太平記(国民文庫)
太平記巻第三十八

○彗星客星(すゐせいきやくせいの)事(こと)付(つけたり)湖水(こすゐ)乾(かわく)事(こと) S3801
康安二年二月に、都には彗星・客星(きやくせい)同時に出たりとて、天文博士共(てんもんのはかせども)内裏へ召(めさ)れて吉凶(きつきよう)を占(うらな)ひ申(まうし)けり。「客星は用明天皇(てんわうの)御宇(ぎよう)に、守屋(もりや)仏法を亡(ほろぼ)さんとせし時、始(はじめ)て見へたりけるより、今に至るまで十四箇度(じふしかど)、其(その)内二度(にど)は祥瑞(しやうずゐ)にて、十二度(じふにど)は大凶(たいきやう)也(なり)。彗星は皇極天王(くわうごくてんわう)の御宇に、豊浦(とよらの)大臣の子、蘇我入鹿(そがのいるか)が乱を起して、中臣大兄皇子(おほえのわうじ)並(ならびに)中臣鎌子(なかとみかまこ)と合戦をしたりし時、始(はじめ)て此(この)星出たりしより、今に至(いたる)迄(まで)八十六箇度(はちじふろくかど)、一度(いちど)も未(いまだ)災難ならずと云(いふ)事なし。尤(もつとも)天下の御慎(おんつつしみ)にて候べし。」と、博士一同に勘(かんがへ)申(まうし)ければ、諸臣皆(みな)色を失(うしなひ)て、「さればよ、此乱世(このらんせい)の上には、げにも世界国土が金輪際(こんりんざい)の底へ落入(おちいる)か、不然は異国の蒙古(もうこ)寄来(よせき)て、日本国を打取(うちとる)かにてこそあらめ。さる事有(ある)まじき世共(とも)不覚(おぼえず)。」と、面々に申合(まうしあは)れけり。誠(まこと)に天地人の三災(さんさい)同時に出来(いできたり)ぬと覚(おぼえ)て、去年の七月より日々に二三度(にさんど)の地震も未休(いまだやまず)、又今年の六月より同(おなじき)十一月の始まで旱魃(かんばつ)して、五穀(ごこく)も不登、草木も枯萎(かれしぼみ)しかば、鳥はねぐらを失ひ、魚は泥(どろ)に吻(いきづく)のみならず、人民共の飢死(うゑし)ぬる事、所々に数を不知(しらず)。此(この)時(とき)近江の湖(みづうみ)も三丈六尺(ろくしやく)干(ひ)たりけるに、様々(さまざま)の不思議(ふしぎ)あり。白髭(しらひげ)の明神の前にて、奥(おき)に二人(ににん)して抱許(だくばかり)なる桧木(ひのき)の柱を、あはひ一丈(いちぢやう)八尺(はつしやく)づゝ立双(たてなら)べて、二町(にちやう)余に渡せる橋見へたり。「古人の語り伝(つたへ)たる事もなし、古き記録にも不載。是(これ)は何様(いかさま)竜宮城の道にてぞ有覧(あるらん)。」と云沙汰(いひさた)して、見る人日々に群集(くんじゆ)せり。又竹生島(ちくぶしま)より箕浦(みのうら)まで水の上三里、入譱瑙なる切石を広さ二丈(にぢやう)許(ばかり)に平に畳連(たたみつら)ねて、二河白道(じがはくだう)も角(かく)やと覚(おぼえ)たる道一通(ひととほり)顕(あらはれ)出たり。是(これ)も如何様(いかさま)竜神(りゆうじん)の通路(かよひぢ)にてぞ有(ある)らんとて、蹈(ふん)では渡る人なし。只傍(あたり)の浦に船を浮(うけ)て見る人如市也(なり)。此湖(このみづうみ)七度(しちど)まで桑原(くははら)に変ぜしを我見たりと、白髭明神(しらひげみやうじん)、大宮権現(おほみやごんげん)に向て被仰けると云(いふ)古の物語あれば、左様(さやう)の桑原にやならんずらんと見る人奇(あやし)み思へり。天地(てんち)の変(へん)は既(すで)に如此、人事の変又さこそあらんずらめと思(おもふ)処に、国々より早馬(はやうま)を打て、宮方(みやがた)蜂起(ほうき)したりと、告(つぐ)る事曾(かつ)て休(やむ)時(とき)なし。
○諸国宮方(みやがた)蜂起(ほうきの)事(こと)付(つけたり)越中(ゑつちゆう)軍(いくさの)事(こと) S3802
山陽道(せんやうだう)には同年六月三日に、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏五千(ごせん)余騎(よき)にて、伯耆(はうき)より美作(みまさか)の院庄(ゐんのしやう)へ打越(うちこえ)て国々へ勢(せい)を差分(さしわか)つ。先(まづ)一方へは、時氏(ときうぢの)子息左衛門(さゑもんの)佐(すけ)師義(もろよし)を大将にて、二千(にせん)余騎(よき)、備前・備中両国へ発向(はつかう)す。一勢(いつせい)は備前(びぜんの)仁万堀に陣を取て敵を待(まつ)に、其(その)国(くに)の守護(しゆごの)勢、松田・河村(かはむら)・福林寺(ふくりんじ)・浦上(うらかみ)七郎兵衛行景等(ゆきかげら)、皆(みな)無勢(ぶせい)なれば、出合ては叶はじとや思(おもひ)けん。又讃岐(さぬき)より細河右馬(うまの)頭(かみ)頼之(よりゆき)、近日児島(こじま)へ押渡ると聞ゆるをや相待(あひまち)けん。皆(みな)城(じやう)に楯篭(たてこもつ)て未曾戦(いまだかつてたたかはず)。一勢(いつせい)は多治目(たぢめ)備中(びつちゆうの)守(かみ)、楢崎(ならさき)を侍大将にて、千(せん)余騎(よき)備中の新見(にひみ)へ打出たるに、秋庭(あきば)三郎多年拵(こしらへ)すまして、水も兵粮も卓散(たくさん)なる松山の城(じやう)へ、多治目・楢崎を引入(ひきいれ)しかば、当国の守護(しゆご)越後(ゑちごの)守(かみ)師秀可戦様(やう)無(なく)して、備前の徳倉(とくら)の城(じやう)へ引退(ひきしりぞ)く刻(きざみ)、郎従赤木(あかき)父子二人(ににん)落止(おちとどまつ)て、思(おもふ)程戦(たたかひ)て遂(つひ)に討死してけり。依之(これによつて)敵勝(かつ)に乗(のつ)て国中(こくぢゆう)へ乱(みだれ)入て、勢を差向(さしむけ)々々(さしむけ)責(せめ)出すに、一儀(いちぎ)をも可云様(やう)無(なけ)れば、国人(くにびと)一人も順(したが)ひ不付云(いふ)者なし。只陶山(すやま)備前(びぜんの)守(かみ)許(ばかり)を、南海の端(はし)に添(そう)て僅(わづか)なる城を拵(こしらへ)て、将軍方(しやうぐんがた)とては残りける。備後へは、富田(とんだ)判官(はうぐわん)秀貞が子息弾正少弼(だんじやうせうひつ)直貞(なほさだ)八百(はつぴやく)余騎(よき)、出雲より直(すぐ)に国中(こくぢゆう)へ打出たるに、江田・広沢・三吉(みよし)の一族(いちぞく)馳著(はせつき)ける間、無程二千(にせん)余騎(よき)に成(なり)にけり。富田其(その)勢を合(あはせ)て、宮(みやの)下野入道(しもつけのにふだう)が城を攻(せめ)んとする処に、石見(いはみの)国(くに)より足利左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)直冬、五百騎(ごひやくき)許(ばかり)にて富田に力を合(あはせ)戦(たたかはん)と、備後の宮内(みやのうち)へ被出たりけるが、禅僧を一人、宮(みやの)下野入道(しもつけのにふだう)の許(もと)へ使に立(たて)て被仰けるは、「天下の事時刻(じこく)到来(たうらい)して、諸国の武士大略御方(みかた)に志(こころざし)を通ずる処に、其(その)方(かた)より曾(かつて)承(うけたまは)る旨(むね)なき間に、遮(さへぎつ)て使者を以(もつ)て申(まうす)也(なり)。天下に人多(おほし)といへ共、別(べつ)して憑思(たのみおもひ)奉る志深し。今若(もし)御方(みかた)に参じて忠を被致候はゞ、闕所分(けつしよぶん)已下の事に於(おい)ては毎事(まいじ)所望に可随。」とぞ宣(のたま)ひ遣(つかはさ)れける。宮(みやの)入道(にふだう)道山(だうせん)先(まづ)城(じやう)へ使者の僧を呼(よび)入(いれ)て点心(てんじん)を調(ととのへ)、礼儀を厚(あつく)して対面あれば、使者の僧今はかうと嬉しく思ふ処に、彼(かの)禅門道山、僧に向て申(まうし)けるは、「天下に一人も宮方(みやがた)と云(いふ)人なく成(なり)て、佐殿(すけどの)も無憑方成(なら)せ給ひたらん時、さりとては憑(たのむ)ぞと承(うけたまは)らば、若(もし)憑(たのま)れ進(まゐら)する事もや候はんずらん。今時(いまどき)近国の者共(ものども)多く佐殿に参りて、勢(せい)付(つか)せ給ふ間、当国に陣を召(めさ)れて参れと承(うけたまは)らんに於ては、えこそ参り候まじけれ。悪(にく)し其(その)儀ならば討て進(まゐら)せよとて、御勢(おんせい)を向(むけ)られば、尸(かばね)は縦(たとひ)御陣の前に曝(さら)さる共、魂(たましひ)は猶(なほ)将軍(しやうぐん)の御方に止(とどまつ)て、怨(うらみ)を泉下(せんか)に報(はう)ぜん事を計(はから)ひ候べし。抑(そもそも)加様(かやう)の使などには御内(みうち)外様(とざま)を不云、可然武士をこそ立(たて)らるゝ事にて候に、僧体(そうたい)にて使節に立(たた)せ給ふ条(でう)、難心得(こころえがたく)こそ覚(おぼえ)て候へ。文殊(もんじゆ)の、仏の御使(おんつかひ)にて維摩(ゆゐま)の室(しつ)に入り、玄奘(げんじやう)の大般若(だいはんにや)を渡さんとて流沙(りうさ)の難(なん)を凌(しのぎ)しには様(やう)替(かは)りて、是(これ)は無慚無愧(むざんむぎ)道心の御挙動(おんふるまひ)にて候へば、僧聖(そうひじ)りとは申(まうす)まじ。御頚(おんくび)を軈(やが)て路頭(ろとう)に懸度(かけたく)候へ共、今度許(ばかり)は以別儀ゆるし申(まうす)也(なり)。向後(きやうこう)懸(かか)る使をして生(いき)て帰るべしとな覚(おぼ)しそ。御分(ごぶん)誠(まこと)に僧ならば斯(かか)る不思議(ふしぎ)の事をばよもし給はじ。只(ただ)此(この)城(じやう)の案内見ん為に、夜討の手引しつべき人が、貌(かたち)を禅僧に作(つくり)立(たて)られてぞ、是(これ)へはをはしたるらん。やゝ若党共(わかたうども)、此(この)僧連(つれ)て城の有様能々(よくよく)見せて後、木戸より外(そと)へ追(おひ)出し奉れ。」とて、後(うしろ)の障子を荒らかに引立(ひきたて)て内へ入れば、使者の僧今や失(うしな)はるゝと肝心(きもたましひ)も身にそはで、這々(はふはふ)逃(にげ)てぞ帰りける。「此(この)使帰らば佐殿(すけどの)定(さだめ)て寄せ給はんずらん。先(さきん)ずる時は人を制(せい)するに利ありとて、逆寄(さかよせ)に寄て追散(おひちら)せ。」とて、子息下野次郎氏信に五百(ごひやく)余騎(よき)を差副(さしそへ)、佐殿の陣を取て御坐(おはします)宮内(みやのうち)へ押寄せ、懸立(かけたて)々々(かけたて)責(せめ)けるに、佐殿の大勢共、立(たつ)足もなく打負(うちまけ)て、散々(ちりぢり)に皆成(なり)にければ、富田(とんだ)も是(これ)に力を落(おと)して、己が本国へぞ帰りにける。直冬(ただふゆ)朝臣(あつそん)、宮(みやの)入道(にふだう)と合戦をする事其(その)数を不知(しらず)。然共(しかれども)、直冬一度(いちど)も未(いまだ)打勝給ひたる事なければ、無云甲斐と思ふ者やしたりけん、落書の哥を札(ふだ)に書て、道の岐(ちまた)にぞ立(たて)たりける。直冬はいかなる神の罰(ばつ)にてか宮にはさのみ怖(おぢ)て逃(にぐ)らん侍大将と聞へし森備中(びつちゆうの)守(かみ)も、佐殿より前(さき)に逃(にげ)たりと披露(ひろう)有(あり)ければ、高札(たかふだ)の奥に、楢(なら)の葉のゆるぎの森にいる鷺(さぎ)は深山下風(みやまおろし)に音(ね)をや鳴(なく)らん但馬(たぢまの)国(くに)へは、山名左衛門(さゑもんの)佐(すけ)・舎弟(しやてい)治部(ぢぶの)太輔(たいふ)・小林民部(みんぶの)丞(じよう)を侍大将にて、二千(にせん)余騎(よき)、大山(だいせん)を経(へ)て、播磨へ打越んとて出たりけるが、但馬(たぢまの)国(くにの)守護(しゆご)仁木弾正少弼(につきだんじやうせうひつ)・安良(やすら)十郎左衛門、将軍方(しやうぐんがた)にて楯篭(たてこもり)たる城未(いまだ)落(おち)ざりける間、長(ちやうの)九郎左衛門(くらうざゑもんの)尉(じよう)・安保(あふ)入道信禅(しんぜん)已下の宮方(みやがた)共(ども)、我(わが)国(くに)を閣(さしおい)て、他国へ越(こえ)ん事を不心得(こころえず)。さらば小林が勢許(せいばかり)にても、播磨へ打越んと企(くはたつ)る処に、赤松掃部(かもんの)助(すけ)直頼(なほより)大山(だいせん)に城を構(かまへ)て、但馬の通路(つうろ)を差塞(さしふさ)ぎける程に、小林難所(なんしよ)を被支丹波へぞ打越ける。丹波には当国の守護(しゆご)仁木兵部(ひやうぶの)太輔(たいふ)義尹(よしたか)、兼(かね)て在国(ざいこく)して待(まち)懸(かけ)たる事なれば、軈(やが)て合戦有(あり)ぬとこそ覚(おぼえ)けるに、楚忽(そこつ)に軍(いくさ)しては中々悪(あし)かりぬとや被思けん、和久(わく)の郷(がう)に陣を取て、互(たがひ)に敵の懸(かか)るをぞ相待(あひまち)ける。「丹波は京近き国なれば暫(しばら)くも非可閣、急(いそぎ)大勢を下(くだ)して義尹(よしたか)に力を合(あは)せよ。」とて、若狭の守護(しゆご)尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)入道心勝(しんしよう)・遠江守(とほたふみのかみ)護今河(いまがは)伊予(いよの)守(かみ)・三河(みかはの)守護(しゆご)大島遠江守(とほたふみのかみ)三人(さんにん)に、三箇国(さんかこく)の勢(せい)を相副(あひそへ)て三千(さんぜん)余騎(よき)、京都より差下さる。其(その)勢已(すで)に丹波の篠村(しのむら)に著(つき)しかば、当国の兵共(つはものども)、心を両方に懸(かけ)て、何方(いづかた)へか著(つか)ましと思案しける者共(ものども)、今は将軍方(しやうぐんがた)ぞ強からんずらんと見定(みさだめ)て、我先(われさき)にと馳付(はせつき)ける程に、篠村の勢(せい)は日々に勝(まさり)て無程五千(ごせん)余騎(よき)に成(なり)にけり。山名が勢(せい)は纔(わづか)に七百(しちひやく)余騎(よき)、国遠(とほく)して兵粮乏(とぼし)く馬・人疲れて城の構(かまへ)密(きび)しからず。角(かく)ては如何(いかが)怺(こらふ)べき、聞落(ききおち)にぞせんずらんと覚(おぼえ)ける処に、小林右京(うきやうの)亮(すけ)伯耆(はうきの)国(くに)を出しより、「今度天下を動(うごか)す程の合戦をせずは、生(いき)て再(ふたた)び本国へ帰らじ。」と申切て出たりしかば、少(すこし)も非可騒、一所にて討死せんと、気を励(はげま)し心を一にする兵共(つはものども)、神水(じんずゐ)を飲(のみ)て已(すで)に篠村を立(たつ)と聞しかば、何(いづ)くにても広みへ懸(かけ)合(あは)せて、組打に討(うた)んと議しける間、篠村の大勢是(これ)を聞て、却(かへつ)て寄(よせ)られやせんずらんと、二日路(ふつかぢ)を隔(へだて)たる敵に恐(おそれ)て一足(ひとあし)も先へは不進、木戸を構(かま)へ逆木(さかもぎ)を引て、用心(ようじん)密(きびし)くては居たりけれ共(ども)、小林兵粮につまりて、又伯耆へ引退(ひきしりぞき)ければ、「御敵(おんてき)をば早(はや)追(おひ)落(おとし)て候。」とて、気色(きしよく)ばうてぞ帰洛(きらく)しける。越中には、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常信濃(しなのの)国(くに)より打越て、旧好(きうかう)の兵共(つはものども)を相語(あひかたら)ふに、当国の守護(しゆご)尾張(をはりの)大夫(たいふ)入道(にふだう)の代官鹿草(かくさ)出羽(ではの)守(かみ)が、国の成敗(せいばい)みだりなるに依て、国人挙(こぞつ)て是(これ)を背(そむき)けるにや、野尻(のじり)・井口(ゐのくち)・長倉・三沢の者共(ものども)、直常に馳(はせ)付(つき)ける程に、其(その)勢千(せん)余騎(よき)に成(なり)にけり。桃井(もものゐ)軈(やが)て勢(いきほ)ひに乗て国中(こくぢゆう)を押すに手にさわる者なければ、加賀(かがの)国(くに)へ発向(はつかう)して富樫(とがし)を責(せめ)んとて打出ける。能登・加賀・越前の兵共(つはものども)是(これ)を聞て、敵に先をせられじと相集て、三千(さんぜん)余騎(よき)越中(ゑつちゆうの)国(くに)へ打越て三箇所(さんかしよ)に陣を取る。桃井(もものゐ)はいつも敵の陣未(いまだ)取(とり)をほせぬ所に、懸(かけ)散(ちらす)を以て利とする者なりければ、逆寄(さかよせ)に押寄(おしよせ)て責(せめ)戦(たたかふ)に、越前の勢一陣先(まづ)破(やぶれ)て、能登・越中(ゑつちゆう)の両陣も不全、十方に散てぞ落行(おちゆき)ける。日暮(くる)れば桃井(もものゐ)本(もと)の陣へ打帰て、物具脱(ぬい)で休(やすみ)けるが、夜半計(ばかり)に些(ちと)可評定事ありとて、此(この)陣より二里許(ばかり)隔(へだて)たる井口(ゐのくち)が城へ、誰にも角(かく)とも不知して只(ただ)一人ぞ行(ゆき)たりける。此(この)時(とき)しも能登・加賀の者共(ものども)三百(さんびやく)余騎(よき)打連(うちつれ)て、降人(かうにん)に出たりける。執事に属(しよく)して、大将の見参に入(いら)んと申(まうす)間、同道して大将の陣へ参じ、事の由(よし)を申さんとするに、大将の陣に人一人もなし。近習(きんじふ)の人に尋ぬれ共(ども)、「何(いづ)くへか御入(おんいり)候(さふらひ)ぬらん。未(いまだ)宵(よひ)より大将は見へさせ給はぬ也(なり)。」とぞ答(こたへ)ける。陣を並べたる外様の兵共(つはものども)是(これ)を聞て、「さては桃井殿被落にけり。」と騒(さわぎ)て、「我(われ)も何(いづ)くへか落行(おちゆか)まし。」と物具を著(きる)もあり捨(すつ)るもあり、馬に乗(のる)もあり、乗(のら)ぬもあり、混(ひた)ひしめきにひしめく間、焼捨(たきすて)たる火陣屋(ぢんや)に燃著(もえつい)て、燎原(れうげん)の焔(ほのほ)盛なり。是(これ)を見て、降人に出たりつる三百(さんびやく)余騎(よき)の者共(ものども)、「さらばいざ落行(おちゆく)敵共(てきども)を打取て、我が高名にせん。」とて、箙(えびら)を敲(たた)き時を作て、追懸(おつかけ)々々(おつかけ)打(うち)けるに、返(かへし)合(あは)せて戦(たたかは)んとする人なければ、此(ここ)に被追立彼(かれ)に被切伏、討(うた)るゝ者二百(にひやく)余人(よにん)生虜(いけどり)百人(ひやくにん)に余れり。桃井(もものゐ)は未(いまだ)井口(ゐのくち)の城(じやう)へも不行著、道にて陣に火の懸(かか)りたるを見て、是(これ)は何様(いかさま)返忠(かへりちゆう)の者有て、敵夜討に寄(よせ)たりけりと心得(こころえ)て、立帰る処に、逃(にぐ)る兵共(つはものども)行合て息をもつきあえず、「只(ただ)引(ひか)せ給へ、今は叶(かなふ)まじきにて候ぞ。」と申合(まうしあひ)ける間不及力、桃井(もものゐ)も共に井口(ゐのくち)の城(じやう)へ逃篭(にげこも)る。昼の合戦に打負(うちまけ)て、御服峯(ごふくのみね)に逃上(にげのぼ)りたる加賀・越前の勢共(せいども)、桃井(もものゐ)が陣の焼(やく)るを見て、何とある事やらんと怪(あやし)く思ふ処に、降人(かうにん)に出て、心ならず高名しつる兵共(つはものども)三百(さんびやく)余騎(よき)、生捕(いけどり)を先に追立(おひたて)させ、鋒(きつさき)に頭(くび)を貫(つらぬい)て馳来り、「如鬼神申(まうし)つる桃井(もものゐ)が勢をこそ、我等(われら)僅(わづか)の三百(さんびやく)余騎(よき)にて夜討に寄(よせ)て、若干(そくばく)の御敵(おんてき)共(ども)を打取て候へ。」とて、仮名実名(けみやうじつみやう)事新しく、こと/゛\しげに名乗(なのり)申せば、大将鹿草(かくさ)出羽(ではの)守(かみ)を始(はじめ)として国々の軍勢(ぐんぜい)に至(いたる)迄(まで)、「哀(あは)れ大剛(たいかう)の者共(ものども)哉(かな)。此(この)人々なくは、争(いかで)か我等(われら)が会稽(くわいけい)の恥をば濯(すす)がまし。」と、感ぜぬ人も無(なか)りけり。後に生捕(いけどり)の敵共(てきども)が委(くはし)く語るを聞てこそ、さては降人に出たる不覚の人共が、倒(たふ)るゝ処に土を掴(つか)む風情(ふぜい)をしたりけるよとて、却(かへつ)て悪(にく)み笑(わらは)れける。
○九州探題(きうしうたんだい)下向(げかうの)事(こと)付(つけたり)李将軍陣中(ぢんちゆうに)禁女事(こと) S3803
筑紫には、小弐(せうに)・大友(おほとも)以下の将軍方(しやうぐんがた)の勢共(せいども)、菊池(きくち)に追(おひ)すへられて、已(すで)に又九州宮方(みやがた)の一統(いつとう)に成(なり)ぬと見へければ、探題を下して、小弐(せうに)・大友(おほとも)に力を合(あは)せでは叶(かなふ)まじとて、尾張(をはりの)大夫(たいふ)入道(にふだう)の子息左京(さきやうの)大夫(たいふ)氏経(うぢつね)を、九州の探題に成(なし)てぞ被下ける。左京(さきやうの)大夫(たいふ)先(まづ)兵庫に下て、四国・中国の勢(せい)を催(もよほ)しけれ共(ども)、付順(つきしたが)ふ勢も無(なか)りければ、さりとては道より非可引返とて、僅に二百四五十騎(にひやくしごじつき)の勢にて、已(すで)に纜(ともづな)を解(とき)けるに、左京(さきやうの)大夫(たいふ)の屋形船(やかたぶね)を始(はじめ)として、士卒の小船共に至(いたる)まで、傾城(けいせい)を十人(じふにん)二十人のせぬ船は無りけり。磯(いそ)に立双(たちならん)で是(これ)を見物しける者共(ものども)の中に、些(ちと)こざかしげなる遁世者(とんせいしや)の有(あり)けるが、傍(かた)への人々に向て申けるは、「筑紫九箇国(くかこく)の大敵を亡(ほろぼ)さんとて、討手の大将を承(うけたまは)る程の人の、是(これ)程物を知らでは、何としてか大功を成(なさ)るべき。夫(それ)大敵に向て陣を張(は)り、戦を決せんとする時、兵気(ひやうき)と云(いふ)事あり。此(この)兵気敵の上に覆(おほう)て立(たつ)時(とき)は、戦必(かならず)勝(かつ)事を得、若(もし)陣中(ぢんちゆう)に女多く交(まじはつ)てある時は、陰気(いんき)陽気を消す故(ゆゑ)に、兵気曾(かつて)不立上。兵気立(たた)ざれば、縦(たとひ)大勢なりといへ共、戦(たたかひに)勝(かつ)事を不得いへり。されば昔覇陵(はりよう)の李将軍と云(いひ)ける大将、敵国に赴(おもむい)て陣を張り旅(たむろ)を調(ととの)へて、単于(ぜんう)と戦を決せんとしけるに、敵僅(わづか)に三万(さんまん)余騎(よき)、御方(みかた)は是(これ)に十倍せり。兵気定(さだめ)て敵の上に覆(おほふ)らんと思(おもひ)て、李将軍先(まづ)高(たかき)山の上に打上(うちあが)り、両方の陣を見るに、御方(みかた)の陣にあがらんとする兵気、陰(いん)の気に押(おさ)れて、立(たた)んとすれ共不立得。李将軍倩(つらつら)是(これ)を案ずるに、何様(いかさま)是(これ)は我方の陣に女交(まじはつ)て、隠れ居たればこそ、加様(かやう)には有(ある)らんと推(すゐ)して陣中(ぢんちゆう)をさがすに、果(はた)して陣中(ぢんちゆう)に女隠れて三千(さんぜん)余人(よにん)交(まじは)り居たり。さればこそ是(この)故(ゆゑ)に兵気は不上けりとて、悉(ことごとく)此(この)女を捕へて、或(あるひ)は水に沈(しづ)め或(あるひ)は追(おひ)失(うしなひ)て、後又高き山に打上て、御方(みかた)の陣を見(みる)に、兵気盛(さかり)に立て敵の上に覆へり。其(その)後兵を進めて闘(たたかひ)を決するに、敵四方(しはう)に逃(にげ)散(ちり)て勝(かつ)事を一時に得しかば、李将軍と云(いは)れて武功天下に聞へたり。智ある大将は加様(かやう)にこそあるに、大敵の国に臨(のぞ)む人の兵をば次にして、先(まづ)女を先立(さきだて)給ふ事不被心得(こころえ)。」と難じ申けるが、果して無幾程高崎の城(じやう)にも不怺、浅猿(あさまし)き体(てい)にて上洛(しやうらく)し給ひしが、面目なくや被思けん、尼崎(あまがさき)にて出家して諸国流浪(るらう)の世捨人(よすてびと)と成(なり)にけり。
○菊池(きくち)大友(おほとも)軍(いくさの)事(こと) S3804
左京(さきやうの)大夫(たいふ)已(すで)に大友(おほとも)が館(たち)に著(つき)ぬと聞へければ、菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武光、敵に勢(せい)の著(つか)ぬ先(さき)に打散(うちちら)せとて、菊池(きくち)彦次郎(ひこじらう)・城(じやうの)越前守(ゑちぜんのかみ)・宇都宮(うつのみや)・岩野・鹿子木(かのこぎ)民部(みんぶの)大輔(たいふ)・下田帯刀(しもたたてはき)以下勝(すぐ)れたる兵五千(ごせん)余騎(よき)を差副(さしそへ)て、探題左京(さきやうの)大夫(たいふ)を責(せめ)ん為に、九月二十三日(にじふさんにち)豊後(ぶんごの)国(くに)へ発向す。探題左京(さきやうの)大夫(たいふ)是(これ)を聞(きく)に、「抑(そもそも)我九州静謐(せいひつ)の為に被下たる者が、敵の城(じやう)へ不寄して、却(かへつ)て敵に被寄たりと京都に聞へんずる事、先(まづ)武略の不足に相似たり。されば敵を城にて相待(あひまつ)までもあるまじ。路次(ろし)に馳向て戦へ。」とて、探題の子息松王丸の、未(いまだ)幼稚にて今年十一歳に成(なり)けるを大将にて、大宰小弐(だざいのせうに)・舎弟(しやてい)筑後(ちくごの)二郎・同新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)・宗像(むなかたの)大宮司(だいぐうじ)・松浦(まつらの)一党都合其(その)勢七千(しちせん)余騎(よき)にて、筑前(ちくぜんの)国(くに)長者原(ちやうじやがはら)と云(いふ)所に馳(はせ)向て、路を遮(さへぎつ)てぞ待(まち)懸(かけ)たる。同(おなじき)二十七日(にじふしちにち)に菊池(きくち)彦二郎(ひこじらう)五千(ごせん)余騎(よき)を二手(ふたて)に作り長者原(ちやうじやがはら)へ押寄て戦(たたかひ)けるに、岩野・鹿子木将監(かのこぎしやうげん)・下田帯刀(しもだたてはき)已下、宗徒(むねと)の勇士(ゆうし)三百(さんびやく)余騎(よき)討(うた)れて、其(その)日(ひ)の大将菊池(きくち)彦次郎(ひこじらう)、三所まで疵を被(かうむ)りければ、宮方(みやがた)の軍勢(ぐんぜい)已(すで)に二十(にじふ)余町(よちやう)引退く。すはや打負(うちまけ)ぬと見へける処に、城(じやうの)越前守(ゑちぜんのかみ)五百(ごひやく)余騎(よき)、入替て戦(たたかひ)けるに、小弐(せうに)筑後(ちくごの)二郎・同新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)、二人(ににん)共(とも)に一所にて討(うた)れぬ。其(その)外松浦(まつら)・宗像大宮司(だいぐうじ)が一族(いちぞく)・若党(わかたう)四百(しひやく)余人(よにん)討(うた)れにければ、探題・小弐(せうに)・大友(おほとも)二度目(にどめ)の軍に打負(うちまけ)て、皆散々(ちりぢり)に成(なり)にけり。菊池(きくち)已(すで)に手合の軍に打勝(うちかち)しかば、探題の勇威(ゆうゐ)も恐(おそる)るに不足と蔑(あなどつ)て、菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武光悪手(あらて)の兵三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して、舎弟(しやてい)彦次郎(ひこじらう)が勢に馳加て、豊後(ぶんご)の府(ふない)へ発向す。是(これ)までも猶(なほ)探題・小弐(せうに)・大友(おほとも)・松浦(まつら)・宗像(むなかた)が勢(せい)は七千(しちせん)余騎(よき)有(あり)けるが、菊池(きくち)に気を呑(のま)れて、懸合の合戦叶(かなふ)まじとや思(おもひ)けん、探題と大友(おほとも)とは、豊後(ぶんご)の高崎(たかざきの)城(じやう)に引篭(ひきこも)り、大宰(だざいの)小弐(せうに)は、岡(をか)の城(じやう)に楯篭(たてこも)り、大宮司(だいぐうじ)は棟堅(むなかた)の城(じやう)に篭て、嶮岨(けんそ)を命に憑(たのみ)ければ、菊池(きくち)は豊後(ぶんご)の府(ふない)に陣を取り、三方(さんぱう)の敵を物共せず、三の城(じやう)の中を押隔(おしへだ)て、今年は已(すで)に三年まで、遠攻(とほぜめ)にこそしたりけれ。抑(そもそも)小弐(せうに)・大友(おほとも)は大勢にて城に篭(こも)り、菊池(きくち)は小勢にて是(これ)を囲む。菊池(きくち)が城必(かならず)しも皆剛なるべからず、小弐(せうに)・大友(おほとも)が勢必(かならず)しも皆臆病なるべきに非(あら)ず。只士卒の剛臆(がうおく)は大将の心による故(ゆゑ)に、九国は加様(かやう)に成(なり)にける也(なり)。
○畠山兄弟修禅寺(しゆぜんじの)城(じやうに)楯篭(たてこもる)事(こと)付(つけたり)遊佐(ゆさ)入道(にふだうの)事(こと) S3805
筑後(ちくご)には宮方(みやがた)蜂起すといへ共、東国は無程静(しづま)りぬ。去年より畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)・舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)義深、伊豆の修禅寺(しゆぜんじ)に楯篭(たてこもつ)て東(とう)八箇国(はちかこく)の勢と戦(たたかひ)けるが、兵粮(ひやうらう)尽(つき)て落方(おちかた)も無りければ、皆城中(じやうちゆう)にて討死せんとす。左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)より使者を以て、先非(せんぴ)を悔(くい)て子孫を思はゞ、首を延(のべ)て可降参由被仰けるを、誠ぞと信じて道誓は禅僧になり、舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)は、伊豆(いづの)国(くに)の守護職(しゆごしよく)還補(くわんぷ)の御教書(みげうしよ)を給て、九月十日降参したりけるが、道誓は伊豆の府(こふ)に居て、先(まづ)舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)を、鎌倉(かまくら)左馬(さまの)頭(かみ)の御坐(おは)する箱根(はこね)の陣へぞ参らせける。旧好(きうかう)ある人、万死を出て二度(ふたた)び見参に入(いる)事の嬉しさよなど云て一献を勧(すす)め、此(この)程無情あたりつる傍輩(はうばい)は、いつしか媚(こび)を諛(へつらう)て、言(ことば)を卑(いや)しくし礼を厚(あつく)して、頻(しきり)に追従をしける間、門前に鞍置馬(くらおきうま)の立止(たちやむ)隙(ひま)もなく、座上に酒肴(さけさかな)を置連(おきつら)ねぬ時も無りけり。角(かく)て三四日経て後、九月十八日の夜、稲生(いなふ)平次潜(ひそか)に来て道誓に囁(ささや)きけるは、「降参御免(ごめん)の事は、元来被出抜事に候へば、明日討手を可被向にて候なる。げにも聞(きく)に合(あは)せて、豊島(としま)因幡(いなばの)守(かみ)俄(にはか)に陣を取易(とりかへ)て、道を差塞(さしふさ)ぐ体(てい)に見へて候。今夜急(いそぎ)何(いづ)くへも落(おち)させ給(たまふ)べし。」とぞ告(つげ)たりける。道誓聞(きき)も不敢、舎弟(しやてい)式部(しきぶの)大輔(たいふ)に屹(きつ)と目加(めくは)せしけるが、仮初(かりそめ)に出る由にて、中間一人に太刀持(もた)せ、兄弟二人(ににん)徒(かち)にて、其(その)夜先(まづ)藤沢の道場までぞ落(おち)たりける。上人甲斐々々敷(かひがひしく)馬二疋、時衆(じしゆう)二人(ににん)相副(あひそへ)て、夜昼の堺(さかひ)もなく、馬に鞭を進めて上洛(しやうらく)しけるをば、知(しる)人更(さら)にも無(なか)りけり。舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)義深は、箱根(はこね)の御陣に有(あり)けるが、翌(つぎ)の夜或(ある)時(とき)衆の斯(かか)る事と告(つげ)けるに驚て、さては我(われ)も何(いづ)くへか落(おち)なましと案ずれ共(ども)、東西南北皆道塞(ふさが)りて可落方(かた)も無(なか)りければ、結城(ゆふき)中務(なかつかさの)大輔(たいふ)が陣屋に来て、平(ひら)に可憑由をぞ宣ひける。是(これ)を隠さんずる事は、至極(しごく)の難義なれ共(ども)、弓矢取(とる)身の習(ならひ)、人に被憑て叶はじと云(いふ)事や可有と思(おもひ)ければ、長唐櫃(からひつ)の底に穴をあけて気を出し、其(その)櫃の中に臥(ふ)させて、数十合舁連(かきつら)ねたる鎧唐櫃(よろひからひつ)の跡にたて、態(わざ)と鎌倉殿(かまくらどの)の御馬(おんむま)廻(まはり)に供奉(ぐぶ)して、尾張(をはりの)守(かみ)をべ夜に紛(まぎれ)て、藤沢の道場へぞ送りける。命程可惜者はなかりけり。此(この)人遂(つひ)には御免(ごめん)有て、越前の守護(しゆご)に被補、国の成敗穏(おだや)かにて土民を安(やすん)ぜしかば、鰐(わに)の淵(ふち)を去り、蝗(くわう)の境(さかひ)を出る許(ばかり)也(なり)。遊佐(ゆさ)入道性阿(せいあ)は、主の被落妝(よそほひ)を軈(やが)て知たりけれ共(ども)、暫(しばら)く人にあひしらひて、主を何(いづ)くへも落延(おちのび)させん為に少(すこし)も騒(さわぎ)たる気色を不見、碁(ご)・双六(すごろく)・十服茶など呑(のみ)て、さりげなき体にて笑戯(わらひたはぶれ)て居たりければ、郎従共も外様(とざま)の人も、可思寄様無(なか)りけれ共(ども)、遂(つひ)に隠るべき事ならねば、畠山兄弟落(おち)たりと沙汰する程こそ有(あり)けれ。軈(やが)て討手を被向と聞へければ、遊佐入道は禅僧の衣を著て、只(ただ)一人京を志(こころざし)てぞ落(おち)行(ゆき)ける。兔角(とかく)して湯本(ゆのもと)まで落(おち)たりけるが、行合(ゆきあふ)人に口脇(くちわき)なる疵(きず)を隠さん為に、袖にて口覆(くちおほひ)して過(すぎ)けるを見る人中々あやしめて、帽子(ぼうし)を脱(ぬが)せ袖を引のけゝる間、口脇の疵無隠顕(あらは)れて可遁様無(なか)りければ、宿屋の中門に走上(わしりあがり)て、自(みづから)喉(のど)ぶへ掻放(かきはな)ち返す刀に腹切て、袈裟(けさ)引被(ひきかづ)きて死(しに)にけり。江戸修理(しゆりの)亮(すけ)は竜口(たつのくち)にて生捕(いけどら)れて斬(きら)れぬ。其(その)外此(ここ)に隠れ、彼(かしこ)に落行(おちゆき)ける郎従共六十(ろくじふ)余人(よにん)、或(あるひ)は被捜出て切(きら)れ、或(あるひ)は被追懸腹を切る。目も当(あて)られぬ有様也(なり)。畠山(はたけやま)入道(にふだう)兄弟、無甲斐命助(たすか)りて、七条の道場へ夜半許(ばかり)に落著(おちつき)たりけるを、聖二三日労(いたは)り奉て、道の案内者(あんないしや)少々相副(あひそへ)て、行路の資(たすけ)など様々に用意(ようい)して南方へぞ被送ける。道誓暫(しばら)く宇知郡(うちのこほり)の在家に立寄て、「楠が方へ降参の綸旨(りんし)を申(まうし)てたび候へ。」と、宣ひ遣(つかは)されたりけれども、楠さしも許容の分無(なか)りければ、宇知(うちの)郡(こほり)にも不隠得都へ可立帰方もなし、南都山城脇辺(やましろわきへん)に、とある禅院律院、或(あるひ)は山賎(やまがつ)の柴(しば)の庵(いほ)、賎士(しづ)がふせ屋のさびしきに、袂(たもと)の露を片敷(かたしき)て、夜を重(かさ)ぬべき宿もなく、道路に袖をひろげぬ許(ばかり)にて、朝三暮四(てうさんぼし)の資(たすけ)に心有(ある)人もがなと、身を苦しめたる有様、聞(きく)に耳冷(すさまじ)く、見(みる)に目も充(あて)られず。幾程もなく、兄弟共に無墓成(なり)けるこそ哀なれ。人間の栄耀(えいえう)は風前(まへの)塵(ちり)と白居易(はくきよい)が作り、富貴(ふつきは)草頭(さうとうの)露と杜甫(とほ)が作りしも理(ことわ)り哉(かな)。此(この)人々去々年の春は、三十万騎(さんじふまんぎ)が大将として、南方へ発向したりしかば、徳風遠く扇(あふい)で、靡(なび)かぬ草木も無(なか)りしに、いつしか三年を不過、乍(たちまち)生恥(いきはぢ)を曝(さら)して、敵陣の堺(さかひ)に吟(さまよ)ひぬる事、更に直事(ただこと)とは不覚(おぼえず)。此(この)人に被出抜討(うた)れし新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興(よしおき)怨霊(をんりやう)と成て、吉野の御廟(ごべう)へ参(まゐり)たりけるが、「畠山をば義興が手に懸(かけ)て、乍生軍門に恥を曝(さら)さすべし。」と奏し申ける由(よし)、先立(さきだち)て人の夢に見て、天下に披露(ひろう)有(あり)しも訛(あやまり)にては無りけりと、今こそ思(おもひ)知(しら)れたり。
○細川相摸守(さがみのかみ)討死(うちじにの)事(こと)付(つけたり)西長尾(にしながを)軍(いくさの)事(こと) S3806
讃岐には細川相摸守(さがみのかみ)清氏と細川右馬(うまの)頭(かみ)頼之(よりゆき)と、数月(すげつ)戦(たたかひ)けるが、清氏遂(つひ)に討(うた)れて、四国無事故閑(しづま)りにけり。其(その)軍の様を伝(つたへ)聞(きく)に、相摸守(さがみのかみ)四国を打平(うちたひら)げて、今一度(いちど)都を傾(かたぶけ)て、将軍を亡(ほろぼ)し奉らんと企(くはた)て、堺(さかひ)の浦より船に乗て讃岐へ渡ると聞へしかば、相摸(さがみの)守(かみ)がいとこの兵部(ひやうぶの)太輔(たいふ)淡路(あはぢの)国(くに)の勢を卒(そつ)して、三百(さんびやく)余騎(よき)にて馳著(はせつく)。其(その)弟掃部(かもんの)助(すけ)、讃岐(さぬきの)国(くに)の勢を相催(あひもよほし)て五百(ごひやく)余騎(よき)にて馳加(はせくはは)る。小笠原宮内(くないの)大輔(たいふ)、阿波(あはの)国(くに)の勢を卒(そつ)して、三百(さんびやく)余騎(よき)にて馳著(はせつき)ける間、清氏の勢(せい)は無程五千(ごせん)余騎(よき)に成(なり)にけり。其比(そのころ)右馬(うまの)頭(かみ)頼之(よりゆき)は、山陽道(せんやうだう)の蜂起(ほうき)を静(しづめ)んとて、備中(びつちゆうの)国(くに)に居たりけるが、此(この)事を聞て、備中・備前両国の勢千(せん)余騎(よき)を卒(そつ)し、讃岐(さぬきの)国(くに)へ押渡る。此(この)時(とき)若(もし)相摸守(さがみのかみ)敵の船よりあがらんずる処へ、馳向て戦はゞ、一戦(いつせん)も利あるまじかりしを、右馬(うまの)頭(かみ)飽(あく)まで心に智謀(ちぼう)有て、機変(きへん)時(とき)と共に消息(せうそく)する人也(なり)ければ、兼(かね)て母儀(ぼぎ)の禅尼を以て、相摸守(さがみのかみ)の許(もと)へ言遣(いひやり)けるは、「将軍群少の讒佞(ざんねい)を不被正、貴方(きはう)無科刑罰に向はせ給ひし時、陳謝(ちんじや)に言(ことば)無(なく)して寇讐(こうしう)に恨(うらみ)有(あり)し事、頼之尤(もつとも)其(その)理に服し候き。乍去、故左大臣殿(さだいじんどの)も、仁木(につき)・細川の両家(りやうけ)を股肱(ここう)として、大樹(たいじゆ)累葉(るゐえふ)の九功を光栄すべしとこそ被仰置候(さふらひ)しに、一家(いつけ)の好(よしみ)を放(はなれ)て敵に降り、多年の忠を捨(すてて)、戦(たたかひ)を被致候はん事、亡魂の恨(うらみ)苔(こけ)の下まで深く、不義の譏(そし)り世の末までも不可朽。頼之苟(いやしく)も此(この)理を存ずる故(ゆゑ)に、全(まつた)く貴方(きはう)と合戦を可致志を不廻。往者(いんじを)不尤と申(まうす)事候へば、御憤(おんいきどほり)今は是(これ)までにてこそ候へ。枉(まげ)て御方(みかた)へ御参(おんまゐり)候へ。御分国已下、悉(ことごとく)日来(ひごろ)に不替可申沙汰にて候。若(もし)又其(そ)れも御意に叶はで、御本意を天下の反覆(はんぶく)に達せんと被思召候はゞ、頼之無力四国を捨(すて)て備中へ可罷返候。」言(ことば)を和(やはら)げ礼を厚(あつく)して、頻(しきり)に和睦(わぼく)の儀を請(こは)れけるを、相摸守(さがみのかみ)心浅(あさく)信じて、問答に日数を経(へ)ける間に右馬(うまの)頭(かみ)中国の勢を待調(まちととの)へ城郭(じやうくわく)を堅く拵(こしらへ)て、其(その)後は音信(おとづれ)も無(なか)りけり。相摸守(さがみのかみ)の陣は白峯(しらみね)の麓、右馬(うまの)頭(かみ)の城(じやう)は歌津(うたつ)なれば、其(その)あはひ僅(わづか)に二里也(なり)。寄(よせ)やする待(まち)てや戦ふと、互に時を伺(うかがう)て数日(すじつ)を送りける程に、右馬(うまの)頭(かみ)の勢、太略(たいりやく)遠国の者共(ものども)なれば、兵粮につまりて窮困(きゆうこん)す。角(かく)ては右馬(うまの)頭(かみ)は讃岐(さぬきの)国(くに)には怺(こらへ)じと見へける程に、結句備前の飽浦(あくら)薩摩(さつまの)権(ごんの)守(かみ)信胤(のぶたね)宮方(みやがた)に成て、海上に押浮(おしうかめ)、小笠原美濃(みのの)守(かみ)、相摸守(さがみのかみ)に同心して、渡海(とかい)の路を差塞(さしふさぎ)ける間、右馬(うまの)頭(かみ)の兵は日々に減じて落(おち)行き、相摸守(さがみのかみ)の勢(せい)は国々に聞へて夥(おびたた)し。只(ただ)魏(ぎ)の将司馬仲達(しばちゆうたつ)が、蜀の討手に向て、戦はで勝(かつ)事を得たりけん、其謀(そのはかりこと)に相似たり。七月二十三日(にじふさんにち)の朝、右馬(うまの)頭(かみ)帷帳(ゐちやう)の中より出て、新開(しんがい)遠江守(とほたふみのかみ)真行(さねゆき)を近付(ちかづけ)て宣ひけるは、「当国両陣の体(てい)を見るに、敵軍は日々にまさり、御方(みかた)は漸々(ぜんぜん)に減ず。角(かく)て猶(なほ)数日(すじつ)を送らば、合戦難儀に及(および)ぬと覚(おぼゆ)る。依之(これによつて)事をはかるに宮方(みやがた)の大将に、中院(なかのゐんの)源少将と云(いふ)人、西長尾(にしながを)と云(いふ)所に城を構(かまへ)てをはすなる。此(この)勢を差向(さしむけ)て可攻勢(いきほひ)を見せば、相摸守(さがみのかみ)定(さだめ)て勢を差分(さしわけ)て城へ入(いる)べし。其(その)時(とき)御方の勢(せい)城(じやう)を攻(せめ)んずる体(てい)にて、向城(むかひじやう)を取て、夜に入らば篝(かがり)を多く焼捨(たきすて)てこと道より馳(はせ)帰り、軈(やが)て相摸守(さがみのかみ)が城へ押寄せ、頼之搦手(からめて)に廻(まは)りて先(まづ)小勢を出し、敵を欺(あざむ)く程ならば、相摸守(さがみのかみ)縦(たとひ)一騎(いつき)なり共懸(かけ)出て、不戦云(いふ)事有(ある)べからず。是(これ)一挙(いつきよ)に大敵を亡(ほろぼ)す謀(はかりこと)なるべし。」とて、新開(しんがい)遠江守(とほたふみのかみ)に、四国・中国の兵五百(ごひやく)余騎(よき)を相副(あひそへ)、路次(ろし)の在家に火を懸(かけ)て、西長尾へ向(むけ)られける。如案相摸守(さがみのかみ)是(これ)を見て、敵は西長尾の城(じやう)を攻(せめ)落(おと)して、後(うしろ)へ廻(まは)らんと巧(たくみ)けるぞ。中(なかの)院(ゐん)殿(どの)に合力せでは叶(かなふ)まじとて、舎弟(しやてい)左馬(さまの)助(すけ)、いとこの掃部(かもんの)助(すけ)を両大将として、千(せん)余騎(よき)の勢を西長尾の城(じやう)へ差向(さしむけ)らる。新開元来(もとより)城(じやう)を攻(せめ)んずる為ならねば、態(わざ)と日を暮(くら)さんと、足軽少々差向(さしむけ)て、城の麓なる在家所々焼払(やきはらひ)て、向陣(むかひぢん)をぞ取たりける。城は尚(なほ)大勢なれば、哀(あは)れ新開が寄(よせ)て責(せめ)よかし。手負少々射出して後、一度(いちど)にばつと懸(かけ)出て、一人も不残討(うち)留(とどめ)んとぞ勇(いさみ)ける。夜已(すで)に深ければ、新開向陣(むかひぢん)に篝(かがり)を多く焼(たき)残して、山を超(こえ)る直道(すぐみち)の有(あり)けるより引返して、相摸守(さがみのかみ)の城(じやう)の前白峯(しらみね)の麓へ押寄(おしよす)る。兼(かね)て定めたる相図なれば、同(おなじき)二十四日の辰(たつの)刻(こく)に、細川右馬(うまの)頭(かみ)五百(ごひやく)余騎(よき)にて搦手(からめて)へ廻(まは)り、二手(ふたて)に分れて時の声をぞ挙(あげ)たりける。此(この)城(じやう)元来(もとより)鳥も難翔程に拵(こしらへ)たれば、寄手(よせて)縦(たとひ)如何(いか)なる大勢なり共、十日二十日が中には、容易(たやすく)可攻落城ならず。其(その)上(うへ)新開(しんかい)、西長尾より引帰(ひつかへし)ぬと見へば、左馬(さまの)助(すけ)・掃部(かもんの)助(すけ)軈(やが)て馳(はせ)帰て、寄手(よせて)を追掃(おひはら)はん事、却(かへつ)て城方(しろがた)の利に成(なる)べかりけるを、相摸守(さがみのかみ)はいつも己(おのれ)が武勇(ぶよう)の人に超(こえ)たるを憑(たのみ)て、軍立(いくさだて)余(あま)りに大早(おほはやり)なる人なりければ、寄手(よせて)の旗の手を見ると均(ひとし)く、二の木戸(きど)を開かせ、小具足をだにも堅めず、袷(あはせ)の小袖引(ひき)せたをりて、鎧許(ばかり)を取て肩に抛懸(なげかけ)て、馬上にて上帯(うはおび)縮(しめ)て、只(ただ)一騎(いつき)懸(かけ)出(いで)給へば、相順(あひしたが)ふ兵三十(さんじふ)余騎(よき)も、或(あるひ)はほうあてをして未(いまだ)胄(かぶと)をも不著、或(あるひ)は篭手(こて)を差して未(いまだ)鎧を不著、真前(まつさき)に裹連(つつみつれ)たる敵千(せん)余騎(よき)が中へ破(わつ)て入る。哀れ剛の者やとは乍見、片皮破(かたかはやぶり)の猪武者(ゐのししむしや)、をこがましくぞ見へたりける。げにも相摸守(さがみのかみ)敵を物とも思はざりけるも理(ことは)り哉(かな)。寄手(よせて)千(せん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、相摸守(さがみのかみ)一騎(いつき)に懸分(かけわけ)られて、魚鱗(ぎよりん)にも不進鶴翼(くわくよく)にも不囲得、此(こ)の塚(つか)の上彼(かしこ)の岡に打上りて、馬人共に辟易(へきえき)せり。相摸守(さがみのかみ)は鞍の前輪(まへわ)に引付て、ねぢ頚(くび)にせられける野木(やぎ)備前(びぜんの)次郎・柿原(かきはら)孫四郎(まごしらう)二人(ににん)が首を、太刀の鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て差(さし)挙げ、「唐土(たうど)・天竺・鬼海(きかい)・太元(たいげん)の事は国遠ければ未知(いまだしらず)、吾朝(わがてう)秋津島の中に生れて、清氏に勝(まさ)る手柄の者有(あり)とは、誰もやはいふ。敵も他人に非(あら)ず、蓬(きたな)く軍(いくさ)して笑はるな。」と恥(はぢ)しめて、只(ただ)一騎(いつき)猶(なほ)大勢の中へ懸(かけ)入(いり)給(たまふ)。飽(あく)まで馬強(つよ)なる打物(うちもの)の達者が、逃(にぐ)る敵を追立(おひたて)々々(おひたて)切て落せば、其鋒(そのきつさき)に廻(まは)る者、或(あるひ)は馬と共に尻居(しりゐ)に打居(うちすゑ)られ、或(あるひ)は甲(かぶと)の鉢を胸板(むないた)まで被破付、深泥(しんでい)死骸に地を易(かへ)たり。爰(ここ)に備中(びつちゆうの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)真壁(まかべ)孫四郎(まごしらう)と備前(びぜんの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)伊賀掃部(いがかもんの)助(すけ)と、二騎田の中なる細道をしづ/\と引(ひき)けるを、相摸守(さがみのかみ)追付て切(きら)んと、諸鐙(もろあぶみ)を合(あは)せて責(せめ)られける処に、陶山が中間そばなる溝(みぞ)にをり立て、相摸守(さがみのかみ)の乗(のり)給へる鬼鹿毛(おにかげ)と云(いふ)馬の、草脇(くさわき)をぞ突(つい)たりける。此(この)馬さしもの駿足(しゆんそく)なりけれ共(ども)、時の運にや曵(ひか)れけん一足(ひとあし)も更に動かず、すくみて地にぞ立たりける。相摸守(さがみのかみ)は近付て、敵の馬を奪はんと、手負(ておう)たる体(てい)にて馬手(めて)に下(お)り立ち、太刀を倒(さかさま)に突(つい)て立(たた)れたりけるを、真壁(まかべ)又馳(はせ)寄せ、一太刀(ひとたち)打ち当倒(あてたふさ)んとする処に、相摸守(さがみのかみ)走(はしり)寄て、真壁(まかべ)を馬より引(ひき)落(おと)し、ねぢ頚(くび)にやする、人竜礫(ひとつぶて)にや打つと思案したる様にて、中(ちう)に差(さし)上(あげ)てぞ立(たた)れたる。伊賀掃部(かもんの)助(すけ)高光は懸合(かけあは)する敵二騎切て落(おと)し、鎧に余る血を笠符(かさじるし)にて押拭(おしのご)ひ、「何(いづ)くにか相摸殿(さがみどの)のをはすらん。」と東西に目を賦(くば)る処、真壁孫四郎(まごしらう)を中(ちう)に乍提、其(その)馬に乗(のら)んとする敵あり。「穴(あな)夥(おびたた)し。凡夫(ぼんぶ)とは不見、是(これ)は如何様(いかさま)相摸殿(さがみどの)にてぞをはすらん。是(これ)こそ願ふ処の幸よ。」と思(おもひ)ければ、伊賀掃部(かもんの)助(すけ)畠を直違(すぢかひ)に馬を真闇(まつくろ)に馳(はせ)懸(かけ)て、むずと組(くん)で引かづく。相摸守(さがみのかみ)真壁をば、右の手にかい掴(つかん)で投(なげ)棄(すて)、掃部(かもんの)助(すけ)を射向(いむけ)の袖の下に押へて頭(くび)を掻(かか)んと、上帯(うはおび)延(のび)て後(うしろ)に回(まは)れる腰の刀を引回(ひきまは)されける処に、掃部(かもんの)助(すけ)心早き者なりければ、組(くむ)と均(ひとし)く抜(ぬい)たりける刀にて相摸守(さがみのかみ)の鎧の草摺(くさずり)はねあげ、上様(あげさま)に三刀(みかたな)さす。刺(ささ)れて弱れば刎返(はねかへ)して、押へて頚をぞ取たりける。さしもの猛将(まうしやう)勇士(ゆうし)なりしか共、運尽(つき)て討(うた)るゝを知(しる)人更(さら)に無(なか)りしかば、続(つづい)て助(たすく)る兵もなし。森次郎左衛門(じらうざゑもん)と鈴木孫七郎行長と、討死をしける外は、一所にて打死する御方(みかた)もなし。其(その)身は深田の泥の土にまみれて、頚(くび)は敵の鋒(きつさき)にあり。只(ただ)元暦(げんりやく)の古、木曾(きそ)義仲(よしなか)が粟津(あはづ)の原に打(うた)れ、暦応二年の秋の初(はじめ)、新田左中将(さちゆうじやう)義貞の足羽(あすは)の縄手(なはて)にて討(うた)れたりし二人(ににん)の体(てい)に不異。西長尾の城(じやう)に向(むけ)られたりつる左馬(さまの)助(すけ)、二十四日の夜明(あけ)て後、新開(しんかい)が引帰したるを見て、「是(これ)は如何様(いかさま)相摸殿(さがみどの)御陣の勢を外へ分(わけ)させて、差(さし)違ふて城へ寄(よせ)んと忻(たばかり)けるを。軍(いくさ)今は定(さだめ)て始(はじま)りぬらん。馳返て戦へ。」とて、諸鐙(もろあぶみ)に策(むち)をそへて、千里を一足(ひとあし)にと馳(はせ)返り給へば、新開道に待(まち)受(うけ)て、難所に引懸(ひきかけ)て平野(ひらの)に開(ひらき)合(あは)せ、入替(いれかへ)々々(いれかへ)戦たり。互(たがひ)に討(うち)つ討(うた)れつ、東西に地を易(か)へ、南北に逢(あう)つ別(わかれ)つ、二時許(ばかり)戦て、新開遂(つひ)に懸(かけ)負(まけ)ければ、左馬(さまの)助(すけ)・掃部(かもんの)助(すけ)兄弟、勝時(かちどき)三声(みこゑ)揚(あげ)させて、気色ばうたる体(てい)にて、白峯(みねの)城(じやう)へ帰(かへり)給ふ。斯(かか)る処に笠符(かさじるし)かなぐり捨て、袖・甲(かぶと)に矢少々射付(いつけ)られたる落武者共(おちむしやども)、二三十騎(にさんじつき)道に行合たり。迹(あと)に追著(おひつき)て、「軍の様何(なに)と有(あり)けるぞ。」と問(とひ)給へば、皆泣声にて、「早(はや)相摸殿(さがみどの)は討(うた)れさせ給(たまひ)て候也(なり)。」とぞ答へける。「こは如何(いかに)。」とて、城を遥(はるか)に向上(みあげ)たれば、敵早(はや)入替(いりかはり)ぬと覚(おぼえ)て、不見し旗の紋共関櫓(きどやぐら)の上に幽揚(いうやう)す。重(かさね)て戦(たたかは)んとするに無力、楯篭(たてこも)らんとするに城なければ、左馬(さまの)助(すけ)・掃部(かもんの)助(すけ)、落行(おちゆく)勢を引具して、淡路国へぞ被落ける。其(その)国(くに)に志有し兵共(つはものども)、此(この)事を聞て、何(いつ)しか皆(みな)心替(こころがはり)しければ、淡路にも尚(なほ)たまり得ず、小船一艘(いつさう)に取乗て、和泉(いづみの)国(くに)へぞ落(おち)られける。是(これ)のみならず、西長尾(にしながをの)城(じやう)も被攻ぬ前(さき)に落(おち)しかば、四国は時の間(ま)に静(しづま)りて、細川右馬(うまの)頭(かみ)にぞ靡順(なびきしたが)ひける。
○和田楠与箕浦次郎左衛門(じらうざゑもん)軍(いくさの)事(こと) S3807
南方の敵軍和田・楠も、相摸守(さがみのかみ)に兼(かね)て相図を定(さだめ)て、同時に合戦を始(はじめ)んと議したりけるが、七月二十四日相摸守(さがみのかみ)討(うた)れて、四国・中国は太略細川右馬(うまの)頭(かみ)頼之に靡順(なびきしたがひ)ぬと聞へければ、日来(ひごろ)の支度(したく)相違して、気を損じ色を失てぞ居たりける。さもあれ、加様(かやう)にて徒(いたづら)に日を送らば、敵は弥(いよいよ)勝(かつ)に乗て、諸国の御方(みかた)降人(かうにん)になる者ありぬと覚(おぼゆ)れば、一軍(ひといくさ)して国々の宮方(みやがた)に気を直させんとて、和田・楠其(その)勢八百(はつぴやく)余騎(よき)を卒(そつ)し、野伏(のぶし)六千(ろくせん)余人(よにん)神崎(かんざき)の橋爪(はしづめ)へ打臨(うちのぞ)む。此比(このころ)摂津国(つのくに)の守護(しゆご)をば、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)が持(もち)たりければ、其(その)身は京都に有乍(ありなが)ら、箕浦(みのうら)次郎左衛門(じらうざゑもん)に勢百四五十騎(ひやくしごじつき)付(つけ)て、国の守護代(しゆごだい)にぞ置たりける。催促(さいそく)の国人(くにうど)取合(とりあはせ)て、其(その)勢僅(わづか)に五百(ごひやく)余騎(よき)、神崎(かんざき)の橋二三間(にさんげん)焼(やき)落(おとし)て、敵川を渡さば河中にて皆射落さんと、鏃(やじり)を汰(そろへ)て待(まち)懸(かけ)たり。和田・楠態(わざと)敵を忻(たばから)ん為に、神崎(かんざき)の橋爪(はしづめ)と株瀬(くひぜ)と二箇所(にかしよ)に打向て引(ひか)へたれば、此(ここ)を渡させじと、箕浦(みのうら)弥次郎(やじらう)・同四郎左衛門(しらうざゑもん)・塩冶(えんや)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・多賀将監(たがのしやうげん)・後藤木村兵庫(ひやうごの)允(じよう)泰則(やすのり)以下五十(ごじふ)余騎(よき)は株瀬(くひぜ)へ馳(はせ)向ふ。守護代(しゆごだい)箕浦(みのうら)次郎左衛門(じらうざゑもん)・伊丹(いたみ)大和(やまとの)守(かみ)・河原林(かはらばやし)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)・芥河(あくたがは)右馬(うまの)允(じよう)・中白(なかじろ)一揆(いつき)三百(さんびやく)余騎(よき)は神崎(かんざきの)橋爪へ打臨(うちのぞ)む。橋桁(はしけた)は元来(もとより)焼落(おと)したり、株瀬は水深し。和田・楠が兵共(つはものども)、縦(たとひ)弥長(やたけ)に思ふ共、可渡とは見へざりけり。八月十六日(じふろくにち)の夜半許(ばかり)に、和田・楠、元の陣に尚(なほ)控(ひか)へたる体(てい)を見せん為に、殊更(ことさら)篝(かがり)を多く焼続(たきつづ)けさせて、是(これ)より二十(にじふ)余町(よちやう)上なる三国(みくに)の渡より打渡(うちわたし)て、小屋野(こやの)・富松(とまつ)・河原林(かはらばやし)へ勢(せい)を差回(さしまは)して、敵を河へ追(おひ)はめんと取篭(とりこめ)たり。京勢(きやうぜい)は是(これ)を夢にも知(しら)ねば、徒(いたづら)に河向に敵未(いまだ)引(ひか)へたりと肝繕(きもづくろひ)して居たる処に、小屋野・富松に当て、所々に火燃(もえ)出て、煙の下に旗の手数(あま)た見へたり。是(これ)までも尚(なほ)敵川を越たりとは思(おもひ)も不寄、焼亡(ぜうまう)は御方(みかた)の軍勢共(ぐんぜいども)の手過(てあやま)ちにてぞ有(ある)らんと由断(ゆだん)して、明(あけ)行(ゆく)侭(まま)に後(うしろ)を遥(はるか)に見渡したれば、十(じふ)余箇所(よかしよ)に村雲(むらくも)立て引(ひか)へたる勢(せい)、旗(はた)共(ども)は、皆菊水の紋也(なり)。「さては敵早(はや)川を渡してけり。平場(ひらば)の懸(かけ)合(あひ)は叶(かなふ)まじ、城へ引篭(ひきこもつ)て戦へ。」とて、浄光寺(じやうくわうじ)の要害(えうがい)へ引返さんとすれば、敵はや入替りたりと覚(おぼえ)て、勝時(かちどき)を作る声、浄光寺の内に聞へたり。是(これ)を見て中白(なかじろ)一揆(いつき)の勢三百(さんびやく)余騎(よき)は、国人なれば案内を知て、何(いつ)の間(ま)にか落(おち)失(うせ)けん一騎(いつき)も不残留、只守護(しゆご)の家人僅(わづか)五十(ごじふ)余騎(よき)、思(おもひ)切たる体(てい)に見へて、二箇所(にかしよ)に控(ひか)へて居たりける。両所に扣(ひか)へたる勢、一所に打(うち)寄らんとしけるが、敵の大勢に早(はや)中を隔(へだて)られて不叶ければ、箕浦次郎左衛門(じらうざゑもん)東を差(さ)して落(おち)行(ゆく)に、両方深田なる細堤(ほそづつみ)を、敵立切(たちきり)て是(これ)を打(うち)留めんと、行前(ゆくさき)を遮(さへぎ)り道を要(よぎつ)て、取篭(とりこむる)事度々(どど)に及べり。され共箕浦懸(かけ)破ては通(とほ)り取て返(かへし)ては戦ひけるに、一番に河原林弾正左衛門(だんじやうざゑもん)は討(うた)れぬ。是(これ)を見て芥河(あくたがは)右馬(うまの)允(じよう)、すげなう引(ひき)分(わか)れて落(おち)て行(ゆか)んとしけるを、「日比(ひごろ)の口には似ぬ者哉(かな)。」と箕浦に言(ことば)を被懸、一所に打寄て相伴(あひともな)ふ。箕浦是(これ)を案内者(あんないしや)にて、数箇所(すかしよ)の敵の中を遁(のが)れ出、都を差(さし)てぞ上りける。下の手に扣(ひか)へたる者共(ものども)は、落方(おちがた)を失て惘然(ばうぜん)として居たるを、木村兵庫(ひやうごの)允(じよう)泰則、「兵共(つはものども)の掟(おきて)、面々存知(ぞんぢ)の前なれ共(ども)、戦難儀なる時、死なんとすれば生き、生(いき)んとすれば死(しぬ)る者にて候ぞ。只幾度(いくたび)も敵のなき方へ引かで、敵の大勢扣(ひか)へたらん所へ懸(かけ)入て戦はんに、討(うたる)れば元来(もとより)の儀、討(うた)れずは懸(かけ)抜(ぬけ)て、西を指(さし)て落(おち)て行(ゆか)んに、敵もさすが命を捨(すて)ては、さのみ長追をばし候はん哉(や)。と云(いふ)処げにもと思はゞ、泰則に続けや人々。」と云(いふ)侭(まま)に、浄光寺前に百騎(ひやくき)許(ばかり)扣(ひか)へたる敵の方へ、馬を引返して歩(あゆ)ませ行く。敵是(これ)を見て、是(これ)は何様(いかさま)降人(かうにん)に出(いづ)る者かと、少し猶余(いうよ)して扣(ひか)へたる処に、歩立(かちだち)なる石津(いしづ)助五郎(すけごらう)行泰に、矢二筋(ふたすぢ)三筋(さんすぢ)射させて、敵の馬の足少(ちと)しどろになれば、三騎の者どもをつと喚(をめい)て懸(かけ)入るに、百騎(ひやくき)許(ばかり)扣(ひか)へたる敵颯(さつ)と分れ靡(なび)きて、敢(あへ)て是(これ)に当(あた)らんとせず。只射手(いて)を進めて射させける程に、箕浦弥次郎(やじらう)討れぬ。同四郎左衛門(しらうざゑもん)深手を負(おう)て田中に臥(ふし)たり。塩冶(えんや)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)・木村兵庫も、馬の平頚(ひらくび)・草脇(くさわき)二所射させて深田のあぜに下(おり)立たり。すはや討(うた)れぬと見へけるが、木村兵庫放(はな)れ馬のありけるに打乗て、かちに成りたる塩冶(えんや)を、馬の上より手を引て尼崎(あまがさき)へ落(おち)て行く。敵迹(あと)に付ても追(おは)ざりければ、道場(だうぢやう)の内に一夜(いちや)隠れ居て翌(あけ)の夜京へぞ上りける。和田・楠等(くすのきら)只一軍(ひといくさ)に摂州の敵を追(おひ)落(おと)して勝(かつ)に乗(のる)といへ共、赤松判官・信濃彦五郎兄弟、猶(なほ)兵庫の北なる多田部(たたへの)城(じやう)に篭(こもつ)て、兵庫湊河(みなとがは)を管領すと聞へければ、九月十六日(じふろくにち)、石堂右馬(うまの)頭(かみ)・和田・楠三千(さんぜん)余騎(よき)にて、兵庫湊川へ押寄せ、一宇(いちう)も不残焼払(やきはら)ふ。此(この)時(とき)赤松判官兄弟は、多田部・山路(やまち)二箇所(にかしよ)の城(じやう)に篭(こもつ)て、敵懸(かか)らば爰(ここ)にて利をせんと待(まち)懸(かけ)けるが、楠いかゞ思ひけん、軈(やが)て兵庫より引返しければ、赤松出会(いであふ)に不及、野伏少々城より出して、遠矢(とほや)射懸(いかけ)たる許(ばかり)にて、墓々敷(はかばかしき)軍は無(なか)りけり。都には同九月晦日改元(かいげん)有て貞治(ぢやうじ)と号(がう)す。是(これ)は南方の蜂起(ほうき)さてもや静まると、諸卿申(まうし)合(あは)れし故(ゆゑ)也(なり)。げにも改元(かいげん)の験(しるし)にや、京都より武家の執事尾張(をはりの)大夫入道(たいふにふだう)、大勢を討手に下すと聞へければ、和田・楠又尼崎・西宮(にしのみや)の陣を引(ひい)て河内(かはちの)国(くに)へ帰りぬ。是(これ)を聞て山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏が勢の、丹波の和久(わく)に居たりしも、因幡(いなばの)国(くに)へぞ引返しける。今年天下已(すで)に同時に乱(みだれ)て、宮方(みやがた)眉(まゆ)開きぬと見へけるが、無程国々静(しづま)りけるも、天運の未(いまだ)至らぬ処とは云(いひ)ながら、先(まづ)は細川相摸守(さがみのかみ)が楚忽(そこつ)の軍して、無云甲斐討死をせし故(ゆゑ)也(なり)。
○太元(たいげんの)軍(いくさの)事(こと) S3808
昔孔子(こうし)謂顔淵曰、「用之則行舎之則蔵。唯我与爾有是夫。」とほめ給ひけるを、傍(そば)にて聞(きき)ける子路、大に忿(いかつ)て曰(いはく)、「子行三軍則誰与。」と申ければ、孔子(こうし)重(かさね)て子路を諌(いさめ)て曰(のたまはく)、「暴虎憑河死而無悔者吾不与也(なり)。必也(なり)。臨事而懼、好謀而成者也(なり)。」とぞ宣ひける。されば古も今も、敵を滅し国を奪(うば)ふ事、只武(たけ)く勇めるのみに非(あら)ず。兼(かね)ては謀(はかりこと)を廻(めぐ)らし智慮を先とするにあり。今大宋(たいそう)国の四百州一時に亡(ほろび)て、蒙古(もうこ)に奪(うば)はれたる事も、西蕃(せいばん)の帝師が謀(はかりこと)を廻(めぐら)せしによれり。其草創(そのさうさう)のよれる所を尋ぬれば、宋朝(そうてう)世を治(をさめ)て已(すで)に三十七代、其(その)亡(ほろび)し時の帝をば幼帝(えうてい)とぞ申ける。此(この)時(とき)太元(たいげん)の国主老(こくしゆらう)皇帝(くわうてい)、其比(そのころ)は未(いまだ)吐蕃(とばん)の諸侯にてありけるが、哀(あは)れ何(いか)にもして宋朝四百州・雲南万里(うんなんばんり)・高麗(かうらい)三韓(さんかん)に至るまで不残是(これ)を打(うち)取(とら)ばやと思ふ心、骨髄(こつずゐ)に入て止(やむ)時(とき)なし。或(ある)時(とき)彼(かの)老皇帝(らうくわうてい)此(この)事を天に仰(あふ)ぎ、少し目睡(まどろみ)給(たまひ)ける夢に、「宋朝の幼帝と太元の老皇帝(らうくわうてい)と楊子江(やうすがう)を隔(へだて)て陣を張(はり)て相対(あひたい)する事日久し。時に楊子江、俄(にはか)に水旱(ひ)て陸地(くがぢ)となる。両陣の兵已(すで)に相近(あひちかづき)て戦はんとする処に、幼帝は其(その)身化(け)して勇猛忿迅(ゆうまうふんじん)の獅子(しし)となり、老皇帝(らうくわうてい)は形俄(にはか)に変じて白色柔和(はくしきにうわ)の羊(ひつじ)となる。両方の兵是(これ)を見て、弓をふせ戈(ほこ)を棄(すて)て、「天下の勝負は只(ただ)此(この)獅子と羊との戦(たたかひ)に可在。」と伺見(うかがひみ)る処に、羊獅子の忿(いか)れる形に懼(おそ)れて忽(たちまち)に地に倒る。時に羊二の角と一の尾骨をつき折て、天にのぼりぬ。」とぞ見給ひける。老皇帝(らうくわうてい)夢醒(さめ)て後(のち)心更(さら)に悦ばず、大に不吉なる夢なりと思ひ給(たまひ)ければ、夙(つと)に起(おき)て西蕃(せいばん)の帝師(ていし)に此(この)夢を語り給ふ。帝師是(これ)を聞て心の中に夢を占(うらなう)て謂(いはく)、「羊と云(いふ)文字は八点に王を書て懸針(かけはり)を余(あま)せり。八点は角(つの)なり、懸針(かけはり)は尾(を)なり。羊二(ふたつ)の角と一(ひとつ)の尾を失(うしな)はゞ王と云(いふ)字になるべし。是(これ)老皇帝(らうくわうてい)太元(たいげん)宋国(そうこく)高麗(かうらい)の国を合(あは)せ保(たもつ)て天下に主たるべき瑞相(ずゐさう)也(なり)。又宋朝の幼帝獅子に成て闘ひ忿(いか)ると見へけるも、自滅(じめつ)の相(さう)也(なり)。獅子の身中に毒虫(どくちゆう)ありて必(かならず)其(その)身を食殺(くひころ)す。如何様(いかさま)幼帝の官軍(くわんぐん)の中に弐(ふたごころ)ある者出来て、戈(ほこ)を倒(さかしま)にする事あるべし。」と占(うらなふ)。夢の理(ことわ)り明(あきらか)に両方の吉凶(きつきよう)を心に勘(かんが)へければ、「是(これ)大(おほい)なる吉夢(きつむ)也(なり)。時を不易兵を召(めさ)れて宋国を可被攻。」とぞ、帝師(ていし)勧(すす)め申されける。老皇帝(らうくわうてい)は元来(もとより)帝師が才智を信じて、万事を是(これ)が申(まうす)侭(まま)に用ひ給ひければ、重(かさね)て吉凶の故を尋(たづね)問(とふ)までに不及、太元七百州の兵三百万騎の勢を催(もよほ)して、楊子江の北(きた)の畔(ほとり)に打臨(うちのぞ)み、河の面三百(さんびやく)余箇所(よかしよ)に浮橋(うきはし)を渡し、同時に兵を渡さんとぞ支度せられける。太宋国(たいそうこくの)幼帝此(この)事を聞給て、「さらば討手を差下せ。」とて、伯顔丞相(はくがんじようしやう)を上将軍(じやうしやうぐん)として百万騎、襄陽(じやうやう)の守(しゆ)呂文煥(りよぶんくわん)を裨(ひ)将軍(しやうぐん)として三十万騎(さんじふまんぎ)、大金(たいきん)の賈似道(かじたう)・賈平相(かへいしやう)兄弟を副将軍(ふくしやうぐん)として、六十万騎(ろくじふまんぎ)を差(さし)下さる。三軍の兵三百万騎、江南(かうなん)に打臨(うちのぞ)み、夜を日に継(つい)で、楊子江を前に直下(みおろし)て、三箇所(さんかしよ)に陣をぞ取たりける。中にも伯顔丞相一陣に進(すすみ)て、楊子江の南に控(ひか)へたりけるが、太元の兵共(つはものども)の浮橋をかけ陣を張(はり)たる体(てい)を見て、謀(はかりこと)を廻(めぐら)して不戦勝(かつ)事を難得しと思ひければ、今の陣より六十里(ろくじふり)後(うしろ)に高く岨(けはし)き山を城に拵(こしらへ)て、四方(しはう)の屏(へい)を何(いか)に打破る共無左右破られぬ様に高く塗(ぬら)せて、内に数千間の家を透間(すきま)もなく作り並(なら)べ、櫓(やぐら)の上矢間(やま)の陰(かげ)に、人形を数千万(すせんまん)立(たて)置(おき)て、或(あるひ)は戈(ほこ)をさしまねき刃(やいば)を交(まじ)へ或(あるひ)は大皷(たいこ)を打(うち)弓を引て、戦を致さんとする様に、風を以て料理(しつらひ)、水を以てあやつりて、岩を切たる細道に、たゞ木戸一(ひとつ)開て、内に実(まこと)の兵を二百(にひやく)余人(よにん)留(とどめ)置き、敵城へ寄せば暫(しば)し戦ふ真似をしてふせぎ兼(かね)たる体(てい)を見せよ。敵勝(かつ)に乗て城中(じやうちゆう)へ責(せめ)入らば敵を皆内へ帯(おび)き入(いれ)て後(のち)、同時に数千(すせん)の家々に火を懸(かけ)て、己(おのれ)が身許(ばかり)隠して、堀(ほつ)たる土の穴より遁(のがれ)出て敵を皆可焼殺とぞ謀(はか)りける。去(さる)程(ほど)に三百(さんびやく)余箇所(よかしよ)の浮橋を已(すで)に渡(わたし)すましてければ、太元の兵三百万騎争(あらそ)ひ前(すすん)で橋を渡る。伯顔丞相兼(かね)て謀(たばかり)たる事なれば、矢軍些(ちと)する真似(まね)して、暫(しばらく)も不支引て行(ゆく)。太元の兵勝(かつ)に乗て、逃(にぐ)るを追(おふ)事甚(はなはだ)急也(なり)。宋国の兵猶(なほ)も偽(いつはり)て引(ひく)体(てい)を敵に推(すゐ)せられじと、楯・鉾(ほこ)・鎧・胄を取捨て、堀溝(ほりみぞ)に馬を乗(のり)棄(すて)て我先(さき)にと逃走(にげはし)る。是(これ)を謀(たばか)るとも不知ける羽衛(うゑ)斥候(せきこう)の兵、徒(いたづら)に命を軽(かろん)じて討死するも多かりけり。日已(すで)に暮(くれ)ければ、宋国の兵城へ引篭(ひきこも)る真似(まね)をして後(うしろ)なる深山(みやま)へ隠れぬ。太元の兵は敵の疲(つか)れたる弊(つひえ)に乗て、則(すなはち)是(これ)を討(うた)んと城の際(きは)までぞ攻(せめ)たりける。旗を進め戈(ほこ)をさしまねきて、城を遥(はるか)に向上(みあげ)たれば、櫓(やぐら)の上屏(へい)の陰(かげ)に、兵袖を連ねて並居(なみゐ)たりとは見へながら、時の声も幽(かすか)に、射出す矢楯をだにも不徹。太元の将軍是(これ)を見て、人形の木偶人(もくぐうにん)共(ども)に誠の人が少々相交(あひまじは)りてふせぐ真似(まね)するとは思ひ不寄。「敵は今朝の軍に遠引(とほびき)して気疲(つかれ)勢(いきほひ)尽(つき)はてけるぞ。時を暫(しばらく)も不可捨。攻(せめ)よや兵共(つはものども)。」と諌(いさ)め罵(ののしつ)て、責皷(せめつづみ)を打て楯を進めければ、城中(じやうちゆう)に少々残(のこし)置(おか)れたる兵共(つはものども)、暫(しばらく)有て火の燃(もえ)出る様に、家々に火を懸(かけ)て、ぬけ穴より逃走(にげさり)ける。木偶人(もくぐうにん)誠(まこと)の兵ならねば、敵責入(せめい)れ共防(ふせ)ぐ者なし。太元三百万騎の兵共(つはものども)、勇み進(すすん)で二(ふた)つともなき木戸より城の中へ込入(こみい)り、或(あるひ)は偽(いつはり)て棄(すて)置(おき)たる財宝を争(あらそう)て奪(うばひ)合ひ、或(あるひ)は忻(たばかつ)て立(たて)置(おき)たる木人(もくにん)に向て、剣(けん)を拉(とりひし)ぎ戈(ほこ)を靡(なびかす)処に、三万(さんまん)余家(よか)作(つくり)双(なら)べたる城中(じやうちゆう)の家々より同時に火燃(もえ)出て、煙満城に炎(ほのほ)四方(しはう)に盛なり。太元の兵共(つはものども)屏(へい)を上超(のぼりこえ)て火に遁(のが)れんとすれば、可取付便(たより)もなく橋もなし。責(せめ)入(いり)つる木戸より出んとするに烟(けぶり)に目くれて胆(きも)迷(まよう)て何(いづ)くを其方(そのかた)共(とも)不覚(おぼえず)、只猛火(みやうくわ)の中に走(はしり)倒れて、太元の兵三百万人(さんびやくまんにん)は皆焼死(やけしに)にけり。太元(たいげんの)王は、多日の粉骨(ふんこつ)徒(いたづら)に一時の籌策(ちうさく)に被破(やぶられ)、大軍未(いまだ)帝都の戦を不致前(さき)に三百万人(さんびやくまんにん)まで亡びければ、此(この)事今は叶(かなふ)まじかりけりと、気を屈して黙止(もだ)されける処に、西蕃(せいばん)の帝師(ていし)太元(たいげんの)王に謁(えつ)して申(まうし)けるは、「大器は遅(おそ)くなるといへり。太元国の天下豈(あに)大器に非(あら)ずや。又機巧(きかう)は大真(たいしん)に非(あら)ず。成る事は微々(びび)にして破(やぶる)る事は大也(なり)。今宋国の節度使等(せつどしら)が武略の体(てい)を聞(きく)に、死を善道(ぜんだう)に守り命を義路(ぎろ)に軽(かろ)んずるに非(あら)ず、只尺寸(せきすん)の謀(はかりこと)を以て大功の成らん事を意(い)とする者也(なり)。宋国り臣独(ひとり)智あつて元朝(げんてう)の人皆(みな)愚(おろか)ならんや。我今謀(はかりこと)を廻(めぐら)さば勝(かつ)事を一戦(いつせん)の前に得つべし。君益(ますます)志を天下の草創(さうさう)に懸(かけ)給へ。臣須(すべから)く以智謀、太宋国(たいそうこく)の四百州を一日の中に可傾。」と申ければ、太元(たいげんの)王大に悦て、「公が謀(はかりこと)を以て我若(もし)太宋国(たいそうこく)を得ば、必(かならず)公(こう)を上天の下、一人(いちじん)の上に貴(たつとん)で、代々(だいだい)帝王の師と可仰。」とぞ被約ける。帝師則(すなはち)形をかへ身を窶(やつ)して太宋国(たいそうこく)へ越(こえ)、江南の市(いち)に行(ゆき)て、哀(あはれ)身貧(まどしく)して子多く持(もち)たる人もがなと伺見(うかがひみ)る処に、年六十有余(いうよ)なる翁(おきな)の、一の剣(けん)を売(うり)て肉饅頭(にくまんぢゆう)を買(かふ)あり。帝師問て曰(いはく)、「剣(けん)をうりて牛を買ふは治(をさま)れる世の備(そな)へなり。牛を売(うり)て剣を買ふは乱(みだれ)たる時の事也(なり)。父老(ふらう)今剣(けん)を売て饅頭を買ふ。其(その)用何事(なにごと)ぞや。」老翁答(こたへ)て曰(いはく)、「我嘗(かつて)兵の凶器(きようき)なる事を不知、若(わか)かりし時好(このん)で兵書を学びき。智は性の嗜(たしな)む処に出(いづ)る者なれば、呉氏(ごし)・孫氏(そんし)が秘(ひ)する処の道、尉潦(うつれう)・李衛(りゑい)が難(かた)しとする処の術(じゆつ)、一を挙(あげ)て占(うらな)へば、則(すなはち)三を反(へん)してさとりき。然(しか)れば乍坐三尺(さんじやく)の雄剣(ゆうけん)を提(ひつさげ)て、立処(たちどころ)に四海(しかい)の乱を理(をさ)めん事、我に非(あら)ずは誰(た)そやと、心を千戸万戸(せんこばんこ)の侯(こう)に懸(かけ)て思(おもひ)しに、我壮(さか)んなりし程は世治(をさま)り国静(しづか)なりし間、武に於(おい)て用(もちゐ)られず、今天下方(まさ)に乱れて、剣士(けんし)尤(もつとも)功を立(たつ)る時には、我已(すで)に老衰(らうすゐ)して其選(そのえらび)に不当、久(ひさし)く此(この)江南の市(いち)の上(ほと)りに旅宿して、僅(わづか)に三人(さんにん)の男子を儲(まうけ)たり。相如(しやうじよ)が破壁(はへき)風寒(さぶく)して夜の衣短く、劉仲(りうちゆう)が乾鍋(かんくわ)薪(たきぎ)尽(つき)て朝の餐(ざん)空(むな)し。只老驥(らうき)の千里を思ふ心未(いまだ)屈(くつ)せざれ共(ども)、飢鷹(きおう)の一呼(いつこ)を待(まつ)身と成(なり)ぬ。故(ゆゑ)に此(この)剣を売(うり)て三子(さんし)の飢(うゑ)を扶(たすけ)んと欲する也(なり)。」と委(くはし)く身上(みのうへ)の羸(つかれ)を侘(わび)て涙を流してぞ立たりける。帝師重(かさね)て問て云(いはく)、「父老の言(ことば)を聞(きく)に、三人(さんにん)の子共飢(うゑ)て、公が百年の命已(すで)に迫(せま)れり。我三千両の金を持(もち)たり。願(ねがはく)は是(これ)を以て父老の身を買(かは)ん。父老何ぞ兔(と)ても無幾程老後の身を売(うり)て、行末遥(はるか)なる子孫の富貴(ふつき)を不欲せや。」と問(とふ)に、老翁眉(まゆ)を揚(あ)げ面を低(たれ)て、「誠(まこと)に公の言(ことば)の如く、我に三千両の金を被与、我豈(あに)三子(さんし)の飢(うゑ)を助(たすけ)て無幾程命を不捨や。」とぞ悦(よろこび)ける。「さらば。」とて、帝師則(すなはち)老翁の身を三千両の金に買ひ、太元へ帰りて後、先(まづ)使者を宋国の帝都へ遣(つかは)して、今度楊子江の合戦に功ありて、千戸万戸の侯にほこれりと聞(きこゆ)る上将軍(じやうしやうぐん)伯顔丞相・呂文煥等(りよぶんくわんら)が事を、都にいかゞ云沙汰(いひさた)するとぞ伺聞(うかがひきか)せける。使者都に上て家々に彳(たたず)み、事の体(てい)人の云沙汰する趣(おもむき)、能々(よくよく)伺(うかがひ)聞て太元に帰り、帝師に対(むかひ)て語(かたり)けるは、「伯顔丞相・呂文煥等(りよぶんくわんら)太元の軍に打勝て、武功身に余れり。天下の士是(これ)を重(おもん)ずる事、上天の威(ゐ)に超(こえ)たり。若(もし)此(この)勢を以て世を傾(かたぶけ)んと思はゞ、只指掌よりも安かるべし。古(いにしへ)安禄山(あんろくさん)が兵を引て帝都を侵(をか)し奪(うばひ)しも、斯(かか)る折節にてこそあれと、恐れ思はぬ人も候はず。」とぞ語りける。帝師使者の語るを聞て、今はかうと思(おもひ)ければ、三千両の金に身を売(うり)たりつる老翁を呼(よび)て、彼(かれ)が股(もも)の肉を切裂(きりさい)て、呂文煥(りよぶんくわん)・伯顔将軍・賈丞相(かしようじやう)三人(さんにん)が手迹(しゆせき)を学(まなび)て返逆籌策(ほんぎやくちうさく)の文を書(かき)、彼(かれ)が骨のあはひに収(をさめ)て疵(きず)を愈(いや)してぞ持(もた)せける。其(その)文に書(かき)けるは、「我等(われら)已(すで)に太元の軍に打勝て士卒の付順(つきしたがふ)事数を不知(しらず)。天已(すで)に時を与(あたへ)たり。不取却(かへつて)禍(わざはひ)有(ある)べし。然(しかれ)ば早(はやく)士を引(ひき)約(やく)を成(な)して帝都に赴(おもむか)んと欲す。若(もし)亡国の暗君を捨(すて)て有道(いうだう)の義臣に与(くみ)せんとならば、戈(ほこ)を倒(さかしま)にする謀(はかりこと)を可致。」と書て、宮中の警固(けいご)に残し留(とどめ)られたる国々の兵の方へぞ遣(つかは)しける。敵を討(うつ)手だて如此認(したため)て、帝師重(かさね)て老翁に向て申けるは、「汝先(まづ)帝都に上り怪(あやし)げなる体(てい)にて宮中を伺見(うかがひみ)るべし。去(さる)程ならば、宮門を守る兵共(つはものども)汝を捕へて嗷問(がうもん)すべし。縦(たとひ)水火の責(せめ)に逢(あふ)共(とも)、暫(しばらく)は勿落事。倒懸(たうけん)身を苦(くるし)め炮烙(はうらく)骨を砕(くだく)時(とき)に至て、我は伯顔将軍・賈丞相等(かしようじやうら)が使として、謀反与力(むほんよりき)の兵共(つはものども)に事の子細を相触(あひふれ)ん為に、帝都に赴(おもむ)きたる由を白状(はくじやう)して、其験(そのしるし)是(これ)也(なり)とて、件(くだん)の身の中に隠しける書を可取出。」とぞ教へける。彼(かの)老翁已(すで)に三千両の金に身を売(うり)し上は、命を非可惜、帝師が教(をしへ)の侭(まま)に謀反催促(むほんさいそく)の状を数十通(すじつつう)身の肉を創(さい)て中に収(をさ)め、帝都の宮門へぞ赴(おもむき)ける。忽(たちまち)身を車裂(くるまざき)にせられ骨を醢(ひしほ)にせらるべきをも不顧、千金に身を替(かへ)て五刑(ごけい)に趣(おもむ)く、人の親の子を思(おもふ)道こそ哀なれ。老翁則(すなはち)帝都に上て、態(わざと)怪(あやし)げなる体(てい)に身を窶(やつ)し、宮門を廻(まはつ)て案内を見る由に翔(ふるま)ひける間、守護(しゆご)の武士是(これ)を捕(とら)へて、上(あげ)つ下(おろし)つ責(せめ)問(とふ)に、暫(しばし)は敢(あへ)て不落。嗷問(がうもん)度重(たびかさなつ)て骨砕(くだ)け筋(すぢ)断(たえ)ぬと見へける時に、「我は是(これ)伯顔将軍・呂文煥等(りよぶんくわんら)が謀叛催促の使也(なり)。」と白状(はくじやう)して、股(もも)の肉の中より、宮中洛外(らくぐわいの)諸侯の方へ、約をなし賞(しやう)を与(あたへ)たる数通の状をぞ取(とり)出(いだし)たりける。典獄(てんごく)の官驚(おどろき)て此(この)由を奏聞しければ、先(まづ)使者の老翁を誅(ちゆう)せられて、軈(やが)て伯顔将軍・賈丞相(かしようじやう)・呂文煥等(りよぶんくわんら)が父子兄弟三族(さんぞく)の刑(けい)に行(おこなは)れて、或(あるひ)は無罪諸侯死を兵刃(へいじん)の下に給(たまは)り、或(あるひ)は功有(あり)し旧臣(きうしん)尸(かばね)を獄門(ごくもん)の前に曝(さら)せり。此(この)事速(すみやか)に楊子江の陣へ聞へしかば、伯顔将軍・賈丞相(かしようじやう)・呂文煥等(りよぶんくわんら)、頭(かうべ)を延(のべ)て無罪由を陳じ申さん為に、太元(たいげん)の戦を打捨(うちすて)て都へ帰り上(のぼり)けるが、国々の諸侯道(みちを)塞(ふさぎ)て不通ける間、三人(さんにん)の将軍空(むなし)く帝師が謀(はかりこと)に被落て、所々にて討(うた)れにけり。是(これ)より楊子江の陣には敵を防ぐ兵一人も無(なけ)れば、太元五百万騎の兵共(つはものども)、推(お)して都へ責(せめ)上るに、敢(あへ)て遮(さへぎ)るべき勢(せい)なければ、宋朝の幼帝宮室(きゆうしつ)を尽(つく)し宗廟(そうべう)を捨(すて)て、遂(つひ)に南蛮国へ落(おち)給ふ。太元の老皇帝(らうくわうてい)、軈(やが)て都に入替(いれかは)り給(たまひ)しかば、天下の諸侯皆(みな)順付(したがひつき)奉て、太宋国(たいそうこく)四百州、忽(たちまち)に太元の世に成(なり)にけり。さしもいみじかりし太宋国(たいそうこく)、一時に傾(かたぶき)し事も、天運図(と)に当る時とは云(いひ)ながら、只帝師が謀(はかりこと)によれる者也(なり)。今細河相摸守(さがみのかみ)、無双(ぶさうの)大力世に超(こえ)たる勇士(ゆうし)なりと聞へしか共、細河右馬(うまの)頭(かみ)が尺寸(せきすん)の謀(はかりこと)に被落、一日の間に亡(ほろび)ぬる事、偏(ひとへ)に宋朝の幼帝、帝師が謀(はかりこと)に相似たり。人而無遠慮、必有近憂とは、如此の事をや申(まうす)べき。