太平記(国民文庫)
太平記巻第三十五

○新将軍帰洛(きらくの)事(こと)付(つけたり)擬討仁木義長(よしなが)事(こと) S3501
南方の敵軍、無事故退治(たいぢ)しぬとて、将軍義詮朝臣(よしあきらあつそん)帰洛し給ひければ、京中(きやうぢゆう)の貴賎悦合(よろこびあ)へる事不斜(なのめならず)。主上(しゆしやう)も無限叡感有て、早速(さつそく)の大功、殊(ことに)以(もつて)神妙の由(よし)、勅使(ちよくし)を下されて仰(おほせ)らる。則(すなはち)今度御祈祷(ごきたう)の精誠(せいぜい)を被致つる諸寺の僧綱(そうがう)・諸社の神官(じんぐわん)に、勧賞(けんじやう)の沙汰有(ある)べしと被仰出けれ共(ども)、闕国(けつこく)も所領もなければ、僅に任官の功をぞ被出ける。其比(そのころ)畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)が所に、細河相摸守(さがみのかみ)・土岐大膳(だいぜんの)大夫入道(たいふにふだう)・佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)以下、日々寄(より)合(あひ)て、此(この)間の辛苦(しんく)を忘(わすれ)んとて酒宴・茶の会なんどして夜昼遊(あそび)けるが、互に無隔心程を見て後に、畠山(はたけやま)入道(にふだう)密(ひそか)に其(その)衆中に私語(ささやき)けるは、「今は何をか可隠申。道誓今度東国より罷(まかり)上り候(さうらひ)つる事、南方の御敵(おんてき)退治(たいぢ)の為とは乍申、宗(むね)とは仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)が過分(くわぶん)の挙動(ふるまひ)を鎮(しづめ)んが為にて候(さうらひ)き。旁(かたがた)も定(さだめ)てさぞ被思召候覧(らん)。彼が心操(こころばへ)曾(かつて)一家(いつけ)をも可治者とは不見。然(しかる)を今非其器用四箇国(しかこく)の守護職(しゆごしよく)を給(たまは)り、差(さし)たる忠無(なく)して、数百(すひやく)箇所(かしよ)の大圧を領知す。外には不敬仏神、朝夕狩漁(かりすなどりを)為業内には将軍の仰(おほせ)を軽(かろん)じて毎事(まいじ)不拘成敗。然(され)ば今度南方退治(たいぢの)時(とき)も、敵の勝(かつ)に乗る時は悦び、御方の利を得るを聞ては悲(かなしむ)。是(これ)は抑(そも)勇士(ゆうし)の本意とや可申、忠臣の挙動(ふるまひ)とや可申。将軍尼崎(あまがさき)に御陣を被取二百(にひやく)余日(よにち)に及(および)しに、義長(よしなが)西宮(にしのみや)に乍居、一度(いちど)も不出仕、一献を進ずる事も無りしかば、何に抑(そも)斯(かか)る不忠不思議(ふしぎ)の者に大国を管領せさせ、大庄を塞(ふさが)せては、世の治(をさま)ると云(いふ)事や候べき。只此(この)次に仁木を被退治(たいぢ)、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)の世務を被助申候はゞ、故将軍も草の陰にては、嬉(うれし)くこそ被思召候はんずらめ。旁(かたがた)は如何(いかが)被思召候。」と問(とひ)ければ、細河相摸守(さがみのかみ)は、今度南方の合戦の時、仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)、三河の星野(ほしの)・行明等(ぎやうみやうら)が、守護(しゆご)の手に属(しよく)せずして、相摸守(さがみのかみ)の手に付たる事(ことを)忿(いかつ)て、彼等が跡を闕所(けつしよ)に成て家人共(けにんども)に宛行(あておこな)はれたりしを、所存に違て思はれける人也(なり)。土岐大膳(だいぜんの)大夫入道(たいふにふだう)善忠(ぜんちゆう)は、故土岐頼遠(よりとほ)が子左馬(さまの)助(すけ)を仁木が養子にして、動(ややもす)れば善忠が所領を取て左馬(さまの)助(すけ)に申(まうし)与(あたへ)んとするを、鬱憤(うつぷん)する折節(をりふし)也(なり)。佐々木(ささきの)六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永(そうえい)は、多年御敵(おんてき)なりし高山(たかやま)を打て其(その)跡を給(たまはり)たるを、仁木建武の合戦に恩賞に申給(たまはり)たりし所也(なり)とて、押(おさへ)て知行せんとするを、遺恨(ゐこん)に思ふ人なり。佐渡判官入道(はうぐわんにふだう)は、我身に取て仁木に差(さし)たる宿意はなけれ共(ども)、余に傍若無人(ばうじやくぶじん)なる振舞を、狼藉(らうぜき)なりと目にかけゝるとき也(なり)。今河・細河・土岐・佐々木(ささき)、皆義長(よしなが)を悪(にく)しと思ふ人共なりければ、何(いづ)れも不及異儀、「只此次(このついで)に討(うち)て、世を鎮(しづむ)るより外の事は候はじ。」と、面々にぞ被同ける。然(さら)ば軈(やが)て合戦評定可有とて、人々の下人共を遠く除(のけ)たる処に、推参(すゐさん)の遁世者(とんせいしや)・田楽童(でんがくわらは)なんど数多(あまた)出来ける程に、諸人皆目加(めくは)せして、其(その)日(ひ)は酒宴にて止(やみ)にけり。
○京勢(きやうぜい)重(かさねて)南方発向(はつかうの)事(こと)付(つけたり)仁木没落(ぼつらくの)事(こと) S3502
斯(かか)る処に和田・楠等(くすのきら)、金剛山(こんがうせん)並に国見(くにみ)より出て、渡辺の橋を切落(きりおと)し、誉田(こんだ)の城(じやう)を
責(せめ)んとする由(よし)、和泉・河内より京都へ早馬を打て、急ぎ勢を可被下と告(つげ)たりければ、先日数月(すげつ)の大功、一時に空(むなし)く成(なり)ぬと、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあつそん)周章(しうしやう)し給(たまひ)けれ共(ども)、誰を下れと下知する共、不可有下者、諸人の心を推量し給(たまひ)て、大息(おほいき)突(つい)て御坐(おはし)けるに、聞(きく)と等(ひとし)く畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)・細河相摸守(さがみのかみ)清氏・土岐大膳(だいぜんの)大夫入道(たいふにふだう)善忠・佐々木(ささきの)六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永(そうえい)・今河上総(かづさの)介(すけ)・舎弟(しやてい)伊予(いよの)守(かみ)・武田(たけだの)弾正少弼(だんじやうせうひつ)・河越(かはごえ)弾正・赤松大夫判官(たいふのはうぐわん)光範(みつのり)・宇都宮(うつのみや)芳賀(はが)兵衛入道(ひやうゑにふだう)禅可以下、此(この)間一揆(いつき)同心の大名三十(さんじふ)余人(よにん)、其(その)勢都合七千(しちせん)余騎(よき)、公方(くばう)の催促をも不相待我先にと天王寺(てんわうじ)へぞ向(むかひ)ける。後に事の様を案ずれば、是(これ)全く南方の蜂起(ほうき)を鎮(しづめ)ん為にては無りけり。只(ただ)右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)を亡(ほろぼ)さんが為に、勢を集めける企(くはたて)也(なり)。何(なに)とは不知、京より又大勢下りければ、和田・楠、渡辺にも不支、誉田(こんだ)の城(じやう)をも不責、又金剛山の奥へ引篭(ひきこも)る。京勢(きやうぜい)、本より敵対治(たいぢ)の為ならねば、楠引け共続いても不責、勝にも不乗、皆天王寺(てんわうじ)に集(あつまり)居、頭(かうべ)を差合(さしあは)せ諾(うなづい)て、仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)を可討謀(はかりこと)をぞ廻(めぐら)しける。只(ただ)二人(ににん)して云(いふ)事だにも天知(しる)地知(しる)我知(しると)いへり。況(いはん)や是(これ)程の大勢集て云(いひ)私語(ささや)く事なれば、なじかは可有隠。此(この)事軈(やが)て京都へ聞(きこえ)てげり。義長(よしなが)大に忿(いかつ)て、「こは何(いか)に某が討(うた)るべからん咎(とが)は抑(そも)何事ぞ。是(これ)只(ただ)道誓・清氏等(きようぢら)が、此次(このついで)に謀叛を起さん為にぞ、左様の事をば企(くはたつ)らん。此(この)事を急ぎ将軍に申さでは叶(かなふ)まじ。」とて、中務(なかつかさの)少輔(せう)計(ばかり)を召具し、急ぎ宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)へ参て、「道誓・清氏こそ義長(よしなが)を可討とて、天王寺(てんわうじ)より二手(ふたて)に成て、打て上り候なれ。是(これ)は何様(いかさま)天下を覆(くつがへさ)んと存(ぞんず)る者共(ものども)と覚(おぼえ)候。御由断あるまじきにて候。」と申ければ、「さる事や可有。云(いふ)者の誤(あやまり)にぞ有(ある)らん。千万(せんまん)に一もさる事あらば、義詮を亡(ほろぼ)さんとする企(くはたて)なるべし。我与御辺一所に成て戦はゞ誰か下剋上(げこくじやう)の者共(ものども)に可与。」と宣へば、義長(よしなが)誠(まこと)に悦(よろこび)て、己が宿所へぞ帰(かへり)ける。義長(よしなが)分国よりの兵共(つはものども)、未(いまだ)一人も下さで置(おき)たりければ、天王寺(てんわうじ)の大勢、已(すで)に二手(ふたて)に作(なり)て、責上(せめのぼ)ると告(つげ)けれ共(ども)、敢(あへ)て物ともせず。「さもあれ当手の軍勢(ぐんぜい)何程か有(ある)覧(らん)、著到(ちやくたう)を著(つけ)て見よ。」とて、国々を分て著到を付(つけ)たるに、手勢三千六百(ろつぴやく)余騎(よき)、外様(とざま)の軍勢(ぐんぜい)四千(しせん)余騎(よき)とぞ注しける。義長(よしなが)著到を披見(ひけん)して、「あはれ勢や、七千(しちせん)余騎(よき)は、天王寺(てんわうじ)の勢十万騎(じふまんぎ)にも勝(まさ)るべし。然(さら)ば手分(てわけ)をして敵を待(また)ん。」とて、猶子(いうし)中務(なかつかさの)少輔(せう)頼夏(よりなつ)に二千(にせん)余騎(よき)を著て四条大宮(しでうおほみや)に引(ひか)へさせ、舎弟(しやてい)弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)に一千(いつせん)余騎(よき)を付(つけ)て東寺の辺に陣を張(はら)せ、我身は勝(すぐ)りたる兵相具して、宿所の四方(しはう)四五町(しごちやう)の程の在家を焼払(やきはら)ひ、馬の懸場(かけば)を広く成して、未(いまだ)惟幕(ゐばく)の中に並居(なみゐ)たり。其(その)勢(いきほ)ひ事柄(ことがら)、げにも寄手(よせて)縦(たとひ)何(いか)なる大勢なり共、此(この)勢に二度(にど)三度(さんど)は何様(いかさま)懸(かけ)散(ちら)されんとぞ見へたりける。宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)若(もし)讒人の申(まうす)旨に付て細河・畠山に御内(みうち)通の事有(あり)なば、外様(とざま)の兵何様弐(ふたごこ)ろを仕つべく覚(おぼゆ)れば、中将殿(ちゆうじやうどの)を取篭(とりこめ)奉て、近習の者共(ものども)をあたり近く不可寄とて、中務(なかつかさの)少輔(せう)を召具し、宿に入れば義長(よしなが)二百(にひやく)余騎(よき)にて、中将殿(ちゆうじやうどの)御屋形へ参じ、四方(しはう)の門を警固(けいご)して、曾(かつ)て御内外様(みうちとざま)の人を不近付、毎事己(おの)が所存の侭(まま)に申行ひければ、天王寺(てんわうじ)下向の軍勢共(ぐんぜいども)は、忽(たちまち)に朝敵(てうてき)の名を蒙(かうむつ)て、追罰(つゐばつ)の綸旨(りんし)・御教書(みげうしよ)を成(なさ)れ、義長(よしなが)は武家執事の職に居て、天下の権を司(つかさど)る。只(ただ)五更(ごかう)に油(あぶら)乾(かはい)て、灯(とぼしび)正(まさ)に欲銷時増光不異。去(さる)程(ほど)に七月十六日(じふろくにち)に天王寺(てんわうじ)の勢七千(しちせん)余騎(よき)、先(まづ)山崎に打集て二手(ふたて)に分つ。一方に細河相摸守(さがみのかみ)を大将とし三千(さんぜん)余騎(よき)、鵙目(もずめ)・寺戸(てらど)を打過(うちすぎ)て、西の七条口より寄(よせ)んとす。畠山(はたけやま)入道(にふだう)・土岐・佐々木(ささき)を大将にて五千(ごせん)余騎(よき)、久我縄手(こがなはて)を経て東寺口より可寄とぞ定(さだめ)ける。今年南方既(すで)に静謐(せいひつ)して御敵(おんてき)今は近国に有(あり)共(とも)聞へねば、京中(きやうぢゆうの)貴賎、すは早(はや)世中(よのなか)心安(こころやす)く成(なり)ぬと悦(よろこび)合へる処に、又此(この)事出来にければ、こは如何(いかが)すべきと周章(あわて)騒ぎ、妻子をもてあつかひ財宝を隠し運ぶ事、道をも通(とほ)り得ぬ程也(なり)。折を得て疲労(ひらう)の軍勢(ぐんぜい)猛悪(まうあく)の下部(しもべ)共(ども)、辻々に打散て、無是非奪取(うばひと)り剥(はぎ)むくりければ、喚(をめ)き叫ぶ声物音(ものおと)も聞へず、京中(きやうぢゆう)只(ただ)上を下へぞ返しける。是(これ)までも猶(なほ)中将殿(ちゆうじやうどの)は、仁木に被取篭御座(おはしま)しけるを、佐々木(ささきの)判官入道(はうぐわんにふだう)、忍(しのび)やかに小門より参て、「何(いか)なる事にて御座候ぞ。国々の大名一人も不残一味同心して、失(うしな)はんと謀(はか)り候義長(よしなが)を、御一所して拘(かかへ)させ給(たまひ)候はゞ、可叶候歟(か)。彼(かれ)が挙動(ふるまひ)仏神にも被放、人望(じんばう)にも背(そむき)はてたる者にて候とは被御覧候はざりけるか、乍去君の御寵臣(ちようしん)を、時宜(じぎ)をも不伺、左右なく討(うた)んと擬(ぎ)し、忽(たちまち)に京中(きやうぢゆう)に打て入(いる)彼等(かれら)が所存も一往(いちわう)御怖畏(ごふゐ)なきに非(あら)ず。されば先(まづ)御忍(おんしのび)候べし。道誉(だうよ)只今(ただいま)仁木に対面して軍評定仕(つかまつり)候はんずる其(その)間に、可然近習の者一人被召具、女房の体に出立(いでたた)せ給(たまひ)て、北(きた)の小門より御出(おんいで)候へ。御馬(おんむま)を用意(ようい)仕て候。何(いづ)くへも忍ばせ進(まゐら)せ候べし。」とぞ申たりける。将軍げにもと思(おもひ)給(たまひ)ければ、風気の事有(あり)とて帳台(ちやうだい)の内へ入り宿衣(よぎ)引纏頭(ひきかづき)臥(ふし)給へば、仁木中務(なかつかさの)少輔(せう)も、遠侍へ出にけり。暫(しばらく)有て佐々木(ささきの)判官入道(はうぐわんにふだう)、百騎(ひやくき)許(ばかり)にて馳(はせ)来り、仁木に対面して、軍評定及数刻、去(さる)程(ほど)に夜も痛(いた)く深(ふけ)ぬ。可見咎申人もなく成(なり)にければ、中将殿(ちゆうじやうどの)は女房の体に出立て、紅梅の小袖に、柳裏(やなぎうら)の絹打纏頭(うちかづき)て、海老名(えびな)信濃(しなのの)守(かみ)・吹屋清(ふきやせいの)式部(しきぶの)丞(じよう)・小島次郎計(ばかり)を召具して、北(きた)の小門より出給へば、築地(ついぢ)の陰に、用意(ようい)の御馬(おんむま)に手綱打係(うちかけ)て引立(ひきたて)たり。小島次郎そと寄り、掻懐(かいだ)き奉て馬に打乗(うちの)せ進(まゐら)せて、中間二人(ににん)に口引(ひか)せ、装束裹(しやうぞくのつつみ)持(もた)せて、四五町(しごちやう)が程は閑々(しづしづ)と馬を歩ませ、京中(きやうぢゆう)を過れば、鞭(むち)に鐙(あぶみ)を合(あは)せて、花苑(はなぞの)・鳴滝(なるたき)・並岡(ならびのおか)・広沢(ひろさはの)池を過(すぎ)て、時の間に西山の谷堂(たにのだう)へ落(おち)給ふ。是(これ)を夢にも不知ける仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)が運こそ浅猿(あさまし)けれ。中将殿(ちゆうじやうどの)今は何(いづ)くへも落著(おちつか)せ給(たまひ)ぬと思ふ程に成(なり)ければ、判官入道(はうぐわんにふだう)己(おのれ)が宿所へとてぞ帰(かへり)ける。其(その)後義長(よしなが)常の御方へ参て、「夜明(あけ)候はゞ、敵定(さだめ)て寄(よせ)つと覚へ候に、今は御旗(おんはた)をも被出候へとて参て候、軍勢共(ぐんぜいども)に御対面も候へかし。余(あま)りに久(ひさし)く御宿篭(おんとのごも)り候者哉(かな)。御風気は何と御坐候やらん。」と申ければ、女房達(にようばうたち)一二人(いちににん)御寝所(ねどころ)に参て此(この)由を申さんとするに、宿衣(よぎ)を小袖の上に引係(かけ)被置たる許(ばかり)にて、下に臥(ふし)たる人はなし。女房達(にようばうたち)、「此(こ)は何(いか)なる御事(おんこと)ぞや。」と周章騒(あわてさわい)で、「穴(あな)不思議(ふしぎ)や、上(うへ)には是(これ)には御坐(ござ)も候はざりけるぞや。」と申ければ、義長(よしなが)大に忿て、女房達(にようばうたち)近習の者共(ものども)の知(しら)ぬ事は有(ある)まじきぞ、四方(しはう)の門をさし人を出すなと騒動(さうどう)す。中務(なかつかさの)少輔(せう)は余(あまり)に腹を立て、貫(つらぬき)はきながら、召合(めしあは)せの内へ走入て屏風障子を踏破り、「日本一(につぽんいち)の云甲斐(いひがひ)なしを憑(たのみ)けるこそ口惜(くちおし)けれ。只今(ただいま)も軍に打勝(うちかつ)ならば、又此(この)人我等(われら)が方へ手を摺(すり)てこそ出給はんずらめ。」と、様々の悪口を吐散(はきちら)して、己が宿所へぞ帰(かへり)ける。宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)の仁木が方(かた)に御坐(おはしま)しつる程こそ、此(この)人の難捨さに、国々の勢外様(とざま)の人々も、数多(あまた)義長(よしなが)が手には著順(つきしたが)ひつれ、仁木を討(うた)せん為に中将殿(ちゆうじやうどの)落(おち)給ひたりと聞へければ、我(われ)も々(われ)もと百騎(ひやくき)二百騎(にひやくき)、打連(うちつれ)々々(うちつれ)寄手(よせて)の方へ馳著(はせつき)ける程に、今朝まで七千(しちせん)余騎(よき)と注(しる)したりし義長(よしながが)勢、僅(わづか)に三百(さんびやく)余騎(よき)に成(なり)にけり。義長(よしなが)は暫(しばらく)はへらぬ体(てい)に打笑(うちわらう)て、「よし/\云甲斐なからん奴原(やつばら)は足纏(あしまとひ)になるに、落(おち)たるこそよけれ。」云(いひ)けるが、是(これ)を実に身に替(かは)り、命に替らんずる者と、憑(たの)み思(おもひ)たる重恩の郎従も、皆落(おち)失(うせ)ぬと聞へければ、早(はや)、言(ことば)もなく興(きよう)醒(さめ)、忙然(ばうぜん)としたる気色也(なり)。去(さる)程(ほど)に夜も漸(やうやう)深行(ふけゆけ)ば、鵙目(もずめ)・寺戸(てらど)の辺に、続松(たいまつ)二三万(にさんまん)燃(とぼ)し連(つれ)て、次第に寄手(よせて)の近付(ちかづく)勢(いきほ)ひ見へければ、義長(よしなが)角(かく)ては不叶とや思(おもひ)けん、舎弟(しやてい)弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)をば、長坂(ながさか)を経て丹後(たんご)へ落す。猶子(いうし)中務(なかつかさの)少輔(せう)をば、唐櫃越(からうとごえ)を経て丹波へ落す。我(わが)身は近江路へ係(かか)る由をして、粟田口(あはたぐち)より引違へ、木津河(きづがは)に添(そひ)伊賀路(いがぢ)を経て、伊勢(いせの)国(くに)へぞ落(おち)たりける。義長(よしなが)勢(いきほひ)尽(つき)都を落(おち)ぬと聞へしかば、中将殿(ちゆうじやうどの)も軈(やが)て都へ帰(かへり)入(いり)給ひ、寄手共(よせてども)も今度の軍は定(さだめ)て手痛(ていた)からんずらんと、あぐんで思(おもひ)けるが、安(あん)に相違して一軍(ひといくさ)もなければ、皆悦(よろこび)勇(いさん)で、軈(やが)て京へぞ入(いり)にける。
○南方蜂起(ほうきの)事(こと)付(つけたり)畠山関東(くわんとう)下向(げかうの)事(こと) S3503
去(さる)程(ほど)に京都に同士軍(どしいくさ)有て、天王寺(てんわうじ)の寄手(よせて)引返すと聞へしかば、大和・和泉・紀伊(きいの)国(くに)の宮方(みやがた)時(とき)を得て、山々峯峯に篝(かがり)を焼(たき)、津々浦々(つつうらうら)に船を集む。是(これ)を見て京都より被置たる城々の兵共(つはものども)、寄合(よりあひ)寄除(よりの)き私語(ささや)きけるは、、「前に日本国の勢共(せいども)が集て責(せめ)し時だにも、終(つひ)に退治(たいぢ)し兼(かね)て有し和田・楠也(なり)。まして我等(われら)が城に篭(こもつ)て被取巻なば、一人も帰(かへる)者不可有。」とて、先(まづ)和泉の守護(しゆご)にて置(おか)れし細河兵部(ひやうぶの)太輔(たいふ)、未(いまだ)敵の係(かか)らぬ前(さき)に落(おち)しかば、紀伊(きいの)国(くに)の城(じやう)湯浅(ゆあさ)の一党も、船に取乗て兵庫を差(さし)て落(おち)行(ゆく)。河内(かはちの)国(くに)の守護代(しゆごだい)、杉原(すぎはら)周防入道は、誉田(こんだ)の城(じやう)を落て、水走(みはや)の城(じやう)に楯篭(たてこも)り、爰(ここ)に暫(しばら)く支(ささへ)て京都の左右を待(また)んとしけるが、楠大勢を以て息も不継責(せめ)ける間、一日(いちにち)一夜(いちや)戦て、南都の方へぞ落(おち)にける。根来(ねごろ)の衆は、加様(かやう)に御方(みかた)の落(おち)行(ゆく)をも不知、与力同心の兵集て三百(さんびやく)余人(よにん)、紀伊(きいの)国(くに)春日山(かすがやま)の城(じやう)に楯篭(たてこも)り、二引両(ふたつひきりやう)の旗を一流(ひとながれ)打立(うちたて)て居たりけるを、恩地(おんぢ)・牲河(にへがは)・三千七百(さんぜんしちひやく)余騎(よき)の勢にて押寄(おしよせ)、城の四方(しはう)を取巻て、一人も不余討(うち)にけり。熊野(くまの)には湯河(ゆかはの)庄司(しやうじ)、将軍方(しやうぐんがた)に成て、鹿(しし)の瀬(せ)・蕪坂(かぶらさか)の後(うしろ)に陣を取り、阿瀬河(あぜかは)入道定仏(ぢやうぶつ)が城を責(せめ)んとしけるを、阿瀬河入道・山本判官・田辺(たなべの)別当、二千(にせん)余騎(よき)にて押寄せ、四角(しかく)八方(はつぱう)へ追散(おひちら)し、三百三十三人(さんじふさんにん)が頚を取て、田辺の宿にぞ懸(かけ)たりける。鷸蚌相挟則烏乗其弊とは、加様(かやう)の時をや申(まうす)べき。都には仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)落(おち)たりと、悦ばぬ人も無りけれ共(ども)、畿内遠国の御敵(おんてき)は、是(これ)に時を得て蜂起(ほうき)すと聞へければ、すはや世は又大乱(たいらん)に成(なり)ぬるはと、私語(ささや)かぬ人も無りけり。其比(そのころ)何(いか)なる者の態(わざ)にや、五条(ごでう)の橋爪(はしづめ)に高札(たかふだ)を立(たて)て、二首の歌を書(かき)付(つけ)たり。御敵(おんてき)の種(たね)を蒔置(まきおく)畠山打返すべき世とは知(しら)ずや何程(いかほど)の豆を蒔(まき)てか畠山日本国をば味噌(みそ)になすらん又是(これ)は仁木を引(ひく)人の態(わざ)かと覚(おぼえ)て、一首(いつしゆ)の歌を六角堂の門の扉(とびら)に書(かき)付(つけ)たり。いしかりし源氏の日記失ひて伊勢物語せぬ人もなし畠山(はたけやま)入道(にふだう)、其比(そのころ)常に狐(きつね)の皮(かは)の腰当(こしあて)をして、人に対面しけるを、悪(にく)しと見る人や読(よみ)たりけん、畠山狐の皮の腰当にばけの程こそ顕(あらは)れにけれ又湯河庄司(ゆかはのしやうじ)が宿の前に、作者芋瀬(いもせ)の庄司(しやうじ)と書(かき)て、宮方(みやがた)の鴨頭(かうと)になりし湯川(ゆのかは)は都に入て何の香(か)もせず今度の乱(らん)は、然(しかしながら)畠山(はたけやま)入道(にふだう)の所行(しよぎやう)也(なり)と落書(らくしよ)にもし歌にも読(よみ)、湯屋風呂(ゆやふろ)の女童部(をんなわらんべ)までも、もてあつかひければ、畠山面目なくや思(おもひ)けん、暫(しばらく)虚病(きよびやう)して居たりけるが、如斯(かく)ては、天下の禍(わざはひ)何様(いかさま)我身(わがみ)独(ひとり)に係(かか)りぬと思(おもひ)ければ、将軍に暇(いとま)をも申さで八月四日の夜、密(ひそか)に京都を逃(にげ)出て、関東(くわんとう)を差(さし)てぞ下りける。参河(みかはの)国(くに)は仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)多年管領(くわんりやう)の国也(なり)ければ、守護代(しゆごだい)西郷(さいがう)弾正左衛門(だんじやうざゑもんの)尉(じよう)、五百(ごひやく)余騎(よき)にて矢矧(やはぎ)に出張(でばりし)て、道を差塞(さしふさ)ぎける間不通得、路次(ろし)に日数をぞ送りける。如斯何(いつ)までか中途(ちゆうと)に浮(うか)れて可有、中山道(なかせんだう)を経てや下る、京へや引返すと案じ煩ひける処に、小川(をがは)中務仁木(につき)に同心して、尾張(をはりの)国(くに)にて旗を揚(あぐ)る間、関東(くわんとう)下向の勢、畠山を始(はじめ)として、白旗一揆(しらはたいつき)・平一揆(たひらいつき)・佐竹・宇都宮(うつのみや)に至るまで、前後の敵に被取篭、前へも不通、迹(あと)へも不帰得、忙然(ばうぜん)としてぞ居たりける。山名伊豆(いづの)守(かみ)は、東国勢既(すで)に南方を退治(たいぢ)して、都へ帰(かへり)ぬと聞(きこえ)しかば、始(はじめ)は何様(いかさま)此次(このついで)に我(わが)方(かた)へも被寄ぬと推量して、城を構へ鏃(やじり)を磨(みがい)て、可防用意(ようい)をせられけるが、都に不慮の軍出来て、仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)宮方(みやがた)になり、和田・楠又打出たりと聞へければ、伊豆(いづの)守(かみ)軈(やがて)機(き)に乗て、其(その)勢(せい)三千(さんぜん)余騎(よき)を卒し二手(ふたて)に分(わけ)て、因幡・美作両国の間に勢を分てぞ置たりける。赤松筑前(ちくぜんの)入道(にふだう)世貞(せいてい)・同律師(りつし)則祐(そくいう)が、所々の城(じやう)を責(せむ)るに・草木(くさぎ)・揉尾(そとを)・景石(かげいし)・塔尾(たふのを)・新宮(しんぐう)・神楽尾(かぐらを)の城(じやう)共、一怺(ひとこらへ)もせず、或(あるひ)は敵に成て却(かへつ)て御方(みかた)を責め、或(あるひ)は行方を不知落(おち)失(うせ)ぬ。脣(くちびる)竭(つき)て歯寒(さむく)、魯酒(ろしゆ)薄(うすく)して邯鄲(かんたん)囲(かこま)るとは、加様(かやう)の事をや申(まうす)べき。
○北野通夜(つや)物語(ものがたりの)事(こと)付(つけたり)青砥左衛門(あをとさゑもん/が)事(こと) S3504
其比(そのころ)日野(ひのの)僧正(そうじやう)頼意(らいい)、偸(ひそか)に吉野の山中を出て、聊(いささか)宿願の事有ければ、霊験の新(あらた)なる事を憑(たのみ)奉り、北野の聖廟(せいべう)に通夜し侍りしに、秋も半(なかば)過(すぎ)て、杉の梢の風の音も冷(すさまじ)く成、ぬれば、晨朝(ありあけ)の月の松より西に傾き、閑庭(かんてい)の霜に映ぜる影、常よりも神宿(かみさび)て物哀(ものあはれ)なるに、巻(まき)残せる御経を手に持(もち)ながら、灯(とぼしび)を挑(かか)げ壁に寄傍(よりそう)て、折に触(ふれ)たる古き歌など詠じつゝ嘯(うそぶき)居たる処に、是(これ)も秋の哀に被催て、月に心のあこがれたる人よと覚(おぼし)くて、南殿(なんでん)の高欄(かうらん)に寄懸(よりかかり)て、三人(さんにん)並居(なみゐ)たる人あり。如何(いか)なる人やらんと見れば、一人は古(いにし)へ関東(くわんとう)の頭人(とうにん)評定衆なみに列(つらなつ)て、武家の世の治(をさま)りたりし事、昔をもさぞ忍覧(しのぶらん)と覚(おぼえ)て、坂東声(ばんどうごゑ)なるが、年の程六十許(ばかり)なる遁世者(とんせいしや)也(なり)。一人は今朝廷に仕へながら、家貧(まづし)く豊(ゆたか)ならで、出仕なんどをもせず、徒(いたづら)なる侭(まま)に、何となく学窓の雪に向て、外典(げでん)の書に心をぞ慰む覧(らん)と覚へて、体(てい)縟(なびやか)に色青醒(あをざめ)たる雲客(うんかく)也(なり)。一人は何(なに)がしの律師(りつし)僧都なんど云はれて、門迹辺(もんぜきへん)に伺候(しこう)し、顕密(けんみつ)の法灯(ほつとう)を挑げんと、稽古(けいこ)の枢(とぼそ)を閉(と)ぢ玉泉の流に心を澄(すま)すらんと覚へたるが、細(ほそ)く疲(つかれ)たる法師也(なり)。初(はじめ)は天満天神の文字を、句毎(くごと)の首(かしら)に置て連歌をしけるが、後には異国本朝の物語に成て、現(げ)にもと覚(おぼゆ)る事共(ことども)多かり。先(まづ)儒業の人かと見へつる雲客、「さても史書の所載、世の治乱を勘(かんがふ)るに、戦国の七雄(しちゆう)も終(つひ)に秦の政(せい)に被合、漢楚(かんそ)七十(しちじふ)余度(よど)の戦も八箇年(はちかねん)の後、世(よ)漢に定(さだま)れり。我朝にも貞任(さだたふ)・宗任(むねたふ)が合戦、先(さき)九年(くねん)後(のち)三年の軍、源平諍(あらそひ)三箇年、此(この)外も久(ひさしく)して一両年を不過。抑(そもそも)元弘より以来(このかた)、天下大に乱(みだれ)て三十(さんじふ)余年(よねん)、一日も未(いまだ)静(しづかな)る事を不得。今より後もいつ可静期(ご)共(とも)不覚(おぼえず)。是(これ)はそも何故(なにゆゑ)とか御料簡(れうけん)候。」といへば坂東声(ばんどうごゑ)なる遁世者(とんせいしや)、数返(すへん)高らかに繰鳴(くりなら)し、無所憚申けるは、「世の治(をさま)らぬこそ道理にて候へ。異国本朝の事は御存知の前にて候へば、中々申(まうす)に不及候へども、昔は民苦(みんく)を問(とふ)使とて、勅使(ちよくし)を国々へ下されて、民の苦を問ひ給ふ。其故(そのゆゑ)は、君は以民為体、民は以食為命、夫(それ)穀(こく)尽(つき)ぬれば民窮(きゆう)し、民窮(きゆう)すれば年貢(みつき)を備(そなふる)事なし。疲馬(ひば)の鞭を如不恐、王化をも不恐、利潤(りじゆん)を先として常に非法を行(おこな)ふ。民の誤(あやま)る処は吏(り)り科(とが)也(なり)。吏(り)の不善(ふぜん)は国王に帰す。君良臣を不撰、貪利輩(ともがら)を用れば暴虎を恣(ほしいまま)にして、百姓をしへたげり。民の憂(うれ)へ天に昇(のぼつ)て災変をなす。災変起れば国土乱る。是(これ)上(かみ)不慎下慢(しもあなど)る故(ゆゑ)也(なり)。国土若(もし)乱れば、君何(なんぞ)安からん。百姓荼毒(とどく)して四海(しかい)逆浪(げきらう)をなす。されば湯武(たうぶ)は火に投身、桃林(たうりん)の社(しや)に祭り、大宗(たいそうは)呑蝗、命を園囿(ゑんいう)の間に任す。己を責(せめ)て天意に叶(かなひ)、撫民地声を顧(かへりみ)給へと也(なり)。則(すなはち)知(しん)ぬ王者の憂楽(いうらく)は衆と同(おなじ)かりけりと云(いふ)事を、白楽天も書置(かきおき)侍りき。されば延喜(えんぎ)の帝(みかど)は、寒夜に御衣をぬがれ、民の苦を愍(あはれ)み給(たまひ)しだに、正(まさし)く地獄に落(おち)給(たまひ)けるを、笙(しやう)の岩屋(いはや)の日蔵(にちざう)上人は見給(たまひ)けるとこそ承(うけたまは)れ。彼(かの)上人、承平四年八月一日午時頓死(とんし)して、十三日(じふさんにち)ぞ御在(おはしま)しける。其(その)程夢にも非(あら)ず、幻(うつつ)にも非(あら)ず、金剛蔵王(こんがうざわう)の善巧方便(ぜんげうはうべん)にて、三界流転(さんがいるてん)の間、六道(ろくだう)四生(ししやう)の棲(すみか)を見給(たまひ)けるに、等活(とうくわつ)地獄の別処(べつしよ)、鉄崛(てつくつ)地獄とてあり。火焔(くわえん)うずまき黒雲空(そら)に掩(おほ)へり。觜(くちばし)ある鳥飛来て、罪人の眼をつゝきぬく。又鉄(くろがね)の牙(きば)ある犬来て、罪人の脳(なう)を吸喰(すひくら)ふ。獄卒眼を怒(いからか)して声を振(ふる)事雷(いかづち)の如し。狼虎(らうこ)罪人の肉を裂(さき)、利剣(りけん)足の蹈所(ふみどころ)なし。其(その)中に焼炭(やきすみ)の如(ごとく)なる罪人有四人。叫喚(けうくわん)する声を聞(きけ)ば、忝(かたじけなく)も延喜の帝にてぞ御在(おはしまし)ける。不思議(ふしぎ)やと思(おもひ)て、立寄て事の様(やう)を問へば、獄卒答(こたへて)曰(いはく)、「一人は是(これ)延喜帝(えんぎのみかど)、残(のこり)は臣下也(なり)。」とて、鋒(ほこ)に指貫(さしつらぬい)て、焔(ほのほ)の中へ投(なげ)入(いれ)奉りけり。在様(ありさま)業果法然(ごふくわほふねん)の理とは云(いひ)ながら、余(あま)りに心憂(こころうく)ぞ覚(おぼえ)ける。良(やや)暫(しばらく)有て上人、「さりとては延喜の帝に少の御暇(おんいとま)奉宥、今一度(いちど)拝竜顔本国へ帰らん。」と、泣々(なくなく)宣(のたまひ)ければ、一人の獄卒是(これ)を聞て、いたはしげもなく鉄(くろがね)の鉾(ほこ)に貫(つらぬい)て、焔(ほのほ)の中より指(さし)出し、十丈(じふぢやう)計(ばかり)差上(さしあげ)て、熱鉄(ねつてつ)の地の上へ打(うち)つけ奉る。焼炭(やけすみ)の如(ごとく)なる御貌(おんかたち)散々に打砕(うちくだか)れて、其(その)御形共見へ給はず。鬼共又走寄て以足一所にけあつむる様にして、「活々(くわつくわつ)。」と云(いひ)ければ、帝の御姿顕(あらはれ)給ふ。上人畏て只(ただ)泪(なみだ)に咽(むせび)給ふ。帝の宣(のたまは)く、「汝(なんぢ)我を敬(うやまふ)事なかれ。冥途(めいど)には罪業(ざいごふ)無(なき)を以て主とす。然れば貴賎上下を論ずる事なし。我は五種の罪に依て此(この)地獄に落(おち)たり。一には父寛平法皇の御命(ごめい)を背(そむ)き奉り久(ひさし)く庭上に見下(みおろ)し奉りし咎(とが)、二には依讒言、無咎才人(さいじん)を流罪したりし報(むく)ひ、三には自の怨敵(をんてき)と号(がう)して、他の衆生(しゆじやう)を損害(そんがい)せし咎(とが)、四には月中の斎日(さいじつ)に、本尊を不開咎(とが)、五には日本(につぽん)の王法をいみじき事に思(おもひ)て人間に著心(ぢやくしん)の深かりし咎(とが)、此(この)五を為根本、自余(じよ)の罪業無量(むりやう)也(なり)。故(ゆゑ)に受苦事無尽(むじん)也(なり)。願(ねがはく)は上人為我善根を修(しゆ)してたび給へ。」と宣ふ。可修由応諾(おうだく)申す。「然らば諸国七道に、一万本の卒都婆(そとば)を立て、大極殿(だいごくでん)にして仏名懺悔(さんげの)法を可修。」と被仰たりける時、獄卒又鉾(ほこ)に指貫(さしつらぬき)、焔(ほのほ)の底へ投(なげ)入る。上人泣々(なくなく)帰(かへり)給(たまふ)時(とき)、金剛蔵王の宣(のたまは)く、「汝に六道(ろくだう)を見する事、延喜帝(えんぎのみかど)の有様を為令知也(なり)。」とぞ被仰ける。彼(かの)帝は随分(ずゐぶん)愍民治世給(たまひ)しだに地獄に落(おち)給ふ。況(まし)て其(それ)程の政道もなき世なれば、さこそ地獄へ落る人の多かるらめと覚(おぼえ)たり。又承久(しようきう)より已降(このかた)武家代々(だいだい)天下を治(をさめ)し事は、評定の末席(まつせき)に列(つらなつ)て承置(うけたまはりおき)し事なれば、少々耳に留る事も侍るやらん。夫(それ)天下久(ひさしく)武家の世と成(なり)しかば尺地(せきち)も其有(そのう)に非(あらず)と云(いふ)事なく、一家(いつけ)も其(その)民に非(あらず)と云(いふ)所無(なか)りしか共、武威(ぶゐ)を専(もつぱら)にせざるに依て地頭敢(あへ)て領家(りやうけ)を不侮、守護(しゆご)曾(かつ)て検断(けんだん)の外に不綺。斯(かか)りしか共尚(なほ)成敗(せいばい)を正(ただし)くせん為に、貞応(ぢやうおう)に武蔵(むさしの)前司(ぜんじ)入道、日本国の大田文(おほたぶみ)を作て庄郷(しやうがう)を分(わかち)て、貞永に五十一箇条の式目を定(さだめ)て裁許に不滞。されば上(かみ)敢(あへ)て不破法下又不犯禁を。世治(をさま)り民直(すなほ)なりしか共、我朝(わがてう)は神国の権柄(けんぺい)武士の手に入り、王道仁政の裁断夷狄(いてき)の眸(まなじり)に懸りしを社(こそ)歎きしか。されども上代には世を治(をさめ)んと思(おもふ)志深かりけるにや、泰時朝臣(あつそん)在京の時、明慧(みやうえ)上人に相看(しやうかん)して法談の次に仰(おほせ)られけるはく、「如何(いかに)してか天下を治め人民を安(やすん)じ候べき。」と被申ければ、上人宣(のたまは)く、「良医(りやうい)能く脈(みやく)を取て、其(その)病の根源を知て、薬を与へ灸(きう)を加(くはふ)れば、病自(おのづか)ら愈(いゆ)る様に、国を乱る源(みなもと)を能(よ)く知て可治給。乱世の根源は只(ただ)欲を為本。欲心変じて一切万般(ばんばん)の禍(わざはひ)と成る。」と宣へば、泰時(やすときの)云(いはく)、「我雖存此旨、人々無欲(むよく)に成(なら)ん事難(かた)し。」と宣へば、上人(しやうにんの)云(いはく)、「太守(たいしゆ)一人無欲にならん事を思(おもひ)給はゞ、其(それ)に恥(はぢ)て万人自然(じねん)に欲心薄(うすく)成(なる)べし。人の欲心深(ふかく)訴来(うつたへきた)らば我(わが)欲の直らぬ故ぞと我を恥(はぢ)しめ可給。古人(いにしへびとの)云(いはく)、其(その)身直(すぐ)にして影不曲、其政(そのまつりこと)正(ただしく)して国乱るゝ事なしと云云。又云(いはく)、君子居其室其言(そのことば)を出(いだす)事善なる則(ときは)、千里の外皆応之。善と云(いふ)は無欲也(なり)。伝(つたへ)聞(きく)、周(しうの)文王の時一国の民畔(くろ)を譲るも、文王一人の徳諸国に及(およぼ)す故(ゆゑに)、万人皆やさしき心に成(なり)し也(なり)。畔(くろ)を譲ると云(いふ)は、我(わが)田の堺(さかひ)をば人の方へは譲(ゆづり)与(あたふ)れども、仮(かり)にも人の地をして掠(かすめ)取(とる)事はなかりけり。今程の人の心には違たり。かりにも人の物をば掠(かすめ)取(とれ)共(ども)、我(わが)物を人に遣(やる)事不可有。其比(そのころ)他国より為訴詔此(この)周(しう)の国を通るとて、此(この)有様を道(みちの)畔(ほとり)にて見て、我(わが)欲の深(ふかき)事を恥(はぢ)て、路より帰りけり。されば此(この)文王我(わが)国(くに)を収(をさむ)るのみならず、他国まで徳を施(ほどこ)すも只此(この)一人の無欲に依てなり。剰(あまつさへ)此(この)徳満(みち)て天下を一統(いつとう)して取り百年の齢(よはひ)を持(たもち)き。太守一人小欲に成(なり)給はゞ天下皆かゝるべし。」と宣(のたまひ)ければ、泰時深く信じて、父義時朝臣(あつそん)の頓死(とんし)して譲状(ゆづりじやう)の無(なか)りし時倩(つらつら)義時の心を思(おもふ)に、我よりも弟をば鍾愛(しようあい)せられしかば、父の心には彼(かの)者にぞ取(とら)せ度(たく)思(おもひ)給(たまひ)て譲(ゆづり)をばし給はざるらんと推量して、弟の朝時(ともとき)・重時(しげとき)以下に宗徒(むねと)の所領を与(あたへ)て、泰時は三四番めの末子(ばつし)の分限(ぶんげん)程少く取られけれ共(ども)、今までは聊(いささか)不足なる事なし。如此万(よろ)づ小欲に振舞(ふるまふ)故(ゆゑ)にや、天下随日収(をさま)り、諸国逐年豊(ゆたか)也(なり)き。此(この)太守の前に、訴訟の人来れば、つく/゛\と両人の顔を守(まもり)て云(いは)く、「泰時天下の政を司(つかさどつ)て、人の心に無姦曲事を存ず。然ば廉直(れんちよく)の中に無論。一方は定(さだめ)て姦曲なるべし。何(いつ)の日両方証文を持て来(きたる)べし。姦謀(かんぼう)の人に於ては、忽(たちまち)に罪科に可申行。姦智(かんち)の者一人国にあれば万人の禍(わざはひ)と成る。天下の敵何事か如之。疾々(とくとく)可帰給。」とて被立けり。此(この)体を見るに、僻事(ひがこと)あらば軈而(やがて)いかなる目にも可被合とて、各帰て後両方談合して、或(あるひ)は和談(わだん)し或(あるひは)僻事(ひがこと)の方は私に負(まけ)て論所を去渡(のきわた)しける。凡(およそ)無欲なる人をば賞し欲深き者をば恥(はぢ)しめ給(たまひ)しかば、人の物を掠(かす)め取(とら)んとする者は無りけり。されば寛喜元年に、天下飢饉の時、借書(しやくしよ)を調(ととの)へ判形を加へて、富祐(ふくいう)の者の米を借るに、泰時法を被置けるは、「来年世立直(たちなほ)らば、本物計(ばかり)を借(か)り主(ぬし)に可返納。利分(りぶん)は我(われ)添(そへ)て返すべし。」と被定て、面々の状を被取置けり。所領をも持(もち)たる人には、約束の本物を還(かへ)させ、自我方添利分、慥(たしか)に返し遣(つかは)されけり。貧者(ひんなるもの)には皆免(ゆる)して、我(わが)領内の米にてぞ主には慥(たしか)に被返ける。左様の年は、家中に毎事行倹約、一切の質物(しちもつ)共(ども)も古物を用ふ。衣裳も新しきをば不著、烏帽子をだに古きをつくろはせて著(ちやく)し給ふ。夜は灯(とぼしび)なく、昼は一食(いちじき)を止め、酒宴遊覧の儀なくして、此費(このつひえ)を補(おぎなひ)給(たまひ)けり。仍(すなはち)一度(いちど)食するに、士(し)来れば不終に急ぎ是(これ)にあひ一たび梳(かみけづる)にも訴(うつたへ)来れば先(まづ)是(これ)をきく。一寝(いつしん)一休(いつきう)是(これ)を不安して人の愁(うれへ)を懐(いだい)て待(また)んことを恐る。進(すすん)では万人を撫(なで)ん事を計(はか)り、退(しりぞい)ては一身(いつしん)に失(しつ)あらん事を恥づ。然(しかる)に太守逝去(せいきよ)の後、背父母失兄弟とする訴論(そろん)出来て、人倫(じんりん)の孝行日に添(そひ)て衰へ、年に随(したがつ)てぞ廃(すたれ)たる。一人正(ただし)ければ万人夫(それ)に随(したがふ)事分明也(なり)。然る間猶(なほ)も遠国の守護(しゆご)・国司・地頭・御家人、如何(いか)なる無道猛悪(ぶだうまうあく)の者有てか、人の所領を押領(あふりやう)し人民百姓を悩(なやま)すらん。自(みづから)諸国を順(めぐり)て、是(これ)を不聞は叶(かなふ)まじとて、西明寺(さいみやうじ)の時頼禅門密(ひそか)に貌(かたち)を窶(やつ)して六十(ろくじふ)余州(よしう)を修行し給(たまふ)に、或(ある)時(とき)摂津(つの)国(くに)難波(なには)の浦に行(ゆき)到(いたり)ぬ。塩汲(くむ)海士(あま)の業(わざ)共(ども)を見給(たまふ)に、身を安(やすく)しては一日も叶(かなふ)まじき理(ことわり)を弥(いよいよ)感じて、既(すで)に日昏(くれ)ければ、荒(あれ)たる家の垣間(かきま)まばらに軒傾(かたぶい)て、時雨(しぐれ)も月もさこそ漏(もる)らめと見へたるに立寄て、宿を借(かり)給(たまひ)けるに、内より年老(おい)たる尼公(にこう)一人出て、「宿を可奉借事は安けれ共(ども)、藻塩草(もしほぐさ)ならでは敷(しく)物もなく、磯菜(いそな)より外は可進物も侍らねば、中々宿を借(かし)奉ても甲斐なし。」と佗(わび)けるを、「さりとては日もはや暮(くれ)はてぬ。又可問里も遠ければ、枉(まげ)て一夜(いちや)を明し侍(はべら)ん。」と、兔角(とかく)云佗(いひわび)て留(とま)りぬ。旅寝の床(ゆか)に秋深(ふけ)て、浦風寒く成(なる)侭(まま)に、折焼(をりたく)葦(あし)の通夜(よもすがら)、臥佗(ふしわび)てこそ明しけれ。朝に成(なり)ぬれば、主(あるじ)の尼公(にこう)手づから飯匙(いひがひ)取(とる)音して、椎(しひ)の葉折敷(をりしき)たる折敷(をしき)の上に、餉(かれいひ)盛(もり)て持出来たり。甲斐々々敷(かひがひしく)は見へながら、懸る態(わざ)なんどに馴(なれ)たる人共見へねば不審(おぼつかな)く覚(おぼえ)て、「などや御内(みうち)に被召(めされ)仕人は候はぬやらん。」と問(とひ)給へば、尼公泣々(なくなく)「さ候へばこそ、我は親の譲(ゆづり)を得て、此(この)所の一分の領主にて候(さうらひ)しが、夫(をつと)にも後(おく)れ子にも別(わかれ)て、便(たより)なき身と成(なり)はて候(さうらひ)し後、惣領(そうりやう)某(なにがし)と申(まうす)者、関東(くわんとう)奉公の権威を以て、重代相伝の所帯を押(おさへ)取て候へ共、京鎌倉(かまくら)に参て可訴詔申代官も候はねば、此(この)二十(にじふ)余年(よねん)貧窮孤独(びんぐうこどく)の身と成て、麻の衣の浅猿(あさまし)く、垣面(かきも)の柴のしば/\も、ながらふべき心地侍らねば、袖のみ濡(ぬる)る露の身の、消(きえ)ぬ程とて世を渡る。朝食(あさけ)の烟(けぶり)の心細さ、只推量(おしはか)り給へ。」と、委(くはし)く是(これ)を語て、涙にのみぞ咽(むせ)びける。斗薮(とそう)の聖(ひじり)熟々(つくづく)と是(これ)を聞て、余に哀(あはれ)に覚(おぼえ)て、笈(おひ)の中より小硯(こすずり)取出し、卓(しよく)の上に立たりける位牌(ゐはい)の裏に、一首(いつしゆ)の歌をぞ被書ける。難波潟塩干に遠(とほき)月影の又元の江にすまざらめやは禅門諸国斗薮(とそう)畢(をはつ)て鎌倉(かまくら)に帰(かへり)給ふと均(ひとし)く、此(この)位牌を召出し、押領せし地頭が所帯を没収(もつしゆ)して、尼公が本領の上に副(そへ)てぞ是(これ)を給(たび)たりける。此(この)外到る所ごとに、人の善悪を尋(たづね)聞て委(くはし)く注(しる)し付(つけ)られしかば、善人には賞(しやう)を与へ、悪者には罰(ばつ)を加(くはへ)られける事、不可勝計。されば国には守護(しゆご)・国司、所には地頭・領家(りやうけ)、有威不驕、隠(かくれ)ても僻事(ひがこと)をせず、世帰淳素民の家々豊(ゆたか)也(なり)。後の最勝園寺貞時(さいしようをんじさだとき)も、追先蹤又修行し給(たまひ)しに、其比(そのころ)久我(こがの)内大臣(ないだいじん)、仙洞の叡慮に違(ちが)ひ給て、領家悉(ことごとく)被没収給(たまひ)しかば、城南(ぜいなん)の茅宮(ばうきゆう)に、閑寂(かんせき)を耕(たがやし)てぞ隠居(いんきよ)し給ひける。貞時斗薮(とそう)の次(つい)でに彼故宮(かのこきゆう)の有様を見給て、「何(いか)なる人の棲遅(せいち)にてかあるらん。」と、事問(とひ)給(たまふ)処に、諸大夫と覚しき人立出て、しかしかとぞ答へける。貞時具(つぶさ)に聞て、「御罪科差(さし)たる事にても候はず、其(その)上(うへ)大家の一跡、此(この)時(とき)断亡(だんばう)せん事無勿体候。など関東(くわんとう)様(さま)へは御歎(おんなげき)候はぬやらん。」と、此(この)修行者申ければ、諸大夫、「さ候へばこそ、此(この)御所の御様(おんさま)昔びれて、加様(かやう)の事申せば、去(さる)事や可有。我(わが)身の無咎由に関東(くわんとう)へ歎かば、仙洞の御誤(おんあやまり)を挙(あぐ)るに似たり。縦(たとひ)一家(いつけ)此(この)時(とき)亡ぶ共、争(いか)でか臣として君の非をば可挙奉。無力、時刻到来(たうらい)歎かぬ所ぞと被仰候間、御家門の滅亡此(この)時(とき)にて候。」と語りければ、修行者感涙を押(おさへ)て立帰(かへり)にけり。誰と云(いふ)事を不知(しらず)。関東(くわんとう)帰居の後、最前(さいぜん)に此(この)事を有(あり)の侭(まま)に被申しかば、仙洞大に有御恥久我旧領(こがのきうりやう)悉(ことごと)く早速(さつそく)に被還付けり。さてこそ此(この)修行者をば、貞時と被知けれ。一日二日の程なれど、旅に過(すぎ)たる哀はなし。況乎(いはんや)烟霞(えんか)万里の道の末、想像(おもひやる)だに憂(うき)物を、深山路(みやまぢ)に行(ゆき)暮(くれ)ては、苔(こけ)の莚(むしろ)に露を敷き、遠き野原を分佗(わけわび)ては、草の枕に霜を結ぶ。喚渡口船立(たち)、失山頭路帰る。烟蓑雨笠(えんさうりつ)、破草鞋(はさうあいの)底、都(す)べて故郷を思ふ愁(うれへ)ならずと云(いふ)事なし。豈(あに)天下の主(あるじ)として、身(み)富貴(ふつき)に居(きよ)する人、好(このん)で諸国を可修行哉(や)。只身安く楽(たのしみ)に誇(ほこつ)ては、世難治事を知る故(ゆゑ)に、三年の間只(ただ)一人、山川を斗薮(とそう)し給ける心の程こそ難有けれと、感ぜぬ人も無(なか)りけり。又報光(はうくわう)寺・最勝園寺(さいそうをんじ)二代の相州(さうしう)に仕(つか)へて、引付(ひきつけ)の人数に列(つらな)りける青砥左衛門(あをとさゑもん)と云(いふ)者あり。数十箇所(すじつかしよ)の所領を知行して、財宝豊なりけれ共(ども)、衣裳には細布(さいみ)の直垂(ひたたれ)、布の大口、飯(いひ)の菜(さい)には焼(やき)たる塩、干(ほし)たる魚一つより外はせざりけり。出仕の時は木鞘巻(きざやまき)の刀を差(さ)し木太刀を持(もた)せけるが、叙爵(じよしやく)後は、此(この)太刀に弦袋(つるぶくろ)をぞ付(つけ)たりける。加様(かやう)に我(わが)身の為には、聊(いささか)も過差(くわさ)なる事をせずして、公方(くばうの)事には千金万玉をも不惜。又飢たる乞食(こつじき)、疲れたる訴詔人(そせうにん)などを見ては、分(ぶん)に随(したが)ひ品(しな)に依て、米銭絹布(けふ)の類を与へければ、仏菩薩(ぼさつ)の悲願に均(ひとし)き慈悲にてぞ在(あり)ける。或(ある)時(とき)徳宗領(とくそうりやう)に沙汰出来て、地下の公文(くもん)と、相摸守(さがみのかみ)と訴陳(そぢん)に番(つがふ)事あり。理非懸隔(けんかく)して、公文(くもん)が申(まうす)処道理なりけれ共(ども)、奉行・頭人(とうにん)・評定衆、皆徳宗領に憚(はばかつ)て、公文(くもん)を負(まか)しけるを、青砥左衛門(あをとさゑもん)只(ただ)一人、権門(けんもん)にも不恐、理の当る処を具(つぶさ)に申立て、遂に相摸守(さがみのかみ)をぞ負(まか)しける。公文不慮(ふりよ)に得利して、所帯に安堵(あんど)したりけるが、其(その)恩を報ぜんとや思(おもひ)けん、銭を三百貫(さんびやくくわん)俵(たはら)に裹(つつみ)て、後ろの山より潜(ひそか)に青砥左衛門(あをとさゑもん)が坪(つぼ)の内へぞ入れたりける。青砥左衛門(あをとさゑもん)是(これ)を見て大に忿り、「沙汰の理非を申つるは相摸殿(さがみどの)を奉思故(ゆゑ)也(なり)。全(まつたく)地下の公文を引(ひく)に非(あら)ず。若(もし)引出物(ひきでもの)を取(とる)べくは、上の御悪名を申留(とどめ)ぬれば、相摸殿(さがみどの)よりこそ、悦(よろこび)をばし給ふべけれ。沙汰に勝(かち)たる公文が、引出物(ひきでもの)をすべき様なし。」とて一銭をも遂(つひ)に不用、迥(はるか)に遠き田舎まで持送(もちおくら)せてぞ返しける。又或(ある)時(とき)此(この)青砥左衛門(あをとさゑもん)夜に入て出仕しけるに、いつも燧袋(ひうちぶくろ)に入(いれ)て持(もち)たる銭を十文取(とり)はづして、滑河(なめりかは)へぞ落(おと)し入(いれ)たりけるを、少事の物なれば、よしさてもあれかしとてこそ行過(すぐ)べかりしが、以外(もつてのほか)に周章(あわて)て、其(その)辺の町屋へ人を走らかし、銭五十文を以て続松(たいまつ)を十把(じつぱ)買(かひ)て下(くだり)、是(これ)を燃(とぼ)して遂(つひ)に十文の銭をぞ求(もとめ)得たりける。後日に是(これ)を聞て、「十文の銭を求(もとめ)んとて、五十(ごじふ)にて続松を買て燃(とぼ)したるは、小利大損哉(かな)。」と笑(わらひ)ければ、青砥左衛門(あをとさゑもん)眉(まゆ)を顰(ひそめ)て、「さればこそ御辺達(ごへんたち)は愚(おろか)にて、世の費(つひえ)をも不知、民を慧(めぐ)む心なき人なれ。銭十文は只今(ただいま)不求は滑河(なめりかは)の底に沈て永く失(うせ)ぬべし。某が続松(たいまつ)を買(かは)せつる五十(ごじふ)の銭は商人の家に止ま(ッ)て永(ながく)不可失。我損(わがそん)は商人の利也(なり)。彼と我と何の差別(しやべつ)かある。彼此(かれこれ)六十の銭一をも不失、豈(あに)天下の利に非(あら)ずや。」と、爪弾(つまはじき)をして申ければ、難(なん)じて笑(わらひ)つる傍(かたへ)の人々、舌を振てぞ感じける。加様(かやう)に無私処神慮にや通じけん。或(ある)時(とき)相摸守(さがみのかみ)、鶴岡(つるがをか)の八幡宮に通夜(つや)し給ける暁(あかつき)、夢に衣冠(いくわん)正しくしたる老翁一人枕に立て、「政道を直(なほ)くして、世を久(ひさし)く保たんと思はゞ、心私なく理に不暗青砥左衛門(あをとさゑもん)を賞翫(しやうくわん)すべし。」と慥(たしか)に被示と覚へて、夢忽(たちまちに)覚(さめ)てげり。相摸守(さがみのかみ)夙(つと)に帰(かへり)、近国の大庄八箇所(はちかしよ)自筆に補任(ふにん)を書て、青砥左衛門(あをとさゑもん)にぞ給ひたりける。青砥左衛門(あをとさゑもん)補任を啓(ひら)き見て大に驚て、「是(これ)は今何事に三万貫に及ぶ大庄給(たまは)り候やらん。」と問(とひ)奉りければ、「夢想に依て、先(まづ)且(しばらく)充行(あておこなふ)也(なり)。」と答(こたへ)給ふ。青砥左衛門(あをとさゑもん)顔を振て、「さては一所(いつしよ)をもえこそ賜り候まじけれ。且は御意の通(とほり)も歎(なげき)入(いり)て存(ぞんじ)候。物(もの)の定相(ぢやうさう)なき喩(たとへ)にも、如夢幻泡影如露亦如電(によむげんはうやうによろやくによでん)とこそ、金剛経にも説(とか)れて候へば、若(もし)某(それがし)が首を刎(はね)よと云(いふ)夢を被御覧候はゞ、無咎共如夢被行候はんずる歟(か)。報国の忠薄(うすく)して、超涯(てうがい)の賞(しやう)を蒙(かうむ)らん事、是(これ)に過(すぎ)たる国賊(こくぞく)や候べき。」とて、則(すなはち)補任(ふにん)をぞ返し進(まゐら)せける。自余(じよ)の奉行共も加様(かやう)の事を聞て己(おのれ)を恥(はぢ)し間、是(これ)までの賢才は無(なか)りしか共、聊(いささか)も背理耽賄賂事をせず。是(ここを)以(もつて)平氏相州(さうしう)八代まで、天下を保(たもち)し者也(なり)。夫(それ)政道の為に怨(あた)なる者は、無礼(ぶれい)・不忠・邪欲(じやよく)・功誇(こうくわ)・大酒・遊宴・抜折羅(ばさら)・傾城(けいせい)・双六(すごろく)・博奕(ばくえき)・剛縁(かうえん)・内奏(ないそう)、さては不直(ふちよく)の奉行也(なり)。治(をさま)りし世には是(これ)を以て誡(いましめ)とせしに、今の代の為体皆是(これ)を肝要とせず。我こそ悪からめ。些(ちと)礼義をも振舞(ふるまひ)、極信(ごくしん)をも立(たつ)る人をば、「あら見られずの延喜式や、あら気詰(きづまり)の色代や。」とて、目を引(ひき)、仰(あふのき)に倒(たふれ)笑ひ軽謾(きやうまん)す。是(これ)は只一の直(すぐ)なる猿が、九の鼻欠(はなかけ)猿に笑(わらは)れて逃(にげ)去(さり)けるに不異。又仏神領に天役課役(てんやくくわやく)を懸(かけ)て、神慮冥慮(みやうりよ)に背(そむ)かん事を不痛。又寺道場に懸要脚僧物施料(せれう)を貪(むさぼる)事を業(げふ)とす。是(これ)然(しかしながら)上方(らうへかた)御存知なしといへ共、せめ一人に帰(き)する謂(いはれ)もあるか。角(かく)ては抑世の治(をさま)ると云(いふ)事の候べきか。せめては宮方(みやがた)にこそ君も久(ひさしく)艱苦(かんく)を嘗(なめ)て、民の愁(うれへ)を知食(しろしめ)し候。臣下もさすが知慧ある人多(おほく)候なれば、世を可被治器用(きよう)も御渡(おんわたり)候覧(らん)と、心にくゝ存(ぞんじ)候へ。」と申せば、鬢帽子(びんばうし)したる雲客打ほゝ笑(ゑみ)て、「何をか心にくゝ思召(おぼしめし)候覧(らん)。宮方(みやがた)の政道も、只(ただ)是(これ)と重二(ぢゆうに)、重一(ぢゆういち)にて候者を。某も今年の春まで南方に伺候(しこう)して候(さうらひ)しが、天下を覆(くつが)へさん事も守文(しゆぶん)の道も叶(かなふ)まじき程を至極見透(みすか)して、さらば道広く成て、遁世(とんせい)をも仕(つかまつ)らばやと存じて、京へ罷(まかり)出て候際(あひだ)、宮方(みやがた)の心にくき所は露許(ばかり)も候はず。先(まづ)以古思(おもひ)候に昔周(しう)の大王と申(まうし)ける人、■(ひん)と云(いふ)所に御坐(おは)しけるを、隣国(りんごく)の戎(えびす)共(ども)起(おこつ)て討(うた)んとしける間、大王牛馬珠玉等(とう)の宝を送て、礼を成(なし)けれ共尚(なほ)不止。早く国を去て不出、以大勢可責由をぞ申ける。万民百姓是(これ)を忿(いかり)て、「其(その)儀ならば、よしや我等(われら)身命を捨(すて)て防ぎ戦(たたかは)んずる上は、大王戎(えびす)に向て和(わ)を請(こ)ふ事御坐(おは)すべからず。」と申けるを、大王、「いや/\我(われ)国(くに)を惜(をし)く思ふは、人民を養はんが為許(ためばかり)也(なり)。我若(もし)彼(かれ)と戦はゞ、若干(そくばく)の人民を殺すべし。其(それ)を為養地を惜(をしみ)て、可養民を失(うしなは)ん事何の益(えき)か有(ある)べき。又不知隣国(りんごく)の戎(えびす)共(ども)、若(もし)我より政道よくは、是(これ)民の悦たるべし。何ぞ強(あながち)に以我主とせんや。」とて、大王■(ひん)の地を戎(えびす)に与へ、岐山(きさん)の麓へ逃(にげ)去て、悠然として居給(たまひ)ける。■(ひん)の地の人民、「懸(かか)る難有賢人を失(うしなひ)て、豈(あに)礼義をも不知仁義もなき戎(えびす)に随(したが)ふべしや。」とて、子弟老弱(じやく)引(ひき)連(つれ)て、同(おなじ)く岐山(きさん)の麓に来て大王に付(つき)順ひしかば、戎(えびす)は己(おのれ)と皆亡(ほろび)はてゝ、大王の子孫遂(つひ)に天下の主と成(なり)給ふ。周(しう)の文王・武王是(これ)也(なり)。又忠臣の君を諌(いさ)め、世を扶(たす)けんとする翔(ふるまひ)を聞(きく)に、皆今の朝廷(てうてい)の臣に不似。唐の玄宗は兄弟二人(ににん)坐(おは)しけり。兄の宮(みや)をば寧王(ねいわう)と申し、御弟をば玄宗とぞ申ける。玄宗位に即(つか)せ給(たまひ)て、好色(かうしよくの)御心(おんこころ)深(ふかか)りければ、天下に勅を下して容色(ようしよく)如華なる美人を求(もとめ)給(たまひ)しに、後宮(こうきゆう)三千人(さんぜんにん)の顔色我(われ)も我(われ)もと金翠(すゐ)を餝(かざり)しかども、天子再(ふたた)びと御眸(おんまなじり)を不被廻。爰(ここ)に弘農(こうのう)の楊玄■(やうげんえん)が女(むすめ)に楊貴妃と云(いふ)美人あり。養(やしなは)れて在深窓人未(いまだ)知之。天の生(な)せる麗質(れいしつ)なれば更に人間の類(たぐひ)とは不見けり。或人是(これ)を媒(なかだち)して、寧王(ねいわう)の宮(みや)へ進(まゐら)せけるを、玄宗聞召(きこしめし)て高力士(かうりきし)と云(いふ)将軍(しやうぐん)を差(さし)遣(つかは)し、道より是(これ)を奪(うばひ)取て後宮へぞ冊(かしつき)入(いれ)奉りける。寧王(ねいわう)無限無本意事に思召(おぼしめし)けれ共(ども)、御弟ながら時の天子として振舞(ふるまは)せ給(たまふ)事なれば、不及力。寧王(ねいわう)も同(おなじ)内裏(だいり)の内に御坐(ござ)有(あり)ければ、御遊(ぎよいう)などのある度毎(たびごと)に、玉の几帳(きちやう)の外(はづれ)金鶏障(きんけいしやう)の隙(ひま)より楊貴妃の容(かたち)を御覧ずるに、一度(ひとた)び笑(ゑ)める眸(まなじり)には、金谷千樹(きんこくせんじゆ)の花薫(にほひ)を恥(はぢ)て四方(しはう)の嵐に誘引(さそは)れ、風(ほのか)に見たる容貌(ようばう)は、銀漢(ぎんかん)万里の月妝(よそほひ)を妬(ねたみ)て五更(ごかう)の霧に可沈。雲居遥(はるか)に雷(いかつち)の中を裂(さけ)ずは、何故(なにゆゑ)か外(よそ)には人を水の泡(あわ)の哀とは思(おもひ)消(きゆ)べきと、寧王(ねいわう)思(おもひ)に堪兼(たへかね)て、臥(ふし)沈み歎かせ給(たまひ)ける御心(おんこころ)の中こそ哀なれ。天子の御傍(おんかたはら)には、大史の官とて、八人(はちにん)の臣下長時(ぢやうじ)に伺候(しこう)して、君の御振舞(ふるまひ)を、就善悪注(しる)し留め、官庫に収(をさむ)る習也(なり)。此(この)記録をば天子も不被御覧、かたへの人にも不見、只史書に書(かき)置(おき)て、前王の是非を後王の誡(いましめ)に備(そなふ)る者也(なり)。玄宗皇帝(くわうてい)今寧王(ねいわう)の夫人(ふじん)を奪(うばひ)取(とり)給へる事、何様(いかさま)史書に被注留ぬと思召(おぼしめし)ければ、密(ひそか)に官庫を開(ひらか)せて、大夫の官が注(しる)す所を御覧ずるに、果(はた)して此(この)事を有(あり)の侭(まま)に注(しるし)付(つけ)たり。玄宗大に逆鱗(げきりん)あつて、此(この)記録を引破て被捨、史官をば召(めし)出して、則(すなはち)首をぞ被刎ける。其(それ)より後大史の官闕(かけ)て、此職(このしよく)に居る人無(なか)りければ、天子非を犯(をか)させ給へども、敢(あへ)て憚(はばか)る方も不御坐。爰(ここ)に魯国(ろこく)に一人の才人(さいじん)あり。宮闕(きゆうけつ)に参て大史の官を望みける間、則(すなはち)左大史に成(な)して天子の傍(そば)に慎随(つつしみしたが)ふ。玄宗又此(この)左大史も楊貴妃の事をや記(しる)し置(おき)たる覧(らん)と思召(おぼしめし)て、密(ひそか)に又官庫を開(ひらか)せ記録を御覧ずるに、「天宝十年(じふねん)三月弘農楊玄■女為寧王(ねいわう)之夫人(ふじん)。天子聞容色之媚漫遣高将軍、奪容后宮。時大史官記之留史書云云。窃達天覧之日、天子忿之被誅史官訖。」とぞ記したりける。玄宗弥(いよいよ)逆鱗(げきりん)有(あつ)て、又此(この)史官を召出し則(すなはち)車裂(くるまざき)にぞせられける。角(かく)ては大史の官に成(な)る者非じと覚(おぼえ)たる処に、又魯国(ろこく)より儒者一人来て史官を望(のぞみ)ける間、軈(やが)て左大史に被成。是(これ)が注(しる)す処を又召出して御覧ずるに、「天宝年末泰階平安而四海(しかい)無事也(なり)。政行漸懈遊歓益甚。君王重色奪寧王(ねいわう)之夫人(ふじん)。史官記之或被誅或被車裂。臣苟為正其非以死居史職。後来史官縦賜死、続以万死、為史官者不可不記之。」とぞ記(しる)したりける。己(おのれ)が命を軽(かろん)ずるのみに非(あら)ず、後(のちの)史官に至(いたる)まで縦(たとひ)万人死する共不記有(ある)べからずと、三族(さんぞく)の刑(けい)をも不恐注(しるし)留(とどめ)し左大史が忠心の程こそ難有けれ。玄宗此(この)時(とき)自(みづから)の非を知(しろ)し食(め)し、臣の忠義を叡感(えいかん)有て、其(その)後よりは史官を不被誅、却(かへつ)て大禄(たいろく)をぞ賜(たまは)りける。人として死(しを)不痛云(いふ)事なければ、三人(さんにんの)史官全(まつた)く誅(ちゆう)を非不悲。若(もし)恐天威不注君非、叡慮無所憚悪(あし)き御翔(ふるまひ)尚(なほ)有(あり)ぬと思(おもひ)し間、死罪に被行をも不顧、是(これ)を注し留(とどめ)ける大史官の心の中、想像(おもひやる)こそ難有けれ。国(くにに)有諌臣其(その)国(くに)必(かならず)安(やすく)、家(いへに)有諌子其(その)家必(かならず)正し。されば如斯君も、誠(まこと)に天下の人を安からしめんと思召し、臣も無私君の非を諌(いさめ)申(まうす)人あらば、是(これ)程(ほど)に払棄(はらひすつ)る武家の世を、宮方(みやがた)に拾(ひろう)て不捕や。か程に安き世を不取得、三十(さんじふ)余年(よねん)まで南山の谷の底に埋木(うもれき)の花開(さ)く春を知(しら)ぬ様にて御坐(おはします)を以て、宮方(みやがた)の政道をば思ひ遣(やら)せ給へ。」と爪弾(つまはじき)をしてぞ語りける。両人物語、げにもと聞(きき)居て耳を澄(すま)す処に、又是(これ)は内典(ないでん)の学匠(がくしやう)にてぞある覧(らん)と見へつる法師、熟々(つくづく)と聞て帽子(ばうし)を押除(おしのけ)菩提子(ぼだいじ)の念珠(ねんじゆ)爪繰(つまぐり)て申けるは、「倩(つらつら)天下の乱を案ずるに、公家の御咎(とが)共(とも)武家の僻事(ひがこと)とも難申。只(ただ)因果の所感とこそ存(ぞんじ)候へ。其(その)故は、仏に無妄語と申せば、仰(あふい)で誰か信を取らで候べき。仏説の所述を見(みる)に、増一阿含経(ぞういちあごんきやう)に、昔天竺に波斯匿王(はしのくわう)と申ける小国の王、浄飯王(じやうぼんわう)の聟(むこ)に成(なら)んと請(こ)ふ。浄飯王(じやうぼんわう)御心(おんこころ)には嫌(きら)はしく乍思召辞するに詞(ことば)や無(なか)りけん、召仕はれける夫人(ふじん)の中に貌形(はうぎやう)無殊類勝(すぐれ)たるを撰(えらん)で、是(これ)を第三(だいさん)の姫宮と名付(なづけ)給て、波斯匿王(はしのくわう)の后にぞ被成ける。軈(やがて)此(この)后の御腹(おんはら)に一人の皇子出来させ給ふ。是(これ)を瑠璃(るり)太子(たいし)とぞ申ける。七歳に成(なら)せ給(たまひ)ける年、浄飯王(じやうぼんわう)の城(じやう)へ坐(おは)して遊ばれけるが、浄飯王(じやうぼんわう)の同じ床(ゆか)にぞ坐(ざ)し給(たまひ)たりける。釈氏(しやくしの)諸王大臣是(これ)を見て、「瑠璃太子は是(これ)実(まこと)の御孫には非(あらず)、何故(なにゆゑ)にか大王と同位(どうゐ)に座(ざ)し給(たまふ)べき。」とて、則(すなはち)玉の床(ゆか)の上より追(おひ)下(おろ)し奉る。瑠璃太子少(をさな)き心にも不安事に思召(おぼしめし)ければ、「我(わが)年長(ちやう)ぜば必(かならず)釈氏を滅(ほろぼ)して此(この)恥を可濯。」と深く悪念をぞ被起ける。さて二十(にじふ)余年(よねん)を歴(へ)て後(のち)、瑠璃太子長(ひと)となり浄飯王(じやうぼんわう)は崩御(ほうぎよ)成(なり)しかば、瑠璃太子三百万騎の勢を卒(そつ)して摩竭陀国(まかだこく)の城(じやう)へ寄(よせ)給ふ。摩竭陀国(まかだこく)は大国たりといへ共、俄(にはか)の事なれば未(いまだ)国々より馳(はせ)参らで、王宮已(すで)に被攻落べく見へける処に、釈氏の刹利種(せつりしゆ)に強弓(つよゆみ)共(ども)数百人(すひやくにん)有て、十町(じつちよう)二十町(にじつちよう)を射越しける間、寄手(よせて)曾(かつて)不近付得、山に上(のぼ)り河を隔(へだて)て徒(いたづら)に日をぞ送りける。斯(かか)る処に釈氏の中より、時の大臣なりける人一人、寄手(よせて)の方へ返忠(かへりちゆう)をして申けるは、「釈氏の刹利種(せつりしゆ)は五戒(ごかい)を持たる故(ゆゑ)に曾(かつ)て人を殺(ころす)事をせず。縦(たとひ)弓強(つよく)して遠矢を射る共人に射あつる事は不可有。只(ただ)寄(よせ)よ。」とぞ教へける。寄手(よせて)大に悦て今は楯をも不突鎧をも不著、時の声を作りかけて寄(よせ)けるに、げにも釈氏共の射る矢更(さら)に人に不中、鉾(ほこ)を仕(つか)ひ剣(けん)を抜(ぬい)ても人を斬(きる)事無(なか)りければ、摩竭陀国(まかだこくの)王宮忽(たちまち)に被責落、釈氏の刹利種悉(ことごとく)一日が中に滅(ほろび)んとす。此(この)時(とき)仏弟子(ぶつでし)目連(もくれん)尊者、釈氏の無残所討れなんとするを悲(かなしみ)て、釈尊の御所(みもと)に参て、「釈氏已(すで)に瑠璃王(るりわう)の為に被亡て、僅(わづか)に五百人(ごひやくにん)残れり。世尊何ぞ以大神通力五百人(ごひやくにん)の刹利種(せつりしゆ)を不助給や。」と被申ければ、釈尊、「止々(やみなんやみなん)、因果の所感仏力にも難転。」とぞ宣(のたまひ)ける。目連尊者尚(なほ)も不堪悲に、「縦(たとひ)定業(ぢやうごふ)也(なり)共(とも)、以通力是(これ)を隠弊(いんへい)せんになどか不助や。」と思召(おぼしめし)て、鉄鉢(くろがねのはち)の中に此(この)五百人(ごひやくにん)を隠(かくし)入(いれ)て、■利天(たうりてん)にぞ被置ける。摩竭陀国(まかだこく)の軍はてゝ瑠璃王(るりわう)の兵共(つはものども)皆本国に帰(かへり)ければ、今は子細非じとて目連神力の御手(おんて)を暢(のべ)て、■利天(たうりてん)に置(おか)れたる鉢(はち)を仰(あふの)けて御覧ずるに、以神通被隠五百人(ごひやくにん)の刹利種(せつりしゆ)、一人も不残死(しに)けり。目連悲(かなしみ)て其(その)故を仏に問(とひ)奉(たてまつる)。仏答(こたへ)て宣(のたまは)く、「皆是(これ)過去の因果(いんぐわ)也(なり)。争(いかで)か助る事を得ん。其(その)故は、往昔(わうせき)に天下三年旱(ひでり)して無熱池(むねつち)の水乾(かは)けり。此(この)池に摩羯魚(まかつぎよ)とて尾首(をかしら)五十丈(ごじふぢやう)の魚あり。又多舌魚(たぜつぎよ)とて如人言(ものい)ふ魚あり。此(ここ)に数万人(すまんにん)の漁(すなとり)共(ども)集て水を換尽(かへつく)し、池を旱(ほし)て魚を捕(とら)んとするに、魚更(さら)になし。漁父(ぎよふ)共(ども)求(もとむ)るに無力空(むなし)く帰(かへら)んとしける処に、多舌魚岩穴(いはあな)の中より這(はひ)出て、漁父共に向て申けるは、『摩羯魚(まかつぎよ)は此(この)池の艮(うしとら)の角に大なる岩穴を掘(ほつ)て水を湛(たたへ)、無量の小魚共を伴(ともな)ひて隠(かくれ)居たり。早く其(その)岩を引除(ひきのけ)て隠(かくれ)居たる摩羯魚(まかつぎよ)を可殺。加様(かやう)に告(つげ)知(しら)せたる報謝(はうしや)に、汝等(なんぢら)我(わが)命を助(たすけ)よ。』と委(くはし)く是(これ)を語て、多舌魚は岩穴の中へぞ入(いり)にける。漁父共大に悦(よろこび)て件の岩を掘(ほり)起(おこ)して見(みる)に、摩羯魚(まかつぎよ)を始として五丈六丈ある大魚共其(その)数を不知集(あつまり)居たり。小水に吻(いきづ)く魚共なれば、何(いづ)くにか可逃去なれば、不残漁父に被殺、多舌魚許(ばかり)を生(いけ)たりけり。されば此(この)漁父と魚と諸共(もろとも)に生(しやう)を替(かへ)て後、摩羯魚(まかつぎよ)は瑠璃太子の兵共(つはものども)と成り、漁父は釈氏の刹利種(せつりしゆ)となり、多舌魚は今返忠(かへりちゆう)の大臣と成て摩竭陀国(まかだこく)を滅(ほろぼ)しける。又舎衛国(しやゑこく)に一人の婆羅門(ばらもん)あり。其(その)妻一(ひと)りの男を産(うめ)り。名をば梨軍支(りぐんし)とぞ号(がう)しける。貌(かたち)醜(みにく)く舌強くして、母の乳を呑(のま)する事を不得。僅(わづか)に酥蜜(そみつ)と云(いふ)物を指(ゆび)に塗(ぬ)り、舐(ねぶら)せてぞ命を活(い)けたりける。梨軍支(りぐんし)年長(ちやう)じて家貧(まどし)く食に飢(うゑ)たり。爰(ここ)に諸の仏弟子(ぶつでし)達城に入て食を乞(こひ)給ふが、悉(ことごとく)鉢(はち)に満(みち)て帰(かへり)給(たまふ)を見て、さらば我(われ)も沙門(しやもん)と成て食に飽(あか)ばやと思ひければ、仏の御前(おんまへ)に詣(まう)でゝ、出家の志ある由を申(まうす)に、仏其(その)志を随喜(ずゐき)し給(たまひ)て、『善来比丘於我(ぜんらいびくおが)法中快修梵行得尽苦際(けしゆぼんぎやうとくじんくさい)。』と宣(のたま)へば、鬢髪(びんはつ)を自(みづから)落(おとし)て沙門(しやもん)の形に成(なり)にけり。角(かく)て精勤修習(しやうごんしゆしふ)せしかば軈(やがて)阿羅漢(あらかんの)果(くわ)をぞ得たりける。さても尚(なほ)貧窮(びんぐう)なる事は不替。長時(ちやうじ)に鉢を空(むなし)くしければ仏弟子(ぶつでし)達是(これ)を憐(あはれみ)て、梨軍支(りぐんし)比丘(びく)に宣ひけるは、『宝塔の中に入て坐(ざせ)よ。参詣の人の奉(たてまつら)んずる仏供(ぶつく)を請(うけ)て食(くは)んに不足あらじ。』とぞ教(をしへ)られける。梨軍支(りぐんし)悦(よろこび)て塔の中に入て眠(ねぶり)居たる其(その)間に、参詣の人仏供を奉りたれ共更(さら)に是(これ)を不知(しらず)。時に舎利弗(しやりほつ)五百人(ごひやくにん)の弟子(でし)を引て、他邦(たはう)より来て仏塔の中を見給(たまふ)に、参詣の人の奉る仏供あり。是(これ)を払集(あつめ)て、乞丐人(こつがいにん)に与へ給ふ。其(その)後梨軍支(りぐんし)眠(ねぶり)醒(さめ)て、食せんとするに物なし。足摺(あしずり)をしてぞ悲(かなしみ)ける。舎利弗(しやりほつ)是(これ)を見給て、『汝(なんぢ)強(あながち)に勿愁事、我今日汝を具(ぐ)して城に入り、旦那(だんな)の請(しやう)を可受。』とて伽耶城(がやじやう)に入て、檀那(だんな)の請(しやう)を受(うけ)給(たまふ)。二人(ににん)の沙門(しやもん)已(すで)に鉢(はち)を挙(あげ)て飯(いひ)を請(う)けんとし給(たまひ)ける処に、檀那の夫婦俄(にはかに)喧(いさかひ)をし出して、共に打(うち)合(あひ)ける間、心ならず飯(いひ)を打(うち)こぼして、舎利弗(しやりほつ)・梨軍支(りぐんし)共に餓(うゑ)てぞ帰(かへり)給(たまひ)ける。其翌(そのあけ)の日又舎利弗、長者の請(しやう)を得て行(ゆき)給ひけるが、梨軍支(りぐんし)比丘を伴(ともな)ひ連(つれ)給ふ。長者五百(ごひやく)の阿羅漢(あらかん)に飯(いひ)を引(ひき)けるが、如何(いかが)して見はづしたりけん。梨軍支(りぐんし)一人には不引けり。梨軍支(りぐんし)鉢を捧(ささげ)て高声に告(つげ)けれども人終(つひ)に不聞付ければ、其(その)日(ひ)も飢(うゑ)て帰(かへり)にける。阿難尊者此(この)事を憐(あはれみ)て、『今日我(われ)仏に随(したがひ)奉て請(しやう)を受(うく)るに、汝を伴(ともなつ)て飯(いひ)に可令飽。』と約し給(たまふ)。阿難既(すで)に仏に随て出給(たまふ)時(とき)に、梨軍支(りぐんし)に約束し給(たまひ)つる事を忘(わすれ)て、連(つれ)給はざりければ、今日さへ鉢を空(むなしく)して徒然(とぜん)としてぞ昏(くら)しける。第五日に、阿難又昨日梨軍支(りぐんし)を忘(わすれ)たりし事を浅猿(あさまし)く思召(おぼしめし)て、是(これ)に与(あたへ)ん為に或(ある)家に行(ゆき)て飯(いひ)を乞(こひ)て帰(かへり)給(たまふ)。道に荒狗(あらいぬ)数十疋(すじつぴき)走(わしり)進ける間、阿難鉢を地に棄(すて)て、這々(はふはふ)帰(かへり)給(たまひ)しかば、其(その)日(ひ)も梨軍支(りぐんし)餓(うゑ)にけり。第六日に、目連尊者(もくれんそんじや)梨軍支(りぐんし)が為に食(しよく)を乞(こう)て帰(かへり)給(たまふ)に、金翅鳥(こんじてう)空中より飛下(とびさがり)て、其(その)鉢を取て大海に浮べければ、其(その)日(ひ)も梨軍支(りぐんし)餓(うゑ)にけり。第七日に、舎利弗(しやりほつ)又食(しよく)を乞て、梨軍支(りぐんし)が為に持て行(ゆき)給(たまふ)に、門戸(もんこ)皆堅(かた)く鎖(さ)して不開。舎利弗(しやりほつ)以神力其(その)門戸を開(ひらい)て内へ入(いり)給へば、俄(にはか)に地裂(さけ)て、御鉢金輪際(こんりんざい)へ落(おち)にけり。舎利弗(しやりほつ)、伸神力手御鉢を取(とり)上げ飯(いひ)を食(くは)せんとし給(たまふ)に、梨軍支(りぐんし)が口俄(にはか)に噤(つぐみ)て歯を開く事を不得。兔角(とかく)する程に時已(すで)に過(すぎ)ければ、此(この)日(ひ)も食(くら)はで餓(うゑ)にけり。此(ここ)に梨軍支(りぐんし)比丘大に慚愧(ざんぎ)して、四衆の前にして、『今は是(これ)ならでは可食物なし。』とて、砂をかみ水を飲(のみ)て即(すなはち)涅槃(ねはん)に入(いり)けるこそ哀なれ。諸(もろもろ)の比丘怪(あやしみ)て、梨軍支(りぐんし)が前生の所業(しよげふ)を仏に問(とひ)奉る。于時世尊諸(もろもろ)の比丘に告(つげて)曰(いはく)、『汝等(なんぢら)聞け、乃往過去(ないわうくわこ)に、波羅奈国(はらないこく)に一人の長者有て名をば瞿弥(くみ)といふ。供仏施僧(くぶつせそう)の志日々に不止。瞿弥(くみ)已(すで)に死して後、其(その)妻相続(あひつづい)て三宝に施(ほどこし)する事同じ。長者が子是(これ)を忿(いかつ)て其(その)母を一室(いつしつ)の内に置き、門戸(もんこ)を堅く閉(とぢ)て出入を不許。母泣涕する事七日、飢(うゑ)て死なんとするに臨(のぞん)で、母、子に向て食を乞(こふ)に、子忿(いか)れる眼を以て母を睨(にらみ)て曰(いはく)、「宝を施行(せぎやう)にし給はゞ、何(なん)ぞ砂(いさご)を食(くら)ひ水を飲(のん)で飢(うゑ)を不止。」と云(いひ)て遂(つひ)に食物を不与。食絶(たえ)て七日に当る時母は遂(つひに)食に飢(うゑ)て死ぬ。其(その)後子は貧窮困苦(びんぐうこんく)の身と成て、死して無間地獄(むけんぢごく)に堕(だ)す。多劫(たごふ)の受苦事終(をはつ)て今人中(にんぢゆう)に生(うま)る。此(この)梨軍支(りぐんし)比丘是(これ)也(なり)。沙門(しやもん)と成(なり)即(すなはち)得阿羅漢(あらかん)果事は、父の長者が三宝を敬(うやまひ)し故(ゆゑ)也(なり)。其(その)身食に飢(うゑ)て砂(すな)を食(くらう)て死せし事は、母を飢(うや)かし殺したりし依其因果也(なり)。』」と、釈尊正(まさ)に梨軍支(りぐんしが)過去の所業を説(とき)給(たまひ)しかば、阿難・目連・舎利弗等(しやりほつら)作礼而去(さり)給(たまふ)。加様(かやう)の仏説を以て思ふにも、臣君を無(なみ)し、子父を殺すも、今生一世の悪に非(あら)ず。武士は衣食(いしよく)に飽満(あきみち)て、公家は餓死(がし)に及(およぶ)事も、皆過去(くわこの)因果にてこそ候らめ。」と典釈(てんしやく)の所述(しよじゆつ)明に語りければ、三人(さんにん)共(とも)にから/\と笑(わらひ)けるが、漏箭(ろうせん)頻(しきり)に遷(うつつて)、晨朝(じんでう)にも成(なり)ければ、夜も已(すで)に朱(あけ)の瑞籬(みづがき)を立出て、己(おの)が様々(さまざま)に帰(かへり)けり。以是安(あん)ずるに、懸(かか)る乱の世間(よのなか)も、又静(しづか)なる事もやと、憑(たのみ)を残す許(ばかり)にて、頼意(らいい)は帰(かへり)給(たまひ)にけり。
○尾張(をはり)小河(をがは)東池田(ひがしいけだが)事(こと) S3505
去(さる)程(ほど)に小河(をがは)中務(なかつかさの)丞(じよう)と、土岐東池田(ときひがしいけだ)と引合て、仁木(につき)に同心し、尾張(をはりの)小河(をがはの)庄(しやう)に城を構(かまへ)て楯篭(たてこも)りたりけるを、土岐宮内(くないの)少輔(せう)三千(さんぜん)余騎(よき)にて押(おし)寄せ、城を七重八重に取巻て、二十日余(あま)り責(せめ)けるが、俄(にはかに)拵(こしらへ)たる城なれば、兵粮(ひやうらう)忽(たちまち)に尽(つき)て、小河も東池田も、共に降人(かうにん)に出たりけるを、土岐日来(ひごろ)所領を論ずる事有(あり)し宿意(しゆくい)に依て、小河中務をば則(すなはち)首を刎(はね)て京都へ上(のぼ)せ、東池田をば一族(いちぞく)たるに依て、尾張(をはり)の番豆崎(はづがさき)の城(じやう)へぞ送りける。吉良(きら)治部(ぢぶの)太輔(たいふ)も仁木が語(かたら)ひを得て、参河(みかはの)国(くに)の守護代(しゆごだい)西郷(さいがう)兵庫(ひやうごの)助(すけ)と一に成て、矢矧(やはぎ)の東に陣を張(は)り、海道(かいだう)を差塞(さしふさ)ぎ、畠山(はたけやま)入道(にふだう)が下向を支(ささへ)たりけるが、大島左衛門(さゑもんの)佐(すけ)義高(よしたか)、当国の守護(しゆご)を給て、星野・行明等(ぎやうめいら)と引(ひき)合ひ、国へ入(いり)ける路次の軍に打負(うちまけ)て、西郷(さいがう)伊勢へ落(おち)行(ゆき)ければ、吉良治部(ぢぶの)太輔(たいふ)は御方(みかた)に成て、都へぞ出たりける。是(これ)のみならず、石塔刑部(ぎやうぶの)卿(きやう)頼房(よりふさ)、仁木三郎を大将として、伊賀・伊勢の兵を起し、二千(にせん)余騎(よき)にて近江(あふみの)国(くに)に打越(うちこえ)、葛木(かづらき)山に陣を取(とる)。佐々木(ささきの)大夫(たいふ)判官入道(はうぐわんにふだう)崇永(そうえい)・舎弟(しやてい)山内(やまのうち)判官、国中(こくぢゆう)の勢を集(あつめ)て飯守岡(いひもりがをか)に陣を張り数日(すじつ)を経(ふ)る処に、九月二十八日(にじふはちにち)早旦に、仁木三郎兵を印て申けるは、「当国に打越て、数日(すじつ)合戦に不及して徒(いたづら)に里氏を煩す事非本意上(うへ)、伊勢の京兆(けいてう)も定(さだめ)て未練にぞ思(おもひ)給(たまふ)らん。今日吉日なれば敵を一当(ひとあて)々(あて)て可散。但(ただし)佐々木(ささきの)治部(ぢぶの)少輔(せう)高秀(たかひで)が手(て)の者を分て守るなる市原(いちはら)の城(じやう)を責(せめ)落(おと)し、敵を一人も跡に不残、心安(こころやす)く合戦を可致。」とて打立(うちたち)ければ、石塔刑部(ぎやうぶの)卿(きやう)も伊賀の名張(なばり)が一族(いちぞく)、当国の大原・上野(うへの)の者共(ものども)付順(つきしたが)ひける間、手勢三百(さんびやく)余騎(よき)是(これ)も同(おなじ)く打立て、旗を靡(なび)け兵を進めければ、此(この)勢を見て佐々木(ささきの)大夫(たいふ)判官入道(はうぐわんにふだう)、「すはや敵こそ陣を去て色めきたれ、打立(うちたて)や者共(ものども)。」とて兵を集(あつめ)ける。譜代恩顧(ふだいおんこ)の若党(わかたう)三百(さんびやく)余騎(よき)の外は、相順(あひしたがふ)勢も無(なか)りけり。敵は是(これ)が天下の要(かな)めなるべし。仁木京兆(けいてう)の憑(たのみ)たる桐(きり)一揆(いつき)を始(はじめ)として、宗徒(むねと)の勇士(ゆうし)五百(ごひやく)余騎(よき)に、伊賀の服部(はつとり)・河合(かはひ)の一揆(いつき)馳(はせ)加て、廻天(くわいてん)の勢を振(ふる)ふ。其(その)様を見(みる)に、五百騎(ごひやくき)に足(たら)ぬ佐々木(ささき)が勢可叶とは見へざりけり。され共佐々木(ささきの)大夫(たいふ)判官入道(はうぐわんにふだう)其(その)気勇健(ゆうけん)なる者なりければ、「此(この)軍天下の勝負(しようぶ)を計(はか)るのみに非(あら)ず。今日打負(うちまけ)なば弓矢の名を可失とて、僅(わづか)の勢を数(あま)たに成(なし)ては叶(かなふ)まじ。」とて、目賀田(めかだ)・楢崎(ならさき)・儀俄(げが)・平井・赤一揆(あかいつき)を旗頭(はたがしら)にて、河端(かはばた)に傍(そう)て引(ひか)へたり。青地(あをち)・馬淵(まぶち)・伊庭(いばの)入道(にふだう)・黄一揆(きいつき)を大将として、左手(さす)の河原(かはら)に陣を取(とる)。佐々木(ささきの)大夫(たいふ)判官入道(はうぐわんにふだう)に、吉田・黒田・二部(にいべ)・鈴村(すずむら)・大原・馬杉(ますぎ)を始(はじめ)として、宗(むね)との兵を馬回(まはり)に引(ひか)へさせて、敵の真中を破(わら)んと引(ひか)へたり。■弱(わうじやく)の勢かさを見て大勢の敵などか勇まであるべき、「三手(みて)の小勢を見(みる)に、中なる四目結(よつめゆひ)の大旌(おほはた)は、大将佐々木(ささき)と見るぞ。打取て勲功に預(あづか)れや。」と呼(よばはつ)て、長野が蝿払(はひはらひ)一揆(いつき)、一陣に進(すすん)で懸(かけ)出たり。元来佐々木(ささき)は機変■控(きへんかけひき)を心に得て、死を一時に定(さだめ)たる気分なれば、何(なに)かは些(すこし)も可擬議、大勢の真中(まんなか)に懸入て十文字(じふもんじ)巴(は)の字に懸(かけ)散(ちら)し、鶴翼魚鱗(くわくよくぎよりん)に連(つらなつ)て東西南北に馬の足を不悩、敵の勢を懸靡(かけなびけ)て、後(うしろ)に小野の有(あり)けるに、西頭(にしがしら)に馬を立(たて)直(なほ)し人馬の息を継(つが)せければ、朱(あけ)に成たる放(はなれ)馬其(その)数を不知(しらず)。蹄(ひづめ)の下に切て落(おと)したる敵共(てきども)、算(さん)を散(ちらし)てぞ臥(ふし)たりける。是(これ)を見て残の兵気を失て、さしも深き内貴田井を天満山(てんまやま)へと志し、左になだれて引(ひき)ける間、機に乗たる佐々木(ささき)が若党共(わかたうども)、息をもくれず追懸(おひかけ)たり。引立たる者共(ものども)が、難所(なんしよ)に追懸(おひかけ)られて、なじかは可能。矢野(やのの)下野(しもつけの)守(かみ)・工藤判官・宇野部(うのべ)・後藤弾正・波多野(はだの)七郎左衛門(しちらうざゑもん)・同弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)・佐脇(さいき)三河(みかはの)守(かみ)・高島次郎左衛門(じらうざゑもん)・浅香(あさか)・萩原(はぎはら)・河合(かはひ)・服部(はつとり)、宗(むね)との者共(ものども)五十(ごじふ)余人(よにん)、一所にて皆討(うた)れにけり。軍散じければ、同(おなじき)十一月一日、彼(かの)首共を取て都に上(のぼ)せしかば、六条河原(ろくでうかはら)にぞ被懸ける。是(これ)を見ける大名・小名・僧俗・貴賎、哀哉(あはれなるかな)、昨日までも詞をかはし肩を双(ならべ)て、見馴(みなれ)し朋友なれば、涙を拭(のごう)て首を見、悲(かなしみ)の思(おもひ)散満(さんまん)たり。懸(かか)りしかば仁木義長(よしなが)も、三千(さんぜん)余騎(よき)と聞へし兵皆落失(おちうせ)て五百(ごひやく)余騎(よき)にぞ成(なり)にける。結句(けつく)憑(たのみ)たる連枝(れんし)仁木三郎は、今度(こんどの)軍に打負(うちまけ)て、其侭(そのまま)降参して出たりける。加様(かやう)に義長(よしなが)微々(びび)に成(なり)しかば、「軈(やが)て責(せめ)よ。」とて、佐々木(ささきの)大夫(たいふ)判官入道(はうぐわんにふだう)・土岐大膳(だいぜんの)大夫入道(たいふにふだう)、両人討手を承(うけたまはり)て、七千(しちせん)余騎(よき)にて伊勢(いせの)国(くに)へ発向(はつかう)す。義長(よしなが)さしもの勇士(ゆうし)なりしか共、兵減(げん)じ気疲れしかば、懸合て一度(いちど)も軍をせず、長野が城に楯篭(たてこも)る。要害よければ寄手(よせて)敢(あへ)て不近得。土岐・佐々木(ささき)は又大勢なれば、平場(ひらば)に陣を取れども、義長(よしなが)打出て散すに不及。両陣五六里を隔(へだて)て、玉笥(たまくしげ)二見(ふたみ)の浦の二年は、徒(いたづら)にのみぞ過(すご)しける。