太平記(国民文庫)
太平記巻第二十九

○宮方(みやがた)京攻(きやうぜめの)事(こと) S2901
暫時(ざんじ)の智謀事(こと)成(なり)しかば、三条(さんでうの)左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)入道慧源(ゑげん)と吉野殿(よしのどの)と御合体(ごがつてい)有て、慧源は大和の越智(をち)が許(もと)に坐(おはし)ければ、和田・楠を始として大和・河内・和泉・紀伊(きいの)国(くに)の宮方(みやがた)共(ども)、我(われ)も我(われ)もと三条殿(さんでうどの)に馳参(はせまゐ)る。是のみならず、洛中辺土(らくちゆうへんど)の武士共(ぶしども)も、面々に参ると聞へしかば、無弐(むに)の将軍方(しやうぐんがた)にて、楠退治(たいぢ)の為に、石河々原に向城(むかひじやう)を取て被居たりける畠山阿波将監(あはのしやうげん)国清も、其(その)勢(せい)千(せん)余騎(よき)にて馳参る。謳歌(おうか)の説巷(ちまた)に満(みち)て、南方(なんぱう)の勢已(すで)に京へ寄すると聞へけれ。京都の警固(けいご)にて坐(おはし)ける宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)義詮(よしのり)朝臣(あそん)より早馬(はやうま)を立て、備前の福岡(ふくをか)に、将軍九州下向の為とて座(おは)しける所へ、急を被告事頻並(しきなみ)也(なり)。依之(これによつて)将軍(しやうぐん)より飛脚を以て、越後守師泰が、石見の三角(みすみ)の城(じやう)退治(たいぢ)せんとて居たりけるを、其(その)国(くに)は兔(と)も角(かく)もあれ、先(まづ)京都一大事(いちだいじ)なれば、夜を日に継(つい)で可上洛(しやうらく)由をぞ被告ける。飛脚の行帰る程日数(ひかず)を経ければ、師泰が参否の左右を待(まつ)までもなしとて、将軍急(いそぎ)福岡を立て、に千(せん)余騎(よき)にて上洛(しやうらく)し給ふ。入道左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)此(この)由を聞て、さらば京都に勢の著(つか)ぬ前(さき)に、先(まず)義詮を責落(せめおと)せとて、観応二年正月七日、七千(しちせん)余騎(よき)にて八幡山(やはたやま)に陣を取る。桃井(もものゐ)右馬(うまの)権頭(ごんのかみ)直常、其比(そのころ)越中(ゑつちゆう)の守護(しゆご)にて在国したりけるが、兼て相図(あひづ)を定(さだめ)たりければ、同正月八日越中を立て、能登・加賀・越前の勢を相催(あひもよほ)し、七千(しちせん)余騎(よき)にて夜を日に継(つい)で責上(せめのぼ)る。折節雪をびたゝしく降(ふつ)て、馬の足も不立ければ、兵を皆馬より下(おろ)し、橇(かんじき)を懸(かけ)させ、二万(にまん)余人(よにん)を前に立て、道を蹈(ふま)せて過(すぎ)たるに、山の雪氷(こほつ)て如鏡なれば、中々馬の蹄(ひづめ)を不労して、七里(しちり)半(はん)の山中をば馬人容易(たやすく)越(こえ)はてゝ、比叡山(ひえいさん)の東坂本(ひがしさかもと)にぞ著(つき)にける。足利宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)義詮は其比(そのころ)京都に坐(おは)しけるが、八幡山(やはたやま)、比叡坂本に大敵を請(うけ)て、非可由断、著到(ちやくたう)を付(つけ)て勢を見よとて、正月八日より、日々に著到を被付けり。初日は三万騎(さんまんぎ)と註(しる)したりけるが、翌日(つぎのひ)は一万騎(いちまんぎ)に減ず。翌日は三千騎(さんぜんぎ)になる。是は如何様(いかさま)御方(みかた)の軍勢(ぐんぜい)敵になると覚ゆるぞ。道々に関を居(すゑ)よとて、淀・赤井・今路(いまみち)・関山(せきせん)に関を居(すゑ)たれば、関守共に打連(うちつれ)て、我(われ)も我(われ)もと敵に馳著(はせつき)ける程に、同(おなじき)十二日の暮程には、御内(みうち)・外様(とさま)の御勢(おんせい)五百騎(ごひやくき)に不足とぞ注(しる)したる。さる程に十三日(じふさんにち)の夜より、桃井(もものゐ)山上に陣を取(とり)ぬと見へて、大篝(おおかがり)を焼(た)けば、八幡山(やはたやま)にも相図(あひづ)の篝を焼(たき)つゞけたり。是を見て、仁木・細川以下宗(むね)との人人評定有て、「合戦は始終(しじゆう)の勝こそ肝要(かんえう)にて候へ。此(この)小勢にて彼(かの)大敵にあわん事、千に一も勝(かつ)事を難得覚(おぼえ)候。其(その)上(うへ)将軍(しやうぐん)已(すで)に西国(さいこく)より御上(おんのぼり)候なれば、今は摂津国(つのくに)辺にも著(つか)せ給(たまひ)て候(さうらふ)覧(らん)。只京都を無事故御開(ひらき)候(さふらひ)て、将軍の御勢(おんせい)と一になり、則(すなはち)京都へ寄(よせ)られ候はゞ、などか思ふ図(づ)に合戦一度(いちど)せでは候べき。」と被申ければ、義詮卿、「義は宜(よろしき)に順(したが)ふに不如。」とて、正月十五日早旦に、西国を差て落(おち)給へば、同日の午(うまの)刻(こく)に、桃井(もものゐ)都へ入(い)り替(かは)る。治承(ぢしよう)の古(いにし)へ平家都を落(おち)たりしか共(ども)、木曾(きそ)は猶(なほ)天台山に陣を取て十一日まで都へ不入。是(これ)全(まつたく)入洛(じゆらく)を非不急、敵を欺(あざむ)かざる故なり。又は軍勢(ぐんぜい)の狼藉(らうぜき)を静めん為なりき。武略に長(ちやう)ぜる人は、慎(つつし)む処加様(かやう)にこそ堅かるべし。今直常敵の落(おち)ぬといへばとて、人に兵粮(ひやうらう)をもつかはせず、馬に糠(ぬか)をもかはせず、楚忽(そこつ)に都へ入替る事其(その)要(えう)何事ぞや。敵若(もし)偽(いつはつ)て引退き、却(かへつ)て又寄(よせ)来(きたる)事あらば、直常打負ぬと云はぬ人こそ無りけれ。又桃井(もものゐ)を引(ひく)者は、敵御方勝負を決すべきならば、争(いかで)か敵を欺(あざむか)ざるべき。未(いまだ)落(おち)ぬ先にも入洛すべし。まして敵落(おち)なば、何しにすこしも擬議(ぎぎ)すべき。如何(いか)にも入洛(じゆらく)を急(いそぎ)てこそ、日比(ひごろ)の所存も達しぬべけれ。若(もし)敵偽(いつはつ)て引退き、又帰寄(かへしよす)る事あらば、京都にて尸(かばね)を曝(さら)したらん事何か苦(くるし)かるべき。又軍勢(ぐんぜい)の狼藉(らうぜき)は、入洛の遅速(ちそく)に依(よる)べからず。其(その)上(うへ)深き了簡もをはすらんと、申(まうす)族(やから)も多かりけり。
○将軍上洛(しやうらくの)事(こと)付(つけたり)阿保秋山河原(かはら)軍(いくさの)事(こと) S2902
義詮心細く都を落(おち)て、桂河を打渡り、向(むかふの)明神を南へ打過させ給(たまは)んとする処に、物集女(もづめ)の前西(にし)の岡(をか)に当て、馬煙(うまけぶり)夥(おびたた)しく立て、勢の多少は未見(いまだみず)、旗二三十流翻(ひるがへし)て、小松原(こまつばら)より懸出(かけいで)たり。義詮馬を控(ひかへ)て、「是は若(もし)八幡より搦手(からめて)に廻(まは)る敵にてや有らん。」とて、先(まづ)人をみせに被遣たれば、八幡の敵にはあらで、将軍と武蔵守(むさしのかみ)師直、山陽道(せんやうだう)の勢を駆具(かりぐ)し、二万(にまん)余騎(よき)を率(そつ)して上洛(しやうらく)し給ふにてぞ有ける。義詮を始奉て、諸軍勢(しよぐんぜい)に至るまで、只窮子(くうし)の他国より帰て、父の長者に逢へるが如(ごとく)、悦び合(あふ)事限(かぎり)なし。さらば軈(やがて)取て返して洛中(らくちゆう)へ打寄せ、桃井(もものゐ)を責落(せめおと)せと、将軍父子の御勢(おんせい)都合(つがふ)二万(にまん)余騎(よき)を桂川より三手(みて)に分て、大手は武蔵守(むさしのかみ)を大将として、仁木(につき)兵部(ひやうぶの)大輔(たいふ)頼章(よりあきら)・舎弟(しやてい)右馬(うまの)権(ごんの)助(すけ)義長(よしなが)・細河(ほそかは)阿波(あはの)将監(しやうげん)清氏・今河駿河(するがの)守(かみ)、五千(ごせん)余騎(よき)四条(しでう)を東へ押寄(おしよす)る。佐々木(ささきの)佐渡(さどの)判官入道(はうぐわんにふだう)は、手勢七百(しちひやく)余騎(よき)を引分て、東寺の前を東へ打通(うちとほ)りて、今比叡(いまひえい)の辺に控(ひか)へ、大手の合戦半(なかば)ならん時、思(おもひ)も寄(よら)ぬ方より、敵の後(うしろ)へ蒐出(かけいで)んと、旗竿(はたざを)を引側(ひきそば)め笠符(かさじるし)を巻隠し、東山へ打上る。将軍と宰相(さいしやうの)中将殿(ちゆうじやうどの)は、一万(いちまん)余騎(よき)を一手(ひとて)に合(あはせ)、大宮(おほみや)を上(のぼり)に打通(うちとほ)り、二条(にでう)を東へ法勝寺(ほつしようじ)の前に打出んと、相図(あひづ)を定(さだめ)て寄せ給ふ。是は桃井(もものゐ)東山に陣を取たりと聞(きこえ)ければ、四条(しでう)より寄(よす)る勢に向て、合戦は定(さだめ)て川原(かはら)にてぞ有んずらん。御方偽(いつはつ)て京中(きやうぢゆう)へ引退(ひきしりぞ)かば、桃井(もものゐ)定(さだめて)勝(かつ)に乗(のつ)て進まん歟(か)、其(その)時(とき)道誉(だうよ)桃井(もものゐ)が陣の後へ蒐出(かけいで)て、不意に戦を致さば前後の大敵に遮(さへぎ)られて、進退度(ど)を失はん時、将軍の大勢北白河(きたしらかは)へ懸出て、敵の後へ廻る程ならば、桃井(もものゐ)武(たけ)しと云共(いふとも)引かではやはか戦(たたかふ)と、謀(はかりこと)を廻(めぐら)す処也(なり)。如案中の手大宮(おほみや)にて旗を下(おろ)して、直(すぐ)に四条川原(しでうがはら)へ懸出たれば、桃井(もものゐ)は東山を後(うしろ)にあて賀茂河を前に堺(さかう)て、赤旗一揆(いつき)・扇一揆(いつき)・鈴付(すずつけ)一揆(いつき)・二千(にせん)余騎(よき)を三所に控(ひかへ)て、射手(いて)をば面(おもて)に進ませ、帖楯(でふたて)二三百帖(にさんびやくでふ)つき並(なら)べて、敵懸らば共に蒐(かか)り合ふて、広みにて勝負を決せんと、静(しづま)り返て待懸(まちかけ)たり。両陣旗を上(あげ)て、時の声をば揚(あげ)たれ共(ども)、寄手(よせて)は搦手(からめて)の勢の相図を待て未(いまだ)懸(かけ)ず。桃井(もものゐ)は八幡の勢の攻寄(せめよせ)んずる程を待て、態(わざと)事を延(のば)さんとす。互に勇気を励(はげま)す程に、或(あるひ)は五騎十騎(じつき)馬を懸居懸廻(かけすゑかけまはし)、かけ引(ひき)自在に当らんと、馬を乗浮(のりうかぶる)もあり。或(あるひ)は母衣袋(ほろふくろ)より母衣(ほろ)取出して、是(ここ)を先途(せんど)の戦と思へる気色顕(あらは)れて、最後と出立(いでたつ)人もあり。斯(かか)る処に、桃井(もものゐ)が扇一揆(いつき)の中より、長(たけ)七尺(しちしやく)許(ばかり)なる男の、ひげ黒に血眼(ちまなこ)なるが、火威(ひをどし)の鎧に五枚甲(ごまいかぶと)の緒(を)を縮(しめ)、鍬形(くはがた)の間に、紅(くれなゐ)の扇の月日出したるを不残開て夕陽(せきやう)に耀(かかや)かし、樫木(かしのき)の棒の一丈(いちぢやう)余(あま)りに見へたるを、八角に削(けづつ)て両方に石突(いしづき)入れ、右の小脇に引側(ひきそば)めて、白瓦毛(しろかはらけ)なる馬の太く逞(たくま)しきに、白泡かませて、只一騎(いつき)河原面(かはらおもて)に進出て、高声に申けるは、「戦場(せんぢやう)に臨(のぞ)む人毎(ひとごと)に、討死を不志云(いふ)者なし。然(しかれ)共(ども)今日の合戦には、某(それがし)殊更(ことさら)死を軽(かろん)じて、日来(ひごろ)の広言(くわうげん)をげにもと人に云(いは)れんと存(ずる)也(なり)。其(その)名人に知らるべき身にても候はぬ間、余(あまり)にこと/゛\しき様に候へ共、名字を申(まうす)にて候也(なり)。是は清和源氏の後胤(こういん)に、秋山新蔵人(しんくらんど)光政と申(まうす)者候。出王氏雖不遠、已(すで)に武略の家に生(うま)れて、数代只弓箭(きゆうせん)を把(とつ)て、名を高(たかく)せん事を存ぜし間、幼稚(えうち)の昔より長年(ちやうねん)の今に至(いたる)まで、兵法を哢(もてあそ)び嗜(たしな)む事隙(ひま)なし。但(ただし)黄石公(くわうせきこう)が子房(しばう)に授(さづけ)し所は、天下の為にして、匹夫(ひつぷ)の勇に非ざれば、吾未学(いまだまなばず)、鞍馬(くらま)の奥僧正(そうじやうが)谷にて愛宕(あたご)・高雄(たかを)の天狗共(てんぐども)が、九郎判官義経に授(さづけ)し所の兵法に於ては、光政是(これ)を不残伝へ得たる処なり。仁木・細河(ほそかは)・高家(かうけ)の御中に、吾と思はん人々名乗て是へ御出(おんいで)候へ。声花(はなやか)なる打物(うちもの)して見物の衆の睡(ねぶり)醒(さま)さん。」と呼(よば)は(ッ)て、勢(いきほ)ひ当りを撥(はらう)て西頭(にしがしら)に馬をぞ控(ひか)へたる。仁木・細河(ほそかは)・武蔵守が内に、手柄(てがら)を顕(あらは)し名を知(しら)れたる兵多(おほし)といへ共、如何思(おもひ)けん、互に目を賦(くばつ)て吾是に懸合て勝負をせんと云(いふ)者もなかりける処に、丹(たん)の党(たう)に阿保(あふ)肥後(ひごの)守(かみ)忠実(ただざね)と云ける兵、連銭葦毛(れんせんあしげ)なる馬に厚総(あつぶさ)懸て、唐綾威(をどし)の鎧(よろひ)竜頭(たつがしら)の甲(かぶと)の緒(を)を縮(し)め、四尺(ししやく)六寸(ろくすん)の貝鏑(かひしのぎ)の太刀を抜(ぬい)て、鞘(さや)をば河中へ投(なげ)入れ、三尺(さんじやく)二寸(にすん)の豹(へう)の皮の尻鞘(しりざや)かけたる金作(こがねづくり)の小太刀帯副(はきそへ)て、只一騎(いつき)大勢の中より懸出て、「事珍(めづら)しく耳に立(たて)ても承(うけたまは)る秋山殿の御詞(おんことば)哉(かな)。是は執事の御内(みうち)に阿保(あふ)肥前(ひぜんの)守(かみ)忠実と申(まうす)者にて候。幼稚の昔より東国に居住して、明暮(あけくれ)は山野(さんや)の獣(けだもの)を追ひ、江河の鱗(うろくづ)を漁(すなどつ)て業(げふ)とせし間、張良が一巻(いつくわん)の書をも呉氏・孫氏が伝へし所をも、曾(かつ)て名をだに不聞。され共変化時に応じて敵の為に気を発(はつ)する処は、勇士(ゆうし)の己(おの)れと心に得(う)る道なれば、元弘建武以後三百(さんびやく)余箇度(よかど)の合戦に、敵を靡(なび)け御方(みかた)を助け、強きを破り堅(かた)きを砕(くだ)く事其(その)数を不知(しらず)。白引(すびき)の精兵(せいびやう)、畠水練(はたけすゐれん)の言(ことば)にをづる人非じ。忠実が手柄の程試(こころみ)て後、左様の広言をば吐(き)給へ。」と高(たから)かに呼(よば)は(ッ)て、閑々(しづしづ)と馬をぞ歩ませたる。両陣の兵あれ見よとて、軍(いくさ)を止(とめ)て手を拳(にぎ)る。数万の見物衆は、戦場とも不云走(はしり)寄て、かたづを呑(のみ)て是を見る。誠(まこと)に今日(こんにち)の軍の花は、只是に不如とぞ見へたりける。相近(あひぢか)になれば阿保と秋山とにつこと打笑(うちわらう)て、弓手(ゆんで)に懸違(かけちが)へ馬手(めて)に開(ひらき)合て、秋山はたと打てば、阿保うけ太刀に成て請流(うけなが)す。阿保持て開(ひらい)てしとゞ切れば、秋山棒にて打側(うちそむ)く。三度(さんど)逢(あひ)三度(さんど)別ると見へしかば、秋山は棒を五尺(ごしやく)許(ばかり)切折(きりをら)れて、手本僅(わずか)に残り、阿保は太刀を鐔本(つばもと)より打折(うちをら)れて、帯添(はきぞへ)の小太刀許(ばかり)憑(たのみ)たり。武蔵守(むさしのかみ)是を見て、「忠実は打物取て手はきゝたれ共(ども)、力量(りきりやう)なき者なれば、力勝(ちからまさ)りに逢(あう)て始終は叶はじと覚(おぼゆ)るぞ、あれ討(うた)すな。秋山を射て落せ。」とぞ被下知。究竟(くつきやう)の精兵(せいびやう)七八人(しちはちにん)河原面(かはらおもて)に立渡て、雨の降るが如く散々に射る。秋山件(くだん)の棒を以て、只中(ただなか)を指(さし)て当る矢二十三筋(にじふさんすぢ)まで打落す。忠実も情ある者也(なり)ければ、今は秋山を討(うた)んともせず、剰(あまつさへ)御方(みかた)より射(いる)矢を制して矢面にこそ塞(ふさが)りけれ。かゝる名人を無代(むたい)に射殺さんずる事を惜(をしみ)て、制しけるこそやさしけれ。角(かく)て両方打除(うちのき)て、諸人の目をぞさましける。されば其比(そのころ)、霊仏霊社の御手向(おんたむけ)、扇団扇(あふぎうちは)のばさら絵にも、阿保・秋山が河原(かはら)軍とて書(かか)せぬ人はなし。其後合戦始て、桃井(もものゐ)が七千(しちせん)余騎(よき)、仁木・細河(ほそかは)が一万(いちまん)余騎(よき)と、白河を西へまくり東へ追靡(おひなび)け、七八度(しちはちど)が程懸(かけ)合(あひ)たるに、討(うた)るゝ者三百人(さんびやくにん)、疵(きず)を被(かうむ)る者数を不知(しらず)。両陣互に戦(たたかひ)屈(くつ)して控(ひかへ)息を継(つぐ)処に、兼(かねて)の相図を守て、佐々木(ささきの)判官入道(はうぐわんにふだう)々誉(だうよ)七百(しちひやく)余騎(よき)にて、思も寄らぬ中霊山(なかりやうぜん)の南より、時をどつと作て桃井(もものゐ)が陣の後(うしろ)へ懸(かけ)出たり。桃井(もものゐ)が兵是(これ)に驚きあらけて、二手(ふたて)に分(わかれ)て相(あひ)戦ふ。桃井(もものゐ)は西南の敵に破立られて、兵引色(ひきいろ)にみへける間、兄弟二人(ににん)態と馬より飛で下り、敷皮の上に著座して、「運は天にあり、一足(ひとあし)も引(ひく)事有べからず。只討死をせよ。」とぞ下知しける。去(さる)程(ほど)に日已(すで)に夕陽(せきやう)に及て、戦数剋(すこく)に成ぬれども、八幡の大勢は曾(かつて)不攻合せ、北国の兵気疲(つか)れて暫(しばらく)東山に引(ひき)上(あげ)んとしける処に、将軍並(ならびに)羽林(うりん)の両勢五千(ごせん)余騎(よき)、二条(にでう)を東へ懸(かけ)出て、桃井(もものゐ)を山上へ又引返させじと、跡を隔(へだて)てぞ取巻ける。桃井(もものゐ)終日(ひねもす)の合戦に入替る勢もなくて、戦疲れたる上、三方(さんぱう)の大敵に囲(かこま)れて、叶(かなは)じとや思(おもひ)けん、粟田口(あはたぐち)を東へ山科越(やましなごえ)に引(ひい)て行(ゆく)。され共尚(なほ)東坂本(ひがしさかもと)までは引返さで、其(その)夜は関山(せきさん)に陣を取て、大篝(おほかがり)を焼(たい)てぞ居たりける。
○将軍親子御退失事(こと)付(つけたり)井原(ゐはらの)石窟(いはやの)事(こと) S2903
将軍都へ立帰(たちかへり)給て、桃井(もものゐ)合戦に打負(うちまけ)ぬれば、今は八幡(やはた)の御敵(おんてき)共(ども)も、大略将軍へぞ馳参(はせまゐ)らんと、諸人推量を廻(めぐら)して、今はかうと思(おもは)れけるに、案に相違して、十五日の夜半許(ばかり)に、京都の勢又大半落て八幡の勢にぞ加(くはは)りける。「こはそも何事ぞ。戦(たたかひ)に利あれば、御方の兵弥(いよいよ)敵になる事は、よく早(はや)尊氏を背(そむ)く者多かりける。角(かく)ては洛中(らくちゆう)にて再び戦を致し難し。暫く西国の方へ引退(ひきしりぞい)て、中国の勢を催(もよほ)し、東国の者共(ものども)に牒(てふ)し合(あはせ)て、却(かへつ)て敵を責(せめ)ばや。」と、将軍頻(しきり)に仰(おほせ)あれば、諸人、「可然覚へ候。」と同(どう)じて、正月十六日(じふろくにち)の早旦に丹波路(たんばぢ)を西へ落給ふ。昨日は将軍都に立帰て桃井(もものゐ)戦(たたかひ)に負しかば、洛中(らくちゆう)には是を悦(よろこ)び八幡には聞て悲む。今日は又将軍都を落給て桃井(もものゐ)軈(やが)て入替ると聞へしかば、八幡には是を悦び洛中(らくちゆう)には潜(ひそか)に悲む。吉凶は糾(あざなへ)る縄の如く。哀楽(あいらく)時(とき)を易(かへ)たり。何を悦び何事を可歎共不定め。将軍は昨日都を東嶺(とうれい)の暁(あかつき)の霞と共に立隔(たちへだた)り、今日は旅を山陰(やまかげ)の夕(ゆふべ)の雲に引別(ひきわかれ)て、西国へと赴(おもむ)き給ひけるが、名将一処に集(あつま)らん事は計略なきに似たりとて、御子息(ごしそく)宰相(さいしやう)中将殿(ちゆうじやうどの)に、仁木(につき)左京(さきやうの)大夫(たいふ)頼章(よりあきら)・舎弟(しやてい)右京(うきやうの)大夫(たいふ)義長(よしなが)を相副(あいそへ)て二千(にせん)余騎(よき)、丹波の井原(ゐはらの)石龕(いはや)に止めらる。此寺の衆徒(しゆと)、元来無弐(むにの)志を存せしかば、軍勢(ぐんぜい)の兵粮、馬の糟藁(ぬかわら)に至るまで、如山積上(つみあげ)たり。此(この)所は岸高く峯聳(そびえ)て、四方(しはう)皆嶮岨(けんそ)なれば、城郭(じやうくわく)の便りも心安(こころやす)く覚へたる上、荻野(をぎの)・波波伯部(はうかべ)・久下(くげ)・長沢(ながさは)、一人も不残馳参て、日夜(にちや)の用心(ようじん)隙(ひま)無(なか)りければ、他日窮困(きゆうこん)の軍勢共(ぐんぜいども)、只翰鳥(かんてう)の■(げき)を出、轍魚(てつぎよ)の水を得たるが如くにて、暫く心をぞ休めける。相公(しやうこう)登山(とうざん)し給(たまひ)し日より、岩室寺(いはやでら)の衆徒、坐(ざ)醒(さま)さずに勝軍(しようぐん)毘沙門(びしやもん)の法をぞ行(おこなひ)ける。七日に当りたりし日、当寺の院主雲暁(うんげう)僧都、巻数(くわんじゆ)を捧(ささ)げて参(まゐり)けり。相公則(すなはち)僧都に対面し給て、当寺開山の事の起り、本尊霊験(れいけん)顕(あらは)し給ひし様(やう)など、様々(さまざま)問(とひ)ける次(ついで)に、「さても何(いづ)れの薩■(さつた)を帰敬(ききやう)し、何(いか)なる秘法を修してか、天下を静め大敵を亡(ほろぼ)す要術(えうじゆつ)に叶ひ候べき。」と宣ひければ、雲暁僧都畏(かしこまつ)て申けるは、「凡(およそ)、諸仏薩■(さつた)の利生(りしやう)方便区々(まちまち)にして、彼を是(ぜ)し此を非(ひ)する覚へ、応用言(こと)ば辺々に候へば、何(いづ)れをまさり何れを劣たりとは難申候へども、須弥(しゆみ)の四方(しはう)を領(りやう)して、鬼門(きもん)の方を守護(しゆご)し、摧伏(さいぶく)の形を現(げん)じて、専ら勝軍(しようぐん)の利を施(ほどこ)し給ふ事は、昆沙門(びしやもん)の徳にしくは候べからず。是(これ)我(わが)寺の本尊にて候へばとて、無謂申(まうす)にて候はず。古(いにしへ)玄宗皇帝(くわうてい)の御宇(ぎよう)、天宝十二年に安西(あんせい)と申(まうす)所に軍起て、数万の官軍(くわんぐん)戦ふ度毎(たびごと)に打負(うちまけ)ずと云(いふ)事なし。「今は人力の及(およぶ)処に非(あら)ず如何(いか)がすべき。」と玄宗有司(いうし)に問給ふに、皆同(おなじ)く答て申さく、「是(これ)誠(まこと)に天の擁護(おうご)に不懸ば静むる事を難得。只不空三蔵(ふくうさんざう)を召(めさ)れて、大法を行(おこなは)せらるべき歟(か)。」と申ける間、帝則(すなはち)不空三蔵を召(めされ)て昆沙門(びしやもん)の法を行(おこなは)せられけるに、一夜(いちや)の中に鉄(くろがね)の牙(きば)ある金鼠(きんそ)数百万安西(あんせい)に出来て、謀叛(むほん)人の太刀・々(かたな)・甲(かぶと)・胄(よろひ)・矢の筈(はず)・弓の弦に至(いたる)まで、一も不残食破(くひやぶ)り食切(くひきり)、剰(あまつさへ)人をさへ咀殺(かみころ)し候(さふらひ)ける程に、凶徒(きようと)是を防(ふせ)ぎかねて、首(かうべ)をのべて軍門に降(くだり)しかば、官軍(くわんぐん)矢の一をも不射して若干(そくばく)の賊徒(ぞくと)を平げ候き。又吾朝(わがてう)に朱雀(しゆしやく)院(ゐん)の御宇に、金銅(こんどう)の四天王(してんわう)を天台山に安置(あんぢ)し奉て、将門を亡(ほろぼ)されぬ。聖徳太子(しやうとくたいし)昆沙門(びしやもん)の像を刻(きざみ)て、甲(かぶと)の真甲(まつかふ)に戴(いただい)て、守屋の逆臣(げきしん)を誅(ちゆう)せらる。此等の奇特(きどく)世の知(しる)処、人の仰(あふ)ぐ処にて候へば、御不審(ごふしん)あるべきに非(あら)ず。然るに今武将幸(さいはひ)に多門(たもん)示現(じげん)の霊地(れいち)に御陣を召(めさ)れ候事、古(いにしへ)の佳例(かれい)に違(ちがふ)まじきにて候へば、天下を一時に静(しづめ)られて、敵軍を千里の外に掃(はら)はれ候(さうらは)ん事、何の疑か候べき。」と、誠憑(たのも)し気に被申たりければ、相公(しやうこう)信心を発(おこさ)れて、丹波(たんばの)国(くに)小川(こかはの)庄(しやう)を被寄附、永代の寺領にぞ被成ける。
○越後守自石見引返事(こと) S2904
越後(ゑちごの)守(かみ)師泰は、此(この)時(とき)まで三角(みすみの)城(じやう)を退治(たいぢ)せんとて猶(なほ)石見(いはみの)国(くに)に居たりけるを、師直が許(もと)より飛脚を立(たて)て、「摂津(せつつの)国(くに)播磨(はりま)の間に合戦(かつせんの)事已(すで)に急也(なり)。早く其(その)国(くに)の合戦を閣(さしおい)て馳上(はせのぼ)らるべし。若(もし)中国の者共(ものども)かゝる時の弊(つひえ)に乗(のつ)て、道を塞(ふさが)んずる事もや有んずらんと存(ぞんじ)候間、武蔵五郎を兼(かね)て備前へ差遣(さしつかは)す。中国の蜂起(ほうき)を静めて、待申べし。」とぞ告たりける。越後(ゑちごの)守(かみ)此(この)使に驚て石見を立て上(のぼ)れば、武蔵五郎の相図を違(ちが)へじと播磨(はりま)を立て、備後の石崎(いはさき)にぞ付(つき)にける。将軍は八幡(やはた)比叡山(ひえいさん)の敵に襲(おそは)れて、播磨(はりま)の書写(しよしや)坂本へ落下り、越後(ゑちごの)守(かみ)は三角(みすみの)城(じやう)を責兼(せめかね)て、引退(ひきしりぞく)と聞へしかば、上杉弾正少弼(だんじやうせうひつ)八幡より舟路(ふなぢ)を経て、備後の鞆(とも)へあがる。是を聞て備後・備中・安芸・周防の兵共(つはものども)、我劣(おとら)じと馳付(はせつき)ける程に、其(その)勢雲霞の如(ごとく)にて、靡(なびか)ぬ草木もなかりけり。去(さる)程(ほど)に武蔵五郎、越後守を待付(まちつけ)て、中国には暫(しばし)も逗留(とうりう)せず、やがて上洛(しやうらく)すと聞へければ、上杉取(とる)物も取敢(とりあへ)ず、跡を追て打止(うちとめ)よとて、其(その)勢二千(にせん)余騎(よき)、正月十三日(じふさんにち)の早旦に、草井地(くさゐぢ)より打立て、跡を追てぞ寄にける。越後(ゑちごの)守(かみ)は夢にも是を知(しら)ず、片時(へんし)も行末を急ぐ道なれば、疋馬(ひつば)に鞭を進(すすめ)て勢山(せやま)を打越(うちこえ)ぬ。小旗(こばた)一揆(いつき)・川津(かはづ)・高橋・陶山(すやま)兄弟は、遥(はるか)の後陣(ごぢん)に引殿(ひきおくれ)て、未(いまだ)竜山(たつやま)の此方(こなた)に支(ささへ)たり。先陣後陣(せんぢんごぢん)相阻(あひへだたつ)て勢の多少も見分ねば、上杉が先懸(さきがけ)の五百(ごひやく)余騎(よき)、一の後陣(ごぢん)に打(うち)ける陶山が百(ひやく)余騎(よき)の勢を目に懸て、楯のはを敲(たたい)て時を作る。陶山元来軍の陣に臨(のぞ)む時、仮(かり)にも人に後(うしろ)を見せぬ者共(ものども)なれば、鬨(ときのこゑ)を合(あはせ)て、矢一筋(ひとすぢ)射違(いちがふ)るほどこそあれ、大勢の中へ懸入て責(せめ)けれども、魚鱗鶴翼(ぎよりんかくよく)の陣、旌旗電戟(せいきでんげき)の光、須臾(しゆゆ)に変化(へんくわ)して、万方(ばんぱう)に相当れば、野草(やさう)紅(くれなゐ)に染(そみ)て汗馬(かんば)の蹄(ひづめ)血を蹴(け)たて、河水派(みなまた)せかれて、士卒(しそつ)の尸(かばね)忽(たちまち)流れをたつ。かゝりけれども、前陣は隔(へだたつ)て知(しら)ず、後陣(ごぢん)にはつゞく御方(みかた)もなし。只今(ただいま)を限(かぎり)と戦(たたかひ)ける程に、陶山又次郎高直(たかなほ)、脇の下・内胄(うちかぶと)・吹返(ふきかへし)の迦(はづれ)、三所(みところ)突(つか)れて打(うた)れにけり。弟(おとと)の又五郎是(これ)を見て、哀れよからんずる敵に組(くん)で、指違(さしちがへ)ばやと思(おもふ)処に、火威(ひをどし)の鎧紅(くれなゐ)の母衣(ほろ)懸たる武者一騎(いつき)、合近(あひぢか)に寄合ふたる。「誰(た)そ。」と問(とへ)ば、土屋(つちや)平三と名乗(なのる)。陶山莞爾(につこ)と笑(わらう)て、「敵をば嫌(きらふ)まじ、よれ組(くま)ん。」と云(いふ)侭(まま)に、引組で二疋が中へどうど落(おつ)る。落付(おちつく)処にて、陶山上になりければ、土屋を取て押(おさへ)て頚(くび)をかゝんとするを見て、道口(みちくち)七郎(しちらう)落合て陶山が上に乗懸(のりかか)る。陶山下(さんげ)なる土屋をば左の手にて押へ、上なる道口をかい掴(つかん)で、捩頚(ねぢくび)にせんと振返(ふりかへり)て見ける処を、道口が郎等(らうどう)落重て陶山がひつしきの板を畳上(たたみあげ)、あげさまに三刀(みかたな)指(さし)たりければ、道口・土屋は助(たすかり)て陶山は命を留(とどめ)たり。陶山が一族(いちぞく)郎等(らうどう)是(これ)を見て、「何の為に命を惜(をし)むべき。」とて、長谷(はせの)与一・原(はらの)八郎左衛門(はちらうざゑもん)・小池新平衛以下の一族(いちぞく)若党共(わかたうども)、大勢の中へ破(わつ)ては入(いり)、/\、一足(ひとあし)も引(ひか)ず皆切死(きりじに)にこそ死にけれ。上杉若干(そくばく)の手(ての)者を打(うた)せ乍(なが)ら、後陣(ごぢん)の軍には勝にけり。宮(みや)下野(しもつけの)守(かみ)兼信は、始(はじめ)七十騎(しちじつき)にて中の手に有けるが、後陣(ごぢん)の軍に御方(みかた)打負(うちまけ)ぬと聞て、何(いつ)の間にか落失(おちうせ)けん、只六騎に成にけり。兼信四方(しはう)を屹(きつ)と見て、「よし/\有るにかいなき大臆病(おくびやう)の奴原(やつばら)は、足纏(あしまとひ)に成(なる)に、落失(おちうせ)たるこそ逸物(いちもつ)なれ。敵未(いまだ)人馬の息を休(やすめ)ぬ先に、倡(いざや)懸(かか)らん。」と云侭(いふまま)に、六騎馬の鼻を双(ならべ)て懸入(かけいる)。是(これ)を見て、小旗(こばた)一揆(いつき)に、河津・高橋、五百(ごひやく)余騎(よき)喚(をめい)て懸りける程に、上杉が大勢跡より引立(ひきたち)て、一度(いちど)も遂に返さず、混引(ひたひき)に引(ひき)ける間、上杉深手を負(おふ)のみに非(あら)ず、打(うた)るゝ兵三百(さんびやく)余騎(よき)、疵(きづ)を蒙(かうむ)る者は数を知(しら)ず。其(その)道三里が間には、鎧・腹巻・小手・髄当(すねあて)・弓矢・太刀・々(かたな)を捨(すて)たる事、足の踏所(ふみどころ)も無りけり。備中の合戦には、越後(ゑちごの)守(かみ)師泰念なく打勝(うちかち)ぬ。是(これ)より播磨(はりま)までは、道のほど異なる事あらじと思(おもふ)処に、美作(みまさかの)国(くに)の住人(ぢゆうにん)、芳賀(はが)・角田(つのだ)の者共(ものども)相集て七百(しちひやく)余騎(よき)、杉坂(すぎさか)の道を切塞(きりふさい)で、越後(ゑちごの)守(かみ)を打留んとす。只今(ただいま)備中の軍に打勝て、勢(いきほ)ひ天地を凌(しの)ぐ河津・高橋が両(りやう)一揆(いつき)、一矢(ひとや)をも射させず、抜(ぬき)つれて懸りける程に、敵一たまりもたまらず、谷底へまくり落(おち)て、大略皆討(うた)れにけり。両国の軍に事故なく打勝て、越後(ゑちごの)守(かみ)師泰・武蔵五郎師夏、喜悦(きえつ)の眉(まゆ)を開き、観応二年二月に、将軍の陣を取てをわしける書写(しよしや)坂本へ馳(はせ)参る。
○光明寺合戦(かつせんの)事(こと)付(つけたり)師直怪異(けいの)事(こと) S2905
去(さる)程(ほど)に八幡より、石堂(いしたう)右馬(うまの)権頭(ごんのかみ)を大将にて、愛曾(あそ)伊勢(いせの)守(かみ)、矢野(やのの)遠江守(とほたふみのかみ)以下五千(ごせん)余騎(よき)にて書写坂本へ寄(よら)んとて下向しけるが、書写坂本へは越後(ゑちごの)守(かみ)が大勢にて著たる由を聞て、播磨(はりま)の光明寺に陣を取て、尚(なほ)八幡へ勢をぞ乞(こは)れける。将軍此(この)由を聞給て、光明寺に勢を著(つか)ぬ前(さき)に、先(まず)是(これ)を打散(ちら)さんとて、同(おなじき)二月三日将軍書写坂本を打立て、一万(いちまん)余騎(よき)の勢を卒(そつし)、光明寺の四方(しはう)を取巻(とりまき)給ふ。石堂(いしたう)城(じやう)を堅(かため)て光明寺に篭(こもり)しかば、将軍は引尾(ひきを)に陣を取り、師直は泣尾(なきを)に陣をとる。名詮自性(みやうせんじしやう)の理(ことわり)寄手(よせて)の為に、何(いづ)れも忌々(いまいま)しくこそ聞へけれ。同四日より矢合(やあはせ)して、寄手(よせて)高倉(たかくら)の尾(を)より責上(せめのぼ)れば、愛曾(あそ)は二王堂の前に支(ささへ)て相戦ふ。城中(じやうちゆう)には死生(ししやう)不知のあぶれ者共(ものども)、此(ここ)を先途(せんど)と命を捨(すて)て戦ふ。寄手(よせて)は功(こう)高く禄(ろく)重き大名共(だいみやうども)が、只御方の大勢を憑(たの)む許(ばかり)にて、誠(まこと)に吾(われ)一大事(いちだいじ)と思入たる事なければ、毎日の軍に、城の中勝(かつ)に不乗云(いふ)事なし。赤松(あかまつ)律師(りつし)則祐(そくいう)は、七百(しちひやく)余騎(よき)にて泣尾(なきを)へ向ひたりけるが、遥(はるか)に城の体(てい)を見て、「敵は無勢(ぶせい)なりけるを、一責(ひとせめ)々(せめ)て見よ。」と下知しければ、浦上(うらかみ)七郎兵衛行景(ゆきかげ)・同五郎左衛門(ごらうざゑもん)景嗣(かげつぐ)・吉田弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)盛清(もりきよ)・長田(ながた)民部(みんぶの)丞(じよう)資真(すけさね)・菅野(すげの)五郎左衛門(ごらうざゑもん)景文(かげぶん)、さしも岨(けは)しき泣尾(なきを)の坂を責上(せめのぼつ)て、掻楯(かいだて)の際(きは)まで著(つき)たりける。此(この)時(とき)に自余(じよ)の道々よりも寄手(よせて)同時に責上る程ならば、城をば一息に攻落すべかりしを、何となくとも今宵(こよひ)か明日(あす)か心落(こころおち)に落(おち)んずる城を骨折(ほねをり)に責(せめ)ては何(なに)かすべきとて、数万の寄手(よせて)徒(いたづら)に見物して居たりければ、浦上七郎兵衛を始として、責入(せめいる)寄手(よせて)一人も不残掻楯の下に射臥(いふせ)られて、元の陣へぞ引返しける。手合の合戦に敵を退(しりぞけ)て城中(じやうちゆう)聊(いささか)気を得たりといへ共、寄手(よせて)は大勢也(なり)。城の構(かまへ)未拵(いまだこしらへず)、始終いかゞ有(ある)べからんと、石堂・上杉安き心も無(なか)りける処に、伊勢の愛曾(あそ)が召仕ひける童(わらは)一人、俄(にはか)に物に狂(くるう)て、十丈(じふぢやう)許(ばかり)飛上りて跳(をど)りけるが、「吾に伊勢太神宮乗居(のりゐ)させ給て、此(この)城(じやう)守護(しゆご)の為に、三本杉の上に御坐(ござ)あり。寄手(よせて)縦(たとひ)何(いか)なる大勢なりとも、吾角(かく)てあらん程は城を被落事有べからず。悪行(あくぎやう)身を責(せめ)、師直・師泰等(もろやすら)、今七日が中に滅(ほろぼ)さんずるをば不知や。あらあつや堪(たへ)がたや。いで三熱(さんねつ)の焔(ほのほ)さまさん。」とて、閼伽井(あかゐ)の中へ飛漬(とびつか)りたれば、げにも閼伽井の水湧(わき)返てわかせる湯の如し。城中(じやうちゆう)の人々是を聞て渇仰(かつがう)の首(かうべ)を不傾云(いふ)事なし。寄手(よせて)の赤松(あかまつ)律師(りつし)も此(この)事を伝(つたへ)聞て、さては此(この)軍墓々(はかばか)しからじと、気に障(さは)りて思(おもひ)ける処に、子息肥前(ひぜんの)権守(ごんのかみ)朝範(とものり)が、胄(かぶと)を枕にして少し目睡(まどろみ)たる夢に、寄手(よせて)一万(いちまん)余騎(よき)同時に掻楯(かいだて)の際(きわ)に寄て火を懸しかば、八幡山(やはたやま)・金峯山(きんぶぜん)の方より、山鳩(やまはと)数千(すせん)飛来て翅(つばさ)を水に浸(ひた)して、櫓(やぐら)掻楯(かいだて)に燃著(もえつく)火を打消(うちけす)とぞ見へたりける。朝範軈(やが)て此(この)夢を則祐に語る。則祐是(これ)を聞て、「さればこそ此(この)城(じやう)を責(せめ)落さん事有難(ありがた)しなどやらんと思(おもひ)つるが、果して神明の擁護(おうご)有けり。哀(あはれ)事の難義にならぬ前に引て帰らばや。」と思(おもひ)ける処に、美作(みまさか)より敵起て、赤松へ寄する由聞へければ、則祐(そくいう)光明寺の陣を捨(すて)て白旗(しらはたの)城(じやう)へ帰にけり。軍の習(ならひ)、一騎(いつき)も勢の加(くはは)る時には人の心勇(いさ)み、一人もすく時は兵の気たゆむ習(ならひ)なれば、寄手(よせて)の勢次第に減ずるを見て、武蔵守(むさしのかみ)が兵共(つはものども)弥(いよいよ)軍(いくさ)懈(おこたつ)て、皆帷幕(ゐばく)の中に休息(きうそく)して居たりける処に、巽(たつみ)の方より怪気(あやしげ)なる雲一群(ひとむら)立出て風に随(したがつ)て飛揚(ひやう)す。百千万の鳶烏(とびからす)其(その)下に飛(とび)散(ちつ)て、雲居る山の風早み、散乱(ちりみだ)れたる木葉(このは)の空(そら)にのみして行(ゆく)が如し。近付(ちかづく)に随て是(これ)を見れば、雲にも霞にも非(あら)ず、無文(むもん)の白旗一流(ひとながれ)天より飛降(とびさがる)にてぞ有ける。是(これ)は八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)の擁護(おうご)の手を加へ給ふ奇瑞(きずゐ)也(なり)。此(この)旗の落留らんずる方ぞ軍には打勝(うちかた)んずらんとて、寄手(よせて)も城中(じやうちゆう)も手を叉(あざ)へ礼を成して、祈念を不致云(いふ)人なし。此旗城の上に飛上飛下(とびあがりとびさがつ)て暫(しばら)く翩翻(へんほん)しけるが、梢の風に吹(ふか)れて又寄手(よせて)の上に翻(ひるがへ)る。数万(すまん)の軍勢(ぐんぜい)頭(かうべ)を地に著て、吾(わが)陣に天降(あまくだ)せら給ふと信心を凝(こら)す処に、飛鳥(ひてう)十方に飛散(とびちつ)て、旗は忽(たちまち)に師直が幕の中にぞ落たりける。諸人同(おなじ)く見て、「目出(めでた)し。」と感じける声、暫(しば)しは静(しづま)りも得ざりけり。師直甲(かぶと)を脱(ぬい)で、左の袖に受留(うけと)め、三度(さんど)礼して委(くはし)く是(これ)を見れば、旌(はた)にはあらで、何(なに)共(とも)なき反古(ほんぐ)を二三十枚続集(つぎあつめ)て、裏に二首の歌をぞ書たりける。吉野山峯の嵐のはげしさに高き梢(こずゑ)の花ぞ散(ちり)行(ゆく)限(かぎり)あれば秋も暮ぬと武蔵野の草はみながら霜枯(しもがれ)にけり師直傍(かた)への人に、「此(この)歌の吉凶(きつきよう)何(いかが)ぞ。」と問(とひ)ければ、聞(きく)人毎(ひとごと)に、穴(あな)浅猿(あさまし)や、高き梢の花ぞ散行(ちりゆく)とあるは、高家の人可亡事にやあるらん。然(しか)も吉野山峯の嵐のはげしさにとあるも、先年蔵王堂(ざわうだう)を被焼たりし罪、一人にや帰(き)すらん。武蔵野の草はみながら霜枯(かれ)にけりとあるも、名字(みやうじ)の国なれば、旁(かたがた)以(もつて)不吉なる歌と、忌々(いまいま)しくは思ひけれ共(ども)、「目出(めでた)き歌共にてこそ候へ。」とぞ会尺(えしやく)しける。
○小清水(こしみづ)合戦(かつせんの)事(こと)付(つけたり)瑞夢(ずゐむの)事(こと) S2906
去程(さるほど)に其(その)日(ひ)の暮程に、摂津国(つのくに)の守護(しゆご)赤松信濃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)、使者を以て申けるは、「八幡より石堂中務大輔(いしたうなかつかさのたいふ)・畠山阿波(あはの)守(かみ)国清・上杉蔵人(くらんどの)大夫(たいふ)を大将にて、七千(しちせん)余騎(よき)を光明寺の後攻(ごづめ)の為にとて、被差下也(なり)。前には光明寺の城(じやう)堅(かた)く守て、後(うしろ)に荒手(あらて)の大敵懸りなば、ゆゝしき御大事(おんだいじ)にて候べし。只先(まづ)其(その)城(じやう)をば閣(さしおか)れ候(さふらひ)て、討手の下向(げかう)を相支(あひささ)へ、神尾(かんのう)・十林寺(じふりんじ)・小清水(こしみづ)の辺にて御合戦候はゞ、敵の敗北非疑処。御方一戦(いつせん)に利を得ば、敵所々に軍(いくさ)すと云ふ共、いつまでか怺(こら)へ候べき。是只一挙(いつきよ)に戦を決して、万方に勝事(かつこと)を計る処にて候べし。」と、追々早馬(はやうま)を打(うた)せて、一日に三度(さんど)までこそ申されけれ。将軍を始奉て師直・師泰に至るまで、げにも聞ゆる如(ごとく)ならば、敵は小勢也(なり)。御方は是に十倍せり。岨(けは)しき山の城(じやう)を責(せむ)ればこそ叶はね、平場(ひらば)に懸合(かけあひ)て勝負を決せんに、御方不勝と云(いふ)事不可有。さらば此(この)城(じやう)を閣(さしおい)て、先(まづ)向(むかふ)なる敵に懸(かか)れとて、二月十三日(じふさんにち)、将軍も執事兄弟も、光明寺の麓を御立(おんたち)有て兵庫湊川(ひやうごのみなとがは)へ馳(はせ)向はる。畠山阿波(あはの)守(かみ)国清は、三千(さんぜん)余騎(よき)にて播磨(はりま)の東条(とうでう)に有けるが、此(この)事を聞て、さては何(いづ)くにてもあれ、執事兄弟のあらんずる所へこそ向(むかは)めとて、湯山(ゆのやま)を南へ打越(うちこえ)て、打出(うちで)の北なる小山に陣をとる。光明寺に楯篭(たてこもり)つる石堂右馬(うまの)頭(かみ)・上杉左馬(さまの)助(すけ)も光明寺をば打捨(うちすて)て皆畠山が陣へ馳加(はせくはは)る。同(おなじき)十七日(じふしちにちの)夜、将軍執事(しつじ)の勢二万(にまん)余騎(よき)御影浜(みかげのはま)に押寄(おしよせ)、追手(おふて)搦手(からめて)二手(ふたて)に分らる。「軍は追手(おふて)より始て戦(たたかひ)半(なかば)ならん時、搦手(からめて)の浜の南より押寄(おしよせ)て、敵を中に取篭(とりこめ)よ。」と被下知ける。薬師寺次郎左衛門(じらうざゑもん)公義(きんよし)は、今度の戦如何様(いかさま)大勢を憑(たのみ)て御方為損(しそん)じぬと思ひければ、弥(いよいよ)吾(わが)大事(だいじ)と気を励(はげま)しけるにや、自余(じよ)の勢(せい)に紛(まぎ)れじと、絹三幅(みはば)を長さ五尺(ごしやく)に縫合(ぬひあは)せて、両方に赤き手を著(つけ)たる旌(はた)をぞ差たりける。一族(いちぞく)の手勢二百(にひやく)余騎(よき)雀(すずめの)松原の木陰(こかげ)に控(ひかへ)て、追手(おふて)の軍(いくさ)今や始まると待(まつ)処に、兼(かね)ての相図(あひづ)なれば、河津左衛門(かはづさゑもん)氏明(うぢあきら)・高橋中務英光(ひでみつ)、大旌(おほはた)一揆(いつき)の六千(ろくせん)余騎(よき)、畠山が陣へ押寄(おしよせ)て時を作る。畠山が兵静(しづま)り返て、態(わざ)と時の声をも不合、此(ここ)の薮陰(やぶのかげ)、彼(かし)この木陰(こかげ)に立隠(たちかくれ)て、差攻(さしつめ)引攻(ひきつめ)散々に射けるに、面(おもて)に立つ寄手(よせて)数百人(すひやくにん)、馬より真倒(まつさかさま)に射落されければ、後陣(ごぢん)はひき足に成て不進得。河津左衛門(かはづさゑもん)是(これ)を見て、「矢軍許(やいくさばかり)にては叶(かなふ)まじきぞ、抜て蒐(かか)れ。」と下知して、弓をば薮(やぶ)へからりと投(なげ)棄て、三尺(さんじやく)七寸(しちすん)の太刀を抜(ぬい)て、敵の群(むらが)りたる中へ会尺(ゑしやく)もなく懸入(かけいら)んと、一段(いちだん)高き岸の上へ懸上(かけあがり)ける処に、十方より鏃(やじり)を汰(そろへ)て射ける矢に、馬の平頚(ひらくび)草わき、弓手の小かいな、右の膝口、四所まで箆深(のぶか)に射られて、馬は小ひざら折てどうと臥す。乗手は朱(あけ)に成て下立(おりたつ)たり。是(これ)を見て畠山が二百(にひやく)余騎(よき)喚(をめい)て蒐(かか)りければ、跡に控(ひかへ)たる寄手(よせて)の大勢共荒手(あらて)を入替(いれかへ)て戦はんともせず、手負を助けん共せず。鞭(むち)に鐙(あぶみ)を合(あはせ)て一度(いちど)にはつとぞ引たりける。石堂右馬(うまの)頭(かみ)が陣は、是より十(じふ)余町(よちやう)を隔てたれば、未(いまだ)御方の打勝たるをも不知、「打出の浜に旌(はた)の三流(みながれ)見へたるは、敵か御方か見て帰れ。」と云(いは)れければ、原三郎左衛門(さぶらうざゑもん)義実(よしざね)只一騎(いつき)、馳向て是を見(みる)に、三幅(みはば)の小旗に赤き手を両方に著(つけ)たり。さては敵也(なり)と見課(みおほせ)て馳(はせ)帰(かへり)けるが、徒(いたづら)に馬の足を疲(つから)かさじとや思(おもひ)けん、扇を挙(あげ)て御方の勢をさし招き、「浜の南に磬(ひか)へたる勢(せい)は敵にて候ぞ。而(しか)も追手(おふて)の軍は御方打勝たりと見へ候。早懸らせ給へ。」と、声を挙てぞ呼(よばは)りける。元より気早(きばや)なる石堂・上杉の兵共(つはものども)是(これ)を聞て何かは少しも可思惟。七百(しちひやく)余騎(よき)の兵共(つはものども)、馬の轡(くつばみ)を並(なら)べて喚(をめい)て懸(かかり)けるに、薬師寺が迹に扣(ひかへ)たる執事兄弟の大勢共、未(いまだ)矢の一(ひとつ)をも不被射懸、捨鞭(すてむち)を打てぞ逃(にげ)たりける。梶原(かぢはら)孫六・同(おなじく)弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)二人(ににん)は追手(おふて)の勢の中に有て、心ならず御方に被引立六七町(ろくしちちやう)落(おち)たりけるが、後代の名をや恥(はぢ)たりけん、只二騎引返して大勢の中へ懸(かけ)入る。暫(しばし)が程は二人(ににん)一所にて戦(たたかひ)けるが、後には別々に成て、只命を限りとぞ戦(たたかひ)ける。孫六は敵三騎切て落(おと)して、裏へつと懸(かけ)抜たるに、続く御方もなく、又見とがむる敵も無りければ、紛(まぎ)れて助からんよと思(おもひ)て、笠符(かさじるし)を取て袖の下に収(をさ)め、西(にしの)宮(みや)へ打通て、夜に入(いり)ければ、小船(こぶね)に乗て将軍の陣へぞ参りける。弾正(だんじやうの)忠(ちゆう)は偏(ひとへ)に敵に紛(まぎ)れもせず、懸(かけ)入ては戦ひ戦ひ、七八度(しちはちど)まで馬烟(うまけぶり)を立(たて)て戦(たたかひ)けるが、藤田小次郎と猪股(ゐのまた)弾正左衛門(だんじやうざゑもん)と、二騎に被取篭討(うた)れにけり。後(のち)に、「あはれ剛(かう)の者や、誰と云(いふ)者やらん。名字を知(しら)ばや。」とて是(これ)を見るに、梅花を一枝(いつし)折て箙(えびら)の上に著(つけ)たり。さては元暦(げんりやく)の古(いにしへ)、一谷(いちのたに)の合戦に、二度(にど)の懸して名を揚(あげ)し梶原平三(へいざう)景時が、其(その)末にてぞ有らんと、名のらで名をぞ被知ける。薬師寺二郎左衛門(じらうざゑもん)公義は御方(みかた)の追手(おふて)搦手(からめて)二万(にまん)余騎(よき)、崩(くづ)れ懸て引(ひけ)共(ども)少(すこし)も不騒、二百五十騎(にひやくごじつき)の勢にて、石堂・上杉が七百(しちひやく)余騎(よき)の勢を山際(やまぎは)までまくり付(つけ)て、続く御方を待(まつ)処に、一騎(いつき)も扣(ひかへ)たる兵なければ、又浪打際に扣(ひかへ)て居たるに、石堂・畠山が大勢共、「手著(つけ)たる旌(はた)は薬師寺と見るぞ、一人も余すな。」とて追懸(おひかけ)たり。公義が二百五十騎(にひやくごじつき)、敵後に近付(ちかづけ)ば、一度(いちど)に馬を屹(きつ)と引返して戦ひ、敵先を遮(さへぎ)れば、一同にわつと喚(をめい)て懸破(かけやぶ)り、打出(うちでの)浜の東より御景(みかげの)浜の松原まで、十六度(じふろくど)迄返して戦(たたかひ)けるに、或(あるひ)は討(うた)れ或(あるひ)は敵に被懸散、一所に控(ひかへ)たる勢とては、弾正左衛門(だんじやうざゑもん)義冬(よしふゆ)・勘解由左衛門(かげゆざゑもん)義治(よしはる)、已上六騎に成にけり。兵共(つはものども)暫(しばらく)馬の息を継(つが)せて傍(かたはら)を屹(きつ)と見たるに、輪違(わちがひ)の笠符(かさじるし)著(つけ)たる武者一騎(いつき)、馬を白砂(しらす)に馳(はせ)通して、敵七騎に被取篭たり。弾正左衛門(だんじやうざゑもん)義冬是(これ)を見て、「是は松田左近(さこんの)将監(しやうげん)と覚(おぼゆ)る。目(めの)前にて討(うた)るゝ御方を不助云(いふ)事やあるべき。」とて、六騎抜連(ぬきつれ)て懸れば、七騎の敵引退(ひきしりぞき)て松田は命を助(たすかり)てげり。松田・薬師寺七騎に成て暫(しば)し扣(ひかへ)たる処、彼等(かれらが)手(て)の者共(ものども)彼方(かなた)より馳付(はせつい)て、又百騎(ひやくき)許(ばかり)に成(なり)ければ、石堂・畠山先懸(さきがけ)して兵を三町(さんちやう)許(ばかり)追返したるに、敵も勇気や疲(つか)れけん、其後よりは不追ければ、軍は此にて止にけり。薬師寺は鎧に立(たつ)処の矢少し折懸(をりかけ)て湊川へ馳帰(はせかへり)たれば、敵の旌(はた)をだにも不見して引返しつる二万(にまん)余騎(よき)の兵共(つはものども)、勇気を失(うしなひ)、落方(おつるかた)を求(もとめ)て、只泥(どろ)に酔(よひ)たる魚の小水にいきづくに異(ことな)らず。さても合戦をつら/\案ずるに、勢の多少兵の勝劣(しようれつ)、天地各別(かくべつ)なり。何事にか是(これ)程(ほど)に無念可打負。是(これ)非直事と思ふに合て、其前(さき)の夜、武蔵五郎・河津左衛門(かはづさゑもん)と、少(すこし)も不替二人(ににん)見たりける夢こそ不思議(ふしぎ)なれ。所は何(いづ)く共不知渺々(べうべう)たる平野に、西には師直・師泰以下、高家の一族(いちぞく)其(その)郎従数万騎打集(うちあつまり)て、轡(くつばみ)を双(ならべ)て控(ひかへ)たる。東には錦小路(にしきのこうぢ)禅門・石堂・畠山・上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)、千(せん)余騎(よき)にて相向ふ。両陣鬨(ときのこゑ)を合(あは)せて、其(その)戦未(いまだ)半(なかばなる)時(とき)、石堂・畠山が勢旌(はた)を巻て引退く。師直・師泰勝に乗て追蒐(おひかく)る処に、雲の上より錦の旌(はた)一流(ひとながれ)差挙(さしあげ)て、勢の程百騎(ひやくき)許(ばかり)懸出たり。左右に分れたる大将を誰ぞと見れば、左は吉野の金剛蔵王(ざわう)権現、頭に角生(つのおひ)て八(やつ)の足ある馬に被召(めされ)たり。小守(こもり)勝手(かつて)の明神、金の鎧に鉄(くろがね)の楯を引側(ひきそば)めて、馬の前後に順(したが)ひ給ふ。右は天王寺(てんわうじ)の聖徳太子(しやうとくたいし)、甲斐(かひ)の黒駒(くろこま)に白鞍(くら)置て被召(めされ)たり。蘇我馬子(そがのむまこの)大臣甲胄(かつちう)を帯し、妹子(いもこの)大臣・跡見(あとみ)の赤梼(いちひ)・秦河勝(はだのかはかつ)、弓箭(きゆうせん)を取て真前(まつさき)に進む。師直・師泰以下の旌共、太子の御勢(おんせい)を小勢と見て、中に篭(こめ)て討(うた)んとするに、金剛蔵王御目をいらゝげて、「あれ射て落せ。」と下知(げぢ)し給へば、小守・勝手・赤梼(いちひ)・河勝(かはかつ)、四方(しはう)に颯(さつ)と走りけり。同時に引て放つ矢、師直・師泰・武蔵(むさしの)五郎・越後(ゑちごの)将監(しやうげん)が眉間(みけん)の真中を徹(とほつ)て、馬より倒(さかさま)に地を響(ひびか)して落(おつ)ると見て、夢は則(すなはち)醒(さめ)にけり。朝に此(この)夢を語て、今日の軍如何(いかが)あらんずらんと危ぶみけるが、果して軍に打負ぬ。此(この)後とても、角(かく)ては憑(たのも)しくも不思と、聞(きく)人心に思(おもは)ぬはなし。此夢の記録(きろく)吉野の寺僧(じそう)所持(しよぢ)して、其隠(そのかくれ)なき事也(なり)。
○松岡(まつをかの)城(じやう)周章(あわての)事(こと) S2907
小清水(こしみづ)の軍に打負(うちまけ)て、引退(ひきしりぞく)兵二万(にまん)余騎(よき)、四方(しはう)四町(しちやう)に足(たら)ぬ松岡(まつをか)の城(じやう)へ、我(われ)も我(われ)もとこみ入(いり)ける程に、沓(くつ)の子を打たるが如(ごとく)にて、少(すこし)もはたらくべき様も無(なか)りけり。角(かく)ては叶(かなふ)まじ、宗(むね)との人々より外(ほか)は内(うち)へ不可入とて、人の郎従若党(らうじゆうわかたう)たる者は、皆そとへ追出して、四方(しはう)の関(きどを)下(おろ)したれば、元来落心地(おちごこち)の付たる者共(ものども)、是に事名付(なづけ)て、「無憑甲斐執事の有様哉(かな)。さては誰が為にか討死をもすべき。」と、面々につぶやきて打連(うちつれ)/\(うちつれ)落行(おちゆく)。今は定(さだめ)て路々に敵有て、落得じと思ふ人は、或(あるひ)は釣(つり)する海人(あま)に紛(まぎ)れて、破れたる簔(みの)を身に纏(まと)ひ、福良(ふくら)の渡(わたし)・淡路(あはぢ)の迫門(せと)を、船にて落(おつ)る人もあり。或(あるひ)は草苅(くさかり)をのこに窶(やつれ)つゝ、竹の簣(あじか)を肩に懸(かけ)、須磨の上野(うへの)・生田(いくた)の奥へ、跣(はだし)にて逃(にぐ)る人もあり。運の傾(かたぶ)く僻(くせ)なれ共(ども)、臆病神(おくびやうがみ)の著(つき)たる人程見苦(みぐるし)き者はなし。夜已(すで)に深ければ、さしもせき合(あひ)つる城中(じやうちゆう)さび返て、更に人ありとも見へざりけり。将軍執事兄弟を召(めし)近付(ちかづけ)て宣(のたまひ)けるは、「無云甲斐者共(ものども)が、只一軍(ひといくさ)に負(まけ)たればとて、落行(おちゆく)事こそ不思議(ふしぎ)なれ。さりとも饗庭命鶴(あいばみやうづる)・高橋・海老名(えびな)六郎(ろくらう)は、よも落去(おちさら)じな。」と問給へば、「それも早落(おち)て候。」「長井治部少輔(ながゐぢぶのせう)・佐竹(さたけ)加賀は早落つるか。」「いやそれも皆落て候。」「さては残る勢幾程かある。」「今は御内(みうち)の御勢(おんせい)、師直が郎従・赤松信濃(しなのの)守(かみが)勢、彼是(かれこれ)五百騎(ごひやくき)に過(すぎ)候はじ。」と申せば、将軍、「さては世中(よのなか)今夜を限りござんなれ、面々に其用意(ようい)有べし。」とて、鎧をば脱(ぬぎ)て推除(おしのけ)小具足許(こぐそくばかり)になり給ふ。是(これ)を見て高(かうの)武蔵守(むさしのかみ)師直・越後(ゑちごの)守(かみ)師泰・武蔵五郎師夏・越後(ゑちごの)将監(しやうげん)師世・高(かうの)豊前五郎・高(かうの)備前守・遠江(とほたふみの)次郎・彦部(ひこべ)・鹿目(かめ)・河津以下、高家の一族(いちぞく)七人(しちにん)、宗(むね)との侍二十三人(にじふさんにん)、十二間の客殿(きやくでん)に二行に坐を列(つらね)て、各諸天(しよてん)に焼香(せうかう)し、鎧直垂(よろひひたたれ)の上をば取て抛除(なげのけ)、袴許(はかまばかり)に掛羅(くわら)懸(かけ)て、将軍御自害(ごじがい)あらば御供(おんとも)申さんと、腰の刀に手を懸(かけ)て、静(しづま)り返てぞ居たりける。厩侍(むまやざぶらひ)には、赤松信乃(しなのの)守(かみ)範資(のりすけ)上坐(じやうざ)して、一族(いちぞく)若党(わかたう)三十二人(さんじふににん)、膝を屈(くつ)して並居(なみゐ)たりけるが、「いざや最後の酒盛して、自害の思ひざしせん。」とて、大なる酒樽(さかだる)に酒を湛(たた)へ、銚子(てうし)に盃(さかづき)取副(そへ)て、家城(やぎ)源十郎師政酌(しやく)をとる。信濃(しなのの)守(かみの)次男信濃五郎直頼(なほより)が、此年十三にて内に有けるを、父呼出し、「鳥之将死其鳴也(なり)。哀(とりのまさにしなんとするときそのなくことやなし)。人之将死其言也(なり)。善(ひとのまさにしなんとするときそのいふことよし)と云(いへ)り。吾(わが)一言汝が耳に留(とどま)らば、庭訓(ていきん)を不忘、身を慎(つつしみ)て先祖を恥(はぢ)しむる事なかるべし。将軍已(すで)に御自害(ごじがい)あらんずる間、範資も御供(おんとも)申さんずるなり。日来(ひごろ)の好(よしみ)を思はゞ家の子若党共(わかたうども)も、皆吾と共に無力死に赴(おもむ)かんとぞ思定(おもひさだめ)たるらん。但汝は未(いまだ)幼少なり。今共に腹を不切共、人強(あながち)に指をさす事有まじ。則祐(そくいう)已(すで)に汝を猶子(いうし)にすべき由(よし)、兼(かね)て約束有しかば、赤松へ帰て則祐を真(まこと)の父と憑(たのみ)て、生涯を其安否(そのあんぴ)に任(まか)するか、不然は又僧法師にもなりて、吾(わが)後生をも訪(とぶ)らひ汝が身をも助かるべし。」と、泣々(なくなく)庭訓を残して涙を押拭(おしのご)へば、坐中の人々げにもと、同(おなじ)く涙を流しけれ。直頼熟(つくづく)と父の遺訓(ゆゐきん)を聞て、扇取直(とりなほ)して申けるは、「人の幼少(えうせう)程と申(まうす)は、五(いつつ)や六(むつ)や乃至(ないし)十歳に足(たら)ぬ時にてこそ候へ。吾已(すでに)善悪をさとる程に成(なり)て、適(たまたま)此(この)坐に在合(ありあひ)ながら、御自害(ごじがい)を見捨(みすて)て一人故郷(こきやう)へ帰ては、誰をか父と憑(たの)み、誰にか面(おもて)を向(むかふ)べき。又禅僧に成たらば、沙弥(しやみ)喝食(かつしき)に指をさゝれ、聖道(しやうだう)に成たらば、児(ちご)共(ども)に被笑ずと云(いふ)事不可有。縦(たとひ)又何(いか)なる果報(くわはう)有て、後の栄花(えいぐわ)を開(ひらき)候とも、をくれ進(まゐら)せては、ながらふべき心地もせず。色代(しきだい)は時に依る事にて候。腹切の最後の盃にて候へば、誰にか論じ申さまし。我先(まづ)飲(のみ)て思(おもひ)ざし申さん。」とて、前なる盃を少し取傾(かたぶく)る体(てい)にて、糟谷(かすや)新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)保連(やすつら)にさし給へば、三度(さんど)飲て、糟谷新左衛門(しんざゑもんの)尉(じよう)伊朝(これとも)・奥(おく)次郎左衛門(じらうざゑもんの)尉(じよう)・岡本(をかもと)次郎左衛門(じらうざゑもん)・中山(なかやまの)助五郎(すけごらう)、次第に飲下(のみくだし)、無明(むみやう)の酒の酔(よひ)の中に、近付(ちかづく)命ぞ哀なる。
○師直師泰出家(しゆつけの)事(こと)付(つけたり)薬師寺遁世(とんせいの)事(こと) S2908
斯(かか)る処に、東の木戸(きど)を荒らかに敲(たた)く人あり。諸人驚(おどろき)て、「誰(た)そ。」と問へば、夜部(ゆうべ)落(おち)たりと沙汰せし饗庭命鶴丸(あいばみやうづるまる)が声にて、「御合体(ごがつてい)に成て、合戦は有まじきにて候ぞ。楚忽(そこつ)に御自害(ごじがい)候な。」とぞ呼はりける。こはそも何とある事ぞやとて急ぎ木戸を開きたれば、命鶴(みやうづる)将軍(しやうぐん)の御前(おんまへ)に参て、「夜部(ゆうべ)事の由をも申さで、罷出(まかりいで)候(さふらひ)しが、早落たりとぞ思召(おぼしめし)候(さうらひ)つらん。御方の軍勢(ぐんぜい)の気を失(うしなひ)、色を損(そん)じたる体を見候(さふらひ)しに、角(かく)ては戦ふ共難勝、落(おつ)共(とも)延(のび)させ給はじと覚へ候たる間、畠山阿波(あはの)将監(しやうげん)が陣へ罷向(まかりむかひ)候(さふらひ)て、御合体(ごがつてい)の由を申て候へば、錦小路殿(にしきのこうぢどの)も、只暮々(くれぐれ)其(その)事をのみこそ仰(おほせ)候へ。執事兄弟の不義も、只一往(いちわう)思(おもひ)知(しら)するまでにて候へば、執事深く被誅伐までの義も候まじ。親にも超てむつましきは、同気(どうき)兄弟の愛也(なり)。子にも不劣なつかしきは、多年主従の好(よしみ)也(なり)。禽獣(きんじう)も皆其(その)心あり。況(いはんや)人倫(じんりん)に於(おい)てをや。縦(たとひ)合戦に及ぶ共、無情沙汰を致すなと、八幡より給て候御文数通候とて、取出して見せられ候つる。」と、命鶴委細(ゐさい)に申(まうし)ければ、将軍も執事兄弟も、さては子細非じとて、其(その)夜の自害は留(とどま)りてげり。さても三条殿(さんでうどの)は御兄弟(ごきやうだい)の御事(おんこと)なれば、将軍をこそ悪(にくし)と不思召とも、師直去年の振舞をば、尚(なほ)もにくしと思召(おぼしめさ)ぬ事不可有。げにも頭(かうべ)を延(のべ)て参る位ならば、出家をして参るか、不然は将軍を赤松の城(じやう)へ遣進(やりまゐら)せて、師直は四国へや落(おつ)ると評定(ひやうぢやう)有けるを、薬師寺次郎左衛門(じらうざゑもん)公義(きんよし)、「など加様(かやう)に無力事をば仰候ぞ。六条(ろくでうの)判官(はうぐわん)為義が、己(おのれ)が咎(とが)を謝(しや)せん為に、入道に成て出候(さふらひ)しをば、義朝子の身としてだにも、首を刎(はね)候(さふらひ)しぞかし。縦(たとひ)御出家候(さふらひ)て、何(いか)なる持戒持律(ぢかいぢりつ)の僧と成(なら)せ給(たまひ)て候(さうらふ)共(とも)、三条殿(さんでうどの)の御意(みこころ)も安まり、上杉・畠山の一族(いちぞく)達、憤(いきどほり)を散(さんじ)候べしとは覚(おぼえ)候はず。剃髪(ていはつ)の尸(かばね)墨染(すみそめ)の衣の袖に血を淋(そそき)て、憂名(うきな)を後代(こうだい)に残(のこさ)れ候はん事、只口惜(くちをし)かるべき事にて候はずや。将軍を赤松の城(じやう)へ入進(いれまゐら)せて、師直を四国へ落さばやと承(うけたまはり)候事も、都(すべ)て可然共覚(おぼえ)候はず。細川陸奥(むつの)守(かみ)も、三条殿(さんでうどの)の召(めし)に依て、大勢早三石(みついし)に著て候と聞へ候へば、将軍こそ摂州(せつしう)の軍に負(まけ)て、赤松へ引(ひか)せ給(たまふ)と聞(きき)て、打止(うちとめ)奉らんと思はぬ事や候べき。又四国へ落(おち)させ給はん事も不可叶。用意(ようい)の舟も候はで、此彼(ここかしこ)の浦々にて、渡海(とかい)の順風を待(まち)て御渡(おんわた)り候はんに、敵追懸て寄候はゞ、誰か矢の一(ひとつ)をも、墓々敷(はかばかしく)射出す人候べき。御方(みかた)の兵共(つはものども)の有様は、昨日の軍に曇(くも)りなく被見透候者を、人に無剛臆、気に有進退と申(まうす)事候間、人の心の習ひ、敵に打懸(うちかか)らんとする時は、心武(たけ)くなり、一足(ひとあし)も引(ひく)となれば、心臆病(おくびやう)に成(なる)者にて候。只御方の勢の未(いまだ)すかぬ前(さき)に、混(ひたすら)討死と思召(おぼしめし)定(さだめ)て、一度(いちど)敵に懸りて御覧候より外は、余義(よぎ)あるべし共覚(おぼえ)候はず。」と、言(ことば)を残さで申けれ共(ども)、執事兄弟只曚々(もうもう)としたる許(ばかり)にて、降参出家の儀に落(おち)伏しければ、公義泪(なみだ)をはら/\と流して、「嗚呼(ああ)豎子不堪倶計と、范増(はんぞう)が云(いひ)けるも理(ことわ)り哉(かな)。運尽(つき)ぬる人の有様程、浅猿(あさまし)き者は無(なか)りけり。我此(この)人と死を共にしても、何の高名かあるべき。しかじ憂世(うきよ)を捨(すて)て、此(この)人々の後生(ごしやう)を訪(とぶらは)んには。」と、俄(にはか)に思(おもひ)定(さだめ)て、取(とれ)ばうし取(とら)ねば人の数ならず捨(すつ)べき物は弓矢也(なり)けりと、加様(かやう)に詠(えい)じつゝ、自(みづから)髻(もとどり)押きりて、墨染に身を替(かへ)て、高野山へぞ上りける。三間(さんけんの)茅屋(ばうをく)千株(せんしゆの)松風、ことに人間の外の天地也(なり)けりと、心もすみ身も安く覚へければ、高野山(たかのやま)憂世(うきよ)の夢も覚(さめ)ぬべしその暁を松の嵐にと読(よみ)て、暫(しば)しは閑居幽隠(いういん)の人とぞ成たりける。仏種は縁(えん)より起(おこる)事なれば、かやうに次(ついで)を以て、浮世を思(おもひ)捨(すて)たるは、やさしく優なる様なれ共(ども)、越後(ゑちごの)中太(ちゆうた)が義仲(よしなか)を諌(いさめ)かねて、自害をしたりしには、無下(むげ)に劣りてぞ覚(おぼえ)たる。
○師冬自害(じがいの)事(こと)付(つけたり)諏方(すは)五郎(ごらうの)事(こと) S2909
高(かうの)播磨(はりまの)守(かみ)は師直が猶子(いうし)也(なり)しを、将軍の三男(さんなん)左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)の執事になして、鎌倉(かまくら)へ下りしかば、上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)と相共(あひとも)に東国の管領(くわんれい)にて、勢(いきほひ)八箇国(はちかこく)に振(ふる)へり。西国こそ加様(かやう)に師直を背(そむ)く者多く共、東国はよも子細非(あら)じ、事の真(まこと)に難儀ならば、兵庫より船に乗て、鎌倉(かまくら)へ下(くだり)て師冬と一(ひとつ)にならんと、執事兄弟潜(ひそか)に被評定ける処に、二十五日の夜半許(ばかり)に、甲斐(かひの)国(くに)より時衆(じしゆう)一人来て、忍(しのび)やかに、「去年の十二月に、上杉民部(みんぶの)大輔(たいふ)が養子に、左衛門(さゑもんの)蔵人(くらんど)、父が代官にて上野(かうづけ)の守護(しゆご)にて候(さふらひ)しが、謀叛(むほん)を起(おこし)て鎌倉殿(かまくらどの)方(がた)を仕る由聞へしかば、父民部(みんぶの)大輔(たいふ)是(これ)を為誅伐下向の由を称して、上野に下著、則(すなはち)左衛門(さゑもんの)蔵人(くらんど)と同心して、武蔵(むさしの)国(くに)へ打越へ、坂東(ばんどう)の八平氏(はちへいじ)武蔵(むさし)の七党(しちたう)を付順(つけしたが)ふ。播州師冬是(これ)を被聞候(さふらひ)て、八箇国(はちかこく)の勢を被催に、更に一騎(いつき)も不馳寄。角(かく)ては叶(かなふ)まじ。さらば左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)を先立(さきだて)進(まゐら)せて上杉を退治(たいぢ)せんとて、僅に五百騎(ごひやくき)を卒(そつ)して、上野へ発向(はつかう)候(さふらひ)し路次(ろし)にて、さりとも弐(ふたごこ)ろ非じと憑切(たのみきつ)たる兵共(つはものども)心変りして、左馬(さまの)頭(かみ)殿(どの)を奪(うばひ)奉る間、左馬(さまの)頭(かみ)殿(どのの)御後見(おんうしろみ)三戸(みとの)七郎(しちらう)は、其(その)夜同士打(どうしうち)せられて半死半生に候(さふらひ)しが、行方を不知成(なり)候(さうらひ)ぬ。是より上杉には弥(いよいよ)勢加り、播州師冬には付順(つきしたが)ふ者候はざりし間、一歩(いつほ)も落て此方(こなた)の様をも聞(きか)ばやとて、甲斐(かひの)国(くに)へ落(おち)て、州沢(すざはの)城(じやうに)被篭候処に、諏方下宮祝部(すはのげぐうのはふり)六千(ろくせん)余騎(よき)にて打寄(うちよせ)、三日三夜の手負討死(ておひうちじに)其(その)数を不知(しらず)。敵皆大手へ向ふにより、城中(じやうちゆうの)勢大略(たいりやく)大手にをり下(くだつ)て、防(ふせぎ)戦ふ隙(ひま)を得て、山の案内者(あんないしや)後(うしろ)へ廻(まはつ)て、かさより落(おと)し懸(かか)る間、八代(やしろ)の某(なにがし)一足(ひとあし)も不引討死仕る。城已(すで)に落(おち)んとし候(さうらふ)時(とき)、御烏帽子々(おんえぼしご)に候(さうらひ)し諏方(すは)五郎、初(はじめ)は祝部(はふり)に属(しよく)して城を責(せめ)候(さうらひ)しが、城の弱りたるをみて、「抑(そもそも)吾(われ)執事の烏帽子々(えぼしご)にて、父子の契約を致しながら、世挙(こぞつ)て背(そむ)けばとて、不義の振舞をば如何(いか)が可致。曾参(そうしん)は復車於勝母之郷、孔子(こうし)は忍渇於盜泉之水といへり。君子(くんし)は其於不為処名をだにも恐る。況乎(いはんや)義の違ふ処に於乎(おいてをや)。」とて、祝部(はふり)に最後の暇(いとま)乞(こう)て城中(じやうちゆう)へ入り、却(かへつ)て寄手(よせて)を防(ふせ)ぐ事、身命(しんめい)を不惜。去(さる)程(ほど)に城の後(うし)ろより破れて、敵四方(しはう)より追(おひ)しかば、諏方(すはの)五郎と播州とは手に手を取違へ、腹掻切(かききつ)て臥(ふし)給ふ。此外(このほか)義を重(おもん)じ名を惜(をし)む侍共(さぶらひども)六十四人、同時に皆自害して、名を九原(きうげん)上の苔(こけ)に残し、尸(かばね)を一戦(いつせんの)場(ば)の土に曝(さら)さる。其(その)後は東国・北国残りなく、高倉殿(たかくらどの)の御方(みかた)へ成(なり)て候。世は今はさてとこそ見へて候へ。」と、泣々(なくなく)執事にぞ語られける。筑紫九国は兵衛(ひやうゑの)佐(すけ)殿(どの)に順付(したがひつき)ぬと聞ゆ。四国は細川陸奥(むつの)守(かみ)に属(しよく)して既(すで)に須磨(すまの)大蔵谷(おほくらだに)の辺まで寄(よせ)たりと告(つげ)たり。今は東国をこそ、さり共と憑(たのみ)たれば、師冬さへ討れにけり。さては何(いづ)くへか落(おち)誰をか可憑とて、さしも勇(いさみ)し人々の気色、皆心細(こころぼそく)見へたりける。命は能(よく)難棄物也(なり)けり。執事兄弟、かくても若(もし)命や助かると、心も発(おこ)らぬ出家して、師直入道々常、師泰入道々勝とて、裳(も)なし衣(ごろも)に提鞘(さげさや)さげて、降人(かうにん)に成て出ければ、見(みる)人毎(ひとごと)に爪弾(つまはじき)して、出家の功徳(くどく)莫太(ばくだい)なれば、後生(ごしやう)の罪は免(まぬか)る共、今生(こんじやう)の命は難助と、欺(あざむか)ぬ人は無(なか)りけり。
○師直以下被誅事(こと)付(つけたり)仁義(じんぎ)血気(けつき)勇者(ようしやの)事(こと) S2910
同(おなじき)二十六日(にじふろくにち)に、将軍已(すで)に御合体(ごがつてい)にて上洛(しやうらく)し給へば、執事兄弟も、同遁世者(とんせいしや)に打紛(うちまぎれ)て、無常の岐(ちまた)に策(むち)をうつ。折節春雨しめやかに降(ふり)て、数万(すまん)の敵此彼(ここかしこ)に控(ひかへ)たる中を打通れば、それよと人に被見知じと、蓮(はす)の葉笠を打傾(かたぶ)け、袖にて顔を引隠(ひきかく)せ共、中々紛(まぎ)れぬ天(あめ)が下(した)、身のせばき程こそ哀なれ。将軍に離れ奉ては、道にても何(いか)なる事かあらんずらんと危(あやぶみ)て少しもさがらず、馬を早めて打(うち)けるを、上杉・畠山の兵共(つはものども)、兼(かね)て儀(ぎ)したる事なれば、路の両方に百騎(ひやくき)、二百騎(にひやくき)、五十騎(ごじつき)、三十騎(さんじつき)、処々(ところどころ)に控(ひか)へて待(まち)ける者共(ものども)、すはや執事よと見てければ、将軍と執事とのあはいを次第に隔(へだて)んと鷹角(たかづの)一揆(いつき)七十(しちじふ)余騎(よき)、会尺色代(ゑしやくしきたい)もなく、馬を中へ打こみ/\しける程に、心ならず押隔(おしへだて)られて、武庫(むこ)川の辺を過ける時は、将軍と執事とのあはひ、河を隔(へだて)山を阻(へだて)て、五十町(ごじつちよう)許(ばかり)に成(なり)にけり。哀なる哉、盛衰(せいすゐ)刹那(せつな)の間に替(かは)れる事、修羅(しゆら)帝釈(たいしやく)の軍に負(まけ)て、藕花(ぐうげ)の穴に身を隠し、天人の五衰(ごすゐ)の日に逢(あひ)て、歓喜苑(くわんぎゑん)にさまよふ覧(らん)も角(かく)やと被思知たり。此人(このひと)天下の執事にて有つる程は、何(いか)なる大名高家も、其えめる顔を見ては、千鍾(せんしよう)の禄(ろく)、万戸(ばんこ)の侯(こう)を得たるが如く悦び、少しも心にあはぬ気色を見ては、薪(たきぎ)を負(おう)て焼原を過ぎ、雷(らい)を戴(いただい)て大江を渡(わたる)が如(ごとく)恐れき。何況(いかにいはんや)将軍(しやうぐん)と打双(うちならべ)て、馬を進め給はんずる其(その)中へ、誰か隔(へだ)て先立(さきだつ)人有(ある)べきに、名も知ぬ田舎(ゐなか)武士、無云許人の若党共(わかたうども)に押隔(おしへだて)られ/\、馬ざくりの水を蹴懸(けかけ)られて、衣深泥(しんでい)にまみれぬれば、身を知る雨の止(やむ)時(とき)なく、泪(なみだ)や袖をぬらすらん。執事兄弟武庫川(むこがは)を打渡て、小堤(こつつみ)の上を過(すぎ)ける時、三浦八郎左衛門(はちらうざゑもん)が中間二人(ににん)走寄(わしりより)て、「此(ここ)なる遁世者(とんせいしや)の、顔を蔵(かく)すは何者(なにもの)ぞ。其笠ぬげ。」とて、執事の著(き)られたる蓮葉笠(はすのはがさ)を引切(ひつきつ)て捨(すつ)るに、ほうかぶりはづれて片顔(かたかほ)の少し見へたるを、三浦八郎左衛門(はちらうざゑもん)、「哀(あはれ)敵や、所願の幸哉(かな)。」と悦て、長刀の柄(え)を取延(とりのべ)て、筒中(どうなか)を切て落さんと、右の肩崎(かたさき)より左の小脇(こわき)まで、鋒(きつさき)さがりに切付(きりつけ)られて、あつと云(いふ)処を、重(かさね)て二打(ふたうち)うつ、打(うた)れて馬よりどうど落ければ、三浦馬より飛(とん)で下(お)り、頚を掻(かき)落(おと)して、長刀の鋒(きつさき)に貫(つらぬい)て差上(さしあげ)たり。越後(ゑちごの)入道(にふだう)は半町許(ばかり)隔たりて打(うち)けるが、是(これ)を見て馬を懸(かけ)のけんとしけるを、迹(あと)に打ける吉江(よしえ)小四郎、鑓(やり)を以て胛骨(せぼね)より左の乳(ち)の下へ突徹(つきとほ)す。突(つか)れて鑓に取(とり)付(つき)、懐(ふところ)に指(さし)たる打刀(うちがたな)を抜(ぬか)んとしける処に、吉江が中間走(はしり)寄(より)、鐙(あぶみ)の鼻を返して引落す。落(おつ)れば首を掻切(かききつ)て、あぎとを喉(のんど)へ貫(つらぬき)、とつ付(つけ)に著(つけて)馳(はせ)て行(ゆく)。高(かうの)豊前(ぶぜんの)五郎をば、小柴(こしば)新左衛門(しんざゑもん)是(これ)を討(うつ)。高(かうの)備前(びぜんの)守(かみ)をば、井野(いのの)弥四郎(やしらう)組(くん)で落て首を取る。越後(ゑちごの)将監(しやうげん)をば、長尾彦四郎(ひこしらう)先(まづ)馬の諸膝(もろひざ)切て、落る所を二太刀(ふたたち)うつ。打(うた)れて少(すこし)弱る時、押へて軈(やが)て首を切る。遠江(とほたふみ)次郎をば小田左衛門五郎切て落す。山口入道をば小林又次郎引組(ひつくん)で差殺す。彦部(ひこべ)七郎(しちらう)をば、小林掃部助(かもんのすけ)後(うしろ)より太刀にて切(きり)けるに、太刀影(たちかげ)に馬驚(おどろき)て深田の中へ落(おち)にけり。彦部引返(ひつかへし)て、「御方はなきか、一所に馳寄(はせよつ)て、思々(おもひおもひ)に討死せよ。」と呼(よばは)りけるを、小林が中間(ちゆうげん)三人(さんにん)走(はしり)寄て、馬より倒(さかさま)に引落(ひきおと)し踏(ふま)へて首を切て、主の手にこそ渡しけれ。梶原孫六をば佐々宇(ささう)六郎左衛門(ろくらうざゑもん)是(これ)を打(うつ)。山口新左衛門(しんざゑもん)をば高山又次郎切て落す。梶原孫七は十(じふ)余町(よちやう)前に打(うち)けるが、跡に軍有て執事の討(うた)れぬるやと人の云けるを聞て、取て返して打刀(うちがたな)を抜(ぬい)て戦(たたかひ)けるが、自害を半(なかば)にしかけて、路の傍(かたはら)に伏(ふし)たりけるを、阿佐美(あさみ)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)、年来(としごろ)の知音(ちいん)なりけるが、人手に懸(かけ)んよりはとて、泣々(なくなく)首を取てけり。鹿目(かのめ)平次左衛門は、山口が討(うた)るゝを見て、身の上とや思(おもひ)けん、跡なる長尾三郎左衛門(さぶらうざゑもん)に抜(ぬい)て懸りけるを、長尾少(すこし)も不騒、「御事(おんこと)の身の上にては候はぬ者を、僻事(ひがごと)し出して、命失はせ給ふな。」と云(いは)れて、をめ/\と太刀を指て、物語して行(ゆき)けるを、長尾中間(ちゆうげん)にきつと目くはせしたれば、中間二人(ににん)鹿目(かのめ)が馬につひ傍(そう)て、「御馬(おんむま)の沓(くつ)切(きつ)て捨(すて)候はん。」とて、抜(ぬい)たる刀を取直し、肘(ひぢ)のかゝりを二刀(ふたかたな)刺(さし)て、馬より取て引落(ひきおと)し、主に首をばかゝせけり。河津(かはづ)左衛門は、小清水の合戦に痛手(いたで)を負(おひ)たりける間、馬には乗得(のりえ)ずして、塵取(ちりとり)にかゝれて、遥(はるか)の迹(あと)に来けるが、執事こそ已(すで)に討れさせ給(たまひ)つれと、人の云(いふ)を聞て、とある辻堂(つじだう)の有けるに、輿(こし)を舁居(かきすゑ)させ、腹掻切て死にけり。執事の子息武蔵五郎をば、西(さいの)左衛門四郎是(これ)を生虜(いけどつ)て、高手小手に禁(いましめ)て、其(その)日(ひ)の暮をぞ相待ける。此人は二条(にでうの)前(さきの)関白太臣の御妹、無止事御腹(おんはら)に生(うま)れたりしかば、貌容(はうよう)人に勝(すぐ)れ心様(こころざま)優にやさしかりき。されば将軍も御覚(おんおぼ)へ異于他、世(よの)人ときめき合へる事限なし。才あるも才なきも、其(その)子を悲むは人の父たる習(ならひ)なり。況乎(いはんや)最愛の子なりしかば、塵をも足に蹈(ふま)せじ荒き風にもあてじとて、あつかい、ゝつき、かしづきしに、いつの間に尽終(つきはて)たる果報ぞや。年未(いまだ)十五に不満、荒き武士に生虜(いけどられ)て、暮(くるる)を待間(まつま)の露の命、消(きえ)ん事こそ哀なれ。夜に入(いり)ければ、誡(いましめ)たる縄をときゆるして已(すで)に切(きら)んとしけるが、此(この)人の心の程をみんとて、「命惜く候はゞ、今夜速(すみやか)に髻(もとどり)を切て僧か念仏衆かに成(なら)せ給(たまひ)て、一期(いちご)心安(こころやす)く暮らさせ給へ。」と申ければ、先(まづ)其(その)返事をばせで、「執事は何と成(なら)せ給(たまひ)て候とか聞へ候。」と問ければ、西(さいの)左衛門四郎、「執事は早討れさせ給て候也(なり)。」と答ふ。「さては誰が為にか暫(しばし)の命をも惜み候べき。死手(しで)の山三途(さんづの)大河とかやをも、共に渡らばやと存(ぞんじ)候へば、只(ただ)急ぎ首を被召(めされ)候へ。」と、死を請て敷皮(しきがは)の上に居直(ゐなほ)れば、切手(きりて)泪(なみだ)を流して、暫(しば)しは目をも不持上、後(うし)ろに立て泣居たり。角てさてあるべきにあらねば、西に向(むかひ)念仏十遍許(ばかり)唱(となへ)て、遂に首を打落す。小清水の合戦の後、執事方の兵共(つはものども)十方に分散して、残る人なしと云(いひ)ながら、今朝松岡(まつをか)の城(じやう)を打出るまでは、まさしく六七百騎(ろくしちひやくき)もありと見しに、此(この)人々の討(うた)るゝを見て何(いづ)ちへか逃(にげ)隠れけん、今討(うた)るゝ処十四人の外は、其(その)中間下部(しもべ)に至るまで、一人もなく成にけり。十四人と申も、日来(ひごろ)皆度々の合戦に、名を揚(あげ)力を逞(たくま)しくしたる者共(ものども)なり。縦(たとひ)運命尽(つき)なば始終(しじゆう)こそ不叶共、心を同(おなじく)して戦はゞ、などか分々(ぶんぶん)の敵に合て死せざるべきに、一人も敵に太刀を打著(うちつけ)たる者なくして、切ては被落押へては頚を被掻、無代(むたい)に皆討れつる事、天の責(せめ)とは知(しり)ながら、うたてかりける不覚(ふかく)哉(かな)。夫(それ)兵は仁義(じんぎ)の勇(ゆう)者、血気(けつき)の勇者(ようしや)とて二(ふた)つあり。血気の勇者(ようしや)と申(まうす)は、合戦に臨毎(のぞむごと)に勇(いさみ)進んで臂(ひぢ)を張り強きを破(やぶ)り堅きを砕(くだ)く事、如鬼忿神(ふんしん)の如く速(すみや)かなり。然共(しかれども)此(この)人若(もし)敵の為に以利含(ふく)め、御方の勢を失ふ日は、逋(のが)るに便(たより)あれば、或(あるひ)は降下(かうにん)に成て恥(はぢ)を忘れ、或(あるひ)は心も発(おこ)らぬ世を背(そむ)く。如此なるは則(すなはち)是(これ)血気の勇者(ようしや)也(なり)。仁義の勇者(ようしや)と申(まうす)は必(かならずし)も人と先を争(あらそ)い、敵を見て勇むに高声多言(かうじやうたげん)にして勢(いきほひ)を振ひ臂(ひぢ)を張(はら)ざれ共(ども)、一度(いちど)約をなして憑(たのま)れぬる後は、弐(ふたごころ)を不存ぜ心不変して臨大節志を奪(うばは)れず、傾(かたぶく)所に命を軽(かろん)ず。如此なるは則(すなはち)仁義の勇者(ようしや)なり。今の世聖人(せいじん)去て久(ひさし)く、梟悪(けうあく)に染(そま)ること多ければ、仁義の勇者(ようしや)は少(すくな)し。血気の勇者(ようしや)は是(これ)多し。されば異朝(いてう)には漢楚(かんそ)七十度(しちじふど)の戦、日本(につぽん)には源平三箇年の軍に、勝負互に易(かはり)しか共、誰か二度(にど)と降下(かうにん)に出たる人あるべき。今元弘(げんこう)以後君と臣との争(あらそひ)に、世の変ずる事僅(わづか)に両度に不過、天下の人五度(ごど)十度(じふど)、敵に属(しよく)し御方になり、心を変ぜぬは稀なり。故(ゆゑ)に天下の争(あらそ)ひ止(やむ)時(とき)無(なく)して、合戦雌雄(しゆう)未(いまだ)決(けつせず)。是(ここ)を以て、今師直・師泰が兵共(つはものども)の有様を見るに、日来(ひごろ)の名誉も高名も、皆血気にほこる者なりけり。さらずはなどか此(この)時(とき)に、千騎(せんぎ)二千騎(にせんぎ)も討死して、後代の名を挙(あげ)ざらん。仁者必有勇、々者必不仁と、文宣王(ぶんせんわう)の聖言(せいげん)、げにもと被思知たり。