太平記(国民文庫)
太平記巻第三十七

○清氏正儀(まさのり)寄京事(こと) S3701
相摸守は、石堂刑部卿を奏者(そうしや)にて、「清氏不肖(ふせう)の身にて候へ共、御方に参ずる故(ゆゑ)に依て、四国(しこく)・東国・山陰・東山、太略義兵(ぎへい)を揚(あげ)候なる。京都は元来はか/゛\しき兵一人も候はぬ上、細川右馬(うまの)頭(かみ)頼之(よりゆき)・赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)は、当時山名伊豆(いづの)守(かみ)と陣を取向ふて、相戦ふ最中にて候へば、皆我(わ)が国を立(たち)離れ候まじ。土岐・佐々木(ささき)等(ら)は、又仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)と戦て、両陣相支(あひささへ)て上洛(しやうらく)仕る事候まじ。可防兵もなく助の勢も有(ある)まじき時分にて候へば、急ぎ和田・楠以下の官軍(くわんぐん)に、合力を致(いたし)候へと仰(おほせ)下され候へ。清氏真前(まつさき)を仕て京都を一日が中に責(せめ)落(おと)して、臨幸を正月以前に成(なし)進(まゐら)せ候べし。」とぞ申ける。主上(しゆしやう)げにもと思食(おぼしめし)ければ、軈(やが)て楠を召(めし)て、「清氏が申(まうす)所いかゞ有(ある)べき。」と仰(おほせ)らる。正儀暫(しばら)く思案して申けるは、「故尊氏(たかうぢの)卿(きやう)、正月十六日(じふろくにち)の合戦に打負(うちまけ)て、筑紫へ落(おち)て候(さふらひ)しより以来(このかた)、朝敵(てうてき)都を落(おつ)る事已(すで)に五箇度(ごかど)に及(および)候。然(しか)れども天下の士卒、猶(なほ)皇天(くわうてん)を戴(いただ)く者少く候間、官軍(くわんぐん)洛中(らくちゆう)に足を留(とどむ)る事を不得候。然も、一端(いつたん)京都を落さん事は、清氏が力を借(かる)までも候まじ。正儀一人が勢を以てもたやすかるべきにて候へ共、又敵に取て返されて責(せめ)られ候はん時、何(いづ)れの国か官軍(くわんぐん)の助と成(なり)候べき。若(もし)退(しりぞ)く事を恥(はぢ)て洛中(らくちゆう)にて戦(たたかひ)候はゞ、四国(しこく)・西国の御敵(おんてき)、兵船を浮べて跡を襲(おそ)い、美濃・尾張(をはり)・越前・加賀の朝敵共(てうてきども)、宇治・勢多より押寄(おしよせ)て戦を決せば、又天下を朝敵(てうてき)に奪(うばは)れん事、掌(たなごころ)の内に有(あり)ぬと覚(おぼえ)候。但(ただ)し愚案短才(ぐあんたんさい)の身、公儀を褊(さみ)し申(まうす)べきにて候はねば、兔(と)も角(かく)も綸言(りんげん)に順(したが)ひ候べし。」とぞ申ける。主上(しゆしやう)を始め進(まゐら)せて、竹園・椒房(せうばう)・諸司(しよし)・諸衛(しよゑ)に至るまで、住(すみ)馴(なれ)し都の変しさに後の難儀をば不顧、「一夜(いちや)の程なり共、雲居(くもゐ)の花に旅ねしてこそ、後は其(その)夜の夢を忍ばめ。」と宣ひければ、諸卿の僉義(せんぎ)一同して、明年よりは三年北塞(きたふさが)りなり、節分以前に洛中(らくちゆう)の朝敵(てうてき)を責(せめ)落(おと)して、臨幸を成(なし)奉るべき由儀定(ぎぢやう)あ(ッ)て、兵共(つはものども)をぞ被召(めされ)ける。
○新将軍京落(きやうおちの)事(こと) S3702
公家(くげの)大将には、二条(にでう)殿(どの)・四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆俊(たかとし)卿(きやう)、武将には、石堂刑部卿頼房・細川相摸守(さがみのかみ)清氏・舎弟(しやてい)左馬(さまの)助(すけ)・和田・楠・湯浅・山本・恩地(おんぢ)・牲川(にへかは)、其(その)勢二千(にせん)余騎(よき)にて、十二月三日住吉(すみよし)・天王寺(てんわうじ)に勢調(せいぞろ)へをすれば、細川兵部(ひやうぶの)少輔(せう)氏春淡路の勢を卒して、兵船八十(はちじふ)余艘(よさう)にて堺(さかひ)の浜へつく。赤松彦五郎範実(のりざね)、「摂津国(つのくに)兵庫より打立てすぐに山崎へ攻(せむ)べし。」と相図を差(さ)す。是(これ)を聞て京中(きやうぢゆう)の貴賎、財宝を鞍馬(くらま)・高雄へ持運び、蔀(しとみ)・遣戸(やりど)を放取(はなしと)る。京白川の騒動なゝめならず。宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)は二日より東寺に陣取(ぢんどり)て、著到を付(つけ)られけるに、御内(みうち)・外様(とざま)の勢四千(しせん)余騎(よき)と注せり。「さては敵の勢よりも、御方(みかた)は猶(なほ)多かりけり。外都(ぐわいと)に向て可防。」とて、時の侍所なればとて、佐々木(ささきの)治部(ぢぶの)少輔(せう)高秀(たかひで)を、摂津国(つのくに)へ差(さし)下さる。当国は親父道誉(だうよ)が管領(くわんれい)の国なれば、国中(こくぢゆう)の勢を相催(あひもよほ)して、五百(ごひやく)余騎(よき)忍常寺(にんじやうじ)を陣に取て、敵を目の下に待(まち)懸(かけ)たり。今河伊予(いよの)守(かみ)に三河・遠江の勢を付(つけ)て、七百(しちひやく)余騎(よき)山崎へ差(さし)向(むけ)らる。吉良治部(ぢぶの)太輔(たいふ)・宇都宮(うつのみや)三河三郎・黒田判官を大渡(おほわたり)へ向(むけ)らる。自余(じよ)の兵千(せん)余騎(よき)、淀・鳥羽・伏見・竹田へ引(ひか)へさせ、羽林(うりん)の兵千(せん)余騎(よき)をば、東寺の内にぞ篭(こめ)られける。同七日南方の大将河を越て、軍評定の有(あり)けるに、細川相摸守(さがみのかみ)進(すすみ)出て申されける様は、「京都の勢の分際(ぶんせい)をも、兵の気色をも皆見透(みすか)したる事にて候へば、此(この)合戦に於(おい)ては、枉(まげ)て清氏が申(まうす)旨に任(まかせ)られ候へ。先(まづ)清氏後陣(ごぢん)に引(ひか)へて、山崎へ打通(うちとほ)り候はんに、忍常寺に候なる佐々木(ささきの)治部(ぢぶの)少輔(せう)、何千騎候と云(いふ)共(とも)、よも一矢も射懸(いかけ)候はじ。山崎を今河伊予(いよの)守(かみ)が堅(かため)て候なる。是(これ)又一軍(ひといくさ)までも有(ある)まじき者にて候。洛中(らくちゆう)の合戦に成(なり)候はば、大和・河内・和泉・紀伊国の官軍(くわんぐん)は、皆跣立(かちだち)に成て一面に楯をつきしとみ、楯の陰(かげ)に鑓(やり)長刀の打物(うちもの)の衆を五六百人(ごろつぴやくにん)づゝ調(そろ)えて、敵かゝらば馬の草脇(くさわき)・太腹(ふとばら)ついては跳(はね)落させ/\、一足(ひとあし)も前へは進(すすむ)とも一歩(いつほ)も後(うしろ)へ引く気色なくは、敵重(かさね)て懸(かけ)入る者候べからず。其(その)時(とき)石堂刑部卿・赤松彦五郎・清氏一手(ひとて)に成て敵の中を懸(かけ)破り、義詮朝臣(よしあきらあつそん)を目に懸(かけ)候程ならば、何(いづ)くまでか落(おと)し候べき。天下の落居一時が中に定り候べき物を。」と申されければ、「此(この)儀誠(まこと)に可然。」とて、官軍(くわんぐん)中島(なかじま)を打越て、都を差(さし)て責(せめ)上る。げにも相摸守(さがみのかみ)の云つるに少(すこし)も不違、忍常寺(にんじやうじ)の麓を打通るに、佐々木(ささきの)治部(ぢぶの)少輔(せう)は時の侍所也(なり)。甥二人(ににん)まで当国にて楠に打(うた)れぬ。爰(ここ)にて先日の恥をも洗(すすが)んとて、手痛き軍をせんずらんと、思(おもひ)儲(まう)けて通(とほり)けるに、高秀、相摸守(さがみのかみ)に機(き)を呑(のま)れて臆(おく)してや有(あり)けん、矢の一をも不射懸、をめ/\とこそ通しけれ。さては山崎にてぞ、一軍(ひといくさ)あらんずらんと思ふ処に、今河伊予(いよの)守(かみ)も叶(かなふ)まじとや思(おもひ)けん、一戦(いつせん)も戦はで、鳥羽(とば)の秋山(あきやま)へ引退く。此(これ)を見て此彼(ここかしこ)に陣を取たる勢共(せいども)、未(いまだ)敵も近付(ちかづか)ざるに、落支度(おちじたく)をのみぞし居たりける。「かくては合戦はか/゛\しからじ。先(まづ)京を落(おち)てこそ、東国・北国の勢をもまため。」とて、持明院の主上(しゆしやう)をば警固し奉り、同八日の暁に、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)、苦集滅道(くづめぢ)を経て勢多を通(とほ)り、近江の武佐寺(むさでら)へ落(おち)給ふ。君は舟臣は水、水能(よく)浮船、水又覆船也(なり)。臣能(よく)保君、臣又傾君といへり。去去年の春は清氏武家の執事として、相公を扶持(ふち)し奉り、今年の冬は清氏忽(たちまち)に敵と成て、相公を傾け奉る。魏徴(ぎちよう)が太宗を諌(いさめ)ける貞観政要(ぢやうぐわんせいえう)の文、げにもと思ひ知(しら)れたり。同日の晩景(ばんげい)に南方の官軍(くわんぐん)都に打入て、将軍の御屋形を焼(やき)払ふ。思(おもひ)の外に洛中(らくちゆう)にて合戦なかりければ、落(おつ)る勢も入(いる)勢も共に狼籍(らうぜき)をせず、京白川は中々に此(この)間よりも閑(しづか)なり。爰(ここ)に佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)都を落(おち)ける時、「我(わが)宿所へは定(さだめ)てさもとある大将を入替(いれかはら)んずらん。」とて、尋常(じんじやう)に取(とり)したゝめて、六間(むま)の会所(くわいしよ)には大文(だいもん)の畳を敷双(しきなら)べ、本尊・脇絵(わきゑ)・花瓶(くわびん)・香炉・鑵子(くわんす)・盆(ぼん)に至(いたる)まで、一様(いちやう)に皆置(おき)調へて、書院には義之(ぎし)が草書の偈(げ)・韓愈(かんゆ)が文集(ぶんしふ)、眠蔵(めんざう)には、沈(ぢん)の枕に鈍子(どんす)の宿直(とのゐ)物を取(とり)副(そへ)て置く。十二間の遠侍には、鳥・兔・雉・白鳥、三竿(みさを)に懸(かけ)双(なら)べ、三石入許(ばかり)なる大筒に酒を湛(たた)へ、遁世者(とんせいしや)二人(ににん)留(とどめ)置(おき)て、「誰にても此(この)宿所へ来らん人に一献を進めよ。」と、巨細(こさい)を申置(おき)にけり。楠一番に打入(うちいり)たりけるに、遁世者(とんせいしや)二人(ににん)出向て、「定(さだめ)て此弊屋(このへいをく)へ御入(おんいり)ぞ候はんずらん。一献を進め申せと、道誉(だうよ)禅門申置(おか)れて候。」と、色代(しきたい)してぞ出迎(いでむかひ)ける。道誉(だうよ)は相摸守(さがみのかみ)の当敵なれば、此(この)宿所をば定(さだめ)て毀焼(こぼちやく)べしと憤(いきどほ)られけれ共(ども)、楠此情(このなさけ)を感じて、其(その)儀を止(とめ)しかば、泉水の木一本をも不損、客殿の畳の一帖(いちでふ)をも不失。剰(あまつさへ)遠侍の酒肴(さかな)以前のよりも結構(けつかう)し、眠蔵(めんざう)には、秘蔵(ひさう)の鎧に白太刀一振(ひとふり)置(おい)て、郎等(らうどう)二人(ににん)止(とめ)置(おき)て、道誉(だうよ)に■替(けうたい)して、又都をぞ落(おち)たりける。道誉(だうよ)が今度の振舞(ふるまひ)、なさけ深く風情(ふぜい)有(あり)と、感ぜぬ人も無(なか)りけり。例の古博奕(ふるばくち)に出しぬかれて、幾程なくて、楠太刀と鎧取られたりと、笑ふ族(やから)も多かりけり。
○南方(なんばうの)官軍(くわんぐん)落都(みやこをおつる)事(こと) S3703
宮方(みやがた)には、今度京(みやこ)の敵を追落す程ならば、元弘の如く天下の武士皆こぼれて落て、付(つき)順(したが)ひ進(まゐら)せんずらんと被思けるに、案に相違して、始(はじめ)て参る武士こそなからめ。筑紫の菊池(きくち)・伊予(いよの)土居(どゐ)・得能(とくのう)、周防の大内介(おほちのすけ)、越中(ゑつちゆう)の桃井(もものゐ)、新田武蔵守(むさしのかみ)・同左衛門(さゑもんの)佐(すけ)、其(その)外の一族共(いちぞくども)、国々に多しといへども、或(あるひ)は道を塞(ふさ)がれ、或(あるひ)は勢(いきほ)ひ未(いま)だ叶(かなは)ざれば、一人も不上洛(しやうらく)。結句伊勢の仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)は、土岐が向(むかひ)城(じやう)へよせて、打負(うちまけ)て城へ引篭る。仁木中務(なかつかさの)少輔(せう)は、丹波にて仁木三郎に打負(うちまけ)て都へ引返し、山名伊豆(いづの)守(かみ)は暫(しばらく)兵の疲(つかれ)を休めんとて、美作を引て伯耆へかへり、赤松彦五郎範実(のりざね)は、養父則祐(そくいう)様々に誘(こしら)へ宥(なだ)めけるに依て、又播磨へ下りぬと聞へければ、国々の将軍方(しやうぐんがた)機(き)を得ずと云(いふ)者なし。さらば軈(やが)て京へ責(せめ)上れとて越前(ゑちぜんの)修理(しゆりの)大夫入道(たいふにふだう)々朝の子息左衛門(さゑもんの)佐(すけ)以下、三千(さんぜん)余騎(よき)にて近江(あふみの)武佐寺(むさでら)へ馳(はせ)参る。佐々木(ささきの)治部(ぢぶの)少輔(せう)高秀・小原備中(びつちゆうの)守(かみ)は白昼に京を打通て、道誉(だうよ)に馳(はせ)加(くはは)る。道誉(だうよ)其(その)勢を合(あはせ)て七百(しちひやく)余騎(よき)、野路(のぢ)・篠原(しのはら)にて奉待。土岐桔梗(ききやう)一揆(いつき)は、伊勢の仁木が向城(むかひじやう)より引(ひき)分(わけ)て五百(ごひやく)余騎(よき)、鈴鹿山(すずかやま)を打越(うちこえ)て篠原の宿にて追付(おひつき)奉る。此(この)外佐々木(ささきの)六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永・今川伊予(いよの)守(かみ)・宇都宮(うつのみや)三河(みかはの)入道(にふだう)が勢、都合一万(いちまん)余騎(よき)、十二月二十四日に武佐寺(むさでら)を立て、同(おなじき)二十六日(にじふろくにち)先陣勢多に付(つき)にけり。丹波路(たんばぢ)より仁木三郎、山陰道(せんおんだう)の兵七百(しちひやく)余騎(よき)を卒(そつ)して責(せめ)上る。播磨路(はりまぢ)よりは、赤松筑前(ちくぜんの)入道(にふだう)世貞(せいてい)・帥律師(そつのりつし)則祐(そくいう)一千(いつせん)余騎(よき)にて兵庫に著く。残五百(ごひやく)余騎(よき)をば、弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範(うぢのり)に付(つけ)て船に乗(の)せ、堺・天王寺(てんわうじ)へ押寄(おしよせ)て、南方の主上(しゆしやう)を取(とり)奉り、楠が跡を遮(さへぎら)んと二手(ふたて)に成てぞ上りける。宮方(みやがた)の官軍(くわんぐん)、始(はじめ)は京都にてこそ兔(と)も角(かく)もならめと申けるが、四方(しはう)の敵雲霞(うんか)の如く也(なり)と告(つげ)たりければ、是(これ)程(ほど)に能(よく)しよせたる天下を、一時に失ふべきにあらず。先(まづ)南方へ引て、四国・西国へ大将を分遣(わけつかは)し、越前・信濃・山名・仁木に牒合(てふしあはせ)て、又こそ都を落さめとて、同(おなじき)二十六日(にじふろくにち)の晩景(ばんげい)程(ほど)に、南方の宮方(みやがた)宇治を経て、天王寺(てんわうじ)・住吉(すみよし)へ落(おち)ければ、同(おなじき)二十九日将軍京へ入(いり)給ひけり。
○持明院新帝(しんてい)自江州(がうしう)還幸(くわんかうの)事(こと)付(つけたり)相州(さうしう)渡四国事(こと) S3704
帝都の主上(しゆしやう)は、未(いまだ)近江へ武佐寺(むさでら)に御坐(ござ)有て、京都の合戦いかゞ有らんと、御心(おんこころ)苦敷(こころぐるし)く思食(おぼしめし)ける処に、康安元年十二月二十七日(にじふしちにち)に、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)早馬を立(たて)て、洛中(らくちゆう)の凶徒等(きようとら)事故なく追(おひ)落(おと)し候(さうらひ)ぬ。急ぎ還幸(くわんかう)なるべき由を申されたりければ、君を始め進(まゐらせ)て、供奉(ぐぶ)の月卿(げつけい)雲客(うんかく)、奴婢僕従(ぬひぼくじゆう)に至るまで、悦(よろこび)あへる事尋常(よのつね)ならず。其翌(そのあけ)の朝軈(やが)て竜駕(りようが)を促(うなが)されて、先(まづ)比叡山(ひえいさん)の東坂本(ひがしさかもと)へ行幸成て、此(ここ)にて御越年(ごをつねん)あり。佐々波(さざなみ)よする志賀の浦、荒(あれ)て久しき跡なれど、昔ながらの花園(はなぞの)は、今年を春と待顔(まちがほ)なり。是(これ)も都とは思(おもひ)ながら馴(なれ)ぬ旅寝の物うさに、諸卿みな今一日もと還幸(くわんかう)を勧(すす)め申されけれ共(ども)、「去年十二月八日都を落(おち)させ給ひし刻(きざみ)に、さらでだに諸寮司(つか)さ闕(かけ)たりし里内裏(さとだいり)、垣も格子も破(やぶれ)失(うせ)、御簾(みす)畳も無(なか)りければ、暫(しばら)く御修理(みしゆり)を加(くはへ)てこそ還幸(くわんかう)ならめ。」とて、翌年(よくねん)の春(はる)の暮月(ぼげつ)に至(いたる)まで、猶(なほ)坂本にぞ御坐(ござ)ありける。近日は聊(いささか)の事も、公家の御計(おんはからひ)としては難叶ければ、内裡修理の事武家へ仰(おほせ)られたりけれ共(ども)、領掌(りやうじやう)は申されながら、いつ道行(ゆく)べしとも見へざりければ、いつまでか外都(ぐわいと)の御住居(おんすまゐ)も有(ある)べきとて、三月十三日(じふさんにち)に西園寺(さいをんじ)の旧宅(きうたく)へ還幸(くわんかう)なる、是(これ)は后妃(こうひ)遊宴の砌(みぎり)、先皇(せんくわう)臨幸の地なれば、楼閣玉を鏤(ちりば)めて、客殿雲に聳(そびえ)たり。丹青(たんぜい)を尽(つく)せる妙音堂、瑠璃(るり)を展(のべ)たる法水(ほつすゐ)院(ゐん)、年々に皆荒(あれ)はてゝ、見しにもあらず成(なり)ぬれば、雨を疑ふ岩下(がんか)の松風、糸を乱(みだ)せる門前の柳、五柳先生(ごりうせんじやう)が旧跡(きうせき)、七松居士(しちしようこじ)が幽棲(いうせい)も角(かく)やと覚(おぼえ)て物さびたり。爰(ここ)にて今年の春を送らせ給(たまふ)に、兔角(とかく)して諸寮の修理如形出来れば、四月十九日に本(もと)の里内裏へ還幸(くわんかう)なる。供奉(ぐぶの)月卿(げつけい)雲客(うんかく)は指(さし)たる行粧(かうさう)なかりしか共、辻(つじ)々の警固随兵(ずゐひやう)の武士共(ぶしども)皆傍(あたり)を耀(かかやか)してぞ見へたりける。「細川相摸守(さがみのかみ)清氏は、近年武家の執事として、兵の随付(したがひつき)たる事幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知(しらず)。其(その)身又弓箭(ゆみや)を取て、無双(ぶさう)の勇士(ゆうし)なりと聞へしかば、是(これ)が宮方(みやがた)へ降参しぬる事、偏(ひとへ)に帝徳の天に叶へる瑞相(ずゐさう)、天下の草創は必(かならず)此(この)人の武徳より事定(さだま)るべし。」と、吉野の主上(しゆしやう)を始(はじめ)進(まゐらせ)て、諸卿皆悦び思食(おぼしめし)ければ、則(すなはち)大将の任(にん)をぞ授(さづけ)られける。其(その)任案(あん)に相違して、去年の冬南方(なんばうの)官軍(くわんぐん)相共に、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)を追(おひ)落(おと)して、暫(しばら)く洛中(らくちゆう)に勢を振(ふる)ひし時も、此(この)人に馳(はせ)付(つく)勢もなし。幾程なくて官軍(くわんぐん)又都を落されて、清氏河内(かはちの)国(くに)に居たれ共(ども)、其旧好(そのきうかう)を慕(したひ)て尋(たづね)来る人も稀(まれ)なり。只禿筆(とくひつ)に譬(たと)へられし覇陵(はりよう)の旧将軍(きうしやうぐん)に不異。清氏は為(せ)ん方なさに、「若(もし)四国へ渡りたらば、日来(ひごろ)相順(あひしたが)ひし兵共(つはものども)の馳(はせ)付(つく)事もや有らん。」とて、正月十四日に、小船十七艘に取乗て阿波(あはの)国(くに)へぞ渡られける。
○可立大将(だいしやう/に\たつ/べき)事(こと)付(つけたり)漢楚(かんそ)立義帝(ぎてい/を\たつる)事(こと) S3705
夫(それ)大将を立(たつ)るに道あり。大将其(その)人に非(あら)ざれば、戦に勝(かつ)事を得がたし。天下已(すで)に定て後、文を以て世を治(をさむ)る時は、智慧を先とし、仁義を本とする故(ゆゑ)に、今まで敵なりし人をも許容して、政道を行(おこな)はせ大官を授(さづく)る事あり。所謂(いはゆる)魏徴(ぎちよう)は楚の君の旧臣なりしか共、唐(たうの)太宗是(これ)を用(もちゐ)給ふ。管仲は子糾(しきう)が寵人(ちようじん)たりしか共、斉(せい)の桓(くわん)公(こう)是(これ)を賞(しやう)せられき。天下未(いまだ)定(さだまらざる)時(とき)、武を以て世を取らんずるには、功ある人を賞し咎(とが)ある人を罰する間、縦(たとひ)威勢ある者なれども、降人(かうにん)を以て大将とはせず。伝(つたへ)聞(きく)秦の左将軍(さしやうぐん)章邯(しやうかん)は、四十万騎(しじふまんぎ)の兵を卒して、楚に降参したりしか共、項羽(かうう)是(これ)を以て大将の印(いん)を不与。項伯は、鴻門(こうもん)の会(くわい)に心を入(いれ)て高祖(かうそ)を助(たすけ)たりしか共、漢に下て後是(これ)に諸侯の国を不授。加様(かやう)の先蹤(せんしよう)を、南方祗候(しこう)の諸卿誰(たれ)か存知し給はざるに、先(まづ)高倉左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)入道慧源(ゑげん)に、大将の号を授(さづけ)て、兄の尊氏(たかうぢの)卿(きやう)を打(うた)せんと給ひしか共叶はず。次に右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬(ただふゆ)に、大将の号をゆるされて、父の将軍を討(うた)せんとし給ひしも不叶。又仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)に大将を授(さづけ)て、世を覆(くつがへ)さんとせられしも不叶。今又細川相摸守(さがみのかみ)清氏を大将として、代々(だいだい)の主君宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)を亡(ほろぼ)さんとし給ふ不叶。是(これ)只其(その)理に不当大将を立て、或(あるひ)は父兄(ふけい)の道を違(たが)へ、或(あるひ)は主従の義を背(そむ)く故(ゆゑ)に、天の譴(せめ)あるに非(あら)ずや。されば古も世を取(とら)んとする人は、専(もつぱ)ら大将を撰びけるにや。昔秦の始皇の世を奪(うばは)んとて陣渉(ちんせふ)と云(いひ)ける者、自(みづか)ら大将の印を帯(おび)て大沢(たいたく)より出たりしが、無程秦の右将軍白起(はくき)が為に被討ぬ。其(その)後又項梁(こうりやう)と云(いふ)者、自(みづか)ら大将の印を帯(おび)て、楚国より出たりけるも、秦(しんの)左将軍(さしやうぐん)章邯に被打にけり。爰(ここ)に項羽(かうう)・高祖(かうそ)等(ら)色を失て、さては誰をか大将として、秦を可責と計りけるに、范増(はんぞう)とて年七十三(しちじふさん)に成(なり)ける老臣、座中に進(すすみ)出て申けるは、「天地の間に興(おこる)も亡(ほろぶる)も、其(その)理に不依と云(いふ)事なし。されば楚は三戸(さんこ)の小国なれども、秦を亡さんずる人は、必(かならず)楚王の子孫にあるべし。其(その)故は秦の始皇六国を亡(ほろぼ)して天下を並呑(へいどん)せし時、楚の懐王遂(つひ)に秦を背(そむく)事なし。始皇帝(しくわうてい)故(ゆゑ)なく是(これ)を殺して其(その)地を奪(うば)へり。是(これ)罪は秦に有て善(ぜん)は楚に残るべし。故(ゆゑ)に秦を打たんとならば、如何(いか)にもして、楚の懐王の子孫を一人取立(とりたて)て、諸卒皆命に随(したがふ)べし。」とぞ計(はからひ)申ける。項羽(かうう)・高祖(かうそ)諸共(もろとも)に、此(この)義げにもと被思ければ、いづくにか楚の懐王の子孫ありと尋(たづね)求(もとめ)けるに、懐王の孫に孫心と申ける人、久(ひさし)く民間に降(くだつ)て、羊(ひつじ)を養(やしなひ)けるを尋(たづね)出て、義帝(ぎてい)と号(がう)し奉(たてまつり)て、項羽(かうう)も高祖(かうそ)も均(ひとし)く命を慎(つつし)み随(したが)ひける。其(その)後より漢楚(かんそ)の軍は利あつて、秦の兵所々にて打負(うちまけ)しかば、秦の世終(つひ)に亡(ほろび)にけり。是(これ)を以て思(おもふ)に、故新田(につた)義貞(よしさだ)・義助兄弟は、先帝の股肱(ここう)の臣として、武功天下無双。其(その)子息二人(ににん)義宗・義治(よしはる)とて越前国(ゑちぜんのくに)にあり。共に武勇(ぶよう)の道父に不劣、才智又世に不恥。此(この)人々を召て竜顔(りようがん)に咫尺(しせき)せしめ、武将に委任せられば、誰か其(その)家を軽(かろん)じ、誰か旧功を続(つが)ざらん。此等(これら)を閣(さしおい)て、降参不儀の人を以て大将とせられば、吉野の主上(しゆしやう)天下を被召事、千に一(ひとつ)も不可有。縦(たとひ)一旦(いつたん)軍に打勝(うちかた)せ給(たまふ)事有(ある)とも、世は又人の物とぞ覚(おぼ)へたる。
○尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)遁世(とんせいの)事(こと) S3706
都には細川相摸守(さがみのかみ)敵になりし後は、執事と云(いふ)者なくして、毎事(まいじ)叶はざりける間、誰をか其(その)職に可置と評定ありけるが、此比(このころ)時(とき)を得たる佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)が聟たるに依て、傍(かた)への人々皆追従(つゐしよう)にや申けん、「尾張(をはりの)大夫(たいふ)入道(にふだう)の子息左衛門(さゑもんの)佐(すけ)殿(どの)に、増(まし)たる人あらじ。」と申ければ、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)も心中に異儀無(なく)して、執事職を内々此(この)人に定め給ひにけり。父の大夫入道(たいふにふだう)は、元来(ぐわんらい)当腹(たうふく)の三男(さんなん)治部(ぢぶの)大輔(たいふ)義将(よしまさを)寵愛(ちようあい)して、先腹の兄二人(ににん)を世にあらせて見んとも思はざりければ、左衛門(さゑもんの)佐(すけ)執事職に可居由を聞て、様々の非を挙(あげ)て、種々の咎(とが)を立て、此(この)者曾(かつ)て其(その)器用に非(あら)ざる由をぞ、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)へ申されける。中将殿(ちゆうじやうどの)も人の申(まうす)に付(つき)安き人にて御座(おはし)ければ、「げにも見子不如父。さらば当腹の三男(さんなん)を面(おもて)に立(たて)て、幼稚の程は、父の大夫入道(たいふにふだう)に、世務を執行(とりおこなは)さすべし。」と宣ひける。左衛門(さゑもんの)佐(すけ)是(これ)を聞て、父をや恨(うらみ)にけん、世をうしとや思ひけん、潜(ひそか)に出家して、いづちともなく迷(まよひ)出にけり。付(つき)随(したが)ふ郎従共二百七十人(にひやくしちじふにん)、同時に皆髻(もとどり)を切て、思々(おもひおもひ)にぞ失(うせ)にける。此(この)人誠(まこと)に父の所存をも不破、我(わが)身の得道をも願(ねがう)て、出家遁世(しゆつけとんせい)しぬる事類(たぐひ)少き発心なり。但(ただし)此比(このころ)の人の有様は、昨日は髻(もとどり)切て実(まこと)に貴(たつと)げに見ゆるも、今日は頭を裹(つつみ)て、無慚無愧(むざんむぎ)に振舞(ふるまふ)事のみ多ければ、此(この)遁世(とんせい)も又行末通(とほ)らぬ事にてやあらんずらんと思ひしに、遂(つひ)に道心さむる事なくして、はて給ひけるこそ難有けれ。
○身子声聞(しんししやうもん)、一角仙人、志賀寺上人(しやうにんの)事(こと) S3707
凡(およそ)煩悩(ぼんなう)の根元を切り、迷者の絆(きづな)を離るゝ事は、上古にも末代にも、能(よく)難有事にて侍るにや。昔天竺に身子(しんし)と申ける声聞(しやうもん)、仏果を証(しよう)ぜん為に、六波羅蜜(ろくはらみつ)を行ひけるに、已(すで)に五波羅蜜を成就(じやうじゆ)しぬ。檀波羅蜜(だんばらみつ)を修するに至て、隣国(りんごく)より一人の婆羅門来て、財宝を乞(こふ)に、倉の内の財、身の上の衣、残る所なく是(これ)を与ふ。次に眷属(けんぞく)及(および)居室を乞(こふ)に皆与へつ。次に身の毛を乞(こふ)に、一筋(ひとすぢ)も不残抜(ぬい)て施(ほどこし)けり。波羅門猶(なほ)是(これ)に不飽足、「同(おなじく)は汝が眼を穿(くじつ)て、我に与へよ。」とぞ乞(こひ)ける。身子両眼を穿(くじつ)て、盲目の身と成て、暗夜(あんや)に迷(まよふ)が如(ごとく)ならん事、いかゞ在(ある)べきと悲(かなしみ)ながら無力、此(この)行の空(むなし)くならん事を痛(いたみ)て、自(みづか)ら二(にの)眼を抜(ぬい)て、婆羅門にぞ与へける。婆羅門二の眼を手に取て、「肉眼は被抜て後、涜(きたな)き物成(なり)けり。我何の用にか可立。」とて、則(すなはち)地に抛(なげ)て、蹂躙(じうりん)してぞ捨(すて)たりける。此(この)時(とき)に身子、「人の五体(ごたい)の内には、眼にすぎたる物なし。是(これ)程用にもなき眼を乞(こひ)取(とり)て、結句(けつく)地に抛(なげ)つる事の無念さよ。」と一念瞋恚(しんい)の心を発(おこ)しゝより、菩提の行(ぎやう)を退(しりぞけ)しかば、さしも功を積(つみ)たりし六波羅蜜(ろくはらみつ)の行(ぎやう)一時に破れて、破戒の声聞(しやうもん)とぞ成(なり)にける。又昔天竺の波羅奈国(はらないこく)に一人の仙人あり。小便をしける時、鹿のつるみけるを見て、婬欲(いんよく)の心ありければ、不覚して漏精(ろせい)したりける。其(その)かゝれる草の葉を妻鹿(めしか)食て子を生す。形は人にして額(ひたひ)に一の角(つの)ありければ、見る人是(これ)を一角仙人とぞ申ける。修行功積(つもつ)て、神通殊(こと)にあらたなり。或(ある)時(とき)山路に降(くだつ)て、松のしづく苔(こけ)の露、石岩(せきがん)滑(なめらか)なりけるに、此(この)仙人谷へ下るとて、すべりて地にぞ倒れける。仙人腹を立て、竜王があればこそ雨をも降(ふ)らせ、雨があればこそ我はすべりて倒れたり。不如此(この)竜王共を捕(とら)へて禁楼(きんろう)せんにはと思(おもひ)て、内外八海の間に、あらゆる所の大龍・小竜共を捕(とら)へて、岩の中にぞ押篭(おしこめ)ける。是(これ)より国土に雨を降(ふら)すべき竜神(りゆうじん)なければ、春三月より夏の末に至るまで天下大に旱魃(かんばつ)して、山田のさなへさながらに、取らで其侭(そのまま)枯(かれ)にけり。君遥(はるか)に民の愁(うれへ)を聞召(きこしめ)して、「いかにしてか此(この)一角仙人の通力を失(うしなう)て、竜神(りゆうじん)を岩の中より可出す。」と問(とひ)給ふに、或智臣(ちしん)申けるは、「彼(かの)仙人縦(たと)ひ霞を喰(くら)ひ気を飲(のみ)て、長生不老の道を得たり共、十二の観(くわん)に於て未足(いまだたらざる)所あればこそ、道にすべりて瞋(いか)る心は有(あり)つらめ。心未(いまだ)枯木死灰(こぼくしくわい)の如(ごとく)ならずは、色に耽(ふけ)り香(か)に染(そ)む愛念などか無(なか)らんや。然(しか)らば三千(さんぜん)の宮女の中に、容色(ようしよく)殊(こと)に勝(すぐ)れたらんを、一人彼(かの)草庵の中へ被遣て、草の枕を並べ苔の筵(むしろ)を共にして、夜もすがら蘿洞(らとう)の夢に契(ちぎり)を結ばれば、などか彼(かの)通力を失はで候べき。」とぞ申ける。諸臣皆此(この)儀に同じければ、則(すなはち)三千(さんぜん)第一(だいいち)の后、扇陀女(せんだによ)と申けるに、五百人(ごひやくにん)の美人を副(そへ)て、一角仙人の草庵の内へぞ被送ける。后はさしもいみじき玉(たま)の台(うてな)を出て、見るに悲(かなし)げなる草庵に立入(たちいり)給へば、苔(こけ)もるしづく、袖の露、かはく間(ま)もなき御涙(おんなみだ)なれ共(ども)、勅(ちよく)なれば辞(じ)するに言(こと)ばなくして、十符(とふ)のすがごもしき忍(しの)び、小鹿(をしか)の角(つの)のつかの間に、千年(ちとせ)を兼(かね)て契(ちぎり)給ふ。仙人も岩木(いはき)にあらざれば、あやなく后に思(おもひ)しみて、ことの葉ごとに置く露の、あだなる物とは不疑。夫(それ)仙道は露盤(ろはん)の気を嘗(なめ)ても、婬欲(いんよく)に染(そみ)ぬれば、仙の法皆尽(つき)て其験(そのしるし)なし。されば此(この)仙人も一度(いちど)后に落されけるより、鯢桓(げいくわん)の審(しん)も破(やぶ)れて通力もなく、金骨返て本の肉身と成(なり)しかば、仙人忽(たちまち)に病衰(びやうすゐ)して、軈(やが)て空(むなし)く成(なり)にけり。其(その)後后は宮中へ立帰り、竜神(りゆうじん)は天に飛(とび)去て、風雨時に随(したがひ)しかば、農民東作(とうさく)を事とせり。其(その)一角仙人は仏の因位(いんゐ)なり。其婬女(そのいんぢよ)は耶輙陀羅女(やしゆだらによ)これなり。又我朝(わがてう)には志賀寺の上人とて、行学勲修(ぎやうがくくんしゆ)の聖才をはしけり。速(すみやか)に彼(かの)三界の火宅(くわたく)を出て、永(なが)く九品(くほん)の浄刹(じやうせつ)に生(うまれ)んと願(ねがひ)しかば、富貴(ふつき)の人を見ても、夢中の快楽(けらく)と笑ひ、容色の妙(たへ)なるに合ても、迷(まよひ)の前の著相(ちやくさう)を哀(あはれ)む。雲を隣(となり)の柴(しば)の庵(いほ)、旦(しば)しばかりと住(すむ)程(ほど)に、手づから栽(うゑ)し庭の松も、秋風高く成(なり)にけり。或(ある)時(とき)上人草庵の中を立出て、手に一尋(いちじん)の杖を支(ささ)へ、眉に八字の霜を垂(た)れつゝ、湖水波閑(しづか)なるに向て、水想観(すゐさうくわん)を成(なし)て、心を澄(すま)して只一人立(たち)給(たまひ)たる処に、京極(きやうごく)の御息所(みやすどころ)、志賀の花園の春(はる)の気色を御覧じて、御帰(おんかへり)ありけるが、御車(おんくるま)の物見をあけられたるに、此(この)上人御目を見合(みあは)せ進(まゐら)せて、不覚心迷(こころまよう)て魂(たましひ)うかれにけり。遥(はるか)に御車(おんくるま)の跡を見送(みおくり)て立(た)たれ共(ども)、我思(わがおも)ひはや遣(やる)方(かた)も無(なか)りければ、柴(しば)の庵(いほり)に立帰て、本尊に向(むかひ)奉りたれ共(ども)、観念の床(ゆか)の上には、妄想(まうさう)の化(け)のみ立(たち)副(そひ)て、称名(しやうみやう)の声の中には、たへかねたる大息(おほいき)のみぞつかれける。さても若(もし)慰(なぐさ)むやと暮山(ぼさん)の雲を詠(ながむ)ればいとゞ心もうき迷ひ、閑窓(かんさう)の月に嘯(うそぶ)けば、忘(わすれ)ぬ思(おもひ)猶(なほ)深し。今生の妄念(まうねん)遂(つひ)に不離は、後生の障(さはり)と成(なり)ぬべければ、我(わが)思(おもひ)の深き色を御息所に一端(いつたん)申(まうし)て、心安(こころやす)く臨終(りんじゆう)をもせばやと思(おもひ)て、上人狐裘(こきう)に鳩(はと)の杖をつき、泣々(なくなく)京極の御息所の御所へ参て、鞠(まり)のつぼの懸(かかり)の本に、一日(いちにち)一夜(いちや)ぞ立たりける。余(よ)の人は皆いかなる修行者乞食(こつじき)人やらんと、怪(あやし)む事もなかりけるに、御息所御簾(みす)の内より遥(はるか)に御覧ぜられて、是(これ)は如何様(いかさま)志賀の花見の帰るさに、目を見合(みあは)せたりし聖(ひじり)にてやをはすらん。我故(われゆゑ)に迷はゞ、後世の罪誰(た)が身の上にか可留。よそながら露許(ばかり)の言(こと)の葉(は)に情をかけば、慰む心もこそあれと思召(おぼしめし)て、「上人是(これ)へ。」と被召(めされ)ければ、はな/\とふるひて、中門の御簾の前に跪(ひざまつき)て、申出たる事もなく、さめ/\とぞ泣(なき)給ひける。御息所は偽りならぬ気色の程、哀にも又恐ろしくも思食(おぼしめされ)ければ、雪の如くなる御手(おんて)を、御簾の内より少し指(さし)出させ給ひたるに、上人御手(おんて)に取付(とりつき)て、初春の初(はつ)ねの今日の玉箒(たまははき)手に取(とる)からにゆらぐ玉の緒(を)と読(よま)れければ、軈(やが)て御息所取(とり)あへず、極楽の玉の台(うてな)の蓮葉(はちすば)に我をいざなへゆらぐ玉の緒(を)とあそばされて、聖の心をぞ慰め給ひける。かゝる道心堅固(だうしんけんご)の聖人、久修練業(くしゆれんぎやう)の尊宿(そんしゆく)だにも、遂(とげ)がたき発心修行の道なるに、家富(とみ)若き人の浮世の紲(きづな)を離れて、永く隠遁の身と成(なり)にける、左衛門(さゑもんの)佐(すけ)入道(にふだう)の心の程こそ難有けれ。
○畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)謀叛(むほんの)事(こと)付(つけたり)楊国忠(やうこくちゆうが)事(こと) S3708
畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)・舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)義深(よしふか)・同式部大輔(しきぶのたいふ)兄弟三人(さんにん)は、其(その)勢五百(ごひやく)余騎(よき)にて伊豆(いづの)国(くに)に逃下(にげくだ)り、三津(みつ)・金山・修禅寺(しゆぜんじ)の三(みつ)の城(じやう)を構(かまへ)て楯篭(たてこも)りたりと聞へければ、鎌倉(かまくら)の左馬(さまの)頭(かみ)基氏(もとうぢ)先(ま)づ平一揆(たひらいつき)の勢三百(さんびやく)余騎(よき)を被差向。其(その)勢已(すで)に伊豆(いづの)府(こふ)に付(つき)て、近辺の庄園に兵粮(ひやうらう)を懸(かけ)、人夫(にんぶ)を駈(かり)立(たて)ける程に、葛山(かつらやま)備中(びつちゆうの)守(かみ)と、平一揆(たひらいつき)と所領の事に就(つい)て闘諍(とうじやう)を引(ひき)出し、忽(たちまち)に軍をせんとぞひしめきける。畠山が手(て)の者に、遊佐(ゆさ)・神保(じんほ)・杉原此(これ)を聞て、あはれ弊(つひえ)に乗る処やと思ひければ、五百(ごひやく)余騎(よき)を三手(みて)に分(わけ)て、三月二十七日(にじふしちにち)の夜半に、伊豆(いづの)府(こふ)へ逆寄(さかよせ)にぞ寄せたりける。葛山(かつらやま)は、平一揆(たひらいつき)の者共(ものども)畠山と成(なり)合て、夜打に寄せたりと騒ぎ、平一揆(たひらいつき)は、葛山(かつらやま)と引(ひき)合て、畠山御方(みかた)を打(うた)んとする物なりと心得(こころえ)て、共に心を置(おき)合(あひ)ければ、矢の一(ひとつ)をもはか/゛\しく不射出、寄手(よせて)三万騎(さんまんぎ)徒(いたづ)らに鎌倉(かまくら)を指(さし)て引退く。児女(じぢよ)の嘲(あざけ)り理(ことわり)なり。左馬(さまの)頭(かみ)不安思ひければ、新田・田中を大将として、軈(やがて)武蔵・相摸・伊豆・駿河(するが)・上野・下野・上総(かづさ)・下総(しもふさ)八箇国(はちかこく)の勢、二十万(にじふまん)余騎(よき)をぞ被向ける。畠山は此(この)十(じふ)余年(よねん)左馬(さまの)頭(かみ)を妹聟(いもとむこ)に取て、栄耀(えいえう)門戸に余るのみならず、執事の職に居(こ)して天下を掌(たなごころ)に握(にぎり)しかば、東(とう)八箇国(はちかこく)の者共(ものども)の、命に替(かは)らんと昵(むつ)び近付(ちかづき)けるを、我身(わがみ)の仁徳(じんとく)と心得(こころえ)て、何(なに)となく共我(われ)旗を挙(あげ)たらんに、四五千騎も馳(はせ)加(くは)らぬ事はあらじと憑(たのみ)しに、案(あん)に相違して余所(よそ)の勢一騎(いつき)も不付、結句(けつく)一方の大将にもと憑(たのみ)し狩野介(かののすけ)も降参しぬ。又其(その)外相伝譜代(ふだい)の家人、厚恩(こうおん)異他郎従共も、日にそへ落(おち)失(うせ)て今は戦ふべしとも覚へざりければ、大勢の重(かさね)て向ふ由を聞て、二(ふたつ)の城(じやう)に火を懸(かけ)て修禅寺(しゆぜんじ)の城(じやう)へ引(ひき)篭る。夢なる哉(かな)、昨日は海をはかりし大鵬(たいほう)の、九霄(きうせう)の雲に搏(はうつ)が如く、今日は轍(てつ)に伏(ふす)涸魚(かくぎよ)の、三升の水を求(もとむ)るに不異。「我(わが)身かゝるべしと知(しり)たらば、新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)を、枉(まげ)て打つまじかりける物を。」と後悔せりといへり。早く報(むく)ひけるを、兼(かね)て不知こそ愚(おろか)なれ。抑畠山(はたけやま)入道(にふだう)去去年東国の勢を催(もよほし)立(たて)て、南方へ発向したりし事の企(くはたて)を聞けば、只唐の楊国忠・安禄山が天威を仮(かつ)て、後(のち)に世を奪(うば)はんと謀(はかり)しに似たり。昔唐の玄宗位に即(つき)給ひし始、四海(しかい)無事なりしかば、楽(たのしみ)に誇(ほこ)り驕(おごり)をつゝしませ給はざりしかば、あだなる色をのみ御心(おんこころ)にしめて、五雲の車に召(めさ)れ、左右のをもと人に手を引かれ、殿上を幸(みゆき)して後宮(こうきゆう)三十六(さんじふろく)宮(みや)を廻(まは)り、三千人(さんぜんにん)の后を御覧ずるに、玄献(げんけん)皇后・武淑妃(ぶしゆくひ)二人(ににん)に勝(まさ)る容色も無(なか)りけり。君無限此(この)二人(ににん)の妃に思食(おぼしめし)移りて、春(はる)の花秋の月、いづれを捨(すつ)べしとも思召さゞりしに、色ある者は必(かならず)衰へ、光ある者は終(つひ)に消(きえ)ぬる憂世(うきよ)の習(ならひ)なれば、此(この)二人(ににん)の后無幾程共に御隠(おんかくれ)ありけり。玄宗余(あま)りに御歎(おんなげき)有て、玉体も不穏しかば、大臣皆相許(あひはかつ)て、いづくにか前の皇后・淑妃(しゆくひ)に勝(まさ)りて、君の御心(おんこころ)をも慰め進(まゐら)すべき美人のあると、至らぬ隅(くま)もなくぞ尋(たづね)ける。爰(ここ)に弘農(こうのう)の楊玄■(やうげんえん)が女(むすめ)に、楊貴妃と云ふ美人あり。是(これ)は其(その)母昼寝して、楊(やなぎ)の陰(かげ)にねたりけるに、枝より余る下(した)露、婢子(ひし)に落(おち)懸(かか)りて胎内に宿りしかば、更々(さらさら)人間の類(たぐひ)にては不可有、只天人の化(け)して此(この)土に来(きたる)物なるべし。紅顔翠黛(こうがんすゐたい)は元来天の生(な)せる質(かたち)なれば、何ぞ必(かならず)しも瓊粉金膏(けいふんきんかう)の仮(かり)なる色を事とせん。漢の李夫人(りふじん)を写(うつせ)し画工(ぐわこう)も、是(これ)を画(ゑが)かば遂(つひ)に筆の不及事を怪(あやし)み、巫山(ふざん)の神女を賦(ふ)せし宋玉(そうぎよく)も、是(これ)を讃(さん)せば、自(みづか)ら言(ことば)の方(まさ)に卑(いやしからん)事を恥(はじ)なん。其(その)語るを聞ても迷(まよひ)ぬべし、況(いはん)や其(その)色を見ん人をや。加様(かやう)にはりなく覚へし顔色(がんしよく)なれば、時の王侯・貴人・公卿・大夫・媒妁(ばいしやく)を求め、婚礼を厚(あつく)して、夫婦たらん事を望(のぞみ)しか共、父母かつて不許。秘(ひ)して深窓(しんさう)に有(あり)しかば、夭々(えうえう)たる桃花(たうくわ)の暁(あかつき)の露を含(ふくん)で、墻(かき)より余る一枝(いつし)の霞に匂(にほ)へるが如く也(なり)。或人是(これ)を媒(なかだち)して、玄宗皇帝(くわうてい)の連枝(れんし)の宮(みや)、寧王(ねいわう)の御方へ進(まゐら)せけるを、玄宗天威に誇(ほこつ)て濫(みだり)に高(かう)将軍(しやうぐん)を差遣(さしつかは)して、道より奪(うばひ)取て後宮(こうきゆう)へぞ冊(かしづき)入(いれ)奉(たてまつり)ける。玄宗の叡感、寧王(ねいわう)の御思(おんおもひ)、花開(さく)枝の一方は折(をれ)てしぼめるに相似たり。されば月来前殿早、春入後宮遅と詩人も是(これ)を題せり。尋常(じんじやう)の寒梅樹(かんばいじゆ)折(をれ)て軍持(ぐんじ)に上れば、一段(いちだん)の清香人の心を感ぜしむ。民屋(みんをく)粛颯(せうさつ)たるに衰楊柳(すゐやうりう)移(うつり)て宮苑(きゆうゑん)にいれば、千尺の翠条(すゐでう)、別(べつ)に春風長かるべし。さらでだにたへに勝(すぐ)れたる容色の上に、金翠(きんすゐ)を荘(かざ)り薫香を散ぜしかば、只歓喜園(くわんぎゑん)の花の陰(かげ)に舎脂(しやし)夫人(ふじん)の粧(よそほひ)をなして、春に和(くわ)せるに不異。一度(いちど)君王に面(おもて)をまみへしより、袖の中の珊瑚(さんご)の玉、掌(たなごころ)の上の芙蓉(ふよう)の花と、見る目もあやに御心(おんこころ)迷ひしかば、暫(しばらくも)其側(そのそば)を離れ給はず、昼は終日(ひねもす)に輦(てぐるま)を共にして、南内(なんだい)の花に酔(ゑひ)を勧(すす)め、夜は通宵(よもすがら)席を同(おなじく)して、西(せい)宮(みや)の月に宴(えん)をなし給ふ。玄宗余(あまり)の柔(わり)なさに、世人の面に紅粉(こうふん)を施(ほどこ)し、身に羅綺(らき)を帯(おび)たるは、皆仮(かり)なる嬋娟(せんけん)にて真(まこと)の美質(びしつ)に非(あら)ず。同(おなじく)は楊貴妃の顕(あらは)したる膚(はだへ)を見ばやと思召て、驪山宮(りさんきゆう)の温泉に瑠璃(るり)の沙(いさご)を敷き、玉の甃(いしだたみ)を滑(なめらか)にして、貴妃の御衣をぬぎ給へる貌(かたち)を御覧ずるに、白く妙(たへ)なる御はだへに、蘭膏(らんかう)の御湯を引かせければ、藍田(らんでん)日(ひ)暖(あたたかにして)玉低涙、■嶺(ゆれい)雪融(とほりて)梅吐香かとあやしまるゝ程也(なり)。牛車(ぎうしや)の宣旨を被(かうむつ)て、宮中を出入せしかば、光彩(くわうさい)の栄耀(えいえう)門戸に満(みち)て、服用(ふくよう)は皆(みな)大長公主に均(ひとし)く、富貴(ふつき)甚(はなはだ)天子王侯にも越(こえ)たり。此(この)楊貴妃のせうとに、楊国忠と云(いふ)者あり。元来家賎(いやしく)して、■畝(けんほ)の中に長(ひと)となりしかば、才もなく芸もなく、文にも非(あら)ず武にも非(あら)ざりしか共、后(きさき)の兄(あに)なりしかば、軈(やが)て大臣にぞなされける。此(この)時(とき)に安禄山と云(いひ)ける旧臣、権威爵禄(しやくろく)共(ども)に楊国忠に被越て、不安思ひけれ共(ども)、すべき様なければ力不及。係(かか)る処に、天子色を重(おもん)じて政(まつりごと)を乱(みだ)り、小人高位に登(のぼつ)て国の弊(つひえ)を不知を見て、吐蕃(とばん)の国々皆王命を背(そむく)と聞へしかば、「誰をか打手に向(むく)べき。」と議(ぎ)せられけるに、楊国忠武威を恣(ほしいまま)にせん為に、大将の印(いん)を被授ば、罷(まかり)向て輙(たやす)く是(これ)を可静由を望(のぞみ)申ける間、是(これ)に上将軍(じやうしやうぐん)の宣旨をぞ被下ける。楊国忠則(すなはち)五十万騎(ごじふまんぎ)の勢を卒して、大荒(だいくわうの)峯に陣を取る。夫(それ)大将となる人は、士卒の志を一にせん為に、士未食将不餐、士宿野将不張蓋。得一豆之飯与士喫、淋一樽(いつそん)之酒与兵飲とこそ申(まうす)に、此(この)楊国忠明(あく)れば旨酒(ししゆ)に漬(ひたつ)て、兵の飢(うゑ)たるを不知(しらず)。暮(くる)れば美女に纏(まとは)れて人の訴(そしり)をも不聞入。只長時(ちやうじ)の楽(たのしみ)にのみ誇(ほこ)り、軍の事をば忘(わすれ)ても不云けるこそ浅猿(あさまし)けれ。去(さる)程(ほど)に兵疲れ将懈(おこた)りて、進む勢無(なか)りければ、吐蕃(とばん)の戎狄共(じゆうてきども)二十万騎(にじふまんぎ)の勢を引(ひき)て、逆寄(さかよせ)にこそ寄(よせ)たりけれ。大将は元来臆病なり、士卒の心を一にせざれば一戦(いつせん)も不戦、楊国忠が五十万騎(ごじふまんぎ)、我先にと河を渡して、五日路(いつかぢ)まで逃(にげ)たりければ、大荒(だいくわう)の四方(しはう)七千(しちせん)余里(より)、吐蕃(とばん)に随(したが)ひ靡(なび)きにけり。敵はさのみ追はざりしか共、楊国忠此(ここ)にも猶(なほ)たまり得ずして、都を差(さし)て引(ひき)けるが、今度大将を申請(まうしうけ)て、発向したる甲斐(かひ)もなく、一軍(ひといくさ)せで帰らん事、上聞(じやうぶん)其憚(そのはばかり)有(あり)ければ、御方の勢の中に馬にも不乗物具もせで、疲(つかれ)たる兵を一万人首を刎(はね)て、各鋒(きつさき)に貫(つらぬ)き、是(これ)皆吐蕃の徒(と)の頚(くび)なりと号(がう)して、都へぞ帰(かへり)参りける。罪無(なく)して首を刎(はね)られたる兵共(つはものども)の親子兄弟幾千万、悲(かなしみ)を含(ふくみ)て声を呑(の)み、家々に哭(こく)すといへ共、楊国忠が漏(もれ)聞(きか)んずる事を恐(おそれ)て、奏し申(まうす)人なければ、御方の兵一万人は、敵の頚(くび)となして獄門(ごくもん)の木に懸(かけ)られ、大荒(たいくわう)の地千里は、打平(うちたひら)げたる所と号して楊国忠にぞ被行ける。上(かみ)乱れ下(しも)不背と云(いふ)事なれば、挙世、只楊国忠を滅(ほろぼ)さんずる事をぞ計(はか)りける。安禄山、此比(このころ)大荒(だいくわう)の境(さかひ)に吐蕃(とばん)を防がんとて居たりけるが、時至りぬと悦(よろこび)て、諸侯に約をなし、士卒に礼を深(ふかく)して、「楊国忠を打(うつ)べしと、宣旨を給(たまはり)たり。」と披露(ひろう)して兵を催(もよほす)に、大荒(だいくわう)にて楊国忠に打(うた)れたりし、一万人の兵共(つはものども)の親類兄弟大に悦て、我先(さき)にと馳(はせ)集りける程に、安禄山が兵は程なく七十万騎(しちじふまんぎ)に成(なり)にけり。則(すなはち)崔乾祐(さいけんいう)を右将軍(うしやうぐん)とし子思明(ししめい)ら左将軍(さしやうぐん)として都へ上るに、路次(ろし)の民屋(みんをく)をも不煩、城郭(じやうくわく)をも不責、安禄山朝敵(てうてき)に成て長安へ責(せめ)上(のぼる)とは、夢にも人思ひよらず。箪食瓠漿(たんしいこしやう)を持(もち)て、士卒の疲をぞ労(いたは)りける。此(この)勢既(すで)に都より七十里(しちじふり)を隔(へだて)たる潼関(とうくわん)と云(いふ)山に打あがりて、初(はじめ)て旗の手をおろし、時の声をぞ揚(あげ)たりける。玄宗皇帝(くわうてい)は、折節驪山宮(りさんきゆう)に行幸成て、楊貴妃に霓裳羽衣(げいしやううい)の舞をまはせて、大梵高台(ほんかうだい)の楽(たのしみ)も是(これ)には過(すぎ)じと思召(おぼしめし)ける処に、潼関(とうくわん)に馬烟(うまけぶり)をびたゝしく立て、漁陽(ぎよやう)より急(きふ)を告(つぐ)る■鼓(へいく)、雷(いかづち)の如くに打つゞけたり。探使(たんし)度々馳(はせ)帰て、安禄山が徒(と)、崔乾祐(さいけんいう)・子思明等(ししめいら)、百万騎にて寄(よせ)たりと騒ぎければ、「事の体を見て参れ。」とて、哥舒翰(かじよかん)に三十万騎(さんじふまんぎ)を相副(あひそへ)て、咸陽の南へ被差向。安禄山既(すで)に潼関(とうくわん)の山に打挙(うちあが)りて、哥舒翰麓(ふもと)に馳(はせ)向ひたれば、かさよりまつくだりに懸(かけ)落されて、官軍(くわんぐん)十万(じふまん)余騎(よき)河水に溺(おぼれ)て死にけり。哥舒翰僅(わづか)に打(うち)なされて、一日猶(なほ)長安に支(ささへ)て居たりけるが使を馳(はせ)て、「幾度戦ふとも勝(かつ)事を難得。急ぎ竜駕(りようが)を被廻て蜀山(しよくざん)へ落(おち)させ給ふべき。」由を申たりければ、さしも面白かりつる霓裳羽衣の舞も未(いまだ)終(をはらざる)に、玄宗皇帝(くわうてい)と楊貴妃と、同(おなじ)く五雲の車に被召(めされ)て都を落給へば、楊国忠を始(はじめ)として、諸王千官悉(ことごと)く歩跣(かちはだし)なる有様にて、泣々(なくなく)大軍の跡に相順(あひしたがふ)。哥舒翰長安の軍にも打負(うちまけ)て鳳翔県(ほうしやうけん)へ落(おち)ければ、安禄山が兵、君を追懸進(おつかけまゐらせ)て、旗の手五十町(ごじつちよう)計(ばかり)の跡に連(つらな)りたり。竜駕既(すで)に馬嵬(ばくわい)の坡(つつみ)を過(すぎ)させ給ひける時、供奉(ぐぶ)仕る官軍(くわんぐん)六万(ろくまん)余騎(よき)、道を遮(さへぎつ)て君を通し進(まゐら)せず。「是(これ)は何事ぞ。」と御尋(おんたづね)ありければ、兵皆戈(ほこ)をふせ地に跪(ひざまづい)て、「此(この)乱俄(にはか)に出来て天子宮闕(きゆうけつ)を去(さら)せ給ふ事、偏(ひとへ)に楊国忠が驕(おごり)を極(きは)め罪なき人を切(きり)たりし故(ゆゑ)也(なり)。然(しか)れば楊国忠を官軍(くわんぐん)の中へ給て首を刎(はね)、天下の人の心を息(やす)め候べし。不然は縦(たとひ)禄山が鋒(ほこさき)には死すとも、天子の竜駕をば通し進(まゐら)すまじ。」とぞ申ける。跡より敵は追懸(おひかけ)たり。惜(をし)むとも不可叶と思召(おぼしめし)ければ、「早く楊国忠に死罪をたぶべし。」とぞ被仰ける。官軍(くわんぐん)大に喜て、楊国忠を馬より引落(ひきおと)し、戈(ほこ)の先に指貫(さしつらぬ)き、一同にどつとぞ笑(わらひ)ける。是(これ)を御覧じける楊貴妃の御心(おんこころ)の中こそ悲(かなし)けれ。角(かく)ても官軍(くわんぐん)猶(なほ)あきたらざる気色ありて、竜駕を通し進(まゐら)せざりければ、「此(この)上の憤(いきどほ)り何事ぞ。」と尋(たづね)らるゝに、兵皆、「后妃の徳たがはゞ四海(しかい)の静(しづま)る期(ご)あるべからず。褒■(ほうじ)周(しう)の世を乱(みだ)り、西施(せいし)呉の国を傾(かたぶけ)し事、統■(とうくわう)耳を不塞。君何ぞ思召(おぼしめし)知らざらん。早く楊貴妃に死を給(たまは)らずは、臣等(しんら)忠言の為に胸を裂(さき)て、蒼天(さうてん)に血を淋(そそ)くべし。」とぞ申ける。玄宗是(これ)を聞食(きこしめし)て遁(のがる)まじき程を思召(おぼしめし)ければ、兔角(とかく)の御言(おんことば)にも不及、御胸もふさがりて、御心(おんこころ)消(きえ)て鳳輦(ほうれん)の中に倒(たふ)れ伏(ふ)させ給ふ。霞の袖を覆(おほ)へ共、荒き風には散る花の、かくるゝ方も無(なか)るべきに、楊貴妃さてもや遁(のが)るゝと、君の御衣(ぎよい)の下へ御身(おんみ)を側(そば)めて隠れさせ給へば、天子自(みづから)御貌(おんかたち)を胸にかきよせて、「先(まづ)朕(ちん)を失(うしなひ)て後(のち)彼を殺せ。」と歎かせ給ひければ、指(さし)も忿(いか)れる武士共(ぶしども)も皆戈(ほこ)を捨(すて)て地に倒る。其(その)中に邪見放逸(じやけんはういつ)なる戎(えびす)の有(あり)けるが、「角(かく)ては不可叶。」とて、玉体に取付(つか)せ給ひたる楊貴妃の御手(おんて)を引(ひき)放(はなし)て、轅(ながえ)の下へ引落(ひきおと)し奉り、軈(やが)て馬の蹄(ひづめ)にぞ懸(かけ)たりける。玉の鈿(かんざし)地に乱(みだれ)て、行(ゆく)人道を過(すぎ)やらず。雪の膚(はだへ)泥(どろ)にまみれて、見(みる)人袖をほしかねたり。玄宗は無力して、御貌(おんかたち)をも擡(もたげ)させ給はず、臥(ふし)沈ませ給ひしかば、今はのきはの御有様(おんありさま)を、まのあたり御覧ぜざりしこそ、中々絶(たえ)ぬ玉の緒の、長き恨とは成(なり)にけれ。其(その)後に二陣の兵ふせぎ矢射て、前陣の竜駕を早めければ、程なく蜀(しよく)へ落著(おちつか)せ給ひけり。則(すなはち)回■(くわいきつ)十万騎(じふまんぎ)の勢を卒して馳(はせ)参る。厳武(げんぶ)・哥舒翰(かじよかん)又国々の兵(つはものを)催(もよほし)立(たて)て、五十万騎(ごじふまんぎ)蜀(しよく)の行在(あんざい)へぞ参りける。安禄山が勢(せい)は、始(はじめ)楊国忠を打(うた)んとする由を聞てこそ、我(われ)も我(われ)もと馳(はせ)集りしか、今の如(ごとく)は只(ただ)天下を奪(うばは)んとする者なりけりとて、兵多く落(おち)失(うせ)ける間、安禄山が栄花、たゞ春一時(ひととき)の夢とぞ見へたりける。加様(かやう)に都の敵は日々に減じ、蜀の官軍(くわんぐん)は国々より参りけれ共(ども)、玄宗皇帝(くわうてい)は、楊貴妃の事に思(おもひ)沈(しづ)ませ給ひて、万機(ばんき)の政(まつりごと)にも御心(おんこころ)を不被懸、只(ただ)死しても生(うま)れ合(あふ)べくは、いきて命も何(なに)かせんと、思召(おぼしめす)外は他事もなし。厳武・哥舒翰・回■等(くわいきつら)、角(かく)ては叶(かなふ)まじと思(おもひ)ければ、玄宗皇帝(くわうてい)の第二(だいに)の御子粛宗(しゆくそう)の、鳳翔県(ほうしやうけん)と云(いふ)所に隠(かくれ)てをはしけるを、天子と仰(あふぎ)奉て四海(しかい)に宣旨を下し、諸国の兵を催(もよほし)て、八十万騎(はちじふまんぎ)先(まづ)長安へぞ寄(よせ)たりける。安禄山、崔乾祐(さいけんいう)・子思明(ししめい)を大将にて、是(これ)も八十万騎(はちじふまんぎ)長安に馳(はせ)向ふ。両陣相挑(あひいどんで)未(いまだ)戦(たたかはざる)処に、祖廟(そべう)の神霊百万騎の兵に化(け)し、黄なる旗を差(さし)て、哥舒翰が勢に加(くはは)り、崔乾祐と戦(たたかひ)ける間、安禄山が兵共(つはものども)に破れ立て、一時に皆亡(ほろび)にけり。朝敵(てうてき)忽(たちまち)に被誅て、洛陽則(すなはち)静(しづま)りければ、粛宗位を辞(じ)して、又玄宗を位に即(つけ)奉らん為に、官軍(くわんぐん)皆蜀(しよく)へ御迎(おんむかへ)にぞ参りける。玄宗はかく天下の程なく静(しづま)りぬるに付(つけ)ても、只(ただ)楊貴妃の世にをはせぬ事のみ思召(おぼしめし)て、再(ふたた)び天子の位を践(ふま)せ給はん事も、御本意ならねども、馬嵬(ばくわい)の昔の跡をも御覧ぜばやと、思食す御心(おんこころ)に急がれて、軈(やが)て遷幸の儀則(ぎそく)を促(うなが)されける。馬嵬の道の辺(ほとり)に鳳輦(ほうれん)を留(とめ)られて、是(これ)ぞ去年の秋楊貴妃の武士に被殺て、はかなく成(なり)し跡よとて御覧ずれば、長堤(ちやうてい)の柳の風にしなへるも、枕に懸(かか)りしねみだれ髪の、朝の面影御泪(なみだ)に浮び、池塘(ちたう)の草の露にしほれたるも、落(おち)て地に乱(みだれ)けん玉の鈿(かんざし)、角(かく)やと思食(おぼしめし)知られて、いとゞ御心(おんこころ)を悩まされ、うかれて迷ふ其魄(そのたましひ)の跡までも猶(なほ)なつかしければ、只日暮(くれ)夜明(あく)れ共(ども)、此(ここ)にて思(おもひ)消(きえ)ばやと思食(おぼしめし)けれ共(ども)、翠花(すゐくわ)揺々(えうえう)として東に帰れば、爰(ここ)をさへ亦(また)別(わかれ)ぬる事よと、御涙(おんなみだ)更(さら)に塞(せき)あへず、遥(はるか)に跡を顧(かへりみ)させ給ふに、蜀江(しよくかう)水緑(みどりにして)蜀山青(あをし)、聖主朝々(あさなあさな)暮々(ゆふべゆふべの)情(こころ)譬(たと)へて云はん方もなし。日を経て長安に遷幸成て、楊貴妃の昔の住(すみ)玉(たま)ひし驪山の華清宮(くわせいきゆう)の荒(あれ)たる跡を御覧ずるに、楼台池苑皆依旧。太掖芙蓉未央柳、芙蓉如面柳如眉。君王対此争無涙。春風桃李花開日、秋露梧桐葉落時、西宮南苑多秋草、宮葉満階紅不掃。行宮見月傷心色、夜雨聞鈴断腸声、夕殿蛍飛思消然。孤灯挑尽未成眠、遅々鐘皷初長夜、耿々星河欲曙天。鴛鴦瓦冷霜花重。翡翠衾寒誰与共。物ごとに堪(たへ)ぬ御悲のみ深く成(なり)行(ゆき)ければ、今は四海(しかい)の安危(あんき)をも叡慮に懸(かけ)られず、御位をさへ粛宗皇帝(くわうてい)に奉譲、玄宗はたゞいつとなく御涙(おんなみだ)にしほれて、仙院の故宮(こきゆう)にぞ御座(おはし)ける。爰(ここ)に臨■(りんかう)の道士(だうし)楊通幽(やうつういう)、玄宗の宮(みや)に参て、「臣は神仙の道を得たり。遥(はるか)に君王展転(てんでん)の御思を知れり。楊貴妃のをはする所を尋(たづね)て帰(かへり)参らん。」と申ければ、玄宗無限叡感有て、則(すなはち)高官を授(さづけ)て大禄(たいろく)を与へ給ふ。方士則(すなはち)天に登り地に入て、上は碧落(へきらく)を極め、下は黄泉(くわうせん)の底まで尋(たづね)求(もとむ)るに、楊貴妃更(さら)にをはしまさず。遥(はるか)に飛(とび)去て、天海万里の波涛(はたう)を凌(しの)ぐに、あはい七万里を隔てゝ、蓬莱(ほうらい)・方丈(はうぢやう)・瀛州(えいしう)の三の島あり。一の亀是(これ)を戴(いただ)けり。中に五城峙(そばだち)て、十二の楼閣あり。其(その)宮門に金字(こんじ)の額(がく)あり。立寄て是(これ)を見れば、玉妃太真院(たいしんゐん)とぞ書(かき)たりける。楊貴妃さて此(この)中に御坐(おはし)けりとうれしく思(おもひ)て、門をあらゝらかに敲(たたき)ければ、内より双鬟(さうくわん)の童女出て、「いづくより誰を尋ぬる人ぞ。」と問(とふ)に、方士手を歛(をさめ)て、「是(これ)は漢家の天子の御使(おんつかひ)に、方士と申(まうす)者にて候が、楊貴妃の是(これ)に御坐(ござ)あると承(うけたまはり)て、尋(たづね)参て候。」と答(こたへ)申ければ、双鬟(さうくわん)の童女、「楊貴妃は未(いまだ)をうとのごもりて候。此(この)由を申て帰(かへり)侍らん。」とて、玉の扉(とぼそ)を押(おし)たてゝ内へ入(いり)ぬ。方士門の傍(かたはら)に立て、今や出(いづ)ると是(これ)を待(まつ)に、雲海沈々(ちんちんとして)洞天(とうてん)に日晩(くれ)ぬ。瓊戸(けいこ)重(かさな)り閉(とぢ)て、悄然(せうぜん)として無声。良(やや)有て双鬟(さうくわん)の童女出て、方士を内へいざない入る。方士手を揖(いふ)して、金闕(きんけつ)の玉の廂(ひさし)に跪(ひざまつ)く。時に玉妃夢さめて、枕を推(おし)のけて起き給ふ。雲鬢(うんくわん)刷(つくろ)はずして、羅綺(らき)にだも堪(たへ)ざる体、譬(たとへ)て言(いふ)に比類(ひるゐ)なし。左右(さうの)侍児(おもとひと)七八人(しちはちにん)、皆金蓮(きんれん)を冠(かぶり)にし、鳳■(ほうせき)を著して相随(あひしたが)ふ。五雲飄々(へうへう)として、玉妃玉堂より出給ふ。雲頭艶々(えんえん)として、暁月(げうげつ)の海を出(いづ)るに不異。方士泪(なみだ)を押(おさへ)て、君王展転(てんでん)の御思(おんおもひ)を語るに、玉妃つく/゛\と聞(きき)給ひて、含情凝睇謝君王。一別(して)音容(いんよう)両(ふたつながら)渺茫(べうばうたり)。昭陽殿(せうやうでんの)裡(うち)恩愛絶(たゆ)、蓬莱宮(ほうらいきゆうの)中日月長(ながし)となん恨(うらみ)給ひて、中々御言葉もなければ、玉(たまの)容(かたち)寂寞(せきばくとして)涙(なんだ)欄干(らんかん)たり。只梨花(りくわ)一枝(いつし)春帯雨如し。将(まさに)方士帰去(かへん)なんとするに及て、「玉妃の御信(かたみ)を給(たまはり)候へ。尋(たづね)奉る験(しるし)に献(けん)ぜん。」と申ければ、玉妃手づから玉の鈿(かんざし)を半(なかば)擘(さき)て方士にたぶ。方士鈿(かんざし)を給て、「是(これ)は尋常(よのつね)世にある物也(なり)。何ぞ是(これ)を以て験(しるし)とするに足(た)らんや。願(ねがはく)は玉妃君王に侍(はんべり)し時、人の曾(かつ)て不知事あらば、其(それ)を承(うけたまはり)て験(しるし)とせん。不然は臣忽(たちまち)に新垣平(しんゑんへい)が詐(いつはり)を負(おう)て、身斧鉞(ふゑつ)の罪に当(あたら)ん事を恐る。」と申ければ、玉妃重(かさね)て宣(のたまは)く、「我七月七日長生殿(ちやうせいでんに)夜半(やはんに)無人上(うへ)の傍(そば)に侍りし時、牽牛織女(けんぎうしよくじよ)の絶(たえ)ぬ契(ちぎり)を羨(うらやみ)て、「在天願作比翼鳥、在地願為連理枝。」と誓(ちかひ)き。是(これ)は君王と我とのみ知れり。是(これ)を以て験(しるし)とすべし。」とて泣々(なくなく)玉台を登り給へば、音楽雲に隔(へだた)り、団扇(だんせん)大に隠(かくれ)て、夕陽(せきやう)の影の裏(うち)に漸々(ぜんぜん)として消(きえ)去(さり)ぬ。方士鈿(かんざし)の半(なかば)と言の信(かたみ)とを受(うけ)て宮闕(きゆうけつ)に帰参(きさんし)、具(つぶさ)に此(これ)を奏するに、玄宗思(おもひ)に堪兼(たへかね)て、伏(ふし)沈(しづま)せ給(たまひ)けるが、其(その)年の夏未央宮(びやうきゆう)の前殿にして、遂(つひ)に崩御(ほうぎよ)なりにけり。一念五百(ごひやく)生繋念無量劫(けねんむりやうこふ)といへり。況(いはん)や知(しら)ぬ世までの御契(ちぎり)浅からざりしかば、死此生彼、天上人間禽獣魚虫(きんじうぎよちゆう)に生を替(かへ)て、愛著(あいぢやく)の迷(まよひ)を離れ給はじと、罪深き御契なり。抑天宝の末の世の乱(らん)、只安禄山・楊国忠が天威を仮(かつ)て、功に誇(ほこ)り人を猜(そねみ)し故なり。今関東(くわんとう)の軍、道誓が隠謀(いんぼう)より事起(おこつ)て、傾廃(けいはい)古(いにしへ)に相似たり。天驕(おごり)を悪(にく)み欠盈。譴脱(せめのが)るゝ処なければ、道誓の運命も憑(たの)みがたしとぞ見へたりける。