧して参りたり。」とぞ答(こたへ)申ける。軈(やが)て是(これ)を御使(おんつかひ)にて、竜宮城に宝とする干珠(かんじゆ)・満珠(まんじゆ)を被借召。竜神(りゆうじん)即(すなはち)応神勅二(ふたつ)の玉を奉る。神功皇后(じんぐうくわうごう)一巻(いつくわん)の書を智謀とし、両顆(りやうくわ)の明珠を武備(ぶび)として新羅(しんら)へ向(むか)はんとし給ふに、胎内に宿り給ふ八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)已(すで)に五月(いつつき)に成(なら)せ給ひしかば、母后の御腹(おんはら)大に成て、御鎧を召(めさ)るゝに御膚(おんはだへ)あきたり。此(この)為に高良(かうら)明神の計(はからひ)として、鎧の脇立(わいだち)をばし出しける也(なり)。諏防(すは)・住吉(すみよし)大明神(だいみやうじん)を則(すなはち)副将軍(ふくしやうぐん)・裨(ひ)将軍(しやうぐん)として、自余(じよ)の大小(だいせう)の神祇、楼船(ろうせん)三千(さんぜん)余艘(よさう)を漕双(こぎなら)べ、高麗国へ寄給ふ。是(これ)を聞て高麗の夷(えびす)共(ども)、兵船一万(いちまん)余艘(よさう)に取乗て海上に出向ふ。戦(たたかひ)半(なかば)にして雌雄(しゆう)未(いまだ)決(けつせざる)時(とき)、皇后先(まづ)干珠(かんじゆ)を海中に抛(なげ)給(たまひ)しかば、潮(うしほ)俄(にはか)に退(しりぞい)て海中陸地(ろくぢ)に成(なり)にけり。三韓(さんかんの)兵共(つはものども)、天我に利を与へたりと悦て、皆舟より下(おり)、徒立(かちだち)に成てぞ戦ひける。此(この)時(とき)に又皇后満珠(まんじゆ)を取て抛(なげ)給(たまひ)しかば、潮(うしほ)十方より漲(みなぎ)り来て、数万人(すまんにん)の夷(えびす)共(ども)一人も不残浪に溺(おぼれ)て亡(ほろび)にけり。是(これ)を見て三韓の夷の王自(みづから)罪を謝(しやし)て降参し給ひしかば、神功皇后(じんぐうくわうごう)御弓の末弭(うらはず)にて、「高麗の王は我が日本(につぽん)の犬也(なり)。」と、石壁(せきへき)に書(かき)付(つけ)て帰らせ給ふ。是(これ)より高麗我朝(わがてう)に順(したがひ)て、多年其貢(そのみつぎもの)を献(たてまつ)る。古は呉服部(くれはとり)と云(いふ)綾織(あやおり)、王仁(わうにん)と云(いふ)才人(さいじん)、我朝に来りけるも、此貢(このみつぎもの)に備(そなは)り、大紋(だいもん)の高麗縁(かうらいべり)も其篋(そのはこもの)とぞ承(うけたまは)る。其(その)徳天に叶ひ其化(そのくわ)遠(とほき)に及(および)し上古の代にだにも、異国を被順事は、天神地祇の力を以てこそ、容易(たやすく)征伐せられしに、今無悪不造(ふざう)の賊徒等(ぞくとら)、元朝高麗を奪(うばひ)犯(をかし)、牒使(てふし)を立(たて)させ、其課(そのかけもの)を送らしむる事、前代未聞(ぜんだいみもん)の不思議(ふしぎ)なり。角(かく)ては中々吾朝(わがてう)却(かへつ)て異国に奪(うばは)るゝ事もや有らんずらんと、怪しき程の事共(ことども)也(なり)。されば福州の呉元帥王乙(ごげんすゐわういつ)が吾朝へ贈りたる詩にも、此(この)意を暢(のべ)たり。日本(につぽん)狂奴乱浙東。将軍聴変気如虹。沙頭列陣烽烟闇。夜半皆殺兵海水紅。篳篥按哥吹落月。髑髏盛酒飲清風。何時截尽南山竹。細写当年殺賊功。此(この)詩の言(ことば)に付て思ふに、日本(につぽん)一州に近年竹の皆枯失(かれうす)るも、若(もし)加様(かやう)の前表にてやあらんと、無覚束行末也(なり)。
○光厳院(くわうごんゐん)禅定法皇(ぜんぢやうほふわう)行脚(あんぎやの)事(こと) S3911
光厳院(くわうごんゐん)禅定法皇(ぜんぢやうほふわう)は、正平七年の比、南山賀名生(あなふ)の奥より楚の囚(とらはれ)を被許させ給(たまひ)て、都へ還御成(なり)たりし後、世中(よのなか)をいとゞ憂き物に思召(おぼしめし)知(しら)せ給(たまひ)しかば、姑耶山(こやさん)の雲を辞(じ)し、汾水陽(ふんすゐやう)の花を捨(すて)て、猶(なほ)御身(おんみ)を軽く持たばやと思召けり。御荒増(おんあらまし)の末通(とほり)て、方袍円頂(はうはうゑんちやう)の出塵(しゆつぢん)の徒(と)と成(なら)せ給(たまひ)しかば、伏見の里の奥光厳院(くわうごんゐん)と聞へし幽閑(いうかん)の地にぞ住(すま)せ給ひける。是(これ)も猶(なほ)都近き所なれば、旧臣の参り仕へんとするも厭(いと)はしく、浮世の事の御耳に触るも冷(すさまじ)く思召(おぼしめさ)れければ、来(きたりて)無所止、去(さりて)無住。柱杖頭辺(しゆぢやうとうへん)活路(くわつろ)通ずと、中峯(ちゆうほう)和尚の被作送行偈(そうあんのげ)、誠(まこと)に由(よし)ありと御心(おんこころ)に染(そみ)て、人工(にんぐ)・行者(あんじや)の一人をも不被召具、只順覚と申ける僧を一人御共にて、山林斗薮(とそう)の為に立(たち)出させ給ふ。先(まづ)西国の方を御覧ぜんと思食(おぼしめし)て、摂津国(つのくに)難波の浦を過(すぎ)させ給ふに、御津(みつ)の浜松霞(かすみ)渡(わたり)て、曙(あけぼの)の気色(けしき)物哀(ものあはれ)なれば、迥(はるか)に被御覧て、誰待(まち)てみつの浜松霞(かすむ)らん我が日本(ひのもと)の春ならぬ世にと、打涙ぐませ給ふ。山遠き浦の夕日の浪に沈まんとするまで興ぜさせ給(たまひ)て、猶(なほ)過(すぎ)うしと思召(おぼしめし)たるに、望無窮水接天色、看不尽山映夕暉と云(いふ)対句の時節に相叶(あひかなひ)たるにも、捨(すて)ぬ世ならば、何故(なにゆゑ)浩(かか)る風景をも可見と被仰けるも物悲し。是(これ)より高野山を御覧ぜんと思召(おぼしめし)て、住吉(すみよし)の遠里小野(うりうの)へ出させ給ひたれば、焼痕(せうこん)回緑春容早(はやく)、松影穿紅日脚西なり。海天(かいてん)野景(やけい)歩(あゆむ)に随て新(あらた)なる風流に、御足たゆむ共不被思食。昔は銷金軽羅(せうこんけいら)の茵(しとね)ならでは、仮(かり)にも蹈(ふま)せ給はざりし玉趾(ぎよくし)を、深泥湿土(しんでいしつと)の黯(くろめる)に汚(けが)れさせ給ひ御供(おんとも)の僧は、仕(つか)へて懸(かけ)し肘後(ちうご)の府に替(かは)れる一鉢(いつぱつ)を脇(わき)にかけ、今夜堺(さかひの)浦(うら)までも歩ませ給へば、塩干(しほひ)の潟(かた)にむれ立て、玉藻を拾ひ磯菜(いそな)取る海人(あま)共(ども)の、各つげの小櫛を差(さし)て、葦間に隠(かく)れ顕(あらは)れたる様を被御覧にも、「御貢(みつぎもの)備(そなへ)し民の営(いとなみ)、是(これ)程(ほど)に身を苦しめけるをしらで、等閑(なほざり)にすさびける事よ。」と、今更浅猿(あさまし)く思食(おぼしめし)知(しら)せ給ふ。回首望東を、雲に聯(つら)なり霞に消(きえ)て、高く峙(そばた)てる山あり。道に休める樵(きこり)に山の名を問はせ給へば、「是(これ)こそ音に聞へ候金剛山の城(じやう)とて、日本国の武士共(ぶしども)の、幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数をも不知討(うた)れ候(さうらひ)し所にて候へ。」とぞ申ける。是(これ)を聞食(きこしめし)て、「穴(あな)浅猿(あさまし)や、此(この)合戦と云(いふ)も、我一方の皇統(くわうとう)にて天下を争ひしかば、其亡卒(そのばうそつ)の悪趣(あくしゆ)に堕(だ)して多劫(たごふ)が間苦(く)を受けん事も、我罪障(わがざいしやう)にこそ成(なり)ぬらめ。」と先非を悔(くい)させ御坐(おはしま)す。経日紀伊(きいの)川を渡らせ給ひける時、橋柱朽(くち)て見るも危(あやふ)き柴橋(しばはし)あり。御足冷(すさまじ)く御肝(おんきも)消(きえ)て渡りかねさせ給ひたれば、橋の半(なかば)に立(たち)迷(まよう)てをはするを、誰とは不知、如何様(いかさま)此(この)辺に、臂(ひぢ)を張り作(つく)り眼する者にてぞある覧(らん)と覚へたる武士七八人(しちはちにん)迹(あと)より来りけるが、法皇の橋の上に立(たた)せ給ひたるを見て、「此(ここ)なる僧の臆病気(おくびやうげ)なる見度(みたう)もなさよ。是(これ)程急ぎ道の一つ橋を、渡らばとく渡れかし。さなくは後に渡れかし。」とて、押のけ進(まゐ)らせける程に、法皇橋の上より被押落させ給ひて、水に沈ませ給ひにけり。順覚、「あら浅猿(あさまし)や。」とて、衣乍著飛(とび)入て引起し進(まゐら)せたれば、御膝は岩のかどに当りて血になり、御衣は水に漬(ひた)りてしぼり不得。泣々(なくなく)傍(あたり)なる辻堂へ入れ進(まゐら)せて、御衣を脱替(ぬぎかへ)させ進(まゐら)せけり。古へも浩(かか)る事やあるべきと、君臣共に捨(すつ)る世を、さすがに思召(おぼしめし)出ければ、涙の懸(かか)る御袖(おんそで)は、ぬれてほすべき隙(ひま)もなし。行末心細き針道(はりみち)を経て御登山有(あり)ければ、山又(また)山、水又(また)水、登臨(とうりん)何(いづれの)日(ひか)尽(つく)さんと、身力疲れて被思食にも、先年大覚寺(だいかくじの)法皇の、此(この)寺へ御幸成りしに、供奉(ぐぶ)の卿相(けいしやう)雲客(うんかく)諸共(もろとも)に、一町(いつちやう)に三度(さんど)の礼拝をして、首(かうべ)を地に著(つ)け、誠(まこと)を致されける事も、難有かりける御願哉(かな)。予が在位の時も、代(よ)静(しづ)かなりせば、などか其芳躅(そのはうしよく)を不蹈と、思召(おぼしめし)准(なぞら)へらる。さて御山にも御著(おんつき)有(あり)しかば、大塔(だいたふ)の扉(とびら)を開(ひらか)せて両界の曼荼羅(まんだら)を御拝見あれば、胎蔵界(たいざうかい)七百(しちひやく)余尊(よそん)、金剛界(こんがうかい)五百(ごひやく)余尊(よそん)をば、入道太政大臣(だいじやうだいじん)清盛公(きよもりこう)、手(てづか)ら書(かき)たる尊容(そんよう)也(なり)。さしも積悪(せきあく)の浄海、何(いか)なる宿善に被催、懸(かか)る大善根を致しけん。六大無碍(ろくだいむげ)の月晴(はる)る時有て、四曼相即(しまんさうぞく)の花可発春を待(まち)けり。さては是(これ)も只混(ひたすら)なる悪人にては無(なか)りけるよと、今爰(ここ)に思召(おぼしめし)知(しら)せ給ふ。落花為雪笠無重、新樹謬昏日未傾(いまだかたぶかず)、其(その)日(ひ)頓(やが)て奥の院へ御参詣有て、大師(だいし)御入定の室(むろ)の戸を開かせ給へば、嶺松含風顕踰伽上乗之理、山花篭雲秘赤肉中台之相。前仏の化縁(けえん)は過(すぎ)ぬれ共(ども)、五時の説今耳に有(ある)かと覚え、慈尊の出世は遥(はるか)なれ共(ども)、三会(さんゑ)の粧(よそほひ)已(すで)に眼に如遮。三日まで奥(おくの)院(ゐん)に御通夜有て暁(あかつき)立(たち)出させ給(たまふ)に一首(いつしゆ)の御製あり。高野(たかの)山迷(まよひ)の夢も覚(さむ)るやと其(その)暁を待(また)ぬ夜ぞなき安居(あんご)の間は、御心(おんこころ)閑(しづか)に此(この)山中にこそ御坐(ござ)あらめと思召(おぼしめし)て、諸堂御巡礼ある処に、只今(ただいま)出家したる者と覚(おぼし)くて、濃(こき)墨染にしほれたる桑門(よすてびと)二人(ににん)御前(おんまへ)に畏(かしこまつ)て、其(その)事となく只さめ/\とぞ泣(なき)居たりける。何者(なにもの)なるらんと怪(あやし)く思召(おぼしめし)てつく/゛\御覧じければ、紀伊川を御渡(おんわたり)有(あり)し時、橋の上より法皇を押(おし)落(おと)し進(まゐ)らせたりし者共(ものども)にてぞ有(あり)ける。不思議(ふしぎ)や何事に今遁世(とんせい)をしけるぞや。是(これ)程無心放逸(はういつ)の者も、世を捨(すつ)る心の有(あり)けるかと思召(おぼしめし)て過(すぎ)させ給へば、此(この)遁世者(とんせいしや)御迹に随(したがひ)て、順覚に泣々(なくなく)申けるは、「紀伊川を御渡(おんわたり)候(さうらひ)し時、懸(かか)る無止事〔御事(おんこと)〕共知(しり)奉り候はで、玉体にあしく触(ふれ)奉(たてまつり)し事、余に浅猿(あさまし)く存(ぞんじ)候(さうらひ)て、此貌(このかたち)に罷(まかり)成(なり)て候。仏種は従縁起る儀も候なれば、今より薪(たきぎ)を拾ひ、水を汲(くむ)態(わざ)にて候(さうらふ)共(とも)、三年が間常随(じやうずゐ)給仕(きふじ)申(まうし)候(さふらひ)て、仏神三宝の御とがめをも免(ゆるさ)れ候はん。」とぞ申ける。「よしや不軽菩薩(ふきやうぼさつ)の道を行(ゆき)給(たまひ)しに、罵詈誹謗(めりひばう)する人をも不咎、打擲蹂躙(ちやうちやくじうりん)する者をも、却(かへつ)て敬礼(きやうらい)し給(たまひ)き。況(いはんや)我已(すでに)貌(かたち)を窶(やつ)して人其(その)昔を不知(しらず)。一時の誤(あやまり)何か苦(くるし)かるべき。出家は誠(まこと)に因縁(いんえん)不思議(ふしぎ)なれ共(ども)、随順(ずゐじゆん)せん事は怒々(ゆめゆめ)叶(かなふ)まじき。」由を被仰けれ共(ども)、此(この)者強(しひ)て片時(へんじ)も離れ進(まゐ)らせざりしかば、暁(あかつき)閼伽(あか)の水汲(くみ)に被遣たる其(その)間に、順覚を召具して潜(ひそか)に高野をぞ御出(おんいで)有(あり)ける。御下向は大和路(やまとぢ)に懸(かか)らせ給ひしかば、道の便(たより)も能(よろし)とて、南方の主上(しゆしやう)の御座(ござ)ある吉野殿(よしのどの)へ入らせ給ふ。此(この)三四年の先までは、両統(りやうとう)南北に分れて此(ここ)に戦ひ彼(かしこ)に寇(あた)せしかば、呉越(ごえつ)の会稽(くわいけい)に謀(はかり)しが如く、漢楚(かんそ)の覇上(はじやう)に軍(いくさだて)せしにも過(すぎ)たりしに、今は散聖(さんじやう)の道人(だうにん)と成(なら)せ給(たまひ)て、玉体を麻衣草鞋(まえさうあい)にやつし、鸞輿(らんよ)を跣行(せんかう)の徒渉(とせう)に易(かへ)て、迢々(はるばる)と此(この)山中迄(まで)分(わけ)入(いら)せ給(たまひ)たれば、伝奏未(いまだ)事の由を不奏先(さきに)直衣の袖をぬらし、主上(しゆしやう)未(いまだ)御相看(ごしやうかん)なき先に御涙(おんなみだ)をぞ流させ給(たまひ)ける。是(ここ)に一日(いちにち)一夜(いちや)御逗留(ごとうりう)有て、様々の御物語(おんものがたり)有(あり)しに、主上(しゆしやう)、「さても只今(ただいま)の光儀(くわうぎ)、覚(さめ)ての後の夢、夢の中の迷(まよひ)かとこそ覚へて候へ。縦(たとひ)仙院の故宮(こきゆう)を棄(すて)て釈氏(しやくし)の真門(しんもん)に入(いら)せ給ふ共、寛平(くわんへい)の昔にも准(なぞら)へ、花山の旧(ふる)き跡をこそ追(おは)れ候べきに、尊体を浮萍(ふへい)の水上に寄(よせ)て、叡心(えいしん)を枯木(こぼく)の禅余(ぜんよ)に被付候(さうらひ)ぬる事、何(いか)なる御発心(ほつしん)にて候(さうらひ)けるぞや。御羨(うらやましく)こそ候へ。」と、尋(たづね)申させ給(たまひ)ければ、法皇御泪に咽(むせび)て、暫(しばし)は御詞(おんことば)をも不被出。良(やや)有て、「聰明文思(そうめいぶんし)の四徳を集(あつめ)て叡旨に係(かけ)候へば、一言未挙(いまだあげざる)先に、三隅(さんぐう)の高察も候はん歟(か)。予元来(ぐわんらい)万劫煩悩(まんこふぼんなう)の身を以て、一種虚空(こくう)の塵(ちり)にあるを本意とは存ぜざりしか共、前業(ぜんごふ)の嬰(かか)る所に旧縁(きうえん)を離(はなれ)兼(かね)て、可住荒増(あらまし)の山は心に乍有、遠く待(また)れぬ老の来る道をば留むる関も無(なく)て年月を送(おくり)し程に、天下の乱一日も休(や)む時無(なか)りしかば、元弘(げんこう)の始(はじめ)には江州(がうしう)の番馬(ばんば)まで落(おち)下り、五百(ごひやく)余人(よにん)の兵共(つはものども)が自害せし中に交(まじはり)て、腥羶(せいせん)の血に心を酔(よは)しめ、正平の季(すゑ)には当山の幽閑(いうかん)に逢(あう)て、両年を過(すぐ)るまで秋刑(しうけい)の罪に胆(きも)を嘗(なめ)き。是(これ)程されば世は憂(うき)物にて有(あり)ける歟(か)と、初(はじめ)て驚(おどろく)許(ばかり)に覚(おぼえ)候(さうらひ)しかば、重祚(ちようそ)の位に望をも不掛、万機(ばんき)の政(まつりこと)に心をも不留しか共、一方の戦士我を強(しひ)して本主(ほんしゆ)とせしかば、可遁出隙(ひま)無(なく)て、哀(あはれ)いつか山深き栖(すみか)に雲を友とし松を隣(となり)として、心安(こころやす)く生涯を可尽と、心に懸(かけ)て念じ思(おもひ)し処に、天地命を革(あらため)て、譲位(じやうゐ)の儀出来しかば、蟄懐(ちつくわい)一時に啓(ひらけ)て、此(この)姿に成てこそ候へ。」と、御涙(おんなみだ)の中に語(かたり)尽(つく)させ給へば、一人諸卿諸共(もろとも)に御袖(おんそで)をしぼる許(ばかり)也(なり)。「今は。」とて御帰(おんかへり)あらんとするに、寮(れう)の御馬(おんむま)を進(まゐら)せられたれ共(ども)、堅(かたく)御辞退有て召(めさ)れず。いつしか疲(つかれ)させ給ひぬれ共(ども)、猶(なほ)如雪なる御足に、荒々(あらあら)としたる鞋(わらぢ)を召(めさ)れて出立させ給へば、主上(しゆしやう)は武者所(むしやどころ)まで出御(しゆつぎよ)成て、御簾(みす)を被掲(かかげられ)、月卿(げつけい)雲客(うんかく)は庭上の外まで送り進(まゐら)せて、皆泪にぞ立(たち)ぬれ給(たまひ)ける。道すがらの山館野亭(さんくわんやてい)を御覧ぜらるゝにも、先年■里(いうり)の囚(とらはれ)に逢(あは)せ給(たまひ)て、一日片時(いちにちへんし)も難過と、御心(おんこころ)を傷(いたま)しめ給(たまひ)し松門茅屋(ばうをく)あり。戦図(せんと)に入(いる)山中ならずは斯(かか)る処にぞ住(すみ)なましと、今は昔の憂(うき)栖(すみか)を御慕(おんしたひ)有(あり)けるぞ悲(かなし)き。諸国御斗薮(とそう)の後、光厳院(くわうごんゐん)へ御帰(おんかへり)有て暫(しばらく)御座(ござ)有(あり)けるが、中使頻(しきり)に到て松風の夢を破り、旧臣常(つね)に参(まゐり)て蘿月(らげつ)の寂(じやく)を妨(さまたげ)ける程に、此(ここ)も今は住(すみ)憂(うし)と思召(おぼしめし)、丹波(たんばの)国(くに)山国と云(いふ)所へ、迹(あと)を銷(け)して移(うつら)せ給(たまひ)ける。山菓落庭朝三食飽秋風、柴火宿炉夜薄衣防寒気、吟肩骨痩担泉慵時、石鼎湘雪三椀茶飲清風、仄歩山嶮折蕨倦時、岩窓嚼梅、一聯(いちれん)句甘閑味給ふ。身の安(やすき)を得る処即(すなはち)心安(こころやす)し。出有江湖、入有山川と、一乾坤(けんこん)の外に逍遥(せうえう)して、破蒲団(はふとん)の上に光陰を送らせ給(たまひ)けるが、翌年(よくねん)の夏(なつの)比(ころ)より、俄(にはか)に御不予(ごふよ)の事有て、遂(つひ)に七月七日隠(かくれ)させ給(たまひ)にけり。
○法皇御葬礼(ごさうれいの)事(こと) S3912
比(この)時(とき)の新院光明院殿も、山門(さんもんの)貫主(くはんじゆ)梶井(かぢゐの)宮(みや)も、共に皆禅僧に成(なら)せ給(たまひ)て、伏見殿に御座(ござ)有(あり)ければ、急ぎ彼遷化(かのせんげ)の山陰(やまかげ)へ御下り有て御荼毘(おんだび)の事共(ことども)、取(とり)営(いとなま)せ給(たまひ)て、後(うしろ)の山に葬(さう)し奉る。哀(あはれ)仙院芝山(しざん)の晏駕(あんが)ならましかば、百官泪(なみだ)を滴(したで)て、葬車の御迹に順(したが)ひ、一人(いちじん)悲(かなしみ)を呑(のん)で虞附(ぐふ)の御祭をこそ営(いとなま)せ給ふべきに、浩(かかる)る御事(おんこと)とだに知(しる)人もなき山中の御葬礼(ごさうれい)なれば、只徒(いたづら)に鳥啼(なき)て挽歌(ばんか)の響(ひびき)をそへ、松咽(むせん)で哀慟(あいどう)の声を助(たすく)る計(ばかり)也(なり)。夢なる哉、往昔(わうじやく)の七夕には、長生殿にして二星一夜(いちや)の契(ちぎり)を惜(をしみ)て、六宮(りくきゆう)の美人両階の伶倫(れいりん)台下(だいか)に曲を奏して、乞巧奠(きつかうでん)をこそ備へさせられしに、悲(かなしい)哉(かな)、当年の今日は、幽邃(いうすい)の地にして三界八苦の別(わかれ)に逢(あう)て、万乗の先主・一山(いつさん)の貫頂(くわんちやう)、山中に棺(ひつぎ)を荷(にな)ふて御葬送を営(いとなま)せ給ふ。只千秋亭の月有待(うだい)の雲に隠れ、万年樹の花無常の風に随(したが)ふが如し。されば遶砌山川も、是(これ)を悲(かなしみ)て雨となり雲となる歟(か)と怪(あやし)まる。無心草木も是(これ)を悼(いたみ)て、葉落ち花萎(しぼ)めるかと疑はる。感恩慕徳旧臣多(おほし)といへ共、預(あらかじ)め勅を遺(のこ)されしに依て、参り集る人も稀(まれ)なりしかば、纔(わづか)に篭(こもり)僧三四人の勤(つと)めにて、御中陰(ごちゆういん)の菩提(ぼだい)にぞ資(たす)け奉りける。御国忌(みこくき)の日ごとに、種々の作善積功(さぜんしこう)累徳(るゐとく)せらる。殊更に第三(だいさん)廻(くわい)に当りける時は、継体(けいたい)の天子今上皇帝(くわうてい)、御手自(おんてづから)一字三礼(いちじさんらい)の紺紙金泥(こんしこんでい)の法華経(ほけきやう)をあそばされて、五日八講(はつかう)十種供養あり。伶倫(れいりん)正始(せいし)の楽(がく)は、大樹緊那(たいじゆきんな)の琴の音(おと)に通じ、導師称揚(しようやう)の言は、富楼那尊者(ふるなそんじや)の弁舌を展(のべ)たり。結願の日に当て、薪(たきぎ)を採(とり)て雪を荷(にな)ふ夕郎は、千載(せんざい)給仕(きふじ)の昔の迹を重くし、水を汲(くみ)て月を運ぶ雲客は、八相成道の遠き縁を結ぶ。是(これ)又善性・善子の珊提嵐国(さんだいらんこく)に仕へし孝にも過ぎ、浄蔵(じやうざう)・浄眼(じやうげん)の妙荘厳王(めうしやうごんわう)を化(け)せし功にも越(こえ)たれば、十方の諸仏も明(あきら)かに此追賁(このつゐひ)を随喜(ずゐき)し給ひ、六趣の群類も定(さだめ)て其(その)余薫にこそ関(あづか)るらめと、被思知御作善(ごさぜん)也(なり)。