太平記(国民文庫)
太平記巻第三十
○将軍御兄弟(ごきやうだい)和睦(わぼくの)事(こと)付(つけたり)天狗(てんぐ)勢汰(せいぞろへの)事(こと) S3001
志(こころざし)合(がつする)則(ときは)胡越(こゑつ)も不隔地。況(いわん)や同(おなじ)く父母の出懐抱浮沈(ふちん)を共にし、一日も不離咫尺、連枝(れんし)兄弟の御中也(なり)。一旦(いつたん)師直・師泰等(もろやすら)が、不義を罰するまでにてこそあれ、何事にか骨肉(こつにく)を離るゝ心可有とて、将軍と高倉殿(たかくらどの)と御合体(ごがつてい)有(あり)ければ、将軍は播磨より上洛(しやうらく)し、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮(よしのり)は丹波(たんばの)石龕(いはや)より上洛(しやうらく)し、錦小路殿(にしきのこうぢどの)は八幡より入洛(じゆらく)し給ふ。三人(さんにん)軈(やがて)会合(くわいがふ)し給(たまひ)て、一献(いつこん)の礼有(あり)けれ共(ども)、此(この)間の確執(かくしつ)流石(さすが)片腹いたき心地して、互(たがひ)の言(こと)ば少く無興気(ぶきようげ)にてぞ被帰ける。高倉殿(たかくらどの)は元来(ぐわんらい)仁者(じんしや)の行(かう)を借(かつ)て、世の譏(そしり)を憚(はばか)る人也(なり)ければ、いつしか軈(やがて)天下の政(まつりこと)を執(とつ)て、威(ゐ)を可振其(その)機を出されねども、世の人重んじ仰ぎ奉る事、日来(ひごろ)に勝(すぐ)れて、其被官(そのひくわん)の族(やから)、触事に気色は不増云(いふ)事なし。車馬門前に立列(つらなつ)て出入側身を、賓客(ひんかく)堂上(だうじやう)に群集(くんじゆ)して、揖譲(いふじやう)の礼を慎(つつし)めり。如此目出度(めでたき)事のみある中に、高倉殿(たかくらどの)最愛の一子(いつし)今年四(よつ)に成(なり)給ひてけるが、今月二十六日(にじふろくにち)俄(にはか)に失(うせ)給ひければ、母儀(ぼぎ)を始(はじめ)奉(たてまつり)上下万人泣(なき)悲(かなし)む事限なし。さても西国東国の合戦、符(わりふ)を合(あは)せたるが如く同時に起て、師直・師泰兄弟父子の頚、皆京都に上(のぼり)ければ、等持寺(とうぢじ)の長老旨別源(しべつげん)、葬礼を取営(いとなみ)て下火(あこ)の仏事をし給ひけるに、昨夜春園風雨暴。和枝吹落棣棠花。と云(いふ)句の有(あり)けるを聞て、皆人感涙をぞ流しける。此二十(にじふ)余年(よねん)執事の被官(ひくわん)に身を寄(よせ)て、恩顧(おんこ)に誇る人幾千万(いくせんまん)ぞ。昨日まで烏帽子の折様(をりやう)、衣紋(えもん)のため様をまねて、「此(これ)こそ執事の内(うちの)人よ。」とて、世に重んぜられん事を求(もとめ)しに、今日はいつしか引替(ひきかへ)て貌(かたち)を窶(やつ)し面を側(そば)めて、「すはや御敵(おんてき)方(がた)の者よ。」とて、人にしられん事を恐懼(きようく)す。用(もちゆる)則(ときは)鼠(ねずみ)も為虎、不用(もちゐざる)則(ときは)虎も為鼠と云(いひ)置(おき)し、東方朔(とうばうさく)が虎鼠(こそ)の論、誠(まこと)に当れる一言なり。将軍兄弟こそ、誠(まこと)に繊芥(せんかい)の隔(へだて)もなく、和睦(わぼく)にて所存もなく坐(おはし)けれ。其門葉(そのもんえふ)に有て、附鳳(ふほう)の勢(いきほ)ひを貪(むさぼつ)て、攀竜(はんりよう)の望(のぞみ)を期する族(やから)は、人の時を得たるを見ては猜(そね)み、己が威を失へるを顧(かへりみ)ては、憤(いきどほり)を不含云(いふ)事なし。されば石塔(いしたふ)・上杉・桃井(もものゐ)は、様々の讒(ざん)を構(かまへ)て、将軍に付(つき)順ひ奉る人々を失はゞやと思ひ、仁木(につき)・細川・土岐・佐々木(ささき)は、種々の謀(はかりこと)を廻(めぐら)して、錦小路殿(にしきのこうぢどの)に、又人もなげに振舞ふ者共(ものども)を滅さばやとぞ巧(たくみ)ける。天魔波旬(はじゆん)は斯(かか)る所を伺(うかが)ふ者なれば、如何なる天狗共(てんぐども)の態(わざ)にてか有けん、夜にだに入(いり)ければ、何(いづ)くより馳寄(はせよする)共(とも)知(しら)ぬ兵共(つはものども)、五百騎(ごひやくき)三百騎(さんびやくき)、鹿(しし)の谷・北白河・阿弥陀け峯(みね)・紫野辺に集(あつまり)て、勢ぞろへをする事度々(どど)に及ぶ。是(これ)を聞て将軍方(しやうぐんがた)の人は、「あはや高倉殿(たかくらどの)より寄(よせ)らるゝは。」とて肝(きも)を冷(ひや)し、高倉殿(たかくらどの)方(がた)の人は、「いかさま将軍より討手を向(むけ)らるゝは。」とて用心(ようじん)を致す。禍(わざはひ)利欲(りよく)より起(おこつ)て、息(やむ)ことを得ざれば、終(つひ)に己(おのれ)が分国(ぶんこく)へ下て、本意(ほい)を達せんとや思(おもひ)けん、仁木左京大夫頼章(よりあきら)は病と称(しよう)して有馬の湯へ下る。舎弟(しやてい)の右馬(うまの)権(ごんの)助(すけ)義長(よしなが)は伊勢へ下(くだ)る。細川刑部(ぎやうぶの)大輔(たいふ)頼春(よりはる)は讃岐(さぬき)へ下る。佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)は近江へ下る。赤松筑前(ちくぜんの)守(かみ)貞範・甥の弥次郎(やじらう)師範(もろのり)・舎弟(しやてい)信濃五郎範直(のりなほ)は、播磨へ逃下(にげくだ)る。土岐(とき)刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)頼康(よりやす)は、憚(はばか)る気色もなく白書に都を立て、三百(さんびやく)余騎(よき)混(ひたす)ら合戦(かつせんの)用意(ようい)して、美濃(みのの)国(くに)へぞ下りける。赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)は、初(はじめ)より上洛(しやうらく)せで赤松に居たりけるが、吉野殿(よしのどの)より、故兵部(ひやうぶの)卿(きやう)親王(しんわう)の若宮を大将に申(まうし)下し進(まゐら)せて、西国の成敗(せいばい)を司(つかさどつ)て、近国の勢を集(あつめ)て、吉野・戸津河(とつかは)・和田・楠と牒(しめ)し合せ、已(すで)に都へ攻上(せめのぼら)ばやなんど聞へければ、又天下三に分れて、合戦息(やむ)時(とき)非じと、世の人安き心も無(なか)りけり。
○高倉殿(たかくらどの)京都退去(たいきよの)事(こと)付(つけたり)殷(いんの)紂王(ちうわうの)事(こと) S3002
同七月晦日、石塔入道・桃井(もものゐ)右馬(うまの)権(ごんの)頭(かみ)直常二人(ににん)、高倉殿(たかくらどの)へ参て申けるは、「仁木・細河(ほそかは)・土岐・佐々木(ささき)、皆己(おのれ)が国々へ逃(にげ)下て、謀叛(むほん)を起し候なる。是(これ)も何様(いかさま)将軍(しやうぐん)の御意を請(うけ)候歟(か)、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)の御教書(みげうしよ)を以て、勢を催(もよほ)すかにてぞ候らん。又赤松(あかまつ)律師(りつし)が大塔(おほたふの)若宮を申下(くだし)て、宮方(みやがた)を仕(つかまつ)ると聞へ候も、実は寄事於宮方(みやがた)に、勢を催して後、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)へ参らんとぞ存(ぞんじ)候らん。勢も少く御用心(ごようじん)も無沙汰にて都に御坐(おはしまし)候はん事如何とこそ存(ぞんじ)候へ。只(ただ)今夜々紛(よまぎ)れに、篠峯(ささのみね)越に北国の方へ御下(おんくだり)候(さふらひ)て、木目(きのめ)・荒血(あらち)の中山(なかやま)を差塞(さしふさ)がれ候はゞ、越前に修理(しゆりの)大夫(だいぶ)高経、加賀に富樫介(とがしのすけ)、能登に吉見(よしみ)、信濃に諏方下宮祝部(すはのげぐうのはふり)、皆無弐(むに)の御方(みかた)にて候へば、此(この)国々へは何(いか)なる敵か足をも蹈入(ふみいれ)候べき。甲斐(かひの)国(くに)と越中とは我等(われら)が已(すで)に分国(ぶんこく)として、相交(あひまじは)る敵候はねば、旁以(かたがたもつて)安かるべきにて候。先(まづ)北国へ御下(おんくだり)候(さふらひ)て、東国・西国へ御教書(みげうしよ)を成下(なしくだ)され候はんに、誰か応じ申さぬ者候べき。」と、又予儀(よぎ)もなく申ければ、禅門少しの思安(しあん)もなく、「さらば軈(やが)て下(くだ)るべし。」とて、取(とる)物も不取敢(とりあへず)、御前(おんまへ)に有逢(ありあひ)たる人々許(ばかり)を召具して、七月晦日の夜半許(ばかり)に、篠(ささ)の峯越に落(おち)給(たまふ)。騒がしかりし有様也(なり)。是(これ)を聞て、御内(みうち)の者は不及申、外様(とざま)の大名、国々の守護(しゆご)、四十八箇所(しじふはちかしよ)の篝(かがり)三百(さんびやく)余人(よにん)、在京人(ざいきやうにん)、畿内(きない)・近国・四国・九州より、此(この)間上(のぼ)り集(あつま)りたる軍勢共(ぐんぜいども)、我(われ)も我(われ)もと跡を追て落(おち)行(ゆき)ける程に、今は公家被官(くげひくわん)の者より外、京中(きやうぢゆう)に人あり共更(さら)に不見けり。夜明ければ、宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)将軍(しやうぐん)の御屋形へ被参て、「今夜京中(きやうぢゆう)のひしめき、非直事覚(おぼえ)て候。落行ける兵共(つはものども)大勢にて候なれば、若(もし)立帰(たちかへり)て寄(よす)る事もや候はんずらん。」と申されければ、将軍些(すこし)も不騒給、「運は天にあり、何の用心(ようじん)かすべき。」とて、褒貶(はうへん)の探冊(たんじやく)取出し、心閑(こころしづか)に詠吟(えいぎんし)、打嘯(うそぶい)てぞ坐(おはし)ける。高倉殿(たかくらどの)已(すで)に越前の敦賀(つるがの)津に坐(おは)して、著到(ちやくたう)を著(つけ)られけるに、初(はじめ)は一万(いちまん)三千(さんぜん)余騎(よき)有けるが、勢日々に加て六万(ろくまん)余騎(よき)と注せり。此(この)時(とき)若(もし)此(この)大勢を率(そつ)して京都へ寄(よせ)たらましかば、将軍も宰相中将殿(さいしやうのちゆうじやうどの)も、戦ふまでも御坐(おはし)まさじを、そゞろなる長僉議(ながせんぎ)、道も立(たた)ぬなま才学(さいがく)に時移(うつり)て、数日(すじつ)を徒(いたづら)に過にけり。抑(そもそも)是(これ)は誰が依意見、高倉殿(たかくらどの)は加様に兄弟叔父(をぢ)甥(をひ)の間、合戦をしながらさすが無道(ぶだう)を誅(ちゆう)して、世を鎮めんとする所を計(はから)ひ給ふと尋(たづぬ)れば、禅律(ぜんりつ)の奉行(ぶぎやう)にて被召(めされ)仕ける南家の儒者、藤原少納言有範(ありのり)が、より/\申(まうし)ける儀(ぎ)を用ひ給ひける故とぞ承(うけたまは)る。「さる程に昔殷(いん)の帝武乙(ぶいつ)と申しゝ王の位に即(つい)て、悪を好む事頻(しきり)也(なり)。我(われ)天子として一天(いつてん)四海(しかい)を掌(たなごころ)に握(にぎ)るといへ共、猶(なほ)日月の明暗を心に不任、雨風の暴(あら)く劇(けは)しき事を止(とめ)得ぬこそ安からねとて、何(いか)にもして天を亡(ほろぼ)さばやとぞ被巧ける。先(まづ)木を以て人を作て、是(これ)を天神と名(なづ)けて帝自(みづから)是(これ)と博奕(ばくえき)をなす。神真(まこと)の神ならず、人代(か)は(ッ)て賽(さい)を打ち石を仕(つか)ふ博奕なれば、帝などか勝(かち)給はざらん。勝(かち)給へば、天負(まけ)たりとて、木にて作れる神の形を手足を切り頭を刎(は)ね、打擲蹂躪(ちやうちやくじうりん)して獄門(ごくもん)に是(これ)を曝(さら)しけり。又革(かは)を以(もつて)人を作て血を入て、是(これ)を高き木の梢に懸(か)け、天を射ると号(がう)して射るに、血出て地に洒(そそ)く事をびたゝし。加様(かやう)の悪行(あくぎやう)身に余(あま)りければ、帝武乙(ぶいつ)河渭(かゐ)に猟(かり)せし時、俄(にはか)に雷(いかつち)落懸りて御身(おんみ)を分々(つだつだ)に引裂(さき)てぞ捨たりける。其(その)後御孫の小子帝位に即(つき)給ふ。是(これ)を殷(いん)の紂王(ちうわう)とぞ申(まうし)ける。紂王(ちうわう)長(ひととな)り給(たまひ)て後、智は諌(いさめ)を拒(こばみ)、是非の端(はし)を餝(かざ)るに足れり。勇は人に過(すぎ)て、手づから猛獣(まうじう)を挌(とりひしぐ)に難しとせず。人臣に矜(ほこ)るに能(のう)を以てし、天下にたかぶるに声(な)を以てせしかば、人皆己(おのれ)が下より出たりとて、諌諍(かんさう)の臣をも不被置、先王の法にも不順。妲己(だつき)と云(いふ)美人を愛して、万事只是(これ)が申侭(まうすまま)に付(つき)給ひしかば、罪無(なく)して死を賜ふ者多く只積悪(せきあく)のみあり。鉅鹿(きよろく)と云(いふ)郷(がう)に、まはり三十里(さんじふり)の倉を作りて、米穀(べいこく)を積余(つみあま)し、朝歌(てうか)と云(いふ)所に高さ二十丈(にじふぢやう)の台(うてな)を立て、銭貨を積満(つみみて)り。又沙丘(しやきう)に廻(まはり)一千里の苑台(ゑんだい)を造(つくり)て、酒を湛(たた)へ池とし、肉を懸(かけ)て林とす。其中に若く清らかなる男三百人(さんびやくにん)、みめ貌(かたち)勝(すぐ)れたる女三百人(さんびやくにん)を裸(はだか)になして、相逐(あひおつ)て婚姻(こんいん)をなさしむ。酒の池には、竜頭鷁首(りようどうげきしゆ)の舟を浮(うかべ)て長時(ちやうじ)に酔(ゑひ)をなし、肉の林には、北里の舞、新婬(しんいん)の楽(がく)を奏して不退(ふたい)の楽(たのしみ)を尽す。天上の婬楽快楽(いんらくけらく)も、是には及ばじとぞ見へたりける。或(ある)時(とき)后(きさき)妲己(だつき)、南庭の花の夕ばえを詠(えいじ)て寂寞(せきばく)として立(たち)給ふ。紂王(ちうわう)見(みる)に不耐して、「何事か御意に叶(かなは)ぬ事の侍る。」と問給へば、妲己、「哀(あはれ)炮格(はうかく)の法とやらんを見ばやと思ふを、心に叶はぬ事にし侍る。」と宣(のたまひ)ければ、紂王(ちうわう)、「安き程の事也(なり)。」とて、軈(やが)て南庭に炮格を建(たて)て、后の見物にぞ成(なさ)れける。夫(それ)炮格の法と申(まうす)は、五丈の銅(あかがね)の柱を二本東西に立て、上に鉄(くろがね)の縄(なは)を張(はり)て、下炭火(すみび)ををき、鉄湯炉壇(ろだん)の如くにをこして、罪人の背(せなか)に石を負(おふ)せ、官人戈(ほこ)を取て罪人を柱の上に責上(せめのぼ)せ、鉄(くろがね)の縄を渡る時、罪人気力に疲(つかれ)て炉壇の中に落入(おちいり)、灰燼(くわいじん)と成て焦(こが)れ死ぬ。焼熱(せうねつ)大焼熱の苦患(くげん)を移せる形なれば炮格(はうかく)の法とは名(なづ)けたり。后是(これ)を見給て、無類事に興(きよう)じ給ひければ、野人村老(やじんそんらう)日毎(ひごと)に子を被殺親を失て、泣悲む声無休時。此(この)時(とき)周(しう)の文王未(いまだ)西伯(せいはく)にて坐(おはし)けるが、密(ひそか)に是(これ)を見て人の悲み世の謗(そしり)、天下の乱と成ぬと歎(なげき)給ひけるを、崇侯虎(そうこうこ)と云ける者聞て殷(いんの)紂王(ちうわう)にぞ告(つげ)たりける。紂王(ちうわう)大に忿(いかつ)て、則(すなはち)西伯を囚(とら)へて■里(いうり)の獄舎(ひとや)に押篭(おしこめ)奉る。西伯が臣に■夭(くわうえう)と云ける人、沙金(しやきん)三千両・大宛(たいゑんの)馬百疋・嬋妍幽艶(せんけんいうえん)なる女百人(ひやくにん)を汰(そろ)へて、紂王(ちうわう)に奉て、西伯の囚(とらはれ)を乞受(こひうけ)ければ、元来色に婬(いん)し宝を好む事、後の禍(わざはひ)をも不顧、此(この)一を以(もつ)ても西伯を免(ゆる)すに足(たん)ぬべし、況哉(いはんや)其多(そのおほき)をやと、心飽(あく)まで悦て、則(すなはち)西伯をぞ免(ゆる)しける。西伯故郷に帰て、我命の活(いき)たる事をばさしも不悦給、只炮格の罪に逢(あう)て、無咎人民共が、毎日毎夜に十人(じふにん)二十人被焼殺事を、我身に当れる苦の如(ごとく)哀(あはれ)に悲く覚しければ、洛西(らくせい)の地三百里を、紂王(ちうわう)の后に献(けん)じて、炮格の刑(けい)を被止事をぞ被請ける。后も同(おなじ)く欲に染(そ)む心深くをはしければ、則(すなはち)洛西の地に替(かへ)て、炮格の刑を止(とめ)らる。剰(あまつさへ)感悦猶(なほ)是(これ)には不足けるにや、西伯に弓矢斧鉞(ふえつ)を賜(たまはつ)て、天下の権(けん)を執(とり)武を収(をさめ)ける官を授(さづけ)給ひければ、只龍の水を得て雲上(うんじやう)に挙(あが)るに不異。其(その)後西伯渭浜(ゐひん)の陽(きた)に田(かり)せんとし給ひけるに、史編(しへん)と云ける人占(うらなう)て申けるは、「今日の獲物(えもの)は非熊非羆、天君(きみ)に師を可与ふ。」とぞ占(ひ)ける。西伯大(おほい)に悦(よろこび)て潔斉(けつさい)し給ふ事七日、渭水(ゐすゐ)の陽(きた)に出て見給ふに、太公望(たいこうばう)が半簔(はんさ)の烟雨(えんう)水冷(すさまじう)して、釣を垂(た)るゝ事人に替(かは)れるあり。是(これ)則(すなはち)史編が占(うらな)ふ所也(なり)とて、車の右に乗(の)せて帰(かへり)給ふ。則(すなはち)武成王(せいわう)と仰(あふぎ)て、文王是(これ)を師とし仕(つか)ふる事不疎、逐に太公望が謀(はかりこと)に依て西伯徳(とく)を行ひしかば、其(その)子武王の世に当て、天下の人皆殷(いん)を背(そむい)て周(しう)に帰せしかば、武王逐に天下を執て永く八百(はつぴやく)余年(よねん)を保(たも)ちき。古への事を引て今の世を見候に、只羽林相公(うりんしやうこう)の淫乱(いんらん)、頗(すこぶ)る殷(いんの)紂王(ちうわう)の無道(ぶだう)に相似(あひに)たり、君仁(じん)を行はせ給ひて、是(これ)を亡(ほろぼ)されんに何の子細か候べき。」と、禅門をば文王の徳に比(ひ)し、我(わが)身をば太公望に准(なぞらへ)て、時節(をりふし)に付て申けるを、信ぜられけるこそ愚かなれ。さればとて禅門の行迹(かうせき)、泰伯が有徳の甥(をひ)、文王に譲(ゆづり)し仁にも非(あら)ず。又周公の無道(ぶだう)の兄(このかみ)、管叔を討せし義にも非(あら)ず。権道覇業(けんだうはげふ)、両(ふたつ)ながら欠(かけ)たる人とぞ見へたりける。
○直義追罰(つゐばつの)宣旨(せんじ)御使(おんつかひの)事(こと)付(つけたり)鴨社(かものやしろ)鳴動(めいどうの)事(こと) S3003
同八月十八日、征夷将軍源二位大納言尊氏(たかうぢの)卿(きやう)、高倉入道左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)追討(つゐたう)の宣旨を給て、近江(あふみの)国(くに)に下著(げちやく)して鏡(かがみの)宿(しゆく)に陣を取る。都を被立時までは其(その)勢纔(わづか)に三百騎(さんびやくき)にも不足けるが、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)・子息近江(あふみの)守(かみ)秀綱(ひでつな)は、当国勢三千(さんぜん)余騎(よき)を卒(そつ)して馳(はせ)参る。仁木右馬(うまの)権(ごんの)頭(かみ)義長(よしなが)は伊賀・伊勢の兵四千(しせん)余騎(よき)を率して馳参る。土岐刑部(ぎやうぶの)少輔(せう)頼康は、美濃(みのの)国(くに)の勢二千(にせん)余騎(よき)を率して馳参りける間、其(その)勢無程一万(いちまん)余騎(よき)に及ぶ。今は何(いか)なる大敵に戦ふ共、勢の不足(ふそく)とは不見けり。去(さる)程(ほど)に高倉入道左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)、石塔・畠山・桃井(もものゐ)三人(さんにん)を大将として、各二万(にまん)余騎(よき)の勢を差副(さしそへ)、同九月七日近江(あふみの)国(くに)へ打出、八相山(はつさうやま)に陣を取る。両陣堅く守て其(その)戦を不決。其(その)日(ひ)の未(ひつじ)の剋に、都には鴨(かも)の糾(ただす)の神殿鳴動(めいどう)する事良(やや)久(ひさしく)して、流鏑矢(かぶらや)二筋(ふたすぢ)天を鳴響(なりひびか)し、艮(うしとら)の方を差(さし)て去ぬとぞ奏聞しける。是(これ)は何様(いかさま)将軍(しやうぐん)兄弟の合戦に、吉凶(きつきよう)を被示怪異(けい)にてぞあるらんと、諸人推量しけるが、果して翌日(よくじつ)の午(うまの)剋に、佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)が手(て)の者共(ものども)に、多賀(たがの)将監(しやうげん)と秋山新蔵人と、楚忽(そこつ)の合戦し出して、秋山討(うた)れにければ、桃井(もものゐ)大に忿(いかつ)て、重て可戦由を申けれ共(ども)、自余(じよ)の大将に異儀(いぎ)有て、結句(けつく)越前国(ゑちぜんのくに)へ引返す。其(その)後畠山阿波(あはの)将監(しやうげん)国清、頻(しきり)に、「御兄弟(ごきやうだい)只(ただ)御中なをり候(さふらひ)て、天下の政務を宰相殿に持(もた)せ進(まゐら)せられ候へかし。」と申けるを、禅門許容(きよよう)し不給ければ、国清大に忿(いかつ)て、己が勢(せい)七百(しちひやく)余騎(よき)を引分(ひきわけ)て、将軍へぞ参(まゐり)ける。此(この)外縁(えん)を尋(たづね)て降下(かうにん)になり、五騎十騎(じつき)打連(うちつれ)々々(うちつれ)、将軍方(しやうぐんがた)へと参(まゐり)ける間、角(かく)ては越前に御坐候はん事は叶はじと、桃井(もものゐ)頻(しきり)に勧(すすめ)申されければ、十月八日高倉禅門又越前を立て、北陸道(ほくろくだう)を打通(うちとほ)り、鎌倉(かまくら)へぞ下り給ひける。
○薩多山(さつたやま)合戦(かつせんの)事(こと) S3004
将軍は八相山(はつさうやま)の合戦に打勝て、軈(やがて)上洛(しやうらく)し給ひけるを、十月十三日(じふさんにち)、又直義入道可誅罰之(の)由(よし)、重被成宣旨ければ、翌日軈(やがて)都を立て鎌倉(かまくら)へ下(くだり)給ふ。混(ひたすら)に洛中(らくちゆう)に勢を残さゞらんも、南方の敵に隙(ひま)を窺(うかが)はれつべしとて、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあそん)をば、都の守護(しゆご)にぞ被留ける。将軍已(すで)に駿河(するがの)国(くに)に著(つき)給ひけれ共(ども)、遠江より東(ひが)し、東国・北国の勢共(せいども)、早(はや)悉(ことごとく)高倉殿(たかくらどの)へ馳属(はせつい)てければ、将軍へはゝか/゛\しき勢も不参。角(かく)て無左右鎌倉(かまくら)へ寄(よせ)ん事難叶。先(まづ)且(しばら)く要害に陣を取てこそ勢をも催(もよほさ)めとて、十一月晦日(つごもり)駿河(するがの)薩■山(さつたやま)に打上り、東北に陣を張(はり)給ふ。相順(あひしたが)ふ兵には、仁木(につき)左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章(よりあきら)・舎弟(しやてい)越後(ゑちごの)守(かみ)義長(よしなが)・畠山阿波(あはの)守(かみ)国清兄弟四人・今河五郎入道心省(しんしやう)・子息伊予守・武田(たけだの)陸奥守・千葉介・長井(ながゐ)兄弟・二階堂(にかいだう)信濃入道・同山城判官、其(その)勢(せい)僅(わづか)に三千(さんぜん)余騎(よき)には不過けり。去(さる)程(ほど)に将軍已(すでに)薩■山(さつたやま)に陣を取て、宇都宮(うつのみや)が馳参るを待給ふ由聞へければ、高倉殿(たかくらどの)先(まづ)宇都宮(うつのみや)へ討手を下さでは難義なるべしとて、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)直常に、長尾(ながを)左衛門(さゑもんの)尉(じよう)、並(ならび)に北陸道(ほくろくだう)七箇国(しちかこく)の勢(せい)を付て、一万(いちまん)余騎(よき)上野(かうづけの)国(くに)へ被差向。高倉禅門も同日に鎌倉(かまくら)を立て、薩■山(さつたやま)へ向ひ給ふ。一方には上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)憲顕(のりあき)を大手の大将として、二十万(にじふまん)余騎(よき)由井(ゆゐ)・蒲原(かんばら)へ被向。一方には石堂入道・子息右馬(うまの)頭(かみ)頼房を搦手(からめての)大将として、十万(じふまん)余騎(よき)宇都部佐(うつぶさ)へ廻(まはつ)て押寄する。高倉禅門は寄手(よせて)の惣大将(そうだいしやう)なれば、宗(むね)との勢十万(じふまん)余騎(よき)を順(したが)へて、未(いまだ)伊豆(いづの)府(こふ)にぞ控(ひかへ)られける。彼(かの)薩■山(さつたやま)と申(まうす)は、三方(さんぱう)は嶮岨(けんそ)にて谷深く切れ、一方は海にて岸高く峙(そばだて)り。敵縦(たと)ひ何万騎あり共、難近付とは見へながら、取巻く寄手(よせて)は五十万騎(ごじふまんぎ)、防ぐ兵三千(さんぜん)余騎(よき)、而(しか)も馬疲れ粮(かて)乏(とぼ)しければ、何(いつ)までか其(その)山に怺(こら)へ給ふべきと、哀なる様に覚(おぼえ)て、掌(たなごころ)に入れたる心地しければ、強(あながち)急に攻落さんともせず、只(ただ)千重(せんぢゆう)万重に取巻たる許(ばかり)にて、未(いまだ)矢軍(やいくさ)をだにもせざりけり。宇都宮(うつのみや)は、薬師寺次郎左衛門(じらうざゑもん)入道元可(げんか)が勧(すすめ)に依て、兼てより将軍に志を存(ぞんじ)ければ、武蔵守(むさしのかみ)師直が一族(いちぞく)に、三戸(みとの)七郎(しちらう)と云(いふ)者、其(その)辺に忍(しのび)て居たりけるを大将に取立て、薩■山(さつたやま)の後攻(ごづめ)をせんと企(くはたて)ける処に、上野(かうづけの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)、大胡(おほご)・山上(やまかみ)の一族共(いちぞくども)、人に先をせられじとや思(おもひ)けん。新田(につた)の大島(おほしま)を大将に取立て五百(ごひやく)余騎(よき)薩■山(さつたやま)の後攻の為とて、笠懸(かさがけ)の原へ打出たり。長尾孫六・同平三・三百(さんびやく)余騎(よき)にて騎上野(かうづけの)国(くに)警固(けいご)の為に、兼てより世良田(せらだ)に居たりけるが、是(これ)を聞(きく)と均(ひとし)く笠懸の原へ打寄(うちよせ)、敵に一矢をも射させず、抜連(ぬきつれ)て懸立ける程に、大島が五百(ごひやく)余騎(よき)十方に被懸散、行方も不知成(なり)にけり。宇都宮(うつのみや)是(これ)を聞て、「此(この)人々憖(なまじひ)なる事為(し)出して敵に気を著(つけ)つる事よ。」と興(きよう)醒(さめ)て思(おもひ)けれ共(ども)、「其(それ)に不可依。」と機を取直して、十二月十五日宇都宮(うつのみや)を立て薩■山(さつたやま)へぞ急(いそぎ)ける。相伴(あひともな)ふ勢(せい)には、氏家(うぢへ)大宰(だざいの)小弐(せうに)周綱(ちかつな)・同下総(しもふさの)守(かみ)・同三河(みかはの)守(かみ)・同備中(びつちゆうの)守(かみ)・同遠江守(とほたふみのかみ)・芳賀(はが)伊賀(いがの)守(かみ)貞経・同肥後(ひごの)守(かみ)・紀党(きのたうには)増子(ましこ)出雲(いづもの)守(かみ)・薬師寺次郎左衛門(じらうざゑもん)入道元可(げんか)・舎弟(しやてい)修理(しゆりの)進義夏・同勘解由左衛門(かげゆざゑもん)義春・同掃部(かもんの)助(すけ)助義・武蔵(むさしの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)猪俣(ゐのまた)兵庫(ひやうごの)入道(にふだう)・安保(あふ)信濃(しなのの)守(かみ)・岡部(をかべ)新左衛門(しんざゑもん)入道・子息出羽(ではの)守(かみ)、都合(つがふ)其(その)勢(せい)千五百騎(せんごひやくき)、十六日(じふろくにち)午(うまの)剋に、下野(しもつけの)国(くに)天命宿(てんみやうのしゆく)に打出たり。此(この)日(ひ)佐野(さの)・佐貫(さぬき)の一族(いちぞく)等(ら)五百(ごひやく)余騎(よき)にて馳加(はせくははり)ける間、兵皆勇進(いさみすすん)で、夜明れば桃井(もものゐ)が勢には目も不懸、打連(うちつれ)て薩■山(さつたやま)へ懸(かか)らんと評定しける処に、大将に取立たる三戸(みとの)七郎(しちらう)、俄(にわか)に狂気に成て自害をして死にけり。是(これ)を見て門出(かどで)悪しとや思(おもひ)けん、道にて馳著(はせつき)つる勢共(せいども)一騎(いつき)も不残落(おち)失(うせ)て、始(はじめ)宇都宮(うつのみや)にて一味同心せし勢許(ばかり)に成(なり)ければ、僅(わづか)に七百騎(しちひやくき)にも不足けり。角(かく)ては如何(いか)が有(あら)んと諸人色を失ひけるを、薬師寺入道暫(しばらく)思案して、「吉凶(きつきよう)は如糾索いへり。是(これ)は何様(いかさま)宇都宮(うつのみや)の大明神(だいみやうじん)、大将を氏子に授(さづけ)給はん為に、斯(かか)る事は出来る也(なり)。暫(しばらく)も御逗留(ごとうりう)不可有。」と申(まうし)ければ、諸人げにもと気を直(なほ)して路に少しの滞(とどこほり)もなく、引懸(ひきかけ)々々(ひきかけ)打(うつ)程(ほど)に、同(おなじき)十九日の午(うまの)剋に、戸禰河(とねがは)を打渡て、那和庄(なわのしやう)に著(つき)にけり。此(ここ)にて跡に立たる馬煙(うまけぶり)を、馳著(はせつ)く御方(みかた)歟(か)と見ればさにあらで、桃井(もものゐ)播磨(はりまの)守(かみ)・長尾左衛門、一万(いちまん)余騎(よき)にて迹(あと)に著て押寄(おしよせ)たり。宇都宮(うつのみや)、「さらば陣を張(はつ)て戦へ。」とて、小溝(こみぞ)の流れたるを前にあて、平々(へいへい)としたる野中(のなか)に、紀清(きせい)両党七百(しちひやく)余騎(よき)は大手に向て北(きた)の端(はし)に控(ひかへ)たり。氏家(うぢへ)太宰(だざいの)小弐(せうに)は、二百(にひやく)余騎(よき)中の手に引(ひか)へ、薬師寺入道元可(げんか)兄弟が勢(せい)五百(ごひやく)余騎(よき)は、搦手(からめて)に対して南の端(はし)に控(ひかへ)、両陣互に相待て、半時計(はんじばかり)時(とき)を移す処に、桃井(もものゐ)が勢七千(しちせん)余騎(よき)、時の声を揚(あげ)て、宇都宮(うつのみや)に打て懸る。長尾左衛門が勢三千(さんぜん)余騎(よき)、魚鱗に連(つらなつ)て、薬師寺に打て係(かか)る。長尾孫六・同平三、二人(ににん)が勢五百(ごひやく)余騎(よき)は皆馬より飛下(とびお)り、徒立(かちだち)に成て射向(いむけ)の袖を差簪(かざ)し、太刀長刀の鋒(きつさき)をそろへて、閑々(しづしづ)と小跳(こをどり)して、氏家が陣へ打て係(かか)る。飽(あく)まで広き平野(へいや)の、馬の足に懸る草木の一本もなき所にて、敵御方(みかた)一万(いちまん)二千(にせん)余騎(よき)、東に開け西に靡(なび)けて、追(おつ)つ返(かへし)つ半時計(ばかり)戦(たたかひ)たるに、長尾孫六が下(おり)立たる一揆(いつき)の勢五百(ごひやく)余人(よにん)、縦横(じゆうわう)に懸悩まされて、一人も不残被打ければ、桃井(もものゐ)も長尾左衛門も、叶はじとや思ひけん、十方に分れて落(おち)行(ゆき)けり。軍(いくさ)畢(をはつ)て四五箇月の後までも、戦場(せんぢやう)二三里が間は草腥(なまぐさう)して血原野(げんや)に淋(そそ)き、地嵬(うづだか)くして尸(かばね)路径(ろけい)に横(よこたは)れり。是(これ)のみならず、吉江(よしえ)中務が武蔵(むさしの)国(くに)の守護代(しゆごだい)にて勢を集(あつめ)て居たりけるも、那和(なわ)の合戦と同日に、津山(つやま)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)並(ならびに)野与(のいよ)の一党に被寄、忽(たちまち)に討(うた)れければ、今は武蔵・上野両国の間に敵と云(いふ)者一人もなく成(なり)て、宇都宮(うつのみや)に付(つく)勢三万(さんまん)余騎(よき)に成(なり)にけり。宇都宮(うつのみや)已(すで)に所々の合戦に打勝て、後攻(ごづめ)に廻(まは)る由(よし)、薩■山(さつたやま)の寄手(よせて)の方へ聞へければ、諸軍勢(しよぐんぜい)皆一同に、「あはれ後攻の近付(ちかづか)ぬ前に薩■山(さつたやま)を被責落候べし。」と云(いひ)けれ共(ども)、傾(かたぶ)く運にや引(ひか)れけん、石堂・上杉、曾(かつて)不許容ければ、余(あま)りに身を揉(もう)で、児玉党(こだまたう)三千(さんぜん)余騎(よき)、極(きは)めて嶮(けは)しき桜野(さくらの)より、薩■山(さつたやま)へぞ寄(よせ)たりける。此(この)坂をば今河上総(かづさの)守(かみ)・南部(なんぶの)一族(いちぞく)・羽切(はきり)遠江守(とほたふみのかみ)、三百(さんびやく)余騎(よき)にて堅めたりけるが、坂中に一段(いちだん)高き所の有(あり)けるを切払(きりはらう)て、石弓を多く張(はり)たりける間、一度(いちど)にばつと切て落す。大石共に先陣の寄手(よせて)数百人(すひやくにん)、楯の板ながら打摯(うちひし)がれて、矢庭(やには)に死する者数を不知、後陣(ごぢん)の兵是(これ)に色めいて、少し引色(ひきいろ)に見へける処へ、南部・羽切抜連(ぬきつれ)て係(かか)りける間、大類(おほるゐ)弾正・富田以下を宗(むね)として、児玉党十七人(じふしちにん)一所にして被討けり。「此(この)陣の合戦は加様(かやう)也(なり)とも、五十万騎(ごじふまんぎ)に余(あま)りたる陣々の寄手共(よせてども)、同時に皆責上(せめのぼ)らば、薩■山(さつたやま)をば一時に責(せめ)落すべかりしを、何(なに)となく共今に可落城を、高名顔に合戦して討(うた)れたるはかなさよ。」と、面々に笑嘲(わらひあざ)ける心の程こそ浅猿(あさまし)けれ。去(さる)程(ほど)に同(おなじき)二十七日(にじふしちにち)、後攻の勢三万(さんまん)余騎(よき)、足柄山(あしがらやま)の敵を追散(おつちら)して、竹下(たけがした)に陣を取る。小山(をやま)判官(はうぐわん)も宇都宮(うつのみや)に力を合て、七百(しちひやく)余騎(よき)同日に古宇津(こうつ)に著(つき)ければ、焼続(たきつづ)けたる篝火(かがりび)の数、震(おびたたし)く見へける間、大手搦手(からめて)五十万騎(ごじふまんぎ)の寄手共(よせてども)、暫(しばらく)も不忍十方へ落て行(ゆく)。仁木越後守義長(よしなが)勝(かつ)に乗て、三百(さんびやく)余騎(よき)にて逃(にぐ)る勢を追立て、伊豆(いづの)府(こふ)へ押寄(おしよせ)ける間、高倉禅門一支(ひとささへ)も不支して、北条へぞ落行(おちゆき)給ひける。上杉民部(みんぶの)太輔(たいふ)・長尾左衛門が勢二万(にまん)余騎(よき)は、信濃を志(こころざし)て落けるを、千葉(ちばの)介(すけ)が一族共(いちぞくども)五百騎(ごひやくき)許(ばかり)にて追蒐(おつかけ)、早河尻(はやかはじり)にて打留めんとしけるが、落行(おちゆく)大勢に被取篭、一人も不残被討けり。さてこそ其(その)道開けて、心安(こころやす)く上杉・長尾左衛門は、無為(ぶゐ)に信濃の国へは落(おち)たりけれ。高倉禅門は余(あまり)に気を失て、北条にも猶(なほ)たまり不得、伊豆の御山(おやま)へ引て、大息ついて坐(おは)しけるが、忍(しのび)て何地(いづち)へも一まど落(おち)てや見る、自害をやすると案じ煩(わづらひ)給ひける処に、又和睦(わぼく)の儀有て、将軍より様々に御文を被遣、畠山阿波(あはの)守(かみ)国清・仁木左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章・舎弟(しやてい)越後(ゑちごの)守(かみ)義長(よしなが)を御迎に被進たりければ、今の命の捨難(すてがた)さに、後の恥(はぢ)をや忘れ給ひけん、禅門降人(かうにん)に成て、将軍に打連(うちつれ)奉て、正月六日の夜に入て、鎌倉(かまくら)へぞ帰(かへり)給ひける。
○慧源(ゑげん)禅門逝去(せいきよの)事(こと) S3005
斯(かかり)し後は、高倉殿(たかくらどの)に付順(つきしたが)ひ奉る侍の一人もなし。篭(ろう)の如くなる屋形(やかた)の荒(あれ)て久(ひさし)きに、警固(けいご)の武士を被居、事に触(ふれ)たる悲(かなし)み耳に満(みち)て心を傷(いたま)しめければ、今は憂世(うきよ)の中にながらへても、よしや命も何かはせんと思ふべき、我身さへ無用物に歎(なげき)給ひけるが、無幾程其(その)年の観応三年壬辰(みづのえたつ)二月二十六日(にじふろくにち)に、忽(たちまち)に死去し給ひけり。俄(にはか)に黄疽(わうだん)と云(いふ)病に被犯、無墓成(なら)せ給(たまひ)けりと、外には披露(ひろう)ありけれ共(ども)、実(まこと)には鴆毒(ちんどく)の故(ゆゑ)に、逝去(せいきよ)し給(たまひ)けるとぞさゝやきける。去々年の秋は師直、上杉を亡(ほろぼ)し、去年の春は禅門、師直を被誅、今年の春は禅門又怨敵(をんでき)の為に毒を呑(のみ)て、失(うせ)給(たまひ)けるこそ哀なれ。三過門間(あひだの)老病死(らうびやうし)、一弾指頃去来今(だんしきやうこらいこん)とも、加様(かやう)の事をや申べき。因果歴然(れきぜん)の理(ことわり)は、今に不始事なれども、三年の中に日を不替、酬(むく)ひけるこそ不思議(ふしぎ)なれ。さても此(この)禅門は、随分(ずゐぶん)政道をも心にかけ、仁義をも存(ぞんじ)給(たまひ)しが、加様に自滅(じめつ)し給ふ事、何(いか)なる罪の報(むくひ)ぞと案ずれば、此(この)禅門依被申、将軍鎌倉(かまくら)にて偽(いつはり)て一紙(いつし)の告文(かうぶん)を残されし故(ゆゑ)に其(その)御罰(おんばつ)にて、御兄弟(ごきやうだい)の中も悪(あし)く成(なり)給(たまひ)て、終に失(うせ)給(たまふ)歟(か)。又大塔宮(おほたふのみや)を奉殺、将軍(しやうぐんの)宮(みや)を毒害(どくがい)し給(たまふ)事、此(この)人の御態(おんわざ)なれば、其(その)御憤(おんいきどほり)深して、如此亡(ほろび)給ふ歟(か)。災患(さいくわん)本(もと)無種、悪事を以て種とすといへり。実(まこと)なる哉、武勇(ぶよう)の家に生れ弓箭(きうせん)を専(もつぱら)にすとも、慈悲を先とし業報(ごふはう)を可恐。我が威勢のある時は、冥(みやう)の昭覧(せうらん)をも不憚、人の辛苦をも不痛、思(おもふ)様に振舞(ふるまひ)ぬれば、楽(たのしみ)尽(つき)て悲(かなしみ)来り、我と身を責(せむ)る事、哀に愚(おろ)かなる事共(ことども)也(なり)。
○吉野殿(よしのどの)与相公羽林御和睦(わぼくの)事(こと)付(つけたり)住吉(すみよしの)松折(をるる)事(こと) S3006
足利宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあそん)は、将軍鎌倉(かまくら)へ下り給(たまひ)し時京都守護(しゆご)の為に被残坐(おは)しけるが、関東(くわんとう)の合戦の左右は未(いまだ)聞へず、京都は以外に無勢(ぶせい)也(なり)。角(かく)ては如何様(いかさま)、和田・楠に被寄て、無云甲斐京を被落ぬとをぼしければ、一旦(いつたん)事を謀(はかつ)て、暫(しばらく)洛中(らくちゆう)を無為(ぶゐ)ならしめん為に、吉野殿(よしのどの)へ使者を立て、「自今以後は、御治世(ごぢせい)の御事(おんこと)と、国衙(こくが)の郷保(がうほ)、並(ならび)に本家領家(ほんけりやうけ)、年来(としごろ)進止(しんし)の地に於ては、武家一向(いつかう)其(その)綺(いろひ)を可止にて候。只承久(しようきう)以後新補(しんぽ)の率法(りつはふ)並(ならびに)国々の守護職(しゆごしよく)、地頭御家人(ごけにんの)所帯(しよたい)を武家の成敗に被許て、君臣和睦(わぼく)の恩慧(おんけい)を被施候は、武臣七徳の干戈(かんくわ)を収(をさめ)て、聖主万歳(ばんぜい)の宝祚(ほうそ)を可奉仰。」頻(しきり)に奏聞をぞ被経ける。依之(これによつて)諸卿僉議(せんぎ)有て、先に直義入道和睦(わぼく)の由を申て、言(ことばの)下に変じぬ。是も亦偽(いつはつ)て申(まうす)条無子細覚(おぼゆ)れ共(ども)、謀(はかりこと)の一途(いちづ)たれば、先(まづ)義詮が被任申旨、帝都還幸(くわんかう)の儀を催(もよほ)し、而(しかうして)後に、義詮をば畿内(きない)・近国の勢を以て退治(たいぢ)し、尊氏をば義貞が子共に仰(おほせ)付(つけ)て、則被御追罰(ついばつ)何の子細か可有とて、御問答再往(さいわう)にも不及、御合体(ごがつてい)の事子細非(あら)じとぞ被仰出ける。両方互に偽(いつはり)給へる趣、誰かは可知なれば、此(この)間持明院殿(ぢみやうゐんどの)方(がた)に被拝趨ける諸卿、皆賀名生(あなふ)殿(どの)へ被参。先(まづ)当職(たうしよく)の公卿には二条(にでうの)関白太政大臣(だいじやうだいじん)良基(よしもと)公(こう)・近衛(このゑの)右大臣道嗣(みちつぐ)公(こう)・久我(こがの)内大臣(ないだいじん)右大将(うだいしやう)通相(みちすけ)公(こう)・葉室(はむろの)大納言(だいなごん)長光(ながみつ)・鷹司(たかつかさの)大納言(だいなごん)左大将冬通(ふゆみち)・洞院(とうゐん)大納言(だいなごん)実夏(さねなつ)・三条(さんでうの)大納言(だいなごん)公忠(きんただ)・三条(さんでうの)大納言(だいなごん)実継(さねつぐ)・松殿(まつどの)大納言(だいなごん)忠嗣(ただつぐ)・今小路(いまこうぢ)大納言(だいなごん)良冬(よしふゆ)・西園寺(さいをんじ)大納言(だいなごん)実俊(さねとし)・裏築地(うらついぢ)大納言(だいなごん)忠季(ただすゑ)・大炊御門(おほひのみかど)中納言(ちゆうなごん)家信・四条(しでうの)中納言(ちゆうなごん)隆持(たかもち)・菊亭(きくてい)中納言(ちゆうなごん)公直(きんなほ)・二条(にでうの)中納言(ちゆうなごん)師良(もろよし)・華山院(くわざんのゐん)中納言(ちゆうなごん)兼定(かねさだ)・葉室(はむろの)中納言(ちゆうなごん)長顕(ながあき)・万里小路(までのこうぢ)中納言(ちゆうなごん)仲房(なかふさ)・徳大寺中納言実時(さねとき)・二条(にでうの)宰相(さいしやう)為明(ためあきら)・勘解由小路(かげゆこうぢ)左大弁(さだいべん)宰相兼綱(かねつな)・堀河(ほりかはの)宰相(さいしやう)中将(ちゆうじやう)家賢(いへかた)・三条(さんでうの)宰相(さいしやう)公豊(きんとよ)・坊城(ばうじやうの)右大弁宰相経方(つねまさ)・日野(ひのの)宰相(さいしやう)教光(のりみつ)・中御門(なかみかど)宰相(さいしやう)宣明(のぶあきら)、殿上人(てんじやうびと)には日野(ひのの)左中弁時光(ときみつ)・四条(しでうの)左中将(さちゆうじやう)隆家(たかいへ)・日野(ひのの)右中弁(うちゆうべん)保光(やすみつ)・権(ごんの)右中弁(うちゆうべん)親顕(ちかあき)・日野(ひのの)左少弁(させうべん)忠光(ただみつ)・右少弁平(たひらの)信兼(のぶかぬ)・勘解由(かげゆの)次官行知(ゆきとも)・右兵衛(うひやうゑの)佐(すけ)嗣房等(つぐふさら)也(なり)。此(この)外先官(せんぐわん)の公卿、非参議(ひさんぎ)、七弁(しちべん)八座(はちざ)、五位六位、乃至(ないし)山門園城(をんじやう)の僧綱(そうがう)、三門跡(さんもんぜき)の貫首(くわんしゆ)、諸院家(しよゐんげ)の僧綱、並(ならび)に禅律の長老、寺社の別当神主(かんぬし)に至(いたる)まで我先(さき)にと馳(はせ)参りける間、さしも浅猿(あさまし)く賎(いや)しげなりし賀名生(あなふ)の山中、如花隠映(いんえい)して、如何(いか)なる辻堂、温室(をんしつ)、風呂までも、幔幕(まんまく)引かぬ所も無(なか)りけり。今参候する所の諸卿の叙位転任(じよゐてんにん)は、悉(ことごとく)持明院殿(ぢみやうゐんどの)より被成たる官途(くわんと)なればとて各一汲(いつきふ)一階を被貶けるに、三条(さんでうの)坊門(ばうもん)大納言(だいなごん)通冬(みちふゆ)卿(きやう)と、御子(みこ)左(ひだりの)大納言(だいなごん)為定(ためさだ)卿(きやう)と許(ばかり)は、本(もと)の官位に被復せけり。是(これ)は内々吉野殿(よしのどの)へ被申通ける故(ゆゑなり)。京都より被参仕たる月卿(げつけい)雲客(うんかく)をば、降参人とて官職を被貶、山中伺候(しこう)の公卿殿上人(てんじやうびと)をば、多年の労(らう)功(こう)ありとて、超涯不次(てうがいふじ)の賞を被行ける間、窮達(きゆうたつ)忽(たちまち)に地を易(かへ)たり。故三位殿(さんみどの)御局(つぼね)と申(まうし)しは、今天子の母后(ぼこう)にて御坐(おはしま)せば、院号蒙(かうむら)せ給(たまひ)て、新待賢門院(しんたいけんもんゐん)とぞ申ける。北畠入道源(みなもとの)大納言(だいなごん)は、准后(じゆごう)の宣旨を蒙(かうむり)て華(はな)著(つけ)たる大童子(おほわらは)を召具(めしぐ)し、輦(てぐるま)に駕(が)して宮中を出入すべき粧(よそほひ)、天下耳目(じぼく)を驚かせり。此(この)人は故奥州(こあうしう)の国司顕家(あきいへ)卿(きやう)の父、今皇后(くわうごうの)厳君(げんくん)にてをはすれば、武功と云(いひ)華族(くわしよく)と云(いひ)、申(まうす)に及(およば)ぬ所なれ共(ども)、竹園摂家(ちくゑんせつけ)の外に未(いまだ)准后(じゆごう)の宣旨を被下たる例(れい)なし。平相国(へいしやうこく)清盛入道出家の後、准后(じゆごう)の宣旨を蒙りたりしは、皇后の父たるのみに非(あら)ず、安徳(あんとく)天皇(てんわう)の外祖(ぐわいそ)たり。又忠盛が子とは名付(なづけ)ながら、正(まさし)く白河(しらかはの)院(ゐん)の御子なりしかば、華族(くわしよく)も栄達も今の例には引(ひき)がたし。日野(ひのの)護持院(ごぢゐん)僧正(そうじやう)頼意(らいい)は、東寺の長者醍醐(だいご)の座主(ざす)に被補て、仁和寺(にんわじ)諸院家(しよゐんげ)を兼(かね)たり。大塔(おほたふの)僧正(そうじやう)忠雲は、梨本(なしもと)大塔(おほたふ)の両門跡を兼(かね)て、鎌倉(かまくら)の大御堂(おほみだう)、天王寺(てんわうじ)の別当職に被補。此(この)外山中伺候の人々、名家(めいか)は清華(せいぐわ)を超(こえ)、庶子(しよし)は嫡家(ちやくけ)を越て、官職雅意(がい)に任(まかせ)たり。若(もし)如今にて天下定らば、歎(なげく)人は多(おほく)して悦(よろこぶ)者は可少。元弘(げんこう)一統(いつとう)の政道如此にて乱(みだれ)しを、取て誡(いましめ)とせざりける心の程こそ愚かなれ。憂かりし正平六年の歳晩(くれ)て、あらたまの春立(たち)ぬれども、皇居(くわうきよ)は猶(なほ)も山中なれば、白馬蹈歌(あをむまたうか)の節会(せちゑ)なんどは不被行。寅(とら)の時の四方拝(しはうはい)、三日の月奏許(ぐわつそうばかり)有て、後七日(ごしちにちの)御修法(みしほ)は文観(もんくわん)僧正(そうじやう)承(うけたまはり)て、帝都の真言院(しんごんゐん)にて被行。十五日過(すぎ)ければ、武家より貢馬(くめ)十疋(じつぴき)・沙金(しやきん)三千両奏進之。其(その)外別進(べつしんの)貢馬三十疋(さんじつぴき)・巻絹(まききぬ)三百疋・沙金五百両(ごひやくりやう)、女院(にようゐん)皇后三公(さんこう)九卿(きうけい)、無漏方引進(ひきまゐらす)。二月二十六日(にじふろくにち)、主上(しゆしやう)已(すで)に山中を御出(おんいで)有て、腰輿(えうよ)を先(まづ)東条へ被促。剣璽(けんじ)の役人計(ばかり)衣冠正(ただし)くして被供奉。其(その)外の月卿・雲客・衛府(ゑふ)・諸司(しよし)の尉(ゐ)は皆甲胄を帯して、前騎後乗(こうじよう)に相順(あひしたが)ふ。東条に一夜(いちや)御逗留(ごとうりう)有て、翌日頓(やが)て住吉(すみよし)へ行幸なれば、和田・楠以下、真木野(まきの)・三輪(みわ)・湯浅(ゆあさ)入道・山本判官・熊野の八庄司(しやうじ)吉野十八郷(じふはちがう)の兵、七千(しちせん)余騎(よき)、路次(ろし)を警固仕(つかまつ)る。皇居(くわうきよ)は当社の神主(かんぬし)津守国夏(つもりのくになつ)が宿所を俄(にはか)に造(つくり)替(かへ)て臨幸なし奉りけり。国夏則(すなはち)上階(じやうかい)して従三位(じゆさんみ)に被成。先例未(いまだ)なき殿上の交(まじは)り、時に取ての面目なり。住吉(すみよし)に臨幸成て三日に当りける日、社頭に一の不思議(ふしぎ)あり。勅使(ちよくし)神馬(じんめ)を献(たてまつ)て奉幣(ほうへい)を捧げたりける時、風も不吹に、瑞籬(たまがき)の前なる大(おほいなる)松一本中より折(をれ)て、南に向て倒(たふ)れにけり。勅使(ちよくし)驚て子細を奏聞しければ、伝奏(てんそう)吉田(よしだの)中納言(ちゆうなごん)宗房卿、「妖(えう)は不勝徳。」と宣(のたまひ)てさまでも驚(おどろき)給はず。伊達(だて)三位(さんみ)有雅(いうが)が武者所(むしやどころ)に在(あり)けるが、此(この)事を聞て、「穴(あな)浅猿(あさまし)や、此(この)度の臨幸(りんかう)成(なら)せ給はん事は難有。其(その)故は昔殷(いんの)帝大戊(たいぼう)の時、世の傾(かたぶか)んずる兆(しるし)を呈(あらは)して、庭に桑穀(くは)の木一夜(いちや)に生(おひ)て二十(にじふ)余丈(よぢやう)に迸(はびこ)れり。帝大戊懼(おそれ)て伊陟(いちよく)に問(とひ)給ふ。伊陟が申(まうさ)く、「臣聞(きく)妖(えう)は不勝徳に、君の政の闕(かく)る事あるに依て、天此(この)兆(しるし)を降(くだ)す者也(なり)。君早(はやく)徳を脩(をさ)め給へ。」と申(まうし)ければ、帝則(すなはち)諌(いさめ)に順(したがひ)て正政撫民、招賢退佞給(たまひ)しかば、此(この)桑穀(くは)の木又一夜(いちや)の中に枯(かれ)て、霜露の如くに消(きえ)失(うせ)たりき。加様の聖徳を被行こそ、妖(えう)をば除(のぞ)く事なるに、今の御政道に於て其(その)徳何事なれば、妖(えうは)不勝徳とは、伝奏の被申やらん。返々(かへすがへす)も難心得(こころえがたく)才学(さいかく)哉(かな)。」と、眉を顰(ひそめ)てぞ申(まうし)ける。其(その)夜何(いか)なる嗚呼(をこ)の者かしたりけん。此(この)松を押削(おしけづり)て一首(いつしゆ)の古歌を翻案(ほんあん)してぞ書たりける。君が代の短(みじか)かるべきためしには兼てぞ折(をれ)し住吉(すみよし)の松と落書にぞしたりける。住吉(すみよし)に十八日御逗留(ごとうりう)有て、潤(うるふ)二月十五日天王寺(てんわうじ)へ行幸なる。此(この)時(とき)伊勢の国司中(なかの)院(ゐんの)衛門(ゑもんの)督(かみ)顕能(あきよし)、伊賀・伊勢の勢三千(さんぜん)余騎(よき)を率(そつ)して被馳参けり。同(おなじき)十九日八幡(やはた)へ行幸成て、田中法印が坊を皇居(くわうきよ)に被成、赤井・大渡(おほわたり)に関を居(す)へて、兵山上山下(さんげ)に充満(みちみち)たるは、混(ひたす)ら合戦の御用意(ごようい)也(なり)と、洛中(らくちゆう)の聞へ不穏。依之(これによつて)義詮朝臣(よしあきらあそん)、法勝寺(ほつしようじ)の慧鎮(ゑちん)上人を使にて、「臣不臣の罪を謝して、勅免(ちよくめん)を可蒙由(よし)申入るゝ処に、照臨已(すで)に下情(かじやう)を被恤、上下和睦の義、事定(さだま)り候(さうらひ)ぬる上は、何事の用心(ようじん)か候べきに、和田・楠以下の官軍(くわんぐん)等(ら)、混(ひたすら)合戦の企(くはたて)ある由(よし)承(うけたまはり)及(および)候。如何様(いかやう)の子細にて候やらん。」と被申たり。主上(しゆしやう)直(ぢき)に上人に御対面有て、「天下未(いまだ)恐懼(きようく)を懐(いだ)く間、只非常を誡(いまし)めん為に、官軍(くわんぐん)を被召具いへ共、君臣已(すで)に和睦の上は更に異変の義不可有。縦(たとひ)讒者(ざんしや)の説あり共、胡越(こえつ)の心を不存ば太平の基(もとゐ)たるべし。」と、勅答有てぞ被返ける。綸言(りんげん)已(すで)に如此。士女(しぢよ)の説何ぞ用る処ならんとて、義詮朝臣(よしあきらあそん)を始(はじめ)として、京都の軍勢(ぐんぜい)、曾(かつ)て今被出抜とは夢にも不知、由断(ゆだん)して居たる処に、同(おなじき)二十七日(にじふしちにち)の辰(たつの)刻(こく)に、中(なかの)院(ゐんの)右衛門(うゑもんの)督(かみ)顕能、三千(さんぜん)余騎(よき)にて鳥羽より推寄(おしよせ)て、東寺の南、羅城門(らしやうもん)の東西にして、旗の手を解(とき)、千種(ちぐさの)少将(せうしやう)顕経五百(ごひやく)余騎(よき)にて、丹波路(たんばぢ)唐櫃越(からうとごえ)より押寄(おしよせ)て、西の七条に火を上(あぐ)る。和田・楠・三輪・越知(をち)・真木・神宮寺(じんぐうじ)、其(その)勢都合五千(ごせん)余騎(よき)、宵より桂川を打渡て、まだ篠目(しののめ)の明(あけ)ぬ間(ま)に、七条大宮(しちでうおほみや)の南北七八町(しちはちちやう)に村立(むらだつ)て、時の声をぞ揚(あげ)たりける。東寺・大宮(おほみや)の時(ときの)声、七条口の烟を見て、「すはや楠寄(よせ)たり。」と、京中(きやうぢゆう)の貴賎上下遽騒(あはてさわぐ)事不斜(なのめならず)。細川陸奥(むつの)守(かみ)顕氏は、千本(せんぼん)に宿して居たりけるが、遥(はるか)に西七条の烟を見て、先(まづ)東寺へ馳寄(はせよ)らんと、僅に百四五十騎(ひやくしごじつき)にて、西の朱雀(しゆしやか)を下りに打(うち)けるが、七条大宮(しちでうおほみや)に控(ひかへ)たる楠が勢に被取篭、陸奥(むつの)守(かみ)の甥(をひ)、細河(ほそかは)八郎(はちらう)矢庭(やには)に被討ければ、顕氏主従八騎に成て、若狭を指(さし)てぞ落(おち)ける。細河(ほそかは)讃岐守(さぬきのかみ)頼春(よりはる)は、時の侍所(さぶらひどころ)也(なり)ければ、東寺辺へ打出て勢を集(あつめ)んとて、手勢三百騎(さんびやくき)許(ばかり)にて、是(これ)も大宮(おほみや)を下りに打(うち)けるが、六条(ろくでう)辺にて敵の旗を見て、「著到(ちやくたう)も勢汰(せいぞろへ)も今はいらぬ所也(なり)。何様まづ此(これ)なる敵を一散(ちら)し々(ちら)さでは、何(いづ)くへか可行。」とて、三千(さんぜん)余騎(よき)控(ひかへ)たる和田・楠が勢に相向ふ。楠が兵兼ての巧(たくみ)有(あり)て、一枚楯の裏の算(さん)を繁(しげ)く打て、如階認(こし)らへたりければ、在家(ざいけ)の垣に打懸々々(うちかけうちかけ)て、究竟(くつきやう)の射手(いて)三百(さんびやく)余人(よにん)、家の上に登(のぼり)て目の下なる敵を直下(みおろ)して射ける間、面を向(むく)べき様も無(なく)て進(すすみ)兼(かね)たる処を見て、和田・楠五百(ごひやく)余騎(よき)轡(くつばみ)を双(ならべ)てぞ懸(かけ)たりける。讃岐守(さぬきのかみ)が五百(ごひやく)余騎(よき)、左右へ颯(さつ)と被懸阻又取て返さんとする処に、讃岐守(さぬきのかみ)が乗たる馬、敵の打(うつ)太刀に驚(おどろき)て、弓杖(ゆんづゑ)三杖(みつゑ)計(ばかり)ぞ飛(とび)たりける。飛(とぶ)時(とき)鞍(くら)に被余真倒(まつさかさま)にどうど落つ。落(おつ)ると均(ひとし)く敵三騎落合(おちあひ)て、起(おこ)しも不立切(きり)けるを、讃岐守(さぬきのかみ)乍寐二人(ににん)の敵の諸膝(もろひざ)薙(ない)で切居(きりす)へ、起揚(おきあが)らんとする処を、和田が中間走(わしり)懸て、鑓(やり)の柄(え)を取延(とりのべ)て、喉吭(のどぶえ)を突(つい)て突倒す。倒るゝ処に落合て頚をば和田に被取にけり。
○相公(しやうこう)江州落(がうしうおちの)事(こと) S3007
細河(ほそかは)讃岐守(さぬきのかみ)は被討ぬ。陸奥(むつの)守(かみ)は何地(いづち)共(とも)不知落行(おちゆき)ぬ。今は重(かさね)て可戦兵無(なか)りければ、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)義詮朝臣(よしあきらあそん)、僅(わづか)に百四五十騎(ひやくしごじつき)にて、近江を差(さし)て落(おち)給(たまふ)。下賀(げが)・高山(たかやま)の源氏共、兼て相図を定めて、勢多の橋をば焼落(やきおと)しぬ。舟はこなたに一艘(いつさう)もなし。山門へも、大慈院(だいじゐんの)法印を天王寺(てんわうじ)より被遣て、山徒(さんと)皆君の御方(みかた)に成(なり)ぬと聞へつれば、落行(おちゆく)処を幸(さいは)いと、勢多へも定(さだめ)て懸るらん。只都にて討死すべかりつる者を、蓬(きた)なく是(ここ)まで落(おち)て、尸(かばね)を湖水(こすゐ)の底に沈め、名を外都(ぐわいと)の土に埋まん事、心憂かるべき恥辱(ちじよく)哉と後悔せぬ人も無りけり。敵の旗の見へば腹を切(きら)んとて、義詮朝臣(よしあきらあそん)を始(はじめ)として、鎧をば皆脱置(ぬぎおき)て、腰(こしの)刀許(ばかり)にて、白沙(しらす)の上に並居(なみゐ)給ふ。爰(ここ)に相模(さがみの)国(くにの)住人(ぢゆうにん)に曾我左衛門と云(いひ)ける者、水練(すゐれん)の達者(たつしや)也(なり)ければ、向の岸に游(およ)ぎ著て、子舟の有(あり)けるを一艘(いつさう)領(りやう)して、自(みづから)櫓(ろ)を推(お)して漕(こぎ)寄する。則(すなはち)大将を始(はじめ)として、宗(むね)との人々二十(にじふ)余人(よにん)一艘(いつさう)に込乗(こみのつ)て、先(まづ)向の岸に著(つき)給ふ。其(その)後又小舟三艘(さんざう)求(もとめ)出して、百五十騎(ひやくごじつき)の兵共(つはものども)皆渡してけり。是(これ)までも猶(なほ)敵の追て懸る事無ければ、棄(すて)たる馬も物具(もののぐ)も次第/\に渡し終(はて)て、舟蹈返(ふみかへ)し突(つき)流(なが)して、「今こそ活(いき)たる命なれ。」と、手を拍(うつ)て咄(どつ)とぞ被笑ける。大将軍無事故、近江の四十九院(しじふくゐん)に坐(おは)する由聞へければ、土岐・大高伊予(いよの)守(かみ)、東坂本(ひがしさかもと)へ落(おち)たりけるが、舟に乗て馳参る。佐々木(ささき)の一党は不及申、美濃・尾張(をはり)・伊勢・遠江の勢共(せいども)、我(われ)も我(われ)もと馳参る程に、宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)又大勢を著て、山陽・山陰に牒(てふ)し合(あは)せ、都を攻(せめ)んと議し給ふ。
○持明院殿(ぢみやうゐんどの)吉野(よしのへ)遷幸(せんかうの)事(こと)付(つけたり)梶井(かぢゐの)宮(みやの)事(こと) S3008
去(さる)程(ほど)に敵は都を落(おち)たれ共(ども)、吉野の帝は洛中(らくちゆう)へ臨幸も不成、只(ただ)北畠入道准后(じゆごう)・顕能(あきよし)卿(きやう)父子計(ばかり)京都に坐(おは)して、諸事の成敗を司(つかさど)り給(たまひ)て、其(その)外の月卿(げつけい)雲客(うんかく)は、皆主上(しゆしやう)の御坐(まします)に付(つい)て、八幡(やはた)にぞ祠候(さふらひ)し給(たまひ)ける。同(おなじき)二十三日(にじふさんにち)、中(なかの)院(ゐんの)中将(ちゆうじやう)具忠(ともただ)を勅使(ちよくし)にて、都の内裡(だいり)に御坐(おはしま)す三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)を吉野の主上(しゆしやう)へ渡し奉る。是(これ)は先帝山門より武家へ御出(おんいで)し有し時、ありもあらぬ物を取替(とりかへ)て、持明院殿(ぢみやうゐんどの)へ被渡たりし物なればとて、璽(しるし)の御箱(みはこ)をば被棄、宝剣と内侍所(ないしところ)とをば、近習(きんじゆ)の雲客に被下て、衛府(ゑふ)の太刀(たち)・装束(しやうぞく)の鏡にぞ被成ける。げにも誠の三種(さんじゆの)神器(じんぎ)にてはなけれ共(ども)、已(すで)に三度(さんど)大嘗会(じやうゑ)に逢(あひ)て、毎日の御神拝(ごじんぱい)・清署堂(せいしよだう)の御神楽(みかぐら)、二十(にじふ)余年(よねん)に成(なり)ぬれば、神霊もなどか無かるべきに、余(あまり)に無恐凡俗(ぼんぞく)の器物に被成ぬる事、如何(いかが)あるべからんと、申す族(やから)も多かりけり。同(おなじき)二十七日(にじふしちにち)北畠右衛門(うゑもんの)督(かみ)顕能、兵五百(ごひやく)余騎(よき)を率して持明院殿(ぢみやうゐんどの)へ参り、先(まづ)其(その)辺の辻々門々を堅(かた)めさせければ、「すはや武士共(ぶしども)が参りて、院・内を失ひ進(まゐ)らせんとするは。」とて女院・皇后御心(おんこころ)を迷はして臥(ふし)沈ませ給ひ、内侍・上童(うへわらは)・上臈・女房などは、向後(ゆくへ)も不知逃(にげ)ふためいて此彼(ここかしこ)に立吟(さまよ)ふ。され共顕能卿、穏(おだやか)に西の小門より参て、四条(しでうの)大納言(だいなごん)隆蔭(たかかげ)卿(きやう)を以て、「世の静(しづま)り候はん程は、皇居(くわうきよ)を南山に移し進(まゐ)らすべしとの勅定(ちよくぢやう)にて候。」と被奏ければ、両院・主上(しゆしやう)・東宮あきれさせ給へる許(ばかり)にて、兔角(とかう)の御言(おんことば)にも不及、只御泪(なみだ)にのみほれさせ給(たまひ)て、羅穀(らこく)の御袂(おんたもと)絞(しぼ)る計(ばかり)に成(なり)にけり。良(やや)暫(しばらく)有て、新院泪(なみだ)を抑(おさへ)て被仰けるは、「天下乱(らん)に向ふ後、僅に帝位を雖践、叡慮より起りたる事に非(あらざ)れば一事(いちじ)も世の政(まつりこと)を御心(おんこころ)に不任。北辰(ほくしん)光消(きえ)て、中夏(ちゆうか)道闇(くらき)時(とき)なれば、共に椿嶺(ちんれい)の陰(かげ)にも寄り、遠く花山(くわざん)の跡をも追(おは)ばやとこそ思召(おぼしめし)つれ共(ども)、其(それ)も叶はぬ折節の憂(う)さ豈(あに)叡察(えいさつ)なからんや。今天運膺図に万人望(のぞみ)を達する時至れり。乾臨(けんりん)曲(まげ)て恩免(おんめん)を蒙(かふむ)らば、速(すみやか)に釈門(しやくもん)の徒(と)と成て、辺鄙(へんぴ)に幽居(いうきよ)を占(しめ)んと思ふ。此(この)一事(いちじ)具(つぶさ)に可有奏達。」と被仰出けれ共(ども)、顕能再往(さいわう)の勅答に不及、「已(すで)に綸命(りんめい)を蒙(かふむ)る上は、押へては如何(いか)が奏聞を経(へ)候べき。」とて、御車(おんくるま)を二両差寄(さしよ)せ、「余(あま)りに時刻移(うつり)候。」と急げば、本院(ほんゐん)・新院・主上(しゆしやう)・東宮、御同車(ごどうしや)有て、南の門より出御(しゆつぎよ)なる。さらでだに霞(かす)める花の木(こ)の間(ま)の月、是(これ)や限の御泪に、常よりも尚(なほ)朧(おぼろ)也(なり)。女院・皇后は、御簾(みす)の内、几帳(きちやう)の陰(かげ)に臥沈(ふししづ)ませ給へば、此(こ)の馬道(めだう)、彼(かし)この局(つぼね)には、声もつゝまず泣(なき)悲(かなし)む。御車(おんくるま)を暁(あかつき)の月に輾(きしつ)て、東洞院(ひがしのとうゐん)を下(くだ)りに過(すぎ)ければ、故卿の梢漸(やうやく)幽(かすか)にして、東嶺(とうれい)に響く鐘の声、明行(あけゆく)雲に横(よこた)はる。東寺までは、月卿(げつけい)雲客(うんかく)数(あま)た被供奉たりけれ共(ども)、叶ふまじき由を顕能被申ければ、三条(さんでうの)中将(ちゆうじやう)実音(さねとし)・典薬頭(てんやくのかみ)篤直計(あつなほばかり)を召具(めしぐ)せられて、見馴(みなれ)ぬ兵に被打囲、鳥羽まで御幸成(なり)たれば、夜は早若々(ほのぼの)と明(あけ)はてぬ。此(ここ)に御車(おんくるま)を駐(とどめ)て、怪(あや)しげなる網代輿(あじろこし)に召替(かへ)させ進(まゐ)らせ、日を経て吉野の奥賀名生(あなふ)と云(いふ)所へ御幸成し奉る。此(この)辺の民共が吾(わが)君とて仰(あふぎ)奉る吉野の帝の皇居(くわうきよ)だにも、黒木の柱、竹椽(たけたるき)、囲(かこ)ふ垣(かき)ほのしばしだにも栖(すま)れぬべくもなき宿(やど)り也(なり)。況(いはんや)敵の為に被囚、配所の如くなる御栖居(すまゐ)なれば、年経(へ)て頽(くづれ)ける庵室(あんじつ)の、軒を受(うけ)たる杉の板屋(いたやの)、目もあはぬ夜の寥(さび)しさを事問(とふ)雨の音までも御袖(おんそで)を湿(ぬら)す便りなり。衆籟(しゆらい)暁(あかつき)寒(さむう)して月庭前(ていぜん)の松に懸り、群猿(ぐんえん)暮に叫(さけん)で風洞庭(とうてい)の雲を送る。外(よそ)にて聞(きき)し住憂(すみう)さは数にもあらぬ深山(みやま)哉と、主上(しゆしやう)・上皇いつとなく被仰出度(た)び毎(ごと)に御泪の乾(かは)く隙(ひま)もなし。梶井(かぢゐ)二品(にほん)親王(しんわう)は此(この)時(とき)天台(てんだいの)座主(ざす)にて坐(おは)しけるが、同(おなじ)く被召捕させ給て、金剛山(こんがうせん)の麓にぞ坐(おは)しける。此(この)宮(みや)は本院(ほんゐん)の御弟(おとと)、慈覚(じかく)大師(だいし)の嫡流(ちやくりう)にて、三度(さんど)天台(てんだいの)座主に成(なら)せ給ひしかば、門迹(もんぜき)の富貴(ふつき)無双、御門徒(ごもんと)の群集(くんじゆ)如雲。師子(しし)・田楽(でんがく)を被召(めされ)、日夜に舞(まひ)歌はせ、茶飲み、連歌士(れんがし)を集めて、朝夕遊び興ぜさせ給(たまひ)しかば、世の譏(そし)り山門の訟(うつたへ)は止(やむ)時(とき)無りしか共、御心(おんこころ)の中の楽(たのしみ)は類(たぐひ)非じと見へたりしに、今引(ひき)替(かへ)たる配所の如くなる御棲居(すまゐ)、山深く里遠くして鳥の声だにも幽(かす)かなるに、御力者(おんりきしや)一人より外(ほか)は被召(めされ)仕人もなし。隙(ひま)あらはなる柴(しば)の庵(いほ)に袖を片敷(かたしく)苔筵(こけむしろ)、露は枕に結べども、都に帰る夢はなしと、御心(おんこころ)を傷(いたま)しめ給ふに就(つけ)けも、仏種は従縁起る事なれば、よしや世中(よのなか)角(かく)ても遂(つひ)にはてなば三千(さんぜん)の貫頂(くわんちやう)の名を捨(すて)て混(ひたすら)桑門(さうもん)の客(かく)と成(なら)んと思食(おぼしめし)けるこそ哀なれ。天下若(もし)皇統に定て世も閑(しづか)ならば、御遁世(ごとんせい)の御有増(あらまし)も末(すゑ)通(とほ)りぬべし。若(もし)又武家強(つよう)て南方の官軍(くわんぐん)打負けば、失(うしな)ひ奉る事も何様(いかさま)有(あり)ぬべしと思召(おぼしめし)つゞくる時にこそ、さしも浮世を此侭(このまま)にて、頓(やが)てもさらば静まれかしと、還(かへつ)て御祈念(きねん)も深かりけり。