太平記(国民文庫)
太平記巻第三十二
○茨宮(いばらのみや)御位(おんくらゐの)事(こと) S3201
今度吉野殿(よしのどの)と将軍と御合体(ごがつてい)の儀破れて合戦に及(およびし)剋(きざみ)、持明院の本院(ほんゐん)・新院・主上(しゆしやう)・春宮・梶井(かぢゐ)二品(にほん)親王(しんわう)まで、皆南方の敵に囚(とらはれ)させ給て、或(あるひ)は賀名生(あなふ)の奥、或(あるひ)は金剛山(こんがうせん)の麓に御座(ござ)あれば、都には御在位(ございゐ)の君も御座(おはしま)さず、山門には時の貫首(くわんじゆ)も渡(わたら)せ給はず。此(この)平安城(へいあんじやう)と比叡山(ひえいさん)と同時に始まりて、已(すで)に六百(ろつぴやく)余歳(よさい)、一日も未(いまだ)斯(かか)る事をば不承及、是(これ)ぞ末法の世に成(なり)ぬる験(しるし)よと、浅猿(あさまし)かりし事共(ことども)也(なり)。されども角(かく)ては如何(いかが)あるべきとて、天台(てんだいの)座主には、梶井(かぢゐ)二品(にほん)親王(しんわう)の御弟子(おんでし)、承胤(じよういん)親王(しんわう)を成(なし)奉る。此(この)宮(みや)は前門主の御振舞(おんふるまひ)に様替(やうかはつ)て、遊宴奇物をも愛せさせ給はず、行業(ぎやうごふ)不退(ふたい)にして只吾山(わがやま)の興隆をのみ御心(おんこころ)に懸(かけ)られたりければ、靡(なび)き奉らぬ衆徒も無(なか)りけり。さて御位には誰をか即(つ)け進らすべきと尋(たづね)求(もとめ)奉る処に、本院(ほんゐん)第二(だいに)の御子、三条(さんでう)の内大臣(ないだいじん)公秀(きんひで)の御女(おんむすめ)三位殿(さんみどの)の御局、後には陽禄(やうろく)門院と申しゝ御腹(おんはら)に生(うま)れさせ給たりしが今年十五に成(なら)せ給ふを、日野(ひのの)春宮(とうぐうの)権大進(ごんのたいしん)保光(やすみつ)に仰(おほせ)て、南方へ取(とり)奉らんとせられけるが、兔角(とかく)料理(れうり)に滞(とどこほつ)て、保光京都に捨置(すておき)奉りけるを尋出(たづねいだし)進(まゐら)せて、御位には即進(つけまゐら)せける也(なり)。此(この)宮(みや)をば去年御継母(ごけいぼ)宣光門(せんくわうもんの)女院(にようゐん)の御計(おんはから)ひとして、妙法院(めうほふゐん)の門跡(もんぜき)へ御入室(ごにふしつ)有(ある)べしとて、已(すでに)御出家あらんとし給けるを、御外祖母(ごぐわいそぼ)広義門院より、内々(ないない)北斗堂の実■(じつさん)法印に御占(うら)を問(とは)せ給たりければ、王位に即(つか)せ可給御果報御座(おはしま)す由を勘(かんがへ)申(まうし)たりける間、誠しからずとは乍思召、御出家の儀を止(とめ)られて、日野(ひのの)右大弁時光に預置進(あづけおきまゐら)せられける。其翌(そのあけ)の年観応三年八月二十七日(にじふしちにち)に俄(にはか)に践祚(せんそ)有(あり)しかば、兆前(てうぜん)の勘文(かんもん)更(さら)に一事(いちじ)も不違、実■(じつさん)法印忽(たちまち)に若干(そくばく)の叡感(えいかん)の忠賞に預(あづか)りけり。
○無剣璽御即位無例事(こと)付(つけたり)院(ゐんの)御所炎上(えんしやうの)事(こと) S3202
同九月二十七日(にじふしちにち)に改元(かいげん)有て文和(ぶんわ)と号す。其(その)年の十月に河原(かはら)の御禊(みはらひ)有て、翌(あけ)の月大嘗会(だいじやうゑ)を被遂行。三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)をはしまさで、御即位の事は如何(いかが)有(ある)べからんと、諸卿(しよきやうの)異儀(いぎ)多かりけれ共(ども)、武家強(しひ)て申沙汰しける上は、只兔(と)も角(かく)も其(その)儀に随(したが)ふべしとて、織部(かんなめ)の祭をば致されけるとぞ承(うけたまは)る。夫(それ)人代(じんだい)百王の始は、鵜羽葺不合尊(うがやふきあはせずのみこと)の第四(だいしの)王子(わうじ)、神日本磐余彦尊(かんやまといはあれひこのみこと)、大和(やまとの)国(くに)畝火橿原(うねびかしはら)の宮(みや)にいまして、朝政(あさまつりこと)をきこしめしたりしより以来(このかた)、我(わが)君の御宇已(すで)に九十九代、三種(さんじゆ)の神器(じんぎ)をはしまさで、御位を続(つが)せ給ふ事は、未(いまだ)其例(そのれい)を不聞と、有職(いうしよく)を立(たつ)る人々の欺(あざむき)申さぬは無りけり。帝都(ていと)今静(しづま)りて御在位(ございゐ)安泰(あんたい)なるに付(つけ)ても、先皇(せんくわう)・両院・梶井(かぢゐの)宮(みや)、南山(なんざん)の奥に御座(ござ)あれば、さこそ御心(おんこころ)を悩(なやま)さるらめと、主上(しゆしやう)御心(おんこころ)苦(くるし)き事に思召(おぼしめさ)れければ、何(いか)にもして南山より盜(ぬすみ)出し奉らんと方便を被廻けれ共(ども)、主上(しゆしやう)・両上皇は南山の警固の兵密(きび)しくて可有御出(おんいで)様(やう)も無りけり。遥(はるか)に程経て梶井(かぢゐの)宮(みや)許(ばかり)をぞ、兔角(とかく)して盜(ぬすみ)出し進(まゐら)せける。同年の十月二十八日(にじふはちにち)に国母(こくぼ)陽禄門院隠(かくれ)させ給ひければ、天下諒闇(りやうあん)の儀にて、洛中(らくちゆう)に物(もの)の音をもならさゞる事三月(みつき)、禁裏椒庭(せうてい)殊更(ことさら)に物哀(ものあわれ)なる折節也(なり)。同(おなじき)二年二月四日、俄(にわか)に矢火出来(いでき)て院(ゐんの)御所持明院殿(ぢみやうゐんどの)焼(やけ)にけり。回禄(くわいろく)は天災(てんさい)にて尋常(よのつね)有(ある)事なれ共(ども)、近年打続き京中(きやうぢゆう)の堂社・宮殿残(のこり)少(すくな)く焼(やけ)失(うせ)ぬる事直事(ただこと)とも不覚(おぼえず)、只(ただ)法滅の因縁(いんえん)王城の衰微(すゐび)とぞ見へたりける。元弘・建武の乱より以来回禄に逢(あひ)ぬる所々を数(かぞふ)れば、先(まづ)内裏・馬場殿(ばばどの)・准后(じゆごう)の御所・式部卿親王(しんわう)の常盤井殿(ときはゐどの)・兵部卿(ひやうぶきやうの)宮(みや)の二条(にでう)の御所・宣光門(せんくわうもんの)女院(にようゐん)の御旧宅・城南(ぜいなんの)離宮の鳥羽殿・竹田に近き伏見殿・十楽院(じふらくゐん)・梨本(なしもと)・青蓮院(しやうれんゐん)・妙法院(めうほふゐん)の白河殿・大覚寺殿(だいかくじどの)の御旧迹(ごきうせき)・洞院左府(とうゐんさふ)の亭宅(ていたく)・大炊御門内府(おほひのみかどだいふ)の亭(てい)・吉田(よしだの)内府の北白河・近衛(このゑ)殿(どの)の小坂殿(こざかどの)・為世(ためよの)卿(きやう)の和歌所(わかどころ)・大覚寺(だいかくじの)御山庄(さんさう)・三条(さんでうの)大納言(だいなごん)棲馴(すみなれ)し毘沙門堂(びしやもんだう)・頼基が天(あま)の橋立跡(あと)旧(ふり)て、塩竃(しほがま)の浦を摸(うつ)せし河原(かはらの)院(ゐん)・中書王の古を慕(したう)て立(たて)し花園(はなぞの)や、融(とほる)の大臣(おとど)の迹(あと)を慕(したふ)千種(ちぐさの)宰相(さいしやう)の新亭(しんてい)、雲客以下の家々は未(いまだ)数(かぞふ)るに非遑。禁裏・仙洞・竹苑(ちくゑん)・椒房(せうばう)、三台九卿(さんだいきうけい)の曲阜(きよくふ)以下都(すべ)て三百二十(さんびやくにじふ)余箇所(よかしよ)、此(この)時(とき)に当て焼(やけ)にけり。仏閣霊験(れいけん)の地には、法城寺・法勝寺(ほつしようじ)・長楽寺(ちやうらくじ)・清水寺(せいすゐじの)六僧房・双林寺(さうりんじ)・講堂・慶愛寺(けいあいじ)・北霊山(きたりやうぜん)・西福寺・宇治(うぢの)宝蔵(ほうざう)・浄住寺(じやうぢゆうじ)・六波羅(ろくはら)の地蔵堂・紫野の寺・東福寺(とうふくじ)・雪村(せつそん)の塔頭(たつちゆう)大龍庵(たいりようあん)・夢窓国師の建(たて)られし天竜寺(てんりゆうじ)に至るまで、禅院・律院・御祈祷所、三十(さんじふ)余箇所(よかしよ)の仏閣も皆此(この)時(とき)に焼(やけ)にけり。されば東山西郊(ゆしのをか)、京白河(しらかはの)在家(ざいけ)もつゞかず、寺院も稀なれば、盜賊(たうぞく)巷(ちまた)に満(みち)て、往来(わうらい)の道も不安、貝鐘(ばいしよう)の声も幽(かすか)にして、無明の睡(ねむり)も醒(さ)め難(がた)し。
○山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)為敵事(こと)付(つけたり)武蔵将監(しやうげん)自害(じがいの)事(こと) S3203
山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏(もろうぢ)は今度八幡(やはた)の軍に功有て、忠賞我に勝(まさ)る人非じと被思ける間、先年拝領して未(いまだ)当(たう)知行無(なか)りける若狭(わかさの)国(くに)の斉所(さいしよ)今積(いまづみ)を如本の可宛給由(よし)、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)に属(しよく)して申達(まうしたつ)せん為に、日々に彼の宿所へ行(ゆき)給ひけれ共(ども)、「今日は連歌の御会席(くわいせき)にて候。」「只今(ただいま)は茶会(ちやのくわい)の最中にて候。」とて一度(いちど)も対面に不及、数剋(すこく)立(たた)せ、暮(くる)るまで待(また)せて、只(ただ)徒(いたづら)にぞ帰しける。度重(たびかさ)なれば右衛門(うゑもんの)佐(すけ)大に腹立(ふくりふ)して、「周公旦(しゆこうたん)は文王の子武王の弟たりしか共、髪を洗ふ時訴人(そにん)来れば髪を握(にぎつ)て合(あひ)、飯(はん)を食する時賓客(ひんかく)来れば哺(ほ)を吐(はい)て対面し給(たまひ)けり。才乏(とぼ)しといへ共我大樹(たいじゆ)の一門(いちもん)に列(つら)なる身たり。礼儀を存せば、沓(くつ)を倒(さかさま)にしても庭に出迎ひ、袴の腰を結び/\も急(いそぎ)てこそ対面すべきに、此(この)入道(にふだう)加様(かやう)に無礼(ぶれい)に振舞(ふるまふ)こそ返々(かへすがへす)も遺恨(ゐこん)なれ。所詮(しよせん)叶はぬ訴詔(そしやう)をすればこそ、諂(へつら)ふまじき人をも諂(へつら)へ。今夜の中に都を立て伯耆へ下り、軈(やが)て謀叛を起して天下を覆(くつがえ)し、無礼なりつる者共(ものども)に、思(おもひ)知(しら)せんずる物を。」と独言(ひとりごと)して、我(わが)宿所へ帰ると均(ひとし)く、郎等共(らうどうども)に角(かく)共(とも)いはず、唯一騎(いつき)文和(ぶんわ)元年八月二十六日(にじふろくにち)の夜半に伯耆を差(さし)て落(おち)て行けば、相順(あひしたがひ)し兵共(つはものども)聞伝(つたへ)て、七百(しちひやく)余騎(よき)迹(あと)を追てぞ下りける。伯耆(はうきの)国(くに)に著(つか)れければ、師氏先(ま)づ親父(しんぶ)左京大夫時氏の許(もと)に行(ゆき)て、「京都の沙汰の次第、面目を失(うしなひ)つる間、将軍に暇(いとま)をも申さず罷(まかり)下(くだり)候。」と語りければ、親父も大に忿(いかつ)て、軈(やが)て宮方(みやがた)の御旗(おんはた)を揚(あ)げ、先(ま)づ道誉(だうよ)が小目代(もくだい)にて、吉田肥前(ひぜん)が出雲(いづもの)国(くに)に有けるを追出し、事の子細を相触(あひふる)るに、富田(とんだの)判官(はうぐわん)を始として、伊田(いだ)・波多野(はだの)・矢部(やべ)・小幡(をばた)に至(いたる)まで皆同意しければ、出雲・伯耆・隠岐・因幡、四箇国(しかこく)即時に打順(うちしたが)へてげり。さらば軈(やが)て南方へ牒送(てふそう)せよとて、吉野殿(よしのどの)へ奏聞を経(ふ)るに、山陰道(せんおんだう)より攻(せめ)上らば、南方よりも官軍(くわんぐん)を出されて、同時に京都を可被攻と被仰出ければ、時氏大に悦(よろこび)て、五月七日伯耆(はうきの)国(くに)を立て、但馬・丹後(たんご)の勢(せい)を引具(ひきぐ)して、三千(さんぜん)余騎(よき)丹波路(たんばぢ)を経て攻(せめ)上る。兼(かね)て相図を差(さし)ければ、南方より惣大将(そうだいしやう)四条(しでうの)大納言(だいなごん)隆俊(たかとし)・法性寺左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)康長(やすなが)・和田・楠・原・蜂屋(はちや)・赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範(うぢのり)・湯浅・貴志(きじ)・藤波を始(はじめ)として、和泉・河内・大和・紀伊(きいの)国(くにの)兵共(つはものども)三千(さんぜん)余騎(よき)勝(すぐ)り出しければ、南は淀・鳥羽・赤井・大渡(おほわたり)、西は梅津・桂の里・谷堂(たにのだう)・峯堂(みねのだう)・嵐山までも陣に取らぬ所なければ、焼(たき)つゞけたる篝火(かがりび)の影、幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数を不知(しらず)。此(この)時(とき)将軍未(いまだ)上洛(しやうらく)し給はで、鎌倉(かまくら)にをはせしかば、京都余(あま)りに無勢(ぶせい)にて、大敵可戦様も無(なか)りけり。中々なる軍して敵に気を著(つけ)ては叶(かなふ)まじとて、土岐・佐々木(ささき)の者共(ものども)、頻(しきり)に江州(がうしう)へ引退(ひきしりぞい)て、勢多にて敵を相待(あひまた)んと申けるを、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあそん)、「敵大勢なればとて、一軍(ひといくさ)もせでいかゞ聞逃(ききにげ)をばすべき。」とて、主上(しゆしやう)をば先(まづ)山門の東坂本(ひがしさかもと)へ行幸なし進(まゐらせ)て、仁木・細河(ほそかは)・土岐・佐々木(ささき)三千(さんぜん)余騎(よき)を一処に集め、鹿谷(ししのたに)を後(うしろ)に当(あて)て、敵を洛川(らくせん)の西に相待たる。此(この)陣の様、前に川有て後に大山峙(そばだち)たれば、引場(ひきば)の思(おもひ)はなけれ共(ども)、韓信が兵書を褊(さみ)して背水(はいすゐの)陣を張(はり)しに違(ちが)へり。殊更(ことさら)土岐・佐々木(ささき)の兵、近江と美濃とを後に於(おい)て戦はんに、引て暫(しばらく)気を休めばやと思はぬ事や有(ある)べきと、未戦(いまだたたかはざる)前(さき)に敵に心をぞはかられける。去程(さるほど)に文和二年六月九日(ここのか)卯刻(うのこく)に、南方の官軍(くわんぐん)、吉良(きら)・石堂(いしたう)・和田・楠・原・蜂屋・赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範三千(さんぜん)余騎(よき)、八条(はつでう)九条(くでう)の在家(ざいけ)に火を懸(かけ)て、相図の烟(けぶり)を上(あげ)たれば、山陰道(せんおんだう)の寄手(よせて)、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏子息右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏・伊田(いだ)・波多野(はだの)、五千(ごせん)余騎(よき)、梅津・桂・嵯峨(さが)・仁和寺(にんわじ)・西七条に火を懸(かけ)て、先(まづ)京中(きやうぢゆう)へぞ寄(よせ)たりける。洛中(らくちゆう)には向ふ敵なければ、南方西国の兵共(つはものども)、一所に打寄て、四条川原(しでうがはら)に轡(くつばみ)を双(ならべ)て引(ひか)へたり。此(これ)より遥(はるか)に敵の陣を見遣(みやれ)ば、鹿谷(ししのたに)・神楽岡(かぐらをか)の南北に、家々の旗二三百流れ翻(ひるがへつ)て、四(よ)つ目結(めゆひ)の旗一流(ひとながれ)真前(まつさき)に進(すすん)で、真如堂の前に下(お)り合(あ)ふたり。敵陣皆(みな)山に寄て木陰(こかげ)に引(ひか)へたり。勢の多少も不見分。和田・楠、法勝寺の西の門を打通て、川原(かはら)に引(ひか)へたりけるが、敵を帯(おび)き出して勢の程を見んとて、射手(いて)の兵五百人(ごひやくにん)馬より下(おろ)し、持楯(もつたて)畳楯(でふたて)つきしとみ/\、閑(しづか)に田の畦(くろ)を歩(あゆま)せて、次第々々に相近付(あひちかづく)。爰(ここ)に佐々木(ささき)惣領(そうりやう)氏頼、其(そ)の比(ころ)遁世(とんせい)にて西山辺(にしやまへん)に隠れ居たりける間、舎弟(しやてい)五郎右衛門(うゑもんの)尉(じよう)世務(せむ)に代(かはつ)て国の権柄(けんぺい)を執(とり)しが、近江(あふみの)国(くに)の地頭・御家人、此(この)手に属(しよく)して五百(ごひやく)余騎(よき)有(あり)けるが、楠が勢に招(まねか)れて、胡録(えびら)を敲(たた)き時の声を揚げ喚(をめい)て懸る。楠が勢陽(やう)に開き陰(いん)に囲(かた)めて散々に射る。射れ共佐々木(ささき)が勢(せい)ひるまず、錣(しころ)を傾けて袖をかざし、懸(かけ)入(いり)けるを見て、山名が執事小林左京(さきやうの)亮(すけ)、七百(しちひやく)余騎(よき)にて横合(よこあひ)にあふ。佐々木(ささき)勢余(あま)りに手痛く懸(かけ)られて、叶はじとや思(おもひ)けん、神楽岡(かぐらをか)へ引上(ひきあが)る。宮方(みやがた)手合(てあはせ)の軍に打勝て、気を揚(あ)げ勇(いさみ)に乗て東の方を見たれば、土岐の桔梗(ききやう)一揆(いつき)、水色の旗を差上(さしあげ)、大鍬形(おほくはがた)を夕陽(せきやう)に耀(かかやか)し、魚鱗(ぎよりん)に連(つらな)りて六七百騎(ろくしちひやくき)が程控(ひか)へたり。小林是(これ)を見て人馬に息をも継(つが)せず、軈(やが)て懸(かけ)合(あは)せんとしけるを、山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)扇を揚(あげ)て招止(まねきとど)め、荒手(あらて)の兵千(せん)余騎(よき)を引勝(ひきすぐつ)て相近付(あひちかづく)。土岐も山名もしづ/\と馬を歩ませて、一矢射違(いちがふ)る程こそあれ。互に諸鐙(もろあぶみ)を合(あは)せて懸入り、敵御方二千(にせん)余騎(よき)、一度(いちど)に颯(さつ)と入(いり)乱(みだれ)て、弓手に逢ひ馬手(めて)に背(そむ)き、半時許(はんじばかり)切(きり)合(あひ)たるに、馬烟(むまけぶり)虚空(こくう)に廻(まはつ)て飆(つじかぜ)微塵(みぢん)を吹(ふき)立(たて)たるに不異。太刀の鍔音(つばおと)・時(とき)の音、大山(たいざん)を崩(くづ)し大地(だいち)を動(うごか)して、すはや宮方(みやがた)打勝(うちかち)ぬと見へしかば、鞍(くら)の上空(むな)しき放(はな)れ馬四五百疋、河より西へ走(わしり)出て、山名が兵の鋒(きつさき)に頚を貫(つらぬ)かぬは無(なか)りけり。細河(ほそかは)相摸守(さがみのかみ)清氏、是(これ)程御方(みかた)の打負(うちまけ)たるを見ながら、些(すこし)も機を不屈、尚(なほ)勇(いさみ)進(すすん)でぞ見へたりける。吉良・石堂・原・蜂屋・宇都宮(うつのみや)民部(みんぶの)少輔(せう)・海東(かいとう)・和田・楠、皆荒手(あらて)なれば細河(ほそかは)と懸り合て、鴨川を西へ追渡(おひわた)し、真如堂の前を東へ追立て、時移るまでぞ戦たる。千騎(せんぎ)が一騎(いつき)に成(なる)までも引(ひか)じとこそ戦(たたかひ)けれ共(ども)、将軍の陣あらけ靡(なびい)て後(うしろ)の御方(みかた)あひ遠(どほ)に成(なり)ければ、細河(ほそかは)遂(つひ)に打負(うちまけ)て四明(しめい)の峯(みね)へ引上(ひきあが)る。赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範は、いつも打(うち)ごみの軍(いくさ)を好まぬ者也(なり)ければ、手勢計(てぜいばかり)五六十騎(ごろくじつき)引分(ひきわけ)て、返す敵あれば、追立(おつたて)々々(おつたて)切て落す。名もなき敵共(てきども)をば、何百人切てもよしなし。哀(あはれ)よからんずる敵に逢(あは)ばやと願ひて、北白川(きたしらかは)を今路(いまみち)へ向て歩(あゆ)ませ行(ゆく)処に、洗(あら)ひ皮(かは)の鎧の妻(つま)取たるに竜頭(たつがしら)の甲(かぶと)の緒(を)を縮(しめ)、五尺(ごしやく)許(ばかり)なる太刀(たち)二振(ふたふり)帯(はい)て、歯の亘(わた)り八寸(はつすん)計(ばかり)なる大鉞(おほまさかり)を振(ふり)かたげて、近付(ちかづく)敵あらば只一打に打ひしがんと尻目に敵を睨(にらん)で閑(しづか)に落行(おちゆく)武者あり。赤松遥(はるか)に是(これ)をみて、是(これ)は聞(きこゆ)る長山(ながやま)遠江守(とほたふみのかみ)ごさんめれ。其(そ)れならば組(くん)で討(うた)ばやと思(おもひ)ければ、諸鐙(もろあぶみ)合(あは)せて迹(あと)に追著(おつつき)、「洗革(あらひかは)の鎧は長山殿と見るは僻目(ひがめ)か、蓬(きたな)くも敵に後(うしろ)を見せらるゝ者哉(かな)。」と、言(ことば)を懸(かけ)て恥(はぢ)しめければ、長山屹(きつ)とふり返てから/\と打笑ひ、「問ふは誰(たそ)とよ。」「赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)氏範よ。」「さてはよい敵。但(ただし)只一打(ひとうち)に失はんずるこそかはゆけれ。念仏申て西に向へ。」とて、件(くだん)の鉞(まさかり)を以て開き、甲(かぶと)の鉢(はち)を破(われ)よ砕(くだ)けよと思(おもふ)様に打(うち)ける処を、氏範太刀を平(ひら)めて打背(そむ)け、鉞の柄(え)を左の小脇(こわき)に挟(はさみ)て、片手にてえいやとぞ引たりける。引(ひか)れて二疋の馬あひ近に成(なり)ければ、互(たがひ)に太刀にては不切、鉞を奪(うば)はん奪(うばは)れじと引合(ひきあひ)ける程に、蛭巻(ひるまき)したる樫木(かしのき)の柄(え)を、中よりづんと引切て、手本(てもと)は長山(ながやまが)手に残り、鉞の方は赤松が左の脇にぞ留(とどま)りける。長山今までは我に勝(まさ)る大力非じと思(おもひ)けるに、赤松に勢力を砕(くだ)かれて、叶はじとや思(おもひ)けん、馬を早めて落延(おちのび)ぬ。氏範大に牙(きば)を嚼(かみ)て、「無詮力態(ちからわざ)故(ゆゑ)に、組(くん)で討(うつ)べかりつる長山を、打漏しつる事の猜(ねた)さよ。ゝし/\敵は何(いづ)れも同(おなじ)事、一人も亡(ほろぼ)すに不如。」とて、奪(うばひ)取たる鉞にて、逃(にぐ)る敵を追攻(おつつめ)々々(おつつめ)切(きり)けるに、甲の鉢を真向(まつかう)まで破付(わりつけ)られずと云(いふ)者なし。流るゝ血には斧(をの)の柄(え)も朽(くつ)る許(ばかり)に成(なり)にけり。美濃勢には、土岐七郎(しちらう)を始(はじめ)として、桔梗一揆(いつき)の衆九十七騎まで討(うた)れぬ。近江勢には、伊庭(いばの)八郎(はちらう)・蒲生(がまふ)将監(しやうげん)・川曲(かわぐま)三郎・蜂屋(はちや)将監(しやうげん)・多賀中務(たがのなかづかさ)・平井孫八郎(はちらう)・儀俄(げが)五郎知秀(ともひで)以下、三十八騎討(うた)れぬ。此外(このほか)粟飯原(あいはら)下野(しもつけの)守(かみ)・匹田(ひきだ)能登(のとの)守(かみ)も討死しつ。後藤筑後(ちくごの)守(かみ)貞重も生虜(いけどら)れぬ。打残されたる者とても、或(あるひ)は疵(きず)を被(かふむ)り或(あるひ)は矢種(やだね)射尽(いつく)して、重(かさね)て可戦共覚(おぼえ)ざりければ、大将義詮朝臣(よしあきらあそん)も日暮(くれ)て東坂本(ひがしさかもと)へ落給ふ。是(これ)までも猶(なほ)細河相摸守(さがみのかみ)清氏は元の陣を不引退、人馬(じんば)に息を継(つが)せて、我に同(どう)ずる御方あらば、今一度(いちど)快(こころよ)く挑戦(いどみたたかう)て雌雄(しゆう)を爰(ここ)に決せんとて、西坂本に引(ひき)、其(その)夜は遂(つひ)に落(おち)給はず。夜明(あけ)ければ、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)より使者を立て、「重(かさね)て合戦の評定あるべし。先(まづ)東坂本(ひがしさかもと)へ被打越候へ。」と被仰ければ、此(この)上は清氏一人留ても無甲斐とて、翌日早旦に東坂本(ひがしさかもと)へ被参ける。此(この)時(とき)故武蔵守(むさしのかみ)師直が思者(おもいもの)の腹に出来たりとて、武蔵将監(しやうげん)と云(いふ)者、片田舎に隠(かくれ)て居たりけるを、阿保(あふ)肥前(ひぜんの)守(かみ)忠実(ただざね)・荻野(をぎの)尾張(をはりの)守(かみ)朝忠等(ともただら)、俄(にはか)に取(とり)立(たて)て大将になし、丹波・丹後(たんご)・但馬三箇国(さんかこく)の勢、三千(さんぜん)余騎(よき)を集(あつめ)て、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)に力を合(あは)せん為に、西山の吉峯(よしみね)に陣を取てぞ居たりける。京都の大敵にだに輙(たやす)く打勝て勇々(いさみいさみ)たる山名が兵共(つはものども)なれば、なじかは少しも可猶予、十一日(じふいちにちの)曙(あけぼの)に吉峯へ押寄(おしよせ)、矢一(ひとつ)も射させず、抜連(ぬきつれ)て切て上る。阿保(あふ)・荻野(をぎの)が兵共(つはものども)余(あま)りにつよく被攻て、一支(ひとささへ)も支(ささ)へず谷底へ懸落(かけおと)されければ、久下(くげ)五郎を始(はじめ)として討(うた)るゝ者四十(しじふ)余人(よにん)、疵(きず)を被(かうむ)る者数を不知(しらず)。希有(けう)にして逃延(にげのび)たる者共(ものども)も、弓矢・太刀・長刀を取捨(とりすて)て、赤裸(あかはだか)にて落(おち)て行(ゆく)。見苦(みぐる)しかりし有様也(なり)。武蔵将監(しやうげん)は、二町(にちやう)許(ばかり)落延(おちのび)たりけるを、阿保(あふ)と荻野と遥(はるか)に顧(かへりみ)て、「今は叶はぬ所にて候。御自害(ごじがい)候へ。」と勧(すすめ)ける間、馬上にて腹掻切(かきき)り、倒(さかさま)に落(おち)て死にけり。此(この)首を取(とら)んとて、敵一所に打寄てひしめきけるを、沼田(ぬまた)小太郎只(ただ)一騎(いつき)返(かへし)合(あは)せて戦(たたかひ)けるが、敵は大勢也(なり)。御方(みかた)はつゞかず、叶ふまじとや思(おもひ)けん、同(おなじく)腹掻切て、武蔵将監(しやうげん)が死骸を枕にしてぞ臥(ふし)たりける。其(その)間に阿保と荻野は落延(おちのび)て、無甲斐命を助(たすか)りけり。
○主上(しゆしやう)義詮没落(ぼつらくの)事(こと)付(つけたり)佐々木(ささきの)秀綱討死(うちじにの)事(こと) S3204
義詮朝臣(よしあきらあそん)は、兼(かね)て佐々木(ささきの)近江(あふみの)守(かみ)秀綱を警固に備(そな)ふれば、東坂本(ひがしさかもと)の事心安(こころやす)かるべし。爰(ここ)にて国々の勢をも催(もよほ)さんと被議けるが、吉野殿(よしのどの)より大慈院(だいじゐん)の法印を大将の為に山門へ呼(よび)寄(よせ)たりと沙汰しける間、坂本を皇居(くわうきよ)になされん事可悪とて、同六月十三日(じふさんにち)、義詮朝臣(よしあきらあそん)竜駕(りようが)を守護(しゆご)し奉て、東近江(ひがしあふみ)へ落給ふ。行幸の供奉(ぐぶ)には、二条(にでうの)前(さきの)関白左大臣(くわんばくさだいじん)・三条(さんでうの)大納言(だいなごん)実継(さねつぐ)・西園寺(さいをんじ)大納言(だいなごん)実俊(さねとし)・裏築地(うらつぢ)大納言(だいなごん)忠秀(ただひで)・松殿(まつどの)大納言(だいなごん)忠嗣(ただつぐ)・大炊御門(おほひのみかど)中納言(ちゆうなごん)家信(いへのぶ)・四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆持(たかもち)・菊亭(きくてい)中納言(ちゆうなごん)公直(きんなほ)・花山(くわざんの)院(ゐんの)中納言(ちゆうなごん)兼定(かねさだ)・左大弁(さだいべん)俊冬(としふゆ)・右大弁経方(つねまさ)・左中弁時光(ときみつ)・勘解由(かげゆの)次官行知(ゆきとも)・梶井(かぢゐ)二品(にほん)親王(しんわう)に至らせ給ふまで出世・坊官一人も不残被召具、竜駕の次に御輿(おんこし)を早めらる。武士には足利宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮を大将にて、細河相摸守(さがみのかみ)清氏・尾張(をはりの)民部(みんぶの)少輔(せう)・舎弟(しやてい)左京(さきやうの)権(ごんの)大夫(たいふ)・同左近(さこんの)将監(しやうげん)・今河駿河(するがの)守(かみ)頼貞(よりさだ)・同兵部(ひやうぶの)太輔(たいふ)助時(すけとき)・同左近(さこんの)蔵人(くらんど)・土岐(とき)大膳(だいぜんの)大夫(たいふ)頼康(よりやす)・熊谷(くまがえ)備中(びつちゆうの)守(かみ)直鎮(なほつね)・佐々木(ささき)・山内(やまのうち)五郎左衛門(ごらうざゑもん)信詮(のぶあきら)、是等(これら)を宗(むね)との人々として、都合其(その)勢(せい)三千(さんぜん)余騎(よき)、和仁(わに)・堅田(かただ)の浜道に駒を早めてぞ被落ける。爰(ここ)に故(こ)堀口美濃(みのの)守(かみ)貞満(さざみつ)の子息掃部助(かもんのすけ)貞祐(さだすけ)が、此(この)四五年堅田に隠(かくれ)て居たりけるが、其(その)辺の溢者共(あぶれものども)を語て、五百(ごひやく)余人(よにん)真野(まの)の浦に出合て、落行(おちゆく)敵を打止(うちとめ)んとす。真前(まつさき)には住上を擁護(おうご)し奉て、梶井(かぢゐ)二品(にほん)親王(しんわう)御門徒(ごもんと)の大衆、済々(せいぜい)と召具(めしぐ)して落(おち)させ給へば、門主に恕(じよ)を置奉て弓を不引、矢を不放。此(この)間坂本の警固(けいご)にて居たりつる佐々木(ささきの)近江(あふみの)守(かみ)秀綱、三百(さんびやく)余騎(よき)にて遥(はるか)の後陣(ごぢん)に通(とほ)りけるを、「是(これ)は山門の故敵(こてき)、時の侍所なれば、是(これ)を討留(とどめ)よ。」とて、堀口が兵五百(ごひやく)余人(よにん)東西より引裹(ひつつつん)で、足軽の射手(いて)山にそひ皋(さは)を阻(へだて)て散々に射ける間、佐々木(ささきの)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)・箕浦(みのうら)次郎左衛門(じらうざゑもん)・寺田八郎左衛門(はちらうざゑもん)・今村五郎一所にて皆討(うた)れにけり。秀綱は憑(たのみ)切たる一族(いちぞく)若党共(わかたうども)が、跡に蹈(ふみ)止て討死しけるを見て、心憂き事にや思ひけん。高尾四郎左衛門(しらうざゑもんの)入道(にふだう)と二騎、馬の鼻を引返して、敵の中へ懸て入る。共に歩立(かちだち)の敵に馬の諸膝(もろひざ)ながれて、落(おつ)る処にて討(うた)れにければ、遥(はるか)に落延(おちのび)たる若党共(わかたうども)三十七人(さんじふしちにん)、返合(かへしあはせ)々々(かへしあはせ)所々にて討(うた)れにけり。其(その)夜は塩津(しほづ)に腰輿(えうよ)を舁(かき)留(とどめ)奉りて、供奉(ぐぶ)の人々をも些(すこし)休め奉らんとせられけるを、塩津(しおづ)・海津(かいづ)の地下人(ぢげにん)共(ども)、軍勢(ぐんぜい)此(ここ)に一夜(いちや)も逗留(とうりう)せば、事に触(ふれ)て煩(わづらひ)あるべしと思(おもひ)ける間、此(ここの)道の辻、彼(かしこ)の岡山(をかやま)に取上(とりあげ)て、鐘を鳴(なら)し時を作りける程に、暫(しばし)の御逗留(ごとうりう)叶はで、主上(しゆしやう)又腰輿(えうよ)に召(めさ)れたれ共(ども)、舁進(かきまゐ)らすべき駕輿丁(かよちやう)も、皆逃失(にげうせ)て一人もなければ、細河相摸守(さがみのかみ)清氏、馬より飛(とん)で下(お)り徒立(かちだち)になり、鎧の上に主上(しゆしやう)を負進(おひまゐら)せて、塩津の山をぞ越(こえ)られける。子推(しすゐ)が股(もも)の肉を切り、趙盾(てうとん)が車の片輪を扶(たすけ)しも、此(この)忠には過(すぎ)じとぞ見へし。月卿(げつけい)雲客(うんかく)、或(あるひ)は長汀(ちやうてい)の月に策(むち)をあげ、或(あるひ)は曲浦(きよくほ)の浪に棹(さを)さし給へば、「巴猿一叫停舟於明月峡之辺、胡馬忽嘶失路於黄沙磧之裏。」と古人の書(かき)し征路(せいろ)の篇(へん)も、今こそ被思知たれ。是(これ)より東は路次(ろし)の煩(わづらひ)も無(なか)りしかば、美濃の垂井(たるゐ)の宿の長者が家を皇居(くわうきよ)にして、義詮朝臣(よしあきらあそん)以下の官軍(くわんぐん)皆四辺(しへん)の在家に宿を取て、皇居(くわうきよ)を警固し奉りけり。
○山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏京落(きやうおちの)事(こと) S3205
去(さる)程(ほど)に山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏は、都の敵を輙(たやす)く攻(せめ)落(おと)して心中の憤(いきどほり)一時に解散(げさん)しぬる心地して、喜悦(きえつ)の眉を開(ひらく)事理(ことはり)也(なり)。勢著(つ)かばやがて濃州(ぢようしう)へ発向(はつかう)して、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)を攻(せめ)奉らんと議せられけれ共(ども)、降参する敵もなし催促に応ずる兵稀(まれ)也(なり)。剰(あまつさへ)洛中(らくちゆう)には吉野殿(よしのどの)より四条(しでうの)少将(せうしやう)を成敗(せいばい)の体(てい)にて置(おか)れたりける間、毎事(まいじ)山名が計(はからひ)にも非(あら)ず、又知行の所領も近辺に無(なか)りければ、出雲・伯耆より上り集(あつまり)たりし勢共(せいども)も、在京に労(つか)れて漸々(ぜんぜん)に落行(おちゆき)ける程に、日を経て無勢(ぶせい)に成(なり)にけり。角(かく)ては如何(いかが)せん、却(かへつ)て敵に寄(よせ)られなば我(われ)も都を落されぬと、内々仰天(ぎやうてん)せられける処に、義詮朝臣(よしあきらあそん)、東山(とうせん)・東海・北陸道(ほくろくだう)の勢を率(そつ)して宇治・勢多より攻(せめ)上らるとも聞へ、又赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)が中国より勢を卒(そつ)して上洛(しやうらく)すとも聞へければ、四方(しはう)の敵の近付かぬ先に早く引退(ひきしりぞ)けとて、数日(すじつ)の大功徒(いたづら)に、天下に時を不得しかば、四条(しでうの)少将(せうしやう)は官軍(くわんぐん)を卒(そつ)して南方に帰り、山名は父子諸共(もろとも)に道を追払て、伯耆の国へぞ下りける。
○直冬(ただふゆ)与吉野殿(よしのどの)合体(がつていの)事(こと)付(つけたり)天竺震旦(しんだん)物語(ものがたりの)事(こと) S3206
翌年(よくねん)の春、新田左兵衛(さひやうゑの)佐(すけ)義興(よしおき)・脇屋(わきや)左衛門義治(よしはる)、共に相摸(さがみ)の河村の城(じやう)を落(おち)て、何(いづ)くに有共不聞しかば、東国心安(こころやす)く成て、将軍尊氏(たかうぢの)卿(きやう)上洛(しやうらく)し給へば京都又大勢に成(なり)にけり。さらば軈(やがて)山名を可被攻とて、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあそん)を先(まづ)播磨国(はりまのくに)へ下さる。山名伊豆(いづの)守(かみ)是(これ)を聞て、此度(このたび)は可然大将を一人取り立(たて)て合戦をせずは、我に勢の著(つく)事は有まじと被思ける間、足利右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬の筑紫九国の者共(ものども)に被背出、安芸・周防の間に漂泊し給ひけるを招請(まねきしやう)じ奉り、惣大将(そうだいしやう)とぞ仰ぎける。但(ただし)是(これ)も将軍に敵すれば、子として父を譴(せむ)る咎(とが)あり。天子に対すれば臣として君を無(ないがしろに)し奉る恐(おそれ)あり。さらば吉野殿(よしのどの)へ奏聞を経て勅免(ちよくめん)を蒙(かうむ)り、宣旨に任(まかせ)て都を傾け、将軍を攻(せめ)奉らんは、天の忿(いか)り人の譏(そし)りも有(ある)まじとて、直冬潜(ひそか)に使を吉野殿(よしのどの)へ進(まゐら)せて、「尊氏(たかうぢの)卿(きやう)・義詮朝臣(よしあきらあそん)以下の逆徒(ぎやくと)を可退治(たいぢ)由の綸旨(りんし)を下(くだし)給て、宸襟(しんきん)を休め奉るべし。」とぞ申されける。伝奏洞院(とうゐんの)右大将(うだいしやう)頻(しきり)に被執甲ければ、再往(さいわう)の御沙汰(ごさた)迄もなく直冬が任申請、即(すなはち)綸旨をぞ被成ける。是(これ)を聞て遊和軒朴翁(いうくわけんはくをう)難じ申(まうし)けるは、「天下の治乱興滅(ちらんこうめつ)皆(みな)大の理に不依と云(いふ)事なし。されば直冬朝臣(ただふゆあそん)を以て大将として京都を被攻事、一旦(いつたん)雖似有謀事(こと)成就(じやうじゆ)すべからず。其(その)故は昔天竺に師子国(ししこく)と云(いふ)国(くに)あり。此(こ)の国の帝他国より后(きさき)を迎へ給(たまひ)けるに、軽軒香車(けいけんかうしや)数百乗(すひやくじよう)、侍衛(じゑ)官兵十万人、前後四五十里(しごじふり)に支(ささへ)て道をぞ送り進(まゐら)せける。日暮(くれ)て或深山(あるしんざん)を通(とほ)りける処に、勇猛奮迅(ふんじん)の師子(しし)共(ども)二三百疋(にさんびやつぴき)走(はしり)出(いで)、追譴(おつせめ)々々(おつせめ)人を食(くひ)ける間、軽軒軸(ぢく)折(をれ)て馳(はす)れ共不遁、官軍(くわんぐん)矢射尽(いつくし)て防げ共不叶、大臣・公卿・武士・僕従(ぼくじゆう)、上下三百万人(さんびやくまんにん)、一人も不残喰殺(くいころ)されにけり。其(その)中に王たる師子(しし)、彼后(かのきさき)を口にくはへて、深山幽谷の巌(いはほ)の中に置奉て、此(この)師子容顔(ようがん)美麗なる男の形に変じければ、后此(この)妻と成(なり)給(たまひ)て、思はぬ山の岩の陰(かげ)に、年月をぞ送らせ給(たまひ)ける。始の程は后、かゝる荒き獣(けだもの)の中に交(まじは)りぬれば、我さへ畜類(ちくるゐ)の身と成(なり)ぬる事の心憂(こころう)さ、何に命のながらへて、一日片時(いちにちへんし)も過(すぐ)べしと覚えず、消(きえ)ぬを露の身の憂さに思召沈(おぼしめししづ)ませ給ひけるが、苔(こけ)深き巌は変じて玉楼金殿となり、虎狼野干(こらうやかん)は媚(ばけ)て卿相(けいしやう)雲客(うんかく)となり、師子は化(け)して万乗の君と成て、玉■(ぎよくい)の座に粧(よそほひ)を堆(うづだか)くして、袞竜(こんりよう)の御衣に薫香(くんかう)を散ぜしかば、后早(はや)憂かりし御思も消果(きえはて)て、連理の枝の上に、心の花のうつろはん色を悲(かなし)み、階老(かいらう)の枕の下に、夜の隔(へだ)つる程をだにかこたれぬべく思召す。角(かく)て三年(みとせ)を過(すご)させ給(たまひ)ける程に、后たゞならず成(なり)給(たまひ)て男子を生(うみ)給へり。愍(あはれ)みの懐(ふところ)の中に長(ひととなつ)て歳十五に成(なり)ければ、貌形(みめかたち)の世に勝(すぐれ)たるのみに非(あら)ず、筋力(きんりよく)人に超(こえ)て、何(いか)なる大山を挟(はさん)で北海を飛越(とびこゆ)る共、可容易とぞみへたりける。或(ある)時(とき)此(この)子母の后に向て申けるは、「適(たまたま)人界(にんがい)の生を受(うけ)ながら、后は畜類の妻と成(なら)せ給ひ、我は子と成(なり)て候事、過去の宿業(しゆくごふ)とは申ながら、心憂(こころうき)事にて候はずや。可然(しかるべき)隙(ひま)を求(もとめ)て、后此(この)山を逃(にげ)出させ給へ。我負(おひ)奉て師子国(ししこく)の王宮(わうぐう)へ逃篭(にげこも)り、母を后妃の位に昇(のぼせ)奉り、我(われ)も朝烈(てうれつ)の臣と仕へて、畜類の果(くわ)を離れ候はん。」と勧(すすめ)申ければ、母の后無限喜(よろこび)て、師子の他(たの)山へ行(ゆき)たりける隙(ひま)に、后此(この)子に負(おは)れて、師子国の王宮へぞ参り給(たまひ)ける。帝不斜(なのめならず)喜び思召(おぼしめし)て、君恩類(たぐひ)無(なか)りければ、後宮(こうきゆう)綺羅(きら)の三千(さんぜん)、為君薫衣裳、君聞蘭麝為不馨香。為君事容色、君看金翠為無顔色。新(あたらし)き人来(きたりて)旧き人棄(すて)られぬ。眼の裏(うち)の荊棘(けいぎよく)掌上(たなごころのうへ)の花の如し。去(さる)程(ほど)に師子(しし)外の山より帰り来て后を尋(たづね)求(もとむ)るに、后も座(おはしま)さず、我(わが)子もなし。こは何(いか)なる事ぞと驚き周章(あわて)て、ばけたる貌(かたち)元の容(すがた)に成て、山を崩し木を堀倒し求(もとむ)れ共不得。さては人の棲(す)む里にぞ御坐(おはす)らんとて、師子国へ走(はしり)出て、奮迅(ふんじん)の力を出して吠忿(ほえいか)るに、何(い)かなる鉄(くろがね)の城(じやう)なり共破れぬべくぞ聞へける。野人村老懼(おそ)れ倒(たふれ)、死する者幾千万(いくせんまん)と云(いふ)数をしらず。又不近付所も、家を捨(すて)財宝を捨(すて)逃去(にげさり)ける間、師子国十万里の中には、人一人も無りけり。され共(ども)、此(この)師子王位にや恐(おそれ)けん、都の中へは未入(いまだいらず)、只王宮近き辺に来て、夜々(よなよな)地を揺(うごか)して吠嗔(ほえいか)り、天に飛揚(ひやう)して鳴叫(なきさけび)ける間、大臣・公卿・刹利(せつり)・居士(こじ)、皆宮中に逃篭(にげこも)る。時に公卿僉議有て、此(この)師子を退治(たいぢ)して進(まゐら)せたらんずる者には、大国を一州下さるべしと法を出して、道々に札(ふだ)を書てぞ被立ける。彼(かの)師子の子此(この)札を見て、さらば我(われ)父の師子を殺して一国を給(たまは)らんと思(おもひ)ければ、尋常(よのつね)の人ならば、百人(ひやくにん)しても引はたらかすまじかりける鉄(くろがね)の弓・鉄の矢を拵(こしら)へ、鏃(やじり)に毒を塗(ぬつ)て、父の師子をぞ相待(あひまち)ける。師子今は王宮へ飛入て、国王大臣を喰殺(くひころ)さんとて、禁門の前を過(すぎ)けるが、我(わが)子の毒の矢をはげて立向(たちむかひ)たるを見て、涙を流し地に臥(ふし)て申けるは、「我年久(ひさしく)相馴(あひなれ)し后と、二人(ににん)ともなき汝を失(うしなひ)て、恋(こひしく)悲(かなし)く思ふ故(ゆゑ)に、若干(そくばく)の人を失ひ多くの国土を亡(ほろぼ)しつ。然(しか)るに事の様を尋(たづね)きけば、后は王宮にをはすなれば、今生にて再び相見ん事有(あり)がたし。せめて汝をだに一目見たらば、縦(たとひ)我(わが)命を失ふ共悲(かなし)む処にあらずと思(おもひ)き。道々に被立たる札を見れば、我(わが)命を以(もつて)一国の抽賞(ちうしやう)に被報たり。然れども我を一箭にも射殺さんずる者は、天下に汝より外は有(ある)べからず。命を惜(をし)むも子の為也(なり)。汝一国の主と成て栄花を子孫に及(およぼ)さば、我命全く不可惜。早く其(その)弓を引(ひき)其(その)矢を放(はなち)て我を射殺し、報国(はうこく)の賞に預(あづか)れ。」とて、黄(き)なる涙を流しつゝ、「爰(ここ)を射よ。」とて自(みづから)口(くち)をあきてぞ臥(ふし)たりける。師子は畜類なれ共子を思ふ心猶(なお)深く、子は人倫(じんりん)の身なれ共親を思ふ道無(なか)りければ、飽(あく)まで引て放つ矢に、師子喉(のんど)を射抜(いぬか)れて、地に伏(ふし)て忽(たちまち)に死(しに)けり。子、師子の頚(くび)を取て天子に是(これ)を奉る。一人(いちじん)万民悦(よろこび)合へる事限(かぎり)なし。已(すで)に宣旨を下して其(その)賞を定(さだめ)られし上は子細に不及、師子の子に一国を下し給ふべかりしを、重(かさね)て公卿僉議有て、勅宣(ちよくせん)に随(したが)ふ処は雖有忠父を殺す罪不軽。但(ただし)忠賞の事は法を被定しかば、綸言(りんげん)今更変じ難しとて、恩賞に被擬ける一国の正税(しやうぜい)・官物(くわんもつ)、百年が間を勘(かんがへ)て、天下の鰥寡孤独(くわんくわこどく)の施行(せぎやう)に引(ひか)れぬ。以彼思之、縦(たとひ)一旦(いつたん)利を得たり共終(つひ)には諸天の御とがめあるべし。又漢朝の古、帝尭(ていげう)と申けるいみじき聖徳(せいとく)の帝(みかど)御坐(おはしま)しけり。天子の位にいます事七十年(しちじふねん)、御年已(すで)に老(おい)ぬ。「誰にか天下を可譲る。」と御尋(おんたづね)有ければ、大臣皆諛(へつらう)て、「幸(さいはひ)に皇太子にて御渡(おんわたり)候へば丹朱(たんしゆ)にこそ御譲(おんゆづ)り候はめ。」と申けるを、帝尭(ていげう)、「天下は是(これ)一人の天下に非(あら)ず、何を以てか太子なればとて、天下授(さづく)るに足(たら)ざらん者に位を譲て、四海(しかい)の民を苦しましむべき。」とて丹朱に世を授(さづけ)給はず。さても何(いづ)くにか賢人ありと、隠遁(いんとん)の者までも尋(たづね)求め給ひける処に、箕山(きさん)と云(いふ)所に許由(きよゆう)と申(まうし)ける賢人、世を捨(すて)光を韜(つつみ)て、只(ただ)苔深く松痩(やせ)たる岩の上に一瓢(いつぺう)を懸(かけ)て、瀝々(れきれき)たる風の音に人間迷情(めいせい)の夢を醒(さま)してぞ居たりける。帝尭(ていげう)是(これ)を聞召(きこしめし)て即(すなはち)勅使(ちよくし)を立(たて)られ、御位を譲(ゆづる)べき由を被仰けるに、許由遂(つひ)に勅答を不申。剰(あまつさへ)松風渓水(しやうふうけいすゐ)の清き音を聞て爽(さはやか)なる耳の、富貴(ふつき)栄花(えいぐわ)の賎(いや)しき事を聞て汚(けが)れたる心地しければ、潁川(えいせん)の水に耳を洗(あらひ)ける程に、同じ山中に身を捨(すて)隠居したりける巣父(さうふ)と云(いふ)賢人、牛を引て此(この)川に水を飼(かは)んとしけるが、許由が耳を洗ふを見て、「何事に今耳をば洗ふぞ。」と問(とひ)ければ、許由(よし)、「帝尭(ていげう)の我に天下を譲らんと被仰つるを聞て、耳汚(けがれ)たる心地して候間洗ふ也(なり)。」とぞ答へける。巣父首(かうべ)を掻(かい)て、「さればこそ此(この)水例(れい)よりも濁(にごつ)て見へつるを、何故(なにゆゑ)やらんと無覚束思ひたれば、此(この)事にて有けり。左様(さやう)に汚(けがれ)たる耳を洗(あらひ)たる水の流(ながれ)をば、牛にも飲(か)ふべき様なし。」とて徒(いたづら)に牛を引てぞ帰りける。帝■尭(ていげう)さては誰にか世を可授とて、至らぬ隈(くま)もなく尋(たづね)求(もとめ)給ふに、冀州(きしう)に虞舜(ぐしゆん)と云(いふ)賎(いやし)き人あり。其(その)父瞽叟(こそうは)盲(めしひて)母は頑■(くわんぎん)也(なり)。弟(おとと)の象(しやうは)驕戻(おごりもとる)。虞舜は孝行の心深(ふかく)して、父母を養はん為に歴山(れきさん)に行て耕(たかや)すに、其(その)地の人畔(くろ)を譲り、雷沢(らいたく)に下て漁(すなど)るに、其(その)浦(うら)の人居(きよ)を譲る。河浜(かひん)に陶(すゑものづくり)するに、器(うつはもの)苦(ゆがみ)窪(いしま)あらず。虞舜の行(ゆき)て居(を)る処、二年あれば邑(いう)をなし、三年あれば都(と)をなす。万人其(その)徳を慕(したう)て来(きたり)集(あつまり)し故(ゆゑ)也(なり)。舜年二十(はたち)にして孝行天下に聞へしかば、帝尭(ていげう)是(これ)に天下を譲らんと覚(おぼ)す心あり。先(まづ)内外に著(つけ)て其(その)行を御覧ぜんと覚(おぼ)して、娥皇(がくわう)・女英(ぢよえい)と申ける姫宮を二人(ににん)舜に妻(めあ)はせ給ふ。又尭(げう)の御子九人(くにん)を舜の臣となして、其(その)左右にぞ慎(つつし)み随(したが)はせられける。尭(げう)の二女己(おの)れが高きを以て夫(をつと)に驕(おご)らざれば、舜の母に嬪(よめづかひ)する事甚(はなはだ)不違。九男(きうなん)同(おなじ)く舜に臣として事(つかふ)ること礼敬更(さら)に不懈。帝尭(ていげう)弥(いよいよ)悦(よろこび)て、舜に又、倉廩(さうりん)・牛羊(ぎうやう)・■衣(ちい)・琴(こと)一張を給ふ。舜如斯声誉(せいよ)上に達し父母に孝有しか共、継母(けいぼ)我(わが)子の象(しやう)を世に立(たて)ばやと猜(そね)む心深く有しかば、瞽叟(こそう)と象と三人(さんにん)相謀(あひはかつ)て舜を殺さんとする事度々(どど)也(なり)。舜是(これ)をしれ共父をも不恨、母をも弟をも不嗔、孝悌(かうてい)の心弥(いよいよ)慎(つつしみ)て、只(ただ)父母の意(こころ)に違(たが)へる事をのみ天に仰(あふい)でぞ悲(かなし)みける。或(ある)時(とき)瞽叟(こそう)舜を廩(くら)の上に登(のぼ)せて屋(やね)を葺(ふか)せけるに、母下より火を放(はなし)て舜を焼殺さんとす。舜始(はじめ)より推(すゐ)したりしかば、兼(かね)て持(もち)たる二の唐笠(からかさ)を張(はり)て、其柄(そのえ)に取付て飛下(とびおり)にけり。瞽叟不安思(おもひ)ければ、又象と相謀(あひはかつ)て舜に井をぞ堀(ほら)せける。是(これ)は井已(すで)に深く成(なり)たらん時、上より土を下して舜を乍生埋(うづめ)ん為也(なり)。堅牢地神(けんらうぢじん)も孝行の子を哀(あはれ)にや覚(おぼ)しけん、井の底より上(あげ)ける土の中に半(なか)ば金(こがね)ぞ交(まじは)りたりける。瞽叟・弟の象共に欲心(よくしん)に万事を忘(わすれ)ければ、土を揚(あげ)ける度毎(たびごと)に是(これ)を争ふ事限なし。其(その)間に舜傍(かたはら)に匿穴(くけあな)をぞ堀(ほつ)たりける。井已(すで)に深く成(なり)ぬる時、瞽叟と象と共に土を下し大石を落(おと)して舜を埋(うづめ)ければ、舜潜(ひそか)に兼(かね)て堀(ほり)し匿穴(くけあな)より逋(のがれ)出て己(おの)れが宮へぞ帰(かへり)ける。舜如斯して生(いき)たりとは弟の象夢にも不知、帝尭(ていげう)より舜に給はりし財共を面々に分ち領(りやう)じけるに、牛羊(ぎうやう)・倉廩(さうりん)をば父母に与へ二女と琴(こと)一張とをば象我(わが)物にすべしと相計(あひはから)ふ。象則(すなはち)琴を弾じて二女を愛せん為に、舜の宮(みや)に行(ゆき)たれば、舜敢(あへ)て不死、二女は瑟(しつ)を調べ、舜は琴(こと)を弾じて、優然としてぞ居たりける。象大に鄂(おどろい)て曰く、「我(われ)舜を已(すで)に殺しつと思(おもひ)て、鬱陶(うつたう)しつ。」と云(いひ)て、誠(まこと)に忸怩(はぢ)たる気色なれば、舜琴を閣(さしおい)て、其弟(そのおとと)たる言(こと)ばを聞くがうれしさに、「汝さぞ悲(かなし)く思ひつらん。」とてそゞろに涙をぞ流しける。斯(かかり)し後も舜弥(いよいよ)孝有て父母に事(つかふ)る道も不懈、弟を愛(あいす)る心も不浅ければ、忠孝の徳天下に顕(あらは)れて、帝尭(ていげう)遂(つひ)に帝位を譲り給ひにけり。舜天子の位を践(ふん)で世を治め給ふ事天に叶ひ地に随(したが)ひしかば、五日の風枝を不鳴十日の雨壌(つちくれ)を破(やぶる)事なし。国富み民豊(ゆたか)にして、四海(しかい)其(その)恩を仰ぎ、万邦其(その)徳を頌(しよう)せり。されば孔子(こうし)も、尋於忠臣在孝子之門といへり。為父不孝ならん人、豈(あに)為君忠あらんや。天竺・震旦(しんだん)の旧(ふる)き迹(あと)を尋(たづぬ)るに、親のために道なければ忠あれども罪せらる。師子国の例(れい)是(これ)也(なり)。為父孝あれば賎(いや)しけれ共被賞。虞舜の徳是(これ)也(なり)。然(しかる)に右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬(ただふゆ)は父を亡(ほろぼ)さん為に君の命を仮(から)んとす。君是(これ)を御許容(きよよう)有て大将の号(がう)を被許事旁(かたがた)以(もつて)非道。山名伊豆(いづの)守(かみ)若(もし)此(この)人を取立(とりたて)て大将とせば天下の大功を致さん事不可有。」と昨木(さくぼく)の隠子朴翁(いんしはくをう)が眉(まゆ)を顰(ひそめ)て申(まうし)けるが、果してげにもと被思知世に成(なり)にけり。
○直冬上洛(しやうらくの)事(こと)付(つけたり)鬼丸(おにまる)鬼切(おにきりの)事(こと) S3207
南方に再往(さいわう)の評定有て、足利右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬を大将として京都を可攻由(よし)、綸旨(りんし)を被成ければ、山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏・子息右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏、五千(ごせん)余騎(よき)の勢を卒(そつ)して、文和三年十二月十三日(じふさんにち)伯耆(はうきの)国(くに)を立(たち)給ふ。山陰道(せんおんだう)悉(ことごとく)順(したがひ)付て兵七千騎(しちせんぎ)に及びしかば、但馬(たぢまの)国(くに)より杉原越(すぎはらごえ)に播磨へ打て出(いでて)、先(まづ)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)義詮の鵤(いかるが)の宿(しゆく)にをはするをや打散す、又直(すぐ)に丹波へ懸て、仁木(につき)左京(さきやうの)太夫(たいふ)頼章(よりあきら)が佐野の城(じやう)に楯篭(たてこもつ)て、我等(われら)を支(ささ)へんとするをや打落すと、評定しける処へ、越中(ゑつちゆう)の桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常・越前(ゑちぜんの)修理(しゆりの)大夫(たいふ)高経の許(もと)より飛脚同時に到来(たうらい)して、只(ただ)急ぎ京都へ攻(せめ)上られ候へ。北国の勢を引て、同時に可攻上由を牒(てふ)せられける間、さらば夜を日に継(つい)で上(のぼら)んとて、山名父子七千六百(しちせんろつぴやく)余騎(よき)、前後十里(じふり)に支(ささへ)て丹波(たんばの)国(くに)を打通るに、仁木左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章当国(たうごく)の守護(しゆご)として敵を支(ささへ)ん為に在国(ざいこく)したる上、今は将軍の執事として勢(いきほ)ひ人に超(こえ)たれば、丹波(たんばの)国(くに)にて定(さだめ)て火を散(ちら)す程の合戦五度(ごど)も十度(じふど)もあらんずらんと覚(おぼ)へけるに、敵の勇鋭(ゆうえい)を見て戦(たたかう)ては中々叶はじとや思ひけん、遂(つひ)に矢の一(ひとつ)をも不射懸して城の麓をのさ/\と通しければ、敵の嘲(あざけ)るのみならず天下の口遊(くちずさみ)とぞ成(なり)にける。都に有(あり)とある程の兵をば義詮朝臣(よしあきらあそん)に付(つけ)て播磨へ被下、遠国の勢(せい)は未(いまだ)上らず。将軍僅(わづか)なる小勢にて京中(きやうぢゆう)の合戦は中々悪(あし)かりぬと、思慮旁(かたがた)深かりければ、直冬已(すで)に大江山(おいのやま)を超(こゆ)ると聞へしかば、正月十二日の暮程に、将軍主上(しゆしやう)を取奉て江州(がうしうの)武作寺(むさてら)へ落(おち)給ふ。抑(そもそも)此(この)君御位に即(つか)せ給て後、未(いまだ)三年を不過、二度(ふたたび)都を落(おち)させ給ひ、百官皆他郷(たきやう)の雲に吟(さまよ)ひ給ふ、浅猿(あさまし)かりし世中(よのなか)なり。去(さる)程(ほど)に同(おなじき)十三日(じふさんにち)、直冬都に入(いり)給へば、越中(ゑつちゆう)の桃井(もものゐ)・越前(ゑちぜんの)修理(しゆりの)大夫(たいふ)、三千(さんぜん)余騎(よき)にて上洛(しやうらく)す。直冬朝臣(ただふゆあそん)此(この)七八箇年(しちはちかねん)、依継母讒那辺這辺(かなたこなた)漂泊(へうはく)し給(たまひ)つるが、多年の蟄懐(ちつくわい)一時に開けて今天下の武士に仰(あふが)れ給へば、只年に再(ふたた)び花さく木の、其(その)根かるゝは未知(いまだしらず)、春風(しゆんぷう)三月、一城(いちじやう)の人皆狂(きやう)するに不異。抑(そもそも)山名伊豆(いづの)守(かみ)は、若狭(わかさの)所領の事に付て宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)に恨(うらみ)あり。桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)は、故高倉禅門に属(しよく)して望(のぞみ)を不達憤(いきどほり)あれば、此(この)両人の敵に成(なり)給ひぬる事は少し其謂(そのいはれ)も有(ある)べし。尾張(をはりの)修理(しゆりの)大夫(たいふ)高経は忠戦自余(じよ)の一門(いちもん)に超(こえ)しに依て、将軍も抽賞(ちうしやう)異于他にして世其仁(そのじん)を重くせしかば、何事に恨(うらみ)有(ある)べし共覚(おぼえ)ぬに、俄(にはか)に今敵に成て将軍の世を傾(かたぶけ)んとし給ふ事、何の遺恨(ゐこん)ぞと事の起りを尋ぬれば、先年(せんねん)越前の足羽(あすは)の合戦の時、此(この)高経朝敵(てうてき)の大将新田左中将(さちゆうじやう)義貞を討て、源平累代(るゐだい)の重宝(ちようはう)に鬼丸(おにまる)・鬼切(おにきり)と云(いふ)二振(ふたふり)の太刀を取(とり)給ひたりしを、将軍使者を以て、「是(これ)は末々(すゑずゑ)の源氏なんど可持物に非(あら)ず、急ぎ是(これ)を被渡候へ。当家の重宝として嫡流(ちやくりう)相伝すべし。」と度々被仰けるを、高経堅く惜(をしみ)て、「此(この)二振の太刀をば長崎(ながさき)の道場に預(あづけ)置(おき)て候(さふらひ)しを、彼(かの)道場炎上(えんしやう)の時焼て候。」とて、同じ寸の太刀を二振取替(とりかへ)て、焼損(やきそん)じてぞ出されける。此(この)事有(あり)の侭(まま)に京都へ聞へければ、将軍大に忿(いかつ)て、朝敵(てうてき)の大将を討たりつる忠功抜群(ばつくん)也(なり)といへ共さまでの恩賞をも不被行、触事に面目なき事共(ことども)多かりける間、高経是(これ)を憤(いきどほつ)て、故高倉禅門の謀叛の時も是(これ)に与(くみ)し、今直冬(ただふゆ)の上洛(しやうらく)にも力を合(あはせ)て、攻上り給ひたりとぞ聞へける。抑(そもそも)此(この)鬼丸(おにまる)と申(まうす)太刀は、北条(ほうでうの)四郎時政天下を執(とつ)て四海(しかい)を鎮(しづ)めし後、長(たけ)一尺(いつしやく)許(ばかり)なる小鬼(せうき)夜々(よなよな)時政が跡枕(あとまくら)に来て、夢共なく幻(うつつ)共(とも)なく侵(をか)さんとする事度々也(なり)。修験(しゆげん)の行者(ぎやうじや)加持(かぢ)すれ共不休。陰陽寮(おんやうれう)封(ふう)ずれ共不立去。剰(あまつさ)へ是故(これゆゑに)時政病を受(うけ)て、身心(しんしん)苦(くるし)む事隙(ひま)なし。或夜の夢に、此(この)太刀独(ひとり)の老翁(らうをう)に変じて告(つげ)て云(いは)く、「我常に汝を擁護(おうご)する故(ゆゑ)に彼夭怪(かのようくわい)の者を退(しりぞ)けんとすれば、汚(けが)れたる人の手を以て剣を採(と)りたりしに依て、金精(さび)身より出て抜(ぬけ)んとすれ共不叶。早く彼(かの)夭怪の者を退けんとならば、清浄(しやうじやう)ならん人をして我(わが)身の金清(さび)を拭(のご)ふべし。」と委(くはし)く教へて、老翁は又元の太刀に成(なり)ぬとぞ見(みえ)たりける。時政夙(つと)に起(おき)て、老翁の夢に示しつる如く、或侍に水を浴(あび)せて此(この)太刀の金精(さび)を拭(のご)はせ、未(いまだ)鞘(さや)にはさゝで、臥(ふし)たる傍(そば)の柱にぞ立掛(たちかけ)たりける。冬の事なれば暖気(だんき)を内に篭(こめ)んとて火鉢を近く取寄たるに、居(すゑ)たる台を見れば、銀(しろがね)を以て長(たけ)一尺(いつしやく)許(ばかり)なる小鬼(せうき)を鋳(い)て、眼には水晶を入(いれ)、歯には金をぞ沈(しづ)めたる。時政是(これ)を見るに、此(この)間夜な/\夢に来て我を悩(なやま)しつる鬼形(きぎやう)の者は、さも是(これ)に似たりつる者哉と、面影ある心地して守(まも)り居たる処に、抜(ぬい)て立たりつる太刀俄(にはか)に倒れ懸りて、此(この)火鉢の台なる小鬼(せうき)の頭(かうべ)をかけず切てぞ落(おと)したる。誠(まこと)に此(この)鬼や化(け)して人を悩(なやま)しけん、時政忽(たちまち)に心地直(なほ)りて、其(その)後よりは鬼形の者夢にも曾(かつ)て見へざりけり。さてこそ此(この)太刀を鬼丸(おにまる)と名付(なづけ)て、高時の代に至るまで身を不放守りと成て平氏の嫡家に伝(つたは)りける。相摸(さがみ)入道(にふだう)鎌倉(かまくら)の東勝寺にて自害に及(および)ける時、此(この)太刀を相摸入道(さがみにふだう)の次男少名(をさなな)亀寿(かめじゆ)に家の重宝なればとて取(とら)せて、信濃(しなのの)国(くに)へ祝部(はふり)を憑(たのみ)て落行(おちゆく)。建武二年八月に鎌倉(かまくら)の合戦に打負(うちまけ)て、諏防(すは)三河(みかはの)守(かみ)を始として宗(むね)との大名四十(しじふ)余人(よにん)大御堂(おほみだう)の内に走入(わしりいり)、顔の皮をはぎ自害したりし中に此(この)太刀有ければ、定(さだめて)相摸次郎時行も此(この)中に腹切てぞ有(ある)らんと人皆哀(あはれ)に思(おもひ)合へり。其(その)時(とき)此(この)太刀を取て新田殿(につたどの)に奉る。義貞不斜(なのめならず)悦(よろこび)て、「是(これ)ぞ聞ゆる平氏の家に伝へたる鬼丸(おにまる)と云(いふ)重宝也(なり)。」と秘蔵(ひさう)して持(もた)れける剣也(なり)。是(これ)は奥州(あうしう)宮城(みやぎの)郡(こほり)の府に、三の真国(さねくに)と云(いふ)鍜冶(かぢ)、三年精進潔斎(しやうじんけつさい)して七重にしめを引(ひき)、きたうたる剣なり。又鬼切(おにきり)と申(まうす)は、元(もと)は清和源氏の先祖摂津(つの)守(かみ)頼光(よりみつ)の太刀にてぞ有ける。其(その)昔大和(やまとの)国(くに)宇多(うだの)郡(こほり)に大(なる)森あり。此陰(このかげ)に夜な/\妖者(ばけもの)有て、往来の人を採食(とりくら)ひ、牛馬六畜(ぎうばろくちく)を掴裂(つかみさ)く。頼光是(これ)を聞て、郎等(らうどう)に渡辺源五綱(つな)と云(いひ)ける者に、彼(か)の妖者(ばけもの)討て参れとて、秘蔵(ひさう)の太刀をぞたびたりける。綱則(すなはち)宇多(うだの)郡(こほり)に行き甲胃(かつちう)を帯(たい)して、夜々(よなよな)件(くだん)の森の陰(かげ)にぞ待(まち)たりける。此妖者(このばけもの)綱が勢にや恐(おそれ)たりけん、敢(あへ)て眼に遮(さへぎ)る事なし。さらば形を替(かへ)て謀(たばか)らんと思(おもひ)て、髪を解乱(ときみだ)して掩(おほ)ひ、鬘(かつら)をかけ、かね黒(ぐろ)に太眉(おほまゆ)を作り、薄衣(うすぎぬ)を打かづきて女の如くに出立て、朧月夜の明ぼのに、森の下をぞ通(とほ)りける。俄(にはか)に空掻曇(かきくもり)て、森の上に物(もの)の立翔(かけ)る様に見へけるが、虚空(こくう)より綱が髪を掴(つかん)で中(ちう)に提(ひつさげ)てぞ挙(あがつ)たりける。綱、頼光(よりみつ)の許(もと)より給(たまは)りたる太刀を抜(ぬい)て、虚空を払斬(はらひぎり)にぞ切たりける。雲の上に唖(あ)と云(いふ)声して、血の颯(さつ)と顔(かほ)に懸りけるが、毛の黒く生(おひ)たる手(て)の、指三(みつ)有て爪の鉤(かがまり)たるを、二の腕よりかけず切てぞ落(おと)しける。綱此(この)手を取て頼光に奉る。頼光是(これ)を秘(ひ)して、朱(しゆ)の唐櫃(からひつ)に収(をさめ)て置(おか)れける後、夜々をそろしき夢を見給ける間、占夢(せんむ)の博士(はかせ)に夢を問(とひ)給(たまひ)ければ、七日が間の重き御慎(おんつつしみ)とぞ占(うらな)ひ申ける。依之(これによつて)堅(かたく)門戸(もんこ)を閉(とぢ)て、七重に七五三(しめ)を引(ひき)四門に十二人(じふににん)の番衆を居(すゑ)て、毎夜(まいよ)宿直(とのゐ)蟇目(ひきめ)をぞ射させける。物忌(ものいみ)已(すで)に七日に満じける夜、河内(かはちの)国(くに)高安の里より、頼光(よりみつ)の母義(ぼぎ)をはして門をぞ敲(たたか)せける。物忌の最中(さいちゆう)なれ共(ども)、正(まさ)しき老母(らうぼ)の、対面の為とて渺々(はるばる)と来り給(たまひ)たれば、力なく門を開(ひらき)て、内へいざなひ入奉て、終夜(よもすがら)の酒宴にぞ及びける。頼光酔(ゑひ)に和(くわ)して此(この)事を語り出されたるに、老母(らうぼ)持たる盃(さかづき)を前に閣(さしお)き、「穴(あな)をそろしや、我傍(わがあたり)の人も此妖物(このばけもの)に取(とら)れて、子は親に先立(さきだち)、婦(め)は夫(をつと)に別れたる者多く候ぞや。さても何(いか)なる者にて候ぞ。哀(あはれ)其(その)手を見ばや。」と被所望ければ、頼光、「安き程の事にて候。」とて、櫃(ひつ)の中より件(くだん)の手を取出して老母(らうぼ)の前にぞ閣(さしおき)ける。母是(これ)を取て、暫(しばら)く見る由(よし)しけるが、我(わが)右の手(て)の臂(ひぢ)より切られたるを差出して、「是(これ)は我(わが)手にて候(さうらひ)ける。」と云て差合(さしあはせ)、忽(たちまち)に長(たけ)二丈(にぢやう)計(ばかり)なる牛鬼(うしおに)と成て、酌(しやく)に立たりける綱(つな)を左の手に乍提、頼光(よりみつ)に走蒐(わしりかか)りける。頼光(よりみつ)件(くだん)の太刀を抜(ぬい)て、牛鬼の頭(かうべ)をかけず切て落す。其頭(そのかうべ)中(ちう)に飛揚(とびあが)り、太刀の鋒(きつさき)を五寸(ごすん)喰(くひ)切て口に乍含、半時許(はんじばかり)跳上(をどりあが)り/\吠忿(ほえいか)りけるが、遂(つひ)には地に落(おち)て死(しに)にけり。其形(そのむくろ)は尚(なお)破風(はふ)より飛出て、遥(はるか)の天に上りけり。今に至るまで渡辺党の家作(つくり)に破風をせざるは此故(このゆゑ)也(なり)。其比(そのころ)修験清浄(しゆげんしやうじやう)の横川(よかは)の僧都覚蓮(がくれん)を請(しやう)じ奉て、壇上に此(この)太刀を立(たて)、七五三(しめ)を引(ひき)、七日加持し給(たまひ)ければ、鋒(きつさき)五寸(ごすん)折(をれ)たりける剣に、天井よりくりから下懸て鋒を口にふくみければ、乍(たちまち)に如元生(おひ)出にけり。其(その)後此(こ)の太刀多田(ただの)満仲(まんぢゆう)が手に渡て、信濃(しなのの)国(くに)戸蔵山(とかくしやま)にて又鬼を切たる事あり。依之(これによつて)其(その)名を鬼切(おにきり)と云(いふ)なり。此(この)太刀は、伯耆(はうきの)国(くに)会見(ゑみの)郡(こほり)に大原五郎太夫安綱(やすつな)と云(いふ)鍜冶、一心清浄(しやうじやう)の誠(まこと)を至し、きたひ出したる剣也(なり)。時の武将田村(たむら)の将軍に是(これ)を奉る。此(これ)は鈴鹿(すずか)の御前(ごぜん)、田村将軍と、鈴鹿山にて剣合(つるぎあはせ)の剣是(これ)也(なり)。其(その)後田村丸、伊勢大神宮へ参詣の時、大宮(おほみや)より夢の告(つげ)を以て、御所望有て御殿に被納。其(その)後摂津(つの)守(かみ)頼光(よりみつ)、太神宮参詣の時夢想あり。「汝(なんじ)に此(この)剣を与(あたふ)る。是(これ)を以て子孫代々(だいだい)の家嫡に伝へ、天下の守たるべし。」と示(しめし)給ひたる太刀也(なり)。されば源家に執(しつ)せらるゝも理(ことわり)なり。
○神南(かうない)合戦(かつせんの)事(こと) S3208
去(さる)程(ほど)に、将軍は持明院の主上(しゆしやう)を守護(しゆご)し奉て、近江(あふみの)国(くに)四十九院(しじふくゐん)に落止(おちとどま)り、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあそん)は西国より上洛(しやうらく)せんずる敵を支(ささ)へん為に、播磨の鵤(いかるが)に兼(かね)て在庄し給ひたりと聞へしかば、土岐・佐々木(ささき)・仁木右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)、三千(さんぜん)余騎(よき)にて四十九院(しじふくゐん)へ馳(はせ)参る。四国・西国の兵二万(にまん)余騎(よき)、鵤(いかるが)へ馳集る。畠山尾張(をはりの)守(かみ)も東(とう)八箇国(はちかこく)の勢を率(そつ)して、今日明日の程に参著仕(さんちやくつかまつ)るべしと、飛脚及度度由申されければ、将軍父子の御勢(おんせい)、只(ただ)竜(りよう)の天に翔(かけつ)て雲を起し、虎の山に靠(よりかかつ)て風を生(しやうずる)が如し。東西の牒使(てふし)相図(あひづ)の日を定めければ、将軍は三万(さんまん)余騎(よき)の勢にて、二月四日東坂本(ひがしさかもと)に著(つき)給ふ。義詮朝臣(よしあきらあそん)は七千(しちせん)余騎(よき)にて、同日の早旦に、山崎の西、神南(かうない)の北なる峯に陣を取(とり)給ふ。右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬(ただふゆ)も始は大津・松本の辺に馳向て合戦を致さんと議せられけるが、山門・三井寺(みゐでら)の衆徒、皆(みな)将軍(しやうぐん)に志を通ずる由聞へければ、只洛中(らくちゆう)にして東西に敵を受(うけ)て繕(つくろう)て合戦をすべしとて、一手(ひとて)は右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)直冬を大将にて、尾張(をはりの)修理(しゆりの)大夫(たいふ)高経・子息兵部(ひやうぶの)少輔(せう)・桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常(なほつね)・土岐・原・蜂屋・赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)、其(その)勢(せい)都合(つがふ)六千(ろくせん)余騎(よき)、東寺を攻(つめ)の城(じやう)に構(かま)へて、七条より下九条(くでう)まで家々小路(こうぢ)々々(こうぢ)に充満(みちみち)たり。一手(ひとて)は山名伊豆(いづの)守(かみ)時氏・子息右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏を大将にて、伊田・波多野・石原・足立(あだち)・河村(かはむら)・久世(くぜ)・土屋(つちや)・福依(ふくより)・野田・首藤沢・浅沼・大庭(にわ)・福間(ふくま)・宇多河(うだがは)・海老名(えびな)和泉(いづみの)守(かみ)・吉岡安芸(あきの)守(かみ)・小幡(をばた)出羽(ではの)守(かみ)・楯(たての)又太郎(またたらう)・加地(かぢ)三郎・後藤壱岐(いきの)四郎・倭久(わくの)修理(しゆりの)亮(すけ)・長門山城(やましろの)守(かみ)・土師(とじ)右京(うきやうの)亮(すけ)・毛利因幡(いなばの)守(かみ)・佐治(さぢ)但馬(たぢまの)守(かみ)・塩見源太以下其(その)勢(せい)合(あはせ)て五千(ごせん)余騎(よき)、前に深田(ふけた)をあて、左に河を堺(さかう)て、淀・鳥羽・赤井・大渡に引分々々陣を取る。河より南には、四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆俊・法性寺右衛門(うゑもんの)督(かみ)康長を大将として、吉良(きら)・石堂(いしたう)・原・蜂屋・赤松弾正少弼(だんじやうせうひつ)・和田・楠・真木・佐和・秋山・酒辺(さかへ)・宇野・崎山(さきやま)・佐美(さみ)・陶器(すゑ)・岩郡(いはくり)・河野辺(かわのへ)・福塚(ふくづか)・橋本を始(はじめ)として、吉野の軍兵三千(さんぜん)余騎(よき)、八幡(やはた)の山下(さんげ)に陣を取る。山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)師氏、始の程は待て戦(たたかは)んとて議したりけるが、神南(かうない)の敵さまでの大勢ならずと見すかして、日来(ひごろ)の議を翻(ひるがへ)して、八幡に引(ひか)へたる南方の勢と一(ひとつ)に成て、先(まづ)神内(かうない)の宿(しゆく)に打寄り、楯の板をしめし、馬の腹帯(はるび)を堅めて二の尾(を)よりあげたり。此(この)陣始(はじめ)より三所に分れて、西の尾崎をば、赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)・子息弥次郎(やじらう)師範(もろのり)・五郎直頼(なほより)・彦五郎範実(のりざね)・肥前(ひぜんの)権(ごんの)守(かみ)朝範(とものり)、並(ならびに)佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)が手(ての)者・黄旗(きはた)一揆(いつき)、彼是(かれこれ)合(あはせ)て二千(にせん)余騎(よき)にて堅めたり。南の尾崎(をさき)をば、細河右馬(うまの)頭(かみ)頼之(よりゆき)・同式部(しきぶの)大輔(たいふ)、西国・中国の勢相共(あひとも)に、二千(にせん)余騎(よき)堅(かた)めたり。北に当りたる峯には、大将義詮朝臣(よしあきらあそん)の陣なれば、道誉(だうよ)・則祐(そくいう)以下老武者、頭人(とうにん)・評定衆・奉行人、其(その)勢三千(さんぜん)余騎(よき)、油幕(ゆばく)の内に布皮(しきかは)を敷(し)き双(なら)べ、袖を連(つらね)て並居(なみゐ)たり。嶮(けはし)き山の習として、余所(よそ)はみへて麓は不見。何(いづ)れの陣へか敵は先(まづ)蒐(かか)らんと、遠目(とほめ)仕(つか)ふて守(まも)り居たる所に、山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)を先(さき)として、出雲・伯耆の勢二千(にせん)余騎(よき)、西の尾崎へ只一息(ひといき)に懸上(かけあげ)て、一度(いちど)に時をどつと作る。分内(ぶんない)狭(せば)き両方の峯に馬人身を側(そば)むる程に打寄(うちよせ)たれば、互に射違(いちがふ)るこみ矢のはづるゝは一もなし。爰(ここ)に播磨国(はりまのくに)の住人(ぢゆうにん)後藤三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)基明(もとあきら)と云ける強弓(つよゆみ)の手垂(てだ)れ、一段(いちだん)高き岩の上に走(わし)り上て、三人(さんにん)張りに十四束(じふしそく)三伏(みつぶせ)、飽(あく)まで引て放(はなし)けるに、楯も物具もたまらねば、山名が兵共(つはものども)進(すすみ)かねて、少し白(しろ)うてぞ見へたりける。是(これ)を利にして、佐々木(ささき)が黄旗一揆(いつき)の中より、大鍬形に一様(いちやう)の母衣(ほろ)懸(かけ)たる武者三人(さんにん)、己が結(ゆう)たる鹿垣(ししがき)切て押破り、「日本一(につぽんいち)の大剛の者、近江(あふみの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)江見(えみの)勘解由左衛門(かげゆざゑもんの)尉(じよう)・蓑浦(みのうら)四郎左衛門(しらうざゑもん)・馬淵(まぶち)新左衛門(しんざゑもん)、真前(まつさき)懸(かけ)て討死仕るぞ。死残る人あらば語て子孫に名を伝へよ。」と声々に名乗呼(よば)は(ッ)て、斬死(きりじに)にこそ死(しに)にけれ。後藤三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)基明・一宮(いちのみや)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)有種(ありたね)・粟飯原(あいはら)彦五郎・海老名新左衛門(しんざゑもん)四人、高声(かうしやう)に名乗て川を渡し城へ切て入(いる)。「合戦こそ先懸(さきがけ)は一人に定まれ。加様(かやう)の広(ひろ)みの軍には、敵と一番に打違(うちちがへ)たるを以て先懸とは申すぞ。御方に一人も死残る人あらば、証拠(しようご)に立てたび候へ。」と呼(よば)は(ッ)て、寄手(よせて)数万の中へ只四人切て入る。右衛門(うゑもんの)佐(すけ)大音声を揚(あげ)て、「前陣戦労(たたかひつか)れて見ゆるぞ。後陣(ごぢん)入替てあの敵討(うて)。」と下知すれば、伊田・波多野の早雄(はやりを)の若武者共(わかむしやども)、二十(にじふ)余人(よにん)馬より飛下飛下(とびおりとびおり)、勇々(いさみいさん)で抜連(ぬきつれ)て渡(わたり)合ふ。後(うし)ろには数万の敵、「御方つゞくぞ引(ひく)な。」と力を合て喚(をめ)き叫ぶ。前には五十(ごじふ)余人(よにん)の者共(ものども)颯(さつ)と入乱れて切合ふ。太刀の鐔音鎧突(つばおとよろひづき)、山彦(やまびこ)に響き暫(しばし)も休(やむ)時(とき)なければ、山岳(さんがく)崩(くづれ)て川谷(せんこく)を埋(うづ)むかとこそ聞へけれ。此(この)時(とき)後藤三郎左衛門(さぶらうざゑもん)已下、面(おもて)に立(たつ)程の兵五十(ごじふ)余人(よにん)討(うた)れにけり。二陣の南尾(みなみを)をば、細河右馬(うまの)頭(かみ)・同式部(しきぶの)大輔(たいふ)大将にて、四国・中国の兵共(つはものども)が二千(にせん)余騎(よき)にて堅めたりけるが、此(ここ)は殊更(ことさら)地僻(さが)り谷深く切れて、敵の上(のぼる)べき便(たより)なしと思(おもひ)ける処(ところに)、山名伊豆(いづの)守(かみ)を先として小林民部(みんぶの)丞(じよう)・小幡(をばた)・浅沼・和田・楠、和泉・河内・但馬・丹後(たんご)・因幡の兵共(つはものども)三千(さんぜん)余騎(よき)にて、さしも岨(けはし)き山路(やまぢ)を盤折(つづらをり)にぞ上たりける。此(この)陣には未(いまだ)鹿垣(ししがき)の一重(ひとへ)も結(ゆは)ざれば、両方時の声を合(あは)せて矢一筋(ひとすぢ)射違る程こそ有けれ。軈(やが)て打物(うちもの)に成(なり)て乱(みだれ)合ふ。先(まづ)一番に進(すすん)で戦(たたかひ)ける四国勢の中に、秋間(あきま)兵庫(ひやうごの)助(すけ)兄弟三人(さんにん)・生稲四郎左衛門(しらうざゑもん)一族(いちぞく)十二人(じふににん)一足(ひとあし)も引かで討(うた)れにけり。是(これ)を見て坂東(ばんどう)・坂西(ばんぜい)・藤家(とうけ)・橘家(きつけ)の者共(ものども)少し飽(あぐ)んで見へけるを、備前(びぜんの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)須々木(すずき)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)父子兄弟六人入替て戦(たたかひ)けるが、つゞく御方(みかた)なければ是(これ)も一所にて討(うた)れにけり。是(これ)より一陣二陣共に色めき、兵しどろに見へけるを、小林民部(みんぶの)丞(じよう)得(え)たり賢(かしこ)しと、勝(かつ)に乗て短兵(たんぺい)急に拉(とりひしが)んと、揉(もみ)に揉(もう)で責(せめ)ける間、四国・中国の三千(さんぜん)余騎(よき)、山より北へまくり落されて、遥(はるか)に深き谷底へ、人雪頽(ひとなだれ)をつかせて落重(おちかさ)なれば、敵に逢(あう)て討死する者は少しといへ共、己が太刀・長刀に貫(つらぬか)れて死する兵数(かず)を不知(しらず)。是(これ)を見て山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)弥(いよいよ)気に乗て真前(まつさき)に進む上は、相順(あひしたが)ふ兵共(つはものども)誰かは少しも擬議(ぎぎ)すべき、我先(さき)に敵に合(あは)んと争ひ前(すす)まずと云(いふ)者なし。中にも山名が郎等(らうどう)、因播(いなばの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)に福間(ふくまの)三郎とて、世に名を知(しら)れたる大力の有(あり)けるが、七尺(しちしやく)三寸(さんずん)の太刀だびら広(ひろ)に作りたるを、鐔本(つばもと)三尺(さんじやく)計(ばかり)をいて蛤歯(はまぐりば)に掻合(かきあは)せ、伏縄目(ふしなはめ)の鎧(よろひ)に三鍬形(みつくはがた)打たる甲(かぶと)を猪頚(ゐくび)に著なし、小跳(こをどり)して片手打(かたてうち)の払切(はらひぎり)に切て上(あが)りけるに、太刀の歯(は)に当る敵は、どう中(なか)諸膝(もろひざ)かけて落され、太刀の峯に当る兵は、或(あるひ)は中(ちう)にづんど打上(うちあげ)られ、或(あるひは)尻居(しりゐ)にどうど打倒されて、血を吐(はい)てこそ死にけれ。両陣已(すで)に破(やぶれ)し後、兵皆(みな)乱(みだれ)て、惣大将(そうだいしやう)の御勢(おんせい)と一所にならんと、崩(くづ)れ落(おち)て引(ひき)ける間、伊田・波多野の者共(ものども)、「余すな洩(もら)すな。」と喚(をめ)き叫(さけん)で追懸(おひかけ)たり。石巌(せきがん)苔(こけ)滑(なめら)かにして荊棘(けいきよく)道を塞(ふさぎ)たれば、引(ひく)者も不延得返す兵敢(あへ)て不討云(いふ)事なし。赤松弥次郎(やじらう)・舎弟(しやてい)五郎・同彦五郎三人(さんにん)引留りて、「此(ここ)を返さで引(ひく)程ならば、誰かは一人可生残。命惜(をし)くは返せや殿原(とのばら)、返せや一揆(いつき)の人々。」と恥しめて罵(ののしり)けれ共(ども)、蹈(ふみ)留る者無(なか)りければ、小国(をくに)播磨(はりまの)守(かみ)・伊勢(いせの)左衛門太郎・疋壇(ひきだ)藤六・魚角(うをすみ)大夫房・佐々木(ささき)弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)・同能登(のとの)権(ごんの)守(かみ)・新谷(にひのや)入道・薦田(こもだ)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)・河勾(かうわ)弥七・瓶尻(かめじり)兵庫(ひやうごの)助(すけ)・粟生田(あはふだ)左衛門次郎(さゑもんじらう)、返(かへし)合(あはせ)々々(かへしあはせ)所々にて討(うた)れにけり。河原(かはら)兵庫(ひやうごの)助(すけ)重行(しげゆき)は、今度の軍に打負(うちまけ)ば、必(かならず)討死せんと兼(かね)て思(おもひ)儲(まうけ)けるにや、敵の已(すで)に押寄(おしよせ)んと方々より打寄るを見て申けるは、「今日の合戦は我身(わがみ)独(ひとり)の喜び哉(かな)。元暦(げんりやく)の古へ、平家一谷(いちのたに)に篭(こも)りしを攻(せめ)し時、一の城戸(きど)生田(いくたの)森の前にて、某が先祖河原(かはら)大郎・河原(かはら)次郎二人(ににん)、城の木戸(きど)を乗越て討死したりしも二月也(なり)。国も不替月日も不違、重行同(おなじ)く討死して弥(いよいよ)先祖の高名を顕(あらは)さば、冥途黄泉(めいどくわうせん)の道の岐(ちまた)に行合て、其尊霊(そのそんりやう)さこそ悦(よろこび)給はんずらめ。」と、泪(なみだ)を流して申けるが、云(いひ)つる言(ことば)少しも不違、数万人(すまんにん)の敵の中へ只一騎(いつき)懸入て、終(つひ)に討死しけるこそ哀(あはれ)なれ赤松肥前(ひぜんの)権(ごんの)守(かみ)朝範(とものり)は、此(この)陣を一番に破られぬる事、身独(ひとり)の恥と思(おもひ)ければ、袖に著(つけ)たる笠符(かさじるし)を引隠(かくし)て、敵の中へ交(まじはつ)て、よき敵にあはゞ打違(うちちが)へて死なんと伺見(うかがひみ)ける処に、山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)が引(ひく)敵を追立て、敵を少(すこし)も足ためさせずして、只何(いづ)くまでも追攻々々(おつつめおつつめ)討て、前(さき)へ通れと兵を下知して、弓手(ゆんで)の方を通(とほ)りけるを、朝範吃(きつ)と打見て、「哀(あはれ)敵や。」と云(いふ)侭(まま)に、走(わしり)懸て追様(おつさま)に、右衛門(うゑもんの)佐(すけ)が甲(かぶと)を破(われ)よ砕(くだけ)よとしたゝかにちやうど打(うた)れて吃(きつ)と振返れば、山名が若党(わかたう)三人(さんにん)中に隔(へただつ)て、肥前(ひぜんの)守(かみ)が甲(かぶと)を重(かさ)ね打(うち)に打て打落す。落(おち)たる甲を取て著(き)んとて、差(さし)うつぶく処に、小鬢(こびん)のはづれ小耳(こみみ)の上、三太刀まで被切ければ、流るゝ血に目昏(めくれ)て、朝範犬居(いぬゐ)に動(どう)と臥せば、敵押へてとどめを差(さし)てぞ捨(すて)たりける。され共此(この)人死業(しにごふ)や不来けん、敵頚(くび)をも不取。軍散じて後、草の陰(かげ)より生(いき)出て助りけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。一陣二陣忽(たちまち)に攻(せめ)破られて、山名弥(いよいよ)勝に乗ければ、峯々に控(ひかへ)たる国々の集勢(あつめぜい)共(ども)、未戦(いまだたたかはざる)先(さき)に捨鞭(すてむち)を打て落行(おちゆき)ける程に、大将羽林公(うりんこう)の陣の辺には僅(わづか)に勢百騎(ひやくき)計(ばかり)ぞ残(のこり)ける。是(これ)までも猶(なほ)佐々木(ささきの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)・赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)二人(ににん)、小(すこし)も気を不屈、敷皮(しきがは)の上に居直(ゐなほ)りて、「何(いづ)くへか一足(ひとあし)も引(ひき)候べき。只(ただ)我等(われら)が討死仕て候はんずるを御覧ぜられて後、御自害(ごじがい)候へ。」と、大将をおきて奉て、弥(いよいよ)勇(いさみ)てぞ見へたりける。大将の陣無勢(ぶせい)に成て、而(しか)も四目結(よつめゆひ)の旗一流(ひとながれ)有(あり)と見へければ、山名大に悦て申けるは、「抑(そもそも)我此(こ)の乱(らん)を起(おこ)す事、天下を傾(かたぶ)け将軍を滅(ほろぼ)し奉らんと思ふに非(あら)ず、只(ただ)道誉(だうよ)が我に無礼(ぶれい)なりし振舞を憎しと思(おもふ)許(ばかり)也(なり)。此(ここ)に四目結(よつめゆひ)の旗は道誉(だうよ)にてぞ有(ある)らん。是(これ)天の与(あたへ)たる処の幸也(なり)。自余(じよ)の敵に目な懸(かけ)そ。あの頚(くび)取て我に見せよ。」と、歯嚼(はがみ)をして前(すす)まれければ、六千(ろくせん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、我先にと勇み前(すす)んで大将の陣へ打て懸る。敵の近(ちかづく)事二町(にちやう)許(ばかり)に成(なり)にければ、赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐、帷幕(ゐばく)を颯(さつ)と打挙(うちあげ)て、「天下(てんがの)勝負此(この)軍に非(あら)ずや。何(いつ)の為にか命を可惜。名将の御前(おんまへ)にて紛(まぎれ)もなく討死して、後記(こうき)に留めよや。」と下知しければ、「承(うけたまはり)候。」とて、平塚(ひらつか)次郎・内藤与次・近藤大蔵(おほくらの)丞(じよう)・今村宗五郎・湯浅新兵衛(ひやうゑの)尉(じよう)・大塩次郎・曾禰(そね)四郎左衛門(しらうざゑもん)七人(しちにん)、大将の御前(おんまへ)をはら/\と立て抜(ぬい)て懸る。敵に射手(いて)は一人もなし。向(むか)ふ敵を御方(みかた)の射手(いて)に射すくめさせて、七人(しちにん)の者共(ものども)鎧(よろひ)の射向(いむけ)の袖汰合(ゆりあは)せ、跳懸(をどりかかり)々々(をどりかかり)鍔本(つばもと)に火を散(ちら)し、鋒(きつさき)に血を淋(そそ)ひで切(きつ)て廻(まはり)けるに、山名が前懸(さきがけ)の兵四人目の前に討(うた)れて、三十人(さんじふにん)深手を負(おひ)ければ、跡につゞける三百(さんびやく)余人(よにん)進(すすみ)兼(かね)てぞ見へたりける。是(これ)を見て平井新左衛門(しんざゑもん)景範(かげのり)・櫛橋(くしはし)三郎左衛門(さぶらうざゑもんの)尉(じよう)・桜田左衛門俊秀(としひで)・大野弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)氏永(うぢなが)、声々に、「つゞくぞ引(ひく)な。」と、御方の兵に力を付(つけ)て、喚(をめい)てぞ懸(かかり)たりける。かさに敵を請(うけ)たる徒立(かちだち)の勢なれば、悪手(あらて)の馬武者に中を懸破(かけわ)られて足をもためず、両方の谷へ雪下(なだれおり)て引(ひく)を見て、初め一陣二陣にて打散(うちちら)されつる四国・中国の兵、此彼(ここかしこ)より馳(はせ)来て、忽(たちまち)に千(せん)余騎(よき)に成(なり)にけり。山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)、跡なる勢を麾(さしまねい)て、猶(なほ)蒐入(かけいら)んと四方(しはう)を見廻す処に、南方の官軍共(くわんぐんども)、跡に千(せん)余騎(よき)にて控(ひかへ)たりけるが、何と、云(いふ)儀(ぎ)もなく、崩(くづれ)落(おち)て引(ひき)ける間、矢種(やだね)尽(つ)き気疲れたる山名が勢、心は猛(たけ)く思へ共不叶、心ならず御方に引立(ひきたて)られて、山崎を差(さし)て引退く。敵却(かへつ)て勝(かつ)に乗(のり)しかば、嶺(みね)々谷々(たにだに)より、五百騎(ごひやくき)三百騎(さんびやくき)道を要(よこた)へ前を遮(さへぎつ)て、蜘手(くもで)十文字(じふもんじ)に懸立(かけたつ)る。中にも内海(うつみの)十郎範秀(のりひで)は、逃(にぐ)る敵に追(おつ)すがうて、甲(かぶと)の鉢・胄(よろひ)の総角(あげまき)、切付(きりつけ)々々(きりつけ)行(ゆき)けるが、鐔本(つばもと)より太刀をば打折(うちをり)ぬ。馬は疲れぬ。徒立(かちだち)に成てぞ立たりける。弓手(ゆんで)の方を屹(きつ)と見たれば、噎(さも)爽(さはやか)に鎧(よろ)ふたる武者一騎(いつき)、三引両(みつびきりやう)の笠符(かさじるし)著(つけ)て馳(はせ)通(とほ)りけるを、哀(あはれ)敵やと打見て、馬の三頭(さんづ)にゆらりと飛(とび)乗り、敵と二人(ににん)馬にぞ乗たりける。敵是(これ)を御方ぞと心得(こころえ)て、「誰にてをはするぞ。手負ならば我が腰に強く抱著(だきつき)給へ。助(たすけ)奉らん。」と云(いひ)ければ、「悦(よろこび)入て候。」と云(いひ)もはてず、刀を抜(ぬい)て前なる敵の頚(くび)を掻落(かきおと)し、軈(やがて)其(その)馬に打乗て、落行(おちゆく)敵を追て行く。山名右衛門(うゑもんの)佐(すけ)が兵共(つはものども)始(はじめ)因幡を立(たち)しより、今度(こんど)は必(かならず)都にて尸(かばね)を曝(さら)さんと思(おもひ)儲(まうけ)し事なれば、伊田・波多野・多賀谷(たがたに)・浅沼・藤山・土屋・福依(ふくより)・石原・久世(くぜ)・竹中・足立・河村(かはむら)・首藤(すどう)・大庭(おほには)・福塚(ふくづか)・佐野・火作(こつくり)・歌(うだ)・河沢(かはざは)・敷美(しきみ)以下、宗(むね)との侍八十四人、其(その)一族(いちぞく)郎従二百六十三人(にひやくろくじふさんにん)、返(かへし)合(あはせ)々々(かへしあはせ)四五町(しごちやう)が中にて討(うた)れにけり。右衛門(うゑもんの)佐(すけ)は小林民部(みんぶの)丞(じよう)が跡に蹈(ふみ)止て防矢(ふせぎや)射けるを、討(うた)せじと七騎にて又取て返し、大勢の中へ懸入て面(おもて)も不振戦はれける程に、左の眼を小耳(こみみ)の根へ射付(いつけ)られて目くれ肝(きも)消(け)しければ、太刀を倒(さかさま)に突(つい)て、些(すこし)心地を取直さんとせられける処に、敵の雨の降(ふる)如く射る矢、馬の太腹(ふとはら)・草脇(くさわき)に五筋まで立(たち)ければ、小膝(こひざ)を折て動(どう)ど臥す。馬より下(お)り立て、鎧の草摺(くさずり)たゝみ上て、腰の刀を抜(ぬい)て自害をせんとし給(たまひ)けるを、河村弾正馳(はせ)寄て、己が馬に掻乗(かきの)せ、福間(ふくま)三郎が戦(たたかひ)疲れて、とある岩の上に休(やすみ)て居たりけるを招(まねい)て、右衛門(うゑもんの)佐(すけ)の馬の口を引(ひか)せ、河村は徒立(かちだち)に成て、追て懸る敵に走懸(わしりかかり)々々(わしりかかり)、切死(きりじに)にこそ死(しに)にけれ。右衛門(うゑもんの)佐(すけ)は乗替(のりがへ)の馬に乗て、些(ちと)人心は付(つき)たれ共(ども)、流るゝ血目に入て東西更(さら)に不見ければ、「馬廻(うままはり)に誰かある。此(この)馬の口を敵の方へ引(ひき)向(むけ)よ。馳入(はせいり)、河村弾正が死骸の上にて討死せん。」と勇(いさみ)けるを、福間三郎、「此方(こなた)が敵の方にて候。」とて、馬の口を下(くだ)り頭(がしら)に引(ひき)向け、自(みづから)馬手(めて)の七寸(みづつき)に付て、小砂(こすな)まじりの小篠原(こささはら)を、三町(さんちやう)許(ばかり)馳落(はせおとし)て、御方(みかた)の勢にぞ加(くは)りける。爰(ここ)までは追てかゝる敵もなし。其(その)後軍は休(やみ)にけり。右衛門(うゑもんの)佐(すけ)は淀へ打帰て、此(この)軍に討(うた)れつる者共(ものども)の名字(みやうじ)を一々に書注(かきしる)して、因幡の岩常谷(いはつねだに)の道場(だうぢやう)へ送り、亡卒(ばうそつ)の後世菩提(ごせぼだい)をぞ吊(とぶら)はせられける。中にも河村弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)は我(わが)命に代(かはつ)て討(うた)れつる者なればとて、懸(かかり)たる首を敵に乞受(こひうけ)て、空(むな)しき顔を一目見て泪(なみだ)を流(ながし)てくどかれけるは、「我此(この)乱を起して天下を覆(くつが)へさんとせし始(はじめ)より、御辺が我を以て如父憑(たの)み、我は御辺を子の如くに思(おもひ)き。されば戦場に臨(のぞ)む度毎(たびごと)に、御辺いきば我(われ)もいき、御辺討死せば我(われ)も死なんとこそ契(ちぎり)しに、人は依儀に為我死し、我は命を助(たすけ)られて人の跡に生残りたる恥かしさよ。苔(こけ)の下草の陰(かげ)にても、さこそ無云甲斐思給ふらめ。末の露と先立(さきだち)本(もと)の瀝(しづく)と後(おく)るゝ共、再会は必(かならず)九品(くほん)浄土(じやうど)の台(うてな)に有(ある)べし。」と泣々(なくなく)鬢(びん)を掻(か)き撫(なで)て、聖(ひじり)一人(いちにん)請(しやう)じ寄て、今まで秘蔵(ひさう)して被乗たる白瓦毛(しろかはらげ)の馬白鞍置(おき)て葬(さう)馬に引(ひか)せ、白太刀一振(ひとふり)聖(ひじり)に与(あたへ)て、討死しつる河村が後生菩提を問(とは)れける、情の程こそ難有けれ。昔唐(たう)の太宗戦に臨(のぞん)で、戦士を重くせしに、血を含(ふく)み疵(きず)を吸(すふ)のみに非(あら)ず、亡卒(ばうそつ)の遺骸(ゆゐがい)をば帛(はく)を散して収(をさめ)しも、角(かく)やと覚(おぼえ)て哀(あはれ)なり。