太平記(国民文庫)
太平記巻第三十四
○宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどのに)賜将軍宣旨事(こと) S3401
鎌倉(かまくら)贈(ぞう)左大臣尊氏公薨(こう)じ給(たまひ)し刻(きざみ)、世の危(あやぶむ)事、深淵(しんえん)に臨(のぞん)で薄氷(はくひよう)を蹈(ふむ)が如(ごとく)にして、天下今に反覆(はんぷく)しぬと見へける処に、是(これ)ぞ誠(まこと)に武家の棟梁(とうりやう)共(とも)成(なり)ぬべき器用(きよう)と見へし新田兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)義興は、武蔵(むさしの)国(くに)にて討れぬ。去年まで筑紫九国を打順(うちしたが)へたりし菊池(きくち)肥後(ひごの)守(かみ)武光も、小弐(せうに)・大伴が翻(ひるがへつ)て敵に成(なり)し後は勢(いきほ)ひ少く成(なり)ぬと聞へしかば、宮方(みやがた)の人々は月を望むには暁の雲に逢へるが如く、あらまほしき天に悲(かなしみ)あつて、意に叶はぬ世のうさを歎(なげき)ければ、将軍方(しやうぐんがた)の武士共(ぶしども)は、樹(うゑき)を移(うつし)て春(はる)の花を看(みる)が如く、危き中にも待(まつ)事多(おほく)して、今は何事か可有と悦ばぬ人も無(なか)りけり。去(さる)程(ほど)に延分三年十二月十八日、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあつそん)、二十九歳にて征夷将軍に成(なり)給ふ。日野(ひのの)左中弁時光を勅使(ちよくし)にて宣旨を下されければ、佐々木(ささきの)太郎判官秀詮(ひであきら)を以て宣旨を請取(うけとり)奉る。天下の武功に於ては申(まうす)に不及といへども、相続(さうぞく)して二代忽(たちまち)に将軍の位に備(そなは)り給ふ、目出(めでた)かりし世の様(ため)し也(なり)。抑(そもそも)此比(このごろ)将軍家に於て、我に増(まし)たる忠の者あらじと擘(ただむき)を振ふ輩(ともがら)多き中に、秀詮(ひであきら)宣旨を請(うけ)取(とり)奉る面目身に余る。其(その)故を聞(きけ)ば、祖父佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)、去(さる)元弘の始(はじめ)、相摸(さがみ)入道(にふだう)が振舞(ふるまひ)悪逆無道(ぶだう)にして武運已(すで)に傾(かたぶく)べき時至(いたり)ぬとや見たりけん。平家を討て代(よ)を知(しり)給へと頻(しきり)に将軍を進め申せしが、果(はた)して六波羅(ろくはら)、尊氏(たかうぢの)卿(きやう)の為に亡(ほろ)びにき。然共(しかれども)四海(しかい)尚(なほ)乱(みだれ)て二十(にじふ)余年(よねん)、其(その)間に名を高くせし武士共(ぶしども)、宮方(みやがた)に参らば又将軍方(しやうぐんがた)に降(くだ)り、高倉禅門に属(しよく)するかと見れば右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬に与力(よりき)し、見を一偏(いつぺん)に決せず、道誉(だうよ)将軍方(しやうぐんがた)にして、親類太略(たいりやく)討死す。中にも秀詮(ひであきら)が父、源三判官秀綱(ひでつな)、去(さ)る文和二年六月に山名伊豆(いづの)守(かみ)が謀叛に依て、主上(しゆしやう)帝都を去(さら)せ御座(おはしま)して、越路(こしぢ)の雲に迷(まよは)せ給ふ。爰(ここ)に新田掃部助(かもんのすけ)、山名が謀叛に節(せつ)を得て、堅田浦(かたたのうら)にて君を襲(おそひ)奉(たてまつり)し時、秀綱返し合(あは)せ命を軽(かろん)ず。其(その)間に主上(しゆしやう)延(のび)させ御座(おはしま)す事、偏(ひとへ)に秀綱が武功に依(より)て也(なり)。其(その)忠他に異(こと)也(なり)とて、秀詮(ひであきら)を撰(えらび)出されけるとぞ。是(これ)は建久の古(いにしへ)、鎌倉(かまくら)右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)頼朝(よりとも)々臣、武将に備(そなは)り給(たまひ)し時鶴岡(つるがをか)の八幡宮にて、三浦荒二郎(くわうじらう)宣旨を請(うけ)取(とり)奉りし例とぞ見へし。
○畠山道誓上洛(しやうらくの)事(こと) S3402
思(おもひ)の外に世の中閑(しづか)なるに付ても、両雄は必(かならず)争ふと云(いふ)習(ならひ)なれば、鎌倉(かまくら)の左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)と宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)との御中、何様(いかさま)不和(ふくわ)なる事出来(いでき)ぬと、人皆(みな)危(あやし)み思へり。是(これ)を聞て畠山大夫入道(たいふにふだう)々誓(だうせい)、左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)に向て申されけるは、「故左大臣殿(さだいじんどの)の御薨逝(こうせい)の後天下の人皆(みな)連枝(れんし)の御中に、始終(しじゆう)如何様(いかさま)御不快の御事(おんこと)候(さうらひ)ぬと、怪(あやし)み思(おもひ)て候なる。昔漢(かんの)高祖(かうそ)崩御(ほうぎよ)成て後、呂氏(りよし)と劉氏(りうし)と互(たがひ)に心を置合(おきあひ)て、世中(よのなか)又乱れんとしけるを、高祖(かうそ)の旧臣(きうしん)、周勃(しうぼつ)・樊会等(はんくわいら)、兵を集め勢(せい)を合(あは)せて、世を治めたりとこそ承及(うけたまはりおよび)候へ。道誓誠(まこと)に不肖(ふせう)の身にて候へ共、且(しばら)く大将の号(がう)を可有御免にて候はゞ、東国の勢を引卒(いんぞつ)して、京都へ罷(まかり)上て南方へ発向(はつかう)し、和田・楠を責(せめ)落(おと)し天下を一時に定(さだめ)て、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)の御疑(おんうたがひ)をも散じ候はゞや。」と被申ければ、左馬(さまの)頭(かみ)、「此(この)儀誠(まこと)に可然。早く東(とう)八箇国(はちかこく)の勢を催(もよほし)て、南方の敵陣へ可発向。」とぞ宣ひける。畠山(はたけやま)入道(にふだう)は、元来上に公儀を借(かつ)て、下に私の権威を貪(むさぼら)んと思へる心ありければ、先(まづ)大名共(だいみやうども)の許(もと)に行向ひ、未(いまだ)非功忠賞の厚からん事を約し、未(いまだ)親(したしま)ざるに交(まじは)りの久(ひさし)からん事を語(かたら)ひ、一日も己(おのれ)を剋(せ)め礼に復する時は天下の人民帰仁習(ならひ)なれば、東(とう)八箇国(はちかこく)の大名小名一人も不残、皆(みな)催促にぞ順(したが)ひける。此(この)上は暫(しばらく)も不可有猶予とて、延文四年十月八日、畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)、武蔵(むさし)の入間河(いるまがは)を立て上洛(しやうらく)するに、相順(あひしたが)ふ人々には、先(まづ)舎弟(しやてい)畠山尾張(をはりの)守(かみ)・其(その)弟式部(しきぶの)太輔(たいふ)、外様(とざま)には、武田(たけだの)刑部(ぎやうぶの)太輔(たいふ)・舎弟(しやてい)信濃(しなのの)守(かみ)・逸見(へんみ)美濃(みのの)入道(にふだう)・舎弟(しやてい)刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)・同掃部助(かもんのすけ)・武田(たけだの)左京(さきやうの)亮(すけ)・佐竹刑部(ぎやうぶの)太輔(たいふ)・河越(かはごえ)弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)・戸島(とじま)因幡(いなばの)入道(にふだう)・土屋(つちや)修理(しゆりの)亮(すけ)・白塩(しらしほ)入道・土屋(つちや)備前(びぜんの)入道(にふだう)・長井(ながゐ)治部(ぢぶの)少輔(せう)入道・結城(ゆふき)入道・難波(なんば)掃部(かもんの)助(すけ)・小田(をだ)讃岐守(さぬきのかみ)・小山(をやまの)一族(いちぞく)十三人(じふさんにん)・宇都宮(うつのみや)芳賀(はが)兵衛入道(ひやうゑにふだう)禅可(ぜんか)・子息伊賀(いがの)守(かみ)・高根沢(たかねざは)備中(びつちゆうの)守(かみ)・同一族(いちぞく)十一人、是等(これら)を宗徒(むねと)の大名として、坂東(ばんどう)の八平氏(はちへいじ)・武蔵(むさし)の七党(しちたう)・紀清(きせい)両党、伊豆・駿河(するが)・三河・遠江の勢(せい)馳加(はせくははり)て、都合二十万七千(にじふまんしちせん)余騎(よき)と聞へしかば、前後七十(しちじふ)余里(より)に支(ささへ)て櫛(くし)の歯を引(ひく)が如し。路次(ろし)に二十日余(あまり)の逗留(とうりう)有(あつ)て、京著(きやうちやく)は十一月二十八日(にじふはちにち)の午(うまの)刻(こく)と聞へしかば、摂政関白・月卿(げつけい)雲客(うんかく)を始(はじめ)として、公家武家の貴賎上下、四宮河原(しのみやがはら)より粟田口(あはたぐち)まで、桟敷(さじき)を打続け、車を立双(たてなら)べて、見物の衆二行に群(ぐん)をなす。げにも聞(きき)しに不違。天下久(ひさし)く武家の一統(いつとう)と成て、富貴(ふつき)に誇(ほこ)る武士共(ぶしども)が、爰(ここ)を晴(はれ)と出立たれば、馬・物具(もののぐ)・衣裳・太刀・刀・金銀をのべ綾羅(りようら)を不飾云(いふ)事なし。中にも河越(かはごえ)弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)は、余(あま)りに風情(ふぜい)を好(このん)で、引(ひき)馬三十疋(さんじつぴき)、白鞍置て引(ひか)せけるが、濃紫(こきむらさき)・薄紅(うすくれなゐ)・萌黄(もよぎ)・水色・豹文(へうもん)、色々に馬の毛を染(そめ)て、皆舎人(とねり)八人(はちにん)に引(ひか)せたり。其(その)外の大名共(だいみやうども)一勢(いつせい)一勢(いつせい)引分て、或(あるひ)は同(おなじ)毛の鎧(よろひ)著て、五百騎(ごひやくき)千騎(せんぎ)打(うつ)もあり、或(あるひ)は四尺(ししやく)五尺(ごしやく)の白太刀に、虎(とらの)皮(かは)の尻鞘(しりざや)引篭(ひきこ)め、一様(いちやう)に二振(ふたふり)帯副(はきそへ)て、百騎(ひやくき)二百騎(にひやくき)打(うつ)もあり。只(ただ)孟嘗君(まうしやうくん)が三千(さんぜん)の客悉(ことごとく)珠履(たまのくつ)をはいて春信君が富(とみ)を欺(あざむき)しも、角(かく)やと覚へて目も盻(あや)也(なり)。
○和田楠軍評定(ひやうぢやうの)事(こと)付(つけたり)諸卿分散(ぶんさんの)事(こと) S3403
此比(このころ)吉野の新帝は、河内(かはちの)天野(あまの)と云(いふ)処を皇居(くわうきよ)にて御座(ござ)有(あり)ければ、楠左馬(さまの)頭(かみ)正儀(まさよし)・和田和泉(いづみの)守(かみ)正武(まさたけ)二人(ににん)、天野(あまの)殿(どの)に参じて奏聞しけるは、「畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)東(とう)八箇国(はちかこく)の勢を卒(そつ)して二十万騎(にじふまんぎ)、已(すで)に京都に著(つき)て候なる。山陽道(せんやうだう)は播磨を限り、山陰道(せんおんだう)は丹波を堺(さか)ひ、東海・東山・南海・北陸道(ほくろくだう)の兵、数を尽して上洛(しやうらく)仕り候なれば、敵の勢(せい)は定(さだめ)て雲霞(うんか)の如くにぞ候覧(らん)。但(ただし)於合戦は、決定(けつぢやう)御方(みかた)の勝とこそ料簡(れうけん)仕て候へ。其故(そのゆゑ)は、軍に三の謀(はかりこと)候べし。所謂(いはゆる)天の時・地の利・人の和(くわ)にて候。此(この)内一も違(たが)ふ時は、勢ありと云(いへ)共(ども)、勝(かつ)事を不得とこそ見へて候へ。先(ま)づ天の時に付て勘(かんがへ)候へば、明年よりは大将軍(だいじやうぐん)西に在(あり)て東よりは三年塞(ふさがり)たり。畠山冬至(とうじ)以後、東国を立て罷(まかり)上て候。是(これ)已(すで)に天の時に違(たがは)れ候はずや。次に地の利に付て案じ候に、御方(みかた)の陣、後(うしろ)は深山に連(つらなつ)て敵案内を不知、前に大河流(ながれ)て僅なる橋一(ひとつ)を路とせり。さ候へば、元弘の千盤屋(ちはや)の軍は中々不及申に。其(その)後建武の乱より以来(このかた)、細河帯刀(たてわき)・同陸奥(むつの)守(かみ)顕氏・山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏・高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直・同越後(ゑちごの)守(かみ)師泰(もろやす)、今の畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)に至るまで、已(すで)に六箇度(ろくかど)此(この)処へ寄(よせ)て、猛勢(まうぜい)を振(ふる)ひ戦を挑(いどみ)しに、敵の軍遂(つひ)に不利。或(あるひ)は尸(かばね)を河南(かなん)の路に曝(さら)し或(あるひ)は名を敗北(はいぼく)の陣に失ひ候き。是(これ)当山(たうざん)形勝(けいしよう)の地、要害の便(たより)を得たる故(ゆゑ)にて候。次には人の和(くわ)に付て思案を廻(めぐら)し候に、今度畠山が上洛(しやうらく)は、只勢(いきほひ)を公義に借(かつ)て忠賞を私に貪(むさぼら)んと志にて候なる。仁木・細川の一族共(いちぞくども)も彼(かれ)が権威を猜(そね)み、土岐・佐々木(ささき)が一類(いちるゐ)も其(その)忠賞を嫉(ねた)まぬ事や候べき。是(これ)又人の心の和(くわ)せぬ処にて候はずや。天地人の三徳三乍(みつなが)ら違(たが)ひ候はゞ、縦(たとひ)敵百万の勢を合(あは)せて候(さうらふ)共(とも)、恐(おそるる)に足(たら)ぬ所にて候。但(ただし)、今の皇居(くわうきよ)は余(あま)りにあさまなる処にて候へば、金剛山(こんがうせん)の奥、観心寺(くわんしんじ)と申(まうし)候処へ、御座を移し進(まゐら)せ候(さうらひ)て、正儀・正武等(まさたけら)は和泉・河内の勢(せい)を相伴(あひともな)ひ、千葉屋(ちはや)・金剛山に引篭(ひきこも)り、竜山(りゆうせん)・石川(いしかは)の辺に懸出々々(かけいでかけいで)、日々夜々に相戦(あひたたか)ひ、湯浅(ゆあさ)・山本・恩地(おんぢ)・贄河(にへかは)・野上(のがみ)・山本の兵共(つはものども)は、紀伊(きいの)国(くにの)守(かみ)護代、塩冶(えんや)中務に付て、竜門山(りゆうもんせん)・最初峰(さいしよがみね)に陣を張(はら)せ、紀伊川禿辺(かぶろへん)に野伏(のぶし)を出して、開合(ひらきあは)せ攻合(せめあは)せ、息をも継(つが)せず令戦、極めて短気なる坂東勢共(ばんどうぜいども)などか退屈せで候べき。退屈して引返す者ならば、勝(かつ)に乗て追懸け、敵を千里の外に追散し、御運を一時に可開。是(これ)庶幾(そき)する処の合戦也(なり)。」と、事もなげにぞ申(まうし)ける。主上(しゆしやう)を始(はじめ)進(まゐら)せて近侍(きんじ)の月卿(げつけい)雲客(うんかく)に至るまで、皆憑(たの)もしき事にぞ思食(おぼしめし)ける。さらば軈(やが)て観心寺へ皇居(くわうきよ)を移し進(まゐ)らすべしとて臨幸なるに、無用(むよう)ならん人々を、そゞろに召具(めしぐ)させ給(たまふ)べからずと申(まうし)ける間、げにもとて伝奏(てんそう)の上卿(しやうきやう)両三人(さんにん)・奉行の職事(しきじ)一両輩(いちりやうはい)・護持僧(ごぢそう)二人(ににん)・衛府(ゑふの)官四五人(しごにん)許(ばかり)を召具せられ、此(この)外は何地(いづち)へも暫(しばら)く落忍(おちしのび)て、御敵(おんてき)退散(たいさん)の時を可待と被仰出ければ、摂政関白・太政大臣(だいじやうだいじん)・左右の大将・大中納言(だいちゆうなごん)・七弁(しちべん)・八史・五位・六位・後宮(こうきゆう)の美婦人(びふじん)・青上達部(なまかんだちめ)・内侍・更衣(かうい)・上臈女房・出世・房官に至るまで、或(あるひ)は高野(かうや)・粉川(こかは)・天河(てんのかは)・吉野・十津河(とつがは)の方に落行て、浅猿(あさまし)げなる山賎共(やまがつども)に、憂身(うきみ)を寄(よす)る人もあり、或(あるひ)は志賀の古郷(ふるさと)・奈良の都・京白河に立帰り、敵陣の中に紛(まぎ)れ居て、魂(たましひ)を消す人もあり。諸苦所因貪欲為本(とんよくゐほん)と、如来の金言、今更(いまさら)に思(おもひ)知(らるる)こそ哀(あは)れなれ。
○新将軍南方進発(しんぱつの)事(こと)付(つけたり)軍勢(ぐんぜい)狼籍(らうぜきの)事(こと) S3404
去(さる)程(ほど)に足利新征夷(しんせいい)大将軍義詮朝臣(よしあきらあつそん)、延文(えんぶん)四年十二月二十三日(にじふさんにち)都を立て、南方の大手へ向(むかひ)給ふ。相順(あひしたが)ふ人々には、先(まづ)一族(いちぞく)細川相摸守(さがみのかみ)清氏・舎弟(しやてい)左近(さこんの)大夫(たいふ)将監(しやうげん)・同兵部太輔(たいふ)・同掃部助(かもんのすけ)・同兵部(ひやうぶの)少輔(せう)・尾張(をはりの)左衛門(さゑもんの)佐(すけ)・仁木(につき)右京(うきやうの)大夫(たいふ)・舎弟(しやてい)弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)・同右馬助(うまのすけ)・一色左京(さきやうの)大夫(たいふ)・今河上総(かづさの)介(すけ)・子息左馬(さまの)助(すけ)・舎弟(しやてい)伊予(いよの)守(かみ)、他家には、土岐(とき)大膳(だいぜんの)大夫入道(たいふにふだう)善忠(ぜんちゆう)・舎弟(しやてい)美濃(みのの)入道(にふだう)・同出羽(ではの)入道(にふだう)・同宮内(くないの)少輔(せう)・同小宇津(こうつ)美濃(みのの)守(かみ)・同高山(たかやま)伊賀(いがの)守(かみ)・同小里(をさと)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・同猿子(ましこ)右京(うきやうの)亮(すけ)・厚東(こうとう)駿河(するがの)守(かみ)・同蜂屋(はちや)近江(あふみの)守(かみ)・同左馬(さまの)助(すけ)義行(よしゆき)・同今峰(いまみね)駿河(するがの)守(かみ)・同舟木(ふなき)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・同明智(あけち)下野(しもつけの)入道(にふだう)・同戸山(とやま)遠江守(とほたふみのかみ)・同修理(しゆりの)亮(すけ)頼行(よりゆき)・同出羽(ではの)守(かみ)頼世(よりよ)・同刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)頼近(よりちか)・同飛弾(ひだの)伊豆(いづの)入道(にふだう)・佐々木(ささきの)判官(はうぐわん)信詮(のぶのり)・佐佐木六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永(そうえい)・舎弟(しやてい)山内(やまのうち)判官・河野(かうのの)一族(いちぞく)・赤松筑前(ちくぜんの)入道(にふだう)世貞(せいてい)・舎弟(しやてい)帥(そつの)律師(りつし)則祐(そくいう)・甥(をひの)大夫(たいふ)判官(はうぐわん)光範(みつのり)・舎弟(しやてい)信濃(しなのの)五郎直頼(なほより)・同彦五郎範実(のりざね)・諏防(すはの)信濃(しなのの)守(かみ)・禰津(ねつの)小次郎・長尾(ながを)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)・浅倉(あさくら)弾正、此等(これら)を始(はじめ)として、都合其(その)勢七万(しちまん)余騎(よき)、大島・渡辺・尼崎(あまがさき)・鳴尾(なるを)・西宮(にしのみや)に居余て、堂宮(だうみや)までも充満(みちみち)たり。畠山大夫入道(たいふにふだう)々誓(だうせい)は搦手(からめて)の大将として、東(とう)八箇国(はちかこく)の勢二十万騎(にじふまんぎ)引卒(いんそつ)して、翌日の辰(たつの)刻(こく)に都を立て、八幡の山下(さんげ)・真木(まき)・葛葉(くずは)に陣を取(とる)。是(これ)は大手の勢渡辺の橋を懸(かけ)ん時、敵若(もし)川に支(ささへ)て戦(たたかは)ば、左々良・伊駒の道を経て、敵を中に篭(こめ)んと也(なり)。大手の寄手(よせて)赤松判官光範は、摂津国(つのくに)の守護(しゆご)にて、敵陣半(なか)ば我(わが)領知を篭(こめ)たれば、人より先(さき)に渡辺の辺に、五百(ごひやく)余騎(よき)にて打寄たり。河舟百(ひやく)余艘(よさう)取寄(とりよせ)て、河の面二町(にちやう)余に引並(ひきなら)べ、柱をゆり立(たて)、もやいを入(いれ)て、上にかぶ木を敷並(しきなら)べたれば、人馬打並て渡れ共曾(かつ)て不危。和田・楠爰(ここ)に馳向て、手痛く一合戦(ひとかつせん)せんずらんと、人皆思ひて控(ひかへ)たりけれ共(ども)、如何(いか)なる深き謀(はかりこと)か有(あり)けん、敢(あへ)て河を支(ささへ)ん共せざりけり。去(さる)間大手・搦手(からめて)三十万騎(さんじふまんぎ)、同日に河より南へ打越、天王寺(てんわうじ)・安部野(あべの)・住吉(すみよし)の遠里小野(うりふの)に陣を取る。され共猶(なほ)大将宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)は河を越(こえ)不給、尼崎に轅門(ゑんもん)を堅(かたく)してをはすれば、赤松筑前入道世貞・同帥(そつの)律師(りつし)則祐は、大渡に打散て、斥候(せきこう)の備へを全(まつたう)し、仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)は、三千(さんぜん)余騎(よき)を一所に集め、西宮に陣を取て、先陣若(もし)戦(たたかひ)負(まけ)ば、荒手(あらて)に成て入替(いれかはり)、天下の大功を我(われ)一人の高名に称美(しようび)せられんとぞ儀(ぎ)せられける。南方の兵の軍立(いくさだて)、始は坂東(ばんどう)の大勢の程を聞て、「城に篭(こもつ)て戦はゞ、取巻(とりまか)れて遂(つひ)に不被責落云(いふ)事有(ある)べからず。只深山幽谷(しんざんいうこく)に走(わしり)散て敵に在所(ざいしよ)を知れず、前に有(ある)かとせば後へ抜(ぬけ)て、馬に乗(のる)かとせば野伏に成て、在々所々にて戦はんに、敵頻(しきり)に懸(かか)らば難所(なんじよ)に引懸(ひきかけ)て返(かへし)合(あは)せ、引て帰らば迹に付て追懸け、野軍(のいくさ)に敵を疲(つから)かして、雌雄(しゆう)を労兵(らうへい)の弊(つひえ)に決すべし。」と議したりけるが、東国勢の体思ふにも不似、無左右敵陣へ懸(かけ)入(いら)ん共せず、爰(ここ)に日を経、彼(かし)こに時をぞ送りける。さらば此方(こなた)も陣を前に取り、城を後(うしろ)に構へて合戦を致せとて、和田・楠は、俄(にはか)に赤坂(あかさか)の城(じやう)を拵(こしらへ)て、三百(さんびやく)余騎(よき)にて楯篭(たてごも)る。福塚(ふくづか)・川辺(かはべ)・佐々良(ささら)・当木(まさき)・岩郡(いはくに)・橋本判官以下の兵は、平石(ひらいは)の城(じやう)を構(かまへ)て、五百(ごひやく)余騎(よき)にて楯篭る。真木野(まきの)・酒辺(さかべ)・古折(ふるをり)・野原(のはら)・宇野(うの)・崎山(さきやま)・佐和(さわ)・秋山以下の兵は、八尾(やを)の城(じやう)を取り繕(つくろう)て、八百(はつぴやく)余騎(よき)にて楯篭る。此外(このほか)大和・河内・宇多(うだ)・宇智(うちの)郡(こほり)の兵千(せん)余人(よにん)をば、竜泉峯(りゆうせんがみね)に屏(へい)を塗り、櫓(やぐら)を掻(かか)せて、見(み)せ勢(ぜい)になしてぞ置たりける。去(さる)程(ほど)に寄手(よせて)は同(おなじき)二月十三日(じふさんにち)、後陣(ごぢん)の勢三万(さんまん)余騎(よき)を、住吉(すみよし)・天王寺(てんわうじ)に入替(いれかへ)させて、後(うしろ)を心安(こころやす)く蹈(ふま)へさせ、先陣の勢二十万騎(にじふまんぎ)は、金剛山(こんがうせん)の乾(いぬゐ)に当りたる津々山(つづやま)に打上て陣を取(とる)。敵御方其(その)あはい僅(わづか)に五十(ごじふ)余町(よちやう)を隔(へだて)たり。互(たがひ)に時を待て未(いまだ)戦(たたかは)ざる処に、丹下(たんげ)・俣野(またの)・誉田(こんだ)・酒勾(さかわ)・水速(みはや)・湯浅(ゆあさ)太郎・貴志(きじ)の一族(いちぞく)五百(ごひやく)余騎(よき)、弓を弛(はづ)し甲(かぶと)を脱(ぬい)で、降人(かうにん)に成て出たりければ、津々山の人々皆勇罵(いさみののしつ)て、さればこそ敵早(はや)弱りにけり。和田・楠幾程(いくほど)か可怺と、思はぬ人も無りけり。され共未(いまだ)騎馬の兵懸合て、勝負をする程の事はなし。只(ただ)両陣互(たがひ)に野伏(のぶし)を出(いだし)合(あは)せて、矢軍(やいくさ)する事隙(ひま)なし。元来(もとより)敵は物馴(ものなれ)て、御方(みかた)は案内を知(しら)ねば、毎度(まいど)合戦に寄手(よせて)の手負(ておひ)、討(うた)るゝ事数を不知(しらず)。角(かく)ては只(ただ)和田・楠が、兼(かね)て謀(はか)る案の内(うち)に落されたる事よと云(いひ)ながら、止事(やむこと)を不得ける。去(さる)程(ほど)に始(はじめ)のほどこそ禁制(きんぜい)をも用ひけれ。兵次第(しだい)に疲れければ、神社仏閣に乱(みだれ)入て戸帳(とちやう)を下(おろ)し神宝を奪ひ合ふ。狼籍(らうぜき)手に余て不拘制止、師子(しし)・駒犬(こまいぬ)を打破(うちわつ)て薪(たきぎ)とし、仏像・経巻を売(うり)て魚鳥を買ふ。前代未聞(ぜんだいみもん)の悪行也(なり)。先年高(かうの)越後(ゑちごの)守(かみ)師奉が、石川々原に陣を取て、楠を攻(せめ)て居たりし時、無悪不造(むあくふざう)の兵共(つはものども)が塔の九輪(くりん)を下(おろし)て、鑵子(くわんす)に鋳(い)たりし事こそ希代(きたい)の罪業(ざいごふ)哉と聞(きき)しに、是(これ)は猶(なほ)其(そ)れに百倍(ひやくばい)せり。浅猿(あさまし)といふも疎(おろか)也(なり)。「為不善于顕明之中者、人得誅之、為不善乎幽暗之中者、鬼得討之。」いへり。師泰已(すで)に是(これ)を以て亡(ほろび)き。前車の轍(てつ)未(いまだ)遠(とほからず)。畠山今是(これ)を取て不誡、後車の危(あやふ)き事在近。今度の軍(いくさ)如何様(いかさま)にも墓々(はかばか)しからじと、私語(ささや)く人も多かりけり。
○紀州竜門山(りゆうもんせん)軍(いくさの)事(こと) S3405
四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆俊(たかとし)は、紀伊(きいの)国(くに)の勢三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して、紀伊(きいの)国(くに)最初峯(さいしよがみね)に陣を取てをはする由聞へければ、同四月三日、畠山(はたけやま)入道(にふだう)々誓(だうせい)が舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)義深(よしふか)を大将にて、白旗一揆(しらはたいつき)・平一揆(たひらいつき)・諏防祝部(すはのはふり)・千葉の一族(いちぞく)・杉原が一類(いちるゐ)、彼(か)れ此(こ)れ都合三万(さんまん)余騎(よき)、最初が峯へ差向(さしむけ)らる。此(この)勢則(すなはち)敵陣に相対したる和佐山(わさやま)に打上(うちあが)りて三日まで不進、先(まづ)己(おのれ)が陣を堅(かたう)して後に寄(よせ)んとする勢(いきほひ)に見へて、屏(へい)塗り櫓(やぐら)を掻(かき)ける間、是(これ)を忻(たばか)らん為に宮方(みやがた)の侍大将塩谷(しほのや)伊勢(いせの)守(かみ)、其(その)兵を引具して、最初峰(さいしよがみね)を引退て、竜門山(りゆうもんせん)にぞ篭(こも)りける。畠山が執事、遊佐(ゆさ)勘解由左衛門(かげゆざゑもん)是(これ)を見て、「すはや敵は引(ひき)けるぞ。何(いづ)くまでも追懸て、打取れ者共(ものども)。」とて馳向(はせむか)ふ。楯をも不用意、手分(てわけ)の沙汰もなく、勝(かつ)に乗る処は、げにもさる事なれ共(ども)、事の体(てい)余(あま)りに周章(あわてて)ぞ見へたりける。彼(かの)竜門山と申(まうす)は、岩(いは)竜頷(りゆうがん)に重(かさ)な(ッ)て路(みち)羊腸(やうちやう)を遶(めぐ)れり。岸は松栢(しようはく)深ければ嵐も時の声を添へ、下には小篠(こざさ)茂りて露に馬蹄(ばてい)を立(たて)かねたり。され共麓までは下(お)り合ふ敵なければ、勇む心を力にて坂中まで懸上り、一段(いちだん)平(たひら)なる所に馬を休めて、息を継(つが)んと弓杖(ゆんづえ)にすがり太刀を逆(さかさま)に突(つく)処に、軽々(かろがろ)としたる一枚楯に、靭(うつぼ)引付(ひつつけ)たる野伏共(のぶしども)千(せん)余人(よにん)、東西の尾崎(をさき)へ立渡り、如雨降散散(さんざん)に射る。三万(さんまん)余騎(よき)の兵共(つはものども)が、僅なる谷底へ沓(くつ)の子を打(うつ)たる様に引(ひか)へたる中へ、差下(さしおろし)て射こむ矢なれば、人にはづるゝは馬に当り、馬にはづるゝは人に当る。一矢(ひとや)に二人(ににん)は射らるれ共(ども)、はづるゝは更になし。進(すすん)で懸(かけ)散(ちら)さんとすれば、岩石(がんせき)前に差覆(さしおほう)て、懸上(かけのぼ)るべき便(たより)もなし。開ひて敵に合はんとすれば、南北の谷深く絶(たえ)て、梯(はし)ならでは道もなし。いかゞせんと背(せなか)をくゞめて、引(ひき)やする引かれてやあると見る処に、黄瓦毛(きかはらけ)なる馬の太く逞(たくまし)きに、紺糸(こんいと)の鎧のまだ巳(み)の剋(こく)なるを著たる武者、濃紅(こきくれなゐ)の母衣(ほろ)懸(かけ)て、四尺(ししやく)許(ばかり)に見へたる長刀の真中(まんなか)拳(にぎつ)て、馬の平頚(ひらくび)に引側(ひきそば)め、塩谷(しほのや)伊勢(いせの)守(かみ)と名乗て真前(まつさき)に進めば、野上(のがみ)・山東・貴志(きし)・山本・恩地(おんぢ)・牲河(にへかは)・志宇津(しうつ)・禿(かぶろ)の兵共(つはものども)二千(にせん)余騎(よき)、大山も崩れ鳴雷(なるかみ)の落(おつ)るが如く、喚(をめ)き叫(さけん)で懸(かけ)たりける。敵を遥(はるか)のかさに受(うけ)て、引心地(ひきごこち)付たる兵共(つはものども)なれば、なじかは一足(ひとあし)も支ふべき。手負を助けんともせず、親子の討(うた)るゝをも不顧、馬物具を脱捨(ぬぎす)て、さしも嶮(けはし)き篠原(ささはら)を、すべる共なく転(ころ)ぶ共なく、三十(さんじふ)余町(よちやう)を逃(にげ)たりける。塩谷は余(あま)りに深く長追して、馬に箭(や)三筋(さんすぢ)立(たち)、鑓(やり)にて二処つかれければ、馬の足立兼(たてかね)て、嶮岨(けんそ)なる処より真逆様(まつさかさま)に転(ころび)ければ、塩谷も五丈計(ばかり)岩崎(いはさき)より下に投(なげ)ふれければ、落付(おちつく)よりして目くれ東西に迷(まよひ)、起上(おきあがら)んとしける処を、蹈留(ふみとどまる)敵余(あまり)に多(おほき)に依て、武具(もののぐ)の迦(はづ)れ内甲(うちかぶと)を散々(さんざん)にこみければ、つゞく御方(みかた)はなし、塩谷終(つひ)に討(うた)れにけり。半時許(はんじばかり)の合戦に、生慮(いけどり)六十七人(ろくじふしちにん)、討(うた)るゝ者二百七十三人(にひやくしちじふさんにん)とぞ聞へし。其(その)外捨(すて)たる馬・物具・弓矢・太刀・刀(かたな)、幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知(しらず)。其(その)中に遊佐(ゆさ)勘解由左衛門(かげゆざゑもん)が今度上洛(しやうらく)之(の)時(とき)、天下の人に目を驚かさせんとて金百両を以て作たる三尺(さんじやく)八寸(はつすん)の太刀もあり。又日本(につぽん)第一(だいいち)の太刀と聞へたる禰津(ねづ)小次郎が六尺(ろくしやく)三寸(さんずん)の丸鞘(まるさや)の太刀も捨(すて)たりけり。されば大力も高名も不覚も時の運による者也(なり)。此(この)禰津小次郎は自讃(じさん)に常に申けるは、「坂東(ばんどう)八箇国(はちかこく)に弓矢を取(とる)人、駈合(かけあひ)の時根津(ねづ)と知らで駈合(かけあは)せ太刀打違(うちちがへ)んは不知、是(これ)禰津よと知(しり)たらん者、我に太刀打(うた)んと思(おもふ)人は、恐(おそら)くは不覚(おぼえず)。」と申(まうす)程の大力の剛(かう)の者なれ共(ども)、差(さし)たる事もせで力のある甲斐(かひ)には、人より先(さき)に逃(にげ)たりけり。
○二度(ふたたび)紀伊(きいの)国(くに)軍(いくさの)事(こと)付(つけたり)住吉(すみよしの)楠折(をるる)事(こと) S3406
紀伊国の軍に寄手(よせて)若干(そくばく)討(うた)れて、今は和佐山(わさやま)の陣にも御方(みかた)怺(こら)へ難(がた)しと云(いひ)たりければ、津々山の勢も尼崎(あまがさき)の大将も、興(きよう)を醒(さま)し色を失ふ。され共仁木(につき)右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)一人は、「あらをかしやさてこそよ。哀(あはれ)同じくは津々山・天王寺(てんわうじ)・住吉(すみよし)の勢共(せいども)も皆被追散裸(はだか)に成て逃(にげ)よかし。興(きよう)ある見物せん。」とて、えつぼに入てぞ咲(わらひ)ける。是(これ)をば御方とや云(いふ)べき敵とや申(まうす)べき。難心得(こころえがたく)所存(しよぞん)也(なり)。紀伊路(きのぢ)の向陣(むかひぢん)を追(おひ)落されなば津々山とても不可怺。さらば敵の懸(かか)らぬ前(さき)に荒手(あらて)を副(そへ)て、尾張(をはりの)守(かみ)に力を付(つけ)よとて、同四月十一日、畠山式部(しきぶの)大夫(たいふ)・今河伊予(いよの)守(かみ)・細河左近(さこんの)将監(しやうげん)・土岐宮内(くないの)少輔(せう)・小原(をはら)備中(びつちゆうの)守(かみ)・佐々木(ささきの)山内(やまのうち)判官(はうぐわん)・芳賀(はが)伊賀(いがの)守(かみ)・土岐(ときの)桔梗(ききやう)一揆(いつき)・佐々木(ささきの)黄一揆(きいつき)、都合其(その)勢七千(しちせん)余騎(よき)、重(かさね)て紀伊路(きのぢ)へぞ向(むけ)られける。中にも芳賀兵衛(ひやうゑの)入道(にふだう)禅可(ぜんか)は我(わが)身は天王寺(てんわうじ)に止(とめ)られて、嫡子伊賀(いがの)守(かみ)公頼(きんより)を紀伊路へ向(むけ)られけるが、二三里が程打送て、泪(なみだ)を流(ながし)て申けるは、「東国に名ある武士多しといへ共、弓矢の道に於て指をさゝれぬは只(ただ)我等(われら)が一党也(なり)。御方の大勢先度(せんど)の合戦に打負(うちまけ)て敵に機を著(つけ)ぬれば、今度の合戦は弥(いよいよ)手痛(ていた)からんと知(しる)べし。若(も)し合戦仕違(しちがへ)て引返しなば、只(ただ)少しも違はぬ二の舞にて、敵に力を付(つく)るのみならず、殊(こと)に仁木左京(さきやうの)大夫(たいふ)に笑(わらは)れん事、我一人が恥と存(ぞんず)べし。されば此(この)軍に敵を追(おひ)落さずは、生(いき)て二度(ふたたび)我に面(おもて)を不可向。是(これ)は円覚寺(ゑんがくじ)の長老より持ち奉りし御袈裟也(なり)。是(これ)を母衣(ほろ)に懸(かけ)て、後世(ごせ)の悪業(あくごふ)を助(たすか)れ。」とて、懐(ふところ)より七条の袈裟(けさ)を取出て泣々(なくなく)公頼に与ふ。公頼庭訓(ていきん)を受(うけ)て、子細に不及と領掌(りやうじやう)して両へ別れけるが、今生の対面若(もし)是(これ)や限(かぎり)なるべきと、名残惜(をし)げに顧(かへりみ)て、互(たがひ)に泪をぞ浮(うか)めける。恩愛の道深ければ、何(いか)なる鳥獣(てうじう)さへも子を思ふ心浅からず。況乎(いはんや)於人倫乎。況乎(いはんや)於一子(いつし)乎。され共弓矢の道なれば、禅可最愛の子に向て、只(ただ)討死せよと進めける心の中こそ哀なれ。去(さる)程(ほど)に四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆俊は、重(かさね)て大勢懸(かか)る由聞へしかば、尚(なほ)本(もと)の陣にてや戦ふ、平場(ひらば)に進(すすん)でや懸合ひにすると評定有(あり)けるに、湯川(ゆかはの)庄司(しやうじ)心替(こころがは)りして後(うしろ)に旗を挙(あ)げ、熊野路(くまのぢ)より寄する共(とも)披露(ひろう)し、船をそろへて田辺(たなべ)よりあがるとも聞へければ、此(この)陣角(かく)ては如何(いか)が可有と、案じ煩(わづらう)てをはしけるを見て、大手(おほて)の一の木戸(きど)を堅めたりける越智(をち)、降人(かうにん)に成て芳賀(はが)伊賀(いがの)守(かみ)が方へ出たりける。さらでだに猛(たけ)き清党(せいのたう)、兼(かね)て父に義を被勧、今又越智(をち)に力を被著、なじかは少しも滞(とどこほ)るべき。竜門(りゆうもん)の麓へ打寄ると均(ひとし)く、楯をも不突、矢の一(ひとつ)をも不射、抜連(ぬきつ)れて責(せめ)上(のぼり)ける程に、さしもの兵と聞へし恩地(おんぢ)・牲河(にへかは)・貴志(きし)・湯浅・田辺(たなべの)別当・山本判官、半時(はんじ)も不支竜門の陣を落されて、阿瀬河(あぜがは)の城(じやう)へぞ篭(こも)りける。芳賀(はが)二度(にど)めの軍に先度の恥をぞ洗(すすぎ)ける。今は是(これ)まで也(なり)。一功(ひとこう)なす上はとて、紀州の討手伊賀(いがの)守(かみ)、無恙津々山の陣へ帰(かへり)ければ、父の禅可悦喜(えつき)して、公私(こうし)の大崇(たいそう)是(これ)に過(すぐ)るは非(あら)じとぞ申ける。四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆俊卿、竜門山の軍に打負(うちまけ)て阿瀬河へ落(おち)ぬと聞へければ、吉野の主上(しゆしやう)を始進(はじめまゐら)せて、竜顔(りようがん)に咫尺(しせき)し奉る月卿(げつけい)雲客(うんかく)、色を失ひ胆(きも)を銷(け)し給ふ。斯(かか)る処に又住吉(すみよし)の神主津守(つもりの)国(くに)久密(ひそか)に勘文(かんもん)を以て申けるは、今月十二日の午(うまの)剋に、当社の神殿鳴動(めいどう)する事良(やや)久し。其(その)後庭前(ていぜん)なる楠、不風吹中より折れて、神殿に倒れ懸る。され共枝繁(しげ)く地に支(ささへ)て、中に横はる間、社壇は無恙とぞ奏し申ける。諸卿此(この)密奏を聞て、「神殿の鳴動は凶(きよう)を示し給(たまふ)条(でう)無疑。楠今官軍(くわんぐん)の棟梁(とうりやう)たり。楠倒(たふ)れば誰か君を擁護(おうご)し奉るべき。事皆不吉(ふきつ)の表事(へうじ)也(なり)。」と、私語(ささや)き合(あは)れけるを、大塔(おほたふの)忠雲僧正(そうじやう)不聞敢被申けるは、「好事(かうじ)も不如無と申(まうす)事候へば、まして此(この)事吉事なるべしとは難申。但(ただし)神凶(きよう)を告(つげ)給ふは、天未捨(いまだすてざる)者也(なり)。其(その)故は後漢(ごかん)の光武の昔、庭前(ていぜん)なる槐木(くわいぼく)の高さ二十丈(にじふぢやう)に余(あまり)たるが、不風吹根より抜(ぬけ)て倒(さかさま)にぞ立(たち)たりける。諸臣相見て皆(みな)恐怖しけるを、光武天の告(つげ)を悦(よろこび)て、貧(まづし)き民に財を省(はぶ)き余れるを以て不足(ふそくを)助(たすけ)給(たまひ)ければ、此槐木(このくわいぼく)一夜(いちや)に又如本成て一葉(いちえふ)も不枯けり。又我(わが)朝(てう)には応和(おうわ)の年の末に、比叡山(ひえいさん)の三宮林(さんのみやはやし)の数千本(すせんぼん)の松一夜(いちや)に枯凋(かれしぼみ)て、霜を凌(しの)ぐ緑の色黄葉(くわうえふ)に成(なり)にけり。三千(さんぜん)の衆徒大に驚て、十善寺(じふぜんじ)に参て、各自受法楽(じじゆほふらく)の法施(ほつせ)を奉り、前相(ぜんさう)何事ぞと祈誓(きせい)を凝(こら)さしめたりけるに、一人の神子(みこ)俄(にはか)に物に狂(くるひ)出て、「我に七社(しちしや)権現乗居(のりゐ)させ給へり。」とて託(たく)しけるは、「我(われ)内には円宗(ゑんしゆう)の教法を守て化縁(けえん)を三千(さんぜん)の衆徒に結び、外には国家の安全(あんせん)を致して利益(りやく)を六十(ろくじふ)余州(よしう)に垂(た)る。雖然今衆徒の挙動(ふるまひ)一として不叶神慮、兵杖を横(よこた)へて法衣(ほふえ)を汚(けが)し、甲胄(かつちう)を帯して社頭を往来す。嗚呼(ああ)自今後、三諦即是(さんたいそくぜ)の春(はる)の華(はな)誰(たれ)が袂(たもと)にか薫(にほ)はまし。四曼不離(しまんふり)の秋の月、何(いづ)れの扉(とぼそ)をか可照。此(この)上は我当山の麓に迹(あと)を垂(たれ)ても何(なに)かせん。只速(すみやか)に寂光(じやくくわう)の本土へこそ帰らめ。只(ただ)耳に留(とどま)る事とては、常行三昧(じやうぎやうさんまい)の念仏の音、尚(なほ)も心に飽(あか)ぬは、一乗(いちじよう)読讃(どくさん)の論義の声。」と、泣々(なくなく)託宣しけるが、額(ひたひ)より汗を流して、物(もの)の付(つき)は則(すなはち)醒(さめ)にけり。大衆(だいしゆ)是(これ)に驚て、聖真子(しやうしんじ)の御前(おんまへ)にして、常行三昧の仏名を唱(とな)へ、止観(しくわん)院(ゐん)の外陣(げぢん)にして一乗(いちじよう)読讃の竪義(りふぎ)を執(とり)行(おこな)ふ。衣之神慮も忽(たちまち)に休まりけるにや、月に叫(さけぶ)峡猿(かふゑん)の声も暁(あかつき)の枕を不濡、戴霜林松(りんしよう)の色本(もと)の緑に成(なり)にけり。其(その)後住吉(すみよし)大明神(だいみやうじん)の四海(しかい)の凶賊(きようぞく)を静め給ひし御託宣(ごたくせん)に曰(いはく)、「天慶(てんぎやう)に誅凶徒(きようと)昔は我為大将軍、山王は為副将軍(ふくしやうぐん)。承平に静逆党時(ときは)山王は為大将軍、我は為副将軍(ふくしやうぐん)。山王は鎮(とこしなへ)に飽一乗(いちじよう)法味に。故(ゆゑ)に勢力勝我に云云。」彼(かれ)を以て此(これ)を思ふに、叡慮徳に趣(おもむ)き、四海(しかい)の民を安穏ならしめんと思召す大願を被発、以法味を神力を被添候はゞ、朝敵(てうてき)は還(かへつ)て御方(みかた)になり、禍(わざはひ)は転じて幸(さいはひ)に帰せん事、疑ふ処に非(あら)ず。」と被申ければ、群臣(ぐんしん)悉(ことごとく)此(この)旨に順(したが)ひ、君も無限叡信を凝(こら)させ給(たまひ)て、軈(やが)て住吉(すみよし)四所の明神、日吉(ひよし)七社(しちしやの)権現を勧請(くわんじやう)し奉て、座(ざ)さまさずの御修法(みしほ)を百日(ひやくにち)の間行はせらる。主上(しゆしやう)毎朝(まいてう)に御行水を召(めさ)れて、玉体を投地に除災与楽(ぢよさいよらく)の御祈(おんいの)り、誠(まこと)に身の毛も弥立許(よだつばかり)也(なり)。天地も是(これ)に感応し、神明仏陀もなどか擁護(おうご)の御手(おんて)を垂れ給はざらんと、憑(たの)も敷(しく)ぞ見へたりける。
○銀嵩(かねがだけ)軍(いくさの)事(こと)付(つけたり)曹娥(さうが)精衛(せいゑいの)事(こと) S3407
此比(このころ)吉野の将軍の宮(みや)と申(まうす)は、故兵部卿(ひやうぶきやう)の親王(しんわう)の御子、御母は北畠(きたばたけの)准后(じゆごう)の御妹にてぞ御坐(おはし)ける。御幼稚の時より文武(ぶんぶ)二(ふたつ)の道何(いづれ)も達して見へさせ給ひしかば、此(この)宮(みや)ぞ誠(まこと)に四海(しかい)の逆浪(げきらう)をも静められて、旧主(きうしゆ)先帝の御追念をも休め進(まゐ)らせらるべき御機量にて御坐(おはします)とて、吉野の新帝登極(とうきよく)の後則(すなはち)被宣下、征夷将軍に成(な)し進(まゐ)らせらる。去(さ)る正平七年に、赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐、暫く事を謀(はかつ)て宮方(みやがた)に参ぜし時、此(この)宮(みや)を大将に申下し進(まゐ)らせたりしが、則祐忽(たちまち)に変じて又武家に参ぜしかば、宮心ならず京へ上らせ給て、召人(めしうど)の如(ごとく)にして御座(ござ)有(あり)しを、但馬(たぢまの)国(くに)の者共(ものども)盜(ぬすみ)出し奉て、高山寺(かうせんじ)の城(じやう)へ入れ奉る。本庄平太・平三、御手(おんて)に属(しよく)して、但馬・丹波の両国を打随(したがふ)るに、不靡云(いふ)者更になし。軈(やが)て播磨国(はりまのくに)を退治(たいぢ)せんとて山陽道(せんやうだう)へ御越有(あり)しに、則祐三千(さんぜん)余騎(よき)にて、甲山(かぶとやま)の麓(ふもと)に馳向て相戦ふ。軍未(いまだ)決(けつせず)、宮の一騎当千(いつきたうぜん)と憑(たの)み思召(おぼしめし)たりける本庄(ほんじやう)平太・平三、共に数箇所(すかしよ)の疵(きず)を被(かうむり)て、兄弟同時に討(うた)れにければ、軍忽(たちまち)に破(やぶれ)て、宮は河内(かはちの)国(くに)へ落(おち)させ給ひにけり。其(その)後も大将にし奉らんとて、国々より此(この)宮(みや)を申(まうし)けれ共(ども)、自然の事もあらば、此(この)宮(みや)をこそ大将にもし奉らんずれとて、何(いづ)くへも下し進(まゐら)せられず、武略の為に惜(をし)まれて、吉野の奥にぞ坐(おはし)ける。今紀伊(きいの)国(くに)の合戦に四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)打負(うちまけ)て、阿瀬河(あぜがは)へ落(おち)給(たまひ)ぬ。和田・楠も津々山(つづやま)の敵陣に被攻て、機疲(つかれ)ぬと見へければ、「今はいつをか可期。可然兵共(つはものども)を被相副候へ、自(みづから)出向て合戦を致(いたし)候はん。」と、宮頻(しきり)に被仰ける間、げにもとて、此(この)三四年兄弟不和の事有て吉野へ被参たりける赤松弾正(だんじやうの)少弼(せうひつ)氏範(うぢのり)に、吉野十八郷(じふはちがう)の兵を差副(さしそへ)て、宮の御方へぞ進(まゐら)せられける。宮此(この)勢を付順(つきしたが)へさせ給(たまひ)て後、何(いか)なる物狂(ものぐる)はしき御心(おんこころ)や著(つき)けん。さらば此(この)時分に吉野の新帝を亡(ほろぼ)し奉て、武家の為に忠を致して、吉野十八郷(じふはちがう)を一円(いちゑん)に管領(くわんれい)せばやと思召(おぼしめし)けるこそ不思議(ふしぎ)なれ。密(ひそか)に御使(おんつかひ)を以て事の由(よし)を義詮朝臣(よしあきらあつそん)の方へ被牒て、四月二十五日宮の御勢(おんせい)二百(にひやく)余騎(よき)、野伏三千人(さんぜんにん)を召具して賀名生(あなふ)の奥に銀嵩(かねがだけ)と云(いふ)山に打上り、御旗(おんはた)を被揚、先の皇居(くわうきよ)賀名生の黒木(くろき)の内裡(だいり)を始(はじめ)として、其(その)辺の山中に隠居(かくれゐ)たる月卿(げつけい)雲客(うんかく)の宿所々々を一々に焼払(やきはら)はる。暫(しばし)が程は真実を知(しり)たる人少なければ、是(これ)は如何様(いかさま)大宋の伯顔(はくがん)将軍(しやうぐん)が城を焼て敵を忻(たばか)りし謀(はかりこと)歟(か)、不然は楚の項羽(かうう)が自(みづか)ら廬舎(ろしや)を焼て再び本の陣へ帰(かへら)じと誓ひし道歟(か)と、様々(さまざま)に推量を廻(めぐら)して、此(この)宮(みや)尚(なほ)も御敵(おんてき)に成(なら)せ給ひたりと知る人聊(いさゝか)も無(なか)りけり。去(さる)程(ほど)に探使(たんし)度々馳廻(はせまはつ)て宮の御謀叛(ごむほん)事已(すで)に急也(なり)と奏聞しければ、軈(やがて)其翌(そのあけ)の日二条(にでうの)前(さきの)関白殿(くわんばくどの)を大将軍として和泉・大和・宇多(うだ)・宇智(うちの)郡(こほり)の勢千(せん)余騎(よき)を向(むけ)らる。是(これ)を見てさらば御謀叛(ごむほん)の宮(みや)に可奉著様なしとて、吉野十八郷(じふはちがう)の者共(ものども)皆散々(ちりぢり)に落失(おちうしなひ)ける程に、宮の御勢(おんせい)僅(わづか)に五十(ごじふ)余騎(よき)に成(なり)てげり。され共赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範は、今更(いまさら)弱きを見て捨(すつ)るは弓矢の道にあらず、無力処也(なり)。討死するより外の事有(ある)まじとて、主従二十六騎(にじふろくき)は、四方(しはう)に馳(はせ)向て散々に戦(たたかひ)ける程に、寄手(よせて)無左右近付(ちかづき)得ず、三日三夜相戦て、氏範数箇所(すかしよ)の疵(きず)を被(かうむり)てければ、今は叶はじとて宮は南都の方へ落(おち)させ給へば、氏範は降人(かうにん)に成て、又本国播州へ立返る。不思議(ふしぎ)なりし御謀反也(なり)。抑(そもそも)故尊氏(たかうぢの)卿(きやう)朝敵(てうてき)と成て、先帝外都(ぐわいと)にて崩御(ほうぎよ)なり、天下大に乱(みだれ)て今に二十七年、公家被官(ひくわんの)人悉(ことごとく)道路に袖をひろげ、武家奉公の族(やから)は、皆国郡に臂(ひぢ)を張る事は何故(なにゆゑ)ぞや。只尊氏(たかうぢの)卿(きやう)、故兵部卿(ひやうぶきやう)親王(しんわう)を殺し奉(たてまつり)し故(ゆゑ)也(なり)。天以(もつ)て許し給はゞ、天下の将軍として六十六(ろくじふろく)箇国(かこく)などか此(この)宮(みや)に帰伏し奉らざらん。然(しから)ば旧主先皇も草の陰(かげ)にても喜悦の眉を開(ひらか)せ給はゞ、忠孝の御志(おんこころざし)を天神地祇(ちぎ)もなどか感応(かんおう)の御眸(おんまなじり)を添(そへ)させ給はざらん。然(しから)ば御子孫繁昌して天下の武将たるべきに、思慮なき御謀叛(ごむほん)起されて、先皇梁園(りやうゑん)の御尸(おんかばね)血をそゝき給へば、厳親幽霊(げんしんいうれい)も、いかに方見(うたて)しく覚すらんと、草の陰(かげ)さこそは露も乱(みだる)らめ。昔漢朝に一人の貧者あり。朝気(あさけ)の煙絶(たえ)て、柴の庵のしば/\も、事問通(とひか)はす人もなければ、筧(かけひ)の竹の浮節(うきふし)に堪(たへ)て、可住心地も無(なく)て明し暮しけるが、或(ある)時(とき)曹娥(さうが)と云ける一人の娘を携(たづさ)へて、他国へぞ落(おち)行(ゆき)ける。洪河(こうが)と云(いふ)河を渡らんとするに、折節(をりふし)水増(まさ)りて橋もなく船もなし。行(ゆく)前(さき)遠(とほく)して可留里も遥(はるか)に過(すぎ)ぬれば、何(いつ)までか角(かく)ても可有。さらば自(みづから)此(この)娘を負(おう)てこそ渡らめと思(おもひ)て、先(まづ)川の淵瀬(ふちせ)を知(しら)ん為に、娘をば岸の上に置(おき)て、只一人河の瀬を蹈(ふ)み行(ゆき)ける時に、毒蛇俄(にはか)に浮(うかび)出て、曹娥が父を噛(くは)へて碧潭(へきたん)の底へぞ入(いり)にける。曹娥是(これ)を見て、手を揚(あげ)て地に倒(たふれ)て、如何(いかが)せんと佗(わび)て、悲(かなし)めども可助人もなし。一日二日は尚(なほ)も無墓心にて、若(もし)や流(ながれ)の末に浮出たると、河に傍(そう)て下(くだり)て見れ共(ども)、浮出たる事もなし。若(もし)や岩のはざまに流(ながれ)懸りたると、岸に上り見れ共(ども)、散(ちり)浮ぶ木葉(このは)ならでは、せかれて留(とどま)る物もなし。日を暮(くら)し夜を明(あか)し、空(むなし)くをくれて独(ひとり)は可帰心地も無(なか)りければ、七日七夜(なぬかななよ)まで川の上にひれ臥(ふし)、天に叫(さけ)び地に哭(こく)して、「我(わが)父を失(うしなひ)つる毒蛇を罰してたび候へ。縦(たとひ)空(むなし)き形なり共、父を今一度(いちど)我に見せしめ給へ。」と、梵天(ぼんてん)・帝釈(たいしやく)・堅牢地神(けんらうぢじん)に肝胆(かんたん)を砕(くだき)てぞ祈(いのり)ける。夫(それ)叶(かな)はぬ物ならば同(おなじ)水底(みなそこ)に沈(しづ)まんともだへあこがる。志誠(まこと)に蒼天(さうてん)にや答へけん、洪河(こうが)の水忽(たちまち)に血に成て流(ながれ)けるが、毒蛇遂(つひ)に河伯水神(かはくのすゐじん)に罰せられて、曹娥が父を乍呑其(その)身寸々(つだつだ)に被切割て、波の上にぞ浮出たりける。曹娥此(この)処に空(むなし)き骨(こつ)を収(をさめ)て、泣々(なくなく)故郷(こきやう)へ帰(かへり)にけり。彼(かの)処の人是(これ)を憐(あはれみ)て、此(ここ)に墳(つか)を築(きづ)き石を刻(きざみ)て、碑(ひ)の文を書て立たりける。其銘石(そのめいせき)今に残て、行客泪(なみだ)を落(おと)し騒人(さうじん)詩を題(だい)す、哀なりし孝行也(なり)。又発鳩(はつきう)山に精衛(せいゑい)と申(まうす)人、他国に行(ゆき)て帰るとて、難風に船を覆(くつがへ)されて、海中に沈(しづみ)て無墓成(なり)にけり。其(その)子未(いまだ)幼(いとけな)くて故郷(ふるさと)に独(ひとり)有(あり)けるが、父が海に沈(しづ)める事を聞て、其(その)江の辺(ほとり)に行て夜昼泣(なき)悲(かなしみ)けるが、尚(なほ)も思(おもひ)に堪(たへ)かね、遂(つひ)に蒼海(さうかい)の底に身を投(なげ)て死(しに)にけり。其魂魄(そのこんぱく)一の鳥と成て、波の上に飛(とび)渡り、精衛々々と呼(よぶ)声、泪(なみだ)を不催云(いふ)事なし。怨念(をんねん)尽(つく)る事なければ、此(こ)の鳥自(みづか)ら大海(だいかい)を埋(うづめ)て、平地になさんと思ふ心を挿(さしはさみ)、毎日三度(さんど)草の葉木の朶(えだ)をくはえて、海中に沈(しづ)めて飛帰る。尾閭(びりよ)洩(もら)せ共不乾、七旱(しつかん)ほせ共(ども)曾(かつ)て一滴も不減大海なれば、何(いか)なる神通(じんつう)を以ても争(いかで)か埋(うづめ)はつべき。され共父が怨(あた)を報(はう)ぜん為に、此(この)鳥一枝(いつし)一葉(いちえふ)を含(ふくん)で、海中に是(これ)を沈(しづむ)る事哀(あはれ)なりける志也(なり)。されば此(この)精衛を題(だい)するに、人笑其功少、我怜其志多と、詩人も是(これ)を賛(ほめ)たり。君不見乎、精衛は卑(いやし)き鳥也(なり)。親の恩を報じて大海を埋(うめ)ん事を謀(はか)る。曹娥は幼(いとけな)き女なれ共(ども)、父の為に悲(かなしん)で、毒蛇を害(がい)する事を得たり。人として鳥獣にだにも不及、男子にして女子にも如(しか)ず、何をか異(こと)也(なり)とせんやと、此(この)宮(みや)の御謀叛(ごむほん)を欺(あざむ)き申さぬ人はなし。
○龍泉寺(りゆうせんじ)軍(いくさの)事(こと) S3408
竜泉の城(じやう)には和田・楠等(くすのきら)相謀(あひはかつ)て、初は大和・河内の兵千(せん)余人(よにん)を篭置(こめおき)たりけるが、寄手(よせて)敢(あへ)て是(これ)を責(せめ)ん共せざりける間、角(かく)ては徒(いたづら)に勢を置ても何(なに)かせん、打散(うちちら)してこそ野軍(のいくさ)にせめとて、竜泉の勢をば皆呼(よび)下(くだし)て、さしもなき野伏共(のぶしども)百人(ひやくにん)許(ばかり)見せ勢に残し置き、此(ここ)の木の梢、彼(かし)この弓蔵(ゆみかくし)のはづれに、旗許(ばかり)を結付(ゆひつけ)、尚(なほ)も大勢の篭(こも)りたる体を見せたりける。津々山の寄手(よせて)是(これ)を見て、「あなをびたゝし。四方(しはう)手を立(たて)たる如くなる山に、此(この)大勢の篭(こも)りたらんずるをば、何(いか)なる鬼神共いへ、可責落者に非(あら)ず。」とろ々に云(いひ)恐(おそれ)て、責(せめ)んと云(いふ)人は一人もなし。只徒(いたづら)に旗許(ばかり)を見上(みあげ)て、百五十(ひやくごじふ)余日(よにち)過(すぎ)にけり。或(ある)時(とき)土岐桔梗一発の中に、些(ちと)なま才覚(ざいかく)ありける老武者、竜山(りゆうせん)の城(じやう)をつく/゛\と守り居たりけるが、其(その)衆中に語て云(いは)く、「太公が兵書の塁虚篇(るゐきよへん)に、望其塁上飛鳥不驚、必知敵詐而為偶人也(なり)といへり。我此(この)三四日相近て竜泉の城(じやう)を見るに、天に飛(とぶ)鳶(とび)林に帰る烏(からす)、曾(かつ)て驚(おどろく)事なし。如何様(いかさま)是(これ)は大勢の篭(こも)りたる体(てい)を見せて、旗許(ばかり)を此彼(ここかしこ)に立(たて)置(おき)たりと覚ゆるぞ。いざや人々他の勢を不交此(この)一発許(ばかり)向て竜泉を責(せめ)落(おと)し、天下の称歎(しようたん)に備(そなへ)ん。」と云(いひ)ければ、桔梗一発の衆五百(ごひやく)余騎(よき)、皆、「可然。」とぞ同じける。さらば軈(やが)て打立(うつたて)とて、閏(うるふ)四月二十九日の暁、桔梗一揆(いつき)五百(ごひやく)余騎(よき)、忍(しのび)やかに津々山(つづやま)より下(おり)て、まだ篠目(しののめ)の明(あけ)はてぬ霧の紛(まぎ)れに、竜泉の一の木戸口(きどぐち)に推寄(おしよせ)、同音に時をどつと作る。細川相摸守(さがみのかみ)清氏と、赤松彦五郎範実(のりざね)とは、津々山の役所を双べて居たりけるが、竜泉の時の声を聞て、「あはや人に前(さき)を懸(かけ)られぬるは。但(ただし)城(じやう)へ切て入(いら)んずる事は、又一重(いちぢゆう)の大事(だいじ)ぞ。夫(それ)をこそ誠の先懸(さきがけ)とは云(いふ)べけれ。馬に鞍(くら)置け旗差(はたさし)急げ。」と云(いふ)程こそ有(あり)けれ。相摸守(さがみのかみ)と彦五郎と、鎧取て肩に投(なげ)懸(かけ)、道々高紐(たかひぼ)堅(かため)て、竜泉の西の一の城戸(きど)、高櫓(たかやぐら)の下へ懸(かけ)上(あげ)たり。爰(ここ)にて馬を蹈放(ふみはな)し、後(うしろ)を屹(きつ)と見たれば、赤松が手(て)の者に、田宮(たなみや)弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)・木所(きどころ)彦五郎・高見(たかみ)彦四郎(ひこしらう)、三騎続ひたり。其迹(そのあと)を見れば、相摸守(さがみのかみ)の郎従六七十、かけ堀共云はず我先(さき)にと馳(はせ)来る。其(その)旗差、高岸(たかぎし)に馬の鼻を突(つか)せて、上(のぼり)かねたるを見て、相摸守(さがみのかみ)自(みづから)走(わしり)下(くだり)て、其(その)旗をおつ取て、切岸(きりぎし)の前に突立(つきた)て、「先懸(さきがけ)は清氏に有(あり)。」と高声(かうしやう)に名乗(なのり)ければ、赤松彦五郎城の中へ入(いり)、「先懸(さきがけ)は範実にて候。後の証拠(しようご)に立(たち)て給(たまは)り候へ。」と声々に名乗て、屏(へい)の上をぞ越(こえ)たりける。是(これ)を見て桔梗一揆(いつき)の衆に日吉(ひよし)藤田兵庫(ひやうごの)助(すけ)・内海(うつみ)修理(しゆりの)亮(すけ)光範(みつのり)、城戸(きど)を引破て込(こみ)入る。城の中の兵共(つはものども)、暫(しばら)く支(ささ)へて戦(たたかひ)けるが、敵の大勢に御方(みかた)の無勢(ぶせい)を顧(かへりみ)て、叶はじとや思(おもひ)けん、心閑(こころしづか)に防矢(ふせぎや)射て、赤坂(あかさか)を差して落(おち)行(ゆき)ける。暫(しばら)くあれば、陣々に集り居たる大勢共、「すはや桔梗一揆(いつき)が竜泉へ寄(よせ)て責(せめ)けるは。但(ただ)し輙(たやす)くはよも責(せめ)落さじ。楯の板しめせ、射手(いて)を先立(さきだて)よ。」と、最(いと)騒(さわが)ず打立て、其(その)勢既(すで)に十万(じふまん)余騎(よき)、竜泉の麓へ打向ひたれば、城は早(はや)已(すで)に責(せめ)落されて、櫓掻楯(やぐらかいだて)に火を懸(かけ)けり。数万の軍勢(ぐんぜい)頭(かしら)を掻(かい)て、「安からぬ者哉、是(これ)程まで敵小勢なるべしとは知らで、土岐・細川に高名をさせつる事の心地あしさよ。」と、牙(きば)を喫(かま)ぬ者は無(なか)りけり。
○平石城(ひらいはのじやう)軍(いくさの)事(こと)付(つけたり)和田夜討(ようちの)事(こと) S3409
今河上総(かづさの)守(かみ)・佐々木(ささきの)六角判官入道(ろくかくはうぐわんにふだう)崇永(そうえい)・舎弟(しやてい)山内(やまのうち)判官(はうぐわん)、竜山の軍に不合つる事、安からぬ者哉と思はれければ、態(わざと)他の勢を不交して、五百(ごひやく)余騎(よき)、同日の晩景(ばんげい)に平石(ひらいは)の城(じやう)へ押(おし)寄する。一矢射違ふる程こそあれ、切岸高ければ、先なる人の楯の■(さん)を蹈(ふま)へ、甲(かぶと)の鉢(はち)を足だまりにして、城戸(きど)逆木(さかもぎ)を切破り、討(うた)るゝをも不云、手を負(おふ)をも不顧、我先(さき)にと込(こみ)入(いり)ける間、敵不怺して、其(その)日(ひ)の夜半計(ばかり)に金剛山(こんがうせん)を差(さし)て落(おち)にけり。二箇所(にかしよ)の城(じやう)輙(たやす)く落されしかば、寄手(よせて)は勝(かつ)に乗て、竜(りよう)の水を得たるが如くになり、和田・楠は機を失て、魚の泥(どろ)に吻(いきづく)が如し。如斯ならば、赤坂(あかさか)の城(じやう)も幾程か怺(こら)ふべき。暫時(ざんじ)に責(せめ)落(おと)して後、主上(しゆしやう)を生虜進(いけどりまゐ)らせ、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)を取(とり)奉て、都へ返し入れ進(まゐ)らすべしと、諸人指掌を思ひをなす。すはや天下静(しづま)りて、武家一統(いつとう)の世に成(なり)ぬと、思はぬ人は無(なか)りけり。竜門(りゆうせん)・平石(ひらいは)二箇所(にかしよ)の城(じやう)落(おち)しかば、八尾(やをの)城(じやう)も不怺、今は僅(わづか)に赤坂(あかさか)の城(じやう)許(ばか)りこそ残りけれ。此(この)城(じやう)さまでの要害共不見、只(ただ)和田・楠が館(たち)の当(あた)りを敵に無左右蹴散(けちら)されじと、俄(にはか)に構へたる城なれば、暫(しばらく)もやは支(ささふ)るとて、陣々の寄手(よせて)一所に集て二十万騎(にじふまんぎ)、五月三日の早旦(さうたん)に赤坂(あかさか)の城(じやう)へ押(おし)寄せ、城の西北三十(さんじふ)余町(よちやう)が間に一勢(いつせい)々々(いつせい)引分て、先(まづ)向城(むかひじやう)をぞ構へける。楠は元来(ぐわんらい)思慮深きに似て急に敵に当る機(き)少(すくな)し。「此(この)大敵に戦はん事難叶。只(ただ)金剛山へ引隠(ひきかくれ)て敵の勢のすく処を見て後に戦はん。」と申けるを、和田はいつも戦ひを先として、謀(はかりこと)を待(また)ぬ者なりければ、都(すべ)て此(この)儀に不同、「軍の習ひ負(まく)るは常の事也(なり)。只可戦所を不戦して身を慎(つつしむ)を以て恥とす。さても天下を敵に受(うけ)たる南方の者共(ものども)が、遂に野伏軍許(のぶしいくさばかり)しつる事のをかしさよと、日本国の武士共(ぶしども)に笑(わらは)れん事こそ口惜(くちをし)けれ。何様一夜討(ひとようち)して、太刀の柄(つか)の微塵(みぢん)に砕(くだく)る程切(きり)合(あは)んずるに、敵あらけて引退(ひきしりぞき)なば、軈(やが)て勝(かつ)に乗て討(うつ)べし。引(ひか)ずんば又力なく、其(その)時(とき)こそ金剛山の奥までも、引(ひき)篭(こもつ)て戦はんずれ。」とて、夜討に馴(なれ)たる兵三百人(さんびやくにん)勝(すぐつ)て、「問はゞ武(たけ)しと答へよ。」と、約束の名乗(なのり)を定(さだめ)つゝ、夜深(ふく)る程をぞ待(まち)たりける。五月八日の夜なれば、月(つき)は宵(よひ)より入(いり)にけり。時剋(じこく)よく成(なり)ぬとて三百人(さんびやくにん)の兵共(つはものども)、一陣に進(すすん)で見へける結城(ゆふき)が向城へ忍(しのび)寄て、木戸口(きどぐち)にして時を作る。其(その)声に驚て、外(よそ)の陣には騒げ共、結城が陣は少(ちと)も不騒、鳴(なり)を静めて待(まち)懸(かけ)たり。射手(いて)は元来(もとより)櫓(やぐら)にあれば、矢間(やま)を引て差攻(さしつめ)々々(さしつめ)散々に射る。打物(うちもの)の衆は、掻楯逆木(かいだてさかもぎ)を阻(へだ)てゝ、上(のぼ)れば切て落(おと)し、越れば突落(つきおと)し、此(ここ)を先途(せんど)と防(ぎ)けれ共(ども)、和田和泉(いづみの)守(かみ)正武・真前(まつさき)に懸て切て入る。「日来(ひごろ)の言(ことば)を不忘して、続けや人々。」と喚(をめい)て、掻楯(かいだて)切て引破り、一枚楯引側(ひきそば)めて、城の中へ飛(とび)入(いり)ければ、相順(あひしたがふ)兵三百人(さんびやくにん)、続(つづい)て城へぞ込(こみ)入(いり)ける。甲の鉢を傾(かたぶ)け、鎧の袖をゆり合(あは)せ/\切(きり)逢(あう)て、天地を動かし火を散(ちら)す。互に喚叫(をめきさけん)で半時計(はんじばかり)切(きり)合たるに、結城が兵七百(しちひやく)余人(よにん)、余に戦(たたかひ)屈して、已(すで)に引色(ひきいろ)に見へける処に、細川相摸守(さがみのかみ)五百(ごひやく)余騎(よき)にて敵の後(うしろ)へ廻(まは)り、「清氏後攻(ごづめ)をするぞ、引(ひく)な/\。」と呼(よばは)りけるに力を得て、鹿窪(かのくぼ)十郎・富沢(とみさは)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・茂呂(もろの)勘解由左衛門(かげゆざゑもんの)尉(じよう)三人(さんにん)、蹈止(ふみとどまり)々々(ふみとどまり)戦(たたかひ)けるに、和田が兵数十人(すじふにん)討(うた)れ、若干(そくばく)疵(きず)を被(かうむつ)て、叶はじとや思(おもひ)けん、一方の掻楯(かいだて)蹈(ふみ)破て、一度(いちど)にばつと引たりけり。爰(ここ)に結城が若党(わかたう)に、物部(もののべ)次郎郡司(ぐんじ)とて、世に勝(すぐれ)たる兵四人あり。兼(かね)てより、敵若(もし)夜討に入(いり)たらば、我等(われら)四人は敵の引返さんずるに紛(まぎ)れて、赤坂(あかさか)の城(じやう)へ入(いり)、和田・楠に打違へて死(しぬ)るか、不然は城に火を懸(かけ)て焼(やき)落すかと、約束したりけるが、少(ちと)も不違、引て帰る敵に紛(まぎれ)て、四人共に赤坂(あかさか)の城(じやう)へぞ入たりける。夫(それ)夜討強盜(がうだう)をして帰る時、立勝(たちすぐ)り居勝(ゐすぐ)りと云(いふ)事あり。是(これ)は約束の声を出して、諸人同時に颯(さつ)と立(たち)颯(さつ)と居、角(かく)て敵の紛(まぎ)れ居たるをえり出さん為の謀(はかりこと)也(なり)。和田が兵赤坂(あかさか)の城(じやう)に帰て後、四方(しはう)より続松(たいまつ)を出し、件(くだん)の立勝(たちすぐ)り居勝(ゐすぐ)りをしけるに、紛(まぎ)れ入(いれる)四人の兵共(つはものども)、敢(あへ)て加様(かやう)の事に馴(なれ)ぬ者共(ものども)なりければ、無紛えり出されて、大勢の中に取(とり)篭(こめ)られ、四人共に討死して、名を留めけるこそ哀なれ。天下一の剛(かう)の者とは、是(これ)をぞ誠(まこと)に云(いふ)べきと、褒(ほめ)ぬ人こそ無(なか)りけれ。和田が夜討にも、敵陣一所も不退、城気に乗て見へければ、此(この)城(じやう)にて敵を支(ささ)へん事は叶はじとて、和田も楠も諸共(もろとも)に、其(その)夜の夜半許(ばかり)に、赤坂(あかさか)の城(じやう)に火を懸(かけ)て、金剛山の奥へ入(いり)にけり。
○吉野(よしのの)御廟(ごべう)神霊(しんれいの)事(こと)付(つけたり)諸国(しよこくの)軍勢(ぐんぜい)還京都事(こと) S3410
南方の皇居(くわうきよ)は、金剛山の奥観心寺(くわんしんじ)と云(いふ)深山(みやま)なれば、左右なく敵の可付所ならね共、斥候(せきこう)の御警固(おんけいご)に憑(たのみ)思召(おぼしめさ)れたる龍泉・赤坂(あかさか)も責(せめ)落されぬ。又昨日一昨日(おととひ)まで御方せし兵共(つはものども)、今日は多く御敵(おんてき)と成(なり)ぬと聞へしかば、山人・杣人(そまびと)案内者(あんないしや)として、如何様(いかさま)何(いづ)くの山までも、敵責(せめ)入(いり)ぬと申沙汰しければ、主上(しゆしやう)を始(はじめ)進(まゐら)せて、女院・皇后・月卿・雲客、「こは如何(いかが)すべき。」と、懼恐(おぢおそ)れさせ給ふ事無限。爰(ここ)に二条(にでうの)禅定(ぜんぢやう)殿下の候人(こうにん)にて有(あり)ける上北面、御方の官軍(くわんぐん)加様(かやう)に利(り)を失(うしな)ひ城を落さるゝ体(てい)を見て、敵のさのみ近付(ちかづか)ぬ先に妻子共(さいしども)をも京の方へ送り遣(つかは)し、我(わが)身も今は髻(もとどり)切て、何(いか)なる山林(さんりん)にも世を遁(のが)ればやと思(おもひ)て、先(まづ)吉野辺まで出たりけるが、さるにても多年の奉公を捨(すて)はてゝ主君に離れ、此境(このさかひ)を立(たち)去る事の悲(かなし)さに、せめて今一度(いちど)先帝の御廟(ごべう)へ参り、出家の暇(いとま)をも申さんと思(おもひ)て、只一人御廟(ごべう)へ参りたるに、近来(このごろ)は洒掃(しやさう)する人無(なか)りけりと覚(おぼえ)て、荊棘(けいぎよく)道を塞(ふさ)ぎ、葎(むぐら)茂(しげり)て旧苔(きうたい)扉(とぼそ)を閉(とぢ)たり。何(いつ)の間(ま)にかくは荒(あれ)ぬらんと此彼(ここかしこ)を見奉るに、金炉香(きんろか)絶(たえて)草残一叢之煙、玉殿無灯、蛍照五更(ごかう)之夜。思(おもひ)有て聞く時は、心なき啼鳥(ていてう)も哀を催(もよほ)す歟(か)と覚へ、岩漏(いはもる)水の流(ながれ)までも、悲(かなしみ)を呑(のむ)音なれば、通夜(よもすがら)円丘(ゑんきう)の前に畏(かしこまつ)て、「つく/゛\と憂世(うきよ)の中の成行(なりゆ)く様を案じつゞくるに、抑(そもそも)今の世何(いか)なる世なれば、有威無道(ぶだう)者は必(かならず)亡ぶと云(いひ)置(おき)し先賢(せんけん)の言(ことば)にも背(そむ)き、又百王を守らんと誓ひ給(たまひ)し神約も皆誠ならず。又いかなる賎(いやし)き者までも、死(し)ては霊(りやう)となり鬼(き)と成て彼(かれ)を是(ぜ)し此(これ)を非(ひ)する理(ことわり)明(あきらか)也(なり)。況(いはんや)君已(すで)に十善の戒力(かいりき)に依て、四海(しかい)の尊位(そんゐ)に居し給ひし御事(おんこと)なれば、玉骨は縦(たとひ)郊原(かうげん)の土と朽(くち)させ給ふとも、神霊(しんれい)は定(さだめ)て天地に留て、其苗裔(そのべうえい)をも守り、逆臣(げきしん)の威(ゐ)をも亡(ほろぼ)さんずらんとこそ存ずるに、臣君を犯(をか)せ共天罰もなし、子父を殺せども神の忿(いかり)をも未見(いまだみず)。こはいかに成(なり)行(ゆく)世の中ぞや。」と泣々(なくなく)天に訴(うつたへ)て、五体(ごたい)を地に投(なげ)礼をなす。余(あま)りに気くたびれて、頭(かうべ)をうな低(だれ)て少し目睡(まどろみ)たる夢の中に、御廟(ごべう)の震動する事良(やや)久し。暫(しばらく)有て円丘(ゑんきう)の中より誠(まこと)にけたかき御声(みこゑ)にて、「人やある/\。」と召(めさ)れければ、東西の山の峯より、「俊基(としもと)・資朝(すけとも)是(これ)に候。」とて参りたり。此(この)人々は、君の御謀叛(ごむほん)申(まうし)勧(すすめ)たりし者共(ものども)也(なり)とて、去る元徳三年五月二十九日に、資朝(すけとも)は佐渡(さどの)国(くに)にて斬(きら)れ、俊基(としもと)は其(その)後鎌倉(かまくら)の葛原(くずはら)が岡(をか)にて、工藤(くどう)二郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)に斬(きら)れし人々也(なり)。貌(かたち)を見れば、正(まさし)く昔見たりし体(てい)にては有(あり)ながら、面には朱(しゆ)を差(さし)たるが如く、眼の光耀(かかやい)て左右の牙(きば)銀針(ぎんしん)を立(たて)たる様に、上下(うへした)にをひ違(ちがひ)たり。其(その)後円丘の石の扉(とぼそ)を排(ひら)く音しければ遥(はるか)に向上(みあげ)たるに、先帝袞竜(こんりよう)の御衣(ぎよい)を召(めさ)れ、宝剣を抜(ぬい)て右の御手(おんて)に提(ひつさ)げ、玉■(ぎよくい)の上に坐(ざ)し給ふ。此(この)御容(おんすがた)も昔の竜顔には替(かはつ)て、忿(いか)れる御眸(おんまなじり)逆(さかさま)に裂(さけ)、御鬚(おんひげ)左右へ分(わか)れて、只夜叉(やしや)羅刹(らせつ)の如(ごとく)也(なり)。誠(まこと)に苦(くる)し気(げ)なる御息をつがせ給ふ度毎に、御口より焔(ほのほ)はつと燃(もえ)出て、黒烟(くろけぶり)天に立(たち)上る。暫(しばらく)有て、主上(しゆしやう)俊基(としもと)・資朝(すけとも)を御前(おんまへ)近く召(めさ)れて、「さても君を悩(なやま)し、世を乱(みだ)る逆臣(げきしん)共(ども)をば、誰にか仰(おほせ)付(つけ)て可罰す。」と勅問あれば、俊基(としもと)・資朝(すけとも)、「此(この)事は已(すで)に摩醯脩羅(まけいしゆら)王の前にて議定有(あり)て、討手を被定て候。」「さて何(いか)に定(さだめ)たるぞ。」「先(まづ)今南方の皇居(くわうきよ)を襲はんと仕候五畿七道(ごきしちだう)の朝敵共(てうてきども)をば、正成に申(まうし)付(つけ)て候へば、一両日(いちりやうにち)の間には、追(おつ)返し候はんずらん。仁木(につき)右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)をば、菊池(きくち)入道(にふだう)愚鑑(ぐかん)に申(まうし)付(つけ)て候へば、伊勢(いせの)国(くに)にてぞ亡(ほろ)び候はんずらん。細川相摸守(さがみのかみ)清氏をば、土居(どゐ)・得能(とくのう)に申(まうし)付(つけ)て候へば、四国に渡て後(のち)亡(ほろび)候べし。東国の大将にて罷(まかり)上て候畠山(はたけやま)入道(にふだう)・舎弟(しやてい)尾張(をはりの)守(かみ)をば、殊更嗔恚強盛(しんいがうせい)の大魔王、新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興が申(まうし)請(うけ)候(さふらひ)て、可罰由申(まうし)候(さうらひ)つれば、輙(たやす)かるべきにて候。道誓(だうせい)が郎従共をば、所々にて首を刎(はね)させ候はんずる也(なり)。中に江戸下野(しもつけの)守(かみ)・同遠江守(とほたふみのかみ)二人(ににん)は、殊更に悪(にく)ひ奴(やつ)にて候へば、竜(たつ)の口(くち)に引居(ひきすゑ)て、我(わが)手に懸(かけ)て切(きり)候べしとこそ申候(さうらひ)つれ。」と奏し申ければ、主上(しゆしやう)誠(まこと)に御心(おんこころ)よげに打(うち)咲(えま)せ給て、「さらば年号の替(かは)らぬ先に、疾々(とくとく)退治(たいぢ)せよ。」と被仰て、御廟(ごべう)の中へ入(いら)せ給(たまひ)ぬと見進(まゐら)せて、夢は忽(たちまち)に覚(さめ)にけり。上北面此示現(このじげん)に驚て、吉野より又観心寺へ帰り参り、人々に内々語(かたり)ければ、「只あらまほしき事ぞ、思寝(おもひね)の夢に見へつらん。」とて、信ずる人も無(なか)りけり。げにも其験(そのしるし)にてや有(あり)けん、敵寄せば尚(なほ)山深く主上(しゆしやう)をも落(おと)し進(まゐら)せんと、逃方(にげがた)を求(もとめ)て戦はんとはせざりけり。観心寺の皇居(くわうきよ)へは敵曾(かつて)不寄来、剰(あまつさ)へさしてし出したる事もなきに、「南方の退治(たいぢ)今は是(これ)までぞ。」とて、同五月二十八日(にじふはちにち)、寄手(よせて)の総大将宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあつそん)尼崎(あまがさき)より帰洛し給(たまひ)しかば、畠山・仁木・細川・土岐・佐々木(ささき)・宇都宮(うつのみや)以下、都(すべ)て五畿七道(ごきしちだう)の兵二十万騎(にじふまんぎ)、我先にと上洛(しやうらく)して各国へぞ下りける。さてこそ上北面が見たりしと云(いふ)夢も、げにやと思(おもひ)合(あは)せられて、如何様(いかさま)にも、仁木・細川・畠山も、滅ぶる事やあらんずらんと、夢を疑(うたがひ)し人々も、却(かへつ)て是(これ)をぞ憑(たのみ)ける。